輿水幸子落下中 (29)

「……行くか」

左手にケーキの袋を持ちながら、目の前の家のインターホンを押す。

今日もこの家にやってきた。

家の人に挨拶をし、いつもの部屋の前まで案内してもらう。

家の人(今日は母親だった)は俺のことを恨めしそうな、哀しそうな、申し訳なさそうな目で見ながらも

「あの子を…よろしくお願いします」

静かにそう言ってリビングに戻っていった。

毎度のことながら、部屋の前に一人で残されるこの瞬間が一番胸を締め付けられる。

ざわめく気持ちを落ち着けるため、一度大きく深呼吸をする。

そして俺は目の前のドアに向かって声をかけた。

「幸子、来たよ」

ここは輿水幸子の家。

幸子が部屋から出なくなってから、今日でちょうど2ヶ月たった。


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2ヶ月前、大きな合同ライブがあった。

事務所からも大勢のアイドルが参加し、みんな長い期間をかけてレッスンしていて、幸子も他のアイドルと同等かそれ以上にレッスンを完璧にこなしていた。

ただ少し根をつめすぎなようにも見えたので、一度だけ大丈夫かと聞いたりもしたけれど、幸子はいつもの自信に満ちた笑顔で大丈夫と答えていた。

俺が幸子を心配したのはその一度きりだった。

当時ライブの準備に追われていた俺は、いつも通りの幸子のいつも通りの返事を信じてしまったのだ。

幸子がそれ以外の返事をするわけがないというのに。

そしてライブ中、幸子は失敗した。

大失敗をした。

本人は大大大失敗をした、と思っているかもしれない。

もちろん責任は幸子ではなく、アイドルをよく見ていなかった俺にある。

そう幸子には言って何度も謝ったけれど、幸子は顔を隠しながら「ごめんなさい」と繰り返すだけで、その日は幸子とそれ以上の会話はできなかった。

次の日、幸子は事務所に来なかった。

まだ前日のことを気にしているのだろう。仕方のないことに思えた。

だから俺は適当にプリンを買って、輿水家に向かった。

「気にするな」「幸子が責任を感じることはない」「明日からまた頑張ろう」そんな言葉をかけて、ついでに買っていったケーキを一緒に食べたりしようと思いながら幸子の家へと向かった。

それだけで俺たちは元通りになれると思っていた。

本当に甘い考えだったと思う。

俺が見たものは、見れなかったものは、外に出ることを怖れ部屋に引きこもる幸子の姿だった。

「恥ずかしい」

幸子は言った。

「恥ずかしいんです」

なんて幸子らしくない言葉だろう。

「もう外を歩けません。人様の前に出れません。顔を見られたくありません」

俺に話しているのかもわからない口調で。

「みんながボクを見て笑うんです」

自分に言い聞かせるように。

「恥ずかしい」

何度も。

「恥ずかしい」「恥ずかしい」「恥ずかしい」

いつまでも繰り返すのだった。

ライブから帰ってから、幸子は逃げるように自分の部屋に入り、閉じこもるようになったらしい。

そして幸子の両親も幸子とはまともに会話ができないのだそうだ。

「期待に応えられなくてごめんなさい」と、そう言われたきり会話が続かないという。

「あの子は」

幸子の母親が悲痛な表情でこちらを見た。

「あの子は、貴方とはお話するんですね」

あれが会話と呼べるだろうか。

そう思ったけれど、言葉にはできなかった。

しかしそれでも母親には伝わっていたようで

「あの子は謝るばかりで、何が辛いのか私達には話してくれませんでしたから」

寂しげにそう溢した。

会話ではなくお話。

一方的で投げやりで意思の疎通はできていなくても、幸子は俺にだけは不満や苦しみを話してくれる。

幸子のお話をしてくれる。

俺のことを、弱みを話していい相手だと思ってくれている。

それを信頼と呼んでいいのかはわからないけれど。

とにかく俺がやるべきことは、これからも幸子のお話を聞くことだろう。

外に出られなくなった幸子が、心まで閉じ込めてしまわないように。

その後も時間を作っては、幸子に会いにきている。

他のアイドルには病気だと伝えているけれど、おそらくバレているだろう。

それでも俺は一人で通い続けた。

少しでも幸子が不満を言えるように。

少しでも幸子が楽になれるように。

だから俺は、あのライブから2ヶ月たった今日もまた、変わらずドア越しに声をかける。

「幸子、来たよ」

返事はなかった。

「……幸子?」

返事はない。

「幸子、いないのか?」

答える声はない。

ふと最悪の想像が頭をよぎり、血の気が引く。

「さち……!」

ドアを叩こうと腕を振り上げたと同時に、スマホが鳴った。

幸子専用の着信音だ。聞くのは2ヶ月ぶりになるかもしれない。

急いでスマホを見ると

『今日も来てくれたんですね。すみません』

幸子の言葉が文字で届いていた。

しかしどうして今日はスマホなのだろう。

これまではずっとドア越しに話をしていたのに。

もしかして部屋の外にいるのだろうか。

「幸子?部屋にいるのか?」

と声に出して、自分が馬鹿なことをしていると気づいた

しかし幸子は本当に部屋にいたらしく、すぐにスマホに返事が届く。

『はい。心配かけてすみません』

「いや、それはいいんだけど。それよりどうしたんだ?前までは普通に話してただろう」

もしかしたら風邪でも引いたのかもしれない。

だとしたら無理矢理にでも部屋から出した方が、いやでも今の幸子は病院までさえ行けるかもあやしい。

そのようなことを考えていた俺の予想と、幸子の返事は異なっていた。

『それについては、今まですみませんでした。ごめんなさい』

「……?ごめん、ってどういうことだ?俺は幸子に謝られることなんて」

『今までボクの醜い声を聞かせてしまって、本当にごめんなさい』

思考が止まった。

「……醜いって、なにを言ってるんだ。幸子の声は」

『ごめんなさい』

「ごめんなさいって、そういうことを聞いてるんじゃ」

『ごめんなさい』

『ごめんなさい』

『ごめんなさい』

繰り返される謝罪は、明確に俺を拒否していた。

どっ、と嫌な汗が流れる。

何度も話を聞いていれば。幸子の中にある嫌なものを全部吐き出させてやれば、幸子はよくなると思っていた。

よくはならなくとも、その場限りは楽になると思っていた。

どこまで愚かなんだろう。

どこまで自意識過剰なんだろう。

幸子は楽になんかなっていなかった。

幸子はよくなんてならなかった。

俺がいようがいまいが関係なく、幸子は悪化を続けていた。

そしてついに、幸子は俺も拒絶するようになった。

俺はまた失敗したのだ。

絶句する俺に、幸子はだめ押しのように続けた。

『ごめんなさい』

『ボクはボクの声が恥ずかしい』

恥ずかしい。

2ヶ月前、幸子はそう言って部屋にこもるようになって俺達は幸子の姿を失った。

そして今、声さえも失ってしまった。

なら次は?

次は幸子の何を失うんだ?

その先を考えそうになって、否定するように声を出した。

「なあ、幸子。もうやめよう」

絞り出した声は震えていた。

「幸子が恥ずかしがることなんて、何もないんだ。誰も幸子を笑ったりやしない」

「俺も、幸子の親御さんも、小梅も輝子も紗枝も友紀も、事務所のみんなが幸子を心配してる」

「あのライブだって、悪いのはちゃんと幸子を見てやれなかった俺だ。責められるのは俺なんだ。そのことで幸子を悪く言う奴がいたら、今度こそ俺が守るから」

「だから……!」

ボロボロと涙が溢れた。

ここでは泣いてはいけないとずっと思っていたのに、一度溢れた涙は止まらなかった。

静かな廊下に大人の嗚咽だけが聞こえていた。

やがてスマホの着信音が鳴った。

『ごめんなさい』

「幸……子……」

スマホは鳴り続けた。

『本当は知っているんです。みなさんが優しいことも、ボクを笑ったりしない人達だということも』

「……」

『でも、それでも』

『もしかしたらと考えてしまう。そんなわけないのに、寝る前にいつも思ってしまうんです』

『あの優しいみんなが、ボクのことを陰で笑ってるんじゃないかって』

『ボクが外に出て来たら、今度はボクの前で笑うんじゃないかって』

『勝手に想像して、勝手に怯えて』

『そんな自分がとても醜いものだと思えるんです』

『そんなことを考えてすごす毎日がとても辛くて苦しくて情けなくて』

「待った!!」

次々と届く幸子の言葉を読んで、俺は叫んだ。

久し振りに聞いた大声に驚いたのだろう。今書いていたらしい文が途中のまま送られてきた。

『ボクは生きていることがは』

その続きだけは言わせるわけにはいかなかった。

互いに無言の時間が流れていった。

今日はきっともう何もできない。

ふと、自分の左手にかかる重さに気付いた。

「そうだ、ケーキを買ってきたんだ。かな子のオススメのお店で買ってきたから、きっと幸子も気に入る」

中身はフルーツがいっぱいのったケーキ。

お菓子のフルーツだから意味はないかもしれないが、少しは体に良いかもしれない。

そして無駄だとわかっていても、聞く。

「2つ買ってきたんだ。……一緒に食べないか?」

『ごめんなさい。ボクの分はいいですから、持ち帰って他の子と食べてください』

「……お母さんに渡しておくから、夕御飯の時にでも食べてくれ」

返事はなかった。

その日は一度も幸子の声を聞けずに終わった。

幸子の母親に帰ることとまた来ることを告げて、家を出る。

幸子をあんな風にしてしまった俺に怒っていいはずなのに、幸子の両親は哀しい顔をするだけで、俺を責めるようなことを言わない。

幸子の両親だけではない。

事情を知っているちひろさんも、おそらく同じところまで把握しているアイドルたちも、俺を責めることをしない。

ちひろさんにいたっては「あまり自分を責めないでください」と言ってきた。

自分を責めているのは幸子なのに、いったい何を言っているのだろう。

俺がそう返すと、ちひろさんは少し震えたあとに

「そうですね……」

そう言って顔を背けてしまった。

一瞬だけ、ちひろさんの目元が濡れていたように見えた。

「……はぁ」

帰り道を歩きながらも、ずっと幸子のことを考えている。

今までの行動は失敗だった。

幸子はいっそう心を閉ざしてしまった。

ならどうすればよかったのだろう。

やはり小梅や輝子にも来てもらえばよかったのか。

しかし友達にあんな姿を見せたら、余計に幸子は苦しむのではないか。

どうすればよかったのか。

どうしたらいいのか。

ぐるぐると、ぐちゃぐちゃと、頭の中で答えの出ない思考が繰り返される。

「…………はぁ」

さっきよりも重い溜息に引き摺られるかたちで、思っていることが口に出た。

「幸子に会いたい」

空へ向けられた願いに、やはり返事はなかった。

短いですけどこれで以上です。

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