【キズナイーバーSS】 「仄かに薄れて消えるる私は」 (68)



・地の文多量
・七話から妄想したるるほの過去捏造SS
・二人しか出ない

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 1

 あと、もうちょっとなのに、ラストまで。

 描きかけで、ペンを置く。ちょっとだけ、ちょっとだけ休もう。そうしたら――

 苦しい。

 気が付くと、ベッドに横になっていた。

 血を吐くかと思った。

 今日は、何も吐かずに済むかと思ってたけど。

 やっぱり、無理してるのかな。無理してるつもりは全くないのに。

 天井を見ていた。

 まあるい蛍光灯が、ぴかぴかと眩しく光っている。


 私は手をかざしてみた。

 それは、漫画でよく見た仕草だった。

 遮られた輝きは、私の顔に薄い陰を降らせる。

 目をつむった。まぶたの裏を一瞬の闇が覆った。そこに少しずつ光の輪の残光が滲みだした。

 ふかふかのベッドの分厚い生地。羽のように軽い私の身体でも深く沈み込むスプリング。

 横たえた身体。熱い、におうような呼気。いがらっぽい喉。苦い唾をのむ。

 持ち上げた腕が、びりびりと痺れだす。

 さっきまでペンを握っていた腕。右腕。細い腕。青白い腕――それは、骨ばって、折れそうで、すかすかとしていて。

 
 私は自分の身体を抱きしめた。

 そのまま手のひらを服や肌の上でそっと滑らせて、どこかに目立った脂肪がないかと探した。

 柔らかいものを。温かくて、優しくて、心落ち着けるものを。

 けれど、どこもかしこも骨ばっている。折れそうで、すかすかしている。何もない。何も。どこにも。

 私は、もっと強く目をつむることにした。

 もっと頭を空っぽにすることにした。そして、もっと強く自分を抱きしめることにした。

 穂乃香が、時々私にしてくれたように、強く、強く。

 今は、痛いと感じてしまうくらい思い切り強く、私は私を抱いた。

 穂乃香――熱い吐息が漏れる。


 私の口の中からにおいがする。苦い唾。身悶えする。

 かさかさと、ベッドと服が音を立てる。

 制服姿の穂乃香を思い出した。私服姿の穂乃香を思い出した。

 穂乃香。あの柔らかくて温かい優しい身体。険のある眉。何かあると、メガネの奥ですぐ細くなる瞳。

 変化の薄い表情。すっと下に落ちるかぼそい顎のライン。冷たい声。そして、あの、乾いてばかりいる唇。

 私は唇を舐めた。濡れた唇をすぼめて、考えた。あのセリフ、どうしよう。

 そこ以外はほとんど全部仕上がっていた。ああ、どうしよう。答えは決まっているはずだった。死んだヒロインの手紙。

 ――私のことを忘れないで。永遠に私のことだけを愛していて。


 自然と笑みが浮かぶ。

 私が、ナイフのように鋭く言葉を投げかけたときの穂乃香の表情。

 あんなことを言われたら、彼女がああいう顔するって、本当はわかってた。言う前から、わかってて、言葉にした。

 ホント、バカみたいな顔してた。

 怯えちゃってさ。

 あんな、顔しちゃってさ。

 思わず唇を噛む。血が滲むくらい。

 私は思い出していた。

 牧穂乃香のことを。


 2

 私と穂乃香がはじめて出会ったのは、間違いなくあの図書室ではない。

 だけれども、私と穂乃香は図書室からはじまった。

 だから私は、いつも埃くさいあの場所のことも、いつの間にか好きになっていた。

 一目ぼれではなかった。最初から興味があったわけでもなかった。

 しかし、はじめて出会ってから、私は穂乃香を着実に意識するようになっていった。

 きっかけは些細だった。彼女はいつも一人でいた。顔が綺麗だった。あと、私とすごく似ていると思った。

 その頃の私が見ている限り、彼女は何事にも動じない人間だった。心を動かさなかった。

 顔が綺麗で、それに頭も良さそうじゃないか、と寄って来る人間たちを、そのつど面倒くさそうにあしらった。


 自分以外の人間にほとんど興味がない人。

 私とすごく似ている。

 私は、ニコニコするのが得意だった。誰かと楽しい会話をするのが得意だった。

 相手がどうすれば喜ぶのかがわかった。相手がどうすれば嫌な気持ちになるのかがわかった。

 だから、誰かをニコニコさせるのが得意だった。

 やろうと思えば。

 大抵やろうと思わなかった。

 興味がなかった。

 生まれてすぐ腎臓を悪くして、ほとんど母親につきっきりで見守られて幼少期を過ごした私にとっては、母が世界のすべてだった。


 私は覚えている。

 母はしばしば確かめるように「あなたが生まれてきてくれて本当に良かった。あなたは、私のすべてなのよ」と繰り返した。

 私は、生まれてきて良かったのだ。

 それで事が足りてしまった。

 見ず知らずの他人に興味など湧かなかった。

 そして、父や母に喜んでもらうことばかり考えた。

 父は、当時も今も、人間の理性の力というものを深く信じている人だ。

 だから、幼い私に、死ぬまで一生背負わざるを得ない宿命のことを隠さずまっすぐ告げてくれた。


 腎臓。

 その疾病。

 長くは生きられないだろうということ。

 それが父から私に告げられたとき、母は泣いていた。

 父は、口元をまっすぐ引き絞り、きりりとした鋭い面差しで私を見ていた。

 そういう記憶がある。

 そのとき、私自身がどう思ったのかは覚えていない。

 ただ、知らず知らずのうちに、短い人生、両親のために生きよう、といつしか私が感じるようになったのは確かだった。


 3

 私が自分の本当の気持ちを理解したのは、穂乃香と二人で漫画を描き始めたあとだった。

 穂乃香と漫画を描くという趣味が一致していたのは、まったくの偶然だった。

 私が漫画を描き始めたのは些細なきっかけからだった。

 綺麗なもの、美しいものが好きだった。

 漫画は、発作持ちの私が、身体をあまり動かさずに安心して没頭できる何かだった。

 何かに没頭しているあいだは自分のことを考えずに済んだ。

 私は、好んで絵を描くようになった。それからデッサンを我流で学んだ。そして漫画を描き始めた。

 自分と似ているようで、実は似ていない誰かを漫画の主人公にした。

 そうすれば、幸せをたくさん思い浮かべることができた。


 私には、欲しいものなんてそのころ一つもなかったけれど、
そういう子――不治の病にかかった子供たちがどういうものを欲しがるのかなら、想像することができた。

 お父さんやお母さんの気持ちを想像するのと同じだった。

 病気が治りますように。

 友達ができますように。

 幸せになれますように。

 もっと長く生きられますように。

 ――私には、欲しいものなんてなかった。

 あったら嬉しい。

 なかったら、そのときはそのとき。

 そんな風に思っていた。


 発作のとき、苦しくて、苦しくて、苦しくてたまらなくなって、身体はなんだか私の身体じゃないみたいになる。

 私の身体じゃないなら、私の望み通りになって欲しい、と考えるのはおかしい。

 全部は運任せ。運命が決めること。

 そういうどこか一歩引いた目で、自分のことを見ていた。

 それでも、嫌にませた幼い頃の私にだって、こんな私を産んで、精一杯育ててくれた両親に報いなければならない、という思いはあった。

 ただそれは、私にとっては、実現して欲しい何かというよりも義務に近いものだった。

 生まれてきたからには、両親のために、義務を果たさなくちゃ。

 私のために、生きたいという気持ちは正直なかった。だって、しょっちゅう苦しかったから。

 両親がいなくなって、楽に死ねるなら、そういう機会があれば、それでもいいかな。内心そう思っていた。

 私は下手に賢すぎたんだと思う。生きる意味が「両親のために」以外見つからなくなっていた。


 だけど私は穂乃香と出会った。

 穂乃香とはじまった。

 人生最良のひととき。

 二人で女同士のそういう関係を漫画に描くようになったのは、ささいな理由からだった。

 私は、私と重ねて主人公を考える。想像する。私自身よりもリアルなキャラクターを作りあげる。

 そういう漫画を描きたいし、売り込んで、みんなに認めてもらいたかった。

 そのためには、私たちの経験を材料にして、穂乃香にストーリーを描いてもらうのが一番だと考えたのだ。

 キャラクターの二人をそういう関係にしたのも、その方が読者ウケがいいだろう、と狙ったからだった。


 私たちはいっぱい漫画の取材をした。

 作品の中の彼女達がしそうなことを、一通りこなしていった。

 映画館に行ったり、ケーキを食べたり。

 夕焼けになずむ川べりを二人っきりで歩いたり、登下校を共にしたり。

 遊園地に行ったり、お互いの家に行ったり。もう思い出せないようなこともいっぱいした。

 私の母にはそれが面白くないようだった。

 私はそれを敏感に感じ取っていた。

 母にとって、私はまさしく世界のすべてだった。

 なのに突然現れた穂乃香に私を盗られた。それで嫉妬した。

 私のはじめての友達。はじめてのことに母はうろたえた。苦しんだ。


 ありふれた人間模様の一環だった。

 だけど私は首を傾げた。

 なんで私が、母が苦しんでいることを察しながら、それでいてこんなに冷淡な気持ちでいられるのか、不思議だった。

 それでも、ずっと不思議に思っていたわけではない。

 ある日の放課後のことだ。私と穂乃香は私の家の近くにある公園で一休みしていた。なんでもない一日だった。

 今どき公園でもろくに見かけなくなったジャングルジムに背を凭せ掛ける私に、
自販機までを小走りで往復して買ってきた缶ジュースを一本、穂乃香が無造作に投げる。

 夕日に染まった缶――私は危うく取り落としそうになりながら、前かがみ気味に手を伸ばしてそれをキャッチした。


 「ナイスキャッチ」
 「もう、投げないでよぉ、牧ぃ」
 「ごめんごめん」

 穂乃香が口の中でくつくつと笑い声を転がす。

 笑顔。つい反射的に彼女の顔を見る。けれど、生憎ここから彼女の顔は逆光になっていた。

 私は小さく首をすくめ、手に持ったアルミ缶に視線を落とし、プルトップを開けた。ぐびりと一口。甘い、ジュースの味だ。

 穂乃香が私の隣に並んだ。

 こっちと同じように背をジャングルジムに凭せ掛ける。そして、ペットボトルの蓋を開け、ぐびり。


 「楽しいわね」

 ぽつりと穂乃香が言った。

 「そうだね」
 「ねえ、瑠々」
 「……ありがとう」
 「え? 何に対して?」

 咄嗟に問いを返していた。

 沈黙がおりる。日光の照り返しが邪魔をして、表情が読みにくい。

 けれど、穂乃香は確実にびっくりしていた。

 ありがとう、という素朴な言葉に何か疑問を持たれるとは思っていなかったらしい。

 しばらく無駄に考えて、私を散々待たせて、もったいつけて、穂乃香はようやくこう答えた。


 「瑠々が、この世界に生まれてきてくれて、ありがとう……かな?」

 真面目な顔。その直後、ぶふっ、と彼女は噴き出した。満面の笑顔だった。

 自分のセリフがくさすぎて、耐えられなかったようだ。

 すぐに顔を手で覆った。その手がぷるぷると震えていた。

 確かに、穂乃香のキャラじゃない。はじめての穂乃香だった。

 私も一緒に笑おうとした。

 でも心臓が、爆発するんじゃないか、という勢いで跳ねている。

 何か気の利いたことを言おうとして、口を開いた。けれど何も言えなかった。

 熱い吐息が漏れた。頭の中が真っ白で、顔が熱かった。


 落ち着け、落ち着け、落ち着け、私。

 ――生まれてきてくれて、ありがとう。

 ジュースを持っていない空いた方の手で、顔を軽く覆った。指は震えていた。

 「……瑠々? 大丈夫?」

 穂乃香が私の顔を軽く覗き込んできた。

 自分の指の隙間から彼女の顔が見えた。

 彼女の唇はペットボトルの液体で濡れていた。夕日に彩られてとても綺麗だった。彼女の唇も、その表情も。

 心配そうな顔。出会った頃と比べて、随分豊かな表情を私に見せてくれるようになった穂乃香。

 うるさい。私は心臓をしかった。うるさいぞ、私。


 「ヘーキ。なんでもないから」

 見ないでよ。そんなに綺麗な目で。

 夕日が、私の顔の赤らみを隠してくれることを心から祈った。

 喉が何か液体を求めていた。ごくりと唾をのむ。甘い味がした。甘い、ジュースの味。

 指が震える。しっかり缶をつかんでいようとする。ダメ。ダメ――

 結局指から滑り落ちて――缶が、パシャンと音を立てた。

 勢いで横倒しになり、転がって、甘いジュースがいくらかこぼれて、地面に広がってゆく。

 夕焼けのした、そこだけが土の色をわずかに変える。


 「あぁ、何やってんの!」

 素早く屈んだ穂乃香が缶を握った。私はそれを見下ろした。それから目をつむった。

 次、私は何を言えばいいのかな、とほんの一瞬だけ思った。

 今やっと気づいたんだけど、私、牧のこと、大好きみたい。

 だからキスしたい。
 
 すっごいキスしたい。

 私を、抱いて。なんだかありきたりのセリフ。

 もちろん、次に何を言えばいいのかはすぐにわかった。


 目を開ける。

 まっすぐ私と向かい合って、穂乃香がさっきよりも心配そうな顔で立っている。

 その濡れた唇から目が離せなかった。ああ、熱い。顔が。胸が。

 太陽みたいに全身が火照っている。

 私って、こんな女の子だったんだ。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」
「うん。大丈夫だよ。ちょっと疲れちゃっただけだから。ダメだね、インドア人間はこういうとき」
「私だってあなたに負けないくらいインドアよ」
「えへへ、そうかも」


 大丈夫。私はあっさり嘘をついた。

 全然大丈夫ではなかった。

 でも、声は完璧だった。

 もう指も震えていなかった。

 いつも通りの私に穂乃香からは見えているはずだった。

「気をつけなさいよ。これ、私のお金で買ったんだから」
「えへへ、気をつけます。ごめんなさい」

 軽くペコリと頭を下げる。ぺろりと舌を出す。甘い舌を。ジュースの味がする私の舌。


 穂乃香がついた土を手のひらで拭ってから、私の飲みかけの缶をこちらに差し出してくる。

 「はい、どうぞ」

 受け取ったとき、一瞬、お互いの指と指が触れた。

 心臓が跳ねる。

 痛いくらいの気持ちが落ちてくる。

 そして、確信する。

 私、この世界に生まれてきて、本当に良かった、と。

今日はここまで
これで「1~3」まで投稿終了
全部が「6」まである予定で、「5」までは手直しいるけど書き終わっている
キズナイーバー次話がニコニコで配信されるまでには終わらせたいなあと思っています

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 4

 「あ~もう、どうしたらそんなに面白いお話が書けるの~」

 穂乃香のベッドに飛び込んで、手足を駄々っ子のようにばたつかせた。

 私の顔はすっぽりと穂乃香の布団に包まれている。だから何も見えない。

 けれど、背中に穂乃香の視線を感じる気がする。

 穂乃香が私を見ている。

 「瑠々が作るお話には、テーマがないのよ」

 そう言って、穂乃香も私の隣に落ちてきた。

 スプリングがきしむ。私は小さく寝がえりをうち、仰向けになった。

 人ひとりぶんの間を開けて、ベッドに穂乃香が腰かけている。

 私の隣には、部屋の壁がそびえている。あと、コルクボードにピン止めされた写真たち。


 「えぇー。不治の病に罹った少女がー、ってちゃんと私考えてるじゃん」
 「それは設定。そうじゃなくて、このお話ではこれを伝えたい、みたいなテーマのことよ」
 「少女漫画にぃ~?」
 「お話のメリハリには必要なの」
 「ふーん」

 テーマ、か。

 私は、テーマという言い方に、いらぬ仰々しさを感じた。

 けれど、なるほど一理あるのだろう、とも思った。

 そんなものを考えてお話を作った覚えは私にはない。


 私は、これを描いたら受けそうだ、これなら描いてみたいかも、と思えるものを思い付きでたくさん詰めこむことしか知らなかった。

 描けなかったら描けなかったで、他のものを描く。

 本当に描きたいものなんてない。

 なんでもよかった。

 私の漫画を読んで、その場面場面で、読者に楽しいと思ってもらえるかどうかが、私にとってはお話作りに必要な基準のすべてだった。

 楽しいと、認めてもらえたらいいな、と思っていた。


 「牧には、そういうテーマがあるんだ」
 「描いてる話と展開の都合によって、妥協したり、変えたりもするけどね」
 「何ソレ。じゃあ私と変わんないじゃん」
 「それでも、一本の軸があるのとないのとでは、違うのよ」

 なんとまあ、いっぱしの先生みたいなことを言う。それがあんまりにも生意気な物だから、

 「絵はあんましの癖に」

  と言ってしまった。

 すると穂乃香は、

 「そこが不思議なのよ」
 「何が?」


 「あなた、読者に受けるように、わざとああいう絵柄で描いてるでしょ? 
 そういうのを自由に変えられる器用さがあって、なんでお話作りの方では、その器用さが発揮できないんだろう、って」

 私は首を竦めた。

 そんなの私だって知りたい。

 絵だって、何か特別に描きたいものがあるわけじゃないし。

 綺麗なもの、美しいもの。

 それを、私の指を通じて、一つの形として残すのが好きなだけ。

 絵柄なんてどうでもいい。


 綺麗なもの。

 身体を起こし、穂乃香と視線を合わせる。

 穂乃香の顔。

 綺麗なもの。描きたいもの。

 「牧」
 「ん?」
 「牧の顔、デッサンさせて」
 「え、なんで」
 「漫画の参考にしたいから」
 「でも、漫画のキャラ、私たちを元にはしていても、顔は、違うじゃん」
 「いいでしょ、減るもんじゃないし」
 「や、減る。尊厳が減る」
 「減んないよ~」
 「やだ」
 「あ、逃げるな!」


 ベッドから立ち上がろうとした穂乃香と取っ組み合う。

 これじゃあ、両手が塞がっていてデッサンどころではない。でもとにかく闘った。

 小さな男の子同士みたいな幼稚な力比べ。

 とはいえ、穂乃香の方が腕力は強い。その気になれば、思い切り私のことをはねのけられただろう。

 でも、病人をどれだけ無下に扱ってよいのか、彼女は加減に困っているようだった。

 身体を離されたら負ける。そう感じた私は、逆にぴたりと身体を寄せる。

 すっきりした冷たい面立ちや、声の印象とは全く対照的に、肉感的で、柔らかく温かで優しい穂乃香の身体が私を受け止める。

 ひっぺがそうとする彼女の手。私は抵抗する。


 思わず成り行きで、真正面から抱き合ってしまった。

 すっとこうしていたいと思った。

 やがて、私の喉から、ひゅぅ、ひゅぅ、と音が鳴った。

 ハウスダストでもひょっこり気管に入りこんだのだろうか。

 それとも布団の綿? 

 私は二度三度咳き込む。

 「あ、大丈夫?」

 途端に腕の力どころか声まで優しくなって、穂乃香は私の背中をぽんぽんと叩いた。

 私は全身を脱力する。そして言った。

 「疲れた。もう少し、このままでいさせて」


 「仕方ないなぁ」

 本当に、仕方ないなぁ、という声。

 向かい合った身体は密着し、私と穂乃香の首と首が隣あっている。髪の毛と髪の毛が重なり合う。

 柔らかで、温かで、優しくて。

 私は、右手でベッドの上を探る。

 そして、穂乃香の左手にたどり着く。

 指を伸ばし、受け入れられ、しっかりと握り合う。

 これは、まだ友達の距離感なのかな。


 温かい息遣いがここにはあって、その周囲にあるもの、この部屋は、一丸となって私たち二人の様子をしずしずと見守っていた。

 二人きり。

 私は幸せだった。 胸が痛いくらい。 

 心臓が叫んでいた。こんな幸せがあるだなんて。今日まで何度も何度もそう思った。

 けれど、満足できない私もいた。

 もっと、もっと欲しい。

 飲めば飲むほど喉が渇く。

 まるでそんな状態だった。


 「ねえ、あとどれくらい? 熱いんだけど」
 「もうちょっと。もうちょっとだけ。だいぶ元気出てきた」
 「はいはい」
 「何その投げやりな、はいはい、は。もっとお母さんみたいに優しくして」

 違う。私だけを見て。

 強く抱く。

 私は、病気のことをダシにして、穂乃香にしがみついている。

 病気がなかったら、私と彼女のあいだは、いったいどうなっていただろう。

 そう思った。


 5

 絶対にあの日のことを、私は死ぬまで忘れない。

 かつて私と穂乃香がはじまった場所。図書室。

 その日、窓辺に陣取る私たちに紅い日差しが落ちかかっていた。夕日が沈みかけていた。

 私たちの平日の時間は、二人きりになれる放課後にいつもはじまって、大抵夜までに終わる。

 だから、私たちと夕日は、切っても切れない関係にある。

 勉強机を挟んで、私たちは向かいあっていた。

 私と穂乃香がはじまったあのときと、まったく同じ位置関係だった。


 「ねえ。最終回どうする?」
 「無理……」
 「え?」
 「もう一緒に描けない。ごめん」

 なんで、とまずは思った。

 だけど遅れて、やっぱり、という気持ちも追いついてきた。

 私が、友達としては過剰なスキンシップをたびたび求めるから、穂乃香も次第に応じてくれるようになって、
それがどうしようもないくらい嬉しくて、物足りなくなっていって、抑えが効かなくなった頃があった。


 その頃からだ。
 穂乃香は私から、少しずつ離れて行った。

 私は慌てて過剰なスキンシップを求めることをやめた。

 そして、それですべて元通りになったつもりでいた。

 そう考えていたかった。

 だって時々穂乃香は、その後も私のことを、自分の方から、強く強く抱きしめてくれたのだ。

 次に、何を言えばいいんだろう。

 私は席を立つ。


 「わかった。じゃあ私が一人で描くよ。
 死んだヒロインの手紙を、女教師が見る、ってところはマストだから、手紙の内容だよね」

 私は本棚のあいだの通路を見ていた。

 うっすらと紅に染まった、木目の床を見ていた。

 何もない。

 いや、何もないわけではない。夕日が、辺りに漂うほこりをきらきらと明らかにしていた。

 とても静かだ。

 今が、暑いのか、冷たいのか、私にはわからなくなった。


 「そうだなぁ」

 穂乃香を見た。

 「私のことを忘れないで、って。
 永遠に私のことだけを愛していて、って。
 呪いをかけるの。
 私のことだけを、永遠に」

 穂乃香の顔。

 こんなことを言ったら、穂乃香がどんな顔をするか、私にはわかっていた。

 だけど、それははじめて見る穂乃香の顔だった。

 私は、そのことを少しだけ嬉しいと思った。

今日はここまで
次話配信までに終われなかった
あともうちょっとで「6」が書き終わるはずなので、それを見直したらまた投稿します(で、今度こそ終わり)


 6

 突然の発作が私を襲った。

 私は身体をくの字に折り曲げて、ベッドのシーツを、握った拳の内側に向けて力いっぱい捻じった。

 歯を食いしばった。たくさん息を吸った。だけど吸っても吸っても足りなかった。

 まるで私のものじゃないみたいな身体。熱かった。大きく咳き込む。目をつむった。そのまま、やり過ごそうとひたすら大人しくしていた。

 もう、嫌だ。嫌なの。苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて――

 発作が収まっても、しばらくは何も考えられなかった。

 頭の中が沸騰し、言葉は一つ残らず、ぐずぐずの脳のスープに溶けてしまったようだった。


 やがて、漫画を描かなきゃ、と思った。

 しんどいけど。

 やるって言ったんだ。

 穂乃香に。

 一人で。

 私は、ベッドから身体を起こした。身体は鉛を詰めたように怠かった。

 枕元に置いてあった携帯で時間を確認する。どうやら少し眠っていたようだ。

 いがらっぽい喉。おさめたはずの夕食が胃から口までのぼってこないか心配だった。

 けれど、少し様子を見て、どうやらそんなことはなさそうだと感じた。


 私は、いつの間にか皺だらけになっていたパジャマを整えてから、机に向かった。

 だらしない姿勢で原稿とにらめっこする。

 おそらく疲れ切った酷い顔をしているだろうけれど、気にならない。穂乃香がいないのだから。

 穂乃香がいた頃と違って、今の私は一人だった。

 ――私のことを忘れないで。永遠に私のことだけを愛していて。

 この苦しみ。

 私のこの苦しみを、少しのあいだでいいから、穂乃香に味わって欲しい。

 一度でもこの苦しみを分かち合ったら、きっともう忘れられない。ずっと、ずっと、私のことを思い出してくれるだろう。


 私を思い出すたび、私が欲しかった穂乃香の気持ちは、私を向いてくれる。

 たとえ歪な形でも、私のものになる。私は穂乃香が欲しい。生まれてはじめて、何かを欲しいと思った。

 自分の命よりもずっと、欲しい。

 彼女と一緒にいられたからこそ、生まれてきてよかった、と心から思うことができた。

 穂乃香が一緒にいてくれないなら、どうして生きている意味がそこにあるのか。

 生まれてきた意味があるのか。


 ――穂乃香はもう私の隣にはいない。

 私は死ぬ。

 たった一つの活路。

 心の傷が、私と穂乃香を繋げてくれる。

 私が死んでも、生きている穂乃香と。

 ――永遠に。

 発作に襲われたときみたいに、いま一度目をつむった。

 穂乃香の顔を思い出そうとした。これで何日、彼女の顔を見ていないことになるのか。あえて数えようとはしなかった。

 穂乃香の顔。綺麗な顔。

 直接は一度も描かせてもらえなかったけれど、
一緒に撮った写真や、記憶の中を手探りすることで、何度も何度もこっそり紙に描いてきた顔。


 ――私の中の穂乃香は、笑っていた。満面の笑顔だった。

 思い出した。

 私と穂乃香がはじまる前、いつものように、図書室で彼女を観察していたときのことだ。

 そのとき穂乃香は眼鏡の奥の眉だけをかすかに歪めて、表情を消しながらひっそりと何かを描いていた。

 今思えば、当然漫画を描いていたはずだ。図書室なのに、本を読んではいなかった。いつものことだった。

 夕日が彼女の顔を照らす。綺麗な横顔。長いまつ毛。滑らかな鼻筋。表情の薄い顔。


 不意に私は、表情が薄い彼女を、笑顔にしてみたい、という衝動に襲われた。

 それが話しかけてみる踏ん切りになった。

 長いこと、長いこと、見つめてきて生まれたささいな感情だった。

 そして、私と穂乃香ははじまった。

 穂乃香は、私に笑顔を向けてくれるようになった。

 少しずつ、少しずつ。

 私は嬉しかった。いつだって、何度見たって。

 穂乃香の笑顔――私にとってはいつも微妙に違う、はじめての顔を、この両目に焼き付けられることが。


 ――気が付くと、机に向かいながら、私は一人で泣いていた。

 声を上げず、涙が静かに頬を伝った。

 原稿を濡らさないように慌てて離れて、顔を両手で押さえる。

 指は震えていた。

 目をつむる。

 まぶたを指でぬぐう。

 穂乃香の笑顔。

 それがまぶたのうらに焼き付いて、消えない。

 忘れたくても、忘れられない。

 私は、穂乃香を笑顔にしてみたかったから、はじめてあのとき話しかけたんだ。


 ――夕日が差す図書室。

 本当は、あんな顔をさせたかったわけじゃなかった。

 なのにそのとき感じた、少しだけの嬉しいという気持ち。

 穂乃香の本気で傷ついた表情。

 はじめての顔。

 今、苦いものが、口いっぱいに広がる。

 自分が死ぬことなんて、ずっと前からわかっていたはずだった。諦めていた。納得したつもりだった。

 それなのに、私は今、猛烈に生きたいと感じている。

 生きて、今まで見たことがない穂乃香の表情を、もっと見たい。何よりも笑顔が見たい。

 でも、穂乃香は私の隣にいない。


 生きたい。

 穂乃香が欲しかった。抱きしめて欲しかった。強く、強く。

 穂乃香はいない。

 病気がなかったら、私と彼女のあいだは、いったいどうなっていただろう。

 そう思った。

 口の中の苦いものを飲み込んだ。

 甘い味。ジュースの味。

 二人で帰りによく飲んだ。それが無性に恋しかった。

 穂乃香の笑顔。パシャンと缶が落ちる。夕日のした、そこだけ地面の色が変わる。

 また泣きそうになる。

 漫画を描かなきゃ。一人でも。これは、私と穂乃香がはじめたことだから。


 大きく息を吸って、気を取り直して、原稿と向かいあった。

 身体が鉛のように重い。頭がドロドロのスープになったように、考えがまとまらない。

 台詞を決めよう。

 メモ帳に向き合う。

 ペンを持つ。

 指が震える。

 ペン先が落ち着くまで待つ。

 紙に、文字を落とした。



『私を覚えていることで、あなたが辛くなるのならいつでも忘れて欲しい だって私は――』


 私のことを忘れないで。永遠に私のことだけを愛していて。

 一息ついた。

 コマを進める。


『あなたの笑顔が好きだから』


 ペンが止まる。あっけなく書き終わってしまった。

 しばらく黙って、自分が書いたばかりの文字を見つめた。何度も頭の中で読み返した。

 そして、大きな笑い声をあげた。


 この通りにするなら、今まで描いていた原稿、これから先を全部描き直さなくてはいけなかった。

 なんだ、だったら描かなきゃよかったのに。

 自分がまさかこんな台詞を書こうとするだなんて、知らなかった。

 ペンを床に放り出して、勢いよくベッドに飛び込んだ。

 泣いた。大声を上げて泣いた。泣いて、泣いて、一通り泣き終えて、これで良いんだ、と思った。

 私は、穂乃香に忘れて欲しくない。ずっと覚えていて欲しい。

 だけど、この漫画のキャラクターは、私ではない。

 私が、直接穂乃香に言ったら嘘になってしまうことでも、漫画ならまっすぐ伝えられるはずだった。


 私は笑った。

 穂乃香じゃなくても、私にだってわかるくらい、これじゃお話がめちゃくちゃだ。

 今まで描いてきた、穂乃香と一緒に積み上げてきたものが、何もかも台無しになってしまった。

 私たちなりの物語。穂乃香が私から汲み上げたいわゆるテーマ性。重さ。厚み。一本の筋。

 それを一気にぶち壊しにする、甘い、甘い、感情の言葉。

 これを読んだとき、穂乃香はどんな顔をするだろう。

 きっと表情は大して変わらない。

 でも、心に大きな跡を残す。

 一つの傷を。


 その代わり、いつまでも苦しまなくて済むようになるはずだ。

 だってこれは呪いではない。

 ナイフのように放たれる、私の本心に基づく言葉でさえない。

 それでいい。

 穂乃香にあんな顔は似合わない。

 穂乃香には笑顔が似合う。

 穂乃香を笑顔にできるなら、私でなくても構わない。

 たとえ、それが漫画のキャラクターの台詞であっても。

 たとえ、それが私以外の誰かであっても。


 そう思いたかった。

 そう思うために、私ができることといえば、描くこと。

 漫画を描かなくちゃ。

 最後まで。

 でも、今日はなんだか心底疲れてしまった。

 だから、またちょっとだけ、ちょっとだけ休もう。そうしたら――


 布団に顔を包まれて、両目を閉じた。

 次第に意識が薄れてゆく。

 ごほごほと二度三度咳き込んだ。意識が少し戻る。

 私の喉から、ひゅぅ、ひゅぅ、と音が鳴った。

 ハウスダストでもひょっこり気管に入りこんだのだろうか。それとも布団の綿? 

 また、薄れてゆく。

 身体が苦しくなってきた。ベッドの上でもがいた。意識は朦朧としている。

 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい――


 抱きしめて。

 強く、強く、抱きしめられている感触に包まれた。

 痛いくらい、強く、強く。

 苦しかった。

 穂乃香。私の唇に、乾いた唇がいきなり落ちてくる。

 柔らかで、温かくて、優しいはじめてのキス。

 夢だとわかっていた。それでも、嬉しいと思った。

 穂乃香は、どんな顔をしているだろう。

 夢の中で、私は穂乃香の身体をひっぺがす。

 その顔を見た。

 穂乃香は笑っていた。満面の笑みだった。


 私は凄く嬉しくなった。

 話しかける。

 ねえ、牧さん。

 私、描きたいこと、はじめて見つけたよ。

 テーマ。

 今まで私、誰かのために、何かを描きたい、って思ったこと、一度もなかったの。

 だけど、牧のために描きたいこと、見つかった。

 それを描くためなら、私が死んでも世間に残る私たちの漫画のお話が、無茶苦茶になったって構わない。


 穂乃香。

 穂乃香の笑顔。

 甘い味。ジュースの味。

 夢いっぱいに広がる。

 まだ頑張れる気がする。

 苦しさはどこかに束の間消えていた。


 ほっとして、ため息をつく。

 夢の中なのに。

 私の人生。

 まだ終わったわけじゃないけれど、思い返せば、苦しい人生だった。

 何より今は、もっと生きたかった。

 もっと穂乃香と話したり、触れあったり、穂乃香の新しい顔を見たりしたかった。

 後悔はたくさんある。

 でも、こう思うのも確かだった。



 穂乃香と出会えてよかった。


 ――私、この世界に生まれてきて、本当に良かった、と。


 

終わったのでHTML化依頼出してきます
もっと最後の辺りとかとっ散らかした文章にするかなぁ、と思ったのですが、なんというかひよりました

めちゃくちゃよかったよ
ありがとう

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