モバP「春家秋冬」 (26)

住めば都という言葉がある。
何らかの事情により不本意ながらも辺境の地に住まうことになった人間が
「大丈夫。住めば都なんだ」と自分に言い聞かせて慰める言葉だ。
私、双葉杏にとっての女子寮はまさしくそれであった。

六畳のワンルームとキッチン、ユニットバス。一人暮らしをするには十分であっても
以前私が親から与えられた家よりかは狭い。しかも部屋から一歩出ればいつアイドルが襲ってくるか
もわからない。それどころか部屋にいても襲ってくる可能性がある。あの時はここに来たことを後悔した。

しかし時が流れ、気づけばこの寮に住み続けるためにアイドルを続けている自分がつくづく甘いと思う。
大きなお風呂だってあるし、美味しいご飯の出る食堂もある。暇つぶしの相手にも困らない。
そう考えればここは都よりもよっぽどいいものじゃないか。いつの間にかそう考えるようになっていた。

実のところ今でも女子寮脱出もといアイドル引退を諦めたわけではない。
夢の印税生活で遊んで暮らすという当初の夢は思ったよりも印税が少ないという現実に
打ち砕かれたのが事実だ。それもこれもあのプロデューサーが悪いのだ。
あの男は詐欺師が天職に違いないと幾度となく思ったし、今でも思っている。

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今日も日がな一日ベッドに転がりゲームを楽しもうと考え、ポテチをかじっていると
ノックと共にきらりが部屋に入ってきた。鍵は言うまでもなくかけている。
なぜきらりが私の部屋の鍵を持っているのかはわからない。プロデューサーも持っているから
おそらくはこの男が怪しい。碌な事をしない人間だ。

起き抜けの格好、というよりもいつもの服を着てポテチをかじっている私を見るや否や

「杏ちゃん!」

と語気を強めて迫ってくるので思わず体を起こして姿勢を正す。ゲームはセーブして、脇に置いた。
きらりは両手を腰に当てて、口を尖らせて私に質問をした。

「杏ちゃん、今の季節わかる!?」
「え、うん。春、だよね?」

確かに私は引きこもりの出無精ではあるがそれがわからないほどではない。
一応アイドルだから季節物の仕事をこなすこともあるし、これでも花、があるかわからないが
女子高生なのだ。外に出ざるを得ない機会などいくらでもある。

「桜は見たの!?」
「桜? うーん……事務所前にあったような……」

事務所の正門に桜が生えていたような気がするがはっきりとは思い出せない。
普段通る道であっても注意を払わなければ意外にも記憶に残らないものだ。

「春なのに桜見てないなんて杏ちゃんだめだめになっちゃうよ!」
「きらりってそんなに桜好きだっけ」
「きらりは春なのに桜も見てない杏ちゃんのお部屋閉じこもりに怒ってるの!」

なるほど。きらりはどうやら部屋から出ろと言いたいようだ。楽を捨てよ外へ出よう。
そして桜を見て来い、と。だが全く乗る気にならない。そもそも桜を見ても腹の足しにもならんのだ。
四季折々のものに触れるというのは良いことだと思うが私には不要だ。
そう説きたいのだが、目の前にいるきらりは言って聞くものではない。

「もー、仕方ないな。じゃあコンビニのついでに見てこようかな」
「今なら女子寮の裏にある桜が綺麗だにぃ」

言われて思い出す。そういえばそんなものが生えていた。外では人の目があって羽目を外せない
アイドルが花見をしているとたまに聞く。そこならコンビニに行かずに済むので楽だ。
きらりを満足させるためにもそこへ行っておこう。素直に従う振りをして、私は部屋を出る事にした。

「きらりはこれからお仕事だから杏ちゃんもサボっちゃだめだゆ?」

玄関まで行くときらりは事務所のほうへと向かって行った。
どうやらきらりは同行しないようだ。これならそのまま引き返せば桜など見に行かずに済む。
だが相手はきらりだ。おそらく何かしらの仕掛けがあるのだ。そして見に行ってないことがバレたら
大変な事になる。お仕置きと称した何かが待っている。

仕方ないので女子寮の裏手に回る。道は無く、芝生を踏んで歩いて行く。女子寮の周りは芝生と
桜の木が一本生えているだけだ。その周りをぐるりと塀が囲っている。女子寮自体広大な事務所の
敷地内部にあるので外部の人間の目に触れることはないが一応の配慮なのだろう。
最近では少々寂しいと思ったのか、アイドルが花を植えたりしているが、許可を貰っているかはわからない。

桜の木は今が見頃だと言わんばかりの満開で思わず感嘆の声が口から漏れた。
女子寮建設の際にどこかから持ってきた物だと思っていたが、元から生えていたのを
そのまま残したに違いない。枝は広く伸び、それを埋め尽くすように桜の花を纏っている。

が、花見をしている人がひどい。ブルーシートを敷いて、飲み食いをしているようだが明らかに
酒が入っている。あちらも私に気付いたらしくそのうちの一人が猛スピードで近寄って来た。
逃げようとしたがあっけなく捕まってしまった。

「杏ちゃんどうしたのぉ? お酒飲むぅ?」
「ちょっと友紀離れて酒くさい」

べろんべろんに酔っている姫川友紀は何がおかしいのかゲラゲラ笑いながら私に絡み付いてくる。
その度に酒臭い吐息が顔にかかる。笑い声と相まってダメージが大きい。
おそらくきらりはここで花見という名の酒盛りをしているのを知っていたのだ。だから私を送ったのだ。
きらりをうらめしく思いながらどうにか友紀を引き剥がす。友紀は芝生を転がりながら笑っている。
酒ではなく何かクスリでもやっているんじゃないかと疑いながら酒盛り集団に近づく。

アイドルとは少なからず人に夢を見せる仕事だと思っている。私だって仕事はマジメにやる。時もある。
だがこの様はひどすぎる。あの友紀から察していたがおそらく唯一のストッパーになりえただろう
常識人の三船美優は既に柊志乃の膝の上で撃沈していて、高橋礼子と二人に顔をいじられたりしている。
元警察官だったはずの片桐早苗は歌姫と言われている高垣楓と調子外れの北の海峡の冬の様子を歌い
それを川島瑞樹が笑いながら見ている。とてもじゃないがアイドルには見えないし、ファンにも
見せられない光景だ。所詮アイドルも人間ということだ。

このままここにいれば私は間違いなくひどい目に合う。しかし三船さんの顔をいじっていた二人が
私をじっと見つめている。背後からは小さく笑いながら確実に迫ってきている友紀。どうすれば逃げられる。
走って逃げようものなら友紀にタックルを食らって連行される。
かと言って目の前の地獄に足は踏み込めない。

「杏さん、こちらへどうぞ」

そのとき、天の声が響いた。
しかし声は天ではなく、近くから聞こえる。目線を移すと、そこには優雅にお花見をしている
三人のアイドルがいた。目の前の惨状と桜に意識が行き過ぎて気づかなかったのだ。
そのうちの一人、相原雪乃が手招きをしている。私は蜘蛛の糸を辿るようにその席へと向かった。

手すりの付いた白い椅子と同じく白の丸テーブル。上には金と青の模様の施された西洋の茶器。
四段重ねになったケーキスタンドは美味しそうなお菓子が並んでいるが、二段ほど空になっている。
雪乃さんに勧められて空いていた席に座る。すると櫻井桃華がティーカップにお茶を注いでくれた。
紅色よりも黄金色に似た紅茶が湯気を立て、芳しい匂いを出している。

「お待ちしておりましたわ」

桃華が私に目配せする。四つ目の席とカップ。そうか、きらりは彼女たちに私のことを話していたのだ。
先ほどは疑ってすまないと心の中で謝りつつも注いでもらった紅茶を飲む。品種はわからないが
味がすっきりしていて飲みやすい。甘いお菓子との組み合わせなので風味が強すぎないものを
選んだのだろう。美味しそうにマカロンを頬張っている三人目の参加者、三村かな子を見ながら推察する。

「助かったよ。あのまま居たらどうなっていたか」
「杏さんは未成年ですもの。ひどいことにはなりませんわ」
「でも後処理はすることになりますわね」

雪乃さんと桃華の両サイドから聞こえてくるお嬢様口調に自分も実はどこかのお嬢様でこれも日課の
優雅なお茶会ではないかと錯覚してしまいそうだが、正面でひたすらお菓子を食べるかな子と後ろから
聞こえる下卑た笑い声のおかげでどうにか現実が保てている。

「雪乃さんと桃華はわかるけど……かな子が参加してるのは意外だね」
「前にお菓子を差し入れしたたときにお誘いされたの~」

かな子の趣味はお菓子作りだ。たまに食べるのでその腕前は良く知っている。
今、かな子がおいしそうに頬張っているマカロンももしかしたら手製かもしれない。

「かな子さんのお菓子は本当に美味しいですわ」
「でも食べすぎには気をつけませんと」
「……お」
「美味しくてもダメなものはダメだよ」
「ぶー。ほら、杏ちゃんも食べて食べて」

差し出されたクッキーを口に含む。甘いバターの香りが口に溶けだす。確かに食べすぎになりそうな味だ。
紅茶を飲めばさらに甘さが引き立つ。口の中を一度流し、ほっと一息を付く。
見上げれば暖かな日差しが花の隙間から花と共に降り注ぐ。
春が来たのだ。

昨日から続いている雨は今日も降り止むことなく、しとしとと降り続いている。
窓から見える鼠色の空を見上げて、最後に見た青空はいつのことだろうかと漠然と考える。
天候というのは人の心に大きく影響を与える。雨の日は多くの人間が少しばかしの憂鬱を感じるのだ。

しかし目の前にいる前川みくは既に憂鬱を通り越して失意の中にいる。
いつものネコミミは専用のスタンドに安置し、見慣れぬ眼鏡をかけているが
その奥にある瞳は光を失っていた。生気のない目線の先には山積みになったテキストが置かれている。
なんてことはない。ただ勉強をしているだけなのだ。
問題はみくが想像以上に勉強が出来ないことにある。

「もうだめにゃあ……。おしまいにゃあ……」

今日何度目かの絶望の声に私は溜息で答えて、持っていたマンガをベッドに放る。

「どれ、何がわからないの?」
「この数式……この数字……数字ってなに……?」
「これは確か……ほら、このページに公式載ってるから。頑張ってね」
「うぅ……」

恨みがましげな目つきで私を見る。アイドルと学業の両立に苦労している人はみくだけはない。
私だって一応は女子高生なので一応は勉強しておかないといけない立場なのだ。一応。
だがみくと違って卒業出来ればどうでもいい程度にしか思っていないので最低限の勉強しかしていない。
どれだけ成績が低空飛行でも面と向かって両親に面倒な説教をされなくて済むのは遠く離れた地から
上京してきた学生に与えられた権利なのだ。存分に堪能したい。
みくも上京組だが成績は気にしているので、マジメに勉強しているのだがあまり成績が振るわない。

「杏チャーン。東京タワーからなんか落として地面に落ちるまでのなんかわかるんでしょー?
 みくにもっとわかりやすく勉強教えてー」
「あんなのアニメの台本に決まってるじゃん」

みくが言っているのは少し前に放送した現実のアイドルをアニメ化させて本人が吹き替えをするという
ドキュメンタリーだかなんだかよくわからないアニメの事だ。私としてはとても楽な仕事だったので
ぜひとも続きを希望したいのだがその予定はないらしい。アニメの中では私は『普段はだらけているけど
いざとなると頼りになる頭脳明晰な縁の下の力持ち』というとんでもない設定がされてしまったため
今でも私と他者の間に認識のずれが発生している。アニメと現実をごちゃ混ぜにしてはならない。

「夢も希望もないよ……もうだめにゃあ。おしまいにゃあ」
「別に諦めるなら杏はそれでいいんだけどさ。あんまりだと親からアイドル禁止令とか出るんじゃない?」
「うーそれは良くない……。良くないよ!」

そう言うとみくは立ち上がり、丁重に祭ってあったネコミミを頭に付けた。
そしてシャーペンを持ち、教科書と参考書を睨みながら、少しずつテキストをこなして行く。
先ほどまでとは打って変わって真剣な面持ちだ。
私の場合、多少成績が悪かろうが怠け者の私がアイドルをやっていることを親は喜んでいるだろうから
禁止令など出るはずがない。禁止令を出されれば、多少は考える。なにせまだお金を十分に稼いでない。
だがとりあえずはその心配もないのでベッドに転がり、マンガを開く。

この事務所には数多くのアイドルがいるが、みくはその中でも殊更熱意を持っている。
金に釣られた私と違い、みくは元々アイドル活動をしていた上でこの事務所に勧誘されている。
何ゆえにそれほどまでにアイドルに拘るのかは聞いた事がない。しかし大切なことであるのはわかる。
人間そういった大切なものを人質に取られると頑張れるものなのだ。私も休日を人質に取られたときは
仕事をとても頑張った。他人のやる気を出す方法としては褒められたやり方ではないだろうが
結果良ければ全て良いのだ。彼女の努力もきっと成績という身を結んでくれるだろう。
窓から見上げた空は相変わらず灰色ばかりだがいつの間にか雨は止んでいた。

その年の夏はひどく暑かった。梅雨の間は青空を忘れそうになるほどいつも雨が降り
底冷えする日も多く、天気予報でも今年は冷夏だと言っていたはずなのにいざ梅雨が終わると
テレビでは常套句のように観測史上という言葉を繰り返す猛暑が待っていた。

部屋に篭り、クーラーを効かせてのんびりしようとしていた私の元へその話が入ったのは
少し前のことだ。なにやら誰かが女子寮の裏にビニールプールを持ってきたのだと言う。
水風呂に入れば済むのだが残念ながら大浴場が開放されるのは夕方だ。ユニットバスでも
出来なくはないが少し手狭で窓もないから開放感もない。ならば大浴場開放までの繋ぎに
水遊びも悪くはないだろうと裏に行ってみると、話通りアイドル達がビニールプールで
くつろいでいた。地面にはまだ膨らませていないしなびたプールと足で踏むポンプが転がっている。
膨らませるのも面倒なのでどこか空いてるプールはないかと見渡すが、どこも満員御礼で
すし詰めならぬアイドル詰めといった様相だ。涼むために汗をかくという矛盾と戦いながら
横のプールでくつろいでいる年少組アイドルの応援を受けつつ、空気を入れているともう一人
アイドルがやってきた。それは青い瞳に褐色肌、金髪でアイス好きのライラだった。

ライラに手伝って貰い、ビニールプールが完成したのでさっそく水着に着替えてきて、水を入れる。
私の水着、というのも学校指定の水着なのだが年少組や近く同じように涼んでいた中高生組にも
専ら不評でアイドルとしてどうなんだ。水着の一着も持っていないのか。そもそも以前ロケで
着たやつはどうしたと四方八方から集中砲火を受けるはめになった。言われてみれば
以前どこぞの田舎にロケに行った記憶がある。あの時も暑かったと思い出に浸りつつも
その後水着をどこにやったかを思い出そうとするがそっちは思い出せない。
もしかしたらもう着ないと思い、捨ててしまったかもしれない。私ならありえる。
「これは学校指定なのだ。いわば制服だ。制服を着て何がおかしいのだ」と主張し
それにライラだってきっとスク水だと言ったところで、ビキニに鮮やかな青のパレオまで巻いた
ライラがやってきたので、静かに水を入れたばかりのビニールプールに入水した。
ライラも私の横に入り、首をビニールプールの淵に乗っけてくつろぐ。

「日本の夏は暑いですねー……。アイスがすぐに溶けてしまいますです」
「そうだよー。だから日本のアイスは簡単に溶けないように頑丈なんだよ。
 ほら、あの小豆色のアイスバー知ってるでしょ」
「おー、知ってるですよ。そういう理由なんですねー」
「杏さん。ライラさんに嘘教えるのはやめたほうがいいですよ」

人が気分良くライラにホラを吹き込んでいると年少組プールから抗議の声があがった。
このようなお堅いことを言う子は決まっている。橘ありすだ。
同じプールに入っている桃華や雪美、仁奈は感心して聞いていたというのに。

「なんだよー。じゃあなんであのアイスはあんなに固いのさー」
「それは……」

いつもタブレットを持ち歩いているありすだがさすがにここまでは持ってきていない。
反論しようにも根拠を出すことが出来ず、ありすは悔しそうにしている。

「全く。杏の言う事だからどうせ嘘だなんて決めつけないで欲しいね」
「アンズさんには色々教えてもらいましたです。
 例えば博多駅はメンタイコで出来ているとか教えてもらいましたよー」
「やっぱり嘘じゃないですか!」

ライラからの援護射撃かと思いきや、フレンドリーファイアだった。
しかしライラ自身はそれが間違いであることに気づいておらず、首をかしげている。
思いつきで色々と教えたため、私が何をライラさんに教えたのかすら覚えていない。

「たまにライラさんが妙な事を言うのはやはり杏さんのせいだったんですね」
「全部が全部じゃないと思うんだけどなー」
「認めましたね。ライラさんがまだ日本をよく知らないことをいい事に嘘を教えるなんて
 人の道理に反しますよ」
「そこまで言われるのかぁ……」

確かによくはないと思う。しかしライラがあまりにも素直に信じ、反応してくれるものだから
楽しくなって色々教えてしまったのだ。またありすに説教されたくないし、今後はまともなこと
だけ教えよう。そんなやりとりを余所にじっと年少組プールを見ていたライラが口を開く。

「もしかしてニナさんのキグルミは自分が狩った動物だけというのも……」
「仁奈はそんなことできねーでごぜーます」
「モモカさんが好きな飲み物はチャイというのも……」
「え、なんですの。それ」

チャイというのは確かインドのほうで飲まれている茶に何かを入れた飲み物だ。
言うまでもなく嘘である。本人がわかっていないくらいなのだ。本当であるはずがない。
呆然とした様子でライラが私を見てくるので、空を見上げる。

「これでわかったでしょう。ライラさんも杏さんのことを簡単に信じちゃだめですよ」
「そうでございますね……」
「まあ悪気があったわけじゃないから。ごめんね、ライラ。
 それにほら、全部が全部嘘ってわけじゃないからさ」
「本当ですか? それも嘘なんじゃないんですか?」
「ありすは杏をまるっきり信じてないね。全く。そうだなー……。
 お店でよく見る高級アイスあるでしょ。あれの工場は世界に三箇所しかなくて
 そのうちの一つが群馬県にあるとか」
「高級アイスってあのアイスでございますか? ライラさんが買えないあの……」
「そうそう。いつもプロデューサーにねだって買ってもらうあれね」
「本当なんですか? それ」

ありすが疑いの目を向けてくる。どうしてこの子はこうも人を信用しないのだろうか。
無論私のせいもあるが、初めて会った頃からこんな具合だった気がする。最近は
フレデリカや志希に襲撃されたり、文香に懐いたりと大分柔和になったと思ったのだが
私に対しては相変わらず厳しい。繰り返すようだが私の自業自得だから仕方ない。

「疑うなら後で調べてみればいいよ。ちょっと前の話だけど多分まだ変わってないと思うし。
 あとは……アイドルに関することなら雪美が自分のペットと喋れるとか」

ビニールプールの淵に顎を乗っけていた雪美が僅かに頷き、それのせいでプールへとずり落ちていった。
彼女が愛猫のペロと会話しているのをたまに見かける。

「みくも昔は喋れたとか言ってたなー。あと何言ったかな……。
 まぁいいか。思い出せないし」
「良くないでしょう」
「ライラ、後でアイス買って上げるよ。高級な奴」
「ライラさんはアンズさんを許しますですよ」
「買収されましたわ」
「杏おねーさん、仁奈もアイスたべてーでごぜーます!」
「んん? 仕方ないなぁ……。じゃあ四人にも買ってあげるよ」
「杏ちゃんはシューコにも奢ってくれていいんだよ」
「周子は自分で買って」

雲ひとつない濃い青空。降り注ぐ熱い日射。響き渡る蝉の声。
今日も日本の夏はいつも通りに過ぎて行く。


その後、盗撮しようとしていたプロデューサーがアイドルに捕まった。
本人は「熱い夏に一時の清涼剤を」「大丈夫。絶対外に出さないから」
などと述べていたが、そのまま上司へ引き渡された。
ビニールプールを持ってきたのが彼だと判明したのもその少し後だった。

気の早いクリスマスとお正月商戦が始まり、いまいち馴染めないがお菓子は嬉しいハロウィンが過ぎ
木枯らしが吹く頃になるとなんとなく私の周りも慌しい雰囲気に包まれてくる。
年末から年初めにかけての番組が組まれ、テレビ局からはアイドルへの出演依頼が殺到する。
出演者の私が言うのもなんだがあの時期の番組はどうしてああもくだらないものばかり
やるのか理解出来ない。こんな番組見てるよりか餅でも食べて寝ていたほうがマシだ。
だけど口には出さない。もしも口に出して、アイドルがクビになったら、女子寮から
追い出されてしまう。それはちょっと困る。だから我慢する。私も成長したのだ。休み欲しい。

慌しく駆け回る事務所の社員を尻目に今日はもう仕事ないし、さっさと帰って大浴場で
ひとっ風呂浴びるかと思っていると呼び止められた。

「美城専務じゃん。お疲れ」
「専務ではなく部長だ。それと目上に敬語は使えと言っているだろう」

美城専務がやれやれと頭を振るう。鋭い眼光、きりっとした顔つきに高身長とモデルか女優が
出来そうな外見をしているがこの事務所の社員である。そして見た目通り厳しい性格をしている。
それが気に入られたのか以前放送した我が事務所のアイドルが出演するアニメでは常務として
登場し、プロデューサー達と対立する。ちなみにこのときのプロデューサー役は普段事務員を
やっている通称武内さんであり、本来のプロデューサーは脇役での参加もなかった。
あのアニメではアイドル部門を白紙に戻すという大規模な改革をやろうとしたが現実ではそのような
権力はなく、そもそも役職も部長。さらに事務所の創業家と関わりあいがあるわけでもなく、なぜ
あれほどアニメで大躍進をしたのか本人もたまに頭をかしげている。

「それでどうしたの? ……んですか? いま忙しいんでしょ……ですよね?」
「わかった。普通に話していい。双葉杏。甘いものは好きか?」
「人並にだけど」

そう答えると持っていた紙袋を差し出してきた。中には何か包装された箱が入っている。

「カステラ、だそうだ。客人がお土産にと持ってきてくれたのだが私はこういうものはあまり食べない
 からな。代わりに貰ってくれ」
「へー、ありがとう。でもいいの? アイドルにこんな甘いもの渡して」
「年頃の娘なのだから食事もおやつもしっかり摂るべきだ。アイドルをやっていれば運動量は
 十分確保出来るし問題はあるまい。もう少し三村かな子を見習いたまえ」

そう言い残して美城専務は去っていった。そういえば初対面したときも私の年齢を知ったらやたらと
食事は摂っているのかだのなんだの心配された記憶がある。そしてかな子をやたらと気に入っていた。
アイドルとしては多少痩せているほうがいいのかもしれないが、美城専務にとってはもう少し太って
いたほうが安心するのだろう。なんだか親戚のおばちゃんに見えてきた。
しかしかな子を見習うのはちょっとどうかと思う。

お土産のカステラをぶら下げて、枯葉を乗せた冷たい風から逃げるように女子寮に戻り、
一人で食べようかどうしようかと考えていると居間から賑やかな声が聞こえてくる。
覗いている見ると緒方智絵里と件の三村かな子がお茶を楽しんでいた。
二人とはアニメでグループを組んだ事もあり、たまに一緒にお茶を飲む仲だ。

「あ、杏ちゃん……。一緒にお茶、飲みませんか?」
「ちょうどよかった。お菓子あるよ」
「え、なになに? わぁ立派な紙袋。何が入っているのかな? 見ていい?」

ちょっと食いつきが良すぎるのではないかと思ったがこれがかな子なのだ。別に悪いことではない。
紙袋から包装された箱を取り出す。覗いただけではわからなかったが確かにカステラと書かれている。
包装を解いてみると、つやつやとしたおいしそうなカステラが入っている。
一人で食べるには少し大きかったのでちょうど良かった。

「カステラだ。早速切り分けるね」
「すごく立派に見えるけど……。どうしたの?」
「専務に貰った」
「専務さん、アニメじゃあんなに怖そうな人だったのに、こっちだととっても優しい人だよね」
「うん。私も専務さんからたまに、お菓子貰います」

誰も部長であることを訂正せずに話が進む。かな子は素早い動きでカステラを切り分けて、みなに配る。
一人だけちょっと厚めに切り分けているのはこの際見逃そう。
小さくいただきますと言い、フォークで一口サイズに切り分けて口に運ぶ。

「んん~~~~」

これほど美味しそうにお菓子を食べるアイドルはそうはいまい。続けて食べた智絵里もおいしそうに
頬に手をあて頬張っている。食べてみると、なるほど、確かにおいしい。生地がふわふわだし、甘さ
が過ぎず、口に残らず解けていく。

「ああ……おいしい……」

恍惚な笑みを浮かべ、新しく切り分けるかな子。智絵里の空いた皿にも追加するのを忘れない。
私はかな子のつくったものであろうクッキーをかじる。こちらもおいしい。空いていたカップに
ポットの中身を注ぐと薄茶色の紅茶が出てきた。桜の下で飲んだ紅茶よりも少し色が濃い。
桃華や雪乃に勧められたのだろう。これもなかなかお菓子に合っている。

「おいしいのはわかるけどあまり食べ過ぎるとトレーナーにまた何か言われるよ」

楽しそうに食べていたかな子の動きが固まる。智絵里もびくりと肩がはねた。かな子が口元まで
運んでいたカステラを静かにお皿に戻し、眼を瞑る。

「杏ちゃん。開封した以上、お菓子はこれからどんどん美味しくなくなっちゃうの」
「まぁそうだろうね」
「なら美味しいときに食べないとお菓子に失礼じゃない!」

目を見開き、カステラを頬張る。お菓子ではなく製造者ではないだろうかとの突っ込みは無粋だろう。
智絵里はじっとカステラを眺めていたが、意を決したかのように口に入れて、幸せそうな表情をしている。
おそらく「太っちゃうかもしれないけど明日レッスンあるから大丈夫……大丈夫……」と心の中で
考えたのだろう。アニメからこっち智絵里はかな子と一緒にいることが多くなったが、考え方まで
かな子に引っ張られ始めているような気がする。しかしそれで気持ちが前進するなら悪いことではない。

年はもうすぐ暮れ。やがてくる繁忙期に備え、私達は甘いものでしばしの休息を摂る。

その日は暗く寒く、そして静かな朝だった。私は知っている。こういう日は碌でもないことが起きると。
このままずっと布団の中でまどろんでいたい。暖かさに包まれていたい。そう願うが、それはいつも
打ち砕かれる。意を決して、布団から抜け出し、閉めたカーテンをちらりと開けるとそれは待っていた。

「雪だ……」

年始を越え、バレンタインデーという私個人とは無縁だが仕事が入ることが多いイベントをもうすぐに
控えたこの時期。関東地方は観測史上なんたらの豪雪に見舞われた。大して天気予報だのニュースを
見ない私ですら数日前から大雪だと騒いでいたのは知っている。しかしまさか関東地方で
そんな雪なぞ降るはずもない。ちょっと大げさに言っているだけだと腹をくくっていたが雪は降った。
故郷のそれに比べれば鼻で笑う程度かもしれないが、故郷を離れて幾星霜。関東慣れした私には
あまりにも多すぎる雪の量だった。

そしてこういう日はいつも何か良くない事が起きる。気がする。異常がないか部屋を見渡し、気づいた。
お菓子の類がない。まさかと思い、部屋の小さな冷蔵庫を空けると何も入っていない。
時計を見たら既にお昼は過ぎている。食堂はもうだめだ。このまま寝て過すか。しかし布団での
まどろみを邪魔したのはこの空腹なのだ。それを満たすものがなければ、寝るに寝れない。誰かに食事を
恵んでもらおうと考えたがきらりも紗南もかな子、智絵里も確か今日は仕事でいなかったはず。
今日ぐらい休めばいいのに。誰かいないか。飯をたかれそうな人はいないか。
そのとき、一人のアイドルを思いだした。

「時子さん。ご飯を恵んでもらえないでしょうか」

出てきた時子にいの一番に頼みこむ。ちょうど料理をしていたのか。エプロン姿だ。
以前時子に豚の角煮をご馳走してもらったことがある。あれはとても美味しかった。
きつい性格はしているが、おそらくアイドルに対してはそこまで厳しくないはずだ。

「ないわ」
「えっ」
「アンタの分はないわ」

そういえば先ほどから部屋の中が賑やかな気がする。女子寮は一人一部屋を宛がわれるので
ルームメイトがいることは原則ない。新しく入居するにあたって、手違いでも起きない限りは。
促されて覗くとそこには年少組が五人で楽しげに食事をしていた。私の姿を認めるとそれぞれが
挨拶をしてくる。

「託児所でも開いたの?」
「気紛れよ」

時子は顔を背けて答える。無理に顔を見ればひどい目に合うので食事をしている五人のほうを見る。
なるほど、豚丼を食べているようだ。とてもおいしそうだ。そんな思いが顔に滲み出ていたのか
食べていた仁奈がどんぶりを差し出す。

「杏おねーさんもたべてーでございますか? 仁奈とはんぶんごするでごぜーますか?」
「……ううん。大丈夫だよ。しっかり食べるんだよ」

さすがに私もこの笑顔から食べ物をねだる気にはならない。私は五人の暖かな声と一人の冷やかな目つき
に見送られながら時子の部屋を後にした。だがこれは困った事になった。他に食事を貰えそうな人が
浮ばない。それはつまりこの豪雪の中をコンビニまでいかないといけないということだ。
せめて朝起きてれば食堂で朝食は食べれただろう。なぜここは昼は開いていないのか。
いや、事務所のほうは開いているはず。事務所まで頑張るか? この豪雪の中を?

うんうんと唸りながら重い足取りで自室に向かっていると人の気配を感じた。顔を上げると防寒着を
着込んだ桃華と奈緒が立っていた。これぞ渡りに船だ。挨拶をぬかして、頼みこむ。

「外に行くなら杏のご飯買ってきて」
「いきなりなんだよ。昼飯ないのか?」
「杏、さっき起きた。杏、腹減った。杏、死ぬ。ばたり」
「なんですの、その怪しい日本語は」
「まぁコンビニいくから買えるけどさ」
「ありがとう、奈緒。ありがとう、桃華」
「杏さんも一緒に来ればいいですの」
「そうだな。着替えて来いよ」

話は思わぬ方向に進み、なぜかノリノリな二人に言われるがまま着替え、十五分後には防寒着を着込んだ
私は二人と女子寮玄関に立っていた。外は昼間だというのに暗い。いや、白い。長靴に履き替えて、傘を
持たず外に出る。顔が濡れないようにフードをさらに深く被った。
玄関前は除雪されており、歩くのは問題ないがその先は道すらない。足跡が僅かに残っている程度。
除雪作業に一人あたっている亜季がこちらに手を振りながら近づいてくる。

「これからお出かけでありますか?」
「ええ、コンビニまで」
「道中お気をつけ下さい。私の膝も埋まるぐらいの雪が積もっているようなので」

亜季の敬礼に見送られながら私達は雪原へと出陣した。風景は若干見えるから遭難はしないはずだ。
携帯だってあるし、いざとなれば救援も出せる。そんなことをすれば、笑い者になるかもしれないが
命には代えられない。一方の奈緒と桃華はこの雪の中でもなぜか楽しげだ。

「ところでさ、なんで奈緒と桃華が一緒にいるの?」
「あたしの部屋でアニメ見てたんだよ」
「そのアニメにも雪の中を歩くシーンがありましたの。ふふっ、こんな中歩くの初めてですわ」
「だろうね……」

つまりアニメと同じ体験をしたかった、と。そして私はなし崩し的にそれに巻き込まれたのだ。
腹に何も入れず歩く雪道はつらい。コンビニに着いたら何か奢ってもらおう。
最初は雪の進軍を歌いながら歩いていた二人も段々と歌声は小さくなり、そのうち私と同じように
黙々と歩くようになっていた。歌いながらの進軍が想像以上につらいのと雪のせいで思ったように進めず
普段何気なく歩く道がとても長く感じ始めたのだろう。そろそろ後悔し始める頃合だ。

「……なぁ、何か近寄って来てないか?」

事務所までの道を半分は来ただろうか。ふと奈緒が立ち止まり、吹雪の先を指差す。
奈緒の後ろに続いていた桃華と私も止まり、進行方向を凝視する。
確かに何か影が迫って来ている。あれは人だ。人なのだが。

「大きくない?」
「きらりさんでは?」
「いや、きらりは夜まで帰ってこない、はず。仕事も室内だから中止にはならないと思うし」

その影もこちらに気づいたのか、先ほどまでよりも動きが早くなる。まさか雪に紛れて不審者が
入ったのか。しかし入り口にはいつも警備員が立っている。こんな雪の日でもいるはずだ。
雪の寒さと少しばかしの恐怖からか体動かない。他の二人も迫ってくる影を見ているばかり。
影は段々と近づいてきて、はっきりとその姿がわかる距離まで近づいた。

「皆さん……なぜここに?」

そこにはスコップを持った武内さんが立っていた。アニメで共演して以来なんとなく呼び名も
あってプロデューサーと認識しがちだったが、彼の本職は事務員なのだ。本来の仕事は
ちひろさんの行う電話対応、書類整理だけでなく、設備点検や掃除など雑用もこなしている。

「武内プロデューサーこそどうしてここに?」
「女子寮への道がなくなっていたので除雪をしていました」

武内さんの後ろには一人分ではあるが道が出来ている。これは助かった。応急処置ではあるがあるのと
ないのとでは大分違う。なによりも周りを気にしながら歩く必要がなくなる。

「私達はコンビニに買いだしだよ」
「こんな天候なのに、ですか」
「杏はご飯がなくて、あたしと桃華は……まぁちょっと雪道を歩いてみたかったんだよ」
「そうですか。私の作った道を辿れば事務所のほうまで出れますし、事務所前はちゃんと除雪されている
 ので少しは楽になると思います」
「助かりましたわ……。雪道って思ったよりも大変ですのね……」
「無理はなさらないで下さい」

武内さんと別れ、除雪された道を歩く。まだ下は雪ではあるが、踏み出した足が雪に沈む心配はない。
普段よりも数倍の時間をかけて事務所前まで到達した私達はコンビニに行く前に事務所内のカフェに
寄る事にした。体がすっかり冷えてしまったし、なによりも私のお腹が空いたからだ。ホットコーヒー
とサンドイッチで体力を回復してから、コンビニへと向かう。カフェでもしかしたら豪雪でトラックが
来れず、商品がないのではないだろうかと危惧していたがお弁当などの新鮮食品は壊滅していたものの
目的だったお菓子やジュースは通常通り販売されていた。すっかり二人の仲間になっていた私は
奈緒と二人でお菓子の吟味をしたり、普段こういったものを食べない桃華にどのようなものを説明したり
と当初の私の目的をすっかり失念していた。雪道を歩くのに邪魔にならない程度に買いこみ
若干弱まった雪の中、私達は帰路へ着いた。女子寮に帰宅するとちょうど大浴場開放の時間だったので
アニメを見る前に冷えた体をお風呂で暖める。
湯に浸かりながらどのアニメを見ようかと話していると、ふと悪い予感は外れたなと思った。

実家から電話が来た。
年頃の娘が東京に行きたいと言ったら、二つ返事で都会に放り込む両親だ。放任主義らしく
電話一本の連絡も稀にしか来ない。もっとも私からもしないのだから強く言えることではない。

電話を寄越すときはいつも同じ問答をする。学校はどうだ。一人暮らしはどうだ。金に困ってないか。
それにいつも通りの答えを返す。ところが今回はいつもと違う質問を最後にしてきた。
お前のことをテレビで見た。ずいぶんと怠け癖も治ったようだし、こっちに戻ってくるか、と。
すぐさま私は返す。
好きであんなことしているわけじゃない。自分の金が欲しいんだ。私はいつでも怠けたいぞ、と。
私の回答に面食らったのか、何も反応しないので帰郷する気はないと言い、電話を切った。
携帯電話と一緒にベッドに倒れこむ。この天井もすっかり見慣れてしまった。
嘘はついていない。元々アイドルは金儲けのために始めたのだ。娘一人上京させて、マンションを
与える程度の財力は実家にある。一生遊ぶことは出来なくてもそれなりに安定した生活ぐらい
送れるはずだ。だけど私は遊んで暮らしたい。だからお金を稼いでいる。それは間違っていない。

「杏ちゃんは素直じゃないにぃ」

ぎょっとして体を起こす。いつの間にかきらりが玄関から入ってきていた。
隠れている様子もないのに全く気づかなかった。そもそもきらりが隠れられる場所などないが。

「また勝手に入ってきたの?」
「ノックならしたよ?」

彼女がそういうのだからしたのだろう。ばつが悪くなったので再びベッドに倒れこむ。
彼女が私の横に腰掛けるとベッドがその分沈んだ。

「杏ちゃんはーお金のためだけにアイドルしてるわけじゃないもんねー」
「アイドルしないとここから追い出されるしね」
「それだけかなー?」

きらりはとても楽しそうだ。私を責めているわけではない。からかって遊んでいるのだ。
普段は私がからかったりすることが多いのだが、時には反撃することもある。
そして何よりもこういう事に関しては彼女はすすんでからかってくる。
彼女が私に何を言わせたいのかは予測がつく。だからこそ言わない。言いたくない。
うつ伏せになって会話拒否の体勢を取っていたが、彼女は私の頭を撫でて優しく話しかけてきた。

「ねぇ、杏ちゃん。きらりはねー、アイドルが出来てとってもはぴはぴなの。可愛いお洋服も着られるし
 綺麗なステージでお歌も歌える。きらりはちょっと普通じゃない女の子だからね、ずっと憧れてたの。
 それが出来てとーってもとーーってもはぴはぴなの」

そこで一度言葉を区切る。私は何も答えない。うつ伏せになっているから表情はわからないが
こういうことを言う時の彼女の表情はなんとなくわかる。そしてこの先言おうとしていることも。

「きらりはね、杏ちゃんと一緒にやるお仕事も楽しいよ? 他の人のことなんてぜんぜーん
 気にならないもん。だってきらりはお仕事たのすぃし、杏ちゃんもきっとたのすぃだろうって
 思ってるから。ね、杏ちゃん。アイドル、楽しい?」

私が答えなくてもきらりは答えを知っている。でもこれはきっと答えなきゃ終わらない話なんだ。
だけどそんなの恥かしくて答えられるものか。お金につられてやり始めたアイドルが今になって
ちょっと楽しくなってきたなんて。アイドルをやりたいから帰郷を断ったなんて。
私は出来る限り、口を枕に押し付ける。呼吸が出来なくなるほど強く。
そして自分でも情けなくなるくらいか細く「うん」と答えた。
きらりの頭を撫でる速度が速く、力強くなり、頭があちらこちらに揺れる。
堪らず再び寝返りをうって、今度は仰向けになる。きらりが嬉しそうに私を見ていた。

「でもさ、もしも私がアイドルつまんなーい。もうおうち帰るって言ってたらどうしたの?」

仕返しにちょっとイジワルなことを言ってみる。きらりはしばし悩んだ後。

「杏ちゃんのお家まで追いかけて、連れ戻すにぃ!」
「それじゃあ私帰れないなー」

仮定の話に仮定の対応。でも私がもしも帰ることがあれば、きらりもそういうことをするかもしれない。
だがその心配はない。私の家はここにあるのだから。

ひっくり返った窓の外を白く小さい物が飛んで行く。よく見なくても私にはそれが何かわかる。
春夏秋冬。季節は巡り、また桜舞う春が来た。

以上

同じ設定の前作
モバP「家篭綺譚」

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