奉太郎「軽音楽少女と少年のドミノ」 (467)



序章 カチューシャとポニーテール


1.六月二十五日


夕暮れ迫る放課後の校舎。
俺は決して軽やかとは言えない足取りで古典部の部室に向かう。
別に部室までの移動時間を無駄だと感じているわけではない。
高校一年の生活を無事……とは言えないかもしれないがとにかく終え、
二年に進級して二ヶ月を経過したせいもあってか、俺はこの移動時間を多少は有効に使えるようになっていた。
なんてことはない。
単に移動中、読んでいる文庫本のあらすじを思い出しているだけのことだ。
だが、それだけで億劫になりがちな移動も多少は悪くないと思える。
多少の差ではあるが、部室までの果てしなく長い道程に考える事が全く無いよりはずっといいだろう。
それに部室の椅子に腰を落ち着けてから、
さてこの本はどんな展開だったか、と頭を捻るのはとてもエネルギー効率が悪い。
ならば、省エネを心掛ける俺にとって、恐らくこれはベストな選択なのだろう。

それでも、俺の足取りが軽やかでないのには当然ながら理由がある。
我が古典部の部長、千反田えるのことだ。
過去一年、数限りなくとまでは言わないが、千反田にはかなりの面倒事を持ち込まれた。
本当に面倒なら無視してしまえばいいじゃないか、
とは里志によく言われるのだが、俺にはそれが最善の策だとは思えない。
一年にも渡る付き合いを経ても、あいつはまだ分かっていないのだ。
あのお嬢様は分からないことを気にし始めると、完全な前後不覚に陥る。
好奇心の獣と化した千反田を放置するなど、想像するだに後のことが恐ろしくなる。
一度火の点いた千反田の好奇心を放置したが最後、
数日後にはまず間違いなく二倍、いや三倍は面倒臭い事案になって、俺の下に舞い戻って来ることだろう。
問題の先送りは決して事態を好転させないのだ。

だとするならば、被害の少ない内にとにかく千反田を納得させる。
それがいつの間にか俺の高校生活の処世術になっていたし、別にそれが嫌だというわけでもない。
千反田も千反田でかなり特殊な例だとは思うが、
千反田以上に面倒な人間を嫌でも相手にすることもいつかはあるだろう。
例えば姉貴とか。
それを思えば、千反田の好奇心に付き合う程度なら特に問題はない……はずだ。


「とは言っても」


古典部の部室。
つまり地学講義室に辿り着いた俺は、横開きのドアに手を掛けてから小さく呟いた。
誰に聞かせるつもりでもない言葉だ。
強いて言えば自分に言い聞かせる言葉か。
千反田の好奇心旺盛な姿には慣れてきた。
たまに億劫になることもあるが、古典部の活動が嫌いなわけでもない。
里志の弁ではないが、学内にプライベートスペースを持てている利点も大きい。
だが、それでも、やはり俺は千反田の姿に戸惑っているのだろう。
今の千反田の姿と素振りと様子に。
だから俺の部室までの足取りは決して軽くなかったし、今現在も部室に入るのに躊躇してしまっているのだ。

いっそ今日は部室に顔を出すのをやめておこうか。
そんな考えが俺の中で頭をもたげてくる。
しかしそれはさっき俺自身が考えていた通り、問題の先送りでしかない。
問題の先送りは後々に巡り巡って俺の前に姿を現す。
それくらいは俺にも分かっているのだ。

一度だけ大きく溜息をつく。
情けない事だが自分で自分が緊張しているのがよく分かった。
だが、ここで考え込んでいても、それこそ問題の先送りにしかならない。
俺は半ば諦念混じりに、軽く手に力を込めてドアをスライドさせる。
西向きの窓から夕陽が見え、その眩しさに俺は目を細める事になった。
その目を細めるという行為に、俺は妙な懐かしさを感じていた。
つい二週間前まで、部室に誰かが来ている時には夕陽を目にする事がほとんどなかったからだ。

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なぜか?
それはこの地学講義室が古典部の部室だからに他ならない。
古典部と称されながら、古典らしい古典がこの部室で読まれた覚えはないが、とにもかくにも古典部だ。
里志は推理小説を嗜むし、伊原に至っては一年の頃まで漫画研究会だった。
千反田も幅広いジャンルの本を読んでいるようだし、俺も読書は決して嫌いじゃない。
部員全員がそれなりに読書を好んでいる。
古典部とはつまり本を読む部なのだ。
ならば本を読む際、重要な条件はなんだろう。
もちろん色々あるだろうが、一番重要なのは適切な光源があることだと俺は思う。
暗ければ文字が見えないし、明る過ぎても本など読んでいられない。
まあ、改めて考えるまでもなく常識にして当たり前なのだが。

だが今日の俺は夕陽に目を細めた。
今日、俺は地学講義室の鍵を誰からも預かっていない。
地学講義室のドアのカギは開いていた。
本を読む部にも関わらず、カーテンを閉めなかった部員が先に来ていたわけだ。
カーテンを閉めていないどころか、本すらも読まずに退屈そうにしている部員がそこに居たからだ。


「よっ、遅かったじゃん、ホータロー」


俺の姿を認めたそいつは夕陽に負けない俺に笑顔を向ける。
雰囲気こそ似ているが、そいつは仮入部でしばらく部室に入り浸っていた大日向ではなかった。
そんなことは俺にだって分かり切っている。
髪の長さも背格好も大日向とは声色も全く違っていた。
慇懃無礼なきらいはあったが、そもそも大日向の口調はここまで砕けていない。


「掃除が長引いたんだよ」


俺はわざと軽い感じで応じた。
嘘は言っていない。
教室の掃除当番だったのは本当だった。
しかし必要以上に念入りにやってなかったかと問われれば、そうだと頷かざるを得ない。
先送りは何の解決にもならないと分かっていながら、ちょっとした逃避に耽ってしまっていたのだ。
なんとか平静を装ってはいるものの、やはり俺はかなりこいつの様子に戸惑っているのだろう。


「へー、そうなのか、お疲れさん」


俺の言葉を気にした風もなく、そいつは自分の襟足周辺を頻りに触り始める。
俺の姿を認めたから髪型を気にしていると言うわけではなく、
さっきまでもそうしていたからそうしていると言わんばかりの自然な行動だった。
自らの髪の長さがまだ気になっているのだろう。
俺と伊原の説得で思い留まってはくれたが、先週までは髪を切りたがっていたからな。


「気になるのは分かるんだが」


「わーってるって。
こんなに綺麗に伸ばした髪を切るのももったいないもんな」


俺が皆まで言う前に悟ってくれたらしく、そいつはまた笑顔を見せた。
少し砕けた言葉遣いではあるが、相手を慮る事ができる奴なのがせめてもの救いか。


「つーかさ、こんな髪型、小っちゃい頃以来なんだよな」


ポニーテールに纏めた黒髪を掴んで苦笑する。
前髪を上げてカチューシャを着け、後ろ髪をポニーテールに纏めている。
傍から見るとどれだけその長髪が邪魔なのかと思いたくなる髪型だが、
これが俺たちの最低限の折衷案が採用された髪型なのでお笑い種にすることもできない。
辛うじて俺にできるのは、軽い疑問を口にすることだけだ。



「そんなに髪を短くしてたのか?」


「そうだな、やっぱ髪は短い方が楽じゃんか。
澪と梓もだけどロングヘアーにしてる子はすげーよな。
特に夏とか暑苦しいだろうし」


澪と梓。
何度か聞いた事がある名前だ。
こいつが部長を務めているという部の部員の名前。
こいつの交遊関係など俺には関係ない。
などといつものように思うわけにはいかない事情が今の俺にはあった。
だから部室に足を運ぶのが億劫だったのだ、俺は。


「ホータローはさ」


「どうした?」


「やっぱロングの方が好きなのか?
男子ってロングが好きだってよく聞くしさ」


「……考えた事もないな」


「ホントかー?
照れんな照れんな」


「別に照れてないが」


軽口めいたやりとりをしながらも、俺はどうしても違和感が拭えずに口の中が渇くのを感じた。
俺はこうなる前のこいつとこんなに軽口を叩きあったことがない。
それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかも分からない。
ただ目の前の現実に圧倒されてしまうだけだ。


「どうしたんだ、ホータロー?」


俺が少し黙った事を気にしたのか、そいつは上目遣いで大きな瞳を開いて首を傾げた。
気が付けば俺の手が届くくらいの距離までにじり寄って来ていた。
こんなところだけこいつはこうなる前のあいつとよく似ている。
「わたし、気になります!」と言わないのが、あいつとの一番大きな違いだろうか。


「いや、別に何でもない」


応じながら、俺はこうなる前のこいつの事を思い出す。
楚々としたお嬢様といった外見と性格をしながら、
その内面には貪欲な好奇心の獣を飼っていた我が古典部部長、千反田える。
肩まで届く髪と大きな瞳が特徴で小さなことにもすぐに好奇心を働かせる。
別に俺はあいつが嫌いなわけではなかった。
相手をするのが面倒なことも多々あったが、多少の面倒なら請け負うのもやぶさかではなかった。
それくらいにはあいつを悪く思っていなかった。
しかしこれはあまりにも想定外だ。

今のこいつは今までの千反田とはあまりにも違い過ぎた。
同じなのはほとんど姿形だけ。
声は同じだが語調は微妙に違っていたし、口調は全く違っていた。
性格は楚々とはとても称せず、強いて言うならば男勝りだろうか。
長い髪が苦手で、ポニーテールとカチューシャでどうにか首筋と額を涼しくさせている。
そして、何よりも。



「それよりちょっと休ませてくれないか?
掃除が長引いたから肩が痛くてな。
伊原たちが来るまでゆっくりさせてくれ」


不躾な言い方だったかもしれない。
だがこれ以上一人きりで変わり果てたこいつ……、千反田と話す気力が無いのも確かだった。
いや、今のこいつは千反田じゃなかったんだったか。


「あいよ、お疲れさん、ホータロー。
何だったら私が肩でも揉んでやろうか?」


「結構だ、千反……、いや、田井中」


俺が手を振ると、そいつは気を悪くした風でもなく、
今まで千反田が使っていた椅子に座って軽く肩を竦めた。
そうしてから机の上に置かれていたシャーペンを手に取り、リズミカルに机を叩き始める。
もしも里志がやったのなら雑音にしかならなかっただろうが、
そいつ……、田井中の叩く机の音は全く不快なリズムではなかった。
田井中が前に語った通り、本当に軽音部でドラムを担当していたのかもしれない。
こうなる前の千反田はこれほどのリズム感を備えてはいなかったはずだ。
こうなる前、つまり二週間前の六月中旬。
何の前触れもなく唐突に、田井中は俺たちの前に千反田の身体を借りて顕れた。
千反田の身体を借りた、というのは便宜上の表現だが、少なくとも俺にはそうとしか思えなかった。

田井中律。
そう名乗るこいつのリズムに耳を傾けながら、俺はその日の事を思い出す。
あの日は、そう、マラソン大会こと「星ヶ谷杯」が終わり、本格的に夏の訪れを感じ始めた頃の事だった。


中の人ネタになります。
ゆっくりな展開になりますが、よろしくお願いします。

ネタバレになるかもしれないが、残りの4人の中の人も氷菓に出ている。
それも取り入れるのか?



2.六月十三日


「うわっ!」


甲高い女の声だった。
それで喧騒というほどではない程度には話し声が聞こえていた古典部の部室が一気に静まった。
声質はよく聞き覚えがあるものだった。
人の声を記憶する特技があるわけじゃないが、
学校がある日はほぼ毎日聞いているその声質を聞き間違えるはずがない。
そもそも今日の古典部の部室に女は一人しかいなかった。
つまり考えてみるまでもなく、甲高い声を上げたのはその女ということになる。

だが、その女がその声を上げたとは、俺にはにわかには信じがたかった。
それくらい俺たちにとって常軌を逸した事態だったのだ。
その日、六月十三日。
部室には三人の部員が集っていた。
俺、里志、そしてもう一名
その声を上げたのが伊原であったのなら、俺たちも目を剥いて言葉を失う事はなかっただろう。
伊原の「うわっ!」という悲鳴に似た声を聞いた事はなかったが、あいつならばまだ頷けた。

しかし伊原は用事があるとかで部室に顔を出しておらず、声を上げたのは当然別の女だった。
別にもったいぶる必要もない。
ないのだが、もったいぶりたくなるくらい、その時の俺は動揺していたのだ。
甲高い声を上げたのは千反田だった。
千反田える。
楚々とした印象を周囲に与える古典部の部長。
楚々とした、だ。
知れば知るほどこいつの本質は楚々とは程遠いものと理解できるのだが、それでも。
謎や疑問に対する好奇心が絡まなければ、楚々としたお嬢様であることも確かだった。

故に俺は言葉を失ってしまったのだ。
千反田を一年以上それなりに見てきてはいたが、
「うわっ!」という素っ頓狂な調子の甲高い声を聞いたのは初めてだったからだ。
千反田の叫び声を聞いた事がそれほどあるわけではない。
興奮した様子は何度も見てきたが、悲鳴を聞いたことはこれまでなかったはずだ。
それでも言い切れる。
千反田の叫び声にしては、俺の中の印象とはあまりにも異なり過ぎていると。

「きゃっ!」だか「きゃあ!」だか「いやっ!」だか。
少なくとも俺の中では千反田はそういった類の悲鳴を上げる印象だった。
当然だが勝手な印象だ。
もしかすると俺の想像も寄らない悲鳴を上げる可能性も大いにある。
それでも「うわっ!」だけは完全に俺の中の千反田像とは異なっていた。
「うわっ!」だけはありえない。



「千反田さん、どうかしたのかい?」


おそらくは里志も俺と同じ印象を持っていたらしく、珍しく上擦った声で千反田に訊ねていた。
その表情には心配といった文字がうかがえる。
特に里志の場合、突然悲鳴を上げるまで千反田と会話していたのだ。
その動揺はまず間違いなく俺以上だろう。

確か「千反田さんは二〇〇一年宇宙の旅を読んだことがあるかい?」と、
里志は部室に入ってすぐ話を始めたはずだ。
「題名だけは耳にした事があります」と千反田が応じ、
それから里志のSF論やSFの歴史についての講釈が始まった。
ちなみに俺は読んだことがない。
確か宇宙人とのファーストコンタクトを題材にした小説だったろうか。

特に興味があるわけではなかったので、
俺はその講釈には軽く耳だけ傾けて、文庫本に目を落としていた。
姉貴が俺の部屋の前に放り出していた文庫本なのだが、存外に面白くページをめくる手が止まらなかったのだ。
それにしても一度も目にしたことがない著者だというのに、姉貴はどこからこういう本を仕入れてくるのだろう。
まあ、どこかから仕入れてくるのだろうし、仕入れ先がそれほど気になるわけでもない。

里志の講釈は盛り上がっているようだった。
千反田は興味深そうに感嘆の声を上げながら頷き、里志も満足気に弁舌をふるっていた。
確かに好奇の対象が合致した際の千反田ほど理想的な生徒はいないだろう。
少なくとも俺に雑学を披露するよりは遥かに有意義に違いない。
ともあれ、部員同士の仲がいいにこしたことはない。
それから十数分後。
文庫本の内容が盛り上がる展開に差し掛かった頃、部室に響いたのだ。
その千反田の「うわっ!」が。


「僕の話に何かおかしいところでもあったのかい?」


伊原に叱られている時以上に切羽詰まった表情で里志が続ける。
千反田はその大きな瞳を見開いて押し黙ったままだ。
何度か里志が俺に助けを求めるように視線を向けたが、事態が呑み込めない以上俺にもどうしようもない。
大体、千反田と話していたのは里志であって、俺は文庫本を読んでいただけなのだ。
俺に何ができると言うのだろう。

だが俺にも一つだけ言えることがある。
軽く耳を傾けていただけではあったが、里志の講釈におかしな点はなかったはずだということだ。
『氷菓』の話を聞かされた幼少期の千反田じゃあるまいし、
そもそも単なる古典小説の話題で悲鳴を上げることなどないだろう。
怪談が苦手な人間ならありうるのかもしれないが、
残念ながら千反田は怪談を物語として楽しめる感性の持ち主なのだ。
ならば他に千反田が悲鳴を上げる理由があるということになるが。
それこそ文庫本を読んでいただけの俺には知りようもない。
里志には悪いが心当たりを片っ端から当たってもらうしかあるまい。
もちろん、里志自身もそれを深く理解しているようで、必死に千反田に訪ね掛けていたが。


>>7

失礼しました。
えるだけの中の人ネタになります。
またよろしくお願いします。



「あ、いや、えっと……」


どうにか千反田の口から出てきた言葉は意味を成していなかった。
その顔色は蒼白と形容して差し支えないものだった。
ただ何かが気になるのか、何度も前髪を横に流している。
千反田自身の髪の長さだろうか。
今更自身の髪の長さが気になるはずがない。
しかしその千反田の素振りは俺にはそう見えて仕方がなかった。


「もしかして気分が悪いのかい?
それなら保健室に行った方がいいかもしれないね。
放課後だけどまだこの時間なら先生もいるはずだから」


自分に原因があるのかと様々訊ねていた里志だったが、
その千反田の蒼白の表情を見ているうちに考えを改めたらしい。
いくら里志の言葉が無遠慮であることが多いとはいえ、誰かをここまで青ざめさせるほどではありえない。
里志はそこまで短慮ではない。
そもそも話していたのは単なる海外SFの話なのだ。
他に原因があると考えるのが自然だろう。
俺は文庫本を鞄の中に片付け、蒼白な表情の千反田の横にまで歩み寄る。


「千反田、体調が優れないなら俺も付いていってやる。
付き添いが男だけだと不安だと思うなら近くの部の女子に声を掛けてやる。
出払っている部も多いかもしれないが、おそらく天文部なら暇してるだろう。
少なくともまず間違いなく沢木口……先輩ならいるだろう。
勿論、おまえがそれを望むのならだが」


珍しくやる気じゃないか、ホータロー。
とは里志も言わなかった。
人を茶化していい時と悪い時の区別は付けられる奴なのだ。
その証拠にというわけではないだろうが、真剣で鋭い視線を俺に向けた。
力仕事に自信があるわけではないが、仮にもこちらは男二人なのだ。
もし千反田が歩く事すら辛いようでも、運ぶことくらいはどうとでもできるだろう。
千反田がそれに抵抗があるならば、天文部の沢木口に頼めばいい。
天文部の女子部員は多いようだし、沢木口ならその他の人脈も広そうだ。


「どうする千反田?」


確認のために千反田と視線を合わせようとしてみる。
しかし千反田の視線は虚ろで、傍に俺と里志がいることに気付いているかすら曖昧だった。
いや、何度か俺たちに視線を向けていたからそれはないだろうが、
そう思えるほどに今の千反田は意識をどこか遠くに手離しているように見えた。
これは本気で沢木口を呼びに行った方がいいかもしれない。
そう伝えようと俺が里志と視線を合わせた瞬間だった。


「ちょっ……、ちょっとトイレに行ってくるから!」


唐突に言い放った千反田が髪を振り乱して立ち上がった。
若干唖然としている俺たちには目もくれず、一目散に部室から飛び出していく。
普段の千反田からは考えられない勇ましい手の振りで、見事なランニングスタイルだった。
陸上でいい記録が出せそうだ。

十数秒ほど呆然としていたかもしれない。
これまで積み重ねた俺の中の千反田の印象が崩れかかるのを感じる。
何とも複雑そうな表情で沈黙を破ったのは里志だった。



「元気そうだったね、千反田さん」


「そうだな」


「そこまでトイレに行きたかったのかな?」


「そういうこともあるのかもしれんぞ」


「あんなに顔中真っ青にさせて?」


「きつい波が来てたのかもしれない。
お前にもあるだろう。
腹痛の波が過ぎ去るまで、話しかけられても返事が出来ない時が」


「それはあるけれどもさ」


里志が釈然としない表情を俺に向ける。
俺だって釈然としているわけじゃない。
確かに千反田の奇声と微妙に違う口調と行動は、突然の腹痛で説明できなくもない。
無理矢理でも構わない。
別に俺たちは普遍たる真実ってやつを信じたいわけじゃない。
ちょっとした疑問に納得できる妥当な答えがあれば、真実とは異なっていても構わない。
それが俺と里志のスタンスなのだ。
ただし俺は簡単に出せる答えを望み、里志は面白い答えを望むという差異はあるが。

だが俺たちは釈然としていなかった。
俺の導き出した答えが無理矢理だったからではない。
部室を飛び出していく直前、千反田が取った行動があまりにも不自然だったからだ。
それを里志がひとりごとのように指摘した。


「千反田さん、鞄を持って行ったね」


「そうだな」


「トイレに必要な物が入っているのかな?」


「入ってないこともない可能性もある」


「例えば?」


「女子には必要な物があるだろう」


「そう……だね」


俺には姉貴がいるし、里志にも妹がいる。
女子の鞄の中にトイレで女子に必要な物が入っていることは知っている。
トイレに女子が鞄を持ち込む理由は、それで一応の説明は付く。
だがそう考えるより自然な考え方もあった。
単純なことだ。
千反田がトイレに行くふりをしてそのまま帰宅した。
そう考えればトイレに向かうはずの千反田が鞄を持っていても問題はない。
取り残された俺たちとしては複雑な心境にさせられるが、
本来礼と義を重んじるはずの千反田だ、それなりの事情があるのだろう。
いや、本当にトイレである可能性もあるのだが。

俺と里志は顔を合わせて沈黙して、しかし何も口には出さなかった。
二人で定位置の椅子に座り、鞄の中に片付けた文庫本を手に取った。
帰宅にはまだ早い時間だ。
千反田が戻って来る可能性だってまだ残されている。
そうである以上、俺たちはまだ部室に残っているべきなのだ。
俺は小さく溜息をついてから文庫本のページを開いた。
さて、続きはどこからだったか。



十分後、千反田は部室に戻って来た。
若干顔の青さが消えているのは何よりだったが、
代わりに千反田は俺と里志に新たな疑問を与えてすぐに部室から去った。


「急に飛び出してごめんなさい。
でも、突然だけど急用ができたので、私、先に帰りますね。
あ、折木さん。
これ借りていた本です、ありがとうございました。
それでは、さようなら」


それが部室から去る前、文庫本を俺に返しながら言った千反田の言葉だ。
釈然としない。
ありとあらゆる意味で釈然としない。
そう言った千反田の表情、仕種、言葉遣い、全てに違和感があった。
一つ一つに文句を付けられるくらいに違和感だらけだった。
そして何より違和感があったのは、千反田に返された文庫本だった。


「何だこれは」


思わずそんな陳腐な言葉を吐いてしまうくらい、その文庫本には違和感しかなかったのだ。
中身自体は先週千反田に貸した文庫本そのものだった。
しかし外側が違った。
文庫本には紙製のブックカバーが掛けられていた。
俺が千反田に渡した時には掛けられていなかったものだ。
それは構わない。
律儀な性格の千反田のことだ。
俺から借りた文庫本を汚さないように自前のブックカバーを掛けたのだろう。
問題はそのブックカバーに書かれていた文字だった。

おそらくはサインペンで記されたのだろう、カバーの表側から裏側に渡る大きな文字。
書かれたばかりなのかシンナーの臭いが鼻に衝く。
カバーには『ゲーム開始!』と下手な字で記されていた。


今回はここまでです。
のんびりよろしくお願いします。




「何だろうね」


里志が俺の背中から千反田に渡された文庫本に視線をやる。
ついさっきまで千反田の妙な様子を間近で見ていた里志だ。
この文庫本への興味は俺以上だろう。


「『ゲーム開始!』って書いてあるね」


「見れば分かる」


「ホータローは千反田となにかゲームをする約束でもあったのかい?」


「まさか」


返しながら俺は自分の椅子に座る。
里志が部室の入口の方に視線を向けてなにかを言いたげだったが、
結局はなにも言わずに自分の席に戻って溜息に似た息をひとつ吐いた。
おそらく里志は「千反田さんを追わないのかい?」と俺に問いたかったのだろう。
それが最善の策に思えなくもないのは確かだ。
『ゲーム開始!』と突然宣言されても、意図が不明に過ぎる。
まずは急に去った千反田を捕まえて意図を問いただす方が先決に思える。

だが里志は俺にそう言わなかったし、俺も千反田を追おうとはしなかった。
あいつの健脚に本気で逃げ回られては捕まえようもない。
それ以上に千反田が『ゲーム開始!』と言うのなら、
俺がこのゲームをクリアしない限りあいつも口を割らないはずだ。
『ゲーム』に参加しない選択肢もあったが、俺はそうしないことに決めた。
このまま帰宅しても千反田のことが気になってよく眠れないのは確かだろうからだ。


「『ゲーム』って言葉に心当たりはあるのかい?」


いつもぶら下げている巾着袋の中を探りながら里志が俺に訊ねる。
今の状況、千反田のゲームについて考えることこそが事態の収束に最も近い。
それに気付けないほど里志も鈍くはない。
俺は少しだけ過去を思い出してみてから首を横に振った。



「ないな」


「だろうね。
大体、千反田さんがホータローとなにかゲームをするつもりなら、
堂々と真正面からゲームの開始を宣言しそうだしね。
わざわざ文庫本のカバーに『ゲーム開始!』と書く理由が見当たらないよ」


それは俺も同感だ。
よくも悪くも千反田は嘘がつける性格ではない。
隠し事を抱えて里志と古典SFの話ができるほど器用でもない。
つまりこの『ゲーム』は突発的に思いついた物だということになる。


「里志、ちょっとその文庫本を手に取ってくれるか?」


「こうかい?」


「鼻に近付けてみろ」


「シンナーの臭いがするね」


「それはどういう意味を示している?」


「ごく近い時間にこの『ゲーム開始!』って文字が書かれたってことになるんじゃないかな。
例えばさっき千反田さんが鞄を抱えてトイレに向かった時にとかね」


「十中八九そうだろうな。
これでひとつさっきまでの疑問が解けたな。
千反田はブックカバーにこの文字を書くために、鞄を持ってトイレに向かったんだ。
いや、トイレでなくてもいいか。
とにかく千反田は俺たちの目の届かないどこかでこの文字を書いたんだよ。
そのために鞄が必要だったわけだ」


「まさかその本とマジックペンだけを持って、部室から出ていくわけにはいかないだろうしね。
そんなのなにか『ゲーム』を始めるにしてもあからさま過ぎるよ」


俺は頷いて里志の方に手のひらを向けた。
意図を察した里志が俺の手のひらに文庫本を載せる。
最初のページからパラパラとめくって中身を確認してみる。
俺に速読の能力があるわけではないからはっきりとは言えないが、
暗号に類する落書きのようなものは一見しただけでは見当たらなかった。
俺の表情から読み取ったらしく、里志が軽く微笑んだ。


「『ゲーム』とは言っても、千反田さんは借りた本に落書きなんかしないんじゃないかな?
それ、ホータローが千反田さんに貸した本なんだろう?」


「分かってるさ、単なる確認だよ。
予想通り何の落書きもなかったみたいだがな」


「例えばホータロー。
『ゲーム』とその本には何の関係もないって可能性はあると思うかい?
ブックカバーの文字は本当に単なる『ゲーム開始!』の宣言だったって可能性は?」


「その可能性があるのは確かだが、除外しても構わないだろうな」


「どうしてだい?」



「『ゲーム』に公平性がないからだ」


俺が答えると里志が満足そうに頷いた。
こいつ、俺にこう言わせたくて質問を誘導したな。
まあ、いつものことだし悪い気はしない。
ひとつの問題に対して複数人で意見を出し合うのは、考えをまとめるのに最適だしな。
俺は一息ついてから話を続ける。


「『ゲーム』は対等な立場の人間同士が行わなければ成立しない。
今は千反田が『ゲーム』の主催者の立場であるわけだが、
主催者だけが『ゲーム』の概要を理解していたところでどうにもならない。
参加者の俺たちにも『ゲーム』の概要が分かっていなければ、それは単なる主催者の自己満足だ。
これが『ゲーム』だと言うのなら、俺たちには既に情報を完全に与えられていなければならない。
そもそも『ゲーム』の開始を宣言するだけなら、このブックカバーに書く必要はないわけだしな。
それこそ口で言えばいいことだし、その辺の紙に書いたって構わない」


「つまり『ゲーム』のヒントは全てその文庫本に隠されてるってことになるわけだね?」


「そういうわけだ。
もっとも千反田に『ゲーム』の主催者としての良識があるという前提ありきだがな。
だがあれでも昔は推理小説を読んでいた時期があったと言っていた。
ノックスの十戒も知っていたはずだ。
その程度の良識は持ち合わせていると仮定して考えよう」


「そうだね。
そういえばホータロー、大切なことを聞いてなかったのを思い出したんだけど」


「何だ?」


「その文庫本は何なんだい?
僕はまだ開いてもいないから、そのブックカバーの中身を知らないんだよね」


文庫本に掛けられているのは紙製のブックカバーだ。
本を開いてもいない里志が中身を知らなくても無理はない。
俺は文庫本の中央付近を開いてから里志に見せる。


「『車輪の下』だ」


「ヘルマン・ヘッセの?」


「他にあるのか?」


「ないと思うけど。
でも意外だね、ホータローが『車輪の下』を読んでるなんて」


意外とは何だ。
だが里志の言ったことはある意味で間違っていなかった。


「俺は読んでない。
それは姉貴の文庫本だよ。
千反田が読みたいと言っていたんで、この前貸したんだ」


「やっぱりそうなんだね。
ホータローに『車輪の下』は似合わないと思っていたんだよ。
かなりセンチメンタリズムに満ち溢れた自伝風小説だからね」


さいですか。



「別に俺に『車輪の下』が似合おうが似合うまいがどうでもいい。
だがそうだな。
もしかすると『車輪の下』の内容がこの『ゲーム』に関係してるかもしれない。
自伝風小説と言っていたがお前はこの本を読んだことがあるのか?
あるなら内容を掻い摘んで教えてくれないか、三十文字以内で」


「短いね。
うーん、『才能を持った主人公が挫折して、最終的に事故死する話』かな」


わざわざ文字に書き起こしはしないが、本当に三十文字以内にまとまっていそうだ。
口の上手い里志らしくて思わず舌を巻いてしまう。
しかしそれは。


「酷い内容だな」


つい率直な感想を口にしてしまう。
俺はハッピーエンドを好むわけではないが、いくらなんでも救いがなさ過ぎやしないか?
それを伝えると里志が苦笑に似た笑みを浮かべた。


「ホータローが掻い摘んで内容を知ろうとするからだよ。
ちゃんと読み進めればそういう結末になった理由が分かるものさ。
物語を読むことまで省エネ主義じゃ、正しい内容を掴みかねるものだよ」


さいで。
しかし里志の言うことももっともではある。
今度ちゃんと読んでみることにするとしよう。
この『ゲーム』をつつがなく終わらせることができればだが。


「そうだ、ホータロー。
千反田さんと『車輪の下』に関する話はしたのかい?」


「いや、してないはずだ」


「本を読んだかどうかは?」


「どうだったか。
確か読んでないと話したはずだが」


「なら『ゲーム』と『車輪の下』の内容は関係なさそうだね。
『ゲーム』の参加者のホータローが現在持っている情報で、
この『ゲーム』がクリアできないとその意味がないからね。
『主催者』と『参加者』は対等でなければならない。
うん、それでこそ『ゲーム』さ。
まあ、少し調べれば分かることくらいなら、許容範囲かもしれないけどね」


里志の言うことはもっともだ。
ただ、少し調べれば分かることがどの程度までなのかは千反田の匙加減だが。
つい最近までデータベースを自称していた里志ならば知ってそうなことくらいだろうか。


「ちょっと考えてみたんだけどね、ホータロー」


「言ってみてくれ」


「難しく考える必要はないのかもしれないよ。
千反田さんは単純な問題を僕らに投げかけただけなのかも。
その文庫本は『車輪の下』だよね。
だったら文字通り『車輪』の『下』になにか隠されているのかもしれない」



「悪くない考えだな。
だが車輪と言ってもたくさんあるぞ。
生徒の自転車、教員の自動車、その下を全て調べるわけにもいかない。
となると部室という考え方もあるかもな。
鉄道研究会、サイクリング部、あったかどうかは知らないが、
その部室の床、もしくは階下の教室になにか隠されている可能性はあるかもしれない」


「うん、いい着眼点だね。
何なら今から行ってみるかい?
安楽椅子探偵には憧れるけど、現実の探偵は足で情報を稼ぐものだからね。
ホータローの主義には合わないだろうけどね」


それはもっともだ。
だが千反田の『ゲーム』に頭を悩ませているよりは、足を使った方がまだ健康的だった。
精神的疲労が肉体的疲労を勝ることは決して少なくない。
ならば足で千反田の『ゲーム』に付き合ってやることこそが、俺にとって一番いい選択なのだろう。

俺は椅子から腰を上げようとして、瞬間で躊躇した。
何かを見落としているような気がしたからだ。
千反田は俺たちに『ゲーム』を仕掛けた。
それもおそらくは今得ている情報だけで解決できる『ゲーム』を。
だとするならば、俺はこの場で『ゲーム』をクリアしてみせるべきではないのか?


今回はここまでです。
またよろしくお願いします。



「行かないのかい、ホータロー?」


腰を上げかけた俺を見て里志が首を捻る。
しかしその目は疑問の色に染まっているわけではなかった。
里志も気付いているのだ。
これでは『ゲーム』の答えには弱いのだと。
車輪=鉄道研究会、もしくはサイクリング部という答えではあまりに単純なのだと。
俺はもう一度深く椅子に座り直し、気になっていたことを里志に訊ねた。


「里志、どうして『車輪の下』なんだ?」


「ホータローが千反田さんに貸したんだろう?」


「そうじゃない。
どうしてこの自伝風小説の題名が『車輪の下』なのかってことだ。
さっき聞いた三十文字以内のあらすじでは、内容と車輪に関連性が見受けられない。
最終的に事故死すると言っていたな?
それともこの『車輪の下』の主人公は轢死でもするのか?」


「それだとあまりにシニカルなタイトルだけれど、そうじゃないよ、ホータロー。
僕も最初は分からなくて調べてみたんだけどね、
この小説の『車輪』にはヘッセの暗喩が含まれてるみたいなんだよ」


「なるほどな、暗喩か。
思い付きだが『簡単に取り換えられる部品の様な自分』でも表しているのか?
いや、これは車輪というより歯車の方が適切だが」


「いい線だけど惜しいね。
もったいぶる必要もないから教えてあげるよ、ホータロー。
この小説の『車輪』はね、主人公を押し潰す社会の仕組みを暗喩しているんだ。
天才的な能力を持った主人公が周囲の期待に押し潰され、
自暴自棄になって慣れない酒に酔い、最終的には事故死する。
これが正しい『車輪の下』のあらすじさ。
ちなみに死因は溺死だよ。
慣れない酒に酔った挙句に川に落ちて溺死してしまうんだ」


なぜかそこで里志が複雑な表情を浮かべる。
「ホータローは周囲の期待に押し潰されることはないのかな?」とでも言いだけだ。
しかし俺は自身を天才だと考えたことは一度もないから、気にはならなかった。
俺は省エネを愛する一般人だ。

それよりも『車輪』の暗喩だ。
『車輪』が社会の仕組みを暗喩している。
その仕組みは『社会』そのものと言い換えることもできるだろう。
『社会』が『車輪』のように誰かを押し潰すことがあるのか、
まだ人生経験の少ない一介の高校生でしかない俺にははっきりと言えない。
もしかするとそのようなこともあるのかもしれない。
しかしそれは今は関係のないことだった。

俺は静かに里志に視線を投げかける。
俺の質問に応じながら気付いたらしく、里志もゆっくりと頷いた。



「『車輪』が『社会の仕組み』の暗喩だとしたら、
鉄道研究会よりもそっちの方を優先的に調べてみるべきかもね。
もちろん社会そのものの下を調べるとかそういう意味じゃなくて」


「『社会科教室』か」


理科ほどではないが、社会科も多くの備品が必要な教科だ。
地図、映像、資料。
それらの備品を教室まで運ぶ教師がいないわけではないが、
我が母校のほとんどの社会科教師は生徒の方に社会科教室まで足を運ばせさせていた。
正直面倒ではあるが、もし俺が彼らと同じ立場なら間違いなくそうするだろう。

『ゲーム』、いや、今の場合は『クイズ』に近いか。
普通の問題でもそうだが、『クイズ』には複数個の解答があってはならない。
それでは参加者と主催者の間に公平性が保てないからだ。
そう考えるとするならば、『車輪』というヒントだけでは実に解答が曖昧だ。
自動車や自転車、それらに関する部室などこじつければいくらでも見つけることができるじゃないか。
しかし『車輪』が『社会』というヒントになれば、その数もぐっと絞れる。
まさか校外の社会博物館まで探れという『ゲーム』でもないだろう。
あくまでこれは『ゲーム』なのだ。
それも千反田が十分以内に準備ができるような。
ならばこれで決まりだろう。


「里志、うちの学校に社会科教室はいくつある?」


俺はそれを知らない。
訪れたことがある社会科教室も一つだけだった。
里志は少し首を捻り、数秒後には笑顔で俺の質問に答えていた。


「三つかな。
主に日本史に使われてる教室、世界史に使われてる教室、
その他の授業に使われている教室の三つだったはずだよ。
例外的に社会の授業に使われている教室がなければ、それで間違いないと思う。
でもこの場合は例外まで考える必要はないよね?」


「『ゲーム』だからな。
例外をいくつも考え始めたら成立しなくなる。
あくまでよく考えれば分かる程度の問題を考えているはずだ。
目的は掴めないが、千反田だってそんな意地悪をしたくて俺たちに『ゲーム』を仕掛けたわけじゃないだろう。
これは解ける『ゲーム』でないと意味がないんだ。
例外は無視して構わないだろうな」


「『オッカムの剃刀』だね」


前に読んだ小説で聞いた覚えがある。
はて、どんな意味だったか。


「仮定が多過ぎても意味がないってことだよ、ホータロー」


さいですか。
里志にはわざわざ難解な言葉を使いたがる傾向がある。
しかしそれだけ言えれば満足だったのか、わざとらしく咳払いをしてから里志が続けた。



「それでどうするかい?
社会科教室はとりあえず三つあるからね。
一番近い教室から当たってみるかい?」


「もしかするとそのヒントもあるかもしれないな。
なあ里志、社会科教室は第一、第二という感じに数字が割り振られてたか?」


「そう……、いや、違うな。
第一、第二社会科教室はあるけど、第三社会科教室はないんだ。
確か第三社会科教室の正式名称は社会科資料室だったはずだよ」
それがどうかしたのかい、ホータロー?」


「いや、もしかしたらこの文庫本が何刷かにヒントがあるかと思ってな。
だが社会科教室が数字で区分されていないのなら意味がなさそうだ」


「そうかもね」


一応確認してみるがこの『車輪の下』は第七刷だった。
確証はないが刷数は関係ないだろう。
これ以上文庫本を探ってもヒントは残されていなさそうだ。
ならば後は足で稼ぐ時間か?
足で稼げばこの『ゲーム』の攻略は終わるのだろうか?


「ここからだと社会科資料室が近いよ、ホータロー。
一階にある教室だから、下の教室に何かがあるってこともなさそうだね。
下の教室自体ないわけだし。
この教室は床だけ調べればよさそうだね」


それは里志がなにげなく呟いた言葉だったのだろう。
しかしその言葉が俺には引っかかった。
まだ考えていなかったことを思い出したからだ。
『下』の意味。
その意味が階下なのか床なのか、俺にはその意味が掴めていない。
やはりまだ俺は何かを見落としているのだろうか?

瞬間、俺はまだ文庫本の中に調べていない箇所があることに気が付いた。
本の中身もカバー裏も刷数も落書きも調べた。
だがもう一ヶ所だけ俺には調べ忘れた場所があったのだ。
俺は焦る気持ちを抑えて紙製のブックカバーに手をかけた。
さっきは下の本来の『車輪の下』の表紙ごと外したブックカバー。
今度は千反田が『ゲーム開始!』と記した紙製のブックカバーだけを外してみる。


「あっ」


盲点だったと言わんばかりに里志が声を上げた。
俺にもこれは盲点だった。
文庫本には『車輪の下』の本来のブックカバーが上下逆さまにかけられていた。




これで決まりだろう。
俺は里志を連れてその教室に向かっていた。
こんな単純な仕掛けに気付かなかった自分が少し情けない。


「仕方ないよ、ホータロー」


俺を慰めるわけではないだろうが、里志が苦笑を浮かべながら言った。


「『ゲーム』のヒントとして本を渡されたら、誰だってその本の中身から調べる。
カバー裏に何か隠されてるかもってことには気付くだろうけど、
まさか紙製のブックカバーに隠された本来のブックカバーに仕掛けがあるなんてすぐには気付かない。
一見しただけでは全く同じなんだし、
カバー裏を調べるにしても紙製のブックカバーごと外すのは自然な行動だよ」


確かに自然な行動だ。
実際俺もそうしたし、カバー裏に何もなかったことに落胆した俺はそのまま文庫本に掛け直してしまった。
そのまま紙製のブックカバーを外してさえいれば、こんなにも遠まわりすることはなかったのだ。
千反田がこれを予期していたとは考えにくいが、してやられたという気持ちが大きい。


「それよりさ、ホータロー?
その教室で間違いないのかい?」


いつまでも起こったことを悔やんでいても仕方がないと言いたかったのだろう。
里志が俺の答えの続きを促し、俺も気を取り直して頷いて見せた。


「ああ、まず間違いない。
分かってみれば実に簡単な答えだ。
『車輪』はお前の言う通り『社会』の暗喩。
この学校で『社会』と関係のある教室は三つの社会科教室だ。
残った問題は『下』が何を意味しているかのだが、
上下逆に掛けられた本来のブックカバーを見れば一目瞭然だ」


「『下』じゃなくて『上』ってことかい?」


「馬鹿みたいに単純だと思うか?
しかしそれでいいんだ。
これは解かれるための『ゲーム』なんだからな。
無理に難解に考える必要は全くない。
それにそう考えれば、これで対象の教室が一つに絞り込める」


「どうしてだい?」


「第一、第二社会教室は何階にある?」


「四階……。
なるほど、そうか」


「四階の『上』は屋上だ。
そういう考え方もなくはないが、屋上ではあまりにも範囲が広過ぎる。
社会科教室でない教室の『上』でもあるしな。
これは『ゲーム』の解答としては面白い物じゃない」


「そうだね。
でもそれなら一階にある『社会科資料室』でもいいんじゃないのかい?
『上』の意味が完全に分かってるわけじゃない。
上の階の教室ではなく、『社会科資料室』の天井という可能性もあるじゃないか」



「それはもちろんだ。
俺の考えが間違っていたらそっちに向かう予定だが、まず間違ってないはずだとも思ってる」


「それはなぜかな?」


「時間が足りないからだ」


「どういう意味だい?」


「憶えているのだろう?
千反田は十分でこの『ゲーム』の準備を終えたんだ。
十分の間に人目のない所に向かい、ブックカバーを掛け直し、
『ゲーム開始!』と記して、一階の教室に向かい、天井に何かの仕掛けをして部室まで戻る。
床ならともかく、天井への仕掛けは絶対に無理とは言わないが無茶だろう。
『社会科資料室』の鍵が開いている確証もないわけだしな。
しかも千反田はあの時、汗一つ掻いていなかった」


「誰か他に協力者が……、いや、それもなさそうだね」


「ああ、お前も知ってると思うが、千反田は携帯電話を持っていない。
とっさに思い付いたことを誰かに伝える手段がないんだ。
残るは千反田がこの『ゲーム』をずっと前から計画してたかどうかだが」


「そればかりは無駄な仮定の積み重ねにしかならないね」


俺は軽く笑ってさっきの言葉を里志に言い返してやった。


「オッカムの剃刀ってわけだ。
新しい仮定は一つの問題の答えを見届けてからでいい」


「そうだね、それが賢明だよ、ホータロー。
それに僕も千反田さんはこの『ゲーム』は急に思い付いたものだと考えているしね」


「なぜだ?」


「ブックカバーのシンナーの臭いだよ。
ずっと前から計画していたのなら、あの『ゲーム開始!』こそ早めに書いておけばいい。
それに千反田さんらしくないからね。
ホータローも気付いただろう?
『車輪の下』の本来のブックカバーにマジックペンが少し滲んでることに。
たぶん紙製のブックカバーを本に掛けたまま書いたんだろうね。
あんなの良家のお嬢様の千反田さんらしくないミスだよ。
人の本を汚してしまうなんて、普段の千反田さんなら絶対しない。
まず紙製のブックカバーを外して書いてから、本に掛け直せばいいだけのことなのに。
それくらい焦っていたんだね、きっと」


「そうかもしれないな。
それは同時に一階の教室の天井に細工などする余裕もなかったって事でもある。
つまり『ゲーム』の答えはここで間違いがない」


そうして俺たちは辿り着いた。
二階。
『社会科資料室』の真上に位置する教室。

『第二理科準備室』に。


今回はここまでです。
そろそろ序章も終わります。

『第二理科準備室』に鍵が掛けられているかどうか。
それが第一の関門だったが、その心配がないのは一目瞭然だった。
ドアが半開きになっている上に中から騒がしい声が聞こえていたからだ。


「失礼します」


無断で入るのも無作法だろう。
俺はひとまずの礼儀を示して『第二理科準備室』のドアを開いた。


「おっ、本当に来たよ」


「マジでっ?」


教室の中で騒いでいたのは六人。
その六人の瞳が一斉に俺たちの方に集まる。
『第二理科準備室』で活動しているのは生物部だと、ここに来るまでに里志が言っていた。
ならばおそらくこの騒がしい生徒たちは生物部なのだろう。
何人か見た覚えがある……気がする。
確か一年の頃に同じクラスに在籍していた顔もあるはずだ。
名前は憶えていないが。
それよりも「本当に来たよ」ということは、つまり俺の解答が正しかったということだ。
今はそれだけ分かれば十分だった。


「千反田えるからなにか預かっているか?」


事態を全て承知のようなので、細かい前置きを省いて率直に訊ねる。
率直過ぎたかもしれなかったが、眼鏡を掛けた短髪の女子が笑顔で応じてくれた。


「話は聞いてるよ、折木くん。
なんでも千反田さんと『ゲーム』をしてるんだって?」


『ゲーム』か。
その言葉に俺はまた違和感を覚える。
その女子の物言いにではなく、この『ゲーム』の存在自体に。
だがそれは今は考えても意味のないことだろう。
俺は湧き上がる違和感を押し留めて頷いた。


「ああ、そういうわけだ。
それを知ってるってことは、さっき千反田がこの教室に来たんだろう?
なにか預かっている物はないか?
もしくはこの教室でなにかをしていたとか」


「預かってるものは特にないよ」


彼女が笑顔で首を横に振った。
どうやら物ではなかったようだ。
ならば言伝という可能性も考えられる。
まさか新しい『ゲーム』を彼女に託しているということはないだろうな?
これからドミノ式に多くの『ゲーム』を仕掛けられても困るのだが。



「それなら他に千反田が何か」


「ねえ、ホータロー」


里志が横から俺たちの会話に入ってくる。
口八丁と言ってもいい里志だが、こんな時に茶々を入れるようなやつでもない。
俺は言葉を止めて里志に視線を向けてやる。


「どうした里志」


「どうしたも何もほら」


呆然と称するほどではないが、若干驚いた表情で里志が教室の中をその指で指し示す。
指先を辿ってみると指し示していたのはひとりの女子生徒だった。
短髪の眼鏡の女子より背はかなり高い。
前髪をカチューシャでまとめて額を出し、後ろ髪を丸ごとポニーテールにして纏めている。
髪型はともかくとしてどこかで見た覚えがある様な気がする女子だった。
いや、見た覚えどころかこいつは。


「千反田?」


思わず疑問符付きで呟いてしまう。
ドアを開いた時にとりあえず一通り見回していたはずなのだが、全く気がつかなかった。
髪型が違っているのもあるが、制服の着こなしまで普段と千反田とは似ても似つかない。
何しろセーラー服の下の肌着をスカートの中に入れていないのだ。
今更考えるまでもなく神山高校の制服は古めかしいセーラー服であり、その下には肌着を着るのが一般的だ。
そしてその肌着はスカートの中に入れる。
何人かそうではない女子を見かけた事はあるが、あんなものは例外中の例外だ。
活発な性格の伊原ですら肌着はスカートの中に入れている。
常識以前の問題だろう。
特に良家の子女であり、好奇心の強さ以外は楚々とした性格の千反田だというのに。

千反田は肌着をスカートの中にしまっていないのだ。
それどころかその臍まで見えんばかりにセーラー服をずり上げている。


「変装成功だね、千反田さん!」


眼鏡の女子が振り向き様に千反田に親指を立てる。
外見とは裏腹にノリのいい性格らしい。
しかしこれは変装とかそういう次元の話なのか?
確かに俺と里志はこの教室のドアを開いた当初に千反田の存在に気付かなかった。
眼鏡の女子はこれも『ゲーム』の一環として捉えてるらしいが、俺にはどうもそう思えない。
大体にして『ゲーム』の答えが『第二理科準備室』である以上、千反田が変装する理由などどこにもないはずだ。


「『ゲーム』クリアおめでとう!」


そう言いながら千反田が俺たちの方に歩み寄って来る。
どうしたことだろう。
俺にはその千反田の歩き方にすら違和感を覚えてしまう。
普段の千反田の歩き方が取り立てて清楚というわけではない。
今の千反田の歩き方が取り立てて下品というわけでもない。
だが今の千反田の歩みは俺が知っている千反田のそのどれとも異なっていた。
やはりそうなのか?
俺の違和感に間違いはなかったということになるのか?


「思ってたより来るのがずっと早くてびっくりしたよ。
うん、これなら大丈夫そうだな、折……ホータロー」


ホータロー。
まるで里志がそう呼ぶように、間の抜けた語尾の伸ばし方で千反田が俺を呼ぶ。
これまで千反田が俺をそう読んだことは一度もなかった。
しかし不思議なことに俺はその現実を簡単に受け容れ始めていた。
いや、むしろしっくりくる。
今の千反田ならそう呼んで然るべきという気すらする。



「里志もお疲れさん。
流石はホータローのデータベースだよな。
『車輪の下』の意味、教えてあげたんだろ?」


「あ、うん……」


今度こそ呆然と称するべきだろう。
里志が目に見えて呆気に取られた表情を浮かべていた。
珍しい表情だがそれに見入っているわけにもいかないだろう。
おそらくは俺も似た表情を浮かべているに違いない。


「驚くのも分かるんだけどさ」


俺の耳元に千反田の顔が近付く。
千反田は元来パーソナルスペースの狭いきらいがあるお嬢さんだ。
だがこれほどまでの距離まで接近された経験は数えるほどしかないはずだった。


「おまえたちに頼みたいことがあるんだよ」


今まで見たことのない表情で、千反田が俺にそう耳打ちした。




一章 きつねにはあぶらあげ


1.六月二十五日


「あれ、ふくちゃんはまだなんだ?」


田井中と気まずいわけではない沈黙を過ごしていると部室のドアが開いた。
横開きのドアを開いたのは最近髪留めを使うようになった伊原だった。
髪留めを使うようになったからと言って特別大人びた様子はなかったのだが、
精神は俺よりもかなり強靭だったらしいことを実感させられているのも確かだった。


「おいーっす、摩耶花」


田井中がシャーペンでリズムを刻むのを中断し、伊原に笑いかける。
まったく見事なものだ。
なんの屈託もなく見える笑顔。
俺が田井中の立場であれば、これほど気楽に立ち振る舞えはしないだろう。


「やっほー、たいちゃん」


伊原が俺には視線も向けずに田井中に笑いかける。
こちらも見事なものだった。
不可思議を遥かに超える現象を目の前にして、なお明るく振る舞えるのは女の特性なのだろうか。
しかしたいちゃんとはまた珍妙な呼び方を考えたものだ。
千反田はちーちゃんと呼び、大日向はひなちゃんと呼んでいた伊原。
伊原の中では、あだ名は苗字由来でなければならないという戒律でもあるのかもしれない。
鞄を置いて定位置の席に座ると、伊原はやっと俺の方に視線を向けた。


「あ、折木もいたのね」


いたら悪いのか。
二年に進級すればその舌鋒も治まるかと淡い期待をしていたのだが、やはり淡い期待は水泡に帰すものらしい。
今更伊原に丁寧な態度を取られても気持ちが悪いだけだが。


「そうそう、たいちゃん。
今日はこんなのを持ってきたんだけど」


俺の返事を聞くこともなく伊原の視線は田井中に戻る。
いつものことなので俺も構わずに田井中に視線を向けた。
伊原が自分の鞄の中を漁り始める。
無理矢理入れていたらしく苦戦していたが、数秒後に取り出したのは長い二本の棒だった。
いや、二本の棒などと婉曲した表現をする必要もない。
伊原が取り出したのはドラムスティックだ。
よくぞあの鞄の中にしまいこめたものだと思う。
真新しい輝きから察するにどうやら新品らしいが。


「おっ、いいスティックじゃんか、摩耶花!
これどうしたんだ?」


田井中が興奮気味の声を上げる。
俺にはドラムスティックのよしあしは分からないが、
軽音部でドラマーをやっていたらしい田井中が言うのならいいスティックなのだろう。


「たいちゃんへのプレゼント。
ドラムを叩けなくてストレスが溜まってるんじゃないかと思って。
実はね、軽音部の友達に頼んだらドラムを貸してもらえる事になったのよ。
どう、たいちゃん?
今からでも連絡すれば貸してもらえると思うけど、叩いてみる?」


「マジかよ!」



田井中から満面の笑みがこぼれる。
やはりドラムを叩きたい気持ちは募っていたのだろう。
それくらいなら俺にも分かってはいた。
でなければ田井中もわざわざシャーペンでリズムを刻んだりはしない。
田井中の笑顔に満足したのか、伊原も滅多に見せない清々しい笑顔を浮かべた。


「マジよ、たいちゃん。
どうする? 今から叩いちゃう?」


「じゃあ頼んじゃっていいか?
いやー、最近全然叩けてなくてウズウズしてたんだよなー。
悪いな、ありがとう摩耶花」


「いいのいいの、それくらいお安い御用よ」


どうやら今から軽音部を訪ねる方向で話が決まりそうだ。
音楽室は少し遠いが田井中のドラムを聴きたい気持ちもある。
俺が椅子から腰を上げると、伊原が肩を竦めながら言った。


「あら、あんたも来るの?」


「行ったら悪いのか?」


「別にいいわよ。
静かにしてられるんならね」


別に俺は騒がしい男じゃないだろう。
しかしてっきり「来るな」と言われるかと思っていたのだが、意外に嫌がらなかったな。
心当たりがないわけじゃないが、今はそれについて伊原に訊くのはやめておこう。
軽音部の部室で一度くらいは話す機会もあるはずだ。

それにしても伊原も田井中と親しくなったものだ。
当然ではあるが、初顔合わせの時は険悪なんて雰囲気ではなかった。
自分にも他人にも厳しい伊原だ。
納得のいかない現象には真っ向勝負のスタンスをあの時も崩さなかった。
その伊原が田井中とこんなに親しくなった原因はおそらくはあれだろう。


「おーい、早く行こうぜ、ホータロー!
置いてくぞー!」


いつの間にか荷物をまとめた田井中がドアの先で俺を呼んだ。
よっぽどドラムが叩きたかったらしい。
俺は文庫本を鞄の中に片付けると、肩を竦めてから田井中と伊原の後を追った。
里志を置いてきぼりにすることになるが、まあ、あいつのことだ。
独自の情報網で軽音部にまで辿り着くことだろう。


今回はここまでです。
少しずつ話も進んでき始めました。



2.六月十三日


「なにをしたの、折木」


第二理科準備室で話を続けるわけにもいかない。
千反田の知人という眼鏡の女子に別れを告げ、
古典部の部室に戻った途端に伊原に浴びせられた第一声がそれだった。
里志もいるというのにこいつにとって、なにか問題を起こすのはいつも俺で確定らしい。


「なにかしてるのは俺じゃない」


そもそも用事があるんじゃなかったのか。
それを俺に訊かれるのを承知だったように、伊原はわざとらしく携帯電話を取り出した。
液晶画面にはメールの一文が表示されている。
メールの内容を確認するまでもない。
俺がじろりと視線を向けてやると、苦笑交じりに里志が頷いた。


「後を引く問題になるかもしれないからね、
これは摩耶花にも立ち会ってもらった方がいいと思ってメールしておいたんだよ」


なるほど、里志も里志で古典部の未来を考えてはいるのだ。
俺に千反田の対応を任せてなにをしているのかと思っていたが、そういうことだったらしい。
できることならこの伊原の反応も先読みして、俺の弁護をメールの中で一言はしてほしかったものだが。
いや、里志のことだ。
分かっていて伊原に最低限のことしかメールしていない可能性もあるか。
それは俺への嫌がらせというわけではおそらくない。
伊原に余計な先入観を持たせずに今の千反田を見せたかったのだろう。


「大丈夫、ちーちゃん?
また折木が変なことを言い出したんでしょ?
きっと『千反田の髪型を見てると暑苦しいからポニーテールにしろ』とかなんとか。
無理してそんな恰好をしてなくてもいいんだからね?
折木にはわたしの方からきつく言っとくし」


俺のことをどれだけ傍若無人な人間だと考えているのか。
ただ伊原も今の千反田の様子がおかしいということは分かっているらしい。
携帯電話を鞄の中に片付けた伊原は甲斐甲斐しく千反田の心配をしていた。
伊原と千反田がどの程度親しいのか俺は知らない。
だが伊原の前で千反田が今の様なカチューシャの使い方をしたことはなかったはずだった。
オールバック風に前髪を流してカチューシャでまとめる。
それがカチューシャの本来の使い方のはずだが、
そういう使い方をしている女子を俺はあまり見たことがない。
例えばかの入須先輩もカチューシャを着用しているが、今の千反田の様には着用していなかった。



「大丈夫だって、摩耶花。
この髪形もこの着崩しも私が好きでやってるんだ。
蒸し暑いのにこんな髪型じゃ蒸してしょうがないじゃん?
だからさ、あんまりホータローを責めてやるなって」


「えっ……。
うっ、うん……」


伊原が目を丸くして言葉を失う。
無理もない。
伊原よりずっと前から千反田の異変と向き合っていた俺たちでさえまだ戸惑っているのだ。
特に我が古典部の中で千反田と最も親しいのは同じ女子部員の伊原だろう。
突然の親友の異変に言葉を失うのは当たり前のことだった。

だがさすがは伊原と評するべきなのか。
すぐに丸くしていた目の端を鋭く釣り上げると、俺と里志の腕を掴んで部室の奥まで引きずった。
納得がいかない事にはとことんまで追いすがる。
まったく伊原らしい行動だった。
伊原は俺の耳元で怒気を孕んだ声を唸らせる。


「ちょっと折木……!
ちーちゃんになにをさせてるのよ……!」


まったく本当に伊原らしい。
だから俺がなにかをしたわけではないと言っているのだが。
しかし俺の口から伊原になにを言っても無駄だろう。
それが分かるくらいには俺と伊原は長い付き合いなのだ。
俺は里志にとりあえずの状況を説明させるために、軽くその肩を叩いた。
里志もそのつもりだったらしく、嫌な顔一つ見せずに伊原に説明を始めた。


「ホータローのせいじゃないよ、摩耶花。
この件に関してはホータローともちろん僕も関与していないんだ。
『ゲーム』にしたってそうさ。
なんの伏線もなく、急に千反田さんが僕たちに切り出してきたんだよ」


「そうは言ってもふくちゃん……。
ちーちゃんが自分から『ゲーム』を仕掛けるなんて……」


『ゲーム』のことは里志がメールで伝えていたらしい。
そして伊原が引っ掛かっているのもやはりその一点だったようだ。
千反田が自分から『ゲーム』の開始を切り出す。
これまでの古典部の活動を見る限り、そんな前例はなかったはずだった。
もちろん千反田の方から俺に様々な難題を吹っかけるのは日常茶飯事だが、
あれは『ゲーム』ではなく、千反田の純粋な好奇心からの『疑問』であり『お願い』だった。
つまりありえないのだ、千反田が自分から『ゲーム』を仕掛けるなんてことは。
今の恰好をするのと同じくらいに。

しかしありえないと目を逸らしているわけにもいかない。
現実にありえなかったはずのことが既に起こってしまっているのだから。
これが意味することはつまり。


「ちょっといいかー?」


いつの間にか俺たちの後ろに回っていた千反田が囁いていた。
振り返って見てみた千反田の表情は笑顔だった。
しかし普段の柔和な笑顔とは異なり、俺が初めて見る悪戯っぽい笑顔だった。
俺はこの違和感の正体を分かりかけてきている。
おそらくは里志も伊原も分かりかけてきている。
それをすぐには受け容れられないだけだった。

もしかしたら千反田はその俺たちの考えを予測していたのかもしれない。
いや、むしろこの違和感を与えるために、
千反田は俺たちに『ゲーム』を仕掛けてきたのではないか?
今の自分が俺たちのよく知る千反田とは違うことを俺たちに強く実感させるために。
その思考を俺の表情から読み取ったのだろうか。
千反田はまた悪戯っぽく笑うと俺たちの席を指し示した。


「部屋の端で集まっててもしょうがないしさ、とりあえず座らないか?
この部屋、下手にクーラー使うと怒られるんだろ?
一ヶ所に固まってると暑苦しくてしょうがないじゃん?」


それは千反田の言う通りだった。
俺も里志も伊原もかなり汗を掻いてしまっている。
その汗の原因が暑苦しさだけにあるのかどうか定かではないが。
それぞれの定位置に座り、俺たちは一斉に千反田に不審の視線を投げかけた。


「そんな怖い目で見んなよー」


千反田が苦笑を浮かべる。
承知の上の行動だったのだろうが、さすがに一度に不審の視線を向けられては戸惑うらしい。
その事実に俺は少しだけ安心する気分だった。
これで少なくとも今の千反田にも人並みの感情があることになる。


「あっ、そうだ、ホータロー」


なにかを思い出したのか、それともこれも予定調和の内なのか。
とにかく千反田がわざとらしく指を立てて切り出した。
今は千反田、いや、こいつの方針に従っておく方が得策だろう。
俺はこいつの身振りから不審な点を見逃さないよう、油断せずに頷いてみせる。


「どうした?」


「さっきも言ったけど、ゲームクリアおめでとうな。
もうちょっと時間が掛かると思ってたんだけど、予想以上に早かったよなー。
これなら私のお願いも聞いてもらえそうで助かるよ」


「お願い?」


伊原が横から首を傾げる。
第二理科準備室でのこいつの言葉を聞いていないのだから、当然と言えば当然だった。
「おまえたちに頼みたいことがあるんだよ」とあの時のこいつはそう俺たちに耳打ちしていた。
この『ゲーム』の開催理由はつまりはそういうことだったのだ。


「試験は合格ってわけか?」


「合格も合格だよ、ホータロー。
まさかこんなに鋭い奴だとは思ってなかったよ。
仕方ないことだったんだけど試しちゃってごめんな、ホータロー。
それに里志も」


「試験ってどういうことなのよ、折木?」


また伊原が俺に突っ掛かってくる。
だが今はそれが助かった。
誰かに今の事態を説明することは、想像以上に自分の中の考えをまとめさせてくれるものだからだ。
俺だってまだ完全に事態を把握し切れてるわけじゃない。
小さく深呼吸してから、俺は伊原に説明を始める。



「言葉通りの意味だ、伊原。
こいつが俺たちに仕掛けた『ゲーム』は試験だったんだよ。
俺たちがこいつのお眼鏡に適うかどうかの試験のな。
さっきこいつ自身が言ってただろう?
『私のお願いを聞いてもらえそう』だって。
つまりこいつはその『お願い』を切り出していいものか、俺たちを計りかねていたんだよ。
そのために俺たちに『ゲーム』を仕掛けたんだ」


「言おうとしてることは分かるけど……」


伊原が言いよどむ。
だが俺には伊原がなにを言おうとしているのかは分かっていた。
視線を向けてみると里志も真剣な表情で頷いていた。
里志にも伊原の言いたいことは分かっているのだろう。
そう、伊原はこう言いたいのだ、千反田が俺たちを試す『必要性』があるのかと。
そしてそれは皆無なのだ。

伊原は俺をそうよく思っていないようだが、
それでも千反田が俺の推理力を信頼していることは信じている節があった。
俺ではなく俺を信じる千反田を信じているように見えた。
だからこそ伊原は疑問に思ってしまうのだろう。
千反田が俺の推理力を試したという現実を。
千反田は俺の推理力を試したりはしないのだから。
しかしその千反田が俺を試したということは、つまり信じがたいがそういうことになる。
これがたちの悪い冗談でなければ、だが。


「訊いておきたいことがある」


俺は視線を伊原からそいつに向け直し、わざと低い声で威圧的に言ってみせる。
半分笑っている様な表情をしていたそいつは、真剣な表情になって俺に訊ね返した。


「何だ、ホータロー?」


「これはたちの悪い冗談ではないんだな?」


「冗談の方がいいのか?」


どうだろう。
それは俺自身にもよく分からなかった。
たちの悪い冗談であってくれた方が今後の展開は楽そうだ。
妙な冗談に目覚めた今の千反田の様子を、たまに思い出したようにからかってやる。
そういう薔薇色なのか灰色なのかよく分からない未来が待っていることだろう。
だが話はもうそう単純ではないし、
俺の知っている千反田はこんなたちの悪い冗談を弄するタイプでもなかった。
だから俺は溜息をつきたくなってしまっているのだ。


「冗談じゃないんだよな、残念だけどさ」


そいつは寂しそうに微笑みながら続ける。
そう言うのならおそらくはそうなのだろう。
ならば俺も今の事態に真剣に向き合うしかない。
俺は溜息をつくのを断念し、そいつの続きの言葉を首肯で促した。
そいつはまた真剣な表情になって続ける。



「私のホータローたちへのお願いはさ、
私の今の状態をどうにかしてほしいってことなんだ」


「今の状態……?」


そう呟いたのは里志だった。
里志も薄々感付いてはいるのだろうが、これまで前例のない事態に戸惑っているようだ。
俺だってそうだ。
頭の中で答えを出しているというのに、その答えを自分自身で信じられていない。
まったく滑稽なものだった。


「ホータロー達がそれをお願いできる相手なのか、
信用してもいい相手なのか私には分からなかったんだよな。
でも私の中のこの子が言ってたんだよ、ホータロー達は信用できる相手だって。
そういう思い出が私の中にあったんだ。
だから試させてもらったんだよ、本当に信用できる相手なのか。
何となく思いついたこの『ゲーム』を解決してもらうことでさ」


「咄嗟に思いついたわりには手の込んだ『ゲーム』じゃないか」


「ははっ、そりゃそうだ。
だってあれ、正確には私が考えた『ゲーム』じゃないもんな。
この『ゲーム』はさ、この子……、えるって子が読書してて何となく思いついた『ゲーム』なんだ。

『車輪の下』の車輪は『社会』の暗喩なんですね。
それなら、この本を使えばちょっとした『ゲーム』ができるかもしれません。
この本が示す場所はどこでしょう? そんな感じの『ゲーム』を。
うふふ、折木さんならわたしの思いついた『ゲーム』なんて、すぐに解決してしまうんでしようけど。

って、そんな感じにさ。
私はそのえるって子が思いついたゲームをちょっとアレンジしただけなんだ。
まあ、えるって子はその問題を思いついただけで、
それをホータローに出題するつもりは全然なかったみたいなんだけどさ」


「ちょ……、ちょっと待ってよ!
えるって子ってどういうことっ?」


伊原が椅子から立ち上がって叫ぶ。
だが伊原も分かっていて叫ばずにはいられなかっただけだろう。
その表情には戸惑いだけでなく納得の色も強く見えた。

そうだ。
『えるって子』。
そいつのこの言葉こそ、今までの全ての違和感の正体を物語っている。
そうしてそいつは一度深呼吸してから俺たちを見回し、全ての違和感の答えを口にした。


「言葉通りの意味だぞ、摩耶花。
私の名前は田井中律。
お前たちがよく知ってる千反田えるって子じゃないんだ。
いや、身体はえるって子の物なんだけどな。
ついさっき、気付いたらいつの間にかこのえるって子の身体になってたんだ。
いや、このえるって子の中に私の心が入り込んだってことになるのか?

まあ、今はどっちでもいいか。
とにかくさ、私はお前たちが知ってるえるって子じゃないんだ。
それでお願いしたいんだよ。
どうしてこんなことになっちゃったのか。
どうして私がこのえるって子の中にいるのか。
その原因を突き止めてほしいんだ。
……頼めるか?」


今回はここまでです。
次回からあの先輩が出る予定です。
またよろしくお願いします。



3.六月十四日


「粗茶ですがどうぞ」


水筒から湯のみに注いだお茶を里志が客人の前に振る舞った。
是非はともかくとして、こういう細かい気配りを忘れないのが里志らしい。
粗茶という言葉は久しぶりに聞いた気がする。


「ああ、ありがとう」


おそらくは社交辞令なのだろう。
今日の古典部の客人の唇が軽く微笑みのように歪んだ。
しかしその眼光の鋭さは決して衰えておらず、若干不機嫌な様子に見えた。
いや、この人の表情は大体において不機嫌そうか。
女帝と呼ばれ続けるのも大変だということなのだろう。

前髪を横に流してから、女帝こと入須が湯のみに口を付ける。
振る舞われた物はきちんと頂く。
当たり前のことなのだが、この人がやると逆に不自然に思えるのが自分でも滑稽だった。
前にこの入須に渋いお茶の店に連れられたことがあるからかもしれない。
あの店のお茶の値段に受けた衝撃はまだ忘れていない。
普段あの下手なディナーよりいい値段のお茶を飲んでいる入須に、
里志が水筒から注いで粗茶として振る舞ったお茶がどれだけ通用するのか甚だ不安でもある。
だがその粗茶に喉を潤した入須の反応は意外なものだった。


「おや」


「入須さんの口には合いませんでしたか?」


「いや、いい茶だと思うよ、福部君。
水筒から注がれた茶がこれほどの味だとは思っていなかった。
君はいい茶葉を持っているようだな」


「お褒めに預かり光栄です、入須さん。
実を言うと自宅からいい茶葉を見繕って拝借した物なんですよ」


嬉しそうに里志が頭を掻く。
その口振りから察するに入須がいい茶の店を贔屓にしていることは承知の上だったらしい。
そういえば昨日入須に連絡を取ろうと俺が発案した際、
巾着袋からメモ帳を取り出して入須の電話番号を俺に伝えたのも里志だった。
俺と伊原は入須の連絡先を知らなかった。
数度関わっただけの赤の他人に近い単なる後輩なのだから、その方が当たり前だろう。
しかし里志は普段から持ち運んでいる巾着袋の中に、赤の他人に近い先輩の電話番号を忍ばせていたのだ。
しかも俺が「連絡先の交換をいつの間にしていたんだ」と訊ねると、こともなげに里志は「してないけどね」と答えた。
つまり里志が一方的に入須の電話番号を知っていたというわけだ。
さすがはデータベースを自称するだけあるが、ちょっと怖いぞ、里志。



「ところで折木君、もう一度詳しく説明してくれないか?」


里志の振る舞ったお茶を飲み終わった頃、入須が人を射抜くようなその視線を俺に向けた。
不機嫌ではないのだろうが、俺のことを不審に思っているのは間違いない。
それはそうだろう。
電話番号を教えたつもりもない後輩から急に連絡を受けて、
更にその後輩がわけの分からないことを言い出せば、入須でなくても不審に思うに決まっている。
もちろんその可能性を考慮してなかったわけじゃない。
入須が俺の話を不審に思うのは百も承知だった。

それでも俺は入須に連絡を入れておくべきだと思ったのだ。
おそらくは俺の知っている中で、今の状況に冷静な考察ができる人間は入須だけだ。
いや、姉貴ならば更に冷静な考察ができるかもしれないが、あの人にはあまり関わってほしくなかった。
更に面倒な事態になりそうな気もするし、この問題はできる限り身内だけで解決すべきだと思うからだ。
入須が俺の身内というわけではない。
入須が千反田の身内という意味でだ。


「もう少し待ってください、入須先輩。
千反田の今の姿を見てもらった方が早いと思います。
その方が俺が万の言葉で説明するよりも効果的でしょう」


「そうなのか?
折木君がそう言うのならばそうなのだろうな。
分かった、もう少し待とう」


「お忙しい中にすみません、入須先輩」


「いいさ。
千反田の様子がおかしいというのなら、私としても傍観しているわけにはいかないからな」


千反田と家ぐるみで付き合いがあるという入須。
俺が彼女を呼んだのはなにもその冷静な判断だけを期待してのことじゃない。
もしも今の状態が続くようなら、家ぐるみで親しい入須に千反田のフォローをしてもらうしかないと思ったからだ。
俺も何度か千反田宅を訪れたことこそあるが、単なる同じ部の部員でしかなく、
しかも異性の俺にどれだけ千反田のフォローができるか分かったものじゃない。

いや、今は千反田ではなく、田井中と呼ぶべきなのだろうか。
昨日そいつは自分のことを千反田えるではなく田井中律なのだと言った。
そいつが教えてくれたのは、その『田井中律』という名前と漢字だけだった。
訊きたいことはいくらでもあったのだが、
「今日ももう遅いから続きは明日な」という理由で唐突に田井中が切り上げたのだ。
もちろん不安や不審は溢れ出さんばかりにあった。
しかし田井中がそう言う以上、俺たちとしても引き止めるわけにはいかなかった。

そうして「道は分かってるから大丈夫!」と微笑み、
田井中は千反田の自転車に乗って立ち漕ぎで颯爽に去っていった。
立ち漕ぎで、だ。
自転車に乗っている千反田を見かけるのは日常茶飯事だが、
立ち漕ぎで自転車に乗っている千反田の姿を見るのは初めてだった。
しかも下手をするとそのスカートの中身まで見えてしまいそうな立ち漕ぎだった。
いや、俺は千反田のスカートの中身を目にしたわけじゃない。
誰に弁護しているわけでもないが。

あの千反田の姿を見ると千反田家一同がいたく驚くのではないかと思ったが、その考えはすぐに振り払った。
飄々として見えるが、あの田井中と名乗るあいつがそこまで短慮ではないと思えたからだ。
田井中は俺たちを信用するために『ゲーム』を仕掛けたと言った。
俺たちが信頼に値するかどうかを見極めるために。
ならばあえて千反田家を騒がせるようなことはしないのではないのだろうか。
もちろんあいつの言葉通り、あいつが千反田の気まぐれの演技ではなく田井中であると仮定するのならだが。

ひとまずあいつがなんであれ、短慮でないことだけは確かだった。
あいつは俺たちの前で、普段の千反田と全く違う振る舞いをしてみせた。
その気になれば千反田の言葉遣いを真似できるくせに、
わざと男言葉に近いさっぱりとした言葉遣いをしてみせていた。
おそらくは自分が普段の千反田ではないことを俺たちに印象付けるために。



「お待たせしました」


入須がお茶の二杯目を飲み終わるくらいの時間が経った頃、
古典部のドアが開けられて、珍しく大人しい様子の声が響いた。
ドアを開いたのは伊原だった。
妙に大人しい声色だったのは、中に入須がいることが分かっていたからだろう。


「遅かったね、摩耶花。
どうしたんだい?」


「ごめんね、ふくちゃん。
準備は結構前にできてたんだけどちーちゃんが……」


里志の疑問の言葉に伊原が口ごもる。
それからすぐ、その伊原の様子を吹き飛ばす明るい声が部室に響いた。


「いやー、ごめんなー。
この学校のことが気になって、ちょっとだけ摩耶花に案内してもらってたんだよ。
つっても知ってる所ばっかだったんだけどな」


同じ声色だというのに語調も口調も全く違うその声。
その事実は昨日から千反田の状態が何も変わっていないことを示していた。
脱力する思いで視線を向けてみると、髪型だけは普段通りの千反田がそこで笑っていた。
ポニーテールにしていなければ、カチューシャで額を出してもいない。
あの眼鏡の某という女子に借りたというカチューシャは返却したのだろうか。


「おーっす、冬実。
今日は冬実も部室に来てくれてるんだな」


「冬実……?」


右手を挙げて千反田、いや、田井中が入須に微笑み掛ける。
さすがの入須も田井中のその様子には面食らったようだった。
これまで見たこともない怪訝な表情で首を傾げている。
俺から話として聞いていたとは言え、ここまで千反田が変貌してるとは思っていなかったのだろう。


「これはどういうことだ、千反田?
ふざけているわけではないんだろうな?」


入須が立ち上がって田井中に詰め寄っていく。
まさか入須がここまで積極的に田井中の様子を不審に思うとは俺も予想していなかった。
いや、入須だからこそかもしれない。
入須は俺たちとは比較にならないほどの昔から千反田のことを知っている。
俺たちの知らない千反田の姿もたくさん知っているのだろう。
だからこそ俄かには信じがたいのだ、田井中という存在を。
これでも二人は幼馴染みなのだから。


「ごめんな、冬実。
これでもさ、私はふざけてるつもりじゃないんだよ。
そりゃまだ私自身だって半信半疑だし、こんな状況に戸惑ってるんだけどさ。
でも冬実もホータローから聞いてるんだろ?
私がえるって子じゃないんだって」


「だがそれは……」


「そうだ冬実、一つだけ話をしていいか?
これを話すときっと冬実も信じてくれると思うんだけど」


「何だ?」



「こっちこっち」


入須の手を引いて、田井中が部室の奥に軽やかに走り出した。
なにを始めるつもりなのだろう。
俺がそう思った瞬間には田井中が入須の耳元で何かを囁き始めた。
見る見るうちに入須の表情が変わっていく。


「千反田、その話は……」


「べつに皆に話すつもりはないよ、冬実。
でもさ、どうしても信じてもらえないんだったら、悪いけど皆に話させてもらう。
心苦しいけど背に腹は代えられないしな。
えるって子は冗談でもそういうことをする子じゃないだろ?
つまり私はえるって子じゃないってことになるわけだよ。
これで証明にはなってると思うんだけど、どうだ?」


それから入須は熟考を始めた。
ありうるはずがない現実。
しかしありえている現実。
その矛盾からひとつの答えを導き出そうとしているのだと思う。
長い長い熟考の後、入須は半ば諦念混じりに頷いた。


「ひとまずお前がいつもの千反田ではないことの証明はできている」


「うん、オッケーだよ、冬実。
今はそれでいいと思うぞ?
脅すみたいなことをしてごめんな」


「いや、構わない。
私も同じ立場なら同じことをしていたかもしれないからな」


そうして入須と田井中は二人で軽く微笑み合った。
とにもかくにもこれで田井中のことについて話し合えるようになったわけだ。

それにしても田井中が入須に耳打ちしていたことはなんだったのだろう。
『お気に入りのうさちゃん』とだけはかすかに聞こえた。
入須が家でウサギでも飼っているということなのだろうか。
いや、それなら普通は『うさちゃん』ではなく『ウサギ』と言うだろう。
『うさちゃん』と呼ぶ場合、大抵その呼称が示すのは『ウサギのぬいぐるみ』の方が一般的だ。
となると、入須が家でウサギのぬいぐるみを可愛がっているということか?
女帝の印象に合わないが、だからこそ入須と千反田だけの秘密になりうる気もする。
いや、深く詮索するのはやめよう。


今回はここまでです。
すみません、ハバーンの存在は忘れてました。



「んじゃ、始めようぜー」


田井中がどこにしまっていたのかヘアゴムで襟足を両側に結びながら席に座る。
ポニーテールにしていないとは思っていたのだが、
やはり長髪をそのまま垂らしているのは蒸し暑いらしい。
両側で結んでいるとは言え、その髪型はツインテールではなかった。
俺は女の髪型に詳しいわけではないから何とも言えないのだが、おさげと呼んで相違ないだろう。
ポニーテールならばともかくとして、そんな髪型をしている彼女を見るのは初めてだった。
おそらくは入須もそうだったのだろう。
奇異に満ちた視線を田井中に向けてはいたが、何も言わずに里志が用意していた椅子に腰を落ち着けた。
場所としては田井中の隣だ。
千反田を最も過去から知っている入須には、田井中の一番近くで彼女を観察してもらいたかった。


「それじゃあ僕から質問させてもらってもいいかい?」


飄々とした声を最初に上げたのは里志だった。
その表情からはこの状況をどう捉えているのかは掴みがたい。
メモ帳とペンを取り出しているわけだから、少なくとも情報をまとめようとしているのは確かだろうが。
しかしその里志のメモ帳を横取りする奴がいた。


「メモはわたしが取るわ、ふくちゃん」


伊原だった。
その声色からしていかにも不機嫌そうだ。
いや、声色だけではなく、漂わせる雰囲気も表情も全て不機嫌そうではあったのだが。
まず間違いなく部室で俺と二人きりになった時の五倍は不機嫌に見える。
だがその不機嫌の塊のような伊原に動じることもなく、里志は笑顔で頷いた。


「分かったよ、摩耶花。
メモは摩耶花にお願いするから、どんな些細なことでもメモに残しておいてくれるかい?」


「うん、任しといて」


伊原はそうしてほんの少しだけ笑顔を見せたが、すぐにその口を真一文字に結んだ。
俺にはそれが少しだけ意外に思えた。
伊原ならば田井中を質問責めにするものだとばかり思っていたからだ。
なにしろ親友の千反田の異変なのだ。
俺よりは遥かに友情に厚い伊原ならば、もっと熱心にこの問題に相対しそうなものだ。

いや、だからこそか、と俺は思い直す。
熱心にこの問題に相対するために、伊原は口を真一文字に結んでいるのだ。
まずは伊原自身の中にある疑問と相対するために。
まだなんとも理解しがたいこの状況に関する情報をまとめるために。
伊原はそれくらいこの問題と真摯に向き合おうとしているのだろう。
里志もその伊原の気持ちを察したようで、軽く笑顔を浮かべながら続けた。



「それじゃあ改めるけど、僕から質問させてもらっても?」


伊原、俺、入須が順々に首肯する。
その様子を見届けた後、田井中がおさげを横に流しながら頷いた。


「よっしゃ、じゃあ里志から質問してくれていいぞ。
答えられることならなんでも答えてやるぞー」


「それでは遠慮なく。
確か君は田井中さんって言ってたよね?
改めて詳しい自己紹介をしてもらってもいいかい?」


「おっ、そうだったな。
私の名前は田井中律。
昨日も言ったんだけどさ、気が付いたらこのえるって子の中にいたんだよ」


「田井中律、か」


怪訝そうに入須が呟いた。
その名前は前もって入須に伝えてはいたのだが、ひょっとすると心当たりがある名前なのだろうか。
俺がそれを口にするより先に、耳聡く里志が入須に訊ねていた。


「入須先輩、ひょっとしてその名前に心当たりでも?」


「いや、ないな。
すまない、珍しい苗字だと思っただけなんだ」


「いえいえ、入須先輩が謝る必要なんてないですよ。
でも確かにそうですね、田井中とは珍しい苗字ですもんね」


田井中。
少なくとも俺の知人にその苗字を持つ人間はいなかった。
かなり珍しい苗字だと言えるだろう。
とは言え、苗字の珍しさ程度で事態が変わるわけでもないのだが。
それより残念なのは、入須に田井中律という名前に心当たりがなかったことだった。
俺たちよりも千反田と遥かに長い付き合いの入須ならば、
田井中の存在の片鱗でも知っているかと期待していたのだが、どうやら当てが外れてしまったようだ。
物事はそう単純でもないということらしい。


「確かに田井中ってちょっと珍しい苗字かもなー」


頭を掻きながら田井中が軽く微笑む。
田井中自身も自らの苗字が珍しいことは自覚していたらしい。
しかし微笑んでいるのはそれだけが原因ではないようだった。
里志の顔を観察するみたいにして眺め、「でもさ、里志」と楽しそうに続けた。



「実は私、弟がいるんだよ」


「田井中さん、弟がいるんだ?」


「うん、それでさ、どんな縁の巡り会わせなのかな。
実は弟の名前も『さとし』って言うんだよな。
漢字は違うんだけどさ」


「へえ、それは確かに不思議な巡り合わせだね」


里志も微笑むと田井中は宙に漢字を書き始めた。
俺の位置から見ると鏡文字だから分かりづらかったが、耳と公という文字だけは判別できた。
おそらくは聡と書くのだろう。
別に田井中の弟の名前が『さとし』だとして、なにが変わるわけでもない。
だが一つ情報が増えたことだけは確かだった。
田井中律。弟を持つ姉。
いや、ちょっと待てよ?


「ちょっと質問させてもらってもいいか?」


不躾かと思ったが、里志と田井中の会話の中に入らせてもらう。
わざわざ挙手してみせたのは、これからする質問が失礼なのを承知だったからだ。
他人の様子を気にしていないと思われがちな俺だが、失礼だと分かっている質問はさすがにしづらい。


「お、何だよ、ホータロー?」


「田井中律って言うんだよな、お前の名前は」


「そうだけどどうした?」


「お前は女なのか、それとも男なのか?」


「あっ……!」


小さく声を上げたのは伊原だった。
里志と入須も俺の言葉が盲点だったらしく、頻りに頷き始めた。
そうなのだ。
一人称こそ『私』ではあるが、『律』と言う名前はどちらかと言えば男名前だ。
言葉遣いもほとんど男言葉なのだし、この『田井中』が男であっても全くおかしくない。
長髪を嫌うのも、臍まで出しそうな服装に抵抗がないのも、それが原因だと考えられないだろうか。

数秒の沈黙。
なんとも形容しがたい表情の田井中がまた頭を掻いて続けた。
その表情は少し悲しそうにも見えた。


「あー……、確かにそこから説明しないといけなかったよなー……。
私って男名前だし、言葉遣いも男っぽいって言われるしさー……。
でも違うぞ、これでも私は女なんだよな。
こう見えてもれっきとした女子高生なんだよ。
いや、それを証明しろって言われたら、確かに証明しようがないんだけどさ……」


これは失礼なことを聞いてしまったようだ。
失礼を承知で聞いたことなのだが、申し訳なさを感じるのも確かだった。
田井中の言う通りその証明はしようがない。
しかし田井中が俺たちに嘘をつく必要がないことくらいは分かる。
田井中律は弟を持つ姉。それも女子高生。
それが分かっただけでも収穫と考えよう。
そう考えなければ、俺の質問はただお互いにとって恥ずかしいだけのものになってしまう。
だがとりあえずこれだけは伝えておかなければなるまい。
俺は頭を下げて「悪かったな、田井中」と謝った。



「いいってホータロー。
なにも知らないホータローがそう思うのも無理ないもんな。
それに逆に安心したよ。
それくらい疑り深く私のことを考えてくれた方が、私としても助かる。
なにしろ私自身が私のことをよく分かってないんだもんなー」


それは俺に対する慰めの意味もあったのだろう。
だが半分は本音でもあったのだと思う。
田井中自身が田井中のことをよく分かっていない。
無理もない。
この状況、一番戸惑っているのは他ならぬ田井中だろう。
田井中の言葉を全て信じるのならば、だが。

いや、もう俺は田井中の言葉を信じることに決めていた。
入須も言っていたじゃないか。
『いつもの千反田ではないことの証明はできている』と。
そうだ、田井中が何者であるにしろ、彼女は『いつもの千反田ではない』のだ。
ならばそれを前提として田井中と言う存在を認めるべきなのだろう。
それが千反田の理由があっての演技にしろ、それ以外の超常的な理由から発生した存在にしろ。
田井中律は確かにここにいるのだから。


「そういえばちょっと思ったんだけどさ、田井中さん」


不意に首を傾げながら里志が呟いた。
もう気を取り直したのか、田井中はすぐに笑顔でそれに応じる。


「ん、どうしたんだよ、里志?」


「田井中さんは僕と同じ名前の弟を持った女子高生なんだよね?」


「そうだけど?」


「今、千反田さんがどこにいるのか、田井中さんは分かるのかい?」


「えるって子の心が、ってことか?」


「そうだね、千反田さんの心さ。
今、千反田さんの身体の中に田井中さんの心がある。
だったらありきたりな答えではあるけど、
田井中さんの身体の中に千反田さんの心があるって仮定はできないかい?」


「実はさ、私もそう考えてはいたんだよ、里志。
よくあるじゃん、心と心が入れ替わっちゃう漫画とかドラマ。
ほら、何だっけ?
俺がおまえでなんちゃらとかって感じのやつだよ。
そう考えると、私の身体の中にえるって子の心があるのかもしれないけど……。
でもごめんな。
今、私の身体がどうなってるのか私にも分からないし、
増してその私の身体の中にえるって子の心があるのかどうかも分からないんだよな」


心と心の入れ替わり。
現状についてまず誰もが辿り着く答えがそれだろうとは思う。
あの映画の話ではないが、精神の入れ替わりが起これば当面の事態の説明はできる。
だがそれには入須が毅然とした態度で異を唱えた。


「却下だよ、福部君。
単なる精神の入れ替わりというのはまずありえない」


俺も入須のその言葉には同感だった。
里志も自分の答えの誤りには気付いていたようで、気を悪くした風でもなく頷いていた。


「はい、僕もそう思います、入須先輩」


お久しぶりです。
今回はここまでです。



「えっ、どうしてよ、ふくちゃん?」


伊原が意外そうな声を上げる。
千反田の身体の中に田井中が存在するという現象の真偽はともかく、
仮に現実にその現象が起こるとしたならば精神の入れ替わりだと何となく想像していたのだろう。
しかしそう単純な問題でもない。
里志は伊原の反応を予想していたらしい。
静かな微笑みを浮かべて説明を始めた。


「千反田さんと田井中さんの心が入れ替わった。
僕たちと田井中さんの『ゲーム』に参加してなかった摩耶花がそう思うのは無理ないかもね。
でもね、やっぱり単なる心の入れ替わりじゃないと僕は思うんだ。
『ゲーム』の答えが『第二理科準備室』だったのは摩耶花にも伝えたよね?
いや、『ゲーム』の答えが問題なんじゃないよ。
どうして田井中さんが『第二理科準備室』の場所を知ってたのかが問題なんだ。
ところで聞いてみるけど、摩耶花は『第二理科準備室』の場所を知ってるかい?」


「……大体の場所なら」


自信がなさそうに伊原が呟いた。
俺は聡に聞くまでその場所を知らなかった。
自分と関係のない教室の場所など、誰にとってもその程度の存在だろう。


「あ、そっか」


伊原がなにかに気付いたように頷く。
こいつも決して鈍いタイプの人間じゃない。
里志に視線を向け、確認するように頷いてから続けた。


「わたしたちでも大体の場所しか知らない教室を、
どうして『この子』が知ってたのかって話になるのよね」


まだ『田井中』と呼ぶことに抵抗があるのか、
伊原は田井中を『この子』という曖昧な呼称で呼んだ。
どうにも伊原らしいが今はそれは置いておこう。
伊原の言う通り単なる精神の入れ替わりであるのならば、
田井中が『第二理科準備室』の場所を知っているはずがない。


「それだけではないよ」


入須が小さな苦笑を浮かべて会話に参加する。
この人が滅多に見せない表情だった。


「田井中さんと言ったかな。
彼女は私と千反田しか知らないはずのことを知っていた。
しかも普段の千反田であれば話題にするはずもない個人的な事実を。
それがなんなのかは一身上の都合で省かせてもらうけれど、
彼女がそれを知っていたという事実は私がこの身で保証するわ。

つまり現在田井中さんと千反田の身に起こっている現象は、
あの映画のような単なる精神の入れ替わりではないということになる。
単なる精神の入れ替わりでは、そんな知識を得ることなど不可能だから。
しかしこの現象が精神の入れ替わりではないとも言い切れない。
もしかするとこの田井中さんの身体に千反田の精神が宿っている可能性もある。
もっとも何度も言うようにそれは単なる精神の入れ替わりではなく」



「『記憶を共有した入れ替わり』……ですか」


俺が言うと入須が薄く笑った。
私の台詞を取らないでほしい、という意味の笑みだろうか。
だが俺としてもそろそろこの不可思議な現象に一枚噛みたかった。
誰かの論を聞いているだけという状態は、存外にも省エネとは程遠いからだ。


「その通りだよ、折木君。
精神の入れ替わりが生じているかどうかは私にも分からない。
もっと他の現象が生じているのかもしれない。
けれど『田井中さんが千反田の記憶を所有している』ことは間違いない。
私たちの過去を知っていたことからそれは明らかだし、
そういえば昨日田井中さんは千反田の自転車で帰宅したのだろう?」


俺は頷く。
考えてみるまでもないことだった。
『第二理科準備室』や入須の過去の件に言及する必要もない。
一番最初、千反田が奇声を上げたあの瞬間、
おそらくは初めて田井中が現れたあの瞬間には、
彼女は既に俺と里志の名前を知っていたじゃないか。
それだけでもう田井中の中に千反田の記憶があると決まったも同然だ。

残された問題はどうして千反田が、
自らと関係の薄いはずの『第二理科準備室』の場所を知っていたのかだが。
まあ、それは千反田のことだ。
入学当時に学校の案内図を見て暗記でもしたのだろう。
高校一年生の初め、たった一度の合同授業で俺のフルネームを暗記していた千反田なのだ。
それくらいは造作もないはずだ。


「そうなんだよなー、大当たり。
私の中にはえるって子の思い出があるんだよ。
それでホータローや冬実たちのことが分かったってわけだ。
へへーん、驚いたか?」


おさげにした髪を流しながら、田井中が悪戯っぽく笑う。
簡単に予想できることだから驚きはしなかったが、
その田井中の悪戯っぽい表情を何度見ても慣れない自分には驚いてしまった。
自分の適応力の無さに呆れてしまいそうになるが、これは仕方ないと自己弁護する。
なにしろ昨日までの千反田の表情とは明らかに違い過ぎるのだから。
見知った顔の想像していなかった表情は、存外に心臓に悪いものらしい。
俺は一つ咳払いをしてから、直視しがたい田井中の顔にどうにか視線を向けた。


「ああ、驚いたよ、田井中。
驚きついでに一つ訊きたいんだが構わないか?」


「あんま驚いてなさそうだぞ、ホータロー……。
ま、いいや、それでなんだ?
答えられそうなことならなんでも答えるけどさ」


「千反田の思い出が自分の中にあるってのはどんな感じなんだ?
千反田の身体の中に自分の心があるって自覚した時には、もうその思い出はあったのか?」


「うーん、そうきたか。
ちょっと説明が難しいんだけどさ、思い出そうと思えば思い出せるって感じか?
例えば私がホータローの顔を見るだろ?
それで私が『誰だっけ?』って思うと、『折木奉太郎』って頭に浮かんで来るんだよな。
思い出せるんだよ、えるって子とホータローの思い出が。
不思議だろ?
私はホータローのことを初めて見るってのに」


「それは確かに不思議な現象だな」



「だろー?
でもさ、不思議だけど助かったんだよな。
なにも分からない状態でこんなことになったら私だって戸惑うよ、そりゃ。
それでも私の中にはなぜかえるって子の思い出があった。
そのおかげで取り乱さずにホータローたちを頼ろうって思えたんだ」


「俺たちを頼る?」


「入れ替わったのかどうなのか、
とにかく急に私の心がえるって子の身体に入ってさ、
初めてホータローと里志の顔を見た時にえるって子の思い出が見えたんだよ。
この古典部でホータローが解決した事件のこととかもさ。
それと一緒にこのえるって子のホータローたちへの信頼感も分かったんだ。
ホータローたちは本当に困った時に頼れる人だって、えるって子が考えてたんだろうな。
それで私は考えたんだよ。
このホータローたちが本当に頼れる人なのか試させてもらおう、ってさ」


「それがあの『ゲーム』だったってわけなんだな」


「ああ、急に作った割にはまあまあな『ゲーム』だっただろ?
つっても私はえるって子が考えてた問題を軽くいじっただけなんだけどさ。
それでも『ゲーム』の結果は想像以上。
私が考えてたのよりずっと早くホータローたちは『ゲーム』をクリアした。
それで私も思ったんだよ。
えるって子の考えてる通りホータローたちは頼れる相手なんだってさ」


照れているのかもしれない。
田井中は頬を染めて頭を軽く掻いていた。
俺は里志と視線を合わせて小さく溜息をつく。
呆れたわけではなく、困っているわけでもない。
ただなんとなく出ただけの溜息だった。
そこまで頼られているのなら、もう投げ出すわけにはいかないじゃないか。
そもそも投げ出すつもりもなかったわけだが。


「そういえば、話を聞いててちょっと考えてみたんだけど」


話の輪から少し外れていたことが悔しかったのだろうか。
伊原が人差し指を立てて突然そんなことを言い出した。
いや、伊原も伊原なりに考えての発言なのだろう。
俺は肩をすくめてから伊原に視線を向け直した。


「言ってみろよ、伊原」


「別にアンタに伝えたいわけじゃないわよ」


さいですか。


「まあ、それはともかくとしてね。
単なる入れ替わりじゃないなら、憑依って考え方はどうかなって思ったの」


「なるほど、憑依とはいい考えだね、摩耶花」


「そう?」


里志に褒められた伊原が上擦った声を上げる。
もう慣れたがこのダブルスタンダードはどうにかならないものか。
しかし憑依か。
田井中が千反田の記憶を持っているのならば、そちらの方が可能性は高いかもしれない。
少なくとも頭をぶつけてお互いの精神が入れ替わったと考えるよりはずっといい仮説だろう。
伊原もやはりちゃんと考えているのだ。



「ひょーい?」


間の抜けた発音で田井中が呟く。
考えてないのは田井中だけか。
いや、こいつも考えてはいるはずだ、おそらくは。
説明好きなのは間違いない里志が目を輝かせて、嬉しそうに熱弁を始めた。


「憑依だよ、憑依。
幽霊とかが人間の身体に取り憑くって映画、観たことないかな?」


「あ、その憑依だったのか。
見たことあるぞ、確かに。
スパイダーウォークとかそんなんだろ?
ってそれじゃ私ってもう死んでるってことかよ?」


「いやいや、憑依はそれだけじゃないよ、田井中さん。
憑依にも色々あるからね。
田井中さんが言うように幽霊に始まり、
生霊、きつねとかの動物霊、神様、悪魔、大自然、果てや宇宙人まで。
それこそ数限りない例の憑依があるんだよ」


「……その中だと幽霊か生霊でいいわ、私」


田井中が脱力して呟く。
それは俺も同感だった。
いくらなんでもそれ以外の相手の憑依現象は相手にしたくない。
きつねでも勘弁だな。
言葉が通じそうにないし、俺は動物が苦手な方だ。
そもそも宇宙人の憑依現象ってなんなんだ、里志よ。


今回はここまでです。
宇宙人の憑依現象は最近ムーとかでブームだそうです。



「正確にはスパイダーウォークは幽霊じゃなくて悪魔ね」


耳聡く伊原が田井中の発言に訂正を入れる。
律儀と言うかその自らの立ち位置を忘れない姿勢に敬礼。
あの映画のタイトルはエクソシストだから、対する存在は確かに悪魔なわけだな。
もし仮に田井中が悪魔であれば、もっと簡単にこの問題は解決するのだろうか?
いや、そう簡単にはいかないだろう。
俺には悪魔祓いの知人などいないし、田井中の様子からはとても悪魔の眷属には見えない。

ならば幽霊の類だろうか。
幽霊であれば神社にでも相談してみるか?
例えば十文字になど相談してみるのはどうだろう。
十文字自身が神社の仕事に精通しているわけではないだろうが、
それでもなんの変哲もない灰色の高校生活を送っている俺よりは霊に関する知識もあるはずだ。
もちろんそれを抜きにしても、この状態が続くようなら十文字と一度話をせねばなるまい。
一度神社を邪魔した際、千反田と十文字はとても親しげだった。
少なくとも俺にはそう見えた。
ならば彼女を蚊帳の外に置いて、この問題と相対するべきではないだろう。


「ふむ、憑依現象という考え方は面白いかもしれない」


口元に手を当てて呟いたのは入須だった。
よく通る重い声に一斉に入須に視線が集う。


「憑依した存在が何物であるかという問題はあるが、理に適っているよ。
例えば福部君、君は憑依現象に詳しいらしいけれど、狐憑きを知っているかな?」


「狐憑きですか?
一応知識としては知っていますけど」


「狐憑きは古来から日本にある民間信仰だ。
ある人物がその人物とは思えない支離滅裂な行動を取る。
当時にはその現象に対して、狐が憑いたと理由付けることしか出来なかった。
けれど近年になって狐憑きの本当の理由が仮定され始めてきた。
その仮定がなんなのか、福部君はそれも知っている?」


「……ええ」


珍しく里志が躊躇いがちに頷いた。
訊ねた側の入須も複雑な表情を浮かべていて、
伊原も若干嫌悪感を露わにした顔になっていた。
俺も気分が悪くないと言ったら嘘になる。
そうせざるを得ないとは言え、入須はそういう話題に踏み込もうとしているのだ。
俺たちがあえて遠まわりして避けようとしていた話題に。


「ん、なんだよ、どうしたんだ?」


分かっていないのは当事者の田井中だけだ。
無邪気に見えるその表情の田井中にこの仮定をぶつけるのは気が引ける。
しかし入須は苦味を帯びた表情を浮かべながらも続けた。
この話題に踏み込むきっかけを作った張本人の責任を取ろうとしているかのように。



「田井中さん」


「なんだ冬実?」


「狐憑き、憑依、そんな大仰な言葉を使わなくても、
現代社会ではそれを説明するにふさわしい言葉があるわ。
その方面の知識に精通している必要もない。
田井中さんだって一度どころか十度以上は耳にしているはずのその言葉。
その人物が突然全く異なる他人になったかのような現象……、
ここまで言えばもう分かるだろうけれど」


「ああ、それならもう私にも分かったぞ。
『多重人格』……だよな?」


『多重人格』。
これまた頻繁に扱われ過ぎて陳腐になり始めた言葉だ。
これを題材に一体どれほどの物語が創作された事だろう。
あまり専門的な知識に詳しくなく見える田井中ですら知っているほどに。
正直言って俺たちは最初からその可能性を考慮していた。
精神の入れ替わり、憑依現象、それらよりも先に話題に上げるべきだった。
しかし俺たちは『多重人格』の話題を意図的に避けていた。


「その通り、田井中さん。
狐憑きの原因は多重人格ではなかったのかと現代では疑われているわ。
もちろんその仮定が正しかったのか今更確かめようもないけれどね。
ねえ、田井中さん。
田井中さんが千反田の別人格であるという可能性はないかしら?」


まったく……。
本当に言いにくいことを口にできる人だ。
田井中が千反田の別人格だと仮定するということは、
田井中の中にある記憶全ての否定に繋がることだというのに。
『お前は千反田の想像力が作り上げた空想なんだ』と言っているも同然だというのに。
それに気付いているのかいないのか、田井中の口から次に出たのは意外な言葉だった。


「やっぱ冬実もそう思うか?
いや、実は私もそうじゃないかって思ってたんだよなー。
ほら、色々話し合ってもらって悪いんだけど、
心の入れ替わりや憑依とかってあんまりリアルじゃないじゃんか。
そういう超常現象っぽいのよりは多重人格の方が全然それっぽいもんな」


あっけらかんと言う田井中の様子に俺は少し圧倒された。
田井中は俺が想像していたよりもずっと落ち着いた人間なのかもしれない。
少なくとも俺は自分が誰かの別人格ではないかと指摘されて、動揺しない自信はあまりない。


「ま、私がえるって子の別人格ってんならそれはそれでいいよ。
そう考えるのが一番妥当だし、今の状況で一番可能性が高いのもそれだしさ。

でも一つ疑問もあるんだよな。
私の中のえるって子と関係ない思い出のことだ。
この思い出はなんなんだろうな?
私の中には私が私として生きた十八年間の思い出があるんだよ。
幼馴染みと同じ高校でバンド組んだり、卒業旅行でロンドンに行ったり、
今でもはっきり思い出せるってほどじゃないけど、私にとっては大事な思い出があるんだ。
これはなんなんだろう?」


それは俺にとっても疑問だった。
田井中が単なる多重人格であるとして、それほど詳細な偽りの記憶が必要になるだろうか?
通常の多重人格であれば、千反田と同じ記憶を持っていて然るべきではないだろうか。



「だったらさ」


不意に明るい声が部室の中に上がった。
声を上げたのは伊原だった。


「その思い出をちょっと詳しくまとめてみない?
わたし、まだあなた……田井中さんのことをよく知らないし。
思い出だけじゃなくて、生年月日とか趣味とか特技とかも。
そうして情報をまとめていたら、なにかが見えてくるかもしれないでしょ?」


「おっ、それいいな摩耶花!
よし、そんじゃこれからちょっと履歴書でも書いてみるか!
あっ、質問には答えるけど、書記は摩耶花で頼むな!
書くのめんどいし!」


「なによそれー……」


伊原が苦笑すると、田井中が人懐こい笑顔で伊原の肩を叩いた。
やりとりこそ無茶苦茶だが、伊原の発案は悪くなかった。
考えてみれば俺はまだ田井中のことをほとんど知らない。
知らなくても解決できるのならばなによりだったのが、そういうわけにもいかなそうだ。
しかし助かったのは、田井中が多重人格に対して深く言及しなかったことだ。
知識としては知っていても、多重人格が発症する原因までは深く知らなかったらしい。
それを俺は知っているし、おそらくは里志も伊原も知っている。
仮にも文学に関係する部に所属しているのだ。
それくらいの知識はある。
様子を見る限り入須も知ってるように見える。

多重人格の発症原因。
そのほとんどは幼少期の心的外傷。
しかも極近い身内からの。
俺は千反田の家のことを深くまで知っているわけではない。
数度訪れたことがあるだけだ。
けれどその数度訪れたことがあるあの家で、
少なくとも一人娘を大切に育てているように見えるあの家で、
千反田が多重人格を発症するほどの心的外傷を負ったと考えたくはなかった。




名前 田井中 律

年齢 十八歳

誕生日 八月二十一日

家族構成 父・母・弟

学校 桜が丘女子高等学校

所属 軽音部

特技 ドラム

趣味 アテレコ

好きな色 黄色

好きな食べ物 キャベツ

バンドの名前 放課後ティータイム


以下、伊原の思いついた質疑応答が並ぶ。



短めですがここまでです。
もう数回で一章も終わる予定です。




年上だったのか。
伊原が質疑応答を終えて最初に思ったのがそれだった。
落ち着かず騒がしいイメージの田井中からは想像していかなったからだ。
なんとなく視線を向けてみるが、意外に入須は平然とした表情をしていた。
田井中が自分より年上だと知って驚いているかと思ったのだが。
いや、よく考えてみるまでもなく、田井中より騒がしい年上は俺の周囲にも大勢いる。
姉貴にしたってそうだし、沢木口もそうだろう。
特に沢木口と比較すれば、田井中など大人しい部類に区別できる気もする。


「軽音部なんですか、田井中さん」


年上だと知ったからか、里志があからさまに丁寧な態度を取った。
しかしその口元は軽く歪んでいた。
おそらくは田井中の次の反応を予想しての言葉だったのだろう。


「急に丁寧にならなくてもいいぞ、里志。
さっきまで普通の話し方だったのに、急に変えられると気持ち悪いって」


「それじゃあ、お言葉に甘えて言い直すよ。
田井中さんって軽音部だったのかい?」


「よーし、それでいいぞー、里志。
それで質問の答えなんだけど、実はそうだったんだよな。
これでも部長でドラムやってるんだぜ?」


田井中が部長の軽音部か。
あまり人の上に立つタイプには見えないが、
部長とは人の上に立てるかどうかで決められるものでもあるまい。
人を使うのが全く得意ではない千反田でも我が古典部の部長を務めているのだ。
少なくとも千反田よりは田井中の方が部長に相応しい人材ではあるだろう。


「ちーちゃんがドラム……」


複雑な表情で伊原が呟く。
こいつの中ではまだ田井中は千反田でしかないのだろう。
田井中という存在は千反田の冗談の一環だと信じているのかもしれない。
もっともかく言う俺も田井中の言っていることを全面的に信用しているわけではない。
信用していいか計りかねている。
そのための質疑応答だ。

しかし伊原の呟きにも一理あった。
今の田井中の身体の持ち主、
つまり楚々としたお嬢様に見える千反田がドラムを叩いている姿を想像してみる。
髪や頭を縦横無尽に振り乱してタイトなリズムを刻む千反田。
……想像できん。
一種のホラーのようにも思えるな。
そこで俺は一つのことを思いついた。
単純な発想からの思いつきだったが、口に出してみるとそう悪くなくも思えた。



「なあ、田井中」


「お、どうしたんだ、ホータロー?」


「おまえの自画像を描いてみてくれないか?」


「自画像って私自身のか?」


「当然だろう、千反田の顔を描いてどうする。
なにかの役に立つかもしれないし、
その自画像を見た方がおまえがどんな人間なのか掴みやすい。
もっとも本人に自画像を描かせるのも酷かもしれないがな。
絵心に自信がなければ作画は伊原に担当させよう。
この場合、自画像ではなくモンタージュということになるか。
おまえはそれを見て監修してくれればいい」


「ちょっと折木、なにを勝手に決めてるのよ」


伊原が頬を膨らませて俺を睨みつける。
だがその視線には普段の鋭さはなかった。
伊原自身も田井中の外見を知りたいと考えてはいたのだろう。
つまり伊原が不満に思っているのは、田井中のモンタージュを担当することではなく。


「似顔絵なんてあんまり描いたことないわよ、わたし」


若干不安そうに伊原が付け加える。
つまりはそういうことなのだ。
伊原は元漫研だが、似顔絵と漫画向きの絵を描くことが全く違うのだろうとは俺にも分かる。
だがこの場で絵を担当できそうなのは残念ながら伊原しかいないのだ。
田井中のイメージを掴むためにも、できれば伊原には田井中のモンタージュを担当してほしい。
どうにか頼む方法がないかと首を捻っていると、田井中が意外な言葉を口にした。


「うーん、似顔絵はちょっと照れ臭いな。
私が描くのでよければちゃっちゃと描いちゃうけど、それでもいいか?
まあ、普段描いてるデフォルメでよければ、だけどさ」


願ってもないことだった。
俺が頷くと田井中は机の上に適当に置かれていた紙に筆を走らせ始める。
普段描いてると言っているだけあって、デフォルメとは言え田井中の画力は中々のものだった。
それに別に今はデフォルメでも全く構わないのだ。
まずは田井中の外見のイメージを掴むことが重要なのだから。
完全なモンタージュは近い内に伊原に趣向を凝らして描いてもらうことにすればいい。



「よっし、これにて完成!」


デフォルメの完成までは二分とかからなかった。
頼んでいないのに色まで使っていて、手早く仕上げたわりにはとても分かりやすい絵だと言えた。

外側に軽く跳ねている短めの髪。
カチューシャで前髪をまとめ、額を出した姿からは少年の様なイメージを受ける。
舌を出して右目でウインクした表情はいかにも悪戯好きに見えた。
わざわざ両手にドラムスティックを持たせているのは、ドラマーとしての主張だろうか。

なるほど、これなら田井中との会話から感じる彼女のイメージと遜色ない。
この田井中ならドラムで激しいビートのリズムを刻めそうだ。


「まさに田井中さんって感じだね」


素直な感想を里志がひとりごとのように呟く。
誰も反応しなくても気にしていないようだったから、本当にひとりごとだったのだろう。


「こんなもんでいいか?」


全員がデフォルメ自画像を確認した後、田井中が軽く笑った。
自分にやれることがあればまだまだ協力する。
そう言わんばかりの笑顔だった。
それはとても助かるのだが、俺はちょっとした違和感を持たずにはいられなかった。
いや、大した話ではない。
多重人格を取り扱った作品で、別人格がこんなにも問題解決に協力的な話を俺があまり見たことがなかっただけだ。
通常の展開であれば別人格が『この身体は俺が頂く』とか言いそうなものだが、田井中にはそんな様子が見受けられない。
やはり単なる多重人格とは大きく異なっているのだろうか?
まあ、俺の多重人格に対するイメージが陳腐なだけかもしれないが。


「それなら田井中さん、一つ質問をいいかしら?」


わざわざ挙手をして訊ねたのは入須だった。
眉をひそめて不機嫌そうにも思えたが、おそらくはなにかを考えているだけだろう。


「いいぞ、冬実」


「ありがとう、それでは訊かせてもらうわ。
私の聞き間違いでなければ、さっき田井中さんはこう言ったと思う。
『卒業旅行でロンドンに行ったり』と。
もちろん、高校の卒業旅行だとは思うけれど、その卒業旅行にはいつ行ったの?」


あっ、と伊原が呻くような声を出した。
それは俺も気になっていることだった。

田井中律、十八歳。
誕生日は八月二十一日。
そして桜が丘女子高等学校に在籍。
これでは計算が合わないのだ。
今日は六月十四日なのだから。
八月二十一日生まれで六月十四日に十八歳の高校生。
中学か高校浪人ならばありえない話ではないが、入須の指摘通り田井中は確かに言ったのだ。
『卒業旅行でロンドンに行ったり』と。
つまり田井中は卒業旅行を経験していることになる。
この言葉が意味することはなんなのだろうか。


「卒業旅行に行った時期か?
そりゃ卒業式の直前だよ。あ、もちろん高校の卒業旅行だぞ?
梓って後輩がいてさ、梓の三学期の試験休みに合わせて行ったんだよ、三泊五日でさ。
いやー、いいところだったぞ、ロンドン」


こともなげに田井中が平然と応じる。
田井中は自分が言っている言葉の矛盾に気付いていないのだろうか。
いや、それとも気付いて言っているのか?
俺は小さく溜息をついてから、田井中にそれを指摘してやることにした。


「ちょっと待て、田井中。
おまえの言っていることは論理的に合わない」


「なにが?」


「田井中、おまえ、今日は何月何日か知っているか?」


「六月十四日だろ?」


「それだと計算が合わないんだよ。
卒業旅行を経験してどうしてまだ高校に在籍しているんだよ。
卒業できずに留年でもしたのか?」


「失敬な!
そりゃ成績はそこそこだったけど、
大学には合格してるしちゃんと卒業式にも出てるんだぞ」


「だったら今のおまえは高校生じゃなくて大学生のはずだろう。
どうしてわざわざ学校を桜が丘女子高校と書いたんだ。
矛盾しているだろう」


「うん、ホータローの言うことはもっともだよ。
でもさ、私の中では矛盾してないんだよな。
知ってるか、ホータロー?
担任の先生が言ってたんだけど、学生は卒業式の後も三月三十一日までは在籍してるんだってさ」


「三月三十一日まで……?
そうか……。
なるほどな、確かにそうだ、田井中。
そう考えれば、計算が合わなくてもおまえの中では矛盾してないわけだ」


今回はここまでです。
デフォルメ絵はけいおん!のクリスマス回で、
りっちゃんが澪に殴られた時の絵をイメージして下さると幸いです。



「そういうことだよ」


田井中が薄く微笑む。
伊原と里志はまだ首を捻っていたが、入須は納得したらしく頻りに頷いていた。
長髪を横に流してから、入須は言葉を続けた。


「なるほどね、この場合、意識の連続性は不要という事ね」


「意識の連続性……ですか?」


「ああ、そうだよ、福部君。
けれどその辺りは折木君の方が事情に詳しいと思う。
なにせまさにその瞬間に居合わせたのだから」


入須の視線が俺に向けられる。
後の説明は君に任せた、ということなのだろう。
省エネを信条としている俺ではあるが、ここで説明するのはやぶさかじゃない。
むしろ自分の考えをまとめるためには、一度自らの言葉として発声させてもらえる方がありがたかった。
俺は軽く咳払いをしてから、一同の顔を軽く見回して始める。


「里志、昨日田井中と話していたのはおまえだったわけだし、まだ忘れてはいないだろう。
唐突に千反田の精神が田井中に入れ替わった瞬間を。
この表現が現実に正しいかどうかは別の問題として、だ」


「うん、それはもちろん憶えているよ、ホータロー。
昨日は本当に驚いた。僕の話に何か不手際があったのかと思ったくらいさ。
あの千反田さんがあんな素っ頓狂な声を出すなんて、今まで一度もなかったことだからね。
千反田さん……、いや、あの時はもう田井中さんか。
よっぽどびっくりしたんだろうってことは傍から見ててよく分かったよ」


「びっくりするのは当然だ。
気が付けば見知らぬ場所で見知らぬ人間と自分が話しているんだからな。
しかもなんの前触れもなく唐突に。
これで驚かない人間と言ったら、そこの入須先輩くらいだろうさ」


ふっ、と小さな声が聞こえる。
どうやら入須が軽く微笑んだようだった。
冗談のつもりだったからそれでよかった。
しかしこの入須が驚くことは現実にあるのだろうか?
田井中の存在を知った時にはそれなりに驚いてはいたようだが、そこまで激しい反応は見せなかった。


「あの時の甲高い声は俺の耳にも残っている。
『うわっ!』だったな。
あそこで田井中が驚くのは自然な反応だし、俺も同じ状況なら同じように驚くだろう。
しかもそれが真の意味で突然だったとしたら、しばらく冷静になれる自信がない」


「真の意味で突然だったら……?」


伊原がなにかを考え込むように呟いた。
全てを説明してもよかったが、俺は伊原の気付きを待つことにする。
伊原は鈍い人間というわけでもないし、なにかに気付ける思考力を有した人間だ。
なにより後で「今考えてたところだったのに」と責められても理不尽だ。

幸い伊原は俺の言いたいことには三十秒ほどで気付いたらしかった。
まるで推理小説の主人公のように神妙な表情になると、その気付きを言葉にし始めた。



「分かったわ、折木。
わたしはそのちーちゃんの悲鳴を聞いたわけじゃないけど、気持ちは分かる。
わたしだって自分の心が自分じゃない誰かの身体の中にあったら悲鳴を上げると思う。
しかも……」


「しかも、なんだ?」


「周りの季節まで全然違うなんて、わたしだったら叫んだ後でしばらく言葉を失うと思うわ」


「そうなんだよなー」


満足そうに言ったのは田井中だった。
それは俺たちの考えが正しかったことを示していた。


「私の体感時間だと昨日の話なんだし、はっきり憶えてるよ。
卒業式が終わってしばらく経った三月十日。
私は澪と二人で買い物に行ってたんだよ。
あ、澪ってのは私の幼馴染みな。
大学では寮に入るつもりだったから、その準備のために二人で買い物してたんだ。

私の買い物はすぐ終わったんだけど、
澪は凝り性でさ、呆れるくらい夢中になって日用品を選んでたよ。
ま、それはいつものことだし、それを覚悟して買い物に付き合ってたんだから文句はないんだけどな。
でもさすがに二時間同じ店にいるのも飽きちゃって、私はジュースを買いに行ったんだ。
いや、ジュースじゃなくて、午後ティーだったな、確か。
とにかく私はベンチで午後ティーを飲んでたんだ。

それで半分くらい飲み終わった頃かな。
澪をあんまり一人にさせるのもあれだし一気に午後ティーを飲んじゃおうか。
って思った瞬間だったな、私の心がこのえるって子の身体の中に入ったのは。
本気でなんの前触れもなんったし、あっと言う間もなく私はこんな状態になってたんだ。
『入った』ってのが正しい表現かどうかは置いとくけどさ」


「いや、一瞬っていう言葉には語弊があるかもしれない」


「あ、やっぱ冬実もそう思うか?」


「ええ、そうね。
確かに田井中さんには一瞬に感じられたかもしれない。
けれどそれが一瞬である必要はないし、一瞬でない確率の方がずっと高いわ。
今の季節は田井中さんの体感していた季節、つまり時間の流れと全く異なっているのだから」


「うん、たぶんそうだろうな」


田井中が頷くと入須も静かに頷いた。
そうだ。田井中の体感していた時間の流れが異なっているのだ。
田井中の言葉を信じるなら今の田井中の体感時間は三月十一日になるのだろう。
対して現実に流れている俺たちの体感時間は、当然ながら六月十四日だ。
これならば『六月十四日時点で高校を卒業したての十八歳の女子高生』の存在が説明できる。



「意識の連続性の有無ってそういうことだったんですね」


伊原が聞き慣れない敬語で誰かに訊ねる。
この面子の中で伊原が敬語を使う相手は入須しかいない。
当然それを分かっている入須は、伊原の目を見ながら小さく頷いた。


「そうね、伊原さん。
そもそも千反田の身体に違う誰かの人格があるという特異な状況に、
田井中さんの体感時間を当てはめて考えてみること自体が誤りだったわ。
特異な状況に対しては、常識に囚われない思考で対応するしかない。
私たちと田井中さんの体感時間が全く異なっているのは、ある意味当然でもあるわ。
例えば三ヶ月以上田井中さんの精神が眠っていたとか、そういうことがあっても全く不自然じゃない」


「でもどうしてそんなことが起こったんでしょうか?
ひょっとして田井中……さんの心が田井中さんも気付かない内に、その辺を彷徨っていたとか?
それでちーちゃんの身体って容れ物を得た瞬間に、前の記憶を取り戻した……。
とか、そういうのは変な考えですかね?
あ、いえ、ちーちゃんの身体に違う心があること自体が変な話ではあるんですけど」


瞬間、田井中が少し嫌そうな表情を浮かべた。
それはそうだろう。
伊原は言いながら気付いていないようだが、それではまさに浮遊霊の憑依現象だ。
ある程度の非常事態は受け容れているように見える田井中でも、
自分が死んで魂だけの存在になっているという想像は気持ち悪いらしかった。
ただ確かに考慮しなければならない可能性の一つではある。
しかし。


「たぶんそうじゃないと思うんだよな……」


その言葉を俺が聞き逃さなかったのは、ちょうど田井中の様子を気に掛けていたからだろう。
それくらい小さな声だった。
田井中に似つかわしくなく、迷いのある小さな声。
自分が死んでいるかもしれないという可能性を認めたくない。
それだけではないように思える、迷いながらも確信が込められた呟きだった。


「なあ田井中、なにか隠していることがあるんじゃないか?」


見逃していいことだったのかもしれない。
だが俺は自分でも意外に思うくらい毅然と田井中に問い掛けていた。
恐らくだが俺は知りたかったのだろう。
田井中がなにに迷い、なにを確信しているのかを。
そして千反田が今どうなっているのかを。


「いや、隠してることって言われてもな……。
私は全面的にホータローたちに協力してるつもりだぞ?
私だってこんな状態はなんとかしたいもんな」


田井中が後頭部を掻きながら苦笑する。
その言葉には嘘がないように思えるし、田井中が嘘をつく必要もない。
しかし俺は田井中が頻りになにかを気にしているのを見逃さなかった。
田井中に悟られないよう視線を辿ってみて気付く。
田井中が気にしていたのは、伊原が記した田井中のインタビュー結果のメモだということに。


「あっ……」


田井中がなにか言いたげにしていたのを無視し、俺はもう一度そのメモに視線を落とす。
最初に目を通した時には違和感を覚えなかったのだが、もしかするとここに嘘があるのかもしれない。


「ちょっと折木、勝手に人のメモ帳を取らないでよ」


非難混じりに伊原が頬を膨らませたがそれも無視だ。
そもそもそのメモ帳は里志の物だろう、という指摘も後にしておく。


お久しぶりです。
またよろしくお願いします。

さて、と一呼吸置いてメモに目を通し始める。
伊原からの質問はもちろん、俺たちの思いつく限りの質問と答えが記されたメモ帳。
この中に田井中が隠しているなにかがあるはずだ。
田井中に気づかれないように軽く視線を向けてみる。
予想通りというか、田井中は俺たちから目を逸らしてだんまりを決め込んでいた。
常に仏頂面の入須、うさんくさい微笑みばかり浮かべる里志、
感情を顔に出しやすいながらも言葉では素直な発言が少ない伊原。
この三人に比べれば田井中は笑ってしまいたくなるほど分かりやすい奴だった。

しかしそれだけで田井中の隠しているなにかが分かれば苦労はない。
俺たちがした質問は誰もが考えつくような単純なものばかりだ。
名前と誕生日、趣味や特技、好きな本や好きな音楽。
特技、得意教科、好きな色、よく着る服の傾向、その程度の質問だ。
通常であれば隠す必要のないプロフィールでしかない。
だが田井中は間違いなくなにかを隠している。
そのなにかとはなんなのだろうか。
俺は考えてみた。

いや、考えるまでもなかった。
そのメモの中には、プロフィールとしてあるべき項目がないことは一目瞭然だった。
そういえば伊原が田井中に質問していた時も、
その項目を訊ねていないな、と軽く疑問に思っていたのを俺は思い出した。
俺はそれを田井中に訊ねてみる。


「なあ、田井中」


「ん? どうしたんだ、ホータロー?」


「おまえの体重は?」


「折木!」


目を吊り上げたのは伊原だった。
こいつが俺に鋭い視線を向けるのは常日頃のことだが、
これほどまでに刺々しい視線を全身に浴びるのは実に久しぶりだった。
俺はつい身構えながら伊原に訊ねてみる。


「急に叫んでどうしたんだ、伊原」


「どうしたんだじゃないわよ。
前から朴念仁で無気力でデリカシーのない人間だと思っていたけど、ここまでとは思わなかったわ。
あんたって奴は本当に人の感情を察する能力がないのよね」


散々な言われようだった。
そりゃ俺は贔屓目に見てもデリカシーのある人間とは自分でも思わない。
しかしこれでも最低限の礼節は心がけているつもりなのだが。
あまり期待はしていなかったが、里志に視線を向けてみる。
助け舟を出してくれるとまでは思っていなかったのだが、里志は軽いフォローすらもしてくれなかった。



「今のはホータローが悪いよ。
女の子に体重を訊ねるなんて滅多なことじゃしちゃいけない」


さいで。


「これには君も反省するべきだ、折木君」


神妙に頷きながら入須が俺にとどめを刺す。
まさか入須にまで駄目出しされるとは思わなかった。
ここまでされてしまうと俺が間違っていたような気までしてくる。

しかし入須がデリカシーについて俺に注意するとは。
いや、これはデリカシー云々というよりは、
自身の体重を気にしての発言だと思えてしまうのは穿ち過ぎだろうか?
軽く見た感じ、入須の身体に余計な脂肪が付いているようには思えない。
それは伊原も同じだ。
二人とも体重を気にする必要もなさそうな体型をしているように見える。

だからこそ、かもしれない。
だからこそ、伊原たちは他人の体重も気にしているのかもしれない。
俺はダイエットというものを実践してみたことはない。
省エネを心がけている代わりに、過剰なエネルギーの接種もしないようにしている。
そのせいか無駄な脂肪が付いたことは今まで一度もなかった。
だがそれが俺以外の人間もそうだと考えるのは傲慢だろう。
思い出してみれば、姉貴も平均的な体型ながらダイエットをしていた時期があった。
もしかすると俺が平均的だと考えていた体型は、想像以上の節制の賜物だったのかもしれない。
特に伊原は甘い物が大好きだ。
料理の腕前もかなりのものであることを考慮すると、
自宅で様々なお菓子作りに挑戦してみたこともあるに違いない。
それでも伊原は甘い物を過剰摂取せず、平均的に見える体型を維持しているのだ。
そうだとするならば、俺は意図せずとも伊原の逆鱗に触れてしまったことになる。
いや、世間一般の平均的な体型に見える女子全般か。
今後、女子の体重について軽く触れることはやめよう。
そう強く決意した十七歳の梅雨。

だがそれはそれとして、だ。
俺だって単に軽い気持ちで田井中に体重を訊いてみたわけじゃない。
確かめておきたいことがあるのだ。
顰蹙を買うのは承知の上で、俺はもう一度田井中に訊ねてみる。
伊原と入須はやはりいい顔をしなかったが、田井中は苦笑しながら応じてくれた。


「ははっ、ホータローもへこたれないな。
その根性に免じて教えてやるよ、別に隠そうと思ってたわけじゃないしさ。
うん、私の体重はこのえるって子と同じくらいだよ」


「そうなのか、確かに千反田と同じ身長ならそれくらいだろう。
それで具体的には何キロなんだ?」


その質問にデリカシーが微塵も存在していないことは自覚していた。
伊原も入須も里志もそれは分かったはずだ。
分かったからこそ、俺のデリカシーのなさを指摘したりはしなかった。
なんらかの意図があって俺は田井中の体重を訊いている。
それを察せるくらいには、この場の三人の頭の回転は遅くはない。
一斉に田井中に俺たちの視線が集まる。


「ええっと、私の体重は……」


明らかに田井中が動揺しているのが見て取れた。
視線を散漫にさせて、暑いのもあるだろうが顔中に汗を掻き始めている。
田井中は自分の体重を隠そうと思ってたわけじゃないと答えた。
その言葉に嘘はないだろうし、単に伊原が質問しなかったから言わなかっただけだろう。
しかし現在の田井中は大汗を掻いて、自分の体重を答えるのを躊躇している。
他のことは平然と答えられながら、これはどうにも妙だ。
一体どういうことなのか、不意に俺は思いついた。
もしかしたら田井中は自分の体重を答えたくないのではなく、答えられないのではないか。

連鎖的に俺の脳内に閃きが奔る。
妙と言えば田井中の髪型もそうだった。
田井中は昨日カチューシャを着けていた。
デフォルメの自画像の中でも身に着けていたくらいだ。
カチューシャを着けて額を出すのが田井中の通常のスタイルなのだろう。
しかし今日の田井中はカチューシャを着けずに、汗を掻いている。
蒸し暑そうに髪型をおさげにしながらも、一番蒸し暑いに違いない額を出していない。
この二つの事実が意味するものはもしかしたら……。

俺はその思いつきを実行しようとして、やめた。
それはいくらなんでもデリカシーがなさ過ぎたからだ。
どうしようかと一瞬迷ったが、俺は部室の隅に行って伊原を手招いた。


「わたし?」


嫌そうな顔で首を傾げながらも、伊原が俺の手招きに応じる。
なんだかんだと俺の手招きに応じる伊原はいい奴なのだ、たぶん。
俺はメモ帳に頼みごとを書いてから、伊原にそのメモを見せた。
本当は耳打ちでもよかったのだが、後で馴れ馴れしいと文句を言われても困る。
メモの内容を確認すると、伊原は予想通り口先を尖らせた。


「どうしてわたしがこんなことしなきゃいけないのよ」


「俺がするわけにはいかないだろう」


「確かにあんたがするわけにはいかないことだけど……。
ねえ折木、これって本当に意味があることなのよね?」


「俺が意味のないことでおまえを手招いたりすると思うか?」


「確かにそれはないわね……。
分かったわよ、あんたの言う通りにしてあげる。
ちゃんと後で詳しく説明しなさいよね」


「了解」



俺が小さく海軍式の敬礼を取ると、珍しく伊原が微笑んだ。
それは俺に向けた微笑みだったのか。
いや、単に俺との妙な関係が滑稽に思えただけだろう。
親密というわけでもないが、俺の頼みごとには嫌々ながらも応じる伊原。
確かに妙な関係性、妙な幼馴染みだ。


「ホータローとなにを話してたんだ、摩耶花?」


俺が苦笑していると、いつの間にか伊原が田井中の前に移動していた。
さっそく俺の頼みごとを実行してくれるつもりらしい。
まあ、伊原には別に難しいことではないし当たり前か。
俺が伊原に頼んだのはそういう男には難しく、女には簡単な行為だった。


「うん、実はね……」


「実は……?」


「ちょっとだけごめんね!」


小さく頭を下げた伊原が、田井中に唐突に腕を伸ばす。
狙いは田井中の(正確には千反田の身体の)綺麗に切り揃えられた前髪だ。
不意を衝かれた田井中は伊原の動きに反応し切れず、伊原の成すがままになっていた。


「あっ……!」


そう声を上げたのは伊原だったか田井中だったか。
その場にいた田井中以外の視線が一斉に集まる。
俺の考えていた通りだった。
伊原が掻き上げた前髪の下、田井中の額には大きな絆創膏が貼られていた。



「ああ、そのつもりだ。
あの大銀杏は学校から千反田家まで向かう最短距離にある。
まず間違いなく千反田も通学路に使っているはずだ。
頭をぶつけそうになった俺が言うことじゃないが、あの枝は危ない。
慣れた人間でなければ一度はひやりとした経験があるはずだ」


「確かにね」


俺の言葉に賛同してくれたのは入須だった。
心なしか軽く苦い表情になっている。


「私も自転車に乗っていて、何度か頭をぶつけそうになったことがあるよ。
年に数度千反田の家に通ってる私ですらそうなのだから、慣れていない人は余計にそうだと思うわ。
……どうかしたの、折木君?」


「……なんでもないですよ」


咄嗟に返したものの、実は自分でも妙な表情をしている自覚があった。
しかしこの妙な表情は自分でもどうすることもできなかった。
入須が自転車に乗っている姿を想像してみたが、あまりにも似合わなかったからだ。
自転車に乗って千反田の家に向かう女帝入須冬実。
こう見えても高校生なのだから当然なのだが、その姿は非常に滑稽だった。


「しかしながら折木君」


俺の想像を察しているわけではないだろうが、入須が反対意見を表明した。


「あの大銀杏が危ないことは事実だけれど、そう簡単に頭をぶつけるかしら?
私も実際に頭をぶつけたことは一度もないわ。
いくら慣れていない道とは言え、いくら立ち漕ぎだったとは言え、そう簡単に頭をぶつけてしまうものかしら?」


「ええ、そう簡単に頭をぶつけることはそうないでしょう。
そんなに頻繁に事故が起こるようなら、
切り倒すまではしないまでも多少の対策を施すでしょうしね。
しかし現実にあの大銀杏では事故は頻発しておらず、特に対策らしい対策も取られていない。
その程度の危険性の樹なんですよ、あの大銀杏は」


「だったらどうして折木君は田井中さんがあの樹に頭をぶつけたと考えるの?」


「そこで問題になるのが田井中のさっきの言葉です。
田井中は俺に訊ねられて自分の体重が何キロか答えられませんでした。
えるって子……、千反田と同じくらいの体重と答えておきながら、です。
そこでもう一度、田井中の身長の欄に目を通してみましょう」


俺が机の上にメモのそのページを開く。
女子にしては高い身長の千反田とほぼ同程度の数値がそこに記されている。
俺の話の意図が分かっていないらしく、入須が首を傾げる。



「千反田とほぼ同じ身長だと思うけれど」


「ええ、聞いたことはありませんが、大体この程度の身長だと思います。
そして田井中は体重については即座に答えられなかった。
自分の体重を答えるのに抵抗があるのかとも思いましたが、
俺はそれよりももう一つの可能性を思いついたんです。
こうは考えられませんか?
田井中が自分の体重を答えられなかったのは、
千反田の身長の適正体重を咄嗟に思いつけなかったからだと」


「ちーちゃんの身長の適正体重?
それが田井中さんの体重とどんな関係があるってのよ?」


「じゃあ聞くが伊原、おまえは千反田の体重を知っているか?」


「知ってるはずないじゃない。
友達とは言っても最低限訊いちゃいけないこともあるでしょ」


「だが身長がどれくらいは分かるだろう?」


「そりゃパッと見で大体の身長なんて分かるじゃない」


「なるほどね」


伊原はまだ分かっていないようだったが、里志には察しが付いたようだった。
俺が視線を向けると、里志は頷いて俺の言葉を引き継いだ。


「田井中さんが隠したかったのは自分の体重じゃなかったんだよ、摩耶花」


「体重じゃなかったってどういうこと?」


「じゃあ聞いてみるけど、摩耶花の今の身長は何センチなんだい?」


「うっ、それは……」


伊原が口ごもる。
それ以上いじめる気もないらしく、里志が優しく微笑む。


「摩耶花の気持ちは分かるよ、僕も男子の中じゃ小さな方だからね。
平均以下の数値を口に出すのは、分かっていても意外と気恥ずかしいものさ。
それは田井中さんも同じだったんだと思うよ。
それで田井中さんは僕たちにインタビューをされて、ついごまかしちゃったんじゃないかな?
誕生日や趣味はともかく、田井中さん自身の身長なんてごまかしても特に問題ないはずだって」


里志の言葉を全て聞いても田井中は口を閉じていた。
その沈黙は里志の言葉が正しかったことを証明していた。
そう、田井中は自らの身長を偽っていたのだ。


今回はここまでです。
もうすぐ一章も終わると思います。



「あの大銀杏に頭をぶつけたというのは、俺の勝手な想像に過ぎない」


田井中の様子を確認しながら、俺は一言一言強調して続ける。


「さっきも言ったが、あの大銀杏に頭をぶつける可能性は限りなく低い。
身長が高くて頭をぶつけるくらいなら、まず俺がぶつけている。
もしかしたら田井中もあの大銀杏に頭をぶつけていないのかもしれない。
怪我の理由は違うものなのかもしれない。
頭に怪我をする理由なんてどこにでも転がっているからな。

だが田井中が身長を偽っていたと仮定すると、一つ滑稽な仮定が浮かび上がってくる。
田井中が高さの目測を誤ったという仮定だ。
よく聞くだろう?
バレーやバスケの選手が高さの目測を誤って頭を怪我したって話を」


「それは確かによく聞くわね」


と伊原。
「わたしには想像もできない話だけど」と付け加えていたが、それは聞き逃した事にしておく。


「もちろん千反田の身長が劇的に高いわけじゃない。
女子の中では高い方だが、多少低い庇に頭をぶつけるほどの身長でもない。
だが田井中の元の肉体の身長が千反田よりかなり低かったとしたら、どうなると思う?」


「視点の高さが全然違うわね。
まるでハイヒールを履いたみたいな感覚になるはずよ」


「伊原はハイヒールは履くのか?」


「そりゃ結婚式に出席する時くらいは履くわよ」


「それなら分かるだろう、ハイヒールを履いた時の違和感が。
普段見ている世界と全く違っているはずだ」


「そうね、あえて漫画でよく見る台詞で言うと、
『ヒールの高さ分だけ大人の視点になれた』って気分になれるわ」


「なるほどね」


合点がいったらしく里志が頷いた。
もっともこいつの場合はハイヒールではなく別のことを想像しているらしかった。


「格闘ゲームで使い慣れてないキャラクターを使ってるって感じかな」


里志のその言葉で思い出したのは、
バレンタイン前にこいつと二人で対戦したロボットゲームのことだった。
里志が選択するロボットは空中戦を得意とする機動性重視の機体。
対する俺が選択するのは大艦巨砲主義の機体だ。
同じゲームとは言え、二つの機体の使い心地は完全に別物だ。
操作方法も使うレバーもボタンも同じだというのに。



「私はゲームに明るくないのだけれど、そんなに使い勝手が違うものなの?」


長髪を横に流しながら入須が里志に訊ねる。
仏頂面なのは合点がいっていないわけではなく、単に暑いからだろう。
かく言う俺もかなり暑く、背中に汗を掻いてしまっていた。
長い話になるのは分かっていたわけだし、冷たい麦茶でも用意しておくべきだった。
もっとも用意しておかなかったおかげで田井中の様子の違和感にも気付けたわけだが。
里志も入須の仏頂面は気にしていないようで、満面の笑みで続けた。


「はい、かなり違いますよ、入須先輩。
例えばキャラクターの大きさを見誤って壁にぶつかるなんて、
初めてそのキャラクター選んだ時には本当によくあることなんです。
それがどんなにそのゲームに慣れてる上級者であっても」


「よく分かったよ、ありがとう福部君。
確かにそれなら田井中さんが頭をどこかにぶつける可能性は非常に高かったと言わざるを得ない」
私もハイヒールを履いた時の違和感はよく知っているから分かる」


入須、里志、伊原の順で田井中に視線が向けられる。
まさに針のむしろとはこういう状態のことを言うのだろう。
田井中は額に粒のような汗を掻いているようだったが、それはもちろん暑いからではないはずだ。
その田井中への追及は誰が担当しても構わなかった。
里志ならば笑顔のままで執拗に、伊原ならばじっとりと的確に、入須ならば簡潔に心を抉るように。
三者三様に田井中へ身長を偽った理由を追及できるはずだった。

だがなぜだろうか。
田井中に向いていたはずの三者の視線は、いつの間にか俺に向けられていた。
いや、言わんとせんことは分かる。
要は最初に身長のことについて切り出した俺が話をまとめろということなのだろう。
俺がやる必要もないと思うのだが、乗りかかった船だ。
どうせ長い話にもならない。
俺は誰にも気付かれないように溜息をついた。



「そういうわけで田井中、質問に答えてもらいたいんだが」


「な……、なんだよ?」


「そうだな、まずその頭の怪我はどこで負ったんだ?
大銀杏ではないとして、千反田家のトイレの入口か?
年季の入った日本建築のせいか、あのトイレの入口はかなり低いからな」


「あ、いや、トイレじゃないよ、ホータロー。
もう隠してもしょうがないみたいだから言うけど、
私が頭をぶつけたのは最初にホータローが言った通りあの大銀杏なんだ。
あちこち見ながら自転車を走らせてたら頭をぶつけちゃったんだよな」


少し驚いた。
話の取っ掛かりとして切り出した仮定が正解だったとは。
別に俺の勘が鋭かったわけじゃないのは分かっている。
田井中がどこかに頭をぶつける可能性は非常に高かったのだ。
それがたまたまあの大銀杏だったというだけの話だ。


「別に隠すようなことじゃないだろう」


「そうは言っても昨日の今日だから言い出しにくくてさ……」


「昨日の今日?」


はて、田井中が昨日の今日と言うようななにかがあっただろうか。


「ほら、私が昨日自転車に乗る時に言ったじゃんか。
『道は分かってるから大丈夫!』ってさ。
大丈夫って言ったのに、頭をぶつけたなんて恥ずかしいじゃん……」


確かにその言葉は俺も憶えている。
しかもその時の田井中は立ち漕ぎで自転車を漕いでいたな。
慣れてない上に立ち漕ぎで前方不注意となると、頭くらい大銀杏にぶつける。
逆にその程度でよかったと思うべきだろう。


「それにえるって子にも悪いし。
こんなお嬢様みたいな子の肌に傷を付けちゃったなんて……」


自分が失敗したという自覚はあるらしい。
肩を落として申し訳なさそうに田井中が俯いた。
だが見る限りではそれほど大きな傷でもなさそうだ。
飄々として見える田井中だが、意外と責任感が強いのだろうか。
しかし俺にはそんな田井中を慰める術は持っていない。
話を逸らして本題に踏み込むことしかできなかった。


「怪我のことはいつかその機会があれば自分から謝ればいいだろう。
それより田井中、結局お前が身長を偽ったのは元の肉体の身長が平均以下だったからなのか?」


「言うなよ、ホータロー……。
うー……。
そうだよ!
私の身長は平均以下だよ!
ドラムで部長なのに身長が低いなんて恥ずかしいじゃんかよ!
それくらい見栄張りたかったんだよ!」


「見栄を張りたかったんだったら、体重に関しても徹底しておくべきだったな。
千反田の身長の適正体重が分からなかったにしても、
それなら千反田の体重をそのまま答えるとかいくらでも方法はあっただろう。
千反田の記憶があるのなら、体重くらいすぐに思い浮かぶはずだが」



「それだとえるって子に失礼じゃんかー……」


「やっぱりデリカシーがないのよね、あんたは」


伊原が俺を鋭く睨み付ける。
俺は例え話をしてみただけなのだが、伊原の中ではそれも好ましくないらしい。
まったく、女の体重に関する頓着は想像以上に恐ろしい。
しかし伊原の視線はそれほど気にならなかった。

嘘をついたりごまかしたりすることはあるが、
恥ずかしさを感じたり、誰かに気配りすることもできる。
田井中がそういう一個の人格を持った人間だと確信できたからだ。
田井中は決して動物霊や浮遊霊などではない。
例え多重人格にしても、かなり良識を持った人格なのだ。
それが分かっただけでも、今回の田井中との対談は無駄ではなかったと思える。

しかしとりあえずもう一つだけ確かめておかねばなるまい。
知ったところでどうなるわけでもないし、
知りたくて知りたくてたまらないわけではないが、
ここまで隠されたからにはそれを知る権利くらい俺にはあるだろう。


「それで田井中、お前の実際の身長は何センチなんだ?」


「ひゃ、百五十六センチ……」


「本当か?」


「ごめん、本当は百五十四センチ……」


なるほど。
それは確かに日本の女子の平均身長よりかなり低い。
前に読んだ本によると日本の女子の平均身長は百六十センチ弱だったはずだ。
もっともその田井中も、今この場にいる伊原ほど身長が低いわけではないが。

気が付くと、複雑そうな顔で伊原が田井中を見つめていた。
自分より身長が高いのに恥ずかしがっていた田井中を苦々しく思っているのだろうか。
甲高い声を出しながら、伊原が田井中の手を握った。
……握った?


「分かるわよ、たいちゃん!
平均より身長が低いと色々困るわよね!」


「お……おう、そうだよな……」


戸惑った表情の田井中とは対照的に、伊原の表情は苦々しげながら嬉しそうだ。
どうやら伊原は低身長同士として、田井中にいたくシンパシーを感じたらしかった。
いや、仲違いするよりはよっぽどよくはあるのだが。
これからの田井中と千反田のことを考えるに、その方が俺としても助かる。

それにしても。
『たいちゃん』というのは、田井中に付けたあだ名なのだろうか。


今回で一章が終わりです。
章ですが全六章くらいにする予定です。




二章 アステリズム


1.六月二十五日


「ちゃお!」


音楽室の扉を開いて俺たちを出迎えたのは聞き覚えのある声だった。
無邪気なのか単なる変人なのか、未だに判断が付かないあの先輩の声だ。
軽く溜息をつきたい気分になりながら音楽室に入ると、
俺は俺の耳の判断が間違っていなかったことが確認できた。
音楽室の中になぜかいたのは沢木口美崎。
何の因果か何度か関わり合いになったことがある。
彼女の頭の横には普段通りの団子が作られていた。


「ちゃ……、ちゃお……です」


返事を返したのは田井中だ。
飄々としたイメージのある田井中だが、この時ばかりは歪んだ笑顔を浮かべていた。
申し訳程度に『です』をつけたのは、沢木口の前では千反田を演じた方が賢明だと分かっているからだろう。
田井中の人格が俺たちの前に現れるようになってから、沢木口とは一度関わったことがある。
田井中はその時のやりとりから判断したに違いない。
沢木口には今の状況を教えるのは好ましくない、いや、絶対に教えない方がいいのだと。
あの時は俺も強くそう思った。

そんな俺たちの考えなど気付いていないようで、沢木口は楽しそうに田井中に駆け寄った。
数ヶ月前のバレンタインの際に疑いを向けたこともあり、
俺たちにあまり好感を抱いてはいないはずだという俺の想像はそれで粉々に打ち砕かれた。
あまり深く考えない代わりに、遺恨も深く持ち越さない性格なのだろう。


「いやあ、意外だったし盲点だったわ、あんた」


「な、なにがですか?」


「あいつから聞いたのよ、あんたがドラム叩けるって。
清楚なお嬢様かと思ってたのに、そのギャップがたまらないわね。
なになに?
厳粛な家庭に反抗するロックスピリッツってやつ?」


沢木口があいつと親指で指したのは、音楽室の椅子に座っている入須だった。
いつもの二割増しくらい不機嫌そうな表情を浮かべている。
今日ばかりは本当に不機嫌なのかもしれない。
入須と沢木口がどれほど親しいのかはまだ掴みかねているが、
入須の様子からすると沢木口に無理矢理付いて来られた可能性が高そうだ。
ひょっとしたら伊原との電話かメールを盗み見だもされたのだろうか。


「今日はありがとね」


「いいっていいって。
わたしたちも千反田さんがドラム叩けるなんて興味あるもん」


なんとなく視線をその会話の方向に向けてみると、
軽音部らしい女生徒と伊原が話しているのが目に入った。
柔和な笑みを浮かべている伊原の様子からは、その生徒との仲の良さが窺い知れる。
大日向や千反田ともすぐに打ち解けた伊原だ。
やはりかなり顔が広いのだろう。
漫画研究会ではその顔の広さが災いしてしまったようだが、それだけが伊原の全てではない。
伊原には敵も多いが、味方も多い。
長い付き合いではあるが、それを改めて実感させられた。

俺は軽音部員に一礼だけすると、空いている席に座らせてもらった。
勝手に座るのも失礼かもしれないかったが、
田井中と伊原に駆け寄る軽音部員たちに声を掛けられるような雰囲気でもなかった。
入須とは視線が軽く合ったが、声は掛けなかったし、あちらからも声を掛けてはこなかった。
それを誰にも見咎められなかったのは、幸いだったということにしておこう。


「でもクラスの子たちには秘密にしておいてよね?」


「分かってるってば。
あの千反田さんにドラムを嗜んでるって知られたら、一大センセーションだもんね。
壁新聞部なんか絶対に取材に来るよ。
それは千反田さんも困るんだよね?」


「うん、そうなのよ。
これはちーちゃんの隠れた趣味でね。
家の人は気にしないかもしれないけど、周りの人たちはよく思わないかもしれないじゃない?
それでちーちゃんは行きつけの楽器店で隠れてドラムの練習をしてたのよね。
でもついこの前その楽器店が遠くに移転しちゃったらしくて」


「へえ、そんな楽器店があったんだ。
オッケーオッケー。
わたしも音楽ができない辛さは知ってるつもりだよ。
うちの部員にもちゃんと口止めしとくから安心しといて」


「ありがとね」


それで伊原と軽音部員の会話は終わったらしく、
伊原は俺とは少し離れた空いている席に腰を下ろした。
しかしよく設定を考えたものだ。
豪農・千反田家の楚々としたお嬢様の趣味がドラム。
隠れて練習していたが、行きつけの楽器店が移転してしまった。
それで軽音部のドラムを使わせてほしいのだが、周囲の目もあるから秘密にしておいてほしい。
なんだか古典クラスの青春小説の設定みたいだが、基本に忠実過ぎるからか逆に誰も疑っていないようだった。
秘密の共有という軽い背徳感もアクセントになっているらしい。
まったくお約束に過ぎるが、俺としては助かるし悪い気もしない。
一応古典部の俺としては、古典が周囲に受けられているのを喜ぶべきだろう。



「できそうならあれ叩いてよね、コージー!」


「コージー・パウエル……ですか?」


「そうそう、そのコージーよ。
あのオクトパスなドラム見せてよね!」


「が、頑張りますね」


軽音部でもないのに一番盛り上がっている沢木口の声が音楽室に響く。
確か天文部だったはずだが、どうして沢木口がここに来ているんだろうか。
いや、それよりも気になるのは、沢木口に対する田井中の態度の方か。
田井中のその飄々とした様子から、
この二人は気が合いそうだと思っていたのだが、
意外と田井中の方が沢木口に苦手意識を持っているようだ。
今でも明らかに困惑した表情を浮かべ、慣れない敬語で応対している。
アテレコが得意と言っていただけあって、その声と口調色が千反田そのものなのは見事と言えば見事だが。

そういえば前に沢木口と関わり合いになってしまった時、
あの時も田井中は沢木口に困惑した表情を向けて、明らかに戸惑っていた。
エキセントリックな沢木口の性格は田井中すらも困惑わせてしまうのだろうか。
いや、たぶんだがそうではないのだろう。
おそらくは俺が思っているものと、田井中の本質が大きく異なっているということなのだ。
田井中の行動や態度は、千反田と同じくはっきりしている分読みやすい。
だが読みやすいというだけで、その本質まで分かっていると考えるのは『傲慢』というものだろう。
ずいぶん前にも考えたはずだ。
なにもかも分かっているつもりになったところで、いずれ自分の無知を自覚させられるだけなのだと。

そうだ、俺は思い出すべきなのだ。
あの日、沢木口と田井中が会話している時、意外に思われたことが何度あったかを。


短いですがこれで二章の始まりです。
よろしくお願いします。




2.六月十六日


田井中は問題なく千反田として振る舞えているようだった。
田井中への質疑応答を終えて数日が経過したが、
各方面から千反田の様子がおかしいという噂を聞くことは一度もなかった。
田井中の演技力に素直に舌を巻かされる。
まったく正反対の正確に見える千反田を演じるなど、
田井中の中に千反田の記憶の残滓があるとは言え、相当に難しいだろう。

一度、田井中と妙に親密になった伊原がそれを訊いた。
すると田井中はなんとも言えない苦笑を浮かべて答えたのだ。
「前に学祭の劇でお嬢様の役をやったことがあるんだよ」と。
アテレコが得意と言っていたことだし、そういう演技の才能でもあるのかもしれない。
誰の役を演じたのかを伊原が頻りに訊ねていたが、
田井中は結局その役に関しては濁すだけで答えようとはしなかった。
まあ学園祭で演じる劇だ。
お約束で考えると『シンデレラ』か『白雪姫』、『ロミオとジュリエット』くらいだろう。
いや、シンデレラと白雪姫はお嬢様と言うよりは姫になるか。
ならば『ロミオとジュリエット』だろうか。
別にどれでも構わないのだが。

今日の昼休み、早弁を終えていた俺は千反田のクラスを覗きに行ってみた。
省エネを心がける俺としては、無駄なエネルギー消費を抑えたい気持ちも多分にある。
だが気になるものはしょうがない。
古人曰く、百聞は一見に如かず。
気になる事態を放置していて頭を捻っていても余計に疲れるだけだ。


「先日はカチューシャを貸していただきありがとうございました」


「いいっていいって、千反田さんの役に立ててわたしも嬉しかったし!」


そう教室の中で弁当を食べながら話をしていたのは、田井中と眼鏡の某とかいう女子生徒だった。
『車輪の上ゲーム』(例によって里志がそう呼び始めた)の件で親しくなったのだろうか。
しかしまったく見事なものだった。
傍から見ているだけでは、千反田がクラスメイトと仲睦まじくしているようにしか見えない。
仕種、口調に語調、はにかみ方まで千反田そのものに見える。
軽い違和感を見せることこそあるものの、それすら一瞬でフォローしている。
千反田の中に田井中の精神が存在していることを知っている俺ですらそうなのだ。
妄執的に千反田を毎日観察している人間でもなければ、田井中が見せる些細な違和感には気付かないだろう。
そういう人間が存在するとは考えたくないが。


「あー、だっりー……」


放課後、部室に姿を現した田井中の第一声がそれだった。
完璧な演技を見せていた田井中だったが、やはり相当に無理をしていたらしい。
スカートの中からヘアゴムを取り出すとポニーテールに髪を纏め、
鞄の中に常備しているらしいカチューシャで前髪を押さえて額を出した。
『千反田』モードから『田井中』モードへの切り替えといったところだろう。
額に視線を向けてみると、既に絆創膏は貼らなくなっているようだった。
若干の痕は残っているようだったが、この程度なら綺麗に治るはずだ。



「よお」


と声を掛けてみたものの、俺にはそれ以上の言葉が出てこなかった。
千反田の中に千反田ではない誰か、田井中が存在していることはまず間違いない。
多重人格なのかそれ以外の超自然的存在なのか分からないが、とにかく存在している。
それは前回の質疑応答でよく分かっている。
しかしそれでなにが変わるというわけでもない。
これは外国からの留学生への対応と似ているかもしれない。
相手が自分と違った価値観と文化を持っていることは分かっている。
だがなにを話していいのか、なにを話してはいけないのか分からない。
そんなところだ。


「よ、ホータロー」


俺の考えを分かっていないのか、それとも分かってやっているのか。
田井中は横の髪を流しながら俺に笑いかけた。
千反田とは全く違った笑顔で、おそらくは田井中自身の笑顔で。
田井中が千反田の笑顔を浮かべられるのは、昼休みに俺も確認している。
それでも田井中は千反田の柔らかい上品な笑顔ではなく、
田井中が普段浮かべていたのだろう明るく輝く笑顔を俺に向けたのだ。
それは『車輪の上ゲーム』をクリアした俺にこそ向ける笑顔なのだろう。
俺だからこそ向けなくてはならない笑顔なのだ。

ならば俺にできることは一つしかない。
俺は田井中との挨拶をそこそこに切り上げ、早々と部室から出た。
急用を思い出したとうさんくさいいいわけをして、
田井中の相手は顔を出したばかりの伊原に任せて。
田井中から逃げ出したわけじゃない。
千反田の中にある田井中という存在。
まずその田井中が千反田の別人格と仮定するとして、俺には確かめなければならないことがある。

誰が言った言葉だったか。
『可能性を一つずつ潰していって、最後に残ったものがどんなに意外でも真実だ』と。
俺は一つずつ田井中が何者であるかの可能性を潰していかなければならない。
最後に一つ、意外であろうとそうとしか考えられない可能性を残さなければならない。
それこそが田井中と俺の望んでいることなのだ。
それは同時に俺の省エネ生活が戻ってくるということでもある。

予感はあった。
校門のほんの少し先、女子にしては背が高く、鋭い視線を有したあの人が立っていた。
この時間に俺が来なかったらどうするつもりだったのだろう。
いや、彼女のことだ。
その顔の広さと人を使う上手さを駆使して、誰かに依頼していたのだろう。
そうだな、考えられるのは古典部の部室から近い第五選択教室にある天文部の部員か。
俺が部室から出たのを確認したら直ちに連絡してほしい、そんな風にでも。
そういえばあの人と天文部のあいつはクラスメイトだったはずだ。


「やあ、折木君」


その人、女帝こと入須冬実が軽く手を上げて俺に近付いてくる。
おそらくは天文部の部員、沢木口を使っておきながら、
そんなことなどおくびにも見せない見事な演技だった。
まあいい。
それだけ入須も俺と話したかったということなのだろう。
だから俺は入須の次の言葉にも自然と頷いていた。


「少し、茶を飲むだけの時間を貰えないかな?」


そういえば、前にもこんな風に入須に誘われたことがあった。




川沿いの細い道を通り、瀟洒な佇まいの店に入る。
控え目に小豆色の暖簾の掛けられたその名の通り『お茶』の店。
名を「一二三」。
一度、入須に連れられて訪れたことがある。
まさかまた訪れることになるとは思わなかった。

畳敷きのボックス席に入り、入須がスカートを折り畳んで正座する。
女と違って男は正座に適した骨格をしていない。
そんな言い訳を自分の中でだけしてから、俺は胡坐をかいて座った。
入須は俺の胡坐を気にしてはいないようだった。


「私は抹茶にするが君はどうする?」


なんでもないことのように入須が俺に訊ねる。
じゃあ水出し玉露を、とは言わなかった。
前に飲んだ水色玉露の値段はとんでもなかったし、味もよく覚えていない。
俺にはまだ早かったということなのだろう。
一礼して、「じゃあ先輩と同じ抹茶をお願いします」と入須に頼む。
味も覚えていない高級品を飲むよりは、入須の好む味を知っておきたかった。
まあ飲む前から大体の想像は付いている。
それはそれは渋くて苦い抹茶なのだろう。

入須が前掛け姿のウェイトレスに抹茶を二つ頼むと、予想通り沈黙が訪れた。
それは前回と同じだったが、今回の入須はわざと沈黙しているようにも見えた。
例えウェイトレスにでも聞かれたくない話があるのだろう。
考えてみればここは密会にうってつけの場所だし、実際に密会に使っている人間も大勢いそうだ。
前回は単に俺を利用するためにこの店に連れてきたのだろうが、
今回は真の意味での密会のために俺を呼んだのだと考える方が妥当だろう。
俺以上に今回の事態に心を悩ませているのは、間違いなく入須のはずなのだから。


「単刀直入に言わせてもらうよ」


ウェイトレスが抹茶とお茶請けを卓に並べた直後、
よっぽど急いていたのだろう、抹茶に一口付けるよりも先に入須が切り出した。
俺は抹茶に伸ばしかけた手を膝元に戻し、入須に視線を向ける。


「なんでしょうか?」


「千反田の……、いや、田井中さんか……。
とにかく『彼女』の様子はどう?
あれからなにも変わりはない?」


予想通り入須が切り出したのは田井中、いや、千反田の話だった。
当たり前だ、今のところ俺と入須にはそれくらいしか接点がないのだから。



「変わりはありませんが、上手くやっているようです。
自分で言うのも変ですが、今日の昼休みにクラスの様子を覗きにも行きました。
まったく見事なものでした。
外から見ているだけでは普段の千反田とほとんど変わりがありません。
だと言うのに、部室ではあの田井中なんですよ。
先輩もこの前見た、陽気で大雑把な田井中律なんです。
よっぽど演技が上手いんでしょうね、あの田井中は。
もっともそちらの方が俺たちにも都合がいいんですけどね」


「そうか。
……そうだね」


「ええ、そうです」


「もう一つ訊きたい。
君は田井中さんを何だと思っているの?」


「浮遊霊とか、宇宙意思とかいう意味でですか?
どうとでも考えられますけど、一番可能性が高いのは多重人格でしょうね。
先輩もそう考えているんでしょう?」


「多重人格、解離性同一性障害、DID……。
確かにその可能性は私も考えてはいるよ、折木君。
霊魂や宇宙人の洗脳などと考えるよりは、もっとも理に適っているしね。
けれど私にはどうもそうは思えない」


「それはなぜ?」


「兆候が全くなかったからだよ。
私も千反田と短い付き合いというわけじゃない。
恥ずかしながら、君たちより深く付き合っているという自負もある。
だからこそ思うのよ、田井中さんは千反田の別人格ではないと」


珍しく客観を失った意見だと思った。
ここまで主観に満ちた入須の言葉を聞くのは初めてかもしれない。
だが同意見ではあった。
入須ほどではないが、千反田のことはそれなりに近くで見ている。
だからこそ俺も言える。
千反田が仮に多重人格であったとしても、
その発現があまりにも唐突過ぎたということを。


此度はここまでです。
そろそろあのお団子さんが出る予定です。



「兆候が全くなかったことだけを証拠に仮定しているわけではないわ。
他にも田井中さんを多重人格と考えるには無理がある理由がたくさんある。
例えば折木君は多重人格を発症する一般的な原因を知っているわよね?」


知っているわよね、とはまた買い被られたものだ。
俺が知らなければどうするつもりだったのだろう。
しかし入須の言う通り俺はそれを知っていた。
頷いて、入須の言葉を継ぐ形で続ける。


「幼少期のトラウマ……心的外傷ですね。
もちろん本で読んだ知識ですし、一般的な知識しかありませんけれども。
幼児期に精神的に耐えがたいなんらかの経験をして、
それが現実に自らに起こった事実だと認めないために、
自分の中に自分ではない誰かを作り上げ、その誰かに辛い現実を押し付けるようになる。
確か概ねそれが多重人格の発症原因だと考えられていたはずです」


「そうだね、その通りだよ、折木君。
私も詳しいわけではないけれど、家の関係上知識としては知っている」


そういえば入須の実家は総合病院だったな。
まさか多重人格の患者はいないはずだが、似た症状の患者はいるのかもしれない。


「質問ばかりで悪いが折木君、もう一つ訊かせてほしい。
私たちが知っている多重人格の発症原因と千反田える。
その二つの要素が君の中では繋がるかしら?」


「いいえ」


俺は即答していた。
千反田の過去など『氷菓』に関わった伯父のことくらいしか知らない。
千反田はあまり自分の過去を語る方ではなかったし、俺も進んで知ろうとしなかった。
それなのに千反田の過去を決めつけるような発言をしていいのか。
俺の中でそんな迷いがないと言えば嘘になる。
だが俺は即答したのだ。
それは俺の願いのようなものだったのかもしれない。
千反田が心的外傷を抱えるほど苛烈な幼少期を過ごしたわけではないのだと。
あの豪農の豪邸で家族の愛を人並みに受けて成長してきたのだと。
そう信じたかったのだと思う。

入須は俺の瞳をじっと見つめ始めた。
俺の心情を読み取ろうとしているのか、
他の理由があってからか、とにかくかなり長い間俺の瞳を見つめていた。
三度ほど唾を飲み込んだ頃、不意に入須の表情が柔らかくなった。
入須には珍しい穏やかな表情に思えた。


「私も千反田の家庭の事情を深く知っているわけじゃない。
家ぐるみで関わるのは先日の雛祭りの時くらいだからね。
内情が漏れないように子供を虐待する家庭があることも理解している。
それでも思うのよ、千反田には心的外傷を負うような幼少期を送っていないはずだと」


幼少期の心的外傷が家族からの虐待だけとは限らない。
入須が知らないだけで他の要因が千反田を襲ったのかもしれない。
例えば誘拐事件とか。
豪農の千反田家なのだ。
身代金目当てに幼い千反田が誘拐されていたとしてもおかしくはない。
しかしそれはなんと言うかこじつけに近い勝手な俺の妄想だ。
入須が千反田の幼少期に苛烈な過去がなかったはずだと言うのなら、それを信じてもいいだろう。
俺と入須が知っている千反田は、楚々としたお嬢様の皮を被った無邪気な好奇心の獣なのだから。
仮にあいつになんらかの辛い過去があるとしても、そんなものは伯父の『氷菓』の件だけでたくさんだ。



「俺もそう思います。
辛い過去を想起させるには、あいつは明る過ぎる。
いい意味でですよ、一応断っておきますが」


「ああ、分かっているよ、折木君。
もっとも多重人格の発症原因が幼少期のトラウマと断じられているわけではないけれどね。
私たちの知らない、もしかしたら精神科医ですら知らない発症原因があるのかもしれない。
人間の心の問題だからね、第三者が観察しているだけでは分からないことも多いはずよ」


入須が自嘲気味に苦笑する。
その通りだ、人間の心の問題などその本人以外誰にも分からない。
いや、本人ですら分かっているか危ういものだ。
俺だって省エネの信念を曲げて行動しつつある昨今なのだ。
それを論理的に説明しろと言われても、正確に答えられる気がしない。


「もっとも、今の千反田の状態を一番説明しやすいのが多重人格なのも事実よ」


苦笑を冷徹な表情に戻し、入須が続ける。


「精神の入れ替わり、狐憑き、憑依現象。
仮定としては成立させられるけれど、どれも現実味がないわ。
多重人格にしては違和感が多いのも確かだけれど、その方面から考えるしかないのかもしれない。
それが私の思考力の限界だけれど、折木君には他に考えられる可能性はないだろうか?」


「他の可能性ですか……」


俺もそれを考えていないわけではなかった。
現実味がある可能性から非科学的に過ぎる可能性まで、多くのことを考えた。
例えば前世の記憶だ。
前世の記憶を有している人間の都市伝説など掃いて捨てるほどある。
田井中は千反田の前世であり、ふとしたきっかけで田井中の記憶が千反田の中で蘇ったとか。

……自分で考えていて頭が痛くなってきた。
生まれ変わりがあるかどうかは置いておくとして、時系列的に既におかしい。
田井中の様子や言葉遣いを思い出してみるだけで分かる。
田井中は千反田の高校生活を何の違和感もなく受け入れていたではないか。
千反田は高校二年生だ。
田井中が死んで千反田に生まれ変わったとしても、約十七年の歳月が経過していることになる。
少なくとも十七年以上前の人間が、現代の生活を簡単に受け入れられるものなのだろうか。
例えば十七年前には携帯電話も流通していなかったはずだし、制服の着こなしもかなり異なっていたはずだ。
十七年、四捨五入して約二十年。
二十年という月日は短いようで、なにかが変わってしまうには長い時間のはずなのだ。
しかし田井中はほとんど違和感なく千反田の、俺たちの生活を受容しているように見えた。
田井中の感覚はまさに現代人のそれだったのだから。
それを前提として考えるならば、田井中が千反田の前世とは考えにくい。

そうなると残るのは田井中の存在は全て千反田の演技だという可能性になるが……。
その可能性もいくらなんでも不合理だろう。
俺たちを戸惑わせるための演技にしてはあまりにも大掛かり過ぎる。
数日かけて自分ではない誰かを何の得もなく演じるなど、俺にはごめんだ。
第一あいつはそんな性格ではない。
冗談を言うことはあるが、誰かを気まぐれで困らせるような性格でもないのだ。

そうして俺が黙り込んで頭を捻っていると、入須が軽く肩をすくめて言った。
入須も自分が無茶を言っていることは承知の上だったのだろう。



「すまない折木君。
自分になんの仮定も浮かばないからといって頼り過ぎだったわね。
とりあえず多重人格の方向から考えてみるのが一番だと思う。
幼少期の心的外傷もないと信じたいが、それとなく千反田家に探りを入れて……」


瞬間、入須が目を剥いた。
滅多に見られない入須の驚いた表情だった。
目を剥いて俺の後方の一点を注視している。
なにがあったのかとその視線を辿ってみて俺も驚いた。
軽く間抜けな声も出ていたかもしれない。
視線の先にはここにいないはずの人間の姿があったからだ。


「それは必要ないと思うぞ、冬実」


冬実。
入須のことをそう呼ぶ人間は俺はそいつ一人しか出会っていない。
そいつは結んでいたはずの髪を解き、前髪も下ろしてそこで微笑んでいた。


「田井中さん、どうしてここに?」


目を剥いたまま入須がそいつ、つまり田井中に訊ねていた。
下ろした前髪が邪魔なのだろうか、頻りに髪の先を触りながらも田井中は眩しく笑った。


「ホータローが早々に部室から出てったのが気になって尾行してみたんだよ。
あ、摩耶花は里志と一緒に帰ったはずだから心配しなくて大丈夫だぞ?
やるじゃんホータロー、まさか冬実とこんな所で逢引きしてるなんてさ。
摩耶花たちには秘密にしといてやるから、いつかなにか奢ってくれよな」


「逢引きじゃない」


「ははっ、分かってるってば、ホータロー。
冬実となにか話すことがあってこの店に来たんだよな?」


「そうだがよく俺たちに気付かれずに尾行できたな、田井中。
少なくとも俺はお前の存在なんて気付かなかった。
入須先輩は……」


皆まで言う前に入須が首を横に振った。
入須も田井中の尾行には気付いていなかったらしい。
そもそもこの店までの道程には隠れる場所など少なかったはずだ。
どうやって俺たちに気付かれずに尾行していたというのだろうか。

俺がそれを訊ねると田井中が胸を張った。
田井中の、正確には千反田の胸が大きく揺れる。
男の俺が目の前にいるというのに遠慮がない奴だ。
いや、ひょっとしたら田井中本人の胸は控え目なのかもしれない。
それで男を前にしても躊躇いなく胸を張れるのかもしれない。
いやいや、なに余計なことを考えてるんだ、俺は。
幸い俺の思考は読み取れなかったようで、胸を張ったまま田井中が続けた。


「私には探偵ごっこが好きな友達がいるのだよ、ホータローくん。
ムギって言うんだけどさ、お嬢様なのに尾行や探偵ごっこが好きな奴なんだよ。
私も一度後ろから驚かされて心臓が止まりそうになったんだよな……。
気配を消せるし神出鬼没だし、いつもびっくりさせられるんだよ、ムギには……」


それはまた変わった友人を持っているものだ。
しかしお嬢様の友人を持っているとは意外だった。
なにしろ活発な気質の田井中なのだ。
周囲に集まる人間も同様の性格だとばかり思っていたのだが。
いや、そうとは言い切れないか。
俺だって千反田というお嬢様とそれなりに深い関わりを持っている。
それを考えると田井中がお嬢様の友人を持っていても全く不思議ではない。

しかしムギとは変わった名前だった。
おそらくはあだ名だろう。
由来が苗字ならば麦田、名前なら小麦といったところだろうか。



「とにかくそれで私の尾行テクニックも上達したわけだ。
その証拠に二人とも全然私に気付かなかっただろ?」


確かに気が付かなかった。
田井中の意外な特技に舌を巻かされる。
こいつは決して大雑把で陽気なだけの女ではない。
今後田井中に隠れて行動する時は尾行にも気を付けなければなるまい。
だが田井中はそこで俺の予想していなかった言葉を続けた。


「まあ、冗談なんだけどな」


冗談かよ!
つい叫びそうになったが、周囲への迷惑も考えてどうにか堪える。
口元に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、田井中が俺の隣に座って肩を叩いた。


「悪かったって、そんな顔すんなよホータロー。
実はホータローと冬実を見かけたのは本当なんだけど、すぐに見失っちゃったんだよな。
どこに行くんだろうって気になって首を捻ってたらさ、
急に頭の中に浮かんできたんだよ、この『一二三』って店のことが。
きっとえるって子の記憶にある心当たりなんだろうな」


「そうか……」と入須が呟くのを俺は聞き逃さなかった。
入須と千反田の仲だ。
二人でこの『一二三』を訪れたことも幾度かあるのだろう。
俺の想像が正しいのを証明するように田井中が続ける。


「それでこの店を覗き込んでみたんだ。
そしたらウェイトレスさんが私の……、
じゃなくてえるって子の顔を見てすぐに案内してくれたんだよ。
冬実とえるって子は常連って言えるくらいこの店に来てるわけだし、連れだと思ってくれたみたいなんだよな。
これが私がホータローたちを見つけられた理由だ。
どうだ? 納得いったか?」



納得はできる。
釈然とはしないが。
だが今俺がするべきことは、釈然としない気持ちを田井中にぶつけることじゃない。
俺は小さく深呼吸すると、田井中から少し距離を取ってから視線をぶつけた。


「お前がこの店に来れた理由は分かった。
だが千反田家への探りが必要ないってのはどういうことだ?」


「言葉通りだぞ、ホータロー。
えるって子の家を調べる必要なんてないんだよ。
だってえるって子は小さい頃にひどい目になんてあってないんだもんな。
そりゃ人並みに嫌なこともあったみたいだけど、人の何倍も嫌なことがあったってわけじゃない。
ちょっとお金持ちの家に生まれてるけどさ、それ以外は普通の子供だったんだよ、えるって子は」


どうしてそれがお前に分かるんだと問うのも野暮だった。
田井中の中には千反田の記憶がそのまま残っている。
その田井中が言うのだ、千反田に幼少期の心的外傷などなかったのだと。
ならば信じるしかなかった。
千反田が田井中に知覚できない領域にまで記憶を沈めている可能性はもちろんある。
しかしそれは可能性でしかなかったし、可能性ばかり膨らませていてもどうにもならない。
里志の言葉ではないが『オッカムの剃刀』ってやつだろう。
可能性はどんな形でもいくらでも浮かび上がる。
そうなると可能性を絞るしかない。
田井中の言葉と千反田のまっすぐな性格を信じるしかないのだ。

それにしても田井中はどこから俺たちの会話を聞いていたのだろうか。
口振りから察するに、ほとんど聞いてたみたいじゃないか。
そういった意味では多少は尾行の才能もあるのかもしれない。
いや、盗み聞きの才能か?

なんとなく入須と視線を合わせる。
入須も俺と同じことを考えていたようで、軽く肩をすくめていた。
だが入須のその仕種は長く続かなかった。
なぜなら田井中が現れた時以上に目を剥いて、俺と田井中の後方に視線を向けたからだ。
今度はなんなんだ、と振り返るより先に俺は大きな衝撃を肩に感じた。


「ちゃお!」


「ギャー!」


二つの甲高い声が続いて『一二三』に響く。
『ギャー!』は俺ではなく田井中が上げた悲鳴だ。
思ったより小心なのだろうか。
そういえばムギという友人によく驚かされるとも言っていたか。
まあ、俺も心臓の動悸がかなり激しくなってはいるのだが。

だがその心臓の動悸は驚いたからだけではない。
非常に嫌な予感がする。
たった一言、たった三文字で自分が誰かを周囲に示している挨拶。
俺の知っている人間の中で、『ちゃお!』を挨拶に使ったことがある人間は三人しかいない。
一人は姉貴、一人は酔った千反田、そして最後の一人は……。
示し合わせたわけではないが、俺と田井中はほぼ同時に俺たちの肩を叩いた誰かに顔を向けていた。


「ちゃお!」


視線が合うと、そいつはまた同じ挨拶を繰り返した。
俺たちがそう返すまで繰り返すつもりなのだろう。
一体なにが彼女をそこまで『ちゃお!』の応酬に駆り立てるのだろうか。
田井中ではないが、俺も『ギャー!』と叫びたい気分だった。


「……ちゃお」


「ちゃ、ちゃお……」


俺、田井中の順で挨拶を返すと、そいつはお団子を揺らして笑った。
にっこりという擬音語が聞こえそうなくらいの満面の笑顔だった。
沢木口美崎。
バナナをだし汁で煮る俺たちの先輩だった。


ちゃおです。
沢木口先輩の話の始まりとなります。



「どうしてここにいるの」


右手で頭を抱えた入須が苦々しげに沢木口に訊ねる。
俺たちの肩から手を離すと、沢木口はよく見せる妙なポーズを取って微笑んだ。


「ちゃお!」


「質問に答えてもらえるとありがたいのだけれど」


「いつも通りノリが悪いわねー。
ま、いいわ、それがあんただもんね。
ってわざわざ質問に答えるまでもないでしょ?
あんたに頼まれてこの折木って子の動きを見張ってたのはあたしじゃないの。
それでどこかに向かったその子と、その子を追跡してた千反田を追跡してたわけよ」


俺は唖然とした。
俺の予想通り、入須が沢木口に俺の見張りをさせていたことにではない。
おそらくは入須に口止めされていただろうに、
俺本人がいる前で入須本人に依頼された内容をあっけらかんと話す沢木口の豪胆な気概にだ。
ある意味、感動までする。

軽く視線を向けてみると、入須が大きく溜息をついていた。
やはり依頼する相手を間違っていた、とその入須の素振りは語っていた。


「口外無用と念を押したはずだけれど」


「そうだったっけ?」


「沢木口」


「分かってるわよ、分かってるってば。
でもね、口外無用なのは分かってるけど、
あんた達がなにしてるのかの方がずっと気になっちゃったのよね。
好奇心と沈黙。
そのどっちかを選べって言われたら、あたしは躊躇いなく好奇心を選ぶタイプよ?」


「そうね、それは知っていたわ。
私はそれを知っていて、それでも大丈夫だと踏んでお前に頼んだ。
計算違いだったのは、お前が想像以上に好奇心を優先するタイプだったということ。
それに尽きるわね」


「お褒めに預かり光栄の限り」


「口外無用の約束を破られた以上、お前への報酬は無効とさせてもらうが」


「いいわよ、全然。
さっき思い出したんだけど、あたし今ダイエットしてんのよね。
あの店のケーキなんか食べたら明らかにカロリーオーバーよ。
そんな危険を冒すくらいだったら、あたしは自分の好奇心を満たすことを選ぶわ」



「そうか」


「そうよ」


俺は舌を巻かざるを得なかった。
二人がクラスメイトであったことは知っていたが、
こうまで互角にやり合える仲だったとは知らなかった。
理屈で動く入須と本能で動く沢木口。
なるほど、いいライバル関係だ。
いや、ライバルか?
まあいい、今は二人の関係は重要ではない。

俺の見張りを沢木口に依頼していたことを入須に問いただそうかとも思ったがやめておいた。
誰かに見貼られていることは既に予想していたことだし、
入須も入須でその件に関しては俺に触れられたくもないだろう。
結果的に大失敗という形になったわけだしな。
俺には死人に鞭打つ趣味はない。
俺が沈黙することで入須が負い目に感じてくれれば、後々に様々な協力も得やすくなるはずだ。
性格が悪いとは自分でも思うが、今は縋れる物なら藁でもなんでも掴みたいのが現状だ。

不意に頬にくすぐったさを感じる。
なんだろうと視線を向けると、それは田井中(千反田)の長い髪の感触だと分かった。
どうやら沢木口の傍からそそくさと俺の隣に逃げてきたらしい。
苦々しい表情を浮かべているのは、単に俺の隣で正座をしているからではないだろう。
田井中が沢木口に苦手意識を持っているのは見るからに明らかだった。

田井中はやはり暑いのか、それとも冷や汗を掻いているのか、頻りに髪を横に流している。
にも関わらず田井中が髪を結ばない理由の一つは、この店に潜入するためで間違いない。
常連とは言え、普段の千反田がしない髪型で店を訪れた場合、気付かれない可能性が大いにある。
ウェイトレスに自分が入須の連れと判断されるためには、普段通りの髪型の方が都合がいい。
髪を結ばない理由の二つ目はもっと簡単。
田井中が周囲の視線を気にしてくれているからだ。
古典部の部室を訪れる時以外、田井中は普段の千反田の髪型を貫いている。
当然だが周囲から余計な詮索をされないためだろう。
女子が髪型を劇的に変える。
なんでもないことの様だが、女子にとっては特に大きな違和感になってしまうものらしい。
俺でさえ、前に髪を切った時に様々な詮索をされてしまった。
クラスでも目立つの方の千反田が髪型を変えたとなると、
特に面白い話題の無い我が高校では一大センセーションにもなりかねない。

その田井中の軽い気遣いが、今は功を奏しているようだった。
女子が髪型を変えようと気にもしない人間も大勢いる。
例えば俺がそうだし、おそらくは入須もそうだろう。
だが沢木口がそうでないのは火を見るよりも明らかだった。
千反田が見慣れない髪型をしているのを確認したが最後、
あることないことを詮索し、あることないことを周囲に広めることだろう。
もちろんなんの悪意もなく。
千反田の今の状況がこれ以上ややこしくなるのは、俺としても是非避けたいところだ。

だがそれを念頭に置いたとしても、田井中が沢木口を苦手にしているのは意外だった。
沢木口ほどではないにしても、田井中もそれなりにエキセントリックな性格に思えるのだが。
見知らぬ誰かの身体の中に自分の精神だけ存在しているという状況。
その非現実的な状況の中でさえ田井中はとても落ち着いている。
少なくとも俺にはそう見える。
それをエキセントリックと言わずして、なにをエキセントリックと言うのだろう。

それとも田井中の中の千反田の記憶が起因しているのだろうか。
俺が憶えている限り、千反田と沢木口が関わったのは三度だけだったはずだ。
入須のクラスの出し物の映画の際、
ワイルドファイアの際、そしてバレンタインの際、その三度。
その三度の間に千反田が沢木口に苦手意識を抱くなにかがあったのだろうか。
俺がそこに思考を至らせるより先に、その根本原因が入須の隣に座って身を乗り出した。


「それでなになに?
あんたらまた映画でも製作しようとしてるの?」


「映画……?」


俺が問うと、沢木口はオーバーアクション気味に肩を落とした。



「今更隠さなくてもいいっての。
さっきまで話してたでしょ?
多重人格がどうとかどこかの家に探りを入れる予定だとか。
まあ、ウェイトレスさんとそこの千反田から隠れながら聞いてたから、色々聞き逃しちゃったけんだけどね」


どうやらカウンターすら通さず入店したらしい。
肝心な点を聞き逃してくれたのはなによりだが、防犯的にどうなのだろうか。
事態を知られたら、警察を呼ばれても文句は言えないと思うのは俺だけか?
いや、今は沢木口の勘違いを幸いと考えておくべきだろう。
俺が視線を向けると、入須は沢木口に気付かれないように静かに頷いた。
察しがよくて助かる。
俺は一呼吸置いてから口から出任せを並べる。


「はい、実はそうなんですよ、沢木口先輩。
前にクラスの映画製作に関わらせて頂いて、脚本に興味が出始めたんです。
それで入須先輩に相談させてもらっていたところなんです。
俺の前の脚本の監修をしてくれたのも入須先輩ですし、
いざ映画を自主製作するとなると人手が必要じゃないですか。
その点、入須先輩なら多くの伝手があるでしょうし」


よくぞ即興でここまで作り話が作れるものだ。
自分で自分を褒めてやりたい。
田井中が不思議そうな視線を俺に投げ掛けていたが、それは無視する。
田井中とは対照的に沢木口は実に嬉しそうな表情で頷いていた。


「うんうん、やっぱりあたしの推測は正しかったわけね。
だけどそれなら人選を間違っているわよ、あんた。
入須には確かに伝手があるでしょうけど、脚本の相談なら適任がいるでしょう」


まさか。


「そう、あたしよ、あ・た・し!
前の映画の時もあたしの意見が役に立ったと思わない?
ほら、カメラマンが犯人だったなんて意外だったけど、
あんたはその意外性をあたしの意見から読み取ったんでしょ?」


そんなわけないだろう!
鍵を無視して事件を解決するという意外性には、確かにある意味感銘を受けたが。
しかしそれとこれとは全く違う。
どう返していいか分からず、俺は入須に縋る様な視線を向けた。
だが入須はなにも言わずに首を横に振るだけだった。
さいですか。
とにかく話を合わせろということですか。
溜息をつきたいのをどうにか耐え、俺はまた作り話を始める。


「はい、沢木口先輩の意見を聞いて、俺もあの脚本に考えが至れたんです。
ミステリーと聞いて推理小説を思い浮かべる己の狭量を実感させられました。
それでやっと広い視点で物事を考えられるようになったんです。
沢木口先輩のおかげです。
その節はどうもありがとうございました」


「うんうん、それはなによりだったわ。
それであたしから一つ申し出たいことがあるんだけどいいかしら?」


聞きたくない。
聞きたくないが聞かないわけにもいかないか。
俺は俺にできる精一杯の演技で首を傾げてみせた。



「はい、なんでしょうか?」


「その映画にあたしも関わらせてほしいのよ。
実を言うと、あたし前の映画製作で謎解きにはまっちゃったのよね。
少ない資料から答えを読み取る楽しさを知ったって感じ?
それで発案ってわけ。
あんたが脚本で悩んでるんなら、あたしが手伝ってあげてもいいって言ってるのよ。
かなり役に立てると思うけど、どう?」


それで盗み聞きをやめて急に姿を現したわけか。
実にありがた迷惑だ。
彼女ならかなり見当違いな答えを出してくれることだろう。
だがそれも悪くないかもしれないと思う俺もいた。
前回の沢木口の答えもある意味衝撃的だったし、どうせ八方ふさがりの状態なのだ。
沢木口の出した答えで広く物を見てみるのも悪くない。


今回はここまでです。
またよろしくお願いします。



「すみません、お願いできますか?」


俺が頭を軽く下げるとご満悦な様子で沢木口が微笑んだ。
しかし早速話を始めようと俺が口を開くと手だけで制された。
なにをするつもりなのかと思ったら熱心にメニューを見始めていた。
俺たちの話の盗み聞きをしていて喉でも乾いたのだろう。
沢木口が喉を潤したいのならば、止める理由は特にない。
だが沢木口は「げっ」と苦そうな表情になるとメニューを伏せた。
気持ちは分からないでもない。
下手なディナーより高い額をお茶に出す気にはなれなかったのだろう。


「えーと、それじゃあ……」


沢木口は表情を変えると、何度か入須に視線を向けた後で俺に視線を向けた。
その前に何度か入須に視線を向けていたのは、奢ってほしかったからだろう。
しかし入須は目を閉じてお茶を飲んでいたし、
一度たりとも沢木口に視線に関心を示すこともなかった。
女帝の面目躍如といったところだろうか。
先刻は送れを取ってしまったものの、やはり沢木口の扱いには一日の長があるらしい。
「ちっ」と沢木口の方から舌打ちが聞こえた気がしたが、
それは入須に倣って俺も全く興味を示していない素振りを取る事に決める。


「それじゃああんたの話を聞きましょうか」


話がやっと展開したので沢木口に視線を戻す。
見事なものだった。
浮かべていたはずの苦々しげな表情はどこへやら、ご満悦な笑顔に戻っている。
誰かに頼られること自体が嬉しいのかもしれない。
そういえば天文部の部員にも妙に慕われているようでもあった。
俺は一息ついてから、今度こそ沢木口への質問を始める。


「はい、ありがとうございます。
それでは早速一つ聞かせて頂きたいんですが、
沢木口先輩は多重人格についてはどういう認識を持ってらっしゃいますか?」


「やっぱり多重人格を次回作のテーマにしたいわけ?」


「ええ、自分の中に自分の知らない謎の人格がある。
そういったテーマを扱ってみたくなったんです。
もっとも正確には多重人格に限った話ではないんですが。
人間の中に本人ではない別人の人格があるとして、
それを論理的に説明する斬新な設定がないかと模索しているところなんです」


「へえ、相変わらず細かい設定まで考えているのねえ、あんた」


そう言われる気がしていたが、かく言う俺自身も同じ気持ちだった。
もしも俺が今の質問を自身に浴びせられていたら、
どうでもいい設定が細か過ぎると苦言を呈していたところだろう。
実を言うと、今でもそうしたい気分で満ち溢れている。
だがこれは映画の設定ではなく、まさに俺たちの目の前に立ち塞がっている現実なのだ。
現実に細か過ぎると文句を付けるなど、完全に思春期の中学生の言動ではないか。
だからこそ俺たちはどんなに理不尽でも考えるしかないのだ。
現在起こってしまっている現実のことを。



「多重人格ってのは小さな頃のトラウマが原因なんだっけ?」


沢木口が自前のお団子を触りながら訊ねてくる。
細かいと言いながらも彼女なりに考えてくれるらしい。
そういう誠意は持っている先輩なのだ、一応。


「そうですね、俺も本で読んだだけなんですがそういう説が多いみたいです。
幼少期に耐えがたいなんらかの経験をして、
その経験から自分の精神を守るために別の人格を生み出す。
耐えがたい現実が自分ではなく他人に起こっているのだと思い込むために。
一般にはそう言われています」


「ミステリーでよく見る展開よね」


いや、それはミステリーよりホラーよりだろう。
どうやら沢木口はまだミステリーとホラーを混同しているらしい。
だがそれを指摘するのも野暮だし、会話を止めるほどのことでもない。
俺が指摘しなかったおかげか、途切れることなく沢木口の言葉が続いた。


「別によく見る展開が悪いってわけじゃないんだけどね、
最近だと中学生にもその設定は飽きてるって言われると思うわよ?」


「俺もそう思います。
別人格の正体が単なる多重人格だなんて、今時の視聴者には求められていないでしょう。
一応、主人公が多重人格の謎を知るためにヒロインの実家を探る、
という冒険譚的な要素も考えましたが、それも先程入須先輩に止められたばかりです。
それではありきたり過ぎるし、そういう調査のシーンが視聴者にもっとも退屈だと」


「それで家を探る必要はないとか言ってたわけね。
確かにねえ、あたしもミステリーの調査シーンは眠くなるわ。
尺合わせのためなのかもしれないけど、どうにかならないかしらね、ああいうシーンは」


「そこで沢木口先輩の力を貸して頂きたいんです。
画期的で斬新だとはまでは言いませんが、少なくとも多少は意外性がある別人格の正体。
それについてなにか思いつきませんか?
とりあえず俺たちは幽霊の憑依や前世の人格などを考えてみたんですが」


仮に田井中の正体が千反田の生み出した精神学的な意味での別人格だとしても、それはそれで構わないのだが。
もちろんそれは俺の胸の中でだけ呟いておいた。
今は別の可能性について思いを至らせてみるべき時なのだ。

二秒ほど、沢木口は首を捻っていた。
二秒だけだ。
二秒経つと、沢木口は口元を楽しそうに歪めていた。


「あるわよ、それなりに斬新な別人格の正体」


「本当ですかっ?」


軽く叫んだのは俺ではなく田井中だった。
確かに田井中の正体について一番興味があるのは、他ならぬ田井中自身だろう。
「わたし、気になります!」とでも言わんばかりに目を見開いていた。
しかし田井中はその言葉を口にしなかったし、なぜだか俺はそれに安心していた。
沢木口が心底嬉しそうな表情で田井中に視線を向ける。



「本当も本当だってば。
しかも前世とか憑依とか洗脳とかよりずっと科学的で論理的なやつよ。
でもすぐに教えちゃうのも面白くないわね。
どう? 入須はそれについてなにか心当たりがある?」


「残念ながら私も折木君と頭を悩ませていた身だからね。
しかも科学的に論理的な説明がつく答えなんでしょう?
正直な話、見当も付かないわ」


「うふふ、そうでしょうそうでしょう。
頭の固い入須じゃねえ……。
絶対に思いも寄らない答えだと思うわよ?
千反田だったわよね?
あんたにはその答えが分かりそう?」


「えっ?
ちょっと待てよ……。
えーっと、科学的なんだろ……?」


敬語を使うのも忘れて田井中が自分の頭を掻き始める。
幸い沢木口はその田井中の様子は気にも留めていないようだった。
俺たちが思いも寄らない答えを自分が持っているのがよっぽど嬉しいらしい。
それほどの答えを持っているということなのだろう。
しかし沢木口から科学的という言葉が聞けるとは思わなかった。
前の映画の件もあって、沢木口は俺の中でもっとも科学から縁遠い存在だったのだが。
それでも自信満々に言っているからには、本当に論理的に説明できているのだろう。
さて、俺たちの思いも寄らない答えとはなんなのだろうか。

沢木口がそれを答えるより先に、まずは田井中がとりあえずの仮定を口にした。


「別人同士の脳味噌だけ入れ替えた……とか?」


嫌な想像だった。
だが確かに科学的と言えなくもない答えでもある。
別人同士の脳を入れ替えてしまえば、
他人からすれば知人が別人格に乗っ取られたようにしか見えまい。
残念ながらそれはありえないことは俺は知っているのだが。
現代の科学で可能なはずがないと指摘するわけではない。
突然発現した田井中は知らないことだろうが、
田井中は里志と千反田が会話している時に突然現れたのだ。
発現するほんの数秒前まで、田井中は千反田だったのだ。
田井中と千反田の脳を入れ替えただけでは、こんな現象が起こるはずもない。
それに記憶を共有している件もある。
残念ながら田井中の答えは間違っていると言わざるを得なかった。

沢木口の考えていた答えとも違っていたらしい。
何度か見かけたことがあるクイズ番組のように長く溜めて、沢木口が言った。


「残………念っ!」


「やっぱり間違ってたか……。
ではなくて、間違ってましたか……」


口調を千反田のそれに戻して田井中が肩を落とす。
まさか正解していると考えていたわけではないだろうが、
せっかく見つけることができた答えが間違っているのは残念らしかった。
やはり田井中も田井中なりに必死に考えているのだ。
沢木口は肩を落とす田井中の肩を慰めるように叩く。


「そんなに気を落とさなくたっていいわよ。
だってあんたの答え、結構惜しかったんだから。
あたしってばヒント出し過ぎちゃったかしらね?」


「惜しかった……ですか?」



「そうよ、かなり惜しかったわ。
まあ、これ以上もったいぶるのも悪いわね。
これから画期的な別人格の正体について教えてあげるから、耳をかっぽじってよーく聞きなさいよ?」


「わ、分かりました」


「じゃあ教えるわよ。
科学的で論理的に説明できる別人格の正体、それは……!」


「それは……?」


「そいつの中にもう一個脳味噌が入ってるのよ!」


「……………は?」


「鈍いわねー……。
つまりこういうこと!
その多重人格に見えた登場人物の頭蓋骨の中には、脳味噌が二つ入ってるのよ!
それなら人格が二つあってもおかしくないし、これなら科学的な説明にもなってるじゃない!
『俺に不可能はない!』って感じにね。

どうかしら?
このミッドナイトにシャッフルしそうな斬新な答えは!」


その場に倒れ込みそうになりながらも、俺は妙に冷静な頭で考えていた。
そうなのだ。
彼女は沢木口美崎なのだ。
鍵を無視して密室トリックを解決するような先輩なのだ。
だからこれはある意味予想できていた答えなのだ。
そうとでも思わなければやってられない。

確かに科学的で論理的な答えではある。
問、その登場人物の中に二つの人格がある理由を答えよ。
答、脳が二つあるから。
明快だ。
非常に限りなく明快だ。
これなら記憶を共有していても問題なくも思える。
科学的と言えなくもないだろう。

それにしてもどこかで聞いたような設定の気がするが、気のせいだろうか。
俺が沢木口に訊ねるより先に入須が溜息交じりに呟いていた。


「確かあったわね、そんなドラマ」


それで思い出した。
確かタイトルは『銀狼怪奇ファイル』。
ジャンルは怪奇ミステリーに分類されるのだろうか。
大人しい主人公が凶暴な人格に変貌する理由が、
沢木口が語ったように脳が二つあったからだったはずだ。
姉貴が録画してよく観返していたから、俺もなんとなく記憶に残っている。
子供心ながらにそれはないだろうというトリックが多かった気がするが、
姉貴が笑いながらそれを指摘していたので、そういう楽しみ方があるドラマだったのだろう。

姉貴が観ていたのだから、沢木口がそのドラマを見ていてもおかしくない。
そのドラマから着想を得て、別人格の正体を考えてくれるのも構わない。
問題は沢木口がそれを画期的だと思っていることだ。
画期的で斬新もなにも、既に全国ネットで放映されているではないか。
沢木口はこれを本当に画期的だと思っているのだろうか。
……本当に思っていそうで困る。


今回はここまでです。
そろそろ二章も終わりです。



「脳が二つ……ですか」


田井中が意味深に呟く。
まさか信じているわけではないだろうが、可能性を捨て切れないのも確かだった。
原因が分からないままであれば、病院で検査してもらうことも考慮すべきかもしれない。
幸い入須の家は病院だ。
入須に依頼すれば、うまく取り計らってくれないこともないだろう。


「斬新な答えだったでしょ」


沢木口が満足気に続ける。
ドラマからの流用だというのに、どうしてこんなに満足気な表情を見せられるのだろうか。
その俺の腑に落ちない感情を読み取ったのだろうか。
沢木口は俺のお茶請けの菓子を勝手に口に入れてから胸を張った。


「お、あんたもあのドラマは知ってたみたいね。
あんた、ひょっとして元ネタがあるのに斬新も画期的もないとか思ってない?
元ネタがあるのは否定しないけどね、でもちょっと考えてくれる?
あんたは一度でも多重人格について、こういう考え方をしたことがあるの?」


俺は素直に首を横に振った。
確かに考えたこともなかった。
俺に想像できる範疇を超えているからだ。


「でしょ?
つまりはそういうことなのよ、分かる?
元ネタがあったとしても、前例があったとしても、
視聴者がそれを考えつかなかった時点でそれは斬新で画期的なのよ。
それにね、あんたもあのドラマを知ってたのに、
脳が二つあるってネタを思いつかなかったじゃない」


「ですがそれは」


非科学的に過ぎないだろうか。
多重人格の作品の結末としては禁じ手なのではないだろうか。
俺はその言葉を口にはしなかった。
なにを言っても空々しく感じられる気がしたからだ。
言葉の途中で俺が口を閉じたのを見届けた後、沢木口は軽い感じに指を立てた。


「あんたたちさ、アステリズムって知ってる?」


俺は知らない。
視線を向けると入須も首を振った。
なにかの専門用語だろうか?
そう考えていると解答は意外なところからもたらされた。


「北斗七星や南斗六星などの星座ではない星群のことですよね?」


答えたのは田井中だった。
星群ということは天文学か。
確かに沢木口に天文部だが、その口から天文学の用語が出るとは意外だった。
意外と言えば、田井中の口からその用語の説明が出たこともそうだが。
千反田が記憶していたことだったのだろうか。



「そうよ、よく知ってるじゃない。
あんたの言う通りアステリズムは北斗七星とかの、星座以外の星群のことよ。
まあ、別に星座でもいいんだけどね。
星座も昔はアステリズムだったみたいだし。
それにしても千反田、あんた誰か天文学に詳しい知り合いでもいるの?」


「あ、えっと、幼馴染みがちょっと星座が好きで……」


十文字のことだろうか。
いや、なんとなくだが違う気がする。
もしかしたら田井中自身の幼馴染みのことかもしれない。
確か澪とか言ったか。
詳しく話されたわけではなかったが、星座を好みそうな印象に思えた。


「へえ、その子とは一度語ってみたいところね。
けど今はそれよりアステリズムの話よ。
北斗七星や南斗六星はもちろん地球から見た星の並びよね?
星座もそうだけど、アステリズムは地球に住んでる昔の誰かさんが考えた星群なのよ。
そこであんたたちに問題よ。
その星座やアステリズムを構成する星は、現実にもお互いに関係がある星でしょうか?
『はい』か『いいえ』でお答えください」


「いいえ」


示し合わせたわけではないのに、俺と入須と田井中の声が重なった。
それくらい当然の答えだった。
小学生でも知っている。
星座は人間が空の星の配置に勝手に意味づけたものでしかない。
星座を構成する各々の星は近い場所にあるように見えるというだけで、
地球からの距離は各々遥かに異なっているし、空間的にまとまっているわけでもない。


「そういうことよ」


沢木口が今度は入須のお茶請けを口に入れる。
お茶請けくらいで目くじらを立てはしないが、喉が渇いてるんじゃなかったのだろうか。


「アステリズムも星座も昔の人間が勝手に決めたもの。
実際にはなんの関係もないのに、無理矢理こじつけただけの星の物語なのよね。
そうじゃないかって勝手に想像してね。
多重人格もそうだって思わない?」


少しだけ驚かされた。
沢木口は俺が考えている以上に物事をちゃんと捉えている。
俺とは思考の方向性が全く異なってはいるが。


「多重人格ってのはあれよね?
小さな頃のトラウマとかで発症するって言われてるんでしょ?
そう言われたら正しい気もするけど、冷静に考えたら変な話よね。
だって他人の心の話じゃない。
他人の心の問題を勝手にそうじゃないかってこじつけてるだけだと思わない?
それこそトラウマじゃなくて、幽霊や洗脳の可能性だってあるにはあるのに。
他人の心の中なんてどうやったって分かんないのにね」


その通りだ。
他人の心の中など覗けるはずもない。
そうではないかと仮定することこそ出来るが、それは単なるこじつけでしかない。
俺も前に千反田に言ったではないか。
『理屈と膏薬はどこにでもくっつく』。
物事はどのようにでも理屈でこじつけられる。
正しいか誤りなのかはともかく、どんな形にでもくっつけられる。
それが星座であり、アステリズムであり、ともすれば多重人格もそうかもしれないのだ。
それこそ沢木口が言うように、脳が二つあるから多重人格になった人間がいないとも限らない。


「だからあたしは面白い方を選ぶことにしてるのよ」



急に話題が変わって面食らった。
しかし沢木口の中では話が繋がっているようだった。
素直に続きの言葉を待つことにする。


「星座もアステリズムも人間が勝手に考えたこじつけ。
関係がありそうな星の間には、ほとんどなんの関係もない。
踏まれた蟹を可哀想に思って、神様が星座にしてあげたなんてこともないわ。

でもなにか関係あるって考えて星空を見た方が面白いじゃない?
例えば蠍座には蠍型の宇宙人がいるって考えた方がすっごくワクワクする。
こじつけでもなんでも面白い方が面白いでしょ?
だからあたしは天文部で天文観測してるのよね、たまにだけど」


さいですか。
だが感じ入らないわけではない。
面白い方が面白い。
重なるのは里志の姿だ。
あいつは勝ち方にこだわって俺にゲームで負けて、それを面白いと考えている。
俺にはまだ理解できそうもないが、里志と沢木口はそういう生き方を選べる人間なのだ。
その生き方を否定するつもりはない。

ともかく今の俺に言えることは一つだけ。
今の田井中に関してなにを考えようとも、それはこじつけでしかないのだろうということだ。
いつかは理に適った答えを出すことができるのかもしれない。
だがそれを後から考えてみた時、それすらもこじつけであったと気付くことが、あるのかもしれない。

軽く視線を向けてみる。
闖入者であるにもかかわらず、沢木口は平然とウェイトレスにお冷やを頼んでいた。




3.六月十七日


田井中のことばかりを考えて生きていられるわけではない。
部に顔を出さずに帰った放課後、
田井中から返却された『車輪の下』を読んでいると、姉貴に大きな声で呼ばれた。
俺に電話とのことだった。
誰かと問うと実に楽しそうな表情で受話器だけ渡された。
小さく溜息をついてから電話の先の相手に訊ねてみる。


「もしもし?」


「お、やっと出た。
よっ、ホータロー、私だよ私」


「名前を名乗ってくれ」


「いけずだなあ、ホータロー。
私とホータローの仲じゃんかよー」


「どういう仲だ。
まあいい、とにかくなんの用だ、田井中」


「うん、ちょっとホータローに伝えときたいことがあってさ。
今日伝えようと思ってたのに、ホータロー部室に顔出さないんだもんな」


「それは悪かったが、俺だって部室に顔を出さない日くらいある」


「分かってるよ。
それでホータロー、今ちょっといいか?」


「別に構わない」


「あんがとさん。
実は昨日ホータローたちと別れた後で調べてみたことがあるんだよ。
それをホータローに伝えておいた方がいいかと思ってさ」


「何を調べたんだ?」


「学校のことだよ、私の学校。
ほら、私の母校の桜が丘女子だよ。
千反田家のパソコンでネット使って調べてみた」


何度か千反田とチャットで話したことがある。
田井中がネットでなにかを調べてもおかしくはない。


「それで?」


「結論から言うと検索に引っ掛からなかったんだよ、うちの学校。
今のご時世、ネットに引っ掛からない学校なんてないだろう。
絶対とは言い切れないけど、うちの学校は存在しないんじゃないかと思うんだよ」


実は俺もそれは知っていた。
田井中に自己紹介された後、検索してみたのだ。
知っていて切り出せなかった。
どう判断していいか分からなかった。
田井中が語る母校が存在していない。
これは田井中の過去が全て妄想だということなのか、それとも。
俺はその考えを口に出さず、別の可能性を話してみることにした。



「平行世界……パラレルワールドってやつなのかもしれない。
俺の住む世界と田井中の住む世界が似て非なる世界だという可能性だ。
それならばお前の母校がこの世界に存在していない説明はできる。
平行世界がありうるか論じるのは今更だな。
現に田井中は存在しているんだ。
お前が平行世界の人間の意識だとしても、別に不思議じゃない」


「おっ、頭が柔らかくなってきたじゃんか、ホータロー。
あの沢木口の影響か?
昨日のあの子の推理はすごかったもんな」


「確かにすごかったが、それより俺はお前の態度が気になった」


「私の? なにが?」


「お前と沢木口は似通ったタイプだと思っていた。
二人揃うとお前らだけの別世界に誘われるかと危惧していたんだが、そんなことはなくて幸いだった」


「お前は私をなんだと思ってるんだよ……。
うーん、でも確かにそうかもな。
別に嫌いってわけじゃないんだけど、沢木口はちょっと苦手なタイプなんだよ。
ぐいぐい誰かを引っ張るタイプじゃん、沢木口って。
私ってそういうタイプが苦手みたいなんだよな」


なるほど、言われてみればそういうものなのかもしれない。
『船頭多くして船山に登る』といったところか。
人を引っ張ることに慣れた人間が、引っ張られることに慣れていないのは自明の理だ。
特に引っ張る力は間違いなく田井中より沢木口が上だろうしな。


今回はここまでです。
次回二章完結だと思います。



「それよりさ、ホータロー」


「どうした」


「なんちゃら怪奇ファイルだっけ?
よくそんなドラマのことを知ってたよな」


「銀狼怪奇ファイルだ。
俺とは少し世代がずれていたんだが、姉貴が好きでよく観せられていたからな。
それより田井中は観ていないのか?
確かお前は十八歳とか言っていたよな。
姉貴とほぼ同世代なら知っているドラマだと思っていたんだが。
もっとも地方によって差があるのが普通なのかもしれないけどな」


「うん、地方の差ってのもあるかもな。
私の住んでた街ってここよりずっと都会だったしさ」


住んでいる地方によって、同世代でも流行している物は全く違う。
そういう話を始めるのかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。
数秒意味深な沈黙が続いた後、田井中は「ごめんな」と小さく言った。
俺は少し戸惑って軽く返してみる。


「謝られる理由が思い当たらないのだが」


「それはこれから話すってことで……。
実はさ、私、ホータローたちに一つ伝えてなかったことがあったんだ。
隠すつもりはなかった……のかな?
どっちにしろどう伝えていいのか悩んでたのは本当だ。
摩耶花のインタビューでも訊かれなかったから、黙ったままでもいいかと思ってた。
でもホータローたちは私の期待以上に私のことを考えてくれてるだろ?
いや、私じゃなくてえるって子の方のことを考えてるのかもな。

だけどどっちでも嬉しいんだよな、私。
ホータローたちが誰かのために頑張ってくれる奴だってことがさ。
だから黙ってたことを話したいと思うんだ」


千反田と田井中。
どちらのことを心配しているのかと問われたら、俺は迷わず千反田と答える。
当然だ。
俺は田井中と知り合ってからまだほんの数日しか経っていない。
優先して考えるのは千反田の方に決まっている。
すぐにでも元の千反田に戻ってもらって、平穏な日常を取り戻したい。

だが可能であれば、田井中にもいい形でこの問題を解決したいと俺は考え始めている。
例えば田井中が仮に千反田の別人格であったとして、
薬剤の治療などで無理に田井中を消失させるのでなく、
田井中にも千反田にも双方理がある解決策を探りたい。
そう考えるくらいには、俺は田井中のことが嫌いではない。

いや、今はそれよりも田井中の黙っていたことを知る方が第一か。
俺は深呼吸した後、額の汗を少しだけ拭った。



「話してみろ」


「ああ、サンキュな。
じゃあそれを話す前に訊いておきたいんだけどさ、ホータローは私の誕生日って憶えてるか?」


「確か八月の……二十一日だったか」


「お、よく憶えてるじゃんか」


「別に難しいプロフィールじゃなかったからな。
それでお前の誕生日がなんだって言うんだ?
もしかしてその誕生日が嘘だったとでも言うつもりか?」


「誕生日で嘘をつく奴なんてそうはいないだろ……。
んじゃもう一つ質問だ。
今日は西暦何年の何月何日だ?」


「……西暦二〇〇一年六月十七日だ」


「だよな。
そうなんだよな。
えるって子の記憶でもそうだったし、新聞とテレビでも確認した。
今日は西暦二〇〇一年の六月一七日だ。

それでさ、私が訊かれなかったから黙っていたのは、生年月日のことなんだよ。
誕生日じゃなくて生年月日な。
まあ、歳を訊ねた後にわざわざ生年月日を訊く奴は少ないよな。
逆算すりゃ分かることなんだし。

……もったいぶってても意味ないから言うな。
うん、もう分かってると思うけど、変なのは私の生年月日なんだよ。
私の生年月日はさ、西暦一九九一年の八月二十一日なんだ」


「……お前の本当の年齢が十歳というわけではなさそうだな」


「話してて私が十歳の女の子に思えるか?」


「いや」


大人びた十歳は確かにいる。
だがこうして会話している限りでは、田井中はそれとは違っているように思える。
田井中は幼い精神構造をしている。
少なくとも俺の周囲の同級生たちよりも、よっぽど大雑把で無邪気で元気だ。
しかし不意に見せる田井中の表情、考察力は完全に十歳のそれではなかった。
少なからずの経験を重ねた人間のそれだった。
俺の感覚でしかないが、田井中は十歳ではありえないはずだ。
ということは。



「お前に残っている最後の記憶は二〇一〇年のものだということか?」


「さすがはホータローだ、話が早くて助かるよ。
ああ、そうなんだよな。
私は二〇一〇年の未来からこの時代にやってきたんだ」


未来人みたいなことを言うな。
思わずそう言いそうになったがやめておいた。
悪い冗談にしか思えないが、実際にそうなのだ。
銀狼怪奇ファイルを知らないわけだ。
田井中の記憶にある世界がこの世界と同一であったとして、
田井中が一九九一年生まれだというのならば、年齢的にあのドラマを観賞してはいないだろう。


「そういえばお前は言っていたな、田井中」


「なにか言ったっけ?」


「『たぶんそうじゃないと思う』。
入須先輩たちがお前の意識の不連続性について語っていた時のお前の言葉だ。
今年の三月から三ヶ月以上眠っていたお前の精神が、
今更のように千反田の肉体に宿ったって仮説を語っていた時のだよ」


「よく憶えてる……、いや、よく聞いてたな、ホータロー」


「耳聡い方なんでね。
それよりだ。
お前の元の身体がある世界が西暦二〇一〇年だと言うのなら、前提条件から変わってくる。
道理でお前の意識とこの世界の時間に連続性がないわけだ。
そもそもが別世界だったんだよ、お前の憶えている世界とこの世界は。
それがなにを意味しているのか、俺にも分からないが」


「私もだよ。
どういうことなんだろうってずっと悩んでたんだよな、私も。
それでも訊かせてくれるか?
私は心だけタイムスリップして、えるって子の身体に入っちゃったのか?
それともこのホータローの世界とは全然違うパラレルワールドから心だけ来ちゃったのか?」


どちらでもありうるし、どちらもありえないと俺は感じた。
桜が丘女子という高校の存在が確認できてない以上、
パラレルワールドの可能性の方が高いはずだとは思う。
単なるタイムスリップであれば、田井中の母校は確実に存在している。
もっとも確認できてないというだけであり、存在している可能性も残っている。
田井中の真実を知りたいのであれば、もっと身を入れて調査を始めるべきだろう。
しかし。

しかし、だ。
こうありえないことが続くと、腰が引けてしまうのも確かだった。
迷信でしかないと思っていたことが、現実に起こりうるかもしれないと思ってしまうのだ。
考えるのも馬鹿馬鹿しいが、パラレルワールドを扱う作品のお約束のことだ。
パラレルワールドの中で同一の人間が出会ってしまった瞬間、
その人間がこの世界から消失してしまうというありがちなお約束。
パラレルワールドに限った話ではない。
作品によっては未来の自分と現代の自分が出会うと消失してしまうというものも多い。
同一の存在が接触するのは非常に危険なのだ。

誰が試したんだと文句を言いたくなる。
そんな証拠がどこにあるんだと笑い飛ばしてやりたくもある。
だが俺にはそれができない。
仮に、万が一にでも、それが事実だとしたら、田井中にそれを試させるわけにはいかない。
一億円貰える代わりに百分の一の確率で死亡するボタンを押してみろ、という思考実験のようなものだ。
確率的にまずありえないことは理解している。
だが可能性が僅かでも存在する以上、試すわけにはいかない。
つまり結局、今のところ俺に話せることはなにもないのだ。

それから五分以上、
俺は電話先の田井中になにも答えてやることができなかった。
散々悩んで口に出せたのは、「分からない」の一言だけだった。


今回はここまでです。
二章もこれで終了です。
次回からは眼鏡の人が出る予定です。




三章 我思う、ゆえに


1.六月二十五日


田井中のドラム演奏が始まる。
まずは手始めに、他のパートを加えずドラムだけで。
ドラムの椅子にがに股で座った田井中……、
千反田の姿は新鮮だったが妙に似合っているように思えた。
田井中も部室や教室では自制していたのだろう、あれで。
久しぶりに素の自分を見せられる解放感があるのかもしれない。
無表情に見せかけてはいるが、滲み出る微笑みを隠し切れてはいなかった。


「それでは叩かせていただきますね」


口調だけは千反田のそれを崩さず、
まずは並べられたドラムを順番に叩いていく。
何度か締まらない気の抜ける音がしたが、それは最初の方だけだった。
初めて叩くドラムセットに少し戸惑っていただけなのだろう。
田井中は少しずつ確実に修正していく。
田井中自身が自らの奏でるリズムとシンクロしていく。
音を奏でているのは田井中のドラムだけだと言うのに、
軽音部に集った観客全員に強いリズムを感じさせているようだった。
俺自身も含めて、だ。

俺は音楽にはそれほど明るくない。
たまに気になった曲をレンタルするくらいだ。
本を読む際に音楽を流すこともほとんどない。
だがそんな音楽には完全に素人である俺にでさえ、
田井中のドラムはかなりの腕前であるように思えた。
少なくとも俺では何年かけても田井中のレベルにまで達せる気がしない。
田井中にはこんなことが出来たのか。
軽音部のドラマーだと言う田井中の話を疑っていたわけではない。
それでも正直な話、かなり圧倒されていた。
初めて間近でドラムの演奏を見たことも関係しているのかもしれない。
空気の振動、音が俺の心臓に響き、不思議な昂揚感を俺の全身に満ちさせていく。
これが、ドラムか。

田井中は長い髪を振り乱して、更に腕の速度を速めていく。
普段は過剰とも言えるほど千反田の長髪を気にしていたというのに、
冗談交じりだが髪を切りたいと愚痴ることが何度もあったというのに、
現在の田井中は慣れない長髪など気にしていない、いや、気にならないようだった。
多少の障害など気にもならない魅惑の楽器がそこにあるからだ。
おそらくは田井中の半身と呼んでも差し支えのないドラムがあるからだ。


不意に気になって、俺は軽音部の部室内を見回してみる。
沢木口は興奮した表情で田井中のドラムのリズムに身を任せていた。
面白半分、いや、完全に面白さだけで見物に来たのだろうが、
予想外の田井中(沢木口にとっては千反田)のドラムテクニックに素直に驚いているようだった。
この調子だと演奏の後に自分も混ざりたいと言い出しそうだ。
それは別に構わないが、願わくは料理と同程度の腕前ではありませんように。

伊原は嬉しそうに田井中を見つめている。
田井中の役に立てたことが嬉しいのか、
それとも千反田のことを考えているのか、そのどちらなのかは分からない。
思い返してみればマラソン大会の「星ヶ谷杯」の頃から伊原は千反田を気にかけていた。
大日向との一件についてまだ思うところがあるのだと思う。
だからこそ伊原は嬉しいのだろう。
こんな形でも千反田が楽しそうにしているのを見られることが。
例えその中身が田井中であったとしても。

入須は無表情ではあったが、その組んだ腕の指先がリズムを取っていた。
気付かれないように軽く動かしているだけのようだが、完全には隠し切れていない。
本当はもっと大胆にリズムに乗りたい。
しかし女帝としての威厳を損なうわけにもいかない。
そんな二律背反と争っているかのようだった。
もしかすると入須はドラムが混じるようなロック音楽を好むのかもしれない。
普段のイメージとは合わないが、イメージだけで人は語れない。
例えばそう伊原が軽音部員に語った千反田の設定、
『厳粛な家庭に育ったお嬢様が家族に隠れてロックに傾倒している』が、
そのまま入須の真実の姿でもなんらおかしくはないのだ。
おかしくはないのだが、確かめるのはやめておこう。
それほど入須に入れ込みたいわけではないし、
真実を知ってしまったが最後、今まで以上に厄介な日常になってしまいそうだ。

数人の軽音部員たちは驚いた顔で相談し合っている。
「ここまでとは思わなかったね」、「後で勧誘してみる?」、
「でも家に内緒にしてるんでしょ?」、
「あー、あのテクニックがもったいなーい!」、
「ちょっと走り気味だけどあの腕なら関係ないよね」、
「ドラムなら俺がいるだろ?」、「ご愁傷様」、「おいやめろよ、不安になるだろ!」。
大体そういうことを話しているようだった。
本気なのか冗談なのかは掴みにくかったが、
とにかく仮に冗談だとしても部に勧誘したい程度の実力はあるようだった。

それも当然かもしれない。
田井中の腕前がどの程度なのかは俺には分からないが、
それでもここにいる軽音部員よりは少なくとも年季がかなり違う。
伊原の友人と言うだけあって、ここに集まっている部員は二年生が主体だ。
俺ですら見かけたことがある同級生が何人もいる。
対する田井中は高校を卒業したての三年生なのだ。
つまり高校の部活のキャリアで言うと、二年近くは差があることにある。
勧誘したくなるのも無理はない。

風の流れが変わった。
一瞬そう感じて、俺は空気の流れに視線を流した。
なんてことはない、部室の扉が開かれただけだった。
誰かが部室の扉を開けただけだったのだ。
いや、誰かではない、里志だ。
どうやら持ち前の情報網で俺たちの居場所を調べ上げたらしい。
だが見慣れた里志が部室に顔を出しただけだと言うのに、数秒田井中のドラムのリズムが狂った。
部室の中に沢木口を見つけた時以上に、田井中が戸惑っているのが一目瞭然だった。
いや、一耳瞭然……か?
とにかく田井中は大層動揺したらしい。
里志が苦笑しながらその手を軽く上げる。



「気を散らしたみたいで悪かったわね、える」


その声は里志のものではなかった。
聞き覚えのある声色、数日前にもかなり聞かされた声だ。
そいつは里志が部室に入ったのを見届けると、飄々とその後に続いて笑顔を浮かべた。
小さな眼鏡を掛けて、長い髪を三つ編みにした大人びた女子生徒。
思わず溜息をつきたくなる。
下手をすると沢木口を見かけた時よりも重い溜息を。
彼女自身はそう悪い人間ではない。
落ち着いた雰囲気を持っているし、非常に思慮深い。
だが思慮深いだけに非常に理屈っぽく、本心を全く掴ませない。
ある意味で俺の天敵と言える姉貴によく似たタイプと言えるかもしれない。
里志と一緒に姿を現した理由は掴めないが、
おそらくは俺たちの居場所を探る里志を上手く言い包めて付いて来たのだろう。
そこにどれだけのドラマがあったのか、俺は想像したくない。
この前も彼女と話す機会があったが、それはそれは大変だった。


「いえ……、気にしないでください、かほさん」


ドラムを叩く手を緩めないまま、田井中が軽く敬語で応じた。
俺は田井中のこの敬語が千反田を演じているわけではなく、
素で敬語になってしまっているだけだということをよく知っていた。
入須に対してでさえ敬語を使わない田井中ではあるが、彼女にだけは敬語を使ってしまうのだ。
俺も実を言うと、彼女に敬語を使いたい気分があるのを否めない。
彼女にはそういう雰囲気と独特の飄々さがあった。

十文字かほ。
里志曰く「桁上がりの四名家」の一人。
一人で占い研究部をやっているという独特な女子生徒。
彼女の前では千反田はともかくとして、ほとんどの人間がペースを崩される。
苦笑している里志もそうなのだろうし、
まさしく現在膨れっ面になっている伊原もそうだし、
特に俺など彼女の前でペースを保てたことなど一度もない。
さてさて、わざわざ軽音部に顔を出して、十文字はなにをしたいのだろう。
まさかまた俺たちの知らない間に、なんらかの真相を突き止めたのだろうか。
油断はできない。
なんせ結果的にではあるが、俺たちより何倍も速く千反田の異変に気付いた十文字だ。
きっと俺たちに想像もできないなにかを目算しているに違いない。

考えていてもしかたないと悟ったのか、
田井中は十文字から視線を逸らしてドラムの演奏に集中し直した。
なんだかんだと肝が据わっている。
伊達に高校三年間、学園祭でライブをしてきたわけではないらしい。
田井中は普段はともかく、音楽に関しては真摯な奴なのだった。
しかし俺にも分かるほど、ドラムのリズムが狂い気味になっていたのも否めなかった。


導入部です。
またよろしくお願いします。



2.六月二十二日


「ふうっ……」


おそらくは百段を超える長い階段を上り終え、俺は大きく息を吸い込んだ。
神山市最大の神社である荒楠神社。
まさかこんな短期間でまた訪れることになるとは思っていなかった。
この前はたまたま陽気に誘われて散歩で足を延ばしてみたのだが、
まさかこんな様々な問題を抱えた状態でまた訪れることになるとは。
気まぐれの散歩ならともかく、それ以外の理由でこの場所を訪れるのはいささか省エネに適っていない。
しかもその理由が誰かからの呼び出しでは、更に気が重くなりもしようというものだ。

階段を上ったことで少しだけ近くなった空を見上げてみる。
放課後だと言うのに空は青々とした姿を見せていた。
気持ちのいい晴天。
疎らに浮かんでいる雲も、アクセントとして空を上手く彩っている。
陽が長くなったものだ。
もうすぐ夏がやってくるわけだ。
夏が嫌いというわけではないが、夏の熱気はそう好きではない。
前に蒸し暑い部室で本を読んでいると、汗を垂らしてしまったことがある。
本を読むだけで汗を掻いてしまうなど、省エネには程遠いことこの上ない。
どうか今年は猛暑でありませんように。

もっとも、今年が猛暑だろうと冷夏だろうと、省エネには程遠い夏になりそうだが。
千反田えるの中に突然顕現した田井中律という人格。
顕現して以来、千反田自身の人格は一度たりとも顔を見せていない。
もしかしたら俺以外の前では違うのかもしれない。
それはそれである意味傷付くが、それでも千反田の残滓が感じられるのであれば悪くない。
そう思って里志たちに訊ねてみたのだが、やはり俺の儚い期待は泡と消えた。
予想通りではあったが、千反田の人格は里志たちの前でも一度も顕現していないらしい。
同性であり俺たちより長い時間を過ごしている伊原相手にもそうらしかった。
四六時中田井中を監視しているわけではないからはっきりとは言えないが、
集められる情報から普通に判断すれば、あの日以来千反田自身の人格は顕現していないはずだ。
分かり切っていたことだが、やはり田井中は単なる多重人格と一線を画しているのだろう。



「いいことではあるんだよな、きっと」


俺はまだ高い太陽の眩しさに目を細めながらひとりごちる。
田井中の正体が何であれ、それが多重人格でないというのはいいことだ。
多重人格は学術的には解離性同一性障害というらしい。
Dissociative Identity Disorder、略してDID、訳して解離性同一性障害。
なんでも多重人格という呼び方では、
一人の身体の中にいくつもの人格が重なっているという意味になるからだそうだ。
なるほど、確かにそうだ。
現在精神学の科学者は一人の中に多くの人格が重なって存在しているのではなく、
一つの人格がいくつもの人格に分裂して、それで人格がいくつもあるように見えているのだと提唱している。
激し過ぎる二面性といったところだろうか。

とにかく田井中はその解離性同一性障害とは一線を画している。
発現以来主人格の千反田が現れないなんて聞いたことないし、
そもそも田井中は千反田ではない全くの他人の人生を歩んだ記憶を有している。
それどころかその記憶は現在よりも未来の二〇一〇年の記憶だ。
田井中に二〇一〇年の記憶があると告白されて数日、
田井中の知る歴史と俺の知る歴史に違いがないか確認してみた。
俺と田井中の住んでいる世界自体が異なっているかの確認のためだ。
一応、大体のところは合致しているらしかった。
らしかった、というのは田井中の歴史の記憶が中途半端だったからだ。
歴史の授業で習った以上のことを田井中に訊いても分かるはずもない。
しかも田井中の成績は「なぜか大学に受かったんだよな」くらいのものらしい。
「一夜漬けのやり方教えてくれる幼馴染みがいてさ」とは田井中の弁だ。
まあ、しかたがあるまい。
俺だって資料無しに自分の国の歴史を語れと言われたら困る。
分かったことと言えば、田井中の世界でも阪神大震災が起こってるらしいということくらいか。
少なくともかなり近い歴史を歩んでいることは間違いない。
桜が丘女子という高校が俺の世界にはないことを除いて。

なにが起こっているのか、わけが全く分からない。
しかし田井中が解離性同一性障害から生じた人格でないらしいことだけは救いだった。
解離性同一性障害はその名の通り障害なのだ。
しかも幼少期に心的ストレスを抱えたがゆえの。
千反田の過去を知っているわけではないし、深く知りたいわけでもない。
それでも人並みに幸福な幼少期を過ごしていたと考えたかったし、
田井中が解離性同一性障害所以の人格でないのならそれに越したことはない。

だがそうなるといよいよ田井中の正体が分からないのも確かだった。
ここまで正体不明だともっと得体の知れないなにかでも今更驚かない。
例えば前に語り合ったように狐とか。
いや、これはちょうど視界に稲荷が入ったから連想しただけだが。


「お稲荷さんが気になる?」


俺が稲荷を見ていたのが面白かったのだろうか。
可笑しそうな感情がこもった音色の声が響いた。
視線を向けてみると、そこには巫女がいた。
社務所から移動中らしい、眼鏡を掛けている髪の長い巫女。
俺は彼女に見覚えがあった。
と言うか彼女に呼び出されて長い階段を上ったのだ。



「ちょっと視界に入っただけだ」


「そうなんだ。
それより折木くん、ようこそお参りくださいました」


身体の前に手のひらを重ね、丁寧に頭を下げる。
さすがにもう動揺しない。
これが十文字の芸風の一つなのだろう。
知的で落ち着いた雰囲気ではあるが意外と悪戯っぽい。
長い付き合いではないが、それが俺の十文字かほへの人物評だ。
おそらくそう間違ってはいないと思う。


「十文字……さんはなにか仕事中なのか?」


さすがに呼び捨てにはできなかった。
まだ俺と彼女はそれほど会話を交わしたわけではない。


「仕事って?」


「その巫女服」


「ああ、これ?」


俺が指差すと十文字はその場で一回転して微笑んだ。
かなり堂に入っている。
何度か参拝客に同じ動きをしてみせたのではないか。
そう思わせるくらい綺麗な回転だった。


「そういうわけじゃないんだけど、今日はちょっとね。
折木くんが来るからおめかししてみたのよ」


「おめかしで巫女服を着るとはいかにも神社の娘さんらしい」


「冗談よ」


さいで。
しかしお茶目と言うか悪戯好きと言うか、十文字の性格は本当に掴めない。
「かほさんは少し人嫌いなところがあるんです」とは前に聞いた千反田の弁だが、とてもそうは思えない。
十文字を見ていて思い出すのは姉貴だ。
姉貴は奔放に生きているように見せながらその知識は俺よりも膨大だ。
斜に構えたように振る舞うこともあるが、それでも人生を誰よりも楽しんでいる。
人よりも精神が成熟しているのだろう、おそらく。



「ところで十文字さん、今日は俺に何の用事があるんだ?」


「あ、それはちょっと待って、折木くん。
先にいいものを見せてあげるから」


「いいもの?」


俺が訊ねるが早いか十文字は社務所に引っ込んだ。
移動中じゃなかったのか?
「まあいいか」と呟いて、俺は稲荷の石畳に腰を下ろした。
罰当たりかもしれないが、ほんの少し休憩するくらいで目くじらを立てる神の加護ならいらない。


「里志も呼ぶべきだったか?」


思いつきをそのまま呟いてみる。
昼休み、十文字からの呼び出しを俺に伝えたのは里志だった。
十文字と里志は一年の頃に同じクラスだった。
二人になんらかの繋がりがあってもおかしくはない。
「一緒に行くか?」と俺は訊いてみたが、奴は苦笑してそれを断った。
なんでも調べものがあるそうだ。
田井中のことだろう。
里志も里志で田井中について調べてはいるのだった。
その経過は芳しくないようだが。


「お待たせ、折木くん」


十文字の声が聞こえる。
どうやら「いいもの」の準備が整ったらしい。
声の方向に視線を向けてみて驚いた。
ある意味で「いいもの」がそこにあった。


「よっ、ホータロー」


聞き慣れた声色、聞き慣れない語調、聞き慣れ始めた口調。
社務所から十文字と出てきたのは田井中だった。
その身に巫女服をまとった。
着慣れない服のはずだと言うのに、田井中は笑顔を見せていた。
それは髪型が関係しているのかもしれない。
巫女服をまとった田井中は前髪を全て上げて後ろ側で纏めていた。
オールバックのポニーテールといったところだろうか。
なるほど、巫女服にはよく似合った髪型だ。
いかにも前髪が額を覆っているのをいたく嫌う田井中らしい。

いや、それよりも。
田井中は今俺のことをこう呼ばなかったか?
「ホータロー」と。
これはまずいのではないだろうか。
十文字は千反田が俺を「折木さん」と呼ぶことを知っている。
その姿は何度も見せている。
しばらく会わない内に呼称が変わったと言い張るか?
それは無理だろう。
十文字とはついこの前、千反田がまだ千反田であった頃に会っているのだ。
呼称を変えるにしても期間が短過ぎる。
ではどういいわけするべきなのか。
そう俺が頭を悩ませていると、十文字がその悩みを全て打ち砕く言葉を口にした。

「どう、折木くん?
よく似合ってるでしょ、りつの巫女服」


りつ?
りつってなんだ?
えるとりつではそれなりに語感が似てはいるが……。
って、律か!
律。田井中の名前だ。
十文字がそれを知っているということは……。
俺が視線を向けると、巫女服の田井中が苦笑しながら頭を掻き始めた。


「ごめんな、ばれちまった」


一気に力が抜けるのを感じた俺は、また稲荷の石畳に腰を下ろした。




社務所の十文字の部屋に移動する間、田井中は頻りに俺に頭を下げていた。
さっきまでは苦笑してはいたものの、申し訳ないと思っていたらしい。
しかし冷静になって考えてみれば、
十文字に田井中のことが知れたところでなにか困るわけではない。
むしろ千反田と親しい十文字には、もっと早く伝えておくべきだったのかもしれない。
それを伝えても田井中はまだ申し訳なさそうに苦笑していた。


「つっても、私はホータローたち以外には秘密にしておくつもりだったしさ」


意外に律儀なのだ、田井中は。
名前に律が入っているだけに、と考えるのは単なるこじつけか。
いや、駄洒落だな、これは。


「ホータロー?」


「いや、なんでもない。
それよりもその服装の方が問題だ、田井中。
どうしてお前はそんな恰好をしている」


「なんか十文字が私に着てほしいって言うからさ」


おや、と思った。
千反田と同じ姿の田井中の口から、
「十文字」という呼称が出るのに違和感があったからだ。
千反田と同じ様に「かほさん」とでも呼べばいいだろうに。
いや、だからこそ、か。
田井中はきっと千反田と同じ呼称を使いたくないのだ。
前に俺を「折木」と呼びかけて「ホータロー」と呼び直したことからもそれは明らかだ。
しかし俺はそれを田井中に指摘したりはしなかった。
指摘してはいけないのだと、なんとなく感じていた。
その代わりに別のことを指摘してやる。


「着てほしいって言われたにしても、断ってもよかっただろう。
恥ずかしくないのか、そんな恰好」


「うんにゃ、別に。
ホータローには話してなかったっけ?
あ、話したのは摩耶花にだったっけか。
ま、いいや。

実は桜高の軽音部にさわちゃんって顧問がいるんだよ。
さわちゃんってなんか変わった先生でさ、
妙に私たちにコスプレさせたがるんだよな。
それでスク水や着物ドレスやメイド服、
サンタ服やチャイナドレスなんかも着させられたもんだ。
だから巫女服程度じゃ恥ずかしくもなんともないっつーか」


どういう顧問なんだ。
古典部にも顧問がいるが、そこまで変わった顧問ではない。
いや、そもそもほとんど顔を出さないから、名前もよく憶えていないのだが。
大田……、いや大出だったか?
ともかく田井中が相当に楽しい高校生活を送ってきたようなのはなによりだ。


「律が巫女服着てくれたの、あたしはすごく嬉しかったな。
えるにも何度も頼んでたのに、「恥ずかしいから駄目です」って断られてたもの」


俺たちの会話が耳に入ったらしく、同じく巫女服に身を包んだ十文字が微笑んだ。
千反田にも巫女服を勧めていたのか。
そういえば一度だけローブのような物を纏った十文字を見かけたことがある。
かなり大胆な恰好だが、全く恥ずかしそうな素振りもせずにテントで占いをしていた。
巫女服を仕事着として纏っていると、その程度では羞恥心も働かなくなっているのだろう。



「どうかしたのか、ホータロー?」


不思議そうに首を傾げる田井中の耳元に口を寄せる。
さすがにこれを十文字に聞かれるわけにはいかない。
考えていたことを耳打ちしてやると、田井中は軽く吹き出した。
そんなに面白かったのだろうか?
俺が首を捻っていると、今度は田井中が俺に耳打ちしてくれた。


「桜高にオカルト研ってのがあるんだけど、
十文字とそのオカルト研の子たちの恰好がほとんど同じで可笑しくてさ。
黒いローブだけならまだしも、眼鏡掛けてることまでその子たちと一緒なんだよな」


それは奇妙な合致点だ。
ローブはオカルト関係の衣装としても、眼鏡は関係ないだろう。
オカルト好きは眼鏡でなければならないという不文律でもあるというのだろうか。
そのオカルト研と十文字を会わせてみれば、気が合うか気になるところだ。
それが叶うかどうかは別問題ではあるが。


今回はここまでです。
丁度古典部新作が出て助かりました。



「何? 内緒話?」


十文字が眼鏡の蔓を触りながら首を傾げる。
その素振りだけは歳相応に見えた。
俺は「なんでもない」と言ってから十文字の部屋に敷かれた座布団に座った。
田井中が座っていたものかもしれないが、
前来た時にも俺が使った座布団だから気にしないことにする。
幸い田井中と十文字に見咎められることはなかった。
十文字が一息つくのを見届けてから、俺は疑問に思っていたことを口にすることにした。


「十文字さん」


「どうかしたの?」


人を呼んでおいて「どうかしたの?」とはなんともマイペースだ。
少しだけ詰め寄るように前のめりになる。


「一つ訊いておきたい。
どうやって千反田が千反田じゃないってことに気づけたんだ?」


「そんなの簡単よ、折木くん」


簡単……なのだろうか?
俺が首を捻ると肯定するように田井中が苦笑した。


「いやー、私もびっくりしたんだよ、ホータロー。
冬実とあの高い店でお茶した次の日なんだけどさ、たまたま十文字と顔を合わせたんだ。
どうもえるって子が十文字に借りてた本を返す日だったらしいんだよな。
そりゃ焦ったなー。
えるって子の記憶にはちゃんと残ってたけど、言われてやっと気づけたんだから。
簡単に言うと完全に忘れちゃってたんだよな。
正確には私のせいじゃないんだけど、悪い汗がだらだら出ちゃったよ」


そう言いつつも苦笑しているのを見ると、どうも田井中は忘れ物の常習犯のように思えた。
あまり細かいことにこだわるタイプでもないのだろうし、俺の想像は当たっているだろう。
しかし今はもう一つ確認しておきたいことがあった。


「田井中、先に一つ質問に答えてくれるか?」


「おう、別にいいけどなんなんだ?」


「前から思っていたんだが、
その千反田の記憶に残ってたってのがよく分からない。
当然だがお前自身がお前の記憶を思い出してるのとは違うんだろう?
自分じゃない記憶を思い出すってのは、一体どういう状態なんだ?」


「改めて聞かれると難しいな……。
でもなんとなくイメージとして近いものはあるぞ。
例えるんなら、そう、一度観た映画を思い出す感じかもな。
ホータローも映画くらい観るよな?」


「嫌いで仕方がないという程ではないってくらいには観る」


「なんだよ、その微妙な答えは……。
ま、いいや、観ないわけじゃないってことだよな。
なんでもいいからその映画のことを思い出してくれ。
「すげー」でも「つまんねー」でも「ははっ、笑える」でも構わない。
思い出してくれたか?
それがえるって子の記憶を思い出してる時の感覚に近いんだ。

観たことは憶えてる。
起こったことも、その時になにを感じたかも憶えてる。
だけどそれは私自身の身に起こったことじゃないから、
誰かに言われてみないと思い出せないこともたくさんある……、って感じか」



完全にではないがイメージできる。
俺だって今でも入須のクラスのビデオ映画の内容を思い出そうとすれば思い出せる。
なにが起こったのか、観ながらなにを感じたのかも憶えている。
しかしただなんとなく憶えているだけだ。
細部まで憶えているわけではないし、
誰かとあの映画の話にならない限りは思い出そうともしないだろう。
なるほどな、田井中は必要だから千反田の人生という名の映画を思い出しているのか。
だから必要でない時は、積極的には思い出さない。
例えば千反田と十文字が交わした約束などは完全に許容範囲外なのだ。


「あの時の律の様子は折木くんにも見せてあげたかったな」


微笑みながら十文字。
ある意味で超常現象に直面しているというのに、その様子は超然としている。
巫女を務めていると、ちょっとやそっとの超常現象では動揺もしなくなるのだろうか。
もっとも俺もそれを言えた義理ではないが。


「面白い顔だったのか?」


「うん、この前生き雛まつりの写真を見たでしょ?
あの写真に写ってたえるのひどい顔に匹敵にする顔が見られたわ」


「かほさん、それはだめです!」という動揺する千反田の声が響いた。
もちろんそんな気がしただけだった。
俺の脳が勝手にあの時の千反田を思い出しただけだ。
そうだ。ここには千反田はいない。
ここには千反田の姿をした田井中がいるだけなのだから。
「それは見たかった」と返してから、俺は本題に戻る。


「ところでもう一度同じ質問をさせてもらうが、
結局十文字さんはどうして千反田の精神が田井中だって気づいたんだ?
いや、俺たちも田井中の存在には気づけている。
だが最初は半信半疑だったし、それなりの時間もかかった。
十文字さんはなにをきっかけに田井中の存在に気づけたのか、それを訊きたい」


「それが不思議なんだよなー」


田井中が独り言のように呟く。
横目を向けてみると、田井中はあぐらをかいて首を傾げていた。
千反田の姿で、しかも巫女服でそんな姿勢をされると逆に新鮮だった。


「最初は十文字に借りた本の話をしてたんだよ。
私はえるって子の記憶を思い出しながらどうにか話を合わせてたんだけど、
急に十文字が私を廊下の隅に連れてって言ったんだ。
『君はえるじゃないわね』ってさ。
あの時は変な声が出ちゃってた気がする……」


おそらくは「ギャー!」とか「うおっ!」とかだったんだろう。
簡単に想像できてしまう。
いやいや、今はそれはどうでもいい。
今考えなければならないのは、何故十文字がそんなに簡単に田井中の存在に気づけたかだ。
田井中の話が本当であれば、いくらなんでも気づくのが早過ぎではないだろうか。
俺と田井中が視線を向けると、十文字は肩をすくめて微笑んだ。
だが眼鏡の奥の表情は読めなかった。


「えるがえるじゃないのはすぐに分かったわ」


「……何故?」


「だってオーラが違うもの」


「マジかよ!」



叫んだのは田井中だった。
そして叫びたいのは俺も同じだ。
これは神通力か!
やはり巫女である十文字にはなにもかもお見通しだというのか!
人間の精神のオーラの違いまで見通すというのか!

俺たちが言葉を失っていると、十文字がテーブルの上に置いてあったコーヒーに口をつけた。
そういえばこの部屋に連れて来られる前から、そのコーヒーはテーブルの上にあった。
どうやら俺が来るまで田井中とコーヒーを飲んでいたらしい。
そのコーヒーを飲んで、一息ついて十文字が一言。


「あ、霊的な意味でのオーラって意味じゃないわ。
雰囲気って意味でのオーラよ」


一気に力が抜ける。
それはそうだ。
どうやら田井中のせいか最近の俺は超常現象を肯定しつつあるようだ。
これは良くないな、ああ、良くない。
俺の比較的得意分野は筋道を立てて物事を考えることのはずだ。
膏薬と理屈をくっつけるのことのはずなのだ。
いくら千反田と田井中に起こっている現象が理解できないとは言え、
単純に超常現象を肯定するようでは、それは単なる逃避ではないだろうか。
これでは真の意味で田井中の存在と向き合うことからも逃げているようなものだ。
これは、改めなければならない。

ただ少しくらい批難してやってもいいだろう。
俺が睨み付けるような視線を向けてやると、田井中はまた俺に耳打ちした。


「しゃーねーだろ、私だってびっくりしたんだから……!」


「それにしたってだな、田井中。
千反田の記憶を思い出せば、十文字の言葉が本気かどうかくらい分かるだろう」


「だーかーらー……!
えるって子の記憶の中でも十文字は謎なんだって……!」


妙に納得した。
なるほど、田井中の言葉が本当ならば、
十文字は俺たち相手だから捉え所のない言葉を口にしているわけではないらしい。
千反田相手にも、そうなのだ。
そう考えると千反田と十文字の仲の良さにも頷ける。
好奇心の獣である千反田のことだ。
謎の多い十文字にはそれこそ懐いていることだろう。


「仲が良いよね、二人とも。
内緒話は終わった?」


掴めない表情で十文字が微笑む。
俺と田井中は身体を離すと、十文字の方に向き直った。
コーヒーは全て飲み終わっているようだった。
気づいたように十文字が一言。


「折木くんもコーヒー飲む?」


「お構いなく。
それより『雰囲気って意味でのオーラ』の意味を教えてくれないか。
なんとなくは理解できるが掴みにくい」


「分かったわ。
と言っても額面通りの意味よ。
私は律と話していて気づいただけ。
『この子はえるの姿をしているけどえるじゃないな』って。
ただそれだけのことなんだけどね」



ただそれだけのこと。
言葉にするのは簡単だ。
しかし現実にそう思えるのはほんの一握りだろう。
千反田と同じ部である俺たちですら信じるのに数日かかった。
それを十文字は数分でやってのけたのだ。
なんというか底知れないなにかを感じさせる。


「折木くん、今度はこっちが訊いてもいい?」


「ああ、答えられることなら」


「ありがとう。
律に聞いたんだけど、律は単なるえるの別人格じゃない。
君たちはそう考えてるんだよね?」


「そうだな。
確証はないし仮定の積み重ねでしかないが、俺たちはそう考えている。
多重人格と疑うのは簡単だ。
だが様々な状況が田井中はそうじゃないと告げている。
それこそ多重人格を疑うより、頭をぶつけて精神が入れ替わったと考える方が自然ですらある。
そう考えてしまうくらいには、田井中の正体について見当が付かない状態だ」


「多重人格じゃないってあたしも思う。
神社に務めているとね、たまに色んなものを見るの。
狐憑き、悪霊憑き、多重人格……。
その真偽は分からないけれど、とりあえずそうだと主張する人たちを見たことがあるわ」


不思議な話ではない。
前世の記憶を信じ込んで、宛名の無い手紙を投函する同級生の話も聞いたことがないわけではない。
とりあえず霊的な存在を信じられている神社ならば、救いを求める人間も数多いだろう。
十文字の言う通り真偽は別として、だが。


「深くではないにしてもそういう人たちを見てると分かるのよ。
律はそういう存在にしては健康的過ぎる」


「いやあ……」


照れたように田井中が自分の頭を掻く。
別に褒めたわけではないだろうが、それには俺も同感だった。
何故多重人格や狐憑きが問題視されるのかを考えてみれば分かる。
それは害があるからだ。
多くの場合、それらは周囲の人間にも、宿主本人にも害を成す。
だからこそ神社や精神科医が求められるのだ。
だが見た感じ、田井中は大雑把ではあるが実に健康的だった。
むしろ灰色の青春を送っている俺よりよほど健康的と言えるだろう。
俺の考えを読み取っているかのように十文字が頷いた。


「多重人格ではないのはすぐに分かったけれど、
律がえる本人の演技だったりしないことも確かだと思うわ。
根本的な問題として、えるは嘘をついたり演技したりできない子だもの」


同感だ。
千反田は嘘をつかないし演技もしない。
言えないことがある時は、「一身上の都合」として黙秘する。
その千反田がこんな長期間田井中の演技を続けるのは不合理だろう。


「百歩譲って普段のえるの姿も全て演技だと仮定してみる。
そうだとしても、やっぱり律はえるの演技じゃないと言い切れるわ。
律になる前のえると今のえるでは癖や素振りが違い過ぎるもの」


それで十文字は千反田の精神が千反田でないことに気づいたのか。
俺が知っている千反田の癖と言えば、
「わたし、気になります!」くらいのものだが、
長い付き合いの十文字であれば、他にも多くの癖に心当たりがあるのだろう。
俺ですら、千反田と田井中の素振りがかなり異なっていることくらいは分かる。
そうなると一つ気になることが出てもくるのだが。


千反田の家族のことだ。
大切に育てた娘なのだ。
娘の異変に気づいていてもおかしくないと思うのだが。
だが俺が千反田の家族のことをよく知らない以上、なにを推論しても無意味か。
友人には気づけても、家族には気づけないこともある。
近過ぎて分からないこともある。
とりあえずはそういうことにしておこう。


「なあ、十文字」


コーヒーではなく紅茶に口を付けていた田井中が不意に呟いた。
珍しく多少は真剣な表情だった。


「結局さ、私ってなんなんだと思う?」


沈痛な響きに思えたのは俺の感傷だろうか。
「私ってなんなんだ?」とはまた嫌な言葉だ。
「誰なんだ?」の方がまだよかった。
「なんなんだ?」と問うということは、
田井中は自らが人間の人格ですらない可能性も考慮しているらしい。
自分の人格をなにかと問うということは、つまりはそういうことだった。
俺にはそれに答える術がない。
俺たちはこれでもかとありとあらゆる可能性を談じてきた。
それで答えを出せなかったのだ。
こうなると俺は十文字の知識と観察眼に頼るしかない。
俺たち以上の速度で千反田が千反田ではないと見抜いた十文字に。


「これはあくまでよもやま話として聞いてほしいんだけど」


一言断りを入れて十文字が続ける。
よもやま話でも構わない。
俺たちには偽物だとしても新たな光明が必要なのだ。
俺は頷いた。



「構わないから続けてくれ」


「ええ、ありがとう。
律たちは生命体を構成している要素がなんなのか聞いたことある?」


「いや、分からないけどなんなんだ?」


「肉体と霊体と幽体。
生命体はその三要素で構成されているらしいの」


「それはどっちかと言えば仏教じゃないのか?」


俺が問うと十文字が微笑んだ。


「宗教差別はしない主義」


そういえばそうだったか。
しかし自分の専門分野以外にも詳しいとは勤勉なことだ。
いや、よく考えると十文字はタロットカードも嗜むんだったか。
となると彼女はオカルト全般に詳しいのかもしれない。


「肉体とそれ以外は分かるけど、霊体と幽体って同じものじゃないのか?」


「いい質問よ、律。
真偽と詳細はともかくとして、幽体は人間の意識と姿を維持している幽霊。
霊体は人間の意識も姿も持ち合わせていない幽霊のことらしいわ。
もちろん分かりやすく言えばだけど」


一般的な幽霊と人魂の違いのようなものだろうか。
十文字の口から幽霊の話が出るとは思わなかったが、
おそらく彼女はその額面通りの意味で幽霊の話をしているわけではないだろう。


お久しぶりです。
またお願いします。



「自分とはなんなのか分かっている幽霊が幽体。
自分の姿すらも分からなくなっている幽霊が霊体。
それを念頭に置いて考えてほしいことがあるの。
人間は脳で思考して動いている生き物だと考えられているよね?
だけど本当にそうなのかな、って折木くんは考えたことない?」


オカルトから急に脳科学の話になってしまった。
どうだろうか。
別に俺は科学的な話に明るいというわけじゃない。
幼い頃は人間の魂の在処について考えてみたこともなかったわけじゃないが。
どう答えたものか悩んでいると、話の続きが聞きたくて我慢できないらしい田井中が口を開いた。


「脳以外に考えられる場所が人体にあるってことか?」


科学には明るくなさそうな田井中の割には熱心な様子だった。
当然か。自分の存在に関わることだからな。
十文字は俺の沈黙を無回答と判断したらしく、
まるで優しい教師のような口振りで田井中に説明を始める。


「これはよく使われている例え話なんだけど、例えばパソコンがあるわよね?
ノートパソコンじゃない、ディスプレイと本体が繋がっている普通のパソコンを思い浮かべてみて。
私たちはディスプレイが本体の処理している画像を写し出す機械だということを知っている。
ディスプレイが壊れても、本体が無事ならデータも無事に残っていることも知っている。
けれどパソコンの知識がない人はどう考えると思う?
律は小さな頃、ディスプレイこそがパソコンの本体だと思っていなかった?」


「あー……、うん、そうだな、その通りだよ。
確かに子供の頃は画面の方がパソコンだと思ってた。
画面に繋げた箱はなんなんだろうって弟と考えてたくらいだよ」


田井中が昔を懐かしむように頷いた。
今思い出すと滑稽だが、俺も幼い頃は同じ勘違いをしていた。
確証はないが、どんな人間でも幼い頃はそうなのではないだろうか。
それはともかく十文字がなにを言おうとしているのか、俺にも少し分かり始めていた。
軽く身を乗り出してから訊ねてみる。


「脳が思考を司る器官ではないかもしれないと言いたいわけか?」


「その可能性もあるってことね。
脳は人体に命令を出すわ。
損傷してしまえば、身体のあちこちに異常が出てしまうことになる。
けれどそれは例え脳がなにかの受信装置でも、同じことじゃないのか。
そういう話は昔からされているのよ」


「脳がなにかの受信装置……ってのは?」


「ここで霊体のことを思い出してみてくれる?
霊体は意識も姿形もない一種のエネルギーと言えるわ。
なんなら魂と呼び換えてみても言いかもしれない。
その霊体を脳という受信装置で受信してこそ、人間は生命活動を始められる……。
例えるなら霊体はリモコンの電波で、肉体はその電波の指令をこなす装置」



なにを馬鹿な。
そう言いたくもあったが俺は口を噤んだ。
俺は脳に詳しくない。
いや、人類自体、脳のことを完全に理解できているとはとても言えない。
脳はまだまだ未知の分野なのだ。
例えば十文字の言うように脳がなんらかの受信装置でも、なにもおかしくはない。


「だったら十文字さん。
それだと今千反田に起こっているこれは、結局一種の憑依現象と仮定しているわけか?
なんらかのアクシデントで千反田の脳が千反田本人ではなく、
田井中律という霊体の指令で動くようになってしまった、とそういうことか?」


俺が訊ねると十文字は胸の前で軽く手を叩いた。
その瞳が若干輝いているように見えた。


「あ、そういう考え方もあったのね」


一瞬にして脱力してしまった。
視線を向けてみると田井中もその場に崩れているようだった。
だったらなんだって言うんだ……。
俺がそう問う前に、十文字が微笑んでから続けた。


「憑依現象……、面白い仮定だけどあたしが言いたかったのはそれじゃないの。
あたしがこの例え話で言いたかったのは、自分ってなんなのかってことなのよ。
一般的には脳で思考している『あたし』が『自分』だと思われているわよね?
だけどこの例え話を真面目に考えてみれば、
あたしの脳にどこかから指令を出しているなにかが『自分』とも言えるかもしれない。
ひょっとしたら人間には魂が存在していて、そっちの方こそが『自分』なのかもしれない。
仮定は色々できるけど、その実はなにも分かっていない。
『自分』って結局なんなのかしらね?」


かもしれない、かもしれない。
『自分』という存在に関しては、確かに分からないことだらけだ。
これもよくある例え話だが、この世界全体が誰かに見せられている幻覚の可能性だってある。


「それって『コギト・エルゴ・スム』だよな?」


嬉しそうに田井中が指摘した。
珍しく入っていけそうな話題だったから、嬉々として会話に入ってきたんだろう。
しかし田井中の口から『コギト・エルゴ・スム』が出てくるとは思わなかった。



「よく知っていたな、田井中」


「おう!
この前やったゲームで出てたからな!」


さいで。
まあ、ゲームに限らず小説でもよく取り上げられているからな。
それだけ人類普遍のテーマだということでもあるのだろう。
どうやら十文字は田井中か俺かのどちらかからその言葉を出させたかったらしい。
満足そうに頷くと、小さな眼鏡を思わせぶりに掛け直した。


「『我思う、ゆえに我あり』、デカルトの第一原理ね。
この世界が幻覚だとしても、何物であったとしても、
その世界を見て思考できている『自分』という『意識』だけは確かに存在している。
それでデカルトは世界は『意識』と『物質』で構成されていると考えたらしいわ。
逆に言えば『自分』という意識が存在しない物は全て物質と考えたのよ。
人間だけが『自分』という『意識』を持っている。
それ以外の物……、例えば動物はその『意識』を持っているようには到底思えない。
その結果、デカルトはなにをしたと思う?」


「いい予感はしないが、教えてくれ」


「動物実験。
動物には『意識』がないから机や椅子や時計と同類だと判断し、
その動物が死んだところで、それは単に機械が壊れただけだと主張した。
それを繰り返して、『自分』という『意識』を持つ人間こそが魂を持っていると確信したの」


「うへえ……」


痛ましい表情で田井中が呻く。
俺も呻きこそしなかったが嫌な気分なのは確かだった。
俺は特別動物が好きというわけでもないが、
意味もなく動物が殺されて無表情でいられるほど諦観に満ちてもいない。
「嫌な話をしてごめんね」と前置きして、十文字が続ける。


「是か非かで考えればデカルトの行動は非だけれど、
あの時代の哲学者たちはそれだけ『自分』が何者なのか知りたがっていたのね。
どう? 律、折木くん、君たちは『自分』が何者なのか明確に答えられる?」


俺はなにも言葉にできない。
田井中に至っては俺以上になにも言えないだろう。
『自分』とは何者なのか。
千反田えるの中に唐突に田井中律という精神が現れたからではない。
もっと根本的な意味で、俺たちは『自分』のことを考えなければならないのかもしれない。
もしかしたら俺もそうと自覚できていないだけで、
折木奉太郎という人間の身体を操っている霊体かなにかでないとも言い切れないのだから。
もちろんそう考えてしまうのは、
神社の中で巫女が語るという雰囲気に呑まれてしまっていたからなのかもしれないが。


「そういやさ」


不意になにかを思い出すように田井中が呟いた。
俺が視線を向けると、田井中は遠い目で頭を掻いていた。
千反田の身体が頭を掻くという光景に、俺はまだ慣れていない。
いや、今はそれはどうでもいいか。
俺は自分の中の違和感を気にしないようにしながら田井中に訊ねる。



「どうした?」


「『自分』ってなんなのかって話をしてたらさ、急に思い出したんだよ。
かなり前……、小学生の頃にあったことを。
いや、私の思い出じゃないぞ、えるって子の思い出だ。
えるって子はさ、その思い出の中で『自分』のことを考えてるんだ。
好奇心の塊みたいな子だもんな、そりゃとんでもなく長く考えてたよ」


あの千反田のことだけにありえそうだ。
なにか思い当たることがあるのか、十文字は静かに押し黙っている。


「それで思い出してて分かんないことがあったんだよ。
私の記憶の中ではえるって子が、私じゃあ考えられない行動を取るんだ。
どうしてそんなことをしちゃったのか、それが分からない。
残念ながらその時の気持ちは、えるって子自身も憶えてないみたいだしな。
ただその行動を取ったって記憶だけが残ってるんだ」


伯父の件で泣いたことを記憶しておきながら、
泣いた理由を完全に忘れてしまっていた千反田だ。
それもありえそうだから困る。
まったく、どうしてあいつはこんな状態になってすら俺を困らせるんだか。


「なあホータロー」


ほらきた。


「どうしてえるって子がその時にそういう行動を取ったのか、お前なら分かるか?」


実に面倒だ。
その答えが分かったところで田井中の正体に繋がるわけでもない。
これは単なる田井中の疑問だ。
答える義理はないし、見る限り十文字には見当が付いているようだ。
おそらく十文字もその千反田の謎の行動に関わっているのだろう。
十文字本人に聞けばいい。
俺が考えてやる必要なんてない。
そう思うのだが。


「……話してみろよ」


心情とは裏腹に俺がそう言ってしまったのは、
大きく目を見開いた田井中の表情が千反田のそれと重なってしまったからだろうか。


次から三章のちょっとした日常の謎の話になります。
またよろしくお願いします。




    ・



あれは……って自分のことみたいに話すのも変だけど、とにかく小学五年生の頃の話だ。
私から見ても小五の頃のえるって子は凄かった。
今でこそ多少の好奇心までは抑えられるようになったみたいだけど、
その頃のえるって子の好奇心は本気で尋常じゃなかった。
ちょっとでも気になったら、ありとあらゆる時間を潰してでも好奇心を満たそうとしてたよ。
もちろん訊ねるのは親しい友達とかだけに限るけどな。
今はこれでも治まってるんだよ、えるって子の好奇心は。
……って、『えるって子』って呼び続けるのもなんか変な感じだよな。
今だけえるって名前で呼ばせてもらうことにするよ。

それでえるが小五の頃の、確か秋くらいの季節の話だ。
その頃のえるは十文字の家によく遊びに行くようになってたんだ。
小五になって体力も付き始めた頃だし、
神社前のあの長い階段を軽く上れるようになったのが嬉しかったのかもしれないな。
私もそういう気持ちはよく分かるしさ。
特にえるは身体の成長も人より早かったし、余計そうだったんだと思う。
当然だけどえるは自分の成長を実感したくて神社に行ってたわけじゃない。
十文字に会いに、もっと詳しく言うと、
十文字と話して好奇心を満たすために神社に通ってたんだ。
神社の娘だからか、あの頃の十文字の知識小学生離れしてたからな。
小学生らしからぬ十文字の話を聞く度に、えるはすっごく満足してたよ。

いや、今は十文字の話は置いておこう。
その頃のえるにはさ、十文字以外にもう一人友達がいたんだ。
小学五年生ともなるとえるの家柄を気にしてか、
近寄ってくるクラスメイトも少なくなってきてたんだけど、
遠慮なく物怖じせずに話しかけてくる奴も少しは残ってたんだよな。
その子の名前は、そうだな……、えるはもちろん憶えてるんだけど、
今はプライバシー保護ってことで、仮に『唯』ってことにさせてもらおうかな。
えるとその子の親交はたまにだけど続いてるみたいだし、
もしかしたらいつか会うことになるかもしれないもんな。
どうして唯なのかっつーと、うちの軽音部に唯って奴がいるんだけど、
そいつとその子の雰囲気が結構似てるんだよ、雰囲気とか天然っぽいところがさ。
だから仮に唯って名前でよろしく頼む。


「えるちゃんえるちゃん」


その日も唯は物怖じせずにえるの席に駆け寄った。
放課後になった途端に駆け寄るくらいだから、
よっぽどえると十文字と遊ぶのを楽しみにしてたんだろうな。
その嬉しそうな顔と、私の知ってる唯の顔がぴったりよく被るよ。



「どうしたんですか、唯さん?」


「今日もかほちゃんのお家に遊びに行くんだよね?」


「はい、そのつもりですよ」


「私も一緒に行っていい?」


「もちろんです、ご一緒してください」


「わーい!
って、えるちゃん、ふふっ」


「急に笑い出すなんてどうしたんですか?」


「やっぱりえるちゃんの話し方ってなんか変なんだもん。
あははっ、変ー」


「そ、そうですか?」


「いいんだよー、えるちゃん。
私はえるちゃんのそういうところも大好きなんだしね!」


「うふふ、ありがとうございます、唯さん」


二人の放課後の漫才……じゃなくて会話は毎回そんな感じだった。
唯の言い方は色々とあれだけど、小学生なんだし分からなくもないよな。
小五って言ったら、習い事をしてない限りは敬語を覚えたてくらいの頃だ。
そんな中で敬語で喋るクラスメイトがいたら、私だって変だって思ってたと思うよ。
ただそれでえるに近付こうとは思ってなかった気もする。
小学生とは言っても、凄い家柄の子相手だとやっぱ緊張しちゃうもんな。
あ、その顔は信じてないな、ホータロー?
そりゃ私にもムギっていうお嬢様の友達はいるけど、
お嬢様と知ってから親しくなるまでには結構時間が掛かったんだぞ?
それを簡単にやっちゃうのが唯の性格で人柄なんだよな。
もちろん今話してる唯と、私の友達の唯は別人なんだけどさ。
えるの友達の唯は今のえるほどじゃないけど髪がかなり長かったし。

それで二人は普段通り十文字の家に遊びに行ったんだよな。
えるは階段を軽々上ってたんだけど、
唯が毎回息を切らしてたのが印象的だな。
当時の唯はえるより小柄だったし、体力も外見通りしか持ってなかったんだろう。
それでもいつもえるの後に続いて階段を上るってことは、
それだけえると十文字と遊ぶのを楽しみにしてたってことなんだろうな。
そんな唯の姿が嬉しくて、えるはいつもハンカチで唯の汗を拭いてあげてたよ。



「いらっしゃい、二人とも」


階段を上ると巫女服を着た十文字が待っていた。
その頃の十文字は家の事情があるのか、えるたちと遊ぶときにも巫女服をよく着てた。
今考えると巫女服の着付けの練習でもしてたのかもしれないな。
えっ、単なる趣味だったのか?
……冗談だよな?
冗談ですまない先生が私の知り合いでいるんだよ、冗談ってことにしといてくれ。
会うことはないと思うけど、こっちにもその人がいる可能性がないわけじゃないし……。

まあ、ともかく神社には巫女服の十文字がいたんだ。
唯はその十文字を見つけると駆け寄って行ってた。
さっきまで息を切らしてたくせに元気なもんだよな。
私の知ってる唯も、体力がないくせにいざとなるとタフな奴だった。
こっちの唯も同じタイプで、いざという時に非常電源が入る奴だったんだろうな。


「来たよー、かほちゃーん」


「いらっしゃい、唯、える。
お茶の準備をしてるから、まずはあたしの部屋まで上がっちゃって」


「ありがとー、かほちゃん、大好き!」


「どういたしまして、唯」


うーん、激しくデジャヴだな。
いや、唯と十文字の会話を思い出してたら、
私の知ってる唯とその幼馴染みの会話を思い出しちゃったんだよ。
きっとああいう関係だったんだろうな、こっちの唯と十文字も。

それで、だ。
えると唯がお茶を飲んで一息ついた頃、十文字が話を始めたんだ。
それこそえるたちの一番の目的だったんだよな。
えるほどではないにしても唯も好奇心が強い方で、
十文字の話にはいつも目を輝かせて熱心に耳を傾けてたよ。
基本聞き手に回りがちなえるとは違って、
唯は小さなことでも遠慮なく十文字に訊ねるタイプだった。
それが逆に上手くいく秘訣だったんだろうな。
えるは過程を無視して結論から話す癖があるみたいだったから、
たぶん十文字にとっても唯の質問に答えるのは得だったはずだ。
唯の細かい質問のおかげで、えるが先走って結論を出すことを防げる。
まあ、そんな感じかな。


「それじゃ前回のお話の続きからね」


十文字は大体そんな言い回しで話を始めてたな。
その頃、えるたちが夢中だったのは前世と輪廻転生の話だった。
小学生の女の子だもんな、そういう話は大好物だ。
私はそんなに好きってわけじゃなかったんだけど、
幼馴染みの澪がさ、大好きでそういう漫画をよく薦めてきてたんだよな。
おかげで私も前世の話とかにそれなりに詳しくなっちゃったよ。
とにかくその頃のえるたちは前世とかに夢中だった。
神社の娘が話してるって説得力もあったんだろうな。
えるの記憶を思い出してるだけなのに、なんか思い出してる私までワクワクしてくる。
それくらいえるたちが十文字の話にワクワクしてたんだと思うよ。
その時ワクワクさせられた十文字の話はこういう話だった。



「えるたちは輪廻転生についてどう考えてる?」


「死んじゃった後に生まれ変わること!」


「そうね、唯の言う通り輪廻転生は生まれ変わることよ。
何度も何度も一つの魂が他の形で生まれ変わる。
だけど唯たちはこう考えてみたことはない?
今の人間の数は昔よりずっと多いのに、その魂はどうやって持ってきてるんだろうって。
単純計算でも縄文時代の頃の何十倍以上の人間が今の世界にはいるわよね?
その魂の数はどうやって補っているのかな?」


「言われてみればそうだよね……。
虫とか他の動物の魂を人間の魂に回してる……とかだったりして?」


「悪くない意見ね、唯。
それなら魂の数の問題は解決できるかもしれないわ」


「あの、かほさん、逆にこういう考え方はどうでしょうか?」


「どういう考え方?」


「人間に生まれ変わる順番待ちの魂が、縄文時代の頃からたくさんあったとします。
それならば矛盾がなくなると思いませんか?
人間の数がこれからもどんどん増えたとします。
けれど増えた人間に宿る分の魂はどこかで待っていますから、
どんなに人間が増えても生まれ変わる魂が足りなくなることはない……」


「順番待ち、ね。
そうね、そういう考えた方もあるかもしれないわ」


妙な心霊会議だよな。
いや、心霊とはちょっと違うか?
とにかく三人はそんな感じで放課後を神社で過ごしてたんだ。
答えの出る会議じゃなかったけど、それをえるは楽しんでたみたいだな。
結論ばっかり求める印象があるえるだけど、
その結論に至るまでの過程も大切にしてるタイプなんだよ、えるは。
もっとも結論が出せるのに越したことはないみたいだけどさ。

ああでもないこうでもないと話していると、
いつの間にか十文字の部屋に一匹の侵入者があった。
犬だ。
当時十文字が親戚の事情で預かっていた一匹の犬。
名前は『アミーナ』、小さな豆芝だったよ。
老犬じゃなかったし、今でも生きてるんじゃないかな。
えるも中学三年の頃に一度見かけたことがあるみたいだ。
その見かけた犬が本当にアミーナだったのか確証はないみたいだけど。


「おー、アミちゃん、よしよしよし!」


会議を打ち切って唯がアミーナに駆け寄った。
私の知ってる唯もそうだったけど、えるの友達の唯も犬好きだったんだよな。
そういう点でこの二人はよく似てるよ。
十文字の話が目当てだったのは確かだけど、
この唯はそれと同じくらい犬のアミーナも目当てだったらしい。
アミーナをあやす唯が本当に幸せそうだった様子が、えるの胸の中に強く残ってる。
いい笑顔だったんだよ、本気で。


「アミちゃんにも前世ってあったのかな?」


アミーナの首筋を優しく撫でながら唯が十文字に訊ねた。
会議の続きなのか、それとも気になることがあるのか、その時のえるに唯の真意は掴みとれなかった。
だから首を傾げて十文字に視線を向ける事しかできなかったんだ。



「どうでしょうか、かほさん?
人間に前世があるのなら、犬にも前世はあるはずとわたしは思いますけど……」


「さっき唯が言った通り、人間の前世が人間だけじゃないとしたらおかしくないわ。
犬が前世の人間、逆に人間が前世の犬がいても不思議じゃない。
ありとあらゆる魂を、ありとあらゆる肉体が共有してるって考え方もあるわね。
そういえば前に読んだ本でこんな話を見たことがあるわ。
『生まれ変わりは時間を超える』って話」


「『時間を超える』……?」


訊ねたのは唯だった。
なんとなくすがるような表情に見えたのは、えるの気のせいだけじゃなかった。
もちろん、それに気づけたのはもっとずっと後のことなんだけどな。
唯はアミーナを抱きしめながら続けた。


「生まれ変わりって時間を超えるの?」


「超えるというか、時間とは関係ないかもって話だったのよ。
例えば五年前に亡くなった人が、十五年前に産まれた人に転生していてもおかしくない。
そういう話ね」


今回はここまでです。
またよろしくお願いします。



これも後でえるが知ったことなんだけど、
この時より一年前くらいに唯の可愛がってた犬が死んでたらしい。
だから唯はすがるような表情で十文字に訊ねたんだろう。
死んだ時期が関係ないんだったら、もうその犬の生まれ変わりが生まれててもおかしくないもんな。
それこそアミーナがその犬の生まれ変わりとも考えることだってできる。
唯もさすがにアミーナがその犬の生まれ変わりだって考えてたわけじゃないみたいだけどな。
ただそうだったらいいな、くらいには思ってたみたいだ。
私もそう思うし、それから後のえるもそういう結論を出してる。


「あの、かほさん、ちょっといいですか?」


だけどその時のえるはそこまで考えが回ってない。
その時のえるは十文字の言葉の矛盾している点が気になってしょうがなくなってた。
だから訊ねたんだよ、お約束のあの仕種で。


「いいよ、どうしたの、える?」


「かほさんは生まれ変わりに時間は関係ないかもっておっしゃられました」


「正確には読んだ本の受け売りだけどね」


「はい、それは分かっています。
でも気になるんです。
だってそうじゃありませんか?
五年前に亡くなった方が十五年前に生まれ変わる……。
そんなことをしてしまったら、同じ魂……、いえ、魂なのかは確定してませんけど、
とにかく同じ魂のようなものを持った方が、何人も同じ時代に生きていることになってしまいませんか?
それっておかしくありませんか?
それなのにどういう理屈で時間が関係なんて筆者さんは語られたのか……。
わたし、気になります!」


なるほど、えるの言い分は正しいよな。
輪廻転生に時間が関係ないとしたら、同じ時代に同じ前世を持つ奴がいてもおかしくなくなる。
これはさすがに矛盾になっちゃうよな?
だけどそのえるの質問を予測してたのか、十文字はこともなげに返したんだ。


「える、あたしさっき言ったよね、
輪廻転生の魂はどうやって補ってるんだろうって。
えるは順番待ちの魂がたくさんあるから、魂が足りなくなることはないのかもって言った。
うん、面白い考え方ね。
だけどあたしにももう一つ考えてることがあるのよ。
それがどんな考えか、分かる?」


「……いいえ」


「それはね、魂の共有よ。
この世界には同じ魂を持っている生き物がたくさんいるって考え。
魂が誰にとっても一つだけなんて決まってるわけじゃないでしょ?
それなら同じ魂が何人もの身体に宿っててもおかしくないとは思わない?
そう考えれば魂を補う必要なんてなくなるしね。
同じ魂を何千人、何万人、何億人で共有すればいいの」


「だけどかほさん、それだと……」


えるはそれ以上言えなかった。
単なる輪廻転生の仮定だけど、えるの想像もしてなかった仮定に頭が混乱してた。
ホータローたちも知ってることだと思うけど、えるは筋道立てて答えを出すのが苦手なんだ。
特に勉強で解決できるようなものじゃないことには。
だけどその時にえるがなにを言おうとしてたのかは思い出せる。
えるは本当はこう言おうとしてたんだ。



『それだと全ての生き物の魂は、一つで足りるということになってしまいませんか?』


もしえると十文字が同じ魂を持っているとしたなら、
えると唯が、唯とホータローが同じ魂を持っていてもおかしくなくなる。
里志も冬実も私もえると同じ魂を持っていてもおかしくなくなる。
突きつめて考えれば、最終的には全ての人間が一つの魂を共有していても不思議じゃなくなる。
もちろん単なる一つの例え話だけどな。
なんとなくその時のえるはそう考えたんだ。
自分と自分じゃない誰かの魂……、心が同じでも不思議じゃないって。


「だけどね、えるちゃん、かほちゃん」


唯がアミーナに頬擦りしながら急に話に入ってきた。
それは唯にしてはとても真剣な表情だった。
アミーナ、える、十文字を順番に物凄く真剣に見つめてた。


「私は生まれ変わりってすっごく素敵だと思うな」


「素敵……ですか?」


「うん、素敵だよ!
アミちゃんが誰かの生まれ変わりでも素敵だし、
私たちが死んじゃった後も生まれ変われるって思えるのは嬉しいな。
それでね、生まれ変わった後にね、
生まれ変わった私が生まれ変わったえるちゃんたちとまた会えたら素敵だよ!
それって運命って感じだよね?
ずっとずっと永遠に一緒の仲間だって感じだよね?」


唯がそう熱弁したのは、やっぱり可愛がってた犬が死んだことが影響してるのかもしれない。
これは私の想像なんだけど、その犬が死んだ時に唯の母さんあたりがこう慰めたんじゃないか?
「唯が良い子にしていれば、いつかはその子の生まれ変わりと会えるかもしれないわよ」って。
私も小さな頃に母さんから同じ様なことを言われたしな。
うん、小学生の娘を慰めるにはちょうどいい言葉だって私も思う。
生まれ変わりが本当に起こるのかは分からない。
それでも起こらないと悲観して悲しみ続けるよりは、もしかしたらに期待して前を向いた方がいい。
私が唯の母さんでも同じ慰め方をするかもしれない。
ないよりはあった方が気分的に悪くない。


「そうですね、唯さん。
そうだったら、素敵ですよね」


「そうね、来世でも会えればいいわね」


えるも十文字も唯のその言葉には笑顔で返した。
アミーナの頭を撫でながら、来世での再会を約束したんだ。
小学生らしい子供っぽい、でも微笑ましい約束。
それでその日の輪廻転生の話は終わって、
後は近く開催されるマラソン大会とかの話をするだけになった。
三人とも笑顔で、楽しい一日を過ごしたんだ。
える自身もその時は本気で楽しかった。
だけど。



「ばいばい、えるちゃん!」


「はい、唯さん、また明日」


夕焼けの中、元気を取り戻した唯に手を振って別れた後、えるは道の端に駆け出したんだ。
そうして誰にも見えない場所にしゃがみ込んで、涙を流し始めた。
さっきまであんなに笑顔だったのに、あんなに楽しかったのに、泣き始めたんだ。
長い涙だった。
夕焼けがかなり濃くなるまで、えるは声を上げて泣いてた。
その涙の理由が、私には分からないんだ。
あんなに楽しかったはずなのに、どうしてえるが急に泣き出しちゃったのか。
もしかしたらえる本人も分かってないのかもな。
私がどう頑張ってもその理由を思い出せないのは、そういうことなのかもしれない。
える本人にも自分が泣いている理由が分かってなかったのかもしれない。

ただ私が思い出せる感覚は、恐怖……な気がする。
えるは怖かったんだ。
怖くて泣いたんだ。
なにが怖かったのかはもちろん分からない。
私に言えるのは、別に十文字や唯や夕焼けが怖かったわけじゃないってことだけだ。

……どうだ、ホータロー?
これがホータローに訊ねたい私の疑問だよ。
小学生のえるがどうして急に泣き出しちゃったのか、
ついさっきまであんなに楽しかったのに、
なんで急に涙が止まらなくなったのか、ホータロにはその理由が分かるか?








田井中の話が終わった。
俺の知らない千反田と十文字と唯の話。
おっと、唯というのは田井中が勝手に付けた仮名だったか。
まあ、別に唯のままでいいだろう。


「千反田が急に泣き出した理由か」


呟きながら思い出しのは、千反田の伯父との一件のことだ。
まったく、千反田は落ち着いて見えるが、やはり感情の起伏が激しい性質らしい。
俺があまり感情を露わにしない方だからか、
千反田が俺の前で喜怒哀楽を激しく示すことは少ないのだが。
もしかすると伊原の前ではもっと感情を豊かに振る舞っているのだろうか。
いや、それは今は重要なことではない。


「やっぱりえる、あの後に泣いていたのね……」


昔を懐かしむように十文字も呟いた。
その表情に悲哀の色は見られない。
どことなく昔からの疑問に合点がいったという表情にも見える。
十文字も十文字なりに、当時の千反田の様子に疑問を持っていたのだろう。
一応訊ねてみる。


「なにか心当たりでも?」


「なんとなく、だけどね。
長い付き合いだもの、えるが泣くのを我慢してる時の表情くらい分かるわ。
あの日のことはあたしもよく憶えてる。
いいえ、正確にはあの日の翌日ね。
あの日の次の日、感動する映画を観たからって誤魔化していたけど、
それだけだと説明できないくらいにえるは目の周りを泣き腫らしていたのよ。
嗚咽もかなり漏らしたんでしょうね。
声まで嗄らしてるくらいだったわ。
それでいつもじゃないけどたまに思い出していたの、えるにあの日なにがあったんだろうって」


「泣いた理由について手がかりはあるか?」


「分からないわ。
えるは誤魔化すだけだったし、律の言葉通りならえる自身も分かってない可能性もある。
のり……じゃなくて、今は仮名で唯だったわね。
唯が帰り道でえるをいじめたとも思えないし、
やっぱり原因はあたしたちの輪廻転生の話だと思うけれど、どうかしら?」


十文字の意見は妥当だろう。
俺としてもそれ以外の理由は見当たりそうにない。
実を言うと俺の中では既に一つの答えが固まりつつあった。
もちろん千反田のその時の感情を全て理解できると思い上がっているわけではない。
千反田の感情など、千反田自身にすら完全には分かっていないだろう。
しかし田井中の話を聞いた以上、少なくとも田井中と俺には納得のいく答えを出すべきだった。

心当たりと言えば、まだ千反田の中に田井中が存在しなかった頃の俺との会話だ。
一つは、千反田が俺に伯父の件で相談してきた時の会話。
もう一つは、俺が「やらなくてもいいことなら、やらない」と言うようになったきっかけを話した時の会話。
いや、それ以外にもよく考えれば思い当たらなくもない。
とにかく千反田は、過去をおざなりにしないのだ、良くも悪くも。
それがおそらく答えに繋がるだろう。


今回はここまでです。
またよろしくお願いします。



「田井中」


俺は小さく息を吐きながら言った。
田井中は静かに俺の方を向いて首を傾げる。
その表情は気になっていること回答を求めていると言うより……、いや、今はやめておこう。
とりあえず質問を続けてみる。


「千反田は怖かったんだな?」


「そうだと思う。
えるの思い出だから正確には言えないけどさ。
ほら、吊り橋効果ってあるだろ?
恐怖が原因のドキドキと恋心のドキドキを取り違えちゃうってやつ。
あの時のえるのそれがそうじゃなかったとは言い切れないしな」


「そういう考え方もあるが、残念ながら神山市に吊り橋は存在しない。
田井中が千反田の感情を恐怖と捉えた。
まずはそれを大前提にして俺の考えを話させてもらうが構わないか?」


「それはもちろん。
つーかホータローにはもうえるの泣いた理由が分かってるのか?」


「なんとなくだよ、確信を持ててるわけじゃない」


「こういう時だけ奥ゆかしいんだよなー、ホータローは」


奥ゆかしいってのはなんだ。
俺は単純に一番可能性が高い仮定を話そうとしているだけだ。
可能性が無限に存在する以上、自分が出した答えが正解だなどと簡単には確信できない。
俺がそれを伝えようと口を開くと、田井中は「それでどうなんだ?」と話の先を促した。
ならば別に俺の信条をわざわざ伝える必要もないだろう。
やらなくてもいいことなら、やらない。
俺は軽く肩をすくめてから話を続けた。


「千反田が泣いている理由で思い当たるのはもちろん前世の話だ。
千反田は前世についてなにか感じ入ることがあって泣き出してしまった。
そう考えるのが自然だろう。
と言うよりも田井中、お前もそう考えていたんだろう?
そう考えていたからこそ当時千反田たちが話したはずの話題から、
前世の話題だけを選りすぐって詳しく思い出して俺に伝えたんじゃないか?」


「バレバレかよ」


悪びれた様子もなく田井中が微笑んだ。
分かり切っていたことだし、俺はそれについて特に追求しなかった。
田井中がポニーテールを右手で軽く流しながら口を開く。



「ホータローの言う通りだ。
私はえるが泣いた理由は前世の話をしたからだって思ったんだ。
えるは前世の話のなにかが怖くて泣いたんだと思う。
他に泣く理由もないもんな。

でもさ、だったらえるは前世の話なんかでどうして泣いたんだ?
前世なんて日常会話のついででも話すようなことだろ?
小学生の頃だったら、余計に日常会話の一部になってるくらいだよ。
えるはそんな日常会話のなにが怖かったんだ?
私にはそれが分からないんだよ」


嘘だな、と感じた。
いや、完全には本音じゃないと言った方が正しいか。
俺がそれを感じ取れるくらいには、田井中の様子は演技臭かった。
多分田井中は千反田が泣いた理由の大体の目安は付けているのだろう。
それでいて俺に答えを出させたいのだ。
田井中自身が納得するために。
ならば納得させてやろう。
それが田井中の望むことなのだし、俺にできる唯一のことなのだろうから。


「確かアミーナとか言ったな、豆芝の名前は」


「そうだけど?」


「そして当時の千反田は与り知らぬことだが、
唯はアミーナが自分の可愛がっていた犬の生まれ変わりであることを願っていた。
そうだったな?」


「それから後のえるがそうじゃないかって考えたってだけだけどな」


「十分だ、田井中。
俺たちにとって重要なのは、唯が本当に生まれ変わりを信じてたのかってことじゃない。
その時の千反田がなにを考えていたのかってことだ。
もう一度確認させてもらうが、確か唯はアミーナの生まれ変わりを『素敵』だと言っていたな?」


「ああ、えるの記憶では確かに言ってたよ」


「それに対して千反田は『素敵ですね』と返した。
そうだったな?」


「間違いないよ。それで?」


「当然ながらこれは俺の仮定でしかないが、千反田のその言葉は嘘だったんだろうな」


「『素敵ですね』って言葉がか?」


「ああ、そうだ。
あいつは予想外に素っ頓狂な反応を見せることも多々あるが、基本的には空気が読める奴だ。
『和を以て貴しとなす』。それが千反田の信条と言ってもいいだろう。
もちろん納得がいかないことを追及する心根がないわけじゃないけどな。
しかしあいつは必要以上に自分の感情を露わにしたりはしない。
あれで名家のお嬢様なんだ。あいつもそれくらいの処世術は弁えている」


「それで唯の『素敵』に頷いたわけか?」


「唯は生まれ変わりを『素敵』だと思っている。
それどころか生まれ変わりと言う現象に縋っているきらいもある。
ならば仮に反対意見を持っていたとしても、千反田は進んで口に出したりはしないだろう。
まず間違いなく胸にすっきりとしない感情を抱えたまま帰路に着く」


「えるならまずそうするわね」



同意したのは十文字だった。
俺たちの中では千反田を一番よく知っている十文字がそう言うのだ。
やはり千反田が生まれ変わりのなにかを快く思っていなかったと考えるのが自然だろう。
ふと気が付くと田井中が真剣な表情で俺の顔を覗き込んでいた。


「えるが本当は生まれ変わりを『素敵』だと思ってなかった。
それは分かったし、私もそう思うよ。
だけどそれならえるが生まれ変わりのなにが怖かったんだ?
ホータローにはそれも分かってるのか?」


「『氷菓』だ」


「文集がどうしたんだ?」


「正確には『氷菓』に纏わる一連の事件だな。
千反田は『氷菓』のことを調べるために古典部に入部した。
その理由はお前にもなぜだか分かっているだろう?」


「伯父さんとの思い出を大切にしたいから……か?」


「持ち前の果てない好奇心、過去をすっきりと思い出せない不安。
様々な要因はあったんだろうが、要はそういうことだったんだろうな。
千反田は伯父との過去を思い出して大切にしたかったんだよ、単純に。
もうすぐ伯父が死んでしまうという焦りもあったんだろうけどな」


「そういえば小学五年生の頃って言えば……」


口元に手を当てて十文字が呟く。
独り言の様だったが、俺はそれを田井中に聞かせるためにもそれに応じた。


「今年で千反田の伯父が失踪してから八年になるはずだったな。
逆算すれば千反田が小学二年生か小学三年生の頃に伯父が失踪した計算になる。
小五と言えばその失踪から二年ほど経っているが、
その程度の期間であいつが伯父の失踪を割り切れたとは思えない。
特に単なる死亡じゃないだけに心のどこかに引っ掛かっていたはずだ。
死んだものと受け止めることもできず、
生きているかもしれないという淡い期待に何度も裏切られて……。
逆に二年経ったその頃の方が千反田の心には重い翳が掛かっていたのかもしれない」


「そんな時に唯が生まれ変わりの話をしたのが泣いた原因なのか?」


「いや、生まれ変わり自体は雑談としてなら問題ない。
お前も言っていただろう?
千反田は前世の話をすること自体には前向きだったって。
千反田にとって問題だったのはおそらく、
身近な存在を何者かの生まれ変わりだと考えてしまうことだったんだ」


「身近な存在……ってアミーナか?」


「アミーナと、それから伯父も連想したんだろう。
伯父がもし死んでいたとして仮に時間も影響しないとしたなら、
この世界に伯父の生まれ変わりが産まれていたとしても不思議じゃないと」


「それは……、えるにとって『素敵』なことじゃなかったんだよな?」


苦々しげに田井中が呟く。
いよいよ田井中が知りたくて知りたくなかった本題に入る。
心苦しくないと言ったら嘘になる。
だが俺は田井中に俺の考えを伝えなければならない。
それが千反田に起こった不可思議な現象に向き合うということなのだ。
俺は深呼吸して天井を仰いだ後、「ああ」と静かに頷いた。



「そうだな、やはり千反田にとって生まれ変わりは『素敵』じゃなかったんだろう。
少なくとも俺はそう思う。
遠い未来で生まれ変わって再会できるだけなら、千反田も悪感情を抱かなかったはずだ。
だがその時の十文字さんは一つ千反田に仮説を話したな」


「『生まれ変わりに時間は影響しない』……」


「ああ、それだ。
その真偽は俺たちには確かめようもないが、現実にもそうだとしよう。
少なくとも千反田がその仮説を信じたと仮定して、
『五年前に死んだ人間が十五年前に生まれ変わる』事が可能だとする。
そうすると一生の間に同じ人間の生まれ変わりに会える可能性は高くなる。
それこそ下手をすると、万単位で何者かの生まれ変わりに会えることもありえる。
一生の内に誰かの生まれ変わりに触れられることが珍しくなくなる。
そうするとどうなる?」


「どうなるってホータロー……、それは……」


「一つ例を出そう。
例えば里志には悪いがあいつが明日くらいに突然死するとする。
そしてその直後に俺たちが里志の生まれ変わりと出会い、
なんらかの理由でそいつが里志の生まれ変わりだということを知ったとしよう。
そんなことが現実に起こったとしたなら、
少なくとも俺はそいつと里志を別の存在だと切り離して見ることができそうにない。
意識的にも無意識的にも里志の面影を捜そうとしてしまうだろうな」


「私だって……、そうだよ……」


「あたしもそうね、福部くんには申し訳ない仮定だけど」


俺の仮定に二人が頷く。
これはなにも俺たちだけに限った話ではないはずだ。
誰だって失った物の面影を追い求めてしまう。
生まれ変わりに限定せずとも、初恋の相手の面影を次の相手に求めてしまうなんてのはよく聞く話だ。
その是非について議論するつもりはない。
議論できるような性格でもない。
だが千反田はその是非について考えてしまうような奴なのだ。


「千反田はそういう想像をしてしまったんだろうな」


絞り出すように続ける。


「言うまでもないことだがアミーナは犬だ。
まだ存命らしいが、少なくとも俺たちよりは遥かに先に寿命が尽きる。
その分、他の何かに生まれ変わっている確率も人間より遥かに高くなるだろう。
千反田がアミーナの生まれ変わりに出会える確率もな。
唯はアミーナを他の犬の生まれ変わりだと『素敵』だと考えていた。
前の飼い犬の面影を投影していた。

前の犬にとっては幸福なことなのかもしれない。
いつまでも唯の心の中に存在しているということだ。
だがそれはアミーナにとっては幸福なことなんだろうか」


「……どうなんだろうな」


「そういえばこんな話を聞いたことがあるわ、折木くん」


「どんな話だ?」


「ペットのクローニング。
死んだペットの遺伝子からクローンを産み出す商売」



十文字が少し苦そうに吐き出した。
様々な宗教を勉強している十文字なのだ。
こう見えて生命倫理には思うところがあるのだろう。
しかしクローンか。
これも現代の科学が実現させた一つの生まれ変わりと言えるのかもしれない。


「折木くんはどう思う?
折木くんなら死んだペットをクローンで蘇らせたい?」


「考えたことはないな。
俺はペットを飼っていないし、おそらく飼っていてもクローンは造らない。
クローンは遺伝子が同じだけだ。
飼っていたペットが生き返るわけじゃない」


「そうね、折木くんの言う通りよ。
クローンは死んだ誰かを生き返らせる技術じゃないわ。
だけどそれは現実に生まれ変わりがあったとしても同じことよね?」


「生まれ変わりは生まれ変わりでしかない……ってことか」


田井中が汗を掻きながら絞り出すように呟く。
暑いのだろうか?
いや、おそらくあの額に光る粒は冷や汗に違いない。
しかしその冷や汗が田井中の本望に思えるのは俺の考え過ぎだろうか。
眼鏡の位置を調整してから十文字が冷徹に続ける。


「前世の話をしていたあたしが言うことじゃないかもしれないけど、
生まれ変わりが現実にあったとしても、それは単なる生まれ変わりよ。
同じ人間が生まれてくるわけじゃないの。
魂が同じ?
魂に刻まれた記憶が同じ?
そんなの生まれてきた新しい命にはなんの関係もないことでしょ?
前世を知っている誰かに、その前世の面影を期待されても迷惑なだけだと思わない?」


そうだ。
それをこそ千反田は嫌がっていたのだと思う。
アミーナはこの世界に産まれ落ちている。
誰の、なんの生まれ変わりなのかは分からないが、とにかく新しい命として産まれている。
だと言うのに、アミーナ自身もよく知らない犬の生まれ変わりだと思われて、勝手に期待されてしまっている。
可愛がってはもらえるだろう。
大切にしてはもらえるだろう。
幸福かもしれないが、しかしそれは悲劇というものなのではないだろうか。
その悲劇について、俺には別にそれほど感傷はない。
世界がそういう仕組みだと言うのなら特に否定もしない。
だがあいつは、千反田えるはそういう悲劇を悲しく思う奴なのだ。
そしてなによりも。


「生まれ変わるのはアミーナだけじゃないからな」


俺が呟くと泣きそうな顔で田井中が顔を向けた。
失言だったかもしれない。
しかし俺たちが向き合わなければならない現実なのも確かだった。
生まれ変わるのは犬だけじゃない。
この世界に生まれ変わりが存在するのなら、俺たちもいつか生まれ変わるのだろう。
そして今の俺たちも誰かの生まれ変わりなのだろう。
もしもその俺たちの前世を知る誰かが現れたとしたら。
その誰かが俺たちの前世の役割を手前勝手に押し付けてきたとしたら。
そんな面倒臭いことは俺だってごめんだ。
大した人間ではないが、俺は俺なのだ。
別の誰かを演じて見せたりなどしたくない。
例え仮に前世の記憶が多少は残っていたとしても。


それは怖いことだ、と俺ですら思う。
前世という概念に囚われるようになった途端、俺たちは俺たちじゃなくなる。
他の誰かの役割ばかりを期待されて、今生きている俺たちという存在が完全に無価値と化す。
今の自分がなんの意味もない存在になってしまうのだ。
感受性の高い千反田ならなおさらそれに恐怖し、泣き出してしまいたくもなってしまうだろう。
だから泣いたのだ、千反田は。
もっともこれは単に俺たちが辿り着いた一つの解答でしかないが。

田井中は黙って汗を拭っていた。
やはり田井中も心の隅ではそう思っていたのだろう。
認めるのが怖かっただけなのだ。
それで俺たちに答えを求めたのだ。
優しい言葉でも掛けて、違う答えを出してやるべきだったのかもしれない。
しかしそれはなんと言うか、田井中にも千反田にも真摯とは言えまい。
軽く田井中と視線が合う。
最後の確認よろしく田井中が呟いた。


「しっかし暑いよなあ……。
これからもっと暑くなるんだろうし髪切っちゃ駄目か?
……なんてな」


「駄目よ、律。
それはえるが子供の頃から伸ばしてる自慢の髪なんだから」


「そっか……、だよなあ……」


それ以上田井中はなにも言わなかったし、十文字も押し黙った。
俺も居心地の悪い気分を味わっていた。
見る限り十文字は田井中と仲が良いのだろう。
会話の節々からもその様子は見てとれた。
だが十文字は田井中に髪を切ってはいけないと言った。
もちろん単なる却下ではない。
これはいつか千反田が元に戻ることを信じての言葉だった。
千反田が元に戻った時、短くされた髪を見て困らないようための言葉だった。
それは同時に田井中の存在の否定でもあった。

田井中が顕現して以来、千反田の人格は表に出ていない。
眠っているのか、どこか別の場所にあるのか、それは分からない。
しかし一つだけ言えることがある。
どうも田井中の人格が消えない限り、千反田の人格が戻りそうにないということだ。
これだけの長い期間、千反田が現れる素振りもないのだ。
千反田と田井中の両者は共存できないと考えるのが自然だろう。
どちらかが消えない限り、どちらかも存在できない。
まるで前世と生まれ変わりの関係のように。

十文字は千反田を選択した。
当然だ、幼馴染みなのだから。
田井中のことは嫌いではなかろうが、二者択一であれば十文字は迷わず千反田を選ぶだろう。
生まれ変わりの田井中よりも、前世の千反田を。

俺は。
俺はどちらを選ぶのだろう。
俺だって田井中のことは嫌いではない。
苦手な方ではあるが、消えてしまえばいいとまで思っているわけではない。
田井中とはそれなりに過ごしてきたし、
同じ問題に向き合っているという少なからずの仲間意識もある。
それなりに田井中を面白いと思えるようにもなってきたのだ。
その田井中の人格が消えるなど、あまり考えたい未来ではない。

しかしやはり俺は選ばなければならないのだろう。
どちらに消えて、どちらに残ってもらうべきなのかを。
すぐの話ではない。
しかしそう遠い話でもない。
先延ばしでしかないことは分かっているが、その決断を下す日はできる限り先であってほしい。
「やらなければいけないことなら手短に」、
今回ばかりはその俺の信条も曲げなければなるまい。


三章がこれにて終了です。
四章からは後輩が出る予定です。



四章 カレイドスコープ・ホワイトアウト


1.七月五日


授業を終えて放課後。
鞄を抱えて部室に向かうと、入口の前に先客がいることに気付いた。
先客は息を殺して部室を覗き込んでいる。
女子にしては背の高いその体躯。
この前目にした時よりも肌が浅黒く日焼けしている。
髪は幾分か伸びただろうか。
俺はその女子生徒に見覚えがあった。


「なにをしているんだ、大……」


掛けようとした声を彼女の右手で押し留められる。
まさか口元を手で覆われるとは思わなかった。
それほど切羽詰っていたということなのだろうか。
彼女は非常に不安そうな表情を浮かべ、左手の人差し指を自分の口元で立てる。
静かにしてくれということなのだろう。
俺は小さく溜息をついてから了承の意を示すために頷く。
そうしてやっと彼女……大日向は俺の口元から右手を離してくれた。


「お久しぶりです、折木先輩」


大日向が小声で囁いて頭を垂れる。
その程度の声量であれば声を出しても構わないということか。
俺は大日向に倣い、声量を落として訊ねる。


「ああ、久しぶりだな、大日向。
どうしたんだ、急に」


「ちょっと気になったことがありまして」


大日向は微笑んだが、その笑顔は少し寂しそうに見えた。
それでその気になったことがなんなのか、俺にも見当が付いた。
もっとも、大日向が寂しそうな表情を見せずとも分からなくもないことだったが。


「田井……千反田のことか?」


「たい……?」


「噛んだんだ、気にしないでくれ」


「先輩も噛むことがあるんですね」


今度は本当に面白かったのか、その微笑みからは寂しさが消えていた。
しかし危なかった。
最近はあいつを「千反田」より「田井中」と呼ぶ頻度の方が遥かに多い。
思わず田井中の件を知らない大日向の前で「田井中」と口に出してしまうところだった。
それくらい田井中の存在が俺の日常に溶け込み始めたということなのだろう。
是か非かで考えると、恐らくは非寄りの変化だろうが。
「ほっといてくれ」と咳払いしてから、俺は大日向に質問を続ける。



「それで千反田がどうしたんだ。
なにか急用でもあるのか?」


「いえ、用は……ないんですけど……」


歯切れが悪い。
マラソン大会前後で大日向と千反田に起こったことを考えれば無理もない。
あの件はまだ大日向の胸の中に大きな翳を落としているのだろう。
それに関して俺にできそうなことは今のところない。
俺にできそうなのは、もしも、万が一、ほとんど存在しない可能性だろうが、
またいずれ大日向が古典部に関わろうと思えた時、その背中を軽く押してやることくらいだろう。
大日向にまだその意志がない以上、俺にはなにもできないのだ、まだ。


「用がないのに部室の前にいるってことは偵察でもしてるのか?」


「……はい」


冗談のつもりだったが、大日向は真面目な表情で頷いていた。
本当に偵察だったのか。
だがなんのために?
俺がそれを問うとまた大日向の表情が曇った。
そういえば大日向は表情がよく変わる、そういう喜怒哀楽の激しい後輩だった。


「偵察しているのは、千反田先輩です」


「千反田のなにを?」


「千反田先輩なんですけどね、一年生の間でも有名なんですよ?
ファンも結構いるみたいなんです、男子にも、女子にも。
だから自然と千反田先輩の噂は耳に入ってくるんです。
それに、ほら……」


「そうか、お前のクラスには里志の妹がいるんだったな」


「はい」


里志の妹。
下級生の女子でありながら、里志を遥かに超えた変人。
俺も何度かひどい目に遭わされたが、それは今は重要じゃない。
重要なのは里志の妹と大日向の仲がかなり良いということだ。
おそらくはまだ大日向の中では「友達」ではないのだろうが。
とにかく大日向が千反田の噂を耳にする機会は、
単なる一年生という立場の者よりも遥かに多いだろうことは想像に難くない。


「聞いたんです、あたし」


「なにを?」


「千反田先輩が軽音部でドラムを叩いたって。
それも一朝一夕でできるような叩き方じゃなかったって」


人の口に戸は立てられない。
とりあえず伊原が口止めしていたのだが、やはり誰かから漏れてしまったらしい。
まあ、当然か。
全く情報を与えていなかったはずの里志ですら、その当日に軽音部に顔を出したのだ。
当日から既にあちこちに知れ渡っていたということだ。
千反田がドラムを叩くというある意味センセーショナルな話題を、暇な生徒たちが放っておくわけがない。


「千反田先輩、ドラムなんて叩けたんですか?」



大日向が上目遣いに俺ににじり寄る。
叩けるはずがない。
習い事は多いようだが、さすがにドラムにまで手を出していたとは俺も聞いていない。
試してもらったことはないが、おそらくは叩けないだろう、千反田の方は。
しかしそれを大日向に一から説明するわけにもいかないだろう。
言葉は悪いが大日向は部外者なのだし、今の彼女にはそれより優先するべき問題がある。
だから俺が大日向に伝えるのはこの言葉しかないのだ。


「叩けたらしい、俺たちも最近知った。
意外かもしれないが人の趣味や特技は千差万別だってことだ」


「そう……なんですか?
千反田先輩も水臭いなあ……。
ドラムが叩けるんだったらアーティストの話とかしたかったのに」


アーティスト?
ああ、そういえば全国ツアーに参加するくらい贔屓にしているアーティストがいるんだったか。
アーティストの名前は教えてもらっていないが、大日向の雰囲気から考えてもロックバンドだろう。
バンドに興味があるのであれば、ドラムを叩く千反田にも興味を持っても不思議ではない。
性格的にも二人ならバンド談義に華を咲かせられそうだ。
大日向と、田井中ならば。


「ドラム」


また呟くように大日向が言った。


「ドラムがどうした」


「千反田先輩のドラムの演奏、どうでした?」


「見事だったと思う。
俺はドラムに関しては素人以下だが、それでも正直聴き惚れた。
軽音部の連中も絶賛してたよ、部員に欲しいくらいだって。
千反田は古典部の活動があるからって断っていたけどな」


「そうなんですか。
……聴きたかったな」


「聴かせてもらえばいい、お前にその意思があるのなら」


意地の悪い言い方だったと自分でも思う。
今の大日向にはそれができないことを分かっていて、俺はそう言った。
しかし大日向は気を悪くしたようでもなく寂しげに微笑んだ。
若干遠い目をしているようでもあった。


「千反田先輩、元気なんですよね?」


「ああ。
お前の基準は分からないが、普段通りという意味では元気だよ。
突然ドラム演奏の趣味を告白するくらいの心境の変化はあったようだが」


「それなら……、よかったんですけど……」


大日向が言い澱む。
大日向がなにを言おうとしているのか、俺にはなんとなく分かっていた。
大日向は突然の千反田の心境の変化を気にしているのだ。
千反田がドラムを叩き始めたのは、時期としては大日向が退部すると言い出した頃の直後になる。
それまでドラムになど興味が無さそうに見えた千反田が、急にドラムを叩き始める。
大日向でなくても関連性を疑いたくもなってしまうというものだろう。


だがそれは単なる偶然だと俺は考えている。
たまたま時期的に重なってしまっただけだ。
大日向の件では千反田もかなり心を痛めてしまっていたらしい。
会話中、不意に塞ぎ込むことも何度もあった。
それでも千反田はそれほど柔い精神の持ち主ではない。
辛い思いをした過去を受け止めて、前に進むだけの芯の強さを持っている。
少なくとも俺の中での千反田えるはそういう奴だった。
だから俺は大日向に言ってやるのだ。


「単なる心境の変化だよ」


「そうなんでしょうか……」


「お前にもあるだろう。
好きな音楽の傾向が急に変わったり、好きだったなにかを意味もなく好まなくなったり」


「それは、はい、あたしにも覚えがありますけど……」


「そういうことだ。
お前が特に気にするようなことでもない」


大日向は俺の言葉になにかを返そうと口を開いて、しかしすぐにその口を閉じた。
俺がそう主張する以上、大日向はそう納得するしかない。
大日向も分かっているのだ、自分の立ち位置を。

前に大日向が「友達は祝われなきゃいけない」と言ったことがある。
大日向にとって友達は特別な存在だ。
ただ仲が良いというだけじゃない。
心から信頼し合える仲でなければ、大日向は相手を友達とは捉えない。
そして一度友達になってしまった以上、簡単に見捨てるようなこはできなくなる。
大日向友子は、俺の中学の後輩は、俺の古典部の後輩は、そういう後輩だった。

だから大日向は千反田への距離を掴みかねている。
自分に千反田の心配をする権利があるのか悩んでしまっている。
千反田と大日向はまだ「友達」ではないから。
親しい仲ではあったが、「友達」にはなり切れなかったから。
それで大日向は千反田の偵察に来たのだ。
千反田の異変の原因が自分であるのなら、おそらくはなんとかしたくて。
その程度には千反田との件が大日向の胸に残っている。
しかし幸か不幸かそれは大日向の勘違いだ。
千反田の心境の変化と大日向は関係がない。
関係がない以上、大日向はそれまで背負い込むことはないのだ。
人は許容量以上の荷物を背負うことはできないのだから。


「安心しました」


そう言って大日向が微笑みを浮かべる。
本当に安心したのかは分からない。
だが俺はその大日向の言葉を信じるしかなかった。


「部室、顔を出して行くか?」


俺が軽く訊ねてみると大日向は首を横に振った。



「言いましたよね、偵察だって」


「言ったな」


「そういうことですから、今日は帰ります。
でもいつか……、いつかは必ず千反田先輩に謝りに行きます。
本当のことが言えるかどうかは分かりませんけど……」


「そうか。
それでも千反田は喜ぶと思う。
その気になったらいつでもまた遊びに来てくれ。
里志も伊原も歓迎するだろう、例えお前が入部しなくても」


「折木先輩は歓迎してくれないんですか?」


「歓迎はしない」


「あははっ、冷たいなあ」


「なぜなら面倒臭いからだ。
出戻りの相手を歓迎してやるほど俺は面倒に寛容じゃないからな。
だが前までの応対と同じでよければ、そうするのはやぶさかじゃない」


「先輩らしいですね」


「そうだろうともさ」


俺が軽く笑ってやると大日向も釣られるように笑った。
いつかそうなればいい、とその顔は言っているように見えた。
俺としてはどちらでもいい。
だがせっかくそれなりに活動してきた古典部だ。
また廃部寸前に追い込むよりは、一人でも後輩がいてくれた方が気分的にも悪くはない。

幾分かすっきりした表情で、大日向が廊下に置いていた鞄を手に取った。


「それじゃあ今日は帰りますね」


「ああ」


「あ、忘れてました」


言い様、大日向が鞄の中に手を突っ込んだ。
なにをしているのだろうと一瞬思ったが、
鞄の中から取り出した大日向の手には小さな箱が掴まれていた。
俺に手渡してから大日向が笑う。


「差し入れです、チョコレート」


「差し入れはありがたいが、裏はないんだろうな」


「あ、ひどいなあ、折木先輩」


「前にそれで妙なことに付き合わされたからな」


「そんなこともありましたっけ。
でも大丈夫ですよ、これは純粋な差し入れですから。
前におだんごを奢ってもらったお礼です」



一本八十円の安い恩だったが、こんなところで返って来るとは思わなかった。
やはり大日向は律儀で貸し借りにはきっちりした奴なのだ。
ならば受け取らない理由はない。
俺は軽く頭を下げてから、そのチョコレートを遠慮なく頂く。
踵を返して去っていく前、大日向がまた律儀に主張した。


「親戚から貰ったお菓子なんで心配しなくていいですよ」


自腹を切ったわけではないから遠慮するな。
という意味ではなく、あの件にちゃんと向き合っていると言いたかったのだろう。
無理に贔屓のアーティストのツアーに付き合ったりはしていない。
誰かの財力に頼ってなどはいないのだと。
もちろん俺はそれを指摘したりはしなかった。
大日向があの件に対して向き合っているのなら、後の全ては大日向次第なのだから。


「それじゃあまた、折木先輩」


「ああ、またな」


軽く手を振って大日向を見送る。
そして手に持ったチョコレートを見ながら思う。
部室の中に誰がいるのかは分からない。
だが大日向が覗き込んでいた以上、千反田……、いや、田井中くらいはいるだろう。
そういえば田井中は毎日部活前にティータイムを取っていたとか言っていたな。
軽音部とティータイムとは妙な組み合わせだが、田井中を見ているとなぜだかそれも信じられる。
ならば田井中もこの差し入れには喜ぶだろう。
俺としても毎日千反田家からお菓子を差し入れされるのには心苦しいものがある。
大日向の様に律儀に恩を返してみるのも悪くない。
そう考えながら俺は古典部の扉を開いた。
後で心底後悔することになる未来も知らずに。




2.七月六日


伊原に気を遣ったのがこれほど裏目に出るとは思わなかった。
昨日大日向から渡された差し入れを、俺は古典部の連中に見せなかった。
夏に向けてダイエットしていると言っていた伊原が先客にいたからだ。
里志との関係が進んで初めての夏なのだ。
伊原としても夏の海で新しい水着を着て素敵な思い出とやらを作りたいに違いない。
それで俺は差し入れを鞄の中に隠し、大日向とのやりとりなどなにもなかったかのように振る舞った。
これでも伊原とは長い付き合いなのだ。
今後のあいつの幸せを願わないわけではない。
無遠慮にお菓子を見せた時のあいつの罵倒を聞きたくなかっただけでもあるけれど。


「あっははっ! 楽しんでるかあっ、ホータローっ?」


どうしてこうなったんだ……。
田井中に無理矢理肩を組まれながら、俺は大きく溜息をつく。
陽気な田井中の見せる普段以上に陽気な姿。
パーソナルスペースなど存在していないかのように俺に接近し、身体を密着させて大声で絡む。


「ホータローも若いんだからな!
もっとやる気と元気を持って青春しなくっちゃな!」


「はあ……、すみません……。
善処します……」


「声が小さい!」


「善処しますっ!」


「よーしっ!」


満足そうに微笑んで、俺の肩を強く叩く田井中。
こんな横柄な態度の人間を見るのは初めてじゃない。
親父が仕事の関係で無理矢理酒を飲まされて帰ってきた時が確かこんな感じだった。
アルコールは人間から理性や知性や色んな物を奪い去る。
こんなにも簡単に。
俺は成人してもアルコールに手を出さないことにしよう。

とどのつまり酔っ払っているのだ、田井中は。
いや、放課後の部室で堂々と酒盛りをしているわけではない。
色々と複雑な事情があるのだ。
本日の授業が終わって古典部に向かうと、部室では田井中が漫画を読んでいた。
どうやら田井中が子供の頃に読んでいた漫画を伊原が所有していたらしい。
それで全巻借りたとのことだが、漫画のことは今はどうでもいい。
重要なのはその時の部室では俺と田井中が二人きりだったということだ。
ダイエット中の伊原は不在で、伊原に告げ口しそうな里志も他の部活に行っている。
大日向からの差し入れを食べるにはちょうどいいタイミングだったのだ。

だが大日向からの差し入れを開いてみた時、俺は少し迷うことになった。
大日向からの差し入れは確かにチョコレートだった。
チョコレートには違いない。
しかし正確にはウイスキーボンボンだった。
一つの過去が俺の脳内に蘇った。
あれは確か前に沢木口の推理を拝聴させて頂いた時のことだ。
「一二三」での話ではなく、俺たちが沢木口と初対面の時のこと。
つまり入須のクラスのビデオ映画の真相について探っている時のことだった。

あの日の千反田の様子は今でも鮮明に思い出せる。
あの日、千反田の食べたウイスキーボンボンの数は七個。
きつい方とは言え、たったの七個ウイスキーボンボンを食べただけであいつは強く酔っ払った。
妙なテンションで沢木口と意気投合し、最終的には酔い潰れて眠ってしまった。
白い肌が更に真っ白になるのはかなり気持ち悪かった。
そうなる程度にはアルコールに弱いのだ、千反田は。


そうして俺が躊躇っているのを見て、
田井中もそれを思い出したのか俺を安心させるように笑った。


「私はアルコールに強い方だから平気だって。
みりんや料理酒を使った料理だって普通に作れるんだぜ?」


みりんや料理酒とは話が別だろうが、見たところ田井中が酒に弱そうには見えないのも確かだった。
むしろ勝手なイメージではあるが酒豪そうだ。
仮にも未成年の田井中にそんなイメージを持つのも変かもしれないが。
そもそもウイスキーボンボン程度で酔っ払う千反田が異常なのだ。
もし田井中が酒豪でなかったにしても、前の様な騒動にはならないだろう。
そう高を括ったのが間違いだった。
結論は言うに及ばず。
ウイスキーボンボン七個どころか、たったの五個で田井中は見事に酔っぱらってしまった。

田井中はお菓子食べたさに酒に強いと嘘をついたのだろうか。
いや、違う。
常にお菓子に飢えているように見える田井中でもそこまではしないだろう。
現実にも酒に強い方には違いない。
だが俺は失念してしまっていたのだ。
アルコールを摂取するのは田井中ではなく、千反田の肉体の方だったのだということを。

アセトアルデヒド。
確かそんな名前の成分だったと思うが、
人間が酔いやすいかどうかはその成分を分解しやすいかどうかで決まると聞いたことがある。
それは遺伝的に決まっていることであり、訓練などで改善されるものではないらしい。
つまり千反田の肉体は遺伝的にアルコールに弱いようにできているのだ。
田井中が酒に強いのが事実だとしても、それは田井中の精神が田井中の肉体にあった時の話だ。
身体能力が千反田に準拠する以上、田井中のアルコールへの耐性も千反田並みに落ちて然るべきだ。
現在の田井中の肉体は千反田の物なのだから。


「ほれほれ、ホータローも食え食え!」


などと冷静に分析している場合ではなかった。
顔を赤くした田井中が頻りに俺の肩を叩き、ウイスキーボンボンを俺の口元に運んでいた。
とんでもない酔っ払いだ……。
おそらく田井中自身、ここまで酔っ払ってしまったのは初めてなのだろう。
酒には本当に強かったのだろうし、一応は未成年なのだから、酔い潰れたこともないに違いない。
それで田井中も自分に起こっている初めての現象に対処し切れていないのだ。
嘆息したくなるのを堪えて、俺は箱の中に残されたウイスキーボンボンに視線を下ろしてみる。
正確に数えてみる気にもなれない。
箱の中にはまだ三十個以上のウイスキーボンボンが残されていた。
それを食べ尽くすまでは、この田井中からはどうも解放されそうもない。

三十個。
田井中と半分ずつ分けるにしても残数十五。
それだけの量を食べて酔わずにいられる自信は俺にはない。
そして酔い潰れて伊原あたりに発見される酒臭い俺たち。
伊原はここぞとばかりに今まで聞いたことのない語彙で俺を罵倒してくれることだろう。
これは大問題だ……。


「なあなあ、ホータロー?」


目を据わらせて田井中が囁く。
酔っ払いに逆らうのは自殺行為だ。
俺は背筋を伸ばして素直に反応する。
背中に感じる田井中の、正確には千反田の胸の感触は気にしない。
気にしてはいけない。


「どうしたんだ、田井中?」


「ホータローにはさあ、世話になってるよなあ……?」


「そ、そうか?」


「そうだって……、少しずつだけど謎も解いてくれてるじゃんか……。
私さあ、それには結構感謝してるんだよなあ……」



声が消え入りそうになっている。
軽く視線を向けてみると少し涙ぐんでいるようだった。
笑い上戸の絡み酒かと思っていたが、泣き上戸の性質も兼ね備えていたらしい。
いや、単にアルコールで感情が昂ぶっているだけか?


「別に感謝は必要ない」


謙遜ではなく、本音で俺はそう応じた。


「やらなければいけないことだからやっているだけだ。
手短にやれないのは俺の本意じゃないが、
やらなければいけないことくらいは分かってるつもりだからな。
この問題はどうにかして解決しなければならない。
千反田のためにも、お前のためにも、俺のためにもだ。
だから別に感謝されるようなことをしてるわけじゃない」


「分かってるってぇ……」


気が付けば田井中はもう笑っていた。
やはり普段以上に喜怒哀楽の変化が激しい。
これもアルコールの効能と言えば効能になるのだろうか。
まあ、泣きそうな表情のままでいられるよりはいいだろう。


「でも助かってるし嬉しいんだよ、ホータロー。
もちろん里志や摩耶花にも感謝してる。
私一人だったら、本当にどうしていいか分からなかったもんなぁ……。
正直な話、ホータローたちがいなかったら、私さ……。
一生えるのふりをして生きてたかもしれない……」


一瞬、背筋が凍る気分になった。
千反田に見えて、中身は千反田とは全く違う。
全くの別人が千反田を演じている。
俺たちにそれをそうと気付かせずに。
それは田井中の精神が千反田の中にあるということを知っているより、余程恐ろしいことに思えた。
そうでなくてよかった、と心の底から感じる。
ある意味では俺たちも田井中の気遣いに救われていたのだ。
俺たちはこの得体の知れない現象からお互いを救い合っているのだろう、それがどんな形であれ。


お久しぶりです。
今回はここまでです。



「それでさっ!」


田井中の声が明るい音色に戻った。
眩しい笑顔に明るい声色。
俺としてはらしくない考えだと自分でも思うが、これでこそ田井中だと感じた。
よく勘違いされがちだが、俺は別に喜怒哀楽が激しい人間を馬鹿にしているわけではない。
俺には向いていないと単に感じるだけだ。
だからこそ俺は騒がしいこの田井中がそう嫌いではない。
ドラムで鍛えたのであろう手首のしなりで肩を叩くのを除いてだが。


「スナップを効かせるな」


「まあまあ、細かいことは置いといてさ。
私ってつまりホータローたちにかなりお世話になってるわけじゃん?」


「お前がそう思うんならこれ以上否定はしないが」


「そこで私も考えてみたわけだ。
えるも含めて私たちを助けてくれるホータローたちに、私はなにを返せるんだろうって。
一番いいのはえるとホータローたちを会わせてあげること。
それは分かってるんだけどまだできそうにないからさ、私は考えてみたわけだ。
まずはささやかでもこの感謝の気持ちを示そうってな。
それで私は……」


そこで田井中の言葉が止まった。
俺の肩を叩いていたスナップの効いた手首も止まっている。
なにが起こったのかと思って振り返ってみると、田井中は天井を見つめて立ちすくんでいた。
悲しそうにしているわけではなく、遠い目をしているわけでもない。
ただただその場に立ちすくんでいる、そんな感じで。
ん? 一度こういうことがあったような……。
俺の既視感をよそに田井中は呻くような言葉を続ける。


「私は……、ホータローに渡したい物を……、挟んで……」


「挟む?」


「万華鏡」


「まさか」


「万華鏡みたいだ」


その言葉を言うが早いか、田井中はその場に腰から崩れ落ちた。
どうにか頭を床にぶつけるのを俺の手のひらで防げたのは、
前に千反田がそう言い残して酔い潰れたのを憶えていたからだ。
危なかった。
あの崩れ落ちる速度で頭をぶつけていたら、かなりのたんこぶができていたに違いない。
田井中としても千反田の身体にこれ以上傷を残すのを望みはしないだろう。


「しかしどうしたものか」


寝息を立てる田井中の頭を抱えながら俺は途方に暮れる。
俺は酔っ払いの介抱などしたことがない。
かと言って学校の保健室に運ぶわけにもいかないだろう。
そもそも女子にしては背の高いこいつを保健室まで運べるか自信がない。
人を呼ぶべきだろうか。
当てとしては今日も天文部で遊んでいるであろう沢木口だが……。
やめておこう。
彼女に見つかった時点で『千反田える飲酒事件』が学内に広まったも同然だ。

となると里志か伊原、なんなら十文字でもいい。
田井中の事情を知っている誰かが部室に顔を出してくれるのを期待するしかない。
できれば実家が病院である入須が来てくれるのが一番望ましい。
しかし入須は忙しい立場なのだし、そこまで望むのは期待し過ぎだろう。



「よっ……と」


なけなしの腕力を振り絞って、田井中をどうにか椅子に座らせる。
机に俺の鞄を枕代わりに置いて、その上に田井中の頭を乗せた。
簡易的な寝床ではあるが、とりあえず今の田井中には十分だろう。
不意に思いついて田井中の寝顔を覗き込んでみる。
普段騒がしい田井中からは想像しにくい安らかな寝顔。
その寝顔は前に見たことがある千反田の寝顔とは全く異なっていた。
最も顕著なのは寝息の大きさだ。
田井中の寝息も決して大きい方ではないが、千反田のそれよりはかなり大きかった。
育ちの違いが出たというところだろう。
寝ている時にまでこれほどまでに違いがあるのだ。
改めて俺は田井中の人格が千反田の演技ではないと確信できた。
やはり田井中は俺などでは窺い知れない超常的な現象によって千反田の肉体に宿っているのだ。
と、これ以上寝顔を見ているのも趣味が悪いか。
俺は千反田の向かいの席に座って、小さく肩をすくめた。

さて、これからどうするべきか。
里志も里志で他の部活で忙しいし、伊原もすぐには部室に訪れないだろう。
伊原が不在なのを見計らって田井中にウイスキーボンボンを渡したのだから当然だが。
誰かに連絡を取りたいところだが、生憎俺も千反田も携帯電話を所有していない。
やはり天文部に駆け込んで、沢木口に携帯電話だけでも借りるべきだろうか。
彼女は意外に入須とはそれなりの仲らしいし、入須の携帯電話の番号くらいは知っているだろう。
いや、やはり駄目だ。
沢木口なら携帯電話を借りるという行為だけで、なにかが起こっていることを察するに違いない。
後々のことを考えても、『千反田える飲酒事件』を噂にされるのは色々とまずい。

そうなると俺に取れる選択肢は一つ。
田井中がその眠りから覚めるのを待つことだけだろう。
田井中のアルコール耐性が千反田に準じているのだとすれば、さすがに一晩中眠りこけはしないだろう。
遅くとも夕暮れまでには目覚めるはずだ、俺の希望的な推測ではあるが。
幸い、本なら無駄にある。
俺が持参した本もあるし、田井中が読んでいた漫画も大量に積まれている。
これら全てを読み終える頃には目を覚ましていてほしい。


「待てよ」


まずは俺の持参した本に伸ばそうとした手を止めて、俺は小さく呟く。
酔い潰れる前に田井中が口にしていた言葉を思い出す。
「ホータローに渡したい物を……、挟んで……」と田井中は確かにそう言っていた。
俺に渡したい物とはなんなのだろう。
挟める物と言うのなら、紙か栞の様なものなのだろうか。
もっとも雑誌の付録の様に、立体を無理矢理なにかに挟んでいる例もなくはない。
千反田の言ではないが、気になり始めるとすっきりしなくなった。
少なくとも集中して本を読んでいられる気分ではなかった。

探してみるか。
『挟む』というキーワードもある。
それらしい場所を探していれば難なく見つめられるはずだ。
この部屋にあるという確信はないが、どうせ暇潰しだ。
なにもなくても構わないし、それで時間が潰せるのなら一石二鳥というやつでもある。
タイムリミットは田井中が目覚めるまで。
それで見つからなければ、田井中に素直に訊ねてみればいい。
田井中が酔い潰れる前の記憶を忘れていなければだが。

まず思い立ったのが田井中の持ち込んだ大量の漫画本だ。
正確には伊原に借りたらしい少女漫画だが。
とにかくなにかを挟むとしたならこれほど都合のいい場所もない。
ページ、表紙カバーの間、帯の間まで丹念に調べていく。
しかしアンケートはがきと新刊告知のチラシ以外に挟まれている物は存在しなかった。
多少残念ではあるが、それよりも伊原の奴、丁寧にチラシまで保管しているのか。
元漫研の面目躍如といったところだろうか。
そんな機会はないだろうが、万一あいつに漫画を借りる時は気を付けよう。
折り目でも付けようものなら、万の言葉を駆使して罵倒され尽くされることだろう。

漫画本の中に挟まれていないとしたなら、他の本の中だろうか。
古典部の部室の中に本は多くない。
『氷菓』のバックナンバーが少しに地学の本が数冊といったところだ。
何冊か適当に選んでページの間を調べてみるが、特にこれといった物は見つからなかった。
考え方が間違っていただろうかと考えてみた瞬間、俺は不意にこれまでの田井中の行動を思い出していた。


初めて会った日から田井中は俺のことを探偵のように扱っていた。
千反田が俺のことをそう捉えていたからなのだろうか。
とにかく田井中が俺を学生探偵だと思っている節がなかったとは言い切れない。
だからこそ田井中は俺にゲームを仕掛けたし、その後も様々な相談を俺に持ち掛けた。
俺を探偵だと考えていたからこそ、だ。
その田井中が俺に単純な方法でなにかを渡すだろうか。
探偵に渡すにふさわしい、捻った方法で渡すと考えた方が自然ではないだろうか。

大体にして『挟んで』という言い方自体がおかしい。
渡したいなにかを挟んで渡す必要などあるはずがない。
『挟む』という行為自体が問題の一つであると考えるべきだ。
もちろん田井中に悪意はないだろう。
俺が謎解きを好んでいると勘違いしてやったことに違いない。
俺は別になにかを解決することに快感を得る人間ではないのだが。
しかしそう思われている以上、解決しないままでいるわけにもいくまい。
こんな形であれ、この問題も含めて田井中の『送りたい物』なのだろうから。

そうなると『挟む』という行為自体を広く考えるべきだ。
例えば布に包んだとしても、間の物は挟まれていることには違いない。
なにかとなにかの間に置かれているだけでも、そのなにかに挟まれているとも言える。
『挟む』という行為は予想以上に幅が広いのだ。
クリップで挟む、ホッチキスで挟む、本で挟む、カーテンの間に挟む……。
さて、これらの『挟む』行為の中で田井中がやりそうなことと言えばなんだ?
難しく考える必要はない。
今まで付き合ってきての結論だが、田井中はまっすぐな性格だと俺は思う。
基本的には自分の感情に素直に生きている。
それゆえに田井中はまっすぐな答えを用意しているはずだ。
まっすぐに捻った答えを。

単になにかに『挟んだ』物が答えであるのなら、それは問題にはならない。
裏の裏を読んで単になにかに『挟む』だけという選択肢もあるが、それは捻り過ぎだ。
まっすぐな性格の田井中ならば、なおのこと普通に捻っただけの答えを用意しているだろう。
例えば『挟んで』いるようで『挟んで』いない。
そんな子供が好むなぞなぞで出せるような答えを。
一息ついてから俺は周辺を見渡してみる。
『挟んで』いるが『挟んで』いない。
もしくは元々『挟む』ような物ではない。
その答えに適当ななにかを探すために。


「なるほどな」


適当ななにかを見つけた俺は、それを手に取って呟いた。
本来『挟む』用途で使われない物が答えだったわけか。
田井中にしてはかなり捻ったと考えるべきか、
それともこれも千反田が前々から用意していたなぞなぞなのか。
どちらでもいい。
俺は指穴に指を入れると、机の上に思わせぶりに置かれていたはさみを開いた。



『正解おめでとう!』


はさみの刃の両端の間には、
そう書かれた細長い紙がセロハンテープで接着されていた。
どうやら紙は刃の間に器用に畳まれていたようだ。
はさみを使おうと刃先を開いてみて紙の存在に気付く、ちょっとしたトリック。
例えるなら簡易的な扇子の様な物だ。
小学生の頃、伊原が同級生にやられていたのを見たことがある。
子供がやるような他愛のない悪戯でよく使われる手だろう。

ネタが割れてしまうと単純だが、意外とよく考えられている。
はさみは『挟む』物ではない。
なにかを『挟んで切る』物なのだから。
『挟む』物と言われて、即座にはさみを連想する人間はそう多くはないはずだ。
俺がそうであったように。
これが仮に千反田が用意していたトリックだとしても、
このまっすぐに捻ったトリックを選んだのは実に田井中らしい。

それにしてもこれが田井中が俺に渡したかった物なのだろうか。
ちょっとした暇潰しを俺にプレゼントするつもりだったのか?
そう考えながらはさみを裏返してみて気付く。
細長い紙の裏に表とは別の言葉が記されていることに。


『いつもありがとな!』


細長い紙の裏にはそれだけ記されていた。
口で言えばいいことだろうに。
いや、照れ臭いか。
俺自身、その言葉を誰かに素直に伝えられる気はしない。
そうか、だからなのだ。
だから田井中はこんな他愛もない仕掛けを施したのだ。

田井中はおそらく、酔ってさえいなければこの問題を出して帰るつもりだったのだろう。
「ホータローへのプレゼントをなにかに挟んでるから」という問題にでもして。
簡単な問題ではあるが即座に答えに辿り着ける難易度でもない。
普通に考えて、誰でも二分くらいは悩んでしまうはずだ。
田井中はその間に俺の前から逃げ出すつもりだったに違いない。
俺に普段のお礼を伝えたという気恥ずかしさから。

趣味が悪いと思いつつも俺は田井中の顔を覗き込んでしまう。
田井中律。
俺より年上の割に騒がしくてまっすぐなドラマー。
こいつが俺の前に現れてから、余計に穏やかではない日常を過ごさなければならなくなった。
それこそ千反田本人以上に、こいつは俺を振り回している。
正直迷惑ではあるし面倒だが、俺はおそらくは嫌な気分ではない。
楽しくないわけではない。

瞬間、俺の頭の中にはありえない光景が広がった。
田井中と千反田が仲良く会話をしていて、俺が横目にそれを見ている光景。
いつか実際に見てみたい気もする光景。
しかしおそらくは実現し得ない夢のような光景だ。


「キャベツうめえ!」


田井中が意味不明な奇声を出して眠りから覚めるまで、
俺は田井中の寝顔を見ながらそういうことを考えてしまっていた。


今回はここまでです。
短いですが四章はこれで終わりです。





五章 カストルとポルックス


1.七月二十七日


「ですからね、ここはこんな風にすると」


「あ、本当だ! 分かった分かった!」


「やればできるじゃないですか、嘉代さん」


「へへー、よく言われるー」


梨絵が頭を掻きながら笑い、釣られたように千反田が微笑んだ。
いや、今はまだ田井中だったな。
分かってはいるのに見違えてしまう。
まったく見事なものだ。
千反田ならばこうするだろうと俺が考える行動が日増しに上手くなっている。
そういえば学園祭のクラスの出し物の演劇でジュリエット役を演じたとか言っていたか。
よりにもよって『ロミオとジュリエット』の。
「罰ゲームみたいなもんだよ」と田井中は語っていたが、
単に罰ゲームというだけでは学園祭の演劇などは演じ切れまい。
田井中が望もうと望むまいと、それなりに演劇の才を備えているということなのだろう。

一度田井中が部長を務めるという軽音部の部員を演じてもらったことがある。
いや、俺が頼んだわけではない。
演技が上手い田井中に伊原が頼み込んだのだ。
田井中も単に説明するより手っ取り早いと考えたのか、
大袈裟な身振り手振りを交えて、顧問であるという山中という先生の演技までしてくれた。
元々アテレコが特技と聞いてはいたが、どれも見事な演技だった。
もちろん田井中の軽音部の部員の人柄を知っているわけではない。
それでも似ていると感じさせられるのは、ひとえに田井中の人間観察の賜物であろう。
特に田井中の幼馴染みであるらしい秋山澪というベーシストの演技が際立っていた。
部室から出るまで秋山の演技を続ける。
そんな里志の馬鹿馬鹿しい思いつきを、田井中は平然とこなしていたのだ。
口調と身振り手振りが普段の田井中と異なっているというだけではない。
表情や声色まで普段の田井中とも普段の千反田とも完全に異なっていた。
まるで秋山という別の人格が千反田に宿ったかのようだった。
もちろんそんなことはなく、田井中の演技が完璧だっただけなのだが。

とは言え、誰の前でも完璧に演じられるわけでもない。
例えば、


「半分くらい終わったみたいだし、そろそろちょっと休憩しない?」


「そ、そうですね、休憩しましょうか」


ほんの少し眉をひそめて田井中が応じる。
やはり苦手な相手の前ではその演技も鈍るらしい。
休憩を申し出たのは十文字だった。
どうやら十文字と嘉代の方も一段落ついていたようだ。



「じゃあおやつを用意しましょうか」


「やった、おやつ!」


「お茶淹れるの手伝うね」


「嘉代も行くの? ならあたしも手伝う!」


暇そうに漫画本を読んでいた伊原が立ち上がると、梨絵と嘉代がそれに続いた。
嘉代は純粋に伊原を手伝うために、梨絵はおそらく気分転換のためだろう。
別に手伝う理由に貴賤があるわけでもない。
俺に手間がなければそれで構わない。
田井中も立ち上がろうとしていたようだったが、梨絵たちの行動を見て考えを改めたようだった。


「いってらっしゃい、おやつを楽しみにお待ちしていますね」


ゆっくりと座り直して柔らかく微笑む。
確かにたかがおやつの準備に四人では多過ぎるだろう。


「いってきまーす!」


フレームなしの大きな眼鏡を掛け直してから、梨絵が部屋から駆け出して行く。
会釈だけして嘉代が、それに続いて伊原も部屋を後にした。
三人が去り、俺と田井中と十文字の三人が部屋に残される。
特に話題があるわけではなかったが、俺は田井中に話し掛けてみることにした。
田井中と十文字のぎこちない会話を聞かされるよりも、その方が結果的には省エネだろう。
別に二人の仲がそれほど悪いわけではないとしても。


「梨絵に気に入られてるみたいじゃないか」


「そう見えるんだったら嬉しいけどな」


「少し意外だったがな。
去年の千反田は梨絵より嘉代に懐かれてるように俺には見えた」


「だろうなー、私の中のえるの記憶にもそういう光景があるし。
去年との違いって言ったら、梨絵ちゃんより私の方に原因があると思う。
なんつーかさ、嘉代ちゃんより梨絵ちゃんに構っちゃいたくなるんだよな。
なんかほっとけない感じっつーか」


「確かに嘉代より梨絵の方がお前の波長には合っていそうだが」


「いやいや、波長とかそういう話じゃないんだよ。
雰囲気がさ、なんとなく似てるんだ」


「誰にだ?」


「唯だよ、唯。
小学生の頃のえるの幼馴染みの唯じゃなくて、私の部の部員の方の唯」


言い終わるが早いか、田井中が感傷的な表情を浮かべる。
なるほど、ギターの平沢唯か。
言われてみれば、田井中の演じた平沢と梨絵は似通ったところがあるかもしれない。
天真爛漫で悪気がなくちまちましていて、なにが嬉しいのかよく幸せそうな笑顔を浮かべる。
確か平沢には妹もいるはずだったから、そういった意味でも平沢と梨絵は似ているのだろう。
俺がそれを指摘すると、田井中が今日はポニーテールにした髪を軽くいじった。



「それもそうなんだけどさ、梨絵ちゃんはちょっと唯と声が似てるんだよな」


「声?」


「ああ、高いんだけど甲高いまでいかないって言うかさ、そんな感じの」


さすがに見知らぬ平沢の声のことまで俺には分からない。
声帯模写に優れているとは言え、田井中とて平沢の声を完全に真似できるわけではないだろう。
しかし田井中がそう言うのなら、二人の声は似ているに違いない。
そうか、平沢は梨絵に似た声だったのか。
そう思うと同時に、らしくなく俺は田井中を不憫に思った。
慣れてきてはいるのだろうが、異邦人である田井中が元の自分の友人の面影を探してしまうのも無理はない。
俺は神山市を長期間離れたことがない。
だから田井中の気持ちを正確に推察することはできない。
それでも思うのだ、体感で二ヶ月弱見知った顔のない土地で生きるのは寂しいはずだと。
いるはずがないと分かっていながら見知った顔を探してしまうのではないかと。

もちろんそんなことを話題にできるはずもなかった。
それ以上声のことに触れないように、俺は話題を変える。


「意外と言えば意外と面倒見がよかったんだな、田井中。
梨絵の勉強を見てやれるとは思わなかったよ、学力的な意味でもな」


「なんだとー!」


頬を膨らませて田井中が反論する。
しかしその目元は笑っていた。


「これでもちゃんと大学受かってるんだからな!
ほら、今回の期末試験も結構いい点数だっただろー?」


田井中が腰に両手を置いてふんぞり返る。
俗に言う「えっへん!」のポーズだ。
多少呆れさせられるが、その田井中の言葉は本当だった。
いや、結構いい点数というレベルではない。
今回の期末試験、田井中は学年で三位の点数を取っていた。
千反田と田井中の二人分の記憶があるとしても、これは驚異的な成績と言えるだろう。
やはり田井中は田井中の世界で名門と言われるだけの大学に受かる程度の学力を有しているのだ。
別に田井中がこの世界で好成績を収める必要性はないのだが。

それでも田井中が好成績を残したのは、おそらくは千反田のためだろう。
いつか千反田の人格が千反田の肉体に戻った時、一年期末の成績の暴落で後々に困らないために。
そのために田井中はわざわざ学年三位の点数を取ってくれたのだ。
どこまでも律儀な奴だと思う。
名前に律が入っているだけある。
いや、これは単なる駄洒落だが。



「今回の試験はあたしも負けちゃったしね」


十文字がどこか嬉しそうに微笑む。
ちょうど逆光になっていて、眼鏡の奥の目元の様子まではは分からなかったが。


「ふふふ、もっと褒めるといい」


田井中も微笑んだが、俺はなぜか変なことを思い浮かべてしまっていた。
もしかしたら。
田井中は十文字にプレッシャーを与えられてもいたのではないか。
一学期だけでも成績を落とすようなことを、認められなかったのではないか。
もちろん十文字のことだから、それとなく間接的にプレッシャーを与えたのではないだろうか。
つくづく底の読めない巫女だと思わされる。

だがそれは十文字の千反田への想いの重さを物語ってもいる。
十文字は田井中に冷たいわけではない。
深い付き合いではないが、十文字がそういう人間でないことくらいは分かる。
しかし結果的に田井中に冷淡にならざるを得ないのだ。
十文字には田井中より千反田の方が大切なのだから。
二者択一でしかない以上、どちらかを選ぶしかないのだから。
やはり俺も選ばなければならないのだろう、おそらくは夏の終わりまでには。


「成績と言えばさ」


俺が言葉を止めたことが気になったのだろう。
田井中が俺の表情を覗き込みながら続けた。


「ホータローはもっと頑張らなくちゃな。
成績結構落ちてたんだろ?
なんだったら私が勉強見てやろうか?」


「結構だ」


軽く吐き捨ててから田井中から目を逸らす。
田井中の言う通り、俺の成績はかなり落ちてしまっていた。
試験勉強をほとんどしてなかったのはいつものことだが、それでも想像以上に試験の結果が芳しくなかったのだ。
自分で考えている以上に田井中と千反田の問題を気に掛けていたからかもしれない。
単に俺が二年の勉強に付いていけないだけかもしれないが。

だが成績が落ちたのは俺だけではなかった。
伊原も十文字もかなり前年より悪い結果を残してしまっていた。
特に伊原のあんなに悪い成績は初めて見た気がする。
里志の成績もとんでもなく悪かったが、奴はいつものことだから気にするだけ無駄だろう。

それでというわけではないが、俺たちは現在民宿「青山荘」にお邪魔している。
今後のことを見越して「青山荘」で勉強合宿しておきたい、という伊原の申し出があったからだ。
しかも今年も宿泊費は無料で。
今後のことを考えたいのは俺も同様だった。
しかし改装中であったという去年ならいざ知らず、
二年連続で訪問するのはさすがに迷惑なのではないか。
俺ではなく田井中がそう訊ねていたが、伊原は苦笑しながらかぶりを振った。
「二人も改めて勉強を誰かに教えてもらいたいみたいだから」と苦笑して。
二人はもちろん梨絵と嘉代だ。
なるほど、嘉代はともかく梨絵が勉学に優れているようには思えない。
特に中学生の梨絵はそろそろ勉強に身を入れねばならない頃でもあるのだろう。

一年振りに再会した梨絵と嘉代の様子はかなり変わっていた。
主に身長と体格の方面で。
発育がいい方だと思っていたが、嘉代の成長が特に著しかった。
女性的な曲線をかなり帯び、下手をすると伊原を追い抜きかねない体格に成長していたのだ。
伊原もそれは感じていたようで、再会した瞬間に軽く溜息をついていたのを俺は見逃さなかった。
さすがの里志もそのことを伊原に指摘したりはしなかった。
ちなみに奴は「青山荘」を訪れてから温泉につきっきりだ。
仮にも勉強合宿という自覚は奴にはないらしい。
もっとも今更里志に成績を期待する愚を犯す奴は俺達の中にはいないが。


しかし、と思う。
まさか十文字が同行するとは思わなかった。
軽く伊原に探りを入れてみると、「わたしもよ」と苦そうに言っていた。
荒楠神社でバイトをするくらいなのだから、二人にはそれなりの面識があるのだろう。
だがそれほど親しそうにも思えなかったし、実際にもそうなのだと思われる。
性格的にもあまり相性がいいようには思えない。
それでも十文字がこの場にいるということは、それとなく自らの参加を提言したに違いない。
幼馴染みの千反田のためにはそれくらいのことはやってのける。
とどのつまり十文字かほとはそういう女なのだった。
幸い十文字は嘉代に懐かれたようで、嘉代の勉強を熱心に見てくれているのは幸いだったが。


「嘉代ちゃんのお茶、楽しみだな」


誰に聞かせるわけでもないように田井中が呟いた。
返事は期待していなかったのかもしれないが、聞こえた以上は反応してみることにする。


「日本茶にも興味があるのか?」


「コーヒーよりはなー。
なんかえるの記憶の中ではすっげー美味いお茶だったみたいなんだよ。
それで嘉代ちゃんのお茶が飲めるのが楽しみだったんだよな」


そんなに美味い茶だっただろうか。
熱い茶だった気はするが、俺も味までは覚えていない。
しかし千反田がそう記憶しているということはそうだったのだろう。
例えそれが千反田の嘉代への贔屓目が入った上での判断であったとしても。


「そんなに美味しいお茶なら楽しみね」


十文字が心底楽しみな様に微笑む。
こちらは本気で茶を楽しみにしているのだろう。
和風な雰囲気をまとっていると思っていたが、好みも和風よりらしい。


「ああ、楽しみだよな。
お茶だけじゃなくて、これからの夜のこととかもな。
ふっふっふっふ……」


田井中が奇妙に笑い出す。
こいつがこんな笑い方をするのは、なにかを企んでいる時だ。
なんらかのイベントを。
この前、七月七日も二日酔いを乗り越えて七夕イベントを自ら開催した田井中なのだ。
おそらくは合宿というこの非日常でまたなんらかのイベントを計画しているに違いない。
開催はともかく可能な限り面倒でないイベントであるのならいいのだが。


「お楽しみはこれからだ」


俺の心配をよそに、田井中はまるで古い悪役みたいな台詞を意味深に残した。


今日はここまでです。
今回のゲストキャラはこの子達でした。



2.七月二十七日


夏虫の声が耳に痛い。
それに蛙や蜩の泣き声まで混じると、大音量のオーケストラを聞かされているみたいだ。
疎らにしか街灯が存在しない薄暗さも相俟って、らしくなく別世界に迷い込んだ錯覚にまで陥る。
神山市も都会というほどではないのだが、やはりそれなりに拓けた都市であったのだろう。
しかし慣れてしまえばこの別世界もそう悪くはない。
永住しろと言われれば悩んでしまうが、たまに訪れる程度なら気分転換に最適だ。
許されるのであれば、一週間ほど逗留していたい気持ちもないではない。


「どうしてわたしがあんたと二人で夜道を歩かなきゃなんないのよ……」


先刻からしつこいほど愚痴をこぼし続けるこいつが隣にいなければだが。
俺の十年来になる幼馴染みだというのに、こいつの毒舌は容赦なく七色だ。
まあ、俺の方としても十年来の幼馴染みに手心を加えようという思いは存在しないけれども。


「いい加減口じゃなくて足を動かしたらどうだ、伊原」


「うるさいわね、分かってるわよ」


さいですか。
分かっているのなら、もう十度を数えそうなくらい同じ愚痴をこぼさないでほしい。
俺だって毒舌だけを聞かされるこいつと二人で夜道を歩きたくはないし、
まさかこんな機会が訪れることになるとは、それこそ夢にも思っていなかった。
修学旅行の夜道で偶然顔を合わせた時ですら、ろくに会釈しなかった俺と伊原だ。
こんな関係性の二人が夜道を二十分以上共にするなど前代未聞だろう。

俺たちが嫌々ながらも肩を並べて歩くことになった元凶は、当然というか田井中だった。
梨絵たちの勉強の面倒で潰して迎えた滞在二日目の夜、怪しげな微笑みを浮かべて田井中が言ったのだ。
「肝試しをしよう!」と。
そろそろ夏休みの宿題にも飽きてきたところだし、その申し出自体は悪いものではなかった。
手間のようだが、いい気分転換はいい省エネに繋がる。
……組む相手が最適な相手であるのならばだが。

伊原と嘉代を除いた各員は概ね肝試しに賛成していた。
俺と同じく勉強と温泉に飽き始めていたのだろう。
十文字が乗り気だったのは意外だったが、霊的な知識に明るい彼女のことだ。
ひょっとしたら組んだパートナーをその知識で怖がらせるつもりなのかもしれなかった。

よくあるお約束ではあるが、肝試しは二人一組で行われることになった。
パートナーの選別方法は田井中の作ったあみだくじ。
もしも梨絵と嘉代のペアになった場合はやり直した方がいいんじゃないか。
と里志が珍しく夜道の安全性を危惧していたが、梨絵はそれを笑い飛ばした。
梨絵曰く、「この辺は庭みたいなものだから、心配なんて全然いらないって!」とのことだ。
それはそうかもしれない。
梨絵たちにとってこの周辺は確かに庭のようなものなのだろうし、
一年振りに再会した二人は想像以上に身長を伸ばして雰囲気も大人びさせていた。
少なくとも親戚である伊原よりも落ち着いた雰囲気に見える。
ならば二人がペアになっても心配はないだろう。
あまり仲の良い姉妹ではないにしても、なにも肝試し一つで仲違いしたりもしないはずだ。

そして幸いながらと言うべきか、里志の危惧は現実にはならなかった。
あみだくじを行ってみた結果、振り分けられたペアは以下の通り。


里志・梨絵ペア。
十文字・嘉代ペア。
俺・伊原ペア。


「げっ……」


と残酷な結果に俺と伊原が二人して呟いた瞬間、残りの四人に笑われたのは言うまでもない。
ちなみに田井中はあみだくじには参加していない。
もちろん言い出しっぺの田井中が肝試しに怯えているわけではない。
田井中は先の道に潜んで驚かせ役をするとのことだ。
梨絵と嘉代は田井中(二人にとっては千反田)の意外な一面に驚いたようではあったが、逆にそれを楽しんでいるようにも見えた。
それなりに親しくなっているとは言え、千反田と善名姉妹の関係は未だ数日程度でしかない。
意外な一面に違和感を持つほど、千反田のことを知ってはいないということだろう。

肝試しの目的地は山道の裏手にある鳥居。
俺は知らなかったのだが、この近所にある神社から離れた場所に謎の鳥居があるらしい。
いや、謎の鳥居と称するのも大袈裟か。
おそらくはなにかのきっかけで鳥居だけ残った神社の跡地なのだろう。
田舎ではよく見かける風景ではあるが、確かにある意味で謎に包まれていると言えなくもない。
ちゃんと肝試しをした証拠として、田井中お手製の落書きをその謎の鳥居の下に置いて戻ってくる。
重しの石も準備してるから、落書きが風で飛ばされる心配もないそうだ。
こんな時だけ用意周到な田井中である。

伊原から携帯電話を借りた田井中は先に向かい、準備が整った後で里志の携帯電話に連絡してきた。
俺たちの肝試しの順番は最後だった。
肝試しから戻って来た里志と十文字は苦笑していたが、梨絵と嘉代はそれなりに驚いた様子に見えた。
どうやら子供騙し程度には驚かされるなにかを用意しているようだ。
子供騙し程度なら、この世の幽霊が枯れ尾花だと知っている俺には問題ない。
軽く鳥居まで向かって、軽く田井中に驚かされて、それで今夜の気分転換は終了だ。
終了にしたかったのだが。


「それで?」


若干諦め混じりで伊原に訊ねてみる。
不機嫌そうではあったものの、伊原はとりあえず俺に応じてくれた。


「……分かんない」


さいで。
分かんないというのは謎の神社のことだった。
詳しく言うと謎の神社の場所が分からなかったのだ。
もっと詳細に言うと道に迷っているのだ、俺たちは。
それでさっきから伊原は普段以上に愚痴をこぼしていたのだ。
俺は溜息をついてからもう一度訊ねる。


「今まで何度も来てるんだろう」


「来てるわよ、何度も来てるわよ。
何度も来てるけど……」


「何度も来てるけど、なんだ」


「お昼と夜とじゃ道の雰囲気が全然違ってるのよ……。
お昼に一度行ったことがある場所なのに、
夜に行こうとすると道が分からなかったこととかあんたにもあるでしょ!」


確かにあるが。
それにしたって「青山荘」から謎の鳥居まで道程は片道十分といったところだ。
その程度の距離を迷うなんて思うはずがないじゃないか。
いや、この近辺に慣れている伊原に任せておけば大丈夫だろうと考えて、
田井中が見せてくれた地図にろくに目を通さなかった俺にも責任はあるかもしれないが。


「こんなことならたいちゃんに携帯を貸さなきゃよかった……」



伊原が大きな溜息と一緒に後悔の念を呟く。
そう、それも俺たちにとって大きな問題の一つだった。
怖がらせ役の田井中(千反田)は携帯電話を持っていない。
ゆえに肝試しの準備が完了したことを誰かに伝える術がない。
それで伊原は田井中に携帯電話を貸したのだ、手っ取り早く肝試しを終わらせるために。
手っ取り早く肝試しを終わらせたかったのだ、伊原は。
結果、俺たちに連絡手段がなくなってしまったわけだが。


「やっぱりなにかあるのよ、この村は……」


小声で伊原がそう呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
思い出してみれば、伊原は田井中が肝試しを提案した時から青い顔をしていた。
そんなに臆病な奴だったか、と首を捻ってみようとして思い出す。
そういえば伊原には去年の幽霊事件の真相を伝えていなかった。
こいつは頻りに知りたがっていたが、梨絵と嘉代の不仲を親戚のこいつに伝えるわけにもいかない。
それほど不仲ではないのかもしれないが、その可能性を考えるだけでも身内のこいつには不快だろう。
一応伊原を思ってのことだったのだが、今はそれが完全に裏目に出てしまっているようだ。
それで迷うはずがない距離で迷子になってしまったのかもしれない。


「もしかしたら下手に動かない方がいいのかもしれないな」


不意に思いついたことを俺は呟いた。
本当に単なる思いつきだったのだが、口にしてみるとそれも悪くない気がした。
手頃な大きさの石を見つけると、それに腰を下ろして一息ついた。


「どうしてよ」


頬を膨らませて、伊原が俺に懐中電灯を向ける。
人に懐中電灯を向けるな。


「徒歩十分の距離を二十分以上迷ってるんだ。
そろそろ田井中も俺たちが遅いことに気付く頃だろう。
あいつもああ見えて馬鹿じゃない。
異変に気付けば里志に連絡一つくらい寄越すはずだ。
それで俺たちが迷っていることにも気付いて捜索隊を出してくれるだろうよ」


「そんなの情けないわよ……」


「他に方法があるなら聞くが」


「ないけど……」


「だったらお前も座ったらどうだ?
歩いたのは二十分程度だが、単に歩くのと迷いながら歩くのでは疲労度が全然違う。
かなり疲れてるんじゃないか?」


「……あんたにしては気が効いてるじゃないのよ」


「伊達に省エネを心掛けていない」


「はいはい」


溜息交じりではあったが伊原は苦笑した。
無理に歩く必要がないことに気付いて気が楽になったのかもしれない。
俺から三メートルほど離れた山中の石の上に伊原も腰を下ろした。
三メートル。
伊原にしてはかなり近くに座ってくれたものだ。
普段なら間違いなく五メートルは離れた場所に腰を下ろす。
それが俺と伊原のいつもの距離感だ。
それを前提として考えるのならば、俺たちの関係は飛躍的に改善されたと言ってもいいだろう。


改善か、とらしくない考えに、今度は俺が苦笑してしまう。
伊原は幼馴染みだがそれほど親しいわけではない。
中学での一件以来、嫌われていると称してもいいほど関係が悪化したこともあった。
それはそれで構わなかったし、俺を嫌うのだって伊原の自由だった。
しかしせっかくの腐れ縁なのだし、多少は普通に接してもいいのではないか。
最近そう思うようになったのは、田井中が秋山という幼馴染みの話を嬉しそうにするのと無関係ではないだろう。
田井中は軽音部の部員の中でも、殊更秋山の話を楽しそうに語る。
秋山と仲良くなったきっかけ、秋山とのエピソード、それらを本当に楽しそうに。
俺はそんな田井中と秋山の関係に憧れているのだろうか?
分からないが、少なくとも険悪よりは安穏とした雰囲気の方が省エネになるはずだ。
一緒にいて険悪さを感じないですむなど、それこそお互いに優しいエコってやつだろう。


「ねえ折木」


伊原がまた俺に懐中電灯を向けながら呟いた。
だから人に懐中電灯を向けるな。


「どうした伊原。
それと人に懐中電灯を向けるな、眩しい」


「あ、ごめん。
それより一つ訊きたいことがあるんだけど」


「駄目だ、今忙しい」


「座ってるだけじゃないの」


「冗談だよ、それでどうした」


「あんた、最近たいちゃんと仲がいいみたいじゃない?」


「そうか?」


俺は首を傾げる。
誤魔化したわけじゃなく、本当に分からなかったからだ。
確かに田井中と行動する機会はかなり増えている。
それこそ自由時間に割いた時間は千反田よりも田井中の方が長いかもしれない。
しかしそれと仲がいいかどうかは別問題だ。
俺たちは田井中と千反田に起こっている現象を調べているだけであって、それと親しさはあまり関係ない。
もちろん田井中と話していて悪い気分にならないのも確かではあるが。


此度はここまでです。
五章はまだまだ続きます。



「お前こそどうなんだ」


俺は伊原に切り返す。
卑怯かもしれなかったが、分からないことをいつまでも考えていてもしょうがない。


「わたし?」


「ああ、俺にはお前の方が田井中と親しくしているように見えるぞ。
この前もプレゼントを渡していたし、かなり初期からあだ名なんぞも付けていたじゃないか」


まあ、伊原は短い付き合いの相手もあだ名で呼びがちなのだが。
俺以外。


「そう、ね。そうかもしれない。
たいちゃんのことは好きよ。
明るくて楽しいし、元気で前向きな子だしね。
ひょっとしたら性格だけならちーちゃんよりも合ってるかもしれないわ。
こんな形じゃなければ、親友になりたかったわよ」


田井中とは友達ではあっても親友ではない。
今後も親友にはなれない。
そういう意味なのだろうと俺は捉えた。
特に伊原は義理堅い奴なのだ。
どれほど田井中と性格が合おうと、千反田を切り捨てることなどできまい。
その点では伊原も十文字と同じと言える。


「あんたは……、ううん、なんでもないわ」


伊原は俺にもう一度問おうとしたが、すぐに口を噤んだ。
だから俺は伊原の言葉には反応せず、軽く夜空を見上げた。
捜索隊はまだ現れそうにない。
田井中はきっと俺たちを怖がらせてやろうとほくそ笑んでいることだろう。
千反田と同じ顔で、千反田とは全く違う表情で。



「そういえば折木、あんた知ってる?」


「なにをだよ」


「わたし、訊いてみたのよ、たいちゃんに。
わたしの知ってる漫画はたいちゃんの世界にもあるのって。
そうしたらたいちゃんは教えてくれたわ、わたしの知ってる色んな漫画の最終回を。
意外な展開も多かったけど腑に落ちる最終回ももちろんあったわよ。
ちゃんと読み込んでいる人の、その漫画の最終回の感想を聞かせてもらえたの。
つまりたいちゃんの世界にも、この世界と同じ漫画が連載されてるってことよね。
わたしたちの世界から十年先の漫画だけれど」


俺はなにも答えなかった。
田井中と話していれば、その内分かることだ。
俺は田井中から教えてもらったが、伊原は自力でその答えに辿り着いたらしい。
田井中の記憶の中の世界は、この世界より十年先の世界なのだと。
伊原は責めるような視線を俺に向けはしなかった。
ただひとり言のように静かに続けていた。


「ネタバレになっちゃったのは残念だけど、
まだ誰も知らないはずの漫画の最終回を知れたのは嬉しかったわ。
だけどどういうことなのかしら?
こんなの単なる人格の入れ替わりどころじゃないわ、もっと複雑ななにかよ。
全然分かんないわよ……」


俺にだって分からなかった。
田井中から打ち明けられて以来、誰にもその話をすることができなかった。
分からないことだらけで八方塞がりだ。
ほとんどの議論を終えてしまっているというのに、光明の一つも見出せていない。
やはりこんな超現実など、俺たちの手に負えるものではなかった。
しかし手に負えないからと言って、無関係でいられるほど無神経ではないのだ、特に伊原は。
とりあえずは幼馴染みである伊原の悩む姿を見せられ続けるのは、俺の精神衛生的に好ましくない。
慰めるつもりではなかったのだが、気付けば俺は伊原に声を掛けてしまっていた。


「単なる人格の入れ替わりでないことは分かり切っている。
しかしだ、伊原。
田井中の世界が単なる俺たちの世界の十年後でないことも確かなんだよ。
桜が丘女子だったか、そんな名前の学校は俺たちの世界には存在していない。
奴の母校であるという中学も、小学校も存在していなかった。
この調子だと俺たちの世界に、まだ幼い田井中が存在していない可能性もある。
十年先の世界かどうかは関係なく、微妙に違っているんだ、田井中の世界と俺たちの世界は」


「そうなのよね……。
そういえば、たいちゃん言ってたわ。
わたしの好きな有名な漫画のタイトルを知らないって。
それも一作だけならともかく十作くらい。
読んでいるジャンルの違いかなってその時は思ったんだけど、
いくらなんでも国民的な漫画のタイトルを十作も知らないなんてありえないわよね……」


「となると、田井中の世界ではその漫画が存在していない可能性がある。
伝統のある学校が存在していないんだ。
この世界で有名な漫画の十作くらい存在していなくても不思議じゃない。
田井中の世界の時代は十年後ではあるが、俺たちの世界のそのまま十年後というわけでもないってことだ。
前に話したと思うが、それこそパラレルワールドってやつなんだろう」


「やっぱりそうなのよね……」



伊原が溜息をついて、俺も釣られて溜息をついてしまった。
田井中の住んでいる世界は、俺たちの世界のパラレルワールドの十年後だ。
そこまではいい。
分かって、どうなる?
分かって、どうする?
パラレルワールドが存在するのは構わないが、それで田井中の人格が説明できるわけじゃない。
千反田の人格を取り戻せるわけでもないのだ。


「わたしね」


伊原が不意に続けた。
珍しく視線を俺にまっすぐぶつけて。


「不謹慎な気もするけど思ったことがあるのよ」


「別に俺は不謹慎でも気にしない」


「あんたらしいわね。
それなら言うけど、たいちゃんはちーちゃんの前世の記憶なんじゃないかって思ったの。
よく見るでしょ、前世の記憶が甦って前とは全く別の人格になるって漫画とか。
それならとりあえずの説明は付く気がしてたのよ」


前世の記憶か。
俺も考えなかったわけじゃない。
前世があるのかどうかは知らないが、一番説明しやすい答えではある。
しかし。


「でもね」


伊原も持論の問題点には分かっていたようで、俺の答えを聞くより先に続けた。


「たいちゃんの世界ってわたしたちの世界の十年後なのよね……」


そうだ、そこに問題が生じてくる。
田井中が千反田の前世の記憶としても、田井中が千反田より未来に生きていては本末転倒だ。
やはり前世説はその点で否定されてしまうのだ。

いや、待てよ。
本当にそうだろうか。
この前、荒楠神社で十文字(正確には田井中)は言わなかっただろうか。
「生まれ変わりは時間を超える」と。
「五年前に死んだ人間が十五年前に生まれ変わっていても不思議はない」と。
それらを発展させて考えれば、
未来のパラレルワールドで死んだ人間が、この世界に生まれ変わっていてもよくはならないだろうか。

まったく、我ながら適当な解釈だった。
そうであれば説明しやすいってだけの都合のいい屁理屈だ。
第一、田井中の人格が突然発現した説明が全くできていないじゃないか。
だが俺の中の歯車が一つだけ動いた気はしていた。


「本当は前世の記憶でもなんでもいいんだけどね」


伊原が寂しそうに苦笑した。
そうだった。
伊原は白黒はっきりさせたがる性格ではあるが、それより大切なものを知っている奴なのだ。



「もう一度、ちーちゃんと話してみたいわよ……」


苦笑を浮かべながらではあったが、それは伊原の悲痛な本音だった。
千反田の人格が現れなくなってかなり久しい。
あいつの微笑み、あいつの表情、あいつの口癖、様々なあいつが遠い記憶の彼方だ。
俺たちはこうして千反田えるを失ってしまうのだろうか。
田井中律という異邦人を得たのと引き換えに。


「……あれっ?」


不意に伊原が素っ頓狂な声を出した。
なにか思い出したことでもあったのだろうか。
それを訊ねてみると、伊原は少し青い表情になって続けた。


「違うわよ。
そうじゃなくて、ほら見て!
あの山の麓、変なものが見えない?」


促されるまま、伊原が懐中電灯で照らす方向に視線を向ける。
特に変なものなど見えな……、いや、確かになにかが見える。
ふわふわと雲のような形の物体が浮いている?
夜目にも視認できるのは、その物体が青白い光を放っているからだ。


「鬼火……か?」


「ちょ、ちょっと折木!
へへ、変なことを言い出さないでよ!」


お前が見てと言ったんだろう。
鬼火という呼称が不満ならしょうがない。
俺は溜息をついた後で、伊原の不満を買わないように言い換えてやった。


「人魂みたいに見えるな」


「あんたって本当に……!」


更に目を釣り上げる伊原。
どうやら呼び方の問題ではなかったようだ。
いや、そもそもの問題はそういうことではないらしい。

鬼火……、いや人魂……、
とにかく青い光は俺たちの位置から約五百メートル先、山の麓辺りにふわふわと浮かんでいた。
炎ではないし、ライトとも違う。
雲のような不定形の形をした青い光を放つ物体。
数は四つ。
ゆっくりとだが移動していることから電灯ではありえない。
そもそもその周辺に光源など存在していなかったはずだ。


「なによ、あれ……」


伊原が怯えたような呻き声を漏らす。
俺にとってはただの光なのだが、伊原には得体の知れない心霊現象に見えているらしい。
去年の梨絵の言ではないが、伊原がこういう現象をここまで苦手だと思わなかった。
もしかしたらホラー漫画なども読めないタイプなのかもしれない。
伊原の珍しい表情を見ていたくもあったが、後でなにをされるか分かったものじゃない。
下手をしたら里志にあることないことを伝えられてしまう可能性もある。
俺は仕方なく伊原を安心させるために言ってやった。



「田井中だろう。
俺たちを捜しに来たのかもしれない」


「あの青い光でっ?」


「俺たちを怖がらせるために使っていた道具の再利用かもしれないだろう。
サイリウムかなにか青い光を放つ感じの……」


「もしそうだとしてもたいちゃんだけであの数を持つのは無理よ!
四つよ、四つ!」


そうだった。
青い光の数は四つ。
それぞれが不規則に動いて、五メートル間隔は距離を取っている。
両手で二つ持っていたしとても、残り二つの青い光は誰が動かしている?
しかもよく見れば地表二メートルほどの高さを浮かんでいるようだ。
夜の闇で光しか確認出来ないが、誰かが掲げるように青い光を持っているのだろうか。
棒かなにかに括り付ければそれも不可能ではないだろう。
だがその必要性はなんだ?
まさか迷子の俺たちを光で呼んでいるというわけでもないはずだ。
それならばせめて俺たちを呼ぶ声くらいあってしかるべきだ。


「やっぱりなにかいるのよ、この村ー……!」


嫌っているはずの俺の背後に回って怯える伊原。
それほど切羽詰まっているということなのだろう。
結局それから十分後。
俺たちを捜しに来た田井中に見つけられるまで、伊原は怯え続けていた。
伊原の言った通り田井中は青い光を持っていなかったし、
四つの青い光はいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
どこかへ。

別に怖くはない。
だがすっきりしないものが俺の胸に残ったのは確かだった。



今回はここまでです。
そろそろ五章後半戦です。



3.七月二十八日


「気になるのよ」


無言の朝食を二人で食べ終わった後、
珍しく伊原に呼び止められて言われた一言目がそれだった。
既に懐かしくなり始めた言葉だが、まさか伊原の口から聞くことになるとは思っていなかった。


「なにが気になるんだ」


「折木、あんた分かってて言ってるでしょ。
青い光よ、青い光」


「昨日の鬼火か」


「青い光!」


伊原が唇を尖らせる。
一晩明けても、あの青い光を超自然的な現象だと思いたくはないらしい。
それでいて気になってしょうがないのか。
喉元過ぎれば熱さを忘れるということだろうか。
いや、違うか。
人は未知を恐れる生き物だとよく聞くし、実際にもそうなのだろう。
だから伊原はあの青い光の正体が知りたいのだ。
分からないまま放置しておくよりも、正体を掴んで少しでも安心できるために。

よく見ると伊原のその表情は随分と眠たそうだ。
そういえば朝食の時に何度もあくびを噛み殺していた気もする。
肝試しの後、あの青い光のことが気になってろくに眠れなかったに違いない。
寝不足の不機嫌を俺にぶつけられても困る。
俺は最大限伊原に歩み寄った意見を出してやることにした。


「気になるなら調べればいいじゃないか」


「調べるわよ。
調べるけどあんたも付き合いなさい」


「どうして俺が」


「あの青い光を見たのはわたしとあんたじゃない」


「他に目撃者がいるかもしれないだろう。
遠目にもあれだけはっきり見えていたんだ。
昨日、俺たちを見つけてくれた田井中なら目撃していてもおかしくない」


「他の目撃者のことももちろん調べるわ。
たいちゃんにも今から聞き込みに行くつもりよ。
だけど今のところ他の目撃者を知らない以上、あんたも付き合うのが合理的でしょ?」


非合理だ。
こんなことなら昨日田井中と再会した時に青い光のことを訊ねておくべきだった。
俺の背中で怯えている伊原のことを気遣って仏心を出したのが仇になったらしい。
慣れないことはするものじゃないな。



「俺はお前と一緒に目撃したってだけなんだ。
俺よりも里志に頼むべきだと思うぞ。
結論は出さないかもしれないが、あいつなら最低限必要な情報を集めてくれるはずだ。
後はお前がその情報から納得できる答えを導き出せばいい」


「頼めるもんならもう頼んでるわよ」


「頼めなかったのか?」


「頼めなかったわよ。
どうもわたしたちより一足先に朝食食べた後に、温泉に入りに行っちゃったみたいね」


それは確かに頼めないな。
さすがの伊原でも男湯までは追い掛けられまい。
それにしても里志の奴、どれだけ温泉浸りになってるんだ。
温泉は気が向いた時に浸かりに行くのが作法だと言っていた気がするが、いくらなんでも浸かり過ぎだ。
なにか別の目的でもあるんじゃないかと邪推したくなる。
例えば伊原を怖がらせるためにあの青い光を用意していたとか。
いや、それはさすがに疑い過ぎか。
大方、善名姉妹の勉強を見てやれるほどの学力がない現実から逃げているだけだろう。


「とにかくそういうわけなの。
青い光の調査、あんたにも付き合ってもらうわよ」


有無を言わさぬ口調で伊原が俺を睨み付ける。
こいつには千反田とは違った強引さがあるし、どうやら逃げられそうにない。
もしも逃げ出せたとしても、七色の舌鋒で俺を罵倒してくれることだろう。
仕方がない。
やらなければいけないことなら手短に、だ。
どうせ今日は合宿の最終日でやるべきことはほとんどない。
伊原の伝手でいい景色の見られる旅館に泊まれた。
その恩返しに多少付き合ってやっても、あの鬼火の祟りはあるまい。
青い光の正体に心当たりがないわけでもないしな。
分からないのは犯人と動機だけだ。


「分かった分かった。
そんなに言うなら調査に付き合ってやる。
ただし梨絵と嘉代への聞き込みはお前がやってくれよ。
二人とも俺から聞き込みされるなんてよく思わないだろう。
俺だって子供は苦手だ」


特にナイーブな子供は。
嘉代にはあまり好かれてない気がするし、梨絵ともそう親しいわけではない。
あの二人にしても、伊原と同じ部活の部員としか思っていないだろう。
だが伊原は首を傾げて意外な言葉を口にした。


「そう?
わたしが言うのもなんだけど、あんた意外と二人には気に入られてるみたいよ?」


「まさか」


「本当よ。
あんた相手にお世辞を言ってもしょうがないでしょ。
二人ともあんたがいない時によく訊ねてくるもの。
どんな人なのか、今までどんな事件を解決してきたのか、ってね」


「単なる素人探偵扱いじゃないか。
お前、二人にどんな話をしてるんだ」


「ありのままよ」



まったく、悪びれもしやしない。
しかし伊原のことだから、本当に俺のありのままの姿を二人に話しているのだろう。
嫌われていないらしいのはなによりだが、
俺の知らぬところで気に入られているというのも存外と妙な気分だ。
だが苦手な物は苦手なのだ。
ともあれ俺は聞き込みは伊原がするという約束を取り付けると、
まずは田井中に聞き込みをするために伊原たちが宿泊している部屋に向かった。
善名姉妹の姿は朝になってからまだ見かけていなかったからだ。
二人とも合宿最終日のためになにか準備をしているのかもしれない。


「あら、おはよう」


「よっ、ホータロー」


扉を開けると田井中と十文字が俺たちに視線を向けた。
朝食の時に姿を見ないと思っていたら、どうやら伊原より先に食べ終わっていたらしい。
やはり伊原が眠れたのは夜更けになってからだったようだ。
それで妙に朝食の時間が遅かったのだろう。
俺の朝食の時間が遅かったのは単なる寝坊だが。

それより気になったのは、田井中たちが二人羽織の様な体勢で座っていたことだ。
十文字が前で田井中が後方。
その体勢で密着して、田井中が十文字の手首を握っている。
なにをしているのかは、十文字が握っている物からすぐに推察できた。


「ドラムの練習か?」


「おう。
私が手持ち無沙汰に雑誌を叩いてたら、十文字がやってみたいって言い出してさ」


「そうなのよ。
周りにドラムを叩く人なんていなかったから、ちょっと気になっちゃって。
朝から悪いわね、律」


「いいっていいって。
こうやって少しでもドラムに興味がある奴が増えてくれたら本望ってやつだよ。
目立たないからなー、ドラム……」


田井中が苦笑すると、釣られる様に十文字も苦笑した。
仲が良いのか悪いのかよく分からない二人だったが、
千反田の件を抜きにすれば、それなりに気が合っているらしい。
それには少しだけ安心できた。


「でも目立たないのが嘘みたいに激しい運動よね、律。
叩き方のコツを教えてもらってるだけなのに、もう手首が疲れてきちゃった。
やっぱりドラマーって凄いのね」


「私も最初はそうだったよ。
夏なんて特にドラム死ねるんだよな。
三年で部室にクーラー付けてもらうまで死にそうだったよ、マジで」


「そうなんだ。
でも面白そうよね。
わたしも後でたいちゃんに教えてもらおうかな」


「おう、いくらでも教えてやるぞ、摩耶花。
ドラマー女子が増えるのは万々歳だ!」


疲れ切っていたはずの顔色はどこへやら、伊原が田井中たちの会話に嬉しそうに乱入する。
女三人寄れば姦しいと言うが、放っておいたらこのままガールズトークに華を咲かせそうだ。
それはそれで構わないのだが、ガールズトークの中に男一人と言うのはあまりにもいたたまれない。
それに俺たちには他に目的がある。
俺はわざとらしく咳払いしてから、短い言葉を口にしてやった。



「伊原」


「なによ、折木」


「ドラムを教えてもらうんなら、俺は帰るぞ」


「あ、そうだった、そうだった。
ごめんね、二人とも。
ドラムもいいけど先に二人に訊ねておきたいことがあったのよ」


「なんだ?」


なんとか話を本筋に戻せたようだ。
俺と伊原が部屋に入って昨日の青い光の話を始めると、田井中からあっさりとした答えが返ってきた。


「それなら見たぞ」


「見たの?」


「ああ、昨日はあんまりホータローたちが来ないから里志に連絡してみたんだけどな。
迷子になったのかもって里志が言い出して心配になってさ、ちょっと捜してみることにしたんだよ。
入れ違いになったら二度手間ってことで、里志にはスタート地点に待機してもらうことにしてな。
それで捜し始めて五分経ったくらいだったかな。
あの鳥居がある麓辺りに青い光を見たんだよ、四つ。
なんかふわふわ漂ってるから、街灯じゃなさそうだなとは思ってたんだけど」


「怖くなかったの?」


その時のことを思い出したのか、伊原が戦々恐々といった様子で訊ねる。
田井中は肩をすくめてから首を横に振った。


「いや、別に怖くはなかったなー。
得体は知れなかったけど、変わった街灯かラジコンかなって思ってたし。
まあ、今思い出すとラジコンとかのはずがないんだけどな、夜だし。
でも怖くなかったのは本当だぞ。
あの青い光が怪奇現象なら怪奇現象でよかったし、逆にそっちの方が嬉しいもんな」


「ど、どうして?」


「ほら、私自体がもう怪奇現象みたいなもんじゃん?」


沢木口にでも習ったのか、今日はシニョンにした髪を田井中が苦笑交じりに弄る。
なんとも皮肉な冗談だが、単なる冗談というわけでもないのは俺にも分かった。
あの青い光の正体がもしも本当に人魂であったとする。
それは同時に俺たちのこの世界に人の魂が漂うという現象が存在することになる。
魂という概念が生じるのだ。
ならば田井中が漂う何者かの魂という仮定が立てやすくなるということでもある。
それくらい田井中は自らの正体について飢えているのだ。
自分の人格が怪奇現象から生じたものであっても構わないくらいに。

それきり田井中は笑顔で黙り込んだが、伊原は言葉を続けられないようだった。
伊原も分かっているのだ。
自らの存在に一番悩みを抱えているのは田井中だということに。
もちろん俺に口出しできることでもなかった。

少し気まずい沈黙が部屋の中を包み始めた頃、不意に小気味のいい音が響いた。
軽く驚いて音の方向に視線を向けてみると、十文字がドラムスティックを十文字の形にしていた。
どうやらスティック同士を叩いて音を鳴り響かせたらしい。



「あたしも見たわよ、その青い光」


「お、十文字もか?」


自分が沈黙を作り出してしまったことを後悔していたのだろう。
田井中が十文字の肩を叩きながら明るい声で訊ねた。


「ええ、律は二度手間って言ってたけど、
折木くんたちのことが気になって、少しだけ様子を見に行ってみたの。
生憎あたしは携帯を部屋に置いていたから、ちょっと足を延ばしてみただけなんだけどね。
それで二十分くらい捜したんだけど、折木くんたちの姿はなかったし、
あたしまで迷ったら二重遭難だと思って帰ろうとした時、その青い光を見たのよ」


「どんな感じだったんだ?」


「律たちの言う通りよ。
ふわふわした四つの青い光だった。
もしかしたら長い棒の先に付けられたなにかかもしれないけど、暗くてよく見えなかったわ。
肝試しの小道具かとも思ったんだけど、律も知らないってことはそうじゃなかったのね」


「ああ、あの青い光は私の小道具じゃない。
十文字も見ただろ?
私の用意したのはこんにゃくとホッケーマスクだけだよ」


どういう組み合わせなんだ……。
しかし田井中が俺たちを見つけた時には、田井中はその二つとも持っていなかった。
おそらく神社の周辺にでも置いてきているのだろう。
普通に考えて、誰かを捜そうという時にこんにゃくはさぞ邪魔に違いない。
かさばらないホッケーマスクも置いたのは、伊原を怖がらせないようにするためだろう。


「一つだけ追加情報があるわ」


眼鏡の位置を直してから十文字が続ける。


「あたしが折木くんたちを捜し始めた頃、あの山の麓に青い光はなかったわ。
あたしがあの青い光に気付いたのは、帰り道のことなの。
つまりあの青い光が現れたのは、あたしが折木くんたちを捜し始めてしばらく経った頃ってことよ」


なるほど、それはそうだろう。
俺たちも肝試しを始めた当初はあの青い光を見ていなかった。
気付いていなかったわけではなく、その頃にはその青い光は現れていなかったのだ。
しかし俺たちが鳥居に迷い込んだ後に、突如としてあの青い光は山の麓に現れた。
これはどういうことになるのだろうか。

横目に伊原の表情を窺ってみる。
伊原の目の下には隈ができていて、普段よりその癖っ毛は乱れているように思えた。
まだ本気で怯えているのだろう。
ならばもう少しだけ尽力してやってもいいかもしれない。
これでも幼馴染みなのだし、八つ当たりで被害を被っても困る。



あきましておめでとうございます。
残りは五章、六章、エピローグで終わる予定です。





「お」


思わず声を漏らすと伊原に意外そうな表情を向けられた。


「どうしたのよ、急に」


「いや、梨絵と嘉代が二人でいると思ってな」


「姉妹なんだもの、それくらい普通でしょ」


なにを言ってるの、と肩をすくめられる。
確かに姉妹なら二人でいてもなんら不思議ではない。
しかし俺が多少不思議に思えたのは、二人の距離が普段より近く見えたからだろう。
梨絵と嘉代はそれほど仲の良い姉妹ではない。
少なくとも姉妹間で浴衣の貸し借りができないほどには親密な仲ではない。
そのはずなのだが、今の梨絵と嘉代の様子は俺のその認識を覆すものだった。
梨絵と嘉代がなにごとかを耳打ちし合って微笑んでいる。
自分たちの夏休みの宿題に取り掛かるという、
田井中と十文字を置いて――田井中は俺たちに同行したがっていたのだが十文字に止められた――、
梨絵たちを探していた俺たちを待ち受けていたのがその光景だったのだ。
さすがに面食らった。


「そんなに不思議なの?」


俺はまだ不思議そうな表情を浮かべていたらしい。
伊原が怪訝な表情で諭すように続けた。


「姉妹ってあんなものでしょ?
そりゃあんたのところは姉と弟だから色々違うのかもしれないけどね」


「それはそうかもしれんが……」


姉妹と姉弟では違うことがもちろん多いだろう。
同性間、異性間の肉親関係。
考えてみるまでもなく、多くの差異に溢れているに違いない。
しかしそれを前提に考えてみても、この梨絵と嘉代の仲の良さには違和感があった。

梨絵の方はいい。
梨絵は嘉代に多少高圧的ではあるが、嘉代を嫌っているわけではないはずだった。
姉ゆえに妹より強く振る舞っている、それだけのことだ。
俺の姉貴もそうだからよく分かる。多分。
梨絵を嫌っている、と言うより怖がっているのは嘉代の方だ。
持ち前の内気な性格のせいだろう、嘉代は高圧的な梨絵を恐れている節があった。
それゆえに去年は梨絵の浴衣を借りることができなかったのだろう。

だがこの光景はなんだ?
梨絵と嘉代が微笑み合っている。
梨絵だけならともかく、嘉代の方まで楽しそうに。
この一年で姉妹の間になにか劇的な変化が生じたとでも言うのだろうか。
いや、青山荘を訪れてから、この二人がこれほど仲良く振る舞ったことはなかったはずだ。
となると、もっと短期間で劇的ななにかが起こったのだろうか。



「二人ともなにしてるの?」


伊原が梨絵と嘉代に声を掛ける。
それでやっと二人は俺たちの姿に気付いたらしかった。
嘉代だけでなく梨絵も少し動揺した表情を見せた。
逆に言えば、二人ともそれほど密談に集中していたということなのだろう。


「まや姉ちゃん、おはよう」


「おはよう、まや姉さん」


わざとらしく挨拶から入る二人。
なにかを隠しているのは一目瞭然だった。
さて、それがあの青い光のことなら事件は即解決なのだが。


「二人で内緒話?」


「内緒話ってわけじゃ……、ねえ、嘉代?」


「う、うん、お姉ちゃん……」


「だったらわたしにも教えられるわよね?」


「えっ、えっと……、うーんと……、あ、そうだ!
それよりまや姉ちゃんたちこそなにしてんの?
朝から二人でデート?」


「こんなのとデートなわけないでしよ……」


伊原がげんなりした様子で呟く。
こんなのとはなんだ。
俺だってお前とデートするくらいなら十文字を選ぶぞ。
……いや、やはり十文字とのデートは想像できんな。
前言撤回。
お前とデートするくらいなら部屋で寝ているぞ、俺は。
別に声に出して言うつもりもない主張だが。


「分かってるよお。
まや姉ちゃん、彼氏ができたんだもんね。
二人でいるところはあんまり見ないけど」


「ふくちゃん温泉に入り浸ってるからね……」


梨絵に痛いところを突かれ、伊原がわざとらしく肩を落とす。
どうやら里志と伊原が交際を始めたことは梨絵たちも知っていたらしい。
親戚で、しかも恋に興味を持ち始める年頃の女の子なのだ。
伊原にその気がなかったとしても、それは根掘り葉掘り詮索されたに違いない。


「まや姉さん、彼氏ができて幸せ?」


遠慮がちに、だが強い視線で嘉代が訊ねた。
俺が初めて見る嘉代の強い視線。
内気な性格ではあるが、いや、内気だからこそ恋の話には真剣なのだろうか。


「なに言ってるのよ、おしゃまさん」


伊原は誤魔化すように呟いたが、その頬は軽く紅潮していた。
交際こそ始まったものの相手はあの里志なのだ。
詮索したことがあるわけではないが、二人の仲はそれほど進展していないらしい。
休日に買い物をする二人の姿を見掛けることが少し多くなった。
俺にとっても、二人の交際で生じた変化はその程度のものだった。



「ねえねえ、折木の兄ちゃん」


嘉代の伊原への詮索が続くのかと思っていたところに、梨絵のその言葉は予想外だった。
俺は軽く驚いたが、それを表情に出さないように梨絵に応じてみせる。


「どうしたんだ?」


「折木の兄ちゃんから見て、まや姉ちゃんたちってどう見える?」


「伊原と里志のことか?」


「うん」


突然訊ねられても困る。
それほど意識して二人の交際を見守っていたわけでもない。
梨絵の質問の意図は掴めないが、ここは正直に答えておくことにしよう。


「いいんじゃないか?
伊原も中学生の頃から里志にアタックしていたわけだしな。
その念願が叶ったんだから伊原は幸せだろう。
まあ……」


「まあ……?」


「相手があの里志だからな、それが本当に幸せなのかまでは保証できないが」


それは偽らざる俺の本音だった。
そもそも伊原が里志のどこに惹かれているのかも分からない。
里志も悪い奴ではないのだが、かなり浮世離れしたところがあるからな。
常識人代表のような伊原と末永く交際していけるのか、正直保証しかねる。
文句を言われるかと思って伊原に視線を向けてみたが、予想外に伊原は苦笑するだけだった。
里志と交際するようになったはいいものの、想像していなかった苦労に見舞われてもいるのだろう。
理想の交際と現実の交際では天と地ほどの差がある。
そのギャップを埋める作業に苦労しているのかもしれない。
まあ、その作業こそ伊原の望んでいたものなのだろうが。


「そうなんだ……」


小さく呟いて嘉代と顔を見合わせる梨絵。
恋人関係の現実に幻滅したのかと思ったが、そうではないようだった。
なぜなのかは分からない。
だがその一瞬後には、二人ともなにかに安心したように微笑んでいた。
微笑みを崩さず、梨絵が伊原の肩を叩く。


「頑張らないとね、まや姉ちゃん」


「えっ?
うん、まあね……」


「折木の兄ちゃんもね」


俺も?
伊原たちの交際に関して、俺になにを頑張れと言うのだろう。
デートの手伝いとかだろうか。
首を傾げる俺を、梨絵と嘉代は微笑んで見つめるだけだった。
伊原の言う通り、俺は二人には嫌われていないどころか気に入られているらしい。
しかし俺が二人の前でなにかしただろうか。
去年、伊原に頼まれて幽霊騒ぎを探っていたことくらいしか思い浮かばないが。

いや、今はそんなことより、だ。
俺は同じく首を傾げている伊原に視線を向ける。
俺たちの目的をやっと思い出したらしく、伊原は軽く咳払いをしてから続けてくれた。



「そうそう、そんなことより二人に訊きたいことがあるのよ。
昨日のことなんだけどね……」


昨夜迷子になった時に見た青い光のこと。
その青い光を梨絵と嘉代も見たのか。
その時間に二人はなにをしていたのか。
十文字が様子を見に行ったというのは本当か。
里志はなにをしていたのか。
青い光を見たとして、なにか心当たりはないか。
伊原が大体それらのことを質問すると、まずは梨絵の笑顔が返ってきた。


「まや姉ちゃん、また幽霊見たんだ」


「ゆ、幽霊じゃないわよ!
わたしが見たのは青い光よ、青い光!
幽霊とは決まったわけじゃないんだからね!」


自分に言い聞かせるような伊原の姿が痛々しい。
やはり去年の事件が伊原の中では未解決のままなのが尾を引いているに違いない。
いっそ教えてやれたら伊原も落ち着くかもしれないが、千反田に相談なくそうするのも気が引ける。
結局あの青い光がなんなのかを証明してやるしかなさそうだ。


「そんな青い光なんて見てないよ、ねえ、嘉代」


「うん」


笑顔のままで梨絵が続け、嘉代が頷いた。



「かほ姉ちゃんが様子を見に行ったのは本当だよ。
十分ちょっとくらいだったかなあ、それくらいですぐ帰ってきたけどね。
福部の兄ちゃんは家の中に入って、明るい所で地図を見ながら携帯でえる姉ちゃんと話してた。
お父さんとお母さんに迷子になりやすい場所を教えてもらってたみたいだよ」


「二人は?」


「留守番してたよ。
下手に動いちゃ駄目って言われてたもん。
かほ姉ちゃんっていつもは優しいけど、あの時は真剣な顔だったもんね。
あんな顔されたら我儘言えないよね」


なるほどな。
田井中は里志と電話中。
十文字は周囲の様子を見に行っていて、里志は善名夫妻と地図を見ていた。
そして梨絵と嘉代は肝試しのスタート地点で留守番していたわけか。

どうやら事態が見え始めてきたようだ。
里志に二、三確認した後で周囲を探れば、いくつか証拠も見つかるだろう。
しかし動機が分からない。
あの青い光を用意する動機だ。
あれは間違いなく懐中電灯の光ではない。
懐中電灯の光は青ではないし、大体あんな高い所に懐中電灯を持たない。
そしてあれが青い光であった理由。
それはもちろん非現実的であったからだろう。
あんな青白い光、現実にはそう存在しない。
それゆえに違和感があるし、伊原のように怯える人間も出てくる。

待てよ。
そういえば肝試しで怖がる理由はなんだ?
納涼のためでもあるだろうが、その一番の理由はペアの親睦を深めるためだろう。
そのために肝試しはよくペアで行われるのだ。
つまりはそういうことだったのか?

なんてことだ。
もしあの青い光の正体が俺の予想通りだとしたなら、非常に困ったことになる。
普段のように千反田に答えを伝えるだけなら問題ない。
だが今回あの青い光の正体を探らせているのは、他ならぬ伊原なのだ。
伊原相手にこの事実を俺の口から伝えなければならないなど、苦行以外の何物でもない。

どうやら俺は珍しく自分の考えが間違っていることを祈らなければならなくなったようだ。
どうか間違っていてほしい。
しかしおそらくは間違っていないだろう。
だから俺はせめてもの抵抗として、誰にも気付かれないよう大きな溜息をついたのだった。



今回はここまでです。
そろそろ五章真相編です。





昨日、迷子になった鳥居の下。
温泉で里志に確認した事を確認した後、俺は別行動させた伊原を待っていた。


「どうしたもんかね……」


らしくなく独り言を呟いてしまう。
途轍もなく気が重い。
まさかこんな真相が待っているとは思ってもみなかった。
どうにかお茶を濁せないかと考えるが、それで伊原を納得させられるとは思えない。
やはり真相を俺の口から語らねばならないのだろう。

不意に足音と話し声が聞こえた。
足音なら分かるが、話し声はおかしい。
伊原は一人のはずだが。
そう思って周囲を見渡してみると、伊原が田井中と話しながら鳥居に近付いて来ているのが見えた。
視線が合うと、伊原は少しだけ頭を下げた。
探索中に田井中に捕まってしまった、という意味だろう。
まあいい。
田井中にも確かめたいことがなかったわけじゃない。


「おいっす、ホータロー」


シニョンを可愛らしく揺らして田井中が楽しそうに微笑む。
田井中もあの青い光の正体を知りたかったのだろう。
千反田と異なってはいるが、その微笑みには好奇の色が強く表れていた。


「まあ、二人とも座れよ」


座るに手頃な大きさの石に促すと、田井中と伊原はその石に腰を下ろした。
俺の考えを口にする前に、とりあえず確認しておく。


「梨絵と嘉代の勉強は見なくていいのか?」


「十文字一人で大丈夫だって。
逆に私がいた方が足手まといっつーか邪魔者みたいな感じなんだよな。
なんか嘉代ちゃんがとんでもなく十文字に懐いちゃってるみたいでさ。
そんな感じで微妙な空気の中で窓の外を見てたら、外でなにかしてる摩耶花の姿が目に入ったんだよ。
これは私もピンと来ちゃったね、そろそろ青い光の正体が分かったんだなって。
それで摩耶花に付いて来たわけだ」


「そうか」


それならそれで構わない。
むしろ田井中がいてくれた方が、どちらかと言えば俺も気が楽だ。
田井中はこれで意外と誰かのフォローに長けている。
青い光の真相を知ったならば、多少のフォローはしてくれるだろう、おそらく。


「それで伊原、どうだった」


「あ、うん、折木の言う通りだったわ」


釈然としない感じで伊原が応じる。
こいつは俺の考えをとりあえず否定から入る。
頭から否定するのなら、俺に助力を求めなければいいと思うのだが。
しかし否定意見を出す伊原の存在も、考えをまとめる時には存外と役立つのも確かだった。
肯定意見だけでは、重大ななにかを見落としてしまうことがあるのは身に沁みて知っている。
一度それで入須に上手く扱われて、大きな失敗をしたからな。
そういった意味では俺は伊原の存在に感謝してしていなくもない。



「でも、どうして分かったのよ?」


もっとも、伊原はそのことに気付いてはいないだろうが。
照り付ける夏の陽射しに汗を拭いながら応じてやる。


「単純な答えだ。
あれはかなり場所を取るからな、保管場所を選ぶだろうと思っていたんだ。
部屋の中に運べないこともないが、四本はかなり邪魔だし目立つ」


「なるほど、確かにね。
それで青山荘の倉庫に片付けられてたってわけね……」


「なにが片付けられてたんだ?」


田井中が首を傾げながら会話に割り込む。
どうやら田井中は伊原になにも訊ねずにここまで付いて来たらしい。
事前情報なしで俺の語る真相を楽しみたかったということなのだろう。
まったく呑気なものだ。
しかし、なにも考えてない奴に真相を教えてやるのも癪だ。
意地悪をしてやりたいわけではないが、俺は溜息交じりに訊き返してやった。


「お前はなにが片付けられてたと思うんだ?」


「質問を質問で返すな!
って言いたいところだけど、まあ、私も少しは考えなくちゃな。
ホータローたちが今話してるってことは、あの青い光に関係するなにかだろ?
四本……ってことは棒とか長い物か?」


「そう、難しい問題じゃなかったな。
片付けられていたのは、お前の言う通り棒だよ。
ただし単なる棒じゃなく、一メートル以上ある長い棒だ。
それも簡単に振り回せる重さの棒が四本だ。
その棒とは正確にはなんだと思う?」


「普通に四本あってもおかしくない長い棒だろ?
長い棒なんて、意外と四本もないよな……。
おっ、思い付いたぞ、ほうきか?
ほうきなら旅館だし四本くらいあってもおかしくないもんな」


「いい線だが、ほうきだとちょっと重いな。
お前ならほうきでのチャンバラごっこくらい経験あるだろう。
意外に外見以上の重さがあったはずだ」


「勝手な偏見で話すなよ、ホータロー……。
いや、確かにやったことあるけどさ。
ホータローの言う通り、ほうきは結構重いよな。
ってことは、それ以外で四本くらいある長い棒か……」


「ヒントとしては青山荘は旅館で、今は夏だってことだ。
忘れ物として、この時期に保管されていてもおかしくない長い棒……」


「……分かったぞ、虫取り網だな。
そうだろ、ホータロー?」


「ご名答」


頷いた後で伊原に視線を向ける。
俺のその続きの言葉は、倉庫を調べに行っていた伊原が継いだ。



「折木の言う通りだったわ。
青山荘の倉庫の中には四本、ううん、それ以上の虫取り網が片付けられていたわ。
子供たちって大切にしてる虫取り網をあんなに忘れちゃうものなのね……。

まあ、それは置いておくとして、久し振りに持ったけど虫取り網って軽いのね。
一度に八本くらい持ってみたけど、全然軽かったわ。
子供が使うものだから当たり前なのかもしれないけど」


「それで、虫取り網が青い光とどう関係してるんだ?」


いよいよ好奇の色を隠せなくなってきた様子の田井中が訊ねる。
もったいぶる必要はないし、さっさと教えてしまおう。
青い光の正体は別にそれほど重要ではないのだから。


「その前にもう一度訊かせてくれ、田井中。
お前の見た青い光はどんな感じだったんだ?」


「ふわふわ漂ってた四つの青い光だったな。
街灯かラジコンかなって思ったんだけど、それがどうしたんだよ?」


「どうしてお前は街灯かラジコンだと思ったんだ?」


「高い所にあったからだよ。
地面から二メートル以上の場所にあるなんて、懐中電灯とかじゃありえないだろ?
だから街灯かラジコンか、そうじゃなきゃ怪奇現象に思えたわけで……、あっ」


「そういうことだ」


俺が頷くと、田井中が興奮したように身振り手振りを激しくさせ始めた。
クイズが解けていくような感覚なのだろう。
俺が言うのも変かもしれないが、謎が解けた時の満足感はそれなりのものだ。
ただ今の俺には満足感など存在してはいないが。


「俺もこの目で見たから分かる。
あの青い光は地面からかなり高い所を漂っていた。
そんな高い所を漂えるなんて怪奇現象か、棒かなにかに括り付けたもの意外には存在しない。
しかし怪奇現象で考えるのは安直に過ぎるからな。
それ以外の可能性を辿っていたら、虫取り網の可能性に辿り着いたんだ」


「じゃあなにを括りつけてたんだ?
あんなふわふわした発光する道具なんてあったっけか……?」


「物体自体が光っている必要はないんだよ、田井中。
ランタンや提灯を思い出してみろ、あれらも直接光ってるわけじゃないだろう。
ランタンや提灯の中にある光源が光っているだけだ」


「その証拠の一つがこれよ、たいちゃん」


そう言って、伊原がポケットの中からなにかを取り出した。
確認するまでもないが、俺も田井中と一緒に視線を向けてみる。
伊原の手のひらの上には、真新しいセロテープと青いセロファンの欠片が置かれていた。



「セロファン……?」


「そう、セロファンだ。
残念ながらと言うべきか、青い光を放つ光源は少ない。
ならばどうすればいいか。
答えは簡単、光源を青いセロファンで覆ってしまえばいい。
ふわふわ漂っている感じに見えたのは、おそらくその上からビニール袋でも被せたからだろう。
光源の正体は大きさから言っても懐中電灯で十分だろうな。
ビニール袋を被せたのは懐中電灯の姿を隠すためか、
それとも独特の浮遊感を持たせて鬼火か人魂にでも見せかけるためか……、
まあ、それは別にどちらでもいいことだ」


「その証拠がこの真新しいセロテープってことね」


青い光の正体を掴んで安心したのか、伊原は苦笑しながらセロテープを手の中で弄んでいた。
その様子からも、セロテープに粘着力が残っているのは一目瞭然だった。


「虫取り網にセロテープなんか貼らないわよね、普通。
しかも倉庫の中にある虫取り網に、昨日今日貼ったみたいなセロテープなんか……」


「おそらくそれはビニール袋を固定するために使ったセロテープだろう。
昨日は暗かったから完全には回収し切れなかったんだろうな。
青いセロファンも取り外す時に端が破れたんだろう。

つまりこうだ。
まず虫取り網の、網がない方に青いセロファンを被せた懐中電灯を固定する。
固定するために使ったのは紐かガムテープか……、
伊原が見つけてないということはビニール紐あたりだったんだろうが。
その後でビニール袋を被せて、袋の口をセロテープで閉じる。
これで青い光を放ちながら高所を漂う奇妙な物体の完成ってわけだ。
それに伊原は怯えていたわけだよ」



それきり俺が口を閉じると、伊原と田井中も口を閉じた。
青い光の正体は明らかになった。
昨日目にした時から、その正体についてある程度の予想はできていたが。
鬼火や人魂がこの世界に存在しているかどうかは俺も知らない。
だが俺が昨日目にしたのは、いかにもそれっぽい青い光だった。
本当にこの世界に鬼火が存在するとして、俺たちがそうだろうと想像するような。
誰かがそう見せるために模造した人工物のような。
だから俺はあの光が人工物であると仮定して推理を進め、実際にも人工物である証拠を掴んだのだ。

しかしあの青い光の正体がなんであろうと、そんなのはどうでもいいことだった。
重要なのはあの青い光の正体よりも。


「誰なの?
あの青い光を用意した誰かの正体……、折木はもう分かっているの?」


さっきまで浮かべていた苦笑を消し、伊原が真剣な表情で呟き始めた。
幸いながら怒ってはいないようだ。
それでも知りたいのだろう。
これほどまでの手間を掛けてまで、あの青い光を用意した者の正体を。

俺は二人に気付かれないよう小さく溜息を吐いた。
いよいよ触れたくなかった真相を語る時が来てしまった。
語りたくない。
語ってしまえば、これからの伊原の態度が大きく変わってしまうだろうから。
しかしここまで話した以上、誤魔化し続けられるわけでもない。
意を決し、最後で一番重大な真相を俺は語り始める。


「まずはあの光が青かった理由から考えよう。
今更言うまでもないことだが、自然に青い光はあまり存在しない。
だからこそ目立ったんだ、馬鹿馬鹿しいがそのためにあの光は青かったんだよ。
目立たせるために青く光らせて、浮遊物のような形にさせていたんだ。
田井中が一瞬思ったみたいに、街灯やラジコンに誤認されても困るからな。
あの光は目立たなければいけなかったんだ、伊原を驚かせるために」


「やっぱりそうなの?
あの青い光は、わたし一人を狙い打って作られた光だったの?」


神妙な口振りの伊原の言葉に頷く。
なにを考えているのか、田井中は黙り込んだままだ。



今回はここまでです。
またよろしくお願い致します。



「更に言えば」


俺は二人の顔を見回してから続ける。


「伊原を驚かせるためにこんにゃくでもなくぬいぐるみでもなく、
若干地味とも言える青い光が選ばれたのは、もちろん遠くからでも視認できるからだろう。
特にあの時の俺たちは迷子だったからな。
どこにいるか分からない人間を確実に驚かせるには、そのための道具を目立たさせるしかない。
難点としては目立ち過ぎてそれほど恐怖感を煽らないということだが、それはあまり重要じゃないんだ。
ほんの僅かでも伊原の心に恐怖が芽生えてくれれば、それで十分だったんだ」


「もったいぶらないでよ、折木。
あの青い光が人工物だってことはよく分かったわ。
人魂でも鬼火でも未確認飛行物体でも不知火でもセントエルモの火でもないことは分かったわよ。
誰なの?
誰がわたしを驚かそうとしていたのよ?」


そこまでありとあらゆる可能性を考慮していたのか、伊原。
謎の発光物について考えられる可能性を、本当に一晩中考え続けていたんだな。
もったいぶっているわけじゃない。
しかし伊原からしてみれば、俺がわざともったいぶっているようにしか見えないだろう。

南中に近い太陽を見上げて目を細める。
わざと太陽の眩しさに目眩を感じてから、その勢いで言葉を続ける。


「さっき温泉にいた里志に確認してきた。
昨夜、里志は田井中に連絡を受けてから、一人で青山荘に戻ったらしい。
もちろんこの周辺で迷いそうな場所を善名夫妻に確認するためだ。
この旅館を経営している二人ならば、観光客が迷いそうな場所くらい分かるだろう。
嘘をついている可能性もあるが、まさか里志もあの二人を抱き込んだりはしないはずだ。
そうでなくても『ジョークは即興に限る』をモットーにしているあいつだからな。
こんな尾を引く悪戯はしないだろう」


「里志が善名のおじさんたちと話していたのは私も保証するぞ、ホータロー。
携帯で迷いそうな場所を教えてもらったのは他ならぬ私だからな。
善名のおじさんたちの声も後ろの方で聞こえてた。
カセットテープに録音したやつを再生してたって可能性もあるけどさ、
それを言ったらホータローたちが迷子になったこと自体が不測の事態だったんだ。
そんなのを用意できるはずないし、用意する意味もないもんな。
里志は間違いなく善名のおじさんたちと一緒にいたはずだよ」


田井中のお墨付き。
これで容疑者から一人除外だ。
残る容疑者は四名。
なんの因果か揃いも揃って女ばかり。


「残る容疑者の中では田井中でもありえない。
あの四つの青い光は、かなり間隔を取って移動していた。
いくら軽いとは言え、右手と左手に二本ずつ持った状態であの動きはきつい。
最低でも二人はいなければ、あの動きは無理だろう」


「じゃあ私が十文字と共犯だったとか?」



容疑者の一人のくせに、平然と田井中が訊ねる。
確かにその可能性もあった。
昨夜一人で様子を見に行った十文字。
田井中と落ち合って青い光を漂わせる時間的余裕はたっぷりある。
しかし、だ。
それでは腑に落ちないことが多数残っているのだ。


「確証があるわけじゃないが、犯人は田井中じゃないと俺は考えてる」


「なんでだ?」


「そもそもが肝試しの驚かせ役の田井中だからな、
単に伊原を驚かせいのなら、用意したこんにゃくとかで普通に驚かせればいい。
わざわざ青い光なんて地味な物を用意してまで伊原を怖がらせる必然性がないんだよ。
秘密のサプライズネタにしても、お前なら間違いなくもっと派手な仕掛けを用意するはずだ」


「お、さすがだな、ホータロー。
そうだよ、実はもう一つサプライズネタがあったんだよな。
今だから言うけど、後ろ髪を前に垂らして貞子やろうと思ってたんだよ。
えるくらいまで髪を伸ばしたことがないからさ、一度やってみたかったんだよなー」


さいですか。
それも結構地味なネタではあるが、とりあえず青い光よりはインパクトがある。
俺は若干呆れた表情を浮かべたが、それと対照的に伊原の顔色はみるみると今までより青くなっていた。


「じゃあ……、まさか犯人は……」


それきり伊原が口を閉じる。
残された容疑者は三名。
その内の二名が共犯だと確定しているのだ。
それは伊原にとっては最も疑っていなかった容疑者が犯人だったことを意味していた。
俺はもう一度太陽の眩しさに目を細めて、まずは補足説明から先に始める。


「お前はおかしいとは思わなかったか、伊原?」


「なにをよ……?」


「田井中から連絡を受けた里志が青山荘に戻り、十文字が俺たちの様子を見に行った。
おかしくはないか?」


「……」


「十文字は年下の女の子を置いて、一人で様子を見に行くような人間だったか?
俺でも分かるぞ、夜の闇に女の子二人残すことの危険性くらいは。
もし十文字が血も涙もない冷血女だったとしたら別だが、十文字はそういう女だったか?」


「だったら……、まさか……」


「俺も十文字のことをよく知っているわけじゃない。
だが俺の知っている十文字は嘉代に特に懐かれている落ち着いたお姉さんだった。
少なくとも俺の姉貴よりは、よっぽど姉に相応しい性格だ。
そんな十文字が二人を夜道に置いて、俺たちの様子を見に行ったりはしない。
ここは三人が一緒にいたと考えるべきだろうな。
ならば十文字と善名姉妹はどうしてそんな嘘をついたのか」


「お互いの……アリバイのため……?」



「その通りだ。
三人一緒に行動していたと語るよりは、別行動を取っていたと語る方が共犯関係を疑われにくい。
おそらくはそういった発想で嘘をついたんだろうが、
残念ながら俺は十文字をそこまで冷たく見積もってはいない。
確かに十文字は得体が知れない上に取り捨て選択に躊躇がない奴だよ。
だがそれは自分の大切なものを守るためなんだろうし、基本的には義理堅い女だよ、十文字は。
例えば知り合って数日も経っていない女の子の頼みを聞いてやるくらいには」


「言い出したのは、二人の方なの?」


「おそらくな。
共犯関係を申し出たのは、懐き方から考えると嘉代だろう。
この計画自体を思いついたのはどっちとも言えないがな」


「どうしてよ?
どうして二人がわたしを驚かそうとしたの?
わたしって二人にそんなに嫌われていたの?」


辛そうな表情を浮かべる伊原。
この事件の主犯は梨絵と嘉代。
仲の良い親戚の子が自分を驚かした犯人だったのだ。
伊原のその衝撃は計り知れない。
なにもかも裏切られたような気分になっているのだろう。
だが隠された真実はもっと残酷なのだ。
伊原ではなく俺にとって、なのだが。


「安心しろ、伊原。
お前は二人に嫌われているわけじゃない。
むしろ好かれているからこそ、梨絵たちにこんな計画を立てられたんだよ」


「どういうこと?」


「さっき里志にもう一つ確認してきた。
あいつがこの合宿中、温泉浸りになっている理由だ。
里志が温泉好きの温泉マニアってのは確かにある。
だがあいつにはもう一つ温泉浸りにならなければいけない理由があったんだ。
あいつは言っていたよ、『どうもあの二人に嫌われてるみたいでさ』ってな。
飄々しているあいつだが、自分を嫌っているらしい年下の女の子とずっと一緒にいられるほど図太くもないんだよ。
それで温泉に逃げ込んでいたんだ」


「嫌ってる……?
あの二人がふくちゃんを?」


「嫌ってるって言うのは語弊があるかもしれない。
どちらかと言えば好印象を持たれていないと言う方が正しいか。
なあ、伊原。
お前は二人に里志のことをどう説明していたんだ?」


「別に……、ありのままだっはずよ。
バレンタインチョコは受け取ってもらえなかったけど、最近付き合えるようになったって。
ふくちゃんのこと、悪く言ったりなんかしてないわ」


「お前にとってはありのままだったつもりなんだろう。
だがさっき嘉代たちと話した時のことを思い出してみろ。
嘉代はお前になんて言っていた?」


「『まや姉さん、彼氏ができて幸せ?』……」



「そういうことだ、二人にはお前が幸せなようには見えなかったんだよ。
その包み隠さない性格が災いしたのかもしれない。
特に今年のバレンタインのことを話したのがまずかったんだろう。
いつまでもお前への答えを保留していた里志。
バレンタインチョコを受け取らなかったくせに、なにを思ったのかお前と付き合い始めた。
過程だけ羅列してみると最低だな、里志の奴……。
だが近くで見ていた俺は、それが笑い話になるような過去だってことは分かっている。
紆余曲折あったが、お前たちにとっていい形に落ち着いたことも知っている。

だがな、たまにお前から話を聞くだけの梨絵たちにはそれが分からなかったんだよ。
特に恋に夢を抱きがちな年頃だから、余計にそうなんだろう。
お前たちには悪いが、お前たちの恋愛模様はあまりロマンチックとは言えないからな。
それで梨絵たちは里志をよく思っていなかったんだ。
しかもこんな時にだけ鋭い里志は梨絵たちから逃げ回って温泉に入り、
誤解を解く機会のないままに里志の悪印象は梨絵たちの胸の中に募っていった。
梨絵と嘉代の中では、お前ではなく温泉が好きなだけの最低な温泉男として写っていたはずだ。
それで二人は今回の計画を思いついたんだ」


「ちょっと待ってよ、折木」


「どうした」


「ふくちゃんのことが誤解されてるのは分かったわ。
思い返してみれば、二人がふくちゃんをよく思ってない節があった気もするしね。
だけどそれとあの青い光にどんな関係があるって言うのよ?」


伊原が強い視線で俺を見つめる。
田井中も俺の続きの言葉を待っている。
俺は大きな溜息をついて、息をしばらく止めた。
今までいくつかの事件の真相に触れてきた。
だが今回ほど語りたくない真実は存在しなかった。
語らずにすませてしまいたったが、この二人の視線から逃げることはもうできないだろう。
腹を括るしかあるまい。
俺は最後に大きく息を吸ってから、一番語りにくかったことを口にした。


「俺と……」


「あんたと?」


「俺とお前を付き合わせるためだろうな」


「なによそれっ!」


その声と同時に近くの樹に止まっていた蝉が一斉に飛び立った。
野鳥も何羽か飛び立って行ったようだ。
伊原の声が山彦のように反響する。
それほどまでの大声だった。
伊原は顔面を真っ赤にさせて涙目になっている。
もちろん照れているわけではなく、怒っているだけだ。
いや、照れられても困るのだが。
とにかく伊原はそんな今にも俺に殴り掛からん表情で肩まで震わせていた。
だから言いたくなかったんだ……。
俺は全く悪くないのだが、自分を弁護するために説明を続ける。



「落ち着けよ、とにかく落ち着け。
落ち着いててくれよ……、な?
お前は、ほら、そうだ、吊り橋効果って知ってるか?
吊り橋効果だ、聞いたことくらいあるだろう」


「あるわよっ!
あるけどそれがなにっ?」


「梨絵たちはそれを狙ったんだよ。
去年の事件から、梨絵たちはお前が心霊現象に弱いのを知っていた。
だから肝試し中に得体の知れない光でお前を怖がらせて、ペアの俺に恋心を抱かせようとしたんだ。
昨日肝試しをしようと言い出したのは田井中だったが、
おそらく田井中が言い出さなければ十文字が提案するつもりだったんだろう。
吊り橋効果を提案したのは十文字だと思うが、確証は今のところない」


「くじはっ?
くじも仕組まれてたって言うのっ?」


「おそらくな。
やり方は分からないが、くじを引いた六人中三人が共犯だったんだ。
隠れてくじを交換するとか、いくらでもやりようはあるだろう」


伊原が口を閉じる。
予期せぬ真相に興奮していた伊原だが、俺の説明にも一理あると思い始めてくれたのだろう。
数回呼吸音が聞こえた後、少し落ち着いた口振りで伊原が俺に訊いた。


「なんで相手があんたなのよ……。
そりゃ今は他に相手がいないのは分かるけど、よりにもよって……」


「お前が俺のことを悪く言っていたからだろうな」


「……どういうこと?」


「俺のことをどう語っていたのかはこの際問わない。
どうせいつもぼーっとしてるくせに耳聡いとか、やる気がないくせに説明好きとでも語ってるんだろう。
別にどんな罵詈雑言で俺を貶していても構わない。
だがな、それをずっと聞かされていた梨絵たちが俺の姿を見てどう思うか分かるか?」


「だからどういうことなのよ?」


「いいか、よく考えてみろ。
お前はいつも梨絵たちの前で俺のことを罵詈雑言で貶している。
なのに同じ部の部員とは言え、合宿と言う名の慰安旅行に俺を連れて来るんだぞ?
普段文句ばかり言っているくせに、ちゃんと連れて来てるんだぞ?
まるで小学生が好きな子にちょっかい出してるみたいじゃないか。
『本当に折木の兄ちゃんことが嫌いなのかな?』と梨絵たちが思ったとしてもおかしくないだろう」


「勘違いしないでよ!
除け者にされる折木が可哀想だから連れて来てあげてるだけよ!」


「分かってる……!
勘違いしてるのは梨絵と嘉代だ……!」



俺が肩を落とすと、言い過ぎたと思ったのか伊原も肩を落として溜息をついた。
なにをしているんだ、俺たちは……。
恋愛方面で他人に勘違いされることほどやるせないことはない。
中学時代、腐れ縁の伊原との関係を邪推された時から分かっていたことだ。
まさか高二になってまで同じ経験をするとは思わなかった……。


「なるほどな、梨絵ちゃんたちは摩耶花をツンデレだと思ったわけだな」


腕を組んで田井中がうんうんと頷く。
ツンデレ?
聞き覚えのない言葉に俺と伊原が首を傾げると、田井中がなにかに気付いたように手を叩いた。


「あっ、ホータローたちはツンデレって言葉知らないのか。
そうだよな、二〇〇一年だもんな、確かまだそんな言葉無かったよな」


「今更思い出したように未来人みたいなことを言うな。
まあいい、とにかくそのツンデレってのはなんなんだ?」


「人前ではツンツンしてるけど、二人きりの時はデレデレしてるからツンデレだ。
本当は色んな意味合いがあるみたいなんだけど、そういう意味で使われることが一番多いみたいだな」


さいですか。
しかし伊原がそのツンデレか……。
想像してみようとしたが、やめた。
あまりにも気持ち悪かったからだ。
しかし梨絵たちが伊原を同じ様に考えているというのは、俺も同意見だ。



今回はここまでです。
次くらいで五章も完結です。
ちなみにツンデレという言葉は2002年に出来たそうです。



「どうしてわたしのこと、そんな風に誤解しているのかしら、あの二人……」


分かっていないのは本人ばかりなり。
だがいちいちそれを指摘していても話が拗れるだけだろう。
ツンデレの件にはできるかぎり触れずに、
伊原が知りたがっているであろう残った疑問点について述べることにする。


「俺たちが迷子になったのは、梨絵たちにも予想外だったはずだ。
いくらなんでも俺たちの迷子まで計画に組み込めるはずがない。
俺の勝手な想像だが、青い光のお披露目は肝試しの帰り道にでもするつもりだったんだと思う。
おそらくは嘉代が忘れ物をしたとでも言い出して、嘉代と親しい十文字がそれに付き添う。
里志と田井中は梨絵が誘い出し、俺と伊原が二人残されたのを見届けてから、青い光を照らす。
肝試しが終わっている時間、肝試しの立案者の田井中が帰って来ているというのに突如現れる怪しい光。
恐怖を感じさせるとまではいかないまでも、正体不明な光を目にするという気持ち悪さは俺たちに残せる。
それで伊原と俺の間に吊り橋効果が起これば万々歳だ。

だが今言った通り俺たちが迷子になるというハプニングが発生した。
それで三人は急遽それを利用することを思いついたんだ。
帰り道を歩いている人間よりは、迷子である人間の方が遥かに怖がらせやすいからな。
俺たちがどこを迷っているのかは当然分かっていなかっただろうが、三人には問題なかった。
閑散としていて目立つものがほとんどないこの村だ。
正体不明の青い光なんて目立つ代物、半径一キロ圏内にいる人間なら誰でも気付く。
現実に伊原もすぐに見つけて怯えていたわけだしな」


俺の考えていたことのほとんどを一気に口にすると、急激に喉の渇きを感じた。
どうやら照り付ける陽射しの中で喋り過ぎてしまったらしい。
青山荘に戻ったら、冷たい麦茶でも頂くとしよう。
全てを語ったわけではないが、それらは別に伊原が知らなくてもいいことだ。

不意に田井中が俺に視線を向けていたことに気付く。
どうやら田井中はそれを知りたがっているらしい。
面倒ではあるが、田井中には教えてやっても問題あるまい。
俺が頷いて目配せをすると、田井中はそれだけで俺の意図を汲んでくれたらしい。
唸っている様子の伊原の肩を叩いて優しく微笑んだ。


「なあ、摩耶花」


「どうしたの、たいちゃん……?」


「ショックだったか?
あの青い光を用意したのが梨絵ちゃんたちでさ」


「そりゃショックよ……。
理由があったとは言え、私のことを怖がらせてたのがあの二人だったなんて。
もちろん計画のほとんどは十文字さんが立てたものなんだろうけど、それでも……」


「確かに手段はアレだったよなー……。
摩耶花を怖がらせてホータローとくっつけるなんてとんでもない発想だよ。
でもさ、それはそんなことをしたくなるくらい摩耶花が心配だったってことでもあるよな?
摩耶花のことだから私が言わなくても分かってると思うけど」


「……うん」



複雑な表情で伊原が頷く。
伊原も分かっているのだ、梨絵たちに悪意がなかったことくらい。
十文字も二人に頼られただけで悪意はなかったはずだ、おそらく。
それでも釈然としないのは、伊原が白黒はっきりさせたがる性格であるからだろう。
この青い光の事件、どう決着させるか答えを出せていないのだ。

だが伊達に女子大生(入学寸前だが)と言うべきなのだろうか。
若干の大人の余裕を見せた笑みで、田井中が伊原の肩を柔らかく抱いた。
その仕種には慣れまで感じさせる。
もしかしたら田井中が部の後輩だと話していた中野とかいうギタリストが、
伊原のような真面目で融通が効かない面倒臭い性格をしているのかもしれない。


「二人は摩耶花に幸せになってもらいたかったんだよ」


「分かってるわ……。
でもね、たいちゃん、わたし幸せなのよ?
二人が考えるような幸せじゃないかもしれないけど、ふくちゃんと付き合えて幸せなの。
たまに寝る前に布団の中で笑顔になっちゃうくらい……」


「だったら、どうしたらいいか分かるよな?」


「二人に分かってもらえるかしら……」


「分かってもらえるまで話せばいいんだよ、摩耶花。
なんなら里志を温泉から引きずり出して、二人で話してやればいい。
『紆余曲折ありましたが、わたしたちは今幸せです』ってさ。
何度も話し合えば、二人もきっと分かってくれるって。
元々空気を読み過ぎた里志が温泉に逃げ込んでたのが、誤解の始まりだったわけだしな」


「そうね……。そうよね……」


伊原が呟きながら何度も頷く。
自分に言い聞かせる様に、自分の幸せをもう一度再確認する様に。
その後で田井中に向けた伊原の眼光は、もういつもの鋭さだった。


「よしっ、じゃあ今から二人と話してくるわ。
ふくちゃんを温泉から引きずり出して、二人と話し合ってくる。
二人は十文字さんと勉強してるのよね、たいちゃん?」


「ああ、勉強しながらお昼のことを話し合ってた。
今日は私たちが帰る前に、二人が小さなパーティーを開いてくれるらしい。
せっかくのパーティーなんだ、最後くらいなにも考えずに騒ごうぜ?」


「そうね、わたしだってパーティーは楽しく参加したいもの」


「あんまり二人を責めないでやってくれよ?」


「分かってるわ、じゃあちょっと行ってくるわね」


温泉の方向に走り出そうとする伊原。
だがその前に俺の方に珍しい表情を向けた。
柔らかい微笑みだった。



「今回はありがとね、折木」


「あ、ああ……」


急なことに驚きながら応じたが、伊原は俺の返事を聞くより早く走り去ったようだった。
どうやら俺の反応などどうでもよかったらしい。
だが俺に一言でも礼を言う分、伊原にしては格段に柔らかい行動だった。
今から台風でも来なければいいが。
台風で田舎に足止めなど、いかにも安っぽいミステリーだ。


「ありがと、だってさ」


田井中が意地の悪い表情を俺に向ける。
田井中にとっても、田井中の中にある千反田の記憶にとっても、
伊原が俺に礼を言うのは非常に珍しい光景であるようだった。
俺がなにも言わずに肩を竦めると、田井中は僅かだが真剣な表情になった。
伊原がいなくなった以上、あいつの前で話しにくかったことが存分に話せるようになったわけだ。


「それでさ、ホータロー」


「どうした」


「いつから気付いてたんだ、梨絵ちゃんたちが犯人だって?」


「喉が渇いてるんだが」


「後で田井中家特製の麦茶を淹れてやるから我慢してくれ」


「ちゃんと淹れられるのか?」


「失敬な。
私の麦茶は紅茶名人のムギのお墨付きだぞー?」


ムギ……、琴吹紬か。
良家の子女であり、紅茶を淹れるのが得意らしい彼女のお墨付きなら問題ないだろう。
しかしムギお墨付きの麦茶とは、言い得てなんとも妙だ。
別にどうでもいいことではあるが。


「分かったよ、別に時間が掛かる話でもないから教えてやる。
美味い麦茶を振る舞ってくれよ」


「サンキュー、麦茶は任せとけ」


その麦茶の味を想像し、俺は唾を飲み込む。
さっさと田井中の疑問を解消して、涼しい風に吹かれながら麦茶を飲もう。


「梨絵たちが怪しいと思ったのは、あの青い光とは関係ないところだった。
お前の中にも千反田の記憶があるわけだし、多少の違和感はあったはずだ。
お前も思わなかったか?
梨絵と嘉代が想像以上に親しいとな」


「ああ、それは私もびっくりしたよ、ホータロー。
えるの記憶の中では、梨絵ちゃんと嘉代ちゃんに関してはかなり苦い思い出だったからな。
二人は憎み合ってるってほどではないにしても、えるの理想通りの仲良し姉妹じゃなかった。
浴衣の貸し借りもできないくらいの、そこそこの仲の良さの姉妹でしかなかった。
だから私もこの合宿にはちょっと緊張してたんだけどな」



「だが二人の関係は飛躍的に改善されていた。
それも俺たちが合宿に訪れてから、その傾向は更に顕著になったようだった。
少なくとも俺の記憶の中では、嘉代はあんな笑顔を梨絵に向けたりはしない。
だから思ったんだよ、二人は俺たちが関係しているなにかをきっかけに親しくなったんだろうってな。
それで不意に思い出したんだ、人間が仲良くなる一番の方法がなんなのかって話を」


「あ、聞いたことがある気がするな、それ」


「まあ、聞いたことがなかろうと、誰もが実感してることだろうがな。
人間が仲良くなる一番の方法、それはもちろん共通の敵を持つことだ。
世界中どの国であろうと自然の摂理だよな、それは。
ならば梨絵たちは誰を共通の敵だと考えているのか?
これもよく考えなくても分かることだな。
二人は伊原の親戚で懐いている。
伊原が二人の共通の敵になることはありえない。
千反田にも伊原の友人として懐いているようだから、お前は除外される。
十文字と二人は初対面だからそもそも嫌われるほどの関係じゃない。

残ったのは俺と里志だが、思い出してみればすぐ思い当たった。
今年の梨絵たちは妙に俺に親しげだと思ったが、逆だったんだということに。
里志が嫌われていたから、なにもしていない俺の株が相対的に上がっただけだったんだ。
そこから考えを組み立てていったら、いつの間にか青い光の正体に気付けたってだけの話だ」


「なるほどなー……」


田井中が感心したように頷いていたが、
俺自身はそれほど自分の推理に自信があるわけではなかった。
あの青い光を用意した犯人は梨絵と嘉代と十文字で間違いない。
ただその動機が本当に里志という共通の敵を排除するためであったかは分からない。
人の心の中を完全に覗き込めると思えるほど、俺は傲慢じゃない。

去年、俺は仲の良い姉妹など枯れ尾花だと思った。
だが仲の良い姉妹が枯れ尾花であるのなら、仲の悪い姉妹もまた枯れ尾花に過ぎないのではないだろうか。
それが今年の梨絵と嘉代を見ていて実感したことだ。
違う家庭の姉妹の関係など、他人が見ていて推察できるものではない。
愛情、近親憎悪、親しみ、鬱陶しさ。
家族にはそういう様々な感情を同時に抱いてしまうものなのだから。
あの二人の一面だけ見て、なにもかも分かったつもりになるなど傲慢にも程がある。
しかしあの青い光が二人を強く結び付けたのも、また確かなはずだった。

セントエルモの火。
さっき伊原はあの光をそう呼んだことを思い出す。
悪天候時、船のマストが発光する現象の名称。
前にたまたま下校途中に沢木口につきまとわれたことがあった。
どうやら補習終わりで、普段下校している仲間が全員帰ってしまっていたらしい。
俺ともそう親しいわけではないのだが、沢木口はそういうことを気にする繊細さを有してはいなかった。
その際に天文部らしく沢木口が語ったのだ、セントエルモの火の伝承を。

セントエルモの火は一つ現れることと、二つ同時に現れることがあるそうだ。
一つの場合は「ヘレナ」。
二つの場合は「カストルとポルックス」と称するらしい。
カストルとポルックスは双子座を構成する星の名前であり、それで沢木口も知っていたわけだ。
沢木口が言うには、セントエルモの火は二つ出た場合、嵐が収まるという希望の意味を持つらしかった。
狙ってやったわけではないだろうし、実際には四つの光があったわけだが、
それでも俺はあの二つの光が梨絵たちにとってのセントエルモの火、カストルとポルックスになったのではないかと思えた。
誤解からの行動であれ、なんであれ、あの光をきっかけに二人の仲が改善されたのは間違いないのだから。



今回はここまでです。
次回で五章も終わります。



「摩耶花、上手く二人に説明できると思うか?」


田井中が少し心配そうな表情を浮かべる。
誤解から共通の敵を得た梨絵と嘉代の仲は飛躍的に改善された。
その始まりが誤解だっただけに、その誤解が解けてしまえば夢のように二人の仲は崩れ去る。
田井中はそれを危惧しているのだろう。
確かにその可能性はあった。
伊原が余程上手く誤解を解かねば、二人の間にはまず間違いなく遺恨が残るだろう。
だが俺は苦笑を浮かべて返してやった。


「大丈夫なんじゃないか?」


「大丈夫なのか?」


「多分な。
伊原もあれで短慮でなければ馬鹿でもない。
梨絵たちが傷付かないように、気を遣って説明をするだろうさ。
お前にも千反田の記憶があるんだから分かるだろう。
伊原の親しい人間に対する気遣いは大したもんだ。
千反田のずれた発想でさえ頭から否定することはしない。
増してあいつは一応二人の親戚のお姉さんなんだ。
それに誇りを持ってるようでもあるし、お前が心配しなくても伊原は上手くやるさ」


「そっか……、そうならいいよな……」


「ああ」


俺はその田井中の呟きには本気で頷いた。
梨絵と嘉代にはもう会うこともないかもしれない。
里志の誤解を解くことで、相対的に俺の評価が下がってしまうかもしれない。
善名家の家庭の事情に首を突っ込んでやれるほど、俺は情熱的じゃない。
もしまた二人が仲違いを起こしたとしても、その改善に尽力はしないだろう。
だが俺は思う。
せっかくの姉妹なのだ。
仲の悪い姉妹であるより、誤解からとは言え改善された仲の姉妹である方がずっといい。
他人の家庭の不幸を望むほど、さすがにそこまで俺は薄情じゃない。


「にしても、さ」


天を仰いだ田井中が、熱気に汗を拭いながら微笑んだ。
田井中も伊原と善名姉妹を信じたのだろう。
その表情からは既に暗さが消え去っていた。


「なんだ」


「やっぱホータローは凄いよなー、結局あっと言う間に解決しちゃったじゃん」


「あっと言う間じゃない。
朝から付き合わされて結構疲れてるぞ、俺は」


「それでも私にとっちゃあっと言う間だよ。
私も梨絵ちゃんたちの勉強見ながら青い光の正体を考えてはみたけど、全然分からなかったんだもんな。
なのにホータローには光の正体どころか犯人と動機まで分かっちゃうなんてさ。
それだけじゃない。
この前、私が用意したゲームにしたってそうだよ」


「はさみのやつか?」



「そうそう。
あのゲームさ、それなりに自信があったんだぜ?
頭を捻って、えるの記憶の中から使えそうな知識まで探して、やっと思いついたゲームだったんだ。
それなのにホータローは私が寝てる間にクリアしちゃってたんだもんな。
落ち込むぞ、あれは……。
だからさ、やっぱホータローは凄い探偵力を持ってると思うんだよ。
本気で探偵を目指してみてもいいんじゃないか?」


「たまたま運が良かっただけだ。
それに探偵なんて俺の柄じゃないだろう。
探偵なんて疲れるばかりで面倒な仕事じゃないか」


「言うと思った」


落胆した素振りも見せず、田井中が楽しそうに笑った。
こいつもこいつで俺の行動パターンを読み始めたのかもしれない。
まあ、単純な行動指針を持っている俺だ。
それなりの時間を一緒に過ごしてきた人間なら、俺の行動パターンなど簡単に読めるだろうが。


「だけど本気でびっくりしてるのも本当だぞ?
ホータローってば、数少ない情報から見事な推理を組み立てるじゃんか。
少なくとも私にはできないし、他の大多数の奴等にも無理な芸当だよ、それは。
特にびっくりしたのが怪盗十文字の事件の時だな。
よくあれだけ少ない情報で解決できたもんだよ。

いやー、まさか犯人が眼鏡の会長さんだったなんてな。
確か真鍋だったっけか?」


「田名辺だよ、田名辺。
田名辺治朗。
いや、俺もあれからそんなに会ってるわけじゃないから多分だが」


「そうだっけ?
って眼鏡の会長で真鍋なのは私の友達だったわ、ごめんごめん。
ちなみに私の友達の方の真鍋会長は凄いぞー。
何たって生徒会長なんだからな。
唯の幼馴染みで和って名前なんだけど……」


「別にお前の学校の生徒会長はどうでもいいし、
平沢とその真鍋が幼馴染みだろうとなんだろうと知ったことじゃない。
それよりそろそろ戻らないか?
ムギお墨付きの麦茶とやらを振る舞ってくれるんだろう?
さっきも言ったが喉が渇いてるんだ、俺は」


「おっと、そりゃ悪かった。
んじゃ、そろそろ青山荘に戻るとするか」


言いながら軽く屈伸運動をする田井中。
俺もそれに倣って関節を伸ばそうとして、不意にその動きが止まった。
田井中の奴、今おかしなことを言わなかったか?


「おい田井中」


「なんだよ、ホータロー。
喉が渇いてるんじゃないのかよ?」


「当然喉は乾いてる。
だがそれより先に訊かせてほしいことができたんだ」


「和のことか?
ホータローってえるより真面目な生徒会長の方が好みな奴だったのか?」



「違う、そうじゃない。
さっきお前は十文字の正体が眼鏡の会長だって言ったよな?」


「だってそうだろ?」


「そうだよ、怪盗の十文字の正体は眼鏡の会長の田名辺治朗だ。
じゃあその動機をお前の中の千反田は憶えているか?」


「うーんと……、
なんたらの順番って同人誌のためだったはずだろ?」


「『クドリャフカの順番』だ」


「あー、それだそれ。
その同人誌のことをちゃんと憶えてるかって、
それを同人仲間に確かめるための事件だったはずだが?」


「ああ、その通りだよ。
やっぱり物覚えがいいみたいだな、千反田は」


「えるの物覚えの良さには、期末試験の時もお世話になりました」


「それはなによりだが、期末試験のことは今はどうでもいい。
千反田が十文字の正体を知っているということが重要なんだ。
なあ、田井中、どうしてお前が十文字の正体が田名辺だと知っている?」


「なに言ってんだよ、ホータロー。
えるの記憶の中にあったからに決まってるじゃんか」


「もちろんそうだろう。
だがそれだと辻褄が合わなくなるんだよ」


「……どういうことだ?」


田井中が神妙に首を捻りながら俺に訊ねる。
どういうことなのかは俺にも分からない。
分からないからこそ、田井中に言ってやらねばならなかった。


「十文字の正体だがな、千反田は知らないんだ。
なんせ俺と田名辺が一対一で話しただけなんだからな。
確かに十文字の正体はお前の中の千反田の記憶にある通り田名辺だが、
盗み聞きした奴でもいない限り、それを知っているのは俺と田名辺本人だけなんだよ。
だから訊かせてくれ、田井中。
お前の中の記憶では、千反田は俺たちの会話を盗み聞きしていたのか?」


「いや、してない。
してない……はずだ。
少なくとも私の中のえるは盗み聞きなんてしてない」


「そうだろうな。
千反田は盗み聞きなんてする様な奴じゃないし、
もしなにかの弾みでしたとして嘘を貫き通せるほど器用でもない。
じゃあお前の中の千反田はどうして田名辺が犯人だって知っているんだ?
それも犯行の動機まで」


「どうして……って、普通にホータローの横で聞いてたんだよ。
えるのその時の驚きも、お気に入りの映画みたいに鮮明に思い出せる。
だけどホータローの中じゃそうじゃなかったんだよな……?」



「違う、そうじゃない。
さっきお前は十文字の正体が眼鏡の会長だって言ったよな?」


「だってそうだろ?」


「そうだよ、怪盗の十文字の正体は眼鏡の会長の田名辺治朗だ。
じゃあその動機をお前の中の千反田は憶えているか?」


「うーんと……、
なんたらの順番って同人誌のためだったはずだろ?」


「『クドリャフカの順番』だ」


「あー、それだそれ。
その同人誌のことをちゃんと憶えてるかって、
それを同人仲間に確かめるための事件だったはずだが?」


「ああ、その通りだよ。
やっぱり物覚えがいいみたいだな、千反田は」


「えるの物覚えの良さには、期末試験の時もお世話になりました」


「それはなによりだが、期末試験のことは今はどうでもいい。
千反田が十文字の正体を知っているということが重要なんだ。
なあ、田井中、どうしてお前が十文字の正体が田名辺だと知っている?」


「なに言ってんだよ、ホータロー。
えるの記憶の中にあったからに決まってるじゃんか」


「もちろんそうだろう。
だがそれだと辻褄が合わなくなるんだよ」


「……どういうことだ?」


田井中が神妙に首を捻りながら俺に訊ねる。
どういうことなのかは俺にも分からない。
分からないからこそ、田井中に言ってやらねばならなかった。


「十文字の正体だがな、千反田は知らないんだ。
なんせ俺と田名辺が一対一で話しただけなんだからな。
確かに十文字の正体はお前の中の千反田の記憶にある通り田名辺だが、
盗み聞きした奴でもいない限り、それを知っているのは俺と田名辺本人だけなんだよ。
だから訊かせてくれ、田井中。
お前の中の記憶では、千反田は俺たちの会話を盗み聞きしていたのか?」


「いや、してない。
してない……はずだ。
少なくとも私の中のえるは盗み聞きなんてしてない」


「そうだろうな。
千反田は盗み聞きなんてする様な奴じゃないし、
もしなにかの弾みでしたとして嘘を貫き通せるほど器用でもない。
じゃあお前の中の千反田はどうして田名辺が犯人だって知っているんだ?
それも犯行の動機まで」


「どうして……って、普通にホータローの横で聞いてたんだよ。
えるのその時の驚きも、お気に入りの映画みたいに鮮明に思い出せる。
だけどホータローの中じゃそうじゃなかったんだよな……?」



田井中の言葉に頷いた俺はシャツの背中が汗で湿るのを感じていた。
夏の熱気からの汗ではなく、若干の冷たい汗で。
この俺と田井中の記憶の齟齬にはなんの意味があるんだ?

俺はこれまで田井中と怪盗の十文字について話したことがなかった。
当然だ。
あの事件は千反田の中では古典部の手痛い敗北の記憶しか残らないものだったからだ。
事件自体に千反田がそれほど関係したわけでもない。
千反田が十文字事件でやったことと言えば、てんやわんやの右往左往くらいのものだ。
その結果訪れた敗北など、相手が田井中とは言え思い出させることではない。
だからこそ俺は十文字事件について全く触れなかったのだ。

しかし田井中は知っていたのだ。
十文字事件の犯人が田名辺であるということを。
しかも千反田の記憶の中では、よりにもよって俺の隣でそれを聞いていたのだと言う。
もちろん田井中のことだ。
こんな意味のないことで嘘などつきはしないだろう。
つまり田井中の中では本当にそうして十文字事件が解決したのだ。

記憶の改竄だろうか。
過去の受け入れがたい記憶を千反田が自分で書き換えたとする。
千反田の記憶をそのまま思い出すことしかできない田井中が、その改竄を真実と誤認したのか?

馬鹿な、支離滅裂だ。
記憶を改竄するにせよ、それにはまず千反田が事件の真相を知っていなくてはならない。
知っているために最も考えられる可能性はやはり盗み聞きだが、千反田が盗み聞きなどするだろうか?
いや、もしかして田名辺の口から漏れた?

違う。
田名辺が自分で事件のことを口にするメリットがない。
そもそも仮に田名辺が事件の真相を千反田に語ったとして、わざわざ千反田が記憶を改竄するか?
十文字事件は千反田の中で苦い記憶であったことは間違いない。
しかしだからと言って、千反田はその苦さから逃げ出すような奴じゃない。


「どういうことなんだよ……?」


田井中が自らに、千反田に問い掛けるように呟く。
当然のことだが返事はなかった。
俺もその疑問に答えてやることはできなかった。

俺と田井中の中にある千反田の記憶との間にある齟齬。
これがなにを意味しているのかは分からない。
だが分からないからこそ、分からないという余地があるからこそ、これにはなんらかの意味がある。
この現象に対するなんらかの突破口になる。
そのはずだ。
それが良き方向にしろ、悪しき方向にしろ、だが。

背伸びをして、真夏の太陽を仰いでみる。
目眩がしそうなほどの熱気だというのに、俺の背中には冷たい汗が流れ続けていた。





六章 さよなら妖精


1.八月二十八日


残暑厳しい夕陽に照らされている。
夕陽を背中に田井中が立っている。
長髪を一本のできの悪い三つ編みに結んだ田井中が。
その三つ編みが唐突な強風に揺れる。
未だ生温い夏の風。
しかしどこか涼しさも含んだ夏の終わりの風だ。


「やっぱり……、上手くはいきませんでしたね……」


その声は震えている。
夕焼けのせいで若干分かりにくいが、その全身も震えているように見えた。
実際にも震えているのだろう、身体と、心が。


「無理はするもんじゃない。
いつも俺が言っているだろう。
やらなければいけないことなら手短に、やらなくていいことなら……」


「やらない」


「そうだ、いつもと言う順番が邪魔ではあるけどな。
お前は別にやらなくてもいいことをやっていたんだ。
それがお前のモットーだと言うのならそれでいい。
だが今までお前がやっていたことは、やるべきではないことだった。
言ってみれば、これは裏切りだ」


「そう……ですね……、そうですよね……。
分かってはいたんです、いつかは言い出さなければならないことだって。
だけどできませんでした。
できなかったんです、わたし。
だってわたしの中には……」


「それでも、だ。
俺の出した推測が正しいとは限らない。
とんでもなく間違っているのかもしれない。
だが一つだけ確信してることがある。
あいつはおそらくは自ら望んでこの世界に顕れたんだ。
たった一つの目的のために、長い長い遠回りをして、この時のために積み上げたんだ。
あいつはやっと気が遠くなるほどのドミノ倒しを終えたんだよ。
少なくとも俺はそう思っている。

だからこそお前もあいつの想いを汲んでやってほしい。
突然のことに戸惑っているお前の気持ちも分からないわけじゃない。
だがこれ以上は本当の意味であいつへの裏切りになってしまうじゃないか」


俺の声も震えていた。
出そうとする声は想像以上に掠れていて、それでも必死の思いで喉の奥から絞り出した。
裏切りを続けさせたくなかった。
裏切りを続けたくなかった。
続けてはいけないのだ、俺も、こいつも。


「そう……なんですよね……。
あの人もそれを望んでいるんですよね……」


田井中の喉から嗚咽のような音が漏れる。
夕焼けの眩しさで確かめられないが、おそらくは泣いているのだろう。
喪失感からの涙なのは間違いない。
だがそれだけの涙ではないと信じたかった。
こいつは伯父の過去も、大日向とのことも、受け止めて前に進んできた奴だから。
この喪失感をも受け止められる奴であるはずだから。


俺も受け止めなければならない。
俺たちは受け入れなくてはならないのだ、あいつを失ってしまったことを。
それこそあいつが一番望んでいることだろう。


「本当はあいつの気持ちを一番分かっていたのはお前のはずだ。
あいつから一番遠くにいて、一番近くにいたお前だからな。
なあ、そうだろう、千反田?」


「は……い……!」


力強い返事だったが、今はそれが限界のようだった。
感情が昂ぶって、これ以上立っていられないらしい。
田井中は、いや、千反田はその場に倒れ込みそうになって、俺は慌ててそれを両腕で支えた。
俺の両腕が熱い液体で濡れる。
やはり千反田は泣いていたようだった。

仕方がないことだろう。
俺だってお前を失ったことをどう受け止めればいいのか見当も付かない。
当事者である千反田自身は余計にそうだと思う。
だから、なあ、田井中。
もう少しだけ千反田が泣くのを許してやってくれ。
涸らし尽くすほど泣かせてやってくれ。
その後にはこいつはきっと前を向いて歩き出せるようになる。
お前が与えてくれたドミノの先を、精一杯に生きていく。
だからそれまでは、あともう少しだけ。


――分かってるよ、ホータロー。


不意に田井中の声が響いたような気がした。
もちろん気がしただけだった。
俺がそう思いたいだけだった。
だがもしも田井中がそこにいたのならば、きっとそう苦笑していたことだろう。



今回はここまでです。
残りは六章と終章となります。




2.八月十三日


窓の外で風と雨の音が激しく響いている。
昨日から上陸している台風はまだ神山市に居座っているようだった。
別にうるさいこと以外は俺には特に問題ない。
予定があるわけでもないし、溜まっている小説を読むにはむしろ都合がいい。


「あーもう、台風の奴、どうしてまだ居座ってんのよー」


俺とは対照的に、床に座り込んだ姉貴が不機嫌な声を漏らした。
朝からもう何度目になるだろうか。
どうも大学の同級生と旅行に行く予定が、この台風でお流れになってしまったらしい。
しかし相変わらずあちこち旅行しているようだが、一体どこからその資金を調達しているのだろう。
親父に用意させているわけでもないようだし、折木家の七不思議とも言えるかもしれない。
他の六不思議は思いつかないが。


「日頃の行いが悪いんだろう」


小説の文字から視線を逸らさずに呟いてみる。
姉貴には生意気に聞こえたかもしれないが、残念ながら台風に関して俺にできそうなことはなにもない。
そもそも俺になんとかできることなら、姉貴が先になんとかしているだろう。


「随分な口を利くじゃない」


姉貴の低い声が俺の部屋に響く。
機嫌を損ねたかと思って視線を向けてみたが、意外に姉貴は口の端に微笑みを浮かべていた。
どうやら語調だけで怒りを演じていたらしい。
むしろ俺の生意気な発言を喜んでいるようにも見える。
俺の反応がいちいち嬉しいらしい。
とどのつまり暇なのだ、姉貴は。
そうでなければわざわざ朝っぱらから俺の部屋に入り浸ったりはしないだろう。
読書の邪魔なので出て行ってほしいのだが、それを口にしたが最後、嬉々として滞在し続けるに違いない。
俺の姉貴はそういう姉貴だった。


「そういえば奉太郎」


髪を掻き上げてから姉貴が唐突に話を変える。
いや、話を変えたというより、最初から俺と雑談を始めようと思っていたのだろう。
それでわざとらしく台風に対する愚痴を呟いたに違いない。
俺が姉貴に軽口を叩くことを計算済みで。
姉貴の計算通りに動いてしまったことは口惜しいが、まあ、構わないか。
俺としても姉貴と話したいことがなかったわけじゃない。
俺は小説を机の上に置いて、本格的に姉貴に視線を向けた。


「なんだよ」


「あんた、最近元気にしてるみたいじゃない」


「元気にしてると言われてもな」


「ほら、古典部の子たちと旅行にも行ってたじゃないの」


青山荘でのことを言っているらしい。
正確には旅行ではなく合宿なのだが、姉貴にとって大きな違いはあるまい。
確かに強化合宿の様なことは特にしていないのだが。



「旅行に行けば元気なのか?」


「そりゃそうでしょ、元気もなく旅行なんて行けないじゃない」


旅行に行くことと元気が同義か。
あちこち回っている姉貴を見ると、あながち間違っていない気もするな。
姉貴の場合は元気が余り過ぎてる感もあるが。


「まあ、生活に支障があるほど疲れてるわけじゃない。
そういう意味では元気と言えるのかもな」


「それだけじゃないわ。
あんた、千反田さんと荒楠神社に入り浸っているらしいじゃない。
よく通えるわね、あんな長い階段がある神社に」


「……ちょっと待て」


「なに?」


「どうして俺が神社に通っていることを知っているんだ」


俺は古典部の部員と入須以外、荒楠神社に通っていることを話していない。
相変わらずのことだが、姉貴は一体どこからそんな情報を仕入れてくるんだ。
もちろん神社に通う日は帰宅が遅くなることだけは伝えてはいるが。


「蛇の道は蛇よ」


姉貴が実に悪い笑顔を見せる。
全く説明になっていないが、姉貴がそう言うのならばそうなのだろう。
きっと俺などでは想像もできない情報網を持っているに違いない。


「それより奉太郎、あんた荒楠神社でなにをしてるのよ?」


悪い笑顔のままで姉貴が続ける。
なにもかも分かっていて俺に訊いているんじゃないか?
そんな気までしてくるが、俺は無表情に首を振ることで応じてやった。


「特になにも」


嘘は言っていない。
田井中と荒楠神社を訪れて以来、部活のない日にたまに通っているだけだ。
千反田を心配する十文字は頻りに田井中と会いたがっていたし、
俺としても十文字のオカルト系の知識を教えてもらえるのはありがたかったのだ。
古典部の連中と話していて千反田と田井中に起こっている現象について分かったこと。
それは結局、俺たちの知識だけではどうしようもないということ。
眉唾であろうと、オカルトの知識にまで手を伸ばしてみるしかないということだけだった。
そして俺たちの知る限り、最もオカルトに詳しいのが十文字だった。

だが当然と言えるかもしれないが、十文字の知識が加わったところでどうなったわけでもない。
俺と田井中がそれなりにオカルトに詳しくなれたが、それだけのことだった。
既に今となっては形骸的に通っているだけになってしまっている。
そういった意味でも、俺たちは荒楠神社で特になにもできていないのだ。


「ふーん……」


姉貴が意味深に頷く。
姉貴はどこまで掴んでいるのだろう。
千反田の様子が多少おかしいということくらいは知っているのだろうか。
それを確かめるために俺に鎌をかけているのだろうか。


俺は姉貴に気付かれないよう、唾を何度かに分けて飲み込んだ。
姉貴に千反田の異変を知られたところで、特に問題があるわけじゃない。
色々と非常識な姉貴ではあるが、田井中のことを知っても周囲に黙っていてくれはするはずだ。
ならば相談してみるか?
千反田の中に田井中という人格が存在していて、その正体の調査が手詰まっているということを。
解決とまでは至らないまでも、姉貴ならばその正体の片鱗にまでは辿り着けるのではないだろうか。


「姉……」


姉貴。
そう呼び掛けようとして、その言葉を押し留めた。
思い浮かべたのは田井中の表情と言葉。
『ホータローたちは本当に困った時に頼れる人だって、えるって子が考えてたんだろうな』。
随分と前の話になるが、田井中は確かにそう言っていた。
それは同時に千反田の言葉でもある。
千反田は俺のことを頼りにしていた。
田井中はその千反田の記憶を信じた。
俺は二人に頼りにされてしまっている。

姉貴に相談すれば、なんらかの答えは出せるだろう。
もしかしたら解決にまで至れるかもしれない。
だがなんとなく思うのだ。
それは田井中と千反田の望む解決ではないのではないか、と。
二人は俺にこの現象の答えを出してほしいと考えている気がするのだ。
まったく、俺らしくない自意識過剰だ。
しかしその考えは間違っていないはずだった。


「なによ、奉太郎?」


「いや、なんでもない。
神社では単に千反田の友達に勉強を教えてもらってるだけだよ」


「そう?」


姉貴が微笑んだまま首を傾げる。
だがその笑顔はさっきまでの悪い笑顔ではなく、珍しい優しい様子の笑顔だった。


「まあ、なんでもいいんだけどね」


姉貴はわざわざ立ち上がって俺に近寄ると、俺の頭の上にその手のひらを乗せた。
わざとなのだろうか。
妙に力を入れて、痛いくらい強く手を動かされた。


「元気なのはいいことよ。
やることがあるんだったら、しっかりやりなさい。
休んでられない気持ちになったんなら、元気にしっかりとね」


そうして俺は小学生の頃振りに、姉貴に頭をぐしゃぐしゃにされたのだった。




3.八月十六日


台風一過。
相次いだ台風で神山市を荒らされた夏の日の午後、
久し振りに部室に顔を出そうとした俺を、久し振りの顔が校門で待っていた。


「折木君、ちょっといいだろうか」


相変わらずの苦虫を潰したような不機嫌な表情。
女帝、入須冬実。
受験の天王山の時期だというのに、わざわざ校門で俺を待つとは余裕なものだ。
一応、昨日田井中に部室に顔を出すとは電話で伝えてはいたが。
不機嫌に見えてそうでないことが多々ある入須だ。
しかし今回ばかりは本当に不機嫌なのかもしれなかった。
入須の視線の先には、俺ではなく小さく縮こまっている田井中の姿があった。


「よっ、ホータロー……」


「よお、田井中。
……どうしたんだ、小さくなって」


「いや、それがさ……」


「田井中さん」


女帝の名に恥じぬ鋭い眼光が田井中を射竦める。
それきり田井中は黙り込んでしまった。
今日の田井中の髪型は普段の千反田と全く同じのストレート。
この夏真っ盛りの時期に田井中が髪を結ばないとは、よっぽどの事情があるのだろう。
まあ、田井中たちの反応から大体の予想はできるが。
入須になにをしたんだ、田井中。
というか、精神年齢的には入須の方がお前より年下だぞ……。


「こんなところで立ち話もなんだ。
折木君、三人で茶でも飲まないか?」


「『一二三』ですか?」


「いや、私の教室だよ。
水筒に冷たい茶を用意しているんだ」


「そうなんですか?」



意外だった。
入須が茶と言えば「一二三」だと思っていたのだが。
俺が首を傾げているのに気付いたらしい。
入須がまた不機嫌な様子で答えた。


「最近は懐が寂しくてね。
私の用意した水筒の茶では不満かな?」


「いえ、そんなことは……」


「それならよかった。
早速教室まで行こうか、色々と話しておきたいことがある」


入須にも懐が寂しいことがあったのか。
おそらくはよほどの理由があるのだろう。
小遣いに苦心しているタイプには見えないし、もしかするとそれが不機嫌な理由の一つなのかもしれない。
俺は田井中にちらとだけ視線を向けてみたが、なにも口にはしなかったし田井中も黙ったままだった。
触らぬ神に祟りなし。
ただでさえ冷徹な入須が不機嫌なのだ。
これ以上無駄口を叩く必要性などあるはずもない。
俺は口をしっかり真一文字に噤んで、背中を向けた入須の後ろを追った。




入須のクラスの誰かの席に座った田井中が頻りに汗を拭っている。
それが暑さのせいなのか、入須に射竦められての冷汗なのかは微妙なところだろう。
入須は座らずに、誰かの席で水筒に茶を用意している。
鞄が掛かっているということは、おそらくはあそこが入須自身の席なのだろうが確証はない。
俺もどこかの誰かさんの席に座って、入須が話題を切り出すのをじっと待つ。
三人分のビニールコップに茶を注いで配膳した後、入須がまずは俺に視線を向けた。
田井中に向けている視線よりは幾分かだけ柔らかい視線だった。
ほんの幾分かだけだが。


「単刀直入に言おう。
田井中さんから聞いたよ、折木君。
怪盗十文字の事件の真相をね。
まさか田名辺が怪盗十文字だったとは思わなかったよ」


俺は田井中に視線を向ける。
田井中は胸の前で両の手のひらを合わせて何度か頭を下げていた。
どういった経緯かは分からないが、どうやら入須に十文字の正体を話してしまったらしい。
別に入須に知られたところで問題はない。
それでも田名辺と取り引きしている以上、必要以上に真相を漏らすのは遠慮してほしいところではある。


「その後の顛末も聞いたよ。
田名辺に『氷菓』を引き取ってもらう取り引きをしたらしいじゃないか。
君も結構人が悪いな、折木君」


「特に違法行為はしていないはずですが」


「そうね。
いや、強いて言えば火事騒ぎがあるけれど」


「その点には特に細心の注意を払いました。
火事というほどのものでもないと思いますし、実際大きな問題にはなりませんでした。
入須先輩、今日はその糾弾のために来たんですか?」


「もちろん違う。
君たちがどんな手段で『氷菓』を売ろうと構わないわ。
それにそれくらいの仕込みであれば、大なり小なりどの部でもしているものよ」


「それなら今日の入須先輩の用件はなんなんです?」


「折木君と田井中さんの記憶の差異についてだよ」


ある程度予想できていた答えではあった。
田名辺との取り引き程度で入須が目くじらを立てるとは考えにくい。
ならば俺と田井中と十文字事件が関連していることで入須が触れることとなると、俺と田井中の記憶の差異くらいしかない。


「先日、家の都合で千反田家に寄ることがあってね」


入須が続ける。
若干だが興奮しているのだろう。
頻りに汗を拭いながら、ビニールコップの中の茶の一杯目を飲み干した。



「家の付き合いだ。
特に役目もなかった私たちは、千反田の部屋で軽い雑談をしていたよ。
それでふと部屋で件の『氷菓』を見つけたんだ。
私も『氷菓』の在庫の顛末については千反田から聞いていたから、総務委員会に買い上げられたことを知っていた。
だが軽く疑問にも思っていたんだ。
折木君と総務委員会にパイプがあるとは思えない。
それなのにどうして折木君は総務委員会に『氷菓』を引き取ってもらえたのか。
その理由について、田井中さんは口を滑らせてくれたわ」


田井中のことだ。
特に悪気も無く、軽い感じで口を滑らせてしまったんだろう。
特に田井中の記憶の中の千反田は、俺と一緒に田名辺と交渉したらしいからな。


「さっきも言ったけれど、その是非について語るつもりはないわ。
問題なのは、語りたいことは、たった一つ。
どうして折木君と田井中さんの記憶が違っているのか。
君たちの記憶は全く異なっているのよね、折木君?」


「はい」


俺は素直に頷いた。
誤魔化しても意味のないことだし、それについて入須がどう考えているのかも知っておきたい。


「田井中さん」


入須が今までよりほんの少しだけ柔らかい視線を田井中に向ける。
田井中は一口茶を飲んでから、入須と視線を交錯させた。


「なんだ、冬実?」


「田井中さんの中の千反田の記憶では、千反田は折木君と一緒に田名辺に取り引きを持ち掛けた。
それでよかっただろうか」


「ああ、そうだよ、冬実。
あの時のえるはホータローと一緒だった」


「一方、折木君は一人で田名辺に取り引きを持ち掛けた。
その記憶に間違いはない?」


「記憶力に自信があるわけではありませんが、いくらなんでもそんな重大なことを忘れたりしませんよ」


「そうね」


入須が田井中と俺を交互に見やる。
その視線から入須の考えは読み取れない。
相変わらず不機嫌そうに見えるだけだ。
だが入須の胸にはなんらかの答えが秘められているのはずだった。
そうでなければ、わざわざ俺たちを教室に連れ込んだりはしないだろう。
二杯目の茶をビニールコップに注いでから、入須が俺の予想もしなかった単語を口にした。



お久しぶりです。
今回はここまでです。
田名辺先輩は委員会の代表だから会長だよな、と安易に勘違いしてしまいました。
普通は委員長ですよね。



「私はやはりリインカーネーションではないかと思うんだ」


リインカーネーション。
女帝と呼ばれてはいるが、どちらかと言えば和風である雰囲気を有している入須に似つかわしくない横文字だった。
いや、俺が入須のなにを知っているというのだろう。
慎むべし慎むべし。


「レインカーネーション?
雨の日だけに咲くカーネーションとか?」


俺の考えをよそに、田井中が間の抜けた一言を口にする。
こいつもこいつで、俺の考えている以上にロマンティックなことを考えているようだ。
呆れた様子で田井中に視線を向けてから、入須が溜息交じりに続けた。


「レインカーネーションではなく、リインカーネーション。
簡単に言えば、私たちが今までも何度か議論したように生まれ変わりのことよ。
これまでは確証がなくて保留しておいたのだけれど、
田井中さんの中の千反田の記憶が折木君の記憶と異なっているというのなら、今こそ考慮に値すると思う」


「どういうことですか?」


「私たち……、いや、少なくとも私はずっと、
田井中さんは千反田の記憶を千反田の脳から読み取っているのだと考えていた。
いずこかから千反田の肉体に融着した田井中さんの意識が、
まるでインターネットで単語を検索してるみたいに千反田の記憶を読み取っているのだと。
事実、今までその仮定に問題点はなかった。

けれど先日、田井中さんの呟きから、
田井中さんの知る千反田の記憶と折木君の記憶が食い違っていることが明らかになったわ。
これはおかしい。
田井中さんが私たちの知る千反田の記憶を有しているのなら、記憶の食い違いなど存在するはずがない。
もちろん人間の記憶など主観の違いでいくらでも変わるものだけれど、
それにしたって折木君と田井中さんの知る千反田さんの記憶が食い違い過ぎている。
二人の間には全く別の出来事が起こったとしか考えられない。
それで私は思ったんだよ、二人は全く別の出来事を経験していたのではないかとね」


一息ついて、入須が茶で唇を濡らす。
なんとなく田井中に視線を向けてみると、田井中は首を大きく捻っていた。
どうやら入須の話を聞いているようではあるが、なにを話しているかまでは理解できていないらしい。
仕方ない。
おそらく千反田でも今の入須の話を理解できるか難しいところだろう。
田井中の助け舟を出すつもりではないが、俺自身の考えをまとめるためにも入須に訊ねてみる。



「それで生まれ変わりですか。
田井中は俺たちの知る千反田の記憶ではなく、
俺たちの知らない別の千反田の記憶を自分で思い出しているとでも?」


「話が早くて助かる。
そうだ、田井中さんと折木君の記憶が食い違っている以上、そう考えるのが一番妥当だろうね。
前に私たちも平行世界の可能性について議論しただろう?
田井中さんが有しているのは、平行世界の千反田の記憶だと考えるのはどうだろうか。
その平行世界で千反田に起こった出来事は、この世界とほとんど同じだが微妙に異なっていた。
例えばこの世界での千反田は怪盗十文字の正体を知らないが、平行世界では知っているという具合に。

しかしそれではどうして田井中さんは平行世界の千反田の記憶を持っているのか。
それこそ生まれ変わり、前世の記憶そのものだとは考えられないかしら。
前世や生まれ変わりが存在するかどうかは、今更議論に値しない。
存在するかどうかわからない以上、存在すると仮定して話を進めるしかないわ。
水素と酸素が化合すると二酸化炭素になる。
それ以上説明できないけれど、現実にそうなっている法則のようなものだと考えるしかないのよ」


入須の意見には俺も同感だった。
前例など存在しない以上、どんなに非科学的でも考慮してみるしかない。
それに非科学的という言葉は、まだ科学的に解明されていないだけ、という誰かの言葉を聞いたこともある。
とりあえず前世は存在すると仮定した方が妥当だろう。
だが。


「少し、苦しいですね」


ここまで考えてくれた入須には申し訳ない気持ちもあるが、指摘しておかねばならなかった。
入須が言っていたように、これは議論なのだから。
納得のできないことには徹底的に食い下がる方が、入須の願うことでもあるだろう。
そう俺が考えた通り、入須は若干嬉しそうに俺の言葉に応じた。


「なら君の意見を聞かせてもらえるだろうか」


「まずは訊かせてください。
入須先輩は田井中自身の最後の記憶が西暦何年か知っていますか?」


「先日、二〇一〇年だと聞いたばかりだよ」


「二〇一〇年にして一八歳である田井中が、二〇〇一年時点の千反田を前世にしているとでも?
田井中が持っているのが田井中の世界の千反田の記憶だとしても、その世界でも千反田は二〇〇一年には生きていたはずです。
計算がおかしくはないでしょうか」


「計算がおかしいことは考慮しているよ。
だが前世についてはなにも分かっていないんだ。
生まれ変わる前の誰かと同じ時代にその人の生まれ変わりがいたとしても、そういうものと受け入れるしかない。
否定できるだけの材料が揃っているとは思わない」


生まれ変わりは時を超える、と確か十文字も言っていた。
もしかしたらそういうことも起こり得るのかもしれない。
その可能性も十分にある。
だがやはり入須の仮定には筋が通っていないのだ。


「いいでしょう、入須先輩。
仮に田井中が平行世界の千反田の生まれ変わりとします。
平行世界の千反田の記憶だから、俺たちの知る千反田の記憶と食い違っていても不思議じゃない。
それでもやはり説明し切れていないんですよ。
田井中が平行世界の千反田の生まれ変わりだとして、その田井中の意識はどこからやってきたんでしょうか?
平行世界の千反田の生まれ変わりである田井中の意識が、俺たちの世界の千反田の肉体に宿った。
どうしてこの世界の千反田にそんな現象が?」


「そこが分からないのよ」



俺の反証に納得いったらしく、入須が軽く俯いた。
いや、おそらく俺に反証されたくて、持論を展開させていたように思えた。
入須も同じところで躓いていたに違いない。
もちろん俺にも分からなかった。
一つ仮定が完成したと思えば、すぐに大きな壁が立ち塞がる。
無限に堂々巡りするような気分だった。
やらなくてはいけないことにしても、この問題はどうにも骨が折れ過ぎる。

だが。
俺たちの疑問は、予想外の方向から打ち砕かれた。


「じゃあさ、えるが私の生まれ変わりだとしたらどうだ?」


言ったのは田井中だった。
千反田と同じ顔で、気楽な様子で言ってくれた。
正直な話、息を呑んだ。
田井中は自分のその言葉の重さを分かっているのだろうか。
分かっているのか、田井中?
それは自分が既に死んでいるって言っているのと同然なんだぞ?


「生まれ変わりがどう起こるのは分からないんだけどさ、
誰が誰の前世でもおかしくないってんなら、こう考えられないか?
私は前世が平行世界のえるで、この世界のえるはその私の生まれ変わりだって。
簡単に言い換えるなら、平行世界のえる→私→この世界のえるの順番で生まれ変わった。
それなら理屈が合う気がしないか?」


「一応の理屈は合うが、田井中……」


「どした、ホータロー?」


「それはお前が……」


なんとも言いにくい。
多少なりとも知った仲に死亡宣告など、滅多なことでやれることじゃない。
躊躇っている俺を見てなにを言おうとしているのか気付いたのか、田井中が笑った。
予想外にとても無邪気な笑顔だった。


「えるが私の生まれ変わりなら、私自身がもう死んでるんじゃないかってことか?
それはどうなんだろうな?
さっき冬実も言ってたじゃん?
同じ時代に同じ人間の生まれ変わりがいてもおかしくないかもって。
だったら私が早死にしてるってわけでもないんじゃないか?
そりゃいつかは死ぬんだろうけどさ、それはずっと未来のことかもしれないだろ?
だから今そんなことを考えてても意味ないって」


さいですか。
深刻に考えていた俺がなんだか馬鹿みたいだ。
だが田井中の考え方も間違ってはいないように思えた。
田井中も精一杯に考えてくれているのだ、俺たちとは方向性が違うだけで。


「そうかもしれないな」


また呆れた様子で入須が呟いた。
もう彼女はあまり不機嫌そうではなかった。


「眉唾な本にも書いてあったよ。
前世の記憶はどんな形で顕現するか分からないと。
もしかすると田井中さんは本当にえるの前世なのかもしれない。
どんな形での、どんな意味での前世なのかは分からないけれど」


田井中の方が千反田の前世かもしれない。
その可能性を考えるより、まず俺には確かめねばならないことがあった。



「入須先輩」


「なんだい?」


「読んだんですか、眉唾な本」


「読んださ、この現象を解明するためだからね」


「どこで読んだんです?」


「購入したよ。
仕方ないだろう、そんな眉唾な本なんて図書館には滅多に置いていないんだ。
おかげで懐も随分と寂しくなってしまった。
オカルト、幽霊本、多重世界説、量子力学、哲学本まで幅広く読んだよ。
せめて怪盗十文字の記憶についてもっと早く話してもらえれば、もっと対象を絞って本を購入できたんだけどね」


なるほど。
それで田井中相手に少し不機嫌だったのか。
冷徹で人心を掌握することに長けた女帝ではあるが、
幼馴染みの異変を放置できるほどには薄情でもないということだ。
俺は入須たちに気付かれないよう、軽くとだけ微笑んだ。



今回はここまでです。
そろそろ他の先輩の出番になる予定です。



「私もさ、ちょっとだけ考えてみたんだよ」


不意に田井中が妙に真剣な表情で呟いた。
髪を頻りに掻き上げているのは、自らの想像に悪い予感を感じているからなのだろうか。


「ホータローと私の中のえるの記憶が違ってる理由は分からない。
もしかしたら冬実の言う通り、パラレルワールドのえるの記憶だからかもしれない。
考えてみたらさ、まだホータローに確認してない私の中のえるの記憶もいっぱいある。
いちいち確認するほどでもないことだと思ってたから、確認しなかった。
だけど私の中のえるの記憶とホータローたちの記憶が、かなり違ってる可能性も出てきたよな?

だから変なことを訊くみたいだけど答えてくれ。
なあ、ホータロー……。
お前、えるの前で泣いたことはないか?
大泣きじゃないけどさ、それでも目蓋からこぼれるくらいの涙で」


俺が泣いた?
少なくとも俺の中に最近泣いた記憶は残ってない。
なにかの小説で涙腺が緩んだということもなかったはずだ。
増して千反田の前で涙など見せるはずもない。
俺がかぶりを振ると、田井中が首を捻りながら続けた。


「だよなー?
ホータローが涙を見せるなんて悪いけどイメージじゃないし。
でも私の中のえるの記憶に、ホータローの涙がはっきりとじゃないけど残ってるんだよ。
いつ、どうして、そんなことになったのかは分かんないんだけどさ」


田井中に分からないことが俺に分かるはずもない。
だがおそらく田井中の中の千反田には本当に起こったことなのだろう。
そうでなければ、田井中も今頃話題にする必要がない。
しかし、俺が泣いた、か。
子供の頃はよく泣いていた気もするが、中学生に上がってからはそういうこともなくなった。
そんな俺が泣いたのだと言うのだから、余程のことが起こったに違いない。
自分のことをそう推察するのも変な話だが。

この記憶をこれ以上推察することは不可能だ。
田井中もそう思ったのか、またかなり重い語調で話題を変えた。


「それともう一つ、一番大切なことが分からないんだよな」


「どれのことだ?」


「私の心がえるの身体に宿ってる理由だよ。
それも今、この時期にさ。
前世の記憶にしても、パラレルワールドから心だけ宿ったにしても、そうなった原因が全然不明なんだ。
私の正体はこの際なんだっていいとして、原因を取り除かないことにはえるも元には戻れないよな?
例え私の正体が完全に明らかになったとしても」


もっともな言葉だった。
田井中の正体がなんであれ、どうであれ、
千反田の身体に宿っている理由が分からなければ、千反田は元に戻りようがない。
やはり最終的には、俺たちは千反田を取り戻さなければならないだろう。
千反田を元に戻すことによって、田井中がどうなるのかはできる限り考えたくはないが。



「例えば……、例えばなんだけどな?
悪い意味で捉えてほしくないんだけど、実は私がえる本人だって可能性はどう思う?」


唐突にまた予想外の仮定を言ってくれる。
俺は目を剥きかけたが、田井中の続きの言葉をじっと待った。


「もちろんえるが私の、田井中律の演技をしてるって意味じゃないぞ。
ここでは冬実の前世の記憶説を採用させてもらうんだけど、それってある意味記憶喪失が回復したとも言えるよな?
元々自分の中に眠っていた記憶が甦ったわけだしさ。
それでさ、ゲームとかドラマでよくある設定があるだろ?
記憶喪失が回復した途端、その人が全く違った性格になってしまったってやつ。
私がそういうのだとしたら、お前たちはどうする?」


あまり考えたくはない仮定だった。
それだと元の千反田の人格を取り戻すのがほぼ不可能になってしまう。
千反田自身が言葉通りの意味で田井中の人格に変貌してしまったのであれば、俺たちには手の打ちようがない。


「そういえばこれも眉唾な話だが、聞いたことがあるな」


なにを考えているのか、入須が普段通りの表情で淡々と呟き始めた。


「臓器移植の話だ。
眉唾だが、臓器を移植されたレシピエントの性格が変貌してしまう事例があるらしい。
『ドナーの記憶』というらしいな。
私たちは脳で物事を考えていると思っているが、臓器にも記憶が宿っているのではないかという仮説だよ。
ドナーの臓器を移植することでドナーの記憶も移植され、
その結果レシピエントの性格がレシピエントでもドナーでもない第三の人格に変貌する。
前世の記憶が存在すると仮定して考えると、田井中さんがドナー、千反田がレシピエントになるか。
確かに理には適っている」


「『ドナーの記憶』の話なら私も知ってるぞ。
昔読んだ刑事漫画にそういう話が載ってたし」


田井中が得意気に微笑む。
どうして刑事漫画で『ドナーの記憶』の話が取り扱われてるんだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
そうだと仮定すると、やはり千反田の人格は二度と取り戻せないことになってしまう。
厄介ではあるが、俺はあの千反田の性格が嫌いではなかった。
生真面目で、好奇心の獣で、よく気が回って、いつも楽しそうにしているあいつの性格が。
可能ならば、もう一度あの頃の千反田と会話をしたい、そんな気持ちは多大にある。
もちろん今の田井中の性格が嫌いなわけでもないのだが。

どちらにしろ二者択一なのだ。
いつまでも誤魔化し続けられるものでもない。
現在の田井中の人格を全て受け容れて周囲に打ち明けるか、
あらゆる手段を講じてなんとしてでも千反田の人格を取り戻すか、
俺たちはそろそろ本気で考えなくてはならない。

不意に強い渇きを覚えて、ビニールコップに入った茶で喉を潤してみる。
やけに冷たい茶は俺の胃まで妙な存在感を放っていた。




4.八月十八日


残暑厳しい夕方、俺は徒歩で本屋に向かった。
姉貴に愛読している小説の続編が発売していたことを教えられたのだ。
元々姉貴が購読していた小説だから姉貴が貸してくれればよかったのだが、
「七巻まで読ませてあげたんだから、新刊からはあんたが買って私に貸しなさい」と言われてしまった。
筋が通っているのかいないのか分からないが、姉貴がそう言い出したが最後、その主張は絶対に崩さないだろう。
まあ、別に構わない。
俺が自腹を切るのもやぶさかではないくらいには、存外によくできた小説なのだ。
たまには自分の意思で小説を購入してみるのも悪くない。
悪くないと思っていたのだが。


「あら、折木じゃない、ちゃお!」


その甲高い楽しそうな声を聞いた瞬間、俺は今日の自分の行動を後悔した。
まさか本屋でその顔を目にすることになるとは思っていなかった。
いや、こいつも本くらい読むのだろうが、それにしたってイメージに合わな過ぎた。
少年漫画が並んでいるスペースに陣取っていたのは、ある意味イメージに合ってはいたが。


「こんばんは、沢木口先輩。
……ちゃお」


会釈だけして新刊小説のスペースに向かおうとすると、強く腕を掴まれた。
突然のことだったせいもあるが、かなり痛かった。
ひょっとして天体望遠鏡を自力で運んだりもしているのだろうか、このお団子の先輩は存外に力も強いらしい。


「まあまあ、待ちなさいよ、後輩君」


「……なんでしょうか?」


「そんな嫌そうな顔をしなさんなって。
せっかくの奇遇なんだし、か弱い先輩を家まで送ってってくんない?
暗くなってきたし、そろそろ帰ろうと思ってたところなのよねー」


俺の腕を強く掴みながら、か弱い先輩もなにもないだろう。
もちろん口には出さなかった。
この先輩にはなにを主張しようと無駄だと経験で分かっている。
やらなければいけないことなら手短に、だ。
俺は沢木口に気付かれないよう溜息をついてから、最低限の主張だけはさせてもらうことにした。


「分かりました、家までお送りします」


「いいわねー、素直な後輩は好きよ」


「ですが本を買うまでは待っていてもらえますか?
そうでないと俺が本屋に来た意味がなくなってしまいますし」


「はいはい、分かってるわよ。
心の広い先輩の私なんだから、それくらい待っててあげるに決まってるじゃない」


妙に恩を着せられてしまった。
しかしその軽い口振りのせいかどうにも憎めない。
おそらくは沢木口の取り巻きも彼女のこういうところを気に入っているのだろう。
なんともお得な性格なことだ。



「ありがとうございます」


俺は頭を軽く下げてから、新刊を持ってレジに並ぶ。
会計を終えて戻ると、沢木口は既に本屋の入口の外で待っていた。
お団子が楽しそうにふらふら上下に揺れている。
なにがそんなに楽しいのだろうか。


「それじゃ帰るからちゃんとエスコートしてよ、折木。
あ、あたしんちはこっちね」


沢木口の指し示した方向は俺の家とは全くの逆方向だった。
二度手間になるじゃないか。
まあ、徒歩で来ているわけだし、沢木口の家もそう遠くはないはずだ。
少し長い帰り道では、多少考えごとをしながら帰ることにしよう。


「最近どう?」


一分ほど肩を並べて歩いた頃、沢木口がざっくりした質問を口にした。
一分程度で気が早いが、やはり沢木口は沈黙に耐えられないタイプの人間なのだろう。
答えてやるのもやぶさかではないのだが、口を開きかけて躊躇った。
田井中が千反田の中に顕れてから多くのことがあったが、それは沢木口に話せることでもない。
他になにかないかと振り返ってみて、少し驚いてしまう。
呆れてしまうくらい、最近の俺の生活は田井中一色だ。
いつの間にかあいつは俺の日常と化してしまっていたらしい。

しかし困った。
田井中のことを深く話せないとなると、沢木口と話せる話題がほとんど存在しない。
そうして軽く唸っていると、沢木口が呆れた表情を浮かべた。


「なによー、なんにもないの?
こうして女の子をエスコートする時のために、小粋なトークくらい用意しときなさいよ。
そんなんじゃ女の子にモテないわよー?」


無茶を言わないでくれ。
仮に俺に小粋なトークがあったとして、どうして沢木口としなくてはならないんだ。
俺だって小粋なトークの相手は選びたい。
あからさまに嫌な顔をしたつもりだったが、沢木口は全く気にしていない様子で続けた。


「女の子と言えば、あいつとはどうなってんのよ?」


「どいつですか?」


「入須」


思わず足を止めた。
てっきり千反田の話題を出されると思っていたのだが、当てが外れたようだ。
いや、千反田の話題ならばよかったというわけではないのだが。


「どうして入須先輩なんですか」


「いや、最近仲がいいみたいだから。
ほら、お茶の店にも行ってたし、最近だって教室でなにか話してたみたいじゃない。
色々知ってるんだからね、あたしの情報網を甘く見ちゃ駄目よ」


「おみそれしました。
ですが入須先輩には相談に乗ってもらっていただけですよ。
医療的知識について知っておきたいことがあったんです」


嘘は言っていない。
沢木口がじっと俺の瞳を覗き込むが、嘘ではないと思ったらしく苦笑した。



「あら、それは残念ね。
入須が男子と親しくしてるのなんて今まで見たことなかったから、遂に入須にも春が来たのかと思ってたんだけど」


あれは親しくしてると言えるのだろうか?
いや、確かにあの女帝入須相手に近付ける男などそうはいまい。
それを前提として考えるのならば、俺は入須と親しい方だと言えるだろう。
あくまで比較的に、だが。


「そこで提案なんだけど、どう折木?
あんたくらい入須と親しくなった男子なんていないし、入須と付き合ってみない?」


「お断りします」


即答すると、沢木口がつまらなそうに口を尖らせた。


「なんでよー、そんなに入須が嫌なの?
あたしには及ばないけど可愛い方だと思うわよ?」


入須と沢木口。
そのどちらが可愛いのか言及するのは避けよう。
だがどちらにしろ入須が俺に興味を持つとは考えられなかった。
俺にしてもあの女帝と交際するのは精神衛生的に無理そうだ。

不意に沢木口が口元を緩めた。
口元に手を当ててニヤニヤしながら、滅多なことを言い始める。


「分かった!
あんた入須じゃなくて他に好きな子がいるんでしょ!
そうねー、例えばこの沢木口美崎ちゃんとか!」


「はっ?」


「あんたも目が高いわねー。
だけどいいわよ、そういうのもいいわよ。
あたしちょうど今フリーだし、後輩の思慕の念に応えてあげるのも悪くないと思うしね」


言葉を失う。
なんと返答すればいいのか全く思いつかない。
ただ一つ言えるのは、この沢木口と付き合ったが最後、間違いなくとんでもないことになるということだけだ。
入須と交際する想像よりも数十倍心臓に悪い。
だらだらと背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
俺だって多少なりとも健全な男子高校生だ。
できるなら女子と付き合いたいと思わないでもない。
だがこの沢木口だけは絶対に駄目だと俺の中の本能が叫んでいる。
沢木口美崎だけは、駄目だ。



今回はここまでです。
話はまだまだ続く予定です。



「あのですね……」


上手く口が回らない。
くそっ、口の中が渇き切ってる。
まさかこんなに思考まで回らなくなることがあるとは。
俺は自分自身で考えているほど落ち着いた性格ではないのかもしれない。

それから数分は硬直していただろうか。
俺の返答を待ち切れなくなったらしい沢木口が呟いた。


「んもう、突っ込みなさいよねー」


突っ込み……?
その言葉の意味するところが、すぐには分からなかった。
心底呆れた表情で沢木口が続ける。


「冗談だってば冗談。
なによ折木、あんた本気であたしと付き合いたいって思ってたの?
どうしてもって言うんなら考えてあげないでもないけど……」


「い、いいえ、結構です」


待てよ、結構には上等って意味もあったはずだ。
それで詐欺にあったという話も聞かないでもない。
動揺した心を落ち着かせるために、俺は大きく深呼吸して言い直す。


「遠慮です、遠慮します。
俺では沢木口先輩に釣り合いませんから」


「そう?」


怪訝そうに呟きながらも、その沢木口の表情は満更でもなさそうだった。
別に沢木口のことを持ち上げたわけではない。
俺と沢木口とでは間違いなく釣り合っていない。
色んな意味でだ。
性格だけでなく外見や価値観、多くの要素が俺と沢木口の差異を激しくしている。
特に高校生活の過ごし方が大きく異なっているはずだった。
灰色の青春を過ごしていると称される俺だが、
沢木口こそそれとは対照的な薔薇色の青春を謳歌している。
意識的なのか無意識的なのかは分からないが、沢木口美崎こそが俺の知る最も薔薇色の青春を体現せし人間なのだ。
もちろん薔薇色の青春に対する憧憬を失ったわけではない。
だが交際相手のそれに便乗するのだけは、してはいけないことであるような気がした。


「それにしてもあんたがそんなに入須が好きだったなんてねー」


腕を組んでうんうんと頷きながらまた滅多なことを言い始める。
俺が訂正しようとするより先に、沢木口は可愛らしく人差し指を立てた。
どことなく優しい表情を浮かべているようにも見えた。


「あんたと入須、やっぱりお似合いだと思うわよ?
あんたと同じ部活の千反田だっけ?
あんた、あの子とはよく一緒にいるみたいだけど、あたしは千反田より入須を推すわ。
これはあたしの勝手な贔屓だけどね。
クラスメイトなんだもの、贔屓しちゃうのは許してほしいところね」



沢木口が入須をここまで贔屓しているとは思わなかった。
天文部の中心人物でもあるようだし、もしかすると沢木口は身内には甘い人間なのかもしれない。
しかし入須と沢木口は普段どんな会話をしているのだろう。
完全に正反対の二人に見えるが、正反対だからこそ通じるものでもあるのだろうか。
そればかりは俺にはどうしても分からないことだった。
古典部の連中はあれでも俺と近い方の人間だと俺は考えている。
だからこそ正反対の性格の人間との付き合い方が俺にはよく分からなかった。
正反対の性格と言えば姉貴がいるが、あいつとは正反対でなくても上手く付き合える気がしないから例外だ。


「善処します」


そうとだけ言ってから、俺はようやく再び足を動かし始めた。
善処はするが、おそらく俺と入須は沢木口が期待するような仲にはならないだろう。
会えば会話はするが、進んで会おうとは思わない。
それが俺と入須の最大限に進んだ仲だろう。
しかしいつか仮に入須になにか大きな問題が起こったのなら、その一助程度にはなろうと思う。
それが俺にできる最大限の善処となるはずだ。


「あっ、そうそう。
入須といえば話は変わるんだけど」


歩き始めた俺に沢木口が駆け寄って来る。
その表情は既に普段の楽しそうな笑顔だった。


「なんですか?」


「入須って最近前世に興味があるみたいなのよね。
あんた、なにか知ってる?」


「どうしてそれを?」


「あ、やっぱりそうなのね。
そりゃ気付くわよ、入須ったら休憩時間は前世関係の本ばかり読んでるもの。
まあ、あいつらしいっちゃあいつらしいんだけどね」


入須……。
熱心なのは分かるが、沢木口にすら気付かれるとは不用心過ぎるだろう……。
いや、それより。


「入須先輩らしい、ですか?」


「そうなのよ。
女帝だとか呼ばれてるみたいだけどね、入須ってああ見えて困ったロマンチストなのよ。
江波って憶えてる?」


江波倉子。
辛うじて憶えている。
今時珍しい古風な髪型をした、腰が低く折り目正しい先輩。
本郷の脚本の続きを探る際、入須の使いで案内役をしてくれていた。
入須のクラスメイトにしては印象の薄い先輩だったが、印象が薄いからこそ逆に印象に残っていた。
俺が頷くと、沢木口は満足そうに微笑んだ。



「入須は隠してるつもりみたいだけど、その江波と一緒にいる時は特によくそういう話をしてるのよ。
星座とか神話とかぬいぐるみの話とかね。
患者と会話する時の知識として知りたかったのよ、なんて言い訳してたけどね、あいつ」


なるほど、と思った。
遠くから見ているだけでは分からないが、クラスメイトから見ると別の姿が見えてくるものらしい。
確かに冷徹で誰かを利用することに躊躇いのない入須ではある。
だが単に冷徹なだけの人間であれば、クラスメイトも映画の件で入須を頼りはしないだろう。
それなりに信用されているのだ、入須冬実という人間は。


「で、入須ってやっぱり前世に夢中なわけ?
この前は多重人格にお熱だったみたいだし、相変わらずロマンチストよねー」


「そうかもしれませんね」


「なにを言ってるの、あんたもよ、折木。
入須が前世にお熱って知ってるってことは、あんたも前世に興味があるんでしょ?
あんたこそ見かけによらずファンタジスタな人間よね」


ファンタジスタ?
まあ、ファンタジーが好きな人間という意味なのだろう、多分。
別に好きなわけではないが、今現在の俺が前世に興味があるという点は間違っていない。
俺は軽く頷いてから、沢木口に真剣な視線を向けた。


「色々と興味深いですよ、前世と生まれ変わりは。
入須先輩が熱中するのも分からないでもありません。
そこで沢木口先輩に訊いてみたいんですけど、先輩は前世についてはどう思います?
興味はありますか?」


別に明確な回答を期待して訊ねてみたわけじゃない。
沢木口が前世に興味があるとは到底思えない。
だが、前世に興味がない人間の回答も、それはそれで貴重な情報だ。
田井中の件は既に、一方向から見ているだけでは解決不可能な状態にまで陥っている。
沢木口の様なエキセントリックな発想が突破口にならないとも言い切れない。


「前世ねー……、あたしはあんまり興味ないんだけど」


「そうなんですか?」


少し意外だった。
沢木口なら前世占いなどで盛り上がっている印象が勝手にあったのだが。


「そこはほら、あたしってば天文部のエースだし!
結構科学の目で物事を考えちゃう人間なのよね、あたし」


妙に納得した。
頭蓋骨の中に脳味噌が二つ入っているのが多重人格の原因と主張するだけはある。
荒唐無稽ではあるが、視点を変えればある意味これほど分かりやすく科学的な多重人格の原因もあるまい。
「別にいいじゃない、鍵ぐらい」と前に沢木口が口にした至言を思い出す。
今考えると、あれもあれで科学的というか論理的ではあった。
彼女だって筋道立てて考えてはいるのだ、発想がエキセントリックなだけで。



「それでは沢木口先輩は前世には否定的なんですか?」


「うーん、そうねえ……。
前世とはちょっと違った話になっちゃうかもしれないけど……」


「?」


「あんたはこの地球に自分が生きてることについてどう思う?」


「質問の意図が掴めませんが」


「いいからどう思うか言ってみなさいよ」


「特に不満があるわけでもない、というくらいですか」


「それよ!」


我が意を得たりといった様相で沢木口が俺を指し示す。
俺はと言えば、沢木口がなにを話そうとしているのか見当も付かない。


「この地球はあんたやあたしたちが特に不満がないくらいにはいい環境なのよ。
他の惑星を考えてみれば分かるわよね?
地球以外で生き物が生きられるような環境の惑星は、少なくともまだ発見されていないのよ」


「それは俺も知っていますが……」


「あたしも知ってるし、ちょっと勉強した人間なら誰でも知ってること。
でもこれって凄いことよね?
宇宙はこんなに広いのに、未だに地球以外に生命がある惑星が見つかってないなんて。
言葉通り天文学的な確率でしか、こんなことは起こらないわけなのよ。
人間が生きていること自体が奇蹟だからもっと命を大切にしなきゃ、なんてキャッチフレーズを言うつもりはないわ。
こんな天文学的な確率の現象が起こるなんて不自然だって言いたいの。
それこそどこかの誰かが仕組まなきゃ、こんなこと起こるはずないと思わない?」


どうだろうか。
確かにこの宇宙が偶然生まれたとは思えない。
俺でなくとも、誰もが一度は考えたことがあるはずだ。
この世界は誰かの意思によって生み出されたものなのではないかと。
俺たちが生きていること自体が奇蹟だと言われ続ければ、そう思いたくもなるというものだ。
その意思の持ち主を神と呼ぶべきか否かは個人の見解で異なるだろうが。

例えばこの宇宙を創造したとか言われているビッグバンにしてもそうだ。
宇宙はビッグバンによって生まれ、爆発的に膨張していったと科学者は言う。
しかしこれも誰もが考えることだと思うが、本当になにも存在しない空間でビッグバンなど起こるものなのだろうか。
ビッグバンが起こるための要素があらかじめ用意されていなければ、ビッグバンどころかなにも起こるはずがない。
無から有など生まれるはずがないのだから。

俺の考えを読み取ったのか、それとも最初から話そうとしていたのか。
次に沢木口が口にした話題は、奇しくも俺が考えていたのと同じ現象についてだった。


「ビッグバンくらい折木も知ってるでしょ?
宇宙創造のきっかけになった爆発ってアレ。
あれも変な話だと思わない?
なにもないところでいきなり爆発が起こって宇宙ができあがるなんてね。
こんなのビッグバンが起こるためのなにかが元からそこにあったとしか思えないわ。
それであたしはこの前天文部の皆で会議してみたわけよ。
ビッグバンが起こる前に、なにもないはずの空間になにがあったのかってね。
意外と全会一致で一つの答えが出たわ。
ねえ、あんたはどんな答えだったと思う?」


「前の宇宙を構成していた物質でしょうか?」



俺は自然とそう口にしていた。
突飛な考えを言ってしまったとも思っていない。
少なからず宇宙のことを考えてしまった時分がある人間なら、誰でも思いを馳せたことがあるだろう。
宇宙の始まりと終わりについて。
俺の考えはやはり突飛でもなんでもなかったらしく、沢木口が満足そうに頷いた。


「やっぱり天文部じゃなくてもそう考えるわよねー。
そうなのよ、ビッグバンの前には、前の宇宙を構成していた物質が圧縮されてどこかにあったのよ。
ブラックホールってあるでしょ?
高重力でなにもかも飲み込む空間の狭間。
宇宙はそのブラックホールがなにもかも飲み込んで終わるって説を唱える学者も多いらしいのよね。
確かに宇宙の膨張する速度をブラックホールが成長する速度が追い越せばそれもありそうよね。

だったら最後には宇宙の全てがブラックホールに呑み込まれて終わり?
あたしの天文部の部員はそうは考えなかったわ。
ブラックホールだっていつまでも圧縮し続けられるはずがない。
長い長い年月が過ぎれば、いつかはきっとその圧縮していた物質を、前の宇宙を構成していた物質を解き放って膨張させるはず。
その現象がビッグバンって呼ばれてるんじゃないかって意見になったのよ」


真新しい意見ではない。
宇宙の死と新生。
ほんの少しでもSFを読んだことがある人間であれば、一度は目にしたことがあるはずだ。
だが沢木口の考えは、その意見の一歩先を進んでいるようだった。


「そういう意味でなら、前世ってあると思うのよね。
前の宇宙を構成していた物質が、長い年月を越えて新しい宇宙を構成する。
それこそ前世の宇宙の生まれ変わりじゃない。
どう?
ロマンに溢れたファンタジスタな夢物語でしょ?」


「ええ、確かに」


答えながらも、俺は思考を進めていた。
沢木口の言う通り、実にファンタジスタな夢物語だ。
だが夢物語を前提とし、遥か長いスパンで千反田に起こっている現象を捉えたのなら。
それなら一つの仮定が組み立てられる。
やはりエキセントリックな沢木口に相談して正解だった。
遠回りに見えたとしても、あらゆる視点を取り入れることこそが問題解決の糸口に繋がるのだ。

前世。
平行世界。
前の宇宙。
多重人格。
未来からの来訪者。
ドナーの記憶。
千反田と田井中。

確証があるわけでも、証明できるわけでもない。
それでも俺はようやく一つの答えをまとめることができたのだった。
お礼というわけではないが、沢木口には一本くらい缶ジュースを贈呈することにしよう。



とてもお久しぶりです。
今回はここまでです。




5.八月二十日


午前十一時過ぎ。
徹夜の疲れを感じながら遅い朝食を取りに行くと、意外な人間の姿があった。


「おいーっす」


俺を明るい声で居間で出迎えたのは田井中だった。
今日は前髪を頭の上で結び、まるでパイナップルの様な形にしている。
年頃の娘がする髪型じゃないと一瞬思ったが、思い出してみれば姉貴もよく同じ様な髪型をしていた。
女にとっては、前髪が邪魔な時に手頃な髪型なのだろう、おそらく。


「おいっす……」


今更気を遣うような間柄ではないが、一応寝癖を手櫛で治しながら挨拶してやる。
なにがおかしいのか、田井中は晴れやかな笑顔を見せた。


「予想はしてたけど起きるの遅いよな、ホータローは」


「徹夜してたんだよ」


「おっ、徹夜でゲームか?
いやいや、ホータローは古典部なんだし読書かな?」


「……読書だ」


おまえ達の事を徹夜で考えてたんだよ、とは言えなかった。
それに嘘は言っていない。
昨日沢木口と別れた後、親父の蔵書の中で参考になりそうな本を片っ端から読んだのは事実だからだ。
おかげで考えもかなりまとめられたのだが、俺にはそれより先に訊いておかなければならないことがあった。


「どうしてお前が俺の家で料理をしてるんだ」


「ホータローの姉さんに頼まれたからだよ」


「姉貴に?」


「ああ、今日十時過ぎにここに来たんだけど、その時はホータローの姉さんが出迎えてくれたんだよ。
『奉太郎、まだ寝てるけど上がっちゃって』ってな。
私もホータローの家を見ておきたかったからお言葉に甘えたんだけど、
なんかお姉さんにいきなり連絡が入って急用ができちゃったみたいでさ、
それで私がお姉さんにホータローの朝ごはんの準備を任されたってわけだ」


「お前も任されるなよ、田井中……」


「別に朝ごはんの準備くらい手間にならないって。
それにホータローはえるに手料理を振る舞われるくらいの仲なんだろ?」


「それにはかなりの語弊があるぞ」



千反田の手料理なら確かに何度か御相伴に預かったことがある。
千反田家で振る舞われたこともあるし、弁当の具を何度か頂いたことだってある。
だがそれだけだ。
自宅で手料理を振る舞われるような仲では決してない。
姉貴がそれを知っているのか否かは定かではないが、おそらくは後者で俺をからかうつもりだったのだろう。
いつものことだがろくでもない姉貴である。
今晩の夕飯では、姉貴の嫌いな物のフルコースを用意してやろう。


「いいじゃんかいいじゃんか。
ちょうどごはんもできあがったところだし、遠慮なく食べちゃってくれよ」


「俺はまだパジャマなんだが」


「朝食は大体パジャマで食べるもんだろ?
それぞれの家庭で違うかもしれないけどさ」


田井中の言う通り、俺は普段パジャマのままで朝食を食べている。
この口振りだと田井中家も朝食はパジャマで食べる文化圏の家庭なのだろう。
俺としては田井中――正確には千反田の姿をしている田井中――の前でパジャマのままでいるのは抵抗がある。
しかし田井中はと言えば、パジャマのままの俺の姿になにも感じ入るものはないらしかった。
聡という名の弟がいると言っていたし、大方俺のことなど弟程度にしか考えていないに違いない。
なんとなく悔しい。
が、俺はそれを田井中に悟られないよう、用意された朝食の前に陣取る。
テーブルにバランスよく並べられていたのは、ごはんに味噌汁、焼き魚とキャベツの千切りだった。


「田井中家は和食中心なのか?」


「日本人ですからね!」


なぜだか誇らしげに宣言されてしまった。
別に問題無い。
俺もどちらかと言えば朝食は和食が好きな方だ。


「いただきます」


「召し上がれ」


田井中の許しを得た後、俺は遅い朝食に箸を付けていった。
単純な料理だから不味く作りようがないと言うのもあるだろう。
それを前提としても、田井中の用意してくれた朝食はかなり美味かった。
徹夜で疲れていたのもあって、俺はあっと言う間にその朝食を食べ終えてしまっていた。
特に美味かったのは味噌汁だ。
俺の家にある味噌汁を使っているはずなのに、俺が作る味噌汁とは味が全く異なっていた。
調理者によってこうも変わるものかと思わされる。

そして当然ではあるが、田井中の味噌汁は千反田の調理したそれの味とも大きく異なっていた。
千反田の味噌汁は薄味で上品な風味を感じさせる。
田井中の味噌汁は大味ながら空いた腹に満足感を与える庶民派の味だった。
優劣の話ではないが、庶民である俺は田井中の味噌汁の方が好みかもしれないくらいだ。
同時に今更ながらまた実感させられた。
やはり千反田と田井中は全く違う別個の人間なのだと。


「お粗末様」


「謙遜するな、美味かったぞ」


「へへっ、そりゃどうも」


照れ笑いを浮かべる田井中を横目に、俺は食器を洗い場に運んで行く。



「私が洗うけど?」


「いくら省エネ主義でも洗い物くらい自分でやるさ。
客にもてなされたままだと逆に疲れるからな。
お前は座ってテレビでも見ててくれ」


「そっか」


田井中は素直に引き下がり、深く座って点けていたテレビに視線を向けた。
俺は蛇口から流した水でスポンジを濡らせてから、台所洗剤を含ませる。
洗い物などどうせ五分も掛からないのだが、せっかくなので田井中に他愛も無いことを問い掛けてみた。


「観たことがある番組か?」


「いや、観たことない番組だな」


「お前の世界には無かった番組なのか、それともお前が知らないだけなのか。
まあ、それを確かめる術は無いけどな」


「いや、私が知らない番組ってだけだと思うぞ?」


「どうして分かるんだ?」


「だってこれローカル番組じゃんか」


田井中に指摘された通り、俺はテレビの音に耳を傾けてみる。
確かにたまに耳にするローカル番組のナレーターの声が響いているようだ。
十一時過ぎという時間帯もあって、ちょうど合わせていたチャンネルはローカル番組を放映していたらしい。
これでは田井中が知っているはずもない。


「ローカル番組、面白いか?」


「まあまあかな。
私の知らない番組だからちょっとは新鮮味もあるし」


「そういえば普段お前は家でなにをやっているんだ?」


「別に普通だぞ?
ゲームやったり、雑誌読んだり、軽くドラムの練習したり、そんな感じだ」


「いや、これは俺の質問が悪かった。
お前は千反田家でなにをして過ごしているんだ?
こうなるまでと同じ様な生活をしているのか?」


「そういう意味か……」


田井中が深刻そうに首を捻る。
悪いことを訊いてしまっただろうか。
そう思わなくもなかったが、次の瞬間には田井中は軽く微笑んでいた。



「えるの家では音楽を聴いてるよ。
だってえるの部屋、すっげーコンポがあるんだぜ?
すっげー高いやつ。
おじさんからの貰い物みたいだけど、あの音質知っちゃったら悪い音質には戻れないな、ありゃ」


高いコンポがとんでもなく高いのは俺も知っている。
軽音部である田井中が言うのだから、余程見事な音質なのだろう。


「音楽を聴いて過ごしてるってことか?」


「まあなー。
えるのイメージを崩さないために、あんまり激しいロックを聴けないのは難点だけどさ」


「ゲームとかはしないのか?
伊原との会話を聞く限りじゃ、お前もかなりのゲーム好きらしいが」


「私もゲームは好きだよ。
でもえるはゲーム機持ってないし、摩耶花に借りるにしてもPS2じゃなあ……。
レトロゲームってのも悪くないけど、あの快適さに慣れたら戻るのはきついもんだよ。
実はさ、私の世界ではもうPS3ってのが出てるんだぜ?」


「PS3か、そりゃ凄いんだろうな」


「凄いよ、ブルーレイだって読み込めるし」


「ブルーレイ……?」


「あー、えっと……、あるんだよ、そういうディスクが。
DVDの何倍も容量がある、DVDを発展させたディスクなんだけどな」


「DVDが発展するとどうしてブルーレイって名前になるんだ?」


「私もよく知らないんだけど青い光線を使ってるらしい」


「そのまんまだな」


よくは分からないが、田井中がそう言うのならそういう技術に発展しているのだろう。
里志なら深く知りたがったかもしれないが、生憎俺は技術の発展にはそう興味が無い。
俺が知りたかったのは、俺の世界と田井中の世界がどれくらい異なっているかということだ。
俺は茶碗と皿を拭いて水切り籠に置くと、手を拭いて居間のテーブルに戻った。
田井中はローカル番組に熱心に視線を向けていた。
自分の知らないローカル番組、しかも過去の。
まあまあと言ってはいたが、その実かなり興味をそそられる内容だったらしい。
その田井中の好奇心を邪魔するのもなんとなく憚られる。

俺はもう一度立ち上がり、冷蔵庫の中からよく冷えた麦茶を取り出した。
二つのコップに注ぐと、テーブルの上に置いてまた座る。
テレビの音こそ響いているが、田井中と過ごす珍しく静かな時間。
テレビを興味深そうに見ている田井中の横顔が、時たま寂しそうに見えるのは俺の気のせいだろうか。
いや、気のせいではないだろう。
自分の知らない過去のローカル番組を観ているからというだけではない。
千反田の中に顕現して以来、田井中はずっと強い疎外感に苛まれていたに違いない。
田井中を知る者が誰一人いない過去の世界、田井中の目に見えるもの全てが異物なのだ。
楽しい大学生活を目の前にして、そんな状態に陥ってしまった田井中の心情は窺い知れない。

十一時三十分。
ローカル番組のスタッフロールが流れ終わったのを見届けてから、俺はゆっくり口を開いた。



「田井中」


「ん」


「今日はなにをしに来たんだ?」


「友達の家に遊びに来ちゃいけないのか?」


「悪くはない。
だが事前に連絡くらいできただろう」


「ホータロー、携帯持ってないだろ?
私……ってか、えるもだけどさ」


「自宅の電話という手段もあるじゃないか」


「分かってるよ、いじめんなって。
今日さ、起きてからふと思い立ったんだよ、ホータローに会いに行こうって。
思った時には自転車を飛ばしちゃってたんだよ。
あ、頭はぶつけてないから心配すんなよ」


「そこは心配していない」


「そっか」


沈黙。
一瞬後、田井中はパイナップルのようにした前髪に手を伸ばした。
なにをするのかと思えば、髪を留めていたゴムを外して前髪を下ろした。
あの髪型はやはりあくまで調理の時だけの臨時の髪型だったらしい。
それから田井中は器用に前髪と後ろ髪を纏めていった。
次の髪型はポニーテールだ。
過去に千反田もたまにしていた髪型。
小さく息を吐いてから田井中が続ける。


「なあ、ホータロー」


「どうした」


「学校、行かないか?」


「……宿題なら合宿のおかげでほとんど終わっているぞ」


「そうじゃないって。
学校でさ、ホータローとやりたいことがあるんだ。
……駄目か?」


真剣な田井中の視線。
俺に縋ってるようにも見える悲壮な表情。
なにかが近付いている。
なにかの決定的な転機が。
俺もできる限りの真剣な視線を田井中にぶつけ、強く頷いた。


「いや、いいさ。
ちょうど俺にもお前と話したいことがあったんだ」


そう口にした後、窓の外に視線を向けてみた。
見えたのは青い空と燃え盛るような太陽。
今日も暑くなりそうだった。
暑さを感じている暇があるかどうかは分からないが。



今回はここまでです。
時間が出来たので少しはペースが上げられそうです。





前にも考えた気がするが。
俺は比較的日本語が堪能な方だと考えている。
あくまで比較的に、だ。
活字離れが叫ばれて久しい近年において、俺が比較的読書をしている方だというだけだ。
しかしそれなりに堪能な方だと自負してはいる。

けれどやはり、今の自分の感情を上手く言語化することが俺にはできなかった。
良くない。
この状態を継続することだけは良くないぞ。
それだけはよく分かるのだが……。


「身体に力が入り過ぎなんだって、ホータロー」


耳元で田井中に囁かれる。
田井中がわざわざ俺の耳元に口を寄せているわけではない。
体勢的に田井中の唇が俺の耳に近いのだ。
俺はといえば田井中の言葉に何度も頷くことしかできない。


「手首だけじゃなく肩の力ももっと抜いてくれよ?」


耳元に田井中の吐息を感じながら、どうしてこうなったのか俺は十数分前に思いを馳せる。
学校に到着して、田井中に連れられたのは軽音部の部室だった。
軽音部の誰かに用事があるのかと思っていたら、田井中がスカートのポケットの中から部室の鍵を取り出した。
どうやら仲良くなった軽音部員から鍵を預かっているらしい。
部室の鍵は職員室に返却しなければいけないはずだが。
それを訊ねると、田井中は「合鍵が無いと色々不便らしいんだよ」と苦笑していた。
なるほど、古典部の様に真面目に鍵を返却している部活は逆に少数派なのかもしれない。

軽音部の部室の中には誰もいなかった。
当然だ、鍵が掛かっていたのだから。
こもった夏の熱気を逃がすために窓を開けると、田井中は荷物を置いてドラムの椅子に座った。
普段ドラムは準備室に片付けられているはずだが、今日は珍しく定位置に準備されているようだった。
夏休みだからかもしれない。
音楽室が授業で使われるわけでもないのだし、ドラム担当の部員が片付けの労力を省きたかったのだろう。
誰だってそう考えるだろうし、省エネ主義の俺はその考えに強く感情移入できた。

それにしても田井中はドラムを叩きに来たのだろうか。
他にドラムを叩ける場所もないし、たまには存分にドラムを叩きたいのかもしれない。
しかし一人で叩くのは寂しいから暇そうな俺を誘ってみた。
大方そんな事情だろうと高を括っていたら、田井中は予想外の言葉を口にしたのだった。


「じゃあホータロー、この椅子に座ってみてくれ」


どういうことだ?
俺がそう訊ねるより先に田井中は楽しそうに微笑んでいた。


「今日はホータローにドラムを教えてやろうと思ってさ」



どうやら俺より先にドラムの椅子に座ったのは、
ドラムのセッティングのチェックをしていただけだったらしい。
結構だ。
こんな夏の熱気の中、そんな疲れそうなことができるか。
頭では何度もそう思うのだが、言葉にはできなかった。
言葉にできなかった理由は自分でも分からない。
朝食を御馳走になったという借りがあったからかもしれないし、
田井中の楽しそうな微笑みの裏に、なにかそれとは異なった寂しそうな感情に気付いてしまったからかもしれない。
どちらでもよかった。
どちらにしろ、わざわざ夏休みに学校に顔を出したのだ。
こんなところでやるやらないの押し問答になっても意味が無い。
「了解」と苦笑してドラムの椅子に座ると、田井中は「ありがとな」と笑った。

俺もドラムに興味が無かったわけじゃない。
部室で田井中がドラムを叩くのを見て以来、多少なりとも興味が湧いていた。
百聞は一見に如かず。
ドラムの音自体は当然ながら聴いたことがあるのだが、
ドラマーがドラムを叩いているところを直接目にする機会は多くない。
田井中が千反田の中に顕れなければ、それこそ俺には一生そんな機会は無かったに違いない。
だから興味をそそられてはいたのだ、ドラムという楽器に。
もちろん田井中の様に叩けるとは思っていない。
ドラムを演奏する難しさ。
それを知りたかったのだと思う。

だが今の俺はその時の俺の決心を後悔し始めていた。
田井中の指導がスパルタ方式だったからではない。
普段の大雑把な振る舞いに似合わず、田井中は実に丁寧に俺にドラムを指導してくれた。
上手くできないところも親身になって熱心に。
いや、熱心過ぎたのだ。
だから俺は後悔しているのだ。


「聞いてるか、ホータロー?」


田井中の吐息が俺の耳元をまた擽る。
背中に妙な刺激が奔り、考えないようにしていた背中の感触をまた意識してしまう。
たまに部室で気にしていたいい香りも。
そう、熱心過ぎるのだ、田井中は。
十数分前、俺がドラムの椅子に座った後、田井中は予備らしい椅子を準備室から取り出した。
隣に座って近くで指導してくれるのだろうか。
そう考えた俺が甘かった。
確かに田井中は俺の近くで指導を始めてくれた。
俺の隣ではなく後ろに座って、俺の背中に身体を密着させて。
身体を密着させたのは、田井中自身が叩くのと同じ体勢になるためだろう。
田井中がやろうとしていたのは、俺の考えていた以上に実践的な指導だったということだ。
田井中が熱心になってくれるのは、俺としても悪い気分ではない。
だが、その、なんと言うか、これはちょっと……。

背中に田井中の柔らかさを感じる。
柔らかさだけでなく、多少の硬さも感じるが、これはブラジャーの硬さだろうか。
千反田自身パーソナルスペースの狭いお嬢さんだったが、田井中はそれよりもパーソナルスペースが狭かった。
弟がいるからというのもあるだろう。
おそらくは弟相手にこうしてドラムを教えたこともあったに違いない。
だがそれ以上に、田井中は自分が誰の身体の中にいるのか忘れているのではないだろうかとも思う。
失礼かもしれないが、田井中と伊原との会話が耳に入ったことがある。
二人が話していたのは、思春期の女子高生らしく体型についてだった。
小学生がそのまま大人になった様な伊原だ。
自分と近い身長だと話す田井中の体型のことが気になったのだろう。


「私も澪っていうボインな幼馴染みがいるから分かるよ、摩耶花。
実は私もそんなに胸が大きくならなくってさー……」



苦笑がちに答えていたことから、伊原への気遣いではなく事実だったのだろう。
元の世界の田井中の胸は小さ……、スレンダー体型なんだな。
その時の俺はそう思っただけだった。
まさか元の世界の田井中のスレンダー体型が、今の俺をこんなに苦しめるとは思っていなかった。

元の世界の田井中はスレンダー体型だ。
それゆえに他人に対してパーソナルスペースを狭く持てる。
グラマー体系の人間よりも他人の近くに寄れるのだ。
小さな胸の分だけ、大きな胸を持つ人間よりも他人に近付ける。
当然の話だ。

だが今の田井中はスレンダー体型の思考を有したグラマー体系なのだった。
前に田井中が樹に頭をぶつけた事からも分かる。
十八年以上慣れ親しんだ田井中自身の肉体の感覚に引っ張られて、
使い始めて数ヶ月の千反田の肉体の感覚を完全には掴んでいないのだ。
元の田井中の肉体の感覚で他人に近付いて、それよりも一回り大きな千反田の肉体を他人に触れさせてしまうのだ。
だからこそ、千反田より更にパーソナルスペースが狭いように俺に感じさせられるのだろう。


「聞いてる……。
聞いてるから、次はどうしたらいいのか教えてくれ」


どうにかそれだけ口にする。
背中の感触を可能な限り気にしないようにするには、そうするしかなかった。
しかしそれだけでは解決できない問題もあった。
田井中から漂う香りだ。
香水の香りではない。
夏休みとは言え、千反田も田井中も香水の香りを漂わせる人間ではない。
つまりシャンプーかリンスの香りだろう。
田井中が顕れるより前から鼻に覚えがある香りだということは、元から千反田が使っていたシャンプーの香りに違いない。
密着してしまっているだけに、余計に鼻孔を擽ってしょうがない。
姉貴もだが、どうして女というものはこんな濃厚な香りを漂わせているのだろう。


「うーん、やっぱ身体が固いなー」


苦笑した田井中の吐息が俺の耳をまた擽る。
固くなってしまっているのはお前にも原因がある。
とは言えなかった。
熱心に指導してくれている田井中の厚意を邪魔できるほど、流石の俺もそこまで朴念仁ではない。
高鳴る鼓動を抑えて、気分を落ち着けるために小さく口にしてみる。


「なあ、田井中」


「どうした?
疲れたんなら休憩するか?」


「いや、休憩はまだいい。
ちょっと気になったことがあるんだが、訊いていいか?」


「いいぞ?」


「どうして急に俺にドラムを教える気になったんだ?
変なドラマでも観たか?
それとも伊原から借りた漫画でも読んだか?」


「ホータローにドラムのことを知ってもらいたくなったからだ!」


「そのままだな……」


「ははっ、そうだな。
でも嘘じゃないぞ?
この世界で私に親身になってくれたホータローにドラムを……、
私の好きなドラムのことを少しでも知っておいてほしくなったんだ。
本当にそれだけなんだよ」


「そうか……」



「ああ、そうなんだ」


明るい田井中の言葉を聞いて思う。
田井中は本当に俺にドラムのことを知ってもらいたいと思っていると。
多少それ以外の理由があるとしても、その言葉に嘘は無いのだと。
それが田井中の選んだことなのだろうと。

それならば田井中の厚意に応じないのは、そう、失礼というものだ。
田井中の感触や香りが気にならないと言えば嘘になる。
しかし俺は田井中の手のひらに指導されるのままに手首を動かし、
フットペダルを使えるまでにはならなかったものの、そこそこのリズムを刻めるようには努めた。
田井中と比較すると遜色のあり過ぎるドラミング。
それでも田井中は嬉しそうに笑ってくれた。


「おおっ、やるじゃん、ホータロー。
結構筋がいいかもだぞ?」


「そうとは思えないがな」


「いやいや、初めてでこれは中々のもんだって」


「そうか?」


お世辞なのか田井中の指導スタイルなのかは分からなかったが、不思議と悪い気分ではない。
田井中は俺から身体を離すと、ドラムの正面に回り込んで俺の瞳を覗き込んだ。
流石に暑かったのか、田井中の額には幾つかの汗が浮かんでいた。


「ドラム、どうだった?」


「暑いし、疲れた」


「ホータローらしい返答をありがとさん」


「だが……」


「なんじゃらほい?」


「悪くはない気分だった。
田井中の好きなドラムのことが少しだけ分かった気はする。
田井中が夢中になって演奏するのも。
少しだけ、だけどな」


「それで十分だよ、ホータロー」


田井中が笑うと、俺も釣られて笑った。
おそらく俺が自分からドラムを叩こうと思うことは、これから先も訪れないだろう。
だがドラムの楽しさ、ドラムの魅力は少しだけ分かった。
それだけでも俺にとってはかなりの前進だと言えるかもしれない。


「じゃあ次は俺の番だな」


「ああ、次はホータローの番だ」


田井中が頷くと、俺は予備の椅子を田井中の足下に運んだ。
田井中がその椅子に腰を下ろし、俺と田井中はドラムを挟んで視線を交錯させる。
次は俺の番。
田井中とこの現象についての答えを出す番だった。



今回はここまでです。
次からちょっとした推理に入ります。



「まずは現在時点で分かっている情報からまとめよう。
なにが分かっていて、なにが分かっていないのかを把握しておくんだ。
学校のテストでも同じことだが、自分の理解がどれほどなのか分かっておくのは存外に大切だからな」


「ああ、それでいいぞ。
なにが分かってないのか知っておくのは大事だよな。
ま、私は一夜漬けするタイプだけどさ」


一夜漬けか、とは言わなかった。
俺も勉強に関しては田井中と似たり寄ったりだろう。
軽く深呼吸してから続ける。


「そこでまず田井中の世界がこの世界とどう違うのかまとめてみる。
第一に時間だ。
この世界は二〇〇一年、もっと言えば八月二十日だ。
対する田井中の記憶に残っている田井中の世界は二〇一〇年の三月中旬頃。
そこで俺も含めて誰もが考える可能性としては時間移動だろう。
未来から田井中の意識だけが時間を遡って千反田の肉体に宿った。
そう考えることはできる。

だがそうじゃないことはすぐ分かった。
桜が丘女子高等学校、田井中の母校がこの世界に存在していなかったからだ。
それ以外にもこの世界に存在していてもおかしくないものが存在していなかった。
細かいところでの差異がかなりあったんだ。
確かめようもないことだが、おそらくこの世界に田井中も田井中の同級生も存在してはいないだろう」


「だろうな、なんか残念だよ。
もし本当にここが過去の世界だったら、小さな頃の私や澪に会ってみたかったんだけどな」


「やめておけ。
現実にそうなのかは知らないが、同一人物同士の出会いは時空を歪めるらしいぞ。
なぜかSFのお約束になっているよな、誰も確かめたことがないだろうに」


「そうだよな、そういうお約束あるよな。
だけどそれ最初に言い出したのって誰なんだ?
少なくとも私は知らないけど」


そんなことは俺だって知らなかった。
どうでもいい田井中の疑問は放置して、更に情報をまとめる。



「次に時間以外の差異について考えてみる。
約十年という時間の差を念頭に置いて考えたとしても、俺と田井中の世界はそれなりに異なっている。
大まかな歴史の流れは同じ様だが、細かい点では色々違っているようだからな。
その最たるものは田井中の母校の存在の有無だが、他にも俺たちが気付いていないだけで数多くの差異がありそうだ。
そこで考えられるの可能性としてはパラレルワールドの存在だった。
田井中の世界と俺の世界は似ているが異なっている平行世界。
なんらかの理由で田井中の意識が世界を越えて千反田に宿った。
方法は全く分からないが、それならば田井中の存在をとりあえず説明できる。
かく言う俺もかなり長い間そうだろうと思っていた。
平行世界を越える方法さえ分かれば、全てが解決だと考えていた。
しかしそう簡単な話でもなかったんだよ」


「私の中のえるの記憶と、ホータローの記憶の違い……だよな?」


「ああ、そうだ。
俺の記憶と田井中の中の千反田の記憶、両者は似てはいるが異なっていた。
その代表が田名辺との密談だったわけだが、それ以外も違う点があるみたいだな。
例えば、そう、お前の中の千反田の記憶では、
千反田が入須のクラスの映画の件で俺の家に迎えに来たことがあったんだよな?」


「そうだな。
えるがホータローをどうにか映画の件に関わらせようと必死だった感情まで思い出せるよ」


「お前の中の千反田の記憶ではそうだったんだろう。
だがな、俺はその日、千反田に迎えに来られてないんだよ。
千反田が俺の家に来たのは、俺が憶えている限りでは俺が風邪で寝込んだ時だけだった。
今日、お前が急に来たのを除いてな。
そうだ、今更改めて確かめることでもないと思って、放置しておいたのが間違いだったんだ。
俺たちは確かめるべきだったんだよ、田井中の中の千反田の記憶が本当に千反田の記憶だったのかをな」


「じゃあ……」


田井中はそれ以上口にはしなかったが、なにを言おうとしているのかはよく分かった。
じゃあ、私の中のえるの記憶は結局なんなんだよ?
そう言おうとしていたのだろう。
それは俺にも長い間分からなかった。
分からなかったが、入須や田井中、沢木口との会話からその答えは掴め始めていた。
もちろんそれは俺の勝手な想像ではあるし、確かめようもないのだが。


「田井中、お前は前にこう言っていたな。
平行世界の千反田→田井中→この世界の千反田の順番で生まれ変わったんじゃないかと。
それならば確かに理屈が合っている。
お前の中の千反田の記憶が、違う世界の千反田の記憶だと考えれば、
俺とお前の中の千反田の記憶が異なっている理由について辻褄が合わないこともない。
だけどな、俺はもっと単純なことに気付いたんだよ」


「単純なこと?」


「入須が話していたな、『ドナーの記憶』の話を。
俺も少し調べてみたが、要は脳だけが記憶する器官ではないって話なんだろう?
心が人体のどこに宿っているのか。
脳なのか、心臓なのか、それとも細胞の全てがなんらかの記憶をしているのか。
細胞の全てが記憶しているのだとすれば、内臓を移植することで記憶さえも共有できるのではないか。
眉唾な話ではあるが、現実にそういう『ドナーの記憶』が存在しているとしよう。
突拍子も無いことを話しているのは俺自身も分かっている。
だけどな、それが生まれ変わりの正体だと考えることはできないか?」


「『ドナーの記憶』が生まれ変わりの正体?
話がよく分かんないんだけど……」



「『ドナーの記憶』って呼び方が悪かった。
つまり人間の記憶は脳以外にも記録されるかもしれないって話だ。
人間の内臓どころか細胞、いや、細胞どころかそれを構成している原子までなにかを記憶している。
そう仮定してみよう。

一方地球上の全ては流転している。
食物連鎖、雨と海の関係に限らず、多くのものが流転しているよな。
人間だって死ねば土に還り、その土から植物が生え、その植物を虫や動物が食す。
誰かが死んだとしても、肉体を構成していた原子は違う形で残り続けるんだ。
その原子がもし記憶を持ち続けられるとしたらどうなる?」


「ふとした拍子で、自分として生まれる前の誰かの記憶が甦るかもしれない……ってことか?
それが生まれ変わりと前世の記憶の正体だって、ホータローはそう言いたいのか?」


「そうも考えられるってだけだ。
俺は理系じゃないし、原子がなにかを記憶できるって話を聞いたこともない。
これは単なる仮定で、とんでもなく間違っている結論かもしれない。
だが俺たちは荒唐無稽な仮定でも組み立ててみるしかないんだよ。
目の前にしているのが前例の無い荒唐無稽な現象なんだからな」


「まあ、そうだな……。
荒唐無稽だけど、私もホータローの仮定は筋が通ってると思うよ。
じゃあ、なにか?
原子だけならパラレルワールドも越えられるかもしれないって話になるのか?」


「違う、そうじゃない。
結論から言おう、パラレルワールドはこの現象とはなんの関係も無いんだよ」


「パラレルワールドは関係無い……?」


怪訝そうに田井中が首を捻る。
これまで延々とパラレルワールドのことばかり考えていたのだ。
今更なんの関係も無いと言われてしまえば、そう反応してしまいたくもなるだろう。


「厳密に言えばパラレルワールドかもしれないが、その話は後に回そう。
さっき原子と俺は言ったが、別に原子でなくても構わない。
よくは知らないが原子より小さな素粒子って物質もあるらしいからな。
とにかく情報を記憶できる物質が存在していると仮定する。
話は飛ぶが田井中はビッグバンを知っているか?」


「ビッグなものがバーンとする感じの……」


「俺は突っ込まないぞ」


「分かってるよ、言ってみただけだって。
ビッグバン、宇宙の始まりになった大爆発だろ?」


「知ってるんなら最初からそう言ってくれ。
詳しい説明は省くが、ビッグバンが起こる前には、
この宇宙を構成する物質が一塊になってなんらかの形で存在していたそうだ。
当然だな、爆発から宇宙が始まるにしても、爆発するためのなにかが無ければ爆発は起こらない。
それが原子なのか素粒子なのかは知らないが、とにかく情報を記憶できる物質だとしよう。
その物質が前の宇宙の情報を記憶できるとしたら、どうなる?」


「前の宇宙ってなんだよ?
宇宙って前の宇宙や後の宇宙があるのかよ?」



「俺も詳しいことは知らないが、そういう議論は既にされているらしい。
ブラックホールならお前も知っているだろう?
光さえも吸い込む暗黒天体、ブラックホール。
対としてなんでも吐き出すホワイトホールが存在するかもと言われてはいるが、それは単純な仮定でしかないだろう。
ブラックホール自体、単なる高重力の塊に過ぎないからな。
とにかく宇宙が膨張し続けているのと同様に、ブラックホールも膨張しているらしい。
この宇宙全体を飲み込むかもしれないほど、膨張することもあるかもしれないくらいに。

膨張するブラックホールが宇宙全てを本当に飲み込むのかどうかは知らない。
もっと強大な天体が発見されることもあるかもしれない。
俺が言いたいのは宇宙は広大で、宇宙を終わらせる原因になりそうななにかが無数にあるってことだ。
いつかは宇宙も終わるんだよ、動物や人間や地球がいつかは死ぬのと同じ様に。
宇宙も、死ぬんだ」


「……そして、また始まる?」


「俺の言いたいことが分かり始めたみたいだな、田井中。
ああ、そうだ。
原子や素粒子が流転する様に、宇宙全体も流転する……と思う、俺は。
ビッグバンで始まった宇宙はいつか死に、長い時間を経てまたビッグバンで膨張するんだ。
宇宙全体も死んでは生まれ変わることを繰り返しているんだろう。
繰り返して言うがこれは俺の勝手な仮定だ、証明のしようも無い。
あくまで一つの俺の考えだと思って聞いてくれ」


「私はお前の考えが当たってると信じてるよ、ホータロー」


軽く微笑んだ田井中が俺の肩を強く叩く。
ドラムで鍛えているだけあって、その勢いは相当なものだった。
痛い。
が、不思議と嫌な気分にはならなかった。
俺の肩を何度か叩いた田井中が、また不意に真剣な表情になった。


「と、いうことは、だ」


「ああ、何十、何百、いや、何億か何兆か何亥か……。
とにかく途方も無い回数繰り返して来た宇宙の中には、
田井中が生きた地球や、その前の千反田の生きた地球があったんだろう。

運命論というものがあるよな。
人間の運命は生まれた時から全て定められている、という理論が。
運命というものが存在するかどうかは知らないが、
そうなりやすい因子というものは存在しているんじゃないかとは俺も思う。
例えば人類がこの宇宙に生まれる理由は途方も無く低いらしい。
偶然たまたまそうなったとはとても思えないと。
人類が発展した事自体、奇蹟の様なものだ、なんて言葉もよく聞くな。

これも仮定だが、情報を記憶できる物質が存在するとしたら、
その物質が前の宇宙と同じ様な状態を再構成しようとしても不思議じゃないんじゃないだろうか。
もちろんそれに失敗してしまった宇宙も何兆回かはあったはずだ。
しかし、それと同じくらい人類を再構成できた宇宙も何京回かあっただろう。
その人類が似た様な歴史を辿って来たとしても不思議じゃない、細かい差異はもちろんあるにしても」


「分かったぞ、そういう意味でのパラレルワールドなんだな」


「そういうことだ。
俺の世界、いや、宇宙と田井中の宇宙は正確にはパラレルワールドじゃない。
俺の宇宙は田井中の宇宙のずっと未来に生まれた宇宙なんだ。
そういう意味で俺たちの宇宙は平行ではなく、直線状に繋がっていた宇宙だったんだ。
よく似通っているという意味ではパラレルワールドではあるが」



全く荒唐無稽だった。
荒唐無稽で無茶苦茶にも程がある。
里志なら嬉々として話を膨らませそうなくらいの。
田井中と出会う前の俺なら一笑してしまっていただろう。
しかし今の俺は田井中と出会ってしまっているし、これ以上の答えは出せそうになかった。


「生まれ変わりは時間を超える……か」


苦笑しながら田井中が呟く。
十文字の言葉だった。
確かに時間は遥かに超えている。
過去へではなく、未来に、だが。
田井中は未来の二〇一〇年から過去の二〇〇一年にタイムスリップしたわけではない。
遥か何兆巡か未来の二〇〇一年に辿り着いていたのだ。



今回はここまでです。
まだ続きます。



「一、十、百、千、万、億、京、垓……」


節を付けて歌うように田井中が呟き始める。


「次はなんだっけ?」


「どうだったかな、最後の方はなんとなく覚えているんだが」


「ちなみに聞くけど最後の方は?」


「恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数だな」


「懐かしいな、無量大数。
無量大数なんて単位、逆に小学生の時にしか使わないよな」


確かに、と俺は頷く。
小学生の頃、無量大数という単位を覚えた同級生が、
意味もなく無量大数無量大数と口にしていた記憶が俺にもある。
小学生というものは無駄に規模の大きい話が好きなのだ。
かく言う俺も無量大数という単位を知った時は胸が高鳴ったものだ。
そんなにも大きな単位の世界があるなんて、と世界の大きさに胸を躍らせた。

しかし成長するにつれて、無量多数なんて単位を使う機会など滅多に無いことを知る。
数学の問題ですら使用した記憶が無い。
当たり前の話ではあるが、膨大過ぎて日常生活どころか人生そのものにも関係無いのだ、無量大数なんて単位は。
記憶の片隅にはあるが、進んで思い出そうとも思わない単位。
まさか現実に思いを馳せることになるとは、思ってもみなかった。
しかも現実に自分自身と関係のある単位として。


「宇宙ってどれくらい生きるんだろうな」


「さあな」


遠い目で呟く田井中に、俺はそう返すことしかできない。
それ以外にどう返せと言うんだ?
俺の適当な返答に苦笑して、それでも田井中は続けた。


「死んで、生まれ変わって、また死んで、また生まれ変わって……。
それこそ一無量大数年じゃ済まないくらい時間が流れてるのかもな。
それだけ長い時間が経ってるんだ。
えるの中で私の記憶がなぜか甦ることくらいあるよな」


「そうかもしれない。
そうかもしれないが……」


「なんだよ?」


「単にそれで終わらせていいものなのか?
なあ田井中、お前も分かっているんだろう?
宇宙は繰り返しているのかもしれない。
俺たちを構成する物質の一つ一つが過去を記憶しているのかもしれない。
眉唾だが前世の記憶が甦ったという人間の話を聞かないわけじゃない。
果てしなく長い宇宙の歴史の中では、前世の記憶を有した人間など珍しくないのかもしれない。

だがな、俺は思うんだよ。
なぜこの宇宙での千反田の肉体に、お前の記憶と人格が甦ったのだろうかと。
それにはなんらかの意味があるような気がするんだ。
俺は運命論者じゃないし、全ての事象に意味があると考えてるわけでもない。
それでも、俺にはお前たちの中で起こっている現象には、意味があるはずだと思えるんだ」


「かもなー……」



「こればかりは俺にはどう推論しても辿り着けない結論だ。
だから訊かせてくれ、田井中。
お前にはなにか心当たりがないか?
この宇宙、この時代、この時間に、田井中律の人格が千反田の中に蘇らなければならなかった理由に」


田井中は押し黙る。
俺も口を閉じる。
俺の推論は終わった。
なんの根拠も無ければ、途方も無く荒唐無稽な話だが、俺に出せる最善の答えだった。
後はこの現象の中心である田井中に訊ねてみるしかない。

どれくらい経っただろう。
不意に穏やかな笑みを浮かべた田井中が俺を顎でしゃくった。
場所を換わってくれということなのだろう。
俺は素直に立ち上がって、ドラムの椅子を田井中に譲った。
サンキュ、と呟くと、田井中は軽くドラムを叩き始める。
田井中らしくなく実に静かなドラミングだった。


「私はさ、悔しかったんだと思うよ」


「悔しかった?」


「いつの私なのかどれくらい前の私なのか分かんないけどさ、私は多分悔しかったんだ。
それと同じくらいえるも悔しかったんだと思う。
どうにもならないことがあって悔しくて、それをどうにかしたくて、私たちは頑張ったんだ。
ずっとずっと頑張ってたんだよ。
何度も何度も失敗して挫けそうになったけど、諦めたくなかったんだ。
今の私とえるに起こってるこれは、ずっと前の私たちが諦めなかった結果なんじゃないかな……」


「なにが悔しかったって言うんだ?」


田井中はそれには答えなかった。
代わりに悪戯っぽい微笑みを浮かべて軽くシンバルを叩いた。


「まあ、悔しかったってだけじゃないんだけどな。
ちょっとだけ不純な動機もあったんだよ。
悔しさと不純な動機があって、私とえるはずっと頑張って来た気がする。
いや、えると私と、それ以外の私たちだった皆も。
もちろん気がするだけだからそれ以上訊かれても困るんだけどな」


「そうか……」


俺にはそれ以上なにも訊ねられなかった。
田井中の口からそれ以上の言葉が聞けない以上、俺には沈黙することしかできない。
それでも思う。
田井中の語る悔しさの正体を。
誰だって悔しさくらい感じたことはあるだろう。
俺だってそれなりに感じるし、負けず嫌いな田井中なら余計にそうだろう。
しかし千反田が悔しさを感じるというのは余程の事態だと思える。
千反田と田井中はなにを悔しく思っていたのだろう。
いや、心当たりが無いでもない。
田井中も千反田も、単に悔しいだけでここまでの事態は引き起こすまい。
つまりそれほどの問題と相対したがゆえに、田井中は千反田の中に顕現したのだ。
それほどの問題とはつまり……。


「なあホータロー、憶えてるか?」


不意に田井中が口元を楽しそうに歪めた。



「憶えてるか、ってなにをだ」


「明日だよ、明日。
明日は何の日か憶えてるか?」


「そう言われてもな……。
確か明日は八月二十一日だったな。
八月二十一日になにかあったか?」


「まったく……、しっかりしろよ、ホータロー。
明日は誕生日だろ?」


「誰の?」


「私のだよ、私の!
お前たちのインタビューを受けた時、ちゃんと伝えてただろー!」


ドラムを叩くのをやめた田井中が、腕を組んでわざとらしく頬を膨らませる。
いや、知らんがな。
自慢じゃないが俺は腐れ縁の伊原の誕生日も知らんぞ。
インタビューの時に聞いた記憶は微かに残ってはいるが……。
首を傾げている俺の様子が面白かったのだろう。
頬を膨らませるのをやめた田井中が嬉しそうに続けた。


「だからさ、ホータロー」


「なんだよ」


「明日誕生日プレゼントくれよ。
私の体感時間じゃ誕生日って感覚は無いけど、誕生日には違いないもんな。
私の十九歳の誕生日、祝ってくれよな」


「伊原か十文字に頼めばいいだろう。
あの二人なら頼まないでも盛大に祝ってくれるだろうよ」


「いや……」


田井中が真剣な表情を向ける。
俺はその表情に息を呑んだ。
これまでも田井中が真剣な表情を見せたことは何度かあった。
だが今の田井中の表情はそのどれとも異なっていて、鬼気迫るものまで感じさせられた。


「ホータローがいいんだよ」



見方を変えれば愛の告白の様にも思える田井中の言葉。
しかしそうでないことは分かっている。
俺と田井中はそういう関係ではない。
単なる友人関係でないことは確かだが、恋愛が絡んだ関係では断じてない。
友人以上の関係で同じ目的に向かって進む俺たち。
そう、あえて俺たちの関係に名前を付けるのならば……。


「分かったよ」


上手くできたかは分からないが、俺にできる最大の笑顔を田井中に向けてやる。
予感がある。
俺がこの笑顔を田井中に向ける時は、今後一切訪れないだろうという予感が。


「明日お前に誕生日プレゼントを贈ってやる。
ただしプレゼントの中身は俺に任せてもらうからな。
目当ての物と違ってても文句は言うなよ」


それだけ伝えてやると、「わーってるよ」と田井中が楽しそうに俺の肩を叩いた。




6.八月二十一日


田井中の誕生日プレゼントを選ぶのに時間は掛からなかった。
目当ての店に入ると簡単に見つかったし、
恥ずかしいと感じるより先に俺はそれを自然に手に取っていた。
まるでずっと前から田井中にこれをプレゼントしたいと考えていたかのように。
不可思議な既視感。
もしかすると俺も遥か何巡か前の宇宙で、似た様な経験をしていたのだろうか。
俺を構成している物質がそれを記憶しているのだろうか。
いや、違うか。
姉貴に何度も連れ込まれた店だから慣れてしまっているだけだろう。

だが既視感と宇宙の死と新生を絡めて考えてみることはできる。
俺たちを構成する物質が過去を記憶しているとすれば、
その人生で見たことがないはずの物に既視感があっても不思議ではない。
何巡か前の人生で目にしてさえいれば、全ての現象が見覚えのある物になり得る。
千反田の中の田井中ほどにないにしろ、不意に人間の中でその記憶が少しでも甦ったとしたなら。
それが既視感の正体であったとしても不思議ではない。


「まったく……」


そこまで考えてから俺は吐き捨てるように呟いた。
既視感の正体などどうでもいいだろうに俺はなにを考えてるんだ。
やらなくていいことならやらない俺のスタンスが崩れ掛けているのを感じる。
もちろんこれは田井中のせいだ。
田井中というある意味超自然的な存在が、俺の世界を無駄に広げてしまっているのだ。
俺はこれまで幽霊や宇宙、魂や前世などを自分と関係の無い物だと切り捨ててきた。
実際それで俺の日常にはなんの問題も無かったのだ。
千反田の中に顕現した田井中と出会ってしまうまでは。

田井中と出会うことで俺は今まで切り捨ててきた物と向き合わざるを得なくなった。
荒唐無稽だと思っていた現象にまで目を向けざるを得なくなった。
ありとあらゆる可能性を捨て切れなくなってしまったのだ。
そのせいで考えなくてもいいはずのことまで考えるようになってきてしまった。
これは俺の求める省エネ生活に多大な影響を与えてしまっていると考えて間違いない。
なにもかも田井中の責任だ。
俺が誕生日プレゼントを贈るのは百歩譲っていいとしても、お返しは確実に貰わねばなるまい。
例えば消費してしまったエネルギーを補給する菓子とか。


「やれやれだな」


つい菓子のことを考えてしまうのも、田井中の影響な気がする。
田井中が古典部員になって以来、今まで以上に古典部から菓子が絶えることはなくなった。
なんでも溢れるほどの頂き物の菓子が千反田家にあるんだそうだ。
「貰ってばかりじゃ悪いと思ってたんだよな」と言っていたが、
田井中が菓子を貰っていた相手は田井中の友人の琴吹であって、俺たちは関係無いと思うのだが。
まあ、菓子を貰っている身としては、特に問題があるわけでもない。

しかしとにかく想像以上に、俺は田井中に影響を受けてしまっているらしい。
千反田も強引な方ではあったが、田井中のそれは千反田とは比較にならなかった。
持ち前の前向きさ、強引さ、積極性。
田井中は千反田と違った形ではあったが俺たちを、いや、俺を引っ張った。
おかげで俺の高校生活は平穏とは呼び難い物に変貌してしまった。
省エネ生活がどこへやら、だ。

だが悪い気はない。
田井中が俺を引っ張っていたからではない。
田井中が千反田を引っ張ってくれていたからだ。
今ならなんとなくそれが分かる気がする。

夏の強い陽射しを浴び、汗を掻きながら俺は土手に視線を向けた。
土手には向日葵。
もう秋も近いと言うのに、向日葵は元気に力強く咲き誇っている。
なぜか苦笑したい気分になりながら、俺は向日葵の咲く土手を進む。
向日葵の咲く土手の先の公園。
田井中が俺に指定した待ち合わせの場所はなぜかそこだった。
なぜその公園を指定したのかは謎だったが、俺の家や千反田の家で誕生日プレゼントを渡すのはなにか違う気もする。
それじゃまるで浮かれた恋人たちみたいじゃないか。
かと言って例えば荒楠神社を指定されても困る。
この暑さの中であの階段を上るのは勘弁してほしい。
そういう意味ではあの公園での待ち合わせは十分に妥当と言えるだろう。
もうすぐ待ち合わせの時間だし、少し足早に向かってやるとしよう。
向日葵の土手を越えて、向日葵みたいな田井中の下へ。



「おーっ、ホータロー!」


公園に辿り着いた俺を出迎えた元気な声が上がる。
夏休みの公園だと言うのに、子供の姿は全く見当たらなかった。
この暑さでは子供たちも外で遊ぶ気にはなれないのだろう。
少なくとも俺は遊びたくはない。
代わりに俺を出迎えてくれたのは、俺よりも年上なくせに子供の様な田井中だった。
あまりの暑さに返事する気も起きない。
軽く手だけ上げてから田井中の座っている藤棚に向かう。
避暑地と呼べるほどではないが、藤棚の下は影ができていて妙に涼しかった。


「お疲れさん」


少し離れた石のベンチに座った俺に田井中がなにかを投げて寄越す。
慌てて受け取ってみると、自動販売機で売られている缶の炭酸飲料だった。
まだ冷たいことから考えるに、俺が来るタイミングを見計らって買いに行っておいたのだろう。
炭酸はそれほど好みではないが、この暑さの中ではありがたかった。
軽く喉を潤してから軽く一礼する。


「気が効くじゃないか」


「ま、これくらいはな」


笑顔を見せる今日の田井中の姿をなんとなく観察してみる。
今日の田井中の服装は普段とは少しだけ違った。
スカートの長さがいつもより長い。
この暑さの中で腕捲りすることもなく半袖だ。
髪型だけは前髪をオールバックにしたポニーテールではあったけれど。
今日の俺の誕生日プレゼントに備えて、服装を少し変えてきたのだろうか。
気合を入れてお洒落して来たとでも言うのだろうか。
俺の誕生日プレゼントを楽しみにして?
それとも?


「それでさ、ホータロー?」


「ん」


「誕生日プレゼント買って来てくれたか?」


「買ったぞ。
買いはしたんだが……」


「なんだよ?」


「そういうのは自分から切り出す話題でもないだろう、田井中よ」


「へへっ、そりゃそうかもな。
ま、それだけ楽しみにしてるってことだよ。
ホータローの選ぶ誕生日プレゼント……、なにを選んでくれたのか超楽しみだ」


「期待に添えればいいんだが……」


言いながらプレゼントの入った紙袋を田井中に渡そうとする。
だがその俺の動きは田井中の手に遮られた。
楽しみにしていたんじゃなかったのか?
俺がそう訊ねるより先に、田井中は口を開いていた。



「プレゼントを貰うより先に話しておきたいことがあるんだよ。
時間を取らせるが構わないか、ホータロー?」


「お前に時間を取らされるのはいつものことだ、気にするな」


「ははっ、ありがとさん。
それじゃお言葉に甘えて……。
なあ、ホータロー……、私たちって知り合ってまあまあ長いよな?」


「マラソン大会の後からだから……、二ヶ月とちょっとか。
そうだな、それなりに長い方かもしれない。
だが俺としてはちょっと意外ではある」


「なにが意外なんだ?」


「お前と知り合ってまだ二ヶ月ちょっとってことがだよ。
もっと前からの知り合いの気がする。
いや、何巡も前の宇宙からの知り合いって意味じゃない。
本当にそうなのかもしれないが、今はそれは関係無い。
そうじゃなくて密度の問題だ」


「毎日ってほどじゃないけど、私たち結構一緒にいたもんな」


「ああ、期間こそ短いが密度は濃厚だった。
下手をすると千反田と過ごした密度に匹敵するほどに。
この二ヶ月ちょっと、俺はそれくらいお前のことを考えて生活していた」


「愛の告白みたいだぞ、ホータロー?」


「そういうんじゃない」


「分かってるよ。
だけどそうだよな、ホータローは私たちのことをずっと考えてくれてたよな。
省エネ主義なのに、面倒だっただろうに、私に付き合ってくれてたよな」


田井中が空を静かに見上げる。
俺もその視線を辿る様に空を見上げた。
流れているのは雲と風、そして時間。
この二ヶ月とちょっと、ずっと俺の頭の中を占めていた田井中が隣にいる。
石のベンチの両端に座っている俺たち。
けれど心の距離は、俺たちが考えている以上にきっと近い。


「ありがとな」


空を見上げていたはずの田井中の視線はいつの間にか俺に向いていた。
視線と視線が交錯する。
頬を染めて照れ笑いする田井中のその表情は、俺の胸に深く刻まれた。


「ありがとう、ホータロー。
嬉しかったぞ、私たちのことをずっと考えててくれて。
もちろん私じゃなくて、えるのことを第一に考えてたのは知ってるけどさ。
でも、嬉しかったよ、親身になって考えてくれて」


「いや……」



それ以上言葉が出せない。
視線も離せない。
普段の俺であれば、なにか言葉を捻り出せたはずだった。
俺はそれなりに理屈立てて話を組み立てるのが得意な方なはずだった。
頭で考えるだけではなく、声に出して話すことも苦手ではないはずだった。
だのに田井中の言葉に返す適切な返答が思い付かない。

俺は千反田のことが心配だった。
唐突に田井中という謎の人格に肉体を乗っ取られた千反田を救いたかった。
あんな奴でも古典部の部長で、俺の日常に欠かせない人間になってしまっていたから。
今でももう一度千反田と会って会話したいと考えている。

けれど同じくらい田井中と離れたくもないのだ。
田井中のことは嫌いではない。
俺とは性格が全く合ってはいないが、それでも嫌いではない。
田井中と引き換えに千反田を取り戻したいと思えるほど、俺は田井中を嫌いに思えない。
俺は千反田を取り戻すためにこの二ヶ月頭を働かせた。
だが完全に千反田のためだけに、千反田のことだけを考えていたわけではないのだ。


「俺は、別に千反田のことだけ考えてたわけじゃない」


結局、視線を合わせたままの田井中に返せた言葉はそれだけだった。
それでも、田井中は嬉しそうに微笑んでいた。
やめろよ、田井中。
そんな表情で俺を見ないでくれ。
それじゃまるで……。


「ところでさ、ホータロー」


俺の考えを悟ったのだろうか。
笑顔を少しだけ悪戯っぽいものに変えて、田井中が俺の手元を指し示した。


「誕生日プレゼント、見てもいいか?」


「あ、ああ……」


田井中に言われるがまま、俺は誕生日プレゼントの入った紙袋を差し出す。
田井中と俺の指先が軽く触れ合ったと思った次の瞬間、俺は目を剥いた。
俺の手が田井中の両手に強く握られていたからだ。
時間にして約十秒。
どう反応していいか迷っている内に、田井中の両手は俺の手から離れていた。


「さてさて、ホータローのプレゼントはなんだろな……っと」


田井中が楽しそうに紙袋の中を覗き込む。
田井中が俺の手を握り締めた理由は分からない。
とにかく誕生日プレゼントを少しでも喜んでくれれば、俺としても嬉しい。



「おーっ……!」


田井中の感嘆の声。
その声を聞く限り、それなりに喜んではもらえたようだ。
とりあえず胸を撫で下ろすような気分だった。
せっかくの誕生日プレゼントなのだ。
喜んでもらえなければ俺としても居心地が悪い。
これから田井中が身に着けるとなると多少気恥ずかしくもあるが。


「……田井中?」


異変に気付いたのはその時だった。
田井中が紙袋の中身を覗き込んだまま動かなくなってしまっていたからだ。
なにか硬直してしまうような事情でもあったのだろうか?


「おい、田井中!」


もう一度呼び掛けてみる。
田井中の肩が震えたのを見ると、俺の声は聞こえているらしい。


「どうしたんだ、田井中?」


俺がその肩に手を置こうとした瞬間、田井中は顔を上げて俺に視線を向けた。
さっきまで見せていたはずの笑顔が消えていた。
これほどの熱気だと言うのに、顔色が青ざめている様にも見えた。


「な……、なんでもないよ、ホータロー……」


なんでもなくないように田井中が呟く。


「そんな顔してなんでもないわけないだろう。
大丈夫なのか、田井中?
気分でも悪くなったのか?」


「い……、う、うん……。
汗を掻き過ぎちゃったせいかもな……。
わたし、ちょっと気分が悪くなっちゃったみたいで……。
ご、ごめんな……、わたしから呼び出しておいて……」


「そんなことはいい。
気分が悪くなったんなら、家まで付き添ってやる。
どうしても帰れそうにないなら千反田の家に連絡してやる。
気分が悪いんなら無理をするな」


「ご、ごめん……」


「いいさ」


それから俺は田井中を千反田の家まで送ってやることになった。
家の人間を呼ぶほどではないと言うから、二人でゆっくりと歩いた。
田井中は顔を青くしたまま、家に着くまで「ごめん」とばかり繰り返していた。
調子が戻ったら連絡しろよ、とだけ伝えて、俺は家路に着く。
夏の熱気に当たりながら俺は考えていた。
もしかしたら……。
俺の誕生日プレゼントは無駄になってしまったもしれないと。



お久しぶりです。今回はここまでです。
もうすぐ八月二十八日になる予定です。
またよろしくお願いします。




7.八月二十七日


夏休みだというのに、俺たち古典部員は部室に集合していた。
今年度の『氷菓』の編集作業について、本格的に考慮しなければならない時期になったからだ。
田井中の件で棚上げになっていたが、俺たちは一応は古典部に所属しているのだ。
熱心に活動しているわけではないが、冊子を出さずに部室を取り上げられてしまうのは具合が悪い。


「ちーちゃんの分の原稿をどうするかが問題よね……」


伊原が首を捻りながら、机の上に広げられたノートにちーちゃん→△と書き込んだ。
ちなみにその横にはふくちゃん→△、わたし→○、折木→×と記されている。
原稿の進捗状況を記しているのだろうが、俺が×とはどういうことなんだ。
後で面倒になるのが嫌だから、今年は早めに原稿を仕上げてやっているというのに。
……その仕上がりは保証しないが。


「去年よりページ数を減らすかい?」


飄々とした様子で里志。
前に見た時よりかなり日焼けしている。
付き合っているはずの伊原があまり焼けていないのを見るに、一人でサイクリングにでも勤しんでいたのだろう。


「それは最終手段にしておきたいわね。
去年はあれでも結構売れたんだし、内容に期待している人も少しは増えたと思うもの。
あれの翌年にボリュームダウンするだなんて、ちーちゃんにも悪いわ」


予想と寸分違わない返答を伊原が里志に返す。
今更指摘するまでもないことだが真面目な奴だ。
自分にも他人にも厳しいその姿勢は年々鋭くなっているような気もする。


「じゃあどうするんだ?
ゲスト原稿でも頼んでみるか?」


「あら、折木にしてはいい着眼点じゃない。
折木にそんな発想ができるとは思ってなかったわ」


せっかくの俺の意見が伊原の舌鋒に茶化される。
俺に対する態度が年々ひどくなっている気もするが、これも今更だからあえて指摘はしない。



「ゲスト原稿も考慮に入れてるわ。
気は進まないけど、ボリュームダウンよりはずっといいものね。
幸いゲスト原稿の当てはそれなりにあることだし」


「して摩耶花、それは誰なんだい?」


「入須先輩、十文字さん、それと江波先輩よ。
受験生に迷惑を掛けたくはないんだけどね」


少し舌を巻かされた。
十文字はともかく、江波とまだ交流があったとは。
伊原の顔の広さというか、交流の深さには正直感心させられる。


「それで足りないなら、これも気が進まないんだけど羽場先輩にも頼んでみるわ。
人格面に目を瞑ればそれなりの原稿は仕上げてくれそうだしね、あの人」


羽場も考慮しているとは本当に感心させられる。
確かに羽場ならそれなりの原稿を仕上げてくれることだろう。
あれでクラス映画の真相に最も近い位置にいたのは羽場だったわけだしな。
言い方は悪いが、利用できるものはなんでも利用するつもりなのだ、伊原は。
それだけ責任感が強いとも言えるか。
なんとなく俺も伊原に体良く利用されている気もしたが、それには気付かなかったことにした。


「もちろんこれは最終手段の一歩手前の話よ。
わたしの方でもできるだけのことはやってみるわ。
ちーちゃんの分の原稿もやれるだけ担当してみる。
わたしも去年よりは手が空いてるわけだしね」


漫研のことを言っているのだろう。
漫研を退部した伊原には確かに時間の余裕ができている。
その分を里志との時間に回せばいい、と思うのは老婆心の出し過ぎか。
里志の日焼けを見る限り、交際を始めたと言っても二人は相変わらずなようだしな。
一般的な高校生カップルとは思えないが、当人同士の問題である以上、俺に言えることはなにもない。
伊原が足りない原稿を担ってくれるのなら俺としても楽だ。
もう一本くらいなら原稿を担当してやってもいい気持ちもあるが。


「えっと……さ」


珍しく遠慮がちな声が部室に響いた。
声の方向に俺たちの視線が一斉に集う。
確かめるまでもないことだが、遠慮がちに呟いたのは田井中だった。
今日の田井中の髪型は、横の髪を両側で縛ったツインテールだった。


「ごめんな、わたしのことで迷惑掛けちゃってるみたいで。
だけど安心してくれ、摩耶花。
絶対ってわけじゃないんだけどさ、原稿ならなんとかできるかもしれないんだよな」


「えっ、そうなの、たいちゃん?」


「うん、実はわたしの中にえるが書こうと思ってた原稿の記憶があるんだよ。
完全に思い出せるわけじゃないから、上手く書けるかは分かんないんだけどな。
でもどうにかえるの記憶を参考にして原稿を書き上げてみるよ。
その原稿が使えるかどうかは摩耶花が判断してくれ」


「それは助かるわ。
原稿の仕上がりについては安心して。
折木にだってできてることなんだから」



どういう意味だ。
少なくとも里志よりは上等な原稿を仕上げたつもりだぞ、俺は。
確かに専門性は里志の方が上ではあるが、逆にあいつの原稿は専門的過ぎて一般人には分からないからな。
伊原は俺のその非難の視線を無視して、田井中に微笑み掛ける。


「それじゃあたいちゃんにもお願いしちゃっていいかしら?
原稿はわたしと折木で添削するから、気楽に書いてくれて問題無いわ。
折木ったら、これで人の作品にケチ付けることだけは得意な奴だもの」


さっきから散々な言われようだな、俺……。
救いとしては伊原の表情が楽しそうだったことくらいだろうか。
嫌そうな表情を浮かべられないだけ、それなりに信頼されているという意味なのだろう、おそらく。

田井中は軽く安心した様に見える表情を浮かべたが、またすぐに視線を伏せた。
胸の前で指を絡ませて続ける。


「ごめんな、摩耶花。
それと里志、ホータローも。
わたしのせいでこんなに迷惑掛けちゃって……」


本心でそう思っているのだろう。
その表情は、辛く、悲しそうだ。
瞳を前髪で隠してしまってはいるが、その痛ましい感情だけはよく伝わってきた。


「謝らないで、たいちゃん」


このままではよくないと思ったのか、伊原が田井中の手を取って優しく握った。
目と目を合わせて、柔らかく続ける。


「たいちゃんのせいじゃないんだから、謝る必要なんてないわ。
それにたいちゃんはちーちゃんのために頑張ってるじゃない。
この二ヶ月、ずっとずっと頑張ってたじゃない。
ちーちゃんだって、たいちゃんのことは悪く思ってないはずよ。
ちーちゃんってそういう子だもの。
だからたいちゃんも顔を上げて、謝ったりしないで」


「でも……」


「そうだよ、田井中さん」


伊原の同調する様に里志が言葉を継いだ。
あくまで微笑みを崩さなかったが、それはそれで里志らしかった。


「僕は田井中さんに出会えてよかったと思ってるよ。
そう思うのは千反田さんに少しだけ悪いかもしれないんだけどね。
だけど本当に田井中さんと知り合えてよかったよ。
田井中さんのおかげで、僕は世界にはまだまだ色んな謎があるんだって分かったからね。
世界は広い、謎も多い、それだけで僕の未来はバラ色さ。

もちろん田井中さんのことも好きだよ。
田井中さんは僕の周りにはあんまりいないタイプだから新鮮だった。
ドラムの良さも改めて教えてもらえた気がするよ。
田井中さんにはそんな風に色んなことを教えてもらえたんだ。
だから、そんなに気に病む必要なんてないんだよ」


飄々とした様子だったが、その言葉に嘘は無かったはずだ。
こんな時に嘘を塗り固めるほど、里志は嘘つきな人間じゃないし、悪い人間でもない。
二人の言葉に顔を上げる田井中。
だがその表情はまだ完全には晴れない。
それを確認した里志が、わざといつもより冗談めかして続けた。


「そうそう、田井中さんは僕たちの命の恩人でもあるんだよ?」


「命の恩人……?」


呟いたのは俺だった。
突然の話題の転換に、さすがの俺も付いていけない。
里志は一瞬だけ首を捻ったが、すぐに「あ、そっか」と軽く手を叩いた。


「ホータローには伝えてなかったっけね。
実はこの古典部の部室なんだけど、夏休みに入り立ての時に工事の人が来たらしいんだよ。
部室に入った時にホータローは気付かなかったかい?
入口の横辺りの床、ちょっと新しくなってるだろう?」


里志に示された場所に視線を向けてみる。
言われてみれば、少しだけ他と色が違っているかもしれない。


「僕は手芸部にちょくちょく顔を出してたから手芸部の部員から聞けたんだけど、かなり老朽化していたらしいよ。
少し重い物が載ったら、大きな穴が空いてしまうかもしれないくらいにね。
幸いそうなる前に工事の人が直してくれたわけなんだけど、
実はその工事の人が来たのって僕たちが『青山荘』に合宿に行ってた時のことらしいんだ。
ねえ、摩耶花、これを訊ねるのはルール違反かもしれないけど……」


「なに、ふくちゃん?」


「あの合宿、摩耶花は『青山荘』の厚意だって言ってたけど、本当は違うんじゃないかい?
例えば、田井中さんの気分転換に摩耶花が計画したものだったとか」


「それは……」


沈黙する伊原。
それこそ里志の言葉が真実であることを語っていた。
伊原は田井中のためにあの合宿を計画したのだ。
不思議なことではない。
伊原は友人のためであればそれくらいする奴だ。
里志もそれを分かっているからこそ、嬉しそうな笑顔を浮かべているのだろう。


「話を戻すよ。
あの日、僕たちは『青山荘』の合宿に行った。
もし合宿に行っていなかったら、僕たちは部室に顔を出していたかもしれないよね?
そろそろ『氷菓』の話をしなければいけない時期だったわけだし。
その場合、バックナンバーとか重い物を持って部室に集まってたかもしれない。
そうなったらあの老朽化した場所に穴が空いて怪我をしていた可能性は大いにあるよ。
そういう意味で田井中さんは僕たちの命の恩人なんだ」


ちょっと大袈裟じゃない?
伊原がそう指摘するかと一瞬思ったが、現実にはそうはしなかった。
伊原もここで里志の話を台無しにするほど突っ込み体質なわけじゃない。
大袈裟な言い方ではあるが、里志の言葉はあながち間違ってもいない。
床の老朽化のことはともかくとしても、田井中が顕現したことで起こらないはずのことが起こっている。
人格が千反田のままであれば起こっていたはずのことが起こっていないのだ。
人間の人格が変わるということは、そういうことでもあるのだ。


「ありがとう、里志、摩耶花……」


ツインテールを震えさせて、田井中が静かに頭を下げる。
その前髪で隠れた瞳の端では、涙が輝いているかもしれなかった。
誰にも気付かれないよう、俺は小さく溜息をこぼした。
どうやら嫌な役を請け負わなければいけなくなりそうだったからだ。
嫌な役ではあるが、それが俺のやらなければならないことになるだろう。
……手短に終われそうにはないが。



今回はここまでです。
次回から八月二十八日になります。




8.八月二十八日


夏休みも終わろうとしている。
若干覚悟していたことだったが、今年も去年と同じくらい忙しない夏休みになるとはな。
原因はもちろん田井中だが、その肉体は千反田のものなのだから、
結局は今年も去年と同じように千反田に振り回されたってことになるのだろうか。
少なくとも高校を卒業するまで、俺は千反田に振り回され続けるのだろう。
夕焼けに照らされる田井中の姿を見ながら、なんとなく俺は思う。

夏の夕焼けの下校途中、いかにもなにかが起こりそうな意味深な空気が漂っている。
実際にはなにかが起こりそうなのではなく、これから俺が起こすのだが。
ついさっきまで部室で一緒に会議をしていた里志と伊原は、用事があるとかで連れ立って帰宅してしまった。
交際しているようには思えない里志たちだが、あれでも高校生の恋人たちということなのだろう。
それはそれで俺にとって好都合でもある。
あいつらを交えてこれから行動を起こせるほど、俺は図太くない。


「すっかり遅くなっちゃったなー」


俺の数メートル前方にいた田井中が夕焼けに背を向けて俺の方に振り向く。
それと同時に、今日は長い三つ編みにした田井中の長髪が夏の生温い風に吹かれた。
目に掛かりそうなその前髪が瞳を擽ったのだろう。
人差し指で目元を拭いながら田井中は軽し微笑んだ。


「まさかホータローが二日連続で会議に出てくれるとは思わなかったよ」


皮肉なのか称賛なのか、俺は田井中のその言葉には苦笑することで応じた。
『氷菓』の原稿についての部活会議。
千反田の分の原稿が間に合わないかもしれないという問題はあったものの、そこまで差し迫っているわけでもない。
伊原には悪い気もするが、間に合わないのであれば別に冊子を薄くしてしまっても構わないと俺は考えている。
言ってみれば、『氷菓』は部活の活動記録のようなものなのだ。
手を抜きたいと考えているわけではないが、無理をして仕上げるほどのものでもないだろう。
安い言い方になってしまうが、等身大の俺たちに仕上げられる冊子で構わないと思っている。
この貴重な夏休みに二日連続で会議を行うほどのことでもないのだ。

それでも俺が二日連続で会議に参加したのは、確かめたいことがあったからだ。
薄々そうではないかと思ってはいたことに、最後の確信を得るために参加したのだ。
そして確信は得られた。
俺の出した答えは恐らく間違ってはいない。
俺にとってその答えが正解であってほしかったのか、間違いであった方がよかったのか。
その答えはこれからも出せそうもないが。


「お前こそ積極的じゃないか、田井中。
学園祭の冊子の編集作業に興味があるタイプには見えなかったが」


「失礼なホータローだな。
わたしは毎年ちゃんと学祭ライブをやってたし、
三年のクラスの出し物では劇の主役までやったんだからな。
面倒臭いことは嫌いだけど、お祭り騒ぎに乗じないほど省エネ主義でもないんだぞ?」


さいですか。
だが確かにそうかもしれない。
俺が知っている田井中律とはそういう女だった。
大雑把で適当に見えて視野が広く、それなりに思いやりも持っている。
少なくとも会話したこともない千反田の身を案じるくらいには、優しい奴なのだ。
風に前髪を靡かせながら田井中が続ける。


「それにわたしのせいで今年の『氷菓』が完成しなかったりしたら悪いじゃん?
えるが一身上の都合から古典部に入部したのは知ってるけど、
それでもえるが古典部に愛着を持ってるってことは、わたしにだって分かるよ。
えるは古典部が好きなんだ。
身体を借りちゃってる身としては、その手助けくらいはしてやりたいだろ?
そりゃちゃんとした原稿が仕上げられるかって訊かれたら自信はないけどさ」


「俺は別に原稿については心配していない。
お前なら俺以上の原稿を仕上げられるだろう。
仮定を飛ばして結論から語る癖さえ自覚してくれればな」



俺の言葉に田井中の表情が静かに変わった。
様な気がした。
夕焼けを背にした逆光のせいで、田井中の顔色は掴み切れない。
その代わり田井中の肩が震えていることには気付けた。
田井中は全身を震わせているのだ、夕方とは言え熱気の残ったこの温度の中で。


「どういう意味だよ、ホータロー……」


「言葉通りの意味だ。
去年の店番中に暇でお前の原稿を読み返したが、その悪癖が見て取れた。
かなりできのいい文章ではあったのに、いくつか要点を飛ばして語っている箇所もあったよ。
だがそれも個性だからな。
自覚さえできれば、もっといい原稿を仕上げられるだろう」


「分かったよ、ホータロー、気を付ける。
でもそれはわたしじゃなくてえるが書いた原稿……」


「お前の原稿だろう、なあ、千反田」


田井中は押し黙っている。
それだけで俺の言葉が正しかったことを示しているようなものだが、俺はそれを指摘しなかった。
彼女がそうするのなら、俺もそれに倣うことにしよう。
これからもう少しだけ、千反田ではなく田井中に向けて語るように話してやる。
それこそ俺から田井中へ贈る別れの言葉となるだろう。


「もちろん千反田がずっと田井中の演技をしていたと言いたいわけじゃない。
どんな原因なのか、どんな理屈なのか完全には分かっていないが、田井中は確かに存在していた。
あいつは決して千反田の別人格でも演技でもない。
それだけは確かだと言える。

だがいつの間にか田井中は去っていたんだ、俺たちの前から。
いや、いつの間にか、じゃないな。
八月二十一日、正確には俺が誕生日プレゼントを渡した直後にあいつは去ったんだろう。
すぐに気付けたわけじゃない。
あの時は単なる疑惑に過ぎなかった。
田井中が去ったことに確信を持てたのは昨日の会議でだ。
とりあえずこう呼ばせてもらうが千反田、お前は昨日、田井中ならば決してしないことをしてしまっていたんだ」


田井中は応じない。
顔を伏せて、前髪で目元を隠すようにしていた。
それこそ田井中律が取るはずのない行動だと気付きもしていないのだろう。
軽く溜息。
俺は制服のズボンのポケットの中で折り畳まれていた紙を二枚取り出した。
田井中の前で二枚とも広げてみせる。


「わたしの……、自画像?」


「そう、一枚目は田井中がデフォルメして描いた自画像だ。
二枚目は伊原がそれを見て写実的に書き直した田井中の、本来の田井中律自身の絵だよ」


特徴的な外見を持った少女の絵だ。
軽く外にはねた後ろ髪、よく目立つカチューシャ、元気に出された広い額。
一度でも見たらよく記憶に残りそうだった。
俺は髪を二枚とも田井中に手渡してから、俺は田井中の長い三つ編みに触れる。
セクハラと言われるかもしれなかったが、この際そんなことには構っていられない。



「田井中の人格が顕れて以来、田井中はよく髪を結んでいたな。
本来の自分が短い髪に慣れていたこともあって、長い髪の暑苦しさには耐えられないようだった。
髪を切りたいとも言っていたくらいだ。
俺が止めたのもあって、さすがにそれは思いとどまってくれたけどな。
とにかく田井中は単なるお洒落と言うより、長髪の蒸し暑さから少しでも逃れるために髪を結んでいたんだ。
カチューシャを併用してのポニーテール、シニョン、オールバックのポニーテール……。
他にも色んな髪型をしていたが、なにかに気付かないか?」


「なにか……って?」


「全部額を出した髪型なんだよ」


今度こそ目に見えて田井中の表情が変わった。
あっ……、と小さく呻き声まで上げていた。
それを喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないまま、俺は田井中の三つ編みから手を離した。


「色んな髪型を試していたのはお洒落ではなく、どの髪型が涼しいかを試していたんだろうな。
涼しさを求めていたからこそ、どんな髪型の時でも額だけは出していた。
だが昨日と今日、お前がしている髪型はと言えば……」


「二つ結びと、三つ編み……」


「両方とも額を出すどころか前髪が目に掛かりそうな髪型だ。
頭を樹の枝にぶつけたという事故でもない限り、決して田井中がしない……な。
じゃあ田井中はどうして突然額を出さない髪型に変わったのか?
単なる心変わりか?
いや、違う、千反田えるの肉体の中にある人格が田井中ではなくなったからだ」


田井中は震えている。
その人格が田井中でないことは既に分かり切っていた。
だが俺はあくまで田井中に向けて語り掛ける。


「対して千反田の人格はなんらかの因果で自らの肉体に戻って来た。
その時の千反田がなにを考えたのかについては、今は追及しない。
とにかく自分の肉体に戻った千反田は考えたんだ、田井中である演技を続けなければならないと。
それで田井中を真似て髪を結んでみたが、田井中が髪を結んでいる肝心の動機については思い至らなかった。
だから額を出さない髪型にしてしまったんだろうな」


「どうしてそんな簡単なことに気付かなかった……のかな?」


その呟きは自分に問い掛けているようにも見えた。
俺は夕焼けに少しだけ視線を向けてから続けた。


「田井中自身も無意識にやっていたからだろうな。
田井中は額を出そうと思って髪型を決めていたわけじゃない。
額を出した千反田に似合う髪型を探していたんだ。
田井中にとって額を出すのは呼吸をするのと同じくらい自然なことで、全く意識してなかったんだ。
だから千反田も気付けなかったんだよ、田井中がなにを基準に髪型を決めているかということに。
記憶を共有できていたとしても、脊髄反射の様に行っていることの意味までは分かるはずがないからな」


「そんな……、わたし……、わたしは……」


「それもだ、田井中」


「えっ……?」


不意を衝かれて田井中が目を剥く。
その表情ももう完全に千反田えるがよく浮かべる驚きの表情だった。



「どうにか上手く演技をしたつもりだったんだろうが、お前はもう一つミスを犯している。
お前の演技は悪くはなかった。
千反田の中にも田井中の記憶が残っているんだろうな。
完璧とは言えないまでも、髪型以外はそれなりの演技だったよ。
それでもどうしても再現できていないところがあったんだ」


「どこ……ですか?」


もう観念してしまったのだろう。
彼女は完全に千反田の口調に戻っていた。
俺はなぜか胸に痛みを感じながら、それでも言葉を続けた。


「口調は悪くなったし、素振りもそれなりだった。
知らない人間が見れば、騙され続けていたかもしれない。
しかし細かいところが違ってしまっていたんだよ。
こればかりはよっぽど訓練しない限り難しいことだけどな。

千反田と田井中の細かい相違点……。
それはイントネーションだ。
育った地方が違っているから当然だが、特に違っていたのは一人称だったよ。
田井中は『私』。
千反田は『わたし』。
細かいようだが聴き比べてみると、はっきりと違いが分かる。
日常会話でよく使う言葉だからな、イントネーションの違いは完全に染み付いてしまってるものだ」


俺がそのイントネーションの違いに気付いたのは、あの八月二十一日だった。
あの『わたし』を耳にしてから、田井中は去ってしまったのではないかとずっと考えていたのだ。
あの時の『わたし』こそ、俺が長く耳にしていた千反田の『わたし』だったのだから。



今回はここまでです。
かなり終わりに近付いてきました。



「『わたし』……」


彼女の唇から千反田の言葉がまた漏れる。
なぜだろう。
俺たちはそれを望んでいたはずなのに、ひどく寂しさを感じている。
これを知れば伊原と里志も寂しがるだろう。
十文字と入須も複雑な表情を浮かべながらも寂寥を感じるに違いない。
恥ずかしながら俺も寂しかったし、千反田も寂しがっているはずだ。
おそらくは田井中本人も。
あいつはそれほどまでに俺たちの胸を侵食してしまっていたのだ。


「話を続ける」


目を伏せる彼女から視線を逸らして、俺は夕焼けに目を細める。
話を続けよう。
話を続けなければならない。
そうでなければ、なんらかの思いを吐露してしまいそうだったから。


「田井中は千反田えるの肉体から去った。
ならばどうして去ってしまったのか。
そんなことは田井中本人にしか分からないことだろうが、推測はできる。
田井中の正体と同じく推測でしかないが、とにかく俺はあいつが去ってしまった理由を考えた。

実を言うとずっとそんな気はしていたんだがな。
だって不思議に思わないか?
田井中が千反田の遥か過去の何巡も前の宇宙の前世であったとして、
なぜ田井中は今、この時、この時代に、千反田えるの肉体に宿ったのか。
前世の記憶として甦るのなら、それこそこの世に生まれた瞬間から記憶を甦らせていても不思議ではないのに。
むしろそちらの方が自然だと言うのに、なぜ田井中は高校二年生の千反田の肉体に顕れたのか。
安直かもしれないが、それにはなにか理由があるはずなんだよ」


彼女は反応しない。
時折掠れた呻き声が響いてくるだけだ。
その呻き声も俺の推測が正しいことを証明しているように思える。
千反田がそういうことに悲しめる人間だからこそ、俺はこの推測が正しいのだと確信できる。


「それで俺は田井中がこの時代に顕れた理由を考えた。
いや、ずっと考えていた。
心のどこかでそうじゃないかと思っていたんだ。
田井中の口振りからすると、千反田の肉体に宿るのは本意ではないように俺には見えた。
千反田の肉体を千反田自身に返したいと考えているように見えたよ。
巷の多重人格を扱った小説だと、肉体を乗っ取ろうとするのがお約束だって言うのにな。
田井中はそういう奴だったんだよ。
不慮の事態であったとしても、誰かの肉体を利用して好き勝手振る舞う様な人間じゃないんだ。
あんな奔放な性格に見せてるくせにな。
田井中はあれで必要最低限にしか自分の本心を見せない奴だった。

それでも田井中は千反田の中に顕れたよな。
この二ヶ月以上も。
そうだ、二ヶ月以上千反田の中に留まる必要があったんだよ」


悔しかった、と前に田井中は言った。
田井中だけでなく、いつかの宇宙の千反田も悔しさを感じていたらしい。
おそらくは今の俺じゃない、ずっと前の宇宙の俺も。
この三人が悔しがる事態なんて、滅多にあるものじゃない。
その理由はおそらく。


「この二ヶ月の間に千反田の身によくない事態が起こるはずだったんだろうな。
昨日単なる思いつきだろうが里志が言っていたな。
田井中は僕たちの命の恩人なんだと。
老朽化した部室の入口、あそこで床を踏み抜いて大怪我をするはずだったのかもしれない。
千反田の肉体の中にいるのが、本来の千反田の人格であれば。
仮定にしか過ぎないが、その可能性は十分にある。

それだけじゃない。
よく考えてみてくれ。
この二ヶ月、田井中が千反田の肉体に宿ったことで、本来千反田の身に起こらなかったはずのことが起こった。
逆を返せば起こるはずだったことが起こらなくなった。
それで千反田の身に降りかかるはずだったよくない事態も避けられたとは考えられないか?」



よくない事態と俺は言葉を濁したが、それは千反田の死だろうと俺は確信している。
まさか小さな怪我で田井中も千反田も悔しがらないだろうし、
増してや俺が悔しさの涙を流すような事態に発展するとは思えない。
もしかしたら大怪我かもしれないが、そうだとしても完治不能なレベルの重篤に違いない。
田井中だけでなく俺としてもそれは避けたい事態だった。


「世界はよくない事態に溢れている、当然のことだけどな。
例えば夏バテで立ち眩みを感じて道路に倒れ込んでしまったが最後、酷い顛末は約束されたようなものだ。
豪邸とは言え、千反田の家だってそれなりに古いからな。
天井の梁が老朽化で落下してこないとは限らない。
意味もなく人を殺したい異常者が神山市に在住していないとも限らない。
なんとなく夜の散歩に出た千反田がその異常者に遭遇しないと誰に言い切れる?
世界にはそうした不慮の事態に満ち溢れているんだよ。
この二ヶ月、おそらくは千反田にそんななんらかの不幸が訪れるはずだったんだ」


そう仮定すれば理解できる。
田井中がどうして千反田の肉体に宿ったのか。
千反田の二ヶ月を奪ってまで、この世界に留まらなければならなかったのか。
田井中自身それを完全に理解していたのかは分からないが、
少なくとも心の片隅で自分が役目を終えたら去るべきだと思っていたことは確かだ。

田井中は俺をホータローと呼び続けた。
折木とは遂に呼ばなかった。
他の連中に関しても、千反田が使う呼称は滅多に使わなかった。
里志、冬実、十文字。
伊原を除いて千反田の使う呼称を拒否し、不自然な呼称を徹底していた。
伊原のみ例外だった理由は分からないが、あいつの中でなんらかの線引きがあったのだろう。
いや、呼称については俺のこじつけかもしれない。
こじつけであっても構わない。

だがこちらは間違いなかった。
田井中が千反田の肉体に宿ってから、決して使わなかった言葉がある。
「わたし、気になります!」という千反田の代名詞だ。
幼い千反田を演じている時以外、あいつ自身の口からその言葉が出ることは遂になかった。
意図的にそうしていたとしか思えない。
あいつは自分と千反田が同一視されることを嫌がっていたのだ。
いつか全てを終えたら、この世界から自分が去ることだけはなんとなく分かっていたから。


「運命論を語っているわけじゃない」


小さく息を吐いてから、俺は続ける。
そうだ、これは運命論じゃない。
俺たちが体験しているこれは、決して運命などではない。


「この二ヶ月に千反田がそうなる運命だったって言いたいわけじゃないんだよ。
だがな、そうなる可能性は遥かに高かったんだと思う。
人生は偶然の積み重ねだ。
数々の偶然が積み重なって、今の俺たちの関係がここにある。
例えば俺の姉貴が古典部でなかった可能性は物凄く高いんだよ。
気まぐれな姉貴だからな、逆に古典部に入部したことの方が不思議なくらいだ。
そんな風に姉貴が古典部に入部していなかったとする。
そうすると俺は姉貴に言われて古典部に入部することはなく、千反田と知り合うこともなかった。
俺と千反田の人生はそれだけで大きく異なることになるし、そうだった世界も何億回もあったんだろう。
それが田井中の過ごしていた女子高が存在している世界だったりするのかもしれない。

それでも今の俺は古典部に入部しているし、千反田とも知り合っている。
俺と千反田が知り合っている世界、どんな因果関係かは知らないが、
この世界では千反田によくない事態が生じる可能性が遥かに高まるんだろうな。
バタフライ効果って知ってるよな?
ほんの小さな蝶の行動が、遠く離れたどこかの嵐になっているかもしれないって話だよ。
俺と千反田の出会いにどんな意味や因果があるのかは分からない。
だが俺たちが出会うことによって、この二ヶ月の間に千反田によくない事態が起こる可能性が遥かに高まったんだ。
数千、数万、もしかしたらそれ以上、前の宇宙の俺と千反田はその事態を繰り返していたのかもしれない。
それならば出会わない方がお互いのためだ……、とは考えなかったんだろうな、田井中は」



不意に俺は田井中の笑顔を思い出した。
全く知らない異世界に紛れ込んだにも関わらず、あいつは出会いを楽しんでいるように思えた。
こんな事態であってさえ、出会いそのものを大切にしているようだった。
だから何巡前のあいつなのかは分からないが、数億回繰り返したあいつは思ったんだろう。
俺と千反田が知り合った世界でさえ、二人が健在で古典部生活を続けられる世界があってもいいだろうと。
そのために田井中はこの二ヶ月間、千反田の肉体に宿って千反田を守っていたのだ。
もっとも、かなりの無茶をしたせいか、自分のするべきことのほとんどを忘れてしまっていたようだが。


「未来を変えてしまって……、よかったんでしょうか……。
わたしは……、生きていていいんでしょうか……?」


彼女の唇から迷いの言葉が漏れる。
彼女は気付いていないらしいが、やはり過去の記憶が多少残っているのだろう。
遥か過去、数億回も今の時期に死に続けた自分の記憶が。
それで今の自分の存在を夢の様に感じてしまっているに違いない。
俺は夕焼けから目を逸らし、再び彼女の顔に視線を向けて苦笑してみせた。
こいつが自分の生に戸惑ってしまう理由も分かる。
だからこそ苦笑してみせるのだ、なんの気負いも必要ないのだと教えてやるために。


「言っただろう、俺は運命論を語っているわけじゃないって。
そうなる可能性が遥かに高かったというだけで、そうならなくても別に問題はないんだよ。
未来を変えてしまったって話でもない。
新しい可能性が拓けたってだけのことなんだ。
それにこれはひょっとしたら珍しいことじゃないのかもしれない。
人類がここまで発展できた理由が分からないって説をよく聞くよな?
それこそ天文学的な数値でしか、この地球に人類が発生する可能性はなかったはずだと。

実際にそうなんだろう。
この地球に人類が繁栄する可能性はそれくらい低い可能性だったんだろう。
だが昔の人間、ひょっとしたら人間になる前の哺乳類、
それより前の微生物の中にも田井中みたいな奴がいたんだろうな。
どうにもならないことをどうしても諦めたくなくて、それをずっと憶えていて、憶え続けて。
何度も絶滅しながらも繁栄を夢見続け、田井中と同様に不幸な可能性を拒絶して、少しずつ前進して。
それを無量大数を超えるくらいに続けて、今の世界に辿り着いたのかもしれない。
まるで長い長いドミノを、何度も途中で崩してしまいながらも、積み続けるみたいに。
決して諦めず、積み続けるみたいに。
荒唐無稽な夢想主義と笑うか?
俺自身もかなりそう思うが、実際に起こったことを受け入れないほど愚かなつもりもない。

だから千反田……」


残暑厳しい夕陽に照らされている。
夕陽を背中に田井中が立っている。
田井中がその場所に立たせたいと思っていた千反田が立っている。


「お前がなにを気負う必要も無いんだ。
無理をして、田井中を演じる必要だって無い。
田井中を失って戸惑ってしまっている気持ちは分かる。
確かに田井中は俺たちにとって目的を一緒にした仲間だった。
俺だって戸惑っていないと言えば嘘になる。

だが今のお前の姿こそが田井中と俺たちの望んだ姿なんだよ。
自信を持って立っていてやってくれ。
田井中の積み上げた長いドミノを無駄にしないためにも」


夕焼けに照らされながら、俺はそう言った。
この時間こそ田井中が俺たちにくれた今なのだと実感しながら。



今回はここまでです。
次回から終章です。





終章 いつか、辿り着けるのだろうか?






宵の口に入った頃、俺は千反田に連れられて彼女の部屋に入り、用意された座布団の上に座っていた。
初めての千反田の部屋は想像していたよりも多少散らかっているようだった。
俺が考えていたよりも、千反田自身が部屋を整頓しない人間だったという可能性はもちろんある。
だが俺はその多少散らかった部屋が、田井中の残滓に思えてならなかった。
田井中律という人格が存在したという証。
それを消したくなくて、千反田も部屋を片付けられずにいたのかもしれない。


「折木さん、これです。
これを、聞いていただけませんか?」


そう言って千反田が指し示したのは学習机の上に置かれたラジカセだった。
見るからに年代物のラジカセだ。
なにしろCDを再生する箇所すら存在していない。
それを指摘すると、「伯父が残したものなんです」と千反田は軽く呟いた。
なるほど、千反田の伯父の物であれば年代を帯びていても不思議ではない。

電力の省エネを心掛けているのだろうか。
抜かれていたラジカセのコンセントを差し込んだ後、千反田はラジカセの再生ボタンを押した。
俺に聞かせたいというカセットテープは既にセッティングされていたらしい。


「あー、テステス、マイクテス。
本日は晴天なり、暑苦しいほど蒸し暑い晴天なり」


ラジカセのスピーカーからはすぐに聞き覚えのある声が響き始めた。
年代を帯びたラジカセのせいか若干声がひび割れている。
だがその声を聞くだけであれば、なんの問題もないひび割れだったし、その声は俺の耳によく届いた。
千反田と同じ声でありながら、イントネーションもアクセントも声色も声質も違っているその声。
カセットテープに録音されていたのは、間違いなく田井中の声だった。
いつの間にか俺は耳を澄ませていた。
今はもういないあいつの声を聞き逃さないように。


「よっ、ホータロー、久し振り……になるのかな?
ま、いいや、それはともかくとして。
お前がこれを聞いてるってことは、私はもうこの世界にはいないんだろう。
なーんて、なんだか漫画とかによくある遺言みたいだけどな。
本当は手紙で残そうかとも思ってたんだけど、長くなりそうだし、
上手くまとめられる自信も無かったからカセットテープに録音することにしたんだ。
これならお手軽だしな。
それに私って結構カセットテープって好きなんだよな。
ホータローには言ってなかったと思うけど、実は卒業式前に私たちの曲をカセットに録音したこともあるしな」


カセットかよ。
まあ、CDに録音する方法は俺もよくは知らないが。


「あ、ホータロー、カセットかよ、って思っただろ?
それなりに長い付き合いだからそれくらい分かるぞ?」


さいですか。
いや、確かにそう思っていたのだが。
とにかくそれなりに長い付き合いだったということだ、俺と田井中は。
スピーカーから軽い笑い声が聞こえた後、少し真剣に感じられる田井中の声が続いた。



「カセットの話は置いとくとして、だ。
これから本題に入るよ、カセットに録音できる時間も限られてるしな。
ホータロー、私に聞きたいこと、いっぱいあるだろ?
全部答えられるかは分かんないけど、ホータローが気になってそうなことはカセットに吹き込んどくよ。
省エネ主義のホータローの睡眠時間を削っちゃっても悪いもんな。

で、まずはなにから話そうかな……。
そうだな、まず私がどうしてこの世界のえるの身体に宿ったのかから話しとこうかな。
つってもホータローもほとんど気付いてるんじゃないか?
そうだよ、私はえるが死ぬのを防ぎにこの世界にやって来たんだ。
あれ? えるの細胞の中に残されてた私の記憶が甦ったんだっけ?
ま、それはどっちでもいいんだけどさ。
とにかく私はこの世界でえるが死ぬのを防ぎたかったんだ。
今までの宇宙、ホータローとえるが出会った宇宙は何万回以上もあったみたいだけど、
お前たち二人が知り合った宇宙では、えるは絶対高校二年生のこの時期に死ぬようになってたんだ。
どんな因果関係なのかは分かんないけど、それはもうそういうものだって考えるしかないんだろうな。
私は、私たちは、それを何度も繰り返したんだよ。
ホータローもさ、えるのお葬式で泣いてたよ、号泣してた。
お前は信じられないかもしれないけど、この世の終わりってくらいに泣いてたよ、何万回も。

私たちはそれをどうにかしたかった。
私たちってのは今の私と、今までの私と今までのえる、それ以外にも昔私たちだった皆がさ。
当たり前だと思うけど、繰り返す宇宙の中では私やえるだった以外の前世もいっぱいあったたよ。
例えば、お婆ちゃんっぽい性格の大人しい眼鏡の子や、スタイル抜群の生徒会のお嬢様なんかも昔の私たちだった。
バスケやってる女の子や、水泳やってる無邪気な男子もいたな。
そんな大勢いる前世の皆も思ったんだよ。
えるとホータローが出会っても、えるが死なない世界があってもいいんじゃないかって。
それで私が今のこの世界のえるの中に宿ったわけだ。
それだけ前世がいっぱいいる中で私が選ばれた理由は……、まあ、おいおい、な」


ある程度俺の考えていた通りの内容だった。
その口振りからすると、田井中も俺がその答えに辿り着くことは予期していたようだが。
それにしても田井中と千反田以外にも様々な前世があったとはな。
田井中の言う通り当たり前のことではあるが、本人の口から聞かされるとなんとも言えない気持ちになった。
生徒会のお嬢様やバスケやってる女の子はともかくとして、水泳やってる無邪気な男子という前世は想像もできない。
いや、前世と現世は隔絶して捉えるべきことなのであろうが。



「じゃあ、話を変えるな。
次は、そうだな……。
ホータローは私が自分の役目にいつ気付いたのかも気になってるんじゃないか?
ひょっとして私がずっと自分の正体に気付いてない演技をしてたって思ってたりもするか?
いやいや、私はそこまで性格悪くないぞ。
実はさ、恥ずかしい話だけど、この世界に来た時、私は本当に自分の役目が分かってなかったんだ。
ホータローと一緒に自分の正体を探ってたのは、本当に私の素の姿だったんだ。
自分がやるべきことに薄々気付き始めたのはさ、
ホータローの記憶と私の中のえるの記憶がちょっとずつ違ってるってことを知ったくらいからだったな。
あれでなんとなく分かったんだと思うんだよ、私は単にえるの身体に宿ってるわけじゃないんだって。

まあ、単に私がこの世界からいなくなるタイムリミットが迫ってたからかもしれないけどな。
この二ヶ月とちょっとの間、えるを守れたらこの世界から消えるってのは最初から決めてたことだし。
本当を言うと、二ヶ月も今のえるの身体を借りる必要は無かったかもしれないんだけどな。
だって高校二年生の夏の二ヵ月間って大切な時期だぜ?
大人になってからも何度も思い出すはずだよ。
いや、これは私じゃなくて、他の前世の奴の意見だけどな。
できることなら最小限の介入でえるを助けるべきだった。
風が吹けば桶屋が儲かるって言葉もあるくらいだし、
一週間くらい私がえるの身体を借りるだけでも、えるの身の安全は保障されてたのかもしれない。

でもさ、それを反対した奴がいるんだ。
念の為、この夏だけでもえるの肉体に宿っておいた方がいい。
少しでも長く今のえるの人生に介入して、起こるはずの危機とかけ離れた未来を作っておいた方がいいってさ。
それで私は二ヶ月とちょっともえるの身体を借りることになったんだ。
なあ、ホータロー?
そうやって反対してた奴は一体誰だと思う?
二ヵ月間もえるの身体を借りておいた方がいいって言ってた奴はさ。
はい、ここでシンキングタイムな。
『私の恋はホッチキス』を叩いておくから、その間に考えてみてくれ」


その言葉が終わると同時に、ラジカセからドラムの音が響き始めた。
ドラムの音が響いているということは、このテープは軽音部の部室で録音されたものなのか。
なるほどな、軽音部の部室ほど録音に適した環境もあるまい。
それにしても妙なサービスをしてくれる奴だ。
なんなら『答えが見つかるまでカセットを停止しててくれ』とでも吹き込めばいいだろうに。
だが悪い気分じゃない。
ひび割れた音のテープとは言え、二度と聴けないと思っていた田井中のドラムを聴けるのは決して悪くない。

千反田の身体を二ヶ月借りておけ、と言った奴か。
俺は考えてみた。
長く考える必要も無く、その答えはすぐに見つかった。
田井中の前世が何兆人いるのか知らないが、そんなことを発案する奴は一人しかいない。
苦笑してから、俺は隣に座っている千反田に視線を向けてみた。
千反田はなにも言わず、静かに俺を見つめていた。
それだけで答えは分かったも同然だ。
シンキングタイムなどもう必要無い。
俺は考えるのをやめ、田井中の叩くドラムの音に無心に耳を傾けた。

『私の恋はホッチキス』という妙な曲名のドラミングが終わるのは予想以上に早かった。
奇妙な名残惜しさを感じていると、ラジカセから再び田井中の声が響き始めた。
とても名残惜しそうな。



短いですが今回はここまでです。
もうすぐ終わると思います。
長くお世話になりました。



「おっし、シンキングタイム終了な。
私に反対してくれてた奴……、ホータローには簡単だったかな?
うん、そうだ、えるだよ。
もちろん今のえるじゃなくて、高二で死んじゃったえるの内の一人だけどな。
さっきも言ったけどえるは忠告してくれたんだ、二ヶ月は今のえるの身体に宿っておいた方がいいです、って。
何度も高二で死ぬことになっちゃった本人だもんな、そりゃ誰よりも注意深くなるよ。

でもさ、こう言うのもなんだけど、理由はそれだけじゃなかったとも思うんだ。
そう思うのは私が選ばれた理由と、今の私の精神年齢のことがあるからだよ。
ホータローは不思議に思わなかったか?
今のえるの身体に宿ったのが私だったのはまだいいとして、
どうしてそれが高校を卒業したばかりの年頃の私だったのかってさ。
だって、そうじゃん?
えるを助けるためだけなら、もっと歳を取った私の方がよかったはずだろ?
高校二年生の夏にえるの命が危ないってことも、ちゃんと憶えておいた方がよかったはずだ。
その方が確実にえるを救える。
なのにえるは、前の宇宙のえるは、今の年頃の私が今のえるに宿ることを望んだんだよ。
こんなの、今のえるを助けること以外に目的があったとしか思えないよな?

今の内に言っておくけど、これは答えの分からない疑問だ。
私は前のえるたちの記憶を持ってはいるけど、その真意まで分かってるわけじゃないんだよ。
私がそうなんじゃないかって勝手に思ってるだけの話だ。
なあ、ホータロー?
前のえるは今のえるの高二の夏の二ヶ月を私に託してくれた。
他にも色々手段はあったのに、他にも前世はたくさんあったのに、前のえるは今の私を選んだ。
その理由……、お前なら分かるよな?」


田井中の言葉が止まる。
俺の推理力を完全に信頼し切ったような口振りで。
どうやら田井中は千反田と同じく俺を過大評価しているらしい。
俺はなんでも知っているわけではないし、なんでも分かっているわけでもない。
ただ多くの偶然が重なって、運良く答えが見つけられているだけだ。
俺は、大した人間じゃない。

だがこればかりは田井中の信頼通りだったと言えた。
俺には前の千反田が今の田井中を選んだ理由が分かっている。
いや、分かっているわけではないか。
そうじゃないかと推察できるだけで、それを証明する手段は何一つ存在しない。
それでもなぜか俺にはそれだけは確信できている。
俺の知らない前の千反田が、今の千反田と同様の性格であったとしたなら、俺の推察は間違っていないはずだ。
俺はそれくらいには田井中と過ごして来れたはずなのだ。


「ま、こんなところかな」


妙に軽い田井中の声がラジカセから再生される。
本当は軽い気持ちではないだろうに、田井中って奴は辛い時ほど強がるのだ。
俺は知っている。
この宇宙に目覚めた当初、不安でしょうがなかったであろう田井中の姿を知っている。
慣れないゲームを俺たちに仕掛けて、古典部の俺たちにどうにか馴染もうとしてた姿を憶えている。
千反田の額に傷を負わせてしまって、それをどうにか隠そうとしていた田井中の姿を思い出せる。
背が低い仲間として伊原に受け入れられた時の、嬉しそうな田井中の顔も。
合宿で笑っていた表情も、楽しそうに俺にドラムを教えてくれた姿も。


「私からの報告はこれで終わりだよ、ホータロー、える。
さっきの疑問は本当に私には分からないことだから、あんまり気にしないでくれ。
そうじゃないかって推察だけ残しちゃうのも前のえるに失礼だしな。
だけどさ、もしホータローの頭に浮かぶ答えがあるんだったら、それがきっと正しい答えだと思うよ。
ホータローは謙遜するけどさ、私はお前には本当に探偵の才能があるって思うんだよな。
探偵の才能があって得するのかどうか分かんないけど、それは損得抜きに誇っていい才能だよ。

そうそう、えるの命の危険はとりあえず去ったと思う。
これまでのホータローと出会ったえるの人生で、八月二十一日を越えられたことは一度も無かったもんな。
それを越えられただけでかなりの前進だ。
生きている以上、もちろんこれからも色んな危険がえるに迫ることがあるだろう。
でも、ま、それを言い出したら切りが無いから、お前が気付いた危険からくらいはえるを守ってやってくれ。
ははっ、そんなの誰にでも当たり前のことなんだけどさ。

それとえる」


「は、はいっ!」



突然自分に話を振られた千反田がカセットテープの声に返答する。
その様子がどうにも千反田らしく、こんな時だというのに俺は苦笑してしまっていた。
続くカセットテープの田井中の声もどこか苦笑しているように聞こえた。


「改めて話すとなんだか照れちゃうな、今のえるに話し掛けるのはこれが初めてなわけだし。
いや、前のえるとは話してた記憶はあるんだけど、実はあれって自分会議みたいなもんなんだよな。
頭の中で自分じゃない誰かと語り合ってるって感じか?
そんなわけで、前のえるとも直接声に出して話し合ったことはないんだよ。
ま、それはどうでもいいことか。

とにかくえる、この二ヶ月、迷惑掛けちゃったな。
私なりに頑張ったつもりだけど、色々失敗もあったかもしれないな。
特におでこの傷は悪かったな。
痕は残ってないから大丈夫だと思うけど、その傷のせいでなにかあったらホータローに責任取ってもらってくれ。
責任取るってどういうことかって?
それはホータロー次第だな。

摩耶花と冬実、十文字にもよろしく頼む。
三人ともえるのことが気になってたみたいだけど、十文字は特に心配してたよ。
元々線が細い奴だったけど、私がえるの中にいるって知ってから余計に細くなってるみたいだった。
できるだけ早めに会いに行って安心させてやってくれ。
冬実にも世話になった。
お返しのぬいぐるみを作っておいたから、それとなく渡してくれると助かる。
摩耶花にも漫画貸してくれてありがとうって言っておいてくれ。
摩耶花と行った買い物、楽しかった。
今度は私から摩耶花に奢るよ。

里志には……、ま、あいつはこのテープを聞けば満足しそうだけどな。
学術的にとても興味深いよ! とか言い出しそうだ。
いやいや、里志にも感謝してるよ。
でも、摩耶花を大切にしてやれよ?
摩耶花は私の友達なんだから、悲しませたらただじゃおかないからな?」


終わりが近付いている。
テープの録音時間の終わりが近付いている。
ラジカセの中を覗き込んでみると、テープの残量が極僅かだと確認できた。
時間と、テープの残量は止められず、流れ続ける。


「それじゃ、これでお別れだ、ホータロー、える。
この二ヵ月間、世話になったな!
ホータロー、誕生日プレゼント嬉しかったよ、ありがとな!
える、これからのえるの人生は私たち皆が欲しかった時間なんだ。
面白おかしく、元気に暮らしてくれると私たちとしても本望だよ!
そろそろこのカセットの表は終わるけど、裏面は私のドラムの演奏を残しとく!
たまに聴いてやるかって気になったら聴いてくれると嬉しいよ。
本当にたまに、昔話をする時にでも思い出して聴いてくれ。
田井中律って臨時の古典部員がいたことを、たまにでいいからさ!
んじゃ、またな!」


その言葉が終わるが早いか、ラジカセの再生ボタンが元に戻った。
カセットテープの表面の再生がちょうど終わったらしい。
あっさりした終わりだし、最後まで慌しい奴だったな……。
だが、それも田井中らしいか。
涙の別れなんて似合っていないだろう、俺も、田井中も。
いや、もしかしたら田井中は……。

不意に思い立って、再生が終わったカセットテープを取り出す。
裏返して入れ直し、再生ボタンを押そうとすると俺の腕が誰かに掴まれた。
他の誰かがいるはずもない。
俺の腕を泣き出しそうな表情で掴んでいたのは千反田だった。
俺は再生ボタンを押すのを中断して、座布団の上に座り直す。


「どうしたんだ、千反田?」


「あの……、折木さん。
一つお訊ねしてもよろしいでしょうか?」



「なんだ?」


「折木さんには、分かってらっしゃるんですか?
あの人……、田井中さんがどうして私の身体に二ヶ月滞在していたのか。
どうして他の誰でもなく、高校卒業したばかりの田井中さんが選ばれたのか。
わたし、それが気になるんです、とても」


「それを答えるより先に一つ訊かせてくれ、千反田。
お前にはその答えが分かっていないのか?
と言うより、お前の中には田井中の記憶がどれくらい残っているんだ?
しばらく田井中を演じていたわけだし、大なり小なり記憶が残っているのは分かっている。
その記憶の中に、田井中の出した答えに関する記憶が残ってはいないのか?」


千反田が目を伏せる。
その伏せた瞳からは今にも大粒の涙が溢れ出してしまいそうだ。
けれど千反田は涙を流さなかったし、静かとだが俺の質問に答え始めてくれていた。


「折木さんの仰る通り、田井中さんの記憶はまだわたしの中に残っています。
それでしばらく田井中さんの演技をすることもできました。
上手くはできませんでしたが、確かに田井中さんの記憶は思い出せていたんです。
ですが……」


「どうした?」


「わたし、感じるんです。
朝、目を覚ます度に、田井中さんの記憶が薄れていくのを。
田井中さんがわたしを救って下さったことははっきりと憶えています。
けれど田井中さんが考えていたことや、わたしの前世の皆さんの記憶がどんどん薄れていくんです。
田井中さんが私の中から去られたばかりの頃は、田井中さんの感情まで思い出せていたはずなのに……。
今では、もう、田井中さんの口調すら思い出すのがやっとなんです……」


千反田は辛そうではあったが、それも田井中の気配りなのだろうと俺は思った。
人間に前世の記憶が必要なのかと問われれば、冷たいかもしれないが俺は否と答える。
人間は今の人生を生きるだけで手一杯だ。
千反田の様な例外を除いて、人間は生まれる前の因縁までそうは持ち込めない。
新しい未来を手に入れた千反田の前途には、田井中たちの記憶はもう不要なものなのだ。
おそらく千反田は直に田井中の口調すら思い出せなくなってしまうのだろう。
千反田自身もそれを分かっているに違いない。
だからこそ、千反田は言うのだろう、俺の手を強く握って。


「ですから、教えて下さい、折木さん。
わたし、知っておきたいんです、田井中さんがどんな答えを出してらっしゃったのか。
前のわたしがどんな気持ちで、田井中さんにわたしの二ヶ月を託されたのか。
その答えがどうしても……、わたし、気になります!」


千反田が目を見開く。
瞳孔まで開かんばかりに。
不謹慎かもしれないが、俺はその千反田の行動に感慨深くなっていた。
千反田えるが戻って来たのだ。
それを深く実感させられたから。

俺は千反田に握られていた手を脱出させ、軽く頭を掻いた。
「これも俺の推測に過ぎないんだが」と前置きしてから始める。



「なあ、千反田、お前は前の自分が今と同じ性格をしていると思うか?」


「それは……、分かりません……。
ですが、まだ微かに残っている田井中さんの記憶の前のわたしは、わたしに似た性格だった気がします。
自分自身のことですから、はっきりとは言えませんけれど……」


「それで十分だ、千反田。
お前の中に残っている微かな記憶が正しいとしよう。
それで今のお前と前のお前が同じ様な性格をしていたとする。
そう仮定してお前自身が考えてみろ。
高二で死んでしまうお前を救おうと奮闘している田井中の姿を見て、お前はどう感じる?」


「えっと……、申し訳ないと思います……。
前世の縁があるとは言え、わたしのためにそこまでして下さるなんて」


「お前らしい答えだが、そこは申し訳ないより他の言い方があるだろう」


「そう……ですね。
申し訳ないは田井中さんにも失礼ですよね、言い直します。
嬉しいです。
わたしのために一生懸命になって下さるなんて、とても嬉しいです。
その御恩をどうにかお返ししたいと思います」


「前の千反田えるもそうだったとは考えられないか?」


「えっ……?」


「田井中が前に言っていたよ、自分にはちょっと不純な気持ちもあったってな。
今から自意識過剰なことを言うが、どうか素直に受け止めてくれ。
なあ、千反田。
田井中の残したカセットテープについてどう思う?」


「突然そう言われましても……」


「楽しそうだな、とは思わなかったか」


「あっ」


千反田が驚きに似た声を上げる。
そうだ、田井中は楽しそうだったのだ。
カセットテープに限らず、俺たちと一緒にいた時は楽しそうにしていたのだ。
田井中は、楽しかったのだ。


「田井中の言った不純な動機……、それは俺たちと遊びたいってことだったんじゃないか?
高二で死ぬ千反田の顛末を数知れないほど見る内に田井中は思ったのかもしれない。
俺たちの仲間になりたいと。
俺たちと一度でも遊べたら楽しいだろうなと。
もちろんそれは少し不純な動機だ。
千反田を救うための手段を考えながら、そんな風に考えてしまうなんてことは。
当然だが田井中が悪いわけじゃない。
それくらい俺たちの古典部の活動が楽しそうに見えたってだけだ。
そんな本来なら叶えてやるまでもない願い。
だが前の千反田はそれを知って叶えてやろうと思ったんだろう。
さっきお前が言った通り、お前のために一生懸命になってくれた恩返しとして」


それが千反田えるという女だった。
前の千反田が今の千反田と似た性格をしていたとしたなら、彼女もそう考えたはずだ。
俺はとっくの昔に死んでしまっている千反田に思いを馳せながら続ける。



「それであの年頃の田井中の記憶を今のお前の身体に蘇らせたんだ。
今のお前を救うって役目の記憶をある程度封印してな。
本末転倒に思えるが、それがお前だよ、千反田。
ひょっとしたら今のお前を救えるかどうかは副産物的な目的だったのかもしれない。
この二ヶ月、お前を救うために一番熱心だった田井中を俺たちの仲間に加えてやること。
それが前の千反田の真の目的だった。
それで田井中は最初は自分の役目を憶えていなかった。
もしかしたら田井中への誕生日プレゼントのつもりも、あったのかもしれない。
なんとなくだが、俺にはそんな気がするんだよ」


「本当に本末転倒ですね……」


「全くだ」


「ですが、分かります。
わたしも、千反田えるですから」


そうだろうな。
千反田えるって古典部の部長は本末転倒なことを平然とやってのける女だ。
自分よりも、自分の身を案じてくれた誰かのことを考えてしまう奴なのだ。
結果的に今の自分が死んでしまうことになったとしても。
だからこそ、田井中を代表とする千反田の前世たちも、どうにか千反田を救いたかったのだろう。
気が付けば千反田は溢れそうだった涙を零していた。
しかしその表情は笑顔で、とても満足そうな表情に思えた。
俺はその千反田の涙から軽く目を逸らして、一つだけ気になっていたことを訊ねることにした。


「そういえば千反田」


「はい?」


「結局お前はどうして田井中の演技なんかしていたんだ。
唐突に田井中が去ってどうしていいか分からなくなったんだろうが、なにも演技をしなくてもいいだろう。
田井中のことを忘れたくなかったのかもしれないが、今のお前の時間は田井中たちが望んだ未来なんだ。
お前らしく生きることを、あいつらも望んでるだろうよ」


「はい、分かってはいたんです……。
わたしの今は皆さんのお力添えで存在しているんだってことは。
田井中さんのことを忘れたくなくて、田井中さんの演技をしていたのも確かです。
薄れていく田井中さんの記憶を失いたくありませんでした。
ですが……、あの……、もう一つ理由が……」


途端、千反田の涙が止まり、頬が赤く染まる。
さっきまで涙を流していたくせに、忙しなく表情を替える奴だ。


「折木さんの気持ちを考えると……、わたし……」


「俺の気持ち?」


「失礼を承知で言います。
折木さんは田井中さんのこと、お好きだったんですよね?
だからわたしは……」


「……はっ?」


今の俺の表情をどう形容したらいいのだろう。
とにかく非常に間抜けな表情であったことは間違いない。
それくらい千反田の発言は予想外なものだった。



「かなり薄れてはいますが、田井中さんと一緒にいた折木さんの姿はまだ憶えています。
折木さん、すごく楽しそうに見えました。
田井中さんも折木さんと一緒にいられて幸せそうでした。
とてもお似合いのお二人だと思いました。
それでわたし、秘密にしないといけないと思ったんです。
田井中さんがいなくなってしまったと知ったら、折木さんはとても悲しまれると思って……」


俺が田井中のことを好き?
いや、別に嫌いというわけではないが、それは見当違いだ。
俺と田井中は目的が同じだった。
それで多少気が合って、一緒にいて楽しいことも多かった。
そういうことなのだ。
まったく、大日向の時と言い、千反田の気遣いは見当違いなことばかりだ。
それでも悪い気がしないのは、千反田の人徳というものなのだろうか?
とりあえず千反田の勘違いは正しておかねばなるまい。


「あの、だな、千反田」


「はい……」


「俺は別に田井中のことが好きだったわけじゃない。
嫌いなわけでもないが、とにかくお前が考えている様な関係じゃなかったんだよ。
俺のことを気遣ってくれたことに関しては悪い気はしないが、それは見当違いってやつだ」


「そう……なんですか……?」


「田井中が去ったことに関してなにも感じていないと言ったら嘘になる。
だが俺は満足しているし、あいつも満足して去ったはずだ。
お前を救うって目的を果たせたんだからな。
俺と田井中の関係は、そう、確かさっきも言ったな?
俺と田井中は仲間だったんだ。
持っていた情報こそ違ったが、お前をどうにか救おうと苦心した仲間だったんだよ。
俺とあいつが特別な関係に見えたのなら、そういうことだ」


「仲間……ですか。
それじゃわたし、勝手な勘違いで……。
田井中さんにも失礼なことを……」


千反田が更に顔を赤く染めていく。
このままだと頭に血が上がって失神してしまいかねない。
千反田の部屋の中で失神されてしまった日には、どんな誤解をされるか分かったもんじゃない。
どうにかしなければと部屋の中を見回して、俺はちょうどいい物を見つけた。
ドラムスティック。
伊原が田井中にプレゼントした物だ。
俺はそれを手に取ると、顔中を真っ赤にしている千反田に握らせた。


「ときに千反田」


「はっ、はいっ?」


「お前はまだドラムを叩けるのか?
それくらいの田井中の記憶は残っているか?」


「い、いえ、無理です。
ドラムに関する記憶は真っ先に消えてしまったみたいで、試してみても全然叩けませんでした。
実はどなたかにまたドラムを叩いてほしいとお願いされたらと思うと、不安でしょうがなかったんです……」



それは記憶の有無には関係の無いことだったのかもしれない。
ドラムの演奏など、記憶があったところでどうなるものでもないだろう。
しかしちょうどよかった。
俺は軽く微笑むと、田井中がドラムの練習に使っていたと思しき雑誌を千反田の前に積み上げた。


「どうだ、ドラムの練習をしてみないか、千反田?」


「ドラムの練習を?」


「ああ、田井中はドラム人口の少なさに嘆いていたからな。
一人でもドラムに興味がある奴が増えれば、あいつだって喜ぶだろうよ。
それが田井中のことを憶えておくことにも繋がるだろうしな」


「そう……ですね。
わたし、田井中さんのこと、ずっと憶えていたいです」


「よし、それなら練習を始めようじゃないか、千反田。
俺も詳しいわけじゃないが、田井中に多少は教えられたからな。
少なくともお前よりはドラムに詳しい。
だがその前に……」


俺は立ち上がって、千反田の学習机に置かれていた物を手に取った。
田井中への誕生日プレゼントが入った袋だ。
それを千反田に手渡してから、もう一度腰掛ける。


「ドラムを叩くにはその前髪が邪魔だろう。
これを使えよ、千反田」


「よろしいんですか……?」


「ああ、俺は気にしないし、その方が田井中も喜ぶだろうよ。
今日がドラマー女子高生、千反田えるの誕生の記念日になるってわけだ」


「上手く叩けないかもしれませんよ?」


「いいさ、田井中もそこまでお前に求めないだろう。
お前が田井中を忘れたくないのなら、忘れないための努力をすればいい。
それだけのことだ」


「はいっ!」


千反田が袋の中からプレゼントを取り出す。
八月二十一日、俺が誕生日プレゼントに選んだ向日葵のバレッタ。
カチューシャで前髪を纏めるばかりが能ではないと思い、贈ってみたものだ。
田井中向けに選んでみたバレッタだが、前髪の長い千反田にも不思議と似合っていた。
そうして千反田はおそるおそるとだが雑誌を叩き始める。
田井中のそれとは似ても似つかない不器用なスティック捌き。
それでも俺たちは目的を同一にした仲間に思いを馳せながら、そのスティック捌きに目を奪われ続けた。

これから千反田の新しい未来が始まるのだ。






一旦ドラム練習を終了し、俺たちは田井中の残したカセットテープの裏面を聴くことに決めた。
当然ながらドラムしか録音されていなかったが、不思議と原曲を想像できた。
数曲聴いて裏面のテープの残りが少なくなり始めた時、静かな息遣いが聞こえ始めた。
当然ながらそれは田井中の息遣いに違いなかった。
予感はあった気がする。
これが最後なのだと感じながら、俺と千反田は息を呑んでそれを待った。
十数秒後、ラジカセのスピーカーから田井中の最後の言葉が流れ出した。


「よっ、ホータロー、それにえる。
参ったよ、お見通しなんだもんな。
言い残したことがあってさ、裏面の最後に吹き込んでおこうと思ったんだよ。
つっても、もう謎解きでもなんでもないメッセージなんだけどな。
ま、最後まで聞いてくれると嬉しいよ。

今更になるけど、この二ヶ月ありがとうな、ホータロー。
お前がいたからこの二ヶ月楽しかったよ。
これは私の勝手な思い込みなんだけど、お前がいたおかげでえるも救えたんだと思うぞ?
今のえるが元気なのは私とホータローの共同作業の結果だよ。
なんの根拠も無いけどな、ははっ。

だけど楽しかったのだけは本当だ。
古典部の皆で活動するのはすっげー楽しかった。
巫女のコスプレも楽しかったし、冬実をちょっとからかってやれたのも楽しかった。
摩耶花には悪いけど、合宿で摩耶花が変な勘違いされたりしたのも面白かったよな。
『氷菓』の完成が見届けられないのは心残りだけど、お前たちならいい『氷菓』が作れると信じてるよ。
『氷菓』製作頑張れよ!

私はこれでこの世界から居なくなるわけだけど、元気に生きろよ、二人とも。
省エネ主義も悪くないけど、もし一生懸命になれることを見つけたら、それに頑張ってくれ、ホータロー。
一生懸命になれた時は、お前ならきっといいなにかを残せるよ。
私だってそれにずっと助けられてたわけなんだしな。

それでさ、こう言うのも変なんだけど、いつかきっとえると私とお前で遊ぼうぜ?
いや、今の世界で無理なのは分かってるぞ?
私はえるの身体にしか宿れないし、これから先宿るつもりもないもんな。
だからさ、私たちが遊ぶのはずっとずっと未来の話だ。
何兆、何京回か先の宇宙の話だよ。
そればっかりは無理だって言うなよな?

そりゃすっげー低い可能性だってことは分かってるよ。
宇宙が何京回繰り返してるのか分かんないけど、私がえるの身体に宿れたこと自体が奇蹟レベルなんだ。
その奇蹟レベルを更に奇蹟で何乗もしたくらいの可能性でしか、私たちが一緒にいる宇宙なんてできないはずだ。
今までの宇宙で私とホータローたちが一緒にいた世界なんて一つも無かったしな。

でも、できるよ、できるって私は信じる。
ホータローと出会った世界でえるが生きられるって奇蹟だって起こせたんだ。
ずっとずっと諦めなかったから起こせた奇跡なんだ。
だから私は諦めないよ、ホータロー。
細胞も消えて原子以下の素粒子になったって忘れない。
忘れずにホータローたちとまた遊べる未来を夢見続けるよ。
ホータローも、私も、えるも、里志も、摩耶花も、冬実も、澪も、唯も、ムギも、梓も、和も……、
せっかくだから私の前世も勢揃いしているような世界だって、いつかは作れるはずなんだ。
その世界で遊んでやるんだよ、私たちは。
その暁にはお前を思い切りからかってやるから覚悟しとけよ、ホータロー?
それまでえると仲良くやるんだぞ?

さてと、そろそろテープの残りも少なくなってきたな。
それじゃあ最後になるけど今までありがとな、ホータロー、それにえる!
この二ヶ月、楽しかったのはお前たちのおかげだ!
遠い未来の話になるけど、その時を楽しみにしてる!

以上、録音終わり!
放課後ティータイムのドラマー兼古典部臨時部員田井中律!
またな!」



これにて完結です。
長くなりましたが、約一年弱、どうもありがとうございました。
日常の謎からSFの様な感じになりましたが、今までお付き合い頂け感謝の一言です。
あ、眼鏡女子は俺妹のつもりです。
ありがとうございました!