光彦「時間を巻き戻す時計ですか」 (13)




僕は十八歳で、そのとき米花大近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。

僕はそこで窓越しに行き交う人々をぼんやり眺めながら、時々は広げている文庫本に目を落としたりしていた。そうして日が暮れるとアパートに帰り、食事をして歯を磨いて風呂に入って眠る。朝は早めに起きて少しだけ勉強し、学校へ行ってまたポワロに寄って……。

そんな風にして、僕は真面目なアルバイトみたいに退屈な毎日を延々繰り返していた。慣れてくると作業の手が速くなるように、一日一日がもっと早く過ぎることばかりを祈っていた。きっと僕はもう生そのものに興味を失いつつあるのだ。




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ブラック・コーヒーの残滓までを喉へ流し込むと、梓さんがコーヒー・ポットを手に近づいてきた。僕は会釈して本を閉じた。

「光彦くん、コーヒーのおかわりは如何?」

「いただきます」

梓は柔らかい笑みを湛えて、湯気の立つコーヒーをカップに注いだ。

十年以上変わらない笑顔はいつも僕を安心させる。ただひとつ変化してしまった新しいヘア・スタイルは、僕に流れていった月日を強く意識させてしまうけれど。





「梓さん」と僕は言った。

「なあに?」

僕は周囲を見渡して、誰も見ていないことを確認すると、手招きして耳打ちするジェスチャーをした。彼女は頷いた。

「今夜、僕とデートしませんか?」

「デート?」

「そうです。実は知人にコンサートのチケットを貰ったんですけど、確か梓さん、クラシックがお好きだったでしょう?」

「ええ、そうよ。よく覚えていたわね」

「決まり! じゃあ米花駅前で待ち合わせましょう。僕が車を出しますから」





僕は右手でキー・ホルダーを回し、ウィンクをしてみせた。梓は困ったように笑って、少し考えるふりをする。我々はこれまでに何度かデートを重ねてきたから、今更そんなジェスチャーは必要ないというのに……。

どうやら、僕が考えている以上に、梓さんは我々の前に横たわった年齢差を気にしているらしかった。

僕は頂いたばかりのおかわりを胃に流し込んで、「それじゃあ」と言って席を立った。どのみち家で支度をしなければいけないから、梓さんが返事をする前に帰ってしまおう。責任感の強い彼女は、僕に待ちぼうけを強いることをしないはずだ。

カランカランという音に見送られて外に出た。なんとなく後ろを振り返ると、二階のテナント募集の張り紙が目立っていた。僕は気づかないうちに走りだしていた。無理矢理に頭を切り替えて、今夜の愛瀬に思いを馳せた。

結局、梓は断らなかった。それが答えなのだ。

彼女の左手で輝いていたシルバー・リングは、今夜、僕の為に留守番を任されることになる。


一旦ここまで。
言い忘れていましたがそのうちオリキャラが出ます。まぁコナンは毎度新キャラが出るので、そんな具合で許してもらえると助かります。




定期公演のラストを飾ったラフマニノフのピアノ協奏曲が終わると、我々は揃ってホールを後にした。

梓さんは未だ興奮冷めやらぬといった調子で、しきりに目を閉じては熱い息を吐いていた。

僕はそんな彼女を愛おしく思う。だからホテルへ向かう。

調度良く通り掛かったタクシーを捕まえて、僕はほとんど押しこむようにして梓さんをリアシートへ乗せた。

ラブ・ホテルの住所を告げると、タクシーはヘッドライトを焚き付けて静かに滑りはじめた。

僕は梓さんの左手を包み込むように握って、たまに指を絡ませたりこすったりした。

当初は不安な表情を隠しきれなかった梓さんも、覚悟を決めたみたいに僕の手を握り返した。





ピンク色に少しのブルーを混ぜたような、いかにも妖艶な雰囲気の照明の下で、我々はしばらくお互いをじっくりと見つめていた。

それから、どちらからともなく寄り合い、手を握り合ってベッドに沈む。それは新品のモップの毛みたいにフワフワしたベッドだった。

僕は梓さんに向かって腕を伸ばし、彼女は心得て二の腕の辺りに頭を置く。そしてかるく唇を合わせるキスをする。

何度か目のキスの後、梓さんが僕の名前を呼んだ。

「光彦くん……」

彼女は泣いていた。

そして同じくらいに興奮していた。

僕にはそれがわかったし、それがたまらなく哀しかった。





「梓さん……」

僕は彼女を抱擁し、荒々しく唇を啄み、歯の一本一本を確かめ、舌と舌とを絡めた。そうして止めどなく溢れてくる唾液を呑み込んだ。

その涙の理由が悔恨だったとしても、もう僕にはどうしようもなかった。

ただこの身を焼かれるような苦痛から逃れたい一心だった。

行為がすすんでいく最中に、僕は何度も梓さんの名前を呼んだ。

「梓さん……梓さん、梓…っ」

「あぁっ…」





けれども他に、もう失ってしまった、もっと呼びたい名前があったのだ。

セックスが終わる頃、自然と僕の両目から涙があふれていた。

梓さんが求めているものも、僕が望んだものも、ここには存在しなかった。

我々は等しく己の乾きを自覚していて、それを潤すなにかを探していたのだ。

しかし、この哀しみの上にしか成立しないセックスは、我々をひどく傷つける結果となった。


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