真姫「頬をたたいて」 (15)

にこまき

三作目なので大目に見てください

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目が覚めるほどの、鮮やかな赤が月に照らされる。

その赤は彼女の少しくせのついた髪の毛か、それとも握りしめただけで簡単に折れてしまいそうな手首から零れ落ちる液体か、区別がつかないほどに混ざりあっていた。

西木野真姫は、テレビの向こう側で誰彼構わず笑顔を振りまく愛する人の帰りを、今日も待っていた。




◇◇◇


にこ「……ただいまぁー」


気の抜けた声が、暗く狭苦しい部屋にこだまする。
いくら掃除しても消えないカビ臭さは鼻を刺激して、にこの憂鬱さを増していく。

親が大病院を営んでいる資産家の一人娘の真姫と、今や日本のみならず世界中をにっこり笑顔で包み込んでいるトップアイドルの矢澤にこが住むには、いささか不釣り合いのように思える部屋。
現ににこのファンからはどんな豪邸に住んでいるのかと想像され、ネットでは噂に尾ひれがつきまくり、もはや宇宙に住んでいるのではないかとさえ言われている。

当然そんなことはなく、彼女達が住んでいるのは築四十年の鉄筋コンクリートでできた、家賃は月に三万六千円の、使い古された風呂がかろうじてあるアパートのこの一室であった。

真姫「にこちゃん、おかえりなさい」


暗い部屋の向こうから聞こえたのは、か細い声と、パタパタとスリッパがフローリングを蹴る音。

目の前に、暗い部屋の中、月の光をバックライトにすべての色の明度を少しずつ下げたような真姫が現れた。
にこはほんの少しため息をついて、ぎこちなく唇を歪ませて笑顔を浮かべる真姫の肩に手を置き、トンと押しのける。

にこ「真姫、いちいち出迎えにこなくていいから」

真姫「…………」

にこ「ていうかアンタまた手首やったの? やめなさいって言ったじゃない」


真新しい、動脈を切ろうとして躊躇った赤い痕を見やり、再びため息をつく。
この台詞も、この間撮り終わったドラマの決め台詞よりも多く言っている気がする。

何かを言いたげな真姫を無視して眉を顰め、気持ち悪い、とただ一言つぶやき、何も言わずに立ち尽くす真姫の横をすり抜けた。

◇◇◇


真姫「おかしいじゃない」

真姫「にこちゃんがこうさせているのに」


一言一言呟くたびに真姫の身体からぽたりと赤が滴り落ちる。

最初は殴ってでも止めさせてくれたのに、と暗闇の一点を見つめているはずなのに、ぼんやりと白く明けてゆく脳内でそう紡いだ。

寂しい、にこちゃんが遠くにいるのが寂しい、ねぇ、この部屋こんなにも狭いのに、どうしてもっとそばに居てくれないの、どうしたらそばにいてくれるの、わたしはにこちゃんの中にいるのに、どうしてにこちゃんは私を置いて外にいってしまうの……。

ずっと、ここにいてくれたらいいのに。
ここにいてくれればそれでいいのに。


何百、何千と繰り返した何故を今日もまた繰り返して眠りにつく。
明日もきっとにこは笑顔を咲かせに行くのだろう。
真姫のすべてを閉じ込めたまま。


◇◇◇


誰かが、待つことは拷問に等しいと言った。
けれど私はそうは思わない。
待っていれば、必ずあの人は帰ってくる。
戻ってきてくれるとわかっているのだから、拷問だなんて思わないし、苦痛にもならない。

朝が来て、いってらっしゃいと見送ることの方が辛い。
行って欲しくなんかないのに、私は黙って見送ることしかできない。

てくびきっちゃった、なんてメールをしたら、あの人は仕事なんか放り投げてすぐに戻ってきてくれて、私を叱って、愛してくれた。
でも私は賢いからすぐに気づいた。
戻ってきてくれる回数が増えるってことは、見送る回数も多くなるって、線も赤も増えていくって。

てくびきっちゃった、なんてメールをしても、慣れない私の気持ちにあの人は慣れてしまった。

真夜中にこっそり潜り込んで、アイドルらしからぬ寝巻き代わりのジャージの中に滑り込ませ、薄い胸板に手を這わせても、頬を染めもしないし、声も出さない。
明日の朝早いから、そう言われると私は何もできなくなって、気持ちも欲も溜めたまま、どこにぶつけようか?どこに出してしまおうか?どこに消してしまおうか?とぐるぐる考えながら眠りにつく。

そんな日々を何ヶ月も過ごした。


テレビをつける。
まだ頬もぷっくりして、瞳も輝いていた自分が、にことおそろいの衣装に身をつつみマイクを握っていた。

そんな未来もあったのかもしれないと、夢を見る。
すべて抜けきったようにだらりと腕を広げ、そんな妄想に浸っていると、フローリングの冷たさと身体の温度が同化していくのも気にならなくなる。

いいえ。

真姫「……ちょっと冷たいかも」

真姫「少しだけ寒いなぁ……」


わたしの頬をたたいて、抱きしめて、あたためて。

太陽が昇って、わたしを燃やす前に。

早く帰ってきてね。




おわり

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