杏「天才への憧憬」 (55)


以前書いたものの続きになります。

菜々「怠け者のお姫様」
http://456p.doorblog.jp/archives/45730978.html


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1457521143


 世の中には許される遅刻と許されない遅刻の二種類が存在する。
 社内の予定なら、最悪遅れたところで開始時刻がずれ込むだけだ。
 社外でしてしまうと、それでは済まない。
 つまり、もしミスをするなら被害はなるべく小さくしておくべきだということ。
 もっとも、私のキャラを考慮するとサボることすら仕事になるのだが。

「おはようございまーす」

 事務所のドアを開けて中に入る。
 当然だが既に全員揃っていた。

「遅いですよ杏ちゃんっ」

「杏が時間の二秒前に来たんだから偉業でしょ? 遅刻してないし」

「待つ方の身にもなってくださいよ……」

 いつも通り苦労してるなぁ、菜々さん。
 急いだって変わらないんだから、どっちでもいいのに。

「杏ちゃん、おっはよー☆」

「おはよ、きらり」

 ソファに腰掛けているきらりと挨拶を交わす。
 座席は……きらりの隣が空いている。
 だらだらと歩いて、そこに座った。


 実際のところ、佐藤さんに関してはあまり心配していない。
 大人だし、自重してくれることだろう。

 本当に問題なのは一ノ瀬志希だ。
 十八歳で海外の大学を卒業しているくせに、つまらないからという理由だけで日本に戻って高校生をしている。
 趣味は観察、アヤシイ科学実験、失踪と、問題しかない。

 そんな奴なのに、こいつは本物の天才だ。
 ギフテッドを自称しているが、確かにその通り。
 先天的に能力に恵まれ、自分好みの方法で探究心を満たす人のことなら、一ノ瀬志希は間違いなくそれだ。
 化学の一点突破で来たとはいえ、それ以外の能力だってそこらのエリートよりも高い。

 完全な上位互換を前にしたときに人が抱くのは嫉妬だ。
 私には得意分野なんてものもない。あったとしても、果たして勝てるかどうか。
 それなのに、本人はそんなことは気にもしないで興味のままに行動する。
 今まで私が周囲にやってきたことそのままだけど、自分がされたらかなりイラつくものだ。

 プロフィールと直接見たことを合わせて考えれば、この予想はそう間違っていないと思う。
 きっと、アイドルとしても水準以上の働きを魅せてくれるはずだ。
 失踪するかもしれないが、管理するのは私じゃない。
 杏としてはずいぶん楽になるだろう。諸手を挙げて歓迎するくらいに。

 だけど私は……一ノ瀬志希が、嫌いだ。


 まぁもっとも、まだ会話すらしたことのない人を一方的に嫌うのもどうかと思うけど。
 私の方がおかしいってことくらいわかってる。

「――というところですが、杏ちゃんは大丈夫ですか?」

「聞いてたよ。前に話したのと変わりないんだよね」

 プロデューサーの問いかけにすぐに返事をする。

「みなさんも、これでいいですか?」

 他の四人も揃って頷く。
 計画に変更もないみたいだし、覚悟を決めるか。
 つまり――

「三人がデビューして一年が経ちました。新たに二人加わったことですし、しばらくの間は菜々ちゃんと心ちゃんの『Ravery Hearts』、杏ちゃんと志希ちゃんの『Wizardry』、きらりちゃんは引き続きソロで、それから五人のユニット『Circus』という体制でやっていきましょう」

 どのみち、組むしかないんだから。


 今日の予定はこれだけ。
 私達のときみたいに強制的にレッスン送りになることもない。
 待遇の差を訴えたいくらいだ。

「それでは、今日はここまでにしましょう。きらりちゃんはこの後撮影が入ってますから一緒に行きますよ」

「おっけー! ばっちし決めてくるにぃ☆」

 きらりはゴシック系の衣装の撮影か。
 きらりはスタイルがいいから、モデルの仕事はぴったりだ。

「あとのみなさんは自由にしてください。解散です」

 やっと終わりか。
 さて、今日はなにをしようか……

「――どーんっ!」

 立ち上がろうとした瞬間、横から何かが飛んできた。
 その勢いでソファに押し倒される。

「ハスハス~♪ うん。やっぱり面白い匂いしてるね、キミってさ」

「ちょ、なにするんだっ!」

 私の体をホールドしているから身動きが取れない。
 きらりは――

「新しいユニットで親睦を深めるというのもいいのではないでしょうか? 行ってきます」

 プロデューサーがそう言い残してドアから出て行った。
 きらりはその先、もう外にいるのだろう。詰んだ。

「ナナ先輩っ♪ 久々にウサミン星に行っていいですか?」

「へ? あ、はい。いいですよ。ナナもはぁとちゃんとは色々話したいですし」

「売れてから気軽に買えなくなって大変ですよね? 今日ははぁとが代わりに買ってあげますからぁ、いっぱい飲みましょ?」

「だからナナは永遠の十七歳だって言ってるじゃないですかー!」

 大人組は、駄目だ。頭がアルコールの方しか向いてない。
 これ、こいつが納得するまで付き合うしかなさそうだ。
 願わくは、早めに終わらんことを……


「堪能したー♪」

 開放されたのは、菜々さんと佐藤さんが出て行ってからすぐのことだった。
 まだ三分も経ってないうちに飽きてしまったらしい。

「……で?」

「んー?」

 ニコニコ笑いながら首を傾げやがる。
 適当に引き止めたわけでもないだろうに。

「別にー? ただ、杏ちゃんにキョーミがあるだけだよ?」

「興味、ね……はぁ……」

 どうせすぐ飽きるんだろうし、気にするほどでもないか。
 面倒だけど。

「キミに興味があるってことはホントだよ? だって、面白い子がいるってプロデューサーが言ってたからここに来たんだし♪」

「そうか。じゃあ今すぐアメリカに帰れ」

 これの相手は私には荷が重い。
 それはそうと、プロデューサー押し付けやがったな?

「にゃはは、ナイスジョーク♪」

「冗談じゃない」

「あたしが楽しめる間はここにいるよ? そうだねー、最低でも三ヶ月くらい?」

「……はぁ、それくらいなら別にいっか」

 そのくらいの期間ならまだ我慢できる。はずだ。たぶん。
 どうせ残らないなら、三ヶ月だけ適当に放置してさようなら。
 プロデューサーの連れてきたアイドルを一人手放すことになるけど、そのくらいの穴は私が埋めれば問題ないはず。


「けっこう楽しめると思うんだけどなー。キミって頭よさそうだし?」

「……嫌味か?」

「本気で。だから面白そーって言ってるじゃん♪」

 こんなのに言われても、私にどうしろと。
 鏡でも見てた方がいいんじゃないか? 真面目に。

「とにかくそういうわけで、よろしくね? センパイ♪」

 沈黙をどう受け取ったのか、勝手に宣言してきた。

「わかったよ。責任は取らないから」

 殴りたい、この笑顔。
 まったく……本当に、私は一ノ瀬志希(こいつ)が苦手だ。


……………
………


「おぉー☆ 全然変わりませんね♪」

「じろじろ見ないでくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」

「数年ぶりのウサミン星あんですから。少しくらい感傷に浸ってもいいじゃないですか」

 私の家にはぁとちゃんが入るのはいつ以来だろうか。
 かわいい後輩が姿を消してからも、ずいぶん時間が経ったように思う。
 呑気に部屋の中を漁っているこの子はそのあたりをわかっているのだろうか。

「とりあえず冷蔵庫を借りるとして……台所も変わってませんよね?」

「はい。あれが一番使いやすいですから」

 はぁとちゃんが冷蔵庫にポンポン買ってきた食材を入れていく。

「じゃあ早めにつくるとしますか☆ ……あっ、大吟醸」

「そ、それは……あとで、開けましょう……」

 そんなとこにしまってたら見つかるでしょ私のバカ!
 急だったから隠せなかったし、仕方ない。
 今回は諦めよう……


「全部任せちゃってごめんなさい」

 鍋とお酒とおつまみが食卓に並ぶ。
 結局、はぁとちゃんに料理は任せてしまった。

「いいですって、ナナ先輩。はぁとは後輩ですから☆」

 私のつくったものが食べたいって言わない限り、こういうときの料理ははぁとちゃんの担当だった。
 だから、昔と同じではある。
 メール一通残して姿を消すまでの間だけど。

「今も二重の意味で、ですけどね。本当にびっくりしたんですよ?」

 やっと、しっかりと話をできる。
 事務所は杏ちゃんと志希ちゃんが使うみたいだし、外で話すには私は少し有名になりすぎた。
 内容もアイドルに関ってくることだから、家に帰るまでは当たり障りもないことしか言えなかった。

「えーと、ごめんなさい。いろいろあったんです」

 少しテンションが下がった様子に、なにも言えなくなる。
 長野でOLをしていたのに、二十六歳からアイドルを始めるというだけで普通じゃないのは十分にわかる。

「ナナ先輩と別れてから、半年はアイドル目指してたんですよ」

「……やっぱり」

「あはは……やっぱり予想できるか☆」

 夢半ばで諦めた子は何人も見てきたから。

「あのままだとナナ先輩と居心地のいい場所で、何年も何年もずるずる引き延ばしてしまいそうでしたから。ちょっと本気出せないとやべーぞ☆ って」

 その気持は嫌というほどわかる。
 私が今ここにいるのだって、はぁとちゃんと別れた影響は大きいと思うから。


「長野に帰ってたってことは……ダメだった、んですね?」

「そこ直球でくる!? ……そうだぞ☆ 全力でぶつかって、潔く散ったから完全に諦めがついた……はず、だったんだけどなぁ……」

 最後のメールでは満足したから地元に帰るって説明しかなかった事情についてもわかったし。
 昔のことは完全にふっ切れてることが表情と声からよくわかって、ひとまず安心した。
 たぶん最初に気まずかったのは、勝手に居なくなった負い目のせいだったようだ。

「私のせいですか?」

「ナナ先輩のおかげだぞ☆」

「それはよかったんでしょうか……」

「デビューできたから、結果よければ全てよしですよね♪」

 私がデビューしてから約一年。
 全国で名前を知られるくらいのアイドルになれたと思う。
 アイドルに興味がなかったとしても名前くらいは聞いたことがあるはずだ。
 はぁとちゃんがまたアイドルを目指したのも私の名前を聞いたから。

「ナナ先輩がいたからCircusなら拾ってくれる可能性高いってわかりましたし☆」

「イロモノ担当ですもんねー……ウチって……」

 否定はできない。
 なにをどこからどう考えても、Circusに普通のアイドルはいない。
 私だって、普通からは少し……かなり外れている自覚はある。

「それでプロデューサーに拾ってもらって……夢みたいですよね、これって」

「ナナとしては嬉しいですけど」

 少なくとも、この歳でアイドルを始める仲間ができたから。


「そりゃもうこんなアイドルは増えないと思いますけど☆」

「……そうですよね」

 こんなアイドルがそうそういるわけがない。
 二十台の半ばまでアイドルを目指し続けないといけないから。
 同い年のアイドルもいるにはいるけど、スカウトされる前はモデルとかをしていてアイドルになるなんて考えてもいなかった人ばかり。

「これからは特にですね! はぁとより若い子達もたくさんデビューするでしょうし?」

「そ、そんなにいじけなくても」

 はぁとちゃんの手がお酒に伸び続けている。
 この子は酔うとめんどくさいんだけど……

「ナナ先輩もはぁともいますからね。希望があるって残酷なことなんだぞ☆」

「なんとなくですけど、わかりますよ」

 ずっとずっと続けられた私の方が珍しいことはわかってる。

「道は見えてて一人も到達してないか、道があって二人は到達してるか。成功を見てしまった分、上手くいかないときの落胆は大きいからな☆」

「でも、これからは間口は広がるはずですから」

「そうですね♪ こんなことは、はぁとには関係ないですけど☆」

「はぁとちゃんはもうアイドルですからね」 

 ここから先は、どう生き残っていくかの戦いになる。

「だから、今は自分のことだけ考えないと☆ 歳が歳なんで☆」

 話さないといけないことは全部終わったかな。
 昔も散々やってきたからか、話しながらもそれなりに食べたり飲んだりしていたようだ。
 今は思い出話もしながら鍋をつついていることだし。


「――つまり、ナナ先輩には大馬鹿をデビューさせるくらい魅力があったってことで♪」

「そう言われると嬉しいですね」

 なかなか憧れられるアイドルにはなれなかったから。

「そういうわけで、ナナ先輩には責任を取ってもらわないと☆ 取れよ☆」

「……えっ?」

 微妙にはぁとちゃんの目が細くなってる気がする。
 体も少し揺れているし……

「ほら☆ 飲むぞ☆」

「えっ、はい」

 はぁとちゃんが飲みかけのお猪口に注いできた。

「ほら☆ もう一杯☆」

「え、あの、ゆっくり飲んだほうが……」

「飲むぞ☆」

「あの」

「飲むぞ☆」

 無限ループに巻き込まれたみたいだ。
 はぁとちゃんの介抱も必要だし、ペースは抑えよう……


「はぁとは無理してんじゃねーっつーの☆」

 ダンッ、とお猪口がテーブルに叩きつけられる。
 もう鍋はすっかりなくなって、口に運ばれるのはお酒ばかり。
 
「ちゃんとお水も飲むんですよー?」

「これくらいで潰れるわけないですよー」

 そう言った途端に、首がガクッと崩れる。
 そろそろ寝かせることを考えた方がいいかもしれない。

「……それに、はぁとはあいつのことなんて認めてないんだぞって……」

「あいつ?」

「ナナ先輩はすごいんだぞ……いつも頑張って……ナナ先輩の、パートナーは……」

 誰のことを指しているかはわかった。

「大丈夫ですよ。杏ちゃんはいい子ですから」

「でも……」

「いつも周りの人のことを考えてる、優しすぎる子です。はぁとちゃんも、見てればわかりますよ」

 それに――

「アイドルは楽しいですから。だから、この楽しい毎日が……みんなとの毎日がすっと続きますようにって。それだけが、私の願いです」

「…………納得できない、けど……見てから決めます」

 対立さえしなければ十分だ。
 ただでさえ、これから杏ちゃんは忙しくなるのだから。
 あとは、あの子次第。

「寝るならちゃんとお布団で寝てくださいね?」

 はぁとちゃんはもう落ちかけている。
 布団は敷いてあるし、とりあえずそこに寝かせて、灯りを消して……

「ちょっと動けますか?」

「ん……」

 なんだか、今日も苦労しそうだ。
 でも、これも久しぶりで懐かしい。
 たまには悪くないのかもしれないとは思える。
 ……本当に、たまになら。


……………
………



「──それじゃあみんなー? まったねー☆」

 歓声に手を振って応えながら、ステージを降りる。
 今日も大成功だ。

「お疲れ様でした。今日もばっちし☆ でしたよ」

「えへへー、照れゆー☆」

 Pちゃんは私をいつも真っ先に迎えてくれる。
 いつもすぐに褒めてくれるから恥ずかしいところもあるけど、これのおかげでいつでも自信を持っていられる。

「早めに着替えて帰りましょうか。思ったていたより時間が無さそうです」

「おっけー☆ ダッシュでお着替えしてくるにぃ☆」

 実際、時間はいつもよりは少ない。
 もしオーバーしてしまうと、延長分の料金が……あまり考えたくないことになってしまう。
 とにかく、私が外に出ないと片付けも進まないから、早く帰る準備をしてしまおう。


「それでは、お疲れ様です」

 車のドアが閉められる。
 ここからはPちゃんと二人で事務所に帰るだけだ。

「シートベルトはしましたか?」

「ばっちし☆」

「それじゃあ、出しますよ」

 意外とこれで捕まることが多いから、気をつけておかないと。
 大きいイベントの後は基本的に車で移動する。
 電車は混んでいるし、イベントのすぐ後に私達が使うのはちょっと問題がある。
 というわけで、少し時間はかかるけど車が安全安心だ。

「きらりちゃんも順調ですね」

「やっぱり? そう思う? えへへ、Pちゃんが言うなら信じる!」

 自分でも順調だとは思う。
 一気に仕事が増えたり大きくなったりはしないけど、最近は本当に安定している。
 これでいいのかなって思うくらいだけど、Pちゃんの劇的ななにかは必要ないって方針と合っているし、いいのだろう。

「きらりちゃんはそのままでいいですよ。いろいろなものを吸収しながらゆっくりと成長していけば大丈夫です」

「……うん! 最近はいろんなお仕事ができて楽すぃーの☆」

 モデルやドラマの仕事も幅を広げるために取ってきてくれている。
 実際、そこから学んだこともたくさんあった。

「リーダーとしても十分ですね。問題は他の四人ですか」

「……はぁとちゃんも?」

「それもあります」

 なにか悩んでいる様子はあった。
 雰囲気はいつも通りだったからどうしようか迷ってたけど……

「心ちゃんはなんとかなると思いますよ。菜々ちゃんもいますし、かなりのベテランですから」

「Pちゃんもいるし?」

「そうですね。ここはなんだかんだ言っても安定感が違います」

 やっぱり一回り歳が違うと経験値が全然違う。
 アイドルでも、こうやって活動している期間は同じだけど、それ以前に積み上げたステージの数にはまだ追いつけていない。
 ちょっとトラブルがあっても心配がないところは、やっぱり大人なんだって思う。


「じゃあ、やっぱり杏ちゃんと志希ちゃん?」

「志希ちゃんの方は上手くいったら儲けものくらいです。そう考えると杏ちゃんもですか」

「んん? んー?」

「かわいい子には旅をさせろ、ということです」

「にゃるほど☆」

 志希ちゃんは残ればいいってくらい。
 杏ちゃんはこれで成長して欲しいってところかな?
 
「二人とも本気になってくれるといいんですけどね」

「杏ちゃんはどうかなぁ……?」

 杏ちゃんが本気になるのって難しいと思うけど……
 それよりも、志希ちゃんと上手くいくのかの方が心配になる。

「なにかあったら……まずはきらりちゃんにお願いするかもしれません。杏ちゃんが私に素直に話してくれるとは思えませんし。きらりちゃんには迷惑をかけますけど」

「任せて! だってきらりはリーダーだから☆ 杏ちゃんも、親友だからにぃ☆」

 杏ちゃんのことはほっとけないから。
 ちょっとだけ、気にしておこうかな。


「Pちゃんも、今日はちゃーんと寝るんだよ?」

 今でもこうやって現場に出てきてくれる分、お仕事は大変なはず。
 好きでやってるみたいだけど、それでも体には気をつけてほしい。
 今なら、頭を撫でれるかな?

「――っ」

「にょわっ!?」

 車が揺れた。
 車線をはみ出したりはしなかったけど。

「……私が弱いの知ってますよね?」

「えーと……ごめんなさい☆」

 運転中はちょっとだけ危なかったかもしれない。
 だって、全然させてくれないから久しぶりだったし……

「きらりちゃんちょっとドライブしていきましょうか」

「ええっ? だってもうすぐ――」

「さて、懐かしいですね」

「ちょ、ちょっとPちゃん! そっちは高速――」

「今日はこっちで来ていてよかったですね。ちょっと遊びましょうかRB20DET」

「にょ、にょわ~~!? ごめんってば~~!!」


……………
………


「はぁとちゃん、少し休憩しますか?」

「ぜんぜん……よゆう……だし……☆」

 言葉が途切れ途切れでも、息を荒げていない根性はさすがと言う他ない。
 私達は今、温泉のロケで山登りをしている。
 ……なぜかは考えるだけ無駄だ。そういうものと思うしかない。

「……実は自分が休憩したいだけじゃないんですか?」

「いえ、全然?」

「……」

 本当にまだ体力は余っている。
 そうじゃないと、ライブなんてやっていられない。

「これ絶対に旅館まで道路ありますよね?」

「なきゃおかしいですよ。でも、残念なことにこの展開がおいしいんですよね」

「でーすよねー♪」

 はぁとちゃんは背負ってるリュックが大きいせいで体力を削られていると思うけど。
 そんなになにを入れてきたんだろう。


 少し休んだ後、ペースを落としてまた登り始めた。

「もうあとどんだけ歩けばいいんだよ☆」

「かなり近づいたとは思いますけど」

 元々、ここはキツいルートではないし。
 温泉前のレッスンよりは軽い運動と思えば耐えられる。
 とはいえ……

「それでも、楽ができるなら楽をした……」

 カーブの先を見て、続けようとした言葉が途切れる。
 瞬きをしても、見えている景色は変わらない。
 目の前に、猪がいた。

「こういうときって、目を合わせながらゆっくり下がるんでしたっけ? それとも鈴でも鳴らすんですしたか?」

 どうやら気づかれたようで、ゆっくりとこちらに向き直っている。
 一応都会育ちではあるから、私は猪の対処法なんて知らない。
 私とスタッフさんがじりじり下がるなか、はぁとちゃんだけがその場から動かなかった。

「ったく懐かしーなー実家を思い出すなーどーせこんなことだろうと思ったぞちくしょう☆」

 背中越しで表情は見えないが、呟く声に込められた気迫に圧される。
 猪はこっちに向かって突進してきたが、途中でガクッとその足が止まった。

「こんなところに罠? いや、逃げてきたけどここで絡まった? これなら……」

 片足にワイヤーが絡まっている。
 もう片方は道の端にあるポールに結ばれていた。

「……よし。とりあえず、邪魔、すんな♪」

 そう言って、はぁとちゃんが歩き始める。


「ちょ、危ないですって!」

 私が声をかけても、止まる気配はない。
 途中でリュックに片手を入れて――

「物理的☆ はぁと☆ あたぁぁあああっく!!」

 ギリギリまで近づいたところで、取り出した金属製のハンマーを頭に振り下ろした。
 猪の脚が力を失って体が横に倒れる。

「そーれっ☆」

「うわぁ……」

 軽い掛け声と共に追撃。
 その光景を呆然と見ていることしかできなかった。

「アイドルなめんなよ♪」

 なんで狩れるのかとか、なんでそんなものを持ってきたのかとか言いたいことはたくさんあるけど。
 それ、アイドルは関係ないと思う。


「あ"~い"き"か"え"る"ぅ~」

「ナナ先輩、さすがに油断しすぎだぞ☆ てか自重しろ、おい☆」

 なにか言ってる後輩は無視することにする。
 温泉のロケでちょっとした登山から撮影をこなして、やっとゆっくりできるようになったところだ。
 ……はぁとちゃんが自棄になってキャンプ用具一式を持ってきててよかった。
 ともかく、ここは貸切だし、他には誰にもいないからお風呂くらい自由にさせて欲しい。

「だめだこいつ、全然聞いてない……」

 明日も撮影は続くから足腰を労わらないと。
 それにしても、はぁとちゃんはずいぶん私の扱いが雑になってきた。
 これはこれでいいことなんだけど。

「はぁとちゃんも遠慮がなくなりましたよねー」

「いちいち気にしてたらもちませんって。誰のせいだと思ってんだっつーの☆」

「さぁ? 誰のせいでしょうねー……」

 こういう話は流すに限る。
 若干やさぐれたのは私のせいじゃないはずだ。
 ああ、温泉が気持いい。

「それで、なにを悩んでるんですか?」

「……別に」

 返ってきたのは素っ気ない一言だけ。
 拗ねたような口調に苦笑してしまう。

「このキャラに後悔してますか?」

「……それはないです。はぁとだって他じゃもう限界っしょ☆」


 わざわざ二十六歳からアイドルを始めたんだから、そのくらいの覚悟はできてるしアイドルをできることが幸せなのは間違いないはずだ。
 となると、理解はしても納得がいかないというところか。
 アイドルをキャラだと考えてたら……

「ままならないですね……」

 ぐーっと天を仰ぐ。
 東京の空とは違って大きな月と星空が広がっていた。
 冷たい空気が顔を撫でて、少しは頭が冷えた。

「そう気にすることでも……ん、ないと思いますけど」

 岩陰から聞こえた声に溜め息がこぼれた。

「プロデューサーさん、なんでいるんですか?」

「冷たいですね……はぁ、私もここを使えるはずですが」

「だって町の方に出てたじゃないですか」

「ん……すぐ帰ってきましたよ?」

 姿は見えないけど、心底不思議そうな顔をしているのがはっきりと思い浮かぶ。
 最近は大人しかったけど、こういう人だった。

「それはそうと……心ちゃんは勘違いしてるだけなんですよ」

「勘違い?」

 それだけじゃわからないと思うけど……

「……菜々ちゃん」

「丸投げですか、もう」

 初めからそのつもりだったから別にいいんだけど。
 すぐ近くにプロデューサーさんがいるとなるとなんだか釈然としない。


「はぁとちゃん、ナナ達の一番の武器ってなんだと思いますか?」

「……キャラ?」

 返ってきたのは、予想通りの答えだった。

「それはなりたいアイドルですけど、武器じゃありませんよ」

 あくまで、それは理想の自分であり、一要素でしかない。

「じゃあなんだって言うんですか? こんなアラサーでアイドルなんて――」

「そこですよ。他人には絶対ないもの、経験です」

 もし歳を考えずに、新人アイドルとして見たら。
 スタート時点でのレベルに圧倒的な差があることになる。

「考えてみてください。デビュー時点でステージに立った回数が三桁以上なんてアイドルがいますか? まるで転生チートヒロインですよ」

 私で四桁、はぁとちゃんはいくらブランクがあるといっても三桁はこなしている。

「……どっちかというとお局様で悪役令嬢だぞ☆」

「JKにお局様はいませんからね!?」

 調子が戻ったのはいいけど、相変わらず遠慮がない。
 でも、楽しそうに笑うはぁとちゃんを見たらこれでいいかと思えてくる。


「ナナ達は芸人にはなれませんし、突出した才能もありません」

 ウサミン星人は笑われるためのものじゃない。
 才能があれば、この歳まで売れ残ることもなかった。

「でも、ファンのみなさんが一番楽しみにしてるのはライブです」

 デビューしてから、みんなが一番楽しんでくれて、もっと見たいと言ってくれるのはそれだった。

「ナナの目指しているのも歌って踊れる声優アイドルですし……やっぱりアイドルは歌って踊ってこそってことですかね」

 たくさん手紙を貰ったときは、やっぱりアイドルだって感じたし。

「どんなキャラがあっても、ナナ達は意外とステージで勝負するしかない正統派アイドルなんです。だから、経験に裏打ちされたパフォーマンスと安定感で戦うしかない……そ

う、思ってます」

「…………そっか☆」

 はぁとちゃんの返事はそれだけだった。
 ここから先は、自分の中でゆっくりでもいいから納得できる答えを探すしかない。
 そこははぁとちゃんになら安心して任せられる。

 ……あとのことは、なにかを飲んでいるらしいプロデューサーさんをこっちに引きずり出してから考えよう。


……………
………


 番組前の楽屋で落ち着けないのは久しぶりだ。

「~~♪」

 絶対に、こいつのせいだけど。
 バタバタと暴れている志希を眺めたところで状況は変わらない。

 そもそも、本番前に白衣とTシャツという衣装(普段着)で楽屋にいる私達が言うのもおかしいだろう。
 クイズ番組の前はとにかく参考書を読んだりすることもあるらしいけど、私達にそれが必要とも思えない。
 今更足掻いたところでどうにもならないことだし。

 このクイズ番組は四チームが終始ポイントを奪い合う、台本無しの本気の戦いが売り。
 どれだけ人気がある芸能人でも、最後までクイズについていけなければ出演できない。
 とはいえ、基本的に求められる知識は難関大学合格程度だから無茶苦茶に高いわけではない。
 +αで趣味の知識があると有利だけど。

 そんなところになぜ私達がいるかというと、プロデューサーが話を通したからだ。
 大方、志希の経歴を見せたんだろう。

 志希がデビューしてここまでは短い間だけど、数回小さなイベントをこなしてきた。
 私と一緒だと箱はかなり大きく出来るが、そうすると志希がおまけになってしまう。
 そうならないように、志希の名前も売りつつ活動を広げていく方針だが……いきなりアリーナ級に放り込んでもこいつならなんとかしそうだ。

 それはともかく、天才少女一ノ瀬志希の全国デビューとしては相応しい舞台なんじゃないかな。

「……ん?」

 ぼんやりしていたら開始が近づいていた。
 待っていても仕方ないし、準備を始めるか。

「志希、行くよ」

「りょーかーい♪」


「さあ始まりました――」

 本番、開始。
 司会の声を聞き流しながら椅子に座って休んでおく。
 才色兼備とでもいうのか、頭がよくアイドルでもおかしくない……おかしくないはずのアナウンサーとして川島瑞樹が司会を務めている。

「赤チームは『Wizardry』から双葉杏ちゃんと一ノ瀬志希ちゃんです!」

「よろしく~♪」

 名前を呼ばれたから、適当に手を振っておく。
 これでルール説明が終わるまでは暇になるはずだ。

 第一ステージは7×7マス、20問の陣取りゲーム。
 スタート時には四隅の一マスがチームの陣地だ。
 10点、20点、30点、40点、50点のパネルからクイズを選び、早押しで回答する。
 当然、難易度が高いほど得点も高くなる。
 回答時に10ポイントで隣接した一マスを塗り替えることができる他、ポイントをストックしておいて自分の陣地が塗り替えられそうになった時に防ぐこともできる。
 ストックを陣地拡大に使うこともできるが、クイズに正解したときのみだから注意が必要だ。

 ジャンルは基本教科を含め多岐にわたり、次のクイズの選択権は直前の回答者に与えられる。
 もしも常に勝ち続けることができるならば、ドローモンスターカード(ずっと俺のターン)も可能。
 ただし、同じジャンルを二回続けて選ぶことはできないため、そうそう上手くはいかないらしい。

 今回に限っては、このチームなら不可能ではないと思うけど。
 プロデューサーが仕事を取ってきて、番組側も出演させたということは優勝しても問題はないということだろう。
 負けたら負けたで仕方ない。そういう相手だってここには出てくる。
 出演者を見た限り、その気配もないが。

 ともかく、余計な気を使わなくていい仕事は大歓迎だ。


「それでは第一ステージ、パネルクイズ開始!」

 司会の掛け声と共に問題が展開される。
 それと同時に、一問目である数学の10も表示が始まる。
 その瞬間に、ボタンを押した。

「赤チーム早い! 解答は?」

 ボタンを押すと同時に問題を見た。
 答えに詰まると回答権が移ってしまうが、司会のトークと合わせても数秒は時間がある。
 毎回恒例の一問目はその時間で解ける問題だ。
 x^2+x-42=0程度なら……

「x=6,-7」

「正解! 赤チームには次の問題の選択権が与えられます」

 こうやって、ただの早押し勝負になることが多い。
 この分野で簡単には負ける気がしない。
 表示と同時にボタンを押すのはゲーマーの基礎科目だ。
 入った10ポイントで隣のマスを塗っておく。

 さて、次はなにを選ぶかだけど。

「化学の50」

「へぇ……♪」

 隣から楽しそうな声が聞こえた。
 志希は興味がないようだけど、この番組を私一人でなんとかするなんてそんな面倒なことをするつもりはない。
 だからこの気分屋に言えることは……起きて、給料分は働け。
 この問題くらいは簡単に答えられるだろう。


「二問目は、化学の50です。赤チーム、いきなり勝負に出てきました!」

 50ポイントの問題は、知識がなければ解けないものもあれば、全文を聞いて推測すればなんとかなるものもある。
 問題自体は簡単だが手間がかかって暗算では難しいものも。これはボーナス問題に近いのだが。
 さて、今回はと言えば。

『化学式C11H17N3O8で――』

「テトロドトキシン♪」

「……正解です!」

 ほら、瞬殺だ。
 入ったポイント全部を陣地拡大に使う。
 たしか、これはフグの毒だったっけ?

「志希ちゃんはやはり化学が得意なようですね。彼女は――」

 簡単な志希の経歴紹介を聞きながら横を見る。
 どうやら、次の問題は選ばなくてもいいらしい。


「数学の50~♪」

 やる気を出してくれたようでなによりだ。
 これも確実に取れるだろうし。

『1~5までの数字を重複なく1列に並べるとき、1~3番目の数の和と3~5番目の数の和が等しくなる確立を求めよ』

 ええと……5つの数字の和が奇数で並べたとき真ん中に奇数が来るから3通りに対して――

「1/5!」

 ――組み合わせがそれぞれ2通り、全部で25通りだから答えは1/5。
 やっぱり、志希の方が速い。

「せ、正解です! またしても50――」

 入ったポイントを全て拡大に使って、溜め息をついた。
 どうやら、まだまだ終わりそうにない。


「次は物理の50でー♪」

 知らない知識が出てきたら終わりだけど、基本科目でそれはなかったはず。

『東京スカイツリーのてっぺんからリンゴを落としたとき、地面に着く直前の速さはいくらになるか。スカイツリーの高さは634m、重力加速度は9.8m/s^2とする』

 たしか、開平法で計算する問題だったはず。有効数字の指定がないってことは最低でも三桁は必要だ。
 重力加速度の公式から2ghを解いて……12426.4。
 v^2だから開平法で……1、1――

「111.474m/s!」

 スタジオが静まり返る。
 ともあれ、志希の計算結果なら正しいだろう。
 そういう信用はできる。

「……ちなみに、時速だと?」

「401.306km/h♪」

 401.306km/h。
 というか、こんな問題前にテレビで見たような……だから解き方も知ってたし。
 数学オリンピックレベルの人が紙とペンを使って三〇秒はかかっていたような気がする。
 時速を聞いたのは趣味だろうか。

 わかっていたことだけど……単発の計算ならなんとか後をついていくことはできるが、それなら志希がいれば十分だ。
 たぶん計算法なんて知らずに平方根を計算したはず。それも、無駄なところまで。
 これ以上は演算能力が違いすぎるから、同じことをやっていても意味がない。

 というわけで、ここからはもっと効率よく稼ぐことにしよう。


「アニメの50」

 選択権を貰っておこう。
 ここはよほど古いかマイナーなものが来ない限り確実に勝てる。
 さて、どんなのが来るかな。

『幽体離脱フルボッコちゃんのステッキにある宝石の色は――』

「……ピジョン・ブラッド」

 他局のアニメなのに、本気か? 本気でそんなところを最上級問題にしたのか?
 設定資料集のメモ書きにしかない知識だから難易度としてはいいんだろうけど。
 もしアニメだけ見てたら、確実に取れてなかっただろうな……

「赤チームの快進撃が止まりません!」

 あとは……最近見たアニメの影響で調べたジャンルはあったな。
 他よりはなんとかなりそうだし、これを行っておこうか。

「ミリタリーの50」

 さて、空が出ませんように……

『第二次世界大戦中、東部戦線において編成されたドイツ国防軍B軍集団司令官の名前は?』

 ……なんだこれ。どう考えてもマニアしかわからないハズレ問題だろう。
 ……いや、最近どこかで聞いたはずだ。
 ソ連関係ということは……あのときか。
 フルネームはわからないけど、たしか……

「ヴァイクス上級大将?」

「……ええと、正解!」

 それ以上答えろと言われたら終わってた。
 しかし、961プロの白い妖精とお話しておいてよかった。
 あるドラマCDの仕事が来てその知識をつけるためだったけど。

 ただ……あんなのと戦争するくらいなら、ラインで戦闘団でも指揮して戯れていた方がマシだと思う。
 アニメ化されたときに一緒に声優をやることにならなきゃいいけど。


 さて、他にそれなりに範囲を絞れてかつ難問の可能性が低いのは……

「日本史の50」

 最悪、誰もわからなくて流れるはず。

『初代外務大臣の名前は?』

「井上馨」

 とりあえず、これくらいか。途中ギャンブルもあったけど、結果がよければいいんだ。
 ここまでで310ポイント32マスを制圧した。
 残りも志希と分担すれば簡単に取れるだろう。その前に相手の戦意が折れなきゃいいけど。

 さて、プロデューサー。こんなところに私達を送り込んで、こんな状況になったんだから。
 別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?


 クイズは最後まで一方的な展開だった。
 あまり面白くはないだろうけど、視聴者諸君は一週間くらい我慢してくれ。

 女子寮と私の家に向かう電車は空いていると言っていい。
 車両に数人ずつ乗ってはいるが、かなりバラけているため周りに人はいない。
 なんの罪悪感もなく椅子に座っていられるわけだ。

「杏ちゃんはね、逃げたけど向かってきたし、でも協力プレイはしてたし……戦略的撤退?」

 あと、隣にこいつがいた。

「……で?」

「ギリギリごーかく♪」

 なにがだ。想像はできるけど。

「一番楽でしょ、それが」

「そう! とっても合理的だ! そういうところがキミらしいよね~♪」

 褒められているはずなのにイライラする声色。
 その表情、不快だ。

「ねぇ現実主義者の杏ちゃん、キミはなんでアイドルなんて無駄なことをしてるのかな?」


「労働時間が短くて収入がいい。見ればわかるはずだけど?」

「この有名アイドルめっ! じゃあ、将来は?」

「どこかの事務所に事務で雇ってもらえばいい。業界を知ってるしそれなりに処理能力も高いし」

「そっかそっかー♪」

 無駄に上機嫌に人生プランなんかを語って、なにがしたいんだか。

「もうちょっと、面白いかと思ってたけどなー」

 次に口を開いたときには、感情が抜け落ちていた。

「面白い? 金と時間と労力の無駄だね」

「にゃはは、厳しいね」

 今度は、普通のテンションで。
 気紛れな、猫みたいな奴だ。真面目に付き合うだけ馬鹿らしい。

「私を私だと理解して、その上で突っかかってくるような人って貴重なんだよ?」

 それはそれは、大層なお悩みだ。
 天才過ぎて困るなんて、悩みの中では贅沢な方に違いない。

「アイドルには沢山いるけどねー、私と同じタイプなんてレアすぎる」

「だから、それに何の関係がある? まさか楽しいから一生足掻き続けろと?」


「それこそありえない。アイドルはお勉強とは違うし~♪ だから、なんでキミはアイドルなんてやってるのかなって♪」

「ファンのみんなを笑顔にするため……とでも言っておけば満足?」

「キミがCircusを大切に思ってることくらい知ってるよ。だけど、他人のためじゃここまでできないと思うんだよね♪ 性格的に♪」

 ああ、そうか。そういうことか。

「アイドルとしての成功なんてただの結果論。そんなあやふやなものに未来を懸けるようには思えないんだよね~♪」

「失敗したとして、高校で辞めれば影響は少ないはずだ」

「成功したとしても不安定なこの仕事、なんの興味もなかったら本当に選んでた?」

「それこそ、スカウトされたらやってたね」

「なるほど♪ じゃあ、今のお話をしよっかー♪」

 こう言いたいんだろう?
 平凡で平穏な未来の可能性が削られていく中、なぜアイドルを続けるのかって。

「普通に大学に行って普通に就職した方がキミの望む未来には近い……なんてことはわかりきってるからいいとして~♪ なんで、まだ他人のためにアイドルをできるの?」

 事務所が成功した今、まだきらりと菜々さんとプロデューサーのためだけに続けられるのかって。

「お金が入ってくるでしょ」

「そんなのは一要素に過ぎない。お金に困ったりはしてないはずだよ?」

「それ以外に理由があるとでも?」

「うん、ないね。お金と愛着と惰性以外になんにもない」

 さっきと言ってることが違うだろう。
 こいつの思考はどうなってるんだ。

「今辞める方が面倒なのはわかるけど……なにもしなくてもBランクになれたからかな? うん、キミにはアイドルの才能があるから♪」

「持てる者の義務(ノブレスオブリージュ)とでも言うつもり? くだらない」

「逆だよ逆。それを自分のためだけに使えばいいのにねって♪」

 志希が立ち上がった。

「それで、なにがいいの?」

「私達が楽しめる。志希ちゃんは楽しいことには労力を惜しまないのだー!」

 歩きながらも会話は止めない。

「どうせなら本気になってくれたら面白そうだし♪ 駄目でも私は構わないんだけど――おっと」

 電車が止まって、ドアが開く。
 志希は片手を上げて、手を振りながら出て行った。

「――期待してるよ~♪」

 私に、どうしろって言うんだ。


……………
………


 暇だ。本当にやることがない。
 休暇は嬉しいけど、娯楽を消費し尽くすとある種の地獄に変わる。
 怠惰に過ごすのは大歓迎だが、なにもしないこととは違う。
 退屈は人を殺せるというのも間違ってはいないと思う。

 するべきことはあるけど、それは仕事であって今することじゃない。
 時間外労働に対しては厳しい態度で臨む所存。

「あーんーずーちゃーん☆」

 後ろから背もたれ越しに手が回される。
 丁度いいところに来てくれた。
 ずっと事務所のソファーに座ってテレビを眺めていても、やることがなくて大変だったんだ。
 分析しながら適当に待機ってのもつまらないし。

「今は暇だった? ねぇねぇ?」

 当分解放されないな、これは。
 まぁでも、今はむしろラッキーだ。

「なんにもやることないよ」

「よかったー☆ はぐはぐー♪」

 一年も経つとこの格好にすっかり慣れてしまった。
 って頭に顎を乗せるのは止めろっ! 普通に痛いから――ああもう!


「痛っ」

「むぇ~」

 頭を思いっきり横に倒してきらりを落とした。
 首にダメージが来たけど、これくらいなら許容範囲だ。

「杏ちゃんは最近どお?」

 そのままの体勢で話を進める気らしい。
 これにも悲しいことに慣れてしまったからいいんだけどさ。
 けっこう負担がかかりそうだけど、きらりは疲れないんだろうか。

「ぼちぼち?」

 私の方はいつも通りとしか言いようがない。

「きらりこそどうなの? 最近は忙しそうじゃん」

「Pちゃんがたっくさんお仕事取って――って今はそんなことどうでもいいの!」

「いっ……」

 耳元で大きな声を出さないでくれ。

「杏ちゃん、駆け引きとか嫌だから単刀直入に訊くよ? 最近、何を悩んでるの?」

 ……どうしようか、これ。


 私自身、はっきりと整理はできてないんだけど。

「本気って、なんだっけ?」

 何かに全力で打ち込んだことがなかったから、よくわからないんだよね。
 生徒の自主性を尊重する高校(放置プレイでサボり放題)が東京にあるから、って理由だけで上京して一人暮らしをできるくらいにいい家に生まれて。
 一部を除いて必要最低限の練習で大抵のことはそれなりにできて。
 特に向上心もなく説教が嫌だからってくらいのモチベーションしかなくて。
 つまり――

「やる気なくてもだいたいなんでもできるから、逆によくわからない」

 志希と同じ種類の贅沢な悩みであるわけだ。
 とはいえ、これ以上レッスンするところってあるのかな。

「えぇー……」

 すっごく微妙そうなきらりの声が耳元で聞こえた。
 といっても、きらりは小学校の間のことを知ってるし、別れてからのことは全部話してある。
 そこから一年は一緒にやってきた。

「きらりは誤解しないでしょ?」

 どんな嫌味だって話だけど、こんなことを言えるくらいの信頼はあるから。

「それはそうだけどぉ」

「それで十分だよ」

 こんなの、きらり以外には話せないし。


「それって、志希ちゃんとのこと?」

「まぁ一応は。関係あるかな」

 私よりできる奴なんて、それなりに才能を持った上で努力をしたか、最初から敵わない才能を持った変態か。
 前者なら私も真面目に努力し続ければなんとかなる。それが一番難しいけど。
 ともかく問題は、あいつが後者だってことだ。
 頑張ってても怠てても、そこには絶望的な壁があるから。

 しかもギフテッドを自称していて、それは本当らしい。
 ただの天才ならまだやりようはあるけど、興味を持ったことに全力で探求するような奴の相手は無理だ。
 知能だけじゃなくて運動も優れていることだし。
 とはいえ、アイドルに限れば専門外なことはたしかだ。
 だからどうしたってことだけど。

「ん~~…………杏ちゃんは負けて悔しいって思うかな?」

「別に、なんとも思わないなぁ……」

 負けて悔しがってたのなんて、小学生のときくらいか。
 もうずっと昔のことに思える。実際、ほとんど思い出せないし。

「アイドルになってから、負けても平気そうだったからね……」

 同格以上には負けても仕方ないし、格下にはわざわざ負ける理由もないし――

「杏ちゃんだけランクが上がったらバランスが悪いからなの?」

「……杏はそんなことまで考えてない」

「大丈夫~怒ってなんかないよ! そっちの方が楽だし、きらり達も助けられたとこはあるから!」

 頑張らずに進みも遅れもしないでやっていけば、目立たないし疲れない。
 なによりも楽がしたいって考えだけでそうしていたし、きらりが言ってたような立派な理由なんてない。


「それを踏まえた上でね? 志希ちゃんには負けたくないんだ?」

「そ、れは……」

 私がそんなことを思っている?
 絶対に手が届かないのに?

「ありえないよ。差なんて、違いなんて嫌というほどわかってる」

「そんなことないよ」

「最低限の努力もできないような奴がどうにかできる問題じゃない」

「そんなことない」

「頑張ったところでどうしようもないし。無駄に足掻く――」

「そんなこと、ないっ!」

「――っ」

 きらりの叫びに、言葉が途切れた。

「杏ちゃんはそのままでいいの。杏ちゃんは、すごいんだから。絶対に負けないもん」

 胸に回された腕に力が込められて、少し苦しいくらい。
 でも……身動きはできなかった。

「それにね……杏ちゃんはたしかにすごいよ。でも……でもね、きらりは追いついたよ? これから先、杏ちゃんがどこに行ったって、何度でも追いついて隣に並んであげゆ☆



 はは……もう、ずるいって。
 ここまで言われたら、きらりにここまで信頼されてたら……

「これ以上、カッコ悪いとこなんて見せれないじゃん。そんなの……私が許せない」

 まだ頭の中はぐちゃぐちゃだけど、もう目を背けれないみたい。

「なんだ……私にも、まだ負けたくないもの、残ってたみたいだ」

「よかった~☆」

 ポツリと呟くと、きらりが微笑んだ。
 ああ、もうこれで、私は絶対に負けられない。

「ねぇ、きらり……ちょっと、本気出すよ」


……………
………


 アリーナは満員で調子も良好。
 絶好のライブ日和と言っていいだろう。

 そんなユニット初の大型ライブを控えて、いつもと変わらず楽屋でだらだら過ごしていた。
 打ち合わせはとっくに終わっているし、段取りも当然頭に入ってる。
 特に今回は色々と口を出したし、いつも以上に理解しているつもりだ。

 堂々とだらけていられるのは素晴らしい。
 運動も発声もやる気はないけど……準備だけはしなきゃいけない。
 準備と言ってもステージ衣装を着ているし、舞台袖に向かうだけだ。

「はぁー……」

 大きく息を吐いて立ち上がる。
 体の力を抜いて……よし、いい感じだ。

 横を見ると、志希と目が合った。
 へぇ、別にいつもと変わらないのに気づいたんだ。
 でも、それでいい。こいつには見せておかないといけないから。

「まぁしっかり見ときなって。このステージは、超貴重だよ?」


 ステージの真ん中に私一人で立った。

「初めに言っておくけど、今日の杏はスーパー省エネモードだから素晴らしいパフォーマンスとかいつも以上に期待しないでねー」

 軽く笑いが起こる。

「あ、すごいの見たかったら何駅か行ったところで961プロがライブやるみたいだからそっちにどーぞ。開演一時間早いから間に合うかもね?」

 こんなことを言っても、席を立つ人はいない。
 当然か……ああ、それから――

「当日券がなくても責任は負いませんのでご了承くださーい。それからここは再入場不可となっておりまーす」

 たぶんあっちも完売だろうなぁ。
 思いついたままに適当に喋ってると収拾がつかなくなりそう。
 そろそろ、始めようか。

「というわけで……諸君! 私は働かなくてもいいアイドルである! いっつも言ってるけどさ」

 本音も建前も、これが私だってことは変わらないし。

「それでいいこと思いついたんだけど、杏が半分の力でやって他の人が二倍頑張る。そしたらさ、ほら。七千人が一万四千人になるでしょ? どっかの記事にも大盛況って書か

れて評判も上々」

 半分以上呆れたような笑いが起こった。失礼な、ここにいるのは全員同類だろう。
 さて――

「だからさ、みんなで私を楽しませてよ」

 その分、私が楽しませてやる。


 上手く歌う必要なんかないし、ダンスは間違えていい。
 アイドルはそれだけで決まるものじゃないだろう。
 私の武器は杏だ。
 だから、このキャラに全てを懸ける。

「働かない、全ての者達に告ぐ……」

 パフォーマンスを三〇パーセントに制限。
 余力を観察に回して、レスポンスに集中。

「これは仕事でもライブでもないっ」

 さあ、ここで証明してやる。

「我々の――正義のためにっ!」

 杏は――天才だっ!


『メーデー メーデー メーデー メメメメ メーデー』

 音楽が鳴るのと同時に、会場が揺れた。

『メーデー メーデー メーデー メメメメ メーデー』

 いつもの三割増し。でも、まだ足りない。

「スタンド弾幕薄いよ! なにやってんの!?」

『『メーデー メーデー メーデー メメメメ メーデー!』』

 六割増し。これでよし。
 あとは最後までこれを維持して、煽って煽って煽りまくる!

『「WE NEED メーデー 権利を!」』


「……という夢を見たんだ」

 曲終わりの歓声に被せるように電子音が鳴り響く。
 聞こえる声は『あんずのうた』への賞賛か、休憩がないことへの悲鳴か、二曲目への期待か。
 ともかく、すぐにコールに入れる練度はさすがとしか言いようがない。

『ぺったたぺたぺたぺったんたーん』

 キャラ名義だって立派な私の曲なわけだし、二曲目からだけどこういうセトリもたまにはいいものでしょ?
 会場のテンションはむしろ上がっているくらいだし。

 しかし、私を、特に体型を見てからこの曲を贈ってくれたことには色々とお礼を言いたいなぁ。
 ゲーセンで自分の歌を聴くのも奇妙な感覚だし、これをやってから幼女役が増えた気がするぞ。

「胸もはんこもぺったんだめう~」


「――ハンコ~~~だぁ~~~~い好きぃっ!!」

 一拍置いて、次の曲が始まる。
 二回目となるとみんな覚悟はできてたみたいだ。
 三回やってもあんまり意味がないから、連続するのはこれで最後。

 みんなまだまだ余力はあるよね?

「これで最後だまだまだいけるでしょー!? 後のことは考えるなー!」

 コールが大きくなった。
 さあ、最後も飛びっきりの電波をお届け!

「『天才とは1%の欲望と99%の妄想』っ!」


 三曲連続で歌った後、やっと会場が暗転する。
 会場の熱気はいつもと比べ物にならない。
 たくさんの声を聞きながら舞台袖に入った。

 歌にもダンスにも全然力を使ってないから、全く疲労はない。
 いい汗もかかずに最高の結果だけを得る。これが私の生き様だ。

 次は志希の番だ。
 ステージ衣装にいつもの白衣を着て、楽しくて仕方ないという風に笑っている。
 あまり時間もないし、言えるとしたら一言だけ。

「どうだ、小娘」

「あははははははははは! やっぱキミ、最っ高だよ♪」


……………
………


 事務所のソファーで。
 ランクが上がってからも、私はキャラを保つためという名目で堂々と怠けていた。

 志希も残ったしはぁとさんの活動も順調。
 そのせいでプロデューサーがまた新しいのを連れて来るかもしれない。大阪や佐渡島行ってたし。

 それにしても、もう天才やベテランとはやり合いたくはないものだ。

「ねぇねぇ杏ちゃん、それってファンレター?」

「ん? 違うよ。ファンレターに混ざってたけど」

 向かいに座っているきらりが訊いてくる。

「じゃあじゃあ、誰からなの?」

「そんなに気になる?」

「うん! だって、杏ちゃんとっても嬉しそうな顔してたから♪」

 そんな表情をしていただろうか。
 思わず手が顔に伸びてしまう。

「……きらりの言うとおりだ」

「でしょでしょ☆」

 にゅふふ~、と猫みたいな口をして笑うきらりに呆れ混じりの目を向ける。
 でもまぁ、きらりならいいか。

「北海道から」

「……そっかー」

 その短い言葉だけで、全部伝わったようだ。

「それで、なんて書いてあったの?」

「顔を見せに帰って来い、だって」

 嘘だ。
 本当はもっと便箋一杯に、何枚も何枚もいろんなことが書いてあった。

「杏ちゃんは、どうしたい?」

「そうだねぇ……」

 手紙を受け取る前から、もう答えは出ている。
 この部屋からだと……北北東はあっちかな?

「飛行機ってさ、座ってるだけだから楽だよね」

以上です。お付き合いいただきありがとうございました。
これで杏達の話は終わりです。

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