初月「エイハブ船長にでもなったつもりか?」 (148)

・地の文あり
・亀更新

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氷がカランと音を立てた。
俺のグラスじゃない。俺のグラスには氷なんて入ってない。

向かいに座る千歳が氷の入ったグラスをテーブルに置いたんだ。
回らない頭でそんなことを考えながら、必死に酔ってないぞと自分自身に訴えていた。だけどそろそろ潮時かもしれない。

千歳はなにがそんなに楽しいのか、ここに来てからずっとニコニコしてる。俺はほとんど喋らないのに、だ。
彼女は顔色こそ変わってないが、目つきがとろんとしてる。

なんにせよ、静かでいてくれるのはいいことだ。最初から千歳がついてこなければ文句のつけようがないが、今さらそんなこと言うのも馬鹿らしい。

別に千歳のことが嫌いな訳じゃない。いつも笑って接してくれるのは不機嫌そうに顔をしかめて話すよりずっといいことだし、実戦でも普段の生活でも機転の利くやつだ。

だけどたまに俺に対してお節介を焼こうとしたり、一人でどこかに行こうというときに着いてこようとするのが気に入らない。
千歳自身は良かれと思ってやってるのかもしれないが、俺にとっては余計なお世話以上の意味はない。

今日もそうだった。俺は一人で来たいんだった。
普段ならやってくるかもしれない苛立ちも今日はアルコールに潰されていた。

卓上ベルに手を伸ばす。

「まだ飲まれるんですか?」

抑制された千歳の声がいつになく心地よかった。
今回ばかりはお節介も悪くない。ただ酔ってるだけか?

「もういいよ。コーヒーを最後に飲ませて」

卓上ベルを鳴らしたあとでそんなに飲んだっけという疑問が出てくる。
ずっと俺の手元には同じグラスがあったのを覚えてる。最初あったはずのソーダが入ったグラスがなくて……

記憶が所々で抜け落ちてることに気づいて思い返すのを止めた。

やって来た店員にアメリカンを二つ注文すると腕時計を見る。

あと三十分で日付が変わる。

千歳はなにか言いたげにこっちに視線を向けている。

「困り事か?」

「いえ……そういう訳では」

「はっきり言いなよ」

「いいえ……」

千歳がもごもごやってるとアメリカンが運ばれてきた。

俺は気にしないことにして湯気を立てているコーヒーを流し込んだ。

熱湯と大差ない液体が喉を焼き、流れていく。味はほとんどわからない。

酔いは全然覚める気配がないが、気休めにはなる。明日への気休め。


「初月は上手くやれてるか?」

「そうね……大丈夫。千代田と仲良くしてます」

初月は一ヶ月前に配属された駆逐艦だ。
俺がここに着任してから二年近く経つが、新しい艦が来たのはこれが初めてだ。

単冠湾泊地は地理的にも重要な拠点ではなく、海域解放に投入される大湊の艦隊が拠点として使うほかにあまり意義はない。

そんなわけで単冠湾泊地の担当管区はこれまで、千歳型の甲標的母艦ーー千歳と千代田の二隻でカバーしてきた。

この二隻である一点を除いて特に問題は起きなかったせいか海軍は長いことここの戦力をそのままにしていた。

ようやく戦力の増強をしようと重い腰をあげた背景には、きっと横須賀鎮守府近海に現れた“既存の艦娘の性能を遥かに凌駕する”強力な空母棲鬼の存在があるはずだ。

その空母棲鬼も二週間近く前に横須賀鎮守府の第二艦隊が沈めたという報せが来たが……

そういう事態もあったからようやく単冠湾の戦力が貧弱であるとされ、増強計画が持ち上がった。
初月はその第一陣だ。

「ちゃんとやれてるようならいい」

初月はどことなく融通の効かなそうな印象があったからなにか二人と衝突があるんじゃないかと心配したが、杞憂らしい。

千歳がコーヒーを飲み終わったので彼女を先に出して会計を済ませる。

外はちょうどよく涼しく感じられた。店の中が暑かったのかもしれない。

そろそろ寒くなってくるだろうな、なんて考えながら千歳と歩き出した。

といっても道路を挟んですぐ向かいが宿舎だが。

「千代田、部屋開けてるかな」

「もう寝てるのか?」

「あの子、変な所マジメだから今ごろに寝ちゃうの」

「庁舎の宿直室、開けてもらうか?」

庁舎は宿舎のすぐ隣。通勤が楽ったらないからこんな時間まで飲んでられる。

「いいえ。その……」

俺も立ち止まって声を掛けようとすると、彼女は俺の方にかけよって両腕を俺の首に回した。
石鹸の匂いがうっすら漂う。

「外で抱きつく馬鹿があるか」

酔ってるんだな、とすぐにわかった。
なんとなく、怒って突き放すのがかわいそうな気がした。きっと俺も酔ってる。

「一緒にいたい」

「誰かに見られたら……」

「ちゃんと眠れてる?」

「いい加減にしろ」

「心配なんです」

千歳は簡単に引き離せたが、俺が歩き出しても俺の片腕だけは離そうとしなかった。


「こんなこと言いたくないけど、あまり構わないでほしいんだ」

「構わなかったらどこかに行っちゃいそう」

「関係ないだろ」

千歳の考えてることはよくわからなかった。
俺は彼女のそういう好意ははっきり拒否してきたが、当の本人は一向に改めようとしない。

一度なぜそこまで構うのか訊いたことがあった。

千歳はただ、人の感情とはそういう物でしょう、と返した。

それ以来、訊いていない。

宿舎の前で千歳と別れ、別々の部屋へ向かった。最後に見た目を細めた表情が忘れられない。

部屋の鍵を開けてただいま、と言ってみるが当然返事なんてない。

ネクタイを外してジャケットをハンガーにかけるとそのままベッドに寝転んだ。


目を閉じても千歳のことが頭から離れない。
彼女の悲しそうな顔、抑えられた声が浮かぶ。

千歳に対して罪悪感しか抱いてないのが正直なところだ。

デキの悪い俺みたいなやつに愚直に尽くしてくれ、どれほど嫌味な態度をとっても、好意的に接してくれる。俺のプライドのために続けてる仕事でどれほど酷使しようと絶対に嫌な顔をしない。

俺にはそうする価値があると見込んでそうしてくれてる。

だけど残念ながら俺はそんなタマじゃない。半分自己満足でやる仕事のために彼女へ顎で指図するような奴だ。いつまでも彼女を裏切り続けている。

嫌悪感を隠しもせずに日々過ごしてくれた方がずっと気が楽だ。早く見限ってほしい。


そんなことをつらつら考えてる内に、底なし沼にズブズブ沈んでいくように寝入った。

今回はここまでとします。
明後日ごろ再開します。

早起きという習慣に感謝しなければいけない。
前日どれほど飲んでも、目覚ましをかけなくても射し込む朝日のおかげで六時ちょうどに目が覚めるのだから。

寝起き特有の気だるさはあるが、頭痛はない。むしろすっきりしている。

最初に浮かんだのは今日の執務のことではなく千歳のことだった。
ひとまず考え過ぎ、ということにして頭から追い払う。ああいう態度を取られたことは過去にもあった。

だらだらとシャワーを浴びて身支度をして、だらだらコーヒーを飲んで新しいスーツを着てようやくご出勤。

庁舎の警備をしてる陸戦のやつらはむくんだ顔を引き締めて、俺が門を通ると敬礼して迎えた。

執務室はしんと冷えていた。
もうすぐ十月。冷えてくる時期だ。北海道より北の土地と言っても騒ぐほど寒くない、と前任者は言っていた。しかし寒いものは寒い。

執務机に駆け寄って暖房をつける。
さぁここから。暖房をつけてから部屋が暖まるまでが一番長い。

机には書類が何枚か重ねてある。毎朝通信隊の曹長が俺が来るより早くに置いていってくれるものだ。

書類に目を通すが、新鮮味は当然ない。
横鎮近海の空母棲鬼が倒されて以来、どこの根拠地もすっかり平常に戻った。

横須賀、大湊、呉、佐世保、舞鶴の五港はまた海域解放に戻ったみたいだし、他はこの単冠湾泊地と同じように日々警戒を行っているのだろう。

平常に戻ったのだから、せめて大湊くらいはここに戦力を割いてほしい。
しかしどれほど凶悪な敵が近海に潜んでいても、“当面の脅威”にならない内は海軍も策を講じてくれない。

お役所とはそんなもの。故障が目に見えて初めて予算を申請し、修復できるのは翌年度だ。

一通りの書類に目を通して添えてあったリストにチェックを入れると書類を机の端に寄せた。

引き出しから羅針盤を取り出し、そっと机の上に置く。その上に手をかざすと、羅針盤はぼんやりと泊地近海の海図を空に浮かび上がらせた。

赤い印は見えない。少なくとも“なにか”があることを示す白い点はぽつぽつある。

思わず舌打ちした。

やつは今日も姿を見せない。どこか深いところに潜ったのか。

姿を見せろ臆病者。

掌の中でボールペンが折れた。

やつのせいで今の俺はこんなことになった。
あいつを倒したところでまともなルートに戻れる保証はない。だけど倒さなければ収まりがつかない。

あれだけは俺が沈める。兵隊なんかにトドメを刺されることだけはお断りだ。

執務室の扉が叩かれる。

「空いてるぞ」

小柄だか彼女の足取りは高名な武道家のように堂々してる。ああいう歩き方をしても威張っていると思われないのは大したものだ。

「おはよう提督」

初月はバラでも添えてやりたくなるような爽やかな笑顔をする。
千歳が初めて見たときにカッコいいとはしゃいでたのを思い出す。


「おはよう初月。早速で悪いけど、これ通信隊のところに持ってってくれ。ここには戻らないでいいから控え室に行っててくれ。〇九〇〇からブリーフィング」

「うん。了解した」

記入した書類とチェックリストを渡して早々に部屋から出す。
この短時間も少し前は耐えられなかった。

少しでも早く彼女らを追い出したい。
一時千代田が秘書艦だった頃がある。あれはひどかった。

俺の顔を見れば食って掛かり、俺になにも関係のないことでも俺のせいにしてた。
あまりにひどくて後で笑えてくる。

出ていく初月の後ろ姿を見送りながら最近千代田の顔をまともに見てないことを思い出した。

今回は以上です。
明日もう少し続けます。

あの男のことはよくわからない。
初月が自分の指揮官について説明を求められたときに唯一言う事はそれだけだった。

実際その通りだ。
彼と仕事のこと以外に言葉を交わしたことはないし、初月が彼のことを知ろうとしても話そうとしない。

前任地の話、さらにその前のこと、私生活。色々訊いたが、すっかり無視された。
わかっていることはここに赴任する前は函館基地の航巡艦隊を指揮していたということだけだ。

上官が塞ぎこんでいるのは悲しいと感じたのも最初の内。今となっては気味が悪い。

気味が悪いと言えばもう一つ。
彼はある深海棲艦を執拗に探している。

潜水艦型らしいが、カ級やヨ級ではなくもっと大きくて、装甲も遥かに硬いという。
マッコウクジラのような青い方が本体に見えるが、そちらが艤装で本体はそれにまとわりついた白いクラゲ状のもの、と見た目も詳細に話していた。

既存の深海棲艦のカテゴリーには当てはまらず、やがて新たに設ける必要があるだろうとも言っていた。

ここでは古参の千歳や千代田はそれらしいものと会敵したことはあるが、直接見たことはないそうだ。

本当に存在するのかどうかもわからない敵を追っているというのも気味が悪い話だ。たまに彼の気は触れているのではないかと思えてくる。

しかし今のところは不都合はないから、彼の指示に従わなければいけないだろう。

彼の言った通りに書類を通信隊の詰所まで持って行き、控え室に向かう。
だいぶ前から千歳と千代田は来ていたらしく、二人でなにか楽しそうに話していた。

「あぁ来たのね!」

千代田が駆け寄ってくる。
屈託のない千代田の笑顔を見ていると時おり不安になる。たぶん駆逐艦初月の記憶がすっかり焼きついているからだ。
艤装と長い時間を過ごすほどに艦の記憶も色濃く伝播する。

「おはよう千代田。〇九〇〇からブリーフィングだ」

「えぇ……早いなぁ……もうすぐじゃん」

「いつも通りだろ」

千歳が難しい顔をしてティーカップを差し出してきた。

「提督、どうだった?」

「どうだったって?」

「調子が悪そうだったりとか」

「提督はいつも調子悪そうにしてるじゃないか」

「そうだよお姉ぇ。あんなやつのことなんてどうでもいいじゃん」

千歳と二人で話しているのが気に障ったらしい千代田が割って入る。

「そんなこと言っちゃダメ、千代田。上官なのよ?」

千代田がなにかぶつぶつ不満を言ってると、噂の主が部屋にやって来た。
制帽を目深にかぶっているせいで表情が見えづらい。

「揃ってるな?」

艦隊は一つだけ、それも三隻しか所属していない。これで全員集合だ。

「よし。始めよう」

提督は壁に貼られた大きな泊地近海図の前に立ち、手近にあった机の上に羅針盤を置いてペン立てにあったポインターを伸ばした。

「特別なことはない」

羅針盤に手をかざし、貼られているのと同じ海図を呼び出す。見える限りでは、赤い点はない。


「すでに進路は決定してある。泊地より南東に進路を取って……」

ポインターで大きな地図の中を指していく。

「千歳と千代田は以上のポイントに水偵を送る。直接行く必要はない。初月は待機。水偵が敵を発見次第、出撃して迎撃してもらう。なにか質問は?」

変わり映えしないブリーフィングだ。
やることはいつも同じ。

敵が見つかり次第などと言っているが、初月がここに来てから出撃したことは一度しかない。

近海に迷い込んだ一隻のはぐれ駆逐艦に対処するために出撃したその一度きりだ。

体が鈍らないようにしておくことはできるが、心は腐ってくるもの。そういう所だと割り切るしかない。


「いいか」

提督の声のトーンが落ちる。

「潜水艦を探し出すんだ。あいつは必ずいる。あいつを沈めなければ、泊地に平穏はない」

また始まった。
彼は今日も艦隊にモビィ・ディックを探させるつもりだ。

千代田がうんざりしてることを隠そうともしないで嫌そうな顔をした。

「なにもないなら準備にかかれ。〇九四五に水偵全機発艦だ」

ろくに艦隊の様子も見ず、ただ事務的に今日の任務の開始を告げて提督は部屋を出る。秘書艦を除けばここの艦娘が一日のうちで彼を見るのはこれが最初で最後だ。

彼の声に唯一人間味が宿るのは、件の潜水艦の話をする時だけだ。

「さあ準備しよう」

手をパチンと叩いて千歳と千代田の注意を惹く。秘書艦の役目だ。

「〇九四五に発艦だぞ。千代田、朝からそんな顔するなよ」

以上です。
しばらく空きます。

哨戒艇で二隻の調査船より数百メートル先行し、絶え間なく入ってくる艦隊の報告を聞いていた。
後ろの二隻の内の一つに自分より階級も立場も上の人間が乗っていると思うとひどく緊張する。不快な緊張だ。

大湊の提督は星二つの少将だ。イギリスに留学してた経験があり、気質までイギリス人になったのか無愛想で、相手をおちょくる冗談が大好きな男だ。端的な言えば、嫌味な人。

だからと言って丸腰の船の警備を放棄するわけにはいかないから、意識はすっかり艦隊の報告に集中していた。

調査船の仕事がようやく終わりに差し掛かろうかという時、旗艦の熊野の張り詰めた、内緒話するようは抑えられた声がインカムから流れてきた。

「もし、提督。えぇっと……二時の方向に潜水艦らしき影が見えます」

心臓が一瞬だけ止まったような気がした。
彼女の報告が信じられない。
一週間も前から消毒をかけていたというのにすり抜けてきたやつがいるのか?

低倍率のスコープがついたライフルを手に取り、銃口を二時の方向に向けて見る。それらしき影は見えない。

「熊野。クラスは判別できるか?」

「それが……よくわからなくて……」

普段は自信を撒き散らすような態度をとる熊野にしては珍しく、歯切れが悪く弱気だ。

「はっきりしろ」

「えぇっと……とても大きい。カ級やソ級でもあんなに大きな個体は見たことありませんわ」

「クジラと間違えてないか?」

羅針盤が示した点で鯨と深海棲艦を誤認することはたまにだが、ある。
艦娘の目も少し視力が高いだけで深海棲艦を簡単に見抜けるわけではない。

「いいえ。観測機ははっきり深海棲艦と告げています」

「クジラなんかじゃないよ。間違いなく、深海棲艦。あんな大きいの見たことない……」

鈴谷が割り込んでくる。
どうやら本物らしい。クラスは不明だが、潜水艦型の深海棲艦だ。

「わかった。由良、聞いてたな?」


「うん。聞いてました。水雷戦隊で対処しますか?」

「いいや。駆逐艦はそのまま調査船に貼りつかせろ。由良と、航巡の艦載機で対処」

調査船と交信していた士官に船を撤収させるように伝えさせようとした時……

「魚雷、発射した!」

鈴谷の悲鳴みたいな声が飛び込んできた。
言葉の意味を理解するよりも前に調査船から煙があがるのが見えた。

「由良! なんとかしろ!」

由良がなにか返事したが耳に入ってこなかった。
その時にはすでにストックを肩に当てがい、ライフルのセレクターをフルオートマティックにして引き金を引いていた。

雷跡が見えていた。それを辿るように銃撃を走らせたが、当たる感触はない。

二マガジン撃ち尽くしたところで銃身が熱くなりだしたことに気づいた。
ライフルを足下に放り、単発の擲弾銃を取る。

深海棲艦相手なら威力はたかが知れてるが、クラッカーぐらいにはなる。目の前でクラッカーを鳴らされてひるまないはずがない。

手がかりは雷跡しかなく、未だに敵の姿は見えない。

が、哨戒艇のすぐそこに迫ってる気がした。ただそんな気がしたというだけで銃口を向けた。

艦隊の誰かがなにか叫んだ。誰かも、なんと言ったのかもわからなかったが、無線機からでなくすぐ隣で叫んだのだけはわかった。

なんと言ったのか聞き取る間もなく哨戒艇は横からもの凄い衝撃でひっくり返された。

冷たい。
最初に感じたのはそれだった。幸いだったのはすぐに自分が海に落ちたことに気づいたことだ。

海面から顔を出し、調査船の方へ首を向ける。転覆した哨戒艇が見えなかったがどうでもいい。

一隻は煙をあげている。艦首がくり抜かれたようになっている。
艦隊に呼びかけたが、インカムは壊れていた。

敵は?
銃も無線もないが、首を巡らして潜水艦を探す。

沈みかかった調査船のすぐ横で、水柱が立った。
違う。あれは水柱じゃない。クジラだ。真っ青で額の突き出たマッコウクジラ。本当に?

よくよく目を凝らして見れば、奇妙に角張って、口からなにかせり出している。それがなにかわかった時、やっとあの生き物の正体がわかった。

あれこそ調査船を沈めた潜水艦だ。口から出張っているのは魚雷。

信じられない。
あんな巨大な深海棲艦は見たことがない。怪獣と言ってもいいだろう。

クジラの上に、白い膜上のものが貼り付いている。その中から突き出た一部分が動き、一対の穴がこちらに向いた。

あれは目? あの膜上の方が本体なのだろうか。ならあのクジラは艤装?

もっとよく見ようと目を細めると、奴は再び巨体を海中に隠してしまった。

俺は動くことができなかった。なにも考えることもできなかった。なにか衝撃的なことがあったが、なにがそんなに凄かったのかもよくわからない。

ようやく我に帰ったのは、もう一隻の調査船から出てきた複合艇の操舵手に声をかけられたからだった。

以上です。
またしばらく空きます。


「なかなかスリリングな視察だったよ」

少将は詰まらなそうに言った。それが第一声だった。

髪を後ろに撫でつけ、いつも仏頂面。改まった場以外ではその長い脚を必ず組み、制服のボタンや徽章はいやらしいほどピカピカしてる。

四十路を一つ越えた齢で五港の内の一つを任されているのだから、優秀なのは間違いないが尊敬できる人間ではない。

「報告書もちゃんと読んだ。どうも君自身、混乱してるようだな」

「混乱?」

情けないことに調査船に拾われた俺はあの後でこの上官に口頭で事実を報告し、改めて報告書を送った。

それを読んだ彼はなにかがひどく気にかかったのか、わざわざ俺をこうして呼び出したのだ。

「そう。君は深海棲艦とマッコウクジラを誤認している」

「マッコウクジラはあの辺りには生息していません」

「誰もがクジラだと言ってる。君の艦隊もそう言ってるじゃないか」

あそこに居合わせた誰もがあれをクジラと言っていた。熊野と鈴谷だけが俺と同じ主張をしたが、たった三人の言い分では他の連中に共通してる認識は覆せない。

確かにあれが姿を見せたのはほんの何秒かだから、よくよく見ないとクジラに思えるだろうし誰にもそんな余裕はなかったかもしれない。

「函館基地は激務だし、それに加えてあの事件だ。君も少しショックを受けてるようだ」

少将の目がきらりと光った気がして、思わず背筋を伸ばす。

「少し穏やかな所に行くといい。次に備えて」

この言葉で俺はすっかり絶望してしまった。
ついに俺は海軍で無能の烙印を押されたわけだ。次なんて一生来ない。

あれが深海棲艦かどうかなんてどうでもいいことだ。俺をひとまず窓際に行かせさえすれば、言い分などなんでもいい。

「来年の四月から。単冠湾なんてどうだ?」

単冠湾泊地。
あそこの意義は北方海域の解放に向かう艦隊の前哨基地というほかない。
当然、近海の警備やあそこを通る船舶の護衛も任務だが、あんな僻地は深海棲艦もやってこない。

左遷であることは明らかだった。
俺には拒否することもできず、頷くのも癪だったのでなんの反応も示さないままでいた。
少将は俺の意見なんて気にするはずもなく、その辞令を伝えて俺をさがらせた。

少将の秘書艦、山城が向けてきた哀れみと軽蔑の入り混じった視線が忘れられない。兵隊のくせに。

以来、基地では腫れ物のように扱われた。
あの熊野ですら俺に気を遣っていた。みんな俺を哀れみ、蔑んでいたような気がした。

あれほど大事なところでミスをしたバカなやつ。大失態だ。指揮官はとんだ無能。

基地のやつらは全員そう思ってるんじゃないかと疑いだすと、被害妄想は止まらなくなってしまう。

艦隊の面々にも当たり散らすようになり、ついに俺とは必要最低限の言葉しか交わさないようになった。

結局、彼女らには謝ることもないまま単冠湾泊地に行くことになった。

だけど、任地が変わっても心は晴れなかった。ここの奴らも、俺を馬鹿にしてる。そんな気がしてならない。
一度、ダメなやつというレッテルが貼られればもう剥がすことはできない。俺は大事な警備任務でヘマをしたダメなやつだ。

ここに来てから何ヶ月かは最悪だった。たぶん千代田の俺に対する印象は赴任当初から今に至るまで、変わってないはずだ。

熊野みたいに突っかかってこないからとつけあがり、穏やかな千歳に当たり散らし、千代田を決して秘書艦の任に就かせなかった。

課業が終わると庁舎の向かいの喫茶店だか居酒屋だかよくわからない店で日付けが変わるころまで飲んで、ひどく酔って宿舎に帰って……と繰り返した。

ちょうどその頃、横須賀鎮守府が管轄するどこかの基地の提督が海軍を去ったと耳にした。

なぜ辞めたのか、理由までは知らないが、おそらく彼は正規空母赤城を沈めてしまったのだ。

いずれは海軍最強の空母になると言われていた期待の星を沈めたのだから、追い出されたにちがいないと未だに信じてる。

海軍を辞めるのも悪くない。俺は元々外の人間だったから古巣にだって戻れるだろう。
そんなことを考えて、いつ実行しようかと常に頭の隅っこで企ててた時、あいつが現れたという報告があがってきた。

最初に捉えたのは千代田の瑞雲だった。

「潜水艦! こんな大きいの見たことない」

千代田は未知の敵にひどく動揺していた。
作戦司令室で俺は一人で興奮して、インカムを握りしめて瑞雲から送られてくる映像を凝視していた。

「海面からはなにも見えない。クジラと間違えてないか?」

あの時と同じだ。


「違う。クジラなんかじゃない」

「提督。あれは間違いなく潜水艦です」

千歳が割り込む。あの時冷静だったのは千歳だけだった。

「近海に浸入した深海棲艦だ。対処しろ」

函館のあいつだと直感した。
そもそもあんな大きいのがいれば、どこかの鎮守府か基地が対応してたはずだ。全国の根拠地が張っている警戒網をあんなのが潜り抜けてこれるはずがない。

あいつはずっと前から網の内側にいた。艦隊が艦載機を使って監視し、領海へ入ってこようとする深海棲艦を探してる間にもあいつはそれこそマッコウクジラみたいに深海へ潜って自在に移動していた。

あいつを倒せるチャンスがまだある。
海軍を出て行こうなんて考えはすっかり失せていた。

それから先は水偵の映像を無心で観ていた。

都合二十四機の瑞雲はかなりの時間、あいつを追い続けた。

少しでもあいつがあがってくれば爆雷を落として、しつこく攻め続けた。

だけどついに、そいつは勢いの衰えを見せることなくまた姿を消した。

それでガッカリしたりはしなかった。
またあいつを倒せるチャンスが残ってたと思うと、奇妙に高揚した。

以来、あいつを追い続けている。何度か泊地近海で姿を捉えたことはあったが、最初の一件以来、交戦はしてない。

だが、やつはまだいる。
その想いが今日も俺の体を通信司令室の椅子に縛りつけている。


「一八〇〇。そろそろ艦隊を撤収させる時間だ」

司令室に入ってきた初月の時報で慌てて時計を確認する。十八時ちょうど。
結局、今日もあいつは現れなかった。それどころか管区内に深海棲艦は現れなかった。俺に代わって一日中執務室に詰めていた初月の声はうんざりしているようだった。

「ありがとう。そうだな」

マイクを引き寄せる。

「千歳、千代田。撤収の時間だ。帰ってこい」

二人の短い返事からも、やっと苦行みたいな一日から解放されるのかとほっとしているのがわかった。

庁舎を出てすぐ正面の埠頭で二人を迎える。もうすっかり外は暗くなっていた。街灯が点いている。
二人とも、なにもなかったはずなのに疲弊してるようだった。なにもしない時間が長すぎても人間は疲れるものだ。

「ご苦労。損傷はないな?」

二人ともそろって頷く。

「では艤装に補給して格納。報告書は……一九三〇までにあげてくれ。デブリーフィングは行わない。以上、別れ」

千歳はきっぱりとした口調で別れますと返事したが、千代田はなにかもごもごと言って足早に庁舎へ戻っていった。咎めようとはしない。

千歳はどうしたものかと俺と千代田の間で視線を走らせたが、俺が庁舎の方を顎で指すと彼女も歩き出していった。

二人を見送ると俺も執務室に戻る。初月は二人を労うようにと言って追い出してしまった。

日報の用紙を執務机の真ん中に置く。毎週金曜日に大湊警備府に送るためのものだ。
本当になにもなかったからと言って、作業内容に特筆することなし、所感に退屈であったなどと書くわけにはいかない。

最初はこんななにもないところで一体なにを報せればいいんだと困ったが、少しは慣れてきた。

俺が今日一日の粉飾に腐心していると、初月が二人の報告書を持って入ってきた。
二人の報告書も俺の日報も変わらず。あれこれ書いてあるが、この報告書の全文も本日は平穏であった、の一言に言い換えられる。

「他に僕にできることはあるか?」

さっき持ってきてくれた二人の報告書を差し出す。

「二番のファイルに入れておいてくれ。そしたら控え室で待機。二一〇〇にもう一度来てくれ」

初月は小さく頷いて報告書をファイルに綴じると、そっと執務室を出ていった。

日報を書き、今日この泊地に来た文書全ての返信を作り終えるのと初月が戻ってきたのは同時だった。

「ちょうど良かった。ここに重ねたやつ、通信隊の所に持っていって。そしたら今日はお終いだ」

いつも通りだった一日が終わる。いや、まだだ。庁舎の裏手の店で飲んで、ようやく一日は終わる。
書類を押しつけて早々に追い出した初月を見送りながらぼんやりそんなことを考えた。

ロックグラスの中の冷たい液体がさっと食道を駆けて行き、熱い空気になってのどにまで跳ね返ってくる。

昨日と同じ店。いつもと同じ店。通うようになってから店員も変わってないし、飲むものも変わってないからそろそろ“いつもの”だけで注文ができるんじゃないだろうか。

向かいの席は空いている。昨日は千歳がいた。なんとなく寂しいと思う。
昨日の千歳の言葉を思い返す。

“心配なんです”

あの一言がいけなかった。
千歳はあんなことを言ってくれるが、俺は千歳になにもしてやったことがない。罪悪感が膨れていく。

ろくでもないことだ。兵隊のことなんて気にかけなくていい。どうせ明日には忘れてる。
忘れられるように、という気持ちとともにグラスの中身を飲み干した。

「こんなところにいたのか」

突然やって来て向かいに座ったのは初月だった。
浅く、ぐったりと腰掛けるための椅子に深く座って綺麗な姿勢を保っている。

「よくここがわかったじゃないか」

「千歳が言ってたから」

初月がにべもなく言った。
正直なところ、初月がこんなところに来たのは驚いた。

家に帰ったら入浴と夕食を一時間以内に済ませて寝るような、おもしろくないやつだと思ってた。
同時に、俺の時間をすっかり侵されたような気がして、憂鬱になった。

メニューを開くと初月はひどく困ったような顔をした。

「なんだこれは……なにを頼めばいいんだ?」

「好きにしろ。酒はやめろよ。少なくとも私の前では」

「どれも高すぎる。僕の一食分と変わらない酒があるぞ……戦時下だと言うのに贅沢な……」

結局初月はメニューの中で最も安い紅茶を頼んで店員を下がらせた。

「いつも来てるのか?」

「よく来るよ」

初月はそういう生活は非難すると思っていたが、そうはしなかった。

「今日はなんで来た?」

「提督と話したかった」

「外でそう呼ぶのはやめろ。どんなことを話したいんだ」

「雑談だよ。少しお前のことについて聞きたいな」

大人をしれっとお前呼ばわりとは大したものだと思ったが、一緒にあの爽やかな笑顔を添えられるとまぁいいかと思ってしまう。

「話すほどおもしろいことなんてない」

「お前にとってはだろう。なんでこんな僻地に来ることになったんだ?」

干された、なんてかっこ悪いことは言いたくなかった。だが隠してもどうしようもないことかもしれない。いずれは千歳と千代田みたいにどこからか流れてくる噂を耳にする。

「函館にいた頃な、大事な任務で失敗して飛ばされたんだ」

「えっ……そうか……」

初月にとっては予想外に取っ付きにくい話だったらしく押し黙る。

「悔やんでいるか?」

「私の失敗をか? 悔やんでいるさ。こんな惨めになったんだから」

「失敗を悔やんでるのか? 海軍での格が落ちたことを悔やんでるのか?」

「こんなことになったのを悔やんでるんだよ」

「だったらお前は、その失敗についてなんの咎めもなければ忘れていたのか?」

初月は眉を吊り上げて身を乗り出した。

「きっとそうだろう」

「なんで自分の失敗を恥じないんだ?」

なんだか面倒になって来た。
お代わりを頼もうと店員を探したが見当たらないので諦めた。


「いいか。初月ももう少しだけ歳をとればわかる。自分にとって一番大事なのは、誇りとか使命感じゃなくて見栄を張れるかどうかなんだ。なにをしたって、できなくたって、自分の立場が守れればいいんだ」

「くだらない。戦場では義と名誉を重んじなければいけないはずだ。お前たちは……」

「それは駆逐艦初月が武勲艦だったから言えることだ。大抵の人間は、プライドよりも自分の身が組織の中で安泰ならそれでいい。みんながみんな、初月みたいに仲間や名誉のために捨て身の行いができる勇気を持ってるわけじゃない」

初月はまだなにか言いたそうだったが、店員が小走りにやって来たので口を閉じた。
店員は初月が注文した紅茶を持ってきたわけではなく、俺に耳打ちした。

「お話中に失礼致します。お勤め先からお電話が」

体に流していたアルコールが全て一瞬で蒸発した気がした。
立ち上がり、店員に着いてレジカウンターまで行き、待っていた別の店員から送話器を受け取った。

「私だ。どうした?」

「内保湾を発った定期貨物船から深海棲艦を確認したと入電が」

通信隊の当直将校の声は落ち着いていた。俺だって慌てたりはしない。決して珍しいことではないのだから。

「千歳と千代田を招集して艤装を準備させろ。初月はいい。私もすぐ行く」

送話器を置いて、席に戻り伝票を掴んだ。

「緊急出動だ、初月。先に庁舎へ行ってろ」


「夜偵と照明弾は積んだな?」

時刻二二三〇。艦は全員艤装を携えて庁舎前の埠頭に揃っていた。
今夜は冷える。俺の脚は小刻みに震えてるが、三人は寒そうには見えない。

千歳の顔は張り詰めていたが、千代田は夜間の呼び出しに不満を隠そうともしない。

足元に置いたハードケースから羅針盤を取り出し、右手の掌にのせると択捉島とその周りの地図が空に浮かび上がる。敵の存在を示す赤い点は内保からちょうど西の方向にあった。

「二十分前、内保を出発し根室へ向かうはずだった定期貨物船が深海棲艦を発見した。この船は今も航行を続けているが泊地に救援を求めている。君たちにはやってもらいたいのはこの浸入してきた深海棲艦の対処だ。なにか質問は?」

「船の護衛は?」

千代田がむすっとした顔で訊いた。

「必要ない。国後水道を過ぎて国後島にさしかかれば管轄は変わる。それに備えて函館基地が水雷戦隊を出撃させたのも確認した。他には?」

沈黙。久しぶりの夜戦で三人ともいくらか緊張してるようだが、落ち着いている。

「よし。まず千歳と千代田が艦載機を発艦し、敵を補足。敵が艦載機を有してる場合はそのまま航空戦へ、艦隊が到着次第、砲雷撃戦に移行して近海に浸入した深海棲艦を殲滅する。なにも特別なことはないな」

編成に問題はあるが、艦隊の練度は高い。近海に迷い込んできたはぐれ駆逐艦や軽巡程度ならそれこそ一捻りだろう。

だけど、もしあいつだったら?

当直将校から連絡を受けたときからその疑念はあった。
対潜装備を積ませたかったが、今は夜だ。目が利かなければどうにもならない。初月は爆雷投射機がなくても、爆雷を手榴弾のように投擲することはできるが、一応は潜水艦を打撃できる、といった程度だ。

とにかく彼女らを現場に行かせなければわからない。

「なにか質問は?」

 三人がばらばらにない旨答える。

「では出撃だ。艤装展開」

三人は海の方へ向く。
千歳と千代田は前部に銃把のついたカタパルト状の射出機を持っている。それを海面に向けて引き金を引くと、海面から青く光る輪が現れる。

二人がその輪を踏み抜くと、やはり青い光が二人の全身を一瞬だけ包み、その光も消えると艤装の装着は完了していた。

短い袴、青いジャケット、カタパルトは背負った機関部に接続されている。同型艦だけあって二人とも揃いの格好だ。

初月はというとなにか特別なものを持っているわけではなかったが、彼女の手にはボトルネックのライフル用弾薬が三つ、握られている。炸薬も雷管も抜いてあるから本来の弾薬としての用はなさない。

初月はそれを海に落とした。するとやはり海面青い輪が現れた。千歳と千代田と同じように輪を踏み、艤装を纏う。

三人とも、まずい顔つきはしていない。緊張のせいで足が震えていたり、興奮して目を見開いているようではダメだ。普段通りの引き締まった表情で海面に佇んでいる。

「旗艦、初月。艦隊、単縦陣。出撃」

三人はこちらへ背を向けると緩やかに海面を進みだした。少しづつ加速し、やがて見えなくなる直前にはきっちりと単縦陣を組んでいた。

「間もなく会敵が予想される。千歳、千代田。夜偵を」

マイクに吹き込むと、間髪入れずに千歳の返事が来る。二、三秒後にはガンカメラの映像が通信司令室のディスプレイに映しだされた。

ディスプレイの電源が入ってないのかと思うほどに、画面は真っ暗で何も見えない。

羅針盤の地図を呼び出す。
艦隊の位置を示す赤い船のアイコンと、敵を示す印はもう重なっている。

「初月。照明弾を発射。敵を目視できるか?」

撃ちあげられた照明弾の効果でようやく映像もはっきりした。動くものはなにも映らない。

「潜水艦……」

千代田の囁くような声がインカムから流れてくる。一瞬だけ、心臓が爆発したのかと思うほど膨れた。

「はっきり捉えたか? 千代田、どうなんだ?」

「ちょっと静かにしてて」

相変わらず画面にはなにも映らない。
ついで千歳の声。

「捉えました。潜水艦です。かなり大きい。真北に進路をとってます」

見つけた!
あいつはまだこの海域にいた。バカなやつ。とっととどこか遠くへ行けばいいのに。


「対潜戦闘だ。夜偵、全部出せ」

千歳と千代田に爆雷投射機を積まなかったことを後悔した。潜水艦相手に甲標的などなんの役にも立たない。

夜偵も潜水艦を攻撃できるが、瑞雲には大きく劣る。とすれば、主力は初月だ。

「夜偵で潜水艦を囲い込んで、頭を見せたら爆撃しろ。捕捉し続けて絶対に逃がすな」

画面には相変わらずなにも映らない。

「初月、潜水艦の位置はわかるか?」

「わからない。でも、夜偵が誘導してくれれば、そこに爆撃を投げ込める」

それが最良のやり方だろう。そうするようにとマイクに吹き込もうとした時、白い筋がディスプレイのちょうど真ん中を横切った。

それがなんなのか、理解したのと千代田の短い悲鳴がインカムから聞こえてきたのは同時だった。
直後に初月の声。

「千代田が被弾した! 魚雷だ」

「雷跡が見えた。千代田の損傷は?」

「大破だ。艦載機も使えない」

「千代田を下がらせて追跡を続行しろ」

「本気なのか? 千代田が大破したんだぞ」

「いいから続けろ。逃すなよ」

やっと始まった。
長い追走になる。

相変わらずあいつの姿は見えない。インカムの向こうも戦闘中とは思えない静けさだ。時おり、ディスプレイのスピーカーから爆雷が投げ込まれる音や夜偵の爆撃の音が散発的に流れてくる。

そしてまた静寂。

視覚も聴覚もすっかりディスプレイに釘付けだ。かれこれ三十分は追い回してるというのに、未だ決定打は出ない。あいつの装甲はかなり硬いのだろう。

「魚雷、来た!」

突然、初月の警告。同時に画面にも雷跡が映る。
千歳のやはり短い悲鳴が聞こえる。回避できなかったらしい。

「千歳は?」


「大破してる。敵の魚雷は相当強烈だ」

潮時だろう。あの強大な潜水艦は初月一隻の手に余る。また、見逃さなければいけないのは悔しいが、ここで誰かを沈めてしまうのはもっとまずい。

「仕方ない。艦隊は撤退……」

「いや……待て……」

初月の声が割って入る。なにか気にかかることがあるような声だ。艦載機を動かせる艦がない今では、状況は初月の声からでしかわからない。

「どうした?」

「こっちに向かってくる。進路を変えたんだ……」


「急いで退け」

俺は大事な事を忘れていた。
敵は敵だ。艦隊は狩猟をやっていたわけじゃない。獲物を追いかけてたわけじゃない。
深追いしすぎたんだ。

「まずい、追いつかれる」

千歳も千代田も損傷がひどくて速度が出せないんだ。
なにかをいくつも海面に落とした音が聞こえる。

「ちぃっ……しつこいな」

「まだ追ってきてるか?」

「あぁ。こいつ、泊地までついてくるつもりか?」

狡猾なやつだ。きっと艦載機が飛んでこないとわかって反撃してきたに違いない。

また静寂。さっきと同じように爆雷が海面に落ちる音しか聞こえない。今度はあいつが迫ってるという恐怖と、苛立ちがやってくる。

「まずい。もう泊地に着くぞ……」

初月の声は憔悴しきってる。
退避令を出そうとしたが、まだ間に合うか。

「爆雷、まだ残ってるか?」

「あぁ。残り少ないが、まだある」

「あいつのいそうなところに全部投げ込め。魚雷も長10センチ砲もいそうなところに全部撃ち込め。あれ、撃ち下せるだろ」

「あぁ。大丈夫」

直後、インカムが割れるような長い機関銃の銃声。

何秒それが続いたのかわからなかった。
終わったあともしばらく銃声は尾を引いていた。

「もう弾薬は一発も残ってない」

初月がぼそりと言った。

「あいつは?」

「こっちに背を向けて、深くへ潜っていった」

椅子の背もたれにぐっと寄りかかった。インカムを外すとため息が漏れる。
緊張の糸がぷつっと途切れた。
あいつを逃してしまったのに、ほっとしてるのに違和感がある。

なぜ?
俺はあいつを初めて恐れたんだ。違う。最初から恐れていた。

なんてことだ。情けない。
天井に顔を向け、そっと目を閉じた。


「この泊地の戦力じゃ限界がある」

報告書を持ってきた初月はきっぱりと告げた。
もう日が昇っている。結局、あれから一睡もしていない。執務室はいつになく静かな気がした。

「なにを言ってるんだ。たかが潜水艦相手に」

あいつはまた来ると確信してた。それも近いうちに。
沈め損ねた船が三隻もあるのだ。必ず決戦を挑んでくる。その時があいつの最期だ。

「ただの潜水艦が相手じゃないことはお前が一番よく知ってるだろう。応援を呼ぶべきだ。大湊警備府は……」

「あんなところに頼めるか。あそこの提督はあいつの存在を信じてないし、沈めるまで信じようとしないろくでなしだ」

「だったらどこでもいい! 僕たちの手に余ることだけは確かだ」


「件の空母棲鬼を仕留めた横須賀の第二艦隊にわざわざ来てもらうか? 馬鹿らしい。私たちがやるしかないんだよ」

「いい加減にしたらどうだ! 頭を冷やせ」

昨夜のことを報告して頼めば少将は確実に艦隊を寄越すだろう。俺に重ねて貼り付けるもう一枚の“無能”のレッテルを添えて。
これ以上、あの男に蔑まれるのは我慢できない。こうなった元凶のあいつだけは必ず俺が沈める。
しかし初月は納得しないらしい。いくらかケンカ腰だ。

「なにか有効な作戦はあるのか?」

「考えてる。後で艦隊に相談する。夜戦明けのところ悪いが時間だ。哨戒に出てくれ」

「千歳と千代田は?」

「入渠中だ。まだ時間がかかるから艦載機は出せない」

初月は小さくため息をついたが、疲れてる様子ではなかった。実際は疲弊してるだろう。顔に出ないだけだ。

「こんなことがまかり通ると思うなよ。艤装は?」

「補給と装備換装は済んでる。周るところはわかるな?」

「わかる」

「済まないな。一一〇〇に一旦帰投しろ。二人の修復も終わる」

「帰ってくる頃にはお前も僕も冷静になってるといいな」

初月の後ろ姿を見送ると、ふいに隠れていた良心が顔を出す。初月も疲れてるだろうに。

応援を呼ばないのも、あいつを執拗に追うのも、自己満足だ。本来なら許されざること。

少将の顔が浮かぶ。いつものような仏頂面。秘書艦の山城まで無愛想なのが腹立たしい。

「なぜこんなことになるまで報告しなかった?」

口元を歪めてわざとらしくため息をつく少将の顔が鮮明に想像できる。

ダメだ。あんな顔を見せられるくらいなら、艦隊と刺し違えてでもあいつを沈めてやる。あいつの存在を信じなかったことを後悔させてやる。

少将の顔は脳裏から消えて、やがて視界が真っ暗になった。

扉をノックする音で目が覚める。居眠りしてたらしい。入ってきたのは千歳だった。

「どうした? もう起きれるか?」

「はい。私の艤装は……」

「まだ修復してる。あと一時間もすれば千代田のと一緒に終わってるだろう」

千歳はそうですか、と返事したきり、黙り込み執務机の前に立った。

「どうした?」

「応援は呼ばないんですか?」

「初月とも同じ話をした。きっと呼んでもこない」

「うそ」

「なんでそう思った?」


「あなたのことをよく知ってるから」

「バカなことを……」

「次にあの潜水艦が現れたらどうするの?」

「考えてる。あとでみんなから意見を聞く。お前を沈めるようなことはしないから、頼むから今は構わないでくれ」

「あなたが納得した後なら、沈んでもいいです」

「気持ち悪いな。なんでそんなこと……」

「いつか自滅しそう」

「哀れだよ。初月が帰ってくるまで休め。一一三〇からあの潜水艦について話し合う」

本当に哀れなのは俺の方だ。千歳は俺を哀れなやつと思って、それこそ彼女の自己満足のために優しくしてるに違いない。同情なんて絶対にされたくない。

「敵なんかに執着しないで」

「執着してるわけじゃない」

「してる。あれを倒せば、自分の心が晴れると思ってる」

その通りだ。あれを沈めれば少将は見方を誤って深海棲艦を野放しにしていたことを認めざるをえないし、その事実も俺自身への慰めになるはずだ。

「もう苦しそうな顔を見せないで」

「あいつを沈めれば二度とそんな顔はしない」

「そうですか……」

千歳はきつく口を結んで出て行こうとした。千歳の手がドアノブにかかるより前に、扉が開く。

「千代田……?」

千歳は後ずさり、彼女を押すようにして入ってきた千代田の姿が見えた。手には小さなベレッタの自動拳銃。

一目でわかる。俺の銃だ。どうせ使わないからと通信司令室の机の引き出しにホルスターごとしまってたのがまずかった。

「千歳お姉ぇ、どいてて」

「千代田、自分がなにをしてるのかわかってるか?」

ヘマをしたが、深刻じゃない。机の真下に据えられたボタンを押せば三十八口径の拳銃なんてケチなこと言わずに小銃でも軽機関銃でも持った陸戦隊と憲兵を呼べる。

「もうやめて……」

千代田の声は震えている。

「あれを追うのはもうやめて」

「怖気づいたのか?」

「あんなの相手にしてなんとも思わなかったの? 一歩間違えば艦隊は全滅してたのよ」

「私たちが諦めればだれがあいつを倒すんだ」

「そんなのどうだっていい! お姉も初月もいなくなっちゃうのがこわい」

「今さらなにを言ってるんだ」

「お姉が魚雷を受けた時、初月が反転して反撃した時……全部あの時にそっくりに見えた……私たちの最期……」

「なにを言ってるんだ。あの海戦とは状況が全く違っただろ? いいから私の銃を返せ」

「もう提督のムチャクチャな作戦には付き合えない! これじゃあみんな沈んじゃうよ……」

「次で決着をつける」

俺はそろそろボタンを押してしまおうかと思った。ただ、押すと憲兵隊も来るのがまずい。俺がなんと言おうと彼らはこの状況を見れば千代田を逮捕する。今、戦力を削がれるのだけは避けたい。

さてどうしようかと考えてると、机の内線電話が鳴った。
千代田に目配せして頷くと、受話器を取る。初月が帰ってきたらしい。

「さぁもうやめだ。初月が帰ってきたぞ」

「千代田? もうやめて」

姉にまで止められたのが重ねてショックだったらしく、千代田は俯いてベレッタを千歳に渡した。

千歳はベレッタの安全装置をかけるとそれをしばらく眺めて、机に置いた。

「申し訳ありませんでした」

「千歳が謝ることじゃない。大丈夫。千代田ももう少し休んで」

千歳は小さく頷くと、千代田を連れて出て行った。
ちょうど、二人と入れ替わるようにして初月が入ってきた。


「二人になにを言った? その銃はどうした?」

初月は眉をギリギリ吊り上げて机に向かってきた。

「この銃でなにをしたんだ?」

「なにもしてない。初月が心配してるようなことはな」

なんて日なんだ。最悪の時間はまだ終わってないらしい。

「一一三〇からデブリーフィングだ。支度しろ」

「まだやる気なんだな。千歳と千代田はその事でなにか言いに来たんじゃないのか?」

「指揮官は私だ」

「なんでお前は他人の気持ちを分かろうとしないんだ? 千歳がどんな想いでお前の指示を聞いていると思ってる? 彼女はお前を理解しようと努めた。お前はどうなんだ?」

「理解してなんになるんだ!? それが慰めになるのか? 理解だけじゃなにも変わらない!」

みっともないことに、部下の目の前で声を荒げてしまった。小さいため息とともに謝る。

初月は眉も動かさなかった。

「千歳と千代田は僕たちの後ろで沈んでいった。本来なら僕たちが守る船だった。今度こそ、二人を見捨てたりはしない。覚えておけ」

「私だってだれも沈めるつもりはない」

「お前にそのつもりがなかったとしても……」

初月はそれから先は言わずに小さく息を吐いた。


「お前のモビィ・ディックへの執着に二人はうんざりしてるよ。もちろん僕も」

「モビィ・ディック? 白鯨か。なら初月はピークォド号の良心スターバック君だな」

「ふざけてるんじゃないぞ。お前がエイハブ船長だったらそれは問題だ。指揮官だろう」

「私はあいつに復讐したい。だけど君たちだっていつかはあいつと相対さなきゃいけなかった。遅かれ早かれ、この時は来た」

「詭弁だ」

しばらく気まずい沈黙が流れた。初月は俺を今すぐにでも殺すんじゃないかというくらい険しい顔をしてる。

また机の内線電話が鳴る。嫌な予感がして、一度目のコールが終わるより前に受話器を取った。

あぁやっぱり。


「どうした?」

「潜水艦だ。泊地の海上交通管制センターが捉えた。もうすぐそこだ」

「よし。行こう。二人はまだ出れないな?」

「あぁ。まだ艤装の修理が終わってない。あと三十分はかかる」

しかしどうしたものか。
初月一隻ではあいつの装甲を破るのは無理だろう。たとえ対潜装備で固めたとしても。

しかし出すしかないか。

「今あれこれ話してても仕方ない。艤装を準備しろ。ソナーと投射機だぞ。準備できたら直接埠頭に来い」

初月は小さく頷いて部屋を駆けて出て行った。

俺も拳銃と羅針盤の入ったハードケースを掴むとすぐに執務室を出て地下の陸戦隊の武器庫へ向かった。

「M79と艦隊用の無線がいる。早く出してくれ」

装備の出納を管理する陸戦隊の兵曹はぽかんとして俺を見ていた。

「受領番号は……」

「私をなんだと思ってるんだ。緊急事態だ。早く出せ」

兵曹は渋い顔でカウンターに擲弾銃と擲弾を入れたダンプポーチ、スピーカーマイクを繋いだトランシーバーを置いた。

トランシーバーとダンプポーチを帯革に固定し、マイクを制服のショルダーループに留める。

「緊急事態なら我々はなにを……」

俺が擲弾銃を掴み、背を向けたところで兵曹がおずおずと訊いた。
そうだ彼らは?

残念なことに、とっさにどうしたらいいかは浮かばなかった。

「指示あるまでは普段通りに」

言い終わると同時に兵曹から逃げ出すように走り出した。あれではなにも伝わらないだろうな……

埠頭ではすでに初月が水平線を見据えて立っていた。

「その武装はなんだ?」

「いいから。指示を伝える。無線のチャンネルは3に合わせとけ」

すぐ正面に係留してあったプレジャーボートに乗り、舵の隣に羅針盤を置く。
左手を載せると泊地近海図が投影される。敵の存在を示す赤い点は大きく、鬼の顔を模している。根拠地を示す舵のアイコンとほとんど重なっていた。

「本当に目の前だな」

隣に立った初月に言う。

「艦載機はないから絶えずソナーの音に注意しろ。海に出たらすぐ会敵だと思っていい。会敵したら、ある限りの爆雷を撃ち込んであいつをどうにかしろ」

駆逐艦だけなら他にどうしようもない。あの硬い装甲に対してはそうするしかないだろう。


「装甲はかなり硬いぞ。魚雷にも警戒しろ」

「お前はどうするんだ」

「ここにいる」

「なにを言ってるんだ……」

「いいからもう出せ。あいつが潜対地装備を持ってないとも限らない」

初月はまた威圧感のある視線を一瞬だけ投げて、左手に握りしめていた三つの弾薬を海に落とした。

海面から青い輪が現れる。
初月はボートの縁から飛び降りて、その輪を踏み抜いた。

青い光が一瞬、初月の全身を包み艤装の装着が完了する。ご自慢のデフォルト装備、長10センチ砲も今回は役に立たないだろう。

そうだ。秋月型は防空駆逐艦だと言うのに……


「艦隊、単縦陣。進路を南東にとれ」

初月が命じた通りの方角を向いたとき、そのずっと向こう、何百メートルか先の水平線から突然水柱があがった。

違う。水柱じゃない。あいつが跳ねたんだ。
真っ青なクジラ状の艤装は十二、三メートルはある。そして背にはクラゲのように張り付いた白い本体。

ようやくの再会。舌の奥がぴりっとした。同時に高揚感も湧き上がる。そう。あいつだ。間違いない。久しぶりじゃないか。

あいつの姿がまた見えなくなると、擲弾銃のストックを肩に当てて銃口をいくらか上に向ける。リーフサイトは広げていない。ヤマカンだ。


「よせ。ここからじゃそれは届かない」

初月は振り返って忠告してきたが、構わなかった。引き金を絞り落とす。

かすかな反動とともに撃ち出された擲弾はあいつが跳ねたところより少し手前まで届いた。思ってたより近い。

ロックを外して擲弾銃を中間で折り、まだ熱い薬莢を放り出す。二発目の擲弾を装填して銃身とストックを接続し、安全装置を外す。

「もう撃つな。お前は陸に上がれ」

それだけ言い捨てて、初月は海面を走り出した。

ここまで。
もうすぐ終わり。

あっという間にあいつがいた辺りまでたどり着き、投射機で爆雷をばら撒き始める。
ソナーを使ってるから位置はおおよそわかるはずだが、初月は円を描くように同じところを回ってる。

「位置はわかってるのか?」

マイクに吹き込む。

「あぁ。あいつの背後をとりたいんだが……爆雷はいくらでも叩き込める。効果があるのかはわからないけど……」

擦過音まみれの初月の声は不快だった。

長期戦は不利だ。
艦娘だって艤装の損傷とは別に疲弊もする。そうすれば攻撃の精度も下がるし、動きも鈍る。
昨晩のも見るに、あいつはそれを狙っているのかも。散々逃げ回り、いかにもそれがいっぱいという風に見せて、追っ手がすっかり疲れたところで唯一にして必殺の魚雷を撃ち込む。それがあいつのやり方なのか。

やっぱり水上機が必要だ。このままでは昨日と同じ結果になる。今度はもうあいつも引き返したりはしないだろう。自分を阻む艦隊を全滅させるまで。

視界の端に青い光が映り込む。
考えるより早くそっちに視線が向いた。どうして?

「千代田、艤装の修復はまだ終わってないだろ。戻れ」

千代田の艤装は見た目こそ元どおりになっていたが、手にしているカタパルトは一本だけだ。

「初月が一人で戦ってるんだよ! なんで放っておけるの?」

「不完全な状態でなにができるんだ!? そのまま出ても役に立たない!」

まだ反抗的な顔の千代田にベレッタの銃口を向ける。さっきとは逆だ。

「なんだその目は。その態度が前から気に入らなかったんだ」

千代田が命令に従わなかったことはないが、いつも不服な顔をしていた。それが俺のプライドに簡単にヒビを入れる。

「なにをしてるんだ? 来てるのは千代田か?」

マイクから初月の張りつめた声が流れてくる。自分の心配だけしてればいいものを。

「大丈夫だ。潜水艦に集中しろ」

「提督がこわい」

不意に千代田が言った。

「自分のためだけにどうして他の人を無視できるの?」

「お前ももう少し歳をとればわかる。早く戻れ」

「プライドとか保身のためだけに、他の人の良心まで握りつぶすなんて私にはできない」

千代田は半身になって初月の側へカタパルトを向けて、グリップの引き金を絞った。

六機の瑞雲が発艦する。
嫌な予感がして瑞雲を目で追ったのと、初月の音割れした怒鳴り声がマイクから流れてきたのが同時だった。

「魚雷、そっちに行ったぞ!」

雷跡から千代田を狙ったのは明らかだ。頭上を飛び回る艦載機がよほど気に入らないらしい。
こんなに明るい時に雷跡を見逃すほど千代田もノロマじゃない。ギリギリのところで魚雷をかわし、あいつのいる方へ進み出す。見たところ、あのカタパルト一本の他に装備はない。修復できたスロットは一つだけらしい。

「行くな! 止まれ!」

ベレッタの銃口を空に向けて三度、引き金を引く。銃声がバカみたいに間延びしてる。

銃口を下げて、狙いを千代田の背中に移す。弾丸の物理的な威力じゃなくて、撃たれたという心理的なショックがストッピングパワーの正体だ。艦娘相手にただの9ミリショート弾が効くかどうかなんて問題じゃない。

これでいい。兵隊が将校の権威を踏みにじった罰だ。

引き金を絞りきり、撃鉄が倒れる直前、白くて華奢な手が俺の手首を握り、乱暴に引き上げた。銃口はまた上を向き、弾頭は空に放たれる。

手の出てきた方に視線を向ける。誰がこんなことしたかなんて見なくたってわかる。

「千歳……なにしてくれた?」

艤装ではなくアビエイターグリーンの勤務服を着た千歳の目つきはキツかった。千歳のこんな顔見たことない。

「大湊警備府の提督と連絡がつきました。すぐに主力の第一艦隊が来ます。お願いだから……もう終わりにして」

頭の中が真っ白になった。本当だったら台無しじゃないか。
千歳の手を振りほどく。

「自分がなにをしたかわかってるのか!?」

俺が言い終わるのと、あいつが向こうでまた海面に跳ねた。
もう一度擲弾を放つ。

あいつが海中に姿を消す直前、擲弾は白い本体を捕らえた。

心臓が一瞬だけ膨れ上がり、血が一気に体を駆ける高揚感。あいつに当てた。ダメージなんて微々たるものだろうが、当たった。

再装填しようとストックを肩から外すと、千歳が銃を上から押さえつけた。
艤装を着けていなければ、ただの人間だ。また振りほどき、今度は拳銃を向ける。

「もう俺の邪魔をしないでくれ!」

千歳の顔は恐怖で歪んでるわけでも、さっきみたいにキツいわけでもなかった。ただ、なにかむなしさを含んだ目で俺を見ていた。

俺が引き金をしぼるのと、初月と千代田の悲鳴みたいな警告が無線から流れたのは同時だった。

ここまで。
もう二、三回で終わり予定。

断片的になにかが見えた。
頭上で初月がよく分からないことを怒鳴る。よく聞こえない。

次に意識が戻った時には四、五人の陸戦隊員たちが自分を見下ろして無線に喋りかけたり、クリップボードに挟んだ紙の上でペンを走らせていた。布の上、たぶん担架の上に横たわってる。

次はヘリの中。音がするからローターは回ってるみたいだったが、離陸してるかどうかは分からない。

千歳をボートの上で撃って、そこから先の記憶がない。あいつはどうなった? 決着はついたのか?

声を出して誰か呼ぼうと思ったが、口が動かない。上手く言葉が出ず、短く唸っただけだ。

身体中が痛いが、激痛というわけでもない。とにかくだるい。モルヒネを打たれたかもしれない。モルヒネは一時的に苦痛を遠のかせるが、そのあとは? 自分が大怪我をしたのかもわからない。

考えるのもおっくうだと思うとまた意識が途切れた。


「あなた、生きてるのが奇跡よ」

病室には一脚パイプ椅子が備えてあったが山城は座らずに、入ってくるなり言った。
目が覚めてからまだ一時間もしていない。どれほど眠っていたのかも分からないが、まだ陽が高い所にあるからそんなに時間は経ってないらしい。

混乱していた。
あいつが泊地のすぐそこまで迫ってきて、初月と命令を無視した千代田が迎撃に入った。

ボートの上。千歳が俺を止めようとしてそれから……

目が覚めたらこの個室のベッドの上にいた。不便だからと看護師にベッドごと上半身を起こしてもらったが、まだ危ないから何があっても絶対に立とうとするなと言われた。彼女が言うに、俺はあの後ヘリでこの札幌陸軍病院に運ばれたらしい。


「あの後はどうなったんだ? あいつは沈めたのか?」

山城が顔をしかめた。

「相当あの潜水艦にお熱だったみたいね」

「俺は訊いてるんだ。答えたらどうだ」

「逃したわ」

ため息が漏れる。やるせなさが湧き上がってくる。あそこまでメチャクチャになって逃がした……言葉を吞み込むことができなかった。

「逃しただって? お前たちも来たのにか!? 一体どうなってるんだ。あいつは凶悪な潜水艦なんだぞ。それを逃しただなんてよく平気な顔で言えるじゃないか。役立たず。ずっとドッグにでもこもってたらどうだ?」

山城はなにも言わなかった。ただ、軽蔑と哀れみの混じった視線を向けただけで。


「なんだその目は?」

「千歳たちにもそういう態度だったのね」

「お前には関係ないだろ役立たず。もう帰ってくれ!」

「不幸なことにね、私はあなたに事の顛末と今後の処遇について伝えるように提督から命じられてるの。あなたが聞かなくても話していかなきゃ」

俺はなにも言わずに目を閉じた。

「大湊警備府は昨日の一一二〇に……」

「昨日?」

嫌な予感がした。思わず目を開ける。

「昨日よ。あなたは丸一日目を覚まさなかった。途中で手術も受けたしね。続けていいかしら?」

頷く。


「昨日の一一二〇に泊地通信隊から連絡を受けました。あなたが前線で大怪我をしてどうにもならなくなったってね。提督はすぐに警備府第一艦隊の投入を決定、着いた頃には千代田も初月も疲弊しきってた。よく頑張ってた。あぁそれからぁ……」

山城はなにかをど忘れしたという風にそこで話を切った。

「どうした?」

「あなたの方から訊きたいことはないの?」

「なにもかも訊きたい」

「そう。あなたが撃った千歳は軽い怪我で済んだわ。幸いなことにね」

最後の記憶。俺は拳銃を千歳に向けて引き金を引いた。
バカなことをした。最悪だ。
なにもそこまでしなくたってと言う思いが今さら湧いてくる。頭もすっかり重くなったような気がしてうなだれた。


「続けてくれ」

「潜水艦は第一艦隊の攻撃をすり抜けて幌筵方面へ逃げていった。幌筵泊地唯一の艦、駆逐艦島風がしばらく追跡したけど、より深くに潜ってしまったわ。それからどこも捉えてないから、きっとソ連領海に入っちゃったのね」

「で、追撃は終わったんだな?」

山城が頷いたのがわかった。

「あなたの処遇は……」

「警備府軍法会議?」

「だとしたらここに来るのは憲兵隊ね。なにかまずいことをしたわけじゃないから……」

「もう海軍には残らない」

「どの道残れない。除隊後の生活はちゃんと海軍が保証するから平気よ。名誉除隊にはならないけど」

「何を言ってるんだ?」

なんとなく、気づいていた。目が覚めた時から予感があった。なんとか他にありえそうなことを浮かべて自分に言い聞かせてた。覚悟しなければいけないかもしれない。

俺の右脚は膝から下の感覚がない。

山城はしばらく黙って何か考えてるみたいだったが、唐突に喋りだした。

「不幸ね。こんなこと伝える役目を押し付けられるなんて」

かわいそうに。医者が言えばいいことだ。

「右脚はないんだな?」

山城は頷いた。

「お医者様は切断しかないって……」

「別に責めてるわけじゃないよ」

一体どうすればいいんだ? もう前の職場には戻れない。ひどい喪失感と焦燥感が突然やってきた。

「膝から下の……」

「もういいよ。ありがとう。全部わかった。今度こそ帰って大丈夫」

山城はまた意味ありげな視線を投げかけて、病室を出て行った。何も言わないとはわかってるじゃないか。

下半身にかけられた布団をめくればどうなってるかわかる。嫌でもわかる。めくる勇気はなかった。感覚がないというだけで充分だ。

初月も千代田も千歳も何度となく警告したが、こんなことになった。みんな俺のために言ってくれたのに全部台無しにした。

最後に千歳に何をしたか思い出した瞬間、涙が流れてきた。

次の日の朝に医者がやって来て今後のことについて長い話を始めた。
俺の怪我について、今後のことやら義足のことやら……

自分のことなのに集中して聞くことができない。義足で歩けるようになって、一体どうしろって? 俺はもう無職だ。海軍を退けば、恩給を貰ってフラットにこもることになる。

治療なんてしてくれなくて構わない。あと何度か手術が必要と聞いて思った。

医者が話を終えてしばらくはあいつのことについて思い返してた。
散々追い回してた相手。なんで追いかけてた? きっと放っておいたところで、海軍はいつまでも大した障害だと認識しなかった。滅多に浮いてこないんだ。あいつは船を沈めたかったわけじゃない。敵が立ち塞がるから戦ったにすぎない。海の底はもうあいつのものだったんだから。

なら俺の戦いはなんだったんだ? 自己満足じゃないか。
その答えに行き着いた瞬間、瞼がおりた

どれほど眠ったかわからない。陽はまだ高いところにあったから、長い時間じゃないだろう。

「おはよう、提督」

すぐ横から声をかけられる。見ると初月がパイプ椅子で偉そうに手脚を組んで笑っていた。生意気だとは思わせないのはさすがだ。

「初月か……なんで来た?」

「上官が大怪我をしたんだ。お見舞いに来るのは当たり前だよ」

きっと初月は俺に会ったら食ってかかるだろうと思ってた。

「単冠湾はどうなってる?」

「安心していい。千歳と千代田はもう勤務に復帰した。今のところは通信隊の隊長が僕たちに指示を伝えてくれてる。彼が君の次に高位の階級だからね」

「代わりの人は来るって?」


「うん。横須賀鎮守府がなんとかしてくれたそうだ。明日にはもう来ると今朝聞いた」

明日だって?
俺が撃たれたのが昨日の正午近く。二十四時間足らずで代わりの人間をよこせるようにするなんて手品みたいな話だ。それとも海軍の、羅針盤適正者が全然足りてないという話がウソなのか。

「明日来るのか?」

「そう。一体どうやって用意したんだろうな」

しばらく沈黙が流れる。
肝心なことを訊く勇気がなかった。だけどいずれ誰かの口から聞かなかければいけないことだ。

「千歳はどうだった?」

「弾は右肩をかすめていった。軽傷で済んだよ」

「撃たれたことについてはなにか言ってたか?」

「僕にはなにも」

初月の顔が引き締まる。また沈黙。

「千歳に悪かったと伝えておいてくれないか」

「ダメだ」

「そんな……」

「それはお前が自分で直接言わなきゃいけないことだ。それは僕から言ってはいけない」

「しばらくここから出れそうにない」

「機会なんていくらでも巡ってくるさ。歩けるよう余裕ができたら来たっていいじゃないか」

初月は立ち上がり、出口まで行ったところで振り返った。

「まぁ半年も一年も待たずに、明日にも機会はやってくるだろうね。千歳と千代田は柱島泊地で艦種転換の改造と訓練を受けることが決まったんだ」

ここまで。
次で終わります。

大変勝手なことながら、自分の納得できるように進めることができなくなったため、中途半端ではありますが終わらせていただきます。

残すところわずかでこのように勝手な終わらせ方をしてしまい大変申し訳ありません。

ここまでお付き合いくださった方々には深く感謝しています。ありがとうございました。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2016年03月16日 (水) 12:30:18   ID: ZnYDDkF4

二次創作は見ない派だけど見入っちゃうね

2 :  SS好きの774さん   2016年03月28日 (月) 14:17:40   ID: F1buLsss

(>_<)書いてください

3 :  SS好きの774さん   2016年05月31日 (火) 10:57:39   ID: N-tlGDZo

すごいね
約400PV、コメ2で評価40件……

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