邪気眼を持たぬ者には解るまい(54)

かつ、かつ、かつ。

──獅


人は平凡であるべきなのだ。


かつ、かつ、かつ。

──子


小さく、凡庸で、平穏であるべきなのだ。


かつ、かつ、かつ。

──寺


何を背負い込むことも、抱え込むことも馬鹿馬鹿しい。

「「………」」


…そう身構える必要なんてない。

平安に、平凡に。

人は普通に生きるべき。

人生、一番難しいらしい普通を目指してみる価値はあると思う。


私は、普通であろうと努力する人間。


かっ。

──マリあ


普通な私に、身構える必要なんか無い。


マリあ「…獅子寺 マリあ(ししじ まりあ)です!みんな、よろしくね!」

少々ざわめく、近い未来のクラスメイト達。

時期外れな転校生への好奇の目。

それは、ちょっと普通とは違うかもしれない。

でも私にとっては、こんな些細なハプニングも普通のひとつ。

普通の中に、少々の事件があるからこそ、人生はきっと面白いのだから。


「すげー苗字…」

「あと名前…」

「“あ”って平仮名なんだ…」


耳をそばだてなくとも聞こえる素直な感想。

普通な話題だけど、どうか私の名前に関しては触れないでほしい。

担任「えー、っと、獅子寺さん、自己紹介いいでしょうか」

マリあ「はい」


きた。自己紹介。待っていました。

私の陰と陽を体現した名前を見て困惑しているクラスメイトも多いはず。

この自己紹介で、私の存在を全く持って無害なものであると証明する。

そして一刻も早く、この普通な公立高校の空気に馴染んでみせる!


マリあ「お父さんの仕事の都合で、三舟ヶ原高校から来ました!」

マリあ「…えっと、部活は特に入っていなかったですけど、運動系が得意です!」

マリあ「あと私の名前の“あ”は、ちゃんと平仮名で…けど呼ぶ時はマリって呼んでください!」

マリあ「以上です!これから2年とちょっとの間、よろしくおねがいします!」


よし言えた!

先程よりもちょっと好感触な雰囲気のざわめき。

女子も男子にも受けがいいはず。きっと。

あとは地道に、普通に。学園ライフを満喫していくだけだ。


担任「よし、それじゃあ席は…そうだな、今学期はとりあえず一番右奥に座ってもらおうか」

マリあ「はい」


窓際最後尾。普通っていうほどではないけど、まぁいいや。

色々な人のグループに自分から関わっていくには丁度いいポジションだと考えておこう。


「あー…窓際最後尾か」

「倉井(くらい)の後ろってことか…」


誰かが何かに気付いた途端、教室のボリュームとトーンが、見るからに一枚分落ちた。


マリあ(倉井…?)


現在の窓際最後尾を見やる。

「……」


もう夏になろうかという教室の隅には、一際目立つ濃紺のブレザーに身を包んだ男子生徒の姿があった。

シャツ姿の多い教室で唯一の冬服。

目にかかるまでに伸びた黒髪、右目を隠す黒い眼帯。

無感情は顔は、転校生イベントなどなんのそのといった風に無視して、校庭で準備体操する上級生を眺めている。


マリあ(……ああ)


私は悟った。

彼は根暗だ。

根暗の、倉井くん。

「可哀そうに」

「あいつじゃ話相手にならねーよな」

マリあ「……」


知らぬ顔してひそひそ話を諜報しつつ、教壇の上に張られたクラスメイトの座標と名前を確認する。

倉井 狂(くらい きょう)。

私の名前と双璧を築けば多少いびつなサグラダファミリアでも建立できるかもしれないほどのヒドい名前だった。

暗いし狂うって何なのよそれ。

きっと彼はその名前のせいで今までの人生の何割かを通学路のドブが溜まった側溝に落とされたに違いない。


担任「じゃ、とりあえず今日はとなりの人に教科書を見せてもらって、授業を受けるように」

マリあ「わかりました」


私と似たような境遇なのかな、って思うと、少し親近感も沸いて来た。

ちらりとしたような、じーっとしたような視線を受け、教室の奥まで歩く。

既に用意されていた机と椅子。

周りの生徒に倣って鞄を横に、椅子を引き、かける。


狂「……」

マリあ「よろしくね」


頬杖をついた暗いくんの後ろ姿に声をかける。

しかし彼は何も答えず、ただぼんやりと窓の外を眺め続けたまま微動だにしない。

せっかく話しかけてあげてるのに、という傲慢なことは思わないけど、ちょっと、むっとした。

“おう”くらいは返して欲しかった。

「あ、のぉ…」

マリあ「うん?」


前の席をどうしたものかと考えていると、隣からの声に目を覚ます。

隣の席は小柄な女の子で、大人しそうな雰囲気ではあるけど、暗いくんのような倉井雰囲気ではない。


マリあ「隣同士だし、仲良くしてね、私のことはマリでいいよ」

「あ…は、はい」


白子「私は旗振 白子(はたふり しろこ)です…あだ名、シロ、っていうので……」

マリあ「うん!よろしくね、シロ!」


この子も名前に深いコンプレックスを抱いているに違いない。

趣味は手芸。

科目はほとんど得意。

けど、美術はセンスがないからちょっと苦手。

担任の先生が去ったあと、私の席を取り囲む女子達より、質問の嵐がやってきた。

しかしそのほとんどはシュミレート済みの月並みな問いかけ。

私はその全てを明るく朗らかに返し、彼氏はいませんと男子達のテンションをにわかに盛り上げつつ、最初の休み時間をやり過ごした。

マリあ「わかりやすい授業だね、さっきの数学の先生」

白子「あ、はい…結構人気で…」

マリあ「やっぱり?素敵なオジサマ先生だもんね」

「マリはオジサマが好み?」

「意外とシブいんだねぇ」

マリあ「ちょっ、違うよそんなんじゃないってばー」


ああ…なんて普通な学校生活なんだろう…。

良いスタートが切れた。これならもう、エンジョイライフ一直線ね!

四時限目は体育。

女子と男子で分かれて着替える。

転校初日でも、どうやら私も参加するらしい。

今日から初めてやる種目なのだとか。


マリあ(いきなりすぎて不安だけど…)


この四時間だけでも充分にクラスに馴染めた。話せる人も、既にわかってきた。


大人しいけど優しいシロ。

恋話ばかりしてくる、きっとそういうのが好きなタミコ。

……正面席の暗いくんは除外。

多美子「でねぇ、まーうちのクラスにも軽すぎる奴はいるからさー、これからマリにも絡んでくると思うよー」

マリあ「えー、それはちょっとやだなあ」

多美子「渡(わたり)って奴、水泳部のエースだけどチャラくてね…あ、サッカー部の結宏も結構アレかな」

マリあ(…んーと、靴とかはどうすればいいのかな)


白子「あ、マリ…ちゃん、屋内用の靴は一旦下駄箱だよ」

マリあ「! 教えてくれてありがとうシロ、ちょっと迷ってたんだ」

白子「えへへ、いいよう」


この子本当にいい子だ。


多美子「んじゃさっさと校庭出ようか!遅れるとオニマツに“三周走れ~”って怒られるからね」

マリあ「あはは、そういうのどこの学校でもいるんだね」


うんうん、良きかな良きかな。ビバ日常ね。

鬼松「おっそおおおおい!なにやっとるかあああ!」

「あっ、すいません」

鬼松「たるんどるぞ!みんなが体操している間はお前は校庭5周だ!」

「ひいいい!」


2周も多いとは思わなかったな。5周って、軽くメインレースの距離じゃない。


鬼松「で…お前が獅子寺だな」

マリあ「はい」

鬼松「俺は遅刻とこまめな水分補給をしない奴だけは許さないからな、覚えておくんだぞ」

マリあ「わ、わかりました」

鬼松「あとはまぁ、途中から入って来て大変だろうが、頑張れよ」


怖い顔してるけど、結構良い人みたい。

「いっちにっさんしー」


白子「ま、まだ伸びるんですか?すごい…」

マリあ「えへへ、柔軟は結構毎日やってるんだ」

白子「へええ…」

マリあ「シロにもやってあげるよ、柔らかくなるツボってのがあってねー」

白子「え!や、わたしは良いですよっ」

マリあ「いーのいーの、後ろ向いてー」


にーにっさんしー


狂「……」


マリあ(…男子…女子とは別に向こうで体操してるけど、やっぱり一人はぐれてる)


ああいうのは見ていてあんまり…気持ちの良いものじゃあない。

マリあ「……ん…?」


ジャージ姿で軽く柔軟する倉井くんの手首に違和感。

最初はリストバンドかなと思ったが、違う。


マリあ「包帯…」

白子「え?」

マリあ「あ、なんでもない、よそ見してごめんね」

白子「包帯って、もしかして倉井くん?」

マリあ「…うん、目も何かよくないみたいだし…」

白子「ああ…」

マリあ「彼は何かあるの?」

白子「…ちょっと変わってる人…っていうのかな…浮いてる人だよ」


白子「高校に入った頃から眼帯と包帯をつけていて…でもちゃんと体育は出るし…」

マリあ「えー…ファッション?」

白子「…前に腕を押さえて、授業中の教室から抜け出したりしてた…かな」

マリあ「わあ」


間違いない。彼は、そういう感じの人なのだ。

私が中学の頃にも、似たような男子がいた記憶がある。


白子「いつも睨んだみたいな目つきで、なんだか怖いっていうか…私は、倉井くんはちょっと苦手です…」

マリあ「……」


暗い…倉井くんが、なぜ包帯をつけているのか。

なぜ眼帯をつけているのか。

なぜ冬服なのか…。


理由があるなら悲しい話。

けど、それがファッションであったり、キャラ作りだとするならば…一言で言えば変だ。

普通ではない人だ。


マリあ(自分を表現したいなら、もっと普通にしていればいいのにな)


彼は普通に振舞えないけど、人並みな幸せを望んでいる人なのだろう。

私はそんな人を「普通じゃない人だから」と避けたりはしない。苦手だけど。

「なにあの車」

「うっわ、リムジンかよ」

マリあ「……」


皆が騒ぎ始めた。そういえばさっきから靴紐が緩い気がする。絞め直そう。


「3台も停まってるよ…お偉いさんの視察?」

「あ、鬼松が動き始めた」

「鬼松大丈夫かな」


そろそろ夏だし熱い。

薄着だと下着が透けるから、ジャージを着なくてはならない…あまり良い季節ではない。


白子「…わぁ…マリちゃん、あれ凄…」

マリあ「さすがに運動してると熱いよね~…」


タオルタオル。

「お嬢様~!お授業、がんばってくださああああい!」

「お嬢~~~!お嬢に盾突く輩がいたら、すぐに申しつけてくだせえええ!」


白子「…わあ…人がいっぱいでてきてる…」

マリあ「今日の授業は何やるのかなー、なんだろう、ねえなんだと思う?」

白子「えっ、えっ?あの…あ、今日、ですか…」

「お嬢様ぁああああ!うおおおおお!」

「お勤めご苦労さまです!うおおおお!」

マリあ「~~~~…わ、私運動は好きだけど水泳は苦手だから、まだ夏に入ってないこの時期の授業が一番好きなんだよね…」

白子「そ、そうなんですか…それにしても、外で騒いでる人達…」

マリあ「なな、なんていうか私カナヅチでさあ、あは、あはは」

「「「マリあお嬢様あああああああああ!!」」」


ああ、終わった。

獅子寺と聞いてピンとくるお年寄りは多いだろう。

ずっと昔から、隣街を牛耳ってきたヤクザまがいの地主の家だ。

私はその家系の一人娘で、まあ、いわゆる極道の娘なのだ。

一般人だった良識ある母が私の唯一の希望だったが、私が小学生の頃に病気で他界。

えんえんと子供のように咽び泣き叫んだのは、一人孤独に残された私…ではなく、それ以上に会のヤクザもんばかりで私自身はそれを見て逆に引いていたのだが、悲しいものは悲しい。


母は獅子寺に嫁いで以来、密かに再びの「一般人」の生活にあこがれていたらしいし、私にもそんな暮らしをしてほしかったようだ。

ならば私は、泣くより先に母の望みの通りに生きるべきであろうと思った。

母が望んでいたから、だけではない。私自身も、獅子寺家の浮世離れした暮らしはもう、コリゴリなのだ。

もう、苗字だけで友達ができない暮らしとはおさらばしたい。

おさらば…。


白子「……」

多美子「……」

マリあ「……」


おさらば…したかった…。

鞄の中にあった弁当箱は、重箱だった。

家の者がやったのだろう。


マリあ「………はは、鰻重」


…こんな弁当箱じゃ、遅かれ早かれボロは出ていたか。

一日くらい、夢を見させてくれたっていいじゃない。


体育の時間に現れた会の衆は、鬼松先生他、多人数の先生で追い払ったらしい。

関係者である私には一切、お咎めなどはなかった。…不自然な話だけど、そんなものだろう。

獅子寺の娘を叱るなんて……そういう事だ。


「──で明日さぁ」

「──あはは」

マリあ「……」


獅子寺の娘と関わるなんて…そういうことなのだ。

狂「……」

マリあ(はぁ、一人になっちゃった)


午前中までの好スタートが嘘のよう。

転校して最初の昼休みなのに、誰も私の席に近付いてこない。


白子「……」


シロは気遣うようにこちらを見ているが、気を遣われる分、こちらの胃が痛む。


マリあ「…ごちそうさま」


鰻重の白米だけを食べ、お昼ご飯を終了。

倉井くんは既に食べ終わり、机に伏せて眠っていた。

マリあ(私、またひとりぼっちになるのかなぁ)


一人が好きなわけではない。

人と関わるのが怖いわけでもない。


みんなが私と関わりたくない。もはやその事実も受け入れよう。

なら、私はどうすれば、普通になれるのだろう。


マリあ(家、没落しないかなぁ~)


とんでもない事を考えながら重箱を錦紐で縛っていると、螺鈿の光沢が陰った。


「やあ、獅子寺さん。学校は慣れたかい?」

マリあ「え?」


見上げると、片耳にピアスをつけた青年がいた。

マリあ「…えっ…と」

ターコイズか何かだろうか。綺麗な色のピアス。

端正な顔立ち。背が高い。良い男だ。


「あ、ごめんごめん、俺は渡(わたり)っていうの、新森 渡(あらもり わたり)、ね」

マリあ「渡くんだね、うんおっけー、覚えた」

渡「ありがとう、これからよろしく」


さわやかな笑顔。こういう男子と付き合いたいなぁ、という願望はある。

…けど、確か昼前に多美子が言ってたっけ。渡っていう、この人も結構ちゃらちゃらしてる、って。


マリあ「まあ、ぼちぼちかな…もっと友達を増やさないとね」

ぼちぼちどころか全てが崩れ去っているのだけどね。

渡「はは、じゃあ僕も獅子寺…いや、マリの友達、ってことでいいかな?」

マリあ「もちろんだよ!よろしくね」


ああ、多美子の言う通り、本当に軽い人なのかもしれない。気を付けよう。

渡「でもすごい車だよねえ、大層な応援団、っていうか」

マリあ「うん、本当に困っちゃうよ、ああいうの…私のためってのは伝わるけどね」

渡「でも良い人たちなら安心だよ、最初は何が起こるのかと冷や冷やしたけどさ」


あれ?


マリあ「そうなんだけどね、おせっかいもあそこまでいくと…私の学校生活も危ういっていうか…」

渡「ははは、大変だったろうね、マリ」


この人…。


マリあ「学校を転々としてね、なかなか馴染めなくて、今だってそう」

渡「大丈夫大丈夫、じきにみんなも慣れるさ、僕みたいな、平気そうにしてるのが一人いれば、段々と周りも、ね?」


この人、普通に良い人じゃない。

顔が更にかっこよく見えてきた。

多美子「……」

でも。

渡「今日、放課後暇だったら一緒にカラオケでもどうかな?」

綺麗な顔をしてる人ほど、実は危ないってことを私は知っている。

初対面で甘い言葉を囁く人ほど、腹の内はそこまで綺麗じゃないってことも。


渡くんの後ろで、多美子が険しい顔をしているのは、ほんのダメ押しの確証。


マリあ「ごめんね、今日はちょっと忙しくて…」

渡「ええ~、そっかぁ…じゃあ明日とかはどうかな?」

マリあ「うーん、しばらくうちの事と学校の事で忙しいから」

渡「…そっか、残念だなぁ」


心底残念そうな顔をしている。けど、彼の後ろでは、クラスメイト達が安堵したような表情を見せている。

…きっと、彼は常習犯なのだ。巷で噂の、女癖の悪い人。

渡くんが「やれやれ」モーションをさせながらキザったらしく教室を出ていくと、室内の雰囲気は一変した。

さきほどまで私を敬遠していたクラスメイト達が、私を気遣うような目で見てくるのだ。


多美子「危なかったよ、マリ…あいつ、本当に最低だから」

マリあ「あはは、さすがにあそこまで露骨だとね…なんとなくわかっちゃうよ」

多美子「かわいい子を見つける度に、あいつあんな風に声かけてくるんだよ…中学の頃はそんな奴じゃなかったんだけど」

マリあ「中高で変わる人は多いもんね」

多美子「…うん……あの、マリ」

マリあ「? ん?」


多美子「あの……ごめんね、ちょっと、マリのこと…関わらない方がいいじゃないか、とか…思っちゃった、ほんとごめん」

マリあ「…あはは、私が同じ立場でもそうするよ」


まだまだ、日常に別れを告げるのは早いみたい。

初日は波瀾かそうでもないか、ともかくうちの者を叱ることは確定として幕を閉じた。

心許せる友達が2人もできたのは、私にとっては大きすぎる収穫だといえようか。

元気で活発な多美子。

大人しい白子。

彼女をはじめとして、まだまだ多くの友達が作れたらいいな、と思う。


多美子「ほらほら、こっちこっち!」

マリあ「ああもう、待ってよぉ」


だから、私が今日、放課後するべきことは、家のゴロツキを叱り飛ばす事ではない。

より深く、友達との友好を深めることだ。

言葉にすると打算的でいけない。

つまり、もっと遊びたい、ってこと。


放課後の繁華街は、稲葉高校の制服のまま生徒たちが多くうろついている。

多美子「ここの喫茶店が、通りの中では一番高いけど美味しいかな、パフェは安い」

マリあ「うん」

多美子「で、その向かいのシュークリーム屋さんは確かに美味しいけどアイスも美味しい!アイスなら喫茶店よりも良いよ」

マリあ「へええ……」


道を跨いで視線が泳ぐ。

5歩進むだけで新たな世界が左右に広がり、そこに待ち構える小さな扉の向こうには、更なる世界が待っている。

こうやって自由気ままに街を歩く経験が無いことは無い。

けど、隻眼のジジイではなく、同い年の女の子と歩く繁華街がここまで楽しいとは思っていなかった。

雀荘と煙草屋しか知らないヨボヨボと歩くよりも何千倍も楽しい。比較の為に乗算を用いるのが、多美子に申し訳なるくらいだ。

どん。私のふらつく肩が、誰かに当たった。


マリあ「いたっ」

「おい…あ、キミ、大丈夫?ごめんね痛くなかった?」

マリあ「す、すみません、」

多美子「大丈夫です、ごめんなさいね!」


彼女が私の裾を強く引っ張った。ずるずると、引きずられてはいないがその力のままに、道の端から路地裏へと連れて行かれる。

路地裏は人気が少なく、そこで静寂を確認して初めて多美子が息をついた。


多美子「はあ、あんまりよそ見して歩くのはダメだよー、ああいうのに絡まれると面倒だから」

マリあ「あ、あはは……ついつい、色々な所に目がいっちゃって」

多美子「まあ狭い割に色々あるからねー、ここは」

人の多い通りとは音も熱気も違う。

路地裏は涼しく感じたが、それだけ表が熱に溢れていたという事だ。

路地裏が本来の温度なのだ。


涼しい風が足下を撫ぜる。


多美子「じゃあ、次は向こうのゲーセンの案内でもしようか!」

マリあ「ゲーセン!いいね、あんまし行ったことないから、楽しみ!」

多美子「古いのから新しいのまで色々だけど、きっと楽しめると思うよ!」


涼しい風が頬を撫ぜる。

身震いする。


水魔人「……」

多美子「あれ…?なんか、ここ寒くない…?」


そして、日常とはおよそかけ離れた“なにか”が、彼女の背後に立っていた。

水魔人「ゴボボッ……」


身の丈2mはあろう半透明の巨人。

ほおずき色の単眼が多美子を見下し、その手を延べる。

やばい。


マリあ「た…多美子っ!」

多美子「えっ? ! ごぼッ…!」


止める間もなく、巨人の水の手は多美子を顔面を覆い尽くした。


多美子「がぼっ…ご…ッ…!」


半透明の手に気泡が溢れてゆく。

それは、現状に全く追いついていない私の頭でもわかる、多美子の命の灯火だ。


マリあ「ちょっと…!おまえ…!」


わけがわからなかった。目の前で繰り広げられた、突然の異変が。

それでも私を突き動かすのは、今日できたばかりの私の友達。多美子の命の危険。

多美子を守らなきゃ。


マリあ「多美子を離せぇええ!」


半透明な巨体に掴みかかる。あいつは後ろから多美子の口を塞ぎ、…どういうわけか、窒息死させようとしている。

なんとか腕をどけなくては。


巨人の腕に触れた私は一瞬固まる。なんて冷たい腕なのだろうと。

そして、私の手がずぶずぶと腕の中へ潜っていく感覚を覚え、現状を再認識する。


これは尋常ならざる事態だ。非日常だ。

多美子「……」

マリあ「あっ……」


巨人の腕から多美子の身体が解放される。

いや、多美子が力尽きたと見るべきだろう。


多美子は声を上げずに、受け身も取らずに路地裏の地面に倒れ、動かなくなった。


マリあ「いや…なによ…これ」


水浸しの多美子の顔。髪。そっと抱き上げ、以前見たことがある救命教室に倣い、気道を確保する。


水魔人「…ゴボボボ…」

マリあ「…!」


だが、人殺しをしかけた異形の何かの目の前で救命行為など、気付いてみればパニックであったと言わざるをえない。

水の巨人は赤い目をこちらに向け、静かに腕を伸ばしてきた。


マリあ「いや…っ…!」

「――我が力よ、拡散せよ」

「――総ての疎を密とし」

「――総ての動を静とする」

「――我が領域に生ける者よ、我が息吹の前にひれ伏すが良い」


「世界よ凍てつけ!!」


「エターナル・フォース・ブリザード!!」

冷気が疾走した。

それは風というにはあまりにも冷たく、吹雪というにはあまりにも透明で。

まるで、見えざる冬がやってきたような波が、路地裏の地面を駆け抜けた。


水魔人「ゴボッ……!」

マリあ「!」


私達を見下ろす魔人が、端から凍てついてゆく。

最後のもがきとこちらに手を伸ばそうとするが、届かない。

窒息の腕がこちらに届く前に、水の魔人は完全に凍りついてしまい、動かなくなった。

マリあ「……なんなの…?」


危機は去ったと見るべきなのだろうか。

ひとまず、動かなくなった水の巨漢から離れ、ぐったりと動かないままの多美子を担ぎ、周囲を見回す。


マリあ「何なのよ…一体…これはっ!」


地面には、氷の結晶が花のように咲き乱れ、

コンクリートの壁面は、刺々しい薄氷に覆われていた。

白と、水色と、透明に覆い尽くされた、氷の世界に一変していた。

まるで、おとぎ話のような…。


「命拾いしたな、転校生」

マリあ「!」


路地裏の奥から、聞きなれぬ男の子の声。


狂「強大な魔力を感じ取って来てみれば…転校早々、不幸な目に遭った事には同情してやろう」

マリあ「!」


見覚えのある人物が、路地裏の闇から現れた。

眼帯。腕の包帯。時期に合わない、けれどこの場の寒さには合う、稲葉高校の冬服。


前の席の倉井くんだ。


狂「だが、水のゴーレムを前にその女を助けるのは愚行に他ならん…ただでさえ弱い“ノーマル”が、強者を前にして何ができるというのか、ってことだ」


冷めた目をした彼は学校に居る時とは打って変わった饒舌ぶりで、理解の追いつかない事を捲し立てる。

私が唯一感じ取れたのは、彼が私を馬鹿にしているということで、私が間違っているということだ。


マリあ「何よ……何が何なのよ!私が何したっての!これは何なのよ!」

けれど、やっぱり私の理解は状況に追いついてはいない。あやふやなるままにやってきた命の危機、そのまま流れるように去っていった危険と、謎の現象。

蚊帳の外の蛾でも眺めるような冷たい目で、倉井君は私に一言だけ言ってのけた。

第一話 / 邪気眼を持たぬ者には解るまい

私の名前は獅子寺 マリア(ししじ まりあ)。

稲葉高校に転入してきた(家が極道っていうこと以外は)ごく普通の高校一年生。

なんだかんだあったけど、それでも私はクラスメイトと仲良くやっていけそう。

明るくおしゃべりな多美子、おとなしいけど可愛い白子とも友達になれた。

順風とはいかないけど、なかなか好調な滑り出しで始まれたと思う。

放課後も多美子と親睦を深めるために、地元の繁華街を案内してもらったんだけど…。


路地裏で突然、水の巨人が多美子に襲いかかり、彼女を気絶させた。

何が起こったのか、この巨人は何なのか。何もわからないままの私に次なる狙いを定め、巨人は掴みかかろうとしたが…。


前の席の倉井くんが、どうやら私を助けてくれたらしい。

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