【アイマス】ホオジロの夢 (66)

・地の文
・そんなに長くならない予定
・ゆっくり行きます


よろしければお付き合いください

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「うーん、元気なのはいいことだけど、もうちょっと音程に気を付けましょうね」

おそらく、音楽教師としてはごく当たり前の発言だったのだろう。
それくらいの分別がつくくらいには、自分も成長している。

けれど。

なぜみんなの前でだったのか。
そのことだけは、いまだに納得できないでいる。


「やーい、音痴ー」

どこからか飛んできたその声は、瞬く間に教室中に広がっていった。
教師も、この段階になって自分の失敗を悟ったのだろう。
声を上げて止めさせようとしたが、しょせんは焼け石に水。
一度起きた波を止めることなど、できるものではない。

当時、俺は歌が好きだった。
テレビで歌っていた誰かが格好良かったとか、そんな取るに足らない理由。
あんな風に格好良く歌ってみたいとか、そんな他愛のない夢。

その日を境に、夢は呪いに変わってしまった。
目指すことはなくなっても、いつもどこかで俺を縛っている。
だから、呪い。


それから数年がたったある日のこと。
俺はこれといった目的もないまま、街を歩いていた。
それは、逃避と言って差し支えない行為だった。

この身にまとわりついて離れない呪い。
かつて見た夢を捨てられず、かといって正視することもできない。
そんな現状を変える『何か』を求めていた。
当てもなく彷徨ってみても見つかりはしないと、分かっているのに。
ただ、じっとしていることに耐えられなかったから。

そんな時、歌が聞こえてきたのだ。


歌は、公園から聞こえてきた。
俺よりも年上に見える女性と、小さな女の子。
女の子と同じくらいの子どもたちと、その親だろうか。
そこでは、小さなコンサートが開かれていた。

女性の綺麗な歌声と、女の子の楽しそうな歌声。
それは聞くものを優しく包んで、笑顔を咲かせていた。
やがて歌声は観衆にも広がっていき……

微笑ましい光景。
そんな光景を前に、心に鈍い痛みが走る。

ただただ楽しそうに歌うその少女が。
決してうまくはないその歌声が。
歌が好きだと伝えるその表情が。

あの日の情景を蘇らせる。


「歌、好きなのね」

「うんっ!」

過去に囚われた思考に、そんな元気な声が流れ込んできた。

「わたし、みんなで楽しく歌うの大好き!」

あの日、傷を負うことがなければ。
俺は彼女のような真っ直ぐな想いを持ち続けられたのだろうか。

「すごく素敵な歌だったわよ」

「ホント!?」

「一緒に歌っていて、とても楽しかったわ」

あの時、彼女のような存在がいれば。
俺は今も夢に向かえていたのだろうか。

「えへへー」


「あなたには、みんなを笑顔にする力があるのかもしれないわね」

「? よくわかんないや」

そんな仮定も後悔も霞むほどに。
目の前の光景は眩しいものだった。

「歌が好きな気持ち、大事にしてね」

「うんっ!」

俺は彼女にはなれなくても。
彼女にならなれるのかもしれない。

そんな、一筋の光明を見た。


***************************


「……………サー…ん、……デュー……さん」

遠くから響くような声を、はっきりと聞き取ることができなかった。
俺はこの声に応えなければならない。
そんな無意識が働いて、俺は徐々に覚醒へと向かっていった。

「プロデューサーさん!」

「…………んん?」

最初に目に入ったのは、少し汚れた事務所の天井だった。
どうやら寝ていたらしいことだけは分かったが、まだ頭がちゃんと回っていない。

「大丈夫ですか?」


聞きなれた声がする方に顔を向けると、少し心配そうな顔の少女が立っていた。
天海春香。
俺が所属する事務所のアイドルで、俺の担当アイドルでもある。
しかし、なぜ彼女が心配そうな顔をしているのか。

「…………春香、大丈夫って、何が?」

「なんだかプロデューサーさん、険しい顔をしてたので」

そう言って眉間のあたりを指さす春香。
言われて、さっきまで見ていた夢に思いを巡らせる。

傷を負い、夢を諦め、未練が断ち切れなかった日々。
足掻き続けて見つけた、新しい道。
お陰で俺は、今こうしてここにいる。


「……ああ、ちょっと無理な体勢だったからだろ」

ただ何となく、正直に言うのが照れ臭くて誤魔化してしまった。
今まさに夢を叶えようとしている少女に聞かせる話でもないだろう。

「もう、休むんならちゃんと休んでくださいね?」

そんな葛藤は上手く隠しおおせたらしい。
言葉をそのままに受け取った春香は、こちらを気遣ってくれた。

「ちょっと一休みのつもりだったんだけどな……」

言いながら、ソファから起き上がって伸びをする。
縮こまっていた体に心地よさが広がっていく。


「さて、と」

ようやく頭がすっきりしてきた。
春香がここにいるということは、レッスンは無事に終えてきたということだろう。

「疲れてるとこスマンな、春香」

対面に座るように促し、声をかける。

「いえ。私の方こそ、プロデューサーさんの期待に応えられなくて……」

そう言って春香は肩を落とす。

「気にするな。春香の力を見る意味もあって、ちょっと上のランクに挑戦してただけだから」

春香を担当するようになって数ヶ月。
オーディションをいくつか受けてみたものの、まだ一つも合格していない。
最大の原因はさっき言った通り。
お陰で、足りないところも見えてきた。
それと同時に、天海春香というアイドルが持つ強みも、朧げながらに掴むことができたと思う。


「でも……」

とはいえ、結果が出ていないということが彼女の声を暗くさせていた。
そうさせた責任は俺にあるわけで。
これから前を向いて進むためにも、不安は取り除かなければならない。
わざわざレッスンの後に事務所まで来てもらったのはその為なのだから。

「春香」

「……はい」

「これまでオーディションを受けてきて、どうだった?」

春香が顔を上げたので、その目を見ることができた。
不安の色が浮かんでいて、でもその奥には強い輝きを秘めている目。
この輝きがあるのなら大丈夫。

「春香自身のこと、周りのライバルのこと、どう思った?」


ちょっと考え込むそぶりを見せた春香だったが、答えを出すのにさして時間はかからなかった。

「私、まだまだなんだなぁって思いました。まだちゃんとアイドルになれてないっていうか……」

「まだアイドルになれてない……か」

「周りの人は歌もうまくて、堂々としてて。それに比べると私は……」

アイドルとして事務所に来て半年と少し。
春香はアイドルとして、最低限の基礎は身につけている。
ただ、その土台の上にはまだ何も乗っていない。
何を乗せるのかは、春香自身で見つけなければならないものだ。

「じゃあ、春香の武器ってなんだと思う?」

「武器……ですか?」

困惑した表情を浮かべる春香。


「何でしょう? 考えれば考えるほど、私って普通な気がしてきます……」

「確かに、歌もダンスも普通だな。容姿は可愛いと思うけど」

「そ、そんな、可愛いだなんて……」

俺の言葉に照れる春香。
前半部分はどこかに飛んで行ったらしい。

「……アイドルとして見たら、そこまで突出して可愛いってわけでもないけどな」

「プロデューサーさん、上げて落として、楽しいですか?」

ジト目で睨まれた。
そういう意図があったわけではないんだけど……そう取られても仕方なかったか。

「すまん。ただ、不思議だと思って」

「どういうことですか?」

さっきまでの不機嫌そうな表情はあっという間に引っ込んでしまった。
この、クルクルと変わる表情も春香の魅力だと思う。


「『色々と足りてないんだけど、なんか印象に残ってるんだよね』だってさ」

「へ?」

何を言われているのかさっぱりわからないという顔。
そりゃそうか。

「審査員の何人かが、春香についてそう言ってたんだ」

個々の要素を見れば、合格には一歩も二歩も届かない。
なのに、天海春香というアイドルを見ると妙な存在感がある。
要約するとそのような印象を受けたと、そう教えてもらったのだ。

「誰かの印象に残るっていうのは、大事なことだと思うぞ」

出来ることをやりきろうと、一生懸命になる。
そんなのは当たり前のことで、評価の対象足りえないのに。
実力が伴っていないのなら、切り捨てられて当然なのに。
それでも相手の心に残る何かがあるというのは、何物にも代えがたい武器になるんじゃないだろうか。

「でも私、まだオーディションに合格もしてないんですけど」

だから、今の春香に必要なのは自信。
それを形作るための成功体験。


「そうだな。だから今週末、オーディション入れといた」

「ふぇっ!?」

「要するに、今の春香に足りないのは経験ってことなんだよ」

「……そう、なのかなぁ?」

「春香にはアイドルの資質がある。俺はそう信じてる」

経験を積んで、自信が持てるようになればきっと大丈夫。
審査員の言葉でその思いは確信に変わった。

「なら、あとは周りに負けない実力をつけるだけだ」

その為に俺ができること。
それは、何を乗せてもビクともしない、そんな土台を作ることだ。

「大丈夫、俺を信じろ」

今の俺に言えることはこれくらいしかない。
今更ながらに自分の力不足を痛感する。
それでも、出来ることを一つずつやっていくしかないのだ。


「うーん……」

一方の春香は唸っていた。
今一つ信じきれないと、表情が物語っている。

「……あの、春香さん?」

いくらかは信頼されてると思っていたのに。
……ただの思い込みだったのだろうか。

「なーんて、冗談ですよ、冗談! 頑張りましょうね、プロデューサーさん!」

ペロッと舌を出す。
その笑顔はいかにも彼女らしくて、腹も立たなかった。

「そうだな、頑張ろうな」

まずは一歩を踏み出すために。

本日は以上で

お読みいただけたなら幸いです


***************************


しゅんとした顔の春香を乗せ、車を走らせる。
バックミラー越しに何度か様子をうかがってみるが、春香は終始うつむいていた。

「春香、今日の結果は気に病むことないからな」

そんな姿に耐え切れず、声をかける。

「今日の春香は今までで一番良かった。文句なく合格の出来だったよ」

そうは言うものの、現実には合格できなかったわけで。
しかもその原因は本人と別のところにあった。
……こういうことは、出来るなら知らないままでいたほうがいいのかもしれない。


「ですよね!?」

返ってきた声は、意外なほどしっかりとしていた。

「ずっと考えてたんですよ。今日は何が悪かったのかなって」

どうやら、落ち込んでいたのではなく反省していたらしい。
自分なりの改善点を見つけて、次の準備を始めていたようだ。
俺が思っている以上に、春香は強い女の子だった。

「自分でも結構できたと思ってたんですよ。プロデューサーさんがそう言ってくれるなら安心です」

そう言って、いつもの明るい笑顔を見せてくれた。


「……でも、何か足りなかったから合格できなかったんですよね?」

春香の目は、あくまでも前を見据えていた。

「あー」

アイドルという夢を追いかける少女に話すべき内容なのか。
そういう逡巡は確かにあった。
けれど、認めたくはないけれど、現実にそういう事情は存在する。
なら、遅かれ早かれ知ることになる、ということだ。

「今日のオーディションな、どうも出来レースだったらしい」

春香なら大丈夫だろうという根拠のない信頼から、俺は話をすることにした。


「出来レース?」

「あれだ、上の意向とか、事務所の力関係とか、そういう奴」

春香を評価してくれていた審査員がこぼした言葉から推理すると、そうなる。
……もっとも、さすがに直接的な表現はなかったが。

「……はあ」

そういう世界に失望したのか、諦めなのか。
ハッキリとしない返答だった。

「それじゃあ大変ですね」

しかし、続く言葉がそうではないことを教えてくれた。

「大変って、なにが」

「だって、実力に見合わない仕事かもしれないじゃないですか」

実力を評価されての仕事なら、それを自信に変えていける。
でも、実力以外の力が働いているのなら、いつか間違ってしまうんじゃないか。
そう、春香は言った。

「まあ、実力があるならそんなことはしないしなぁ」

「それに、正しい結果を受け取れないんじゃ、どこに向かってるのかわからなくなっちゃいますよ」


「……春香は強いな」

思ったことがそのままこぼれた。
当の春香は目を丸くしている。

「こんな汚い話をしたら、失望してもおかしくないと思ってたんだけど」

極端な話、実力なんかなくてもアイドルはできるということなのだから。
本気で夢を追っている人間にしてみれば、これほど馬鹿馬鹿しい話もないだろう。

「えへへ。こんなことくらいでアイドルは諦められませんから」

それを、こんなことくらい、で済ませてしまう春香。
その笑顔は、とても頼もしかった。


「それに、プロデューサーさんはそんなことしませんもんね」

「…………すまない、ウチにそんな力はない」

ちょっと勿体ぶって言うと、春香は苦笑していた。

「それに、俺も社長もそういうことはしない主義だからな」

「ですよねっ」

夢に至る道を自分の足で進む少女は、眩しい笑顔を見せてくれた。


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息抜きがてら、事務所の屋上に出る。
この事務所に来てから数ヶ月、すっかりここがお気に入りになってしまった。

どこにでもある雑居ビル。
屋上に出たところで、素晴らしい景色が待っているわけでもない。
そんな『普通』に埋没することに、安らぎを感じるらしい。
芸能界という、ある意味浮世離れした世界にいるからこそ、なのかもしれない。


「プロデューサーも休憩ですか?」

「律子か」

事務所の先輩にあたる、年下のプロデューサー。
時折、年下であることを忘れるくらいに優秀な女性。

「ん? 俺“も”?」

「ええ、私も」

会話とも言えないような、最低限の言葉のやり取り。
それが何とも言えず心地よかった。


屋上の柵に肘を乗せ、通りを眺める俺。
背中を預けて空を見上げる律子。
二人の間に沈黙が流れても、そこに気まずさはなかった。

「なあ律子、弱音吐いてもいいか?」

「却下です」

「即答かよ」

何となく居心地のいい空気に、ちょっと甘えてみたくなっただけなのに。
……年上としてそれはどうかとも思うが。


「なんて顔してるんですか」

軽く反省しているところに声をかけられた。

「どんな顔?」

「水をかぶった野良犬みたいです」

「……わざわざ野良犬って言うあたりに悪意を感じる」

「それなりの愛嬌を感じないわけではないですよ?」

「それ、ほとんど無いよな」

数瞬の沈黙の後、どちらともなく笑いだす。
気の置けない仲というのはいいものだ。


「で?」

どうやら話を聞いてくれるらしい。

「さすが律子センパイ、優しさが目に沁みる」

「お疲れ様でした」

「ごめん俺が悪かったもうしない」

やっぱり弱いところを他人に見せるのは多少なりとも恥ずかしい。
それが年下の女性相手なら、なおさらのことではないか。
だから冗談で一呼吸置きたかったのに。
……律子には全部見透かされてる気もするが。


「……春香に足踏みさせてるなぁ、と」

今は基礎をしっかりと固める時期である。
その話は春香ともしているし、理解もしてくれている。

だが、そのことと仕事が取れていないのは別問題なわけで。
これまでの仕事も、下積みという方がしっくりくる内容のものばかり。
それも必要なことではあるが、アイドルという華やかなイメージとは対極のものとも言える。

「春香は、今の状況に納得してくれてるのかってな」

「プロデューサーの目は節穴ですか?」

溜め息とともに、手厳しい言葉が飛んでくる。
変に遠慮されて気を遣われるより気は楽だが、少しの手加減は欲しかった。


「そもそも、春香は今の状況を足踏みだなんて思ってませんよ」

一体何を見てるんですかと、目だけで呆れられた。

「プロデューサーはそれだけ信頼されてるんです」

信頼されているというのは、素直に嬉しい。
だが、信頼に足る自分でいられているのか、自信がない。

「とっとと覚悟を決めてください」

こっちの弱気を逃さず、追い打ちをかけてくる律子。
こういう時は本当に容赦がない。

寄せられる信頼に応えられる自分であり続ける覚悟。
その為の努力を惜しまない覚悟。
……分かっていたはずなのにな。


「それはそれで、プレッシャーがすごいな」

「何言ってるんですか。プロデューサー冥利に尽きるってもんでしょうに」

確かにその通りだ。
初めから、信頼を裏切るなんて選択肢は存在していないのだから。

「……ありがとな、律子」

「今度、お昼ご馳走してください」

「手加減を要求する」

「それはあなた次第ですね」

当分、律子には敵いそうもなかった。

本日は以上です
次の投下はおそらく週末になると思います

お楽しみ頂けたなら幸いです


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「おはようございまーす」

事務所に元気な声が響き渡る。
その声は、心なしか普段よりも明るく聞こえてきた。

「……おう、おはよう」

それに引き替え、俺の返事はお世辞にも明るいとは言えない。
このところの睡眠不足が原因なのは明白だった。
色々と走り回っても結果が出ていないことが、拍車をかけていた。

「プロデューサーさん、大丈夫ですか?」

会っていきなり心配されるほどには、顔色がよくないらしい。


「すまん、ちょっと顔洗ってくるわ」

これ以上担当アイドルに心配をかけるわけにはいかない。
冬の冷たい水で、無理やりにでも気合を入れ直すことにした。

「何かあったんですか?」

幾分さっぱりした気分でデスクに着くと、恐る恐る春香が聞いてきた。
日頃の疲れや思うように行かない焦り、思い当たる節は多い。
とはいえ、それが顔に出るようでは大人失格というものだろう。

「大人には色々とあるんだよ」

含みを持たせたセリフを言いながら、お猪口を傾ける仕草をする。
それを見た春香は、どうやら納得したようだ。
……実際には真っ赤なウソなのだが。

弱音を吐いて余計な心配をかけるよりは余程いいだろう。
そんな自己弁護をしながら、ちょっとした違和感に気付いた。


「春香、その手に持ってるのなんだ?」

「え、あ、これは……」

途端にしどろもどろになる春香。
わたわたと体の後ろに隠そうとする。
……今更遅いのだが。

「……いつも頑張ってくれてるプロデューサーさんに、お礼をと、思いまして」

結局隠すことを諦めた春香は、意を決した表情でそう告げた。
受け取りはしたものの、まだお礼を言われるほどの結果は出していないのだが。
そんなことをポツリとこぼすと、大きく首を振って否定された。

「最近遅くまで仕事で残ってるの、知ってるんですから」

「……さっきのウソ、バレバレ?」

遠慮がちに頷く春香。

「私に余計な気を遣わせないためなんですよね?」

なんでこう鋭いのか。
道化もいいところじゃないか。

「あー、それ以上は恥ずかしさで死んでしまうから勘弁してくれ」

穴があったら入りたい、というのはまさに今の状況だろう。
そんな俺を見ながら、春香はクスクスと笑っていた。


「そういうことなら、ありがたく頂くよ」

受け取った箱には、リボンで簡単なラッピングが施されていた。
そういうセンスが如何にも春香らしい。

「おっ、チョコケーキか」

「私、飲み物淹れてきますね」

私の分もあるので。
そう言いながら、春香は給湯室へ向かっていった。

「……どう、ですか?」

「うまい。甘すぎないのが良い」

こういう時、ボキャブラリーの乏しさは如何ともしがたいものがある。
まあ、食レポをやっているわけではないのだから、気持ちが伝わればいいか。


「良かったぁ」

俺の言葉に、春香は胸をなでおろす。

「これ、どこの店の?」

何の気なしに聞いてみる。
かなり好みの味だったので、他のケーキも試してみたいと思ったのだが。
なぜか春香は複雑そうな顔をしていた。

「あのぅ……それ、私が作ったんです」

「…………へ?」

きっと、俺は間抜けな顔をしているだろう。
完全に予想していない答えだった。

確かに、お菓子作りが趣味だというのは知っている。
時々クッキーなんかを焼いて事務所に持ってきているのも知っている。
しかし、今日のケーキは趣味レベルの完成度ではない。
店頭でそれなりの値札をつけてショーケースに並んでいるものと遜色のない出来なのだ。


「これを……春香が?」

俺の言葉にコクンと頷く春香。
その顔は少し赤くなっていた。
その事実を受け止めたうえで、もう一口食べる。

「……お金取れるレベルだと思うぞ?」

思ったことがそのまま口をついて出た。
お礼、とは言っていたが、ここまで気合の入ったものを作られると恐縮してしまう。

「た、確かに気合は入ってましたけど……」

何やら奥歯に物が挟まったような物言いだった。
チラチラとこちらを気にしつつ、目が合うとすぐに逸らしてしまう。
はて、俺は何かしただろうか。


「…………プロデューサーさん、今日が何の日か知ってます?」

いつまでも疑問符の消えない俺に耐えかねたのか、そんな問いかけをしてきた。

俺がこの事務所に来てからキリが良いわけでもない。
誰かの誕生日……だとしても俺が何かしてもらうようなことじゃない。
去年の今日は……そもそもまだプロデューサーになってない。

「2月14日、バレンタインですよ、バレンタインっ!」

バレンタイン?
壁に目をやると、カレンダーが今日の日付を教えてくれた。
2月14日。
ああ、そういうことか。


「だから私もいつもより気合が入ったというか、いやでも、あくまで日頃の感謝を伝えるためにですね」

こういう業界にいながら、今日のイベントを忘れていた。
……プロデューサー失格だな。

「ま、まあ、それ以外の気持ちもなくは無かったりするんですが、いやでも、特別なものではなくてですね」

春香はまだこういうイベントで声のかかるレベルのアイドルではない。
それを幸いと言っていいのかどうかはともかく。
この先、俺がもっとこの手のイベントには敏感でないと……

「ああ、特別と言いましてもそういうのとは違うと言いますか………………プロデューサーさん?」

すっかり自分の世界に入っていた俺は、春香の声で我に返る。

「あ、すまん。ちょっと考え事してた」

目に見えて落胆する春香。
だが次の瞬間には安心したような顔つきになっていた。
実に目まぐるしい。


「それにしても、プロでもやっていけそうな腕前だよな」

「うーん、パティシエっていうのも憧れてはいたんですよね」

なんとはなしにつぶやいた言葉に、肯定的な答えが返ってきた。
若干の不安を覚えつつ確認してみる。

「……アイドル辞めます、とか言わないよな?」

「あはは。まさかですよ」

明るい声で返ってくる否定の言葉。
春香は何の含みもない笑顔を浮かべていた。
そんな様子に、心の底から安堵する。

「パティシエは、アイドルを引退してから考えます」

「俺としては、そうなって欲しくないけどな」

「……応援してくれないんですか?」

「残念ながら、俺はプロデューサーだから」

引退後に思いを馳せるには早すぎる。
春香はまだスタートラインに立ったばかりなのだから。


「大丈夫ですよ。私、今はアイドルのことしか考えられませんから」

そんな俺の想いを汲んでくれたらしい。
春香はいつもの笑顔を浮かべながら胸に手をやる。

「……アイドルは、小さいころからの夢だったんですから」

遠いところを見るような目で呟く春香。
その胸の中には大事な思い出が詰まっているように見えた。

「そういやさ、なんで春香はアイドルになろうと思ったんだ?」

ちゃんとした形でこういった話をしていなかったことに気付いた。
それほど、今まで余裕がなかったということか。


「私、小さい頃からみんなで楽しく歌うのが大好きだったんです」

確かに春香は、楽しそうに歌う。
その楽しさは聞く者の心に響くようだ。

「それで、その日もみんなで公園で歌ってたんですけど」

小さい頃の春香。
目を瞑ればその光景が浮かんでくるようだ。

「すごく歌の上手なお姉さんが一緒に歌ってくれて、私の歌を褒めてくれたんです」

公園で歌う子供たちと、女性。
……どこかで聞いたような話だった。

「一緒に歌っていて、とても楽しかったーって」

特別珍しい話じゃないじゃないか。
そう言い聞かせてみても、なぜか胸が騒いだ。

「もうすっごく嬉しくて、そのお姉さんみたいになりたいって思ったのがきっかけなんだと思います」


もしそうであるならば。
あまりにも出来過ぎている。

「歌、好きか?」

「はいっ、もちろん!」

「春香の歌には、みんなを笑顔にする力がある」

「そ、そんな。私なんてまだまだですよ」

「歌が好きな気持ち、忘れるなよ」

「はいっ………………あれ?」

小さな違和感に気付いたような顔。
それはつまり、そういうことなんだろう。

「あのー、プロデューサーさん?」

「あー、実はな」

その先の言葉は、一本の電話によって遮られた。


***************************


「テレビ? 私がですか!?」

「ああ」

その電話は、一つの吉報をもたらした。
春香に対する、テレビの出演依頼。
それは、以前受けたオーディションの審査員からのものだった。

「あの時の春香が印象的だったから、是非にということだ」

捨てる神あれば拾う神あり、というところだろうか。
今までの努力は無駄ではなかったのだと、そう言ってくれていたようだった。


「春香?」

当の春香は呆然とした表情で固まっていた。
顔の前で手を振ってみる。

「は、はいっ。テレビですよね。大丈夫です、分かります」

全然大丈夫ではなかった。
頭の中が真っ白になっているのが手に取るようにわかる。

「春香」

とりあえず落ち着かせようと、ケーキを一切れ春香の前に差し出す。
何か口に入れれば気持ちに余裕もできるだろう。

「ふぇっ!?」

変な声を出した春香は、また固まってしまった。
目だけが忙しなく動いている。


「ほれ、あーん」

その光景は実に微笑ましいものだったが、このままでは話が進まない。
少し強引に口を開けさせ、ケーキを放り込む。

「美味いだろ」

「………………味見したから知ってます」

ケーキを飲み込んだ春香が、恨めし気にこちらを見やる。
その顔は、耳まで赤く染まっていた。

「どうだ。緊張はほぐれたか?」

「えっと、まあ、はい…………………………別の緊張はしましたけど」

「別?」

よくわからないので聞き返してみると、もの凄い目で睨まれた。

「ごめんなさい」

思わず謝罪が飛び出す迫力。
こんな表情も持っていたのか。

「なんで謝るんですか?」

拗ねたように、上目づかいでこちらを見てくる春香。

「それは、その………」

春香の迫力に押されて、なんて口が裂けても言えない。
そんな風に口ごもる俺を見て、春香は呆れたような、諦めたような表情になった。


コロコロと変わる表情に何気ない仕草。
そこに特別なものは何もない。
それこそが天海春香を象徴していた。

「プロデューサーさん?」

急に黙り込んだ俺に、怪訝そうな目を向けられる。
春香は春香でいいのだと、何の脈絡もなくそう思った。

「すまん、春香に見惚れてた」

「………………へ?」

初めてのテレビの仕事。
余裕がなくなっていたのは俺も同じらしかった。

このチャンスを逃してはならない。
何が何でも結果を残さなければ。

そんな風に視野が狭くなって、大事なものを見落とすところだった。
特別なことをする必要はないのだ。

「みんなに天海春香を知ってもらえるよう、頑張ろうか」

決意も新たに一歩を踏み出そうと、したはいいのだが。
なぜか春香は放心していた。

本日はここまで
次の投下で最後まで行く予定です

お楽しみ頂けたのなら幸いです


***************************


「見事にイジられまくったな」

収録の帰り道、肩を落とす春香を乗せて車を走らせる。
バックミラー越しの春香は、俯いて頭を抱えていた。

「気にしなくていいぞ。可愛かったし」

落ち込んでいるというよりは恥ずかしがっている様子の春香。
そんな春香に正直な感想を伝える。

春香は終始緊張しっぱなしだった。
そのせいなのか、単に経験が足りないのか、その両方か。
登場の場面で盛大にコケた春香は、トークも噛んだりつっかえたり。
実に色々とやらかしてくれた。

にもかかわらず、現場の評判はそこまで悪いものではなかった。
持ち前の明るい笑顔とそのキャラクターが、好意的に受け入れられていた。
……新人イジり、という形でだが。

「……うぅ、慰めはいりませんよぅ」

俺の言葉に、春香はますます小さくなってしまった。
無理もない。


「楽しく歌えたか?」

ただ、流石というか何というか。
いざステージに立ってみると、春香は日ごろのレッスンの成果を遺憾なく発揮してくれた。
そのギャップもまた、前向きな評価につながったのだろう。

「はいっ! ……でも、他のところは楽しむ余裕なんてなかったです」

「そこは経験を積むしかないんじゃないか?」

「……次、あるんでしょうか」

あれだけ色々やらかしていたら、心配になるのも当然のことか。
自分のことで精いっぱいで、周りを見る余裕もなかったようだし。

「大丈夫。スタッフの間ではなかなか好感触だった」

初めてのことで緊張していた、というのを差し引いてもウケはよかったと思う。
まあ、次も同じようにやらかしたらその限りではないかもしれないが。

「それに、大丈夫じゃなくても大丈夫にするのが俺の仕事だからな」

鏡越しに目を合わせる。
俺は春香を信じていると、伝わっただろうか。

「よろしくお願いしますね、プロデューサーさん」

春香の目は強い光を宿していた。


――――――
――――
――

「今日のお仕事のことで頭がいっぱいで忘れちゃってたんですけど」

渋滞につかまった車中で、春香は思い出したように呟いた。

「プロデューサーさんって、私のこと昔から知ってました?」

先日のやり取りでのことだろう。
春香の口からこの質問が出るということは、おそらく間違いない、ということだ。

「なんでまた」

最後の確認のつもりで問い返す。

「小さいころの私とお姉さんの会話、まるで知ってるみたいだったので」

傍目に見ると、単なる微笑ましい光景。
だがそれは、俺にとっては重要な分岐点だった。
だから、よく覚えている。


「たまたま通りがかってな。それだけさ」

「そう言う割にはよく覚えてませんでした?」

「そりゃ、そこに居合わせたお陰で今の俺があるんだから」

「……どういうことですか?」

よくある話さ。
そう前置きしてみても、春香の興味が失われることはなかった。
その目には、純粋な疑問と、少しの好奇心が見て取れた。


「俺も昔は、歌手だアイドルだに憧れてた時期があったんだよ」

「え、そうだったんですか?」

驚きの声を上げる春香。
まあ、そういう話はしてこなかったから、ある意味当然か。

「ある日を境に人前で歌うのが怖くなって、それっきりだけどな」

今でも思い出すと背筋に冷たいものが走る。
あの時の光景は、恐怖の象徴として刻まれてしまった。


「なんで……って、聞いてもいいですか?」

春香は恐る恐る聞いてくる。
同じような夢を見る者として、その理由が知りたいのだろう。

「俺さ、音痴なんだよ」

もっとも、重要なのはそこではない。
大勢の前でその事実を指摘され、からかいの材料が提供された。
子どもというのは、無邪気な分だけ残酷な生き物で。
標的にされた俺はそれに対処する術を持っていなかった。

「それだけなら努力でどうとでもなるんだけどな」

からかわれたことが恐怖に結び付いた結果、俺は人前で歌えなくなった。

「そんな……」

当時のことを簡単に説明すると、春香は絶句してしまった。
車は渋滞につかまったまま、遅々として進まない。
話の続きをするにはちょうど良かった。


「夢ってのはタチが悪くてな。諦めようとしても、なかなか放してくれないんだよ」

その輝きが強ければ強いほど、胸の奥でくすぶり続ける。
それは、呪いに似ていた。

「それから何年か、ずっと悶々としてたんだけどな」

世界から色が失われた、というと少々大げさだが。
それに近い日々を送っていた。

「そんな時にたまたま見つけたんだ」

「私……ですか?」

おずおずと自分を指さす春香。

「そ」

ようやく流れ出した車列の向こうで、空が赤く染まり始めていた。


「俺も昔はあんなだったなぁ、ってな」

最初はただ懐かしんでいただけだったのに。

「その後の春香とお姉さんの会話でさ、別の道が見えた気がしたんだ」

自分自身の夢は追いかけられなくなったとしても。
同じ夢を追う誰かを応援することはできるんじゃないかと。

「……それで、プロデューサーに?」

「夢を諦めきれない男の、未練がましい言い訳かもしれないけどさ」

「そんなことっ!」

自嘲的な物言いは、春香に真っ向から否定された。

「私、プロデューサーさんには本当に感謝してるんです」

「春香?」

「担当になってもらってから、一緒になって頑張って、背中を押してくれて」

今日初めて大きな仕事に臨んだ春香。
俺は、今日に至るまで大したことをしてやれなかったと思い込んでいた。
春香は、今日までずっと助けられてきたと伝えてくれた。


「……そっか」

自分で勝手に荷物を背負っていただけだったのか。
そう気づくと、なぜか笑いが込み上げてきた。

「くく、はははっ」

「プロデューサーさん?」

突然笑い出した俺に、春香が怪訝な顔を向ける。
いつの間にか、渋滞は跡形もなく消え失せていた。


「春香、最初に俺が言ったこと、覚えてるか?」

「『どうせ目指すなら、トップアイドルだ』でしたよね」

「そうだ。それは、俺の夢でもあったんだ」

「私も同じですよ?」

自分の夢を春香に託して。
春香の夢を自分の夢にして。
そうやって始めたんじゃないか。

「知ってるよ。春香は俺の夢なんだから」

正面切って想いを伝える。

「う、嬉しいですけど、なんだかプレッシャーが……」

二人とも顔が赤いのは、きっと夕日のせいだ。

「頼むよ、俺の自慢のアイドルさん」

沈みゆく夕日を背に、車は順調に走っていく。
事務所までは、あと少し。


<了>

春香さんのバレンタインSS書こうと思ったらこうなってました
春香さん難しいです

お気に召しましたら幸いです

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