洒落たバーでカシオレを頼んだ男の話 (100)




小雨のさんさんと降る1月の夜。
僕は店の前に立つ。

くたびれた赤色ネオンがトンツートンツーと瞬く。
店の名は「monsieur」といった。

エイジングの施されたオークのドアを前に、そのときの僕は震えていた。





SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1454927368




中を覗こうとしたが、店の窓は僕の頭二つ分高い位置にあった。
なんて意地の悪い作りなんだろう。
……でもそれは、外界と途絶した雰囲気の演出をするためなんだって。

そんなことは僕だって知ってる。だから怖いんだ。


ドアを開けた途端、店中の客が“馴染みのない”僕を一斉に見るんだろうか。
それとも、一人ぼっちのさえない男が来たと、影から指を差すんだろうか。

……そう考えただけで、ドアノブを握る僕の手は凍ったように固まってしまう。


そんな僕の手を溶かすのは、今から一週間前に起きた出来事の記憶だった。






その時の僕は、今と同じくらい情けなかったと思う。

今ここに立っている店の向かいに、一軒の居酒屋が建っている。
そこから僕たちは出てきた。務める営業会社の付き合いだった。
ほんの些細なことから“上司の酒”を浴びるほど飲む羽目になった僕は、もう限界だった。

ふらつく僕に同僚が手を貸そうとしてくれたが、迷惑はかけられない。
次の店で標的になるのは、彼らのうちの誰かなんだ。
そう思い、僕は一人で帰ろうと最後の力を振り絞って断りを入れた。


彼らの背中を見送ったあと、僕はすぐさま道の上に伏した。
吐しゃ物がコンクリートの上に散らばるのを見て、すべてがどうでもよくなった時のこと。


その人は白いハンカチを持って現れたんだ。






ベージュのコートに黒のタイトなパンツ。長く伸びた茶髪の若い女性。
その人は「monsieur」からたまたま出てきたらしい。

バーで良い気分だっただろうに……。
こんな現場を目撃したその人に申し訳なさを感じていた、そんな時。

その人は何も言わずに僕の背中をさすりだしたんだ。

僕はびっくりして顔を向ける……汚れた口はそのままに。
そこで差し出されたのは手に持っていたハンカチで、これを使えということだったんだろう。
断れる気力はもうなかった。滑らかな布地を唇にあてるたび、情けない気持ちが湧きあがる。






その人のおかげで、しばらくしてから落ち着いた。

昔から人付き合いが苦手な僕は、今の会社のお荷物となっている。
根本から向いてないといってもいいだろう。
そんな甲斐性の無いぼくに、気の利いた言葉は浮かばなかった。

僕は立ち上がるなりその人から顔を背け、手で「もういいです」と制した。
その人がどんな顔をして僕を見ていたかは知りようもない。
言い訳をするなら“情けなかった”、“早くこの場を去りたかった”。


そんな気持ちに負けた僕は足早にその場を去った。






覚束ない足取りで帰ってきた。家賃3万の安アパートに。
紐をカツンと引くと、蛍光灯が散らかる部屋をのっぺりと照らす。
僕は敷きっぱなしの布団に、汚れたスーツのままダイブした。

冷静になるや否や、僕はとても反省したんだ。


親切の行為、親切から目を背けた行為。
泥酔した見ず知らずの男に手を差し伸べてくれた人に……。

僕は「ありがとう」を言えなかった。






……そうした記憶が、今の僕を突き動かした。


重く冷たいドアノブを勢いよく回す。
そのまま勢いがついて、ドアまでもがバタンと音を立て、開いてしまった。

さっそくやってしまった!

そう思い辺りを見回したが、誰もこちらを見てはいなかった。
安堵した僕は、挙動不審に席を探す。






やや狭い店内は、老齢のマスターが立つトラディショナルな4席分のバーカウンターを設えていた。
奥には4人掛けと2人掛けのテーブル席がそれぞれ二つ。客は大きな席に3人ほど。

僕は2人掛けのテーブルに一目散に向かう。


テーブルは無垢材を用いた温もり溢れるもの。良い肌触りだ。
椅子は少し固かったが、敷かれたチェックのクッションがここのマスターの親切心を感じさせる。

椅子に僕は深く腰掛けて、震えを落ち着かせた。
そして言った。

「すみません」


……聞こえていないようだ。






「すみませんっ」

マスターがこちらを向く。やったぜ。
ゆっくりこっちへ向かってくる。

それは静かだが、はっきりと聞こえる声だった。


「お決まりですか」

「……カシオレ……ください」






マスターは「カシスオレンジですね」と返す。

なんだろう、少し恥ずかしい。
やはり、ジェームズボンドが頼むようには行かなかった。


バーでカシオレを頼む僕の姿……。
あの上司が見たら、「女々しい」と笑うのかな。


……いくらでも笑え、僕はこういうお酒しか飲めないんだ。






マスターがカウンターへ戻り、しばしの“休息”が訪れる。
人付き合いの苦手も、ここまで来れば才能だろう。


店の壁は赤煉瓦積みで、随所にあしらわれたオーク材の質感と相まって重厚さを感じる。
巷のカフェバーとは違い、古風な設えだ。

やや高めの天井から吊り降ろされる乳白色のペンダントライトがほのかな温かみを演出。
対してカウンターは間接照明がふんだんに使われ、一際明るくなっていた。
壁付の棚に飾られた色とりどりの瓶が光沢を放つ。



……違う。

僕が探しているのは“あの人”ただ一人だけなんだ。






左手につけた腕時計。時刻は10時を回っている。
先週のあの時よりも、まだ1時間早い。

明日は世間でいうところの休日にあたる。
あの人がここを訪れるとすれば、先週と同じ曜日の今日だろう……と僕は踏んだ。


今、この店にいる他の客は会社帰りと思しき男女が3人。
ケニーGのジャズが流れる中、なにかの話に花を咲かせていた。
あの人は来ていない。

「やりずらいなぁ」と僕は思い、紙袋の紐を握りしめる。

手に持った紙袋。入っているのは、新しいハンカチだ。







今日僕がここに来たのは決して“ショットバー・デビュー”をするためじゃない。


あの人に「ありがとう」と言うためだ。




すこしはなれます

すみません




その時の僕はそそっかしい雰囲気がにじみ出ていただろうか。
マスターは完成したそれを足早に僕に届けにきてくれた。

「おまたせしました」


僕の目の前に置かれたカシスオレンジ。
こいつをちびちび飲みながらあの人を待とうと思った。






縦にストンと長いグラスに注がれたものは……カシスオレンジのはずだけどなぁ。

僕は居酒屋に行くとき、はじめに頼むのはいつもこれだ。
アルコールが鼻につかないし、甘いし。
後でビールは嫌でも注がれるし、辛い気持ちはいち早く甘いドリンクで沈めたくなる。


でも目の前のそれは、普段見ているものよりも暗色がかっているように思えた。
氷はロック、これ以上何に使うのか分からないマドラーも添えられている。

よく分からないけど、いつもの甘いドリンクでは無い雰囲気を放っているんだ。






居酒屋の物より薄く透き通ったグラスを傾ける。

……これは。

よく冷えたみずみずしいオレンジの酸味。後追いの奥ゆかしい甘み。
カシスの実物を僕は見たことない。けど、実物はこういうものなんだって分かる。
砂糖の甘さじゃない確かな甘みがオレンジに等しく溶けて、僕はこれがとっさに好きだと思った。


……しまった。計算ミスだ。

1分で半分も無くなってしまった。
添えられたマドラーの意味が分かった時には、もう遅かった。






そんな時だ。
オークのドアがギギっと開く。

鼠色のコートに紺のスカートと黒のタイツ。
でもあの綺麗な長い髪を見れば分かる。

あの人だ。


僕は行動に移さないといけなかったが、思うように体が動かなかった。






彼女は真っ直ぐカウンターへ。

背の高いスツールに腰掛け、マスターに身振り手振り注文をしている。
何を言っているかは聞こえない。
手馴れてるなぁ……僕はそう思った。


この人はどれくらいの間、ここに通っているんだろう?

それだけ通えば“常連”として扱われるようになるんだろう?

ウイスキーはロックでしか飲まなかったりするのかな?


「ありがとう」と言うだけなのに。
様々な疑問を頭に浮かべては、僕は緊張をごまかしていた。






マスターの顔が僕の時より穏やかに見える。
自意識過剰と言うやつだと思いたい。
僕はそのままマスターの動きをじっと見てみることにした。

グラスのようなものを取り出し、氷を手際よく入れていく。
酒瓶を開けては手の銀色の小さいカップにそれを注ぎ、くるっとグラスのようなものに落とす。
ゆとりのある動き。さながら“意図した無駄な動き”のよう。

それらを一通り入れた後、彼は何やらバネを輪っかにしたようなものをグラスに装着した。
それを、グングンとゆすっている。
シャカシャカするやつは使わないのかな。

あの人は流れるジャズに相槌を打つことなく、じっとそれを見ていた。






やがて置かれたそれを、あの人はツツっ……と口につけた。
聞こえないけど、ふぅと言ったような感じで余韻に浸っている。


僕とは違って、あの一杯が楽しみでここに来たんだろうなぁ。
そう考えると、彼女はおろかマスターにも申し訳が立たない気持ちになる。

残ったカシスオレンジを頂き、グラスを空ける。
そして、さっきより大きい声で言った。


「すみません」





しまった、彼女に存在がばれてしまうんじゃ……

だが、その声に振り向いたのはマスターだけだった。
複雑な気持ちだけど、とりあえず一安心した。


次に注文したのは「XYZ」というもの。
これを選んだ理由は、漫画で知っていたからだ。
カシオレだけじゃ格好もつかないしね。
……といった、下心にも似た姑息な理由。


それが届くまでの間も、僕は彼女に近づき、「ありがとう」は言い出せなかった。






勘違いしてはいけない。彼女を口説くつもりはないよ。
僕はゲイじゃないけど、今は仕事がいっぱいいっぱいで女性自体には興味が湧かないんだ。
どのみち口説けやしないしね。

ただ「ありがとう」が言えなければ、先に進めない気がするんだ。


そんなことを考えていると、XYZがやってきた。

「ありがとうございます」

さっきは出なかったお礼の言葉が、不思議とこぼれた。






今度のXYZは、まさしくカクテルといった様相。
ショートグラスというらしいこれに、キンと冷えて白みを帯びた半透明。
氷の欠片がくるくると回る様が楽しいなぁ。

この細いところを持てばいいんだね。
カウンターのあの人の真似をして、僕はぐっと頂いた。


喉が焼けそうだ。
しまったな、勢いが強すぎたのかも。






気を取り直して二口目。
今度は味がちゃんと分かる。

カシスオレンジとは違って、とてもクリアな舌触り。
からさがむっと来て、その後に柑橘系のテイストが鼻を抜ける。

美味しいという言葉はとっさに出なかったが、これが“辛くないアルコール”だと分かった。
しかし、後から分かった話だがこれの度数はカシスオレンジよりはるかに高いものだった。

ふらついてくる頭……でも、この間のような気持ち悪さは無い。
むしろ心地よく酔えているんだ。
これは……悪くないなぁ。


おかげで、カウンターにいたはずの彼女がもう帰ってしまったことに気付かなかった。






僕は小銭をポンポン落としながら慌てて会計を済ませ、monsieurを出た。

辺りを見回す。既に、彼女の姿はどこにもなかった。


「…………」


意気消沈する僕。
今持っていてはいけないはずの紙袋が、ブラブラと揺れる。
さんさんと降る雨が肩の上にかかり、背後のネオンの光が肩でチカチカした。






こうなったら、もう後には引かない。

あの人に絶対「ありがとう」を伝える。

僕は今度もまた、monsieurを訪れることにしたんだ。



今日はここまでにします。
明日でおそらく終わると思います。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。




薄曇りでも月明かりが綺麗な夜。

今日はしこたま詰められた後だった。
数字上げるまで帰ってくるなって言われたよ。
20時を越えたらお客さんに会ったらだめなんだって知らないのかな。


そんなことを考えながら、僕は再びmonsieurの前に立った。






ドアノブを回す手は前より軽い。
一回でも中に入ってみたおかげかな。

……いや、それだけじゃなかった。
僕はここのお酒が少し、楽しみになっていたんだ。






今日も中のお客さんはまばらだ。
カウンターに1人、テーブルにカップル1組の3人の法則。

僕が向かおうとしたのは先週と同じ席。
あそこ、カウンターからはあまり見えない場所になっているようだ。
だからあの時、僕が店にいたことをあの人は知らなかっただろう。


次に彼女が訪れたときは僕がカウンターに行かなくてはならない。

……だったら。

少し怖いけど、先にカウンターに座ってみよう。






先ほども言ったが、カウンターの奥にはもう一人の客が座っている。
顎鬚を蓄えたおじさん。
音楽でもやっているのかな。大きく黒い袋を壁に立てかけている。

僕は、そこから反対側の端っこのスツールに腰掛ける。


……高いなぁ。

座ろうとしてスーツの股がひっかかり、一度足を地面まで戻される。
足の短い僕は、登るのに4秒かかった。よかった。
いざというときこんな姿を見られたら、顔を赤くして逃げ出してしまう所だった。






ここに来るまでに、僕は一度カクテルの種類を調べてみた。
半分は恰好つけのために。もう半分は興味のために。


「すみません」

「はい、お決まりでしょうか」

「……カミカゼをください」

「かしこまりました」


前とは違って、マスターがすぐ近くにいる。やっぱり落ち着かない。

でも、マスターの手際よいシェークを僕は目の前で見ることができた。
銀色のそれをもって、“く”の字にシャカシャカ。これは少し楽しいね。





そう考えていた時、奥の席にいたおじさんが僕の隣までやってきた。

「お兄さん、良い趣味してるねえ」

その瞬間、人見知りを隠し切れない僕の心臓は爆発寸前だ。
ほんとうにやめてくれ。ただでさえ雰囲気に潰されそうなのに。
そんな僕の思いをよそに、脊髄の反射がおじさんに向かって、

「そ、そうですか」

と言わせた。






「僕もネェ、ウォッカが大好きなんだ」

「はぁ」

「サムライも好きだし、バラライカやアブドゥーグみたいなあんまぁいのも好きだ」

「は、はい僕も……です」


うそつけ。ウォッカの事なんてなにも分からないくせに。
営業中も似たようなことをやってしまう。本当に悪い癖だな。

ちょうどその時だ。薄緑色の透き通ったカミカゼが目の前にコトンと置かれた。





「ありがとうございます」


これの舌触りは前のXYZと似ているようで、その実違う。
ライムが入っているらしい。シロップの柔らかな甘みも合わさって、僕の舌でも素直に受け付けた。
後口さわやか、たいそうな名前に似つかわしくないね。良い意味で。


ウォッカなんて、ロシア人が度々中毒を起こしているような漠然としたイメージしかなかった。
でも、実際は癖がなくてとても透き通ったお酒だとわかった。

隣のおじさんも、

「そうだろう」

と言った。







ここの雰囲気がそうさせるのか、はたまたおじさんがそういう人なのか分からない。
僕は相槌を打ってあげるだけだったが、それでも楽しそうにいろんな話をしてくれた。
音楽の事、遠征先のご飯の話、奥さんの話。
酒がすすむにつれ、ついには僕の仕事の相談にも乗ってもらった。


結局その日はあの人は現れず、僕は楽しい人生を送るおじさんと語らいあうに留まった。
でも、不思議と悪い気はしない。

おじさんの、

「またな」

の一声がそう思わせた。
ここは本当に不思議なところだなあ。



一旦仕事にいきます

よるにまた書きますね

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。




次にmonsieurを訪れたのは、満月の夜。
この日はアポイント件数が目標に到達した。
僕もやればできるんじゃないか。ネオン看板の下で、一人ごちた。


三度目ともなると、このドアの開け方もコツが分かってきた。
ギギっと開くドア。黒い地べたにやわらかい光がもれる。






この日はカウンター席の右二つが埋まっていた。
男が二人、大学生くらいかな。

とにかく僕は一人分の空きを作り、左端に腰掛ける。
こうすれば、あの人が来たときにここへ座る可能性がある。
その時が勝負。我ながら良い案だね。



「お決まりでしょうか」

「……ラスティネイルをください」

「かしこまりました」






マスターが背を向け、ボウモアと書かれた瓶を手に取る。
そのとき、僕は右の二人に目をやる。

彼らが手に持っているのはショートグラスのお酒だ。
こんなに若いのに、こういう店を知っているのか。すごいなぁ。
そう思うとともに、自分の垢抜けなさを悔いた。

そうしていると、お望みのラスティネイルが眼前から現れた。
ずんぐりとした縁の広いグラスで、あめ色の優しい渦が大きなロック氷を転がす。






以前、僕はウイスキーで失敗したことがある。
数あるお酒のなかでも、特に苦手な部類だった。
焼酎なんかよりもよっぽど悪く酔うお酒だと思ってる。

それに挑戦しようと思ったのは、芽生えつつあったマスターへの信頼感からだった。
ここまで見事な手腕を以て、お酒に良いイメージのなかった僕を楽しませてくれた。
ひょっとしたらこれも……と思ったんだ。

なんでこんな上から目線なんだろう。自分を戒める。






ツツっ。

これは……すごくドシンとくるな。
はちみつの甘み、ミントのような爽快感、ウイスキーのスモーキーな苦み。
これらがいっぺんにやってきて、頭をクラっとさせるんだ。

でも、これは確かに美味しい。
これがウイスキーのロックだったら、僕はここで飲むのをやめていただろうね。
自然と微笑みが零れる。
ここがバーではなく自分の部屋だったら、とてもまったりできるんだろうな。


今、それは敵わない。
僕の隣に、人が座ったんだ。






慌てて目をやると、それはあの人ではなかった。
背恰好の良いおじいさん。僕は少しがっかりする。

そんな僕をよそに、おじいさんはウイスキーのロックを注文した。
かっこいい爺さんだ。僕はそう思った。


それから少しの間を開けて、いい気分になったらしい。
彼は僕を、話相手として捕まえた。


「若いなぁ。おいくつですか」

「に、25です」

「あぁ~いいな、わしもその頃が一番楽しかったわ」






顔を紅潮させて、はきはきと話すおじいさん。
先ほどの紳士的で物腰柔らかな雰囲気はどこへ行ったのやら。
これが、この人の素なんだなってのがよく分かるね。

そう思った矢先、彼は真顔で訪ねた。


「君は女のパンティを被ったことはあるか」


僕は本当に吹きそうになった。
あんた、いったい今どんな顔をしてると思ってるんだ。






女性下着が顔に触れることで起こる感動、体験、その歴史を真剣に語る彼。
僕はただ口をポカンとあけて、その話の終わりを探っていた。
それがクロッチの素材の話に差し掛かった時、ついにあの人が来てしまった。

よりによってこんな時に。

そう歯を軋る僕を無視して、おじいさんは講義を続けた。


「女たちは昔から綿がいいと口をそろえて言いよる」

「実に嘆かわしい……嘆かわしいわ……うぅ」


おい何泣いてんだじじい。






結局僕はその日も、あの人に「ありがとう」が言えなかった。
じじいに二軒目に連れて行かれてしまったからだ。
彼は一人で勝手に話したいだけ話して、勝手に気持ちよくなりやがった。

まぁそれ自体は悪い気はしないけどね。とても嬉しそうだったし。
ここでも「またな」って言われたよ。

でも、いつになればあの人に「ありがとう」を言えるのか。
せっかくアポイントが取れて良い日だったのになぁ。


そう思った矢先、僕はそのじじいと再会した。
出会ったのは営業先の社長室だった。






その日は星の綺麗な夜だった。今の僕を祝福するかのように。

ここ最近、個人での売り上げの伸びが著しい。
そのおかげで、上にまっとうな評価をしてもらえるようになったんだ。
この感じがまさに“仕事が軌道に乗る”ってやつなんだね。不思議と自信が湧いてくるよ。
とにかく、今はそれと嬉しい以外の言葉が浮かばない。

僕はルンっと気持ちの悪いステップを踏み、monsieurの扉を開いた。

この日はジェームズボンドよろしく、マティーニと洒落込むことにした。



すこし離れますね。

すみません




あれから僕は、何度も何度もmonsieurを訪れた。

数えきれない種類のお酒を飲んだ。スレッジハンマーとかバカルディとか。
そして、時々で変わる面々を相手に何かお話をすることもまた日課となった。

ある日はデキる商社マン、ある日は小金持ちなマダム、またある日は日本語堪能なスイス人。
そうするたびに、僕の見識は広がっていった。

会話にも慣れてきた。おかげで、営業の調子も青天井となりだした。
入社三年目にして今では主任だよ、主任。すごくない?






でも、もちろん忘れてなんかいない。
その間にも、あの人は度々monsieurへとやってきた。

だけど、そんな時に限って別の人との話が弾んでいたり、席が遠かったり、先に帰っちゃったり。
本当にタイミングが悪いったらありゃしないな。

だけど、ついにその日が来た。



カウンターの僕のとなりに、あの人が座ったんだ。






ドックンドックン。

ここ最近失われつつあった緊張感が、今蘇る。

彼女は棚の一本の瓶に向かってスッ……と指をさし、無言でマスターにお酒を注文した。
相変わらず手馴れてるなと感心した。いや、感心してる場合じゃなかった。

近くで見ると綺麗な人だなぁ。化粧が上手なのか、地が良いのかは分からないけど。
綺麗な人が相手だとやっぱり都合が悪い。






だけど、今日こそは言うぞ。言ってやる。

喋りが少しは好きになれたのは、この店のおかげ。
そして、満ち足りた今の僕があるのは、紛れもなく彼女のおかげだ。
抱え続けた「ありがとう」は、はじめよりも大きな意味を持っている。

今、彼女はマスターの仕事を眺めている。
以前の僕とは違うんだ。言えっ。


「あ……」






「あの……」

無視。


「あのっ」

無視。


「あのっ!」

無視。


「…………」

この時点で僕はすっかり目の光を失ったと思う。

やけになり、グラスに残ったキールを一気に飲み干した。






仕方なく、その人の肩をトトンとつついた。
すると、慌ててこちらを向く。


とても驚いた顔だ。

……そんなに僕の顔が変かな。


慌てて自分の体をポンポンと調べはじめた。

……そんなに僕に触られたくなかったのかな。


やがて、彼女は顎を引いてカウンターテーブルに視線を移した。

……そんなに、嫌だったのかな。






「…………」

「ありがとうございました」



僕はそうつぶやいて、、新品のハンカチが入った紙袋を彼女の前に置いた。
彼女の顔は見ない。もう、見るのが怖い。
握り続けた紙紐はもうボロボロだった。

それはまるで―――






マスターのあの何か言いたげな顔を忘れない。
僕は半ば飛び出すように、monsieurを出た。

トンツー
トンツー……

夜風が吹き、赤色ネオンが一瞬光を失って、また点いた。


僕は300mほど歩いて、どこかの店のごみ置き場にゴシャっと背中から倒れた。
零れ転がる空き缶、鼻をつんざく酸っぱい臭い。
そのまま僕は、腹いっぱい笑ったんだ。

「言ってやったよ、ありがとう!」

「なぁんだ、こんなことだったんだ!」

「僕はなにも変わってなんかなかったんだ!」






「ひひっ……」

「あっははは!」


溢れる涙だけは、とても正直だった。






雨がざぁざぁと降る夜。月は見えない。

その日も僕は上司に詰められた。
数字はまたしても落ち込んだ。
主任なんかやめちまえとも言われた。


先日までの僕は、まるで酔っぱらった自身の姿。
それを映す鏡。

酔いは、いつか覚める。

それに気づいたから、今日で最後にしようと思った。






あの交差点を渡れば、もうすぐmonsieurのネオンが見えるな。
強い雨が、傘にパツパツッと突き刺さる。
今日はマスターにお礼を言いにいく。何も、飲むつもりはない。

スーツの裾は、跳ねっ返りの雨水でびっしょりだ。
重く冷たい足で、ピチャピチャと歩を進める。


やがて目の前に、もうひとつの開かれた傘が現れた。






今、一番会いたくなかった人だ。

「…………」

向かう先は、同じだろうな。ため息が出る。
僕は少し憂鬱になった。

もし、次に会ったら「いい加減にしてください」とか言われるのかな。
汚いものでも見る目で、あの声で。


……あれ?
そういえば……声なんか聞いたことないや。






……まぁいい。いいんだ。
今更あの人の声なんて。


「日を改めよう」

そう思って目を横に逸らす。

その先で目に映るのは、無灯火で走るセダン車だ。
ライト点いてないの、気付いてないんだ。危ないなぁ。


「…………」


……だめだ、どうしても引っかかる。
今までの彼女の言動を振り返ってみよう。






注文はいつも無言。身振り手振りだ。

それに、僕が大きめの声でマスターを呼んだ時も、彼女はこちらを向かなかった。

……あの隣から呼んだ時も。




…………!


視線をあの人に戻す。

先ほどのセダン車が、音を立てて交差点に向かう。
彼女の白い傘が左右に振れ、交差点を渡ろうとしていたその時だった。



ゴシャッ





道路の路側帯に、無残に潰れた白い傘。


歩道には、彼女を抱えて倒れ込む僕の姿があった。






車の音が消え、雨がざぁざぁと二人の身体をうつ。


すごく痛い……体のあちこちがジンジンするよ。
スーツにしみ込んだ雨水が、僕の尻を容赦なく冷やす。


……あの人は!?

そう思い、ヨロヨロしながらも顔をなんとか上げる。


一瞬のことで、頭の整理が追い付かないらしい。
僕の胸の上で顔をキョロキョロさせて、やがて僕の方を見た。

僕の身体を急いで降りて、ゥ、アーと声にならない声を上げた。
雨なんかじゃない。正真正銘の涙を流して。


よかった。本当に。






僕はすぐさま、地面に落ちた自分のカバンを探る。

出てきたのは会社で使う積算用紙と水性ペン。
用紙が少し染みていて、すぐに雨でクシャクシャになりそうだけど、これでいいんだ。


僕は書いた。
やっぱりすぐ滲んだ。
僕は彼女に見せた。



ありがとう






僕たちはずぶ濡れになりながら、monsieurを訪れた。


マスターが一瞬、ぎょっとしたのが分かった。

そして何かを察したのかもしれない。
無言で、外まで「本日営業終了」の看板を持っていった。
客は、僕たちだけだ。


二人でカウンターに腰掛けて、僕は彼女を見る。

……とてもしゅんとしているな。

僕はおもむろに先ほどの積算用紙の束とペンを、二人の間に出したのだった。






……
…………
………………


ようやく、あなたとお話ができますね。

はい。私もそう思います。うれしいです。

長い間、あのときのお礼が言えなくて、ほんとうにすみませんでした。

いえ、あのときは、あなたも大変なんだろうなと私は思っただけです。

それともうひとつ。僕は先週、あなたに大変失礼な態度をとってしまいました。申し訳ありません。

それは仕方のないことですよ。私、聾唖なんです。

重ね重ねすみません。恥ずかしながら、読み方がわかりません。

これは、ろうあといいます。生まれつき、耳が聞こえません。






失礼いたしました。

お気になさらないでください。私も私で、いつもは筆談のためにペンとメモを持って来るんですが、あの時は家に置いてきてしまったのです。不快な思いをさせてしまって、申し訳ありません。

なるほど。そうだったんですか。

そんなことより、先ほどは助けてくださって、本当にありがとうございました。

いえいえ、当然のことをしたまでです。あと、今から敬語やめませんか(笑)

どういうことですか。

なんか、ふたりとも謝ってばっかりで固いというか。僕から謝りだしたんだけどね。

はい、わかりました。

敬語敬語!



うん、わかった!


………………
…………
……






僕は彼女との“会話”を通して、色々なことを教えてもらった。


なにも聞こえないために、友達がいなかったこと。
なにも聞こえないために、家でパソコンを通した仕事しかできなかったこと。

人との関わりを持ちたくて、同年代の子が行くカフェやバーにも行ったこと。
結局それらはどこも馴染めず、たまたまこのmonsieurに行きついたこと。
マスターが手話で話してくれたことが嬉しくて、この店が好きになったこと。


いずれは他の「声」を持つ人たちともここで、こうやって“会話”することを夢見ていたこと。






……
…………
………………


この間ここで食べた外国のチーズがマヂヤヴァイ
なになに。
本当に、臭いがヤヴァイ。カビ臭いにおいが口いっぱいに広がる。酒どころじゃなかった。
そうなんだ(笑)
あっ、マスターを見て。
すごくウトウトしてるね。
もう紙もスペースも無くなるし、なにか頼もうよ。マスターを起こすから(笑)
そうだね。どうしよう。
そうしょうかな。
私は一度、他の女の子がよく飲んでるカシオレを頼んでみたいな。
OK!じゃあ僕もカシ
………………
…………
……






たまたま介抱した相手が、このお店に通いはじめたのを知っていたこと。
これも何かの縁だと思い、ずっとお話をしたいと思っていたこと。

だんだん店に馴染むにつれ、多くの人と楽しそうに話す僕を見たこと。
声をうまく出せない自分では、不快な思いをさせてしまうと思っていたこと。
それで諦めていた矢先、僕が肩をつついた瞬間がとても嬉しかったこと

慌ててメモとペンを探したが、見つからなかったこと。

僕が帰ってしまった時、とても悲しい思いをしたことを。


そして、僕が車に引かれそうな自分を見捨てなかったとき、涙が抑えきれなかったことを。








それから長い時間を経て、僕たちは店を出ることにした。
僕がオークのドアをギギっと開ける。

もう日は登り、雨は上がっていた。
アスファルト一面に広がる水たまりに、ネオン光の消えた「monsieur」の文字が映る。

ドアを開ききると、そこにいた鳩の群れがバサバサと一斉に飛び立つ。
それは一糸乱れぬ綺麗な弧をゆっくり描いて、薄水色の空に黒い模様を付けていった。


それを二人で見上げる。
顔を見合わせ、笑みがこぼれる。


僕は彼女の手を引き、雨上りの街に踏み出したんだ。




――――――――――――FIN――――――――――――――



このお話はこれで以上となります。

途中カミカゼと書きたかった場所にサムライと書いた箇所があります。
ごっちゃになってました。申し訳ないです……

地の文が多く、退屈されてしまっていたら申し訳ありません。
ですがここまで読んでくださった方、楽しく書かせていただき本当にありがとうございました。

乙、>>1が書いた作品をもっと読んでみたい

>>84
死ぬほど嬉しい言葉です。ありがとうございます!
過去作でよろしければ……

一次創作は以下のものだけです。

老人「複葉機でエイリアンをやっつけるんじゃ」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1454765251



艦これの台本形式は以下のものと他いくつか書かせていただいてます。

【艦これ】グラーフ「震度3だと……この国はもうおしまいだ!」
【艦これ】グラーフ「震度3だと……この国はもうおしまいだ!」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1452911069/)

【艦これ】提督「時は2023年」
【艦これ】提督「時は2023年」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1453277999/)


全てがそうとは言えませんが、大体の良心的なお店はノンアルコールのカクテルも喜んで作ってくださります。

なので、お酒がダメと言う方にも、雰囲気を味わってもらえるバーはおすすめできます。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom