【艦これ】鳳翔さんは料理ができない (161)

「小腹がすいたな」

そう呟いたのは真夜中であった。
しんと静まり返ったこの部屋に、相槌を打つ秘書艦などいるはずもない。

騒がしい鎮守府も、夜中となればみな寝静まってしまう。
うるさく騒ぐ者どもは、まとめて遠征へ出してしまった。

「さて、どうしたものか」

こんな時間では外の店も閉まっているだろう。
窓から外を見ると、辺り一面が月の明かりに照らされている。
その中に、赤く光る提灯はどこにも見当たらなかった。

「仕方がないか」

食料の備蓄には余裕があった。
海苔でも咥えていれば腹の虫も収まるだろう。
重い腰を上げ、私は厨房へと向かった。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1453996789

こつこつと靴が音を響かせる。
真夜中の廊下というのはこれほどまでに静かだったのだろうか。
眠気に欠伸を誘われながら、ひとつふたつと角を曲がる。

すると、月以外の明かりが部屋から漏れているのが見えた。
私はぴたりと足を止め、壁越しに耳を澄ませてみる。

何かを煮るような音が聞こえてきたではないか。
これはしめた、と口元を緩ませながら、私は戸を叩いた。

「なんだ、誰かいるのか」

「あら、提督……」

内から聞こえてきたのは、あの鳳翔の声であった。
彼女の作る料理は絶品と聞く。
なにやら運が回ってきたのだろうか。

「こんな時間にどうした。つまみ食いにでもしに来たか」

「ええ、お恥ずかしながら」

ふふ、と笑みを湛える彼女はそう答えた。
厨房に誰かがいることは珍しいことではないが、まさか彼女だとは思いもしなかった。
ましてやこの時間である。何か料理の仕込みでもしていたのだろうか。

「どれ、ひとつくらい抓ませてはもらえんか」

「構いませんよ。少し作りすぎてしまったので」

鳳翔はそそくさと食器棚へと歩み、小さな皿を取り出した。
彼女は慣れた手つきで、鍋の中のものを皿へと盛る。
どうやら煮物らしい。

何の煮物だろうか。鍋からは特に匂いがせず、菜箸で抓めるようなものらしいが。
私が近くの椅子を寄せて座っていると、鳳翔が皿を持ってきた。

「どうぞ」

「ありがたい」

そこに乗っていたのは、白い楕円の物体であった。

「ふむ……」

ゆで卵であった。
それは紛れもなく、茹でられた卵の姿である。

特に手の込んだわけでもない料理に、少しだけ拍子抜けしてしまう。
どうやら煮物だと考えたのは早とちりだったらしい。

「いただこう」

私が卵を手にすると、心なしか温く感じられた。
鳳翔が覚ましていたのだろう。
ふと彼女に目をやると、その真剣な眼差しに射竦められそうになった。

何故そのような眼をしているのだ。
問いかけようにも彼女の気迫はただならぬものである。

もしかすると、料理人の誇りというものであろうか。
簡単な調理をしたものでも、不味いものは作れぬという意志の表れか。

なるほどと一人相槌を打ち、その卵に手を伸ばす。
皿に数度ぶつけて卵に罅を入れると、中から輝くような白身が溢れ出した。

……溢れ出した?

どろりと流れ出す皿の液体を見て、鳳翔は頭を抱えていた。
状況を飲み込めない私は、皿を持ったまま鍋の様子を見てみる。

鍋は火にかけられていた。
しかしそのゆらめく弱火は、鍋に対して些か不相応であった。

よく見ると煮えてすらいないではないか。
三度彼女に目をやると、耳の裏まで真っ赤になっていた。

「今回こそはうまくいったと思っていたのに……」

凛としていたはずの鳳翔から聞こえる、生娘のような弱音。
普段の姿からは想像もつかないようなその声に、私はただただ困惑した。

聞いていた話と違いすぎやしないか鳳翔よ。
声をかけようにも、彼女はあわあわと言うばかりで話にならない。

ひとまずこの卵をもう一度煮てしまおう。
私は火を強め、割ってしまった卵を菜箸で押さえながら、鍋が沸騰するのを待った。

私は男と言えど、基本的な料理くらいはできる。
女が戦場に立つ今、男は家事などできなくても良いなどと宣う暇はないのだ。

ちらりと鳳翔に視線を送ると、頬に赤みがさす程度にまで収まっていた。
これなら話もできるだろう。

「まあ座れ」

鳳翔はこくりと頷くと、私が座っていた椅子に腰かけた。

「ところで鳳翔」

「申し訳ありません」

違うのだ。
そのような言葉を聞きたいわけではない。
女を泣かせる趣味もない。

謝罪のために頭を下げる鳳翔は、項垂れているように見えた。

時計の針が目盛りを七つ刻んだ頃、割れた卵から漏れ出す白身が固まりきった。
頃合いだろう。
私は卵を鍋から掬い上げ、ふたつみっつと皿に盛った。

「鳳翔、茹で卵はこのくらいかけて茹でるのだ」

「はい」

こくこくと頷く彼女の姿を見ていると、まるで料理を知らぬ若者のように思えた。
まさか鳳翔の噂話は根も葉もない妄言なのではないだろうか。

いや、そんなはずはなかろう。
この目で確かに、鳳翔が料理を振る舞っているところを見たことがある。
それも数度だ。

「きちんと固まっていますね」

ところがどうだろう。
目の前で白身の硬さを確かめる彼女の姿を見ると、どうにも料理人のようには思えない。
卵を茹でるのが初めてだった、というだけか。

「次は包丁を扱えるようにならないといけませんね」

そうではないらしい。
ふと聞こえた独り言はその噂を消し飛ばすほどの威力を見せた。

「なあ鳳翔よ」

「……あっ、はい。何でしょうか」

嬉しそうに卵を見つめていた鳳翔に、思わず笑みがこぼれそうになる。
その子どものような無邪気な眼差しは、一体どこから生まれたのか。

「提督?」

「ああ」

少し気がそれてしまった。
もう一度、鳳翔に問い直すことにしよう。

「料理の心得はあるか?」

「……いえ、まだまだです」

なるほど。
先程のあれは、滅多にない失敗などではないらしかった。

しかしこのまま引き下がるわけにもいかない。
私はこの目で、しかとその瞬間を見たのだ。
彼女が自らの手で、駆逐艦らに昼食を手渡していたのを。

「カレーは作ることができるだろう」

「カレーですか? そのような手の込んだ料理は……」

眉根に皺を寄せながら、彼女はううむと唸る。
はて、ではあれは見間違いか何かだろうか。

「あ。ですが、料理を盛り付けることは得意です」

「盛り付け……というと?」

「はい。元々この厨房では、配給の人が料理を作ってくださるんです」

鳳翔の話に首を縦に振る。
確かに、この鎮守府には飯を用意してくれる人間が居た。
しかしここ最近はその姿を見ていない。

「ですが、作った料理の盛り付けがとても大変だというお話を聞いて、お手伝いすることにしたんです」

手伝い。
そういえば、鳳翔は飯時になるとよく姿を消していた。
私が食事を渡す様子を見たのも、昼時の厨房だったように思える。

「最初はあまりお役に立てなかったのですが、今では素早く配ることができるようになりました」

自慢げに、それでいて淑やかな鳳翔の言葉が耳に届く時、そのからくりに気付いてしまった。
鳳翔は料理を振る舞っていたわけではない。
ただ、調理されたものを盛り付けて、提供していたにすぎないのだ。

「……そういう仕掛けだったか」

厨房で調理に専念していれば、表に出ることはない。
彼女が表立って配給していれば、「鳳翔の手料理だ」と誤解するのも無理はない。

無理な期待を背負わせて済まなかった。
謝罪を口にしようとしたその瞬間、新たな問題点が脳裏に浮かび上がる。

では、配給を受けている者の誤解はどうなる。

「鳳翔。手料理を振る舞っているという誤解を受けているのではないか」

ぎくり。
そんな擬音が聞こえるように、彼女は身を強張らせた。
図星のようだ。

「その通りです……」

か細い声で、そう聞こえた。
彼女は手元の卵を見つめながら、語り始めたのだった。
誰にも言わないでくれと、私に釘を刺して。

「はぁ……調理というものはこれほど体力を使うものだったか」

上着をそこらの椅子にかけ、体をぐっと伸ばす。
骨がばきばきと悲鳴をあげた。
だが、肝心の昼は乗り切った。
後は晩の調理、もとい仕込みだけだ。

ふと鳳翔の方へ目をやる。
どうやら彼女も相当の疲労を抱えているらしい。
はらりと垂れた長髪が、汗で額に張り付いていた。

「鳳翔」

「……はひ」

気の抜けた返答だ。
慌てて口元を抑えた彼女に、気にするなと首を振る。

「食料の買い出しに行くか」

「え? まだ買いに行くほどでは……」

察しの悪い奴めと言いたくなるが、それは仕方がないだろう。
私も滅多にそのような言い回しはしないのだから。
公私は分ける質だと自負していたのだが、どうやら彼女の前では気も緩むらしい。

「こう同じ景色ばかりみていては気が滅入る」

「……あっ、そうですね。そうしましょうか」

彼女は手元の調理器具をささっとまとめてしまうと、着ていた割烹着を脱ぎ始めた。
そこまで急ぐことはないだろうと嗜めると、意外な答えが転がってきたではないか。

「ここでは割烹着は暑いのです」

無理に着る必要はないというのに。
律儀な奴だと笑ってやると、そうもそうだと笑い返された。

外に出ると、それは見事な夕焼けが町を包んでいた。
人参よりも少々色が濃いか、などと考えてしまうのは厨房の呪いか何かだろうか。

「この時間帯に外に出るのは初めてです」

夕焼けを眺めていた鳳翔がそう漏らす。
やけにきょろきょろとしているなと思えば、そういう理由があったか。

「私も誰かと外へ出るのは初めてかもしれんな」

鳳翔が目を丸くした。
意外でした。そう言うのだ。
提督は皆と仲が良いのに、と。

仲が良いだけでは時間は合わんのだ。
そう告げると、鳳翔は「なるほど」と言う。

だが不思議だった。
私が誰かと外を歩きたいと思うようなことは、未だかつてあっただろうか。
荷物持ちくらい連れ立って行けばよかったと後悔した日はいくらかあるが。

ああ、そうか。
少しだけ合点がいった。

「私はお前が好きなのだろうな」

鳳翔はまたも目を丸くした。
口をあんぐりと開け、夕陽に負けじと赤く染まり始める。

「どうした。私はおかしなことを言ったか」

からくり人形のように挙動が硬くなる鳳翔。
おかしいのはどちらだというのだ。

これでは、彼女はまともに歩けそうにない。
私は右手と右足を同時に出そうとする鳳翔の手をとった。

噛み付かれでもしたかのように、彼女の体がびくりと跳ねた。
余程疲れを溜めさせてしまったらしい。
帰りはおぶってやろうと言うと、ますます林檎らしい顔色になり始める。
殊勝な奴だ。気にする必要などないというのに。

「雑貨屋にでも行ってみるか」

返事はなかった。
まさかとは思うが寝ているのではあるまいな。
確かめようと一歩近づくと、鳳翔はか細い悲鳴をあげた。

飯屋と飯屋の間にある雑貨屋へとたどり着く。
ここは外装さえ小汚いが、取り扱うものはよく揃っている。

潮が花を育てているのに使う鉢植えや、隼鷹が使う猪口もここで買った。
箸なども、思えばここで買っていたな。
気が付けば足蹴く通っているではないか。

藍色の暖簾をくぐると、少しだけ景色が変わった。
よく来たね、と初老の男性がにこりと笑う。
ああそうだ。彼とも随分と前から顔なじみであった。

私が手を上げて会釈すると、店主の視線は鳳翔へ移る。
彼は顎を摩りながら、「これは珍しい」と呟いた。

「それほど珍しいことでもないだろう」

「いやはや、今日で顔を合わせて三月ほど経つが、誰かとともに出歩いているのは初めて見たよ」

珍しいことであった。

「悪いが、今日は何も買うつもりはないぞ」

「冷やかしなら帰っておくれ」

けたけたと歯を鳴らして笑う老人は、私にそんな冗談を投げかけた。
彼は知っているのだ。
こんな風に私が強がっていても、必ず何かを買って帰ることを。

さて、今日は何を買うか。
辺りを見回すと、見慣れない商品がいくつか並んでいた。

「あの、ここは」

「ああ、行きつけの雑貨屋だ」

どうやら意識を取り戻したらしい。
鳳翔は店主を見つけると、軽く頭を下げていた。

「あ、私は外で待っていましょうか」

この店はお世辞にも広いとは言えない。
それを察した鳳翔は、私に道を開けるように半歩下がった。

「そこのお嬢さんに何か買いに来たんじゃないのかい」

老人が口を挟む。
私はそれに乗じて何かを言おうとした。

「……いや。すぐに終わる。外で待っていてくれ」

だが、見つけてしまった。
鳳翔の肩越しにある、それを。
共に何かを探そうかと考えていたが、これしかないと私は確信した。

「わかりました」

鳳翔が暖簾をくぐってゆくのを見届ける。
そうして姿が見えなくなったところで、私は商品を手に取った。

「これをくれ」

「ほう。お目が高い」

鑑定士気取りの店主が唸り始める。
小芝居にはまた次の機会に付き合ってやると言うと、つれない奴だと返された。

「待たせたな」

「わっ」

私が暖簾をくぐると、鳳翔が飛び上がった。
背後から声をかけたのが不味かったか。
しかしこちらから出てくることは承知の上だろう。

「手など見つめていたが、何かあったか」

「えっ、いやっ、その」

しどろもどろになりながら二の句を探している鳳翔。
なんだ。今日の彼女は様子が違っているな。
その原因はよくわからぬまま、私は鳳翔の手をとった。

何故か彼女は嬉しそうに笑みを浮かべたが、頬の赤みだけはそのままだった。

今日という一日は、それは壮絶な一日だった。
私が遠征の許可を出せなかったせいで、夜間に外出している面子も鎮守府内に残っていた。
それもあり、私と鳳翔は過酷な調理を強いられたのだ。

もう肩も上がらん。
そんな風に弱音を吐いたのは、いつ以来だったか。
鳳翔は私の言葉を聞いて、それに同調するようにこう返した。

「提督が居なければ、私もここまで持ちませんでした」

「それはそうだろう。人手が足りんのだからな」

鳳翔は頬を膨らませた。
わかっているとも。そのくらい察せずしてどうするというのだ。

悪かったと言うと、鳳翔は冗談ですよと微笑んだ。
言うようになったではないか。
食器を洗い終え、私たちは二人で笑い合った。

そうだ、忘れていたことがあったな。
私はそこらの棚に置いていた「それ」を手に取る。

「その紙袋は……?」

鳳翔が不思議そうに首を傾げる。
雑貨屋で買ったものだと告げると、ああなるほどと頷いた。
私がずっと持っていたというのに、気が付かなかったのか。

余程何か他の事で頭がいっぱいだったらしい。
それが何なのかまではわかりようもないが。

「ふぅ……」

その声に顔を上げると、鳳翔は窓の外を眺めていた。
私との会話が終わったと思っているらしい。
彼女の名を再び呼ぶ。

「今日という日を乗り切った褒美だ。これをやろう」

「え……? ええっ!?」

今日は驚いてばかりだな、鳳翔よ。
あわあわと狼狽える姿はいつ見ても滑稽だった。

「い、いいのですか?」

「いいと言っている」

「本当に、本当にですか?」

「やっぱりやらん」

そんなぁと嘆く鳳翔。
やると言ったらやるのだ。男に二言はない。
おずおずと差し出してた紙袋を突き返すと、鳳翔はまたも嬉しそうに口角を上げた。

「ああ、いけない。肝心のものを忘れていましたね」

ほくほくと厚揚げを食べていた鳳翔がすっと立ち上がる。
向こうの机に置いた酒瓶を取りに行こうというのだろう。
しかし、それは手で制止させてもらう。

座っていろと促す私に、彼女は困り顔をする。
もっと楽にすればいいものを。

「なんだ、緊張でもしているのか」

「いえ、そのようなことは……」

近寄って目を見つめると、彼女は照れたように頬をかいた。

「さてどちらからにするか」

「え? 両方ではないのですか」

その発言には驚かされた。
一人一升呑めというのか。
発想が酒豪のそれである。

私自身、酒の強さに関しては人並みだとしか言えない。
この一升瓶を二人で分けるくらいでなければ、きっと明日の寝覚めは劣悪なものになる。

いや、彼女の場合はそういうことに疎いだけであろう。
私は鳳翔に好きな酒を選ばせると、洒落た杯を手に取った。

「提督」

「どうした」

微量の酒を鳳翔に呑ませて数秒後。
彼女は私を呼んだ。

「……私を、面倒だと思っていませんか」

何をだと口にするよりも早く、鳳翔の語勢に押し切られる。

「あれもこれも手のかかる女だと、思ってはいませんか」

彼女は矢継ぎ早に続ける。

「迷惑だと思われては、いませんか」

その声は尻すぼみになる。
顔を見ると、頬が真っ赤に染まっていた。

酩酊しているのか。
この量で。

では先程の言葉は、酔って本音が漏れたとでもいうのだろうか。
そう考えると、なかなか可愛らしいところがあるというものだ。

「思わんよ」

「よかった」

私の言葉に、にへらと頬を緩ませる鳳翔。
それでいいのかと問いかけたくなるものだが、幸せそうな彼女に水を差すのは野暮である。

「私は提督のことをお慕いしています」

「……急にどうしたというのだ」

何の脈絡もない告白に、私は少々たじろいでしまった。
彼女の据わった目に射竦められたらしい。

「だから」

鳳翔は視線を下へと下ろして告げた。

「嫌われたくないのです」

なるほど。
私は酒をぐいと呷った。

「嫌うことなどあるか。私はお前が好きだと言ったろう」

彼女の方に手を置き、落ち着くように促した。
しかしそれは、彼女の鬱憤をより加速させてしまう。

「それは貴方の優しさです。お世辞などいくらでも言えるではないですか」

一瞬、彼女は自身の手元に視線を送った。

「嘘ではないという証拠を、今ここで見せてください!」

「嘘だとは言っていないが」

「あっ」

束の間の茶番劇は幕を閉じた。

「誰の入れ知恵だ」

「そ、それは言えません。内緒にしておけと足柄さんに口止めされているので」

「足柄か」

「あっ、いえ、違うのです」

あたふたと手を動かし始めた彼女の手元から、紙切れがするりと落ちた。
拾い上げて見てみれば、先程の台詞の羅列が書き並べてある。

「なかなか楽しめたぞ」

「うぅ……」

「ここで一拍ほど待つ」

「や、やめてください」

身を縮こまらせる彼女に、紙切れに書かれた文字を読み上げてやる。

「それよりも、これを食べてみてください」

鳳翔は和え物を差し出してくる。
ふと気づけば茶番のおかげで食い損ねていた。

「いただこうか」

味は薄いが、さらさらとしていて食べやすい。
十分、料理として成り立っている代物である。
だが、ただ褒めるだけでは面白みがないだろう。

「及第点と言ったところか」

私の言葉に、鳳翔は不服そうに項垂れる。
余程自信があったに違いない。

「冗談だ。良い出来になっている」

「本当ですか!」

ぱあっと明るい笑顔を見せる鳳翔。
その晴れやかな顔には一点の曇りも見えなかった。

「提督には、案外お茶目なところもあるのですね」

「鳳翔には及ばんよ」

彼女は慌てて、その件に関しては忘れてほしいと言い始めた。
あまりの慌てように、思わず笑い声が漏れてしまった。
それを見た鳳翔は、不貞腐れたように頬を膨らませる。

私は、その変わりない光景に安堵した。
実のところ、鳳翔の芝居には肝を冷やされたのだ。
私の言う「好き」という感情は、鳳翔にとって余程大きなものだったのではないか、と焦ってしまった。

だが今は心配せずとも、私の思っているような心配はありはしない。
自分の料理に舌鼓を打つ鳳翔の姿を見ていると、このままでもいいではないかと感じる。
まだ先の話であると、高を括っていた。

「……先程の言葉は真実ですか?」

唐突に場の空気が変わった。
鳳翔の口から放たれた言葉が、あの茶番劇の空気を取り戻させてゆく。

「わたしのこと、しゅきですか」

「なんだ、本当に酔っているのか」

酔ってなどいないと頭を振るその姿は子供のようだ。
なあなあな返事をしてやると、彼女はそれでも嬉しそうに目を細めた。

「なあ、鳳翔よ」

「……んぅ」

彼女はすっかり寝静まってしまった。
私の肩側に体を預け、ぐっすりと眠っている。

そんな中、私は彼女の目の前に本音を転がした。

「今の私はな、全てを擲って、この身をお前に捧げることはできないのだ」

ぽつりと漏れた独り言が、空気に滲んで消えてゆく。
最初から誰も話していなかったかのように、その場はしんと静まり返っていた。

「では、全てが終わった後ならば、私を幸せにしてくれますか」

耳元に直接囁き掛ける声が届いた。
慌ててそちらを見ると、鳳翔は瞼を閉じていた。

「提督が提督でなくなった頃を、私は待てばいいのでしょうか」

口だけを動かして、私に問いかける。
今日だけで二度も、お前に騙されてしまった。

すっかり冷めてしまった厚揚げを頬張る。
覚悟とともにそれを飲み込み、私はその問いに答えることにした。

「その時は……そうだな。二人で何か食事処でも始めるか」

その言葉に秘められた意味をくみ取ったのだろうか。

今の私にとってはそれはわからない。

ただ寝惚けていて返事をしただけなのかもしれない。



しかし彼女はあの時、確かに

「お待ちしております」

と言ったのだった。

「小腹がすいたな」

そう呟いたのは真夜中であった。
しんと静まり返ったこの部屋に、相槌を打つ秘書艦などいるはずもない。

騒がしい鎮守府も、夜中となればみな寝静まってしまう。
うるさく騒ぐ者どもは、まとめて遠征へ出してしまった。

「さて、どうしたものか」

こんな時間でも、最近は店を開けているところが増えた。
窓から外を見ると、辺り一面が月の明かりに照らされている。
その中で、赤い提灯がいくつか光を帯びていた。

「行くとするか」

重い腰を上げ、私は厨房へと向かった。
他のどこでもない、彼女の元へと。

こつこつと靴が音を響かせる。
真夜中の廊下は、いつものようにしんみりと静まっている。
眠気に欠伸を誘われていても、いつもの場所への道のりは体が覚えていた。

月以外の明かりが部屋から漏れているのが見える。
私は足を止めず、ぱっと中へ入ってしまう。

何かを煮るような音が聞こえてきたではないか。
いい香りも漂ってくる。
明日の仕込みか、つまみでも作っているのか。

「鳳翔、入るぞ」

「提督。お待ちしておりました」

「今日は何を作ったのだ」

「良い筍を仕入れたので、筑前煮を」

私が言うまでもなく、彼女は皿にそれを盛り始める。
楽しそうに鼻歌なんぞ歌いながら、鳳翔は私の元へとそれを届けに来た。

「どうでしょう」

「まだ口に入れてすらおらんぞ」

「そうでした」

料理の腕は上達したものの、そそっかしいところは変わりない。

「今日は昼に何かあったのか」

昼時、この厨房が騒がしかったのを覚えている。
私がそれを問うと、鳳翔はにこやかに告げる。

「料理教室を開いていました」

料理教室。
聞き覚えのないその言葉に、私は首を傾げる。

「私が料理を教えていたのです」

「ほう」

人に教わっていた彼女が、人を教えるようになるとは。
感慨深いものだなと呟くと、鳳翔は懐かしむようにこう返した。

「あの時は至らない姿を何度も見せてしまい……」

「今は至っているとでも言いたげだな」

「他の皆さんの前では、しっかりとしています」

確かにそうではあるが。
鎮守府内では、凛々しく淑やかな鳳翔の姿は周知のものだった。
鳳翔と聞けば、誰もが「気品」や「母性」などと抜かすのだ。

初めてそれを聞いたとき、ひどく眩暈を覚えたのはいい思い出である。

「お前のどこに気品があるというのだ」

「ふふ」

何が可笑しいのやら、彼女は笑みを浮かべる。
最近は以前のような初々しさも抜けきってしまい、揶揄い甲斐も薄れてきている。
これも「しっかりとした」部類に入るのだろうか。

「筑前煮、旨いな」

そう言うと、私の言葉を待っていた、と言わんばかりに頬を赤らめる鳳翔。
やはりこういった喜び方云々に変化はなさそうである。

「提督に褒めてもらうと、やはり嬉しいです」

「そうか。これからは客に褒めてもらえるよう、精進することだ」

私が告げた言葉に、鳳翔は眉を下げる。
どうやら、かける言葉を間違えたらしい。

「これからも私が褒められるよう、精進することだ」

「はい!」

良い返事だと言いたいが、その理念でいいのか。
問うだけ無駄なことだと知っていた私は、大人しく口を結んだ。

「それで、その料理教室とやらは今後も続けるのか」

「いえ、そのつもりはありません」

思わぬ返答に耳を疑った。
鳳翔の性格ならば続けるだろうと踏んでいたのだ。

「何故だ」

「提督から鳳翔さんを取り上げてしまうのは忍びない、と言われてしまって」

酔ってもいないのに、私は失笑してしまう。
今までに様々な断り文句を聞いてきたが、これほどまでに笑える台詞はあっただろうか。

「いらん、いらん。くれてやる」

鳳翔は目を伏せ、よよよと泣く真似をし始める。
悪かったと言えば、慰めてほしいと言うではないか。

「では今度の休日にどこかへ出かけるとしよう」

「どこへ行きましょうか」

このやり取りももう何度目であったか。
滅多にない私の休日は、すべて鳳翔との予定がどこかに必ず入っている。

しかし、こうやって鳳翔が強請ってくるとは誰も想像できないのだろう。
他からは完璧だと見られている彼女である。
こんな風に甘える仕草をするとは、皆からすれば考える余地もない。

休日に鳳翔と二人でどこかへ行くという行為自体が、傍から見れば「習慣である」と思われているのだ。

「ああ、それと……これもありますよ」

鳳翔の手には、何時だったか、ともに呑んだ日本酒の瓶が握られていた。
相変わらずそれが好きなのだな、と呆れる。
すると、思い出の品であるからだと言うのだ。

「明日も予定が入っている。今日はやめておこう」

「あら、そうでしたね」

どうやら彼女は、「いつでもこの酒は用意している」と示したかったらしい。
用意周到なことだと褒めてやれば、鳳翔はまた微笑んだ。

「もう寝るとするか」

「そうですね」

そう言った彼女は、皿と箸を洗い始める。
慣れた手つきだなと見惚れていると、もう洗い終わってしまったらしい。

「さて、行きましょうか」

いつだったか、あの時と同じように彼女の手を取ると、その手はひやりとしていた。
いつからか、毎晩、厨房から自室へ向かうまでの短い距離が、私と鳳翔の小さな逢引の通路となっていた。

「もう、遠く昔のように感じるな」

「はい。よく考えてみれば、まだ半年も経っていないのですよね」

ただ短く言葉を交わすだけで、その逢引は終わってしまう。
だからこそ、止まらぬように、振り返らぬように、ゆっくりと歩みを進める。

「……では、ここまでですね」

私の部屋へとたどり着き、鳳翔が名残惜しそうに呟いた。
いつものことである。

が、その日は少しだけ違った。

「次の休日には、お弁当を作ります」

「ああ、頼む」

「だから……その……」

「どうした」


「……明日の朝食をつまみ食いしてしまったのを、皆さんに内緒にしておいてください」


いつになく真剣な顔つきの鳳翔は、何とも気の抜けたことを言った。
このやり取りは、果たして何度目であろうか。

「ああ。凛々しく真面目な鳳翔の、他ならぬ頼みであれば無碍にはできん」

物語の終わりに相応しくないこのような締こそが、気の抜けた鳳翔と私には相応しいのかもしれない。



          了

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom