ネリー「獅子原、あれやってよ」 爽「やだよ」 (251)


インターハイ個人戦の開会式が終わり、
表示されたトーナメント表を見た私――獅子原爽の第一声は、

「マジかよ」

だった。

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団体戦では準決勝で敗れた北海道は有珠山高校。
その唯一の個人戦出場者である私は、幸運にもノーシードの中の1回戦免除枠に潜り込めた。
しかし、初戦となる2回戦で相手取らなければならないのは、第3シードの実力者・辻垣内智葉だった。

「終わったなこりゃ。団体戦重視だったから徒手空拳で臨まなきゃならねーってのに。
はぁー、もう全ツッパでいくかな……」

私が他のブロックもろくに見ないでホテルに戻ろうと華麗なターンを決めたその時、
隣の選手と目が合った。そこには臨海女子高校のエース様が威風堂々と直立していた。

「獅子原か。どうやら明日顔を合わせることになるようだな」

「あ、辻垣内さん。よろしく」

「お前の強さはよく知っている。全ツッパなどとつまらないことを言うな。
そんな付け焼き刃にやられるほど甘い私ではない」

「んー、まあ辻垣内さんにボコボコにされるならそれでもいいかなって。
チャンピオンの連覇を止めてくれるとしたら辻垣内さんだろうし」

「どうかな。無論負けるつもりもないが」


「それに辻垣内さんの麻雀好きだしさ。洗練された技術が武器の本物の実力者って感じで。
私みたいな運頼みの身からすると憧れちゃうよ」

「……そう言ってくれると胸が熱くなるな。だが手加減されて勝ち上がるのはまっぴらだ。
運も実力のうちとも言う。明日は真剣勝負といこうじゃないか」

「そうだね。よし、明日はもっと熱くしちゃうよ」

「ふん、その意気だ」

私たちが夏の高校生っぽいやり取りをしていると、
側にはいつの間にか民族衣装然とした白基調の少女がやって来ていた。

「サトハ」

「ん? ああ、ネリーか。来ていたのか」

「サトハの応援に行くって言ったよね?」

「シード勢の試合は明日からだと言っただろ」

「組み合わせ見ておきたかったんだよ」

「交通費がどうとか言ってたじゃないか」

「監督に車で送ってもらったよ」

「ちゃっかりしてやがるな……」


「それよりサトハ、獅子原と当たるの?」

「ああ、見てのとおりだ。初戦から気が抜けないな。
まあ誰が相手だろうと気を抜くつもりなどないが」

完全に置いてけぼりの私だったが、この小学生並の背丈の少女――ネリー・ヴィルサラーゼとは
先日の団体戦でやや後味の悪い別れ方をしていたので、気さくに話しかけてみる。

「ヴィルサラーゼさんは個人戦出ないんだっけ」

「留学生は出られないよ」

「あ、そっか。残念だね。ヴィルサラーゼさんなら絶対良いとこいけるだろうに」

「しょうがないよ。その代わりサトハが優勝するから」

一応返答してもらえるものの、なんだか警戒されている気がする。無理もないか……。
そこに辻垣内さんがやや表情を緩めて割って入る。

「獅子原、こいつにそんなかしこまって呼ぶ必要はない。ネリーでいい」

「なんで。獅子原は敵だよ?」

「お前が他校の上級生相手に呼び捨てだからだよ。
それともお前の方が先輩呼びなりさん付けなりするか?」

「……ネリーでいい」


「そういうわけだ。すまないな、他のやつらはそれなりに日本の常識をわきまえているんだが、
どうにもこいつはお転婆が過ぎるようだ」

「ちょっと生意気なキャラの方がスポンサー受けがいいんだよ」

内情はよくわからないけど、部長らしい辻垣内さんがそう言うならフランクにいかせてもらおう。
私自身元々かしこまったのは苦手だし、年下に呼び捨てされるのも慣れてるしな。

「そう、じゃあお言葉に甘えて。
でもま、ネリーがセコンドについて2対1じゃあますます勝ち目ねーな」

「チームの連中はどうした?」

「もう北海道帰ったよ。団体戦負けたのに滞在できるほど補助してもらえないんだよ、
うちみたいな弱小はね。その点地元は有利だよなー」

「じゃあ今は1人寂しくホテルか」

「顧問はいるけどね。まあ形だけだから、試合の準備に集中できるようにって1人部屋にしてくれたよ」

「そうか。では私も戻って明日に備えるとするか。それじゃあな」

「うん、また明日」


そうだな、勝てないとは思うけどできる限りのことはしよう。
ホテルに戻ってデータ収集して対策を練ろう。
そう考えて2人と別れた――はずだった。

「獅子原」

呼ばれて振り返ると、声の主のネリーは私の方を向いてはおらず、辻垣内さんと何やら話している。

「サトハ、ネリーは獅子原と話があるから先に帰ってて」

「話? なんの話だ?」

「べつにたいしたことじゃないよ」

「……まあいい、それなら終わるまで待つが」

「いいよ。ちょっと時間かかるかもしれないから。
サトハは試合があるんだから、すぐ監督と作戦会議しなよ」

「……わかった。だが1人で帰れるのか?」

「……大丈夫。1日ぐらい野宿でも平気だし」


なかなかレアな辻垣内さんの呆れ顔が見られた。
かと思うと今度はやや気まずそうな顔でこっちを見てくる。

「ネリーはこう言ってるが、時間は大丈夫か?」

「話ぐらいはべつにいいけど……」

「そうか。じゃあすまないが、終わったらここに連絡をくれないか。私個人の連絡先だ。
他所様に迷惑を掛けるのは忍びないんだがな」

「ネリーが連絡すればいいんじゃないの?」

「こいつは携帯電話の類を持ってない。それに1人歩きさせるのはまだまだ心配だ」

「サトハは過保護だよ」

「前もバス代節約だって歩いて迷子になっただろ」

「……」

小っちゃい子なら微笑ましいエピソードだろうけど、なんだか笑えない。

「わかった。じゃあ一応私の方も連絡先教えとくね。なんかあったら掛けてよ」

「すまないな」

こうして、辻垣内さんは何度もネリーに念を押しながら去って行った。
あまり時間を取らせるなとか、終わったら迎えに行くまで私の下を離れるなとか。
その様子は先輩と後輩というより母子のようで、チカと成香を連想してしまった。


「――それで、話ってなに?」

「……もっと落ち着いて話せるところがいい」

トーナメント表を見ていた選手たちは大分捌けた様子だったが、
一般開放されているエリアなので次々に人が入って来る。
確かにこんな人通りの多いところで突っ立って長々話さなくてもいいか。

「ファミレスでも行く?」

「お金使いたくない」

「……ドリンクバーぐらいならおごるよ」

なんで向こうから話を持ちかけられて気を使わなきゃならねーんだと思ったが、
一応先輩だし相手は日本に来て間もないかもしれない。
そこらへんは私の類い稀なる対人スキルを駆使して乗り切った。

「いいよ。ドリンクバー単体だと割高で損でしょ?」

乗り切れてなかった。こいつ、大分金にはうるさいらしい。
さあどうする……この近くにでっかい公園があるんだよな。そこで缶ジュースでも買って……
そう考えていると、今度はネリーからの提案があった。

「ホテル行こうよ」


「獅子原の泊まってるところ。ここから近いんでしょ?」

一瞬焦った。別のものを想像してしまった。いや、決して私の思考回路がアレなわけじゃない。
嫌な予感がするんだ。経験則で感じてるんだ。だからどうにも拒めない。

「あ、ああ、ホテルね。うん、歩いて行ける距離だけど。
でも1人部屋だし、部屋まで入れてくれるかな」

「大丈夫だよ。ネリーそういうのうまいから。
それならお金かからないし、落ち着いて話せるし。行こうよ」

結局、なんだかんだありながら私の滞在中のホテルに戻ってきた。
口八丁が幸いし、部屋にも入り込めてしまった。
入るなりネリーは遠慮なくベッドにダイブした。その勢いで特徴的な帽子も脱げ落ちる。

「わ、ふかふか! やっぱりホテルのベッドってネリーの部屋とはぜんぜん違う」

「いくら安ホテルでも一般家庭とか寮とはやっぱり違うでしょ。……こっち椅子あるよ」

「ここでいい」

仕方なく自分が椅子に座り、とりあえず備え付けのコップにお茶を注ぐ。
昨日コンビニで買ったものだ。2リットルボトルにしておいてよかった。

「はい」

「いいよ」

「もし明日負けたら余らせちゃうからさ。もったいないから飲んでよ」

「……ありがと」


ベッドに腰掛けたネリーはコップに一口つけると、そわそわしながら部屋を見回している。

「で、その話っての聞きたいんだけど。私も明日の準備があるからさ。
辻垣内さんの弱点教えてくれるってんなら大歓迎だけど」

「弱点? 教えようか?」

「マジで! いいの?」

「お餅食べてむせてたよ。あと昆布キャラメルが止まらなくなってた」

「……麻雀の弱点がよかったな」

嫌がらせなのか天然なのかわからないけれど、
麻雀を離れれば年相応の無邪気なガキなんだと受け止めておこう。
そうじゃないと手が出てしまいそうだ。
どうも向こうからは切り出しづらい様子なので、この機会にダメ元で口止めしておくことにした。

「そうだ、私の力のことだけどさ」

「ちから?」

「麻雀のときの。いろいろ見えてんだろ?」

「うん。みんなはわかってないみたいだけど、ネリーには全部お見通しだよ。
今はうまく隠してるみたいだけどね」


そうか、こいつカムイがみんな帰ったの知らないから、私が意図的に隠してると思ってるのか。
その方がありがたいな。一応明日の対戦相手のチームメイトなんだし、
もう団体戦でやってたこと全部できないザコだよ、なんて報告されるのはごめんだ。
ハッタリをきかせておいた方が少しはマシだろう。

「まあね。でもできるだけ他に情報漏らしてほしくないんだよなー。
辻垣内さんと情報共有されるのは仕方ないとしても、他のチームメイトとか友達とかにはさ」

「なんで?」

「この力って本来麻雀用ってわけでもなくて、普通に使うと変な目で見られるから
なるべく秘密にしてるんだよね。一番仲良い幼馴染にも詳しくは言ってないんだよ」

「でも今はウスザンが初出場で知られてないだけで、これから戦っていけばどんどん知られちゃうよ?」

「ああ、インハイが終わったらもうこの力麻雀で使うつもりないから」

「え、プロになるんじゃないの?」

「おまえみたいな特待生と違って、私のはただの趣味だからね。明日負けたらガチの麻雀は店じまいだ」

「ガチ?」

「あ、本気のってこと」

「ふーん、そうなんだ……じゃあナイショにしててあげるから、お願いきいてほしいな」


頭の中で警鐘が鳴り響く。それを悟らせないように努めて平静を装う。

「お願い? まあ私にできることなら……ってかおまえの話はどうなったんだよ」

「ネリーの話はお願いしたいことがあるってことだったから、ちょうどいいんだよ」

「あっそ。金はないからな」

「それは期待してないよ。お金持ちには見えないし」

「そーかよ。じゃあ何?」

「……準決勝終わった後、試合で使わなかったやつ試しにやったよね」

「あー、やったね」

やったっていうか、やらされたんだけどな。
パウチカムイ――淫欲を司る神。強制的に性的快楽を生み出す恐ろしいカムイだ。

「あの時はすぐ引っ込めたけど、あれどのくらい続けられるの?
10分? 1時間とか?」

「さあ、どうだろうな。ほとんど使ったことないからわかんねーや」

これは嘘だ。まだ制御できてなかった頃の不本意な経験から、
少なくとも1時間は持続するとわかっている。


「ふーん……じゃあさ……」

こうなる予感はあった。

「獅子原、あれやってよ」

「やだよ」

だから即答した。

「だから使いたくないんだって。あの時はおまえがあまりにも食い下がるから、
なんか対策があるのかと思ったんだ」

実際はまったく対抗できなくてすぐ音を上げたんだけど。

「あれは思ったより強くてびっくりしただけだよ。今度こそ効かないってわからせるから」

「なんでそんな意地になってんだよ」

「あれでほんとは勝てたなんて思われたくないからね」

「そんなこと思わないよ。だからあれはもう忘れてくれ」

「なんで。やってよ」

この食いつきよう、ハマッちゃったかなあ……。
私はなんとか諦めさせようと、苦い記憶を引き出す。


「あのさ、今は使う使わないを完全にコントロールできるようになってるけど、
昔は制御できなくて暴走しちゃうことがあったんだよ」

「暴走?」

「うん。友達とかクラスメートとかに突然効果出ちゃったりして。
私がやったって気づかれなければそこで終わりなんだけど、
2人きりのときになっちゃったりすると、こいつといると……ってなるわけだ」

「そうだね」

「それでこう、何回か迫られることがあったんだよ。襲われかけたこともあったな……」

「ネリーはそんなことしないよ」

「いやまあ、そうかもしれないけどさ」

みんな最初はそう言うんだよ。

「あれ1回味わっちゃうとクセになるみたいで、何かと理由つけてやらせようとしてくるわけ」

「ネリーはちがうよ。勝ったと思われたくないだけだから」

みんな最初は違うって言うんだよ。


「それがほんとに辛そうで、人助けだと思ってやってあげたことがあってさ。
女の子だったから襲われても撃退できるかなって軽く考えて。
それが間違いだったんだ。どんどん深みにはまって我慢できなくなって……」

「ビッチになっちゃった?」

「……そう。それで学校来なくなって、噂じゃ体で稼いでるって。
すっげーショックでさぁ。だからおまえにそうなってほしくないんだよ」

「ネリーは大丈夫だよ」

「だからみんな最初はそう言うんだよ」

「そうなっても大したことじゃないよ。ネリーも麻雀が強くなかったらどうせそうなってたんだし」

「……なんだよそれ、穏やかじゃないな」

「珍しいことじゃないでしょ。特別な能力がなかったら、
ネリーみたいな子供がいっぱいお金稼ぐ方法なんてそのぐらいだよ」

そうだ、こいつは臨海の留学生メンバーの中ではあまり馴染みのない国の出身だったな。
サカルトヴェロっていったら、確かつい最近までロシアと戦争してたんじゃなかったか。
じゃあこいつが金にうるさいのは生活難で出稼ぎに来てるってことか。

「だから遠慮なんていらない――よ!」

「うわっ!」


思考が内に向いている隙を突かれ、痺れを切らしたネリーに勢い良く引っ張られた。
そのままベッドに倒れ込み仰向けになった私の上に、ネリーが馬乗りになる。
両手は顔の横でがっちりと掴まれている。

「ほら、早くやれって」

大分興奮してるご様子だ。それでも律儀に靴を脱いでいるのは辻垣内さんの教育の賜物か。
ベッドを汚さないよう、私もローファーを足だけで脱ぎ飛ばす。
うまく床に落ちたようで一安心だ。よし、まだ心に余裕がある。
ここらへんは過去の苦々しい経験たちの賜物だ。

「……いやー、それができないんだわ。ごめん、嘘ついてた。
ほんとはあの力持った神様がもう帰っちゃって、今はもうできないんだ」

「ウソつき。隠してるんでしょ。どこにいる?」

「ほんとだって。全然存在を感じられないだろ?」

大体こうなると聞く耳持たなくなるけど、ネリーとは会話が成立している。
信じて諦めてくれることを祈る。

「……獅子原をエッチな気分にさせたら出て来るのかな?」

最悪の展開になった。


「いやいや、そんなご都合主義な話はないから。それにそーゆーことしたことあんの?」

「ないけど、どうすればいいかは知ってるよ……」

私を見下ろす顔が近づいてくる。おいおい、マジか。私もついに異文化交流デビューか。
なんてふざけてもいられない。相手の動きを見ることに集中する。
ネリーがその口を使ってどの行為をしようとしたのかは知らないが、
私の顔に肉薄して手の力が緩む最大の勝機が訪れる。
私は掴まれた手首を内から外に回し、ネリーの小さな手を振りほどいた。
その流れで体に組み付き反転させる。

「おりゃっ!」

「あっ!」

一瞬で形勢は逆転し、今度は私がネリーに馬乗りで腕を押さえ、その悔しそうな顔を見下ろす。

「ふぅ、いざという時のために『カムイに教わる護身術』読んどいてよかった。
おまえ軽いのな。ちゃんとメシ食ってるか?」

「……」

「力もないし、小さい頃から麻雀ばっかやってたのか?
それじゃあ私みたいに外で駆け回ってた野生児には敵わねーだろーよ」

「放せ」

「私の言うこと信じて、もう“お願い”してこないって約束してくれたらね」


「……信じられないよ。明日サトハに使うつもりなんでしょ」

「使えないって言ってんのに。仮に使えたとしても麻雀で使いたくないって言ってんじゃん」

「じゃあ今使ってよ。今は麻雀じゃないからいいでしょ」

しつこいな――そう思いつつも、どうも今までのピンチとは違うような気がしている。
完全有利な体勢で落ち着いて対峙してみると、目つきがギラギラしているのがわかる。
ただそれは欲情したものではなく、追い詰められた獣に近かった。

「なんでそう使わせたがるかな……ん、明日……?」

「……」

「あ、おまえもしかして辻垣内さんに使われないように、今のうちに消費させようとしてんのか?」

「……」

ネリーは視線をそらす。表情こそ気丈だが、掴んでいる腕からは抵抗が消えた。

「なんだよ、そういうことかよ。変に策を使わないでストレートに言ってくれりゃいいのに」

「口約束なんて意味ないよ」


まあこの前は何でもアリみたいなこと言ってたし、やっぱ反則だから使わないで、
なんて言えないんだろうな。こいつプライド高そうだし。

「そりゃ使えなくなるのをその目で見るのが一番確実だろうけど。
もう効かないなんて言ってたけど、ほんとは対策なんてなかったんじゃないの?」

「……」

沈黙は肯定、だろうな。

「この前と同じように恥ずかしい目に会うのも覚悟の上だったんだ。
どのぐらい続くかわかんないから、私に延々そんな姿見られるわけだよ」

「それでもいい」

体張ってアシストか。健気なもんだけど、違和感が拭えないんだよな。
こいつが勝ちに貪欲なのはわかるけど、チームメイトのためになんかするようには見えない。
それに事前に使えなくする工作をするってのが、なんからしくないというか。
いや、こいつのことよく知ってるわけじゃないんだけど。

「なんでそんなにしてまで辻垣内さんに勝たせたいの?」


聞いてしまった。正直悪手だと思う。パウチカムイの影響じゃないってわかったんだから、
ここは深入りしないでさっさと辻垣内さんを呼んで、
明日の準備で忙しいからって叩き出すのが最善策だとはわかっている。
でも、こいつの切羽詰まった様子を見てるとなあ……。
また余計なお節介で首突っ込んでってチカに怒られるかな。
揺杏には相変わらずだね~って笑われそうだ。

「……サトハに優勝してもらわないと困る……」

「困る? なんで?」

「……」

「言いたくない事情もあるかもしれないけどさ、この状況おまえからしたらもう手詰まりだろ。
話してくれればちょっとは私の心も動くかもしれないよ」

「……」

強情だなあ。あ、情報流されるのを警戒してるのかな。

「誰にも言わねーって。ほら、初出場だから麻雀選手の知り合いなんていないし。
顧問も形だけだから上の人とのつながりなんてないし」


「ネットにも書き込んだりしない?」

「しないよ。そういうアカウントも持ってないしな」

『ユキちゃんファンクラブ』は私個人のじゃないからノーカンだ、うん。
ようやく観念したのか、ネリーは一呼吸置くと小さな声で語り始めた。

「……団体戦で負けちゃったから、せめて個人戦で勝たないと臨海のネームブランドが落ちるって。
そうなったらネリーの立場も危ないって思って……」

「なにそれ、誰が言ってたんだよ。決勝まで行ってんだから大丈夫じゃないの?」

「だって、ニュースでコメンテーターの人が言ってたよ」

コメンテーターって賑やかしの芸人じゃないのか。
日本のニュース番組のほとんどは報道系バラエティだって言っても話がややこしくなるだけか。

「他の留学生はどう言ってんの?」

「みんなは大丈夫だろうって。それにサトハなら優勝できるって気楽に考えてるよ。
でもネリーはお金がいるの。万が一にでも足踏みするわけにはいかないんだよ」


「それで辻垣内さんが勝てるか気にしてトーナメント表も見に来て、
私が初戦の相手だってわかって、あれを使われるとヤバイと思ったと。そういうこと?」

「そう」

「気にしすぎだと思うけどな。誰かに相談したか?」

「……相談できる人なんていないよ。弱みを見せたらつけ込まれるだけ」

おおう、スレてんな。これが世界で戦うってことなのか。

「なんだ、おまえ友達いないのか?」

「友達ぐらいいるよ」

「ほんとか? 団体戦のメンバー抜きでも?」

「……ネリーは日本に遊びに来たわけじゃないから。友達なんてべつにいらないよ」

このふて腐れた顔は図星だったらしい。


「強豪校だとレギュラー争いとか大変なのかな。
でも麻雀部じゃなけりゃつけ込むもなにもないだろ」

「どこでどう情報が回るかわからないから、麻雀部じゃなくても気を許すわけにはいかないよ」

「セキュリティ堅いのな。あ、さっきネットに書き込むの気にしてたな。
なんか嫌な出来事でもあったのか?」

「……入学してすぐのとき、クラスの子がネリーの悪口をネットに書き散らしてた。
そしたら全然知らない人までそのこと信じて非難してくるんだよ」

「うわー、それはまいったね。運悪く中心的な人とぶつかっちゃったのかな」

「第一おかしいよ。直接言えばいいのにまわりでコソコソして。
部でも留学生にレギュラー占領されるのが気にくわないって、結託しちゃってさ」

あ、やっぱりあるんだそういうの。

「じゃあ留学生同士で固まっちゃってんのか。なんかもったいねーな、せっかく日本に来てんのに」

「……みんなはうまくやってるよ。メグも最初は苦労したって言ってたけど、
サトハがおんなじ学年だからフォローしてたんだって」

見た目どおり委員長気質なんだろうか、あの人は。


「ふーん、じゃあぼっちはおまえだけか。
もしかして部活とか学校生活でも麻雀のときみたいな生意気な態度なのか?」

「いざってとき精神的に優位に立てるように、
ふだんからプレッシャーかけとくなんて世界ジュニアじゃ常識だよ」

なんだか嘘くさい。他の留学生は普通に交流してるんだろ。
こいつきっと最初は誰にでも傲岸不遜な態度で、懐に入ると日和るタイプだ。
辻垣内さんたちの前じゃ日本の昔ながらの遊びでも教わってはしゃいだりしてるんじゃないか。

「故郷には家族のみんながいるから、日本でひとりでもぜんぜん平気だよ」

強がって若干涙目になってきたのを見ると、組み伏せている今の状況が犯罪じみて気が引ける。
掴んでいた腕を放し、ネリーの上からどいてベッドの上で胡座をかく。
ネリーは体を起こすと体育座りになり、こっちを睨んでいる。

「……そこらへんの事情はなんとも言えないけどさ、今一番やるべきなのは、
辻垣内さんの対戦相手を研究して対策練ることだと思うぞ」

私は枕元のリモコンに手を伸ばし、テレビを点ける。
ちょうど1試合目が終わり、私と辻垣内さんの対戦相手を決める試合に移り変わるところだった。

「お、ちょうどいいタイミング。なあ、おまえ相手の力見たりするの得意だろ。
試合見てて気づいたこととか私にもちょっと情報横流ししてくれない?」

むくれてしまったネリーの敵意を少しでも和らげようと、私はおどけてそう言った。


テレビでは2試合目が始まる前に、昨日の団体戦決勝のダイジェストが流れ始めた。

「なんだ、まだか。まあいいや、決勝見てなかったんだよなー」

準決勝で負けた後はひたすら個人戦出場選手のデータを分析していたため、
決勝は最終結果しか知らない。先鋒戦だけは宮永照目当てで生観戦したけど、
原村和や宮永咲は準決で当たるときにいやというほど見たので、
次鋒戦から先は個人戦が終わったら録画でゆっくり見ようと思っていたのだ。

「へえ、副将まで臨海と白糸台でトップ争いしてたんだな。
やっぱネームブランドとか心配する必要ねーんじゃねーの?」

努めて明るく振る舞ったつもりだった。
ところが、ネリーは目を見開いて悲痛な表情を浮かべていた。

「え、なに、どした?」

「消して……消してよ……!」

ただ事ならぬ様子に不安を覚え、私は慌ててリモコンの電源ボタンに手を掛ける。
テレビが消える寸前に聞こえた実況の声に、私はすべてを理解した。

『決まったーっ! ヴィルサラーゼ選手痛恨の振り込み! 優勝は――』


俯いて顔の見えないネリーがぽつりぽつりと零し始めた。

「……昨日からずっと、何回もテレビでネリーが負けたところが流れるの」

そうか、こいつがこんなにも追い詰められたのは、そういうことだったのか。
決勝大将戦、それもオーラスの和了りとなれば、
昨日今日と特集番組やニュースで飽きるほど流れたことだろう。

「このままじゃ、みんなは大丈夫でもネリーだけはスポンサーに見限られちゃう……
部のやつらもバカにしてネリーを倒そうと勢いづいてくるかもしれない……」

相手が悪かったとか時の運とか、いくらでも言いようはある。
でもそんなものは一切届かないだろう。
メンバー唯一のマイナス収支で、敗退を決める放銃をした。
その事実は変えようがなく、昨日の今日では気が気じゃないはずだ。
無闇に慰めるより不安を吐き出させる方がいいかもしれないな。

「んー、まあ不安にもなるよな。こういうときこそ故郷の家族を頼ればいいんじゃねーの?」

「……できないよ」

「あ、ケータイ持ってないんだっけか。私の使う?
後で電話代払えなんて言わないよ。さすがに2時間も長電話されたら困るけどさ」


「国際電話高いの知ってるの?」

国内に掛けるより高いことぐらいは知っている。でも具体的な料金までは知らない。
せいぜい3倍ぐらいだろうと高を括っていたけれど、そう言われると心配になってきた。

「……ちなみにいくらぐらい?」

「地域によってちがうし会社によってもちがうけど、
サカルトヴェロだと1分で200円から400円ぐらいいくよ」

「うっお……思ったよりするもんだな」

「アメリカとか香港とかはもっと安いけどね。だからこっちに来てからは手紙だけだよ」

じゃあ久々に家族の声でも聞いて元気出せ、なんて言えればよかったんだけど、
しがない貧乏学生の私は自分の安直な言葉を後悔していた。
電話のことを自然な流れで流局に持ち込もうと企む、情けない上級生だった。

「なるほどなあ。考えてみたら手紙の方が形に残っていいかもな。
返信にはタイムラグがあるだろうけど、愚痴とか不安とか書いてるだけでも
気持ち落ち着いてくるらしいし。じっくり書いてみたらいいんじゃない?」

「だからできないよ」

「え、なにが。いつも手紙書いてんだろ?」

「書いてるけど……心配させるようなことは書けないよ」


「わっかんねー。そういうのを受け止めてくれるのが家族ってやつなんだろ? 知らんけど」

重苦しい空気を拭い去りたくて三尋木プロのモノマネをぶっ込んでみたけど、
ネリーはまったく反応しなかった。私は仕方なくユキの容赦ないツッコミを妄想した。

「……弱音吐くわけにはいかないよ。みんなは故郷でもっと大変なんだから。
日本で平和に暮らしてるネリーなんかよりずっと大変なんだから」

「そりゃまあ安全とか物資の面じゃそうかもしれないけどさ。
それじゃおまえの吐き出しどころがないだろ」

「そんなのなくても平気だってば」

「ほんとかよ。寂しくねーの?」

「……っ! 寂しくなんかない。いつも顔を思い浮かべてお祈りしてるんだから。
味方なんていなくても寂しくなんかないよ」

こいつがいつから世界を飛び回っているのかは知らないけれど、
ずっとこのスタンスでやってきたんだろうか。
このメンタルタフネスも麻雀の強さの一因なんだろう。大したもんだ。
でも、15歳やそこらで全部背負って我慢して――っていうのはなんだか腑に落ちない。
同情とか憐憫ってわけじゃなくて、ただ私が気に入らないってだけなんだけど。


でもいいよね?
試合前日の貴重な時間を潰されてるんだから、言いたいこと言っちゃってもいいよね?
もしかしたら荒療治になるかもしれないし、今こそ全ツッパが最善手のはずだ。

「ふーん。おまえあれだな、家族のことぜんぜん信用してねーんだな」

「……なんでそうなる?」

「だって、苦しいこととか辛いこととか全部隠してんだろ?
それって受け止めてもらえないかもしれないのが怖いんだろ?」

「……ちがう」

「ほんとは家族のこと、お荷物とか鬱陶しいとか思ってんじゃねーの?」

「ちがう!」

ネリーは私に勢いよく飛び掛かると、胸ぐらを掴んで押し倒してきた。
少し驚いたけど、私は余裕の笑みを崩さない。
昔よく怖ーい上級生なんかにされていたのに比べると、幾分マシなもんだ。
いや、泣きそうで痛々しい顔な分、こっちの方がむしろキツイかもしれないな。


「そんなこと思ってない……勝手なこと言うな」

声も唇も震えている。もう一押しか。

「ネリーはほんとにみんなのことが好きだから、楽しい話しかしたくないだけ」

「あっそ。それで不安なこと全部我慢してテンパってちゃ世話ねーな」

ネリーは一層顔を歪め、唇を噛んで乱れる呼吸を抑えている。

「だって……しょうがないでしょ……口にしちゃったら、どこでつけ込まれるかわかんないから。
ネリーが全部我慢して勝ち続ければ問題ないんだから……!」

そろそろ潮時だな。
ダメージを負わせたいときに最適なのは“上げて落とす”。今回はその逆だ。
私は両腕でしっかりとネリーを抱き寄せ、完全にベッドに体重を預ける。
そして右手でその小さな頭を撫でた。

「あっ!?」

予想外の抱擁を受け、ネリーは困惑した様子だった。
幼馴染たちからは“過剰なスキンシップ”と何度かイエローカードをもらってるけど、
仕方ないよな。こんな小さな女の子が、いろいろ重たいもん背負って
故郷から遠く離れた島国で独り戦ってるんだ。
亜空間殺法も飛び出しちゃうってもんだよ。ほっとけねぇってやつだ。


「そっか、ごめんな。おまえ頑張ってんだな、偉いもんだよ。
でもさ、たまには辛いことを辛いって言っていいんだぞ」

「……でも……」

「大丈夫。言ったろ、本気の麻雀は終わりだって。だから私がおまえの敵に回ることはない。
情報売ったりもしない。約束する。なんならおまえのその服の十字に誓ってもいい」

「……」

「だからさ、今だけでもほんとの気持ちぶちまけちゃえよ」

「…………つらい……つらいよ……寂しいよ……!
がんばってるのに、なんでネリーばっかり……うまくいかないんだよ……
みんなに会いたいよぅ……うあああぁぁぁん!」

張り詰めていた糸がようやく切れたようで、ネリーは私の胸に顔をうずめて号泣した。
仰向けに寝ているせいで平たくなった私の胸に、振動がダイレクトで伝わる。
泣き声が体を駆け巡る感覚はいつ以来だろう。
そんなことを考えながら、私はネリーの背中と頭をそっとさすってやった。


そうしていたのも束の間、突然ポケットが震える。辻垣内さんから電話が来ていた。
思ったより時間が掛かっているので状況確認をするつもりだろう。
ネリーの泣き声が響き渡る今は出たくないが、出ないともっとまずいことになりそうだ。
あの人ならGPSだなんだで居場所割り出すぐらいしそうだしな。
円滑に説明する自信はなくても、出たとこ勝負の手成りでなんとかするしかない。

「もしもし」

『……どういうことだ』

怖い。抑えてはいるが怒気をはらんでいる。
そりゃあ第一声でチームメイトの泣き声が飛び込んでくれば、
私に矛先が向くよな。この人の場合剣先かな。

「いや、大丈夫。危険な目に会ったわけじゃないしケガしたわけでもない。
お金を取られたとか麻雀打てなくなったとかでもない。大丈夫だから」

とにかく安全をアピールしてみたが、安心した様子は感じ取れない。

『……現在地を教えろ。迎えに行く』


私の簡素な説明を聞き終えた辻垣内さんは電話の向こうで誰かと話している。
恐らく監督あたりが車を出してくれるのだろう。

『そこなら15分程で着く。近くまで来たらまた連絡するから、そこにいろ』

「了解でーす」

こっちが返事を言い終える前にもう電話は切れていた。
相当気が逸った様子だったから、実際には20分以上掛かるだろう。

「聞こえてた? 辻垣内さんが迎えに来るって。すっげー心配してたよ。
あの人なら仁義とか大事にしそうだし、もっと頼ってもいいんじゃないの?」

「……サトハのことは好きだよ。他のみんなのことも」

まだ少ししゃくり上げているが、ネリーの感情の波は引いたようだ。

「でも、完全に気を許すわけにはいかないよ。いつかは敵同士になるんだから」

「うーん、でも拠り所っていうかオアシスっていうか、
どこかしらに気が休まる存在がいた方がいいと思うんだけどな」


もう落ち着いて話せるだろうと、私は上半身を起こし後ろ手をつく。
ネリーは私の腿の上に跨がったまま、やや前のめりにベッドの上に手をついている。
顔が近くてちょっと気後れするが、泣き腫らした目を見るとなんだか顔をそらせない。

「……さっき獅子原に頭なでてもらったとき、すっごくあったかくなった気がする。
なんかした? そういうの慣れてるの?」

「普通に撫でただけだよ。あー、慣れてるっちゃ慣れてるな」

「なんで?」

「ずっと施設にいたから、小さい子の面倒見ることもいっぱいあったんだよ」

生い立ちのことを話すと、大抵教科書的な同情を受ける。それが気持ち悪いからあまり話したくない。
でもまあ、こいつなら大丈夫かな。そう思って解禁した。

「施設って……」

「孤児院って言えばわかるかな?」

「わかるよ。え、じゃあ家族は?」

「いないよ。物心ついた時にはそこで暮らしてたから、親の顔も知らないし
兄弟がいるのかも知らない。だからちょっと羨ましいところあるんだよ」


「うらやましい? ネリーが?」

「会いたいって思える家族がいるだろ。祈るときには親の顔が浮かぶんだろ」

「……」

「ま、ないものねだりだけどな。いたらいたで大変なこともあるんだろうし」

「獅子原には、気が休まる人いるの?」

お、少しは心開いてくれたかな。

「いるよ。家族はいなくても、家族同然の幼馴染がいる。
今も同じ高校で同じ麻雀部なんだよ。ほら、中堅のポニーテールのやつ、覚えてない?」

「……そういえばちょっと雰囲気似てるかも」

「そうか? でもやっぱ1人じゃやって来られなかったと思うよ。
よくまわりに気味悪がられたりしたけど、そういう時大分精神的に支えてもらったからな」

「ふーん。じゃあ今は寂しくないんだ?」

「そうだな。もう寂しいってことはないな。人生楽しめちゃってるしな」

「じゃあさ……獅子原がネリーの支えになってよ」

開きすぎだろ。


ついさっきまでは噛みついてきそうなくらいだったのに。
大泣きして感情爆発させたから、今までの反動で退行しちゃったかな。
まさかさっきのハグとなでなでが久しぶりに味わったスキンシップで、
私に母性を見出しているとでもいうのか。

「支えって……?」

「ネリーがつらいときに話聞いたり頭なでたりしてくれるだけでいいから」

いや無理だろ。こっちは北海道だぞ。
それにもっと身近に支えがあった方がいいわけで。学校で友達作れよって言いたいんだけど。
本気で困った。どう答えるのが正解なんだ……。
困ったときの神頼みが利かない今、奥の手を使うしかないか。
私は精神を集中させ、天使と悪魔を呼び出した。といっても自作自演の脳内会議だ。
頭の中にイメージを起こして早々に、金髪の天使から小言が入る。

『ほらこういうことになった。だからお節介だって言ってるのに』

優しそうな見た目の割に、私にはけっこう厳しい。

『まあいつものことだし、しょうがないんじゃないの~?』

逆にツリ目の悪魔の方は、悪そうな見た目の割にけっこう大らかだ。


『とにかく、できもしないことを約束するのは無責任よ。
ここははっきり突き放すのが本人のためになると思うわ』

『いや~、それは可哀想でしょ。また泣かれたら面倒だしね~。
せっかくここまで心開いてくれたんだからさ、流れっての来ちゃってるって』

天使と悪魔の問答は続く。

『じゃあどうするの。じゃんけんで勝ったらいいよ、とか?』

『負けたらど~すんの。こういうときは調子いいこと言って合わせとけばいいんだよ。
どーせ明日にはバイバイするんだし、そしたらもう会うこともないんだしさ~』

『だめよそんなの。甘えを一刀両断することで、ちゃんと家族に甘えられるようになるわ』

『それより偶然の出会いを良い思い出にしてあげてさ~、
同年代に歩み寄る気を起こさせるのがいいって』

「――獅子原?」

反応のないことに不安になった様子のネリーから声を掛けられたところで、脳内会議は打ち切られた。
でも大分状況を整理できた。あとはどっちの言い分を採用するかだな。
その時々で天使にも悪魔にも同じぐらい世話になったもんだけど、今回は――こっちだ。

「いや、頼ってくれるのは嬉しいよ。でもそれは無理だよ」


見るからに気落ちするネリーにちょっと精神を削られるけど、ここで日和るわけにはいかない。

「私は明日か、遅くても明後日には北海道に戻るんだから。
おまえはちゃんと頼れる家族がいるんだから、遠慮しないで甘えろよ」

「……日本にはいないもん」

「だったら身近にそういう存在を見つけるんだな。クラスメートとか先輩とか先生とか。
今いる身近な人にもっと気を許すのもいいと思うよ」

「…………ケチ。ドケチ。獅子原のしみったれ」

うっお、あんまり聞き慣れない言葉知ってるな。
俗語なんかはわからない素振りを見せるのに、お金関係のことは詳しいのか。

「そう言うなよ。おまえが強がってないで素直に生きてりゃ神様の思し召しがあるはずだって」

「神様を持ち出すのはズルいよね?」

わかりやすく唇を尖らせるネリーに、なんだか安心する。


「おまえけっこう感情豊かだな。麻雀が絡むときは小憎らしいガキんちょだと思ったけど、
そうやってワガママ言って甘えたりいじけたり、カワイイとこあるじゃん」

「……ずっと抑えておくつもりだったのに、獅子原がしつこいから」

「いいだろ。子供は素直が一番だ」

「これで麻雀弱くなっちゃったら責任取ってよ」

「えぇ!? なんでそうなるんだよ」

「だって、心がもろくなったら麻雀に影響するかもしれないでしょ」

今回の場合は良い方に影響すると思うけど、プロのトップの世界だと
非情になる必要もあるのかもしれないし、ネリーの言うことも一理あるのかな。

「ネリーが麻雀で稼げなくなって売春するようになったら獅子原のせいだから」

「あー、それは困るな。……じゃあその時は2人でレストランでも開くか」

「えぇ!?」

今度は向こうが動揺する番だった。


「考えてみれば北海道は酪農が盛んだし羊食べる習慣もあるし、
ジャガイモに玉葱にトウモロコシと洋食向きの野菜は揃ってるし、
ワインも日本の中じゃ作られてる方だ。おまえの故郷って羊とかチーズとかよく食べる方?」

「うん。食べるよ」

「いいねいいね。北海道産の食材にこだわったグルジア&アイヌ料理店……これいけるんじゃねーの?」

「サカルトヴェロだよ。でもネリー料理あんまりできないよ?」

「アドバイザーとしていてくれればいいんだよ。看板娘が元世界ジュニア雀士ってのも話題性あるし。
なに、私の力を応用すればあっという間に評判になるはずだ。
貧血予防料理とか、冷え性を和らげる料理とか、滋養強壮料理とかな」

ネリーのぽかんと開いた口が感心からか呆れからかはわからないが、
走り出したら止まらない私の妄想話は続く。

「私の幼馴染がいろいろ器用だからな、とりあえず料理の道に進ませておいて、
ウェイトレスの衣装もデザインからやってもらおう。これで大分コスト削減だ」

「幼馴染なのにとんだブラック雇用だね」

「あとは後輩がアイドルになったら、帰省すると必ず立ち寄る店だって紹介してもらう。
おまえも辻垣内さんとか他の留学生とかに宣伝してもらうんだぞ。
北海道での試合の時は会場に出前に行ったりしてな」


「……そういうのも気楽でいいかもしれないね」

「だろ? だからまあ、麻雀だめになってもヤケを起こすなよ」

結局、悪魔の案も採用してしまった。だけどそこはお目こぼし願いたい。
いたいけな少女が異国の地で春を散らすのを見過ごすわけにはいかないからな。
気休めだけど、頼られたらほんとにその道を考えよう。それなら無責任じゃないだろ。
頭の中で天使が呆れたような、諦めたような表情を見せる。悪魔はニヤニヤと笑っている。

「うん、がんばってみる」

「よし。さしあたっては、明日の辻垣内さんの試合を全力で応援することだな。
優勝しちゃえば一安心なわけだし。あの力も使わないから。今なら信じられるか?」

「うん」

正確には“使えない”だけど、私の意思という意味では間違いじゃないだろう。
さんざん疑われたところをようやく信じてもらえて感無量だ。

「ま、力は使わなくても手加減はしないけどな。
真剣勝負の結果私が勝つこともあるかもしれないから、その時は覚悟しろよ」

「それは大丈夫。あれさえなければサトハが負けるはずないから」

「言ってくれるよ。私もそう思うけどさ。
にしても、最初っから信じてくれてればこんなゴタゴタしなくて済んだのに」

「それは獅子原が悪いよね? 牽制なんてするから」


「え、なにそれ。いつそんなことしたよ」

「とぼけてもムダだよ。全部聞いてたんだから」

身に覚えがないが、ネリーの表情は至って真剣だ。

「ごめん、マジでわかんない」

「トーナメント表見てたとき、あの力サトハに使ったよね?
ネリーにやったときよりずっと弱めだと思うけど」

「やってないって! なんでそう思ったのか不思議でたまらないんだけど」

「だって、ネリーが来たときもう2人で話してて、そのときサトハが胸が熱くなるって言ってたよ。
そしたら獅子原は明日もっと熱くするって言ってたよね?」

「……ふ、ふふ、ふひひひひ! わ、笑える――あっははは!」

「なにがおかしいの!?」

ネリーは本気で困惑していたが、私はしばらくまともに話ができなくなった。


「――あー笑った。あのな、そりゃ日本語の慣用句ってやつでな」

「カンヨウク?」

「えーっと、ことわざみたいなもん」

「……よくわかんない」

「そうだな……踏んだり蹴ったりって言葉わかる?」

「それなら知ってるよ。やなことが続くってことでしょ」

「そう。実際踏むとか蹴るとかするわけじゃない、別の意味がある。
それと同じで、胸が熱くなるってのは感動するって意味があんの」

ネリーは真顔で固まっている。

「だからあの時は、私が辻垣内さんの打ち方に憧れるって言ったから、
辻垣内さんが嬉しいよって返しただけだよ」

「……明日もっと熱くするって……」

「そりゃ良い試合にして白熱させるってことだよ。名勝負を熱い試合って言い方するだろ」

「……」

「だから言葉の意味そのまま、おっぱいが火照って熱くなるってことじゃないからな。
準決勝の後おまえが味わったようなさ」

唇を噛んで泣きそうな顔をしているネリーは、見る見るうちに顔が紅潮した。


「そんなのわからないよ! もっとわかるように言ってよ!」

「おまえが勉強不足なんだろ。日本で暮らすならこのくらいの表現は日常茶飯事だよ」

「年上なんだからネリーのために簡単な言い方にしろ! ばーかばーか!」

「無茶言うなよ。あの時おまえがいたなんて知らなかったし。
それに先に言ったのは辻垣内さんだからな」

「はぁ……バカみたい」

「ホントにな」

「獅子原には言われたくないよ!」

ネリーは私の両の頬をつまんでぐにぐにと引っ張ってくる。

「あはは! 痛い痛い!」

「ふふっ、変な顔」

それからは2人で笑い合って、ベッドの上を転がりながらじゃれ合った。
辻垣内さんから2度目の連絡が来るまで。


ホテルの外で待つ。
そう言った辻垣内さんの下へ向かい、私たちは部屋を出た。

「いきなり斬りかかってきたりしないだろうな。その前に先手必勝で説明しないと……」

「……やっぱり言わなきゃだめ?」

「思いっきり泣き声聞かれてるからなー。うやむやにはできないだろ」

「でも……やっぱりまだサトハには弱いところ知られたくない。
知られちゃったらサトハはきっといろいろしてくれるから、甘えが出ちゃいそうだし」

めんどくせーやつだな、甘えればいいじゃん。
そう言ってやろうかとも思ったが、ネリーの次の言葉が一瞬早かった。

「それに、サトハが優勝しないと、なんて言って変にプレッシャー掛けたくない」

一理あるのかもしれない。
まったく根拠のない話だとしても、後輩の留学生の進退が自分に懸かっていると聞けば、
少しは動揺するかもしれない。いくら辻垣内さんが極上のメンタルを持っているとしてもだ。
正直、明日対局する私としてはそっちの方がありがたい。
本来は敵校内部の動乱なんだから、それを回避する義務もないんだしな。


頭の中でごちゃごちゃ考えているうちにフロントを通過し、
扉を抜けて辻垣内さんと対面することとなった。

「何があった」

赤くなったネリーの目を一瞥すると、辻垣内さんは私に険しい表情を向けて開口一番にそう言った。
メガネがないため鋭い視線がダイレクトに突き刺さる。
そこにネリーがお茶濁しの疑問を投げ掛ける。

「監督は一緒じゃないの?」

「駐車場を探しているところだ。それで、何があった」

ネリーは気まずそうに後ろ手を組み、横目で辻垣内さんの動向をうかがっている。
意を決して話し始めようとしたその声に、私は頭ハネで声を被せる。

「それがさ、準決の牌譜のことで話があるってんで議論してたんだけどさ。
お互い熱くなってきちゃって。それでつい、試合後のことを厳しめに叱っちゃって」

「試合後……?」

辻垣内さんは片目を細め、品定めするように私を見ている。
私は真っ直ぐ目を見て、冷静に嘘を吐き出した。

「決着ついた後でネリーが私ら3人に煽るようなこと言ったんだよ。
だから、世界戦ではそれが普通なのかもしんねーけど、インハイはそーゆー場じゃねーんだよ。
って感じのことを、喧嘩腰に言っちゃってさ。いやほんとごめん」


「……そうなのか、ネリー」

ネリーは虚を突かれた様子で、口を開けてアホ面を晒していた。

「――え、あ、うん。そう、なんだよ……」

しどろもどろのネリーを見て、私が脅していると思われないかと少し心配になる。
辻垣内さんはひとつ息を吐いて目を伏せる。
再び顔を上げたとき、その表情はすっかり和らいでいた。

「そうか。いや、すまなかったな。早合点してしまったようだ。
それに本来私が担うべきところを肩代わりさせてしまったな、本当に申し訳ない」

私に頭を下げる辻垣内さんに対して尋常ではなく罪悪感が募る。

「ちょ、やめてよ。あの状況なら誰でも心配になるって。大人げなかった私も悪いんだしさ」

「だが、濡れ衣を着せてしまったことに変わりはない」

「いや、濡れ衣ってわけでも……」

頑なな態度に当惑する私とネリーにとって、臨海の監督さんの登場は渡りに船だった。
救いの神は初対面の私と軽く挨拶を交わした後、辻垣内さんから事情説明を受けている。
ようやく安堵を得られた私は、さりげなくネリーと目を合わせる。
そこには感謝だか疑問だかわからない、感情に満ちた青い瞳があった。
私は記者に囲まれたときのように、爽やかな笑顔でウィンクしてやった。


その後、監督さんと辻垣内さんに何度も礼を言われた。
ネリーも無理やり頭を下げさせられていた。
ようやく話がまとまり、別れの時がやって来た。
去り際に辻垣内さんがもう1度真剣な顔で声を掛けてくる。

「世話を掛けたな」

「いいって。それより明日は手加減無用でよろしく」

「……そうだな。感謝する。よし、行くぞネリー」

辻垣内さんと監督さんが歩き出し、ネリーも後ろをついて行く――
と思いきや、すぐに立ち止まって振り向いた。
そして切なげな顔で口を開いた。

「獅子原……また……」

「ん?」

「……ディディマドロバ!」


「え、ディ……なに? グルジア語? わかんねーって」

「また試合してもネリーが勝つって言ったんだよ! じゃあね!」

一転して笑顔を作るとネリーは駆け出した。
すぐに2人に合流し、角を曲がって私の視界から消える。

「……はぁ~あ、かわいくねーやつ。ま、笑顔が戻って何よりだ。
試合後も煽り笑いじゃなくてああいう満面の笑みすりゃいいのにな」

さてと、手加減無用って言っちゃったし、牌譜とにらめっこでもしようかな。
独りごちて、私はホテルの部屋に戻る。ふと下を向くと、ネクタイには涙の跡がうっすらと残っていた。

―――――――――
――――――
―――


後日。
我が有珠山高校麻雀部員総勢5名は部長桧森誓子の家に集まり、
インターハイ反省会という名の軽い打ち上げを行っていた。
テレビを見ながら菓子を食べ、たわいもない雑談に花を咲かせる。
ふとチカの机に目をやると、分厚い大学案内の本が鎮座していた。

「なんだこれ。こんなの持ってんだ」

「3年生になる前にお父さんが買ってくれたの。前に話したじゃない」

「そうだっけ……うげっ、わけわかんねー」

「爽もいいかげんちゃんと考えれば?」

そうは言っても拒絶反応が出てしまう。細かい文字の羅列に辟易していると、
北海道のページはもう終わり、青森に突入してしまった。
その後も特に目を引かれるものはなくパラパラとめくっていると、
テレビでやっている高校麻雀の特別番組に動きがあったようで、皆が反応した。

「あ、爽さん出ましたよ!」


「個人戦は辻垣内さん中心の作りね」

「初戦は危なげない勝ち上がり、だってさ。言われてんよ爽~?」

みんな楽しげに見てるけど、私はできれば出番をカットしてもらいたかったぐらいだ。
自分なりに全力を尽くしたけど、文字通りボコボコにされたんだから。

「……爽先輩は私たちのために団体戦に懸けてくれたんですから、
どんな結果でも私は誇りに思いますよ」

「ありがと。ユキは優しいな。同じ1年生でもどっかの生意気留学生とは大違いだ」

そうこう言っている間に決勝戦が終わり、
優勝者とそのチームメイトが喜びを分かち合っている様子が映し出された。

「辻垣内さん……素敵な笑顔です」

「成香はメタメタにやられたもんな~。
それにしても宮永も出てる中、去年のリベンジ果たすなんてちょーやっべ」

「でも直接対決したわけじゃないから色々言われてるみたいよ」


今年の優勝者は辻垣内智葉――私が敗れた相手だ。
ちょっと関わりもあったから素直に嬉しく思う。
ただチカが言ったように、逆ブロックの宮永姉妹の死闘が事実上の決勝とか、
棚ぼた優勝とか言う輩もいる。それは全力で否定しておきたい。

「そういう組み合わせの妙も含めてトーナメントなんだから、私からしたら文句なしの優勝だよ」

「そーだね。まー本人たちも満足してるみたいだし、いいんじゃないの~?」

テレビではインタビューも終盤に入り、臨海女子のレギュラー陣が集まっていた。

『じゃあいいな、打ち合わせどおりにな』

『わかってまスヨ』

中央に陣取る辻垣内さんが、周りに確認を取った後喋り始める。

『えー、団体戦・個人戦とここまで頑張れたのもひとえに応援いただいた皆様のおかげです。
本当にありがとうございました』

『サンキューソーマッチ!』

『ジュヴルメルシー』

『非常感謝』

『グマドロプ』


……なるほど。国際色豊かなのをこうして使ってきたか。

「かっこいい!」

「素敵です……」

「ぬかりないね~?」

「英語とメルシーだけ聞き取れたわ。あとは全然ね」

この後の監督インタビューでは『ダンケシェーン』かな?
そう考えていると、画面の中で選手たちが何やら揉め始めた。

『おいネリー、おまえのそれは一番軽いやつじゃなかったか?』

『そうでスヨ。もっと丁寧なのありましたヨネ?』

『べつにいいでしょ。みんなのメジャーな言葉とちがって、
わかる人なんてせいぜい2割なんだから』

『わかるわからないの問題じゃない』

『気持ちの問題デス。最大限の感謝を伝えましょウヨ』

『わかったよ……ディディマドロバ!』


優勝した辻垣内選手と臨海女子高校の皆さんでした――
その音声とともに彼女たちは画面から姿を消した。

「だめね、さっぱりわからないわ」

「響きがちょっと怖いです」

「そうですか? 東欧の感じもなかなかかっこいいと思いますけど」

「しっかしさ~、いくら基本の言葉だからって、
グルジア語聞いたことある人絶対2割もいないだろうよ~」

皆が初めて聞く言語の感想を述べる中、私は数日前のことを思い出していた。

「……いや、2割で合ってるよ」

ほんっと、かわいくねーやつ。
私の手の中の大学案内は、いつの間にか東京のページまで来ていた。


「……なあ、もし私が北海道を出たらどう思う?」

戯れに聞いてみた。深い考えがあったわけじゃなく、何気なく出た言葉だ。

「ええっ! 考えてもいませんでした。爽さんが遠くに行っちゃうのはなんだか心細いです」

「寂しくないと言ったら嘘になりますね。仕方ないことですけど」

「ありがと。できた後輩を持って幸せだ」

敬語の後輩2人は素直に嬉しいことを言ってくれる。
対照的に、幼馴染の2人は淡泊だ。

「好きにすればいいんじゃない? やっと爽の世話人の立場から解放されるわ」

「腐れ縁もここまでかな~? たまになら作ったお菓子送ってやってもいいよ。着払いで」

材料費も2割増しぐらいで取っちゃえば? それいいね~。
などと勝手なことを言って盛り上がる2人。
だけど、それは強がりなんだと私にはわかってしまった。


一瞬だけど、なんて寂しげな表情をするんだろう。
本当に、どこまでも私の自由意志を尊重してくれるものだ。
この精神安定剤がなかったら、私もあのやさぐれグルジアンのように、
強がって孤独感を押し殺して生きてきただろうか。そう思うと、自然と口が動いていた。

「……イヤイライケレ」

私も大概かわいくねーやつだ。人のことを言えないね。

「えっ……何、突然」

「何語だよ。わかんね~って」

「いや、タダで食わせろって言ったんだよ」

呆れる揺杏とチカ。2人をなだめる成香。
そんな中、ユキだけは慈愛に満ちた微笑みで私を見ていた。
まさかアイヌ語まで守備範囲なのかよ。おまえの中二魂には脱帽だよ。
私はテンパイ気配を隠すように、気恥ずかしさを必死に押し殺した。

―――――――――
――――――
―――

とりあえずここまで

爽とネリーの奇妙な友情話のつもり

つづく

コメントありがたいです
風呂イチャ布団イチャをチカセンが知ったらどうなるんだろう

ちょうどネリ誕なので投下
知らなくても問題ないけど明日発売の咲日和ネタも若干混じってます


枕持参でベッドに潜り込んできたネリーに、私はめくっていた布団を掛けてやった。
1人用にしては大きめのベッドに平均よりも大分小さめな女子高生2人なので、窮屈さは感じない。
向かい合わせで横になると、わずかなカーテンの隙間から差し込む月明かりと、
暗闇に慣れた目が切なげな表情を浮かび上がらせた。
ネリーが真っ直ぐ私の目を見ながら、心情を吐露し始めた。

「……さっき寝る前に話したでしょ? お風呂場でも。
それがすっごく楽しくて、もう終わりなんだって思ったら悲しくなってきて……」

「オーバーなやつだな」

「だって明日――じゃない、もう今日帰っちゃうんでしょ?」

「……まあそうだけど」

今回の旅行の日程は2泊3日――それは私を除いての話で、私の札幌滞在は2日目の朝までだ。
つまり夜が明けたら、私はガイドの任を解いて一足先に帰路につくことになっている。

「なんで? 最後までいればいいのに」

「初日に大まかなオリエンテーションするだけって、最初からそういう予定なんだよ。
苦楽を共にしたチームの旅行に部外者が丸々同行するわけにいかないからな。
解散記念って知ったから尚更ね」

「そんなの、みんな気にしないよ」

「みんなそう言ってくれるとは思うけどさ。
でも最後は5人だけで思い出作るのが正しい形な気がするんだよな」


もしかしたら自分に照らし合わせているのかもしれない。
私自身が気心の知れた5人だけの部に愛着を持っているから、そう感じるのかもしれない。
ネリーや辻垣内さんのことは気に入っているけれど、例えばうちの麻雀部の引退パーティーに
ゲストとして最初から最後までいられたら、それは何か違う気がする。

「……もっともっと話したいこといっぱいあるのに」

「最初っから素直にそうすればもっと話せたのにな」

「しょうがないでしょ、みんなの前だし……それに後がつらくなるから抑えてたのに、
やっぱり楽しくなっちゃって次から次に話したいこと出てくるし。
サトハとハオが余計なことするから……」

「話せないままバイバイしたら後に引きずると思って、見かねて部屋代わってくれたんだろ。
愛されてるね~。私はわかんなかったけど、無理してる感が出てたんじゃないの?」

「うぅ……」

おそらく辻垣内さんやハオからは“あーあー、無理しちゃって”と微笑ましく見られていたのだろう。
そういえば旅行前は浮かれていたって辻垣内さんも言ってたな。
聞いたときは眉唾だったけど、こうなると自惚れてしまってもいいのかもしれない。

「そういえば札幌か博多か決めるとき、おまえ札幌派だったんだよな。
もしかして私に会えるかも、とか期待しちゃってた?」

白い目で見られるかとも思ったけれど、ネリーは枕に顔をうずめて恥ずかしそうに体を揺すっている。
意地悪な聞き方をしてしまったかなと思っていると動きは止まり、横目がこちらを窺ってきた。

「……ちょっとだけ期待してた。どうせダメだろうって思ってたけど。
だからOKもらったって聞いてからはウキウキして眠れなかったり……」


「遠足前の小学生みたいだな。え、もしかして前日も……?」

「……うん」

「それでホテル着いてすぐ寝ちゃったのか」

「だいたい、獅子原が悪いんだよ」

「悪いってなにが」

「夏のときはもう会えないようなこと言ってたから覚悟してたのに、
ガイドOKするからこんなに早く会うことになったんだよ。
せっかく気を強く持とうとしてたのに、また弱くなっちゃった。責任取ってよ」

話しているうちに退行が始まったのか、グルジア姫が徐々に甘えモードに移行してきた。

「会える機会が増えたんだから、悪いことじゃないだろ」

「でも1日だけなんて生殺しだよ」

「うーん、私は嬉しいけどな。1日だろうと会えて」

「……ズルい。そんなはっきりと。恥ずかしがってるこっちがバカみたい」

「はは、感情のままに、欲望に忠実がモットーなんだよ。
支えにはなってやれないかもしれないけど、様子を見に来るぐらいはいいだろ」

ネリーは再び私の方に向き直ると、口を尖らす。

「これが最後?」


「どうだろうな」

「東京に来る予定はないんでしょ?」

「まあ今のところないけど……また旅行に来ればいいじゃん。
そのうちトッププロになれば旅費ぐらい余裕だろ」

あまり現実的でないことはわかっているけれど、気休めが口をついて出てしまう。
ポジティブシンキングは生まれ持った私の性分なんだろう。

「……旅行はもうしないと思う」

視線を落としたネリーの顔には“本意ではないけれど”と書いてあるようだ。

「なんで? 楽しんでたじゃん」

「今回のは特別だから。みんなにしつこく誘われたし、タダだったし……獅子原に会いたかったし。
でももうダメだよ、みんな大変なのにネリーだけ贅沢するわけにはいかないから」

家族に遠慮という私の予想は的中してしまったようで、なんだか侘しい思いがした。

「そういうの考えなくていいんじゃねーの?
むしろ思う存分遊ぶ方が、回り回って家族のためになるって」

「そんなわけないでしょ」

「ところがそうなんだなー。おまえが麻雀で勝てば勝つほど家族の助けになるんだよな?」

瞳に疑問符を映したまま、ネリーはゆっくりと頷く。


「いろいろ我慢して切羽詰まって打つより、遊び回って気持ちリフレッシュして、
伸び伸び打った方が手も伸びるってもんだよ。だから旅行でも食べ歩きでもホストクラブでも、
好きなように楽しめよ。案外家族もそっちの方が安心するかもよ」

狐につまされたようなアホ面に向かって、私は更にたたみかける。

「オフを充実させることもプロのテクニックのひとつだって誰かが言ってたよ。
飲みに行ったり実家でゴロゴロしてたり、過ごし方は人それぞれだろうけど」

「プロも……そっか」

「それに、今回の旅行なんかネリーが一緒でチームのみんなも嬉しいだろ。
もちろん私も会えて嬉しいし。自分が楽しむことで人のためにもなっちゃうんだなー」

「……いいのかな」

「あんま罪悪感に駆られるようなら控え目にした方がいいかもしんないけどさ。
それにホスト遊びにハマッて破産するなよ。ストイックなやつほどドハマりしちゃうらしいぞ」

「そんなのしないけど……うん、いつかまた来たいな」

ホストネタにムキになって反論してくるのをからかう目論見は外れたけれど、
鬱屈した心情がいくらか晴れた様子で胸を撫で下ろす。

「あ、でも私が北海道にいるとも限らないけどな」

「は?」

私の視線の先にある目玉の表面積が3割増しになった気がした。


「いや、大学行くとなったら北海道出ようと思って」

「なんで? てっきりずっと北海道にいると思ってたよ」

「んー、いろいろ理由はあるんだけど……あのさ、私の変な力あるじゃん」

人に言えない事情が絡んでいるため周囲には濁しているが、
こいつには今更隠すことでもないので正直なところを話すことにした。

「うん。使えるの麻雀だけじゃないんでしょ?」

「そう。あれって巫女――シャーマンって言った方がわかるかな」

「わかるよ。神様とか精霊とかの力を借りるんでしょ」

「そうそう。そういう感じの力だからさ、そのうち使えなくなるんじゃないかって。
ああいうのって未婚の若い女ってのがだいたいのセオリーだから」

「ああ、あるよね」

「成人したらとか、清い体じゃなくなったらとか」

歳はともかく、自分が男と体を重ねる機会なんて想像もつかないけれど、今のところ。

「考えてみたら小さい頃から助けてもらってるから、危機感みたいなの薄れてるかもしれなくて。
だから1回離れて自分独りの力で生きてみようかと思ってさ」


「そうなんだ……どこ行くの?」

「それは考え中。一応すぐ地元に戻れるように東北ぐらいかな。いっそ真逆で沖縄ってのもいいかも。
どうせなら都会暮らししてみるかな。とかいろいろね」

「東京!」

身を乗り出したネリーの急接近した唇は、早押し問題の回答者のように単語を発した。

「しっ、声抑えろって。隣はもう寝てるだろ」

「東京に来れば? 格安飛行機なら北海道まで1万円もかからないよ?」

「んー、まあ候補のひとつではあるんだけど……」

「東京なら大学山ほどあるんでしょ? どこかには合うところあるんじゃない?」

「山ほどっていっても私が選べるのは限られてるんだよ。金ないから国公立じゃないとね」

「そっか……たしか国立とかだと頭良いところばっかりなんだよね」

「いや、学力的には問題ないんだけど」

目の前の眉間にシワが寄った。

「獅子原……現実を見なきゃ」

「失礼な! そりゃ最高学府とか医学部とかは無理だけど、だいたいのとこは大丈夫だよ。
学校で模擬試験とかやらされてるから、ただの願望じゃないぞ」

見るからに動揺しているネリー。
安手に振り込んで親を流したと思ったら清老頭だったぐらい考慮していなかったようだ。


「あの力ってカンニングにも使えるの?」

「……私がそれをやっちゃう人間だったとしたら、
おまえ2回戦でトンでたからな。点数じゃなくて意識の方が」

布団の中で膝が飛んできた。
カンニングねえ。そんなズルをしたことはないけれど、やりようによってはいけるだろうか。
アッコロなんかじゃ逆にクラス全員を赤点に染めそうで恐ろしいね。

「いや、こんな境遇だからさ、行く行くは進学とか就職とか有利になるようにちゃんと勉強してたんだよ。
推薦とか奨学金なんかもある程度の成績がないとダメだしね」

「素行不良で引かれたりしないの?」

「高校ともなるとほぼテストの点そのままだからな。そもそもそんな素行悪くないよ」

私の間の抜けた顔が悪いのか、ちょっとガサツな喋り方が悪いのか、そういう印象を抱かれることは多い。
そのためこの“バカなんでしょ?”“不真面目なんでしょ?”攻撃にも慣れたものだ。
高1の頃はテストの度にチカから悔しがられたものだった。

「でもサトハから聞いたよ、東京の代表的な大学はレベル高いって」

「あれ、辻垣内さんはプロ行きだろ?」

「一応調べたんだって」

さすがは名士の跡取り娘、進路設計に抜かりがない。


「なるほどね。でもまあ……んっと、はやりんっているだろ?」

「え、あのお金かかってそうなアイドル雀士のこと?」

「そうそう。あの人ね、めちゃくちゃ頭良いらしい。研究者になれるぐらい」

「……初耳。ほんとに?」

「うん。うちの部のアイドルが後釜狙ってるからな、いろいろ調べた。マジな話だよ」

“後釜”という言葉はちょっと難しかったかとも思ったが、特に支障はなかったようだ。
日本語の勉強に力を入れているのは本当らしい。

「そうなんだ。でもそれがどうしたの?」

「だからさ、能ある鷹は爪を隠すってやつだよ」

「農アルパカ?」

ことわざはまだカバーしていなかったらしい。

「いやほら、ほんとにデキる人はわざわざそれをアピールしないものだってこと。
人は見かけによらないっていうか」

「ああ、そういうことね。知ってたよ。獅子原の滑舌が悪いんだよ。昼行灯のことでしょ?」

そっちの方が日常で遭遇する率は低い言葉だと思うけど、
おおかたメガンが時代劇なんかで覚えて伝授したのだろう。


「それでもいいや。とにかくお前の想像した赤点と留年に怯える獅子原爽はどこにもいないってことだ。
また麻雀やるようになってから一層成績もアップしたしな」

「なんで? 関係あるの?」

「いやー、はやりんに対抗するためにいろいろ真似たんだけど、頭脳だけは無理があってさ。
ユキ――うちのアイドルは頭固いところあって成績はそこそこだからな。
特定の分野には真価を発揮するんだけどなー、世界史とか科学とか」

「それで獅子原が代わりに勉強がんばったの? あんまり意味ないと思うけど」

「あいつにばっかり頑張らせるわけにもいかないからな。
それにクイズ番組で対決するようなことがあったら、私がインカムで援護できるだろ」

「それこそカンニングでしょ……じゃあほんとに頭良いんだ」

「まあね。私の雀士ペンタグラフを更新しておきたまえ」

適当に口に出した言葉に、後からイメージを映し出す。
私の頭の中では、五角形の能力グラフのうち『知力』の目盛りが大幅にアップする様が描かれた。

「うん。あ、大学受験って面接とかあるんだっけ?」

「あるところもあるだろうね。でもまあそっちも心配ないかな。
『知力』の他にも『体力』『対人能力』『雀力』と兼ね備えちゃってるからなー。
インハイベスト8ってのもちょっとはプラスになるんじゃねーの、たぶん」

「そっか……やった……やったぁ……! ねえ、どこにする?
臨海からけっこう近いところにも国立大学があるってサトハが言ってたよ」

赤門がそびえ立つところじゃないだろうな。


ネリーはもうすっかり私が東京の大学に行くことで話を進めている。
失敗したな、バカじゃないよアピールをしすぎた。ぬか喜びをさせてしまったと怒られそうだ。

「あー、まだ東京で受けるって決めたわけじゃないからね?
それにまだ大学行くかもわからないし」

「え……なにそれ、行けるんでしょ? なんで行かないの?」

「ペンタグラフのうちひとつだけ、『経済力』が致命的に足りないんだよ」

国立なら安いといっても年間何十万円だ。奨学金が出るといっても全額チャラになるわけでもない。
生活費も稼がなくてはならないとなると、施設出身の退学率が高くなるのもわかるというものだ。

「お金……困ってるようには見えないけど」

「そりゃ最低限は賄ってくれるからね。ちゃんと小遣いも出るし。
でもオシャレしたかったりケータイ持ちたかったりしたら自力で稼がなきゃ。
まあ方針によってはそこらへんの家庭と変わらないかもしれないけど」

「バイトしてたの?」

「最近受験を理由にやめたけどね。夏休みなんかに一気に稼いだり。
本来それで卒業後の資金を蓄えるのがセオリーなんだけど、
それで高校生活我慢我慢じゃなんかもったいないからさ、好き勝手やってたってわけ」

幸い服についてはさほど興味がない上に、身近にいるオシャレ番長からお下がりをもらえるので、
充実しながらも資金節約できた。いまいち私には似合わないものがあることと、
年下――しかもその中学時代のものがフィットしてしまうという不思議に目をつぶりさえすれば。


「でもまあ、そのツケがいよいよ回ってきたんだよな。
卒業後は完全に独り立ちになるわけだから。おまえもそうじゃないの?」

「うん、高校卒業したら。でも家族はいるし……」

どっちが楽かなんて量れるものではないけれど、それでもまったく悲観していないという面では
高校の同級生たちよりも自分の方が幸せじゃないか、なんて思ったこともある。

「施設の人も高校の先生も、この成績なら行く気があるなら行った方がいいって。
奨学金も受けられるだろうって言うから、とりあえず進学のつもりで動いてるけど、
正直そこまで勉強したいことあるわけでもないし」

「……」

「無理して金かけるより、気ままなフリーターでもいいかなって。
もっとマジで大学行きたい人に奨学金出た方がいいと思うし」

「……働くとしたら、東京じゃだめなの?」

さっきまでの踊り出しそうな振る舞いは鳴りをひそめ、
はっきりとは見えないがその目は潤んでいるような感じがする。


「その場合は地元かな。今までは退学にならないようにあんまり危ないことはしなかったけど、
フリーの身になったら使える限り力を駆使していろいろやってみようかって」

「離れなくていいの? 頼ってばっかりでよくないんでしょ?」

「そうだけど、思う存分使って、ついでに金貯めてからでもいいかなって」

「……勉強したいこと、ほんとにないの? ちゃんと調べた?」

いつの間にか進路指導みたいになっている。2つも下の異国の少女と。一緒の布団に入りながら。
その状況を思うと笑いがこみ上げてくるが、ネリーが至って真剣な様子だったのでなんとか押し殺した。

「大学の本には目を通したよ。もちろん東京のところもね。でもどれもずっぽし来ないっていうか。
あえて言えば民俗学とかになんのかな。でも金にならないだろうしなー」

「大学のことはあんまり知らないけど、経営とかは? それか食文化とか栄養士とかそういう……」

「ああ、そういう系統だと施設で働く側に回れるか。でも大変なところも知っちゃってるからなー」

「そうじゃなくてっ……!」

ネリーはついに泣き出してしまった。
堰を切ったように涙が溢れているが、夏のときとは違い声は飲み込んでいる。
手で乱暴に目元を拭いながら、ネリーが言う。

「一緒にお店やるって言った……!」


雷に打たれたような思いがした。カンナカムイの一撃よりも重かったかもしれない。
あんな思いつきの空想話を、まさか本当に大事に抱えていたとは。
私はすぐさまネリーを抱き留め、涙で頬に貼りついた前髪を右手で梳ってやった。

「ごめんな。おまえが覚えてるとは思わなくて」

「もういいよ……」

「ごめん」

「……いいよ、ほんとは気休めだってわかってるから」

ネリーが両腕を私の腰に回す。これまでで最大の密着度だ。心地好い体温を感じる。
以前と同じように頭を撫でてやると、ネリーは吐息を漏らして目をつぶった。

「……雀卓、置くか」

私がそう言うと、目の前ではまぶたが再び開かれた。

「いや、店にさ。私らの顔馴染みが常連客になるなら、あった方がいいかなって」

鼻をすすりながら強めにまばたきする様は、どうやら先を促しているようだ。

「プロと遊びで打てる店ってのを売りにするかな。
あ、客が少ないときは店員も入って、勝てたらタダとか。
おまえと私ならそうそう負けないだろ。その場合さすがにプロはお断りだな」


「……その代わり勝てなかったら強制的にもう1杯注文とか」

「お、いいねいいね。たまーにあえてトップ取らないで、
勝てるんだって思わせとけば挑戦者が絶えないだろうな。
今のうちに部のやつらとも仲良くしとけ、将来の金ヅルだぞ」

今泣いたネリーがもう笑った。

「新千歳空港近くって手もあるけど、やっぱり札幌かな。
大きな大会は札幌が多いから、雀士をターゲットにするならここだよな。
国際大会があれば同窓会できるんじゃねーの? それまで前線で活躍してるかが問題だな」

「……ほんと、獅子原はズルいよね。それされたら悲しい気持ちとかぜんぶ吹っ飛んじゃうよ」

「それって……ああ、これか」

私はネリーの頭を胸元に掻き抱き、わしゃわしゃと強めに撫で回してやった。

「ふわっ……! もう、今度から会う度にひと撫で、ノルマだから」

「いいよ。こんなんでよければ。その代わりあれ作ってもらうからな、ハチャプリ」

「うん、いいよ……ほんとにそんなときが来るといいな。気楽にお店やって、ハチャプリ焼いて。
ネリーの家族は安心して暮らせるようになって……」

「なるだろ。でもまあ、おまえが麻雀で活躍して家族支えるって可能性の方がずっと高いと思うけど。
そうなればべつに店出す必要もなくなるな。世界のトッププロなら相当稼いでるだろうからな。
札束風呂とかできちゃうかもよ~? いや、札束プールのレベルかもな」


「……そっか、そうだね。そうすればいいんだ」

札束に溺れる妄想でもしているのか、ネリーはもうすっかりご機嫌な顔を見せている。
じっと私の目を見て、鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
さすがにもう感情の急降下はないだろうと思い、私はネリーの体に回していた腕を解いた。
すると、私の腰に回されている腕に力がこもった。

「まだ」

小さい子を叱りつけるような口調でそう言われては、素直に従うしかない。
実際は小さい子がお姉さんぶった感じなんだけど。

「わかったよ」

私はやや乱れた布団を2人の肩が覆われるまで引き上げると、再び華奢な体を抱擁した。
ネリーはそれにご満悦の様子で、話を振ってくる様子はない。
なのでなんとなく、気になっていたことを本人に直接聞いてみることにした。

「……あのさ、変なこと聞くけど、なんでそんなに慕ってくれんの?」

「なんでって……」

「あ、嫌とか言ってるんじゃないよ。そりゃまあいろいろあったし、ありがたいんだけど……
ほんと大したことしてないのに見合ってないっていうか、身に余るっていうか」

ツンツンモードだったときはちょっと寂しがっていたくせに、
いざ親愛を前面に出されると後ずさってしまう。
我ながら勝手なもんだと思った。

「……獅子原は特別だから。ネリーにとって恩人だから」


私が妹という表現に留めた微妙な関係を、向こうは『恩人』と捉えていたことが判明した。

「インターハイで負けたとき、ほんとにどうしていいかわからなくなって……
あそこで獅子原が受け止めてくれて、道を示してくれたから」

いつものように希望的観測に基づいたポジティブワードを連発した記憶はある。
逆に辛辣な言葉を投げかけて刺激した記憶もある。
それにしても、やたらと神格化されている気はする。

「それで、そのとき言われたことを支えにしてた。
そしたら、サトハは優勝できてネリーもスポンサーに切られなくて済んだし、
手紙も前より楽しく書けるようになったし、ちょっとずつ友達できるし……」

「タイミングだな。元々そういう流れだったところに、たまたま私が関わったんだろうね」

「たまたまでもなんでも、獅子原のおかげってことに変わりはないから。
少なくともこの撫で撫でスキルは獅子原にしか出せないよ」

「依存症に気をつけろよ」

「もう手遅れだよ」

ニュアンスによっては非常に重い一言だったが、表情を見ると軽口だったようで安心した。

「それじゃ大変だな。次はいつ摂取できるかわからないもんな。
ま、またいつか今回みたいに降って湧いた話が出てくるだろ」

「うん、大丈夫。そのうち摂り放題になるから」


「ん? どゆこと?」

「決めたんだ。ネリーは麻雀で世界トップレベルになって、お金稼ぎまくるよ」

現時点では小鍛治プロを倒すビジョンもまったく浮かばないけれど、
こいつならそのうちトップ10ぐらいには食い込むかもしれないと思った。

「それで家族のみんなが一生食べていけるぐらい稼いだら引退する」

「え、もったいない」

「それで残りのお金を開店資金に回すんだ。そのときになったら獅子原を引き抜きに行くよ。
そのときOLでもフリーターでもニートでも、強制連行するから」

「マジかよ」

「マジだよ」

完全に躁状態のネリーは、心底楽しそうだ。
危険な香りもしたけれど、世界ジュニアの肩書きからすれば
実現するだけのポテンシャルはあってもおかしくない。
水をさすようなことは言わないで、将来のパトロンができたと受け止めておこう。

「うん、まあ期待してるよ」

「あ、信じてないでしょ」

「いやいや、気長に待ってるよ。でもこういうのって男ができたら
すっかり忘れちゃったりするもんだからなー。それはそれでいいことかもしんないけど」

「そんなのできないって」


「あ、もしかして向こうじゃお姉さんタイプが人気だからモテないのか?
日本はロリコンが多いから需要多いと思うよ」

私も体型からすればそっちに属するのかもしれないけれど、
風の噂ではロリ系というより少年系に分類されているらしい。

「そんなのどうでもいい。彼氏なんてつくらないよ。妊娠したら一巻の終わりだからね」

「おまえ……可愛い顔して生々しいこと言うよな」

境遇を考えれば無理もないことかもしれないけれど。

「そういうことしなきゃいいじゃん。クリスチャンだから……とか言って」

「ヤリたい盛りの男が我慢できるはずないって言ってたよ」

「そうかもしれないけど。今度は誰情報だよ。メガンか……いや、ミョンファあたりか?」

「ハオ」

なるほど。
高1であのナイスバディじゃ、日頃からそういう目で見られて嫌悪感を抱いていてもおかしくはないな。
いや、それよりネリーに対する過保護の発動かもしれない。

「まあ、身持ちが堅いのは悪いことじゃないしな。
大企業の御曹司をつかまえるまでは貞操を守っとけばいいね」

「玉の輿よりも、気楽にお店やる方がいい」


「うん、どっちかって言ったら私もそっちだな」

私がそう言うと、ネリーは再び笑顔を作り、その腕には力がこもった。

「……なんかこうしてるとあれ思い出したな。『魔王』だっけ」

「なんの話?」

「昔音楽の授業で聴いたんだよな、クラシックのやつ。シューベルトだったか。
ほらあれだよ、“父さん、魔王が僕を襲うよ”みたいなやつ」

「ああ、聴いたことあるかも。でも獅子原がクラシックって……」

「似合わないって? こう見えても学校柄、そこらへんの高校生より西洋音楽には詳しいぞ。
聖歌歌ったりしてるからな。後輩の影響でドイツ語でも歌える曲があるし」

まあ、多国籍チームに属している東欧人からしたらなんの自慢にもならないだろうけど。
もしかしたら母国語と日本語に加えて英語、フランス語、中国語もマスターしているかもしれない。

「ふーん。それで、なんでそれ思い出したの?」

「ああ、その曲が確か、お父さんが魔王に怯える息子を抱きかかえながらなだめる、
みたいな内容なんだよ。それが今の状況を彷彿させるというか」

「なにそれ。獅子原がお父さん?」

「いや、そういうわけじゃなくて」

「女だからお母さんか。ネリーが娘で……」


マジに取られても困ると思ったけれど、ネリーは何やら考え込んでいる。
そして思考世界から戻ると、1人で納得したように頷き始めた。

「……どした、世界の真理に気づいちゃった?」

「わけわかんない。いいや、もう寝よっか。いっぱい話せたし、獅子原も疲れてるよね」

「うん、まあ。いいの?」

「いいの。また会えるんだし」

よくもまあさっきまで癇癪を起こしていたところから前向きにシフトしたものだと感心する。
それと同時に、言い逃れできないほどにネリーに与える私の影響が大きくなっていると実感した。
こうなるとやっぱり、最初の時点で首を突っ込んだ責任を感じてしまう。
本気で進路を考えなくちゃな。そう思った矢先に、ネリーのおねだりが飛んできた。

「だから、最後にキスしてほしいな」

こいつのドッキリ発言にはもう慣れたもので、私は冷静に話の流れを辿る。

「……お母さんにしてもらってたの?」

「うん。昔ね」

「どこに?」

「ほっぺかおでこ。おでこがいいな」


おやすみのキスねえ、退行してるなぁ。
文化的に握手程度の感覚なのかもしれないけれど。
することに抵抗はないけれど、泥沼にはまってしまわないだろうか。依存的に。
そう考えていると、ネリーは拒絶と捉えたらしく諦めを口にした。

「じゃあいいや。ネリーがするから」

考えるのが面倒になり、されるがままにしていると、
ネリーは私の手を取り、その甲に口づけた。

「……手なんだ」

「うん。おやすみ」

そうして頭まで布団をかぶったネリーを見て、今更かな、と今度は私の方が諦めを呟いた。

「頭出して。お返し」

精神的幼子がもぞもぞと顔半分を露出させる。

「……いいの?」

「私は太っ腹だからな」

「獅子原、痩せてるよ?」

ネリーは私の腹を撫でさすってくる。

「お腹どころか、おっぱいにもお尻にも脂肪いってないよ?」


「……ちげーよ。太っ腹ってのは――」

私が脱力して臨時日本語講座を開こうとしたところ、ネリーは悪戯な笑みを見せていた。

「知ってるよ、ちゃんと勉強してるから。気前がいいってことでしょ?」

「あ、くっそー、からかったな。でもまだまだ危なっかしいからな」

「なんで? なんか変だった?」

私は風呂場での一幕を思い起こす。

「風呂でマッサージするとき、体で返したら許すって言ったよね」

「うん。体で返すっていうのは、お金の代わりに働くってことでしょ?」

「一応そういう使い方もできるけど、あんまり一般的な意味じゃないんだ」

ネリーの顔に緊張が走った。

「ひとつには、その筋の人が指を切るとかボコボコにするとか、そういう意味もある。
でも一番メジャーなのは――特に女が言う場合、エロいことさせるって意味になる」


「……うそぉ」

「ほんと。だからあのときのやり取りだと、おまえが私に
“ヤラせてくれたら許す”って言ったことになるな」

「――っ!」

照れ隠しに顔を私の胸元にうずめ、腰に回した腕をぎゅうぎゅう締めつけてくるネリー。

「もおおおぉ! なんなの日本語って! ややこしいよ!」

「いいじゃん。これで二度と使いどころ間違えないだろ。
むしろ幼女趣味の変態に間違って使うことにならなくてよかったと思おう」

「……獅子原がサカルトヴェロに来たら日本語使わせないから。間違ったら大笑いしてやる」

「そりゃ怖い。ディディマドロバ」

とりあえず唯一知っている単語を脈絡なく発しながら、私はネリーの額に唇を落とした。

―――――――――
――――――
―――


イベント目白押しの札幌旅行の幕は下りた。
地元に帰ってからの私は、真っ先にチカの家に向かい大学案内本を借りた。
家に帰ると疲労と睡眠不足でダウンしてしまったが、
翌日のハッピーマンデーをフルに使ってピンポイントで大学情報を仕入れた。
結果、誰に相談するでもなく、私は卒業後の進路を決めた。

その翌日。
いつものように部室に顔を出し、

「これからは受験に専念する。部活に参加するのは今日が最後になる」

ことを伝えた。

「やっとその気になりましたか」

「爽さんが本気になったら絶対合格です!」

「思ったより早かったね~。今年一杯は4人打ちできると思ってたけど」

3人の激励だか皮肉だかを受け止め、最後に数局を打った。
カムイの力は借りず、全力で臨んだ。

「……最後まで勝ち越せませんでしたね」

「やっぱり爽さんは強いです。素敵です……」

「なんだかんだ引いてくるもんな~、持ってんね~。お疲れさん」


対局後、私は極力おどけないように努め、皆にひとつ詫びた。
特にユキに、引き入れてアイドルキャラに仕立て上げておいて、志半ばで離脱することを。
だけど、その言葉は言い終える前に、

「そこまで!」

と遮られた。

「自惚れないでください。私はべつに爽先輩がいなくてもやっていけます。
成香先輩と揺杏先輩がいますから。だからどうぞお好きな道を進んでください」

クールに言い放った後、ユキはこう続けた。

「……先輩に謝ってもらうことは何ひとつありません。
初めから今まで、爽先輩には感謝しかありませんよ……ありがとうございました」

そして目尻に涙を溜めて満面の笑みを見せた。
成香は号泣していた。
こうして私の麻雀部時代は終わりを告げた。


部室を後にした私は、家に帰る前にもうひとつの目的を済ませるため、揺杏と共にチカの家に向かった。
私たちを出迎えたチカは制服姿で、学校に残って勉強していたためさっき帰ったばかりだという。
さすがは私よりもひと足、ふた足先に名実共に受験生になった努力家だ。

「それで、話って?」

チカと揺杏が正面から私に視線を集中させる。
ここに集まったのは私が“話がある”と呼んだからに他ならないけれど、
いざとなると切り出しづらい。2対1のこの位置関係が原因ではないだろうか。
そう思った私は自分の土俵に引きずり込むために、チカのベッドにダイブした。

「あっ! また勝手に!」

「いやーやっぱチカん家のベッドは広くてふかふかで最高だね」

「あ、ずっりー」

私の意図を察してか、揺杏も便乗して左隣に寝転がる。
呆れた表情を見せたチカも観念したように、空けておいた右隣のスペースに体を横たえた。

「……昔はよくこうやって川の字で寝たっけな」

そう前口上を述べてからは、我ながら“立て板に水”の具体例にふさわしいくらいの話しぶりだった。
小さい頃のカムイとの出会い。これまで関わってきた事件。使えるカムイの力。等々――
すでに伝えていたこともあるけれど、大部分はぼかしていたことだ。
長年抱えてきた秘中の秘を、ついに今日解禁したのだ。


「――で、今に至る。おしまい」

話を終え大きく息を吐く。
胸の上で組んだ手の平には、平常時よりもピッチの上がった鼓動を感じた。
2人の反応を待ち構えていると、ようやく声が上がった。

「わわっ」

「やっべー」

想像を絶するリアクションの薄さに拍子抜けした。
驚いてはいるようだけど、せいぜい対子に裏ドラ乗ってた程度のものだ。
しかも相手の和了りじゃなくて、自分の和了りで。
もっとこう、“なんで今まで言ってくれなかったの”とか、“ちょっと気持ち悪すぎるわ”とか、
場合によっては“それで今まで好き勝手やってたのかよ”とか。
ネガティブな反応もあるかと思っていた。そう伝えると、私の頭上で2人は顔を見合わせる。

「だって、ねえ」

「うん、べつに今更っつーか」

その表情は揺杏も、演技の下手なチカさえも、本当に特段気に留めることでもないと物語っていた。
普段の雑談をするときと何も変わらず、

「裁縫のカムイとかいねーの?」

とか、

「教会には入って来れるのかな?」

なんて聞いてくる。
だから私も天気の話をするように、ただ知っていることを返した。カムイに敬意は払いながら。
こうして自分の中でひと区切りつけた私は、流れで前日に決めた進路設計も包み隠さず発表した。
反応はやっぱり、以前何気なく聞いたときと同じものだった。


これで心残りは拭い去った。
風呂場でネリーに言われた、

「信用してないの?」

という言葉が、そんなわけないと自信を持ちながらも少し引っかかっていたのは事実だ。
あいつが一歩踏み出したなら、私も負けるわけにはいかない。
そう思って気の置けない友人たちにすべてを解放したことで、
私はこの上なく晴れ晴れとした気持ちになった。

上機嫌で、けれど決して悟られないように揺杏と駄弁りながらの帰り道。
明日からはもう部室で顔を合わせることはない。
学年が違うので1度も会わない日の方が多いかもしれない。
それでもいつもと変わらず、

「じゃーな」

で別れる揺杏に、なんだか安心した。ところが――

「爽」

呼び止められる。いつもと同じ調子で。

「がんばれよ」

不意打ちで優しく投げかけられた飾り気のない言葉に、
部室でもチカの家でも堪えきった私の強固な涙腺が、ついに崩壊してしまった。


それからは自分でも驚くくらいに受験勉強に本腰を入れることができ、
チカにはしみじみと、

「最初からそうしてればねえ……」

なんて言われたものだった。
そうして数日が経過したある日、揺杏から連絡が入った。
返信を求める類のものではなくただのニュースだったが、
私にとっては重要なものだったのでちゃんと礼を返した。
そこには、私の世代の主要雀士の進路が書かれていた。
私はそれで、予想どおり辻垣内さんが東京を出ることになったと知った。

「やっぱだめだったか……」

呟きながら電話帳を開く。
数コールの後に電話口に出た相手に、私は開口一番に告げた。

「プロ入りおめでとう」

『――御陰様で』

やはり渋い対応をしてくる辻垣内さんだった。


ひとしきり辻垣内さんのプロ入りや所属予定チームについての話を済ませると、
今度は向こうが聞き手に回る。

『お前の方はどうだ、受験先は決まったか?』

祝言とは別にもうひとつ伝えたいことがあって電話したのだけれど、
ありがたいパスを受けて自然とその話に移れた。

「うん、決めた。東京の大学受けることにしたよ」

『……いいのか?』

「いいもなにも、ちょうどやりたいこともレベルもぴったりなところが見つかったからさ。
インハイで来たときから密かに上京してみたいって思ってたし……ついでに東京の知り合いに
会えるかもしれないしね。辻垣内さんとすれ違いになっちゃうのは残念だけど」

『そうだな、私としても残念だ。だがまあ、喜ぶやつもいることだろう』

「見かけたら伝えといてよ。あえて言う必要はないけど」

『ああ、わざわざ言いに行くつもりはない。明日は部に顔を出す日だがな』

また主語のない会話を繰り広げる2人だった。
どうもこの人と話しているとつられて芝居がかった言い方をしてしまう。
あれは旅の魔力ではなく、辻垣内さんの魔力だったのだと今更ながら気づいた。


「推薦で行ければ楽だったんだけど、志望学科じゃ募集してなくてね」

『そうか、それは残念だな。お前なら正面突破でモノにする気はするがな』

辻垣内さんはやっぱり過剰評価してくれるらしく、私の学力に疑問を抱くことはなかった。

『――そこだと学生寮があったはずだな。寮に住むのか?』

「いやあ、今までずっと寮的なところだったから、今度はもうちょっと自由なところにしようかと。
ボロアパートしか無理だろうけど、まあ住めればなんでもいいや」

『若い女の独り暮らしはそれなりに防犯に気を使った方がいいと思うが』

「大丈夫だって。私には神の加護――」

そうだ、東京に行く頃にはもう頼れる神はいないんだ。

「――はないけど、昔取った杵柄で。やんちゃ時代のトラップ術を」

『……知り合いの不動産屋に口をきいてみるか? 少しは融通がきくと思う』

「え、それは……ありがたいけど」

『私の地元周辺だから、大学からは少し遠くなるかもしれないが。
ただ電車通学でも学生定期は大幅に安くなるからな。
考えようによっては、家から大学までの駅には好きなだけ立ち寄れるというメリットにもなる』

基本的には物事をポジティブに捉える私だけれど、“うまい話には罠がある”
という警戒心も忘れてはいない。
ただ、辻垣内さんが地元で顔がきくことはあの旅行で十二分に理解していたため、
おこぼれを頂戴してもバチは当たらないだろう、という誘惑に傾いた。


「あんまり遠いのもなぁ。そっちの地理よくわかってないけど、何駅ぐらいになるんだろ」

『物件にもよるが、そうだな……インハイの会場はわかるな?』

「うん、それなら」

『そこを基準に考えると、6か7駅といったところだな』

「うーん、けっこうあるね」

電車はあまり使わないけど、有珠から東室蘭が40分ぐらいだから、
それよりは駅間が短いとしても――などと考えていると、

『10分少々だが』

という衝撃の事実を告げられた。

『日中は5分に1本は来る』

「はぁ!?」

『終電は0時越えだ』

「ひぃ!?」

北海道の路線事情とはあまりに違いすぎた。
思わず、

「受かったらお世話になります」

とお願いしてしまった。


禁欲的な受験生活が続く中でも精神を病まずにいられるのは、程よく息抜きもしているからだろう。
このところの一番のリフレッシュタイムは、先日の旅行で知り合った留学生たちとのメールだ。
私の受験のことは辻垣内さんから聞いたようで、月に1,2回ほどメールが送られてくる。
リアルタイムでのやり取りは勉強の邪魔になるというお達しが出ているらしい。
1通来たら勉強の合間に見て、こっちから1度返信しておしまい。これが恒例のやり取りだ。
ただ、どういうふうに情報が伝わっているのか、必ず画像や動画が添付されている。
そしてそこには必ずネリーが写っている。

『グルジアン・ダンス』

の題で送ってきたのはミョンファだ。
彼女は母に送るための写真の中からボツになったものを使うようで、最もデータが多い。
その動画では、内々で何か催しを企てたらしく、
故郷から持ってきていたという衣装とアクセサリーを身に纏ったネリーが優雅に舞っていた。

「おお……すげえ……」

思わず見とれてしまった。不覚にも。
対抗して、以前テレビで採用されたユキちゃんファンクラブ渾身のダンス動画を送ってやった。
送信してから、欧米はロリータ物に厳しいんだったかなと思い出した。
園児服を着て子供向けダンスを踊る高校生は、フランスの同年代女子にはどう映るのだろう。
縁切られたりしないだろうな。ポルノってわけじゃないから大丈夫か。
などと考えていたら珍しく返信があった。
画面には一言、

『これが国境……』

と表示されていた。


ある時はメガンから寮での晩餐会の写真が送られてきた。
ご当地カップ麺『博多のとんこつ』を恍惚の表情で頬張っているメガンの隣には、
大口を開けてパンにかぶりつこうとしているネリーが写っていた。
おそらく自作の、焦げ目の入ったおいしそうなハチャプリを見せつけるように。
悔しかったので揺杏に、

「欧米人が一発で白旗上げるような、なんかすごいの作って」

と頼んだ。

「自分で作ればーか」

鼻で笑って一蹴された。


2人よりもやや頻度が高いのはハオ。
ネリーと同級生だけあって、様々な場面の写真を手に入れている。
留学生が大会でそれぞれ別の服を着ていたことに触れると、
次のメールではネリーの制服姿が送られてきた。
東京のシンボルの高層タワーをバックに、ばっちりポーズを決めていた。
ミョンファやメガンのメールの内容は自分の話が多いが、ハオはネリーの話が大半を占める。

「なんか悪いな、メッセンジャーみたいにさせちゃって」

1度そう伝えたことがある。
見ようによっては、通信手段を持たないネリーがハオを介して私と通信しているとも取れる。
本来なら手紙なり学校のパソコンなりを使って私と直接やり取りすれば話は早いのだろうが、
あの意地っ張りはそうしない。それで自然と周囲に代弁者が立つのだろう。


私は私で、東京受験を宣言した時点で伝えることは伝えたわけで。
これで落ちたら目も当てられないので、合格するまで必要以上に話さない方がいいと思っている。
向こうも受験勉強の邪魔にならないように、直接的な接触は自重しているのかもしれない。
下手につつくと、歯止めがきかなくなったネリーのメールの嵐が来ないとも限らない。
そうなったら今は落ち着いている私の煩悩が刺激され、二度と机に向かえないかもしれない。

『ネリーのために便宜をはかっているわけではありません。
私が勝手にやってることです。爽がネリーの近況を知りたいのではないのかと思って』

ハオの考えは間違いではなかったので、恩恵を手放すことはしなかった。
ただし、これからはハオの近況のオマケ程度でいいと注意書きを添えた。

『わかりました。ただ私はネリーと仲良しですから、
私の近況には必然的にネリーが絡んでいるかもしれませんね』

あの調子だと、ネリーの誕生日には寮でお祝いをして、その写真が送られてくるのは間違いなさそうだ。
返信はどんな写真にしようかと、私は今から頭を悩ませた。


年の瀬には久しぶりに辻垣内さんから電話が来た。
一応他のアドレスも交換したけれど、

『重要案件ということもあるが、やはり直接話す方が性に合っている』

らしかった。
用件は以前話した物件について、そろそろ1度不動産屋に根回しをしておくということで、
進路に変更はないかの確認だった。
おそらく受験勉強が順調に進んでいるかも気にしてくれているのだろう。
どちらも大丈夫だと伝え、その後は少し雑談を交わした。
それで知ったことには、年末年始は皆実家に帰るため、寮がガラガラになるらしい。
留学生たちも例外ではないが、ネリーだけは帰らないという。

「金銭面かねぇ……そりゃ寂しいだろうに」

『ふふ、心配するな。私の家に招待してある』

そこで初めて知った辻垣内さんの誕生日は1月2日。
辻垣内家では毎年、大晦日・元旦・お嬢の誕生日と3日に渡る集まりがあるのだという。
特に今年は娘のプロ入りが決まり、親類・関係者総出で祝いに駆けつけるとのことで、
元チームメイトをゲストとして招き入れるのに苦労はなかったとか。


明けて2日目。
私は誕生祝いを簡潔な文章に起こし、2日連続で辻垣内さんにメールを送った。
昨日は新年の挨拶を向こうから送ってきた。辻垣内さんの記念すべき初メールだった。
今日は返信ではなくこっちから送った。
電話というのも考えたが、いくら向こうの性分を考慮しても、
大規模な祝賀会が行われているであろうこの日、主役を束縛するわけにはいかない。

「なんか半年もしないうちにインハイ優勝、プロ入り、誕生日と3回も祝ってんな。
その間こっちは何もなかったってのに……これが格の差か」

その分大学に受かったら3倍返ししてもらおう。
そう目論見ながら私は“受験生に正月はない”の格言どおり、今日も今日とて勉学に勤しむ。
お勤めを終え、翌日に差し掛かろうというタイミングで返信があった。

「お、辻垣内さんも写メ使えるんだな――」

添えられた写真では、華やかな着物姿の辻垣内さんとネリーが合格祈願の絵馬を掲げていた。
私はベッドの上で転がり踊るのをしばらく止められなかった。


3月上旬。
志望大学にて、私は自制心との闘いを繰り広げていた。
試験問題は一通り自力で解き終えたものの、

「万が一ってこともあるだろ? カムイを呼んじゃえよ。落ちたら全部パアだぞ」

という甘い囁きが絶えず襲いかかる。
頭の中ではおどろおどろしい『魔王』のテーマが鳴り続けていた。
それを紛らわせるために、架空の学習塾『真剣ゼミ』をでっち上げ、
講師の辻垣内さんに日本刀で発破を掛けられる場面を回想したり、

「あっ、これ真剣ゼミで殺ったところだ」

というお約束のひとり芝居で遊んだりして乗り切った。
無事に試験を終えた私は、その足で辻垣内さんと落ち合った。

「首尾はどうだ?」

首尾はどうだ。
筆記試験の手応えをそんなふうに聞く女子高生は、日本にあと何人いるだろう。

「ん、たぶん大丈夫。妄想してるぐらいの余裕あったよ」

妄想の内容は口が裂けても言えないけれど。


辻垣内さんの懇意にしている不動産屋で物件情報に目を通す。
なるほど、確かに事前に少し上の価格帯で調べてみたものよりも条件が良い気がする。
数は少ないけれど、選りすぐりの秘蔵物件はダテではないようだ。

「私のイチオシはここだな」

そうして見せてくれたものは自分には十分すぎるぐらいで、
元々部屋にあまりこだわりはないので、世話人の推薦で決め打ちしようかと考えた。
地図でアパートの場所を確認していると、はたと目に留まる。

「……へー、臨海ってここにあるんだ。近いね、2キロもないんじゃない?」

臨海女子高校。地図上には確かにそう記されていた。

「ああ。私の地元だからな、必然というものだ」


「まあそうだね」

「ちなみに」

辻垣内さんは物件のオススメポイントを紹介するような調子で情報を提供してくる。

「うちの高校の寮は、土日祝日の前日は外泊可だ」

「ふーん」

「そして、寮には貸し出し自転車が置いてある」

「そうなんだ」

結局その物件を見に行って、仮予約ということで決めた。
何度も現地に来るには交通費を捻出できないので、あとは合格発表を待ち、
その結果によって書類で契約を交わす手はずになっている。
発表日まで骨休めといきたいところだったが、間髪入れずにバイトに明け暮れる日々が始まる。
そうして、疾風怒濤の3月はあっという間に過ぎていった――


4月。
北海道から東京への引っ越しを終えた、大学の入学式までの残り少ない春休みのこと。
私がアルバイト探しとして個人経営の居酒屋を検索していると、
辻垣内さん――もとい辻垣内プロからの呼び出しを受けた。

指定された日時に待ち合わせ場所に赴くと、彼女の姿は見当たらなかった。
それは当然のことで、新社会人が平日の昼間に公園に来られるはずはない。
そもそも事前に“私は行けないが”という前置きで聞いていたことだった。
その代わりそこには私服姿で待ち人を探している様子の、彼女の後輩がいた。

「……よっ、久しぶり」

「――獅子原!」

半年ぶりに会ったネリー・ヴィルサラーゼは、私の姿を認めると一目散に私の下にやってきた。
そしてそのまま抱きついてくる。

「うおっ! さすがは西洋人。ハグは挨拶代わりってか」

スキンシップが苦手なタチでも人目を気にする方でもないので、私も背中に腕を回してやる。


「ん、ちょっと背ぇ伸びたか? 前はもっと見下ろしてた気がする」

「ふふーん、ネリーはこれからどんどん大っきくなって大人の女になるんだよ。
獅子原もすぐ追い越しちゃうから」

「マジでそうなりそうだな。私は成長期終わってるくさいしなぁ……」

その表情に曇りはなく、今となっては夏に悲嘆に暮れていた少女は別人だったのかと思ってしまう。

「元気そうじゃん。麻雀での活躍も聞いてるよ。これなら私の出る幕もなさそうだな」

「ちがうよ。獅子原に会ったから元気になったんだよ。
ふだんは大変なんだから。サトハもメグもいなくなっちゃったし」

ブランクを感じさせずにぐいぐい来るね。

「なんだよ、やけに素直だなー。辻垣内さんに日本式社交辞令でも教わったか?」

「獅子原、言ったよね。自分の前では気を張るなって」

「――言ったね。半年も前のことよく覚えてるな」


「旅行のときのことも、夏のこともみんな覚えてるよ。今のネリーの強さの源だから。
がんばってればそのうち獅子原に会えると思ったら、心が軽くなった気がする」

「そっか」

「迷惑?」

「いや、嬉しいよ。そういえば、もう名前で呼んでもいいんだぞ。姐さん部長もいないんだしさ」

「獅子原じゃだめ? 獅子原って名前好きなんだよ」

「え、そうなの?」

それは初耳だ。確かに今まで同級生なんかにかっこいいね、と言われたことはあるけど。
でもどっちかというと爽って名前爽やかでいいね、の方が多かったな。

「獅子ってライオンでしょ? サカルトヴェロの国章見たことない?」

「白地に赤の十字がいくつかあるやつじゃなかったっけ」

「それは国旗だよ。それとは別に国の紋章みたいなのがあるの」

知らなかった。つくづく年下に無知を晒してしまうもんだ。

「サカルトヴェロのはね、ライオンが2匹いるんだよ。
だから獅子原は故郷の守り神って感じがして好きなんだ」


「……そっか。じゃあ故郷を離れてる間は、私が1匹分の働きぐらいはしてやんねーとな。
そういうことなら好きに呼びなよ」

「うん。じゃあさ……」

「ん?」

ネリーは帽子を外すと期待に満ちた顔でじっと目を見てくる。
そういえば約束したなと、あの夜のことを思い出した。

「獅子原、あれやってよ」

「いいよ」

だから即答した。
私は陽に照らされたネリーの小さな頭を、慈しむよう優しく撫でた。



終わり

最初は欲情ネリーのパウチプレイを書くつもりだったのにいつの間にか流れが変わってた
読んでいただきありがとうございました

咲-Saki- 15巻 3/25発売
爽に制服姿を披露するネリーの表紙が目印
2人の馴れ初めの公開パウチプレイも収録(たぶん)
買うしかないか!

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