伊織「マリン・オディティ」 (20)

伊織は、大海原の只中にいた。どこを見渡しても何も無かった。
夜中の海は規則的な波の音が聞こえるだけで、甲板には伊織を除いて誰もいなかった。

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雲ひとつ無い夜で、月光が眩しいほどに海面に反射していた。
すぅと息を吸い込むと、胸を突くような力強い潮の香りと、儚いほど澄みきった夜の空気が絡みあい、伊織の肺を満たした。
冷たくも、体を熱くするような空気だった。

伊織は目を閉じ、柵にもたれかかった。
暗闇の中で律動する波音が心地よかった。
赤子を抱くかのように、海風が優しく体を包みこんだ。

おもむろに、伊織はブラウスの胸ポケットから携帯電話を取り出し、電源ボタンを押した。
しかし、携帯電話のディスプレイは明かりを灯すことなく、深海のように沈黙していた。

「電池が切れたか?」
 
船の運転手が、伊織に声をかけた。

「そうみたいね。」

「圏外だと、消費量が増えるからな。」

「あんた、私を誰だと思っているの?衛星経由の専用線に決まってるじゃない。」

「そうだったな。」

「それにしてもあんた、いつの間に後ろにいたのよ。運転しなくて大丈夫なの?」

「少し伊織が心配になってな。船が揺れたら危ないぞ。ヘルメットでもつけておいた方がいいんじゃないか?」

「あんたが船を揺らさなければいいじゃない。私にそんなダサい格好をさせるなんてありえないわ。」

「ヘルメットをかぶっても、伊織はかわいいよ。」

 男はそう言って、伊織の頭に手を伸ばした。男の手は、伊織の形を知り尽くしているかのように頭を辷り、柔らかく艶めいた髪を梳かした。

「やめてよ。」

「どうして。」

「うるさい。」

「じゃあ、運転に戻るよ。」

男は立ち去った。
やがて船の進む方向が変わった。
辺りに何もない空間だったので、船は月を目指しているかのようだった。

幼少期、伊織はよく月を見た。月の模様さえ見えれば、孤独ではなかったからだ。
それから孤独を埋める相手がぬいぐるみに代わり、そして人のぬくもりとなったが、こうして純粋な月の光を浴びると当時の満たされる感覚が思い出された。

伊織が月を見上げ、昔へ思いをはせていると、ばちん、という小さな音とともに突然甲板を照らしていた光が消え、光は自然の明かりだけになった。
振り向くと、何も見えなかった。明るい月の光を見続けていたので、伊織の瞳は突然の暗闇に順応できなかったのだ。

「あの変態、暗闇に乗じて何かするつもりじゃないでしょうね。」

伊織は、男を一喝するべく船室へと向かった。
しかし、盲目のまま甲板をさまよい、「何もないところで躓いて転ぶ」という不覚をとった。

うつ伏せで悔しさをかみしめる伊織であったが、ふと違和感を覚えた。
甲板に耳をつけると、船が波に揺られる感覚をありありと感じた。
伊織は、まるで自分が船と同化してしまったかのような錯覚に襲われた。
今自分は浮いているのだという思いに耐えきれなくなり、仰向けになると、数えきれぬほどの星が伊織を見つめていた。

射竦められるほどのプレッシャーだった。
星が降ってきて、押しつぶされるのではないかと思うほどだった。
いつも街で見ていたまばらな星の健気さはそこにはなかった。
まばゆい煌めきも、今にも消えそうな弱い光も、すべてが平等に存在し、澄み渡った天の川を形成していた。

すべてを平等に受け容れる自然の果てしなさを目の当たりにすると、人は一時的に謙虚さを思い出すが、伊織もその例にもれなかったようであった。
大きく息を吐いて、伊織は呟いた。

「ここでは、私にできることなんて何もないのね。」

「あるぞ。」

伊織の隣で、男の声が急に響いた。男は音もなく伊織の隣で胡坐をかいていた。

「きゃっ!」

「なんだ、随分とナーバスだな。」

「それは!あんたが!急に!電気を消して!声をかけるからでしょうが!」

伊織は男の居場所の見当をつけると、言葉とともに渾身の力で拳を叩きこんだ。

「やっぱり暗闇を利用して襲うつもりだったのね、この変態、ド変態、THE HENTAI!」

「待て、誤解だ。ちょっと怖がらせてみようかなと思っただけだよ。」

「この……変態おじさん。」

「おじさんは余計だろ。」

暗順応が進んできたところで、伊織は起き上がり、男を見た。

「で、あんたの言う『私にできること』って何なのよ。」

「俺と一緒に他愛のない話でもしながら、星を見よう。俺と一緒にいてくれさえすれば、それでいい。」

寝そべるための椅子を引っ張ってきながら、男は言った。

「あんた、意外と気障なのね。」

「そうかな。ほら、おいで。」

男は椅子に座り、伊織を誘った。ブリキのように固く見えた男の体は、意外にも柔らかかった。

「それにしても、変態で気障だなんて、救いようがないわね。この伊織ちゃんがいなかったら……」

「誰も見向きもしなかった、だろ?その通りだと思うよ。」

「わかってるじゃない。」

伊織は星を見上げながら、男の顔に手を這わせた。耳と首筋に熱い空気が触れ、伊織の白い肌を濡らした。

「これから私たちはどこへ行くのかしら。」

「不安?」

「いえ、私はあんたについていくだけだから。」

「そっか。」

「そうよ。」

伊織は目を閉じた。
指先で、男のふわりとした髪、形の整った耳、湿った唇、うっすらと生えた無精髭の感触を慈しんでいると、男が口を開いた。

「なあ伊織。」

「何よ。」

「愛してるよ。」

「知ってるわよ。」

「そっか。」

「そうよ。」

船は、月の遥か先を目指し進んでいく。

おしまい

David Bowie “Space Oddity”

https://www.youtube.com/watch?v=iYYRH4apXDo

参考にしました。
少し遅れたけど、さらば、デヴィッド・ボウイ。
以上

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