【咲-Saki-】咲「私が…贄…?」【たまに安価】 (886)

オリジナル設定百合アドベンチャー

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誰かが呼んでいる。
ぬるく澱んだ水底から、暗く深い声が呼んでいる。

(来ヨ……)

ずっと昔から、この声を知っている。
この、呼びかける誰かの声を。

(サキ……)

(……キ、サキ……)

繰り返し繰り返し。誰かがずっと私の名を呼び続けている。
そう、ずっとずっと……ずっと昔から。

―――――誰?私を呼ぶのは誰なの?

(来ヨ、サキ……)

―――――そんな風に呼ばないで。

(来ヨ、我ガ元ヘ……)

その響きに惹かれ、
この心地良い闇の中へ溶け込んでしまいたくなるから。

(早く来ヨ、コノ腕ノウチヘ……)



―――――呼ばないで……





「……咲。起きなさい、咲……」

咲「……ん……」

咲が重い瞼を押し開くと。
姉の照が思案げに眉をひそめ、覗きこんでいた。

咲「お姉ちゃん……?」

照「おはよう、咲。大丈夫?随分とうなされてたけど。また悪い夢でも見たの?」

咲の額についた汗の粒を指先でぬぐいながら、
照が問いかける。

―――――夢をみた。誰かが自分を呼ぶ夢。
暗い所から聞こえてくる、その声が心地良くて。
……嫌な夢だった。

照「よく分からない。それが嫌な夢なの?心地良いのなら、良い夢なんじゃないの?」

咲「………」

心地良くて……それが嫌だった。
夢を思い出して黙り込む咲に、照はふっと息をついて立ち上がった。

照「夢の話はもういいから、そろそろ起きなさい。朝食が冷めてしまうから」

宥めるように咲の肩を叩くと、照は咲の部屋を出ていった。

咲は制服に着替えてリビングへと向かう。
食卓には姉がコーヒーカップを傾けている姿があった。

照「さあ、早く食べてしまいなさい。転校初日から遅刻したくないでしょ?」

咲「うん。いただきます」

照「本当は、親代わりの私がついていくべきなんだろうけど……」

咲「大丈夫だよ。お姉ちゃんも大学が忙しいでしょ。私なら一人でも平気」

咲はもう16歳、高校2年生だ。
転校初日に保護者の付き添いが欲しい年齢でもない。

咲「……お姉ちゃんが、私を心配する気持ちは分かるけど……」

自分は前の学校で騒ぎを起こし、退学になった身だから。
咲は苦い思いでそう言葉を続けた。

照「咲、あれはお前の責任じゃない。気にしないで、もう忘れなさい」

咲「……それだけじゃない。私がお姉ちゃんに迷惑をかけたのは」

―――――三年前の、あの時も。

その囁きを耳にした照は、眉をひそめて咲を見た。

照「咲……」

父と母―――――

咲と照の両親が亡くなってから、もう三年の月日が過ぎた。

三年前。今でも鮮明に覚えている。
忘れることなど出来ない。

両親が事故で亡くなった当時。
あの頃、すべてを拒んで閉じこもるしかなかった咲を救ったのは姉だった。

それだけで十分だ。
これ以上、自分のことで姉に迷惑をかけたくはなかった。

咲「私のことは心配しなくていいから」

照「咲……」

照は椅子を引いて立ち上がる。
そして、咲の頬を両の手のひらで包んだ。

照「咲、私はお前のたった一人の姉。迷惑だなんて思ったことは一度だってない」

咲「お姉ちゃん……」

照「両親が死んで、私達は二人きりの家族になってしまった。咲の存在があったからこそ、私は今まで頑張ってこられたの」

咲「一人だったらとうに潰れていたと思う。私のそばに咲がいてくれて、本当に良かった」

咲「……ありがとう。お姉ちゃん……」

照「さあ、早く食べてしまわないと遅刻しちゃうよ」

咲「うん」

姉の言葉に頷きながら、咲は箸を手に取った。


――――――――――

咲が食事を済ませて身支度を終えた頃。
来客を知らせる呼び鈴が鳴った。

照「良子さんが来たみたいだね」

咲「え……」

照の言葉に咲は驚く。

戒能良子は、亡くなった母の姉の娘。
つまり咲たち姉妹のいとこに当たる人だ。

咲「どうして良子さんがこんな時間にここへ?」

照「ああ、咲には話してなかったね。咲が今度通うことになる高校で良子さんは教鞭をとってるの。担当科目は科学だったかな」

咲「え、そうなの?」

姉の言葉に咲は目をまるくする。

良子「ノー!ばらさないでくださいよ、照。せっかく今日まで隠して私が自分で驚かそうと思ってたのに」

いつの間に上がり込んだのか。
咲の背後には、良子が人の悪い笑顔を浮かべて立っていた。

照「それは悪いことをしました」

良子「咲。久々に会えたいとこに、会えて嬉しいの言葉はないんですか?」

咲「……会えて嬉しい、です」

良子「オーケー。素直でいい子ですね」

嬉しそうにそう言うと、良子は咲の髪をかき混ぜた。

良子「まあ、あまり久しぶりって気もしませんけどね。二週間前も一緒に食事しましたし」

照「そうですね」

良子「あ、引っ越しの日は手伝えなくてソーリーでした。人手が足りないって駆り出されてましたので」

照「教師もなかなか大変なんですね」

良子「まあ行事前ですからね。……咲」

咲「はい」

良子「前の学校のことでは、力になれなくてすみませんでした」

咲「……」

良子「すぐ傍にいてやれなかったことを、あの時ほど悔やんだことはありませんでした」

照「良子さん、その話はもう……」

良子「でも、これからはずっと傍にいてやれますから。何かあったらすぐに相談してくださいね」

咲「……はい」

良子「思ったより元気そうで安心しました。咲、それじゃあそろそろ出発しましょうか」

咲「はい。よろしくお願いします」

良子「照、大事な妹は私が責任をもって預かるので安心してください」

照「良子さん。咲を頼みます」


――――――――――

良子が運転する車の助手席に収まった咲は、
窓の外の景色に目を向けていた。

良子「咲たち一家がこの街を離れて、もう10年ほどになるそうですね」

咲「はい」

良子「どうですか。ここもその頃とは随分と変わったでしょう」

いとこに水を向けられ、咲は返答につまった。
咲はかつて、健在だった両親や姉とともに、この街に住んでいた。
しかし、この街で暮らした日々のことはあまり覚えていない。

咲がこの街で過ごしたのは7歳まで。
幼かったせいか、その頃の記憶はひどく曖昧だ。

変わったどころか、街中で覚えのある眺めはひとつも存在しない。
咲は正直にそう答えた。

良子「そうですか。それならどこに行っても初めて見るものばかりで目一杯この街を楽しめるってことですね」

良子「観光スポットが結構ありますので、今度ゆっくりと案内してあげます」

咲「ありがとうございます。良子さん」

良子「ほら、見えてきました。あの白い建物が、咲が今日から通うハイスクールです」

咲「結構綺麗なんですね……」

良子「数年前にできたばかりの新設校ですからね」


――――――――――

正門を横切り、職員室の駐車場に車を停めると。
良子は校舎を仰ぎ見る咲に言った。

良子「ウェルカム!我らが学び舎、私立りつべ女学園へ」

良子「まだHRまでには時間がありますね。それじゃあ咲の教室へ案内がてら送りましょう」

咲「よろしくお願いします」

良子「食堂も広くてメニューも豊富なんですよ。後でお昼時に案内しますので、一緒に食べましょう」

良子に連れられ、校内に足を踏み込んだところに。
ひとりの女性が近づいてきた。


「おはよう。戒能先生」

良子「愛宕理事長。おはようございます」

咲(この人が、この学校の理事長……)

雅枝「おや?そっちの子は……」

咲「宮永咲です。今日からこの学校にお世話になります」

縁あって咲を学園に受け入れてくれることを承諾してくれた恩人に向かい、
咲は深々と頭を下げた。

雅枝「ああ、君があの……。歓迎するで、宮永咲さん」

鷹揚に手を振ると、雅枝は駐車場の方へと向かっていった。

良子「さあ、教室へ行きましょうか。咲」


――――――――――

感情を出さないように気をはりながら。
咲は自分を紹介する担任の言葉を聞いていた。

先ほどからやたらとこの女性教師が咲の肩に触れてくるので、
不快感を抑えるのに必死だ。

咲は他人に触れられるのが苦手だった。
姉や良子のような、ごく親しい人たち以外には、肩を叩かれることも辛い。

教室中の生徒たちが咲に対して、好奇心に満ちた無遠慮な視線を向けてくる。
たまらな苦痛だった。


担任「というわけで。今日はあなた達に新しいクラスメイトを紹介するわ」

咲「宮永咲です。よろしくお願いします」

担任「ええっと、宮永さんの席は……」

担任教師が咲の席を指示しようとした時。
あっ、と驚きの声をあげた生徒がいた。

由暉子「あなたは……!」

担任「どうしたの?真屋さん」

穏乃「あーっ!!」

担任「高鴨さんまで……いったい何なの?」

由暉子「あ……すみません。何でもありません」

穏乃「私も何でもないです!」

担任「そうなの?と、とにかく宮永さん、あなたの席はこの列の一番後ろよ」

咲「はい」

言われた席に向かう間にも、時季外れの転入生に対する興味が隠せない様子で、咲の挙動を視線が追う。
咲は自分に向けられる全ての視線を拒むように、無言のまま与えられた席についた。


新しい授業のたび、担当教師に挨拶のため立たされたが、それ以外特に変わったことはない。
午前中のカリキュラムは、そうして滞りなく終了した。

昼を知らせるチャイムの音に、生徒たちは各々の予定に従い、席を立つ。
校内には生徒が自由に利用できる食堂と購買部が用意されている。
良子の「お昼は一緒に食べよう」との言葉を思い出し、咲も席を立った。
これまでの休み時間と同様、話しかけたそうな生徒を寄せ付けない態度で咲は教室を出ようとした。

その時。ひとりの生徒がためらいがちに咲へと寄ってきた。
それはあの、真屋と呼ばれていた生徒だった。
どこか咲を懐かしいような気持ちにさせる面差しの少女。

由暉子「あの、宮永さん」

咲が無言のまま見ると、気後れしたように息を飲んだ。
だが覚悟を決めた眼差しで、咲に話しかけた。

由暉子「私、真屋由暉子といいます。あの、宮永さんはこの街に住んでいたことがありませんか?」

咲「……確かに住んでいたけど」

由暉子「やっぱり!あの、もしかしてあなたは昔一緒に遊んだ『咲ちゃん』じゃないですか?」

咲「え……」

由暉子「私のこと、覚えてませんか?小学校の頃、ほんの少しでしたけど、一緒に過ごしましたよね」

言われて、改めてその少女の顔を見つめ直す。
咲にじっと見つめられて、少女の頬が桜色に染まる。

優しい眼差し。柔らかな輪郭。
咲の記憶の琴線に、わずかに触れるものがあった。

由暉子「お屋敷の広いお庭で、遊びましたよね。覚えてませんか……?」

その言葉で、目の前の少女が記憶のなかの面影と重なった。

この街で過ごした最後の数か月。
咲は屋敷の庭に迷い込んだ少女と親しくなった。

当時、小学校に通っていなかった咲に同い年の友達ができたのは初めてで、嬉しかった記憶がある。
その後、あまりに突然の引っ越しに、彼女にさよならも言えなかった。

曖昧なこの街の記憶のなか。
あの少女のことは、思い出として微かに残っている。

由暉子―――――ユキ。

思い出した。あの少女の名前は、確かユキだった。

咲「ユキちゃん……」

由暉子「!!やっぱり咲ちゃんだったんですね。良かった……私、ずっと咲ちゃんに会いたかったんです」

穏乃「あなたは……やっぱりあの咲なんだ」

ふと、由暉子と咲の間に別の声が割って入った。

由暉子「穏乃ちゃん」

ユキが穏乃と呼ぶ少女が咲の前に立つ。
まっすぐに咲を見つめる、力強い瞳が印象的な少女だった。

穏乃「咲。まず私たちに言わなきゃいけない言葉があるでしょ」

咲「……?」

穏乃「あなたがあの咲なら、黙って引っ越したことを謝りなよ」

咲「え……」

穏乃「何でだよ!たった一言でいいのに、何であの時引っ越すって言わなかったんだよ!」

咲「あ、あの……」

穏乃「ずっと、黙っていなくなった咲のこと、心配してたんだよ……」

引っ越しのことは咲と由暉子、二人だけの話のはずなのに。
穏乃の口ぶりでは、彼女も関わりがあるように聞こえる。
不審に思った咲は率直にその疑問をぶつけた。

咲「あなたも、私を知っているの?」

穏乃「え……?」

由暉子「咲ちゃん?」

穏乃「もしかして、私のこと忘れちゃってるの!?」

咲「う、うん……」

穏乃「そんな……本気で私のこと覚えてないの!?じゃあ、あの時交わした約束のことも覚えてないっていうのか!?」

かっとなった穏乃が腕を伸ばして咲の肩を掴んだ。

咲「!!触らないで」

穏乃「え……」

咲は反射的にその腕を振り払った。
咲の過剰な反応に、穏乃はあっけにとられたように一瞬言葉を失う。

穏乃「なんで……」

咲「私に触らないで」

咲のその反応は、反射的な恐怖心から出た行動だった。

咲は他人に触れられることを極端に嫌っていた。
心構えができている時ならともかく、こんな風に突然触られることには慣れていない。
防衛本能が働き、自分でも意識しないうちに穏乃の腕から逃れる行動に出ていた。

穏乃「なんだよ、その態度!……あったまきたー!」

咲の行動にさらに怒りをあおられた穏乃は、
咲に詰め寄って両肩をわし掴みにしようとする。

咲「……っ!!」

穏乃の腕を避けようと後ずさった咲の体が当たり、
机や椅子がけたたましい音を立てて倒れる。

由暉子「やめてください、穏乃ちゃん!」

穏乃「ユキ……」

由暉子「こんなの、いつもの穏乃ちゃんらしくないです」

穏乃「……私……」

担任「こら、どうしたの?この騒ぎは」

騒ぎを聞きつけ、教師が慌てた様子でその場に駆け付けた。

担任「原因はあなた達なの?」

穏乃「う……はい……」

咲「………」

担任「高鴨さん、宮永さん。二人とも、放課後に職員室に来なさい。いいわね?」

穏乃「……はい」

とりあえず騒ぎに収拾を付けた担任教師は教室を出て行った。
後に残された生徒たちは、何となく気まずい雰囲気で互いに顔を見合わせる。

遠巻きに咲の様子を伺い、生徒たちが囁き合う。
咲は無言で机や椅子を起こしはじめる。由暉子も黙って咲の手伝いをした。
ようやく教室内が元のように動きを取り戻した。

穏乃「………」

咲を見つめ、穏乃が何か言いたげに口を開いたが、
結局何も言わぬまま唇を閉ざしてしまう。




その日の全授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
勉強から解放された生徒たちが、晴れやかな表情で席を立つ。

咲も帰ろうと席を立った時。
昼間の騒ぎで担任に呼び出されたことを思い出した。


1、職員室に向かう
2、呼び出しを無視する

安価下

担任からの呼び出しを無視するわけにはいかず、
咲は職員室へと向かった。

咲が職員室に入り、担任教師の席までいくと、
穏乃はまだ来ていないようだった。

書類に目を落とす担任に声をかけると、
担任はあからさまに不快げな顔つきで咲を見やる。

何気なく目を向けると、担任が見ていた書類の内容が目に入る。
それで担任の不機嫌な理由が分かった。

前の学校での咲の記録を調べていたのだ。
つまり、咲が退学せざるを得なかった事情を知ったのだろう。

咲「………」

それから間もなく、穏乃も姿を現した。

担任「宮永さん、転校早々とんだ騒ぎを起こしてくれたものね……」

溜息をつきながら担任が言うと、鉛筆で神経質に机をたたいた。
放課後の職員室には他に数人の教職員や生徒が出入りしていたが、咲たちに目を向ける者はいなかった。

担任「宮永さん、あなたを受け入れたのは理事長の特別なはからいによるものよ」

咲「………」

担任「あなたの受け入れに学園の教職員が全員納得した訳ではないのよ」

何しろあなたは、教師に対する暴力沙汰で前の学校を退学になったような生徒だからね。
いかにもそう続けたそうな、担任の目つきだった。

彼女が警戒するのも仕方ない。
真相がどうあれ、咲が前の学校を『教師に手をあげた』という理由で退学になったのは事実だったから。

担任「この学園で騒ぎを起こされては困るのよ。宮永さん」

咲「………」

担任「全く、初日からなんてこと。これじゃ私の立場が……」

穏乃「ちょっと待ってください、先生!」

穏乃「さっきから聞いてたら、先生、一方的に咲が悪いって決めつけてる」

担任「そ、それは、その……」

穏乃「何だか変です。咲が悪いって考える根拠でもあるんですか?」

担任「よ、よしなさい。あまり騒がないで……」

穏乃「今回の騒ぎは私が先に手を出したんです。なので私が悪かったです」

穏乃「でもそれだけに、咲に対する先生の態度は気に入りません。どうして詳しい事情も聴かずに咲が悪いと決めつけるんですか?」

担任「あ……あなたね、高鴨さん!騒ぎを起こしておいて、その態度は何なの?」

担任「そうだ、あなたが騒ぎを起こしたのはこれが初めてじゃなかったわね。一体どういうつもりでこんな騒ぎを……」


1、穏乃を弁護する
2、黙っている

安価下

咲「……私が先に手をあげました」

咲の静かな口調に、担任と穏乃はあっけにとられた表情で口論をおさめた。

穏乃「何言い出すんだよ咲!もとはと言えば、私が咲に絡んだことが原因なのに……」

咲「………」

穏乃「咲、そんな風に諦めたような態度で庇われても私は嬉しくない」

穏乃「本当はもっと言いたい事があるんだろ?抑えこまずに話してくれよ!」

良子「まあまあ、ミス高鴨。そのぐらいにしときなさい」

穏乃「戒能先生……」

良子「誰もがユーのようにストレートな生き方を実践できる訳じゃないですからね」

その場の緊張をやわらげる、明るい声で現れたのは良子だった。
良子の名を呼ぼうと口を開きかけた咲に向かって、
『黙っていなさい』と言うように良子は目くばせする。

良子「先生も、今日はこのくらいにしておいてやりましょう。この子達も十分に反省していると思いますから」

良子「ね?ミス高鴨。あなたも反省したでしょう?ちゃんと先生に謝っておきなさい」

言いながら、良子は担任に向かって、穏乃の頭を押し下げさせる。

担任「え、ええ、まあ。反省しているなら今日のところは……」

良子「そうですか。それじゃあ失礼します」

みなまで言わせず、担任教師に愛想笑いを向けたまま、
咲と穏乃の背をぐいぐい押して、良子は強引に職員室から二人を連れ出した。

穏乃「戒能先生、助かりました!」

良子「いえいえ。咲、転校初日から災難でしたね。大丈夫ですか?」

咲「うん……」

咲に話しかける良子の親しげな様子に、
狐につままれたような表情で穏乃が二人を見比べた。

良子「ああ、咲は私のいとこなんです。色々ややこしいから、他の先生や生徒には黙っててくださいね」

穏乃「あ、はい」



三人並んで廊下を歩いていると。
途中で所在なくたたずむ少女が、こちらに気が付いて声をかけてきた。

穏乃「ユキ」

由暉子「穏乃ちゃん、咲ちゃん。大丈夫でしたか?」

穏乃「ごめん、心配かけた」

そう言いながら、穏乃は由暉子のもとへと走っていった。


良子「咲。ミス高鴨はケンカっ早いけど根に持たない、さっぱりした性格の少女です」

咲「え……?」

良子「見かけによらず面倒見もいいし、親切な子です」

何を言いたいのか理解できず、咲は問い返すように良子を見上げた。

良子「ミス高鴨が腹を立てたのは、感情を抑え込んでしまう咲の態度に対してみたいでした」

咲「……!」

良子「少しだけ、警戒心を解いて接してごらんなさい。何かが変わるかも知れませんよ」

咲「……良子さんがそう言うなら」

呟きながら、咲は穏乃たちを見やった。
こちらを向いた穏乃と視線が合う。
穏乃は真っすぐなその瞳を、咲からそらさない。

咲の目を覗き込みながら近づいてきた穏乃が、
思わず身構える咲に向かって頭を下げた。

穏乃「悪かったな。はじめからケンカ腰で突っかかったりして。反省してる」

咲「え……」

穏乃「いきなりあんな風に突っかかって来られたら誰だって警戒するって、ユキにも怒られたよ」

咲「……ううん。私が先に手を振り払ったから……ごめんなさい」

穏乃「!!……そういうところは変わってないみたいだな。咲」

咲「……?」

穏乃「咲って、昔は見た目のまんま素直だったよな。あの頃とは印象が変わったけど」

穏乃「でもやっぱり咲は、咲なんだな……」

昔の咲をよく知っているような穏乃の発言にも思い当たる節がなく、
咲は思わず眉をひそめる。

穏乃「……本当に私のこと、覚えてないみたいだな」

咲「………」

穏乃「私は一度だって、あの約束も咲のことも、忘れたことなかったのに……」

穏乃の声に込められた、胸が苦しくなるような響き。
思い出せないことがひどく申し訳なく思えた。

由暉子「穏乃ちゃんのこと、怒らないであげてくださいね。穏乃ちゃん、ずっと咲ちゃんに会いたがってましたから」

穏乃「う……」

由暉子「咲ちゃんのことが嫌いな訳じゃないんです。その反対で……」

穏乃「ユキ!もう行こう!……咲」

咲「……?」

穏乃「私の名前は高鴨穏乃!今度は覚えてくれよ!」

うろたえたような早口で咲に告げると、
そのまま穏乃は足音高く廊下を歩み去っていった。

良子「どうやら、咲に忘れられていたことが余程悔しかったらしいですね。ミス高鴨は」

立ち去る穏乃の背を見送りながら、良子が楽し気に言った。

咲「……自分でも不思議なほど、この街で暮らした日々のこと、覚えていないんです……」

子供のころの記憶とは、皆こんな曖昧で頼りない物なのだろうか。
それとも咲だけが特別に、忘れっぽいのだろうか。

良子「……さあ。私たちも行きましょうか。咲」

今日はここで終わりです。
安価にご協力ありがとうございました。

二人並んで歩きながら、良子が咲に尋ねた。

良子「この学園の印象はどうですか?上手くやっていけそうですか?」

咲「まだ、よく分かりません」

良子「まずはフレンドを作るところからですね」

咲「………」

良子「咲、まだあのことを気にしているんですか……?」

咲「……!」

良子「去年死んだ、あのクラスメイトのことを。あれは咲のせいなんかじゃない」

良子「咲に関係ないところで起きた、ただの事故じゃありませんか」

咲「………」

咲が他人との関わりをためらうのには、
人に触れられることを嫌う咲の性癖の他にも理由があった。

それは咲が、関わった者の身の上に不幸をもたらすという、不吉な噂のせいだった。

根拠のない噂ではない。
咲といさかいを起こした相手が、命を落とす―――――
そんなことが、咲の過去に実際に起きているのだ。

これまで数えて三人の人間が、
咲に対して暴力を振るった直後に命を落としている。

一度なら、偶然。
二度目でも、不幸なめぐりあわせの一言で、何とか片付けられる。
だがそれが三度目ともなると、人はそこに運命的な、悪意の因果関係を感じることになる。

いずれも咲の意思とは無関係なところで起きた事故によるが、
他人の目にはそうは映らない。

『不幸をもたらす少女』と噂されるようになり、
咲自身その事実におびえた。

自らの意思に関わりなく、咲の存在が、関わる相手の身に不幸を引き起こしているのかも知れない。
そう思うと、誰かと関わることに積極的にはどうしてもなれなかった。

良子「そうやって過去を気にして、いつまでも一人でいるつもりですか?」

咲「………」

良子「そんな寂しいことは考えないでください。咲がそんなだと、私も寂しい」

良子「私は、咲にだけは絶対に幸せになってほしいんです。咲が幸せになるためなら、どんなことだってしますから」

咲「良子さん……」

良子「いいですか、咲。理不尽な運命に負けてはいけません。自分から不幸になろうとしてはダメです」

良子「咲さえ諦めなければ、何とかなるもんです。私も手伝いますから頑張ってください」

咲「……。はい……」

良子「さて、私はこれから会議だからもう行きます。咲は部活動の見学にでも……」

良子「―――と、そうだ、今週は学園祭の準備で休みの部が多かったですね」

咲「学園祭……?」

良子「今週末の金曜と土曜に、二日間にわたって学園祭が催されるんですよ」

言われてみれば、校内の雰囲気が少し違う気がする。
転校初日の緊張で気づかなかったが、よく見れば校内のあちこちに作りかけの看板やセットなどが立てかけられている。
校内はざわついて落ち着きなく、生徒たちは皆どことなく浮かれている。

ポスターを抱えてせわしなく立ち働く生徒や、数人がかりで大道具を運ぶ生徒。
お祭り前に見られるあの独特でにぎやかな光景が各所で繰り広げられている。

良子「そういえば照が、今日は早く帰ってくるようにと話していましたね」

良子「心配性な姉を安心させるためにも、今日のところは真っすぐに帰ってあげなさい」

咲「はい」

良子「送ってあげたいですが、今日は会議で遅くなりそうですので……ソーリー、咲」

咲「いえ、私なら大丈夫ですから。では良子さん、また明日」

咲は手を振ると、良子とその場で別れた。


学園祭の準備に居残る者が多いのか、この時間に帰宅する生徒は少ないようだ。
校門に向かう者は、咲の他に誰もいない。


「宮永さん、ちょっと待ってや」

呼ぶ声に振り向くと、見知らぬ少女が手を振りながら追ってくるのが見えた。
足を止めて待つと、少女は間もなく咲に追いつく。

咲「……あなたは?」

泉「私は二条泉。あんたと同じクラスやで」

咲「……」

泉「その様子だと、私のこと覚えてないみたいやな」

わずらわしい好奇の目を避けようと、教室では誰とも視線を合わせないようにしていた。
そのせいで、クラスメイトの顔をろくに覚えていない。

泉「まあ、今はそんなことどうでもええわ」

咲「私に何か?」

泉「ああ。あんたにちょっと用があるねん。ついてきてくれや」


1、泉についていく
2、誘いを断る

安価下

泉の咲を見つめる目つきが気になった。
笑顔を浮かべているが、彼女の目は笑っていないように見える。

咲「悪いけど、私急いでるんで」

咲は泉に信用の置けないものを感じて、誘いをきっぱりと断った。

泉「……仕方ないなぁ。本当はこんな手荒なことはしたくなかってんけど」

いかにも残念そうな口ぶりで肩をすくめると、
泉は何気ない動作で咲に近づいた。

咲「……!!」

警戒して下がろうとする咲の動きを上回る素早さで、泉が咲の懐に入り込んだ。
驚愕する間もなく、咲は脇腹に何か鋭い物が突きつけられるのを感じた。
―――――ナイフだった。

泉「動くなや」

浮かべた笑顔を絶やさぬまま、泉が至近距離で咲へとささやく。

泉「声も立てない方がええで。私のいう通りにするんや」

咲「………」

泉「さ、私の言う通りに歩いてもらうで」

押し当てたナイフが見えないよう、肩を抱いて身を寄せると、
泉は咲に密着するような形で歩き始めた。



物置用の小さな建物が一つ、ぽつんと建っただけの広場。
校舎から遠く、校内の喧騒もここまでは届かない。

泉「その中に入り」

物置を指さして泉が言った。
咲は言われるまま扉を開き、薄暗い建物の入り込んだ。

何をするつもりか、問いただそうとしたその瞬間。
咲は後頭部に激しい衝撃を感じた。

咲「ぅ……っ」

その後はもう、暗闇に意識がすべり落ちていくのを止められなかった。


――――――――――

咲が意識を取り戻すと、そこは物置に使われていた先ほどの建物の中だった。
冷たい床に倒れたまま放置されたらしく、床に接している右半身がひどく傷んだ。

咲「つぅ……」

一体、何が起こったのか。
後頭部を襲う痛みとめまいに再び遠ざかりそうな意識をかろうじてつなぎ止める。
咲は鉛のように重い体を起こした。

泉「ようやくお目覚めかいな、宮永」

咲「……!」

声の主を求めて顔を上げると、泉が足元にうずくまる咲を見下ろしていた。

泉「そう怖い顔で睨まんといてえな。さっきは強く殴りすぎたかもしれへんけど」

「これだから優等生ってのは怖いねえ。手加減ってものを知らないし」

泉「うるさいわ。揺杏」

泉の立ち位置とは反対の方向から別の人間の声が響いて、咲は息を飲んだ。
あわてて身をよじり、声の方に首を向ける。

揺杏「よう、転校生。あんた大変な奴に目ぇつけられたな」

目を細め、揺杏と呼ばれた生徒がからかい口調で咲を覗き込んだ。
何故こんな目にあわされるのか、見当もつかずに咲は眉をひそめる。

泉「あんたが悪いねんで、宮永。あんたが由暉子と仲良さげにしとるから」

咲「え……?」

泉「真屋由暉子。私はあの子が好きやねん……聖女のように清らかで美しい彼女が好きや」

泉「せやからあの子に近づこうとする者は誰であろうと容赦はせん」

咲「……私は、ユキちゃんの……」

泉「ああ。幼なじみやって?さっき話してるの聞こえてきたからな。……だから余計に気に入らへん」

泉「あんたと、あの忌々しい高鴨穏乃!幼なじみやからって馴れ馴れしく由暉子に近づく害虫ども!」

咲「……っ」

泉「せやから私は決めたんや……あんたらを排除しようって。彼女に近づく気を起こさなくなるまで傷めつけたる!」

咲「………」

泉「これで分かったか?これから私はあんたに制裁を加えるつもりや」

咲「………」

泉「もちろん、高鴨も後で傷めつけたる」

泉の身勝手な言いぐさに、咲は唇をかみしめる。


1、誰とも関わりたくない
2、高鴨穏乃に手を出すな

安価下

咲「……高鴨さんにまで手を出さないで」

泉「ふん。自分が危ないって時に他人の心配か?とんだ偽善者や。むしずが走るわ」

咲はそっと周囲を見やり逃げ道を探した。
明かり取りの窓は天井近くの高い位置にあり、とても脱出口には使えない。
この建物唯一の扉は、揺杏の背後だ。

揺杏「悪ぃな。あんたに恨みはないけど、これもスポンサーの意向ってやつでね」

揺杏「あたし達グループは、泉の頼みで気に入らない奴をボコって金をもらってんだ」

咲「………」

揺杏「忠告しとくけど、人に話しても無駄だぜ?信じてもらえねーよ。何せ泉は先生の覚えもめでたき優等生ってやつだからな」

揺杏「こいつはずるい奴なんだ。自分では手を汚さず、汚いことは全てあたしらにやらせる」

揺杏「ま、もっともあたし達も泉には色々働いてもらってるからお互い様だけどな」

泉「共生関係ってやつやな。優等生の私と、はみ出し者のあんたらのな」

揺杏「で、泉。今回はどこまでやりゃあ満足?」

泉「そうやな。由暉子の近くを歩く気も失せるほど徹底的に傷めつけてやってくれや」

揺杏「やれやれ、怖いねえ」

呆れたように溜息をつくと、揺杏は無造作に咲に向かって手を伸ばしてきた。

人数や体格差を考えても、彼女らには適わないことは分かっていた。
しかし精一杯抵抗しないことには咲の気がすまない。

タイミングを見計らって、近づいてきた揺杏の顎に頭突きを食らわす。
見事にカウンターになったのか、あっけなくよろめいて揺杏は尻もちをついた。
咲を舐めきって油断していたのだろう。泉もあっけにとられて立ち尽くしている。

このチャンスを逃さず、咲はそのまま素早く立ち上がり、
出口に向かって走った。

揺杏「この野郎、やりやがったな……」

表情を消した揺杏が呟く。
その声に追い立てられるように、咲は物置を飛び出した。


建物を出ると、いつの間にか陽は落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。
人気のない奥まったこの場所に灯りとなる物はない。
うっそりと茂る木々の葉陰から届く星明りだけでは、足元も定かではない。

そういえば、今夜は新月から三日目の夜。
夜空にかかるのは、ようやく顔を出したばかりの、折れそうにか細い朏(みかづき)。
夜闇を照らす月明りの恩寵も、今晩は望めそうにない。

揺杏「待て!」

周囲の目をはばかってか、押し殺した怒りの声が咲を追う。
灯りのない夜道を行かねばならない条件は同じだ。
咲はもと来た道と思われる方角へ、やみくもに駆け出した。

咲を呼ぶ声が遠くなり、逃げきれるかもしれないと安堵しかけた直後。
突然、脇腹に衝撃を受けた。

咲「ぐっ!」

衝撃の勢いのまま、咲の体はもんどり打って地面に転がる。
痛みをこらえて見ると、見覚えのない少女が咲の体を抑えこんできた。
潜んでいた少女に横合いからタックルを仕掛けられ、倒されてしまったようだ。

咲(別の場所にも仲間を潜ませてた――――?)

立ち上がって逃げる間もなく、今度は別の少女に背中にのしかかられ、
咲は抵抗できないうちに取り押さえられた。

「捕まえたぞ泉。こっちだ!」

やがて、泉と揺杏が追いついた。

泉「残念やったな、宮永。何かの時の用心に見張りを残してあったんや」

揺杏「よくも、あたしに舐めた真似してくれたな」

咲「……っ」

揺杏「たっぷりと礼はさせてもらうからな……」


―――――その時。


穏乃「――――咲!」

咲「……あ……」

穏乃「咲に何やってるんだよ、お前ら……」

突然現れた穏乃は、咲の乱れた着衣の様子を目にして、咲の身に何が起きたのか察したようだ。
剣呑な眼差しで泉と揺杏をにらみつけた。

穏乃「転校生を呼び出して乱暴?格好悪いことしてるな」

泉「だから?宮永を助けて私らとやり合う気か?こっちの方が人数多いねんで」

穏乃「泉、私が強いの知ってるだろ?素人相手なら例え複数でも負けないぞ」

泉「……知ってるで。あんたが道場に通ってたのは聞いた」

穏乃「ケガしたくないだろ?先生には言わないでやるから咲を離しなよ」

泉「………」

穏乃「咲、探したんだぞ」

咲「え……?」

穏乃「ユキと帰ろうとしたら、咲が泉と歩いてるのを見かけたんだ。そしたらユキが校門の前で咲を待とうって言いだしてさ」

穏乃「で、校門で待ってたんだけど、いつまでたっても咲が現れないから探しに来たんだよ」

穏乃「まさか、こんなことになってるとは思いもしなかったけどな……」

咲「高鴨さん……」

穏乃「泉、私がキレないうちに咲を離して立ち去りなよ!」

泉「………」

言われた泉の目が、先ほどまでと比べものにならない冷ややかさをたたえている。
咲はその目に不穏なものを感じ取る。


1、穏乃も狙われているから注意して
2、自分の身を守ることだけ考え、黙っている

安価下

咲「高鴨さん、あなたも狙われてるから気をつけて」

泉「うるさいわ」

途端、頬を泉に叩かれる。

咲「ぅ……っ」

穏乃「咲!……泉、咲に何するんだよ!」

怒りに顔を歪めながら穏乃が叫ぶ。
息を詰め、次に何が起こるかと緊迫した空気が流れる中。

―――――風が、吹いた。

その瞬間、咲は訳もなくぞっと鳥肌を立てた。

咲「……な、に?」

変わったことは何もない。なのに何故か違和感を感じる。
何が自分の気をひいたのかと、咲は周囲をそっと見渡してみた。

灯りも見えず、文目も分からぬ夜闇に沈む、新月の夜。
特に変わったものが、咲の知覚に残った訳ではない。
それでも何かが引っ掛かった。

この異様な圧迫感。何か異質の気配を感じる。
とてもヒトの持つものとは思えない、なにかの気配―――――

咲「……っ」

これ以上ここにいたくない。
今すぐ、この場を離れなければ。

はやく、はやく。

咲の緊張が極限に達したその時。
何かが枯れた小枝をぱしりと踏み折るかすかな音が響いた。

普段なら聞き落すような小さな音だったが、
緊張に神経を高ぶらせた、その場にいる全員の耳に届いた。

揺杏「……誰かいるのか?」

真っ先に反応したのは揺杏だった。
音のした方に向かって誰何の声をかけたが、その問いに応える者はいない。

揺杏「おい、誰か。行って確認してこい」

「え……は、はい!」

命じられた少女が慌てて動いた。
びくびくした様子で藪をかき分ける少女の背中が、暗がりにまぎれた時。

咲の耳に、ひゅん、という、
ムチか何かが空気を切り裂くような鋭い音が聞こえた。
その直後。

「がっ……!」

喉の詰まったような短い叫びが上がった。
雨粒が木の葉をたたくような濡れた音と、重いものが倒れる音が、それに続いた。


―――――それきり、物音は絶えた。


揺杏「……おい、どうした?何があった?」

泉「揺杏、これはいったいどういうことなんや……?」

揺杏「分かんねえ。……何とか言え、おい!」

揺杏の再度の呼びかけにも応えはない。
異常な事態に、横で見守る泉の顔も、恐慌寸前といった具合に引きつっている。

何かが地面を這いずるような重く湿った音が、
今度は別の方角から聞こえた。

咲「……!」

泉「ひっ」

穏乃「今の音は、何……?」

緊迫した声音で問う穏乃に応えられるものは、誰もいない。
咲たちはいつの間にか、得体の知れぬものに囲まれていた。
おののき、息を詰め、為す術もなく立ち尽くしている。

「……わああ!」

「も、もう嫌だあっ!」

極度の緊張に耐えられなかったのか。
パニックに陥り、怯えきった悲鳴を上げた少女たちは、身をひるがえして各自ばらばらの方角に駆け出した。

揺杏「お前ら、待てっ……」

穏乃「うかつに動いちゃ駄目だ!」

二人の制止も耳に入らない様子で、
やみくもに駆け出した少女たちの姿が闇に飲まれた直後。

「ぎゃっ……」

「ぐあっ!」

短い叫びを残し、少女たちの気配は次々と途絶えていった。

咲「……っ」

静まりかえった林の中で。
緊張に速くなる咲たちの息遣いがやけに大きく聞こえる。

泉「な、何や!?いったい何なんや、これは!」

穏乃「何が起きてるのか分からないけど、どうやらヤバいことになってるみたいだな……」

咲「………」

穏乃「得体の知れない、嫌な気配を感じる。まるで獣の檻に入れられたみたいなヤバい感じだ」

泉「そ、そんな……!」

穏乃「ここは皆で協力しよう。気配を探ってたけど、向こうの方角からは嫌な気を感じない」

穏乃「逃げ道があるとしたらあの方角だけだ。私がしんがりを引き受ける。合図したら、そっちに向かって走れ!」

泉「あんたの言葉なんて信用できるわけないわ!私らを囮にして自分だけ逆方向に逃げるつもりやろ!」

穏乃「私はそんなことしない!」

咲「………」

穏乃「咲も、私を信じられない?」


1、穏乃を信じる
2、他人など信用できない

安価下

咲「……信じるよ。高鴨さんを」

穏乃「咲……!よし、それじゃあ行……」

穏乃の合図が終わらぬうちに、咲たちの右側の藪の中を何かが移動してくる物音がした。
ざざざ、と下生えをかき分けながら、かなりの速度で何かが近づいてくる。

泉「こ、こっちに来るで!」

咲「間に合わない……」

穏乃「!来るぞ!」

泉「ひ、ひいっ……!」

ポケットにひそませたナイフを震える指で取り出した泉が、恐怖のあまり暗闇に向かってそれをやみくもに振るう。
制止の言葉をかけようと口を開きかけた穏乃の眼前を、黒い影が風のように走り抜けた。

穏乃「うわっ!」

咲「……!」

正体の分からぬ襲撃者から穏乃を守ろうと、咲は無意識のうちに動いていた。
危ないと思った瞬間、前方にたたずむ穏乃の腕を掴み、思い切り引き寄せた。

穏乃「わっ!」

バランスを崩した穏乃が咲に倒れかかる。
支えきれず、咲と穏乃は二人して地面に転がる羽目になった。

それが幸いした。

倒れ込んだ二人の頭上を薙ぐようにして、何かが通り過ぎていく。
獣じみた息づかいが、咲の首筋を舐めるようにしてかすめ過ぎる。
得体の知れないものの気配を至近に感じ、咲の背筋が凍りつく。

揺杏「……悪く思うなよ。泉」

泉「なっ、揺杏!?何を……っ」

それまで無言で事態の成り行きを見守っていた揺杏が、泉の背中をどん、と突いた。
よろめいた泉にさっと背を向けると、揺杏は真っ先にその場から逃げ出した。

泉「ひっ……」

黒い影に向かって突き飛ばされた泉の姿が、咲たちの視界から消えた。

穏乃「泉!?」

泉「――――ぎっ!」

穏乃の叫びに応えるように、気配の消えた方から、
断末魔のような短い悲鳴が上がる。


―――――それきり、声は途絶えた。


穏乃「……咲。私について来て。離れるなよ」

咲「………」

周囲の気配を探りながら、穏乃が先に立って歩き出す。
しばらく行った所で、むせ返るような匂いが鼻を掠めた。
血臭だった。

穏乃「……!」

目を凝らし、血臭の元をたどれば、その先には血なまぐさい光景が広がっていた。

うつぶせに倒れた泉の身体から、大量の血があふれ流れている。
不自然な体勢で投げ出された泉の四肢はぴくりとも動かず、彼女がとうに命を失っていることを伝えた。

そして、その泉の胴体におおい被さるようにして、何かがうごめいていた。
何かを咀嚼する湿った音が、影と泉の体をつなぐ隙間から断続的に響く。
それが泉の血と肉をすする音だと気づいたのは、しばらくしてからだった。

あまりにも現実離れしたその光景に、
咲は足元が崩れるような頼りなさとめまいを感じた。

穏乃「咲、危ないっ!」

穏乃の叫びに我に返ると、咲の眼前にはすでに影が肉迫していた。
避ける間もない。

咲「……っ」

穏乃「咲ーっ!!」

物凄い力に掴まれ、咲の身体が宙に浮く。
恐ろしいスピードで穏乃の声が遠ざかっていく。





しばらく運ばれた後、地面に引き倒される。
後頭部を打ち付け、目の前に火花が散る。

脳しんとうを起こしてかすむ視界に、
咲を抑え込む影の、赤く輝く一対の目が飛び込んできた。

狂気じみた目だった。
しかし何よりおぞましかったのは、その目の中に、獣にはあり得ない知性のかけらを感じたことだった。

咲「……っ」

これは、ただの獣ではない。
狂気に侵されているとはいえ、人と同じく何がしかの知性をそなえた生き物なのだ。
咲の推測を裏付けるように、両肩を掴むその感触は、確かに人の指先のようだった。

今日はここで終わりです。
安価にご協力ありがとうございました。

これバッドエンドもあるんですかね?
少なくとも咲とユキとシズは死なないんかな

穏乃「咲―――っ!!」

遠くで穏乃の呼び声が聞こえる。
しかし、咲は動くことが出来なかった。

咲「あ……」

獣臭い息が、仰向いた無力な首筋にかかる。
このまま喉を食い破られて殺されるのかと全身に震えが走った時。

―――――ギャアアアア!!

闇をつんざく獣の絶叫が、咲の鼓膜をたたいた。
咲の体を押さえていた影が退き、のたうちながら暗がりの中へと遠ざかる。
獣の咆哮が、断ち切られるような音とともに止んだ。

咲はようやく動くようになった上体を起こした。
ざざざ、と咲の倒れた方に向かって何かが近づく音がする。

咲「……!」

別の獣がふたたび咲を襲いに来たのかと、
身を強張らせたその時。

白い影が、咲の眼前に音もなく降ってきた。

咲「え……?」

―――――人、だった。

その白い人影の手元から、銀光が闇を裂いて閃き、一瞬後に黒い影を薙いだ。
耳を聾する咆哮に、重い物体が地に落ちる音が続く。

静かで無駄のない動きで人影は倒れた影に近づくと、
止めを刺すように手にしたものを振り下ろした。

……あたりに静けさが戻る。

白い人影が手にしていたのは長剣だった。
不思議なほの白い輝きをみせる刀身は両刃で、日本刀のような反りもない。
その長剣をゆっくりと引き抜くと、人影は、ひゅっと風を切って刃を一閃させた。
それは、刀身についた血を払う動作のようだった。

研ぎ澄まされた刃にわずかに残るくもりも消え、長剣は完璧な美しさを取り戻す。
見たこともない剣の美しさに魅入られ、咲は目が離せなくなる。
人影がいつの間にかこちらを見ていることに、ふと気が付いた。

??「………」

目に入ったのは、闇の中で月光のように白くけぶる、銀の髪。
そこに立っているのは、外見上は咲と変わらぬただの少女のように見えた。

感情の読めない、硝子のような眼差し。
意思や欲望といった感情をともなわない、不思議に透明で純粋な殺意を、少女から感じる。

少女は手にした剣を何の気構えも見せず、咲へと向けた。
蒼刃の硬く鋭い輝きがひらめき、咲の喉元に突きつけられる。

咲「……!」

あとわずか数ミリ動かすだけで、たやすく咲の命を奪える凶刃の存在に、身じろぐことさえ出来ない。

―――――なのに、どうしてか恐怖を感じない。

少女の持つ、野生の獣が発するような自然で純粋な殺意のせいかも知れない。
狙い定めた獲物の力を計るように、咲を見つめる少女の眼差し。
生きるため、ためらいも感傷もなく、命を奪うことのできる生き物の目だ。

ただ咲だけを視界に入れた瞳の中に、
初めて感情のうつろいらしきものが見えた。

??「あなたは、誰?」

少女の場違いなまでに静かな声が投げた問いに、
咲は思わず目をみはった。

??「あなたは≪彼女ら≫の一人?――――匂いがする」

咲「え……?」

??「しかし、これは……あなたは何者?」

少女の詰問の意味が理解できず、咲は何も答えることが出来なかった。


穏乃「――――咲!!」

少女と咲の緊張を破るように、穏乃の声が響いた。
咲に駆け寄ろうとして、少女の存在に気が付いたようだ。
穏乃は咲の喉元にすえられた長剣を見て顔色を変える。

穏乃「何だよ、お前!その物騒なものを下ろして咲から離れろ!」

咲が穏乃の声に反応して動いた拍子に、剣先がわずかに肌に触れた。
ちくりと、一瞬だけ灼けるような熱い痛みを感じた。
続いてそこから一筋の血がつたい落ちる感触。

??「………」

少女の目つきが変わった。
咲を見つめる瞳の中に、明確な意思を持った殺意が宿る。

??「あなた、≪ニエ≫だね」

咲「ニエ……?」

ニエ――――贄。
不吉な響きを帯びた、聞き覚えのない単語。

??「贄ならば――――殺す」

咲「……!」

理解を超えた少女の言動に、咲は成す術もなくただ呆然と、
自分に向けて振り上げられた剣先を見つめた。

穏乃「咲……っ!」

殺される――――そう思った瞬間。
少女の構えた剣の刀身を弾いて、一条の銀光が走った。

??「……!」

俊敏な動きで飛びすさりながら、少女は再び喉元狙って襲い掛かる銀光を長剣で受けた。

―――――キィンッ!!

硬い金属同士がぶつかり合う音が響き、一瞬白い火花が散る。

??「……あなた」

少女は構えを取りながらすっと目を細め、咲の上方を睨んだ。

???「今、彼女を殺させるわけにはいきません。あなただけには、ね。……シロ」

突然、聞き覚えのない声が咲の頭上から降る。
慌てて上空を仰いだが、咲の目には暗い夜空と風に揺れる葉陰の黒いシルエットしか見えない。
しかしそのどこかに何者かが潜んでおり、その人物はどうやら咲を救ってくれたらしい。

声はどこか親しげな囁きで、咲を殺そうとした少女を≪シロ≫と呼んだ。
シロ――――それが、この銀の髪の少女の名前なのだろうか。

???「こうして逢いまみえるのは何年振りでしょうね……シロ」

シロ「………」

???「今日こそ、あなたを狩る……!」

ざっと木々の枝が揺れる音がして、再び中空に鋭い殺気の込められた銀光が閃いた。
シロと呼ばれた少女が、剣を立ててそれを受ける。

―――――ギィンッ!!

打ち合わされた金属から、白い閃光が飛び散る。
シロが手にするのとよく似た形の長剣を操るシルエットが、瞬間的に浮かび上がった。

シロは打ち合わせた剣先をすべらせ、その攻撃を受け流す。
なめらかな動きで身を翻したシロはただちに反撃を加える。
シロに劣らぬ俊敏な身のこなしで、咲を救った者はシロの攻撃を弾き返す。

そのまま数撃打ち合った後、二つの影は互いに飛びすさった。
数舜のにらみ合いの後、再び斬り結ぶ。
互いの攻撃に込められた殺意と技量は本物で、常人ならひとたまりもなく命を落としていると知れる。

立ち入る隙のない戦いに目を奪われ、咲も穏乃も息をするのも忘れて見入った。
咲たちの見守る中、正体の知れぬ二人の戦いの背後で、繁みが揺れた。

咲「……!」

その不自然な揺れに目が止まり、咲はふと瞳を凝らす。
自分を襲った不気味な影がそこにいると気づき、咲は息を呑んだ。

影は、あのシロという名の少女を狙っているようだ。
互いの動きのみに気を張っている彼女らは、背後のその動きに気が付かない。


1、シロに危険を知らせる
2、黙っている

安価下

咲「危ない!――――後ろ!」

シロ「!!」

咲は思わずシロに向かって警告の叫びを発した。
自分がその少女に殺されかけたことも、その時は頭になかった。

咲の声に興味をひかれたか、影は対象を変更して、咲に向かって動き出した。
素早い動きだった。逃れる間もない。

咲「……!」

真紅の目が真っすぐ向かってくるさまを、
咲はその場から動くことも出来ず、呆然と見つめた。

―――――白光が一閃し、咆哮が上がる。

影は真っ二つに断ち斬られ、傍らの繁みに転がった。
咲は驚きに目を見張る。
咲の命を狙っていたはずのシロが、咲を守るために影を斬り捨てたのだ。

シロ「………」

シロ自身にも、その行動は思いがけないものだったのか。
彼女の周りに張りつめていた隙のない鋭さが、ほんの束の間、ほどけた。

シロの隙を見逃さなかった相手が、背後から容赦のない斬撃を繰り出した。
とっさに身をひねり攻撃を受け止めたシロだったが、
体勢が悪すぎたのか勢いを殺しきれず、衝撃をまともに受ける。

シロの手から弾き飛ばされた長剣が白い軌跡を描きながら舞い飛び、
咲の目の前の地面に深々と突き刺さった。

獲物を失ったシロを狙って、さらに容赦のない一撃が襲う。
剣光が閃いた。
わずかに避けきれなかったシロの肩から鮮血が散る。

咲「……!」

咲の頬にもその血が数滴かかり、鮮血の触れた箇所が熱くなった。
頭の中が真っ白になる。
自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。

熱い。とても熱い。
少女――――シロの、血の触れた場所が、灼けるように熱い。

シロはすでに冷静さを取り戻していた。
傷を負ったと感じさせないなめらなか動きで身をかわし、それ以上の追撃を許さない。

シロ「………」

咲「あ……」

感情の読めないシロの瞳が、一瞬だけ咲を射抜くようにとらえ、そのまま逸らされる。
音もなく身を翻すと、一瞬の跳躍により、背後の闇に呑まれるようにシロは姿を消した。

???「逃がさない……!」

シロを追い、同じく獣めいた素早い身のこなしで、咲を救った者も姿を消した。
少女たちが去った後に残されたのは、地面に墓標のように突き立った一本の長剣だけだった。

触れようと差し伸べた指の先で、シロの長剣が刀身全体に帯びていた白い光を失い、
みるみるうちに色あせ始める。

驚いて見守るなか、光を失うと同時に剣は存在感を失い始め、その形も幻のように薄れて消えていく。
最後にはすべて大気の中に溶け込むように、消失した。

穏乃「何だったんだ、あいつら……」

咲「………」

穏乃「でも、結果的にあいつらに助けられたみたいだな。おかしな気配が綺麗さっぱりなくなってる」

咲「………」

穏乃「どうしたんだ、咲?」

咲の目は地面のとある一点に吸い寄せられていた。
剣の突き立った跡に、何かが落ちている。

手のひらに握り込めるほどの黒い小さな塊が、
剣が消えるまで何もなかったはずの場所にぽつんと落ちていた。

黒い結晶のように見える。
表面の所々に磨かれたような艶を帯び、漆黒に濡れ光っている。
美しい石だったが、目が離せないほどこの石に惹かれるのはなぜか、咲にも説明がつかない。

ためらいがちに手を伸ばし、咲はそっとそれを拾い上げた。
石とも金属ともつかぬ不思議な感触だった。
咲が触れた途端、脈打つように石が淡い白光を放ち始める。

咲「……?」

光を帯びた表面に、何かの文様が浮かび上がる。
よく見ようと目を凝らしたとき、突然背中を叩かれる。
驚きのあまり咲は石を落としてしまう。

穏乃「咲……?その石は何なんだ?」

咲の手からこぼれ落ちた石を、穏乃が何気なく拾い上げた。

穏乃「きれいな石だな」

石は既に光を失い、何の変哲もない、ただの鉱石のように見えた。

穏乃「これがどうかしたのか?」

咲「その石が、剣が刺さっていた場所に落ちてたから……」

穏乃「なるほど……何かあいつらに関係あるのかも知れないな」

穏乃「というか、あんな奴らに関わってたら命がいくらあっても足りやしない」

咲「でもこの石が、何が起きているのかを知る手がかりになるかも知れない……」

穏乃「うーん、確かに」

そう言って穏乃は咲へと石を差し出した。
咲の手のひらに触れると、石は再び淡い光を取り戻した。
段々と光が弱まり、消えていくのを確認しながら、咲は石を制服のポケットへとしまった。



穏乃「……咲!」

穏乃の切羽詰まった呼び声に、咲は顔を上げた。
いつの間にか林の向こうに移動したらしく、穏乃の声はかなり遠くから聞こえる。

咲が走り寄ると、穏乃は青ざめた顔を上げて言った。

穏乃「泉だ……」

咲「……!」

穏乃が指さす先を見ると、胸元を切り裂かれ、獣に喰い荒らされたような、無残な泉の遺体が転がっていた。
吐き気をもよおす濃密な血臭にむせ、口元を押さえながら、咲は物言わぬ骸から目をそらした。

穏乃「夢でも見てたような気がするけど、これは現実なんだな……」

穏乃「人が殺されたなんて言っても誰も信じてくれないだろうけど、ここに確かな証拠があるんだ」

咲「………うん」

穏乃「誰か大人に話して、警察を呼ぼう。咲は誰に相談したらいいと思う?」


1、担任に相談する
2、誰にも相談しない

安価下

咲「……担任に相談しよう」

穏乃「うん、それがいいな。じゃあ行こう、咲」




担任を引き連れ、再び泉を見つけた場所に戻った時。
咲たちはそこに信じられない光景を見ることになった。

担任「……ふざけないで!全く、冗談にも程があるわ!」

担任の怒りの言葉も、穏乃の耳には届いていない様子だった。
枯れ木や下草、湿った土や石塊が転がる以外は何もない地面の上を、呆然と凝視している。
咲も信じられない思いで辺りを見渡した。

何もない。
そこには泉が確かに横たわっていたはずなのに、今は血の一滴すら落ちていない。

どこへ消えた?
あの大量の血痕も、泉の遺体も。
いったいどこへ?

穏乃「こんなことあるはずない!ちゃんとこの目で確かに見たんだ、泉の死体を!」

担任「いい加減にしなさい!高鴨さん、今回の悪戯はあまりにも悪質よ。人が殺されたなんて……」

穏乃「そんな……」

担任「とにかく、学園祭を前に無用な騒ぎを起こしたくない。このことは先生の胸に収めておくわ」

咲「………」

担任「だから、もうこんな人騒がせなことはしないで頂戴!分かったわね!」

早く帰宅するように言い捨てると、担任はいらいらとした足取りで校舎へと戻っていった。

穏乃「……なあ、咲。私たち確かに見たよな。あの血まみれの、泉の死体を」

咲「……うん」

咲はそっとポケットに手を当てた。
かすかな温もりを持つ石の膨らみが、指先に触れる。
咲はふたたび石を取り出した。

手のひらに乗せた黒い石に咲が意識を集中させると、
石はやがて脈打つような淡い光を発し始めた。

穏乃「発光してる……」

不思議そうに穏乃が石をつまみ上げると、光は急速に失われた。
ただの黒い鉱物に戻ったそれを、しばらく熱心に見つめていた穏乃だったが。
やがて静かな声でつぶやいた。

穏乃「……そうだな。これがある限り、あれは夢じゃなかったと思える」

咲「………」

穏乃「これ以上ここにいても仕方ない。今日の所は帰ろう」

咲「うん……」




咲たちが校舎に戻ると、そこには嘘のように平和な情景が広がっていた。
かなり遅い時間になっていたので、学園祭の準備に駆け回っていた生徒のほとんどは既に帰宅したようだ。
まだ居残っていた幾人かが、見回りの教師に校内を追い立てられていく。
夢から覚めたばかりのような、ぼんやりした表情で穏乃はあたりを見回した。

穏乃「こうも普通だと、さっきまでの事がますます夢だったように思えてくるな」

咲「そう、だね……」

校門を出たところで足を止め、穏乃が口を開いた。

穏乃「……私さ、咲」

咲「え……?」

穏乃「咲が黙って引っ越したこと、私を忘れてしまったことが悔しかった」

咲「………」

穏乃「でもさ……またあの頃のように、咲と仲良くしたいって思ってるから!」

咲「……うん」

照れたように大声で言った穏乃の言葉に、咲もほんのりと頬を桜色に染めながら頷いた。

穏乃「じ、じゃあそろそろ帰るよ。また明日な、咲」

そう言った穏乃は、校門前で待つ由暉子のもとに駆け寄った。

由暉子「穏乃ちゃん、どうかしたんですか?ずいぶんと顔が赤いですけど」

穏乃「い、いいから早く帰ろうユキ!」

不思議がる由暉子の背を強引に押して、穏乃は慌ただしくその場を立ち去った。
しばらく穏乃の背中が遠ざかるのを見送ったが、
やがて咲も姉の待つ我が家に帰ろうときびすを返した。

咲「ただいま……」

小声でつぶやきながら扉を開けると、照が玄関先で待っていた。
照は咲の顔を見るなり腕をつかみ、無言でリビングへと連れていく。
薬箱と濡らしたタオルを用意した照は、咲の顎を掴んで傾けた頬をタオルでぬぐった。

咲「つ……っ」

叩かれた跡に触れられ、忘れていた痛みがよみがえる。
思わず顔をしかめる咲を見て、照が眉をひそめた。

照「よく冷やしておかないと。明日は腫れ上がってしまうからね」

そのまま顔を冷やすよう指示し、土で薄汚れた咲の制服を脱がせ、
咲の体に怪我がないか確認していく。

照「ん……、他は大丈夫なようだね」

咲「ありがとう、お姉ちゃん」

照「一体どうしたの?何があったの、咲?」

咲「……それは」

自分でも信じられないような、不可解な出来事の連続。
こんな訳の分からない異常な事態を姉に話すことはためらわれた。


1、大したことじゃないから平気、とごまかす
2、嘘をつきたくない。何も話さない

安価下

安価が決まったところで、今日はここまでにします。
ご協力ありがとうございました。

>>67
選択肢を誤ると、主人公の咲さんでもころっと死んじゃったりします。

今は何を話しても、嘘をつくことになりそうだ。
何も言えず、咲は黙ってうつむいた。

照「……話したくないようだね。まあ、無理には聞かないことにする」

咲「ごめんなさい、お姉ちゃん……」

照「ただし、どうしても一人で解決できない事があったら、すぐに私や良子さんに相談すること」

咲「うん。分かった」

照「転校初日で疲れてるだろうし、今日はもうお休み」

咲「うん……お休みなさい。お姉ちゃん」

自室に戻ると、着替えてからベッドに転がるように横になり、明かりを落とす。
そのまま咲は夢も見ないほど深い眠りに落ちた。





次の日も目覚めも、あまり快適なものではなかった。
朝の光の下では、昨日の非現実な出来事はますます夢のように思える。

照「おはよう、咲。昨夜はよく眠れた?」

咲「うん……」

先に食卓についた姉に促され、咲は照の向かいの席に腰を下ろす。
朝食を素早く平らげると、咲は重い足を動かして学校へと向かった。

校舎へと足を踏み入れる直前、突然肩をたたかれた咲は驚いて振り向く。
そこには穏乃が神妙な顔つきで立っていた。

穏乃「おはよう、咲」

咲「おはよう……高鴨さん」

穏乃「少し話があるんだ。――――泉のことで」

咲「……!」

穏乃「職員室で確認してきた。……どうやら泉、夕べ家に帰ってきたらしい」

咲「え……」

穏乃「今日は体調を崩して学校を休みだって」

咲「……それは……」

穏乃「泉が生きてたって言うなら、昨日私達が見たものは何だったんだ!?」

咲「………」

穏乃「何が何やらさっぱり分かんない。泉の死体が消えたと思ったら、無事に家に帰ってただなんて……」

穏乃「私達、誰かに担がされたのか?けどいったい誰がわざわざ私達をだまそうとするんだ?」

穏乃のつぶやきは、そのまま咲の疑問でもあった。
誰が、何の目的で咲たちにあんなものを見せようというのか。

泉の血塗られた姿が脳裏にまざまざとよみがえり、
その生々しさに咲は思わず体を震わせる。

泉は本当に生きているのか?
血の匂い。あの光景。
あれが現実でなかったとは、どうしても思えない。

そして何より、咲の心に強い印象を与えて去った、
≪シロ≫と呼ばれる少女の存在。

彼女のものだと思われる≪石≫が、咲の手元に残されている。
泉の無事を知らされた今となっては、本当にこれだけが昨日の怪事を証すものだった。

穏乃「あ、予鈴か……ともかく、ここで唸ってても仕方ないよな」

咲「………」

穏乃「咲。まだこの件に関わる気があるなら、昼休み私に付き合ってよ」

咲「え……?」

穏乃「咲が拾ったあの石について、調べてくれそうな人間に心当たりがあるんだ。今のところ、あの石だけが手がかりだからな」

生徒たちが急ぎ足に通り過ぎるのを見て、穏乃は気を取り直すように頭を振った。

穏乃「急ごう、咲」




教室前にたどり着くと、穏乃は扉に手をかけて勢いよく開けた。
咲も穏乃に続いて教室内に足を踏み入れる。

―――――その、瞬間。

ふと異様な感覚に襲われ、目をくらませた。
しばらく瞼を閉ざし、めまいが治まるのを待つ。
頭の中がしびれるような感覚は徐々に治まり、咲はほっと肩の力を抜く。

目を開いた咲は、授業前の平和な情景のなかで。
あり得ないものを見てわが目を疑う。

咲「……!」

楽し気に話し込む生徒たちの後ろ。
熱心にノートを写す生徒の隣。
そこに、立っていた―――――彼女が。

シロ「………」

生徒たちで沸き返る教室のなか。
シロと呼ばれたあの少女が、静かな面持ちでたたずんでいた。

射るような眼差しが、ただ咲だけを見据えている。
少女の唇がゆっくりと動いた。
ニエ、と。

―――――贄。

咲の心臓が、どくんと鳴った。

何故ここにシロがいるのか。
そして何故誰もシロに不審の目を向けないのか。

無視をしているのとは違うだろう。皆の態度に不自然な点は見られない。
その違和感のなさが逆に異様に映る。
クラスメイトの様子からは、まるで彼女の存在が目に入っていないかのような印象を受ける。

まさかそんな、と否定しかけ、
咲はその考えが真実に一番近いのではと思い直す。

穏乃「……咲?いつまでそこに突っ立ってるんだ?」

いぶかしげに咲の顔を覗き込む穏乃の肩ごし。
シロが音もなくこちらに近づいてくるのが見えた。
穏乃はシロの存在に気づいていない。


1、教室にシロがいると穏乃に警告する
2、直ちに教室から逃げ出す

安価下

咲「この教室に、昨日襲ってきたあの少女がいる……!」

穏乃「……!どこに!?私には何も見えないよ!」

やはり咲以外の者にシロの姿は見えないらしい。
伝わらぬもどかしさに、咲は思わず唇をかむ。

シロはゆっくりとこちらに近づきながら、何も持たない右手を中空に掲げた。
何の真似かと目を向けると、突然手のひら前方の空間が発光し始める。

咲「あ……」

驚き見守るうちに光は強まり、やがてその輝きは長剣の形を成した。
シロはその剣を、風切り音を立てて振るった。
剣先を咲に向けて構える。

咲「……!」

床を一蹴りすると、シロは一瞬で間合いを詰めてきた。
咲を斬り捨てようと、冷たい輝きが襲い掛かる。
辛うじてその一撃をかわすと、空を切った切っ先はそのまま背後のドアを薙ぐ。

咲「……っ」

恐ろしいほどの切れ味を見せ、ぶ厚いスチール製のドアがやすやすと両断される。
斬撃の勢いに、真っ二つに割かれたドアが音を立てて吹き飛んだ。

生徒A「きゃっ!」

生徒B「な、なに……!?」

ドア周辺にいた数人の生徒が悲鳴を上げる。
シロの姿が見えない彼女らには、何の前触れもなくドアが吹き飛んだように見えたのだろう。
誰もが呆然とした表情で、飛び退いた咲と崩れ落ちたドアを見比べている。

シロ「………」

息をつく間もなく、再びシロが咲を襲う構えを見せた。
シロの狙いは自分ひとりなのだ。
咲がこの場から離れれば、他に目もくれず、シロは咲を追うだろう。

咲「……!」

他の生徒たちを巻き込ませるわけにはいかない。
咲はシロが追ってくると確信し、教室を飛び出して廊下に出た。
そのまま全力で駆け出す。



シロから逃れるため、闇雲に廊下を駆け階段を昇るうちに、この校舎の最上階の踊り場にたどり着いた。
正面には屋上へと続く鉄製の扉があったが、その取っ手には鎖がかけられている。


1、踊り場を調べる
2、戻る

安価下

咲は踊り場を調べてみた。

屋上に人が訪れることは少ないらしく、埃がつもっている。
その床に、鉄製の水道管らしきパイプが落ちていた。
屋上のメンテナンスに来た者が忘れていったのだろうか。
身を守る武器になるかも知れないと、咲はそれを拾った。

扉は取っ手にかけられた鎖の先端が南京錠で留められており、引っ張ったくらいでは外せそうにない。
が、よく見ると南京錠は壊れかけているのか支柱が外れ、鍵がかかっていない状態になっていた。
これなら簡単に外すことができる。
咲は急いで鎖を解き、屋上への扉を開いた。



屋上へ出ると、そのまま扉を閉めようと振り返る。
そこに、剣を片手にたたずむシロの姿を見つけ、咲は凍り付いたように動きを止めた。

シロ「……逃がさない」

咲「……!」

感情の読めない静かな眼差しに射すくめられ、咲は動けない。
緊張に思わず握りしめた手のひらの中、鉄パイプの冷たい感触が咲を我に返らせた。


1、最後まで抵抗してみせる
2、諦めて大人しくする

安価下

訳も分からないまま、抵抗もせずに殺されるのは嫌だ。
咲は手にした鉄パイプを構え、怯みそうな心を何とか奮い立たせる。

シロ「……戦う意思があるの」

睨みつける咲に向かって、シロが動いた。
風切り音が咲の前を走り抜け、あっけなく鉄パイプは斬り落とされる。

咲「……っ!」

シロ「それでも私は、あなたを殺さなければならない」

咲に止めを刺すべく、シロは長剣を引いた。
そのまま咲の心臓をつらぬくつもりなのか。

―――――殺される、そう思った瞬間。
咲の胸に灼けつくような痛みが走り、弾けた―――――

シロ「……!」

咲を包むように、白い光の波が広がった。
咲の命を絶つはずだったシロの剣は、その光に触れると音もなく消滅した。

咲「……え……?」

白く灼けた視界の中、何が起きたのか理解できず、咲は呆然とその場に立ち尽くす。
一瞬にして剣を失ったシロが、顔を上げて咲を見た。

シロ「――――あなたは、……まさか」

初めて、シロの凍り付いた顔に感情が映る。
今の不思議な現象に、シロは咲以上の衝撃を受けているように見えた。
射るようなシロの眼差しに目をそらすことも叶わず、咲は息をつめてシロと対峙する。

シロ「なぜ彼女らの≪贄≫に、あなたが――――?」

咲「な、に……?」

シロ「答えて。あなたは全てを承知の上で彼女らの許にいるの?返答次第では、あなたを……」

静かな声の中、抑えられたシロの怒りを感じる。
夕べ初めて出会ったばかりの人間に、こんな理不尽な扱いをされ、怒りを向けられる覚えはない。
その瞬間。殺される恐怖よりも、怒りの感情が上回った。

咲「贄なんて、知らない!何のことか分からない質問に答える気なんてない……!」

シロ「……!」

咲の言葉に、シロの瞳が揺らいだ。
眼差しに映える怒りが影をひそめ、代わって何かを探ろうとする光が瞳に宿る。

シロ「あなたの名は……?」

咲「……咲。宮永咲」

シロ「咲……、宮永……咲」

シロ「……。今はあなたを殺さない。けれど、もしあなたが、このまま……」

咲「え……?」

咲はシロを見上げる。少女がなぜ咲を殺そうとするのか知りたいと思った。
なぜ咲を贄と呼ぶのか。少女が言っている≪彼女ら≫とは何者なのか……知りたい。
けれどシロは、咲が何かを語りかける前に、背を向けて立ち去る気配を見せた。

咲「待って!あなたは誰?どうして私のことを……」

シロ「……私の名はシロ」

咲「シロ……」

シロ「宮永咲。次の満月までに、あなた自身の選んだ道を示して」

咲「え……?」

シロ「あなたがいずれの道を選ぶのか。その答え如何では、私はあなたを……殺す」

咲「……!」

咲に鋭い一瞥を与え、そう宣言すると、シロは背を向けて去っていった。

満月の夜―――――?
確か、昨夜が新月から三日目の夜だったはず。
という事はつまり、次の満月までは、あと二週間足らずということか。


ふと誰かが呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、息を切らせた穏乃が立っていた。

穏乃「こんな所にいたのか、咲!探したんだぞ」

咲「高鴨さん……」

穏乃「いったい何だったんだ?いきなり教室のドアは壊れるし、咲は突然走っていくし……」

咲「……昨日出会った、シロという少女に追われてたの」

穏乃「……!やっぱり、またおかしなことが起こったのか……」

咲「………」

穏乃「とにかく、教室に戻ろう」

咲「うん……」




チャイムの音が昼の訪れを告げると、授業から解放された生徒たちは一斉に騒がしくなった。
昼を過ごすため、生徒たちはそれぞれ目的の場所に散っていく。
変わり映えのしないありふれた光景を裏切るのは、修理が終わるまで開いたままの、扉のなくなった教室の入り口だった。


穏乃「咲。石について調べてくれそうな人間に心当たりがあるって言ってただろ?その人、一学年上の人なんだ」

穏乃「その人なら私達の話を馬鹿にしないで聞いてくれる。どうする?話してみる気はあるか?」


1、会ってみる
2、会う気はない

安価下

話を聞いてくれそうな人なら会ってみてもいい。
咲は穏乃にそう答えた。

穏乃「よし、じゃあさっそく行こう!」



咲が穏乃に連れて行かれたのは、校舎とは別棟に独立して建てられた、りつべ女学園の図書館だった。
まだ時間が早いためか、図書室を利用しようとするものが少ないせいなのか。
真新しい館内には誰もいないように見える。貸出用のカウンターにも人影は見当たらない。

しかし窓際の一角に置かれた、資料検索用パソコンのうちの一台に電源が入っており、それは稼働中のようだった。
誰かが消し忘れて出ていったのか、それとも先客がこの館内にいるのだろうか?
しん、と静まり返った館内に躊躇なく踏み入ると、穏乃は遠慮のない大声で呼ばわった。

穏乃「おーい!話があるんです、出てきてください!」

??「……穏乃ですか。ちょっと今動けないので、あなたがこっちに来てくれませんか?」

上から下まで本がぎっしり詰まった書架が立ち並ぶ奥の方から、
少女の声が聞こえてきた。

穏乃「動けないって……大丈夫ですか?何かあったんですか!?」

穏乃があわてて声の方へ駆け寄る。
咲も穏乃の後を追って、書架の裏に回り込んだ。

穏乃「……何してるんですか?」

??「こんにちは、穏乃。見て分かりませんか?読書に決まってるじゃないですか」

書架と書架の間の床に、所せましと乱雑に積み上げられた書物の山。
その足の踏み場もない混沌の中心、床に座り込んでこちらを見上げる少女。
彼女がどうやら、穏乃が紹介したいと話した人物らしい。

彼女は書架の前に陣取り、周りの床に読みたい本を好き放題に積み上げて読書を楽しんでいたようだ。
手にした本を閉じると、少女は満足したようすで頷いた。

??「ふう。これで目的の本はすべて読破しました。……さすがに疲れましたが」

穏乃「まさか、また授業をさぼって朝からここで本を読んでたんですか?」

??「はい。今日は図書館を使う授業がないと知っていましたから」

穏乃「はあ……」

??「ところで、そちらの方は?」

咲「あ、私は……」

穏乃「彼女は宮永咲。昨日私のクラスに入ってきた転校生です」

??「――――咲?もしかして、その子は穏乃の昔話に毎回登場する、あの咲なんですか?」

穏乃「う……そ、そうです。咲はこの街に帰ってきたんですよ」

??「へえ……、あなたがあの、噂の咲なのですか……」

咲「噂……?」

??「あなたのことは穏乃から嫌というほど聞かされてきましたよ。一度会ってみたいと思ってました」

??「良かったですね、穏乃。大好きな幼なじみがまた戻ってきてくれて」

穏乃「べ、別に私はそんな……っ」

??「――――で、穏乃」

穏乃「はい?」

??「噂の幼なじみ見せびらかしに来ただけ、というわけでもないんでしょう?」

穏乃「あ、そうでした!私達、あなたに相談したことがあるんです」

穏乃「ええと、話せば長くなるんですけど……実は私達、怪奇現象に遭遇してしまって……」

ちょい中断します

穏乃が昨日の出来事を大まかに語り、咲がそれを補足する形で詳細を付け足した。

??「なるほど。ずいぶんと血なまぐさい話ですね……」

??「しかし話を聞くと、その泉という方の無事も怪しいものです」

穏乃「えっ……、それはどういうことですか?」

??「学校中の人間の意識を操作できるような人物が、渦中にいるかもってことです」

咲「……!」

??「泉さんのご家族も、記憶操作を受けている可能性は高いと思いませんか?」

言われてみればその通りだ。
咲たちの体験が現実で、泉の家族の記憶が幻という可能性もあるのだ。

穏乃「確かにその通りですね。誰かが私達を担いだって考えるよりそっちの方が自然だ」

??「ところで、あなた達の言葉を裏付ける確かなものが、何かひとつくらいは無いんですか?」

穏乃「はい。実はその証について、明華さんに相談したかったんです。……咲」

咲「うん」

咲はポケットから石を取り出し、明華と呼ばれた少女の前に掲げ見せた。
意識を集中させて咲が触れると、石は昼の明るい陽射しの下でも光り始めるのが分かった。

明華「これは驚きました……こんな風に発光する石なんて見たことありません」

明華「熱くはないんですか?妙な刺激や匂いは……あれ?石の表面に何か浮かんだような……?」

少女は眉根をよせて石に見入ったが、みるみるうちに光は褪せ、間もなく消えてしまった。

穏乃「どうですか、明華さん。この石について調べてみてくれますか?」

明華「確かに興味をひかれます。けど詳しく調べるとなると、石に関する権限を私に渡してもらうことになりますよ」

明華「よく知りもしない私に、大事な石を渡す気がありますか?」

咲「……はい。お願いします」

咲は明華に石を差し出した。
明華は手のひらに乗せられた石と、咲の顔を見比べた。

明華「信用してもらえて嬉しいです。私の名は雀明華。明華と呼んでください」

咲「宮永咲です」

明華「では咲、出来る限りの手を尽くして、この石について調べさせてもらいますね」

咲「よろしくお願いします」

明華はさっそく椅子へと腰をおろし、ポケットから取り出したルーペで熱心に石を観察し、記録を採り始めた。

明華「大きさは約3センチ。黒色、光沢あり、日光下での蛍光を認める……硬度と比重も調べなければ……」

穏乃「咲、出よう」

咲は穏乃に背中を押されて、そっと図書館を出た。

穏乃「ああやって集中し始めると、何を話しかけても上の空になるんだ。明華さん」

咲「研究熱心な人なんだね……」

穏乃「ところで咲、放課後の予定は?」

咲「え……?」

穏乃「私は放課後、泉の家を訪ねるつもりなんだ。昨日のことを問いただす」

穏乃「咲はどうする?」

咲「私は……」


1、一緒に泉の家に行く
2、まっすぐ帰る

安価下

咲「私は……まっすぐに家に帰るよ」

穏乃「……そっか。分かった」



放課後の訪れを知らせるチャイムが鳴り、咲の転校2日目が終了した。
今日は咲の掃除当番の日だと言われ、咲は割り当てられた清掃場所に向かった。

清掃も済み、道具を片付けて教室に戻る途中、咲は良子に声をかけられた。

良子「咲、ちょっといいですか?」

咲「はい」

良子「今朝の騒ぎの件、聞きましたよ。咲のクラスの教室のドアが突然壊れたそうですね」

良子「原因が分からないと、修理に来た業者も不思議がっていました」

咲「………」

良子「ドアが壊れたとき、一人だけ教室から出て行った生徒がいたとか」

良子「その生徒が、何か関わりがあるんじゃないかと担任の先生は考えているみたいでした」

咲「………」

良子「ここ最近、校内の雰囲気が良くないです。公にされてないですが、不祥事が何件か続いてます」

良子「このりつべ女学園は進学校で、素行の悪い生徒もそれほどいない」

良子「これまで表立って事件らしい事件がこの学園で起きたことはなかった。それがここ最近崩れ出した……」

良子「嫌な感じがします。咲もあまり一人で行動しない方がいいでしょう」

咲「……はい。良子さん」

良子「じゃあ、私の話はそれだけです。気をつけて帰りなさい」

咲に手を振ると、良子はそのまま立ち去った。

帰り支度を終えて教室を出ると、
外はすでに陽が陰りはじめていた。

ふと、校舎の中庭から何かの音が響いてきた。

咲「……?」

気になった咲は、草を踏み分け中庭の奥の方へと足を踏み入れる。
その時だった。

咲「―――――っ!」

突然闇の中から影が肉薄してきたかと思うと、咲の身体が地面に引き倒された。
後頭部を地面に打ち付け、目の奥に火花が散る。

脳しんとうを起こしてかすむ視界に、
咲を抑え込む影の、赤く輝く一対の目が飛び込んできた。

良子『嫌な感じがします。咲もあまり一人で行動しない方がいいでしょう』

先ほど良子に言われた言葉が脳裏をかすめた。
一人になるなと忠告してくれたいとこの言葉だが、時すでに遅しだった。

咲「あ……ああ……っ」

獣の刃が咲の首筋にかかるのと、咲が意識を失うのはほぼ同時であった―――――


―――――ざしゅっ!!


BAD END

>>117から

咲「私も、一緒についていってもいいかな……?」

穏乃「……!もちろん!じゃあ放課後にな」

咲「ありがとう」



放課後の訪れを知らせるチャイムが鳴り、咲の転校2日目が終了した。
今日は咲の掃除当番の日だと言われ、咲は割り当てられた清掃場所に向かった。

清掃も済み、道具を片付けて教室に戻る途中、咲は良子に声をかけられた。

良子「咲、ちょっといいですか?」

咲「はい」

良子「今朝の騒ぎの件、聞きましたよ。咲のクラスの教室のドアが突然壊れたそうですね」

良子「原因が分からないと、修理に来た業者も不思議がっていました」

咲「………」

良子「ドアが壊れたとき、一人だけ教室から出て行った生徒がいたとか」

良子「その生徒が、何か関わりがあるんじゃないかと担任の先生は考えているみたいでした」

咲「………」

良子「ここ最近、校内の雰囲気が良くないです。公にされてないですが、不祥事が何件か続いてます」

良子「このりつべ女学園は進学校で、素行の悪い生徒もそれほどいない」

良子「これまで表立って事件らしい事件がこの学園で起きたことはなかった。それがここ最近崩れ出した……」

良子「嫌な感じがします。咲もあまり一人で行動しない方がいいでしょう」

咲「……はい。良子さん」

良子「じゃあ、私の話はそれだけです。気をつけて帰りなさい」

咲に手を振ると、良子はそのまま立ち去った。

教室に戻ると、部活動や学園祭の準備に向かったのか、すでに教室内にほとんどの生徒は残っていない。
咲が鞄に教科書を詰めていると、帰り支度を整えた穏乃がそばにやってきた。

穏乃「咲、そろそろ帰ろう」

穏乃のその言葉に、周りにいた者がぎょっとした表情で咲と穏乃を見比べた。
昨日の険悪さが記憶に新しい彼女らの目に、仲良さげな二人の態度は不思議なものに映るのだろう。

穏乃「じゃ、いこう」

咲「うん」

周りの目など気にしない様子の穏乃と並んで、咲は教室を出た。




咲と穏乃は泉の家の前に到着した。
穏乃はインターホンをためらうことなく押す。

『はい。どなたですか?』

泉の母なのだろうか。
おっとりした女性の声がインターホン越しに応えた。

穏乃「泉さんと同じクラスの高鴨穏乃です。泉さんがお休みだったので、お見舞いにきました」

『まあ、娘のためにありがとうございます』

『せっかく来てくれたのに申し訳ないけど、実は泉、入院することになったの』

穏乃「え……入院!?どこの病院に!?」

『遠くの病院でね、この街の病院じゃないの。ちょっと持病をこじらせてね……』

『あの子、病気の姿を見せたくないから誰にも会いたくないって言うのよ。だから見舞いも勘弁してあげてね』

その言葉に、穏乃は声をひそめて咲にささやく。

穏乃「泉が入院するほど重い持病を持ってるなんて、聞いたことないぞ」

咲「………」

穏乃「何とかして泉の部屋に上がれないかな……」


1、あなたは嘘をついていると糾弾する
2、彼女に預けたものを返してほしいと頼む

安価下

咲はインターホンに向かって、娘さんに預けた大事な物を返してもらいたいので、
泉の部屋に上がらせてほしいと頼んだ。

『あらまあ、それじゃ上がってくださいな』

人の良い女性なのか、咲の言葉を疑うことなく、泉の母は咲たちを家に招き入れた。
泉の母は二階にある娘の部屋に二人を通すと、お茶の用意をすると言い残して階下に降りていった。

穏乃「咲、手際いいな。助かった」

咲「ううん。今のうちに部屋を調べよう」

穏乃「そうだな。泉が本当に家に帰ってきたなら、この部屋のどこかに鞄や制服があるはずだ」


二人は手分けして、部屋を探り始めた。
母親がお茶の用意をする間、部屋をくまなく調べた二人は、
泉がこの部屋に帰ってこなかったとの結論に達した。


穏乃「部屋に帰った痕跡が何もない……やっぱり、泉はあの時……」

咲「………」

『遅くなってごめんなさいね。ケーキとお茶を用意したから、召し上がってちょうだい』

娘が人知れず消えたことにも気づかぬ、泉の母の偽りのない笑顔。
それは泉の一家が何者かによる記憶操作を受けたという不気味な予想を裏付けていた。

咲と穏乃は泉の母に何もいう事が出来ず、しばらく家に滞在してから辞去した。

互いにかける言葉を無くしたまま、二人はそれぞれの家へ向かう分かれ道にたどり着いた。

穏乃「咲……正直いって、私は気味が悪い」

咲「………」

穏乃「殴ったりできる敵なら恐れたりしない。けど、敵の姿が見えない、こういうのは苦手だ……」

咲「……私も、怖い」

穏乃「そうだな……こんな訳のわからない事態、誰でも気味が悪いよな」

咲「うん……」

穏乃「いま肝心なのは、そんな気持ちに負けないってことなのかも……」

穏乃「――――よし!私たちは精一杯、自分に出来ることをしよう!」

咲「……うん。そうだね」

穏乃「じゃあな、咲。また明日」

穏乃は軽く手を振ると、咲に背を向けて歩き始める。
咲も町が暮色に沈む前に帰ろうと歩き始めた。

咲が家に着くと、姉はまだ大学から帰宅していなかった。
制服を着替える間もなく携帯が鳴った。

咲「はい」

照『咲、もう家に帰ってる?』

咲「お姉ちゃん……」

耳に馴染んだ姉の声を聞いて、咲は緊張していた肩から力を抜いた。

照『今日はサークルで遅くなるから、先に夕食をすませておいて』

咲「うん。分かった」

照『ごめんね、咲。新しい家でひとりにさせてしまうね。なるべく早く帰るつもりだけど……』

咲「ううん。気にしないでお姉ちゃん。じゃあ、サークル頑張ってね」



簡単な夕食を作って食べ、お風呂を済ませた後は、自室で宿題と自習に専念した。
照がなかなか帰らぬまま時間が過ぎる。

寝床につき、天井を見つめて姉の帰りを待つうちに、咲はいつの間にか眠りに落ちていた。
夢は見なかった。

今日はここまでです
基本的に何度BADENDを迎えてもやり直しますので、お気軽にお好きな安価を選んで下さいませ

朝の訪れを知らせる目覚ましの電子音とともに、咲はまぶたを開いた。
天気は上々でさわやかな朝だったが、ここ数日の出来事を思うと咲の心も晴れやかに、とはいかなかった。

照「おはよう、咲」

咲「おはようお姉ちゃん」

朝食を食べ終え、学校に行く準備が整うと、姉への挨拶を済ませて家を出た。



校門前で、同じく登校中だった穏乃が咲の方へ駆け寄ってきた。

穏乃「咲、おはよう」

咲「おはよう。高鴨さん」

穏乃「昨日は眠れた?私は何か色々考えそうになったから、家を出てその辺をしばらく走ってた」

穏乃「そしたらすっきりと眠れたよ。こういう時は案外体を動かすのがいいみたいだ。……あ、予鈴だ。急ごう咲」

咲「うん」

駆けだした穏乃につられ、咲も教室を目指して駆け出した。



その日の昼前。4限目の授業は科学だった。
科学の担当教師は戒能良子。
つまり従姉妹の良子が教鞭をとる授業を、咲は初めて受けることになる。

その日の授業内容は、実験。
第二科学室での講義となっていた。

良子「実験器具の取り扱いには注意してくださいね。特にガラス製の器具は割れやすいですから」

実験の内容と手順を黒板に記入し、良子は手際よく説明を行う。

良子「説明は以上です。では実験を始めます。今説明した器具を各班ごとに取りにくるように」

実験の準備を始めるため、生徒たちはそれぞれ役割を分担して動き始めた。

生徒A「転校生、あなたが取ってきてよ。ちょっとはクラスに馴染むよう皆の為に働いてよ」

咲「………」

生徒B「ちょっと、そんな言い方やめなさいよ」

生徒A「なによ、別にいいじゃない。さあ取ってきてよ、宮永さん」

生徒B「何であんたが指示してるのよ。偉そうに」

生徒A「なんだって!?」

席を蹴って、女生徒が立ち上がった。
女生徒の剣幕に驚いた他の班の生徒たちが思わず準備の手を休め、咲たちのテーブルに視線を向ける。

自分のことがきっかけで始まった口論だ。黙って見ているわけにもいかない。
咲は女生徒たちの間に割って入った。

咲「……待って」

生徒A「な、なによ。何か文句でもあるっての!?」

穏乃「やめなよ……!」

今にも咲に掴みかかりそうな女生徒の肩を掴んで、隣のテーブルにいた穏乃が割り込んできた。
咲の班のテーブルの周りに、生徒たちが物見高げな様子で集まってくる。
後ろの席で自分の班の実験準備を進めていた由暉子も、思案げな面持ちで騒ぎを見つめている。

良子「こら、何をやってるんですか。ケンカはやめなさい!」

もめごとに気づいた良子が騒ぎを止めようと、急ぎ足でそばにやってくる。

生徒A「うるさいな、高鴨さん。離してよ!」

怒りに任せて、女生徒は穏乃の手を勢いよく振り払った。
払いのけられた穏乃の手が、たまたま近くに立っていた生徒の腕に当たる。
運の悪いことに、その生徒は両手一杯に実験器具を抱え持っていた。

咲「……!」

咲の眼前で、生徒の腕から実験器具がすべり落ちるのが見えた。
落下の勢いを止めることができないと悟った瞬間。
咲の体はとっさに動いた。

穏乃の肩を掴んで背後に引かせると、咲の体は穏乃をかばうように前に動いていた。
すべり落ちたガラス製の試験管やビーカーが音を立てて科学室の床上に砕け散る。
鋭いガラスの破片があたりに飛び、その中のひとつが咲の手を切り裂いた。

咲「……っ!」

灼けるような痛みが手のひらに走る。
傷ついた箇所から見る間に鮮血が溢れ出し、指先をつたって床に滴り落ちた。
その様を穏乃は思わず言葉を無くして見つめていたが、あわてて咲の腕を持ち上げる。

穏乃「傷口を下に向けちゃ駄目だ!心臓より高くして、血の流れを止めないと!」

咲の手首を強くつかんで止血すると、穏乃は良子に向かって強い口調で言った。

穏乃「先生、私はこのまま咲を保健室に連れていきます」

良子「……分かりました。咲の事、任せましたよ。ミス高鴨」

良子「誰か、清掃道具を取ってきてください。……あ、手を切るので素手は止めなさい」

他の生徒に指示を飛ばす良子の声を聞きながら、
咲は穏乃に手を引かれ、保健室へと向かった。

訪れた保健室に人の気配はなかった。
保険医はちょうど席を外して不在なようだ。

穏乃「咲、そこに座って。私が応急処置する」

咲「え……」

穏乃「心配しなくても、怪我の手当ては慣れてるからさ」

咲が椅子に腰を下ろす間に、穏乃は慣れた手つきで薬品棚から消毒薬の瓶やピンセット、脱脂綿を取り出して机の上に並べていく。
咲の手を取った穏乃は消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、傷口についた血をぬぐい始めた。

穏乃「咲、私をかばってくれてありがとう」

咲「ううん」

穏乃「ガラスの破片も残ってない。傷も出血のわりには深くないし、これなら痕も残らない。後で保険医の先生に診てもらえば大丈夫」

傷口に止血用の薬を塗り、ガーゼをあてて包帯を巻くと、あっという間に治療は済んだ。

咲「ありがとう。随分と手際がいいんだね」

穏乃「ま、まあ慣れてるからな。じゃあ、そろそろ帰ろう」

咲の言葉にどこか照れた様子で、あたふたと穏乃が椅子から立ち上がった。
軽く頷いた咲も、椅子から立ち上がった。


――――――――――

4限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、午前の授業が終了した。
騒ぎはあったものの、その後も何とか授業は続けられた。

実験を無事に終わらせた生徒たちは、ほっとした様子で第二科学室を出ていく。
教室に戻る支度をしていた咲の元に穏乃がやってきた。

穏乃「咲、怪我の具合はどう?」

咲「大丈夫。痛みも治まったよ」

穏乃「そっか……よかった。ところで咲、お昼一緒に食べない?」

咲「うん。いいよ」

穏乃「じゃあ、さっそく行こう。明華さんも一緒なんで図書館で食べよう」



図書館の扉を開けた穏乃が、奥の書架に向かって呼びかける。

穏乃「おーい!明華さーん!」

その声に応えて明華が姿を現した。

明華「穏乃、待ってましたよ。ああ、咲も一緒なんですね」

咲たちの他に人気のない図書館の中。三人だけの昼食の時間は、不思議に咲を落ち着かせた。
この場所に漂う密やかな雰囲気のせいだろうか。書架と本の匂いも、咲は好きだった。
周囲に多くの見知らぬ人間がいる環境は、思ったよりも自分にストレスを与えていたのかもしれない。

明華「咲、あなたから預かった石の調査は続行中です。結果が出次第報告しますね」

咲「ありがとうございます」

穏乃「面白い研究材料が舞い込んで生き生きしてますね、明華さん。ところで何の本を読んでたんですか?」

明華「このりつべ市に関する伝承を一通りさらってました。最近興味がありまして」

穏乃「明華さん、相変わらずそういう小難しそうな本好きですね」

二人の話に興味深く耳を傾けていた咲に、目があった明華が笑いかける。
と、その時。

静寂を破って、息を切らせた一人の生徒が館内に足音高く踏み込んできた。
髪を染め、派手な化粧のその女生徒は、怒りに燃える眼差しを真っすぐに穏乃に据えた。

女生徒「高鴨!あんたがやったんでしょ!私の……私のコレクション、丸ごと消しやがって!」

穏乃「何のことだか覚えがないですね。証拠でもあるんですか?」

女生徒「ふざけやがって!こんなことが出来るのはお前と雀ぐらいしかいねえだろ!」

女生徒「学内ネット利用して荒稼ぎしてるんだってな。お前らコンビは有名なんだよ!放課後、北校舎裏に来いよ!」

穏乃と女生徒のやりとりを、はらはらしながら見守る咲を安心させるように、
明華が横合いから解説する。

明華「あのくらいは平気です。良くあることですし、穏乃は強いですから」

咲「でも……」

この女生徒と穏乃では体格差がかなりある。いくら穏乃が強いといっても…
考えをめぐらせる咲が顔を上げると、明華が興味深げな様子で咲を見つめていた。

女生徒は言いたいことだけ言うと、派手な音を立てて扉を閉め、図書館を出て行った。

穏乃「まったく、こっちは食事中だってのに騒がしい人だなあ」

咲「今のは……?」

穏乃「実は私たち、学園内で≪なんでも屋≫をやってるんだ」

咲「なんでも屋?」

穏乃「そう。引き受けた依頼の内容に従って何でもやる、学内の便利屋稼業のことだよ」

明華「学内ネットを利用して、密かに依頼を募ってるんです。この間も依頼があったところなんですよ」

穏乃「不良に脅されてた生徒が依頼人だった。無理やり万引きさせられて、その時撮られた映像をネタに恐喝されて困ってた。何とかしてくれって」

咲「それで……?」

明華「私たちが何とかしたんです。具体的なことは守秘義務があるから言えませんけど」

穏乃「趣味と実益を兼ねた、学校には秘密のアルバイトってやつ」

明華「最近は盗難事件の犯人探しとか、証拠品探しみたいな探偵じみた仕事が多いですね」

咲「へえ……」

穏乃「基本的に、情報から推測して作戦立てるのは明華さんで、実行するのは私って分担になってるんだ」

穏乃「ちょっとした脳の運動にもなるから、明華さんもこの仕事楽しんでるでしょ?」

明華「ええ、そうですね。ただ穏乃も私も今は咲の件に興味がありますからね」

咲「私の……?」

明華「不謹慎に聞こえるかも知れませんが、話を聞いて胸の奥がこう……ワクワクしたんです」

明華「今までとは違う、手ごたえが明らかに違う感じです。これはぜひ無報酬でも引き受けたい依頼ですね」

明華「咲を連れてきてくれて、穏乃には感謝してますよ」

穏乃「そうでしょ?咲のこと、明華さんも気に入ると思ったんです!」

明華「しかし、うっかりしてましたね。この件が片付くまで、しばらく仕事の方を休業にしておいた方がいいでしょう」

穏乃「あ、そうですね」

頷くと、穏乃は図書館に備えつけのパソコンい向かいキーボードをたたき始めた。

穏乃「……これでよし、と。告知しておきましたよ」

明華「ついでにメールもチェックしておいてください」

穏乃「はい。分かりました。……お、また明華さん宛にメールが来てますよ」

穏乃「明華さんはサボり魔だけど学年トップをキープしてる秀才だから、人気があるのも無理ないか」

咲「学年トップ……凄いですね」

穏乃「そう言えば、明華さん。今日は私に見せたいものがあるって言ってませんでした?」

明華「ああ、そういえば……これです。古代メソポタミア伝承の知られざる写本の翻訳」

明華「ずっと絶版になってたんですけど、この間ネットの取引で手に入れたんです。穏乃も興味あるでしょう?」

穏乃「そうですけど……またとんでもないものを見つけ出しましたね」

明華「咲はどうですか?こういう本に興味ありますか?」

咲「はい。本は好きなので」

咲が頷くと、明華は嬉しそうに微笑んだ。

明華「それは良かったです。今度咲のお薦めも聞いてみたいですね」

穏乃「咲、気を付けなよ。明華さんのお薦め本には、たまにとんでもないのが混じってるからな」

二人のやりとりを興味深く聞いていた咲は、意外な思いでつぶやいた。

咲「高鴨さんも、よく本を読むの……?」

明華「ええ。穏乃とは、私の父の著書の愛読家だったことが縁で知り合ったぐらいですし」

咲「へぇ……」

明華「ひそかに努力家で、成績も良いですしね」

穏乃「咲に言わないでくださいよ!恥ずかしいですから」

読書などというインドアな事には興味が無さそうで、勉強にも熱心では無さそうなタイプに見える穏乃が。
実は読書好きで、努力家で、勉強家だった――――
穏乃の意外な一面を知って、咲は改めて興味深く、目の前の少女を見つめ直した。

穏乃「わ、私のことはいいよ。それより咲、明華さんのお父さんの本は物凄く面白いんだ!本人も立派な人だしな」

そう言って、明華の父のことを我が事のように自慢げに話す穏乃の瞳は生き生きと輝いている。
明華もそんな穏乃を穏やかな目で見つめている。
二人のやりとりを見ながら、姉と良子以外の人間に対しては初めて、共に過ごす空間を暖かで居心地良いと感じていた。


――――――――――

英語教師「……では、本日の授業はここまでにします」

5限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、その日の授業が終了した。
4限目の科学室での騒ぎ以外、今日は特に変わったことは起きなかった。
おかげでクラスメイトが咲に向ける視線も、朝よりもずっと控えめで落ち着いたものになっていた。

咲「あ、そういえば……」

昼休みに乱入してきた生徒が、穏乃に向けて叩きつけた言葉を思い出した。
あの生徒は確か『放課後、北校舎裏に来い』と、穏乃に言わなかっただろうか。

咲「高鴨さん。やっぱりいない……」

穏乃はおそらく、あの生徒の挑戦を受け、北校舎に向かったのだろう。
咲は急いで教室を飛び出した。





穏乃の姿を求めて北校舎の裏に向かうと、数人の人間が争う物音が聞こえてくる。
咲は息を呑んで足を速めると、昼休みに穏乃を呼び出した生徒が地に伏す姿が飛び込んできた。
生徒の腕をとらえているのは穏乃。どうやら穏乃の投げが決まったところだったらしい。

咲「……!」

周囲を見渡すと、地面に転がっているのはその生徒だけではなかった。
穏乃を呼び出した生徒を含め、全部で4人の生徒が蹲っている。

穏乃「これで終わりですか?口ほどにもないですね、4人がかりでこのザマじゃ。顔を洗って出直してきてください」

明華が言った通り、穏乃の強さを目の当たりにした咲は驚きに言葉を失う。

穏乃「あれ、咲?どうしたんだ、こんなところで」

咲「高鴨さんが呼び出されてたことを思い出して……」

穏乃「心配して来てくれたのか……!ありがとう、咲!」

咲「でも、結局私何もしてないし」

穏乃「ううん!咲が私のために駆け付けてくれたってだけで嬉しいよ!」

咲「……うん」

穏乃「やばい、のんびりしてる場合じゃなかった!放課後はバイトなんだ!」

咲「バイト?」

穏乃「咲、場所を変えよう!」

そう言って駆け出した穏乃につられて、咲もその場を駆けだした。

穏乃の後を追ってたどり着いたのは、新校舎1階の空き教室だった。
作りかけの大道具らしきものが、部屋の中央に置かれている。

穏乃「演劇部の大道具制作のバイトを引き受けて、作ってる最中なんだ」

咲「ああ、学園祭の?」

穏乃「そう。この時期はどこも人手が足りないみたいでさ。期限が学園祭までってのはハードスケジュールだけど」

穏乃「でも力仕事は性に合ってるから、結構楽しんでるんだ」

そう言って穏乃は軍手をつけた手に金づちを握り、大道具の設計図に従って、
材木やベニヤ板を組み合わせて釘を打ち込み始めた。


1、手伝う
2、黙って見ている
3、もう帰ると告げる

安価下

咲「私も手伝おうか?」

穏乃「それは助かる!……けどいいの?」

咲「うん。特に用事もないから」

穏乃「じゃあ無理のない範囲で頼むよ。早速だけど、そこの材木を取ってくれると嬉しい」

咲「うん、わかった」

咲の手を借り、穏乃は作業の集中する。
穏乃の指示に従って材木を支えたり、釘を渡したりしているうちに、いつしか咲も作業に没頭していった。
大道具が設計図通りに組み上がっていく様を見るのは、思いがけず楽しい作業だった。

穏乃「アシスタントがいると作業の効率が上がるな。手伝ってくれて助かるよ、咲」

咲「ううん」

穏乃「……覚えてないかもしれないけどさ。前にもこんな風に、咲と二人で工作したことがあったな」

穏乃「確か作ったのは鳥の巣箱だった。あの時は感動したな、やってみれば案外自分の手でも出来るもんなんだって」

穏乃「あれ以来かな、いろいろ自分の手で挑戦してみる癖がついたんだ」

咲「格闘技も……?」

先ほど目にした穏乃の強さに、戦うことに慣れた、素人離れした技術を感じた。
転校初日、穏乃が『素人相手なら負けない』と泉に向かって言っていたことを思い出す。
確か、道場に通っていたとも言っていた。

穏乃「古流柔術のことか。あれは咲に出会う前から習ってた。けど熱心に稽古に打ち込むようになったのは、咲に出会ってからだな」

咲「私……?」

穏乃「やっぱり覚えてないか……まあ、そのあたりの事はまた今度話すよ」




穏乃の話に耳を傾け、大道具作りに熱中するうちに、
いつしか教室の窓から西日が差し込み、辺りに夕闇が迫り始める。

穏乃「もうこんな時間か。そろそろ切り上げるか」

咲「まだ完成してないけど……」

穏乃「作業は残り少しだから、急いで仕上げてミスするのも嫌だしな。続きは明日にするよ」

咲「そっか。分かった」

穏乃「咲のおかげではかどったよ。この調子なら、余裕で期限に間に合いそうだ」

完成間近の大道具を見上げ、穏乃が満足げに頷きながら言った。
後片付けを済ませると、二人は教室を後にした。

校門を出ると、夕焼けの帰り道を、穏乃の語るたあいのない話に相槌をうちながら歩いた。
過去の出来事により他人と付き合うのが苦手になった咲が、穏乃とは自然に接することが出来る。
まるでずっと昔から、毎日こうして過ごしていたような不思議な気持ちにさせられる。

穏乃「……なあ、咲」

咲「うん?」

穏乃「こうしてると私たち、昔からずっと同じ学校に通ってたみたいな気がするな」

咲と同じことを、穏乃も考えていたらしい。
少し照れくさそうな穏乃の笑顔が、咲の目にあたかかく映る。
何となく穏乃の顔を見つめているのが辛くて、咲はそっと目を伏せた。


おだやかな沈黙に包まれて歩くうちに、やがて二人はそれぞれの家に向かう道に到着した。

穏乃「なあ、咲。もし嫌じゃなかったらさ、明日も私に付き合ってくれると嬉しいな」

咲「うん……」

穏乃「じゃあ、また明日な!」

咲に向かって手を振ると、穏乃はゆっくりと別の通りを歩いていった。

家に帰ると、姉はまだ帰宅していなかった。
咲は手早く夕食を作って食べ、使ったお皿やフライパンなどの片付けも終えた頃。
姉がようやく帰ってきた。

照「ただいま、咲」

咲「おかえり。お姉ちゃん」

照「今日の学校はどうたっだ?何か変わったことは……って。その包帯は何?」

咲の手に巻かれた真っ白な包帯に気づき、眉をひそめた照が咲の腕を取った。

照「どうしたの、これは?学校で何かあったの?」

姉に心配をかけないように、咲は言葉を濁して姉から目をそらした。

照「……話したくないみたいだね。まあ、酷い怪我でないのならいいんだけど」

咲「うん。切り傷だけど、傷口も浅いし大したことないから」

照「そう……それなら良かった。でも気を付けなさい」

咲「うん、心配かけてごめんなさい。お姉ちゃん」


それから姉とたあいのない会話を交わした後、咲は自室へと戻った。
時間割を見ながら明日の授業の用意を済ませ、課題のプリントに取り掛かる。


咲「終わった……」

課題を全て終えた時、すでに時計の針は11時を過ぎていた。

今日は咲の身の周りにおかしなことは起らなかった。
あのシロとかいう少女も現れなかった。
明日も何事もなく一日が過ぎることを願いつつ、咲は寝床についた。

今日はここまでです
安価はざっくりと減らすことにしました
それではまた明日投下しに参ります


――――――――――

今朝は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
咲はベッドから身を起こし、目覚ましのアラームを止めた。

左手の包帯が外れかけているのを見て、そこにガラスの破片で受けた傷があることを思い出した。
負ったばかりの傷なのに、今朝はもう痛みを感じない。
咲は左手を覆う包帯をほどいてみた。

咲「……!?」

出血のわりに浅い傷だったとはいえ、ガラスで切った傷口だ。
一朝一夕で治るようなものではなかったはずだ。
しかし包帯とガーゼを外して確認した傷口は、すでに綺麗に塞がりほとんど治りかけている。
確かに昔から怪我の治りは早い方だったが、いくら何でもこの回復の速さは尋常ではない。

照「咲、そろそろ起きなさい」

扉の外からかけられた姉の言葉にすぐに行くと答え、
咲は慌ただしく包帯を巻きなおしてベッドを降りた。



咲がリビングに行くと、照は淹れたてのカフェオレを咲に手渡した。

照「おはよう。咲。傷は痛まない?」

咲「うん……大丈夫」

照「じゃあ食事にしようか」

咲「うん」

朝食を済ませると、咲は照に声をかけて家を出た。
まだ時間が早いせいか、校門をくぐる生徒の数もまばらだった。

明華「おはようございます。咲」

咲「明華さん、おはようございます」

明華「あなたから預かったあの石について、話があるんです。……来てください」

咲「え……、はい」




静かに話せる場所ということで、咲と明華は図書館に来た。
明華は石をポケットから取り出すと、それをテーブルの上に置いた。

明華「石について調べて、これまで分かったことをいくつか伝えておきますね」

咲「はい」

明華「まず私はこの石がどういう成分で構成されている物体なのか、科学的な方法で調べようと考えました」

明華「私の父は考古学者で、仕事柄遺物の成分の分析を依頼するため研究所施設にツテも多い。知り合いの元に石を持ち込んで、内密に分析を依頼したんです」

明華「そうしたら……驚きました。私達は石の成分を分析することすらできませんでした」

咲「え……?」

そう言うと、明華はポケットから一本の棒状の品を取り出した。

明華「これは先端にダイヤモンドの粒が埋め込まれた、ガラス切り用のナイフです」

咲「はい」

明華「つまりは、こういうことです」

明華はそのナイフの刃先を石の表面に当て、無造作に引いた。
だが、石の表面には引っ掻き傷一つ付けることが出来なかった。

咲「これは……」

明華「分析のためには石の切片をサンプルとして削り出す必要がありました。けれど、ご覧の通り。表面に傷の一筋すら付けることが出来ません」

明華「それどころか、あらゆる分析機にかけてみても、器械はこの石の影すら捉えることが出来なかった」

咲「この、石が……?」

明華「どういう障害のせいかは分かりませんが、この石はレントゲンはおろか映像に残すことすら不可能なんです」

明華「つまり、人間の五感を一切介さない。器械の客観的な測定によると、この世界に存在していない事になります」

咲「……!」

明華「この石はまるで、私達と同じこの次元には実際に存在しない物体のようです」

明華「こうして見ることも触れることも出来るけれど、それも脳の錯覚による誤認かもしれない」

明華「石の本体は別の次元に存在して、私達はこの次元に重なったその本体の影を捉えているだけかもしれない」

咲「………」

明華「まあこれは、何の根拠もない私の勝手な憶測なんですけどね」

明華「でも、そのくらい突拍子もない推測が似合いますよ。この石には……」

咲はテーブルの上の石を、新たな認識でもって見た。
こうして視覚に捉えることも、手に触れることも出来るのに、石はこの世界に存在しないという。

明華「咲、この石を前みたいに光らせてくれませんか?変化の記録を取りたいんです。手がかりになりそうなことは全てデータにしておきたい」

咲「はい。でも、どうやってデータに?」

明華「写真に撮ることはできませんから、スケッチさせてもらいます」

咲「……わかりました」

明華に請われるまま、咲は石を手のひらに乗せ、意識を集中させる。
石はやがて光を放ち始めた。
明華は短時間の間に手早く石の表面に浮かぶ文様をスケッチし、その横に観察記録を記す。

明華「ありがとうございます、咲。このデータを元に、また別方向から調べてみます」

明華「それにしても奇妙な物体ですね。電磁波や放射線の照射にも、物体的な外部刺激にも一切発光性を示さなかった」

明華「なのに、咲が触れるだけで光るなんて……」

咲「私が……」

明華「この石はあなたにしか反応しません。咲個人を識別して反応を返している……咲の何に、反応してるんでしょうね」

明華「熱や振動なんていう一般的なものじゃない、たとえば脳波とかオーラとか、気とか……」

咲「……わかりません」

明華「そうですね……とにかく、この石の科学的解析はお手上げってことです」

明華「結局何も分からなくて申し訳ありませんが、石を返しておきますね」

咲は明華から石を受け取った。

咲「それじゃあ私、教室に戻ります」

明華「はい。では新しいことがわかったら、また報告しますね」

咲「よろしくお願いします」

明華に別れを告げると、咲は教室へと向かった。

クラスに着くと、開け放たれたままだったドアに扉がつけられ、教室は元通りの姿に戻っていた。
業者の修理が終わったのだろう。
自分の席に腰を落ち着け、鞄から教科書を出す咲の肩を、そっと後ろからたたく者がいた。

咲「……?」

振り返ると、心配そうな表情の由暉子が立っていた。

由暉子「おはようございます。昨日の怪我はもう大丈夫ですか?」

咲「おはよう。うん、大したことないから」

由暉子「それは良かったです。でもとっさに穏乃ちゃんを庇うなんて、やっぱり咲ちゃんは優しいですね」

咲「そんなこと……」


授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
遅れて教室に現れた教師を見て、おしゃべりに熱中していた生徒たちが慌てて席についた。



3限目の、体育の授業が間もなく始まるという慌ただしい時刻。
咲は更衣室の隅に寄り、出来るだけ目立たないよう気を配りながら、人目を避けて着替えていた。

穏乃「咲。着替えてるとこ悪いけど、点呼までにこの用紙に記入しておいてって。さっき体育の先生から頼まれた」

急に声をかけられた咲は、着替えの手を休めて、差し出された用紙を反射的に受け取った。
何気ない様子で咲の左肩に目をやった穏乃が、ふと目を止めて呟いた。

穏乃「あれ……?咲、こんなところにアザがあったんだ。何だか変わった形だな」

咲「……!」

穏乃の言葉に弾かれたように反応して、咲は手のひらでアザを隠した。
咲の左肩にある、小さな赤い三角形が逆さ向きになったアザ。それは咲が物心ついた頃にはすでにあった。
何かの焼き印のように見えると人に言われたこともある。
以来、このアザを人目にさらすことが嫌で、体育の授業の時にはこっそり隠れて着替えていた。

穏乃「あ……ごめん、気にしてたなら悪かった」

咲「……こっちこそごめん。大げさに反応して……少し驚いただけだから」

その言葉に、穏乃はほっとした様子で頬を緩めた。

穏乃「そっか、なら良かった。でも何か綺麗だと思うから、隠すことないと思うけどな」

咲「綺麗……?」

穏乃「うん。じゃあな咲、また授業で」

咲「………」




学園祭本番をいよいよ明日に控え、本日の授業は4限目までとなっていた。
帰り支度を整えた生徒たちがばたばたと教室を出ていく。

咲は穏乃の大道具作りを手伝おうと、昨日の教室に行ってみることにした。
空き教室を訪れると、大道具はすでにほぼ完成していた。

穏乃「咲!また来てくれたんだ」

教室にやってきた咲の姿に、あからさまに嬉しそうな顔をした穏乃が振り返った。

咲「もう、ほとんど完成だね」

穏乃「うん。あとはヤスリで角を取ったりして、細かい部分を整えるだけなんだ」

穏乃「昨日、咲が手伝ってくれたおかげだよ。ありがとう、本当に助かった」

咲「ううん。大したことはしてないから……高鴨さんは、なぜ部活に入らずにバイトを?」

穏乃「お金を貯めるためだよ。クラブ活動は楽しいだろうけど、お金にはならないしさ。将来の夢のためには、ある程度の資金がいるんだ」

咲「将来の夢……?」

穏乃「……。昔、咲と交わした『約束』にも関係あるんだけどな……」

咲「あ……」

穏乃「咲、本当に忘れちゃってるんだ……」

咲「……ごめん。思い出せなくて」

穏乃「そっか……」

咲「本当に、ごめんなさい……」

穏乃「ううん、もういいよ。咲と再会できただけラッキーだったと思うしさ」

穏乃「それより今日は咲のことを聞かせてよ。趣味とか、好きな物とかさ。私、もっと咲のこと知りたいんだ」

咲「……うん」

無邪気にそう言う穏乃に促されるまま、最初は戸惑い気味だった咲も、少しづつ自分の身の回りの事を話し始めた。
ここ数年人と接するのは苦手だったはずだが、熱心に耳を傾けてくれる穏乃の前だと自然に言葉が流れ出していた。

咲の話のひとこと、ひとことを、穏乃は残りの作業を進めながら、嬉しそうに聞いている。
久しぶりに人との会話を楽しいと思えるひと時だった。

いつしか、壁にかけられた時計の針は夕刻を示していた。
二人の前の大道具は、その時ようやく完成した。

穏乃「今日もありがと、咲!咲が来てくれたおかげで、仕上げの作業もあっという間に終わったよ」

咲「私、今日は何も手伝えなかったけど……」

穏乃「気分の問題だって!誰かにそばで見守っててもらうのは、一人きりよりずっと良いからな」

後片付けを済ませると、二人は教室を後にした。





今日も何事もなく一日が過ぎた。
シロと名乗る少女も、暗がりを徘徊する不気味な影も、あの日以来咲の前に姿を現すことはない。

こうして穏やかな日常が続くと、あの一連の出来事は全て夢だったのではないかとさえ思えてくる。
しかし、そんな思考の逃げを否定するように、石は確かな存在感をもって咲の手のひらにあった。

これから先もおかしな事が起きることなく、平穏な日々が続くことを祈りながら、咲は眠りについた。


――――――――――

目覚ましのアラームが鳴り響き、咲はその音で目を覚ました。

今日はりつべ女学園の学園祭当日だ。
学園祭は今日と明日の2日間に亘って開催され、この間、校内に生徒以外の人間の出入りも自由となる。
咲たちのクラス発表は、教室内でのパネル展示だった。

担任「今日はこれから、クラス展示の受付当番以外の生徒は自由に過ごして良いことになってるわ」

担任「部活動での展示や発表がある者、実行委員らは点呼を済ませたら持ち場に向かいなさい」

教師は生徒に順々に声をかけ、出席簿に印をつけていく。
点呼を済ませた咲も、他の生徒たち同様に教室を出た。

案内を見ながら廊下を曲がると、向こうから穏乃がやって来るのが見えた。
咲の姿を認めると、穏乃は嬉しそうに駆け寄ってきた。

穏乃「咲!探してたんだ。一緒に学園祭を回ろうよ!」

咲「私と……?」

穏乃「うん。せっかくだからこんな機会に一緒に過ごして、咲ともっと色んな話がしてみたいんだ」


1、誘いを受ける
2、由暉子も一緒なら
3、断る

安価下

咲「うん。いいよ」

穏乃「やった!じゃあまずは南校舎の展示から見に行こう。今年はどこの催しも面白そうなんだ!」



りつべ女学園の巨大な中央ホールは、生徒達の出店と、その店先にたむろする人の群れで賑わっていた。
生徒以外の客もかなりいるようだ。学園祭に訪れた一般客の多さに咲は驚く。
女子高の催しと言うより、企業のイベントのような人手だ。

穏乃「学園を設立したりつべ財団が出展にも協力してるから、結構大がかりな展示や有名人を招いた催しもあるんだ」

穏乃「毎年それ目当てにやって来る一般客も多いし、りつべ女学園っていえばかなり有名なイベントなんだって」

咲「へえ……」

言われて見渡せば、確かにどの出店も展示も生徒が主体となって運営しているものではあるが、それなりの見栄えと内容を伴った催しになっている。
咲はあまり知らない顔だが、芸能人のトークショー開催を知らせるポスターもあちこちに貼られている。

ホールを見回すと、モニターやコンピューターを駆使した展示コーナーのやたら多いことが目に留まる。
随分と立派な映像機材やコンピューターを展示に利用しているところが多い。

咲「これもりつべ財団のバックアップの成果なの……?」

穏乃「この学園って開設した当初、最新のハイテク校とか言われて話題になった位にコンピューター教育に力入れてるんだ」

穏乃「常に生徒達が自由に使える最新のコンピューターや、その周辺の機材がかなりの数揃ってる」

穏乃「大学の研究室並の物凄いコンピューターなんかもある。これもりつべ財団が寄付したんだって」

穏乃「咲はまだ受けてないだろうけど、りつべ学園独自の授業なんてものあるんだ」

咲「それはどんな授業なの?」

穏乃「コンピューターを使った情操教育。リラクゼーションだか何だかのムービーを観たりとか」

穏乃「あとゲーム形式で簡単な質問に答えたりする、心理テスト的な授業なんだけど……あれ、どうも苦手なんだ。あの授業受けると頭が痛くなるんだよな」

咲「モニターを見て目が疲れるから?」

穏乃「そうかも。まあそうやってハイテクを売りにして学園を挙げてコンピューター教育に力入れてるから、りつべ女学園の電脳部は全校的にも有名なんだ」

咲「へえ……」



その後、咲は穏乃の案内で、順番に校内の催しを見て回った。
様々なイベントや展示を見ていくうち、新校舎一階の中央に位置する広い展示室にたどり着いた。
展示室の入り口横には『りつべ女学園・学園祭特別展示・りつべ市の文化』と墨書された看板が立てられている。

穏乃「ここ、愛宕理事長個人所蔵の貴重な考古学コレクションが何点か出展されてるらしいんだって」

咲「他にお客はいないみたいだね」

穏乃「うん。これならゆっくり見て回れるな」

明華「あいにくですが客ならここにいますよ。ふふ、お邪魔でしたでしょうか」

穏乃「明華さん!展示を見に来たんですか?」

明華「はい。学園祭期間限定の特別展示ですし、忘れないうちに見ておこうと思いまして」

今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました

展示品を日光から守るためか、カーテンを閉められ、灯りの抑えられた展示室は少し薄暗い。
室内に配置されたガラスケースには、りつべ市から出土したという発掘品の数々が収められていた。
主に古代の土器から生活品の類が中心で、新しいものから順に年代別に展示されている。

三人でゆっくり見て回るうち、明華がふと奥に置かれた展示用ガラスケースの前で足を止めた。

明華「これは……」

咲「……?」

明華が熱心に観察しているものを咲は横から覗きこむ。
それはかなりの年代を感じさせる、一枚の粘土板だった。
表面にはびっしりと見慣れぬ文字が刻まれている。

穏乃「あれ……?どうしてこんな物があるんだろ。これって楔形文字だよね。明らかに市の出土品じゃないよ」

明華「ええ。これはおそらく南メソポタミアあたりで出土した、古代メソポタミア文明の粘土書板ですね」

穏乃「これ……愛宕理事長所蔵のコレクションだって」

展示品の所有者の名を確認した穏乃がつぶやく。

明華「……これは、シュメール語ですね。理事長はどこでこんなものを手に入れたんでしょう」

咲「シュメール語……これは、かなり年代の古い粘土板だってことになるんですね」

明華「ええ、そうです。ところで、これによく似たものをどこかで目にしたことがあるような気がするんですが……」

明華「……!これはまさか……失われた写本のひとつ……?」

咲「失われた写本?」

明華「古代メソポタミア伝承、知られざる写本。荒ぶる神の怒りに触れて滅ぼされた都市の伝説を書いた叙事詩です」

明華「発見された当時から学会では長らくその真贋が問われてましたが、今では贋作だったとされる説が主流になりました」

明華「何故かというと、発掘されたはずの粘土板が、その後何者かの手によって盗まれてしまったからです」

咲「……!」

明華「物がなければ証明することはできない。知人の専門家は、その写本に書かれた都市の存在を証す為発掘に打ち込んでます」

明華「粘土板を盗んだのはプロの窃盗団の仕業で、盗品が表に出ることはもう無いだろうと言われてきました」

咲「その盗まれた粘土板が、ここにある、これのことなんですか?」

明華「ええ、おそらく。……理事長はどこで手に入れたんでしょうね」

明華「ただ一つ言えるのは、それが決して真っ当な手段ではあり得ないということです」


その時、展示室の外からこちらに向かって近づくにぎやかな声が聞こえてきた。

「――――はいはい、愛宕理事長の展示品はこちらですよ。そう急かさないで欲しいわぁ、まったく……」

穏乃「あれ、誰か団体でこっちに来るみたいだ。珍しいな」

場違いな黒ずくめのスーツを着た数人の男たちを引き連れ、くたびれた白衣姿の女が入ってきた。

穏乃「なんだ、史学の赤阪先生じゃないか。先生の知り合いかな」

郁乃「それじゃあ手早く運び出しちゃってくださいよ~。あ、壊れ物が多いから注意してや」

何事かと見守る咲たちの目の前で、男たちは明華が見ていた粘土板が展示されているガラスケースを開けると、
そこに並べてあった粘土板と、その他いくつかの展示品を慎重な手つきで取り出し持参したケースに詰めた。

穏乃「え……?持って行ってしまうんですか?」

明華「赤阪先生、これはいったいどういうことなんですか?」

郁乃「お、雀やないの。さすがにアンタは見に来てたか。どうや?中々見応えのある展示になったやろ~?」

郁乃「これだけの展示品を揃えるのは大変やったわ。提供者を集めるのに本当に苦労してなぁ。この間も……」

明華「先生、その話はまた今度ゆっくりと。それよりもあの人たちは何を?」

郁乃「ちょっとした手違いがあってなぁ。展示品の中に、理事長が公開しないようにと指示したコレクションの一部が紛れ込んでたらしいわ」

郁乃「それで、急遽その展示品をここから撤退させることになったんや」

明華「それじゃ、あの人たちは……」

郁乃「せや。用があって来られない理事長の代理やで」

男たちは理事長のコレクションを回収すると、
郁乃への挨拶もそこそこに足早に展示室を出て行った。

郁乃「騒がせて堪忍な~。それじゃ、雀たちはもっとゆっくりしていってや」

咲たちに向かってひらひらと手を振ると、郁乃も展示室を出て行った。


穏乃「結局、粘土板は持っていかれましたね」

明華「……もうひとつ、気になることがあります」

咲「それは……?」

明華「今の粘土板に描かれていた神を表すシンボルと、あの≪石≫に浮かんだ文様に類似点が見られました」

咲「……!」

明華「何とかしてあの粘土板をもう一度確かめられないでしょうか……。私、少し調べてみます」

二人にそう言い残すと、明華は展示室を出ていった。


穏乃「私たちもそろそろ出ようか。咲」

咲「うん……」

穏乃「さすがにちょっとお腹すいたな。……お!あそこ甘味処だって。行ってみよう、咲!」

咲「……甘味処……」

甘い食べ物が少し苦手だったので、穏乃の誘いに一瞬ためらう。
咲の困ったような表情を見て、穏乃はそう言えば、と気づく。

穏乃「そっか、咲は甘い物が苦手だったよな。まあトコロテンくらいなら食べれるだろ。あれなら酢醤油もあるし」

咲「うん。それくらいなら何とか」

穏乃「よし、じゃあ行こう!」

元気よく歩き出す穏乃に誘われるまま、甘味処の看板を上げる教室の暖簾をくぐった。
空いた席に腰を下ろすと、注文をとりに来た生徒に声をかけられる。

生徒「ご注文は何になさいますか?」

穏乃「私は葛切りで、咲はトコロテン。酢醤油で頼みます」

生徒「かしこまりました」

注文を受けると、生徒は厨房になっているらしいカーテンの向こうに入っていった。
数分後、トレイを持った生徒がやってきた。

生徒「お待たせしました。こちら葛切りとトコロテンです。ごゆっくりどうぞ」

穏乃「お、きたきた。じゃあさっそく頂きまーす!……うん、なかなか美味しい!」

穏乃「なあ、咲。甘い物が苦手ってことは、もしかして葛切りも食べたことない?」

咲「うん」

穏乃「私も甘い物はそんなに好きってわけじゃないけど、これはそんなに甘くなくて美味しいよ?ちょっと食べてみて」

言いながら、穏乃は一口分の葛切りをフォークですくい、咲の口元に差し出した。
一瞬咲は戸惑うが、咲が口にすることを疑いもしない穏乃の様子に、断ることもためらわれる。
咲は思い切って、差し出された葛切りを口に含んだ。

穏乃「な、美味しいだろ?咲」

咲「う、うん……」

何とはなしに頬を染めながら、咲は穏乃の言葉に頷いた。


――――――――――

穏乃「さてと、これからどうしよっか。まだ少し早いけど、お昼でも食べに行く?」

店を出て、穏乃の言葉に答えようとした瞬間。

―――――ガシャァァァンッ!!!

遠くの方から何かが割れるような音と共に、人々のどよめく声が聞こえてきた。
何かのアトラクションかと思ったが、間もなくどよめきは無秩序な叫びへと変わった。

穏乃「何だ、いったい……?」

咲「さあ……」

途切れ途切れに聞こえてくるあれは――――悲鳴だろうか。

穏乃「咲、確かめに行こう!」

騒ぎの元に向かって穏乃は走り出した。
咲もその後を追うように駆け出した。




咲「……!」

駆けつけたその場に広がるあまりに異様な光景に、咲と穏乃は思わず言葉を失う。
幾人もの生徒たちが気を失い、力なく倒れ伏している。
割れた窓ガラスの破片や千切れた校内の飾りつけが辺り一面に散らばり、情景の異様さに拍車をかけている。

何に驚いたのか、放心状態でうずくまる生徒。意識を失ったままうつ伏せに倒れている生徒。
その場に無傷な姿で立っているのは、咲たちのように騒ぎに気づいて駆けつけた者だけだった。

いったいこの場で何が起きたというのだろうか。

生徒A「なんなのこれ!何があったっていうの!?」

生徒B「ちょっと、大丈夫……?」

生徒C「誰か先生呼んできて!」

穏乃「……あっ、呆けてる場合じゃない!咲、皆を助けるぞ!」

はっと我に返った穏乃が、咲を振り返って叫んだ。
だが咲は穏乃の言葉に答えることが出来なかった。

咲「……!」

眼前の光景に視線が釘付けられる。
地面に倒れ、苦痛にうめく人々の向こう――――シロが、いた。


シロ「………」

剣を手に、あの時の少女が佇んでいる。
傷つき倒れ伏した生徒たち。散らされた飾りつけ、壊れた看板。
無傷で立つもののないその光景の中、ひとり静かな面持ちで佇むシロ。

彼女がこれをやったのだろうか。
感情の読めない表情から、シロの目的や本心を伺うことは出来ない。
シロの持つ凶器を見とがめ、騒ぎ出す者はいない。
他の者の視覚に、シロの姿は全く認識されないらしい。

穏乃「咲?どうし……あ、お前は……!」

穏乃「お前なのか!?皆を傷つけた犯人は!」

シロ「………」

穏乃「なぜこんなことを!何で咲を狙うんだ!」

シロをはっきり見据えながら、穏乃が鋭く叫んだ。
あの日の夜のように、シロの姿が穏乃には見えているのだ。

咲「……!」

シロが剣を払い、咲へと向かってきた。
彼女が狙っているのが自分だと悟り、咲は息を呑む。


1、応戦する
2、穏乃をかばう
3、一人で逃げる

安価下

穏乃だけでも守らねばという思いに動かされる。
シロから庇うため、咲は穏乃の体を突き飛ばした。

穏乃「咲……!」

繰り出された一撃は、迅速の勢いで咲の頬をかすめ、背後へと狙いをそらした。

咲「――――!?」

シロが攻撃を外したのかと考えた咲の背後で、耳を聾する異様な叫びが上がる。

生徒A「きゃっ!」

生徒B「うわあっ!」

叫び声が上がると同時に、咲の周りに立っていた者が、背後から突き飛ばされるように転がった。
シロの剣は、咲の背後にいた≪何か≫を狙い、繰り出されたのだろう。
顔のすぐ横を真っすぐにのびた、白く輝きを返す刀身を視線で辿り、咲は素早く背後を伺う。

咲「……!」

何か異様な存在を思わせる影が素早く身を翻すのが、視界の隅に一瞬だけ映る。
目を凝らす間もなく、影は木々の葉陰に消えた。
シロは無言のまま剣を静かに退いた。

穏乃「今のはどういうつもりだ?咲を狙ったんじゃないのか……?」

シロ「………」

少女は穏乃の言葉に答えないまま、咲たちから目をそらす。
と思えば、弾かれたように顔を上げたシロが、手にした剣を構えて叫んだ。

シロ「避けて!」

穏乃「咲、危ない!」

凍り付いたように立ちすくむ咲の体に、穏乃がぶつかった。
突き飛ばされ、地面に転がった咲の上に、わずかに遅れて穏乃の体が倒れ込んでくる。

シロ「……っ」

黒い影が物凄い勢いで倒れ込む咲の傍をかすめ過ぎるのが見えた。
シロの剣が影を貫き、ふたたび絶叫が間近で沸き起こる。

咲「高鴨さん……っ」

倒れた穏乃の身体を起こそうと、咲の手が左腕に触れた。

穏乃「つぅ……」

咲「!!」

穏乃の腕を掴んだ咲の手のひらに、鮮やかな血の色がにじんでいる。
咲をかばった穏乃の腕を、通りすがりざま黒い影が、その身に備え持つ凶器で傷つけたのだ。

シロ「――――!」

剣を納めかけたシロが、機敏な動きで再び剣を構える。


???「……見つけた、シロ!」

シロ「!!」

―――――ギィィン!!

刃と刃が打ち合わされる激しい金属音が響く。

咲「あ……」

顔を上げた咲の視界に、剣を弾かれて退くシロの姿が映る。
目の前に、咲をかばう体勢で立ちはだかる長い黒髪の少女の背中があった。
少女の右手には一振りの長剣が握られている。
細く長い刀身の持つその輝きは、シロが持つ剣によく似ていた。

―――――ギィィィン!!

二人が再び音高く斬り結んだ時、激しく打ち合わされた刃と刃の間に波動が生じた。

シロ「……!」

シロの剣が砕け散るように消滅した。
衝撃に弾かれたシロは校舎の壁に叩きつけられる前に素早い身のこなしで壁を蹴り、それを避けた。

くるりと身をひるがえして着地したシロは、そのまま滑るような動きで咲たちに背を向ける。
そして、あっという間に木立の向こうへと姿を消した。

咲「あ……」

立ちすくむ咲に向かって、少女が静かに振り返った。

???「宮永、咲さん」

咲「……!」

全く面識のないはずの黒髪の少女に名前を呼ばれ、咲は混乱する。



教師「怪我人が出たというのはここか?」

騒ぎを聞きつけた教師たちが慌ただしく駆けつけてくる。
少女は声のする方を見やると、シロが消えたのと同じ方角に向かって歩き出す。

???「後ほど、この場所に来てください。お話したいことがあります」

咲「え……」

通りすがりざま、咲の耳にだけ届くように少女が囁く。
そして一陣の風のように少女は駆け抜けていった。
異様な光景のなか、ただ一人無傷な咲は、呆然とその場に立ち尽くした。


――――――――――

学園祭は結局、昼間の騒ぎからそのまま中止となった。
駆けつけた教師たちの手配により、咲以外の怪我人は全員病院に運ばれた。
大したことはないと嫌がる穏乃も、言葉を交わす間もなく、そのまま病院に連れて行かれた。

下校を促す教師の目を盗んで、咲は少女に言われた場所へ一人おもむく。

???「宮永咲さん、ですね」

声をかけられ、驚いて振り向く。
そこには咲を助けた少女が立っていた。

クロ「私の名はクロ。あなたをお守りするため、この学園に来ました」

咲「守る……?」

クロ「はい。そうです」

少女は礼儀正しく優雅な仕草で、咲に一礼する。

クロ「いきなり現れて、こんなことを言う私をさぞかし怪しく思われるでしょう」

咲「………」

クロ「――――私は、もう長い間ずっと、あのシロを追い続けているのです」

クロ「シロは狂った殺人鬼です。あなたも見たでしょう、昼間のあの光景を。……あれは全てシロの仕業です」

咲「……あの人が……」

クロの言葉で、咲の脳裏に昼間の情景が生々しく蘇る。
辺り一面に飛び散った飾りつけ、傷つき地に伏した生徒たち。

クロ「これまで、あのシロの手によって沢山の人命が奪われました。彼女の凶行を止める為、私は戦っています」

咲「………」

クロ「今、彼女はあなたの命を狙っています。このままではあなたは危険です」

クロ「咲さん、私があなたをお守りします。そのために私はこの学園に来ました」

咲「あなたは……、いったい何者なの?」

クロ「私は、とある結社の者――――とだけ言っておきます」

クロ「特殊な力を持つ者に命を狙われた、あなたのような人々を守る為、私達は動いています」

咲「特殊な力……?」

クロ「……私も、あなたを襲ったシロも、普通の人とは違う特別な力を持って生まれました。……これが、その力です」

言いながら、クロは咲の眼前に右手をかざした。
クロが天に向けて広げた手のひらから光が生まれる。

咲「……!?」

光は輝きを増しながら音もなく収束し、やがてあのシロが持つものとよく似た一振りの剣の形を取った。

クロ「驚きました?この剣に実体はありません。私の精神の力を一点に集中させ、大気に漂うエーテルに形を与えたものです」

咲「エーテル……?」

クロ「エーテルとは、通常は目に映らないけど常に大気中に溢れている高次元のパワー……神霊力のことです」

クロ「私の身体には、実体なきエーテルに剣のかたちを与え、自在に操る力が備わっています」

クロ「この剣に斬れないものはありません。この世に存在するあらゆる物……例えば実体無きものまで斬ることが出来ます」

クロ「こんな特殊な力に対抗できるのは、同様の力を持った者だけなんです」

クロ「――――シロはかつて、私の属する結社の一員でした」

咲「……!あの人が……?」

クロ「ある日突然、彼女はその場にいた仲間を皆殺しにし、結社から姿を消しました」

クロ「生まれ持った特殊な力でシロが犯罪を起こした為、私達は彼女を追っています」

咲「あの……、そのシロという人が私を狙うのは、何故なんでしょうか?」

クロ「それは、今のところ私達にも分かりません」

咲「……そうですか」

クロ「私のことを胡散臭く感じるでしょうけど、『あなたをお守りする』との言葉に偽りはありません」

クロ「今はただ、私があなたを守る者で、シロがあなたの命を狙う者だということだけ心に留め置いてください」

咲「……わかりました……」

クロ「では、私はもう行きます。シロにはくれぐれもお気を付けください」

クロ「私に出来る限りの力で、影ながらあなたをお守りしますので。では、いずれまた――――」

最後の一礼をすると、クロと名乗った少女は身を翻してその場を去った。
残された咲は陰り始めた陽射しの中、頬を撫でる冷たい風に、ひとり身を震わせた。

咲が家に着くと、照はまだ帰宅していなかった。
夕食を作って食べ、後片付けも済ませると、他にすることも無くなってしまった。
姉の帰りをしばらく待って、読みかけの本のページをめくってみたが何ひとつ頭に入ってこない。



入浴も済ませて自室に戻ると、咲は自分がひどく疲れていることに気が付いた。
ベッドに倒れるように滑り込み、天井を見上げる。


『シロにはくれぐれもお気を付けください』


クロの言葉がふいに蘇り、咲は落ち着かない気持ちで寝がえりをうつ。
そのままかたく瞼を閉じた。

夢も見たくないという咲の願い通り、
その日はひとつも夢を見なかった。


――――――――――

本来なら学園祭の2日目で大いに盛り上がり賑わうはずだった校内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
すれ違う生徒は皆、一様に不安げな、落ち着かない表情をしている。

生徒A「……で、さあ。宮永さんの周りだけ……」

生徒B「でしょー。あれってさあ……」

生徒C「何で宮永さんだけ無事だったんだろうね?」

咲が教室の扉に手をかけたとき、中から咲のことを語る切れ切れの会話が聞こえてきた。
クラスメイトたちが咲を不審に感じているのが、その口ぶりからありありと分かった。

『何人も怪我人が出た現場で、咲ひとりが無事だった』

そんな風に、昨日の出来事はクラスの皆の間に知れ渡っているらしい。

生徒A「あれって、もしかして宮永さんがやったのかも?」

生徒B「ええー、まさか!でも……」

咲「………」

教室の扉を開けると、煩いぐらいの声で話していた生徒たちが、咲の姿を認めてぴたりと会話を止める。
つい先ほどまでざわめきに包まれていた室内は、たちまち奇妙な緊張した静けさに支配された。
席につくまでの間、痛いような疑惑に満ちたクラスメイトの視線が背に刺さる。
遠まきに咲をうかがいながら、ひそひそと囁き合う姿が教室内のあちこちに見られる。

担任「こらこら、皆席につきなさい!」

チャイムの音と共に、担任教師が現れた。
生徒たちを席に着かせると、学園祭を中止に追い込んだ昨日の騒ぎについて、担任は説明を始めた。

担任の話によると、騒ぎは『突風が吹いたことによる事故』ということで、ひとまず収拾をつけたようだ。
しかしその説明に、生徒たちの誰も納得する様子はない。
皆が皆、担任の説明の間にも、ちらちらと咲の様子をうかがっている。

あの時、あの場所で何が起きたのか。
本当のところを知るのは、この学園に咲ただ一人なのだ。

咲を庇って怪我をした穏乃の姿を探して、咲は教室内を見回した。
しかし、いつものあの生気に満ちた穏乃の姿はどこにも見当たらない。
どうやら学校を休んだようだ。昨日の怪我がそんなに酷かったのだろうか。

『月曜から通常の授業に戻る』との連絡事項を伝えると、その日のホームルームは全て終了となった。

担任「今日はいつまでも校内に残ったり、寄り道しないこと。このまま真っすぐ家に帰りなさい。いいわね」

最後に強い語調で告げると、担任は教室を出て行った。
帰り支度を始める咲に、覚えのある声が呼びかけた。

由暉子「咲ちゃん」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「穏乃ちゃんのこと、聞きました。咲ちゃんを庇って怪我をしたそうですね」

咲「………」

由暉子「咲ちゃん、穏乃ちゃんを見舞ってあげてほしいんです。咲ちゃんが行けばきっと喜びます」

咲「……うん、分かった。高鴨さんのお見舞いに行くよ」

由暉子「それは良かったです……!これ、穏乃ちゃんの家までの地図です」

咲「ユキちゃんは、一緒に行かないの?」

由暉子「二人きりでゆっくり話してきてください。昨日、何があったのかは知りませんが……」

由暉子「穏乃ちゃんは咲ちゃんを庇ったこと、きっと後悔なんてしてないと思います」

そう言って由暉子は咲の手に、穏乃の家の地図を渡した。

由暉子「それじゃあ、穏乃ちゃんのこと、お願いします」

咲に手を振ると、由暉子は教室を出ていった。




メモを頼りに何度か道に迷いながらも、咲は何とか無事に穏乃の家までたどり着いた。
しかし穏乃の家の呼び鈴を押す決心がなかなかつかない。
どうしようかと迷ううち、咲の目の前で前触れもなくドアが開いた。

穏乃「あれ、咲?どうしてここに?」

咲「怪我の具合はどうかと思って……」

穏乃「もしかして、私が学校休んだから来てくれたの?……ありがと、咲」

穏乃「でも心配することないよ。怪我は何ともないからさ。ほら、全然元気そうだろう?」

怪我した腕を勢いよく振り回しながら、穏乃が言う。

穏乃「休む気はなかったんだけど、家のこと手伝えってお母さんに強引に休まされてさ」

咲「高鴨さん……」

自分がそばにいたため、穏乃を危険に巻き込んでしまった。
皆が恐れる通り、咲は自分でも知らぬ間に、関わる者の身に不幸を招いているのかも知れない。

これ以上、穏乃のそばにはいられない。
咲は唇をかみしめた。


1、もうこれ以上、私に関わらないで
2、ごめんなさい。もう高鴨さんには近づかない

安価下

咲「事件に巻き込んだ揚げ句、怪我までさせてごめんなさい。……もう高鴨さんには近づかないから」

そう呟くと、穏乃は一瞬、顔をしかめた。

穏乃「……なあ、咲。自分のせいで私が怪我したんだとか思って、責任感じてるの?」

咲「………」

穏乃「それは違う。咲のせいなんかじゃない、咲のそばにいたのは私の意思だ」

穏乃「好きでやったことだから、後悔もしてない。私はあの場所で自分のやりたいことをやっただけだよ」

咲「高鴨さん……」

穏乃「もしかすると、似たようなことが前にもあったのか?咲に関わった誰かが怪我をしたとか……」

咲「……!」

穏乃「いきなり咲がそんなこと言うなんて、きっと何か深いわけがあるんじゃないのか?」

穏乃「なあ、良かったら話してくれないか?咲のためにできることがあるなら、何かしたいんだ」

咲「……それは……」

穏乃「私は、これからも咲のそばにいたい」

穏乃の迷いもなく揺るぎない瞳に見つめられ、咲は胸が苦しくなる。
全てをここで、穏乃に打ち明けてしまいたい衝動にかられたが、咲はそれをこらえた。
ここで話せば穏乃をさらに巻き込んでしまう。

……それに。
自分の過去を、穏乃にだけは知られたくなかった。

咲「……ごめんなさい。それは言えない」

穏乃「……そっか。咲が言いたくないなら、理由は訊かない」

咲「………」

穏乃「けど、この際だから咲の正直な気持ちを聞かせてほしいんだ。咲は、私がそばにいると迷惑?」

そばにいれば、危険に巻き込んでしまう。けれど……
咲は自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。

咲「……そんなことない。高鴨さんといると、元気を貰えるから」

穏乃「咲……!よかった、迷惑って言われたら立ち直れないところだったよ」

咲「高鴨さん……」

穏乃「それじゃあ、さっそくだけど明日は暇?せっかくの休日なんだし、ユキも誘って遊びに行こう!」

咲が特に用事はないと告げると、穏乃は喜々として待ち合わせの時間と場所を決めた。

穏乃「楽しみにしてる。じゃあ、また明日な。咲」

咲「うん。また明日」

何度も振り返りながら確かめると、姿が見えなくなるまで穏乃は咲に手を振り続けていた。

家に帰り着き、自室に入って鞄を開けると、携帯に1件のメールが入っていた。

照『おかえり、咲。学校の様子はどうだった?今日も遅くなるから、私の帰りを待たずに休んでて』

咲「お姉ちゃん、今日も遅いんだ……」

一人きりの食事は寂しいが、姉は大学で忙しいし仕方がない。
咲は夕食と風呂を済ませ、早々に寝床についた。

灯りを消し、真っ暗な部屋の天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返す。
学園祭で起きた事件のこと、クラスメイトの視線、穏乃との約束――――

脳裏に浮かんでは消える記憶の断片にしばらく悩まされたが、
いつしか咲は深い眠りへと落ちていった。

今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました


――――――――――

日曜日の朝が訪れた。
今日は穏乃、由暉子と会う約束をしている。
出かけるには少し早い時刻だったが、咲は起き出した。

リビングに行くと、てっきりまだ眠っていると思った姉はすでに起きていた。

照「咲、おはよう。休日なのにずいぶん早起きだね」

咲「おはよう、お姉ちゃん。今日は人と会う約束があるから……」

照「一緒に出かけるような友人ができたんだね、良かった。それじゃあ楽しんでおいで。あまり遅くならないようにね」

咲「うん、じゃあ行ってくるね」

朗らかに微笑む姉に見送られて、咲は家を出た。

穏乃「咲、こっち!」

咲「ごめんなさい。待たせちゃって……」

穏乃「いや、私もいま来たとこだから。しっかし今日は良く晴れた山歩き日和だよなー」

咲「山歩き?」

穏乃「うん、一緒に歩こう。こんな日に山で体を動かすのは気持ちいいぞ」




穏乃に連れられ、街を歩くこと数十分。

穏乃「ほら、あの山!」

咲が穏乃の指さす方を眺めると、さほど高くはないが、美しい緑に覆われたなだらかな山がそびえている。

穏乃「昔、私達がよく遊んだ山だよ」

咲「昔よく遊んだ……?」

穏乃「なあ、咲。昔のことを忘れたって言うけど、思い出そうって気はないか?」

咲「……思い出したい」

穏乃「そっか……!良かった、私やユキばっかり昔のこと気にしてるのかと思って、少し悔しかったんだ」

咲「あ、そういえばユキちゃんは……」

穏乃「用事を済ませてから後で来るってさ。私たちは先に山に登ってよう!」

先頭にたって歩き出す穏乃の後を追い、咲は緑深い山道に足を踏み入れた。
頭上から鳥の声が響き、肺には清々しい空気が流れ込んでくる。
こうして緑の中を歩いていると、久々に咲の心は軽くなっていくようだった。

この山との相性も良いのかもしれない。
済んだ空気が満ち、木々の緑があたたかく笑いかけてくるような、不思議に落ち着ける場所だった。

歩くうちに、山道の通る随所に石碑や道案内の看板があることに気づいた。

穏乃「このりつべ市は、不思議な石の遺物が沢山あることで有名なんだ」

咲「へえ……」

穏乃「この山もそのひとつで、奈良県の明日香村みたいに、謎の巨石がごろごろしてる」

穏乃「私達も昔、おかしな形の岩のそばで発掘ごっことかよくやったよな」

次第に傾斜がきつくなり、さすがに息が切れてきた。
先に行く穏乃が咲を振り返り、立ち止まる。

穏乃「体力ないなあ、咲。もっと鍛えなきゃ」

笑いながら穏乃が手を差し出す。
少し迷ったが、ためらいがちに咲はその手を取った。

穏乃「もう少し行くと、待ち合わせの場所だ。あと一息、頑張れ」

咲「うん」

穏乃に手を引かれてたどり着いたのは、
山道を少しそれた所にある、なだらかな自然林だった。

由暉子「咲ちゃん、穏乃ちゃん……!」

穏乃「ユキ、もう来てたんだな。ユキは本当にこの場所に来るの好きだな」

由暉子「ええ。ここはいつも緑が鮮やかで、何度来ても飽きませんから」

穏乃は咲を振り返って訊ねた。

穏乃「……どう?この場所に見覚えはない?」

足元には柔らかな下草が揺れ、立ち並ぶ木々は周囲に涼しげな木陰を作っている。
静かで、居心地の良さそうな場所だ。

しかし思い出の場所だという景色に目を向けても咲の心には、幼い日に三人でここで遊んだという記憶は浮かんでこない。
咲は首を振った。

咲「……ううん」

穏乃「ここに来れば、少しは思い出してくれるかと思ったんだけど……そう簡単にはいかないか」

穏乃「でも子供の頃のことだからと言っても、ここまですっぱり忘れてしまうなんて……」

由暉子「もしかして、頭でも打って記憶喪失になっているのかも知れませんね」

その言葉に、穏乃は傷でも探すように、そうっと咲の髪をかき上げた。
突然触れられて驚きはしたが、不快ではなかったので、そのまま咲はじっとしていた。
間近で心配そうに見つめる穏乃に何かを返したくて。咲は自分の中で一番古い記憶を思い返そうとしてみた。

―――――りつべ市を出る前、子供の頃の自分を。

咲の脳裏に、なにか古い記憶の映像が浮かぶ。
真っ白な視界の中で、忙しげにうごめく、何か。

……それは、白い服を着た人影が動き回るさまのようだ。
咲自身も同じような白い服を着せられている。

咲「……白い服を着てる。白い部屋で……」

目線が低い。それは確かに子供の頃の記憶のようだ。
すべてが白い。仰ぐように見上げる視界のすべてが。
部屋も、そこにいる人々の姿も、何もかもが……白い。

穏乃「それって……病院?咲、もしかして引っ越しでなくって、病気で入院してたのか?」

穏乃「ひょっとして病気の記憶が辛くて、その記憶ごと昔のこと全て思い出せないようになってしまったのかな」

咲は更に深くその記憶を手探りし、思い出そうと試みた。
が、鈍い頭痛が襲って目の前が暗くなる。

咲「ぅ……っ」

由暉子「!!咲ちゃん、無理しちゃ駄目です!」

穏乃「咲、大丈夫か?そんなに辛いなら無理して思い出さなくていいから」

咲「でも……」

穏乃「私達、またこうして会えたんだから……それでいいよ」

咲の手を取って支えた穏乃がそう呟いた。
そっと目を開いて、咲は穏乃の顔を見る。

穏乃「また会えたことだけでも、感謝しなきゃな」

由暉子「本当ですか?穏乃ちゃん、咲ちゃんに会ってからずーっと『早く思い出さないか』って、せっついてたくせに」

穏乃「いや、だって物覚えの悪い私でも覚えてること、咲は忘れてるんだぞ?心配にもなるよ!」

由暉子「はいはい、穏乃ちゃんの気持ちはよく分かりました。……あ、いつの間にかこんな時間なんですね!」

由暉子「今日は園芸部の花壇の世話をすることになってますから、私はこれで失礼しますね」

穏乃「ああ、そっか。毎週熱心に通って世話してるもんな。それじゃ、そこまで一緒に帰ろう」

由暉子「いえ、直接学校の方に行きますので、家とは反対の方向になりますから。一人で帰ります」

由暉子「ほんのちょっとだけど、またここに三人で集えて嬉しかったです。それじゃあ、また明日。学校で」

優しく微笑んだ由暉子は、咲たちに手を振って山を下りていった。

穏乃「……どうする?咲。私達も帰るか?」

咲「………」


1、もう少し、ここに居たい
2、遅くなる前に帰る

安価下

咲「……よくは分からないけど、ここは懐かしい気がする。もう少しだけここに居たい」

そう答えてみたものの、先ほどから過去の記憶を呼び覚まそうとするたび起こる頭痛で立ちくらみがする。
それでも、昔を思い出したい。
咲との思い出を、こんなにも大切に想ってくれている穏乃と由暉子のためにも思い出したい。
二人のことを何も思い出せない自分がひどくもどかしい。

咲「……高鴨さんのこと、思い出せなくてごめんなさい」

穏乃「謝るなよ、咲!好きで記憶を無くす人なんていないんだからさ」

咲「でも……」

穏乃「それに、咲は私達のことを必死に思い出そうとしてくれた。それだけで十分だから」

穏乃「だからそんな辛そうな顔しないで。その気持ちだけで嬉しかったからさ」

咲「高鴨さん……」

穏乃「そうだ!この近くに小川があるんだ。水も飲めるし、そこで一休みしていこう!」





まばらに木々の生え茂る、山頂の林のひとつに向かった穏乃が咲を手招きした。

穏乃「小川はここを抜けたところにあるんだ。ほら、かすかに聞こえるだろ?」

耳を澄ますと、確かにさらさらと流れる水音がする。
穏乃に導かれるまま、行く手を遮る梢を払いつつ暫く進むと、二人の前に小さな清流が現れた。

穏乃「これ、山の湧き水なんだ」

そう言って両手にすくった水を、穏乃はごくごくと飲み干した。

穏乃「んー、美味しい!やっぱりここの水は最高だ!」

咲も穏乃にならって、冷たい流れに両手をひたす。
ひとすくい手のひらにすくって、こくこくと喉を鳴らす。
喉が渇いていたせいもあったが、今まで水をこんなにおいしいと感じたことはなかった。

穏乃「どう?咲」

咲「うん、おいしい……それに、この山は凄く落ち着く。連れてきてくれてありがとう、高鴨さん」

穏乃「そ、そんなに素直に言われると照れるんだけど……咲ってそういうところ、昔と変わらないよな……」

咲「……?」

何故か頬を桜色に染めてうろたえる穏乃に、咲は小首をかしげる。

穏乃「でも、ここは本当にいい場所だろ?この山には他にも面白い場所があるんだ。また一緒に来ような、咲」

穏やかに笑いかける穏乃の瞳に、不意に咲は懐かしい郷愁を感じた気がした。
以前にもこんなふうに、このまっすぐな少女の瞳に見つめられたことがあるような気がする。
はっきりした確信を持ったわけではないので、何も言わず咲はただ穏乃に笑み返す。

二人はしばらくその川べりに腰かけ、小川の流れる音に聞き入っていた。

やがて夕刻が迫り、二人は山を下りた。
帰路につきながら咲は心地良い疲労とともに、心が洗われたような、
長い間そこにあった壁が押し流されたような何とも言えぬ軽やかさを感じていた。


――――――――――

かすかな光さえ見出せぬ、深く暗き闇のなか。
咲は己の名を呼ぶあの声を、ただひたすら待ち続ける自分に気が付いた。

―――――そう、待っている。
あの声を。あの響きを。

(……キ……)

―――――聞こえてきた。
あの声が、咲の名を呼んでいる。

(……サキ、来ヨ……)

待ちわびた声とともに、暗がりに灯りがともるように。

(……コチラに、早ク来ヨ……)

ぽっと、白くほのかな光が生まれる。
目を凝らしてよく見れば、それは光でなく、白い影だった。

(……来ヨ……)

―――――白影は闇を圧して拡がり続け、

(……我、汝のチカラ喰ライテ……)

―――――やがて、この身を包んだ。

(……現世二……)

誰かが、背後から包み込むように咲を抱きしめている。
やわらかな抱擁に、そのままこの身を任せてしまいたくなる。

(……サキ……)

私を呼び、抱きとめる。
あなたはいったい……誰……?

……名を呼ぶ声の残響が耳に新しいまま、咲は浅い眠りから覚めた。

咲「……また、あの夢……」

あの夢を見たのは久しぶりのことだった。
いつとも知れぬ幼き頃より、咲の眠りを訪れるあの夢は、
年を重ねるごとに次第にあざやかさを増していく気がする。
夢の名残を払うように頭を振ると、咲はベッドを降りた。




夢見が良くなかったせいか、今朝は少し気分がすぐれない。
生徒の群れに混じってうつむき加減に学園内を歩いていると、咲の肩をたたく者がいた。

穏乃「おはよう、咲!」

一瞬、体を強張らせる咲を安心させるように、穏乃が明るい笑顔で笑いかけた。

咲「おはよう、高鴨さん……」

穏乃「ん?咲、顔色が悪いぞ。体調良くないのか?」

咲「ううん、大丈夫」

穏乃「……とてもそうは見えないけど。調子が悪いなら保健室に行こう」

良子や照に心配をかけたくないから、保健室には行きたくない。
少し頭が痛いだけだと、咲は無理に笑顔を作った。

自分で思うより体調は良くないのかもしれない。
咲の顔色を見た穏乃が、そばのベンチを示して言った。

穏乃「咲、やっぱり顔色が悪い。そこに座って」

咲「平気だから……」

穏乃「頼むから座って。私を安心させると思って、さ」

咲「……うん」

穏乃「そこで待ってて、薬もらってくるから」

咲をその場に残し、穏乃は保健室の方に駆けていった。

穏乃の気遣いに感謝しながらほっと息をつく。
他人から向けられる無償の好意には未だ慣れないが、気分の悪いものではない。
心があたたかくなるような裏のない親切に触れ、咲の表情は自然とやわらぐ。


揺杏「よう、宮永。ずいぶんと楽しそうじゃねえか」

咲「……!」

転校初日、殺された泉とつるんでいた生徒――――揺杏。
彼女がいつの間にか、咲の目の前に立っていた。

揺杏「なあ、宮永。あれから泉の奴を見ないけどどうなった?やっぱあのままくたばっちまったのか?」

咲「………」

あの時、泉を突き飛ばして注意を彼女に引き付けておき、その間に自分だけ逃げだした揺杏。
仲間を犠牲にすることもためらわない、彼女の冷酷で自分本位な態度を、咲は忘れていない。
警戒心もあらわなきつい視線で、咲は揺杏をにらんだ。

揺杏「おっと。そんな怖い顔で見るなよ」

咲「あなたは、仲間を囮にしておいて……」

揺杏「あいつに運がなかっただけのことさ」

咲「……!」

揺杏「そう怒るなって。泉が犠牲になってくれたおかげでアンタらも助かったんじゃねえの」

揺杏「泉を助けられなかったって点じゃ、あたしらは同罪なんだぜ?」

咲「………」

揺杏「なあ、宮永。あたしはさ、これまでにも大っぴらに言えないようなヤバいネタに手を出した事がある」

揺杏「でもあたしの危険と儲け話の匂いを嗅ぎつける嗅覚は人一倍でね。危ない目にあったり大損こいたことはねえ」

揺杏「けど、こないだのは誤算だった。危うくあたしの身までヤバくなるところだったからな……」

咲「………」

揺杏「景気のいい金ヅルを、アンタのせいで失ったことは痛手だったな」

揺杏「なあ、アンタ。泉の代わりにあたしに金を渡す気はねえ?」


1、断固として断る
2、逃げる
3、無視を貫く

安価下

咲「お断りします……!」

揺杏「強気な態度だねえ。いいのか、そんなこと言って?」

揺杏「……なあ、宮永。アンタ、何だってこんな半端な時期に転校してきたんだ?」

咲「……!」

揺杏「そこら辺を追及すると、何か面白いことが分かるかもな」

咲「………」

揺杏「楽しみにしてな。あたしがアンタの弱みを暴いてやるよ」

咲「何で、そんな……」

泉に義理立てするわけでもなく。
なぜ揺杏が咲に、そこまでからんでくるのか分からない。

揺杏「……あたしはさ、他人に興味を持つことなんか殆どないんだけど……なぜだかアンタには興味が沸くんだわ」

揺杏「あたしの心を刺激する何かが、アンタにはあるみたいだな。満足するまでは……逃がさないぜ」

咲「……!」

揺杏「じゃあな、宮永。また……な」



揺杏が含みのある言葉を残して去って間もなく。
息をきらせた穏乃が咲の元に駆け寄った。

穏乃「咲、頭痛薬もらってきた――――どうかしたの?」

咲「ううん。何でも……」

何でもない、と咲は穏乃にぎこちない笑顔を返した。

穏乃「………」

咲「高鴨さん……?」

穏乃「なあ、咲。今日は授業サボらない?」

咲「え……?」

穏乃「校内だけど、気分よく休める場所を知ってるからさ」

咲「……でも……」

穏乃「今日は何となく、授業に出ずのんびりしたい気分なんだ。咲も私に付き合わない?」

咲「……分かった。付き合うよ」

穏乃「よし、決まり!じゃあさっそく案内するな。こっちだ、咲!」

咲の手を引いて、穏乃は足取りも軽く歩き出した。




穏乃に連れられて訪れたのは、今は使われていない空き教室だった。
元々は授業を執り行うための教室というより、教師が控え室に使うために教官室であったらしい。
狭い部屋の中には生徒用の机の代わりに、また新しい二組のソファとテーブルが置かれてあるだけだった。

穏乃「ここは特別教室が多い校舎で、使われる機会が少ないから、授業がないときは殆ど人も通らない」

穏乃「生徒数にも余裕があるから、使われないままずっと空いたままの教室も結構ある」

穏乃「鍵がかけられてることが多いけど、最上階のここだけはいつも忘れられて鍵が開いてるんだ」

咲「そうなんだ……」

穏乃「ここのソファ寝心地が良いんだ。ちょっと埃っぽけど、まあ我慢できないほどじゃないし」

穏乃「保健室みたいに利用記録を残さなくても良いから、いつでも気軽に使える」

穏乃「咲もさ、いつでも使えばいいよ。考え事したい時とか、誰にも言わずに休みたい時とか」

咲「高鴨さん……」

穏乃が突然咲をサボタージュに誘った理由が、その言葉で分かった。
体調が優れないのを見抜いた穏乃は、咲を『付き合わせた』という形にして、
弱みを見せたがらない咲が授業を休みやすいように気遣ってくれたのだ。

咲「ありがとう……気を遣わせちゃって」

穏乃「ううん。今日は私、サボりたかっただけだからさ。何も考えないで、今はゆっくり休もう!」

咲の手を引いてソファに横たわらせると、穏乃ももう一つのソファに寝転がった。

穏乃「な、結構いい感じだろう?」

咲「うん」

咲が頷くのに満足げな笑顔を返すと、穏乃はいかにもリラックスした様子で、心地良さげにまぶたを閉じた。
揺杏との対話で知らず張りつめていた心を解き、咲もゆったりとしたまどろみに身を任せた。

今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました


――――――――――

放課後の訪れを知らせるチャイムが鳴り響く。
帰り支度をする咲に、穏乃が声をかけてきた。

穏乃「咲、一緒に帰ろう」

良子「ちょっとストップです。ミス高鴨」

穏乃「……戒能先生?」

良子「先月の実験レポート、提出期限はとっくに過ぎてますよ。まだ提出してないのはあなただけです」

穏乃「あ。そういえばすっかり忘れてました」

良子「こらこら、そんなに簡単に忘れないでください。今日こそは提出してもらいますよ」

良子「下校時間までに提出すれば、遅れたことも許してあげます。待ってますから、完成させて持ってきてください」

穏乃「はーい……」

良子「咲、ミス高鴨が逃げ出さないか、そばで見張っててくださいね」

咲「え、はい」

良子「赤点を取りたくなければ、今日のところは大人しく居残ってレポートを完成させることです。では、また後で」

楽しげな様子で手を振ると、にこやかな笑顔を残した良子は教室を出て行った。

穏乃「ごめんな、咲。この調子だと今日は早く帰れそうにないや」

穏乃「先生はあんなこと言ったけど、私に付き合って居残ることはないよ。先に帰ってて」

咲「ううん。私も手伝うから、一緒に帰ろう」

穏乃「いいの?はっきり言って助かる!ありがとう」

咲がこの学園に来る前に行われた実験だったが、幸いなことに同じ実験を前の学校ですでに済ませていた。
向かいあわせに席に座り、咲と穏乃は額をつき合わせてレポートに取りかかる。
化学のノートを繰りながら、穏乃がぽつりとつぶやいた。

穏乃「……なあ、咲。良かったら咲のマンションの近くで待ち合わせて、朝も一緒に通学しない?」

突然の穏乃の申し出に、咲は驚いて資料集から顔を上げた。

咲「私達の使う通学路は違う。そんなことしたら、高鴨さんが遠回りになっちゃうよ」

穏乃「大して遠回りじゃないから平気だって」

咲「でも……」

穏乃「今の咲の周りは普通じゃない。私の知らないところで咲がどうしてるか、離れていると心配になるんだ……」

穏乃「私を安心させると思って、迎えに行かせてほしい」

咲「けど、高鴨さん負担が……」

穏乃「いやその、本音をいうと私が咲と一緒に登校したいだけなんだけどさ」

咲「え……?」

穏乃「離れていた期間が長かったから、少しでも多く咲と過ごす機会が欲しいんだ」

穏乃「本気で迷惑じゃなければ、一緒に登校しよう。咲」

穏乃と過ごすのは嫌じゃない。
それで穏乃が嬉しいなら、咲にとっても。

咲「……うん。分かった、一緒に行こう」

穏乃「やった!じゃあ、待ち合わせの場所を決めよう!分かりやすいように図解するな。ええと……」

レポートそっちのけで地図を描き始めた穏乃の姿は何だか微笑ましくて、咲の心を和ませた。

ノートや資料を頼りに、二人がかりで実験結果をまとめ上げ、ようやくレポートは完成した。

穏乃「やった、終わったー!ありがとう咲、本当に助かったよ」

咲「ううん。あとはこのレポートを先生に渡すだけだね」

穏乃「うん!」




良子「―――――オーケー。なかなか良い仕上がりですね。これなら遅れたことも大目に見てあげます」

穏乃「ありがとうございます、先生!」

良子「本当に良い出来です。これを期限までに提出してくれれば言う事なかったんですが」

穏乃「私が本気を出せばざっとこんなもんですよ、先生!」

良子「こらこら、調子に乗るんじゃありません。それにこれ、咲に手伝ってもらったでしょう?」

穏乃「う……」

咲「ごめんなさい……」

良子「咲が気にすることじゃないですよ。……良かったですね、咲」

咲「え……?」

良子「一緒に過ごせる友人が出来て。これで私も一安心です」

咲「良子さん……」

良子「ミス高鴨。これからも咲と一緒にいてやってください」

穏乃「先生に頼まれるまでもないです。咲さえ嫌じゃなけりゃ、私はずっとそばにいますから!」

良子「ふふ、そうですか。……では用も済んだことですし、そろそろ帰りましょうか」

良子「ちょっと待っててください。二人ともマイカーで送ってあげますから。ついでにラーメンでもおごりますよ」

穏乃「やった!ラーメン!」

咲「ありがとうございます、良子さん」


――――――――――

翌日。
授業の終了を知らせるチャイムが教室に鳴り響く。
日直の起立の声が上がって礼を済ませると、午前中の授業が終わりを告げる。

生徒「あの……、宮永さん」

突然クラスメイトに声をかけられ、咲は振り向いた。

生徒「宮永さんを呼んでる人がいるよ、重要な話があるから、今すぐ来てほしいって」

咲「重要な話……?」

いったい誰が、と問いただそうとしたが、伝言を持ってきた生徒は咲に伝え終えると足早に去ってしまった。
……まるで、厄介ごとを避けようとするように。
いぶかしく思いながら、咲は教室を出た。




揺杏「よう。宮永」

咲「……!」

呼び出したのは、咲にとって最悪の人物だった。

揺杏「おっと、そんな顔するなよ。ますます苛めてやりたくなるじゃないか」

咲「………」

薄く笑う揺杏に背を向け、さっさとその場を去ろうと咲は歩き出す。

揺杏「アンタの転校理由、調べてやったぜ」

咲「!!」

顔色を変えて振り返ると、揺杏は余裕の態度で咲に宣告する。

揺杏「ここで騒がれなくなかったら、大人しくついて来いよ」

咲「………」

人気のない校舎裏に、揺杏は咲を連れていった。
警戒心もあらわに睨みつける咲を面白そうに眺めながら、揺杏が口火を切った。

揺杏「アンタの周りをちょっと調べてみたら、色々分かったぜ。アンタが退学になった理由―――――教師を殴ったんだってな」

咲「………」

揺杏「けど、殴ったことよりも本当は殴った理由の方がずっと問題なんだよな。アンタの場合」

咲「………」

揺杏「ああ、それからアンタが『災いを呼ぶ』ってウワサされてたことも聞いた」

揺杏「二年前に先輩が一人。一年前に同級生が一人。……アンタに手を出そうとした直後、死んだそうだな」

咲「………」

揺杏「みんな言ってたぜ。宮永咲は憎い相手を呪い殺してるってさ」

揺杏「―――――ああ、そういやアンタの両親も三年前に死んだんだってな」

咲「……っ!」

揺杏「くく、そんなに過剰に反応するなんてな。てことは、あのウワサも案外ホントだったりしてな」

揺杏「―――――アンタの母親が野犬にかまれて死んだのは、アンタの仕業だってウ・ワ・サ」

咲「違う……!」

かっとなって、思わずつかみかかった咲の腕は簡単に避けられた。
咲の手首をつかみ取り、揺杏はそのまま力任せに身体を引き寄せ、咲の耳元でささやいた。

揺杏「そんなにムキになるなよ。自分でも『そうかも知れない』って怯えてるのが見え見えだぜ」

咲「……!」

揺杏の言葉によって、咲の脳裏に三年前の記憶がよみがえる。

中学校から帰宅した咲を迎えた、あまりに突然の、父母の訃報―――――

前夜から出かけていた母は翌朝になって、大型の獣に襲われた惨殺死体で発見されたという。
父はその報せが届く少し前に、仕事先で事故にあい、担ぎこまれた病院で亡くなったそうだ。

父も母も、咲にとって決して親しみやすい良き親ではなかった。
父は咲に対して何の関心も寄せなかった。
父のよそよそしい態度は、母に対しても照に対しても同じだったが。

母は―――――

咲は母に対してはずっと物静かな女性、という印象を持っていた。
しかし、いつの頃からか咲を見つめる母の瞳の奥に、変化の兆しが見えるようになった。
言いしれぬ昏い想念に満ちたあの目を思い出し、咲の身体が我知らず強張る。

三年前。
母と咲の関係が、突然の嵐に巻かれたように破綻をきたしたとき、両親は死んだ―――――

あの日初めて、母に対して覚えた自分の強い想いが、両親を殺してしまったのかと咲は怯えた。
罪の意識につぶされそうな咲の心を支えてくれたのは、姉の照だった。

幼い頃からよそよそしい家族の中でただひとり、心から咲を可愛がってくれた、二つ年上の姉。
あの時照がそばにいてくれなければ、咲は二度と立ち直れなかっただろう。

揺杏「なあ、宮永。アンタ絡みの騒ぎが起こるたび、アンタを庇い続けてきたのは仲の良い姉貴なんだってな」

揺杏「それじゃ余計に、姉貴に迷惑かけるのは辛いよなあ……」

咲「……!」

揺杏「アンタの転校先にこの学園を見つけてきたのも、その姉貴なんだろう?」

揺杏「また騒ぎを起こして退学なんてことになったりしたら、さぞかしオネエサン悲しむだろうねえ」

咲「………」


1、何が目的なんですか
2、無言を貫く
3、あなたの望み通りにするから口外しないでほしい

安価下

咲「……目的は何なんですか」

揺杏「手っ取り早くいうと、金だな。別に困ってるわけじゃねえが、あるに越したことはないからな」

揺杏「あとは、あたしの退屈しのぎ」

咲「……!」



穏乃「―――――咲に何してるんだ!今すぐその手を離せ!」

校舎裏に駆け寄ってきた穏乃が、咲の手首を掴む揺杏の腕を払いのけ、咲を自分の背にかばった。
穏乃のあざやかな身ごなしに一瞬あっけにとられた揺杏だったが、すぐに皮肉な笑みを取り戻す。

揺杏「頼もしいナイトのご登場ってわけだ」

穏乃「咲に何してたんだよ!?」

揺杏「別に、普通に話してただけだぜ?宮永の秘密のオハナシをさ」

穏乃「秘密……?」

揺杏「前の学校での、宮永の退学理由の真相について、とかな」

穏乃「咲が退学?何のことだ?」

揺杏「こりゃ驚いた。宮永、アンタこいつに転校の理由も話してなかったのか」

咲「………」

揺杏「高鴨、アンタが思うほど宮永はアンタのこと信用してるわけじゃないかもよ?」

揺杏「……何なら宮永の代わりにあたしが話してやろうか?」

穏乃「あなたの言うことは信用しない!」

揺杏「まあ、黙って聞けよ。宮永が退学になった理由は『教師に対する暴力行為』ってことになってる」

揺杏「―――――表向きはな。真相は宮永、アンタは自分に乱暴しようとした教師を返り討ちにしたそうだな」

穏乃「……!」

あの日。
担任の呼び出しを受け、咲は教官室に向かった。
部屋に入った咲を迎えた女教師の目はどこか尋常ではなかった。

何事かつぶやきながら、ふらりと咲に近づくと、そのまま手首を捕らえて咲を床に押し倒した。
正気を失った女教師の目に、獲物を喰い尽くそうとする獣の恐ろしい飢えを感じて、咲は恐怖した。

この目は、以前にも何度か見た目だ。
この目を持つ者に、咲は何度も襲われかけたことがある。

このままでは、また―――――!

身の危険を感じ、無我夢中でそばにあったもので女教師の頭を殴った。
気を失って動きを止めた女教師の身体を避ける間もなく、やがて人が来て―――――

正気に返った女教師は、着衣の乱れた咲の姿を前にしても、自分が生徒に対して何をしたか認めたくないようだった。
うろたえた彼女が口にした、『宮永さんが先に誘ってきたのよ!』との言葉を、教師たちが黙って受け入れたのは保身のためだ。

咲を信じ、かばってくれたのは姉といとこの良子だけだった。
他の誰もが、咲の言葉を信じてくれなかった……


揺杏「アンタが誘ったって、もっぱらのウワサなんだけどさ。実際のところはどうよ?」

穏乃「それ以上くだらないことを言うなら容赦しないぞ!」

揺杏「けなげだねえ……オトモダチの悪いウワサは信じたくないってか?」

穏乃「信じるも何も、咲はそんなことする奴じゃないから」

咲「高鴨さん……」

揺杏「………」

穏乃「咲を傷つけようとするなら……私はあなたと戦う」

穏乃は身についた自然な動作で息を整え、どんな動きにも対処できるよう、ゆるやかに姿勢を変えた。
普段の元気な穏乃のものとは思えない、静かで揺るぎないその所作は、穏乃の自信と気迫のほどを感じさせた。

揺杏「……分かったよ。あたしはここで退散する。今ここでアンタとやり合ったって何のメリットもねえからな」

穏乃「………」

揺杏「あたしは金にならない無駄なケンカはしない主義だ」

ぼそりとそう告げて、揺杏は咲と穏乃のそばを通り過ぎていく。
すれ違う瞬間、咲にだけ聞こえるような声で、揺杏がささやいた。

揺杏「あたしは諦めたわけじゃないからな……宮永」

顔色を変えた咲を振り返ることなく、揺杏は去っていった。
後には、穏乃と咲だけが残される。


穏乃「間に合って良かった。上級生が咲に絡んでるって聞いて、すっ飛んできたんだ」

咲「………高鴨さん」

穏乃「ん?どうしたんだ、咲?」


1、何も言わない
2、退学のこと、話さなくてごめんなさい
3、もう私には関わらない方がいい

安価下

咲「退学のこと、話さなくてごめんなさい……」

穏乃「なんだ、咲。そんなこと気にしてたのか?」

咲「………」

穏乃「人に言いたくないと思うことのひとつやふたつ位、あって普通だと思う。私は気にしてないよ」

穏乃「咲ともう一度会えたことの方が嬉しいから、他のことは本当にどうでもいいんだ」

咲「高鴨さん……」

穏乃「……でも、あの上級生にあんな風に言わせる事件を防げなかったことだけ、ちょっと悔しいかな」

揺杏が話した咲に関する噂のことを、穏乃は少しも気にしていない様子だった。
穏乃のまっすぐな瞳が、本心から咲を信じる思いにあふれていると気が付いて、胸の奥が暖かいもので満たされる。

咲はこの学園に来るまで、信頼できる友人を作ることなど、自分にはもう出来ないだろうと思い込んでいた。
けれど咲への信頼に満ちた、真っすぐな穏乃の瞳を見ていると、まだあきらめる必要はないと力づけられる。
警戒が先に立って、素直には受け入れ難かった優しさや親切を、もう一度信じてみたい。
穏乃を見ているとそんな気持ちになれる。

咲「ありがとう……高鴨さん」

穏乃「咲……。これからは私が咲のこと、絶対に守ってみせるから」

咲「……高鴨さん」

穏乃「おっと、そうだ!貴重な昼休みをこんなところで過ごしてちゃ勿体ないよな!」

咲「そうだね。教室に戻ろうか」

穏乃「うん!行こう、咲」

穏乃の言葉に頷き返すと、咲は穏乃とともに教室に向かって走り出した。


――――――――――

翌日。
咲は家を出ると、穏乃との待ち合わせ場所へと急いだ。
約束の場所に近づくと、先に着いて待っていたらしい穏乃が、咲に元気よく手を振る。

穏乃「おはよう、咲!」

咲「おはよう、高鴨さん」

穏乃「それじゃあ行こうか」

咲「うん」

学園に向かって、ふたり並んで歩き始めた。




たあいのない話をしながら肩を並べて校門をくぐった先で、
二人を待っていた明華に話しかけられる。

明華「おはようございます。穏乃、咲」

咲「おはようございます。明華さん」

穏乃「どうしたんですか?こんな所で」

明華「ちょっとお二人にお話があるんです。……ついて来てください」

咲「話……?」

明華のやけに真剣な様子に、咲と穏乃は思わず顔を見合わせる。
後も見ずに歩き出した明華を追って、二人もあわてて駆け出した。

穏乃「話って何ですか、明華さん?」

明華「あの学園祭の展示品の粘土板についてです」

咲「……!」

明華「理事長の考古学コレクションに前々から興味を持っていた赤阪先生が、頼み込んで提供してもらったそうです」

明華「コレクションは普段、理事長室にある展示ケースの中に保管されています。前もって理事長に見学の申請をしておけば、見学許可が出ることもあるとか」

明華「理事長自らの立ち合いのもと、御大ご自身の案内により、コレクションを拝謁できる、というわけです」

穏乃「なるほど……。で、申請が通るまではどの位時間がかかるんですか?」

明華「それが、まったく分からないんです。その上、コレクションの全てを見せてもらえるわけではないようです」

咲「ということは、見学許可が下りるか分からないうえに、見たい物を見せてもらえないかもしれないんですね」

明華「その通りです。学園祭の途中であわてて回収するような品は、特にそうでしょうね」

穏乃「それじゃ、普通の方法では、私達はあの粘土板を見られないわけですか」

明華「理事長は秘蔵品の全てを理事長室に保管しているとの話です。おそらくあの粘土板も厳重に保管されているんでしょう」

穏乃「……素直に見せてもらえないなら、こっちの方から強引に見てやるしかないですね」

咲「え……?」

穏乃「忍び込んでやろう!」

咲「……!」

明華「穏乃はそう言うと思いました」

穏乃「明華さんは反対ですか?」

明華「……真理追究のためには、時には強引な手段を選ばないとならないこともあります」

穏乃「つまりは賛成ってことですね」

明華「セキュリティのことを考えると、私の協力なしに理事長室に忍び込むのは難しいでしょう」

明華「私が警備システムにハッキングをかけて、監視カメラやセンサーを殺す―――――」

穏乃「―――――そこに私が忍び込んで、必要な資料を集めて来るって段取りですね。フォロー頼みます、明華さん」

明華「もちろんです」

咲「そんな、危険です……!」

穏乃「大丈夫だよ、咲。私達、なんでも屋のバイトでこういった事態には場数踏んでるからさ」

咲「……なら、私も一緒に行く」

穏乃「な……っ!駄目だ、絶対に駄目だ!咲にそんな危ないことさせられない!」

咲「………」

穏乃「咲……!」

明華「穏乃、諦めましょう。咲の目は『反対されても着いていく』って言ってますよ」

穏乃「明華さんまで!」

明華「確かに、咲だけ『危ないから』と止められても、納得できないでしょうからね」

穏乃「う……」

明華「というわけで。咲、よろしく頼みますね」

咲「はい」

明華「―――――今夜、決行です」

今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました


――――――――――

授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、その日の講義はすべて終了した。
咲は姉の携帯に電話を入れた。
コール音が数回鳴って、電話がつながる。

咲「……お姉ちゃん?」

照『咲、どうしたの?』

咲「今から友達の家に行くから、今日は帰りが遅くなると思う」

照『そう、あまり遅くならないうちに帰ってきなさい』

咲「うん」

照『近頃は物騒だから、夜道には気をつけて』

咲「分かった。じゃあ……」



穏乃「咲、連絡は済んだ?それじゃあ行こう」

忍び込む準備を整えた咲、穏乃、明華の三人は、
校内に人影のなくなる時間まで密かに図書館に身を隠した。

学園祭の事件以来、生徒の下校刻限は午後6時とされている。
6時になってもまだ校内に居残っていた生徒は教師たちに追い立てられ、
間もなく、校内を歩く生徒の姿は見えなくなった。

生徒を退かせる時間が早まったことで、自然と教師たちの帰宅時刻も早まったようだ。
今日は職員会議もないらしく、7時半を過ぎた頃には、校内の灯りもほとんど落とされた。
8時を過ぎ、最後まで残っていた教員が帰路についた後、三人は行動を開始した。

明華「それじゃあ、私はここから校内のセキュリティシステムにハッキングをかけて、サポートしますから」

手慣れた様子で、明華は図書館に設置されたネットワークの端末から、学内ネットワークサーバーにアクセスする。
そこを経由して、あっという間に夜間の校内を守るセキュリティシステムに侵入した。

明華「学園のセキュリティはとっくの昔に攻略済みですから。管理用パスワードも分かっています」

明華「パスワードは毎週変わりますが、変更用のプログラムを解析済みですから問題ありません」

穏乃「……明華さん。もしかして図書館にいつでも入り浸れるよう、セキュリティにアタックかけました……?」

明華「その経験が今生かされているわけですし。まあ、いいじゃないですか」

明華「監視カメラにはダミーとして、侵入前の映像が繰り返し流れるよう細工します。警備の巡回時間まで、これで何とか監視の目はごまかせると思いますよ」

穏乃「……明華さんがいてくれて助かりますけど、なんだか犯罪者を友達に持ってる気分です……」

明華「ふふ。悪用する気はないから安心してください。あ、何かあったらこれで連絡を取ってくださいね」

そう言って明華は、穏乃と咲の手に、ヘッドセットタイプのインカムを渡した。

明華「理事長室内の警報のたぐいは殺しておきますが、くれぐれも気を付けてください」

咲「分かりました。……行ってきます」

月明りがまばゆい校内を、目立たぬよう身を屈めて移動しながら、二人は理事長室前にたどり着いた。
ここに向かう途中、警備の者が侵入者を捕らえるため飛び出してくるようなこともなく、明華の工作は順調な様子だった。

穏乃「……明華さん、着きました。理事長室の扉はもう開いてるんですか?」

穏乃はインカムの向こうの明華に向かって、声をひそめてささやいた。

明華『理事長室の扉のロックだけシステムから独立しているみたいです。こちらからは手が出せません』

穏乃「そんな、じゃあどうするんですか?」

明華『いいですか、私の言う通りコンソールパネルを開いて、さっき持たせた機材を接続してください』

明華『外部からシステムに割り込みをかけて、キーを無効にします』

穏乃「分かりました。やってみます」

インカムから届く明華の指示に従って、穏乃はコンソールパネルを開いた。
配線の具合などを明華に説明すると、明華はインカム越しに、どこに何をつなげとの指示を飛ばす。

明華『パスワードが要ります。解析プログラムを走らせますから、コマンドを入力してください』

穏乃は明華の言葉に従い、コマンドを入力する。
パスワードの解読プログラムが始動して電子ロックの解析を始める。
穏乃の隣であたりを警戒していた咲の耳に、遠くからこちらに近づく硬い靴音が、かすかに届いた。

咲「……誰か来る!」

咲の言葉に、穏乃は焦りの表情でインカム越しに明華を急かす。

穏乃「まだですか、明華さん!警備が来そうなんです!」

明華『待ってください、もう少しのはずです……』

カチリと小さな音を立て、ロックの状態を報せるセンサーの表示色がレッドからブルーに変わる。

穏乃「センサーの色が青に変わった!」

明華『OK。開きました』

穏乃がドアノブを回すと、扉は容易く開いた。

穏乃「開いた!入るぞ、咲!」

コンソールパネルを元通りに戻すと、咲と穏乃は素早く理事長室にすべり込んだ。
音を立てぬよう扉を閉ざして、ほっと安堵の息をつく。

厚いカーテン越しに射し込む月明りを頼りに、
咲と穏乃は入り口近くから理事長室内を動こうとした。

穏乃「……!」

突然、足を止めた穏乃の背に、勢い余った咲は額をぶつけてしまう。
いったい何が穏乃の歩みを止めたのかと、肩越しに前方を見た。

咲「……!?」

部屋の奥、月明りさえ届かない机の陰に赤い光点がふたつ、不吉な瞬きを見せていた。
暗闇に光る一対の赤い視線は、息を呑んで足を止めた二人の動きを探るように凝視している。

穏乃「……咲、私の後ろから離れないで」

咲の耳にだけ届くほどのかすかな声で、穏乃がささやく。
穏乃は咲を背にかばいながら、不測の事態に備えていつでも構えに移れるよう、静かに呼吸を整えている。

シュウ……、と不気味な低い音を発しながら、影が動いた。
床上を何か重く長いものが這いずる気配と共に、そのまま影は身構える二人から遠ざかる。
咲が目を凝らす間もなく、影は一間続きになった隣室へと去ってしまう。

視線の届かぬ向こう側、かたんと窓の開く音がして、
やがて気配は完全に理事長室から消えた。

穏乃「……出て行ったみたいだな。戻ってくる様子もない」

隣室に踏み込み、影が去った後をしばらく念入りに確かめていた穏乃がつぶやいた。

穏乃「何だったんだろう、アレは。泉の時に見た影と、気配は同じものだった」

咲「理事長室を見張ってた……?」

穏乃「けど、それならなぜ侵入者の私達を襲わなかったんだろ?」

咲「………」

穏乃「……考えても仕方ないか。それより急ごう。誰か来る前に調べてしまわないと」

咲「そうだね……。明華さん、これから私たち部屋を調べてみることにします」

穏乃「明華さん、あれ……明華さん!?」

『………』

インカムからはノイズが流れるばかりで、明華の応答はない。
交信はいつからか途絶えていたようだ。

穏乃「駄目だ、全然つながらない。何かあってもこの先、明華さんの助けを望めないみたいだ」

咲「何かあったのかな……」

穏乃「まあ、仕方ない。ふたりで頑張ろう、咲」


咲と穏乃は、理事長室の調査を開始した。

穏乃「とりあえず、そこの机から調べてみるか」

咲は穏乃と手分けして、理事長の執務机を調べることにした。
机は黒檀製の大きなもので、艶やかに磨き上げられた机上にはパソコン、灰皿、1枚の写真が置かれていた。
机の右側には、三段の引き出しがついている。


1、写真を調べる
2、パソコンを調べる
3、引き出しを調べる

安価下

咲は引き出しを調べてみた。

引き出しに鍵はついていない。開いて中を調べてみる。
中には古い書物と巻物が数巻、保管されていた。

咲はそっと机の上に書物の束を広げてみる。
ぼろぼろの古さびた古紙に題字を墨書された、由緒ありげな巻物が数巻。

穏乃「いかにも怪しげな感じがする巻物だな……」

その中のひとつ、『りつべ文書』と大きく題字された巻物を手に取った。
巻物を留めている紐を解き、慎重な手つきで広げてみる。

穏乃「……読めない」

横合いから巻物をのぞき込んだ穏乃が、しかめ面でつぶやく。
咲も目を通してみたが、古めかしく馴染みのない漢字ばかりの文章は判読が難しく、簡単に内容を読み解くことが出来ない。
余白にメモや書き込みはないかと注意してみたが、それらしきものは何も見つけられない。

穏乃「これは、持って帰って明華さんに調べてもらおう。私達の手には負えない……」

元通りに巻き直すと、穏乃はバックパックの中にその巻物をしまい込んだ。
他の巻物も調べてみたが、特に変わったものは無さそうだった。


1、写真を調べる
2、パソコンを調べる

安価下

咲はパソコンの電源を入れた。
起動音と共にコンピューターが立ち上がる。

目についたファイルを片っ端から開いて、内容を確認する。
ほとんどが学園の運営に関するもので、あまり関係はなさそうだ。

穏乃「このファイルは何だろう……?」

『R-FILES』と、題されたファイルを指さし、穏乃がつぶやく。

咲「……データファイルみたいだね」

ファイルを開こうとすると、画面にパスワードの入力を求める指示が出て、
それ以上開けなくなってしまった。

穏乃「パスワードか、明華さんがいれば早いだろうけど……明華さーん!」

『………』

インカムからの応答はない。
交信は途絶えたままで、回復する気配はない。

咲「やっぱり、私達ふたりでパスワードを割り出さなきゃならないみたいだね……」

穏乃「どうする?パスワードなんて分からないし……」

咲「……とりあえず、他の所を調べよう」


1、写真を調べる
2、もう一度引き出しを調べる

安価下

咲は写真を調べてみた。
写真には理事長と、彼女に寄りそうように座っている大型犬が映っていた。

咲「この犬は……?」

穏乃「ああ、理事長が可愛がってる愛犬だよ」

穏乃「大層な可愛がり様で、よく学園にも連れてきてた。確か名前は『ヒロエ』とか呼ばれてたような……」

咲「ヒロエ……」


穏乃「咲、次はどこを調べる?」


1、もう一度パソコンを調べる
2、もう一度引き出しを調べる

安価下

咲「もしかすると、さっき見つけた品の中にヒントになるものがあったのかも」

穏乃「パスワードになりそうなのは……まさか、理事長の愛犬とか?」

咲「……それかも」

咲はパスワードとして、『HIROE』の文字を入力してみた。
息を呑んで見守る二人の前で、『パスワード承認』のデジタル文字がディスプレイに表示される。

穏乃「やった!正解だ!」

データベースに納められた情報のタイトルメニューが、一覧となって画面に並べられる。



『≪因子保持者≫の収容状況について』

『りつべ女学園に集められた≪因子保持者≫数は現在、全生徒のうち約40%に到達した。
引き続き被験対象としての使用に耐えうる、身体的に健康な≪因子保持者≫をある程度の数揃えることが最優先事項である』


穏乃「因子保持者……?いったい何のことだろう?」


『20××年6月、定時報告』

『被験者Sは順調に成長中。心身共に問題点は見受けられず。
情緒面やや不安定ながら、成長期に見られる程度にとどまる』


穏乃「……?何だろう、これ?よく分からない記録だな」

咲「何かの研究対象の観察記録みたいだけど……」

穏乃「……咲!この記録の報告責任者を見て!≪弘世製薬≫って書いてある―――――!」

穏乃が指さした先には記録責任者の記名欄があり、そこには、
≪弘世製薬・新薬開発研究所・特別研究班≫と記名されていた。

穏乃「弘世製薬って言えば、癌の特効薬とか難病の薬を開発してるので有名な、市内にでっかい本社ビルを持つ製薬会社だ」

穏乃「どうしてこんなものを理事長が持ってるんだろう……」

咲「もうひとつ、項目があるね」


『≪代行者≫の活動報告』

『現在も≪代行者≫は関連施設への潜入を図り、各種の諜報活動、および施設の破壊活動を続けている。
≪刻≫が近づいたため、≪代行者≫の活動もそれにともない、ますます活発なものになると予想される。
りつべ市在勤の関係者各位への、≪代行者≫の動向に対する厳重な注意を要請する。

なお、≪代行者≫への直接な対応は、契約により≪代行者≫の活動開始と同時期に目覚めた、
≪守護者≫にそのすべてを一任することとする―――――』


穏乃「……≪代行者≫?いったい誰が、何を代行してるんだろう」

咲「何のことだかさっぱり分からないね……」

二人はそれ以上調べるのを止めて、パソコンの電源を落とした。

穏乃「さて、他に探すようなところはあるかな……」

咲「……?これは、手紙……?」

窓際の書類棚の上に置かれたレターラックの手紙の束に目をつけ、咲は近づいた。
穏乃もすぐに後を追う。

穏乃「理事長宛に学園に届いた手紙と、理事長がこれから出す手紙の束みたいだな」

手紙の差出人や宛先を、裏返して見たりしながら、一通一通確認する。

穏乃「たいした内容の手紙はなさそうだけど、一通だけ気になる宛先を見つけたよ」

咲「それは……?」

穏乃「この手紙の宛先、弘世製薬・新薬開発研究所の―――――研究所長宛てになってる」

咲「弘世製薬って言えばさっきデータベースで調べた、よく分からない観察記録の報告先になっていた会社だね」

穏乃「理事長と弘世製薬は、昔も今も何らかのつながりがあるってことかな?」

咲「―――――ってことは、さっきの記録も私達のまわりで起きていることに関わりがある……?」

穏乃「……ものすごく気が引けるけど、中を確認してみようか?」

手紙を開封するという、他人のプライベートを暴く行為にかなり抵抗はあったが、
どうしても知りたいという思いがを上回った。
咲が頷くのを見て、穏乃は開封しようと、手紙を持ち替えた。


??「―――――あかんなぁ、咲ちゃん。勝手に人の私物に手を触れちゃあ」


咲「……!?」

弾かれたように振り向いた咲と穏乃の前に、部屋の持ち主が立っていた。

咲「愛宕理事長……」

この部屋の正当な主である、私立りつべ女学園理事長・愛宕雅枝。
前の学校で問題を起こした咲の転入を快く引き受けてくれた人物―――――
しかし、こうして眼前に立つ雅枝からはただならぬ異様な雰囲気を感じた。

雅枝「よくこの部屋に入れたもんやな。ここには護衛がつけてあったはずやけど」

雅枝「……と言っても侵入者が咲ちゃんであれば、それも頷ける話やな」

咲「え……?」

雅枝「奴には万が一にもアンタに手を出さんよう、躾けてあったからな」

穏乃「……!じゃあさっきのアレは、理事長が操っていたんですか!?」

雅枝「ああ、そうや」

穏乃「なら……なら、泉を殺させたのもあなたの命令ですか!?」

雅枝「泉……?そんな生徒のことは知らんわ」

穏乃「とぼけないでください!泉はこの学園で、獣みたいな何かに襲われて死んだんです!」

穏乃「泉を襲ったのは、さっきのアレと同じような気配だった。あなたがアレを操ってたのなら、泉のことにも関わりがあるはず!」

雅枝「私に与えられた≪眷属≫は、この部屋の護衛である、あれ一匹や。他の奴らのことなんて知らへん」

穏乃「……けんぞく……。あの獣は、眷属って言うんですか」

雅枝「おおかた他の連中の配下の眷属が、エサを求めて学園内を徘徊してるんやろ」

雅枝「後始末が面倒やから、ケダモノの躾けはきちんとしろってあれほど言ってあったのに……」

咲「……後始末……」

雅枝「騒ぎがなかったところを見ると、家族に対する記憶操作や周囲への工作は迅速に行われたようやな」

穏乃「……!あなたたちが、あれをやったんですか!?」

雅枝「そんな話は今はどうでもええ。それより咲ちゃん、アンタや」

咲「私……?」

雅枝「アンタは今、実に危うい立場にあるんや。とある理由から、アンタを狙う者の動きがここしばらくの間に活発になって表面化しとる」

雅枝「時到るまで、上の者がアンタへの手出しを堅く禁じてるんは、あんな連中に力を与えんためや」

雅枝「―――――やけど、連中が焦るんも分かる。約束の時は近い。それまでに、と……」

咲「………」

雅枝「だからこそ私も、今この時に、アンタの協力がどうしても欲しいんや」

雅枝「どうや?咲ちゃん。私に力を貸してはくれへんか?アンタが私に協力してくれたら、アンタを狙う者たちから私が責任を持って守ってみせたる」

咲「協力……?」

雅枝「アンタの持つすべてを私に捧げると誓い、私の求めに応えてくれればええ」

咲「……!」

雅枝「私のものになるんや……咲ちゃん」

咲「……嫌、です」

雅枝「私に従う気はない、ってわけか。……下手に出ているうちに、従うと言った方が利口やで」

咲「………」

雅枝「アンタに痛い思いをさせるのは本意やないけど、逆らうようなら仕方ないわ―――――力づくで、私に従わせたる!」

穏乃「それがあなたの本音なんですね、理事長!咲を自分の都合のいいように扱おうとするなんて!」

雅枝「いくら抗おうと我らの手の内からは逃れられへん。ならここで私に従って、媚びを売っておくのが利口な生き方とは思わんか?」

穏乃「理事長、あなたの言葉はひとつも信用できない!咲はあなたたちの道具じゃない!」

雅枝「……ふん。それはどうかな」

咲「………」

雅枝「彼女は贄や。ただのヒトではありえへん」

穏乃「ニエ……?」

雅枝「我らに≪捧げられしもの≫のことや」

穏乃「そんな……、誰が咲をそんな物みたいに扱うような、勝手なこと始めたんですか!」

雅枝「最初にそれを決めたのは……≪始祖≫」

穏乃「始祖……?」

雅枝「ヒトとは異なる種、ヒトを超えるもの。大いなる力を揮う、人知を超えた存在」

雅枝「アンタごときには思いも及ばん、ヒトより上位の存在のことや」

穏乃「ヒトより、上位の存在……?」

雅枝「我らはその存在を、畏怖を込めてこう呼んどる。―――――神、と」

雅枝「我らはこの身にいにしえの貴き存在の血を継いだ神の末裔。人と超えるものとして、大いなる存在より力を授かった選ばれし一族や」

穏乃「あなたたちは、神様きどりのその妄想に、本人の意思を無視して巻き込むつもりなんですか!?」

穏乃「―――――冗談じゃない!咲をそんなアブナイ奴らの好きになんてさせない!」

雅枝「贄の扱いをどうするか、決めるのは我らや。贄に拒む権利なんてない」

雅枝「覚えておくとええ。咲ちゃん、我々にとってアンタは何より得がたい存在やってことを」

咲「……それは、どういう……」

雅枝「アンタほどに濃く、我らを誘うその血を継ぐものは他に無いということや」

雅枝「アンタのその身は恐ろしく耐えがたいほどに我らの欲を刺激し、本能に訴えかける」

雅枝「破滅につながると分かっていても、アンタに手を伸ばさずにいられへんほどにな」

咲「………」

雅枝「アンタを得たとき、我らが手にするものの大きさと悦楽を思えば、それも無理からぬことや」

雅枝「我らは皆アンタに手を出すことを禁じられてる。けど、監視を出し抜いて邪魔が入らないうちに、今ここで私がアンタを得てしまえばええだけのこと」

咲「……!」

雅枝「アンタさえ手に入れてしまえば、もはや恐れるものはあらへん。……さあ、今すぐ私のものになってもらうで」

雅枝は咲に向かって指を伸ばした。

穏乃「そんなことさせない!」

叫びざま、穏乃は咲と雅枝の間に割って入る。

穏乃「咲をあなたなんかに渡さない!」

雅枝「うるさい子供やな。アンタにはこれ以上私の邪魔をせんよう、退場してもらおうか」

雅枝の言葉と共に、外側から窓ガラスをぶち破り、何かが部屋の中に飛び込んできた。
部屋いっぱいに飛び散ったガラスの破片から身を守りながら、その正体を確かめようと目を凝らす。

暗がりの中、大きく長いシルエットが滑るような動きで床上を這い寄るのが見えた。
それは泉の命を奪った、あの影によく似た気配を持つ生き物だった。

雅枝「贄は決して傷つけたらあかん。もう一人は―――――殺せ」

咲「……!」


1、言うことを聞くから、穏乃に手を出さないで
2、体当たりを食らわせる
3、あなたの思い通りになんてならない

安価下

咲「……分かりました、言うことを聞きます。だから高鴨さんには手を出さないでください」

雅枝「そうやって素直に従うなら、悪いようにはせんで。……こっちに来るんや」

穏乃「咲、駄目だ!そんな人の言うことなんて聞いちゃ……」

雅枝「おっと、あまりそいつを刺激せんほうがええで。知能の低いケダモノや。アンタが動けば喜んで襲いかかる」

穏乃「くっ……!」

雅枝「さあ、咲ちゃん。こっちに……」

咲は唇を噛みしめ、雅枝のそばに歩み寄る。
雅枝の腕が咲の首を抱き込んで、身動きできぬよう、強い力で懐に抑え込む。

穏乃「咲……!」

叫ぶ穏乃の身体を、影から伸びた腕が軽々と宙につかみ上げ、そのまま床に叩きつける。

穏乃「ぐはっ!」

咲「高鴨さん……!」

受け身を取ることもできず、まともに後頭部を打ち付けた穏乃は力なく目を閉じた。
影は床を這い、意識を失った穏乃の身体を抱えたまま、理事長室から出て行った。

雅枝「アンタが逆らわへん限り、彼女を殺しはせえへん。安心せえ」

咲「………」

無言でにらみ返す咲を面白そうに見つめ、掴んだままの手首をきつく締めあげた。
触れられた苦痛と嫌悪に怯む咲の表情を楽しむように眺め、雅枝は咲の唇を塞いだ。

咲「んっ……!」

唇の隙間から舌を差し入れられ、口腔内を掻き回される。
息苦しさと嫌悪感に眉を寄せ、腕をつっぱねて抗おうと試みるも、非力な咲の力では全く効果はなかった。
そのまま口の中を好き勝手に蹂躙され、やがて唇が離される。

咲「はぁ、はぁ……っ」

雅枝「やっぱりアンタは特別の贄や。これまで私が喰らった者どもと比べものにもならへん」

雅枝「こうして僅かに味わうだけで、この身に力が溢れ込むのが分かる……」

雅枝「アンタの母上も、こんな風にアンタという禁断の獲物を得てその甘美さに溺れ、命を落としたんやな」

咲「……!」

雅枝「知ってるで、咲ちゃん。三年前に彼女がアンタにしたことを、私は知ってる……」

雅枝「禁忌を犯してアンタという贄に手を出し、粛清された……あの女のことを」

咲「粛清……?」

雅枝「……私には彼女の気持ちがよく分かる。大切な贄であるアンタに計略をもって手を出した、彼女の気持ちがな」

雅枝「結局クーデターは成功せず、彼女は消されてしまったわけやけど……」

分からない。雅枝が何のことを話しているのか理解できない。……理解したくない。
混乱する咲の肩を掴み、雅枝は理事長室のソファに咲の身体を倒した。

咲「……!」

恐れに身をすくめる咲を嘲笑うように見下ろし、雅枝は咲の制服に指をかけた。

雅枝「恐れることはあらへん。私はアンタの力を借りたいだけや」

咲「……や……っ」

雅枝「―――――その代わり、アンタにも極上の悦楽をあげるから……な」

魅入られたように動けない咲の耳に、笑みを含んだ雅枝の言葉が虚ろに響く。
追い詰められ、今や逃れることの叶わぬこの結末を、咲はただ呆然と受け入れるしかなかった。


BAD END

>>302から

咲「……逃げて!」

穏乃に向かって叫びながら、咲は雅枝に体当たりをくらわせた
反撃すると予想していなかったらしく、不意をつかれて雅枝はその場にふらりと膝をついた。

雅枝「このっ!」

穏乃に駆け寄ろうとした咲は、背後から雅枝に足首を掴まれ、思い切り転ばされる。
身体を床に打ちつけ、痛みに息を詰まらせる咲の身体に馬乗りになり、雅枝は動きを制した。

穏乃「咲を離せ……!」

雅枝「うるさい子ネズミやな……。眷属よ、そいつを喰らえ!」

雅枝の怒声に応じ、影は滑るように穏乃へと這い寄る。

咲「高鴨さん……!」

雅枝の下で咲は必死に暴れたが、頭を掴まれ動きを封じられ、満足に身体を動かすことも出来ない。
這いよる影を厳しい表情でねめつける穏乃の姿に、泉のあの無残な姿が不吉に重なる。
再び繰り返されようとしている惨劇の予感に、咲はぞっと身震いした。

その時、月光を弾いて一筋の銀光が走った。

耳にした者の心胆を寒からしめる不快な金切り声が、床上を這う影の喉からしぼり出される。
長剣が影の胴体を深々とつらぬき、床上に影を縫い付けてその動きを封じていた。

雅枝「な……っ」

クロ「そこまでです」

咲「……あ……」

クロ「ご無事でしたか?咲さん。約束通り、あなたを助けに来ました」

シロから咲を救ったクロと名乗る少女が、いつの間にかそこに立っていた。

穏乃「あなたは……?」

クロ「私の名はクロ。咲さんを守る者です」

こちらに歩み寄ったクロは、床に突き刺さった長剣を易々と抜いた。
何気ない動きで剣を払うと、驚きに声もない雅枝の目前に詰め寄った。

クロ「咲さんを離しなさい」

喉元に突きつけられた鋭い刃先を見つめ、雅枝は顔を強張らせる。
ごくりと息を呑み、咲を捕らえる腕を解放した雅枝は追いやられるままに咲から離れた。

クロ「咲さんに手を出そうとしたあなたには、相応の報いを受けてもらいます」

雅枝「くっ……おのれ!」

雅枝は懐から素早い動きで拳銃を抜き取り、銃口をクロへと向けた。

咲「危ない……!」

身をひるがえし、ヒュッと鋭く風を鳴らしてクロの剣が一閃する。
雅枝の手の中の拳銃が真っ二つに割かれる。
愕然と口を開く雅枝の首筋に右手の剣の柄頭を叩き込み、クロは雅枝を苦もなく昏倒させる。
声もなく倒れ込んだ雅枝は、完全に気を失った様子でピクリとも動かない。

クロ「今回のことで分かったとは思いますが、咲さんを狙う者たちがシロ以外にも存在するようです」

穏乃「それはいったい……」

クロ「彼女らの組織や実態は、私たちにもまだはっきり掴めていません。とにかくこの場は私に任せて、あなた方はここを離れてください」

咲「理事長は、どうするんですか?」

クロ「この女性はこれ以降、りつべ女学園に出入りできないよう結社が手を回します」

クロ「学園内の警備を強化し、あなたの安全を保証できるよう努めますので、どうかご安心ください」

クロ「ガードが難しくなりますので、咲さんにはりつべ女学園をあまり離れないよう、ご協力お願いします」

穏乃「あなたが何者かは知らないけど、助けてもらったお礼を言ってませんでしたね。ありがとうございます」

クロ「礼なんて言う必要はありません。私がお役に立てたことなんて、ほんの少しでしたから……」

クロ「……さあ、警備の者が来る前にこの場を離れてください」

咲「わかりました。……本当に、ありがとうございました」

クロ「これが私の使命ですから」

クロの勧めに従い、気を失った雅枝とクロを残して、咲と穏乃は部屋を出ることにした。

理事長室から脱出し、警備の巡回も無難にやり過ごすと、ようやくふたりは一息ついた。

穏乃「……明華さん、心配してるだろうな。もう一度連絡してみよう」

インカムのスイッチを入れると、間髪置かず明華の声がふたりの耳に飛び込んできた。

明華『―――――穏乃?』

穏乃「やった、通じた!壊れたわけじゃなかったんだな」

明華『咲はどうしました?』

穏乃「大丈夫、一緒にいます」

明華『良かった、ふたりとも無事だったんですね!急に連絡が取れなくなったんで心配しました』

穏乃「理事長室に入った途端、通じなくなったんです。部屋を出たら元に戻ったけど」

明華『強力な妨害派でもかけられていたんでしょうか。それより早く戻ってきてください。成果が聞きたいです』

穏乃「分かりました、すぐに合流します。行こう、咲」

咲「うん」

咲と穏乃は、明華の待つ図書室へと急いだ。

明華「ずいぶんと時間がかかったみたいですね。何かあったんですか?」

穏乃「ええと……色々あったんです。後で説明しますから」

咲「明華さん、ごめんなさい。結局粘土板は見つけられませんでした」

明華「良いですよ。他に色々とあったみたいですし、そちらの話をゆっくり聞かせてもらいます」

穏乃「けど、かなり遅い時間になっちゃいましたね……」

明華「咲さん、家の方は大丈夫なんですか?ご家族の方が心配されているのでは」

穏乃「明華さんの家も私の家も、奔放主義だから大丈夫なんだけどね」

咲「そうですね……あまり遅くならないようにって、姉に言われてたんですが……」

穏乃「明華さんに報告する役は私に任せて、咲は早くお姉さんのところへ帰って安心させてあげて」

穏乃「クロさんって人の言葉を信じるなら、りつべ学園に登校した方が安全だ。明日の朝、また迎えに行くから」

咲「……うん。それじゃあ、また明日」

穏乃と明華に見送られて、咲は家へと帰っていった。


――――――――――

翌日。6限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
これで今日の授業はすべて終了した。

穏乃「咲、理事長室で見つけた古文書の件で、明華さんから話があるって。行こう」

咲「うん、分かった」




図書室で待っていた明華が、二人を見るや早々に話しかけてきた。

明華「二人が理事長室から拝借してきた古文書の記述から、少し気になる箇所を見つけたんです」

咲「気になる箇所?」

明華「実はあの古文書、りつべ市の歴史を紐解く研究者の間で偽書と名高く、その存在を無視されている古文書なんです」

穏乃「偽書?いったいどんな内容なんですか?」

明華「いわゆる、トンデモ本と呼ばれる類のものです」

明華「日本書紀にもその名を知られる『根の国』を、このりつべ市の地底に見つけたと説く、とある人物の体験を綴った古文書です」

咲「根の国……古事記の中で、死んだ奥方を迎えに伊邪那岐の神が訪れた、地の底にあるっていう死者の国のことですか?」

穏乃「りつべ市の地下に、黄泉の国が存在する……?確かに異説ですね」

明華「もしかすると、古文書が真実を語っていたとしたら……二人はどうしますか?」

咲「え……?」

穏乃「明華さんは、あの世とやらがこのりつべ市の地下に実在するって言うんですか?」

明華「そうじゃありません。私はこのりつべ市のどこかに『根の国』と表現した場所が秘されているのかも知れないと思ったんです」

明華「『根の国』の場所を示す箇所だけが、整合性の取れない古文書の描写の中で、やけに具体的で詳細な表現がされてるんです」

明華「それで、この古文書の示す場所が本当に存在するのかも知れないと考えて、調べてみました」

穏乃「もしかして見つかったんですか!?」

明華「ええ。おそらくここだろうという場所の目星はつきました」

明華「何の関わりも無い場所かもしれませんが、もしかすると意外な手がかりが潜んでいることもあり得ます」

咲「それは、どこに……?」

明華「これから一緒に行ってみますか?」

穏乃「これから?そんなにすぐに行ける場所なんですか?」

明華「ええ。近いんです、とてもね」


古文書の記述にあったと明華の指摘した場所は、意外にも咲たちのすぐそばにあった。
りつべ女学園の敷地を真東に向かった外れには綺麗な円錐形のシルエットを描く小さな山がある。
そこは校内の賑わいからかなり離れた場所で、道も整備されておらず、近づく生徒はほとんどいない。
その小山の頂き近くにあるとの明華の言に従い、咲たちはその場所を目指した。

―――――数十分後。
明華が探り当てたという、古文書の中で語られた『根の国』への入り口に、
咲たち三人はようやくたどり着いた。

穏乃「大きな岩だなあ……」

穏乃の感嘆の声に、咲も目の前に鎮座する大岩を見上げる。

明華「この磐座(いわくら)が、千引石。黄泉への洞穴をふさぐ、この世とあの世の境に立つ大岩というわけです」

咲「いわくら……?」

明華「神が天より降りきたる場所、神の御座(みくら)のことです。古代人は自らの崇める大岩のことをそう呼びました」

咲「学校の近くに、こんな凄い場所があったなんて……」

明華「そうですね。一般公開もされていないし、先史時代の遺構によほど興味があって調べない限り、知る機会もないでしょう」

明華「りつべ市のこの磐座の場合は、個人の私有物ですし。こうして隠され、放置されているのも仕方ありません」

明華「私有地でなければ、研究対象や観光資源として、人々の耳目を集めてもおかしくはないんですが……」

明華「むしろ、あえてその存在を抹消され、秘されているような節がありますね。これも話に聞く一族とやらの思惑のひとつかも知れません」

穏乃「その一族が裏で手を回して、この磐座が歴史的な史跡としての評価を受けないよう、根回ししてるってことですね」

咲「……そんなことが……」

穏乃「咲は覚えてないかも知れないけど、このりつべ市は意外に歴史の古い土地柄なんだ」

明華「新しくて古い都市、最新鋭の技術と最古の歴史が交差する地点―――――それがこのりつべ市」

明華「まあ、今はこの磐座のまわりを手分けして調べてみましょう。変わったものが見つかれば知らせてください」

咲「分かりました」


三人はそれぞれ別の方向に分かれて磐座を調べ始めた。咲は山側に面した磐座の裏手を調べることになった。
じっくり時間をかけて磐座のおもてを観察してみたが、苔むした岩の表面に特に変わったものは見当たらない。

咲はそっと磐座をなぞってみた。
指先が磐座の表面をたどるうちに、突然何かの異様な気配を感じた。
慌てて気配の源を探ると、それは制服のポケットの中にある、あの石が発しているようだった。
取り出すと、石は淡い光を放っていた。

咲「……あ……」

石を見つめていると、己の感覚がこれまでになく研ぎ澄まされていることに気が付く。
この磐座に何らかに力が働いているのが分かる。
その力の源に導かれるように、咲は岩に触れたままゆっくり周囲を回り込む。

明華「どうしましたか、咲?」

そちら側を調べていた明華が、何かの痕跡をたどるように現れた咲に問いかけるような目を向けた。
理由は分からないが、何か感じるままにここへ向かってしまった。
自分だけが感じているらしいこの異様な感覚を、明華にどう説明したものか言葉に詰まる。

咲「気配を感じて……」

明華「気配……?」

言葉に迷いながら、一番強く何かを感じる場所に、咲は手を置いた。
瞬間、先ほどまで何もなかった岩肌に文様が浮かびあがる。

咲「……!」

明華「これは……!穏乃もこっちに来てください!」

急いで駆けつけた穏乃に、明華はその文様を示す。

穏乃「これ……、あの石の文様と同じ……」

明華「この古さからすると、かなり昔からここに刻まれていたんでしょうけど……さっきまでは確かに見えませんでした」

明華「なのに咲が触れたら、目くらましが解けるみたいに、いきなり現れた……」

穏乃「そうだ、昔から咲はそんな風に、おかしな古いものを見つけるのが得意だった」

咲「そうなの……?」

穏乃「探検隊ごっことか言って近くの古墳野山を掘ったり、洞穴に入って遊んだり。咲はいつも変わったものを見つけてた」

明華「それは凄い特技じゃないですか!咲、あなたは本当に誰よりも興味深い相手です。ぜひ今度ゆっくりとその話を……」

穏乃「明華さん!今はそれよりこの磐座の文様を調べるのが先ですよ!」

明華「おっと、そうですね」

刻まれた文様に咲が触れると、かけられた鍵がどこかで外れるような奇妙な感じがした。

穏乃「な……なんだ!?」

磐座の平らかな面に亀裂が走り、からくり仕掛けが動くような音を立て、
四角くくり抜かれた岩肌が内側に倒れ込んでいく。

明華「……扉、でしょうか?」

磐座の中は空洞になっていた。
内側をくり抜いて造られた岩室が、開いた穴の向こうに見える。

穏乃「……入ってみよう」

止める間もなく、穏乃が穴をくぐる。
咲たちもそれに続いた。


明かりの差さない岩室に入り込むと、
穏乃は手にしたペンライトの小さな光であたりを照らす。

穏乃「床に縦抗が掘られて、そこから羨道が続いてる……」

明華「奥から風が吹いてきますね。どこかにつながってるみたいです」

咲「いったいどこへ……」

明華「―――――根の国、かも知れませんね」

穏乃「じゃあ、やっぱりここが……」

明華「ええ。おそらくここが古文書に記述のあった、地下に通じる秘密の場所でしょうね」

明華「今日は何の用意もしていません。もぐって調べるのは準備を整えてからの方がいいでしょう」

明華「どこにつながっているのか、どのくらいもぐれば良いのか、何も分からない場所ですから」

穏乃「じゃあ、明日の朝くらいから動きましょうか」

明華「そうですね。これから私の家で、明日に向けての準備をしましょう」

穏乃「けど、これどうします?このままにしておいたら誰かが入り込むかも……」

咲「そうだね……」

咲が何気なく岩に触れると、再びからくりが動くような音がした。

穏乃「!?何だ?」

岩室の扉が、内側から閉ざされていく。
三人が呆然と見守るうちに、岩室の入り口は元通り完全に塞がれてしまった。
ただの岩に戻ったそこが、開く仕掛けになっていることに、もはや誰も気づかないだろう。
あわてて穏乃が岩肌を叩いてみたが、何も起こらない。

明華「咲が触れないと、扉は開かないみたいですね」

咲「……私が……」

穏乃「まあ、とりあえず今は行きましょう!」

穏乃の言葉に頷いて、咲たち三人はその場を後にした。


――――――――――

目覚ましのアラーム音が部屋の空気を震わせる。
緊張のため夕べなかなか寝つけなかった咲は、寝不足気味の眼をこすりつつ寝床から起き出す。

今日は、磐座にぽっかりと開いたあの岩室から地底に続く縦坑に潜る予定だ。
穏乃は乗り気だが、彼女を巻き込んで地下へ向かうことは、果たして正しい手段なのだろうか?

一人で動くことに限界があるのも事実だが、本当にこのまま巻き込んでしまってもいいのだろうか。
穏乃の力を借りるべきか、咲は迷った。


1、これ以上穏乃を巻き込まないためにも一人で行く
2、穏乃と力を合わせるべきだ
3、クロに相談してみる

安価下

安価が決まったところで、今日はここまでです
ご協力ありがとうございました

咲「クロさんに相談してみようかな……」

そう考えた咲は、朝まだ早い時間に家を出た。
学園にたどり着くと、時間帯のせいか校内を歩く生徒の姿もまばらだ。

咲「―――――クロさん、お話があるんです。出てきてくれませんか……?」

どこかに潜んでいるであろうクロに呼びかけてみるも、
クロからの返答はない。

咲「どうしよう、連絡先とか聞いてないし……」


それから何度か呼びかけ、学園内を歩き回りクロを探してみるも、
彼女が咲の前に姿を現すことはなかった。

咲「……とりあえず、一人で行けるところまで行ってみよう……」

咲は人目を避け、りつべ学園の広大な敷地から続く裏山へと登った。
ハンディライト片手に、暗い岩室の中に潜り込んだ。



長い年月の間、閉ざされたままだったらしい岩室の空気はひどく澱んでいた。
岩室の床には暗い洞がうつろな口を開け、その縦坑を降りた先には、大人が並んで歩けるほどの羨道が続いている。
灯りで照らしてみても、奥へ奥へと続く羨道の先には、闇にまぎれてしかと見えない。

暗がりの奥からこちらに向かって、かすかな空気の流れを感じる。
この羨道が、どこか広い場所に通じている証拠だろう。
空気を大きく吸い込むと、咲は覚悟を決め、地下へと続く坂を下り始めた。

空気の動きが地の底からの風となって、咲の頬を冷たく撫でる。
その微風にも散らされることのない陰気が、よどみとなって羨道の端にわだかまっている。
ぼんやりと円を描く電灯のあせた白い光を頼りに、咲はひたすら前進する。



咲「……どこまで続いてるんだろう……」

まるで神話に語られる黄泉路下りのような道程だった。
地下へ地下へと、どこまでも深く沈みゆくこの路をたどれば、
いつかあの世へと到るかも知れない。

方向感覚も、時間の感覚も、この闇のせいでとうに狂ってしまった。
坂を下り始めてからどれくらいの時間が過ぎたのか、咲にももう分からない。

咲「……?」

ふと、空気の流れを乱す異質な動きを傍に感じた。
心臓を冷たい手で捕まれるような恐怖心が、咲の心に芽生える。

―――――何かがいる。

この闇の中に、咲以外の何かが。
震えそうになる手でハンディライトの灯りを向けてみたが、小さく弱弱しいその光では暗闇を照らしきれない。
咲の胸が早鐘を打つ。
何かが暗闇に息をひそめ、じっとこちらを伺う気配を確かに感じる。

はっ、はっ、と獣のような息づかいが、緊張に強ばる咲の首筋をかすめた。


―――――ざしゅっ!!


声を上げる間もなかった。
喉元を喰い破られる痛みとともに、咲の意識は闇へと落ちていった―――――


BAD END

>>323から

自分ひとりの力ではどうにもならないことは、咲にももう分かっている。
穏乃たちを巻き込むことに抵抗はあるが、ここまで関わった今となっては、別れて一人ずつになる方が余程危険だろう。

巻き込まないようにと選んだ別行動が、結果的にもっと悪い事態を穏乃の身に招くかも知れない。
そう考えた咲は、素直な気持ちで穏乃の力を借りることにした。



待ち合わせの場所に着くと、穏乃が先に来ていた。
まだ大分早い時間のはずだ。

穏乃「おはよう、咲」

咲「おはよう、高鴨さん。ずいぶんと早いね」

穏乃「咲のことだから、責任感じて一人で行ってしまうんじゃないかって、すごく心配だったんだ」

咲「あ……」

穏乃「でも杞憂だったな。ちょっとは頼りにされてるんだなって」



それから少しして、集合時間ちょうどに明華も現れた。

穏乃「それじゃあ、行きましょうか」

学園に着いた三人は教室に向かわず、人目を忍んで身を隠しながら、学園内の広大な敷地を横切った。
そのまま裏山を登り、昨日見つけた地底の入り口へと向かう。

目的地に到着すると、咲と穏乃はさっそくハンディライト片手に岩室に潜り込む準備を整える。

明華「本当は私も行きたいですが、外にサポート役が欲しいっていうから仕方ありませんね」

穏乃「明華さん、何かあったら後は頼みます」

明華「気を付けて、二人とも。絶対に無理はしないように。危険だと判断したら引き返してください」

咲「はい、明華さん」

明華「待ってますから、早く帰ってきてくださいね」

穏乃「心配しないでください。じゃあ、行ってきます」

力強く明華に返答すると、穏乃はそのまま岩室に潜り込む。
咲も明華に頷きかけ、穏乃の後を追った。



長い年月の間、閉ざされたままだったらしい岩室の空気はひどく澱んでいた。
岩室の床には暗い洞がうつろな口を開け、その縦坑を降りた先には、大人が並んで歩けるほどの羨道が続いている。
灯りで照らしてみても、奥へ奥へと続く羨道の先には、闇にまぎれてしかと見えない。

穏乃「……奥から風が吹いてきてる」

暗がりの奥から、こちらに向かって、かすかな空気の流れを感じる。
この羨道が、どこか広い場所に通じている証拠だろう。

穏乃「行こう、咲」

穏乃は先に立って、たどり着く先も知れぬ坑に、ためらいもなく身を投じた。
空気を大きく吸い込むと、咲も覚悟を決め、地下へと続く坂を下り始めた。

空気の動きが地の底からの風となって、咲の頬を冷たく撫でる。
その微風にも散らされることのない陰気が、よどみとなって羨道の端にわだかまっている。
ぼんやりと円を描く電灯のあせた白い光を頼りに、咲と穏乃はひたすら前進する。

咲「この道は、いったいどこに通じているんだろう……」

穏乃「もしかすると、神話みたいにあの世へ通じてたりして……」




方向感覚も、時間の感覚も、この闇のせいでとうに狂ってしまった。
坂を下り始めてからどれくらいの時間が過ぎたのか、咲にももう分からない。

咲「……?」

ふと、空気の流れを乱す異質な動きを、遠くに感じた。

穏乃「……咲!やばい、下から何か来る!」

もっとはっきりした気配を読んだのか、切羽詰まった声で穏乃が咲に警告する。

咲「……ここで迎えうとう」

ここで逃げても、正体の分からないものに背を向けるだけ不利になるだろう。

咲「今のうちに、迎えうつ準備をした方がいいと思う」

穏乃「分かった!」

咲「何か武器になるものがないか、荷物を調べてみよう」

二人は戦いの準備のため、それぞれの荷物を探った。

穏乃「……私の武器は、これ」

穏乃が取り出し、構えてみせたのはスリングショットだった。
握りのついたY字型の金属棒の間に張った、強力なゴム製の紐で弾を弾き飛ばして撃つ武器だ。
誰でも手軽に扱えるうえ、強力な殺傷力をも備えたこの武器は、こんな場面では頼もしく見える。

穏乃「本当はこれで生き物なんて撃っちゃ駄目だけど、非常事態だし許してもらおう」

穏乃「咲は何か使えそうな荷物はあった?」

護身用の武器として、咲が使えそうなものを探って見つかったもの。
ナイフと、浄めの塩が一包み。

ナイフは以前、良子にキャンプに連れていってもらった時、枝を伐るためにと譲られた品だ。
咲でも扱えそうな手頃な武器に思えたから持ってきた。

浄めの塩は、これで正体不明のものを撃退できたらとの、
はかない願いを込めて持ってきた。

どちらを使うか、咲は考えた。


1、ナイフ
2、浄めの塩

安価下

塩の入った包みを手に取り、穏乃に見せた。

穏乃「ん、何それ……塩?」

咲「これが役に立つかは分からないけど」

穏乃「まあ、素手よりはいいか。あとは、これ」

咲「明華さんが持たせてくれたものだね」

穏乃「うん。閃光弾だって言ってた。自作の護身用グッズらしい」

穏乃「あの夜、私達が出会った正体不明の生き物は夜目が利くみたいだったし」

咲「あんなわずかな月明りでも暗がりを動けるなら、逆に光には弱いのかもしれないね」

穏乃「なら……一か八かだ」

咲「うん。灯りを消して待ち伏せしよう」

穏乃「で、出会いがしらに光をぶつけて怯ませる。合図したら一瞬だけライトを点けて、咲」

穏乃「その後は、私がこれで狙う」

そう言って穏乃はスリングショットを構えてみせる。
穏乃の言に従って、咲はハンディライトを消した。
唯一の光源が消え失せ、辺りは真の闇に包まれてしまう。

不安に思わず身を硬くした咲の耳に、隣に立つ穏乃の規則正しい息づかいが届く。
その響きに、咲は次第に落ち着きを取り戻した。

穏乃「……来る!」

はっ、はっ、とこちらに向かう獣の息づかいが二人の耳まで届く。
咲の心臓が早鐘を打つ。
何かが暗闇に息をひそめ、じっとこちらを伺う気配を確かに感じる。

穏乃「……今だ、咲!」

穏乃の合図に従い、咲はハンディライトの灯りを一瞬だけ点した。
刹那の出来事だったが、こちらを伺う獣の影は咲の瞳に焼きついた。

異形としか言いようのないシルエット。
ヒトの身体の先に、何かヒトではあり得ないものがつながっているように見えた。
あれが何だったのか、じっくり考える余裕はない。

獣のすさまじい咆哮が、辺りの空気をびりびりと鳴らす。

穏乃「目を瞑って!」

穏乃が獣に向けて、スリングショットで弾を放った。
スリングショットで飛ばした閃光弾は、襲いかかった獣の前で弾けた。
閃光に目を焼かれた獣の絶叫が咲の耳朶をうつ。

穏乃「く……!少しそれたか!?」

少しだけ狙いをそれた閃光弾は、勢いに乗った獣の足を止めるまでには到らない。
獣の怒りの咆哮が咲たちに迫る。

咲「……!」

獣の腕が凄まじい力で肩を掴み、咲の身体を持ち上げた。

穏乃「咲!!」

咲はとっさに握りしめたままだった浄めの塩を、赤く光る目に向かって投げつけた。
塩はまともに獣の目に入ったらしい。
ぎゃっと短い悲鳴を上げ、咲を掴む手を離した。

咲「ぅ……っ」

急に地面に振り落とされ、腰を打った痛みに咲はたまらずうめく。

穏乃「こっちだ、化け物!」

挑発するように穏乃が大声で叫ぶと、獣がそちらに意識を引かれるような気配がする。

穏乃「咲、目を閉じて!」

穏乃の叫びの一瞬後、閃光がふたたび闇を裂いた。
今度は光を正面から浴びたのか。
先ほどとは比べ物にならない壮絶な絶叫が、獣の喉からほとばしる。

穏乃「咲、今のうちだ!逃げよう!」

穏乃に手を引かれ、獣が苦しみのたうつ真横を素早くすり抜けた。
その後は一度も振り返ることなく、ハンディライトの灯りだけを頼りに、全力で坂道を下った。



獣が咲たちを追ってくる様子はなかった。
咆哮はどんどん遠ざかり、坂道を何度も折れ下るうちに、やがて完全に消えた。

穏乃「大丈夫だったか、咲?少し休もう」

咲「……うん……」

ずっと走りつめて、咲の体力はいい加減限界だった。
穏乃の提案を耳にした途端、荒い息をついてその場に座り込んでしまう。

咲「高鴨さん、ありがとう。さっきは助かったよ」

穏乃「ううん。一時はどうなることかと焦ったけど、何とかなって良かった」

しばらく休んで息を整えた二人は、ふたたび地下への探索を再開した。

逃げる途中に何度か別れ道があったが、迷うことへの恐怖から、せまい脇道は無視して下ってきた。
しかしここにきて突然、これまで下ってきた道は次第にせまく細くなってきた。
いつしか二人で並んで歩くことも難しくなり、ついには腰をかがめても通れず、膝をついて歩くような場面も出てきた。

穏乃「うーん、どこかの分かれ道で本道が変わったのかな……」

咲「でもここまで来たら、行けるところまでは行ってみよう」

穏乃「そうだな。まだこの道が行き止まりだと決まったわけじゃないし」




時にせまく細くなりながら、道は行き止まることなく続いた。

穏乃「……!あれは……」

咲「明かりが……?」

せまい洞穴の前方が急にひらけ、そこに、ここを地下だと忘れさせる広がりをみせる空間があった。
その広大な空間の底に、明らかに現代人の手のよる人工の建造物が立ち並ぶさまを、二人は声もなく見下ろす。
窓からは人工の光が満ち、大勢の人々が活動する気配を建物の中から感じ取ることができる。
どこへたどり着いたのか知るよしもなかったが、どうやらここが目指す終着点に違いない。

穏乃「地下にあるのが、こんなに近代的な建造物なのは予想外だったけど……とにかく潜り込んでみる?」

咲「……そうだね」

二人は下り易い場所を探し、地下の建物目指して岩場をつたい降りた。

洞穴をぼんやり照らす屋外灯の薄明りの間隙をぬって、暗がりに息をひそめつつ建物に近づく。
洞内の中心にそびえ立ち、もっとも偉容を誇る施設を前に、気を呑まれたように無言で見上げる。

ここに忍び込むつもりなのかと、問いかけた咲を制し、穏乃が指先でそっと示す。
揃いの制服を身に着け、腰に警棒をたずさえた屈強な体格の男たちが数人、
巨大な施設の隣の小さな建物から出てきた。

すぐそばで息をひそめ、身を隠す咲たちに気づく様子もなく、男たちは談笑しながら、
巨大な施設の横手にある通用口に姿を消す。

穏乃「あの人たちは……」

咲「……ここの警備員かも」

穏乃「どうする、咲?今の男の人たちを追ってみる?それともあの人たちが出てきた建物の方を先に調べる?」


1、男たちの後を追う
2、建物を調べる

安価下

安価が決まったところで、今日はここまでです
ご協力ありがとうございました

ユキが空気ですみません。これ穏乃ルートなので(小声)

咲「建物を先に調べよう」

穏乃「分かった」

そこはどうやら警備員の詰め所のようだった。
ちょうど交代時間の狭間なのか、中に人影はなかった。

穏乃「今のうちだ、手がかりになるものがないか探そう」

モニター類や精密機械が壁や机上のほとんどを占めている部屋の中を探索しはじめる。

咲「……?これは……」

警備員の私物が詰め込まれたロッカーの片隅に、小さなバッジ状のプレートがひとつ転がっていた。
滑らかな表面に番号が刻印された、金属製のプレート。

咲「さっきの男の人たちの胸元に、同じバッジが光ってた……」

咲の言葉に、穏乃はそのバッジを胸元に付けた。

穏乃「咲、このモニターを見て!ここら一帯の地図が表示されてるみたいだ」

穏乃の示すモニターを覗き込むと、確かにこの地下施設の配置図が表示されている。
タッチセンサー式の操作パネルを当てずっぽうで触って、各施設の簡単な内部構造が表示できることを知った。

咲「これを見た限りじゃ、やっぱりあの一番大きな建物が最重要施設に思えるね」

穏乃「あの建物、≪中央遺伝子工学研究所≫って呼ばれてるみたいだな」

咲「遺伝子工学……」

穏乃「建物の地下から東に向かって伸びてる、このラインは何だろう?」

咲「洞窟の壁の向こうまで続いてるみたいだけど……」

穏乃「……!この部屋、≪データライブラリ≫って書いてある!コンピュータ―資料室みたいだ」

咲「うん。ここに忍び込めば、知りたい情報も見つかるかも」

穏乃「行ってみよう!」

途中で誰かに出会うこともなく、データライブラリと書かれたドアプレートを確認したまでは良かったが。
そこで二人は立ち往生してしまった。
カードキーをスロットに差し込み、暗証番号を打ち込む方式のドアロックに阻まれ、部屋に入れずにいた。

穏乃「困ったな……キーがなくちゃここには入れない。どうしたら―――――」

咲「……!誰か来る!」

曲がり角の向こうから、こちらに向かって来る足音が聞こえる。

咲「物陰に隠れよう」

二人は足音とは反対側の廊下の角に身をひそめた。
こちらに来るようなら、本格的に身を隠す場所を探さなくてはと慌てたが、幸いなことに足音の主はそこで足を止めた。
そっと覗き見ると、関係者らしき女性が一人、ドアの前で読み取りスロットにカードキーを通している。

穏乃「ついてる!ちょうど部屋に入る人がいた!」

女性は開いたドアから中へと入っていった。
ドアは閉まることなく開いたままだ。

穏乃「行ってみよう、咲」

ドアの影から中をうかがうと、広い室内は記録用のディスクや書類といった、
紙媒体やデジタルの資料類が納められた棚で埋め尽くされていた。

女性は奥まったブースに腰を下ろして、こちらに背を向けた姿勢でヘッドホンを装着し、
デスクトップコンピューターに向かい何やら作業を始める。

穏乃「……あの様子なら、誰かが入り込んでもきっと気づかないな」

咲「うん……入ろう」

気づかれないようにそっと忍び込み、女性からは死角になる棚の奥に二人は身を隠した。

圧倒的な資料の山に、どこから手をつけたものか見当もつかない。
知りたい情報を探し当てるのは至難の業だ。

その時、突然ピピピ……と電子音が静かな室内に鳴り響いた。

「呼び出しね……」

女性のつぶやきと共に、がたんと椅子を引く音がする。
続いて女性の靴音がコツコツと響く。
身を固くして息を殺す咲たちのそばをあっさりと通り過ぎ、女性は部屋を出て行った。


穏乃「あ……、さっきのあの人、端末つなぎっぱなしだ!ほら、咲!」

見ると、その端末コンピューターはメインコンピューターのデータバンクにアクセスした状態のまま放置されているようだった。
咲は端末に近づいてモニター画面をのぞき込み、そこに表示されている項目を確かめた。


『実験体の補充について』

『研究に使用する実験体の補充要請について。
りつべ女学園における、サンプル体管理責任者へ―――――
近日中に、次の実験体としてサンプルを確保し、こちらに送るよう要請する』


……どうやらそれはりつべ女学園にいる、
サンプル体管理責任者という人物に宛てて書かれたメールのようだった。

穏乃「この責任者ってのは、やっぱり愛宕理事長のことなのかな……」

『研究対象Yに関する報告』

『被験者Yは≪因子保持者≫として因子を発動するも、生殖能力の欠如、定期的な採血を必要とするなど、
遺伝上の欠陥が多数見受けられる被験体である。
しかし被験体Yに身体への欠損は認められず。むしろ常人離れしたきわめて高い運動能力を誇る』


……それは、被験者Yと呼ばれる≪因子保持者≫が受けた、
各種実験の結果を伝える報告書だった。


穏乃「……これは……」

咲の隣からモニター画面を覗き込んだ穏乃が、
被験体Yに対して行われた過酷な実験に関する、数々の報告を目にして思わず絶句する。

穏乃「何だよ、これ……。この被験体Yって、人間なんだろう?なのにまるで実験動物扱いじゃないか……!」

報告書を読み終え、穏乃は怒りに満ちた表情で、はき捨てるようにつぶやいた。

穏乃「ここの人たちは、こんなことを平気で続けているのか?信じられない……」

咲「いったい誰が、こんなひどい実験を受けてるんだろう……」



??「―――――探し物は見つかったか、咲?」

咲「……え……?」

突然、名を呼ばれたことに驚いて振り向いた咲に、見たこともない女性が屈託のない笑みを返す。
いつの間にか、音も気配も感じさせることなく、女性は咲の背後に立っていた。

穏乃「あなたは何者ですか!?私達に気配を感じさせないなんて……」

??「やれやれ。何者だ、とはこちらの台詞だよ。どこから入り込んだのか、後でじっくりと訊かせてもらわなくてはな」

??「……もっとも、私はおまえがここに帰ってくる日を待ち望んでいたよ……咲」

咲「……!」

穏乃「どういう意味ですか、それは。あなたは咲を知っているんですか!?」

??「ああ。この場所が、彼女の生まれ故郷だ……ってことさ」

咲「え……?」

??「よく来たね。我らが誇る自慢のラボ、遺伝子工学の最先端へようこそ」

菫「私はここの所長を務める弘世菫という者だ。以後よろしく」

菫「君たちの訪れを歓迎するよ。―――――当研究所の全職員をあげて、ね」

菫と名乗る女性の合図と共に、屈強そうな警備の人間が数人現れた。

穏乃「……くっ」

咲「……!」

菫「では、おとなしく私について来てもらおうかな。君たち」

後ろ手に拘束され、警備の者に囲まれた咲と穏乃は、菫に導かれるまま案内された。
実験設備が整然と整えられた研究室をガラス越しに一望できる部屋に二人を通すと、
警備の者を外に待たせ、女性は扉を閉ざす。

菫「よくここまで来たな、咲」

菫「……いや、お帰りと言った方がいいのかな。私はお前の帰りを待っていた」

咲「それは、どういう……?」

菫「懐かしくはないか、咲?お前はその研究室で生まれたそうだな」

顎で隣の研究室を示しながら、菫はさらりと聞き捨てならない発言をした。
どういう意味かと眉をひそめる咲に、あざけるような笑い声を上げ、菫は言った。

菫「いや、生まれたというのは性格な表現ではないな。正しくは―――――造られた」

咲「え……」

穏乃「それはいったいどういう意味ですか!?この研究所で咲が造られたって……」

菫「言葉どおりの意味さ。宮永咲は、この研究所の試験管の中で造られた存在―――――」

菫「つまり遺伝子操作の実験の末、誕生した生命だ」

穏乃「な……、なに言ってるんですか……」

菫「オートグレーブで分離され、シャーレの中で混ぜ合わせたとある遺伝子……」

菫「その遺伝子を選りすぐりの受精卵にそそぎ込み、誕生させた生命―――――それがお前だ、咲」

咲「……!」

菫「その身に≪因子≫をより高純度に有する特別な種。この研究施設で生み出そうと試みたのは、そういうモノだ」

咲「因子……?」

菫「お前の血に特に強く顕現した、我ら一族に力を与える、ある特殊な要素のことだ」

咲「……あ……!」

理事長室に忍び込み、パソコンい納められたデータベースを覗き見たそこに見つけた、
≪因子保持者≫についての謎めいた記述―――――

菫が口にした≪因子≫という言葉から、咲はとっさにあの記述のことを連想した。

咲「理事長室で調べた、あの……」

穏乃「そういえば、りつべ女学園に通う生徒の中に≪因子保持者≫がいるって、理事長の記録にあったな……」

菫「ほう……よく調べたな。りつべ女学園の生徒の中には、そこにいる咲を含め、特殊な資質を持つ者が存在する」

菫「≪因子≫をわずかばかりでもその血の中に持つ者を生徒として集めたのが、あの学園だ」

菫「実のところあのりつべ女学園は、私達の計画のために特別に用意されたサンプル採取用の実験場だ」

穏乃「どういうことですか、それ!私たち生徒はあなた達の実験道具だって言うんですか!?」

菫「生徒全員ではない。選び集められたのは一部の生徒だけだ。……君はどうやら違うようだな」

穏乃「どうしてどんなことが分かるんですか?あなたは生徒の顔をみんな覚えているんですか?」

菫「覚えてはいないが、分かるさ。君が『違う』ってことは。君からは何も感じないからな」

穏乃「……?」

菫「……今よりはるか昔、あるひとりの気高き存在がいた。我々はその方を始祖と呼ぶ」

咲「始祖……」

菫「始祖の血をもっとも濃く受け継ぐ者たちが、一族として永き時代に渡り、この血を薄めることなく現代まで守り続けてきた」

菫「生命を紡ぐ螺旋のうちにひそみ、始祖の血を継ぐ者を、ヒトと異なるものにさせている要素―――――それが≪因子≫だ」

菫「より強き因子を備えた個体に新たな遺伝子を加え、更なる優れたモノを造ること」

菫「それが、我らの祖先たる始祖の血を継ぎ、その血をこの時代まで守りつないで来た、我ら一族に与えられた使命」

咲「一族……?」

菫「二重螺旋の中に、ヒトとヒトならざるものの遺伝子情報を織り込まれて誕生した、完全なる混合種……」

菫「咲、お前は人工的に造られた、ヒトという種の変異体。我らの実験の唯一の成功例だ」

穏乃「唯一の成功例……?じゃあ他にもいたんですか?その……造られたヒト、ってのが……」

菫「咲の成功までに、私達は数えきれないほどの失敗や試行錯誤を重ねた。その過程で、様々な失敗作も誕生した」

菫「我々が眷属と呼ぶシロモノは、皆その失敗作―――――因子の発現に失敗した生き物が、アレだ」

咲「……あの、獣が……」

菫「アレらも本来はヒトとして生まれるはずだった。注ぎ込まれたあまりに強い因子に抗しきれず、異形となり果てたがな」

穏乃「あの化け物が、ヒト……」

菫「ヒトの形を取りながら全く知性を持たぬものや、己の中の因子をうまく発現できないような失敗例もある」

菫「因子を持つヒトとして生まれながら、一族としても贄としても、全く使えないものもいるってことだ」

菫「これほど科学が発展する前は、もっとずっと時間のかかる効率の悪い方法で同じことをやってきた」

穏乃「効率の悪い方法……?」

菫「我々一族の持つ特別な力は、女性にのみ発現する。それは両性具有だった始祖がどちらかと言うと女性寄りだったのが関係しているのかも知れんが……」

菫「男性には全く受け継がれない力だけに、近親婚というてっとり早い方法を利用することも出来ない」

菫「そこで行われたのが―――――共喰いだ」

穏乃「……!」

菫「同族の血を、肉を喰らう……そうして我ら一族は長い歴史の中、この血を保ってきた」

穏乃「気分が悪くなってきました……!よくもそんな事、平気な顔で言えますね!」

菫「……もっとも、ただ喰らうという行為以外にも、力を保てる方法はあるがな」

咲「方法……?」

菫「同族を、犯すことだ」

咲「……っ!」

菫「我らのうちに因子をもたらした始祖の血が本来持った性質なのか……我らは血が濃いほど、同族の血に強く惹かれる傾向がある」

菫「同じ血を引く者の身も心も己のものとしたくなる獣の欲望が、この血統の中にはひそんでいる」

菫「そして、その同族の血や体液はこの上なく甘美な味わいと共に、我々の力を最大限に引き出してくれるんだ」

穏乃「……もうやめてください!それ以上聞きたくない……!」

菫「一族の者でない君には分かるまい。この耐えがたき飢え、抑えがたき欲望は」

穏乃「そんなの分かりたくもないです!」

菫「お前なら分かってくれるだろう?咲。―――――贄であるお前なら」

咲「贄……それは、いったい……」

菫「贄は始祖の血に目覚め、優れた特質を持つ者に、更なる力を与えるため捧げられる存在」

菫「一族の欲を満たすため、その身の全てを、力ある同族に捧げるべく選ばれしもの―――――それが、贄」

咲「……!」

菫「咲、お前はその贄の中でも特別な存在だ。数々の失敗の後にようやく得た、最高の贄」

菫「より高い資質をそなえ、より血の濃い贄を犯し味わうことによって、我らは更に優れた力を得ることが出来る」

菫「我らにとって最上の力を得るための、最高の供物。一族の者に優れた力を与える贄、お前はそういう存在だ」

咲「……私が……贄……」

菫「初めに贄としてお前を望んだのは始祖だ。だが始祖のため用意された、最上級の贄でるお前をこの私が得たなら……どうなると思う?」

咲「え……?」

菫「力あるものが一族を統べ、長となるのが定め。お前を私のものにして誰より優れた力を得たなら、私が長になることも可能だろう」

菫「―――――咲、お前のその身にひそむ力を私に捧げろ」

菫は咲に近づくと、逃げる間も与えぬ素早い動作で顎をとり、咲を強引に仰向かせた。

咲「……!」

菫は咲の顔を、舐めるように執拗な眼差しで無遠慮に見つめる。
絡みつくようなその視線から逃れるため、咲は目をそらした。

菫「お前は贄らしく、大人しく私に従うといい。逆らわずにいれば可愛がってやる」

優越感に満ちた歪んだ笑みを浮かべ、菫は咲の顎のラインを指先でゆっくりとなぞった。
その行為に嫌悪感と屈辱を覚え、咲の身体が震える。
咲の震えが伝わったのだろう、菫は面白がるように喉の奥で笑う。

穏乃「咲に触るな!」

咲「高鴨さん……」

穏乃「咲はあなた達に従わされる為生まれたんじゃない!自分の意思を持って生きてる、自由な人間だ!」

菫「君たちヒトの説く、つまらない良識とやらではそうなのだろうな。……けれど残念ながら、私はヒトではない」

菫「私たちには私たちの殉ずべき法が存在する。その掟によると、贄である咲は力あるものが好きに扱っていい存在なんだ」

穏乃「あなた達は間違ってます!何でこんなことが平気なんですか!?」

菫「お嬢さん、これが一族の者であるということなんだ。咲、お前は同意するよな?この私の意見に」


1、同意する
2、あなたに従う気はない
3、黙って目を伏せる

安価下

咲「あなたに従う気はありません」

菫「……!」

咲に拒絶された菫は激情のまま、咲の襟首をつかんで力いっぱいその頬を張った。

咲「ぅ……っ」

穏乃「咲に何するんだ!」

叫んだ穏乃が横合いから、菫の軸足に鋭く足払いをかけた。

菫「なっ!?」

見事に転ばされた菫が立ち上がる前に、穏乃は肩で咲の身体を押し、部屋の隅に逃れさせる。

菫「この……っ」

菫は懐から拳銃を取り出すと、穏乃に銃口を向けた。

穏乃「……!」



クロ「―――――そこまでにしてもらいます、菫さん。勝手な真似をされては困ります」

菫「!?」

緊迫したその場にそぐわぬ落ち着き払った声に、菫は凍りついたように動きを止めた。
菫の喉元近く、薄皮一枚の距離を置いた至近に研ぎ澄まされた刃先がぴたりと突きつけられている。

クロ「さあ、拳銃をその場に置いて咲さんから離れて下さい。……咲さん、どうぞこちらへ」

クロの剣の輝きに圧されるまま、菫は腰をかがめて銃を置くと、
跪き床に手をついた姿勢で背後に退かされる。

穏乃「あなたは、理事長室で私たちを助けてくれた……」

クロ「どうやら間に合ったようですね」

咲「クロさん……」

戸惑いの表情で見上げる咲の無事を確認して、クロは笑みを返した。
こんな所にまでクロは助けに来てくれたのか。
きわどいタイミングで現れた救い手に安堵の吐息をつく。
穏乃は菫から隠すように咲を庇いながら、手が届かぬ遠くに回りこんだ。

穏乃「恩に着ます、クロさん。敵陣のど真ん中で助けが来るなんて思いませんでした。よく居場所を見つけられましたね」

クロ「咲さんの安全をお守りするのが、私に与えられた使命。その為ならどこにでも参ります」

咲「ありがとうございます……クロさん」

クロ「それにしても随分と探しました。お二人だけで、こんな最奥にまでよく入り込めましたね」

菫「なぜ……どうして、お前がここにいるんだ―――――クロ!」

咲「……え……?」

菫が、よく知る者のようにクロの名を呼んだ。
咲は思わずうかがうようにクロを見上げる。

菫「ここの責任者は私だ!私はお前にここへの出入りを許可した覚えはないぞ!」

クロ「………」

菫「何の権限あってここまで来た!答えろ、クロ!」

穏乃「……どういうことですか。あなた達は知り合いなんですか……?」

菫の叫びを耳にした穏乃の唇が、固く引き結ばれる。
警戒するように、穏乃は咲を背に庇う。

クロ「……菫さん。あなたという人はつくづく愚かですね」

クロのまとう、もの柔らかで人当たりの良い雰囲気がその時、静かに一変した。
伏せたまぶたをクロがゆっくり上げた時。
そこには、これまで咲は目にしたことのない、恐ろしく冷ややかな眼差しがあった。

クロ「贄に手出しは禁止との長の厳命をご存じないはず無いでしょう。あなたはそれを無視しましたね。長に逆らうおつもりですか」

菫「……!」

クロ「私がこのたび長と交わした契約は、シロの手から咲さんを守ること」

クロ「あなた方一族の、身内の暴走を止めるのは契約外の仕事です。あまり私の手を煩わせないでください」

菫「く……」

クロ「それに、勘違いされているようですね。私が行きたいところに行くのに誰の許可も必要ない」

クロ「何故なら私には、一族に関するすべての権限が与えられていますから。―――――掟を破った者に、制裁を加える権限も」

菫「!!……私をどうする気だ」

クロ「あなたのお母上は実力者。この研究所を設立したのも、彼女のご尽力によるものと聞きます」

クロ「一族の功労者である彼女の娘、そのあなたの命を奪うことは長も本意ではないでしょう」

クロ「命までは奪いません。ですが、あまりにお遊びが過ぎるようですので制裁はさせていただきます。他の者への示しもありますし」

クロは剣を握った右手をかかげ、上方から菫に向かってためらいのない一撃を下した。

菫「ぐあっ……!」

床についた左手の甲を貫かれ、菫が苦悶の声を上げる。
鮮血が散り、クロの頬に赤い雫がかかる。
菫の悲鳴も耳に届かぬ表情で、クロは剣を引き抜いた。

クロの冷淡さに圧倒され、咲と穏乃は声を上げることも忘れて、
呆然とその場に立ち尽くした。

クロ「咲さん、私があれほどお願いしていたのにあなたは学園を離れ、行方をくらませてしまったので困りました」

クロ「あなたをお守りするのは難事ですね……おや、どうかしましたか?」

咲「あ……」

クロ「ああ、彼女のことですか。我欲に走る困った輩です。組織の重鎮の跡取りともなると、こちらも気を遣うので一苦労です」

クロ「私の力が到らず、咲さんにご迷惑をかけてしまいました」

咲「……クロさん……」

これまで何度も咲の命を救ってくれた、クロと名乗る正体不明の少女。
謎めいた結社とやらに属し、シロを敵として追い続け、咲を守るために学園まで来たと語った彼女。
クロについて、咲が知っているのはそれだけだった。


1、助けてくれてありがとう
2、あなたは何者なの?

安価下

正体不明のクロだったが、これまで彼女を味方と信じてきた。
しかし菫という女性とクロが交わした先ほどの会話の内容は、咲の信頼を大きく揺るがせた。

咲「……あなたは何者なの?」

警戒心もあらわに、クロから一歩身を退いた。

クロ「私が何者か、ですか?ふふ……。私はあなたの命を守る者ですよ。ただし、あなたを救うものではありません」

咲「え……」

クロ「私たちは、あなたの命を必要とする者。それ以外はどうでも良いのです」

クロ「あなた自身の意思は我々には必要のないもの。私が守るのは、あなたの命だけ」

クロ「守るものが、守られる対象の味方であるとは限らない―――――つまり、そういうことです」

穏乃「要するに、あなたは咲を狙う奴らの同類なんですね!守るだなんて言って、私たちを騙して!」

咲「あなたも一族の人だったんですね。どうして、そうまでして私を必要とするんですか……?」

クロ「始祖をこの世界に解き放つ贄として、あなたを捧げるため」

穏乃「この世界に解き放つ……?始祖ってのは咲がいればよみがえるんですか?」

クロ「始祖は、とある場所で儀式の刻を待ちながら、静かに眠っておられます」

咲「儀式……?」

クロ「始祖がこの世界に降り立つために必要な、贄を捧げる儀式です」

クロ「儀式の場は、このりつべ市。儀式が行われるのは明日の深夜、満月が中天に達するとき」

咲「明日……?」

クロ「咲さんを儀式の場にお連れするのは明日と命じられてましたが、こうなっては仕方ありません」

クロ「ご同行願います。……これから儀式の刻まで、あなたの身柄を拘束させてもらいます」

穏乃「……今まで私たちを自由にさせていたのは、あなたのお情けだったというんですか?」

クロ「私の情け、ではありません。贄なんて厄介なもの、檻に閉じ込めておけばいいと私は常々考えていましたから」

クロ「一族の間で贄を奪い合うような、愚かないさかいも度々起こっていますし……咲さんをお守りするのは面倒な仕事でした」

クロ「まったく、何のために用意された贄なのか、認識の甘い輩が多くて困ります」

穏乃「そんなにもめ事の原因になるのなら、どうしてさっさとその儀式とやらを済ませなかったんですか?」

確かに穏乃の言う通りだと咲も思った。儀式が行われるのが何故、今この時なのか。
咲という贄がその儀式のために造られた存在だというなら、もっと昔のうちに始祖に捧げる儀式を執り行えば良かったのではないか?
穏乃のもっともな疑問に、クロは皮肉な笑みで答えた。

クロ「それが簡単に叶うものなら、とうの昔に始祖は永き眠りから解き放たれていたことでしょう」

クロ「儀式は贄さえいればいつでも行えるというものではありません。星辰の運行による重なりがもたらす限られた刻限にしか、儀式は意味をなさないのです」

咲「それは、なぜ……?」

クロ「我々は始祖のお姿を見ることは出来ますが、触れることは叶いません」

クロ「今この次元に存在する始祖の姿は、水面に映える影のようなもの。始祖の本体は我々のこの世界とは異なる階層、次元のはざまにあるのです」

穏乃「次元のはざま……?」

クロ「始祖はその地で力のほとんどを封じられ、囚われています。我々の次元から始祖の囚われた牢獄を打ち壊すことは叶いません」

クロ「となると、始祖ご自身の封じられた力を取り戻していただくほか、解放のすべはないわけです」

穏乃「その始祖とやらが解放されたら、いったい何が起きるんですか?」

クロ「何が起きるのでしょうね。破壊か、殺戮か、支配か……いずれにしても、あなた方ヒトにとっても良くないことが世界に起きるのは確かでしょう」

咲「……一族の人たちは何を求めてそんな危険な、人ではないものに従っているんですか?」

クロ「一族の者がどのような思惑を秘め、始祖に仕えているのかは私も知りません」

クロ「上位の存在に対する信仰心と畏れから無心に従う者。始祖のもたらす破壊の後、新たな秩序に基づいた新世界での権勢を望む者」

クロ「あるいは不老不死、始祖が顕す神秘の力といった、ただびとでは持ち得ない力の獲得を望む者」

クロ「それぞれの者に、それぞれの異なる思惑があることでしょう」

クロ「ただ一族の本来あるべき姿とは、始祖に仕えるため生まれ、始祖の望みに従い生きること」

クロ「彼女らは本来、そのために始祖に造られた血族。始祖の心のままに動くのは当然のことでしょう」

咲「始祖に……造られた……?」

クロ「今よりはるか昔、始祖に惹かれ、その血を継いだヒトの末裔」

クロ「ヒト以上の存在の血を継ぐことにより、彼女らの一部は、ただびとの持ち得ぬ力を手に入れました」

クロ「ヒトより優れた肉体、わずかばかりの長寿、そして弱き者を支配し操る異能の力。但しそれも、始祖の思惑によるもの」

クロ「始祖がヒトに己の血を与え、子を成したのは、贄という自らの蘇りに必要な供物を生み出す土壌が欲しかったのでしょう」

クロ「おそらく始祖は、あなたという贄にたどり着くため一族を造ったのですよ。咲さん」

咲「え……?」

クロ「では長話はこの位にして、そろそろ参りましょうか。あなたのおいでをずっとお待ちになっていた始祖の許へ」


1、……分かりました
2、従う気はありません
3、穏乃だけは無事に返してください

安価下

咲「……あなたに従う気はありません」

クロ「そうですか……分かりました。ではあなたの意思に関わりなく案内させてもらいます。……力づくでも」

咲「……!」


その時、地を揺るがす低い爆音が廊下の向こうから届いた。
続いて建物を襲った横揺れの振動。

クロ「これは……もしや、彼女がここへ……?―――――確かめなければ」

クロ「咲さん、私は少しばかり外の様子を見てきます。すぐに戻りますので、しばらくここでお待ちください」

穏乃「咲はあなた達に渡さない!連れていくって言うなら止めてみせる!」

クロ「面白いことを言いますね。どうやって彼女を守るつもりですか?」

穏乃「……こうやってだ!」

叫びざま弾みをつけ、穏乃は膝を胸元に引き付けた姿勢で高々とジャンプした。
宙に浮いた足の下、手錠をかけられた両腕を縄跳びの要領で起用にくぐらせる。
再び両足が床に着いたとき、後ろ手に縛られていた腕は前に回され、鎖の長さ分の自由を取り戻す。

身を低くした姿勢で素早くダッシュした穏乃は、床上に放置されたままの拳銃を拾いあげ、
うずくまる菫の襟首をつかんで引き寄せて、右肘を捕らえて菫の身体を這いつくばらせた。
腕を背に回して逆手に極めた脇の下、穏乃は自らの左足を入れ、菫の肘を固めた。

菫「ぐ……っ」

完全に動きを封じた菫のこめかみに穏乃は安全装置を引き、
初弾をチャンバーに送った拳銃の銃口を突きつける。

穏乃「動かないで下さい。本物は撃ったことないけど、マニアな知人に扱い方を仕込んでもらいました」

穏乃「いつか国外の物騒な地域に行くとき、護身の知識として役に立つかもって……」

一連の流れるような動きに目が追いつかず、
呆然とする咲に穏乃はニッと笑い返して言った。

クロ「ヒトの子供にしては、なかなかの動きでしたね。ですがヒトを超えた存在の動きを止めることは、ただびとには不可能です」

穏乃「……!」

クロの剣が、穏乃が両手に構えた拳銃を斬ったのは、まばたきする程わずかな間の出来事だった。
あっけなく斬り捨てられた銃身が重い音を立てて床に落ちた。
穏乃の懐にいつの間にか踏み込んだクロが、左の掌底で胸を軽く突いた。

穏乃「っ……」

咲「高鴨さん!」

穏乃の身体はそのひと突きで背後に転がる。

クロ「無駄な抵抗は止めて、ここで大人しく審判の時を待ちなさい」

うつ伏せに倒れた菫の襟首をつかんで立ち上がらせると、クロは菫を引きずるようにして連れ、部屋を出ていった。
閉ざされた扉のキーがロックされたことを示す、小さなセンサーライトが灯る。

穏乃「……よし。行ったな」

先刻のダメージを全く感じさせない軽やかな動きで、穏乃はひょいと起き上がった。

咲「高鴨さん、大丈夫だったの……!?」

穏乃「自分から飛んで衝撃を殺したから平気だよ。……ところで咲、これなーんだ?」

笑みながら穏乃がかざして見せた物に、咲は目を丸くする。

咲「IDカード!?いつの間に、どうやって……」

穏乃「あの菫って人の懐から落ちたのをずっと見てて、手に入れる機会をうかがってたんだ」

穏乃「クロさんは、自分が常人離れした力を持ってるからって他人の能力を見くびり過ぎだ」

先ほど穏乃が菫に仕掛けたのは、これを奪うことが真の目的だったのか。

穏乃「何か、不測の事態がこの研究所で起きてるみたいだな。この混乱に乗じて今のうちに逃げよう、咲」

咲「……うん」


穏乃の機転で首尾よく手に入れたIDカードを使い、咲たちは部屋を抜け出した。

今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました

クロの正体は他キャラのルートで明らかになります
とりあえず今はこの穏乃ルートを無事に書ききりたい…

あ、もちろんユキルートもあります
あとはシロ、良子さん、もう一人はネタバレになるので秘密ですが

咲と穏乃は物陰に身をひそめながら廊下を進んだ。
警戒しながら進むふたりの耳に、施設内の混乱ぶりを示す物音が、遠く聞こえる。

身を隠し、警戒しながら走り続けた廊下の突き当り、T字路になった曲がり角の手前。
白衣姿の所員が数名床にのびているのが目に留まる。
穏乃が駆け寄って、倒れた所員のそばにしゃがみ込む。

穏乃「息は、ある……。気絶してるだけみたいだ」

所員たちの呼吸を、床に膝をついて確かめていた穏乃がはっと顔を上げた。

シロ「……ここにいたの」

見上げたそこに、あのシロと名乗る少女が立っていた。

穏乃「あなたは……!やばい、咲!逃げ……」

シロは逃げ出す間も与えぬ速さで、縛られた両手をかかげて身をかばう穏乃に向かって剣を一閃させた。

咲「高鴨さん……!」

穏乃が斬られる―――――!!
咲は思わず声にならない悲鳴を上げる。

穏乃「……あれ?」

カシャン、と音を立てて床に転がったのは、穏乃の両手首を拘束していた手錠だった。
穏乃の腕を解放すると、戦う意思のないことを示すように、シロは剣を下げて構えを解いた。

穏乃「どういうつもりですか?」

命を狙っていたはずのシロが、咲を見つけても襲ってこようとせず、逆に穏乃のいましめを解いてくれた。
咲たちを助ける不可解なシロの行動に、戸惑った穏乃は転がる手錠とシロの表情を見比べる。

シロ「―――――脱出する。こっち」

咲「え……?」

穏乃「ええっ!?」

そっけなく言うと、シロはもう背を向けて歩き出した。
あわてて穏乃が叫ぶ。

穏乃「ちょ……ちょっと待って!もしかして、私たちを助けてくれるつもりですか!?」

シロ「そうだけど」

穏乃「今まで咲の命を狙っていたあなたが、そんなこと急に言い出しても……イマイチ信用できません」

シロ「……クロがここにいる以上、あなた達だけで逃げても捕まるのは時間の問題」

咲「……!」

シロ「彼女たちに捕まりたくないなら、ついてきて」


1、分かりました
2、お断りします
3、どうして助けてくれるんですか?

安価下

咲「どうして、私たちを助けてくれるんですか……?」

シロ「……明日は満月。今、あなたが捕まると厄介。……だから逃がす」

穏乃「敵の利になることは阻止するって訳ですか……。あなたがここの人たちの仲間でないことは分かりました」

穏乃「あなたを信用します。お願いします、私たちに手を貸してください」

シロ「………」

シロが咲の前に立ち、静かな眼差しで見下ろす。

シロ「……腕を出して」

咲「はい……」

身体を強張らせながら、恐る恐る両腕を差し出す。
シロは咲を傷つけることなく、手首を捕らえていた手錠を一刀のもとに斬り捨てた。

シロ「あなた達が逃げる手助けはする。でも、私はまだここでやり残した事がある。少しだけそれに付き合ってもらう」


――――――――――

咲「ここは……データ室?」

シロ「私はここで調べる事がある。しばらく待って」

穏乃「何を調べる気なんですか?それにアクセスのパスワードとか知ってるんですか?」

シロ「所員を尋問した」

そっけなく答えると、端末コンピューターを立ち上げて、シロは慣れない手つきでパスワードを打ち込んだ。
モニターに現れる情報に目を通し、次々と画面を送り、シロはファイルを切り替えていく。
膨大な量のデータを、あまり効率の良くないやり方でしらみ潰しに調べていく。

≪祭祀場・研究関連≫と名付けられたデータを見つけたとき、シロはようやく手を止めた。
≪祭祀場再現図≫とタイトルされたファイルが開かれる。
モニターに展開されたCGグラフィックを見て、横からモニターをのぞき込んでいた穏乃が息を呑む。

穏乃「これは……いったいどこにある建造物なんですか?……まるでストーンヘンジだ……」

中心に一本の黒い石柱を配し、その周りを大きめのサークルで囲い、7つの小さな黒い石を等間隔にサークル上に置いた謎めいた建造物。
3Dのコンピュータグラフィックで再現されたそれは、確かに穏乃の指摘する通り、
ストーンヘンジ―――――立石で造られた古代の建造物に見える。

咲「りつべ市……地下祭祀場?」

穏乃「こんなものが、このりつべ市の地底に実在するなんて!いったいどこに……」

シロ「私もそれが知りたい」

少し苛立ったような声でシロがつぶやく。
感情が無いのではと思えるほど心を見せないこの少女から、初めて焦りのようなものを感じた。

ファイルを次々と呼び出し、内容を確認していたシロが、
ついに祭祀場の位置を示す地図を見つけた。

穏乃「えっと、ここが現在地の建物で……ええ!?この研究所から東にのびてる長いライン、祭祀場とやらへの通路だったのか!」

穏乃「祭祀場のそばにも、ここ位大きな施設がある。一族の人たち、いったいどれだけの財力を持ってるんだ……」

シロ「あなた達、一族のことを知ったの?」

モニターに見入っていたシロが、穏乃の言葉に振り返った。

咲「……はい、色々と聞かされました。あなたが言っていた『贄』についても……」

シロ「……そう……」

咲「始祖復活の儀式が行われる場所って、もしかしてこの祭祀場なんですか?」

シロ「……始祖のことも、あなたは知ったの」

咲「私は……始祖に捧げられる贄だと言われました。あなたが私を贄だと知った時、私を殺そうとしたのは始祖の復活を止めるため?」

シロ「………」

咲「そうなんですね……」

穏乃「だったら、そんなこと望んでない私たちとあなたで手を組めるじゃないですか!」

穏乃「シロさん、あなたの目的が一族をぶっ倒すことなら私はあなたに協力したい」

穏乃「あんなふざけた連中から咲を守りたい、一族とやらから咲を解放したい……!だから、私にも手伝わせてください!」

咲「高鴨さん……」

シロ「………」

穏乃の熱く真剣な眼差しを、シロは静かな表情で受け止める。
シロは無言で剣を振りかぶると、目の前の端末を机ごとたたき斬った。

シロ「祭祀場の位置はつかんだ。脱出する―――――戦いは私に任せて。あなたが手を汚す必要はない」

穏乃「シロさん……!ありがとうございます!」




シロに先導され、三人は無事に施設を抜け出した。

穏乃「私たちがここにたどり着くまでに使った道を戻るんですか?」

シロ「いいえ、あの道には眷属が放たれている。別の道を行く」

咲「シロさんはあの道のことを知ってたんですか?」

シロ「あの道のことは、昔から知ってる」

入り組んで迷路のようになった洞窟を、三人はひたすら走り続ける。
シロは咲たちの歩調に速度を合わせてくれているようだ。
置き去りにしないよう気を遣ってくれているのだろう。


這わないと進めない、狭い横道を抜けると少し広い場所に出た。


シロ「ここは、地下施設の通風口のひとつらしい。ここを登れば地上に出られる」

シロ「先に登って。しんがりは私が務める」

咲「……分かりました」


果てしない暗渠がどこまでも続いているような縦坑を、シロにうながされるまま咲と穏乃は登り始めた。
地上に着くことなど無いのでは、と思わせるほど長い間、手探りで続けた登坂の旅もやがて終わりを告げる。
登りつめた通風口は横穴の羨道に通じ、しばらくそこを這うように進むと、やがて羨道の突き当りにたどり着いた。


シロ「この上が、地上への出口」

出口を塞ぐ天井の覆いを除け、咲たちはようやく地下から這い上がった。

穏乃「ここは、どこなんだろう……?」

咲たちが出た場所は、何かの施設の中らしかった。
暗くてせまいコンクリート製のような場所に、大きな装置が部屋の大半を占めて置かれている。
制服のポケットから出したペンライトの灯りを向け、装置に印された銘を見た穏乃が、あっと声を上げた。

穏乃「これって、緊急災害時用の自家発電装置だ!それも、りつべ女学園の……!」

咲「え……じゃあここは、りつべ女学園の校内?」

穏乃「うん。この建物は緊急用に備えて用意された、小型の自家発電施設だよ」

穏乃「この施設があるってことは、私たちがいるのはりつべ女学園北端、立ち入り禁止区域……」

咲「立ち入り禁止区域?そんな場所が?」

穏乃「この周りは高い金網で仕切られて、簡単に生徒が立ち入れないようにされてる」

穏乃「校舎から遠いし、特に面白い物もないから、誰かが入り込むことも少ないんだ」


扉を外から封じていた鎖と錠前を、シロの剣があっさりと断ち切る。
建物を出た咲たちは、数時間ぶりに目にする地上の空を仰いだ。

すでに陽は落ち、夜空に浮かぶ月の輝きが辺りをほの白く照らしている。
ほっとした様子で深呼吸をくり返す穏乃の隣で、同じく済んだ夜気を味わっていた咲は、
シロが黙ってこちらを見つめているのに気が付いた。

ふと思い出して、制服のポケットから石を取り出す。
咲は石を、本来の持ち主であるシロに差し出した。

咲「これ、あなたにお返しします」

シロ「………」

シロは石を受け取ることなく、咲を無言で見つめ続けている。

咲「シロさん?」

シロ「……宮永咲、あなたの家族が一族の関係者である確率は高い」

咲「……!」

シロ「始祖の贄であるあなたの身柄を、一族がまったく無関係の者に託すとは考えにくい」

穏乃「それじゃ、咲のお姉さんが一族の関係者かも知れないって言うんですか!?そんなはず……」

穏乃「カムフラージュのために、一族と関係のない家族に咲を隠したってこともあり得ますよ!」

シロ「家族全員が一族の関係者であるとは限らない。でも、家族の誰かがそうであったという可能性は否定できない」

シロ「あなたは始祖復活の鍵。あなたを捕らえようと彼女らも躍起になっている頃。家には戻らないで、身を隠した方がいい」

咲「………」

穏乃「……シロさん。さっきも言ったけど、私にあなたを手伝わせてくれませんか?始祖復活の儀式が行われるのは明日の夜らしい」

穏乃「儀式はいつでも行えるようなものじゃないって言ってた。明日の夜を乗り切れば、とりあえずの危機は脱せるわけです」

穏乃「ただ、今のまま逃げ回っているだけじゃ、咲はあの人たちから本当に自由にはなれない」

咲「高鴨さん……」

穏乃「復活の機会が残されている限り、あの人たちはきっと咲を狙い続けるでしょう。始祖とやらを倒さないと、駄目なんです」

シロ「あなたが戦う必要はない。始祖を倒せるのは私だけ。明日が過ぎるまで、あなた達はどこかに身を隠して」

咲「……自分のことなのに、ただ人任せで待っているなんて嫌です」

シロ「!!」

咲「流されるのはもう沢山です。私に出来ることがあるなら、どうか私にも手伝わせてください……!」

シロ「……あなたは……」

穏乃「……うん、咲のいう通りだ!私も咲も、自分たちの運命は自分自身の手で拓きたい」

穏乃「隠れていても安全の保障はないんです。だったら私たちは、立ち向かうことを選びます」

シロ「………」

シロ「……宮永咲、今のあなたが心から守りたいと望むものはなに?」

咲「え……?」

シロ「自身の身の安全か、それとも他の誰かの命なのか……私はそれが知りたい」

静かだが、真摯な想いの込められたシロの問いに、
守りたいと心から願うものが何か、胸に問いかけてみた。

揺杏に絡まれた咲をかばった後、咲を守ると言ってくれた穏乃。
疑うことなく咲を信じると言い切った、迷いのない穏乃の信頼に、咲も応えたいと思った。

いつまでも一方的に穏乃にかばってもらうだけの、そんな存在でいるのは嫌だ。
穏乃がしてくれたように、自分も穏乃を守りたい―――――
この先、どのような過酷な運命が待ち受けていようと、穏乃だけはこの命に替えてでも守りたい。

咲「……高鴨さんを守りたい」

決意をシロに伝えると、咲を見つめるシロの目が、ふいにやわらいだ。

シロ「そう……分かった」

シロ「あなたが求めるなら、石はあなたの助けとなる。石を手放さないで。これがあなたを守るから」

シロは咲の手を取ると、咲の手のひらに石を乗せた。
シロの手はひんやりと冷たかったが、その指先の感触はなぜか咲に嫌悪を感じさせない。

シロ「あなたがそれを望むなら、すべてを終わらせてみせる。―――――今度こそ」

咲「え……?」

咲にだけ届くかすかな呟きの、その意味を問おうとしたとき。
シロは穏乃に向き直った。

シロ「戦いは私は引き受ける。あなた達には儀式の場の破壊を頼みたい」

シロ「始祖が実体を得るための元素に満ちた力場。その要を壊せば力場は崩れる。始祖が実体化する前に、場を乱して」

穏乃「……!分かりました!」

シロ「ただ、石柱は人の力では壊せない。通常の物理的な攻撃は通用しない」

穏乃「なら、どうすればシロさんに協力できますか?」

シロ「壊せないまでも、石柱を儀式の円陣から離せばそれで事足りる」

咲「私たちの役割は、完全な儀式を行えなくすることですね」

穏乃「けどそうして儀式がなくなったら、あなたは始祖をどうやって倒すつもりなんですか?」

穏乃「始祖の本体は触れることも出来ない場所にあると言ってました。なら始祖が復活しないと倒せないんじゃ……」

シロ「完全なる復活の儀式が失敗することは分かっても、一族はこれまで通り、一時的な召喚の儀式を行うと思う」

穏乃「咲がいなくても儀式は行われるんですか……」

シロ「宮永咲が贄でなければ、完全な復活は成らない。けど、たとえ束の間でもこの地に実体化するあの存在から力を授かることを彼女らは望むはず」

シロ「かつて一族の女が、そうしてあの存在の血をその身に継いだように……儀式は行われる、必ず」

穏乃「……その時を狙うってわけですね。分かりました」

咲「では私たちは、場を壊せるように準備すればいいんですね?」

穏乃「石柱は深く埋まってるみたいだったし、倒すのも簡単じゃなさそうだな。よく方法を考えて準備する必要があるな」

咲「けど、そうやって仕掛けよう?あの騒ぎの後だし、もう一度忍び込むのは厳しいだろうし……」

シロ「儀式を前にして、この地に一族の要職に就く人間たちが集まってる。彼女らの集う場所のひとつを突き止めた。そこを私が襲撃する」

穏乃「陽動役を引き受けてれるんですか?確かにそうなれば地下の警備も手薄になるだろうけど」

咲「でも、大丈夫なんですか?おとり役であるシロさんが一番危険な役回りじゃ……」

シロ「構わない。一人の方が自由に戦えるから」

咲「ありがとうございます、シロさん」

シロ「……贄の存在は、私にとっても彼女らにとっても両刃の剣」

シロ「あなたが始祖復活の鍵であることに変わりはないけど、始祖を倒す切り札とも成り得る」

穏乃「咲が、切り札……」

シロ「宮永咲、彼女らに利用されては駄目。定めにあらがい、事態を変えてみせて」

シロ「よく考えて道を選んで。あなたの行動次第ですべてのバランスが変わる。……それを忘れないで」

咲「……はい」

シロは咲たちに背を向け、歩き出す。

穏乃「シロさん?どこへ行くんですか?」

シロ「私は一族を狩るための存在。これまで通り、その目的に従って動く」

咲「あ……」

シロは人の重さを感じさせない軽やかな跳躍で、音もなく暗闇の向こうに姿を消した。



穏乃「行っちゃったな……。マイペースな人だね」

咲「………」

血族、贄、そして始祖なる存在。
遺伝子操作、神とヒトとの混血種。
異端の存在であるということ……

咲にとって、すべてがあまりに信じがたく、受け入れがたい痛みをともなう真相だった。
重すぎる現実がいちどきに押し寄せ、頭の中が混乱して、うまく考えをまとめることが出来ない。

穏乃「―――――咲、これからどうする?」

咲「………」

穏乃「私もシロさんの言うとおり、今夜はまだ家に帰らない方がいいと思う」

穏乃「あの人たち、咲の自宅周辺にひそんで咲が帰ってくるのを待ち受けてるかも知れない」

穏乃「私の家にも近づかない方がいい。一緒に行動してるのはバレてるから、きっと私の自宅もマークされてる」

咲「……私は……」


1、帰りたくない
2、姉を信じて一度家へ帰る

安価下

安価が決まったところで、今日はここまでです
ご協力ありがとうございました

シロの言葉は咲の心に不安をもたらし波立たせた。
姉の照も、関係者かも知れない?

ならば照は咲の正体も、咲の周りで起きた事件も、
すべて熟知していたというのだろうか。

シロの言う通りだと思いたくないが、姉を無邪気に信じることも今となってはむずかしい。
遺伝子操作によって造られた存在だった事実より、
姉が自分をだましていたかも知れないという恐れの方がはるかに辛い。

咲「……っ」

咲が依って立つ現実のあまりの不確かさに、
足許が根底から崩される不安に駆られ、眩暈を覚える。

穏乃「咲、大丈夫?顔色が悪い……少し休んだ方がいいよ」

咲を座らせると、そこで待っててと言い残し、穏乃は駆けて行った。



やがて、しばらくして戻ってきた穏乃の手には濡れたハンカチが握られていた。
水で冷やされたハンカチが、咲の額にふわりと乗せられる。
ひんやりする感触が熱を帯びた肌に心地良い。

穏乃「大丈夫?咲」

気遣う穏乃の声と、そっと額をぬぐう優しい手つきに、
混乱した心が少しづつ落ち着きを取り戻していく。

咲「……高鴨さんは私のこと、気味悪くないの?」

咲の出生に関する菫の言葉を穏乃も聞いたはずだ。
それでいて、いつもと変わらぬ穏乃の態度に、咲は胸の奥でくすぶっていた問いを口にする。

穏乃「そんなこと、あるわけない。私が咲を気味悪く思うなんて」

咲「けど、私は……」

穏乃が咲を見つめて、静かに微笑んだ。

穏乃「見た目や生まれなんて関係ない。咲は咲だ」

穏乃「研究所のことも確かに驚いたけどさ。ずっと感じてた、咲の何だか特別な空気はそのせいかって納得もした」

咲「え……?」

穏乃「昔からそうだった。―――――咲は、他の人とは全然違う」

穏乃の瞳が、遠くの懐かしい風景を見るように細められる。
咲と過ごしたという幼い日々を思っているのだろう。
昔の記憶があいまいな咲には、穏乃が咲とのどんな思い出を抱えているか分からない。

咲「……昔の私は、どんな風だった?」

穏乃「咲に初めて会ったのは、学校帰りに度々いなくなるユキを追いかけて、咲の屋敷の庭に入り込んだ時だった」

穏乃「ユキと仲良く遊んでる咲と見つけた時は、何だか仲間外れにされた気がしてさ。私も乱入してやろうって」

穏乃「茂みに隠れてこっそり近づくはずが、振り返った咲に見つけられてしまったんだ」

穏乃「最初は『知らない人間がいる』って驚いたのか、咲はきょとんとしてた。けど、すぐに表情が変わった」

穏乃「咲は私に笑いかけながら『一緒に遊ぼう』って。それから、咲の屋敷にユキと通うようになったんだ」

穏乃「あの頃は三人で色んな遊びをしたな。咲を庭から連れ出して、裏山を探検したり、木登りをしたり」

穏乃「咲はどこか頼りなかったから、私が守ってやらなくちゃって思ってた。でも、ある日を境にその印象が変わった」

穏乃「……咲、犬から私をかばってくれたよな?山で見かけた野犬が、凄い勢いで私に向かって走ってきたあのとき」

穏乃「逃げようとして転んで、もう駄目だと思ったら、私と犬の間に咲が立ちふさがってた」

穏乃「私を後ろにかばって、咲は真っすぐ犬を睨んでた。結局犬はなぜか襲ってこなくて、二人とも無事にすんだけど」

穏乃「か弱いように見えた咲が、実はそうじゃないんだってあの時分かった」

穏乃「……それからだ。私もただケンカが強いだけじゃなく、真に強くなろう、自分を変えようと思ったんだ」

咲「………」

淡々と、しかし真摯な表情で語る穏乃の話に、咲は聞き入っていた。

穏乃「咲といると、私はいつでもまっさらな自分でいられた。そして今も、その印象は変わらない。……昔と同じだ」

穏乃「やっともう一度咲に会うことが出来て、私は本当に嬉しかったんだ」

穏乃「咲がこの世界で生きて呼吸してるっていう、それだけで私は嬉しい。咲がどんな生まれだとしても、そんな事私には関係ない」

穏乃「咲をこの世界に送り出してくれたものに感謝してる」

咲「……高鴨さん」

穏乃の肩越しに、月光が差し込む。
月の光は穏乃の笑顔を優しく淡い輝きで包む。

穏乃のやわらかな笑みに、咲の胸は痛んだ。
昔の咲と今の咲は違う。
自分はもう、穏乃の綺麗な思い出の中にあるような、そんな存在ではない。

穏乃は咲の身に何があったのか知らない。
いっそ穏乃に全てを離してしまおうか?そう思った咲は、静かな口調で語り始めた。

咲「……昔のことを思い出せないし、今の私はあなたの思い出の私とは違う。……私はもう、変わってしまった」

穏乃「え……?」

咲「あの上級生の話は本当のこと。前の学校で、私は『災いを呼ぶ』って噂されてた」

咲「そう言われるのも無理ないことが、私の周りで起きた」

咲「仲の良かったクラスメイト、優しかった先輩、親切だった担任の先生―――――」

咲「私の前で、みんな変わってしまった。……皆の行動は、信じていた私を打ちのめした」

穏乃「……咲……」

咲「みんな、最後には決まって同じことを私に言った。『お前が悪い』『お前が誘った』って……悪夢を見てるみたいだった」

咲「何よりショックだったのは、その直後、皆が不自然な死に方をしたこと」

穏乃「……!」

咲「私が憎い相手を呪い殺してるって噂が流れた。そして私自身、その噂におびえた」

咲「自覚がなくとも、私は知らず周囲に悪い影響を与えてるんじゃないかって」

咲「昔の私は高鴨さんの言うように、恐れを知らない無邪気な子供だったかもしれない。でも、今は違う」

咲「今の私は……生きているだけで、周りに迷惑をかけてしまう。……いっそ死にたいと思ったことも何度かあった」

穏乃「咲……」

咲「でも、ずっと私を気にかけてくれてるお姉ちゃんや良子さんの事を考えると、それも出来なかった」

咲「だから……だから私はもう、高鴨さんの綺麗な思い出とは釣り合わない。本当はあなたにだって近づくべきじゃなかったのに、そうしなかった」

穏乃「………」

咲をまっすぐな目で見つめたまま、穏乃が口を開く。

穏乃「咲、その人たちは咲に何をしたんだ?」

咲「……それは」

穏乃「あの菫とかいう人みたいに、ひどい事しようとしたんじゃないのか?」

咲「……!」

穏乃「咲の意思を無視して自分たちの方から勝手に仕掛けておいて、それを後ですべて咲のせいにしたんだろ?」

穏乃「そんなの咲が悪いんじゃない。自分の勝手な行動を相手のせいにするなんてたちが悪い」

穏乃「その人たちが死んで当然とは思わない。けどその人たち自身の罪が不運を招いたとしても、それは自業自得だ」

穏乃「咲はやってもいないことを、やったと疑われて妙な噂までたてられたんだろう?咲がいちばんの被害者じゃないか……」

咲「高鴨さん……」

穏乃「咲のことだから、迷惑をかけまいとしてずっと一人で抱え込んでたんだな」

咲「………」

穏乃「……話してくれてありがとう、咲。こんなこと人に話すのは辛かっただろうけど、話してくれて私は凄く嬉しい」

穏乃「咲は変わってない。おっとりしてて静かでぼんやりしてるのかと思えば、人一倍周囲の心の動きには敏感で」

穏乃「いつでも自分のことより相手のことを考えて行動する。危なっかしくて見てられないよ」



満月を明日にひかえ、ほぼ真円近くまで姿を現した月が夜空を白く照らしている。
咲と穏乃は身を寄せ合い、黙り込んで、その月を長い間見上げていた。


――――――――――

目の前に明るい新緑の庭が広がる。
その庭に見覚えがある。
そこはかつて咲が七歳までの幼き日々を過ごした、りつべ市郊外に建てられた邸の懐かしい庭。

広い庭の奥には林があり、その林の片隅が咲のお気に入りの場所だった。
あたたかい午後の陽射しを浴びて、咲は本を読んでいる。
目の前には咲と同じ年ぐらいの少女がいた。
少女も熱心に、大きな図版が載ったぶ厚い本の頁を繰っている。

少女「あった!これだよ、私たちが先週山で見つけた陶器!この儀式用の聖杯ってのに似てるよな」

少女「あーあ、こんな小さな欠片じゃなかったら、もっと確かめられるのにな……」

不満げに頬をふくらませて本を放り出すと、少女はやわらかな芝の上に足を投げ出して寝転がった。
すねた様子で青空を仰ぐ少女に、咲は読んでいた本を閉じ、にっこりと笑いかけた。

咲「穏乃ちゃんは本当に、遺跡や発掘品が好きなんだね」

穏乃「うん!私、将来は世界中の遺跡をめぐって、インディ・ジョーンズみたいな冒険家になるんだ!」

咲「穏乃ちゃんならなれるよ」

穏乃「へへ……そうかな」

少女―――――幼い日の穏乃が、まぶしそうに咲を見つめる。

穏乃「咲の夢は?」

咲「私の夢?」

少し考えて、咲は穏乃に答えた。

咲「……まだ考えてないけど、大人になっても今みたいに、毎日穏乃ちゃんと一緒にいられたら楽しいだろうな」

その言葉を聞いた穏乃の顔が見る見る輝く。
勢いつけて芝生から起き上がると、穏乃は咲の手をぎゅっと握り締めて力強く言った。

穏乃「じゃあ、約束な!大人になったら一緒に行こう!」

穏乃「ここ以外にも、世界にはまだまだ凄い遺跡があるんだ。色んな場所に行ってみたいよな」

咲「うん。私も行きたい」

穏乃「よし!私、これから頑張ってたくさんお金貯めるよ、貯まったら二人で世界中を旅しよう、咲!」

そう告げる穏乃の瞳は生き生きと輝いて、本当に嬉しそうだ。
そんな穏乃を見て、咲も幸せな気持ちになった―――――

咲「………」

まぶたを開くと、さわやかな朝日があふれていた。
そのまばゆさに目を細めると、先刻の夢が鮮やかによみがえる。

今のは、咲が忘れていた過去の記憶だろう。夢の中で見たあの少女は確かに穏乃だった。
身を起こしてみると隣には穏乃が眠っている。面影はあの頃と変わっていない。

穏乃「……咲、起きたのか?」

まだ眠そうな様子で伸びをしながら穏乃が目を覚ます。
そんな穏乃をまじまじ見つめ、咲はぽつりとつぶやいた。

咲「穏乃ちゃん、昔は私より背が高かったんだね……」

穏乃「え……咲!?ひょっとして思い出したのか、昔のこと!?」

咲がうなずくと、穏乃は夢の中で見たように見る見る表情を輝かせた。

穏乃「そっか……!じゃあ約束のことも思い出した?」

再び咲がうなずくと、穏乃は感極まったように、思い切り強く咲を抱きしめた。

穏乃「すーっごい嬉しいっ!覚えてるの私だけなのかなって、本当にがっかりしたんだからな!」

いきなり抱きしめられて赤面する咲におかまいなしに、穏乃はさらに抱きしめる力を強める。
そのうち、はたと気づいた穏乃が慌てて咲を離す。

穏乃「ご、ごめん!嬉しくって、つい……」

咲「ううん。私なら平気」

事実、そんな風に触れられても嫌な感じはしなかった。
穏乃の腕は懐かしい夢の感触を思い出させた。

穏乃「よし。それじゃあ、明るくなる前にここを動こう」

咲「どこへ……?」

穏乃「あんまり色々あったからすっかり忘れてたけど、私たち、明華さんに連絡してない」

咲「あ……!」

穏乃「きっと凄く心配してる。それに……明華さん、怒らせると怖いんだ。覚悟しとかないと」

咲「そ、そうなんだ」

穏乃「明華さんが関わってることは、きっとバレてないと思う。この学校からも近いし、明華さんの家に行こう」




りつべ女学園から少し歩いたところに明華の家はあった。
家の前では妙に笑顔な表情の明華が、咲たちの到着を待ち構え、たたずんでいた。

明華「お早いお帰りですね。お二人さん」

穏乃「明華さん、もしかして寝てないんですか……?」

明華「当然です。私はずっとあなた達からの連絡を待っていたんですから。なのに丸一晩音沙汰無しでは眠れる訳がありません」

咲「ごめんなさい……。すぐに連絡入れれば良かったんですが」

明華「まあ、いいですよ。とにかく二人とも無事で良かったです」

明華「どうせ食事もとっていないでしょう。朝食を用意してありますから、早く上がってください」

穏乃「助かります!実はさっきからお腹がすいて倒れそうだったんです」




明華は絶対的に足りない時間の中、精一杯手を尽くし、破壊に必要と思われる品々を揃えてくれた。
中には明らかに非合法に入手したと思われる、取り扱いに許可の要りそうな、いかにも危険な薬品類もある。

咲「明華さん、これは何ですか?」

明華「それはC-4爆薬。……プラスチック爆弾です」

穏乃「ば、ば、爆弾っっ!?」

明華「粘土みたいに柔軟で自由に変形できます。起爆装置をつけなけれな爆発することもないですし」

明華「これなら経験の少ない者にも何とか扱えると思います」

穏乃「どこでそんなもの手に入れたんですか!?危なすぎますよ!」

明華「石柱を短時間で効率よく倒すつもりなら、石柱の根本を爆薬で吹き飛ばすのが早いです」

明華「それに石柱の状態を見て爆発の規模が変えられますから、プラスチック爆弾が向いてると思います。持っていって下さい」

明華「雷管の取り付け方に、爆薬の扱い方。今から説明しますから、二人ともよく聞いておいて下さいね」

咲「は、はい」



咲たちが場を破壊するための装備を整える頃には、すでに一日の半ば以上が過ぎていた。
黄昏が街を茜に染める頃、咲たちは再びりつべ女学園の校内に戻っていた。

自家発電施設の中に忍び込み、通風口をふさいだ鉄柵を外す。
後はここからあの地下施設へと向かうだけだ。

明華「危険物の扱いにはくれぐれも注意して下さい。目的の物を破壊する前に自分たちが吹き飛んだらシャレになりませんから」

咲「分かりました」

穏乃「それじゃ明華さん、後のことは頼みました」

明華「咲、穏乃。出かける前に、私からあなた達に言っておきたい事があります」

穏乃「なんですか、明華さん?」

明華「私が手配した品々の代金を、後で必ず私に返すこと」

穏乃「へ?何ですかそれ?」

明華「請求書を用意してあなた達の帰りを待ってますから。借り逃げなんて許しませんよ。他の人に預けるのも不可です」

明華「必ずあなた達自身の手で返しに来るんです。ふたりのうち、どちらかが欠けても駄目です。……守れますね?」

咲「明華さん……」

穏乃「……はい、必ず守ってみせます。私たち二人とも、必ず揃ってここに戻ってきますから」

明華「約束ですよ。……さあ、もう行ってください。月が中天に達するのなんてすぐです」

遠くから消防車がサイレンを鳴らして疾走する音が聞こえてくる。
明かり取りの窓を見上げれば、茜の空に激しい火勢を思わせる黒煙が、
戦いの始まりを告げるのろしのように上がるのが見える。

明華「さっき確かめましたけど、火事はK財閥傘下の会社が所有する別荘地で起きたらしいです」

穏乃「シロさんは約束を守ったみたいだな……」

咲「うん……」

穏乃「行こう、咲。今度は私たちの番だ」

穏乃は挑みかかるように地底深く繋がる闇を睨むと、静かに息を整え、地下へと続くトンネルに潜り込んだ。
黙って見送る明華に感謝の思いを込めて頭を下げ、咲も穏乃に続いて暗闇に足を踏み入れた。



足許を照らすハンディライトの灯りを頼りに、下へ下へと一直線に続く狭苦しいトンネルを這い進む。
しばらくの間ゆるやかな下り坂が続き、やがてぽっかりと床に口を開けた縦坑の淵にたどり着く。
そこからほぼ垂直に、縦坑の周囲を縁取る壁が急峻となって奈落の底に落ち込んでいる。

穏乃は縦坑の壁面を手探りし、サビの浮いた鉄製の小さな取っ手を探した。
この取っ手は、手足をかけて上り下りする梯子として縦坑の底まで縦に並んで続いている。
脱出口として昨日は登ったこの梯子を、今度は地下の穴蔵に戻るため、再び使おうとしている。

穏乃「また、ここに戻る羽目になるとは思わなかったな。もう二度と来るもんかって思ってたのに」

同じことを考えていたらしい穏乃の言葉に、咲も思わず苦笑を返す。

穏乃「……行こう」

ザイルをコの字型の取っ手に通して金具で留め、もう片方のザイルの端を胴にかけ、即席の命綱とする。
古く傷み始めている足場に二人分の重みをかけるのは心許ないが、命綱を頼りに梯子を降り始めた。



どのくらい歩いたか時間の感覚を狂わせる闇の中で、ひたすら足を動かし続ける。
背に負ったバックパックの重みが肩に食い込むようで辛かったが、二人は泣き言ひとつ言わずに歩き続けた。

穏乃「なあ、咲」

咲「なに?穏乃ちゃん」

穏乃「全部終わったら、あの日叶えられなかった約束を果たしに行こうな!」

咲「……うん。そうだね」

穏乃「約束だぞ。あの日から止まったままの私たちの時間を、二人で一緒に取り戻そう」



クロ「『全部終わったら』、ですか。そんな空しい約束、交わさない方がいいと思いますよ」

穏乃「……!」

クロ「すべてが終わった後に、あなた達にそんな時間が与えられることは無いでしょうから」

咲「クロさん……」

クロ「わざわざこんな場所まで自分でいらして下さって助かります。迎えに行く時間が省けました」

穏乃「あなた達のために戻ってきたんじゃない!」

クロ「儀式の要たるあなたを、一族を束ねる長が自ら迎えに来て下さいましたよ」

咲「長……?」

恭しい態度で頭を下げ、クロは身を退いた。
暗がりの奥から人影がゆっくりと姿を現す。
近づく足許から徐々に、影になってよく見えなかった人物の姿形があらわになる。

咲「……!?」

咲はおのれの目が捉えたものに対する衝撃に、しばし呼吸を忘れた。
数歩の距離を置いて足を止め、静かにこちらを見つめる女。

咲「お姉ちゃん……どうして……」

照「………」

穏乃「咲のお姉さんが、一族の長!?どういうことなんですか、それは!?」

クロ「大切な贄の成長を、長が自ら見守ってきたというわけです。一番身近な『家族』として、ね」

穏乃「そんな……!あなたは咲をだましてたんですか!?今までずっと、ずっと!」

咲「……!」

穏乃の叫びに、咲は胸を射抜かれたような衝撃を受ける。
これまで過ごした日々の中、咲が誰よりも慕い、心から信頼してきた照。

辛い時、苦しい時、痛みにあえぐ時、助けを求める時。
そんな時、いつも咲が呼んだのは照の名だった。
自分たちは血のつながった家族なのだと、咲はずっとそう信じてきた。

シロが『疑え』と言った時も、とまどいの方が大きかった。
本心から姉を疑うことは出来ず、最後まで心の底で否定する自分がいた。

―――――けれど。

今、こうしてその照は、敵の本陣である穴蔵の中で、
咲の目の前に立ちふさがっている。

咲「……嘘」

穏乃「咲……!」

ぼんやりと立ち尽くす咲の指先を、強い力で穏乃が握った。
その力強さに咲ははっと物思いから醒める。
大丈夫だという意思が伝わるように、咲は穏乃の手を握り返した。

穏乃「……咲、私が合図したらもと来た方に向かって走るんだ」

咲「え……?」


クロ「さあ、咲さん。長があなたをお待ちです」

咲をうながすように右手を差し伸べ、クロが近づく。


穏乃「―――――咲!逃げろ!」


叫びさま穏乃はクロの懐に踏み込み、腕をさばいて小袖をつかみ、そのまま投げの体勢に入る。
穏乃の動きは咲の目に追いつききれぬほど迅速なものだったが、クロの動きはそれを上回っていた。
勢いに逆らうことなく自ら地面を蹴って飛ぶと、クロは身をひるがえす。

穏乃「くっ……!」

地に降り立った時にはすでに体勢を入れ替え、空いた左手にいつの間にか握り締めた剣を穏乃へと向ける。
軽い威嚇のつもりなのか、頬をかすめたクロの剣光を避け、穏乃は手を離して飛びすさった。

クロ「あなたの身体捌きは、鍛錬を重ねた者のそれですね。なかなか良い動きなのです。……ですが」

咲「あ……」

いつの間にかクロの構えた剣の切っ先は、穏乃の背後に立ちすくむ咲の喉に、
触れるか触れないかのギリギリの位置で押し当てられていた。

穏乃「咲……!」

クロ「咲さんを傷つけたくないなら、動かないでください」

クロの言葉に、穏乃の動きが止まる。

歯がみする穏乃を捕らえるよう、背後に控えていた女たちに命じると、クロは咲から剣を引いた。

クロ「さあ、咲さん。今度はあなたの番です。友人の命が惜しいでしょう?私たちに逆らいませんよね?」

咲「……はい」

クロ「では、咲さん。これからあなたを長が直々に、儀式の場までお連れするそうです」

薄く笑いながら、クロは背後にたたずむ照へと場所を譲った。
表情を変えないまま、照は落ち着いた足取りで咲に近づく。

照「咲……」

姉の手が伸ばされ、咲の頬にそっと触れる。
一瞬体がすくんで震えたが、咲に触れる照の手は、これまでと変わらず暖かい。

咲「お姉ちゃん……」

なぜ、あなたが。
どうしてこんなことを。
いつから、私を。

姉にぶつけたい思いは次から次へと胸に浮かんだが、
どれも震える唇が形作る前にはかなく消えた。


照「……儀式の時は近い。月が中天に達するのは、もう間もなくのこと」

照「咲、これまでお前は姉想いの優しい妹だった。私の願いに一度として逆らったことのない、良き妹……」

咲「お姉……ちゃん……」

照「私には咲が必要なの。今度もまた、姉である私に従ってくれるね?」


1、抵抗する
2、従う

安価下

安価が決まったところで、今日はここまでです
ご協力ありがとうございました

咲「……嫌。嫌だよ、お姉ちゃん……」

頬に触れた照の手を払い、咲は姉から一歩身を退いた。

照「……私に従う気はないと、そう言うんだね、咲」

咲「………」

これまで咲が一度も見たことのない、冷ややかで感情の読めない姉の眼差し。
咲はそれを真っ向から見つめる。

照「……そう。分かった」

咲から目を離さぬまま、照はおもむろにポケットから小さな薬瓶を取り出す。
薬瓶の蓋を開け、その中身の液体を一口あおった。

咲「お姉ちゃ……っ!」

目をみはる咲を強引に腕の中に抱き込むと、
照は後ろ髪をつかんで、咲の顎を大きくのけぞらせた。
苦しさに思わず開いた唇に、姉の唇が重ねられる。

咲「ぅ……!」

反射的な恐怖心をともなう驚きに、全身を硬直させる咲の唇を割って液体が流し込まれた。
吐き出すことも許されず、得体の知れない薬瓶の中身が姉の唇から咲の喉へと入り込んでくる。
液体が喉を通り過ぎて胎内に落ちた瞬間、咲の心臓がドクンと大きく脈打った。

咲「……っ」

突如として沸き起こっためまいに視界はぼやけ、思考は千々に乱れる。
全身から力が抜け、立ちくらみを起こし倒れかけた咲の身体を、照の腕が支える。

照「逆らうことは許さない。お前は私のもの」

咲「おねえ……ちゃ……」

照「他の者を求めることも許さない。私だけを見なさい、咲」

咲の顎を捉えた照は、ぞっとするような優しい声で独占の言葉を耳元にささやきかける。
姉に対して初めて恐怖を覚えた。

穏乃「咲に何をしたんですか!?」

照「儀式に必要なものを飲ませただけ」

穏乃「咲の意思を無視するようなことはしないで下さい!」

照「咲はずっと私のものだった。自分のものをどう扱おうと、それは私の自由。あなたには関係ない」

穏乃「……!」

照「さあ、行こう。咲……」

穏乃に見せつけるように自らの腕の中の咲にささやいて、照は微笑んだ。
唇を噛みしめ、照を睨む穏乃を捕らえるためクロが迫る。

『逃げて』と言いたかったが、力が抜けていく今の状態では声を上げることすら出来なかった。
次第に遠のく意識の中、穏乃が腕を掴まれた場面を最後に咲の記憶は途切れた。
照のもたらした含み笑いの響きだけがいつまでも咲の耳に残った―――――


――――――――――

強く、弱く。遠く、近く。
寄せては返すさざ波のようなリズムで繰り返される、不可思議な響きの詠唱が耳をくすぐる。
聞き覚えのないその響きが、封じられた存在をこの世界に招く謡いであると、何故か分かった。
詠唱と儀式により活性化され、変質した場に満ちた力の源が始祖のむき出しの魂に触れ、目覚めをうながす。


咲「……ん……」

重いまぶたを開いて咲が目覚めると、辺りに人の気配はなかった。
動こうとして、自分が囚われの身になっていることに気づいた。
咲の手首は高く掲げられた状態で、黒い石柱に固く紐で縛りつけられている。

自由になるのは視線くらいなものだったが、それも縛られた腕が邪魔をして動かせる範囲は限られていた。
紐を解こうと身をよじったが、きつく縛られているため解くことが出来ない。
手首を紐が擦る動きに痛みを感じてしばし息を詰める。
かすかな体のうずきと喉の渇きを覚えて、咲は熱をはらんだ吐息をついた。

クロ「意識が戻ったようですね。夢うつつのままでいれば辛いこともなかったでしょうに」

咲「……!」

驚いて視線を上げると、いつの間にかその場に現れたクロが優しく微笑みかけた。

クロ「ほら、その眼でしかと見てください……あの姿を」

クロの指先の示すままに顔を上げ目を凝らすと、光の紗の向こうに何かが見えた。
銀色の長い髪、美しく整った顔立ちの女性。……いや、女性に見える両性具有の存在。
一見人と変わらぬ姿かたちだが、その背に生えた翼が、この存在が人ではありえないことを物語っていた。

咲「……あれは……天使……?」

クロ「いいえ―――――翼持つ邪神。一族の崇める存在である、始祖のお姿です」

眼前に輝きそびえ立つ、青白く澄んだ結晶のオブジェを見上げ、咲は呆然とつぶやく。

咲「あれが……始祖……」

琥珀の中に封じ込められた蝶のように、
澄んだ氷塊のなか刻を止め、凍りついて動かぬその姿は命あるようには見えない。

クロ「これはただの氷や結晶ではありません。始祖を捕らえるための光の檻」

クロ「この地に堕とされたあの存在は力のほとんどを封じられ、永い時を眠りに就いている。この檻を脱するためには膨大な力が必要となります」

咲「力……?」

クロ「これまで始祖の為に数多の贄を儀式のたびに捧げてきましたが、どれも上手くいきませんでした」

クロ「ですが、このたびの贄はあなたです。きっと儀式は成功することでしょう」

クロ「宮永咲、あなたはまさにその目的のために造られた、特別な血と魂を持つ存在ですから」

咲「……!」

クロ「召喚の詠唱が始祖の許に届く頃、月はちょうどこの真上に達する。その時この世界と始祖の封じられた地が完全に重なります」

クロ「ほんの束の間ですが、始祖は縛を解かれ、この場に満ちた力が始祖の身をこの世界に実体化させる」

クロ「そのわずかな刻限に、始祖はあなたと交わり、力を得るのです」

咲「……いや……」

クロ「ああ、その瞬間が待ち遠しいのです。……ねえ、長」

クロの言葉に咲の身体か強張る。
こちらにゆっくりと近づくその姿を、咲の瞳はしっかりと捉えてしまう。

この期に及んでも信じたくはなかった。
姉の照が、咲を贄にと望んだ一族の長であるということを。

照「咲……」

咲「……お姉ちゃん」

照は光の乱舞する円陣にためらうことなく足を踏み入れ、咲の顔を覗き込んだ。
頬に伸ばした指先で触れながら、照は穏やかに語りかける。

照「どうしたの、咲?震えてる。怖いの?」

咲「……私を、殺すの?」

照「怖がる必要はない。咲を殺したりはしない、あの存在は生きた咲を求めてる。得た者に力を与える贄として、あの存在は咲を生かし続ける」

照「咲の血と魂が一族と始祖の心を捕らえ続ける限り、おまえは永遠に私たちのもの……」

咲「………」

姉の言葉のひとつひとつが呪縛となって心を縛り、あらがおうとする意思を奪っていく。
顔色を失った咲の表情を見て、照が笑みを深める。
姉の指が咲の顎を捉えたその時。


遠くで鈍い爆発音と、空気を揺すぶり震わせる振動が起きた。
同時にこの儀式の場を照らす証明が、一瞬暗くなる。

照「―――――何事?」

『侵入者です!』

照の問いかけに直ちに反応し、マイクの声が答えた。

『侵入者は施設内の各所に爆発物を仕掛けた模様。警備班が侵入者の行方を追っています』

『爆破による指揮系統の分断と、消火活動の優先により現在、侵入者を捕らえることが困難な状況です』

クロ「……やはり来ましたね。シロ」

照「クロ……」

クロ「はい。一族の初代との盟約通り、シロは私が討ちます。あなた方は手を出さないでください」

照「好きにして。あれのことはあなたに一存してある。儀式が終わるまで足止めできればそれで良い」

クロ「……決着をつけます。永きに渡った因縁も今日限りにしたいと思いますので」

伸ばした右手の先に白く輝く剣を出現させると、クロはそれを鋭く振るって風を斬った。

クロ「これが最後なのです、シロ!」

儀式の間を閉ざしていたぶ厚いドアが外から二つに裂かれて倒れた。
クロと同じく剣を構え、斬り捨てたドアの残骸を乗り越え、シロが現れる。

クロが攻撃を仕掛けようと走る。
機先を制して、シロはクロの足許めがけて鋭くナイフを放つ。
身を退いたクロの爪先近くにナイフが深々と突き立つ。

クロ「……!」

思わぬ足止めをくらってたたらを踏んだクロを横目に、
シロは咲に向かって一直線に走った。

クロ「させない!」

シロ「!!」

クロはシロに向かって、手にした剣を槍のように構えて投げた。
狙い違わず、剣はシロの頬をかすめて壁に刺さる。
シロが止まらなければ、剣はそのまま彼女の側頭部を貫いていただろう。

剣を投げつけると同時に走り出したクロは、足を止めたシロに追いすがる。
シロが振り返ると同時に放った一撃を、クロは身をしゃがませて避ける。
床に手をついた低い姿勢から、クロはシロの軸足を薙ぐように、鋭い蹴りを放つ。

シロ「……っ!」

クロの足払いを身を浮かせてしのいだシロは、そのまま壁を蹴って方向を変え、
クロから距離を置いたところに着地する。
その間に壁から剣を引き抜き、クロはそれを再びシロに向かって構えた。

一連の攻防は、恐ろしく短い間に繰り広げられていた。
何が起きているのか把握しきれず、咲は言葉もなくふたりの戦いに見入った。

クロ「あの贄を助けたければ、まずは私を倒すことです。私を倒さなければ、彼女のところへは行かせない」

シロ「クロ……」

怒涛のようにたたきつけられるクロの力強い斬撃を受け、かわし、シロはしのぎ続ける。
ふたりの力は拮抗している。何かのきっかけでこの均衡が崩されない限り決着はつきそうにない。
戦いを長引かせれば良いクロと、一刻も早く終わらせたいシロでは、シロの方が不利だ。



もはや何度目か分からないほど、ふたりが白刃を音高く打ち合わせた時。
儀式の場への入り口付近で激しく爆発音が起こり、続いて襲いかかった爆風にあおられクロは体勢を崩した。
その一瞬の隙をついて、シロはクロの胸元を裂いた。

クロ「く……っ!今のはあなたの仕業なんですか、シロ?」

シロ「いいえ。あなたが馬鹿にする、ヒトの力」

クロ「何……?」



穏乃「咲――――!!」

戦いの行方を無言で見守っていた照が、つと顔を上げ、その場を一歩退いた。
照の立っていた足許に、物凄い勢いで飛来したものが音を立てて食い込み、小さな穴をうがつ。
照を狙って撃たれたそれは小さな弾だった。
当たれば無傷では済まないことを容易に想像させる、弾の勢い。

続けて撃ち込まれ、足許に突き刺さる弾に動じることなく冷静さを失わぬ態度で、照はさらに数歩退いた。

穏乃「当たればタダじゃすみませんよ。咲から離れてください!」

スリングショットに弾を込め、照に向けて構えながら穏乃が叫ぶ。

照「……あなたなの。どうやって独房から出た?」

穏乃「シロさんが私を助けてくれました。……さあ、咲をそこから自由にしてください!」

照「………」

クロ「なぜ、彼女が……?」

シロ「今度はあなたが私に足止めされる番」

クロ「シロ、あなたの仕業ですか!」

対峙するシロとクロにちらりと目線をやり、照は静かな微笑みを浮かべた。

照「……じゃあ、あなたが自分の手で咲を解放するといい。邪魔はしない」

穏乃「何を企んでるんですか?」

照「別に何も。あなたに咲が救えると言うのなら、ぜひ見せてほしい。あなた自身の力と決意を」

穏乃に場所を譲るため、照は光あふれる円陣から出る。

穏乃「咲、今助けるから!」

照の挙動を用心深く見張りつつ、穏乃は円陣の縁を踏んだ。

穏乃「うあっ……!」

不意打ちの衝撃を受けたように声を上げ、穏乃は構えを崩してひざまずいた。
全身に降りかかる重圧に耐えるように、のろのろとした動きで顔を上げ、照を見やる。

穏乃「な……何だよこれ!あなたの仕業ですか……!?」

照「円陣の中は高純度の力で満たされている。その高圧に精神が耐えられるのは、力を継ぐ特別な者だけ。あなたには到底耐えられまい」

穏乃「く……っ」

照「それに、間もなく時間が来る」

常ならぬものの気配が大気に満ち、高次からのプレッシャーとなって咲の魂を圧倒する。
この地に高次元の霊的存在が肉をまとって降り立とうとしている。
その予感に咲の身体は我知らず震えた。

穏乃「咲、今助けるから待ってて!」

覚悟を決めた瞳で、穏乃は円陣に足を一歩踏み入れた。

穏乃「ぐ、ああ……っ!」

咲「穏乃ちゃん……!」

途端、電撃に打たれたように穏乃の身体は円陣から外に弾け飛ぶ。
円陣の大気中にあふれ活性化した不可視の力は、
儀式のクライマックスであるこの刻に最高潮にまで高められていた。

その力は、一族の血を引かぬ穏乃の存在を拒む。
力に耐性のない人間が円陣に入れば、免疫を持たない無防備な精神が耐えきれずプレッシャーに弾かれてしまう。
穏乃はそれでも唇を噛みしめ、円陣の中に足を踏み込む。

咲「穏乃ちゃん!」

穏乃がこれまでしてくれたことだけで、咲には充分だった。
これ以上穏乃が咲のために苦しむ必要はない。

咲「もういいよ、穏乃ちゃん!ここから離れて……!」

穏乃の行動を止めようと、咲は叫んだ。

穏乃「咲、違う。こんな時にかける言葉はそうじゃない。ただ一言、『頑張れ』だ」

咲「穏乃ちゃん……」

穏乃「私が咲を置いて逃げたり出来るわけないだろう?だから私が負けないよう、そこから呼んでて。必ず咲を助けるから」

絶え間なく襲いかかる精神的苦痛をこらえながら、穏乃は一歩一歩、咲に近づく。

穏乃「……っ!」

置いて逃げ出せば楽になれるのに。
救わねばならない義務もないのに。
穏乃は咲を助けようと、歩み続ける。

咲「穏乃ちゃん……っ」

たどり着いた穏乃の手が、咲を縛る紐に伸ばされる。
穏乃はポケットから小さな折り畳みナイフを取り出し、紐を切るため刃を押し当てる。
たったそれだけの作業が、今の穏乃にとっては果てしない苦行のようだった。

穏乃「はあ……っ」

咲の耳元で穏乃が苦しげに息をつく。

照「そのままだと、お友達の精神は破壊されてしまうよ。彼女を助けたい?咲」

穏乃「咲、聞いちゃ駄目だ、その人のいう事なんて……」

穏乃の身体がふいに力を失い、柱にすがったまま崩れ、膝をつく。
強い眼差しから戦う意思は失われていなかったが、
このままでは姉のいう通り、穏乃の精神が壊されてしまう。


1、穏乃を助けてほしいと懇願する
2、おのれの無力さに怒りを覚える

安価下

咲はかつてここまで激しく自分に対する怒りを覚えたことはなかった。
己のために命を賭けてくれる心優しい友ひとりさえ救うことが出来ないのか。
咲の心が強ければ、穏乃を巻き込むこともなかった。こんなふうに苦しめる必要もなかった。
何も出来ない無力な自分に、咲は血がにじむほど強く唇を噛んだ。

咲「私はもういいから、穏乃ちゃんだけでも逃げて!」

穏乃「一人じゃ、逃げない。守るって言っただろう?待ってて、咲」

穏乃「私は最後まで、咲を助けることを諦めない。だから、信じてほしい。私は、負けない……」

苦痛の汗を浮かべながらも、不敵な笑みを浮かべてみせる穏乃の強さは咲の心を力づけた。
咲も何とか穏乃に笑みを返す。

咲「穏乃ちゃんは、馬鹿だよ……」

穏乃「ただの馬鹿じゃないぞ。不屈の馬鹿だ」

持てる力を振り絞り、渾身の力を込めて立ち上がると、ナイフの刃を咲をいましめる紐にあてがう。
少しずつ、だが確実に、穏乃は刃先を紐に食い込ませていく。

照「……雑草のような生命力の持ち主だね、あなたは」

今まで事の成り行きを静かに見守っていた照が、冷たい声音で呟く。

照「そういうヒトの生き強さというものには惹かれるものを感じるけど。……今は、あなたのその強さが目障り」

咲「お姉……ちゃん……?」

照「あなたが咲の惑いの源だと言うなら、今この場でその源を断てば、咲が迷うこともなくなるだろう」

穏乃「……!」

ゆっくりと円陣を踏み越え、照が穏乃に近づく。
穏乃への害意を匂わせる言葉と、感情を宿さない照の冷ややかな瞳。
咲は今まで姉に対して覚えたことのない、身も凍るような危険を感じた。

咲「やめて、お姉ちゃん……!」

照の右腕が穏乃の制服の襟元をつかみ、強引に引きずり上げる。
姉の身体のどこにそんな力がひそんでいたのか。
穏乃の身体を吊り上げた片腕は、抵抗にも微動だにしない。

穏乃「邪魔は……しないんじゃ……なかったんですか……?」

照「………」

穏乃「咲が……自分の手を離れるのが……そんなに悔しいんですか……?」

喉元を締め上げられる苦しい息の下から、穏乃は照に向かって声を振り絞って告げる。

照「………」

下ろされていた照の左腕が静かに持ち上がる。
手のひらが穏乃の首を捕らえた。

咲「……!」

血の気を失い、冷たくなった指先を咲は必死の思いで握り締め、力任せに動かす。
自分に力があれば。この戒めが今すぐ解けたなら。
手を伸ばしたそこにいる穏乃を救うことが出来るのに。
何でもいい、後でどうなっても構わないから、穏乃を救うための力が欲しい。

腕が傷つくこともいとわず、咲は力の限りに己の手首をいましめる紐を引きちぎろうともがく。
咲は全身全霊を込めて願った。
力を―――――


その時、咲の中で何かが弾けた。
放出する場を持たず、咲の中で渦巻いていた力のうねりが強い意志を得てひとつの方向性を見出した。
触媒となったのは、シロが持たせてくれたあの石。
石から溢れ、ほとばしった光が瞬時に拡がり、その場を白く灼いた。

咲「あ……」

閃光は咲を戒めていた紐を一瞬にして灼き切り、咲を囚われの身から解放した。
脳の奥まで灼き尽くされそうな白い輝き。視界のすべてが白一色にかき消される。

クロ「この光は……」

クロの驚愕の声が、白い闇に閉ざされた先から聞こえる。
光はシロとクロの視界をも奪い、ひと時戦いを中断させたようだ。
咲は足許もおぼつかないまばゆい光のなか、穏乃がいると思われる方向に一歩、歩を進めた。

咲「……くっ」

足に力が入らない。
数歩よろめき歩いて、咲はそのまま転倒しそうになる。
倒れ込みそうになった咲の身体を、誰かの腕が受け止めた。

拡散した光は少しずつ消えてゆく。
ゆっくりと視界が戻る。

穏乃「……咲」

かすれた穏乃の声が、咲の横から聞こえた。

咲「穏乃ちゃん……」

驚いて見やった咲に、少し苦しげに喉をさする穏乃がにっと笑顔を返した。
あわてて体勢を直すと、咲は穏乃の身体を必死の思いで引っ張り、円陣の中から出した。
円陣から出て重圧から解放された穏乃は、ほっとしたように息を吐く。

穏乃「大丈夫だ、もう動ける」

咲「穏乃ちゃん……良かった……」

穏乃「なあ、咲。もしかして今の光は咲が?」

咲「……分からないけど、多分」

照「それはお前の力だよ。咲」

穏乃「……!」

照「肩の刻印で、精神の未発達な幼いうちに封じたはずの咲の力。でも、咲の意思が封じのまじないを上回ったようだね」

照「簡単には解けないと思っていたのに……お前の心は幾重にかけた封じの鎖を打ち破るほど強くなっていたんだね」

咲「私が、強く……?」

照「………」

捕らえに来るかと思った姉は咲の行動を見守るばかりで、何故かそれ以上咲たちを止めようとはしない。
警戒しながらも、じりじりと下がる咲と穏乃の動きを、思いがけない声が止めた。


菫「このまま贄を見逃すつもりか、長?」

穏乃「あなたは……!」

菫「もっとも、私もあんな存在に捧げるのは反対だがな」

照「……菫」

菫「おっと、動くなよ。私の許可なく動けば容赦なく撃つ。たとえそれが長であろうとな」

薄笑いを浮かべ、銃を構えながらその場に現れたのは、研究所で出会った菫だった。

照「儀式の場に立ち会えるのは、一族の長である私と、儀式を司るクロのふたりだけのはず」

照「たとえそれが弘世の娘といえど例外じゃない。お前はこの場に必要ない」

菫「……!」

照「お前の母親同様、儀式の完遂をひかえて待つがいい。下がれ」

菫「その儀式を邪魔しに来たんだよ、私は。私たち改革を望む者はあんな化け物の復活を望んじゃいない」

菫「因習に縛られた母たちは長の決定に黙って従うが、私たち若い世代は違う」

菫「世を制する力は欲しいが、いにしえの存在の復活なんぞ望まない。あれが我々に力を与える存在など信じられるものか!」

照「反対派のクーデター、か」

菫「長、いや照。今日を限りに、お前には当主の座を退いてもらう」

照「……本気なの、菫」

菫「ああ、私は本気だ―――――こんな風にな!」

いつの魔にか背後に忍んでいた獣を、振り返りさま菫が撃った。
大口径の銃口が火を噴き、耳をつんざく轟音が響いた。
胴を吹き飛ばされた眷属は短い悲鳴を上げて地面に転がり、しばらく痙攣した後、動かなくなった。

咲「う……っ」

ただよう硝煙と血の匂いに、咲はめまいと吐き気を感じる。

菫「ちゃちな自動小銃と違って、こうして一撃で眷属も倒せる銃と弾を用意した」

照「………」

菫「こう見えて私も、一族の特別な力をこの身に備えた優秀な因子保持者だ。常人より強い筋力はどんな威力の銃も使いこなす」

菫「さあ、一族の皆の前で私に跡目を譲るとお前の口から宣言してもらおう。それから咲は私が貰う」

照「………」

菫「咲以外の者は不要だ。―――――始末する」

穏乃「……!」

菫「さて、どちらから先に死んでもらうかな……?」

咲「……っ」


1、穏乃をかばう
2、照をかばう

安価下

こんな人に穏乃を殺されたくない―――――!
そう思ったとき、咲の身体は自然に動いていた。

穏乃「な……、咲!?」

気が付くと咲は、穏乃と銃口の間に両手を広げて立っていた。
銃から穏乃をかばおうと自らの身体を盾にして、咲は菫を睨みつけた。

菫「う……」

咲の眼差しに圧倒され、銃を構える菫の腕が一瞬、怯んだように揺らぐ。

穏乃「駄目だ、危ない!そこをどいて、咲!」

咲「……嫌」

自分がここを退けば、穏乃の命の保証はない。
誰に何と言われようとも、咲はこの場を退く気はなかった。

菫「咲、それで私におどしをかけているつもりなら、そんなことは無駄だぞ」

菫「普通の人間なら、このブローニング弾の一撃を急所に受けたらまず間違いなく死ぬ」

菫「そして、この距離なら私は絶対に急所を外さない。……だが、お前は違う」

咲「………」

菫「常人なら瞬時に命に関わるような致命的な怪我も、お前なら簡単には死なない」

菫「だから私はお前を撃って動けなくしてから、お前がかばう人間を撃つ。つまり身体を張ってかばっても無駄だってことだ」

菫「さあ、咲。痛い思いをしたくなければそこを退くんだ」

咲「嫌です……!あなたみたいな人に従うくらいなら、私もここで一緒に殺される方がいい!」

菫「死んでも私には従いたくないということか、贄風情が生意気な口ききやがって……ならお望み通りに撃ってやる!」

菫「お前は貴重な贄だ、命までは奪わない。だが痛みと恥辱にまみれさせ、私に逆らう気など無くすよう躾けてやるからな」

咲「………」

菫「まずはお前を動けなくしてから、その後ゆっくり他の連中の始末をつけさせてもらう」

酷薄な笑みを浮かべながら、菫は咲の身体に照準を合わせ、引き金にかけた指先に力を込める。

穏乃「咲……!」

撃たれる、と思った瞬間。咲は目を閉じた。


―――――銃声が、轟く。


火薬の灼ける匂いが咲の鼻先に届く。
……痛みは身体のどこにもない。
この至近距離で、菫が標的を外すというのはおかしい。

何が起きたのか―――――?
咲はそっと目を開けた。

咲「あ……」

銃口の前に身を投げ出し、咲をかばったのは―――――

咲「お姉……ちゃん……?」

照「……咲……」

姉の信じられない行動に言葉を失い、咲は立ちすくむ。

一族の若き長として始祖の復活を望み、咲を『贄』として監視し続けていた人。
咲の信頼を、思慕を、すべて裏切った偽りの庇護者。

けれど、その姉が一族の放った一発の凶弾から咲をかばってくれた。……命を賭して。
銃弾は照の胸の真ん中を撃ち抜いていた。それが致命傷であることは一目で分かった。
誰の目にも、照の命の灯火が消えようとしているのは明らかだった。

照「………」

ゆっくりと、前のめりに倒れる照の姿を、咲は呆然と見送る。
照が最期に咲に向けた、その一瞬の不思議な微笑―――――
その意味を推し測る間もなく、照は大地にその身を沈めた。

咲「……お姉……ちゃん……」

静かに横たわるもの言わぬ姉の骸に触れると、失われ行くぬくもりと共に、優しい思い出が蘇る。
あれがすべて偽りだったとしても、咲が照に救われたことは事実だ。
姉の優しさは、消えない思い出として今も咲の胸に存在する。

菫「ははっ!私が長を倒した!私が次の長だ!一族のトップは私なんだ!」

菫「さあ、咲。私と共に来い。お前さえ手に入れば私は……」

まぶたを閉ざした照の頬に触れ、混乱する心を整理できない咲に、菫が手を伸ばす。

穏乃「咲に触るな!」

菫が銃口を向ける間も与えず、凶器を構えた腕を穏乃の肘が鋭く弾く。
落とした銃を蹴り飛ばし、穏乃は菫の身体を投げ飛ばす。

菫「ぐあっ……!」

固い地面にたたきつけられ、声もなく悶絶する菫に、
追い打ちの蹴り当てを加えて昏倒させる。

穏乃「咲……」

名を呼ばれ、咲は動かぬ照を膝に抱えたまま、ぼんやりと穏乃を見上げた。

穏乃「お姉さんは、もう……」

咲「………」

穏乃「ここに座り込んだままじゃ、お姉さんが咲を守ろうとしたことが何もかも無駄になる」

咲「……穏乃ちゃん」

穏乃「立とう、咲。生きてる限りは精一杯、抵抗するんだ」

咲「……うん……」

穏乃の言葉に頷いて、咲は再び立ち上がった。



束の間、動きを止めてクロと対峙したシロが、ちらりと目線をくれて言った。

シロ「仕える相手がいなくなったようだけど。どうするつもり」

クロ「私の目的はあなたの妨げになること。そのためだけに始祖の復活を望む。長がいなくなろうと儀式を止める気はないのです」

クロ「星辰はさだめの位置にあり、出現の場は力で満たされている。条件はそろいました―――――間もなく始祖は目覚めます」

シロ「―――――させない」

シロはクロに向かって、やみくもとも思える斬撃を続けさまに加える。

クロ「ずいぶんと勝ちを焦っているようですね、シロ。それほどまでに彼女を救いたいのですか?」

シロの攻撃をすべて受け流しながら、クロはシロをなぶるように猫なで声でささやく。

クロ「けど、焦れば焦るほどあなたは私に勝てなくなるのです」

シロの体勢が崩れ、一瞬動きが乱れる。
そのほんの僅かな隙をクロの目は見逃さなかった。

クロ「ほら、こんな風に……隙だらけです、シロ!」

叫びとともに、クロは剣をシロの腹に突き立てた。

シロ「……!」

初めてシロの顔に苦痛の色が走る。
シロに苦痛を与えたことに喜びを覚えるのか、クロは残忍な笑みを浮かべる。

シロ「―――――捉えた」

クロ「え……」

腹をつらぬかれたまま、剣を握るクロの手首を捕らえ、
動きの止まったクロに向けて、シロは右手の剣を短槍のように構える。

クロ「馬鹿な……!己の身をおとりに、私の動きを止めた!?」

驚愕の叫びが終わらぬ速さで、シロの剣がクロの胸を捉えた。

クロ「ぐああっ!」

クロの胸をつらぬいた刀身が、光を放ち始める。
その輝きに、シロの意図を悟ったクロが顔色を変えて叫ぶ。

クロ「シロ、あなたは石を!?そんなことをすれば、あなたもただでは済まない!」

シロ「………」

シロは無言のまま、剣を握る腕に力を込める。

クロ「うああああ……!!」

辺りに閃光があふれ、光に灼かれた咲の視界が白一色に染まる。
シロの力をまともに受けたクロの苦痛の叫びが、白い闇のなか響き渡る。
クロの声が力を失うとともに、光も急速に収束する。

乱れた前髪の隙間から、憎しみに震える眼差しを、クロはゆっくりと上げた。
光を失っていくその瞳に、以前のような力と余裕はない。

クロ「……やって……くれましたね……」

シロ「………」

シロは一瞬苦しげな表情を浮かべたが、想いを断ち切るように目を伏せ、クロの胸から剣を引き抜く。
クロの身体は前のめりに数歩よろめき、そのまま力なく膝をついた。
押さえた指の間からしたたり落ち、後から後からあふれる己の血をクロは呆然と見下ろす。
血が失われるごとに、クロの命の輝きも失せていく。

クロ「――――…」

クロの震える唇が、音もなく何かの言葉をつむぐ。
……聞き取れたのはシロだけだった。
咲たちに背を向けたシロの肩がその一瞬、震えた。

吐息のようにかすかなつぶやきを最後に、クロはまぶたを閉ざした。
地に伏したクロの身体が、ゆっくりと淡い光に包まれ、そのまま音もなく消えていく。
まるで初めからそこにクロという人間など存在しなかったかのように、何もかもがはかなく消滅する。

シロ「………」

振り向かないシロの背中に、言い知れぬ痛みのようなものを感じて、
咲はシロとクロの間に流れる縁の深さの一端を垣間見た気がした。

クロの命と力を喰らったことの、それだけが証のように、
シロの手にした刀身が光を失うことなく輝いている。

異なる次元が重なる衝撃によって引き起こされた振動が、音もなく空間を震わせる。
始祖を封じ込めた結晶が白熱の輝きを増した。結晶の表面に光のさざ波が小刻みに走る。
結晶の表層は見る見る硬質さを失う。

今や始祖を包む結晶は、物理法則を無視してそびえ立つ水の壁へと変じていた。
内側から光を放つ水面はさざ波に揺れ、辺り一面にその輝きを乱反射させる。

シロ「……目覚める」

シロの呟きと同時に、大気は一瞬、真空のように音を失う。
突然訪れた静寂に、心臓の鼓動が早鐘を打つ音が咲の耳奥に響く。


始祖のまぶたが数度震え、ゆっくりと開かれた。
白いまぶたの奥から、透徹した氷のような眼差しが現れる。
幻想的なあかい瞳に心を奪われ、咲も穏乃も声もなく瞳の奥に見入った。

見る者の魂を絡めとり、強烈に惹きつける異形の眼差し。
力を感じさせる視線で見下ろすその姿は、人間離れした神々しさと威圧に満ちていた。
一族がこの存在を知ったとき、畏怖を覚え、神などと奉り崇めたのも理解できる。

これは、異質の存在。
ヒトの心を惹きつけ惑わし、貪り喰らう異形の生き物。
この存在の求めるまま、喜んでその身を捧げた者がヒトの中にもいたことに合点がいく。

咲「……っ」

咲の身に流れる一族の血が、この眼前の存在に耐えがたいほどの力で惹かれ、ざわめき出す。
白き翼持つしなやかで美しい外見、怪しく光るあかい瞳。抗いがたい魅力を備えた、畏れに満ちた存在。

シロ「目を見ては駄目。―――――魅入られる」

咲「……!」

冷静なシロの言葉に、頭から冷水を浴びせられたように咲の意識が戻る。
慌てて始祖の眼差しから視線をそらす。

穏乃「あれが、始祖なのか……」

光の中で目覚めた異形の姿を目の当たりにして、穏乃は額に浮かんだ冷や汗をぬぐう。

穏乃「本能で分かる……あれは危険だ」

咲「……うん」

始祖を見上げ、シロが剣を構える。

穏乃「どうするんですか、シロさん!?」

シロ「始祖を倒す。ここで逃せばあれは地上を狩場にヒトの命を貪り、より強き力を得る」

シロ「新たな力を得たあれを止めることは難しい。ここで、飛び立つのを防ぐ」

穏乃「たった一人であんなのと戦うつもりですか!?」

シロ「クロの力を得た今の私なら、あれに止めを刺すことも可能かもしれない。あなた達は、この場から離れて」

シロ「堕とされ封じられたとはいえ、あれはヒトを超えた存在。容易くヒトの手に負えるものではない」

咲「シロさんを残して、自分だけ逃げるなんて嫌です!」

穏乃「咲の言う通りです。シロさんにだけ大変なことを押し付けて逃げるなんて出来るわけありません!」

穏乃「それに、ここで逃げたってシロさんが倒されたら何にもなりません。私たちは力を合わせて立ち向かうべきです」

咲「何か手伝えることはないんですか……!?」

シロ「……石を」

咲「え……?」

シロ「石を使って。強い思いを込めて石に願えば、石はあなたが力を操る助けとなる」

咲「この、石を……?」

シロ「あなたの魂のうちに潜在する力であれば、始祖を止めることが出来るかも知れない」

シロ「あれの力を抑えて。飛び立たせてはいけない……あなたなら出来るはず、宮永咲」

咲「……分かりました。やってみます」


獲物を魅了する優美な動きで、封じられた空間から始祖の白い指が伸ばされる。
まるで水面をかき分けるような容易さで、阻まれることなく始祖の指先は結晶を抜ける。
封じの檻は、今や完全に力を失っているようだった。

シロ「……来る!」

残忍な悦びを含んだ始祖の視線が、咲の姿を捉える。

―――――来ヨ、我ガ贄―――――

始祖の嵐のような思念が、咲に向けてたたきつけられる。

咲「―――――!!」

雷に撃たれたような衝撃に、そのまま意識を失いそうになる。

穏乃「咲、危ない!」

倒れかかる咲の身体を、穏乃の腕が支えた。

シロ「宮永咲、己の意思をしっかり持って」

咲「はい……」

シロ「あなたがその気になれば、始祖に意識を持っていかれることもない」

シロの言葉を聞きつけたように目を細め、確かな排除の意思をもって始祖が天に向け、白い手のひらを掲げた。
手を差し伸べた空間から白い光が生まれ、まばゆい雷球となって周囲の空間を灼く。

シロ「……伏せて!」

シロが剣をかかげた所に、ふくれ上がった雷球が光の柱となって降り注ぐ。
……しばらくして、膨大な光に灼かれた視界が戻る。

咲「シロさん……っ」

シロは雷の直撃を受けたかに見えたが、避雷針のようにかかげた剣で降り注ぐ雷撃を薙ぎ払ってしのいだらしい。
周りを取り囲む地面は黒く灼かれていたが、シロは無傷たっだ。

穏乃「あの雷、私たちを避けて降ってきた……いや、きっと咲を傷つけないよう避けたんだろうな」


始祖が顔を上げ、何かを喚んだ。
一族の血を、本能を、魂の根底から揺さぶるような強烈な響きだった。

穏乃「何……だ、この声……っ」

一族の血をひかない穏乃でさえ、その思念の強い響きに当てられたのか、苦痛に顔を歪める。
声なき始祖の命に応えるように、壊された扉の向こうから何かの影が現れた。

シロ「……眷属か……。あれは血の呼び声に応え、始祖に従う」

穏乃「……!あれに咲を捕まえさせるつもりだな!」

シロ「私が始祖を討つ。あなた達はそれまで何とかして眷属から逃げて」

それだけ言い残すと、シロは始祖に向かって走った。

始祖はシロ一人に狙いをさだめ、再び雷の雨を降らせる。
それをかいくぐって始祖の至近に迫ったシロが、振りかぶった剣を轟然と斬り下ろす。
稲妻が奔るような人間離れした俊敏な動きだったが、剣先は始祖を捉えることが出来なかった。

シロ「くっ……」

始祖の背に拡がる翼が大きくはためき、その瞬間、翼から放たれた光の波動が空間を振動させた。
波動に打たれ、シロの身体は空中で弾かれたが、壁にたたきつけられる前に脚で衝撃を殺し、
続いて襲ってきた雷撃から軽やかに身をかわす。

穏乃「……あんな存在とは戦えないけど、私には私の戦いがあるみたいだな」

咲を捕らえようと次第に迫る獣を見据え、息を整えながら穏乃が呟く。

穏乃「咲、私が背中を守るから、咲はシロさんの言う通りあの化け物を倒すための協力に専念して」

咲「……分かった。この石を使ってみる」

咲は石に意識を集中させた。
想いを込め、この危機に打ち勝つ力を石に願う。

穏乃「石が光り始めた……!」

咲に近づこうとする獣をつかんで投げを決め、振り返った穏乃が声を上げた。
祈りに応えるが如く、石は光を強める。
想いの強さに呼応して輝きを増す光に励まされ、咲は石を媒体に、己の中の力を操ることに集中する。
咲の中で次第に力が強まっていく。

咲「……っ!」

咲の集中を破ろうとするように、至近距離に雷が落とされた。
大気を引き裂く轟音と閃光が、目の前で爆発的に拡がる。

咲「穏乃ちゃん……!?」

雷が落ちた瞬間、降り注いだ膨大な光の柱が穏乃を圧したかと咲の目には映った。
視界が戻ったとき、飛び込んできたのは穏乃の無傷な姿と、剣をはすに構えたシロの立ち姿だった。
穏乃の頭上に落ちた雷の力を、割って入ったシロがすべて剣で受け、しのぎ切ったようだ。

シロ「石を使うことに慣れないあなたが、この限られた時間のさなか集中できるのは、おそらく数回が限度」

シロ「私が時間をかせぐから、あなたは石に力を集めることだけ考えて」

咲「はい……!」


石に集まった膨大な力をコントロールするのは、思ったよりも集中力が必要だった。
手のひらの石が強い光を放ち、神経が灼き切れそうな恐ろしく膨大な力が石に集まるのを感じる。
確かにシロの言う通り、石を使うのは3回ほどが限度だ。使いどころを誤ってはならない。

どうするか?


1、目を狙う
2、石柱を狙う
3、翼を狙う

安価下

咲が始祖の目に向けて放った石の力が、光の槍となって走る。
しかし、石から放たれた力は始祖の翼がはばたいて放つ光の波動の前に、すべて打ち消されてしまう。

穏乃「くっ、効いてないみたいだ!」

咲「このまま無駄撃ちしても効果はない……!」


始祖の雷がシロを襲った。

シロ「ぐぅ……っ!」

降り注ぐ光の柱を刀身で受け止め、シロの身体が衝撃に傾ぐ。
膝をつき、苦しげに息をつくシロを視界に止め、咲の心が焦りを覚える。

このまま雷を受け続ければ、シロは危ないかも知れない。
何とかして始祖の力を殺ぎ、シロを助けなければ。


1、目を狙う
2、石柱を狙う
3、翼を狙う

安価下

咲が石柱に向けて放った石の力が、光の槍となって走る。
光はまっすぐに黒い石柱を貫き、その衝撃に柱は円陣から吹き飛ばされた。
あたりの空間に放出していた場を形成する要が倒れたことで、始祖を包む光が弱まる。

咲「光が弱まった……!」

穏乃「今ならあいつを直接攻撃できるチャンスかも!」

額ににじむ冷たい汗をぬぐい、ともすれば遠くなりそうな意識を集め、石を操ることに集中する。
手のひらの石が光を放ち、再び膨大な力が石に集まるのを感じる。

コントロールしきれぬ力の余波で、咲の心臓は早鐘を打ち、息が上がる。
このままだと咲の精神と肉体が力の集中に耐えきれない。

石を使うのは、おそらくあと1回が限界。
使いどころを誤ってはならない。


1、本体を狙う
2、目を狙う
3、翼を狙う

安価下

咲が始祖の目に向けて放った石の力が、光の槍となって始祖の目を貫いた。

穏乃「効いてるみたいだ!」

咲「でも……もう力を使い切ってしまったみたい……」

穏乃「え……?」

咲の中に溢れていた力が、見る見るうちに萎んでいく。
一瞬こちらを見やった始祖の口端が、つり上がった気がした。


―――――ざしゅっ!!


咲たちの目の前で、シロの胸を雷の刃が貫いた。

シロ「く……は……っ」

そのまま地面に討ち落とされ、転がったシロの身体を容赦のない雷撃が襲う。
地を這う手足を、まるで杭を打ち込むように雷が撃つ。

咲「シロさん……!」

始祖は身動きの取れなくなったシロのそばに近づくと、容赦のない苛烈な一撃を食らわせた。
シロを撃った鮮烈な輝きは、あたりを白く灼き尽くす。
圧倒的な光の中に溶け込むように、シロの存在が薄れ、消失していくのが分かった。

シロ「………っ」

咲「シロ……さ……」

悔恨の表情で、傷ついた手を咲へと伸ばすシロの姿に胸がつぶれるような悲しみが沸き起こる。
決して届かぬと分かりながら、思わず伸ばした手の遥か先、シロの身体は光の粒子となって消えていった。


……後に残されたのは、翼持つ異形の神の、欲望に濡れた妖しい笑み。


穏乃「咲――――!!」


白い闇に閉ざされた彼方から届く穏乃の悲痛な叫び声だけが、
咲を現実に引き留める最後のか細い糸だった。

―――――ついに汝は、我のもの

始祖が放つ思念が空間を震わせ、あたり一帯に響き渡ったとき。
その微かな糸もはかなく千切れ、そして散った。


飢えと欲望にあかく輝く始祖の双眸に囚われ、何もかもが咲から遠のいていく。
始祖の腕が咲の手首を捕らえた瞬間、ただひとつ願ったのは、穏乃が生き延びることだった―――――



―――――10年後。

あれから数えきれないほどの月日が流れた。
どうして助かったのかは分からないが、とにかく私は一人だけ、あの場を逃れることが出来た。

そう、私一人だけが……


あの日―――――儀式の完遂を境に世界の様相は一変した。
血と力に満ちたほの暗い闇の掟が、この世を支配する法則となった。
真昼の地上を支配者然と闊歩するのは、今や人間でなく妖しの存在だ。
人の血と肉と魂を求め、徘徊するものどもを辛うじて退けながら、私たち人間は細々と生きている。

この世界の法則をゆがめるすべての元凶は、あいつ―――――
始祖と呼ばれる、あの異形の存在。

人々の中には生贄を求める残酷な主に従って、たとえ家畜としてでも生き延びることを選ぶ者もいる。
逆に最後まで逆らい続ける、反逆者の道を選ぶ者たちも存在する。

私は今、すべての始まりを知る唯一の者として、そんな最後まで諦めない人たちと共にいる。
あいつを再び次元のはざまの牢獄に封じるすべを求めながら、私たちは日々戦い、生きている。

咲のことを忘れた日は、一度だってない。
あいつを倒すすべを求めながら、私は咲の消息を探し求めている。
咲は死んでいない。どこかできっと生きている。

あいつが、あの始祖とやらが地上で尽きない力を誇っているのは、咲が生きている何よりの証だ。
始祖は咲を生かし続け、咲から力を得ているに違いない。
そう思って私はずっと咲の生存を信じてきた。
そして、その考えは間違いじゃなかった。

今日、仲間の一人がようやく咲の居場所を突き止めてくれた。
あの日から変わらない少女の姿で、凍りついた時のなか、咲は囚われ続けていると聞いた。
私はもう大人になっちゃったっていうのにな……



咲、待っててくれ。必ず助けに行くから。
私が必ず、咲をこの長い悪夢から醒ましてやるから。

だから、待っていて―――――咲。


穏乃 Another End

今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました
True Endはまた後日

>>493から

咲が始祖の翼に向けて放った石の力が、
光の槍となって始祖の翼を貫いた。

穏乃「やった!かなり効いてるみたいだ!」

シロ「―――――捉えた」

始祖が衝撃に怯んだその瞬間を見逃さず、
シロの一撃が始祖の胸を深々と貫いた。


―――――グアアアアアアア!!


始祖の身を包んでいた力がこれまでにないほど弱まり、
その姿を薄れさせていく。
そして、やがて光の粒子とともに消失していった。


穏乃「やった、のか……」

咲「……うん。シロさんが決めてくれた……」

手にした剣を消滅させたシロが、こちらへと歩み寄ってくる。

シロ「始祖の存在は、この次元から完全に消えた」

咲「シロさん……」

シロ「私は誓いを果たした。あなたと、そして私も……共に永い束縛から解放されることになった」

静かな口調で語るシロの表情は、重い使命をようやく果たし終えた穏やかさに満ちて、
どこか突き抜けたように澄んでいた。

シロ「もうあなたを縛るものはない。あなたは望むままのものになれる」

咲「シロさん、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私は……」

シロ「私は自分の使命を果たしただけ。……時間がきた、もう行かなければ」

咲「どこへ……?」

シロ「……遠くへ」

もう会えないのかと咲が少し寂しく思うと、その気持ちを察したようにシロがそっと告げる。

シロ「あなたは独りじゃない。心を閉ざさなければ、あなたを助ける者は現れる」

そう言ってシロが指さす先には、穏乃の姿がある。

咲「穏乃ちゃん……」

穏乃「咲……、私はずっとそばにいるから」

手を差し伸べて笑いかける穏乃に、咲も笑顔を返す。
手をつなぎ、並んで彼方を見つめるふたりの許に、風が遠い異国の地の匂いを運んでくれた。


咲「シロさん、行ってしまったね……」

穏乃「うん。またいつか、会えるといいな……」

しみじみと呟いた穏乃の言葉に、咲も黙って頷く。

穏乃「あ、夜明けだ……」

咲「うん……」

穏乃「……終わったんだな。すべて」

咲「……うん」


穏乃「―――――よし!」

かけ声と共に勢いよく伸びをすると、穏乃は咲へと微笑みながら言った。

穏乃「行こう、咲!」

咲「うん、穏乃ちゃん」

穏乃「明華さんも私たちの帰りを待ってる。早く戻って安心させてあげないとな」

咲「そうだね」

穏乃「咲が辛いとき、今度は私がそばにいるから。だから……ずっと一緒にいよう!」

咲「穏乃ちゃん……」

今はまだ姉を失ったことが夢のようで何も考えられない。
けれど優しい庇護者を失った辛い現実は、いずれ咲の心を苛み、苦しめるだろう。
でもその時、咲は一人ではない。穏乃がそばにいてくれる。
耐えきれない痛みにも、誰かとなら立ち向かっていける。咲はまだ歩ける。

穏乃の言葉に力強く頷き返し、咲は繋がれた手をぎゅっと固く握った。


――――――――――

どこまでも澄んだ青い空と、明るく肌を焼く太陽。
強い陽射しと、高く生え茂る椰子の葉の明暗が作り出した影の中を、白い砂を踏みながら歩く。

子供「―――――シズノ!」

元気のいい子供の声に呼ばれて振り返れば、5歳位の女の子が大きく手を振りながら駆けてくる。
立ち止まって待つと、息を切らせた子供が間もなく私に追いつく。

穏乃「どうしたんだ?」

汗をかき、大きな息をつく背を軽くたたいてやると、
異国の少女は顔を上げて私に笑い返した。

この子供は島の住人のひとりだ。
物怖じしないその無邪気さと人なつこさが全身から溢れるような少女で、
島で暮らし始めてから、私たちはずっと親しくしている。

思いかえせば、私たちが島を初めて訪れたときも、
この子は持ち前の好奇心で、外国人の私たちに自分から近づいてきた。

まるで昔の自分を見ているようで。
何だか照れくさくて懐かしい。

子供「シズノ、これお母さんがシズノにって!」

両腕に抱えた袋を差し出して、少女が言った。
袋を覗き込めば、そこには瑞々しいオレンジが沢山詰まっていた。

穏乃「おいしそうだな。ありがとう」

受け取ったオレンジをひとつ取り出してかじると、あざやかな酸味が口に広がる。

穏乃「うん、おいしい!」

そう言って、背の低い少女の髪をかき回すと、こぼれるような笑顔が深まる。

子供「勉強教えてもらってるお礼だから、サキにも渡してね」

穏乃「うん。必ず渡すよ」

子供「じゃあね、シズノ。後で行くから、サキにもよろしく!」

手を振って駆けていく少女を見送って、私は再び歩き出した。
咲の許へ向かうために。

あれから十年が過ぎた。
私、高鴨穏乃とその恋人、宮永咲は太平洋に浮かぶ南の島で生活を共にしている。
私たちはりつべ女学園を卒業後、幼いふたりの約束通り、世界中をめぐる暮らしに入った。

異国の風に触れ、異文化の新鮮な美しさに魅せられるうち、
咲の表情も段々とやわらいで、出会った頃のような笑顔を見せるようになった。

数年の間ふたりであちこちをめぐり歩いて来たけれど、
今滞在しているこの小さな異国の島にはしばらくの間、静かに腰を落ち着けるつもりでいる。

優しくおおらかな島の人々は、海の向こうから来た私たちを暖かく受け入れてくれた。
咲の優しい笑顔は島の子供たちにも好かれるらしく、いつも咲は大勢の子供たちに囲まれている。
せがまれて子供たちに勉強を教える咲の表情はとても幸せそうで、それが私も嬉しい。

珊瑚礁に打ち寄せるおだやかな波に洗われる砂さながら、
咲はゆっくりと昔の面影を取り戻していく。

いいや、それだけじゃない。
今の咲には昔のやわらかな無邪気さに加えて、不思議な静けさが同居している。
それは私が咲の中に見つけて惹かれていた、あの咲にしかない空気だ。


ふと思うことがある。
どうして私はこんなにも咲のことが好きなんだろう、と。

咲が何者だろうと、関係ない。
私は咲が咲だから好きなんだ。

ずっと好きだった。これからも一緒にいたい。
懐かしくて、いとおしい日々。
私はこれからも、ずっと咲の笑顔を見つめていたい。
ここで。咲のそばで。


穏乃 True End

穏乃編はこれで終わりです
他のキャラの話は補足的な感じで書きますので、安価はぐっと減ると思います

次のキャラ

1、シロ
2、由暉子
3、良子
4、照

安価下2

では次は由暉子で始めます
明日から開始します。安価にご協力ありがとうございました

明華は穏乃と話が被ってしまうので…
あと隠しキャラ的に竜華編も用意しようと思ってたんですが、そこまで気力が持ちそうにないので挫折しました

>>15から

咲は呼び出しを無視して帰ることにした。

帰り支度を終えて教室を出ると、外はすでに陽がかげり始めていた。
暗くなる前に帰ろうと歩みを速めた時、廊下の向こうから歩いてくる良子の姿が目に入った。

良子「咲」

咲「良子さん」

良子「この学園の印象はどうですか?上手くやっていけそうですか?」

咲「まだ、よく分かりません」

良子「まずはフレンドを作るところからですね」

咲「………」

良子「咲、まだあのことを気にしているんですか……?」

咲「……!」

良子「去年死んだあのクラスメイトのことを。あれは咲のせいなんかじゃない。咲に関係ないところで起きた、ただの事故じゃありませんか」

咲「………」

良子「そうやって過去を気にして、いつまでも一人でいるつもりですか?」

咲「………」

良子「そんな寂しいことは考えないでください。咲がそんなだと、私も寂しい」

良子「私は、咲にだけは絶対に幸せになってほしいんです。咲が幸せになるためなら、どんなことだってしますから」

咲「良子さん……」

良子「いいですか、咲。理不尽な運命に負けてはいけません。自分から不幸になろうとしてはダメです」

良子「咲さえ諦めなければ、何とかなるもんです。私も手伝いますから頑張ってください」

咲「……。はい……」

良子「さて、私はこれから会議だからもう行きます。咲は部活動の見学にでも……」

良子「―――と、そうだ、今週は学園祭の準備で休みの部が多かったですね」

咲「学園祭……?」

良子「今週末の金曜と土曜に、二日間にわたって学園祭が催されるんですよ」

良子「そういえば照が今日は早く帰ってくるようにと話していましたね。心配性な姉を安心させるためにも、今日のところは真っすぐに帰ってあげなさい」

咲「はい」

良子「送ってあげたいですが、今日は会議で遅くなりそうですので……ソーリー、咲」

咲「いえ、私なら大丈夫ですから。では良子さん、また明日」

咲は手を振ると、良子とその場で別れた。


学園祭の準備に居残る者が多いのか、この時間に帰宅する生徒は少ないようだ。
校門に向かう者は咲の他に誰もいない。


「宮永さん、ちょっと待ってや」

呼ぶ声に振り向くと、見知らぬ少女が手を振りながら追ってくるのが見えた。
足を止めて待つと、少女は間もなく咲に追いつく。

咲「……あなたは?」

泉「私は二条泉。あんたと同じクラスやで」

咲「……」

泉「その様子だと、私のこと覚えてないみたいやな。まあ、今はそんなことどうでもええわ」

咲「私に何か?」

泉「ああ。あんたにちょっと用があるねん。ついてきてくれや」

咲「……」

泉の咲を見つめる目つきが気になった。
笑顔を浮かべているが、彼女の目は笑っていないように見える。

咲「悪いけど、私急いでるんで」

咲は泉に信用の置けないものを感じて、誘いをきっぱりと断った。

泉「……仕方ないなぁ。本当はこんな手荒なことはしたくなかってんけど」

いかにも残念そうな口ぶりで肩をすくめると、泉は何気ない動作で咲に近づいた。

咲「……!!」

警戒して下がろうとする咲の動きを上回る素早さで、泉が咲の懐に入り込んだ。
驚愕する間もなく咲は脇腹に何か鋭い物が突きつけられるのを感じた。 ナイフだった。

泉「動くなや。声も立てない方がええで。私のいう通りにするんや」

咲「………」

泉「さ、私の言う通りに歩いてもらうで」

押し当てたナイフが見えないよう、肩を抱いて身を寄せると、 泉は咲に密着するような形で歩き始めた。



物置用の小さな建物が一つぽつんと建っただけの広場。 校舎から遠く、校内の喧騒もここまでは届かない。

泉「その中に入り」

物置を指さして泉が言った。 咲は言われるまま扉を開き、薄暗い建物の入り込んだ。
何をするつもりか、問いただそうとしたその瞬間。 咲は後頭部に激しい衝撃を感じた。

咲「ぅ……っ」

その後はもう、暗闇に意識がすべり落ちていくのを止められなかった。


――――――――――

咲が意識を取り戻すと、そこは物置に使われていた先ほどの建物の中だった。
冷たい床に倒れたまま放置されたらしく、床に接している右半身がひどく傷んだ。

咲「つぅ……」

一体、何が起こったのか。
後頭部を襲う痛みとめまいに再び遠ざかりそうな意識をかろうじてつなぎ止める。
咲は鉛のように重い体を起こした。

泉「ようやくお目覚めかいな、宮永」

咲「……!」

声の主を求めて顔を上げると、泉が足元にうずくまる咲を見下ろしていた。

泉「そう怖い顔で睨まんといてえな。さっきは強く殴りすぎたかもしれへんけど」

「これだから優等生ってのは怖いねえ。手加減ってものを知らないし」

泉「うるさいわ。揺杏」

泉の立ち位置とは反対の方向から別の人間の声が響いて、咲は息を飲んだ。
あわてて身をよじり、声の方に首を向ける。

揺杏「よう、転校生。あんた大変な奴に目ぇつけられたな」

目を細め、揺杏と呼ばれた生徒がからかい口調で咲を覗き込んだ。
何故こんな目にあわされるのか、見当もつかずに咲は眉をひそめる。

泉「あんたが悪いねんで、宮永。あんたが由暉子と仲良さげにしとるから」

咲「え……?」

泉「真屋由暉子。私はあの子が好きやねん……聖女のように清らかで美しい彼女が好きや」

泉「せやからあの子に近づこうとする者は誰であろうと容赦はせん」

咲「……私は、ユキちゃんの……」

泉「ああ。幼なじみやって?さっき話してるの聞こえてきたからな。……だから余計に気に入らへん」

泉「あんたと、あの忌々しい高鴨穏乃!幼なじみやからって馴れ馴れしく由暉子に近づく害虫ども!」

咲「……っ」

泉「せやから私は決めたんや……あんたらを排除しようって。彼女に近づく気を起こさなくなるまで傷めつけたる!」

咲「………」

泉「これで分かったか?これから私はあんたに制裁を加えるつもりや」

咲「………」

泉「もちろん、高鴨も後で傷めつけたる」

泉の身勝手な言いぐさに、咲は唇をかみしめる。

咲「……ユキちゃんに手を出さないで」

泉「……!」

咲の言葉に、泉の口元に浮かぶ余裕の笑みが消えた。
泉は無言で立ち上がると、咲の頬を強い力で張った。

咲「……っ」

揺杏「おいおい、あんまやり過ぎんなよ。顔だとあとに残るからな」

咲はそっと周囲を見やり逃げ道を探した。
明かり取りの窓は天井近くの高い位置にあり、とても脱出口には使えない。
この建物唯一の扉は揺杏の背後だ。

揺杏「で、泉。今回はどこまでやりゃあ満足?」

泉「そうやな。由暉子の近くを歩く気も失せるほど徹底的に傷めつけてやってくれや」

揺杏「やれやれ、怖いねえ」

呆れたように溜息をつくと、揺杏は無造作に咲に向かって手を伸ばしてきた。
人数や体格差を考えても、彼女らには適わないことは分かっていた。
しかし精一杯抵抗しないことには咲の気がすまない。

タイミングを見計らって、近づいてきた揺杏の顎に頭突きを食らわす。
見事にカウンターになったのか、あっけなくよろめいて揺杏は尻もちをついた。
咲を舐めきって油断していたのだろう。泉もあっけにとられて立ち尽くしている。

このチャンスを逃さず、咲はそのまま素早く立ち上がり、 出口に向かって走った。

揺杏「この野郎、やりやがったな……」

表情を消した揺杏が呟く。
その声に追い立てられるように、咲は物置を飛び出した。



建物を出ると、いつの間にか陽は落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。
人気のない奥まったこの場所に灯りとなる物はない。
うっそりと茂る木々の葉陰から届く星明りだけでは、足元も定かではない。

そういえば、今夜は新月から三日目の夜。
夜空にかかるのは、ようやく顔を出したばかりの折れそうにか細い朏。
夜闇を照らす月明りの恩寵も、今晩は望めそうにない。

揺杏「待て!」

周囲の目をはばかってか、押し殺した怒りの声が咲を追う。
灯りのない夜道を行かねばならない条件は同じだ。
咲はもと来た道と思われる方角へ、やみくもに駆け出した。

咲を呼ぶ声が遠くなり、逃げきれるかもしれないと安堵しかけた直後。
突然、脇腹に衝撃を受けた。

咲「ぐっ!」

衝撃の勢いのまま、咲の体はもんどり打って地面に転がる。
痛みをこらえて見ると、見覚えのない少女が咲の体を抑えこんできた。
潜んでいた少女に横合いからタックルを仕掛けられ、倒されてしまったようだ。

咲(別の場所にも仲間を潜ませてた――――?)

立ち上がって逃げる間もなく、今度は別の少女に背中にのしかかられ、
咲は抵抗できないうちに取り押さえられた。

「捕まえたぞ泉。こっちだ!」

やがて、泉と揺杏が追いついた。

泉「残念やったな、宮永。何かの時の用心に見張りを残してあったんや」

揺杏「よくも、あたしに舐めた真似してくれたな」

咲「……っ」

揺杏「たっぷりと礼はさせてもらうからな……」



穏乃「――――咲!」

咲「……あ……」

穏乃「咲に何やってるんだよ、お前ら……」

突然現れた穏乃は、咲の乱れた着衣の様子を目にして、咲の身に何が起きたのか察したようだ。
剣呑な眼差しで泉と揺杏をにらみつけた。

穏乃「転校生を呼び出して乱暴?格好悪いことしてるな」

泉「だから?宮永を助けて私らとやり合う気か?こっちの方が人数多いねんで」

穏乃「泉、私が強いの知ってるだろ?素人相手なら例え複数でも負けないぞ」

泉「……知ってるで。あんたが道場に通ってたのは聞いた」

穏乃「ケガしたくないだろ?先生には言わないでやるから咲を離しなよ」

泉「………」

穏乃「咲、探したんだぞ」

咲「え……?」

穏乃「ユキと帰ろうとしたら、咲が泉と歩いてるのを見かけたんだ。そしたらユキが校門の前で咲を待とうって言いだしてさ」

穏乃「で、校門で待ってたけどいつまでたっても咲が現れないから探しに来たんだよ。まさかこんなことになってるとは思いもしなかったけどな」

咲「高鴨さん……」

穏乃「泉、私がキレないうちに咲を離して立ち去りなよ!」

泉「………」

言われた泉の目が、先ほどまでと比べものにならない冷ややかさをたたえている。
咲はその目に不穏なものを感じ取る。

咲「高鴨さん、ユキちゃんがその人に狙われてるから……守ってあげて」

穏乃「!!泉、おまえ……!」

泉「………」

穏乃「もしかして、こないだからユキにおかしな手紙をよこしていたストーカーはおまえか!あの手紙のせいでユキがどんな嫌な思いしたと思ってるんだ!」

怒りと嫌悪感あらわな穏乃の叫びに、泉は冷たい眼差しを向ける。

泉「そうやって、ナイト気取りのあんたが余計なこと吹き込むから由暉子は私の想いに気づかへんねん」

泉「邪魔なんや、穏乃!あんたさえおらんかったら、きっと由暉子は私のことを……」

穏乃「頼りなく見えるけど、ユキは私なんかよりよっぽどしっかり者だ。泉の思い通りになんかならない!」

泉「……ふん。あんまりうるさく言うと、こいつがどうなるか知らへんで」

咲「……!」

咲の襟首を掴んで、泉が思い切り拳を振り上げる。
顔面に1発入れられるのを覚悟したその時。

由暉子「やめてください!」

咲が殴られるのを止めようと、その場に飛び込んできたのは由暉子だった。

由暉子「咲ちゃん、穏乃ちゃん。大丈夫ですか!?」

泉「な、なんで由暉子がここに……」

由暉子「泉ちゃん、これ以上咲ちゃんや穏乃ちゃんに失礼なことしないでください!」

泉「……仕方あらへん。予定が狂ったけど、これも運命やったと思うことにするわ」

林から現れた猫背の少女に泉が顎で指示すると、
少女は泉に詰め寄ろうとする由暉子の二の腕をつかんで引き止めた。

由暉子「離してください……!」

泉「この際やから、由暉子にも私以外の人間に優しくすればどうなるか見せてやるわ」

穏乃「ユキに何する気だ!やめろ、泉!」

泉「何かされるんは彼女やない、あんたらや。由暉子が大事なら抵抗すんなや」

穏乃「好きな相手を盾に使うのか。最低だな、泉!」

泉「……っ」

痛いところを突かれ、一瞬口ごもった泉だったが、すぐに気を取り直して周りの人間に命じる。

泉「私に逆らうとどうなるか、こいつらに思い知らせてやってくれや」

穏乃「……!」

息を詰め、次に何が起こるかと緊迫した空気が流れる中。
風が吹いた。
その瞬間、咲は訳もなくぞっと鳥肌を立てた。

この異様な圧迫感。何か異質の気配を感じる。
とてもヒトの持つものとは思えない、なにかの気配―――――

咲「……っ」

これ以上ここにいたくない。
今すぐ、この場を離れなければ。

はやく、はやく。

咲の緊張が極限に達したその時。
何かが枯れた小枝をぱしりと踏み折るかすかな音が響いた。

普段なら聞き落すような小さな音だったが、
緊張に神経を高ぶらせた、その場にいる全員の耳に届いた。

揺杏「……誰かいるのか?」

真っ先に反応したのは揺杏だった。
音のした方に向かって誰何の声をかけたが、その問いに応える者はいない。

揺杏「おい、誰か。行って確認してこい」

「え……は、はい!」

命じられた少女が慌てて動いた。
びくびくした様子で藪をかき分ける少女の背中が、暗がりにまぎれた時。

咲の耳に、ひゅん、というムチか何かが空気を切り裂くような鋭い音が聞こえた。
その直後。

「がっ……!」

喉の詰まったような短い叫びが上がった。
雨粒が木の葉をたたくような濡れた音と、重いものが倒れる音がそれに続いた。
それきり、物音は絶えた。


揺杏「……おい、どうした?何があった?」

泉「揺杏、これはいったいどういうことなんや……?」

揺杏「分かんねえ。……何とか言え、おい!」

揺杏の再度の呼びかけにも応えはない。
異常な事態に、横で見守る泉の顔も、恐慌寸前といった具合に引きつっている。

何かが地面を這いずるような重く湿った音が、
今度は別の方角から聞こえた。

咲「……!」

泉「ひっ」

穏乃「今の音は、何……?」

緊迫した声音で問う穏乃に応えられるものは、誰もいない。
咲たちはいつの間にか得体の知れぬものに囲まれていた。
おののき、息を詰め、為す術もなく立ち尽くしている。

「……わああ!」

「も、もう嫌だあっ!」

極度の緊張に耐えられなかったのか。
パニックに陥り、怯えきった悲鳴を上げた少女たちは、身をひるがえして各自ばらばらの方角に駆け出した。

揺杏「お前ら、待てっ……」

穏乃「うかつに動いちゃ駄目だ!」

二人の制止も耳に入らない様子で、
やみくもに駆け出した少女たちの姿が闇に飲まれた直後。

「ぎゃっ……」

「ぐあっ!」

短い叫びを残し、少女たちの気配は次々と途絶えていった。

咲「……っ」

静まりかえった林の中で。
緊張に速くなる咲たちの息遣いがやけに大きく聞こえる。

泉「な、何や!?いったい何なんや、これは!」

穏乃「何が起きてるのか分からないけど、どうやらヤバいことになってるみたいだな……」

由暉子「そうですね……」

咲「………」

穏乃「得体の知れない、嫌な気配を感じる。まるで獣の檻に入れられたみたいなヤバい感じだ」

泉「そ、そんな……!」

穏乃「ここは皆で協力しよう。気配を探ってたけど、向こうの方角からは嫌な気を感じない」

穏乃「逃げ道があるとしたらあの方角だけだ。私がしんがりを引き受ける。合図したら、そっちに向かって走れ!」

泉「あんたの言葉なんて信用できるわけないわ!私らを囮にして自分だけ逆方向に逃げるつもりやろ!」

穏乃「私はそんなことしない!」

二人が言い争っているうちに、咲たちの右側の藪の中を何かが移動してくる物音がした。
ざざざ、と下生えをかき分けながら、かなりの速度で何かが近づいてくる。

泉「こ、こっちに来るで!」

咲「間に合わない……」

穏乃「!来るぞ!」

泉「ひ、ひいっ……!」

ポケットにひそませたナイフを震える指で取り出した泉が、恐怖のあまり暗闇に向かってそれをやみくもに振るう。
制止の言葉をかけようと口を開きかけた穏乃や由暉子の眼前を、黒い影が風のように走り抜けた。

由暉子「あっ!」

咲「……!」

正体の分からぬ襲撃者から由暉子を守ろうと、咲は無意識のうちに動いていた。
危ないと思った瞬間、由暉子の腕を掴み、思い切り引き寄せて地面に伏せた。

由暉子「咲ちゃん……!」

獣じみた息づかいが、咲の首筋を舐めるようにしてかすめ過ぎる。
得体の知れないものの気配を至近に感じ、咲の背筋が凍りつく。

揺杏「……悪く思うなよ。泉」

泉「なっ、揺杏!?何を……っ」

それまで無言で事態の成り行きを見守っていた揺杏が、泉の背中をどん、と突いた。
よろめいた泉にさっと背を向けると、揺杏は真っ先にその場から逃げ出した。

泉「ひっ……」

黒い影に向かって突き飛ばされた泉の姿が、咲たちの視界から消えた。

穏乃「泉!?」

泉「――――ぎっ!」

穏乃の叫びに応えるように、気配の消えた方から、
断末魔のような短い悲鳴が上がる。
それきり、声は途絶えた。


穏乃「……咲、ユキ。私について来て。離れるなよ」

咲「………」

由暉子「穏乃ちゃん……」

周囲の気配を探りながら、穏乃が先に立って歩き出す。
しばらく行った所で、むせ返るような匂いが鼻を掠めた。―――――血臭だった。

穏乃「……!」

目を凝らし、血臭の元をたどれば、その先には血なまぐさい光景が広がっていた。

うつぶせに倒れた泉の身体から、大量の血があふれ流れている。
不自然な体勢で投げ出された泉の四肢はぴくりとも動かず、彼女がとうに命を失っていることを伝えた。

あまりにも現実離れしたその光景に、咲は足元が崩れるような頼りなさとめまいを感じた。

由暉子「咲ちゃん、大丈夫ですか……?」

咲「……うん……」

穏乃「どういうわけか、さっきまでの獣じみた奴らの気配が綺麗さっぱりなくなってる……」

由暉子「とりあえず危機は脱したってことでしょうか」

穏乃「うん、でも……」

目の前でこと切れている泉の肢体。
その酷い有様を直視できず、穏乃は口元を塞いで目を逸らす。

穏乃「……誰か大人に話して、警察を呼ぼう」

由暉子「そうですね……」



担任を引き連れ、再び泉を見つけた場所に戻った時。
咲たちはそこに信じられない光景を見ることになった。

担任「……ふざけないで!全く、冗談にも程があるわ!」

担任の怒りの言葉も、穏乃の耳には届いていない様子だった。
枯れ木や下草、湿った土や石塊が転がる以外は何もない地面の上を、呆然と凝視している。
咲も信じられない思いで辺りを見渡した。

何もない。
そこには泉が確かに横たわっていたはずなのに、今は血の一滴すら落ちていない。

どこへ消えた?
あの大量の血痕も、泉の遺体も。
いったいどこへ?

穏乃「こんなことあるはずない!ちゃんとこの目で確かに見たんだ、泉の死体を!」

担任「いい加減にしなさい!高鴨さん、今回の悪戯はあまりにも悪質よ。人が殺されたなんて……」

穏乃「そんな……」

由暉子「穏乃ちゃん……」

担任「とにかく、学園祭を前に無用な騒ぎを起こしたくない。このことは先生の胸に収めておくわ」

担任「だから、もうこんな人騒がせなことはしないで頂戴!分かったわね!」

早く帰宅するように言い捨てると、担任はいらいらとした足取りで校舎へと戻っていった。

穏乃「……これ以上ここにいても仕方ない。今日の所は帰ろう」

咲「……うん……」



咲たちが校舎に戻ると、そこには嘘のように平和な情景が広がっていた。
かなり遅い時間になっていたので、学園祭の準備に駆け回っていた生徒のほとんどは既に帰宅したようだ。
まだ居残っていた幾人かが見回りの教師に校内を追い立てられていく。

校門を出たところで、穏乃は校門前に知り合いの顔を見つけたのか、咲たちのそばを離れた。
静かに息をつく咲の顔を、由暉子が覗き込んできた。

由暉子「咲ちゃん、どこか痛むんですか?」

咲の身を案じる言葉に、咲はそっと首を振った。

咲「ユキちゃんこそ大丈夫……?」

そう問い返すと、由暉子は気丈に微笑んでみせた。

由暉子「私は平気です。咲ちゃんの方が大変な目に遭いました。本当に大丈夫なんですか?」

咲「私は平気。……ユキちゃん、髪に葉っぱがついてる」

由暉子「あっ……!ありがとうございます……」

咲が由暉子の髪に触れ、葉っぱを取り払うと、由暉子の頬が桜色に染まった。

穏乃「おーいユキ、そろそろ帰ろう!」

由暉子「あ、はい。それじゃあ咲ちゃん、また明日」

咲に微笑みながら手を振ると、由暉子は穏乃と共に家へと帰っていった。
咲はしばらくその場に佇み、二人の背が遠ざかるのを見送る。
やがて姉の待つ家へ帰ろうときびすを返した。

咲「ただいま……」

小声でつぶやきながら扉を開けると、照が玄関先で待っていた。
照は咲の顔を見るなり腕をつかみ、無言でリビングへと連れていく。
薬箱と濡らしたタオルを用意した照は、咲の顎を掴んで傾けた頬をタオルでぬぐった。

咲「つ……っ」

叩かれた跡に触れられ、忘れていた痛みがよみがえる。
思わず顔をしかめる咲を見て、照が眉をひそめた。

照「よく冷やしておかないと。明日は腫れ上がってしまうからね」

そのまま顔を冷やすよう指示し、土で薄汚れた咲の制服を脱がせ、 咲の体に怪我がないか確認していく。

照「ん……、他は大丈夫なようだね」

咲「ありがとう、お姉ちゃん」

照「一体どうしたの?何があったの、咲?」

咲「……それは」

自分でも信じられないような、不可解な出来事。
こんな訳の分からない異常な事態を姉に話すことはためらわれた。
何も言えず、咲は黙ってうつむいた。

照「……話したくないようだね。まあ、無理には聞かないことにする」

咲「ごめんなさい、お姉ちゃん……」

照「ただし、どうしても一人で解決できない事があったら、すぐに私や良子さんに相談すること」

咲「うん。分かった」

照「転校初日で疲れてるだろうし、今日はもうお休み」

咲「うん……お休みなさい。お姉ちゃん」

自室に戻ると、着替えてからベッドに転がるように横になり、明かりを落とす。
そのまま咲は夢も見ないほど深い眠りに落ちた。




次の日も目覚めも、あまり快適なものではなかった。
朝の光の下では、昨日の非現実な出来事はますます夢のように思える。

照「おはよう、咲。昨夜はよく眠れた?」

咲「うん……」

先に食卓についた姉に促され、咲は照の向かいの席に腰を下ろす。
朝食を素早く平らげると、咲は重い足を動かして学校へと向かった。

登校時の情景などというものは、学校が変わったからといってあまり変わり映えのするものでもない。
他の生徒同様、制服の群れに紛れ込み、咲も校舎に向かって足を運んだ。


由暉子「咲ちゃん、おはようございます」

控えめな声に振り返ると、そこには由暉子が立っていた。

咲「おはよう、ユキちゃん」

由暉子「泉ちゃんのこと、職員室で確かめてきました。……夕べは家に帰っていたそうです」

咲「え……?」

由暉子「今日は体調を崩して学校を休むそうですが……いったいどういうことなんでしょう……」

由暉子のつぶやきに、咲は素直にうなずけなかった。
泉の血塗られた姿が脳裏にまざまざとよみがえり、その生々しさに咲は思わず身体を震わせる。

あれが現実でなかったとはどうしても思えない。
だからと言って、それを証明できる証は何もない。

由暉子「あ……、チャイムが鳴りましたね。教室に急ぎましょうか」

咲「……うん」

釈然としないまま、咲は由暉子とともに教室へと駆けていった。

チャイムの音が昼の訪れを告げると、生徒たちは昼を過ごす為それぞれ目的の場所へ散っていく。
咲はお弁当を用意してこなかったので、昼食を食堂でとらなければならない。
あまり食欲もないし気も進まないが、食事はきちんと摂るよう姉にも言われているので、咲は席を立った。


食堂の所在を求め歩くうち、立派な枝ぶりの木々が立ち並ぶ、手入れの行き届いた遊歩道に出てしまった。
その石畳の遊歩道を外れた木立の奥に、見覚えのある人影を見つけた。
由暉子が何やら真剣な眼差しで一本の木を見上げている。

何を見ているのだろうと咲が見守るうち、突然、由暉子が危なっかしい手つきで一番低い枝に取り着いた。
懸命にその枝の上に身体を引き上げようと試みる様子だったが、不器用なのか見事に枝から転がり落ちてしまった。

咲「……ユキちゃん?」

由暉子「あ、咲ちゃん」

咲「何してるの……?」

咲が尋ねると、由暉子はそっと握った手のひらに目線を落とした。

由暉子「この子を、巣箱に戻そうと思ったんです」

小さな毛玉のかたまりのように見える一匹のひな鳥が、由暉子の手のひらに包まれていた。

由暉子「あの巣箱から落ちたみたいです」

見上げると、枝のかなり高い所に木製の巣箱が設置されている。
咲は黙って由暉子の手のひらからひな鳥を受け取ると、木に登り始めた。

由暉子「咲ちゃん、気をつけて」

咲「大丈夫。昔から木登りは得意だから……」

ひな鳥を抱えた片手が使えないため少し動きにくいが、枝ぶりの良い木だったので登るのは楽だった。
巣箱にひな鳥を戻すと、咲は地面にふわりと降り立った。
咲の顔をまぶしいような眼差しで見上げ、由暉子が言った。

由暉子「ありがとうございます、咲ちゃん。そういうところ、昔と変わりませんね」

咲「ううん。……昔のことは、あまり覚えていないけど……」

由暉子「ところで、咲ちゃんはどこへ行くところだったんですか?」

咲「食堂へ。場所が分からなくて……」

由暉子「食堂でしたら正反対の方角ですよ。分かりにくいので、ご案内します」

先に立って案内する由暉子の後を追って、咲もゆっくり歩き始めた。


――――――――――

放課後の訪れを報せるチャイムが鳴り、咲の転校2日目が終了した。
今日は咲の掃除当番の日だと言われ、咲は割り当てられた清掃場所に向かった。
掃除を終え、教室に戻ると部活動や学園祭の準備に向かったのか、すでに教室内にはほとんど生徒は残っていない。


由暉子「咲ちゃん、よかったら一緒に帰りませんか……?」

ためらいがちに、由暉子が咲に話しかけてきた。

咲「……うん。いいよ」

あまり覚えていないとはいえ、昔なじみの由暉子からの誘いに特に断る理由もなく、咲は頷いた。
肩を並べて教室を出たふたりは、人気のない帰り道をゆっくりと歩く。

由暉子「こんな風に咲ちゃんと歩く日が来るなんて、まるで夢みたいです」

咲「え……?」

由暉子「もう二度と会えないかもって思ってましたから。咲ちゃんが帰ってきて、私とっても嬉しいです」

そう言って微笑む由暉子があまりに嬉しそうなので、咲は胸が痛んだ。
この街に戻るまで、咲は由暉子のことをすっかり忘れていた。
なのにこの少女は会えない日々も咲のことを気にかけていてくれた。


1、今まで忘れていてごめんなさい
2、帰ってきた理由は、そんなに良いものじゃない

安価下

咲「……私はユキちゃんのことを今まで忘れていたのに。……ごめんなさい」

由暉子「いえ、その事はもう気にしないで下さい。私の事が少しでも咲ちゃんの記憶に残っていただけで嬉しいですから」

咲「ユキちゃん……」


話題を変えようと、咲は由暉子に部活には入っていないのかと訊ねる。

由暉子「放課後はガーデニングのお店を経営する従姉妹の手伝いに行きたくて、部には入ってないんです」

由暉子「園芸部には友達がいるので活動をお手伝いしてますけど、今日は顔を出さなくても良いことになってます」


帰り道が小さな公園に差し掛かった時、由暉子は表情を輝かせ、咲を振り返った。

由暉子「咲ちゃん、この公園を通っていきましょう!」

咲「え、うん」

誘いに逆らうことなく、咲は由暉子の後に続いて公園に足を踏み入れた。


由暉子「この時期は金木犀が咲いてるんです。ほら、あの林です。今が盛りですね」

由暉子の指さす方から、風と共に甘い香りがただよって来る。
その林には一面、金木犀が咲き誇っていた。

咲「いい香り……」

由暉子「咲ちゃんもこの香り好きなんですね、良かったです。……小さい頃は、この季節が来るたびにわくわくしてました」

由暉子「覚えてますか?咲ちゃんと穏乃ちゃんと私で、地面に落ちた花を両手いっぱい集めて、それで金木犀の枕を作ったんです」

由暉子「その夜は金木犀の香りに包まれて、とても良い夢を見ました」

咲「……そう、なんだ……」

覚えていない事がもどかしくて、咲は曖昧に返事をした。




由暉子「それじゃあ、私の家はこっちの方角なので、ここでお別れですね」

由暉子「今日は咲ちゃんとお話できて楽しかったです。ぜひまた一緒に帰りましょうね」

咲「うん。じゃあね、ユキちゃん」

また明日。そう言って二人はそれぞれの道へと別れた。
振り返ると、由暉子はいかにも嬉しそうに、咲の姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。

咲が家に着くと、姉はまだ大学から帰宅していなかった。
制服を着替える間もなく携帯が鳴った。

咲「はい」

照『咲、もう家に帰ってる?』

咲「お姉ちゃん……」

照『今日はサークルで遅くなるから、先に夕食をすませておいて』

咲「うん。分かった」

照『ごめんね、咲。新しい家でひとりにさせてしまうね。なるべく早く帰るつもりだけど……』

咲「ううん。気にしないでお姉ちゃん。じゃあ、サークル頑張ってね」



簡単な夕食を作って食べ、お風呂を済ませた後は、自室で宿題と自習に専念した。
照がなかなか帰らぬまま時間が過ぎる。

寝床につき、天井を見つめて姉の帰りを待つうちに、咲はいつの間にか眠りに落ちていた。
夢は見なかった。

今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました

朝の訪れを知らせる目覚ましの電子音とともに、咲はまぶたを開いた。

照「おはよう、咲」

咲「おはようお姉ちゃん」

朝食を食べ終え、学校に行く準備が整うと、姉への挨拶を済ませて家を出た。



校門前で、同じく登校中だった由暉子が咲の方へ駆け寄ってきた。

由暉子「咲ちゃん。おはようございます」

咲「おはよう。ユキちゃん」

由暉子「今日は早起きして、ゆっくり遠回りしながら登校したんです。朝の空気って気持ちいいですよね」

咲「そうだね」

由暉子「あ、もう予鈴の時間ですね。少し急ぎましょうか、咲ちゃん」

少しだけ歩調を速めた由暉子につられ、咲も足を速める。
ふたりは肩を並べて教室を目指した。


その日の昼前。4限目の授業は科学だった。
科学の担当教師は戒能良子。
つまり従姉妹の良子が教鞭をとる授業を、咲は初めて受けることになる。

その日の授業内容は、実験。
第二科学室での講義となっていた。

良子「実験器具の取り扱いには注意してくださいね。特にガラス製の器具は割れやすいですから」

実験の内容と手順を黒板に記入し、良子は手際よく説明を行う。

良子「説明は以上です。では実験を始めます。今説明した器具を各班ごとに取りにくるように」

実験の準備を始めるため、生徒たちはそれぞれ役割を分担して動き始めた。

生徒A「転校生、あなたが取ってきてよ。ちょっとはクラスに馴染むよう皆の為に働いてよ」

咲「………」

生徒B「ちょっと、そんな言い方やめなさいよ」

生徒A「なによ、別にいいじゃない。さあ取ってきてよ、宮永さん」

生徒B「何であんたが指示してるのよ。偉そうに」

生徒A「なんだって!?」

席を蹴って、女生徒が立ち上がった。
女生徒の剣幕に驚いた他の班の生徒たちが思わず準備の手を休め、咲たちのテーブルに視線を向ける。

自分のことがきっかけで始まった口論だ。黙って見ているわけにもいかない。
咲は女生徒たちの間に割って入った。

咲「……待って」

生徒A「な、なによ。何か文句でもあるっての!?」

穏乃「やめなよ……!」

今にも咲に掴みかかりそうな女生徒の肩を掴んで、隣のテーブルにいた穏乃が割り込んできた。
咲の班のテーブルの周りに、生徒たちが物見高げな様子で集まってくる。
後ろの席で自分の班の実験準備を進めていた由暉子も、近づいてきて思案げな面持ちで騒ぎを見つめている。

良子「こら、何をやってるんですか。ケンカはやめなさい!」

もめごとに気づいた良子が騒ぎを止めようと、急ぎ足でそばにやってくる。

生徒A「うるさいな、高鴨さん。離してよ!」

怒りに任せて、女生徒は穏乃の手を勢いよく振り払った。
払いのけられた穏乃の手が、たまたま近くに立っていた生徒の腕に当たる。
運の悪いことに、その生徒は両手一杯に実験器具を抱え持っていた。

咲「……!」

咲の眼前で、生徒の腕から実験器具がすべり落ちるのが見えた。
落下の勢いを止めることができないと悟った瞬間。
咲の体はとっさに動いた。

由暉子の肩を掴んで背後に引かせると、咲の身体は由暉子を庇うように前に動いていた。
すべり落ちたガラス製の試験管たビーカーが、甲高い音を立てて床上で砕け散る。
鋭いガラスの破片があたりに飛び、その中のひとつが咲の手を切り裂いた。

咲「……っ!」

灼けるような痛みが手のひらに走る。
傷ついた箇所から見る間に鮮血が溢れ出し、指先をつたって床に滴り落ちた。
その様を由暉子は思わず言葉を無くして見つめていたが、あわてて咲の腕を持ち上げる。

由暉子「傷口を下に向けたら駄目です。心臓より高くして、血の流れを止めないと……」

咲の手首を掴んで押さえ、由暉子は的確な止血の処置をとった。
その手際の良さに安心したように、良子はほっと息をついた。

良子「ミス真屋、咲を保健室に連れて行ってください。頼みましたよ」

由暉子「分かりました、先生」

良子「誰か清掃道具を取ってきてください。……あ、手を切るので素手は止めなさい」

他の生徒に指示を飛ばす良子の声を聞きながら、
咲は由暉子に手を引かれ、保健室へと向かった。

訪れた保健室に人の気配はなかった。
保険医はちょうど席を外して不在なようだ。

由暉子「私、一年の時は保健委員でしたので、応急処置の仕方は分かります。そこに座ってください」

由暉子「ガラスの破片が傷口に残っているかも知れません。急いで手当した方がいいと思います」

咲が椅子に腰を下ろす間に、由暉子は慣れた手つきで薬品棚から消毒薬の瓶やピンセット、脱脂綿を取り出して机の上に並べていく。
咲の手を取った由暉子は消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、傷口についた血をぬぐい始めた。

由暉子「……良かった。破片は残ってないみたいですね」

由暉子「傷も出血のわりには深くないですし、これなら痕も残りませんね。後で保険医の先生に診てもらえば大丈夫です」

傷口に止血用の薬を塗り、ガーゼをあてて包帯を巻くと、あっという間に治療は済んだ。

咲「ありがとう。随分と手際がいいんだね」

由暉子「いいえ。こちらこそ庇ってくれてありがとうございました。……咲ちゃん、やっぱりあの頃と変わらず優しいんですね」

咲「そんなこと……」

二人して頬を桜色に染めながら、保健室を出た。

5限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、その日の授業が終了した。
4限目の科学室での騒ぎ以外、今日は特に変わったことは起きなかった。
おかげでクラスメイトが咲に向ける視線も、朝よりもずっと控えめで落ち着いたものになっていた。


荷物を鞄につめていた咲に、由暉子が話しかけてきた。

由暉子「咲ちゃん、傷の具合はどうですか?痛みとかありませんか?」

咲「もう大丈夫。痛みも治まったから」

由暉子「それは良かったです。……あの、今日も一緒に帰りませんか?」

咲「うん。いいよ」

由暉子「嬉しいです……!それじゃあ行きましょうか」

咲「昨日の公園、また寄っていこうか?」

由暉子「良いんですか?……あ、今日は歩道じゃなくて林を通っていきませんか?」


1、分かった
2、歩道を通って帰ろう

安価下

咲「うん。分かったよ」

由暉子の誘いに、咲は快く応じた。



昨日と同じ、風に乗って届く金木犀の香りを楽しみながら、
咲と由暉子は下草を踏みしめ、ふたり並んで林を歩く。
咲の靴先に何気なく視線を向けた由暉子が、驚きに目を見開いて叫んだ。

由暉子「咲ちゃん、動かないでください!」

咲「え……、うん」

声に驚いて固まってしまった咲の足元に駆け寄り、由暉子は両手で何かをすくい上げた。

由暉子「大丈夫でした……!」

ほっと息をつく由暉子の合わせた両の手のひらの中、
包み込まれるように守られていたのはほんの小さな幼虫だった。
きょとんと見つめる咲に気が付き、我に返った由暉子が向き直った。

由暉子「いきなり大声を上げてしまってごめんなさい。咲ちゃんの足元を見たらこの子がいて、つい」

咲「私なら大丈夫。……でも意外、ユキちゃんは虫が苦手そうに見えるから」

由暉子のような繊細な女の子は嫌がりそうな幼虫にじかに手で触れ、
大事そうに抱える彼女の姿に咲はつい訊ねてしまった。

由暉子「ええ。以前は虫、苦手だったんです。嫌じゃなくなったのは咲ちゃんの影響なんですよ。覚えてませんか?」

咲「え……?」

由暉子「昔、咲ちゃんのお庭で一緒に遊んでいた時、毛虫を踏もうとした穏乃ちゃんに、咲ちゃんが『やめて』って泣いたんです」

由暉子「今はこんな姿だけど、この虫もいつかは蝶になる。空を飛ぶとき、本当に綺麗だから殺さないで……って」

由暉子「それ以来、穏乃ちゃんも私も、虫のことが嫌だと思えなくなっていました。単純で、おかしいですよね」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「でも、そういうことがあったから穏乃ちゃんも私も、咲ちゃんのことがずっと忘れられなかったのかも知れません」

手のひらの幼虫を見つめながら、由暉子はやわらかく微笑んだ。

由暉子と別れ、咲が家に帰ると照はまだ帰宅していなかった。
咲は手早く夕食を作って食べ、使ったお皿やフライパンなどの片付けも終えた頃。
姉がようやく帰ってきた。

照「ただいま、咲」

咲「おかえり。お姉ちゃん」

照「今日の学校はどうたっだ?何か変わったことは……って。その包帯は何?」

咲の手に巻かれた真っ白な包帯に気づき、眉をひそめた照が咲の腕を取った。

照「どうしたの、これは?学校で何かあったの?」

姉に心配をかけないように、咲は言葉を濁して姉から目をそらした。

照「……話したくないみたいだね。まあ、酷い怪我でないのならいいんだけど」

咲「切り傷だけど、傷口も浅いし大したことないから」

照「そう……それなら良かった。でも気を付けなさい」

咲「うん、心配かけてごめんなさい。お姉ちゃん」


それから姉とたあいのない会話を交わした後、咲は自室へと戻った。
時間割を見ながら明日の授業の用意を済ませ、課題のプリントに取り掛かる。


咲「終わった……」

課題を全て終えた時、すでに時計の針は11時を過ぎていた。
明日も何事もなく一日が過ぎることを願いつつ、咲は寝床についた。


――――――――――

今朝は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
咲はベッドから身を起こし、目覚ましのアラームを止めた。

左手の包帯が外れかけているのを見て、そこにガラスの破片で受けた傷があることを思い出した。
負ったばかりの傷なのに、今朝はもう痛みを感じない。
咲は左手を覆う包帯をほどいてみた。

咲「……!?」

出血のわりに浅い傷だったとはいえ、ガラスで切った傷口だ。
一朝一夕で治るようなものではなかったはずだ。
しかし包帯とガーゼを外して確認した傷口は、すでに綺麗に塞がりほとんど治りかけている。
確かに昔から怪我の治りは早い方だったが、いくら何でもこの回復の速さは尋常ではない。

照「咲、そろそろ起きなさい」

扉の外からかけられた姉の言葉にすぐに行くと答え、
咲は慌ただしく包帯を巻きなおしてベッドを降りた。



咲がリビングに行くと、照は淹れたてのカフェオレを咲に手渡した。

照「おはよう。咲。傷は痛まない?」

咲「うん……大丈夫」

照「じゃあ食事にしようか」

咲「うん」

朝食を済ませると、咲は照に声をかけて家を出た。
まだ時間が早いせいか、校門をくぐる生徒の数もまばらだった。


教室に着き、鞄から教科書を出す咲の肩をそっと後ろからたたく者がいた。

咲「……?」

振り返ると、心配そうな表情の穏乃が立っていた。

穏乃「おはよう、咲。昨日のケガは大丈夫?」

咲「うん、もう大して痛まないから」

穏乃「そっか、良かった。でもとっさにユキを庇うなんてな。咲ってそういうところ、変わってないなあ……」

咲「高鴨さん……」



授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
遅れて教室に現れた教師を見て、おしゃべりに熱中していた生徒たちが慌てて席についた。

学園祭本番をいよいよ明日に控え、本日の授業は4限目までとなっていた。
帰り支度を整えた生徒たちがばたばたと教室を出ていく。

由暉子「咲ちゃん、今日も一緒に帰りましょう」

咲「うん」

すっかり由暉子と二人で帰ることが咲の中で恒例となりつつあった。



由暉子と公園の中の林を散策するのは、咲にとっても楽しいものとなっていた。
ふと由暉子が何かに気を取られて足を止めた。
咲も肩越しに、由暉子の見つめているものが何か確かめる。

それは道端に生えているありふれた雑草だった。
葉を精一杯に広げ、雑草は天を仰いでいる。

由暉子「あれは、オオバコですね。咲ちゃん、昔これで草相撲をしたのを覚えてませんか?」

咲「草相撲?」

由暉子「茎の部分で引っ張りっこする遊びです」

由暉子「オオバコは人が通る小径によく生えています。だからいつも人に踏まれて可哀想な草だと思っていました」

由暉子「でも、本当は違ったんです。良い土地では他の植物との生存競争に負けてしまう」

由暉子「だからオオバコは、人の足に踏み固められた、他の植物では育たないような場所に生えるんだそうです」

由暉子「弱いからこそ自らを生かせる場所を見つけ、強くなったんです。私はそんなオオバコが好きです」

咲「オオバコが……?」

由暉子「はい。弱いからこそ逃げるのではなくて、そんな風に私も自分の道を探したい。こんなのは、おこがましい考えでしょうか」

咲「……ううん。前向きでいいと思う」

由暉子「ありがとうございます!咲ちゃんがそう言ってくれると、何だかとても頑張れる気がします」



咲「それじゃあ、私はこっちだから」

由暉子「今日も咲ちゃんとお話できて楽しかったです。それでは、また明日」

分かれ道でいつまでも手を振る由暉子に、咲も振り返って手を振った。



今日も何事もなく一日が平和に過ぎた。
こうして穏やかな日常が続くと、初日の出来事は夢だったのではないかとさえ思えてくる。
これから先も平穏な日々が続くことを祈りながら、咲は眠りに就いた。


――――――――――

目覚ましのアラームが鳴り響き、咲はその音で目を覚ました。

今日はりつべ女学園の学園祭当日だ。
学園祭は今日と明日の2日間に亘って開催され、この間、校内に生徒以外の人間の出入りも自由となる。
咲たちのクラス発表は、教室内でのパネル展示だった。

担任「今日はこれから、クラス展示の受付当番以外の生徒は自由に過ごして良いことになってるわ」

担任「部活動での展示や発表がある者、実行委員らは点呼を済ませたら持ち場に向かいなさい」

教師は生徒に順々に声をかけ、出席簿に印をつけていく。
点呼を済ませた咲も他の生徒たち同様に教室を出た。


家庭科室の前を通りかかった時、ちょうどその扉から出てきた者とぶつかりそうになってしまった。

由暉子「ごめんなさい、前方不注意でした」

咲「ユキちゃん?」

由暉子「あ、咲ちゃんでしたか!ちょうど良かったです。ちょっと私に協力してもらえませんか?」

咲「え?うん、いいけど」

由暉子「ありがとうございます。それじゃあ、こちらに来てください」

由暉子に手を引かれ、咲は家庭科室へと足を踏み入れる。

何をするのかと思案する咲に、由暉子はパウンドケーキの載せられた小皿を差し出した。

咲「これは……?」

由暉子「このケーキの試食をお願いしたいんです。園芸部の出店コーナーで、これから販売予定のケーキなんです」

由暉子「私の担当分は甘い物が苦手な人の為のケーキなんですけど、味の方に自信がなくて……」

由暉子「咲ちゃん、確か甘い物があまり好きじゃなかったですよね。試食してもらえると助かります」

咲「うん、分かったよ」

頷いた咲は皿を受け取ると、添えられたフォークでケーキを切り取り、一口食べた。

咲「……!」

由暉子「いかがですか……?」

ケーキは、とてつもなく甘かった。


1、正直に「甘すぎる」と答える
2、美味しいと褒める

安価下

安価が決まったところで、今日はここまでです
ご協力ありがとうございました

咲「ちょっと甘すぎるかな」

由暉子「そうですか……、もっと砂糖を控えめにした方が良かったですね。正直に言ってくれてありがとうございます」

生徒A「ねえ、由暉子。小麦粉と砂糖の分量、間違えて逆にメモしてるよ」

由暉子「え……?」

生徒B「何で気づかないかなあ、砂糖が小麦粉より多いわけないでしょ」

生徒A「この分量通りに作ったなら恐ろしく甘いケーキになってるはずだね」

生徒B「災難だったね、あなた。甘い物苦手なのに、とんでもないもの食べさせられて」

由暉子「す、すみません!おかしなもの食べさせてしまって……!」

生徒A「由暉子って熱心だけど、料理の才能はまったくないのよね。まあ代わりに園芸の才能があるから良いけど」

由暉子「ごめんなさい、咲ちゃん……」

咲「ううん、もういいよ。気にしないで」

由暉子「そうはいきません!あ、お詫びといっては何ですけど、良かったら学園祭の案内をさせてください!」

咲「そんなに気にしなくてもいいのに。でも、それじゃあお願いしようかな」

生徒B「ケーキを運んだら準備完了だから、その後は交代時間までゆっくりしてきなよ」

由暉子「ありがとうございます。それじゃあ、行きましょうか。咲ちゃん」

咲「うん。よろしくね」

りつべ女学園の巨大な中央ホールは、生徒達の出店と、その店先にたむろする人の群れで賑わっていた。
生徒以外の客もかなりいるようだ。学園祭に訪れた一般客の多さに咲は驚く。
女子高の催しと言うより、企業のイベントのような人手だ。

由暉子「学園を設立したりつべ財団が出展にも協力していますので、結構大がかりな展示や有名人を招いた催しもあるんです」

由暉子「毎年それを目当てにやって来る一般客も多いですし、りつべ女学園といえばかなり有名なイベントなんだそうです」

咲「へえ……」

言われて見渡せば、確かにどの出店も展示も生徒が主体となって運営しているものではあるが、それなりの見栄えと内容を伴った催しになっている。
咲はあまり知らない顔だが、芸能人のトークショー開催を知らせるポスターもあちこちに貼られている。

ホールを見回すと、モニターやコンピューターを駆使した展示コーナーのやたら多いことが目に留まる。
随分と立派な映像機材やコンピューターを展示に利用しているところが多い。

咲「これもりつべ財団のバックアップの成果なの……?」

由暉子「この学園は開設した当初、最新のハイテク校と言われて話題になった位にコンピューター教育に力を入れてるんです」

由暉子「常に生徒達が自由に使える最新のコンピューターや、その周辺の機材がかなりの数揃っています」

由暉子「大学の研究室並の物凄いコンピューターなどもあります。これもりつべ財団が寄付をしたんだそうです」

由暉子「咲ちゃんはまだ受けてないでしょうけど、りつべ学園独自の授業というものもあります」

咲「それはどんな授業なの?」

由暉子「コンピューターを使った情操教育です。リラクゼーションのムービーを観たりとか」

由暉子「あとゲーム形式で簡単な質問に答えたりする、心理テスト的な授業などもあります」

由暉子「そうしてハイテクを売りに学園を挙げてコンピューター教育に力を入れてるから、りつべ女学園の電脳部は全校的にも有名なんです」

咲「そうなんだ、全然知らなかった」


その後、咲は由暉子の案内で、順番に校内の催しを見て回った。

由暉子「咲ちゃん、ちょっとだけここに寄ってもらえますか?園芸部の後輩がお手伝いしているはずなんです」

咲「うん、いいよ」

由暉子に誘われるまま、咲は『甘味処』の看板を上げる一年生の教室の暖簾をくぐった。
空いた席に腰を下ろした途端、こちら目がけて派手に走ってくる足音がする。

一年「由暉子先輩、来てくれたんですね!」

長い髪を揺らし、一年生の少女が由暉子の肩に抱き着いた。

由暉子「お手伝い頑張っているみたいですね。喫茶のチケットも頂いたことですし、あんみつを食べに来ました」

一年「ありがとうございます!腕によりをかけて作ってきますね!……ところで、ご一緒の方のご注文は?」

咲をじろりと睨みながら、少女が訊ねてくる。

由暉子「咲ちゃんは何を注文しますか?」

咲「私はユキちゃんと同じものでいいよ」

由暉子「そうですか。ここのあんみつはさっぱりしてるらしいですし、甘いものが苦手な咲ちゃんでも大丈夫だと思いますよ」


やがて、あんみつが二人分運ばれてきた。

一年「どうぞ、ごゆっくり」

あんみつの皿を配膳し終えると、少女は一歩下がって二人を見守る位置に立った。

咲はスプーンを取り、あんみつをひとさじすくって食べてみた。

咲「……!」

あんみつは、とてつもなく甘かった。
思わず振り返ると、少女が咲に向かってふふんと鼻先で笑いかける。
どうやら彼女のしわざらしい。あまりに子供じみた悪戯に思わず脱力する。

由暉子「わあ、ここのあんみつは美味しそうです。なんでも茶道部のレシピによる手作りなんだそうですよ」

由暉子「……咲ちゃん?どうかしましたか?」

咲の表情の変化に気づいたらしい。
由暉子は咲のあんみつをさじで一口すくい、味を確かめて硬直した。

由暉子「……これは……!」

後ろで少女があたふたと慌てふためいている。
由暉子は咲に微笑んで言った。

由暉子「私は甘い物が大好きですから、こちらの咲ちゃんのあんみつを頂きますね」

咲「え……?」

由暉子「甘いほうも美味しいです!」

あっさりと皿を取りかえ、由暉子は涼しい顔で激甘あんみつを食べる。
呆然と見とれる少女に気が付くと、ふんわりと笑って言った。

由暉子「はい、あなたもどうぞ。美味しいですよ」

笑顔であんみつの盛られたスプーンを差し出され、少女は覚悟を決めたらしい。

一年「はい、いただきます……。………!!あま―――――!!すみません、すぐに取りかえてきます!」

そう言って厨房に引き返そうとする少女を、由暉子がやんわり引き止める。

由暉子「食べ物を粗末にしてはいけませんよ。これもちゃんと食べられますから」

一年「……はい」

由暉子「じゃあ、残りも食べましょうね?」

一年「……はい!」

そんな二人のやりとりは、悪戯好きな子犬と、その子犬にしつけをする飼い主の様子を思わせた。


――――――――――

由暉子「さて、これからどうしましょう?」

店を出て、由暉子の言葉に答えようとした瞬間。

―――――ガシャァァァンッ!!!

遠くの方から何かが割れるような音と共に、人々のどよめく声が聞こえてきた。
何かのアトラクションかと思ったが、間もなくどよめきは無秩序な叫びへと変わった。

由暉子「何でしょう、いったい……?」

咲「さあ……」

途切れ途切れに聞こえてくるあれは――――悲鳴だろうか。

由暉子「確かめに行きましょう!」

騒ぎの元に向かって由暉子は走り出した。
咲もその後を追うように駆け出した。




咲「……!」

駆けつけたその場に広がるあまりに異様な光景に、咲と由暉子は思わず言葉を失う。
幾人もの生徒たちが気を失い、力なく倒れ伏している。
割れた窓ガラスの破片や千切れた校内の飾りつけが辺り一面に散らばり、情景の異様さに拍車をかけている。

何に驚いたのか、放心状態でうずくまる生徒。意識を失ったままうつ伏せに倒れている生徒。
その場に無傷な姿で立っているのは、咲たちのように騒ぎに気づいて駆けつけた者だけだった。

いったいこの場で何が起きたというのだろうか。

生徒A「なんなのこれ!何があったっていうの!?」

生徒B「ちょっと、大丈夫……?」

生徒C「誰か先生呼んできて!」

由暉子「……大丈夫ですか?」

我に返った由暉子が、すぐそばにしゃがみ込んだ生徒に駆け寄った。
咲も由暉子に続こうとして―――――足を止めた。

咲「……!」

眼前の光景に視線が釘付けられる。
地面に倒れ、苦痛にうめく人々の向こう――――

?「………」

長い剣を手にした、銀髪の少女が佇んでいる。

傷つき倒れ伏した生徒たち。散らされた飾りつけ、壊れた看板。
無傷で立つもののないその光景の中、ひとり静かな面持ちで佇む少女。

彼女がこれをやったのだろうか。
感情の読めない表情から、少女の目的や本心を伺うことは出来ない。
少女の持つ凶器を見とがめ、騒ぎ出す者はいない。
他の者の視覚に、少女の姿は全く認識されないらしい。

由暉子「咲ちゃん、どうかしたんですか?……あの、あなたは?」

銀髪の少女をはっきり見据えながら、由暉子が驚きの声を上げた。
この少女の姿が、咲と同様に由暉子には見えているのだ。

咲「……!」

少女が剣を払い、咲へと向かってきた。
由暉子だけでも守らねばという思いに動かされる。
少女から庇うため、咲は由暉子の体を突き飛ばした。

由暉子「咲ちゃん……!」

繰り出された一撃は、迅速の勢いで咲の頬をかすめ、背後へと狙いをそらした。

咲「――――!?」

少女が攻撃を外したのかと考えた咲の背後で、耳を聾する異様な叫びが上がる。

生徒A「きゃっ!」

生徒B「うわあっ!」

叫び声が上がると同時に、咲の周りに立っていた者が、背後から突き飛ばされるように転がった。
少女の剣は、咲の背後にいた「何か」を狙い、繰り出されたのだろう。
顔のすぐ横を真っすぐにのびた、白く輝きを返す刀身を視線で辿り、咲は素早く背後を伺う。

咲「……!」

何か異様な存在を思わせる影が素早く身を翻すのが、視界の隅に一瞬だけ映る。
目を凝らす間もなく、影は木々の葉陰に消えた。
少女は無言のまま剣を静かに退いた。

咲「あなたは、私を助けてくれた……?」

?「……」

少女は咲の質問に答えないまま、目をそらす。
しかし突然弾かれたように顔を上げ、手にした剣を構えて叫んだ。

?「避けて!」

咲「え……?」

由暉子「咲ちゃん、逃げてください!」

凍り付いたように立ちすくむ咲の身体に、由暉子が全力でぶつかった。
突き飛ばされ地面に転がった咲の上に、わずかに遅れて由暉子の体が倒れ込んでくる。

?「……っ」

黒い影が物凄い勢いで倒れ込む咲の傍をかすめ過ぎるのが見えた。
少女の剣が影を貫き、ふたたび絶叫が間近で沸き起こる。

咲「ユキちゃん……っ」

倒れた由暉子の身体を起こそうと、咲の手が左腕に触れた。

由暉子「つぅ……」

咲「!!」

由暉子の腕を掴んだ咲の手のひらに、鮮やかな血の色がにじんでいる。
咲をかばった由暉子の腕を、通りすがりざま黒い影が、その身に備え持つ凶器で傷つけたのだ。

?「――――!」

剣を納めかけた少女が、機敏な動きで再び剣を構える。
そのまま咲たちに背を向け、あっという間に木立の向こうへと姿を消した。


教師「怪我人が出たというのはここか?」

騒ぎを聞きつけた教師たちが慌ただしく駆けつけてくる。
異様な光景のなか、ただ一人無傷な咲は、呆然とその場に立ち尽くした。

学園祭は結局、そのまま中止となった。
駆けつけた教師たちの手配により、咲以外の怪我人は全員病院に運ばれた。
言葉を交わす間もなく、由暉子も病院に連れて行かれた。




咲が家に着くと、照はまだ帰宅していなかった。
夕食を作って食べ、後片付けも済ませると、他にすることも無くなってしまった。
姉の帰りをしばらく待って、読みかけの本のページをめくってみたが何ひとつ頭に入ってこない。


入浴も済ませて自室に戻ると、咲は自分がひどく疲れていることに気が付いた。
ベッドに倒れるように滑り込み、天井を見上げる。

学園祭での異様な出来事が脳裏に蘇り、咲は落ち着かない気持ちで寝がえりをうつ。
そのままかたく瞼を閉じた。

夢も見たくないという咲の願い通り、
その日はひとつも夢を見なかった。


――――――――――

本来なら学園祭の2日目で大いに盛り上がり賑わうはずだった校内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
すれ違う生徒は皆、一様に不安げな、落ち着かない表情をしている。

生徒A「……で、さあ。宮永さんの周りだけ……」

生徒B「でしょー。あれってさあ……」

生徒C「何で宮永さんだけ無事だったんだろうね?」

咲が教室の扉に手をかけたとき、中から咲のことを語る切れ切れの会話が聞こえてきた。
クラスメイトたちが咲を不審に感じているのが、その口ぶりからありありと分かった。

『何人も怪我人が出た現場で、咲ひとりが無事だった』

そんな風に、昨日の出来事はクラスの皆の間に知れ渡っているらしい。

生徒A「あれって、もしかして宮永さんがやったのかも?」

生徒B「ええー、まさか!でも……」

咲「………」

教室の扉を開けると、煩いぐらいの声で話していた生徒たちが、咲の姿を認めてぴたりと会話を止める。
つい先ほどまでざわめきに包まれていた室内は、たちまち奇妙な緊張した静けさに支配された。
席につくまでの間、痛いような疑惑に満ちたクラスメイトの視線が背に刺さる。
遠まきに咲をうかがいながら、ひそひそと囁き合う姿が教室内のあちこちに見られる。

担任「こらこら、皆席につきなさい!」

チャイムの音と共に、担任教師が現れた。
生徒たちを席に着かせると、学園祭を中止に追い込んだ昨日の騒ぎについて、担任は説明を始めた。

担任の話によると、騒ぎは『突風が吹いたことによる事故』ということで、ひとまず収拾をつけたようだ。
しかしその説明に、生徒たちの誰も納得する様子はない。
皆が皆、担任の説明の間にも、ちらちらと咲の様子をうかがっている。

あの時、あの場所で何が起きたのか。
本当のところを知るのは、この学園に咲ただ一人なのだ。

咲を庇って怪我をした由暉子の姿を探して、咲は教室内を見回した。
しかし由暉子の姿はどこにも見当たらない。
どうやら学校を休んだようだ。昨日の怪我がそんなに酷かったのだろうか。


『月曜から通常の授業に戻る』との連絡事項を伝えると、その日のホームルームは全て終了となった。

担任「今日はいつまでも校内に残ったり、寄り道しないこと。このまま真っすぐ家に帰りなさい。いいわね」

最後に強い語調で告げると、担任は教室を出て行った。
帰り支度を始める咲に、覚えのある声が呼びかけた。

穏乃「咲、ユキが怪我したのは知ってるよな」

咲「うん……」

穏乃「良かったらユキの見舞いに行ってやってくれないかな?咲が行けば、きっとユキは喜ぶ」

咲「……分かった。ユキちゃんのお見舞いに行くよ」

穏乃「それじゃあ、私がユキの家まで案内するよ。行こう、咲」

穏乃に案内され、由暉子の家の前までたどり着いた。
だが咲は呼び鈴を押す決心がなかなかつかない。
どうしようかと迷っていると、穏乃が横から手を伸ばし、呼び鈴を押した。

穏乃「こんにちは、おばさん。ユキの見舞いに来ました。ユキは大丈夫ですか?」

咲の代わりに家の者と対応すると、穏乃は戸惑う咲を振り返った。

穏乃「ユキ、これから出てくるって。じゃあ私はこれで帰るよ。二人だけの方が咲も素直に話しやすいだろう?」

咲「高鴨さん……ありがとう」

穏乃は咲に手を挙げ、立ち去った。
入れ違いに、由暉子の家の扉が開いた。

由暉子「咲ちゃん……!いったいどうしたんですか?」

咲「怪我の具合、どうかなと思って……」

由暉子「もしかして、お見舞いに来てくれたんですか?ありがとうございます、嬉しいです」

由暉子「学校を休むほどの怪我じゃなかったんですけど、両親が心配したもので……」

咲「ユキちゃん……」

咲「……私に巻き込んで怪我までさせてごめんなさい。もうユキちゃんには近づかないから……」

由暉子「……咲ちゃん。もしかして自分のせいで私が怪我をしたと思ってるんですか?」

咲「………」

由暉子「それは違います。咲ちゃんのせいなんかじゃありません」

由暉子「咲ちゃんを庇ったのは、私がそうしたかったからです。だからあの時、咲ちゃんが怪我をせずに済んで良かったと思ってます」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「私は咲ちゃんのために何か出来たことが嬉しい。だから、こんな事で咲ちゃんが気に病む必要なんて無いんです」

由暉子「それに私、こう見えて体力には自信がありますから。この位の怪我なんて、へっちゃらです」

由暉子の健気な言葉と笑顔に、咲の胸は苦しくなる。

咲「……私はもう、昔の頃の私とは違う。今の私は、ユキちゃんが思ってるような人間じゃない……」

由暉子「……いいえ。咲ちゃんは変わっていません。昔と同じ、優しい心を持っています」

由暉子「だって、実験の授業の時も迷わず私を庇ってくれたじゃないですか。だから今度の怪我は、そのお返しみたいなものです」

咲を見上げ、由暉子は微笑んだ。

由暉子「咲ちゃん、良かったら明日一日、私と一緒に遊びに行きませんか……?」

咲「ユキちゃん……うん、分かったよ」

由暉子「本当ですか?嬉しいです」

咲が了承すると、由暉子は輝くような笑顔で待ち合わせの時間と場所を提案した。

由暉子「また咲ちゃんと一緒に出かけることが出来るなんで、夢のようでわくわくします」

咲「私も、楽しみにしてる」

由暉子「はい!それじゃあまた明日、お会いしましょう」

何度か振り返りながら確かめると、姿が見えなくなるまで由暉子は咲に手を振り続けていた。




家に帰り着き、自室に入って鞄を開けると、携帯に1件のメールが入っていた。

照『おかえり、咲。学校の様子はどうだった?今日も遅くなるから、私の帰りを待たずに休んでて』

咲「お姉ちゃん、今日も遅いんだ……」

一人きりの食事は寂しいが、姉は大学で忙しいし仕方がない。
咲は夕食と風呂を済ませ、早々に寝床についた。

灯りを消し、真っ暗な部屋の天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返す。
学園祭で起きた事件のこと、クラスメイトの視線、由暉子との約束――――

脳裏に浮かんでは消える記憶の断片にしばらく悩まされたが、
いつしか咲は深い眠りへと落ちていった。


――――――――――

日曜日の朝が訪れた。
今日は由暉子と会う約束をしている。
出かけるには少し早い時刻だったが、咲は起き出した。

リビングに行くと、てっきりまだ眠っていると思った姉はすでに起きていた。

照「咲、おはよう。休日なのにずいぶん早起きだね」

咲「おはよう、お姉ちゃん。今日は人と会う約束があるから……」

照「一緒に出かけるような友人ができたんだね、良かった。それじゃあ楽しんでおいで。あまり遅くならないようにね」

咲「うん、じゃあ行ってくるね」

朗らかに微笑む姉に見送られて、咲は家を出た。



早めに家を出たせいか、待ち合わせ場所に由暉子はまだ来ていない。
少し待っていると、由暉子が大きなバスケットを抱えて一心不乱に駆けてくる姿が見えた。

由暉子「咲ちゃん、お待たせしました!お弁当を作っていたら時間ぎりぎりになってしまって……すみません」

息を切らせた由暉子が、申し訳なさそうに頭を下げる。

咲「大丈夫、私も今来たところだから」

咲がそう言うと、ようやく由暉子もほっとしたように表情を落ち着けた。

咲が連れられ到着した場所は、市営の植物園だった。

由暉子「お天気で良かったですね。今日は絶好の植物園日和です」

どこまでも嬉しそうな由暉子と歩いていると、咲の心まで浮き立ってくるのが不思議だった。

由暉子「今日は咲ちゃんを存分に独り占め出来るんですよね。嬉しいです」

咲「独り占め……?」

由暉子「昔、咲ちゃんと穏乃ちゃんと一緒にいたあの頃、私と穏乃ちゃんでしょっちゅう咲ちゃんの取り合いをしていたんです」

由暉子「咲ちゃんは優しかったから、『三人で遊ぼう』って、すぐに取り合いは治まったんですけど……」

由暉子「本当は私、咲ちゃんと一日中、ふたりで遊んでみたかったんです」

咲「私と?高鴨さんとじゃなくて?」

由暉子「だって穏乃ちゃんと一緒だと、大抵遺跡発掘や探検ごっこになるんです。危ないことは止めようと言っても聞いてもらえなかったし」

咲「いつも元気な高鴨さんらしいね」

由暉子「穏乃ちゃんって、咲ちゃんと一緒だとまさに水を得た魚って感じで、本当に生き生きとしてました」

由暉子「でも私、そんな風に二人の世界がきらきらしてるほど、仲間はずれになったみたいで、ちょっと悔しかったんです」

由暉子「実はその頃、小学校で穏乃ちゃんの靴を私の靴箱に隠して帰ったことがあるんです」

咲「靴を?」

由暉子「ええ。私は勝利を確信して、そのまま咲ちゃんに会いに行ったんですけど……」

由暉子「穏乃ちゃんたら、いつもと変わらない時間に来てたんですよ。それも裸足で!」

咲「それは……高鴨さんらしいと言うか……」

由暉子「今思い出すと笑い話ですけど、あの頃はそれくらい穏乃ちゃんも私も、咲ちゃんと遊ぶことに夢中だったんです」

懐かしそうに目を細め、咲の覚えていない過去を語る由暉子の楽しげな表情に、咲の胸がまたつきんと痛んだ。

由暉子「そろそろランチの時間ですね。お昼を過ごすのに良い場所があるんです。行きましょう、咲ちゃん」

由暉子に導かれて着いた場所は、植物園の中でもかなり奥まった一角にある桜の木だった。
樹々が風通しの良い涼しげな木陰を作っている。
やわらかな下草は座り心地も良さそうだった。

由暉子「ここは花の咲く時期も素敵なんですが、それ以外の季節もとても心地が良いんです」

咲「うん、静かな時間を過ごせそうで良いね」

由暉子「咲ちゃんにも気に入ってもらえて嬉しいです」

由暉子は手際よくピクニックシートを敷き、持参した大きなバスケットを開けた。
種類も豊富で、見た目も美しく整えられたサンドイッチがバスケットいっぱいに詰められている。

由暉子「どうぞ、お好きなものを食べてくださいね」

咲「それじゃあ、いただきます」

勧められるまま、咲はきゅうりのサンドイッチをひとつ、手に取って食べてみた。
うすく塗られた粒マスタードとバターの風味が、薄切りきゅうりとよく合って、爽やかにまとまっている。
差し出されたアイスティーと共にとても美味しく感じられた。

咲「美味しい……」

咲は正直な感想を口にした。
すると何故か、由暉子は真っ赤になってうつむいた。

咲「ユキちゃん?」

やがて由暉子は意を決した様子で、バスケットの中からもうひとつ、ランチボックスを取り出した。

由暉子「じ、実は……そのサンドイッチ、私の従姉妹が手伝って、作ってくれたものなんです」

咲「え……?」

由暉子「私は、その、バスケットに詰めただけで……私が作ったのは、これです……」

そう言って由暉子が咲に見せたものは、何とも不格好な、ピザのように丸くて平たい物体だった。

由暉子「……実はこれ、そうは見えないかも知れませんが、ほうれん草と卵のキッシュなんです……」

由暉子「材料の分量と焼き時間は間違いないと思うんですが、こんなおかしな形に出来上がるとは思わなくて……」

咲「……それ、食べてもいいかな?」

由暉子「え?こ、こんな変な形のお料理、気持ち悪くないですか?」

驚いて目をしばたたかせる由暉子を気にせず、皿を受け取った咲はキッシュをナイフで切り分け、口に運んだ。
その味は豪快な外見からは予想もできない、ちゃんとしたものだった。
ほうれん草と卵がバターの風味とよく合っている。
ピザよりあっさりとしているが食べごたえがあり、何よりどこか暖かい気持ちになれる味だった。

咲「すごく美味しい。やっぱりユキちゃんは料理が上手だね。おかわり貰ってもいいかな?」

由暉子は目をそらして唇を噛みしめ、さらに赤くなった。

由暉子「咲ちゃんは、本当に……いちばん言って欲しいことを、さらりと言ってくれるんですから……」

由暉子「やっぱり私、咲ちゃんが大好きです……!」

咲「ユキちゃん……」


暖かな午後の木漏れ日を浴び、青空の下でとる食事は新鮮で楽しく、
ランチの時間はなごやかに過ぎた。

食事の後片付けを終え、気持ちの良い晴天の下を二人はふたたび歩き出した。
鳥の声が聞こえる、静かな場所だった。
休日とはいえ敷地が広いため、あまりすれ違う人もいない。

豊かな土と深い緑の薫りに包まれる小径を歩いていると、ここ数日の出来事を忘れてしまいそうになる。
楽しげに案内する由暉子について歩き、やがて二人は園内を一周していた。

ふと、由暉子の歩調がゆるくなっているのに咲は気づいた。

咲「ユキちゃん、大丈夫……?」

由暉子「平気です。お弁当を作るために徹夜したのは確かに後でこたえると思いますが……今は平気です」

平気だと告げる由暉子の言葉とは裏腹に、顔色がまた少し悪くなっている。

咲「ユキちゃん、顔色が……やっぱり疲れたんじゃ……」

由暉子「……これは疲れたのではなく、実は私の持病のようなものなんです」

咲「持病!?」

由暉子「といっても、そんなに大したものじゃありません。時々貧血を起こす程度です。お薬を飲めばすぐに治りますから」

由暉子「でも、そろそろ帰らないと咲ちゃんのご家族も心配されるかも知れませんね」

咲「そうだね、それじゃあゆっくり歩いて帰ろう」

由暉子「はい。今日はとても楽しかったです。良かったらまた一緒にピクニックに行きましょうね」

穏やかな時を過ごした植物園を後に、二人は歩き出した。


――――――――――

数日後。
放課後の訪れを知らせるチャイムが鳴り響く。
特に変わった出来事が起こることもなく、その日の授業は終了した。
いつものように誘ってくる由暉子の姿がなかったので、咲は教室を早々に退室した。

静かで人気のない通学路をひとり歩いていると、前方の通りの角から一台のバンが物凄い勢いで現れた。
白いバンはそのまま咲に向かって真っすぐに突っ込んできた。

咲「……!?」

避けた咲の真横をかすめ、甲高く地面をタイヤで鳴らしながらバンが停車する。
同時にドアが開き、数人の男たちが姿を現す。
そしてそのまま、男たちは逃げ道をふさぐように咲を取り囲んだ。

男「お前が宮永咲……だな」

男の一人が、手にした紙片と見比べながら、咲の名を口にした。

咲「あなた達は、誰ですか……?」

男「我々について来てもらう」

一人が、懐から取り出した拳銃を構えた。

咲「……!」

男「手荒な真似はしたくない。大人しく従ってもらおう」


1、諦めて従う
2、従う気はない

安価下

何と言われても、こんな怪しげな男の言葉に従う気はない。

咲「嫌です……!」

咲は強気な態度で、銃を突きつける男に宣言する。

男「……仕方ない。では力づくでも従ってもらう」

咲「……!」

知らぬ間に、音もなく背後に回っていた男の一人が咲の両手首を掴み、動きを抑える。
あらがう間もない素早さで、後ろ手にひとまとめにされた手首に手錠をかけられる。

咲「離して!う……っ」

叫ぼうとする口をふさがれ、引きずられるようにして停車中のバンに連れ込まれる。
両脇を屈強な男たちに固められ、念入りに目隠しまでされて、咲の抵抗は封じられてしまう。
完全に逃げ道を絶たれ、為すすべもなく捕らわれたまま、咲を乗せた車が発進する。

手首に食い込む冷たい金属の感触に、咲の心は重く沈んでいく。
不安に身を硬くして、車の振動に揺られながら、息をひそめて逃げるチャンスを待つことにした。


車はしばらくの間、咲を乗せたまま走り続け、やがて静かに停車した。
両腕を掴まれ、嫌悪に身を震わせる咲を車から降ろすと、目隠しをされたまま歩かされる。
目隠しを外されたのは、咲の背後でどことも知れぬ部屋の扉が固く閉ざされた後のことだった。

灯りの抑えられたその部屋は、見た目に高級な調度で整えられた豪奢な一室だった。
足元に敷き詰められた毛足の長い絨毯、オーク材の重厚な机、天井を飾るシャンデリア、棚に並んだクリスタルの置物。
いかにも高価なインテリアの数々は、この部屋の主の財力を感じさせた。

部屋の中には、咲の他に数人の男たちがいた。
そして部屋の中央には、豪奢なこの部屋に似合いな仕立ての良い服を身に着けた、主人然とした女性が立っていた。

男「ご所望の少女を連れて参りました」

?「へえ、この子が咲ちゃん、ね……」

女性は咲の姿を上から下までじっくりと、舐めるような目つきで観察した。
捕らえた獲物の価値を見定めようとする嫌な視線だった。

?「確かに、この子からは何か特別に感じるものがあるね。こうして傍にいるだけで、私の中の血が騒ぎ出すのが分かるよ」

?「初めまして、咲ちゃん。手荒な真似をしてごめんね。あなたの身体に傷ひとつ付けないよう命じてあったけど、大丈夫だった?」

咲「……あなたは?」

健夜「私はこの屋敷の主で、小鍛冶健夜っていうの。よろしくね」

健夜「さっそくだけど、あなたが真に私の求める者か、念のため確認させてもらうね」

愛想の良い笑みを浮かべ、健夜と名乗った女性は咲へと近づく。
思わず逃げをうとうとする咲の身体を隣に佇む男がつかみ、抵抗を封じる。
健夜の手が咲の制服にかかり、左肩の部分をびりりと破かれる。

咲「……!」

さらされた咲の左肩についた、小さな赤い三角形が三つ並んだ奇妙なアザ。
そのアザを見て、健夜の表情が見る見る喜色に染まる。

健夜「これだ、契印……。間違いない、この子は贄だ!ようやく手にいれたよ……!」

咲「ニエ……?」

初めて耳にする不吉な響きに、咲は思わず訊き返す。

健夜「あなたという存在を知ってから、私はあなたを手に入れるため苦心したよ」

健夜「あなたを見つけるのには然程手間はかからなかったけど、アレが……眷属がやっかいだったからね」

健夜「でも、これでようやく贄は私のもの……。お前たち、ここはもういいから下がっていて」

女性の命を受けた男たちは、咲を残して部屋を退去した。
部屋には咲と健夜の二人きりとなる。

健夜「あなたを得たいと望む者は多いけど、みな畏れのあまり中々手を出せないでいる」

健夜「でも私は違うよ。こうして長たちを出し抜いてやった!さあ、もうあなたは私のものだよ」

健夜「その身のすべてを私に捧げてよ。大人しくしていれば、うんと気持ちよくしてあげるから……」

なめずるような猫なで声で話しかけると、健夜は咲に向かって手を伸ばした。

喉元に向かってきた健夜の指先に、咲は思い切り噛みついた。

健夜「きゃ……!この、贄の分際で!」

憤怒の表情で、健夜は咲の頬を力いっぱい張り飛ばした。

咲「……うっ!」

身体を倒され、咲の上に馬乗りになって健夜は怒りの声を上げた。

健夜「この私に逆らったこと、後悔させてあげるから。思いっきり痛くしてあげる……!」

健夜の手が首にかかり、そのまま容赦なく締め上げる。
息苦しさに、締め付ける健夜の腕に爪を立てたが、そのわずかな抵抗さえ健夜を喜ばせるだけだった。

健夜「ほら、どうしたの?もう抵抗しないの?」

咲「う……っ」

咲の苦悶の表情を面白がるように、健夜が舌なめずりする。
窒息寸前まで締め上げられた力を突然ゆるめられ、咲の肺に空気がなだれ込む。
酸素を求めて咲が咳き込んだとき、扉の向こうで激しい物音が起きた。
喧騒はだんだんと大きくなっていく。

健夜「どうしたっていうの?騒がしい……」

楽しみを中断された苛立ちに舌うちすると、健夜は立ち上がって扉に近づいた。

男A「な、何だおまえは……!」

男B「ば、ば、化け物……ひいっ!」

拳銃の発射される乾いた響きが数回。
その後に続く、男たちのうめき声。

拳銃の音も、うめき声も、間もなくすべての音が途絶えた。

健夜「な……!ど、どういうこと!?何があったの!」

健夜はあわてた様子で扉を開け、廊下に飛び出した。
咲から廊下の様子は見えないが、息をのむ声が聞こえた。

健夜「あ、ああ……!」

何か重い物が倒れる鈍い物音が響き、それきり辺りは静まり返った。

咲「……何が、どうなって……?」

息苦しい無音の時間がしばらく続く。
いったい扉の向こうで何が起きたのか。

部屋を出て確認しようと、咲が身を起こしかけたとき。
ぱたぱたと廊下の向こうからあわただしい足音が近づいて来た。

由暉子「―――――咲ちゃんっ!」

咲「……ユキちゃん……?」

由暉子「大丈夫ですか、お怪我はないですか!?」

扉を勢いよく開けて現れたのは由暉子だった。

由暉子「無事でよかったです。これ、廊下に倒れていた方から何かの鍵を手に入れたんですけど……」

咲「あ、それはもしかして、この手錠の鍵かも……」

由暉子「分かりました、今外しますね」

どうして咲がこの屋敷にいると分かったのか、不思議に思って咲は訊ねてみる。

咲「ユキちゃんは、どうしてここへ……?」

由暉子「咲ちゃんがこの屋敷に連れ込まれたって書かれたメモが、私の靴箱に入れてあったんです」

由暉子「差出人も分かりませんし、穏乃ちゃんに相談しようと思ったんですけど、何故か穏乃ちゃんと連絡が取れなくて……」

由暉子「どうしても気になったので来てみたら、門が開けっ放しで、人が沢山倒れてました」

咲「……ユキちゃんの前に誰かが来て、何かあったのかな……」


ふたりは廊下に出て、床に倒れている健夜やその取り巻きとおぼしき男たちを確認してみた。
死んではいない。みな気絶させられているようだ。
こんなことが、あんな短時間に出来るような人間とは、いったい何者なのだろうか―――――?

考えても答えは出ない。
とりあえず、咲たちはこの場を離れることにした。

咲が連れ込まれた小鍛冶邸はりつべ市の東側の山腹、
隣の県にほど近い、街から離れた郊外にあったらしい。

咲「ユキちゃんは、ここまでどうやって……?」

由暉子「タクシーを飛ばしてきました。少し歩いて県道に出れば、ここからもまた拾えますよ」

咲「……ありがとう、ユキちゃん。こんな遠くまで助けに来てくれて……」

由暉子「いいえ、お礼なんて言わないでください。私、大したことは何もしてませんし」

咲「本当かどうかも分からないメモひとつで、危険を冒してこんな所まで来てくれた。それだけで充分だよ、本当にありがとう」

咲の言葉に、由暉子の頬が桜色に染まる。

由暉子「……か、帰りましょう。咲ちゃん」



咲と由暉子は屋敷の近くでタクシーを拾い、市内まで無事に帰り着いた。
咲のマンションの前でタクシーを降りた二人は、そこで別れることになった。

咲「ユキちゃんは一人で大丈夫?」

由暉子「平気です。皆さん気を失ってましたから、顔を見られたリしてませんし。それじゃあ咲ちゃん、また明日」

咲に元気よく手を振ると、夕暮れに染まる道を由暉子はひとり、帰っていった。

鍵を開き、ただいまと呟きながら自宅のドアをくぐる。
今はまだ夕暮れ刻。この時間では照はまだ大学から帰らない。

破られた制服を脱ぎ、替えの制服を引き出しから取り出してハンガーに吊るすと、
疲れ切った身体をベッドに横たえ、咲はそのまま目を閉じた。

咲「………」

何故、自分はあの富豪に攫われたのだろう。
贄とは、いったい何のことなのか。

頭の中をぐるぐると駆け巡る疑問。
やがて考えることに疲れを見出した咲は、そのまま朝まで眠り続けた。

今日はここまでです。
安価にご協力ありがとうございました。

翌日。
由暉子と下校しようと二人で教室を出かかったところで、後ろから声がかかった。

穏乃「なんだ、今日も二人で帰るのか?学校帰りに三人で本屋でも寄らないかって、誘うつもりだったんだけど」

由暉子「穏乃ちゃん」

穏乃「近頃特に仲が良いんだな、咲とユキ。まあお邪魔虫になるのも気まずいし、二人を誘うのは辞めておくか」

咲「高鴨さん、ごめんなさい……」

穏乃「いいって。二人が仲良くしてるの見るの、私も凄く嬉しいんだからさ。それじゃあな!」

穏乃は咲と由暉子に元気よく手を振ると、軽い足取りで教室を出て行った。

由暉子「それじゃあ、私たちも帰りましょうか」

咲「うん」




家に着くと、照はまだ帰っていなかった。
咲はいつものように夕食と入浴を手早く済ませ、宿題と予習をしてからベッドに潜り込んだ。

今日は何事もなく平和な一日が過ぎた。
明日もこのまま平穏な生活が続いて欲しいと祈りながら、咲は眠りについた。

数日後。この日も静かに一日が過ぎて行った。
由暉子が園芸部の手伝いで遅くなるため、下校の最終時間に待ち合わせをして帰ることになった。
それまで本を読んで時間をつぶそうと考え、咲は図書館の建物に向かった。

部活動が長引いてしまったのか、由暉子が待ち合わせの校門前に姿を現したのは、
最終下校時刻を知らせるチャイムの後だった。

由暉子「ごめんなさい、お待たせしてしまって」

咲「図書館で本を借りてきたから大丈夫だよ」

由暉子「そうですか、良かった」



夕暮れの街並を、いつものように他愛ない会話を楽しみながら、ふたりは歩く。

今日も、何も起こらなかった。
この不自然なほどに穏やかな日々に、咲はほんの少しだけ不安を覚えた。

由暉子「どうしました?咲ちゃん」

咲「……ううん、何でもない」

いつもより学校を出るのが遅かったせいか、辺りはすでに暗くなり始めている。
天空には白く月が浮かび上がる。
明日は満月。真白に輝く月の輪郭は、ほぼ真円に近い。
恐ろしいほどに冴え冴えと美しい月を戴く空を見上げ、咲は思わず身を震わせる。

由暉子「咲ちゃん、今日はとても月が綺麗なので、良かったら少し公園に寄ってお月見しませんか?」

思ったより遅くなったので、姉が心配するかと気になったが、少し寄り道するくらいなら構わないだろう。
咲は由暉子の申し出に首を縦に振ると、二人で公園へと足を向けた。

由暉子「私、普段は朝の散歩が主ですけど、この季節だけは別です」

咲「うん。空気が澄んでて、月がとても綺麗に見えるね」

由暉子「ええ。つい外で眺めたくなります」

嬉しそうにうなずく由暉子と並んで遊歩道を歩きながら、二人は月を眺めた。
辺りに人影はなく、近くにある噴水の音だけがかすかに聞こえてくる。
咲の隣で、由暉子が魅入られたように月を見上げていた。

由暉子「咲ちゃん。穏乃ちゃんが言っていた『約束』のこと、思い出しましたか……?」

咲「……ううん」

由暉子「じゃあ、穏乃ちゃんとだけ約束してずるい!って泣いた私のことも覚えてないですか?」

咲「それは……、何となく覚えてる気がする……」

どういうわけか、由暉子に関する記憶だけは、咲の心の奥に断片的ながら残されている。

咲の中の古い記憶がよみがえる。

咲『泣かないで、ユキちゃん……』

咲『―――――じゃあ、ユキちゃんとも何か約束しよう』

泣きじゃくる幼き日の由暉子に、慰めるように咲はそう告げたのだった。


咲「……ユキちゃんとも、何か約束しようって」

由暉子「覚えていてくれたんですか!嬉しいです……!」

由暉子「あの時、私とっさに何も思いつかなくて、『いつか、私のお願をひとつだけ聞いて』って、そう言ったんです」

咲「そうだったね……」

由暉子「……咲ちゃんは、いつでも優しかった。いつでも周りの人たちの気持ちに敏感で」

由暉子「寂しいとき、必ず優しい言葉をかけてくれる。私はそんな咲ちゃんが大好きでした」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「私と交わした約束のこと、覚えていてくれたのなら……お願いをしても良いですか?」


1、うなずく
2、うなずかない

安価下

咲「うん……いいよ」

由暉子「本当ですか?嬉しいです。でも、私のお願を聞いてくれるのは今日でなくて良いんです」

咲「え……?」

由暉子「明日、言いますね」

咲「明日?」

由暉子「……明日は満月ですね。でも今日の月も本当に綺麗です。何だが、魂を奪われそうなくらい……」

不思議に謎めいた笑みを浮かべ、魅入られたように月を見上げる由暉子の姿に、
次第に咲の胸がざわつき始める。
なんだろう、この感じは。

由暉子「咲ちゃんは、月を見て何を連想しますか?」

咲「月を見て……?」

由暉子に問われ、ふと脳裏に浮かんだ神話を、咲は語った。

咲「中国の神話かな。不老不死の霊薬を夫から奪って、月の宮殿に昇った嫦娥の伝説を思い出した」

由暉子「それは、どんな伝説なんですか?」

咲「中国の夏の時代に、罪を負って天を追われたある弓の達人と、その妻の嫦娥という女の人がいたの」

咲「地上で人間として生き、いつか自分も死ぬことを嫌がった嫦娥は、不老不死の霊薬を貰いに西王母の許へ行くよう夫を説き伏せた」

由暉子「それで……霊薬は貰えたんですか?」

咲「うん。でもその霊薬は、二人が永遠に生きるには足りたけど、完全に不老不死の身になるには一人分しか無かったの」

由暉子「……ふたりは、どうしたんです?」

咲「不老不死を独り占めしようと考えた嫦娥が、霊薬を盗み出して飲み干してしまったの」

咲「でも、夫を捨てて一人月へ昇り始めた嫦娥は罰を受けて、人でないものに姿を変えられたそうだよ」

由暉子「……姿を……」

咲が語り終えると、由暉子は月から視線を外し、ゆっくり振り返って静かに微笑んだ。

咲「ユキちゃんは、月を見て何を連想するの?」

由暉子「私ですか?私は、そうですね……獣」

咲「獣……?」

由暉子「昔から、狼男は月夜に変身するって言いますよね。それから、月夜には犯罪や事件の数が増えるとも」

由暉子「それと同じで、月の満ち欠けは人間の抑圧された部分を……獣性を、刺激するのだそうです」

由暉子「そして、それを抑えられない人間が過ちを犯す……」

咲「ユキちゃんも、月を見てそんな気持ちになるの……?」

由暉子「………」

咲の視線を避けるように目を伏せ、由暉子は背を向けて表情を隠した。

由暉子「……ええ。その気持ち……分かります。だって私は……」

咲「ユキちゃん……?」

様子のおかしい由暉子に、どうしたのかと咲が声をかけようとしたとき。
苦しそうな表情で、由暉子がこちらを向き直った。
その瞬間、咲はみぞおちに鈍い衝撃を感じた。

咲「……っ!」

由暉子「……ごめんなさい、咲ちゃん」

遠のく意識のなか、哀しそうに見つめてくる由暉子の表情を最後に、
咲の意識は途切れていった―――――

眠くなってきたので今日はここまでです
安価にご協力ありがとうございました


――――――――――

強く、弱く。遠く、近く。
寄せては返すさざ波のようなリズムで繰り返される、不可思議な響きの詠唱が耳をくすぐる。

咲「……ん……」

重いまぶたを開いて咲が目覚めると、辺りに人の気配はなかった。
動こうとして、自分が囚われの身になっていることに気づいた。
咲の手首は高く掲げられた状態で、黒い石柱に固く紐で縛りつけられている。

自由になるのは視線くらいなものだったが、それも縛られた腕が邪魔をして動かせる範囲は限られていた。
紐を解こうと身をよじったが、きつく縛られているため解くことが出来ない。
手首を紐が擦る動きに痛みを感じてしばし息を詰める。
かすかな体のうずきと喉の渇きを覚えて、咲は熱をはらんだ吐息をついた。

「……目が覚めた?咲……」

咲「……!?」

驚いて視線を上げると、いつの間にその場に現れた人物がこちらを見ていた。

咲「……お姉ちゃん……?」

静かな眼差しで、姉である照が咲をじっと見つめてくる。

咲「何で……どうして私、縛られてるの……?」

照「……それは、お前が贄だから」

咲「贄……?あの時の富豪と同じこと……それはいったい何のことなの?」

照「咲、お前はこの儀式の日に捧げられるため命を与えられ、生かされてきた存在」

咲「お姉ちゃん……?何を言って……」

照「―――――ご覧、咲。あの姿を」

照の指先の示すままに顔を上げ、目を凝らすと、光の紗の向こうに何かが見えた。

咲「あ……」

銀色の長い髪、美しく整った顔立ちの女性。……いや、女性に見える両性具有の存在。
一見人と変わらぬ姿かたちだが、その背に生えた翼が、この存在が人ではありえないことを物語っていた。

咲「……あれは……天使……?」

照「いいえ―――――翼持つ邪神。一族の崇める存在である、始祖の姿」

眼前に輝きそびえ立つ、青白く澄んだ結晶のオブジェを見上げ、咲は呆然とつぶやく。

咲「……始祖……?」

琥珀の中に封じ込められた蝶のように、
澄んだ氷塊のなか刻を止め、凍りついて動かぬその姿は命あるようには見えない。

照「今よりはるか昔、あるひとりの女が始祖の精を受け、その血を継いだ」

照「始祖の血をもっとも濃く継ぐ者が、一族として永い時代に渡り、この血を薄めることなく守り続けてきた」

照「その一族の長が、宮永家の当主である――――この私」

咲「え……」

照「一族の悲願は、始祖を現代に復活させること。でもこの地に堕とされたあの存在は力のほとんどを封じられ、永い時を眠りに就いている」

照「この檻を脱するためには膨大な力が必要となる。……咲、お前はまさにその目的のために造られた、特別な血と魂を持つ存在」

咲「……造られた……?」

照「最新の科学技術、遺伝子操作技術を駆使して、人工的に贄を造ることを試みた」

照「咲、お前はその実験で唯一の成功例。数々の失敗の末に生まれた、始祖復活に捧げる特別な贄」

咲「……嘘。嘘、だよね……?」

照「この日のため、私はお前を大切に見守ってきた」

咲「……!」

自分はこの異形のものに捧げられるため、造られ、生かされていたというのか。
この日まで、何ひとつ知らされることなく―――――

咲「嘘……お姉……ちゃ……」

血の気を失った唇が震えて、うまく言葉を紡げない。

照「どうしたの、咲?震えてる。怖いの?」

咲「……私を、殺すの?」

照「怖がる必要はない。咲を殺したりはしない、あの存在は生きた咲を求めてる。得た者に力を与える贄として、あの存在は咲を生かし続ける」

照「咲の血と魂が一族と始祖の心を捕らえ続ける限り、おまえは永遠に私たちのもの……」

咲「………」

姉の言葉のひとつひとつが呪縛となって心を縛り、あらがおうとする意思を奪っていく。
顔色を失った咲の表情を見て、照が笑みを深める。

その時、照の背後から少女の声が響いた。

「……照さま。代行者が地上で発見されました。現在、守護者による足止めを受けています」

照「そう。報告ご苦労」

声の主にねぎらいの言葉をかけた照は、ふと思いついたように目を細め、少女を呼んだ。

照「お前にはよく働いてもらったね。後は私と共に、ここで儀式を見届けるといい。来なさい」

「はい。ありがとうございます、照さま」

照「おいで――――由暉子」

咲「え……?」

照の言葉に、咲の目が見開かれる。
姉の背後からゆっくりとその場に姿を現したのは、由暉子だった。

由暉子「咲ちゃん……」

咲「ユキちゃん……?どうして……」

咲の視線から逃れるように、由暉子は表情を消した顔を黙ってうつむかせた。
由暉子のその態度に、咲は呆然と首を振った。

照「真屋由暉子。彼女は、私たち一族の血に連なる者」

咲「え……」

照「私たちが用意した、咲の監視役。……それが由暉子だよ」

咲「………嘘」

照「由暉子、お前の主が誰なのか、咲に教えてやるといい」

由暉子「……はい、照さま。私は長のしもべとして一族に生まれた者。長のご命令に従います」

照「処分されそうなところを、私が永らえさせることを許した失敗作。それが由暉子」

咲「失敗作……?」

照「由暉子は月に一度、一族の血を採取しなければならない半端な身体の持ち主。一族の許を離れては生きることも出来ない」

もはや嘘だとつぶやく力さえ失われ、咲はただ呆然と、
静かに姉の隣にたたずむ由暉子の姿を見つめた。

由暉子「私はずっと『失敗作』『なりそこない』って、一族の人たちに言われ続けてきました」

由暉子「一族の血を採取しなければ生きられないのに、贄としてはまるで役に立たない、誰にも力を与えることが出来ない」

由暉子「……照さまだけでした、私のことを生かしておいて良いと言ってくださったのは。あの時の私には、照さまが全てでした」

由暉子「照さまが助けて下さらなければ、私の命はとうに尽きています。だから、私は……」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「……ごめんなさい。私は、裏切り者です」

姉だけでなく、由暉子まで―――――
では自分は生まれた時からずっと、それと知らぬ間に自由を奪われ、監視され、生きてきたのか。

咲「……じゃあ、ユキちゃんたちと昔一緒に過ごしたことも……」

由暉子「ええ。私は咲ちゃんの遊び相手と見張りを兼ね、先代の長に選ばれました」

由暉子「もっともあの時は、一族に関わりのない穏乃ちゃんまであの場所について来てしまったことは誤算でしたけど」

由暉子「幼い私が、咲ちゃんの見張り役という大役を仰せつかった理由は……」

由暉子「私の身体は贄としては失敗作でしたけど、一族としての能力が飛びぬけていたからです」

咲「能力……?」

由暉子「人並み外れた筋力と反射神経、反応速度、持久力。それらの能力を駆使した戦闘能力」

由暉子「昨夜お話した、狼男のようなものです。身体こそ変化しませんが、普段は薬でそれを抑えています」

由暉子「私はこの力で、咲ちゃんをお守りしていました」

咲「ユキちゃんが、私を……?」

由暉子「………」

由暉子「私は獣です。清らかななものを汚したい、滅茶苦茶にしたい。咲ちゃんを見ていると、ひどく残酷なことを考える事もあります」

由暉子「でも、あなたを誰より大切に守りたいとも思います。……どちらも、本当の私です」

咲「……ユキちゃん……」

背反する複雑な由暉子の想いの一端でも読み取れればと、咲は由暉子の顔をまっすぐ見つめた。
由暉子は咲のひたむきな視線を、逃げることなく黙って受け止めた。

由暉子「……咲ちゃんは、生まれながらにその役割を定められた贄。その理不尽さを、私も頭では分かるんです。でも……」

由暉子「一族の人間がどうしようもなく飢える気持ちも分かります。この飢えは、私たち一族の呪いですから」

由暉子「人を好きになる気持ちが自然なら、人を貪りたいと渇望する欲も、自然なんです」

由暉子「私は誰にも力を与えることの出来ない身体なのに、浅ましい飢えだけは定期的にやってくる……!」

由暉子「せめて私が贄としての成功作であったなら、一族の飢えを満たすことも出来るのに」

血を吐くような、由暉子の独白だった。
優しく穏やかな少女の仮面の下に、由暉子はこれほどの滾る思いを秘めていたのか。

哀しみと、怒り。愛と、憎しみ。
由暉子の瞳には独白の内容するままに、二つの相反する心がせめぎ合って存在し、揺らめいている。
咲は由暉子の昏い炎が揺らめくような瞳から目が離せなくなった。
恐ろしく、そして美しい瞳だった。

由暉子「……咲ちゃん。昨夜の『約束』のこと……覚えてますよね?」

由暉子「今、私のお願いをあなたに伝えます」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「咲ちゃん、贄になってください」

咲「……!」

由暉子「咲ちゃんは私の欲しかったもの、みんな持ってる。私はずっと咲ちゃんのようになりたかった」

由暉子「だから、咲ちゃん。どうか私の代わりに贄になってください。それで、私は救われる――――」

由暉子「私が出来なかったこと、咲ちゃんなら出来るから。それが私を助けて下さった照さまに返せる唯一の恩返しだから……!」

咲「………」


1、分かった。それがあなたの願いなら
2、それを本当に望んでるの?

安価下

咲「……分かった。それがユキちゃんの願いなら」

由暉子「……!」

咲「それで、ユキちゃんが満足するのなら……」

由暉子「……咲ちゃんは優しいですね。やっぱり、昔のままです……」

咲「……ユキちゃん……」



照「―――――もうすぐ始祖が復活する。共にその瞬間を見届けよう。咲、由暉子」

由暉子「……はい、照さま……」

咲「………」


――――――――――

あれから何年が過ぎたでしょうか―――――

あの日、始祖が復活されたことで世界は一変し、
私、真屋由暉子は長のもとに身を寄せ、メイドとしてお仕えしている。

咲ちゃんは……あの日からずっと、贄としての務めを果たすことを余儀なくされている。
私の仕事は、そんな咲ちゃんの身の回りのお世話をすること。

出口のない牢に囚われ、甘い責め苦に夜毎に泣き叫ぶ、咲ちゃんの―――――



……時折、何かのささやきが夜闇を渡って私の心に忍び込み、静かに問いかける。
おまえはこの結末を心から望んだのか―――――?



助けを求めるように、涙のしずくの浮かぶ眼差しを向けてくる咲ちゃんを見ていると、
胸の奥を締め付けられるような感覚に襲われる。

私は本当に、こんな結末を望んでいたのだろうか……?

そうではない、と言いたいのに。
私の中の獣は「そうだ」と今を肯定する。

咲ちゃんの流した涙の量だけ、私の心は確かに満たされていく。
私は獣なのだ。間違いなく。

咲ちゃんは、あの頃と変わらない姿のまま。
彼女は年を取らない。そういう風に、始祖に作り変えられた。
始祖が選んで交わった特別な贄だから、日々身体を貪られ、生かされ続ける。


彼女の苦しみは、終わりなく続く―――――永遠に。
かわいそうな咲ちゃん。


でも、私は……
こんな歪んだ形でも、やっぱり咲ちゃんのことが大好きで。
今の状態に落とされても私を憎もうとしない、決して汚れない彼女の魂を、
どうしようもなく愛しているのだ。


……さあ、今日も咲ちゃんを優しく慰めに行こう―――――


由暉子 Another End

>>627から

咲「……私はユキちゃんが本当に望むことなら、それを叶えたい」

咲「でも、ユキちゃんは本当にそれを望んでいるの……?」

由暉子「……!」

咲「私には、ユキちゃんがずっと泣いているように見える。何かに縛られて泣いているように」

咲「ユキちゃんの望みを叶えたとしても、ユキちゃんはやっぱりその呪縛から逃れられないと思う」

咲「私は……ユキちゃんが本当に笑ってる顔が見たい。ユキちゃんの本当の望みが知りたい」

由暉子「……。咲ちゃんには、見抜かれてしまうんですね」

由暉子「昔からそうでした。私の感情……いつも隠そうとしていた私の気持ちを、咲ちゃんだけが察してくれる……」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「……私、本当はこの暗い場所から出たい……」

由暉子「咲ちゃんに惹かれたのは、私にはない光があるから。いつでも、咲ちゃんと一緒にいるその場所が天国みたいに思えて」

由暉子「すごく暖かくて、居心地が良かった……」

咲「………」

由暉子「私、自分が恥ずかしい。咲ちゃんの優しさにつけ込むようなことをして」

由暉子「……やっぱり駄目です。咲ちゃんはこんな暗い場所に囚われて、一族の餌食になんてなっては駄目」

照「由暉子、おまえは……」

由暉子「ごめんなさい、照さま。私、やっぱり咲ちゃんにはお日様の下で幸せになってほしい」

由暉子「こんな暗い場所で苦しむのは、私たち一族だけで充分です」

照「……私を裏切る、というんだね」

由暉子「そこを退いてください。照さま。退いて下さらなければ、たとえあなたが相手でも私は戦います……!」

照「由暉子、おまえはずっと私に忠実で従順な僕だった。でも、もはやそうでないと言うのなら、おまえを処分するしかない」

ゆっくりと、照が由暉子に近づく。
由暉子への害意をあらわす言葉と、感情を宿さない照の冷ややかな瞳。
今まで姉に対して覚えたことのない、身も凍るような危険を咲は感じた。
照の右腕が由暉子の制服の襟元をつかみ、強引にひきずり上げる。

由暉子「う……ぐ……」

喉元を締め上げられ、由暉子が苦しげな息を吐く。
下ろされていた照の左腕が持ち上がる。
手のひらが由暉子の首を捕らえた。

咲「お姉ちゃん、やめて……!」

照「………」

血の気を失い、冷たくなった指先を咲は必死の思いで握り締め、力任せに動かす。
由暉子を救う力が欲しい。
咲はこれまで望んだことがないほど強く、力を望んだ。

自分に力があれば。この縛めが今すぐ解けたなら。
手を伸ばしたそこにいる由暉子を救うことが出来るのに。

何でもいい、後でどうなっても構わないから、由暉子を救うための力が欲しい。
腕が傷つくことも厭わず、咲は力の限りに手首を縛める紐を引きちぎろうともがく。

咲は全身全霊を込め、願った。
力を―――――

……その時、咲の中で何かが弾けた。

咲「……!」

放出する場を持たず、咲の中で渦巻いていた力のうねりが強い意志を得てひとつの方向性を見出した。
ほとばしった光が瞬時に拡がり、その場を白く灼く。

閃光は咲を戒めていた紐を一瞬にして灼き切り、咲を囚われの身から解放した。
足元もおぼつかない、まばゆい光の中で、由暉子がいると思われる方向に足を踏み出す。

咲「……くっ」

足に力が入らない。
数歩よろめき歩いて、咲はそのまま転倒しそうになる。
倒れ込みそうになった咲の身体を、誰かの腕が受け止めた。

拡散した光は少しずつ消えてゆく。
ゆっくりと視界が戻る。

由暉子「……咲ちゃん」

かすれた由暉子の声が、咲の横から聞こえた。

咲「ユキちゃん……無事で良かった……」

由暉子「今の光は、もしかして咲ちゃんが……?」

咲「……分からないけど、多分」

照「それはお前の力だよ。咲」

由暉子「……!」

照「肩の刻印で、精神の未発達な幼いうちに封じたはずの咲の力。でも、咲の意思が封じのまじないを上回ったようだね」

照「簡単には解けないと思っていたのに……お前の心は幾重にかけた封じの鎖を打ち破るほど強くなっていたんだね」

咲「私が、強く……?」

照「………」

照「咲、お前はそうして由暉子と生きることを選ぶの?私の手を離れて……」

咲「お姉ちゃん……」

照「お前も由暉子も、私の庇護を離れては生きていけまい。お前たちはあまりにも異端」

照「二人とも、この私の手のうちで大人しく従っていれば、一族の中だけではあるけど不自由なく生きられる」

咲「……そうして、鎖つきの生を私たちに与えるの……?」

照「………」

咲「お姉ちゃん、私は今もお姉ちゃんのことが嫌いになれない。でも、それでも私はあなたの人形にはなれない……!」

咲「お願い、私たちを自由にさせて!」

照「……咲」

由暉子「照さま、すみません……!」

由暉子は身を低くして照の懐に踏み込むと、引いた右腕に渾身の力を込め、
心臓の位置するところ目がけて叩きつけた。

―――――由暉子の一撃は、照の心臓を貫いた。

咲「……っ!」

照の胸元が血に染まる。

由暉子「照さま……なぜ、避けなかったのですか……?」

華奢なつくりの少女の腕が、人間の胸を貫いている光景はどこか現実味がない。
あかい血の雫が滴り落ちる音が、沈黙に閉ざされた空間に秒針のように響く。

震える声に応えるように、照が静かに由暉子を見た。
怒りも、憎しみも、落胆もない、静かな眼差しだった。
死をもたらす由暉子の腕を、姉が自ら受け入れたことは、その眼を見れば分かった。

由暉子「………」

自分が行った凶行をこれ以上見たくないというように、由暉子は固くまぶたを閉ざす。
その細い腕を、照の胸から引き抜いた。

ゆっくりと、前のめりに倒れる照の姿を咲は呆然と見送る。
姉が最期に咲へと向けた、その一瞬の不思議な微笑み。
その意味を推し測る間もなく、照は声もなく大地にその身を沈めた。

由暉子「……ごめんなさい、照さま……」

咲「……お姉ちゃん……」

照はなぜ由暉子の腕を黙って受け入れたのか。
その答えを訊くことは、もはや永遠に叶わない。
姉の身体を抱きしめ、咲は静かに涙を流し続ける。

由暉子「咲ちゃん、私を軽蔑しますか?……でも私、人を傷つけたりするのはこれが初めてではありません」

由暉子「私は今まで一族のために、絶えず牙を磨いておかなければならない下僕でした。私の手はとうに汚れています……」

咲「……ううん、この涙は違う……。ユキちゃんに辛いことをさせてしまってごめんなさい」

咲「私よりも、ユキちゃんの方がもっと苦しい……」

由暉子「……優しいですね、咲ちゃん。私のために泣いてくれるんですか……」

由暉子の指が、咲の涙を優しくぬぐったその時。
遠くで鈍い爆発音と、空気を揺すぶり震わせる振動が起きた。
同時にこの場を照らす証明が一瞬暗くなる。

由暉子「……!早くここから脱出しましょう!」

咲「ユキちゃん……?」

由暉子「もうすぐここに代行者がやってきます。彼女が始祖を倒すでしょう。それまでに、ここから逃げないと……!」

由暉子は咲の手を取って強く引くと、壁際の一角へと導く。
その壁には、よく見ると扉の形の継ぎ目があった。
そこにあるのはカムフラージュされた厚い石の扉だった。

由暉子「ここが、地上に通じる脱出口に一番近い道です」

くぼんだ取っ手の部分を掴んで両脇に引く形式の扉らしい。
咲は急いで扉を開けようと、取っ手を掴んで引いてみたが、どうしても扉は開かない。

咲「この扉、鍵が……?」

由暉子「私が開けます。咲ちゃん、下がってください」

由暉子は扉に歩み寄ると、左右の取っ手を両手で掴み、全身の力を込めて引いた。
初めはびくともしないかと思われた石の扉が、少しずつ開いていく。
由暉子の額から玉の汗が流れ落ちる。
歯を食いしばり、固く閉ざされた扉と格闘していた由暉子は、やがて一気に扉を開ききった。

荒い息を吐いて、由暉子はそのまま床に崩れ落ちる。
白い指の爪先からは血がにじんでいた。

由暉子「咲ちゃん、どうかこのまま行ってください」

咲「行ってって……ユキちゃんは!?」

由暉子「私は出来損ないなので、普通の人よりも力が強い分、消耗も激しいんです」

由暉子「だから、もうあまり動けません……。私を置いて行ってください、あなた一人なら逃げられます」

由暉子「それに、もうすぐここに眷属の追手がきます。それを私がここで引き止めますから、咲ちゃんはその間に逃げてください」

咲「嫌だよ、ユキちゃんを置いて一人で逃げるなんて、そんなこと出来ない!」

由暉子「咲ちゃん……。でも、ここままじゃ咲ちゃんまで助からない……!」

その時、思い悩む咲の頭にひとつの考えが浮かんだ。

咲「……ユキちゃん。私にも出来ることがあったよ」

由暉子「咲ちゃん……?」

咲「私の血を飲んで、ユキちゃん」

由暉子「……!」

咲「ユキちゃんも私も一族の血を引いているのなら、私から力を得ることが出来るんじゃない?」

咲「それでユキちゃんが動けるようになるなら、私は平気だから」

由暉子「……確かにそれしか方法はないですね……分かりました。あなたの血を摂ることで、一時的に私の力を増幅させてもらいます」

由暉子「咲ちゃんの血と、身体に宿る生気を少しだけ分けてください」

由暉子の柔らかな唇が咲の首筋にそっと触れる。
思わず怯む咲の身体を、逃れられないように、由暉子の腕が強く捕らえる。

咲「あ……!」

確かめるよう首筋をなぞり、当てられた由暉子の鋭い犬歯が無防備な咲の肌に食い込んだ瞬間。
咲は痛みよりも強く、熱さを覚えた。
傷口に唇が触れ、そこから咲の力が由暉子に向かって流れていくのを感じる。
首筋を伝い流れる血のあとを舌先がたどり、その感触と共に、震えが来るような刺激が背筋に走った。

咲「ん……っ」

強すぎる刺激に、咲はまぶたを固く閉ざして耐える。
ようやく由暉子が唇を離したときには身体の力は入らず、かすむ意識を繋ぎ止めるのが精一杯の状態になっていた。

由暉子「……ありがとう、咲ちゃん。これで私、戦えます」

目を凝らして見やる咲に、由暉子はうっとりと微笑みを返す。
咲の意識はそこで途切れた―――――


……遠くから咲を呼ぶ声が聞こえる。
けれどそれは、いつも自分を悩ませたあの夢の主ではなく―――――
聞き覚えのある、なつかしい少女の声だった。


由暉子「……咲ちゃん!良かった……咲ちゃんがこのまま目を覚まさなかったらどうしようって、私……」

倒れた咲を抱き起し、繰り返し名を呼んでいたのは由暉子だった。
目線を上げて周囲を見渡すと、そこはすでに地上で、辺りはまばゆい朝の光で満たされている。

ふと目の前にいる由暉子の制服があちこち擦り切れ、血で汚れ、ひどい恰好になっていることに気が付く。

咲「ユキちゃん、あれから一体……?」

由暉子「咲ちゃんが力をくれたおかげです。追手はすべて倒しました」

由暉子「私の助力で、代行者も始祖を抹消してくれました。……もう、大丈夫です」

その健気な笑顔に、咲の胸は痛む。
由暉子はこの細腕で命をかけて咲を助けてくれたのだ。
そんな由暉子に対して、感謝の言葉をかける以外に何一つ返せるものが無いのが悔しい。

咲「ごめんなさい……。助けてもらったのに、私はユキちゃんに返せるものが何もない……」

由暉子「咲ちゃん、どうか気にしないでください。……でも、ただひとつだけ」

咲「え……?」

由暉子「あの日の約束を果たしてもらえたら嬉しいです。今、新しいお願いを思いつきました!」

由暉子がいたずらっぽい笑みを浮かべて咲を見る。

咲「……ユキちゃん?」

由暉子「咲ちゃん、私の新しい主になってください」

咲「え……?」

由暉子「私は一族を離れては生きていけない、半端な身体。でももう一族のもとには帰りません」

由暉子「ですから、血をいただくマスターが必要なんです」

唖然とする咲に、由暉子があわてて付け足す。

由暉子「大丈夫です!咲ちゃんほどの血の濃さなら、半年に一度でも充分ですから!」

由暉子「その代わり、私が咲ちゃんを守ります。それくらいしか、この力の使い道は無いですから」

咲「ユキちゃん……」

由暉子「咲ちゃんを利用しようとする一族の残党を返り討ちにするくらいしか出来ませんが、それでも私、咲ちゃんの傍に居たい」

考えてみれば、これは由暉子にとっての死活問題なのだ。
悩む余地なんて咲にはない。
何より、由暉子の喜ぶ顔が見たかった。

咲「分かった。約束を、果たすよ」

由暉子「良かった……!」

咲の答えに、由暉子は瞳を輝かせた。
由暉子に腕を引かれ立ち上がると、二人で日の当たる場所に向かって歩き始めた。


――――――――――

あれから三ヵ月。
私、真屋由暉子の周辺も、ようやく落ち着きを取り戻しました。

りつべ女学園はあの事件以来、一族関係者と思われる人間が一掃され、理事長を始めかなりの人事異動が行われ……
色々ありましたが、この街も平和になりました。
そんな日々のなか、私と咲ちゃんはと言うと―――――


咲「……こんなの、もう止めようよ……」

由暉子「恥ずかしいんですか?大丈夫です、保健室の鍵は拝借してきましたから」

私の身体の下で、制服を乱した咲ちゃんがかすかに震えているのが分かる。
保健室のベッドで、という状況に抵抗があるのか彼女の頬は羞恥に染まり、瞳には薄く涙がにじんでいる。

咲「ユキちゃん、どうしてこんな……。先週すませたばかりじゃない……」

由暉子「それはそうですけど、でもまた欲しくなったんです。今ここで、すぐに……駄目ですか?」

咲「……我慢できない?」

彼女の言葉に、私は力いっぱい頷き返す。
こうしてねだれば、優しい咲ちゃんが拒めないことを、私はよく知っている。

『半年で充分』と言ったはずが、その舌の根も乾かぬうちに私は咲ちゃんの優しさに甘え、
あれから何度も彼女に『食事』をねだった。

咲ちゃんには理性を狂わせる何かがある。
そう思わせるほど彼女の味はたまらない。

咲ちゃんは、そこにいるだけで私を誘う存在。
今日もまだ昼間の学園の中だというのに、我慢が出来なくなって彼女を襲ってしまう始末。

由暉子「さあ、咲ちゃん。目を閉じて……」

咲「……ん……」

私の下で、咲ちゃんが力を抜くのが分かる。
やわらかくて綺麗な、咲ちゃんの身も心も、もう私だけのもの。


私は罪深い獣だけど、こんな日々を与えてくれた運命には心から感謝したい。
どうか、この幸せな時間がずっと続きますように―――――。


由暉子 True End

由暉子編は以上です
次のキャラ

1、シロ
2、良子
3、照

安価下2

では、次はシロで開始します
あとこれまで安価で選ばれなかった良子編は消滅しました
シロ編、照編とやって終わりにしたいと思います
それでは安価にご協力ありがとうございました

>>98から

シロの狙いは自分ひとりなのだ。
咲がこの場から離れれば、他に目もくれず、シロは咲を追うだろう。

咲「……!」

他の生徒たちを巻き込ませるわけにはいかない。
咲はシロが追ってくると確信し、教室を飛び出して廊下に出た。
そのまま全力で駆け出す。


シロから逃れるため闇雲に廊下を駆け階段を昇るうちに、この校舎の最上階の踊り場にたどり着いた。
床に鉄製の水道管らしきパイプが落ちている。
屋上のメンテナンスに来た者が忘れていったのだろうか。
身を守る武器になるかも知れないと、咲はそれを拾った。

扉は取っ手にかけられた鎖の先端が南京錠で留められており、引っ張ったくらいでは外せそうにない。
が、よく見ると南京錠は壊れかけているのか支柱が外れ、鍵がかかっていない状態になっていた。
これなら簡単に外すことができる。
咲は急いで鎖を解き、屋上への扉を開いた。


屋上へ出ると、そのまま扉を閉めようと振り返る。
そこに、剣を片手にたたずむシロの姿を見つけ、咲は凍り付いたように動きを止めた。

シロ「……逃がさない」

咲「……!」

感情の読めない静かな眼差しに射すくめられ、咲は動けない。
緊張に思わず握りしめた手のひらの中、鉄パイプの冷たい感触が咲を我に返らせた。

訳も分からないまま、抵抗もせずに殺されるのは嫌だ。
咲は手にした鉄パイプを構え、怯みそうな心を何とか奮い立たせる。

シロ「……戦う意思があるの」

睨みつける咲に向かって、シロが動いた。
風切り音が咲の前を走り抜け、あっけなく鉄パイプは斬り落とされる。

咲「……っ!」

シロ「それでも私は、あなたを殺さなければならない」

咲に止めを刺すべく、シロは長剣を引いた。
そのまま咲の心臓をつらぬくつもりなのか。

―――――殺される、そう思った瞬間。
咲の胸に灼けつくような痛みが走り、弾けた―――――

シロ「……!」

咲を包むように、白い光の波が広がった。
咲の命を絶つはずだったシロの剣は、その光に触れると音もなく消滅した。

咲「……え……?」

白く灼けた視界の中、何が起きたのか理解できず、咲は呆然とその場に立ち尽くす。
一瞬にして剣を失ったシロが、顔を上げて咲を見た。

シロ「――――あなたは、……まさか」

初めて、シロの凍り付いた顔に感情が映る。
今の不思議な現象に、シロは咲以上の衝撃を受けているように見えた。
射るようなシロの眼差しに目をそらすことも叶わず、咲は息をつめてシロと対峙する。

シロ「なぜ彼女らの贄に、あなたが――――?」

咲「な、に……?」

シロ「答えて。あなたは全てを承知の上で彼女らの許にいるの?返答次第では、あなたを……」

静かな声の中、抑えられたシロの怒りを感じる。
夕べ初めて出会ったばかりの人間に、こんな理不尽な扱いをされ、怒りを向けられる覚えはない。
その瞬間。殺される恐怖よりも、怒りの感情が上回った。

咲「贄なんて、知らない!何のことか分からない質問に答える気なんてない……!」

シロ「……!」

咲の言葉に、シロの瞳が揺らいだ。
眼差しに映える怒りが影をひそめ、代わって何かを探ろうとする光が瞳に宿る。

シロ「あなたの名は……?」

咲「……咲。宮永咲」

シロ「咲……、宮永……咲」

シロ「……。今はあなたを殺さない。けれど、もしあなたが、このまま……」

咲「え……?」

咲はシロを見上げる。少女がなぜ咲を殺そうとするのか知りたいと思った。
なぜ咲を贄と呼ぶのか。少女が言っている≪彼女ら≫とは何者なのか……知りたい。
けれどシロは、咲が何かを語りかける前に、背を向けて立ち去る気配を見せた。

咲「待って!あなたは誰?どうして私のことを……」

シロ「……私の名はシロ」

咲「シロ……」

シロ「宮永咲。次の満月までに、あなた自身の選んだ道を示して」

咲「え……?」

シロ「あなたがいずれの道を選ぶのか。その答え如何では、私はあなたを……殺す」

咲「……!」

咲に鋭い一瞥を与え、そう宣言するとシロは背を向けて去っていった。
咲はその後ろ姿を呆然と見つめることしか出来なかった。

チャイムの音が昼の訪れを告げると、授業から解放された生徒たちは一斉に騒がしくなった。
昼を過ごすため、生徒たちはそれぞれ目的の場所に散っていく。


穏乃「咲。石について調べてくれそうな人間に心当たりがあるって言ってただろ?その人、一学年上の人なんだ」

穏乃「その人なら私達の話を馬鹿にしないで聞いてくれる。どうする?話してみる気はあるか?」

咲「……ごめんなさい、高鴨さん。私にはもう関わらない方がいいと思う」

穏乃「咲……。分かった、無理強いするつもりはないから。でも、困ったことがあったらいつでも私を頼っていいんだからな」

咲「ありがとう……」



放課後の訪れを知らせるチャイムが鳴り、咲の転校2日目が終了した。
今日は咲の掃除当番の日だと言われ、咲は割り当てられた清掃場所に向かった。

清掃も済み、道具を片付けて教室に戻り、帰り支度をする。
ふと先ほどの少女が脳裏をよぎった。
自分の命を狙った相手ではあるが、もう一度シロに会って話がしたいと思った。
咲はシロを探そうと決めた。

しかし、名前しか知らない相手を探し出す当てがあるはずもない。
せいぜい出会った場所くらいしか彼女の居所に心当たりがない。
無駄足に終わる気がしたが、昨日の現場をこの目で確かめたい思いもある。
咲は昨日の場所に向かってみることにした。

昼間でも近寄りがたいような鬱蒼と茂る林の中に、咲は足を踏み入れた。
しかし目的の少女の姿は見当たらない。

咲「……いない……」



その日、かなり遅くなるまで林の中を探し歩いたが、
結局シロを見つけることは出来なかった。



咲が家に着くと、姉はまだ大学から帰宅していなかった。
簡単な夕食を作って食べ、お風呂を済ませた後は、自室で宿題と自習に専念した。
照がなかなか帰らぬまま時間が過ぎる。


寝床につき、天井を見つめて姉の帰りを待つうちに、咲はいつの間にか眠りに落ちていた。
夢は見なかった。

朝の訪れを知らせる目覚ましの電子音とともに、咲はまぶたを開いた。
天気は上々でさわやかな朝だったが、ここ数日の出来事を思うと咲の心も晴れやかに、とはいかなかった。

照「おはよう、咲」

咲「おはようお姉ちゃん」

朝食を食べ終え、学校に行く準備が整うと、姉への挨拶を済ませて家を出た。





英語教師「……では、本日の授業はここまでにします」

5限目の終わりを告げるチャイムが鳴り、その日の授業が終了した。
咲は今日もシロを探しに行こうと決めた。

昨日シロと出会った場所に行ってみた時、シロに会うことはなかった。
もう一度同じ場所を探しても、シロを見つけることは叶わない気がする。
今日は別の場所を当たることに決めた。

シロを探す手がかりが何もなかったので、咲は校内の人気の少ない場所を、
片っ端からしらみ潰しに当たってみることにした。

シロの姿を求め、広い学園内を駆け巡った。
探せる限りの場所を探して回ったが、シロを見つける手がかりすら手に入れることが出来ない。



いつの間にか時は過ぎ、下校の時刻を知らせるチャイムが鳴った。
今日もシロを見つけることは出来なかった。
シロはもうこの学園内には姿を現さないつもりかも知れないと、ふと思う。
落胆しながら咲は帰路に就いた。



家に帰ると、姉はまだ帰宅していなかった。
咲は手早く夕食を作って食べ、使ったお皿やフライパンなどの片付けも終えた頃。
姉がようやく帰ってきた。

照「ただいま、咲」

咲「おかえり。お姉ちゃん」


それから姉とたあいのない会話を交わした後、咲は自室へと戻った。
時間割を見ながら明日の授業の用意を済ませ、課題のプリントに取り掛かる。


咲「終わった……」

課題を全て終えた時、すでに時計の針は11時を過ぎていた。
明日も何事もなく一日が過ぎることを願いつつ、咲は寝床についた。


――――――――――

学園祭本番をいよいよ明日に控え、本日の授業は4限目までとなっていた。
帰り支度を整えた生徒たちがばたばたと教室を出ていく。


今日も咲はシロを探しに行こうと決めた。
しかし、これ以上学園内を探し歩いてもシロには会えない。

咲「どこに行けば、あの人に会えるのかな……」

暫し思案した咲は、とある場所へ向かおうと決めた。


1、公園
2、街
3、自宅

安価下

街まで足を運んでみたが、そこでシロを見つけることが出来るなどとは本気で期待していなかった。
だからシロの姿を見かけた時、咲は驚愕に息を呑んだ。

咲「……!」

たむろする人の中、シロがこちらに横顔を見せ、静かにたたずんでいる。
鋭い眼差しが人々の頭越しのはるか遠くを見つめ、何者かの動きを探っているように見える。
辺りに気をめぐらせ、張りつめた空気をまとったその姿。

しかし、誰もシロに注意を向けない。
少女の存在に気づいてもいないのだろう。
彼女に視線を奪われているのは、その場に咲ただひとり。

見つめる咲の視線を感じ取ったのか、シロが振り返った。
その眼差しが迷うことなく真っすぐ咲を射抜く。

シロ「………」

感情の動きを映さないシロの瞳は、氷でできた鏡の欠片のような神秘さに満ち、目を逸らすことが出来ない。
流れる大気の質がそこだけ違うような、シンと張りつめた静けさがシロの周りを包んでいる。
シロの眼差しに魅入られ、動けなくなっているうちに、雑踏のざわめきが不意に遠ざかった。


……
………
…………

先刻から耳元を鳴らすのは、風に吹かれて揺れる草葉が互いに触れあって立てるかすかな音。
水と、草と、土の湿り気を含んだ、馴染み深いあたたかな匂いが大気に満ちている。
あの一面の緑の原を、目的もなく、ただ歩くのが好きだった。

あれは、どこなのか。
いつのことだったか。

かたわらを歩く誰かの瞳を見つめ、何か大切なことを誓い合った記憶がある。

あれは、誰だったのか。
何を誓ったのか。

水と緑に満ちた肥沃な原野にたたずみ、清らかに澄んだ大気を含む風に、今も変わらず吹かれているような。
どこか遠くてなつかしい、不思議な感覚―――――




咲「……!」

シロが咲から目を離し、背を向けたことで、唐突に意識が現実に立ち戻る。
雑踏のにぎわいがどっと押し寄せ、ひと時の静寂は、夢のごとくはかなく消え失せる。

先ほどの一瞬、咲はここが街であることを忘れた。
あの感覚はシロがもたらしたものなのか?
立ち去る背中に呼ばれるように、気が付けばシロの後を追いかけていた。

遠くに見え隠れするシロを追って、咲は早足で街を駆けた。
けれどいつしか、気が付けばシロの姿を見失っていた。
すべもなくその場に立ち尽くす。

これからどうしようかと考える咲に、追いかけっこに興じる子供のひとりが威勢よくぶつかった。

少年「ごめんなさい……!」

尻もちをついたまま、慌てて頭を下げる少年に『平気だから』と返し、
立ち上がるのに手を貸してやる。

少年が抱えて走っていたサッカーボールが、転んだ勢いで腕の中から飛び出した。
弾みをつけながら、ボールは路上を転がっていく。
転がるボールを追いかけ、少年がふたたび駆け出した。

車道の方へ、少年が飛び出すかたちになった瞬間。
トラックがカーブを曲がって現れた。
子供に気づいた運転手がとっさにブレーキを踏んでハンドルを切ったが、避けきれない。

少年「あ……」

立ちすくむ子供を助けようと、咲は車道に飛び出していた。
子供を突き飛ばして逃したが、それが限界だった。トラックの車体が迫る。

―――――避けきれない

そう思い、次に襲いかかるだろう衝撃を覚悟して思わず目を閉じた瞬間。
力強い腕が咲の身体を抱き寄せた。

足が地面を離れ、耳元をうなりを上げた風が吹き過ぎる。
浮遊感と、直後に襲いかかった失墜の激しさに、
我が身に何が起きているのかも分からず、咲は悲鳴を上げることすら出来ない。

咲「……っ」

思いがけない衝撃の少なさで、ふいに失墜感は治まった。
恐る恐る目を開く。
咲はシロに担ぎ上げられた状態で、いつの間にかトラックからかなり離れた路上にいた。

トラックは先ほどまで咲のいた場所に突っ込み、歩道の柵をへこませて勢いを止めた。
ふらふらと運転手が降りてくる。どうやら無事なようだ。

子供の方は、尻もちをついた姿勢で目を丸くしていたが、こちらも怪我はないらしい。
ほっと安堵の息をついた咲の耳に、シロの声が響いた。

シロ「無茶なことをする。人を助けるため、自分の身を危険にさらすなんて」

答える言葉を失い黙り込んだ咲に、思いがけない柔らかさを持つ声でシロが呟く。

シロ「……危なっかしいところは変わらない」

咲「え……?」

驚いて見上げたシロの表情は、相変わらず感情の読めないものだったが、どこかこれまでと違うように見える。
それはどういう意味かと問い返す前に、シロは咲を降ろし、背を向けた。
そのまま咲に声をかけさせる暇を与えず、俊敏な身のこなしでシロは走り出した。

咲「あ、待ってください……!」

慌てて後を追ったが、曲がり角を回ったそこに、もはやシロの姿はなかった。




あの後、しばらくシロの行方を求めて街を回ってみたが、結局その後彼女を見つけることは出来なかった。
シロが何を思い、行動しているのか。
今日の出来事でますます分からなくなった。

咲の命を奪うと言ったシロ。
咲の命を救ったシロ。
一体どちらがシロの本当の姿なのか―――――?

シロの取った行動と言葉が頭から離れず、
咲はその夜、なかなか寝付くことが出来なかった。

今日はここまでです。

没になった竜華編のあらすじ
一族の贄となり犠牲になった母の復讐のため咲を利用しようとする竜華だが、
次第に咲に惹かれはじめ…てな感じの話を用意してました。
あと、良子さんも一族の人間です。

それでは安価にご協力ありがとうございました。

街以外の選択肢選んでたらどうなってたんだろ


――――――――――

目覚ましのアラームが鳴り響き、咲はその音で目を覚ました。

今日はりつべ女学園の学園祭当日だ。
学園祭は今日と明日の2日間に亘って開催され、この間、校内に生徒以外の人間の出入りも自由となる。
咲たちのクラス発表は、教室内でのパネル展示だった。

担任「今日はこれから、クラス展示の受付当番以外の生徒は自由に過ごして良いことになってるわ」

担任「部活動での展示や発表がある者、実行委員らは点呼を済ませたら持ち場に向かいなさい」

教師は生徒に順々に声をかけ、出席簿に印をつけていく。
点呼を済ませた咲も他の生徒たち同様に教室を出た。



りつべ女学園の巨大な中央ホールは、生徒達の出店と、その店先にたむろする人の群れで賑わっていた。
生徒以外の客もかなりいるようだ。学園祭に訪れた一般客の多さに咲は驚く。
女子高の催しと言うより、企業のイベントのような人手だ。

咲はあまり知らない顔だが、芸能人のトークショー開催を知らせるポスターもあちこちに貼られている。
ホールを見回すと、モニターやコンピューターを駆使した展示コーナーのやたら多いことが目に留まる。
随分と立派な映像機材やコンピューターを展示に利用しているところが多い。

これからどうするか考えていると、遠くの方から何かが割れるような音と共に人々のどよめく声が聞こえてきた。
何かのアトラクションでも行われているのかと思ったが、どよめきは間もなく、無秩序な叫びに変わった。
途切れ途切れに聞こえてくるあれは、悲鳴だろうか。

いったい何が起きたのか。
咲は確かめに行くことにした。

咲「……!」

駆けつけたその場に広がるあまりに異様な光景に、咲は思わず言葉を失う。
幾人もの生徒たちが気を失い、力なく倒れ伏している。
割れた窓ガラスの破片や千切れた校内の飾りつけが辺り一面に散らばり、情景の異様さに拍車をかけている。

何に驚いたのか、放心状態でうずくまる生徒。意識を失ったままうつ伏せに倒れている生徒。
その場に無傷な姿で立っているのは、咲のように騒ぎに気づいて駆けつけた者だけだった。
いったいこの場で何が起きたというのだろうか。

生徒A「なんなのこれ!何があったっていうの!?」

生徒B「ちょっと、大丈夫……?」

生徒C「誰か先生呼んできて!」

倒れている生徒を助けるため、咲も動こうとして、
―――――足を止めた。

咲「あ……」

眼前の光景に視線が釘付けられる。
地面に倒れ、苦痛にうめく人々の向こう――――シロが、いた。

シロ「………」

剣を手に、シロが佇んでいる。
傷つき倒れ伏した生徒たち。散らされた飾りつけ、壊れた看板。
無傷で立つもののないその光景の中、ひとり静かな面持ちで佇むシロ。

シロの持つ凶器を見とがめ騒ぎ出す者はいない。
やはり他の者の視覚に、シロの姿は全く認識されないらしい。

シロが剣を払い、咲へと向かってきた。
咲は息を呑む。
繰り出された一撃は、迅速の勢いで咲の頬をかすめ、背後へと狙いをそらした。

咲「――――!?」

咲の背後で、耳を聾する異様な叫びが上がる。

生徒A「きゃっ!」

生徒B「うわあっ!」

叫び声が上がると同時に、咲の周りに立っていた者が、背後から突き飛ばされるように転がった。
シロの剣は、咲の背後にいた何かを狙い、繰り出されたのだろう。
顔のすぐ横を真っすぐにのびた、白く輝きを返す刀身を視線で辿り、咲は素早く背後を伺う。

咲「……!」

何か異様な存在を思わせる影が素早く身を翻すのが、視界の隅に一瞬だけ映る。
目を凝らす間もなく、影は木々の葉陰に消えた。
シロは無言のまま剣を静かに退いた。

咲「シロさん、あなたはまた、私を助けてくれた……?」

シロ「……」

シロは咲の質問に答えないまま、目をそらす。
しかし突然弾かれたように顔を上げ、手にした剣を構えて叫んだ。

シロ「避けて!」

咲「え……?」

黒い影が物凄い勢いで倒れ込む咲の傍をかすめ過ぎるのが見えた。
シロの剣が影を貫き、ふたたび絶叫が間近で沸き起こる。

シロ「――――!」

剣を納めかけたシロが、機敏な動きで再び剣を構える。

「……見つけた、シロ!」

シロ「!!」

―――――ギィィン!!

刃と刃が打ち合わされる激しい金属音が響く。

咲「あ……」

顔を上げた咲の視界に、剣を弾かれて退くシロの姿が映る。
目の前に、咲をかばう体勢で立ちはだかる長い黒髪の少女の背中があった。
少女の右手には一振りの長剣が握られている。

―――――ギィィィン!!

二人が再び音高く斬り結んだ時、激しく打ち合わされた刃と刃の間に波動が生じた。

シロ「……!」

シロの剣が砕け散るように消滅した。
衝撃に弾かれたシロは校舎の壁に叩きつけられる前に素早い身のこなしで壁を蹴り、それを避けた。

くるりと身をひるがえして着地したシロは、そのまま滑るような動きで咲に背を向ける。
そして、あっという間に木立の向こうへと姿を消した。

咲「あ……」

立ちすくむ咲に向かって、少女が静かに振り返った。

「宮永、咲さん」

咲「……!」

全く面識のないはずの黒髪の少女に名前を呼ばれ、咲は混乱する。


教師「怪我人が出たというのはここか?」

騒ぎを聞きつけた教師たちが慌ただしく駆けつけてくる。
少女は声のする方を見やると、シロが消えたのと同じ方角に向かって歩き出す。

「後ほど、この場所に来てください。お話したいことがあります」

咲「え……」

通りすがりざま、咲の耳にだけ届くように少女が囁く。
そして一陣の風のように少女は駆け抜けていった。
異様な光景のなか、ただ一人無傷な咲は、呆然とその場に立ち尽くした。


――――――――――

学園祭は結局、昼間の騒ぎからそのまま中止となった。
駆けつけた教師たちの手配により、咲以外の怪我人は全員病院に運ばれた。

下校を促す教師の目を盗んで、咲は少女に言われた場所へ一人おもむく。

「宮永咲さん、ですね」

声をかけられ、驚いて振り向く。そこには咲を助けた少女が立っていた。

クロ「私の名はクロ。あなたをお守りするため、この学園に来ました」

咲「守る……?」

クロ「はい。いきなり現れて、こんなことを言う私をさぞかし怪しく思われるでしょう」

咲「………」

クロ「私はもう長い間ずっと、あのシロを追い続けているのです」

クロ「シロは狂った殺人鬼です。あなたも見たでしょう、昼間のあの光景を。……あれは全てシロの仕業です」

クロ「これまで、あのシロの手によって沢山の人命が奪われました。彼女の凶行を止める為、私は戦っています」

咲「………」

クロ「今、彼女はあなたの命を狙っています。ですが私があなたをお守りします。そのために私はこの学園に来ました」

咲「あなたは……、いったい何者なの?」

クロ「私は、とある結社の者――――とだけ言っておきます」

クロ「特殊な力を持つ者に命を狙われた、あなたのような人々を守る為、私達は動いています」

クロ「私のことを胡散臭く感じるでしょうけど、『あなたをお守りする』との言葉に偽りはありません」

クロ「今はただ、私があなたを守る者で、シロがあなたの命を狙う者だということだけ心に留め置いてください」

咲「……わかりました……」

クロ「では、私はもう行きます。シロにはくれぐれもお気を付けください」

クロ「私に出来る限りの力で、影ながらあなたをお守りしますので。では、いずれまた――――」

最後の一礼をすると、クロと名乗った少女は身を翻してその場を去った。
残された咲は陰り始めた陽射しの中、頬を撫でる冷たい風に、ひとり身を震わせた。

咲が家に着くと、照はまだ帰宅していなかった。
夕食を作って食べ、後片付けも済ませると、他にすることも無くなってしまった。
姉の帰りをしばらく待って、読みかけの本のページをめくってみたが何ひとつ頭に入ってこない。


入浴も済ませて自室に戻ると、咲は自分がひどく疲れていることに気が付いた。
ベッドに倒れるように滑り込み、天井を見上げる。


『シロにはくれぐれもお気を付けください』


クロの言葉がふいに蘇り、咲は落ち着かない気持ちで寝がえりをうつ。
そのままかたく瞼を閉じた。

夢も見たくないという咲の願い通り、
その日はひとつも夢を見なかった。


――――――――――

本来なら学園祭の2日目で大いに盛り上がり賑わうはずだった校内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
すれ違う生徒は皆、一様に不安げな、落ち着かない表情をしている。

『月曜から通常の授業に戻る』との連絡事項を伝えると、
その日のホームルームは全て終了となった。

担任「今日はいつまでも校内に残ったり、寄り道しないこと。このまま真っすぐ家に帰りなさい。いいわね」

最後に強い語調で告げると、担任は教室を出て行った。
帰り支度をしながら、咲はこれからどうしようかと迷った。


咲の命を狙う少女シロ。
シロから咲を守ると語る少女クロ。

クロの忠告に従うなら、シロに会うなどと考えず、まっすぐ家に帰るべきなのだろう。
それでも咲はどうしてかシロに会いたいと思った。

クロの監視の目が光る学園に、おそらくシロは姿を現さないだろう。
探すあてはないが、動いていればシロの方から咲に接触してくる気がする。
昨日と同様に学園を離れ、街に向かうことにした。

シロは咲の前に現れるのか。
分からないまま、咲はあてもなく街中を歩き続ける。
街のにぎわいから少しはずれ、人通りの少ない遊歩道に出たとき。

咲「……!」

ふと顔を上げたところ、眼前にシロの姿を見つけて咲は思わず息を止めた。
平和な情景の中、剣を片手にたたずむシロの姿を、咲の他に見とがめる者はいない。
しかし無意識のうちにシロを避けて歩く人々の姿は、彼女が幻などではなく、確かにそこに存在するのだと咲に教える。

ふと昨日の学園祭の光景が脳裏に蘇る。
咲には何故か、シロがクロの言うように皆を傷つけた犯人だとは思えない。
シロに向かって、咲は思い切って問うた。

咲「シロさん、昨日皆を傷つけた犯人は誰なんですか……?」

シロ「……なぜ、あなたは私がやったのではないと思うの?」

咲「分かりません。ですが、あなたはそんな人ではないと思うから」

正直に自分の思いを伝えると、シロは驚いたようにかすかに目を見開いた。

シロ「……あなたは……。宮永咲、あなたに伝えておかなければならない事がある」

言いながら、シロは地面に向けていた剣を持ち上げた。
一瞬身構えそうになるが、咲は大人しくその動向を見守った。

シロは咲に向かって、剣を握る腕をためらいなく振り下ろした。
白い光の波が、シロの攻撃から咲を守り、刀身を弾き返した。
シロは素早く剣を引き、光から離れる。間もなく光はおさまった。

女「……?今、光らなかった?」

男「何か光ったような……?」

咲のそばを歩いていた幾人かが光に気づいたらしく、しきりと周囲を見回している。
手にした剣を下げ、咲の様子を探るように見ながらシロが呟く。

シロ「……その光が何か分かる?」

咲「え……?」

シロ「石の力。あなたは石を持っている――――今の光がその証」

シロの言葉に、咲は石の納められたポケットに反射的に手を触れさせた。
この石が、咲を救ったあの光に関係があるというのだろうか。

シロ「石を使えるのは、今では私ともう一人のみ。例外はない。代行者は、私たち以外には存在しない」

シロ「だから、もし石を操れる者が現れたなら、それは……」

そこで言葉を切って、シロは咲の瞳を真っすぐ声もなく見つめた。
咲はかつてこんな真摯でひたむきな眼差しに見つめられたことは無い。
氷のように冷たく、心の動きを感じさせない瞳の奥に、シロはこんな眼差しを隠していたのか。
初めて目にした、心の奥を揺すぶられるようなシロの瞳に、咲は魅入られ言葉を無くす。

シロ「……これらは全て、彼女ら一族の新たな謀り事か……」

咲「あの……?」

意味の分からないシロの呟きに、咲は戸惑い、眉をひそめる。
シロがまぶたを閉ざした。見る者の心を射抜くような視線がようやく途絶え、咲はほっと息をつく。
再び開いたシロの瞳は静かに凪いで、元通り己の感情を映さないものに戻っていた。

シロ「一族の血の匂いを持ちながら、私の石を使える……あなたは異質な存在。あなたのような者は、他にはいない」

シロ「……宮永咲、あなたは己について、どれだけのことを知っているの?」

咲「え……?」

シロ「何も知らないのか、それとも何もかも承知の上で一族に従っているのか――――答えて」

シロが何事について訊ねているのか、咲には理解できない。
問われても、返す答えなどあるはずもない。


1、これ以上、何も考えたくない
2、訳の分からないことを訊かないで、と睨む
3、シロの言葉を理解したいと思う

安価下

咲「訳の分からないことを訊かないでください……!」

シロ「……本当に、何も知らない……?そう、何も聞かされていないという事か……」

シロ「贄が己の意思を持つことを許されることはない。でもあなたは自分の意思を持ち、それに従って動いているように見える」

シロ「……前に、あなたは私を助けるようなことをした。なぜ?あの時私はあなたの命を奪おうとしたのに」

シロを助けるようなこと―――――?
初めてシロと出会った時、シロを狙う影の存在を咲が知らせた、あの事だろうか。

咲「あれはただ、誰かが傷つくのを見過ごせなかったから……」

シロ「……そう。……何も知らないままのあなたという存在を、このままにするのは危険」

シロ「あなたを狩ることが、これから起こりうる最悪の事態を防ぐのに何より有効な手段かもしれない」

咲「……!」

シロ「……けれど私は、あなたを狩ることを望まない」

咲「え……?」

シロ「宮永咲、あなたは自らが何者かをもっとよく知るべき。でも知ることが、今の暮らしを壊すことに繋がるかも知れない」

シロ「知らない方が幸せだったと、後に思うような真実が暴かれるかもしれない。それでも知ることを選ぶ?」

シロ「いつわりの平穏を捨て、真実の道を歩む勇気が、あなたにはある?」

咲「……はい。どんなことになろうと、私は知りたい……!」

シロ「……あなたがそれを望むなら、私は知る限りのことを話す」

聞きたいことはまだまだあった。
質問しようと咲が口を開きかけた時、シロの様子が変わった。
咲が言葉を発するのを手のひらで制し、目を細めたシロは辺りの空気を探る。

咲「シロさん……?」

シロ「――――今は駄目。時間がない……私の話が聞きたければ、明日の夜九時過ぎに一人でりつべ市営公園に来て」

それだけ言い置くと、シロは素早い身ごなしで後も見ずに駆け出していった。
あっという間に雑踏に消えたシロに、声をかけることも出来ず、咲はその場に立ち尽くした。





家に帰り着き、自室に入って鞄を開けると、携帯に1件のメールが入っていた。

照『おかえり、咲。学校の様子はどうだった?今日も遅くなるから、私の帰りを待たずに休んでて』

咲「お姉ちゃん、今日も遅いんだ……」

一人きりの食事は寂しいが、姉は大学で忙しいし仕方がない。
咲は夕食と風呂を済ませ、早々に寝床についた。

灯りを消し、真っ暗な部屋の天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返す。
学園祭で起きた事件のこと、石のこと、シロとの約束――――

脳裏に浮かんでは消える記憶の断片にしばらく悩まされたが、
いつしか咲は深い眠りへと落ちていった。

今日はここまでです。

>>678
街と公園は正解、自宅を選ぶとBAD直行でした。


――――――――――

日曜日の朝が訪れた。
シロとの約束の時間は夜九時。
それまで家で本でも読んで過ごそうと、咲は起き出した。



約束の時刻が近づいてきた。
姉も今は自分の部屋で読書にふけっているはずだ。
こんな夜に出かけると言えば反対されるに違いない。
咲は照に黙ってこっそり家を抜け出した。

昨日、シロは咲に『夜九時過ぎに一人でりつべ市営公園に来て』とだけ告げて去ってしまった。
りつべ市営公園は広大な敷地面積を誇る自然公園だ。どこを目指せばシロに会えるのか見当もつかない。
途方に暮れながら、咲は市営公園の正門をくぐる。

日曜の夜の公園は人気もなく静かだ。
灯りの少ない公園の遊歩道をひとり歩くのは、ひどく心許ない行為だった。
見えない暗がりに誰かが潜んでいないか警戒して進む。
そうして気をはって歩いていたせいか、普段なら聞き落としそうなわずかな息遣いを敏感に感じ取った。

咲「……!」

振り返って確かめたが、人影らしきものは見当たらない。
この場にいる人間は、咲ひとりらしい。

―――――そう、人間は。

シロに会うことだけに気を取られ、夜の闇にひそむあの名状しがたいモノの存在を忘れていた。
こうして何の備えもなく、人目につかない暗い場所にひとり無防備に立っているのは、
自分から襲ってくださいと言わんばかりの状態ではないか。

咲「あ……」

獣じみた息遣いが闇の向こうから聞こえてくる。
人ではない。人はこんな息遣いをしない。

ごくりと息をのんで、咲は半歩退いた。
気配も、咲の動きにひかれるように進む。
活路を求めて視線を彷徨わせる咲に、気配がまた一歩、近づく。

ここで足を止めることは危険だ。
咲は覚悟を決め、思い切り息を吸って駆け出した。

咲「はっ、はあっ」

気配が追ってくる。このままでは逃げきれない。
息が上がり、足元がふらついたとき。
突然、剣を手にしたシロが咲の前に枝を鳴らして降り立った。

続いて起きる、獣の絶叫。
その凄まじさに、咲は思わず瞳を固く閉じた。

……目を開くと、そこにはすでに咲を追う獣の姿は見当たらなかった。
シロが剣を払うと、刀身を穢すように露を結ぶ血のしずくが地面に散る。

咲「助けてくれてありがとうございます……。どうして私がここにいるって分かったんですか?」

シロ「この公園に入って来たときから、私はあなたを追っていたから」

咲「私を?」

シロ「あなたをつける者がいないか、確かめてた」

咲「そうですか……。あの、さっきの獣のようなものは一体何なんですか?」

シロ「あれは眷属。一族の忌まわしい行いによって生まれた、人ならざるものの血を継いだ存在」

咲「……眷属……」

シロ「この眷属は、あなたを追っていた」

咲「……!私を殺すため……?」

シロ「いえ、この眷属はあなたを守るため傍にいた」

咲「守る……!?」

シロ「あなたに危害を加える目的を持って必要以上に近づく者を排除する。この異形は主にそうするように命じられている」

シロ「獣には命を奪うことへの禁忌はない。使命を果たすためなら、容赦することも手段を選ぶこともしない」

シロ「あなたの周りで人が死ぬのは、あなたに危害を加えると判断した存在を、眷属が排除した結果にすぎない」

咲「……!」

シロ「あなたは一族の監視下に置かれてる。気づいてないだろうけど、あなたには常にあなたを守る護衛がつけられている」

咲「監視……護衛……」

シロ「あなたを守護する存在の筆頭が、クロ。あの子は一族の許可なく近づく者からあなたの身を守っている」

咲「あの人が……」

クロが咲の命を守る立場の者――――
では、そのクロと対立するシロは咲にとって『命を狙う敵』でしかないのだろうか。
そうは思いたくなくて、シロを追ってきた。
けれど今はっきりと彼女の口から聞かされたのは、咲が望んだのとは正反対の言葉だった。

咲「シロさん……」

咲はシロの瞳を覗くように見つめた。
そこには血に飢えた残忍さや残酷な本性を示すものはなく、どこまでも澄んでいる。
シロは夜空に映える、あの白い月のようだ。
見上げる者の心を不安に惑わしながら、自身はどこまでも孤高のままに、静寂の闇を照らしている。

咲「私には、あなたが敵だとは思えません」

もっと彼女の言葉に耳をかたむけ、彼女の心を知りたい。
咲がそう告げると、シロは静かに問うた。

シロ「私はあなたを殺すと言った。それでもあなたは、私を敵だと思えないと言うの?」

咲がうなずくと、初めてシロの表情が動いた。染み入るように静かな微笑み。
切ないような、苦しいような不思議な想いが沸き起こり、咲は理由の分からない心の動きに戸惑った。

シロ「……クロは真の意味で、あなたを守る者ではない」

咲「どういう事ですか……?」

シロ「近づく者を遠ざける行為があなたの意思に関わりなく行われていると知って、彼女ら一族を味方だと思えるの?」

シロ「思い出して。人の命を奪い、肉を喰らう獣の牙を。あなたという禁忌に触れ、命を落とした者のことを」

咲「あ……」

シロ「あれら眷属による容赦ない行いを統べているのがクロ。クロは一族が私に対する者として用意した存在」

シロ「あの子は私と戦うことにしか興味がない。あの子の望みは、ただ私を殺すこと」

咲の前で、互いを敵と認め合うシロとクロ。
彼女たちの関係はいったいどういうものなのだろうか?

シロ「月満ちるまで、あなたの命は一族に保証されている。――――けれどその先に、あなたに安らかな未来はない」

咲「……!」

続けてシロが咲に何事か告げようとした瞬間。
シロは急に口をつぐみ、何かの気配を察知した様子で素早く背後を振り返った。
そしてそのまま咲に背を向け、声をかける間もなく暗闇の向こうへと姿を消した。

咲「……シロさん……」

シロの去った後を見つめ、咲はしばしその場に立ち尽くした。
千々に乱された想いを胸に、咲はひとり月明りに照らされる家路をたどった。


――――――――――

数日後。
放課後の訪れを知らせるチャイムが響く。
特に校内に居残る用事もなかった咲は、荷物をまとめると大人しく家に帰ることにした。

校舎を出たところで何気なく視線を上げたとき、
何者かの強い視線を感じて咲は思わず足を止める。

咲「………」

何かが咲を見つめている。
それも一際強く飢え渇いた、人でないものの熱い視線が―――――。

泉のことや学園祭での騒ぎ、夜の公園で獣に追われたことを思い出して、咲は背筋に悪寒を走らせた。
シロが眷属と呼んだ、あの異形の生き物が、ふたたび咲を狙って現れたのか?
早くこの場を逃げようと、人の気配のする方へ駆け出しかけて―――――動きを止める。

……このまま咲がこの怪しい気配を引き連れて大勢の人のたむろする場所に出れば、
学園祭での騒ぎの二の舞になってしまうかも知れない。
どうするべきだろう?


1、人のいる方向に逃げる
2、人のいない方向に逃げる

安価下

学園祭の時のように、関係ない他の生徒たちを咲の事情に巻き込むのは嫌だ。
これ以上自分のせいで怪我人を出したくはない。
覚悟を決めると、咲は人の気配のしない方向に駆けだした。


不気味な影に追われ、咲はひたすら走り続ける。
やがて完全に人気のない場所へと追い込まれた咲に、ふいに声がかけられた。

「よくやったな。もういいぞ、下がれ」

その声に呼応するように、獣の気配が退いた。

「お前を待っていたよ……咲」

見上げた視線の先、咲の名を呼んだ女性がゆっくりとこちらに近づいてくる。
うっすらと笑みを浮かべて寄ってくる、見覚えのない人物。
その食い入るような粘つく視線に、咲の中で危険を知らせる警鐘が鳴り響く。

咲「……どうして私の名前を?」

「お前のことを、どうして知っているかだって?はは、そんなの決まってるじゃないか」

「――――それはお前が贄だからだよ、咲」

咲「……!」

逃げなければ。この女性は危険だ。
女性から少しでも離れようと、怯む身体を下がらせて逃げ場を求めて視線を彷徨わせる。
そんな咲の狼狽を嘲笑うように、笑みを深めながら女性は咲に素早く近づき、肩を掴んだ。

咲「や……っ」

力ずくで引き寄せられ、上向かされた顔に強引な力で布を押し付けられた。
息をふさがれ、苦しまぎれに大きく吸い込んだ空気に、吐き気がするような刺激臭が混ざる。

そのまま咲の意識は遠ざかった―――――


今日はここまでです。
続きはまた後日。

……まぶたを開くと、無機めいた白い照明と天井が目に入る。
ここはどこなのか?自分は何をしているのか?
ぼんやりと思いながら辺りに視線を彷徨わせる。

どことなく病院めいた匂いと造りの簡素な白い部屋に、咲はいるらしい。
手術台のような診察台の上に寝かされていると知った咲は、上体を起こそうとした。
―――――出来なかった。手も足も台にベルトで固定され、動かすことが出来ない。
そこでようやく自分が囚われの身となったことに気づく。

「やあ、咲。お目覚めのようだな。気分はどうだ?」

ドアが音もなく開いて、咲をこんな目に遭わせた元凶と思われる女性が入ってきた。
警戒に身を硬くする咲の顎を強引に掴んで、女性は咲を無遠慮な視線で確かめる。
その絡みつくような眼から逃れるため、咲は視線を落として目を伏せた。

「そう、そんな風にしおらしく私に従うといい。逆らわずにいれば可愛がってやる」

咲「あなたは誰?何が目的で、こんなことを……」

菫「私の名は弘世菫。単刀直入に言うと、私はたぐいまれなる贄であるお前が欲しい」

咲「……贄……」

菫「そう、お前は贄。始祖と私たち一族に貪られるため選ばれた、喰らう者に力を与える特別な獲物」

咲「始祖……?」

菫「私たち一族の先祖、人ならざる力を持つ存在のことだ。お前はその始祖が、我が為にと望んだ贄」

咲「……!」

菫「始祖は、その血にヒトを超える力を持つ遺伝子――――因子を備えている」

菫「そしてその始祖の血を引く私たちもまた、ヒトとは異なる力を持つ因子を持つ」

菫「このヒトならざるものの因子を、始祖の血を一族の中でもっとも色濃くその身に備えた者が……お前だ、咲」

咲「私……?私はあなたが言うような、ヒトを超える力なんて持ってません。そんなはず……」

菫「お前はまだ幼い頃に、力の発現を封じられたからな。けど普通の人と体の造りが違う片鱗はあったろう?」

菫「たとえば、怪我の回復が異常に早い、とか―――――

咲「……!」

菫「心当たりがあるようだな。それも始祖の血が与えた恩恵のひとつさ。血の濃い一族ほど生命力が強く長命だ」

菫「お前はその一族の誰より強く因子をその身に有している。何故ならお前は、遺伝子操作の実験の末、誕生した生命だから」

咲「え……」

菫「因子をより高純度に有する種を造る目的で、私たち一族の科学者によって作り出されたモノ、それがお前だ。咲」

咲「……嘘……」

何を言われたのか、うまく理解することが出来ない。
咲が『造られた』存在?遺伝子操作?
―――――めまいがする。手足の先が凍るように冷たい。

菫「信じがたくとも事実は事実だ、咲。お前が私たちの手で造られた存在だという現実は変えようがない」

咲「私は……違う。一族なんて知らない……」

菫「いくら否定しても、その身に漂う香しき匂いは、お前が一族の血を誰より濃く継いだことを私たちに教えてくれる」

菫「私たちのうちに因子をもたらした始祖の血が本来持った性質なのか、私たちは血が濃いほど同族の血に強く惹かれる傾向がある」

菫「同じ血を引く者の身も心も己のものとしたくなる獣の欲望が、この血統の中には潜んでいる……」

咲「………」

菫「お前は始祖のために用意された特別な贄。だが、そのお前を私が得たなら……私は長を超える力を持つことも可能だ」

菫「さあ、咲。この私にお前のその身に潜む力を捧げろ」

咲「嫌……!」

菫の指が、身動きの取れない咲の頬から首筋をたどり、制服をくつろげる。
生身の肌に無遠慮な手が這う。
ぞっとするような感触を、咲は唇を噛みしめて耐える。

菫「震えているな。怖いのか?」

咲「……っ」

菫「私に可愛くお願いしてみせろ。そうすれば手加減してやらないこともない」

咲「……や……」


「――――そこまでにしてもらいましょう。勝手な真似をされては困るのです」


緊迫したその場にそぐわぬ落ち着き払った声に、菫は凍り着いたように動きを止めた。
菫の喉元近く、薄皮一枚の距離を置いた至近に、研ぎ澄まされた刃先がぴたりと突きつけられている。

クロ「さあ、咲さんから離れてください」

咲「クロさん……!」

剣の輝きに圧されるまま、菫は診察台から離れ、背後に退く。

クロ「どうやら間に合ったようですね」

戸惑いの表情で見上げる咲の無事を確認して、クロが微笑みを返す。
こんな所にまでクロは助けにきてくれたのか。
思わぬ救いの手に、咲はほっと安堵の吐息をついた。

咲「ありがとうございます、クロさん……」

クロ「咲さんの安全を守るのが私に与えられた使命ですから」

クロは手にした剣で、咲の手足を縛るベルトをあっさりと両断した。
ようやく解放された咲は、固まった手足をぎこちなく動かし、クロの手を借りて診察台から降り立った。

菫「なぜ……どうして、お前がここにいるんだ――――クロ!」

咲「……え……?」

菫が、よく知る者のようにクロの名を呼んだ。
咲は思わずうかがうようにクロを見やる。

菫「例えお前が始祖の守護者だとしても、私はお前にこの施設への出入りを許可した覚えはない!」

クロ「………」

咲「……どういう、ことですか……?」

菫の叫びが伝える内容に、咲の胸に疑惑の暗雲が広がる。
女性は今、クロの事を何と呼んだ……?
『始祖の守護者と』そう呼ばなかっただろうか?

クロ「……菫さん。あなたという人はつくづく愚かですね」

クロのまとう、もの柔らかで人当たりの良い雰囲気がその時、静かに一変した。
伏せたまぶたをクロがゆっくり上げた時。
そこには、これまで咲は目にしたことのない、恐ろしく冷ややかな眼差しがあった。

クロ「贄に手出しは禁止との長の厳命をご存じないはず無いでしょう。あなたはそれを無視しましたね。長に逆らうおつもりですか」

菫「……!」

クロ「私がこのたび長と交わした契約は、シロの手から咲さんを守ること」

クロ「あなた方一族の、身内の暴走を止めるのは契約外の仕事です。あまり私の手を煩わせないでください」

菫「く……」


『……クロは真の意味で、あなたを守る者ではない』

シロの言葉が鮮明によみがえる。


咲「……クロさん、あなたは私を贄と呼んでつけ狙う一族の人間だったんですね……!」

クロ「――――その通りです。私は始祖の身をシロの手から守る契約を交わした守護者」

咲「じゃあ、シロさんは……」

クロ「シロが一族に属したことは一度もありません。これから先も、その可能性はないでしょう」

クロ「始まりから終わりまで、彼女はずっと始祖の敵。誓いを果たすその時まで、ずっと――――」

咲「誓い……?」

クロ「始祖をよみがえらせる重要な鍵である贄。この街にあなたが戻ったその日から、私はあなたの守りの任に就く事になりました」

クロ「……ですが実のところ、始めからずっと私はあなたが傷つくことを望んできました」

咲「え……」

クロ「あなたがもっと傷つけばいい、もっと苦しめばいい―――そう思ってました。そして、終わりにはあなたの死を望んだ……」

咲「……!」

クロ「危険にさらされていることを知りながら、あなたをわざとそのまま放置したことも何度かあります」

クロ「守り役である私は、あなたに手を下すことは出来ない。けどあなたの死が、他者によるものなら……」

クロ「あなたを守りきれなかったとそしりを受けるでしょうが、そんなこと私は全く気にしません。それよりも私はあなたの死を望む」

咲「……クロさん……」

クロ「けど悪運の強い人ですね。結局あなたは捧げられる日の間近まで、こうして生き延びてしまった」

始祖復活のため、一族が咲を必要としていることは分かった。
けれど『あなたの死を望む』と語るクロの言葉は、復活を望む一族の思惑と真っ向から対立するものだ。
クロの望みは、始祖の復活ではないのだろうか――――?

咲「あなたの望みは、他の一族の人たちとは違うの……?」

クロ「進んで一族の邪魔をする気はありませんが、利害が反すれば一族ともたもとを分かつことも辞さないつもりです」

クロ「彼女らとは、シロが邪魔という点で見解が一致しました。その点において、協力しているだけなのです」

咲「あなたは一族の人間ではないの?」

クロ「ええ、違います。一族はシロが滅ぼさんと狙う標的。私はシロを倒すことを目的とする者」

クロ「そしてシロにとって私は、忘れることも許すことも出来ない裏切り者……」

咲「裏切り……?」

クロ「……一族は私にとって、シロをおびき寄せる囮にしか過ぎません。彼女らに飼われるつもりはない」

クロ「私の真の望みはただひとつ。シロを苦しめ、この手で殺すこと。それ以外のことなんて私にはどうでもいいのです」

咲「どうして、そこまでしてシロさんを……」

クロ「……憎いから。シロと私の確執は、己の尾を喰らずにはいられない身喰いの蛇と同じもの。片方が滅びるまで、この憎しみの円環は終わらない」

咲「クロさん……」

クロ「それにしても、あの魂があなたの中にあるなんて。今更こんな形であなたに会うことになるとは思いもしませんでした」

咲「え……?」

クロ「あなたという人は、つくづく因果な星の下に生まれるよう運命づけられた人らしいですね」

クロ「あなたは始祖の捧げられた供物。それがあなたに架せられたさだめですか……今も変わらず」

クロ「復活の儀式であなたが始祖と交わる瞬間のシロの顔が見ものですね。さぞ苦しむことでしょう、再びあなたを救えなかったことに」

咲「クロさん、いったい何のことを……?」

クロ「私があなたの死を望むのも、すべてシロを苦しめるため。私はあなたの死に苦悩する彼女の顔が見たい」

クロ「まあ、それは叶いませんでしたけど。でもこれからあなたを始祖に奪われたときのシロの苦しみを思うとゾクゾクします」

クロ「彼女はあなたを救うことだけを望み、生きてきました。その彼女の目の前で、大切なあなたが始祖のものになるのですから」

咲「クロさん……」

少しも笑っていないクロの眼差しの奥に、シロに対する激情が炎となって揺らめくのを見た。
シロとクロの間には、咲には伺い知ることの出来ない、深く激しく互いの生存を認められない程に対立しあう何かがあるようだ。
それが何か、探ろうとする咲の視線をはぐらかすように、クロは笑みを浮かべて告げた。

クロ「始祖はもうずいぶん永い間、あなたという贄の存在を待ち続けました。けれど、その日もようやく明日で終わる」

クロ「儀式の刻が来ました。明日の深夜、満月が中天に達するとき。――――さあ、行きましょうか」

菫「待て、クロ……!」

クロ「……まだ私に何か?」

菫「クロ、お前はいつも一族を見下してるようだな。だが贄と馬鹿にする咲は、お前と同じ遺伝情報を持つ存在でもあるんだぞ」

クロ「……どういう意味ですか、それは」

菫「理論的には始祖のクローンすら造ることが可能な遺伝子操作技術はあるはずなのに、どうしてだかそれが今になっても成功しない」

菫「ところが始祖の遺伝子の再現に行き詰った科学者が信託に従い、錬金術めいた方法を取り入れたら、咲という完璧な贄が誕生した」

菫「その信託にあった方法のひとつがクロ、お前の血から別の遺伝情報を採取して実験体に加えることだったのさ」

クロ「……!」

菫「おかげで一族は理想の贄を得ることが出来た。もっとも咲の成功以来、新たに完璧な贄を生み出す実験はどれも成ってはいないが」

菫「咲が成功した理由は謎だ。全く同じ工程を踏んでも、成功例が咲の他には皆無だからな」

クロ「……つまり、私が永い眠りに就いているのを良いことに、あなた達は勝手に私の血を実験に使ったという訳ですか」

菫「と、当時の長が始祖から受けた信託だ!お前はこの百年近くの間ずっと目覚めなかったし……」

クロ「……なるほど、そういうことですか。ずいぶんと皮肉で残酷なことを考える人ですね、始祖は」

クロ「最も濃い一族の血に、私のうちにひそむ力を混合させた特別な贄」

クロ「この贄の器こそが、あの魂を宿らせるに相応しいと始祖は考えたのでしょうね」

クロ「そうして『あの人』が戻るのにもっとも相応しい器を用意させた訳ですか。……聞きましたか、咲さん?」

咲「……クロさん」

クロ「あなたは私と――――ひいてはあのシロと同じ存在だそうです。……悪い冗談ですね」

クロ「造られた贄ふぜいが、私たちと同じものとなる可能性を秘めているだなんて」

閃くような一瞬の動きで、クロの剣は菫の胸を貫いた。

咲「……!」

声を上げる間もなく絶命した菫の身体を無慈悲に靴底で踏みにじり、クロは振り返った。

クロ「私は、あなたなんて認めない」

冷ややかな声でクロが告げる。
ひたりと頬に血のついた刀身を突きつけられ、咲は全身を凍りつかせた。
このまま命を絶たれるかと覚悟したとき、クロは静かに剣を退いた。

クロ「あなたを殺さず生かしておくことが、こんなにも苛立たしい事になるとは思いもしませんでした」

咲「……クロさん……」

クロ「こうなれば始祖に穢されるあなたの姿をシロに見せつけてやらないと、私の気が澄みません」

クロ「あなたを始祖の許に連れていって、あの異端の存在に身も心もおとしめて差し上げましょう」

クロ「許しを乞うあなたの目の前で、シロの命を絶つのもまた一興――――」


その時、地を揺るがす低い爆音が廊下の向こうから届いた。
続いて建物を襲った横揺れの振動。

クロ「……!もしや、彼女がここへ――――?確かめなければ」

素早く身をひるがえすと、クロは咲を残して部屋を出て行った。
閉ざされた扉のキーがロックされたことを示す、小さなセンサーライトが灯る。
咲はこじ開けようと試みたが、やはり扉は開かなかった。

無残に息絶えた女性に姿をさらしておくのも忍びなく、診察台の近くに見つけた白い布で動かぬ身体をそっと覆う。
立ち上がって部屋を見回し、これからどうするべきか考えた。

このまま諦めて、クロが来るのをただ待つのは嫌だ。
何か扉をこじ開ける道具となる物はないか、部屋を調べてみた。
殺風景な部屋の中は、咲が寝かされていた診察台の他には、大きな薬品棚がひとつきりしか置かれていない。


1、薬品棚を調べる
2、診察台を調べる
3、部屋の隅を調べる

安価下

ふと視線をやった先に、診察台の支柱が飛び込む。
患者を乗せたまま室内を移動できるようになっているのか、診察台を支える支柱の先には小さな車輪がついていた。
これなら一人でも診察台を動かすことが出来そうだ。

勢いをつけて頑丈な診察台をぶつければ、もしかするとあの扉を吹き飛ばすことも可能かもしれない。
このまま手をこまねいているよりは、と診察台に手をかける。
思い切り力を込めて押すと、台はゆっくりと動いた。

咲「……動いた……これをあの扉にぶつければ……!」

一人で動かせたことに勢いを得て、さらに力を込めて押す。
加速をかけ、それなりの勢いのついた台を思いきり扉にぶつける。

一度ぶつけたぐらいでは扉はびくともしない。
けれど何回か繰り返すうち、扉は少しづつへこんで変形し、壁の合わせ目に隙間ができる。
そのわずかな隙間に鉄製の棒を差し込むと、それをテコに体重をかけ、咲は扉を無理やりこじ開けた。



咲は物陰に身を隠し、警戒しながら廊下を進んだ。
走り続けた廊下の突き当り、曲がり角の手前で白衣姿の所員が数名床にのびているのが目に留まる。

シロ「ここにいたの」

ふいに聞こえてきた声に息を呑んで見やると、そこにシロが立っていた。

シロ「脱出するからついてきて」

咲「シロさんはどうしてここに?」

シロ「……あなたがこの場所にいると知って、来た」

咲「もしかして、私を助けようと……?」

シロ「………」

シロは何も答えなかったが、その沈黙が逆に咲の指摘が真実をついているのだと教えてくれる。

シロ「行くよ」

そっけなく言うと、シロは背を向けて歩き出す。
咲はあわててシロの後を追った。

今日はここまでです。
続きはまた後日。

3でも菫が落としたIDカードを見つけて脱出可能
1は何も見つからずクロが戻ってきて…な展開でした

この施設の出口らしきものが、長い廊下の果てに広がる正面ホールの奥に見えた。
ここまで誰にも出会うことなくたどり着けたことに、咲はほっと安堵の息をついた。
どうやらこのまま無事に施設を抜けることが出来そうだ。

先を走っていたシロが唐突に足を止めた。
遅れないよう懸命に走っていた咲は、シロの背にぶつかって止まった。
何があったのかと、シロの肩越しに向こうをうかがう。

シロ「……クロ」

咲「……!」

シロのつぶやきに、咲の背が凍る。
脱出まであと少しのところで、咲たちの前に最大の敵が立ちふさがったのだ。
クロは咲たちの進路を阻むように出口に続くホールの中央にたたずんでいた。

クロ「このまま咲さんをあなたに奪われるわけにはいきません。返してもらいましょう、シロ」

シロ「断る」

クロ「そう答えると思いました。では力づくで確保させてもらうのです」

掴んだ剣を軽々と振るうと、クロは一分の隙もなく正眼に構えた。

クロ「さあ、シロ。殺し合いましょう」

シロ「……あなたの望むように」

シロはクロから目を離さないまま、背にかばった咲の腕をうながすように後ろ手にとん、と叩いた。
彼女の横顔を見上げると、先に行け、というように小さく顎で出口を示す。
自分がクロを引き付けているうちに咲に逃げろと伝えているのだ。

クロ「……その言葉、咲さんの為なんですね」

冷たい怒りをたたえた眼差しが、ちらりと咲を見る。

咲「……!」

その眼に込められた強い憎しみに恐れを覚える。

クロ「シロの最優先事項は、いつだってあの人を守ること。私と戦う間に咲さんを逃がすつもりですね」

クロ「あなたには私と本気でやり合う気なんて初めからない。なら、その気にさせてみせるのです!」

言いざまクロは構えを解き、身を低くして走り出す。
身構えたシロに向かってではなく、出口に向かって。
驚く咲たちの目の前で、クロの華奢に見える指がドアの開閉を操作する配線板をたたき潰した。

咲「……!」

クロ「これでもう、咲さんの力ではドアを開けない。私を倒すしか道はなくなりましたね」

シロ「………」

クロ「それでいい。さあ、私と戦いなさい!」

クロが離れた距離を一気に詰める跳躍を見せたとき、シロは咲の肩を強く押して突き飛ばした。
床に転がった咲の視界に、クロの斬撃を構えた刀身で受け止めるシロの姿が飛び込む。

鋭い剣さばきで繰り出されるクロの攻撃を、シロはことごとく受け流し、打ち落としていく。
二人の少女の凄まじいぶつかり合いに圧倒され、咲は身動きも忘れてその光景に見入った。

クロ「――――あなたと刃を交わすこの瞬間だけが、生きていることを感じさせてくれる……」

クロ「私にはあなたを倒すことしか目的はない。だからシロ、あなたももっと強く私を憎むのです!」

殺意を込めてシロに打ちかかる、流血に酔うようなクロのその言葉と表情に、
咲は何故か言い知れぬ哀しみを覚える。

咲を逃すためクロの挑戦を避けずに受けたシロ。
シロとの命のやり取りに至上の喜びを愉しむクロ。

ふたりの争いを、ただ黙って見ているのは辛かった。


1、ふたりの争う姿を見たくない。止めに入る
2、止められない。黙って見ている

安価下

咲はたまらなくなって叫んだ。

咲「シロさん、クロさん!これ以上争うのはやめてください!二人のそんな姿、私は見たくないです!」

そう言って立ち上がると、咲は後先も考えずふたりの間に割って入った。
咲の行動にシロが驚愕の表情で剣を退く。

クロ「あなたは、また私の邪魔をするのですか……!」

怒りに燃えるクロの眼差しが咲を射る。
その視線の強さに思わず動けなくなった咲目がけて、クロは構えた刀身を鋭く繰り出した。

咲「……!」

刺される、と思った咲の身体を抱き寄せ、シロが腕の中に包み込む。
クロの剣先は、身体を張って咲をかばったシロの左脇腹に突き立った。

咲「シロさん……!」

しかしそれと同時に、シロが突き出した刀身がクロの鳩尾を貫く。
交差するように互いの身体を貫いた剣は、しかしほんの僅かだけシロの剣の方が速く深かった。
血をこぼれさせながら剣を退いたクロが傷ついた脇腹を片手で押さえたまま、よろめいて右ひざを床につく。

クロ「……っ!」

はっと顔を上げたクロの左肩を、シロの剣が貫いた。

クロ「くはっ……」

そのまま杭打つように貫いた身体を壁に縫い付け、シロはクロの動きを封じる。
衝撃でクロの手を離れた剣が音を立てて床に落ちた。
痛みに息を切らせながら、クロはシロを見上げて叫んだ。

クロ「なぜ止めを刺さないんですか、シロ!あなたはどこまでも私を侮るつもりですか!?」

クロ「あなたが本気で私を倒さない限りこの戦いは終わらない。私を止めたければ、その剣で私を討ちなさい!」

シロ「………」

クロの血を吐くような叫びに、シロはほんの一瞬苦しげな表情を浮かべた。
が、すぐそれは仮面じみた無表情の下に隠される。
クロには答えず、シロは広げた手のひらをクロの額に押し当てた。

クロ「あ……」

シロの触れた場所から力を奪われるように、クロの瞳が急速に光を失う。
クロの膝が、かくんと折れる。
シロが額に当てた手を離し、クロの肩を貫いた剣を抜くと、支えを失った身体はそのまま床に倒れ込む。
倒れ伏したクロのまぶたは固く閉ざされたまま、ぴくりとも動かない。

咲「クロさん……っ」

シロ「殺してはいない。動けないよう気を奪っただけ」

シロ「致命傷を喰らい、回復の力を奪われれば暫くの間は動くことが出来ない。今のうちにここを脱出する」

そう言って歩き始めたシロの横顔がやけに白いことに気づいて、咲は眉をひそめる。
背を向け、足早に出口に向かうシロの歩いた後に、床に点々とあざやかな血のしずくが落ちていく。

咲「!!シロさん、血が……」

あまりに平気そうに振る舞うのでつい失念していたが、シロも脇腹を刺されて傷を負っていたのだ。
傷の具合を確かめようと、咲はあわててシロの前に回り込んで足を止めさせる。
足を止める間にも着衣を伝って落ちる血と、服に染み込んだ血の色が広がっている。かなりの出血量だ。

咲「ひどい血です、早く手当しないと……!」

シロ「私に構わないでいい。急ごう」

服を掴んだ咲の手をそっと外すと、シロは再び足早に歩き始める。
それ以上、引き止めることも出来ず、咲も後を追う。
床に捺された血の跡を辿りながら、せめてこれ以上は傷ついたシロに負担をかけないよう、遅れないようにと急いだ。

建物を出た外は、咲の予想もしなかったような不思議な場所だった。
巨大な地下空洞の中心に建てられた建築物を抜け、迷路のごとく入り組んだ洞窟を、シロに導かれて走る。
どこまでも続く闇の中、シロの剣の仄かに光る輝きが灯り代わりとなって辺りを照らす。


這わないと進めない狭い横道を抜けると、少し広けた場所に出た。

シロ「ここは地上に続く洞窟のひとつ。先に登って。しんがりは私が務める」

果てしない暗渠がどこまでも続いているような坂道を、シロにうながされるまま咲は登り始める。
地上に着くことなど無いのでは、そう思わせるほど長い間続いた登坂の道もやがて終わりを告げる。
登りつめた坂は横穴の羨道に通じ、しばらくそこを進むとようやく羨道の突き当りにたどり着く。

シロ「この先が、地上への出口」

そう言ってシロが指さしたそこは、硬い石壁に四方を囲まれた狭い岩室の中だった。
シロは石壁の前に立ち、真っすぐ上に向け立てた剣を身体の前で両手に構え、祈るようにまぶたを閉ざす。

咲「あ……」

かけられた鍵がどこかで外れるような奇妙な感じがした。
石壁の平らかな面に亀裂が走り、からくり仕掛けが動くような音を立て、
四角くくり抜かれた岩肌が外側に倒れ込んでいく。

ようやく地下からの脱出を果たした。

すでに陽は落ち、夜空に浮かぶ月の輝きがしんと静まりかえった森の底を、
幾重にも重なり合う樹木の隙間からほんのり照らしている。

ほっと深呼吸を繰り返し、澄んだ夜気を味わっていた咲は、シロが黙ってこちらを見つめているのに気が付いた。
ふと思い出して制服のポケットから石を取り出し、本来の持ち主であるシロに差し出した。

シロ「あなたが求めるなら、石はあなたの助けとなる。石を手放さないで。これがあなたを守るだろうから」

シロは咲の手を取ると、手のひらに石を乗せた。
そして咲の手に石を握り込ませる。
シロの手は冷たかったが、その指先の感触はなぜか咲に嫌悪を与えない。
手はすぐに離されたが、シロの触れた肌に、その名残がいつまでも残された。

咲「この石には、どんな力が秘められているんですか?」

シロ「これはあなたの魂のうちに潜む力を操る触媒となる。大気中の気を集め、コントロールするものとして使われることが多い」

咲は石を再びポケットに仕舞った。

シロ「……あなたの家族は、今どうしているの」

咲「両親は……三年前に亡くなりました。今は姉と二人暮らしです」

シロ「あなたの親が本当の両親でないことを、あなたは知っているの?」

咲「……はい。先ほど聞かされました……」

シロ「あなたの家族が一族の関係者である確率は高い」

咲「……!」

シロ「始祖の贄であるあなたの身柄を、一族が全く無関係の者に託すとは考えにくい」

シロ「家族全員が関係者であるとは限らない。でも家族の誰かがそうである可能性は否定できない」

咲「……お姉ちゃんは……」

シロ「仮にあなたの姉は無関係だとしても、家には帰らない方がいい。姉を巻き込むことになるかも知れない」

咲「あ……」

シロ「あなたは始祖復活の鍵。あなたを捕らえようと一族も躍起になってる頃。家には戻らないで、身を隠した方がいい」

咲「そう、ですね……。でも、いったいどこへ……」

誰も巻き込んではならないと思えば、照も良子も頼ることは出来ない。
慣れない街では、ひとりで身を隠す場所のあてもない。

シロ「……私について来て」

途方に暮れる咲にそう告げると、シロは歩き始めた。
咲もあわてて後を追う。




咲「ここは……?」

シロに導かれてたどり着いたのは、未だ人の手のつかぬ深く古い森の一角だった。
不思議なほどに澄んだ空気のただよう、清らかで心癒される静けさに満ちた場所。

シロ「大地の力が今も残る、数少ない場所のひとつ」

咲「綺麗な場所ですね……」

素直に感嘆の思いを言葉に乗せると、シロを包む空気がふわりとやわらぐのが分かった。

咲「ここなら、安全なんですか?」

シロ「ここは石を置いて編まれた結界の中。一族もこの場所を見つけることは難しい」

かなりの樹齢を重ねていそうな大きな木の下に咲を招くと、シロはその根元に静かに腰を下ろした。
夜なのに少しも肌寒さを感じさせない。この場所が帯びた力のせいかも知れない。
咲もシロの隣にそっと腰を下ろした。

咲「シロさん、怪我は大丈夫ですか……?」

咲をかばって負った傷の具合を確かめようと伸ばした手を押しとどめ、シロが答える。

シロ「しばらく休めば癒える。私の身体はそういう風に出来ている」

そう言って木に背中をあずけ、シロはまぶたを閉ざした。
決して口にはしないが、先ほどの戦いで相当のダメージを受けたようだ。
白い横顔には隠しきれない疲労の色が伺える。

咲「何か私に出来る事はありませんか?」

シロ「あなたがそこに居れば、私はそれでいい」

咲「シロさん……」

シロ「あなたも休んで」

目を閉じ黙り込んで休むシロの姿は、野生の獣が傷を癒す為じっとうずくまって回復を待つ様子に似ている。
規則正しくなっていく呼吸を数えていると、先刻の言葉通りシロの体力が回復しているらしいことが分かった。

次第にゆるやかになる呼吸に、眠ったのかとシロをうかがう。
傷が元で熱が出ていないか確かめようと、咲はシロの額に手を当てる。
――――熱はないようだ。安堵に息をつく。

シロ「………」

シロの瞳がいつの間にか開き、咲を見つめていることに気が付いて、慌てて手を離した。
呼吸の触れ合うような至近距離で、ふたりは暫し無言のまま見つめ合った。

互いに目をそらすことなく、真っすぐ見つめ合ううちに、咲の胸に切ない思いがこみ上げる。
シロは多くを語らない。語らないまま、己が身を挺して咲を守ろうとする。
シロに訊ねたいことは山ほどあった。けれど心を見せない眼差しを前にすると、うまく言葉が浮かばない。

先に視線を外したのはシロの方だった。
目を伏せ、咲の瞳から目をそらしたシロがぽつりと訊ねる。

シロ「あなたは、眠らないの」

咲「……まだ眠る気にはなれないから……」

シロ「あなたを追う者がいるか気になるの?」

咲「……はい」

シロ「少し眠るといい。あなたの眠りは私が守る」

咲「シロさん……」

シロ「望むなら、一族を一人残らず滅ぼし尽くしてでもあなたを守るから。だから、安心して眠るといい」

恐ろく――――そしてひどく哀しい言葉だった。

咲「シロさん、あなたは本当は人を傷つけることを苦しいと思っている……?」

シロ「……なぜ、そんな風に思うの」

咲「シロさんはこれまで無駄な殺生をしていない。クロさんの事も……。戦いを望んでいるようには見えなかったから」

シロ「………」

咲を助けたあの時、シロの力はクロを上回っていた。
命を断とうと思えばシロにはそれが出来たはずだ。けれど彼女はそうしなかった。

咲のことも、そうだ。
直ちに贄の命を奪うことが、おそらく復活を妨げる最善の道だったはずなのに。
シロは咲に『次の満月まで待つ』と猶予を与えた。

咲「あなたの行動は、誰かの命を断つことを平気だと考える人の取る行動には思えません」

咲「本当は戦いの中で誰かの命を奪うことなんて、望んでいないんでしょう……?」

シロ「………私は代行者。始祖や一族たちと戦うことは、私が自ら望んで授かった使命。誰かに押し付けられた運命じゃない」

シロ「使命を果たすためなら、どれほど多くの命を狩ることになろうと構わない。そうして私は生きてきた。もはや何も感じない」

そう呟く声は、きっぱりと迷いのないものだった。
けれどその声の強さに反して、シロの眼差しに射した揺らぎに咲は気づいた。
シロの心に初めて触れた気がして、そこでようやくはっきりと悟った。

シロが冷たく静かな湖のような眼差しの底に、永きに渡る歳月の中に覚えた、
痛み、哀しみ、苦しみの全てを沈めてきたことを。
シロは何も感じない訳ではない。何も感じないよう、心の奥深くに思いを沈めているだけなのだ。
命を断つことに怯えれば、戦えなくなるから。

咲「……痛い、ですね……」

シロ「……!どこか傷めたの。傷を見せて」

咲がぽつりと漏らした呟きに、驚いた様子でシロが身を起こす。

咲「私じゃなく、シロさんが」

シロ「私が……?今はどこも痛まない」

咲「違います、身体の傷のことじゃなく……心のことです」

シロ「心―――…。痛みなんてない。私は何も感じない」

咲「自分では気づいていないんですね……。痛みを忘れて戦うことが、きっとあなたには必要だったんでしょう」

咲「でも、この痛みはきっと悪いものじゃないと思います。あなたの心が優しいことを感じられるから」

咲「迷いや情けを弱さと切り捨てないで。命を奪うことが平気だなんて、あなたには無理に思ってほしくないから」

シロ「……あなたは……」

驚いた顔で咲の言葉に聞き入っていたシロは、やがてかすかに微笑んた。

シロ「戦いには無用と多くの人が否定する弱さを、あなたは無駄なものじゃないと言うんだね……」

シロ「戦いを続ける長い年月の間に、私にそんな風に言ったのは……あなたが初めて」

やわらいだシロの表情に、咲の心もあたたかく解ける。
二人の間をおだやかな沈黙が包んだ。

今日はここまでです。
続きはまた後日。

互いの心が通じ合ったような雰囲気の中で、咲はずっと疑問に思っていたことを問うてみた。

咲「シロさんはなぜ、私を守ろうとするんですか?こんな……命を賭けて、傷ついてまで……」

シロ「……知りたいの?」

咲「はい……」

シロ「なら……手を出して」

シロの求めるまま、差し出した手のひらにシロの右手が重ねられる。
その指が咲の手を握りしめたとき、咲の脳裏に鮮明なヴィジョンが浮かんだ。


……
………
…………


シロも彼女も、共に今とは違う響きの名を持ち、すでに滅びて久しい時代の国で暮らしていた遥かな過去。
……これはあの頃のシロの記憶。しかし同時にこれは彼女自身の思い出。

豊潤な土と草の匂いに包まれ、なだらなか平野の広がる古の大河のほとり。
そこに大勢の人々が暮らす都市をはるかに見下ろし、彼女は供もなく佇んでいた。
その背中にシロは声かける。
振り返った彼女の顔は、こんな時だというのに穏やかだった。

シロ『あの存在の求めに応じて、あなたが自分の魂を捧げることに同意したと聞いた。……本気なの?』

静かにうなずく彼女に、シロは吐き捨てるように怒りの声を上げる。

シロ『馬鹿なことを……!自分たちを守る者を敵に引き渡すなんて、皆は何を考えてるの』

シロ『あなたも何故そんな申し出に同意したの。黙ってあいつに喰われてやるつもり?』

『私は自分があの存在に捧げられる時を狙い、あれを封じることを試みるつもり。皆もその提案に賛成し、彼女らの要求に従うと返答したの』

彼女のその言葉にシロは目を見開く。

シロ『確かにあなたの魂をもってすれば、あれを再び封じることも可能かもしれない』

シロ『でも、それじゃあなたの魂が永遠にあいつと共に時の彼方に縛られるということ』

シロ『あまりにあなたの犠牲が大きすぎる。あいつを縛るためあなたの魂を使うなんて、認めない』

それでも自分たちにはもはやその方法しか、敵を封じる手段は残されていない。
そのことはシロ自身が誰よりもよく分かっていた。
このままではあと数日のうちに、次元の彼方の牢獄から完全に脱した異界の化物がこの世界を貪り尽くしてしまう。

よみがえりを妨げ、倒すのは今しかない。けれど私たちには倒すすべがない。
かつてあの異形を封じの地に落とした高次の存在が自らに代わって戦わせるため、力の一部を分け与えた地上の存在……代行者。
代行者として不滅の命と人を超える力を授けられた、シロとその片割れ。ふたりの少女。
彼女らは敵を滅ぼす最後の希望となるはずだった。
共に力を合わせ、異形を倒すと誓った片割れがシロを裏切り、敵勢力に走りさえしなければ。

今のシロ一人の力では、あの圧倒的な存在を滅ぼすだけの力が足りない。
力を補うようなものがどうしても必要だ。
そして人々はその方法として、この地の守り人である彼女の魂を封じの要として捧げることに同意したのだ。

彼女も皆も、すでに最後の手段をとることを決めてしまっていた。時間が足りなかった。
あの残酷で強大な存在に、半身を失った今のシロが打ち勝つには絶対的に経験が足りない。
止めることが出来ない自分の無力さが、ただ悔しかった。

『あなた一人を、私のいなくなったこの地に残していかなければならない事だけが気がかり』

彼女はそうつぶやく。
代行者としての永きに渡る孤独で過酷な生を、シロはこれからただ独りで超えて行かねばならないのだろうから、と。
相変わらず人のことばかり気にかける彼女にシロの胸が苦しくなる。

『人々を守る身である私が、己の魂を賭けて使命を果たすことに後悔はない』

『けれど、私に仕えていたばかりに代行者として選ばれたあなたが、私は不憫でならない……』

穏やかで優しい、輝くような魂を持つ、この人。
この人を守ることを己の生涯の使命を定め、シロは代行者に志願した。
片割れも共に同じ思いを抱いていると考えていたが、それは違った。

信頼は最悪の形で裏切られた。
もっと早く片割れの心に気づいていれば、こんな事態にはならなかったのかも知れない。

シロ『あの子が私たちを裏切らなければ……』

『あの子を憎んではいけない。あの子にはあの子なりの理由があったんでしょう。人の心を他者が容易く推し測ることは出来ない』

シロ『あなたは、あの子が憎くないの……?』

『私は誰も恨んでいない。あの子も、人々も、そして……あの存在のことも』

シロ『あなたを人身御供に差し出す皆のことも、あなたの魂を望む化物のことも憎まないと言うの?……あなたらしい』

シロは彼女の横顔を見上げた。
人も、運命も、敵さえも攻めようとせず、いつもと変わりない穏やかな表情でいる彼女の姿に胸が痛む。

シロ『……私がもっと強ければ、あなたを犠牲にする必要なんてなかった』

俯いて唇を噛みしめるシロの肩に、彼女はそっと手を置いた。

『あなたがいつか、あれの元から私を救ってくれるのでしょう?』

彼女の言葉に、シロははっと顔を上げる。
こちらを見つめる彼女の瞳には、本心からシロを信じる想いが見てとれる。

シロ『――――必ず助ける。あなたを縛るものから、いつか必ず私が。どれほど時が過ぎようと、あなたの魂を解放してみせる』

シロの力強い言葉に、彼女は静かに微笑んだ。
彼女との誓いを果たすため、シロはこの日より永く果てしない孤独の日々を独り乗り越えていくことになる。


始祖は彼女の魂を捕らえたまま、この世界から封じの地へと再び放逐された。
しかし彼女が命を賭けて守ろうとした人々と都市は、始祖の強大な力の前に、シロを残してあえなく滅び去った。
ただ一人生き延びたシロは、始祖とその一族を追い求め時代を駆け抜け続ける。

そうして今、シロは思いがけず彼女の魂にめぐり逢うこととなる。
始祖に捧げる贄として――――


――――――――――

咲が永い眠りから醒めると、目の前にはシロがいた。
かなりの時間が経ったように思えたが、月の位置は変わらず、夜もいまだ明けてはいない。
シロの記憶に引き込まれてより、さほど時は過ぎていないらしいことが分かる。

咲「……シロさんは、私が彼女の魂を持っていると……?」

シロ「………」

咲「違う、私じゃない。私はあなたのことを何も知らない」

シロが彼女に向けた尊敬と親愛に満ちた眼差し。
咲は自分がシロの心に秘められていたあの想いに見合うだけの存在であると、とても思えない。

咲「違います……」

弱弱しく否定する咲を見つめ、シロが不意に微笑んだ。

シロ「――――初めは分からなかった。あなたから一族の匂いを誰より強く感じた上、魂の輝きが彼女のものより弱かったから」

シロ「でもそれは計略だった。作り上げた贄の器に彼女の魂を封じて力を奪い、それを貪ることによって新たな力を得ようとする始祖の」

シロ「今は抑えつけられ、輝きも曇らされてるけど、それでもあなたの魂の本質は変わらない。あなたは間違いなく彼女の魂を持つ者」

咲「……でも私は、何も覚えていません」

シロ「記憶がなくても構わない。私はあなたを守る」

咲「それは彼女と交わした昔の誓いを果たすため?そのためだけにあなたは私を守るんですか?」

シロが助けてくれたことが嬉しかったが、彼女にとってそれは昔の誓いに縛られての行為だったのか。
別の人の身代わりに咲を助けているに過ぎないと、シロにそう告げられたように思えて胸が痛みを覚える。

シロ「初めはそれだけのつもりだった。今のあなたがどんな人であるかに関わりなく、あの人の魂だから守ると」

咲「………」

シロ「でも、あなたを知るうちに悟った。あなたの魂は確かにあの人のものだけど、あなたはあの人とは違う」

シロ「魂は同じでも、記憶がなければ全くの別人だと」

咲「……私は、シロさんをがっかりさせてしまったんでしょうか」

シロ「いえ、その事実は私にとって辛いことではなかった」

咲「え……?」

シロ「あなたは私が『痛い』のだと言った。あの人を失った時、私の心はどこかが死んだ。痛みを感じることも忘れてしまった」

シロ「……そう思ってた。でも私は自分の抱える感情をただ忘れようとしていただけだったのかも知れない」

咲「シロさん……」

シロ「あなたに言われて思い出した……痛みというものを。これが、生きているということ……」

シロ「宮永咲、私の痛みに気づいたのは他でもない、あなた。今は誓いのことが無くてもあなたを守りたいと思う」

シロ「彼女だからではなく、あなただから守りたい、と」

咲に向けられた曇りのないシロの眼差しは、包み隠すことない真摯な想いを伝えていた。
咲を守るというシロの言葉に偽りはない。
咲は誰より何よりも、この迷いのない瞳の持ち主を信じたいと思った。

咲「……ありがとうございます、シロさん」

咲の言葉に、シロは静かな微笑を返す。

シロ「少し眠った方がいい。明日のために」

咲「シロさんも疲れてるんでしょう?ここが安全だというなら、一緒に休みましょう」

シロ「私はいい。眠くないから」

咲「眠れないんですか?」

シロ「………」

咲は手を伸ばし、シロの頭を自分の肩の上に乗せた。

咲「お姉ちゃんにこうしてもらうと、悪い夢にうなされて目覚めた夜も安心して眠れました。これならシロさんも眠れますか……?」

一瞬離れようと動きかけたシロは、暫くためらった後、そのままじっと動かなくなった。
咲も静かに目を閉じる。
やがて間もなく眠りが咲の上に訪れた。


……
………
…………

白い闇が、彼女を包んでいた。


――――汝、気高き魂の者よ。
汝を我が物とし、我は蘇る。
汝の魂、我が力となりて、我と共に悠久の時を生きるものなり――――

――――来よ、我が贄よ。
我が手が汝の身に与える悦楽のうちに酔いて溺れるがいい。
輝かしき汝の身も心も、我のもの――――

『私の身を求めるのね、異形の力強き獣。でもこの身も魂も、むざとあなたにはやれない』

――――汝は我にその身を捧げる為、我が封土へと参じたのではないのか――――

『私の魂は、あなたの支配を受けることを拒む。たとえ刺し違えようとも、争う道を選ぶ』

――――我を封じると言うか――――

始祖の侮るような気配にも動じることなく、彼女は静かに瞳を閉ざす。
そして己の魂を鍵として、始祖の身と魂を深淵の地に縛す封じの呪を、祈りを込めて唱え始めた。

――――止めよ、我が寵を受けしもの。
汝が望むなら、我は汝にあらゆる悦びと力を与えるつもりであったものを――――

どのような言葉も、決して彼女の意思を揺るがせることはない。
編まれた呪は光の檻となって始祖を縛り、這い出ようとしたはずの深淵に、再び始祖の身を押し返す。

――――されば汝、我と共に、闇に堕ちよ。
時到るまで、我が手中にてあらゆる手を尽くし、汝の魂を弄ばん。
汝が自ら乞いて、我に従うその日まで、汝の魂に解放の刻はあらず――――

残酷な始祖の宣言が無慈悲な白い腕となって、彼女の魂へと伸びる。
始祖の腕に囚われた最期の瞬間。
ただひとつ心に浮かんだのは、彼女を救うと誓った少女の真摯な眼差しだった……

……あの眼差しに再びめぐり逢う日が訪れることを祈りながら、夢から醒めた。
目を開けるとそこにはシロの瞳があった。
相変わらずの冷たく澄んだ無表情が、息の触れ合う至近距離に迫り、咲は息を呑む。

咲「……!」

シロ「……起きたの」

素っ気なくつぶやいて、シロは咲から身を離す。

咲「何かあったんですか?」

シロ「……あなた、ずいぶんとうなされてた」

咲「あ……」

だから心配した、とシロは口にしなかった。
けれど心を知った今だからこそ気づくことの出来る感情の動きをシロの瞳の中に見つけた。
咲を案じる気遣いの色に、くすぐったいような暖かさを覚える。

咲「大丈夫です。シロさんがそばにいてくれたから」

咲が微笑みかけると、シロはまぶしいような表情で目をそらした。




シロが用意してくれた簡素な食事を済ませた後。
咲はシロに問いかけた。

咲「これから、どうするつもりなんですか?」

シロ「私の成すべき使命を果たしに行く。――――始祖を倒す」

咲「……!」

シロ「あなたの魂を未来永劫解放するには、あの存在を完全に消滅させるしかない」

シロ「復活の儀式が行われる祭祀の場はすでに分かっている。そこに潜入し、蘇った始祖を討つ」

咲「でも、危険なんじゃ……」

シロ「かつてとは違う。戦いの経験を重ね、代行者として私は力をつけた。始祖は必ず私が倒す。あなたはここに隠れていて」

咲「あなたを危険な目に遭わせて、私だけ安全なところにですか?そんなの……」

シロ「始祖を討つことは私に与えられた使命。あなたが責任を感じる必要はない」

咲「……私も連れていってください」

シロ「駄目。危険すぎる」

咲「足手まといかも知れません。でも私に出来ることがほんの僅かでもあるのなら、あなたと共に行きたい」

咲「たとえ囮としてでもいい、シロさんの役に立ちたいんです」

シロ「……それは……」

咲「ただ守られて、危険が去るのを待っているだけなんてそんなの嫌です。お願いします、シロさん!」

シロ「………」

咲の決意のほどを見て取ったのか、シロは目を伏せ呟いた。

シロ「……分かった、あなたを一人にするのは危険かも知れない。そばにいれば守れる……私から離れないで」

咲「分かりました。決して離れません」

シロ「宮永咲、あなたは……」

咲の名をいつまでもフルネームで呼ぶシロのぎこちない生真面目さに、咲は思わず微笑んだ。

シロ「……どうしたの?」

咲「咲で、いいです」

シロ「……?」

戸惑ったように口をつぐんだシロに、咲は笑顔で返す。

シロ「あなたには、名前で呼んでほしいです」

シロ「……サ、キ……。咲……」

サキ「よろしくお願いします、シロさん」

シロ「分かった……咲」

困ったようなぎこちないシロの反応がおかしくて、咲はまた少し笑った。

咲の決意のほどを見て取ったのか、シロは目を伏せ呟いた。

シロ「……分かった、あなたを一人にするのは危険かも知れない。そばにいれば守れる……私から離れないで」

咲「分かりました。決して離れません」

シロ「宮永咲、あなたは……」

咲の名をいつまでもフルネームで呼ぶシロのぎこちない生真面目さに、咲は思わず微笑んだ。

シロ「……どうしたの?」

咲「咲で、いいです」

シロ「……?」

戸惑ったように口をつぐんだシロに、咲は笑顔で返す。

咲「あなたには、名前で呼んでほしいです」

シロ「……サ、キ……。咲……」

咲「よろしくお願いします、シロさん」

シロ「分かった……咲」

困ったようなぎこちないシロの反応がおかしくて、咲はまた少し笑った。

咲「あの、出かける前にひとつだけいいですか?」

シロ「何?言ってみて」

咲「お姉ちゃんに連絡したいんです」

シロ「あなたの姉に……」

咲「お姉ちゃん、きっと心配してます。会えないならせめて私の無事だけでも知らせたいんです」

シロ「……分かった。あなたの望むように」

シロの承諾を得て、咲は制服のポケットから携帯を取り出す。
数回の短いコールが続いた後、息せき切った姉の声が携帯の向こうから響いた。

照『――――咲!』

咲「お姉ちゃん、あの……」

照『咲、無事だったの!?今どこから掛けてるの!?』

咲「心配かけてごめんなさい、ずっと連絡取れない状態で……とにかく、私は無事だから」

照『どういうこと?お前が事故に遭って病院に運び込まれたって、ついさっき連絡があったのに』

咲「え……?」

照『私はこれから病院に向かおうと家を出るところだった。なのにその咲から連絡があるなんて……どういうことなの?』

咲「……!行っちゃ駄目、お姉ちゃん!それは罠だよ!」

一族は咲に対する人質として照の身柄を押さえようと考えたのだろうか。
嘘の情報で照をおびき寄せ、姉を捕らえようと画策したのか。

照『罠?何のことなの、咲?』

咲「とにかく行っちゃ駄目!私は無事だから!」

咲は切羽詰まった早口で、シロに姉の状況を伝えた。

咲「このままじゃお姉ちゃんが危ないんです!」

シロ「……仕方ない。ここの場所をあなたの姉に伝えて」

咲「お姉ちゃん、今から言う場所に急いで来て」

携帯を固く握り締め、咲はこの場所までの道のりをシロの語るまま姉に伝えた。


――――――――――

照「咲……!」

咲「お姉ちゃん、ここだよ!」

車から降りた照に、咲は大きく手を振って居場所を知らせる。
声に振り返った照は、咲の隣にたたずむシロに視線を合わせ、眉を寄せた。

照「……彼女は?」

咲「私を助けてくれたシロさんだよ。シロさん、紹介します。私の姉の……」

姉の許に駆け寄ろうとする咲を手で制し、鋭い眼差しを細めてシロは照を検分するように見た。

シロ「……。あなたの姉からは一族の血を感じない」

咲「良かった……」

シロがさえぎる手を降ろしたので、咲は迷いなく照のそばに駆け寄った。

照「咲、電話ではよく分からなかったんだけど……いったい昨日は何があったの?」

咲の身体を両腕に受け止め、怪我したところは無いか、ひと通り探るように咲の全身を確かめる。
妹がまったくの無傷だと悟ると、ようやく照は安心したように笑顔を見せた。

照「何があったのかと、昨夜は気が気じゃなかったよ」

咲「ごめんなさい。沢山のことがありすぎて……」

照「とにかく、一度家に帰ろう。良子さんも心配してる」

咲「駄目なの、お姉ちゃん。私がお姉ちゃんのそばにいたら危険に晒してしまうから、まだ戻れないの」

照「どうして?」

咲「今夜だけは、駄目なの。明日になれば帰るから。だから……」

照「……明日では遅いんだよ、咲。今夜でなければ」

咲「え……?」

その声の中にこれまで感じたことのない違和感を覚えて、咲が顔を上げたその時。
照の手のひらに出現したモノが何なのか、にわかに理解できず咲の思考が凍り付く。
……黒く鈍色に光る、両刃の剣だった。

シロ「……おまえは!」

目を見張ったシロに向けて、照は手にした剣を瞬時に構える。
そして驚くほど鋭い動きでそれを投げつけた。
瞬きするほどの間の出来事だった。

あのシロが一歩も動くことの叶わぬ速さで剣は一筋の線となって走り、
その刀身は狙い違わずシロの胸を貫いた。

シロ「く……は……」

衝撃に弾き飛ばされたシロの身体は大きく空に枝を広げる木の幹に、
身をかばうことも出来ず背中から叩きつけられる。

咲「――――!」

何が起きたのか分からず、ただ声にならない悲鳴を上げる咲の身体を照が強い力で引き寄せた。
バランスを崩し、腕の中に倒れ込む咲の身体を照は優しく受け止める。
抱き寄せた咲の耳に唇を寄せ、照がそっと囁く。

照「吸血鬼を殺すには、ハシバミの木の杭。では不滅の代行者を滅ぼすには何が必要だと思う?」

咲「おねえ……ちゃ……」

照「苦しい?代行者。不死の者といえど痛みはあるようだからね」

照の言葉が意味するものを、咲の凍り付いた脳が次第にしみ通るように理解していく。
凄まじい力でシロを貫いた剣は、そのまま背後の木の幹にシロの身体を縫い付ける形になっている。
木に背をもたせかけ、倒れ込んだ姿勢のままシロは立ち上がることも出来ず、無言で苦痛に耐えている。

身体を貫く剣を引き抜こうと、胸に生えた柄頭に手を伸ばしたシロはそこで動きを止めた。
シロの顔色がこれまで見たこともないほど血の気を失っている。

シロ「……これ、は……」

照「力が入らないでしょう、代行者。今のお前にその剣を抜くことは出来ない」

咲「お姉ちゃん、シロさんに何を……!?」

照「その剣は始祖が遥か昔に代行者を倒すべく、力を秘めた石から造り出した物」

照「かつてこの地上に栄え、やがて始祖によって滅ぼされた古代都市の地下遺跡から発掘された」

シロ「……!」

照「その石を介して力が失われていくのが分かるでしょう?その剣は、石の持つ光の力を吸収する性質を逆利用させてもらったもの」

照「お前たち代行者の持つ剣には及ばずとも、お前の動きを僅かの間封じる程度の用は足りる」

照「残念だったね、代行者。咲は返してもらう。今夜の儀式に咲は欠かせない存在だから」

シロを代行者と呼ぶ姉の冷徹な横顔を見上げ、咲は唇を震わせた。
始祖の名を呼び、ためらうことなくシロを傷つけた照。
咲を今夜の儀式に欠かせない存在と断じた照。
では、それでは姉は……

咲「……お姉……ちゃん……」

かすれた呼び声に照が振り向く。その顔はいつもの優しい姉のものだった。
けれど咲にはもう、この人を味方と思うことは出来なかった。

咲「お姉ちゃんは、一族の人間だったんだね……!」

力いっぱい胸を突き飛ばして、咲は照の腕から逃れた。

照「……その通りだよ、咲。私は一族の血をひく者のひとり」

シロ「なぜ、お前はその気配を断っていられたの。お前からは確かに一族の匂いを感じなかった。けど今は……」

照「私は歴代の一族の中でも、特に強い始祖の力を備えて生まれた。ほんの一時であれば代行者を謀ることも可能な程に、ね」

シロ「あなたの持つ、その力の強さ……。あなたはもしや、長……!?」

照「そう。私は一族を統べる者。始祖の意思の許、一族を導く存在」

咲「お姉ちゃんが……」

ふと、その時になって初めて森の様子がおかしいことに気が付いた。
森のそこかしこに溢れていた鳥や虫、小動物の気配がきれいに消えている。
代わりにあたりを包むのは、異形の獣のあかく飢えた視線と荒ぶる無数の息遣い。

いつの間にか森は我が物顔に這い回る眷属に侵され、異端の存在に怯えた小動物は皆、森のどこかに身を潜めてしまっていた。
そしてその眷属達を支配下に置くのは、咲が今日まで姉と慕ったこの目の前の人物なのか――――

照「一族を代表する者として、我らを脅かす代行者の存在を見過ごすことは出来ない」

照「代行者、あなたにはここで退場してもらう。この先の舞台にあなたという役者は必要ない」

シロ「……私をそう簡単に退けることは出来ない」

照「自分は不滅の存在だから……という訳ね。死なない、いや死ねないというのは、時に残酷なものだね」

照「それは、苦しみが終わりなく続くことを意味するのだから」

抵抗を封じられ、動けないシロのそばに照がゆっくりと近づく。

咲「……!」


1、いう事を聞くから、この人に手を出さないで!
2、身体を張って姉を止める
3、何も見たくない。顔を伏せる

安価下

咲「止めて、お姉ちゃん!いう事を聞くから、この人に手を出さないで!」

シロ「私のことはいい、あなたは逃げて!」

照「……この女のために私に従うと言うの?」

咲「儀式には私がいればいいんでしょう?お姉ちゃんの望み通りに何でもする。だからシロさんをこれ以上傷つけないで……」

照「………」

照の靴が砂利を踏んで、苛立ったような音を立てた。
それほど大きな音でもなかったのに、すくみ上がった咲の心臓はその音に激しく反応して早鐘を打ち始める。
急に興味を失ったようにシロに背を向けた照が、咲へと向かっていく。

照「何でもする……?なら、その通りにしてもらおう」

姉の指が咲の腕を捕らえ、力任せに引き寄せた。
必死に抗う咲を背中から抱き込むと、もがく咲の髪をわし掴みにし、顎をのけぞらせた。
咲の白い喉が姉の前に無防備にさらされる。照はその首筋に唇を寄せると、肌に軽く歯を立てた。

咲「あ……!」

やわらかい喉を喰い破られそうな恐れに、咲の身体がすくむ。
その怯えを愉しむのか、照は咲の肌に唇を寄せたまま含み笑いを漏らしてささやく。

照「何でもするんでしょう、咲。それなら私をお前の反応で愉しませて」

抱き込んだ身体に、シロに見せつけるように指を這わせ、照の舌が首筋から頬を伝い、耳を噛む。

咲「……ふ……」

恐れとは違う何かが、咲の背にぞくりと震えを走らせる。

照「考えたことはない?代行者。永きに渡る虜囚の日々に、始祖に囚われた彼女がどんな目に遭わされて来たか」

シロ「……!」

照「汚れない魂をあらゆる手管で貶め、苛み、穢す。そんな風にとらえた獲物を愉しみながら、無為の日々、始祖は渇きを癒してきた」

照「……咲、思い出してごらん」

姉のささやきに、咲はびくりと身体をすくませる。

照「お前の魂は覚えているはず。あの日々を」

やわらかく耳に歯を立てられる。

照「お前に触れた、あの指を」

制服の裾をまくりあげ、指がゆっくりと肌を這う。

照「お前の魂に刻み込まれた、あの悦楽を」

熱い唇に、痛いくらい強く肌を吸い上げられて体が震える。

照「思い出してごらん……」

咲「……やめて、お姉ちゃん……」

姉の言葉によって、魂の深いところから静かに浮上してくるものがある。
それは今の咲には憶えのないはずの記憶。囚われ続けた魂の記憶。

咲「嫌……私はこんなの、知らない……!」

照「お前は今も変わらず私のもの。忘れることなど許さない」

シロ「――――彼女を離して!」

咲に対する照の仕打ちに耐えかねたように、シロが懸命に身をよじる。
残された最後の力をしぼり、シロは強引に身を起こした。
胸を貫かれた状態のまま、半ば身を千切る勢いで幹に食い込む刀身を身体ごと引き抜く。

シロ「く……!」

あまりの激痛からか、シロは何とか自由を取り戻した膝を折ってうずくまる。
が、一瞬後には立ち上がり大きく地面を蹴った。
シロは咲たちの頭上を越え、その背後に降り立つと、照の足首を刈るように低く鋭い蹴りを放つ。
その攻撃を避けようと、身をかわした照の腕から咲を捕らえる力がゆるむ。

シロ「……こっち」

シロに呼ばれ、まろぶように咲は照の腕を逃れる。
半ば倒れ込むように駆け寄った咲の身体を抱え、シロは再び大きく跳躍した。

照「……驚いた、その身体でまだ動けるの……」

姉の感嘆したような声が、風に巻かれて遠くなる。

シロ「息を止めて」

担がれた耳元にシロの声が小さくささやきかける。
何故と問い返すこともなく、咲は大きく吸い込んだ息を止めた。
自由落下の感覚とともに咲の眼前に水面が迫る。
シロが飛び降りたそこは渓谷の間を流れる川面が大きく広がっていた。

派手な水柱を上げ、シロに抱えられた状態のまま咲の身体は水中に没した。

……どれくらい下流に流されただろうか。
気が付けば、流れのゆるやかになった浅瀬に二人は流れ着いていた。

シロは、と見れば咲の身体を離さないよう強く抱え込んだまま気を失ったようだ。
彼女の胸には刀身が痛々しく突き立ったままだ。
シロの周囲の水が血の色に濁っている。このままでは血は止まらない。
力尽きて意識のないシロの身体を、咲は懸命に岸に引き上げた。

渇いた下草の上にシロの身体を横たえ、咲は荒い息をついて汗をぬぐった。
冷たい唇にそっと指を増れて確かめると、シロが微かに呼吸を繰り返しているのが分かる。

シロ「……咲、怪我はない?」

声に弾かれたように顔を上げると、固く閉ざされていたシロの瞼が開かれ、こちらを見ていた。
自分の方がよほどひどい状態なのに、先に咲の安否を確かめるシロにかすかな苛立ちを覚える。

咲「私は大丈夫です。シロさんの方がずっとひどい怪我……」

シロ「私なら問題ない。私の身体はどんな深い傷も、時間が経てばいずれ回復する」

咲「でも痛みはあります。あなたの身体は機械じゃない。無茶ばかりしないで、もう少し自分の身体を労わることを考えてください」

シロ「………」

咲「シロさん……?どうかしましたか?」

シロ「そんな風に言われるのは、ずいぶん久しぶりのことだと思って。……心配かけたね」

咲「……シロさん……」

シロ「咲、剣を抜いてほしい。私ひとりの力では、この剣を抜くことは出来ない」

咲「で、でも……」

このまま剣を引き抜けば、今は刃先でせき止められている傷口が開いて大量の出血が起こるだろう。
一度にあまりに多くの血が失われれば、いかなシロといえど、ただでは済まないのではないか。
ためらう咲の腕を掴んで、シロはきっぱりと言った。

シロ「構わない。抜いて」

咲「……分かりました」

息を呑んで覚悟を決めると、緊張に震える指を柄に添え、シロの胸に生えた剣を一息に抜いた。
血を吸って濡れ光る刃が抜かれた瞬間、大きくシロが咳き込んだ。
両手に抱えた血塗られた剣を川面に放って沈めると、咲はシロの傍らにしゃがみ込む。

肺をやられたのだろうか。咳き込むシロの口元から鮮やかな色の血が零れ落ちる。
昨夜の比ではない量の出血に、見ている咲の方がめまいを起こしそうになる。
何か止血するための者が必要だったが、身一つで逃亡を続ける二人の手元には応急処置のための布一枚すらない。
せめて新たな血が流れるのだけでも抑えようと、そっと押し当てた咲のハンカチが見る見る赤く染め上がる。

咲「血が……まだ止まらない……」

シロ「剣さえ抜けば、時間はかかるけど後は何とか回復する。でも私はまだしばらく動けない。咲は一人で逃げて」

咲「シロさんを置いて逃げるなんて出来ません」

シロ「私に構わないでいい。行って」

咲「そんなこと出来ません!私のせいで、こんなに傷ついてしまったシロさんを置いて逃げるなんて嫌です!」

咲「シロさんのために、私は何も出来ないかも知れない。でも、せめてそばにいさせてください」

シロ「あなたは私の行為に恩義を感じる必要はない。あなたを守るのは、私が勝手にしていること」

シロ「たとえ私が戦いに敗れても、そのことであなたが思い悩む必要なんてない」

咲「シロさん、あなたは……もしかして私のために命を落としても構わないつもりでいるんですか……?」

シロ「あなたを守ることが出来るなら、死もいとわない」

咲「そんな勝手なこと言わないでください!シロさんの犠牲で助かったとしても、私は嬉しくありません!」

咲「私を助けることだけ優先させないで、あなたが生き延びる事を第一に考えてください……!」

シロ「……あなたは……。あの人と同じようで、やはり違う」

咲「違うと辛いですか?」

シロ「いや、違うことを今は心地良いと思う」

咲「シロさん……」

シロ「咲、肩を貸して。諦めるつもりが無いのなら動こう。間もなくここに追ってがかかる。その前に移動しなければ」

咲「……はい!」

よろめきながら立ち上がったシロに肩を貸し、少しでも回復までの時間を稼ごうと、
二人は頼りない逃亡の歩みを開始した。

思ったよりあの剣に与えられたダメージは大きいのか、シロの傷はなかなか回復しない。
時間は刻一刻と過ぎ、追手の気配はもう間近に迫っている。

シロ「私がここで追手を引き付ける。その間に咲は逃げて」

咲「……いえ、私が追手を引き付けます。だからシロさんはここで傷を癒してください」

シロ「!!私のことはいい。あなたが危険を侵す必要はない」

咲「もしかすると、眷属は私の血に惹かれて追ってくるんじゃないですか……?」

シロ「………」

咲「私がいなければシロさんは見つからないかも知れないんですね」

咲「……私ひとりなら、捕まってもすぐに殺されることはないでしょう。私は贄として儀式に必要だから」

咲「けど、シロさんは違う。次に捕まったら、きっと……。私はあなたに逃げ延びてほしいんです」

シロ「咲……」

咲「今まで、守ってくれてありがとうございました。……あなたはもう充分に約束を果たしたと思います」

咲「そんなになるまでシロさんは私を守ってくれた。だから今度は私があなたを守る番です。逃げ延びてください、シロさん」

シロ「止めて……!」

引き止めようと伸ばされた手をすり抜け、咲はシロをその場に残したまま岩陰から走り出た。
出来る限りシロの潜む場所から離れようと、足場の悪い岩場を乗り越え、精一杯の速さで駆ける。


手のひらや指先が切れるのも構わず、岩に取りつき荒れた鋭い岩肌を夢中でつかむ。
転んでもすぐに立ち上がり、ひたすら走り続ける。
少しでもシロから遠くへ。

血の匂いに誘われたのか、咲を追う気配が迫る。
全速力で走り続けたせいで、肺が灼けつくように熱くて息が苦しい。
心臓が破れそうなほど鼓動を打つ。

次第に数を増し、ひしひしと迫る獣の気配。
咲はただ息を切らせ、重くなる足を前へ前へと動かし続ける。

――――気が付けば、四方を気配に囲まれていた。
葉陰に光るあかい無数の目が咲を取り囲んでいる。もうどこにも逃げ場はない。
咲は両手を地面について、その場にうずくまった。

荒い息をつく咲の前に、砂利を踏む靴音が近づく。
喉をあえがせ顔を上げると、冷たい目を細めた照が咲を見下ろしていた。

照「お帰り、咲。鬼ごっこはもうお終い?」

咲「……お姉ちゃん……」

照「お遊びはここまでだよ。お前はあの女のために良く頑張った。もう充分でしょう?」

立ち上がることも出来ない咲の前にしゃがみ込むと、照は咲の顎をつかみ上げた。

照「儀式の刻まで、今しばらくお休み……咲」

姉の声が優しくささやきかけ、その指が額に触れた瞬間。
軽い衝撃とともに視界が暗くなる。

まもなく咲の意識は、底の見えない暗闇へと滑り落ちた――――


今日はここまでです。
続きはまた後日。


――――――――――

強く、弱く。遠く、近く。
寄せては返すさざ波のようなリズムで繰り返される、不可思議な響きの詠唱が耳をくすぐる。
聞き覚えのないその響きが、封じられた存在をこの世界に招く謡いであると、何故か分かった。
詠唱と儀式により活性化され、変質した場に満ちた力の源が始祖のむき出しの魂に触れ、目覚めをうながす。


咲「……ん……」

重いまぶたを開いて咲が目覚めると、辺りに人の気配はなかった。
動こうとして、自分が囚われの身になっていることに気づいた。
咲の手首は高く掲げられた状態で、黒い石柱に固く紐で縛りつけられている。

自由になるのは視線くらいなものだったが、それも縛られた腕が邪魔をして動かせる範囲は限られていた。
紐を解こうと身をよじったが、きつく縛られているため解くことが出来ない。
手首を紐が擦る動きに痛みを感じてしばし息を詰める。
かすかな体のうずきと喉の渇きを覚えて、咲は熱をはらんだ吐息をついた。

クロ「意識が戻ったようですね。夢うつつのままでいれば辛いこともなかったでしょうに」

咲「……!」

驚いて視線を上げると、いつの間にかその場に現れたクロが優しく微笑みかけた。

クロ「ほら、その眼でしかと見てください……あの姿を」

クロの指先の示すままに顔を上げ目を凝らすと、光の紗の向こうに何かが見えた。
銀色の長い髪、美しく整った顔立ちの女性。……いや、女性に見える両性具有の存在。
一見人と変わらぬ姿かたちだが、その背に生えた翼が、この存在が人ではありえないことを物語っていた。

咲「……あれは……天使……?」

クロ「いいえ―――――翼持つ邪神。一族の崇める存在である、始祖のお姿です」

眼前に輝きそびえ立つ、青白く澄んだ結晶のオブジェを見上げ、咲は呆然とつぶやく。

咲「あれが……始祖……」

琥珀の中に封じ込められた蝶のように、
澄んだ氷塊のなか刻を止め、凍りついて動かぬその姿は命あるようには見えない。

クロ「召喚の詠唱が始祖の許に届く頃、月はちょうどこの真上に達する。その時この世界と始祖の封じられた地が完全に重なります」

クロ「ほんの束の間ですが、始祖は縛を解かれ、この場に満ちた力が始祖の身をこの世界に実体化させる」

クロ「そのわずかな刻限に始祖はあなたと交わり、力を得るのです。ああ、その瞬間が待ち遠しい……ねえ、長」

クロの言葉に咲の身体か強張る。
こちらにゆっくりと近づくその姿を、咲の瞳はしっかりと捉えてしまう。
この期に及んでも信じたくはなかった。
姉の照が、咲を贄にと望んだ一族の長であるということを。

照「咲……」

咲「……お姉ちゃん」

照は光の乱舞する円陣にためらうことなく足を踏み入れ、咲の顔を覗き込んだ。
頬に伸ばした指先で触れながら、照は穏やかに語りかける。

照「咲、お前が私に逆らうことなく黙って従いさえすれば、ずっとお前を守ってやれる」

照「心も身体も、何もかも私に捧げること。そうすれば楽になれる。お前は私に庇護を離れては生きていけない」

照「受け入れなさい、咲。私の支配を」

咲「お姉……ちゃん……」

照の指が咲の顎を捉えたその時。

遠くで鈍い爆発音と、空気を揺すぶり震わせる振動が起きた。
同時にこの儀式の場を照らす証明が、一瞬暗くなる。

照「―――――何事?」

『侵入者です!』

照の問いかけに直ちに反応し、マイクの声が答えた。

『侵入者は施設内の各所に爆発物を仕掛けた模様。警備班が侵入者の行方を追っています』

『爆破による指揮系統の分断と、消火活動の優先により現在、侵入者を捕らえることが困難な状況です』

クロ「……やはり来ましたね、シロ。一族の初代との盟約通りシロは私が討ちます。あなたは手を出さないでください」

照「好きにして。あれのことはあなたに一存してある。儀式が終わるまで足止めできればそれで良い」

クロ「……決着をつけます。永きに渡った因縁も今日限りにしたいと思いますので」

伸ばした右手の先に白く輝く剣を出現させると、クロはそれを鋭く振るって風を斬った。
儀式の間を閉ざしていたぶ厚いドアが外から二つに裂かれて倒れた。
クロと同じく剣を構え、斬り捨てたドアの残骸を乗り越え、シロが現れる。

クロ「何もかも、今宵で終わりにしましょう。シロ」

シロ「……遥か昔に終わっていたはずの事を、こんな時代まで持ち越さなければならなかったのは、全てあなたの裏切りが始まりだった」

クロ「そう……私が代行者としての責務の通り、あなたと、そして彼女と力を合わせていれば全てが終わっていた」

咲「……!クロさんが、シロさんと同じ代行者……」

クロ「……あなた方が必要としたのは、私という個じゃない。代行者の力を分ける器としての資質のみ」

クロ「一人の人間に与えるには危険すぎる力を、ふたつに割いて託す片割れとして」

クロ「代行者の片割れ、それだけの存在でいる事が私には耐えられなかった。私という人間を、シロにも皆にも認めさせたい」

シロ「………」

クロ「あなたの心に刺さる棘として忘れられない存在となるなら、同胞を裏切り、ヒトの敵と呼ばれることも厭わない」

クロ「なのに、結局あなたは本気で戦ってくれない。本当は私との戦いを終わらせるだけの実力を持ちながら」

クロ「その見下すような態度がどれほど屈辱か、あなたには決して分からないのでしょうね」

クロ「あなたがもっと私を憎み返してくれれば、こんなにも渇くことはなかった……」

シロ「……あなたを裏切りに走らせたのは、私なの」

クロ「今さら言っても詮無いこと、過去は変えられません。……さあ、今度こそ全力で私と戦いなさい」

クロ「あの人の魂を助けたければ、まずは私を倒すことです。私を倒さなければ彼女のところへは行かせない!」

怒涛のようにたたきつけられるクロの力強い斬撃を受け、かわし、シロはしのぎ続ける。
ふたりの力は拮抗している。何かのきっかけでこの均衡が崩されない限り決着はつきそうにない。
治りきらない傷が開いたのか、シロの足元に点々と赤いしずくが飛び散る。

クロ「ずいぶんと勝ちを焦っているようですね、シロ。それほどまでに彼女を救いたいのですか?」

シロの攻撃をすべて受け流しながら、クロはシロをなぶるように猫なで声でささやく。

クロ「けど、焦れば焦るほどあなたは私に勝てなくなるのです」

シロの体勢が崩れ、一瞬動きが乱れる。 そのほんの僅かな隙をクロの目は見逃さなかった。

クロ「ほら、こんな風に……隙だらけです、シロ!」

叫びとともに、クロは剣をシロの腹に突き立てた。

シロ「……!」

初めてシロの顔に苦痛の色が走る。
シロに苦痛を与えたことに喜びを覚えるのか、クロは残忍な笑みを浮かべる。

シロ「―――――捉えた」

クロ「え……」

腹をつらぬかれたまま、剣を握るクロの手首を捕らえ、
動きの止まったクロに向けて、シロは右手の剣を短槍のように構える。

クロ「馬鹿な……!己の身をおとりに私の動きを止めた!?」

驚愕の叫びが終わらぬ速さで、シロの剣がクロの胸を捉えた。

クロ「ぐああっ!」

クロの胸をつらぬいた刀身が光を放ち始める。
その輝きに、シロの意図を悟ったクロが顔色を変えて叫ぶ。

クロ「シロ、あなたは石を共振させるつもりですか!?そんなことをすれば、あなたもただでは済まない!」

シロ「………終わりにしよう。あなたの望み通り」

クロ「え……」

シロ「あなたを倒すことから、私はもう逃げない。すべての罪は私が背負う」

シロはきつくまぶたを閉じ、剣を握る腕に力を込めた。

クロ「うああああ……!!」

辺りに閃光があふれ、光に灼かれた咲の視界が白一色に染まる。
シロの力をまともに受けたクロの苦痛の叫びが、白い闇のなか響き渡る。
クロの声が力を失うとともに、光も急速に収束する。

シロ「もっと昔に、こうすべきだった……」

クロ「それが分かっていながら、何故そうしなかったのですか?私を、認めないんですか……?」

シロ「クロを認めないつもりなんてなかった。ただ、どんな形でも生きていてほしいと。でも、それがあなたには苦しかったの……」

乱れた前髪の隙間から、クロはゆっくりと視線を上げた。
急速に光を失う瞳に以前のような力はない。
しかしその眼差しは静かに安らいでいて、満足気にすら見える。

クロ「……そうですか。ようやくあなたは認めてくれたんですね。対等の存在として、倒すべき者として……私を」

クロ「その言葉を、あなたから聞けて良かった。……姉さん」

シロ「………」

クロの身体がゆっくりと淡い光に包まれ始める。

クロ「二つに分けられた力も、いつかはひとつに還る。その時が、来ました」

クロ「……最後まで、あなたに勝てませんでしたね。姉さん……」

最期に穏やかに澄んだ眼差しをシロに向け、クロは静かな笑みを浮かべた。
やがてシロの腕の中、クロの身体は光の粒子となって消えた。

クロの胸を貫いていた剣が寂しい音を立てて地に落ちる。
クロの力を得たことの、それだけが証のように刀身が輝いている。
妹の身体を支えていたシロの手は、暫くの間何もかも失せた虚空を抱いていたが、やがて静かに落とされる。
振り向かない背中に、言い知れぬシロの痛みを感じ、咲はかけるべき言葉を失った。

照「なかなか興味深いものを見せてもらった。片翼を自らもぎ取り、妹殺しの罪を背負った代行者……か」

シロ「残るはあなた一人。咲をそこから解放して。このまま退けば、命まで奪うことはしない」

照「……嫌だと言ったら?」

シロ「戦うしかないなら、手加減はしない」

落ちた剣を拾い上げたシロが、照に向けて構えた。

照「あなたに私が倒せるの?」

照は剣を構えるシロと対峙しながら戦うための武器も持たず、身を守るための盾さえ構えようとしない。
無防備にさえ見える照のその姿に、シロの剣先はためらいを見せる。

照「来ないのなら、こちらから行くよ。代行者」

照は地を蹴ると、シロに向けて猛然と駆けた。
シロの繰り出す斬撃を地に伏した頭上にかわすと、照は手のひらをシロに向けてかかげた。
何のつもりかと、退こうとしたシロの身体が次の瞬間、衝撃に大きく弾かれる。

シロ「ぐ……っ」

そのまま背後の壁に叩きつけられそうになるのを辛うじて身を返し、両膝で衝撃を殺してから床に降り立つ。
先に受けた傷口が、その衝撃に更に開いたらしい。シロの足元に落ちる血のしずくが数を増す。

シロ「それは……天雷の力!?始祖の力をどうしてあなたが……」

驚愕に目をみはるシロに、照は左手をかかげて見せつけ、静かに微笑んだ。
その指先に、静電気のような青白い雷が走る。

照「始祖の血にひそむ因子をもっとも顕著させた者。それが長と呼ばれる地位に立つ者の条件」

照「始祖の血を継ぐ者が、その力を使えたところで何の不思議もないでしょう?」

シロ「これまで一族の長と呼ばれる者と戦ったことも何度かある。でもあなた程の力の使い手に出会ったことはない。あなた……何者?」

照「……言ったでしょう?私は長だと」

再び照がシロへと迫る。
シロが繰り出した鋭い突きを、照はわずかに顔を逸らしただけでかわした。
刃を返し、続けて横殴りに襲う一撃を照は刀身に手のひらを当てて電撃で弾いた。
体勢の崩れたシロの胸に、空いた方の手のひらを押し当て、再び雷の放たれる光が走る。

シロ「くは……っ」

傷ついた胸にまともに電撃を喰らい、シロは受け身を取ることも出来ず壁に叩きつけられる。
血を吐いて膝をついたシロの手から剣がこぼれ落ちる。

照「癒えない傷を抱えた代行者なんて私の敵じゃない。咲の目の前で、己の無力を噛みしめながら死んでいくといい」

咲「お姉ちゃん、もうやめて!シロさん……!」

血の気を失い、冷たくなった指先を咲は必死の思いで握り締め、力任せに動かす。
自分に力があれば。この戒めが今すぐ解けたなら。
手を伸ばしたそこにいるシロを救うことが出来るのに。
何でもいい、後でどうなっても構わないから、シロを救うための力が欲しい。

腕が傷つくこともいとわず、咲は力の限りに己の手首をいましめる紐を引きちぎろうともがく。
咲は全身全霊を込めて願った。
力を―――――


その時、咲の中で何かが弾けた。
放出する場を持たず、咲の中で渦巻いていた力のうねりが強い意志を得てひとつの方向性を見出した。
触媒となったのは、シロが持たせてくれたあの石。
石から溢れ、ほとばしった光が瞬時に拡がり、その場を白く灼いた。

咲「あ……」

閃光は咲を戒めていた紐を一瞬にして灼き切り、咲を囚われの身から解放した。
足元もおぼつかない眩い光の中、いったちどちらの方向を目指すべきか、とったに迷った。
―――――戦うには、シロの武器が必要だ。
そう考えた咲は、先ほどシロの剣が落とされたと思われる方向に足を進めた。

咲「……!」

指先に硬い感触が触れた。
手探りで確かめると、それは咲の求めたシロの剣だった。柄を探り当てて握り締める。

……あたりに拡散していた光が少しずつ消えていく。
ゆっくりと視界が戻る。
シロの剣を抱え、立ち上がろうと見上げると、目の前に照が立っていた。
思わぬことに咲はぎくりと身を震わせる。

照「咲、その剣を渡しなさい」

咲「……嫌」

照「その剣は代行者の意思を具現化したもの。戦いへの意思ある限り消えることはない」

照「でもどうやら今の彼女を見ると、現状を維持するのがやっとのよう。あんな弱った身体ではもはや戦えまい」

うながすように咲の視線を向けさせた先に、満身創痍といった身体のシロの姿があった。

照「お前が大人しくそれを私に渡せばすべての因縁が終わる。代行者の永く辛い生に引導を渡してやるのがお前の役目でしょう」

姉に何と言われようと、この剣を渡すことはだけは出来ない。
咲は差し伸べられた手をきっぱりと拒んだ。

咲「嫌、お姉ちゃんにこの剣は渡せない……!」

照「あくまで私に抵抗すると言うの、咲。そうしてあの代行者を選ぶと。……お前は結局最後まで私を選ぶ事はないんだね」

咲「お姉ちゃん……」

照「よく分かった。なら力でお前を奪う。あの女から……」

ゆっくりと床を踏みしめ、照が咲へと近づく。
決して奪われまいと強く剣を抱え込み、近づく姉から逃れるため力の入らない膝でいざり下がる。

その時、もはや動けないかと思っていたシロが地を蹴り、照に向かって躍りかかった。
シロの捨て身の襲撃をかわすため、照は素早くその場を飛びすさる。
地に降り立つ衝撃さえ傷ついた身体には辛いのか、着地の勢いを殺しきれずシロはよろめいて床に手をつく。

咲「シロさん……!」

荒い息をつくシロに片手を伸ばし、傷ついたシロを照からかばうように強く抱きしめた。

照「咲の腕の中で死ねることを幸いと思いなさい」

シロ「ただでは死なない。私の命を賭けて、あなたを道連れにしてみせる」

照「そんな身体であなたに何が出来るの」

咲「シロさん……!」

このままでは、シロは咲を守ろうとして命を落とす。
この人を自分のために死なせなくはない。
シロの力になりたい。守られるだけでなく、この人を守りたい――――


祈りが力となり、咲の中から再び光が溢れ出す。
先ほどのような空間を灼き尽くす烈しいものではない。穏やかで暖かくやわらかな光。
傷ついたシロを守るように広がり淡光が降り注ぐ。

シロ「……傷が……癒えていく……。この力は、あの人の守りの力……」

天を仰ぎ見上げるシロの眼差しが、懐かしむような色を帯びる。
光はやがて静かに消えていった。
抱きしめる咲の指をそっと握り返すと、シロはゆらりと立ち上がる。
見上げる咲の手から剣を受け取り、構えた。

たたずむ照の指に雷電が爆ぜる。
互いの力のすべてを賭け、ふたりは刃を交わした。

咲「……!」

シロの剣が真っすぐ照の胸を貫いた。
ゆっくりと姉の身体が前のめりに倒れていく。
その一瞬に、照が向けた不思議な微笑。その意味を推し測る間もなく、照は大地にその身を沈めた。

咲「……お姉ちゃん……」

静かに横たわるもの言わぬ照の骸に触れると、ぬくもりと共に姉の魂が失われていくのが分かった。
この人は咲を騙して利用した人。けれど本当にすべてが偽りだったのだろうか?
姉が咲に与えてくれた愛情のいくつかは、姉の本当の想いだったのではないだろうか?
しかしその答えを訊くことは、もはや叶わない。

異なる次元が重なる衝撃によって引き起こされた振動が、音もなく空間を震わせる。
始祖を封じ込めた光の結晶が白熱の輝きを増した。結晶の表面にさざ波が小刻みに走る。
氷塊が溶けるように、結晶の表層は見る見る硬質さを失う。
今や始祖を包む結晶は、物理法則を無視してそびえ立つ水の壁へと変じていた。

シロ「……目醒める」

シロのつぶやきと同時に大気は一瞬、真空のように音を失う。
突然訪れた静寂に、心臓の鼓動が早鐘を打つ音が咲の耳奥に響く。

始祖のまぶたが数度震え、ゆっくりと開かれた。
透徹した氷のような眼差しが白いまぶたの奥から現れる。
幻想的なあかい瞳に心を奪われ、咲は声もなくその瞳に見入った。

シロ「目を見ては駄目。――――魅入られる」

シロの冷静な言葉に、頭から冷や水を浴びせられたように咲の意識が戻る。
慌てて始祖の眼差しから視線を逸らす。

始祖を見上げ、シロが剣を構える。

咲「どうするつもりなんですか、シロさん?」

シロ「あれを倒す。ここで逃せばあれは地上を狩場にヒトの命を貪り、より強い力を得る」

咲「ひとりで戦うつもりなんですか!?無茶です!」

シロ「あなたが私に戦う力を与えてくれた」

咲「え……?」

シロ「咲とクロの力を得た今の私なら、あれに止めを刺すことも可能だと思う。咲はこの場から離れて」

咲「私も……私もシロさんと一緒に戦わせてください」

シロ「駄目、危険すぎる」

咲「お願いします!囮でもいい、何か私に出来ることがあるのなら教えてください。もう守られてるだけなのは嫌なんです!」

シロ「……分かった。あなたの力を私の貸して」

咲「シロさん、ありがとうございます!」

シロ「未だ贄を得ていない始祖は完全じゃない。一時的な召喚の儀式によって仮の器を得てこの地に降り立っただけ」

シロ「今の状態があれを倒す唯一の機会。……石を使って」

咲「石を……」

シロ「強い思いを込めて石に願えば、石はあなたが力を操る助けとなる」

シロ「あなたの魂のうちに潜在する力であれば、始祖を止めることが出来るかも知れない」

咲「……分かりました。やってみます」


獲物を魅了する優美な動きで、封じられた空間から始祖の白い指が伸ばされる。
まるで水面をかき分けるような容易さで、阻まれることなく始祖の指先は結晶を抜ける。
封じの檻は今や完全に力を失っているようだった。

シロ「……来る!」

残忍な悦びを含んだ始祖の視線が、咲の姿を捉える。

―――――来ヨ、我ガ贄―――――

始祖の嵐のような思念が、咲に向けてたたきつけられる。

咲「―――――!!」

雷に撃たれたような衝撃に、そのまま意識を失いそうになる。
倒れかかった咲の身体をシロの腕が支えた。

シロ「己の意思をしっかりと持って。あなたがその気になれば、始祖に意識を持っていかれることもない」

シロの言葉を聞きつけたように目を細めた。
咲を背にかばい、始祖の視線を真っ向から受け止めたシロは怯むことなく名乗りを上げる。

シロ「私は代行者。あなたがこの地に存在すべき場所はない。元の次元へと戻って」

その言葉を理解したのか、始祖は確かな排除の意思をもって白い手のひらを高く掲げた。
手を差し伸べた空間から白い光が生まれ、まばゆい雷球となって周囲の空間を灼く。

シロ「……伏せて!」

シロが剣をかかげた所に、ふくれ上がった雷球が光の柱となって降り注ぐ。
……しばらくして膨大な光に灼かれた視界が戻る。

咲「シロさん……っ」

シロは雷の直撃を受けたかに見えたが、避雷針のようにかかげた剣で降り注ぐ雷撃を薙ぎ払ってしのいだらしい。
周りを取り囲む地面は黒く灼かれていたが、シロは無傷たっだ。

シロ「石に意識を集中させ、集めた力を始祖に叩きつけて」

咲「分かりました、やってみます……!」

シロにうなずき返して、咲は石に意識を集中させ始める。
シロは始祖に向けて剣を構え、斬りかかるため地を蹴ろうとする。

その時、シロの動きを牽制するように、至近距離に雷が落とされた。
大気を引き裂く轟音と閃光が目の前で爆発的に拡がる。

咲「シロさん……!?」

雷が落ちた瞬間、降り注いだ膨大な光の柱がシロを圧したかと咲の目には映った。
視界が戻ったとき、飛び込んできたのは剣をはすに構えたシロの立ち姿だった。
頭上に落ちた雷の力を、シロは先程のようにすべて剣で受けしのぎ切ったようだ。

シロ「続けて。始祖があなたを傷つけることはない」

咲「でも、シロさんは……!」

シロ「私のことはいい。……行く」

次々と落とされる雷を避けながら、シロは地を駆け、始祖の本体に迫る。
襲いかかる襲撃をかわし、始祖へと斬りかかった。
雷に刀身を弾かれ、シロの攻撃がかわされる。

咲「シロさん……」

咲が始祖の力を抑えることが、シロを助けることに繋がるのか。
思いを込め、始祖に打ち勝つ力を石に願う。
石が光り始めた。咲の祈りに応えるべく石は光を強める。

思いの強さに呼応して輝きを増す光に励まされ、咲は石を媒体に己の中の力を操ることに集中する。
咲の中で次第に力が強まっていく。

咲「今だ……!」

始祖へと向けて放った石の力が光の槍となって走る。
光はまっすぐに黒い石柱を貫き、その衝撃に柱は円陣から吹き飛ばされた。
あたりの空間に放出していた場を形成する要が倒れたことで、始祖を包む光が弱まる。

始祖の雷がシロを襲った。

シロ「ぐぅ……っ」

降り注ぐ光の柱を刀身で受け止め、シロの身体が衝撃に傾ぐ。
膝をつき、苦しげに息をつくシロを視界に止め、咲の心が焦りを覚える。

このまま雷を受け続ければシロは危ないかも知れない。
何とかして始祖の力を殺ぎ、シロを助けなければ。

咲「シロさん……!」

咲が始祖の翼に向けて放った石の力が、光の槍となって走る。



※コンマ40以上で攻撃がクリーンヒット
39以下でゲームオーバー

安価下

咲が始祖の翼に向けて放った石の力が、
光の槍となって始祖の翼を貫いた。
咲の攻撃はかなり効いたようだ。始祖が衝撃に怯む。


シロ「―――――捉えた」

その瞬間を見逃さず、シロの一撃が始祖の胸を深々と貫いた。


―――――グアアアアアアア!!


始祖の身を包んでいた力がこれまでにないほど弱まり、
その姿を薄れさせていく。
そして、やがて光の粒子とともに消失していった。


咲「……倒した、の……?」

シロ「ええ。始祖の存在はこの次元から完全に消えた」

咲「シロさん、身体は無事ですか?」

シロ「大丈夫。あなたの力に助けられた、咲」

咲「良かった……」

シロ「私は誓いを果たした。あなたと、そして私も共に永い束縛から解放されることになった」

静かな口調で語るシロの表情は、重い使命をようやく果たし終えた穏やかさに満ちて、
どこか突き抜けたように澄んでいた。

咲「ありがとうございます、シロさん。私、あなたにはいくら感謝の言葉を言っても言い切れません」

シロ「ううん。あなたを救うことは、私の願いだったから」

咲「シロさん……」

シロ「でも、ひとつだけ。今度はあなたに私の願いを叶えてもらえたら嬉しい」

咲「何ですか?私に出来ることなら何でも言ってください!」

シロ「じゃあ、言う。……咲、あなたにそばにいて欲しい」

咲「シロさん……。分かりました、私で良ければ、ずっとシロさんのそばにいます」

シロ「咲……」

うなずく咲に淡く微笑んだシロが、咲を引き寄せふわりと抱き込んだ。
シロの暖かな腕に包まれ、咲はほっと息をついた。

シロ「本当に今、あなたは私の腕の中にいるんだね……」

咲「はい……シロさん」

シロ「ずっと、こうしたかった。あなたを……抱きしめたかった」

咲「シロさん……」

シロの言葉にうなずき、咲もシロの背に腕を回してしっかりと抱き返した。


――――――――――

……あれから二年が過ぎた。
私は今、シロさんと共に日々を過ごしている。

代行者としての責務を終え、普通の人間に戻ったシロさんとふたり、
街の喧騒を離れ、静かで素朴な人々の住まう土地にいた。

もうすぐこの地は雪に閉ざされる。
静かで厳しい自然に肌で触れる生活は、
私たちがただ純粋に生きることに目を向ける良い機会になるだろう。

澄んだ空気と豊かな自然に囲まれて、
シロさんは少しずつ何かから解放されるように笑顔を取り戻していく。

咲「シロさん、雪が降って来ましたよ!」

寒さに鼻を赤くしながら、私は部屋へと飛び込む。

シロ「咲……。またそんな寒そうな恰好で外にいたの」

私の無防備だった襟首にシロさんが優しくマフラーを巻き付けてくれる。
薄着だった肩には厚手のオーバーを被せられた。
冷たくなった手のひらをシロさんの暖かい両手が包み込む。

咲「シロさんは心配性ですね。雪が降って来たのが見えたから、ちょっと出ただけですよ」

シロ「油断は大敵。さあ、手袋もつけて」

咲「分かりました」

素直に渡された手袋を身に着けると、シロさんはふんわりと笑みを浮かべた。

シロ「さ、これで良し。外に出てもいいよ」

咲「シロさんも雪を見ませんか?」

シロ「先に出てて。私も上着を着たらすぐに行くから」

咲「はい。待ってますね」

屈託のないシロさんの笑顔に同じように笑みを返し、私は部屋を出ていった。


――――――――――

夜の帳が降りる頃。
暖かなベッドの中、私はそっと寝返りをうつ。

隣に眠るシロさんの穏やかな寝顔をしばし見つめる。
肩の下まで捲れた掛け布団を被せ直してやると、シロさんが薄く目を開いた。

シロ「咲……」

呟きと同時に抱き寄せられ、私は抗うことなくその胸の中に身を寄せた。
シロさんの鼓動がとくんとくんと規則正しい音を刻むのが耳に心地よく響く。

咲「シロさん、あたたかいです……」

シロ「咲も、あったかい……」

私を抱きしめたまま目を閉じ、シロさんは再び眠りへと誘われる。
遠い昔に願ったように、この眠りが少しでも穏やかであるようにと祈る。


やがて春が訪れ、雪解けの水が川に溢れるのを待ち遠しく思いつつ、
私はそっと目を閉じた―――――。


シロ True End

シロ編は以上です
次の照編で最後になります
それではまた後日


照編はどうなるんだろうか
照が咲にほだされて改心するとか?

>>789
その辺はまあ読んでみてもらえると分かりますw

それでは照編を投下します

>>77から

咲「……こんな事、誰にも相談できないよ……」

穏乃「咲……。そうだな……」

何が起こったのか、当事者の自分たちにさえ分からないのに。
他人に説明して納得してもらう事など不可能だ。
二人は足取り重くその場を離れた。



校門まで戻り、泉に脅されたとき落とした鞄を探していると結構な時間がたってしまった。
学園祭の準備に駆け回っていた生徒たちの殆どはすでに帰宅したようだ。
ふと、そのとき校門前に車を停めた照の姿が目に入ってきた。

照「咲、遅いから迎えに来た」

咲「お姉ちゃん……」

照「どうしたの?そんな虚ろな目をして……学校で何かあったの?」

咲は手短に、先程出くわした異常な体験を語った。

照「そう……。転校早々大変な目にあったね」

咲「お姉ちゃん、信じてくれるの?」

照「当たり前でしょう。たった一人の大事な妹の話なんだから」

咲「お姉ちゃん、ありがとう……」

照「じゃあ、帰ろう。咲」

家に帰り着くと、照は咲を椅子に座らせて部屋を出て行った。
しばらくして薬箱と水に濡らしたタオルを手に戻ってくる。
咲の顎をつかみ、傾けた頬をタオルでそっと拭った。

咲「つ……っ」

叩かれた跡に触れられ、忘れていた痛みがよみがえる。
思わず顔をしかめる咲を見て、照が眉をひそめた。

照「よく冷やしておかないと。明日は腫れ上がってしまうからね」

そのまま顔を冷やすよう指示し、土で薄汚れた咲の制服を脱がせ、
咲の体に怪我がないか確認していく。

照「ん……、他は大丈夫なようだね。……咲?」

姉にまた自分のことで心配かけてしまった。
これ以上、照の負担になることを望まないのに。

照「……咲、私に話したことを気に病んでいるの?でも私はお前が頼ってくれた事が嬉しい」

そう言うと、咲を安心させるやわらかな笑顔を向けた。

照「疲れたでしょう?もう寝た方がいい」

咲「うん……」

照「今日のところはゆっくりお休み、咲」

咲「分かった……お休みなさい、お姉ちゃん」


自室に戻ると、着替えてからベッドに転がるように横になり、明かりを落とす。
そのまま咲は夢も見ないほど深い眠りに落ちた。

次の日も目覚めもあまり快適なものではなかった。
朝の光の下では、昨日の非現実な出来事はますます夢のように思える。

照「おはよう、咲。昨夜はよく眠れた?」

咲「うん……」

先に食卓についた姉に促され、咲は照の向かいの席に腰を下ろす。
朝食を素早く平らげると、咲は重い足を動かして学校へと向かった。




放課後の訪れを知らせるチャイムが鳴り、
咲の転校二日目が終了した。

そういえば照が、今日は帰りが早いと話していた。
咲が帰るのを待っているかもしれない。

素早く帰り支度を済ませると、咲は教室を出た。

ただいま、と声をかけながら玄関の扉を開けると、
玄関のたたきには照の靴が並べられていた。
咲も靴を脱ぐと、姉の気配のするリビングへと向かう。

照「咲、お帰り。早かったね」

咲「ただいま。お姉ちゃんこそ」

照「今日は咲にお土産があるの」

言いながら、照はテーブルの上に置かれた箱を持ち上げて見せた。

照「ムーン・ブランシュのモンブランを買ってきた。これはあまり甘くないから咲も好きだったでしょ?」

それは有名な洋菓子店のケーキだった。
この店の生クリームは甘さが控えめなので、甘い物が苦手な咲が好んで食べることが出来るお菓子だった。
昨日の一件で塞いでいた咲を気遣って、大学帰りにわざわざ買ってきてくれたのだろう。

咲「お姉ちゃん、ありがとう……」

照「今日はいい豆も手に入ったから、今から豆を挽いてコーヒーを淹れてあげる。待ってて」

コーヒーミルを食器棚から取り出してテーブルに並べ、アルミの缶容器から分量を量って豆を移し、挽く。
ガリガリと心地良い音を立てて挽かれるコーヒー豆の芳ばしい香りが食卓に広がる。
熱い湯を沸かし、挽いた粉の上に注ぐと薫り高い湯気が立つ。
じっくり時間をかけて蒸されながら、雫が一滴ずつサイフォンを落ちていく。

そうやって照がコーヒーが入るのを待つ間に、
咲はケーキを箱から皿に移してカップと共に食卓に並べる。

淹れ終えたコーヒーをカップに注いで、やや遅めのティータイムの準備が整った。
姉に勧められ、ほろ苦い芳香を楽しみながら、咲はカップに口をつける。

照「味はどう?」

咲「とっても美味しい……」

素直な感想を述べると、照は顔をほころばせた。

照「喜んでもらえたようで良かった」

咲「お姉ちゃんは昔から、コーヒーを淹れるのが上手いね」

コーヒーの良い香りに包まれたリビングで、
仲の良い姉妹二人はなごやかな団欒の時を過ごした。

姉と他愛ない会話を交わすこのしばらくの間、
咲は心をわずらわす事柄から解放された。

咲「……ありがとう、お姉ちゃん」

姉への感謝の思いを込めた小さな一言を聞き逃すことなく、
照は咲に優しく微笑み返した。


――――――――――

翌日。
授業が終わると、今日も咲はまっすぐに家へと帰宅する。
少し時間が早かったせいか、照はまだ帰っていなかった。

姉が帰ってきたらすぐに食べられるようにと、二人分の食卓の用意をしながら咲は照の帰宅を待った。
間もなく照が大学から帰ってきた。


照「咲、帰ってたの。夕食はもう済ませた?」

テーブルの上に手つかずの食事が二人分並べてあるのを見て、照は目を丸くした。

照「食べないで待っててくれたんだね。ありがとう、咲」

咲「ううん。それじゃあ一緒に食べよう、お姉ちゃん」


夕食が終わり、二人で食器を洗って片付けた後。
照が咲へと提案する。

照「食後のオセロでもしようか、咲。勝った方がデザートを用意するというのはどう?」

咲「うん、いいよ」

頷くと、咲はクローゼットからオセロ盤を取り出しに行く。
昔はよくこうして二人でオセロをしたものだが、何度挑戦しても姉に勝てたためしがない。
こっそり良子を相手に特訓したことも懐かしい思い出だ。

今でもハンデなしては照には勝てないが、それでも少しずつ差が縮まっていくのが嬉しくて、
食後のオセロはしばらくの間、二人の習慣になっていた。

咲「今日は負けないよ」

リビングの床にオセロ盤を置き、真剣な表情で盤に向かう咲を眺めて照が微笑む。

勝負も終盤に差し掛かり、ひとつの選択が勝敗の分け目となって見る見る咲の優勢となる。
咲はそのまま勝負を進め、見事に逆転勝ちを決めた。

照「強くなったね、咲」

咲「お姉ちゃんに勝ったのは初めてだね。何だか嬉しいな」

照「デザートは何がいい?なんでも好きなものを言いなさい」

少し考えて「アイスが食べたい」と答えると、照は笑ってキッチンへと席を外す。
戻ってきた照の手の中には大量のアイスが抱えられていた。

咲「お姉ちゃん、ひとつでいいから……」

仲睦まじい姉妹でのひとときが穏やかに過ぎていった。




今日は何事もなく一日が過ぎた。
明日も平穏な一日を迎えられることを願いつつ、咲は寝床についた。


――――――――――

今朝は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
咲はベッドの上に身を起こし、目覚ましのアラームを止めた。


咲がリビングに行くと、照は淹れたてのカフェオレを咲に手渡した。

照「おはよう、咲」

咲「おはよう、お姉ちゃん」

照「それじゃあ食事にしようか」


朝食を済ませると、まだ少し早いが咲は家を出た。
まだ早いせいか校門前を歩く生徒の数もまばらだった。

教室に入り、しばらくして授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
遅れて教室に現れた教師を見て、おしゃべりに熱中していた生徒たちは慌てて席につく。




学園祭本番をいよいよ明日に控え、本日の授業は4時限目までとなっていた。
部活に所属していない咲はそのまま家に帰ることにした。

いつもと変わりなく帰宅したものの、転校初日に起きた事件のせいで、
心のどこかをずっと占めている重苦しい空気がまといついて離れないのを感じる。
沈みかけた咲の意識を現実に引き戻すように、自宅への来客を告げるチャイムが鳴る。

慌てて玄関前に行くと、「荷物です」という大きな声が扉の向こうから響く。
咲は急いでドアを開けた。

届けられたのは、小さな鉢植え。
差出人は照で、受取人は咲となっていた。
何故これが届けられたのか分からない侭どうしようかと考えて居た時。
今度は携帯が鳴った。

咲「……お姉ちゃん?」

照『咲、荷物は届いた?』

咲「え……?うん、届いたよ」

姉の意図は分からないものの、届いた鉢植えの送り主が確かに照だと分かり、
咲はほっと安堵の息をついた。

照『大学に向かう途中でふとその鉢植えに目が留まってね。それ、なんていう植物か分かる?』

咲「ううん。なんていうの?」

照『それは、グリーンネックレスという観葉植物だよ』

咲「グリーンネックレス?」

照『そう。グリーンネックレスは10月27日の誕生花、つまり咲の誕生花なんだよ。そう思ったら、つい手にしてた』

咲「お姉ちゃん……」

この数日持て余し揺らいでいた気持ちが、
携帯越しの姉の言葉にやわらかく受け止められた気がする。


照『あと少しで講義が終わるから、一緒に夕食をとろう。私の帰りを待っててくれる?咲』

咲「うん。……待ってる」



やがて通話が切れる。
照の余韻を離したくなくて、咲はしばらく携帯を握りしめていた。


――――――――――

目覚ましのアラーム音が響き、その音で目を覚ました。
今日はりつべ女学園の学園祭当日だ。

照「おはよう、咲、今日は確か学園祭だったね」

咲「うん。お姉ちゃんは来れる?」

照「今日は大学の講義が昼からなんで、午前中は咲に付き合うよ」

咲「本当?嬉しいな」



学園祭における咲たちのクラス発表は、教室内でのパネル展示だった。

担任「今日はこれからクラス展示の受付当番以外の生徒は自由に過ごして良いことになってるわ」

担任「部活動での展示や発表がある者、実行委員らは点呼を済ませたら持ち場に向かいなさい」

教師は生徒に順々に声をかけ、出席簿に印をつけていく。
点呼を済ませた咲も、他の生徒たち同様に教室を出た。

姉と待ち合わせていた校門前まで駆けていく。

咲「お姉ちゃん、お待たせ」

照「それじゃあ案内してもらおうかな」

咲「うん、任せて」

りつべ女学園の巨大な中央ホールは生徒達の出店と、その店先にたむろする人の群れで賑わっていた。
生徒以外の客もかなりいるようだ。学園祭に訪れた一般客の多さに驚く。
女子高の催しと言うより企業のイベントのような人手だ。

咲は照を案内しながら、順番に校内の催しを見て回った。


照「咲、あれは何?」

咲「占星術部のコンピューター占いだって。行ってみようか」

二人は空いているブースへと進んだ。

照「どれどれ、ここのキーボードで生年月日と名前を入力して、この実行キーを押す、と……」

照「咲、やってみて」

咲「私がやるの?」

照「うん。ほら」

勧められるまま、自分の名前と誕生日を入力し、実行キーを押した。
しばらくして、モニターに映し出された占いの結果を興味津々に覗き込んでいた照が、声に出して読み上げる。

照「なになに……『きわめて良好。この調子で頑張ると吉』……だって。良かったね、咲」

咲「うん。お姉ちゃんもやってみて」

照「そうだね。ええと……」


――――――――――

咲「一通り見て回ったね」

照「そうだね。お、あそこに甘味処がある。ちょっと寄ってみようか」

咲「お姉ちゃんは本当に甘いものが好きだね」

照「咲は甘い物苦手だけど、お茶するくらいなら構わないでしょう」

それくらいなら何とか、と照に誘われるまま甘味処の看板を上げる教室の暖簾をくぐった。


照「なかなか盛況のようだね」

奥に空いた席を見つけ、咲と照はそこに腰を下ろした。

生徒「いらっしゃいませ。ご注文は?」

照「どうする?咲」

咲「じゃあ、私は抹茶を」

照「そう。昔は緑茶を飲んだだけでも目が冴えて、夜は眠れないなんて言ってた咲がねえ……」

言いながら、照は咲の頭を軽く撫でる。

咲「そんな昔のことは忘れてよ、お姉ちゃん……」

子供の頃の話を持ち出されて、咲は恥ずかしさの余り頬を桜色に染める。
そんな咲をあたたかな微笑みで照が見つめる。


――――――――――

照「それじゃあ、私は大学に行くね」

咲「うん。今日はお姉ちゃんと一緒に居れて楽しかったよ」

照「私もだよ、咲。誘ってくれてありがとう」




校門まで姉を見届けて、校内へときびすを返そうとしたその時。
遠くの方から何かが割れるような音と共に人々のどよめく声が聞こえてきた。

何かのアトラクションでも行われているのかと思ったが、
どよめきは間もなく無秩序な叫びに変わった。
途切れ途切れに聞こえてくるあれは、悲鳴だろうか。

いったい何が起きたのか。
咲は確かめに行くことにした。

咲「……!」

駆けつけたその場に広がるあまりに異様な光景に、咲は思わず言葉を失う。
幾人もの生徒たちが気を失い、力なく倒れ伏している。
割れた窓ガラスの破片や千切れた校内の飾りつけが辺り一面に散らばり、情景の異様さに拍車をかけている。

何に驚いたのか、放心状態でうずくまる生徒。意識を失ったままうつ伏せに倒れている生徒。
その場に無傷な姿で立っているのは、咲のように騒ぎに気づいて駆けつけた者だけだった。
いったいこの場で何が起きたというのだろうか。

生徒A「なんなのこれ!何があったっていうの!?」

生徒B「ちょっと、大丈夫……?」

生徒C「誰か先生呼んできて!」

倒れている生徒を助けるため、咲も動こうとして、
―――――足を止めた。

咲「あ……」

眼前の光景に視線が釘付けられる。
地面に倒れ、苦痛にうめく人々の向こう――――あのときの少女が、いた。

「………」

剣を手に、少女が佇んでいる。
傷つき倒れ伏した生徒たち。散らされた飾りつけ、壊れた看板。
無傷で立つもののないその光景の中、ひとり静かな面持ちで佇む少女。

少女の持つ凶器を見とがめ騒ぎ出す者はいない。
他の者の視覚に、少女の姿は全く認識されないらしい。

少女が咲へと向かってきた。 咲は息を呑む。
繰り出された一撃は迅速の勢いで咲の頬をかすめ、背後へと狙いをそらした。

咲「――――!?」

咲の背後で、耳を聾する異様な叫びが上がる。

生徒A「きゃっ!」

生徒B「うわあっ!」

叫び声が上がると同時に、咲の周りに立っていた者が、背後から突き飛ばされるように転がった。
少女の剣は、咲の背後にいた何かを狙い、繰り出されたのだろう。
顔のすぐ横を真っすぐにのびた、白く輝きを返す刀身を視線で辿り、咲は素早く背後を伺う。

咲「……!」

何か異様な存在を思わせる影が素早く身を翻すのが、視界の隅に一瞬だけ映る。
目を凝らす間もなく、影は木々の葉陰に消えた。
少女は無言のまま剣を静かに退いた。

咲「あなたは、私を助けてくれた……?」

「……」

少女は咲の質問に答えないまま目をそらす。
しかし突然弾かれたように顔を上げ、手にした剣を構えて叫んだ。

「避けて!」

咲「え……?」

黒い影が物凄い勢いで倒れ込む咲の傍をかすめ過ぎるのが見えた。
少女の剣が影を貫き、ふたたび絶叫が間近で沸き起こる。

剣を納めかけたシロが、機敏な動きで再び剣を構える。

「……見つけた、シロ!」

「!!」

―――――ギィィン!!

刃と刃が打ち合わされる激しい金属音が響く。

咲「あ……」

顔を上げた咲の視界に、剣を弾かれて退く少女の姿が映る。
目の前に、咲をかばう体勢で立ちはだかる長い黒髪の少女の背中があった。
黒髪の少女の右手には一振りの長剣が握られている。

―――――ギィィィン!!

二人が再び音高く斬り結んだ時、激しく打ち合わされた刃と刃の間に波動が生じた。

「……!」

シロと呼ばれた少女の剣が砕け散るように消滅した。
衝撃に弾かれたシロは校舎の壁に叩きつけられる前に素早い身のこなしで壁を蹴り、それを避けた。

くるりと身をひるがえして着地したシロは、そのまま滑るような動きで咲に背を向ける。
そして、あっという間に木立の向こうへと姿を消した。

咲「あ……」

立ちすくむ咲に向かって、少女が静かに振り返った。

「宮永、咲さん」

咲「……!」

全く面識のないはずの黒髪の少女に名前を呼ばれ、咲は混乱する。


教師「怪我人が出たというのはここか?」

騒ぎを聞きつけた教師たちが慌ただしく駆けつけてくる。
少女は声のする方を見やると、シロが消えたのと同じ方角に向かって歩き出す。

「後ほど、この場所に来てください。お話したいことがあります」

咲「え……」

通りすがりざま、咲の耳にだけ届くように少女が囁く。
そして一陣の風のように少女は駆け抜けていった。
異様な光景のなか、ただ一人無傷な咲は、呆然とその場に立ち尽くした。

学園祭は結局、昼間の騒ぎからそのまま中止となった。
駆けつけた教師たちの手配により、咲以外の怪我人は全員病院に運ばれた。

下校を促す教師の目を盗んで、咲は少女に言われた場所へ一人おもむく。

「宮永咲さん、ですね」

声をかけられ、驚いて振り向く。そこには咲を助けた少女が立っていた。

クロ「私の名はクロ。あなたをお守りするため、この学園に来ました」

咲「守る……?」

クロ「はい。いきなり現れて、こんなことを言う私をさぞかし怪しく思われるでしょう」

咲「………」

クロ「私はもう長い間ずっと、あのシロを追い続けているのです」

クロ「シロは狂った殺人鬼です。あなたも見たでしょう、昼間のあの光景を。……あれは全てシロの仕業です」

クロ「これまで、あのシロの手によって沢山の人命が奪われました。彼女の凶行を止める為、私は戦っています」

咲「………」

クロ「今、彼女はあなたの命を狙っています。ですが私があなたをお守りします。そのために私はこの学園に来ました」

咲「あなたは……、いったい何者なの?」

クロ「私は、とある結社の者――――とだけ言っておきます」

クロ「特殊な力を持つ者に命を狙われた、あなたのような人々を守る為、私達は動いています」

クロ「私のことを胡散臭く感じるでしょうけど、『あなたをお守りする』との言葉に偽りはありません」

クロ「今はただ、私があなたを守る者で、シロがあなたの命を狙う者だということだけ心に留め置いてください」

咲「……わかりました……」

クロ「では、私はもう行きます。シロにはくれぐれもお気を付けください」

クロ「私に出来る限りの力で、影ながらあなたをお守りしますので。では、いずれまた」

最後の一礼をすると、クロと名乗った少女は身を翻してその場を去った。
残された咲は陰り始めた陽射しの中、頬を撫でる冷たい風に、ひとり身を震わせた。

咲が家に着くと、照はまだ大学から帰宅していなかった。
夕食を作って食べ、後片付けも済ませると他にすることも無くなってしまった。
姉の帰りをしばらく待って、読みかけの本のページをめくってみたが何ひとつ頭に入ってこない。


入浴も済ませて自室に戻ると、咲は自分がひどく疲れていることに気が付いた。
ベッドに倒れるように滑り込み、天井を見上げる。


『シロにはくれぐれもお気を付けください』


クロの言葉がふいに蘇り、咲は落ち着かない気持ちで寝がえりをうつ。
そのままかたく瞼を閉じた。

夢も見たくないという咲の願い通り、
その日はひとつも夢を見なかった。


――――――――――

本来なら学園祭の2日目で大いに盛り上がり賑わうはずだった校内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
すれ違う生徒は皆、一様に不安げな落ち着かない表情をしている。

『月曜から通常の授業に戻る』との連絡事項を伝えると、
その日のホームルームは全て終了となった。

担任「今日はいつまでも校内に残ったり、寄り道しないこと。このまま真っすぐ家に帰りなさい。いいわね」

最後に強い語調で告げると、担任は教室を出て行った。
咲はまっすぐに家に帰ることにした。



玄関を開け、リビングに入るとちょうど電話が鳴った。
靴を放り出して駆け寄り受話器を取る。

咲「はい、宮永です」

照『咲、帰ってたの。良かった』

咲「お姉ちゃん、どうしたの?」

照『お前が心配だから早く帰るつもりだったけど、ちょっと遅くなりそうだから私の帰りを待たずに休んでて』

咲「……うん、分かった……」

今日も照の帰りが遅くなると知った途端、急に寂しさがつのる。
咲の落胆が伝わったのか、照が気遣わしげに咲の名を呼ぶ。

照『どうしたの、咲?何かあったの?』

咲「ううん、何でもない。気にしないで」

姉に心配をかけないよう、慌てて取り繕う。
そんな咲に笑みを含ませた声で照が優しく告げた。

照『やっぱり今日はサークルを休んで帰ることにするよ。すぐに戻るから、もう少しだけ待ってて』

咲「……ありがとう。お姉ちゃん」



その後まもなく帰ってきた照となごやかな夕食のひとときを過ごし、夜が更けていった。
すでに時計の針は日付変更線を超え、人も街も寝静まる真夜中過ぎを指している。

今夜はやけに頭の中が冴えていた。
身体は疲れているはずなのに、どうしてか眠れない。
早く眠らなければと焦りに苛立つ気持ちでまぶたを閉ざしても、穏やかな眠りが訪れる気配はない。

寝付けない身体を、落ち着きなく何度もシーツの中で反転させる。

―――――眠れない。

とうとう眠るのを諦めて、咲はベッドを降りた。
カーテンの隙間からのぞく夜空を見上げたが、闇のとばりに閉ざされた空に夜明けはまだ遠い。
真夜中の静けさに包まれて時間を持て余す。
ひとりでいることが急に不安になり、姉の声がどうしても聴きたくなった。

咲は衝動的に照の部屋へと向かった。

つい照の部屋の前まで来てしまったが、こんな遅い時間ではとうに眠ってしまっただろう。
ほとんど諦めの気持ちで控えめに扉をノックする。

照「――――咲?こんな時間にどうしたの?入りなさい」

思いがけなくノックに応えたその声に、あたたかな安堵の思いが広がる。
咲がそっと扉を開けると、灯りを抑えた部屋の中、
窓際の机の前に腰を下ろした照が手にした本から顔を上げた。

照「どうしたの、咲?眠れないの」

咲「うん、少し目が冴えて……」

照「そう……。そこに座って」

姉のすすめに従い、示された椅子に腰を下ろす。

照「咲、何か悩み事でもあるんじゃないの?」

咲「……!どうして分かるの?」

照「大事な妹のことだからね。昔から悩み事や辛い事があった夜、お前は必ず私の部屋にやって来た」

照「話してごらん、咲。お前が語るどんな言葉も信じるから」

咲「お姉ちゃん……」

咲は思い切って学園祭でシロの襲撃を受けたこと、
そしてクロに助けられたことを姉に話した。

照「……そんなことがあったの。確かに、眠れなくもなるね」

誰かに聞いてもらえたという安堵感に、咲の身体をずっと包んでいた緊張がゆっくりと解けていく。
安心した途端、薄着の我が身を急に意識して寒さを覚え、僅かに身体を震わせた。

照「寒いの?」

咲「うん、少し」

照「そんな薄着でいるから。まだ初秋とはいえ、夜は冷えるのに」

溜息をついて立ち上がると、照は傍らの自分のベッドから上掛けをかき集めて腕に取った。

照「おいで、咲」

呼ばれて、差し伸べられた姉の手を咲が素直に取ると、照はそのまま咲を腕の中に引き寄せる。
手にした上掛けの中に咲の身体を包み込むと、上掛けごと咲を腕の中に抱き込んだ。

照「これでもう寒くないでしょう?」

咲「うん、あったかい……」

照「咲が眠くなるまで傍にいるから。安心して、ここでお休み」

導かれるまま照のベッドに横になると、照は咲の枕元に腰かけて咲の頭を撫ぜた。

照「こうしていると、昔よく眠れないと私の部屋を訪れた咲に絵本を読んでやったことを思い出すね」

咲「うん……」

照「今夜も良く眠れるよう、あの頃のように絵本でも読んであげようか?」

咲「もうそんな年じゃないから、いいよ」

咲が慌てて答えると、照は咲のうろたえぶりを可笑しそうに笑った。

照「……そういえば覚えてる?『雷神と嵐の神』の物語を読んであげた時のこと」

雷神と、その敵である嵐の神の物語。
それは姉が幼い咲に読み聞かせてくれた昔話のひとつ。


その昔、雷神に育てられた少女がいた。雷神はそれは大切に少女を育てた。
ある日少女は嵐の神の娘に出会い、彼女に連れられ共に雷神の家を出る。
少女がいなくなったことに気づいた雷神は、住処を出て少女を探した。
嵐の神は、少女を追いかけて現れた雷神を焼き殺した。

嵐の神は少女に言う。
「お前は元々わたしの家族だった。雷神はお前をわたしから奪った憎い敵。無事にお前を救い出せて良かった」
少女はいつしか雷神のことを忘れ、嵐の神のもとで幸せに暮らした――――


照「お前は昔、少女に置いていかれた雷神がかわいそうだと言って泣いてたね」

姉のその一言で、咲の脳裏に幼い自分が告げた言葉が鮮明によみがえる。

咲『あの子が行っちゃって、雷の神様はひとりぼっちなんだね』

咲『神様はさみしかったんだよね。神様、かわいそう……』

そう言って姉の前で大泣きした過去の記憶の気恥ずかしさに、咲は思わず赤面する。

照「あの物語を、咲がそんな風に感じるとは思わなかった。……ねえ、今でも少女に置いて行かれた雷神のことが可哀想だと思う?」

咲「……うん。今でもそう思うよ」

照「……そう。お前は優しい子だね、咲。あの頃と少しも変わっていない。優しくて真っすぐで、綺麗なまま」

咲「………」

照の染み入るような言葉に、咲は胸の奥に痛みを感じる。
綺麗なまま?――――違う。
照が知らないだけで、咲はもう何も知らない無垢な子供ではない。

咲「そんなこと、ない。私はもうあの頃の私じゃない。少しも綺麗じゃない……」

それ以上はもう何も言葉にすることが出来ず、咲はきつく唇を噛みしめる。

照「咲、止めなさい。唇が切れる」

囁くとともに、咲の髪を優しくすいた。
咲の心を慰めるように繰り返されるその優しい感触に、泣きたいような気持ちがこみ上げる。

照「咲、お前は何ひとつ変わっていない。お前の魂は綺麗なまま。誰にもお前の本質を穢すことなんて出来ない」

咲「お姉ちゃん……」

照「――――ねえ、咲。日曜は何か用事がある?」

咲「え……?」

特にはないけれど、と戸惑いながら姉を見上げて答える。

照「一緒に街に出かけない?気晴らしに映画でも観に行こう」

咲「うん……行きたい」

姉が咲を元気づけようと誘ってくれたことが分かったから、咲はすぐさま頷いた。

照「なら、早く休んで一日元気に過ごせるようにしないとね」

照「私がずっとついてるから、ここで安心して眠るといい。……お休み、咲」

姉の言葉と同時に、咲の身体に眠りの波が押し寄せる。
ようやく訪れた睡魔に身を寄せ、咲はゆっくりとまぶたを閉じた。

翌日。
目を覚ますと、照はもう部屋にはいなかった。
咲は照のベッドから起き出し、リビングへと向かった。

照「おはよう、咲」

咲「おはよう、お姉ちゃん」

照「まだ少し早いけど、もう少し寝なくていいの?」

咲「ううん。お姉ちゃんのおかげでよく眠れたから大丈夫」

照「そう、良かった。なら出かけようか。朝食も外で済ませるから、早く着替えておいで」

咲「うん、分かったよ」



照の車でやってきたのは、りつべ市に最近できたばかりの総合アミューズメントビル内の映画館だった。
最近流行りのシネマ・コンプレックス――――複合映画館というもので、
新作の娯楽映画から旧作のリバイバルまでバラエティに富んだラインナップを常時公開している。

照「咲、どの映画を観たい?」


1、家族アニメ映画『ポケパンマンの大冒険』
2、名作リバイバル映画『バビロン・天使の詩』
3、ミステリー映画『スパイ・サスぺクト』

安価下

安価が決まったところで、今日はここまでです
姉妹百合尊い

姉妹百合は特別に好きだけど、他の組み合わせももちろんも好きですよ
じゃないとこのスレ立ててないですし
智葉咲も入れたかった…

どうぞ

照「お、これを選んだね」

咲「知ってるの?」

照「原作を読んだことがあるんだけど、なかなか興味深い内容で印象に残ってるの」

咲「そっか、それは楽しみだね」




―――――上映が終了した。
咲の周囲の人々が満足げな表情で次々と席を立ち、灯りの点された館内を出ていく。

不思議な映画だった。
内容は、サーカスの少女に恋をしたとある天使が地上に降りて人間となり、少女に会いに行くという物語。
普通の恋愛映画という感じではなく、見終わった後に不思議に静かな余韻が残る――――そんな映画だった。

照「咲、映画はどうだった?」

咲「すごく面白かったよ。たまにはこういう映画もいいね」

照「そうだね、咲が楽しめたのなら良かった。やっぱり咲とは映画の趣味も合うようだね」

映画館を出てから街でひとしきりショッピングなどを楽しみ、
最後に姉に連れられて来たのはこのスカイラウンジだった。
高層ホテルの最上階に位置する、りつべ市でも有名な欧風料理のレストラン。

店内にはゆるやかなピアノの音色が流れ、程よく落とされた照明の下で皆が食事を楽しみ、グラスを傾けている。
壁面いっぱいのガラス窓からはりつべ市の夜景が一望できた。

咲「すごいね……灯りが宝石みたい」

海鮮料理のフルコースを味わった後、デザートのクランベリーパイを食べ終えた咲が感嘆の意を述べた。
夜闇に街の明かりが浮かぶ眼前の景色に溜息が漏れる。

照「ここは料理の味も良いし眺めも良いから、咲を連れて来たいと思ってたの」

姉はこういった場所によく来るのだろうか?
大学の付き合いでか、それとも……
これまで照のプライベートに関して、あまり深く訊ねたことがなかった。
ふと心に浮かんだ疑問を口にする。

咲「お姉ちゃんは好きな人とかいるの?」

照「いきなり何を言い出すかと思えば……」

咲「お姉ちゃんに付き合ってる人がいるなら、どんな人か知りたいと思って」

照「そうだね……じゃあ正直に言うよ。好きな人なら、いる」

咲「同じ大学の人?」

照「ううん、もっとずっと前から思い続けてきた。何年前からになるのか私自身忘れたぐらい」

咲「ずっと前……それはお姉ちゃんの初恋なの?」

照「……そうかも知れないね」

照「でも、困ったことに当の相手は、私自身持て余しているこの気持ちに気づかないまま」

照「いっそこんな感情は要らないと思っても、そうはいかない。人の想いとは侭ならないものだね……」

姉のような人に想われ、それに全く気付かないような人がいるなんて、咲には信じられない。
今まで咲のために色々と世話を焼いてくれた照には幸せになってほしい。

咲「お姉ちゃんの想いが、早くその人に届くといいね」

照「………。そうだね」

咲「お姉ちゃん?疲れてるんじゃない?」

せっかくの休日をつぶして、ずっと自分と過ごしてくれた姉が疲れたのではないか心配になった。
そう告げると、照は嬉しそうに微笑んだ。

照「咲といて私が疲れるはずないでしょう。むしろお前と一緒にいると、日頃の疲れが癒される気さえするよ」

照「咲と一緒に時を過ごすことは、私にとって何よりの幸せなんだから」

咲「お姉ちゃん……」

照「でもそろそろ帰らないと、咲の方が疲れてそうで心配。お前は昔から人混みが苦手だったからね」

照「今日は楽しかった。咲さえ良ければ、また一緒に出かけよう」

咲「うん、お姉ちゃん」


――――――――――

かすかな光さえ見出せぬ深く暗い闇のなか。
咲は己の名を呼ぶあの声を、ただひたすら待ち続ける自分に気が付いた。

そう、待っている。
あの声を。あの響きを。

(……キ……)

―――――聞こえてきた。
あの声が、咲の名を呼んでいる。

(……サキ、来ヨ……)

待ちわびた声とともに、暗がりに灯りがともるように。

(……コチラに、早ク来ヨ……)

ぽっと白くほのかな光が生まれる。
目を凝らしてよく見れば、それは光でなく白い影だった。

(……来ヨ……)

―――――白影は闇を圧して拡がり続け、

(……我、汝のチカラ喰ライテ……)

―――――やがて、この身を包んだ。

(……現世二……)

誰かが背後から包み込むように咲を抱きしめている。
やわらかな抱擁に、そのままこの身を任せてしまいたくなる。

(……サキ……)

私を呼び、抱きとめる。
あなたはいったい……誰……?



……名を呼ぶ声の残響が耳に新しいまま、咲は浅い眠りから覚めた。

咲「……また、あの夢……」

あの夢を見たのは久しぶりのことだった。
いつとも知れぬ幼き頃より、咲の眠りを訪れるあの夢は、
年を重ねるごとに次第にあざやかさを増していく気がする。
夢の名残を払うように頭を振ると、咲はベッドを降りた。

夢見が良くなかったせいか、今朝は少し気分がすぐれない。
生徒の群れに混じってうつむき加減に廊下を歩き、教室へと向かう。



午後になって雨が降り始めた。
出がけに見た天気予報では、降るのは夜半過ぎということだったので、傘は持って出なかった。
昇降口でしばらく雨を眺めて上がるのを待ってみたが、降り続く雨はやみそうにない。
それどころかますます雨足が強まっている。
これ以上待っても無駄だと諦め、咲は雨の中を走り出した。


家に帰り着く頃には、咲の全身はすっかり濡れそぼった状態になっていた。
十月の肌寒さが雨に濡れた身体にはひどく堪える。
雨を吸って重くなった制服が肌に張り付いて、脱ぎにくいのに苦労しながら私服に着替える。
少し熱っぽい身体を休めようと、咲は照が帰宅するのも待たず早々に床に就いた。

ふと、身近に人の気配を感じて咲は意識を取り戻した。
熱でぼんやりする視界に、心配げに見守る照の姿が映る。

照「咲、ひどい熱……雨に濡れたの?ごめんね、私が迎えに行ってやればこんなことには……」

咲「お姉ちゃんのせいじゃないよ。私が傘を忘れたから……」

照「今夜はずっと傍についてるから、ゆっくり眠りなさい」

優しい声で告げる照に安堵を覚えた咲は、まぶたを閉ざして再び眠りについた。




額に当てられたひんやりとした手のひらの感触に、咲はようやく目覚めた。
目を開いて見上げると、案じるような眼差しが咲を見ている。

咲「お姉ちゃん……もう朝?」

照「うん。……熱が退かないね。学校に電話をいれておくから、今日はゆっくりと休みなさい」

咲「分かった……」

照「何か欲しいものはある?買い出しに行ってくる」

咲「薬を飲んで、一人で寝ていれば大丈夫だから。お姉ちゃんは大学に行って」

照「寝込んでる咲を一人になんてする気はない」

そう言うと、布団越しに優しく咲の胸元をたたいた。
眠気を誘う穏やかなリズムに、いつしか咲は眠りの中へと引き込まれていった。

……夢を見ている。
いや、これは夢ではない。
記憶の深層に硬く封じ込めたはずの、忌まわしい出来事。


女の声が聞こえる。
含み笑いの声がなぶるように執拗に、容赦のない言葉を咲の耳元で繰り返しささやく。

母『諦めなさい、咲。助けなんて来ないわ』

そんなの嘘だ。
お姉ちゃんが帰ってくれば、こんな――――

母『いくら呼んでも、照は来ないわよ』

嘘だ。信じない。
絶対に従うものか。

母『泣いても、許しを請うてもお前を解放する気はないわ。諦めて大人しく私に従いなさい』

母『そうすればもっと優しくお前を扱ってあげる。……こんな風に』

言いながら生身の肌に触れる、母の手の感触。
嫌、嫌、イヤ―――――
もう嫌、止めて、離して……許して。
こんなの、違う。
こんなの、私じゃない―――――!

母『感じやすいことを恥じる必要はないわ。お前のこの身体に流れる血が、それを求めるのだから』

母『辛いでしょう?声を出してごらんなさい。ほら――――』

こんなの間違ってる。
こんなこと、許されない。

母『禁忌に触れることが怖い?なら、ひとつお前に良いことを教えてあげる』

母『咲、お前は私の本当の娘じゃない。照もお前の姉じゃない、血の繋がらない他人よ』

――――分からない。この人は何を言っているの?
私とお姉ちゃんが姉妹じゃない……?

母『安心した?母子の間違いだけは侵さずに済んで』

どうしてこんな事をするの?
どうして、こんな――――

母『お前が悪いのよ、咲。お前という存在が私の飢えを誘い、欲を刺激する……』

母『諦めきれない権力への渇望が、抑えられない本能が私を衝き動かすの』

咲を押さえつける母の腕にさらに強く力が込められる。
掴まれた手首が痛みを訴えたが、懇願は相手を悦ばせるだけだと辛うじて声を上げるのを堪えた。

けれど。
痛みと、それを上回る感覚に縛されたように動けない。
荒々しく身体を貪る感触にあらがえない。



咲『もう許して、お母さん……!』

ついに堪えきれず上げた咲の言葉に、母は満足したように声を上げて笑った―――――

咲「……!」

悪夢に追われるように目が覚めると、部屋にはすでに夜の帳が落とされていた。
ふらつく上体を起こし、咲は額に浮かんだ寝汗をぬぐう。
手足の先から血の気が退いて、熱にうなされたはずの指先がひどく冷たい。

……あれは夢。ただの夢にすぎない。
今はもう、咲にあの悪夢を与えた人はこの世にいない。
そう言い聞かせて震える身体を何とか静める。

ふと顔を上げると、薄暗い部屋の枕元に花瓶いっぱいに花束が飾られているのが目に留まった。
照がなぐさめに買って来てくれたのだろうか。
甘い花の香が、悪夢に動揺する心を落ち着かせるように優しく咲の中に滑り込む。
泣き出したいような気分が不意に押し寄せ、咲は立てた膝を押し付け、強くまぶたを閉ざした。

「……咲、起きましたか?」

いたわるようにかけられた声に、弾かれたように振り返る。
いつの間に扉を開けたのか、そこには水差しと氷のうを手にした良子が立っていた。

咲「良子さん?どうしてここに……」

良子「学校帰りにお見舞いに寄ったんです。どれ、熱は下がりましたか?」

咲の額に自分の額を押し当て具合を確かめると、良子は満足したように頷いた。

良子「オーケー。熱は退いたみたいですね。ずっと夢にうなされてるみたいだったので心配しました」

その何気ない一言に咲は雷に打たれたように身体をすくませた。
三年前、何も知らなかった咲を襲ったあの出来事。
熱に浮かされた夢うつつの中よみがえった、かつての忌まわしい記憶。

咲「私、何かおかしなこと言ってました……?」

良子「……いえ。特には」

咲「そうですか……」

良子「それより、早く照を安心させてあげなさい。咲を心配してずいぶんと落ち着かない様子でしたから」

咲「はい、良子さん」

良子「じゃあ、私はこれで帰ります。お大事に、咲」

にこやかに咲に手を振って、良子は部屋を出て行った。
良子と入れ替わりに照が咲の部屋を訪れる。

照「良かった、その顔色だと熱は下がったみたいだね。でももう少し眠りなさい。無理は禁物だよ」

姉の言葉に、咲は思わず身を硬くする。
再びあの悪夢を思い出したらと思うと眠るのが怖い。
うつむいたまま動かない咲に、照がそっと訊ねる。

照「……嫌な夢でも見た?」

咲「………」

照「今夜は私がここにいるから、安心して眠りなさい。嫌な夢にうなされたら、すぐに起こしてあげるから。さあ……」


落ち着いた照の優しい眼差しにうながされ、咲は再び眠りに就いた。
静かで穏やかな安らぎの中、今度は一度も悪夢を見なかった。

翌日。
大事をとって今日も休んだ方が良いのではとの照の反対を押し切って咲は登校した。
ゆっくり休んだおかげで動けるようになっていたし、何よりこれ以上姉をわずらわせたく無い。

授業の開始を告げるチャイムが鳴り、生徒たちは席についた。




4限目の化学の授業が終了した。
教科書をまとめて席を立つと、他の生徒にまぎれ咲も化学室を出ようとした。

良子「咲、ちょっと話があるから待っててください」

咲「はい」


生徒たちは次々と化学室を出て行き、間もなく咲と良子の二人きりとなる。

良子「熱が下がったばかりなのに、もう学校に出てきたりして大丈夫なんですか?」

咲「大丈夫です。お姉ちゃんも良子さんも心配性ですね」

良子「咲はどうも危なっかしいところがありますから、私も照もつい過保護になってしまうんです」

良子「そんなわけで、今日の帰りは車で送りますから待っていてください」

咲「分かりました。よろしくお願いします」

良子「咲、照のことが好きですか?ずっと一緒にいたいですか?」

唐突な質問に、咲は戸惑いを覚えて良子を見上げる。

咲「どうして急にそんなことを訊くんですか?」

良子「イエスかノーかで答えてください、咲」

咲「……分かりました。私はお姉ちゃんが好きです」

咲「お姉ちゃんと、そして良子さんと。ずっと一緒にいたいと思ってます」

良子「……そうですか。咲が幸せなら、私はそれでいいです」

咲「良子さん……?」

良子「時間を取らせてすみませんでした。良かったら一緒に昼食を取りませんか?」

咲「はい。喜んで」


良子の優しい眼差しにうながされ、ふたりは化学室を出て食堂へと向かった。


――――――――――

翌日。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、何事もなく授業はすべて終了した。
咲が校門を出ると、姉の車が近づいてきた。

咲「お姉ちゃん……?」

照「咲、今日は一緒に買い出しをしよう」

咲「買い出し?」

照「転校手続きや挨拶廻りやらにまぎれて、引っ越し祝いをしてなかったからね。二人でご馳走を作ってお祝いしよう」

咲を助手席のシートに収め、そのまま車で街へと出かけた。




照「思ったより大荷物になっちゃったね」

咲「そうだね」

料理に必要なものを買い込み、思いがけない量になった食材を抱えてふたりは家に帰り着いた。
キッチンの調理台に材料を並べ、さっそく二人で調理に取りかかる。

前菜にえびの温野菜サラダ、トマトドレッシング添え。
ポワロのスープと、白身魚のポワレ香草風味。
牛肉の赤ワイン煮マカロニ添えをメインの肉料理に。
甘い物が苦手な咲のため、デザートはオレンジのゼリー寄せ。

まずは下ごしらえからと咲は野菜の皮むきを、照は肉に焼き色をつけて煮込む役割をそれぞれ引き受けた。
他愛のない会話を交わしながら、休まず手を動かし続け、手間暇かけた料理は仕上がっていく。

じっくり2時間煮込んだ肉を煮汁をこして器に盛り、オリーブ油をからめたマカロニを添え、テーブルに並べる。
焼き上がった魚をクリームソースの上に乗せ、全ての料理がテーブルに出そろう頃には、すっかり日は暮れていた。
程よく冷えたシャンパンを用意して、晩餐の準備は整った。

照「それじゃあ、乾杯」

テーブルの上の燭台に火を灯すと、部屋の照明を落とし席についた。
グラスの縁を軽く打ち合わせて鳴らし、微笑みを交わす。


妻や娘たちの存在を無視し、独り身のように振る舞う余所余所しい父。
娘たちに対して、決して打ち解けた態度をとることのなかった威圧的な母。

中学生になって姉と家を出るまで、親に構われることのない二人きりの姉妹として、
咲と照はあの冷たく広い邸宅で寄り添うように生きてきた。
頼りに出来ぬ両親の代わり、ずっとそばで咲を見ていてくれた照。

咲「いつもありがとう、お姉ちゃん。お姉ちゃんのおかげで、私は普通の生活を送っていられる」

照「大事な妹の暮らしが守られるよう務めるのは姉として当然。何も気にすることないよ」

咲「……妹……」

照が口にした『大事な妹』という言葉に、胸が苦しくなる。
自分はすでに知ってる。けれど姉にはそれを伝えたくはなかった。
これまでの二人の関係が変わってしまうような気がして。

けれどもう、それも限界だった。

咲「……私は知ってるよ、お姉ちゃん。私がお姉ちゃんの本当の妹じゃないってこと」

照「咲……いつからそれを?誰がお前にそのことを?」

咲「三年前、お母さんが私に……」

照「……そう」

咲「………」

照「いい?咲。よく聞きなさい。お前が本当の妹か、そうでないか。私にとってそんなことは大した問題じゃない」

照「私がずっと大切に思い、守り続けてきたのは他でもない咲なんだから」

咲「お姉ちゃん……」

照「誰かに頼まれたとか義務だとか、咲のそばにいたことにそんな別の理由なんてない。ただ私が咲のそばにいたかっただけ」

照「咲に出会うまで、私は真にこの世界に生きてはいなかった。誰かを求めることもなく、何も必要とせず、私はずっと独りで生きてきた」

照「そうして生きていけると思ってた。なのに咲と共に暮らすうち、私の中で何かが少しずつ変わっていった」

照「不思議……あれほど不可思議だった『心』というものさえ、今ではよく分かる気がする。お前が私を変えたんだよ、咲」

咲「私が……?」

照「お前はよく私に迷惑をかけたと言うけど、そんな風に思ったことは一度だってない。私は咲の助けになれることが嬉しい」

照「私だけが一方的に、咲を必要としているんじゃないって思えるから……」

照「これまで通り、私はお前のそばにいたい。出来ればこの先もずっと」

咲「私も、お姉ちゃんとずっと一緒にいたい。お姉ちゃんの助けになりたい……」

咲のその言葉に、照の眼差しが喜びをたたえて優しく細められる。

照「そうだね……いつか咲の助けを必要とする日が来るかもしれない。その時は私に力を貸して。約束だよ、咲」

咲「うん。約束するよ、お姉ちゃん――――」

今日はここまでです。


――――――――――

数日後。
その日も静かに他愛のない日常が過ぎる。
この不自然なほど穏やかな日々に、咲はほんの少しだけ不安を覚える。

照「どうしたの、咲?」

姉のやわらかな声に、すぐにその思いを打ち消した。



明日はいよいよ満月。
真白に輝く月の輪郭はほぼ真円に近い。
恐ろしいほど冴え冴えと美しい月を見上げ、咲は我が身を抱く腕に力を込める。
あまりに美しいものを目にすると、人は圧倒され不安になるのかも知れない。

照「咲、ぼんやりとして……何か考え事?」

咲「うん。月があんまり綺麗で、少し怖くなったの」

咲が答えると、照は月を見上げる目を細めて呟いた。

照「あの月が空に満ちては欠けるさまを、私は幾たびと目にしてきた……でも、月を美しいを思ったことはなかった」

照「私にとって月は、天の定めた刻を示す暦に過ぎない。月の満ち欠けに思いをはせる時……」

照「重ねた月日の永さに思い至って、心静かにはいられなくなる。私にとって月は、好ましい存在じゃない」

咲「お姉ちゃん……?」

照「――――けれど、お前と過ごすようになって少しだけ変わった」

照「お前が月を美しいと言うたびに、私の目にも次第に月が美しいものと映るようになった」

照「咲の言う通り、確かに今夜の月は美しい。何故だか目を奪われる」


……今夜の姉はどこかがいつもと違う。
何事か惑う思いがあり、その事に心の多くを奪われているように見える。

夜空に輝く月から視線を外さず、しかし心はどこかもっと遠い所を彷徨っているような照に、
咲は言い知れぬ不安と焦燥を覚える。
声をかけることが出来ないまま、咲は照の隣に並んで同じように月を見上げた。

照「……ずっと願いつづけてきた望みがある。その望みを叶えるため、私はこれまであらゆる手を尽くしてきた」

咲「望み……?」

照「………」


月はたまらなく美しかった。
けれど、どこかしら見る者の不安を掻き立てる。
その正体が分からないまま、咲は照の顔をぼんやりと見つめていた。


――――――――――

気が付けばまた、あの白い闇が身体を包んでいた。
ただひたすら暖かく心地良くこの身を抱いて離さない。

声が。あの声が、また。
咲を呼んでいる。

あらがい難い強き力で呼ぶ声に、
成す統べもなくただ引き寄せられる。

――――来よ、咲。我が元に
汝はもうすぐ我のもの――――





咲「……!」

呼ばれる声に目を開くと、朝の陽光が部屋を満たしていた。
咲はベッドから身を起こし、熱を持ったようにぼんやりとする頭をはっきりさせようと数回振る。

照「咲……起きたの?」

軽いノックの音と共に、咲の起床に気が付いたらしい照の声が扉越しにかけられる。
夢の残滓を強引に追い払い、咲はあわてて服を着替えた。

リビングにはいつもの朝と違うどこか張りつめた空気が漂っていた。
こちらに背を向けて立つ照に、一瞬咲は声をかけることを躊躇う。

照「……おはよう、咲」

咲に背を向けたまま照が言った。
いつもと変わりなくやわらかな声だったが、なぜか咲の鼓動が早鐘を打ち始める。

咲「おはよう、お姉ちゃん……何かあったの?」

照「それはどういう意味?何かあったように見えるの?」

振り返って訊ねる照の顔には、普段通りの優しい笑顔が浮かんでいるのに。
どうしてか胸の動悸は治まらない。

咲「あ……、別にそういう訳じゃ……」

照「それよりも、咲。これからすぐに出かけるから。お前を連れていかなければならない場所があるの」

咲「私を?どこへ……」

照「来れば分かる。――――いいから来なさい」

咲「お姉ちゃん……?」

照「ねえ、咲。覚えてる?私の助けになりたいって言ってたこと」

咲「え、うん……」

照「その時が来たの。私に、お前の力を貸してほしい」

姉の怖いくらいに深い瞳を間近にして、咲は身じろぐ事も出来ずただ立ち尽くす。

照「私に従ってくれるね、咲?」

咲「………」

促されるまま、咲は首を縦に振った。

照「いい子だね、咲……」

「おかしな事を……彼女の同意を求める必要なんてないじゃありませんか」

突然響いた声に、咲ははっと顔を上げる。

「もし逆らうのなら、力のままに従わせればいいだけの事なのです。だって彼女は『贄』なんですから」

「それとも共に過ごすうちに、その贄に情が移ってしまったとでも言うんですか?長」

振り向いた視界に飛び込む黒髪の少女。

咲「クロさん……?」

どうしてここに、と小さく呟く。
彼女はいつからそこにいたのか、宮永家のリビングに自然な笑顔で佇んでいる。

照「……クロ」

クロ「滑稽なものですね。育て上げ喰らおうとする捕食者を、そうと知らず無心に慕うひな鳥……」

咲「それは……どういう……」

クロ「まだ分からないのですか?それとも本当は分からないフリをしているだけですか?認めるのが恐ろしくて」

クロ「あなたはずっと騙されていたと言っているのです。それも、あなたが最も信頼する者に」

咲「……!」

クロ「ヒトならざる存在の血を継ぐ一族の長。それが、この方です」

掲げられた指先が示す人物の顔を、咲は呆然と見上げる。

咲「お姉ちゃん……嘘、だよね……?」

照「咲……」

咲の両肩を姉の手がそっと抱きしめる。
あたたかく優しいその感触。今まで信じてきたこの手の温もりも、全ては偽りだったのだろうか?

クロ「あなたという贄を内外の敵から守るため、長は最も身近な場所であなたの成長を見守って来られました。あなたの姉として」

クロ「それもこれも、特別な贄として用意されたあなたを儀式の刻に捧げるため」

咲「……!」

クロ「一族の崇める存在である始祖、あなたはその始祖のためだけに生まれた贄なのです」

クロの言葉が胸を貫くたび、全身から血の気が引く。
冷たく冷え切った心と身体が凍えるように寒い。
いっそここで意識を手放してしまえば楽になれる。

今にもその場に倒れ込みそうな咲を支えているのは、皮肉なことに肩を掴む照の腕だった。
自分の生殺与奪権を握る、咲の姉――――だった人。

咲「お姉ちゃんは、私を生贄にするの……?」

照「……私は咲を犠牲にしたりはしない」

クロ「何を言っているんです、長!その者は始祖をよみがえらせるための供物なのです!」

クロ「そのためだけに造られた、ヒトにあらざるものではありませんか!」

照「お前の指図を受ける気はない。身の程をわきまえるがいい」

クロ「……惰弱な感傷は一族を率いて上に立つ方にはふさわしくないもの。情に流され始祖復活を諦めるつもりですか!?」

照「お前の目的は、始祖の復活と代行者の抹殺だったね。無論そのことは忘れてはいない」

照「この世界の誰よりも、それを望んでいるのは私。お前などに言われるまでもない。――――去れ」

クロ「………」

照に慇懃な一礼をすると、冷ややかな視線を咲に投げつけ、クロは部屋を出て行った。
後には咲と照だけが残された。

姉が今日まで与えてくれた優しい庇護。
それは全て、照にとって咲が贄という道具だったからなのか?

咲「……お姉ちゃんは、私が贄だから今まで守ってくれたの?」

照「違う、咲。確かに始まりはそうだった。けど共に暮らすうち、それだけでは無くなった」

照「いつからか私はお前のことを、一族の長という立場から見ることが出来なくなっていたの」

咲「お姉ちゃん……」

照「もはやお前を始祖に捧げるただの贄として扱うことは出来ない。咲という存在を、失えないと思ってる」

照「初めは、妹として。今は……それ以上の存在として。私は咲を想っている。信じてほしい、咲」

照「お前に向けるこの想いだけが、私がこの世界で得た只一つの真実だよ」

咲「………」

咲を見つめる照の眼差しには、これまで咲が見たことのない、
苦しいような切迫した光が宿っていた。

照「咲、私はお前と生きることを望んだ。たとえそれが世界を混沌に導く選択だとしても、私はもうすでに心を決めた」

照「私は全てを捨て、お前と共に生きる道を選ぶ。そのためにはお前の力が必要なの」

姉の独白に、咲は何と答えるべきか。
己の心に問いかけた。


1、自分は初めから姉のもの
2、この人を選ぶことは危険だ

安価下

苦しいとき、辛いとき。照はいつでも傍で咲を支えてくれた。
照がいなければ、自分はとうの昔に生きることを放棄していたかも知れない。
姉に恩返しをしたい。ずっとそう考えて生きてきた。

咲が照のために出来ることは無いのだろうか?
照が咲に望むことは何だろうか?

常に求め続けてきたその問いに対する答えが、今ようやく分かった気がする。
照がこれまで自分を偽っていた事実でさえ、この決断の妨げにはならない。
咲は真っすぐに照を見つめて告げた。

咲「私の命は、初めからお姉ちゃんのもの。お姉ちゃんの好きにしていいよ」

照「……咲、お前は私の望むまま他の何もかも捨てて私に全てを捧げると言うんだね?」

咲「うん。私はお姉ちゃんのものだから……」

咲の言葉に、照は静かに微笑みを浮かべた。

照「……とうとうお前は私の許から逃げなかったね」

咲「え……?」

照「お前を捕らえる手を離し、普通に一生を送らせることがお前の幸せにつながるのだと迷いながら……」

照「自ら進んでお前の手を離すことを、私は選べなかった」

咲「お姉ちゃん……」

照「でも、咲自身が私と共に生きる道を選んでくれた。私はもう迷わない。―――咲、一緒に行こう」

咲「うん……お姉ちゃん」

今日はここまでです。


――――――――――

咲が照に連れられ、訪れたそこは、深い地底への入り口だった。

照「これより先、儀式の終わる時まで一族のいかなる者も祭祀の場に踏み入ることを禁ずる」

長の命と共に、祭祀場と地上をつなぐ唯一の扉が閉ざされた。
地底に秘された祭祀の場に向かう者は咲と照、クロの三人だけとなった。

長い長い地下への通路を、照に手を取られて下っていく。
姉の導きによりたどり着くこの先が、
決して安らぎに満ちた安住の地ではないことには既に気づいていた。
もはや後戻りは許されない。


クロ「ご覧ください、咲さん。あれが始祖のお姿です」

クロの指先の示すままに顔を上げ目を凝らすと、光の紗の向こうに何かが見えた。
銀色の長い髪、美しく整った顔立ちの女性。……いや、女性に見える両性具有の存在。
一見人と変わらぬ姿かたちだが、その背に生えた翼が、この存在が人ではありえないことを物語っていた。

咲「……あれは……天使……?」

クロ「いいえ―――――翼持つ邪神。一族の崇める存在である、始祖のお姿です」

眼前に輝きそびえ立つ、青白く澄んだ結晶のオブジェを見上げ、咲は呆然とつぶやく。

咲「あれが……始祖……」

琥珀の中に封じ込められた蝶のように、
澄んだ氷塊のなか刻を止め、凍りついて動かぬその姿は命あるようには見えない。

クロ「今宵、あなたという贄を得てようやく始祖はこの世界によみがえる」

振り返ったクロが、咲へと笑いかける。

クロ「永い時を経て、やっとこの日を迎えることができた。長、早くその贄を儀式の場へ。間もなく月が中天に達します」

クロ「儀式の刻、咲さんが始祖の穢される瞬間が待ち遠しいのです」

咲「クロさん、あなたはもしかして私を憎んでいるんですか?どうして……」

咲がクロに出会ったのは、りつべ市に再び戻ってきたここ二週間ほどのことだ。
これほどあからさまに憎まれる理由が、どうしても分からない。

咲「憎まれる理由に心当たりがあるほど、私はあなたを知らない」

クロ「あなたはご存知なくても、私は昔のあなたを知っているのです。あなたが私を覚えていないだけのこと」

咲「それは、私がりつべ市に暮らしていた頃のことですか……?」

クロ「いえ……もっと、ずっと昔のことです」

咲「え……?」

クロ「昔のあなたを知っているのは私だけではありません。シロもあなたをよく知っています」

咲「あの人が……?」

クロ「シロがあなたを殺そうとしたのは、あなたが始祖に捧げられる贄だからという理由だけではないのでしょう」

クロ「あなたが一族に絡めとられ、良いように利用されていることが彼女には許せなかったのでしょうね」

クロ「可哀想な人ですね、あなたは。結局今も昔も始祖のものなんですから」

クロ「――――ああ、そういえば。あなたの昔を知るものがもうひとり存在しました」

咲「……それは……?」

クロ「始祖です。あなたの事を、とてもよく知っている」

咲「え……」

クロ「だからこそ、復活のための贄が他ならぬあなたでなければならなかったのでしょうね」

言いながら、クロの腕が咲を掴もうと伸ばされる。
――――その時。


クロ「……ぐ……!」

咲「……!?」


目の前で繰り広げられた異様な光景に、咲は声もなく立ち尽くす。
照の左腕がクロの胸を貫いていた。

クロ「……なぜ、私を……!?」

照「お前は代行者の対なる翼。お前の力を代行者に奪われることがあれば厄介。なら、奪われる前に消してしまえばいい」

クロ「だから私を……!?」

照「クロ、お前は充分に生きた。ここで終わりにしても構わないでしょう?」

クロ「ぐは……っ」

照の腕が、また少し深くクロの胸に食い込む。
クロは血の気を失った顔を上げ、痛みに喉をあえがせながらも不敵な笑みを浮かべてみせた。

クロ「あなたが一族の長なら、私がこの程度では死なないことをご存じでしょう?あなたに私は殺せない」

クロ「私の命を絶てるものはシロと、あとは……」

照「お前に力を授けた存在か、それと同程度の力を持つ存在くらい――――でしょう?」

歯を食いしばって耐えるクロの胸から、照はゆっくりと腕を抜いた。
握り締めた照のこぶしが、手のひらを上に開かれる。
そこには、光を放つ『石』がひとつ、乗せられていた。

照「これが、お前の命を支える要」

クロ「そんな……まさか!それを私から分かつことが出来るなんて!もしや、あなたは……」

照「長年に渡る、お前の働きに感謝する。おやすみ、クロ。もう眠りに就くがいい……永遠に」

手のひらの上で音もなく石が砕け散った。
きらめく破片が舞い散り、石の放つ淡い光がはかなく消えた。
あやつり糸が切れた人形のように、クロがかくんと膝をついた。

クロ「……あ……」

生気を失った瞳が、誰かの姿を求め、辺りをさまよう。
クロの指先が何かを求めるように、かすかに虚空に伸ばされる。
咲はクロのそばに跪いて、力なく投げ出されたその手をそっと握りしめた。

クロ「……あなたは……私を許すのですか。あなたを傷つけ、危険に晒そうとしたこの私を?」

咲「クロさん……」

クロが口元に淡く掃かせた微笑みは、終わりを目前にした者の静けさに満ちていた。

クロ「時折、思わずにはいられなかった。あなたを憎まずにいれば、私たちには別の道もあったのでは、と……」

クロ「あの日々が続いていればと……いえ、それこそ、つまらない……感傷、ですね……」

溜息のような呼吸を最後に、クロの瞳にかすかに灯っていた命の光が消えた。
命の失われる瞬間を目の当たりにして咲の身体が震える。
魂が黄泉路へと駆け去った肉体がただの抜け殻と化していくのが分かって、哀しかった。
クロの身体が、白い光に包まれあがら薄れていき、やがて消えていった。

咲「なぜ……クロさんを?彼女は仲間じゃなかったの?」

照「クロは咲に危害を加えることにこだわっていた。あのまま生かしておけばお前の身が危ういと判断した」

照「だから消したの。……私が恐ろしい?咲」

咲「……それでも、お姉ちゃんについて行くって決めたから」

照「そう……。じゃあ、そろそろ行こうか」

咲「どこへ……?」

照「私とお前が、共に生きるための世界を手に入れに。でもその前に――――出てきたらどう?代行者」

姉の声とともに、物陰にひそんでいたシロが音もなく姿を現した。

シロ「騙されないで、宮永咲。あなたの姉はあなたを利用するのだけが目的。あなたは贄として扱われるだけ」

照「私は咲を、ただの贄としては見ていない。ただの贄として扱う気もない」

照「今の私の望みはひとつ。誰の妨げも受けず、咲と共に生きること。邪魔をしないで」

シロ「そんな言葉は信じられない。それなら何故あなたは始祖をよみがえらせるの」

シロ「共に生きたいという望みと、始祖を復活させる行動は、彼女が贄である限り相容れない」

照「………」

シロ「あなたが始祖の復活を成そうとする限り、私はあなたを倒す」

照を狙うシロの視線に冷たい殺気がこもる。
姉をシロから守らねば、と考えた瞬間、咲の身体は動いていた。

咲「お姉ちゃん、危ない……!」

照の喉元を薙ぐ構えを見せたシロに、咲は精一杯の力を込めてぶつかった。
咲の行動があまりに思いがけないものだったのか、シロは容易くバランスを崩し、よろめいた。

シロ「なぜ……」

咲「お姉ちゃんは殺させない……!」

咲の宣言にシロが目を見開く。
戦いの最中であることを忘れたように、シロの腕が構えを解いた。
咲を見つめるシロの瞳には、信じる者に傷つけられた者のような、ひどく頼りない光が宿っていた。

照「咲を惑わすのはそこまでにしてもらう。咲はすでに選んだ、私を生きることを」

シロ「………」

照「咲と共に在るのは私、お前ではない。今のお前は咲には無用の存在。大人しく消えなさい」

静かに告げる照の腕が、無防備なシロの胸を貫いた。

シロ「……っ」

照「お前の力は我々とは相反する力。お前は私にとって危険な、排除すべき敵でしかない」

微笑を浮かべ、シロの胸からゆっくりと腕を引き抜く。
胸を押さえ、色を失った唇を引き結び、シロは照を見上げた。
照がシロに見せつけるように、握り締めたこぶしを開く。
手のひらには、クロの時と同じように石が淡い光を放っていた。

照「もうお眠り、お前は私には勝てない。――――昔も、今も」

シロ「……あなた、は……」

照の手のひらから石が砕け散った。辺りに破片が舞い散る。
どこか厳粛な面持ちでその光景を見つめていたシロは、
砕け散った石の最後のきらめきが消えると、ゆっくりと咲に視線を向けた。

静かな眼差しだった。
凪いだその瞳の中には怒りも憎しみも、そして絶望さえもない。
ただ静けさに満ちていた。

シロ「……あなたが彼女を選んだのなら、それもまた運命。この結果を私も受け入れよう」

シロ「他ならぬあなたが与えたものなら……それも良い。後悔はない」

そう言いきるシロの声は、いっそ穏やかなくらいに静かだった。
諦めではなく、全てをあるがまま受け入れることを決めた眼差しが咲を見つめる。
取り返しのつかない選択をしたという畏れと、理由の分からない喪失感とを咲は覚えた。

それでも、もはや咲は照を選んだ。
たとえ姉がこの世界にどんな災厄をもたらす存在だとしても、咲は選んだ――――

決意をこめシロを見つめ返す咲の表情に、咲の思いの強さを見たのか。
満足したようにうなずいて、シロはまぶたを閉じた。
シロの身体が光に包まれながら薄れていく。

咲「………」

まばゆい光の最後の欠片が消えたとき、シロの姿はすでにその場になかった。

照「……これで、この世界に私を脅かす存在はいなくなった。さあ、おいで……咲」

招くように、照が手を差し伸べた。
咲は黙ってその手を取った。



凍り付いた刻の中に封じられた異形の姿を見上げ、照は咲を振り返った。

照「咲、お前の力を私に貸して。あれをここから解き放つ」

何をすればいいのか分からず戸惑う咲の肩を抱き寄せ、照は咲の左手首を取る。
照の人差し指が咲の手のひらを真一文字になぞった瞬間、痛みがはしった。

咲「……!」

てのひらに刃物で切られたような傷が走り、その傷口から鮮血がしたたり落ちる。
その血のしずくが地面に描かれた円陣へと落ちる。
その刹那、目に見えない波動が広がったように空間が震えるのが分かった。
咲の視界に始祖の姿を入れさせ、照は幼子に言い聞かせるようにささやいた。

照「さあ、詠じて咲。呪縛からの解放のことばを。お前の魂は、そのことばを知っている」

咲の唇が無意識のうちにことばを紡ぎはじめる。
それはすでに滅びた時代の、神を祀るためのことば。
ことばが詠唱となって辺りを響かせる。

長い詠唱を終え、ようやく息をついた時には、
高まる内圧にめまいを覚え立っているのがやっとの状態になっていた。

照「……ありがとう、咲。あとは……」

顎を掴み、照が咲の顔を強引に上げさせる。

咲「んっ……!」

全てを貪ろうとするような照の激しい口づけに、拒むことも出来ず翻弄される。
すがりつく指先に無意識のうちに力がこもる。
照の手が咲の手に重ねられ、奪われるような力強さで、指先ごとに握り込まれた。

照「お前を、手に入れるだけ……」

咲をようやく解放した照の唇が、咲の耳に熱くささやきかけ、ゆっくりと首筋をたどる。
反射的に逃れようとして、恐ろしく力強い抱擁に咲の動きは封じられる。

照「咲、私を拒まないで。拒めば私自身、何をするか分からない。私に逆らわないで」

咲「……お姉……ちゃん……」

もはや何をされようと、今の咲には照に逆らう意思はない。
照の言葉に、黙ってうなずいた。

照「いい子だね……ごらん、咲。あの異形の姿を」

咲「あれは……」

照「神なんて呼ばれてるけど、あれはそんな至高の存在じゃない。獣の本能に縛られた生き物に過ぎない」

照「次元の狭間に封じられ動けぬ器から、あの生き物は一部だけど霊魂の自由を取り戻した」

照「あれは必要に応じて獄から己の魂を抜け出させ、地上に影響を与えてきた。その行いのひとつが、一族―――」

照「あれがこの世界に一族を造った最大の目的は、己が地上で動く身体を得るため、ただ人を超える力を持つ肉体を誕生させること」

照「己の血と力を継いだ血族を造り、ついには記憶までも継いだ化身ともいえるヒトの器に宿り、あの獣は長として一族を導いてきた」

咲「え……」

照「始祖の霊魂の一部を、血のうちに宿して生まれたヒト。それが――――この、私」

咲「……!」

照「そう……あれは私。あの異形の獣は、この私自身の姿なんだよ、咲」

姉の衝撃的な言葉を理解しきれず、咲は混乱する。
照が、始祖?
咲を贄と決め、目覚めてヒトを喰らい、世界を滅びに導くもの――――?
およそ信じがたい告白は、しかし見上げた照の眼差しを目にした瞬間、全て真実なのだと分かってしまう。

咲「……ヒトを滅ぼさず、共存は出来ないの……?」

照「ヒトを喰らわずに私に生きろというの?それは不可能だよ」

照「ヒトが家畜を喰らい腹を満たすように、私もヒトの命を喰らわないと力を得ることはできない」

照「何よりそうしてヒトを喰らって力をつけないと、私は地上に存在することも叶わない」

咲「………」

照「私とお前がこの世界に共に在るためなら、他の何を犠牲にしても構わない」

照「咲、力を与えて。私がお前と共に生きるための力を――――」

赤い光を放つ照の瞳が、魂まで縛りつける強い力で咲の視線を奪い取る。
目をすらすことも出来ず、照の顔が近づくのを、咲は唇を震わせながらただ見つめた。

角度を替え、繰り返されるごとに深まる照の行為。
息苦しさに思わず開いた咲の唇を割って、舌を絡め、唇に軽く噛みつき、照は咲を貪る。
重ねられ、深く触れ合う舌を介して咲の身体から照へと、力の流れる感覚がある。
これまで覚えたことのない、魂ごと奪われるような激しい感覚が咲の身体を支配する。


世界と引き替えに選んだ、この道がもたらす犠牲の重さに怯む咲の心を溶かすように、照の唇と指が咲に触れる。
照の触れた場所が熱くはらんで、もう何も考えられない。

ゆっくりと地面に横たえられながら、咲は静かに目を閉じた――――。


――――――――――

照「……咲、眠ったの?」

そっと声をかけてみたが、咲の返事はない。
覗き込んだ腕の中、余程疲れたのか、目覚める様子もなく昏々とした眠りに就いている。
……少し意地悪く扱いすぎたか。

シーツに丸くなって眠る咲の静かな眠りを妨げぬよう、
そっと目じりに浮かぶ涙の雫をぬぐって、身を起こす。

時刻を見れば、午前零時を過ぎたばかり。
都会に住まうものたちが眠るには、まだ少し早い時間だ。



ブラインドを開けて窓から外を見下ろせば、
眼下に立ち並ぶ高層ビルの街灯りが人々の営みを示して未だまばゆく輝いている。
夜景を見下ろしながら、薄く笑う。

世界は今、この手のひらの上でゆっくりと変容していく。
この私がかく在るべきと望むかたちへと。

始祖の力を取り戻し、そばに咲の存在ある今。
ヒトの心を支配する力を持った私に望みを妨げる者は、すでに地上には存在しない。
使役のため、新たな眷属を作り出すこともこの手には容易い。

代行者不在のこの地に私を止めるものは無い。
人を、世界のすべてを、少しずつ望むものへと変えていく。

急いで喰らい尽くしてこの世界を壊す気はない。
ゆっくりと、ひそやかに、私は世界を呑み込んでいこう。

――――咲。

無防備なまでに一途に、やわらかなその身を私に差し出して眠るこの小さき存在に、
なぜ私はここまで心奪われてしまったのだろうか。

欲望のまま、心のおもむくまま全てを手に入れ貪り尽くすはずだった贄と、
共に在ることを最大の望みとするとは……
堕ちたものだ、と――――そう思う。

でも、それもまた一興。
今はただ、咲と共に在るこの刻を守るため、世界を手に入れよう。


おやすみ、咲。
今はしばし安らかな眠りのなか、良い夢を。


照 True End

後味悪いですが、これで終わりです。
安価にご協力頂きましてありがとうございました。

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