唯「わたしがオバさんになっても」 (122)

階段の先を見上げると、暗闇に雨粒が光って見えた。

地下鉄構内を出て地上に上がる。パラパラと降っている弱い雨。
同じ電車から降りた人たちは、次々と傘を開いて駅を出て行った。

あちゃー。朝、家を出るときは降ってなかったのにな。

天気予報はいつもロクに見ていない。

毎朝テレビをつけてるはずなのに、こういうことばっかり。
見ているようで肝心なことを見ていない。いつまで経っても成長しない。

ま、こんなこともあろうかといつも折畳み傘を入れっぱなしにしてるんですけどね!
してるよ成長、これぞ大人の証。

いぇい。勝利のぶい。




……あれ。

………ない。


しまった。
思い出した、昨日バックの整理をしたっけ。


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ああそーいや今日はイヤに肩が軽い気がしたんだ、と途方に暮れて夜空を見上げると、
イエローの水玉模様が現れた。

「傘、持っていかなかったろ」

「お、気が利くね~。りっちゃん隊員」

わたしは、ニッ、と笑顔を向ける。

「まぁな。唯隊員のことだからゼッタイ傘忘れてるって思ってな」

りっちゃんも、二ッ、と笑顔で応えた。

わたし、このりっちゃんの笑顔、好きなんだよね。
持つべきものは折畳み傘より頼りになるともだち。

いぇい。勝利のぶい。

「今日の戦果は?」

「上々なら雨の夜にひとりで帰ってくるわけないじゃん」

合コンのあった日、りっちゃんは必ずその日の首尾を聞いてくる。
わたしが苦い顔をしたときほど、好奇心満々で嬉しそうな口調のりっちゃんに、つっけんどんな返事をする。
ちいさな雨粒が傘に当たってぱらぱらと音を鳴らしていた。

「そりゃそうだ」

「まったく見る目ないよねー、こんな美女をほっとくなんて」

「美女、ねぇ…美女以前にねぇ…」とりっちゃんが渋い声を出す。

「何が言いたいのさ?」わたしは尖った声で答える。

「いつも言ってるだろ? いくら誘われたからって、三十路過ぎが二十代前半に混じって合コンはキツイ、って」

傘の下からりっちゃんのいじわるな笑顔が覗いた。
楽しそうな声だ。わたしがモテない話をするといっつもこんな調子。りっちゃんのクセに!

りっちゃんめがけてくるっと傘を回すと、水滴が四方に散らばった。
りっちゃんは傘を倒して飛沫を防ぐ。ちぇ。

別にそんなモテないわけじゃないし。彼氏だってちゃんといたことあるし…ここ三年はご無沙汰だけど。
大体りっちゃんも人のこと言えないじゃん! たまには浮いた話のひとつでも聞かせてみなよっ!

「アラフォーのりっちゃんに言われたくないよっ」

「お前もあとちょっとで四捨五入すりゃ40だろが」

「ふふん。今夜は“24”って言ったら、だぁれひとり疑う様子すらありませんでした!」

りっちゃんは呆れたように大きくため息をついた。

「…10はサバ読みすぎ。つか、バレてたからダメだったんじゃねーの?」

「どーだろ? ま、いーんだよ。いい男を後輩ちゃんに譲ってあげるのも先輩の役目じゃん」

「はいはい」

合コン後はいっつもこうやって反省会。けれどその反省が次回に生きた試しはございません。
ま、いーけどね。くるくると傘を回しながら歩く。
水が飛ぶからやめろって、と言うりっちゃんを無視して、傘を回しながら歩いた。



玄関先から灯りが漏れている。

駅から家まで、歩いて五分。走れば三分。傘がなくてもなんとかならなくもない距離だけど、秋の夜寒を雨に打たれて風邪でも引いたら元も子もない。ありがとね、りっちゃん。


わたしとりっちゃん。
大学卒業後、地元で就職したのはけいおん部の中でわたし達二人だけ。
りっちゃんは毎日のようにウチに遊びにやってくる。
ウチの憂やりっちゃんとこの聡君が結婚してからは特に。
先に帰った方が料理作って待っていて、二人揃ったらお酒飲んでお風呂入ってそのまま寝て起きて出勤。
その繰り返し。

気分は学生時代そのまんま。独り身の女二人、気楽でいいね。

閉じた傘をふるふると振って雨粒を飛ばし、閉じずにそのままドア横に立てかける。

「今日は豆乳鍋だぞ。今夜はちょっと寒いし」

同じようにりっちゃんもふるふると傘を振って雨粒を飛ばし、ドア横に立てかけた。

「ありがと。悪いね、いつも」

「いーえ。こちらこそ。今日は早番だったからな」

りっちゃんが仰々しく頭を下げてみせる。
その拍子にわたしの赤色の傘がツーっと倒れて、りっちゃんの黄色の傘に寄りかかっていった。


扉を開けば発泡酒がずらっと並ぶ冷蔵庫。

「そういえばさぁ、澪ちゃん帰ってきてるって?」

たまにはちゃんとしたビールを飲みたいなぁと思いながら、発泡酒を手に取る。
酔ってしまえばなんだって一緒だもん。でもメーカーにはこだわるけど。

「あー、そうだっけ」

「もうすぐなんでしょ。澪ちゃん、二人目」

「あー、そうだっけ」

ぷしゅっと小気味よい音がキッチンに響いた。
テレビは、日本人テニスプレーヤーのなんとか大会決勝進出にはしゃいでいる町の人たちの様子を映していた。
この人、確かまだ二十歳そこそこだよね。立派だなぁまだ若いのに。わたしには関係ないけど。

「久しぶりに会えないか、って連絡きたんだけど」

「へー、そうなの」

りっちゃんはソファーに寝っ転がったままテレビに見入っている。
切り替わった画面に映る女子アナ。美人だけど、最近ではみんな似たような顔ばかりに見えて、誰が誰だかよくわからない。
りっちゃんがチャンネルを変えた。

「お。ムギんとこの会社。また株あがってる」

「ふぅん。景気いいんだ」

数字ばかりずらずら並んでいる画面を見ても何一つ面白いと思えない。
今後どれだけ歳を重ねても、こういうことに興味を持つ自分は想像できないなー。
りっちゃんは案外そうでもないらしく、たまーに日経とか読んでる。
一度教えてもらおうとしたことがあったけど、全く意味がわからず余計イヤになった。
とりあえずムギちゃんの会社の株価がやたらと大きな数字だったことだけは憶えてる。

結婚式豪華だったもんなぁ。政治家とか芸能人とか、人間国宝まで来てたし。

ムギちゃんの結婚式。

あまりに大きく広すぎな会場、わたし達はその隅っこに四人固まって座った。
宮殿のような会場にはじめはテンション上がりまくりだったとわたしとりっちゃんも、知り合いがわたし達以外には誰もいなくて、あとは琴吹家関係のアッパークラスの人たちばかりだと気付いてからはずっと大人しくしてた。
澪ちゃんとあずにゃんは初めから緊張でガチガチで、澪ちゃんは自分の格好が場違いじゃないか何度も何度もわたしに尋ねてきた(わたしに聞かれてもわかるわけないじゃん)。とにかく小さくちょこんと座ってご馳走を食べた。

真ん中の一番きらびやかな席に座るムギちゃんは、あまりに遠かった。

新郎新婦の席に近づこうにもいろんな人が入れ替わり立ち替わり挨拶に来てたせいでなかなか近づけない。笑顔を貼り付けていろんな人に頭を下げ、手を振るムギちゃんはムギちゃんじゃなくて「名門琴吹家のお嬢様」だった。
ムギちゃんの家庭環境からすれば、結婚はプライベートな出来事じゃなくて仕事の一環みたいなものだったのかもしれない。隣の新郎さんが優しそうな人だったのは救いだった。



結局ムギちゃんに声をかけられず、式が終わって四人、帰りに白木屋で飲んだ。
披露宴の料理はおいしかったけど、名前も知らない横文字のご馳走より、チェーンの居酒屋のホッケの方がわたしは好きだ。

それはきっとムギちゃんだって同じはずだ。

骨についた身を残さず余さず丁寧に箸でより分け口に運び、満面の笑みで頬張ってはハイボールのグラスを傾けた彼女のことを思い出していた。

みんなも同じことを考えてたんだと思う。
友達が、ずっとそばにいると思ってた友達が、実は全然別の世界の人だったって知らされて、
お祝いしなきゃいけないのになんだか寂しさの方がずっとずっと強くて、
四人で終電まで飲んだ。

『来てくれてありがとう。声かけられなくてごめんね。』

次の朝届いたムギちゃんからのメール。
今度また飲もうね、って返事をして以来、ムギちゃんとお酒を飲む機会はない。



作り物の笑い声が耳に入ってふと我に帰る。
いつの間にか番組が変わってた。バラエティになってる。
喉の渇きを感じて発泡酒に口をつけた。

お風呂上りの乾いた身体に、アルコールが染み込んでいく。
発泡酒はひと口目がいちばんおいしい。一日の最後のしあわせ。
株価がどうのこうのはわかんないけど、消費税が上がってビールが買いづらくなるのだけは実に困る。
ムギちゃんにお願いしたら、なんとかしてくれるだろうか消費税。
いや、ほんとになんとかなりそうだから怖い琴吹家。

「それでさ。りっちゃん、時間とれない?」

「なにが?」

「澪ちゃん」

「あー、そうだなぁ。考えとく」

テレビを消して、りっちゃんが立ち上がった。

「帰るわ」

「珍しいね。泊まってけばいいのに」

「いや、今日はやめとく。あんまり帰らないとうるさいからさ。親も、聡も」

「車で送るよ。雨降ってるし」

雨の音は聞こえない。
降っているかもしれないし、やんでいるかもしれない。
口に出して言ったことはないけれど、
りっちゃんが帰ると言ったときは引き留めるのはやめようと決めていた。

「ビール。飲んでるだろ」

「平気だよ。ひと口しか飲んでないもん」

「ハハ…だとしてもダメだよ。化粧落としちゃったろ? 人前に出られる顔じゃねーつーの」

「大丈夫だよ。眉毛だけ描けばなんとかなるよ!」

「そういう問題じゃねーって。自分の年齢わかってんのか?」

りっちゃんは軽く笑いながら部屋着のパーカーを脱いで丁寧にたたむと、コートを羽織ってバッグを手に取った。

「次、いつ来る?」

「明日はちょっと遅いかも」

玄関のドアを開けると、まだ雨がかすかに降っている。
どうせ毎日ウチに来るってわかってても、次はいつなのか必ず聞く。

「わたし、明日早番なんだよね。なんか作って待ってるよ」

「悪いな。また連絡する。それじゃ」

「筑前煮でいいかな」

「おっけー」

りっちゃんは左手の親指と人指し指で丸を作ってみせると、傘を広げて歩いて行く。
暗闇に姿が見えなくなるまで見送り、わたしは扉を閉めて鍵をかけた。



一人きりになると、時計の針の音がやけにうるさく聞こえるのはなんでなんだろう。
半分以上残った発泡酒を一気に飲み干すと、洗面所に足を向けた。

さっと軽く眉だけ描いて、じっと鏡の中を見つめる。
ほのかに赤らんだ顔をしたわたしがそこにいる。

ほら。いけるじゃん。

今日だって24歳でまかり通ったし、こないだ河原町で声かけてきたお兄さんには女子大生に間違われたし、街を歩けば未だにちょこちょこナンパもされる。
今日も仕事でポカミスやらかして、“平沢お前、新人みたいなミスするなよ”って上司に…
いろんな意味で実年齢よりはゼッタイ若いはずのわたし。

わかいわかい!





若さにこだわってる時点で若くないか。

…あ、小じわ発見。
げ、枝毛も見つけちゃった。
わわ、こんなとこにシミ出来てる…
毛穴が……うん。何も見なかったことにしよう。見なかった。なーんにも見なかった。

あんまり鏡に顔を近づけると、見たくないものばかり見つけちゃう。あーイヤだ。

お肌も人生も曲がり角。
平沢唯、独身、非処女、34歳(あともうちょいで35歳)。

★★

天井をぐるんぐるんとプロペラが回っている。
随分大きな窓から燦々と太陽が降り注ぐ、秋の午後。

昔よりちょっとだけ髪の短くなった澪ちゃんが、
「今日はちょっとあったかいな」と言いながらストールを外した。

「どのくらいだっけ」

「八ヶ月」

「あれ? あずにゃんの結婚式以来会ってなくなかった?」

「ああ、お腹のことかと思った。会うのは梓の結婚式以来だな」

澪ちゃんは笑いながら目を細めたけど、目尻に皺なんて全然ない。
陽に照らされてきらきらしてる黒髪は相変わらず綺麗で、
ゆったりしたグレーのマタニティワンピースがとてもよく似合ってる。

「唯は梓とは連絡とってるのか?」

「んーときどき。会ってはいないけど。ライブやらなんやらで全国を飛び回って忙しいみたい」

たんぽぽコーヒーを飲みながら、澪ちゃんは遠い目をして窓の外を眺めた。

「そっかぁ。すごいよなぁ、梓」

「放課後ティータイムの中から一人だけでもプロに出たんだからね」

ばんばんテレビに出たり、CDが売れたり、というわけではないと言っても、音楽で生計を立ててることに間違いないもんね。
わたしも一緒に注文してみたけど、別においしくもなければ不味くもないなぁ、たんぽぽコーヒー。



大学を卒業して一旦は一般企業に就職したあずにゃんが、本格的に音楽の道を目指して会社を辞めたのは働き始めて三年目のことだった。

あずにゃんは東京で働いてたから、その頃はもう全然会ってなかったけど、どんなに仕事が忙しくっても毎日ギター触ってたんだって。すごいね。わたし、卒業してからはろくにギー太、弾いてあげてない。

組んだバンドは放課後ティータイムと同じ五人編成。結婚相手は同じバンドのギタリスト。ギタリスト同士のカップルかぁ。
もし放課後ティータイムでプロ目指してたら、わたしがあずにゃんと結婚してたかもねー。なんちゃって。



「そっちの方は順調なの?」

「そっち?」

「お腹」

「ああ、最近よく蹴るんだよ。元気そのもの」

「そっか。今度もこっちで産むんだ」

「うん。最初と同じところの方が安心できるだろ。憂ちゃんもいるし。
 上の子の面倒を親が見てくれるし、旦那といるよりもよっぽど助かるよ」

そう言って笑う澪ちゃんは、なんだか全然知らない人に見えた。
ゆっくりとお腹をさする。そういえば澪ちゃんとこの上の子の名前なんだっけ?
えーっと確か女の子で…ああ、スケート選手みたいな名前だっけ。好きなんだけどなぁ子供。でも顔も思い出せない。



憂は、国立大学の看護学科に進学した。
大学が離れ離れなのは寂しかったけど、憂が自分で考えて選んだ将来の夢を応援したかった。
そして大学卒業した後、希望を叶えて桜ヶ丘の病院の看護婦さんになり、数年してそこのお医者さんと結婚した。
ご近所さんだけど、家は別々。そりゃ結婚すればね。子供は一人。
そうそう。最近じゃ、憂と間違われることもなくなったなー。



「しあわせそうだね」

思わず口に出た言葉が、嫌味っぽかったんじゃないかと気付いたけどもう遅い。

「まぁ…それなりに」

澪ちゃんはあまり気にしてないみたいだった。と思う。たぶん。

「ところで唯。律のことなんだけど」

「なに」

澪ちゃんから笑顔が消えて声のトーンが下がる。
その瞬間、言われることになんとなく想像がついて、白けた気分で窓の外に視線を泳がせた。

「アイツ、あんまり家にも帰ってないんだろ。友達の家に入り浸りだって律ん家のオバさんから聞いてさ。唯のことだと思って。迷惑かけてゴメンな」

「なんで澪ちゃんが謝るのさ」

等間隔に植えられたイチョウの木は黄色と緑のグラデーションがかった色合いを見せている。
一昨日、昨日、今日、明日。
一日一日の変化は小さくて、何も変わっていないように思えるのに、
いつの間にか葉色はすべて黄色に変わり、
もうしばらくすれば落葉して歩道を全て黄色に埋め尽くす。

「え、あ…まぁ。ともかくあんまり甘やかさないで、言うときは言わないとダメだぞ」

「言うって何を」

窓の外から視線を戻して澪ちゃんを見た。
わざと素っ気ない口調で喋ったセリフの効果があったのか、ちょっと気圧されたのか、ひるんでつまらせながらも澪ちゃんは続けた。

「いや…帰る家があるんだからちゃんと帰れ、って。いつまでも学生じゃないんだから。いい大人だろ。アイツも」

「大人のすることにケチつけるのは大人のやることなの?
 わたしはそうは思わないなぁ」

今度は明らかに不愉快な顔になって黙り込む澪ちゃん。
顔に出やすい性格も、怒ったら黙る性格も変わってないね。

とは言っても久しぶりに大事な友達と会ったのに、イヤ~な感じになるのは耐えられない。
胎教?にもよくないだろうしね。

「わたしも親がドイツに行っちゃったし、憂も結婚したし、ずっと一人で退屈なんだよ。
 ほら、ウチの方が駅に近くてりっちゃんも便利だって言うし。別に迷惑でもなんでもないよ」

「唯が良くても律にはよくないだろ」

「そうやって勝手にりっちゃんのこと決めつけるの、どうなのかなぁ」

ダメだ、我慢できない。

「…田井中のオバさんも聡も心配してる」

りっちゃん。来なくて正解だったね。

「聡くんが結婚してお嫁さんもいて子供もできて、りっちゃん実家に居づらいんでしょ」

「それじゃ、まるでオバさんや聡が律を追い出してるみたいじゃないか!」

前の席の女の子たちが、ぎょっとしてこっちを振り向いた。
わたしはヘラヘラと愛想笑いを浮かべて頭を下げてみせる。

「澪ちゃん、落ち着いて。別にそんなこと言ってるわけじゃなくて。
 さっきも言ったけどもうりっちゃんだっていい大人じゃん。やりたいようにさせといたらいいんじゃないかな」

「そんなこと…お前ら自分の年齢考えたことあるのか?
 これからの人生どうするつもりだよ。結婚は? 出産は? 
 先のこともロクに考えずにその日暮らしでブラブラしていい年になっても家族や友達に心配かけて…一人で生きてるつもりなのか?!」

別に間違ったことを言われてるとは思わない。
世間の人はみんなそう言う。

「大体律は就職を決めるときだって……」

「え、なに? りっちゃん就活は割と頑張ってたじゃん。内定もいくつか取れてたし」

「そうじゃない。最終的に地元に帰る、って決めた理由が……まぁいいよ、この話は」

あ、そ。

いや、こうしてはっきり口に出して言ってくれるだけ澪ちゃんは正直だからマシだ。
ほとんどの人はこういう“世間の常識”とぴったり寄り添った考えをしているくせに、
それをちっとも口には出さず、わたし達に理解のあるフリをしながら遠巻きにどこか哀れんだ視線を投げかけてくる。

「わたしはさ、律のことも唯のことも心配なんだ」

澪ちゃんの声がすっごく遠く遠くから聞こえる。
昔はすぐ隣からベースの音が聴こえてたのに。

「憂ちゃんもさ。すっごく心配してたぞ。唯が将来のことどう考えてるのかわかんない、って」

憂…そんなこと澪ちゃんに相談してたの。
直接わたしに言えばいいのに。そんなことも言えなくなってのかな。わたし達。
結婚して、子供ができて、別々に生活するようになったら家族じゃなくなっちゃうのかな。

憂。わたしは…それなりに楽しくやってるよ。
仕事もまぁ、失敗もするけどそこそこうまくやれてるし。
不安がない、って言ったら嘘になるけど、欲を言えばきりがないし。
憂や澪ちゃんや…他のみんなみたいに立派じゃないかもしれないけど。

「実はな、今日は唯に大事な話があったんだ」

よく見ると澪ちゃんの目頭が潤んで赤い。
これまでの会話のどこにそんな気持ちになるポイントがあったのかわたしには想像もつかない。
本気で心配してる? そう思うと心の中がどんどん冷え冷えとしていく。
フジツボに怯えて泣いていた、あの可愛い女子高生は今目の前にはいない。

「唯、結婚しないか」

あら? わたし、プロポーズされちゃった。
困っちゃうな。

あーなんか寒いや。
片手をあげ、店員さんを呼び止めると、ホットコーヒーをブラックで注文した。

★★

幼馴染に会えなくてさぞ残念がっているだろうと、同じ名前の日本酒を手土産に帰って来たわたしを、エプロン(憂の使ってたやつ)姿のりっちゃんが出迎えてくれた。

「なんだよその気遣い」

「いらないの?」

「飲みます。ありがとうございます」

「素直でよろしい」

両手を合わせてお辞儀をするりっちゃんに、
胸(高校生のときよりおっぱいは随分大きくなった)を張りながらお酒を差し出す。
さも厳かに、といった調子でりっちゃんが受け取り、口角をあげてニッと笑う。

ニッ。

わたしも笑う。
りっちゃんの表情は高校時代から更新されてない。単にずっと一緒にいるから変わってない気がするだけなのか、それともりっちゃん自身が成長してないからか。両方かな、たぶん。



今日は水炊きだぞ、と言いながらりっちゃんが鍋を運んでくる。
おおっ、これならお酒も進むね。さいこう!

昔に比べお肉が減りお野菜が増えた鍋をつつきながら、りっちゃんが仕事の愚痴をこぼす。
百貨店の外商さんともなると、いろいろ大変らしいです。

愚痴、と言ってもりっちゃんだから、上手にユーモアを交えつつ面白おかしく喋るので、聞いてるこっちもあんまりストレスがたまらない。
でも要所要所を聞いていると、りっちゃんの会社はどうやらあんまり安泰ではなさそう。ま、りっちゃんなら会社潰れて転職してどこいっても、それが何の仕事でもそれなりにそつなくこなしそうだけどね。

「それでさぁ、埒があかないから言ってやったんだよ。文句があるなら日本語で言え、って」

「通訳の人もいたんでしょ?」

「いるけどさ…都合が悪いことは訳さないんだよ」

最近は外国の会社との取引担当にさせられたらしく、いろいろ苦労してるみたい。
言葉が違うとコミュニケーションをとるのは大変だろうな。
同じ日本語喋っててもお互い理解し合うのが難しいのに。
いや、相手のことだけじゃなくて自分のことを自分で理解するのだって難しい。
わたしはどこまでわたし自身のことをわかっているんだろう。



「りっちゃん」

「どした?」

りっちゃんはちっとも澪ちゃんのことを聞いてこない。
まるでわたしと澪ちゃんが今日会っていたことがなかったみたいに。

「なんで避けるの?」

「…」

黙っちゃうんだ。こういうとこわかりやすいなぁ。
面倒ごとが嫌いな割に、ごまかすのは下手だよね。

「いや、唯が何も言わないから」

わたしもわたしで、言いたいことがあるならはっきり言えばいいと考えながらも、
りっちゃんに聞かれなかったら言う気もなかった。

りっちゃんは黙ったまま両手を合わせてごちそうさますると、
ヒョイと鍋を持ち上げて台所に運んで行った。

この調子だとまた帰るとか言い出しそうだな。

「りっちゃん、洗い物しとくよ。先にお風呂入ってきちゃって」

「いいよ。今日はかえ…」

「明日休みだよね。わたしもなの。DVD借りてきたんだけど夜通し見ようよ」

「夜更かしは肌が荒れるぞ」

そう言いながらりっちゃんは鍋の残りをシンクの三角コーナーにざっと流した。

「バックトゥーザフューチャーだよ」

「観たことあるよ、それ」

「わたしも、面白いよね」

「1と2はな」

スポンジに洗剤をつけて鍋を洗うりっちゃん。

「りっちゃんはさぁ」

「んー」

きゅっきゅっと音を立てながら鍋をこする。

「過去に戻りたい、って思ったことある?」

「なくはないかなぁ…」

鍋をひっくり返して裏も丁寧に。

「いつ? いつに戻りたい?」

「そうだなぁ…」

りっちゃんは鍋をこする手を休め、うーんとうなりだした。

わたしならいつだろう。
やっぱり高校時代? それとも大学?
確かに楽しかったけど、じゃあ今がそんなに嫌かと聞かれたらそれほどでもないとも思う。

…案外今が一番楽しいときなのかもしれない。

「まーでも、別にいいかな。過去に戻らなくても。でも・・・」

「でも?」

「未来に行くのは怖い」

りっちゃんはそれだけ言うと、水を出して泡だらけの鍋を洗い流し始めた。



「りっちゃんってさ。将来のこと考えてるの?」

しまったバカなことを聞いたと思った。
りっちゃんがいちばん聞かれたくない言葉だって知ってるから。
それはわたしだってそう。
わたし達の間でそれは禁句のはずだった。

仕事のこととか。
家庭のこととか。
結婚とか出産とか。年金とか保険とか親の介護とか。うんぬん。

女が一人で生きていくには、まだまだ世の中メンドクサイことがいっぱいです。

時々自分たちを卑下したように冗談めかして話すことはあっても、本当に真剣に先のことなんて考えようとしなかった、考えるのが怖かった。

澪ちゃんもムギちゃんもあずにゃんも憂も、
みんなちゃんと家庭を持ったり、夢を叶えたりして“立派な”大人になっていくのを見て、
不安にならないわけないじゃん。

それでもそんな不安なんて微塵もないように振舞って、
わたし達だけはなんとなくダラダラ昔のよしみでこうしてつるんで、
ずっと昔から変わらない二人の振りをし続けていたかった。



「結婚してみようかと思って」

ジャージャーとうるさい水音のせいで聞こえないのか、りっちゃんはちっとも答えない。

「澪ちゃんがいい人紹介してくれるんだってさ」

りっちゃんはやけに丁寧に鍋を洗う。

あの頃みたいに五人一緒じゃないけれど、りっちゃんがいれば毎日楽しい。
でも周りはわたし達がこのまま二人でい続けることを果たして許してくれるのかな。
わたしにはその確信もないし、逆らってまで今の生活を続ける自信もない。
りっちゃんは? どう思う?



水音が止まった。

「唯がいいならさ」

布巾を手に取り、鍋の外側を拭いていく。

「してみれば、結婚」

「りっちゃん」

「なに」

「だいっキライ」



いつまでもこっちを見ようとしないりっちゃんにひと言投げつけて、わたしはそのまま家を飛び出した。
追いかけてきてほしかったのかもしれないし、わたしが出てったらりっちゃんは勝手に帰るわけにいかないだろうという計算もあった。

夜の街を当てもなく歩き続けて、橋の真ん中で立ち止まった。
見下ろした川の流れは暗くてよく見えないけれど、さらさらと流れる音は聞こえた。

見知った街なのに、今自分がどこにいるのかわからなくって、
果たしてこのまま家に帰れるのか不安がよぎる。

いつまでも同じところにいられないのか、
同じところにいるつもりが知らない間に別のところにきてしまったのか、
今が一体そのどちらなのかわからない。
心も身体もなにもかも、迷子だ。

暗闇に目が慣れて、川の流れが見え始めた。
さらさらと水が流れていく。
いい年こいた女が、ひとりぼっちで真夜中に橋の真ん中から川を見下ろしているのはわかる。
ずっと続くものなんてないんだ、という随分昔に経験した当たり前のことを思い出しながら、足元の石ころを拾い上げ、夜の川に放り投げた。




しばらくボケーっと川の流れを見ているうちにいつの間にか隣にりっちゃんが立っていて、ぎゅっとわたしの左手を握り、そのまま引っ張り家まで連れて帰ってくれた。

りっちゃんは笑いもせず、泣きもせず、怒っているのかもしれないけれど何も言わず、ただ手を握って家まで一緒に帰った。
りっちゃんの手。思ったより冷たいね。
手をつなぐのはいつ以来だろう。思い出せない。

迷子のわたしを家まで送り届けると、りっちゃんはそのまま出て行った。

別れる前にもう一度言ってやった。

「だいっキライ」



りっちゃんは背中を向けたまま何も言わずに出て行った。


ああ、次いつ来るか、聞くの忘れちゃった。


次は、
あるんだろうか。

見上げた夜空に星が二つ、瞬いていた。

★★

-2ヶ月後-

それから。
2ヶ月の間、りっちゃんは一度もウチに来なかった。

高校、大学、就職。地元に帰ったわたし達だけは、離れることなくふたりずっと一緒だった。
かれこれ20年近くもずっと一緒だった。
昔は幼馴染のりっちゃんと澪ちゃんの二人の付き合いの長さに引け目を感じることがあったけど、今となってはもうそんなこと気にすることも少なくなった。

りっちゃんと出会って以来、2ヶ月も顔も見ない声も聞かないなんて初めてだ。

会わない間にわたしは一つ歳をとり、四捨五入すればめでたく四十路、これからアラサーじゃなくてアラフォーに突入しちゃったわけだけれど、その記念すべき日にも連絡はなく。めでたくもないから別にいーんけどさっ。ふん。

ヘンな別れ方をして、意地を張ってるつもりじゃなかったけど、こっちからは電話もメールもしなかった。
りっちゃんからも連絡はない。



お見合い、なんてちゃんとした形式でやるのは初めてだったけど、相手はそんな悪くない…というかわたしの年齢とか学歴とか職歴とか考えたら申し分ない人だった。
憂の旦那さんの学生時代の同級生だって。要はお医者様。やったね玉の輿。

イケメンじゃないけど顔は悪くないし、話もそれなりに上手いし、音楽もケッコー詳しくて好きだっていうバンドの趣味も悪くないし、3回くらいデートしてみたら思ったより楽しくて、割りと盛り上がった。



「ねぇ澪ちゃん。澪ちゃんはさ。結婚してよかった、って思う?」

はじめのお見合いの後、澪ちゃんに聞いてみた。
澪ちゃんの旦那さんはえーっと確か会社の先輩さんだ。

就職で初めての一人暮らし。初めての東京。
そこで澪ちゃんの心の支えになってあげられたのがその人だった…のかな?
学生時代の澪ちゃんしか知らないと、男の人と付き合ってる姿が想像しづらい。

澪ちゃんは少し間を置いて答えた。

「よかったよ。そうに決まってるじゃないか。…今のわたしにとって一番大事なのは、家族だよ。そんなの…当たり前のことだよ。そんなこと聞くなよ」

まるで自分に言い聞かせるみたいに、強い口調だった。

家族…か。
じゃあ澪ちゃんは結婚してよかったってことだね。



なんていうか。
結婚なんてさギャンブルみたいなものじゃない?

大好きでどうしても一緒にいたい、離れたくない、ずっと一緒にいたい、って人とならともかくさ、

まわりのみんながそうしろって言うから、とか、
みんな結婚するのが当たり前だから、とか、
結婚して子供産むのが女の幸せ、とか、
普通は結婚するもんでしょ、とか、
そろそろいい歳だから、とか、

別にいいんだけどさー、そういうもんなんだろうし。
先々のことを考えたらその方が得策だっていうことはわからないでもない。

でもさー、だからってよくわからない人と一緒に暮らせる? 大して好きでもない人と。
暮らし始めてから後悔したって遅いかもしんないじゃん。

ちゅーことは結局のところ、してみないとそれが成功だったか失敗だったかわからないんじゃない?
それってギャンブルと一緒だよね。
幸福なんてそういうものなのかなー。

んー、わかんない。

してもしなくても幸福になれるのかなれないのかわかんないなら、
してみるのも一興ってやつですか!

いっちょ人生、賭けてみますか!

悪くないかもね。結婚も。


そう思うようになってきた金曜の夜。
次の日に四度目のデートを控えた夜。


明日は神戸だよ。三宮だよ。中華街だよ。メリケン波止場だよ。クルーズだよ。
そして100万ドルの夜景を堪能しつつ、ホテルでディナーだよ。シャンパンあけちゃうよ~。

しかもお泊まりだよ。

神戸なんてめっちゃひさしぶり。
そーいや昔付き合ってた人とルミナリエ見に行ったなぁ…人だらけで疲れた記憶しかない。
いやいや、悪い記憶を思い出してどーすんの。

阪急なんて滅多に乗らないし、乗り継ぎを確認しとないと約束の時間に間に合わないどころか、行き着くことすらできないイヤ~な予感がする。
知らないうちに兵庫の奥の山の方に行っちゃってたりとか。行きたいの海のほうなのにっ。梅田駅が大きすぎるのがよくないんだよっ!

とにかく明日は大事な日。しょーねんばなのです。
だから寝坊したら一巻の終わり。付き合い酒も断って、帰りの電車ではスマホで調べた路線を何度も見直し、今日は早く寝ようかと帰宅すると、玄関から明かりが漏れていた。



ドアの前で立ち止まる。
あれ…鍵がなかなか見つからない…どこ入れたっけ……あ、あった。よし鍵穴に通して、っと。
鍵を持つ手が震える。

え、わたし、どーしたのさ。よし…ふんすっ







「おかえり」

「…ただいま」

リビングに入る。ソファーに腰掛けたりっちゃんが自然にわたしを出迎えた。
右手でペットボトルの蓋を閉め、テーブルに置くとわたしをじっと見つめる。
わたしは思わず目を逸らして台所の冷蔵庫に向かった。

「冷蔵庫の中の発泡酒、飲んでくれてよかったのに」

「いや、いい」

そんなこと気にする柄でもないくせに。
合鍵、返しに来たのかな。

「いいワインもあるんだよー、こないだ貰っちゃって……」

「それもいい」

どうしてもりっちゃんに目線が合わせられない。背中を向けながら声をかける。
うわ。なにかおかしい。相手はりっちゃんだよ? なんで?



2ヶ月ぶりだからなのかなんなのか、りっちゃんは珍しく自分からなにも話そうとしない。
わたしもなぜだか何をしゃべっていいものかわからないし、もちろん明日のことは言うつもりもなかった。

こんなときアルコールの力を借りれたらよかったのだろうけれど、わたしは明日を控えていたし、
どうもりっちゃんも一切飲む気がないらしい。
黙ったままソファーでふたり、だらんと腰を落ち着ける。
TVの消えたリビングは静寂に包まれていたけれど、いつもなら耳障りな時計の針の音は気にならず、
ばくばくと脈を打つ自分の心音ばかりがやかましかった。



「これ、お土産」

静寂を破ったのはりっちゃんだった。
そう言ってテーブルに置いたのは銀色の袋。
獅峰特急龍…? 袋に貼られたシールに読み方不明の漢字が並ぶ。なにこれ。

「上海のお土産。って言ってもこれくれた人は香港で買ったらしいけど」

は? 上海? 香港? なにそれ。

「中国茶だって。飲んでみようぜ」

わたしと会わなかった2ヶ月の間、りっちゃん、中国行ってたの? 旅行? 出張?
頭が混乱しているわたしを放ったまま、りっちゃんは手際よくお茶の準備を進めた。



なんとか龍とかいう覚えらんないややこしい名前のお茶は、はっきり言っておいしくはなかった。
高校時代、毎日お茶を飲んでいたせいで、わたし達はかなりお茶にはウルサイ。

「うすいね」

「味も香りもな」

ムギちゃんならきっともっと上手に淹れたんだろうな。
おいしいお茶ならもっと会話、弾んだかもな。
いまさらどうしようもないな。
いや、りっちゃんのヘタクソなお茶の淹れ方が悪いんじゃなくてね…

ふたたび訪れる静寂が心苦しい。
とにかくなにか喋らないと…

「あ、そうだりっちゃん、ごはん食べた? 簡単なものでいいなら今から作るけど」

「いや、いいよ。お腹減ってない。それより唯、明日ヒマか? 温泉でも行かね?」




一瞬、息が止まった。

りっちゃんにそう言われた途端、
中華街もメリケン波止場もクルーズも、調べた路線図も待ち合わせ場所も、お泊まりもしょーねんばも、100万ドルの夜景すら
あとかたもなく脳内から消え去って、

きれいさっぱりなくなった。

★★

ひらひらと宙を舞う雪が、手のひらに触れた。

「閉めろよ、窓。寒いよ」

「あ、ごめん」


降る雪を見ているうちに、高校時代作った冬の歌を思い出して、ついボケっとしてしまった。
ガラガラと窓を閉めてから、改めて部屋の中を眺める。
8畳のスペースに二つの並んだ布団と、ブラウン管のTV。ブラウン管…ブラウン管…?! ひさしぶりに見た。

宿泊費もさることながら、温泉地だというのにこうも簡単に宿泊できちゃうあたり、中身もある程度想定がつくというか。
せっかくの気ままな独身女二人旅、こういうときこそ普段溜め込んだ小金をパァーッ!と使うときじゃないのかって…まぁ思いつきの突発旅行なんだからしょーがないよね。
なんだか文句ばっかつけてるようだけど、全然いい宿だし。温泉もサイコーだったし。

「値段の割には悪くない部屋だな」

りっちゃんもやっぱそう思うよね。

「うん。温泉も気持ちよかったしね」

「だな。三十路半ばの疲れた肉体にはもってこいだな。腰が軽くなった気がする」

「オバちゃんくさいです。りっちゃん隊員」

でも同感です。わたしは足のむくみが取れた気がします、りっちゃん隊員。

「うっせ。お前もオバちゃんだろ。唯隊員」

その通りです。温泉に入って若返るなら永遠に入っていたいです、りっちゃん隊員。


窓の外の暗闇には白い雪がひらひらと舞い続けている。
それを肴にしようと、駅前で買った地酒の一升瓶を開けた。
茶櫃の中から湯呑み茶碗を二つ取り出し、均等に注ぎ分ける。とぶとぷ。

かんぱーい。

磁器と磁器が触れ合い、カチンと無機質な音を立てた。

「おいし」

「だな」

「雪見酒だね」

「だな」

醸造アルコールが五臓六腑にしみる。
わたしにはシャンパンよりもこういうチープなお酒が合ってるよ。

他に宿泊客はいるのかいないのか。
昼過ぎから降り始めた雪が、音をすべて飲み込んでしまったよう。観光地とは思えない静けさだった。

窓の外には…100万ドルの夜景どころか雪しか見えない。
中華街の豪華な食事の代わりに、お昼はコンビニで肉まんを買って食べた。
旅行に来てまで肉まんかよ、ってりっちゃんは言ったけど、昨日まで気分は中華だったんだからこうでもしなけりゃわたしの胃袋は納得してくれない。

「明日、どこ行く?」

「竹生島…とか?」

「何があるの?」

「弁天さんがいるって…芸能の神様だからギター上手くなるかもな。
 あと、なんか瓦みたいなの投げたりできるらしいぞ」

クルーズの代わりに、フェリーに揺られて竹生島、か。
それもいっか。
そうそうりっちゃん、“瓦”じゃなくて“かわらけ”だよ。相変わらずおバカだね。



お酒がもう残りわずかまで減ってきた。

りっちゃんはこういうとき、自分から何も言わない。
自分で旅行に誘ったくせに、何も言わない。
言いたいことがあるくせに、思わせぶりな態度をとって相手に口火を切らせようとする。
今日はちっともわたしの目を見てこない。
今だってずっと窓の外ばっか見てる。
わたしに声をかけさせるつもりだ。
何が雪見酒だ。
そんな趣深いことなんて普段してないくせに。
雪なんて肴になりゃしないよっ。
お酒の肴にするならスルメイカの方がずっとおいしいよっ。

お酒を全部飲み終えたら、そのまま眠って起きたら明日は竹生島。お船に揺られてゆらゆらと。
弁天さんを拝んで、かわらけ投げて、またお船に揺られて…それでおしまい。
一体何がしたいのさ。



「一体何がしたいのさっ」

あ、思わず口に出てた。
それまでわたしから目を逸らしてりっちゃんがビクッとしてこっちを向いた。
これじゃりっちゃんの思う壺だと思いながらもスイッチが入ってしまうと止められない。
湯呑みをテーブルに叩きつけながらわたしはもう一度叫んだ。



「一体何がしたいのさっ」

「落ち着けよ。目が据わってるぞ」

これが落ち着いていられるかっ、
…と言ったつもりが舌がもつれて意味不明な言葉になった。

りっちゃんはわたしからまだお酒の残った湯呑みを取り上げると、
新しい湯呑みにウーロン茶を注いでわたしの右手に持たせてまたそっぽを向いた。

わたしは右手をそのまま振り上げて、りっちゃんに向けてウーロン茶をぶっかけた。


りっちゃんは、うわっ、と小さな声をあげてこっちを見た。

「やっとこっち見たね」

「…」

「何かわたしに言うことあるでしょ」

あーあ。聞いちゃった。
向こうから話させようと思ってたのに、やっぱダメだった。

「…わたし、人生の岐路をあやまったよ」

「は?」

「…今日は人生のしょーねんばだったのに」

「どういうことだよ」

まーた澪ちゃんに怒られる。憂はどう思うかな。
怒るかな、泣くかな。呆れて何も言わないかもね。

「もういいや。寝よ。明日も早いでしょ」

「待てよ」

「もう待ったよ。もうじゅーーーぶん待ったよ」

「ごめん。言い出せなくて。言わなきゃと思ってたんだけど」

「何。早く言って」

「わたし…




 中国に行くことにした」




え?



「ごめん、意味がよくわからないんだけど」

「ああすまん。つまり…転勤、つーかなんつーか。前から声はかけられてたんだけど、いい機会かと思ってな。上海に行くことになった」

「いつ」

「来年の春」

「帰ってくるのは?」

「わかんね。2、3年で帰るはずが、ずっと向こうにいる人もいるし」

りっちゃんはわたしから目を逸らさなかった。
それなのに今度はわたしが目を逸らしてしまった。

酒瓶から湯呑みに、残りをすべて注いで一気にあおる。




「この2ヶ月いろいろ考えた」

わたし達のまわりはみんな大人になっていったろ。
学生時代みたいに同じ服を着て、同じ場所に通って、毎日はしゃいで遊んだ友達も、
今はそれぞれみんな“立派な”大人になった。
変わらない気分なのはもう、わたし達ふたりだけじゃん。

こうしてわたし達ふたりでつるんでバカやって、
昔のまま何にも変わらないつもりでいたし、それが楽しかったし、実際そうだったと思う。
ずっとこのままででいたかったけど、一生そういうわけにもいかないんじゃねーかって…

りっちゃんは湯呑みをぎゅっと握ったまま、訥々と語った。

「唯が結婚する、って聞いてさ。
 わたしも変わらないと、って思ったんだ」

「海外赴任、ってことは栄転じゃん。すごいねりっちゃん」

「ハハ…ところがそーでもねーんだな。
 ウチの会社、今や中国よりも東南アジアの方に力を入れ始めてるからな。
 出世コースってわけじゃないんだな、これが」



どうだろう。
りっちゃんはさ。きっと自分で思ってるよりゼッタイ優秀なんだと思うよ。

元気だし、場を盛り上げてまわりを楽しくするの得意だし、人の気持ちがわかってやさしいし、誰かのために一生懸命になれるし。
りっちゃんの明るさが、きっとみんなを幸せにしてる。そうに決まってる。
りっちゃんの頑張りはちゃんと評価されてるんだと、わたしは思う。そうじゃなきゃおかしい。

ま、頭は悪いけどさ。おバカだけどさ。いい年こいて“瓦”と“かわらけ”間違えてるけどさ。



でも…話を整理すると、これはサヨナラのための旅行ってことになるんだろうか。
高校時代から続いたわたし達の関係が、もうすぐ終わりを迎えようとしているんだろうか。

「今までみたいに毎日顔合わせることはできなくなるけどさ。
 一生の別れ、ってわけじゃねーし。どこにいてもわたしはわたし、唯は唯だろ?」

そう言ってりっちゃんは笑って見せた。
笑顔がうそっぱちだってすぐにわかった。
だって、ニッ、っていうわたしの好きなやつじゃないもん。
それなのにわたしも、うその笑顔で応えてしまった。ニッ、ってなってないやつ。



少しづつさ。歯車はズレていくんだよ。
何にも変わってないつもりでも、生活が変われば人は少しづつ変わっていくんだよ。
そうして長い時間が経ってから気付くんだ。
ああ、昔とは違うんだ、って。

いいとか悪いとかじゃない。
仕方のないことだってわかってる。
昔に戻りたいってわけでもない。ただ…

たださみしかった。

なんか急にいろんなことを思い出してきちゃって、さみしくなった。



「りっちゃんは、
 結婚とか考えてないの?」

「結婚かー…中国でいい人見つけられたらな」

「そーいやりっちゃんって浮いた話ないよね」

「まーな。だってわたし、彼氏とかいたことねーし」

「え? ウソ? マジで?」

「マジだよ。だから唯にそんな話一度もしたことなかっただろ?」

そうだ。
そういえばそうだ。言われて初めて気がついた。
いっつもわたしの恋バナばっか積極的に聞いてくるくせに、りっちゃんの恋バナをちゃんと聞いたことがなかった。
恥ずかしがってごまかしちゃうか、モテないモテないってその繰り返しばかり。







「…好きな人とか、いないの」

「好きな人かー」

「案外、ずーっと想ってる人がいたりして」

わたしの冗談には耳を貸さず、
りっちゃんは湯呑みに残ったお酒をクッとあおり、横を向いて大きく息を吐いた。

綺麗な横顔だった。
ほんのり桃色に色づいた頬から、視線が離せなかった。

…モテないわけない。
りっちゃんに、男の子が寄ってこないわけない。
いくらで付き合うチャンスはあったはず。
それなのに…



「好きなタイプは?」

「なに? なにこれ? 中学生みたいなこと聞くなよ」

「いいから答えて」

そうだなぁ…と目を閉じて腕を組んで考える。

「えーっと…な。わたしの好みのタイプは………っとその前にトイレに…」

「逃げないで。早く言ってよ」



どうせウケ狙いで有名人の名前とか言い出す気だろう、
そんなこと言ったら、お尻に敷いてるサブトンで思いっきりはたいてやろうと右手で端を掴もうとした瞬間、りっちゃんが大きく目を開いて言った。



「唯」

「え?」



「だから唯だってば」

冗談にしてもそう出られるとは思っていなくて、掴んだサブトンの端から右手が離れた。
はたくタイミング、なくしちゃった。



「話は合うし、一緒にバカやってくれるし、わたしのことわかってくれるし、楽しいし」

指を折りながらりっちゃんは喋り続けた。
顔が赤いのはアルコールのせいか、照れているからなのか。

いや、照れ屋のりっちゃんのことだ。冗談でもめちゃくちゃ照れ臭いに決まってる。
早くツッコんであげたほうがいいかな。

でもわたしは、黙ったままりっちゃんの言葉の続きを待った。



「もし…もしも、の話だけど、わたしか唯のどっちかが男だったら、とっくに唯にプロポーズしてたかもな。
 あ、これ昔似たよーなことムギに言われたっけ?」

「…かんけーないよ」

「ん?」

「男とか女とか」

「…え?」

「今のほんと?」



「…あ、ごめん。つまんないこと言って。
 わり。わたし、トイレ」

そう言って立ち上がったりっちゃんの浴衣の裾をグッと捕まえた。
酔ってるせいもあってか、つんのめったりっちゃんがドスン、と倒れて布団の上に転がった。

「いってー…おいコラ、なにすんだよ」

「ねぇ、答えて。さっきの本気?」

「怒ってんのか? 悪かったよ、変なこと言って」

わたしは立ち上がろうとするりっちゃんがの上にまたがると、両手で肩を掴み上半身を押さえつけた。

「お、重い…それに足、浴衣めくれてる。パンツ・・・丸見え」

りっちゃんは抵抗しようとするけれど、両肩を押さえつけられて立ち上がることができない。



「さっきの」

「・・・」

「うそなの?」

「・・・」

「ほんとなの?」

「・・・」

「答えて」

「・・・」



りっちゃんは黙ったままなかなか答えてくれなかった。
だけど目を逸らそうともしなかった。だからわたしは待った。
待つのは慣れてるつもりだから。
神戸にはいかなかったけど、むしろこっちの方がしょーねんばだった。



5分? 3分? 1分?

いや、30秒かもしれないし、10秒…いや5秒くらいだったかも。



時間の感覚がわかんなくって、それは永遠みたいに長く感じた。
その間心臓はドクンドクン鳴りっぱなしで落ち着かない。



大きく息を吸って、吐いてを繰り返す。
狭い部屋の中に、わたしの呼吸音だけが響く。
今いる場所が高い山の上みたいに酸素の薄いところに思えた。



りっちゃんが息する音が聞こえない。
だけどもふたり、見つめ合ったまま。

りっちゃんのしっかり開かれた瞼の内側から、薄く透明感のある瞳がわたしを射抜いていた。



「ほんとうだ」



そしてたった一言。

その一言で今までわたしの内側にまとわりついていたものが全て洗い流されていくのがわかった。



「いいよ」

「いいよ、…ってなにが?」

「わたしでよければ」

「それって…えっと…」



「結婚しようよ」





見つめあったまま時間が止まる。

りっちゃんが小さく頷くのが見えた。

けれどわたしが覚えてるのはここまで。

なぜならそのあと、飲み過ぎが祟ったのか、マウントポジションのままりっちゃんの顔に盛大にゲロをぶちまけて、倒れちゃったから。

布団やら浴衣やらなんやらは全部りっちゃんがひとりで片付けてくれたらしく、次の日は朝食も取らず早々に荷物をまとめると、冷たい視線を投げかけてくる仲居さんにペコペコ頭を下げながら、二人で宿をあとにした。後日請求されたクリーニング代は想像以上だったけど、こういうときのために小金を貯めてきてよかったな、と二人、頷き合った。

★★

「別れたって本当か」

二児の母になったばかりとは思えない鋭い目つきがわたしを睨んでいる。

「まぁその、ね。ちゃんと先方には断っておいたから。
 ごめんね。いろいろ骨を折ってもらってたのに。うまくいかなくて」

「相性、っていうものがあるからうまくいかなったこと自体は仕方ないよ。
 でもな、その理由だよ」

昔に比べてスレンダーに見えるのは、大きく膨らんだお腹が元どおりになったせいなのか。
一緒に歩いてるとちらちら男の子たちの視線が鬱陶しいのは昔から変わらない。
今も向こうの席の男子高校生たちがこっちを見てはひそひそ何かを話してる。
とても30半ばの子持ち人妻には見えないんだろうなー、澪ちゃん。



「おい、聞いてるのか」

「ああ、ごめん聞いてるよ」

「この先…どうするつもりなんだよ」

「だから言ったじゃん」



仕事をやめて中国に行く。
りっちゃんと一緒に。
もう一度繰り返すと、澪ちゃんは理解不能だといった感で大げさに頭を抱えてため息をついた。

「だーいじょぶだってばぁ」

「何が大丈夫なんだよ…言葉は? 中国語しゃべれるのか? 仕事は? どうやってお金稼ぐつもりだ? 律だってずっと向こうにいるわけじゃないだろ。日本に戻ってくるときはどうするんだ? ご両親にはなんて言ったんだ? 憂ちゃん心配してたぞ。それに…」

ふんふんと鼻を鳴らして話を聞く。
前まではあんなにムカついた物言いにもちっとも腹が立たなかった。



「はぁ…疲れた」

明日東京に帰る、って言ってたよね。そんなに疲れて大丈夫? 帰れる?
言いたいことを言うだけ言い切ったからか、澪ちゃんはもう一度大きくため息をついて、ミルクティーを一気に飲み干した。

「それだけ喋ったら喉乾いたでしょ? なにか頼む?」

「お前な…いや、もういいや」

「呆れた?」

「限界を通り越した」

「そっかぁ」

えへへ、と笑いながらVサインを作ると、澪ちゃんは今日はじめての笑顔を見せてくれた。



「唯さ。聞きたいことがあるんだけど」

「なーに。パフェおごってくれたら答えてあげる」

「いや…おごらなくても答えてくれよ」

「内容によるねー。内容によってはデラックスパフェ」

「自分の年齢考えろよ。吹き出物できるぞ。自重しろ」

「いてっ」

澪ちゃんがかるくわたしの頭にチョップした。



「…あのさ」

澪ちゃんの表情から笑顔が消えた。

「唯、律のこと、好きなのか?」



その言葉の意味するところはきっと、普通の友達同士の“好き”じゃない、っていうのは澪ちゃんの顔を見ていればすぐにわかった。

「んー…よくわかんない」

「ごまかすなよ」

「ごまかしてないよ。本当によくわかんないんだ」



人を好きになる、という気持ちがわたしにはよくわからない。
りっちゃん、澪ちゃん、ムギちゃん、あずにゃん。和ちゃん、憂、さわちゃん。お父さんにお母さん。
もちろんみんな大好き。けいおんもギー太も大好き。
大切だと思える人はたくさんいる。大切だと思えることもたくさんある。大好きなものはいっぱいある。

でもたぶんそれとは違う“好き”があるみたい。わかるんだけどわからない。



何人かの男の子とも付き合ったこともある。
手をつないで、キスをして、抱きしめあって、セックスをして。
一緒にいて楽しくて、安心できて、ああこれが“好き”ってことかな、って感じたことはある。

でも気がつくといつもダメになってる。わたしから別れを切り出しことは一度だってない。
いつの間にかあんまり会わなくなって、そーいや最近会ってないや、とか思い出した頃、相手から“他に好きな人ができた”とか言われる。特になんとも思わない。そういうもんか、って思うだけ。

学生時代は他に楽しいこともたくさんあったし、働きだしてからはりっちゃんと遊んでばっかりだったし、彼氏がいたらいたで楽しいけど、いなくてさみしいと思ったことなんて一度もない。

誰かに会いたくて、そばにいて欲しくて、耐えられなくなったことなんてない。
その人のことばっかり考えて、頭の内側に貼り付いて離れなくって、ぐるぐるぐるぐる回り続けて、心臓がきゅ~って苦しくてたまんない…なんて今まで経験したこともなかった。

だからわたしはひとりで生きていける。
ひとり、っていうか彼氏とかいなくても、って意味ね。そう思ってた。でもね…



「“好き”とかよくわかんないけど……2ヶ月の間りっちゃんに会わなくてさ。

 退屈はしてたけどそれでもなんとかならなくないじゃーん、って思ってたんだ。
 でも、久しぶりに顔見たらなんか自分でびっくりするくらい心臓ばくばくしちゃうし、
 いきなり旅行行こうって言い出してそれで中国行っちゃうって聞かされて…

 あ、
 もしかしたらこれからりっちゃんにずっと会えなくなるのかなーって、
 
 そう思ったら…、
 


 これムリ、って。

 
 ダメだーって。

 楽しかったこととか急に思い出しちゃったりして、うん。

 別れ別れになったらもう、
 そういうのこれからなくなるんだー、
 

 全部過去になるんだーとか、


 思っちゃって。

 


 …ごめんうまく言えない」




りっちゃんと一緒にいるとたのしいし、安心する。
でもそれは澪ちゃんやムギちゃん、あずにゃんとだって一緒だったし、りっちゃんだけが特別ってわけじゃない、って思ってた。

思ってたのに。



「はい。ハンカチ」

「…え」

あれ、わたし。泣いてる?



「それが“好き”ってことだよ」

「そうなのかな?」

「そうだよ。そうに決まってるじゃないか」

「そっかぁ。そうなのかぁ」

わたし、りっちゃんのこと、“好き”だったんだ。
そっか。そうだったんだ。
そばにいるから気がつかなかっただけだったんだ。
きっとずっと。もうずっとずっと前からわたし、りっちゃんのことが“好き”だったんだ。



「こないだ言わなかったことだけど」

「なに?」

「律が就職先を地元に決めた理由」

「うん」

「唯の近くに居たかったからだと思うんだ」

アイツ、何にも言わないからホントのことはわかんないけど、
あくまでわたしの憶測だけど。
律、バカだから。そういうことで大事なこと決めちゃうとこあるから。

そう断りながら澪ちゃんは言った。

まさか、ね。
それじゃまるで、りっちゃんがわたしのことめちゃめちゃ“好き”みたいじゃん。

…そうだよ。わたしはずっと、わかってたよ。

澪ちゃんは瞳を閉じてそう呟いた。



「ねぇ唯。誰にも言わない、って約束してくれる?」

「なに? いいよ。澪ちゃんが言うなって言うなら誰にも言わない」

「わたしもさ。好きだったんだ、律のこと」

「なんとなく、そんな気がしてたよ」

「そっか。バレてたか」



傾き始めた午後の太陽が眩しかった。
落葉を終えて裸になった街路樹が高く、雲ひとつない青空に向かって伸びていた。

「ごめん。わたし嫉妬してた。
 二人のことが羨ましかったんだ。いい歳して、恥ずかしいよな。

 でもこれだけは信じてほしい。
 唯にも律にもしあわせになってほしい、って
 
 そう思ってるのは本当だって」

「わかってるよ。そんなこと」

「ごめん」

「はい。ハンカチ」

「…え」

「澪ちゃん。泣いてる」




なーにしてんだか。
いい年こいてオバさんふたり公共の場で泣いちゃって。
やだもう化粧、落ちちゃう。

窓から差し込む光が澪ちゃんの黒髪を照らした。

昔、たわいもないことに怖がってはよく涙を流した女の子がいた。
彼女は大きくなったけど、今も変わらず泣き虫だった。
彼女はとてもやさしい女の子だった。
それはきっと、昔も今もこれからもずっと変わらない。

「律のこと、よろしくな」
そう言った少女の綺麗な黒髪を、わたしはそっとやさしく撫でた。

★★

-2ヶ月後-

ピンク色に染まった枝が風に揺れている。
枝から離れた数枚の花びらが、りっちゃんの髪に背中に降りかかった。
その一つをつまみあげ、りっちゃんに見せる。

「りっちゃん。この花の花言葉、知ってる?」

「…知ってる」

「言っとくけどこれ、桜じゃないよ?」

「わかってるよ」

りっちゃんは少し恥ずかしそうに顔を背けた。



遠く、山の向こうが霞んで見える。
春霞、なんていいもんじゃなくてあれは黄砂なんだと、昔澪ちゃんが教えてくれた。

ずれ落ちかけたマスクを鼻にかけながら、稜線を眺める。

あの砂の故郷へ行くんだなぁ、と思うと不思議な気持ちだ。

砂…砂かぁ。
砂といえば。

大学のとき、思い立って鳥取砂丘へ旅行したことを思い出した。
旅番組だったかなんだったかでラクダ見てたんだっけ?

それでラクダに乗りたくなって、レンタカー借りて泊まりに行ったんだ。



目的のラクダを堪能したあと、ながらかな丘上になっているところまで登るとその先に海が見えた。
広がる大海原に興奮したわたしは、大きな砂の坂のてっぺんから海めがけて思いっきり駆け下りた。

坂道は結構急で、駆け出した両足はとまんなくなって、少しでも躊躇すれば足を取られて転んでしまいそうだったから、勢いそのままに走り抜けた。
砂丘に入るとき借りた黒い長靴が、踏み出すたびにがっぽがっぽと珍妙な音を立てる。
一歩一歩足に絡みつく砂を振り払い、前だけを向いて全身で風を切って走る。
目の前には空と海。そのまま空まで飛べそうだった。
無事に坂を下り終えると、そこはもう波打際。

静かに打ち寄せる波。その向こうに水平線が青の濃淡をくっきり分けていた。
水平線の向こうには行ったことのない国があって、そこにはいろんな人がいて、わたし達と同じようにいろんな気持ちを抱えて生きているんだ。
でもそれはずっとずっと遠く、想像もできない世界に思えた。そのときは。








「なぁ唯。おいってば」

りっちゃんに声をかけられてふと我に帰る。
ガラガラとキャリーバッグを引きずる音はいつの間にか止んでいて、立ち止まったりっちゃんがわたしの方をじっと見ていた。



「なーにりっちゃん」

「ひとつお願いがあるんだけど」

「どしたの? 改まっちゃって」

「出発の日だし…ケジメっつーかなんつーか…」

もごもごと口ごもったりっちゃんが頭をかきながら言う。

「中国語の勉強も職探しも炊事も掃除も洗濯もがんばるよ! 中国茶の淹れ方も上手になってみせるよ!
 こう見えてやればできるタイプだから! 任せといて!」

「いや…そうじゃなくて」

「あれ? ちがうの? じゃあ…なに?」

「えっと、だな…」

強く風が吹いた。
枝が大きく揺れて、花びらが舞う。
















「これからもずっと一緒にいてほしい」


























……

………


鳥取旅行の話の続き。
坂を降りた後の話。

波打際のわたしが丘の上にいるみんなに手を振ろうと振り向くと、
りっちゃんが坂を転がっていた。

わたしに続いて砂の坂を駆け下りたはずのりっちゃんが、ごろごろごろごろ転がってる。

砂に足を取られたんだ。

風を切るどころじゃない。
まるでマンガみたいにごろごろと前のめりに転びながら坂を下り続けるりっちゃんを見て、
そのあまりのカッコ悪さにこらえきれず、わたしはお腹を抱えて倒れこんだ。

りっちゃんは、全身を隈なく砂まみれ。
つけてたカチューシャもどっか飛んでって、前髪も化粧もめちゃくちゃで、
これぞまさしく砂だるま、になりながら下まで転び終えると、

『長靴がサイズに合わなかったんだよ!』

って真っ赤な顔して叫んでた。
丘を見上げると、三人もお腹を抱えながら倒れてた。



『あのときの律先輩を思い出せば、
 この先どんなに辛いことがあっても笑顔で乗り切れられそうです!』

ってあずにゃんは今まで見たことのないくらいさわやかな顔でそう宣言してた。
いや、実に同感。

今はもう、わたし達は別々の道を歩んでいるけれど、
楽しかった思い出があれば、それできっとみんな元気にやっていける。そう思う。













「…おい、唯。お前何笑ってんだよ」

「え? あ、ごめん。なんか言った? 聞いてなかったや」

「……は? マジか? マジで言ってんのか??」

「うん、マジ。ごめんぼーっとしてた。もぅいっかい言って」

「……ヤダ。もう二度と言わない」

「えぇー言ってよぉぉ~」

呆れ返った表情のりっちゃんはわたしに背を向けて歩き出す。

「ほら、行くぞ! 電車に遅れる!」

「あっ、りっちゃん待ってー!」

ガラガラと音を立てながらキャリーバッグを引いて追いかけると、
りっちゃんの右手の袖を捕まえてわたしは言った。







「我也一様!」


「・・・聞こえてたんじゃねーか」

もう一度振り返ったりっちゃんは真っ赤な顔をしてた。
でもそれはきっと、わたしもおんなじ。
目と目が合うと、わたしの左手をぎゅっと握って、ニッ、と笑った。

わたしもそれを見て、ニッ、と笑った。

桃の花びらが、わたし達を春色に染めていた。




おしまい。

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