屋上に昇って (1000)


 校舎裏で青春ドラマが始まったのを、部室の窓から見下ろしていた。

 時刻は午後三時四十分。

「告白?」

 となりからの声に、俺は曖昧に頷いた。

「それっぽいよなあ」

 園芸部が管理している畑のそば、
 裏庭にひろがる雑木林の手前くらいに、男子と女子の背中がひとつずつ。

 たぶん、下級生だろう。
 どことなくだけど、そんな感じがした。

 快晴とまではいかないが、天気は晴れだった。
 最近は日も長いし、四時前の時点じゃまだまだ明るい。

 東校舎三階の窓から、裏庭の様子ははっきり見える。
 声までは聞こえないし、顔まではわからないけど。

 がっつり覗きたいってわけでもない。
 ある意味ちょうどいい距離感とも言える。


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「ロケーションはそこそこだね」

 なんて偉そうなことを、窓から顔半分をつきだした出歯亀女が言った。
 かくいう俺も出歯亀男なわけだけど。

「そう?」

「放課後、校舎裏、ふたりきり」

「はあ」

「言葉だけでもドキドキしない?」

「どうかなあ」

 覗きがいるぜ、って言おうと思ったけど、やめておいた。
 言わぬが花って言葉もある(ちょっと違うか?)。

 どうでもいいことを考えているうちに、眼下のふたりに変化が起こった。
 


「あ、手握った」

 言葉のとおり、ふたりは手を握り合っていた。
 というより、片方が片方の手を掴んだらしい。

 三秒、四秒……。

 見ていられなくなって、視線をはずして窓から離れた。

 窓際から距離をとって、わざとらしく伸びなんかして見せると、覗きの相棒は不満げに唸った。

「なーにさ、冷めたふりしちゃって」

 口を尖らせている。
 俺は気取って肩をすくめた。

「こっ恥ずかしくて、見てらんないっすよ」

「やーね、そこがいいんじゃない?」

 ワイドショーを見たがる中年の主婦みたいに、彼女はにへらっと笑う。


 それから、覗きにも飽きたんだろう、体を屋根の内側にしまいこんでから、窓をピシャリと閉めた。
 ちょっとアテられたみたいな疲れた声音で、彼女は呟く。

「いいよねえ、新入生には未来があってさ」

「俺らにだってあるでしょうよ」

 俺の言葉にすぐには返事をせずに、彼女は窓辺を離れた。

 ちんまい体で跳ねるように歩き、定位置のパイプ椅子まで戻ると、
 くるっと翻った勢いのまま体を落として座る。

 彼女のそういう動作はなんとなくおかしくて、見ていて飽きない。

 去年、本人にそんなことを直接言ってみたら、
 「見物料払え! 一回百円だぞ!」と脅されたものだった。

 よおしと思った当時の俺は、財布から取り出した千円を彼女に手渡して、
「じゃあやって見せて。最初のは引いて、残り九回ね」と焚き付けてみたりした。

 彼女は困ったような怒ったような顔になって、
 しばらく唇を物言いたげに動かしていたかと思うと、
 最後には「うがー!」とバカみたいに吠えて、俺に野口を突き返してきた。


「あのねえ、たっくんさ、ちょっと考えてもごらんなさいよ」

 おどけた口調、わざとらしい呆れ顔。
 今度はどこかのコメンテイターみたいなすかした感じで、彼女は言った。

"たっくん"は、俺のことだ。

「彼らは高一」、と既に閉めきった窓の外を指さして彼女は言う。
 次に自分の顎を人差し指でつっついて、「うちら高二」とけだるげに呟いた。

「ほーらね?」と彼女は得意顔になったけど、俺にはよくわからなかった。

「つまり、どういうこと?」

「たっくん、カレンダー見て」

 五月。

「五月だね」

「そう。五月。うちらにしたら、高二の五月。彼らにしたら?」

「高一の五月」

 トン、と両足を揃えてふたたび立ち上がると、彼女はツタツタと窓辺に歩み寄った。


「分かる? 彼らにはこれから、高一の初夏、梅雨、夏、夏休み、秋に冬……が、あるわけ」

「はあ」

「わたしたちにはある?」

「ないね」

「そう。ないの。ないのよ。一生に一度の高校一年生の学校生活は、うちらにとっては過去ってわけ」

 はー、とこれみよがしに溜め息をつく女子生徒。名を高森 蒔絵と言う。

 中学時代のあだ名はマッキー(だったとかなんとか)。

 以前、気まぐれにそう呼ぼうとしたら、
「次にその名で呼んだら呪う」と、哀しみのこもった瞳で睨まれた。

 けっこう嫌だったらしい。

 代替案として、タッキーとかモリリンとか、そういうあだ名を提案してみたこともあるけど、結局ぜんぶ棄却された。

「普通に呼んで」と懇願されてからは、特に理由がないかぎり彼女のことを「高森」と呼ぶことにしている。
 ちょっとつまらない、と思う。


 そんな高森と俺はいま、東校舎三階の一角にある文芸部室にふたりきり、だ。
 
 見ようによっては青春ドラマ的と言えなくもないかもしれない。

「放課後、文芸部室、ふたりきり」

 と、さっき高森がやったのと同じ調子で試しに呟いてみると、彼女は目を丸くして、

「はあ」

 と溜め息のような声をもらした。

「言葉だけでドキドキする?」

「言葉だけならね」

 手厳しい。
 まあ、俺だって、いまさら高森と青春ドラマが発生するなんて思っちゃいない。


 べつに付き合いが長いってわけじゃないけど、一年一緒にいても相手を意識するようなことも起こらなかった。

 入学したときクラスが一緒で、部活も同じところに入ったから、自然と顔を合わせる機会が増えたってだけ。
 よく言えば気さく、悪く言えば馴れ馴れしいって感じの高森は、受け身がちな俺にとっては話しやすい相手だ。

 本人には言わないけど、結構ありがたい存在だったりする。

「なーんかこう、ああいう青春ドラマを見せられると、うちらは去年一年間で、いったい何をしたっけって思うよねえ」

「勝手に一人称複数にしないでくれる?」

「思わないの?」

「べつになあ」

「充実してた?」

「……ってわけでも、ないけどさ」


 高森はつまらなそうな顔をしていた。
 でも、俺は自分の高校生活の一年目に、これといった不満があったわけでもない。

 クラスメイトとの仲だって悪くなかったし、これといったトラブルに巻き込まれた記憶もない。
 派手に遊んだり騒いだりってこともなかったし、恋愛関係の出来事なんて皆無だったけど、けっこう楽しかった。

「じゃあ、高森はああいうことしたかったわけ?」

「ああいうことっていうと?」

「つまり、放課後、校舎裏、ふたりきり、みたいなこと」

「そう言われると、そうでもないんだけどね」

 肩をすくめて、高森は溜め息をつく。そこで会話は終わった。
 文芸部室にふたりきり。もともと部員数の少ない部活だけど、今日はいつもより人数が少なくて、なんだか気だるい。

 本を読んで、ときどき適当に何かを書いて、あとは年に四度、部誌を出すだけの部。
 退屈ってわけでもないけど、情熱を燃やすような部活でもない。

「彼氏ほしいなあとかも思わないんだよね、不思議とさ」

「そういうもん?」

「自分の時間が減っちゃうからなあ」

「趣味人はたいへんだねえ」

 からかうつもりもなくつぶやくと、彼女はジトッとした視線をこちらにぶつけてきた。
 よくは知らないが、高森は昔からネットゲームにハマっていたらしくて、そのなかで友達がたくさんいるらしい。
 


「土日は経験値が二倍だから、出かけたくないの」
 
 結構前に、そんなことを言っていた。
 未知の領域。ゲーム内ではネナベの友達と結婚しているらしい。
 
「たっくんはー?」

「たっくんいうなマッキー。……なにが?」

「マッキーいうな。彼女ほしいとか思わないわけ?」

「思わないって言ったら、負け惜しみって思う?」

「べつに。きみ性欲なさそうだし」

 いやあるよ、と否定しそうになって、思いとどまる。
 からかわれるのが目に見えていた。 

「……俺だって思春期っすよ」

「じゃあ、好きな子とか、いるの?」

 なんてことない世間話、暇つぶしのための話題振り。
 いかにも『どうでもいいです』という高森の態度に、ちょっとむっとしつつ、それでも少し考える。

 と、一瞬、脳裏をよぎった女の子がいたけど、すぐに振り払った。

「いませんな」

「いませんか」


 ほうほう、なるほどね、と、何度もわざとらしく頷いたあと、ありもしない眼鏡を直す手振りをして、

「うそだな」

 と高森は言った。

「なにゆえ」

「うそつきのスメルがした」

 あっさり看破しやがって。

「年上? 年下? 同い年?」

「……」

「……年下か」

「エスパーか、きみは」

「やーい、年下年下ー」

「子供かよ」

 からかい方が意味不明だ。

「べつにそういうんじゃなくて、昔ちょっと……」

「ふうん?」

 つっついてきたくせに、高森はたいした興味もなさげに相槌を打って、それ以上は何も言ってこなかった。


「それにしても、部長遅いね? どこまで行ってるんだろう」

「部員が非協力的だから、拗ねてるんじゃないの」

「たっくん、だめじゃん」

 と高森は言った。

「そうだぞ、たっくん」

 と俺も虚空に向かって話しかけてごまかそうとしたが、高森は相手にしてくれなかった。
 むべなるかな。

「しっかし、まだ五月だってのに暑いねえ」

「まったくだ」

 ぼやいてから、ふたりそろって黙り込んだ。
 話題も尽きた。無駄話だっていつまでも出てきやしない。

 高森は落ち着かないように部室を歩きまわって、また窓を開けた。
 吹きこんだ風が日に焼けたカーテンをふくらませる。

 気だるい熱気と薄暗さのなか、午後のゆるやかな風は干したての布団みたいに気持ちいい。
 黙っていたら、居眠りしそうなくらいだった。





「ただいま」という静かな声で、俺の意識は浮かび上がった。
 すぐに、自分が座ったまま眠りかけていたことに気付いた。

「あ、おかえりなさーい」
 
 高森が部室の入り口に向けて手を振った。
 視線を扉の方に向けると、部長が戻ってきたところらしい。

 文芸部部長は三年女子。物静かで取っ付きづらい印象がある。
 顔立ちは綺麗だけど、どちらかというと冷たそうな感じがする。

 表情も変化はあんまり多くない。
 片側だけ耳にかけられた前髪が、気の強そうな雰囲気に拍車をかける。
 話しづらそうだな、というのが第一印象だった。

 あくまで、第一印象、だ。



 部長は自分の定位置のパイプ椅子に腰掛けて、長めの溜め息をついた。
 傍においてあった自分の荷物から下敷きを取り出したかと思うと、うちわ代わりに仰ぎはじめる。

 よっぽど暑がっているらしく、額には汗が滲んでいる。
 下敷きがつくった小さな風が、肩のあたりまで伸びた黒い髪をさらさらとなびかせていた。

「ずいぶん遅かったですね」

 べつにたいした意味もない言葉だったのに、部長は「よくぞ聞いてくれました」という顔で口を開いた。

「それがね、先生に見せたら勧誘の文句があれじゃダメだって言われて……」

「描き直したんですか?」

「もうめんどくさいから、文字書いたところ塗りつぶして、そのうえに新しく書いちゃった」

 あいかわらず、見かけに反して豪快な人だ。


「だから時間かかったんですね」

「そうそう。職員室でペン借りて三十秒で終わらせたんだけどね」

「はは」

 と俺は適当に笑った。高森も「ははは」と笑った。
 そのあと俺たちふたりは黙りこんで、静かに視線を交わす。

 ……三十秒で終わったなら、何に時間が掛かったんだ?
 少し気になったけど、考えないことにした。

 降って湧いた沈黙のなか、部長は首をめぐらせて視線をあちこちにさまよわせはじめた。

「あれ、ゴローくん、帰っちゃったの?」

 部長の問いに、俺と高森は目を見合わせた。
 俺が黙っていると、高森が答えてくれた。

「よくわかんないですけど、帰っちゃいました」

「なんで?」

「なんか、『ミートソースとボロネーゼの違いが分からない』って打ちひしがれてて」

 高森の言葉に、部長は一瞬硬直した。


「……え、名前が違うだけじゃないの?」

「そうなんですか?」

「たぶんだけど。だってミートソースって英語でしょ。イタリアだとボロネーゼって言うんじゃない?」

「あ、ミートソース……あ、そうですね。英語ですね、ミートソース。そういえば」

「でも、こないだ行ったお店だとメニューに別々に載ってましたよ?」

「え? じゃあ何が違うんだろうね」

 ……すごくどうでもいい会話だ。

 こほん、と部長が咳払いをする。

「そんなわけで、一応ポスター掲示板に貼ってきたから」

 気を取り直すように背筋をピンと伸ばして、俺たちふたりの顔を順番に見てから、部長はそう言った。

「お疲れ様です」という俺の声に、「でもいまさらですよねー」という高森の声が重なる。

「そうなんだけどね。仮入部期間も終わっちゃってるし。でも、先生うるさいから」

 いかにも真面目そうな態度、落ち着いた表情なのに、話す言葉はあまりに普通。

 俺のものの見方が妙な先入観に侵されているだけなんだろうけど、
 部長が普通のことを喋るたびに、それを聞くのが少し楽しい。


「それにしても、勧誘の文句、ダメだったんですか」

「そう。ごめんね、せっかくふたりに考えてもらったのに」

「全然いいですよ」と俺は曖昧に笑う。
 自分がどんな提案をしたのか、既に覚えていなかった。
 
 なんとなく高森に視線をやると、彼女は彼女で、

「なんて書いたんだっけ?」

 とぼんやり首をかしげていた。

 ふたりの視線が俺に集まる。

 沈黙。

「……忘れた」

 また沈黙。
 
 やがて、部長がくすくす笑った。



「……えっとね、最初は、"まったりしましょう"でいいってタクミくんが言って」

 タクミくん、も俺のことだ。

「蒔絵ちゃんが、それじゃ面白くないって言って、"レッツまったりトゥギャザー"にしようって言って……」

「……うわあ」

 俺は自分たちのセンスのなさに身震いした。
 高森の方に視線をやると、彼女もまた「トゥギャザーはないわ……」と頭を抱えていた。

「はは、トゥギャザーって、文章からにじみ出る頭の悪さが文芸部とは思えないな」

 俺はひそかに自分を棚にあげた。

「頭悪いって失礼だな。……というか、たっくんもわたしの案、『最高!』って褒めてたじゃん!」

「え、そうだっけ?」

「うん。『お、いいじゃん。グローバリゼーションだよな、やっぱ』とか言ってさ」

「……たしかに言った気がする」

 部内は雑談のノリが軽いから居心地がいいんだけど、話す内容が悪ノリに流れがちなのが困ったところだ。
 後になって自分の発言に悩まされることも少なくない。


「……で、採用された文章はなんだったんですか?」

 部長はブレザーの内ポケットからスマホを取り出して、「ん」と画面をこっちに向けた。
 どうやらポスターを撮ってきたらしい。

 俺と高森は画面に向かって揃って顔を寄せた。

 掲示板に貼られたポスターの写真。文面は以下のようになっていた。

「文芸部部員募集中! お気軽に部室まで」

 担当顧問の名前と部室までの案内が、ポスターの右下にそっと添えられている。
 勧誘文句の脇には、椅子に座って本を読む「考える人」の絵が描かれていた。
 
 描いたのは部長だ。クオリティは無駄に高い。

「やっぱ部長、絵うまいっすね」

 俺の言葉に、部長は「やー、そんなことないよー」と照れた感じで前髪を何度も直しはじめた。

 自分の言葉で女の人が照れたと思うと、妙にうれしいのはどうしてなんだろう。
 俺がそういうほのかな幸せを感じている横で、高森はちょっと不満そうな顔をしていた。

「……部長、日和りましたね」

「あ、ばれた? やっぱりちょっとおかしいよね。よく見ると足が短いもんね」

「絵の話じゃないです」

「え?」



「絵の話じゃないです。文です」

「え、文?」

「なんですか、この文……」

「なんかまずかった?」

「まずいっていうか……」

 なんとなく、不穏な気配が広がった。
 いったいどこが気に障ったのか分からないが、段々と彼女の声は大きくなってきている。

 妙な緊迫感。

「高森、どうしたんだよ。べつに普通のポスターだろ、これ」

「だって、これじゃ――」

 俺は生唾を飲み込んだ。

「――これじゃ、普通の文芸部みたいじゃないですか!」

 大真面目な顔で、高森はそう言った。
 俺と部長はあっけにとられる。

「……いや、普通の文芸部だろ、うちは」

 はあ、と溜め息が出た。何かと思えば、くだらない話だった。

「そうだけど! だからこそ勧誘ポスターくらい面白くしたいじゃない?」

 その結果がトゥギャザーだろ、とは言わないでおいた。


「大いに不満です。こんな定型文みたいな勧誘文句じゃ、部員なんて来ませんよ」

「うーん、そこはもともと、あんまり期待してないんだけどね」
 
 部長はふわっと苦笑した。
 
「日和っちゃダメです、部長。五月ですよ。この時期にこんな文じゃ、新入生は興味も示しませんよ」

 どうやら、テンションのスイッチが切り替わったらしい。

 高森は妙な盛り上がりを見せ始めた。
 対して、俺と部長のテンションは低空飛行を続けている。

 顧問が「勧誘くらいしろ」とうるさかったのと、どうせ暇だったから、ってので作っただけのポスターだ。
 新入部員が来るかどうかなんて、正直どうでもよかったりする。

「わたしたちは文芸部なんですから、文章には責任と誇りをもたないと!」

「……うーん」

 部長が「ちょっとめんどくさいかなあ」という顔をしたので、仕方なく俺が高森に乗ってやることにした。



「責任と誇り?」

「仮にも創作活動をする部なんだから、借り物の言葉じゃ駄目なんだよたっくん!」

 だからその結果がトゥギャザーだろ、と。

「たとえば、どんなのならいいの?」

 俺の問いかけに、彼女は口舌をとめて真顔に戻った。

「えっと……」

「うん」

「東京モード学園のCMみたいな……?」

 イメージからして借り物なのに創作活動とはよく言ったものだ。
 なんてことを俺が言うより先に、

「創作は模倣からはじまるんだよ!」

 高森は言い逃れするみたいに断言した。

「ふむ」
 
 と俺は頷き、鞄から筆記用具を取り出した。

「じゃあ、今から考えてみるか。どんな文章ならポスターにふさわしかったか」

 高森は目を輝かせて頷いた。

 どうせ退屈していたのだ。暇つぶしの手段は多いに越したことはない。
 乗り気になった俺たちふたりを見て、部長は、

「なんできみたちの熱意ってスロースターターなのかなあ」
 
 と溜め息をついていた。



 それから俺と高森は熱心にキャッチコピーを考え始めた。
 やがて、せっかくだから作ってしまおうという話になり、部室の隅で埃を被っていたPCを起動する。
 
 一応ネットには繋がっているから、そこから適当に、それらしいフリー画像をダウンロードして背景にする。
 さすがに速度はあまり出ず、画像ファイルを落とし終えるのに数分かかることもあった。
 部室の場所と顧問名を記載してから、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しつつ、考えたフレーズを入れてみる。

 まずは夕焼けに染まる街をバックに、

「世界は君の言葉を待っている。」

 と一言。

「おお、東京モード学園っぽいよ、たっくん」

「なんかテンション上がってくるな」

「……でも、たぶん、世界は新入部員の言葉なんて待ってないよね?」

 まあ、たしかに。

「世界からしたら寝耳に水だよね、このキャッチフレーズ。『いや、別に待ってませんけど?』みたいな」

「じゃあ、『世界は君の言葉なんて待っていない。』にしとくか」

「うん、なんかそっちの方が文芸部っぽいかも」

 文芸部っぽさってなんだろうね、と部長がぼそりと後ろで呟いたが、俺たちは聞こえないふりをした。
 
 世界は君の言葉なんて待っていない。
 大きめの明朝体。白字に黒い縁取りをつける。
 


「でも、ちょっと長いね」

「二行に分けてみる? こう、下の行のインデント変えて」

 世界は君の言葉なんて
                 待っていない。

「なんか微妙だね」

「下の行が短すぎるな……」

「上の行を少し削ってみる?」

「って言ってもな。削れそうなのが『世界は』しかないぞ」

「となると……『君の言葉なんて待っていない』になっちゃうね」

「勧誘ポスターにそのフレーズじゃ、ただのツンデレになっちゃうな」

「たしかに……。縦の方がいいかもね。うーん、まあ、別のパターンも作ってみようか」

 とりあえず、『世界は君の言葉なんて待っていない.docx』を保存する。



「じゃあ次……」

「あ、応答なしだ」

「また? 重すぎでしょこのパソコン。部長、先生に新しいPC買ってもらいましょうよー」

「どうせ普段使うのは軽めのテキストエディタだし、そんなに支障ないでしょ」

「部誌つくるときはワードじゃないですか」

「コンピュータルームに借りにいけばいいじゃない?」

「不便ですよー」

「部誌まとめてるのわたしだもん。蒔絵ちゃん、代わりにやってくれる?」

「……さて、たっくん、次いこっか」

「うっす」

「……薄情だなあ、ふたりそろって」

 俺は聞こえないふりを続けた。


 次の画像は綺麗な青空の写真を選んだ。

「綺麗な空の写真にそれらしいフォントでそれらしいこと書いとけば人目を引くよ。わたしなら見るもん」

 と高森は言った。
 誇りと責任はどこにいった、と思ったが、声には出さなかった。

「フレーズはどうする? モード学園系?」

「どんなのあったっけ……」

 高森はルーズリーフを見ながら、しばらく悩んでいたようだった。

「じゃあこれ」

 と彼女が指さしたものを、フォントをいじりながら入力する。

『原稿用紙の上に、法定速度はない。』

「意味が分からんな」

「意味の分からん爽快感はあるよ」

「うわっつらだけって感じが否めないっす」


「でもこれだったら、二行にしてもちょうどよさそうだね」

「空が背景になってる理由がさっぱり分からないけどな」

「いいの! 盗んだバイクで走りだす前に原稿用紙に思いの丈をぶつけてみるの!」

 そもそも、うちは原稿用紙なんてめったに使わない。

「あと、これだと勧誘ポスターだってわかりにくいし、しっかり何のポスターなのか書いておこうよ」
 
 監督の指示に従い、キャッチフレーズの下に小さめのフォントで『文芸部、部員募集中。』と追記した。

「ダッシュとか使ってみない?」

『――文芸部、部員募集中。』(明朝体、黒縁白字)

「やだ、こんなかっこいい部員募集ポスター見たことない」

「フォントと縁取り変えただけで結構ハイセンスに見えるな」

 部長がうしろで溜め息をついたのが聞こえた。



「次行ってみよう!」

「ノリノリだな、おい」

「楽しくなってきた。次これね」

 そんな調子で、俺と高森は適当な写真に適当な言葉を乗せるという作業を十数回繰り返した。

 テンションが落ち着いてくる頃には四時半を回っていて、
 その頃には俺の目もじんわりと疲れを訴えはじめていた。

「……たっくん、あのさ」
 
 と、パイプ椅子にもたれて、顔を天井に向けたままの高森が声をあげた。
 疲れた声、気だるい姿勢。机に顔をのせている俺も、たぶん、似た風に見えているのだろう。

「なに?」

 あのね、と高森は言う。

「……すっごい徒労感」

「言うな……」

「どうする? このファイル……」

 とりあえずデスクトップにフォルダを作り、完成したファイルを入れておいたが、用途は皆無だろう。


「貼ってきたらいいんじゃない?」と部長は言った。

「いやです。こんなの実際に貼れません。勧誘ポスターは自己表現の場じゃありませんので」
 
 高森は部長の提案をあっさりと拒絶した。

 じゃあなんで作ったんだ? 

 ……問うまでもなく答えが浮かんだ。その場のノリだ。

「わたしは良いと思うけどな。『文章は、吃音症者が発しそこねた言葉の残骸だ。』とか」

「うわあああ!」

 と俺は頭を抱えた。
 十分前の自分が恨めしい。

「タクミくんが書くものって、だいたい思春期全開だよね」

「……し、思春期まっただなかの人間の言葉だけが、思春期の少年少女に届くんです! きっと!」

 なるほどね、と部長は楽しそうにくすくす笑う。

「吃音症者に対する配慮が欠けてるよ!」と、横で聞いていた高森が唐突に口を挟む。
「たしかに」と頷いたものの、正直もうどうでもいい。



「……やっぱトゥギャザーが一番ダメージ少ないよな。笑われてもネタにできるし」

「たっくん、冷静になって。トゥギャザーも相当アレだったよ」

 俺と高森は体力と気力を使い果たし、パイプ椅子にもたれるだけの脂肪の塊と化した。
 部長はずいぶん前からひとりマイペースに本を読み始めていて、俺たちのことは一顧だにしない。

 そんな静寂が二、三分続いたあと、高森は、

「あ」

 と声をあげたかと思うと、勢い良く立ち上がった。

「どうした?」

「バスの時間。いかなきゃ」

「じゃあねー」と、部長が本から顔を上げてゆらゆら手を振る。

「おつかれさまですー、また明日!」 

 高森がバタバタと部室を出て行ったあと、俺と部長は静けさの中に投げ出された。



「さて」と、本をぱたんと閉じて、部長は立ち上がった。

「どうしました?」

「印刷しちゃおう、さっきのデータ」

「え」

 口を開けた俺にむけて、部長はにやりと笑った。

「わたしの『偽・考える人』だけが衆目にさらされるなんて、どう考えてもフェアじゃないもんね」

「ちょ、っと待ってください。文をさらすのと絵をさらすのじゃ、だいぶ違いますって」

「違わない違わない。大丈夫、この部屋の壁に貼るだけだよ。悪用しないって」

「やめましょうよそれ、俺と高森、後悔と向かい合いながら生活するハメになりますって」

「それ、いいね。それもポスターにしちゃおう。『後悔と向き合いながら、生活する。』」

「無駄! 資源の無駄ですって!」

 俺が必死になるのがおもしろいのか、部長はいつにもない笑顔でパソコンに向かいはじめた。

「ほんと、勘弁してくださいって。……ひょっとして、何か怒ってます?」

「べつに。わたしひとりにポスター作成任せたくせに今更やる気になるなんてむかつくとか、
 さっきまで無視されてて腹が立ったとか、そういうんじゃないよ」
 
 根に持たれていた。



「……あの、すみませんでした」

「うん。許す」

 にっこり笑いながら、部長は印刷ボタンをクリックした。
 旧式のプリンターがガッコンガッコンと不穏な音を立てながらA4用紙を吐き出しはじめる。
 負い目があるので止めようにも躊躇するが、高森と俺の名誉の為に、どこかの段階で阻止しなければならない。

「部長……あの、勘弁してください」

「『ことばが、こころを守る。』」

「マジで勘弁してください!」

 彼女は俺の懇願を尻目に、鼻歌まじりに印刷を続ける。

「あとで職員室のコピー機で拡大印刷しようね?」

「……分かりました。好きにしてください」

 お手上げのポーズをして、俺は溜め息をつく。
 仕方ない。こうなったら、とりあえずは一旦引こう。

 俺が抵抗をやめる素振りを見せると、案の定、部長はつまらなそうな顔をした。
 おそらく、からかって面白がっているだけなのだ。

 あとは部長が飽きたときに、あるいはパソコンから離れた隙に、データを消してしまえばいい。
 印刷されてしまったものに関しては……部長の行動に注意を払っておけば、晒しものになることは避けられる、はず。

「……ふむ。思ったよりいい感じだね」

 プリンターが吐き出したポスターの出来栄えに、部長は感心していた。


「……環境省に怒られますよ」

「だいじょうぶ。ちゃんと使えば、無駄遣いじゃないもんね」

「……あのー」

「好きにしてって、言ってたじゃない?」

 部長は完成したポスターをぺらぺら揺らしながら立ち上がった。
 俺はうしろから静かに忍び寄り、部長の手から紙を奪い取ろうとする。

「おっと」という声と同時、彼女は体をひらりと翻し、後ろ手にポスターを隠す。

「やりますね、部長……」

「こう見えて、わたし、G級ハンターだから」

「……絶対関係ないですよね、それ」

 意外な言葉に戸惑っているうちに、プリンターが次のポスターを吐き出しはじめていた。

 とっさに伸びた俺の手より先に、部長がそれを確保する。

「『給水塔の鴉が、僕に何かを伝えようとしていた。――文芸部、部員募集中。』」

 勧誘ポスターだということをすっかり忘れて、それらしいだけの言葉を並べ始めたのが敗因だ。

「捨ててきます」

「環境省に怒られますですよ?」

 部長はわざとらしい敬語でそう言ってにっこり笑った。
 ほんとに、いい性格してる。


「……仕方ないですね。俺も腹を括りましょう」

「やっと諦めてくれた?」

「ただし、俺のだけじゃなく高森の書いたものもですよ」

「うん。よーし、じゃあ下駄箱あたりに貼りにいこっか」

 彼女が胸の前にポスターを戻したのを狙って、

「とったあ!」

 と腕を伸ばした。

「おっと」

 さっきと同じようにポスターは後ろに隠される。 
 惜しい、ちょっと掴んだのに、なんてことを考えられたのも束の間。

 部長が「あっ」と声をあげた。俺が引っ張ったせいで、ポスターは彼女の手からすべり落ちたらしい。
 A4用紙はひらひらと風に乗り、開けっ放しだった窓の外へと舞い降りていった。

「げっ」

「あーあ」

「う、うわあ!」

 思わず本気の悲鳴が口からこぼれた。
 窓辺に駆け寄って外を見下ろす。

 校舎裏の草むらに俺たちの考えたキャッチフレーズがさらされていた。



「しーらない、と言いたいとこだけど、ちょっとごめん」

 やりすぎちゃった、という顔で、彼女はぽりぽりと頭を掻いた。

「ちょっと取ってきます。さすがに文芸部って書いてあるし」

「そっか。ばら撒いたら勧誘になるかもね」

「美化委員に怒られますよ」

 というか俺と高森が怒る。
 
「とりあえずいってきます」

「いってらっしゃい」

 部長はひらひらと手を振ってくれた。





 階段を駆け下りて、一階の渡り廊下から土足で校舎裏に回る。
 一応土のないところを選んで歩いたが、汚れてしまったらあとで洗うなり拭くなりしよう。

 くしくも、園芸部の畑の近く。
 さっきの青春下級生たちは、もういなくなってしまったらしい。
 そりゃそうか。あの出来事から三十分は経っているのだ。

 そうだよな、今時間だと、もう誰もいないはずだ。
 ほっとして溜め息をつきかけたところで、視界に人影を見つけた。

 しかも、何かの紙のようなものをじっと見つめている。
 制服のままってことは、園芸部の連中ではあるまい。

 あんまりな不運だ。
 こんなことってあるだろうか。なんだってこのタイミングで、こんな場所に誰かいたりするんだ。
 
 俺はどうにかごまかす手段を考えたが、結局正直に声をかけるしか打つ手はなさそうだった。

「あの、ちょっといい?」

 仕方なく、俺はその見知らぬ女子生徒に声をかけた。



「え?」

 彼女は、びくりと大きく体を跳ねさせた。
 こんな人気のない場所で、話しかけてくる奴がいるなんて思わなかったんだろう。

 ちょっと悪いな、と思ったけど、状況が状況だから仕方ない。
 彼女が手にもっているのは、たしかにさっき落としたポスターのようだった。

 なんて不運だ。
 たまたま紙が落ちたタイミングに、たまたま人が来るなんて。

「それ、うちの部のなんだ。上から落としちゃって」

 と、俺は三階のあたりを指さした。

「勧誘ポスターなんだよ」

 内容のセンスに関しては、こちらからは触れないことにした。

「……そうだったんですか。突然降ってきたから、なにかと思いました」

「ごめん。拾ってくれてありがとう」

 俺は必死に体裁を取り繕いながら、ポスターに書かれた文が俺ではなく高森の考えたものであることを祈った。
 
「文芸部なんですか?」



「うん。きみは新入生?」

 そう問いかけたところで、彼女と目が合う。

 そのとき初めて、彼女の容貌をはっきりと意識した。

 背丈は、高森よりは高いけど、部長よりは低い、ちょうどまんなかあたり。
 低くもなく、高くもない。細く見えるのは、手足の関係か。

「はい」

 どことなく緊張した様子。
 それでも彼女は、ぎこちなく微笑んだ。

 俺はひそかに見とれていた。

 肩まで伸びた髪は、毛先までストンと落ちるようなストレート。
 夕日のせいかもしれないけど、栗色に光って見えた。

 雑木林の木々が風でざわめく。
 不器用そうな笑い方。柔らかい雰囲気。
 べつに際立って線が細いとか、色素が薄いとか、そういうわけじゃない。

 それなのに、ふとした瞬間に滲むように消えてしまいそうな不確かさ。
 気のせいだろうか。どこかで、会ったことがあるような気がする。

 それどころか……いや、まさかだ。


「これ、もらっちゃだめですか?」

「……え?」

「ポスター」

 大真面目な顔で、彼女は自分の手元に視線を落とした。

「まだ、部活決めてなかったんです。ちょっとだけ、興味がわいたから」

 いや、部室の場所だけ教えるから、ポスターは返してくれないか。
 と、そう言いたかったけど、そんな空気じゃなかった。

「……ああ、いいよ」と、俺は仕方なく頷く。
 
「よくできてますね、これ」

 彼女の視線がポスターの紙面に落ちるのを見て、心臓がドクンと震える。

 俺は気が気じゃなかった。

「興味があったら、部室まで来てよ」と俺は言った。

「放課後なら、いつでも誰かしらいるからさ」
 
 じゃあ、と言って、俺は背を向けた。とにかくいますぐこの場から逃げ出したかった。

「ありがとうございます」

 と、後ろから声が掛けられる。さっきより緊張がとけた感じの、軽やかな声。

 俺は返事ができなかった。
 




 なんとなくすぐに部室に戻る気になれなくて、俺は東校舎の屋上へと向かった。
 本校舎の屋上も東校舎の屋上も、一応開放されてる。

 天気の良い日には本校舎の屋上をランチに使う生徒もすくなくない。
 もともとそういう用途だったのだろう。芝生が植えられていて、ベンチなんかも置かれていたりする。

 東校舎の屋上は、そういうのとは違う。すこしそっけなくて、どちらかといえばひとりになるための空間に近い。
 ベンチも芝生もない。その差はなんとなく、示唆的だという気がする。

 よく晴れた五月、じっとしているだけで汗の滲んでくる肌を、屋上に出た途端、フェンス越しの風がゆるく撫でた。
 頬をたれた汗を手のひらで拭う。空はゆっくりと夕焼けに近付いていく。俺は何かを思い出しそうになった。

 さっきの女の子の顔を思い出す。
 見間違いかもしれないけど、俺は彼女のことを知っているような気がする。

 考えないようにしていたことを、また、考えてしまう。 そんなタイミングで、

「暇なの?」

 って、うしろから声がした。

「……びっくりした」

 振り返ると、校舎につながる鉄扉のすぐそば、かくれるみたいに、ひとりの女の子が膝を抱えて座っていた。
 変な日だ。女の子とばかり会う。ゴローは帰っちゃうし。

「……佐伯?」

「うん。佐伯ですよ」

 と言って、彼女は手に持っていたシャボン玉用のストローをふっと吹き込んだ。
 吹きこまれたシャボンはまんまるく光ながら風に乗る。


 いちおう、文芸部員である佐伯。物腰が落ち着いていて、く大人びているんだけど、
 ときどきこういう、変に子供っぽいところを見せる。部活サボって屋上でシャボン玉吹いたり。

「……なんでこんなところにいるわけ?」

「朝、コンビニ寄ったらシャボン玉おいてあってさ」

「はあ」

「ちょっとやりたいなって」

「なるほどな」

 おまえの方が暇なんじゃねーかと思った。

「浅月、なにかあったの?」

 浅月、も、俺のことだ。

「なにが」

「すごい顔してたよ、今」

「どんな顔?」

「誰かに似てたな。誰だっけ……」

 そう言ったきり、彼女は何か考えこむような様子で黙りこんでしまった。


「部活は?」

「高森とゴローは帰ったよ。そっちこそサボり?」

「べつにさぼってないよ。こういう時間が必要なんだよ」

「知らないけどさ」と、俺は溜め息をついた。

「浅月」

「なに?」

「なんかつらそうだよ」

「……や。そんなことないけど」って、俺はごまかし笑いをした

「やっぱり誰かに似てるなあ」って佐伯は言った。

 佐伯がつくりだしたシャボン玉が、屋上にふわふわ浮かびながら、昼下がりの太陽を浴びてきらきら光っている。
 なんとなく、いろんなことを思い出す。順不同に。
 
 子供の頃の夏。中学のとき、屋上で言われた言葉。眠られずに起きたとき聞いた、両親の会話。途絶えたメール。誰かの泣き顔。

「……そろそろ帰るよ」

「そう? そうだね。もうそういう時間だね」

 じゃあばいばい、って佐伯はひらひら手を振った。





 部活を終えてマンションに帰ると、静奈姉はもう帰ってきていたみたいだった。
 ダイニングのソファに寝転がって、クッションを抱えたままテレビを眺めている。

「ただいま」と声をかけると、「おかえりなさーい」と声だけは元気に帰ってきた。

「遅かったね」と静奈姉は言った。

「いつもどおりだよ」と答えると、彼女はちらりと掛け時計の針を見つめたあと、小さくうなずく。

「うん。たしかに。そうかもしれない」

 地元から遠くの高校に進学すると決めたとき、俺は一人暮らしをしようと思っていた。
 というと因果関係が逆で、実際は一人暮らしがしたかったから遠くの高校に進学しようとしたんだけど。

 当然、両親からは猛反対を食らって、何回も説得されたけど、最終的には折れてくれた。
 折れたというより、諦めたって感じだったけど。

 それでもいきなり一人暮らしなんてさせるわけにはいかないから、せめて親戚の家に下宿という形で、と言われたが、
 俺はこれも拒否した。自分でもワガママ言い放題、困った子供だとは思う。

 べつに自立心が旺盛だったわけじゃないし、なんでも自分ひとりでできるとたかを括っていたわけでもない。
 それどころじゃなかっただけだ。


 進学先の高校の近くに親戚が暮らしていることは分かっていた。
 だからこそ、そこを選んだという面もある。
 お目付け役をつける形なら、話も通ると思ったのだ。本当はそれだけじゃなかったけど。

 とはいえ、そもそも下宿と言っても、子供のワガママの為に親戚に迷惑をかけるのは、両親の望むところでもなかった。

 そこで手を挙げてくれたのが、大学に通うために一人暮らしをしていた静奈姉。
 五歳か六歳だったか、年上の親戚。

 子供の頃から従姉弟のように遊んでいて、お互い知らない仲じゃない。
 
 なによりも俺の心情を汲んでくれて、
 家賃や諸々の生活費を折半することを条件に、俺がここで暮らすことを許してくれた。
 おじさんたちと静奈姉には頭があがらない。

 もちろん、実際に俺が払うべき金を出してくれている両親にも、感謝はしている。

 そういう状況になってはじめて、うちが世間一般的には、比較的裕福な家庭に属するのだとも知った。
 ……そういうことの諸々が、俺としては嫌だったんだけど。

「タクミくんさ、何部だっけ?」

 寝転がったまま、静奈姉は気の抜けた声でそう訊ねてきた。

「文芸部」

「……文芸部かあ」

 何かを思い出すみたいに、彼女はしばらく黙り込んだ。



「……ごはん、つくろっか。お腹すいたでしょ」

 そう言って笑った静奈姉は、ソファから起き上がった。

「手伝う」

「いいよ。疲れてるでしょ」

「運動部でもあるまいし、べつにたいして疲れてもないよ。静奈姉こそ、バイトだったんでしょ?」

「いーの。タクミくんにご飯つくらせたりしたら、お父さんたちに何言われるかわかんないもん」

「世話になってるのは俺だし」

「……このやりとり、何度目だっけ?」

「忘れた」

「変わんないよね、お互い」

 彼女はくすくす笑ってからヘアゴムで長い髪を後ろにまとめて、ビリジアンのエプロンをつけた。
 かたちから入るタイプなんだ、って、ここに来てすぐの頃に言っていた。

 変わらないと彼女はいうけど、昔の静奈姉はもっとはしゃいだり、感情をあらわにすることが多かったような気がする。
 もちろん、歳をとって落ち着いてきた、といえばそうなんだろうけど。

 そういう些細な変化が、この街にいなかった俺には少し寂しかったりする。
 時間の流れを突きつけられるようで。


 そのままキッチンに向かって、静奈姉はひとりで料理をはじめてしまった。
 俺はとりあえず着替えることにした。

 一応2DKで、俺用の部屋も用意してもらえた。もともとは物置として使っていたらしい。

 荷物をおいて部屋着に着替えてからダイニングに戻ると、

「お皿出してもらえる?」と声を掛けられた。

 うなずいて俺はキッチンに入り込み、棚から食器を用意した。
 
 食事ができあがってからテーブルに運び、向い合って座る。

「いただきます」

「めしあがれ」

 そして黙々と食事がはじまる。お互い喋らないってわけじゃないけど、何を話せばいいのか分からなかった。
 そういう雰囲気がまるまる一年続いて、なんだかお互い、口数も段々減ってきたような気がする。

 気まずさを感じているのは、俺だけなのかもしれないけど。


「……学校、どう?」

 ときどき、沈黙を嫌うみたいに、静奈姉は俺にそういう質問をぶつけてくる。
 気まぐれなのかもしれないし、ずっと話しかけるタイミングを窺っていたのかもしれない。

 俺には知りようもないことだ。

「楽しいよ」

「そっか。ならよかった」

 静奈姉はふんわり笑った。
 この人に迷惑をかけているのだと思うと、すぐにでもここを出て行くべきだという気持ちになる。

 でも、ぜんぶがいまさらだ。
 途中でやっぱりなし、にするわけにも、たぶん、いかないのだろう。

「新学期だけど、新入部員とか来たの?」

「いや。全然だよ。部員全員、やる気ないし、勧誘もとくにしてるわけじゃないし」

 ポスターの話をしようかどうか迷ったけど、どう話せばいいのかわからなくて、結局やめた。
 会話が途切れるのをおそれるみたいに、静奈姉は言葉を続けてきた。

「……明日は、バイト?」 

「うん。夕方から」

「ご飯はどうする?」

「適当に買って済ませるけど……どうして?」

 普段からそうしているから、いまさら聞くこともないのに。

「ううん。明日、ともだちにご飯誘われたから、どうしようかと思って」


「行ってくればいいじゃん」とすぐさま言ってから、ちょっと偉そうだったかな、と反省する。

「俺に気使うことないよ」

「そうかな」と静奈姉は曖昧に笑った。そうもいかないよ、と内心では思っているんだろう。

「いつも俺のせいで迷惑かけてるんだし、そこまで気使われたら、俺、申し訳なくてここにいられないよ」

 静奈姉は少し戸惑った顔をしていたけど、やがて取り繕うように笑って、頷いた。
 申し訳ない、だってさ。俺は自嘲する。ここにいる時点で、いまさらだ。わかってるのに。

「うん。じゃあ、明日、帰り遅くなるかも」

「了解」

 その話が終わると、気まずい雰囲気はきっかけもなく徐々にほぐれていった。
 俺と静奈姉は、ふたりで並んでテレビを見ながら、出ているタレントについてのゴシップめいたあれこれについて話した。

 お互いが思っているだろうことについては、何も喋らなかった。これまでそうしてきたように。

つづく



 
 昼休みになった途端、俺はぐだあっと自分の席に突っ伏した。

 結局どうしよう、こうしようなんてことを考えてるうちに授業に集中できなかった。
 こういうのが俺の問題点だ。
 
 考え事に気を取られて、現在の状況そのものを疎かにしてしまう。
 過去の後悔や未来の不安ばかりに足を取られ、現在を楽しもうという意識が欠けている。
 
 ゆとりがないのだ。
 
 そんなことをぶつぶつ考えながら窓の外をながめて"地上の星"を鼻歌で歌っているとゴローがやってきて、

「タクミ、飯食お」

 と誘ってきた。

「断る」

 俺の一言にゴローは面食らっていた。

「なぜ?」

「いや。特に理由はないけど」

「じゃあ飯食お」

「いいよ」

「……なんで断ったんだよ」

「一回目はとりあえず断っとこうみたいな」

 ゴローはめんどくさそうに弁当の包みを持ち上げて、俺を促して教室を出た。
 俺も昼食を鞄から取り出して彼の背中を追う。



 ゴローは高いところが好きだ。

 だから彼と昼食をとるって話になると、だいたい屋上に行こうって話になる。
 本校舎の屋上。芝生とベンチのある憩いの空間。

 広々としていて、何組もの生徒がそれぞれに集まって過ごしている。

「調子はどうだい?」って、ゴローはベンチに座って弁当の包みを広げながら訊ねてきた。

「何の?」

「賭けさ」

「ああ」

 そんな話もあったっけ、と俺は思った。
 もう遠い昔の出来事という気さえする。

「どうかな」

 俺は首をかしげる。きらきら……? どうだろう。たしかに、平凡で退屈なだけではないかもしれない。
 じゃあこれがいいことの前触れかと言われると、正直よくわからない。


 空は青く澄んでいる。頭上にはツバメが飛んでいる。五月のツバメ。
 ベンチの脇に置かれたプランターのパンジーを眺めながら、俺はコンビニの袋からサンドイッチを取り出した。

 最初の頃は静奈姉が張り切って弁当をつくるって言ってくれたけど、俺のために早起きさせるのは申し訳なかった。
 俺自身が自分でつくってもよかったんだけど、そうしようとするとやっぱり静奈姉が作ると言い出す。

 だから、結局コンビニで買ってくることにしている。

「今日もツナサンド?」

「おう」

「よく足りるよな、それで」

「自分でも結構不思議なんだよな」

「燃費いいよな。太んねえだろ」

「ときどき困る」

「ふうん」



 そんなふうに俺とゴローがぼんやり過ごしていると、高森と佐伯が並んで屋上にやってきて、

「おっす」

 と声を掛けてきた。

「うす」

「一緒していい?」

「どーぞどーぞ」

 喋っていたのは高森だけで、佐伯は高森の斜め後ろからいつものぼんやりした目で俺たちを眺めていた。
 佐伯と高森は同じクラスらしくて、けっこう一緒に行動することが多いらしい。

 パット見の印象だとタイプが違うように見えるから微妙に不思議だ。
 でもまあ、高森も騒がしい印象はあるけど、内面的にはやっぱり第一文芸部的なところがあるし、合わないことはないのだろう。

「ねむ」と、高森はあくびをしながら弁当の包みを膝の上で広げる。

「部誌の原稿、どうするか決めた?」

「いや。まだ何も考えてない」

 俺はそう答えてから、ゴローは、と訊いてみた。

「いつもどおり適当に書くけど」


「そっか。どうしよっかな。何書こうかな」

 悩み深そうに溜め息をつきながら、高森はたまごやきを食べた。
 ときどき顔を合わせると、このメンバーで昼食をとることがある。
 学年と部活が一緒ってだけだし、普段からみんなで遊んだりはしないけど、こういうふうに過ごすことは珍しくない。

 みんな中身がまったりしててテンションが一定だから、付き合いやすかったりする。

「高森、あれ書かないの? オリエンタルファンタジー風味のやつ」

 高森は去年一年間、四回の部誌の発行を、まるまる一本の小説に使った。
 中世東洋風異世界ファンタジー。
 漫画みたいだったけど、けっこう面白かった。長かったけどその分の読み応えもあった。

「あれ、もう完結したもん」

「スピンオフとか書けそうだったじゃん。俺、隠れ里の竜人の話読みたい」

 うーん、と高森は唸った。


「でもねえ、違うんだよ」

「違うって何が?」

「つまり、あの話は一度あそこで完結しちゃってるわけ」

「はあ」

「そこに何かを付け足そうとすると、もうそれは別のお話になっちゃうわけ。
 けっこう、他の人にも書かないのって言われたりするんだけど、そのたびに悩んじゃうんだよね」

「ごめん、言ってる意味わかんない」

 つまりさ、と彼女はからあげを咀嚼、嚥下してから語る。

「あれ、評判は悪くなかったけど、じゃああの続きとして、あの雰囲気のままのものを書こうとしても無理なわけね。
 問題は解決して、一定の展開を見せた以上、それまでの雰囲気通りのものは書けないわけじゃない?」

「はあ」

「あれを読んで楽しかったって言った人が求めるのは、続きじゃなくて反復なんだよ。
"あの感じ"がまた読みたいのであって、"続き"が読みたいわけじゃないんだと思う。
 でも、"続き"を書くとなると、"あの感じ"にはならない。べつに書いたっていいけど、それは誰かが求めるものとは違っちゃうんだよ」

"わたしはそれを書く/あなたの望むかたちとは違うかもしれない/あなたの望む通りではないかもしれない/とにかくわたしはそれを書く"

「なるほどな」

 俺はよくわからなかったけどうなずいておいた。


「たっくんはどうするの? 部誌」

「……どうすっかなあ」

 正直、気分としてはそれどころじゃなかった。
 藤宮には随筆と言ったけど、厳密に言うと俺の書いたものは随筆風の創作小説だった。
 内容に関しては「よくわからない」とみんなに言われた。俺もそう思う。

 何かを書くというのは、体力を消耗する行為だ。
 わりと疲れるし、楽しくて書いてるときもあれば、しんどいのに書いてるときもある。
 
 なんでかはわからないけど、しんどいからやめちまおうとは思わない。
 しんどいけど書き続ける。そういう精神が、けっこうな頻度で必要になる。
 
 それができなければ、何かを完成させることなんて、まぐれか幸運でしかできやしない。

「……考え中」と俺は答えた。


 そんな話をしていると、「あっ」という声がすぐそばから聞こえた。

 どきりとする。

 声だけで誰だか分かるって、どういうことだよって思った。
 顔を合わせて何日も経ってないのに。

「あ、るーちゃん」

 と、高森は決めたばかりのあだ名で彼女のことをあっさり呼んだ。
 そのまんますぎて、俺にはしんどい。

「こんにちは」と彼女は笑う。

「皆さんでお食事ですか?」

「そうそう」

 妙にかしこまった言い回しと、気取らない自然な表情。
 彼女のうしろには友達らしい女の子がいた。

 ふたりは「それじゃあ」と言ってあっさりと去っていく。



「……声、かけないの?」

 そう言ったのは佐伯だった。途端に、三人の視線は俺に集まる。

「……待て。なんでそうなる」

「知り合いかもしれないんでしょ?」

 と言葉を返してきたのは高森だった。二人揃ってどういうことだ。

「まあ」

「確認してみたらいいじゃん」

 煽る高森に、

「昔遊んだ子なんでしょ? 浅月が覚えてるくらいなら、あの子も覚えてるかも」

 佐伯が追随する。
 
 なにそれ聞いてない、って高森が食いつくもんだから、佐伯がぺらぺらと説明をはじめた。

「なんだよ、ちゃんと面白そうなことになってるんじゃないか」

 ゴローは眼鏡をくいっと直した。



「じゃあ、ひょっとしてこないだ言ってた、たっくんの年下の女の子って、るーちゃんのこと?」

 なんだ、年下の女の子って。

「なにそれ」と訊ねたのはゴローだった。

「ゴロちゃん知らない? たっくんに好きな子いるのってきいたら、年下の女の子と昔なんかあったって言ってた」

「言ってねえよ」

「ゴロちゃんっていうな」

「でもエスパーかって言ってたし、あたってたってことでしょ?」

 俺とゴローからそれぞれ別々のツッコミが入ったが、高森は片方にしか反応しなかった。
 佐伯が冷静な調子で話を整理する。 

「つまり、子供の頃一緒に遊んだ女の子のことを、好きな子をきかれたときに思い浮かべたんだね」

 佐伯の場合、からかうつもりもなく、純粋に質問してくるからタチが悪い。

「そういやタクミ、自分のことロマンチストって言ってたもんな」

 たしかに言った。

 三人寄れば文殊の知恵とよく言うが、この場合、それぞれに対する俺の発言を整理すれば辻褄が合ってしまうわけか。
 そうやすやすと他人に何かを話すもんじゃない。猛省する。


「じゃあ、ひょっとして浅月の初恋?」

 俺は返答に詰まった。

「……」

 詰まった、のが答えのようなものだった。

「たっくん……しかも、たっくんとその話をしたの、るーちゃんが入部する前だったよね」

「……そうだっけ?」

「つまり、るーちゃんがこの学校にいることに気付くよりも先に、好きな子のこと訊かれてるーちゃんを思い浮かべたんでしょ?」

「……いや、どうだったっけ?」

「浅月、漫画みたいだね」

 どういうたとえだ。

「うるさい。シャラップ。もういい。この件に関しては口出し無用だ。第一証拠はあるのか、証拠は」

「なるほどなあ、初恋の相手で、しかもモロに引きずってたから、話しかけるのを躊躇してたわけか」

「口出しするなというに」

「自分はめちゃくちゃ引きずってるのに相手が覚えてなかったらショックだもんね……」

「でも、遊んでたって言っても子供の頃なんでしょ? 中学ならまだしも高校入ってそれって、浅月、それもう一途とかじゃないよ。妄執だよ」

「そういうんじゃない! 俺はただるーと……」

「るー?」

 三人は言葉を止めて俺のことをじっと見つめた。 
 俺はうつむくことしかできなかった。





 そんなことがあったから、放課後になってもすぐに部室に顔を出す気にはなれなかった。
 かといって他に行き場もないし、部屋に帰るつもりもなかった。
 どっちにしてもバイトまではどこかで時間を潰さなきゃいけない。

 俺は東校舎の屋上に向かった。

 もしかしたら佐伯がいるかもしれない、とも思ったけど、今日はそんなことはなかった。

 本校舎の屋上に出たあとだと、やっぱりこっちの屋上には寂しい印象を受ける。

 それに、こっちの屋上にひとりでいると、どうしてもいろいろなことを考えてしまう。

 逃げるようにこの街にきてから一年が経つ。
 未だに消化できずにいることが、俺の前に横たわっている。

 フェンス越しに、街を見下ろす。

 この街で暮らしている人々のこと。俺の住んでいた街で暮らしていた人々のこと。
 いろんなことを想像する。いろんな人達が、いろんなふうに生きているところを、想像する。

 いろんなことが、分からなくなっていく。


 そんな気分のときにこの屋上に立っていると、決まって彼が現れる。

「ひさしぶりだな」

 と、そいつは言った。
 給水塔の脇。ハシゴを登った先のスペースから足だけを出して座っている。

 口元には煙草。真っ黒の長い前髪が顔を隠していて、表情はほとんど覗けない。
 骨ばった痩身の体格、ひょろ長い身長。骸骨みたいだと思う。骨格標本みたいだ、と。

 ずっと前からの顔見知り。学年もクラスも知らない。けど、彼がここで煙草を吸っていることは俺も知っている。
 あんまりにも堂々としているせいで、誰も咎めないのか。そもそもこんな屋上にやってくる奴は、そうそういないけど。

 他の誰かがいるときは、不思議と顔を見せない。いったいどうやって他人を察知しているのか。
 俺ひとりでくると、ときどきここで煙草を吸っている。

 べつに咎める気も沸かないけど、一応第二文芸部に所属しているのに、部活に顔を出さなくていいんだろうか。
 


「鷹島 スクイ」

 と彼はずっと前、俺に名乗った。
「変な名前」と思わず口に出したら「俺のせいじゃない」と彼は笑ってた。

「親のせい?」

「いや、おまえのせいさ」

 俺は意味も分からず笑ったものだった。

「何を考えてる?」
 
 スクイは煙を吐き出してから楽しげに笑って、そう訊ねてきた。笑いどころなんてひとつもなかったのに。変な奴だ。

「女のことか?」

「あたり」

「姉貴のことはいいのかい?」

「……」

 まあ、俺には関係ないけどな。スクイはそう言った。

「そっちこそ、部活はいいの?」

「そういやあ、、部誌作るって言ってたな。奴らも思いつきでよくやるもんだ」

「珍しいね」

「俺は何も書く気がしないけどな」



「きみね、協調性とかないの?」

「協調性っていうのは、自分の判断や価値観や物事の正否の判断を一旦留保して、周囲の流れに合わせる能力のことか?」

「……そういう定義だっけ?」

「みんなが魔女狩りをしているときに魔女を火炙りにしたり、みんながユダヤ人を殺しているときに隣人を通報したりできる能力のことだろ?」

「……発言がいちいち黒すぎるんだよなあ、おまえ」

「みんながお国の為にって言ってるときに、戦争反対って言ってる奴がいたら、非国民だって村八分。なあ、それが協調性ってやつさ」

 俺はコメントを差し控えた。
 話せば話すほど、第二文芸部向きの性格じゃない。
 ていうか、(俺が言うのものなんだけど)社会生活に向いてない。

「本当の協調性っていうのは、みんなに部誌の原稿を寄せることを強要するもんじゃない。
 部誌の原稿を書きたくない奴の気持ちにも配慮して、書いてほしい奴と書きたくない奴の間の折り合いをつける。
 それが協調性ってもんだろう」

 だから俺は合唱コンクールも球技大会も修学旅行も不参加だ。スクイは堂々とそう宣言する。
 おまえらが、「したくない」という俺の意思を尊重しないなら、「みんなでするべきだ」というおまえらの意思を、俺は尊重しない。

 彼が言うのはそういうことだ。

 いろんな人がいるもんだ。


 さて、とスクイは梯子の上から跳ね降りる。
 結構な高さだというのに、なんてこともなさそうに。

「俺は行くよ」

「今日は何?」

「べつに用事があるわけじゃない。用事なんてあるわけがない」

「ふうん」

「まあ、おまえもがんばれよ。優等生」

「そっちもな。劣等生」

 は、とスクイは皮肉げに笑う。どこか、うれしそうだった。
 規律を無視し、秩序を乱し、集団を軽んじ、協調をあざ笑う。
 大人はそれを思春期と呼ぶ。俺たち学生も、スクイみたいな奴をどこかでバカだと感じる。

 でも、スクイにとってはそうではない。
 スクイにとっては、スクイの言葉を理解しない奴が、バカなのだ。
 そんなバカだらけの世界を、スクイはまともに生き延びようとは思わないのだ。


 ドッジボールで勝利するのはドッジボールに熱中して楽しめる奴だ。
「そもそもなんでドッジボールなんてしなきゃいけないんだ?」なんて考えはじめる奴は、残念だけどドッジボールの勝者にはなれない。

 たぶん、次からは誘ってももらえなくなるだろう。

 でも、そういう奴はべつに負けたところで悔しくはないだろうとも思う。
 なぜドッジボールをするのか、なぜドッジボールで勝たなければいけないのか。
 その前提に対してひとたび疑問を抱けば、「こうだ」と言える理由なんてひとかけらだって見当たらないことに気付けるはずだ。

 勝たなきゃいけない理由がないなら、負けたところでなぜ悪い?
 不参加を決め込んで不戦敗になろうと、何が悪い?

 そう悟ってしまえば、ドッジボールなんて知ったことじゃない。

「そういうルールのそういうゲームをやるのはきみたちの勝手だけど、僕がそれに参加してあげる義理はないよね」
 と、そう言ってしまえばそれで済んでしまう話なのだ。

 ドッジボールで勝って大会に優勝してトロフィーをもらって嬉しいって、そういう気持ちもまあわからないでもない。
 でも、みんながみんなトロフィーを欲しがってるわけじゃないし、ドッジボールを好きなわけでもない。
 そもそもドッジボールなんて嫌いだって言う権利だってやっぱりあるはずだ。

 天秤を疑うこと。たぶん、それがスクイの価値観だ。

 でも、それは鷹島スクイの価値観であって、浅月拓海の価値観ではない。


 スクイが去ってしまってから、俺はいくつかのことについて考えた。
 姉のこと、みんなのこと、スクイのこと、

 るーのこと、

 を、考えはじめた途端、鉄扉がぎいと音を立てて軋んだ。

 振り返ると、そこには思い浮かべたままの顔が立っていた。
 息を切らせて、肩を上下させて、いかにも階段を駆け上ってきたという風情。

 彼女は屋上に昇って、いま俺の前にいる。 
 夕日を正面から浴びた彼女の表情は、ちょっと苦しげだった。
 たいした距離じゃないのに、どれだけの勢いで走ってきたんだか。

 そういえばあの子は、運動が得意じゃなかったかもしれない。

 彼女の表情は夕日で橙色に染まっていたけど、彼女から見たら、俺の顔は逆光でよく見えなくなっているだろう。
 逆光の中に、影法師みたいに映っているはずだ。

 誰そ彼。

 屋上の縁、フェンスの傍に俺は立っている。
 そこから、入り口の鉄扉まで、距離は短くもないけど、長くもない。

 その距離のまま、彼女は息を整えて、俺はその姿をじっと眺める。


「どうしたの」と俺は近付かずに声をかけた。

「佐伯先輩が、きっとここにいるだろうって」

「……何か用事?」

「部活、出ないのかな、って」

 はあ、と大きく息を整えてから、彼女はこっちへと歩み寄ってきた。

「呼んでこいって言われた?」

「いえ。わたしが勝手に」

「はあ。それはまた」

 彼女は俺の隣までやってきて、俺がしていたように、フェンス越しに街を見下ろす。

 わあ、と声をあげた。

「いい景色ですね」

 たしかに、と俺は思う。
 うちの学校はちょっと高台になっているから、屋上から街を見下ろすとなると、けっこうな高さからになる。
 東校舎からは夕日も見える。
 
 日没まではまだあるけれど、空は暗くなりはじめている。

 こういう景色は、たしかに悪くない。


 そういえば。
 ポスターを拾われたとき以来か。彼女とふたりきりになったのは。

「景色を見ていたんですか?」

「うん。いや、どうかな」

「……どっちですか?」

 彼女はくすくす笑う。

「考えごとをしてた。いろいろ」

「……考えごと、ですか?」

「うん。答えが出ないこととか、考える前に行動すれば済むこととか。それでも最初に考えちゃうんだ」

「はあ。それは、たいへんですねえ」

 他人事みたいな言い方が、なんだかなつかしくて、うれしかった。


「部室、いこっか。暗くなってきたし」

 結局何も言えずに、俺はフェンスに背を向けて、扉へと向かった。

 ドアノブに手をかけたタイミングだった。

「あの」

 と声をかけられて、振り返る。
 今度は彼女の表情が逆光になってよく見えない。

「浅月、拓海先輩」

「……なんで急にフルネーム?」

「わたし、藤宮ちはるです」

「……うん。知ってる」

「……ちはるです」

 動悸が走る。


 どう応えるべきか、迷った。
 彼女の表情は、よく見えない。
 何を俺に伝えようとしているのか、分からない。

 いや、分かるような気もするけど。 
 それはなんとなく、俺の勝手な期待なんじゃないか、とか。
 勘違いだったらどうしよう、とか。

「……わたしのこと、覚えてませんか?」

 ……そんなことばかりだ。
 結局、俺は自分のことばっかり気にしてる。
 自分を守ることばっかりだ。

 顔が見えなくたってわかるのに。
 彼女の声は震えてるのに。

 彼女は何回も何回も、繰り返し俺に名前を告げた。
 それはきっと彼女なりのシグナルだったんだろうと思う。
 俺は自分が傷つきたくないがために、その信号を無視し続けていた。


「名前、おんなじです。同姓同名じゃないですよね。珍しい苗字だし」

 言葉を重ねるほどに声が震えていく。
 俺は自分が嫌になった。なんで、この子にそんなことをさせてしまったんだろう。

 分かってたのに。

「タクミくん、なんですよね? どうして、何も言ってくれないんですか?」

 悲しいのか、怖いのか、よくわからない、取り繕おうとするような、冷静なふりをした、不思議な震え。
 彼女はごまかすみたいに、笑う。

「どうして、連絡くれなくなったんですか? ……わたしのこと、きらいになったんですか?」

 るー。
 るーだ。
 下手なごまかし笑い。強がりぐせ。大人ぶった口調は、もうだいぶ馴染んでいるけど。

 素直で天真爛漫に見えるのに、相手を気遣って自分を抑えこみがちな性格。
 去勢を張って強がるけど、臆病で怖がりで甘えたがりの。

 それがわかってるのに、姿形が違うから、時間が流れたからって、俺は彼女のことを無視していた。
 我ながら成長しない。むしろ退化したのかもしれない。子供の頃より、怖いものがたくさん増えた。

「るー」

 そう呼んだ途端、彼女の肩からすっと力が抜けたのが分かった。
 
「ごめん。久しぶりすぎて、戸惑ってた」

 会いたかった。会いたくなかった。話したいことがたくさんある。知られたくないこともたくさんある。


 藤宮ちはる――るーは、急に跳ねるみたいに駆け出してきた。

 俺に向かって、早歩きよりちょっとはやいくらいの駆け足で。
 まっすぐに。そう長くない距離を。そのままのスピードで。

 ていうか。

 ぶつかる。

「うお!」

 と声をあげたのは俺だけだった。るーは減速もせず、勢いも殺さず、飛びつくみたいに体をぶつけてきた。
 せめて抱きつくくらいにしてほしかったけど、ほとんどタックルだった。

 俺の体はるーの勢いと鉄扉に挟まれて軋んだ。
 体重が軽いからたいしたダメージじゃないっていっても、危うく頭を打つところだった。

「危ないって、るー!」
 
 俺は思わず抗議の声をあげる。
 彼女は一瞬だけくっついた体をパッと離して距離をとり、俺の両側のほっぺたを、両手でつねってのばした。

「なんで連絡くれなかったんですか!」

「いたひいたひ」

 今度はぱっと指を頬から離して、握りこぶしをつくると俺の腹のあたりをぽすぽす叩き始める。
 こんなテンションだっけ?
 さっきまでのおしとやかとすら言えそうな雰囲気とのギャップに、少し戸惑う。



「こっちにきてるなんて、聞いてないです。タクミくんのばか。ばか」

「いや、待てって。いろいろ事情があったんだよこっちにも」

「どんな事情ですか!」

「えっと、つまり、いろいろと……」

「説明してください!」

「待て、ひとまず落ち着け」

「落ち着けません。わたしをカナヅチにした責任、とってもらいますからね!」

「まだ泳げないのか? ていうかそれ、俺のせいか?」

「タクミくんのせいです! とにかく、言いたいことがたくさんあるんですからね!」

「……あー、待て。ほんとにひとまず落ち着け」

 ふー、ふー、と息を荒くして、尻尾を踏まれた猫みたいに肩をいからせて、るーは俺をじとっと見つめてる。
 目が潤んでる。

 ていうか。

「……なんで泣くの」

「……泣いてないです。これは、目にゴミが」

 うつむいて、ぽろぽろと涙をこぼしはじめる。
 これはもう、言い逃れはできないな、と思った。


 俺はしばらく黙ったまま、るーが落ち着くのを待った。 
 とりあえずポケットティッシュを取り出して彼女に渡した。
 るーは子供みたいに鼻をかんだ。

 るー……だよなあ。こういうとこ。

「とりあえず、説明は全部する」

「……逃げませんよね?」

「逃げられないだろ」

「……え?」

「でも、とりあえず話は後にしよう。ここだとなんだからな」

「どういう意味ですか?」

 俺は扉の方を向いて、深呼吸をしてから、ノブを捻って勢いよくドアを開けた。

 高森とゴローと部長が揃って扉の近くに立っていた。

「……高森。おまえその覗き癖治せ」

「あはは」

 と高森は苦笑した。
 振り返ると、まだ赤い目元をこすりながら、るーは笑ってた。


つづく


◇[Wounded Deer]


 嵯峨野先輩が文芸部の部室をふたたび訪ねてきたとき、部室にいたのは俺とるーだけだった。

 高森とゴローは図書室で調べ物、部長はコンピュータルームで原稿の雛形作り。
 佐伯はたぶん、屋上。

「こんにちは」と嵯峨野先輩は言った。

 まさか新入部員のるーに応対させるわけにもいかず、「どうも」と返事をしたのは俺だった。
  
 いったい何の用事だろう、と思っていたら、

「あの子はいないの?」

 と先輩は部室を見回しながら訊ねてきた。

「はあ。部長なら……」

「あ、いや。由良さんじゃなくて」

「はい?」

「えっと。ぶつかってきた子」

「……高森ですか?」

「あ、うん。そうそう」

 嵯峨野先輩は気まずそうに頬を掻いた。



「高森に何か用事ですか? 治療費なら払えないと思いますよ」

 そんな金あるならウェブマネーにつぎ込んでるだろうし。

「治療費?」

「ぶつかったことで何か言いにきたのかと」

「あ、いや。ちょっと遊びに来てみただけなんだよ。文芸部っていうのに興味があって」

「はあ。面白いことは何もないと思いますけど」

 俺はるーと顔を見合わせた。
 
 あの夜以来、俺とるーは一応、お互いをお互いと認識しながら、特にそれ以上の何かがあるわけでもなく、
 ごくあたりまえの部活動の先輩後輩としての距離を保っていた(……ただのそれよりは、若干距離が近いかもしれないけど)。

 だからふたりきりになって沈黙があったって気まずさはなかったんだけど、誰かが入ってくると途端に空気が乱れる。

 まず、第三者の前で「るー」とか「タクミくん」とか呼び合うのは、思った以上に照れが入る。
 おかげで俺たちの口数は、三人以上のやりとりでは極端に少なくなった。


「そっちの子は、新入部員? 勧誘した甲斐があったね」

 嵯峨野先輩は顧問みたいな口調でそう言って、るーを見る。
 彼女はぺこりと頭をさげた。たぶん、この部とどういう関係がある人なのか、わからないんだろう。
 なにせ俺も分かってない。

「今は何をやってるの?」

「部誌の原稿作りです」

 突然、部誌に寄せて何かを書けって言われたって、普段書く習慣がないかぎりそうそう書けやしない。
 そういうわけで、新入部員るーの教育係に、俺は任命された。

 部長も高森も面白がってる様子だったけど、まあ、いまさら俺もるーもそういうのを気にしたりはしなかった。
 というか、俺が気にしたとしても、るーが気にしてないんだから仕方ない。

 俺に教えてもらえって言われたときの、るーの「じゃあ是非」って満面の笑み。
 あの笑みには不思議と逆らえない。

 そういうわけで、基本的な文章作法(国語の授業で習うけど、意識しないとすぐに忘れがちな)とか、
 あとは随筆や小説や散文の違いなんかを、おおまかに、るーに説明しているところだった。

「部誌なんて作るんだ。……他の人たちはどこにいるの?」

 俺とるーは、ふたたび顔を見合わせた。

 でも、答えて困ることにもならないだろうと思って、俺は素直に返事をした。

「部長はコンピュータルームに。残りのふたりは、図書室で調べ物です」

「ふうん。図書室」

 ……この人、なにか変だ。


 変っていうか……いや、まあ、俺には関係ないんだけど。

「そっか。ふうん。じゃあ、がんばってね。おじゃましました」

「あ、先輩」

 颯爽と去っていこうとした先輩の背中に、俺は声をかけた。

「先輩の名前、なんていうんですか?」

「嵯峨野連理」

 と彼は言った。
 
「さがのれんり」

「紙とペンを貸してもらえる?」

 俺が手元にあったルーズリーフとシャープペンを差し出すと、彼はさらさらとそこに字を並べ始めた。

 嵯峨野 連理。

「すごい名前だろ? 五十五画ある。小学校高学年あたりから、テストのたびに書くのが大変だった」
 
 小学生で習う常用漢字だけでできてるような俺の名前とは発想からして違う感じだ。

「かっこいいですね」

「どうかな」

 と彼は照れ笑いしてから、再び背を向けて去っていった。



「どう思う?」

 扉がしまってから、俺はるーにそう訊いてみた。

「なにがですか?」

「今の人、文芸部とは何の関係もない、ただの三年生なんだけど」

「はあ」

「何しにきてるんだと思う?」

「よく来るんですか?」

「今日で二度目」

「なんだか、蒔絵先輩のことを聞きにきたように見えたんですけど」

 るーはシャープペンのノックボタンで自分のほっぺたをつつきながら首をかしげた。

「俺にもそう見えた」

「蒔絵先輩と仲良いんですか?」

「いや。このあいだ廊下でぶつかったのが初対面らしい」

「一目惚れですかね?」

「やっぱりそう思う?」

「やっぱりそうなんですか?」

「知らない。俺も会うの二回目だし」

「世間ってすごいですねえ」

 俺とるーはそろって感心した。


「一目惚れかあ」

 しばらく沈黙があったあと、るーはまた自分のほっぺたをシャーペンでつつきながら溜め息のように呟く。

「一目惚れって、見た目が好きってことですよね?」

 元も子もない。

「フィーリングかもしれない」

「でも、フィーリングって、話してみたら違ったってパターンの方が多いと思うんです」

 ……まあ、もしぱっと見た瞬間の印象と実際が合致してたとしたら、すごい確率だとは思う。

「ていうか、話してもない段階でフィーリングとかあるわけないじゃないですか」

「立ち居振る舞いとか、話し方とか、表情とか」

「そういうのって、ある意味、見た目にいれちゃっていいと思うんですよ」

「ふむ。なるほどな」

 正直どうでもいいなあ、と思いながら話を聞き流しつつ、俺はルーズリーフに残された嵯峨野連理という文字を眺めた。
 改めてすごい名前だ。

 嵯……山が高く険しい。
 峨……山が高く険しい。
 野……自然の。

「連理の山は高く険しい、というのでどうでしょう」

「……タクミくん、わたしの話きいてました?」

「きいてたきいてた」

 つーか、人の名前で遊ぶのはやめとこう。


 少しするとゴローが部室に帰ってきて、並んで座る俺とるーをちらりと見たあと、窓際の定位置に腰掛けてノートを広げ始めた。

「何か書くの?」

「ミートソースとボロネーゼの違いについて書く」

 ゴローは真剣な顔をしていた。

「どこかに必要としている人がいるかもしれない」
  
「……まあ、いるかもなあ。高森は一緒じゃないの?」

 ゴローは一瞬、よくわからない顔をした。何かに納得がいかないような。

「わからん」

「……一緒だったんだろう?」

「うん。図書室だった。なんであんなのがモテるんだ?」

 あんなのて。
 ゴローはべつに高森を嫌っているわけではないが、喧嘩友達として近付きすぎて、女子として見られなくなってしまったらしい。

「モテてたの?」

「こないだの先輩。あいつに声かけてた」

 俺とるーは顔を見合わせた。



 さらに少し経ったあと、高森が疲れたような顔で部室のドアにもたれるようにしながら戻ってきた。

「おかえり」

「ただいま……」

 ふらふらと覚束ない足取りで、自分の定位置へと戻ると、彼女はぐったりと机に突っ伏した。
 
「……どうした?」

「つかれた」

「調べ物は?」

「わたし、何調べにいったんだっけ」

 俺が知るかよと思った。

「そうだ。アナグラム考えにいったんだ」

「……アナグラム?」

「うん。アナグラム。人名辞典片手にアナグラム考えようと思ったの。小説に使おうと思って」

「はあ」

「アナグラムってなんですか?」と、るーが俺に小声で訊ねてきた。


「暗号みたいな奴だよ、文字入れ替えて別の文つくったりする奴」
 
「人名って言ってましたけど」

「よくあるんだよな。ある人物の名前を入れ替えると別の言葉になったりするの。あとは別の名前になったり」

「何か意味はあるんですか?」

「ある場合もあるし、ない場合もある」

 大抵の場合はあるが、たいした意味がない場合もある。

「おもしろいですね」

「まあでも、そういう小細工に凝り始めると本筋がおろそかになりがちなんだよな」

「そうなんですか?」

「タイトルや登場人物の名前を考えるのに時間をかけすぎて本編書く時間なくなったりな」

「経験談ですか?」

「……」

 俺は黙秘した。




「オリキャラの名前で姓名判断とかするようになったら末期だよねえ」

 高森はぼんやり呟く。いろいろ痛い流れになってきた。

「でもけっこう楽しくない? 合ってても楽しいし、合ってなかったら話のアイディアになるし」

 そこらへんから高森とゴローは、高校の文芸部らしいようなそうじゃないような、という話題で盛り上がり始めた。
 そっちの会話には混ざらずに、るーはちらりと時計を見て、

「タクミくん、今日はバイトですか?」

 と訊いてきた。

「いや。今日は休み」

「じゃあ一緒に帰りましょう」

 一瞬、むっと言葉に詰まる。いちいちそういう反応になってしまうあたり、俺もバカみたいだ。
 そもそも、誰かと一緒に帰ったりすることが少ないからなんだけど。


 会話が一段落して、自分の原稿の作業に入ったゴローの横で、高森は憂鬱そうに溜め息をついていた。

「どうしたの?」

 訊ねると、何か言いにくそうに口をもごもごとしはじめる。
 まあ、なんとなく想像はつく。

「ナンパされた?」

「たっくんエスパー?」

「されたんだ」

 どうでもいい会話のつもりだったんだけど、部誌のバックナンバーに目を通していたるーが顔をあげて何かを言いたげにした。

「どしたの?」

「なんでもないですなんでもないです」

 聞いたら聞いたで、そっぽを向く。
 なんなんだろう、と思いながら、高森の話の続きを聞く。

「知らない先輩に声かけられて……」

「はあ。珍しいね」

 たぶん知らない先輩じゃないぞ、と言おうか迷ったけど、高森はたぶん嵯峨野先輩の顔をよく見ていない。


 人懐っこそうな印象と裏腹に、高森はけっこう人見知りが激しくて、目上の人や異性が相手だとうまく話ができないらしい。
 俺やゴローや部長に対しても、最初の頃はけっこう警戒心旺盛だった。

 最終的に仲良くなれたのは、たぶん、文芸部全体がお互いに対して放任主義を貫いているからだ。
 他人のスタイルに口出ししない。他人の生活に踏み入らない。

 そういう相手に対しては高森も自分を出せるらしくて、最終的には自分が踏み込んでいくタイプになっていく。
 そっけない猫ほど懐けば飼い主の傍を離れないもんなのだ(たぶん)。

「知らない人と話すの、疲れる」

「まあ、だろうね」

 彼女はけっこう猫かぶりで、周囲に心を許せる相手がいないと、声が小さくなったり人と目を合わせなくなったりする。

 ずっと前に、

「こう見えてわたし、すっごい人見知りなんだよ!」

 と胸を張ってドヤ顔で言っていた。なぜか自信満々で。


「で、なんて声かけられたの?」

「……なんだっけ。文芸部がどうこう言ってた気がする」

「ふうん」

「また今度遊びに来るって言ってた。活動に興味あるからって」

「なんて答えたの?」

「お好きにどうぞって」

 まあ、そう応えるしかないだろう。

「おつかれ。たいへんだったね」

「ありがとうたっくん。わたしのことを分かってくれるのはたっくんだけだよ」

 いつのまにか俺は高森の中で唯一の理解者ポジションまで出世していたらしい。

 そんな話をしていると、るーが控えめに「あのー」と手をあげた。

「その、たっくんって……」

「ん?」

「……あ。なんでもないです、なんでもないです」

 るーは手をぱたぱた振った。
 




 駅までの道をるーとふたりで歩きながら、特に話すことのない自分たちに気付く。
 
 文芸部の部誌のバックナンバーの話とか、俺の書いた文章の話とか、そういうこと。
 ゴローや部長のついてとか、嵯峨野先輩と高森の話とか。

 るーはやっぱり何かを言いたげにしているように見えたけど、聞いても何も言ってくれない。
 言いづらいことなのかもしれないし、ほんとうになんでもないのかもしれない。

 どちらにしても、何かを言われるまで放っておくことにした。

「部誌、何か書けそう?」

「うーん、どうでしょう」
 
 るーはふんわり苦笑した。

「楽しそうだなって思いますけど、書くってなると、ちょっと照れが入りますよね」

「誰にも見せない日記とか書くようにすると、けっこう慣れるよ」

「タクミくん、やってたんですか?」

「去年はやってたな。最近、ぜんぶ捨てちゃったけど」

「どうしてですか?」

「静奈姉にみつかって……」

「あー」

 そのときはしばらく静奈姉の顔を見れなかった。



「見せないつもりで書くと、いろいろ書いちゃうんだよな」

「それは……困りますね」

「ブログに鍵とかつけたりとか、ラインのタイムラインで、自分にしか見れないようにして投稿とかって手もあるけど」

「……間違って公開しちゃったりしません?」

「気をつければ平気だと思うけどね」

「ラインと言えば……」

「ああ」

 と、ポケットから携帯を取り出す。るーも鞄を開けて、内側のポケットから同様に。

「ふるふるする?」

「位置情報オンにするの、めんどくさいです」

「いいじゃん、ふっとこうぜ」

「しかも振らなくてもできるじゃないですか、あれ」

「そうなの?」

「はい」

「……そうなんだ」

「なんでショック受けてるんですか?」

「いままで振ってたから」

 るーはくすくす笑った。


「番号、交換しましょう。登録すればでてきますよね」

「あ、うん」

 るーの番号を教えてもらって、電話帳に登録する。
 出てくるかな、と思ったけど、よくよく考えたら友達の自動追加機能をオフにしていたんだった。

 設定を変えたら、すぐに出てきた。

 名前は「るー」になっていた。

「るー」

「はい。るーです」

 どこでもるーなんだなあ、とぼんやり思う。
 妙な感心をしていると、スマートフォンが短く二度振動した。

 画面を見ると、るーからのメッセージだった。
 うさぎが地面に寝そべっている奇妙なスタンプだけ。
 
 るーはいたずらっぽく笑っている。
 ちょっと笑ったけど、俺はノーコメントを貫いた。

「既読スルーですか!」

 やかましい。



「そういえば、こっちに来てから一年なんですよね? どうですか?」

「どうって?」

「慣れました?」

「まあ、普通に生活する分には……」

 といっても、普段買い物に行く場所とか、学校の周辺や、ゴローの家のあたりが俺の行動範囲の限界だったりする。
 それ以外の場所はほとんど訪れない。もともと出掛ける方じゃないし、知らない土地となればなおさら、腰は重たくなる。

「あんまり出掛けたりしないんですか?」

「うん。土地勘ないし、土日、バイトの場合多いし、そうじゃない日はゴローと遊ぶか、家にいるし」

「そうですかー」

 ぼんやりとした調子で相槌を打つと、るーは黙りこんだ。何かを考えているらしい。

 そうこうしているうちに駅について、そこからは明日の天気とか、コンビニのデザートの新商品の話とかをした。
 
 それじゃばいばい、と別れて駅を出た頃には、外は赤く染まっていた。
 

つづく





 そして翌週の放課後になると、嵯峨野先輩は文芸部の部室に長い時間居座るようになった。

「入部しちゃおうかなあ」なんて冗談めかして笑う表情はいかにも好青年的な爽やかさ。
 
 それでも「ぜひそうしてください」って声を掛けるような部員はひとりもいなかった。
 かといって嵯峨野先輩が来ることに文句を言う奴もいない。

(なんせどうでもいい)

 とはいえ、嵯峨野先輩の高森に対するアプローチは誰から見ても分かりやすかったために、
 高森だけがやたらと疲弊する結果になった。

 二日目には嵯峨野先輩は高森のことを「蒔絵ちゃん」と呼び始めた。

 この人すげえな、と俺とゴローは感心していた。

 感心しつつ、スルーしていた。



「もうやだ」と高森が言い出したのは水曜の朝のこと。
 そのとき、高森とゴローが俺のクラスに遊びにきていた。

「はっきり迷惑ですって言えばいいんじゃないの?」
 
「でも、べつに何か直接言われたわけじゃないし、自意識過剰かも……」

 高森は先輩に対しては妙な気弱さを発揮していて、それが話をよりいっそう面倒にしていた。

「だったら放置するしかないな」

「ゴロちゃん冷たいよ?」

「俺は高森とあの先輩のことより、タクミと新入部員のことの方が気になる」

 流れ弾をくらったな、と俺は思った。

「そういえばわたしも気になる。一緒に帰ったりしてるみたいだけど、付き合うことになったの?」

「いや」

 そういうんじゃないって、前も言った。

「つまんない」

「つまるつまらないで人間関係に口出しするなよ……」

「他人のことはひとごとで楽しむのが当然でしょ?」

「じゃあ高森も嵯峨野先輩とよろしくやってくれ」

「たっくん冷たい」

 なんせ他人事だ。



「ほんとにあの先輩が入部したらどうする?」

「泣く」

 俺の質問に、本当に泣きそうな顔で高森はうなだれた。

「そんなに苦手なの?」

「とても苦手な部類」

「悪い人じゃないと思うけど」

「わたしのペースを乱す人は、たいがい苦手」

 いい人だとよりいっそう苦手、と高森は頬杖をついた。

「まあまあ」

 なんてなだめていたら、高森は深々と溜め息をつき、たっぷり十秒黙りこんだかと思うと、

「カラオケいきたい」

 と言い出した。

「なぜ急にカラオケ」

「カラオケいきたい。今日行こ? 部のみんな誘って」

 俺とゴローは顔を見合わせた。


 こういう高森の思いつきに付き合わされて、ボーリングだのなんだのに行くことは、今までも何度かあった。
 もうすぐ中間で、しかも部誌の原稿作業もある。
 
 が、まあ、そんなことを言っていたら永遠に何もできやしない。
 いつだってしなきゃいけないこととやりたいことのバランスを取って生きていかなきゃいけないのだ。

「部長とちいちゃんと、そう。るーちゃんも誘ってさ。そだ。るーちゃんの歓迎会ってことにしよ」

 るーともほぼ初対面のはずなのに、そっちに抵抗はないらしい。
 まあ、異性・同性、年下・年上って差もあるから、不自然ではないのかもしれない。

「たっくん、るーちゃん誘っておいて」

「誘うも何も、いくとしたら部活の後だろ?」

「るーちゃん誕生日まだでしょ? 部活の後だと一時間くらいしか歌えないじゃん」

「どっちにしても、部室に集まってからみんなに予定確認すればいいだろ」
 
「そっかあ、そっかなあ」

 高森はそんなふうにうめいた。




 その日の昼休み、俺は本校舎ではなく東校舎の屋上に向かった。

 案の定、フェンスのそばに座り込んで、佐伯はサンドイッチを食べていた。

「うす」と声をかけると、「うす」とどうでもよさそうに返事が帰ってくる。

「わざわざこっち来たの?」

「それは俺が言いたいことでもある。今日は高森と一緒じゃないの?」

「いつも一緒ってわけじゃないよ。一緒じゃないときもけっこうある」

「高森は一緒にいたがるんじゃない?」

「まあ、うん。マキはわたしのことすきだからね」

 自信、というわけでもないだろう。困ったような調子で、佐伯は笑う。

「ここから何か見える?」

「浅月には何か見えるの?」

「街とか」

「漠然としてるね。きっと浅月には、世界も漠然とした見え方がしてるんだろうね」

「どういう判断? それ」

「屋上からの景色判断」

 佐伯は自分の隣を手のひらでとんとん叩いて、どうぞ、と手招きした。

 招待を受けて、俺は彼女のとなりに座り込んで袋からパンを取り出す。


「今日はクリームパンですか」

「チョコデニッシュもある」

「甘いのばっかりだね」

「おいしいよ」

「知ってる。ねえ、わたしのところに来てよかったの?」

「なにが?」

「彼女さん、怒るんじゃない?」

「彼女?」

「ちはるちゃんだっけ?」

「彼女じゃない」

「そうなんだ」

 話を振ってきたわりに、佐伯はどうでもよさそうだった。


「みんなして、そういう話をするんだな」

「思春期だしね」

「……よくわかんないんだよな、俺には」

「なにが?」

「好きとか、そういうの」

「みんな、実は分かってないよ。分かったつもりになってるだけ」

 わたしにだって分からない。そう言って佐伯は自嘲気味に笑う。

「佐伯は、彼氏とかいたことある?」

 少しの沈黙。

「……ない。浅月は?」

「彼氏はさすがにいないなあ」

「そうじゃなくて」

「俺のことはいいだろ」

 二秒くらい俺と目を合わせてから、何かを察したみたいな顔で、佐伯は話をやめた。


「そういうの、考えたことなかったんだ。いろんなこと、あって」

 佐伯は、いつも、遠くを見ているような顔をしている。
 彼女は俺を誰かに似ていると言っていたけど、俺に言わせれば、彼女のそういうところの方こそ、誰かに似ている。
 
 目の前の何かではない、頭のなかの何かを見つめるようなその表情は、誰かに似ている。

「同じく」とつぶやくと、佐伯は「おそろいだね?」って誰かみたいに笑った。

 それからぼんやりと、彼女は俺の知らないうたを口ずさんだ。

「トンネル抜ければ、そこはまた、大きな、トンネルのなか」

 昼の太陽は俺たちの頭上で光を撒き散らしている。
 屋上に届く音は何もかもが透明な膜越しに聞くように遠く感じる。

「そういや、高森がカラオケいきたいって。今日」

「わたしも?」

「行かない?」

「いいよ」



 俺はポケットから携帯を取り出して、佐伯の参加を高森に伝えた。 
 ポケットにしまいなおすと、携帯がすぐにブルっと震える。
  
 やけに早いな、と思って取り出して画面を見ると、メッセージの主は高森ではなかった。

『秋津 よだか : こっちは雨です。』

 メッセージと一緒に、どこかの屋上からの景色が添えられている。
 暗く立ち込める雲の下、雨の街は薄暗くて、いま見ている空と繋がっているなんて、うまく想像できない。

 でも、それはたしかに、いまこの瞬間、遠い街でたしかに存在する景色なのだ。
 本校舎の屋上で、いまも誰かが楽しげに昼食をとっているんだろうとも思う。
 たぶん、この場所の雰囲気とは、まったくちがうかたちに。

「佐伯って、きょうだいいる?」

「兄がいます」

 彼女はなぜか敬語だった。俺は肩をすくめる。

「仲良い?」

「どうかな。基本的には好きだよ……その分、憎らしくなるときがあるかも。浅月は一人っ子だったよね?」

「うん。まあ、たぶん」

「……どういう意味?」

「いろいろあるんだよ」

「……そっか。まあ、いろいろあるよね」


「好きとか嫌いとか、よくわかんないんだよな」

「そうなの?」

「うん。ずっとこのままじゃだめなのかな。仲がいいだけ。何も変わらずに」

「ああ、うん……。わかる。わかるよ」

 佐伯は何度かうなずいてから、首を横に振った。

「でも、変わらずにはいられないよ。ぜんぶぜんぶ、変わっていくんだよ」

「……」

「浅月はそうでも、ちはるちゃんの方は、どうなのかな」

 俺は黙りこむ。

「変わることを、望んでるのかもしれないよね」

 ……。

「かわいい子だし、中学のときも、彼氏くらいいたかもね」

「……」

「そういうの、きっと、当たり前のことなんだよね」

「たぶんね」

 と俺は平気なふりをした。




 放課後になって文芸部室にいくと、既に部員たちが全員そろっていた。
 
 佐伯もゴローも部長も高森も、それからるーも。

 高森は既にみんなにカラオケの話をしていたらしくて、部長も乗り気みたいだった。
 さて、じゃあヒデに話して部活は課外活動ってことにしてもらおう、という流れになったタイミング。

 そのときに扉がノックされたから、高森は一瞬びくびくした顔で扉を見つめていた。
 でも、入ってきたのは嵯峨野先輩ではなかった。

「失礼するよ」と部室に入ってきたのは、見知らぬ男子生徒だ。

 どこかで見たような顔という気がしたけど、たぶん話したことはない。
 何かの機会で顔を合わせただけだろう。

 彼は部員の顔をひととおり眺めたあと何かを確認するみたいにうなずいて、部長の方を見た。

「由良さん、ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな」

「どちらさま?」

 部長はぼんやり首をかしげた。

「第二文芸部の部長をやってる及川です」

「あ、及川くん?」

 名前を言われればわかるのに顔を見てもわからないあたり、部長もひどいと思う。

 こほんと咳払いをしてから、及川先輩とやらは話をはじめた。
 どこかわざとらしい口調で。なんとなく、敵意のような含みを感じる。



「ちょっとお願いしたいことがあるんだ」

「なに?」

「そのまえに訊きたいんだけど、きみたちも六月中に部誌を出すんだって?」

「"も"ってことは、第二も出すの?」

「ああ。そのことで提案があるんだ」

「提案?」

「うん。オリエンテーションみたいなものなんだけどね。ちょっと勝負をしないか?」

 部長は首をかしげて、俺やゴローの顔を助けを求めるみたいに見回した。
 何言ってるのこの人、という顔で。

「同じ日に、部誌を発行して、全クラスに配布しないか」

「……はあ。そのこころは?」

「その翌週に、昇降口の傍に投票箱を設置して、どちらの部誌が面白かったかを投票してもらう」

「……」

「つまり、部誌の出来を競い合うゲームをしないか?」

 何言ってんだこの人、という顔をみんながした。
 
「はあ。なんでまた?」

「楽しそうじゃない?」

 及川さんはにっこり笑う。
 べつに楽しそうでもない。



 部長は数秒、考えこむような表情をしていたけど、五秒くらいしてからいかにも「考えるのがめんどくさい」って顔をして、

「いいよ」

 と独断で決めた。

「いいんですか。そういうの、許可とか必要あるんじゃ……」

 俺の疑問に答えたのは部長ではなく及川さんだった。

「もう、両方の顧問と、他の先生方の許可もとってあるよ。生徒会にも一応」

 おいおい。先にこっちに話を通せよ、と俺はちょっと呆れた。

「で、提案なんだけど」

「……はあ」

 部長はちょっとうっとうしそうな顔をしていた。

「もし投票で俺たちが勝ったら、第一と第二を交換しないか?」

「はい?」

「つまり、俺たちが第一、きみたちが第二になる」

「……」

「勝った方が第一文芸部。そういう賭けをしないか?」

 俺は、部長の表情を見る。「すごくどうでもいいしめんどくさい」という顔。
 ゴローと高森を見ると、「この人が何を言いたいのかわからない」という顔をしている。
 俺にもよくわからない。


「なんでそんな賭けを?」

「特に理由はないよ」

「だって、そんなの、わたしたちで決められることじゃないでしょ?」

「言ったろ。もう許可はとってある」

 俺はちょっと笑いそうになった。
 くだらないことにたいして、すごく真面目な行動力を発揮している。
 ある意味で第二文芸部らしい。

「俺たちが勝ったら、これからは俺たちが第一文芸部だ」

「いいよ」
 
 と部長はうなずいた。
 それから部員たちの表情を見回して、「いいよね?」と首をかしげる。

 俺もゴローも高森もうなずく。るーは、どう反応していいか分からない顔をしている。ずっと。

「なんなら今すぐでもいいです」という俺の言葉に、

「それじゃおもしろくない」と及川さんは笑った。
 
 俺たちは既に楽しめそうもない。



 それから及川さんは、期日とか、部誌の内容についておおまかなルールを決めたあと、

「じゃあ、よろしく」と背を向けて部室を去ろうとした。
 その背中に俺は声を掛ける。

「聞いてもいいですか?」

 彼は肩越しにこちらを振り向いた。
 
「なに?」

「もしこっちが勝ったら、第二は何をしてくれるんですか?」

 考えていなかった、という顔を彼はした。
 そのときだ。

 そのとき、俺はイラッとした。
 勝負なんてどうでもいいし、どっちが第一でどっちが第二かなんてどうでもいい。
 でも、そういう顔は、ムカつく。

「考えとくよ」と及川さんは言った。アンフェアだとは、どうやら思わないらしい。

 俺は苦笑して、ゴローの顔を見た。ゴローは肩をすくめていた。





 職員室に行くと、ヒデは自分の机で何かの作業をしているようだった。

「中田先生、部誌の話なんですけど」

「あ、うん。第二と合同で何かの企画をやるんだろ? やっぱりみんなやる気出してくれたんだね。新入部員も入ったし」

 部長はちょっと溜め息をつきそうになって、さすがにやめておいたみたいだった。

「第一と第二が入れ替わるかもって」

「うん。第一の座を賭けて勝負なんて面白いよね。きっと、普段文芸部の活動を見てない人も興味を持つよ」

 やさしげな熊みたいな顔で、ヒデはぽわぽわ笑った。

「……そうですね、そうかもしれない」

 部長はべつに異論を唱えたりはしなかった。どうせもう引き受けてしまった勝負なのだ。

「それで、みんなそろって何の用事?」

「今日は新入部員の歓迎会をしたいので、活動を休みにしたいんです」

「ああ、うん。了解。戸締まりは?」

「しておきました」

「分かった。うん。部誌の作業は、いつもどおりみんなに任せていいよね?」

「はい。最終確認だけしていただければ」

「了解。しっかりね」

 そんなわけで、顧問公認でカラオケに行くことになった。





 昇降口を出てから、少しだけみんなが靴を履き替えるのを待つ。
 女子集団は移動するにもおしゃべりをしていて、おかげで男子とは足並みがなかなか揃わない。
 
 そんなタイミングでゴローとふたりきりになると、彼は少し困った感じに笑った。

「どうやら、あの賭け、勝てそうもないな」

「べつに負けたっていいだろ。名前が変わったってやることが変わるわけでもない」

「そっちじゃない。俺とおまえの賭けのことだよ」

「……ああ。そっち」

 そういえば、あれもあれで賭けだったんだっけ。
 すっかり頭から抜け落ちていた。

「……勝てそうもないって、どういうこと?」

「うん。なんとなく分かった。藤宮が入部してきたときは、ちょっとどうにかなるかとも思ったんだけどな」

「……きらきら?」

「そう。タクミくんにとってのきらきらの話」

 藤宮ちはるが、俺にとってのきらきらになりうるかもしれない、とゴローは思っていたらしい。
 そして、その考えを今翻した。

 俺はちょっと意外に思う。俺の方こそ、敗北宣言をしなきゃいけないかもしれないと考えそうになっていたのに。



「でも、どうやら無理みたいだな」

 吹奏楽部の音階練習の響きが聞こえた。日差しがあるせいで、外は少し暑い。
 グラウンドで野球部が練習をしているのが見える。剣道部が敷地の外周をランニングしている。
 
「タクミが退屈そうにしてたのは、楽しいことがないからだと思ってた。毎日が平板で退屈だからだと思ってた」

 違うんだな、とゴローは言う。

「おまえは何かに気を取られていて、目の前のことを素朴に受け取ることができなくなってるみたいだ」

「……」

「なにが目の前にあったって、他のことを考えてる」

「……」

「おまえ、本当は、藤宮に会いたくなかったんじゃないか?」

 勝手なことを言われている、と思った。
 怒ってもいいところだ。たぶん。

"たぶん"と思うということは、俺は怒ってない。

「なあ、日々はそんなに退屈で、世界はそんなに平板か? 本当に?」



 あの夏のことを思い出す。何もかもがきらきらに輝いていた。
 昼寝の午後、プールの水面、みんなで出掛けた道、祭りの金魚、
 台風の夜、大騒ぎのバーベキュー、UFOキャッチャーのぬいぐるみ。
 
 朝から遊んで、遊び疲れて昼寝して、昼食をとってからみんなで出掛けたような日々。
 隣にはるーがいた。傍にはみんながいた。

 るーの姉たち。静奈姉。それから、遊馬兄と美咲姉、遊馬兄の友達。 
 きらきらしていた? きらきらしていた。

 でもそれは、俺が"知らなかった"からだ。
 ものごとのひとつの側面しか見えていなかったからだ。
 隠されていたもの、裏側にはりついていた影、マジックミラーの向こう側。

「日々が退屈だとも、世界が平板だとも、べつに思わないよ、俺は」

 そう答えた。本当にそう思った。

「つまり俺は、ロマンチストなんだよ」

 ゴローは納得がいかないような顔をしていた。
 
 俺はポケットから携帯を取り出して、"秋津よだか"とのトークを開く。
 例の写真を、もう一度見る。彼女は濡れながらこの画像を撮ったのだろうか。

 俺はカメラを上に向けて、透き通るように晴れ渡った五月の空を撮影する。
 
 こっちは晴れてるよ。そう添えて、その画像を送った。
 それが本当のことだ。誰がどう感じようと、それはそういうものだ。

「……それにしても、遅いな、あいつら」

 ゴローはぼやきながら後ろを振り返る。たしかに、みんな遅い。





 で、やっと出てきた女子部員たちに、ひとり男が混じっていた。

「やあ」

 と嵯峨野先輩はにっこり笑って俺たちに向けて手を挙げた。

「どうも」と俺たちは頭をさげる。

「カラオケ行くんだって? 俺も一緒に行ってもいい?」
 
 恐れのない人だなあと俺は思ったが、まあ案外こんなもんなのかもしれない。
 自分が遠慮がちだからそう感じるだけなのかもしれない。

「だめです」

 と、それでも俺は断っておいた。高森が救いを見たような顔をする。

「え、駄目?」

「……や、べつにいいです」

 でも聞き返されると断りきれなかった。自分を悪者にしたくないタイプなのだ。
 高森は裏切られたような顔をしていた。

 よっぽど苦手らしい。

 とはいえ、どうやって断れというんだ、こんな言われ方をして。



 そんなわけで俺たちは駅前近くのカラオケ店に連れ立って向かった。
 男子三人女子四人、計七名。

 冷静に考えれば奇妙な組み合わせかもしれない。

 いっそ嵯峨野先輩が本当に文芸部に入ってしまえば、この奇妙さも少しは軽減されるような気もする。

  
 部屋に入ってデンモクをまっさきに掴んだのはゴローだった。 
 こういうとき一番乗りするのはいつも高森なんだけど、嵯峨野先輩のせいで少し緊張状態にあるらしい。

 おかげで俺たちもやりづらい。

「ほら、タクミ」

「俺?」

「一発かましてくれ」

「わー」とるーがうれしそうに笑った。
 
 仕方ないな、と俺は覚悟をきめて、少し考えてから曲を入れた。



 カラオケの定番やランキングに入っているような曲は歌えない。
 というか普段ならそういうことを意識しないのだが(みんな気にしないし)。

 とりあえず「1000のバイオリン」をほどほどノリながら歌った。
 歌うのは嫌いじゃない。上手くないけど。愛想っぽい縦ノリが痛い。

 誰かが勝手に採点をオンにしてたらしく、曲が終わると点数が表示された。83点。
 一曲目歌ったあとの沈黙は、ノッてる奴がいないと痛い。

 が、大声で歌う俺を見ているうちに、高森も気を使うのがばからしくなったらしい。
 嵯峨野先輩を気にしても仕方ないと悟ったのか、俺の次に歌ったのは彼女だった。

 高森が歌ったのは大森靖子の「絶対絶望絶好調」だった。無駄に上手い。

 91点。
 ああ、もうこれで俺が気を使わなくても大丈夫だ、と思った。
 




 部長とるーはほとんど歌わなかった。ときどき思い出したみたいに高森とデュエットしたりしてたけど。

 それもそのはずで、そもそもは高森の気分転換のためのカラオケだったのだ。
 気分転換どころか、ストレスの原因(といったら可哀想だけど)が一緒に来てしまったけど。

 ゴローはずっとタンバリンを鳴らしていた。
 佐伯はというと、意外にも好きなタイミングで好きな曲を入れて勝手に歌っていた。
 たいてい、みんなの知らない曲だった。

 それで嵯峨野先輩はというと、ひたすらにバックナンバーを歌っていた。
 どうやら好きらしい。

 俺は妙な対抗心を働かせてバックホーンを歌ったけど、冷静に考えたらあんまり対抗できていなかった。

 ともかく高森は嵯峨野先輩のことが気にならなくなるくらいに熱心に歌った。

 途中からその歌いぶりにみんなが聞き惚れていた。
 高森が宙舟を歌えばみんながほおっとなった。高森が地上の星を歌えばみんなが我が身を省みた。
 高森が糸を歌えば誰もが涙ぐんだ(中島みゆきが好きなのかもしれない)。
 
「糸」を歌いきったあと、「この曲を藤宮ちはるさんに捧げます! 入部してくれてありがとう!」と高森が叫ぶ。
 俺たちは感涙しながらぱちぱちと拍手をした。るーはにこにこと「ありがとうございます!」と返事をしていた。
 
 俺は新入部員の歓迎会という建前を忘れていたが、「るー、ありがとう!」と騒いだ。
 みんながみんなるーに「ありがとう!」と声をかけた。

 ちょうどいいタイミングでゴローの頼んだコロッケを持ってきた店員は、宗教の集まりを見るみたいな顔をしていた。



つづく





 歌をうたう高森のハイテンションぶりをみて、嵯峨野先輩がどんな反応をしたかというと、これが意外にも好印象だったらしい。
 
 高森の方もまた、一度テンションの殻を破ったところを見せてしまうと、彼のことが平気になったらしい。

「蒔絵ちゃん、歌うまいんだね」

「まあそうですね。そういうとこあります」

 なんて、ふたりで楽しそうに会話していた。
 そんな調子で高森のテンションが高めになったところで嵯峨野先輩が連絡先をきくと、彼女はあっさり教えていた。
 華麗なやり口だと俺は思った。
 
 それから先輩は映画を観るのが趣味だとかそういう話をして、知っている映画をいくつか挙げた。
 高森がそのうちのひとつに反応を示すと、「実はその映画の監督の新作が今やってて……」という話になり、
 最終的に「じゃあ今度一緒に見に行かない?」なんて誘いにいつのまにか変わっていた。

 俺が同じことをやろうとしてもこうは行くまい。

「あ、いや……ふたりでですか?」

 と高森がちょっと冷静になって難色を示すと、嵯峨野先輩はあっさりひいて、

「いや、何人かでさ。ここにいるみんなでもいいけど」

 と当たり前のようにみんなの顔を見回す。
 
「今週の土曜にでも、どう?」

 俺たちは顔を見合わせた。



「……あ、や。待ってください」

 と高森が言いかけたところで、

「俺はいいっすよ」

 とゴローは言った。
 
 俺たちは面食らった。

「タクミは?」

「……土曜? バイト夜からだし、まあ平気だけど」

「高森も暇だって言ってただろ?」

「え……」

「どうせ家でゲームやるだけだって言ってたじゃん」

 事実を婉曲的な表現で持ちだしたゴローに対して、高森は「うっ」と言葉に詰まる。

「蒔絵ちゃん、ゲームとかやるんだ。どんなの?」と嵯峨野先輩が妙に食いつく。
 
 さすがに、怪訝に思う。この人ちょっと変じゃないか?

 とはいえ、今それより気になるのは、むしろゴローの対応の方だった。
「映画館に観に行くより、レンタルショップで借りてきた映画をひとりで見た方が面白いし数も見れる」と豪語してたのに。
 


 何のつもりだと思ってゴローを見ると、彼はどうでもよさそうに部長と佐伯にも予定を確認しはじめた。

 ふたりは一瞬ずつ、ちらりとゴローと目を合わせて、なにかを察したような顔をして、

「大丈夫」「平気だよ」とそれぞれ頷いた。

 最後に彼はるーの方を見て、

「藤宮は?」と訊ねる。

「……皆さんがいくなら」と、突然の流れに戸惑いながらも、るーは頷く。

 どういうつもりだと問いたかったけど、嵯峨野先輩はすごく乗り気で、「じゃあ上映時間調べてから連絡するよ」とにっこり笑った。
 
 マジでか、と俺は思った。





 とにかくその場はそれで解散になり、その週の土曜に出掛けるという話になった。
 家に帰ってからラインに通知が来て、何かと思ったら文芸部のトークグループをゴローが勝手につくったようだった。

『第一文芸部(5)』

 るーの連絡先は知らなかったらしく、彼女は含まれていない。

『そんなわけで土曜日映画です』

『どういうつもりだ!』

 ゴローのメッセージに対して、即座に高森から怒りの返信。

『え、いいじゃんべつに。みんなで映画観たかったんだよそう、きっとそう』

 ゴローは文字媒体だと五割増しくらいで発言が適当になる。

『わたしは観たくない!』

『どうせ暇だろ』

『休日の使い方なんて自由なはず!』

『どうしてもっていうなら行かなくてもいいと思うけど、べつに』

 通知がうざい。

 とりあえず通知をオフにして、様子をうかがう。
 ところがそれから十五分くらい返信が途絶えた。

 俺がちょっと不安になったところで、高森から『行く』というメッセージ。

 ……たぶん、『自分がいないところでみんなで出掛けてるのもそれはそれでいや』ってことだろうな。
 佐伯も部長も抵抗なさそうだったし。


 しかし、これはどういうつもりなんだろう、とちょっとだけ思う。
 
 部長も佐伯も、あんなに簡単に話に乗るとは思わなかった。
 考える隙なんてほとんどなかったはずなのに。

 まあいいか、と俺は思う。そんなのは気にしたって仕方ないことだ。
 どうせ今日はまだ水曜。土曜のことなんかより、明日のことを考えなきゃいけない。

 そういえば、例の第二文芸部とのやりとりのこともある。
 
 なんで今急に、いろんなことが起き始めているんだろう。
 そんな疑問を持ったけど、それもまた考えても仕方ないことだ。

 ほとんどのことは、俺とは無関係に起きる。

『そういえば、みんな、部誌は何書くの?』

 訊ねてきたのは部長だった。

『ミートソースとボロネーゼの違い』とゴロー。

『じゃあわたしカルボナーラとペペロンチーノ』と高森。

 俺は『ナポリタンの起源』と答えた。すぐに既読4ついた。
 みんな暇なのか? 俺もだけど。

『わたしは何も書きたいことがないということについて書きます』と佐伯。

『あとはりねずみのこととか』と続く。

『なんだそれ』とゴロー。俺もそう思った。



『はりねずみかわいいよね。ひらがなにするともっとかわいい』

 そう語る佐伯のラインのアイコンはピンク色の、オウムかインコかよく分からない鳥の写真だ。

『動物全般がかわいい』と高森。

『猫がいちばんかわいいけどな』とゴロー。

 部誌の話はどこにいった。

『蒔絵ちゃんは小説?』と、部長が話を戻す。

『たぶんそうなると思います』

『タクミくんは?』

 ……そうか。ゴローは本当にパスタ系で行くらしいから、答えてないのは俺だけってことになるのか。
 俺は、第二文芸部の、及川さんとの会話を思い出す。

『ほどほどに、疲れない感じのものを』

『随筆?』

『ほどほどに疲れない感じのものを装ってはいるけど、よく読むと疲れる感じのものが理想です』

『ジャンルを聞いてるんだけど……』

『ノリに任せます』

『……出来を見て判断します』

 書き始めの段階では日記だったつもりが、気付くと小説になってる、というパターンが割と多い。
 まあ、そんな調子で結局小説であることが多かった。


 突然、ゴローからグループに画像が送られてくる。
 どうやらゴローの家の猫の写真らしい。丸くなって、クッションのうえで眠っている。

『かわいい』と佐伯。

『寝てる猫はだいたいかわいい』と高森。

『まあ飼い主に似るっていうしな』とゴローは調子に乗っていた。

  
 俺はそこでとりあえずラインを閉じた。 
 部誌のこと。本当に、例の企画めいたことをやるつもりなら、ヒデが言っていたように、普段より注目は受けるかもしれない。

 というか、注目を受けなければ成立しない企画だから、注目を受けるだろう。

 第二の行動力は半端ではないし、お祭り騒ぎが好きな奴らだ。
 教師陣や生徒会にまで許可をとった以上、各学級にホームルームで通達とかしかねないし、ポスターくらい作りかねない。

 それを思うと少しだけ気分が重くなった。
 勝ち負けで言ったら、たぶん負ける。それが分かっているのが、ちょっとだけしんどい。
 もちろん、勝つために書くわけではない。だからといって、負けの烙印を押されたら、悔しくないわけがない。

 溜め息をついたところで、ラインの通知が鳴った。
 またか、と思ったけど、よく考えたらグループトークの通知はさっきオフにしておいたのだった。

 メッセージを見ると、どうやらまた、秋津よだかからのものだった。
 一日に何度もメッセージをよこすのは珍しい。

『こんな日だけど、夜空はきれいです』

 添えられた写真は、どうやら夜空を写したものらしいが、俺には真っ黒にしか見えなかった。





 誰も誘わないもんだから、仕方なく俺がるーにグループへの招待を送った。
 べつに誰が困るわけでもないだろうし、困るなら別のグループをつくれば済むことだ。

 るーは儀礼めいた挨拶だけすると、それ以降は発言しなかった。
 それから個別ラインで、俺に『ありがとうございます』とメッセージをよこした。
 実物より文面の方がそっけない感じになるのが、いかにも彼女らしい。

 それからまた、個別の方で追撃が来る。

『ちょっと訊きたいんですが、タクミくんって、蒔絵先輩と付き合ってたんじゃないんですか?』

 俺は一瞬混乱した。

『なんでそう思ったの?』

『たっくんて呼んでましたし、仲良さそうでしたし、よく話してましたし、付き合わないまでもいい感じなのかな、と』

『それは気のせいだな』

『気のせいでしたか』

『高森は人をあだ名で呼ぶくせがあるんだよ』

『そうだったんですか』

『大抵、あだ名の方が名前より長くなる』

 タクミ→たっくん、ゴロー→ゴロちゃん、ちえ→ちーちゃん。見事に長くなっている。

『かんちがいしてました』

『そういう事実はないです。もう寝なさい』

『おやすみなさい』とるーは素直に返事をよこした。

 
 


 ふう、ようやく落ち着いたな、と思ったところで、またラインの通知。
 普段は一日に一度も鳴らない日の方が多いのに、今日に限っていったいなんなんだろう、と思って画面を見る。
 
『しあわせってなんだろうね?』

 秋津よだか。

 知るかよ、と俺は思う。

『探せば?』

『見つかると思う?』

『どこかにはあるかも』

『そうだといいよね』

『ないかも』

『なかったら悲しいね』

『悲しい』

『おやすみ』

『おやすみ』

 そして俺は携帯の電源を落とした。
 課題をしてから少し部誌の原稿の内容について考えて、思いついた言葉や題材のメモをノートに残す。  

"遠足、楽しげな顔、地球の裏側、燃え続けている、秋津よだか、
 星、鳥、燃え続けている、飛行機事故、虫刺され、知ること、知らないこと、ハッピーエンド、
 ページをめくらないこと、猫の死体、鷹島スクイ、鉱質インク、手首、花火、目を瞑る、“

 ふと気付くと随分長い間ぼーっとしてしまっていたみたいだった。

「まだ寝ないの?」と扉の向こうから静奈姉が声をかけてきた。明かりが漏れていたらしい。
「もう寝るよ」と俺は答えた。そして実際、シャワーを浴びて眠った。少しだけ夢を見た。


つづく




 そして問題の土曜の朝、待ち合わせの場所に指定された駅前のドーナツ屋に姿を見せたのは、嵯峨野先輩と高森とるーだけだった。

 ちょうど約束の時間を過ぎた頃、ゴロー、佐伯、部長、それぞれから示し合わせたように連絡が来た。

「急用が出来たので今日はいけない」とゴロー。

「歯医者の予約を入れていたのを忘れていました」と佐伯。

「部誌の作業が遅れているので」と部長。
 
 みんな急用ができたみたいです、と報告すると、嵯峨野先輩は「そうなんだ」とちょっと困った顔をした。
 高森は「仕方ないね」と溜め息をついていたが、るーはどっちでもよさそうだった。

 土曜の朝十時過ぎ、開店直後のドーナツショップにはあまり人気がなかった。
 俺たちを除いて何組かの客がいるだけで、まだどちらかというと朝の静けさを引きずっているような様子。

「じゃあ、とりあえずこの四人で映画に行く?」

「……に、しますか」

 一度観に行くことを受け入れたわけで、そうなると集まらなかったからといって解散するのも気が進まない。
 ましてや、一人二人ならともかく、四人揃っているわけで。



 というか。
 そういうことを見越してゴローが謀ったのではないかと疑ってしまう俺は性格が悪いのか?

 高森もるーも、そういうことを一切疑っていない様子で、おかげで俺は自分がひどく疑心暗鬼の状態なんじゃないかと悲しくなった。
 
「それにしても、みんな揃って用事とはね」

「まあ、土曜はみんな忙しいですからね」

 たぶん。知らないけど。
 高森は「それならわたしだって経験値……」とぼやいていたけど、俺はしらんぷりした。

「映画の上映時間だけど、昼過ぎからみたいなんだよね。それまでどっかで時間潰そうか」

 まあ、そうなっちまったもんは仕方ない、と嵯峨野先輩に従う。
 彼も彼で人数が少なくなると落ち着いて仕切り始めた。

 このあいだは俺たちに乗っかったかたちだったけど、今回は彼が提案した形になる。
 ちょっとだけ彼の対応が変わっているあたり、責任感が強くて柔軟なタイプなのかもしれない。

 悪い人じゃないんだよな。
 馴れ馴れしいけど。



「映画館って、モールですよね?」

 と訊ねたのはるーだった。モールというのは近隣にある大型複合施設の通称だ。
 以前、この街に来た時も行ったことがある。ほとんどよく覚えていないけど。
 
 あのときもみんな一緒だった。

「モールに映画館なんてあったっけ?」

「昔はなかったんですけど、モール自体が改装されて、そのときに映画館がすぐ傍に……」

 ずいぶん思い切った改装だ。

「モールでぶらぶらしながら時間つぶして、お昼食べてから映画行く?」

「それがよさそうですね」と高森は頷いた。

 なんだか、普段とメンバーが違うせいで、高森のノリも違うような気がした。
 こういうとき、行き先を決めたりするのはもっぱら佐伯や部長で、高森は決めたことにただ従う場合が多かったのに。
 
 人間って柔軟な生き物なんだなあ、と妙な感動を覚える。
 ひとりでいることが多いと、そんなことすら分からない。



 そういうわけで、その場で軽食をとってから駅へ移動。モールへと向かった。

 モールと言った途端、高森がやけに乗り気になったのが気になって、

「妙に乗り気だけど、モールに何かあるの?」

 と訊ねると、

「ゲーセンでプリパラする」

 と反応に困る返事が来た。
 特にコメントもない。

 嵯峨野先輩は移動中、天気とか、部誌の話とか、いろいろみんなに話題を振ってきた。
 膨らませ方がうまいのか、次から次へと話題が転がり、会話が途切れることはなかなかない。

 というか、聞き上手なんだろう。
 
 自然と話は嵯峨野先輩と高森、俺とるーのふたりに分かれていった。
 嵯峨野先輩が高森に話題を振るもんだから、当然と言えば当然だ。

「るーは、モール、よく行くの?」

 気紛れにそう訊ねると、意外な質問だったみたいに、彼女は一瞬だけ黙りこんだ。

「あんまり。ときどき、お姉ちゃんたちについていくときはありますけど」

「そうなんだ。映画とかは見ないの?」

「たまに気になるのがあるときは観に行きますよ。でも、そんなには」



「休みの日とかって何してるの?」

 俺は適当に「困ったらこれを振っときゃ間違いない」みたいな話題を振った。

「えっと、買い物に出掛けたり、本を読んだり、友達と遊んだり」

「ああ、一緒一緒」

「おそろいですね」

「ですねー」

 ホントかよ、と俺は思った。たぶん俺と彼女じゃ「買い物」の意味も違う。読む本さえ違いそうだ。

「……本って、どんなの?」

 俺は嵯峨野先輩を見習って、ちょっとだけ話題を膨らませてみた。

「基本的に、小説が多いですね」

「どんなの?」

「だいたい、映画とかドラマの原作が多いですね。文学みたいなのは、あんまり」

 るーは照れたみたいに笑った。そういう表情が珍しくて、ちょっとどきっとする。
 して、一個下の女の子の照れた顔にどきっとしてしまう自分の耐性のなさに情けなくなる。


「最近だと……」と、るーは今やっているドラマの原作本を挙げた。
 
「ああ、読んだそれ」

「おもしろいですよね」

「うん。あの作者、昔はシリアスなものをシリアスにやってたけど、最近はシリアスなものを軽やかにやってるんだよな」

 と俺は適当に思いつきの批評をした。本当にそう思ってるんだけど、言ってからなんとなく後悔する。

「そうなんですか?」とるーは気にした風もなく首をかしげる。俺は恥ずかしくなる。

「うん。そんな感じがする」

 と俺は曖昧にぼかした。

「タクミくん、けっこう本を読むんですか?」

「……そんなには。図書室でときどき借りて読むくらいで」

「さすが文芸部員」

 話題を誘導する技量がないから、すぐに自分に都合の悪い展開になってしまった。
 なるべくなら、自分の話はしたくない。

「……そういや、るーは部誌、何書くか決めた?」

「あ、えっと……まだ悩んでます。早めに決めないといけないものなんですか?」



「部長が気にしてたんだよな。たぶん、早めにレイアウト組みたいんだと思う。配置考えてるの、部長だから」

「……単純に、並べるだけじゃないんですか?」

「あの人、変なところで凝り性だから」

「はあ。そうでしたか」

 また話がずれてる。
 俺に相手から話題を引き出す能力はないらしい。

 そんなこんなで話していると目的の駅について、そこから徒歩五分のモールへと向かった。

 それにしても、意外と話せるもんだな、と俺は思った。

 何を話せば良いのかわからないって、本当はなんとなく困ってたのに。
 それもきっと、彼女のおかげなんだろう。




 冗談かと思ったんだけど、高森はモールについた途端迷わずにゲームコーナーへと向かった。
  
 店の外観は以前見たのとほとんど変わらないが、店内に入るとすぐに記憶との違いが目につく。
 
 もちろん、当時は今よりずっと背が低かった。
 あのときは何もかもが大きくて広く見えた。人だって、ずっとたくさんいるように感じた。
 何かのテーマパークのようにすら、俺は感じていた。天井はずっと高く感じた。

 けれど今となっては、それはどこにでもある大型複合商業施設にしか見えなかった。
 何かを知るというのはそういうことなのかもしれない。

 テナントはいくつも入れ替わり、内装も以前とはかけ離れていて、昔軽食屋のあったスペースがただの休憩所になっていたりした。

 時刻は十一時ちょっと前と言ったところ。
 付近にあるフードコートには、混みあう前に昼食を済ませてしまおうという層か、それとも遅い朝食をとろうという層のどちらかが何組か。
 開店してからそう時間が経っているわけではないから、人気はそう多くはないけれど、かといって空いているというふうでもない。

 ゲームセンターでは、親の買い物に付き合わされて飽きた様子の子供たちがはしゃいでいる。



 高森は本当に女児向けカードゲームコーナーに座り込みはじめた。
 どうやらバッグのなかにカード入れを持ってきたらしい。最初からそのつもりだったんじゃねーか、と困る。
 最初は三人で並んで高森のプレイを見ていたけど、さすがに何分も見ている気にはなれなくて、嵯峨野先輩だけをおいてその場を離れた。

「タクミくん、UFOキャッチャーありますよ」

「ああ、うん」

「タクミくん、得意ですよね」

「……」

 得意。得意か。

 プライズキャッチャーの前に、子供がふたりいた。プライズは子供向けアニメの人気キャラクターのぬいぐるみ。

 
 男の子がクレーンを操作しているのを、女の子がわくわくした顔で眺めている。 
 が、とれない。


「あらら」とるーは残念そうな顔をした。

 それから子どもたちはうしろから見ていた俺たちを振り向くと、ちょっと機体から離れた。
 どうやら順番待ちだと思われたらしい。

 俺は財布を取り出して小銭を突っ込み、さっきの子どもたちが狙っていたぬいぐるみを動かす。
 とれない。三度ほど同じように、ぬいぐるみをクレーンでつついた。

「昔は、一発でとってましたよね」

「まあ、そういうことだよ」

「……何がですか?」



 俺がゲーム機から離れると、さっきの子どもたちがふたたびクレーンゲームの前に立った。
 小銭をつっこんで、緊張した面持ちでクレーンを操作する。
  
 今度は、クレーンがしっかりプライズを掴んでいた。

「……あ」

「遊馬兄も同じことをやってたんだよ。とりやすいように、位置とか角度をちょっとずらしてから、俺と代わったんだ、あのとき」

「……そうだったんですか?」

「うん。そういう人だった」

 ぬいぐるみを手に、うれしそうにはしゃぐ子どもたちの姿を眺める。

「……お兄さんが」

「うん。俺が取れたのは、遊馬兄のおかげだよ。俺がすごかったわけじゃない」



 るーはちょっと黙りこんだまま、俺の顔を見上げてきた。
 少し、落ち着かない気分になる。今更こんな種明かしをしたって、誰が得をするわけでもない。

 ちょっとだけ、後悔する。

「……でも、じゃあ、あの子が今ぬいぐるみを取れたのも、タクミくんのおかげなんですか?」

「いや。取りやすくしただけで、実際に取れたのはあの子の実力だよ」

「じゃあ、やっぱり、タクミくんはすごかったんですよ。それに、取りやすく調整するのだって、誰にでもできることじゃないです」

 そう言ってにっこり笑った。
 
 参ったな、と俺は思う。これだからるーは苦手なんだ。
 俺がどんなことを言われれば喜ぶのか分かってるみたいだ。
 
 なんにもできない自分、誰かにやさしい言葉をかけることのできない自分。
 意識してしまう。そういうことを。



「そういえば、まだカナヅチなんだっけ?」

「……なんで急に、その話になるんですか」

 ちょっと困った顔で、るーは目を泳がせた。

「泳げないからって死ぬわけじゃないって言ったの、タクミくんです」

「それを言われると、ちょっと責任感じるな」

「じゃあ、責任とってわたしに水泳教えてください。今年の目標は25メートルです」

 また、にっこり笑う。
 
「ああ、うん……機会があったらね」

 曖昧にして逃げようとした俺を、

「約束ですよ」

 とるーは捕まえる。
 本当に困った子だ。

 かなわない。

 少し、くすぐったくて嬉しいような、そんな気持ちになる。
 そういうときにはいつも、俺はよだかのことを思い出してしまう。

 彼女は今どうしているんだろう、なんてことを、考えてしまう。

 それにしても、るーは、遊馬兄が今どうしているのかを知っているんだろうか。

 知りたいような気もしたし、知りたくないような気もする。
 知ってしまうのが恐くて、俺は気になることを聞けないままだった。
 一年間、静奈姉にそうしていたのと同じように。


つづく




 高森がゲームに飽きたあと、昼食をフードコートで簡単に済ませてから、時間までぶらぶらと店内を回ることにした。
 
 歩いていると、俺たちと同年代くらいの人がけっこういたりして、すれ違うたびに自分たちがどう見えるかを意識してしまう。
 男女四人で、近いようでどこか距離のある四人。

 友達同士というには距離がある。かといって、特別な関係に見えるほど親密そうでもないだろう。
 あらためて、この四人というメンバーのおかしさを感じる。

 そもそも俺だって中心に立って動くタイプじゃないし、高森だってそうなのだ。

 集団の斜め後ろくらいが安心できる。

「タクミくん、見てくださいこれ」

 と、雑貨屋の入り口にあった商品を手にとって、俺を手招きする。

「なに?」

「くまー」

 と、彼女は奇妙な顔をした熊のキーホルダーを掲げてきた。

「……お、おう。どうしたそれ」

 俺は奇怪な形をした熊の眼力に圧倒されて一瞬怯んだ。

「かわいいです」

「……かわいいか?」

 目の位置が高くて蛙のように思えるが、るーはローテンションのままそこそこご機嫌にその熊を眺めていた。



「知らないんですか? 最近一部で人気のゆるキャラですよ」

「ゆるいか?」

「わたしの周囲にも理解者はいませんが、このキャラクターの公式ツイッターアカウントのフォロワーは三百人を越えています。じわじわと人気が広がってるんですよ」

 ホントかよ。

「……その熊、片耳ないけど」

「おなかをすかせた自分の子供に食べさせたという設定があります」

「首に巻かれた包帯は?」

「あ、それはファッションって設定です」

「瞳があらぬ方向をむいてるのは……なぜなんだ?」

「ふなっしーだってそうじゃないですか」

 言われてみればそうなんだけど、このキャラをあれと並べていいものなのだろうか。

「ちなみにそのキャラ、なんて名前なの?」

「くまのくらのすけです。人気急上昇中ですよ!」とるーは胸を張った。

 くらのすけって顔か?
 


 話をぐだぐだと聞いていると、るーは「ちょっと待っててください」と声をかけて、レジまでとたとたと走って行ってしまった。
 ……むかしはもっと、シンプルにかわいいものに惹かれてた気がするんだけど。

 まあ、数年間会っていなかったわけで、趣味くらい多少変わっていても変ではない。

 というか、むしろちょっと安心してしまった。

 再会してからのるーは、どこか一歩引いていて、話していてもちょっと遠慮がちなところがあった。
 でも今のるーは、昔みたいに楽しそうで子供っぽくて、単純に楽しそうだった。

 なんにも変わってないみたいに笑っている。
 そういう姿を見ると、ちょっとほっとする。

「おまたせしました」とレジから戻ってきてすぐ、るーは俺に向けて「はい」と紙袋を差し出す。
 みれば、彼女は袋を二つ持っていた。

「……え、なにこれ」

「プレゼントです。記念に」

「……あの、開けていい?」

「はい」と彼女はにっこり笑う。

 出てきたのはくらのすけだった。

「おそろいですよ」とにっこり笑う。
 こういうの、たぶん、意識しないでやってるんだろうなあ、と思う。
 彼女の方からしたらきっと、なんでもないことなのだ。とにかく今一緒にいたから、という理由だけで。

「……ありがとう?」

「わたしだと思って大事にしてくださいね」

 冗談めかした口調のるーに、「この熊をるーだと思うのは無理があるよなあ」と、俺は大真面目に思った。


 それにしても、と、改めてるーの姿を見る。
 
 再会して初めて見る私服姿は、昔の印象とはちょっと違う。
 昔はやっぱり服装も子供っぽくて動きやすそうな、活発な印象のものをよく着ていたように思う。
(まあ、それにしてもけっこう女の子らしい服装ではあった気もするが)

 それが久しぶりに会ってみれば、パッと見で「高校生くらいの女の子」らしい服装でやってくるわけだ。
 
 いや、そりゃそうだ。
 俺たちが会っていたのは小学生の頃のことで、今俺たちは高校生なわけだ。

 でも、なんでだろう?

 一定の年齢以上の私服姿の女の子っていうものには、妙な威圧感がある気がする。
 年下だったり同い年だったりしても、自分が圧倒的に後手に回ってしまっている気分にさせられるのだ。

 その時点でちょっと遠く感じたりもする。

 ……たぶん、普段女の子とあんまり遊んだりしないからなんだろうけど。



 るーもそうだけど、高森の方も私服で会うとけっこう印象が違う。

 まあ、とはいえこんなふうに一緒に出掛けたのがはじめてってわけでもない。
 
 文芸部でカラオケに行こうとか、そういうときだって今までもあった。だから、初めて見たってわけじゃないんだけど。

 そういうことがあるたびに思うのが、ネトゲにすべてを捧げてるように見える高森が、意外とファッションなんかに気を遣う女の子なんだってことだ。
 
 髪型や服装ひとつとったって、ちゃんと見られることを意識してる。
 少なくとも(年頃の女の子ってことを考慮すれば、べつにおかしくはないけど)適当にひっつかんだ服を適当に着回してる感じではない。

「女の子らしさ」を殺さない程度のボーイッシュ、とでもいうような。

 そもそもの話、見てくれはそこそこかそれ以上、という奴なのだ。
 
 髪とか肌とか、自然な風にして、手入れされているような。

 前に一度、そういう感想が口をついて出てしまったときがあった。
「髪きれいだよな」なんて。思わず出てきた言葉だったけど、我ながらちょっとどうかと思う。

 高森は一瞬戸惑った顔をしてから、わざとらしくふふんと鼻を鳴らして、

「まあね、女の子だからね。ちょっとだけなら触ってもいいよ」

 なんて得意がっていた。たぶん照れてたんだと思う。
 ちなみに本当に触ろうとしたら逃げられた。

 俺は渡された紙袋のなかの熊をもういちど眺めてみる。
 変な顔。こういう変なものに惹かれるのは、やっぱり「るーらしい」のかもしれない。
 そこに、やっぱり少しだけ安心する。目の前にいるのは「女の子」だけど、「るー」だ。

 とにかく、私服姿の女の子を前にすると、ちょっと萎縮してしまう、というお話。





 映画館はそこそこ繁盛している様子だった。
 
 混んでいるからちょっと不安だったんだけど、チケットはあっさり買えた。
 どうやら今週から上映される人気シリーズの影響で混み合っているだけらしくて、俺たちが観る映画はそこまで人気ではないらしい。
 
 高森と出掛けるための口実なのかと思ったら、嵯峨野先輩は今日の映画を本当に楽しみにしていたらしい。

 好きな監督なんだ、と言っていた。
 ずっと昔にこの人の映画を観てから、いろんな映画を観るようになったんだよ。 
 単純な娯楽作品として見たらそんなに面白くはないかもしれないけど、綺麗な映画を撮る人なんだよ。

 そんなふうに。

 何についてもそうだ。好きなものについて話す人は、いつだって楽しそうだ。
 だから、俺は彼のことを、今までより少しだけ好きになる。

 憧れに近い気持ちで。



 チケットを買って、ポップコーンと飲み物を買い終える頃に、入場案内のアナウンスがされた。
 シアター内に入ると、騒々しかったロビーとは打って変わって静けさに満ちた雰囲気に飲み込まれる。

 映画館のこういうところは嫌いじゃない。
 価格設定を見なおしてもらえれば、毎週のように来るかもしれない。

「楽しみですね」って、るーは俺の隣りに座って笑った。

 席順は、嵯峨野先輩、高森、るー、俺の順番。
 妥当と言えば妥当な感じもした。

 新作映画の予告を観ていると、見終わる前から、また来てみようかな、なんてことを思う。
 我ながら単純だ。

 なんとなく、隣に座るるーを見ると、彼女もこっちを見ていた。

「なんですか?」という顔をされたので、「なんでもない」と軽く頷く。

「そうですか」というふうにちょっと笑って、彼女はスクリーンに視線を戻した。

「……前から思ってたけど、なんでふたりってそんなに意思疎通できてるの?」

 ことの成り行きを横で見ていたらしい高森が、小声でそう問いかけてくる。

「いや。表情とかで分かるだろ、こういう場合」

「……そっかなあ」
 
 なんて高森は首をかしげていた。
 さて、もうすぐ映画がはじまるみたいだ。

 スクリーンに集中しよう。
 嵯峨野先輩の話を聞いていたら、俺も興味が湧いてきた。



  
 ……映画。

 そういえば、遊馬兄の部屋に入ったことがある。

 お調子者、三枚目って感じの印象だったけど、彼の部屋には洋画のDVDや翻訳小説なんかが小奇麗に並べられていた。
 部屋の片隅においてあったアコースティックギター。「インテリアだ」って本人は笑ってたけど、ちょくちょく触っていたみたいだった。
 
 漫画やアニメをけっこう見ていたから、なんとなくそういう趣味の人なんだと最初は思った。
 よく話を聞いたら、そういう趣味の友達に勧められて観たり読んだりしはじめたんだと言っていた気がする。
 べつに嫌いでもないけど、その友達がいなかったらそんなに興味もなかったと思う、って、そう笑ってた。

 俺がやっていたようなゲームを持っていたけど、それだって「子供の頃からやってるシリーズだから」って言って笑ってた。

 一度だけ、彼がギターを弾くのを見せてもらったことがある。
 そんなに上手でもなかったけど、だからといって下手でもなかった。

 遊馬兄は、他人の趣味や特技に関心を示したりすることはあったけど、自分の趣味を他人と共有したりしようとはしなかった。

 そういうことをなんとなく思い出す。
 お調子者で、突拍子もなくて、何も考えてなさそうで、いつも楽しそうな変人。

 それなのに今にして思えば、彼はいつだって、他人との距離感みたいなものを意識していたみたいに思える。
 他人との距離をはかって、一定に保とうとしているかのような。
 どこまで踏み込んでいいのか、どこから踏み込んだらまずいのか、常に気にして、一線を保とうとするような。

 あの頃の彼の年齢を思い出すと、それを今の自分が上回ってしまっていることに愕然とする。

 俺が見ていた彼は、今の俺なんかより、ずっとずっと大人みたいに見えたのだ。
 みんなと一緒にいると楽しそうに笑っているけど、ふと気付くと、とても寂しそうな顔をしたりしていて。
 それを見ているこっちに気付くとなんでもなさそうに笑うから、気のせいだったのかって納得したりして。

 あの人は、本当に俺が見ていた通りの人だったんだろうか。
 そんなことを思う。






 映画は、思ったよりも面白い映画じゃなかったけど、思ったよりは楽しめた。
「面白さ」と、それを「楽しめるか」というのは別なのだ。

 そういう意味では、俺にとっても好みの映画だった。
 というか、わりと感動していた。

「ラストシーン手前で、主人公がひとりで料理を作るシーンがよかったですね」

「うん」

「ふと鏡を見て、自分の顔を見て驚くところ」

「うん」

「胸が締め付けられました」

「うん。よかったね。俺としては、中盤の雑踏のシーンが一番キたな。風船持った女の子とすれ違ったとこ」

「あのあとの女の台詞もいいですよね」

「そうそう」

 と、俺と嵯峨野先輩は女子そっちのけで盛り上がった。

「……なんか仲良くなってるね」とうしろで高森がぼやくのが聞こえる。

「いいことですよ、たぶん」

「……なのかな。たっくん、複雑に見えてけっこう単純だよね」

「そういうところ、ありますね」

「単純に見えて複雑なとこもあるけど。るーちゃんも、こんなの相手だと苦労するねえ」

「な、なんですか、それ」

「そこ。人が余韻に浸ってる横で陰口叩くな」

 口を挟むと、

「陰口じゃないもーん」
 
 と高森は子供みたいな顔でそっぽを向いた。るーの方を見ると、また目を泳がせる。
 カナヅチのくせに目だけ泳がせるとは器用な奴だ。



「さて、このあとはどうする? そろそろ解散しよっか?」
 
 あんまり遅くなってもあれでしょ、と嵯峨野先輩は提案する。

「……ですね。今から帰ったら夕方ですし」

「浅月、この監督の映画に興味あるなら、うちにDVD何本かあるから、今度貸すよ」

 と、嵯峨野先輩は言ってくれた。

「ホントですか?」

「うん。オススメのがけっこうあるんだ。今日の奴が好きだったら、ハマるのもいくつかあると思う。好みはあるけど」

「ぜひお願いします」

 俺は嵯峨野先輩に対して心の中で多大な謝罪を送った。
 今まで爽やかイケメンナンパ野郎とか思ってたけど、ぜんぜんいい人だ。

 感動に涙が出そうになる。

「じゃあ今度、学校に持ってくよ。放課後は文芸部の部室にいるんだろ?」

「はい。ありがとうございます! 一生ついてきます!」

「なんだそれ。大袈裟だなあ」

 俺たちはひとしきり笑い合う。
 
 うしろでるーが、

「将を射んと欲すれば……の、馬、ですかね」

 と、溜め息をついて、

「いや、普通に仲良くなっちゃったんじゃない?」

 と高森が苦笑したのが聞こえた。

 空は、午前中より少し暗くなっている。
 雨が降り出しそうな雲だった。

つづく




 放課後の部室にはみんながそろっていた。

 俺が来るよりも先に嵯峨野先輩が顔を出しにきたらしい。
 部長は俺に「あずかりもの」と言って紙袋を差し出してきた。
 
 中身は数本のDVD。律儀な人だ。今度、礼を言っておかなきゃならない。

 部長、高森、ゴロー、佐伯、それからるー。
 全員がそろっていて、全員が黙っていた。

 べつに、それ自体は珍しいことじゃない。
 るーが入ってからは、彼女に気を使って話しかけたりして、みんなうるさいときもあったけど。
 基本的にはみんな静かな奴らなのだ。

 唯一の例外ともいえる高森も、今日は様子が変だった。



 なんだかな、と思った。

 昼休みからずっと、なんとなく気分が重い。
 何か理由がありそうな気がしたけど、思いつかなかった。

 今日、印象的なことなんてほとんどなかったような気がするのに。

 頭がぼんやりする。
 誰かと、何かを話したような気がするのに、思い出せない。
 誰だっけ? 何を聞いたんだっけ?

 外では雨が降っている。
  
「もう梅雨だね」と、部長が言った。

「ですね」とゴローが相槌を打つ。

「みんな、傘持ってきた?」

「一応」と俺は答える。「はい」とゴローとるーも返事をする。

 高森は黙り込んでいる。



 部長は、それについて何も言わなかった。

 俺は話を変えることにした。

「部長って告白されたことありますか?」

 とっさに出てきた言葉がそれだったのは、自分でも意外だった。
 どうしてそんな疑問を覚えたのか、よくわからない。

「なんで?」と部長は首を傾げる。

 高森が顔をあげて、部長の方を見た。

「なんとなく、訊いてみただけです」

「あるよ」と部長はあっさりうなずいたかと思うと、「たぶんね」と曖昧にぼかす。

「相手のこと、覚えてます?」

「一応。でも、忘れるようにしてる」

「なんで?」

「断ったら、そう頼まれたから。なかったことにしてくれって」

「じゃあ、話しちゃまずいことなんですかね」

「ああ、そうだね。ごめん。今のナシ」

 残念、と俺は思う。
 話したことはなかったことにはならない。


「どんな」と高森は不意に言葉を吐き出した。
 途切れ途切れの呼吸。どこか思いつめたみたいな顔。
 彼女の瞳がぼんやりと部長の方へと向かう。
 
「どんな気分でした?」

「……何が?」

「告白されたとき」

「困った、かな。知らない人だったし、戸惑った、かも」

 部長は、衒いもなくそう呟く。

「じゃあ、振ったときはどんな気分でしたか?」

「どんな、って?」

 訊ね返されると、高森は急に黙りこんで、俯いてしまった。
 俺たちは彼女の態度に戸惑う。

 何があったのか、よく分からない。

 やがて、彼女はポロポロと涙をこぼしはじめた。
 頼りない、小さな嗚咽だけが、雨と沈黙のなかでいやに大きく響いた。



「わたしは悪くない」と高森は震えた声で言った。

「わたしは悪くない」と彼女は繰り返す。

 何度も何度も。わたしは悪くない、わたしは悪くない。
 彼女がそう言うなら、きっとそうなのだろう、と俺は思った。

「ごめん、タクミくん」
 
 と、部長は言う。
 俺はパイプ椅子から立ち上がって、ゴローとるーに目配せをする。ふたりは頷いた。

 俺たち三人は、高森を部長に任せて部室を出ることにした。

 他に何ができる?





「蒔絵先輩、どうしたんでしょう……」

 るーは心配そうに呟く。「さあ?」と俺は首を傾げた。
 本当にわからなかった。一年間一緒にいて、こんなことは初めてだ。
 何かがあったのは間違いないだろう。

 彼女が泣いたのは、俺のせいなのかもしれない。
 俺が部長に振った話題が、彼女の感情のどこかを揺さぶってしまったのかもしれない。

 だとすれば……だとしても……。

 俺はそれを知らないし、だから何も言う資格はない。

「ほっとけばすぐに治るさ」とゴローは言った。

 少しだけ、ゴローのことが憎くなる。
 俺の冷めた部分を指摘して否定するくせに、ゴローは時折、他人に対して俺以上に淡白だ。
 
「本当にそう思う?」と俺は試しに訊いてみた。彼は怯んだ様子もなく、

「そう思えないなら、おまえが心配してやれよ」と、やはり他人事のように言った。
 
 何もかもが噛み合わないような気がした。



 やりとりを横で見ていたるーが、心配そうな視線を投げかけてくる。 
 
 俺は深呼吸をした。どうも、変になっている。俺もゴローも。

 落ち着け、と俺は自分に言い聞かせる。

「高森は、悪くないってさ」

 ゴローは呟いた。そのことについて、俺は何も知らない。

「何か知ってる?」と試しに訊いてみる。「知らない」とゴローは言う。

「あいつが悪くないって言うんなら、悪くないんだろうな」

 それは高森に対する信頼から出た言葉、という感じではなかった。
 ごく当たり前の事実を受け止めるように、算数の検算をするみたいに、ゴローは呟いた。

 高森は悪くないのだろう。でも、それはあまり意味のないことだ、とでもいうふうに。



 廊下を歩いて、文芸部室を離れる。べつに目的地があったわけじゃない。
 どっちにしても同じ場所に居続けるのは息が詰まった。

「……さっき、部室に嵯峨野先輩がきたとき」

 歩きながら不意に口を開いたのはるーだった。
 俺は彼女の方を見たけど、彼女は自分の足元を見ながら歩いていた。そういうものだ。

「ふたりとも、様子が変でした。そういえば。嵯峨野先輩が、蒔絵先輩に謝ってて」

「……謝ってた?」

「はい。たしか、"変なこと言ってごめん"って。ひょっとしたら……」

「そういえば、さっきの高森、告白ってワードに引っ掛かってたな。振ったときの気分、っても言ってたっけ」

 ああ、なるほど、と俺は勝手に納得した。確証があるわけじゃないけど、ない話じゃない。

「……だとして、なんで高森が落ち込んでるんだ?」

 俺は、なんとなく分かるような気がした。 
 でもそれはあくまで想像で、口には出さない。きっと、ふたりもそうだったと思う。

「"わたしは悪くない"、か」

 素直で純粋なところがある高森らしい発言だ。
 でも、悪いことをしなければ、誰も傷つけずに済むわけではない。

 当たり前のことだ。

 なんとなく立ち止まって、ポケットから携帯を取り出す。
 よだかから、メッセージが来ていた。

「会いたい」

 と一言。
 俺は、返信しなかった。

つづく




 結局、静奈姉は俺の家に連絡をしなかったみたいだった。
 どうしてかは分からない。

 結局、よだかのことは見逃してくれたらしい。

 一晩だけという俺の言葉を信用してくれたのかもしれないし、面倒事を避けたのかもしれない。

 とにかくそうなってしまったらすぐに割りきれてしまえるのが彼女の美点なのかもしれない。

 突然の来客であるよだかと一緒に夕食をとることにも、彼女が風呂場を使うことにも何の抵抗もないようだった。
 夕食を食べ終える頃には、ふたりはすっかり馴染んで、会ったときのギスギスとした雰囲気はなりを潜めていた。

 とはいえ、よだかが俺の部屋に泊まることには反対されてしまったので、結局俺がリビングで眠ることになった。

 静奈姉はしばらくよだかと話をしたあと、なにかやらなければならないことがあるとかで自分の部屋にこもってしまった。

 俺が自分の部屋に戻ると、よだかも当然のようについてくる。ほかに居場所もない。それはそうなるだろう。


 俺は机の上にノートを広げて勉強を始めた。何かすることがあると、気が紛れる。

「静奈さん、いいひとだね」とよだかは言った。
 彼女は当たり前みたいに俺のベッドの上に横になっていた。

 そう。静奈姉はいいひとだ。

「ねえ、たくみ、訊いてもいい?」

「なに」

 どうせ、駄目って言ったって訊くくせに、と俺は思った。

「たくみがこの街に来たのって、わたしのせい?」

「そうだよ」
 
 俺は間髪おかずに答えた。

「やっぱり?」

「うん」

「わたしと会わないほうが、たくみは幸せだったね」

 本当に真剣な声で、よだかはそう言った。
 自分が誰にとっても余計ものだと信じているみたいに。

 俺はそれを否定できない。

「たしかにね」と俺は答えた。



 中学二年のあの春の日に、ひとりの女の子が母親の遺書を握りしめて俺の家に来ていなかったら、俺は今でも幸せでいられた、かもしれない。

 ひとりの男がいた。
 男には恋人がいた。長年連れ添った相手だった。女が妊娠すると、ふたりは籍を入れた。
 ちょうどいいタイミングではあった、と後に語っていた。
 
 そしてふたりは幸せな家庭を築きましたとさ、めでたしめでたし。

 ――反転。

 けれど女の妊娠が発覚する少し前まで、たった数ヶ月の間だけ、男は浮気をしていました。
 浮気相手は職場の後輩、男より五、六年下の、社会人になったばかりの女の子。

 男は恋人がいることを彼女に隠して、数ヶ月の間騙し通したのです。

 さて、男が浮気をやめた途端、見計らったように恋人の妊娠がわかり、彼はびっくりしました。
 まるで運命のようなタイミングだと彼は感じ、自分が浮気相手を捨てたことを間違っていなかったと感じました。

 彼にはそれが、自分が誠実さを取り戻したことに対する福音のように感じたのです。

 生まれた子供は、仲の良い両親に見守られ、すくすくと育ちました。

 ――ここで終われば、まだ幸せな物語だった。



 そして中学二年の春の日、同じ中学に通うひとりの少女が、彼らのもとを訪れました。
 
 聞けば彼女は、父が結婚するまえに恋人関係にあった女の子供だと言います。
 彼女は妊娠していたのです。
 
 それも、母が彼を身ごもるより先に。

 少女は彼の腹違いの姉だったのです。
 
 父の認知がない以上、戸籍上は赤の他人だったとしても。

 同じ中学に通う同級生の女の子が、学校で何度か顔を見たこともある少女が、自分の腹違いの姉であった事実。
 その根本となった父の不誠実。

 この場合、どっちが『不貞の子』ってことになるんだ?

 彼はそう思いましたとさ。

 なんでも彼女の母親は、もともと体が弱かったうえ、女手一つで子を育てるのに相当無理をしたらしく。
 体を壊して、しまったらしく。
 あっさり死んで、しまったらしく。
 
 娘は母の遺書に書いてあったとおりに、「実の父親」を頼りにしてみましたが、
「俺の子かどうかなんてわからない」と、あっさりつっぱねられましたとさ。

 めでたくなしめでたくなし。



 中学二年生までに得たすべてのもの。
 両親の愛情(らしきもの)。友人たちとの時間。気のいい親戚たちとのふれあい。
 楽しかったこと、嬉しかったもの、それを幸せと呼んだ。

 その裏側には、常に『よだか』がいる。光に炙りだされる影のように、俺の幸福の裏側にはよだかが張り付いていた。

 俺が両親に抱かれていたとき、よだかは母親とふたりきりだった。
 俺が友達と遊んでいるとき、よだかは家事の手伝いをしていた。
 俺がるーと遊んでいたとき、よだかは学校の友達にいじめられていた。  

 光と影は反転しうる。
 俺はよだかだったかもしれない。
 俺は、たまたま拓海だった。『こっち』だった。

 胸をなでおろして、はあやれやれ、どうやら俺の人生は、「父に選ばれた方」だった、一安心だ、なんてことにはならない。

 知らなければ幸福でいられた? ……たしかに。
 でも、知ってしまったことを知らなかったことにはできない。

 知らないこと。目を瞑ること、耳を塞ぐこと、口を噤むこと。それを幸福と呼べるだろうか?
 
 それを幸福と呼ぶのなら俺は誰に対してだって断言してやれる。

 幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。

 幸福と真実を秤にかけたとき、ためらわずに幸福を受け取れる奴になんてなりたくない。
 だったら俺は、幸福になんてならなくていい。
 


 よだかはいつか言っていた。

 ――人生はプラスマイナスゼロって言うじゃない?
 
 悪いことがあったら、そのうち良いこともある、とか。
 でも、ねえ、本当にそうなの? 本当にプラスマイナスの収支がつくって信じて、そんなことを言ってるのかな。

 そうだとしたら、彼らの頭のなかでは、アンネ・フランクの短い人生にはその理不尽な不幸に見合うだけの幸福があったことになるのかな。
 そうだとしたら、そこで収支がプラスマイナスになっているんだとしたら、彼女の死はありふれたものでしかないのかな。

 そうだとしたら、わたしたちは、その死からなにひとつ学ぶことはないってことにならない?
 どこにでもある、誰もと同じ、プラスマイナスゼロの生でしかないってことにならない?

 アンネ・フランクの生と死は、悲しむにも嘆くにも悼むにもたらない、ただ当たり前のものでしかないのかな。

 誰かがそれを、屁理屈だと言った。
 俺はそうは思わなかった。

 生きることは理不尽だし、良いことと悪いことの収支なんてつくはずがない。
 数字のようには割り切れやしない。

 都合のいい気休めなんて、聞き流すのに体力を使う分むしろ有害だ。
 欺瞞を欺瞞と呼べば、ひねくれていると後ろ指をさされる。

 話の通じない相手に耳を貸すのは、疲れる。



「ごめんね」とよだかは言った。

「なにが」

「なにか、考えてる?」

「なにも。変な感じがすると思って」

 姉であり、元同級生であり、同い年の女の子である少女。 
 よだかと俺は、けれどいつのまにか、仲良くなっていた。

 友達でもなく、姉弟でもなく、なんでもないはずなのに、近くにいた。

 結婚しようよ、とよだかはよく言う。
 それが俺には、彼女を認知しなかった父へのあてつけのためのように思えてしまう。
 もしくはそれは単に俺が穿った見方をしているだけで、彼女は誰かとの繋がりを求めているのかもしれないけど。

「ごめんね」とよだかはまた言った。

「わたし、居なければよかったね」

 それはきっと、今、この場に限定された、なんでもない言葉。選び方が少し不穏なだけの言葉。

 それは、けれど、中学のとき、彼女の口から発せられた言葉を思い出させた。

 ――ごめんね。
 ――わたしがいなければ、きみは幸せな子供でいられたね。
 ――わたしがいなければ、お母さんも、ほかのひとと幸せになれたかもしれないよね。
 ――わたしがいなければ、きみも、お父さんのこと、素直に尊敬できてたよね。
 ――わたし、生まれなければよかったね。

 そんなことを泣きながら言った女の子。

 彼女のことを、俺がどうして無碍にできるだろう。
 


「どした?」とよだかは俺を見て笑った。

「なんでもない」と俺は目をそらす。

 すると彼女は、ベッドを下りて、俺の真後ろまでとたとた歩み寄ってきて、

「どーん」とうしろから抱きついてきた。

 俺たちは姉弟で、でも、中学のときに初めて顔を合わせた、無関係の男女でもある。
 そのいびつさが、俺たちの振る舞いに、不思議なほどの違和感を与えてくれる。

「なんだよ」

「お姉ちゃんが恋しいのかと思って」

「誰がお姉ちゃんだ」

「たまには素直に甘えてごらん、弟よ」

「調子乗んな」

 ああ、でも、とふと思い出した。


「そういえばさ、よだか」

「なに?」

「俺、子供の頃、お姉ちゃんがほしかったんだよな」

「そうなの?」

「うん」

「わたし、弟がほしかった」

「そう?」

「うん」

 俺は少し笑った。

「ばかみたいだな」

「ほんとにね」

 よだかも笑った。
 ばかみたいに。

つづく




 よだかは最後に、俺が通う学校をもう一度見たいと言い始めた。
 
 別に逆らう理由も思いつかなかったから向かったが、だからといって何かがあるというわけでもない。

 雨は止んだけれど、分厚い雲が空を覆い隠している。
 
 暗い並木道を歩きながらよだかは、

「どうしてなんだろう」

 とポツリと呟いた。

 太陽の光は薄ぼんやりと、けれどたしかに地上まで届いている。
 学校までの道を歩く途中でよだかは不意に俺の手の甲に触れてきた。

 そっと指先で撫でるように触れてきて、そのまま指だけで俺の手を掴んだ。

 俺はその手を拒めずにいた。



 見通しのいい並木道には、かすかな人の気配しかない。

 鳥の鳴き声が聞こえる。
 風がかすかに空気を運んでいる。
 木々は雨粒に濡れてしっとりと艶めいている。
 
 何かを覆い隠すような曇り空もどこか遠くで、薄いカーテンのように心地が良い。

 今は六月で、雨はあがって、埃を洗い落とした空気を吸い込むと体が内側から透き通っていくような気さえする。

 よだかは不意に鼻歌を歌い始めた。

 古いアニメのオープニング。その響きはなんとなくこの場には似つかわしくない感じがして、おかしかった。
「すいみん不足」だ。

 よだかのささやくみたいな歌声は、雨上がりの並木道の静けさに溶けるみたいに広がっていった。
 
 それは悪くない感じだった。



 正面から、誰かがふたり、並んで歩いてくる。
 よだかの鼻歌はまだ続いている。

 俺は目を凝らして、近付いてくる誰かの姿を見る。

 俺は、
 よだかの手を振り払った。

 俺は、よだかの方を見る。彼女は一瞬、かすかな驚きを表情に浮かべた。
 歌は止んでいた。

 そうなってからはじめて、俺は自分が手を振り払ってしまったことを意識する。

「浅月?」

 そう呼びかけられても、俺はとっさに反応できなかった。
 自分の手がそういうふうに動いたことを、なぜか認めたくなかった。

「やっぱり浅月だった。デート?」

 正面から歩いてきたのは、佐伯とるーのふたりだった。
 日曜なのに、なぜか制服を着ている。
 
「違う」と俺は答えた。
 
 ふたりはちらりとよだかの方を見た。俺も釣られてよだかを見た。
 よだかは一瞬、俺を見上げたあと、さっと視線を逸らしてから、何も言わずに頭を下げた。



「……姉」

 と、俺は答えた。よだかのことについては、上手い答えが見つからない。

「タクミくん、お姉さんいたんですか」

 るーは、何の疑問も覚えずに、俺の言葉を信じたみたいだった。

「ああ」

 頷きながら、俺はよだかの方を見ないようにした。
 
「昨日からこっちに来てたんだよ。今日、帰るけど」

「そうでしたか」とるーはにっこり笑って、よだかに向き直る。

「はじめまして」と挨拶してから、るーはよだかに自己紹介をした。

 よだかは戸惑いつつ、「はじめまして」と返事をして、思い出したように自分の名前を付け加える。
「秋津よだか」と名乗ったことに引っかかりを覚えなかったわけもない。
 
 それでもるーは、そんなことはなんでもないことだというように笑う。

「……ふたりは、学校に行ってきたの?」

 なんとなく据わりが悪くて、話を変えると、頷いたのは佐伯だった。



「そう。ちょっといろいろ、確認したいことがあったから」

「確認したいこと、ですか」

「例の、焼却炉の話。なんとなく、気になって」

 佐伯は、いつもみたいにちょっと遠くを見るような目をした。
 気になる。それは、分かる。俺だって気になる。

「……犯人探し?」

「みたいなもの、かな。部長とか林田は興味ないみたいだし、マキはちょっと怖がってるし。
 とりあえずちはるちゃんに協力してもらって、いろいろ話を聞きに行こうと思ったんだ。
 第二……今は第一か。顧問の先生と及川さん、今日は学校にいるみたいだったから」

「第一の顧問か。……ヒデは何か言ってた?」

「タチの悪い悪戯だけど、何かの損害があったわけでもないから、犯人を見つけても穏便に済ませたいって、それだけ。
 先生たちとしては、特に犯人探しをしてる感じじゃないかな。暴力事件とか、窃盗事件ってわけでもないしね。あっちの顧問も同じ感じ」

「……及川さんは?」

「あっちの部員たちの一部は、やっぱりわたしたちの仕業だって疑ってるみたい」

 わたしたち、というより。
 
「疑われるなら、俺だよな」

「まあ、そうなるかな。わたしたちが口裏合わせてると思われてる可能性もあるけど」




 俺が佐伯と話している間、るーはよだかと話していた。
 この場に居づらそうにしているよだかに気を使ったのか、それとも意識せずに、そういうことをしたのか。
 よくわからない。

 るーは、よだかが住んでいる街のこととか、俺のこととか、そういう話をしているみたいだった。 
 どうしてそういうふうに、今日会ったばかりの他人と親しげにできるのか、不思議になる。

 でも、どうなんだろう。親しげ、ではないのかもしれない。それがなんなのか、よくわからないけど。

「調べてみて、何か分かった?」

 横目でふたりのやり取りを眺めながら訊ねると、佐伯は曖昧に首を傾げた。

「しいて言うなら……燃やされてた部誌は、『部誌』だと分かるように燃やされてたってことかな」

「まあ、そうじゃないと、何が燃やされてたかなんてわからないもんな。全部燃やさないなら尚の事だ」

「つまり、犯人……とりあえず今はそう呼ぶけど……は、燃やしたと分からせるためにそうしたってことだろうね」

「ああ」

 それについては、単純に思いつく可能性がひとつ。

「……愉快犯って可能性が高いよな」

 佐伯は、俺の目を見て頷いた。



「誰かを陥れたり、邪魔をしたりする目的なら、燃やせるものは全部燃やしてるはずだ。
 部誌は同じところにしまってあったのに、ひとつだけが燃やされてた。
 しかも、わざわざ焼却炉を使う理由はない。処分するだけなら、原稿なんて全部持ち帰って捨ててしまえば、証拠も残らないし騒ぎにもならない。
 なのにわざわざ、騒ぎになってほしいみたいに、焼却炉まで使って、しかもわざと、燃え残りで部誌だと分かるようにしてあった」

 でも、そうだとしたら打ち止めだ。
 はっきりした目的があったなら、特定はできるかもしれない。
 でも、腹いせや嫌がらせ、八つ当たりが目的だったとしたら、特定なんてできやしない。

 第二……第一文芸部の部員に恨みを持つ誰か、部員内のいざこざ、まったく関係のない誰かの、意味のない嫌がらせ。
 範囲は広がっていく。

「……そうかも、しれないけどね」

 佐伯のつぶやきは、「そうともかぎらない」と言いたげだった。

「燃やされてた原稿は、第一稿だったんだって」

「……第一稿。部誌の、ってこと?」

「そう。それで、顧問の先生が調べたら、第一が使ってるパソコンから、一稿目のデータが消されてたんだって」

「……」

「どう思う?」


 ……第一稿が燃やされてた。第一稿に何かまずいことが書かれていて、それを誰かが人目につかないようにした?
 それが動機だとしたら、容疑者はぐっと絞られる。第一文芸部の部員以外に、部誌の中身を知っていた奴はいないはずだから。

「……いや、でも、それはそれでおかしいだろ。だったら燃やす意味がない。隠れて処分すればいいだけだろ」

「うん。わたしもそう思う」

「それに、パソコンに原稿データが残ってるんだとしたら、第一稿目だけを処分する理由がない。
 データがあるってわかってるなら、全部処分した方が話が早いだろ? だってそうしないと……」

 そうしないと、第一稿目を処分するのが目的だと、特定されてしまう。

「……なんだ、それ」

 混乱する。
 矛盾してる。

 第一稿を処分したのは、そこに見られたくない何かがあったから。
 にもかかわらず第一稿だけを処分したのも、わざわざ焼却炉で燃やして騒ぎにしたのも、第一稿が目的だったと誰かに気付かせるため?
 
「わけわかんないでしょ?」

 佐伯は困ったみたいに溜め息をつく。

「でも少なくとも、パソコンからもデータが消されてたってことは、単なる腹いせとか嫌がらせではなさそうだって思う。
 もちろん、手の込んだ悪戯って可能性も否定はしきれないけど……」
 
 俺は最初から、これがただの嫌がらせだと思い込んでいたし、だから特定なんて不可能だと思っていた。
 それなのに佐伯は、実際にそれを確認して、そうじゃないかもしれないという可能性を引っ張り出してきた。

 なんとなく俺は、それを怖いと思った。



「とにかく、第一稿と第二稿以降に差があるなら、その差が、第一稿が処分された理由だよね。
 だとすれば、手直しをした部員に話をしらみつぶしにきいていけば、特定できるかもしれない」

 でも、と彼女は言う。

「もしこれが悪戯だったら犯人探しはためらわないけど、何かの理由があってそうしたんだったら、
 わたしが首を突っ込むことじゃないのかも。そんな感じもするよね」

「……たしかに、わけがわからないけどな」

「そもそも、手直しした生徒って、ほぼ全員なんだけどね。誤字脱字の修正とか、ページの見切れとか」

「……気合入ってたんだな、あいつらも」

「だからこそ、あんなに怒ったんだろうしね」

 聞けば聞くほど、面倒な話だと思う。
 すっきりしない話になりそうな気がしてきた。




 話を終えたあとふたりと別れて、よだかを見送りに駅まで向かった。
 
 よだかは歩きながら、何か不思議そうな顔をしていた。
 ずっとるーと話していた。てっきり、そういうのは苦手だと思っていたんだけど、べつに疲れてもいないようだ。

「たくみ、あの子のこと、好き?」

 不意に彼女は、そう問いかけてきた。
 俺は迷って、
 
「どっちのこと?」

 と問い返す。

「わたしと話してた方」

 ……どうして分かってしまうのか、俺にはよくわからない。
 それでも結局、嘘をつくことに意味はないから、

「好きだよ」
 
 と答えてしまった。答えたことに、少しほっとした自分もいた。

「そっか」

 よだかはそれから、ほとんど喋らなかった。



「……夏祭り」

「え?」

「夏休みになったら夏祭りがあるから、また遊びにきてくださいって、言ってた」

「……」

「ともだち、みたい」

 俺はいつものように答えに迷う。
 よだかにどんな声をかければいいのか、俺はいつも分からない。
 本当はわかりたくないのかもしれない。彼女への態度を、俺はずっと保留しておきたいのかもしれない。

「帰るね」とよだかは最後にそう言った。

「静奈さんと、あのふたりによろしく」

 俺は彼女のために何かを言ってあげたかったけど、さっき手を振り払ったことをなぜか思い出して、何も言えなかった。
 よだかはもう、甘えた素振りさえ見せない。何かを隠すみたいな無表情だ。

 よだかを見送って駅を出ると、雲の切れ目から太陽の光がそそぎこんできた。
 
 天使の梯子だ、と誰かが言っていた。
 灰色雲の隙間から差し込む光は、わずかな青空を裂け目から連れてきた。

 少し眩しかった。
 るーのことが好きか、と俺は自分に問いかける。
 好きだ、と俺は答える。
 
 でも、それをどうしたらいい?
 その気持ちで、いったい何をすればいいんだろう。
 俺にはきっと、何かを素直に楽しもうという意思が欠けているのだ。


つづく


◇[Birds]

 第一から第二にナンバリングが変わったからって、部室を移動したりするわけじゃない。
 これまで上手く回っていたものを変にいじくりまわすのは誰にとっても厄介なことだ。

 だから俺たち、現第二文芸部は、相変わらず、東校舎三階の文芸部室に集まっている。

 勝負の後、一度だけ及川さんがここにやってきて、「お疲れ様」とか「ありがとう」とか「また何か企画しよう」とか言っていった。
 でも、たぶん実現はされないだろうと思う。

 例の騒動のせいか、彼自身、どこか疲れた感じの顔をしていた。
 
 嵯峨野先輩とのことでどことなく様子がおかしかった高村は、その騒動に更に気分を引っ張られてすっかりふさぎ込んでいた。
 佐伯やるーも彼女をどうにか元通りにしようとがんばっているようだし、高村自身がんばってはいるようだけど、やはり以前までとは違う。

 だからこそ佐伯も、例の騒動のことを調べようと思ったのかもしれないけど。

 俺は俺で、いろいろと考えたいこと(というより、考えたくないこと)があったせいで、平常通りの態度とはとても言えなかった。
 
 対照的に、つい最近まで様子がおかしかった部長とゴローは、どちらも調子を持ち直していた。
 
 よだかが帰っていった日の翌週の水曜、ゴローは不意に顔をあげて、

「そりゃそうだ」

 と呟いた。



「……なにが?」

 と思わず尋ね返すと、よくぞ訊いてくれた、というふうに彼は大きく頷く。

「ミートソースとボロネーゼの違いについて何かを書いたところで、誰も読みやしない」

「……そのこと?」

 ゴローがそういうふうに開き直ったことを言うのは今に始まったことじゃない。
 彼はどこかで自分のことを客観視している部分があって、自分の行動が起こす結果をはっきりと意識したがる。

 今回のも、たぶんそれだ。

「そうだろ? 何を落ち込んでたんだ、俺は」

 言いながら、彼は立ち上がった。彼の膝の裏に押されたパイプ椅子が、床に擦れてギイと音を立てる。

「そんなもんで票が稼げるわけがない。分かってたんだ。当たり前だろ? 票を稼ぐつもりで書いたわけじゃないんだ」

 ゴローは胸の前に握りこぶしをつくって、演説するみたいに言葉を吐いた。

「そうだ。票を稼ぐつもりで書いたわけじゃない。負けたって当たり前だ。負けたくないなら、もっとそういうことを意識しなきゃいけなかった」

「……べつに、ミートソースとボロネーゼの違いを書くにしても、票を稼ぐことを意識しようと思えばできるもんね」

 答えたのは部長だった。ふたりを除く部員たちは、彼らのテンションに呆気にとられたまま沈黙する。


「題材が一般受けしないなら、文体とか、そういうところに面白みをつくれればいいんだろうし」

 部長の言葉に、ゴローは少し考えたような素振りをみせた。

「たしかに。……でも、それは擦り寄るってことじゃないですか?」

「歩み寄る、って言い方もできるよ」

「……」

「上から目線で言えば、譲歩、でもいいけど」

「……なるほど。譲歩ですか」

 ゴローはうんうん頷いた。

「譲歩。いい言葉だなあ。それで行きましょう。要するに俺は、自分で思ってたより勝ち負けにこだわってたみたいだ」

 ゴローはにやけた顔でまた頷くと、ゆっくりとパイプ椅子に座ろうとして、大きな音を立てて床に尻もちをついた。

「いってえ!」

 パイプ椅子は彼が立ち上がった拍子に、彼が思っていたよりもうしろに押し出されてしまっていたみたいだった。
 
「……なにやってんだ、おまえ」

 さすがにみんな、ちょっと笑った。

「うっせえ」と、照れたのか、ふてくされた顔で彼は俯いた。



 改めて座り直して、ゴローは真面目な顔になった。

「さて、"それはそれ"だ」

 彼はそう呟いて、俺たちの顔をゆっくりと見回した。

「なんでこんなに気分が落ちてるのか、俺も自分でちょっと考えてみた。そしたらなんとなく分かった。
 たぶん、いくつかの要因が重なってるんだ。一個一個、それを分割して考えてみなきゃいけない。一個目はそれ。負けたことだ」

 それについてはいい、次勝てりゃいい、と彼は手をひらひら揺すった。

「もうひとつの原因は、水を差されたことだ」

 
 みんな、ゴローに注目していた。こいつがこんなふうに、部員全員に何かを言うことなんて、珍しい。 
 いつもはひとりで、隅の方で個人作業に打ち込んでいるような奴だから。


「焼却炉で部誌の原稿を燃やす。おかしな話だよな。なんでそんなことしなきゃならない? 
 そのせいであの勝負は、勝っても負けてもすっきりしなかった。負けたから余計にすっきりしない」

 佐伯の顔をちらりと見る。彼女はいつもみたいな、感情の読めない静かな顔で、ゴローの方を見ていた。
 
「あっちの部員の何人かは、俺らの仕業って疑ってるくらいだ。正直、ムカつく」

 だろ? とゴローが同意を求めてきたので、俺は曖昧に頷く。
 たしかに、いい気分はしない。



「……あれ、誰がやったんだ?」

 ゴローの言葉に、みんなが沈黙した。
 そんなの、知るわけない。

 おかまいなしに、ゴローは言葉を続けた。

「部長、やりました?」

「やってないよ」

 部長は戸惑う素振りも見せずに否定した。

「佐伯か?」

 佐伯はしずかに首を振った。

「高森」

「まさか」

 高森は、心外だ、というふうに大袈裟な身振りをした。

「藤宮?」

「……いえ」
  
 るーもまた、首を振る。

「そんじゃ、アリバイのないタクミ」
 
 注目が俺に集まる。ゴローの視線は射抜くみたいに冷たく思えた。
 もちろん、気のせいなんだろうけど。

「……俺じゃない」

 と答えると、少しの沈黙のあと、みんなの緊張がわずかに緩んだのが分かった。



「俺たちじゃない」とゴローは断言した。

「でも、誰かがやったんだ」

"誰か"。

「……誰なんだ?」

 さっきと同じ問い。また、同じようにみんなが沈黙する。

「なんのつもりか知らないけど、ムカつく。腹が立つ。わけがわからないし、混乱する。その分余計に腹が立つ」

「……話の流れが、よく見えないんだけど」

 高森は、不安そうにゴローを見た。佐伯の方をうかがうと、彼女もまた、ちらちらと俺やるーの方をうかがっている。
 話すべきか話さないべきかを、決めあぐねているようだ。

「つまりゴロちゃんは、何が言いたいの?」

「もしあれが、誰かの悪意なら、それをやった奴は、俺たちを混乱させて、第一の奴らを戸惑わせて、喜んでるかもしれないだろ?」

 それはムカつく、とゴローは言う。

「そういうのを想像すると、すごく腹が立つ。そいつに、一言言ってやらなきゃ気が済まない。
 ……どうにかして、"そいつ"が誰なのか、調べることはできないかな」

 ゴローの言葉は、基本的に一人称単数で、話の根拠は基本的に自分の感情だ。
「であるべき」とか、「なければならない」みたいな言葉は使わない。

 俺はむかつく。だから俺は調べたい。それを単純と呼ぶか誠実と呼ぶか、俺には判断がつかない。


「ひとつ質問」

 静かに手を挙げた佐伯に、ゴローの視線が向く。みんなが彼女の方を見た。

「それが悪意なら、っていうのは分かったけど、じゃあ、それが悪意じゃなかったら?」

 ゴローは、眉間を寄せた。何が言いたいのかよくわからない、という顔だ。

「それが悪意じゃなくて、何かの理由がある行為だったとしたら?」

「どんな?」

「それはわからないけど、わたしたちにはわからない、止むに止まれぬ事情があったとしたら?
 林田は、そのときどうするの?」

「事情次第だけど、文句は言わないかもしれない」

「でも、その人が、調べられたくない問題なのかもしれないよ。知られたくないことかもしれないよ」

「……そんなの、調べてみなきゃわからないだろう」

 ゴローは妙にはっきりとした口ぶりでそう言った。

「とにかく俺たちは、程度はどうあれ、そいつの行動に迷惑してるんだ。
 知られたくないなら無理に知ろうとしたくはないけど、でも、悪意だったらそいつは野放しだ」

 たしかに、そうなのだ。
 関わられるのが嫌なら、他人に飛び火しないように、やらなきゃいけない。 
 飛び火した以上は、「知られたくない」じゃ済まない、のかもしれない。



 それでも佐伯は、考えこむように俯いていた。
 その"誰か"に感情移入してしまっているみたいに見える。
 まるで彼女自身、知られたくないことを持っているみたいに。

 もちろんそんなのは、それこそ程度はどうあれ、誰にでもあるようなことなんだろうけど。
 やがて佐伯は、諦めたみたいに溜め息をついて、俺とるーの顔を順番に見た後、口を開いた。

「だったら、一応話しておく」

 そう言って彼女は、土日を使って彼女が調べあげたことと、そこから生まれた仮説についてみんなに話した。
 部長とゴローは、「佐伯がそういうことをした」ことに驚いていたが、すぐに話を聞くのに集中し始めた。

「なるほどな」

 話を聞き終えると、佐伯の質問の意図が分かったからか、ゴローは得心したようにしきりに頷く。
 そこからまた静かな沈黙があった。

 高森とるーは口を挟まない。俺も、何も言わずにおく。

「たしかに何か事情がありそうな感じがするな」

「……と、そう思うのは、わたしたちが文芸部だからかもしれないよね」

 部長のその言葉に、みんなが一瞬虚を突かれた。 



「どういう意味ですか?」

「本当は、意味なんてない、ただの嫌がらせなのかもしれないよ。
 それを意味ありげに感じるのは、わたしたちが、物語をつくるって形で、点と点を結ぶことに慣れてるからかも。
 空白はただの空白で、点はただの点なのかもしれないじゃない?」

「……でも、俺は気になります。だから調べます。いいですよね? 部長」

「うん。駄目とは言ってない。わたしも、たしかに気にならないことはないし。がんばってね」

 部長は、協力する気なんてさらさらなさそうだった。俺はなんとなく意外な気がした。

 俺は、一連の流れに、戸惑うばかりだった。

「……どうした、タクミ?」
 
 察したみたいにかけられた声に、とっさに上手く返事ができない。

「……いや。本当にそれ、俺たちが関わってもいいことなのかな」

 ゴローは不思議そうに眉をひそめた。

「関わるべきじゃないのかもしれない、と思う」

 ゴローは、戸惑ったように周囲を見回した。みんな、戸惑ったような顔で、俺の方を見ている、ような気がする。

「――なあ、タクミ、おまえ、何言ってるんだ?」

 俺は、言葉に詰まる。自分が言ったことが、そんなにおかしいことだとは思わない。
 でも、みんな、やっぱり、不思議そうな顔で俺のことを見ている。
 
 俺は、言葉をなくして、俯く。からだが、こわばる。居心地の悪さに、身が竦む。
 ……俺は、何か変なことを言ったのだろうか。


つづく




 態度を決めかねていた。

 みんなそうだ。俺やゴローだけじゃない。佐伯や高森だってそうだったろうし、及川さんやヒデだってそうだろうと思う。
 あの場で、嘉山に対して、誰も何も言うことができなかった。

 第一の顧問が最後に嘉山をかばわなければ、誰かが文句のひとつでも言えたかもしれない。

 でもそれは「もしも」の話で、結果として誰もが沈黙せざるを得なかった。
 
 嘉山は詳しい事情について黙して語らなかったし、そもそも細々とした話を聞かされたところで誰も納得なんてできなかっただろう。

 だから、結果として、みんながみんな、納得できないままで黙りこむほかに、術を持たなかった。

 特に、俺たちは、基本的に部外者だ。
 第一の連中が俺たちを疑ったこともあるにはあった。

 けれど俺たちは犯人ではなかったし、燃やされたのは俺たちの部誌ではない。
 結果として巻き込まれただけの、俺たちは部外者だ。



 部室に戻ってから、俺たちは誰一人言葉を発しようとしなかった。

 沈黙。
 沈黙。 
 沈黙。

 それを破ったのは高森だった。

「やめよ」
 
 彼女は、ぽつりと、それだけこぼした。

「何を?」と俺は訊ねた。

「終わったんだよ。焼却炉の話。だったらもう、やめようよ、考えるの」

「そだね」と頷いたのは部長だった。

「わたしたちの人生で、この一年は一回だけなんだよ」

 部長の声を無視するみたいに、高森は続ける。

「高二の夏も、高二の秋も、高二の冬も、一回きりなんだよ。一度通りすぎたら、もう二度と取り戻せない。
 だから、他人のことにかかずらうのはやめよう。わたしたちは、わたしたちの今を楽しもうよ」

 そう言って、彼女は内側でくすぶる何かを吐き出そうとするみたいに長く息を吐いて、それから笑った。
 強がりみたいに見えた。



「……だな」

 と、俺はとりあえず頷いた。
 そういうことなのだ、結局。

 俺たちに関わりのないところで起こって、俺たちに関わりのないところで終わった。
 そういうことだ。だったら、これ以上こだわって時間を無駄にする必要もない。

 ゴローは、黙りこんだままだった。何かを考えているみたいだ。
 それが何なのか分からない。……分かるような気もするけど、きっとそれは錯覚だ。

「ね、打ち上げしようよ」

 高森は手を打ち鳴らして、そう提案した。

「打ち上げ? ……何の?」

「部誌完成の。まだやってなかったでしょ?」

「……ああ」

 というより、そんなの今までしたことなかった。

「わたし、ボウリングしたい。ボウリング」

 俺は、周囲を見回した。
 部長は、何も言わない。ゴローも何も言わない。
 
 るーも、佐伯も、何も言わない。
 何も言わない奴らばかりだ。ここは。
 俺もか。



 ああ、もう。
 めんどくせえ。

「よし。部長、ボウリング行きましょう。みんなで」

 急に話を振られたからか、部長はきょとんとした顔をした。

「タクミくん……?」

「嫌いですか?」

「ううん。べつに、そうじゃないけど……」

「ゴローと佐伯は? このあと予定あるの?」

「ないよ。行ける」

 と即答したのが佐伯。黙ったままだったのがゴロー。

「ゴロー」

「ああ、行くよ」

「るー」

「みなさんが行くなら」とるーは、どこか戸惑ったように笑う。

「じゃ、決定。ボウリング行こう」

「決定! たっくんのおごりね!」

「嫌だ!」

 振り払う。振り払おうとする。
 たぶん、痛々しく見えただろう。




 そんなわけで俺たち第二文芸部の部員たちは、何もかもを忘れてボウリング場へと向かった。
 部活を放り出してきた。ヒデには何も言ってこなかった。そうしたら何かが違ってくるような気がした。

 部長、高森、ゴロー、佐伯、るー、俺。六人。

 ぎりぎり一レーンでプレイできないこともなかったけど、時間がかかるから二レーンに三人ずつ分かれることにした。

 組み分けはグーパーで決めた。

 たとえばシューズを借りるときに、部長の靴のサイズが思っていたより小さかったことに気付いたりした。
 そういうささやかなことの連続を俺は見逃していた。
 
 わけのわからない、自分とは関わりのないことにこだわって、見逃していた。
 そういうことの反省だ。

「さて、せっかく組み分けしたし、勝負でもする?」

 提案したのは高森だった。

「そっちとこっちでチームに分かれて、合計点数を競うの」

「……いいだろう」と俺は答えた。

「負けた方は、罰ゲームね。みんなもいい?」

 みんな頷く。

「罰は何がいいかな……。最初に決めとかないと、ぐだぐだになりそうだもんね」

 高森は9ポンドのボールを構えながらそう呟いた。



「……待て、その勝負、俺たちもやるの決定か?」

 不満気に、ゴローは呻く。

「当然だろ。部全体のイベントなんだから」

「……部長?」

 ゴローに助けを求められた部長は、楽しげに肩をすくめた。

「こうなったら、開き直るしかないよ」

「……くそ。なんでそんなことまで」

「あっれー? ゴロちゃん、もう負けたときの心配?」

 いくらなんでも分かりやすすぎる高森の挑発を、ゴローは鼻で笑い飛ばした。

「……バカ言うなよ。勝ちの決まってる勝負なんてやる気がしないって言ってるんだ」

 にやりと笑う。
 こいつも大概ノリがいい。

 組み分けは、俺、高森、佐伯と、部長、ゴロー、るーになった。


「まあ、妥当かな」

 男女比も学年も、均等といえば均等だ。

「さて、罰ゲームだったな」

 あっさり乗り気になったゴローが、不穏な笑みを浮かべながら顎を撫でた。

「俺たちの勝ちは決まってるからな。おまえらには、何をさせたら面白いだろう」

 やけに強気だ。本当に自信があるのかもしれない。

「だったら、こういうのはどうでしょう」

 言い出したのはるーだった。
 彼女は自分の鞄をがさごそとあさりはじめる。

 みんながその動向に注目した。

「じゃん」

 と言って取り出したのは、このあいだ店先で見た猫耳風カチューシャだった。

「負けたチームは、明日から三日間、部活のときこれをずっと装備。で、どうでしょう?」

「……なんでそんなもの持ってるんだ」

「こんなこともあろうかと、買っておきました。一個だけですけど」

 どんなことを想定してたんだよ。



「……待て、それは女子はともかく、男子のリスクが高すぎないか」

「あれ? タクミくん、もう負けたときの心配ですか?」

 いたずらっぽく、るーは笑う。
 合わせてゴローも、にやにや俺を見る。

 逃げ場がない。

「……ああ、いいぞ。やってやるよ」

「じゃ、決定ですね。負けた方は明日からこのカチューシャをつけて、語尾に『にゃん』をつける義務を負います」

 なんか追加されてる。
 
「……待って。わたしも普通にいや、それ」

 佐伯が本気で嫌そうな顔をする。俺はちょっとだけ躊躇したが、結局強がって笑うことにした。

「佐伯、心配するな」

「……え?」

「勝てばいいんだよ、勝てば」

「……ギャンブルにハマってる人って、みんなそう言うよね」

 彼女は呆れ顔だった。



 そんなわけで始まったボウリング勝負の第一投は、それぞれ俺とゴローに決まった。

「ところで、つかぬことをお聞きするけど、たっくんはボウリングって得意なの?」

 俺は11ポンドのボールを構えながら、高森のその質問に笑みを返す。

「心配すんなよ、高森。こう見えて俺は……」

 そう。俺は。

「生まれてこのかた、一度もボウリングなんてしたことない」

「だめじゃん!」

「眠ってた才能が火を噴く時がきたな」

「たっくん! なんで勝負受けたの!」

 高森が本気で嫌そうに騒いだ。おまえが言い出したからだ。

「やめてよ? 負けたら猫耳だよ? それはまだしも語尾もつくんだよ?」

 だからおまえが言い出したんだ。


 軽く助走をつけてボールを放るとき、高森の悲鳴に近い懇願が聞こえた気がした。

「ほんとにたのむよ、たっくん!」

 俺の放ったボールは静かに回転しながら、吸い込まれるようにレーン外へと進んでいった。
 ガコン、と音を立てて、ボールはあっさりと溝を転がっていく。

 ピンまでの距離は15メートルと言ったところか。

「……ふむ。まあそこそこだな」

「どこがよ!」

 高森が騒ぎ、佐伯は頭を抱えた。
 
「やったことないんだから仕方ないだろ!」

「いくら初めてだってもうちょっと行けるでしょ!」

「あーうるさい。このくらいはハンデだハンデ」



「これは本当に、俺たちが勝負をもらったな」

 俺たちのやりとりを横目にみてくすくす笑いながら、ゴローはボールを構えた。

「悪いがタクミ。俺は生まれてから一度も、そう一度も……ボウリングでガターを出したことがない」

 ごくり、と俺は固唾を呑んだ。

 ゴローは自信満々の表情でボールを構える。
 その仕草は、たしかに俺よりも様になっているように見えた。

「覚悟しろよ、佐伯、高森。おまえらの明日は猫耳だ」

「いやだあ! わたしそっちチームがいい!」

 高森がわめく。諦めの悪い奴だ。

「ははは。楽しみだなあ諸君」

 言ってから、ゴローは投球フォームにうつる。なめらかな体重移動。
 指先から離れたボールは、ファウルラインから二メートルほど過ぎたところで右側の溝に落ちた。
 
 みんな黙りこんだ。



「……ゴロー?」

「俺はこれまでボウリングでガターを出したことが一度もない」

 ふっ、と意味ありげにゴローは笑う。

「なにせ一度もボウリングをしたことがないからな」

 こいつらマジか、という目を、みんなが俺とゴローに向けた。

「……さっきの自信ありげな雰囲気はなんだったの、ゴローくん」

 部長の溜め息も、いつもよりちょっと情感こもって聞こえた。

「なんかいけそうな気がしてたんですよ。案外駄目ですね」

「うちの男どもはあてにならない……」

 佐伯が深刻な調子で呟く。そう言われても仕方ない状況とはいえ、ちょっとひどい。

 三人の女子の目が静かに燃えた。

 みんなが揃って、「わたしがなんとかせねば」という目をしていた。
 
 ひとり取り残されたるーは、ごまかすみたいに、

「えっと。勝負は分からなくなってきましたね……?」

 自信なさげに、そう呟いた。


つづく


◇[escape]

 小鳥遊こさちに言われたからってわけじゃない。
 鷹島スクイに会おうと思ったからでもない。

 それでも、放課後になるのとほとんど同時に、俺の足は東校舎の屋上に向かっていた。

 どうして屋上なのだろう?

 よくわからない。
 ごく当たり前のように俺の足は屋上に昇って、当たり前のように視界に広がる景色を見下ろす。
 こだわりがあるわけでも、思い出があるわけでもない。

 どうして俺は……屋上に昇るのだろう。


 屋上には、誰もいなかった。
 佐伯も、スクイも、他の誰も。

 今日は夕方からバイトだし、部室にちょっと顔を出したら、すぐに店に向かわないといけない。

 フェンスに近付いて、金網を掴んだ。

 見下ろすのは、街だ。人々が暮らし、生き、生まれ、死ぬ街だ。

 だから、ここに来るのかもしれない。 
 街のなかから、街を見ることはできない。
 自分の目で自分を見ることができないように。

 街を見るには、街から離れなければならない。
 自分を見るために、視座を自分からずらさねばならないように。

 屋上に昇って「街」を見下ろすとき、俺は「街」のなかに含まれていない。

 ……それは不健全だという気もする。



 なんとなく、スクイがそうしていたように、給水塔のスペースへの梯子を昇った。
 深い意味はない。

 ただなんとなく、高いところに登りたくなった。

 背負っていた鞄から、持ち歩いていたMP3プレイヤーを取り出す。

 こんなことをしている暇は、本当はないんだけど。
 あんまり良い天気だから、ひなたぼっこだ。

 イヤフォンをつけて音楽をかけ、寝転がって日差しを浴びる。

 流れだしたのはくるりの「How to go」だった。

 快適だ。
 世界の終わりみたいだ。
 
 好きな音楽を瞼を閉じて聴きながら、瞼のすり抜けるあたたかい日差しを感じる。
 視界はやさしい肌色。

 世界は完成されていたのに、それを邪魔する気配があった。

 俺は体を起こして、イヤフォンを外す。

 静かに体を動かして、下を見下ろした。

 ふたりの生徒が立っている。男子と女子。別れ話ならよそでやってくれ、と最初にそう思った。

 でも、男子の方に見覚えがあった。

 嘉山だ。

「……孝之は、これで本当にいいの?」



 女子は、嘉山のことをそう呼んだ。
 ふうん、と思った。

 それにしても。
 ……“これで本当にいいの?”って、なんだ?

 盗み聞きの罪悪感からイヤフォンを付け直そうかとも思ったが、やっぱり好奇心の方が勝った。

「いいもなにも、俺は何も頼んでないだろ」

「でも、わたしは!」

「余計なお世話だって言ってるんだよ」

 ……話の筋は、いまいちつかめない。
 でも、なんとなく、重要そうな話をしているのは分かる。

「いいか。べつに今のままで問題ないんだよ。余計なことはしないでくれ」

「……じゃあ、孝之はずっとこのまま生きてくつもりなの?」

「ずっとって言ったってな。べつに、そんなに長い期間じゃないだろ。もう一年もない」



「……孝之が、どういうつもりなのか、わたしにはわかんない。悪いのは嵯峨野先輩でしょ? なんで黙って受け入れるの?」

 ……“嵯峨野”?

「……あのさ、俺はこのままで問題ないって言ってるんだよ。口出しされるいわれはない」

「でも!」

「おまえには関係ないって、そう言ってるんだよ」

「……分かった。でも、ひとつだけ聞かせて」

「なに」

「どうして、名乗り出たの?」

「……事実だから、じゃない?」

「……ごめん。孝之、わたし、本当に、余計なこと、しなければよかったね」

「ほんとにな。おかげで部活に顔出しにくいし。つうか、退部させられたらどうしようかな……」


 ……こいつら、何を言ってるんだ?
  
 話がさっぱり読めない。
 嘉山は、視聴覚室の集まりで見た時と、かなり印象が違う。
 
 それでも、通底した印象はある。
 何かを隠している、何かを見せないようにしている。
 何かを押し殺している。……そういう顔。

 ふたりは、それからしばらく小声で何かを話していた。そのとき、また、校舎の方から足音が近付いてきて、扉が開いた。
 嘉山たちは、少しのあいだ黙りこんだ。やってきたのが誰か、たしかめるつもりだったのだろう。
 
 屋上の扉をしばらく見ていた。開いた扉の先は、俺のいる場所からは見えない。

 そのとき、嘉山の表情が、なにか、信じられないものを見るみたいに、動いた。

「……え?」

「あ、ごめんなさい……取り込み中でしたか?」

 聞き覚えのある声。
 というか高森の声だ。




 ちょっとまずいかもな、と思い、俺は身を隠した。

「えっと、ほかに誰かいませんでした?」

 高森は、嘉山たちにそう訊ねた。案の定、俺を探しに来たらしい。

「いや……いなかったけど」

 さっきまでと、嘉山の受け答えは違って聞こえた。
 本当に驚いたみたいな態度だ。

 何に驚いたんだろう。
 高森。……高森の顔、姿、とにかく、ぱっと見て分かる何かだろうけど。

 ……そういえば、嵯峨野先輩も、高森にこだわっていたな。
 特に深くは考えなかったけど、嵯峨野先輩と高森は、ただ“ぶつかった”だけだったらしい。
 それなのに、嵯峨野先輩は高森のことを気にして、文芸部の部室までやってきた。

 ……嘉山と一緒にいる女子は、「嵯峨野先輩が悪い」と言った。
 どういうことだ?


 なんて、考えるだけ無駄だ。
 きっと、俺には関係のない話だろうから。
 
 他人のことに首を突っ込んでも、ろくなことはない。
 無神経に、無思慮に、掘り返すことはない。
 人のことは人のことだ。

 知られたくないことは、誰にでもある。

「……じゃあ、俺たち、いくから」

 動揺した感じの響きだった。
 嘉山たちは、そのまま屋上を立ち去ってしまったらしい。

 さて、どうしたもんかな、と思ったところで、下から物音が近付いてきた。

「やっぱりいた。たっくん、サボり?」

 高森は、どうやら俺がここにいると気付いていたらしかった。

「出るに出られなくてな」

「それで盗み聞きしてたの?」

「そんなとこ」



「ゴロちゃんが、たっくんに話があるって言ってたよ」

「あ、うん」

「それから、部長が罰ゲーム実施するからって」

「……猫耳?」

「そ。たっくんだけ逃がすわけにはいかないからね」

「俺、今日バイトだよ」

「サボれば?」

「ってわけにもいかないし、悪いけど、佐伯とふたりで耐え忍んでくれ」

「うーん。まあ、仕方ないか。来られる日につけてくれればいいよ」

「……」
 
 逃げ場はないらしい。



「……な、高森。前に言ってたよな」

「ん? なにを?」

「小説の続きを求める人が本当に欲しがってるのは、“続き”じゃなくて“反復”だって」

「……うん。言ったね」

「だったらどうして、読者は同じ話を読み返さないんだろう?」

「……一回目と二回目じゃ、読むお話は別物だからだよ」

「別物?」

「新鮮さがないから。読者が求めるのは、「同じ雰囲気」だけじゃない。同じくらいの「新鮮さ」も、だよ。
 同じお話を何度も読み返しても、失われた新鮮さは戻ってこないから……だから、新しい反復を欲しがるんだ」

「なるほどね」

「……それがどうかしたの?」

「べつに、意味はないよ」

 本当に意味はない。ただ思い出しただけだ。
 嘉山のことより、俺が考えなければいけないのは、ゴローの質問についてと、それから……るーに対する態度のことか。
 平常心、とはいかないが、まあ、なるようにしかならないだろう。

 そんなふうに、他のことを考えることで、俺は嘉山のことを頭から追い出した。

つづく


「あ、佐藤ちゃんが褒めてたのはホント。よかったね」

「それ、俺聞いちゃってよかったんですか?」

「ま、佐藤ちゃん彼氏いるけどな」

「そうですか」

「いまちょっと残念だって思った?」

「いや、べつに」

「……あ、そういや、別れたっつってたかな」

「……」

「……いまちょっと期待した?」

「いや」

 次顔を合わせたとき気まずくなるので、あんまり他人を絡めたいじりかたはしてほしくないな、と思った。


「そういえば、廃棄見たっけ?」

「さっきやっときましたよ」

「おー、さすが」

「和菓子、見逃しありました」

「何時の奴?」

「朝九時で下げる奴ですね」

「うわ。朝からずっとみんなで見逃してたってこと?」

「けっこう多いですよ。日付下げだと思って、みんな見てないんだと思います」

「……うーん。あとでノート書いとく」

「何がまずいってこれ、普通にレジ通っちゃうんですよね……」

「ね。食パンとかもそうだけど、気付かずに売っちゃったらまずいよね」

「まあ、お客さんも気付かずに食べてるかもしれないですけどね」

「あはは。気付かずに美味しくいただいてくれたら助かるよねー。わたしらも廃棄食べてるけど平気だし」

 そんなことを話していたら、電話が鳴る。

「……クレームだったりして」

「……だったら嫌ですね」

「浅月よろしく」

「……いやまあ、いいんですけどね」

 先輩はいそがしそうな顔をしてまた本に視線を落とした。


 バックルームで電話の応対をしてからもういちど売り場にでると、先輩は眠そうに瞼をこすっていた。

「電話なんだった?」

「予約でした。来週の土曜、朝六時におにぎり各種数個ずつとお茶とスポーツドリンク」

「なんかの部活の大会でもあるのかなー」

「当日は急ぎらしくて、レジ通して処理を終わらせて、代金払うだけにしててほしいそうです」

「領収書は?」

「準備しててください、って言ってました」

「ん。あとで一緒にノート書いとく」

「お願いします」

「それにしても……来ないねえ、お客さん」

「ですね」

「あ、そういえばあの人来たっけ?」

「……どの人ですか?」

「えっと……ホープライト二個のおじさん」

「あー、今日はまだだと思いますけど」

「あの人こないだポイントカード置いてったんだよね。わたしいないときに来たら渡してもらえる?」

「今日、来ますかね?」

「どうかな。まあ、次来たときでいいよ」

「了解です」


「浅月は真面目だねえ」

「……はい?」

「真面目だから、ついつい仕事を任せちゃうよね……佐藤ちゃん、お客さん覚えてないもんなあ。電話避けるし」

「いや、まあ……あの子はたまにしか平日入らないですし、お客さん覚えてないのは仕方ないかと」

「……あの子こないだ、フライヤー揚げるときに時間押し間違えて、フランク真っ黒にしちゃってたよ」
 
「……」

「廃棄かけて、まあ捨てるのもなんだからってみんなで試しに食べたんだけど……けっこう美味しかった」

「食ったんですか」

「なんか普通よりパリッとして歯ごたえあった。あんまんも、揚げて食べるとおいしいって、オーナーが言ってたんだよなあ。やってみたいなあ」

「今は中華まんないですもんね」

「でも絶対体に悪いよなあ……」

「……いや、コンビニの商品なんてもともと半分以上体に悪いと思いますよ」

「よし。冬になったらやろうね」

「俺もですか?」

「わたしおごるから大丈夫」

「おごってもらえるなら、いただきますけど」

「うい奴うい奴」




 こんな適当なノリだけど、真面目な相談をすれば真面目に返事をくれる。
 とはいえ、その『真面目さ』というのが、ちょっと偏っている。

『形而上の悩みなんて、娯楽よ』

 と、彼女は以前、大真面目な顔で言っていたことがある。

『思弁的に悩んでなきゃ人間じゃないみたいな顔してる奴がときどきいるけど、わたしに言わせりゃあんなの、ただの暇人だよ。
 虎に追いかけられてる最中に記号学や言語論について思いを巡らせることができる奴がいたら、褒めてやる。
 考えたり悩んだりするのは、それが間接的であれ直接的であれ、そいつにとって快楽だから。そうじゃなきゃ、防衛か逃避だから』

 眠そうな顔で、そんなことを言っていたっけ。

『生きる意味とは何か? なんて、そんなに難しい問いじゃない。大仰な意味なんて基本的にないよ。
 動物には自己保存の欲求があって、遺伝子を残すようなことをすると気持ちよくなるように体ができてる。
 多くの女が子供を見ると庇護欲をおぼえるのも、多くの男が若い女を魅力的だと思うのもそう。脳味噌が、そうできてるの』
 
『人を殺しちゃいけないのは、自己保存や自己快楽のために他人を際限なく犠牲にしてもいいと認めたら、
 他人の生存や快楽のために自分や自分の近しい人が犠牲になるかもしれないから。
 だから、他人の自由を制限するかわりに、自分の自由も制限されてる。社会的な契約というか、一種の合意』

 この先輩はけっこう語りたがりで、機嫌がいいときは相槌を打っているだけでぺらぺらと喋ってくれる。
 快刀乱麻を断つような彼女の口ぶりが俺は嫌いではない。

 あまりの割り切りのよさに、ときどき足元がおぼつかなくなるような恐怖すら覚えるけど。
 だから、よだかのことを、彼女には相談する気にはなれなかった。

 ばからしいって一蹴されそうで。

「さーて、暇だねえ。わたし今のうちにトイレ掃除でもしてこよっかなあ」

 と言って、先輩は売り場にムックを戻してから、本当に掃除をしにいってしまった。
 


 残された俺は、もうとっくに補充し終わった箸やスプーンなどの資材をチェックする。 
 減っている煙草もない。コーヒーマシンの豆も足りてる。

 仕方ないので売り場の商品の陳列を直している(お客さんが来てない以上、売れてないから直すところもないわけだが)。

 と、ひさしぶりにお客さんがやってきた。

「や、どもども」

 と手をあげて入ってきたのは小鳥遊だった。

「……きみ」

「あれ、こさちのこと、お忘れですか? 健忘ですか?」

「きみさ、ストーカーなの?」

「譫妄ですか?」

 ……譫妄って、そういうもんじゃないと思うけど。

「こさちを迷惑防止条例違反者扱いしないでください。健全に買い物に来たんです」

「はあ。いいけど」

「アマゾンギフト券一万円分ください」

「……大きく出るな。そっちに置いてあるよ」


「こさちのなかで、電子書籍がアツいです。いつでもどこでもスマホで読めるのがグー」

「はあ」

「文字サイズもいじれますし、語義をすぐに調べられますし、何より本棚に並べたくない本を躊躇なく買えます。
 目が疲れるとかいう人もいますが、電子媒体に慣れ親しんで育ったイマドキ世代としては全然平気です」

「そうかい」

「ちょっとえっちっぽい漫画とか、一巻がおためしで一円とかになってると、つい買っちゃいそうになるんですよねえ……。
 ほっとくと次々そういう漫画おすすめされるようになって困ったりしますけど」

 俺はどう返事をすればいいんだ。

「でも読みたい本が電子化されてないので、今回は普通に頼みます」

 なんだったんだよ、今の話。
 相変わらずツッコミが追いつかない奴だ。

「……本とか、読むんだ?」

「好きな作家は森絵都さんです。最近、平置きされてる本の帯に『衝撃のラスト。あなたは必ず二回読む』系のコピーがあるとげんなりします」

「聞いてねえよ」

「そういや関係ないですけど、『ほしいものリスト』のほかに『ちょっと気になるリスト』がほしいなって思いません?」

「知らねえよ。ふたつ作って片方それに使えばいいだろ」

「……せんぱい、あったまいいー」

 ……感心されてしまった。


「今回は何買うの?」

「……知ってどうするんです?」

 いや、知ってもどうすることもできない情報だと思うのだが。

「言いたくないならいいけど」

「『終わりの感覚』です」

「あ……ジュリアン……ジュリアン・バーンズ? だっけ?」

「はい、たしかそんな名前の。フランスかどっかの」

「イギリスな」

「なんとか賞、とったらしいです」

「ブッカー賞な」

「先輩、詳しいですね」

「……いや、有名だと思う、けど……」

 まあ、興味のない人は知らないかもしれない。

 ブッカー賞レベルの本は日本の本屋でも平置きされてるし、受賞作品はあたりまえみたいに帯にそう書いてある。
 そういうのを何度か経験すれば、ブッカー賞がイギリスの文学賞だってことくらいは、いつのまにか覚えているわけで。
 
 つまり、ジャンル関係なく読み散らすタイプなら、そのうち覚える程度の知識だ。
 しかも、知識として知っているだけで、俺はブッカー賞受賞作なんてほとんど知らないし、読んでもいない。

 名前は覚えていたけど、「ジュリアン・バーンズ」の本だって、その一冊しか読んでない。
 翻訳されているのかどうかすら知らない。



「読んだんですか?」

「読んだよ」

「おもしろかったです?」

「うん」

 感想を言おうかと思ったけどやめておいた。
 そしたら会話はそこで途切れた。

 ギフト券を買ったあとも、しばらく彼女は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。

 日用品の棚の埃を落としていると、自然と溜め息が出た。

「どうしたんです?」

 と、小鳥遊は訊ねてきた。

「いや、幸せってなんだろうなーって」

「はは、ウケる」

 俺が適当に返事をすると、彼女はさめた感じで笑った。

「……ウケますか」

「ウケます。答え、出てるじゃないですか」


「ん?」

「『幸せとは何か?』という問いが成立するということは、発問者は『幸せ』の見当がついてます」

「……え、どういうこと?」

「たとえば、『やかんとは何か?』という問いを立てるためには、『やかん』について朧気にでも知っている必要があります。
『やかん』を知らない人が『やかんとは何か?』という問いを立てるのは不可能です。
『これは何なのか?』『やかんという言葉がさすものは何か?』という問いにしかならないのです。『幸せとは何か?』という問いを立てられるのは、
 幸せについて知っている人だけです」

「幸せという言葉がさすものは何か?」

「幸せは、状況ではなく、実感です。悲しいとか、嬉しいとかと、違うようで、やっぱそういうものなのです。
 たとえば『悲しみという言葉がさすものは何か?』とか言っている人がいたら、こさちはやっぱりウケます。
 普通に生きてれば当たり前に感じる、どこにでもあるものです。
 本気で言ってたら、通院を薦めます。病気か何かですよ。神経物質の伝達異常とかの」

 思いの外毒舌、なのか、それとも本気でそう思っているのか。

「幸せは幸せです。楽しいとか悲しいとかと同じ、感情……そう呼ぶのが不的確なら、『心境』です。
 思うに、『幸せとは何か?』なんて言いたくなっちゃう人は、幸せというものに幻想を抱きすぎです。
 幸せにだって賞味期限がありますし、劣化もしますし、ほかの気持ちとごちゃまぜになったりします。
 百パーセントの幸福も、永遠の幸福もないです。ほしかったらどこかに入信することを薦めます」

"本当の悲しみ"とか、"本当の喜び"とか、"本当の幸せ"とかも、幻想です。
"本当じゃない悲しみ"はつまり偽物で、偽物なら、それは"悲しみ"ではないです。
 だったら、"本当の悲しみ"という言葉が意味するところは、"悲しみ"と一緒です。
 ちょっとそれらしいだけの、言葉遊びなんです。
 
 みんなが当たり前に感じた悲しみ、喜び、寂しさ、幸せ、が、"本当の"気持ちです。



「……小鳥遊は」

「こさち」

「こさちはさ」

「はい?」

「誰かに幸せになってほしいって思ったこと、ある?」

「……うーん」

 どうかなあ、という顔を、彼女はした。
 ちょっとだけ、ほっとした。ためらわずに頷かれたらどうしようかと思った。

「どうでしょうね。幸せになってほしい、か。そういう言われ方をすると、こさちの話、間違っている気がしますね」

「そう?」

「だって、心境としての“幸せ”と、“幸せになってほしい”という言葉のなかの“幸せ”は、ちょっと違う気がします」

 たしかに。

「そういう言い方をするとたしかに、幸せってなんだろう、と、いう気持ちになりますね」

「……」

「むずかしいこと、よくわからないです」


「もうひとつ質問」

「はい?」

「たとえば、誰かが助けを必要としてるとするだろ?」

「はあ」

「その人はすごく困ってて、途方に暮れてるんだ。助けを、必要としている、と、思う」

「はあ。前提が揺らいでますね」

「たとえば、きみは、その人のことを助けようとする。でも、全部は手伝えないかもしれない。
 途中までしか、手伝ってやれないかもしれない。それでも、手伝ってやるべきだと思う?」

「……はい?」

「……ん?」

「いや、“べき”か“べきじゃないか”で言ったら、まあ、“べき”なんじゃないんですか?
“したい”“したくない”で訊かれたら、こさちは基本的にごめんこうむりますが」

「……でも、途中までだよ。無責任じゃないか? 中途半端なやさしさって」


「えっと……それ、よくわかんないです。うまく説明できるかわかりませんが、いいですか?」

 こさちは今の今まで持ちっぱなしだった雑誌をようやく棚に戻した。

「道端で、ものを落として困っているおばあさんがいるとします。たとえば……うーん、まあ、石? 石でもいいですか?」

「あ、うん」

「じゃ、石です。なにかの。で、こさちが、散らかった石を一緒に拾ってあげるとします。
 そしたらおばあさんが、『お嬢さんありがとう』って言うわけですよ。
『実はこの石をあっちの通りのお店まで運ばなきゃいけないんだけど、手伝ってくれないかい?』とおばあさんが言ったとします。
 こさち、用事があったり、ちょっとめんどくさいなあって思ったら、ごめんなさいって言います」

 それを無責任と呼びますか?

 こさちは、当たり前のことを言うみたいに、俺の目を見た。

「こさちは、それを無責任とは呼ばないと思います。それは親切です。
 もちろん、大変そうだったり、時間に余裕があったり、機嫌がよかったりしたら手伝いますけど、
 そうできないときに手伝えないからって、途中までの親切が不親切になったりしないと、こさち、思います。
 もしそう感じるとしたら、それは『こさちの問題』じゃなくて、『おばあさんの問題』なのです」

「……」



 佐伯も、そういえば言っていた。俺はどうも、聞き逃していたらしいが、たぶんそういうことなのだ。

 ――強くなってもらう、か、線を引いてあげる、か、すべてを捧げる、か。

『線を引く』。

 それが正しいのかどうかは分からない。
 
 立ち上がったあとも一緒に歩き続けられるわけじゃないかもしれない。
 それはひょっとしたら、誰かにとってはつらいことかもしれない。

 それでも、転んだ奴に手を貸すくらいのことは、べつに悪いこととは言えない。
 べつにその意見を、真っ向から受け入れる気になったわけでもない。
 
 でも俺は、やってみよう、と思った。

 それはべつに、やさしさと呼ばれなくてもかまわない。
 転んだ奴に手を差し伸べないこと、落し物を拾わないこと。
 それは……据わりが悪くて落ち着かない。

 それだけだ。

 ……そう思った後も、それでもさんざん迷って。
 結局バイトが終わったあと、勢いだけでよだかにラインを送ったのだ。

 頭のなかで、いろいろあったのだ。それもまあ、先輩に言わせれば、防衛か逃避らしい。
 逃避って説が有力だ、と俺は自嘲気味に思った。

つづく



 
 決行するならすぐだろ、って言い出したのはゴローで、奴は制服のシャツの胸元をバタバタさせながら額の汗を拭っていた。

 乗り気のままの高森とゴローを横目に、「大丈夫なの?」って佐伯は心配していた。
 るーはにっこり笑って、「いつでも平気ですよ」と嬉しそうに言った。

「わたしたちの予定も確認してほしいよね」と部長がぼやくと、
「何かあるんですか?」と耳ざとく反応した高森が真顔で訊ねる。

「いや、ないんだけどね」と、部長は困り顔で苦笑した。

 そういうわけで。
 この街に来て一年以上のときが流れた今、ようやく俺は、あの懐かしい道を歩いている。
 
 みんなで通り過ぎた公園があって、
 遊馬兄と静奈姉の家があって、ずっと先にるーの家がある。

 通りは細くなっていて、家も塀も低くなっていて、公園は狭くなっていた。
 


 ホントによかったのかな、と思った。
 こんなふうに、るーの家に行って。

 誰かに後ろめたいような気がする。
 誰かが誰だかわからないけど。

 ふと気付くと、ゴローが隣を歩いていて、

「まだ何か考えてるのか」

 と訊ねてきた。

 どうだろうな、と俺は思う。

「今日は風があるから涼しいな」

 当たり障りのない天気の話だ。俺は頷いた。

「日差しは暑いくらいだけど、まだ過ごしやすいな」

「ああ」

「もう、梅雨明けたんだっけ?」

「どうだったかな」

「そういえば今年、紫陽花を見てないな」


 俺はちょっと笑った。

「なんで笑う?」

「いや。急にそんな話ばっかりだから、どうしたんだろうと思って」

「おまえの目にちゃんと、そういうことが映ってるのかと思ってな」

「どういう意味?」

「そのままの意味だよ」とゴローは言う。

「俺の言葉に深い意味なんてない。いつだって、そのままの意味だ」

「……なーんか、含みのある言い方だって思うけどな」

 そして俺は、改めて周囲を見渡してみる。

 七月上旬の空はからりとした晴れ空だ。のろのろとした雲がゆるい風に押されて頭上を通り過ぎていく。
 前方を、女子集団が歩いている。不思議と居心地は悪くないけど、普通だったら居づらさを感じそうなものだ。

 さっきの寄ったコンビニには、昔よく行った。
 アイスを買ってもらって、歩きながら食べたりした。
 
 勉強会にそなえてジュースやお菓子を買って、じゃんけんに負けたゴローがひとりで荷物を持っている。
 まさかまた来ることになるとは思わなかった。



「どうかしたんですか?」
 
 前方からこっちを振り向いたまま、歩調を緩めて、るーが俺たちの横に並ぶ。
 ゴローは、一瞬ちらりと俺の方を見た。

「こいつが、つまんなそうな顔をしてるもんだからな」

 俺は慌てて「おい!」と声をあげた。
 くくくと笑って、彼は平気そうにしていた。追及する気もなくなる。

 案の定、るーはまた、前に橋のそばで見たときみたいに、不安そうな、うかがうような目をする。
 やめろよ。

「藤宮は、どう思う?」

「なにがですか?」

「こいつが、つまんなそうにしてる理由」

 ゴローの言い方には、棘があるというのとも、挑発的というのとも違う、どこか核心をつくような響きがあった。
 俺は、るーにその話をしてほしくない、と思った。

 でも、るーの顔を見たとたん、そんなの気のせいだって否定するための力が肩からすっと抜けた。
 彼女は、そのことか、っていうみたいに、笑った。
 ずっとまえから分かってましたよ、っていうふうに。

 戸惑う。



「たぶん、いろんなことがあるんですよ」とるーは言った。
 ゴローはつまらなそうな顔をしていた。どんな反応を期待したのかは分からないが、的外れだったらしい。

「それに、最近は、楽しそうですよ、そこそこ」

「そこそこ、ね」
 
 その言い回しに、ゴローは納得したふうに頷く。

「いいんです。ずっとつまんなそうな顔なら、ちょっといやですけど、楽しそうな顔もしてくれるなら、べつにいいんです」

「……」

 どういう意味だろう、とちょっと思った。

「だってタクミくん、子供の頃からそうだったもん。笑ってるときより、仏頂面してるときの方が多かったですから」

「……や、そんなこと、ないと思う。子供の頃はもっと……」

 と、なぜか、『つまらなそうにしている』ことを否定することも忘れて、反論してしまった。
 
「変わってませんよ。そんなに」

 ばっさり、るーは切り捨てた。

「タクミくんは、タクミくんのままです」

 にっこり笑う。
 自信ありげに。確信しきったみたいに。
 


「ニヒルっぽいのに熱血で、クール気取りだけど軟弱で、そっけないけどやさしいのが、タクミくんです」

 やめろよ。
 って、また思った。

 なんでだろう。

 こんなふうに笑ってもらえるのは、うれしい。
 許されたみたいな気がする。

 街路にこもった熱気を風が静かに運んでいって、街路樹の枝葉がかすかに揺れた。
 季節の気配が入れ替わったような気がした。

 ――じゃあ、賭けをしようぜ、タクミ。
 ――世界は、退屈か? それとも、きらきらか? そういう賭けをしようぜ。

 肩まで伸びたるーの髪は、夏の日差しに照らされて白っぽく光った。
 きらきらしてた。

 ああ、まずい。呑まれる。まただ。ボウリングの後、切符売り場の前、あのときと同じだ。
 呑まれる。忘れてしまう。そうだよ、誰かに言われなくたって知ってる。

 俺は恵まれていて。
 俺の世界は不足がなくて。
 俺の世界に不幸はなくて。

 学校に通って、バイトをして、部活をして、みんなでカラオケに行ったり映画を観たり買い物したりボウリングしたり。
 そんなことをして、楽しんでいて、つまらない顔をしてるのなんて、ぜんぶ、嘘だ。

 きっとそうだ。とっさに笑えないのは、ただ子供の頃からの癖だ。最初から気付いていた。
 俺は生きてるのが楽しくて、るーに会えてうれしくて、みんなといるのが楽しくて。
 みんなに会いたくて、るーが笑うとそれだけで嬉しくて、そんなときに必ず、

 ――わたし、生まれなければよかったね。

 泣いていた女の子のことを思い出す。
 


 わけがわからなくなって、どうしろっていうんだよ、って怒鳴りたくなったけど、
 なんでか泣きたくなったけど、さすがにそういうことができるほど子供ではなくなっていた。

 俺はどうにか作り笑いをして、何をどうすればいいのかを考えた。
 でも答えなんてどこにも落ちていなかった。

 ゆるい風にるーの髪が揺れるのを見ていた。
 栗色に光る、肩まで伸びた髪。なんとなく手を伸ばして、彼女の頬をつねってみた。

「……なんですか」

 と、彼女はつねられたままの顔で言う。ちょっとまぬけな響き。

「るーも、るーのまま、変わってないなって思っただけ」

 俺は指を離した。彼女は文句もいわずに自分の頬を手のひらで撫でた。

「そうでもないですよ。こう見えて、いろいろあったんですよ」

「何にも考えてないようにして考えてて、奔放に見えて気遣い屋で、天真爛漫に見えて臆病だ」

「……」

「はずれ?」

「え、っと。自分では、そういうことはわからないですけど……」

 ちょっと照れたみたいに、戸惑ったみたいに、るーは視線をそらす。



「るー、俺は」

 と、一瞬何かを言いかけて、慌てて自分の口を塞いだ。
 あぶねえ。何を言いかけた、今。

 気まずさをごまかすみたいに、るーの頭にぽんと手のひらをのせてみた。
 単に置きやすい位置にあったから、っていうだけの理由で。

 いやがられないかなってちょっと心配したけど、案の定彼女はむっとした顔になった。
 思わず手を離すと、彼女はふてくされたような顔のまま、自分の手でささっと髪を整えた。

「やっぱり、タクミくん、ちょっと変わったかもです」

「どこ?」

「ちょっと生意気になりました」

 拗ねたみたいなるーの言い方に、ゴローは一瞬あっけにとられて、それからくつくつ笑いはじめた。
 つられて俺も笑う。

「なんで笑うんですか」って、るーがまた拗ねた感じで言う。

 前を歩く高森たちがこっちを振り向いて、「なにしてんの、置いてくよー」って道の先を歩いていく。
 るーの家がどこかなんて、おまえら知らねえだろって、俺はまた笑う。
 
 ブロック塀の隙間から通りの家の庭と縁側が見えて、
 風に揺れる風鈴の音が道を歩く俺の耳に届いた。きっと、隣を歩くるーやゴローの耳にも聴こえたと思う。
 
 街路樹の影がこもれびをくっきりと描いている。
 視界は明瞭で、意識は浮かんでて、隣にずっと会いたかった人がいる。

 どこにも不満なんてない。景色はきらきらしている。


 
「ゴロー」

「なに」

「今度牛丼おごるよ」

「え、なんで」

「なんでも」

「うし。大盛りな」

 ……どこか遠くで、雨が降っている。そのことが、なんとなく分かる。
 でも、俺がいるこの場所はよく晴れていた。ポケットから携帯を取り出して、空の写真を撮る。
 送る相手は決まっていた。

『こっちに来いよ』

 それが何かの役に立つかどうかもわからない。かえって状況を悪くするだけなのかもしれない。
 でも、俺は、祈るみたいに送信ボタンを押す。

 余計なお世話かもしれない。煙たいだけの言葉かもしれない。
 それでも俺は、彼女がこの場にきて、それが彼女にとっての何かになってくれたらいいと思った。
 
 ポケットにしまいなおした途端、携帯がブルブル震えた。

『来た』

 と、文字が並んでいた。添付された画像を開く。
 駅だ。この街の。新幹線の。

「……え?」

「どうかしましたか?」

 隣を歩いていたるーが首を傾げた。

「……いや、え?」

 ……マジか?

つづく


◇[Amethyst Remembrance]

 秋津よだかは、駅前の喫茶店で本を読んでいる。「対訳ディキンソン詩集」だ。
 大荷物を机の下に寄せて、俺の真向いに座って。

 顔を合わせた時、よだかは、
 
「ひさしぶり、弟くん」

 と皮肉っぽく笑った。

「誰が弟だ。……どうしたんだよ、急に」

「来いって言ったから」

「……いや。五分も経ってなかっただろ、送ってから」

「愛のなせる技だよね」

「つーか、あれは"夏休みに"って意味だ」

「そういう意味だったんだ。気付かなかったな」

 とぼけて見せたよだかを連れて、俺はひとまず喫茶店に入った。
 そしたらこいつは、本なんか読み始めた。なんとも話が進まない。



「ディキンソン?」

「うん。暇だったから」

「……あのさ、よだか」

「なに?」

 俺は一拍置いて、溜め息をついてから、彼女の頭を手のひらでぐりぐり押した。

「いたいいたい!」

「ちゃんと連絡しろって、俺は前にも、言ったよな?」

「痛いってば! ごめん!」

 実際にはそんなに痛くもなさそうに、よだかはちょっとだけ息を整えて、平然と俺を見返してきた。

「……どうしたんだよ、急に。まだ学校終わってないだろ」
 
「べつに。なんでもない」

 す、っと、よだかの雰囲気が変わる。硬質な響き、問いかけに答えない鉱石のような沈黙。
 それが分かる。打っても響かない態度。

 ……。

「なんでもないで、済むか」

 よだかは不審そうに顔をあげた。



「なんでもないで済むか! バカ!」

 と俺は怒鳴った。
 静かな平日の昼下がり、喫茶店に響いた声は明らかに浮いていた。

 店員がさりげなく近付いてきて、俺に着席を促し、注文を取っていった。
 実にいい手際だ。俺は自分が恥ずかしくなった。

 怒鳴られたよだかは、俯いて、反応をよこさない。  
 しまったな、と少し考える。

 コーヒーがやってきた。口をつけてしばらくしてからも、沈黙は続いている。

 理屈で納得できたからって、うまい振る舞いが実際的にできるかって言われたらそうじゃない。
 結局これまでとおんなじだ。
 よだかに対する態度を、俺は決めかねたままだ。

 よだかはこっちを見ようともせずに、

「……たくみ、なんか変わった」

 と、拗ねたみたいに呟く。俺は、なんでだろう、ちょっとだけ傷ついた。

「帰る」

 よだかは荷物を掴んで立ち上がる。



 いや待てよ。
 と止めたかったけど、止めて何を言えばいいのかわからなかった。

 甘ったれんな!
 
 そう怒鳴ってしまいたかったけど、そう怒鳴ってしまったら、俺は自分を許せないだろう。

 対処に困っているのだ。

 よだかはスタスタと歩いていって、二人分の会計を勝手に済ませて、入り口のベルを揺らしながら外へと出た。
 暗い影のような涼しげな喫茶店を出ると、夏の日差しは嘘のように眩しくて熱い。

 俺はよだかの腕を掴んだ。

「待てって!」

「離して!」

「いいからとりあえず話を聴け!」

「したい話なんてない! たくみなんて大っ嫌い!」

「……な、んでそこまで言われなきゃいけないんだ! このバカ!」

「またバカって言った……! 最低!」

「いいから待てって! とりあえず話を……」

「だから話したいことなんてないってば!」

「だったらなんで来たんだよ!」

「たくみが!」

「……俺が、なに」

「……たくみが、来いって言ったから」



 言葉に詰まる。
 何を言えばいいのか、わからなくなった。

 こいつの天秤がよくわからない。
 何を大事なものとして、何を望んでいて、何を目指しているのか。
 それがつかめなくなってしまった。

 前までは、もっと彼女のことを、彼女の考えていることを、理解できたような気がする。
 それがいい傾向なのか、悪い傾向なのか、わからない。

 この場面に限って言えば、いい傾向ではなさそうだ。

 どうしたものか考えながら、救いをもとめてあたりを見回すと、
 物陰からこちらを覗く、見覚えのある影を見つけた。

 建物の影。

「……高森?」

「あっ」

 ドタドタと慌てるような音が続いた。
 俺は角に向かって駆け出す。

「……おまえら」

 佐伯、高森、ゴロー、るー、部長。
 全員だ。

 俺と目が合うと、るーはごまかすみたいに笑った。

「わたしは止めた」

 と佐伯は言った。

「わたしも」

 と部長。




 よだかから連絡を受けたあと、慌てて駅へと向かった俺を怪しんで、高森とゴローはその場から俺をつけていたらしい。
 るーたちは一旦目的地について荷物を置いたあと、「たっくん見知らぬ女と合流なう」という高森からの連絡を受けてこの場に急行したとのこと。
 
「様子がへんだったから、心配したんだよ!」

 高森はあからさまな嘘をついた。その点ゴローは正直だった。

「俺は心配してなかった。なんか面白そうだと思ってつけてきた」

 なんてやつだ。

 みんなの影に隠れていたるーが、ふっと前に出てきて、よだかの顔をじっと見た。

「おひさしぶりです、よだかさん」

 そうしてにっこり笑う。
 よだかは眩しさから目をそむけるみたいに視線を泳がせた。

「うん。ひさしぶり」

 佐伯もまた、似たような言葉をよだかにかけた。
 なんだか不思議な感じがした。




「で、たっくん、そちらは……?」

 その子誰、という言い方を本人の前でするのは気が咎めたのか、高森は妙に丁寧に質問した。

「姉」

 と俺は答えた。

「……お姉さん?」

 よだかは何かを諦めるみたいなふうに、よそゆきの笑顔を張り付けた。

「はじめまして。秋津よだかです。みなさんはたくみの学校のお友達ですか?」

 姉っぽい調子で。 
 こういうふうな口調だと、たしかに年上っぽく見えるかもしれない。

 ゴローも部長も、一瞬ちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。

 まあ、大方の想像通り、

「え、たっくん一人っ子だよね?」

 と言ったのは高森だった。



「うん」

「いま姉って」

「それな」

「いや、それな、じゃなくて」

 別に説明したってよかった。

 でも、きっと説明したら面倒な雰囲気になる。 
 
 気を遣わせるのも嫌だから、俺は黙る。


「姉なんです」

 とよだかは言った。

 それで高森は納得した。「そうなんだ」、と、まだ何か言いたげだったけど。

 そこで話が終わってしまうと、話は振り出しに戻った。
 帰る、と言ったよだか。俺は彼女に対してどうしてやればいいんだろう。

 静奈姉のことは、説得するつもりではいた。
 そのつもりでよだかをこっちに来いと誘ったのだ。

 でも、今日急に言ったらどうだろう。

 前も似たような状況だったのだ。ちゃんと説明したならともかく、今度こそ彼女も許してくれないかもしれない。
 よだかを責める気にはなれない。でも……。



「よだかさん、タクミくんちに泊まるんですか?」

「……あ」

 るーの言葉に、顔をあげる。
 どう答えるか、迷う。

「今日は遊びに来ただけなんだ」
 
 そう、よだかは言う。
 
 嘘だ。聞いたわけじゃないけど、そう思った。

 こいつは帰る気なんてなかった。
 どうにかして、この街で過ごす気だった。

 逃げてきたんだ。

 なんとなく、そう思う。

「タクミくん、どうします?」

「……あ、えっと」

 ふむ、とるーは少し考えるような素振りを見せた。

 それから笑った。

「よだかさんも、一緒にうちに来ませんか?」



 みんな、きょとんとした。

 いちばん驚いたのは、俺とよだかだと思う。

「……いや、るー」

「何か予定でもありました?」

「そういうわけじゃないけど」

 るーの顔を見て、俺の頭をよぎった考えがあった。

 この子は気付いているんじゃないか。
 よだかと俺が普通の意味の姉弟ではないことも、
 今日、よだかがここにいることが、俺にとって想定外のことだったということも。

 そのうえでこの子は、助け舟を出してくれてるんじゃないか、と。
 
「これからみんなで勉強会しようって話だったんです。どうでしょう?」

 だからって。
 知らない人を誘うか? 他のメンバーだっているんだぞ。るーはよくても、他の奴は気をつかうかもしれない……。

「いいんじゃないか」

 とゴローが言った。

「うん。ここまできたら何人いようと同じだし」

 そう言ったのは佐伯だった。

「賛成! 人数は多い方が楽しいし!」

 高森が声を上げた。

 ……こいつら、なんなんだ?
 他人事みたいに、そう思う。

「でも……」

「もちろん、都合が悪いなら、いいんですけど……」

 そんなふうに、るーはよだかを見つめた。





 どうしてなのかはわからない。

 俺とよだかはふさわしい反論も見つけられずに(見つけたかったわけではなかったはずだけど)、結局るーの家まで来ていた。

 大きな門があった時点でまさかとは思ったけど、入ってすぐ、庭の広さに驚いた。

 背の高い松、苔生した岩、敷き詰められたつるりと丸みを帯びた砂利、綺麗な飛び石、小さな池……。

「鯉でもいそうだな」

 ゴローがつぶやくと、「昔はいましたよ」とるーはちょっと困り顔で答えた。

 家の外観は二階建ての和風建築だった。といっても古そうな感じはしない。
 むしろ最近建てたばかりと言われても信じられそうな綺麗な見た目。
 
「とりあえず入ってください」

 玄関の引き戸や、内玄関の敷石すら綺麗だった。



 俺たちは生活レベルの違いを沈黙のなかに感じながら、フローリングの床の上をするする滑りながら障子の並ぶ廊下を歩いた。
 最初は広さを頭の中で測っていたけど、途中でばからしくなってやめてしまった。

 るーが俺たちを連れてきたのは、広々とした和室だった。どうやら広間のような使われ方をしているらしい。

「いま麦茶もってきますね」

 そう言って、るーはすたすたと部屋を出ていった。心なしか、さっきまでより歩き方が上品に見えた。

「やばいよちいちゃん、わたしたち、ひょっとしたらとんでもないところにきちゃったのかもだよ」

「わたしと部長は、もう驚く段階終わらせたから」

 そういえばさっき、最初から俺を追ってきていたのはゴローと高森だけだったのか。

「すごいよね。スナック菓子とか買ってきちゃったけど、畳汚しそうでお菓子たべたくないもんね」

 部長もちょっと萎縮した感じで、部屋のあちこちを見回した。

「……ま、とりあえず休んでようぜ」

 ばからしいと笑うみたいに、ゴローはさっさと荷物を置いて腰を下ろした。
 さっきまではアスファルトの熱気にあてられていたけれど、この家に入った途端ひんやりと涼しい感じがした。
 
「……すごい家」

 思わずこぼしたように、よだかは言った。俺は頷いた。

「……あの襖、いくらくらいするんだろう」

「相場がわからんからなんとも言えないな……」

 高級なのだと何十万ってするらしいよね、と部長がぼそっと言った。

「たくみ、穴あけてみて」

「絶対洒落になんねえ」



「や。たぶんここのは、そんな高いのじゃないと思う……っていったら失礼だけど、そんなところにお金かけるのは、よっぽどお金持ちで物好きな人だけだよ」

「まあ、たしかに。家は広いし、綺麗だけど……ごてごてした感じはしないっすね」

 ゴローが部長の言葉に同意する。俺も部屋を見回して、頷いた。

 高級なものを使っているというよりは、そこそこのものを丁寧に使っている印象だ。

 そんな話をしているときに、るーがトレイにいくつかのコップを載せてやってきた。

「……手が足りませんでした」

 とるーは困った顔で言った。

「あ、わたし手伝うよ」

 立ち上がった部長を連れて、るーは再び部屋を出ていく。

 やばい。なんか、るーに対する態度が変わりそうでいやだ。

「ていうか、たっくんはるーちゃんちに来たことあったんじゃないの?」

「……いや。近くまで来たことはあったような気もするけど、入ったことはないかな」

「そうなんだ……」

「裏庭に竹林とかあるみたいだよ」

 佐伯のつぶやきに、みんなで溜め息をついた。竹林。響きだけで心が洗われそうだ。

「おまたせしましたー」とふたりが戻ってきたときも、俺はなんとなくこの場にそぐわないような感じで落ち着かなかった。

つづく




 ――カメラのシャッター音が聞こえた。

 直前まで居た場所を引き剥がされたあと、奇妙な浮遊感とともに運ばれ、地面に叩きつけられた、ような、錯覚。
 そんな目覚め。

 瞼を、開きたくない、と思った、のに、開いてしまった。
 
 俺は、硬いコンクリートの上に寝そべって、空を仰いで寝そべっていた。
 七月の青空は高く澄んでいて、俺はいろいろなことを忘れてしまいそうになる。

 ――どうして捨てたの?

 いや、違う、逆だ。
 忘れていたことを、思い出しそうになったんだ。

 ――他にどうしようがあった?

「起きました? せんぱい」

 声の方に、目を向ける。動かしたのは、肩かもしれないし、首かもしれないし、目かもしれない。
 小鳥遊こさちが、こっちを見て笑っていた。
 
 真昼の太陽を浴びて、彼女の髪は白い光をまとって透けている。

 空に近い場所なのに、妙に暗い。そう思ってふとあたりを見ると、給水塔の影に入り込んでいた。
 いつのまに、こんな場所に来たのだろう。

「はやく起きてください。こんな機会、なかなかないんですから」

 言われるままに、俺は体を起こす。
 妙な倦怠感、虚脱感。

 給水塔のスペース、梯子を昇った先、屋上の、さらに上。



 見下ろす屋上には、嘉山孝之と、鷹島スクイが立っていた。

「逆にひとつ、訊ねたいことがあるんだ」

 と、スクイは言う。

「訊ねたいこと?」

 嘉山は、怪訝そうに眉をひそめる。

 ふたりのやりとりを、俺は見下ろしている。

 この、不自然な視座。
 自分の立ち位置に対する違和感。

 現実と結びついていないような浮遊感。
 身体から切り離されたような、欠落感。

「残念ながら、こさちは性格があんまりよろしくないので、分かりやすい解説なんてしてあげないです」

 そう言って、彼女は携帯をポケットにしまう。さっきのシャッター音は、どうやらまたこれだったらしい。

「……どうなってるんだよ。俺、さっきまで嘉山の前に」

「そ、ですね」


「スクイはいつのまに戻ってきたんだ? どうしてあいつがあそこにいる」

「不思議ですね」

「こさちは、いつからここにいた?」

「こさちは、いつでもせんぱいを見守っているのですよ」

「……」

「なぜならこさちは、せんぱいの守護霊だからです。あ、うそです」

「……せめて信じるか疑うかの反応をうかがってから否定してくれ」

「ちょっとは和みました?」

「うざい」

「あは、案外平気そうですね」

 こさちはからから笑う。


 そんな俺達の声がまるで聞こえないみたいに――聞こえていないのだろうか――下のふたりは、話を続ける。

「部誌を燃やしたのは、おまえじゃない。だったら、どうして犯人だと名乗り出るような真似をした?」

「本当にわからないのか?」

「ただの確認だよ」

「……タチが悪いな」

「そういう役割なんだ」

「……おまえたちが、部誌が燃やされた理由を、調べようとしたからだ」

 部誌。……そうだ。部誌を燃やしたのは、スクイだったかもしれない。嘉山はそう言っていたんだ。
 どうして忘れていたんだろう。どうしてスクイが、部誌を燃やしたりするんだ?

「ありゃ、やっぱそうなっちゃってましたか」

 こさちが俺の顔を見てそう呟いた。

「なに?」

 首をかしげると、彼女は「なんでもないです」と顔の前で手を振った。


「ところでせんぱい、こさちがひとつお話をしてあげましょう」

「……なに」

「分離脳って言葉をご存知です? 左右の脳をつなぐ脳梁って奴をズパッと切っちゃうやつです」

「はあ」

「まあ、ちょろっと知ったかぶりしたいだけの知識なんで、詳しくは知らんですけど、てんかんとかの治療に行われたりするらしいですね」

「実際に行われてるの?」

「そんなん知りませんよ。こさちは神様ですか?」

「……」

「あ、神様じゃないですよ。神様じゃないです」

「どうでもいいよ」

「ま、そんなこんなで、脳をまっぷたつにしちゃうわけです。どうなると思いますか?」

「どうなるって……」

「……」

「どうなるの?」

「素直でよろしいですね。分離脳になっちゃうと、たとえば左目で見た絵に描かれているものがなんなのか、答えることができなくなります」

「なんで?」

「めんどくさいんであとでウィキペディア見てください。言葉とかそこらへんを司ってるのが右脳なんじゃないんですか」

「いや、言語はたしか左脳だし……ていうかそもそも左目とか右目じゃなくて、両目の右視野と左視野で分かれてるんじゃ……」

「じゃあそれでいいです! どうでもいいんで水差さないでください!」

 どうでもよくはないと思うし、あんまりな付け焼き刃だとも思う。



「それで、いいですか。分離脳の人の左目に「立ち上がれ」と書いた紙を見せるとですね……」

「左視野な」

「うるさい人ですね! 本が間違ってたんです! どうなると思います?」

「立ち上がるんだろ」

「そう! それで……」

「『どうして立ち上がったのか』と訊ねても、『紙で命じられたから』とは言わない」

「……知ってたんですか。なかなかに性格悪いですね」

「作話だろ。それらしい理由を、脳は勝手にでっちあげる。本人はそれが真実だと思い込む」

「そうです。なので、気付いたら突然さっきまでと別の場所にいても、人間の脳は合理的な理由をでっちあげるのかもしれないですよね」

「……」

「『夢でも見てたんだな』、みたいな」

「……で?」

「なんでもないですよ。なんでもないです。せんぱいのこと嫌いになってきました」


「……何が言いたいんだよ」

「認識も記憶も、けっきょくのところ、事後的なつくりものなのかもしれないですよね」

「……」

 何が言いたいのか、さっぱり分からない。

 嘉山とスクイの話は続いている。

「おまえたちが……第二の奴らが、部誌を燃やした犯人を調べ始めた。佐伯と、林田。
 データは処分できたけど、部誌を燃やしたのは俺じゃない。もし燃やした奴が、ひよりの書いた原稿部分を切り取って燃やしてたら……。
 もちろんそんなことをする理由はないけど、何かの拍子で、連理兄の目にもとまるかもしれない。それは避けたかった」

「火消しってわけか」

「まあ、そうだな」

「なるほどね……そのせいで、第一の連中に疎まれるはめになってまで、わざわざ」

「……」

 鷹島スクイは、制服の内ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。
 嘲るように笑う。
 
 嘉山は挑発的な態度を取り合わず、質問を繰り返す。

「それで……部誌を燃やしたのは、おまえか?」

 鷹島スクイは、それがまるで、たいしたことではないというふうに、

「そうだよ」

 と肯定した。

 俺は、その言葉に烈しいショックを受けた。
 なぜかは分からない。だってスクイは、関係がないと言っていたのだ。

 俺たちには関係のないことだと、俺にはそう言っていたのだ。



「……どうして、そんなことをした?」

「どうしてだろうな?」

「……」

「知りたいか?」

 スクイのその言葉を聞いて、俺はまた何かを思い出しそうになる。
 ……逆かもしれない、何かを忘れようとしているのかもしれない。

「せんぱい、ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』は読んだんでしたよね?」

「……また、話題の変化が唐突だな、おまえ」

「おまえじゃないです。こさち、です」

 ふてくされたみたいに、こさちはそっぽを向く。結ばれた後ろ髪が子猫みたいに揺れ跳ねた。

「どんな話だか、覚えてます?」

「……記憶の話だったと思う。それが?」

「でしたね。べつになんでもないです」

「……なんなんだよ、おまえ」

 俺たちの会話なんて存在しないみたいに、ふたりの会話は続いている。
 映画の観客にでもなった気分だった。自分の発言や行為が、まったく現実に影響を与えていないような、感覚。


「残念だけど、口止めされてるんだよな」

 スクイは、そう呟いた。嘉山は、苛立ったようにスクイに詰め寄る。

「誰に?」

「知ったところで、意味なんてないと思うよ。おまえや及川には、関係のない相手かもしれない。  
 そいつが何の関係もなく、部誌を燃やしたい理由があったのかもしれない。
 なんなら、俺が『ストレス解消に燃やしました』ってことにしてもいい」

「……いいから言えよ」

 嘉山の声は低く震えた。

「関係ないなんてわけ、あるかよ。なんで燃やした。誰が、口止めなんかするんだ?」

 嘉山の腹立たしそうな声を、スクイはあっさり受け流して、

「心当たりがあるから、問い詰めるんだろ?」

 そう言って笑う。

「スクイはホント、性格が悪いですねえ」

「ホントにな」

「他人事みたいに言いますね?」

 こさちは俺の肩をぱしぱし叩いた。



「……連理兄か?」

 嘉山は、震える声で、スクイに訊ねる。
 スクイは肯定も否定もしない。

「連理兄は、あれを読んだのか?」

「……さあ?」

「答えろよ」

「……何か勘違いしてないか、おまえ。部誌を燃やしたのは、おまえってことになってる。なにせ自白したんだからな。
 いまさら俺がやったなんて言っても、誰も信じない。仮におまえが俺を告発したところで、俺はぜんぜん、困らない。
 おまえは優位者じゃないんだ。おまえの問いに親切に答えてやる義理が、俺にあるか?」

「……」

 嘉山は黙りこむ。

「スクイは悪役が似合いますね」とこさちは言う。

「……悪役」

 その言葉に、ちくりと胸が痛む。
 


「しいていうなら」とスクイは言う。

「手段は指定されなかった。だから燃やした」

「……『指定』。頼まれて、燃やしたのか」

「オイディプス王がどうして盲いたかを知ってるか?」

「……何?」

「……本当のことなんて知ってどうする? 知ったらろくでもないことなのかもしれないぜ。
 いいんじゃないのか、おまえの行動には理由があって、俺の行動はそれとは関係ない。それでいいだろ」

「いいから答えろ!」

「そんなに心配なら、嵯峨野連理に直接訊けばいい」

「……」

「答えてくれるかもしれない」

 俺はなんとなく、怖くなる。 
 鷹島スクイ。怪物のようだと、ぼんやり思う。這いうねる影のように、ゆっくりと首筋に手を伸ばし、静かに締めていく、そんな。

「嘉山、勘違いするなよ。俺はおまえのことなんて、どうでもいいんだ」

「……」

「俺はおまえのことなんてどうでもいい。だから本当は、教えてやってもいい。
 約束はしているが、知らずにいるのも哀れな気もするし、知ってしまうのも哀れな気もする。
 だからいくつかヒントはやった。あとはおまえ次第だろ。知ろうとするのも、知らずにいるのも勝手だ。
 どうしても気になるなら、心当たりに訊いてみろよ。あたりかはずれか、話してもらえるかどうかは、俺の知ったことじゃない」

 嘉山はしばらく黙りこんだまま俯いて、じっと何かを考えているようだった。

 それから静かに踵を返し、屋上を去っていく。

 扉を出る瞬間、わずかに立ち止まって、

「俺は、おまえが嫌いだ」

 と、そう呟く。俺は不思議と傷ついた。



「……こさち、前に『あれはあれでいいやつ』って言ってたっけか?」

「今のやりとりを見ると、前言撤回したくなりますね。さすがに好き放題です」

「……敵に回したくはないな」

「でもま、スクイにもいいところはあるんですよ。定期テストを真面目に受けてたときは、ちょっと笑っちゃいましたけど」

「……定期テスト?」

 ほら、と言って、こさちは携帯を俺に差し出してくる。
 画面に映っているのは、教室だ。生徒たちが席について、机にかじりついている。
 問題用紙と答案用紙。いつかの、試験の写真。

「こんなのどうやって撮ったんだよ」

「そんなの、気にしたってしゃーないです。ほら、ここ」

 といって、こさちは画面に映っている生徒の一人を指す。
 それは、俺の姿だった。

「……これが、なに」

「記憶にありますか?」

「……記憶にもなにも」

 ――六月に部誌出すっていったって、もう再来週には定期テストが始まるわけじゃない?

「……」

 ……定期テスト?
 俺は……受けたか?

 いや、思い出せないだけで、受けたんだろう、きっと。どうして覚えていないかはわからないけど。


 ――浅月、聞いてる?

 ――ついさっきまで話してたでしょ。なんで急にわかんなくなるの?
 ――上の空って感じじゃなかったし……まあ、いいんだけど。

「……」

「とはいえ、そういうことが起きるようになったからこそ、こういう事態になったんでしょうけどね」

「……何を言ってるんだ? もっと分かりやすく言ってくれないか」

「べつに、無理して分かる必要もないと思いますよ? それでもべつに、生きてはいけますし」

「……」

「でも、そうですね。スクイも、悪い奴じゃないってだけで、良い奴じゃないかもです」

 ほら、とこさちは新しい画像を俺に差し出す。

 写っていたのは、コンビニの店内だ。カウンターに立っているのは、俺のように見える。

「そりゃ、そうですよね。年齢確認で身分証の提示を求められたら、学生の身分で煙草なんて買えないです。
 でも、自分が売る側なら、タイミングを見て買うことなんていつだってできますよね。
 たとえば、ほら。誰かひとりが裏で在庫の整理をして、もうひとりがトイレ掃除にでも行ったら、カウンターに残されたひとりは買おうが盗もうが自由です」

「……」

「防犯カメラはありますけど、何かないかぎり頻繁に確認なんてしませんし、買うにしてもお金をレジに入れとけば違算にもならないです。
 盗むにしても、会計を立てなければレジ金のチェックだけじゃ分かりませんからね。棚卸しで同一商品だけがマイナスなら、おかしいと思われるかもしれませんが」

 まあ、ちゃんとお金を払うのがスクイの律儀さですよね、と、こさちは付け加えた。

 画像のなかに客はいない。俺はひとり、手のひらで覆った何かをレジに通している。
 それが何なのかは、俺にはよく思い出せない。


「こさちは、ときどき考えるんです」

 隣で、彼女はそう呟く。

「さっき、スクイも言っていました。知ってしまうことは、必ずしも幸福ではないかもしれない。
 オイディプス王は、知ってしまったからこそ盲になってしまったんです。
 でも、だからといって、知らずにいて、それで幸せになれたんでしょうか?」

 いつだったか、スクイが言っていた。

"幸福は、感受性の麻痺と想像力の欠如と思考の怠慢がもたらす錯覚だ。"

「知らずにいたところで、オイディプスは幸福にはなれなかったと思う。
 何かを覆い隠して、ごまかして、見ないふりをして手に入れた幸福は、その見ないふりをした何かに、やっぱり食い殺されてしまうんだと思う」

 こさちの言葉は、たぶん俺に何かを伝えようとしているんだろう。
 それは俺にだって分かる。

「テイレシアスの言葉がオイディプスを苦しめたのではないはずなんです。それは、オイディプスの内側に、すでに巣食っていたものなんです」

「……」


 高森が、"続き"を書くのを嫌がっていたことを思い出す。

 求められるのは反復で、続きじゃないから、と彼女は言った。
 
 人も、景色も、変わっていって、前のままではいられない。

 俺だって、そうだ。
 
 るーに会うのが怖かった。
 昔の自分のことなんて、もうろくに覚えてないけど、
 その自分との違いに、がっかりされたら、うんざりさせたら……。

 今の俺を知ることで、るーががっかりしたら、
 俺は、

 だから、るーに会いたかった。
 るーに会いたくなかった。

 今の自分を知られたら、きっと失望させるだけだから。
 退屈させるだけだから。

 世の中には俺よりまともな奴がたくさんいて、俺より優れた奴も、楽しい奴も、優しい奴も、たくさんいて。
 年を取れば取るほど、誰だって、世界にはたくさんの人がいることがわかってくる。
 
 そんななかで、俺みたいな奴と一緒にいてくれる奴なんて、よっぽどの変わり者だけだ。
 そんな変わり者がそばにいることを期待するほど、俺は無邪気じゃない。

「だから隠した」とこさちは言う。
 俺は分からないふりをする。

「本当にそうなんでしょうか?」とこさちは言う。
 その言葉がどこに掛かっているのか、俺には分からない。



「隠されたものは、でも、なくならないんです。ずっと奥の方で、機会を待っている。
 堆積して、鬱積して、それが重ければ重いほど、強ければ強いほど、
 見えないところで、勝手に歩き始める。誰かがそれを、影と呼んでいました」

 そう言って彼女は笑う。

「でも、それもおしまいですね」

「なにが、おしまい?」

「聞こえませんか?」と彼女は言う。

 俺は耳を澄ます。

「もうすぐですよ」

「……なにが」

「ほら」

 ――扉が開く音。




「タクミくん、ここにいたんですね」

 その声が聞こえたとき、俺の隣にこさちはいなかった。
 スクイの姿も消えていた。俺は給水塔のスペースではなく、屋上の中央に立っている。
 変わらない真昼の太陽が、なぜかさっきまでより肌に突き刺さる。

 俺は、
 振り返る。

 るーがそこに立っているのが、分かる。

 指先にも、唇にも、煙草の感触はない。でも、口の中に気持ち悪い味が残っている。

「……」
 
 抜けるような青空。
 日差しはもう、夏のものだ。
 蝉の鳴き声がどこかから聞こえる。

 俺は死んだような顔をしている。 
 きっと。

「タクミくん?」

 どこか、怯えたような顔を、るーはした。



 足元に落ちた吸い殻のせいじゃない。
"目"のせいだ。

 俺はそれを知っている。

 鷹島スクイの目。

 彼の目が、他人にどういうふうに見えるのか、俺は知っている。
 だから、前髪で隠していた。見えないように、気付かれないように、嫌われないように。

"続き"なんて、失望させるだけだ。
 めでたしめでたしで物語が終わったのなら、その先なんて知ろうとするべきじゃない。

 るーは、いつもみたいに笑おうとして、失敗していた。ちょっと、驚いて、動揺していた。
 俺はその動揺が分かるのが嫌だった。

「来るなよ」

 と、そう言った。初めてかもしれない。

「それ以上、近付くな」

 るーは、そこで立ち止まった。
 俺は彼女に背を向けて、フェンスの方に近付いていく。

 見下ろす街には、ひとびとが暮らしている。
 何を考えて、何を思っているのかは、ここからじゃ分からない。


 彼女のことが好きだ。

 会いたかった。会いたくなかった。話したいことがたくさんある。知られたくないこともたくさんある。

 本当のことなんて、隠したままで、本当の気持ちなんて、知られないままで。
 そのままぼんやり、へらへら笑ったって、本当は、それでもいいはずなんだ。

 でも、誰かの目に映っている自分と、自分で思う自分が乖離していって、まるで、
 騙しているような気分になる。

 俺が彼女に求めているものを、彼女はきっと俺には与えてくれない。
 彼女が俺に求めているものを、俺はきっと彼女に与えられない。

 るーは、立ち止まる。
 それでいいんだ。

 適当にごまかして、それらしい言い訳をして、今日みたいな日は隠しきればいい。
 いつか彼女も、俺のことを忘れる。

 それでいい。

 近付くのは怖いから、知られて軽蔑されるのは嫌だから、落胆されるのは嫌だから。
 


 るー、俺は変な奴なんだよ。

 逃げて、怯えて、隠れてるくせに、それがバレるのが嫌だから、強がって、当たり散らして、見下してるふりをしてるんだ。
 ちっぽけな自分を知られるのが嫌だから、飾り立てて、ごまかして、底上げしたつもりになってる。

 どうしてみんな、笑いながら生きていられるのか、俺にはそれがよくわからないんだ。

 どうしてみんな、あんなふうにすいすい言葉が出てくるんだ?
 どうしてみんな、あんなふうに笑っていられるんだ?

 俺にはそれが、ひどく恐ろしいことのように思えるんだよ。
 真似事を、してきたけど、そこそこ楽しんでもきたけど。

 本当は、根っこの部分じゃ、分からないままなんだ。

 そんなことを知ったらおまえだって俺のことが嫌になるだろう。

 だから、どっかに行けよ。

 そう思った。


「人に迷惑をかけちゃ駄目だよ」「ちゃんと言うことを聞きなさい」
「聞き分けがないと置いていくよ」「いいから我慢しなさい」「よくできたね」
「おまえには向いていないよ」「どうせ続かないだろう?」「いつもそうなんだから」
「人には向き不向きってものがあるのさ」「あの子とはあまり遊ばない方がいい」
「買ったってどうせすぐ飽きるだろう?」「いいから勉強しなさい」「おまえのことはちゃんと分かっているよ」
「そんなことをやってどうする?」「そんなことを言っていいと思っているのか?」
「そう言って続いたことが一度でもあったか?」「自分の意見というものがないのか?」「ちゃんと返事をしなさい」
「同い年くらいの子は、そんなことは当たり前にできるんだぞ」「その程度で満足するな。出来て当たり前なんだ」
「今度の連休は旅行にでも行くか。どこがいい?」「あれなら捨てておいたよ。どうせ使っていなかっただろう?」
「ああ、いたのか」「そんなに勝手なことばかり言うな。こっちだって仕事で疲れてるんだ」
「成績上位なんだって? 誇らしいよ」「何かしたいこととかないのか?」「つまらない奴だな」
「おまえが何も言わないから、いつも俺が決めてやっていたんじゃないか」「つまらないことばかり言ってないで、勉強しろ」
「それしか取り柄がないんだからな」「いったい誰に似たんだ?」「何か熱中できるものとか、ないのか?」
「おまえはいつもどこか冷めた感じだな」「ときどき心配になるよ」「頭が良いからなんだろうな」
「そんなことを言ったって仕方ないだろう?」「他にどうしようがあった?」「俺だってやりたくなかったさ」
「よし、母さんは出掛けてるし、ふたりで外食でもいくか」「俺は、あんまり好きじゃないな、これ」
「酒を飲むのは、おまえにはまだ早いさ」「あんまり悪いことはするなよ」「遊馬くん、だったか? 騒がしい子たちだったな」
「あんなふうにはなるなよ」「いいか、タクミ」
「人を裏切るようなことだけは、するな」


 どうせ俺のことなんて、みんな嫌になる。
 楽しいことがわからない。自分がしたいことがわからない。
 何を望んでいるのか、何がしたかったのか、何が楽しいのか、分からない。

 子供の頃は、分かっていたのか? 
 それさえ分からない。

 隠していたもの、見ないふりをしていたものが、頭の奥から噴き出してくる。
 わけもわからずに、叫びだしたくなる。

 よだかのことだって、全部、俺は本当はどうでもよかったのかもしれない。

 父を得られず、母を亡くしたあいつが不幸なら、
 父と母が生きている俺は幸福なのか?

 誰か俺に教えてほしい。みんなどうして生きていくんだ?
 何が支えになってるんだ? 何を拠り所にしてるんだ? 

 俺にはまったくわからないんだ。

 俺なんて、誰にとっても換えのきくどうでもいい存在で。
 いなくなってもかまわないがらんどうで。
 タチの悪いだけのまがいものだ。自分ってものが、まったくどこにもないんだ。

「本当にそうなんでしょうか?」と、こさちは言った。
 
 背中が、
 掴まれた。



「……俺は、来るなって」

 そう言った、と、言おうとしたけど、心臓がうまく動いている感じがしなくて、続く言葉が出なかった。

「……はい」

 と、すぐうしろから声が聞こえた。

「逆らっちゃいました」

 あんまり、あっけなく言うものだから、言葉を返すつもりにはなれなかった。

「煙草くさいです、タクミくん」

「……うん」

「何か、あったんですか?」

「何もないよ。何もない」

「……」

 俺のことなんて、気にするなよって。
 気にかけてもらえるような人間じゃないんだって。
 
 そう言いたかったけど、そんなことを言ったら逆効果だろうから、言わなかった。



「……そうですか」

 と、るーはそれきり、黙りこんでしまった。
 こんなことばかりだ。

 本当に不思議なんだ。
 愛想を尽かされてもいい頃なんだ。
 
 なんでいなくならないんだ?

 予鈴が鳴ったのが聞こえた。

 背中に、トン、と何かが当てられる。

 首だけで振り返ると、るーが、俺の背中に額を押し付けていた。

「じゃあ、わたしも、なんでもないです」

「……」

「……話してくれても、いいです」

「……」

「話してくれなくても、べつにいいです。笑ってなくても、いいです」

 この子は、どうして、
 俺のことを嫌がらないんだろう。



「不思議ですか?」

「……うん」

「教えてあげません。きっと、信じないだろうから」

「……信じないって」

「うん。今のタクミくんは、きっと、信じてくれないだろうから」

 だから言いません、と彼女は言う。

「いつか、そのときが来たら、全部話します」

「……」

「今は、そんなの、いいですから。もうすぐテストで、終わったら夏休みで、夏休み明けには文化祭で」

「……」

「楽しいこと、たくさん、するんですよね?」

 本当に、そうできたら、どれだけいいだろう。
 
 鷹島スクイは、俺だ。
 俺のなかに住んでいる。さっきまで、分からなかった。追い出して、吐き捨てたものが、人の形になって歩き回っていた。
 あれは俺だ。俺のなかの泥濘だ。

 その処置に、俺は迷う。

 この高校を卒業するとなったとき、俺はどこに行けばいいんだろう。
 誰が、俺と居てくれるんだろう。

 そんなことばかりを、俺は考えてしまう。
 


「タクミくんの、ばか」

 考えごとの最中に、そんな声が聞こえて、

「ばか」

 聞こえて、

「ばーか」

 くすぐるような甘い声が、
 考えごとをやめさせた。

「なんだよ急に」って振り返ったら、るーは「してやったり」って顔で、へへっと笑った。

 猫みたいだと思った。
 
 嘉山のこと。スクイのこと。こさちのこと。嵯峨野連理のこと。
 あまりに未整理で、混沌としている。
 
 よくわからないことの連続。

 どうするべきかは、今は分からない。
 よくわからないことだらけだ。

 それを俺は、どうするべきなんだろう。
 
「……たばこくさい、です」

 るーが、そう呟く。
 そうなんだろうな、と俺は思う。

つづく
745-4,5

「そうだな」

「そっちも俺を知っているみたいだ。視聴覚室ってわけでも、ないんだろ?」



「そうだな。そっちも俺を知っているみたいだ。視聴覚室ってわけでも、ないんだろ?」




「あ、そうだ。タクミくんに話があって探してたんですよ、わたし」

 と、さっきまで俺の背中に額を当ててたことなんてなかったみたいな当たり前の顔で、るーは口を開く。
 予鈴がとっくに鳴り響いたあとの廊下を、俺たちはゆっくりと歩いていた。

「話?」

「すず姉に、タクミくんがバンドやるかもって話をしたんです」

「するなよ」

 しねえぞ。

「そしたらすず姉乗り気で、『なんならベース教えるよ』って」

「……はあ」

「ということを話すためにタクミくんを探して教室に向かったところ、ゴロー先輩がいたので先にそっちに話したんです」

 余計なことを。

「と、ゴロー先輩、ノリノリでして」

「だろうね」

 俺は溜め息をついた。
 タチが悪いのは、すず姉やゴローだけじゃなくて、るーもけっこう乗り気だってことだろう。
 じゃなきゃ、そんな話をすず姉にしたりしない。


「まずかったですか?」

「まずいとは言わないけれど」

 うまいとも言えないのが困ったところだ。

「嫌ですか?」

「嫌ってわけじゃ……」

「……」

「……まあ、正直」

「どうして?」

「文化祭は夏休み明けすぐで、俺は初心者、ゴローもほぼ初心者、ドラムはいない」

「はあ」

「無理があるだろう」

「そうですかね?」

 そうだろ。


 階段を降りていくるーについていきながら、俺は話を続ける。

「恥をかくか、真面目にバンドやろうとしてる奴に水を差すだけだよ」

「恥をかくか水を差すかって、語呂いいですね」

「聞けよ」

「タクミくんの言いたいことも分かりますけど……」

 と、るーは俺の顔を見上げながら不満気に続ける。

「試しにちょちょっと触ってみて、悪乗りだけでバンドやったって、別に怒られはしないと思いますよ」

「どうかな。ステージ発表を募集してるっていっても、やりたがる奴の中から選考されるんだろ」

「発表に堪えないレベルならふるい落とされるんですから、なおのことやってみてもいいんじゃないですか?」

「……」

「タクミくんは口を開くとやらない言い訳ばっかりですねー」

 るーは拗ねたみたいに、おどけたみたいに、からかうみたいにそう言った。
 まあ、図星だ。


 るーは階段を降りていく。

「とにかく、すず姉が乗り気だったんです。それで、よかったら今日うちに連れて来てって」

「今日?」

「すず姉、暇してるみたいなので。ゴロー先輩も来たいって言ってました」

「あいつ、調子がいいときはフットワーク軽いよな。でも、俺ベースとギターの違いも弦の数くらいしか知らないし」

「タクミくんは乙女心がわからないひとですね」

 となぜか乙女心を説かれる。

「なんのかんの理由をつけて、すず姉はタクミくんに会いたいんですよ。タクミくんが懐かしいんです」

「……や。なことないと思うけど」

「そうなんです!」

「……ホントにすず姉?」

「なにがですか?」

「なんのかんの理由つけて俺を呼ぼうとしてるの、るーじゃないの?」

「……ど、どーしてそう思うんです?」


「るー、おまえ、すず姉が会いたがってるとかどうとか言って……」

「……」

「俺にバンドやらせたいだけだろ」

「……はい?」

「違うの?」

「……あ、はい。それでいいです」

 微妙な反応だ。

「……まあとにかく、タクミくんに乙女心は分からないということで」

「さっぱり納得のいかない結論だな」

「まあまあ、いいじゃないですか。ちょろっと触ってみるだけでも。すず姉のベースすごいですよ。アンプとかすっごいでっかいですよ」

「言われてもすごさが分からんしな」

「ちなみにアンプとベースを繋ぐ線のことをシールドと呼ぶそうです。コードと言ったらまぎらわしいらしいです」

「ああ、和音をそう呼ぶからだろ?」

「……なんでそんなこと知ってるんです?」

「前に本で」

「タクミくんのそういうところ、ときどきすごいと思いますよ」

 とるーは呆れ口調で笑う。


「……ところで、俺たちはどこに向かってるの?」

「はい?」

「教室、過ぎてるよな」

「え? 体調を崩したわたしのために保健室まで付き添ってくれたから、タクミくんは午後の授業に遅刻したんですよね?」

「……いや、なんだそれ」

「ごほっ、ごほっ」

 わざとらしい咳をし始めた。

「あー、体調悪いなー、誰かが保健室まで付き添ってくれないかな―」

 猿芝居だ。

「……サボるなよ」

「サボりじゃないですよ。ちょっと熱っぽいんです。ホントですよ。無理をしてテスト本番に影響しても困るんです」

 戦略的撤退です、とるーは真顔で言った。
 俺はためしにるーの額に手のひらを当ててみる。


「……熱はなさそうだけど」

「……た、タクミくんの手が熱いのでは?」

「否定はできないけど」

 るーは、バレバレの嘘を叱られると思ったのか、俺と目が合わないように視線を泳がせている。
 ちょっと緊張した素振りが、なんとなく新鮮だ。

「……まあ、本人が体調悪いって言ってんだから仕方ないよな」

 それに、遅刻の理由は俺だ。たぶん。そう言っていいのか、いまいちわからないけど。
 なんだか、俺のせいで遅刻したって思うのは、内心だけでも、なんとなく傲慢な気がする。
 
 思い上がっているという気がする。

「と、とにかく!」

 と、るーは頭を揺すって俺の手を振り払って、怒ったみたいに顔をそむけた。気安く触れられたのが気に入らなかったのかもしれない。

「保健室! です!」

「……あ、うん」

 まったくもう、とどこか困った調子でつぶやきながら、るーは俺の少し前を歩く。
 こんなに元気な病人がいるもんか。俺は少し溜め息をついて、それから内心で感謝した。
 言葉にしたら無碍にしてしまう気がして、言わなかった。

「俺もさ」

 声を掛けると、「なんですか?」とるーが振り返る。
 
「るーのそういうところ、すごいと思うよ。ホントに」

 彼女は一瞬、怯んだように口を「むっ」と結んでから、慌てたみたいに前に向き直る。
 
「なんですか、そういうところって!」と不満気に呟く彼女の困った声がおもしろくて、俺は少しだけ笑ってしまった。


つづく




 るーの証言と俺の証言に食い違いを生むわけにはいかなかったから、俺は「体調を崩した後輩に付き添って保健室に行った」と報告した。疑われなかった。
 自分の身体がなんとなくタバコ臭いような気がして気になったけど、周囲は特に反応しなかった。

 俺は自分の制服の内ポケットに触れてみる。そこにはたしかに何かがある。四角い箱と丸みを帯びた楕円柱。煙草とライターだ。確かめなくても分かる。
 テスト前の授業なんて出題範囲についての解説だ。聞いておくに越したことはないけど、まあ今はいいだろう。

 ちょっと考えてみよう。

 俺は記憶を手繰る。嘉山孝之と遭遇した昼休みのこと。そこで俺は鷹島スクイを見た。小鳥遊こさちに会った。
 大丈夫、そこまでは覚えている。記憶がまがい物でないなら。

 鷹島スクイは部誌を燃やしたという。嘉山孝之は俺が鷹島スクイだという。俺の制服には覚えのない煙草が入っている。
 小鳥遊こさちは?
 彼女は何かを言っていた。何かを俺に見せた。……そうだ、写真だ。俺が定期テストを受けている場面、煙草を買っている場面。
 
 燃やした覚えはあるか? ――ない。
 定期テストを受けた覚えは? ――ない。
 煙草を買った覚え。 ――ない。

 にもかかわらず、俺はそれを行っている。

 ……いや。
 でもそれはあくまで、こさちや嘉山の言ったことだ。

 こさちの写真だって、どこまで信用できるかわからない。
 そもそも彼女自体、不自然なところしかないのだ。

 スクイが俺であるという証明は、されていない。 
 しいて言えば、この煙草だけ……。



 でも、そもそも、どうして俺はこれまでこの煙草の存在に気付かなかった?
 誰かが制服に勝手に入れていた? 着替えか何かのタイミングがあれば不可能じゃない。

 それでも再び着替えた段階で気付かないのは、ありえないとは言わないが簡単ではない。

 こさちの写真は加工、煙草はスクイが勝手に入れた、こさちと嘉山とスクイは三人で俺をはめようとしている。
 ……通らない筋じゃないが、大掛かり過ぎる。

『鷹島スクイとは、誰か?』

 煙草、画像、名前。物的証拠も情況証拠も揃っている。
 嘉山の言うことを信じるなら、俺だ、と考えるのが、他人から見れば正解だろう。

 問題は……。

 鷹島スクイが俺だとして、『鷹島スクイがとったとされる行動』のほとんどすべての記憶が、俺には存在しない、という部分だ。

 ……解離性同一性障害。
 多重人格?

 まさか。

 そんな症状を起こすような心当たりなんてない。

 ……ない。


 ない、が……。
 
 離人感、記憶の虫食い……。

 そもそも、「心当たりがない」というのは、こういう場合はあんまり参考にはならないか。

「……」

 でも、どうして煙草に気付かなかったんだ?
 気付かないふり、知らないふり、『認識』……。

 気付いたとしても意識から追いやられていた。これもまあ、ない話じゃなさそうだ。

「……」

 ――良い子だからだよ。
 ――おまえは自分の声を聞き流しすぎたのさ。
 
 ……さすがに、ないと思うんだけど。

 手持ちの知識だけだと、心当たりがある部分が多すぎる。



 ……いや。

 情況証拠だけ見れば、たしかに疑わしいかもしれないが、俺は鷹島スクイと顔を合わせて、対話したことがある。
 あいつはたしかに存在する人間、のはずだ。

 ……でも、どうだろう?

 俺は、俺以外の前にスクイが姿を現すところを見たことがあっただろうか。
 誰かが来た途端姿を消したり、していなかっただろうか。

 かといって、あんなふうに他の人格をはっきりと人間のように感じられたりするものなのか?

 それに関しては……まあ、なってみないと分からなそうだけど。

 通常は、存在に気付かないものではなかっただろうか。

 とはいえ、まあ、似たような存在なら聞いたことはある。
 イマジナリーフレンド……。

 こさちは、そういえばなんて言っていた?
 
“影”と、そう言っていた。

 思いつくのは、ユングの元型。

 でも、それを言ったのはこさちだ。

 こさちは、何なんだ?

 ……アニマ?
 でも、元型論ってそもそも夢の話だったような……。

 ……駄目だな。
 妙な知識ばっかり集めたせいで、変な方向にばっかり頭が冴える。

 今俺が考えなくちゃいけないのは、俺の身体に別の人格がいて、そいつが俺の身体を勝手に動かしてるなんていうのは、“気持ち悪いし考えにくい”ってことだ。
 スクイとこさちが協力して俺を担ごうとしてるだけかもしれない。
 
 嘉山が俺をスクイと呼んだあとの記憶は、俺にはない。
 そのあいだに、俺の知らない何かがあって、こさちは俺をからかっただけなのかもしれない。

 いずれにしても……気になることは気になるけど……気にしても仕方ない。

 俺が今考えなきゃいけないのは目前のテストのこと。
 それから……なんだっけ?





「そういうわけで、わたしの家に行きましょう」

 と、放課後になると同時にるーとゴローが俺の教室にやってきた。

「テスト期間だけど」

「ご心配なく。わたしは勉強しますから」

「いやそうではなくてね」

「タクミ、おまえ冷静になれよ」

「……何がだ」

 呆れ風味の溜め息をついて、ゴローはやれやれと肩をすくめた。こいつの妙に芝居がかった仕草を誰かにどうにかしてほしい。

「文化祭まで、夏休みがあるっていってもそう期間はないんだぜ。事態は一刻一秒を争うんだ」

「誰もやるって言ってねえよ」

「ま、ま。とりあえずすず姉に会うと思って」

「……それに関しては、異論はないんだけどな」

 うまいこと丸め込まれる自分が目に見えるようで、なんとなく嫌だ。


 なんてことを話しているうちに、廊下から軽い足音が聞こえてきて、教室の入り口ががたっと揺れた。

「たっくん! ゴロちゃんから招集メッセージだよ! たぶん例のアレだよ! 早く逃げよ!」

 高森だった。こっちを見た瞬間、「うっ」となってる。
 自分に届いたメッセージの内容を見れば、俺にも届くって分かりそうなものだ。 
 わざわざ教えに来ずに素直に逃げればいいものを。

「飛んで火に入る夏の虫だな」

「ゴロー、おまえ火でいいのか」

「誰が虫か!」

「……テスト期間なのに、先輩がたはみんなげんきですね」

 るーの呆れた溜め息が、なんとなく納得いかなかった。


つづく




「さて、じゃあとりあえず特訓しよっか」

 と、すず姉は立ち上がった。

「特訓?」

「ベースの」

「……いや、すず姉、あの」

「なに?」

「俺、やるなんて一言も……」

「ここまで来てガタガタ言わない! 男の子でしょ! 楽器のひとつくらい弾けなくてどうする!」

 こんな強引な人だっただろうか。

「……ていうか、さっきの会話に気になるところがあったんだけど」

「そっちのふたりも来て。ギターもちょっとなら教えられるから」

「了解っす。お願いします」

 俺と高森は目を合わせて「どうしよう」という顔をしあった。

「るー、飲み物」

「どこでやるんですか?」

「離れ」


 そんなわけですず姉はちい姉が戻ってくるよりも先にパタパタと歩き始めた。
 宣言通り離れ座敷に連れ込まれた俺達は、その部屋の様子にまず唖然とした。

「うわ、なんすかこれ」

「アンプ」

「このちっこいのは……」

「エフェクター」

「この機械は?」

「マルチエフェクター」

「こっちは」

「そっちはギター用のアンプ」

「このちっこいのは」

「それもアンプ」

「これは……ギターですか?」

「ベース」

「こっちは」

「弦四本がベース、弦六本がギター。ベースの方が一回り大きい」

「おお……」

 ゴローとすず姉の会話を横目に、俺と高森は黙りこむ。
 テスト期間なんだけど、とか、よだかが帰るところなんだけど、とか。
 そういうことを考えていた。



 部屋にあふれる機材、キーボードにパソコン、ところどころに熊のぬいぐるみが置かれていた。

「タクミ」

「はい」

「とりあえずベース教えるけど……」

 と、彼女は二本並べられたエレキベースのうちの一本をスタンドから持ち上げた。

「はい、これ」

 俺はひとまずそれを受け取る。片手で受け取ると、ずしりと重い。

「ぶつけないように気をつけてね。まあ、安い奴だからいいけどさ」

 それでも平気で万を超えるのだろう。

「とりあえずストラップついてるから、首にかけて」

「ストラップ?」

「それ」

 言われた通り、俺は楽器につけられているベルトみたいなものを首から下げてみた。
 やっぱり重い。

「ちょっと長いかな。立って演奏するんだろうし、最初から立って弾く練習した方いいね」

「はあ」

「これピック」

 と、小さなツメみたいなものを渡される。

「好みはあるけど……まあスタンダードに。指弾きって手もあるけど、うーん……まあ、やってみてかな」

 すげえ。何言ってるのかわかんねえ。


「ひとまずピックで弦弾いてみて」

「弾くって……」

「手首ではじくイメージ」

 言われた通り、俺は弦を弾いてみる。……鳴らない。
 何度かためしてみると、ボーンという低い音が響くのが分かった。

「意外と音小さいね」

「そのままだとね」

 と言って、すず姉は機器同士をつなぐコードみたいなものを引っ張り出してきた。

「これシールド。で、とりあえずアンプにつなぐね」

「はあ」

 彼女は言葉の通り、俺からぶら下がったベースの下方の穴にシールドの端子を差し込んだ。
 そのもう一方を、さっきアンプと呼んでいたスピーカーみたいなものに繋いでいく。

「電源入れるよ」

 と、言うと同時、アンプの電源を示す赤色の光が灯った。

「鳴らしてみて」

「……」
 
 さっきと変わらない。

「だよね。ちょっといじるよ」

 彼女は楽器についているツマミのひとつをひねった。
 それからアンプも同様に。

「鳴らしてみて」

 俺はピックで弦を弾いた。



 低い音が響く。

「……おお?」

「たっくん、うるさい」

「俺のせいじゃない……」

「ま、ベースもギターも、こういうふうにアンプに繋いで音をおっきくするわけ。大雑把に言うと」

「はあ……」

 俺はひとまず、テレビや写真で誰かがしていたように弦を抑えながら、弾こうとしてみる。

「……指、痛いんだけど」

 しかも音が鳴らない。

「うん。そういうもんだから。ちょっと貸して」

 と言って、すず姉は俺に向けて手を差し出す。
 
 俺はストラップを首から外して、ベースをすず姉に手渡す。



 すず姉はストラップを首にかけてすぐ、ピックももたずに弦を押さえた。
 右手の指が弦の上を滑るように弾くのと同時に、音がうねりはじめた。

 波濤の壁が部屋を押し広げた。
 右手の指がさらりさらりと簡単そうに動くのとほとんど同時に、左手の指はうねうねと指板の上を這いうねる。

 そのたびにアンプは音を伝える。

 すげえ。
 すごすぎて何をやってるのかも分からないし、そもそも本当にすごいのかどうかも分からねえ。

「……と、とりあえずこんな感じで」

「……はあ」

 俺たちは言葉を奪われた。

「で、タクミにはこのくらいできるようになってもらうから」

「……え? いや……」

「ちなみにベースはあんまり存在感がないわりにミスるとすぐにバレるパートだから」

「え、なにそれ……」

「ま、特訓ね」

 そして俺の頭は無駄な思考を働かせる余地を奪われた。




 次に窓の外を見た時には日が沈みかけていた。

「……指痛い」

「練習!」

 すず姉のやる気のボルテージはまったく衰えなかった。
 ゴローはゴローで高森にギターを教えていて、すず姉はそっちの様子を見ながら俺にベースを教えてくれたけど、成長できたとは言いがたい。

「まあでも、初日にしては弾けるようになったよ」

 と彼女は慰めてくれた。

「簡単な曲なら、がっつり練習すれば一、二週間で弾けるようになると思う。簡単な曲ならね」
 
 ホントかよ、と思った。
 ようやく弦を押さえながらピックを動かすのにも慣れてきたけど、押さえる場所が変わるときにいちいち動きが止まってしまう。
 とてもじゃないけど、まともに弾けるようになる気になんてならない。

 左手の指が赤くなっている。
 
 なんで俺はこんなことをやってるんだろうなあ、という気分になる。
 


 ずっと横で様子を見ていたるーが、ここに来てようやく口を開いた。

「そういえば、タクミくん、さっき何か言ってませんでした?」

「……なにか?」

「はい。気になることがどうとか……」

「気になること……」

 ああ、そうだ。言われるまで忘れていた。

「さっき、ちい姉がデートするとかなんとかって……」

「ちい姉だって年頃の女の人なんだから、彼氏くらいいるよ」
 
 すず姉はスポーツドリンクで喉を潤しながらそう言った。

「すず姉は?」

「わたしはいいの」

 いいのか。

「いや、気になるのはそこじゃなくて、さっき、美咲って名前が」

「覚えてない? 美咲ちゃん」

「……美咲姉のことなの、やっぱり」

「うん」

 と、いうことは。



「ちい姉の彼氏って、ひょっとして……」

「はい」とるーは頷いた。

「お兄さん……遊馬さんですよ」

「あ、タクミは知らなかったんだ」

 すず姉は平気そうな顔をしている。
 ちょっと待て。
 
「いや、でもすず姉」

「なに?」

「すず姉って……」

「タクミ」

 すず姉は、ゆっくりとペットボトルの蓋を締め直したあと、口の前に人差し指を立てて笑った。

「まあ、生きてればいろいろあるもんだよね。歳を取るってこういうことなんだなあ」

 そう言ってすず姉は、部屋の隅のテーブルの上においてあった一対の熊のぬいぐるみを見つめた。
 その意味は俺にはよくつかめない。

「……遊馬兄とちい姉が」

 じゃあ、静奈姉は……。

 ……ちい姉?
 よりにもよって、と言ったら、ちい姉に失礼なのかもしれない。
 
 でも、俺には……その選択がよくわからないものに思えた。



「さて、じゃあタクミ、ベースとアンプと教本は貸してあげるから、家に帰っても練習すること。夜はあんまり音出しちゃ駄目だよ。ヘットホンつけてね」

「……あ、うん」

 と、練習することに、なぜか同意してしまった。

「よろしい。蒔絵ちゃんの方も、ギターは貸してあげる。ゴローくんは、思ってたよりできるから大丈夫」

「ありがとう……ございました?」

 なし崩し的に参加を余儀なくされていた高森と俺は疲れきっていた。
 ゴローはひとり元気で、「あとはドラムを揃えれば完璧だな!」とか言ってる。

「そういえばゴロー、ドラムの心当たりって誰のことだ?」

「あ、うん。声かけてみてから紹介する。おまえも知ってるやつだよ」

 知ってる奴……。

「とりあえず荷物も多いだろうし、今日はわたしがみんな車で送ってってあげる」

 すず姉はそう言って立ち上がる。
 俺達も疲れていたから、遠慮もせずに申し出を受け入れることにした。

「るーは乗れないから、お留守番」

 すず姉の言葉に、「えー」とるーは子供みたいな声をあげた。
 それでもしぶしぶ頷いて、玄関まで不服そうな顔で見送ってくれた。


「誰の家が一番近い?」

「俺の家かな」とゴローは言う。

「わたしの家が一番遠いと思います」と高森。

「そっか。じゃあ、ゴローくんおろして、高森さんち」

「……俺んち、中間地点だよ」

「タクミは最後。今、静奈先輩のところにいるんでしょ?」

「……あ、うん。聞いてたの?」

「るーから、ちょっとね。わたしも静奈先輩と久しぶりに会いたいし」

「……うん」

 何を考えればいいのかわからなくなってしまって、俺は助手席に乗せられてから、ずっと窓の外を眺めていた。
 高森やゴローは、練習をしている間に思いの外すず姉になついたらしくて、今となっては俺よりも彼女に馴染んだ口調で話しかけていた。

 すず姉の受け答えは「こども」に対する「おとな」の口ぶりで、それはあの頃、俺に接していたものよりもずっと遠く感じた。


 宣言通り高森とゴローを送り静奈姉の部屋に向かう頃には、あたりは暗くなりだしていた。

「学校で、るーはどう?」

 すず姉はふたりきりになった途端、そんな話を振ってきた。ずっと訊きたかったのかもしれない。

「どうって?」

「友達とか?」

「さあ。学年違うから」

「ま、そりゃそうか」

 そこで一度話が終わって、すぐに話題が変わった。

「ねえ、タクミ、あんたはどうしてこっちに来たの?」
 
 そんなことを訊かれると思わなくて、俺は言葉に詰まってしまった。
 夏の日暮れはほのかに明るくて、街の影は長い。あの頃みたいに、夕焼けはオレンジ色だ。
 昔はそれを赤一色に感じたものだったけど、今の俺は、そこに混じっている紫や濃紺の色合いを見つけられる。

 歳を取るってこういうことなんだなあ、というすず姉の言葉が、不意に耳に蘇った。

「あ、答えたくないことなら、いいよ。もっと単純な理由かと思ってたけど、思ったより複雑みたいだね、その顔を見るに」

 俺はちょっと笑った。

「どんな理由だと思ってたの?」




「ほら、るーとの約束があったからかなって」

 ……約束?

「あのとき、別れ際に、言ってたんでしょう? わたしたちは知らなかったけど。
 るーが嬉しそうに言ってたよ。タクミくんはまた来るって言ってた。そして本当に来てくれた、って」

「……」

 そういえば、言ったような気もするけど、そんなこと、彼女は忘れているものだと思ってた。

「……あれ、ひょっとして、わたし今、言わなくていいこと言った?」

「いえ……」

 だとしたら、会ってすぐ声をかけようとしなかった俺に、るーが怒ったのも無理はないのかもしれない。

「覚えているものなんですね。忘れられてると思ってた」

「……それは、約束のこと?」

「他の、いろんな人も。すず姉も、ちい姉も、俺のことなんて覚えてないと思ってた」

「あのね、わたしたちがそんなに薄情な人間に見えた?」

「……そういうわけじゃないけど、でも」

 俺にとって大事なことが、他の人にとってどうかはわからない。
 俺にとって重大なことは、他の人にとってはたいしたことではないかもしれない。

 そんな不安……それともそれは、傷つかないための予防線だったのだろうか。

 考えごとをしながら、帰り際にすず姉に手渡された缶コーラに口をつける。


「ね、タクミ、訊いていい?」

「なんですか?」

「るーのこと、好き?」

 俺はむせた。

「あは、いい反応」

 すず姉はあくまでクールだった。

「あの。好きとか、いや、好きっていえば好きですけど」

「……ふうん?」

「……好きですよ、たぶん」

「ほー」

 楽しげに、すず姉は頷いた。

「いいね、若いって」

「……」

 あんたも十分若いだろう、と言いたいのを飲み込んだ。


「……好きですよ。でも、なんだか申し訳なくて」

「申し訳ない? って?」

「なんだか、うまくいえないんですけど……」

「小難しいこと、考えてるわけだ」

「……」

「先輩も、そうだったんだろうなあ、たぶん」

 ……。

「……遊馬兄のことですか?」

「うん。あのひともきっと、そうだったんだろうね」

「どういう……」

「全部想像だし、無責任なことは言えないけど。でも、とても臆病な人だったんだろうなって思う」

「……すず姉は」

「なに?」

「すず姉は、遊馬兄のことが好きだったんじゃないの?」


 彼女はハンドルを握ったまま、少し黙った。

「それが難しいところなんだよね」とすず姉は言った。

 難しいところなんだよ、と彼女は繰り返す。

「ちい姉はさ、小さい頃、わたしたちとは別の街で暮らしてたんだよ」

「……そう、なの?」

「うん。聞いてなかった?」

「なにも」

「そっか。でも、わたしたちとるーの血が半分しかつながってないのは知ってるでしょ?」

「……なんとなく、そうなのかなって」

「うん。異母姉妹なんだよ、わたしたち」

「……」

「お父さんが前結婚してた人が、わたしたちの母親で、再婚相手が、るーの母親。今のお母さん。
 小さい頃のことだから、わたしも自分のお母さんの顔はよく覚えてない。ちい姉は、覚えてるかもしれないけど。
 お母さん、おばあちゃんとの折り合いが悪かったらしくてね。お父さん、気の弱い人だったから、いろいろ大変だったみたい」

 ……。


「よっぽど、嫌いだったみたいで。おばあちゃんがほとんど追い出すみたいに……って言っても、喧嘩別れだったみたいだけど、
 お母さんとお父さんが別れちゃって。それで、おばあちゃん、お母さんがいなくなったあと、ちい姉に手をあげるようになったんだって。
 お父さんは弱い人だから……おばあちゃんには逆らえなくて、家を出ることも、できなかったみたい。見た目通り、ちょっと厳格な家だから」

「……」

「それで、仕方なく、遠くの親戚の家に、ちい姉を預けることになったんだ」

「……どうして、ちい姉だけ?」

「……不思議だよね? わたしは、おばあちゃんには嫌われてなかった。むしろ大事にしてもらった記憶だってある。
 小さい頃から別の家で暮らしていたちい姉を、遠い親戚のお姉さんみたいに感じることはあったけど、おばあちゃんはわたしにとっておばあちゃんだった」

「……」

「顔が、似てたんだって」

「……顔?」

「うん。お母さんに、ちい姉はそっくりだったんだって。それにきっと、ちい姉はお母さんのこと覚えてたから、お母さんを泣かせてたおばあちゃんが嫌いだったのかもしれない。
 だからおばあちゃんは、ちい姉につらくあたってたんだって。わたしはそんなこと、なにひとつ知らずに生活してた」

「……どうしてそんな話、俺にするの」

「わかんない」

 俺は少しだけ、今聞いた話の意味について考えようとして……やめた。

「お父さんは、ちい姉を親戚の家に預けたあと、すぐ再婚しちゃった。あのひともあのひとで、傷ついてたんだろうけど……。
 それで、すぐにるーが生まれて……」

「……」

「ごめん、なんか余計な話してるよね」

「……うん。たぶん」

「ごめんね」

「いいよ」


 よだかは、ちい姉に似ている。
 そう言っていたのは、るーだった。

 るーはきっと、両親の祝福を受けて、暮らしていた。
 ちい姉は、それを得られずに暮らしていた。

 その形は、たしかに、重なっているような気がした。
 勝手な思い込みかもしれない。それはすこし、俺とよだかの境遇に、似ているような気がした。

「……でも、るーは、楽しそうですよ」

 すず姉は、きょとんとした顔で俺を見た。

「きっと、すず姉のこともちい姉のことも大好きなんだと思う」

 どうしてなんだろう、と俺は思った。
 彼女は本当に楽しそうに笑うのだ。

 笑えずにいる自分が恥ずかしくなるくらいに。

「すごいでしょ?」

「……うん」

「なにせ、自慢の妹だからね」

 すず姉はにっこり笑った。

つづく


◇[sting]


「タクミくん、よだかさんの見送りいかなくてよかったの?」

 俺がすず姉の車に送られて部屋に戻ると、静奈姉はまっさきにそのことを訊ねた。
 痛いところをつかれたと思って俺が黙ったとき、すず姉がうしろから「どうも」と入っていった。

「お久しぶりです、静奈先輩」

「ひさしぶり」

 静奈姉は当たり前みたいな顔ですず姉を受け入れた(電話してたんだから当たり前だけど)。

「タクミがこっちに来てるって、どうして教えてくれなかったんですか?」

「だってすずちゃん、連絡しても見ないし」

「そりゃ……鳴らない携帯なんて持ち歩きませんし」

「ね」

 いや、鳴っても見ないなら鳴らさないだろう、誰も。


「お酒買ってきました」

「……すずちゃん、今日何で来たんだっけ?」

「車です。泊まってっていいですか?」

 静奈姉はくすくす笑った。

「変わらないね、その、なし崩し的に泊まろうとする癖」

「性分なんです」

「ていうか……まだ十九じゃないっけ?」

「そうでしたっけ?」

 すず姉は平気な顔で靴を脱いであがりこむと、ダイニングテーブルの上にコンビニ袋を置いて腰を下ろした。

「ちょっと疲れました」

 とすず姉は笑った。
 静奈姉は「いつぶりだっけ?」なんて言ってる。


「いつでしたっけ? 静奈先輩がこっちに来てから、一回は来てるはずですけど」

「あ、だよね。調子はどう?」

「普通ですかね。先輩は?」

「普通かな」

 まったりしながら、すず姉はチューハイを取り出した。

「グラス用意するね。タクミくんは?」

「俺、明日も学校なんだけど」

「ちょっとなら平気でしょ?」

「いや、でも……」

 ……『駄目だ』と誰かが言う。

「はい、グラス」

「……そもそも俺、ハラ減ったんだけど」

「仕方ないなあ」

 といって、静奈姉は立ち上がった。

「ご飯作るから、そのあと付き合ってよ」

「……」
  
 しぶしぶ、俺は頷いた。





「静奈先輩、遊馬先輩とは会ってるんですか?」

 グラスに口をつけながら、すず姉がそう訊ねると、静奈姉は「ぜんぜん」と言った。

「連絡も来ないよ。前から、そういうところあったけど」

「そうなんですか?」

「もともと、メールのやりとりとか電話とかするような仲じゃなかったし。ほら、なにせ……」

「……学校いけば、会えましたもんねえ、そりゃ」

「あ、でも、お母さんとはたまに会ってるみたい」

「静奈先輩のお母さんと? 先輩が? ですか?」

「うん。お母さんはおかまいなしだから」

「あはは」

「ちひろちゃんは元気?」

 あ、そうだった、と、話を聞いていた俺は思う。
 ちい姉の下の名前、ちひろだった。

 すず姉は一瞬ためらうみたいに間を置いてから、視線を泳がせて、

「元気ですよ」

 という。


「……そのさあ」

 と静奈姉はけだるげに首をかしげた。

「いいかげん、振られた女に対する妙な気遣いやめてよー」

 と言って、静奈姉がすず姉の頭をわしゃわしゃ撫でた。すず姉は「あはは」とまた笑う。

「何年経ったと思ってるの?」

「えっと……何年ですかね? 五年?」

「そう。そんくらい?」

「たぶん。どうかな」

「……なんていうか、すごいよね」

「なにが?」

「なんで別れないんだろう」

「……すごいですよねえ、あのふたり」

「なーんか、付き合い始めの頃、すぐに別れちゃうことを期待してた自分の性格の悪さだけが、こう……」

「わかります、わかります」

「悲しくなるくらい、あのふたり、まっとうなんだよねえ」

 静奈姉は一杯目のチューハイですでにぽやぽやした顔をしていた。
 
「だからわたし、だめだったんだろうなあ」

 そう呟いた静奈姉は、小さな子供みたいに見えた。



 こうして話をしていると不思議なのだが。
 ……遊馬兄って、なんでモテたんだ?

「ま、そうでしょうね」とすず姉はあっさり頷いた。

 静奈姉がむっとした顔をする。

「ちょっと否定してくれたっていいじゃないの!」

 また頭をわしわし撫で始める。すず姉は「あはは」とまた笑う。

「妙な気遣いやめてと言いながら、がっつり引きずってるじゃないですか、先輩」

「引きずってないもん」

「本当ですか?」

「引きずってないもん!」

 ……子供か。

「高校のときのことだよ? 何年前? この歳になって引きずってたらただのイタい人だよ。引きずってませんもん」

「……そーですか?」

「……引きずってません」

「……わたし、イタい人だなあ」

 小さなつぶやきは、たぶん静奈姉の耳にも届いた。
 ……やばい。なんかこの会話、聞いてるのすごいしんどい。


「すずちゃんと遊馬くんの関係もわたし、よく知らなかったんだよね」

「……わたしと先輩ですか?」

「うん。なんであんなに仲良くなったの?」

「……仲良くなったっていうか。中学のとき、わたし、放課後とか屋上でひとりでいたんですよ」

「……うん」

「そしたら、先輩がよく遊びに来て、いろいろ話したりして」

「……うん」

「……まあ、それだけですかね」

「屋上に昇るのは血筋なの?」

「ど、どうでしょうね……? でも、何回か屋上で人に会ったけど、話しかけてきたのは先輩だけでした」

「……たぶん、ちひろちゃんもそうだったんだろうなあ」



「……ねえ、あのさ」

 俺はようやく、口を挟んだ。ふたりは、どこかとろんとした目つきでこっちを見た。

「ペース早くない? 酒」

「チューハイなんて、ジュースだよ!」

 と、静奈姉はからっぽの缶をテーブルに叩きつけた。

「でもさ、遊馬くんもひどいよ。『ドラクエファイブでビアンカを選ばない奴は人間じゃない』って豪語してたのに」

「あはは」

「そりゃ、ちひろちゃん、美人だけど。美人だし、お金持ちだけど……」

「リメイク版だと『子供の頃に会ったことがある』って設定らしいですよ」

「なにが?」

「ドラクエファイブのフローラ」

「それずるいよね。ビアンカのアドバンテージがりがり削ってるよね」

「あはは」

 すず姉はさっきから何言われても笑ってるな。


「そもそもビアンカだって、フローラが登場する前にさっさと告白しちゃえばよかったんですよ」

 と、すず姉は三本目の缶を開けた。
 カルピスサワー美味しい。

「それは、それは……でも、ビアンカにだっていろいろ……」
 
「なんですか?」

「ビアンカだって……パパスさんのこととか気にして、そんなこと言ってる場合じゃないよなって……」

 感情移入しすぎだろ。

「……で、タイミングを逃したと」

「……」

「美咲ちゃんも、いましたもんね」

「……あの兄妹には、割って入れないから」

「……ちい姉も、そう言ってたな」

「ちひろちゃんも?」

「先輩は絶対自分より美咲ちゃんのことが大事なんだって、言ってました」

「……シスコンだもんなあ」

「シスコンですもんねえ……」

 散々だな、遊馬兄。



「静奈先輩、ちい姉と最後に会ったの、いつですか?」

「……高三のときかなあ」

「まだ喧嘩してるんですか?」

「喧嘩なんてしてないよ。わたしが一方的にちひろちゃんを妬んで恨んでるだけだよ」

 ……潔いんだか潔くないんだかよくわからない言い草だ。
 
「もう、呼んじゃいます?」

「ちひろちゃん? ここに?」

「はい」

「え……」

「気まずいです?」

「そういうわけじゃ、ないけど……」

 俺はちょっとためらったけど、結局口を挟むことにした。

「……ちい姉、明日デートなんでしょ?」

「うぐ」と静奈姉が変な声をあげた。

「すず姉、傷口に塩を塗りこむ気?」

「……わたしがするより先に、タクミが塗りこんでると思うなあ」と苦笑される。
 カルピスサワー美味しい。



「……呼ぼう! 呼んで! ちひろちゃん!」

「いいんですか?」

「いいんだよ! 引きずってないもん! ひきずってないから、平気だもん!」

「そんじゃ、ついでに着替え持ってきてもらお」

「あー、生まれ変わったら猫になりたいなあ」

 静奈姉はテーブルの上に腕を組んで頭をのせた。

「ちひろちゃん、ひさしぶりだなあ。やだなあ」

「人んちの姉を、やだなあって先輩」

「フローラがうらやましい」

「大丈夫ですよ。周回プレイしてくれる人だっていますって」

「二周目があるといいよね」

「ないんですけどね」

 あはは、と二人は笑ってから、長い溜め息をついた。
 バカなのか、このひとたち。


つづく




 そしてちい姉は本当にやってきた。
 前みたいにちょっと居心地悪そうに、「どうも」なんて頭を下げて。

「遅いよちい姉!」

 と真っ赤になったすず姉が言う。
 静奈姉は血筋なのか顔には出ないが、やっぱりちょっとほわほわし始めていた。

「いや、急に来てって言われても……」

「ひさしぶりー」

 と静奈姉が手をあげる。

「お邪魔します」とちい姉は居心地悪そうなまま部屋に入ってきた。
 
 そこにもうひとり、後ろから「おじゃまします」と声。

「あれ、るーも来たの?」

 るーがいた。

「わたしだけ仲間はずれはいやです」

「るーちゃんおっきくなったねー!」
 
 と静奈姉が立ち上がってるーに抱きついた。もうテンションが平常通りじゃない。



「るー、テスト勉強しなくていいの?」

「お酒飲んでる人に言われたくないです」

 るーはすねたみたいにそっぽを向いた。
 
「るーも飲む? カルピスサワー美味しいよ」

「タクミくん、酔ってます?」

「酔ってないよ。少し気持よくなってるだけだよ」

「それならよかったです」

「こっちおいで」

 壁際に座ったまま、俺は隣の床をぽんぽん叩いた。

「……はあ」

 るーは静かに、足の裏で滑るみたいに俺の隣にやってくると、ちょっと居心地悪そうな顔で座ってくれた。

「よしよし」と俺はるーの頭を撫でた。

「……あの、タクミくん?」

「良い子だるー、おすわり」

「……犬ですか、わたしは」



 わしわしと頭を撫でると、彼女は拗ねたみたいな顔のまま目をそらしてされるがままになった。

「よしよし、お飲み」

 俺はグラスを手にとって、新しい缶をあけてカルピスサワーを彼女に手渡した。

「……お酒、あんまり飲んだことないです」

「そう? やめとく?」

「いいです。飲みますよ、もう」

 そういえばさ、とすず姉が口を開く。

「タクミとるーは付き合ってないんだっけ?」

「ないですよー」とるーがいつもみたいに否定する。

「そうだよねえ、子供の頃仲よかったっていっても、所詮それだけだよね」

 静奈姉はテーブルに顔を突っ伏して拗ねたみたいに呟いた。

「しいちゃん、だいぶ飲んだ?」

 しいちゃん、とちい姉は静奈姉をそう呼んだ。

「うん。チューハイなんてジュースだからね。ちひろちゃん久しぶり」


「それだけってわけじゃ」

 と、るーは何かを言いかける。

 みんなが黙って続きを待つ。

「……なんでもないです」

「タクミくんはどうなの?」と静奈姉。

「るーちゃんのこと、どう思ってるの?」

 みんながまた押し黙る。
 俺はぼんやりした頭で考える。

 どう思ってる?

「……るーは、かわいいよね」

「はい?」

 と、隣に座ったるーがちょっと怒ったみたいな顔で俺を見た。
 へらへら笑って、彼女の頭をまた撫でた。

「よしよし」

「……」
 
 困った感じのるーの表情がやけに近くて、それが妙に心地よかった。



「……タクミ、酔ってるね」

 すず姉。

「酔うとこうなるんだね。……たち悪いね」

 ちい姉。

「遊馬くんもこうだったよね」

 静奈姉。

「……あ、うん」

 何かの心当たりがあるみたいなちい姉の声。
 
「あのときはたしかちひろちゃんに……」

「あの。しいちゃん?」

「……やってらんないですよ」

「しいちゃん、あの。最近どう? 学校とか……」

「普通かな。ちひろちゃんはどう? 遊馬くんと」

「……あ、えっと」

「……」

「普通、かな……」

「酔うとたち悪いのは静奈先輩も同じですね」

「なんだとう!」

「血筋ですかね」、と、るーがぽつりと呟いた。



「それでさ、ちい姉」

 と、俺が声を掛けると、ちい姉はちょっと戸惑ったみたいな顔をした。
 そういえばこんなふうに直接ちい姉に話しかけたことなんて、今まであったっけか。

「なに?」

「どうして遊馬兄と付き合うことになったの?」

「え……」

「いいぞいいぞ、もっときけ」と静奈姉。

「そうだそうだ」とすず姉。

 るーが呆れたような溜め息をついたのが分かった。。

「俺知らなかったよ。ちい姉と遊馬兄がそんなことになってるなんて。いつから? なんで? どこが好きなの?」

「いや、あのね、タクミ」

「意外って言ったら失礼かもしれないけど、遊馬兄とちい姉けっこうテンション違うように見えたけど、なんでまた?」

「そこらへんはほら、個人的なことだし」

「俺たちだって個人的な付き合いじゃん。話してくれてもいいじゃん。ちい姉は俺のこと嫌いになったの?」

「……あはは、たちわるーい」

 そう言ったのはるーだった。

「なに」と視線を向けると、「なんでもないですよ?」とにっこり笑う。


 なんかむかついたのでまた頭をわしゃわしゃ撫でてやると、「やめてくださいよ、もう!」なんて困った声をあげる。

「まいったか」

「まいりません」

 もう一度わしゃわしゃ撫でる。

「まいりました、まいりました」

「ふははは」

「……もう。どうしちゃったんですか、タクミくん」

「それはあれだよ」とすず姉。

「普段抑圧的に生きてる奴ほど、気が緩むと暴走するっていう」

「ああ……」

「でも遊馬くんも飲むと性格変わったよね」

「最近はそうでもないよ」

「昔はあれで、抑圧的だったんじゃないですか?」

 すず姉の言葉に、静奈姉が「えー、そう?」と首をかしげ、ちい姉が「なるほどね」と小さく納得した。
 静奈姉はなんとなくつらそうな顔をした。


「そんなのどうでもいいよ。俺はちい姉に質問してるんだよ」

「だから、個人的なことだし」

「そうじゃなくてちい姉は俺のこと嫌いになったの? それとも俺のこと嫌いだったの?
 そうなんだ、そうなのかもしれないよね、なんで俺勝手に好かれてるって思ってたんだろう。ごめん気にしないで。なんでもない」

「めんどくさい人ですね……」

 るーがまた隣でため息をつく。

「そうだよ、俺はめんどくさいんだ。幻滅した?」

「したって言ったら安心しちゃうでしょ?」

「俺のことをなかなかわかってきたじゃないか」
 
 俺はグラスのカルピスサワーを飲み干した。

「おかわり」

「やめときなよタクミくん、明日に響くよ?」

 静奈姉の諫言に耳を貸すつもりはない。
 俺はなんだか急に気分がいいのだ。

 ふう、と俺も溜め息をつく。

「それでちい姉は遊馬兄のどこが好きなの?」

「……しいちゃん、すず」

「そこでわたしの助けを求められてもね」とすず姉は苦笑した。

 うう、と、ちい姉はちいさくうめいた。



「分かったよ。じゃあ遊馬兄呼んで。遊馬兄」

「だ、だめだよ!」と静奈姉が言った。

「なんで。俺遊馬兄に会いたいよ。遊馬兄。遊馬兄とまだ会ってないんだ。美咲姉とも。ふたりとも元気?」

「えっと、元気だよ」

 ちい姉は気圧されたみたいに頷いた。

「元気ならいいなあ。元気ならよかったよ。うん。それだけが気がかりだったんだ」

「……って、なんで泣いてるんですか、タクミくん」

 るーが戸惑ったみたいに声をあげた。俺は自分の瞼をこすった。

「元気ならよかった。本当によかった。それだけが本当に気がかりだったんだよ」

 ぽろぽろと涙がこぼれるのを自分では止められなかった。みんなが俺の様子を見て戸惑った顔をしているのが分かる。
 泣きやまなきゃいけない、といつもの俺はそう思う。そんなことしたって困らせるだけだから。

 でもぜんぜん収まってくれなかった。どうしてだろう。わけがわからない昂ぶり。

「アルコールって、すごいね」

 静奈姉がそう言った。

「テスト勉強とベースの特訓の疲れもありそうです」

「ベース? タクミくんバンドでもやるの?」と静奈姉。

「特訓したんですよ、今日」とすず姉。



 とまらない涙に俯いて、壁にもたれた。なんだか身体がひどく重かった。

「よしよし」と何かが頭に触れる。

「いいこいいこ」とるーの声がして、頭の腕をやさしい感触が撫でていく。

 俺はその感触に頭を揺らされて心地よさの中で瞼を閉じる。
 ゆらゆらとからだがゆれる。

 ゆらゆらと揺れて、瞼が重くなっていく。

 俺の身体は傾いでいく。

 なんで俺は……。

 とても眠くなって、うまくものが考えられない。
 
 大丈夫ですよ、と誰かが言った。
 
 だったらいいいか、と、俺は安心して意識を手放した。



つづく




 瞼が重くて開かなかった。意識は混濁と明鏡止水に綺麗に分かれていた。
 表の方は濁ってわけがわからなかったけど、奥の方の意識はすっと静まり返っていた。水とは反対だ。
 
 だから俺は、その声がはっきり聞こえた。

「るーちゃんはさ、タクミくんのことどう思ってるの?」

 静奈姉の声だ。

「どうって……」

 答えた声は、すぐそばから聞こえた。それも、なんとなく、上の方から。
 意識が沈んでいるからかもしれない。

「好きですよ」

 とるーは言った。

 あー、夢か。
 なるほどな。

「ほお」

 すず姉。

「へえ」

 ちい姉。

「おー」

 静奈姉。



 開き直ったみたいに、るーは続ける。

「好きですよ……好きですけど」

「けど……?」

 静奈姉が促す。るーは黙ったまま続けない。

「タクミくんはわたしのこと、なんとも思ってないみたいだから」

「……え、そう?」

 とすず姉。

「そうなんです。きっと」

「……そうなのかな」とすず姉は首をかしげた(と思う。視界がまっくらだからわからないけど)。
 
 どうだろう? と俺は自問した。
 
「訊いてもいい?」と静奈姉の声。

「なんですか?」

「タクミくんの、どこが好きなの?」

「……どこって」

「顔?」

「いや、顔って」

「まあ、我が親戚ながら顔はまあまあのものだと思うし」

 失礼な夢だ(逆だろうか? 夢ならむしろ自己愛的か?)。





 橋の上に立っていた。
 
 何を考えているのか、よくわからなくなってしまった。

 今日、いったい誰と何を話したのか。
 どれだけの相手が、俺に向けて言葉を放ったのか。
 そのどれもを、もう俺は覚えていない。

 何かがわかりそうだった。
 あと少しだという気がした。

 橋の下から水の音が聞こえる。

 明日はバイトだな、と思った。
 テストの勉強もしなきゃいけない。

 本気でバンドをやるなら練習する時間はいくらあっても足りない。
 夏休み明けには新しい部誌を出すと言っていたし、何を書くかも決めておかないと。

 それで……それで。
 俺が考えなきゃいけないのはそのくらいか?




 違うという気がした。
 本当に考えなきゃいけないことから、俺は逃げている。
 目の前のあれこれに気を巡らせることで、本当にかんがえなければいけないことから逃げている。

 そんな気がした。

 少し前までなら、「考えなきゃいけないこと」ははっきりしていた。

 よだかのこと。
 スクイのこと。

 でもそれすらも、ひょっとしたら、ただ逃げていただけだったのかもしれない。

 俺が本当に考えなきゃいけないのは……。
 こさちのことでも、よだかのことでも、スクイのことでも、
 嘉山のことでも、嵯峨野先輩のことでもなくて。

 あるいは遊馬兄や静奈姉のことでもなくて。

 きっと、自分のことだ。



 卒業してからのこと。父親のこと。将来のこと。

「ずいぶん遠くまできたんですね」

 振り返ると、今まさに思い浮かべていた顔が立っていた

 橋の上で、向かい合う。
 こんなことが前にもあったような気がする。

 あのときは彼女の顔がよく見えなかったけど、今は見える。
 欄干のそばから延びた街灯に照らされて彼女の姿がくっきりとわかる。

「よくここにいるってわかったね」

 思わずそうつぶやくと、るーは笑った。

「たまたまです」

 たぶん、そうなんだろう。


「何か考え事ですか?」

 俺は頷いた。

「ずっと何かを考えてたんだけど」

「はあ」

「何を考えてたんだか、よくわからなくなったんだよ」

「それは……たいへんですね」

 るーは困ったみたいに笑う。

「うん。大変なんだ」

 頭の中がぐるぐるして、何を考えていたんだかもよく思い出せなくて。
 そうやって眠って、気付いたときには忘れている。
 そんなことの繰り返した。


「まだ何か、考えたいことがあったんですか?」

「そんな気がするね」

「じゃあ、思い出せるまで一緒にお話しましょうか」

 るーはそういって、欄干にもたれて体を預けた。
 川辺の夜風は少し冷たい。
 火照った体には、けれど、心地よい。

「寒くない?」

「涼しいですよ」

「眠くない?」

「平気ですよ」

「退屈だろ」

「ぜんぜん?」

 きょとんとした顔で、るーは俺の顔を見返す。
 その距離が意外なほど近かった。
 俺も、橋の欄干に体をもたれた。
 
 彼女のすぐそばに。
 肩が触れるか、触れないかの距離で。



「パーソナルスペース」

 とるーは言う。

「密接距離ですね」

「不快?」

「いいえ?」

「ならいいや」

 勘違いか、からかってるのか、それとも。
 思わせぶりな態度が多いのは、お互いさまか。

「るー、今何考えてる?」

「テスト勉強してないなあって」

「俺も」

「タクミくんは、何考えてたんですか?」


「るーのこと」

「うそつき」

「うん。ばれた?」

「ほんとに考えてたら、そんなこと言えないです」

「だよな」

「テストのこと考えてるとか、そういうこと言いますよ」

「かもな」

 ……。
 
「……今の、笑うところ?」

「それでもいいですよ?」

 本当にそれでもいいよってふうに、彼女は笑う。
 それじゃなくてもいいよっていうみたいに。



 頭がしびれるみたいな感じがする。
 うまくものが考えられない。

「それで、何を考えてたのか、思い出せました?」

「なんだったかな」

「やっぱり、思い出せないです?」

「……思い出せないなら、きっと、たいしたことじゃないんだよな」

「ホントに?」

 俺は答えなかった。

「あのさあ、るー」

「なに?」

 と、本当に突然、るーは敬語をとった。
 ちょっと戸惑ったけど、彼女が当たり前みたいな顔をしていたから、何も言わなかった。
 


「子供の頃に魔法少女にあこがれたこととかってある?」

「好きでしたよ?」

「俺も」

「え、魔法少女ですか?」

「ううん。戦隊ヒーロー」

「ですよね。ちょっとほっとしました」

「誰かを助けたり守ったり、そういうのがかっこいいなって思ったんだ。
 悪役を倒して、いろんなものに立ち向かってさ」

「そんなふうになりたかったんですか?」

「わからない。単に戦ったり武器を振り回したりするアクションが好きだったのかもな」

「まあ、女の子向けアニメの見どころも、変身シーンですもんね」

「誰かを助けられるような人間になりたいっていうのはさ」

「……はい?」

「素直な気持ちだと思う?」

「どういう意味ですか?」



「誰かを助けることで、尊敬されたい、見返りがほしい、認められたい。
 そういう気持ちが、どっかにあるような気がするんだよな。人にもよるだろうけど、俺の場合は」

「……」

「ヒーローになるためには、困ってる人が必要なんだよ。
 だから、ヒーローになりたいって言うやつは、困っている誰かの存在を望んでるんだ」

「……はあ」

「それって、なんていうか……やな感じだよな」

「そのことを、考えてたんですか?」

「うん。……ううん、どうかな」

「誰かが困っているときに手助けができることは、悪いことじゃないと思いますよ」

「そうなのかな」

「だって、現に、困っている人はいるわけじゃないですか。望むと望まざるとにかかわらず」

「困っている人を助けたいって思うのは、自然なことだと思いますよ」

「おこがましくない?」

「そうかも。でも、じゃあ、放っておくのがいいんですかね? さしでがましいとか、おこがましいとかいって」

「……」

「正解なんて誰にもわかりませんよ。自分の心のメカニズムだって、ぜんぜん理解不能です」


「代償行為なのかも」

「何が?」

「誰かを助けたいとか、悲しそうな誰かを見るのがつらいのは」

「代償行為?」

「猫を捨てたことがあるんだ」

「……猫、ですか?」

「代償行為だ」

 誰かのことを考えることで、何もできなかった過去の失敗を帳消しにしたいがための。
 顧みられない誰かのこと考えることで、顧みなかった誰かに言い訳するための。
 
「それって、きっと、何も考えないよりもずっと疚しいことなんだよな」

「そうかもしれないですね」

 街灯の明かりに隠れて、夏の夜の星が水面に浮かんでいる。
 なんだか急に、耐えきれないくらいに悲しくなった。

「るーといると、俺は弱音ばっかだな」

「ですね」とるーはなんでもなさそうに笑った。



「わたしに嫌われたくて、そんな話をしたんですか?」

「かも」

「そのほうが楽だから?」

「だろうな」

「誰だって、自分のことがいちばんわからないものだって、誰かが言ってましたよ」

「そうなのかも」

「自分の気持ちの由来なんて考えたら、誰だってどこかに疚しさを抱えているのかもしれないです」

「……」

「わたしだって、きれいな気持ちだけで、ちい姉やすず姉と一緒にいられるわけじゃないです」

「……」

「そう言ったら、嫌いになりますか?」

「……いや」

「そうですよね。他人って意外と、他人の汚さには寛容なんです。自分ほど厳しくは、してくれないんです」


 そうなのかな。
 どうなのかな。

「自分がいちばん、自分に厳しいから。潔癖すぎると誰にも甘えられないです」

「……」

「タクミくん、手、貸してください」

「どうして?」

「えと、じゃあ、手相を見るので」

「……はあ」

 俺は手を差し出した。
 るーはさっと俺の手のひらをつかんだ。

「どんなもんですか」

「よい手相です」

「……適当に言ってない?」


「そんなことないですよ。お、これは二重感情線ですね」

「なにそれ」

「知りません」

「やっぱり適当だろ」

「違いますよ。感情線が二本です」

 そう言って彼女は、人差し指で俺の手のひらをそっと撫でた。
 すこしくすぐったい。

「意味は忘れましたけど」

「意味ないな」

「ですね」

「るーの手相は?」

「金星帯がありますよ。ほら」
 
 そう言って、彼女は俺に手のひらを差し出した。

「ここです」とさしていたところを、俺も指先でなぞってみる。



 手相の意味なんてわからなかったけど、るーの手の小ささに、戸惑いを覚えた。
 細い指、透き通る爪、折れそうな手首。

 触れるのが心地よかった。
 どうしてなんだろう。

 さっきまで考えていたことが、もうわからなくなってしまう。

「金星帯ってなに?」

「えっと……自分で言うの、いやです」

「はあ」

「……聞きたいです?」

「話してくれるなら」

「……やっぱ嫌です。自分で調べてください」

 ふうん、と言いながら、例の金星帯とかいうのを撫でてみる。

「あの、そろそろ……くすぐったいです」

「……」

「……タクミくん?」

「……もうちょっと」

「……あう」


「……」

「タクミくん、たまにそういうことしますよね」

「るーもね」

「……おたがいさま、ですか?」

「うん」

「……あんまりされると、困ります」

「るーを困らせるの、楽しいよ」

「……」

「いつも、余裕そうだから」

「……へんたい」

 ……なんでだ。


 俺がつかんでいる手と反対側の手で、彼女は俺のもう片方の手をつかんだ。
 俺がしているのと同じように、彼女は俺の手のひらをくすぐりはじめる。

「……」

「……」

 目が合う。
 
「……な、なんですか?」

「なにが?」

「今、何考えてます?」

「……楽しいこと」

「……えっと、奇遇ですね?」

 と言うが早いが、るーは俺の手のひらをくすぐり始めた。
 急な刺激にびっくりして、俺は身をよじりながら、もう片方の手でるーの手のひらをくすぐる。

「あはは」とるーは笑った。
 
 たぶん、本当はそんなにくすぐったくないはずなんだけど、くすぐられるって思うと不思議にくすぐったくなる。



 るーはわーわー騒ぎながら、「ええい!」って声をあげて、俺の脇腹に手を伸ばしてきた。
 思わず体をくの字に曲げると、いつのまにか向き合っていたるーの肩に頭がぶつかる。

「やめろって」って、笑いながら言う。

「ふふふ」ってわざとらしく笑いながら、るーは手を動かすのをやめない。

「くすぐったいよ、るー」

「まいったか」

「まいったまいった」

 るーは笑って、俺から離れた。
 照れくさそうに笑う。

「……何してんだ、俺たち」

「ね、何してるんでしょうね?」

 楽しそうに笑う。


 夜風が吹き抜ける。
 くすぐったい沈黙。
 静かに目が合った。

 黙ったまま、俺たちは体を向かい合わせる。
 静かな七月の夜。

「ねえタクミくん、今、何考えてます?」

「何考えてると思う?」

「わからないから、聞いたんですよ」

「俺も、わかんないや」

「……」

「自分のことは、自分がいちばんわかんないんだろ?」

「……うん」

「るーは、何考えてる?」

「……テスト勉強のこと」

「そっか」

「ね、タクミくん」

「なに」

「足、疲れちゃいました」


「ん。うん」

 それがどうした、という意味で頷くと、彼女はゆっくりと体を倒してこちらにもたれかかってきた。

「……欄干があるだろ」

「ありますね、欄干」

 それがどうした、という声で、彼女は言った。

「るー、あのさ」

「……なんですか?」

「テストの勉強、しなきゃ」

「……」

「明日も、学校だし」

「……」

「帰らなきゃ、だよ、な?」

「……」

「……るー」

「……やだ」

 と、るーは俺の胸に額を押し付けた。


「……酔ってる?」

「そういうことにしても、いいです」

「どうしたの」

「もうちょっと、お話ししよう?」

「……」

「だめ、ですか?」

「……いいけど、さ。どうしたの、るー」

 なんでもない、とるーは首を横に振った。
 俯いた顔は、こっちからじゃよく見えない。
 
 近すぎて、よく見えない。



「……どうして、なのかな」

 るーは、何かをさぐるみたいに、そうつぶやいた。

「何が?」

 るーは、俺の顔を見上げて、

「べつに、とびぬけてかっこいいってわけじゃないですよね?」

「……」

 なんて言った。
 いや、知ってたけど。

 知ってたけど、こう。
 好きな子に言われると、複雑だ。

「なのに、なあ」

 ふう、とるーはため息をつく。

「おい、真顔で言われると俺も傷つくぞ」


「かっこ悪いとはいってないです」

「そういう問題じゃなくてね」

「何が問題なんですか?」

「……いや、俺はるーのこと、とびぬけてかわいいと思ってるから」

「は」

「ちょっと悔しいだけ」

「……あ、あのう、何をおっしゃってるんです?」

「……」

「もっかい、言って?」

「やだ」

「もう一回。……ダメ?」

「ダメ」

「けち」


 ふと、思い出したことがあった。

 一緒に雨に濡れた猫のこと。

 いつのことだったっけ?
 どんな猫だったっけ?

 あの猫は、どこにいったんだ?
 どうして、あの猫と一緒にいたんだろう。

 思い出せないことばかりだ。

「そろそろ戻ろう、るー」

「……うん」

 頷いても、るーは戻る気配を見せなかった。

「……もうちょっとだけ」

 そう言って、彼女はもたれかかってきた。

 俺は、半分あきらめたみたいな気持ちで、彼女の肩に腕をまわしてみた。

 るーはくすくす笑った。

「なに?」

「なんでもない」

 満足そうなため息を漏らして、るーは頬を肩に寄せてくる。
 
「何をやってるんだろうな」

「何をやってるんだろうね」

 結局、動き出すまで、けっこうな時間がかかってしまった。


つづく
このスレで終わらない気がします




 その日、部屋に帰ったら部屋には誰の姿もなくて、
 静奈姉の部屋を確認したらベッドにひとり、床に敷かれた布団にふたり、女の人のからだがあって、
「あれ?」と思って俺の部屋を覗いたら俺のベッドの脇に布団が敷かれていたりした。

「誰だ」と俺が言ったら、

「まあすず姉と静奈さんでしょう」と妙に冷静な声でるーは言った。

「ひとつのベッドで寝ろと言わないだけ良識が働いてるほうですね」とも。

 いやいやそうもいかんだろう、というわけで俺がリビングのソファで寝ることにしたら、

「じゃあお風呂お借りしますね」とるーが脱衣所に入っていってしまった。

 俺はるーの荷物の置かれた自分の部屋に入るのもなんとなく気が進まなくて、
 仕方なくリビングのソファでぼんやりしていたわけだけど、
 そうしていると壁に面した脱衣所のドアの向こうの物音が聞く気がなくても妙に耳に入ってきたりした。

「いや、マジか」

 と俺は思わずつぶやいた。


 というか俺の周囲の女性陣は俺自身の思春期男子性を軽んじすぎている気がする。

 高森には「性欲なさそう」とか言われるし、 
 静奈姉だって、そりゃあ信頼されてるんだろうしそういう対象として見られるとも思ってないんだろうけど、
 いくらなんでも無防備すぎるって状況が結構多い。
 
 そりゃ、自制心くらいあるし、分別くらいはつく。
 見境ないわけでもない。

「……」

 ない、が……。

「……今からでも、ゴローんち行こうかなあ」

 考え事をしている間に、時間はどんどん過ぎていって、
「どうしたんです?」とるーがまだ乾ききっていない髪をタオルで撫でつけながらリビングに入ってくるときまで、
 俺は結論どころか設問さえもろくに出せていなかった。

 ぐるぐるまわる頭を強引に落ち着かせてるーの姿を見ると、

「げ」

 となった。



「げ、ってなんですか、げ、って」

「……なんでパジャマなんだよ……」

「な、なんでって。寝るときいつもこれですよ、わたし」

「いや、うん。べつに変じゃない……違う、俺の問題だこれは……」

「……えと、どうかしたんですか?」

「ほっといてくれ、いろんなものと戦ってるんだ」

「……そうなんですか」

「うん」

「えっと、がんばってください?」

「うん」


「……となり、いいですか?」

「……え」

「となり」

 と、るーはソファをさした。
 まあ、二人掛けなんだけど。

 二人掛けなんだけどさ。

「な、なんで」

「見たいテレビ、あるんです。タクミくんの部屋、テレビないじゃないですか」

「……そう、だねえ、そういえば」

 そういえば、ない。

「失礼します」

 俺の答えを待たずにるーは隣に腰を下ろした。
 


 というか、
 もう、
 いいかげん無理だ。

 俺だっていろいろがんばってるのだ。
 誰も気付いていないだろうし、誰も褒めてはくれないだろうけど。

 袖から覗く腕の細さが、細い首筋が、
 見慣れない足の甲と小さな指が、きれいに並んだ爪が、
 濡れた髪とシャンプーの匂いが、わずかに紅潮した頬と潤んだ瞳が、

 頭をしびれさせる。

 が、

 ここは親戚の家で。
 ひとつ屋根の下には彼女の姉二名。


 というわけで。

「……どうぞ」

 俺は顔をそらしてやりすごす以外に手段を持たない。

「……ときどき真面目であることをやめたくなるな」

「そういう日もありますね、喫煙者さん」

「あれはやめたよ」

「それはよかったです」
 
 何の説明も求めないるーの性格に、俺はいつも助けられてる。
 助けられてるけど。



 いろんな考え事があるからとか、そういうのとはあんまり関係なく、
 とりあえず彼女を『そういう目』で見たくなくて、
 だからなんとなく、今はそばにはいたくなかった。

「俺も風呂入ってくる。るーも、テレビ見たら、あと寝な」

「あ、はい」

 なんだかそれは裏切りのような気がする。
 それともそれは、子供っぽい願望の投影?

 どちらなのかはよくわからないけど。
 いずれにしても。
 
 今はどうにもなれない。
 酔っぱらった眠い頭で、勢いに任せたままで何かを決めたくない。
 それも勝手なのかもしれない。

 そんなことをぐだぐだ考えながらシャワーだけを浴びて、
 どうしようか迷いながらしばらく髪を乾かして歯磨きをして、顔を洗って静奈姉の化粧水やら乳液やらを勝手に使って、
 時間を無駄につぶしてテレビの音が消えてから、俺はリビングへと戻った。



 するとテレビも電気も消えていた。
 勝った、と俺は思う。何にかはわからない。

 そうしてジャージとTシャツ姿になった俺は暗いままの部屋を歩いてソファへと向かった。
 一応るーがいないことを確認してから、寝そべる。
 
 少しだけ猫とベースとよだかとスクイのことを考える。ついでにテストとバイトのこと。
 今日何度も考えたようなこと。

 瞼を閉じて「今日は疲れたなあ」なんて思う。酔いなんて、本当はとっくにさめているとわかっていた。

 だからたとえば扉の音がして、光が俺の部屋から延びてきて、

「タクミくん」なんてるーに声をかけられたときも、決して寝ぼけてなんていなかった。

「なに」と出した眠たげな声も、半分くらいはつくりもので、るーだってそれに気付いたと思う。

「一緒に、寝ませんか?」

 そんな言葉にだって、反対できる理性くらいあったけど、従いたくなかった。

「……うん」

 べつにそれは下心じゃない。
 どうせ誰も信じてくれないだろうけど。





 なんでなのかは、やっぱりよくわからない。
 
 俺は床の布団に寝そべっていて、るーは俺のいつも使ってるベッドに横になっていた。
 床のほうが固いから、なんて当然のように思ったけど、
 今になって自分の匂いがしみついていないか気になったりもした。
 
 そういえばよだかが、匂い、するって言ってた気がするし。

 なんてことを、まさか訊ねるわけにもいかずに、俺は黙ってた。

 ただ俺は、普段、自分の使っているベッドに、パジャマ姿で横になっている好きな子の息遣いを聞きながら、
 息遣いを聞いてる自分が気持ち悪くって、なんとか意識しないように気を付けていた。

「前も……」

 と、不意にるーは言う。

「前も、お泊りしたこと、ありましたよね」

「バーベキューのとき?」

「うん。それに、台風のときも」

「……あったなあ」

 子供だからといって、るーと一緒くたに扱われて一緒に寝させられたっけ。
 俺だって小学高学年だったわけで、いろいろ気まずかったことを覚えている。

 美咲姉なんて、考えてみれば二つか三つくらいしか違わなかったわけで(当時はすごく大人に見えたけど)。



「ね、タクミくん」

「なに」

「お姉さんが、おとぎ話をひとつ、してあげましょう」

「……誰がお姉さんか」

「『かすかなかすかな日照り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向うの山は暗くなりました。』」

「……それ、知ってるよ、俺」

「ですよね」とるーは笑った。

「なにせ、タクミくんに教えてもらった話ですからね」

 当時の俺もよく知っていたものだ。
 といっても、あの当時は、作家の名前なんて知らなかったけど。


 どんなときに話したんだっけ。
 たしか、あのとき、るーが、泣いていたんだっけ?

 悲しそうで、だから……。

「どうして、そんな話をするの?」

「好きですよ、めくらぶどうさん」

「……」

「……」

「……今なんて?」

「おやすみなさい、って言いました」

「……」

「タクミくん、お返事は?」

 園児か俺は、と、場違いなツッコミを入れたい自分が半分、
 それどころじゃない聞き返せ、とうるさい自分が半分。

 操縦者は間をとって、

「おやすみ」

 と言った。

「よろしい」

 るーはこっちに背中を向けた。それ以降は何も喋らなかった。

つづく

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