梓「透き間」 (41)

2015.梓誕SSです。
先に言っておくと、このSSは今年の紬誕に書いたものを少し書き直した内容です。
つまり紬梓です。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1447226470

人の居ない放課後の、すでに外は日が沈みかけて薄暗くなった廊下の向こうを、

まるでその風景に自然に溶け込んでしまうようにムギ先輩が歩いて行くのが見えた。

私はその後姿を遠くに発見すると、なんだか見てはいけないようなものを見てしまった気がして、

次には自分が今何をしようとしていたのか思い出せなくなっていた。

気付くとムギ先輩の姿は見えなくなっていた。


今日は期末試験のために軽音部がお休みで、私はちょうど、

トンちゃんに餌をやりに部室へ行こうとしているところだった。

…………。

私は、他の生徒がよくそうするように、午前の試験が終わった後に人の少ない教室で1人で明日の試験の勉強をする。

だいたい5時か6時くらいまで、途中で適当に外をぶらついたり飲み物を買いに行ったりして休憩しながら続けるのだけれど、

時間が経つにつれて教室に残って勉強している生徒は少しずつ減ってゆき、

冬の肌寒い空気が覆いかぶさるように外に充満する頃には、

教室の暖房が鳴らす機械的な音と、たまにどこかから反響して沸き立つ生徒の笑い声や、

廊下を歩いている先生や生徒の足音のほかには何も聞こえないような、冷たい静寂が学校全体に沈殿する。

私は、そんな時間に、誰もいない教室で明かりをつけたまま独りで勉強をするのが好きだった。

あるいは、そうした時間を独り占めしている全能感を、

学校の寂しげな風景と一体になっているような私自身に重ねて見るのに

夢中になっていたのかもしれない。

ふと顔を上げて辺りを見渡したときに奇妙に心地良い孤独を感じたりして、変な話だけれど、

私はそういう瞬間に果てしない自由を手に入れたような気がするのだ。

そしてまた、教室にやりかけの勉強の跡を残したまま、

暗くなって遠くがよく見えないような廊下を歩いていく自分の足音を聞きながら、

鍵がまだ締まらないうちに部室へ行き、

誰もいない、明かりも点いていない部屋で、

水槽にエサを撒きながら、スッポンモドキとの対話を楽しんだりした。


そして今日も私はそういう手筈で部室へ向かう階段を上っていて、つまり私だけの時間を楽しみにしながら、

てっきり軽音部の先輩はみんな早々に帰ったものだと思って油断していたところへ、

思いがけずムギ先輩の姿を見てしまったのだった。

先輩の明るい髪の毛の色は、薄暗い学校の中でも目立って見えたけれども、

かと言って異質とか浮いているとかそういう感じは無く、先輩はとても自然にそこに居た。

唯先輩や律先輩の気配はしない。

ムギ先輩はもしかして私と同じように1人で教室に残っていたのだろうか?


それはほんの一瞬の出来事だったけれど、

先輩のそんな鈍いような気さえする眩しさは、

まるで閃いたように私の印象に影を作り、

そして、それが過ぎ去ってしまった後にはどうしても思い出せなくなってしまうような

切ない感動に、私はしばらく茫然としていた。

…………。

…………。

トンちゃんに餌をやりながら、私は私がさっき先輩に感じた不思議な印象を独りごちていた。

そうしてすぐに、用務員さんが鍵を閉めに来る前に帰ろうとして、

明かりも点けないままでいた部室をちらっと振り返ると、

ちょうど外から当たる明かりの具合で、机の上に何か反射して光るものがあるのを見つけた。

それは1冊のノートだった。

私は良くない事だと知りながら、躊躇いがちにノートをめくって中を見た。

五線譜と、途切れ途切れに繋がっている音符記号、そして私には理解できないような

抽象的なメモが至るところに書かれていた。

とても乱雑なようで、けれどもそこかしこに流れるように配置された記号や文字は

あたかも秘密の法則に基づいて並べられているような、ある種の絵画めいた印象を私に与えた。

私はどうにかして音階を読み取ろうとしたけれど、

それらは奇妙な場所から始まっては中途半端な所で唐突に終わったり、

まるででたらめなコードで繋がっていたりした。

そしてそういう時は大抵、終わり際に謎めいたメモが残されているのだった。

私は自分でも不思議なくらい熱心に読み耽った。

書かれている事の意味は分からないけれど、

その楽曲とも呼べないような記号の連なりの中に、

何かどうしても知らなければならない私宛てのメッセージがあるような気がして、

そんな風に夢中になって見つめていると本当に読み解けるような気持ちがした。

そうやってあまりに真剣になっていたものだから、

用務員さんが鍵を閉めに階段を上ってくる音が聞こえると

びくりと体を強張らせてしまうくらい驚いて、

わざとらしく物音を立てて帰る支度をした。

その拍子に、手に持っていたノートは無造作に机の上に投げっぱなしにしてしまった。

…………。

…………。

帰りがけ、玄関にムギ先輩が居た。

「先輩」

私は先輩の後姿を見ると、何か考えるよりも先に、呟くようにそう言った。

「あら、梓ちゃん」

先輩はいつものようににっこりと笑って私の方を振り返った。

その純粋に嬉しそうな笑顔を見ると、私は、先まで私が色々と考えていた、

ともすれば私の知らない先輩の素性なんぞを勝手に想像していたことを恥じて、

そのせいで自分から声をかけたにもかかわらずふいと視線を落として黙り込んでしまった。

ムギ先輩はそんな私の気詰まりな思いなど関係なしに、私の無粋な顔を覗き込んで言った。

「これから帰るの?」

「はい」

かろうじて返事をして、それによって私は抑えきれずにいたある疑問を口にするきっかけを得た。

「部室に置いてあったノート、ムギ先輩のですか?」

先輩はちょっと驚いたような素振りを見せたあと、子どものように照れて、

「えへへ、見られちゃった」

「す、すみません。本当は見るつもり無かったんですけど……」

私は懸命に弁解して、やっぱり言うべきじゃなかったかな、と後悔すると同時に、

今まであまり考えた事の無いような、先輩に対するある種の興味がふつふつと沸いて来るのを感じた。

「先輩は作曲するとき、いつもあんな風に書いているんですか?」

「最初はああやって下書きをするの。思いついたままに、ね」

そう言って、本当に恥ずかしそうに顔を手で覆った。

私は、先まで私の中にあった先輩の謎めいた正体の思案などすっかり忘れて、

こうした子供っぽい仕草と絶えず周囲を和ませる雰囲気を受けて、

どうにか私の知っているムギ先輩を想像の中に取り戻した。

そして、この時にして思えば不吉めいた心象を無理にでも拭い去りたいかのように、

あるいはノートを盗み見てしまった事への罪滅ぼしの意味も込めて、思わず、

「私も作曲してみたいです。ムギ先輩が良ければ、教えてほしいなって……」

そう言うと、先輩は一瞬ぽかんとしてから、急に目をキラキラと輝かせて、

とても嬉しそうに私の手を取って「うん!」と答えた。

……自分でも不思議に思うけれど、私はそれまで作曲をしたいと思ったことはほとんど無かったのに、

つい口に出して言った後では、まるで以前からずっと先輩に作曲を教わりたいと考えていたような気がするのだ。

そしてこれも私の下らない夢、あるいは願望のようなものだけれど、

私は、私がそう言い出すのを先輩が期待していたのではないかと思えてならないのだった。

「あ、でもテストが終わってからね」

先輩はなんだかとても楽しそうで、その喜びを隠しようもないといった様子を見ていると、

私は今まで感じたことの無い幸福を予感する。

それはきっと、言葉にするなら"愛おしさ"のようなもので、

彼女、そう、彼女を構成する透明な膜は、彼女の外で起こるあらゆる不幸のサインを

無害なものに翻訳してしまう柔らかな表皮なのだ。

それは同時に、彼女と彼女以外のすべてを隔ててしまう厚い壁となり、

私はその愛おしさの向こう側に、決して到達できない彼女自身が存在するのを信じてしまう。

私は彼女を知りたいと思った。

どんなに近づきたいと願っても、それが決して叶わないものだと分かっていながら……。

…………。

…………。

試験が終わって次の日、軽音部はまたいつものように放課後の時間を雑談したりおやつを食べたりして過ごした。

ムギ先輩はあれから私に何かを話しかける様子はない。

私から声をかけるべきなのかどうか迷っているうちに、

そうしたぎこちない態度を唯先輩に見透かされて、

「今日のあずにゃん、なんだかそわそわしてるね」

なんて言われてドキッとしたり、自分でも嫌になるくらい挙動不審を顕わにして、

ろくに練習もしないままその日は解散となった。

帰り道、ひどく疲れた思いでとぼとぼと歩いていると、ムギ先輩から着信が来て慌てて電話を取った。


『明日会える?』

私は勢いに任せて返事をした。

そうして電話越しに集合の約束を取り付けた後、

そういえば明日は土曜日だったっけ、と今更になって気付いたりした。

…………。

試験が終わって次の日、軽音部はまたいつものように放課後の時間を雑談したりおやつを食べたりして過ごした。

ムギ先輩はあれから私に何かを話しかける様子はない。

私から声をかけるべきなのかどうか迷っているうちに、

そうしたぎこちない態度を唯先輩に見透かされて、

「今日のあずにゃん、なんだかそわそわしてるね」

なんて言われてドキッとしたり、自分でも嫌になるくらい挙動不審を顕わにして、

ろくに練習もしないままその日は解散となった。

帰り道、ひどく疲れた思いでとぼとぼと歩いていると、ムギ先輩から着信が来て慌てて電話を取った。


『明日会える?』

私は勢いに任せて返事をした。

そうして電話越しに集合の約束を取り付けた後、

そういえば明日は土曜日だったっけ、と今更になって気付いたりした。

連投しちゃいました
ダブってるのはナシで

翌日、午前、私は休日の校舎に来ていた。

長丁場だった試験が終わり、その間の遅れを取り戻すかのように熱心な生徒が部活動に励んでいる以外には、

ほとんど人気の無い静かな場所だった。

教室や廊下には誰も居ない。

外は厚い雲に覆われて、冬のシンと張り詰めた空気の、

少し暗がりになった校内を白い息を吐きながら歩いていると、

あの奇妙な孤独感を思い出して、再び私は自由を手にしたような気持ちになった。

これは私にとって1つの発見だった。

今までは試験期間でしか知らなかったあの特別な空間、特別な時間は、

ほんの些細な違いはあれど、こんな方法でも味わうことができるのだ。

私は予定より少し早めに到着した。

先輩は先に部室に来ていた。

「すみません、待たせちゃいましたか?」

「いいの、気にしないで」

部室はまだ肌寒かったけれど、徐々に暖房が効いてきて、

私はマフラーを椅子にかけて先輩の向かいに座った。

「寒いね」

と先輩は言った。けれど先輩はちっとも寒そうに見えなかった。

「ちょっと待ってて、今紅茶淹れるから」

そう言うなり、私が遠慮する隙も無く立ち上がって、鼻歌交じりにティーカップを準備し出した。

机の上には例のノートが広げられていた。

相変わらず何が書いてあるのか読めないけれど、

やっぱりこれはムギ先輩のものだったと確信すると、

私はなぜだかとても安心した。

「この前はね、テスト勉強の息抜きにここで落書きしてたんだけど、

 あんまり空想に耽っていたからつい置き忘れちゃって」

「先輩はよく部室で作曲しているんですか?」

「う~ん……たまに」

私は差し出された紅茶を遠慮がちに飲みながら、先輩の話を聞いていた。

「家に閉じこもって曲を考えるより、こんな風に誰かがいつも居た場所で、 

 けど今は誰もいないような場所を独り占めしながらのんびり考える方が、

 なんだかとても良いものが書けるような気がするの。梓ちゃんはそう思わない?」

「私……私はあまり曲とか詩とか考えた事ないので……」

さりげなくそう答えながら、先輩が、偶然にも私と同じような事を感じていたという事実を、はっきりと、

まるで私の考えていることを見透かしでもしているかのように言うものだから、

私は自分の中に可笑しいほどな狼狽と喜びが生まれるのを、表面に出さないよう隠すのに必死だった。

それから先輩は、私に色々なことを教えてくれた。

音楽的な知識はもちろん、発想のヒントや、

私みたいに理屈だけで物を考えてしまう人間にはとても思いつかないような、

感覚的な視点を語ってくれた。

そして私は私らしくなく、いちいち先輩の言う事の新しい発見に目を輝かせたりした。

スローなテンポで、けれど控えめというほどでもなく語り続ける先輩は

いつも軽音部でしているように自然で、

時々、身振り手振りで一生懸命伝えようとしているのを見ると、

その子どものような純真さに私まで夢中になってしまうのだった。

先輩は自分のノートに書いてある楽譜やメモについても解説してくれた。

けれど、その曲の構成やイメージ、メモの意味などを話す時、

先輩の言葉はまるで宇宙の真理を紐解いているかの如く抽象的になり、

私はそのたびに首を微妙にかしげながら、詩の朗読を聴くような気持ちで耳を傾けた。

そうしていると、少しずつ先輩の言っている事の意味が分かるような気がした。

お昼を過ぎて、一緒に用意してきたお弁当を食べながら、私たちは2人だけの時間を楽しんだ。

…………。

…………。

午後もそれなりの時間になって、もう日が沈みかけるような頃、

他愛のない雑談に花を咲かせたり、先輩の淹れてくれる甘い紅茶を飲んだり、

ギターとキーボードで演奏を合わせてみたり、そんな閉じた世界を思う存分満喫した後に、

先輩が一息ついて「そろそろ帰りましょうか」と言った。

私はもっと話したい事がいっぱいあるような気がして、

けれどもそれが一体何なのか分からないまま、

「そうですね」とだけ答えた。

荷物と上着を取って、暖房と明かりを消し、部室から出て先輩が鍵を掛けると、

急に辺りが静かになった。

学校にはもう、私たち以外には誰も居ないような気がした。

「今日は楽しかったね」

校舎は少しずつ夕闇に沈んで行き、私たちの周囲が暗さを増していく一方で、

隣に一緒に歩く先輩の吐く白い息と、火照って紅潮しているその横顔は

ますます輝きだして私の目に映った。

私は、私がそうやって横目に先輩を見ているのを、いつ先輩に気付かれてしまわないかドキドキしながら、

それとは逆に気付いて欲しいような視線を逸らさずにはいられなかった。

そして、ふわふわと浮いてしまいそうな足取りで、私は、私が今日先輩について知った事、

または先輩が知ることのできたかもしれない私の事などを振り返っていると、

部室に2人きりでいた時にはあんなにもお互いを知り得たような気がした私の心も、

それらがすべて幻だったのではないかと思えてしまうほど

何もかも曖昧な記憶になってしまっている事にようやく気がついたのだった。



私はゆっくりと歩みを止めた。

何かに脅かされているような奇妙な実感がにわかに私を支配した。

私は今、ひとつの幸せな夢から覚めようとしているのだ。

「梓ちゃん?」

先輩が振り返った。

先輩は私を夢の出口に連れて行こうとしている。

私はただぼんやりとそこに突っ立ったまま、先輩の心配そうな顔を見ていた……。

もう足元もはっきりと見えなくなってしまうくらい暗くなった廊下で、

先輩は次第にその背景に溶け込んでどこかへ行ってしまいそうだった。

私はつっかえるように、言葉にならない声を出して、

何を言いたいのかも分からないまま、

そしてそんな不明瞭な感情をごまかすように、

近くの教室に逃げるように入って行った。


先輩が心配そうに教室を覗き込んで、

私は、まるで駄々をこねる子どもみたいに先輩に背を向けて突っ立っていた。

「梓ちゃん」と優しい声が聞こえた。

それはいつも聞きなれた先輩の声だったけれど、

私は、そうやって語りかけてくる言葉の抑揚、反響して震える空気、

その僅かな違いの裏側に、彼女の存在を感じた。

振り返ると、先輩はなんだか寂しそうに、

けれども相変わらず優しげな瞳で、私を見ていた。

私は無言のまま、じっと彼女を見つめた。

暗闇の教室の中でも、彼女の姿ははっきりと私の目に映った。

語りかけるように神秘的な瞳、

つやつやして細やかな肌、

愛おしく可愛らしい口元……。

私は彼女を形作るものすべてを暗記してしまうくらい、じっと目に力を入れて魅入っていた。

そのせいで、彼女がほとんど私を抱きしめられるほど近づいて来ているのにしばらく気がつかなかった。

「こんなに暗くなっちゃったね」

彼女は耳元で囁くように言った。

私は彼女に夢中だった。

貪るようにその存在を感じた。

それはもしかしたら、私の知らない先輩の、

あの透明な膜を剥がして顕わになった本当の姿なのかもしれない。

そう思うと、私の心は得体の知れない歓喜に震え、

そして同時に、恐ろしいほどな戦慄に全身に力が入らなくなるのだった。


「行きましょう」

そう言って先輩は私の手を取った。

まるで私のぎこちないダンスをリードするみたいに、

ゆっくりと、私の身体ごと引っ張っていった。

私は放心して、ただ先輩の導くままに歩いて行った……。

…………。

…………。

帰り道、私たちは手を握ったまま、無言で歩き続けた。

「雪」

と先輩が突然呟いた。

空には切ないほどな細雪が舞っていた。

そして先輩はなんだかとても嬉しそうに、さして特別でもないような

どんよりした冬の分厚い雲を見上げているのだった。

先輩の掌の温もりが、私には熱すぎるくらい伝わってくる。

次第に、今日、先輩と過ごした時間をなんだかとても遠い昔のことのように思い返しつつある、

そのせいで今こうして手を繋いでいる事の意味を見失いがちな私を、

そうすることで2人だけの秘密の関係をそのまま少しでも引き留めておくことが出来でもするかのように、

穏やかな沈黙が押さえつけていた。

私は、私が望みさえすれば、"彼女"といつでも会えるのだと思った。

けれどそれは私にとって常に何かもの悲しい、

儚い記憶とひとまとまりになって私の心を苦しめる。

決して満たされることのない、けれどもそれを追い求めずにはいられないもの……。


私の横に並んでいる、その憧れの人は、

どこか遠くの方へぼうっと視線をやりながら、

私の小さな歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いている。

そして、そのまま2人の帰り道が別れてしまうまで、

とうとう一度も私の方を見ようとしなかった。

私がその事に気付いたのは別れてしばらく経った後だった。……

おわりです

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