唯「光を喰らう魔物」 (86)


◆◆



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――その日目覚めた私が真っ先に目にしたのは、真っ白い天井だった。


「ん……?」


自分が寝ているんだという事はすぐにわかったので、上半身を起こす。
直後から目に入ってくる白を基調とした部屋の色は病室を思わせる。
周囲を見渡してみると、実際私の寝ていたベッドは柵があったりしていつかどこかで見た病室のものと酷似していたし、そのベッドの隣の小さな棚には花瓶が置いてあった。
どうやらここは確かに病室で、私は見舞われる側の存在。それは間違いないらしい。

次に、さっきから目に入っていた別のものに意識を向ける。
別のもの、という言い方は少し酷いかもしれない。私が身体を起こした時から、ずっと心配そうな驚いたような顔で私を見ている、二人の人。


「ゆ、い……?」


メガネをかけた短髪の男性が、私に向かって呆然と口を開く。
その隣で、長めの茶髪の女性が感極まったかのように涙を溢れさせて口元を押さえる。

そして、もう一人。


「んっ……」


私の足元あたりに、うつ伏せて眠っている女の子。
長い黒髪を頭の左右でまとめた、可愛らしい髪形をした女の子。


「あ、梓ちゃん! 梓ちゃん! 起きて!」

「んぅ……へ……?」


茶髪の女性に揺さぶられ、その子が目を覚ます。


「………………」


その子はしばらく眠そうな瞳で私を見つめ続けたけど、数秒か数十秒か経った後に瞳に涙を滲ませ、抱きついてきた。


「良かった…良かった…! 目が覚めたんですね、唯先輩…!!」

「………」


私はその子を愛しく思いつつも、それに返す言葉を持たなかった。
その理由は、とても簡単で単純なこと。

わからなかったから。


「……? ゆい、せんぱい…?」


どうして、私はここにいるのか。
どうして、この子はここにいるのか。
そして――


「……あなたは、誰ですか?」

「……え、っ…?」


キミが誰なのか、私が誰なのか。あの人達は誰なのか。

……全部、わからなかった。




――短髪の男性がお医者さんを呼んできて、長髪の女性がどこかに電話をかけて、私の周囲にはあっという間に人が増えた。


医者「……少し様子を見てみよう。調子が悪くなったらすぐに言いなさい。それまでは皆と話しているといい」

唯「はい……」

梓「………」


私の名前が『唯』であることは、さっきのやりとりで察していた。
あと、私の傍らに寄り添って離れないこの小さな女の子の名前が『梓ちゃん』であることも。

……もっとも、それはわかったところで私にとっては誰も彼も皆『見知らぬ人』であって、怖い相手ではある。
ずっとくっついてるこの子はなんとなく妹のように見えて可愛いけれど、それでも素性がわからない以上、「どうしてくっつくの?」とかは聞けなかった。
周囲の人達にも何を言えばいいのかわからない。私には、この人達が何者なのか予想すらつかない。自分とどの程度の関係なのかさえも。

だから私は、この人達を警戒せざるをえなかった。悪い人には見えない、けど、何もわからない。だからしょうがないと思う。
そんな私に対して、周囲の皆は戸惑いのような寂しがるような表情を見せながらそれぞれ名前だけ自己紹介をしてくれた。
そしてその後、


律「記憶がない、って? 大変だな、唯」


カチューシャをつけた女の子が私に顔を寄せながら軽く言う。
田井中 律さん。この軽いノリだけじゃなくて真っ先に私に話しかけてきたあたりを見ても、ムードメーカー的な存在なのだろうか。


澪「軽く言うなよ……唯本人の不安もわかってやれ、律」


その隣に遅れて並ぶ、端正な顔立ちの黒髪長髪の女の子。
秋山 澪さん。大人びて見えて、ムードメーカーの人につきもののブレーキ役なのかな、と思った。


紬「……唯ちゃん、困った事があったらなんでも言ってね?」


ふわっとした雰囲気を放ちながらも、どこか芯のある優しさを向けてきてくれる金髪気味の上品な長髪の女の子。
琴吹 紬さん。私を案じてくれているのがまっすぐ伝わってきて、どことなく「育ちがいいのかな」なんて思ってしまった。

……皆が皆、口々に私を唯と呼ぶ。身に覚えの無いその名前を、何度も、何度も。


唯「……ありがとうございます。よく思い出せませんけど……心配かけたんですよね? 私」


少なくとも、皆がそれぞれに私を心配してくれていたのは確かだと思ったからお礼を言う。
何も思い出せないけど、この人達は多分、いや、ほぼ間違いなく悪い人達じゃない。
私との関係は、まだわからないけど……


律「……敬語なんてやめろよな。同級生だろ、私達」

澪「記憶がないって言ってるだろ……」

紬「じゃあ、次は唯ちゃん――あなたの事と、そこの梓ちゃんの事、でいい?」


尋ねたのは、その話をしていいか、という意味だろう。
私自身の事も当然気になるし、この梓ちゃんの事も気になるから私はすぐに頷いた。
特に梓ちゃんは、ずっと私の隣にいるのにあれから一言も言葉を発さない。ずっと隣にいてくれる程度には、私に対して何か思うところがあるはずなのに。

私が目覚めた時も、そばにいてくれたのに。
私が目覚めた事を喜んで、抱きしめてくれたのに。

だから私は先にこの子の説明のほうを求めた。澪さんが軽く頷き、言う。


澪「その子は中野 梓。私達の1つ下の後輩で、唯のことを慕っていたよ」

梓「………」

梓ちゃんは俯き、私に顔を見せないようにしながらも私の服の袖を摘んだ。
そういえば私のこの服は病院着…って言っていいのかな、とかどうでもいいことを考えながらも、その行動を可愛いと思った。
年下らしいし、どこか放っておけない子なんだろうか、とさえ思った。けど、


律「……慕ってる、なんて言われたら素直じゃない言葉の一つや二つや三つ、飛ばす奴だったんだけどなぁ」


どうやら実際は真逆の子だったらしい。
それほどまでにこの子が変わってしまったのは……私のせい、なんだろうか。


紬「……そして、あなたは平沢 唯。私たちの、大事な大事な仲間」

唯「仲間……」


そう言われると、記憶はなくても嬉しくなる。真っ先にそう言ってもらえたから余計に。
そして言ってもらえたからというわけではないけど、私のために親身になってくれるこの人達を、私は信じたいと思い始めていた。
早計かな? でも、この人達は疑いたくない。なぜかそんな気持ちばかりが溢れてくる。


澪「私たちは、五人でバンドをしてたんだ。つまり正確に言えばこの五人は軽音楽部の仲間、だ」

唯「軽音楽部…?」

律「そ。軽い音楽って書いてさ、ちょっと略して軽音部。軽ーくお茶飲んでお菓子食べてバンドする。そんな部活の一員だったんだ、お前は。あ、ちなみに部長は私な!」

澪「……いろいろ言いたいけど、今言ってもしょうがないか」


澪さんが不服そうに嘆息する。それを見て紬さんが苦笑する。
なんとなく、こんな空気が日常だったのかな、って思う。この人達の、そして、私の。
でも、記憶の無い私は確かめておかないといけない。一つ一つ、気になった事を。納得できない事を。
決して疑うわけじゃなくて、ハッキリさせておきたいだけ。ついでに何かいろいろ思い出すかもしれないし。


唯「……それ、本当ですか?」

紬「うん」

律「嘘を言うわけないだろ。みんな唯のこと、大事な仲間だって思ってる」

澪「そうだ。そこだけは絶対に――」

唯「あ、いえ、そこじゃなくて」

澪「……ん?」


唯「そんないい加減な部活が、本当にあるんですか?」




――あるらしい。あったらしい。私もしっかり堪能していたらしい。
というか、私はそのお茶とお菓子に釣られて入部したようなものらしい。

とりあえず、私のさっきの言葉にたいそうショックを受けたらしい三人から私とその周囲のことについては1から100までを熱く教えてもらった。
先程から紹介のない、目覚めて最初に私が目にした三人のうちの二人、一回りほど年上の男性と女性。彼らが両親であることも聞いた。病人につきっきりの大人、ということでなんとなく察してはいたけど。
しかし、それ以外の話となると本当に知らない事――いや、忘れた事ばかりだった。


澪「私達は桜が丘女子高等学校の三年生だ」


例えば、私が高校三年生である事。
今はどうも春のようだから受験を控えた学年といっても慌てる必要はなさそうだ。
けど、こうして会話もできて普通に頭も回っているはずなのに自分の年齢に思い至らなかったことは多少ショックだった。


律「ちなみに、クラスにはこんな奴らがいる」


この場にいない周囲の人、クラスメイトとか先生とかの写真も見せてもらいながら説明を受けたけど、誰一人として思い出せなかった。
付き合いの長い短いに関わらず、誰一人として、だ。
これもなかなかにショックだったけれど、どちらかといえば思い出せない事そのものより、縋れる人がいない事にショックを受けていたように思う。
誰か一人でも覚えていれば、その人に助けを求めていたと思うから。それができないという事は、私は一人ぼっちという事だから。
……だから、まずは今周囲にいてくれるこの人達の事を思い出すべきなんだろう。


紬「部活での私達の事も聞く?」


聞く限りでは私は部活ではギターをやっていたらしい。
相変わらず隣にいる梓ちゃんと一緒の楽器を、ベースの澪さんとドラムの律さんとキーボードの紬さんの旋律に乗せて。
ついでに、私はギターに『ギー太』と名づけて可愛がっていたらしい。実感は沸かないけど、名前をつけるのは愛着が沸いていいことなんじゃないかな、とは思う。

さらに――というかこれは完全に余談だけど、そんな説明を受けたり会話したりのうちで何度も律さんに言葉遣いを注意された。
正確には言葉遣いと呼び方、だ。「唯らしくない」とのこと。
言葉遣いは、確かに同級生に敬語はどうかと思うので改めようと思う。でも呼び方はどことなくしっくりこないから「努力する」と答えた。
寂しそうな顔をされたけど、仕方ないと思う。
ここにいる皆が悪い人だとは思わない。けど、私は誰よりも私がわからない。そんな呼び方をする人だったのかなんてわからない。
誰にでもそういう呼び方をする人だったと聞くけど、きっとそれは積み重なった時間が作り上げた『平沢 唯』の人格。
私には――積み重ねたはずの時間を思い出せない私には、『平沢 唯』のような振る舞いは、出来る気がしなかった。


――そして。

語られ通しで時が流れ、カーテンから透ける茜色に染まりつつある白い病室で、もっとも重要な事に私の方から触れる。


唯「――私は……どうしてこんな事になってるの?」


皆が、一斉に口を噤んだ。
さっきまで五月蝿いほどに語り通しだった皆が、一斉に。


澪「………」

律「………」

紬「………ちょっと、待っててね」


しばらくの沈黙の後、紬さんがそっと席を立ち、私の両親の隣に立つ白衣のお医者さんの所へと歩を進めた。
私も他の皆も、それを視線で追うことしか出来なかった。理由は私と皆では違うはずだけど。

二人だけで小声で何かを話し合った後、お医者さんがこちらへと歩み寄ってくる。
少し後ろを歩く紬さんの曇った表情と、そもそも小声で話し合わないといけないような事だという事実が、私の心を重くする。
きっと、かなり言いにくいような事情があるんだろうな。


医者「……平沢さん、君が記憶を失っている理由についてだが」

唯「……はい」

医者「まず先に言っておく。君は信じないだろう。だがこちらとしても言葉を選んだところでどうにもならないのは察して欲しい」


淡々とした大人の男性の物言いが、嫌な予感を倍増させる。
思わず生唾を飲み、しかし次の言葉を黙って待った。
どれほど衝撃的な言葉が発せられるのか、予想すら出来なかったけど――



医者「君は……『魔物』に襲われたんだ」





唯「……は?」


は?


医者「比喩ではなく、『魔物』だ。人は理解の及ばないモノをそう呼ぶ」

唯「え、いや、えっと、そこに疑問を持っての「は?」ではなくですね………つ、紬さん?」

紬「………」

唯「律、さん?」

律「………」

唯「…澪さん」

澪「………」


誰か一人でも「冗談だよ」と言ってくれないかと期待したけど、そんなことはなかった。
皆の沈痛な表情が、固く結ばれた口が、言葉以上に教えてくれている。


唯「……本当、なんですか」

医者「信じられない気持ちはわかる」

唯「………」


もう一度、周囲を見渡す。
でも、誰一人として私の求める顔はしていなかった。


唯「……信じられません。けど、信じないと話は進みそうにないですね」

医者「…そうだな」


「信じられないのも仕方ない」そんな言い方をしてくれるということは、記憶を失って私の価値観までおかしくなってしまった、というわけではないらしい。
少なくとも私の反応は正常で、常識的で、それを承知の上で皆はここにいる。
それなら、信じてみて話の続きを聞くしかない。たとえ『魔物』なんて突拍子の無いものでも。

……『魔物』。一体どんなものなんだろう。
なんとなく四足歩行で首が多い大きな獣を想像して、襲われてよく無事だったなぁ、とか思ったけど、続く言葉でそれは否定された。


医者「その『魔物』は記憶を食べる。いや、医者として正確に言わせて貰うなら、そいつは相手の記憶を消去するんだ」


……また、ずいぶんと胡散臭い。
もっとも、魔物って時点で相当なんだけど。でもそんな胡散臭い事を大真面目にお医者さんが言う、それ自体が信憑性の裏返しのような気もする。
だって、言い換えればそれは、


医者「……君の脳には、いや、身体全てに何の異常も見られないんだ。どうして記憶がないのか、説明が一切つかない」

唯「……頭を打った、とかは?」

医者「それでもタンコブの1つくらい見当たるはずなんだ。あるいは頭をぶつけた形跡が。君が眠っている間、頭は徹底的に隅から隅まで調べた」


琴吹家の協力でね、と付け加える。
紬さん本人はあまり言いたくなさそうだったけど、家がお金持ちであることはさっき聞いた。
いろんな手段と山のようなお金を私のために使ってくれたのだろう。
紬さんの友達思いな面に感動しつつも、申し訳ないな、と思った。いろいろ手間かけさせてしまったことも、紬さんを思い出せないことも。


医者「だから、目撃者の言う通りなんだろう」

唯「目撃者?」

紬「……私達みんなよ。みんなで一緒に学校から帰ってる時の出来事だったの。特に、一番唯ちゃんの近くに居たのは……」

梓「………」


紬さんが、辛そうに視線を向ける。
いまだ私の服の袖を摘んで離さない、私の隣にいる子に。


梓「……ごめんなさい、唯先輩」

唯「梓ちゃん…?」

梓「私は、あなたを護れませんでした……近くにいたのに、すぐ隣にいたのに…!」

唯「………」


大丈夫だよ、こうして命には別状はなかったんだし。
と言おうとしたけど、思い直す。そんな言葉、梓ちゃんの事をカケラも覚えていない私が言っていい言葉じゃない。
梓ちゃんが、私が何かを失ってしまった事を悔いているなら、それが命だろうと記憶だろうと関係はない。
失ってしまった私にどう慰められたところで、梓ちゃんには逆効果だろう。
だったら、私はそれに触れちゃいけない。


唯「……梓ちゃんは、大丈夫だった?」

梓「えっ…?」

唯「怪我とかしてない? 記憶もなくなってない?」

梓「え……だ、大丈夫ですけど……」

唯「よかった。後輩に何かあったら、先輩としてカッコつかないからね」

梓「……っ、で、でも、先輩自身が…!」

唯「梓ちゃんがそうして私の事を大事に思ってくれてるなら、その時の私も梓ちゃんの事を大事に思ってたはずだよ」


今は、生憎覚えてないけど。
でも、きっとそうだったはずだから。


唯「だったら、こういうのはやっぱり年上の人がなるべきっていうか、受けるべきっていうか。そういうものなんだよ、たぶん」

梓「そんな…そんなの……! ダメですよ、そんなのっ…!」

唯「うーん……」


何もわからない私でも、この理屈は間違ってないと思うんだけど。それでも梓ちゃんは納得しないらしい。
後輩にここまで好かれてる…というか心配されるなんて、『平沢 唯』はどんな人だったんだろう。
梓ちゃんを含めた皆がとても仲間思いなのはよくわかるけど、肝心の自分の事がわからない。
……やっぱり、いろいろ不便だなぁ。


唯「……じゃあ、梓ちゃん」

梓「……何ですか…?」

唯「私、頑張るから。頑張ってちゃんと記憶を取り戻すから。それまでは梓ちゃん達に迷惑かけちゃうと思うけど……」

梓「め、迷惑だなんて、そんなっ――」

唯「だから、ひとまずはそれで安心してくれないかな? 自分を責めるのを、やめてくれないかな?」

梓「っ……」

唯「……ね?」

梓「………はい」


渋々といった感じだけど、梓ちゃんは頷いてくれた。
たとえ納得してなくても頷いてくれたから、私は頑張らなきゃいけない。
皆のためにも、私のためにも。
梓ちゃん達皆を心配させたくないし、何より自分の言葉に嘘はつけないよね。


律「……ありがとな、唯」

唯「えっ?」


急に名前を呼ばれ、何の事だろう、と思いながら律さんの方に目を向ける。
律さんは、私のそんな視線を受け止める前も受け止めてからも変わらず、どこかスッキリした笑顔をしていた。


律「梓を助けてくれて、私達を助けてくれて、さ」

唯「助ける…?」

律「……梓が一番だったけど、私達もそれぞれ、どこかで自分の事を責めてたんだと思う。いや、正直今でも責めてるんだろうな」

唯「………」


助けた覚えはない、けど、律さんの言ってる事はわかる。
律さん達も、近くにいながら私を護れなかった事、それを責めてるんだろう。梓ちゃんのように。
そこまで想われているのはやっぱり嬉しいけど、当時の状況のわからない私には当たり障りのない事しか言えない。


唯「しょ、しょうがないよ、『魔物』だなんて。私だったら怖くて動けないだろうし……」


『魔物』がどんな姿形、大きさなのかはわからないけど、要は『見たこともない怖いもの』なんだと思う。
普通ならそんなものを目の前にしたら動けなくなると思う。普通なら。


唯「普通なら……」


――言っていて、違和感を自分で抱いた。

記憶のない私の『普通』とは、何なんだろう。
記憶のない私には、この『普通』という感覚が、本当の意味で普通である確証なんてない。
それにそもそも、記憶がないのに普通を普通と認識できるのもおかしい。
日常生活に支障をきたさない記憶喪失もある、とどこかで聞いたような気もするけど、それがどこかも思い出せないのに。

急に、不安になる。
記憶がないというのは、こんなにも怖いものなんだ。
自分を支える足場がないというのは、こんなにも不安定なものなんだ。
私がどんな過去の上に成り立っているのか、それがわからないっていうのは。

私の『普通』は、この世界においての『異質』である。そんな可能性だってあるんだ。

……そんな不安に溺れてしまった私を、律さんが気遣ってくれた。


律「……何か、思い出したか?」

唯「……ううん。そういうわけじゃないけど……」

律「……記憶がないのが、怖い?」

唯「!?」


心でも読まれたのかと思うくらい、的確に見抜かれた。
この人……適当そうに見えたけど、実は鋭い?


律「ま、怖くても怖くなくてもどっちでもいいんだけどさ」


……やっぱり適当なだけかもしれない。


律「普通なら怖いだろうと思うから言ってみたけど、私達の知る唯なら怖がりそうにはないなーとも思うんだ」

唯「そんなキャラだったんだね、私……」

律「まあまあ。どっちにしろ、私達としては唯に記憶を取り戻してもらいたい。そこは変わらないから」

唯「………」

律「だから、梓を慰めるためとはいえ、唯が自分からそれを言ってくれた時はすごく救われた気分になった」

唯「あ……」

律「私達は、唯の記憶を取り戻す手伝いができる。それがすごく嬉しいんだ」



「最初からそのつもりではあったけど」と付け加え、照れくさそうに頬をかく律さん。
その隣に座る澪さんと、そのまた隣にいる紬さんも、律さんに続いて言葉を発してくれた。


澪「……あと、記憶がなくても唯は梓を大事な後輩と見てる。それも嬉しかったな」

唯「澪さん……」

紬「ちょっとだけ、軽音部が戻ってきた気分になっちゃった」

唯「紬さん……」


「だから、記憶を取り戻す手伝いをさせて欲しい」と、皆はそう言った。
隣の小さな可愛い後輩も、小さく、でも確かに頷いてくれた。

記憶を失ってしまった立場の私としても、それはとても嬉しかった。
記憶を取り戻したい、そんな気持ちを応援されたということだから。
皆の事を覚えてなくて申し訳ない、そんな気持ちが逆に頑張ろうという気持ちに置き換えられていくようだった。
もちろんさっき感じた、記憶がない事に対する恐怖、それはまだ胸の中にある。でもそれもだいぶ薄れた気がした。
皆のおかげで。仲間達のおかげで。


唯「……ありがとう、みんな。私、頑張るよ」


……うん、やっぱりこの人達は、仲間なんだ。私の。とっても大切な。





唯「――そういえば」


なんとなく、一通り目指すところが決まった私達は会話の余韻に浸っていたんだけど、ふと思い出した事があったので聞いてみることにする。
心地いい沈黙を破るのは少し気が引けたけど、さっきの会話の途中で疑問に思った事だったから早いうちに聞いておきたかった。


唯「みんなの見た、魔物の外見ってどんなのなの?」


……けど、その判断をすぐに私は後悔した。

まず真っ先に、隣の後輩が震えたから。
そして、皆の顔が一斉に曇ったから。

『普通なら魔物なんて怖いだろうし』という考えから、そういえばどんな外見だったんだろう、外見からして怖かったのかな、と思っただけなんだけど。
怖い外見なら思い出したくもないに決まってるし、それに……


梓「……思い出したく、ないです」


梓ちゃんが、震えながらそう言う。他ならぬ梓ちゃんが。その時私の一番近くにいた梓ちゃんが。
それはつまり、魔物の『外見』のこと――だけじゃない、と私は解釈した。

梓ちゃんが誰よりも悔いている『光景』のことも、思い出したくないんだ。

魔物の外見を思い出そうとして、連鎖的に思い出してしまうであろう、その場に私もいたはずの光景。
他ならぬ私の口からそれを思い出させかねない事を尋ねてしまうなんて、無神経にもほどがあった。
周囲を見渡すと澪さんも震えていた。あのしっかりした澪さんまでもが震えていたんだ、やっぱりこれは、聞くべきじゃなかった。


唯「ご、ごめんねみんな。変なこと聞いちゃったね」

律「ん……いや、まー、変なことじゃ……ないんだけど……」

紬「そこに興味を持つのは当然のこと……なんだけど……」

唯「で、でも、いいよ今は。聞かないよ」

律「……そうしてくれると助かる」

紬「唯ちゃんは魔物の事なんて気にしなくていいから。ね?」


記憶を取り戻す事だけに専念してていいよ、と紬さんは優しく言う。



紬「そっちは私達に任せて。ここにいれば安全だから」

律「記憶が戻るまでゆっくり休んでりゃいいさ」


でも、その優しい言い方の中に少しだけ引っかかるものがあったのも、事実。


唯「……任せて、って、何かアテでもあるの?」

澪「……ま、色々と。唯は何も心配しなくていい」

律「お、やっと復活した」

澪「……うるさい。とにかく、大丈夫だから、唯」


相手は怖い『魔物』なのに、ずいぶんと頼もしい言い分だなぁ、と思った。ずいぶんというか、不自然なほどに。
「ここは安全」と言い切るところも。何かしらの根拠があるんだろうか。
あと話の流れ的に、記憶が戻るまで私はここから出られないのかな? 学校の出席とかも大丈夫とは思えないんだけど、そこも気にしなくていいという意味ならこれもまた妙な方向に頼もしい。
でも紬さんはお金持ちらしいし、何かいろいろ出来てもおかしくないのかな。他の皆はわからないけど……


梓「……私が、そばにいますから。何も気にせず、記憶のほうに専念してください」

唯「ん…それは嬉しいけど、でもみんなは大丈夫なの?」

澪「私達の心配より自分の心配を、だ。記憶、ちゃんと戻ってくれないと困るんだぞ?」

紬「私達なら大丈夫。ちゃんと毎日お見舞いにも来るから、ね?」

唯「……うん、わかった」


「毎日顔を出す」ということは、転じて「無茶はしない」と言っているに等しい。
それくらいはわかるから、私は素直に頷く事にした。
『魔物』に対しても、それ以外――例えば私がさっき気にした学校の出席とか――に対しても、私が心配するような事にはならないように立ち回る、と。
頭の良い澪さんと紬さんが言うんだ、それくらいの含みはあるはず。
記憶がないから深くは聞けないけど、信じようと思う。信じて自分の事に専念しようと思う。
記憶が戻れば、聞きたい細かい疑問も思い出せるはず。例えばさっき気になった『魔物』の外見とか。
だからやっぱり、私は自分の事を優先すべきなんだ。

……と、ここまでが私なりに皆の事を見て考えて出した結論だけど、でも少し不安もある。

頭の良い(と聞いた)澪さんと紬さんは、多分大丈夫。
律さんは幼馴染(と聞いた)の澪さんが目を配っておくだろう。
問題は……


梓「……?」


問題は、この子。
学年が違うからここにいる誰かが常に目を光らせておくことも出来ない、それでいて厄介な事に誰よりも自分を責めている、梓ちゃん。
誰よりも自分を責めているから、誰よりも私の力になりたがるであろう、梓ちゃん。
「そばにいる」と言ってくれた、梓ちゃん。
それ自体はとても嬉しくて、とても安心できるものなんだけど……


唯「……梓ちゃん、学校とかちゃんと行くよね?」

梓「行きますよ。大丈夫です、心配しなくても」

唯「……本当に?」

梓「………」

唯「…………」

梓「……さ、最低限」


……ふ、不安だ……




――それから少しだけお父さんお母さんとも他愛のない話をしたけど、思い出せた事は無かった。
でもなんとなく落ち着くのは、やっぱり家族だからかな、とは思えた。
両親とも寂しそうではあったけど、それでも皆と同じように笑ってくれた。それだけで私の決意を後押ししてくれているような気がしたんだ。

……そうして一通りの会話が落ち着いた頃、再びお医者さんが口を開いた。


医者「……そろそろ休憩するといい、平沢さん。記憶を取り戻すためとはいえ、あまり急いでも良いことはないよ」

唯「あ……はい」


「休憩」とは言うけど、要は「そろそろ解散しろ」という事だろう。
お医者さんという立場上、一人の患者につきっきりというわけにもいかないだろうし、そもそも時間も普通に押してきている。
皆もそれをわかっているのだろう、荷物をまとめて帰り支度を始め始めた。


梓「………」


……この子以外は。


律「……ほら梓、帰るぞ。また明日だ、な?」

梓「……私は、残ります」

律「まーそんなこと言うだろうって気はしてたよ」

梓「そうですか、すごいですね」

律「……そーじゃないだろーがぁぁぁぁー」ギリギリ

梓「ぐえぇ」


おお、チョークスリーパー。
格闘技の記憶もちゃんとあるんだなぁ、私――じゃなくて! そんな乱暴なことしちゃ可哀想!

……と、少しだけ思ったけど。行動にも言葉にも、多分顔にも出てなかったと思う。
梓ちゃんが言うほど苦しそうじゃなかったのとか、むしろ多少嬉しそうだったのとか、律さんも本気じゃなさそうだったのとか、他の皆もなんとなく微笑ましそうな顔をしていた気がしたとか。
そんないろんな理由があって、ほんの一瞬で私も真に受けるのをやめた。むしろ安心した。

……もしかしたら、前にも何度かこんな光景を見たのかもしれない。そんな感じの安堵感があった。


唯「…でも、やっぱり家には帰らないと梓ちゃんのお母さん達も心配するんじゃない?」

梓「それは大丈夫です」

唯「……なんで?」

梓「家に帰らなかった事も、一度や二度じゃないですから。ちゃんと連絡さえすればわかってくれます」


うわー、梓ちゃん不良だったんだ。
……なんて意味じゃないのはわかってる。梓ちゃんと一緒にいた時間も多いだろう私の両親に顔を向けると、困ったように笑いながら頷いた。


唯「……ありがとう、梓ちゃん。ずっと心配してくれて」

梓「いいんです。私が自分で望んだ事ですから」


その心配は、とても嬉しい。嬉しいし、ありがたいこと。甘えたくなるほどに。
でも、そのまま甘えて梓ちゃんの意見を通していいかと言われるとわからない。

目が覚めたのにも関わらず以前と同じように心配をかけ続けるなんて、梓ちゃんのご両親にも申し訳ない。
私自身としても、私の両親としても、きっと。
それに、梓ちゃん自身はああ言ったけど子供を心配しない親はいないと思う。記憶はなくても、それは言い切れる。

それでも、隣にいてくれるなら嬉しい私もいる。
記憶が無いからだと思うけど、こうやって自分に甘え、慕い、心配してくれる人がいると、なんというか……前を向ける。
この子のために頑張ろうって思えるし、頑張っていいんだって思える。
何も覚えてないのに、私はここにいていいんだっていう根拠が1つ出来るんだ。



唯「でも、ね」


でも。
やっぱり過剰に甘えてはいけないんだと思う。
この子がそういう気持ちを持ってくれている、それだけで充分なはずなんだ、本当は。
ずっと心配をかけてきたのに、突き放すような事を言うのは心苦しいけど、それでも、この子の時間をこれ以上私が奪っていい理由はどこにもないんだ。
たとえ梓ちゃんが自ら捧げたがっていたとしても、少なくとも私はまだ、それを受け入れちゃいけないはずなんだ。
今まで計り知れないほどに心配をかけ、時間を奪ってきた私だからこそ……


唯「やっぱり最初くらいは、自分で頑張ってみるよ。梓ちゃんも、今日くらいはゆっくり休んで欲しいな」

梓「……そう、ですか……」


私自身の力でどうにもならない時には、素直に甘え、頼ろう。
どうしようもない時にまでこの子の気持ちを無碍にする理由は、さすがにどこにも全くない。
……そういう意味を込めての「最初くらい」「今日くらい」だったんだけど……


梓「じゃあ、明日は泊まっていきますね」

唯「えっ」

梓「唯先輩は知らないかもしれませんが、明後日は週末、休日です。学校もないので帰る理由もありません」

唯「いや、えっと、だからお母さん達が心配するって」

梓「それを今日一日でなんとか説得してこい、という意味ですよね?」

唯「絶対違うよ!?」

紬「唯ちゃんがツッコんだ……」


紬さんが目を丸くしていたけど、私の方こそ梓ちゃんの意外な強引さに目を丸くしたいくらいだよ。


律「いいじゃんか唯。明日の事は明日考えようぜ」

唯「律さん……さっきは梓ちゃんを止めてくれたのに……」

律「こいつ、前から変に頑固なところはあったからなー。特に唯に対しては」

紬「でも、さっきまでみたいな俯きながらの頑固さじゃなくて、ちゃんと前を見ての頑固さならそこまで否定はしたくない。ってことでしょ? りっちゃん」

律「ん、まあ、そんな感じ……」

唯「………」


律さんが少し、照れたように視線を逸らす。
なるほど。今にこだわらず、明日という前を向いた発言を梓ちゃんが出来たのは律さんのおかげ、って事なんだね、紬さん。
もっと言えば、私の言葉を梓ちゃんが素直に受け入れてくれたのも、直前に律さんが作った空気のおかげ、ということ。
さすがは部長さんだね、律さん。


澪「……あぁそうだ、その梓の話にも繋がるけど、週末は私達以外にもお見舞いに来てくれる人がいると思うから」

唯「…さっきの写真の人達?」


クラスメートとか幼馴染とか、いろんな人が写ってた写真。
誰一人として思い出せなかったけど、実際に会ってみれば少しは違うかもしれない。
記憶を取り戻したい、そう強く願い始めた私にとって、澪さんの言葉は非常に嬉しいものだった。

でも。


医者「あー、すまないが、しばらくは経過を見ないといけないからあまり多くの情報を与えるのは止めてもらえると助かる」

澪「えっ……そんなっ!」

唯「………」

医者「前例のない事なんだ、わかって欲しい。『ただの記憶喪失』とは違うんだ」

澪「…でも…」


梓「……念には念を入れて、ゆっくりやろう、ということですか」

医者「……記憶喪失で日常生活に支障をきたす人もいるんだ。そうならなかった不幸中の幸いを、手放すような事はあってはならない」

紬「…慎重にならざるを得ない、というのは、わかります。ね、澪ちゃん?」

澪「……うん」

律「記憶を取り戻したいのは唯だって一緒なんだ、しっかりしろ」

澪「……そうだな。ごめん、唯」

唯「い、いいよ、私は大丈夫だから」


自分の言った事が否定された悔しさ、みたいなのもあったんだろう。
私や梓ちゃん以上に食ってかかって、否定されて落ち込んだ、そんな澪さんの姿は見ているほうが心苦しくなるようなものだった。

でも、そこにもうひとつ理由があったことを、私はすぐに知る。


澪「……和、会わせてやりたかったんだけどな」

唯「のどか?」

律「あぁ、唯の幼馴染だ。今までは毎日お見舞いに来てたんだけど、よりによって今日だけは都合が悪かったらしくて」

紬「澪ちゃんとは去年同じクラスだったのよ。そのぶん私達が離れちゃったけど」

唯「へー……会いたいな、私も」


幼馴染と聞いては、自然とそう思ってしまうのも仕方ないと思う。
澪さんだって幼馴染を差し置いて自分達だけ会える、という事実に負い目を感じているからこそ、さっき食い下がろうとしたんだろうし。


紬「……先生……」

医者「……大丈夫、そう長い間じゃない。何も異常が無ければ来週頭くらいには会わせてあげられる」

澪「ほ、本当ですか!?」

医者「もちろん。ただしその代わり、それまでは連れてこないこと。平沢さんに見せるために持ってくるであろうものも検閲させてもらう。構わないね?」


『情報』というのは、単に人だけじゃなくって物まで及ぶらしい。
考えれば当然ではあるんだけど、あまりいい気分のするものじゃない。
それに、理屈がわかっても澪さんの感じている負い目が消えるわけでもない。みんな大丈夫かな…?


澪「……和には、私から話しておくよ」

紬「……じゃあ、この条件を呑む、ということ?」

澪「和も会いたがってるとは思うけど、これが唯の身のためだというなら……いいよな? 律」

律「というか、医者の先生の言う事なんだし従うしかない気もするけどな。私は別に異論はないよ」

唯「……ごめんね、みんな」

澪「唯が謝る事じゃないさ。何度も言うけど、記憶を取り戻す事だけに集中してくれ」


……澪さんがかっこよく見える。
多分、実際にいろんな人から慕われる人だったんじゃないかな。そんな気がする。


唯「澪さん頼もしいねー。後輩とかからも人気あったんじゃない?」

澪「なっ……///」


なんとなく確信を持って言ったその言葉に、澪さんは意外にも顔を赤くしていた。
……かわいい。

でもその一方で、その「後輩」である梓ちゃんは、何故かなんともつかない表情をしていた。



唯「……どうしたの? 梓ちゃん」

梓「ん、いえ……」

律「まー、唯は覚えてないんだろうけど同じ軽音部の梓からすれば頷きづらいよ。澪はギャップ萌えタイプだから」

澪「そんな言い方するなよっ!!」

唯「ギャップ萌え?」

紬「パッと見は大人の女性って感じだけど、中身はとっても乙女なの」

澪「ムギ!?」


あー、さっきの赤面みたいな可愛い面を持ってるってことかな。
……もしかして、さっき魔物の外見を尋ねた時に震えていたのも、人一倍怖がりだったってこと?
あまりそういう面が見えてしまうと後輩からは素直に尊敬できない…のかな?


梓「……確かに最初の印象とは随分変わりましたけど、それでも澪先輩は尊敬できる先輩ですよ」

澪「梓……」

梓「澪先輩だけじゃなくて、みなさん、それぞれ最初と印象こそ違えど尊敬できる点を持ってる人達です。……もちろん、唯先輩も」

唯「そ、そうなの? 覚えてないけど……」

梓「そうなんです」

律「……ははっ」

紬「ちゃんと思い出してあげないとね、唯ちゃん」


……うん。責任重大だよね、ホント。





――そうして解散となり、お父さんとお母さんを残して皆は部屋から出ていった。
病室には家族三人だけになったけど、ついさっきお医者さんに釘を刺されたからだろう、家族らしく昔話を……という展開にはならなかった。
でも、私が眠るまでずっとそばにいてくれた。不安なら明日も明後日も、いつまでもいてくれると言ってくれた。
そして、私から伝え聞いていたらしい私の友達の素晴らしさも、私に伝え返してくれた。

この人達のしてくれること全てが、私の中の不安を溶かしてくれる。

一番不安なはずの、初めての何もない夜を何事もなく過ごせたのは、確かに『家族』のおかげだった。



◆◆


――翌日。土曜日らしい日の、朝。


梓「おはようございます、唯先輩」

唯「早いよ!」

梓「? ですからおはようございますと言ったじゃないですか」

唯「そういう意味じゃないよ! っていうかまだ朝の7時だよ!? こんな時間から面会できるの!?」

梓「出来てるじゃないですか、こうやって」

唯「………まあ、うん」


……うん、そうだね、そう言われるとその通りだね。

もっとも確かに、昨夜はお父さんお母さんもここに泊まっていってくれたわけだから、そういうところは緩いのかもしれない。
あくまで私の悪いところは頭の中、記憶だけであって。だから伝染とか感染に気を遣って人の流出入を制限することはしないのかな、と思っておくことにした。
素人考えだけど、そう考えると辻褄は合う。
それでもお医者さんは昨日言った通りなら梓ちゃん達の手荷物とかを検閲しなくちゃいけないはずだから、朝も早くから少し気の毒だけど……
一方でお父さんとお母さんはニコニコしながら梓ちゃんにお礼を言ってる。なんとなくだけど、私の両親はのんびりした人なんじゃないかな。
……でも、うん、梓ちゃんが心配してくれるのは、確かに嬉しいんだよね、私自身も。



唯「……おはよう、梓ちゃん」

梓「……はいっ、おはようございます」


言って、二人で顔を見合わせて少し笑った。


唯「……ところで梓ちゃん、その袋は?」

梓「朝ご飯です。コンビニで買ってきました」


袋から取り出したのは確かにコンビニで売ってそうなサンドイッチ。美味しそう。
結構沢山あるけど……誰の分だろう?


梓「唯先輩のじゃないですよ。入院患者にはちゃんと健康を考えられた食事が病院から出るんですから」

唯「わ、わかってるよー。確かにお腹は空いてるけど……」

梓「我慢です。……はい、どうぞお好きなのを取ってください」

父「ああ、ありがとう」

母「明日は私達が持ってくるわね」


……ああ、なるほど。お父さんお母さんの分か。
っていうか、そのやり取りはどういうこと…?


母「三人で唯につきっきりだから、梓ちゃんと私達で一日交代で食事を準備することに決めたの」

梓「そういうことですから私はお昼頃にもまた席を外しますが……でもこの病院、コンビニが中にありますからそう時間はかかりませんよ」

父「本来なら大人が準備するべきなんだろうけどね。梓ちゃんが頼りっぱなしは嫌だ、って」

唯「そっか……」


きっと梓ちゃんはしっかりしているというか、責任感が強い子なんだろう。
私の事に関しても誰よりも思い詰めているように見えたし。

もちろん、他の皆がそんなに責任を感じていない、という意味じゃなくて。
心配してくれていたのは話せばすぐにわかった。でも梓ちゃんは話す前からわかった。それほど目に見えていた、ということ。
事情を知った今にして思えば、だけどね。

私の時は自分を責めすぎているようにも写ったけど、私の両親とは上手い関係を築いているらしい。その責任感で。
……いい子だよね、梓ちゃんは。


唯「……ん? 梓ちゃん、それは?」

梓「……たい焼きです。デザートというか、食後のおやつに、と」

唯「へー。好きなの?」

梓「……はい」


少し、表情を曇らせて。


梓「……やっぱり、思い出しませんか?」

唯「………一緒に食べたりしたのかな、私も」

梓「……はい、一緒にいました」

唯「……ごめん」

梓「いえ、いいんです。期待してなかった……と言えば嘘になりますけど、唯先輩のペースでやってくれればいいんですから」

唯「……うん」



梓ちゃんが正直に吐き出したその言葉の中には、私を責める言葉は一切無い。私が申し訳なさに心を痛める言葉こそあれど、梓ちゃんはそんな意図を一切持っていない。
だから私は頑張らないといけない。痛みに落ち込むのではなく、責められない事に楽観するのでもなく、ただ、自分自身と皆の為に頑張るだけ。
頑張って、何があっても頑張って、記憶を取り戻す。それだけなんだ。

とはいえ、一口に「頑張る」と言っても何をどうすればいいのかはわからないんだけどね。
気持ちだけで記憶が戻るなら、世の中の記憶喪失の人はそんなに苦労なんてしてないはずだし。


唯「……何か、記憶を取り戻すのに効果的な方法とかないのかな」

梓「……お医者さんの先生のほうが詳しいはずですから、そちらに従う他ないと思います。荒療治は出来ません」

唯「……ちょっと意外だなぁ」

梓「はい?」

唯「ううん。大したことじゃないんだけど、昨日の澪さんみたいな必死さは、梓ちゃんはあんまり見せないよね、って思って」


もちろん嫌味みたいな意味じゃないよ、と付け加えておく。
梓ちゃんも澪さんも心配してくれているのはとても伝わってくるし、昨日の澪さんはそれに加えて和さん?という人の件もあったわけだし。
それでも、いつもずっと隣にいて目覚めるのを待ってくれたという梓ちゃんが、こうして朝早くから押しかけてくるほどの梓ちゃんが、頑張ろうとする私を律するような事を言うのが意外だった。


梓「……唯先輩の身にまた何かが起こってからでは遅いんです。もう二度と、あんなことがあってはいけないんです」

唯「あ……」

梓「私の目が届く範囲で、何よりも安全第一でやっていってもらわないと困るんです……」


ああ、そっか。
それほど心配していて、悔いている梓ちゃんだから。責任を感じていて責任感が強い梓ちゃんだから、誰よりも慎重なんだ。
記憶の無い私が昨日と今日だけで見えた範囲で出した答えだけど、多分間違ってないと思う。
梓ちゃんの声が、表情が、何よりも物語っている気がした。
……馬鹿なこと言っちゃったなぁ。記憶を失ってない私だったら、こんな質問はしたりしなかったのかな……

……他の皆とも、もっと話さないといけないよね。
昨日だけでも、澪さんが友達想いな一面を見せたり、意外にもそんな澪さんを嗜めるような律さんの一面を見たり、そんな感情が渦巻く中で話を円滑に進めようと努力をしていた紬さんの面倒見のいい一面が見れたりしたんだ。
もっともっと、皆の事を知らないといけない。私を想ってくれる仲間の事を。
それはきっと、記憶を取り戻す事にも繋がるはずだから。


梓「唯先輩、決して無理はしないでください。唯先輩の身は、唯先輩だけのものじゃないんです」

唯「……そうだね。みんな、すごく心配してくれてるもんね。これ以上心配なんてさせられないよ」

梓「……ありがとうございます」


そんな会話をしていると、ふと視線を感じたので目をやってみる。
というか、そんな大仰な言い方しなくてもこの部屋にはあとはお父さんとお母さんしかいないんだけど。
でも、少し寂しそうにこちらを見て笑っていたのが気になった。


唯「……どうしたの?」

父「……いや。話に聞いていた通り、仲良いんだなぁ、と思ってさ」

母「私達はお仕事であまりかまってあげられなかったけど、それでも唯はいつだって楽しそうだった。あなた達のおかげね、梓ちゃん。ありがとう……」

梓「いえ……私一人が理由じゃないですから、そんな、頭を上げてください」

父「それでも、君もその一人であるのは確かだから」

母「ありがとうね」

梓「っ……あ、ご、ご飯食べましょう、朝ご飯! ほら、丁度唯先輩の分も運ばれてきましたし! みんなで食べましょう! ね?」

唯「……ふふっ」

父「…ははっ」

母「あははっ」


梓ちゃん、すっごい照れてる。可愛い。
お父さんたちの表情のようにどこか寂しい一面を覗かせかねない会話だったけど。照れ隠しの梓ちゃんの反応で、そんなものは吹き飛んでしまった。



唯「……よかった」


原因となった身が言うのは凄く自分勝手、身勝手な言い分だけど、それでもよかったと思う。
やっぱり、笑っていて欲しいよ、皆。





――四人で朝食を食べて少しした頃、他の皆もやってきた。
ちなみに、一応皆は梓ちゃんの意思を尊重しているらしく、この行動を前々から知ってはいるものの「ご両親が良いと言えば」と特に責めはしなかった、とこっそり聞いた。
記憶の無い私でもなんとなく予想は出来るから、特に疑問も抱かなかった。


澪「さて、唯」

唯「う、うん」

澪「改めて言うよ。私達に、記憶を取り戻す手伝いをさせてくれ」

唯「…ありがと、みんな。よろしくお願いします」


許可を求める澪さんと、ただお礼を言って頭を下げる私。
これでいいんだと思う。言葉はどちらも本心だけど、それを今告げること自体はただの通過儀礼でしかないはずだから。


紬「ところで、先生」

医者「……うん、今日の荷物は写真ばかりだったね。検閲させてもらったけど問題ないだろう。私は離れるが、何かあったらすぐに呼んでくれ」

澪「はい」

父「ありがとうございます」


写真の入ってるらしい手荷物を紬さんに渡し、お医者さんは病室を後にした。
紬さんは渡された手荷物を大事そうに抱えたままこちらに歩み寄ってきたかと思うと、それを何故か澪さんに手渡した。
受け取った澪さんがいそいそと準備しているのを尻目に、律さんが私にこっそりと近寄ってきて耳打ちする。


律「……お前に見せる写真を選んだの、澪なんだよ」

唯「……そう、なんだ」

律「「私に選ばせてくれ」って、真っ直ぐな眼差しでさ。……あいつなりに、出来る事を全力でやりたかったんだろうな」


幼馴染としての理解と優しさを見せる律さん。
その温かい眼差しが見つめる相手と眼差しの主を私の視線が往復した時、主は「あっ」と何かに気づいた声を小さく上げた。


律「といっても、唯がそれをプレッシャーに感じる必要はないからな?」

唯「…ありがと。大丈夫…って言えるほど友達の気持ちを軽く受け止めるつもりもないけど、無理はしないから」

律「そうか。まー梓がついてるし大丈夫かな? 澪についても熱意が変な方向に向かいそうだったら私が止めるし」

唯「律さんって暴走する側かと思ってたけどそうでもないんだね」

梓「いえ、その認識で大体あってますよ唯先輩」

律「なぁ梓よ、私はお前を信頼してるぜーみたいな事を言ったのになんでお前はそういう感じの事しか言ってくれないんだ」

唯「そもそも耳打ちで会話してたはずなのになんで梓ちゃんが割って入ってくるの」

梓「耳打ちされている唯先輩の反対側の耳から会話を盗み聞きしてたからです」

唯「こんなにピッタリとくっついちゃってまぁ」

律「隠れるつもりの一切無い盗み聞きだな」

梓「えへっ☆」

澪「……なぁ漫才トリオ、本題に入っていいか?」


いつの間にか眼前に立っていた澪さんに律さんが脳天直撃の一撃をもらった後、澪さんはまず、昨日と同じようなクラスメイトの写真を見せてくれた。


律「なんで私だけ……」



だけど、昨日と何も変わらず私の記憶は応えてくれない。


唯「……ごめん」

澪「……慌てなくてもいいって。あ、ちなみにこの子が和だ」


澪さんのスラリと長くて綺麗な左手の人指し指が、赤い眼鏡をかけた女の子を指し示す。
澪さんは左利きなのかな? とか少しだけ思ったけど、それよりもまずはその女の子をよく見ることにする。


紬「和ちゃんは一年の時も唯ちゃんと同じクラスだったんだけど……」


……和さん、か。
私の幼馴染で、一年の時も同じクラスで、今も同じクラス。
そう言われると、何度も言われると、昨日に比べて落ち着いている今なら、なんとなく、


唯「……昨日はわからなかったけど、今はなんとなく、懐かしい感じはする……かな?」

澪「本当か!?」ガバッ


澪さんが興奮気味に私の肩を掴む。そこに込められた力の強さは、私の言葉に澪さんが見た希望の量と比例するのだろう。
つまり、私がそれを痛く感じるなら、さっきの発言は軽率だったということ。
なんとなくじゃダメなんだ、全然ハッキリとはしてないんだから変に期待させる事を言っちゃいけなかったんだ。


唯「あ、で、でもなんとなくだし……同じクラスで何したかとか、そういうのも全然思い出せてないし……その」

澪「…あ……ごめん、急かすつもりはなかったんだけど」

唯「……ううん、私こそごめん。ちゃんと思い出すまで言うべきじゃなかったんだ」

紬「……あまり、私達がいろいろ言うのも良くないのかな。そういうイメージが先に固まっちゃうのかも」

唯「…あ、でも、詳しくは全然思い出せないけど、それでも確かにこの子だけは何か違うような気はするんだ。見ててホッとするっていうか……」


軽率な発言だったけど、そこだけは本当だと思いたい。
そう思いたがっているのは、意外にも私だけじゃなかったようで。


律「幼馴染だからなぁ。たとえ憶えてなくても感じるものがある、とかか?」

澪「そういうものがあると思いたいな」

律「まったくだ」


そう言って微笑みあう幼馴染同士。
紬さんはそれを少し遠巻きに微笑みながら見ていて、私の両親はまた少し違う笑みで私を見ていて、梓ちゃんは……


梓「昨日もお医者さんの先生が言ってましたけど、来週には会えるはずです、和先輩とも」

唯「……うん」

梓「会うことでなにか思い出せるといいですね、唯先輩」

唯「うん、ありがとう」


梓ちゃんはただ、私を心から心配してくれていた。




律「――ここまで、和の件以外特に進展はなし、か」

唯「ごめんね……」

律「いいって。な? そうだろ澪?」

澪「ああ。本命は『こっち』だからな」


そう言って、澪さんがさらに写真を取り出す。
どうやら写真は二つのグループに分けられていたらしい。

先の括りの写真を見てて、確かに疑問に思ってはいたんだ。
それらはどれも集合写真のような、なんというか襟を正して撮るような写真がほとんどだったから。
そうでないものも体育祭とかのような校内イベントの写真。……一言で言ってしまえば、卒業アルバムに載るような写真ばかり。

おそらく今から見せてくれるのは、それよりもっと私的な、個人的な写真。
そしてきっと、校内イベントのはずなのに何故か無かった学園祭の写真もあるんじゃないかな、と思う。


澪「……さ、唯、どうぞ」

唯「…ありがと」


意図的にそうしたのかはわからないけど、先程まで見ていた写真達と同じくらいの量を手渡される。
上から順にめくっていく。さっきの写真もだけど、おそらく澪さんの手によって丁寧に時系列順に並び替えられていてわかりやすい。
登校風景、部活中、どこかのビーチのような場所などなど様々な場所に私と皆が写っている。今この場にいる皆と、枚数は少ないけどさっきも聞いた和さんもいた。


唯「そういえばこの人は?」


先程までの写真でもたまに見かけた、眼鏡をかけた長髪の大人の女性を指差し、尋ねる。
先程の写真でも見かけていたからクラス関係者なのかと思いきや、個人的なはずのこちらの写真にも数枚写り込んでいる。


律「あー、さわちゃんか。説明してなかったっけ?」

唯「さわちゃん?」

紬「山中さわ子先生。軽音部の顧問で、今年の私達の担任でもあるの」

澪「ちなみに担当教科は音楽」

唯「へー、どうりでどっちにも写ってるんだね」

父「何度か話した感じでは、とてもいい先生のようだったよ」


基本的に傍観の構えだったはずの両親が、さわ子先生の話に珍しく口を挟んだ。
同じ大人同士、何か思うところがあるのかな……と思っていたけど、少し考えて思い直す。

「何度か話した」に含まれるシチュエーションは、当然、私の件に関する時も含まれるはずだから。
担任として、顧問として、私の身を預かっていた立場であるさわ子先生は、私の両親に対する事情説明の義務があるはず。
事情説明というか、簡単に言えば頭を下げる責任が。下校途中の出来事だったから学校側の責任は少なくなると思いたいけど、詳しい事はわかるはずもなく。
そもそも両親から見れば「娘が学校から帰ってこない」に尽きるんだ。学校側にぶつけたい言葉は多々あるだろう。

そんな中に頭を下げに行き、両親を納得させるどころか「いい先生」とまで思わせる。
そんな事が出来るさわ子先生というのは、とても凄い人なんじゃないだろうか。原因が『魔物』という理不尽なものであるというのを差し置いても。


律「騙されちゃいけませんよー。あの人、猫被りですから」


……え、そうなの?
凄い先生なのかなぁと思いかけてたのに……


父「知ってるよ。唯から少し聞いたことがあるからね」

律「ありゃ、そうなんですか」

父「うん。ただ、あまり猫の被り方が上手い方ではないね」

澪「まあ、成り行きとはいえ私達にあっさり素を見せてしまうくらいだしなぁ……」

律「おじさん達くらいになると、そういうのは簡単に見抜けてしまう、とかですか?」

父「それもあるかもしれないけど、今回の件に関してはそうじゃないね」


紬「と言いますと?」

父「……猫の被り方も忘れるくらい、唯の事を心配していたということさ」

母「もちろん、それだけで終われば「いい人」止まりなのだけど」

紬「……なるほど」


納得した様子の紬さんと澪さんに対し、律さんは頭の上にハテナマークを浮かべていた。たぶん澪さんがフォローするだろうとは思うけど。
一方、ずっと静かな梓ちゃんは今の話が耳に入っているのか怪しいほどに真剣に、さっきまで私が見ていた写真をじっと見ていた。個人的でないほうの写真を。
梓ちゃんが写ってない、私達の学年がメインの写真を。
喋ってない間ずっと見ていたのだろうか。全部の写真を順番に見ていっていたとして、今は何周目なんだろうか。そもそもそんなに食い入って見るような何かがあっただろうか。
私の方からはわからない事だらけ。でも、梓ちゃんのほうは私の視線を『わかった』ようで、


梓「……何か、思い出しましたか?」


そう私に優しく問いかける声を合図に、皆の視線が集中するのを感じた。
でも……残念だけど、全ての写真を見ても、両親まで含む皆の話を聞いても、その視線の無言の訴えに応えてあげることはできそうにない。


唯「……ごめん」





律「…そう気を落とすなよ、澪。想定の範囲内なんだろ? 昨日私に自信満々にいろいろ語ってくれたじゃないか」

澪「……大丈夫、わかってるよ。まだまだ手はある。でも」

律「でも?」

澪「少し、方向性を変えたほうがいいかもしれないな。急いでも良い事は何もないのはよくわかった」

律「急いでたつもりだったのか?」

澪「いいや。急いでたなら律が止めてくれるはずだし」

律「……ん……じゃあ、どういうことだ?」

澪「……急がない、じゃなく、むしろ意図的にゆっくりやろうと思う」


澪さんのその発言は、ちょっと意外だった。
失礼かもしれないけど、和さんの件もあるし、一番急ぎたがるのは澪さんだと思ってたから。
もちろん周りの人――主に律さん――が気を配るから、危ないほどに急ぐ事はないと思ってたけど、それでも心の中に焦りがあるんじゃないかって気はしてた。原因の私がこんな事を思っているのは失礼かもしれないけど……
でも、そんな失礼な私が想像していたより、澪さんはずっと冷静で、周囲が見える人だった。
……重ね重ね、失礼だと思う。


澪「今のところ一番可能性があるのは、和だ」

律「幼馴染だしな。今日の反応を見る限りでもそれは確かだ」

澪「だから、和と唯が会える日まで私達は何も大きな動きはしないようにする。全てを順調に運んで、万が一にも和との面会が延びない様にするんだ」

梓「……そりゃ、私達だって焦って全てを台無しにするような事はするつもりはないですけど」

律「いや、「焦るな」じゃなくて「全てを計算した上でゆっくりやろう」と言ってるんだ、澪は」

澪「……和との顔合わせをスタートラインくらいに考えたほうが良さそうだ、と思って。和に全部任せるみたいで気が引けるけど、今日の反応を見た限りではそれがいいんじゃないかな……と思ったんだけど、どうかな?」

紬「……私は、澪ちゃんに賛成。ずっと昔から一緒にいた人だもん、本来私達より先に会うべきだとさえ思う……会えるなら……」

梓「………」


ずっと昔から、一緒にいた人。つまり、幼馴染。
高校からの友達である自分がそんな人を差し置いてこの場にいる事に、後ろめたい思いがあるんだろうか……?
そう邪推したくなるほど紬さんの表情は沈んでいて、隣の梓ちゃんの空気も沈んでいた。
発案者の澪さんもその言葉の重みを改めて噛み締めているように見えた。幼馴染というせいか、私の両親までも……


唯「………――」


空気を変えるのも兼ねて、和さんがどんな人だったかをお母さんに尋ねようとした、その時。



律「じゃあ私も乗ろうかな。澪の腹黒い作戦に」

澪「……いや、腹黒いは言い過ぎだろ」

律「じゃあ、名付けて『和に全部投げっぱなし作戦』?」

澪「印象悪いな! 確かにそうなんだけども!」

紬「ま、まあまあまあまあ」

澪「っ、さ、最低限の事はするよ! 自分に出来る範囲で、和の負担が大きくなりすぎないように!」

律「期待してますわよ、澪ちゃん♪」

梓「あっ、この人何もしない気だ」

澪「こいつ……!」


……澪さんが今にも左手を振り上げようとした、丁度その瞬間だった。


父「……ふふっ」

母「仲いいのね、本当に」

澪「ぁ……///」


大人に見られて気恥ずかしくなったのか、気まずくなったのか、それとも笑われて怒る気も萎えたのか。
とりあえず、澪さんの左手に込められた力は自然と霧散してしまったようだ。
……もちろん、さっきまでの重い空気も一緒に。見てることしか出来なかったけど、正直、ホッとした。


父「とりあえず、君達は『ゆっくりやろう作戦』で行くって事でいいかい?」

澪「は、はい…///」

律「……///」

梓「……///」


子供のノリに大人が割って入ってくると全員がなんとなく気恥ずかしくなるの、あると思います。


紬「♪」


……なんで紬さんは嬉しそうなんだろう。





その後、そろそろお昼ご飯の時間だから、ということで梓ちゃんが席を立ってコンビニに行った。
他の皆は持参したお弁当箱を取り出して待ち、梓ちゃんが帰ってきて、私の食事も運ばれてきたところで皆で昼食となった。
……よく考えたら皆は学校があるからこうしてお昼を一緒に食べれるのは土日だけになるのかな。しっかり楽しんでおかないと。
……も、もちろん記憶を取り戻す事もちゃんとしないといけないけどね。


唯「……こうやって、みんなで一緒にお昼を食べた事もあるんだよね、私」

紬「……うん、あるよ」

梓「私は学年が違うから他のみなさんより少ないはずですけど」

律「それでも、唯の家とかでみんなで食べた事も結構あったぞ」

澪「そうだな、みんなで、な」

律「………」

紬「………」

梓「………」

唯「……ごめん」



正直なところ、これだけのヒントを貰えばそんな光景は普通に想像できるし、実際そんな事もあったのだろう、とくらいは思える。
そこに私がいる光景を写真のように容易に思い描けるし、そういう関係が自然だって心から思える。
記憶のない今の私だって、この人達といつだって一緒にいたいと、そう思えるんだから。記憶のある私がそうしない理由なんてない。

それでも「ごめん」なんだ。思い出したわけじゃないから、取り戻したわけじゃないから、「ごめん」としか言えないんだ。
こんな光景は確かにあったような気がする、けど頭の中のどこかにモヤがかかったような違和感が拭えないんだ。
その違和感が正しいのか、ただの勘違いなのか。正しいなら違和感の正体は何なのか。勘違いなら何故勘違いしたのか。
そこまでハッキリするくらいじゃないと、思い出したとは言えないはずだから。
だから、申し訳ないけど……


澪「大丈夫だよ、唯」

紬「慌てない、慌てない。ね?」

律「『ゆっくりやろう作戦』らしいからな。唯も焦らないでくれ」

唯「私が……?」

梓「……私達に負い目を感じるあまりに結論を急ぐような、そんな事をしないでください、ってことです」

唯「……今、私、そんな風に見えた?」


そう聞くと、皆が同時に柔らかく微笑んだ。
つまり、自分から振った話題だったせいか、想像しやすそうな光景だったせいかはわからないけど、私は思い出せない事を皆に申し訳なく思ってしまったということ。
ううん、申し訳なくはずっと思ってるけど、今回はそれが焦りに転じそうだったということ。顔に出るほどいろいろ考えすぎてしまったということ。
それはよくないことだ。梓ちゃんが言ったように、言うように、慎重に、確実にやらないと。
『ゆっくりやろう作戦』には、私も参加しているんだ。


唯「……そっか。ありがと、みんな」

律「よし。じゃあそういうわけだから、普通に食べるか!」

梓「そうですね」

律「というわけで唯、そのデザートらしき蜜柑と私のエビフライを交換してくれ!」

紬「エビフライ差し出しちゃうの!?」

唯「み、魅力的な申し出だけど唯一無二のデザートを差し出すのは……!」

澪「っていうか病院食のバランスを崩すような真似をするな!」ゴチン

律「ごべふ」

紬「ま、まあまあ澪ちゃん。やっぱりみんなでワイワイやるお昼ご飯の定番っていったらおかず交換だし」

梓「でもこの人、おかずじゃなくてデザート狙いでしたよ」

律「いや……だって、正直、他はなんか地味だし……」


……今から食べる人の前でそれはないよ。否定できないけど。





ごちそうさまでした、と皆で手を合わせて声を揃える。
そのすぐ後、綺麗な看護師さんが部屋を訪れて私の食器を持っていった。


唯「……監視カメラでもあるのかな?」

紬「あるんじゃないかな?」

澪「ここは個室だからな。唯の場合はこうしてご両親がいるとはいえ、そうじゃない人の場合を考えると」

唯「…なるほど。それもそうだね」

梓「……それにしても、綺麗な人でしたね」

唯「だねぇ。白衣の天使って、まさにああいう人の事を言うんだろうね」

紬「綺麗な人といえば、唯ちゃん、そのうちさわ子先生が来るかもって言ってたよ」


唯「さわ子先生……写真に写ってた顧問の先生、だっけ」

紬「そうそう。今日か明日か、とにかくそのうちに、だって」

律「……綺麗な人、でさわちゃんを思い出すのか、ムギは」

紬「まあ…綺麗な人には違いないでしょ?」

澪「うん…まあ……」

律「一応……」


……なにこの微妙な空気。
それにしても、顧問の先生、かあ。写真を見た感じでは、確かに美人に分類される整った顔立ちをしてたと思う。
でも同時に、律さんやお父さんから実情(?)も耳にしている。


唯「えっと、猫被りの先生なんだっけ?」

律「そ。さすがに唯のお父さん達もいるこの場でボロを出すとは考えにくいから、裏の顔を想像して楽しんどくといいよ」

唯「陰険な楽しみ方だね」

澪「というか、和達との面会はまだダメなのに先生はいいのかな」

紬「お医者様の先生が止めてくれるかもしれないし、大人だからってことで通すかもしれないし」

澪「どっちかはムギにもわからない、か」

律「というかムギ、そんなのいつ聞いたんだ?」

紬「朝に電話でね。私なら病院自体に話も通しておきやすいだろうし」

律「なるほどね」


――それから、流れでそのさわ子先生という人についての逸話をいくつか聞かせてもらっていると、病室の扉がノックされた。
どうぞ、と応えるとすぐに扉は滑らかに開く。


さわ子「失礼します」


そこにいたのは、写真の中の印象のままの美人の眼鏡教師だった。
……まあ、律さん達からこの人のエピソードは聞かせてもらった後なので、これが表の顔だというのはわかる。


さわ子「……唯ちゃん」

唯「はい?……わっ!?」


さわ子先生は、真っ直ぐ私に歩み寄ってきたかと思うと、そのまま私を抱きしめた。
自然と、それでいて優しく、包み込むように。


さわ子「……よかった、目が覚めて」

唯「あっ、あの、はい、迷惑、かけました……」

さわ子「迷惑なんかじゃないわ。心配はしたけれど……決して迷惑なんかじゃない」ギュッ

唯「………」


……繰り返しになるけど、この先生の猫被りエピソードは、いくつか聞かせてもらってる。
そして、それを話す皆の顔は……笑顔だった。苦笑も混じってはいたけど、思い返しながらイヤそうな顔はしていなかった。
それにお父さんも言っていた。猫被りを見抜いた上で言っていた。
「いい先生だ」って。


唯「……ありがとうございます、先生」

さわ子「……ふふっ、かしこまる唯ちゃんは、新鮮ね」


澪「……ムギ、先生は、唯のこと――」

紬「うん、記憶の事については話してあるわ」

澪「そっか」

さわ子「そうよ。生憎今日は何も持ってきてないけど、話し相手くらいにはなれるわ」

唯「……思い出せるかはわかりませんけど、よろしくお願いします、先生」

さわ子「こちらこそ、力になれるかはわからないけど、よろしくね、唯ちゃん」


こうして私はまた一人、頼れる人と出会った。





さわ子「――じゃあね唯ちゃん、また来るわ」

唯「……はい、先生」


残念ながらさわ子先生と話しても思い出せる事は無かった。
ただ、さわ子先生が大人だからなのか、それに関する申し訳なさ等を私が抱かないように話を持っていってくれていた感じがあった。
この人もいい人だから、そんな感情を私が抱いたところで皆と同じように「気にするな」と言ってくれるんだろうけど。


さわ子「みんなもそろそろ帰りなさい。遅くなるとよくないわよ」

紬「……遅い、ってほどの時間でもないと思いますけど」

澪「別に、帰ってもいい時間でもあるけど。でも面会時間はまだありますよ?」

さわ子「……せっかく遠回しに言ってるのに。「さっさと行くわよ」って言わないとダメなのかしら?」

律「へ? 何のこと――」

紬「あっ!!」


紬さんが立ち上がり、何かを三人に耳打ちする。
それを聞いて律さんは勢いよく立ち上がり、澪さんは梓ちゃんに目をやった。梓ちゃんは俯いている。


律「そ、それじゃーな、唯! また明日な!」

唯「えっ、あの…えっ?」

澪「ま、待てよ律! あ、梓はどうする…?」

梓「……残ります」

澪「そうか。行こう、ムギ。……唯、ごめん、また明日」

紬「じゃあね、唯ちゃん、梓ちゃん」

唯「う、うん、またね」


非常に騒がしく出て行った律さんとは対照的に、澪さんはやや急ぎ目に、紬さんはどことなく優雅さを感じさせる足取りで出ていった。
最初に席を立ったさわ子先生も静かに手を振って出て行き、病室は一気に静かになる。


唯「ど、どうしたんだろーね…?」

梓「……あの人達が何も言わないって事は、唯先輩は気にしなくて大丈夫ってことです」

唯「そ、そっか……」


ちょっと他人事みたいな言い方だけど、紬さんの耳打ちを一緒に聞いてた梓ちゃんが事情を知らないわけはない。
だから逆に言えば、ちょっと他人事みたいな言い方をするという事は、私に教えてはくれないということ。
そして多分、梓ちゃん自身も関わりたくないということ…なのかな?


梓「……気になりますか?」

唯「あれ、教えてくれるの?」

梓「…多分、ほぼ毎日この時間に解散になると思うので。気にするなという方が無理な気もするんです」

唯「ふぅん……」


梓「でも、勝手に教えていい事だとも思いません。お医者さんの先生の許可が出れば、教えます」

唯「………」


ちょっと考えて、私は答えた。


唯「……教えてほしいな」

梓「わかりました、聞いてきますね。ちょっと待っててください」

唯「うん」


……実を言うと、少しだけ予想がついている。
確証はないけれど、皆が私に隠す事といえば。隠すというか、私を遠ざけている事といえば。
……それはきっと、『魔物』に関係する事じゃないかな、って思う。
記憶の無い私だから他の可能性が見えてないだけかもしれない。けど、そうやって一度予想してしまうと答えが気になってしょうがなかった。
梓ちゃんにわざわざ許可を取りに行かせる申し訳なさよりも、そういう、好奇心のような感情のほうを優先してしまった。
ごめんね、梓ちゃん。


梓「すいません、お待たせしました」

唯「あれ、早かったね」

梓「そうですか? まあ、先生かムギ先輩から話が通ってたのかそれこそ監視カメラで様子でも見てたのか、許可自体はすぐに出ましたけど」

唯「…ということは、他に何かあったの?」

梓「ええ、まあそちらは後で。とりあえず唯先輩の知りたがってた事のほうですけど」

唯「うんうん」

梓「……先輩達は、『魔物』を探しに行っています」


……当たった。
でも、「やったー当たったー!」なんて言っていいことじゃないよね。こうしてる間にも皆が危険を犯しているんだから。


梓「……唯先輩が襲われたのが、丁度今くらいの時間なので」

唯「………」


梓ちゃんが行きたがらなかったのは、そのせいなのかな。
誰よりも悔いているから、思い出したくないから、なのかな。
もっとも、澪さん達先輩からすれば後輩を危険から遠ざけるのは当然なんだろうけど。


唯「……みんな、大丈夫かな」

梓「大丈夫ですよ。危ない事はしないって約束ですし。先生も間接的に協力してくれてますし」


なるほど、さっきのさわ子先生は「貴女達次第」って、どこか当事者っぽくない言い方をしてたけど、そういうことか。
……でも、あんなにいい先生なら生徒だけを危険な目に遭わせる事にいい顔はしないはず、じゃないのかな…?


唯「…ね、梓ちゃん。みんなはどういう風に探しに行ってるの?」

梓「え? どういう風、とは?」

唯「ほら、『魔物』なんて怖いものを相手にするわけでしょ? 警察に手伝ってもらうとか、そういうことは勿論してるんだよね?」

梓「……いえ、してません。『魔物』だなんて、世間に知れたら大混乱になるじゃないですか」

唯「え……じゃ、じゃあ事情を知ってるみんなだけで探してるの? さわ子先生も直接協力はしてないんでしょ?」

梓「ああ、その、えっと、私達なら大丈夫なんですよ。対処する術があるんです。ですから、そういうのを持たない先生とかはむしろ一緒にいたら危険といいますか」

唯「対処する術って……どんなの?」

梓「それは…教えられません」

唯「………」

梓「……えっと……」


唯「じー……」

梓「う、嘘じゃないですよ? ただ、いくら唯先輩とはいえ教えていい事なのかわからないというだけで…」

唯「じー…………」

梓「せ、先輩達の許可がないと言っていいかわからないんです!」

唯「えへへ、冗談冗談。大丈夫、許可とってこいなんて言わないよ。今日二回目になっちゃうしね」

梓「そ、そうですか……?」

唯「うん。記憶が戻ればわかる事かもしれないし……今大事なのはその『対処する術』自体より、みんなに危険がないかどうかのほうだから」

梓「そこは大丈夫です! 絶対大丈夫ですから、唯先輩は何も心配しないでください!」

唯「……うん、信じるよ、梓ちゃん」

梓「……はい。だから、唯先輩は自分の事だけ考えてればいいんです……」

唯「……うん」


……そうだよね。
結局、私が何を言おうとも、一番大事なものを失ったままの私じゃ、それは余計なお世話にしかならないんだよね。
だから……私が優先すべきは、やっぱり自分のこと。記憶を取り戻すこと。
それさえ叶えば、きっと皆と同じ場所に立てるようになるよね。


梓「…あ、そうだ。話は変わりますが、さっき私が遅くなった理由ですけど」

唯「そうだったね、何かあったの?」

梓「……和先輩の件ですけど、少し早いですが許可が下りました。都合が合えば明日にでも、だそうです」


和さん。昨日、澪さんが私に会わせたがっていた、幼馴染。
そう聞いて、両親の方を見る。二人とも、視線が合っても何も言わずただ頷くだけだった。


梓「今日一日、唯先輩はいろいろなものを見て、先生にも会い、多くの事を知ったはずです」

唯「……うん。そのくせ何も思い出せなかったけどね……」

梓「そうじゃないです。それだけ多くの情報を得ても身体に悪影響が何も見られないから、予定を繰り上げても大丈夫って言ってもらえたんです」

唯「……そっか。実を言うと、覚えておくべき事ばっかりで既に頭がいっぱいいっぱいなんだけどね……」


思い出せないなら、せめて言われた事は覚えておくべき。そう思って詰め込もうとしてるのは事実。
だから演出として、冗談交じりに頭を抱える仕草をつけてみたんだけど、生憎それは冗談とは受け取ってもらえなかった。
冷静に考えれば、私の事をあんなに心配してる梓ちゃんなんだから当然だ。


梓「だ、大丈夫なんですか? やっぱりやめておきますか?」

唯「あ、ううん、頭が痛いとかそういうのはないから大丈夫。それに、幼馴染っていうなら…会いたいよ。会っておきたいよ」


記憶が戻るかはわからない。自信なんてあるわけない。
思い出せない事によって相手を傷つけるかもしれない。私自身も焦ってしまうかもしれない。
でも、幼馴染なんていう大切な存在なんだ。会いたい。会わない理由なんてない。はず。


梓「……わかりました。先輩達には私から伝えておきますね」

唯「ありがとう、梓ちゃん」

梓「いえ。では、私もそろそろ帰りますね」

唯「あれ、早いね? っていうか今日は帰るんだね」

梓「……明日に備えて、もう休んでください。私がいたらゆっくり休めないでしょうし」

唯「……梓ちゃん?」

梓「……深い意味はないですよ。澪先輩も言ったとおり、和先輩と会ってもらってからが本番なんですから。しっかり休んでくださいね、ってことです、本当に」

唯「う、うん……」



流されるように返事しちゃったけど、不安だ。
タイミングからして、私のさっきの行動を梓ちゃんが重く受け止めてしまった可能性があるから。
でも、梓ちゃんの口ぶりには取り付く島も無い。こういう時、黙っておくべきなのか、多少でも強引に行動したほうがいいのか……記憶の無い私には、わからなかった。


梓「それでは、失礼します。唯先輩、また明日です」

唯「ぁ……」


私は、手を伸ばそうとして、口を開こうとして、どちらも中途半端なまま固まっていた。
そんな私を尻目に動いたのは、ずっとなるべく私達の邪魔をしないように、静かに様子を見守っていてくれた人。


父「……梓ちゃん、家まで送るよ」

梓「え……そんな、大丈夫ですよ?」

父「唯ももう起きた事だし、ずっとついてなくても大丈夫だろうから。それに車だからすぐ着くよ」

梓「えっと……」

父「唯も、梓ちゃんを一人で帰らせるのは不安だろ?」


私を振り返ったお父さんの顔は、どこか得意気な笑みに満ちていて、「任せておけ」と言ってるかのよう。
その顔に、私はすぐに何度も首を縦に振っていた。


唯「うん、うん! 女の子の一人歩きは危険だからね! 梓ちゃん可愛いしね! よろしくね、お父さん!」

父「よろしくされるよ。さ、行こうか」

梓「は、はい……それじゃ、よろしくお願いします……」


先輩の親と二人きりというシチュエーションは緊張するかもしれないけど……ごめんね、梓ちゃん。やっぱり気になるよ。
自分で何とかできないのは情けない限りだけど……お願いね、お父さん。


唯「あ、お父さん!」

父「ん?」

唯「『魔物』に気をつけてね」

父「……ああ……そうだね」


◇◇


父「――すまないね、梓ちゃん。あの子も悪気があったわけじゃないんだ」

梓「……どちらにしろ、私を責めるような事を言う人じゃないです。それはわかってるつもりです」

父「……唯は、君にはどう映ってる?」

梓「……失礼かもしれませんけど、唯先輩は思ったままを口に出す人だと思います。それこそ、さっきみたいに」

父「嬉しかったかい?」

梓「……そうですね、そうとも取れますね。そう取っておけばよかったんですね……」

父「ふふっ。……そうだ、梓ちゃん、明日の事について一つ提案があるんだけど――」


◇◇


母「……ほら、唯。せっかくだから横になっておきなさい」

唯「はぁい……」


お母さんに言われ、しぶしぶ――と見えるように――横になる。
実際、寝転がって今日学んだ事を復習するのもいいかと思ってたところだったりする。
ご飯を食べて、もう一回復習してたらきっとすぐに消灯時間になるだろう。その前に寝ちゃうかもしれないけど。


母「疲れたでしょ? 梓ちゃんじゃないけど、ゆっくり休むのも大切なんだから」

唯「………」


疲れた、だなんて意地でも言ってやるもんか。今日の全部は私が私を取り戻すために必要な事だったんだから。
でも、明日の全部も私の為に必要な事になるのは間違いない。だから、休む時にはちゃんと休むべきなんだと思う。
というわけで、お母さんの言う事にもちゃんと従います。目を瞑って身体を休めて、今日の出来事を思い返して――


母「あっ、そうだ唯、トランプでもしない?」

唯「……お母さん、今自分で「休みなさい」って言わなかった?」

母「そ、そうだけど……ほら、お母さんと遊ぶことで何か思い出すかもよ?」

唯「……暇なの?」

母「うん」

唯「無駄に素直だね」

母「素直なのはいいことよ?」

唯「……じゃあ、なにする?」


よっこいせ、と身体を起こす。
仕方がないなぁ、とは思うけど、正直嫌じゃない。


母「じゃあババ抜きしましょうか」

唯「……二人で?」





……二人それぞれ黙々と、ペアの出来たカードを手札から捨てていく。
ババ抜きのルールは覚えてるんだなぁ、とかどうでもいい事を思いつつも……この、時間を無駄にしている感じがすごく……なんともいえない。


母「……唯も」

唯「ん?」

母「唯も、自分からやってみたい事とか言ってみればいいのよ」

唯「……梓ちゃん達に?」

母「そ」

唯「……迷惑じゃないかな?」


皆は、私のお世話をすることは――記憶を取り戻す手伝いをすることは、嫌じゃないと言ってくれた。自分達も望んでいるから、と。
でも、私の一方的なワガママを聞いてもらうっていうのはどうなんだろう……? どう思われるんだろう?


母「きっと、今の唯みたいな気持ちだと思うわよ」

唯「今の、私……」


なるほど。
お母さんのワガママでババ抜きにつき合わされている、今の私。単純に状況だけ見れば同じようなもの。
そんな私の胸中は……正直、嫌じゃない。
ぺちぺち、と、カードを捨てていくこの音がすごく優しいものに思えるくらいには。


唯「……お母さん、あの……」

母「なぁに?」

唯「……ジョーカー、既に捨てられてるんだけど」



――その夜。
やはりいろいろあって疲れていたのか、和ちゃんという人について軽く聞いておこうかと思っていたのに、結局いつの間にか眠ってしまっていた。

◆◆


――日曜日。朝。


唯「……梓ちゃん、今日は遅いね」

母「ふふっ、心配?」

唯「うん、まあ……昨日も一昨日もいてくれたから……」

父「唯が目覚める前も、毎日朝早くからこの場にいたからね、あの子は」

母「だから、私達も心配といえば心配なんだけど……」

唯「………」


「だけど」でお母さんが言葉を切り、お父さんも言葉を継がず、私もその意図は察している。
というか、理由の予想がついている。今日は和さんという人が来るから、だ。
私に和さんを会わせたがっていた澪さんと、その澪さんの考えの正当さを評価して意を汲もうとする皆なら、この日に賭ける思いは大きいはずだから。
その『皆』に、きっと梓ちゃんも含まれているはずだから。


唯「……ねえ、お父さん、お母さん。みんなが来るまで話をして欲しいんだ」

父「うん、どんな?」

唯「和さんの事。昨夜聞こうとしたけど寝ちゃったから」

父「……うーん、どうかな。昨日と一昨日で、皆からそれなりに聞いてはいるだろう?」

唯「そうだけど、幼馴染なんでしょ? 私達しか知らないような事もたくさんあるはずだよね?」

父「そうだね。だけど、僕達は独断でそれを唯に話すわけにはいかないよ」

唯「……許可がいるってこと? お医者さんの?」

父「それもあるけど、どちらかといえば澪ちゃんかな。彼女のペースに合わせようと思ってるから」

唯「澪さんの作戦に?」

父「そう」


大人であるお父さんとお母さんが、高校生に従うと言う。それは普通に見れば異様な光景。
でも昨日の時点でもそんな雰囲気は出していたから、私は問い返しこそしたもののその判断自体をそこまで疑問に思いはしなかった。
だけど、何故そうするのか、という理由までは考えた事がなかったんだ。


父「……負い目を感じているのかもしれないね。唯が魔物に襲われた時も、僕達は日本に居すらしなかったんだから」

唯「そう、なの?」

父「……記憶が戻れば、思い出すよ。その時は、僕達を責めてくれていい」

母「そうね……」

唯「そんな……私、そんなことしないよ……」


そんなこと、絶対にしない。そばにいてくれるだけで安息を与えてくれる人を責めたりなんて、するはずがない。
そう言い切りたいけど、記憶が無くてお父さん達の事情がわからない私には何も言えない。
お父さん達は責められる事を覚悟してる。そんなに正当性のない事情なんだろうか?
聞けばいい? ううん、教えてくれないよ。和さんの事さえ教えてくれないんだから。

だから、自分で思い出すしかない。
思い出して……思い出したら、お父さんとお母さんを責めるの?
そうなの? 私……

……ちょっと、記憶を取り戻すの、怖くなったかも……


唯「そんなこと、したくないよ……」

父「……ごめんな、唯。混乱させるようなこと言うんじゃなかった」

唯「……ホントだよ……」

父「あああ、顔を上げてくれ……失言だったよ本当に……」

母「ほ、ほら唯、大丈夫よ~」ナデナデ

唯「………」


二人の焦りようがとても伝わってくる。……あたたかい。
出来ることなら今すぐ笑顔を作ってあげたい。以前に何かしていたにしろ、今の私にとっては大切な家族、そばに居てくれる人なんだから、心配はかけたくない。
私が記憶を取り戻したいと思ったのは澪ちゃんや梓ちゃん達だけではなく、この人達のためでもあったはずなんだから。
ちょっと不安になる事を言われたくらいで、この気持ちは揺らがないはずなんだから……


唯「……ん……」


うん、大丈夫。ちゃんと前を向ける。
そう思い、言おうとして、顔を上げようとした、その時。


和「失礼します………って、何、この状況」


赤いメガネをかけた人が、非常に空気の読めないタイミングで入ってきた。





和「迂闊すぎます!」ガミガミ

父「ごめんなさい……」シュン

母「おっしゃるとおりです……」ションボリ

和「おじさんおばさんのそういうのんびりした所は私も好きだし滅多に欠点に転じる事はないんですけど、今回はさすがにデリカシーがありません」

父「面目次第もございません……」

母「……こういうのもデリカシーって言うの?」

和「言います!言わせます!言いなさい!」

母「ひゃいっ!!!」ビクッ


……えっと。
今何が起こってるかというと、状況を聞かれたので私の口から説明したら、即、説教タイムが始まりました。
……今日の予定って何だったっけ……


唯「あ、あの、お父さんもお母さんも反省してるのでそのくらいで――」

和「っていうかそもそもそんな隠すような事でもないでしょう。あのね唯、この夫婦はラブラブ海外旅行に行っていたのよ、当時」

父「ああっ!」

唯「ええっ、そうなの!? 私も行きたかったー!」

和「学校があるから無理よ」

唯「あ、そっか」


その頃の記憶がない上に入院中だからわからなかったけど、そっか、別に長期休暇でもないんだ、今は。
うっかりうっかり。


父「っていうか唯もツッコミ所はそこなの?」

唯「へ? あ……」

和「いつもの事なのよ。ずっとラブラブでしょっちゅう家を空けるのがあなたの両親なの」

父「あああ……」

唯「へー。素敵な夫婦だね」

和「でしょう?」

唯「うん。いつまでも仲良くしててほしいよ」

父「……あれ?」


子供をほったらかしにして旅行するような親だった事を責められると、お父さん達は思ってたんだろう。
でも私の第一声はそれだった。たぶん、この数日間だけでもこの二人が親としての愛情をちゃんと持っているっていう事はわかったからじゃないかな。
たとえそれが負い目からのものだとしても、償いだとしても、私にとっては充分に大きな支えとなるものだったから。


和「わかりましたか? 人を愛する事を知っている貴方達が育てた娘は、愛し合う貴方達の行動を責めはしないんです」

父「いやぁ……ははは」テレテレ

母「和ちゃんったら、そんな恥ずかしいことを大声で言わなくても…」テレテレ

和「褒めてませんよ! 唯はこんなにも真っ直ぐな子なのに、正直に言えばわかってくれるのに、変に隠し事をして不安にさせた貴方達の行動を私は責めてるんですからね!!」

父「は、はいィ!!」

唯「あ、あの、そのくらいで……」

和「だいたい親が子に隠し事って何ですか。子供の隠し事は親は受け入れるものですが、逆なんて到底できやしないんです。子供は親の背中を見て育つんです。親として子供を信じているなら最初から全てをさらけ出して――」

唯「の、和ちゃん! 私は大丈夫だからっ!!」

和「………」

父「………」

母「………」

唯「……あれ? どしたのみんな」

母「……「和ちゃん」って呼んだわね、今」

唯「あっ……」


なんでその呼び方が口を衝いたのかは、考えてみてもわからない。
さっきまでは、写真で見ただけのこの人の事を考えるときは「和さん」だったのに。なのに、何も考えず叫んだら「和ちゃん」になっていた。


唯「え、えっと……どうしよう? どういうこと?」

和「……ま、いいんじゃない? 貴女に「和ちゃん」と呼ばれるのは……嫌じゃないわ」

唯「……そう?」

和「ええ」

唯「………」


彼女――和ちゃんは「嫌じゃない」と言ってくれたけど、私には「嬉しい」という表情にも見えなかった。
喜びを抑えているようにも見えるし、喜んでいいのかわからないようにも見える。
幼馴染のはずのこの子の表情の意味も理由も、記憶のない私にはわからなくて、それがとても……歯痒い。
咄嗟に出たこの呼び方は、少なからず以前の私の記憶と関連しているはずなのに、手放しでは喜べない気がした。

記憶が無いって、嫌だな。
ただただ、そう思う。





澪「へえ、良かったじゃないか!」


私が「和ちゃん」と呼んだ事実を――記憶が戻る兆候と取れるそれを――真っ先に喜んだのは、やはりというか当然というか澪さんだった。


梓「さすが澪先輩です!」


私の事をとにかく心配してくれていた梓ちゃんも勿論喜び、この『ゆっくりやろう作戦』を提案した澪さんを褒め称える。
律さんと紬さんは、その光景までをも含めて喜んでくれていたように見えた。

そんな空気に流され、私も笑顔を作った。
歯痒い気持ちはまだある。でも、これは小さな一歩。
私から見れば小さすぎて手放しでは喜べないけど、皆から見れば意味のある一歩なんだ。
自分の中に、皆を喜ばせるものが残っていた。その事実は充分、笑顔を作る理由になる。
そんな笑顔の勢いで「この調子で一気に記憶が戻らないかなぁ」なんて呟いたら、やっぱり皆から「無理はするな」と怒られたけど。


和「でもそうね、ゆっくりでいいから、これを機に唯の記憶が戻ってくれれば嬉しいわよね」

律「和……うん、そうだな」


さっきとは違い、和ちゃんは心からの笑顔で語っている、ように見える。
そのことに安堵していいのかはまだわからないけど、記憶が戻ればわかるはずだから何も言わない。


和「そういえば、みんなはお昼は食べてきたの?」

澪「うん。今日はしばらく唯と和とご両親の邪魔はしないって予定だったから」

父「邪魔ではないけどね。でもありがとう、みんな」

母「梓ちゃんもね」

梓「あ、いえ、大丈夫です。それよりおばさん達のお昼ご飯は……」

父「うん、昨日言った通り、今日は外に出てくるよ。だからしばらく唯をよろしくね、梓ちゃん」

梓「は、はい、お任せください!」

唯「いつの間にそんな打ち合わせを……。いつごろ帰ってくるの?」

母「夕方には戻るわよ。たまには若い子だけで水入らずの話をしなさいな。和ちゃんもいることだし」

和「お気遣いすいません、おばさん」

父「でも、もし唯の身に何か起きたら呼んでくれると助かるな」

梓「それはもう当然です! 私がちゃんとずっとそばにいますから!」

父「そうだね、今更だったかな。じゃあ行ってくるよ」


それだけ言って、お父さんとお母さんは病室を出た。皆も頭を下げていた。
二人の気遣いは私にも伝わってきたから何も不安はない。ううん、二人の気遣いもだけど、梓ちゃんのまっすぐな気持ちも、だ。

あの日梓ちゃんは「そばにいる」って言ってくれた。実際、私が目覚めるまでもずっとそばにいてくれたらしい。
でも今朝はちゃんと和ちゃんに譲った。私の為を思って自分は身を引いた。そして今また「そばにいる」と言ってくれた。
……この子はなんて優しいんだろう。


唯「梓ちゃん梓ちゃん」

梓「はい?」


手招きすると、ちょこちょこと歩いてきてくれる。
……かわいい。


唯「隣、座らない?」ポンポン

梓「えっ……あ、はい、じゃあ失礼します……よいしょ」

紬「うふふっ、微笑ましい」

梓「む、ムギ先輩、もぅ……」

唯「………」


こうして肩を並べてみると、やっぱり梓ちゃんは小さい。
……こうも小さいと抱きしめたくなる衝動に駆られるけど、記憶がない以上は失礼かもしれないので今のままで我慢しよう。


紬「唯ちゃん、抱き締めてもいいのよ!」

唯「えっ、良かったの!?」

梓「ちょっ、ムギ先輩!!」


まるで心を読んだかのようなタイミングで紬さんが言ってくれた。
でも、梓ちゃんの反応を見た感じだと良いのか悪いのか……よくわからない。


梓「あ、いえ、あのですね唯先輩、ダメとは言いませんが、っていうかこの前は私から抱きついてしまいましたしダメなんて到底言えませんが、っていうかもしかしたらそれで記憶が戻ったりするかもしれないしダメって事はないんですけど、決して嫌ではないんですけど、えっと――」

唯「――い、いいよいいよ、なんかタイミング悪いもんね、うん」

梓「そ、そうですタイミングです! 別に嫌ではないんですけど、タイミングがね!」

紬「そう? 残念……」


……紬さんはしょんぼりしていたけど、私は少し嬉しかった。
ふと沸いてきた抱きしめたいという衝動が、梓ちゃんに一応拒まれなかったということが。
この衝動はきっと『平沢 唯』のものだから。それが私の中にあった事も嬉しいし、紬さんも梓ちゃんもその衝動を否定しなかったのも嬉しかった。
衝動のままに抱きつけなかった私はやっぱりまだ『平沢 唯』ではないのだろうけど、それでもまたひとつ光が見えた。


澪「……そういえば和、なんで急に昼食の話を?」

和「唯に何かあげようと思って持ってきたんだけど、勝手に食べ物あげちゃダメって言われて」

律「私も昨日澪に怒られたよ」

和「唯のためにもなると思ったんだけどね。というわけで律、これあげるわ」

律「こ、これは…!」

澪「……頭脳パン?」

律「これを唯のためにって……今から頭良くなってどうするんだよ!しかもこれ食べるだけで頭が良くなるわけじゃねーよ!そしてこれを私にくれるってつまりそういうことかー!!!」

澪「お、落ち着け律!」





澪「――と、ところで和、私達が来るまで唯とどんな事を話してたんだ?」

和「そうねぇ……昔話ばかりだったわね」

紬「幼馴染だから話題には事欠かなそうね?」

和「ええ。ただ、それでも唯の記憶が戻る、とまでは行かなかったけど」

唯「なんとなく懐かしいような感じはしたんだけど……ごめんね、和ちゃん……」


懐かしい感じがしたということ自体は、私にとっては嬉しい事だった。
ただ問題は、和ちゃんの話のせいぜい半分くらいでしかその懐かしさを感じられなかったということ。
和ちゃんは私との思い出を語ってくれてるのに、その半分くらいには私は何も感じなかったんだ。
それがどうしても申し訳なくて、皆に希望を持たせるような言い方なんて到底出来なかった。
……もちろん、この懐かしさを記憶という形で取り戻したい想いは強まったんだけどね。


和「まあいいのよ別に。一気に記憶が戻っても混乱しそうだしね、唯の事だから」

律「そうだなぁ、唯は頭は良くなかったからなー」

澪「お前が言うな」


なるほど、やっぱり私はお馬鹿キャラだったらしい。ついでに律さんも。
まあ以前もそんな感じの話をしていたし、別に自分がお馬鹿キャラなことに不満はない。ないんだけど、


唯「でも、いろいろ忘れてる今なら逆になんでも詰め込めるかも?」


……なんてことを思いついてしまった。
ただ、この思いつきは胸の内だけに留めておくべきだった。口に出すべきじゃなかった。
口に出した事によって、こんなにも気まずい沈黙が訪れるのなら。


唯「……た、試しに何かやってみようかなぁー? なーんて」

和「……問題集ならあるわよ」

唯「あるの!?」

和「まあ一応、ね。問題を見て何か思い出すかもしれないと思って。はい」

唯「あ、ありがと。うーんと……」


『高校三年生の数学』と書かれた問題集に目を落とす。
話を聞いた限りだと私は高校三年生で、今の季節は春。体感でもせいぜい初夏。
というわけだから、この問題集の後ろのほうの問題は絶対解けない、はず。前から順に解いていこう。解ければ。


和「………」

紬「………」

梓「………」

律「……唯が問題集と真面目に向き合ってるのは不思議な光景だな」

澪「茶化すな。唯は真剣なんだから」


そうです秋山澪さん、私は真剣なのです。
だって……もう少しで解けそうだから!


唯「わかった!これだ! ……どう?」

和「あら、正解だわ。よく解けたわね」

律「マジで!? 私には問題文が何語なのかすらわからなかったぞ!」

澪「いや問題文自体は日本語だろ」

律「いや、しかし、唯が解けるのか、これ……マジか……」

和「……まあ、唯はやれば出来る子だから」

澪「律だってマジメにやれば良い点取れるんだから、気持ちはわかるだろ?」

律「……むぅ……」

唯「……あの、私、解けたの結構嬉しかったんだけど……お馬鹿キャラとしては解けない方が良かったのかな?」

紬「ま、まぁまぁまぁ。気にしないで唯ちゃん。唯ちゃんが真剣に向き合ってくれたのは嬉しいから」

唯「そう? ならいいのかな……ありがと、紬さん」

紬「うん、どういたしまして」


問題は解けた。でも記憶は戻らなかった。そんな私にこうして紬さんが笑顔を向けてくれるのは、「焦らなくていい」という言葉の裏付けなんだろう。
本当にありがたい事だと思う。絶対その気持ちに応えるからね。待ってて。

ひとまず、三年生の問題が解けたって事は私は確かに三年生だって事だよね。自信だけはついたかも。
……問題の解き方をひらめいた時みたいに、記憶もポロッと戻ってくれないかなぁ。


唯「それにしても、律さんにとってはそんなにショックなのかな……ね、梓ちゃん?」

梓「……あ、すいません、聞いてませんでした」

唯「と、隣にいたのに……?」


……梓ちゃんも内心、律さんと同じ反応してたのかな……





唯「ね、ね、他には何かないの?」

和「記憶の切っ掛けになりそうなもの?」

唯「うん!」


問題が解けて自信だけはついたから、こっちから尋ねてみる。
……ちょっと図々しかったかな?と思ったけど、皆は笑顔で応えてくれた。


律「お? やる気だな唯! そんなお前にピッタリのものがある! これだ!」


そう言って律さんが何かを取り出した……のではなく、私の隣の梓ちゃんに何かを指示した。
それを受けて梓ちゃんが立ち上がる。


梓「すいません唯先輩、少し待っててくださいね」


言って、梓ちゃんは部屋を出て行った。
そして僅かな時間の後に戻ってきた時、その手には大きな黒いケースを持っていた。
そのケースの形は……


唯「もしかして……」

梓「はい、唯先輩のギターです。どうぞ」

唯「……かわいい」


チャックを開け、取り出された私のものらしきギターを見ての第一声がそれだった。
別に、ギターにかわいい絵が描いてあるとか装飾が施してあるとかそういうわけではないけど、かわいいって思ったんだ。
ギターにかわいいってどういうことだ、とツッコミ入れられるかと思ったけど、意外にも皆は微笑んでいた。


梓「唯先輩らしいです」

唯「そ、そう? 良かった」

律「へへっ、ここで装備していくかい? お嬢ちゃん」

澪「誰だよ……」

紬「でもそうね、唯ちゃん、持って見せてほしいな」

唯「うん、わかった。えーっと」

梓「こうですよ、先輩」


さすがにギターの持ち方くらいはなんとなくわかるけど、せっかくだから梓ちゃんに手取り足取り教えてもらおう。
……あっ、梓ちゃんの手、ちっちゃくて可愛い。


唯「じゃーん、どう?」

紬「ふふっ、似合ってる似合ってる」

唯「えへへー。ところでこれ、どこから持ってきたの?」

梓「唯先輩の家からですよ?」

唯「あ、そうじゃなくってね」

梓「あっ、はい、ええと、まずおじさんに唯先輩の家から持ってきてもらって、さっきまでナースステーションで預かってもらってたんです」

澪「私と梓も学校帰りの時は預かってもらってるんだ」

唯「なるほど……」


えっと、担当楽器は私と梓ちゃんがギターで、澪さんがベース、紬さんがキーボードで律さんがドラム、だったっけ。
つまり持ち運びやすいギターとベースは毎日持ち歩いているんだろう。きっと記憶のあった頃の私も同じように、ギター……ギー太、を。
それにしても、皆はいつでも話し合う時間はあっただろうけど、お父さんまで一枚噛んでたなんて、いつの間に。あ、もしかして昨日梓ちゃんと帰った時かな?


澪「どうだ唯、せっかくだから何か弾いてみるか?」

唯「いいの? 弾いてみたい!」

澪「じゃあ……ふわふわでいいかな。はい」

唯「ふわふわ?」


何がふわふわしてるんだろ、と思いながら手渡された楽譜を見たら曲名がふわふわしてた。


唯「………」

律「澪のセンスです」

梓「です」


よく見ると歌詞もふわふわしてた。
でも、なんだろう、今までと同じように、どことなく懐かしい感じはちゃんとする。
それに……


澪「……へ、変かな?」

唯「個性的だとは思うけど……私はこういうの好きだったような気がする。なんとなく」

澪「そ、そうか? 良かった……」

律「……演奏してみるか?」

唯「うん。えっと、楽譜ってどう読むの?」

梓「えっとですね――」


一応聞いてはみたけど、一目見てなんとなく予想がついていた。
予想が当たっていることを確認してから、フレットに指を乗せる。
そして、右手のピックで弦を――

―――

――


和「――唯、唯ってば!」

唯「あっ……和ちゃん。ごめん、集中してた……」

和「でしょうね。もう三回目よ、この曲」

唯「……えへへ、楽しくって、つい」

和「……で、どう? 何か思い出した?」

唯「……それは………」


ギターを弾くのは楽しかった。記憶のあった頃の私もすっごく楽しんで演奏してたんだと思う。
でも……思い出せた事は無かった。


唯「なんとなく、この曲に懐かしさを感じはしたけど……」


懐かしさを感じた。演奏していて楽しさも感じた。それに、楽譜の読み方も予想がついたし演奏中も指がよく動いた。
これらの事から、記憶を失う前の私がギターを弾いていた、という確信が持てた。
けど……確信は、記憶じゃない。記憶はまだ私の中にはない。
……見渡してみると、どことなく皆の表情も曇っているような気がした。


唯「……ごめんね、ずっとこればかり言ってるね、私。これしか言えてないんだね……」

紬「だ、大丈夫よ唯ちゃん! 大丈夫だから。ね?」

澪「……そうだよ。何回か弾いてるうちに思い出すかもしれないし」

唯「でも……これだけ夢中になったのに何も思い出せなかったのは……さすがにちょっと……」


そこは皆も同じ気持ちだったんだろうと思う。今まで見た中で一番残念そうな顔をしてるから。
私の事を気遣ってか、見るからに残念そう、というわけではないけれど。それでも悲しそうな感じは伝わってくる。
今回のは私でも結構落ち込む結果なんだから、期待している皆はもっと落ち込んでもおかしくないと思う。もっと表情に出してもいいとさえ思う。いや、私を責めてもいいとさえ。
焦らなくていい、と言ってくれた皆の気持ちを疑うつもりはないけど、それでも今回ばかりは私としても申し訳が立たなくて……


梓「……大丈夫ですよ、唯先輩」

唯「……梓ちゃん?」

梓「みんな、唯先輩が上手くて驚いてるだけですから」

唯「……へ?」

梓「唯先輩は本番以外はあんまり上手くない人でしたから、驚いてるんです。ね、先輩方?」

紬「へっ!? えっ、えっと……」

澪「う、うーん……まあ……」

律「まあ……そうとも言えなくもないような……あるような……」

梓「……ね? 思い出せない事を責めてるわけじゃないですから」


……そう言う梓ちゃんだって、さっきは表情を曇らせていた。私はしっかり見た。
でも今は誰よりも早く立ち直って私を励ましてくれている。
梓ちゃんの言っている事が本当かはわからない。っていうか多分その場限りの出まかせだと思う。あ、私が下手だったのは本当かもしれないけど。
ともかく、梓ちゃんが気を遣ってくれて、皆がそれに乗ってくれたんだ。私だけが落ち込んでいるわけにはいかない。


唯「……ごめん、ありがと、梓ちゃん。まだ何も思い出せてないけど、私、頑張るから」

梓「……いいえ、唯先輩、あなたは一つだけ思い出したはずです」

唯「えっ…?」

梓「演奏するのは楽しい、ってことを。今はそれでいいと思います」

唯「……梓ちゃん…!」


和「偉いわね、梓ちゃんは」

澪「……うん、すごいよ」


律さんと紬さんも、その言葉に頷いていた。





しばらくして今日もさわ子先生が来てくれた。そのまたしばらく後にお父さん達が帰ってきたことで、交代のような感じで皆は魔物探しへと向かった。
さっきは皆の表情を曇らせてしまったし、その後も何の進展もなかったけど、出て行く時の皆の顔はいつも通りに見えた。
梓ちゃんのフォローのおかげか、それとも『魔物』という脅威がそうさせているのか……
……魔物の事も当然気になるけど、今日の一連の出来事を経て、やっぱり記憶の方を優先しないといけないって思い知ったから今は何も聞かないでおこう。


母「梓ちゃんは、今日も残ってくれたのね」

梓「はい。……もしかしてお邪魔でしたか?」

母「もう、私達が梓ちゃんにそんなこと思うわけないでしょ?」

父「そうそう」

梓「す、すいません……ありがとうございます」

母「ふふっ。でも、行きたくなった時は私達に構わずちゃんと行ってね?」

父「もちろん、ちゃんと気をつけて、だけど」

梓「ありがとうございます。でも、きっと私は行かないほうがいいと思います……」

母「そう? なんで?」

梓「……感情的になってしまいそうですから。どんな行動を取るか、自分でも想像できません。先輩方に迷惑をかけます、きっと」

父「後輩だし、それでもいいと思うけどね」


私もそう思う。
後輩にいくら迷惑をかけられても、先輩はきっと後輩を全力で守る。先輩はそれを苦に思わない。先輩はそんな後輩の事が大好きだから。
覚えてないけど、それでも先輩後輩の関係ってきっとそういうものだと思う。


梓「……先輩達だって、いっぱいいっぱいなはずです。私が甘えるわけにはいきません」

唯「私には甘えていいんだよ、梓ちゃん?」

梓「……そういうのは記憶が戻ってからにしてください」

唯「手厳しい! その通りだけど!」


今の私は「他人の心配より自分の心配」と言われて当然の立場だし、仕方ない。
でも、今の私でも何か梓ちゃんにしてあげられる事はないんだろうか。だいぶ心配してくれたと聞いてるし、いつもそばにいてくれるし、そういう事を考えたくなるのは必然だと思う。
もちろん記憶を戻すのが最優先だし、梓ちゃん意外の皆にも何かしてあげたい気持ちはあるけど。


梓「大丈夫です。ここに残るのは私自身の意思でもありますし、唯先輩の事、頼まれてもいますし」

唯「実際助かってるから何も言えない……」

父「僕らも助かってるから何も言えない」

母「そうねぇ」


頼りがいのある先輩になりたいなぁ。
……入院中、ギターの練習をみっちりやろうかなぁ。


唯「そういえば、私のギター……ギー太を持ってきたのはお父さん?」

父「そうだよ。どうだった?」

唯「思い出せたわけじゃないけど……楽しかった!」

父「……成功なのか失敗なのかわからないな。これ、僕のアイデアだったんだが」

母「まあ、あなたが言わなくてもあの子達なら思いついてたと思うけど」

父「うっ」

梓「ま、まあまあ。唯先輩が笑ってくれたんですから、成功ですよ」

母「……それもそうね。娘の笑顔を喜ばない親はいないものね」

父「そうだね……」


どことなく遠い目で微笑んでくれる二人。
記憶が戻った時には、もっともっと笑ってくれるよね。


唯「ねえ、もうちょっとギター触ってていいかな?」

父「まだ大丈夫じゃないかな。そんなに大きな音ではないとはいえ、夜はやめておいたほうがいいと思うけど」

唯「うん、ありがと」


それからしばらく、澪さんが置いていってくれた『ふわふわ時間』の楽譜を見ながら、手と指を動かした。
……やっぱり、楽しい。


唯「……ふう。ね、梓ちゃんもギターなんだよね? どう? 楽しい?」

梓「はい、もちろんです」

唯「そっか、よかった。なんだか嬉しいよ」

梓「……唯先輩。みんなで合わせると、もっと楽しいですよ」

唯「楽しそうだねえ。あっ、学校がある日なら梓ちゃん達も楽器持ち歩いてるんだよね?」

梓「私と澪先輩は持ってますが……ムギ先輩と律先輩が仲間はずれになります」

唯「あ、そうだった。それは悪い気がするね……」

梓「でしょう。……早く退院できるといいですね」

唯「そうだねえ。……あれ? 私どうなれば退院できるんだっけ?」


初日もチラッと考えた気がするけど、もう一度情報を整理してみよう。
えっと、確かお医者さんの話だと身体にはどこも異常は無くて、記憶だけが無い。
そんな前例の無い事態だから慎重に慎重を重ねた治療をしながら、経過観察をしていく……みたいな話だったはず。
ということは……


唯「……やっぱり記憶が戻らないと退院できないのかな?」

梓「う、う~ん……でも病院から出て、街並みとかを見る事で何か思い出すかもしれませんし……」

唯「う~ん……」

梓「個人的には、魔物が退治されるまではここにいてほしいですけど」

唯「じゃあ、退治された後は?」

梓「………」

唯「………」

父「………」

母「………」

梓「……今度、聞いときますね」

唯「うん、ごめんね……」





今日も梓ちゃんが遅めの時間まで残ってくれたので、帰りはお父さんが送ると言い、病室にはまた私とお母さんの二人だけとなった。
何を話そうか考えていると、不意にお母さんが口を開いた。


母「……唯、今朝はごめんね?」

唯「今朝…? あ、うん、いいよ、気にしてないよ」


一瞬何の事かわからなかった。
それくらい今日はいろんな事があったとも言えるし、そのおかげで今朝の事も今となっては大した事じゃなくなった、とも言える。


唯「和ちゃんがバッサリ解決してくれたからね。大丈夫だよー」

母「……でも、娘を不安にさせちゃうなんて、母親失格だわ」

唯「そんなこと……」


そんなことない、と言いたかった。私が家族に助けられているのは事実だから。
でも、そう言おうとした時、今日の皆の顔が一瞬頭の中をよぎった。私が不安にさせてしまった皆の顔が。
その申し訳なさは、考えてはいけないとわかっていても頭の中から完全には消えない。
お母さんも同じような感じなのだろう。少なくとも今の私には、お母さんが抱えているその申し訳なさを否定は出来なかった。


唯「……一緒にいてくれれば、それで充分だよ。お母さん」


否定出来ないから、そう言うしかなかった。
一緒にいてくれて、私を救ってくれている人が母親失格なわけがないと、そう言うしかなかった。


母「……ありがと、唯。あなたは優しい子に育ったわね……本当に……」





しんみりとしたお母さんの言葉にどう返事すればいいかわからないでいたら、タイミングよくお医者さんが訪ねてきた。
調子はどうだい?と聞かれたので、身体が覚えていた事がいくつかあったみたい、と伝える。


医者「ふむ。いい傾向だね」

唯「ですよね!」

医者「でも、このまま全てが上手くいくと約束されたわけじゃないから気をつけるように。なんせ初めての症例なんだから。水を差すようで悪いけどね」

唯「は、はい……」

医者「……でも、今日君が取り戻した『感覚』は確かに君のものだ。そこは喜んでいいよ」


「言いたかったのは、もし明日や明後日に何も思い出せなくても落ち込む必要はないよ、と、そういう事だ」とお医者さんは言い、出て行った。
でも私は、その忠告を真に受けようとはしなかった。
だって今日、あれだけ以前の私の片鱗とも言えるモノが見えたんだから。
あくまで見えるだけ止まりで皆を落ち込ませたけど、でもこれは記憶が戻る兆候だって私は思う。
これからどんどん記憶が戻ってくる。だから、お医者さんの忠告は杞憂で終わる。そう思った。



……実際は、そうはならなかったんだけど。



それからの毎日では、何一つ進展がなかった。
「なんとなく懐かしい感じがする」という受け答えももはや恒例になってしまって、言う側の私も心苦しかった。それしか言えない自分が歯痒かった。
嘘を吐く事が許されるなら、もっと前向きな事を何度でも言ってあげたかった。
でも、それは許されない。

皆の表情が曇る事も多くなってきた。当然だと思う。
「焦らなくていい」と言ってくれた皆の気持ちを疑うわけじゃない。信じた上で、それでも当然の反応だと思う。
だって、私の表情も曇っているはずだから。
私が何も思い出せない自分に腹を立てているのと同様に、私に何も思い出させてあげられない、と皆が考えてしまって唇を噛み締めていても何ら不思議じゃない。
記憶のない私が信じたいくらい、皆は優しいから。

次第に、「魔物探しに本腰を入れるから」という名目で、日替わりで一人だけ顔を見せなくなった。
私はその言葉を信じた。たとえ本心が「思い出せずに苦しむ私を見たくない」だったとしても、私に言える事は今や何もなかったから。
「頑張る」だなんて言葉じゃ何の意味も成さないほどに、何の進展もない毎日だった。

……そんな日々の中でも、両親はずっとそばにいてくれた。
梓ちゃんも、平日は毎日朝と夕方に来てくれて、休日は一日中一緒にいてくれた。
だからかな、軽音部の記憶は戻らなくても、梓ちゃんだけは特別に距離が近かったような、そんな感じがするんだ。


◆◆◆



――そんな、何も変わらない毎日がある程度続いた後の、ある日のこと。
久しぶりに軽音部全員と和ちゃんと先生が病室に揃ったので、聞いてみた。


唯「今日は魔物のほうは大丈夫なの?」

律「ふふふ、よくぞ聞いてくれた、唯!」

唯「えっ…?」


私自身も皆もどことなく元気がなかったここ数日が嘘のように、律さんのテンションが高い。
周囲の皆も微笑んでいる。これは……


唯「もしかして……」

律「おう! 『魔物』は退治した!!!」

唯「お、おぉ~! すごいねみんな!」

紬「ようやく、ってところだけどね」


昨日姿を見せなかった紬さんが、ちょっと疲れたような顔で笑いかけてくれる。さわ子先生も昨日はいなかったし、もしかしたら昨日の段階でいろいろあったのかもしれない。
何も手伝えなかったのは残念だけど、記憶を取り戻す事を優先しろと言われているし、梓ちゃんからも魔物が退治されるまでは退院してほしくないと言われているし……どのみち手伝えなかったのかもしれない。
あ、ちなみにあの日梓ちゃんに聞いてきてもらった時にお医者さんも「魔物が退治され次第、退院も前向きに検討する」と言っていたので、やっぱり手伝いには行けそうにもなかった。


唯「……どうだったの? みんな、何事もなかったの? ケガとかしてない?」

澪「大丈夫だよ。心配してくれるのはありがたいけど、こうしてみんなピンピンしてる」

唯「……よかった。あ、でも……ごめん、みんな」

紬「えっ?」

唯「……記憶が戻った感じは、まだしないんだ」

澪「う、うん?」

和「なんで今言うの?」

唯「えっ? だって、魔物を倒したんだし……」

律「……あ、わかった。ゲームみたいに、敵を倒せば取られたものが戻ってくる、って私達が考えてると思ってたんだろ?」

唯「う、うん。律さん達がっていうか、私もちょっと期待してたし……」


だって相手は『魔物』だからね。そういう説明しにくい現象が起こっても不思議じゃないというか。
そもそもが私の記憶を奪うような相手だし、そういういわゆるご都合展開があってもいいと思ったんだけど。


律「……残念ながら、そう都合のいいことにはならなかったな」

澪「……復讐しても……やっぱり失われたものはかえってこないんだ」

紬「それでも! それでも、これでみんな安心できる……。そうでしょ?」

澪「……そう、だな。ごめん」

紬「ううん。澪ちゃんもお疲れ様。怖がりなのに……」

澪「そ、そういう事は言わなくていいから!」

唯「……えへへ」

さわ子「良かったわね、唯ちゃん」

唯「うん。優しい人ばかりで……幸せ者だね、私は」

梓「……それは、唯先輩が優しい人だからですよ。だから周囲に自然とそういう人が集まるんです。……記憶が戻らないとピンとこないかもしれませんが」

唯「……私自身についてはピンとこないけど、梓ちゃんを見てると優しい人の周りには優しい人が集まるっていうのはわかるかな」

梓「私は……そういうのじゃないです」

唯「そうかなぁ?」


梓「……ちょっと、お医者さんの先生に相談してきますね。先輩のこれからのスケジュールについて」

唯「あっ、梓ちゃん……」


梓ちゃんは俯きがちに表情を隠し、そそくさと病室を出ていってしまった。
たぶん……いや、どう考えてもこれは私の失言だよね……


唯「……何がいけなかったんだろ……」

澪「……梓は、何と言えばいいかな、要するに唯への恩返しみたいな考えで動いてるところあるから……」

紬「きっと、本人から褒められても困っちゃうのよね」

唯「……私が何も覚えてないから尚更、ってことかな」

律「嫌ってはいないから安心しろって」

唯「……うん、ありがと、みんな」


皆にしろ梓ちゃんにしろ、いまだに何も思い出さない私に対して失望みたいな感情を向けたことは一度もない。
今となっては私はそれを一番恐れてるから、どうしてもそこには敏感になる。敏感になってるから、今までそんな事は一度もなかったと言い切れる。
それはとてもありがたいこと。いくら感謝しても足りないくらいに。

でも、思い出さない私に失望はしていなくても心を痛めているのはわかってる。
家族以外で一番長く近くにいる梓ちゃんは、多分誰よりも多く心を痛めてる。
立場の違いゆえに、もしかしたら家族よりも多く。

……やっぱり、どうしても焦っちゃうよね。
たとえ誰も私に焦りを強いていないと知っていても、梓ちゃんの心が今どれだけ傷だらけなのかを考えると、どうしても。





唯「というわけで退院したいです、先生」

医者「何が「というわけで」なのかわからないが……」


魔物退治の報告を受けてだろう、梓ちゃんと一緒にお医者さんも来てくれたので、率直な気持ちをぶつけてみた。
……率直すぎたみたいだけど。


医者「……ま、そうだね、魔物が退治された事に加え、病室に篭りきりで改善の兆候が見られないなら、退院も考えたほうがいいか」

唯「やったぁ!」

医者「ご両親も、それでよろしいですか?」

父「はい。本人の望むようにさせてあげてください」

唯「じゃ、じゃあ今すぐにでも!」

母「さすがにいろいろ手続きがあるから今日は無理よ。唯の着替えも持ってきてないし」

唯「そ、そっか……」

和「落ち着きなさい唯。家に帰りたい気持ちはわかるけど」


一言で済ませてしまえば「家に帰りたい」になるけれど、退院してからやりたい事はたくさんある。
単純に外の空気を吸いたいとか、病院食じゃない食べ物を食べたいとか、着替えたいとか、学校に行きたいとか。
梓ちゃんが言ってくれたように自宅や街並みを眺めて思い出す事もあるだろうし、それに一番大きいのは、これまた梓ちゃんが言ってくれた事だけど、


唯「私、早くみんなで合わせて演奏したいよ、軽音部で」

梓「唯先輩……」

医者「じゃあ仮に明日退院するとして……明日は金曜日か。登校は来週頭からで?」

さわ子「そうなりそうですね。私のほうは特に問題はありません」

医者「そうですか。でしたら明日退院の方向で話を進めましょう。よろしいですね?」

父「はい」

唯「えっ、ほ、ホントにいいの…? いいんですか?」


自ら望んだ事とはいえ随分急な話に見える。本当にいいんだろうか。
とはいえ、さすがにお医者さんが嘘や冗談を言うはずもないけど。


医者「何か不都合が?」

唯「い、いえ! その、すんなりいきすぎて怖いというか……」

医者「何度も言うけど前例のない症例だから、危険な賭けではある。けど、その上で君自身が環境を変えて治療する事を望むなら応えるしかない」

唯「ど、どうしてでしょうか?」

医者「今回の場合、入院は悪化を防ぐ為の措置に過ぎない。改善の為の最善手は誰にもわからないんだ。だから、外の危険も無くなった今なら、治療の為と言われれば止めるに足る理由が無い」


要するに、入院してるだけでは良くならなかったから、他の方法を試したいと言い出したら止められない、ということか。
前例の無い記憶喪失であるがゆえに、何が良くて何が悪いかわからないから止められない、と。


医者「でも通院は続けてもらうよ。出来れば平日は毎日。あと少しでも何か起きたらすぐに電話するように。帰ったら病院の番号を携帯電話に入れておいて」

唯「は、はい」

医者「周りのみんなも、この子に何か気がかりな変化が起こったら教えて欲しい」

紬「はい。ありがとうございます」

医者「……では明日の午前中で退院、と。そういう方向で」


お医者さんはそう言って、最後にお父さん達に向けて一礼してから部屋を出ていった。

……まさか本当に帰れるなんて。自分が言い出した事なんだけど、実際にそう決まると期待と不安でいっぱいだ。
家に帰れば、きっとギターの時みたいに自分がそこにいたという実感が持てるだろう、という期待と。
それでもギターの時のように記憶が戻らなかったら、という不安。それらで胸の中がいっぱいだ。
早く帰りたいとは言ったけど、気持ちを整理する時間は取ったほうがよかったかな…?


和「……変に気負わない事よ、唯」

唯「……和ちゃん?」

和「こういう事はなるようにしかならないし、なるようにすればなんとかなるわ」

唯「……え、どういうこと?」

律「記憶が戻るに越したことはないけど、戻らなくても私達はずっと友達だってことさ!」

和「ま、身も蓋もない言い方で結論だけ言えばそうなるわね」

さわ子「不安も期待もあるだろうけど、そこまで気にしなくていいって事よ」

律「さわちゃんが先生らしくまとめやがった……」

さわ子「もっと褒めてもいいのよ?」


……要らなかったかな、気持ちを整理する時間なんて。
今のままでよかったんだ。


唯「……ありがと、みんな」





今日も記憶は戻らなかったけど、明日が退院という事で皆の意識はそちらに向いているようだった。
よって、あまり皆の落ち込む表情を見なくて済んだ。ありがたい。

もう魔物も退治されたということで皆もいつもより遅くまで残ってくれたけど、それでも解散の時は来る。
そんな中、ちょっとだけいつもと違う光景があった。というか、懐かしい光景が。


さわ子「ほら、そろそろ帰るわよ? 唯ちゃんも退院の準備とかあるでしょう?」

唯「……あるの?」

父「無い、ことはないね」

澪「あ、じゃあそろそろお暇します。みんな、帰るぞ」

紬「はーい」

和「そうね、そろそろいい時間だし」

律「そうだなー。さて……」

梓「……私は、残ります」

律「まーそんなこと言うだろうって気はしてたよ」

梓「そうですか、すごいですね」


初日以外は梓ちゃんだけいつも残っていてくれたから、いつもと違う、懐かしい光景だ。
あの時は律さんが梓ちゃんを引きずっていったんだっけ。今回は……?


律「……唯も退院することだし、私達もスケジュールをちょっと考えなくちゃいけない」

梓「スケジュール?」

澪「ほら、土日は休みだからいいけど、学校が始まったら例えばムギは電車通学だから登下校は一緒にいられないし、梓も学年が違うから学校ではあまり一緒にはいられない」

梓「………」

律「そのへん相談しながら帰るぞ、梓」

梓「……そういうことなら……」

唯「あ、あの、そこまでしてもらわなくても……」


記憶が無い事がどの程度日常生活に支障をきたすのかわからないけど、登下校までお世話してもらうのは申し訳ない気がした。
だから遠慮しようとしたんだけど、でも当然というかなんというか、皆は聞く耳を持たなかった。


和「気にしなくていいわ。どうせ全員同じクラスだし」

さわ子「私のおかげでね!」

唯「職権乱用ですか!?」

紬「でも、感謝してますよ」


確かに、皆から見たらこんなことになってしまった今となっては同じクラスにしてもらった事に対して感謝しかない、のかな。
私としても、来週から行く学校で同じクラスに知ってる人が誰もいないよりかは遥かに助かるし。うん、ありがたい話だよね。
甘えていいのかな、ずっと甘えっぱなしだけど。せめて感謝の気持ちは忘れないようにしないとね。


澪「じゃあ、そういうことで。今日は失礼します」

父「今日もありがとう。また来てくれると助かるよ」

律「それはもちろん」

母「退院してるだろうから、家で会うことになるかしら」

梓「……私は朝も来ますから」

唯「ありがと、梓ちゃん。みんな、また明日ね」

紬「またね~」

和「またね、唯」

さわ子「それでは」


◆◆


期待と不安で眠れない――なんてことはなかった夜を越えて、退院当日の朝。


唯「……ん…?」


朝特有のまどろみの中で、手に何かが触れているような感触を覚え、目を開く。


梓「……あ、おはようございます、唯先輩」

唯「梓、ちゃん……?」



違和感を感じた。何かに。
……ああ、そうだ、珍しいんだ。


唯「……今日は早いね?」


入院患者である私は模範的で健康的な早寝早起きの生活を送っている。
そんな私が起きるより前に梓ちゃんが来ていて、しかも私を起こしかねないくらいにしっかり手を握っているというのは、珍しい。
もっと言うなら予想外。そして、らしくない。

そんな梓ちゃんの次の言葉は、もっと予想外なものだった。


梓「……今日、退院でしたよね。付き添います」

唯「……えっ?」

梓「おじさんとおばさんには許可を取りました。唯先輩次第だ、と」


枕元にある時計を見てみる。実際のところ、非常識と言うほどの早朝ではなかった。
うちの両親もいつも私が起きるより早く起きているし、梓ちゃんが会ったというのは嘘ではないのだろう。

でも、もっとも大きな問題はそこではなく、別のところだ。


唯「……学校は?」

梓「休みます、親に連絡してもらって」

唯「元気だよね?」

梓「少なくとも熱はないですね」

唯「サボりじゃん! ダメだよそんなの!」

梓「……でも、学校に行くより、唯先輩の側にいたいです」

唯「………」


どうして、とは聞けない。あの時の事を誰よりも悔いている梓ちゃんに、それは聞けない。
だから、別の聞き方をする。


唯「……なんで、今日に限って?」

梓「……人手があったほうが、いいかと思いまして。他の先輩方は受験生ですから休めませんが、私なら」

唯「……それは助かるけど、本当に? それだけ?」

梓「………」

唯「………」

梓「……私は、いないほうがいいですか?」

唯「そんなことはないよ、絶対にない、けど……」

梓「………」


……何かあったんだろうか。昨日別れてから、今までの間に。
今日の梓ちゃん全てからそんな気がして、聞くべきかどうか、とても悩む。

でも、何かあったのだとしても、その『何か』まではわからない。記憶の無い私は、必然的に蚊帳の外だから想像もつかない。
恐らく私がこうなってからの色々に関係してるんだろうとは思うけど、どう関係するのかが想像できない。わからない。私が発端のはずなのに。

……そんな私が軽々しく事情を聞きだそうなんて、とてもおこがましい事に思える。


唯「……わかった。じゃあ、お願いできるかな?」

梓「……いいんですか?」

唯「いいよ。決意は固そうだし……それに」



何かあったのかは私には聞けない。
聞けないからこそ、突き放すことなんて出来なかった。今の梓ちゃんは近くにいてもらわないと不安だ。
何があったのかを聞けて、解決できるのが一番いいんだろうけど……私にはそれも出来ないだろうから、せめて他に何かしてあげられる事はないか探そう。

そういえばこの前もこんな感じの事を考えてたっけ。
その時は頼りがいのある先輩になりたい、って思ったはず。だったらやっぱり、今の梓ちゃんは放っておけない。


唯「……梓ちゃんがそばにいてくれると、嬉しいし」


そんな梓ちゃんに、何かしてあげたい。そう思う。
昨日の話だと、私に恩返ししたい梓ちゃんは直接そういう事を言われても困ってしまうらしいので、なるべく自然にさりげなく何かしてあげたいな。





私服に着替えた後、両親と梓ちゃんがまとめてくれた荷物を抱え、病院を出る。
体力はそこまで落ちてないようだ。何ヶ月も入院していたわけでもないから当然か。


医者「次は月曜かな。学校帰りにまた来なさい」

唯「はい、お世話になりました」


お医者さんと看護師さん数人が見送ってくれた。
目覚めてからはそれこそ梓ちゃん達がずっといたけど、それまでは看護師さん達にも世話になってたんだろうな、と今更ながら思い至る。
今更ついでにもう一つ。退院して外に出た時、初めてこの病院の名前を見た。


唯「……ああ、ここ脳神経外科だったんだ。って当たり前だけど」


紬さんがいろいろ手回ししてくれたとは聞いたけど、別にこの病院が「琴吹脳外科」という名前なわけではなかった。
まあ、お金持ちの世界にはいろいろあるんだろう、私にはわからないことが。それとも記憶のある頃の私ならそのあたりもわかっていたんだろうか?
……以前の私はお馬鹿キャラだったらしいし、それは無いかな。紬さん自身もそういう事を言いふらすキャラにも思えないし。


父「あー、梓ちゃん、その荷物はこっちに」

梓「あ、はい」

母「助かるわぁ。ほら唯、梓ちゃんばかり働かせてないで、こっちにおいで」

唯「……はーい」


お父さんのものと思われる車のそばで、皆が手を振っている。
行かないと、と思いながらも、もう一度病院の方を振り返ってしまう。

……記憶喪失の私がこんな事を言うのも変な話だけど、何かをここに忘れているような気がして、後ろ髪を引かれる感じがあった。
でも記憶が戻ってない事自体が忘れ物だと言われればそれまでだ。
もしくは、今の私の記憶はこの病院の中での事で構成されているから、去るのを寂しく感じてしまっているのかもしれない。
……どちらにせよ、わざわざ皆に告げる理由も無ければここで足を止めている理由にもならない。もう行こう。


唯「ごめんね梓ちゃん」

梓「いえ、いいんです。そのためにいるんですから」

唯「じゃあ、ありがとうって言えばいいのかな」

梓「……それもいいです。唯先輩には私のワガママを聞いてもらいましたから」

唯「むぅ、かたくなだねぇ」

父「ほらほら二人とも、出発するよ」


お父さんが運転席に、お母さんが助手席に乗り込む。
我が家ではこれが普通だったんだろうか。そんな気もするし、普通に世間一般の家庭がこんな席順なだけのような気もする。
でも、梓ちゃんと一緒に後部座席に乗り込んだ時、思う事が一つあった。


唯「……お父さんの運転、楽しみかも」

父「楽しみって。残念ながら何も面白い事はしないけど?」


唯「不安は感じない、ってことだよ」

父「そうかい、それは光栄だ」


きっと昔もこうやってお父さんの運転でドライブした事があるんだろう。
そう思えるくらい、不安はない。





辿り着いた家は、白を基調とした三階まである一戸建てだった。


唯「……見覚えがある気はするよ」


家だけではなく、帰ってくる途中から薄々そんな感じはあった。
私はこの近くに住んでいた。この家に住んでいた。そんな実感がどんどん溢れてくる。


梓「家の中に入れば、もっと何か思い出すかもしれませんね」

唯「うん、お父さん、早く!」

父「ああはいはい、ちょっと待って、鍵、鍵っと……ほらこれだ、唯」


お父さんから渡された鍵で、扉を開ける。
この行為にさえ懐かしさを感じる。やっぱり私はここに住んでいたんだ……


唯「うん……知ってる気がする……」


懐かしさを感じながら、一人で家の中を歩き回る。
間違いなく自分の家だ。そう思えるくらい、歩き回っていて不便がない。歩き回る事に身体が慣れている。

……でも、そうしてテンションが上がっていたのも最初のうちだけだった。
どれだけ歩き回っても記憶は戻らなかった。これもまた身体が覚えているだけに過ぎない、という結論に至り、ショックだった。
それに、この家に関して、途中から気になっていた事がある。


唯「……ねえ、お父さん、お母さん」


リビングで私の荷物を片付けてくれている三人の前で、問う。


唯「私が魔物に襲われた時、二人はいなかったんだよね?」

父「……そうだよ。ごめん」

唯「ううん。それはいいんだけど……」


それはちょっとした違和感。
いくらでも否定材料はありそうな、大したことのない違和感。
でも、聞かずにはいられない違和感。


唯「……じゃあ、その間、私はこの家に一人暮らしだったの?」


何故だろう、聞かずにはいられなかった。
共働きの家なら両親が二人とも家を空ける事だってあるだろう。その間、子供は一人暮らしになる。それは別に何もおかしくない。

でも何故だろう、この家に私が一人きりというのは……とても変な事に思えた。


唯「何か……何かね、ひっかかるんだけど……」

父「……いや、一人暮らしだったよ。だからこそ僕達は悔いている。娘の下を離れたことを」

母「……うん」

唯「そっか……気のせいかな」


気のせい、なのだろうか。
はっきり言って自信はない。でも、あれだけ私の身を案じてくれる両親の言葉を疑う気にもならなかった。
それに加えて……



唯「ごめんね梓ちゃん、変な話をしちゃったね」

梓「いえ……」


それに加えて、これ以上この話を続けると梓ちゃんが泣き出しそうな、そんな気がした。何故かそう感じた。
両親と同じく、あれだけ私の身を案じてくれる梓ちゃんのことを、私が泣かせていいはずはないよね。
私の抱いた違和感が梓ちゃんを泣かせるほどのものだったとすると、それはそれで気にはなるけど……きっと記憶が戻ればわかるだろうし、今は胸の奥に閉まっておこう。


唯「……何か、私の部屋に持って行く物はある?」

母「……そうね、あんまりないけど……ギターと、後はこのあたりかしら」

唯「じゃあ持ってくよ」

父「……唯の部屋は階段を上がって右側だからね」

唯「うん」

梓「……ついて行きます」

唯「……そう? ありがと」


実はさっき家の中を歩き回った時に、自分の部屋も確認してあるから大丈夫なんだけど。でも梓ちゃんの申し出を断る理由もないよね。
……それにしても、同じく三階にある、『物置』と書かれて鍵のしてある部屋が、何故かさっきも今も少し気になってしょうがない。





自室に入って腰を下ろしてみると、懐かしさと勝手の悪さを同時に感じる。
勝手の悪さはやはり記憶が無いせいから来るのだろう。でもそこまで嫌な気分にはならない。
部屋から漂う懐かしさと、身体が覚えている部分に助けられているみたいだ。


唯「あっ、ギー太のポジションはここかなー?」


腰を下ろして部屋を見回していたら、ギタースタンドらしきものが置いてあるのを見つけた。
せっかくなので立てかけておこう。……ふふっ、かわいい。


唯「……来週はみんなで演奏できるといいねぇ」

梓「……そうですね」

唯「そういえば梓ちゃんは今日楽器持ってきてなかったよね。本当に学校休む気マンマンだったんだねぇ……」

梓「……すいません」

唯「ううん、いろいろ助かったのは本当だからもう責めたりはしないよ。ただ……」


ただ、私はまだ梓ちゃんに何も返せていない。
梓ちゃんの行動の理由は聞かないって決めたから、当面の問題はそこだけだ。


梓「ただ?」

唯「……ただ飯食らい」

梓「……はい?」


いいこと思いついた。


唯「あのさ、私って病院ではご飯作ってもらってたじゃん」

梓「まあ、それは病人ですからね。タダ飯ではないと思いますけど」

唯「でも私はこの家に一人でいることも多かった。ということは少しは料理も出来るんじゃないかな?」

梓「えっ……どうでしょうかそれは。唯先輩が料理できるって話は聞いたことないですし……コンビニご飯だったかもしれませんよ?」

唯「まあ、モノは試しだよ。何か思い出すかもしれないし、やってみるよ」

梓「だ、ダメです、せめてレシピを! ちゃんとしたレシピを調べて、その通りに作ってください! できるだけ簡単な料理で!」

唯「し、信用ないなぁ……」



それだけ料理の話とかはしてこなかったのだろう、以前の私は。
とりあえずは梓ちゃんに従おう。けど、先輩として何かしてあげたいから、梓ちゃんの事を想って絶対美味しく作ってやる!





唯「……結構な数の食材が痛んでた……」

梓「まあしばらく入院してましたからね……」





というわけで皆でスーパーにやってきた。
もちろん目的は食材の買出し。メニューはお父さんが一人暮らしの頃によく作っていたということでチャーハンに決まった。
四人分一気に作れそうだし、レシピを調べた上で出来そうな気もしたし、文句なしだ。

私と梓ちゃん組、お父さんとお母さん組に分かれて商品を手早くカゴに入れ、レジ前で合流する作戦で望む。


梓「唯先輩、カゴ重くないですか?」

唯「大丈夫大丈夫……これくらい持てないとね……」


カート使えばよかったと後悔しなかったと言えば嘘になる。
でも、梓ちゃんの手前、かっこいい先輩っぷりを見せたかった。


唯「……だって先輩だからねッ!」

梓「は、はあ……」

唯「なんならお金も出すよ!帰りも荷物持ちやるよ! だって先輩だからね!」

梓「いや、そのあたりはおじさんおばさんがやってくれそうですけど……どうしたんですか? なんか変ですよ?」


……うん、いったん落ち着こう。押し付けがましくなっては意味がない。
ごく自然に振舞わないと。せめてご飯を食べてもらうその時までは。





唯「――じゃーん。どう?」


一人で作り上げた大盛りのチャーハンを机に運び、胸を張る。
レシピ見ながらだったから流石に身体が覚えてるような感覚はなかったけど、人並み程度には作れたと思う。
お昼に思いついて調べて買い物に行って、という経緯を辿ったから、だいぶ遅めのお昼ご飯になっちゃったけど。


梓「……見た目は……普通ですね」

父「普通だね」

母「普通ね」

唯「食べてみてよ!」

父「うん、じゃあ……」

母「いただきます」

梓「……いただきます」


皆がそれぞれスプーンを口に運び、食べて……目を丸くした。


梓「……おいしい、です」

父「うん、美味しい」

唯「そ、そっかー。よかったぁ……どんどん食べてね!」

母「……うん、もらうわ」



一応味見はしたんだけど、他の人の反応を待つ間っていうのは緊張するものなんだね。
とにかく、ホッとした。私も食べよう。いただきます。


唯「……うん、食べれる食べれる」


と、そのままどんどんチャーハンを胃に収めていってたんだけど、ある時気がついた。
皆のペースが落ちてきていることに。
いや……違う。


唯「み、みんな、どうしたの!?」


皆、俯いて肩を震わせていた。
何か変なものが入ってたか、と一瞬思ったけど、それもまた違った。

……皆、泣いていた。


父「……大丈夫、なんでもない」

唯「な、なんでもないなんてこと――」

父「親としては、娘がこんな美味しい料理を作ることにいろいろ思うところがあるわけさ。放任していた親としてはね……」


そう言われると、どう返事していいかわからなくなる。
責めるつもりなんてないけれど、言葉が何も出てこない。
言葉が喉にひっかかって、食事の手も止まってしまう。


唯「……あ、梓ちゃんは、どうしたの? 大丈夫?」


辛うじて出てきたのは、矛先を変える意味しか持たない、そんな言葉。
でも、梓ちゃんは両親とは立場が違う。泣く理由がわからないのもまた事実だ。
聞いておかないといけない。


梓「……こうやって……唯先輩の家でみんなで食卓を囲んだ事が……何度かあるんです……」

唯「う、うん……」

梓「懐かしく、なってしまって……みんなで笑ってた、あの頃が……!」

唯「………」


両親以上に、どう返事すればいいかわからなかった。
だって、梓ちゃんが懐かしんでいるのは、懐かしむばかりでどこか諦めたような口ぶりなのは、私の記憶が戻らないせいだから。
梓ちゃんにそんな意図はないのだろうけど、それでも私の記憶が戻っていれば今の梓ちゃんの涙はきっと無かったはず。
私の記憶が戻っていれば、梓ちゃんが懐かしがっているその光景を再現できるはずなんだから。


唯「……ごめんね、梓ちゃん」

梓「っ、す、すいません唯先輩、そんなつもりじゃ――っ!?」


ぎゅっ、と、梓ちゃんを正面から抱きしめる。
私は、この子の一番近くで、ちゃんと言葉にして覚悟を伝えないといけない。


唯「ちゃんと、早く記憶を取り戻せるよう頑張るよ。でも、今までも何度かあったと思うけど、もしかしたらこれからも、梓ちゃんには今みたいに寂しい思いをさせちゃうかもしれない」

梓「い、いいんです私は……それくらい……」

唯「ううん、良くないよ。先輩の私が可愛い後輩の梓ちゃんを泣かせていいはずがない。だから……」

梓「………」

唯「だから、梓ちゃんは泣きたくなったらもっと私を責めて。もっと怒って。もっと私に感情をぶつけて、甘えてほしいな」

梓「甘えて……ですか」

唯「うん。そうじゃないと先輩としての自覚や責任が持てない気がするんだ。梓ちゃんに「唯先輩」って呼ばれる資格がないような」

梓「……先輩としての自覚……それがあれば、記憶が戻りそうですか?」

唯「……わからない。けど、今の私に一番欠けているものは、それだと思うんだ」



今までの私は、いつも一番近くにいてくれるかわいい後輩にいつも甘え、いつも受け身だった。
家族にも友達にも甘えているけど、後輩にまで甘えっぱなしなのはさすがに良くないはずだ。
梓ちゃんに甘え、傷つかせ、悲しみを抱え込ませているままでは良くないはずだ。
先輩にならないと。大人にならないと。そうしないと、自分が戻ってこない気がする。


梓「……唯先輩」

唯「なぁに?」

梓「……もうちょっと、このままで……いいですか……」

唯「うん」

梓「っ、……ありがとう……ございます……っ」


……そのまましばらく、梓ちゃんは私の胸の中で声を殺して泣き続けた。





梓ちゃんが泣き止んでから、半分くらい冷えたチャーハンを皆で食べた。
皆それぞれ胸の奥に何かを抱えながら食べていたので食卓は静かなものだったけど、しょうがない。
……そういう意味では私が料理をしたのは失敗だったのかもしれないけど、その結果、梓ちゃんとの関係を少し変える事は出来た。
その変化が良い方向に作用するように、これから私は頑張らないと。

その後、梓ちゃんと一緒に後片付けをしてからしばらくのんびりしてたら、軽音部の皆が遊びに来てくれた。
お昼が遅かったので気付かなかったけど、もう学校の終わる時間だったらしい。
迎え入れると、「退院祝いよ~」と言って紬さんがどこからともなく豪華なお菓子を取り出した。
さっきお昼ご飯を食べたばかりだから苦しい……と思いきや、普通に入る。やっぱり女の子には別腹が標準装備なんだなあ。

家に戻っても記憶が戻らなかった事についてはさすがに皆の顔色を曇らせてしまったけど、今の私は梓ちゃんとの件もあって非常に前向きだ。
詳細は伏せて今の意気込みを伝えると、皆はまた笑顔に戻ってくれて、明るい話をいろいろしてくれた。
主に学校での話だったけど、律さんがボケて澪さんがツッコんで紬さんが目を輝かせて、という会話の流れは、聞いているだけで面白い。

……楽しい時間だった。けどそんな中で時折、皆がどことなく梓ちゃんに気を遣っているように見えた。
それを見て、私の中で梓ちゃんの今日の行動の原因が皆とのトラブルである可能性が浮上する。
でも、仮にそうだとしても皆がそれを望んでいなかった事は目に見えて明らかだし、その気遣いを受けてか知らずか、梓ちゃんは皆との距離をグイグイ詰めていってた。
その結果、日が落ちる頃にはいつも通り仲良く笑い合っていた。見ている事しか出来なかったけど、ホッとした。





澪「すいません、遅くまで」

父「いやいや、いいんだ。ありがとう。明日も来てくれるんだよね?」

紬「はい、お邪魔でなければ」

律「明日は和も来れると思うので。さわちゃんは難しそうだけど……」

梓「だいぶ仕事溜め込んでるって言ってましたもんね」

母「和ちゃんも生徒会長だもんね、忙しいなら無理はしないでって伝えておいて」

唯「私からもそれお願い!」

澪「わかったわかった、任せて。じゃあ、またな、唯」

紬「お邪魔しましたー」

唯「また明日~」


外へ出て行く皆を見送り、手を振る。
律さん、澪さん、紬さんの順で外に出たけど、最後の梓ちゃんは出る前に振り返り、私に小声で囁いた。


梓「……唯先輩」

唯「ん、どしたの?」

梓「……甘えても、いいですか?」

唯「キュン…! もちろん、さ、どーんとおいでっ!!」バッ

梓「……ありがとうございます。また明日です、唯先輩」

唯「あ、今じゃなかったのね……うん、また明日ね、梓ちゃん」



広げた腕と気持ちのやり場に困りながらも、梓ちゃんを見送った。
まあ、うん、梓ちゃんがああ言ってくれた事自体はいい傾向だよね、きっと……


父「……ぷっ」

唯「笑わないでよ!」





夜ご飯はお母さんが作ってくれた。私と同じようにレシピを見ながらだったけど、味は美味しかった。
お風呂に入り、携帯電話を充電しながら皆と少しメールをして布団に入る。

布団の中で一つ、当面の目標を立てた。厳密には目標と言っていいのかわからないけど、とにかく一つ決めた。
皆の事を、以前呼んでいたように呼ぼう、と。皆の事を覚えてないのにあだ名呼びするのはしっくりこないから、と今まで避けてきたけれど、もうなりふり構ってはいられない。
澪さんは澪ちゃん、紬さんはムギちゃん、律さんはりっちゃん。そして……梓ちゃんは、あずにゃん。……梓ちゃんのだけは本人に確認が必要そうな気もするけど。
うん、そうだね。皆に一言断ってから、呼び方を改めようかな、明日は。
そんな事を考えながら眠りについた。



◆◆


――今日は土曜日。そんな今日もまた、梓ちゃんを早朝から目にした。リビングでお父さんお母さんと向き合っている。
何を話しているのかはわからないけど、梓ちゃんのいる朝、という光景はもう見慣れた。
そしてこれからもこういう日が続くのだろう。そう思い、私は特に何の疑問も抱かず、普通に挨拶した。


唯「みんなおはよう……今日も早いね……」

父「ああ、唯……おはよう。えっと……」


……でも、今日は今までとはまるで訳が違ったんだ。


梓「……あなたが、ゆい、ですか?」

唯「………えっ?」





唯「お母さんはあの病院と梓ちゃんの家に電話して! お父さんは車の準備! もう、みんなして何やってるの!!」

母「だ、だって……」

父「いかんせんついさっきの出来事で……」

唯「早く!!!」

父「はいっ!!」

梓「あ、あの、私……」

唯「ん、大丈夫だからね、梓ちゃん。ちゃんと一緒にいるから、何も怖くないからね」

梓「は、はい、ありがとうございます……」


梓ちゃんの手を握ってあげると、昨日までとは違う弱々しさで握り返してくる。
それを見ていると、非常に胸が締め付けられた。
どうしてこんなことに……

――お父さん達の話では、早朝に家を訪ねてきた時点で梓ちゃんはこんな状態だったらしい。
こんな状態、すなわち……記憶を失ったような状態、だ。
ような、と言ったのは私の記憶喪失とは少し違うような気がしたからだ。なんでも梓ちゃんは『平沢 唯』という人物の事だけは覚えていて、それだけを頼りにここまで辿り着いたらしいから。
言葉とか日常生活の範囲の知識を失っていないのは私と同じのようだけど、詳しく診てみないことにはわからないはず。早く病院に連れて行かないと。
診てくれるならどこの病院でもいいけど、どうせなら私が昨日までいたあの病院がいいよね。

……だって、私と同じように『魔物』に襲われた可能性があるんだから。


母「今から診てくれるって!」

父「よし、急ごう!」





医者「――結論から言いますと、原因不明、です」

梓母「そんな…!」


お医者さんの前に、梓ちゃんのご両親、私の両親が座り、私達は少し離れて話を聞いていた。
お母さんから連絡を受けてすぐ梓ちゃんのご両親は飛んで来て、同じように私の電話で澪さん律さん紬さんと和ちゃんはすぐに来てくれた。皆、息を切らせて。
……検査の終わった梓ちゃんはすぐに私の後ろに隠れてしまい、誰とも話そうとしなかったけど。


律「梓! 記憶がないなんて……嘘だろっ!? なあ!」

梓「ひっ!!」

澪「お、落ち着け律!」

唯「梓ちゃんも、大丈夫だから、ね?」

梓「っ………」



相手が誰でもこんな感じで、本当に私の後ろから出てこない。


梓父「なんで……こんなことに……」

医者「……何か強い心因的ショックを受けた可能性もあります。何か思い当たる節は?」

梓父「いや……昨夜は何事もなく普通にしていました。朝も……」

紬「き、昨日帰る時も普通でした! ね、澪ちゃん?」

澪「あ、ああ」

梓母「そうですね、この方達が家まで送ってくれました……」

唯「……ということは……」


昨日は何もなかった。ということは、今朝何かあったという事だ。
梓ちゃんが家を出て、私の家に来るまでの、その道中に。
私の家に来る途中に……『魔物』に……?


唯「私のせい、なの……?」


私が心配で朝早く家を出た梓ちゃんは、魔物に襲われた……?
私が梓ちゃんに心配をかけたから……?


梓「……ゆい、さん……?」

梓父「……平沢唯さん、だね、君が」

唯「は、はい、すいません……!」

梓母「……謝る必要はないわ。あの子が自分で決めた事よ」

唯「で、でも原因は私でっ!」

梓父「……じゃあ、しばらくその子の面倒を見てあげてくれないか。私達の事は忘れても君の事だけは忘れられないようだから」

唯「そ、そんなの当たり前です!私からお願いします!!」

梓父「今はそれで済ませようよ、お互い。誰かを責めてる暇なんてないはずだ」

唯「……すいません。ありがとうございます」


……あの時の梓ちゃんも、今の私みたいな気持ちだったのかな。





医者「――検査の結果ですが外傷は全くありません。平沢さんの状況と酷似しています、失われた記憶の範囲も含めて」

唯「ということは、原因も私と同じなんじゃ……?」


私の中では、ずっと前から既にそう決まっていたけれど。
自分が同じ目に遭ったからという理由だけでそう決め付けていたけど。お医者さんの判断はどうなんだろう?


澪「で、でも唯、魔物は――」

律「――魔物は倒したッ! 間違いないんだ!!」


律さんが叫んだ。
そんなの認めないと言わんばかりに、大声で。


紬「り、りっちゃん…?」

律「私達が!この手で!みんなも知ってるだろ!?」

澪「う、うん、そうだな……」

唯「で、でも一匹だけじゃなかったんだとしたら……」

律「あんなのがそんなに沢山いてたまるかよ!あんなのが、今度は私達から梓を奪いに来たって言うのかよ!!」



私の後ろに隠れて様子を伺っている梓ちゃんを、律さんが見る。
視線が合ったと思しき瞬間、梓ちゃんは私を盾にするように隠れてしまう。
それを受けて、律さんは……膝をつき、声を震わせ始めた。


律「……嘘だよな……何かの冗談だよな、梓? そう言ってくれよぉ……」

澪「律……」


……何も言えなかった。
記憶がないだけじゃなく魔物退治にも立ち会ってさえいない私が、奪われた人に何を言えようか。
ただ後輩を大事に思っていただけの律さんに、何を言えようか。
私の時もそうやって大事に思ってくれた律さんに、何を……


医者「……平沢さんの時と違って、ここに目撃者はいない。今は原因については断定できません」

梓母「そうですか……」

梓父「………」


痛ましい沈黙が少し流れた後、背後の扉が開いた。
そこにいたのは、さわ子先生。


さわ子「……すいません、遅れました」

梓母「いえ、お忙しいところをわざわざありがとうございます」

父「……先生、大人だけで話をしませんか」

医者「そうですね。すまないけど、子供達はちょっと席を外してくれないか」

紬「わかりました……」

和「いくわよ、唯」

唯「あのっ、梓ちゃんは……?」

梓「………」


相変わらず私の後ろに隠れたまま、服をぎゅっと掴んだまま離れようとしないけど……
でも、梓ちゃんの今後に関わる話をするんだとしたらこっちにいた方が……


梓父「……いや。平沢さん、お願いできるかな」

唯「……はい、わかりました」





診察室を後にし、待合室まで歩き、椅子に腰を下ろす。
診察室で何が話されているのかは当然わからない。盗み聞きしようなんて言い出す人もいなかった。
皆、私から見てもわかるくらい、精神的に打ちのめされている。


律「……さっきはごめん」

澪「気にするな、律」

紬「そうよ、気にしないで」

律「……唯も、ごめん」

唯「私も気にしてないよ。でも……」

和「でも、やっぱり原因は気になるわよね」

唯「……うん」

澪「……症状は唯と似ているけど、私は今のところ、魔物のせいだとは思っていない」

紬「私もそう思う」

律「それはそれで、他に原因があるって事だから辛いけどな……」


澪「……もう、お前はどっちなんだよ、律」

律「……魔物のせいじゃなかったら、私達のせいだよな」

澪「それは……」

紬「………」

唯「……どういうこと? なんでみんなのせいなの? むしろ私のせいじゃ……」

和「……梓ちゃんを一人にしすぎた、って事かしら?」

澪「……そう、だな」


和ちゃんが綺麗に一言でまとめてしまったけど、少し考えてみる。
今朝、梓ちゃんが私の家に一人で来るまでの間に何かあったのは間違いない。とすれば皆は、その時に梓ちゃんの隣にいられなかった事を悔いているのか。
確かに梓ちゃんは皆と離れて一人で私のお見舞いに来る事が多かったから、皆はそれに慣れてしまっていた面もあるのかもしれない。「一人にしすぎた」とはそういう意味だろう。
でもそれは私だって同じだ。いつまでも入院患者の気分で、梓ちゃんが来てくれる事に慣れていた。のうのうと惰眠を貪っていた。その間、梓ちゃんは一人だったのに……!

そんな心を読まれたのか、顔に出ていたのか。紬さんがかけてくれたのは、優しいけどあまり嬉しくない言葉だった。


紬「少なくとも唯ちゃんのせいじゃないわ、安心して?」

唯「安心、って、そんな……それは……」


……それはなんか、蚊帳の外に置かれているような感じがする。しかも無理矢理に。
皆が私を大切にしてくれているのは知っている。だからこうして蚊帳の外に置こうとするんだろう。無理矢理にでも。
でも、だからって梓ちゃんの記憶喪失がそんな優しい皆のせいになるのも私は嫌だ。

……っていうか、そういうのは違う。さっき梓ちゃんのお父さんにも言われた通り、責任の所在を追及したところで何も変わらないはず!


唯「……原因を探すよ、私は」

和「えっ?」

唯「聞き込みしてみる。朝とはいえ、梓ちゃんを見かけた人がいるかもしれない。もし現場を誰かが見てれば……」

和「……そうね、原因がわかればこんな議論もしなくていいし、梓ちゃんの治療方針もある程度は固まるはずよ」

紬「じゃあ、それは私がやる! 唯ちゃんの時もやったし、大体わかってるから」

唯「紬さん、私もやるよ。もう待ってるだけなんて嫌だし、万が一相手が魔物でもやりようはあるんでしょ?」

澪「……いや、ダメだ。唯はダメだ」

唯「なんで!? 私は戦えないの!? 梓ちゃんが言ってた『対処する術』っていうのが私にはないの!?」

澪「そうじゃない。それ以前の問題だ」

唯「……記憶が戻ってないから?」


恐る恐るそう聞いたけど、澪さんはそれには答えず、ただ私の方を指差した。
正確には私ではなく、私の影に隠れている梓ちゃんを。


澪「梓を一人にするつもりか?」

唯「……それは……いや、でも」


「でも梓ちゃんが入院する事になったりしたなら」と反論しようとしたけど、口にする前に私の頭は答えを弾き出していた。
そうなったとしても私はきっとずっと梓ちゃんのそばにいるだろう。梓ちゃんがどこにいてもそばにいるだろう。梓ちゃんが私にそうしてくれたように。
私は梓ちゃんのそばを離れられない。離れたくもない。だから原因を探す事も魔物と戦う事も出来ない。確かに澪さんの言う通り、それ以前の問題だった。


紬「そもそも魔物の仕業と決まったわけでもないし。今日中に原因もわかるかもしれないし。ね?」

律「……そう、だな。パパッと原因をハッキリさせてきてやるさ……魔物だろうと、何だろうと」

和「私も手伝うわ。人手は多いに越したことはないでしょ」

澪「というわけだ、唯。おじさん達が何を話しているのかにもよるけど、ひとまず原因探しは私達に任せてくれないか?」

唯「……でも、またみんなに任せっきりなのは……」


澪「今回は任せっきりじゃないだろ?」

唯「えっ?」

澪「梓の事……任せたよ、唯」

唯「……うん、わかった」





梓父「入院するかどうか等の判断は、全て梓に委ねる事になったよ」


しばらく後、大人全員が揃っての第一声はそれだった。
普通であればお医者さんが仕事を放棄しているようにも映るけど、私という前例があるから誰も何も言わない。


梓母「平沢さんの時と同じであれば、入院しても改善するとは限らないから、本人の望みを優先する、って」

紬「あの、それについてですけど。まずは原因の解明の為に聞き込みをしてみようかと思うんです」

梓父「……それは、警察の力を借りるという事かい?」

父「いや、そうはならないと思う。ウチの娘の時も独力だったからね。琴吹さんがいろいろ手を回してくれたけど」


『魔物』などというものが世間に知られたらパニックになるから、と梓ちゃんからは聞いている。
けど今にして思えばそもそも『対抗する術』が警察にはないのかもしれない。もしかしたら私にも。
その『対抗する術』が超能力的な何かなのか、紬さんの家の支援に含まれているものなのかはわからないけれど。

とにかく、私以外の皆は、たとえ相手が『魔物』でも戦えるだけの力を持っている。私の時の実績がある。
梓ちゃんのお父さんもそれは知っているはずだから、この方向で決定になるだろう。


紬「はい。私達の力で。原因が警察沙汰になりそうなものだったなら、その後に通報します」

梓父「そうか……ありがとう。現場に向かうのなら送るよ、車で来たからね」

紬「ありがたいですけど……今はまだ梓ちゃんの近くにいてあげてください」

梓母「でも……私達の事、覚えてないから……」

唯「……あ、あの……覚えてなくても、家族がいるってだけで安心できるものですよ……」


図々しいかな、私が言っていいのかな、と思いつつも、どうしても言わずにはいられなかった。
だって、私は本当に両親に救われたんだから。記憶はまだ戻っていないけど、心は救われたんだから。
実際のところは私の言葉に梓ちゃんの両親もウチの両親も複雑そうな表情をしたけれど……でも最終的には微笑んで、言ってくれた。


梓母「平沢さん……ありがとう」

梓父「君みたいな優しい子が友達で、梓も幸せだと思う」





結局、紬さん達の聞き込みにはさわ子先生が付き添う事になり、平沢一家と中野一家は病院に残ることになった。
私が以前使っていた個室がまだ空いてるらしく、お医者さんの好意で聞き込み班が戻るまではそこを使わせてもらえる事になった。
梓ちゃんをベッドに座らせ、梓ちゃんが手を離してくれないので私もその隣に座り、話を切り出す。


唯「えっと、梓ちゃん。自分の記憶がないことはわかる?」

梓「……はい」

唯「どのくらいの記憶がないんだっけ? 私と同じってことは、日常生活に困らない範囲の常識は残ってるけど思い出とかがない状態なのかな」

梓「……はい。あと、ゆいさん、あなたの名前だけは覚えています」

唯「こ、光栄です……でいいのかなあ?」

梓父「いいと思うよ」


それにしても、唯さん、か。なんか新鮮な呼ばれ方。
あ、そういえば皆の呼び方を変える作戦を実行してなかったな。さすがに今は梓ちゃんの事が優先だから後回しにするけど。
でもそうだ、呼び方の事は提案してみるべきかもね。あの時律さんが私に提案してくれたように。


唯「梓ちゃん、梓ちゃんは高校二年で私は高校三年だから、梓ちゃんは私の事を先輩って呼んでたんだよ」


梓「……じゃあ、ゆいせんぱい、ですか?」

唯「うん、そうだね」

梓「……なんか、落ち着きます。唯先輩」

唯「……ふむ」


私はお馬鹿キャラだったらしいけど、お馬鹿なりにちょっと気付いた事がある。


唯「……お父さん、私はどれくらい寝てたの?」

父「え? ええっと……二日くらいだったかな」

唯「……私は襲われて、二日くらい昏倒してた。でも、梓ちゃんは記憶を無くしながらもちゃんと早朝に私の家に到着した」

父「……そうだね」

唯「それに、私は本当に何一つ覚えてなかったけど、梓ちゃんは私の名前は覚えてた。私は以前の呼び方が慣れなかったけど、梓ちゃんはそうでもない。細かいところが結構違う」

父「………」

唯「……私は梓ちゃんも『魔物』に襲われたって思ってたけど、もしかしたら違うのかも?」


もちろん、全部ぼんやりとした憶測に過ぎない。
魔物に襲われた時に梓ちゃんが『対抗する術』で抵抗したのかもしれないし、誰かが助けてくれたのかもしれないし、今回の魔物が私の時より弱いだけかもしれない。
でも、魔物が原因じゃない可能性も結構出てきたように思う。少なくとも最初からそう決め付けて話してはいけないくらいには。

よく考えたら、実際に魔物を見た皆が魔物説を否定しているのに病室にいただけの私は魔物と決め付けている、というのも変な話だよね。
……いや、ホントに変な話だねこれ。もしかしたら私が過敏になりすぎていただけかもしれない。
律さんには悪いことしちゃったな、一旦落ち着こう。


梓「……唯先輩」

唯「ん、なに?」

梓「……まもの、って?」

唯「あ、えっとね、人の記憶を食べちゃう魔物っていうのがいるんだって。嘘みたいな話かもしれないけど、私はそれにやられちゃったらしくて」

梓「……なるほど。だから唯先輩は」

唯「うん、記憶が無いの。昔の私がどんな人だったかっていうのは、うっすらわかってきてるんだけど」

梓「……私達、記憶喪失仲間ですね」

唯「えへへ、そうだね。だから記憶喪失の先輩としてもどんどん頼ってくれていいからね? 記憶はまだ戻ってない身だけど……」

梓「……はい、お願いします。いろいろ助けてください、唯先輩……」

唯「……うん」


……梓ちゃんに、もっと甘えてほしい、と言ったのは私だ。実際、梓ちゃんもこれからは甘えると言ってくれた。
……それが、こんな形で叶うことになるなんて。こんなの誰も望んでいなかったはずなのに。

でも、こんな形でも、私が梓ちゃんに何かしてあげたい気持ちは変わらない。
梓ちゃんの記憶を戻してあげよう。
私の全てに代えてでも。





和「――結論から言うと、目撃者はいなかったわ」


お昼を少し過ぎたくらいに、皆は戻ってきた。
扉を開いた時点で皆の沈痛な表情は見えていたので、良くない報告だろうなというのは予想できたが。


唯「そっか……朝といえど、誰かいるかもと思ったんだけど」

和「そうね、唯の家の近くはお年寄りも多い。私も誰かいるはずと思ったんだけど……運が悪かったようね」

唯「残念だね……どうしようか」

澪「……それについてみんなで少し考えたんだけど、魔物の可能性も視野に入れて行動した方がいいと思った」

唯「ええっ!? 私は逆にみんなの言うように魔物じゃない可能性も考えようって思ったんだけど……」


澪「意見がコロコロ変わってごめん。でも、実際に唯の時に魔物がいたんだから、有り得ないって言い切るのは難しいって思ったんだ」

唯「……でも梓ちゃんは私とは症状とかがちょっと違うんだ。だから魔物じゃなくて別の何かかもしれないよ?」

澪「そうか……そう言われると、そのあたりは否定しきれない、とは思う」

紬「……私達では結論が出せませんでした。あれだけ言ったのに、すいません」

律「ごめんなさい」


大人びている紬さんと、責任を感じている律さんが最初に梓ちゃんのご両親に頭を下げた。
すぐに他の人も続く。居心地が悪くなって私も頭を下げた。


梓母「……いいのよ、頭を上げて、みんな」

梓父「無い、という事が明らかになっただけでも収穫だよ。むしろ君達に任せてしまってすまない、ありがとう」

律「あのっ! 後でもう一度聞き込みに行ってきます! 行かせてください!」

梓父「…気持ちはありがたいけど、あまり先延ばしにするのも病院に迷惑だ。今後の事だけは、今この場で決めさせてくれないかな?」

律「あっ……わかりました……」

さわ子「……どうするおつもりですか?」

梓母「……私達の気持ちは変わりません。梓の望むままに、です」


その言葉を受けて、部屋の全ての視線が梓ちゃんに集中する。


梓「……ゎ、わたし、は……その……」


……私の時とは違い、なにかとジタバタしてしまって梓ちゃんは私以外の人とはロクに話をしていない。
つまり、ここで梓ちゃんに向けられてる視線のほとんどは記憶の無い梓ちゃんにとって『知らない人』の視線だ。萎縮してしまっても無理はない。
梓ちゃんは俯きながら必死にそこから先の言葉を搾り出そうとしているけど、なかなか声にならず……私と繋いだままの手は、震えていた。


唯「……梓ちゃん、私の家に来る?」

梓「……い、いいんですか…?」

唯「まあ、梓ちゃんやお父さんお母さん、みんながいいって言えば、だけど」

梓「わ、私は……唯先輩と一緒が、いいです……」

梓母「……唯一覚えていた名前、だもんね、梓?」

梓「は、はい、お母さん……」

梓父「……平沢さんは、どうですかね」

父「ウチは問題ないですよ。以前も部活で泊まってくれたと聞きました」

さわ子「ええ、軽音楽部全員でお世話になりました。その節はすいません」

母「いえいえ、こちらこそお構いも出来ず……」

梓母「でも明日まではそれでいいとしても、それから先は学校がありますよね」

さわ子「……平沢さんと同様、休学扱いにするよう申請は出来ます。中野さんはまだ二年生ですし真面目ですから問題もないでしょう」

梓母「いえ、娘の事ではなく……」

唯「……あっ、私?」


そっか、来週からは学生に戻るんだっけ、私も。
そうなると梓ちゃんは家に一人、か……


唯「となると、私の家でお父さん達とお留守番か、梓ちゃんの家に戻ってお留守番か、私も休むか、梓ちゃんも学校に行くか、ですね?」

梓父「三つ目はダメだ。人様の娘さんにそこまでの迷惑はかけられない」


私自身はあまり迷惑とは思ってないけど、私の世話をしてくれてた間の梓ちゃんも一日を除いてちゃんと学校に行っていたので、やっぱりダメそうだ。
となると残りの中から梓ちゃんに選んでもらうしかないわけだけど。



さわ子「学校に行くのであれば、協力してくれそうな友人に心当たりはありますが」

唯「でも、あくまで私の意見ですけど……気持ちを整理する時間って、必要だと思います」

梓母「では、平日は自宅で静養でどうでしょう? 私でしたら日中は家にいられますから」

梓父「……いいかい? 梓」

梓「………」

唯「……学校に行く前と放課後はお見舞いに行くから。ね?」


梓ちゃんが、私にそうしてくれたように。
梓ちゃんが私を救ってくれたように。


梓「……はい」





医者「――なるほど、わかりました。では、月曜からは平沢さんと同様になるべく通院してください」

梓父「はい。どうもすいません、お世話になりました」

さわ子「……では、これから私の方で休学申請は進めておきますね」

梓母「すいません、よろしくお願いします」


ひとつお辞儀をして、さわ子先生は去っていく。
その背中は頼もしく、有能な教師のそれだった。


父「じゃあ、僕達も移動しようか。梓ちゃんは家に来るという事だけど、みんなも来るよね?」


お父さんのその言葉に、しばらく会話に入れなかった紬さん達は弾かれたように返事をし、
梓ちゃんのご両親は一度は渋ったものの、私がお願いしたら折れてくれた。
もちろんお願いといっても私が助けを求めたという意味ではなく、梓ちゃんのためにも側にいてあげて欲しいというお願いだ。
というわけで中野家の車と平沢家の車に分乗し、私の家へと向かうこととなった。





ウチのお母さんと梓ちゃんのお母さんがお昼を作ってくれている間、私達は改めて梓ちゃんに自己紹介をした。
相変わらず梓ちゃんは私の後ろに隠れ気味だったけど、一応挨拶は返していた。良い傾向のはずだよね。
もっとも梓ちゃんに記憶が戻るような素振りはなかったし、皆も私の時ほどグイグイ行けてない感じがあったけど。

昼食を食べた後は、皆が私にしてくれたような事を梓ちゃんにしてあげよう、ってなった。
すなわち、私達の周囲の話をしたり、部活の写真を見せたり、ギターを弾かせてみたり、とかだ。
しかしいかんせん準備不足で、写真は私が持っている物に限られるため梓ちゃんのクラスの写真などはなく、
ギターもギー太しかないため手の小さい梓ちゃんでは弾く以前に使いにくそうだった。

日が傾くまでそうしていろいろやってみたものの、やはりというかなんというか、梓ちゃんの記憶が戻る気配は無かった。
ご両親とは落ち着いて会話出来ていたように見えたのが唯一の救いだろうか。

……いや、梓ちゃんにとっての救いではあるけど、私にとっての救いではない。
私にとっての救いは、梓ちゃんの記憶が戻ること。過程ではなく結果だけだ。そこはハッキリしておかないと、きっと何かを見落とす。
自分が焦っているのがよくわかる。わかるからこそ、何かを見落としたくはない。
そう思っているのは、私だけではなかったようだ。


律「……ごめん、みんな。私、まだ諦めきれない」

唯「……律さん?」

澪「…わかった。もう一回聞き込みに行ってくるか、律」

和「そうね。こういうのは現場百回と言うしね」


まるで律さんがそう言い出すとわかっていたかのように、皆が呼応する。
帰りがけにもう一度聞き込みをするつもりなんだろう。
その輪に自分が入れなかった事を少し寂しく思ったけど、それ以上に、今のうちに言っておかないといけない事がある。



唯「あっ……待って、えっと、紬さん!」

紬「私? どうしたの唯ちゃん」


誰にしようか少し悩んだけど、紬さんを呼んだ。
言い出した律さんを引き止めるわけにはいかなかったし、律さんが行くなら幼馴染の澪さんも行くだろう。
和ちゃんはちょっと話の内容にそぐわない。というわけで紬さんになったけど、間違ってはいないはず。


唯「えっと、ちょっと、あの、これからの話とかさせて欲しいな、なんて」

澪「……それもそうか」

紬「ううん、後でメールするから、澪ちゃんはりっちゃんと行ってあげて? 和ちゃんも二人をお願い」

和「わかったわ」


うん、私の予想は間違ってなかったね。
そうして三人が出て行って、今ここにいるのは私と梓ちゃんと紬さん、あと遠くで静かに見守る両親が二組、となった。


紬「どうしよっか、これから。なんでも言って、なんでも力になるから」

唯「……ありがと。でもその前に、一つ聞いていい?」


今のうちに言っておかないといけない事。
それは、今日一日見ていて気付いた事。ずっと気になっていた、私の時と梓ちゃんの時との、違い。


唯「……みんな、ちょっと梓ちゃんと距離を置いてるよね。計りかねてるっていうか」

紬「……それは……」

梓「…………」

唯「なんでかな、って思って。記憶のない私より、みんなの方が話せる事は多いはずなのに」


そのはずなのに、皆の梓ちゃんに対する姿勢は、どこか腫れ物を触るような、そんな気遣いと遠慮に満ちているように見えた。
私にはそれがわからなかった。


紬「……やっぱり、私達のせいじゃないか、って。みんなそう思っちゃって」

唯「……そんな、それを言い出したら私だって一緒だってば!」

紬「ううん。唯ちゃんよりずっと前から、私達は梓ちゃんを一人にして、いろいろ背負わせてきたから。だから原因は私達なの。今更いい顔なんて出来ないわ」

唯「違うよ! そもそも原因は魔物かもしれないし!」


そう言っても、紬さんは無言で首を振るだけだった。
魔物であろうと無かろうと、原因は私達だ。梓ちゃんを一人にしたのは私達だ。守れたのに守らなかったのは私達だ。……そう聞こえてくるような気さえする。


紬「あの日、唯ちゃんが守ろうとした梓ちゃんをそんな姿にしてしまったのは、私達。そういう意味では、本来なら今の唯ちゃんにも会わせる顔はないの」

唯「……だ、だったら、そんなの私は気にしないから、一緒に梓ちゃんの記憶を戻そうよ! そうすれば守ったのと一緒だよ!」


厳密には一緒じゃない。一度奪われたという事実は消えない。そんなのはわかってる。
でも、このまま記憶が戻らないよりはずっといいはずなのに…!


紬「……うん、その通りだよね。唯ちゃんの言うとおり、本当なら向き合わないといけないんだよね……。でもね、りっちゃんがあんな調子だから、どうしても、ね……」


律さん。
部長で、気遣いが出来て、明るく皆を引っ張る律さん。私にも何度も笑いかけてくれた律さん。
そんな律さんが、梓ちゃんの姿を見てくずおれたのは、私でも心が痛んだ。
記憶のない私でも心が痛んだんだから、ずっと一緒にいた皆はもっと痛んだのだろう。それなのに律さんを差し置いて梓ちゃんと仲良くしろなんて言うのは確かに酷だ。


唯「……ごめんなさい。無神経だったね、私」

紬「ううん、いいの。唯ちゃんの言う事も確かだから。でも……あ、ここから先は、完全に私個人の意見だけど、いい?」

唯「……う、うん。何?」

紬「……あのね、梓ちゃんを後回しにする、って意味じゃないんだけどね、でも梓ちゃんの記憶を戻すのに一番いいのは、唯ちゃんが記憶を取り戻す事なんじゃないかって思う」


唯「私、が…?」

梓「…………」

紬「……唯ちゃんの退院が決まった、あの日なんだけど、私達と梓ちゃん、ちょっと喧嘩しちゃったの」

唯「…そう、なの?」


それで翌日、様子のおかしい梓ちゃんが学校を休んでまで私のところに来た、というわけだろうか。


紬「私達はね、唯ちゃんの記憶が戻らなくても友達だ、って。そういう事を梓ちゃんに言ったの。でも梓ちゃんは、絶対諦めない、って。唯ちゃんの記憶を戻す、って」

唯「………」

紬「諦めるとも取れる言い方をした私達が悪かったんだけどね。……ともかく、そういうわけで、梓ちゃんが一番こだわってたのが唯ちゃんの事なのは確かだから」

唯「……私の事だけは覚えてるくらいに?」

紬「うん。だから本当の唯ちゃんが戻ってくれば、梓ちゃんが記憶を取り戻す何よりの刺激になるんじゃないかな」

唯「……そっか」

紬「あくまで私個人の意見だし、唯ちゃんが焦るのも良くないから、話半分くらいで聞いてね?」

唯「ううん、話半分だとしてもとても参考になったよ、ありがとう」


実際、自分一人で考えていたら思いつかない考えだった。私はあの日の梓ちゃんに何があったかを知らないんだから。
これまでの私は、私の全てに代えてでも梓ちゃんの記憶を戻す、と意気込んでいたけれど、私が記憶を取り戻す事で梓ちゃんの記憶も戻る、というハッピーエンドの道も見えてきたわけだ。
さっき呼び止めたのが紬さんで本当に良かった。


梓「……あの、つむぎせんぱい」

紬「……どうしたの? 梓ちゃん」

梓「……ごめんなさい。覚えてないですけど、ごめんなさい」

紬「梓ちゃん……」


初めて私の後ろからではなく、紬さんの正面に立って、梓ちゃんは頭を下げた。
そんな梓ちゃんを、紬さんはおずおずと抱きしめる。


紬「……あの頃はみんな、記憶を戻そうとする事自体が、唯ちゃんに辛い顔をさせているんじゃないかって思っちゃってて……諦めたかった訳じゃないんだけど、辛かった」

梓「………」

紬「おかしいよね、理不尽に奪われたものを少しでも取り戻そうっていうだけなのに、みんなどこかで悲しい顔をしてた……。梓ちゃん、私達、何か間違ってたのかな…? どこで間違ったのかな…?」

梓「………」

紬「……ごめんね、こんなこと聞かれても……わからないよね……記憶がないんだもんね……」

梓「……間違って、ないと思います……わからないけど、間違いだとは、思いたく、ないです」


……それは、目の前で泣く先輩に対しての言葉なのか。それとも、今の梓ちゃんが過去の自分に届けたい言葉なのか。
私にはわからないけれど、抱き合って肩を震わせる二人にそれを聞くつもりなんてあるはずもなかった





これからの事については、結局そこまで話はしなかった。それ自体が紬さんを引き止める方便だったし、今までの皆のやり方を否定するつもりもなければ注文をつけるつもりもなかったからだ。
ただ、どちらかと言えば外に出たい、とだけ伝えた。紬さんは笑顔で頷き、梓ちゃんのご両親と一緒に帰っていった。駅まで送ってくれるらしい。
泊まっていけばいいのにと言ったけど、明日の梓ちゃんの服を取りに行くから、等の理由でかわされてしまった。

お風呂と夜ご飯を済ませてからは、私の部屋で梓ちゃんと二人きり。
それは私にとって、いろいろ考えを巡らす時間とも言える。

私は、自分の全てを賭けてでも梓ちゃんの記憶を取り戻したい、と思っていた。
でも紬さんの話を受けて、まず自分の記憶を取り戻すべきだと今では思っている。
そもそも自分の全てを賭けるなら賭けられるものは多いに越した事はない。記憶もその中の一つだ、とも言える。

なら、記憶を取り戻すためにこれから何をするべきか。
勿論、皆がいろいろ考えてしてくれるところに注文をつけるつもりはない。でも退院した今なら、私は受け身なだけじゃない。自分から何か出来る事があるはず。
今までにやった事をもう一度やってみるとか、逆にやってない事はないかとか、何か見落としてないかとか、考える事はいくらでもある。
中でも特に、今までやっていない事が鍵になるんじゃないかと思っている。何かが欠けている感じは私の中にずっとある。きっとそれが記憶の鍵だと思うから。



唯「……あ、そうだ」


今までやっていない事、という話で一つ思い出した。この部屋のどこかにあれがあるはず。
探そう。どこにあるのかな……


梓「……唯先輩?」

唯「お、あったあった。じゃーん、楽譜!もしくはバンドスコア!」

梓「……わあ……」


記憶のない梓ちゃんにとっても、昼間演奏しようとしたふわふわ時間以外の楽譜は物珍しいんだろう。私にとっても物珍しい。
とりあえず、せっかくだから今まで弾いてない曲でも練習してみようかな、というわけで発掘してみた。見つかってよかった。
さて、どの曲にしようか……


唯「えーっと、ふでペン~ボールペン~、カレーのちライス、わたしの恋はホッチキス……うーん……」

梓「……なんというか、独特なセンスですね……」

唯「全部澪ちゃん作詞なんだって。独特だとは思うけど、私は好きだよ?」

梓「……私も、嫌いじゃない気がします。唯先輩、良ければ聴かせてくれませんか?」

唯「覚えてないから上手く弾けないと思うけど……がんばってみるよ」


ギターを構えると、やっぱり懐かしい感じがする。
さて、最初は運指の確認だ。どうせ一発では弾けないだろうから、まずはゆっくりと、一曲通して指を動かす。


梓「………」


次は、少しスピードを上げて。


唯「うーん……」


まだ難しそうだけど、聴いてくれる人もいることだし次は本来の早さでやってみよう。


唯「………あっ、間違えた。あはは、やっぱり難し――」

梓「っ……」

唯「……梓ちゃん?」

梓「……すいません……わかりませんけど、何か……なぜか涙が……」

唯「…よしよし」

梓「すいません……っ」


私が何よりも梓ちゃんへの刺激になる。紬さんはそう言っていたっけ、と、梓ちゃんの頭を撫でながら思い出す。
ということは、梓ちゃんのこの無意識の涙は、私が私らしく梓ちゃんの記憶を揺さぶった、その証なんだろうか。
それはきっといい事のはず。だけど、その度に泣かせるのもなんだか可哀想なので、ギターはこのあたりでやめておこう。

……そういえば、私は泣いた事はあったっけ、とふと疑問に思う。
皆の話を聞く限りでは感情は豊かな方だったようだけど、今の『私』はまだ泣いていない、はず。
落ち込むことは結構あったけど、涙は流していないはず。
……それがいい事なのか悪い事なのかは、わからない。





梓「すいません……急に泣いちゃって」

唯「大丈夫だよ。むしろごめんね、私、結構梓ちゃんを泣かせちゃってるね」

梓「……そうなんですか?」

唯「うん。三回くらいは泣かせちゃってるね……」

梓「……ひどい先輩です」



そう言いながらも、笑いながら甘えるように抱きついてくる。
やっぱり梓ちゃんは可愛い。記憶を失っていてもそれは変わらない……けど、記憶を戻してあげたいという私の気持ちも変わらない。


唯「……ひどい先輩は、頼りがいのある先輩になりたいんだって。梓ちゃんにいろいろしてあげて、私と梓ちゃんの記憶を取り戻して、先輩のおかげだって言われたいんだって」

梓「……頼りにして、いいんですか?」

唯「もちろんだよ」


自分の記憶を取り戻す事。梓ちゃんの記憶を取り戻す事。
何度も言ってるけど、それが今の私の全てだからね。


梓「……記憶のあった頃の私達も、こんな感じだったんでしょうか?」

唯「うーん……」


正直に答えていいものか、少し迷う。
正直に答えたとしても正しいかどうかわからないのも問題ではあるけれど、それは今考えてもしょうがない。
今の問題は、梓ちゃんがどんな返事を求めているのか。悩んだけど、正直に答える事にした。


唯「違ったんじゃないかなぁ。私はダメな子だったみたいだし、梓ちゃんも素直な子じゃなかったみたいだし」

梓「そ、そうなんですか?」

唯「そうらしいよー」

梓「……私は、唯先輩をダメな人だとは思いませんけど。そういう面もあったのかもしれませんけど、そう言い切れるとは思いません」

唯「私も、梓ちゃんに素直じゃない面があったとしても、ちゃんと心は優しい子だったんだと思うよ」

梓「……ふふっ」

唯「なんか変な感じだねぇ」

梓「そうですね。……記憶が戻ったらどうなるか、楽しみですね」


複雑な笑顔で、梓ちゃんは言うのだった。
その笑顔の意味も、やっぱり私にはわからない。





唯「ちょっと早いけど、寝ようか」


少し他愛も無い話をしてから、梓ちゃんと一緒の布団に入り、横になる。
それからも少しだけ他愛の無い話が続いたけど、次第に梓ちゃんは静かになり、寝息を立て始めた。

ちなみに、他愛の無い話と言ったけど本当に他愛ない。
今日は大変だったねとか、明日は晴れるといいねとか、そんなものばかり。
梓ちゃんを泣かせて、複雑な笑顔をさせて、次はどんな話を振ればいいのかがわからなかったから。

わからない事ばかりで、自分が嫌になる。
自分のためにも梓ちゃんのためにも、早く記憶を取り戻したい。強く、そう思う。


……それを焦りだと言ってくれる誰かがいたなら、この先の何かが変わったのだろうか。



◆◆


お母さんと一緒に朝ごはんを作った。
お父さんと一緒に部屋の片付けと掃除をした。
梓ちゃんと一緒に記憶の手がかりを求めて家の中を歩き回った。

どれも成果は無かったけど、この家でする事はどれも身体が覚えていた。

梓ちゃんのご両親が荷物を持って訪ねてきたので、来客用のスリッパを出し、リビングまで案内し、お茶を出した。
これくらいは余裕でこなせるくらい、この家には慣れている。

午後は皆と外に出る予定だけど、家の中にいたほうが記憶が戻る可能性は高いんじゃないだろうか。
正解はわからないのに、『記憶の鍵』はこの家にあるような気がしてならない。

鍵。
鍵といえば、私の部屋の隣の物置には鍵がかかっている。
正確には、私の部屋と同じレバーハンドル型のドアノブにチェーンを引っ掛けて引っ張り、外で留める事により、内開きの扉を固定する。そういう仕組みになっており、そのチェーンを輪の形にするために南京錠が使われていた。
つまり、物置を開けたい時にはその南京錠を外すだけでチェーンが外れる。そういう仕組みのはずだ。
そのはずなのだが、これに関しておかしな点が三つある。

まず一つ。この家のどこに何があるかは大体身体が覚えていた、にも関わらず、この物置に何があるかに限ってはどうしても思い出せないこと。頭の中に靄がかかっている感じがする。
もう一つ。我が家のキーロッカーを見てみたけど、ここに使うような鍵が無かったこと。鍵は丁寧に分類されていたので、一目でわかった。
あと一つ。私はさっきお父さんと片付けをしたわけだけど、その時この物置には見向きもしなかったこと。聞いてみても「あそこは後回し」と言うだけだった。

どれもいくらでも言い訳が利きそうな程度の『おかしな点』だけど、三つ揃えば途端に怪しく見え始めて止まらなくなる。
記憶のない身で憶測はしないけど、それでも中を見たいという気持ちは強くなるばかり。
『記憶の鍵』はきっとあそこにある。いつの間にか、何の根拠も無いのにそう思うようになっていた。

となると、次はどうやって中を見るか、という話になるわけだけど、正攻法は無理だろうと思う。
理由は簡単、キーロッカーに鍵が無いからだ。そこに無いから私は鍵を使えないし、そこに無いということは誰かが意図的に『隠した』という可能性もあるから。
誰が何のために隠したのかはわからないけど、「私が聞いてくる時まで隠しておいた」とかいう稀なパターンでもない限り、私が聞いても鍵は出てこないだろう。

正攻法は無理だという事で、外を伝って窓から覗き見る作戦とかも考えたけどさすがに危ない。
結局、一番現実的なのは『力技』というシンプルな結論に達した。


梓「……唯先輩? どうかしましたか?」


そして、最後にして最大の問題は、この子。
どこに行くにも私の後ろをついてくる可愛い子だけど、可愛い子だからこそ、力技なんていう危ない事に巻き込みたくなかった。共犯者としての責任も負わせたくなかった。
よって、梓ちゃんの知らないところで実行しよう、そう胸に誓った。


唯「……ううん、なんでも。今何時だっけ?」

梓「11時くらいですね。リビングでお昼の話し合いをしてますよ」

唯「私達も行こうか」

梓「はい」






さっき言った通り、梓ちゃんはどこに行くにも何をするにも私の後ろをついてくる。
それを可愛いと思うし、私としても出来るだけ梓ちゃんを一人にしたくなかったから、私達はずっと一緒にいた。
だから梓ちゃんの目を盗んで何かをするチャンスなんて、そうそう巡ってこないと思っていた。
……実際は、意外とすぐ巡ってきた。

皆でリビングで談笑していた時に、呼び鈴が鳴ったのだ。
その呼び鈴を鳴らしたお客さんの目的が、梓ちゃんのお見舞いらしい。
それを聞いた梓ちゃんは、珍しく「一人で行く」と言い出したのだ。


唯「大丈夫なの?」

梓「……何かあったら、叫びますから来てください」

唯「うん、それはもちろん」


そんな危ない友達が梓ちゃんにいるとは思えないけど、心配なのも確かだった。
梓ちゃんの目を盗んであの物置を見るチャンスなのも確かだけど、記憶の無い梓ちゃんを一人にするなんて心配に決まってる。


梓父「……珍しく一人で行きたいと言うんだ、思うところがあるんだろう。行かせてやってくれないか」

唯「…はい」


心配に決まってるけど、梓ちゃんの意思を尊重しないなんて真似も当然出来なかった。
ここは割り切って、あの物置を見るための行動に移ろう。心配だけど。


唯「……まだ外で待たせてるんだよね?」

父「ああ。知ってる子だったけど、本人がそう望んでたから」


そう望む子、というのはちょっと珍しいというか、理由の予想が付かないけど好都合ではある。
お父さんが知ってる子ということで、相手がどんな子なのかも気になるけど……今は自分の目的を優先しよう。


唯「……玄関まで送るよ。心配だから」

梓「唯先輩……」

唯「大丈夫、盗み聞きなんてしないから」

梓「……ありがとうございます」


ちょっと悩んだようだけど、結局は甘えてくれた。
梓ちゃんのそんな反応を利用しているようで心苦しいけど、記憶を取り戻すためだと必死に自分を正当化し、梓ちゃんと手を繋ぐ。






梓「……じゃあ、行ってきますね」

唯「そんなにかしこまらなくても。すぐそこだし、何かあったらすぐ呼んでね?」

梓「はい」


この心配は本心だ。自分の目的も大事だけど、梓ちゃんの身の安全の方がもっと大事だ。そんなの比べるまでもない。
目的のためにわざと梓ちゃんを遠ざける事も出来た。出来るけど、やるつもりは一切なかった。梓ちゃんが大事だから。
この後だって、途中で梓ちゃんに呼ばれれば全てを投げ出して駆けつけるつもりだ。先輩として、優先順位は間違えたくない。


梓「……ありがとうございます、唯先輩。では」


そう言って少し微笑んだ後、梓ちゃんは扉を開けてスルリと外に出てしまった。
その動きは素早くて、私からは外にいたはずの相手の姿がまるで視認できないほど。
相手は気になるけど……仕方ない。ここからは私も時間との勝負だ、急ごう。


唯「っと、ここだったよね……」


あの物置の中を見る上で邪魔なのはチェーンだ。そして、私はそれを力技で突破すると決めた。というかそれしか思いつかなかった。
というわけで、あのチェーンを切れるような何かがあればいい。そう思い、一階で工具箱を漁る。しかしそれらしきものは見当たらない。
ただの見送りである私が、いつまでも一階にいるのは不自然だ。もう時間がない。
仕方ないので第二の方法、もっと強引な力技で行くしかない。そう決めて金槌を手に取った。

後は物置へ向かうだけなのだが、ここでまた一つ問題が浮上する。
三階へ上がるには大人が四人いるリビングをどうしても通らなくてはいけない。
金槌はサイズ的には服の中に隠せばどうにかなるかもしれないが、重量があるため人の前では動きが不自然になるだろう。
そもそも早々に三階に上がりたいんだから、逆に開き直って何も言わずリビングを走り抜けてもいいのではないか。
物音がすればどうせ様子を見に来るだろうし、リビングで丁寧に時間を稼ぐ意味もない。そう考えて、一気に走り抜ける事にした。


父「あ、おい唯、どこに行くんだ?」

唯「ちょっとね!」


当たり障りのない返事をし、物置部屋の前まで辿り着く。
レバーハンドル型のドアノブにチェーンが掛けられて南京錠で留められている、のは既に言った通りだが、そちら側は私にはどうしようもない。
この金槌を使うのは、反対側。南京錠で輪にしたチェーンを引っ張り、壁に固定している場所だ。
なんとも雑な事に、このチェーンは又釘で壁に打ち付けられているだけだった。固定としては十分だが、金槌で何度か叩けば外れるだろう。まあ壁もえぐれそうだけど。
問題は何度も叩くだけの時間があるかどうか。これに尽きる。急ぐしかない。
狙いを定め、金槌を思いっきり振り下ろす。


唯「……やあっ!」


一度目。外れた。若干上の壁を思いっきり叩いてしまい、若干の手の痺れと大きな物音を残しただけだった。


父「……唯!? なんだ今の音は!?」


階下からお父さんの声と足音がする。時間がない…!
二度目。当たった。金属の鈍い音がする。しかし外れない。
三度目。当たった。外れない。時間がない。
四度目……


唯「っ……取れた!」


ドアノブに引っかかっているチェーンを乱雑に床に落とし、ドアを開けた。


父「唯っ!!!」


そこには……



唯「………ぁ」


そこには、『ひと』がいた。


正確には、生きた人がいたわけではない。
でもそこには確かに、一人の『ひと』の生きた証があった。

机。ベッド。クローゼット。写真。制服。鞄。本。私服。ぬいぐるみ。貯金箱。観葉植物。時計。鉛筆立て。辞書。アルバム。等々。
おそらくそれらは本人のものだけではない。様々な場所から寄せ集められた、一人の『ひと』の存在の証が、ここに放り込まれているようだった。
それはまるで、その人の存在自体をここに封じ、見えないようにしたかのような……無かったことにしたかのような……


唯「……ぁ……っ、あぁ……」


そして、私はその『ひと』を、知っていた。

記憶が溢れ出す。
手を引いて歩いた記憶。手を引かれて走った記憶。一緒に笑った記憶。私に笑いかけてくれた記憶。いつも、どんな時も、ずっと一緒にいた記憶。
その手の温かさを知っている。身体の暖かさを知っている。心のあたたかさを知っている。一番近くにいたから、誰よりも知っている。
涙が、溢れ出す。

ここにいる『ひと』。その正体は――


父「唯ッ!!!」


怒声を受けて振り返ると、そこには声とは裏腹に悲しそうな顔をした皆がいる。
お父さん、お母さん、梓ちゃん、梓ちゃんのお父さん、梓ちゃんのお母さん。
皆一様に悲しそうな顔をしている。でも、私は……


梓「ゆい、せんぱい……」

唯「ッ!」


走った。
皆の間を強引にすり抜けて階下へと走った。
その時に姿勢を崩したのだろう、皆が追いかけてくる気配はまだ無い。
走った。
玄関で乱暴に靴を履き、外に出た瞬間、後ろから梓ちゃんの声がした。


梓「唯先輩!待って! っ、純!唯先輩を捕まえてッ!!」


その声を受けて戸惑う女の子の横を走り抜け、飛び出した。
記憶にある外に飛び出し、記憶に無い所に向かって走った。
一人で知らない所に行きたかった。

友達も、仲間も、一緒にいた子も、魔物も、何もいないところへ……






唯「――ッ、はぁっ、はぁ……」


知らない景色が広がる。
ここはどこだろう。走った程度でそこまで遠くには来れないだろうけど、適当に歩いても戻れそうに無い程度には周囲の景色に見覚えは無い。
……多少記憶を取り戻したくらいでは、戻れそうにない。

そんな私の足を止めたのは、梓ちゃんだった。
もちろん物理的な意味ではない。ここに梓ちゃんはいない。

でも、思った。
あの子を一人には出来ない、と。そんな想いが私の足を止めた。

今はまだ、頭の中がごちゃごちゃしている。
この数週間の私の記憶と、取り戻した記憶と、取り戻すべき記憶が混在している。
まずは頭の中を整理しよう。そう自分に言い聞かせるけど、それが難しい事であるのもわかっている。
自分でわかるんだ。なぜなら恐らく私は『違う記憶』を取り戻しているから。
さっき取り戻した記憶は断片的なもので、本来取り戻すべき記憶は他にあるはずなんだ。
そうでないとおかしい。
おかしいんだ。
そう思いながら、自分の身体を抱きしめながら、呟く。


唯「……お姉ちゃん……」


もちろん、返事はない。






「い、いた……やっと見つけたぁ……」


背後からの声に振り向く。そこには家を飛び出した時にすれ違った女の子がいた。
まあ、いかんせん見たのはその一瞬だけだ、人違いかもしれない。でも大事なのはそこではない。
私は、この子の名前を知っている。


唯「純ちゃん……」

純「えっ…? 唯先輩、記憶が戻ったんですか…?」


この子は軽音部の仲間ではない。澪さんに見せてもらったクラスの写真の中にもいなかった。
でも私は知っている。
あの時梓ちゃんがそう呼んでいたから、では説明がつかないくらいの事を知っている。


唯「鈴木純ちゃん。私の中学からの友達で、一緒に軽音部を見学した、今のクラスメイト」

純「……えっ…?」

唯「おかしい? これは私が知ってたらおかしい記憶なの?」

純「えっと……」

唯「私は平沢唯。三年二組。軽音部。ギター担当。そんな私が、純ちゃんの事を知ってたらおかしい?」


聞くまでもない。おかしい。
私はおかしいんだ。どこかが壊れてしまった。
ダメなんだ、ちゃんと全部の記憶を取り戻さないと、説明がつかないんだ、きっと……


純「……梓を、呼んでいいですか。梓だけを」

唯「呼んで、どうするの?」

純「説明には適役だと思って。少なくとも、私は梓を差し置いて先輩に説明する気はありません」

唯「梓ちゃんは、今の問いに答えをくれるの?」

純「くれると思います。ダメなら私が説得します。……私はあなたの味方のつもりだから」

唯「……どういうこと? 梓ちゃん達は私の敵なの?」

純「そうじゃないです。ベクトルの違う仲間というか……ま、梓に説明させます」


よくわからないけど、疑っても始まらない。
仲間だと言ってくれるならまずは話を聞こう。そうしないと私はもうどうにもならない。そんな気がする。
……あ、でも、話を聞こうにも今の梓ちゃんって……



唯「……でも、梓ちゃんは今は記憶が……」

純「ああ、そこは心配ないですよ。記憶の無い梓とはさっき話しましたけど――」


心配ないという言葉が表す通り、何でもない事のように純ちゃんは言った。


純「あれ、多分嘘です」






梓「……唯、先輩……純……」

純「おー、よく迷わずに来れたね」


全力で走ってきたのだろう、梓ちゃんの息はかなり上がっている。
それだけ私の事を大事に想ってくれているんだ。それは嬉しい。
でも、それなら何故……


唯「……梓ちゃん、記憶が無いって、嘘だったの…?」

梓「…………はい。ごめんなさい」

唯「なんで…? なんでそんな嘘を? みんなに心配をかけるだけの嘘を?」


責めたくはない。梓ちゃんが優しい子なのは知っているから、責めたくはない。
きっと何か理由があるんだ。私はそう信じた。


梓「……そうすれば、唯先輩と対等な後輩でいられるじゃないですか」

唯「対等な、後輩…?」

梓「記憶の無い先輩と、記憶の無い後輩。条件が同じになれば、唯先輩は私に後ろめたさなんか感じないでしょう?」


後ろめたさなんて感じた事は……無い、と言いたかったけど、無理だった。
私の記憶を戻すためにいろいろしてくれている梓ちゃんに、記憶の戻らない私は申し訳ないという思いを抱いたから。


梓「それに、唯先輩もずっと先輩として振舞いたがっていたじゃないですか。私もそれが『唯先輩』の記憶が戻る鍵になると思ったんです。先輩は先輩ですから。だから……」


だから、記憶を失ったフリをした。
全ては私のために。そして、私の記憶を戻すという梓ちゃんの目的のために。
……責められるはずがない。少なくとも私にはその権利は無い。


唯「……ごめん、梓ちゃん」

梓「……いえ、他の先輩達に心配をかけたのは事実です。いずれ必ず謝らないといけません」

唯「ううん、そこまでしてくれたのに記憶が戻らなくてごめん。梓ちゃんは私の望みを叶えてくれたのに、私は叶えてあげられなくて、ごめん……」

梓「……それは……」

純「っていうか、梓も澪先輩達に相談した上でこれを実行すれば良かったんじゃないの?」

梓「あの人達は、半ば諦めてたから。そんなつもりはなかったらしいけど、あの時の私にはそう聞こえてしまったから、相談は出来なかった」


昨日の、紬さんの話が蘇る。
喧嘩別れしてしまった次の日、朝から様子のおかしかった梓ちゃんは、それでも午後に来た皆には何も無かったかのように接していた。
その間に決意してしまったのだろうか。決意するような何かがあったのだろうか。

……いや、あった。
私が料理で泣かせて、先輩なんだから甘えて欲しいって梓ちゃんに告げたんじゃないか…!


唯「わ、私のせい…? あの日、梓ちゃんの嘘の背中を押したのは私…?」

梓「唯先輩は悪くないです! 私、嬉しかったんですよ? ああ言ってもらえて……甘えていいって言ってもらえて」

唯「でも! 昨日紬さんは言ってた! そんなつもりじゃなかったって! 私が背中を押さなければ、梓ちゃんがみんなと話し合ってから決めてた可能性だって…!」

梓「…そうですね、もしかしたらあるかもしれません。でもそれでも、絶対諦めたくない私と、記憶の無い唯先輩を受け入れようとしていた先輩方とでは、そのうちどこかですれ違いがあったはずです」

純「私と梓みたいにね」

梓「……そう、だね。一番最初は、純だったね」

唯「……だから、純ちゃんは私のお見舞いには来てくれなかったの?」

純「そういうことになりますね。ずっと梓が近くで目を光らせてましたから、記憶を失うまでは近づけませんでした」

梓「……純は何を言い出すかわからないからね」



そうか、だからさっきも梓ちゃんが一人で向かったのか。わざわざ玄関の外で話していたのか。
珍しいとは思ったけど、私に近づけないためなら納得だ。
でも、最初に外で待つと言い出したのは純ちゃんらしいから、純ちゃんも梓ちゃんの考えを汲んではいるようだ。
本当に『ベクトルの違う仲間』という関係みたい。


純「でも、改めて言うよ、梓。やめたほうがいい」

梓「っ……私がやめられない理由を知っててそれを言う!?」

純「言うよ!私だけが知ってるから私が言う! もう誰の為にもならないところまで来てる! 唯先輩は『混ざってしまってる』!」

梓「ッ!? そんな、こと……」

純「梓の気持ちもわかるよ! でもこれ以上続けたら全部壊れちゃうんだ! あんたの大好きなその人も! 軽音部も! 全部!」

梓「じ、純に何がわかるのよ……私達の、な、何が……」

純「……唯先輩は私の事を知ってた。澪先輩は私に梓を助けてくれって頼ってきた。あんたはそんなザマ。これだけで十分わかるよ……」

梓「……っ、ぅ、うあぁっ……」


梓ちゃんが、膝を付き、泣き始めた。
慰めてあげたい。けれど、話が見えない私にその資格はないような気がした。
純ちゃんも慰めようとしない。ただ、静かに泣く梓ちゃんを、悲しそうな目で見ているだけ。
これが、この場での最善手なのだろうか。梓ちゃんを一人で泣かせる事が、梓ちゃんのためなのだろうか。
私にはわからない。私には――


梓「ごめん……っ、ごめんね、うい……!」

唯「っ――!」


うい。
その名前は、私にもわかる。

憂。
その名前を、私は知っている。

さっき、物置とされていた部屋で取り戻した、私の記憶。
私の手を引き、笑う、その人は私の顔をしていた。
手を引かれ、笑いかけられているのは、私だった。

あの部屋にいた『ひと』は、私だった。
私の名前は、きっと……平沢憂だった。






――梓ちゃんが、唯ちゃんの所へ向かったらしい。
「一人で来て欲しい」と言われたらしく、他の皆は待ちぼうけを食う事となった。
唯ちゃんと梓ちゃんのご両親、そして和ちゃんは、戻ってくると信じて唯ちゃんの家で待機。
澪ちゃんは、自分を追い詰めすぎて疲れ果てているりっちゃんのそばに。さわ子先生が二人を送ってくれるそうだ。

そして私は……一人であの病院へ向かった。


紬「先生!」

医者「……ああ、これは琴吹のお嬢様。何かありましたか?」

紬「……何か、というわけではないですけど……」


そう、何かがあったわけではない。
ただ、嫌な予感がしてならない。


紬「…先生、本当に処置は成功していたんですか?」

医者「……確かに、あの子の記憶は一向に戻らない。お嬢様が不安になられるのもわかります」


確かにそれもある。でも多分それだけじゃない。
梓ちゃん以外の皆は、たとえ記憶が戻らなくても友達として過ごすと決めている。
記憶が戻らなかった、それだけなら諦めもつく。嬉しい事じゃない、そこに一人の女の子の犠牲と覚悟があったのは確かなのだから、嬉しくはない。
けど、諦めはつく。『唯ちゃん』が帰ってこない事自体には、諦めはつく。

唯ちゃんは死んだ。その揺ぎ無い事実を皆で受け入れるだけなのだから。

なのに、漠然とした不安は私の胸の内を多い尽くしている。


医者「……他者への記憶の転写。これは過去に類を見ない試みですからね」






唯「――私は、本当は『平沢 憂』で、その頭に『平沢 唯』の記憶を上書きした、ってこと?」

梓「……はい」


にわかには信じ難い。
でも、私の記憶が何よりも証明してしまっている。私は唯のはずなのに、何故か憂の記憶がある。それが何よりの証明。
身体は憂で、記憶は唯。本来はそうなる予定だったのだろう。
でもそうはならなかった。恐らくどこかで失敗したのだろう、私は唯の記憶を持っていなかった。
しかし、それでも私は唯だと言われ続け、私も自身を唯として疑うことなく記憶と自我と自己を作り上げてきた。
そこに今、憂としての記憶が戻ってきた。厳密には憂の部屋を見た時から戻りつつあったものが明確になった。

しかしそれは私が今まで作り上げてきた私とは相反するもの。到底受け入れられないもの。
それでも確かに私のもの。かつての私が持っていたもの。つまり、どちらも私。どちらも手放せない。
純ちゃんの言う通り、私は『混ざってしまっている』ようだった。

……泣き止んだ梓ちゃんは、ただ淡々と、私の身に起きた事を説明していく。


梓「私を庇って事故に遭い、命を落とした唯先輩を生かす方法として、ムギ先輩が調べてくれました」

唯「事故? 私は……魔物に襲われたんじゃなかったの?」

梓「記憶を喰らう『魔物』……それは、私達が作り上げた『幻』です」

唯「……『魔物』なんて存在しなかった、ってこと…?」

梓「そうです」

唯「な、なんでそんなこと…?」






医者「ですがお嬢様、少なくとも理論上は成功しています」

紬「……本当に?」

医者「琴吹様の信頼を裏切るような真似はしません。しかし、前例の無い試みであるが故に、完璧な処置を施しても成功が約束されているわけではない、という事は説明の通りです」

紬「……そう、ですね。その時の為に、私達は話し合っていろいろ仕組みました。……『魔物』などを」

医者「はい、そういうことです」

紬「同時に、貴方は医者としてしっかりと『失敗した場合にどうなるか』についても説明してくれました」

医者「………」

紬「『どうなるかわからない』と。前例が無いが故にわからない、と」


この人はリスクが不明瞭である事を誠実に説明してくれた。
それを受けて私達は仮説を立てた。専門家でもないのに考えた。

あの子は過去の記憶が戻らないまま一生を終える。
唯ちゃんの記憶だけ消え、憂ちゃんの記憶が残る。

そのどちらかだろう、と。そのあたりだろう、と。

その上で私達は『魔物』をでっち上げた。
そのほぼ全ては、唯ちゃんも憂ちゃんも消えてしまう、という、私達にとって最悪のパターンである前者の仮説を想定しての事。
過去の記憶の無いあの子が、自分の巻き込まれた事故を調べないように、極力突拍子のないものにする必要があった。調べようとする気さえ起きないくらいに。
調べれば、知ってしまう。自分のために命を差し出した女の子がいる事を。今の自分が一人の女の子の命の上に成り立っているものだと知ってしまう。
そうなれば普通は自分を責めるだろう。最悪の場合、罪悪感から自ら命を絶つ。そんな事、彼女は――憂ちゃんは望んでいない。徹底して隠す必要があった。
事故の目撃者、関係者、平沢家を知っている者、全てに徹底した緘口令を敷いた。時には権力をチラつかせ、時にはお金を握らせた。心を鬼にし、持てる全ての手段を使って隠蔽した。
唯一、唯ちゃんを轢いて逃げたあの男だけは当時は所在が知れなかったけど、『魔物探し』と称して皆で追い詰め、『退治』した。これで隠蔽は完璧なものになり、全ては『魔物』の仕業となった。

あともう一つ。同様に最悪のパターンを想定しての事ではあるが、こちらは皮肉にも、あの子に施された処置が最新の医療技術を用いていた事に関係する。
人の頭を切り開いて脳を直接すげ換えるような方法ではなく、脳から記憶をデータのように吸い出し、それを他の脳に上書きする、という、まるでパソコンやCDのようなにわかには信じ難い最新技術。
詳しい原理は説明されても全くわからなかったが、外科手術を行わずに記憶を弄れるという使い方次第では危険極まりない技術だという事。故に禁忌とされ、人に処置を施した前例はない事はわかった。
それを憂ちゃんに使った。その上で記憶が戻らなかった場合、あの子には何の外傷も無く、事故も私が隠蔽したので存在しない、なのに自分は病院にいて記憶はない、という不思議な状況となる。
『魔物』なら、そんな不思議な状況にも一応の説明は付けられる。何と言っても魔物なのだから。未知なる危険な存在なのだから、何が起こっても不思議ではない。
無傷で記憶だけを喰らうような真似だって出来るはずだ、『魔物』の仕業なら。

そして、あの子が後々唯ちゃんの記憶を取り戻せば、あるいは運悪く憂ちゃんの記憶を取り戻した場合でも、魔物をでっち上げた理由は説明すればわかってもらえるだろう。
最初から記憶があれば更に話は早い。魔物をでっち上げず、私達がした事を話すだけで済む。
その場合でも優しい唯ちゃんは憂ちゃんがいない事にショックを受け、自分を責めるとは思う。でも命を絶つ事は絶対にないと言い切れる。
何故なら、それは自分が身を挺して梓ちゃんを助けた事の否定になるから。その時の記憶と感情がちゃんと唯ちゃんの中に残っていれば、そんなことは絶対にしない。
あとは唯ちゃんが憂ちゃんのいない世界に慣れるまで、寂しさが癒えるまで、私達が総力を上げて支える。それで問題は無い。

そうだ、何も問題は無いはずなんだ。皆でそう決めたんだ。
なのに、胸騒ぎが止まらない。まるで私達が何か、もっと最悪のパターンを見落としているような……






皆の危惧した通り、私の今のこの命が誰かの犠牲の上にあるというのは心苦しい。
かけがえのない姉妹が既にこの世にいないという事も辛い。
でも、今すぐに自ら命を絶とうとは思わない。まずは梓ちゃんの話を聞きたい。


唯「魔物についてはわかったよ。でも、言い難いけど……そもそもその医療技術が胡散臭いとは思わなかったの?」

梓「他の方はどうかわかりませんが、私は思いませんでした。私のせいで唯先輩は事故に遭ったんです、唯先輩が生きれるのなら私はどんなものだろうと迷い無く縋ります。たとえ代償が私の身体であっても」

唯「っ、そんな、そんなの……」

梓「…はい、あなたは初日に言ってくれましたね、先輩として守りたかったんだと思う、私が無事ならそれでいい、って。それを見越した事を、憂も言っていました」

唯「憂……私、が…?」


憂としての記憶を取り戻したはずの私だけど、何を言ったかは覚えていない。そのあたりの事は一切覚えていない。
いずれ思い出すのだろうか。
それとも、唯として生き続けている私が、唯が死んだ後の記憶を無意識に拒んでいるのだろうか。


梓「……「お姉ちゃんが守りたかった梓ちゃんがそこにいなかったら、お姉ちゃんは悲しむ」って。だから私じゃダメだって、そう言って、憂が身体を差し出すと名乗り出ました」

純「……そして私はそれに反対しました。梓と一緒に説得しようと思って、三人だけで話をしようとしました」


軽音部ではなく、家族でもない。言わば一番の部外者の純ちゃん。
だからこそ反対出来たのだろう。あくまで憂――私の友達として。


純「とはいえ、唯先輩を諦めろだなんて言えません。でも憂がいない事を知れば唯先輩は悲しむ。梓が言われた事を憂にも言おうとしたんです。でもそこで憂に先手を打たれました」

梓「憂は私に言いました。「お姉ちゃんの事、よろしくね」と。言わば事故の原因でもあるはずの私に、全幅の信頼を置いて、そう言ったんです」

純「私には、そんな梓を助けてあげて、と頼んできました。もうダメでした。わかっちゃうんですよ、目で」

唯「目で…?」

純「……この子は、この場で私が行かないでと叫んでも、きっとそのうちフラッとどこか遠い所へ行ってしまう。それがわかってしまって……憂にいなくなって欲しくないのに、憂の邪魔も出来なくて…!」

梓「……負い目のある私は、憂の信頼に背けず、憂の願いを叶えると誓いました。その信頼が私を責めるものだとしても赦すものだとしても、どちらでもよかった」

純「憂は、梓を責めたりなんてしないよ…!」

梓「…そうだね。でも当時の私にはどっちでもよかった。憂の望み通り、唯先輩を取り戻す事しか頭になかった。だから純は近づかせないようにした。ごめんね」

純「……今でも、私は憂の事を引きずってる。何か他に方法は無かったのかなって思ってる。だから梓の判断は正解だし、私も梓の邪魔もしたくなかったから近づかなかった」


なるほど。でもその結果、梓ちゃんは記憶を失うフリまでするくらい一人で抱え込んでしまい、澪さんが純ちゃんに助けを求めた。
その時の純ちゃんからすれば、本当に記憶喪失なら梓ちゃんを助けたくて、ウソだとしても今度こそは何か力になりたくて家まで来た、といったところだろうか。

梓「そして……その結果、今があります」

唯「今……」

梓「私だけが諦めず、あなたに『唯先輩』を押し付け続けたせいで、あなたは『混ざってしまった』……そんな今です」

唯「そんな、梓ちゃんのせいなわけ……」


無い、とは言い切れない。当人である私にはわからない。
なのに当人である私は『結果』としてここに在る。だから、梓ちゃんの言葉を、可能性の一つとして肯定してしまう。
否定は出来ないのに、存在だけで肯定してしまう。梓ちゃんを責めたいわけじゃないのに…!


梓「……唯先輩、『混ざってしまった』あなたは、私を憎みますか…?」

>>76 ミス





皆の危惧した通り、私の今のこの命が誰かの犠牲の上にあるというのは心苦しい。
かけがえのない姉妹が既にこの世にいないという事も考えるだけで辛い。
でも、今すぐに自ら命を絶とうとは思わない。まずは梓ちゃんの話を聞きたい。


唯「魔物についてはわかったよ。でも、言い難いけど……そもそもその医療技術が胡散臭いとは思わなかったの?」

梓「他の方はどうかわかりませんが、私は思いませんでした。私のせいで唯先輩は事故に遭ったんです、唯先輩が生きれるのなら私はどんなものだろうと迷い無く縋ります。たとえ代償が私の身体であっても」

唯「っ、そんな、そんなの……」

梓「…はい、あなたは初日に言ってくれましたね、先輩として守りたかったんだと思う、私が無事ならそれでいい、って。それを見越した事を、憂も言っていました」

唯「憂……私、が…?」


憂としての記憶を取り戻したはずの私だけど、何を言ったかは覚えていない。そのあたりの事は一切覚えていない。
いずれ思い出すのだろうか。
それとも、唯として生き続けている私が、唯が死んだ後の記憶を無意識に拒んでいるのだろうか。


梓「……「お姉ちゃんが守りたかった梓ちゃんがそこにいなかったら、お姉ちゃんは悲しむ」って。だから私じゃダメだって、そう言って、憂が身体を差し出すと名乗り出ました」

純「……そして私はそれに反対しました。梓と一緒に説得しようと思って、三人だけで話をしようとしました」


軽音部ではなく、家族でもない。言わば一番の部外者の純ちゃん。
だからこそ反対出来たのだろう。あくまで憂――私の友達として。


純「とはいえ、唯先輩を諦めろだなんて言えません。でも憂がいない事を知れば唯先輩は悲しむ。梓が言われた事を憂にも言おうとしたんです。でもそこで憂に先手を打たれました」

梓「憂は私に言いました。「お姉ちゃんの事、よろしくね」と。言わば事故の原因でもあるはずの私に、全幅の信頼を置いて、そう言ったんです」

純「私には、そんな梓を助けてあげて、と頼んできました。もうダメでした。わかっちゃうんですよ、目で」

唯「目で…?」

純「……この子は、この場で私が行かないでと叫んでも、きっとそのうちフラッとどこか遠い所へ行ってしまう。それがわかってしまって……憂にいなくなって欲しくないのに、憂の邪魔も出来なくて…!」

梓「……負い目のある私は、憂の信頼に背けず、憂の願いを叶えると誓いました。その信頼が私を責めるものだとしても赦すものだとしても、どちらでもよかった」

純「憂は、梓を責めたりなんてしないよ…!」

梓「…そうだね。でも当時の私にはどっちでもよかった。憂の望み通り、唯先輩を取り戻す事しか頭になかった。だから純は近づかせないようにした。ごめんね」

純「……今でも、私は憂の事を引きずってる。何か他に方法は無かったのかなって思ってる。だから梓の判断は正解だし、私も梓の邪魔もしたくなかったから近づかなかった」


なるほど。でもその結果、梓ちゃんは記憶を失うフリまでするくらい一人で抱え込んでしまい、澪さんが純ちゃんに助けを求めた。
その時の純ちゃんからすれば、本当に記憶喪失なら梓ちゃんを助けたくて、ウソだとしても今度こそは何か力になりたくて家まで来た、といったところだろうか。


梓「そして……その結果、今があります」

唯「今……」

梓「私だけが諦めず、あなたに『唯先輩』を押し付け続けたせいで、あなたは『混ざってしまった』……そんな今です」

唯「そんな、梓ちゃんのせいなわけ……」


無い、とは言い切れない。当人である私にはわからない。
なのに当人である私は『結果』としてここに在る。だから、梓ちゃんの言葉を、可能性の一つとして肯定してしまう。
否定は出来ないのに、存在だけで肯定してしまう。梓ちゃんを責めたいわけじゃないのに…!


梓「……唯先輩、『混ざってしまった』あなたは、私を憎みますか…?」


唯「な、なんで…? そんなことするわけ――」

梓「あなたが命を落とす原因を作り、あなたが命を差し出すのを止めず、あなたが取り戻してほしかったあなたを失わせた原因である私を、あなたはどうしますか?」

唯「梓、ちゃん……?」


『平沢 唯』が命を落とす原因を作り、
『平沢 憂』が命を差し出すのを止めず、
『平沢 憂』が取り戻してほしかった『平沢 唯』の記憶を失わせた原因。
それが自分だと、梓ちゃんはそう言っているんだ。

憎んでくれと、責めてくれと、殺してくれと、二人と同じくらいの傷を負わせてくれと、そう言っているんだ。


梓「あなたにとって私は姉の仇であり、妹の仇であり、妹の願いを潰した張本人なんですよッ!!」

純「あ、梓、落ち着いて……」

梓「純も言ったじゃない! もう取り返しのつかないところまで来てるって! そうしたのは私! 最初の原因も私! 全部私のせい! そうでしょ!?」

純「で、でも私は知ってる! 梓は憂との約束を守ろうとしただけだって!」

梓「守れなかったんだから何の意味もないよ! もう唯先輩は『混ざってしまった』んだから!」

純「そ、それは……」

梓「………あっ、そうだぁ……混ざったんなら……あなたは唯先輩でもあり、憂でもあるんですよね…?」


梓ちゃんが、空虚な瞳をして嗤う。


梓「今なら……謝れるじゃないですか。唯先輩、私はずっとあなたに……私のせいで死なせてごめんなさいって、ずっとずっと、それだけを言いたくて……!」


空虚な瞳から、涙が伝う。


梓「憂にも……唯先輩を死なせてごめんって、何度言っても足りないし……こうして今、憂の最期の願いもダメになっちゃって、私は謝らないといけないんだ……ごめんね、憂ぃ…!」


こちらに歩み寄りながら、手を伸ばして。


梓「ごめん、っ、ごめんなさいっ……ごめん、ひぐっ、ゆいせんぱ、っ、うい、っぁ、ぅ、うあぁっ……! い、いくら謝っても、っ、足りないよぉっ……!」


……私にしがみつく直前、梓ちゃんの顔が普通の女の子の普通の泣き顔に戻ったのを、私は確かに見た。






律「――なあ、澪」

澪「ん? どうした?」

律「……私達、このままバラバラになるのかな」

澪「……らしくないな、律」

律「ずっと思ってたんだ、どこかで何かを間違ったんじゃないかって」

澪「例えば?」

律「……わからない。わからないけど、唯がああなって、憂ちゃんもいなくなって、今度は梓だ。どこかで何かを間違えたとしか思えない」

澪「……蝶の羽ばたきみたいなものかもしれない。少なくとも、律が気に病む必要はないはずだ」

律「そうかな」

澪「律は間違った事はしてないよ。万が一してるとしたら、きっと私達全員だ」

律「……そうかな」

澪「そうだよ」

律「でも、怖いんだ。唯をあんな目に遭わせたのだって、人間なんだ。私達を狂わせたのは人間なんだ。同じ人間である私達が、どこかで何かを狂わせてないとは言い切れない」

澪「……唯をあんな目に遭わせたのは、『魔物』だよ」

律「……そういえば、そう言い出したのは澪だったっけ」

澪「あんなのが、人のする事だと思いたくなかった。人の仕業だと認めたら、もう誰も信じられなくなる気がしたんだ……」

律「……でも、そんな私達は『魔物』を産み出した。恐ろしい『魔物』を。梓を傷つけた『魔物』を」

澪「………」

律「私達が、他のどこかでも『魔物』を産み出してた可能性だってある」

澪「……律らしくない。けど、それはその通りだな……」

律「なあ澪、聞き方を変えるよ。私達は、もう一度みんなで笑い合える時が来るのかな…?」

澪「それは、来るさ」

律「どうして?」

澪「私は、来ると思いたい。私達は、みんな唯の事を大事に思って動いたんだ。その気持ちだけは……私は信じたい」

律「たとえそこに『魔物』がいても?」

澪「……『魔物』がいたなら、また退治して、笑顔を取り戻せばいいだけだ。私達の手で――」






魔物なんてどこにもいなかった。

ただ、人の手により一つの命が失われ、一人の記憶が失われただけだった。


そしてその結果、私がある。
死んだはずの『平沢 唯』の名前と器を持ち、消えたはずの『平沢 憂』の記憶を持つ私が。
人の手により、大切な姉妹を失った私がここにいる。

大切な人はもういない。あの頃にはもう戻れない。その事を想うたび、心が締め付けられ、涙が出そうになる。
しかし、同時にそれを事実として静かに受け入れようとしている自分がいる事にも気づいていた。
誰よりも近しい人を失ったはずなのに、皆のように不確かな技術に縋ろうという気持ちにはならなかった。かといって逆に梓ちゃんを傷つける気にも到底なれなかった。
私は感情の振れ幅が小さくなってしまったのだろうか。私はやっぱり壊れてしまっているのだろうか。
そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。

何故なら、妹が私のために命を差し出した事に心を痛めようにも、私には憂の記憶がある。私はこの世で唯一、憂の記憶を持っている。
しかも都合よく、事故の時間から後の記憶は無いままで。それが何故かはさっきも少し考えたけど、今はもう一つ説がある。恐らくは処置の影響だろう、という説だ。
頭の中で現実時間と記憶が紐付けられている、という前提になるけど、私が記憶を取り戻すよう処置された現実時間の範囲が、唯が事故に遭った時、あるいはその少し前だとしたら。
そしたら、その範囲から漏れてしまっている、唯の事故の後にあたる時間の憂の記憶は戻らない、ということになる。
その時間の憂の記憶も私の頭の中のどこかにはあるんだろうけど、その時間は唯にとっては眠っていた空白の時間であるため、取り戻すための処置をされなかった。
だから、それはどこかでずっと眠ったままなのだろう。無かったことにされた憂の中の、本当に無かったことにされた、悲壮な決意の記憶は。
ここまでは推測だけど、憂として死んだ記憶が私に無いのは事実だ。皮肉にもそのおかげで、生き続けている憂が私の中にはある、と言える。

同様に、姉が戻ってこない事を嘆こうにも、私は唯としての振舞い方を知っている。私はこの世で唯一、唯として生きる事が出来る。
更に言うなら、皆から学んだ唯の姿と、取り戻した憂の記憶に写る唯の姿を併せれば、私は今まで以上に唯になれる。
記憶こそ足りないものの、この世で一番唯に近いのは私だ。私が唯と呼ばれた事、皆が私を唯と呼んだ事、それら全てがその証明だ。
そもそも、私の中に唯としての記憶はなくとも、唯として生きてきた記憶はある。たとえ短いものだとしても、確かにある。
今は私が唯であり、この先も唯として在れる。そんな私は誰よりも唯と言えるだろう。唯として死んだ記憶もないのだから。

つまるところ、真実を知った私は姉妹を喪った事実を唯と憂どちらの視点でも見れてしまうから、皆ほど取り乱さないのかもしれない、と思う。

しかしそれは、死んだ姉妹の事をちゃんと悲しめないとも取れる。心から大事に想っていたはずの姉妹を喪って悲しめないなんて、そんな私は唯も憂も名乗れない、とも思う。

そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。
一体どちらが正しいのだろう?

わからない。私にはわからない。

肝心な事が何もわからない、こんな私は、誰なんだろう?



「………ああ」


そうか。
どちらでもないのかもしれない。
私は、唯であり、憂であり、そのどちらでもない。
そうだ。
表面を見れば唯であり、真実を見れば憂であり、内面を見ればどちらでもない。

『混ざってしまった』私は、そんな存在。

唯であって憂ではなく、憂であって唯ではなく、唯でも憂でもない。

そんな、曖昧な存在。
そんな、不確かな存在。
そんな、混沌とした存在。
そんな、夢幻のような存在。
そんな、作り物のような存在。


言わば、

そんな、魔物のような存在。


この世に『魔物』がいるとすれば、ここにいる。
人の手によって産み出された『魔物』が、ここにいる。
人の痛切な想いで生まれてしまった『魔物』が、ここにいる。

『魔物』は、尊い『平沢 唯』の記憶を喰らい、尊い『平沢 憂』の身体を奪い、ここに在る。
彼女らを大切に想う皆にとっての『光』を喰らい、ここに生きている。
『光』を喰らい、しかし『光』にはなれず、誰にも望まれなかった在り方で『魔物』は生きている。


それでも。


「……あずにゃん」

「っ!? ゆい……せんぱい?」


それでも、『魔物』は『ひと』に憧れた。


「……私は、『平沢 唯』になるよ」


大切な人のために自らを犠牲に出来る姉妹のような、そんな『ひと』に憧れた。


「ごめんね、記憶が戻ったわけじゃないんだ」

「それは……わかってます、私のせいです」

「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないよ。元々無理があったのかもしれない。人の手に余る分野だったのかもね、記憶っていうのは」

「でもっ……」

「うん、それでも、みんなはそれに希望を見出した。結果は残念だったかもしれないけど、それを知ってる人は、ここにいる三人だけ……」

「それって……」

「まさか……」

「……言ったでしょ? 私は『平沢 唯』になる、って。みんながそれを望むなら」


それを、こんな私に望んでくれる人がいるのなら。
私はいくらでも、この身を差し出そう。



「……『私』が、みんなと『平沢 憂』の望んだ未来を創る。二人とも、手伝ってくれるよね?」

「……はあ、そんな言い方は卑怯ですよ、全く」

「敬語、やめてもいいよ?」

「……考えておきます」


最初に私の手を取ったのは、純ちゃんだった。
確かに卑怯だったかもしれない。でも、純ちゃんが一緒にいたほうが、憂としては嬉しい。

そして、もう一人。
唯としても憂としても、私としても、一緒にいて欲しい人。


「……あずにゃん。梓ちゃん。あなたの隣にいるのは、『私』じゃダメかな?」

「……ダメ、じゃないですけど……でも、私は……私のせいで……」

「ダメじゃないなら、いいよね?」

「わ、私はッ!」

「ずっとそばにいる、って言ってくれたよね?」

「っ、そ、それは……」

「……私はあなたの望んだ私じゃないし、あなたは私に負い目がある。なかなか割り切れないかもしれないけど、私はあなたと一緒にいたいよ。一緒に考えようよ、私達の関係を」

「………いえ。私から言わせてください。……手伝わせてください。唯先輩と、憂と、あなたのために、私に出来る事をさせてください…!」


そう言って『私』を見つめる梓ちゃんを、あずにゃんを、抱き寄せた。
これで私達は運命共同体だ。
『魔物』と『ひと』と『ひと』。不思議な組み合わせでもあるし、以前も一緒にいた組み合わせでもあるし、人前であまり一緒にいるのは不自然な組み合わせでもある。

でも、二人は私を助けてくれるだろう。
私が皆にとっての光である限り。
喰らってしまった光の代わりである限り。
光が照らすはずだった道を、代わりに照らし続ける限り……


誰かが欠けた世界で、『魔物』は『ひと』に憧れ、ずっと一緒にいたいと願った。

それが叶うかどうかは、私には――まだ、わからなかった。




おわり。
スレ落としてごめんなさい

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