魔王「死ぬまで、お前を離さない」 天使「やめ、て」 (494)

+++++++


本殿・最奥の間――


カタ。
木組みの格子窓が音を立てる。

ひたり、ギシ と 冷たい床を踏みしめる足音。
がらんどうとした広い奥座の前で、それは止まった。

部屋を分け隔てるのは、大きく鮮やかな赤い御簾――

宵闇の中でほんのりと薄紫がかったそれは、元が布なのか植物なのかもわからない。
かすかに室内に入り込む冷気にさえ、柔らかく揺れていた。


「……っ」



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御簾を挟んだ向こうで、息を呑む気配がする。
黒い人影はそれを感じ取りながら、またヒタリ、と歩を進める。

御簾の端にある 狐の尾のような房を引くと、ゆっくりと御簾が上がっていった。
伴って、格子から差し込む月灯りも 御簾の奥へと侵入していく。

静かに、隠されていたものが姿を現す。


魔王「…何を怯えている、天使? まだ俺を見慣れぬか?」

天使「……っ 魔王…!」


漆黒の角を生やし、見下ろして微笑む魔王。
純白の羽を震わせ、怯えて見上げる天使。


部屋の中で対峙したのは、両極の存在だった。



+++++++


天使「っ! こ、こないで」

魔王「もう、数十と月が昇ったというのに……。どうすれば慣れるのか」


開かれた御簾の中には、薄い膜のような結界が未だ張られている。

シャボンの玉か、あるいは巨大な水滴。
けれどもそれは蜃気楼のように霞んで、実体を持つものではない。
その中に囚われているのもまた、実体とは思えぬほどに儚げな天使だった。


天使「もう、やめてください! お願いです、私を天に帰して!」

魔王「それは出来ない。言っているだろう? 俺はお前を愛しているよ」

天使「そんな…。そんな、こと…」

魔王「ああ。小刻みに揺れるその羽……。今にも純白のこなあああああああああああああああゆきいいいいいいいいいいいいいいいいいを舞い散らせそうだ」



魔王が手を伸ばすと、伸ばした手の形に添って 結界は陥没する。
決して触れることは無い壁。だけれど限りなく“無い”に等しい障害物。


天使「っ」

魔王「怯えているのでなければ、なお美しいだろうに…」


そんな“檻”の中に閉じ込められた天使が 決死の悲鳴を上げようとした時
格子窓の向こうから声が掛けられた。



「若君」


魔王が差し出していた手を引くと、結界もまた球状へと戻っていく。
ほっと息をつく気配には苦笑を禁じえない。

だが今は、邪魔者をどうにかするべきだろう。
魔王は格子窓へと近づき、階(きざはし)に跪く若者をつまらなそうに一瞥した。


魔王「ああ…… 近衛か。なんだ」

近衛「あまりその天使には、お近づきにならぬのが御身の為かと……」

魔王「ちっ。無粋な事を」


近衛と呼ばれた若者は、魔王に睨まれても臆することはなく進言を続ける。


近衛「差し出がましい事とは存じております。ですが、どうか」

魔王「問題ない、この御簾の中には結界が機能している。こいつは無力だ」

近衛「しかし、若君…」


魔王「ああ…、それよりも、見てみろ近衛。天使というのはなんと美しい生き物だろう」

近衛「……はい。まことに、仰るとおりで御座います」

魔王「くく。まさかこのような拾いものをするとはな」

近衛「……若君」


主君である魔王の瞳に愉悦の色を感じ、近衛は言葉をなくした。

魔王からこぼれる微かな嗤いの気配だけが空間を支配する。
それに耐え切れなくなった天使は、細い指で顔を覆い、譫言をくりかえす。


天使「どうして、どうして……。う、うぅ…」

魔王「ほう……? 泣いているのか」

天使「ひっく……。うぅ…神様…」


魔王「ははははは!! これは滑稽な」

天使「神様… 神様…っ」

魔王「この魔王殿で助けを請うた所で、俺以外に誰が助けられるというのか。……どれ、よく見せてみろ」


銀色の鈴のついた錫杖が突き出され、
薄い結界越しに 天使の顎を持ち上げた。


天使「んぅ!!」

魔王「……ああ。涙ですらも美しいものだな」

天使「いやっ、やめて!! 私に触れないで!!」バシッ!

近衛「っ天使!」


コロン、と鈴の鳴る音

強く振り払ったはずの錫杖は、軽やかに音を立てるのみだ。
振り払う衝撃も、転がり落ちるほどの勢いも すべてが結界に吸収されて力を失っている。



魔王「ああ、よい。近衛、よいのだ。この程度の無礼、赦さぬこともない」

近衛「……はっ」


魔王「泣き濡れる姿も良いが、やはりこれくらい気丈な娘のほうが扱いやすい…咎めは不要だ。クク」

近衛「……御意に。 ですが、若君。そろそろ御簾をお下げになってはいかがでしょう…」

魔王「ああ、そうだな。……まったく。この俺を魅せるとは、天使というのはたいしたものだな」


魔王に代わり、近衛が御簾へと歩み寄り 房を手にする。


天使「~~っ」ガクガク…

近衛「……」


魔王「どうかしたか」

近衛「……いえ」


近衛は 身体を縮めて怯える天使の姿を視線の端に捉えながら……
ゆっくりと御簾を下げ、その姿を覆い隠した。


プロローグのみですが、投下させていただきました。

もうやだ… 久しぶりすぎてまともに改行もできやしない…。


プロローグなので地の文を多めに説明描写を入れております
この後の本編は、会話文が多くなっていくと思います。

ゆっくりと週1くらいのスローペースで投下するつもりです
注意事項としては、多少過激な表現や性的な描写があるかもしれません。

よろしくおねがいします。

sagaいれなかったから >>3 で こなあああああああああゆきいいいいいいいいいいってなってて

もうやだ 俺死んでいいですか

最初からsaga入れてスレ立て直しした方がいいのかもな
とにかく話は真面目に読みたいので待っている

>>1-2
×◆IiD8t.HTzVRy ,◆Z1sKHpgSzY
○◆OkIOr5cb.o

>>3
×こなあああああああああああああああゆきいいいいいいいいいいいいいいいいい
○粉雪

>>8
×視線の端に捉えながら
○視界の端に捉えながら


>>32
ありがとう。でも俺の失敗が招いたことだから、これも勉強と思って恥を残しておく。
読みづらくなってしまったことは申し訳ない。

>>all
皆様、「粉雪」のフィルターチェックはもうお済みになりましたでしょうか。
sage sagaの重要性についてご理解いただいたところで、↓から続けさせていただきます。


+++++++


翌朝
本殿・最奥の間――


魔王にとって、朝餉を済ませた後はこの奥間へ来るのが日課となっている。

朝の光に照らされた御簾は、紅葉のような艶を放っていた。
だが、魔王の視線は御簾の奥―― 御簾よりも、なお美しい物を見据えている。


天使「……ぃゃ… ぃゃ…」ブルブル

魔王「よくもまあ、飽きもせずに怯えていられるものだな…クク」

近衛「……」


本来であれば、御簾の中に座するべきが魔王。
一段低くなった床で、御簾越しに他者を見ることなどあってはならない。

だが、崩した胡坐で片膝を立てて、頬杖などをつきながらくつろいでいる魔王は
それすらも愉快に感じているように思えた。



近衛「……その、若君。そろそろ奥殿にお渡りになりませぬか」

魔王「ふむ、今日は謁見の儀であったか」

近衛「族長達は既に、対屋に控えております」

魔王「……いや、もう少しこいつを眺めていたい。遅らせろ」


戸口近くで控える近衛に視線を向けることもなく、魔王は告げる。
だが、そんな横柄で傲慢な主君の態度にも、近衛は眉一つしかめることは無い。

それこそが、魔王だからだ。
近衛が彼に忠誠を誓った時から、魔王は何一つ変わってはいない。


近衛「恐れながら若君、本日は…」


だからこそ、近衛はただ自らの役目をまっとうせんと、言葉を続けたのだが――



魔王「…おい」


気がつくと、頭の中までも覗き込みそうな鋭い視線が向けられていた。
僅かに早まる鼓動を抑え、冷静を努める。


近衛「はい。……いかがなされましたか」

魔王「いい加減に、俺を『若君』と呼ぶのを止めろ」

近衛「――ッ」


魔王「先秋の戴冠で、俺は魔王に正式に就任している。これ以上その名で呼ぶようなら、不敬とみなすぞ」

近衛「……大変な失礼を致しました。お許しください…… 『魔王陛下』」


改めて座を整え、深々と辞儀を述べる近衛を見て
魔王はまた視線を御簾の奥へと向ける。


魔王「ああ、許そうとも。俺は今、非常に機嫌がいいからな」

近衛「……改めて、魔王陛下。本日の謁見の儀には、竜王殿もお召しになっていた筈。あまり彼女の機嫌を損ねるのは、厄介かと」

魔王「ちっ、あの口煩い老婆も居たのか……。止むをえまい、出るとしよう」スクッ

天使「……」ホッ


近衛は戸口を大きく開き、深く頭を下げて待った
だが、魔王が近づく気配はない。
視線をあげると、魔王は扇を口元に当て、なにやら思案する様子で立ち止まっていた。


魔王「………」

近衛「いかがなさいましたか」

魔王「……いや。やはり眺めていたいと思ってな」

近衛「魔王陛下、ですからそれは……」


言いながら、今日の謁見の儀で呼び出された者たちを脳内で確認する。
どの者も重要な部族や種族、その筆頭ばかり。いくら魔王とはいえ、あまり待たせておくのは得策ではない。
あとはどのような切り口でそれを言い出すかだが―― 


魔王「何、天使を連れて行けばいいのだ。問題あるまい」ニャ


天使「!?」ビクッ



近衛「魔王陛下!? そのような事をなさっては、大混乱になります!」


魔王「何、余興よ。ここまで天使を運んだ御車があったろう。あれから馬を放して、誰かに担がせればよい」

近衛「しかし!!!」


魔王「近衛、これは俺の勅令だ。まさか従わぬだなどと……?」


近衛「……っ!」

魔王「……」


いっそ強く睨み付けられでもしていたのなら、一言くらいは反論も出たかもしれない。
だが魔王の瞳は、無感情とも思えるほど冷静に近衛を捉えている。

逆らい間違うものならば、その場で確実に
『正しく冷酷な断罪をする』と、告げているのだ。


近衛「……かしこまり、ました…」


魔王「ふふ…我ながら良策だな。これで、いかなるときも… 傍においておけるだろう」


くつくつと嗤いながら、部屋を出て行く魔王。
足音の遠のくのを聞いた近衛の耳に、今度はしゃらしゃらと翼の揺れる音が聞こえてくる


天使「い、いや…… 行きたくない… 行きたく、ない…!!」

近衛「…………っ」


怯えて震え泣く天使。
無情にも、その姿はどこを取っても 美しく幻想的な姿に見えてしまっていた。


――――――――――――――――

正殿― 


ザワザワ…
 ザワザワ…


魔王「皆の者、待たせたな。ちと身支度に手間取った」


正殿の中央に設えられた御帳台へと歩み寄り、簾中へと入る魔王。
既に伺候に上がった者たちはそれぞれの居場所を定めてはいるが、落ち着きは無い。

それもそうだろう――
魔王よりも少しばかり先に運ばれてきた物は、彼らにとって不吉そのものだったのだから。



獣王「魔王サマ… 先ほド運ばれてきタ、こノ 御簾車ハ…」

魔王「うむ、これか。俺が寵愛している者だよ、皆にも紹介しようと思ってな…」ニヤ


天使「―――っ」ガクガク…ブルブル…


獣王「クンクン… 匂イ、しなイ」

魔王「ほう? 獣王の鼻にも届かないか。急造した結界だが、上手く機能しているようだ」


体躯だけならば魔王よりも数倍も大きい獅子の姿をした獣王。
彼は魔王のその愛しそうな口調を怪訝に思いながらも、御簾車の傍へと近づき嗅ぎ始めていた。


天使「―――ひっ」

獣王「……?」


嗅覚を頼りに敵を判断する獣王にとって、完全に無臭であるそれは「モノ」と代わらない。
従って、なんの危機感も恐れも持つことも無い。

だが、その他の者にとっては――


竜王「魔王殿!」ビタン!

魔王「……ちっ。犬猫を見習って、尾を振るのは機嫌のよい時だけにしてはどうだ。さすれば多少の可愛げもあろう」

竜王「ならば冗句を言うのも、機嫌のよい時だけにするのじゃな!」

魔王「鱗を立てるな。竜王ともあろう者が、何をそんなに荒らぶるのか」

竜王「~~~~っ」ワナワナ


亀姫「うふふ。大婆様、どうぞ御鎮まりくださいませな。それに、ほら。私達はまだ、魔王陛下にご挨拶もしておりませぬ」


牙を剝いて噛み付きそうな竜王をたしなめたのは、扇で顔を隠した一人の女性だった。
青漆に染め上げられた打ち掛けを引き着にしており、艶やかな印象は顔を覆っても隠しきれないほど。
だが、その声もまた、心なしか怒気を含んでいる。


魔王「亀姫」

亀姫「ご機嫌麗しゅう、魔王陛下。お召しによりまして参上仕りましてございまする」


亀姫と呼ばれた女性は悠然とした仕草で裾を払い、床に付して長々と訪問の挨拶を述べあげていく。
その背に負った亀甲のせいか、大きく広がった大振袖もまるで亀の手のように見えた。


魔王「相変わらずだな。慇懃無礼という言葉を知っているか」

亀姫「はい。それは“私”を意味する言葉で御座います」クス

魔王「クク… まこと、恐れ知らずな娘であることよ」

亀姫「ありあまる寿命をもてあましているが故の、サガですわ」

魔王「お前の寿命が長いのではなく、お前が周りの寿命を縮めているのではないだろうか」

亀姫「あら…。ならば魔王陛下が私の次に長命なのも頷けますわね。気位こそ同じなれば、女の身では殿方の豪胆さには敵いませんもの」クスクス

魔王「ああ。俺も、お前のおしゃべりには敵う気がしない」

亀姫「ふふ…。ですが今ばかりは、饒舌になっていただかなければ困りますわ」


亀姫はそう言うと、ゆたりとした仕草で扇を広げなおし顔を覆った。
それはいかにも淑女の貞節といった風情で、普通であれば見惚れる者すらいただろう。

だが、続けられた言葉はあまりにもはっきりとした抑揚と嫌悪感を持っていた。


亀姫「……その御簾の中の者…。“天使”、ですわね?」


扇は、忌々しきものから目を背けるためだったのだ。


獣王「天使!!」グルルル…

竜王「なんと!! 天使じゃと!? 道理で忌々しい筈じゃ!!」ビタン!!


亀姫「お聞かせくださいませ、魔王陛下……」

魔王「ふむ。年の功とは伊達ではないな、その通りだ」クク


亀姫「やはり…。何故このような事を」

魔王「先程言ったとおり、皆に紹介しようとおもってな」


竜王「なんということじゃ! 魔の領地、それも正殿に天使を運び込むですと!? 前代未聞ですぞ!」

魔王「結界によって聖気は封じ込めてある。この者、今は普通の魔物の女子供よりも弱く儚い。ただの愛玩動物と変わらぬよ」

獣王「魔王サマ。御簾車の中、見せていただきたイ。匂いしないト、よくわからなイ」

魔王「ああ、いいだろう。 ……近衛」

近衛「……は」


近衛が御簾へと歩み寄ると、獣王は静かにその場を退いた。
魔王の居る御帳台の傍へ寄り、警戒の姿勢で御簾車を見つめる。

近衛の挙動を誰しもが見つめていた。
張り詰めた空気のせいだろうか、近衛の手元は僅かに躊躇した後…ゆっくりと、御簾を上げた。


御簾が開かれたとき、天使の瞳には何がどう写ったのだろう。

それぞれの臣下たちの付き添いも含めれば、その数は数十にもなるであろう。
“人ならざらぬ者達”の特徴的な瞳。その視線のすべてが、一斉に天使を貫いていたのだから。


天使「や、いや… ま、魔物がこんなに・・・!」

近衛「……」

天使「いや、いやあああ!!!」

近衛「天使――」

天使「いや! いや!!! やめて、お願い! 私を出して! もう逃がしてくださいっっ!!」

近衛「――…っ」


半狂乱の様子で、結界の中で羽を散らせる天使。
魔王はスノーボールのようなそれに見惚れながらも、天使の声に耳を傾けていた。


魔王「ふふ。愛玩動物……というよりも。いまとなっては“哀願”動物にまで堕ちたようだ」


亀姫「その者を…… 一体、どうなさるおつもりなのです?」

獣王「危ないものなラ、見せしめテ、殺ス。命乞いハ、関係なイ」

魔王「この結界の中に閉じ込めておく限り、お前たちに危険は無い。そしてお前らも、こいつに手を出すことは出来まい…クク」


竜王「ええい、埒が明かぬ!! ならば魔王殿は、この天使をどうするおつもりなのじゃ!!!」

魔王「取り立てて、どうするつもりもない。愛でるほかは、そうだな――」




魔王「こいつが死ぬまでは、放さぬつもり… というくらいだな」ニヤリ



ゾクリ、と。
舐められたかのように走った寒気は、誰のものだったのか。


ザワザワ……
 ザワザワ……


魔王「く、くくく。魔王直轄の族長ともあろう者たちが、雁首そろえてこんな小娘一人を恐れるとは」


竜王「魔王陛下は、天使の… 神族のイヤらしさをご存じないのじゃ…」

魔王「ほう。俺を無知と申すか」


魔王が眉をしかめたとき、それまで静観していた族長の一人が前に進み出た。


精霊王「恐れながら、陛下……」

魔王「おまえは… 精霊王……?」



精霊王と呼ばれたのは、エルフのような容姿をした中性的な人物だった。
否。実際に性別を持たないかもしれない。彼らの存在の詳細は、彼らにしか知りえない。
非常に閉鎖的な文化の中でのみ生きる部族なのだ。

そんな人物が公然の場で発言するのは、歴史上でも珍しいことだった。
魔王も思わず、彼が次に発する言葉を待つ。



精霊王「我々、精霊の一族は古来より 神と魔の狭間で生きる者」

精霊「万物を眺め、万物を汲み、万物を記しあげることを至上の役割とし、今代まで繋げて参りました」

精霊王「そしてその記録が、確かに語っていることが ひとつ御座います」

精霊王「歴史に名を残す大きな戦禍、災い、国や文化の崩御―― そのほぼ全ての原因が…」



精霊王「神族と魔族の 接触である、と」



シン……


魔王「……ふん。確かな記録などなくとも、それくらいは予想できる」

精霊王「………」ペコリ


竜王「魔王殿! ただ知ることと、その意味を理解することはわけが違うのですぞ!」

亀姫「魔王陛下。私も、これはあまりに無体な仕打ちに思えますわ。神族との接触など、あまりにも不用意で軽率…」

獣王「何か、起こるかも知れなイ…。何が起こるカ、わからなイ…?」


皆一様に、魔王を諌めるべく視線や言葉を投げかける。
そんな皆の様子をじっと見て、魔王は可笑しそうに嗤う。

そして、はっきりと告げた。


魔王「よいではないか…」


魔王「歴史に名を残す、戦禍とやらも」ニヤリ




亀姫「ま、魔王陛下はまさか… 神族に、戦争を…!?」

竜王「おお、おおおお…! なんと。なんということじゃ…」

獣王「魔王サマ、本気なのですカ?!」グルルル


魔王「ククク。本気も何も… 精霊王の言葉を聴いて、おもいつきで言っただけだ」

魔王「だが、悪くない…」


魔王「俺はこの娘のその儚さ、美貌、声音…… 多くをすっかり愛してしまってな」

魔王「日々、天に帰りたいと泣かれるのにも辟易していたところよ」


魔王はスクと立ち上がり、簾中から出て御簾車へと近づく。
青褪め言葉を失って、オロオロと戸惑う魔物達には目もくれない。



魔王「天使」

天使「…っ!」ビクッ


魔王「……お前の帰る場所。俺以外にはないと思え。そして近いうちにそれは…事実となる」


天使「あ… あ、ああ…」ガクン


天使「…そんな… そんな、私が…私が捕まったばかりに…っ」ブルブル…


魔王「ふふ… ははは、ははははははははははははは!!」


近衛「………」



――――――――――――――――


深夜
本殿・最奥の間-


―――シュ。

暗闇の中、格子窓の滑らかに滑る気配。
僅かに戸が開けられたと気づいたのは、ほのかに入り込んだ月灯りの為だった。


天使「っ、だ、誰…!」

「シッ」


ゆっくりと近づく影の塊。
御簾越しに見えるそれに、天使は怯えながらも視線を離せない。

影は足音も立てず、部屋の隅に置かれた几帳の裏に入り込む。
そこでようやく一息ついたように、蜀台の灯心に火を点した。


天使「あ… 近衛、様…」

近衛「天使殿…ご無事であらせられるか」


穏やかに微笑む近衛を見て、天使もまた安堵する。
御簾の傍まで近づき、嬉しそうに翼を一振りしてそれに応える。


天使「近衛様のお気遣い、有難く思っております」

近衛「……ですが今日は、申し訳ありませんでした」

天使「何を……?」

近衛「若君を……魔王陛下を、止められなかった」


俯き、硬く握り締めた拳が目に入る。
不甲斐なさを悔やむその姿は見ているだけで痛ましい。



天使「近衛様の責ではありません…。どうかご自分をお責めにならないで」

近衛「いいえ…。いいえ、天使殿。こうなったのは全て、自分のせいです」

天使「……」



―――回想―――

一月ほど前
本殿中央・奥殿(魔王の社殿)


魔王「領内視察、だと?」


私室でくつろいでいた魔王は、不機嫌そうに問い返した。


近衛「は。若君におかれましては、戴冠の覚えも目出度き時期。自国の領地と民をしっかりと把握せよと、院よりお言葉を預かっております」


院。
それが表すものは先代魔王のことであり、魔王の実父でもある。


魔王「ちっ。つまらぬ。下賎の弱き民を見て何を学ぶというのだ」

近衛「弱き者の、その弱さを。貧しき者の、その貧しさを」

魔王「ふん。お前はいつの間に父君に躾けられたのだ、近衛」

近衛「……そのような事は御座いません」


魔王「それで。お前は俺に、何処へいって何を見よと申すのだ」

近衛「若君がご覧になりたいものがあるならば、まずはそちらから」

魔王「無いな」

近衛「それでしたら、まずは清浄の森へ行かれてはいかがでしょう」

魔王「清浄の森だと?」

近衛「はい。魔国領内において、もっとも魔素の少ない土地。それゆえに問題者が逃げ込む事も非常に多い場所で御座います」


魔王「なるほど、魔の世界に溶け込めぬ者共が隠れ住むには、うってつけというわけだな?」

近衛「はい。今後、どのような事があるかわかりませぬ故、是非一度ご視察を…」

魔王「成程、記憶には留めおこう。だが見に行く程に興味は無い」

近衛「ご興味、ですか」

魔王「くくく、いっそ色町のほうが余程面白そうではないか。それに…」

近衛「……?」


魔王「それに、そこはつまり 魔国におけるスラムのような場所。魔素を正とし、浄気を誤とするこの魔国において、そこほど穢れた場所はあるまい」

近衛「その通りでございます。ですが――」

魔王「俺が何故、そんな場所へ出向かねばならぬ」


魔王にとって、それは断るに充分すぎる理由であった。
高貴であることも魔王として必要な資質。穢れに触れるなど、もってのほか。


しかしながら、近衛は説得を諦めるわけにはいかなかった。
院より賜った、良き近衛としての在り方。
魔王を魔王として育てるのもまた、その任なのだと忠言を授かったばかりなのだ。


近衛「―――……」



院『“王に穢れあるべからず”。邸内に出入りするものならば誰しもが一番に聴く言葉だろう』

近衛『はい。自分も一番に習いました』

院『穢す者などあってはならない。穢す物など近づけてはならない。臣下ならばこれを心がけよ』

近衛『は。正しく努めさせて頂きたく…』

院『だがお前は、臣下であって臣下ではないのだろう?』

近衛『……?』


院『東の近衛。お前の仕事は側近えであり、教育係でもある』

近衛『畏れ多くも、自分に若君の教育などは役者不足も極まれし事…』

院『なに、教え諭すばかりが教育ではない。私は未だお前を好いてはおらぬが、適任だとは思っている』

近衛『……自分が… 適任…?』

院『うむ』


院『あの魔王は自尊心と我儘ばかりが強い。平穏の中で育ち、飢餓を知らぬ。穢されないがゆえに穢れないなど、どこぞの姫君と代わらぬよ』

院『王に必要なのは、“穢れに触れても穢れない強さ”である』


近衛『王に穢れあるべからず…。王自身の為の戒言であらせられましたか…』


院『東の近衛。お前は魔王に歯向かい、逆らい、乱し、穢すべき者だ』

近衛『!!! 何をおっしゃるのです、院! 自分は若君にそのような事…!」

院『お前などに穢されぬ強さこそが、魔王に必要なのだ。それとも、お前ならば本当にあれを穢し殺せてしまうか?』

近衛『っ! そのような事…!』

院『やはりお前に適任だよ、東の近衛――……』



近衛「………」


魔王「おい」

近衛「!」ハッ


魔王「なにを呆けている? 用が済んだなら下がれ、近衛」

近衛「これは申し訳ありません、魔王陛下。少々思い出した事がありまして…」

魔王「思い出したことだと?」


院からの忠言をそのまま伝えるわけにはいかず
姿勢を正すふりをして時間を稼ぐ。

思い出した言葉のおかげで、今の自分のなすべき事が間違いではないと確信できた。

清浄の森への視察。
そんなものを勧められるのは、確かに自分しかいない。
胸に引っかかるものもあったが、それが魔王の為に必要だというのならば厭わない。


近衛(清浄の森か…。何か若君の興味をそそるようなものがあれば。あそこは、確か…)


ふと下男たちの間で騒がれていた噂話を思い出し、利用する手を思いついた。
近衛は軽く咳払いして、焦れた様子の魔王に進言する。


近衛「清浄の森といえば、先日『天空より梯子の降りたるを見た』という報告があがっております」


魔王「梯子だと? 何のことだ」

近衛「おそらく、光の射さぬこの領地で、なんらかの天候異常により光が射したものかと」

魔王「ふん。たかだか光が射し込んだくらいで、大げさな」


近衛「ですが、その光の射した位置というのが清浄の森の方角。天よりの光は、森の植物に影響を与えると…まことしやかに囁かれておるのです」

魔王「ほう? 影響とはどのようなものだ」

近衛「光を浴びた植物は、魔素ではなく浄気を吐くようになる、と…。そして浄気を吸った植物もまた、浄気を…」

魔王「俺の領地内で、浄気を吐く植物が大量に発生すると?」

近衛「はい。もしもこれが真実なれば、重大な汚染の可能性が。確認の必要があるかと思われます」

魔王「…ちっ。そんなものがあってたまるか。仕方あるまい、仕度を整えろ」

近衛「ははっ」


・・・・・・・・・・・
・・・・・・・


―――清浄の森


元はといえば魔王が面倒くさがったのが大きな理由ではあるが、
それでも仰々しい隊列は組まずに視察へ来たのは正解だった。

騎馬で草木を踏み分けて進んではいるが、苔生した土のあちらこちらに倒木が転がっている。荷運びの従者ですら邪魔になるからと、森を少し入ったところで待たせている。


魔王「“清浄の森”とはよく言ったものだな。鬱蒼としていて、まるきり迷い路だ」

近衛「ですが本当に、魔素が薄い場所です。っと……」


近衛「若君、あちらに開けた場所がありそうです。少し、馬を休めましょう」

魔王「開けた場所……? ほう。これは、不自然な」

近衛「不自然でしょうか?」

魔王「相変わらず愚鈍だな、近衛。…太刀を抜け、そちらは妙な気配があるぞ」

近衛「!?」


魔王はそういうやいなや、するりと馬を降りた。
近衛もそれに倣い、腰元の太刀を引き抜きながら奥へと歩んでいく。

敵襲に備えて警戒した近衛だったが――



天使「……」グッタリ


魔王「……これ、は…?」

近衛「なっ!? まさか…!?」


そこに居たのは、天使だった。


魔王「は、はは…… なんてことだ。魔王の領地で、天使がうたたねをしておる」

近衛「まさか…! 天空からの梯子は、本当に『天使の梯子』だったとでも…!?」


天使「ん……う」グタリ…


魔王「ほう? 生きているか」

近衛「! 若君、危険です! 天使の持つ浄気は、魔素を源とするその御身には強すぎます! これでは自分も……」

魔王「ふん…。では、こうしてしまえばよいだろう」


チャキッ、シュパ。

刀を指先に滑らせ、その刀身に僅かな血を乗せる。
魔王がその刀を真一文字に振り切ると、血は意思を持ったかのように五角を描き飛散した。
僅かに光ったその瞬間、天使の周囲に“薄い膜”が張られるのを視認する。


魔王「簡易結界だ。術法の類を忌避するものだが、浄気のそれも防ぐだろう。……お前も少しは楽になっただろう?」

近衛「あ、ありがとうござい…


天使「ん。あ……」ユラ… パサッ


近衛「! 目覚めた!?」

魔王「ふむ。結界によって、こいつも魔素の苦しみから解放されたか」


天使「……? あれ… 私…?」シャラン


近衛「……真白の…翼…」

魔王「ほう! これは…」


天使「………ここは…?」キョロ


魔王「なんと美しく…稀有な生き物よ」





魔王「気に入った。俺が、飼おう」




――回想終了――


天使「……近衛様?」

近衛「あの時…どうしてもっと必死に、若君を止められなかったのか」

天使「近衛様は… 近衛として、その任を全うしたまでですから」


あの後、結界内に閉じ込められた天使は暴れに暴れた。

当初に急造した結界は“触れると痛みを伴う”形のもので、
悲鳴を上げながら暴れもがく天使を、魔王は愉快そうに見ていた。

だがしばらくすると、結界に罅が入ってしまった。
結界内の浄気と、結界自体の魔素が拮抗したところに物理的に強く触れたせいだろう。

急激に漏れ出した浄気に、近衛は意識が朦朧とするのを感じ、直感的に駆けだした。
そして結界が割れると同時に―― 

鞘で天使を打ち付け、昏倒させたのだった。



近衛「あの時、漏れ出した浄気に焦り、自分は冷静さを失ったのだと思います」

天使「…主君を守るために、身を挺して前に立ったのです。それのどこに落ち度がございましょう」

近衛「天使殿は、悪意も害意も持ちあわせていなかった。それなのに、一方的に手を上げたのは代わりません」

天使「……私も、暴れすぎましたから。ああなっては、もう既に仕方なかったのでしょう…」


天使を打ち倒した後、近衛もまた失神していた。
気がつけば自室で寝ており、あの後、魔王がどのようにして自分たちを魔王殿まで運び入れたのかさえ定かではない。

目が覚めた近衛に知ることが出来たものは
新調された大きな御簾に覆われた、天使の『檻』の存在だけだったのだ。


近衛「……」

天使「……? 近衛様…?」


近衛「必ず、若君を説得してみせる。天使殿を解放するよう説得してみせまするゆえ… もうしばしのご辛抱を…!」

天使「………」


天使「はい、近衛様…… ありがとうございます…!」ニコ


御簾をあげることは叶わない。
この御簾にも結界がかけられており、二重に天使を封じているのだ。

それにこれは、夜間に濃さを増す魔素から天使を守るためにも必要な物だったから――


近衛「天使殿…」

天使「…はい」


御簾越しに交わされる、言葉
薄いシルエットのような、天使の姿
影だけでも分かる、大きな白い翼……


森の中で見たあの美しいものは、確かにこの中にしまわれている。
皮膜のような結界ですら、彼女の本来の美しさを濁しているように思えてならなかった。



愛らしい声音
庇護欲を誘う、儚げな生命


近衛(……自分以外に…彼女を助けてくれる者はいない)


美しい正義感が、無謀なまでに 近衛を後押ししていた。
自室に戻っても冷めることのない、高揚にも似た強い想い。


近衛「この身は、若君に忠誠を誓った身。だが、やはり……自分は…!! クソッ!!!」



目を閉じると、暗闇の中に天使の泣き濡れた姿が浮かんでしまい
その晩は、眠ることもままならなかった。


今日はここまでにしておきます。
和製魔王って、知識的に書いててキツイものがありました。ご容赦ください。


―――――――――――――――――――――


翌日―― 奥殿


近衛「魔王陛下、よろしいでしょうか」


近衛は魔王の社殿を訪ねると、中の魔王に声をかけた
しばらく待ってみたが反応がない。


近衛「魔王陛下……?」


朝餉もまだの時間であり、天使のところに行くには早い。
普段ならば既に起きている時間とはいえ、眠っている可能性を考え
起こさぬように静かに階を上る。


近衛「失礼いたします」


ゆっくりと戸を開く。
繊細な細工とは半比例して、重厚すぎる観音開きの戸。
非力な者であれば開けることすらできない重さがあるにも関わらず、軋む事はない。

そんな戸を開けている途中、声をかけられた。


魔王「近衛か? 丁度よいところに来たな」

近衛「すでに御起床であらせられましたか。丁度よいとは一体…」

魔王「気を抜くな」

近衛「?」


重い戸とはいえ、近衛にとって戸を開けるのは さほど神経を使うことでもない。
気を抜くなとはどういうことか。
そう思って顔をあげた瞬間、目の前に魔王の刀が迫っていた。

ビュッ――


近衛「っ!!」


近衛は咄嗟に後方へと飛びのく。
つい先程まで自分の居た場所を、確実に切り裂く刀。
手を離された戸は、轟音を立てて閉じた。


近衛「・・・・・・っ、はぁ」


寝耳に水どころではない。
避けなかったとしたならば、冗談では済まなかっただろう。
近衛が動悸を抑えようとしていると、魔王は愉快そうに自らで戸を開けて出てきた。


魔王「くくく… よい反応だな。だが装束の端を斬らせるくらいの可愛げは、あってもよいだろう?」

近衛「魔王陛下… なんのご冗談でしょう」

魔王「何、少しばかり腕慣らしをな。ついでにお前の腕も試してやっただけのこと」

近衛「腕慣らし……ですか。危うく死ぬところでした」

魔王「そもそも、この程度で死ぬような近衛など要らぬだろう? ククク」

近衛「……ご満足いただけたのならば、何よりでございます」


逆らうことも責める事もせずに、その場で地に伏せる近衛。
そんな近衛を見て、魔王は確かに満足そうに微笑んでいる。


魔王「何か、俺に用があったのか?」

近衛「いいえ、魔王陛下。用というほどのものでは。少しばかりの進言をお許しいただきたく参上いたしました」

魔王「進言? ふむ…聞いてやってもよい」

近衛「有難きしあわ…

魔王「僅かでも、俺に一手をくらわせられたのならば、な… クク」


近衛「……先程の腕試しでは、ご満足いただけませんでしたか」

魔王「試しも何も、鳴らさぬ腕などわかるものか。俺の腕慣らしの相手役だと思うがよい。刀を抜け、近衛」

近衛「……」


有無を言わせぬ口調。
近衛は諦めてゆっくりと立ち上がり、腰の刀を抜いて構えをとった。


魔王「文官装束に、その構え。なかなか味があって良いことだ。だが動きづらかろう」

近衛「自分の本分はあくまで警護にございます。まして普段は文官として仕えておりますゆえ、こちらの装束が適切かと」

魔王「くくく… 異国の狩衣姿も、なかなかに似合っていたとは思うがな」



手合わせ自体は、あっという間に終わった。

魔王が放った数撃を、近衛はすべて避けてかわした。
近衛が打ち込んだ7手は、すべて魔王の刀で受け止められた。

それだけの攻防で、間合いが接近しすぎてしまったのだ。
お互いに刀を振るには、近すぎる距離だった。


魔王「ふむ…。 駄目だな」


不自然な跳躍の仕方で、社殿の入り口まで下がる魔王。
近衛は深追いせず、ゆっくりと構えを解く。


近衛「ご期待に応えられず、申し訳ありません」

魔王「少しばかりは刀の扱いも上達したかと思っていたが、そうでもないようだ。逃げ足と反射速度は良いのだがな」

近衛「少しばかりならば上達しました。少なくとももう、刀の向きを間違えて峰打ちにしてしまうこともありません」


魔王は愉快げに笑い、そのまま社殿の中へと戻っていく。
ふぅ、と小さな溜息をついてから、近衛もその後を追った。



――――――――――――

奥殿・魔王の社殿


魔王「天使を逃がせ、と?」

近衛「はい」


刀での一手を入れる事はかなわなかったものの、口では味のある返しをしたとして
魔王は朝餉まで支度の間、近衛の進言を許した。
だが、その内容を聞いた魔王は不快そうに目を細める。


魔王「そんなことを俺が了承するとでも思うのか?」

近衛「………どうか、お聞き入れくだされば、と」


ひれ伏して願う近衛を、魔王は鼻でふん、と一蹴した。
蔑むように見下ろしていた魔王だったが、しばらくすると、ククと笑い出した。


近衛「魔王陛下?」

魔王「何。先ほどの手合わせも重なって、お前が俺に忠誠を誓った日を思い出してな」

近衛「……もう、ずいぶんと昔の話でございます」

魔王「あの日もお前はそうして頭をたれていた。お前は覚えているのか? 何故、俺に頭を下げたのか」

近衛「……忘れた日などございません」


近衛もまた、思い出す。
魔王に忠誠を誓った日。

その日、近衛は 無力を嘆き、力を望み、願ったのだ。
異国で生まれ育った一人の人間が、人生の何もかもを全て塗り替えたあの日を――忘れることなどありえない。


近衛「…魔王陛下は、他に代えることの出来ないものを与えてくださいました。あのままでは、ただ、死ぬしかなかった自分に」

魔王「ああ、そうだろう。俺がお前に与えたものは、お前の一生よりも価値があると お前自身が言っていた」

近衛「今となっては、心より御仕えさせて頂いております。この身は魔王陛下への恩義を忘れは致しません」

魔王「ならばそんなお前が、天使を逃がせだなどと 俺に乞い願える立場かどうかも考えるがよい」

近衛「それ……は…」

魔王「くく。わかったら下がれ。お前は俺の忠臣だ… そうだろう?」

近衛「勿論でございます! ですがこれは魔王陛下の御為にも――

魔王「俺の為?」


魔王「……驕るな、近衛」

近衛「っ」


魔王「自分の力で大切なものを守ることも出来ない者が、力を貸した者の身の為を語るなど。百年早い」

近衛「……っ」


すっかり黙り込んだ近衛に、魔王は気を良くしていた。
身支度もすっかり整ったのを確認すると、自らの座へ座り込んで扇を広げ、くつろぎはじめる。


魔王「クク…故郷が恋しくなったのならば、帰っても構わぬぞ。今のお前ならば、守れるものも増えているかも知れぬ」

近衛「いいえ、魔王陛下。今の自分にとって、守るべきものは只一つだけ――」


近衛「あの日、魔王陛下と交わした約束のみで御座います」


魔王「約束… 約束、ねぇ」


魔王はそう言いながら、傍の錫杖立に飾られていた錫杖を、扇で弄んでいた。
コロン、シャラランと、鈴と金環が揺すられて重なり、響く。


魔王「随分と、派手で豪勢な約束だな… くく。くくく…」


近衛「…………」


今日はここまでです。
のんびりやるつもりだったけれど、なるべくサクサク書けるよう頑張ります。


::::::::::::::::::::::


後日

正殿―― 謁見の儀


魔王は正殿に入るなり、じろりと部屋中を眺め見た。
予定にはない謁見の儀。朝餉の後で唐突に知らされたそれに不快は隠せない。


魔王「はっ。謁見とは何であったか。これは決起集会の間違いではないのか?」

近衛「決してその様なことは。皆から至急謁見の申し出があったので、一堂に会したまででございます。本日の謁見には…」


手にした巻物をバラリと解き、流暢に参加者の名を述べあげる近衛。
それとは対照的に臣下達は重々しい表情で、目を伏せたまま微動だにしない。
皆、気まずさを感じながらも集まらずにいられなかったのだろう。


竜王「魔王殿!」バシン!


近衛が族長達の名を読み上げるのを阻み
ズイ、と身を乗り出して口を開いたのは 竜王だった。


魔王「竜王。お前がこいつらを集めたのか?」 

竜王「皆、思うことは同じであったというだけですじゃ」

竜王「前回は我々も、天使の事で混乱しておった! 今日こそしかと、お話を聞かせてもらいましょうぞ!!」

魔王「ふん。混乱したならば、いっそ混乱したままでいればいいものを」


淡々と文句を吐き出しながら、中央の御帳台へと進む魔王。
その背に向かい、老いた竜は火を吹く勢いで捲くし立てていく。


竜王「皆、冗談で集まっているわけではないのですぞ!」

魔王「これが暇人の集いだったのならば、俺とて出向いたりしておらぬ」

竜王「魔王殿には未だ、王たる者の自覚が足りておらぬ!! 先代魔王殿におかれてはこのような――…


魔王はその言葉を聞き、簾中に入る一歩手前でピタリと足を止めた。
開いた扇から瞳を覗かせ、竜王を捉える。


魔王「……その言葉は俺への愚弄か――?」

竜王「なっ」



魔王「違うとでも? ならば、我が父への忠誠か?」クク

竜王「――っ」ビタン!


返す言葉を失い、竜王は大きく尻尾を床に打ち付けた。
そしてそのまま、ゆっくりとその巨頭を垂れて鎮まっていく。


仕える『魔王』への愚弄など、決して許されない。
もとより愚弄するつもりなどはなく、言葉が過ぎるのはただの老婆心なのだ。


竜王(……魔王殿は“魔王殿”じゃ、いつまでも若君ではあらせられぬ。わしの振舞いは改めねばならぬことも承知…。 じゃが……)


竜王はもともと、力強い賢王だった先代に忠誠を誓って仕えていた家臣だ。
先代の在位中は、何度も幼かったこの魔王を叱咤し、厳しく忠言を繰り返した。


竜王(厳しくも思慮深くあられた、先代魔王殿――。
その元で、強く立派な後継を育てるべく情熱を燃やした日々は、未だつい先日の事のように思えますのじゃ……)



継承も戴冠の儀も終え、“魔王”が交代したのはつい先秋のこと。
 

この国の王達には、伝統的な風習として
『より多くを次代に継承する事が王の誉れである』という考えがある。

この風習の中で、先代は見事に全てを手放してみせた。

残したのは小さな東屋と一人の女房だけで、もはや奥殿にすら居を持たない身となった。
知恵こそ残ってはいるものの、“人格者”以上の評価を得ることはできない。
そんな身分へと、自分を押し下げたのだ。

だが何よりも見事だったのは、そんなことではない。
最も誇るべきは、『臣下』の全てが若き魔王に継承された事だったと竜王は考えている。


竜王(主君が替われば臣下も変わるもの。離れる者が出るのは、これまで当然じゃった。
じゃが先代から今代へと変わる際には、誰一人として離れるものが居らんかった……)


『臣下達は皆、王の誉れとなりたかった』――


若き魔王に忠誠を移譲することこそが、
臣下達に出来る 先代魔王への最期で最大の礼であり、忠誠だったのだ。
そんな時代の魔王に仕えた事は、竜王にとっての誇りでもある。

だからこそ今、忠誠を誓うべきは この『魔王』ただ一人でなくてはならない。
先代の誉れに、傷をつけてはならないのだ。



竜王(……ならないというのに…。ワシは先代王という“個”に、未だ執着をしておるのか…?)


頭を垂れたままの竜王を一瞥すると、魔王はスッと簾中へと入っていく。
腰かけて一息ついたところで、獣王が声をかけた。


獣王「魔王サマ。こちらからモ、聞いておきたイ」


魔王「獣王か… まだお前のその低い唸り声のほうが聞いていられるな。申してみよ」

獣王「我等、獣族一同… 筆頭たる魔王サマのご命令には決して背きませヌ。それこそガ、我が獣族の誇リ」

魔王「ほう?」

獣王「ですガ、筆頭たる者と認メ、従うかどうかハ、一つの条件次第でございまス」

魔王「条件……? ふむ。どこぞの臣下のあやふやな忠誠とやらよりは、よほど信頼できそうだ」

竜王「……」グッ


獣王「その条件とハ、『強く導ける者であるカ』…」

魔王「導く?」


獣王「我等は集団で生きル。いかなるときも強く導かねば、混乱が起きル。統率の乱れこそヲ、何よりも愚と考えル」

獣王「かざした目的ヲ、違えなイ者。ふらつく意思を持つのならば、筆頭などとは認められなイ」

魔王「……ふらつく意思だと? 獣王。貴様、誰に向かって物を申して居る」

獣王「神族への戦争―― 思いつきと言っていタ。思いつきで始めて、思いつきで辞められては堪らなイ」


獣王「お聞かせいただきたイ――… 魔王サマノ、想いの丈ヲ」

魔王「く… ククク」

亀姫「獣王! 言葉をお控えなさい! 卑しく争うばかりのケダモノ風情が、王を挑発しようだなどと――」

獣王「我は、魔王サマに聞いてイル!」

竜王「ええい、力量を測るような真似はやめよ! 神族を畏れぬ魔王殿の気概ならば充分にわかっておる! だがそうあってなお、ここは抑えるべきなのじゃからして……」

獣王「魔王サマ! 御答え願いたイ!!」

亀姫「獣王! いい加減になさいまし! さもなければ――


パチン!!

「「「!!!!」」」


強く、扇を閉じた音が響いた。
それを合図に、皆が口を閉じて魔王を見つめる。


魔王「さて…静かになったか。 獣王、さきほどの問いに答えよう」

獣王「………」ゴクリ


魔王「俺は、お前達を導いたりはしない」

獣王「!」


魔王「おまえらの筆頭となる条件? …そんなものを考慮するつもりもない」

獣王「……なんト!」

魔王「俺に従いたいというのであれば、従えてやらん事はないがな」ククク


大きく目を見開いたまま言葉を失う獣王を見て
魔王は満足そうに微笑んでいた。


魔王「俺は俺の目的を達するのみ。着いてきたくば来るがよい」



魔王はスクと立ち上がって簾中を出ると、
四方を囲う各部族の族長や精鋭をぐるりと見まわし、声を張り上げた。


魔王「皆も聞け!! 俺は3日後、神界へと攻め入る!!!」

近衛「――ッ」


 ザワッ・・・!!!


魔王「そして、父の代より付き従えている我が臣下達に言っておく」

魔王「忠誠を棄てよ。棄てられぬ者ならば、即刻と巣に帰るがよい」


 ザワ…ッ 
   ザワザワ…ッ


魔王「クク。俺に異論を持つ者があれば、今すぐこの場でかかってこい」




魔王の言葉に、臣下達は混乱を極めた。

“魔王の為に魔王に従う”事を絶対としてきた臣下達にとって
忠誠を棄てることも、帰らされることも、主人にかかっていくことも、なにもかもが理解不能だったからだ。


竜王「魔王殿――…!! なんということを仰るのじゃ!!」ワナワナ


ざわつき戸惑う臣下達の中、最初に声をあげたのは竜王だった。


竜王「忠誠を棄てよじゃと!? 魔王殿は臣下を何だと思っているのじゃ!?」

魔王「くく… 異論か? ならば、俺にかかってこい、竜王」

竜王「くっ……忠誠を棄てることなど出来ぬ! ならばワシは忠誠をもって、魔王殿のそのお言葉を御諌めさせていただこうぞ!!!」

魔王「ああ―――」



魔王「全力で来い。さすればお前のその忠誠、真実であったことだけは認めてやろう」

竜王「―――魔王殿――ッ」



……………
………
……


魔王「……ご苦労だったな、竜王」

竜王「グ……」ガクン


皆、信じられないものを見た思いだった。

“魔王”に躊躇なく振り上げられる竜王の尾も、それを一振りで切り裂いた魔王の抜刀術も。
吐き出された火炎の熱さも、それを一瞬でかき消した魔力も。
何もかも全てが、とても信じられないものだった。

若き魔王の魅せた、初の戦闘行為。
種族代表の集まるこの場においても、それは圧巻の戦闘技術だった。

ましてや相手は魔物の中でも“攻撃力”を誇る竜族の王だ。
それを赤子の手を捻るかのように地に伏せさせた魔王の強さは、本物としか言いようがない。


竜王「強く……なられたのじゃのう…。若君・・・」

魔王「ああ。そしてお前は老いた」

竜王「老いた、か。ワシはいつの間にか、眼を曇らせておったのじゃろうか…?」

魔王「……」


竜王「魔王殿。どうぞ、愚かな逆臣に裁きを。慈悲は要りませぬ・・・」

魔王「クク。かかって来いといったのは俺。俺に勝てぬからと裁きなど与えては、次の者がかかってこれまい?」

竜王「では… ワシは……」

魔王「無論――  巣に、帰るのみだ。お前は最早、我が臣下ではない」

竜王「………っっ」


顔を地に伏せて隠した竜王。
それを背にして、魔王は他の者を眺め見て言った。


魔王「さて… 次は、どいつだ? 戦わずして帰るのも構わぬがな」ニヤ


しばらくの間沈黙を続けた室内は、次第にザワザワと騒がしくなっていく。

他種族からも信頼の厚い竜王を手当てしようと動き出す者。
仲間の住む場所へと遣いを放つ者。
ただただ圧倒されて、興奮気味に語りだす者――


獣王「魔王サマ」

魔王「む? おまえも、俺にかかってくるか?」

獣王「異論なド、持ちあわせなイ。強き我が王、その強さに魅せられタ」

魔王「クク。筆頭として認めるわけにはいかぬのでは?」

獣王「構わなイ。同族から異議があれバ、我が筆頭となリ、我が一族を従えテ、魔王サマについて参りまス」

魔王「好きにしろ」

獣王「それよりモ、魔王サマ。かかってくる者がいないのなれバ――」


獣王「是非とモ。1戦、お相手願いたイ」グルル…

魔王「……怪我などしてくれるなよ」クス


魔王にとって、それは単なる時間つぶしだった。

庭先だけでは狭いのか、太鼓橋の向こうまで駆け、嬉しげに尾を立てている獣と
魔力による弾撃でそれを決して近づけさせぬ魔王。

微笑ましくじゃれ合うかのように声を掛け合ってはいる二人だが
その一撃・一蹴のどれもが、粗く地面を削っては破裂している。

その様子の狂気さを見て、蒼い顔をした臣下がまた一人去っていった。


そうして日没も近づく頃になり、ようやく魔王殿は静けさを取り戻した。
その場に残った者の数は、元居た半分ほど。

充分に翻弄された獣王は、近づく事もできぬ程に強い主人に満足したらしい。
疲れて床に伏せた獣王。
その腹元にもたれかかるように座った魔王が、笑っていた。


魔王「神界を、堕とすぞ」ニヤリ

魔王「来たいやつだけ、来るが良い――」



近衛(……自分の無力さなど…とうに、わかっていたというのに…)グッ



近衛(天使殿――)

今日はここまでにします。
次回から本気で地の文を減らすことと、投下速度の向上に全力を注ぎたいと思いますね…。




::::::::::::::::::::::

本殿・最奥の間


近衛「……」


ちらちらと蜀台の炎が揺れていた
その灯火が自らの影を映し出すのを気にして、そっと掌で覆い隠す。


天使「近衛様…? あの、如何なされましたか…?」

近衛「……」


近衛と天使の、二人だけの密会。
それは月日と共に頻度を増し、既に毎夜の事になっている。
魔王が神界との戦争を口にしてから先は、滞在時間も長くなっていた。


天使「近衛様…。戦争の事を、自責していらっしゃるのですね…?」

近衛「天使殿を逃がすことも叶わず、それどころかその故郷を無くそうというのです。
魔王陛下をお止めすることも出来ない自分の無力さを、ただ恥じるばかりしかない」

天使「神様と戦争だなんて…私には、どうなるかの考えにすら及びません」

近衛「陛下は、本当に強い方です。神界を堕とすというのもただの酔狂ではなく、本気で可能だとお考えでいらっしゃる」

天使「そう、なのですか…」

近衛「…天使殿は、凄いですね。最初に出会ったときは、僅かな事にも混乱していらっしゃったのに。今は取り乱す事なく話を聞いておられる」

近衛「芯の強さを、お持ちなのだとおもいます。自分は見習わなくてはなりませんね」


少しの間、近衛の瞳をみつめた天使は
悲しげに視線を落とすと小さく首を横に振った。


天使「…違うんです。私はただ、本当に考えが及ばないだけ…。きっと、何も理解しようとしていないだけなのです」

近衛「理解しようとしていない…?」

天使「現実味がないのです。私はそこで生まれて…神様の守護の下、生きて参りました」

天使「争いなどとは無縁の理想郷。そこが戦場になるなど、想像ができないのです。考える事すらも恐ろしくて、出来ないだけなのです…」


近衛「…申し訳ない、浅慮な発言でした。気丈でいられる訳などありもしないのに…」

天使「近衛様。 私は…神界は、どうなると思われますか?」

近衛「それは――」

天使「教えてくださいませ。自らで考えられないのであれば、私はせめて知る努力をしなければなりません」


しばしの沈黙
悩んだ末に、近衛は小さく呟いた。



近衛「神は、陛下の事を侮っておられる。だけれど自分には、あの魔王陛下が負ける未来を想像することが出来ない」

天使「え…?」

近衛「神界は堕とされる。目立った者は殺され、一部の運のよい者は捕虜のように扱われるだろう。天地はなくなり、球のごとくに閉ざされた世界が創られる…」


天使「え…? お、お待ちください近衛様。一体何故、近衛様はそのような…」

近衛「……申し訳ない。分かりづらいとは思いますが、それが自分の予想する行く末なのです」

天使「そ、そうではなく――」


神妙な顔つきをしていた近衛が、眉はひそめたまま、ふと口元だけで微笑んだ。
苦悩のなかで、せめて天使が少しでも心安らぐようにと振り絞った笑顔。


近衛「自分が傍にいます。例えどのようになっても…災厄を祓うことなど出来ずとも。天使殿の傍に、必ず居ます」

天使「近衛様……」


天使は、このまま近衛が泣き出してしまうのではないかと思った。
『辛い、苦しい、だけれど仕方ないのだ』と、諦めたような表情で微笑み、泣くのではないかと。

だから、心もとなく胸元で握られていたその掌を
近衛に向かって差し出さずにはいられなかった。


だけれど、その掌は届かない。


結界に阻まれて、御簾の手前で止まってしまった小さな掌。
それを見て、近衛は愛しく思った。深く一呼吸し、感情を整える事が出来た。


近衛「最善は尽くします。今の自分にお約束できるのはそれだけ。…どうかお許し願いたい」


近衛はそのまま拳を床に付き、頭を下げた。


天使「……」


天使には、最善が何かも、近衛の約束をどう受け取ればいいのかもわからない。

わかるのは、目の前の人物が優しくひたむきであるという事と
そんな彼を愛しく思う、自分の不謹慎な想いの確かさだけだった。


天使「でしたら私も許しを乞い、願ってよいでしょうか」

近衛「…何をでしょうか」


天使「私が近衛様のご無事をお祈りすることを」

近衛「天使殿……」

天使「魔王の右腕であると知っていて、それでも――」



どうか、貴方にも無事で居てほしい。
そんな願いを掛けることを、神様は許してくださるでしょうか。



胸が痛んで、最後まで言葉にする事が出来なかった。
必死に微笑んで、ぽろぽろと零れる涙を その唇の端で受け止めるのが精一杯で。



近衛「天使殿――」

天使「近衛様… 近衛様、近衛様……っ」


結界の御簾越しに、掌を重ね合わせる二人。
ちらちらと揺れる蜀台の灯火が、壁に二人の影を映し出している。




魔王「…………」


その影は、まるで本人達に代わって手を重ねているようで。
叶わない口づけを交わし、抱きしめあっているようにも見えて―― 



ふたつの影が離れるまで、
魔王は息を殺したまま、その影の揺らめきから目を離せずにいた。




―――――――――――――――――――――――――

翌朝・早朝
本殿―東の社殿(近衛の社殿)


魔王がトン、と階を上る音を聞いて、近衛は驚いたように顔を上げた。
自室で刀の手入れをしている最中、少し没頭しすぎていたようだった。


魔王「仕度を整えていたか。感心な事だな」

近衛「これは、魔王陛下。申し訳ありません、こちらではお迎えの準備が…」

魔王「構わない、お前の社殿だ。天使の元へ行ったのだが、珍しくまだ眠っていたものでな」


昨夜は少し夜更けまで長居をしすぎた。
泣きつかれて、少し深くお休みなのだろうと近衛は心の中で察する。


魔王「なのでついでにお前の様子を見にきたまで。長居はしない、支度も続けていて良い」

近衛「左様でございましたか。では、どうぞ奥へ」


魔王を社殿の奥へと通し、最低限の居支度を整えようとする近衛。
それを軽く手で制し、扇でス、と刀を示す。


近衛(構わずに続けていろ、ということか)


魔王は奔放で人を振り回しもするが、その奔放さは時に人の労を減らす事もある。
近衛は魔王の横柄な態度の反面で垣間見える、そういった行動を心地よく思っていた。


魔王「近衛、その刀で行くつもりか」

近衛「はい。この刀は魔王様より拝借しているものでございます。戦に相応しき――」

魔王「戦うつもりがないのか。それとも、舐めているのか?」

近衛「……そのような事は」


決して舐めているわけではない。この刀には、何の落ち度もない。
だが、魔王の言わんとしている事はすぐにわかった。


魔王「自分の武器を使え。お前にとって用立たない“刀”に何の意味がある」


近衛「用立たないとまで言われるのは、少々堪えますね」

魔王「クク。お前の事だ、律儀に仕舞いこんでおるのだろう? 引っ張り出してやろうか」

近衛「……いえ、お手を煩わせるわけには参りません。ですが、あの武器は…」

魔王「構わないさ。衣装も全て自分の物を出せ。一番“戦闘”に相応しい物を用いるべきだ」


魔王のどこかおもしろがるような表情を見て、近衛は抵抗を諦めた。
社殿の奥より大き目の駕籠を、ズリと引き出し、埃を払って蓋を開ける。


魔王「ふむ、久しく見た。虫食いなどあっては恥だぞ、着てみるがいい」

近衛「いっそ尻にでも穴が開いていれば、着ずに済むでしょうか」

魔王「くくく、女房の数人にでも繕わせるさ。大きな穴の開いていない事を祈れ」


房を出て着替えようとしたが、構わぬと制された。
構って欲しいのは自分だとも言えず、苦笑してその場で着替える。


魔王「異国の狩り衣姿。やはりなかなかに似合っているぞ? くくく」


近衛「ですがベルトの締め方すらも怪しいです。それに足回りが少し窮屈に感じます」

魔王「支障があるのか」

近衛「いえ、これまでは袴でしたから。久しぶりのジャケットもパンツも着慣れぬというだけでしょう」

魔王「では、そちらはどうだ?」

近衛「これは……」


腰元に下げたのは、小さなナイフホルダー。そこからナイフを引き抜いた。
グリップには刀のそれを倣って、木綿と白絹を混ぜた糸を軽く巻いた。
もともとの握り手は、今となっては感触が悪くすら感じられたのだ。


近衛(それに……懐かしすぎるグリップの感触は、忌まわしい記憶も思い出させてしまう)


魔王「振れそうか?」


近衛「どうでしょう。こちらに来てから、ようやくこの“剣”の使い方を知ったものの、仕舞いぱなしですので」

魔王「まさか今度は“刀に慣れてしまったので、今度は剣の背と腹を間違えそうです”などとはいうまい?」

近衛「あまりからかわないでください、流石にそんな事はありません。それにまず…」


刀とは違い、このナイフには背などない。
強度を求めて、太く厚く造られている、戦闘特化のナイフなのだから。

グリップを握り締め、片手を添えて顔の側近くに構える。


近衛「……刀を見慣れてしまうと、どうにもこれが不恰好な気がいたします」

魔王「いつぞやは、得意げに振っていたように見えたが」クク

近衛「お恥ずかしい。あの頃はこれのみを誇りとしていたので…。ナイフ技以上に自分を装飾できるものはないとまで思っておりました」

魔王「ほう?」

近衛「……実際、装飾に過ぎませんでしたが」


自嘲気味に呟きつつも、構えを解かない近衛。
ずりと足を引き、構えた姿勢のまま重心のズレをゆっくりと直していく。


魔王「装飾では困るな。それでは刀を持たせようと剣を持たせようと変わらぬでは無いか。用立たなさを比べても仕方ない」

近衛「そうですね。ですがこちらのほうが刀よりは扱いやすい。きっと剪定鋏程度には使えます」

魔王「く、くくくくく。鋏か、良いな。ではあの庭の木などを倒して見せよ」

近衛「かしこまりました」


ビュッーー

一際腰を低く下げたと思った直後、近衛は駆けた。
木に衝突するほどの勢いで突進し、直前で踵を返す。そして木の横に回りこみ――
打ち込むようにナイフを突き出した。

その突き出す瞬間、ナイフの刃は 銀に輝く大剣へと姿を変えた。


魔王ほどの目がなければ、それはなんとおかしな行動に見えただろうか。

しゃがんで消えたと思った瞬間に、ズシャと音がして。
どこからか取り出した大剣で、木を横から突き射しているのだから。

木に突き刺さる剣のグリップは握ったまま、近衛は一言だけ感想を述べた。


近衛「まったくもって使い勝手の悪いおかしな武器でございます」

魔王「放つと同時に、本来以上の威力でもって貫き、切り裂く。便利な鋏ではないか」クク


大剣は抜かれると同時にナイフへと姿を戻す。
その様子は、まるで手妻師の絡繰道具のようで、どこか滑稽でもあった。

魔王は試し斬りに満足げに笑い、扇で続けよと示す。


刀による鍛錬を繰り返したおかげか、脚力も腕力も敏捷性も増している。
刀を握っていたこの数年は背と腹を意識するために、抜くも払うも練習し、鍛えた。


近衛(ナイフだけを武器としていた頃よりも、手首の返しや腕の振りが楽な気がする)


メシメシと音を立てて折れようとしている木に裏から回り込み、もう一手、刺し込む。
刺し込んだ勢いで払い、手首を返してその下にも一撃。

そのまま、握りを滑らせるように持ち替えて、振り上げて切り裂く。
振り上げて切り裂く勢いを利用して、そのまま後方へと高く跳ね退き……


魔王「刀を振るには、まだまだ大味で。技も足りず未熟であったが――」


ズバン!!!!!
振り上げたナイフはそのまま投擲され、大剣は 砕け落ちる木と大地に突き刺さった。

魔王「そちらは、見事だ」


パチパチと、手を合わせ鳴らす魔王。
その視線の先にあるのは小さなナイフ。

だが振った瞬間に大剣と化すそれは、いかに扱えど暴力的でしかない。


魔王「く、くくく。なんと無粋で色気のない武器。持ち主とよく似ている」

近衛「笑わないでください、陛下。…それに自分はここまで酷くないと思いたいです」


心底愉快そうに笑ったままの魔王を横目に、近衛はふぅと一息つく。
そして気が緩んだのか、つい刀と同じようにホルダーの淵に手を添えてナイフを収めてしまった。


近衛「つっ…」


刀とは違い背は無く、柄に近づくほどに太さを増すナイフ。
そんなものを勢いよく差し入れたせいで、あやうく親指を切断しかけるほどの傷を負ってしまった。


魔王「ははははははは! なんと間抜けな! お前の仕度はまず、それと戯れて慣れることだな!」

近衛「その方がよさそうですね…。これではあまりにも情けないですから」


止血を試みたところで、そうは止まらない。
魔力による治癒魔法が必要だ。至急で手当てを頼まなければならないだろう。


魔王「あちらこちらを汚されてもかなわん。血だけは止めておいてやろう。それとも傷も治してやろうか?」

近衛「いえ、止血だけで充分でございます」


近衛「ありがとうございます、陛下」

魔王「良い。お前の血を殿内に巻き散らかされても困るだけだ」

近衛「は。それと、御前失礼させていただきたく。自分は着替えて治療に向かいます」

魔王「ああ、そうするがよい」クックック


手を庇いながら社殿に戻った近衛を見守る。
着替えようとしたらしいが、上半身の衣類を脱いだ所でもどかしそうにそのまま駆け出していった。


魔王「まったく馬鹿と鋏は使いようとは言うが…。さて、馬鹿の鋏はどうなることやら」


楽しげで、満足げな口調。
だけれど扇を広げて隠した口元と、細めた目はどこか物憂げにも見えた。

これめっちゃ面白いな


―――――――――――――――――――――――

正殿・医局――


カラカラと軽い引き戸を開けると、独特の香りが鼻をつく。

噎せ返るような草の燻した匂いや、果実か花かの鼻を突くような刺激臭。
そこに湿った空気の匂いが交じり、近衛は思わず眉をしかめる。


近衛「失礼します―― 医官はいらっしゃいますか」


雑多な棚の向こうに人の気配を感じて声を掛けると、
背の低い、白頭巾の女が現れた。衣装からして薬師だろう。


薬師「これはこれは、近衛様。どうなされましたかぁ? 今、こちらには私のような薬師しかおりませんー」

近衛「そうですか、参ったな。指の股を斬ってしまったのです。合わせてほしいのですが…出来ますか」

薬師「はぁい、切り傷にも合う生薬がございますよー。して、傷はどちらで……」


ニコニコと近づいてきた薬師は、
今にも取れてしまいそうな近衛の親指を見て目を真ん丸くした。


薬師「ひゃあぁ!?!?! 大傷じゃないですかぁ! 血はどうしたんですかっ!?」

近衛「陛下が止血をしてくださいました」

薬師「指一本を丸まる血を止めてたら、壊死してしまいますー!」

近衛「ええ、そうでしょうね。なので早いところ指を留めてしまいたいのです。医官は何処に?」

薬師「そ、それが。皆様、本日は王殿を出ていらっしゃいますー。どうしましょう、どうしましょう」

近衛「では、誰か傷合わせのできる医術者をご存じないでしょうか」

薬師「そんな高位の医術者が都合よく… あ! います、いますよ!! 確か房舎に亀姫様がいらっしゃいます!!」

近衛「亀姫殿が?」

薬師「ええ、そうです! 神界でお召しになる衣装合わせの為に、数人の女房をお求めにおいでで!」


近衛「……そうか、亀姫殿も御参戦なさるのか」


戦地に女性が赴くという事実に、感覚的に抵抗がある。
ましてや亀姫のような美女は、戦地でどう戦うのだろうか。


近衛(まあ、あの竜王様も女性なのだから…ココではそんな事を気にするほうがおかしいのだろうな)


薬師「亀姫様ならば、医術にも長けていらっしゃいます! 伺いを立てましょう、きっと必ずや赴いてくださいますー! だって亀姫様ですから!」


どうやらこの薬師は亀姫に特別な思い入れでもあるらしい。
やや興奮した口ぶりで、いそいそと身の回りの品を見ては片付けを始めようとしている。


近衛「いや、亀姫様に足を運んでいただくのは申し訳ない。自分で赴き頼む事とします」

薬師「そ、そうですか? …で、では私が先追いに立ちますー! 女房舎に近衛様が突然には尋ねにくいですものね!」

近衛「それは、ありがたいですね」


近衛は少し苦笑して、先追いの役を頼んだ。
この者がどれだけ走ろうと、自分が走ったほうが余程速いのは明白だったが
女房舎への出入りの礼儀もある。時々、そういった礼儀を忘れてしまう。


近衛(普段の事ならば随分慣れてきたものの、やはりこの国は勝手が違いすぎる)


バタバタと出て行った薬師を見送り、医局の中を眺め見る。
あのツボに入ったのは何の魔物の臓物だろうか。


近衛(…治癒魔術に、薬師。それに医官に医術者、か)

近衛(当然のように馴染んでも来たけれど……)


ぼんやりとしてしまったのは、少し血を流しすぎたせいだろうか。
ずっと昔のように感じる、そう遠くもない過去の自分を思い出す。


近衛(あの頃の自分ならば…“気色悪い化け物”と、侮蔑の言葉を投げただろうか)クス


白頭巾を被った、一つ目の背の低い女。
自分の腰丈にも届かないであろう彼女は何の種族だろうか。

種族こそはっきり分からずとも、そこに思いを馳せるほどにはこの環境に慣れた自分。


近衛「……化け物、か」


そうしてしばらく懐かしい記憶に浸っていた近衛だったが、
医局の前を通り過ぎた下男の声でハっと我に返った。

そして良くない思考を振り払うように、駆け足で女房舎へと向かった。


・・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・


:::::::::::::::::::

正殿・東の対
女房舎――


案内されたのは、几帳が6つも置かれた房だった。
広い部屋の一角、その隅に向けて人を憚るように段々にずらして置かれた几帳。


近衛「失礼いたします」


几帳を倒さぬように慎重に進むと、そこに亀姫が居た。

慎ましやかに頭を下げた彼女は、今日は長い髪をゆるりと白い布で巻いている。
その背には甲。広げた袂はヒレ。

袖から伸びた白い指先には扇が広げられており
ぬたりと顔を持ち上げるそばから、その顔を覆っていく。

覗き見上げてくる濡れた流し目が、ひどく淫靡で。
扇の房を弄る白く柔らかな指先の動きが、卑猥で。


近衛「あ……亀姫殿で、あらせられますか…?」


声を駆けた途端に、パタリと落とされた扇
その向こうに見えた顔付きは、あまりに妖艶で。

紅く湿った唇が微かに動いて、甘ったるい声音が零れだす。


亀姫「本日は私を、お求めにいらっしゃいましたの…? ねぇ、近衛様…?」


近衛は思わずゴクリと生唾を飲んで、その場に立ち尽くしてしまった。
その様子を見ていた亀姫が、堪えきれずにコロコロと笑い出すまで、きっと余程に間抜けな顔でもしていたことだろう。


………………
…………
……


近衛「はぁ…勘弁してください。自分はあまりそういったことに免疫がなくて」

亀姫「うふふ、御免あそばしませ。私も、女房にからかわれたのですわ」

近衛「からかわれた?」


亀姫は近衛の手を取り、両の手で包み支えるようにして
傷口の観察をしている。


亀姫「ええ、そうですのよ。我が領からこちらにお仕えにだした仔がおりまして…」

近衛「ああ、そういえばこちらには女房を求めに来たと伺っています。余程に信頼されている方なのでしょうね」

亀姫「ええ、私の…。 いえ、私の乳母の仔ですの」

近衛「へぇ……。乳母の」

亀姫「……」

近衛「? どうなさいました、亀姫殿」

亀姫「冗談の通じない殿方ですのね、近衛様は…」

近衛「え。………すみません、どこが冗談だったのか、自分にはさっぱり…」


亀姫「ともあれ、その仔が“近衛様が亀姫様をお求めですよ”、なんて言付けたものですから…」

近衛「はは……。実際には間抜けに負った傷の治療を願い出るだけなんて。そういえば魔王陛下にも、先ほど色気ないと言われたばかりです」

亀姫「ふふふ、そうでもありませんわ。…今日は随分と珍しいご衣裳でいらっしゃいますし」

近衛「あ、これは…。やはり片手では着替えづらかったもので。整っておらず、失礼します」


亀姫「ふふ。着崩れた御衣装でこちらにいらしたのですもの、本当に“お求め”なのかと思ってしまいましたわ」

近衛「いえ、その、決して自分はその様なつもりは…!!!」

亀姫「あら…。私などでは、“決してその様なつもりにはならぬ”と仰いますの…?」

近衛「いえ、その。そうではなく……自分は手当てを頼みにきただけで…」

亀姫「ふふふ。ではお手当ては致しますゆえ、どうかお許しくださいませ、ね?」

近衛「そ、その、こちらこそ亀姫殿にこのような頼み事をしてしまい、申し訳なく…!」


段々と顔を近づけてくる亀姫に、動揺を隠しきれない。
不思議な香に、酔わされるようで。ドギマギと脈打つ心臓からの圧に、傷口からいつ血を吹いてもおかしくない気がした。


亀姫「“真昼から随分と堂々とした殿方だこと”、なんて……感心しておりましたのよ」

近衛「そ、その、ですから」

亀姫「我が子の責で、はしたない所をお見せしてしまったけれど… だけれど私――

近衛「? 我が子? あれ、女房は乳母の仔ではなかったのですか?」

亀姫「…………空気も読めない坊やなのね」ボソ

近衛「?」

亀姫「あ……もしや。ねえ、近衛様」


亀姫は挑発的な瞳で近衛を流し見る。
その先にあるのは、近衞の衣装。明らかにこの国の文化ではない装束。


亀姫(魔王様の拾い仔。一体どこの混合種かと思ってましたけれど……きっと私を知らないのだわ。とんだ田舎者ですこと)


これまでの文官装束では、服の中に隠れて見えなかった近衛の胸元。
今はそこに一本の鹿紐が掛けられており、その先には、朱色に鈍く輝く水晶型の石が付いているのが見える。


亀姫「近衛様…… その、胸元の御石はなんですの?」

近衛「ああ。こちらは魔王陛下の、血の結晶でございます」


これは近衛にとって帰属の証しでもあり
身につけておくことによって結界の効力をも果たしている。


近衛「魔王陛下の血。固形化された純粋な魔素。自分にとって大切な、お守りです」

亀姫「一体何故、そのようなものを身につけておりますの?」

近衛「……自分は、ニンゲンなのですよ」

亀姫「え……」


その石を指先に触れながら呟いた近衛の目は、それが真実であることを語っている。
亀姫は思わず身を引きそうになってしまったものの、どうにか思いとどまった。


亀姫(ニンゲン…まさか、魔の者ですらないなんて)


近衛「亀姫殿は、ニンゲンはお嫌いですか?」

亀姫「どうかしら… でも、いいえ。きっと珍しいだけですの。今となっては、この世界にニンゲンなんて居ないのですもの」


亀姫が嫌悪を露にしないで居てくれる事に、
亀姫の懐の広さや、穏かな人物性を感じる。そして嬉しくも、ありがたくも思う。


亀姫「貴方は希少種で…。そうね、個人的に見れば、私にとっては坊やですわ」

近衛「希少種はともかく… 坊や、ですか」


近衛は思わず小さく笑った。
この世界でニンゲンはどういう存在なのか、そんなものはわかりきっている。

自分にとってこの世界の魔物が“化け物”であったのだから
この世界の魔物にとって、ニンゲンは“気持ち悪い生物”程度に過ぎないはずだ。

それを“坊や”と呼び、変わらずからかってくれる亀姫は、優しい。
なんとなくの気恥ずかしさから、笑みがこぼれてくる。


亀姫「ニンゲンだから、この世界で生きるために、その御石をつけていらっしゃるのね?」

近衛「はい」


ニンゲンである近衞が
この魔素という毒だらけの世界で生きていくための、大気の濾過装置
また、濾過することによっていかようにも力を抽出することができる増幅器にもなっている。


近衛「自分はこの石のおかげで生きており、この石のおかげで強くなれるのです」

亀姫「では、それがなくなると どうなりますの?」

近衛「もちろん、死んでしまいますよ」

亀姫「まあ、大変な秘密を聞いてしまったわ。それに今なら簡単に盗ってしまえそう」


コロコロと笑う亀姫は、今は妖艶さよりも悪戯っぽい可愛さが目立つ。


慎重に傷口を合わせては、ひとつずつゆっくりと傷や神経を合わせていくその手当ても
どこをとっても自分の死を望んでいるようには見えなくて。

この異質な穏かさに、もし身を任せて委ねきって馴染んでしまえば、きっと――


近衛「きっと本当に、自分なんて簡単に死んでしまうんでしょうね」

亀姫「ふふ。坊やは魔王様に仕える近衛ですもの。その官位は恐れ多くて、私は手出しなどできませんわ」

近衛(そうだ。今の自分は、魔王陛下にお仕えするためだけに生きている……それしか、出来なかったから)

近衛(だけど、天使のことも本当にどうにも出来ないままなのだろうか。……いっそまた、この生と引き換えに――…)

亀姫「…………?」

近衛「………」


>>134 嬉しい。ありがとう。 ///

隙みてボロボロ上げていきます。
一回の投下量とか、一日に何度かに分けて投げたりとか
投下の間隔にもかなりバラつき出るかと思います、すみません。

目標:「年内に完結させる」。


――――――――――――――――――――


口数少なく黙り込んだ近衛を不審がりながらも、亀姫は丁寧に手当てを続けた。

傷があったことなど忘れてしまうほどの見事な治癒。
細胞も血管も、皮膚も…そこにあった指紋や皺までも元のとおり。
ニンゲンの感覚でいえば、恐ろしいどころか薄気味悪いほどの、医療術。

しかし近衛は、今更そんなことに動揺しなかった。
仕組みの分からない高度な術にだけ感心して、感謝して。

深々と礼を言い、近衛は立ち去った。


戸口の近くまで出て見送っていた亀姫は
その背が見えなくなるのを確認して、ポツリと呟く。


亀姫「おかしな子。それに少し……怪しい子」


「あア、怪しいナ」


のたりと縁の下から身を出してきたのは、獣王だった。


亀姫「あら、獣王……あなたもいらしてらしたの。覗き見などとは趣味が悪いこと」

獣王「あの近衛とやらヲ、見張っていタ」

亀姫「あんな坊やを?」


巨体に似合わず、猫のようなしなやかな仕草で伸びをする獣王。
いくつか話を聞けた事で満足したのだろう。その様子からして、近衛の後を追う気はなさそうだった。


獣王「あいつは不穏デ、不吉な匂いがすル」

亀姫「ニンゲンの匂いではなくて? ですけれどあんな“坊や”が魔王陛下の近衛では、いつ足を取られるか不安にはなりますわね」


近衛の様子などを思い返すと、至って真面目そうな本人はどこか間抜けで。
くすくすと笑えてしまう。


獣王「……ニンゲンなのハ、知っていタ。不吉な匂いハ、日増しに強くなっていル」

亀姫「日増しに…。あの坊やに変化が起きている、という事ですの?」

獣王「わからなイ。だガ、油断は出来なイ…… 近衛ハ、強いかラ」

亀姫「強い…ですって? でもニンゲンなのでしょう?」

獣王「あア」


亀姫は扇で顔を覆いつつも、訝しげな表情を隠そうとはしていない。
首をかしげて眉をひそめ、何やら考えていたものの やはり納得がいかない。


亀姫「先の院のニンゲン一斉討伐…… 獣王は参戦なさって?」

獣王「否。あの戦に赴いたのハ、王殿内の者のみと聞いていル」

亀姫「先の院も、他種族の力を借りるまでもないと判断なさったのでしょうね。…相手はニンゲンですもの」

獣王「実際、討伐にむかって半日とせぬうちニ、ニンゲンの国は消えタ」

亀姫「向かったという報せも、完了したという報せも、私のところには2日後に同時に届きましたもの」

獣王「報せの必要はあるまイ。あくまで体裁のものダ」

亀姫「……それを言っては、報せの方があまりに可哀想でいらっしゃいますのよ」


亀姫は嘆息し、つまらなそうに裾を翻した。
それから獣王に背を向けて、強い口調で言い放つ。


亀姫「ニンゲンは強くなどありませんわ。ましてや近衛のような、自分の手を自分の刀で切るようなウツケモノ、警戒する気にもなれませんのよ」


シュルリと着物の裾を引き寄せて部屋の奥へと戻ろうとした亀姫の背に
獣王は低くうなるような声を掛けて引き止めた。


獣王「……近衛がこの王殿に来た頃ニ、手合わせをした事があル」

亀姫「獣王、貴方が負けましたの?」

獣王「いヤ。俺が勝っタ。あいつは魔王様はもちろん、他の誰一人にも勝てなかっタ」

亀姫「あたりまえですわ……ニンゲンですもの。獣王、私をからかっていらっしゃいますの?」

獣王「否。だガ先日、俺ガ魔王様と戦って気がついタ」


獣王「近衛が負けるのハ、非力さもあるガ、刀が振れぬほど近づいてくル技術力の無さ…」

亀姫「間合いも計れないだなんて」

獣王「近衛は魔王様にモ、そうして負けていタ」

亀姫「一体何を仰りたいのか、私には――」


獣王「戦いにならぬから、負けタ。”近づきすぎて”戦えぬだけで… いとも容易く近づけるほどニ、強いのダ」

亀姫「―――あ」


亀姫は思い出す。先日の謁見の集まりで、庭先を跳ねていた獣王の姿を。
竜王の巨大な尾も、いくら振り上げても魔王には届かぬままだった事を――


亀姫「……近衛は、戦闘でも“魔王陛下に触れることが出来る”…?」

獣王「あア。そして今となってハ、体も技術も鍛えられているはズ」

亀姫「そういえば、あの魔王陛下の血の御石。…力の増幅器のような役割もあると言っていらしたわね」

獣王「あア」

亀姫「……ですけれど、やはり杞憂ではありませんの? あの坊やが強いだなんて聞いた事もありませんわ」

亀姫「それに以前、“あの近衛には刀を振る才能が無い”と、魔王陛下が笑っているのを聞いた事が」


獣王「近衛の武器ハ、本来は刀ではなイとも言い換えられよウ。そしてこの戦争でハ、おそらく本来の自分の武器を持ツ」

亀姫「……あの坊やが、接近武器の使い手だと仰いますの?」

獣王「可能性はあろウ。そして接近武器の使い手と言えバ……」

亀姫「……まさか、“暗殺者”だと…?」

獣王「知らぬ。あの者が何故 どのようにして魔王サマのもとに来たのか、院と魔王サマを除いて知る者はいない」

亀姫「もし坊やが、降伏したニンゲンによって献上されたものであれば…」

獣王「下出に回り懐刀となることで、魔王サマへの報復の機を計っているのかも知れヌ」

亀姫「……この戦争に乗じて、本来の武器を持ったとしたら…」

獣王「あア。……絶好の機会に、違いなイ」

亀姫「―――あの坊やが……」


先ほどまで握っていた手を思い出す。
あの手で、魔王を討つのだろうか。あの瞳で、魔王への報復を狙っているのだろうか。

だけれど、“滅ぼされた種族”が“滅ぼした種族”に仕える理由が他に思い当たらない。
少なくとも充分な動機になるだろう。ならば、本当に――?


獣王「まだわからなイ。魔王サマへの忠誠ハ、あるようにも見えル」

亀姫「私にも…… そう、見えましたわ」

獣王「確かなことハ、魔王様に歯向かえる強さがあるという事ダ。あやつは不吉ダ。あの天使よりモ、何よりモ。俺の鼻がそう感じていル」


亀姫「……わかりました。貴方の嗅覚を信用して、私も警戒するといたしましょう」


亀姫(私の治癒したあの手で魔王陛下に歯向かうなど… 決して許せません事よ)



亀姫という理解者を得て、獣王は満足げにその場に寝そべった。
そうして一息ついた様子で、尻尾をパタと揺らしてみせる。


獣王「魔王様はいつもどこかラ、あのようにおかしなものばかり拾ってくるのカ」

亀姫「そして何故、そんなものばかりお傍におくのでしょうね…? ふふ」

獣王「まったくダ」


僅かに吹いた風を気持ちよさそうに鼻先に受ける獣王は
場所も人目も気にせずにそのまま眠ってしまった。

所詮は獣。
そのうちにヒトの気配でも感じ取れば、スと目を覚ましてどこかにいくだろう。
気にかけてやる必要もない。

亀姫はそのまま女房舎へと戻り、几帳の影へともぐりこんだ。


亀姫(魔王陛下……。愛しい愛しい、私の魔王陛下…)



頭の中で名を呼べば、いともたやすく脳裏に現れてくれる愛しい主。
その姿と声に、たまらぬ愛しさがこみ上げてくる。

懸想するだけで、焦がれて火照る。
自分を落ち着かすため吐きだした呼気の熱さに、なおさらに目が眩む。



亀姫(天使も、近衛も、獣王ですらも、妬ましく思えてしまう……)


熱されすぎた想いが、ねばつきはじめる。
そうではない、妬んでも仕方がないのにと言い聞かせながらも
想いの熱さは鎮まることは無さそうだ。息苦しいほどに焦がれてしまい、堪らずに身を捩じらせる。


魔王。
彼は何故、あんな者ばかり側に置くのだろう。
そんなものよりずっと、自分のほうが有用だと言い切る自信があるのに。


亀姫(ですからどうぞ、私を貴方のお側に置いてくださいませ――)



――――――――――――――――――――――――――

翌日・夜
本殿中央・奥殿(魔王の社殿)――


この夜が明ければ、戦争が始まる。
遠方の領地に住むものの多くは、今宵のうちにこの魔王殿に集結していた。

亀姫はこの二日、王殿に泊まり配下の者に仕度を代わらせている。
元より、亀姫は武器などを使う事はない。仕度といえば気を落ち着かせることくらいなのだ。

だけれどそう遠くない場所にいる主を思うと、気はやすまるどころか乱れるばかり。
今朝も、魔王に朝餉の誘いを出したが“天使をご鑑賞なさっておられる”という無慈悲な使いの報告に肩を落としたばかりだ。

気晴らしに昼は出かけたものの、さらに夕餉でも同じような報せのやりとりがあった。
戦争の前に、ほんの少しばかりの主との“面会”を期待していた亀姫は、落胆を隠せない。


亀姫(天使のための、時間。それが妬ましい)

亀姫(だけれど、天使のための戦争のおかげで… 今は、陛下と同じ王殿に居られるのですわ)


今は少しでも、側にいたい。
だから愚かにも、“他の女への後押し”の役目までも請け負ってしまった。


亀姫(魔王陛下は… もう、天使の元からお戻りになられたかしら…?)


もしもまだ居なかったらと思うと、足はなかなか動かなかった。
そうして夜も更けたころ、ついに魔王の社殿へと足を向けた。


亀姫には大きすぎる観音開きの門が、目の前にふさがれている。
中の様子を窺い知る事はできぬし、本来ならば禁区の場所で呼びかけるのも躊躇われる。


会えばどれほど親しく言葉を交わせたとしても
その“会う”機会を作るのが何よりも難しい、尊き主。

嬉しさのあまり、いつも饒舌になりすぎて魔王には呆れられているだろう。
夜更けに訪れた私を、魔王が歓迎するとも思えない。


亀姫は、それでもその門を見つめていた。
この扉の向こうにいる主を想うだけでも、癒される何かがありそうな気がして。


「亀姫」


亀姫「……え」


不意に、愛しい声が聞こえた気がした。
振り向いた先で、魔王が笑っていた。


亀姫「魔王…陛下……?」

魔王「ああ。あやうく亡霊と見間違えるところだった」


亀姫にとっては、魔王こそ恋心の見せた亡霊に見えた。
だからそうではないと気づいたその時に、腰を抜かしてしまったのも仕方がない事だろう。


・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・


魔王の社殿前・階


魔王「くくく。天下の亀姫が、まさか腰を抜かすとは」

亀姫「その……ですが、まさか庭先に出ていらっしゃるとは夢にも想わなかったものですから…」


腰を抜かして地の上にへたりこんでしまった亀姫
その腰をいともたやすく抱き寄せて、魔王は広々とした社殿の縁に連れ運んだ。

それだけでも驚いたのに、魔王はその社殿のふちで片ひざを立てて座り、
そこに寄りかからせる姿勢で亀姫を抱き座り…支えてくれた。

どういった気の向きなのだろうか
近すぎる魔王との距離、予想外の接触、その全てが“魔王らしくない”。

気の迷いだとするならば、これはチャンスかトラップか。
真摯に礼を言うべきか、ほのかに色香でも匂わせるべきか――。


亀姫「魔王陛下――」

魔王「…………………」


そう思い悩みながら見上げた魔王は、ただ虚空を見つめているだけだった。
亀姫のことなど、気にもとめていないか―― 下手すれば忘れてさえいるのだろう。


亀姫(……いえ、そうではなく…)


亀姫を支えて抱く腕は、時折思い出したかのように、緩んだり強張ったりしている。
抱いている事を、意識しているが故の反応。それなのに虚空を見つめて呆けているのは、つまり――


亀姫(……私ではない、誰かへの優しさ。それを私が代わりに受け取っておりますのね)


あれほどまでに昂ぶっていた想いが、急速に鎮まる。
気を抜けば自分の事を哀れんでしまいそうで、歯を食いしばる。
一族の長として、また今代亀姫の名を冠する者として、そんな愚かな真似は許されない。

凛、と鈴が鳴ったような気がした。
途端に体中から、緊張も動揺も消えうせる。
今あるのは馴染み深い、“正常を維持して凍りつかせたような、平静な体感覚”のみ。

魔王の膝からスルリと抜け出し、縁を下りる。
そして向かいに静かに立つと、頭を下げた。


魔王「……どうした」

亀姫「畏れながら申し上げますわ。昨日、私は大婆様を見舞いに参りました」


主への、恋心。
それを隠しきってこその“慎み”で、“貞節深さ”だろう。
失ってはいけない。それこそが「亀姫」なのだから。


魔王「…大婆…。ああ、竜王か」

亀姫「少しばかり御憔悴の様子でしたが、身の回りの事はきちりとなされておりました」

魔王「ふん…。そんなことを俺に言ってどうなる?」

亀姫「うふふ。どうにも変わりませぬ。ただの答え合わせですわ。陛下のお考えと行動ですもの、大婆様のその後の様子くらい予想しておられたでしょう?」


魔王「そんな戯言のためだけに、わざわざ来たのか?」

亀姫「はい。ですが、ついでの用もございますのよ」

魔王「ついでの用?」

亀姫「伝える義理などもありませぬけれど、老いた竜の呟きごとを届けに参りましたの」

魔王「……」


亀姫「『神族のいやらしさは、魔の者の比では無い。決して驕ることの無いようにせねばならぬ。奴等は”すくう”のが、お家芸なのじゃから』…」

魔王「”すくう”? まさか、俺を救うとでも? それともこの戦禍そのものを…と?」


亀姫「あるいは、足元を…。ふふ」

魔王「く、くくく」


亀姫「私は最大限に陛下をお守りできるよう、ささやかながらも尽力いたします」

魔王「期待しよう。亀姫…お前の”堅牢”の名高さに」

亀姫「うふふ…」


そう。私は、私のままに。
他の誰にも代わる事の出来ないもので、貴方様を惹き付けて見せますわ――



――――――――――――――――――――

同晩・黎明の時刻
奥殿・最奥の間――


近衛「天使殿。いよいよこの夜明けだ」

天使「近衛様……。とうとう、はじまりますのね」


召集の時刻にはまだまだ早い。
だが既に夜を語るには遅い時間、近衛は天使を訪ねていた。
もう少し明るくなってしまえば、きっと魔王もここに訪ねてくる。

戦争に向かう前、二人で会える最後の機会…。


天使「何も良い言葉が出てこないのです。見送る事も、引き止めることも、うまく出来ない私ですが… 今はもう少し、お側に寄ってもよろしいですか」

近衛「天使殿……貴方を困らせることしか出来ない自分が不甲斐ない。ですがもし、近づく事で心休まるものがあるのなら、いくらでも」

天使「近衛様…」


それぞれに御簾へと近づく二人。
薄い結界に触れる事はなく、だけれど近づけて合わせたその掌からは、熱が伝わるような気がした。


いつもと違う衣装に、胸元で揺れる魔王の血の結晶。
言葉をなくした二人は、その揺れる石を眺めていた。


近衛「―――」


近衛(天使を無理矢理に隠し連れて、神界へと返せたら)


何度も考えては打ち払った希望が、この期に及んで未だ湧き出る。
返せたら最良。だが、近衛にはそれが出来ないのだ。


近衛(この結界を無くして、天使に近づく事など出来ない)


この御石は、浄気に触れればそれだけ表面から劣化していくだろう。
純粋すぎる魔素の固まりと、純粋すぎる浄気は拮抗し、消耗を起こす。
そうなればこの御石は目詰まりしたフィルタさながら、この魔素だらけの大気を充分に濾過することができなくなる。

魔素の大気が取り込めなくなれば、力が振るえないだけではなく
純粋に呼吸困難に陥るのだ。


だから、触れることはできない。
連れて行こうとすればその途端に自分は無力となり、そのまま息絶えてしまう。

あの日、天使に出会った日
近づいただけで意識を失ったあの時のように…。


近衛「触れることも出来ない…。ましてや連れ去る事など…」

天使「……気付いております。近衛様は魔の者ではない。ましてや、天の者でも…」

近衛「――自分はニンゲンです」

天使「…ニンゲン。それは魔のモノに消し去られた存在と、聞いています」


無くなってしまったものを悼むように、悲しげに眉をひそめて呟く天使。
天の者も、魔の者と同じで……ニンゲンとは違う。


近衛(どれほど愛しく感じられても――まったく違う生き物なのだ)


神族。
それはニンゲンであったころから知っている。聖として崇められる存在。
何があろうと、きっとそれだけは確かなのだろう。


近衛「天使殿は天の使い。明白に不浄を謳う魔ではないとはいえ、ニンゲンである自分も大差は御座いません」

天使「止めて。言わないでください…」

近衛「天は聖だ。聖ではないもの以外は、結局 同じ。自分が貴殿を愛すれば……」

天使「近衛様!」


近衛「天使殿を、穢すことになる」


天使にしてみれば、きっと変わらない。
自分が天使を愛する事も、魔王に寵愛される事も… どちらも汚らわしい事だろう。


天使「だけれど… ヒトは聖ではないだけで、穢れではありません」

近衛「天使殿…?」


天使「ですからどうか… 近衛様の想いが私を穢すだなどと、思わないでください」

近衛「天使、殿…」

天使「側近様…」


その言葉が嬉しかった。
想っても良いのだと、許された事は何よりもありがたかった。


近衛「ならば、ならばどうか。この想いだけは 貴方に届けたい」

天使「側近様……」


見つめると、見つめ返してくれる 美しい瞳。


近衛「自分は、天使殿を愛してい――



シュッ、ガタン!


近衛「!!」


唐突に、格子窓が勢いよく開けられる。
柱に戸が打ち付けられ、跳ね返るほどの乱雑さ。

そこから鴨居をくぐり入ってきたのは――


魔王「邪魔をするぞ」

近衛「魔王陛下!!」

魔王「…ほう、近衛か。ここで何をしている?」

近衛「……」

天使「………」


近衛は立ち上がると、魔王を室内に迎え入れた。
蜀台の明かりを魔王の足元へ照らし、充分に尽くす。
そして魔王が部屋の中央に座るのを見届けると、御簾から離れて端へ寄り、頭を下げた。

それは弁明の方法を考えるための時間稼ぎだったのか
それとも魔王への純粋な忠誠だったのか

ともあれ、落ち着いたところで近衛はようやく言葉を口にする。


近衛「これより長い戦争になります故… 城内の警備も手薄に、また気配も人少なになるかと。天使殿がそれに不安を感じられぬよう、ご説明などをしておりました」

魔王「……不安?」

近衛「天使殿はこちらより身動きの取れぬ身。急に城の者達の気配が薄れれば、何があったかと心細くなられる事もございましょう」

魔王「それを、わざわざお前が説明していたと?」

近衛「はい。ですが過ぎた事をしましたようで、申し訳ありません」

魔王「くく。――天使が、それほど心配か?」

近衛「……城内には、未だ天使殿を快く思わない者もおります。ましてや魔王陛下に付き従うものは全て神界へ出てしまいます」

近衛「無いとは思いますが、先日の謁見で離反者も多く出ました。謀反までは至らずとも、心無いものが嫌がらせのような真似事をしてきても、おかしくはないかと」

魔王「ほう…。なるほど」

近衛「ですので天使殿には、『この結界の中に手を出せる者は居ないのだから、どうかご安心を』と――…


魔王「忠義者の近衛。お前の為に、お前の不安を払ってやろう」クス


近衛「…? 陛下…?」

魔王「この魔王殿でもっとも堅牢な、戸を開く事すら容易でもない部屋があろう? この戦の間は、そこで天使を匿っておいてやろう。安心だろう? 感謝しろよ…?」

近衛「!! それは、まさか--」


魔王「俺の社殿へ。そこほど天使を守るに相応しき場所はあるまい? クク…」


近衛「あ… ですが、それは…!」

天使「~~~~~~っ」


魔王「近衛。天使はどうやら随分とお前に懐いているようじゃないか」

近衛「っ」

魔王「――少しでも、安心させたいのだったな。 では…」



魔王「お前が、運べ」


近衛「――――――――――――――――――……!!!」




――――――――――――――――


本殿中央・奥殿(魔王の社殿)


あと数刻もしないうちに、神界へ赴く。


あの後、結界の張られた御簾車に 御簾の中の天使は素直に乗り込んでくれた。
近衛を、困らせないためなのだろうか。

小さく収束された結界が御簾車に収まるときは、水滴が吸い込まれるようで
トポン、と音さえ聞こえたような気がした。


そうして魔王の社殿に移された天使は、今また怯えている。
近衛を社殿から払ってから先、ずっと声を殺して泣くばかりだ。

本来は自分の居所である御簾の中には、小さな御車と天使が納められている。
それはまるで、水槽の中の魚のようだった。
あの御車はさながら、魚のために設えられた隠れ場所。

そんな天使を見ながら、魔王は拳を握り締める


『自分は、天使殿を愛し――』


遮ってやった、自分の忠臣の言葉。
あの言葉を遮らないままで居たならば、この天使はなんと返事をしたのだろう。
天使を見ながらそんなことを考えていた。

部屋にあるのは静寂のみ。
声を殺して泣く天使の涙でさえ、結界に吸収されて音もなく床に落ちる。


魔王「……」


揺ら揺らとゆれる蜀台の炎

いつかの夜を思い出した。
近衛と天使の二つの影は、いまでも脳裏に焼きついている。


魔王(抱き合う、影――)


天使の背後には、あの時よりも黒々とはっきりした影が壁に映し出されている。


魔王と、天使の影。
だが、その2つの影は遠い。

魔王が手を斜め横に伸ばすと、その影も伸びる。
自分の影で、天使の影に触れるようにしてみる。

影絵として映し出されたそれは、ほんの少しの手の伸ばす方向によって遠近が狂う。
大きな腕の影は、天使の影を握りつぶしてしまった。

拳から、生えた腕。握りつぶされてしまう小さな天使。


魔王「……」

天使「……?」


腕を引き戻して手を開いてみる。勿論、そこには何も無い。
握りつぶした天使の影を、自分の影は手に入れたのだろうか。


魔王「……くく」

天使「魔王……?」


近衛への天使の返答など、気にしても仕方がない。

自分では、影ですらも手には入らないのだ。
当たり前だ。当たり前の事が、こんなにも――…



こんなにも、苦しい。

だから

だから



魔王「さあ、行こう。天を滅ぼしに」



お前の帰る場所から。ひとつひとつ、手に入れていこう。


出来る事はそれしかないだろう?


今日はここまでにします。


――――――――――――――――――――――


集まった部下で庭は埋め尽くされている
その中心に立っているのは、魔王。


魔王「―――――」


一見すると、深呼吸をしているようだった。
だがすぐに違和感に気付く。穏やかに流れていた風が僅かづつ勢いを増して、魔王の元へ集まっていくのだ。

魔王の力は、“魔素を自在に操る力”と“魔力”の2つに分ける事が出来る。

大気の中に多量に混在する魔素を操る事は、事実上“大気を操る”ことに等しい。
結界はその応用で、大気中の魔素を固定化させることによって、その内外の物質の流入を阻止するものだ。

そして魔力は、物理的な影響力を持つ“力”そのものである。


その2種類の力をもって、魔王は天への道を無理矢理に作り出す。
故意に竜巻を起こし、それを魔力によって細長く圧縮し、天へと突き上げるのだ。

みなはその瞬間を、固唾を呑んで見守っている。


魔王「渦巻くぞ。離れていろ」


次の瞬間、まさに堰を切られたかのような勢いで大気が魔王の眼前へと流れこんだ。
猛然と天へ突き上げる、紅い魔力に覆われた柱が現れる。


近衛「これに…入るのですか」


その立ち上る魔力に巻き込まれて昇るしか、天へと行く道はない。
弱き者、恐れをなした者の殆どは、渦に入る直前で、高圧の魔力に飲みつぶされてしまうだろう。


魔王「無理だと思うのなら、来なくていい。帰りに庭中に死体が散乱していては、憂鬱だからな」クク


そういって魔王が一歩を踏み出そうとすると、横についていた亀姫がそっと進み出た。


亀姫「ここらでは聞き慣れない習慣ではありますけれど、陛下はレディファーストという言葉をお知りあそばして?」


魔王「……知っていたところで、そんなもの気遣ってやるつもりはないが」

亀姫「気遣い? いいえ。あれは本来、女の勤めでございますのよ」

魔王「勤めだと?」


亀姫「前を行くのも、先に座るのも、飲食をするのも…すべては愛しき主人の盾として、女が先に出るというものですわ」

魔王「供の女を盾に、か。よほどの臆病者か、よほどの傲慢か」

亀姫「うふふ…。良いではありませんか。『どれほど愛しているか確かめてやろう』と言われているようで、扇情的ですわ」

魔王「“おねだり”ならば、素直にそうするべきだと思うがな」


クスリと笑って、魔王は亀姫に扇を向けた。
パチンと閉じ鳴らすその音で、亀姫は嬉しそうに前に進み、先陣を切る。


亀姫「光栄ですわ」


亀姫は片手で打ち掛けの裾を引き、腰元で留めると
そのまま紅い柱に飲み込まれて上空へと消えていった。


魔王「鉄壁を誇りとする盾を前に行かせても、安全かどうかの保証にはならぬな」クク


呟くと、次いで魔王も渦に入り、立ち昇る。近衛もすぐにそれに倣う。
そして獣王が続き、次々と魔物が飲み込まれていった。


――――――――――――――――――――――

・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・

紅い魔力の柱は、100kmに及ぶか及ばないかの長さがある。
その途中で消失したものの数など、誰も数えやしない。

たどり着いた其処には、雲とは違う異質の大地があった。
氷と水蒸気、それから植物の根を這わせて成型したような土地――神界だ。


亀姫「浄気が、これほどに満ちているとは。魔物達は動けないのではありませぬか?」

魔王「お前の護法術でどうにかできるか」

亀姫「御意に。……陛下にもお掛けいたします?」

魔王「俺に? 今日はきっと、相当暴れる事になるが?」クク

亀姫「うふふ。きっとすぐに破れてしまいますわね。ではせめて――」


跪き、魔王に掌を差し出す。
魔王はそこに、自分の掌を乗せた。


亀姫「我が主に、守護を」


指先を食むような、口付け。
触れた場所がぼんやりと薄紫に光って、ゆっくりと消えた。


近衛「陛下、魔物達も次々に到着しています」

魔王「ああ。では亀姫、頼むぞ」

亀姫「畏まりお承りいたします…」


打ち上げられた噴水のように、雲上に無数の魔物達が打ち付けられては広がり散っている。
獣王がそれらに指揮を執りまとめていき、亀姫が護法を授けて浄気から守っていく。


近衛「……静かですね」


神界ではとっくに異常に気づいているだろうに、天の者達はその姿を見せてはいない。
それには魔物達も違和感を感じていたらしく、どこからか“怖けたか…?”などの声が聞こえてくる。


魔王「俺たちが来ただけで、天の者が怖気づくわけもあるまいに」

近衛「……そうですね。現れただけで怖けてくれたならば、相当に楽な戦いでしょう」

魔王「くくく……ああ、そうだな。相当に楽な戦だった」

近衛「…………」

魔王「どうせそのうちに掛かってくる。現れたなら、その都度 落とせ」


少しの後、魔王は数歩奥へと進んだ場所に立って、振り返る。
波のような魔物の群れを前に、錫杖を高く掲げてリンとならした。

それだけ。
それだけで、魔物達の視線は集まり、緊張感が高まるのが分かる。
雲の上に打ち上げられ崩れた姿勢のままの者も、全てはそのままに。

一瞬で、空気が変わった。


近衛(……始まる)


錫杖。魔王が掲げるのは、僧侶の持つそれである。
元々は近衞の居た異国を統治していた宗教家の持ち物で、統治の象徴でもあった。

それを取り上げ、気に入ったからと残しておいたもの。今は魔王の手中にある“象徴”。
その金環の響きは、強奪されてなお美しく鳴り響く。


魔王「行くぞ」


なんの抑揚もなく、告げられた。
鼓舞のひとつもないその声に魔物達は一様に応を唱え、魔物の咆哮が天を震わせた。


―――――――――――――――――――――――――――――

神界・低層――


近衛「やはり、あれですか」

魔王「さて。おそらくは、と」


それぞれに駆けて行くその向こう
雲のような丘の上に、宮殿がそびえたっているのが見える。
そこからスロープのような物が伸びているようだが、霧がかっており、トンネル状なのか階段になっているのかはわからない。

そのスロープの一番下を目指して駆けたところ、
そこに荘厳な門が立ちふさがっていた。


近衛「………」


スッと近衛が門に近づく。
様子を伺い、触れてみる。特に不審な様子は見られない


近衛「正門、と言ったところでしょう。何者かの気配はないように思われますが…」

魔王「気配がないと判断したならば、開けるが良い。罠だと思うのならばそれなりに備えろ。指示がなくては動けぬなら、このまま置いていく」


近衛は少し悩み、続けざまにこういった。


近衛「正門であったとして、突然の襲来に大層な罠を仕掛ける暇はなかったはず」

魔王「ほう」

近衛「お下がりください、自分が開けます」


門は、魔王の社殿のものと同じような観音開き。大きさも重さも、ほぼ同等。
近衛はその中心に立って、両の腕で押し開けていく。やはり、反応はない。


魔王「……気をぬくな」


神界の門を腕の広さ分もあけた時だろうか、不意に声を掛けられる。


近衛「・・・っ!」ゾク


『――気をぬくな』


言葉を聞くと同時、近衛は反射的に後方へと飛び下がっていた。
フラッシュバックのように突然に迫り来た刀の影を避けたのだ。
近衛の脳裏には、魔王の社殿を開けた瞬間に斬りつけてきたあの刀が見えていた。


――ッ!? ぅぁ…
ギィィグシャァァァァァァン!!!


手を離された門は、奇妙な音と共に勢いよく閉ざされた。
そして――


近衛「……これは」


一本のスピアが、カランコと音を立てて地に落ちた。
目の前の大きすぎる観音開きの戸の間から、奇妙な植物の枝が生えている。
筋を浮かせて歪に曲がった枝先は、強張ったまま僅かに痙攣し、しばらくの後に動きを止めた。



獣王「術法だろうカ。矢の速度デ、遠距離から突っ込んできたようニ見えタ」

亀姫「私には、誰かいるようにも、誰か来たようにも見えませんでしたわ」

近衛「自分も、完全に無人と感じておりました…」


魔王「門を開けきったその瞬間の隙を狙ったか。門を開かせ、先陣をその場で討つ。その勢いで流れ込む強襲のつもりだったのやもしれんな」

亀姫「こちらの方も、まさか寸前で閉じられてしまうとは思わなかったのでしょう…届きもせず挟まれて。ふふ、おいたわしい事」

近衛「危うくまんまと討たれるところでした。お声がけ、ありがとうございます。魔王陛下


魔王「クク。逃げ足と反射神経だけではなく…勘と、物覚えも良いようだ。その賜物とでも思っておけ」

近衛「…いいえ、自分はただ臆病者なだけでございます。陛下の一撃の恐怖が忘れられなかったに過ぎません。ありがとうございます」


魔王は少しのため息をつき、生真面目な忠臣を諭す。


魔王「俺とて気配に気付いていたわけではない。だが、何も無いにしろここは既に戦地。当たり前の警戒を怠るなといったまでだ」

近衛「今度こそ、よくよく肝に命じておきます」

魔王「そうだな…… では」


魔王「気をつけろ」

近衛「!」


シュタッ!!
シーン…………


近衛「…………え?」

魔王「く、くくくく」

亀姫「まあ、魔王陛下……ふふ、こんな皆の前でからかっては、流石に坊やがお可哀想」クスクス

近衛「……生真面目なのでございます、あまりからかわないで頂きたい」ハァ

魔王「なんといったか。餌の前に鈴を鳴らすと条件反射で動いてしまう…ああ、思い出せぬな。帰ったら調べるとしよう」クックック

近衛「おやめください、自分は犬ではありません……」

獣王「犬とて近衛ほどにマヌケではなイ。魔王サマモ、戦地と言って警戒を促しておきながラ、悪ふざけヲ…」ハァ


やりとりに笑いながら、魔王が刀で“門から生えた太枝”を斬り落とす。
一瞬だけ勢いよく噴き出した赤が、鮮やかに門を彩った。それ以外の反応は無い。


魔王「ふむ。既に向こう側は斬り落とされていると見える」

近衛「では、改めて開けなおさせていただきます。皆様、よろしいでしょうか」


「ああ、まて」と、魔王は“太枝”とスピアを蹴りどかした。
それがまるで本当に剪定された木屑のように見えて、近衛はそう見えてしまった自分に少しの嫌悪を感じた。


近衛(死体になってしまえば… 屑や瓦礫と、かわりない。敵も、味方も――自分も)


転がった“木屑”を見て、戦争の感覚を取り戻したのだと実感した。


近衛「………参ります!」ザッ…


ダンッ――


身を低く、肩を使って勢いよく扉を押し開く。
その瞬間に、数十の精鋭らしき天の者によって 魔王達は“歓迎”された。



―――――――――――――――――――――――――――

神界・正門奥 “空中庭園”


天の使いA「一斉掃射! 穢れを払え!!」

魔王「号令を出すその間が、命取りだ」


キュッ… ダムッ!!! ダムッ、ダムッ!!!

隊列を組んだ天の使い達に向けて、掌から魔力弾を放つ魔王。
爆炎が上がると同時、空中に羽や弓が舞い上がるのが見えた。


獣王「ガウルァァァ!!!」


獣王は大きく唸ると、粉塵と煙に向かって駆けだす。
煙の晴れる間もなく飛び出してきた残敵の喉笛に、次々と食らいついていく。


亀姫「獣王は、相変わらず乱暴ですこと」


そう呟いた亀姫を一隊の隙と判断したのか、数名の天の者が脇から飛び掛ってきた。


天の使いH「覚悟!!」

亀姫「あら……大勢で横入りなんて。いけない子ね」


亀姫は横から襲い掛かってくる数名に
懐から取り出した小石のようなものを、一握り投げつける。


天の使いJ「目潰しのつもりなら、せめてきちんと顔に向け――ガッ!?」ビシッ、ガッ

亀姫「目潰し? いいえ、その石自体が小さな固形結界ですわ…そんなに勢いよくぶつかって行っては、痛いでしょうに」クス

天の使いG「こんな小細工ごとき……!」


近衛「その小細工で足を緩めたのはどこのどなたか」

天の使いG「っ!! しまっ……!」


小石程度の障害物に足並みを乱した愚か者を、近衛が一閃で斬りおとす。
足を止めるのはほんの数秒。流れ込む勢いを殺さぬように、駆けたままで乱雑に交わされる殺戮行為。


魔王「奥へ」



先陣を切った四人は、こうして天の者の陣形を崩して乱し、数を削ぐ。

第二陣に続いている獣族達は、その鼻と足を活かして 隠れ潜む敵を炙り出しては自らの陣へと追い込む。
さらに続く第三陣が、取り損ねた単体を一騎づつ潰していく。

最後尾をゆたりと進む亀姫の従属の娘たちは、怪我をした仲間達を見つけては治癒しながら、「死に損ない」の後処理をしている。


天の使いL「ふっ、お前は大名行列でも気取っているつもりか…!? それとも百鬼夜行か!」

魔王「ほう、変わった例えだな。お前の目にはそう見えるのか」

天の使いL「ここは神界!! お前のような穢れが踏み荒らしていい地ではない!!」

魔王「ならば許可を貰いに行こう。お前、俺を神の元へ案内するか?」クク

天の使いL「貴様……!」

獣王「ガウルルルル!!!!」ダシッ!

天の使いL「ぎゃああああああああああああああああ!!!!!!!!」ブシュッ!


獣王「……魔王サマに向かっテ、無礼な奴ダ」

魔王「くく。ご苦労だな、獣王」


獣王が咥えた首をブンと振り回すのが見えたが、気にも留めずに通り抜け
前方に見えた敵の影にひときわ大きな魔力弾を打ち込む。

いくらか口を交わした仲とて、わざわざ死を見届けてやる義理も無い。


亀姫「魔王陛下」

魔王「む」


亀姫に呼ばれ、魔王は錫杖で手招きのような仕草をした。
ふわりと亀姫の身体が引寄せられ、魔王の隣まで“飛んでくる”。


魔王「どうした。ついてこれぬのならば、後衛へ下がっていろ」

亀姫「うふふ。障害物レースに参加なさっている陛下についていく事くらいは出来ますわ。ですが、こうして寄せていただきました事に感謝申し上げます」

魔王「何用だ」

亀姫「僅かでも、陛下のご負担を減らすお手伝いをさせて頂きたく存じまする」


言うと、魔王の横に立った亀姫は後ろを振り向き、後ろ斜め上方に術を放った。
攻撃でも結界でもなく、単純な魔素の照射にすぎない。
そのところどころで、チリリと火を起こすものが見受けられた。


魔王「……なんのつもりだ?」

亀姫「ふふ」



亀姫(陛下は本当にとてもお優しい方。先頭で魔王陛下が御身の魔素を周囲に撒いてくださるおかげで、後を追うものはどれほど楽に進めている事でしょう)

亀姫(わざわざ魔力弾など打ち込み浪費せずとも、その刀があれば楽に斬り進む事も出来ますでしょうに……)


この一群の中、その心遣いに気付いているものがどれだけいるのか。
魔王はひたすら傲慢で無遠慮に打ち放しているだけに見える。
おそらく近衛や獣王ですら、そんな配慮には気付いていないだろう。


亀姫(ですけれど、そのお心を代弁して語るなど過ぎた事。私に出来るのは、ただ黙って慮っていただくばかり…)


しかし、「多少賢いふり」をしてみてもいいかもしれない。


亀姫「神族の浄気の札。時折、宙で消失しておりますわ。陛下はアレを消すために、わざわざ魔力攻撃をなさっていらっしゃるのでしょう?」

魔王「浄気の札? そんなものもあったのか……」

亀姫「うふふ。真実はともあれ、後方の陣に流れれば痛手となるのは必須でございます。魔素を周囲に振りまいて消してしまうのは賢案かと。よろしければ、是非私にお任せくださいませ」

魔王「……好きにしろ」


亀姫(これで、陛下は後陣を気にせずに戦えるはず。余分な力をお使いになることもなくなるでしょう)

亀姫(ああ、陛下。私は、私らしく… 陛下の全てを、お守りいたします・・・!!)


亀姫がもう一度、空に向けて術を放つ。
“浄気の札を払う為”の魔素は、祝福として後陣に降り注いだ。


・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・


駆けながらも、定期的に亀姫は魔素を放ち続けた。
後続もずいぶんと楽になっている事だろう。


魔王「……神界にあって、それだけの魔素を放てるとは。四神・玄武の血は伊達ではないな」

亀姫「お褒めに預かり光栄にございますわ」

近衛「!! 四神…!? 亀姫様は、神族の血をひいておられるのか」

亀姫「四神だなんて一族の名に残っているだけの古いお話ですけれど。だけれどその四神を討ったのも、かつての魔王陛下ではありませぬか」

近衛「なっ… 神と魔の戦は、過去にもあったのでございますか!?」

亀姫「精霊王の話を聞いていなかったの、坊や。今のこの世界の在り方は、その戦禍によって作りだされたものですわ」

魔王「神と魔が争うのだ。世界のひとつやふたつ、姿かたちを変えるのは仕方あるまい?」クク



皆、それぞれに神族を斬る手は緩めない。
だけれど、近衛は自分のしている事に畏れを抱かないわけではない。

目の前で、天の使い達が死んでいく。神と魔の戦争が進んでいく。
そうして、このまま進み続ければ、いずれは――


近衛(また、世界が変わる?)


亀姫「それにしても、神界の兵も結構な数がいらっしゃいますこと」

獣王「だがあまりに弱イ。兵ではなイのかもナ」

魔王「神界の連中は、元々が戦になど向いていない。文化風習として有り得ぬのだろう」

亀姫「あら、じゃあ彼らは一体? まさか寄せ集めたのかしら?」

魔王「くく、流石にそんなことはなかろう。“戦の為の兵”ではなく、“神の為の兵”といった所ではないかと」

獣王「……なるほド。大名行列を気取っていたのは神の方だったカ」

亀姫「大名行列とは、なんのお話ですの?」

魔王「俺達が現在戦っている、敵の名だ。やる気も失せるな」ククク


布陣は崩さぬまま“雑談交じりに”神の者を討っていく。
近衛はその中で、否が応にも実感していた。
世界を変えてしまう戦いを、すごろく遊びのように進めてしまえるのだ。


魔王にとって…いや、魔族にとって
あるいは神にとってもかもしれないが


『世界とは、その程度のものだった』。

それがなによりも、近衛はおそろしかった。


獣王「どうしタ、近衛。苦々しイ顔をしているゾ」

近衛「………いえ。なんでもございません」


亀姫「ねえ、坊や。先ほどの話ですけれど、獣王も四神を祖に持つ一族ですのよ」

近衛「獣王様も…?」

亀姫「竜王の大婆様も、そうですわ。ねえ、坊やは私達をどう思われますこと?」

近衛「……そうですね…。かつては神族だったといわれると、驚きを隠すことは難しいです」

獣王「勘違いするナ。当時に神と呼ばれたモノであっただけデ、今の神とは違う種ダ」

近衛「それでも、かつての神の末裔がこうして陛下の元にいらっしゃるとは……なかなかに信じがたいお話ではあります」

亀姫「うふふ、そうねぇ。私の一族ではありませんが、実際に過去には戦敵として陛下に歯向かった者もあったそうですわ」

近衛「そう、ですよね……。それなのにこうして配下に下り、忠臣となるまでには、一体何があったのでしょうね…」

亀姫「……さて。私の存じ上げるところではありませんわ」

獣王「ふン……」


獣王(自らガ、魔王に滅ぼされた一族そのもノのくせニ。時を経テ味方になるのが信じがたいなどト、ぼろを出したも当然ダ)



口数の減った3人に、魔王がつまらなさげに声をかける。


魔王「お前たち。過去を騙るのは構わぬが、そう乱してやるな。近衛に足を引っ張られては面倒だ」

近衛「騙る…?」

魔王「祖は四神を討ってなどいない。第一、子孫を残しておきながら“神を討った”とは言えぬだろう。子孫が次代の神を継承すればいい話」

近衛「あ」

魔王「実際は、暴食の祖が四神の一柱“朱雀”を喰らったがゆえに、世界は“崩れた”のだと聞いている。戦禍の正体はそんな程度のものさ」

近衛「喰ら…っ!?」

亀姫「うふふ。実質、四神もその在り方を崩されたのですから、討ったといっても過言ではありませんわ」

獣王「その通リ。騙ったつもりはなイ」

近衛「では…当時の魔王陛下は本当に神を食べたのですか」

魔王「さて、な。俺の預かり知る所ではない。真実をしりたければ精霊王にでも訊ねるが良い」クク

亀姫「あの精霊王が答えてくださるとは思えませんけれど」ウフフ


近衛(……神を喰らい、世界が変わった……“その程度”の戦争、か)


そんなことで、世界はなくなる。
その戦争に巻き込まれたものたちは、命を落とした者たちは
一体、何を思ったことだろうか。


獣王「っ……焼き鳥の話ヲ、している場合ではないゾ!」

一同「!」


それぞれに思考が逸れかけてしまっていたその瞬間、
前方からこれまでよりも一際大きな神族が飛び出してきた。

誰よりも早く気付いた獣王が、その巨体に喰らいかかった。
だが、ドカリと大きな鉈でその腹を打たれ、獣王の巨体は無情に跳ね返される。


亀姫「獣王!」


即時に亀姫が治癒の術法をかける。
魔王は数発の魔力弾でその鉈を無力化させ、その間を近衛が縫って分け入り…“小さなナイフ”の斬撃で、袈裟切りにした。


近衛「援護をありがとうございました、陛下、獣王様。…ご無事でいらっしゃいますか」

獣王「ガウル…当たり前ダ」

亀姫「治癒の途中ですわ。ただでさえ毛むくじゃらでやりにくいのですから、あまり動かないでくださいまし」

獣王「グルル……」


魔王「……ふむ。やけに大きいのが出たと思ったが、どうやらこいつで終わりだったようだな」



後方からはまだ戦らしい咆哮なども聞こえてくるが、前からの攻撃は止まった。
前方にあるのは、静寂と大宮殿のみだ。


近衛「ここが…」

魔王「ああ」


魔王「神の、巣だ」



―――――――――――――――――――――

神界・宮殿前


近衛「……あまりにも、簡単すぎる気がいたしますね」

魔王「ふむ?」

近衛「……魔王陛下。申し訳ございませんが、お傍を離れるご許可をいただきたく」

魔王「好きにしろ」

亀姫「お待ちくださいな、陛下。近衛、お前は何処へ?」

近衛「陛下とは逆周りに、この宮殿内を探索いたします。自己判断にはなりますが、適宜必要と思われる情報を集めたり討伐を進めたく思います」

獣王「……正門でいきなり見誤ったお前の自己判断を信じろと?」

近衛「それは…」

亀姫「獣王、およしなさって」

獣王「フン。ならば俺がついていこう」

亀姫「いいえ、近衛様には私がついて参りますわ」

近衛「……亀姫様が…?」


亀姫「獣王は、先ほど腹を打たれています。治癒したとはいえ、軽度のダメージではないはずでしてよ」

獣王「……チッ」

亀姫「近衛。供がつくことに、何か不都合がございまして?」

近衛「いえ。ですが…自分の荒いこの剣で、万が一にも女性を巻きこむわけにはならないと思うと、少しばかり重責ですね」

獣王「そう言っテ、誤まって切り殺してしまっタという布石にするつもりカ」

近衛「! いえ、決してそのような!」

獣王「フン」

亀姫「安心なさって。私は亀姫。この守護術、そう易々とは斬られませんわ」

獣王「…では、魔王陛下は自分が守ろう」

亀姫「ええ。どうか宜しくお願い申し上げますわ、獣王。いざとなれば…」

獣王「この身を盾ニ、いや 一族を盾にしてでもお守りしよウ。例え傷負いの身であれド、その時はお前のその鉄壁に遅れは取らぬつもりダ」

亀姫「ふふふ、頼もしいですわ」


近衛「では、魔王陛下。どうか自分と亀姫様に、探索許可を」

魔王「好きにしろ、と言っている。例え逃げ出そうと構わぬと」

近衛「では、それを許可に変えさせていただきます。ですが決して逃げは致しませぬ」


敵地の眼前で、膝をつく近衛。
隙だらけのその行動は、確かに紛れもなく忠誠のみを誓う姿にも見えたが、獣王にとってはそれはわざとらしくも見えて気に障る。

だが、魔王にとってはそうでもなかったのだろうか。
小さく笑った魔王は、臥した近衛に錫杖を突きつけた。


魔王「……相変わらずの、律義者だな。だがそれは魔王の近衛として、相応しくない」

近衛「ただの性分でございます。ですが、相応しくあるよう精進いたします」


魔王「では…」


魔王「悪を悪と思わず、善を善と思わず」

近衛「…?」

魔王「魔王の心得だ」

近衛「魔王、の…?」


魔王「…くく。わからぬようでは、お前にはやはり無理なのではないか? ……魔王に相応しくある、だなどとは」

近衛「か、かならずや理解して見せます」

魔王「ほう? ははははは! おもしろい」

近衛「魔王様…?」


魔王「近衛… いや―――  “元・勇者”」

近衛「っ」


魔王の発した言葉に、亀姫も獣王も目を見合わせた。
勇者―― それは確かに、先の戦の“目標”だった人物の名なのだから。


魔王「愉快だよ。そして、残念だ」

近衛「残念…で、ございますか?」

魔王「ああ。もしもお前がそれを理解する事があれば、俺はお前を次期魔王としたくなるだろうからな」

近衛「次期、魔王…?」



魔王「だが、魔王は基本的に次代継承。お前にゆずってやれないのは残念だ。く、くっくっく」

近衛「そんな……滅相もございません! 畏れ多いことでございます!」

魔王「勇者が魔王の心得を理解する…ねぇ。くく、まったくもって愉快だよ 近衛」

近衛「………自分は…、自分は既に、勇者などではございません…」

魔王「……ふふ。その返答こそが、その証。その性格こそも、“勇者”とされる所以なのだろうな」

近衛「………」

魔王「行け」


近衛「……皆々様に、御武運のありますことを」

亀姫「陛下。行ってまいります」


走り去る二人を見て、魔王が嗤う。


魔王「…くくく。神を倒しに行くその前で、誰に運を祈ったというのか。冗談のつもりならば、なかなか面白いのだが」

獣王「グルル…」

魔王「獣王。敵の目を全てこちらに向けさせるぞ……一網打尽にしてやろうではないか」

獣王「魔王サマの、仰せのままニ」


―――――――――――――――――――――――――――

神殿
近衛・亀姫組――


ヒュッ…
足音も立てぬままに駆け、花台らしき石柱の影に潜り込む。


近衛「亀姫様、大丈夫ですか?」

亀姫「何がですの?」


自分のすぐ後ろに回り、低い位置に身を潜ませている亀姫
華奢そうに見える彼女だが、息の上がっている様子は見受けられない。


近衛「自分は脚には自信があったのですが…亀姫様も、相当に脚がお早いのですね」

亀姫「ああ、それでしたら…」



亀姫はおもむろに着物の袂に手をかけ、チラりとめくって見せるような仕草をした。
しなだれるように見上げてくる亀姫の瞳を見て、近衛は不意に気付く。


近衛(……上半身が…傾いている? 2足歩行の動物としては、ありえない体勢だ)

亀姫「……うふ。ナカをご覧になりたい?」

近衛「以前は、確かに二本の足があったように思いますが。ですが少なくとも、亀の脚……では、なさそうですね」

亀姫「確かめてみたくなれば、脱がしてくださいまし。中身に気付いてなお、そんな気になればですけれど」クス


ころころと笑顔を向ける亀姫に、近衛は苦笑する
後方へ広がった、裾を引きずるような衣装と、その“不自然な膨らみ”。


近衛(あの膨らみ、通常の足ではない。だがまさか人魚、ということもないだろう。おそらく――蛇)


下半身が蛇。
それは恐ろしいのか、あるいは気色悪いのか。そう思って想像してみる。

美しい白い肌を持つ亀姫が、蛇の尾を持つのなら
やはり、艶かしい白蛇のように美しいのかもしれない。

それとも、妖しげな色香の雰囲気そのままに
マムシや毒蛇の迫力を持つのだろうか。



亀姫「坊や?」 

亀姫「っ、すみません。陛下に“気を抜くな”と忠言をもらったばかりなのに…つい考え込んでしまったようです」

亀姫「あら、うふふ。仕方のない坊や。安心なさって、陛下には黙っていてさしあげますわ。まさか正体を無くした女に気を取られるなんて、笑い者もいいところですものね」クスクス

近衛「そうですね…。ましてや、その正体が白蛇か毒蛇だったならばどれほど魅力的だろうと考えていたなんて…しばらく話の種にされてしまいそうですから」

亀姫「 」

近衛「? どうなさいました、亀姫様」

亀姫「私のほうが恥ずかしくて、とても陛下にお話なんて出来なくなりましたわ…」ハァ

近衛「……?」

亀姫「気になさらなくて結構ですわ。ともかく行きましょう。もっと奥に行けば、何か―― あら?」


話を逸らそうと、焦れて尾を左右に振った亀姫は違和感に気付いた
一瞬、床のどこかで微かに引っ掛かる箇所があったのだ



亀姫「坊や…床を調べてくださいませんこと。罠かもわかりませんわ。慎重に」

近衛「!! はい!」


近衛は動かずにその場に伏せた。指先を床に這わせ、よくよく目を凝らしながら見ると、床に四角く線が入っていると気付く。自分たちはちょうど、その枠の中にいるようだ。


近衛「……確かに不自然ですね。術法の気配はないので、落とし穴か、あるいは檻のような物理的な罠。その仕掛けの境界線かと」

亀姫「あら。どうりでわかりやすいところに、ちょうどいい物影があると思いましたわ。……でも嵌る様子がありませんわね、重量不足かしら」

近衛「それもありえますが……亀姫殿は、地雷の例をご存知ですか?」

亀姫「ジライ? なんですの、それは」

近衛「設置型の罠のようなものでして。それは踏んだときには反応せず、離れたときに爆発する仕掛けなのです」

亀姫「ならば、これもそうだと?」

近衛「可能性はございます」

亀姫「……ではこうしましょう。この花台をずらして、私たちの身代わりに重しになってもらいますわ」

近衛「かしこまりました」



近衛とて亀姫とて、2重に罠が設置されている可能性を考えない訳ではなかった。
重量不足が故の不発なら、これで余計に起動するかもしれない。
だが、懸念に懸念を重ねても仕方が無い。

近衛は花台に手を掛け、手前に引寄せていく。


ズ、ズズズ・・・


亀姫「……あら」

近衛「これは――…」


花台の下にあったのは、小さな床下への扉だった。



―――――――――――――――――――――――――――

天空宮殿、謎の地下室


コツ……

短めの階段は、あっという間に終わった。
階段というよりも、丈夫にしつらえられた梯子と呼んだほうが適切かもしれない。
入ってきた場所から明かりが漏れ入り、この地下の空洞を照らしている。


亀姫「……罠、というわけではなさそうですわね。隠し部屋にしては浅すぎますわ」

近衛「もしかしたら、地下収納として作られた場所なのかもしれませんね。使用用途を変えたために、入り口だけをふさいだ可能性があります」

亀姫「地下収納……物置だと?」

近衛「ええ」

亀姫「はぁ…緊迫感の薄れますこと。私本当は、下に竹槍でも仕込まれているのかと思いましたわ」

近衛「それはそれで古典的で緊迫感は薄いですが…罠でなかったのは幸いです。少し調べて、ここから出ましょう」

亀姫「調べる、といってもねぇ…」


亀姫は壁に手を触れながら、しゅるると這うように部屋を舐め歩く。
部屋の中央には四角いテーブル。椅子はなく、作業台のようにも見える。

近衛「本と筆、か。書斎のような場所なのでしょうか…」

亀姫「坊や。これを」


亀姫に呼ばれて振り向いた先に、鎖のついた砲丸のようなものが見えた。
その近くには沢山の本の山が詰まれてたが、亀姫がこちらに開いて見せているものは“白紙”の本だった。


近衛「……つまり、拘束して誰かに本を書かせていた…? ここは監禁場所、ですか」

亀姫「あの花台は、扉を隠していたのではなく、出入り口をふさぐためのものだったのでしょう」

近衛「……雑ですね、何もかも」

亀姫「急ごしらえしてでも必要だったのかもしれませんわね。本来、神族は争いとは無縁なはず…誰に何をかかせていたのかしら」


視線に催促され、近衛は小さく頷いてから机の上の本を開く。



近衛「……これは…」

亀姫「何が書かれておりますの」


口元に手を当てたまま、近衛は数ページをめくり読みしはじめる。
そんな近衛に痺れを切らして、亀姫は横に回りこんで置かれていたもう一冊を手に取る。だが中表紙に書かれている文字は特殊で、亀姫には読めなかった。


亀姫「……見慣れない言葉ですわ。坊やはこれが読めていらっしゃるの?」

近衛「はい、これはニンゲンの言葉です。それも、自分のいた国の言葉でかかれていますね…」

亀姫「内容は?」

近衛「少なくとも題は、『悪魔の襲来と人間世界の終末について』とかかれています」

亀姫「……ニンゲン滅亡の記録、といったところかしら」


近衛「……“大僧正が悪魔に連れ去られた時、私は仏に祈ることしかできなかった。如来様の後ろに隠れ、目の前の悪夢を見ないように目を瞑り、念仏を唱え続けた”」

近衛「“悪魔はしばらくして、唐突に立ち去った。私は仏への祈りが通じたことに安堵した。だがそれもつかの間、今度は寺が燃え始めた”」



亀姫「ここにいたのは宗教家ですのね。読まなくても結構ですわ、要約なさって」

近衛「そうですね。……“仏への信心の厚い小坊主が窮地に立たされて、神様仏様と願ったら、神様に助けられて神界にきたので、神様大好きになりましたありがとう”、といったところでしょうか」

亀姫「まあ、大層な信心ですこと」


亀姫「……でもよかったですわね。近衛の他にも生きている人間がいたとわかったじゃありませんこと?」

近衛「ニンゲンは生きていますよ。……この彼は、殺されたかもしれませんけれど」

亀姫「え?」

近衛「この本の終わりの方…神への感謝を綴りながらも、だいぶ筆が乱れています。そして、このような終わり方を」

亀姫「……ページが、破り捨てられていますわね」

近衛「ええ。そしてそれ以降は書かれていない。ここに監禁した誰かにとって、不都合な事でも書いたのかもしれませんね」

亀姫「……用が済んだ後、そして役に立たなくなった後、彼はどうなったのかしらね」



亀姫はスと手のひらを合わせて、黙祷をささげた。暗い結末を感じたのだろう。

平然と神殺しを行う一面を持ちながら、見も知らぬ誰かの不幸な死を自然と悼む亀姫に、近衛は苦笑する。

それからもう一度本に目を落として、呟いた。


近衛「……神が、あの場にいたのですね」

亀姫「近衛?」

近衛「……ヒトを助けるわけでもなく、自分たちの正当性を立証するためだけに……。神はあの場に降りていたのですね」

亀姫「………神族は、ニンゲンを守りませんでしたの…?」

近衛「守る?」

亀姫「神族は、今は無き地表を見守り、育んでいたはずですわ。魔の者との対立こそありましたけれど、ニンゲンとは交友関係にあったと思っておりましたけれど」

近衛「……ご冗談を」

亀姫「冗談ではありませんわ。古来よりそうしてきたはずですもの」

近衛「ありえませんよ。だって自分たちニンゲンは、神に……」



近衛「神を守る武器となることを、強要されたんですから」




――――――――――――――――――――――

院--先代魔王は、在位中に 地表の国を侵略した。
その国は占術により、勇者の生まれ郷になるといわれた国だった。

占いは占い。
それ以上の根拠があるわけではなかった。

だが当時の院はそういったものに何よりも重きを置いており、長いこと国を見張っていた。そしてついに、勇者らしき者が現れたのである。

占いで告げられた”勇者による、魔族の廃頽”を防ぐため、
侵略戦争が決断された瞬間であった。



――あの日、自分の街に大挙して乗り込んできた魔物達。
当時の近衛には、魔物達が現れた理由が分かっていた。


天啓だ、啓示だと 皆が騒いだそのほとぼりもまだ冷めていなかったから。


あれは自警用のナイフを片手に護衛術を訓練中の事。
突然に天から虹が差し込むように降りかかり、近衛の身体を包んだ。

その場にいた皆が、不可思議な声を聞いた。
「勇者」とだけ呟かれた、姿のない者の言葉。

そして虹が消えると同時、近衛が握っていたナイフは「大剣」に姿を変えていたのだ。


それ以上のことはない。ただそれだけ。
ただ、その事件は国中に知れ渡るほどには騒がれた。
近衛自身も訳がわからぬまま、「勇者」として数日間をもてはやされていたのだ。


そして、突然の魔物の襲来の日。

魔物など知らなかった。
それが魔物であるのか怪物であるのか、悪魔なのか妖怪なのかも知る事のないまま…
近衛の暮らしていた国は、地表の世界は、みるみる炎に包まれた。


悪夢のような惨状の中を、助けを求めて、妹の手をひいて走った。
街の中を走れば、誰もが自分の顔を知っていた。
そうして誰しもが呪いの言葉を投げてきた。


「おまえのせいだ」

「おまえが原因なのだろう」

「おまえさえいなければ」


焼け焦げた赤子を抱いた女が、狂った目つきで「おまえさえ死ねば…」と包丁を刺してきた。
それを見ていた誰かも、「そうだ。おまえが死ねば終わるんじゃないか?」と、砕けたレンガで殴りつけてきた。


近衛は何も知らなかった。ほんの数日間、勇者としてもてはやされただけ。
たったそれだけのことの代償に、全世界から理不尽に恨まれた。


手をひいていた妹は、恐怖に満ちた瞳で自分を見て足を止めた。
命を狙われている自分の巻き添えにさせてはいけないと、唇を噛んで、妹の手を離して駆け出した。

その直後に、妹が狂気に満ちた誰かに殴り倒されるのを見た。
世界のすべてが敵になって、近衛に襲い掛かってきた。


滅ぼされそうな世界
追い詰められた自分

刺された腹から滲む血
行く手に現れた、数匹のおかしなイキモノ


誰かから与えられた大きな剣はあったが、そんなものがあったって目の前の化け物は倒せない。
自分の習っていた“対人用の護衛術”が何の役に立つというのか。

振るえない。
握り締めたナイフの感触はそのままだけれど、その刃は何十倍もの大きさになっている。こんなものを扱ったことは無い。


この剣を授けたのが神ならば、神なんて信じない。
神になど祈れない。
だけど、求めたい。助けを--


もっと、確実な。この世界と自分たちを救ってくれる、強い力を。


街の炎も、流れて衣服に染み込んだ血も、赤黒かった。
黒くて黒くて、目の前も真っ暗になっていくような気がしていた。
そんな時に、それよりも黒い影が現れて、こう言った。


「……探したぞ。世界一の、不幸者」


望んでいた大きな力と救いは、魔王によってもたらされた。



―――――――――――


亀姫「……え! 近衛!」

近衛「っ!」

亀姫「近衛、聞いていますの?!」

近衛「これは…申し訳ありません。衣装のせいでしょうか、どうも古い記憶ばかりに囚われてしまって……」


やや青白い顔をしたまま俯いた近衛に、亀姫は呆れたように声を掛ける。
だがその口調は責めるものではなく、僅かに気遣いを含んでいるようだった。


亀姫「貴方はそんなこと言ってばかりね…。まさか浄気に当てられたわけではないでしょう?」

近衛「ええ、大丈夫です。亀姫さまの守護術が浄気を弾いてくれていますし、この石もきちんと機能しているようです」

亀姫「なら、しゃんとあそばせ。いいこと? もう一度しか言わないから、今度こそよくお聞きなさい」

近衛「はい…。もう、大丈夫です」



まっすぐに目を見つめてくる近衛を確認して、
亀姫もまたしっかりと瞳を見つめて問いかける。


亀姫「先ほど、近衛の言っていた件。神族が人間の味方をせず、むしろ武器として利用しようとしたという話……確かでいらっしゃいますの?」

近衛「少なくとも自分に武器を与え、自分を勇者と称したのは事実です」

近衛「さらにここにあった本の内容が事実なら…人間の危機を知り、その場にいながらも、手を出してこなかったことも事実となるでしょう」

亀姫「……武器を与えてきのだから、武器として…武器の使い手として利用しようとした、と思ったのね」

近衛「そう…ですね。確かにそこは推測の域を出ません」


亀姫「もうひとつ確認させてもらいますわ。……勇者というのは…神よりその称号と武器を与えられて成るものなの?」

近衛「……わかりません。自分以外の例を知らないので、おそらく、としか」

亀姫「近衛の場合は、神からそれらを与えられたのは確かなのね?」

近衛「……間違いのないよう正確に答えるのなら、“魔王陛下がそう仰った”となりますね」

亀姫「陛下が仰ったことなの?」


近衛はコクリと頷いてから、腰に下げたナイフに手を掛ける。
丁寧に引き抜いたそれを、掌に載せて亀姫に見せた。


近衛「自分の持っているこのナイフ…ご存知の通り、衝撃の段階で大剣へと姿を変えるものです。これが大剣の状態になる時、浄気が動くそうなのです」

亀姫「……浄気を用いて作用するのなら、それは神界からもたらされたものに違いないと判断なされたのね」

近衛「はい。与えられた時の状況に強い光があった事なども含め、陛下はそう確信されていました」

亀姫「わかりましたわ。陛下が確信なさったのなら、それは間違いのない事でしょう」


溜飲を下げたような亀姫の口ぶりに、近衛も一息をついた。
誤解が生まれないように正確に質問に答えるのは、なかなかに緊張を伴う。

確認作業を終えた亀姫が続けて何かを考えこんだので、近衛は黙ったまま本を手にとり、パラリパラリとページをめくりながら待った。


亀姫「……私達はひとつ見誤っていた可能性がありますわ」

近衛「見誤った? 何をですか」


亀姫「……貴方はいろいろとおかしいと思いませんでしたの?」

近衛「すみません。お話の意図が…」


亀姫「今回の神界戦争…陛下は思いつきだなんて仰っていられましたけど、陛下の中では以前よりお覚悟なさっていた事案なのでは、と」

近衛「! どういう事です」

亀姫「この戦争…仕掛けたのは陛下ではなく、神の方だったという考え方ですわ」

近衛「亀姫殿。どうぞ詳しくお考えをお聞かせください」


亀姫は扇を広げて口元へ運ぶ。
どこから話したものか、と 思考を巻き戻しているようだった。


亀姫「……この戦争を陛下が口になさった時、私自身も驚いて陛下をご無体で不用意だと責めてしまいましたけれど…… 陛下は本来、そのような方ではありませんわ」

近衛「戦争を決意したきっかけ…ですか。確かに軽率にも感じますが、それは天使を強くお望みになられた衝動ゆえなのでは?」

亀姫「天使が手元に居るにも関わらず、泣き暮らしているのに辟易したから天を滅ぼし帰る場所を無くすだなんて……いくらなんでも浅慮すぎるかと」

近衛「…確かに、普通に考えれば余計に泣き濡れて心を閉ざすのは目に見えていますね…」

亀姫「あの方は思慮深く察しが深い方ですわ。天を滅ぼし、天使の帰る場所を無くすことで“現状を変える別の何か”が得られると考えるべきでしょう」

近衛「……別の何か…」

亀姫「私にも具体的にはわかりませんわ。ですがおそらくソチラが本当に戦争を決意したきっかけかと」

近衛「決意したきっかけ…。では、戦争自体はいつごろに仕掛けられていたと?」

亀姫「そうね……。近衛が、勇者として神に選ばれた時…じゃないかしら」

近衛「!」


亀姫「単純明快よね。神が“勇者”を作る理由は、どう考えても世を正すためですもの」

近衛「そう…そう、ですね。至極当然です。神は、自分に魔王陛下を討たせるつもりだったに違いありません」

亀姫「あら。そんなに簡単に納得してしまうの?」

近衛「納得などできませんが、それが一番しっくりくるでしょう…ッ」

亀姫「……」

近衛「自分は魔など教えて貰わなかった。魔を滅ぼせ、という指示もなかった。魔に立ち向かう方法も知らず、危うくただニンゲンとして滅亡するだけでした…!」

近衛「神のやり方は、あまりに雑すぎる!! 魔のことを侮りすぎていて…あまりにニンゲンに任せすぎていて…そんな投げやりなやりかた、とても納得などできません!!」

亀姫「いいえ。神からすると“それでよかった”のよ」

近衛「!!?」



亀姫「……神は地表を守るものだと言われているわ。だから地表を魔が討てば……魔を全力で攻撃するだけの大義名分が神は得られる」

近衛「な……では、地表を攻撃させるために、自分は勇者の啓示を授かったのですか!?」


亀姫「……それじゃ矛盾が生まれるわ。守る役割なのに、“攻撃させる”なんてお粗末があってはならないはず」


亀姫「“勇者を作ったのは、地表の安寧の象徴にするため。決して魔をどうこうしようとした訳ではない”……ってとこかしらね」

近衛「……? 自分は、魔王陛下を討つためではなく… ニンゲン世界の平和の為に勇者になった、と?」

亀姫「ええ。だって貴方、先ほど自分で言ったじゃない。滅ぼせとも言われてないし、戦い方も知らなかった、と」

近衛「……? それは、そうですが」

亀姫「そもそも魔王と地表で戦争させて討とうというなら、近衛などを選ばないんじゃないかしら。ましてや魔の存在すら教えないなんて…私からするとありえないですわ」

近衛「…………それは…そう、言われてしまうと。確かに何故自分が選ばれたのかはわかっていませんが…」

亀姫「貴方は…武器にされたのではなく、贄にされたんじゃないかしら」

近衛「ッ! どういう意味ですか!?」


亀姫「大人しく従順。正義感が強く、だけど強すぎる武力は持たない。あくまで“地表の世直しの為に選ばれた者”としてソレらしい要素を持っていた近衛を、“勇者”に仕立てる…」

亀姫「魔国は古い迷信などを信じ、“世直しの為に選ばれただけの善たる若者”を、“魔を滅ぼしに来る勇者”と思い込んで一方的に討ち、ニンゲンを滅ぼす……」

近衛「……あ。え…? 自分は…魔王陛下に救われたからこそ神を恨んだが… そもそもは、どちらが悪いのだ…?」



亀姫「……もし、ニンゲンが本当に魔に滅ぼされて…。その後で神が、“平和な世を目指す第一歩だった。独善的で横暴な魔は許せない”と魔に制裁を与え、ニンゲンの死を悼んだなら……近衛はどう思ったかしら?」

近衛「……ひどく…魔を、恨んでいた…? 憎んでいたかもしれない…」

亀姫「そう。それが“神の望んだシナリオ”よ」

近衛「!」


亀姫「いつか魔を滅ぼす時の為に用意された、神が絶対正義である為の免罪符。貴方はそのひとつだった。雑どころか、綿密に練られていたと考えるべきよ」

近衛「そんな“言い訳”をする為に、ニンゲンは滅ぼされるハズだった……?」

亀姫「天と魔の接触は、悲惨な戦禍を招く愚かしい禁忌ですわ。神から直接手を出せば、それは後世に汚点として残ってしまう」

亀姫「天が絶対の美点である為にも、誰しもが納得して賛同するだけの魔を討つ理由が必要でしたのよ」


近衛「……っ そうか、この場で本を書いていた彼もまた、その駒の一人ということか。神に窮地を助けられた、信仰心の厚い小僧……」

亀姫「ええ、そうでしょうね。“神はニンゲンを救おうと努力していた”と語る、生き証人。都合良く後世に残る“神の偉業を讃える伝記”の作成者の役割を与えられたのですわ」

近衛「………そんな。そんな者の為に、彼はどれほどの恐怖を味わわされたというのか…」

亀姫「いいえ、間違ってはいけないわ。現段階では、あくまで“彼に恐怖を与えたのは魔で、彼に救いを与えたのが天”なのよ」

近衛「〜〜〜〜ッ」


亀姫「……先代陛下…今の院は賢王と名高い方でしたけど、伝承などを受けて勇者討伐を決めたのは、“恐れを持たず、躊躇いなく危険を排除する”という愚行でしたわね…」

近衛「……ッ いいえ! いいえ、院はそのような愚行を犯してはおりません!」

亀姫「え?」


近衛「ニンゲンは生きています! 現魔王陛下によって、魔からも天からも干渉を受けない場所に独立して、今も生き続けているのです!」


亀姫「そう…でしたの? あ、そういえば確かに以前、言っていましたわね…。私はてっきり、近衛のように数人を連れ帰ったという程度なのかと思っていましたわ」


近衛「天と地に挟まれた地表を離れ、自立させてくださったのが魔王陛下です! だからこそ自分は魔王陛下に従っている…!」

近衛「院も陛下も悪行など働いていない! 踏みとどまり、逆に永遠に守ってくださっているのです!」

亀姫「………そう…。そうでしたの。これでようやく繋がりましたわ」

近衛「だから、現段階では神の方が誤解されるような悪行を働いただけで――」


亀姫「ええ。だから、天使が送り込まれたのよ」

近衛「な……?!」


亀姫「……嵌めようとしたら、魔が善行を行ってしまった。悪事に制裁を与えるのなら、善行には褒賞を与えねばならないのよ。神が体裁を守るためにね」

近衛「……天使殿が、褒賞…?」

亀姫「無力で儚いだけの幼い天使。恐らく役割は“ただひたすらに和平だけを望む者”といった所ね」

近衛「和平…。善行をした魔の手を、神が取ろうとした…ということですか?」

亀姫「ええ。ですけれど、これももちろん、そういうシナリオを新たに用意した、という意味よ」


亀姫「いきなり干渉する事は出来ない。けれど、善き行いをするのであれば、魔と友好的に繋がり、平和を築けるのではないか」

亀姫「そんな第一歩が踏み出せるのかどうか下見をしようと、無害な者に魔を見せて反応を確かめようと思った矢先に――」

近衛「“事故で、天使が魔に落ちてしまった”……?」


亀姫「ふふ。近衛もわかってきましたわね。もちろん事故は故意に誘発されたものでしょうけれど」


近衛「……天使殿は、自分が落ちてしまったが故にこの戦争が起きたのだと強くご自身を責めていらしたというのに……」

亀姫「ええ。そんな人物だからこそ“役割”に選ばれたのですわ」

近衛「………ッ!」

亀姫「そして……神は、天使が魔に殺されてしまうことを期待していたはずですわ」

近衛「そんな!!」


亀姫「無力で平和的な事故の被害者を、天の者であるという理由ひとつで 魔の者が嬲り、犯し、傷めつける……」

亀姫「そんな“悲惨な事態”が起こる事を期待していたのですわ。厳しい制裁を与えるに相応しい、大義名分のために」

近衛「ーーっ! 〜〜〜〜ッ……。っぐ……」


亀姫「だけれど、陛下はそれをなさらなかったし許さなかった。近衛にしたのと同じように、天使を守り、寵愛なさった。天使を天に戻すという“神との接触”もせず、ただ手元で守るだけ……」


亀姫は寂しそうに呟いた。
魔王が天使に寄せていた思いは、神との衝突という危険回避のためだけではないのは明白だ。

こうなっては愛しい思い人が天使を愛するという行為を、愚行と責めることもできない。
天使に向けられた魔王の思いは…めぐりめぐって、薄汚い策略から魔国の民を守っているのだから。

亀姫がそんなやり場の無い憂鬱に胸を痛めた時、近衛が横で唐突に笑い出した。
穏やかな近衛らしからぬ表情で、皮肉そうに口元をゆがめて神をあざ笑っている。


近衛「ふっ。はは、はははは! さぞや神は悔しい思いをしたでしょうね!」

亀姫「……どうかしらね。それはわからないわ」

近衛「そんな思いのひとつくらいしてもらわなければ、自分も天使も、この小坊主も、惨めすぎるじゃないですか!!!」


当り散らすような強い語調。
近衛の目は冷静さを失い、強い怒りが浮かんでいた。


亀姫「落ち着きなさい。…私にだって気持ちは理解できるわ。とても許されるものではないもの……」


亀姫はそんな近衛の手を取り、怪我をしているわけでもない近衛に治癒呪文を与えた。
暖かな魔力が流れ込む様子そのものに、近衛は僅かに冷静さを取り戻す。

そうして、気づいた。
亀姫の手が、か細く震えていることに。指先が血の気を失い、冷え切っていることに。


近衛「…! 亀姫様………」

亀姫「ふふ。おぞましい。考えが及ばないほどに、根深いおぞましさですの…。ですが私は亀姫。どれほどおぞましいものを見せ付けられようと、血の道で倒れるような弱さは決して見せませんわ」

近衛「……………」


血の道で倒れる…つまり、貧血を起こして失神しそうなのをこらえているということだ。
それだけの恐怖の中で、冷静に頭をめぐらせて考えていた亀姫。

近衛はみっともなく感情に流されて激昂してしまった自分を諌め
亀姫の手を握り返すようにして覆った。


亀姫「……陛下がこの戦争を始めたのは“次の手として差し出される、まだ見ぬ憐れなもの”のため…というのも、あるかもしれませんわね」



亀姫は愛し子の優しさを褒めるように微笑んで、静かに会話を続けた。

その微笑が、近衛に向けられているのか魔王に向けられているのかわからない。
だけれど近衛は黙ってそれを見つめ、亀姫の手を温めながら耳を傾ける。


亀姫「いくらこちらが守り続けても、憐れな弾は撃たれ続けるのに変わらない…」


亀姫「憐れな近衛は、陛下に救われて忠実な家臣になった。――本当ならば自由に生きていたのに」

亀姫「憐れな天使は、陛下に救われながらも永遠に怯え暮らす羽目になった。――そんな必要はどこにもなかったのに」


近衛「あ………まさか、陛下は……」

亀姫「神がそんな状況を作る元々の理由は……魔王陛下に起因しますわ。陛下が魔王であるというそれだけで、全ての惨事は生み出されますのよ」

近衛「!!! ………陛下がご自身の責を感じる必要などありませぬ…ッ!」


思わずまた昂ぶってしまいそうな感情をどうにか押さえ込みながら、
近衛は苦々しく魔王を擁護した。


亀姫「『悪を悪と思わず、善を善と思わず』。この魔王の心得……貴方もお聞きになったでしょう?」

近衛「…ええ…。 ですが今、それが何か…?」


亀姫「あの状況で、そんな事を口にされたのですもの。陛下ご自身がその心得を誰よりも意識していたのは明白ですわね」


近衛「あれは…… どういう意味なのでしょうね…」

亀姫「ふふ。そのままの意味ですわ。『悪い者や悪い行い』が“悪”だと思ってはいけない。逆もまた然り。……それだけの言葉」

近衛「……?」

亀姫「鈍い子ねぇ。『何をしようと魔王が悪で、神が善になるのだと思っておけ』って話ですわ」

近衛「なっ」

亀姫「それを心得ておかないと、魔王なんてやっていけない。だからこその魔王の心得」

亀姫「陛下が魔王である以上、陛下ご自身がいかような存在であっても『他者から悪と思われる』覚悟をしていなくてはいけない…」

亀姫「今回のように策略に落とされても、いちいち弁明など出来ると思ってたらやっていけない。出来ると思うな、っていう心得ですわ」

近衛「そんな……そんな不健康な物の考え方をしていては、まともに生きてなどいけません」

亀姫「だけれど事実なのよ。だからこそあらかじめ心得ておくことがとても重要なの…。今回も、きっと陛下はそれを何度もご自身に言い聞かせていたんだわ」

近衛「くっ…」


亀姫「陛下は…とてもお優しくて思慮深い方よ。だからこそそれを表には出さない」

亀姫「誰かにとって、優しくされていた相手が悪なのだと思い知らされたら……負う傷の深さが増すだけですものね」


近衛「最初から乱暴で傲慢な相手なら… 乱暴で傲慢な扱いをされたと感じた時でも、それ以上に傷つかなくて済む、と…?」

亀姫「……信頼や忠誠をした相手に裏切られたら…悲しみという傷が増えるでしょう?」

近衛「………だからこそ…陛下はこの戦争の前に、忠誠を棄てろだなんて仰っていたのか…?」

亀姫「この戦争、予め神が望んで陛下に仕掛けさせたものだったとしたら……神は陛下を全力で悪に仕立て上げるでしょうからね」

近衛「………陛下……」


全ては推測に過ぎない。
だけれど、二人はそれぞれ確かに強い思いをもって魔王を慕っている。

推測に過ぎなかったとしても、その可能性があるというだけで充分なのだ。
充分すぎるほどに胸は苦しく、苦々しい思いを噛み締めてしまう。

発するべき言葉もみつからないまま、二人は黙り込んでしまった。
それから少しの間をおいて… 亀姫がスっと姿勢をただし、顔を上げた。


亀姫「……神は弱いわ。必ずや弱さを補うための姑息な手段を用意しているはずよ」

近衛「!」

亀姫「行きましょう、近衛。私達は臣下として……陛下を穢そうとする策謀から、陛下をお守りしなくてはならないはずよ」


近衛も姿勢を正し、深く頷いた。
その時に、近衛の目がテーブルの上におかれた本を捕らえた。


近衛「……王に、穢れあるべからず。陛下の心が穢れないからといって……穢そうとしていい道理などはない!!!」


バシュ……ッ!
本は一閃の元に切り破かれ、紙吹雪となって舞い上がる。



皮肉なほどに美しいそれは
既に見る者も駆け去り居なくなった部屋で 静かに散り落ちていった。


―――――――――――――――――――――――

一方、天空宮殿1階
魔王・獣王率いる組――


広々としたエントランスを抜けると、片側にたくさんの扉のついた廊下があった。
おそらく扉の中で待ち構えている兵もいるだろう。

魔王と獣王はその廊下の突き当りまでの距離や扉の数を、視線だけで測る。


魔王「獣王。なるべく派手に行け」

獣王「グルル……。了承しタ」

魔王「くく……始めよう」


魔王が手を前に突き出したのを合図に、獣王が飛び出す。
後方で威嚇していた他の獣族も、流れんばかりの勢いで駆け出した。

獣たちはそれぞれに大声で吠え、壁を蹴破り、ドアをたたきつけ…
様々なものを派手に散らしながら、兵の喉笛に喰らい付いていく。

獣王はその中心でわざとらしく敵に時間を与えて見せつけ、逃げ出すのを許している。
……そうしてそいつが改めて他の兵を引き連れて戻ってくるのを出迎えた。


獣王「……キリがなイ。手応えもなイ。面白みもなイ」


あらかた片付き、逃げ出した兵が戻ってくるのを待つだけの状態になると、獣王は魔王の側に戻ってきた。
口内に残った肉片を吐き出しながら獣王は不満を口にする。

魔王はそれを満足そうに笑って聞き入れながら、獣族の内の一匹の毛並みなどを撫でている。

魔王「これを面白いと思えたなら、獣王は魔王にでも破壊神にでもなれるだろうな」


そんな2,3のやりとりを楽しむ間に、追加の兵が走りよってくる足音を聞きつけた。
獣王がグルルと喉を鳴らして警戒したが、魔王はそれを手で制す。


魔王「休憩して良い。一度代わろう」


魔王はジッと廊下の様子を見守っていた。
曲がり角から出てくると思っていたら、その手前にある扉が大きく開け放たれる。

扉そのものを盾に、矢による遠距離攻撃を仕掛けるつもりらしい。


獣王「ちっ。距離を取るとは…獣との戦いに怖じけたか」

魔王「交代しておいたのは正解だったな」クク


魔王は扉に隠れる一団の足元に魔力弾を打ち込み、続けざまに斬撃を放った。
宮殿の頑丈そうな床は崩れ落ち、一団の重みを受けて連鎖的に広範囲がガラガラと崩れいく。
扉ですらも、壁ごと崩れては盾の役目など果たしようがない。


轟音に悲鳴、混乱。鼓膜を破りそうなほどの大音量が、床に瓦礫ごと呑み込まれて消えていった。


獣王「……魔王様の攻撃ハ、派手すぎル。我々ニ派手にやれと言われてモ、そんな真似ハ出来なイ」

魔王「方法はやりやすいもので構わない。一網打尽にするとは言っておいただろう?」

獣王「ふム。……だガ天の者を個々に撃つよリ、床を破る方が面白いかモ知れなイ」

魔王「くく…。ああ、面白いぞ」

獣王「しかしやはリ、俺には出来なさそうダ。残念ダが、流石ハ魔王様ダ」


心底残念そうな獣王のつぶやきを聞いて、魔王も心底楽しそうに笑った
笑われて不満げな顔をした獣に、俺は魔王だからな、と声をかける。

獣王は自分の落胆の言葉が、自嘲じみた魔王のセリフへの皮肉になってしまっていた事に気付き、非礼を詫びるべく顔をあげた。

その時に 目の前をひときわ大きな魔力弾が疾っていった。
大穴の向こうの曲がり角にぶち当たった魔力弾は壁を砕いて着弾し…… その奥にいたらしい一団が悲鳴をあげる。


獣王「まダ隠れていたのカ」


魔王「先ほどの弓隊との攻防にまぎれて接近したのだろう。顔も見ず撃った件は、許してもらうとしよう」クク

獣王「許して貰う必要ナドないのでハ?」

魔王「いや。あのまま走って来られて、そこの穴に落ちる間抜けを見たりしては、本当に笑い転げてしまいかねないと思ってな。攻撃を急いだ」

獣王「……大恥の中デ死ぬよりはそいつもマシだろウ…。許すどころカ感謝するべきダ」

魔王「恥をかくところだった事も知らずに死んだのだぞ。どちらが良かったかなど比べることは出来ないではないか」

獣王「むむ。それもそうカ。なら……せいぜい自分の死に方を悔やんでくれるナよ。魔王様が回避してくださっタ笑い者の死ヲ、無駄にするナ……と」


獣王が、おそらく死体の転がっているだろう曲がり角の向こうに声を掛ける。
魔王は楽しそうに笑い、それからふとまじめな顔をして、こう言った。


魔王「………あちら側に進むのはやめておこう。引き返して別ルートを行く」

獣王「何故ダ?」

魔王「これで床に血文字で無念などと書かれていたら、お前が本当に笑いそうだからだよ」

獣王「……了承しタ」


二人が軽快に走り去った方向からは、また爆音が響く。
魔王と獣達はそうして宮殿内を次々に駆け巡っていった。



――天空宮殿一階、制圧完了。

【私信】
すみません、どうにも手が動かず、投下がずいぶんと長引いていています。
ストーリーとしては現在、これで既に半分は超えた、といったところです。

必ず完結までは書き続けますが、時間のお約束が出来ません。
完結したらすぐにhtml依頼をかけますので、お読み頂けるのでしたらそちらをお待ちください。

また「息抜きや気分転換に」と他の方の助言を受け、以下のような短めの話を書いたりもしていました。

僕「彼女が┌(┌^o^)┐←コレになって這い寄ってくる」
僕「彼女が┌(┌^o^)┐←コレになって這い寄ってくる」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1450251016/)

魔王「最善の選択肢と、悪魔の望む回答」
魔王「最善の選択肢と、悪魔の望む回答」  - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1456125267/)

下段の魔王の方は現在連日投下中で、次の土曜に投下完結を予定しております。
そんな状況ですが、本作についてはゆっくりと書き進めさせていただきたく思っている旨、ご承知置きください。

投下中の私信、失礼しました。


――――――――――――――――――――――――

空中宮殿・2階


ドゴオオオン………

先ほどから度々に、大きな破壊音が響き渡っている。
音が聞こえる度、近衛と亀姫は目を合わせて宮殿内の調査を急いていったが、あまりの頻回さに近衛はついに苦笑を漏らした。


近衛「陛下は、大分派手にやっているようですね」

亀姫「……そうですわね。陛下はやはり魔力攻撃が中心のご様子。ここに居ても陛下の魔素を感じますわ」

近衛「獣王様もついていますし、神族も弱いものばかりだからそう心配もなさそうとはいえ…神との戦いを前に疲弊なさらないといいのですが」

亀姫「第一に、神族が弱いだなんて本当に信じていいのかしら…?」

近衛「え? ですが魔王陛下も、“神族は戦には向いていない、文化風習として有り得ぬ”と仰っていましたが…」

亀姫「陛下の言葉を疑うわけではありませんのよ。ですが先ほどの話を思い出してくださいまし」

近衛「?」

亀姫「神族が陛下をこの戦争に誘い込んだ側なのだとしたら、必ず勝機を用意しているはずでしょう?」


近衛「それは、そうですね。…ではやはり何か隠していて、こちらを油断させるつもりでしょうか」

亀姫「あるいは、“無力に甚振られる哀れな状況”を作っているか、ですわね」

近衛「……神の描くシナリオ、ですか」

亀姫「魔王に攻められ、無力にいたぶられ、追い詰められた神……何をやっても許されそうじゃありませんこと?」

近衛「何をやっても……?」


何を想像したわけでもないのに、近衛の背中がゾクリと粟立った。

所詮、神にとってこの世界は簡単に姿を変えさせられるもの。
……神は、自分が思うよりも“大きな事”をするかもしれない。


半歩ほど遅れてついてくる亀姫を視線だけで確認する
彼女になら……具体的に想像もつくのだろうか。聞いてみたい気もするのに、聞けない。

聞けないが、それも当たり前だ。
たかが人間である自分が、神の思考を探るなんて。畏れを抱かぬ方がおかしいのだろう。
ここまできても、やはり自分はただの人間なのだ。


亀姫「ふふ。近衛。ほら、あちらを…」

近衛「?」



左右に別れた道を、これまで通り左回りに折れた所だった。
亀姫に促され、踵を捻り急停止する
後方の通路の逆端に、積み重なった神族の骸があるのが小さく見えた。


亀姫「あれはおそらく、陛下の交戦の跡ですわ」

近衛「ああ。いつの間にか同じ道に出てしまいましたか…。引き返しますか?」

亀姫「いいえ。陛下はこちらまではいらっしゃらなかったようですから、このまま参りましょう」

近衛「ですが、繋がった道ですから通っていてもおかしくないかと。……何故、そう思われるのです?」

亀姫「簡単ですわ。こちらの道が、綺麗なままだからです」

近衛「あ」

亀姫「あの音もそうですわ。別手に別れた私たちが窮地に陥れば、すぐに陛下の元に逃げていけるように…」

近衛「どこを通って進み、今どこにいるのか…わかるように……?」


ドゴオオオン…


今は、上階から破壊音が響いている。
魔王はそこにいて、待つこともせずに突き進んでいるのだと、否応なしに報せてくれる。


亀姫「大丈夫ですわ、近衛。魔王様が先陣をきっていらっしゃるのですもの…心配無用ですわ」

近衛「はは…顔にでていましたか」


亀姫「ふふ。それにしても、驚くほどの快進撃ですのね」

近衛「この戦、簡単すぎて怪しい気はするものの、まだろくな調査も出来ていないのに…速すぎて困りますね」

亀姫「陛下は本当に、そんな調査を必要としていらっしゃらないのですわ」

近衛「大掛かりな罠のひとつも疑わないなんて、そんなこと」


亀姫「合ったとしても、どうにかするつもりなのでしょう。陛下は私達に何かを期待などせず…ただ、好きにさせてくださっているだけ」

近衛「見放されているような、守られているような…なんだか複雑ですね」

亀姫「ふふ。守りは私の専売特許ですのよ。あまり守られてばかりなのは悔しいですわ」



近衛「……亀姫様の語る陛下のお姿は、自分の見えていた陛下の姿と違いすぎて…少し、戸惑います」

亀姫「私は生まれたときから、陛下のことを見ていますの。年月で言えば竜王様にはかないませんけれど、」クス

近衛「そうでしたか。あの……不躾なことを伺いますが…亀姫様は、もしや陛下のことを…?」

亀姫「……ふふ。神の一族の名を持つ私に望める願いではありませんのよ。口に出すのもおこがましいですわ」

近衛「今は同じ魔族なのでしょう? 陛下はそんな一族の出自の差など…!」

亀姫「それでも、穢すべからず…ですわ。それに私、決して我が一族の名を恥じてはいませんのよ」


亀姫「私は、私の名に代えて。あの方を守ってみせるのですわ」

近衛「……」


駆ける速度を速めた亀姫の背を、近衛は思わず見つめてしまう。
種族の差。想いの強さ。苦しい道を歩む強さ…華奢な身体に込められた想いはどれだけのものなのか。


亀姫の想い。自分の想い。天使の想い。魔王の想い。
この戦にはどれだけの想いが掛かっているのだろうか。

神の想いはわからない。
だけど、もしもそれを弄ぶつもりなら許せない。


近衛(もう。これ以上、駒にされるのはゴメンだ)


近衛の脚にもまた、力が入る。



――――――――――――――――――――――――――

天空宮殿、某所……



?「ようやく来たか…。ああ、あの偉そうな猫をいよいよ追い詰めてやろう」

?「まったく宮殿中を引っ掻き傷だらけにして…。ああ、なんと傲慢な生き物だろう」


?「聞こえているんだろう?」

?「この神の国中に広がる、愛しき隣人への鎮魂歌が」

?「…わかっててやっているのか。なんと悼ましい」

?「…なんと愚かしいのだ…。だからこそ…私が…。ふ、ふふふ…」


?「この大惨禍……誰の所業だと思っているのやら。おまえはきちりと『事実』を記録してくれよ…? 私が必ずや歴史に残る大偉業へと代えて見せるのだから…」


精霊族「……我が一族の、誇りにかけて。全ての史実は、正しく記録に残しましょう」


?「ふふふ……ふふふふふ……っ 」



――――――――――――――――――――――

天空宮殿3階――大廊下


通路の真中、外壁につけられた不審な大扉。

左右にあった飾り窓から、反対の位置に立つ塔が見えている。
それからその塔には、こちらと同じ装飾の大扉がついているのも見えた。

亀姫と顔を見合わせ、コクリと頷いた。


――ザァッ!!!


近衛が扉を開けると、強すぎる勢いで外気が流れ込み 亀姫は顔を顰める。


亀姫「あちらの塔への渡り通路だろうとは思いましたが… まさか、完全に落ちているとはね」

近衛「陛下の攻撃で、崩れたのでしょうか」

亀姫「いえ、違うと思いますわ」


亀姫がかがみこみ、扉の奥へ身を乗り出す
崩された渡り廊下に触れると、断面は砂のようにボロボロと崩れていった。


近衛「崩れたのか崩されたのか…ともかく、だいぶ以前からこの状態のようですね」

亀姫「向こうの塔は、ここと同じ高さに扉があって、塔の土台はただの石積み……つまりこの消えた渡り廊下だけが、入り口」

近衛「大昔から使われていない塔とその入り口ってことですか…。そんなものに惑わされて踏み込まなくてよかった」

亀姫「開けたと同時に踏み出していたら、落ちて真っ逆さまでしたわね。押し扉ですのに、よく踏み込まなかったこと」

近衛「大扉を開ける度に死にそうになってますからね、もういい加減に学習しましたよ」


行きましょう、と近衛が半歩下がると
亀姫は不思議そうに首をかしげた。


近衛「もしあの塔に武器でも隠してあるのならば、多少なりとも利便を図り別の出入り口が用意されているはず。一度降りて、塔へ調べに行かなくては」

亀姫「あら、時間の無駄ではなくて?」

近衛「…まあ確かに、崩れた通路でさえ放置されているのですから、あまり重要なものがあるとは期待できないでしょうが…」

亀姫「バカねぇ。下に出入り口なんて造られるわけがありませんわ」

近衛「え?」


亀姫「神族は、飛べるのですから。もしあの塔に何かあるなら、この通路は故意に落とされたに決まっていますわ」

近衛「っ!!! そうか、神族以外を立ち入らせない為には道を落としてしまうだけでいい…!」

亀姫「少なくとも飛べない者…それこそニンゲンや魔族の大多数は入りにくくなりますわね」

近衛「……通路がない時点で、怪しさも充分ってわけですか」



亀姫「さて…翼のない私達は、一体どうやって空を飛びましょうか?」

近衛「ふむ…そうですね。ナイフに紐をつけて投げて渡し紐にするとか?」

亀姫「この距離にこれだけ風の強さ。減速して落下…届いたとしても石造りの塔に確実に刺さるとは思えないですわね」


近衛「亀姫様の結界術を足場に転用するというのは可能でしょうか」

亀姫「魔素の結界ですから、浄気を持つものならともかく 私達の身体を弾いて支えるだけの足場にはなりませんわ」


近衛「…ではやはり、いっそ塔の足元から登りますか」

亀姫「近衛、あなた真面目に考えていらっしゃって? 下を覗いたでしょう。塔の足元は大きな堀になってますのよ」

近衛「亀姫様は、泳げないのですか?」

亀姫「あの怪しすぎる堀に飛び込んで泳ぎ渡り、塔へしがみつくの? 私、泳ぎは得意ですけれど嫌な予感しかしませんわ」

近衛「予感……ですか」


亀姫「確かめたかったら堀に入って確認してくださいませ。あれが聖水の堀だったとしても、ニンゲンのあなたなら生き残れるかもしれませんわ」

近衛「聖水…。あの、この石が聖水に浸けて壊れた時点で自分は死ぬんですが…。それならばまだ、結界をお持ちの亀姫様の方がまだ生き残れるかと」

亀姫「聖水の中で保つだけの濃い結界を貼り続けながら、泳いでいって壁を登れとか。案外と鬼畜ですのね、近衛。そんなに私の必死の喘ぎ声が聞きたいのかしら」

近衛「い、いえ。よく知らないものですから…軽率でした、お許しください」

亀姫「案を出せばいいってものではないのよ。真面目に、考えて頂戴」


近衛「……では。空を飛べる魔族はいませんか」

亀姫「確実な方法ね。飛べる魔族自体はたくさん居ますわ。だけどその多くはハーピーや淫魔などの非戦闘の種族ですの。誰か来ていたかしら……?」

近衛「戦闘向きの、空を飛ぶ一族に心当たりは?」


亀姫「………攻撃力を誇り、空を舞い、戦闘となれば他の追随をゆるさない一族がいらっしゃいますけどね」

近衛「ならば、もちろんその方たちは来ているのでは」

亀姫「いいえ。誰一人として参加されていないはずです。……竜王様の一族ですから」

近衛「………そうですか」

亀姫「せめて朱雀の末裔でもいたら良かったのですけれどねえ…。私達を運べるほどの者は、来ていないのでは」


近衛「……真面目に考えてもいい案になりませんでした。申し訳ありません」

亀姫「うふふ。渡れないし飛べないのであれば………」


亀姫「あとはもう……運を天に任せて、落ちるしかないのでは?」

近衛「………はい?」


悪戯すぎる微笑みが、亀姫の本気を語っていた。



――――――――――――――――――

天空宮殿7階 


ガシャーーン……!!


他のものより大きな翼をもつ神族だったが
魔王が数発の魔力弾を打ち込み、獣王と群れが飛び掛るとあっという間に臥せてしまった。
獣達は群がり、それを踏みつけ噛みちぎり、死を確定させていく。

神族が動かなくなったのを確認してから、魔王は手にしていた刀を鞘に収めた。
結局、あまり刀は使わないままここまできた。そのおかげでかなりの魔素を撒きすぎたらしい。

消耗と疲労を感じた魔王は足を止め、窓を見る。


魔王「 随分と高いな。どれだけ登ったか」

獣王「6つの階ヲ登った所ダ」

魔王「ほう、そんなものを数えていたか」


獣王「外にも居たようなオオきい神族が、各階に一匹ずツ。覚えやすイ」

魔王「 ………それは気づかなかったな」

獣王「少し大きくて印象に残る程度デ、言うほどには強くなかったからナ」


魔王(やはり、何かハメられているな…これだけの場所まで踏み込んでも、手を変えてこないとは…)


獣王「魔王サマ?」

魔王「まあ、いい。まだもうしばらく上かもしれぬが、特に濃い浄気を感じる」

獣王「テッペンに…神が、いル?」


魔王「ああ。……そこを目指して、討つのみだ」




すみません、スレ保守程度にこれだけです。あまりの停滞なのでsageで。
現在、完結まで一気に書き溜めています。
いつかはともかく、次回で全部投げられるようにがんばりたいです。

今日の日付で保守が…。嬉しい、ありがとう
いっぺんは無理だけど、もう1ヶ月とか投下間隔開けないでイけます。ありがとう


―――――――――――――――――――
天空宮殿 6階


近衛「落ちるって…こういう事ですか」


近衛と亀姫がいるのは、6階の大廊下
――先ほどまでいた場所とよく似た廊下だ。


亀姫「魔王様が神族を倒しておいてくださったおかげで、あっさりと上階にあがれましたわね」


ここでは魔王による戦闘があったのだろう。

崩れた壁や割れた窓ガラスを脚で蹴りどかし、外を覗き込む。
眼下には、先ほどの塔の屋根が見えた。



近衛「下に屋根が見えるとはいえ、飛び降りて落下中に飛距離を稼ぐに充分な高度とは思いませんよ…。ただ真下に落ちてしまうのでは?」

亀姫「そうですわね。そして、ここからただ落ちたら、むしろ強く堀にたたきこまれるでしょう。……雲の下まで突き抜けてしまいそう」

近衛「雲の下まで…。せいぜい数十メートルのつもりが実は何百キロの高さだなんて。笑えません。……本当にここから落ちるおつもりですか?」

亀姫「あら、もちろんそのまま落ちたりしませんわ。……翼を持ち、滑空するのです」

近衛「翼…?」

亀姫「ええ。たくさんありますでしょう?」


亀姫が指差した先の通路には、魔王達の倒した神族の骸が点々と転がっていた。


近衛「………まさか…」

亀姫「察してくださって助かりますわ。さ、取っておいでなさい。ああ…首と腕と、胸下は要りませんわ。邪魔ですもの」


あっさりと言ってのけた死体損壊令に、近衛は躊躇する。
……神殺しだけでも罪深く感じたのに、まさかその遺骸を弄ぶ事になるとは。


亀姫「私の分と坊やの分で2体ね。あまり硬直していない、翼の綺麗に残った骸を選んで頂戴。……これなんてどうかしら?」


亀姫が扇で指し示した遺骸は、身体の中央が瓦礫の破片に穿たれている。
壁に打ち付けられて死したのだろう。崩れた身体は壁を背に座り込んでいるように見えた。
大きく広げられたままの翼が、最期の瞬間の衝撃を語っている。


近衛「―――…」

亀姫「近衛?」


躊躇している場合ではない。
ここは戦場で、自分は魔王の近衛。討った敵の首を刎ねることなど初めてではない。

――拷問にかけ生きたまま耳を刎ねるよりは、余程楽なものだ。
そう自分に言い聞かせて、目を閉じて深呼吸をした。

目を開き、件の死骸に近寄る。

警戒しながら翼に触れてみたが、その身体は既に浄気を失っており、神族というよりは…ただの、鳥の死骸に見えた。


近衛(……鳥…か)


魔王が最初に斬り落とした腕を思い出す。
あの時は、ただの木の枝のように見えた。……ソレに比べれば、これが元生物に見えるだけ正気を保っているのだろう。


ゴジュ…ジュブ…。
ガツッ……グッ、バキャッ、ダンッ。


ナイフは胴体に差し込まれると、一瞬のうちに大剣化して深くまで裂き入った。
その感触を確かめてから、”ゆっくりと” 力を込めて引き下ろし…二分した。

大きな種の入った果実を、割るのによく似ている。
もちろんこれは種ではなく、骨なのだろうが。


亀姫「……一息に斬り捨てればよいものを。まさか肉斬りの趣味がおありなの?」


多少の嫌悪感を浮かべた様子で、亀姫は問いかけてくる。
誤解をされてはたまらないが、そう見えても仕方ないだろう。近衛は苦笑し、弁解する。


近衛「いえ。こうすれば、“怖ろしく生々しい作業だ”と、吐き気のひとつも催すかと思ったんですよ」

亀姫「おかしなことを。近衛、あなた吐きたかったんですの?」

近衛「…それこそが、この神族への供養になるかと。生死の尊厳を確かめ、彼の死を悼ましく感じるかと。…ですがなんだかんだ言って、容易く斬れてしまいましたね」

亀姫「……はぁ。つまらぬことを仰いますのね。元より私たちが見つけた時点で、これはただの死骸ですわ」

近衛「そうだとしても、彼を斬ることは残酷で冒涜的な行為だと思ったんですが。…ただの、偽善だったようです」

亀姫「悼むべきは死ではなく、生の在り方と失われ方ですわ。戦場で失われた生を悼むなど、却って欺瞞。誇りを穢す行為と知りなさい」

近衛「自分はもともと、戦場の心得など知らぬ弱い人間でしたから。奪われた生を見て悼むのが、人間らしさと思っていましたよ」

亀姫「…そうでしたの。でも今は戦場に生きる魔王の配下でしょう?」

近衛「……ええ、そうでしたね」


亀姫は近衛の側に近寄り、そっと頬に触れた。
近衛は泣いてはいなかったが、亀姫はそれを拭うような仕草でもって近衛を慰めた。


亀姫「…酷い顔をしていますわ。何を悔やんでいらっしゃるの? 何に戸惑う必要があると?」

近衛「はは……。そんなに、ひどい顔をしていますか?」

亀姫「ええ…」

近衛「…なんでしょうね。神や陛下たちとの力量差を感じるうちに、自分が人間なのだと実感しました…。だからこそ、自分は人間らしくありたかったのかもしれません」

亀姫「お馬鹿な子…。そう心苦しくなるのでしたら、今更ニンゲンらしくあろうとするのはやめてしまえばよいのに…」

近衛「魔族もどきの人間。人間らしさを捨てたところで魔族になれるわけでもなく…。人間らしさを失った自分は、一体何になるのでしょう…?」

亀姫「それは……」


ザッ――


亀姫の回答を待たず、無表情のままで目の前の骸の首を刎ねた。
形だけの哀悼も、自分を試す為の残虐な行為も、無意味だと実感した。

切り取った翼についた小さな胴体を拾い上げ、検分し、余分を削る。
これくらいなら抱えて滑空するには都合がいい。きっとあの屋根まで届くだろう。
周りを見渡してちょうどよい翼を見つけ、亀姫の分も用意した。


近衛「さあ、行きましょうか」


振り向いた近衛の手に乗せられた、血の滴る肉塊から生えた翼。
それをにこやかに差し出す近衛の姿は、先ほどまで思い悩んでいた者とは思えない。


亀姫「……え、ええ」


近衛が作り笑いの不自然さでも見せていれば――
あるいは僅かにでも恍惚の表情を浮かべていれば、まだ理解もできただろう。

だが、近衛はただ瞬時のうちに様変わりをしたように見える。
どんな残虐な行為よりも、その切り替わりが得体の知れぬ怖ろしさを感じさせた。


先ほどの近衛の疑問には、答えられそうにない。
『ただの半端者になるのですわ』……そう答えれば、近衛は安心したのだろうか。


亀姫(…駄目ですわね。そんなこと、今は白々しくならないように言える気はしませんもの--)


――――――――――――――――――

――謎の塔、屋根の上…

……………
………


ビュゥゥ…ザッ!


亀姫「っ、きゃっ!!」

近衛「亀姫様!」


先に屋根の上に降りていた近衛が、滑り落ちてきた亀姫の抱える翼を掴む。
すぐさま反対の手で亀姫の腕を掴み、引き上げた。


亀姫「…っはぁ。助かりましたわ」

近衛「最後の着地で滑るとは……自分も一瞬、気を抜きかけた所でした。無事でよかった」

亀姫「ごめんなさいませ…あまり足元の安定は得意ではありませんの。屋根の上まで届いたなら、転げ倒れて着地するつもりだったのが仇になりましたのよ」


本当は着地の際、近衛に対して僅かに感じてしまった恐怖心を思い出し、動揺して足を滑らせた。
だが、受け止めてくれた近衛は普段どおりの近衛だ。
律儀な仕草で亀姫を屋根の上に座らせ、自らはその足下、滑り止めとなる位置に回ってくれる。


近衛「それならそうと、何故それを先に………あ、ええと、その。……いえ、その脚では仕方ありませんよね」


叱責するような口調から一転、誤魔化すように苦笑して目を逸らす近衛。
亀姫はようやく自分の着物の裾がひどくはだけていることに気付き、慌てて引き寄せた。

…先ほどの廊下で感じたのは錯覚なのではと思うほど、“いつもの坊や”だった。
危うく死に掛けたこともあり、亀姫はおおきく息を吐いて気を取り直す。


亀姫「……ごめんなさい、不快なものを見せましたわ。もう隠しましたから安心なさって」

近衛「不快だなんて。想像以上に艶かしかったもので、目のやり場に困っただけです」

亀姫「………近衛については、単に適応力が異常なだけだと思うことにしますわ…」

近衛「え?」


亀姫「さ、それより早く中へ」

近衛「あ、待ってください」

亀姫「何ですの? ロープ代わりの布ならきちんとこちらに…」

近衛「いえ。足元に自信がないのでしたら、ロープで外壁を伝い、大扉まで這うのはお辛いでしょう。屋根を破りましょう」

亀姫「この屋根を? 破れますの?」


近衛は屋根の上を何度か踏み比べて歩き、足元の反響を確かめる。
それから屋根の中腹のあたりで、立ち止まった。


近衛「亀姫、こちらへ。本来ならば、離れて…と言うべきなのでしょうが、少し揺れるでしょうから。…自分にしっかりとしがみついていて下さい」

亀姫「え、ええ。滑り落ちては元も子もありませんものね」

近衛「この屋根、さすがに一撃では厳しいです。三撃は行きますよ……――っ、はぁぁぁっ!!!!」


ダガァァァァン!! がらららっ…
ドカァッ!!! バキバキバキ………
ベキャキャキャキャ……!!!


亀姫「まぁ…。細腕の割りに、意外に力もありますのね」

近衛「刀だったらまず無理です…。このナイフの特徴ゆえですよ」

亀姫「切り裂くことも、穿つことも出来るなんて…剣というのは便利ですわね」

近衛「普通の剣がどうかまでは、保障しませんよ。さて、中の様子は…」


身体ひとつ分ほどの小さな穴ができた。
中を覗き込むと、塔の中は不思議な深い空洞であった。
長い塔の内部は吹き抜けになっており、ちょうど半円の分だけに床がある。
吹き抜けを飛んで階を移動する設計なのだろう。

足元に飛び出した屋根の梁を穴に掛け、そこから紐を垂らして内部へと降りた。
半円の床の終わり、吹き抜けの始まりの部分に、梯子のようなものを見つける。

飛べない者の為に用意されているのだろうが、実際に使うには粗末過ぎる代物だ。
――実際、朽ちた梯子の所々は段が無くなり、ただの棒になってしまっている。


近衛「自分が先に降ります…1階ずつ互いに待ちながら、順に降りましょう。無理ならばそう仰ってください」

亀姫「心配はご無用ですわ。棒なら…巻きついて降りられますもの」

近衛(…滑り棒…。むしろ自分は待ってもらえるのだろうか)


シュルル…ギシッ、メシ…シュルルル… 


亀姫「近衛。底に、何かいますわ」

近衛「あれは…?」


近づくにつれ姿が明瞭になっていく。
ずっぽりと被った薄汚れたローブ。あたりに舞い散った羽と、羽の剝げ落ちた翼……

ある程度の高さまでいくと、近衛は一息に飛び降りた。
ナイフを構えて近づいてみるが、うずくまった姿勢のそれは動かないままだ。
シュルリ、と背後に降りた亀姫の気配を感じたところで、指示を仰ぐ。



近衛「神族と思われます。…何か聞き出しますか、それとも倒しますか?」

亀姫「……というよりも、既に死んでいるのでは?」


?「生きて…おります……。謀叛の罪を着せられ……ここに、閉じ込められておりました…」


近衛「!!」

亀姫「!」


ゆっくりと顔を上げたのは羽の傷付いた天使だった。


神従者「……ワタシは神従者と申します」

近衛「神従者さん、ですか。ここに閉じ込められていたと……?」

神従者「はい。………あなた方は…見たところ、人間のようですが…?」

亀姫「あら、そう見えて? でも残念ですわね。私も、この子も……魔族ですわ」

近衛(………亀姫様…)



神従者「ああ。そう……魔族、ですか」

亀姫「驚きませんのね」

神従者「そそのかされ、天界を滅ぼしにきたのでしょう?」

近衛「え」


亀姫「……閉じ込められていた割に、まるで事情を知っているかのごとく当たり前におっしゃいますのね」

神従者「ええ。ワタシは、魔族を逆撫でし天界へ差し向けた罪で、翼を毟られここに投げ捨てられましたから…。魔族が来る可能性を知っていました」

近衛「!! 貴方が……戦争を仕掛けたということですか?!」

神従者「ち、違います! 全ては神のした事…! ワタシはその神の業を着せられたのでございます!」


縋るような目で、自らの無実を訴える神従者。
亀姫を見ると、気の抜けた溜息をついていた。指先を軽く丸め、近衛に構えを解いてよいと示してくる。

隠し武器のひとつもあるかとおもえば、ただの監獄。
神の意図を確証できたのはよい収穫だが、時間の惜しい時に面倒そうな人物に絡んでしまった。

近衛も期待はずれに溜息をつき、目の前で縋っている神族を見下ろした。
敵の敵は味方…とはいかない。だが、斬り捨てるにもあまりに哀れな存在。


亀姫「この神従者。“保険”といったところかしらね」

神従者「ぅ、あぁぁ……っ」

近衛「保険?」

亀姫「全てを魔族のせいにするシナリオ…だけれど万が一にも失策があっては困る。そうなった場合、“全てを彼の責任にする”という、保険」

近衛「それはつまり、“こちらに裏を読まれて行動されてしまったときの裏の手”ということですよね? そこまでしますか…? 単にこの者が嘘をついて言い逃れしているのでは…」

神従者「…っ! そんな、ワタシは決して嘘など…!」

亀姫「本当に謀反を企てて戦争を起こしたのが彼ならば、私達が乗り込んできた時に、神はまずこの方を私達に差し出して弁明すればよかったのですわ」

神従者「…! そう、そうです! 神がそうしなかったことが、ワタシが嘘をついていない証拠でございます…!」

近衛「……ここに隠しておいて、分が悪くなった場合に出す“罪人代理”ですか」

亀姫「神の分が悪くならなければ、誰にも知らせず殺される…。必要時には生々しい死を演出するために生かされているだけの、死刑囚ですわ」

神従者「………っ。は、い…。もう、生きてまともに口を利くことは無いと、そう思っておりました…」


近衛「……くそ。この戦争、見えない部分のやりとりが多すぎませんか。ただの斬り殺し合いよりも、タチが悪いように感じます」

亀姫「目に見えるものに惑わされず、見えない真意を読み…そこに対応しなければ勝てません。どのような戦であれ、勝機を得るにはそれくらいの策謀は必要ですわ」

近衛「もしも相手の策を、読み間違えたら…?」

亀姫「嵌められて、掌で踊らされるのですわ」

近衛「……神は本当に、自分達を盤上の駒としか思っていないのか…」

神従者「………そ、それでも…それでも、神の知略に負けてはいけません…っ。神の策に嵌っては、あの子のようになってしまう……っ」


目を見開いたまま顔を覆う神従者は、怯えた様子で身体を震わせながら呟いた。


亀姫「あの子、とは?」

神従者「我が娘…。大事な、一人娘でございました……っ!」

近衛「娘…ですか」

神従者「あ、あの子は…純粋無垢な我が娘は、神に騙され堕とされたのです…っ」

神従者「いえ、今思えば…私の安否を確認する可能性のある娘は、最初から狙われていたのかも…! 怖ろしい…あ、ああああ…っ!」

近衛「堕とされた…? 落ち着いてください。それは一体…」


亀姫「……近衛。堕ちた天使の娘といえば…もしやあの娘ではなくて?」

近衛「……ではまさか、天使殿の…?」


亀姫は、パラリと扇を僅かに広げ、近衛に口を寄せて囁いた。
口元を隠してそっと告げた意見だったが、近衛は動揺したのか普通の音量で返答してしまい……神従者の耳に、入ってしまった。


神従者「娘を知って…!? 教えてくれ! 教えてください!! 娘は…あの子は今、どうしているのです!? まさか…!!」

近衛「じ、自分の知っている天使の娘の事であれば、大丈夫です」

神従者「! あなた方は魔族…つまり、あの子は魔族に捕まっているのか?! 」

近衛「そ、それはそうですが。ですが天使殿は無事で……」

神従者「それではわからない、ちゃんと答えてくれ!!!」ガシッ

近衛「まっ… あまり近づかないでくださ――…!


亀姫「落ち着き遊ばせ」スッ…


バシッ!!


神従者「ぐっ!」

近衛「ッ」



亀姫が術を行使すると、神従者と近衛はお互いに跳ね飛ばされるようにして離れた。
結界が二人の間に展開され、無理に引き離したのだ。


亀姫「…落ち着いてくださいまし。あなたがあの天使の父親だとして、今のところ娘の心配は不要ですわ」

神従者「な、何故そう言い切れるのです…!」

亀姫「あの天使でしたら、今となってはこの神界よりもよほど…いいえ、この世界の中でもっとも安全な場所におりますもの」

神従者「なにを… そんな場所が、どこにあると…?」

近衛「………魔国・魔王殿。その中にある魔王陛下の御社殿。そこで誰一人の手出しも許されないまま、守られております」

神従者「――………な…っ」


蒼ざめ、口を閉ざした神従者。
亀姫はパラリと扇を広げ、まっすぐにその目を見つめる。


亀姫「ですが、陛下がこの戦に負ければ、あの娘は魔王殿の中央に取り置かれることになりますわ。陛下の結界も寵愛もなしに、生き延びることは叶わないでしょう」

神従者「ひ…っ」


亀姫「…私達は、神の策謀を出し抜くための材料をさがしていたところですの…。ねえ、貴方、何かご存知ではなくて?」

神従者「そ、そんな。いくら神に欺かれ恨みを述べようとも、魔族に神を売り渡すなど出来るはずが……!」

近衛「……売り渡すことになるような何かを、ご存知なのですね?」

神従者「!」

亀姫「時間もありませんし、誘導したり拷問にかけて吐かせる真似もできませんの。自分で決めて答えてくださいませんこと?」


亀姫「神と魔王…… どちらが勝つほうが、貴方にとって都合がいいのかしら?」

神従者「そ、れ……は…」

近衛(………)



目を泳がせ、ぶつぶつと懺悔の言葉を繰り返していた神従者。
見限って立ち去ろうとする亀姫を見ると、慌ててその背に縋りついた。


神従者「お、お教えしましょう…。神の策を。私に科せられた罪の仔細を……――ですからっ」

亀姫「……ええ。私たちの陛下なら、必ずや神を討ち、生き残ってくださいますわ」

神従者「ぁ、ぁぁ……」


胸の前で硬直して鬱血するほど堅く組み締められた手は、ガクガクブルブルと震え続けていた。
--その祈りは、贖罪は、神を裏切る決意の表明にほかならないというのに



―――――――――――――――――――――――――――

天空宮殿・最上階
――天守閣


ドガシャャアアアアアアアアアアアアアアアン!!!!

それまでと違い、階段のあるべき場所には荘厳に飾り立てられた大扉があった。
見事なステンドグラスがその両扉にあしらわれていたが、
何を描いたものか確認する間もなく獣王が扉を押し開け、無残に床にガラス片が散らばった。

獣王「グルル……」

魔王「………広いな。それに、開けてみるとわかる。この先に――いるようだ」

獣王「先ニ行ク」

魔王「ああ。構わぬが、浄気が強い。無理はするな」


身を低くして、ガラスの散った床を跳躍していく獣の群れ。
魔王は道を譲り、足元に散らばるガラスを眺めていた。

左右に描かれた印象の違うステンドグラス。
ひとつは、おそらく神族…創世主を描いたもの。
そしてもうひとつは、魔族…地獄の化身と呼ばれた初代魔王に見えた。


魔王(……だとすれば、何故、神の間に魔族の姿絵が…?)



神にとって、魔族とは忌々しいものだろう。
その姿絵を神聖とされる神の間への入り口に飾るものだろうか。


魔王(……たとえば、救世の姿を描いた神に対比させ、地に堕とされる魔族を描くならわかる。だが、先ほど見えたこれは、どちらも同じような立ち姿)

魔王(……ただの悪趣味ならばよいのだが。神族が魔族をどう思っているのかなど…ここにきて想像するのは苦いものがあるな)


ガシャ…ギシ。

砕けた硝子を踏みしめ、魔王は階段を登る。
バサリとマントを広げなおし、腰元の刀を据えなおす。

階段を登りきった先は、宮殿の横幅いっぱいに広がった廊下。
その中央にある大扉の前、左右に広がった獣達が 魔王を待っている。


コツ、コツ、コツ……
グルル……


魔王「ほう。……さすがここまで来ると、漏れ出す浄気が多いな。開けられなかったのか」

獣王「……グルル」


獣王は、僅かに目線をそらして低く唸る。
その様子はつい先ほどまでの好戦的な獣の目をしていない。

魔王はそんな獣王の毛並みにそっと手を這わせ、忠実な臣下の様子を伺った。


魔王「もしや、言葉を語るのもつらいのか? 魔素の維持に集中せねばならないような状態で、戦にはならない。退いてよいのだぞ」

獣王「退かヌ…」グルル

魔王「本能が、ここを開けてはならぬと告げているのだろう? 獣のそれは強いと聞く。無理をする必要など――

獣王「ガウルルル!!!!!!」

魔王「くく…。あまり撤退を強いては、噛みつかれそうだな。しかしこの浄気の強さ、これ以上には後続の者は連れて行けない」

魔王「戦略的撤退も時には必要だ。列を離れる一団の指揮を取る役割を与えよう、退がるがよい」

獣王「ガル……」


獣王は一声唸ると、僅かに頭を垂れた。
それから猫さながらのしなやかな仕草で、背後にいた一回り小さい銀色の獣に並ぶ。

獣王がその首に自らの首を沿わせると、
銀色の獣も同じように獣王の首にすりあわせる
ぺたりと座り込んだ銀色の獣の周囲を、身体を擦り付けながら一周。
それからもう一度首を絡めあわせると…今度は、獣王が座った。

直後、銀色の獣は大きく吼え―― 他の獣も揃い、吠え出した。

ァオーーーーン…
ワオー… ワオーーーン…!!


魔王「……?」


獣王が、座ったままで短く吼える。
すると銀色の獣を筆頭として、獣達は吼えながら跳ね飛んで階下へと消えていった。
数匹の体躯の大きな獣だけが残り、黙したまま扉を見据えている。


魔王「…一体、何をした?」

獣王「族長ノ位を譲っタ。あのままでハ、戦えなかっタ」

魔王「ふむ…? ここまでの間、どいつも命令に忠実で勇猛に戦っていた。……お前の足手まといになるとも思わなかったが」

獣王「あア。ならなイだろウ」

魔王「では、“戦えなかった”というのはどういう意味だ?」


獣王「……ここを開けれバ、それだけデ死ぬ仲間がでル…。手を出せないどころか、足手まといにもなれズ、戦えないまま死ヌ…」


獣王「その無念ヲ見届けながらでハ、オレが冷静に戦えなイ」

魔王「……なるほど。ではここに残ったのは、扉を開けても生きられる者たちか」


獣王「ここに残ったのハ…“例え死を前にしても、強さを示せる者”ダ」


獣達は、身体を低くして唸り続けている。

例え即死しても、それを誇りに代えられる者。
――臆して逃げ帰る姿を見せるより、最期まで強さに生きた姿を見せる者。
濁りも迷いもない瞳は、確かに自らの生き方に ―死に方に― 疑念を持つことはないのだろう。


魔王「……先ほどの、銀色のは何者だ?」

獣王「妻。ここに残れない者ヲ鍛えなおす為ニ。魔国に残る仔らに強さを教える為ニ、離れタ」

魔王「……族長を譲ったのは、おまえも死を覚悟したからか? 最初から死ぬつもりのやつなど、この先には――」

獣王「違ウ」

魔王「…?」



獣王「『我等は集団で生きル。いかなるときも強く導かねば、混乱が起きル。統率の乱れこそヲ、何よりも愚と考えル』…前ニも、言っタ」

魔王「…ああ、なるほど。 神の間の目前で、かざした意思を違えたお前では示しがつかぬ、と」

獣王「“全員で魔王サマの盾になる”と言ったからナ」

魔王「……しかし解せないな。もともと、お前たち獣は不利な状況で深追いなどしないだろう? その判断は過ちではない。本当に生きて帰るつもりならば、族長を譲る必要など――」

獣王「……あいつらがここから逃げ出す為ニ、“族長命令”の強制力は必要だっタ。先頭に立ち率いなけれバ、一匹として逃げ出せないだろウ」

魔王「……死に怯んだからとて、“統率を乱す愚”を冒すほどの者は居ないということか。……よい一族ではないか、獣王」


遠くからいまだ微かに聞こえる、獣の遠吠え。
そろそろ宮殿の外にまで出ただろうか。


魔王「それにしてもよく吼える…。あれは何を意味しているのだ」

獣王「……ただノ遠吠えダ。仲間ヲ呼び集メ、一箇所ニまとめル合図。他の後続種モ共に下げるのだろウ」

魔王「そうか。……では、そろそろ開けるが構わないな?」

獣王「あア」


魔王は手元に魔力弾を練りだしていく。
魔素で扉を打ち破ることで、噴出するであろう浄気を抑えるためだ。
だんだんと大きくなる魔力弾を皆が見つめていると、魔王がふとつまらなさげに呟いた。


魔王「おい……獣王、そしてそこの獣達。戦の前に、ひとつだけ命令しよう」

獣王「……?」


魔王「新族長が仲間を呼び集めているのなら、あとで必ず行け。……俺に付き従うのが種族の統率を乱す愚か者ばかりとなれば……魔王の沽券に関わるからな」クク

獣王「……そうだナ。了承しタ」

魔王「では―――」



ドォォォォォォ………ン……ッ…!


重厚な扉の下部を抉り取る魔力弾。
扉と、中に埋め込まれていたであろう蝶番は自重に耐え切れず、崩れ落ちる。

巻き上がる石埃と魔素。そして扉の奥から吹き上げてくる浄気――
一瞬でその場は白い靄に包まれ、一同は嵐のような気の奔流に巻き込まれた。



…………
……………ガラン…ゴトッ


靄が晴れるころには
扉だけではなく入り口付近の壁も圧によって瓦解していた。

その部屋の中央に、まっすぐに立つ影がある。



魔王「お前が神か」

神「―――ああ。待っていたぞ、魔王」


光のように、透ける白髪。
色素をもたない端整な顔立ち。
石膏よりもなお“鮮やかに白い”、豊かに広げられた翼……


魔王「まさか、女性神だとは。……神族の兵が手ぬるいのはそのせいか?」

神「この神界に兵など居ない。皆、本来は何かを守り慈しむために存在していた」

魔王「ほう。……では、お前も同じように手ぬるいのだろうか」


神「確かめてみるがよい。……神の持つ、守る力の強さを」


滑らかな白絹を纏った細腕が、ゆるやかに伸び上がった。
差し出し、相手の手を求めるように。そっと包み込むような握手をするような仕草だった。


神「――そして、我が剣の前に降伏するがいい」



気がついたときには、魔王の心臓位置をめざして正眼に構えられていた。
剣を持っていることすら見落とすほどに、刃の見えない透明な剣が握られていた。


魔王「……クク。確かに予想外のこともあったが…」


魔王「この戦は仕掛けられている…というのは、予想通りだったようだ」クク


シャッ…――


一瞬の抜刀。
魔王はそれと同時、低く跳ねて剣先から逃れる。
獣達も、床を強く踏みしめて飛び掛かっていく。


カ ィーーーン…ッ……


鉱物を金属で打つ、特有の音程。
剣と刀を合わせるたびに空気を振動させるその音は、
部屋中に波紋のように響き渡っていった―――

すみません眠い

――――――――――――――――――――――――

天空宮殿――宮殿前


目の前にある大宮殿の入り口。
先ほど、魔王たちと別行動を取ることにしたその場所まで戻ってきた。

近衛は腕に神従者を抱えて、亀姫は周辺警戒をしながら走ってきた。


神従者「そこの入り口では駄目です、手前にある小さな噴水の所へ!」


神従者が指し示した場所に、入り口を飾るための“置物の噴水”があった。

正確に言えば、噴水を模した彫像。
実際に水は沸いておらず、甕を肩に乗せた天使の足元に円形の桶があるだけだ。
周囲には花とも草とも言えぬ、綿のような植物が植え込まれている。

近衛が彫像の前で止まり神従者を降ろすと、神従者は小走りで植え込みに入っていく。



近衛「……これですか?」

神従者「この、台座の桶の部分を……っ ま、まわ…」グッ

近衛「自分がやりましょう。まわせばいいんですね?」


近衛も台座に手を掛ける。
重たい石臼と同じ感触で台座が回転すると、風化で抉れたように見えた底部分と奥にあった穴が合致し、穴が現れた。


神従者はそれをみるなり後ろ手で翼を押さえ、身を細くして穴の中へと入りこむ。
肩口あたりで膨らんだ翼が穴の縁に引っかかると、神従者は低く呻き痛みを堪えた。


亀姫「あなた、大丈夫ですの。その翼…」

神従者「はは…折れたようで、根元のほうがうまくたためません」


治療を施すべきなのだろうが、そんな場合ではない。
自分達から離れてもよいが、囚人である彼にはこの神界のどこにも居場所はない。
亀姫の治療術は魔素を用いるので、神従者には使えない――

痛々しいことこの上ないが、せめて気遣うほかに出来ることはなかった。


神従者「気にしないでください。元々、使い物にはならなかったのです。そんな翼であなた方を支えて塔を出て、まだ残っていることの方が信じられません」

亀姫「……感謝いたしますわ」

神従者「はは…。あなた方のもっていた、あの翼を使うわけにいきませんからね…」

近衛「…すみません」


話しながらも、順に穴に潜り込む。
穴は1.5m程度の深さだったが、その奥には階段があり、降りるにつれて天井は高くなった。

光は射さない。
時折、壁に蜀台を置くための窪みが見られるが、灯している猶予はないだろう。

お互いの姿を確認することも出来ないほどの暗闇。
どうしたわけか自信ありげな亀姫に先導を任せ、神従者を担いで近衛も降りることにした。


亀姫「それで…あとどれくらい進むんですの」

神従者「目的は最下層です。宮殿の中央に位置する最深部………」



神従者「――そこに、“神”が居ます」



シュルルッ…
こころなしか地を這う音が速さを増す。

等間隔の階段とはいえ、声と音の位置だけを頼りに暗闇で駆け下りる――
近衛は、亀姫に遅れを取らぬので精一杯だった。

本当に一本道なのかどうかも知れない場所。
亀姫を見失う不安に背を押され、近衛は情けない声で亀姫に呼びかけた。


近衛「亀姫様…」

亀姫「なんですの?」

近衛「本当に、自分達だけで最下層に向かっていいのでしょうか。神との戦いになるならば、やはり陛下に来ていただくべきだったのでは…」

亀姫「この者が言うのが確かならば、陛下もまた最上階の天守閣で戦闘となっているはずですわ」

近衛「それはそうですが…。もし戦闘になるより先に陛下にお知らせできれば…」

亀姫「戦闘になるより先に着けばね。ですけど、もし間に合わなければ最悪の事態ですのよ」

近衛「……神魔戦で、その大将首が偽者だなんて。悪い冗談としか思えませんよ」

神従者「ですが本当なんです! 最上階にいるのは確かに神族ですが、それは偽物…! 攻撃力に長けた戦神なのです!」


亀姫「この神界に、戦神なんてものがいるとは思いませんでしたわ」

神従者「…普段は神の補佐をしているだけの、目立たぬ者です」

近衛「補佐…側近のようなものでしょうか?」

神従者「そうですね。護衛であり、側近であり…そして神に万一があれば、その者が一時的な後継ともなります」

亀姫「では、その方は偽者といっても“次代の継承者”ですのね」

神従者「いいえ、代理となるだけ。……神に万一があった時には子を宿し、その子を守りながら、神に育てるのです」

近衛「……戦神とは、女性神なのですか」

神従者「はい。その役割から、ワタシ共は彼女を戦神妃と呼んでいますが――


亀姫「! 止まって、静かに!!」


突然、亀姫の制止の声が響く。
急停止した足は少し滑り、段を踏み外すぎりぎりの所で止まった。崩れたバランスを取るために神従者を降ろすと、近衛も気配を探った。

耳が痛いほどの静寂の中、上方から気が流れ込んでくるのを感じる。


近衛(……浄気が流れてきた? 亀姫様は、この僅かな気を察知したのだろうか)

亀姫「……獣達が走っているようですわ。この浄気といい……どうしたのかしら、獣王は陛下とご一緒ではなかったの?」

近衛「獣…?」


亀姫「ええ。足音ではないのですけれど、その振動を感じますの。浄気にやられた獣が撤退したのかもしれませんわ」

近衛「では、陛下と偽者…いえ、戦神妃の戦が始まってしまったのでしょうか」

神従者「! なんてことだ…状況を確認している場合でもありません、急ぎましょう!」

近衛「待ちなさい、あなたが走るより自分が担いだほうが早い! よく見えぬのです、こちらへ!」

神従者「あの戦神妃の力は本物です……! このままでは魔王は絶対に負けてしまう! 早く!」

近衛「!」

亀姫「ともかく駆け下りますわ。近衛は黙ってしっかりついていらっしゃい。神従者、あなたはその間に説明してもらいますわ」


亀姫「――陛下が絶対に負けるだなどと……ただの侮辱でしたら、許しませんのよ」



ッシュルルルル・・・!!!
ザッザッザッザッザッザッ・・・・・・!

更に速度を増して階段を下りる。
もう既にかなり降りたように思うが、前も後ろも見えない暗闇の中で距離の感覚は鈍い。

近衛に担がれたまま、努めて冷静に神従者が説明を始めた。


神従者「……あなた方は正面から、神族を討ってきたのでしょう?」

神従者「ですが、全てが罠なのです。快進撃ですら、神に仕組まれていたもの」

亀姫「連戦による疲弊を狙っただけではないと仰るの?」

神従者「……神族は“浄気”と“物理”のどちらで攻撃してきましたか?」

近衛(……!)

亀姫「……言われてみると、弓を射たり体当たりをしたり…物理攻撃ばかりでしたわ」

神従者「でしょうね。浄気を減らさずに、魔王に“魔素を使わせる”ことが目的なのです」

亀姫「魔素を…」

神従者「浄気を纏う天使を倒すには、魔素を当てるのが効果的。ましてや接近して攻撃しようとしてくるなら、なおさら遠距離で倒せる魔力攻撃を仕掛けるでしょう」


亀姫「……陛下は別の理由で、初めから魔力攻撃をなさっていましたわ」

神従者「初めから?」

亀姫「ええ。それに神族を倒す以外でも、余計に魔力を使っていらっしゃるはず。陛下は刀による攻撃にも優れていますもの、魔素が減れば刀で凌ぐおつもりなのかも――」

神従者「戦神妃は武力と剣技の神。 いくら腕に自信があろうと、魔力抜きで勝てる相手ではありません」

亀姫「魔王様も馬鹿ではありませんわ。神との戦をするつもりなのですから、きちんと魔力も残しているはず」

神従者「……ええ。ですが残した魔力が“十分量”に届かなければそれでいいのです」


神従者「戦神妃に、物理攻撃は通用しませんから」


亀姫「……なんですって?」

神従者「彼女は強力な加護の持ち主なのです。魔素によってその加護を弱めなければ、いくら叩いた所でダメージにならないのです」

亀姫「……いくら腕があろうと、魔素がなければ戦いにならないのね」

神従者「ええ。だからこそ、疲労を感じて魔素を温存する気にならないよう、少しでも多くの魔素を消費させるように、快進撃をさせたのです」

亀姫「……そう。だけどそれは陛下が“負ける”理由にはならないわ。勝てないだけ」

亀姫「陛下は決して戦闘狂ではありませんわ。分が悪ければあっさりと撤退を選ぶことでしょう」

神従者「その機を待って、神が地下にいるのですよ」

亀姫「……?」


神従者「浄気をなるべく使わせないまま、あっさりと神族を殺させたのはもうひとつ理由があります」

神従者「……神族が死ぬと体内から抜け出す浄気。それを一箇所に集めているのですよ」

神従者「抵抗する術を失くした魔王に、確実にとどめを刺すために……っ!!」

亀姫「――な」



神従者「神族は…っ 魔王の魔力を減らす為に慣れぬ戦場へ向かわされ…っ! 神がその浄気を取る為に、最初から殺される予定だったんです…!!」


神従者「神は! 魔王を殺し理想郷を築くために!! 人間の世も、魔の国も、この神界ですらも全てを殺し! 無くし! 創りかえるつもりなのです!!!!」


走りながら、腕の中で語られる災厄の姿。
近衛がそれに激昂するより先に、亀姫の足が止まったのは幸いだ。


亀姫「……これより先は、行き止まりですわ」

神従者「……っ! それなら、ここが入り口です……」


神従者「天空宮殿・深奥の間。この天空宮殿の基盤となったといわれる原始の部屋……」


神従者「別名、『始まりの間』です」


――――――――――――――――――――――――

天空宮殿・最上階
天守閣――


獣王「ガウルルルルァァ!!!」

神「無駄だっ! 私に噛み付こうと、その牙は決して通らない!!」

魔王「そうかもしれん。だが――」


ボウッ!!
魔王が放った魔力弾が神に触れる。
するとその瞬間、喰らいついていた獣の牙が深く刺さり肉を抉った。


神「ぐゥ――ッ」

魔王「魔力を同時に当てれば、その道理も効かぬようではないか」クク

神「魔王――ッ!」

魔王「クク……勇ましいな。剣技も見事だ。女性神でなまぬるいなどと侮ったこと、謝罪してやっても良いぞ」

神「――謝罪など……っ」


獣達「「ガウァァッ!!」」

神「~~~死にぞこないの獣が、邪魔をするな!」


ッキーーーン!
自らの脚すれすれの位置に剣を振り下ろし、足元に噛み付いた獣を斬る。
喰らいついていて無防備な顔面をやられた獣は、たまらずに声を上げ口を離してしまった。


魔王「よくやった、お前たち」


剣を完全に振り下ろしきった隙をついて、魔王が神の懐近くまで跳躍する。
あまりの勢いに、体当たりと見間違う。
魔王の身体全体に纏わせた魔素が神に触れる距離まで近づくと――


神「……!」

魔王「――」


斬るというよりは、刺すに近い攻撃だった。
魔王は確かに優勢だったが、神の剣技が魔王を超えているのには気付いている。
優勢で居られるのは、がむしゃらな獣達が作る“時間”のおかげだ。

神だけに注目し、頭と身体を使える魔王に対し
神は獣の分も動きを計算しなければならない。

その僅かな演算速度の差が、魔王の優勢を支えている。
だからこそ、斬りつける為に刀を振る一瞬の時間ですら与える余裕はなかった。



神「っ、カハ…ッ…!」

魔王「ちっ!!」


魔王の刀は確かに神に刺さった。
だが即時に浄気を噴出され、魔王は抉ることも払うことも出来ぬまま後方へ跳び逃げる。


神「………っ」

魔王「ただ穴を開けただけだが、少しは効いたようだな」

神「魔王、らしくない戦い方を…っ しやが、って……っ」

魔王「……らしくないだと? どんな攻撃をすると思っていたやら」


神「な、ぜ……私を、殺す気にならぬのだ…っ」


魔王「…………っ」


獣王「グル…… 魔王サマ…?」


言葉に詰まった魔王を、訝しげに獣王が見つめる。
魔王は改めて構えを取り、神を見据えながら獣王の不安を払拭してやった。


魔王「勘違いするな……殺す気がないわけではない」


神「ならば、急所をはずし甚振るのが目的か…!?」

魔王「クク、おかしなことを」

神「ではなぜ……!!」

魔王「逆に問おう」


魔王「おまえは何故、既に死を決意しているのだ?」


神「……っ」


魔王「確かに目を見張る剣技だ。だがあまりにも豪胆すぎる」

魔王「勝って生き残ることを見据えた戦い方ではない――相手さえ破ればよいという剣だ」

魔王「どういうつもりか知らぬ。知らぬが、おまえが相打ちを狙っているのなら…下手に討つのも討たれるのも早計だろう?」


神「……お前は…本当に、魔王なのか……?」

魔王「くく。本当におかしな質問をするな。俺が俺でなくて、誰だというのだ?」

神「だが…魔王はもっと横暴に、自分の不都合を排除していたじゃないか…」

魔王「……ほう? 魔王を知っているかのような口ぶりだな」

神「知っている―― お前は…魔王は! 我らが守り育てていた人間の世を滅茶苦茶にし、奪ったではないか!!!!」



獣王「……先代魔王サマの、人間掃討戦のことカ」

神「先代…?」

魔王「クク。成程… 俺と父君を間違っていたか。確かに俺は代が浅いからな」

神「それでは…お前は…」

魔王「残念だったな…? 誇り高く、強き賢王と謳われた父君は既に魔王ではない」

魔王「“魔王らしく誇り高い戦闘”など―― してやるつもりはないぞ?」クク…

神「な……」


魔王「くく。つまらぬ誤解に余計な詮索をしたようだ。どういう理屈かわからんが…つまり俺は俺らしく、魔王らしくない殺し方をしていればよいのだな…?」

神「ま…待て…っ!」

魔王「クク。自らで仕掛けた戦だろう。策を間違えたからといって、今更命乞いなど――


神「お前は! 現魔王のお前は―― 我ら神族と話をするつもりはあるか!?」


魔王「…………なんだと?」

獣王「魔王サマ! 神族の話などニ耳を傾けてハならなイ!!」

神「我らは、その獣のように、魔王も話を聴かぬものと思っていたのだ!!!」

獣王「ガゥルルル!!!!」


魔王「獣王、待て…」


騒ぎ立てる声を聞き、鬱陶しそうに目を細めた魔王。
諌めるために低く出した声に、獣も神も目を向けている。


魔王「ククク、もちろんこれも策である可能性は大きい」

魔王「だが、神の嘆願を魔王が聞くなど… なかなか面白いではないか? 天使への土産にもなろう。聞いてやってもよいと思うがな」

獣王「魔王サマ!!!」


魔王「……それに、あのステンドグラスの事も腑に落ちないでいた」

獣王「ステンど…グラす…?」

神「魔王と神を描いた2枚のガラスだ…聞いてくれるのであればそれについても説明しよう」


魔王「クク…好きに語るがよい。いつ俺の気が変わってお前を殺すか保証はしないが、それまでは聞いてやるぞ…?」

獣王「グルル…」



・・・・・・・・・・
・・・・・・・
・・・・


神「戦を仕掛けたのは、確かなんだ。……そればかりは弁解のしようもない」

魔王「………」


握りしめた剣を見つめて、神はそう切り出した。
神はどう話を続けるか、思考を巡らせているらしい。魔王は構えたまま、次の句を待った。


神「我らは、お前たちを脅威だと感じていた――」

神「策を張り巡らせ、裏を読み、その裏にも手を打って……そこまでしなければ、勝てないと思っていた」

神「我らの作戦では、魔王がここに辿り着くまでに充分消耗させておくはずだった。 私が…たとえ相打ちになろうとも、魔王を戦闘不能な状態にまで持ち込めると考えていた」


魔王「……侮られたものだな」

神「侮ってなどいない!!」

魔王「……」


神「侮ってなど、いない……。我らが魔王を戦闘不能にできる可能性があるとすれば、その策しかありえなかったんだ」

神「……正面きって戦えば、負けることは明白だった。賢い手を探し、少しでも多くの神族を生かして残す方法をかんがえた」


神「だが、魔王を戦闘不能に持ち込むには、結果的に総力戦をしいられる……」

神「だから我らは最初から、すべてを犠牲にしてでも、最も確実に近い方法を選ぶしかなかったのだ」

魔王「ふ。神のくせにずいぶんと弱気ではないか」

神「……我らは戦闘など行わない。我が剣も、本来は警護のための剣…。人間世界で起きる争いを止めるため、強さの象徴として磨かれた」

神「……象徴、偶像。神の名にあっては決してほかに比べて劣ることはないが、所詮はお飾りの剣だ。実戦経験などない」

魔王「戦になど向いていない神族が、負けると踏んでいてなぜ戦を仕掛けた?」

神「……話を、するためだ」

魔王「話だと…?」


神「戦闘可能な状態の魔王と、言葉を交わすことなどできないと思っていた」

神「幾ばくかの神族を遣いとして降ろしたところで、魔素の土地で弱り、むざむざと殺されると考えていたんだ」

神「だから……総力をもって、魔王を抑え込むために。魔王をこの神界におびき寄せる必要があった」


魔王「それが、この戦争を仕掛けた理由か。して、そこまでして話すべき要件とはなんだ」


神はビクリと身を震わせた。
本当に口にしていいものか悩むように、口を開けては閉じ、剣を見つめ――視線を落とした。

それから、ゆっくりと剣を鞘に収めた。


魔王「……何のつもりだ」


神はその質問には答えず、魔王にむけてゆっくりと片膝をつき……はっきりと告げた。


神「――謝罪と、和解の申し入れだ」


魔王「………謝罪、だと…?」


これには魔王も眉を顰め、神の言葉の真意を窺った。
獣王にいたっては、明らかに警戒を強めて唸り声を上げている。


神「……神の間への入り口にあったステンドグラス。あれは正しく、魔王と神の姿を描いたものだ。…その話から始めよう」



神「遠く遠い昔―― 最初の魔王は、元々は我らと同じ神族… 天使だったんだ」

魔王「な…に…?」


神「魔王の元となった天使は、罪を犯し、心を黒く染め、この神界から堕ちたという」

神「……その天使は、ひどく我らを憎んでいた。浄気すらも憎み、魔素という新たな力に変えてしまうほどに、我らを憎んでいたんだ」

魔王「……」


神「罪を被った天使は自らを魔と名乗り、悪であると宣言し 我らと対立したのだ」

魔王「……ふん。それが事実であったとして、罪が冤罪であったわけでもないのだろう。謝罪など俺は求めていない」

神「ああ。確かに罪は罪だ。我らはいずれ彼を赦すつもりだった。だが、彼は赦しを受けることすらも拒絶した」

神「彼は罪人であり続けた。赦すこともさせてもらえなかった」

神「その時になって、ようやく我らは気付いたのだ」


神「裁きと赦し…神であれば当然であると思っていたその行為が、ひどく自我に満ちた行為であることに」


神「……あのステンドグラスに描かれているのは、彼の姿だ」

神「この神界に、彼の居場所を作り続けるために描かれたものだ」

魔王「……それで」

神「……結局、彼はその死を迎えてもここには帰ってこなかった」


神「代が変わり、跡を継いだ魔王も どう教えられたものか我らを憎みつづけた」

神「もちろん、我らは何度も接触を図った! そこにいる……四神だって、そうだ!」

獣王「何ヲ。我ガ祖先は、今のお前たち神族とは違ウ」

神「違うと思いこませたんだ!!」

獣王「……!?」

神「魔王が我らを憎んでいる限り、四神が我らの手の内の者だとわかれば会話も出来ぬまま殺されてしまう!」


魔王「……朱雀のようにか?」

神「――っ。朱雀は、翼持ちだった。だから朱雀は神界との繋がりをとれるものとして、真実が教えられていた…」

魔王「竜族にも翼はある。 竜族も、真実を知る一族なのか」

神「違う。竜族は…朱雀が使えなくなった場合の、予備だった」

魔王「予備…?」


神「……罵ってくれて構わない。我らはいつでも二の手、三の手を用意して、失策を恐れる脆弱者だ」

魔王「--悪いが、罵るほどにはお前たちに興味を持っていない。話を続けろ」


神「……四神に与えられた役割は、魔王に負けて魔王の配下となることだった」


神「魔王の配下となり、魔王の心を解き、我らと接触する機会を作る…」

神「だが、天界へと昇る姿を見られた朱雀は、魔王に詰問された。朱雀はこの作戦をどうにか全うしようと考えていたのだろう」

神「何も語らず。事情も知らぬ残りの三神にすべてを託し、口を固く閉ざしたまま、自らの炎によって絶命した……知られてしまえば、どう事態が転ぶかわからない」


魔王「ふ、おかしな話だな。こちらでは朱雀は、魔王が焼き殺して食べた、と聞いているが」

神「……『悪を悪と思わず、善を善と思わず』…お前も、そう教えられているのだろう」

魔王「――なぜ、それを」


神「魔王は代が変わっても、常に罪人であり続けた。その存在に深く刻まれた呪いのような言葉と教訓…」

神「語らず死した朱雀の正体に気づいていたのだろう。魔王は朱雀の死すらも、自らの罪として――己に関わったが故の死だとして、自らに被せたのだ」

魔王「……」

神「魔王は、代を重ねるごとに罪を増やし、力をつけつづけた。もはや我々では手出しができぬほどに…悪行を被り、不浄となり、我らから遠ざかって行った」

神「そして我らに、“善”を強いた。――すべての善行は神の物となり、すべての悪行は魔王の物となったのだ」

魔王「……そんなわけは……!」


神「罪人である彼は、自らとその末代にいたるまでに苦行を与えた…。自分でそうしておきながら、“どうしたってそうなってしまうのだから諦めろ”と教え込んだ」

神「そうして子孫となる魔王たちは、自らで悪を演じるようになった。“どうなってもそうなのるだから、最初からそうあるべきだ”と…」


神「最初から自分が悪なのだと思わなければ、心を壊して生きていけないからと。悪としての振る舞いを、その生き様に叩き付けて代を重ねたんだ」

魔王「………っ」


神「どんな姿になろうと、魔王の元となったのは天使…我らの仲間であったことに違いはない。我らはそんな魔王の姿を見るたびに心を痛めた」

神「そんな時に生まれたのが、人間世界だ」


神「…魔と浄の狭間で生まれた亜種。それが人間だった」

神「その頃の神は、女性神だった。魔と浄の狭間で生まれた人間を、神と魔王の子供として慈しみ、守ると宣言したのだ」


神「……だが、魔と浄の中間に生まれた人間は非常にもろく、危うい存在だった。人間を守るために…導くために、我らは常に善で在り続けることを強いられることとなった」


神「だからこそなおさらに、常に悪に置かれていた魔王に対して罪悪感を感じて――万策尽きたと感じた。神と魔の接触はタブーとなった」


魔王「……は。タブーとなったのに、今度は戦を仕掛けてきた? 随分とおかしな話じゃないか」


神「……疲れたんだ」

神「善でなくてはならないとか」

神「悪でなくてはならないとか」


神「疲れ果てて、一縷の望みをかけた。いや、こんなものはやけっぱちとしか言えない策だった」

魔王「なんのことだ…」


神「人間を守ることを、やめたんだ。人間に勇者を与え…我が剣を託した。自分たちで自分たちを加護できるように、と」

魔王「は…はははは! 傑作だな。勝手に守っておいて、勝手に見放したのか!」


神「我らが導くことが、誰のためになる? わかりやすい善悪の見本を示す必要は本当にあるのか?」

神「見本となり続けるために、多くの想いを犠牲にして……そこまでして見せなくては、人間は本当に善悪の区別もつかないのか…?」

神「また我らは自我に満ちて、過保護なことをしているのではないか…そんな疑問だった」

神「そして勇者を選定し、人間自身が人間を和平に導けるよう… 手を放し、見守ることにしたんだ」


魔王「………見守る…? 散々守っておいて、勝手な都合で手放して? ……俺にはそれは、一方的な“神の試練”に聞こえるな」クク…

神「―――っ」


突きつけられる事実に顔を赤く染め、拳を強く握りしめる神。
魔王はそんな神を蔑んだ目で見つめた。


神「……ああ、そうだ…っ! 結果、それは人間たちにとって越えがたい試練となった」

神「魔王… 先代といったか。魔王が勇者を滅ぼしに進軍したことで、人間たちまでもが“魔”を憎むようになってしまった!!」

魔王「……」

神「我らの力では、魔に対抗もできない……ッ せめて真実を教えるべく、一人の人間を連れ帰り、癒し、魔を憎む心を拭い去ろうとした…!!」

魔王「そんな人間がいたのか」

神「………真実を教えたことで…彼は発狂し、死んでしまった」

魔王「………」


神「そんなことに気を取られているうちに、気が付いたら人間世界が消えていた」

神「……もう、守るべきものもない。だから、全てを失う覚悟で、この戦を仕掛けたのだ」


魔王「よくできた話だが、それが真実であると証明はできるのか?」

神「……できない。それが事実があろうとも、疑って裏を考え続けることに慣れすぎてしまった…。否定しようと思えばいくらでも否定できる我らには、証明など不可能だ」


神「……疑うことはあまりにも簡単で。信用することはあまりにも難しいな」

魔王「…………」


魔王「お前たちの最終目的は何だ。魔王から赦しを請い、自らの罪悪感を消すことか」

神「! 違う!」

魔王「ここまで話したのだ、最後まで語るがいい。語りとも騙りとも区別をつけず、聞いてやろう」



神「…世界を、元のようにひとつにしたい」

魔王「なんだと」

神「世界は、元々は1つであるべきなのだ」


神「悪など。善など。そんな区別が生まれる前は良かった。繰り返される戦も、止むことのない災厄も何もなかった!」

神「どうか、赦してくれ。そしてどうか手を取ってくれ、魔王!」

神「我が話を最後まで聞き届けてくれたお前なら、きっと新しい唯一世界でも……良き隣人となれる!」


神「一つになろう」

神「戻ってきてくれ。 ここから先の時代を、共に歩んでいこう… 魔王……っ」

魔王「な………。馬鹿な、完全に魔と浄が対立しているのに、そんなこと出来るはずが……!!」

神「魔王! どうか…」



神「どうか、私を信じてくれ――……!!」



――――――――――――――――――――――――

天空宮殿・最深部
――始まりの間、手前


近衛「ここに、本物の神が居るんですね」


近衛は暗闇の中、手探りで行き止まりの壁部分に触れる
扉状になっているのか、はたまた何かの仕掛けによって開くのか。それを探るためだ


近衛「感触は、ここまでの道にあった壁と同じような石ですね。扉だと知らなければ、本当に行き止まりにしか見えないでしょう」

神従者「これは力技で開ける扉ではないはずです。この場所自体が秘匿なのですから、そう複雑な仕掛けもないでしょう。どこかに必ず開けるための何かがあるはず……」

亀姫「近衛」

近衛「はい、すぐに探しだします。お待ちください」


近衛は壁伝いに手を擦り当てて、扉を調べる。
一方で亀姫は、僅かに声を潜めて神従者に呼びかけた。


亀姫「こちらの声が、向こうへ漏れはしないかしら」

神従者「それは大丈夫でしょう。こちらから中の音が聞こえないように、あちらもまた聞こえないはず」

亀姫「そう……。それでは改めて確認いたしますわ。この中に神が居る。私たちはここを開けたならば奇襲をかけ、速攻で討つ――でよろしいのかしら?」

神従者「悪くない…ですが。正直なところ、その策は博打と変わりません」

亀姫「では?」

神従者「神は集めた浄気を、なんらかの方法で固定しているはずです。それを打ち出されたら魔王は終わると思ってください」

神従者「浄気をどのような方法で固定しているのか、発動の方法が何か…それはワタシにもわからないのです」

亀姫「…呆れた。ならあなたは、神を殺すことが発動の条件にもなりうると仰いますの?」

神従者「…可能性は大きくないですが、充分にありえます」

亀姫「ふざけてらっしゃるの。それとも、私達を騙してこんな場所に連れ込んだとでも?」

神従者「と、とんでもない! ワタシだって娘の命がかかっているんです、ふざけてなど!!」

亀姫「ではどうなさるおつもりです。ここまできて、討っていいかわからないなんて――」


早口な小声で捲し立てる亀姫
その勢いに飲まれ、神従者も対抗するように小声で吐き捨てる


神従者「こう言ってはワタシは本当に神界での居場所を無くしますが…神は独善的で、気位が高い方なんですよ。それを利用しましょう」

神従者「下手に刺激をすれば、激昂して浄気を放出しかねないですからね」


亀姫「利用するといっても、具体的にはどうすればいいと考えますの」


神従者「瞬間的に打ち倒し、それで浄気の噴出を妨げられれば最速の策となるでしょう。ですが最良策は、先に浄気の噴出の仕組みを暴くこと。……刺激せぬように入室する必要があります」

亀姫「この扉を開けて、気付かれずに探り出すなんて無理ね。……つまりあなたは私たちに、神の下手に出ろとおっしゃっているのね」

神従者「魔王の戦から離れ、神の元に降りてきたかのように見せて油断を誘うのです」

亀姫「そんな事で油断するかしら」

神従者「元々、こちらにいる本物の神は戦闘向きな方ではありません。直接戦闘に持ち込めば、倒すこと自体はそう難しくない――それは神もわかっているはず」


神従者「だからこそ戦闘するつもりなどないと態度で示すのです。倒せるほどの力を持っていてなお神に従うことで、安心もするし、彼の虚栄心も満たされる」

亀姫「……安い虚栄心ね」ボソ

神従者「ともかく神が満足したその隙をついて、浄気を使わせぬうちに――……っ」


言葉を止めた神従者
気まずそうに口元をもごつかせている


亀姫「使わせぬうちに、殺すのね」

神従者「………はい…」


最後の最後で、自らの作戦に躊躇いを垣間見せた神従者。
亀姫はどうにも一抹の不安を拭いきれずため息をつく。

呆れずにどうにかこうにかこの作戦を続けていられるのは、
不慣れな土地と足りない情報で、神従者の策よりも確実な別の策を自分が出せないからだ。

それにいざ作戦を実行するとなれば、采配を握るのは近衛となるだろう。
近衛には獣王のお墨付きの強さもあり、魔王への忠心も厚い。
そこに鉄壁の守護を誇る亀姫がついているのだから、策を読み違えていてもその場の対応くらいは出来る。

まともだと確信できる策は、その時点となってようやく立てられるようになる。
それまでは何をしようとどれも同じようなものなのだ。


亀姫「そう珍しくもない懐柔作戦ですけれど、そのように媚びいる時間があるかしら」

神従者「先ほどあなたが言った通り、戦神妃と魔王の戦は“魔王は勝てないけれど負けることもない”戦いです」

神従者「勝敗を決めるトドメとなるのは、神の放つ強大な浄気による攻撃…。戦闘によってトドメを討とうとすれば、不利を悟った魔王に逃げ出される」

神従者「手負いの獣に対して、武器を掲げて深追いするのは愚かです。睨み合ったままで、確実な一撃を食らわせる瞬間を待つでしょう」

亀姫「戦神妃は、トドメは刺さずに神の一撃を待つということね」

神従者「ええ。おそらくある程度まで痛めつけたのち、戦神妃は魔王を逃がさぬために話などをしはじめるでしょう」

亀姫「話…?」

神従者「魔国に逃げ帰られては、集めた浄気を活かしきれない。どうにかあの場に縫い止めておくために、甘言の一つもいってそそのかすんですよ」


亀姫「……本気で言っているの? 先ほどから聞いていれば、神の下手にまわって神を懐柔するだとか、甘言で陛下をそそのかすだとか……。まともな作戦に聞こえませんわ」

神従者「戦を本分としない神族にとって、言葉というのは最強の武器であり防具ですからね」

亀姫「物理戦よりも口先の心理戦がお好みで、神族にとっては主流なのね」


神従者「…馬鹿になさっているかもしれませんが、口先だって鍛えられます。神族の甘言は侮れませんよ」

亀姫「だからって魔王陛下がそんなものに乗せられるとも思いませんの」

神従者「……まぁ、確かに戦神妃は神に比べると口先はうまくないのが確かに心配なんですけれど」

亀姫「そうなの?」

神従者「ええ、まあ…なんというべきか、戦に特化した女性神らしい方というか」


神従者「頭を使って話をしているつもりなのでしょうけど、説得というよりは情に訴えるような話しかできない方ですよ。筋道を並べて話すべき所で、思いついた言葉が先に口から出てしまうから」

亀姫「ああ。よくいらっしゃいますわね、そういう方」


神従者「――まあ、そのやり方で情に訴えた物言いをするから、とても必死そうに見えて 皆が彼女の手を取るんですけどね」

亀姫「神従者……?」

神従者「あ…。失礼しました、気にしないでください。ワタシも以前、彼女の甘言に騙されたクチでして」

亀姫「………馬鹿ねぇ」


神従者「はは…お恥ずかしい。ですが神が充分に推敲した話を用意しているでしょう。彼女はそれを使って魔王をその場に縫いとめるだけ」


亀姫「……どんなよい話でも、聞き入るかどうかは語り手次第ですわよ」

神従者「……そう、言われると。魔王が話を聞かずに逃げ出し、戦神妃が深追いして殺そうとしはじめたら、神の作戦は台無しですね」

神従者「逃げて魔国にまで辿り着ければ、魔素を補充できる魔王が勝ち。その前に仕留めれば戦神妃の勝ちになるという…。普通の、結果の見えない勝負になってしまいますね…」

亀姫「あ、あなたねぇ。そんなことでは私たちの行動まで無意味じゃない、もうちょっと堅実に――」


近衛「………たぶん、それは大丈夫です」

亀姫・神従者「「え?」」


壁を探っていた近衛が、作業を続けながらぽつりとこぼした。
それから振り返るような気配。


近衛「見つけましたよ、おそらくこの扉の開閉装置です」

亀姫「よくやったわ、近衛。それで、何が大丈夫だというの」


近衛「陛下のことですから。余裕があるうちに会話をふられれば、面白がって自分から話を聞いてしまうのではないかと」

近衛「肝心なのは甘言にのるかどうかじゃなく、話を聞いて時間稼ぎされてしまうかどうかなのでしょう? ――陛下が戦神妃を神だと思っているのなら、話を聞くと思います。だから、大丈夫ではないかと」


その言葉を聞いた亀姫は、あ、と呟いて頭を抱える。
戦神妃の言葉を、ククと笑いながら聞き入る魔王の姿――。それが容易に想像できてしまったのだ。


亀姫「ああ…そうでしたわね。きっと陛下なら、そんな話でも聞いてくださるのでしょうね」

神従者「――そうですか。それならばやはり、神が浄気を放出するまでは大丈夫でしょう」


神従者は苦笑し、それから真顔で近衛と亀姫を交互に見る。


神従者「ワタシは神にとっての裏切り者。ワタシの顔を見れば神は警戒を強めるでしょう。ですからこれ以上はついていけません」

神従者「ここから先はお任せします。大丈夫だと思えるとはいえ……あの戦神妃と魔王が共にいるのですから、なるべくなら早く神の懐へ」


亀姫「神にどのような態度をとられても 従順に頷けということね」

近衛「怪しい素振りをして、疑われているほどには余裕はない――」

神従者「はい。出来ますか?」


亀姫「ふふ。どれほど癪に触ろうと、陛下の御為なら出来ぬことなどありませんわ」

近衛「頭を垂れながらでも、よくよく探ってみます」


近衛はそういうと、先ほどみつけた開閉装置に手をかけた。


近衛「開けます。神従者さん、見えない位置まで下がってください。隠れたら合図をください。合図がなくても30秒したら開けます」


神従者「! はい! あ……あの、一言だけいいでしょうか」

近衛「何か」

神従者「その…。ありがとうございます。こんな私の話を信じてくれて……」

近衛「………」


亀姫「……信じたわけではありません、他に検討するものがないだけ。この先に貴方の話と違うものがあれば、騙した貴方を殺させていただくわ」

神従者「それで充分です。ワタシは嘘などついていない…この先に進めば、ワタシの話が真実であるとお分かりいただけるでしょう」

亀姫「………そう、わかったわ。 さあ、早くお下がりなさい」

神従者「はい! どうか、どうか――」



神従者「我が娘の命を、お守りくださいませ………っ!」




――――――――――――――――――――――――

天空宮殿・最深部
――始まりの間


・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・


ゴ……ゴゴゴ……

石造りの扉が、左右の壁の中に吸い込まれていく。
扉という名の大岩を引きずる振動は大きく、この地下穴が崩れてしまわないか心配になる。

開いた室内には灯りがともされていて、先ほどまで暗闇にいた亀姫は目を眩ませた。
もしも奇襲を仕掛けねばならなかったとすれば、これは致命的だったろう。


『!!』

近衛「…………失礼します」


先に足を踏み込んだのは近衛。
ここまでの間、目を閉じていたのかもしれない。迷いのない足取りだった。


気配を頼りに、亀姫はその後ろについて歩く。
いざ攻撃をする時に、亀姫の身体が近衛の邪魔になってはいけない。



『何者だ……!?』

近衛「貴方が、神でいらっしゃいますか?」


近衛が堂々とした態度で神に語り掛けるのを聞き、
亀姫は顔を伏せ、近衛の従者のように控えることにした。

近衛がうまく会話できるのなら、
神を刺激しないためにも、主人とその大人しい下僕のように見せかけるのが得策だろう。


神『……魔族か…!?』

近衛「はい。ですが、魔族であってもあなたに逆らう者ではありませんよ」

神『何…?』


亀姫(……飄々としたものね、上手な演技ですこと。…こんな一面があるのは知りませんでしたわ)


堂々としているどころか、近衛はいつも以上に軽快な口ぶりだ。
会いたかった人に会えたような、喜色めいた声色をしている。


近衛「………自分は、魔王に仕える近衛でしてね」

神『なぜここを…! チッ』

近衛「ああ、お待ちください。自分を殺すのは、話を聞いてからにしていただけませんか?」ニコ


亀姫(……近衛?)


まさか自分の正体をあっさりと名乗るとは思わなかった。
刺激をしないようにするはずだったのに、近衛という職を名乗っては逆効果ではないだろうか。

近衛がどのようにして神の油断を誘うつもりなのか、打ち合わせる時間がなかったのが悔やまれる。
しかし初まってしまった以上、亀姫にはどうしようもない。

どのような状況にも対応できるよう、
今はしっかりと二人の会話を聞いているしかないのだ。


神『………』

近衛「っと。ああ。もしかして、後ろのソレですかね…? 貴方が魔王を殺すための、切り札とやらは」

神『これは……』

近衛「もっとわかりにくいかと思っていましたよ。浄気…でしたっけ? 目に見えない状態で、貴方の体内にでもあったらどうしようかと」クスクス

神『……誰から何をきいてきた。話とは、なんだ』

近衛「せっかちですね。ソレが交渉の肝となるんですから、少しくらい吟味させてくださいよ」ニコ

神『交渉…?』



亀姫(近衛… いくら演技とはいえ、なんだか普段とあまりにも違いすぎて…)


亀姫の知っている近衛は、堅苦しくて生真面目な朴念仁だ。
こんな風に笑顔を浮かべて、ずけずけと軽薄そうに物を言う人物ではない。


亀姫(……あ、でも。これまでも時々、軽薄な口説き文句みたいな事を口にすることもありましたわね)

亀姫(近衛の職をしている時が真面目なだけで、本来はこういう人だったりするのかしら?)


そんな疑問が浮かびあがると同時、
亀姫の心には不安も湧き上がった。


亀姫(……近衛の、本来の姿…?)


・・・・・・・・・・・・

―――獣王『あいつは不穏デ、不吉な匂いがすル』

―――近衛『……自分は、ニンゲンなのですよ』

―――魔王『近衛… いや―――  “元・勇者”』

―――近衛『配下に下り、忠臣となるまでには、一体何があったのでしょうね』

・・・・・・・・・・・・・・


亀姫の頭の中に、様々な言葉が浮かび上がる。
ここまで行動を共にすることで、近衛は魔王に忠誠を誓う仲間だと信じるようになった。

だが、信じてよかったのだろうか。
こんなに演技上手な近衛は知らない。近衛のこれまでの発言が真実であったと証明はされていない。


亀姫(……大丈夫、よね。 まさか、私自身が近衛なんぞの策に嵌っているなんて事は――)


・・・・・・・・・・・・・・

―――亀姫『……もし、ニンゲンが本当に魔に滅ぼされていたら…。……近衛はどう思ったかしら?』

―――近衛『……ひどく…魔を、恨んでいた…? 憎んでいたかもしれない…』

・・・・・・・・・・・・・・


ゾクと背中を走った悪寒。
掌に肉塊を乗せてにこやかに微笑んでいた近衛の表情を、思い出した。

あの時に感じた恐怖は、本当に忘れてよかったのだろうか。
亀姫は自らの指先が冷えていることに気付くと、そっと握りしめた。


亀姫(……大丈夫。坊やの忠誠が本物だとも思ったはず。今は神の下手にまわるため、魔王陛下をうらぎったかのように見せつけているだけ。おかしいことなんて、ありませんわ)


ちらと視線をあげて覗き見た近衛は、
不躾な子供のように、始まりの間をふらふらと歩いている。


神の後ろにあったのは、部屋ほどの大きさがある水槽。

実際は巨大な結界なのだろう。
水槽に見えるが、その中に閉じ込めた浄気のせいで水槽に酷似して見えるのだ。

中身が揺れ、気化しては水に戻る。
時に凍り付き、気泡がはじけるように割れて、周りを揺らす……そんな、不思議な水槽。

近衛はそれをジロジロと眺めている。
時々口に手を当て、おかしそうに笑いを零している。

神はあまりにも不審すぎるそんな近衛の態度に警戒し、近衛を睨み付けていた。


神『動くな。おまえは目の前のこれが何かは知っているようだな…』

神『容易に手を出せば、ただでは済まぬ。 何がしたい』


近衛は神の言葉を聞き、ぴたりと足を止めた。
身体は水槽のほうを向いたまま、首だけを僅かに回して神に微笑む。



近衛「聞いてくれますか? 実は、自分は魔族に少しばかり恨みがありましてね」

近衛「貴方ならば、魔王を確実に殺せる…… そう聞いて、わざわざこんなところまで来たんですよ。 頑張ったでしょう?」クスクス



亀姫(………っ 近衛…)

神『おまえ、何を……?』


握りしめた指先が、どんどん冷たくなっていく。
近衛の声が、頭に響く。大丈夫だと言い聞かせる自分の声が、小さくなっていく。



近衛「教えてくださいませんかね。どうやって、これ使うんです? 貴方が鍵か何かを持ってらっしゃるんですか?」




近衛「――神様。あなたを殺せば、魔王を殺せるんですか?」ニコリ




――――――――――――――――――――――――


魔王(―――信じるべきか)


後戻りはできない。間違えてはならない。

信じてしまえば
何も失くさないままで、欲しいものを手に入れることができるかもしれない――


――――――――――――――――――――――――


亀姫(―――疑うべきか)


遅れてはならない。見誤るわけにはいかない。

騙されてしまえば
大切なものを奪われて、取り返しのつかないことになってしまう――


――――――――――――――――――――――――


精霊族「………たった一人の嘘吐きのために、別の誰かの切実な想いが疑われる」


―――近衛『陛下の心が穢れないからといって……穢そうとしていい道理などはない!」

―――神従者『我が娘の命を、お守りくださいませ………っ!』

―――神『ここから先の時代を、共に歩んでいこう… 魔王……っ』


精霊族「ああ、本当に嫌な世界です。――おかげで、すっかり目が離せない」



――――――――――――――――――――――――
天空宮殿・最上階
天守閣


神「……やはり、我々が憎いか…? 我らの手を取ることはできないのか…?」

魔王「…………」

神「魔王……?」


魔王は段々と苛立ちを覚え始めていた。
先ほどから胸の奥底に小さなわだかまりが出来ていて、それが魔王の気に障っている。


魔王「そんな言葉を、俺が信じると思うのか」

神「信じてほしいんだ!」

魔王「馬鹿な。魔王が神族の手をとるだなどと――……


口から出てくる言葉が、空々しく感じた。
違和感にも似た嘘くささ。言葉が続かない。


愛しいものを手に入れるためには、奪い取るしか方法がなかった

自分は悪だから。
魔王だから。

どんな方法を選んだとしても、許されることはない。
愛することも、愛されることも 自分が行えばそれは何かの悪行の一端を演出するだけ。


魔王(………天使を愛する方法だけでなく、愛される方法があるというのか?)


天使と笑いあえる未来。
そんなものがあるのなら、縋り付いてみたい。


魔王「………いや。もういい、話は終わりだ。お前の話は夢物語、乗ってやるにはあまりにも稚拙すぎる」

神「夢物語などではないと言っているだろう!?」


出来るものか。叶うものか。
神と魔王が共に切望するような願いならば、とっくに叶っていておかしくない。


魔王「夢物語だ。……どれだけ望んだとしても叶わない物を追うなど、馬鹿げている」


必死に否定しなくては、自分まで夢物語を追い求めてしまう。
魔王はそんな危機感に追い立てられていた。



信じてみたいと思った。
信じたかった。
だから、もっと信じさせて欲しい。

――信じられるだけの言葉が、欲しい。


そんな自分の祈りに、苛立たしさが募っていく。
馬鹿げている。天使と共に生きる幸福を、神頼みにして説かれるなどまっぴらだ。


魔王「惑わされはしない。俺はやはりお前を殺し、自分の手で得られる分だけを………」


そう言いながらも、脳裏には天使の泣き顔が浮かぶ。
神界を滅ぼした後は、きっと天使を飼育するように生かすことになるだろう。


それは、天使の側に確実に居られる方法だ。
だが同時に、微笑みや愛を得る機会を永遠に失う方法だ。

自分の手で得られるやり方では、それだけしか得られない。


魔王「………――っ」



それでいいはずだった。充分だと思っていた。
それ以上は望めるわけがなかった。だから、納得できていた。――なのに。


神「私の手を取ってくれ。――共に、生きよう」


いっそ大嘘だと言ってくれ。そんなこと本当に出来るわけないと。
騙してやったと、そう言って嗤ってくれ。


魔王「……もう、これ以上、お前の言葉を聞いている気になれない…」


腰元で構えていた刀。元より抜身のその刀を、上段に大きく振り上げる。
何もかもが鬱陶しくて気障りだったから、迷いごと、一刀両断に斬り捨ててしまいたかった。


神「魔……!」


夢を見せられて、息苦しい。
掲げた刀が重過ぎる。


魔王「死ね……!」


ビュ…ッ………
ガギィン……!


神に向けて、振り下ろした刀。
無防備な神を、斬り捨てるための一太刀。



魔王「…………っ…!」



神「…………ぇ」



その切っ先は神に届かないまま
勢いよく地を斬りつけた。

迷いが、一歩踏み出すことを阻んでしまったのだ。


神「…………魔、王…?」

魔王「…………っ」


―――――――――――――――――――――――――――――

天空宮殿・最深部
「始まりの間」


神『貴様…何を言っているか、わかっているのか』

近衛「もちろんわかっていますよ。貴方を殺せば、結界が破れて暴発してくれるんじゃないかと聞いているんです」


亀姫の目は、ようやく明るさに慣れてきていた。
今なら、混乱と怒気を声に含ませて目を見開いている神の姿もはっきり見える。


神『―――立ち去れ。今は、余計な力を使いたくない』


畳んでいても、なお大きさのわかる翼。
左右に大きく張り出した翼角と、足元近くで交差する風切羽のシルエット。
それは、鳥というより蝶にも見えた。

横で一つに束ねられた長すぎる髪は床に届くほどで、しなやかに伸びた植物の茎にも見えてくる。

蒼と藍の瞳が表しているのは、空か海か。
儚すぎるほどの白い肌は、雪か雲か。


亀姫(……ご老体と思っていたのに。なんて、美しい生き物なのかしら……)


世界にある美しいとされるものをまとめ
一匹の生き物にしたらこのような姿になるのだろう。

その美しいものが、今は近衛の言葉に翻弄されて美しさを乱している。
それはあまりにも勿体なく、無粋で、罪な行為にも思えた。


そんな風に感じるのは、近衛に疑いを持ってしまったせいなのだろうか。


近衛「コレ、浄気ですよね?」


近衛が軽々しく水槽を指さしたので、亀姫は慌てて視線を近衛に戻す。


近衛「これだけあれば、目標に向かって打ち出したりしなくても、放つだけで魔王は死んじゃうんじゃないですか?」

神『何を馬鹿な……』

近衛「馬鹿? あはは、何故です?」

神『無闇に結界を解けば、破裂の瞬間に爆風となる―― お前自身もその奔流に巻き込まれ、圧死するだけだ』

近衛「へぇ……」


何がおかしいのか、近衛は神の言葉を聞いて にやにやと口元を緩ませている。


亀姫(―――判断、しがたいですわ)


亀姫は近衛の言葉を一言一句聞き逃さないよう、神経を集中させていた。
近衛をみているこの瞬間も、近衛は神に質問を投げつづけている。


亀姫(本当に陛下を裏切っているようにも見えますけれど、その言動は うまく神から情報を引き出しているようにも思える……)

亀姫(近衛……。もしも陛下を裏切るのなら、私は決して容赦いたしません。ですが私、やはりあなたのことを… 仲間のことを……)



亀姫(――疑いたくは、ありませんの)




亀姫は顔を上げ、しっかりとした足取りで近衛のほうへ歩み寄った。
神はそれを見て半歩下がり、近衛は亀姫にニコリと微笑む。

亀姫は近衛の横までくると、立ち止まって袖を引き寄せ整える。
……袖の中に隠している毒針を確認するためだ。


亀姫(使わせないでくださいませね。――今はまだ、あなたを信じておきますわ)


それが確かにあることだけを確かめると、袖を降ろす。
そして、毅然とした表情で神を見つめた。


神に対峙する、亀姫と近衛。


近衛は相変わらず微笑んだままだったが、それが神にとって高圧的に思えたのだろう。
神は声を荒げ、その身体にまとった浄気を膨らませて見せた。


神『お前らなどに、コレに関わらせるつもりはない! 今すぐに消えるのだ、そうでなければ――!』

近衛「そうでなければ、なんですか?」


近衛はわざとらしく、ゆっくりとした動作で腰に提げたナイフを引き抜き、大きく振る。
ナイフは瞬時に大剣と化し、ギラリと輝いてその刃に神の姿を映し出した。


神『っ』

近衛「僕達を殺しますか? 貴方に出来るのかどうか知りませんけど…… やってみてもいいですよ?」


近衛は、ひたりと足を一歩前へ進める。
神はそんな近衛を、目を見開いたままで見つめていた。……否。神は近衛の剣を見ていた。


神『そ……… その、剣は………』

近衛「ああ。見覚えありますか? これ、昔に貰ったんです」


玩具のように大剣を持ち上げ、弄ぶ近衛。
神の視線がそこに釘づけになっているのを見て、また可笑しそうに笑いだす。


神『お前は……… お前は、まさか…?』


近衛「………ええ。 ――死に損ないの、勇者です」


神『……!』


神の、元より真白の肌が、さらに蒼白に染まっていく。


近衛が、元勇者。
その素性を知って、多くの物に合点がいってしまったのだろう。


魔族を恨んでいるのは、人間世界を滅ぼしたのだから当然だ。
神をなんとも思わない無礼な態度も、神が人間世界を救わなかった事を思えば理解できる。
正体不明の余裕ですらも、狂人のそれだと思えばいい……


すべての辻妻が合ってしまったのだ。
神の目に、近衛は“魔王殺しのためならば神殺しも厭わない狂人”に見えているだろう。


亀姫(―――実際に、狂人なのかもしれないけれど)


亀姫は自分に言い聞かせ、自らを律する。
近衛に嘘があれば、それは見定めなければならない。妄信的に信じてはいけない。


神『剣を…… 剣をしまえ。お前が魔王を憎んでいるのは理解した…!』


神は、近衛が持っている剣に注視しながら 震えていた。
魔族であれば、いくらか浄気を使ってしまえば追い払えると思っていたのだろう。

だが、剣を構えた勇者であるならば決して油断はならない。
その危機を前に、怯えているのだ。



亀姫(……神従者の言った通り、神は本当に戦向きではないのでしょうね)


神族自体が戦に不向きな種族と思っていても
内心では “神だけは強いのではないか”と思っていた。
だがこうして神自身をとって見ると、他の神族以上に戦に不向きなのが明白だ。


何しろ、武器らしきものを持ってさえいない。
浄気を纏ってはいるものの、本人は隙だらけで反応も鈍そうだった。

確かに神は、神の名に恥じない特別な気品のある佇まいをしているが、
それは王の威厳に似たものではなく、深層の令嬢が持つ儚さに似たものだ。

このような者が神なのだとしたら、戦神を警護にしているのも頷ける。


亀姫(……ああ、でも怯えているのは仕方ありませんわね)

亀姫(神界から勇者に授けた剣。もしそれが魔王殺しのために与えたものならば、その威力は本物なのでしょうから)


だとすれば、こちらは有利だ。
それこそ浄気を暴発でもさせない限り、神は下出に回るしかなくなる。

近衛もそれに気づいているのだろう。
大剣を時に大きく振り、驚かせる程度の威圧を繰り返している。
ビクリと肩を跳ねさせる神に同情してしまいそうだ。


神『………い、生きていたとは思わなかった…。 だが死に損なったとは一体……?!』

近衛「まあ死に損ないっていうか、魔王に生かされてるだけなんですけどね。人間としてはもう死んでるようなものです」

神『魔王に……?』

近衛「ええ」


近衛「だからまあ、今更 自分の命を惜しむつもりもないんですよねぇ。暴風に巻き込まれて僕が死ぬとしても……―――それで魔王が死ぬなら、本望ですよ」


あっさりと述べたのは、希死念慮ともいえる意思。
どこかぼんやりとした物言いは、自分の生死などに興味はないと言わんばかりで。
亀姫ですらも、近衛の発言には薄ら寒さを感じた。


神『だが、何故… 何故、魔王の近衛になっている……!?』

近衛「あはは! やっぱり信じられませんよね。僕もたまに信じられないんです!」


近衛「あいつら、いきなり乗り込んできて、人の世を燃やし尽くしたんですよ? 目の前でたくさんの人が死んだんです。それを見てた僕自身も、死ぬ寸前でしたけどね!」


芝居がかった陽気さ。
本来ならば、笑って言えたセリフではない。


神『で、では お前は本当に魔王を殺すつもりで…!? その為に、魔王の配下となったと、そういうのか?!』

近衛「あー。もうやめてください、面倒くさい」

神『めんど…』

近衛「神族って話が長すぎません? 僕のことなんか今はどうでもいいでしょう。それとも時間稼ぎのつもりですか?」

神『違……!』


急に態度を変えた近衛に、神はさらに言葉を詰まらせる。
不機嫌をあらわにした近衛の声。なげやりな口調。


近衛「……質問してるのは、僕ですよ。先に答えてください、神様」

神『何を――』



近衛「貴方を殺せば、魔王も殺せるんですか?」


キンッ――


近衛が、一瞬で駆けた。

大剣が神の首元に添えられ、薄皮に引っかかり、肉を押す。
ヒ、と息を呑んだ神のその動きで薄皮が小さく裂けた。


神『――――ひっっ』

近衛「……ああ。これじゃ答えられませんね。少しだけ力を緩めてあげましょう」


近衛の言葉を聞いた神が、ゆっくりと息を吐く。
喉の動きに合わせて、添えられた刀も小さく揺れた。


神『やめ…ろ…! お前の存在は、計算外だ……!』

近衛「計算外…?」

神『そ、そうだ…』

近衛「どう、計算外なんです? 何を謀っていたんです?」

神『それは―― ! っそ、そうだ!』

近衛「?」


神は落ち着きのない焦点のまま、必死に言葉を紡ぐ。
震える唇や乱れた息継ぎに阻まれながら、神はようやく こう言った。


神『お前も、我が楽園で共に生きるが良い……!』



近衛「楽園……ですか?」



黙して、さらに力を緩めた近衛。
神はそんな近衛の態度に安心したのか、一気にまくしたてた。


神『そうだ! 憎しみも恨みも忘れ、新しい世界で、全てをはじめからやりなおせば きっと―――

近衛「…………きっと…?」

神『きっとお前もまた、救われるだろう――……!』


まだ震えていたが、神はまっすぐに近衛を見つめていた。
自らの提案に自信があるのだろう。

どうだ、と問い詰めるような神の視線。
先に目をそらしたのは、近衛だった。


近衛「…全てをはじめからやりなおす、新世界…ですか。憎しみも恨みも無い楽園……なんだか魅力的ですね」

神「そうだろう。この戦はそれを目指して仕掛けられたものだ…!」

近衛「その楽園作りが、戦の動機なんですか? では、この浄気は?」

神「この浄気は、楽園を形成する要になるものだ…。魔素を打ち払い、浄気を充分に満たすために必要となる……」

近衛「………そうでしたか。この結界、そんなに大事なものだったんですね」


反省したかのように、近衛は大人しい口振りで呟いた。


神『…わかったのなら、その剣を降ろせ…!』

近衛「? 何故です?」

神『な。なぜって…』


神『我を殺しても魔王は死なないと言っている!』

神『だが、我らの悲願が叶う時を大人しく待ってさえいれば、お前もその楽園で心癒される…! これ以上の邪魔をするなと言っているんだ!!!』


近衛「あー…」

神『何が“あー”、だ! 物わかりが悪いわけではないんだろう!?』

近衛「ええ。まあ、貴方の言いたいことはわかりますよ」

神『~~~~っ』



近衛「ねえ神様。その悲願が叶う時って、“いつ”です?」

神『いつ…って』

近衛「僕ね、もう待ち飽きたんですよ。……気長な話なんて、聞きたくないくらいにはね」


近衛はそういうと、もう一度しっかりと神の首元に剣を当てなおした。
神は近衛のペースから逃れることのできないまま、また動揺して口早になっていく。


神『す、すぐだ!』


近衛「すぐ? すぐってどれくらいです?」

神『お、お前がこの剣を降ろせば、そう間もないうちに……!』

近衛「え? そんなにすぐなんですか?」

神『ああ、そうだ! 今頃、天守閣では戦神妃が魔王を抑えているはずだからな!』

近衛「魔王を……抑えているんですか」


神『そうだ……! 魔王の魔素が体内から全て抜け出たその時、あちらから合図が来ることになっている!』

神『これだけの浄気をまともに操れるのは我だけ! その合図を逃すわけにはいかぬのだ! さすれば、楽園はもう間もなく――……!!




近衛「では、もういいです」



シャッ……


神『!!?』


ザッ―――………


躊躇なく、振り切られた大剣。
神の持つ、長い髪や翼も 共に斬りおとされた。

斬った後、近衛は僅かに怪訝そうな顔を浮かべ、その剣を眺めていた。
それからドシャリと崩れた首なしの聖骸を見下ろして、何か呟いた。


亀姫「こ、近衛」

近衛「……あ」


亀姫が声をかけると、近衛ははっとした様子で振り返った。
目が合うなり、小さく呟く。


近衛「はは。…勇者の剣が、神殺しの剣になってしまいましたよ……亀姫様」

亀姫「近衛……あなた」

近衛「これで本当に、自分は勇者なんかではなくなりました。いえ、やはり最初から、勇者なんかじゃなかったんでしょうね」


小さすぎる抑揚。
近衛は悲しげにも、安心しているようにも見えた。


近衛が剣をホルダーに添えると、神殺しの剣は小さなナイフに戻って腰元に収まった。
亀姫はその場に棒立ちのままだ。

頭が急展開に追いつけない。


近衛「…っと。亀姫様、大丈夫ですか? 顔色が随分とお悪い。流石にこの部屋の浄気は身体に障りますか」

亀姫「違………」

近衛「亀姫様……? どうなさいました、まさか最後の最後で神が何か…!?」


亀姫の様子を不審がった近衛は、
足元に崩れている神の聖骸を睨み付ける。

神の身体からはゆっくりと浄気が抜け出し、水槽の中へと取り込まれていく所だった。

死した神族から浄気を集める装置。
それにとっては、神も例外とはならないのだろう。


近衛「……きちんと、死んでいるようですね・・・」

亀姫「神に、なにかされたわけではありませんわ…」

近衛「そうですか…? では少しお疲れになってしまわれたのでしょうか」


近衛は、浄気が空になった神の頭部を拾い上げた。
長かったはずの髪は、今は首の長さでパラリと流れている。

それを片手に抱くと、次いで亀姫のそばに近寄り、肩に亀姫を乗せた。


亀姫「何をなさいますの!?」

近衛「すみません、今は一刻も早く陛下の元へ行きたいのです。暫しのご辛抱を」


真面目な顔をして、既に出入り口を見据えて歩き出そうとする近衛。
亀姫は近衛の肩を腕で押して身体をそらし、慌てて声をかける。


亀姫「こ、近衛!!」

近衛「はい、なんでしょうか」

亀姫「あなた…… 魔王陛下を殺すおつもりではないと誓えますわね!?」

近衛「・・・・・・は?」


ピタと一瞬だけ足を止めた近衛。
意表を突かれたような間抜けな顔は、亀姫のよく知る近衛の顔をしていた。


亀姫「誓えますわね、と聞いているのです!!」

近衛「……あの。もう神は死にました、演技は終わりです」

亀姫「ならばあれはすべて、演技でしたのね? 本当にすべて演技だったと、私の目を見て言えまして?!」

近衛「当たり前じゃありませんか。怒りますよ」


近衛は亀姫を抱き直し、まっすぐに亀姫の目をみつめた。


近衛「自分が陛下を裏切るなど、決してあり得ません」

亀姫「近衛…」

近衛「さあ、行きましょう。本当に戦神妃に陛下が抑えられていては大変です!」

亀姫「――ええ」


亀姫が返事をし、小さく謝罪をしたときには
既に近衛は走りだしていた。

開いた扉のおかげで、灯りが階段を多少照らしている。
降りるよりも昇る方が随分と楽なようで、近衛は亀姫を担いだままで駆け昇っていく。


近衛(神従者から聞いた話の通りだったか……。ならばあとは迷いなく陛下の助力になれる――)


陛下を討つつもりだった神。それを討ち、今まさに陛下の元へ駆けつけている。
近衛の駆ける足は勇み、軽く疾い。

階段を昇りきり、亀姫を一度降ろしてから彫像の穴をくぐり出る。
周囲を確認するとすぐに亀姫を引き上げ、近衛はまた亀姫を担いで正門へと走った。


近衛「…亀姫様、まだ気分は優れませんか」

亀姫「いいえ、もう大丈夫よ。自分で走れるわ」

近衛「ですが顔色がまだ戻らぬ様子。念のためこのままでいきましょう」

亀姫「……私、そんなに顔色が悪いかしら?」

近衛「ええ。一体どうなさったのです。陛下がご覧になったら、きっと心配なさいますよ」


突然に魔王の名を出され、
亀姫は顔色を変えている自分を恥ずかしくも情けなくも感じた。

だがそれはすべて近衛のせいだ。
亀姫の中に、ふつふつとした怒りが湧き上がる。


近衛「さあ。しっかり捕まっていてくださいね、亀姫さ……

亀姫「貴方がいきなりおかしな演技をはじめたせいですわ」

近衛「え? 自分のせい…ですか?」


きょとんとした顔の近衛。
亀姫がため息まじりに視線を落とすと、反対の腕に抱かれている神の首が目に入る。

無事に、神を討った。
近衛はこうしていても、魔王の元へ駆ける足を緩めていない。


亀姫「私がどんな気持ちで、あなたの言葉を聞いていたと思っているの…」

近衛「神を欺くために演技をするというのは、打ち合わせていたはずです」

亀姫「打ち合わせた演技と違いすぎましたわ!」


亀姫は担がれたままで、近衛の耳元にどなりつける。
近衛は驚いたが、亀姫の怒りを察すると慌てて弁明を始めた。


近衛「す、すみません。ですが神を信じさせるには、あれくらい言わなくてはと思ったんです」

亀姫「あれくらいって…」

近衛「分が悪いから神につくことにしましたなんて、 いくらなんでも信じないでしょう?」

亀姫「だからって、よりによって陛下を憎んでいるだなんて!」

近衛「魔王を憎んでいるから神側につく。そう言えば、信じるにたやすい動機となる」

近衛「確かに口にしたくもない嘘ですが。……不審がられて、余分に時間を食うことが何より嫌だったのです」

亀姫「……」


近衛「あの話は亀姫様から聞いた "もしもの未来"を想像しての作り話ですよ。印象深かったので、神を見たときに思い出して。すぐに利用する手を思いつきました」

亀姫「……あ、あの場でああすることを思いついたというの…!?」

近衛「はい。元々が亀姫様から聞いたお話だったので、きっと亀姫様もすぐにわかってもらえるだろうと」

亀姫「……もともと自分で想像したからこそ、ありえてもおかしくないと思ってしまいましたわ」

近衛「……そうでしたか。まさかそのせいで血色を悪くされていたとは…本当にすみません」

亀姫「…………」


黙り込んで、天空宮殿を駆けあがっていく近衛。
その肩に抱かれながら、亀姫は僅かに沈んでいた。


亀姫(……確かに、驚かされた。だけど、私の顔色が悪いのは……きっと…)


きゅっ、と。
近衛の背中に、亀姫が捕まった。


近衛「亀姫様…?」


亀姫「……ごめんなさい。あなたは陛下のために必死だっただけね」

近衛「いえ。混乱させたのは事実です、お気になさらず」

亀姫「……そうじゃないの。私は、あなたにやつあたりをしたから謝っているのよ」

近衛「………?」


階段を駆けていく近衛。
争いの跡を踏み越えていく近衛に、いちいち相槌を求めるのは間違っている。

亀姫は、自分がせめて重い荷物にならないようにと姿勢を変え
近衛にしがみつきながら前方を見る。

道のりにある邪魔なものを結界術で弾き飛ばし、サポートに回った。


近衛「ありがとうございま……

亀姫「―――あなたを疑ったわ」

近衛「……え」


亀姫「魔王陛下をお守りするために、どんな悪意も見落としてはいけないと思った。」

亀姫「だから何かあったら、貴方を毒針で刺すつもりだったの」

近衛「……」


亀姫「…貴方を信じることにして見ていたけれど、何かあれば動くつもりだった…」


亀姫「でも、動けなかったわ。あなたが神に剣を向けたとき、私は動けなかったの」

近衛「あそこで亀姫様に動かれていたら神は討てませんでした」

亀姫「そうね。……でも、あそこで貴方が結界を暴発させようとしても、私は何もできなかったでしょうね」


近衛「……しませんよ、そんなこと」

亀姫「結果論だわ。わたしは確証があって動かなかったわけじゃないもの」


亀姫「信じて見守ると決めたからには、動くときには動かなくてはならなかった」

亀姫「出来もしないことをしようとして、陛下を危険にさらした。……約束破りの裏切者は、私だわ」


近衛「……」

亀姫「……」


近衛「……自分は、最後まであの神従者とやらを信じられませんでしたよ」

亀姫「……?」


近衛「奴の話に乗り、言われるままに演じる気になれなかった。だから自分の考えを押し通し、神を前にして、唐突に真逆の演技をしました」

亀姫「……」

近衛「ですが結果はこの通り。実際は神従者の言っていた通りでした」


近衛「疑うだけ疑って勝手な行動をとり、神を刺激した」

近衛「さらには亀姫様までも混乱させて……。全てを台無しにする可能性も、割とありましたよね」」

近衛「でも結果論でいいです。上手くいってよかった。陛下を危険にさらした事もですが、迅速に神を討てたのもまた事実なのですから」

亀姫「近衛……」


近衛の声は明瞭だった。
駆けているその目も、迷うことなくしっかりと進む先を見つめている。

『危険は冒したが、後悔はしていない』。
そんな意思を感じさせる口調だ。


亀姫「……坊やって、大胆なのか小心者なのかわかりませんのね」クス

近衛「小心者ですよ。魔王陛下を裏切るマネだなんて、演技でも出来るか不安でしたから」

亀姫「ふふ。とてもお上手でしたわ。まるきり別人なんですもの、すっかり騙されるところでした」

近衛「はい、別人のつもりでしたから」

亀姫「そうでしたの?」

近衛「自分のままで、陛下を裏切る演技をしたくなかったのです。後々、自分を嫌いになりそうですからね」

亀姫「ふふ。わかる気がいたしますわ。それにしても、ずいぶんと強気でしたこと」

近衛「はは…。陛下の真似って、するだけで強くなれる気がしますね」

亀姫「え?」

近衛「あそこまで堂々とできたのも、陛下の日ごろのお強さのおかげですね!」


亀姫「………まさかあれ、陛下の真似でしたの?」

近衛「はい! もしこの世の中に陛下を裏切っていい人物がいるとしたら……それは陛下ご自身くらいですから!!」


亀姫「…………………」



近衛「……亀姫様? どうなさいましたか」

亀姫「あれの…………どこが、陛下の真似ですの…?」

近衛「え。ですが、自分でもなかなか上手くできたかと――…」


亀姫「貴方は普段、陛下の何を見ているおつもり!?」

近衛「そ、その…強気な微笑とか、不敵な余裕とか」

亀姫「はぁッ!?」

近衛「あ、あとやや傲慢な口調とか!! あの、陛下の特徴は抑えたつもりだったんですが…」

亀姫「陛下はあんなに軽薄で頭のオカシそうな方ではありませんわ!」

近衛「軽薄で頭がおかしそうでしたか…!?」

亀姫「侮辱もほどほどになさいませ!」

近衛「見倣っただけで侮辱って!! 自分の演技は、そんなに下手でしたか?!」

亀姫「下手よ! どヘタ!!!」

近衛「!!!!」


亀姫「……まったく! この戦が終わったら、私が直々に再教育して差し上げますからね!」

近衛「あ……」

亀姫「陛下のことをきちんとご理解できるよう、精進なさい! さあ、陛下をお迎えに上がって、残敵を倒して………さっさと帰って勉強しますわよ!」

近衛「……はいっ!!」



―――――――――――――――――――――――――――」

天空宮殿・最上階
天守閣


魔王「……は。まったく魔王らしくない」


魔王「深く望みすぎて。僅かにでも叶うのならば、それだけでも代えがたい価値があると思えてしまう。……滑稽だな」

神「魔王、それでは―― それでは、帰ってきてくれるのだな!?」

魔王「………信じたいとは思う。だが、本当に可能性があるのか」

神「――――っ」

魔王「ないなら、諦めよう。素晴らしい夢物語だった。希望を語る神の話術、見事だった」

神「ある……! だが、口で説明しても信じてもらえないような方法だ! 言えば、余計に疑われるような!」


魔王「…言ってみろ」


神「――魔王の身体。その魔素を抜き、再び浄気によって満たす……」

魔王「浄気を…?」


神「お前を、元の天使へと戻す」


魔王「……は」


魔王「はは…。 なるほど、そういうことか。つまり俺を殺して、別人を作ろうというんだな」

神「別人ではない! 元々は天使なんだ、その身体は本来は浄気を受け入れられる…! 我々を憎み、拒んでいる魔素さえなければ出来るんだ!」


神「魔素さえなくせば、世界はまたひとつに戻せる!!!!」

魔王「……」

神「お前の体を流れる力を、すべて入れ替える強引な方法ではあるが――」

魔王「仮に、それで俺が浄気に耐えうる身体を手に入れたとして……」


魔王「魔族はどうなる。魔の国は? …世界の一部を壊してなかったことにするのが、お前の言う“ひとつの世界”か?」

神「~~~それはっ」


魔王「神界のすべての神族を犠牲にしたように。魔国のすべての魔族を犠牲にして、俺に天使へ帰化しろというのだな」

神「……っ一部の魔族、そして神族は復活できると考えている」

魔王「一部…?」

神「元が神族の4種族。それから魔王の血を過去に引いた者。あるいは魔素の影響も浄気の影響も受けず、自己の生命力を用いて生きるもの…」

魔王(……そんな一族がいただろうか? ……まさか、精霊族…?)


神「長い歴史の中で多くの血は混じり合う…」

魔王「………」

神「必ず、浄気への耐性を強く残す者は多くいるはずだ! その彼らは、浄気による統一世界で復活が可能になる!」

魔王「不確定ではあるが、大多数が見込める、と?」

神「そうだ…! 決して魔族を無碍にしているわけではない! だがこれは夢物語のような綺麗事ではないからこそ…… 犠牲が出るのは、やむをえまいと考えていた…っ」


魔王「……ふ。確かに、聞けば聞くだけ胡散臭い話だな。犠牲と危険が多すぎる」

神「だが、出来る! 魔素にさえ阻まれなければ、神の力はそれを可能にする!!」



魔王「……理想を信じ、神の力にすべてを委ねろ、というのか。無茶を言うものだな」

神「だが信じてくれさえすれば、我々はお前を倒して無理やりをせずとも、もっと確実に統一世界を作り出せるだろう!」


魔王「信じる……か」

神「ああ! 信じてくれ!! 我々を疑うべきことなど、本当はなにひとつ無いのだから!!」



魔王「――疑うことは容易いのに。どうしてこうも、信じることは難しいのだろうな」

神「魔王……それでも、どうか……」」


神「どうか、信じてくれ」


神が目を閉じ、手を合わせた。
祈りをささげるようにして、切に願う相手は、魔王。

その異常性に、常識が崩れていく。
信じるべきもの、疑うべきものがわからなくなってくる。


魔王「――………


魔王が、口を開きかけたその時だった。



『陛下ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!』


まるで現実を呼び覚ますかのような必死の声が、響きわたる。



魔王「!!」

神「!? こんな時に、何者だ!!」


誰よりも先にピリと空気を張りなおしたのは魔王だった。
叫び声とほぼ同時、大きく崩れて開いた入り口に近衛と亀姫が姿を現す。


近衛「陛下ッ!! ご無事ですか!?」

魔王「近衛… それに、亀姫……」

亀姫「お待たせいたしましたわ、陛下。ただいま御前に参上仕りました」


獣王「…っ。ようやく、来たカ…。良かっタ……」


誰よりも深く安堵の息を吐いたのは獣王だった。
獣たちは先ほどから、魔王にかける言葉を見つけ出せずにいたからだ。

魔王の迷いを目の当たりにしてしまった獣王。
すがるように希望を求める“匂い”が魔王から漂ってくるのを、その嗅覚で感じ取ってしまっていたのだ。
そしてその匂いは、今もまだ消えていない。

目の前で籠絡されてしまいそうだった絶対的な主人、魔王。
もし神の手を取っていたなら、獣たちは従うしかなかった。統率は乱せない。それが獣の掟なのだ。

主人の想いを知りながら、神に食いつき言葉を止めるべきなのか……
獣たちもまた、葛藤に苛まれて身動きが取れずにいた。


獣王(魔王サマは… なんト、答えルつもりだったのだろうカ…)


獣王はそんなことを思いながら、魔王のすぐ脇で牽制の姿勢をとりなおす。
獣たちも、新たに入ってきた近衛たちに合わせて編成を組みなおしていった。


神「……貴様等…ことごとく邪魔をしおって…」

亀姫「うふふ。貴女こそ景観の邪魔ですの。陛下のお傍に控えるにしても不釣合い…身の程をわきまえなさって?」

神「貴様! 誰に向かって口を利いている!」


魔王「……全員下がっていて構わん。神は既に戦意を――」

近衛「いいえ。油断なさらないでください、魔王陛下」

魔王「……油断だと?」

近衛「陛下は騙されているのです。 ……そいつは、神ではありません!」



魔王「――何…?」

神「!!!」


ゆらり、と。
視界に神を捉えた魔王の瞳が、揺れた。


近衛「地下に、本物の神がいました…! そこにいる者は神の護衛だという、『戦神妃』です!」

神(戦神妃)「なっ…… お前ら、なぜそれを…!?」


神が目を見開いて驚嘆した時点で、それが事実かどうかなど答えは明白だった。
それでも魔王はゆっくりと刀を握る手に力を込め、静かな声で聴き返す。


魔王「…近衛。それは、確かなのか」

近衛「はい! 天使の父を名乗る者が別の塔に閉じ込められており、その者より聞き出しました!」

魔王「天使の…父…?」

亀姫「……まずは陛下、こちらをご覧下さいませ」


剣を構える近衛に代わり、亀姫が差し出したのは斬りおとされた一首だった。


戦神妃「なっ!?」


首だけになってもなお美しい顔立ち。
血の気のない肌は決して土気色に染まることはなく、
青ざめた氷の結晶のように透けてみえる。

一目見れば、その首が特別なものであるとわかる。


魔王「………これが…本物の『神』、か」

戦神妃「あ、あああああああっ!?!?!? 神様! 神様ぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


跪いていた神――戦神妃は、立ち上がることも忘れ
亀姫の腕の中にあるそれをみて絶叫していた。

神の名を呼び、狂乱する戦神妃。
魔王はその姿をしばし見つめた後で、自嘲気味に嗤った。


魔王「………『疑うべきことは一つもない』、か…。クク」

獣王(魔王サマ……)


獣王だけが感じる、魔王の“匂い”の変化。
その匂いがわかるからこそ、獣王は魔王の顔を見ることができなかった。


魔王「……………………戦神妃、といったか」

戦神妃「………っ!!!」


魔王「よく、ここまで俺に夢を見せてくれたものだよ。……褒めてほしいか?」

戦神妃「ま、魔王…! あ、これは…!」

魔王「……今なら、初代魔王がどれほど神を憎んだかわかる気もする」

戦神妃「待ってくれ! 魔王、私は――!!!」

魔王「正体すらも欺かれていたとは、さすがに予想外だった」


魔王が目を伏せたのと同時、獣たちは一斉に身を固くして尻尾を丸め込んだ。
噴き出した匂い。脳髄を焼き焦がす、死の香り。


魔王「どうやら信じるべきことなど………、ひとつもなかったようだな」


戦神妃「違う… 名を偽ったのは、お前と話などできないと思っていたからで……」

魔王「………もう、いい。今度こそ、充分だ」

戦神妃「!!」


言い捨てると同時、充分すぎる殺気を刀に纏わせる魔王。
屠るために構える時間など、本来は必要ない。

それでも構えたのは、生を惜しむ時間を与えるためか。
あるいは、罪に恐怖という罰を与えるためか。それとも――


戦神妃「お前が…」

近衛「……?」

戦神妃「お前が、来たせいで……お前が、いなければ…っ あと少しで、理想郷への道が開けたというのにっっ!!」

近衛「……心外ですね。そもそも我々を呼びつけたのは、そちらです」

戦神妃「お前のようなもの、呼んでなど―― 


ギッと、魔王の後方にいる近衛を睨み付けた戦神妃。
真正面から視線がぶつかった後、先に顔色を変えたのは戦神妃だった。


戦神妃「…っ!」



近衛「……自分の事を呼んでない、と?」

戦神妃「おまえ、は…」

近衛「ああ、覚えていてくださいましたか」


近衛「……自分は、すぐにわかりましたよ。貴方の声には聞き覚えがあります…」


戦神妃「まさか………『勇者』……っ」

近衛「………」


近衛「ああ、その響き。間違いなくあなたが、自分を巻き込んだあの時の『声』だ」

戦神妃「………まさか…そんな。勇者は、魔王による人間世界侵略で…」

近衛「そういえば、神には言えず仕舞いでしたね。代わりに貴方に語っておきましょう」


近衛「死ののちに行き着く場所があるならば、そこで神にも教えてあげてください。自分の、昔話を」


魔王「………」



~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~


近衛の人間時代――
地上

突然に襲い掛かってきた魔物。
大切な妹が襲われるのを見ても、助けに行けばより酷いことになると 諦めて立ち去った自分。

無力感と、激しい刺傷痛。
炎と煙で赤黒く染まっていく空と、朦朧とする頭。現実以上に、思考そのものが世界を歪ませて見せていた。


青年(近衛)「……ハァ…ック、 ァ、は、ァ……痛ッ…」ヨロ…


この世界には、もう自分はいられない。
迷惑を掛けた。

厭われて、狙われて。
愛しいものも守るべきものも、守れないままに見捨ててしまった。


青年(近衛)「ぁ…ぁ、ぁぁ……っ」ブルッ


急激な寒気。怪我のせいなのか熱もある。

寒い。暑い。痛い。苦しい。悲しい。虚しい。
嫌悪感。拒絶。不安。恐怖。後悔。怒り。

炎風のごとき勢いで駆け巡る感情に、目を回す。
足がもつれて地を踏む感触がわからなくなる。

確かめようと足元を見た瞬間にバランスを失い、青年は顔面から崩れ落ちた。


――いやだ……


青年「嫌だ… 嫌だ、嫌だ嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ」

青年「う、うぁあああああああああああああ!!!!!」



地に這ったまま叫ぶその口に、土がへばりつく。
血の味。土の味。動く気力を失った四肢。

地を這う虫になったようで。
なのに、虫けらなどよりもよほど無力だ。
何者も信じられない。それなのに、縋りたい。

ぼろぼろと流れ出す涙。
悔しい。悲しい。このまま終わるだなんて……  寂しい。


もしもまだ、間に合うのなら。
どうかこの世界と、愛しいものを救えるのなら。



惨めで憐れ。
こんな姿で叫ぶしかできない情けない自分を、誰か同情してくれるだろうか。
世界中から憎まれた今、こんな自分に同情してくれる人がいるだろうか。

もしもいるのなら、聞いてほしい。
救いを乞い、助けを求めるこの声を――


青年「どうか、お願いです…助けて、ください……」


『――……探したぞ。世界一の、不幸者…』


いつからそこにいたのか。
驚くだけの生命力も残っていない。

顎を地に擦りながらもたげた首で、声を見上げた。


『…この世界をお前の望むように救ってやろう。ただし――…』


青年「……約束、する…。どんな、こと…でも…。いつ、まで…でも……」

『…いいだろう。では…』


パタリ、と木片を打ち鳴らすような音が響く。
カタカタと地が震え、急速に風が吹き荒れていく。
何が起きているのか、地上15cmの目には何も映りはしない。

声だけが、鮮やかに脳に飛び込んでくる。


魔王『さあ祝え。これは生誕祭だ』



あの日、僕たちの世界は守られた。

突然 魔物達が襲来したときのように
突然に、この国は救われた。


魔王とその特異すぎる力によって、地上は世界から”はじきだされ”ていた。


~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~


―――――――――

天空宮殿 天守閣


近衛「人間世界は、上の神、下の魔――そのどちらからも逃れ、丸く転がり続ける球の表面でひっそりと生きています」

戦神妃「そん、な? 世界からの離別だと…? そんな。それでは、まるで・・・・・・」

魔王「父君と魔物による全体侵略。地表の全体に魔素が充ちていた……くく。我ながらド派手な大仕事だったがな」

戦神妃「地表は焼き尽くされたのではなく・・・」

近衛「引き剥がされたのですよ。陛下の、魔素を操る御業によって」


戦神妃「そんな、強引で荒い方法で。一歩間違えば、滅亡ではないか」

魔王「……滅亡したならその時はその時だ。元々は父君の侵略戦争・・・滅びるはずの物だった」

戦神妃「なぜ? いったい、なぜそんなことを? 何が目的だった?」

魔王「………――」


近衛「……目的など知りません。ですが陛下はおっしゃいました。『お前自身が、代価となれ』と」

戦神妃「お前自身が…代価…?」


近衛「自分は、自分の世界を買ったんですよ。自分自身と引き換えに」

近衛「――”勇者”の存在と引き換えに、この世界を守ってくれと願い出た」

近衛「自分はこの若き王に仕えることでしか、あの世界を守る事が出来なかった無力な勇者」

近衛「魔王と交渉して世界を守ってもらう勇者なんて。どこの冒険譚でもみたことがありません」

戦神妃「だが、そもそも侵略してきたのも魔族だろう!?」

近衛「ええ。そして、自分を勇者などにして人間世界侵略戦争の原因を作ったのは――貴方です」

戦神妃「――ッ それは! 違う!勇者を作ったのは、確かに人間世界の平和のため…!」


近衛「救いも絶望も一方的に与えられる不条理から、陛下は解き放ってくださった」

近衛「だから、自分は生涯を捧げると約束した」



近衛「今の僕にとって、神もあなたも―― 正直、目障りです」



戦神妃「絶対の聖たる神に、なんという…! それまでニンゲン世界を導いていたのは誰だと思っている!?」

戦神妃「幾多なる内紛、種族同士での殺し合い、その全てに我々は無限の愛をささげてきた!!」

近衛「………無限の、愛…ですか?」

戦神妃「そうだ! 神はヒトの全てを愛し、見守ってきた! 決してお前と敵対する存在ではなかった!」


魔王「……愛、ねぇ」クク

近衛「愛情・・・感じたこと、あったでしょうかね」

戦神妃「な……」


魔王「世界は広い。さしづめ、よく見もせずに天からばら撒いていたのでは?」

近衛「土に肥料をまくようにですか? 博愛だなんて言って、『薄愛』なんですね」

魔王「ククク。神の愛情とはかようなものか。勉強になった」


軽口をたたきながら、近衛と魔王が戦神妃を挟み込む。
縋るとも憐れむとも言えない目で近衛を見上げてくる戦神妃。
そして、うつろに絶望を浮かべた蒼白の顔で、一言。



戦神妃「魔王…… 私は。 神は…決してそんな存在では……」



魔王「―――その表情。演技ならば、見事だった」



前から、魔王の刀が。
背後からは、近衛の剣が。




戦神妃「――ああ…魔王、君が私を信じられないのは……私たちの、最大のあやま……――」




―――ド゙シュッ………


剣と刀が同時に突き刺さり、戦神妃はゆっくりと瞳を閉じた。
貫いていた刃物を胴から抜きはらわれると、ドサリと臥して動かない。



戦神妃は、確かに強い力を持っていたようだ。
死後に体内から抜け出ようと溢れる浄気はとどまるどころか勢いを増していくばかり

獣王たちや亀姫は、浄気にあてられ苦しそうに身をよじっている。


亀姫「……なんて気力ですの… っ、これでは…っ」

魔王「…………」

近衛「陛下・・・?」


魔王は、戦神妃の最後の言葉に気を奪われていた。
あんな最期の最期まで、演技を続ける必要があったのだろうか……


亀姫「っ、陛下。どうかお願いです…これ以上は、皆の身体に障り動けなくなりますわ!」

魔王「――……」

亀姫「陛下… どうぞ、帰りましょう? 私たちの穏かな日常へ……」


魔王「――ああ」




亀姫の言葉に素直に従ったのは
責任逃れにすぎなかったのかもしれない。

判断が正しかったのか、自信が持てない。後味の悪い勝利。
だが、いまは一刻も早くここを離れる必要がある。



魔王たちが部屋を立ち去って、しばらくの後。
聖骸の首と、戦神妃の躯を並べ、その横に力なく座り込む影が一つあった。


神従者「………間に合った…っ」


手を合わせ、声を震わせて 胸の前で刻んだ十字。
神界に残るは、ただ彼一人。
鎮魂の歌を捧ぐ彼の心象を知るものなど いるはずもなかった。



―――――――――――――――――――――――――

天空宮殿・雲上


近衛「――陛下。ここからの帰路なんですが…やはり来た時の大穴をまた降りるのでしょうか?」


近衛の言葉に、魔王が振り向く。
見ると、近衛の横では亀姫も同じように首をひねっていた。

いつのまにやらそうも仲が良くなったのだろうか、と
魔王は思わず言葉をかけそびれる。


亀姫「陛下でしたら、竜巻を作り上げて“巻き上げる”ことも、渦を用いて“落とし込む”ことも可能でしょうけれど…正直、その」

近衛「昇るよりも怖ろしそうですね」

亀姫「……怖ろしいというよりも。空に吹き上がるのではなく、地に叩き込まれるのですもの。……何名生きていられるかしら」

獣王「魔王サマ、どうすルつもりダ?」


獣王にうながされ、魔王はぼんやりと臣下たちの観察をやめた。
戦が終わったというのにどうにも後味が悪く、すっきりしない。
こんなふうにぼんやりとみているのがいい証拠だろう。

魔王は自分自身を軽くいさめると、皆に背を向けてから口を開いた。


魔王「…気付いていないのか。もう、降りはじめているのだが」

亀姫「え?」


魔王の言葉に、一同は周囲を見渡した。
景色は何も変わることはない。雲上ということもあり、空との距離すらもあいまいだ。
だが、風の流れの違和感などを観察していると、下降しているのを察する程度の事は出来た。


魔王「おそらく、この大地自体は植物と雲を神気によって固定化したものだ。神気はもともと浮力が強い。それをまとめておくことで、その上にある宮殿をも空中に滞留させていたのだろう」

亀姫「…この大地が落ち始めたのは、神が死んだからですのね」

近衛「土地の持つ神気の結束が弱っている…」

魔王「ああ。つまり、放っておいてもゆっくりと落下し、いつかは下に降りるだろう」

獣王「気の長イ話ダ…」


ため息を吐いた獣王に、魔王はククと笑いを零す。
軽く目を細めて怪訝にみあげてきた獣王の視線から逃れるようにして、魔王はくるりと背をむけた。


魔王「何、待ってやるつもりはないさ。魔素を打ち込んで神気の分解を促してやればいい」

近衛「分解を促す… と、いうのは」

魔王「クク。……神界のこの土地を、“物理的”に落としてやるのだよ」

近衛「それは一体――…


近衛の言葉を聞くよりも早く、魔王は片手をあげて魔力を収束させた。
無言のままで足元に連続で打ち込まれていく魔力弾。

吸い込まれるように地を抉り取るそばから、蒸気に似た白い煙が立ち上っていく。
メキメキと植物の裂ける音が足元で響き、獣たちが尾を立てて唸り始めた。


魔王「懸念の必要はない。余力のあるものは、俺に続いて打ち込め」


魔王の言葉に、最初に従ったのは亀姫だった。
小さな結界を作り、扇でそれを叩き付けるようにして地へと打ち込んだのだ。
――威力こそ小さいものだったが、亀姫がそれを無言で繰り返しはじめたのを見た他の魔族も、各々の方法で自らの持つ魔素を大地へと浴びせていく。


土地はメシメシと裂け、枝とも根ともわからぬ植物が断面から飛び出し、
しなやかに伸びてはブチブチと引き裂かれる。
それは、動物の持つ神経や血管にも酷似して見えた。


裂けて小さくなった大地は、落下を速めていた。
魔物たちの打ち込む魔力で、大地は数十に別れてはパラシュートのようにゆっくりと落ちていく。


魔王「……これくらいで十分だろう」

亀姫「あとは、着地を待つだけですわね。ふふ、戦の帰路が僅かに揺られる穏やかな時間だなんて、嘘みたいですの。まるで船旅のよう…」

魔王「……楽園を見つけられないままに、彷徨いおちる箱舟か?」クク




ふと魔王が上方をみやると、宮殿が浮いたまま残されていた。

魔王達のいる土地よりもずいぶんと高い場所
そこにいまだ大きい面積を残した大地があり、まるで何かあったことに気付いていないかのようにそびえたったまま残されていたのだ。


魔王「ほう。……あの城はよほど広く、根を張っていたらしいな。……ふむ」

亀姫「陛下、どうかなさいましたの?」

魔王「いや。天の… 神の在り方の根深さを、少し考えていた」

亀姫「…?」

魔王「根ばかり広げて…花を咲かせることを忘れては、惹き寄せられるものも惹き寄せられまい」

亀姫「花を……?」


魔王は掌にとりわけ大きな魔力をためると、上空の宮殿に向かって放った。

ボフ!!という、重さを感じる着弾音。
下から打ち上げられた土地が、胞子を吹きだす植物のように塊状の白煙を吹きだしてきのこ雲となり、爆ぜた。


亀姫「……確かに、花開くさまに見えなくはないですが…あれで何かを惹き寄せられるのですの?」

魔王「花開く前に枯れたのだ、もはやだれも寄り付かぬまい――」

亀姫「ではいったい、あれは…」

魔王「……意味などないさ」



霧散して消える花など、遠き日の隣人へのはなむけとは呼べないだろうから。


――――――――――――――

魔国――



魔王達が地に降りたつまで、二刻程もかかっただろうか。
ともあれ神界を無事に落とし切り、この戦を見事に乗り切ったのだ。

魔の土地を踏んだ魔物たちは、興奮冷めやらぬ様子でめいめいに騒ぎ始めている。
ようやく緊張がほどけたのだろう、魔王がいまだ傍にいるというのに 皆、落ち着きがない。


着地したのは魔王殿よりもやや離れた場所で、一同はそれぞれに歩を進めた。
魔族の中には、そのまま自らの領地へ戻るものもいる。
戦の終わりとは思えない散会の仕方に、近衛は苦笑しながら魔王の後ろを歩いた。

王殿の手前の庭にまでつくと、王の帰殿を待つ家臣の姿があった。


竜王「――お帰りを、お待ちもうしていた」

魔王「クク。お前はもう、俺の家臣ではないと言ったのだが」

竜王「知らぬようなら覚えてくだされ―― 主君に否定されたとて消えないものが、“真の忠義”というものじゃと」

魔王「―――クク。昔から、お前は説教くさくてたまらないな」

竜王「…………」


竜王の横を素通りする魔王の口許に、微笑。
頭を下げたままの竜王からは、安堵したかのような小さな溜息。

その様子を見ていた近衛と亀姫は、お互いに顔を見合わせて小さく笑った。
獣王は大きく伸びをしたかと思うと、ゴロリと転がって地に背をこすりつけていた。


魔王(………さて)


魔王は王殿にはいるなり、まず一番に自分の社殿へと向かった。
結界の中に閉じ込めてあるとはいえ、神が失せたとなればその影響は皆無ではないだろう。


魔王(…………)


しばしの間とはいえ、留守にしていた屋敷に 魔王は目もくれずに進んだ。
頭を垂れた使用人とすれ違ったような気もするが、よく覚えていない。

僅かでも歩を乱すことはなく、他に何を思うでもなく
気が付けばすでに大きな扉が目の前にあった。

焦っているような、落ち着き払っているような。
あるいは極度の緊張のあまり、心臓がとうに動きを止めてしまったような。

しかしそんな自分の状態にすら、意識を向ける時間は惜しい。



ゴゴギィと響く、重厚な開閉音。
暗い社殿の中に僅かな灯りが入り込む。


社殿の中にあった小さな蝋燭の灯のもとまで灯りが届くと、
魔王はそこでようやく、(ほぅ)と、気付かれぬ程度の安堵の息をついた。


天使「…………ぁ…」


天使が まだ、そこに居てくれた。


天使「や……」


魔王はゆっくりと近づき、天使の様子を伺う。

久方ぶりの魔王の姿に怯える天使。
厭ましく思ってその姿ですら天使の無事を示している気がして、変わらずにいてくれたと喜ばしくすら思ってしまうほどだ。


魔王「……この影響ばかりは、わからなかったからな」


自嘲し目を逸らした魔王が、庭先の気配に気づいてゆるりと振り返る。

大きく開かれた門扉の向こうに、亀姫と近衛の姿が見えた。
二人は階からやや離れた場所まで来ると、僅かにジャリ、と砂石を踏みしめる音をさせながらその場に膝をつき、控えて動かない。

――動かないというよりは、動けないという風体の近衛の様子に、魔王が気付いた。


魔王「近衛。無事か」


近衛が息苦しそうに背中を上下させ、ぎゅっと胸元の石を握りしめている。

天使が魔王の言葉を聞き、
そこに近衛がいることを知って、バッと視線を門扉の奥へと向けた。

近衛の姿は、天使の位置からは見えない。
見えるのは魔王の背中と、階の踏板の一部、それから……


天使「あ……」


天から『雲が降っている』様子だ。


天使(あれは…神界……っ!?)


魔王「近衛。神界でも無事に動けたお前が…なぜ、魔国に戻ってから苦しむ?」

天使(近衛様が、苦しんでいらっしゃるの…っ?)


次から次へと天使に知らされる急事。
天使は恐れと不安にガタガタと翼を揺らすことしかできなかった。


一方、問いかけられた近衛も声を発しようとするも、まともに音が出ない。
門扉の奥にいるであろう天使に元気な声を聴かせたいのに…と振り絞ろうとするも、吸い込むので精一杯で吐き出せるものがない。


近衛「……っ、は、」

魔王「……」


目を細めて近衛を見つめる魔王に返答したのは、近衛の横に控える亀姫だった。


亀姫「僭越ながら、私から申し上げさせていただきとうございます」

魔王「亀姫。……わかるのか」

亀姫「はい。現在、近衛には結界をかけております…。そのせいではないか、と」

魔王「結界…?」


魔王「…神界から戻り魔国へと降りた際、浄気除けは外したのではなかったか」

亀姫「お忘れですか、陛下。近衛は…この者はニンゲンでございますのよ」

魔王「……」


亀姫「近衛の胸の御石。ニンゲンである近衛が、この魔の国で生きるための魔素の濾過装置と伺っておりますわ」

亀姫「この御石の弱点は、浄気…。神界においても、近衛にはこの御石のみに結界を張り守っておりました」

魔王「…それで?」


亀姫「…順序が狂いましたが、ここでご報告申し上げさせていただきますわ。現在、魔国全体の魔素の濃度が急激に下がっております」

魔王「……ああ。それはわかる」


亀姫「先ほど、私のところに医局から報告がございましたの。大気中の魔素の濃度の低下に伴って、国土中で頭痛や眩暈、呼吸困難などの訴えが上がっていると・・・」

魔王「では、近衛もそのせいで?」

亀姫「……近衛の場合、少し違います」


亀姫「今、この国で急速に濃度を増している浄気から御石を守るためにかけている結界。その結界自体が、御石の濾過効率を弱めて呼吸困難をひきおこしているのです」

魔王「…では、結界を解いてやったらどうだ」

亀姫「結界を解き浄気を吸って生きるには、近衛にとってまだ浄気も足りず、魔素も濃すぎるのですわ…」

魔王「……混合した大気では、どちらを選ぶにしても生きるに足りないのか」

亀姫「陛下のお傍…この魔王殿の近くでしたら、まだ魔素も多く残っております。御石に少しでも多くの魔素を触れさせていれば多少の回復も見込めると思い、差し出がましくも連れてまいりましたのですわ」


魔王「魔素に触れさせる…か」


魔王「いや、あるいは…」

亀姫「……あるいは…?」



魔王(……天使と同じように… 魔素から離し、浄気の中で…)

魔王(……………天使と…ともに…同じ場所で…)


言葉を止めてしまった魔王。
だがいかに気になろうと、これ以上に先を促すのは失礼にあたる。
亀姫は魔王の言葉の先を考えつつも、かけられる言葉を探し、進言した。


亀姫「……陛下。いかがなさいましょう。近衛の任を一時的に外していただければ、医局で近衛の身柄を預かることも可能かと」

魔王「………いや」


魔王「先ほどの話を聞くに、医局も房も手一杯だろう。『東の近衛』は王殿付きの者なのだからして、こちらで引き受ける」

亀姫「お気遣い痛み入ります。医局の者に陛下の御言葉を伝え聞かせれば、必ずや喜び、励みとなることでしょう」

魔王「……だがそれだけでは何の解決にもならぬ。――亀姫」

亀姫「……はい?」



魔王「亀姫。お前の守護結界は、どれほどの大きさのものまでを囲うことができる」


急な問いに、亀姫はやや首をひねりながらも返答する。


亀姫「……結界の使用時点で私自身が保持している魔素の量と、囲う物を囲いきるのに必要な結界の厚さによりますけれど……」

魔王「ふむ」


魔王「問い改めよう。神界から降る雲のうち、霧散せずある程度まとまった大きさのあるもの全てを囲いたい。…どれほど必要だ?」

亀姫「な…!?」

魔王「どれだけの魔素がいる」

亀姫「……っ」


抑揚のない魔王の声に、本気で問われていることを悟った亀姫は
青い顔で、表情を曇らせた。
それからほんの数秒の間をおいて、深々と頭を下げて返答する。


亀姫「お、畏れ多くも申し上げます…。あれらは浄気の塊でございますわ」

魔王「承知の上だ」

亀姫「わ…私の体内に溜めおける魔素量が充足していたとしても、あれらを十かそこら封じた頃には魔素が枯渇して…結界を『維持し続けること』が難しいと思われます…」

魔王「では魔素さえ供給されれば、封じること自体は可能なのだな?」

亀姫「…ええ、左様にございます。魔素を集める術もあるにはあります。ですが、現在、魔国の魔素濃度は低下の一途にありますので…。そんなことをすればこの魔国の民への影響は計り知れませんわ!」


魔王「俺の持つ魔素を、お前に譲り分けてやろう。さすれば可能か?」

亀姫「……っ!?」



魔王「神界で討った兵士共から、浄気が流れどこかへと吸い込まれていくのを見ていた。威力を持たぬただの気…。おそらくだが、地下にいたという神が吸収していたのであろう?」

亀姫「あ……陛下は、そのことをご存じで…?」

魔王「いや。神界の土地が吸収しているのだと思っていた。だが、地下に神がいたと聞いてから、そこに向かったのではと考えついただけだ」

亀姫「そうであらせられましたか…。ええ、神は浄気を地下の一か所に集め、それを放出する準備をしておりましたわ」

魔王「ふん…。まあいい」


魔王「あの浄気のように、魔力を乗せずに魔素のまま放出することができれば、おそらくお前もそれらを吸収することができるはずだ」

亀姫「ですが、そんなことをしては陛下自身のお力が!」

魔王「このまま浄気と魔素が混ざり合っては、相殺しあって“空”となった大気が充満するだけだ。そうなれば、最終的には俺とて無事では済まぬ」

亀姫「……」



魔王「大量の魔素の供給と放出、そして結界の維持という能力のコントロールを同時にこなさねばならぬだろう。出来るか」

亀姫「……それは…」


魔王「無理ならばそう答えろ」

亀姫「…っ」



亀姫「出来る出来ないではございませんわ! 陛下の御身と御国のため、この亀姫、我が名と一族の誇りにかけて操り切って見せますの!!」



魔王「ふ……」


亀姫「陛下! どうぞその御力、私めにお譲りくださいませ!!」


魔王「………くく」


魔王「命を下すのもしのびないほどの苦行のはず。下手をすれば『生きた術式』とも化してしまうだろうに。まさか、“頼む”ことをする前に、おのずから申し出られてしまうとはな」

亀姫「私の身は、もとより陛下に捧げるはずのもの…。陛下の御為のなることならば、何も惜しいことなどございませぬ!!」



亀姫の言葉を聞き遂げると、魔王はゆっくりと社殿の奥へと歩む。
背を向けたまま、低く、静かな声でゆっくりと言葉を紡ぎながら。


魔王「……ふむ。お前に言葉では敵わないと思っていたが……」


部屋の奥に立てられた一本の錫杖。
それを握り、高く持ち上げて引き出した。


魔王「今回ばかりは、お前の言葉にはひとつ間違いがあるようだ」

亀姫「……間違い…?」


魔王の歩くのに合わせ、厳かに鳴り響く金環。

その高らかな音色と、魔王の放ち続ける低い声音は
催眠術のように魔王の言葉を亀姫の心の奥深くに送り届けてくる。



魔王「お前を無くすのは俺が惜しい。主が惜しむからにはお前も惜しむのが正しいだろう。…決して軽んじてくれるな」

亀姫「………陛…下…」


視線を上げた亀姫は、いまだかつて見たことがない魔王の瞳に一瞬で魅せられた。
しかしその視線の交差を阻むように、錫杖の先が亀姫の眼前に突き付けられる。


ジャララン…!
ひときわ大きく鳴らされたその音が亀姫の耳に吸い込まれると同時。



魔王「必ず操り切って、その精神を保ち続けろ」




……っ――


目に見えるほどの高濃度の魔素が、一本の細い渦を巻いて錫杖の先からあふれ出す。
それはまるで獲物を襲い食らうヘビのように、亀姫の中へと潜り込み、体内を駆け巡っていった。



―――――――――――

渦巻く魔素を飲み込んだ亀姫の瞳は、蛇のごとくに丸く瞳孔を開かせている。
溢れすぎる力に苦痛でもあるのか、亀姫はいつもの饒舌さを失ったまま、大きく袂をふるった。


亀姫「……っ、あ……ひとつ」


ヒュバッ…
風切音をさせ、袖から覗く細いしなやかな指先から魔力が放たれる。
細い糸のように伸びた魔力。
それは的確に空中の獲物…神界のかけらにぶつかると、ぶわりと膨張して飲み込むようにして雲を囲った。


魔王「……ほう…。これまでに見た結界術よりも、魔力に無駄がなく速い。……獲物に食らいつく蛇のようだ」


亀姫「……ふた…つ………っ」


今度は反対の腕を大きく広げ、別の雲を捉える。
振袖が舞い、髪が揺れる。魔力のコントロールのために滑らかに動く指先。


亀姫「みつ……よつ………っう、ぁぁ……」

亀姫「あ………。いつ…………むつ……っ」


数え唄を舞う亀姫の衣から、空へと放たれていく蛇と吐息。
愛でるように、撫ぜるように。獲物を捕らえ膨らんだそれを、抱くような仕草でひきよせ集めていく。

魔王殿周辺の大きな雲を囲いきると“霧散する浄気”は減り、周辺一帯はまた魔素の濃度を安定させた。


魔王「無事か」

亀姫「……は、い。陛下………」

魔王「苦しいのか。それともやはり負担が大きすぎたか」

亀姫「あ……。いえ…御力をだいぶ使うことで…頂いた直後よりは、だいぶ落ち着きましたわ」

魔王「呼気が乱れているし、すこしふらついているようだな。……大儀であった、しばし休むがよい」


魔王の許しを得て体の力を抜くと、いまにもその場にへたりこんでしまいそうだった。
どうにか身体を動かし、近くにあった大きめの庭石に手をかけて僅かによりかかる。


亀姫「私の体内で溜める魔素と、陛下からいただいたこの御力…。そもそもの濃度が違うようでございます」

亀姫「今はとても、その…。高揚からようやく醒めたような、不思議な気分ですの……」

魔王「ほう…?」


亀姫「私の魔力がどこからか湧き出て溜まる泉と例えるならば、陛下の御力はまるで熔けた鋼か銀のよう……」

亀姫「煮え立つあぶくが割れるごとくに私の中から勢いよく飛び出し、ほんの僅かに放たれたそれは冷めるようにかたまり、でもしなやかに伸びて……ああ、とても表現しきれませんわ」

魔王「他者の魔力とはそのようなものか」

亀姫「いいえ、きっと陛下の御力が特別で…………」


亀姫はチラと視界の端に写った近衛の姿に目をやった。
正確には、近衛が苦しげに握ったままの胸元の御石に意識をとられたのだ。


亀姫(……陛下の御力…血の結晶。はじめてそれについて近衛に聞いたときは、ほんのわずかに羨みを覚え、欲しいような気すらしたけれど……)

亀姫(硬くしなやかに私を穿った魔力も…放った力の残滓も、あんなものよりずっと陛下そのものに感じられて……)


身体に残る、苦痛めいた快感の余韻。
高揚し熱を持った身体がゆっくりと冷めていくのが、心地よいとも惜しいとも思う。

そんなことは、とても言葉にして伝えることなどできない。



歯切れ悪く会話を止めてしまった亀姫だったが
魔王はその先を促すことはなく、事務的に声をかけた。


魔王「して、どうだ。力は足りそうか」

亀姫「…維持をし続けるのに、出来うることなら一か所にまとめ、ひとつの大きな“浄気の牢”を作ったほうが良いかと思われますわ…。分散して結界を保つのは、消費も多くございます」

魔王「俺の社殿を使え。社殿そのものにも魔素が染み入っている分、結界も作りやすいだろう。…押し込めてしまうならば広さも十二分にたりるはずだ」


亀姫「……陛下。本来でしたら、陛下の社殿をそのように使うことは許されません」

亀姫「ですが…まだここから見える大きな神界のかけらを捉えることを思へば、私はその案に縋らせていただきとうございます」


魔王「ふ。どうした、素直になったものだな」

亀姫「社殿よりも、礼節よりも、陛下の御身を第一にお守りしたい私のわがままでございます」

魔王「………ああ。それでいい、構わぬ。捕えた浄気はすべて社殿へいれろ」

亀姫(……………社殿へ…)


亀姫は魔王の言葉を聞き遂げると、ゆっくりと目を伏せてから腕を伸ばし魔力を放った。
捕えた雲に細い糸が絡み、ピンと張りつめられ――


ビュルっ…ズバン!!!
大きな音を立てて、神界の雲は王殿の中へ吸い寄せられるようにして落とし込まれていった。



魔王「近衛」


呼び止められた近衛は、ハッと息を呑んで魔王を見つめた。


魔王「……近衛。おまえはその石を外して、社殿の中に入っていろ。中はすぐに浄気で満たされるはずだ…天界と同じように、すぐに動けるようになる」

近衛「陛、下…。ですが、この魔国の大事に自分ばかりそのようなこと…。それにこの御石を外すなどと…」

魔王「勘違いも甚だしいな。お前には任がある。中に入ったなら、異物を除去して社殿の外に出せ。石も、外さねばただの屑と化すだけだ」

近衛「それはそうですが…。あ、いえ。それよりも異物…とは?」

魔王「神界の雲だ。下層の樹木くらいならばともかく…上層の雲をいれれば神族の遺骸も混じりだすだろう」

近衛「っ」


魔王「社殿の中には天使がいる。……目に止まらせたくない」

亀姫(…………)


魔王の言葉に、また亀姫の心は揺れて、目を伏せさせる。

社殿の中に浄気をいれろと提案された時から気づいていた。
――それは魔王のためでも魔国のためでもなく、天使のためなのだと。


かき集めた、神界の浄気を集めた無数の球。
それらの全てを、たった一人の天使の為に捧げるのだ。


魔王は今も、天使の事を第一に慮って行動している。
魔王のために精神のすべてを研ぎ澄まさせて術を行使する亀姫の事は、本当は一体どれだけ魔王の心にあるのだろう。


近衛「……異物の除去とは、どのように行えばよろしいですか」

魔王「回復したのならば王殿の入り口近くに立ち、勢いよく放り込まれる結界を斬り破れ」

魔王「そしてその中から飛び出す異物だけを斬り打って、王殿の外に即時に排出しろ」

魔王「…外界から飛んでくる結界を打ち破り、王殿そのものにかけられている結界にまた閉じ込めるその一瞬の隙だけがお前に与えられる機会だ。くく、うっかりそれらにぶつかって死んでくれるなよ」

近衛「か…かしこまりました。かならずや成してみせます」


近衛は一瞬のためらいの後で首から御石を外すと、それを恭しく魔王に預けた。
もたつく足で階を昇り、開け放たれたままの社殿へ進んでいく。



魔王「…………」


近衛が社殿の中へ消えていくのを、魔王が見つめていた。


亀姫「………っ!」


――シュルッ…………  ズバン!!!


雲を手繰り寄せる亀姫の術が、冴える。
叩き込むようにして、あらたな浄気を社殿へと封じ込んだ。


揺らめいた結界は大気を歪ませ、薄く青紫がかった結界が一瞬だけ視界を鈍くする。
魔王がわずかに反応し、小さく顔をそむけた。


亀姫(………近衛をみつけた天使。天使に出会えた近衛…。そんな姿など見たくはないはずですのに、なぜ……)


亀姫(………そんなもので…陛下の心を捕えられたくありませんわ…)



視界を遮ったのは誰の為だったか。
必要以上に勢いよく放り込んだのは、亀姫のやり場のない憤りそのものだったのかもしれない。


―――――――――――


それまでに捕えていた浄気をすべて王殿に封じ込めると、亀姫は自分の一族を呼び出し、結界の維持の任にあたらせた。
4人の女が社殿の四方を取り囲み、祈るような姿勢で結界の維持に取り組む。


亀姫「こうしておけば、私がここから離れて浄気を捕えに行っても安全でございますわ」

魔王「……安全?」

亀姫「さきほど私が捕えたのは今ここから届く範囲のものだけでございますゆえ」



魔王「……なるほど。ならばお前はどこまで離れるつもりなのだ」

亀姫「苦しむ民がいるのですから、魔国中へ参り、各所で浄気を捕えとうございます…。陛下、そのことでお願いがございますわ」

魔王「なんだ」

亀姫「各地に住む種族へ、浄気を一時的に封じる場所として強靭な建物を提供するよう、伝令を放っていただきとうございます」


魔王「……なるほど。いちいちこちらに運び込むのも労であるか」

亀姫「私の魔素が減耗したならば、陛下に魔素をいただきに戻りますわ。その際に、溜めこんだものをひとつづつ持ち帰ります」

魔王「いいだろう。結界術の行使は俺は専門外だ。すべて亀姫…お前の望むように手配しよう」

亀姫「ありがたきしあわせ……」


魔王「……願いはそれだけか?」


魔王が亀姫に向けた視線は、穏やかなものだった。
必要とあれば聞き遂げようと、亀姫の瞳をまっすぐに見つめている。


亀姫「……………願、い……」


優しい言葉は、亀姫の願いを聞き遂げるためではない。
天使のために出来ることを惜しまないという魔王の心の表れだ。


亀姫(…………っ)



長い袖の中で握りしめた手は、誰にも見つかることはない。
そして、心の中で押しつぶそうとしている自分の願いも、決して見つかることはない。



どうか、これから貴方様のために大任を負う私の為“だけ”にお言葉をかけてくださいませ、という願いなど…




亀姫「はい。それだけでございますわ、陛下」



未来永劫、見つけ出してもらえることはないのだろう。


―――――――――――

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