真姫「かたわれアイスキャンディー」 (162)


 So we must be careful about what we pretend to be.

(ゆえに、人は自らが演じるものについては慎重に考えざるをえない。)


 ――Kurt Vonnegut Jr., “Mother Night”


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1441783837



  ◆  ◆  ◆

 チューペットアイスの食べ方はにこちゃんの部屋で教えてもらった。


 散らかってて座るとこないからって床に投げられた座布団の上で、
 反対側のベッドにちょこんと座ったにこちゃんに見下ろされながら、
 はじめ私は先っぽのとんがったとこを無理にちぎろうとした弾みで
 家のカギを落として 笑われたんだった。

 むっとしてカギを拾った私に、
  しょーがないわね、貸してみなさい、って
 ちょっとえらそうに言われて
 しぶしぶ渡したら、

 にこちゃんは細い両脇をしめて
 手首のスナップでアイスのくびれたとこを、


   ぱきん、

 とまっぷたつに折ってみせた。



 ぱきん、ぱきん。
 あの音と、
 付け根からくゆらせた細くて冷たい煙。

 受け取った半分から、
 見よう見まねでにじみ出た甘い汁をなめながら、
 アイスをくわえたまま片手でブログを更新する
 あの子の揺れる足首に見とれてた。


 今日にこちゃんはまだ来ない。

 私の部屋は広すぎるし、こんな冷たいの一人で食べきれない。
 食べきるなんて考えられない。
 早く来なさいよ。
 ぱきん。

 底がまるい方をコップに差して、とんがった方をくわえる。
 足を組み直してみたりするのも、
 部屋がうすら寒いからだ。

 アイスが冷たすぎるのも、にこちゃんが遅いからなんだ。



 それは質の悪いフルーツジュースをさらに薄めたような味で、
 前ににこちゃんが家の近くのビッグエーで
 線香やライターと一緒に買ってきた十本入りの最後の一本だった。

 なのに凍らせただけでなんだか甘みが増した気がするし、
 氷の冷たさが舌の表面を焼く感触だって気持ちいい。
 ざらざらした断面に舌をおしつけて
 無理やり溶かしていくのだってわるくない。

 にこちゃんには悪いけど、
 ハーゲンダッツよりこっちの方が私は好きになってしまった。
 一度凍らせて濃縮された汁の甘さが乾いた舌の裏側まで濡らしていく。

 歯のようにかたいプラスチック容器の
 小さく開いた穴に
 冷えた舌をさして、ちゅうちゅうと深く求めていく。



 食べ方を覚えた頃、あの子の肌の白さが好きだと気付いた。
 夜のように深い髪の色と違って、
 まっさらな肌はひたすらまばゆかった。

 いつかみた肩胛骨のなめらかな線は羽根の付け根みたいで、
 夜に夢で見るのも、
 本来の白い羽根を生やした姿だったりした。
 でもそこに手を伸ばすことは許されない。

 昨日の夢なんてひどかった。

 夢の中で私は地べたにへたりこんでいて、
 街灯の光も届かない暗がりで小石を積み続ける日々だった。
 そこに月の光を浴びたにこちゃんが
 上空から白い指先を差し伸べて、ふれた途端に私の重力がゼロになる。

 絡めた指の引力だけで私は地上を離れて、
 高度数百メートル、
 夜景の海にたゆたう東京スカイツリーや
 六本木ヒルズの点滅も遠く見下ろす上空かなた、
 もやがかった雲のなかへと連れ去ってくれる。

 どこまでも行ける気がした。
 アムステルダムのさらに向こうで、
 すべての罪を洗い流して、二人だけの国を建てて天上で暮らすの。

 そこまではよかったのに。



 音の速度で空を駆けながら、捨てた夢まで輝き出す頃、
 それなのに、
 どこかで積んだ小石の崩れる音が聞こえた。

 重力を返却された私の身体は
 みるみる地上に引きずり込まれて、
 手をつないだままのにこちゃんの羽根まで折れてしまいそうで、
 雲を破った風圧でゆがんだ顔が
 泣きじゃくった後みたいで思わず自分から手を離してしまえば、

 叩きつけられた場所は現実だった。

 シーツはいやな汗に湿っていて、
 充電し終えたケータイのランプも消えていて、
 午前三時四十七分、たまらず名前を呼んだ声は
 ベッドの向こうの闇に溶けるだけだった。

 あんな時間に打ったメール、
 また送れないまま下書きフォルダに入れてしまう。
 画面を閉じると充電器の赤いランプが点った。
 暗い部屋でその光は目に痛くて、自分から遠ざけて布団をかぶりなおす。

 それでも赤い光の残像は
 墜落直前に見たあの子の瞳と何度もシンクロしてみせる。



 コップに残した方のアイスの傷口から汁が涎のように滴りはじめている。

 私もプラスチックに噛み跡をつけて氷の汁をしぼり出しながら、
 少し伸びた髪を指に絡ませていた。にこちゃんまだ来ない。

 握った指の力で小さく痛みが染みて、
 自分の髪の毛が中指付け根の辺りに数本引っかかっていた。
 指の間から手のひらへと掛かる髪の細い線は引っかき傷にも見えた。
 同じような色をしたあの子の瞳を思い出して、
 振り払おうと手を振ったのに、乾きたての汗か何かで離れてくれない。

 蜘蛛の巣が張り付いた時みたいだった。
 だとしたら、私は何にとらわれてるんだろう。
 太股に擦り付ける。
 はらりと落ちた髪の毛、手のひらよりも傷跡のように見えた。



 髪の毛を抜く癖は中学に入るまでに忘れた。そのはずだった。
 ピアノの発表会の前夜。
 日能研の統一テストの帰り道。
 話の合わなくなったクラスメイトと、給食のバケツをこぼした日の昼休み。
 下校時刻まで家のカギを探し続けた一人きりの通学路。

 どうせ言葉はなんの意味も持たないって思い知ってたから、
 おなかの奥に落とし込んで、
 それでもはみ出した時には自然と髪の毛を引っこ抜いてた。
 パパに見つかってみっともないからやめなさいって叱られてから、
 代わりにスカートの裏の見えないとこで爪を立てて堪えてた。

 みんな、みんな昔のことだ。私はもうそこにいない。
 なのに今、
 チューペットアイスのかたわれはもうこぼれそうで、
 太股にはさっきの赤い線が散らばっている。
 にこちゃんまだ来てくれない。
 ぱきん。



「ひどい頭になってるわよ、あんた」
 玄関先で出迎えるなり、にこちゃんがそう云った。

 ほら、貸してみなさい、
 と私をぐいと引き寄せると、
 バッグから片手で器用にくしを取り出して私の髪の毛をすきはじめた。

 こうべを差し出す私の体勢はぶかっこうなもので、
 片手を壁に突いたまま、
 もう一方の腕をあの子の小さな腰に添えたりしてる。

 八月の直射日光に射たれたての肌から
 太陽とにこちゃんのにおいがほんのり香ってた。
 こないだとは逆だな、なんて密かに思い出したり。

 くしの歯が当たるのが、
 引っかいていくのが冷たいシャワーみたいで気持ちいい。
 いつもと違って、
 よけいなことは何ひとつ言えなかった。



 さ、できたわよ、ってにこちゃんが私の身体を返す。
 頭をぽんと軽くたたくのが手慣れている。
 妹さんたちにも同じように髪をとかしてあげる姿が目に浮かぶ。

 って、なにそれ、私、妹さんと同レベルなの?

 そらした視線の先には、白い指先と反射した光。
 にこちゃん、ちゃっかり手鏡で私の姿を見せつけてる。

「どう、さっきよりは良くなったでしょ」

 鏡の中の小さな自分とさえ目を合わせられなくて、
 まあまあね、これぐらい当然よ、なんて私の口がうそぶいた。

 ワンピースの下から伸びた脚、
 ソックスに隠される間際の白い肌。
 日焼けを特にしがちなあの子は今日も薄手の長袖を着ていて、
 いつかの夜だってあの肌に保湿クリームを優しく滑らせていた。
 まるで母親が自分の娘にするみたいに、真剣な顔で、
 祈りを込めるような手つきで。



 人の足下ばかりも見ていられなくて、
 バッグからはみ出た日傘とうなじの白さ、
 赤みの薄い唇と
 玄関ドアの向こうで縁石を照りつけてる白すぎる陽の光とを眺めやった。

 同じ白ならあのお人形さんみたいな肌の色の方が
 ずっといい。

「ねえ、いい?」
 なのに呼ぶから目が合ってしまう。
 赤い瞳。少し濾された鮮やかな血の色。
 そんな色した果実の酸っぱさが好きだった。
 さっき直してもらった、私の髪の色だって好きだった。

「あがって。外、あついから」

 すれ違った黒い髪からはらりと広がる匂い。にこちゃんのにおい。



 ドアがばたんと閉まって、施錠の音が耳にざわつく。
 あの色に誘われて振り向く。

 でも、
 今度はあの子の方がそばの置物を眺めてて、
 薄暗い玄関のなかではいつもより顔色悪そうに見えて、
 夢でみた唇を噛む顔と
 ちぎれて離れた指先とが
 目の前のにこちゃんに重なって見えて思わずなにか言おうとしたらあの子は

 一瞬目を見開いて、
 それから粉薬でも飲まされたような、ひどく後味の悪い顔をした。



 ちゃりん、

 と足下ににこちゃんからカギが落ちた。


「ありがと。……ごめん」

 にこちゃんが目をそらしたまま私から受け取った。



 にこちゃんが部屋に来た。
 冷凍庫から持ってきたアイス、
 もうほとんど溶けてテーブルの上を汚してた。

 さっき落としたカギ、ひんやりしてて指に気持ちよかった。



  ◆  ◆  ◆

 それから、にこちゃんと私の部屋でお話をした。



「真姫、ごめん。ほんっとごめん。……やっぱり、無理だった」


「いっぱい考えたんだけど、だめだったのよ」


「今のにこにはファンの人がいて、
 にこは、
 にこにーはスクールアイドル、アイドルなんだから」


「私は、こんな私のことを信じられないから」



「……ごめんなさい。

 にこは恋人には、なれない」


「あなたのこと、そういう形で幸せにはできない」



  ◆  ◆  ◆

 クラクションが鳴る 足下が白黒まだら模様でそこは横断歩道だった また大きな音
 フロントガラスの向こうから叫び声がする 陽射しが肌にいたい
 皮膚に染み込んで火傷を負わせてケロイド状になるほど陽の光がいたい
 私は私の身体を引きずるのに忙しい 忙しくすることに忙しい なにか聞こえる
 私をよけた車が背中のすぐ後ろを切り裂くように抜けていく ポッケにカギがある
 家のカギを握りしめてる
 手のひらにカギの矛先が突き刺さって痛いのにカギが離れてくれないから
 ずっと握りしめてる手のひらを刺し続ける
 私の背中から私の家の門まで伸びた何か精神的鎖みたいなよくわかんないそういうのが
 そのとき轢き潰された気がして
 私はまた腰を落とすしゃがむ髪の毛の爪を立てるかきむしる 何か声が聞こえて
 私は大丈夫ですとちゃんと答える大丈夫です大丈夫です大丈夫大丈夫私はなんともない
 大丈夫大丈夫だから話しかけないでお願いだから私は大丈夫だから
 私の周りに透明な油膜ができていてそれは泡の一粒を拡大したような形状で
 澱んだ水流に飲まれるようにして私の脚が私を運んでいく
 油膜の表面張力で通行人がはじかれていく 気温は高すぎて酸素濃度は低くて息ができない
 本日の最高気温30度降水確率2パーセント
 絶好の洗濯日和ですがお出かけの際はくれぐれも光化学スモッグ
 および熱中症にご注意くださいにこちゃんがいないにこちゃんがいない浴衣姿のカップル
 陽射しに顔を明るく照らされた二人連れ
 女の日焼けで茶色い手の甲
 そのなかで揺れる紅茶のペットボトル揺れる液体
 そうだ洗いそびれたにこちゃんのティーカップ私は繰り返そうとした
 再演しようとしたんだあの感触を重なり合うのをでも私ははじかれたティーカップはこぼれた
 テーブルを茶色く汚した私の油膜はあの子まではじいたにこちゃんはいない息ができない
 にこちゃんがいない「あれ? こんなところで」交差点の向こうの赤い色あの子の瞳みたい
 ふれたかったでも私の手は遠すぎた天使は上空に帰ってしまう私は堕ちて堕ちて
「さっき別れたばかりなのに、
 今度は真姫なんて……ハラショーね。って、ちょっと! 聞いてるの?」
 クラクションが鳴るそこににこちゃんはいな「もう、髪の毛くしゃくしゃじゃな……
 って、まだこっち赤よ!?」横断歩道の白と黒そして赤がやだいやだわたしのそばにいて
 にこちゃんわたしとひとつでいて




  「ねえっ、真姫ったら!」


 重力が掛かる、私が腕ごと引きずり込まれる




 やだ、向こうにまだあの子がいる!

 いるはずなのに、

「はぁ……
 横断歩道は信号をちゃんと見て渡りなさいって、習わなかった?」

 青い瞳が私を見つめる金色の髪がゆれている
 違う私は 「っ……もう、こんなことなら、二人に……」 私は引き寄せられて
 なにも見えなくなった腕の中に閉じこめられ「いや、やだ、
 わたしは、にこちゃんのっ、」

「はいはい落ち着きなさい。……ほんとに、もう」

 なによその目。
 そんな上から目線でわらわないで。



「ねぇ真姫、お昼は食べた?
 私これから表参道のイタリアンカフェに行くのよ」

 そんなの知らない。聞きたくない。はなして。

「ランチタイム十四時半までなのよ。
 とーってもおいしいんだから」

 だから離してってば。


 いいからついてきなさい、ごちそうするから、
 とその人が私の手首をつかんだ。

 かたすぎる私の腕が反射的に振り払おうとしたけど
 思ったより強い力で掴まれた私の腕と私は

 絵里に引きずられていく。



  ◆  ◆  ◆

 目の前には何故か焼きたてパンケーキ。

 タルト型の生地のくぼみに生クリームが満たされ、
 その上で濃い色のイチゴとブルーベリーが宝石みたいに飾り付けられている。
 焼いたばかりの熱と
 バターやメープルシロップの香りが鼻の奥にまでふんわり漂ってくる。

 ほど良い焼き具合や振りかけられた粉砂糖などから、
 相当腕のいいパティシエが作ったらしいことが分かった。
 というか、
 席の反対側でシロップをどばどば掛けてる人がいるせいで、
 甘い匂いがさっきからうるさい。


「やっぱりいいクリーム使ってるのよね……真姫、食べないの?」

 絵里がいう。
 口の端っこを白く汚して、
 右手にフォークを構えて左手のビンからシロップを垂らしながら。



「……食欲ないって、私、言わなかった?」

 まあまあ、とレモンタルトから目を離しもせずに空返事を返す。
 フォークが透明な蜜を塗りたくって染み込ませてゆく。
 この人、私の話を聞きやしない。


「あむっ……うん、
 よく分からないけど、もごもご、
 ほいひいもの食べたら、ごくっ、元気出るんじゃない」

 口にものを入れたまましゃべらないで。



「私、帰りたいんだけど」

「もったいない。
 でも、それならあなたが頼んだケーキは自腹ね」

 っ……
 何か叫びたくなりそうなのを堪える。
 代わりに重たい溜め息。
 こう、おなかの奥から魂ごとこそぎ落とすような。

 そしたら何もいう気力が失せた。
 みっともない姿を見せてしまった負い目はあった。
 それに、食事の場でこんな顔は見せるものじゃない。

 そうはいっても、
 そもそもこんなとこに連れ込んだのはあの人だった。



「ねぇ一口もらっていい?そっちのも好きなのよ」

「好きにすれば。 って、そんなに取るの?」

「私のもあげるわよ?」

 皿ごと持ち上げて差し出される。
 ダメだ、この人、話がまるで通じてない。


「そうそう、真姫知ってた?
 今日って神宮外苑で花火大会なんですって。
 ……ああっ! そんなに取っていいなんて、私言ってない!」


 スプーン二杯分くらいほおばって、後悔した。
 シロップかけすぎで味なんて全然わかんない。



 どうしたのよ、急に、
 なんてしおらしい声が聞こえるけど無視する。
 ストロベリーは残すつもりで端によける。
 そこにもう一本のフォークが冗談混じりで伸びたのをはねのける。

 あの人が変な声をあげた視界に入れずに一口運んだ。

「ね? ここ、穴場なのよ」

 まあ、わるくないわね、
 と返しても向こうの席の含み笑いが消えなかった。

 ……食べ終わったら、私、速攻で帰ろう。



「あなたたち、そっくり」

 なにか聞こえる。
 かみしめるとクリームの熱気が口の中で広がって舌に染み込む。
 おいしい。



「そうだ。
 ねぇ真姫、『魔法少女まどか☆マギカ』って知ってる?」

 なにその対象年齢ひくそうなタイトル。
 しらないわ、そんなの。

「やっぱり知らないのね? やった!
 私もこないだ亜里沙に見せられるまではお子さま向けアニメだと思ってたんだけど……

 ああ、ネタバレはよくないわね、うん」

 その話、長くなる? 興味ないんだけど。

 タルトで粘っこく乾いた口に紅茶を注ぎいれる。
 刺すような熱と香りが潤していく。



 絵里はときどき身振り手振りまで交えて、
 その、魔法少女なんとかってアニメの話を続けた。

 シロップをほんの少しだけ加える。


「でね、その『ひとりぼっちはさみしいもんな』って私、
 マミさんに向けた言葉だとも思うのよ! ほら、昔の私も同じだったから。

 あっマミさんってさっき話した先輩キャラね?」

 息継ぎの隙に向こうもタルトをすくってほおばる。
 勢いが見苦しいほどだけど、とろけた笑顔のせいで気にはならなかった。
 たかがお菓子を満面の笑みでほおばる姿にかわいげがあって、逆にしゃくだった。



「……絵里がそんな人だって、思わなかった」

「ふふ。
 最近よく言われるのよね、いい傾向かしら」


 小さく切り取るタルトの領地、私の方でも三分の一ほど削れてる。
 後に残してたストロベリーの、ほんの少しだけちぎって運ぶ。

 客席だけを淡く照らす薄暗い店内で、
 金色の髪が語るテンションに合わせて揺れてたりする。
 果肉から汁があふれて、口の中で甘酸っぱさが冷たく燃え広がる。


「私は断然マミさん派ね。
 あの寂しがりなのについついカッコつけちゃう所がたまんないわぁ。
 にこは杏子にハマってたけど」

「あの子も見てたの?」

 ……なによ、その顔。
 続けて。
 話すんなら。



「うん、そのアニメね?
 その佐倉杏子ちゃんって、
 アンズの杏って書くんだけど、家が貧乏で家族思いで。
 まあ事情があって家庭崩壊というか一家心中しちゃうんだけど」

「重たい設定ね……それ、本当に子ども向け?」

「私の話、本当に聞いてた?」

 ごめんなさい。
 タルトおいしくって。


「にこはそこまで悲惨な境遇じゃないけどね。
 その、私たちだって居るから。

 でもほら、聞いてる? 七月に忌引きした時のこと」

 うん。
 あの日、私の部屋で。
 きっとあなたよりも。



「にこのお母さんの実家、秋田だったかしら?
 どんなところなんだろう、北国ってだけで心が躍るんだけど。
 ほら、私の中のロシアが」

「行かなくていいわ。
 どうせ、ロクな所じゃない」


 ぱっと開いた青い目が私を見た。
 やっぱり、知らないんだ。

 真姫は行ったことあるの、
 なんていうから、地元のクチコミ、とだけ返した。
 向こうへ発つ前、部室であの子がはしゃいでたっけ。

 いいところなのよ、真姫ちゃんにも見せてあげたい、なんて言ってたのに。



 紅茶のトゲトゲしい熱が薄れて、丸みのあるぬるさに変わる。
 店内のぼんやりした光。
 口元で両指を組んで私の向こうを見ている絵里の目。

 小さく鳴ってるBGM、
 80年代ディスコの安っぽいカバー曲、無意味にせかされてイヤになる。
 曲の終盤で転調してクライマックスに向かう。全部壊したくなる。

 歌声も激しさを増す。
 かきむしりたくなる。




 ――ねえ絵里。

 私、にこちゃんと別れた。



 BGMの曲が鳴り止んだ。
 一瞬だけ、時が止まった気がした。

 絵里は、
 そう、とだけ言って目をそらした。



 またすぐ別の曲、やかましいホーンセクションから始まるの。
 店員が隣の通路を素早く抜けていく。

 爆弾を投げつけてやったつもりだった。
 でも、なんにもかわんない。



「……びっくり、しないの?」

 びっくりはしないけど、
 さみしいわね、って絵里はミルクティーを口に運んだ。



「いやその、だって……
 まず私もにこちゃんも同じ部活で、それに、二人とも女性で、」

「はぁ?
 私たちが気づいてないとでも思った?
 それともにこの前で今更そんなこと気にしてたの? 本当に?
 あなた、いま平成何年か知ってる?」

 尖った声が冷たく刺す。
 なにもいえなくなる。
 そんなことなんかじゃない、
 でも、今は確かに気にしてたとは言えないけど。



「にこがね、こないだ希と三人でお昼食べてた時なんだけど、言ってたのよ」

 まだ荒らげた声のまま。

「『私が結婚しなかったら、こころたちが結婚するのかな』って。
 『でもあの子たちがママになるなんて、想像もつかないわね』って。

 ……ばっかみたい。
 いま気にすることじゃないでしょうが、って」

 似てないわよ、にこちゃんの真似。

「そこじゃないでしょう、触れるとこ……
 まぁ付き合ってるとまでは聞いてなかったけれど、
 今ので腑に落ちたのは、そうね」



「……言ってた。
 私はにこにーだから、真姫が望む形で、幸せにすることはできないって」


 長いため息が吐き出された後、フォークがかつんと強い音を立てた。
 ざくっと大きく切られたタルト生地が勢いよく絵里の口に放り込まれる。
 なんであなたがやけ食いしてるの。



「本当に、なんなのよ、あなたたちは……
 あむっ、私のおばあさまなんてね、ごくっ、じゃなかった、
 ひいおばあさまは、
 旦那さんがカザフスタンの収容所に、もぐもぐ」

「……食べるか喋るかひとつにして」


 一瞬こっちを睨むと、音を立てて飲み込んだ。
 その息ごと勢いで吐き捨てるみたいに絵里が続ける。



「というか、あなた、本当は誰でもよかったんじゃない?」



 きゅっ、と自分の歯が舌をかじった。
 鋭い痛みが染み込む。
 言ってる意味がわからない。
 ふざけないで。

「だって案外執着なさそうだもの。
 にこじゃなくって、恋人っていう、
 寄りかかれる存在が惜しいだけなんでしょう」


 わざとらしい含み笑い。
 相手にする価値もない挑発だ。
 そんなの、わかってる。

「家のカギでも落として泣いてる子供と変わらないわね。

 どうせ、
 合い鍵が手に入れば満足できるんじゃない?」

「ちがう!」


 ぱきん、とフォークが音を立てた。



 手から外れてテーブルに転がったフォークを絵里が拾い上げる。
 私の手のひらに持たせようとする。
 指は開かない。
 絶対開けない。
 そんなのいらない。

「真姫」

 私の手を逃がさない絵里が私を見る

「なにが、違うのよ」

「にこちゃんは本当だった。
 私も嘘じゃない。
 代わりの偽物なんて知らない」

(そうだ、合い鍵なんかじゃ意味ないんだ)


「本当、って?」

「……ほんとうに、本当ってこと」

 絵里がゆるさないって分かってた。
 でも、あの日のことだけは絶対言わない。
 にこちゃんの、名誉にかけて。


「……本当のにこちゃんが、私とつき合えないって言ったんだから、
 こうなるしかなかったの」



 にこじゃなきゃダメなの、と絵里が聞いた。

 自分の指でフォークを取り戻して私が答えた。
 また絵里が言う。


「にこなら、どんな人でもいいのね?」

 青い目が胸の奥まで値踏みする。
 意味わかんない、
 でもうなづく。
 私は逃げない。

 私は、にこちゃんじゃなきゃダメ。
 それに、きっと、……そうだ。
 にこちゃんだって、きっと。





 ――だったら、「本当」なんて忘れなさい。



 表情を崩した絵里が手を引く。
 手の甲に掛かっていた感触がなくなる。
 急に次の曲がうるさく聞こえ出す。


「恋愛って、私よく分からないけど、楽しいものなんでしょう?
 楽しんだらいいのよ、妬けちゃうわね」

 皿にこぼれ落ちたイチゴをすくって口にしながら。
 私はまだ、のどの奥がドキドキしておさまらないのに、勝手に納めようとするんだ。
 この人、こんな人だった?


「私たちはそんな簡単なんじゃない。
 にこちゃんだって、」

「ねぇ真姫。
 あなた、お化粧くらい、ときどきはするでしょう?」

 す、っとその指が私の髪に触れかけた、くすぐったくて払いのけた。



「そのネックレス、かわいいわね。
 ティファニーかしら?」

 そんなのつけてたのさえ忘れてたのに。

「なにがいいたいの?
 言っとくけど私、エリーにそんな気持ちは」

 するとあの人、吹き出して手を振って否定してみせた。


「考えてみて。

 化粧や服選びって、
 悪い言い方だけど、ウソをついてることにならない?
 きれいに着飾った姿は、本当の自分とは違うものなんじゃない?」

「……ことりの前でも言えるの」

「違うわよ、そういうウソは、
 誰かにとびっきりかわいい自分を見せるためのウソなら、私は許せるって話」

 言いながら私のケーキをひとかけら持っていく。
 ちゃっかり皿に広がったチョコソースを塗ってから。



「真姫。あむっ……にこにーの夢は?」

「宇宙ナンバーワンアイドル。……食べながら話さないで」

「せいかい。
 それでね、あの子のキャラだって、」


 それくらいわかる。

 絵里の言葉は、
 味わってかみしめられた私のケーキ生地と一緒に
 喉の奥まで落ちて聞こえないけれど、
 私はその答えを知ってる。

 とびっきりかわいい、
 正直むかつくぐらいあいくるしい、
 世界でたった一つだけの、……絵里の言葉でいうなら、

 ウソ、だった。



「でも好きな人に、
 今日の服かわいいなんて言われたらうれしいでしょう?
 まして、小さい頃からずっとおしゃれにあこがれてきたなら、なおさらね」

 私は知ってる。
 にこちゃんが、夜ごとにあの白い肌を手入れしているのを。
 自分が一番かわいく見える角度を知ってて、写真とる時は変にムキになるんだ。

 知ってる。
 わかってる。
 全部わかってる。

 それでも私は、素顔のにこちゃんの方が、いいのに。



「真姫、私がμ'sに入る前のこと、見てたでしょう?」



 絵里は手を止めて、今日はじめて衒いのない顔をのぞかせた。
 ばつのわるそうな上目遣いと、赤みの差した頬で。

 さすがに、今も大概だ、
 なんて言葉は飲み込む。



「希の言うことも聞かないで、
 穂乃果たち、あなたも含めてね、ああいう感じで居た、
 そうすべきだって思いこんでた、うんまあ、反省したんだけど」

「その話、長くなりますか? 絢瀬会長」

「っ……もう! 先輩禁止よ!」

 フォークが伸びたので皿を引く。
 そしたらまたふくれた。
 そういえば、こないだにこちゃんに似たようなことされたっけ。



「……とにかくね。私、それで学んだのよ」


 とても穏やかな声だった。


「本当の自分なんて、そんなもの存在しないってこと」


 あるのは演技だけ、と絵里は付け加える。

 一瞬一瞬で、目の前の誰かや自分自身に向けて、
 強い自分、カッコつける自分、甘える自分、ダメな自分、
 なさけない自分、がんばる自分、それらを演じ続けているだけだという。

 μ'sに入ってから、
 服を着替えるようにいろんな自分を着替えていくのが今は楽しいって、
 少しはずかしそうに言った。

 出会った頃の花陽みたいな顔で、ひそかな自信も隠せないまま。



「だからね、あなたにできることは、
 にこが選んできたウソに、
 誰よりもまじめにつきあっていくことなんじゃない?」


 にこが自分の彼女役を演じさせてくれるのは、
 きっと、
 あなた一人だけなんだから。

 そう言って、私の頭に手を置いた。
 重みと指の動きがぎこちなくって、正直、にこちゃんの方がずっといい。

 でも、今はなんとなくそのままでいたかった。
 ……きっと私もそういう役なんだ、今だけは。



 私を気の済むまで撫でたあと、
 喉が乾いたのか、絵里が紅茶を飲もうとする。
 でもそのティーカップ、もうほとんど残ってない。
 パンケーキだって、皿には切れ目からこぼれた粉粒ばかり。

 ごまかすように、
 ちょっと語りすぎたわね、やっぱり私こういうのうまくないのよ、
 なんて今さら恥じらってみせる。


「……エリーがそんな人だって、思わなかった」

「最近よく言われるのよね……気を付けなきゃ」


 あんまりにもしょぼくれた、
 二歳くらい年下の妹みたいな顔をするので、
 ブルーベリーの残した皿ごと向こうにくれてやった。

 分かりやすく顔をゆるめる絵里をよそ目に、
 BGMの主旋律をぼんやり追いながら、私もカップを口に運ぶ。

 とっくにさめてしまってるけど、
 もう熱すぎる胸の奥にはちょうどいい温度だった。



 あの子のつかまえ方、六時までには見つけないと。



  ◆  ◆  ◆

 高層ビルの隙間を縫った日陰の裏道も絵里に教えてもらった。
 銀座線のガラス窓に自分の顔がちらちら映るのを気にしないのが大変だった。

 今日の私、きっとかわいくない。
 でも、いかなきゃいけない。



 半袖姿のサラリーマンや運動部の汗くさいバッグの込み合う車内を抜けて、
 ここでも少なくない浴衣姿や団扇のあおぐ腕をすり抜けて、
 地上に出るなり撃ち付けた三時過ぎの炎天下をよけるように人の少ない方へ歩いた、
 いや走った、
 もう駆け足だった、
 気が急いてぱたぱた走ってた、でもすぐ喉がかれるから普通の歩きにした。


 信号待ち、もう一度グーグルマップのアプリで目的地を探す。
 こんな場所、来たことなかった。

 向こう側の酒屋の看板、もう錆びて読めなくなってる。
 その隣のタイムズ駐車場、
 一台空いたスペースに停めようとしたプリウスが結局戻っていった。

 どこにでもあるような風景、
 なのに目を凝らしてしまうのは、にこちゃんの町だから?

 そよ風が首をなでてくれる。



 もっと駅から離れた方へ坂道を上っていく。
 切り通しに沿って、さらに上へ。
 蝉の鳴き声がじりじり響く。
 お供えの花を抱えたおばあさんを追い越していく。
 東京ってこんなに坂多かったんだっけ。
 もっといい靴がよかった。
 って、そんな靴じゃにこちゃんに会えないけれど。



 次の信号を曲がったところ、
 ストリートビューで確かめたとおりの入り口だった。
 お地蔵様と賽銭箱、
 こもった木々の奥深く、高台へと続く長い長い階段のその先。



 いた。

 あの子が長い石段を下りてくる。

 どうしよう、まだ心の準備できてない!



 下りてくる、
 おりてくる、
 ちっちゃいけどぴょこぴょこ揺れてる髪、
 さっき見たワンピ、
 左手に抱えたバッグ、それに枯れて腐った花のポリ袋、
 どうしよう、
 私まだにこちゃんに言うこと考えてない、
 わかんない、
 汗が垂れて目に入る、どうしよう痛い見えない、
 わかんないわかんない、
 そしたらあの二つの瞳が私を見つけた
 びっくりしたにこちゃんが最後の段で足首を捻って前に倒れ込んであぶない――





「……なんで、」

 ちゃりん、とにこちゃん家のカギが転がり落ちた。



 床に投げ出されたバッグから、財布とライターとお線香の箱がこぼれ出てた。
 投げ出された脚、傷はないか、もしあったらすぐ手当てしないと。
 なのに私は動けない。
 にこちゃんの顔を太陽から隠すのに精一杯で抱いてることしかできない。
 言おうとしてたことは全部こぼれ落ちてしまう。




「よりにもよって、なんで、あんたがいるのよ……?」


 どうしよう。
 蝉の音が頭の奥までうるさい。





  ◆  ◆  ◆

 目の錯覚でアスファルトが波打って見えてる。
 地面ばかり見つめて坂を降りてきたせいで
 自分の居場所もよくわかんない。

 ゲシュタルト崩壊っていうんだっけ。
 きっと全部むせかえるほどの熱気のせい。


 にこちゃんがいる。
 私の数十センチ手前、日傘のまるい大きな影が近づいて離れる。
 蝉の音も境内で枝葉がこすれ合う音ももう遠くて、
 足音や小さな息がはっきり伝わってて、
 存在の熱い感じはずっとそこにある。
 まだついてきてくれてる。

 顔を隠す傘、きゅっと握った白いバッグ、
 太陽をひとさじすくい取ったみたい、ちらちら視界にささってくる。

 その下で膝に張られた絆創膏。
 傷口の色、ちゃんと赤かった。

 うん、私と同じ。



 駅までの道程が長すぎて宇宙まで続きそうだった。
 月の裏まで飛べたら、気の利いた言葉も見つかるのかな。
 でもほら、もうさっきの信号機。

 炎天下、
 三時過ぎ、首の裏でべとついた汗、
 光化学スモッグ注意報、ぽっかり空いた交差点。

 のろのろ抜けていく軽トラックの向こうで
 廃品回収の放送が遠く聞こえたりする。

 目に映る世界はまるで大掛かりな処刑装置だ。
 過酷な陽射しに影まで奪われて、
 敗残兵の私たちが身体という枷を引きずって歩く。

 汗に滲む意識の向こう、
 全部あいまいに溶け合って、かえって静かに聞こえてる。



「行かないから」

 にこちゃんがつぶやいた。
 赤信号で止まった弾みか、
 まるで抱えてた荷物のひとつをこぼした時みたいに、ふらっと口にした。

 さっき足下に広がったライター、財布、家のカギ。
 拾い集めようとしたにこちゃんの細い肩。


「いかないの?」

「うん。今日は、いい」


 赤い光をずっと見つめたまま顔も向けずに。
 そんなに遠くもないあの子が、遠近法で縮んだように見えた。
 夏の錯覚、蜃気楼のような。


「真姫、あつい」

 一瞬触れた手、しっかり握ろうとする。でもそこから動かない。
 さっきと同じ、いっつもそう。

 にこちゃんの前ではよけいなことばかり口に出て、
 大事なことは何一ついえない。

 だから錯覚みたいにほどけて、にこちゃんはもろく消えてゆく。
 私の大事なもの、
 いつだって壊れそうな時にばかり輝いてみせるの。
 割れたチューペットアイスの冷たい煙、透明な輝き。



 信号が青になる。

 車がこない。
 だれも見てない。
 世界という大掛かりな装置は今も私とにこちゃんを黙殺し続けている。

 宇宙ナンバーワンアイドルの観客席も今はからっぽ。
 でも考えようによっては、好都合だった。
 ちょっとぐらいアドリブ利かしたってどうせバレないんだから。

 台本なんてなくていい、
 そうだ、
 言葉は頼りないんだって小学生の私だって気付いてたのに。


「にこちゃん。
 ちょっと寄り道して」


 数十センチの距離なんて一瞬だった。
 心臓が跳ねるより早く私はにこちゃんの手を掴んだ。



 にこちゃんがその手を引き戻そうとして腕が止まる、
 白い指先、
 黒く揺れる髪の流れ、
 抱えて離そうとしない白いバッグ、黒く焼き付いたアスファルト、
 その地面に塗られた真っ白な横断歩道、
 黒、
 白、
 白、


「っ、手ぇ離しなさいよっ!」

 赤い瞳がゆがんで私に叫んだ でもやめない、

「いいからちょっとこっち来なさい」
「なんでよ!? 私はもうあんたと、」

 そこであの子は自分の唇をきゅってかみしめて
 黙りこんだと同時にあの子が私に倒れかかって肩にぶつかって
 にこちゃんのにおいが
 ぱっと はじけた。


 互いの手の力がゆるむ、
 バツ悪そうにそむけた二つの目、その向こうで点滅しだす歩行者信号。



 今日のこと、忘れなさいよ。

 こんなの私じゃないんだから。


 手をつないだまま、顔をそむけたまま言われた。
 というか、
 にこちゃんの身体、こんなに小さかったっけ。
 それがいつものぶりっこを脱がした
 本当のにこちゃんのような気もして、違うようにも思えた。


 信号が点滅して対向車線で一台待ってる。

 とにかく行かなきゃ、
 どこかに、
 場面を進めなきゃ、
 って私は横断歩道へ引っ張って対岸の家の影までにこちゃんを引いていく。


 この感じ、こないだと逆だ。
 って気付いたの渡り終えてからだった。

 舌の裏で広がる、あの安っぽちくて甘ったるい刺激。
 唾液まみれの記憶。
 にこちゃんととはじめてキスした日のこと。




  ◆  ◆  ◆

 チューペットアイスの食べ方を憶えた一週間後、
 私は女の子と唇の重ねる方法も知った。

 甘ったるくて、
 ざらざらしてて、
 火傷するほど冷たい氷菓子の味。



 にこちゃんはあの日、最初なんにも言ってくれなかった。

 私の部屋で当然みたいに居座っといて
 いつもよりいつも通りな顔でふてくされてた。

 あの子ったら、
 小さい子がタオルケットを被ったまま剥がれようとしないみたいに
 いじっぱりな態度で、
 そのくせ剥がされるの期待して待ってるみたいな、
 いつものめんどくさいやつを求めてた。

 何しにきたの、
 いいでしょ別に、
 そうやって言葉で突き返して反響させあうのが、
 夏が始まる頃にはもう当然の呼吸だって錯覚してた。


 涼みに来ただけ。すぐ帰るから。

 ……にこちゃん、あの日に限ってそう言った。



 自分の部屋でするようにベッドで足をぶらつかせてて、
 もう吸い尽くして味もしないはずのチューペットの容器をくわえたりして、
 なのに捨てようとしなかった。


 おかしい、よりも先に、やだ、って思った。


「理由とかいいから」

「真姫ちゃん怒ってるの?」

「怒ってない」

「理由がなくちゃ、うちに来ないの」

「……」

「じゃあ出てって」

「……あんたって、子どもよね」

「なにそれ。
 いいから出てって、私の部屋なんだから」



 いつもとちがう、かみ合わない。

 にこちゃん今日どうしたの、
 私のこと黙らせてよ、
 うるさいとか別にいいとか子どもっぽいこといつも言ってるでしょ。

 一人で勝手に大人ぶらないでよ。


 ぱたん、
 とスリッパがフローリングに落ちた。



 揃えたみたいに両足並んだスリッパ、
 ベッドの上で膝を抱えて伏せてる二つの瞳、
 垂れ落ちた髪、

 ベッド脇に投げられたスマートフォンの画面には
 何かの文字がびっしり浮かんで光ってて、
 うつむいたにこちゃんの肌は透けそうなほど白すぎて、

 どうしよう、
 ……吐き気がするほど悪趣味な光景だった。

 ただの錯覚なのに、
 私のベッドなんてせいぜい膝ほどの高さなのに。




 にこちゃんが、手紙を遺して身投げする寸前に見えた。



「ひゃ、ちょっ真姫ちゃん!? やめて、あんた私に何を、」

 いやだ、
 そんなのいや、
 なんでもするからそういうのやめてよ、
 頭がぐるぐるしながら必死でにこちゃんのことつかまえた、
 ベッドの方に押しつけられたにこちゃんは
 後ろの壁に頭をこつんとぶつけて慌てて引き戻すと
 腕をめちゃくちゃに押しやろうとして

「あんた、なに考えてんのよ、変なことしないで、」
「変なのはにこちゃんでしょう!?」


 さけんだ、
 私の声が、頭の中でぐるぐるはねまわってとまんなかった。
 肩を掴んで体重を押しつけてる指がびくびく震えだして
 肩から全身まで広がりそうで思わず身体の上に倒れこむと
 にこちゃんがせき込んでやわらかくてちっちゃくて
 私もう泣きそうだった。

 なのににこちゃんったら、枕の上でそっぽ向いてて、
 自分の唇を噛んでるみたいで、
 私の動悸と息の音だけうるさくて
 にこちゃんはもう本当に生きてない振りしてて、



「……真姫ちゃん、
 今日のことは忘れなさい。いい子だから」

 絞り出すような声、はっきりと何かを胸の奥に押さえつけてる。
 少しずつ声の重みが薄れてゆく。
 にこちゃんの吐息も唇も
 取り返しのつかない温度にまで下がってしまう。



「私は、……にこにーは、マッキーが思ってるほど弱い子じゃないのよ」


「ふざけないで!

 だったら、
 にこちゃんなんでそんな顔するの、私なんでもする、だから、」




 そのとき、にこちゃんの手が私の首を絞めた。



 一瞬だった。
 何が起きたのかも分からないうちに息を奪われて
 詰まって意味わかんなくてとにかく苦しくて
 でもにこちゃんの唇からふうふう漏れる小さな息の方がもっと苦しそうで
 そこでやっと
 私がにこちゃんにそんなことされてるって分かった頃には手が離れてた、

 反射的に咳き込む私、

 酸素を求めて身体がゆれる、

 だらんと下がったにこちゃんの手、

 咳がまだ止まらない、

 ばん、
 と自分で打ち付けた手の甲、
 指先がやがてきゅっとすぼまって
 硬くかたく爪を手のひらに食い込ませるように私はその手を
 とにかく開こうとしてまた咳が


「いい加減にしてよ! 真姫、よけいなことしないで!」



 にこちゃんの叫び声が耳元に刺さってくる。
 私はにこちゃんの胸のあたりにもたれたままノイズ交じりの呼吸を続けてて、
 にこちゃんの心臓が燃えるほど熱く感じて、
 にこちゃんのおなかがわずかに膨らんだりしぼんだりして、

 こんなに小さい身体が生きてるのに、
 どうして私はなんにもできないんだろう、
 私はにこちゃんを知ることができない、

 ってつぶれそうな気持ちだった。




 クーラーのかすかにうなる音、ひどく静かな部屋。

 しばらくそうしたままにこちゃんの呼吸を聞いてた。

 涙の熱、自分のものかにこちゃんのなのかわかんないくらい。



 ねえなんでにこにかまうの。

 にこちゃんがぽつりという。

 わかんない。
 すきなの。
 わかんない。
 どうでもいいならいってよ。
 やだ。
 にこちゃんが、ぽつり。



「……だからさあ、期待持たせないでよ。

 どうせ、
 あんただってどうせ、他人なんだからね」

 顔を上げた先のにこちゃんは、ママみたいにやさしい顔を作ってた。



 私をゆるそうとしてた。

 許して清算して手を切ってどっかいっちゃいそうな、
 そういうやさしさが、
 夜の信号みたいに赤い瞳と彫刻のようにつめたい唇にあらわれていた。


 他人なんかじゃない、私、もっとにこちゃんに近づける。


 私はその冷たい唇に自分のを押しつけた。



 冷えてざらついた舌を溶かして、
 プラスチックみたいな歯の奥に甘い味をもとめて、
 とにかく、
 ふたりが元のかたちになるようにって、
 鍵穴に鍵を押し込むようにして私の身体ににこちゃんを重ねなおした。

 聞こえない音が鳴りはじめる。
 まるで悲鳴のような、
 自転車のベルみたいな鋭い音が頭の奥を突き刺した。


 にこちゃんが腕の中でくずれていく。



 私のベッドのにおいと
 にこちゃんの髪のにおいが混ざり合ってた。

 唇をはなす頃、
 にこちゃんは、
 水風船が破れたみたいにぐしゃぐしゃな顔になって、


 ……それからずっと、そんなことしてた。



 にこちゃんの話をきいた。

 やさしくしてくれた父方のおばあちゃんの告別式、
 そこで親戚の誰かとにこちゃんのママが話してたこと、
 ひどい言葉、
 なにもできなかったにこちゃん。



「ねえ、
 私が高校辞めてさっさと働けば、スクドルなんてやってなけりゃ、
 ママは苦しまないんだって」

 にこちゃんの背中を少しさすって温めてた。

「遺産が欲しいならせめて虎太郎を跡継ぎによこせだとかさ、
 しょーもないこと言われてて」

 笑っちゃうよね、って笑えない声で言われて、ちゃんと目をそらした。

 結露で濡れたテーブルの水たまりがちょっとずつ広がってた。

「ママ、帰りの新幹線でちょっと、泣いてた。
 私、ずっと寝てる振りしてた。
 ウソ、ついたの」

 いつの間にか身体を軽くしたにこちゃんが、
 横になった私に抱きついて耳元で話を続けた。

 声の詰まり方、
 首に掛かる息の熱、言葉の湿度、
 そんな感じで見なくてもどんな顔してるかちゃんと分かってた。



「私がアイドルになれても、救われない人間もいるんだなってね」

 他人事みたいにつぶやくにこちゃんがどうだったか、
 身体ぜんぶではっきりと憶えてる。

 でも、心の深いとこに押し込んで隠しとくんだ。
 にこちゃんの名誉のために。



 もう五時を過ぎた頃、にこちゃんは服を整えて家を出た。

 相変わらず湿気や熱気がひどくて
 ベッドの中も外も変わんない感じで、
 にこちゃんはまだ小さかった。

 たぶん、
 あの子を大きく見せてたものが、
 両腕いっぱいに広げられる白い翼のような何かが、
 私のベッドでごっそりこぼれ落ちてしまったせいだ。

 あの子の顔をろくに見れなくて、足下の影の濃さばかり気にしてた。


「ひどい顔になってるわよ、あんた」

 信号待ち、私の方を振り向いたにこちゃんがくすくす笑ってた。

 まださっきまでの熱っぽい記憶や感覚が抜けてなくて、
 にこちゃんが振り向くなんて思わなかった。

 私とにこちゃんがそれぞれ別の人間として生きている、
 そんな当然も忘れちゃうほど、近くしてしまったから。



 今日のあれは間違いだった。
 忘れなくちゃいけない。

 そういう話も家を出るまでにした。
 そういうものだ、って十六歳なりに納得した、つもりだった。


「……もう。
 なんであんたの方がそんな顔するのよ、いつも」


 にこちゃんの指をつまんだまま離せない私の顔を、
 よれたハンカチが拭った。

 もうすぐ雨が振りそうな暗い天気なくせに
 夕暮れの赤い光は目ざわりなほど強く光っていて、
 もうすぐ一日が終わってしまうのを絶えず訴えてた。



 もうちょっとだけ、いいでしょ。

 そう言って、にこちゃんは分かれ道で私の手を引っ張った。

 ぼやけた夢の中みたいな感覚の中で、
 少し強く腕を引いてくれるにこちゃんの重力がたまらなくなってた。

 私の足が薄汚れた点字ブロックを踏み越えて、
 帰り道から踏み外した。



 夜ごと昼ごとに二人を重ね合わせた。

 言葉で、声で、
 カモフラージュのおどけた顔色にしのばせた共犯者の視線や
 思わず唾を飲んでしまう唇の赤で、
 からだがそこにない時間でさえ重ね続けた。


 きのう何たべた、
 指数対数が分からない、
 言葉の受け皿を待たずして次々と溢れてくるメロディー、
 妹たちの洗濯物を畳みながら窓の外に映った青白い月影、
 染色体の演習問題に終えて同じ月を探しに行った日の生ぬるい空気、

 まるでタオルケットの中みたいな、


「にこちゃん、みえない」

『にこには見えたわ』

「ずるい」

『そんなに一緒がいいの?』

 だって私たち、他人じゃないんでしょう?


 ――他人じゃなかったら、何なの?



 決定的な言葉を避けたまま、
 鎖で縛ったように私たちは沈んでいく。

 夜を過ぎるたびに出せない下書きメールが積み重なっていく。

 肌のように淡い光をまとった月影、
 月の光が怖かった。

 にこちゃんは月の光を浴びて、
 私は夜空へ飛び立つあの子を地上に結わいつけたくって、
 小石のように軽くて弱い言葉をいくつも重ねた。

 夢の中では空だって飛んでいける。
 でもきっと夢のような時間はいずれ明けてしまう。

 明けない夜はない、
 止まない雨もない、
 夜に交わす私たちの時間は
 やがて顔を出した太陽の光に焼き尽くされてしまう。

 夢の世界でさえ私は動けない、
 あの子はいつだって私の手から落ちてしまう!

 とめたかった、
 なんなら首くらい差し出したってよかった、……でもにこちゃんは。


 私の代わりに下唇をこっそりと噛むんだ。



 私、真姫のこと、好きになってくの、こわい。


 いつかの陽が沈む手前、
 私の右耳を湿らせた唇がそうこぼした。

 私の部屋のベッドで、
 そこは世界で一番にこちゃんに近い場所なのに、
 身体まで重ね合わせて体重を感じてひとつにしたのに、

 にこちゃんはずっと遠いまま。



 私に必要なのはにこちゃんで、
 にこちゃんに必要なのはきっと私だった。

 手の中で割れたアイスキャンディーの
 容器ふたつみたいに同じような形をしていて、
 なのに生まれつき分かれたままで、

 同じ色の傷口をいくら重ねたって
 大事なものはずっとこぼれ落ちてしまう。


 怖くて、傷で傷をふさごうとした。

 でも二人の傷口はそのたびくずれあって、
 いつまでたってもかさぶたができない。

 にこちゃんはいずれ、私のために赤い血をこぼして倒れてしまう。



 私は、こんな私のことを信じられないから。

 ……さっき聞いたにこちゃんの言葉、本当はもっと昔から分かってた。

 そばにいないと苦しい、
 あなたのこと全部わかってないとつらい、
 身体から流れる血のように熱い「本当」がほしい。

 そうやって血をもとめてしまったから、
 最近のにこちゃん、貧血みたいな青白い顔ばかりしてた。

 鉄のにがい味をごまかすように、
 あつい部屋でチューペットアイスばかり食べてた。


 もうそんな二人芝居はおしまい。
 陽が沈むまでにかさぶたを作らなくちゃいけない。
 手遅れにならないうちに。


 ああ、もうすぐ行き止まりだ。




  ◆  ◆  ◆

 参道の方へ戻った。
 その先の坂道をずっと、
 地下鉄で一駅くらい手を引いて歩いた。

 ゆらゆら揺れた夏の空気に、冷たい風が混ざり始める。
 耳の奥で鳴ってた蝉の声が少しずつ静けさにおりてゆく。



「どういうつもりなの」

 手が止まって、あの子が声を上げた。
 赤い目がまっすぐ私を見てた。

 暗がり、高速道路の高架下、
 空は陸橋に覆い隠されていて、
 頭上でごうごうと胎動みたいに車の流れる音。

 陽のさえぎられたこの場所では
 やけににこちゃんの目が輝いてみえる。
 強く責めて突き刺すような目はまだしてない。
 瞳の奥が鬼火のようにゆらゆら揺れてる。

 抱きしめたら、昨日までだったらごまかせたかな。



 指を離す。
 手が降りてゆく。
 抜ける風に吹かれて
 にこちゃんの手が金網フェンスにもたれかかる、握りしめる。

 数十センチの遠すぎる距離、垂れた黒髪が揺れている。

 どうしてかな、
 きょう私、
 はじめてにこちゃんのことを見た気がした。



 ねえ、にこちゃん聞いて。

 いい案があるの。
 私、あなたのことが好き。
 にこちゃんだってそうでしょう?


「だから、にこちゃん。私の恋人になって」



 向こうのあの子が目を見開いた。
 唇をふるわせる。
 距離を超えた言葉があの子の心に染み込んでいくのを見ていた。

 きゅっ、と目をするどく細める。
 強く握りすぎて金網が音を立てる。


「……昼間、話したでしょう」

 冷凍庫から引っ張り出したばかりの声。
 この冷たさ、いつぶりかな。
 私の胸も冷えていく。
 喉が凍り付きそう。
 ドキドキする。
 こんな季節だかやっぱり、冷たいのが好き。



「そうね。
 でも、私たち、ほんとはつきあってなかったでしょう?
 だから、私があなたに告白してあげる。にこちゃん、私と」

「ふざけんな!」

 かしゃん、と金網が鳴る。



 彫刻みたいに固まる指、風がとまる、凍り付く。
 息をとめる、
 あの子が次に吐き出す息を待つ。

 突きつけられたナイフみたいに鋭い目、
 血液と同じ赤い色、
 目尻が少し濡れてる。まだ息ができない。



 あの子の唇に隙間がひらく。

「……おねがい。
 真姫、もう私にはいってこないで」

 いやよ。
 私の声も最高に冷たい。


「イヤって何よ?!
 私がどんな気持ちであんたと別れたか分かってんの!?
 この際だから言っとくけど、真姫、あんた本当ムカつくのよ!
 ウザくて、うっとうしくて、空気読めなくて、
 こっちの事情なんて全っ然無視して、勝手なことばっかして、

 ……あんた見てると私がにこにーじゃいられなくなるのっ!」


「にこちゃんはにこちゃんでしょう!?」

 自分の声が頭上のコンクリートで跳ね返って頭をゆらす。
 ああもうこうじゃないのに、
 なんかもっとカッコよくやるつもりだったのに。

 脳の奥が凍り付いて動かない、
 マイナス十八度の炎が心臓を燃やしてる、
 フリーズした手足はあの子の元まで動かせない、
 なんにもうまくいかない、まるで三文芝居みたい、にこちゃんがいう。

「やめてよ。
 今の私、私じゃないから」

 はあ? そうやって逃げるの?



「……ごめん。
 真姫、お願い許して。
 ううんウソ、私のことゆるしたらダメ。
 何言ってるんだろう私、さっきちゃんとしようとしたのに、
 パパとお話しして、元のにこに戻れるって思ったのに、」


 狭い視界で遠近感の狂った向こう側、にこちゃんが小さくなる。
 しおれていく花のよう、
 にこちゃんが小さくなっていく。

 凍り付いた時が溶けだしはじめる、
 じりじりと耳鳴りかと思ったら虫の声だ、
 二人だけの舞台が氷菓子みたいに溶けて崩れていく感じ、
 にこちゃんが小さく離れていく、
 それでも、……それでも?

 というか、にこちゃん、『元のにこ』ってなによ?



 今までの私、ってあの子が答えた。
 あんたを騙してた、からかってたような私、なんてうそぶく。

 あは、ってその口元が笑いの顔みたいにゆがんでみせた。
 気持ち悪い。
 この期に及んで、そんな虚勢はるんだから。
 ばかみたい。


「ごめん、決めたの。
 私、もうあの日みたいにならない」


 そうやって生ぬるい笑いを浮かべたまま後ずさりしようとする。
 カッコつけたまま離れようとする。
 私よりちっちゃいくせに、
 いっつも勝手に大人になろうとするんだ。


 だったら返してよ、私の心。


「にこちゃん、ダメ。まだ話終わってないから」



 つかみ取った白い手も、まだ冷たさが残ってる気がした。
 汗が冷やされたせいかもしれない。
 でも冷たいのはあの子の肌色にぴったりだ。


「じゃあにこちゃん、代わりにこうしましょう?
 今日の残り一日だけ、私の恋人になって。
 恋人の振りでもしてみせて」


 眉に小さくしわを寄せた。
 言ってる意味がわかんない、って顔。

 そうね、演技の時間よ。
 私のこと騙せる自信があるなら、
 誰でもハマっちゃうアイドルになるんなら、
 試しに恋人みたいなことしてみせてよ。愛想ふりまいてみせて。
 最後だと思ってデートぐらいつきあいなさいよ。

 それとも、あなた私をおとせる自信ないの?



「言ってることむちゃくちゃよ、あんた。必死すぎて」

「私の顔、必死そうに見える?」

 ぽーっと見つめられてた。

 それも演技なの、って問い返される。

「まあね。
 正直、こんなの遊びみたいなものよ」

 この台詞、氷砂糖みたいな味がする。

「……あんたよりはマシだわ、私」

 冷ややかな目だった。
 はは、あは、小さくわらう。
 声が重なる。
 にこちゃんが私の手を取り直す。


 残り数時間だけ私たちは恋人をはじめた。



 一回だけだからね、って振り向きざまにあの子がいう。

 目をきゅってして、いたずらみたいに。
 さっきまでの顔が嘘のよう、
 というより今見えてる表情が大嘘つきだった。

 この癪にさわる感じ、何年ぶりかしら?


「っちょ、いきなり人の顔さわんないでよ!?」

「その辺で顔つきだしてるにこちゃんが悪い」

「はぁ、なにそれ。ばっかみたい」


 歩き出しながら顔を近づけたから
 一歩踏み出した瞬間にまばゆく溢れた陽の明かりに目がくらんで
 少しつむった瞬間、あの子が唇をおしつけた。



 ひらいた目がまだ白んでる。
 ゆるんだ顔で目をこすったら、
 赤ちゃんみたいね、なんて失礼なこと言って勝手にわらって私を撫でた。

 不服だったけど、
 白んだ視界と手を引く力に任せて私は髪を撫でられたままでいてあげる。

 今日で二度目ね、
 でも一回きりなんでしょ、
 なんて話しながら。



 夕暮れが近づいていた。

 そうだ、花火。

「でももう今から行っても場所とれるの?」

 訊いたにこちゃんをそのまま駅に引っ張ってく。
 ないこともないわ、なんて返しながら。



「そうだ。
 にこちゃん、いいこと教えてあげる。天使になる方法」


 ピントが合って音も流れる世界は、なんだかひどくつまらなく見えた。
 こういう生ぬるいのはきらい。
 にこちゃんの手はまだ冷たい、って思いこむ。

 ついでに少しぐらい、昔きいたおとぎ話もしたくなった。


 ばっかじゃないの、
 って言い返すにこちゃんの顔、まだ白くぼやけてて。

 でもこの人ならきっと、ってなんでか思って。


「いい?
 天使のふりをしてみんなをだますの。
 みんなには正体は秘密よ。

 全員だまして、
 それで一生誰にもバレなかったら、
 神様どころか自分でさえもうまいこと騙しきれたら、」




 神宮前花火大会まで、あと一時間ちょっと。
 ホームに着た電車、
 中でもう浴衣の女の子がちらちら見えてる。

 私はまだ戸惑ってるにこちゃんにだけ、こっそり耳打ちした。


 あなたはもう、ただの天使なのよ。




  ◆  ◆  ◆

 穏やかな空気に流されていった。

 メトロ線を乗り継いで
 青山一丁目で乗り換えて銀座線の外苑前駅、

 浴衣姿の学生たちや男女二人連れの姿、
 川の支流がやがて重なって大きな流れとなるように、
 人の混雑や熱気も高まっていく。

 改札という排水口からあふれ出た私たちは
 地下道の出口から染み出して歩道の色を塗り変えていく。

 繋いだ手のなかで
 にこちゃんの皮膚が汗に溶け合って私と血の繋がったひとつになる。
 足音やざわめきのリズムで心拍数も上がっていく。



 対向車線のビルの明かりが目にちらつくほどの時間だった。
 人並みに流されて神宮球場の方へ歩いていく。

 ファミマの店先で
 瓶入りラムネやジュースなんかが氷水に漬け込まれてる。
 冷たさに誘われて家族連れが行列を作る。

 冷房の効いた店内からふんわり漂う、
 照明の白い明かりまでほんの少し冷たい。


「なにか買ってく?」

「いいわよ別に。それより、屋台あるんでしょ?」

 屋台は寄れないの、って
 言ったらあの子わざとらしく眉を下げてくれる。

「真姫ちゃんのけちぃ」

「じゃあ、好きなの選んで。私も買うから」

「……なんかにこのこと、子供とか思ってない?」
 唇をとがらしてるくせに白い指先がクーラーボックスの中を指さす。

 前に並ぶお父さんの汗で透けてるシャツ。
 買ったばかりの午後ティーをにこちゃんの手に握らせた。
 ひっつかんで手の中を濡らして、ずるい笑顔をこぼした。



 ペットボトルの結露が私たちの手と手を結わいつける。
 信号待ち、朝の山手線みたいにぎゅうぎゅう詰めの歩道。
 ちっちゃいにこちゃんはきっと埋もれそうで、
 息継ぎみたいに上空を見上げてる。

 色合いが青く染まっていく空、
 その先でヘリコプターのライトがまばたきした。
 あの場所でも、
 地上に広がる光の海は見えるかな。


「ねえ、ちょっと! 道、こっちでしょ?」



 昔みたいに立ち止まったはずみでにこちゃんがぶつかる。
 長い髪がはらりと掛かる。
 道のはじっこに引き寄せる。

 後ろのドトールの照明に照らされて、
 にこちゃん、プールから上がったみたい。


「ううん、行かないのよ。混んじゃうでしょ」

「穴場でも探してきたの?」

 ううん、よく来てたの。
 って言って信号を曲がって渡る、私とにこちゃんだけ。



 私たちふたりだけ人の流れからはずれていく。

 人々やビルの壁に遮られていた淡い風が顔をかすめて、
 空でも飛び始めたようにつめたくって。



 細く入り組んだ道、
 自転車が二台も通ればふさがっちゃうような道、
 祭りの騒がしさから離れるように進んでいく。

 足が覚えてた道筋、
 自販機のまぶしさやゴム製のポールなんかが遠い記憶とときどき重なる。

 デザイン事務所のガレージを過ぎると
 アスファルトがひび割れてて、昔の私みたいに
 にこちゃんがつまづいてぶつかる。


「あんた、こんなとこに連れ込んでにこに何する気なのよ?」

 顔を寄せてあきれてみせる。言ってやった。

「なに、にこちゃん、そういうこと期待してたの?」


 見開いた赤い目、すぐそらして手を離そうとする。
 ばっかじゃないの、ってとんがった声。
 でも結露のせいで二人の手は離れない。

 今の、私の勝ち。



 中学受験で通ってた塾がこの辺にあったのよ。
 口をするりと抜けた言葉、もうこんなに軽くなってた。
 へえ、大変だったのね、
 って他人事みたいな声にそぐわない両目が私を見てくれる。

「で、受かったの?」

 当然でしょ、私よ?

「……ああ、そう」

 なによ、なんか言いたいことでもあるの。


「ていうか、じゃあ何でうちの高校来たの?」

 やめたの。
 って言ったら、ああそう、ってまた。

 空は紺色よりも濃い色になってく。
 大昔のあのころ、
 塾から帰ってくる時もこんな色してた。

 ずっとこんな日々を死ぬまで繰り返していくんだって、
 手で触れられる世界の狭さにつぶされそうだった頃。



 ほら、あそこ。

 広い通りの向こう岸、気付いたらもうあのビルだった。
 とぼけたように白くて、
 駐車場はいつも開けっ放しで、
 床面に埋め込まれたライトが車道を滑走路みたいに点々と照らしてる。


「例の塾?」

「違うわよ。親戚のおうち、たまに泊まったりしてたの。

 ……にこちゃんも、今から日能研通ってみたら?
 ちょっとはマシになるかもね」

 そのセリフ要らないでしょ、ってにらまれたり。



 私より物覚えのいい両足が私たちをビルにそっと近づけていく。
 胸の奥でふんわり広がる熱っぽい感じ、
 そうだ、
 焼きたてのパンケーキもよく出してくれたんだっけ。

 お昼に食べた、あれよりは甘くないやつ。


「……絵里も、いつか糖尿病で苦しみそうね」

「なんでデート中にそんな話すんのよ」

 はあ、あの人のせいでにこちゃんが怒った。



 玄関インターフォンのところにカードキーをふれさせる。

 かちゃっ、
 って音が記憶の向こうと重なって軽いめまいを起こしそう、
 だけど十六歳になった私の隣には
 にこちゃんが居てもうすぐ花火がはじまってしまう。

 どうしよう、エレベーター使う?
 踏み出すと廊下の電気がぱっと点る。
 でも家の中を通るならおばさんたちに挨拶しなくちゃ。
 今はふたりがいい、長いけど階段で行こう。

 鉄製のつめたいドアを開けて非常階段へ、
 視界をかすめる中庭、
 その奥で地下一階まで続くダストシュート。

「ねぇ真姫、もうはじまっちゃ――」

 ぱあん、って空がはじけ出した。



 ぱらぱらとポップコーンみたいな音が降ってくる。
 にこちゃんの手があったかくなってしまう。

「階段で上がるの?」

「こっちしか通れないの、私たちは」

 不満げな声をひっぱって、とんてんかんてんと鳴る階段を上ってく。

 地上から一歩ずつ離れていく私たち、その分だけ夜空に近づいていく。


「っはあ、ふう、ねえ真姫ちゃん、これ、何階まであるのよ」

 そんなの覚えてないわ、いいから早くして。

「っ、あんたねえ……」

 喉からもれる息もすでに熱っぽい、でも昔よりは体力ついたはず。

 まだ小さかった私にはあまりに長すぎたこの階段、
 上りながら下っているようにも感じたっけ、
 でも見方によっては上下にさほど大きな違いもないのかも。

 きっと表裏一体なんだ。
 そう、滑空が一種の落下であるように。



 視界に壁が現れて、階段が突然終わる。

「っちょ、急に止まんないでよ!」

 相変わらず文句ばっかりのにこちゃん。
 手の中で血管がぴくぴくいってる。

 屋上へと続くドア、遠く聞こえる花火の音、
 金属製の丸っこいドアノブ、今さら開かなかったらどうしよう?
 思う間もなくひねった。


 軽く開いたドア、
 にこちゃん引きずってよろけそうでなんとか耐えた、
 風が吹き込む、私たちは向こうへ飲み込まれる。



 天上いっぱいに溢れだす真っさらな夏の夜。

 そして上空で炸裂する赤!



【下書きフォルダ】


To: 矢澤にこ
Sub: Re: Re: Re: にっこ

 別にいいでしょ。
 そんなのより、帰ったらユニット曲の練習だから。
 こっちは晴れてる。
 あと変な写真送ってこないで


To: 矢澤にこ
Sub: Re: 水曜の朝練、いつ

 うん、7時から。
 でも今日帰ったばかりなんでしょ?
 海未には私から言っておくわ。



To: 矢澤にこ
Sub: Re: RE: Re: 授業終わ

 昔食べたことあるわよ。忘れてただけ。

 ねえ、にこちゃん疲れてない?
 もっと普通にしなさいよ




To: 矢澤にこ
Sub: Re: RE: Re: RE: もう

 なんでそういうこというの
 私はそんなことしない!




To: にこちゃん
Sub: あいたい

 今から来て


To: にこちゃん
Sub: Re: RE: Re: 電話し

 おやすみなさい





 あいしてる



To: にこにー☆
Sub: Re: RE: Re: アドレ

 あとエリーに見られたの!
 だからやだったのに!

 ねぇ、罰ゲームまだやるの?
 もうアドレス帳直すから



To: にこちゃん
Sub: Re: ごめん今日は無

 なんで?
 私のこと嫌いになったの?
 私はにこちゃんのこと


To: にこちゃん
Sub: Re: ごめん今日は無

 私の方は気にしなくていい
 買い物、一緒に行っても


To: にこちゃん
Sub: Re: ごめん今日は無

 わかった。
 明後日の放課後ならいい?

 関係ないけど神宮外苑で花火大会やるの知ってる?



To: にこちゃん
Sub: どうでもいいけど

 さっき変な夢見た
 にこちゃんが空を飛んでいくの
 でも、



To: にこちゃん
Sub: 無視しないで

 嫌い



To: にこちゃん
Sub: Re: RE: Re: 花火大

 行くんでしょ?
 なんでそんなこと言うの
 私のこと信用してないの?
 全部話してよ



To: 矢澤にこ
Sub: 今までありがとう

 あなたのこと好きでした
 さよなら



To: にこちゃん
Sub: Re: RE: Re: RE: R

 絵里から聞いた。
 今からそっちに行くから
 覚悟しなさい

 もう逃がさないから!




  ◆  ◆  ◆

 夜風と首筋のにおいがぱっと抜けていった先、
 にこちゃんが小さく声をあげた。
 花火は思ったよりも近くて、煙の匂いも感じそうだった。

 あの子はふらふらと歩み出ると、
 上向いて髪を背中に流したまま手をすっと伸ばして、
 光の花束にふれるような仕草をしてみせる。


「ねえ真姫ちゃん、すごい、花火よ!」

「わかってる!」

 にこちゃんが伸ばした手、
 彼岸花みたいな色の光にそっと触れる。
 からからした笑顔、
 触れられた途端に光は溶け落ちてしまう。



「すごいわね、ここ、ひとりじめ?」

「にこちゃん。ふたりじめ」


 絶え間なく広がる花束と
 屋上の淡い非常灯に照らされながら、
 にこちゃんはゆらゆら辺りをふらついてる。

 はじっこの鉄製の手すり、こんな季節でも少しつめたい。
 そう高くはないビルの屋上だって、
 見下ろせば家並みや他の小さなビルなんかの灯りが無数に広がってる。

 ひとりぼっちで見てきた光景。
 ひとりきりなのに、光はずっとやさしかった。



「上も下も星ばかりね」

 にこちゃんが私と同じように地上に目を向けてる。

「ちょっと、花火見ないの?」

「見てるわよ。
 あんたこそ、せっかく来たのにさ。……うわ、あの家やば。
 タンクトップだし下着干してんの丸見えだし」

「そんなの言わないで。
 というか、恥ずかしいから指ささないで」

 くすくす笑うにこちゃん。
 つられそうな距離でほっぺに息が掛かる。



「真姫、ホタルって見たことある?」

 ちょっと前にユーチューブで、って言ったら鼻で笑われた。


 にこちゃんは本物を見たらしい。
 小学校に上がるか上がらないかの頃、家族で旅行に行った夜のこと。

 蚊に刺されて不機嫌だったのも一瞬で忘れちゃうほど、
 蛍の群れはすごかった、らしい。


「パパに肩車してもらってね。
 こんな風に、いっぱいに広がってて」

 にこちゃんが手で示したのは地上の灯のほうだった。
 そんなあの子が、
 さっきと同じ色の花火で照らされている。



 きっと私がここによく来てたのもその頃だった。
 小さい頃はママやパパたち、おばさんたちと。
 いつの間にか一人で。

 塾や習い事の帰り道、
 同じ一人でも自分の部屋は息苦しくって、
 自然とこの場所に通い詰めてた。

 見下ろすのも見上げるのも好きだった。
 星ばかり数えていたら、
 いつの間にか、星座の名前も覚えちゃってたんだっけ。


「たぶんね、ここはアジールだったの。私のための」

「はぁ? なにそれ」

「避難場所、っていうと言いすぎね。
 サンクチュアリ? とにかくずっと守られてる感じがした、ここは」

「秘密基地? ……セーブポイント?」

 たぶん両方違う。
 よく分かんないけど。



 花火が横並びに一斉に打ち上げられて、
 ドミノが崩れるように散ってゆく。

 手すりをきゅっと握りしめると、
 汗が手に反射して染み込む感じがする。
 パパに抱っこされて覚えた感じ。

 今はもう一人で立っていられるのに、結局私はいつまでも戻ってきてしまう。



「……成長、できてないの」

「できてるわよ。……知らないけど」


 にこちゃんの手が伸びて私の髪にふれた。

 こんな流れで撫でられるの子どもみたいでイヤだけど、
 もっと子供っぽい顔でむくれて目をそらしてる子がいたから、
 撫でられてあげることにした。

 足場やその下なんて今は見えてない。
 空中に漂って、空をふたりじめしている。



 ぱらぱら、と耳障りな音が抜けていった。

 見上げた方で作り物の赤い光が明滅して動いている。
 ヘリコプターの羽の音、気にし出すともう耳から離れない。


「あれ、テレビ局のやつ?」

「そうね。
 もう、終わっちゃうの」


 言葉とともに吐いた息も生ぬるくて、ポケットの中を握りつける。

 カギの金属部が指の腹に刺さる感触。
 天上はやがて鳴り止んで、地上もいずれ静まりかえる。

 そうして、
 私とにこちゃんは、
 今日だけって決めたふたりは。



 夜の帳が深く降りてゆく。
 二人きりの舞台では、カーテンコールも掛からない。

 もう子どもたちはおうちに帰る時間だ。
 地上から届く重たい響き、
 早々に帰りはじめた観衆の立てる音。

 さざ波のように遠い響き、
 でも夜の波はすぐに
 私とにこちゃんを、あの子をさらってしまう。

 いっそ飛び立ってしまいたい、
 かつてにこちゃんは天使だった、私は羽を信じなかった、
 正しさは昼の陽射しのように容赦なく肌を焼き付けた、
 だからにこちゃんの羽は
 偽物らしく焼かれてしまった。


 うん、何が正しいかなんてわかってる。
 私は優等生だから、それを選ぶこともできる。
 これ以上、せめて私だけでも、
 にこちゃんの羽を焼いてしまいたくない。

 だから今この場で手を離して全部なかったことにする、
 昼間のにこちゃんが死にものぐるいで選んだ道、
 そっちに引き返すべきなんだ。

 わかってる。
 真姫ちゃんかしこいんだから。



 ぱあん、ぱららら、
 って人の手で作られた光が打ち上がった。

 にこちゃんが肩のところに顔を寄せて見えなくして、
 私は背中をさすって付け根を探してた。

「ねぇ、分かるでしょ」

 にこちゃんがいう。

 元に戻さなくちゃ、って。

 私は世界中の人を笑顔にしなきゃいけないの、
 できなくてもするの、
 そう約束したのよ、
 だから、こんなことしてちゃだめ、
 ちゃんとしなくちゃ、

 って唱える。



「にこちゃん。
 その世界に、あなたはいるの?」



 ぱっと上がった顔。
 屋上の弱い照明では顔色がはっきり見えない。
 でもどうがんばっても笑顔とは呼べない表情だった。

 その唇が何か言い返そうと開いて、止まる。
 言葉を喉元に押し込めてしまう。


「……にこ、うそついたから。
 うそつきは天国に行けないのよ」

 向こう側で打ち上がる花火は、
 最初に見た彼岸花みたいに鮮やかな赤だ。

 闇が、波が、あの子をさらってしまう。
 いくら近づけたってこうやって引き剥がされてしまう。


 ――だったら、私は?

 ねぇ神様、

 私はまだ、羽を生やせるかしら?



「……いけるわ」

 にこちゃんが私を見た。



 口からこぼれた思いがけない言葉、
 意味よりも先に発した台詞、あの子ったら何言ってんの?って顔してる。

 わかるわ、
 私だってまだ自分の嘘を信じてないから。


「今さら、どうしようっていうのよ」

「飛ぶの」

 無意識が発した台詞を自分で聴く。

 ああ、飛ぶんだ、
 そうだ私は最初からにこちゃんと飛びたかったんだ。
 でも、どこから? なにから飛ぶの?
 言う間もなくあの腕が私におおいかぶさるとじこめる。

「いやよ、あんた何言ってんの、私そんなのいや! やめてよ、」

 にこちゃんが怒ってる。
 ちがう、そういう飛び方はもうさせない。



 にこちゃんをそっと剥がした。

 ばか、飛ぶんだから。
 死ぬために落ちたりはもうしないわ。

「だったら……何なのよ?」

 ちぎれた雲のかけらまで乾いてしまった夜空、
 かすれた線が少し浮いてる。

 アイスキャンディーの傷口から流れる冷たい煙のように、
 月明かりを隠しきれない雲が、
 にこちゃんの遙か彼方、上空でゆらゆら流れて。


「……じゃあ、新しい世界をあげる」

 私が言った。



「いい?

 私とにこちゃんにしかできない新しい生き方、
 全員まとめて笑顔になっちゃう、
 あなたみたいなうそつきだってまるごと幸せにしちゃうような、

 そんな場所を発明してあげる」



 理屈や常識や物理法則をわざと読み間違えた、ふたりだけの世界。

 天地が反転してしまえば、
 落ちるようにして飛ぶことができる。
 嘘ついたっていいわ、その方が楽しいなら。

 私はあなたの嘘さえ肯定する、
 思いっきりだまされてあげる、でも全部見抜いてみせる、
 そして二人で重ね合わせれば幸せな世界が完成するんだって

 永遠にだましきってみせる!


「だから、こっちにいらっしゃい?」

 にこちゃん、私とひとつになって。



 風が吹く、思ったより冷たいの。
 にこちゃんの髪を揺らす、私の頬をなでる。
 背中から吹き抜ける風、月へと続く上昇気流がこの場所をつつむ。


 手の中には家のカギ。
 何度も落として、その度に手の中に戻された、鉄製の鎖。
 にこちゃんが拾い上げてくれたから、私はここにいる。

 そんなあの子のバッグには、
 ライターやお線香がまだ入ってるはず。
 手からこぼれ落ちる度に拾い続けて、自分とその場所とを縛りなおした。



「にこちゃん。
 私、今日はまだ帰らないから」


 泣き疲れたような顔、
 そこに涙なんて流れてないのに、焼け野原をほっつき歩いたような、
 ぽーっとしてる。

 思考が追いついてないのかもしれない、
 私と同じで。

 つまみ上げたカギ、手の熱に反してひどく冷たい。


「……あんた、何するつもり?」

「自由意志の存在証明」



 そう、縛られるんじゃない、私が自分で私のことを縛るの。
 好きな時代の好きな場所に結わいつける、
 大切な人と一緒に。

 私もあなたも女優であることはやめられない、
 でも演じる役や舞台ぐらいは選べるんだから。

 幸せそうに生きるの、
 そこが天よりも高い場所だってことにして、
 私たちふたりとも天使の末裔なんだって信じ込んで、
 観客席まで巻き込んで笑顔で満たすのよ。

 あなたが信じてくれれば、騙されてくれたら、
 私はきっと本当に飛べる。

 ちゃちな手品や言葉のあやを
 今夜、最上級の魔法に変えてみせるから。



「今日はどっかで泊まる。ついてきてね」

 取り出したカギ、手のひらの上で少し重たい。


 私の髪の毛と同じ色の目がぽーっと見てる。
 これは一種の催眠療法で
 疑似的なイニシエーションで 要はただのおままごとだ。

 向き直った先、無限に広がる夜景の海。
 灯りはひとつずつ消えて、いずれすっかり静かになるだろう。

 音の早さで滑空する夢、
 溶けたアイスのべとついた感触、
 焼けるほど甘い砂糖菓子といじわるな口癖、
 白い肌と指先と唇の味、

 私はそれを手の中に全部ぜんぶ押し込めて、



 指先に冷たい熱を込めて、
 思い切り振りかぶって、






  「っ、飛んでけえぇ――――――――っ!!」



 手から放った、はなたれた、はばたいて 飛び立った

 カギはふんわり夜空に浮かんだ

 後景にまばゆい熱の花を咲かせて


  ぱあん、って


 弾けた音に包まれ一瞬とまる、
 あの子の呆けた顔もとまる、
 指先と心臓の熱もとまる、


 そして
 おちていく。



 おちていく、おちていく!

  急速に落下していく、
  地球の引力に従って 空気抵抗を突き刺した金属片は 加速して加速して
  地上に吸い寄せられ 夜景の海に引き寄せられて
  急速に落下していく 落ちていく 堕ちていく!
   カギは 落ちていく、
    滑空して 飛行して 音よりもはやく気流に 突き刺さって

   切り裂いて 落ちていく おちていく――








 ――――ぱきん。



  ◆  ◆  ◆

 ふたりともおちた。

 数分間かけて非常階段を一段ずつ駆け足で落ちていった、
 息もつかせぬほど一瞬で とんてんかんてんって
 たまに踊り場に向かって二段飛ばしで落下して
 スカートはためかせて
 夜空と花火から遠ざかるように
 路上のもっと下、

 地の底の暗いとこまで 私たちは落ちてきてしまった。


 地下一階、ゴミ捨て場。

 吹き抜けの向こうで明るんだ夜空が遠い。
 コンクリートの地面が膝にひんやりしてる。
 海抜ゼロメートル、世界でいちばん低い場所。
 なのにまだ飛んでいるみたい、まだ落ち続けているみたい。



「ばっかじゃないの?」

 地べたに座り込んでる私を見下ろす光。
 あの子は両手の甲を腰にあてて子どもを叱るようなポーズをする。
 でもにこちゃんはかわいくって今はそんなの全然似合わない。

 手招きすると、
 スカートを気にしながら私の隣にしゃがみ込んでくれる。

「ていうかさ……
 真姫ちゃん、あんたボール投げ何メートルだったのよ?」

 飛距離ぜんぜん出てなかったって笑ってくる。
 そんなの知らない、にこちゃんだっておんなじくらいでしょ。

「ええー? にこはもうちょっと飛べたよー?」

 語尾を上げてあどけない顔を作るにこちゃん。
 そういうの、二人っきりじゃ効かないんだから。



 私に続いて投擲された100円ライターは、
 花火のように消えてしまった。

 空に届けるように、
 紙飛行機みたいな角度で追いやってたから、
 きっと本当に雲の向こうまで届いてしまったのかもしれない。

 やっぱり、にこちゃんは飛べるんだ。
 私よりずっと遠くまで。


 吹き抜けから射す月明かりに白く照らされた場所、
 その片隅で小さく光ってる。

 星屑に似た光が気になって、
 まさかと思ってつまみ上げたら、やっぱりそうだった。
 こんなことってあるものなのね。


「にこちゃん見て。
 カギ、こんななっちゃった」

 先っぽがぱきんと折れ曲がった家のカギ。
 これはもう、使えそうにない。



「なにそれ! あーもう、ばっかじゃないの?」

 にこちゃんの手に握らせたカギの残骸、
 そしたらゼンマイ人形みたいにけたけたと笑い出して、もう止まんない。
 ああもう、
 私も耐えられなくってそこに転がり込む。あはは、もうだめ。
 何がおかしいのかわかんないけど、もう全部おかしい。

「くはっ、まきちゃ……それ、家に帰れないでしょ!」

「合い鍵、頼むからぁ……あははっ!」

 けらけら笑って、
 その手をつかんだりほっぺ引っ張られたりくすぐったりして、
 コンクリートの床に転げちゃう始末。

 いつもの私なら絶対こんなことしないのに、にこちゃんが悪いんだから。



 寝っ転がって二人で見上げた空、薄い雲で月がぼやけてる。
 夜空だけをまっすぐ見てたら、周りのことなんて忘れてしまえる。

 床に身体を投げ出して
 上下をさかさにしちゃえばもう、そこは夜空の中だった。


 私たちはいま、天よりも高い場所に浮かんでる。



 転がしたバッグを枕に、手の感触を確かめる。
 にこちゃんの心臓はずっと動いてて、
 今も白い指先の奥で動脈がとくとくと赤い血を送り出している。

 手の感触を忘れるほど長く握り続けていたら、
 いつの間にか私とにこちゃんは血管までつなげられるかもしれない。
 私の胸がぎゅってしたら、にこちゃんが血を受け取るの。
 そしたらにこちゃんがきゅって握り返して、
 にこちゃんが私の身体に流れ込む、ひとつの生き物に生まれ変わるの。

 ねぇ、そういうのっていいと思わない?
 って握り返したら、
 はずみであふれ出た。

 にこちゃんのぼんやり開いた瞳から、涙の一粒が。



 ねえ、ってにこちゃんがいう。

 私はちりばめられた星の一つ一つを目測で繋いだりして声だけを聴く。

「九月の土曜日、練習ない日、ひま?」

 うん。
 にこちゃんがきゅって握る。
 私の心臓が鳴って血が送り出される。

「あのね。パパに挨拶してほしいの。ちゃんと、お話したいから。
 真姫ちゃんのこと」


 にこちゃんが吐いた息の熱、感じる間もなく胸元に重なった。

 数秒前に見せた顔、
 にこちゃんの本当の顔だって思えた。
 曇りひとつない、まっさらな、月の輝きみたいにあどけない顔。

 私の胸に乗っかった重みが、
 一定のリズムで続く呼吸の熱が、
 この人がここにいるってことが、本当にたまらなくって。

 にこちゃん、明日になればどうせ
「こんなの私のキャラじゃない」
「あんなの本当のにこじゃない」
 なんて言ってちゃかすんだ。

 でも、全部が嘘なら全部を本当だと思うのも、私の勝手でしょ?



 連れて行って、って伝えた。
 それだけじゃなくて、
 もっと遠くにも、羽をひろげて飛び立った先、二人で発明する魔法の国まで。


「しょうがないわね、真姫ちゃんは」

 小さな肩をすくめるそぶり。
 私の台詞とらないでよ。
 にこちゃんはあきれた振りを崩さないまま、
 その流れで

 「しょうがないから、私が真姫ちゃんの恋人になってあげる」

 とえらそうに言った。



 真姫。
 私と、いっしょでいてよね。

 にこちゃんが私にキスをした。
 鍵穴にカギをそっと差し込むように、
 柔らかな舌をそっと、

  かしゃん、

 って。

 胸の奥で何かがひらいて、甘いものがこぼれ出した。



 私の大好きな人は、
 私の髪と同じ色の目をしていて、
 かきむしりそうな時でも梳かしてくれた。
 真っ白な肌は夜の光に映えて、
 今もみずから光を発しているようだ。

 私の輪郭をなぞるにこちゃんの指がすき。
 かたちを確かめてくれるにこちゃんがすき。
 抱き寄せた背中が もう熱でいっぱいで、
 新しい羽でも生えてくる姿を夢に見る。

 どうして、こんなになっちゃうんだろう?
 はじめから二人になるために生まれてきたみたいに。

 そんなの決まってる。
 私たち元は一個のからだで、
 なんかの間違いで、ぱきんと分かれちゃったんだ。

 だからこうして間違えて
 からだを一個にしちゃうのは間違いじゃないんだ。
 間違いに間違いを重ねれば、
 マイナスにマイナスを掛け合わせればプラスになるんだ。


 だから飛び続けよう、ひとつになって。
 終わらない舞台をいつまでも、
 甘くてつめたい この味を、
 思い出に焼き付いて忘れられないくらい深く。

 まだ夢にも見たことない場所でだって、にこちゃんとなら、きっとね。


 割れた二つをもう一度、確かめるように重ね合わせる。
 カギを掛けるようにして、ひとつにする。

 プラスチックみたいな白くてかわいい隔たりの隙間から、
 甘い汁が染み出した。




おわり。

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