モバP「街路樹に銀杏色が視える頃」 (41)

9月の初旬と言えばまだまだ暑いというイメージが強い。学生の頃はこんな時期に運動会や体育祭をやる学校を恨めしいと思った物だ。
あるいは太陽を見上げて、世間的には秋になるというのだから少しは落ち着けと呪詛を吐いていたような記憶もある。
それが大人になってみれば、過ぎ去った熱風に聞こえなくなった蜩に想いを馳せる物だから、人間というのは自分勝手な物だ。

簡素な支度だけ済ませて、事務所へ向かう。
所属アイドルはたったの4名。所属プロデューサーは俺1人。少数精鋭と言うにもさすがに無理があると思われそうな規模の事務所は、建物もそれ相応の造りになっている。
ビル、というよりは、ボロアパートと称した方が良いような物件。雑誌の取材などで外の人を呼ぶといつも驚かれてしまうので、そういった時には近所のファミレスを使うようにしている。
お陰でそのファミレスはアイドル御用達のという箔がついて、客足が少しだけ伸びたらしい。
察して頂けたかもしれないが、うちの事務所のアイドル達のランクは、明らかに事務所の規模と似合っていない。
最近、自分から営業をかけることが少なくなった、と言えば、もっと分かりやすいだろうか。

蝶番が壊れかけている扉を開ける。外見の古臭さに反して、室内は今日もピカピカに綺麗だった。

「おはよう」

おはようございまーす、と柔らかな声が遠くから聞こえる。スーツをかけて鞄を置いている間に、1人の少女がぱたぱたと駆け寄ってきて、はいっ、と茶飲みを差し出してくれた。


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「おはようございます、モバP(以下「P」)さん♪」
「おはよう。いつもお茶をありがとな、藍子」
「いえっ。最近はPさんがいつ頃いらっしゃるか、分かるようになってきて……でも、たまに冷たいお茶を飲む羽目にもなっちゃうんですけどね」
「……藍子からのお茶なら、氷漬けでも飲むよ」
「それは私が嫌です。だって、美味しいお茶をお出ししたいんですから」

高森藍子。事務員ではない。アイドルだ。
春夏秋冬、いつでも心地よい暖かさを感じる笑顔に癒やされる。疲れた時にはコーヒーを淹れてくれて、時にはアイドル達のお茶会にも誘ってくれる。
他の面々が面白おかしいお土産を披露する中、藍子はいつも食べているお菓子を持ってきてくれるのだ。
面白いお土産も見てて楽しいけれど、やっぱりこう、藍子がいるだけで安定感がぜんぜん違う。
いい子、という言葉以外が見つからない。さっき渡してくれたお茶も、明らかに淹れたてだし。

「あの、もしかして、今日はお茶という気分ではありませんでしたか……?」

しばし茶飲みを片手に固まっていると、藍子が不安げに瞳を揺らした。そんなことないよ、と返して一気に煽る。
これがまた程よい温度で、喉を通ると同時に全身にエネルギーが漲る。今日も仕事を頑張ろう、例えどれだけの人を相手に頭を下げることになっても絶対に、と気合を入れられる。

「ぷはっ」
「あはっ。そんなに美味しく飲んでもらえたら、私も嬉しいですっ♪」
「いやいや、こっちこそ。藍子あっての活力だよ」
「お茶飲み、持って行ってきますね」

そこまでやらなくても、と思う。けれど藍子は躊躇う俺の右手から茶飲みを奪ってしまい、鼻歌を歌いながら給湯室の方へと消えていった。
頭をぼりぼりと掻きながら、さて、今日はどこから手をつけた物かと考える。
とはいえ今日の為のスケジュールはだいたい整っているし、アイドル達に指示を出す、送迎をする、あとは何かあるようなら話を聞くくらいで――。

……。

…………ああ、今日に限っては、もう1つあったか。

「藍子」
「はいっ。お仕事のお話ですか?」
「いや……それはちょっと後だ。今日は確か、LIVEの打ち合わせだったな」
「そうですね。午後からですので、午前中はのんびりとお散歩に行くつもりです」
「気をつけてな。……それで」
「はいっ」
「…………」

百円均一で購入した壁掛けカレンダー。紙の切れ端がいくつも積み重なっている。
最初に来た人が日めくりをすることになっている。今日は藍子が、今日という日付を伝えたのだろう。そうしてきっと、彼女はそこの日付を見て、小さく微笑んだに違いない。

ただ、その微笑みを向ける相手が。

「加蓮は?」

途端に、藍子が眉をハの字にして、あはは、と乾いた笑みを浮かべた。

「……それが、そのぉ…………やっぱりそうなりますよね……?」
「……? 当たり前だろ。確か昨日は藍子の家に泊まったんだよな。去年みたいに、1日中かけて探す羽目にならないように」
「うぅ、はい」
「昨日は一緒に寝るって報告してくれたのは見たが、一緒には来ていないのか? まだ寝てるのかなアイツ……」
「それが、……逃げられちゃいました」
「は?」

逃げられた?

「ごっ、ごめんなさいPさん! 私がもっと早く起きていれば――」
「いや、いや。早くって今はまだ8時じゃないか、もっとのんびりしてくれてもいいのに……」
「いえいえっ。お休みの日は、事務所のお掃除がしたいので……」
「早起きはいいことだけど……やっぱ清掃員でも募集すっかなぁ」
「嫌ですよ。私達の手で、綺麗にしてあげたいんです」

俺たちが未だにボロ事務所を使用しているのも似たような理由だ。過去に何度も引っ越しの提案はしたのだが、その度に所属アイドル全員から反対されている。
自分たちにとってはもう第2の家のような場所で、違う建物なんて考えられない、と。
共感できてしまうから強く言い返せない。壁掛けカレンダーもだし、立てかけられたほうきにちりとり、安物の目覚まし時計、どれだけこすっても汚れが落ちないキッチンスペース。時に寝泊まりしたこともあったけれど、自宅と同じくらいの心地よさがある。

ひとまず頭の中で思い描いた清掃員募集の張り紙はビリビリに破くとして、さて、今はあの厄介娘の話だ。

「分かった。それより加蓮だ。逃げた、っていうのは?」
「あ、はい。昨日の晩までは、確かに私のお部屋で眠っていたんです。おやすみなさい、って言って、加蓮ちゃんの寝息を聞いたのも、ちゃんと確認しました」
「が、起きたらいなかったと」

「……その……窓が、開いていて」
「はぁ?」
「あと、トタン屋根の一部がヘコんでいたから……たぶん、そのぉ……」
「……アイツはいつからスタントマン志望になったんだ?」

藍子の私室は2階にあるらしい。つまり奴は、窓から飛び降りいずこかへ逃亡した?

「加蓮ちゃん、最近はダンスレッスンにはまっているみたいでしたから……」
「そういう問題か……? アレはアレだ、ビジュアルとボーカルは極めたから後はダンスだよね! とか宣ったからだよ。アイツの体力で何ができるってんだ……」
「でも加蓮ちゃん、体力の使い方がすごく上手いですよね。どうやったら倒れないようにするか、って」
「ああ。で、ダンスを極めた結果が2階からの逃亡か……ハァ…………」
「……ごめんなさい、Pさん。私が、ちゃんと見ておけば」
「いやいや、藍子のせいじゃないよ」

何を思って2階から飛び降りたのかは分からない。普通に玄関から出たら藍子に気付かれると思ったのだろうか。
いずれにせよ、まさか一緒の屋根の下で眠った相手が翌日になって窓からどっか行くなんて、普通は想像できないだろう。首を横に振ってみせてもなお落ち込む藍子に、お前のせいじゃないから、と繰り返し告げる。
今は、責任問題や再発防止ではない。現状への対応だ。
どうせ対策なんて考えても適用されるのが1年後なのだから。

「…………」

作業机の上に置いたスマホから呼び出しをかけてみる。
ソファに囲まれたセンターテーブルの上で、けたましい音が鳴り響いた。

「……アイツ、スマホ置きっぱだったのか」
「そういえば昨日の加蓮ちゃん、スマートフォンは取り出していなかったような……」

ノーヒント。早速の手詰まりだ。

もしくはこれはメッセージなのかもしれない。ヒントも抜け道も用意していないから自分で探しに来い、と。
アイツはたまに俺を試すような口調になる。もし自分が倒れたら、自分が無理をしていたら、自分が弱音を吐いたら――常に正答を導き出せるほどの優秀プロデューサーを自負するつもりはないけれど、今もちゃんと人間関係が続いているのだから、致命的な欠点はついていないのだろう。そうだと信じたい。

「逃げたって分かったら連絡をくれよ……そしたらこんなにのんびり来ることもなかったのに」
「……朝早くだったのと……それに、その……」
「……?」
「い、いえっ、なんでもないです」
「はぁ。……まあ、とにかくあの馬鹿だ。よし、藍子。探しに行くぞ」
「あっ……いえ、私はここで待っていることにします」
「え、いやいや手伝ってくれよ。去年のこと忘れたのか? あの時だって、最後に見つけたの藍子だったろ」

それに去年は、俺よりも藍子の方が必死になって探しまわっていた印象がある。
今、藍子がこうして(少し困りながらも)穏やかに話しているのが、少し不自然なくらいだ。

加蓮が心配とか、今ごろマズイことになってるんじゃないかとか、考えないのだろうか。
少しだけ咎める気持ちを目に込めたら、いえいえ、と藍子は首を横に振った。

「なんとなく……今年は、少し違う気がするんです」
「違うって?」
「去年は、ほら……5日になる前に、誕生日のお話をしたら、加蓮ちゃん、すごく嫌そうな顔をして。だから、誕生日って言葉は出さないようにしていたんですけれど」
「今年は違う、と」
「はい。昨日の夜だって、明日のこと……加蓮ちゃんの誕生日のことで、少し、お話をしていましたから」

だからなんで逃げちゃったのか分からないんですけれどね、と藍子は苦笑した。

「私は……加蓮ちゃんを、待っていたいなって。だから、加蓮ちゃんを探すのは、Pさんがやってあげてください。加蓮ちゃんだって、きっとPさんに見つけて欲しいと思っている筈ですから。去年は私が見つけちゃったから、なおさらに」
「でもなぁ、」
「もし加蓮ちゃんを見つけた時、Pさんの隣に私がいたら、加蓮ちゃん、きっと拗ねちゃいます」
「……………………それは、どういう」
「私に言わせるんですか?」

あはっ、と藍子は笑った。
黒色成分が含まれた笑みに、北条加蓮という小悪魔の影響を懸念してしまう。
やめてくれ。藍子の存在は俺の癒やしなんだ。天使が堕天する展開なんて誰得だよ。天使は天使のままがいいのだ。

少しだけ訂正させてください。
>>10 セリフ5行目
誤:加蓮ちゃんの誕生日のことで、少し、お話をしていましたから」
正:加蓮ちゃんの誕生日のことで、少し、お話をしていましたから。加蓮ちゃん、あまり嫌そうにはしていなかったから」



「そういうんじゃねえよ。俺とアイツは、プロデューサーとアイドルだ」
「でも、加蓮ちゃんの想いには、ちゃんと応えてあげてくださいね?」
「知るかっ。……じゃあまあ、行ってくるわ。ああそうだ、悪い、後の2人が来たら藍子から指示をやってくれ。スケジュールならホワイトボードの通り、変更もナシだから」
「分かりました。でも、私はPさんに指示をしてほしいな」
「……さっさと見つけて帰って来いと?」
「美味しいおやつを用意して、待っていますね?」

扉を開けた時にわざと荒々しい音を立てた。でも怯みすらしてくれない、扉が閉まる瞬間まで藍子は笑顔で手を振っていた。
最初の頃の、アイドルに不慣れで、営業に連れて行くだけで俺の服の裾を摘んでいた少女が恋しくなった。
でももう何年も経っているのだからしょうがない。成長を受け入れてこそ保護者が務まる物だ。永遠なんてどこにも存在しないのだから。

その一方で、いつまでもガキっぽいことを繰り返す奴もいる。
思えば気候の変化に身勝手なことを言う俺と、今日という日に未だに意地を張り続けているアイツとは、どこか似ているのかもしれない。

風のない町並みへと歩き出し、秋めいた空を見上げて息を大きく吐く。


9月5日。
今日は、北条加蓮の誕生日。
1年365日の中で、加蓮が最も嫌いだと言う日。



「あれ? Pさんじゃん。やっほー」


アテもなく20分ほど歩き続けたところで、コンビニから出てくる北条加蓮と出くわした。

……あれ?

「……お前、何してんの?」
「何って、コンビニから出てきたところだけど?」
「え、いや」
「ねー見てよPさん。これ、新商品だって。ハッカ飴! 私としてはもう買うっきゃないって思ってさ。ねね、事務所のみんなにもあげちゃおうよ」

サイドポニーという加蓮にしては少し珍しい髪を揺らしながら、くすりと笑う。
白のシャツに黒のパンツ、そして茶のオーバーオール。青のニットでちょっと子供っぽく見える。
ブーツも地味目の色で、爪の先にはシックカラーのネイル。
パッと見た限り彼女が連日テレビに出演しているアイドルだと思う人はそうそういないだろう。

けれど凝視すれば、シンプルな服装をどれほど着こなしているかが分かる。
アイドルだと分からなくても、アイドルにスカウトしたくなる輩はいるかもしれない。
ころころと転がすように浮かべる笑みも、とても魅力的で。

……ただし。
裏側を知っている人間としては、顔をしかめざるを得ない。

「でもミント味ってけっこう人を選ぶんだよねー。誰も合わなかったら私専用の飴? それともPさんの眠気覚ましに使っちゃおっか」
「……なあ、加蓮」
「なぁに?」
「お前、何でここにいるんだ」
「何でって」

何でだろ、と口元に指を置いて。

「何だか急に散歩したくなっちゃった。藍子の影響かな?」
「加蓮。お前が周りくどい話し方を好きなのは知ってるけど、とぼけるのは無しにしよう。藍子から聞いたぞ。わざわざ部屋の窓から逃げ出したって」
「あー、うん」
「それに去年のこともある。まさかコンビニに来たかったから来ましたで済ませられるとは思っていないな?」
「……たはは」

参った参った、と加蓮は両手を上げた。しゃら、とコンビニのビニール袋が軽く揺れた。
目が鈍重に泳ぐ。俺からの視線を逃れているというより、観察するために目をきょろきょろと動かしているような感じ。
はい、と俺に何か差し出してきた。コンビニのレジ横で売っているコロッケだった。
その時になって初めて、加蓮は2つのビニール袋を持っていて、さっきの"しゃら"という音はそれらが擦り合った物だと気付いた。

「あげる」
「…………」
「えー、だめぇ? あっ、じゃあハッカ飴も一緒に!」
「…………お前な」
「まーまー。食べながらさ、ちょっと歩こうよ。ほら、事務所に帰るまでだからさ」

ね? と答えを返す前に俺の隣に並ぶ物だから。
押し付けられたコロッケを食べようと口を開くと同時に、毒気が抜けていく。
封を破りハッカ飴を口へと放り、んー、と唇をすぼめ、あはは、やっぱりすっぱいっ、と加蓮は笑った。
俺も、つられて笑った。

はっきりさせないといけないことは、はっきりさせないといけないのに。
このままぶらぶらと歩くだけでもいいかな、と思わせるから、北条加蓮という人間は卑怯者だと思う。




「ちょっと暑くなって来たかなー。オーバーオールはやりすぎたかも」
「まだカーディガンもいらない季節だろ。特にお前は、ちょっと動くとすぐ体が熱くなるんだし」

街路樹に紅色が混じっている。まだ8時30分を過ぎた頃だというのに、世間はもう活性化していて、車の音が鳴り止まない。
都会の光景に不慣れな田舎者を自称するつもりもないが、たまには静かな世界を歩きたいと思う。
もしもいつか、彼女たちがアイドルの世界から身を引いて。
そうしたら、そういった生活を――なんて、冷静な自分が見たら殴りたくなるような発想が生まれてしまうのは。
とりあえず、加蓮のせいにしておこう。

「えー、またそれぇ? だから身体は大丈夫だってば。それにオシャレの為には我慢も必要なのっ」
「はいはい。俺は加蓮がアイドルを続ける限り過保護でいると決めたんだ」
「ぐぬぬ。ダンスをやってるのも、Pさんを見返す為なんだよね」
「ほう」
「いつまで経っても子供扱いなんだから」
「……まあ、誕生日の日に脱走してふらつきまわる奴を、ガキ以外の言葉で表す気にはならないな」

えー、と加蓮は唇を尖らせた。立ち止まることはないし、目を伏せることもない。相変わらず、ケラケラと笑っている。

「誕生日おめでとな、加蓮」
「ありがと、Pさん」

去年、あれほど言うのが難しかった言葉を、これほどあっさり言えたこともまた、時の変化なのだろう。

「今年は拗ねないんだな」
「んー……うん。あ、そうだ。去年はゴメンね? 私、ムキになっちゃってて」
「もう時効だろ」
「でもあの時、Pさんにも、藍子にも、有り得ないくらい迷惑かけちゃったかなって……」
「ま、そうだな。仕事はキャンセルだしあの日1日でどんだけ頭を下げたか。加蓮とは違う意味で、9月5日が嫌いになりそうだったぞ」
「…………ホントにごめん」
「時効だ」

しゅん、となるのがちょっとだけ可愛い。けれどここでもっと意地悪をしてやろうと思うと反撃される。
道端の自販機でレモンジュースを買って、加蓮へと投げ渡す。あ、サンキュ、と拍子抜けな声。らしくない感じで面白かった。

「だってさー……Pさんがみんなと一緒に、あれだけ誕生日を祝ってくるんだもん。嫌いであり続ける方が難しいよ」
「ほー。俺の知る加蓮は、そんな簡単に考えを曲げる奴ではないが?」

「む。じゃあ今年も24時ギリギリまで追いかけっこしてた方がよかった?」
「いやマジで勘弁してくれ。お前、俺の体力の無さをナメてるだろ。お前に軽く負けるレベルだぞ」
「それは深刻だね」
「深刻だ」

赤信号が、待て、と言う。立ち止まった加蓮が、靴先で、とんとん、と地面を小突いていた。
退屈なのは嫌いか? と聞くと、Pさんがいるから退屈じゃない、と返された。

「どれだけ逃げても……Pさんからも、自分からも逃げても、結局は見つかっちゃって、そっち側に引っ張られるんだもん。ホント、しつこいんだから」
「まぁな……去年の俺は、正直、ちょっとやり過ぎたとは思ってる。でも加蓮も悪いんだぞ? だいたい誕生日が嫌いなんて奴、これまで見たこともなかったんだからな」

「じゃあ、私がPさんのはじめてだ」
「はいはい初めて初めて。よかったなー」
「……むぅ」
「オオカミ少年じゃねえが、その手の冗談を何度聞かされたと思ってるんだ。……っと、信号、青だぞ」

先を促すと、もうちょっとゆっくり行こうよ、と腕を掴まれる。
分かったよ、と歩調を弱めた。いつもスタスタ歩いて行くのはお前だろ、と嫌味を言ったら、知らんぷりされた。
俺と加蓮とを、多くの通行人が追い抜かしていく。
いつもとは逆の立場で――いつもは、俺達が早歩きだから、なんだかおかしくて、笑みが零れた。

「Pさん?」
「はは、いや、何でも」

横断歩道を渡り終え、振り返ると青信号が点滅している。加蓮もそれに気付いたらしく、変なの、と初めて見た動物への感想みたく言った。

「加蓮さー、誕生日プレゼントには何が欲しい?」
「Pさん」
「躊躇いなく言うな。それ以外だ馬鹿」
「そんなこと言って、もう用意してくれてるんでしょ?」
「おっまえホントに性格悪いな。もしかしたら今から買いに行くところかもしれねえだろ?」
「だってPさんだしなー。ね、ね、何を用意してくれたの? 教えてくれたらやる気が出るんだけどな」
「何のやる気を出すんだよ」
「うーん。今日のお仕事のやる気?」

街角のシャッターが、ぎしぎしと音を立てて開いていく。歩道の隅を慌てた様子の自転車が走り去る。
タクシーを拾うサラリーマンに、3人乗りのママチャリに1人で乗る女性。
早朝が曲がり角を曲がって、朝へとバトンを渡していく光景が、少しだけ眩しい。

「どうせ頼まなくっても本気を出すだろ」
「まね。しょうがない、Pさんに渡される時までワクワクしてよーっと」

「そうだな。そうしろ」

また信号に引っかかった。飲む? とさっきのレモンジュースを手渡されたので、ありがたく口をつけさせてもらった。

「誕生日にワクワク、かー……十何年ぶりだろ」
「十年単位なのか」
「しょうがないじゃん。誕生日なんて、ずっと大っ嫌いなままだったんだから」
「そうだよな」
「……ふふ。ありがと、Pさん」
「他の面々にも言ってやれ。むしろそっちに言うべきだよ。最初の頃は、事務所で祝うなんてこともしてこなかったんだから」

発端はたぶん藍子だ。この手のことはだいたい藍子が提案する。

年に5回。俺の時も含めて、バースデーケーキが用意される。甘い物が苦手とか関係なく、みんなで楽しく食べる為に。
ローソクもいつも5本。所属人数の分を拭きかけて消すってちょっと不吉じゃないか? と言ったら、藍子に怒られた。

「そか。よかった。Pさんやみんなに出会えて」
「そういうのも本人にな」
「えー。ここにPさん本人がいるじゃん」
「じゃあ、後半半分は帰ってから」
「うん。でもゆっくり帰ろうよ。寄り道なんてしてさ」
「そうだな。ゆっくり帰ろうか」

信号が青に変わる。ちょっと歩いたらまた信号に引っかかる。普段の車移動の時は苛立ってしょうがない光景も、今ならゆっくり待っていられる。
加蓮じゃないが、隣に誰かいるからだろうか。
車では、いつもアイドルが後部座席で、俺が運転席だから。
顔が、見えないから。

「……そういえば加蓮。結局さ、どうして藍子の家から、それも窓から飛び降りて逃げ出したんだ?」
「うん。ちょっと外に出たくなった、っていうのはホントだよ。あと、目が覚めた時、藍子を見て、なんだか胸が痛くなっちゃって」
「胸が痛く……?」
「分かんない。寝顔がすっごく綺麗だったからかな?」
「確かに分からん」
「勝手に身体が動いちゃった。ほら、私って……藍子に比べて、性格悪いなーって自分でも思ってるから、嫌気が差したとかそんな感じ?」
「こらこら。自分でそういうことは言うもんじゃない」
「はーい」

痛々しい笑みは、もうあまり見たくない。怒りを露わにしてくれる方がいい。溜め込む表情は、作ってほしくないから。

「あと、ほら、朝起きてさ、藍子がそこにいたら、絶対に誕生日おめでとうって言ってくれるじゃん」
「まあ、藍子なら言うだろうな」

「私、今年はどうしてもPさんから言われたかったんだよね。最初に」
「それでスマホも置いて放浪かよ」
「Pさんなら私のこと見つけてくれるしょ? 見つけてくれたもん」
「ハァ……。相変わらずガキだな、お前」

何歳になってもずっとそうだ。初対面の時は誰よりも大人びていたのに、周りが精神年齢を重ねていくものだから、今度は加蓮がガキに見える。
信号が青に変わる。意味もなく押しボタンを押してから、加蓮は歩きだした。

「藍子がな。お前を探すのは俺1人で、って言ったんだ。自分は待っているから、って」
「藍子が?」
「お前を見つけた時、俺の隣に藍子がいたら、お前が拗ねるだろうから、ってよ」
「ふうん……そっか。そうかもね」

次の曲がり角を曲がったら、もう事務所が見えてくる。遠目からではパッとは分からない、小さな小さな、第二の家が。

角に差し掛かった時、加蓮が1度だけ足を止めた。俺を見上げて、すっと目を細めて、ううん、と首を横に振る。
それから彼女は歩き出した。さっきまでのゆったりしたペースはどこへやら、いつもの早足気味になっていて、追いかけようと慌てたら足がもつれかけた。
あはは、変なの。加蓮が笑う。周囲を憚ることなく笑う。
だから、俺も笑った。

「加蓮」
「んー?」
「まだ、嫌いな物ってあるか?」

失言だったとすぐに気付いた。加蓮の、あの特徴的で儚げな笑みを見た途端に。

「北条加蓮っていう人間」

「…………」
「しょうがないじゃん。どれだけ時が経っても、これだけは仕方ないよ」
「……そうか」
「だからPさんが――」

Pさんが、と繰り返して。秋風が、街路樹を揺らして。
加蓮の髪に、少し色褪せた葉が、そ、っと乗った。

秋が来るね。加蓮は言った。葉を手に取って、俺へと手渡して。受け取って見つめている間に加蓮が視界から消える。
ぱたぱた、と足音がした。顔を上げて、追いつく。
こっちの葉っぱはもっと黄色いよ、と別の街路樹を指さしていた。

目を凝らしてみたけれど、俺には緑色にしか見えなくて。
怪訝な顔で加蓮を見たら、でも私には秋が視えたんだ、と笑った。

「で、俺が何だよ」
「なんでもなーい。ほら、事務所に到着。ふふっ、朝デートもおしまいだね」
「なーにがデートだ」
「Pさん的にはがっかり? もう1時間くらい歩いてたかった?」
「馬鹿言え俺は仕事人間だ。さ、今日もプロデュースプロデュース」
「つまんなーい。また歩こうよ。10分だけでいいから!」
「……それくらいならな」

事務所の扉を、加蓮が開けた。蝶番が、小さく軋んだ。

「ただいまー!」
「ただいま」

「あ、おかえりなさいっ」

ちょっぴり驚いた藍子が出迎えてくれる。加蓮を見て、俺を見て、くすっ、と笑う。さすがPさんです、と言われてしまった。
出る時はテキトーにかけただけのスーツが、びしっと整っていた。来る時にはつけていなかったネクタイまでセッティングされている。
鞄を放り投げ、ソファに腰掛ける。ふー、と吐いた息が想像以上に大きい。

「お疲れ様です、Pさん」

藍子が、隣に腰を下ろした。

「でも、去年ほどじゃなかったですね」
「……加蓮だって、ここに来てもう何年もだしな」

「ふふっ。あっ、そうでした。私、お菓子を用意して待っているって言ったのに……でも、朝ごはんを食べて、そんなに経っていないから、まだいらないのかな……?」
「悪い。あと、来る時に加蓮からコロッケを押し付けられた」
「じゃあ、この分はおやつの時間に回しちゃいましょうか。その時に、みんなでケーキも食べましょう」
「そうだな」

手を洗った加蓮が戻ってきた。藍子が立ち上がり、お誕生日おめでとうございます、と笑顔で告げる。
ありがと、と音符マークをつけるほど上機嫌な笑顔に、藍子はむしろ面食らってしまったらしい。
1度だけ俺の方を見て、両目を見開いて。けれどすぐに、あはっ、といつもの楽しそうな顔になった。

「藍子にも。去年はゴメンね。面倒なことやっちゃって」

「俺は時効だって言ってんだけどな。ま、加蓮にしちゃ珍しい謝罪シーンだ。ほらほら、カメラでも回してやれ」

「そうですね。えっと、スマートフォンの動画機能を……」

「こらこら藍子。今の、Pさんのボケなんだから」

「よいしょ、っと。はいっ、加蓮ちゃん、もう1度どうぞ!」

「ボケに天然ボケを重ねるの禁止! もうっ」

「ふふっ。私なりの、仕返しです」

「ごめんってば。もう大丈夫だから。誕生日が嫌だからって逃げたりしないから。ね?」

「はい。じゃあ、今日はゆっくりしちゃいましょう」

「お仕事の時間までだけどね。Pさんものんびりしようよ」

「ん……俺か……」

「Pさんと加蓮ちゃんを待っている間、あとのお二人が来ちゃって、自分で現場の方に向かいましたから。午前中は、大丈夫な筈です」

「……そうだな。せっかく、加蓮の誕生日だもんな」

「えー、それは関係ないじゃん」

「いえっ。加蓮ちゃんの誕生日ですからね!」

「藍子までー……」

しょうがない、と苦笑いしながらも、加蓮はソファに見を預けた。藍子もまた俺の隣に座ってくれて、えー、藍子そっちー? と加蓮が頬を膨らませる。
壊れっぽい鳩時計が、9時の到来を告げた。
ぽっぽー、ぽっぽー、と、鳴かなくなった鳩の代わりに、藍子が楽しげに口ずさんだ。
なにそれ? と笑った加蓮も、ぽっぽー、ぽっぽー、と、藍子に続いて唇をついっと尖らせる。

あとはもう、なんてことのない会話が続くだけ。
今日という特別な日が、普通の日として流れていくだけ。


9月5日。
今日は、北条加蓮の誕生日。
1年365日の中の、1日。



おしまい。北条加蓮、誕生日おめでとう。

読んでくださり、ありがとうございます。
今更ながら1つだけ修正を……!

>>18 地の文1行目
誤:街路樹に紅色が混じっている。
正:街路樹が小さく揺れている。

スレタイに「銀杏色」って書いてんのになんで紅葉の描写してんの私……!?

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