新選組~あるいは沖田総司の愛と冒険~ (178)



ある日。


社の1階受付から俺に内線電話がかかってきた。

証券会社の人間が面会に来たのだという。保険屋ならよく来るが、証券というのは初めてだ。どうせ金融商品か何かの売り込みだろうと思った。


「『今忙しいから』と伝えてお引き取り願ってもらえますか」

「人事部承認で来られてるそうですが、よろしいんですか?」





「それは…… 人事部の要請で私のところへ来たという意味?」

「はい、たった今、ここから人事部にご到着の連絡もされてます」

「……じゃ、お通ししてください」


俺は時計を見た。正午まであと5、6分。




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1440856788


証券マンが姿を現した。

俺と同じ40代前半くらいの男。地味なスーツに地味なネクタイ、メタルフレームの眼鏡に七三に分けた頭。来訪者に貸与されるIDカードを律儀に首からぶら下げている。


前夜、ドツボにはまった会議が終電近くまで長引いた疲れが残って、些末な用事に対する俺の耐性は低下していた。
だから俺は、どうでもいい来訪者に見せるいかにも多忙そうな所作で立ち上がった。できれば名刺交換だけでお帰り願いたかった。


受け取った名刺を見る。
「○○証券生涯設計担当コーディネーター××」。その××が、もう何百回も繰り返してるといった感じの滑らかな口調で言った。


「よろしいですか? 少し立ち入った話になるのですが」


何? 立ち入った話だと?


俺は見ず知らずのこの男から、いきなり「立ち入った話」を聞かされるわけか?

人事部からは何も、そんな恐ろしげな話など聞いていない。そもそもこの男の来訪に関して、俺は証券会社の「し」の字も聞かされていない。


こいつの会社が取引関係でうちの上層部に圧力をかけ、従業員に半強制で投資信託でも買わせようって営業戦略なら、まあ、苦笑いで済ませられる。

だが、人事が絡んだ上で「立ち入った話」となれば笑い事じゃない。

初対面の社外の人間から、こうも馴れ馴れしく「立ち入った話」を聞かされなければならない事情とは何だ。



今期の業績は、粉飾さえしていなければ上々の内容になるはずだ。

抜き打ちで人員整理をしなければならないような話はどこからも…… 俺がよほど迂闊でない限り、出るとは思えない。
いや確かに、そんなのは個人のレベルでは分かったもんじゃないが……


疑念を抱えたまま、俺は「では、こちらへ」と言って小会議室へその男を案内した。


証券会社の××は席に着くなり、ブリーフケースからA4判のペーパーを取り出した。
老人と子供、赤ん坊を抱いた若い夫婦のイラストが並んでいて、その頭上に「次世代へあなたの愛を。」と、マンガチックな白い翼を左右に伸ばした枠内に明朝体で書かれている。


「実は…… 俺さんにはまことに残念なことを申し上げなくてはならないのですが」


自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
××は続けた。



「この国の王が全知全能なのは、ご存知かと思いますが」

「……ええ」

「さる事情から、俺さんにはお亡くなりになっていただかざるを得なくなったのです」

「私が? 死ぬ?」

「はい。残念ながら」

「……失礼ですが、本当に証券会社の方ですか?」


誰だよ。この頭のいかれた男を通した人事のバカは。このご時世、どんな奴が往来をうろついてるか分からないんだぞ。


「ご不審はごもっともです! 私もこれまで10人以上の方に説明させていただきましたが、簡単にご理解いただけたケースは皆無でした」

「いや、『理解しろ』なんていう話なんですかこれは」


その時、俺の手元で会議室備え付けの電話が鳴った。俺は男の顔から目を離さずに、3回目のコールで受話器を取った。

人事部長の声を聞いた瞬間、嫌な予感が裏書きされた気分になった。


「もしもし。俺君か?」



「はい。証券の方がみえて。私、殺されるそうです」


俺は目の前の××を一瞥して、これ見よがしに鼻で笑った。しかし、電話の先の人事部長はシンクロしてくれない。


「殺される? 人聞きが悪いよ君。とにかく話はその人に聞いて」

「あの……」


電話は一方的に切れた。冗談でもコントでもないことを念押ししたくてわざわざ電話してきたってわけか?


「じゃあ…… そのお話は事実ですか」

「はい。申し上げるのも心苦しいのですが」

「正直言って、全然真面目な話と思えない! 私をからかってるんですか!?」

「どうか落ち着いてください! 落ち着いて」


目の前で暴れる犬をなだめるみたいに、男は俺の目を見据えて、手のひらを静かに下ろす仕草をした。

無知な個人にリスクを負わせる商売だけに、この手の客あしらいには慣れているのだろう。身振りを見ているだけで、気持ちの高ぶりが妙に鎮まっていく気がしないでもない。



「お気持ちは十分お察しいたします。しかしこれにはやむを得ない事情があるのです」

「事情って!?」


声が裏返った。男の眼鏡に唾が、それもかなり粒の大きいやつが飛んだ。


「……ひと言で申せば、すべて王がお決めになったことなので」


××は眼鏡を外し、俺の唾をハンカチで拭きながらそう言った。


「冗談じゃありませんよ! 私は生まれてこのかた、人に後ろ指さされるようなことは何一つ」

「もちろんでしょうとも! ええ。それは当然と思います」

「じゃあどうして!」

「どうかお静かに。残念ながら、王の判断というのは個人の理解ではとても測り難いところがあるようでして。私がこれまでご案内して差し上げたのは、どなたも立派な方々で、前科をお持ちのような方は一人もおられませんでした」

「前科? おい誰にものを言ってるんだ!」



「失礼しました! 今のはほんの例えです。ええと、……なにぶん王の判断基準というものはいっさい公表されておりませんので、何とも申し上げようがないのです」

「そんな…… 私には妻と7歳の娘がいる! 家のローンだってまだ10年残ってるんだ。いいんですかそんな私が死んで! 王はそれで構わないっておっしゃるんですか!」


俺の大声は当然会議室の外にも聞こえていたと思う。しかしドアを開けてのぞき込む者はいない。

俺は荒く息をしながら、もう多数の者に引導を渡してきたとほざく無表情な証券マンを睨み付けた。


そんな興奮状態でも思い出したことがある。
そう言えば住宅ローンは生保に加入していて、死後は支払い義務がなくなるんだっけ。何騒いでんだ俺。


「何ですかその、通知は…… 社にはとっくに届いてたわけですね?」

「はい。2日前に。日頃より△△社様に大変お世話になっております弊社が、お声をかけていただいたわけなのです」

「当事者の私じゃなくて、どうして真っ先に会社なの?」

「さて、そのあたりはどうなんでしょう…… 先行事例ではすべてそうだったとしか申し上げようが……」



「分かりましたよ! で? どうやって殺されるんです私は!?」

「あの、王のご決裁ですので、言葉をお選びになった方が」

「は?」

「『殺される』はいかにも、不穏当ではないかと」

「別に間違ってないでしょ。まずいの?」

「私は聞かなかったことにいたしますが、それだけで不敬罪が成立します」

「ああそうですか。で? これから警察にでも取り押さえられてどこかで刑を執行されんの?」

「いえ、そんな形にはなりません」


証券マンは少し考え込む様子で目を下に落とし、俺の前に差し出したA4判資料の一カ所を指で示した。


「先般の法改正で、私どもの業態でも遺言信託を扱えるようになったのです」

「あのさ、質問に答えてよ」

「その前にですね、まずこちらを。……弊社の遺言実行サービスは迅速を主眼としておりまして。相続がどの時点で発生いたしましても直ちに対応できる態勢を万端整えておくという点では、他社の追随を許さないと自負いたしております。手数料の方も、現在キャンペーン期間中で……」


俺は備え付けの電話を力任せに引っぱり寄せ、人事部につないだ。


「あの。『俺』ですけど部長をお願い」


少々お待ちを、と事務の女性が答えて部長に取り次ぐ。目の前では証券会社が視線を手元に落としたまま、無表情に待っている。



「あ、お忙しいところ申し訳ありません『俺』です。今、説明を受けてる件ですが」


人事部長は最後まで聞かなかった。


「詳しい話はその人に聞いて。事案そのものに関してはこっちじゃ対応できない」

「何ですって? 私が殺されるって話は社に連絡が入ってたんでしょ?」

「それは事実だが、業務外の話だから社として説明はできない」

「業務外!」


開いた口が塞がらない、という経験は、この人生を通じて何回目だっただろう。


「私は社員ですが。社員の存在が消えるのは人事部の業務外ですか?」

「君だって正確なところが知りたいだろう? こっちじゃ、それを詳しく伝えるのが難しいんだ」

「はっきり言いまして、何が何だか分かりません」

「分かってくれよ。すまんが急な案件があるんで、失礼」


電話は切れた。俺は動悸が収まらないまま、目の前ですっとぼけている証券会社を睨み付けた。


「だってさ。話聞こうか」

「はい。では詳しく申し上げますと、私が説明いたしましたこの時点を境といたしまして、俺さんにはさまざまな不運が降りかかることとなります」

「不運?」

「はい。それがいかなる不運なのかは、残念ながら私どもの知り得るところではございません。不運が一つであるのか複数であるのか、そして最終的に…… 相続が発生する時点がいつなのかも、全く予測がつかないのです」



「王様だけが知ってるっての!?」

「まあ、そういうことになりましょう」

「窓口になってる政府機関は?」

「それはまさに、『王』としか申し上げようが……」


何だかバカバカしくなってきた。これはいったい何だ。子供の遊びか。

しかし王が全知全能だってのは誰もが知っている。王が何かの気まぐれを起こして、国民の間引きを始める決心でもしたのか?
それで? 国民一人の命なんて虫けらみたいに踏みつぶされるってわけか!


でもこの野郎は言った。もう10人以上の人間に引導を渡してきたって。

こいつの会社で、この与太話に関わってるのは俺の眼の前にいる一人だけじゃあるまい。その間、何にも騒ぎが起こらなかったのか? テレビも新聞も何も報じないのはどういうわけだ?


「じゃあさ。あんたが知ってるかどうか分からんけど、とにかく具体的なことを話してよ」

「何からお話ししましょう?」


すっとぼけやがってこのクソ野郎が。


「例でいいから教えて。その不運ってやつ。例えばどんなのがあるのよ」



「うーん…… 頭の上に突然鉄骨が落ちてくるとか、暴走してきた車にはねられるとか…… まぁ、本当に何があるのか分からないです」

「要するに何でもありか」

「そういうことになりますね」

「突然ガンが発病するのもあり?」

「はい。それも考えられます。ご不審もあろうかと思われますので、補足させていただきますとですね」


証券会社の××はことさら勿体ぶった表情になり、何を意図した演出なのか、声色に祝詞でも唱えるみたいな抑揚を加え始めた。


「これは法的な手続きと違うのです。これから発生いたしますのは運命と申しますか、偶然なのです。立て続けに不幸に見舞われたり、泣きっ面に蜂が刺すのも、偶然なのです。すべては王の一存で決められます。しかしその基準は完全にブラックボックスの中にある、と言いますより、中になければなりません。そしてまことに残念ながら、俺さんはお命を失われることになりました。衷心よりご同情申し上げます」

「同情だと!」

「どうかお静かに! ただし、こうした運命予測が早い時点で可能になったことは、社会全体に大きな前進をもたらしたと言えるのです」

「何だよそりゃ」


「個人の方が終末を迎えるに当たりまして生じます、医学的・法的諸手続きの迅速な処…… 取り扱いと、相続等に絡むトラブルの回避、まあこれは一例にすぎません。いえ、それより何より、ご本人様にとってのメリットが最も大きいと申せましょう」

「はぁ!?」

「冷静にお考えになってみてください! 冷静に」


証券会社は自分に酔った霊能者みたいに、俺の目の前に手のひらをかざす。
眼鏡の奥の目玉が大きく見開かれ、「あなたはだ~んだ~ん眠くなぁ~るぅ」と言わんばかり。こんな猿芝居に乗せられてろくでもない金融商品に命金を突っ込み、火ダルマになった素人がいたんだろうか?

平穏無事に生きてるより理由も分からず殺される方が本人のメリットだと、初対面の人間に信じ込ませるテクニックがこれか! 世の中にはいろんな名人芸があるもんだ!


「……俺さんが本日退社された後事故で突然お亡くなりになるとすれば、ご自身の終末に向けた準備を何ら為すことができぬまま、死を迎えられることになるのです。それに、こう申すのは大変失礼とは存じますが」


××はいったん言葉を切り、「これは何よりも重大だ」とでも言いたげに、下唇の端を噛んで見せた。


「仮にその…… あくまで仮にですが、身辺に様々な見苦しい物がおありでも、突然のご不幸に見舞われますと、そのままご遺族の目に触れるところとなってしまいます」

「そんな物、あんただって一つや二つ持ってるだろ?」

「いえ、それは人の受け取り方次第かと…… これに対しまして、近い将来のご不幸が予測できれば、遺書を残すなり、身辺整理をする余裕も生まれます。もちろん、人によって持ち時間の長短はございますでしょうけれど」


俺はまだ、自分がこの男にからかわれているという疑いを捨てきれないでいた。


「へぇぇ。じゃあありがたいことに、王様が下々の者に便宜を図ってくれてるってわけ?」

「さあ、そのあたりはどうなのでしょう。いかなる法令にも依拠しておりませんので、何とも申し上げようが…… ですが私どもとしましては、俺さんの終末を最良の形でサポートさせていただくために、こちらのサービスをご案内に参ったわけなのです」


天地神明に誓ってふざけていないのだとでも言うように、証券会社××は俺の目を見据えて、机上のA4判資料を指で俺の手元に押し出した。


これ以上は時間の無駄だ。
いくらか頭に冷静さが戻って、この男と駆け引きをするだけの余裕が生まれた。


(あんたが扱ったその十何人は、宣告を受けてから何日くらい生きてたの?)


俺がどれだけ食い下がっても、こいつは社外秘を盾に「答えられない」と頑張り通すだろう。無駄な問いを放ってガードを固くさせるのは得策ではない。


「まぁ、分かりました。では、これは預からせていただきます。後日返事をするってことでよろしいですか?」


証券会社の表情が緩んだ。げんきんな野郎だ。



「ありがとうございます、こちらに記載のフリーダイヤルにご連絡いただければ、この私が最優先で対応いたしますので」

「うちの人事を通じてじゃ駄目なの?」

「はぁ…… まことに申し訳ありませんが、弊社へ直接ご連絡をいただく体制になっておりまして」

「分かったよ。じゃ、2、3日中には」

「どうも、お忙しいところありがとうございました!」


バカ野郎め。忙しいもクソもあるか。
お前の話が嘘じゃないなら、俺は生贄みてえに殺されるんだろ。


無言の悪態が聞こえてでもいるみたいに、男は足早に会議室のドアに向かった。そして、ここを自分の会社と勘違いしているような無駄のない動作でドアを開け、俺を先に通す。


いやに気ぜわしいじゃないかお前。そんなに俺をここから叩き出したいか。


いや、大目に見てやろう。こいつはきっと、ひと仕事終えた解放感から、自分の反省すべき悪い癖を失念してるんだ。ありがちなことじゃないか。

小会議室は俺の在籍する企画部の一角を区切って設けられている。俺は証券会社××を先に歩かせた。

オフィスを出るまで、お互い何もしゃべらなかった。事務用ロッカーやパーティションで仕切られた通路を歩く間、俺と××に関心を向ける者はいなかった。
従業員たちは黙々と業務にいそしんでいた。

出入り口の前で男は深々と頭を下げ、オフィスを出て行った。


俺はエレベーターホールまで証券会社を見送った。男は振り向きもせずケージの中に消えた。



さて。これからどうする。



今の時点で俺は、こけおどしを真に受ける幼児じゃない。会社ぐるみで俺をからかってるのかどうか、再三でも確認すべきだ。


人事部のドアを開ける。部長席は空席。予期していたとはいえ、気が沈んでいく。

それでも俺は部長席に近寄って、度の強そうな眼鏡を掛けた契約社員の女性に声をかけた。


「部長は? 昼メシ?」

「あー、ちょっと席をはずされていて。すぐに戻ると思いますが」


少し離れた席の、俺と同期入社の次長が立ち上がった。伏し目がちに歩み寄ってくる姿が、見るからに「事情は俺も聞いている」というメッセージを発している。



「ちょっと来てくれ」

「何の話だこれ? このクソ忙しいのに学芸会か?」

「真面目な話だよ」

「本気で言ってんのか?」

「まあ、いいから。部長に聞くのも俺に聞くのも同じだと思って」


同輩の人事部次長は俺は右腕をつかんで、オフィスの隅にある、パーティションで仕切った簡易スペースを顎で指し示す。
俺は導かれるままそこに入り、テーブルを挟んで次長と向かい合った。

そして腰を下ろすなり、遠慮も忘れて大声を出した。


「おい。本当に悪ふざけじゃねえのか?」

「真面目な話だって言ったろ?」

「いや、絶対ふざけてるだろ」

「ふざけてないって!」


俺は次長の顔を眺めて、いったいどう言えばいいのかと言葉を探した。
口喧嘩で躍起になる小学生じみた自覚が、嫌も応もなく徒労感を倍増させる。


「趣味の問題はともかく、これ、抜き打ちの研修か何かだろ? 中間管理職の危機対応能力を試すとか」


「本当にそんなのじゃないんだ。聞いた通りに受け止めてもらうしか」

「分かってんのかお前? 俺はもうじき殺されるって話なんだぞ!」

「お前の言いたいことは分かるが…… こっちじゃ現実問題として処理するしかない」

「ほう? 部長はさっき、俺が聞いたら『業務外』とか言ってたが」

「マジかよ……」

「もう人事部なんて要らねえんじゃねえか?」

「おい…… 勘弁してくれ」


気の毒な同輩はパーティションで仕切られた外側をちらりと見て、声を低くした。



「いろんな手続きはこっちでやらなきゃいけないんだ。退職金にそれから弔慰金、積み立ててる年金の死亡一時金の処理…… すまん、結局カネの話ばかりになるが、そいつを片付けないといけない。申し訳ないが協力してくれ」

「……何の話してんだお前?」

「自分でもそう思う。でもこれが社としての対応だ」

「とにかく、先走る前に俺の疑問に答えろ。これはいつ、どこから通知が入ったんだ?」


同輩は困惑をあらわにして、視線を下に落とす。何てこった。

俺は慄然とした。こいつは嘘をついてない。もちろん社内では俺が初の案件だろう。


「それは俺も部長に聞いたが、『君が知らなくてもいい』の一点張りだった。役員の誰かから部長に話が下りてきたのは間違いないらしいが」

「らしい? お前それ聞いてないのか!」

「聞けるような空気じゃなかったんだ! 部長もすごい顔してた。『これ以上無駄口叩くな』みたいな」


俺に凶報をもたらした証券会社のサイトを開く。検索欄に「遺言信託」と打ち込みエンター。


『検索ワードに該当ありません』


うん。分かってたよ。


今度は「ゆいしん」とひらがなで検索する。……あった。


『ゆいしんバランス21ファンド』


遺言信託の執行実績を指標とする、このクソ証券独自の投資信託。
値動きをみると、3年前の発売以来基準価額は長期低落傾向だったのが、このところ急伸している。


最近はほとんどの業種で株価が低迷してるってのに、この3カ月で70%高。資産総額は2倍に増えている。こりゃどういうことだ。

確かに証券が遺言信託に新規参入すれば、国全体の契約総数が増えるとは考えられる。だが、この投信が指標にしているのは執行実績だ。


みぞおちに重苦しいものがわだかまってきた。

頭のどこかで必死に縋りついていた「冗談」の2文字が、夢まぼろしのように消え去ろうとしている。


次に俺は、住宅ローン利用者の死亡時生命保険を扱っている団体のサイトを開いた。


ページトップの団体名の下、ひときわ大きく極太に記された「お知らせ」の字が目に飛び込んできた。




  昨 今 の 経 済 情 勢 に 鑑 み 、 

  お 客 様 ( 法 人 を 除 く ) に ご 負 担 い た だ く 信 用 生 命 保 険 の 特 約 料 を 、

  ※ 月 1 日 よ り 平 均 40% 引 き 上 げ さ せ て い た だ く こ と と な り ま し た 。

  既 に 債 務 弁 済 中 の お 客 様 も 対 象 と な り ま す 。

  お 客 様 各 位 に お か れ ま し て は 何 卒 ご 理 解 賜 り ま す よ う 、 お 願 い 申 し 上 げ ま す 。


  詳 細 は 「 特 約 料 一 覧 」 ( ※ 月 1 日 改 訂 ) を ご 覧 く だ さ い 。




「昨今の経済情勢」ときたか。


他人ごとなら趣味の悪い冗談と笑って済ませられたろう。
だが、この「お知らせ」を読んで凍り付きながらも、俺は理解した。

「昨今の経済情勢」は成就されねばならないのだ。ひとたびこのような宣言を公にした以上、他の道などあり得ない。


もう間違いない。俺は殺される。


疑いようがない。
既にあの投信の上昇カーブの肥やしになって消えた人間が無数にいて、ボケっとしてれば俺もいずれお仲間入りをするってことだ。


それにしても、一挙に40%増。

いったい、どれだけ保険金の支払いが増えるんだ? 王は住宅ローン利用者を狙い撃ちでもしてるのか?


まぁ、家をローンで買おうとする奴はたいてい金利ばかりに目が行っている。
生保の特約料なんて額的にもほとんど気にしてないだろうし、俺もそうだった。

これからローンを組む奴も、この急な増額を「昨今の経済情勢」と説明されて納得するんだろう。


俺はタブレットの電源をOFFにした。
目を閉じて深呼吸。状況を整理し、今後の対応を考えてみる。



人事部と証券会社の話からして、俺はあと2、3日は生きていられるらしい。

その間に何をする。残り少ない時間を悔いのないように過ごすか。


それとも。


悪あがきか。このままおとなしく殺されたら、まるで自分に罪があるのを認めたような格好になる。いいのかそれで。

罪の自覚がないなら、悪あがきであろうと、抵抗はすべきだ。


そりゃ長いサラリーマン生活、仕事で後ろめたいことをいっさいしなかったとは言わない。だからっていきなり、理不尽に殺されなきゃいけねえのか?

理由がブラックボックスになってるような宣告を、何だって唯々諾々と受け入れなきゃならないんだ?


でも、おとなしく殺されないと家族に累が及ぶ可能性も? いや、家族は何も知らない。知る必要なんてない。

これは徹頭徹尾、俺だけの問題だ。「家族に罪が及ぶ」なんて、そんな理屈があるか。


逃げるぞ。


いかに王が全知全能だろうと、それが通じるのは「この国」の中だけだ。国外に出てまで通用するなら、「外国」なんてないのと同じ。

でも、もしかしたら世界中どこででも、「この国」の王の全知全能が通用する? そんなバカな!


だいたい、王が全知全能だなんて、いつ誰が決めたんだ。
考えてみると、俺が生まれる前からそういう約束事になっていた。誰も疑わないし、国全体がそういう前提で運営されている。

だが、言葉の綾なんじゃないのか? ガキじゃあるまいし、遠隔操作で国民の命をいつでも勝手に奪えるなんて信じられるか?

確かに、極秘の暗殺集団みたいなものならあってもおかしくはない。これまでに殺された連中がいるなら、恐らくそいつらの仕業だろう。


あの証券野郎め。

よくもまあ、子供だましのデタラメを滔々と並べ立てたもんだ。
王の方も、不幸な偶然が見舞うだとかそんな与太話を真に受けるような奴ばかりを犠牲者に選んできたんじゃなかろうか?

俺もそういう間抜けと見なされたのかもしれない。


たぶん、政府としてはそうやって国民の恐怖心を煽り、絶対的な権力を確立しようと……


とにかく国外脱出だ。それもできるだけ早く。


ワインと卵サンドが来た。どちらも、まあまあ悪くない味だった。家族と仕事を放り出してきた後ろめたさを、俺は忘れつつあった。


正面で誰かが動いた気配がした。その時初めて、いつの間にかカウンター席に客が来ていたのに気付いた。


ブロンドの中年女性。30半ばから40代初めといったところで、年相応な落ち着いた柄のドレスに身を包み、首にはネッカチーフを巻いている。
俺なりに、まあ悪くない服装のセンスだなと思った。

その女性が俺を見て、微笑みながら会釈した。

俺はワイングラスを口に当てたまま、多少不作法ながら会釈を返した。
女性が立ち上がり、俺の席に歩み寄ってくる。右手に持ったグラスには琥珀色の液体とロックアイスが揺れていた。


「よろしいかしら?」

「どうぞ」


女の背後から、ローストビーフの皿を持ったウエイターが足早に近寄ってくる。俺は卵サンドの皿を脇にどけてスペースをつくった。
ウエイターが立ち去るのを見送って、女は俺の向かいの椅子に腰を下ろした。


「きょうご到着ですか?」

「ええ。実はたった今と言っていいくらいです」

「それは、お疲れのところごめんなさい。いえね、私はここに長く逗留してる者なので。来られたばかりの方はすぐに分かるんです」


ほぼ完璧と言っていい発音の英語。強いて言えば、微かに東欧風の訛りが感じられるといったところだった。


「ロ○ンゼルスは初めて?」

「いえ。だいぶ昔ですが2年ほど勤務してまして。きょうも社命で出張なんです」


腰が据わってきたのか、嘘をつくのに何の淀みもなかった。
俺は女の方にローストビーフの皿を押しやり、手のひらを軽く上に向けて「よろしかったら」というゼスチュアをした。


「お気遣いいただいて申し訳ありませんね。でもいいですのよ、私は気になさらずに盛大にお食事なさって」

「食べる方ばかり盛大にって気分でもないですね。レディの前では」


相手が気を悪くしないよう笑顔を繕いながら、俺は初めて女を正面から見た。


口元から微笑を絶やさないでいるが、目は笑っていない。よく若い女が向けてくる、男を無遠慮に品定めする眼差しのようでいて、そうではない。
俺の内面を見透かそうとするぎらついた執念──そんなものが感じられる。


「失礼ですけど、何か心配事を抱えておいでのようね」

「……そう見えますか?」

「大丈夫。無理な詮索はいたしませんから」

「いや、実は少々驚きました」


女は膝の上のポーチを開き、名刺サイズの紙片を取り出してテーブルに置いた。筆記体の名前らしきもの以外に、電話番号などの記載はいっさいない。



  Dr.Beautifullove



「それが私の名前。前は連絡先も書いてあったんですけど、やはり誤解なさった男性がいましてね。聞く気にもならない話をしに真夜中でも電話してきたりするもんですから、今はこれだけにしてます」

「これが…… ご本名ですか?」


勤め人の習慣で俺が差し出した名刺(裏面に英字が打ってある)を、女はほとんど見もせずポーチにしまった。


「ええ。そりゃ確かに『ルイーズ・レメリック』っていう、世間の通り名みたいなものはありますけど。でも最近はほとんど、こちらの名で通じるようになりました」

「『ビューティフルラブ』 ……ですか」

「『美しい愛』なんて、意味の重複だと思ってらっしゃるでしょ」

「いえ、そうは……」

「そうかしら? あなたのお国でもそうでしょうけど、『愛は美しいのが当たり前』っていう思い込みが固定観念になってるとお思いにならない? そういう偏見はこの国が発信源なのよ。この国がごり押しして、世界中に広めてしまった」

「受け入れる方も受け入れる方だって気がしますね。……何をお飲みになってます?」


俺は柄にもなく色男気取りを起こし始めていた。

女のグラスの中は干上がり、卵型ロックアイスが浜に打ち上げられた氷山のように、悲しげに横倒しになっていたせいもあるだろう。


「コニャックをね。あ、お気になさらず」


女はそう言うなり、どんな接待名人の営業マンも出し抜かれるような素早さでウエイターに合図し、コニャックを注文した。

この女に変な下心はないのか? そう考えると、逆に俺の不審は強まってくる。


「愛だって、他のいろんな概念と同じように多種多様なの。私の祖先がこの土地に渡ってくる前の、あの古いヨーロッパでは当たり前のことだったのよ。『狂気の愛』(Crazylove)もあれば『至上の愛』(Supremelove)もあるし。『奇妙な愛』(Strangelove)なんかに至っては言語道断ですけどね!

……でも誤解を解いていくには、ほんとに長い時間がかかるのよね、長い時間が。下手をすると、それで一生を費やしてしまうことだってある。でも、するだけの価値がある努力じゃないかしら? あくまでこれは持論ですけれど」


『奇妙な愛』はお気に召さないのですか? と言いかけ、俺は辛うじて踏みとどまった。
女はウエイターがテーブルに置いたコニャックのグラスを、まるで乾杯でもするように目の上に持ち上げて俺を見る。

そこで俺はようやく、ワインのハーフボトルが空になっているのに気づいた。


「ワインをもっとお飲みになる?」

「いえ…… じゃあ私もコニャックを」

「そう。じゃあおごらせていただきましょう」

「そんな!」

「いいんですよ! 私がお食事の邪魔をしてしまったんだし」

「では、お言葉に甘えまして。それと……」

「何かしら?」

「強引に多様性を排除するというのは、私も賛同しかねますね」

「あら。意見が一致してうれしいわ」


初めて女の目が笑った。グラスをテーブルに置き、ポーチから今度はトランプのようなひと揃いのカードを取り出す。


「失礼ですが…… ドクター、とお呼びすればよろしいんですか?」

「お好きなように。『ビューティフルラブ』って呼び捨てでも構いませんよ、俺さん」


女が流れるような手つきでカードを切る。その間も自分の手元を見ようともせず、視線は俺の目にしっかりと据えられていた。


「ではドクターで。ドクターはこの町にお住まいで?」

「ええ。正確に言えば亡くなった主人の家がマリブにあったんですけどね。もう売ってしまいました。女一人で部屋数が18もあるような家に住んでても仕方ないでしょ? それで今はこのホテルに住んでるようなものです。ご家族は?」

「妻と、7歳になる娘が」

「素晴らしい! 主人も私も結婚が遅かったからかしら、とうとう子供は授からなかった。でも今じゃ、大して気にもならない。人生って残酷ね。俺さんはお幾つ?」

「42です」

「あら、私より三つ下なの。でもご苦労はなさってるようね」

「いえ、大した苦労は」


女は入念にカードを切ってから、テーブルの上に並べ始めた。
ウエイターがコニャックのグラスを俺の手元に置き、ワインのグラスと空のボトルを持って去っていく。


「ご馳走になります」


そう言ってグラスを持ち上げると、女は俺に小さく頷いてからテーブルに視線を戻した。


この女は、敵ではない。
そう思いたかっただけかもしれない。ただ俺としても、無闇に警戒心を浪費するのがそろそろ面倒くさくなってきていた。


「ドクターのお仕事は、医療関係で?」

「いいえ! 自分でドクターと称してるだけです。博士号も持ってないし。あなたのお国では、自称何々とか呼んで軽蔑なさるようね」

「うーん…… 否定しがたい傾向ではありますね」

「私は精神分析家なの」

「精神分析家?」

「そう。といっても正規の訓練は受けていないし、国際団体公認の精神分析家ってわけじゃないの。正確に言うなら…… 前世期の初めに撲滅されたことになっている流派の流れを引いているんです。神秘主義の考え方を強く受け継いでいるから、自分で言うのも変ですけど、だいぶ胡散臭い部類に入るんじゃないかしら」

「はぁ……」

「でも、定期的に私のところへ分析を受けに来るお客様もいるのよ。この国と違って、南半球側へ行くと私みたいな者にも結構な需要がありましてね。それに、精神科医みたいに法外な料金を取ったりしないし」


カードは、女の手元にまず5枚。その先に4枚、次に3枚と、俺に向かってくる楔が形づくられていく。
女が続ける。


「このカードはね、120年前この国に渡ってきた私の祖先が、故郷から持ち込んだものなの。そりゃ現物じゃなくて、当時のものを復刻したという意味ですけど。タロットはご存知?」

「多少は知ってます。大アルカナなら大抵は」

「そう。なら話が早いわね」


俺を目がけて進軍する5段の楔型陣形が完成した。
女が残りのカードをケースにしまい、コニャックのグラスを口に運ぶ。俺を見つめるダークブルーの瞳。目が笑っていない。


「私の家に伝わるものには、普通のタロットと違って大アルカナに特殊なカードが混じってるの。この特殊なカードは、祖先の住んでいた土地土地によっていろんなバリエーションがあって、種類も枚数も一様じゃない。

……なぜそうなったのか。世間で通用してるタロットに何かの混乱を持ち込みたくてそうしたのか、それとも、祖先の故郷に伝わる、もっともっと古い歴史があるのか……

その辺がよく分からないっていうより、私の母も祖母も、たぶん知りたくなかったんだと思う。そういうことってあるでしょ? 知ってはならないし、知りたくもない禁忌。ひょっとすると、それが、まさにこの国に渡ってきた理由だったりするかもしれないし。……私の家系自体にもそんなところがあって、詳しいところがいろいろと」

「神秘的ですね」

「うまい言い方をなさるわね。では俺さん」



女が勢いよく背筋を伸ばしたので、弾かれたみたいに俺もそれに倣った。
放課後に居残りを命ぜられ、教師と一対一の授業を受けさせられている小学生みたいだと思った。


「あなたの前に15枚のカードがあります。どれか1枚めくっていただけます?」


楔隊形は頂点が1枚。俺は大した考えもなく、2段目の2枚のうち向かって右側のカードに手を伸ばし、めくった。


……白地に、黒い線で浮世絵のような男が描かれている。


頭に丁髷を乗せ、腰に刀を差して羽織袴を身に着けている。
つり上がって太く誇張された目尻、不自然に大きな鼻と顎。そういった横顔の特徴に、明らかな役者絵の影響が見て取れる。
刀に添えた手の親指は鍔に掛かっていた。

男の周囲では、蔦のような2本の曲線がアールヌーヴォー風に絡み合い、飾り枠を形づくっている。


俺の国で昔、勢威を振るった特権階級。腰に大小の刀を差して闊歩し、「無礼者!」の一声で庶民を斬り殺すことが公然と許され、恐れられたと伝えられる戦士の末裔。


「侍」(SAMURAI)だ。


「『彗星』をお引きになったわね」

「彗星?」


俺を見る女の眼差しが変化した。

ついさっきまで、露骨な興味をあらわにしていた目の光が消えた。代わって、凍り付いたような無表情がその瞳を覆っている。
まるで、追いすがろうとする者の前を突然高い壁で塞いでしまったかのように。


「ここに並べた15枚は全部大アルカナなのだけれど、私のカードには3枚の『彗星』が混じっています。それぞれが大アルカナのうち『隠者』と『月』それから『世界』の代わりをしてるんです。あなたが引いた『侍』はこの三つのうちのどれかを代理しているというわけ」

「三つのどれか? 決まってないんですか?」

「そう。『隠者』『月』『世界』のどれを代理しているかは、その時によって違うの。それだけじゃなくて、時には、正位置でも代理しているカードの逆位置を意味していたり…… かなりぐちゃぐちゃなのよ。

……そんなふうに、惑星と違って公転周期が不安定って意味で『彗星』なのね。で、カードの意味もその時の月齢とか、太陽の位置でガラリと変わるから、それはもう、説明は難しいんです」


俺は混沌とした記憶の中から自分の生半可な知識を探った。


「『隠者』と『月』、それから『世界』。共通しているのは……」

「そう、まずはそこから」

「……旅、ですかね」

「まあまあのところは突いてるわ」

「で、『彗星』の他の二つは?」

「『蝙蝠』と『肉迫』。あ、ご存じでない方には、名前を聞いただけではどんなものか分かりません。『隠者』『月』『世界』のどれにもなり得るんですもの」


俺は「降参だ」というジェスチュアのつもりで、オーバーになり過ぎぬよう軽く両手を広げて見せた。


「……どうか意地悪はご勘弁を。結論から行くとどうなんでしょう? 私の運命は?」

「お知りになりたい?」

「どうぞ。もう決められてしまったなら、受け入れるしかない」


本気かお前。
往生際が悪いくせにずいぶんと殊勝なことを言うな。


「そう。では、一つお聞きするけど」


女は言葉を切り、深いため息をついて唇を噛んだ。
白人の、しかも女がこういう仕草をする時ほど容易ならぬ状況はないことを、俺はこの町に在勤していた当時思い知らされている。

俺は息を呑んで女の言葉を待った。


「あなた…… 『ハラキリ』なさる?」

「『ハラキリ』?」


聞き違いでなければ、女はこう言ったのだ。


Would you like to do hara-kiri?


どうして。俺は死にたくないからこの国に来たのだが。


「そうハラキリ。侍が刀で自分の腹を切り裂いて自殺すること。私の理解だと、あなたの国の侍はそうやって、自分の肉体をもって魂を贖うのだそうね」

「いや、必ずしもそういう意味では」


俺は顧客の機嫌を損ねかけた営業マンみたいにあわてた。そしてそういう連中がよくやるように、相手の鋭鋒をしのぐべく、中身の薄い言葉を並べるのに躍起になった。


「現代の感覚からすると、魂を守るというより、死によって責任の所在や事の真相を闇に葬る側面が強いように思います。正直言って、私はあまり称賛できませんね」


接見室で弁護士に冤罪を訴える被告人みたいに、悲壮な表情になっていなかったろうか。

ドクター「美しい愛」はそんな俺の顔が見るに堪えないかのように、テーブルに視線を落としてカードを集め始めた。


「そうですの? ただ私は、先ほども申し上げたように、文化の多様性には敬意を払っています。私自身は宗教的な立場から自殺を肯定できないけれど、俺さんの国でそれが魂の救済手段とみなされているのなら、尊重されるべきかと。いかが?」


集めたカードを残りの札と一緒に束ねてポーチの中に戻し、女は視線を上げた。
その表情からは、ケシ粒ほども悪ふざけの痕跡が見いだせない。


いかが?


酔いが醒めていく。傲然と俺を見据える女の目をそれ以上正視することができず、俺は自分のグラスに手を伸ばした。


確かに、女がカードを並べ始めた時から妙な雲行きになっている予感はあった。
女の膝の上にある、唐草模様入りの小洒落た婦人用小物入れから次は何がお目見えするんだろう。ハラキリ用の短刀か。それとも拳銃か。


気がつくと、俺のグラスは氷だけになっていた。そのグラスを、俺は目の高さまでに持ち上げた。


「いい酒ですな。これがお気に入りですか?」


たぶん俺は、酔ったふりをしながら、おびえと追従を混ぜて搗き固めたみたいなとてつもなく醜い笑みを浮かべていたはずだ。

皮肉の混じった笑いが女の顔に浮かぶ。なぜか俺はそんな女の目を、今度はまっすぐ見返すことができた。
いい酒は時として、虚栄心の味方をしてくれる。SAMURAIにふさわしからぬ、卑怯な逃げを打ったにしても。


「ごく普通のレミーマルタンですけど。同じお酒ばかりだと飽きますからね。そういうローテーションは決めています」

「めでたいですね、ローテーションに入れるというのは。私もあやかりたいもんだ」

「ご謙遜を。大事な出張を任されてるじゃありませんか」


「私もあやかりたい」──あえて無遠慮な言葉をぶつけてみたのだが、やはり女の態度は頑強な古城のように小揺るぎもしなかった。
古いヨーロッパをこの西海岸で守り通しているような手合いとは、たぶんそういうものなんだろう。


女が、急ぎの用件を思い出したみたいにグラスに残った酒を干す。どうやらこの場には短刀も拳銃も出番はなくなったらしい。
俺は女に気づかれぬよう、安堵の息を長く吐いた。


「お食事中お邪魔しました。愛すべき俺さんのご出張が成功のうちに終わりますように」

「お気遣い感謝いたします。いや、思いもかけず楽しい時間になりました」

「おや、それは光栄です。……ところで先ほど、『神秘的』っておっしゃいましたわね」


完璧と言っていい社交的な笑顔で、首を微かに傾げる。この国の支配的地位にある白人連中が、何かの拍子に示すこの種の表情。俺にとってはいまだに謎だ。


「ああ、何か失礼に聞こえましたら、ご勘弁ください」

「いえ、そうじゃありません。ただ、そういった『神秘』ですけど、あなたご自身の出自に関しても、思い当たることはないかしら?」

「はい?」


女は柔らかな笑顔を崩さぬまま、軽く頷いて立ち上がった。そして俺が入ってきたところとは反対側の、レジのある出入り口へ歩いていった。

姿を消すまで、女が振り返ることはなかった。


─────



客室に戻ると、夜の10時を回っていた。

俺は出国前にOFFにしていたスマートフォンの電源を入れた。

電話着信が全部で18件、メールが9件。
思ったほど多くはないが、メールの中身どころか発信元も見る勇気が湧かない。

海の向こうでは午後3時になっている。とっくに騒ぎが持ち上がっているだろう。


俺はスマホの電源を切り、顔を洗おうと思って洗面所に入った。

洗面所のライトに照らされる範囲にあったのは、歯ブラシと髭剃り、石鹸、それからプラスチック製のコップ。


覚悟を促すメモを添えた短刀など見当たらない。


普通、ホテルの客室というのは侍が自害するように用意はされていないものだ。


洗面台に頭を差し出し、冷水を浴びる。石鹸を顔になすり付け、軽くこすってから、冷たいままの水を頭からかけて洗い流した。
そして髪の乾くのもそこそこに、備え付けのガウンに着替えた。


あの「美しい愛」女史にまた会った時、俺は「まだハラキリなさってないの?」と、やんわり詰られるのだろうか?
こちらの事情をご存じないとはいえ、きついジョークを言う人だ。

逆に、俺がこの国に来た本当の理由を彼女に打ち明けたらどうなるか。バカな被害妄想だと一笑に付されることはない気がする。

ただし、……俺が決意し、ここまでたどってきた行動を理解してくれるかどうかは別だ。


子羊は、何も身に覚えがなくても命を奪われる。
なぜなら命を奪う側には、子羊のあずかり知らぬ論理がある。
せいぜい子羊は逃げ回るがいい。


この世界で過去数世紀の間、彼女たち白人が織り成してきた歴史はそういうものだった。
そこで子羊が発した悲鳴、呪いの叫びは記憶から消去される。可能ならば記録からも。

あるいは入念に「毒気」を抜かれた上で、商品として市場に出回る。


だが、何とか逃げ回っている子羊にとって、迫害者の都合を忖度するいかなる理由もない。自分の身を守るためにあらゆる手段を講じるのは子羊の正義だ。


ならば俺も、亡命者として無為に日を過ごしているだけではだめだ。
いざとなれば、この国の人権保護団体に訴え出て、王の非道を国際世論に暴露する手だってある。


そうなればまさに、俺は王を向こうに回して戦いを挑むことになる。
本当にその覚悟があるのか?

そして、俺と同じ境遇にあって息を潜めている生存者が声を上げ、共闘に名乗りを上げてくれるのか?


いや、やはり…… もう少し状況を見極めてもいいだろう……


籐椅子に腰かけ、テレビをつけた。

普段でもドラマなどは見ないのでニュース番組を選ぶ。

東海岸の金融市場はここ一週間一進一退。大統領予備選で頭一歩抜け出している大富豪がきょうも怪気炎…… 大して興味を引かない国内ニュースに続き、「世界の動き」が始まる。

俺の国のニュースが真っ先に始まり、椅子にふんぞり返っていた俺は少し姿勢を正した。


いきなり、「俺の家」が映った。


似たような形をしている住宅なんていくらでもある、そう思いたくても、門扉から庭の植木の形から、俺が後にしてきた時と寸分違わない。
そんな家がこの異国のテレビ画面に、曇り空をバックにして映っている。


まさか。俺の家のわけがない。躍起になって自分にそう言い聞かせようとしている間に、画面下にテロップが浮かび上がり、記者の声が流れた。


「本日、△△社商品開発チームリーダー、俺さん(42)が失踪した件について同社は、『詳しい情報は何も入っていない。急きょ人事部を中心に対策室を立ち上げたところだ』と話しており……」


2年前の社内旅行で撮った俺の写真が画面に大写しになった。

宴会場で浴衣を着て、カメラに向かって歯を見せている俺。

全身が総毛立ち、食ったばかりのローストビーフと卵サンドを吐きそうになった。



何だこれ。

いつもの出勤時間からまだ7時間くらいしか経ってないだろ? なのにもう、あの写真がテレビ局の手に入ってるのか?


いや、そんなことより、一企業の中間管理職にすぎない男が行方をくらましたのがどうして、海外ネットにまで拡散するようなニュースなんだ?
テロ組織にでも拉致されてるならともかく、今の時点では行方不明ってだけだろ?


けたたましい音を立てて電話が鳴り、俺はソファから飛び上がった。
すぐに出る気になれず、コールが3回鳴ったところで受話器を取って耳に当てる。フロントからだった。

>>86訂正

俺はソファから飛び上がった→俺は椅子から飛び上がった


「もしもし。俺様でらっしゃいますか?」

「……はい」

「ニュースは御覧になりましたか? たった今、私どもの方でレジスターを確認いたしました。テレビに出ていた写真は俺様でいらっしゃいますね?」

「あ…… はい」

「で、いかがなさいますか?」

「というと?」


2秒ほどの沈黙。フロント係の苦り切った顔が目に見えるようだった。


「当方としては、俺様の責任で対処していただくことを期待しております。早急に総領事館へ連絡なさるべきではないかと」

「あ、いや、どうするか、少し待っててもらえますか」

「差し出がましいようですが早急な対応をお願いいたします。他のお客様のご迷惑になる事態は私どもとしては歓迎いたしかねますので」

「……分かりました」


電話は切れた。

畜生。油断してればこのありさまだ。どうしよう? 諦めて総領事館に連絡し、しばらくこの国に滞在すると言って頑張り通すか?

いや、王が本気なら迎えを寄越すんじゃなかろうか。そうなったらさっそく、この国に保護を求めなきゃならなくなる。

行方をくらましたとしても、追っ手が相当しっかりしてるならかえって窮地に追い込まれる。
……警察にでも駆け込んで、事情を打ち明けるしかないか。でも本当にこの国が親身に助けてくれるか、やはり不安だ。


そんなことを考えながら、同じニュースが他のチャンネルでも流れていないかリモコンを手にあたふた選局しているさなか、再び電話が鳴った。
受話器を取ってみると、やはり同じフロント係だった。しかしその声からは急き立てるようなトーンが消えていた。


「外線からでございます」


外線が転送される。俺の耳に聞こえてきたのは英語ではなく、逃げ出してきた国の言葉だった。


……俺はしばらくの間、飼い主に置き去りにされた犬みたいに、ワンボックスカーが去った闇の方向を凝視していた。
とりあえず俺は、どこかに監禁されたり、重りを付けて太平洋に沈められたりはしなかった。


そして今。俺の背後には照明があるらしく、妙に明るい。車から降りた時、そこにあるものは一瞬だけ視界に映った。

俺は、視界に映ったものを頭の中で反芻してから、諦めのような覚悟が固まるまで待った。
そしてゆっくりと背後を振り向き、改めてその光景を確認した。


幅3メートルほどのタイル張りの通路が、闇の奥へと延びていた。その通路の両側に、動物のマスクを被りタキシードを着て蝶ネクタイを結んだ男が4人ずつ並び、向かい合って立っている。

8人全員が、左手首を右手で持つ姿勢で直立不動。皆、被っているマスクはそれぞれ違う。犬、馬、ライオン、ヤギ、牛、猿……


通路の表面は大理石を模したような乳白色に輝き、足を踏み出そうものならたちまち滑って転びはしないかと危ぶまれるほどだった。

こうした光景が、街路灯型の2本の照明によってまばゆいばかりに照らし出されていた。


動物マスクの男たちは身じろぎもしない。

通路の先には東アジア風の楼門があった。瓦屋根の廂の下、漆塗りの一枚板に文字を彫り込んだ扁額が見える。俺は目を凝らしてそれを読んだ。

筆記体のアルファベットを2列彫り付け、さらに念入りに黒い塗料でなぞってあった。


     SO─RYOJI
      KWAAAN


これを「総領事館」と読めということなのか。ホテルを出た時から始まった悪ふざけが、ここへ来て極まった感じがする。

その時、マスクの男たちが動いた。一糸乱れぬ動きで獣人の顔を俺に向け、白い手袋をはめた片手を楼門の方へ差し出す。
その姿勢が見事な左右対称を形成して、門の奥へと進むよう俺に催促している。


もちろん、躊躇しないわけはなかった。しかし背後を振り返ると、菅笠と蓑をまとった怪物が2体、俺の退路を塞ぐように闇の中から歩み出てきた。


河童だ。

カエルのような顔、背中に亀の甲羅。それぞれ、身の丈を超える長さの金属の錫杖を手にしている。

2体の河童はそれぞれの錫杖を俺の正面で交差させ、×印をつくった。

後戻りはまかりならぬ、ということらしい。



無理にでも戻ろうとすれば危害を加えられそうな気がして、やむなく俺はタキシードの獣人たちが進入を急かしている楼門の方へ足を進めた。

獣人たちが、前を通り過ぎる俺の進行方向へゆっくりと首を回す。通路に沿って左右対称に並べられた4対の手は微動だにしない。
みぞおちのあたりに何とも言えぬ違和感を覚えながら、俺は楼門をくぐった。


俺が三度目に振り返った時にも、照明の影になった獣人たちは見送りの姿勢を崩さなかった。河童も錫杖を交差したままじっとしている。


来訪者を混乱させるだけの仕掛けにしては、ずいぶんと手が込んでいる。

俺は、この町に世界で誰知らぬ者のない映画産業の聖地があることに思い当った。
この奇怪な演出も、ことさら俺を惑わす意図で行っているのではなく、演出自体が目的なのかもしれない。


つまり俺の行動自体が、どこかで誰かがフィルムを回している映像の一部になっている可能性。

では、どこからフィルムは回り始めたのか。

俺がホテルを出た時から?
レストランで「美しい愛」女史と語らいを始めた時から?

それとも、……あの証券野郎がオフィスに現れた時から?


門を抜けて50メートルほど先に、古い写真でしか見られないような瓦葺き屋根の木造建築物が、闇の中に濃い影を屹立させている。
その高さは優に3階建てはあると思われた。

総領事館と名の付く公的施設が、こんな外観の建物に入居していることはまずあり得ない。


俺は誘い込まれるように、淡い間接照明で斜めに照らされた扉に近づいた。
正面に達すると、木造の観音開きの扉が、触ってもいないのに重々しい軋みを立てて開く。


内側で撮影スタッフが開けたのか、手の込んだ機械仕掛けなのか。とにかく俺は中に足を踏み入れた。

ここで「カット!」と映画監督の叱声でも飛んでくれば、俺はどれほどほっとしたか知れない。


3階建てと思われた内部は古い銭湯みたいな吹き抜けのホールとなっていて、3階に当たる部分の壁にそって手すりの付いた回廊が巡っている。

高い天井からはバカでかいシャンデリアが、絢爛たる光で内部を隅々まで照らし出していた。


そして──そんな無闇に広く明るいホールの中央で、大道芸の道化じみた風体の男が一人、一輪車を乗り回していた。

その男が俺を一瞥し、両手でバランスを取って輪を描きながら叫ぶ。


「俺が総領事だ! 頭が高い!」


総領事と名乗った男は、顔面だけを外に出し、頭からつま先までがひと繋がりになる焦げ茶色のタイツのような衣装を身に付けていた。
そんな衣装の頭部から2本の突起物が垂れ下がり、ぶらぶらと揺れている。


そして外に出した顔を白く塗り、真っ赤な口紅を引いている。歳は五十前後と見えた。


「お前は、総領事ならば通常、このような風体でこのような振る舞いは絶対にしないと思い込んでいるな? だがそういうものではないぞ。俺はな、そんじょそこらの総領事とは違うのだ! 特別な総領事なのだ!」

「その通り。このお方はいわば、『総領事一般』なのだ!」


聞き取りにくいだみ声とともに、もう1台一輪車が現れた。これは乗馬服に身を包み、頭からウサギの被り物を被っている。

2台の一輪車が、来訪者である俺の前で入り乱れ、乱舞した。


「かく言うこのウサギ野郎は副領事だ! そして副領事の中の副領事なのだ! おい、首席領事はどこへ行った?」

「腹が痛いと言って退庁いたしました! 総領事の中の総領事どの!」

「けしからん奴! いずれ根性を叩き直してやる! おいそこのお前」


茫然と立ち尽くす俺は、自分に声をかけられているとはすぐに気付かなかった。


「私……?」

「そうだ、『お前』と言ったら他に誰がいる。我々はな、総領事あるいは副領事なるものについてお前が抱いている先入観を打破せねばならないという、切実な職務意識に駆られているのだ!」

「もちろんここに不在の首席領事についても同様だ!」


「総領事」を補佐する格好でウサギが怒鳴り声を上げる。

門の外にいる連中のことが気になる。とにかく、彼らを敵に回すのは得策ではないと俺は判断した。


「ここがどちらのお国の総領事館かは存じませんが、皆さんの職務には敬意を表します。……ただ」

「ただ何だ!」


「総領事」が耳を聾さぬばかりの大声を出した。


「ただ、私に特段のご用がないのであれば、このまま失礼して差し支えないのでは?」

「ならなぜお前はここにいる?」

「それは、……先ほど、使いで来たという方々が、私をここへ連れてきたのですが」


「総領事」とウサギは顔を見合わせ、腹を震わせながら笑った。


その時、ホールの右奥から何かが転がり出てきた。それは……表面に地球が描かれた、直径1メートル以上はあるボールの上で玉乗りをしている小人だった。

小人はパジャマのような縞模様の服と、房の付いたナイトキャップ風の帽子を身に着け、器用に地球を転がしていた。


「お前はペーペーの領事官補ではないか! 担当業務について現況報告せよ!」

「はい報告いたします総領事閣下!」


すかさずウサギが、一輪車の上で体を揺らしながら叱声を飛ばす。


「やり直し! 『総領事の中の総領事閣下』と申し上げるようにあれほど言ったではないか!」

「申し訳ありません、総領事の中の総領事閣下! 現況報告いたします!」

「いいか領事官補よ、総領事の中の総領事どのはな、地軸の傾斜すらお認めにならぬほど潔癖であられるのだぞ! 復唱せよ! 地軸は公転面に対し直角に修正されなければならない!」


大汗をかいている小人が、地球の上で危ういバランスを維持しながら復唱した。


「はッ! 地軸は公転面に対し直角に修正されなければならない!」

「23.5度傾けた者に呪いあれ!」

「23.5度傾けた者に呪いあれ!」

「よろしい! 報告を続けたまえ!」


「はッ! では現況報告いたします! 綿密なる調査を実施いたしましたところ、『俺』はホテルを抜け出し行方をくらましたもようでございます!」

「何ィィィ!」


「総領事」が金切り声を上げた。白塗りの顔に血が上っているのが、俺の目にもはっきり分かった。


「おのれこの期に及んで逃走を図るとは何たる卑怯未練な奴。追っ手を差し向けなくてはなるまい!」

「なりますまい!」


ウサギと玉乗りの唱和に続いて、「総領事」が一輪車で輪を描きながら叫ぶ。


「『新選組』出動!」


部下たちの唱和が続く。


「『新選組』出動!」

「ところでそこのお前。ここにまだ用があるのか?」

「は?」


迷惑そうに俺を見る「総領事」と目が合った。

やはりこの連中はまともじゃない。たぶんここは精神病院の隔離病棟か何かだ。

ワンボックスカーで来た男たちは施設の職員で、何かの間違いで俺はここに送られてしまったのだ。

それにしても、なぜ「俺」の名を知っているんだろう?
確か、「俺」に追っ手を差し向けると言ってたようだが……

いや、とにかくこの道化たちが追っている「俺」という奴は、詳しい事情は知らないが、けしからんことにホテルを抜け出し、行方をくらましているらしいのだ。

ならばこの上は彼らの職務を妨げぬよう、速やかに退出すべきだろう。


「見ての通り、我々は非常に、非常に忙しいのだ! 些末な案件と言っては失礼だが、後日対応するので、出直してはいただけないかな!」

「出直してはいただけないかな!」

「では、……よろしいんですね? この辺でお暇しても」



「総領事」が顔をゆがめて舌打ちし、指を鳴らした。
すると、回廊へ上がる階段の下から、どれも同じ猿のような面を着けた黒服の男5人が飛び出してきた。


男たちは階段下に設けられていた腰ぐらいの高さの扉を開け、ごそごそ何かやっている。

一方、目の前の「総領事」が、自分のテクニックに酔いしれたように一輪車でスラロームしながら怒鳴った。


「これも公務のためだ! 急ぎでないなら出直していただこう!」

「いただこう!」


男たちが、扉から引っ張り出した消火栓のホースを俺に向けた。勢いよく吹き出した水を俺は正面から浴びせられた。

抗議の声を上げる間もなく、凄まじい水勢に押され堂外にころげ出る。
振り返った扉の奥に、「総領事」とウサギ、小人がそれぞれの小道具に乗ったまま大笑いをしている姿が垣間見えた。

「総領事」は何事か叫んでいたが聞き取れない。すぐに扉は、駆け寄ってきた猿面の男たちの手で、うめき声のような音とともに閉じられた。


そして道化たちが演じた笑劇の余韻に浸る間もなく、今度は背後から数人の気ぜわしい靴音が響いてくる。
俺は振り向きもしないうちに、案内係の獣マスクたちにつかみかかられた。


「あの、乱暴はやめてください! 自分で帰れますから!」


馬やヤギ、ライオンのマスクをかぶった男たちは俺の懇願になど耳を貸さず、腕や肩をつかんで引きずっていく。

そうして〈SO─RYOJI KWAAAN〉の扁額が掛かった楼門を抜け、照明に照らされたタイル張り通路の上に出た。


楼門が背後に遠ざかるのを見て、たぶんここから叩き出されるだけだろうと思った俺は無意味な抵抗をやめた。


獣マスクたちも、俺の腕や肩を押さえ付ける力を抜いていった。
俺は取り押さえられたばかりの容疑者さながらに左右を固められ、ワンボックスカーが通ってきたらしい道を連行されていく。


短い暗がりを通り抜けると、木立の間をうねりながら続く舗装された小道に出た。


道の両端にはソーラー投光器が5メートル程度の間隔で地面に配置され、光る巨大な蛇のような小道の形状が、闇の奥に向けて浮かび上がっている。

差し迫った危険はないらしいと感じると、おびえの反動なのか、妙な馴れ馴れしさが湧き上がってきた。
むしょうに話しかけたい衝動に駆られて、俺は両腕を捉えている男たちを交互に見た。


ごく自然な流れで、右側のライオンは避けた。強大な牙を持つサバンナの王への遠慮もさることながら、それ以上に左側のヤギが優しそうだったからだ。
角を生やしているわけでもなく、俺が顔を寄せれば舌を出して舐めてくれそうな愛らしい顔をしている。


「ねえ、さっきの人たち何?」


ヤギは答えなかった。俺は言い募った。


「ここって、精神病院か何か? さっきの人たちは頭おかしいの? 一輪車とか玉乗りが上手だったけど」


ヤギは一瞬、俺に顔を向けた。しかし別に顔を舐めてくれるわけでもなく、即座にその愛らしい鼻先を正面に戻してしまった。
俺はヤギの意を迎えるべく、サービス過剰とも思える愛想笑いをした。


「これひょっとして、映画の撮影? 俺さ、ギャラの話とか聞いてないんだけど」


最後まで言い終わらぬうちに、俺は平手で頭をいやというほどひっぱたかれた。


「痛っ!」


恨めし気に顔を上げれば、ヤギのマスクの下に憤怒の表情を垣間見た気がして、盛んだった俺の舌も否応なしに縮こまった。

愛らしいヤギさんと馴れ合いの関係を結ぼうとした俺の試みは、こうして粉砕された。

こうなると、ヤギの風貌が瞬時にライオンをも凌ぐ威厳を帯びて見える。
反対側のライオンは何も起きなかったかのように黙々と足を運んでいた。


さらに1分ほど歩いたところで、正面に高さ5メートルはありそうな鉄柵のゲートが姿を現した。横幅も優にバスが通れるぐらいはある。
柵は両端の石柱に固定された蝶番部分から中央へと、曲線を描いて天に伸びていた。

さらにその頂点には、投光器に照らされて、アーチ状になった金物細工の装飾文字が見える。

この敷地内の名称なのかと思って俺は目を凝らしたが、期待は失望に変わった。誰かが思い付きで並べた標語のようだった。


  VERTICALNESS BRINGS FREEDOM(垂直は自由をもたらす)


空気抵抗を計算外にした垂直の落下運動を、俺の国の言葉では「自由落下」と呼んだりする。

それが「FREEDOM」をもたらすとは初耳だが、最終的にそこへ行き着くなら、あるいは喜ぶべきことなのかもしれない。
もっともそこに至るまでには、さまざまな艱難辛苦を耐え忍ばなくてはならないのだろう……


俺の解釈はそれ以上先には進まず、実際俺はその標語のことをすぐに忘れた。
男たちは鉄柵の扉を開けると俺を力任せに押し出し、音も高く扉を閉ざして施錠してから引き上げていった。


遠ざかっていく獣人たちの背中。ヤギは振り向かない。ライオンも振り向かない。馬が一瞬だけ振り返ったが、足を止めるわけでもなく、すぐに前へ向き直った。



静寂。


ゲート上部を照らしていた一対の投光器が消えた。月明かりの中に樹木の濃い影が浮かび上がった。

どことも知れぬ山中に俺は一人取り残された。

時計を見れば午前1時40分。車は全くと言っていいほど通らない…… と思っていると、古めかしいピックアップトラックが車体をガタつかせながら走り去る。そして静寂が戻る。


歩くしかない……

俺を乗せてきたワンボックスカーの動きからして、門を出て右方向に進めばフリーウェイの入り口に着くと考えられる。

隣の郡まで連れ出されたわけでもなさそうだから、夜明けまでには市街地にたどり着けるだろう。
運が良ければ途中で流しのタクシーが通るかもしれない。


びしょ濡れになった体に夜の風が沁みた。

あの、総領事と称する道化は追っ手を差し向けるみたいなことを言っていた。

精神異常者のたわ言と片付けるのは簡単だ。実際、ほかでもない「俺」が目の前にいるのに、気付きもしていないふうだった。


しかし、あそこが精神病院ではないとしたら?
最初から俺をターゲットと知った上で、からかっていたのだったら?


考えても無駄だ。殺し屋が近づいているなら、こんなところで走ろうがわめこうが無意味だ。


途中で休みながら2時間ほど歩いた。
東の空が明るみ始め、俺は自分の歩いている方角に誤りがなかったのを確認できた。

〈SO─RYOJI KWAAAN〉を叩き出されてから何も起きていない。まるで王にさえ見放されたかのように、俺は異国で、明け方の道をとぼとぼと歩いている。


歩いている間に、衣服も乾いてきた。見晴らしの良い下り道に入り、中心街が遠望できるところまで来た。


これからどうしよう? カードキーを持ったまま出てきてしまった。とりあえずホテルに戻るか……


さっきの男たちが総領事館の使いを騙る何者かだったら、20分で迎えに来ると言った本物の総領事館職員はどうしたんだろう? 警察に捜索願でも出しただろうか?

そんなことをするわけがない。一国の問題として処理すべき「緊急対応案件」に、何を好きこのんで他国を介入させるものか。

この土地で俺を葬り去る気なら、当然「闇から闇」だ。
もっとも、遺言信託の申込書を書く暇(いとま)くらいは与えてくれるかもしれない。



よし、こうしよう。

まず何食わぬ顔でホテルへ戻る。フロントで、俺の外出中誰か訪ねて来なかったか確かめる。
カードキーを返し、この際だからチェックアウトしてしまう。後の行動は改めて考える。


今の境遇を、信頼できる誰かに打ち明けたい。そんな切迫した思いが高まってきた。それさえできれば、少しは気分が落ち着くと思った。
俺は、この町で頼れそうだと考えていた人々の顔を思い浮かべてみた。

やはり事情を話すとなると、一人しかいない。コワモテで鳴らしていた人物だが、その分だけ義侠心もある。


すっかり明るくなった頃、ようやく市街地にたどり着いた。タクシーを探すが、なかなか空車が見つからない。


疲れ果てて沿道のベンチに座り込んだら、行く当てのない難民そのままに寝入ってしまった。


・・・・・・・・・


目を覚まし、時計を見ると8時半を回っていた。日差しは強くなり、目の前の道路を自家用車やトラックが地鳴りをたてて往来している。
これでよく眠れたものだと自分ながらあきれる。


場所を変えながらタクシーを探し回り、ようやく空車を止めることができた。リアシートに体を沈めて、10時間近く前に抜け出してきたホテルの名を告げる。


エアコンの効いた車内に入って、ようやく人心地がついた気がした。
カーラジオからは「今週のヒットチャート」が流れている。俺は運転手に話しかけた。


「すまないけど、どこかでニュースやってないかな?」

「これは気に入りませんか?」


運転手がぞんざいに応じる。符丁を合わせたみたいに、俺も横柄な口調になった。


「頼むよ。ろくにニュース知らないで出勤すると俺、会社首になっちまう」

「分かりましたよ」


不承不承に運転手がニュース番組を選局した。カーナビの時計が午前9時2分を示している。


ニュースは途中から始まった。


『……レメリックさんとみられる遺体は頭部が無く、市警は犯人が持ち去ったとみて捜査中。なお前日夜、ホテルのレストランでレメリックさんと話をしていた東洋人らしい男性が姿を消しており、市警は事件に関与している可能性があると見て……』

「首をスパッと一刀両断らしいですぜ。サムライの仕業ですかね? 物騒な話だ」

「……まあ、急いでよ。俺も会社を首になりたくねえからな……」


俺の顔には変な笑いが浮かんでいた。

もちろん、無意識で放ったジョークに悦に入っていたわけではない。額には瞬時に冷たい汗が浮かび、シャツの下の胸や背中には鳥肌が立っていた。

そんな顔色を運転手に気取られまいとして、追われる者の擬態がとっさに気持ち悪い笑いになったのかもしれない。

エアコンの効いた車内が瞬時に冷蔵庫になったみたいに、俺は震えていた。


俺は確かに覚えていた。ルイーズ・レメリック。「本名」はビューティフルラブ。

次はこれか。「悪あがきが過ぎる」からって、俺に殺人の濡れ衣を着せようってわけか!


ホテルが見えてきた。俺は建物の50メートルほど手前で、ここでいいと言ってタクシーを止めた。料金を渡す手の震えが抑えられない。


嫌でもホテルは目に入る。建物の周りに非常線が張られ、駐車場はパトカーやマスコミの車でごった返している。上空にはヘリが飛び交っていた。
タクシーを降りた俺は走り出したいのを懸命にこらえて、何食わぬ顔で、とにかくホテルから離れるべく足を速めた。

心臓が早鐘のように鳴っていた。


ホテルから十分に距離を取ったところで、カー用品店の建物の陰に入り、バッグからタブレットを取り出してニュースサイトを開く。


早い…… 準トップの扱いで記事がアップされてる。


「ホテルで頭部のない女性の遺体──男性宿泊客の行方捜査」と見出しを打った記事は次のようなものだった。


   [×月○日未明、ロ○ンゼルス市・・・・のホテル□□□客室で、カウンセラー
   のルイーズ・レメリックさん(45)とみられる遺体を従業員が発見し、警察に
   通報した。現場付近では前日深夜、男女の争うような声と物音を複数の宿泊客が耳
   にしており、LAPDは殺人事件とみて捜査を開始した。現場の客室に宿泊していた
   男性が発生時刻ごろから姿を消しているため、事件の鍵を握っているとみて行方を
   追っている。

    レメリックさんとみられる遺体は客室のドアに近い通路で倒れており、頭部が
   なかった。従業員が発見した時、ドアは開けたままになっていたという。

    現場からはレメリックさんの所持品のほか、男性の名刺が見つかった。男性は
   同ホテルレストランで前夜、レメリックさんと会話しているところを従業員に目撃
   されている。

    レメリックさんは地元では有名な資産家。事件のあったホテルのレストランにも
   時々訪れていたという]


あれ?

確かに、記事を読んでいて引っ掛かったことが一つあった。
だが混乱していた俺の優秀な頭脳は、何に引っ掛かったのかをその時はもみ消してしまった。

どっちにしても、直面している事態に比べたら取るに足らなかったから、忘れてしまったのだ。



さて俺はこれからどうなる? 殺人犯として指名手配されるのか? 殺された方がマシっていうような事態が待ち受けてるのか?


逆に、被害者と話をしていた男は自分だと、市警に名乗り出るのは?

そこでお縄になるにしても、なぜ俺が突然この国へ来たのか、この身に降りかかった災難を公にするチャンスかもしれない。
いや…… かえって偏執病患者扱いされ、狂気に駆られての犯行と疑われかねない。


こうなったらいよいよ、あの人に頼る以外ない。


俺が当てにしていたのは、ここに在勤していた当時、仕事の関係で付き合いのあった不動産業者だった。

一代で事業を成功させて財を築いた、地元では指折りの名士だ。市会議員も1期務めたことがある。
親子ほども年下の俺に何かと親切にしてくれたし、ホームパーティーにも招かれている。

もちろん「家族同然」というわけにはいかないが、太っ腹な人物で、懐に飛び込む窮鳥を追い返すようなまねはしないという期待は十分に持てた。


しかし11年前のことだから、存命中かどうかも分からない。でも事ここに至って、他に頼れそうな人間は思いつかない。


周囲を見渡し、少し古びた外観のカフェを見つけた。
入ってみると、朝の繁忙時間帯はピークを過ぎていて客はさほど多くなかった。

それでも俺は人目に付きにくい席を念入りに探し、コーヒーを頼んでトイレに立った。

トイレの手前に、うまい具合にコイン投入式の電話があり、電話帳も置いてある。
俺はコーヒーが来るのも待たずに電話機に歩み寄り、電話帳をめくった。


「D.C.F開発」…… 少なくともまだ会社はある。俺は何から話すべきか内容を頭の中でまとめてから、その会社にダイヤルした。

コール1回で電話がつながり、受付の女性が出る。ニュース記事で俺の名はまだ出ていなかったが、やはり名乗るのはためらわれた。


「こんにちは。デニス・クラインフェルド社長はいらっしゃいますか? 以前、社長に大変お世話になった者なのですが」

「社長はまだ出社しておりません。12時過ぎになると思います」


やはり重役出勤か。しかし生存が確かめられただけでも成果はあった。俺は「分かりました」と言って電話を切った。
正午まであと2時間半ある。俺は個人の電話帳からデニスの名を探したが、やはり掲載されていなかった。


俺はデニスの住所近辺の電話番号と、自分の記憶を照合して、数字を発掘する作業にかかった。

うっすらと浮かび上がってきた記憶を、俺は電話台の横にあったメモ用の紙片に書きつける。

そしてその番号にダイヤルした。


出ない。呼び出し音だけが延々と続く。


コールが30回を超えたと思ったところで、俺は受話器を置いた。


妙な胸騒ぎに襲われながら、俺は自分の席に戻る。冷え切ったコーヒーが俺を待っていた。

コーヒーをお代わりし、10分経った頃合いにもう一度同じ番号にかけたが、聞こえたのは呼び出し音だけだった。留守番電話にもなっていない。

さらに5分待ってもう一度。今度はコールを10回数えて諦めた。


俺の記憶していた番号が間違ってないなら、これは変だ。
昨日関わり合いになったばかりの女性が殺されたことといい、俺はこの町にとてつもなく迷惑なものを持ち込んでしまったのだろうか。


デニスの家なら知っている。高級住宅地のB.ヒルズ。ここからタクシーでせいぜい15分だが、いつ俺の手配写真が出回るか分からない。バスの方が目立たないだろう。


カフェの外に出ると、強い日差しに目がくらんだ。

バッグの底から引っ張り出した花粉防止用マスクを着用する俺の横を、パトカーがサイレンを鳴らして走り過ぎる。二の腕から肩にかけて鳥肌が立った。


停留所に立って市営バスを待つ間、この暑い中白いマスクを用いている人間が自分一人なのにいたたまれず、俺はマスクを外した。小銭を数えているとバスがやってきた。

前部ドアから乗車して運賃を払い、車内を見渡す。乗客は黒人とカラードが10人、白人が5人。俺を指差して「こいつが犯人だ!」と騒ぎ出しそうな奴は見当たらない。
バスが発車した。不思議にも、通りを歩いている時より安心する。


住宅地の外れで俺はバスを降りた。5分ほど歩いて、デニスの家の前に俺は立った。



……俺の家が軽く10軒は建てられそうな広さの敷地。

その敷地を、落葉樹の植え込みに沿って2メートル以上はあるコンクリートの塀が囲っている。

そして、閉じられた門扉の鉄柵の先には石畳の舗道が、小ぢんまりとした古城を思わせる外観の屋敷へと続いていた。
こういった家の外観は、かつて俺が訪れた時と変わっていない。

とにかく、そっけないくらい静かだった。俺が恐れていた、非常線が張られパトカーが列をなす騒然たる光景は杞憂に終わった。


門扉の向こうでは年配の女性が箒で舗道を掃いていたが、見覚えはなかった。恐らく使用人だろう。俺はその女性に声をかけた。


「すいません、お忙しいところを。クラインフェルド社長はご在宅でしょうか?」

「どちら様?」


使用人らしい女性は、屈めていた腰から上半身を思いきり後ろへ反らす所作の後、目を細めて俺の顔を見た。

俺は、「地軸」と書かれた尖塔の頂上から垂直に飛び降りる気分で、自分の名を口にした。


「11年ほど前ですが、社長に大変お世話になった者で…… 俺と言います。お取り次ぎ願えればありがたいのですが」


「俺さんとおっしゃるんですね?」

「はい!」


老女は一瞬横を向いて何かを思い出そうとする素振りを見せたが、すぐに「少々お待ちを」と言い、箒を持ったまま屋敷の方へと背を向けた。


老女が住居の中に入るのを見届けた後、俺は柵の外に突っ立ってじりじりしながら待った。3分ほど経って玄関のドアが開き、痩せて背の高い老人が姿を現した。


11年の歳月は人を変える。最初、俺は舗道を歩いてくる人物が誰なのか分からなかった。

あの当時既に老齢だったとはいえ、肉付きがよく精悍な印象を周囲に与えていた不動産王デニスは一変し、すっかり痩身の老人になっていた。


ただ、人を威嚇する鋭い視線は昔と変わらない。
おまけに、あまりありがたくない道具も一緒だった。5メートルほどの距離まで来て、老人は肩に担いでいた猟銃を俺に向けた。


「動くな! ……荷物を置いて両手を上げろ」

「す、すみません、クラインフェルドさんこれにはわけが」


俺はバッグを放り出し、ホールドアップの姿勢で弁解の言葉を探した。


「貴様か? 朝っぱらから、俺が気絶するかと思うほど家の電話を鳴らしおったのは!」

「? は、はい、私です。お騒がして申し訳ありません!」

「俺に何の用だ。車のセールスか? 車なら間に合ってるぞ!」

「いえ、私は、あの、11年前当地の△□社に勤務していた者で、その節は社長に、市消防局の備品一括契約の件でお口添えいただき大変感謝いたしておりまして、本日はお礼かたがたごあいさつに参上……」

「ならオフィスに来ればいいだろうが!」

「はっ、考えが至らず失礼をいたしました!」

「あのな! 俺はもう76だ。今さら市議会に出るつもりもない! それなのにお前らときたら、まだ商売の口利きをさせようってのか?」

「いえ、とんでもございません! 決してそのような」


その時、玄関のドアが開いて先刻の女性が血相を変えて飛び出してきた。
そして老人に駆け寄り、耳元に口を寄せて何かをささやく。老人の表情に緊張が走るのを俺は認めた。


同時に俺は、足元の地面が崩れ落ちていくような落胆とともに、老人の顔色を変えた理由が何なのかを悟った。

女性は恐怖を帯びた一瞥を俺に投げて背を向け、小走りに玄関の奥の暗がりへと姿を消した。力任せにドアを閉める激しい音が続く。

デニス・クラインフェルドは銃口を向けたまま、目を細めて俺の全身を眺め回した。


「貴様…… ルイーズを殺したのか? テレビでお前の写真が出とったそうだ。殺人容疑で指名手配だとな」


老人の声にはおびえの片鱗もなかった。海兵隊出身で戦場を経験した人間だけのことはある。
とにかく、事態は行きつくところまで来てしまった。俺は殺人容疑者として追われる身となったのだ。


「いいえ! 私は罠にはめられたのです、天に誓って無実です!」

「本当か? その荷物は何だ? ルイーズの首でも入ってるんじゃないのか?」

「そんな……」



車は市街地を離れ、しばらく海沿いを走った後で峠道に入った。
低緑樹と砂礫層に覆われた山裾を、道は緩いカーブを描きながら這い上がっていく。


峠を登りきって、見晴らしの良い尾根道に出た。

人家どころか物置小屋さえも見えない風景の中、1車線道路が緩いアップダウンを繰り返しながら続く。やがて道は高木林に入って日が翳った。

緩い左カーブを曲がって林が切れた時、前方に草原が開け、その中央に立つ白い建物が目に入った。


この建物が目的地らしく、車はゆっくりとスピードを落としていった。立地に加え、円錐状の優美なドームを備えた外観からして、どう見ても普通の住居とは思えない。

建物の横でデニスはハンドルを切り、砂利を撒いただけの駐車スペースに乗り入れてエンジンを切った。


周囲には柵も生け垣もなく、先客らしい様々な車種の乗用車が10台ほど止まっていた。


車を降りて周囲を見渡す。

草原の先には、低緑樹と砂地が交互に入り交じる風景が続き、山裾へと緩やかに傾斜している。
かなり下ったところに、四方をトタン板で囲った倉庫らしきものがあり、その真下に、市街地に向けて蛇行する1車線道路が見えた。


さらに遠くを望めば、山稜に挟まれた太平洋が大小の船を浮かべて青くたたずんでいる。
海の青は水平線へ向かって薄められ、空と交わって渾然一体になっていた。


「行くぞ」


はっとして振り向くと、厳しい表情のデニスが帽子を左手で押さえながら、建物の手前にあるアーチ型の門へ向かっていくところだった。俺は老人に従って門をくぐった。

門から石畳を10歩ほど歩いた先の、白く塗られた観音開きの扉の前で老人が立ち止まる。

老人が両手で押すと、扉はかすかな軋みを立てて内側に開いた。


ひんやりとした空気が、俺の顔を撫でた。


壁を白一色に統一した、聖堂のようなホール。そこに正装した年配の男女20人ほどが、円環状に椅子を並べ、輪の内側を向いて座っている。

輪の中心には、入ってきたばかりの俺とデニスの方を向き、一人の白人の老女が座って瞑目していた。


はるかな高さの丸天井と、高窓から差し込む陽光が、カトリック教会の典礼を思わせる荘厳さを目の前の光景に与えていた。

ただ、救いを求めて訪れた者を落胆させるかのように、十字架はもちろん、聖像やステンドグラスといった宗教色を表に出すものはいっさい置かれていない。
その点、こんなひと気のない場所で行うコンサートや集会といった用途への汎用性が高いと言えば、そうとも言えるだろう。


中央にいる老女は黒のスーツに身を包み、白髪に軽くウエーブをかけて肩に垂らしていた。
風貌だけなら、普通に品の良い高齢女性という以外の印象はない。


一方、円環状に並んでいる人々は瞑目しているわけではなく、皆一様に伏し目がちの目を下に向けているのだった。だから実際は周囲をほとんど見ていないに等しい。


デニスがホールの隅から一脚のパイプ椅子を持ってきた。
そしてそれを、参会者の輪から3メートルほど後方の、中心の老女ともろに視線がぶつかり合う真正面に置いて座った。

出席者の様子からして、何やら秘密めかした儀式のようなことが行われるらしい。
そして輪の中心にいる女性が、この日の最重要人物であるのは疑いようもない。


今の俺の境遇では、そんな人物の正面に座らされるのは当然気後れがする。
だが、「保護者」から離れるわけにいかない俺は、近親者の葬儀に初めて連れてこられた幼児のように、神妙な顔でデニスと並んで座るしかなかった。

俺は恐る恐る、デニスに話しかけた。


「皆さん何を…… なさっているんでしょう」

「降霊会だ」

「降霊? 死者の霊を呼ぶという?」


目前の状況は、やはり俺にはありがたくない展開に進むらしい。迷惑そうな俺の顔色を見とがめたのか、デニスが眉を顰めた。


「見てれば分かる。気をしっかり持て」


中央の老女の姿勢に変化が表れた。膝に両手を置いたまま、少し前かがみになる。何か呟くように口を動かしている。
周囲の男女は身じろぎもしない。静謐の中、中央の老女が今度は体を左右に揺らし始めた。


堂内は完全な静寂に包まれていた。この辺りを通る車もないらしく、微かなエンジン音さえ届いてこない。


振り子のような老女の動きが次第に小さくなり、やがて止まった。目がゆっくりと見開かれる。
息を呑んで見つめる俺に、突然、射抜くような視線が向けられた。全身の毛穴が収縮した。


「お前」


俺は耳を疑った。老女の口から発せられたのは、まぎれもない俺の国の言葉。老女は「omae」と発音したのだ。

老女──霊媒師が立ち上がり、完全にネイティブスピーカーの発音で言った。


「なぜ、ハラキリしなかった」


つい半日前に聞いたばかりのその声を、俺は覚えていた。

完璧な発音で俺の国の言葉を操る、ドクター・ビューティフルラブことルイーズ・レメリック。
なぜハラキリをしなかったと、俺をとがめているのだ。


「私の首から下が無い。首から下はどこへ行った。お前知ってるんだろう」

「知らない」

「知らないだと。お前がハラキリしなかったために、私の首から下は消え失せてしまったのだぞ。それで済むと思うか」

「私のせいじゃない」

「愚か者め」

「……ねぇ、聞いてくださいドクター」


俺は目の前で起きていることを茶番だと疑うのも忘れて、霊媒師に降りてきたらしいルイーズの理解を得ようと躍起になった。


「あなたに謝ります。あの時、私は嘘をつきました。私がこの国へ来たのは出張なんかじゃありません。私の国の王に追われていたんです。王が私を殺そうとしているんです!」

「ならばなぜ、あの時そう言わなかった」

「話しても本気にしてもらえないと思ったんです! でもやはり…… 話しておくべきでした。話しておけば、こんなことには、ならなかったかも」


霊媒師の顔に、冷え冷えとした微笑が浮かぶ。顔かたちは違っても、所作は昨日のルイーズそのものだった。
もう俺の目は、霊媒師の顔の奥にほかならぬルイーズを見ていた。

俺は続けた。


「ドクター、この世界であなただけがご存じで、しかも早急に明らかにしなければならない真実があります。……下手人は誰なのです?」


霊媒師の顔が、幼児をあやす祖母のように微笑を浮かべたまま傾げられる。俺は息を詰めて女の言葉を待った。


「お前ではないのか?」

「冗談はよしてください! 今すぐ誰が犯人なのか、ここにいる皆さんに分かる言葉で話してください! これはあなたの義務だ!」

「卑怯者の分際で義務を騙るな」

「何ですって?」

「お前が私に向かって何を騒ぎ立てたところで、どうにもならない。お前はただ一つ、ハラキリをしなければならなかった。それだけだ」


なぜこの女は、こうまでも執拗にハラキリを迫るのだろう? この場で俺が腹を切ったら自分が成仏できるとでもいうのか?


「私は冗談と受け取りました。それでは不都合だったのですか?」

「ふん。お前たちクズはそうやって、肝心要の事を茶化してごまかすのが大好きだ。そのくせ堕落しきった自分の快楽となると目の色を変える……

いいか。私たちにとって言葉を交わすというのは、魂を交換し合うことなのだ。これをお前たちは知る由もない。教えても理解することさえ拒む。だからお前は、私の顔を見ても何一つ思い出せないのだ」

「ええ、あの…… まことに失礼な話なのですが、私は以前、あなたに会ったことがあるのでしょうか?」


記憶の底から別の顔が、少しずつ形を取り始めていた。既に俺は狼狽に捉われていた。


「忘れたのではなく、無理矢理記憶から消したのだろう? 13年前、お前が私をジェイクに引き合わせたことを」

「え……」


ジェイクの名に反応したのか、デニスが弾かれたように俺に顔を向ける。

13年前。俺はこの町に赴任したばかりだった。ああ…… そうだったのか。

俺は当時の所長に連れられて、ダウンタウンのバーでこの女に会った。
だが髪はブロンドじゃなくて黒かった。


ジェイクに女を世話するのは、不動産王のデニスとコネクションを結ぶプランの一環だったから、陣頭に立ったのは所長で、俺は使い走りにすぎない。

確かに俺は、自分で車を運転して、高級娼婦だという認識でジェイクの待つホテルへ届けたのには違いないが……


クソ、何てこった。

俺はあの時、車内で女と言葉も交わしている。おまけに女は、自分の名を口にしていたはずだ。


その名は……! Strangelove!


「思い出したか? そう。ジェイクは『奇妙な愛』が大好物だった。命が惜しいからと言って、生まれ持った自分の運命から逃げたりしなかった! フレディーのお好みは『至上の愛』。お前の好みなど知らん。とにかくお前は…… 速やかに腹を切らなくてはならなかったのだ」

「なぜです? あなたを社長のご子息に引き合わせたのが、死に値する罪だとでも?」

「お前に罪などない。そもそも…… 罪が腹を切る理由になるのか?」

「それは、どういうこと?」

「愚かな…… それほどにお前たちは、目の前に訪れた死を罪と結びつけなくては気が済まぬのか? 本来、お前らの理解している罪など、何ら死の理由にはなりはしない。

お前たちは知らないし、知りたくもないのだろう? 言葉を交わすこと、愛を交わすことと同様に、カードに運命を問う行為もまた魂の交換なのだということを。……では教えてやろう。

『彗星』はな、それを引いた者が運命を拒むのなら、同じ運命がそっくりカードの主人に返ってくる。そういう札なのだ」

「では、私が死を受け入れないなら……」

「そうだ。お前は受け入れなかった。そして私は今、自分の体を探してさまよっている」

「そんな! ではなぜあの時、私にそう言ってくれなかったのです?」


霊媒師──ルイーズ・レメリックの顔が大きくゆがむ。腹から噴き上げてくるような笑いが、その顔を覆った。化鳥を思わせる笑い声が堂内に響き渡る。


円環を形成している男女は皆、狂笑するルイーズを茫然と見上げ、何が起きたのかと心配げに顔を見合わせている。眉を顰めて俺の顔に見入る者もいた。

ルイーズの笑いが止んだ。


「愚か者め、私は貴族だぞ! 私の家はあの古きヨーロッパで、500年の栄光を保ち続けてきた! 『二本足の恐怖』と呼ばれた私の祖先、中央アジアの征服者がどのような存在であったか、お前なんぞには想像も及ぶまい!

その私が、お前のようなクズに向かって、『自分の命が惜しいから早く死んでくれ』などと頭を下げると思うか? 笑わせるな。私はな、お前が侍の流儀に従って、自分の運命を受け入れる方に賭けたのだ。しかしお前はそうしなかった!

ジェイクもフレディーも、この私に『お前を愛している』と言い、『彗星』の指し示す運命を受け入れて潔く死んでいったというのに!

そして『彗星』は、私に身支度の暇も与えず襲い掛かってきた…… だがな」


ルイーズの霊が言葉を切り、口元に酷薄な微笑を浮かべて、俺の顔を舐めるように見る。
俺は硬直したように口を開くこともできず、ルイーズの言葉を待った。


「哀れなお前。お前はひょっとして、災難を私に負わせて自分は助かったと思っているか? 駄目だよ。『彗星』は最初に狙いを定めた相手を決して逃しはしない。一時の寄り道をしただけで、元の公転軌道に戻るのだ。せいぜい楽しみにしておれ」


だろうな。


そんなうまい話があるわけない。良心の呵責うんぬんっていうより、リアリティーの問題だ。

そこで俺は、リアリティーに従って、冷静にと念じながら質問を放った。


「ではドクター、私にも言わせていただきたい。あなたも嘘をつきましたね」


ルイーズは微笑を浮かべたまま、俺の顔を見つめている。


「あなたは『ホテルに住んでいる』と言った。だがあなたは住んでるどころか、あのホテルに宿泊もしていない。しかもご丁寧に、ご自分の死体を私の客室に置いていった。……オートロックなのにどうやって鍵を開けたんです? 誰かがお膳立てをしたんですか?」

「そんなのは枝葉末節だ。今さらお前が気に病んで何になる?」

「いいえ! あなたは、私があのホテルに宿泊することを知っていた誰かから指示されて、レストランに姿を現した! あなたはそいつに脅されてたんでしょう? そいつは何者です?」

「おいルイーズ! このタマ無し野郎をいびるのもいい加減にしないか!」


隣で足を組んで座っていたデニスが、しびれを切らしたみたいに英語で叫んだ。
ルイーズが操る俺の母国語を理解できているとは思えなかったが、何が起きているのかはさすがに雰囲気で分かったのだろう。


カード占いの茶番もそいつのお膳立てなんでしょう? 
私の潔白を証明してくださるのはあなたしかいない!

……そうやって畳み掛けるタイミングは残念ながら逸してしまった。


ルイーズがデニスの方に顔を向けた。今度は英語を使い始めた。


「おやお久しぶり、お義父様。ずいぶんとお元気そうね」

「貴様が死ぬのを待っとったんだ。さっさと地獄へ行け! ここはもう貴様の住む場所じゃないぞ!」


参会者の何人かがデニスの暴言を聞きとがめて、手のひらで制止するような仕草をした。しかし老人の勢いは止まらない。


「ここにいるこの頓馬が、地獄に落ちるまで待っていろ! もうじきだろうからな! お前の首なんぞどこかで腐り果てて……」


ルイーズ──霊媒師の目から涙があふれ出した。そして大人に叱られた少女みたいに激しくしゃくりあげ、遂には口を大きくゆがめて泣き声を上げ始めた。


「私の体! どこ行っちゃったのよ! どこどこどこ!?」

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