提督「雲居を落つる白雪染ます紅花火」 (21)

暮れの鎮守府。まばゆく反射する赤橙の夕日は、その日忘れてきた疲労をどっと思い起こさせ体を重くするようだった。

夕焼けの黄金に染まると、風に撫でられ掠れる緑木のさざめきも弔いの声に聞こえてきたし、紅白の吹流しがどれほどバサバサ尾をはためかせても何か就寝前の蝋燭を消す一息の如くであったりした。

太陽でさえもただ周りだけを黄白に眩しくして、己は赤黒く暗がりに遠のいていく。

夕暮れの眩しさは倦怠ながらいい加減に奮ったような輝きで、その下で全てはやはり気怠げに緩慢であった。

鎮守府の赤レンガに響く艦娘たちの平素の黄色い喋り声も、この時分には古典の授業で朗読するかのように慎み深く聡明な調子になったりもした。

しかし、今日は様子が異なった。黄昏時に何もかもが生き生きとしていた。その緩慢さはあたかも内なる衝動でどこかに飛んでいきはしないかと己を縛しているかのようである。夏祭り。今宵それが裏山に門を構える神社で催されることになっていたのだ。


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艦娘たちは夜の楽しみにそわつき浴衣をかぶりながら辺幅を整えていた。袖を通して衿を左前か右前かに迷う娘、振袖風のたもとに財布や小物を詰め込んでぶんぶんと振り回し腕に巻きつけ遊ぶ娘、帯を巻いたあと背縫いの線が曲がっているのではないかと己の尾を追い回す犬のようにぐるぐると鏡台の前で回る娘。とかく騒々しい。

鎮守府の責任者である男は黒い浴衣を着せられ、色とりどりの艦娘に追い回されたり引きずられたりしていた。艦娘たちも昼の出撃や遠征で疲憊しているはずであるが、今はその肉体の重さを愉快の情で動かし回すことに充実を覚えているようだった。

白雪にしても仲間たちからの夏祭りへの誘いを断るなんてこともなく、白雪のあり方に従い快諾した。

吹雪型の部屋も鎮守府全体の浮ついた感じを受けてちょっとした騒ぎであった。

早く早くと急かす深雪の着崩れた萌黄色の浴衣からは卯の花のようにちらちらと白い下着が露出する。ただの下着ならまだしも今は浴衣用の肌襦袢にステテコ状パンツであったので、おじさん臭くて見栄えが悪い。

それを見咎める叢雲はというと、たかが夏祭りにしては格調高すぎる気もする加賀友禅染めの五彩に輝く精緻な自然文様の浴衣を着付け、今はコーリンベルトの位置に苦戦している。普段の彼女は白ワンピースなどの洋服に着慣れているので、いざ和装となると必要以上に気合が入るようだった。

初雪は浴衣なんて面倒だからジャージでいいよと頑なであり、傍では少し必死に説得を試みる荒磯文様の藍浴衣に身を包む磯波もあった。気の弱い説得では怠惰な腰を浮かすには不足であるようだったので、白雪も涼しげな露草色の浴衣を勧める。それならと初雪はジャージを脱ぎ出した。

一斤染めの雪輪文様に彩られる浴衣をぴしりと既に着付けた吹雪が場を一旦まとめようとする。真面目であるが、お節介好きとも印象づけられるその指揮は何か人情味のある甘えを許すようであったので、騒ぎは収まるどころか、ちょっとばかし困らせてやろうと皆に思われ火に油を注ぐ結果となる。

こうした戯れ合いはもはや日常的であり、この各々が好き勝手する乱雑さの中にこそ仲間内での秩序があった。

白雪は流水に下る牡丹とあやめの艶やかな柄ゆきをのせた白綿絽の浴衣を藤色にぼかし染めされた麻帯で結びながら、彼女達の乱痴気を中立的に微笑んで眺めた。それが白雪のおさまるべき役であった。

彼女達を放っておくと準備が滞るので、白雪は皆の注意を浴衣から足袋に向かせる。足袋を履かずに草履下駄を鳴らすならば、鼻緒擦れで後日ひどい痛みに苛まれるぞと脅した。すると水を打ったようになるのも束の間、それは大変と箪笥をひっくり返す娘と素足の方がいいと痛みを堪える覚悟の娘に分かれて準備を続けた。

白雪は空のティアラであった。仲間達はみんな白雪を上品な優等生とみなし一目置き、時折ふと光の深淵の如く己らの理想でいて欲しいと甘えることがあった。

会話途中ふいに仲間うちで何かの優劣が問題となると、誰からともなく「白雪が一番だよね」「うんうん」とすぐさま統一見解に至り、それで全ての解は出たと言わんばかりに問は忘れ去られた。「お前たちの中で一番綺麗なのは誰か」「白雪」。即答。

もちろん白雪も人並みに笑ったり馬鹿をしたりするのだが、八方の折々で熱を知らぬ富士の冠雪の如き振る舞いをせねばならなかった。白雪に不満はない。白雪はこの綺麗なものとして鎮座する生き方にもはや親しくさえあった。

鎮守府を出て、会場となる境内に上る石階段を下駄で打ち鳴らす頃には、裏山の天蓋も夕赤みの残滓をただ幽かに残すのみのぼやっとした濃紫となっていた。麓から見上げると月が山頂に重なるようであり、月のさやかな光の下、赤い鳥居から暖色の灯りが陽気な響きと共に漏れ出してくる。

騒ぎの熱気に晒されたぬるい夜風が前髪と袖を揺らす。夏草の青っぽい香りと水気を含むその風はいよいよ祭りであるのだと白雪らを舞い上げ高揚させた。

鳥居をくぐると、裸電球をぶら下げる屋台が拝殿へ続く石畳の道の両側に沿ってあり、その中空ほどには窮屈そうにひしめき合う屋台を煽るかのように提灯が複雑に交差している。

炭の香ばしさに乙女たちの四味臭が充満していた。拝殿前の広場にある舞殿は紅白幕で覆われやぐらとして利用されており、今はアイドルがポップな音に合わせて腰をくねらせ踊っていた。

祭りの灯りは明瞭さではなく、煙のような陰の曖昧さが目的のようであった。人工的な陰がそこらに至っていた。夜伽の睦言を促すように眠たげに揺れる提灯と裸電球は陰を伸び縮みさす。しかし、その影踏みに興ずる娘たちはというと、いかにも清純な無邪気さで笑っていたりするのだった。

主計学校時代に白雪は海兵たちの西洋風へと変化する嗜好に合わせた料理を学ぶために当時最も文明的とされたウィーンに留学したことがあった。瀟洒な地下カール広場駅から出るとカラッとした太陽が眩しく、オットー・ヴァーグナー印のマジョリカハウスの絢爛たるファサードが立ち並ぶリングシュトラーセに圧倒され、またザッハー庭園に集まる人々の風通しの良い議論雑談に好感を持ったものだった。

白雪にとって特に印象深かったのはセセッシオン、その象徴とも言われる金箔の月桂樹の大きな球、通称「金のキャベツ」とも称されるそれが白雪のお気に入りだった。白雪特製カレーに不可欠なスープストックとソフリットにふんだんにローリエが使用されるのは、その葉を見ているとあの可愛らしいキャベツを思い出すからというのも理由であった。

その白雪が夏祭りのくすんだ黄金の情景にクリムトの『接吻』を重ね見たとしても不自然ではなかった。男女の交わりを黄金に粉飾し宗教的な崇高さを示す、快楽と形式を合致させる試みであったユーゲントシュティールの理念に触れた白雪は祭りの情景に何か「審査」を通過させるためだけになされる疚しさの窮屈な美化を認めた。自ら禁圧を求める倒錯的な官能性。愛を囁くには含羞からか戯れを必要とし、またその戯れの理由に廉恥からかある真剣さを欲する。

誰も彼もが愛を愛として囁けず遊びを純粋に遊べない屈折を持っており、その憚りの臆病さを妥当だとする祭りの雰囲気に、白雪は何か罪の意識を覚え、己がここにいることを疑った。

立ち留まる白雪を置いて深雪が仲間連を領導するかのように先を進む。祭り巡りの前に屋台の内容を確認し、楽しみの効率を検討するようだった。この祭りは良い頃に花火を打ち上げるとのことだったから、その前に落ち着いた鑑賞の態勢を得ようというわけである。

本当に打ち上がるのかしらと叢雲が冷笑的に突き放す調子で言った。花火は明石と夕張が製作するとのことであったが、彼女達は玉屋でも鍵屋でもないので、作業は難航の様子であった。ここ最近の工廠へ行けば工具が散乱する狭い一室、二人が折り重なるような三尺寝にて無防備に晒す白い腹を見ることができたりしたものだった。

花火に関する進捗の事情をそうした場面から汲み取るしかない艦娘にとって、花火が現実となるならぬという懸念は当然であったし話題になるのも自然であった。叢雲がその口火を切ったのは、叢雲が花火に抜きんじて夢想を施していたからかもしれない。

叢雲自身は花火への憧憬をあかぬけに覆い隠しているつもりであったが、そこには花火をかぶりつきで眺めたいという「花火に叢雲」と揶揄されてしまいそうな熱心さと勢いがあった。吹雪が明石さんと夕張さんなら大丈夫と叢雲をなだめる。そうならいいけど、叢雲は飄然と慰められた。

深雪はフランクフルトや焼きそばの屋台を確認しながら歩き、初雪は金魚掬いや射的などといったゲーム性の強い屋台に関心を示していた。彼女達の間では夏祭りの景色も大きく異なるのだろうかと白雪は思った。

白雪はある時に響から聞いたエヴェンキ族の話を思い出した。シベリアの隅に住む彼らにとって虹は信仰の対象であり、部族のシャーマンは虹と蛇を意味するクリン・ジャブダルというリボンを帽子につけており、病人に護符として渡すという。彼らにとって虹は天への架け橋と同時に人との絆の象徴でもあるのだが、そんな虹を彼らは青と赤にしか見ないと言う。

白雪が驚くとともに怪訝な顔をするので、響は世界が人間悟性の分解能によって形成されるという一般論を持ち出して彼らにとって虹は蛇の形をしていればいいんだよと付け足した。信仰にとって神様が無駄に色気付くことほど厄介なこともないよ。神様はやっぱり純粋無記の白い板じゃないとね。

響は捨象に好意的であったから、「雑草という名の草はない」という箴言にも難色を示した。そこにレモンを甘いとするが如き過剰な肯定を認め、また何か倫理的な自己満足の嫌な感じを受けたようだった。

白雪は響に幾らか共感した。だから、今響が第六駆逐隊の成員として初雪と並んで金魚掬いに興ずる様子に戸惑いを覚えた。捨象を許す者が金魚掬いを楽しんではならないという道理はない。しかし、白雪は初雪と掬った数を競い合う響を目前にして動揺せざるを得なかった。

何か己に風花淋漓たる可能性を見た気がした。白雪はそれに悪い感じを持たなかったことに驚いた、いや実際にその驚きに実感があったわけではない。事実白雪の肉体から生起する感情はその可能性を当然のこととしてほとんど無関心でさえあった。ただ白雪の精神だけが畏怖驚愕せよと言っているようであった。

白雪は金魚掬いから目を逸らすと艦娘たちにもみくちゃされている黒浴衣の男を視野に捉えた。艦娘たちは金剛を筆頭にして男の腕を引っ張ったり、たこ焼きを息で冷まして食べさせようとしたりしていた。

艶かしく体をくねらせ声に甘い科を作って媚び寄る乙女たちは柔らかで優しい印象ながらも男が逃れようとすると、率然、常山の蛇の如き隙のなさを見せる強かさがあった。

男はいずれが菖蒲か杜若かと困難な選択に迫られている様子で目を白黒させていた。「かきつばた」と言えば、折句を学んだばかりの学生時代に乙女たちが文化的な略語として冗談めかして言い合っていたのを白雪は覚えていた。

だいたい女学生が授業に学んだ語彙を日常に使用する場合、それが男主体のものであっても女の側から再構成された意味を帯びた。「あなた、かきつばたの気色ありね」と言う時は、もっぱら相手の失恋を聞き出そうとする時や叶わぬ恋だからと婉曲的に諦めを促す時であった。

助け舟として白雪は黒浴衣に声をかけようとするも、己のあやめも分かぬ浴衣袖を摘んで歩みを止める。袖のつまは、きなれていない感じでまだ確かな張りがあった。

吹雪がぱたぱたと男のもとに挨拶へ向かった。吹雪の裏表ない素朴の感じに男は少し安堵の表情を見せた。彼は艦娘の活力に好意的であったが、やはり人の身、艦娘のペースから早くも落伍気味の疲れ身であった。

初雪が手首にさげたビニール袋の中に泳ぐ金魚を白雪に見せてきた。赤い金魚の中に一匹だけ黒いものが混じっている。スイミーにでもなるのと聞いてみたら、ならないと返された。初雪は金魚くらいには単縦や単横などと全体を気にかける必要のない自由の幻影を認めたいようだった。

磯波がぶらぶらと戻ってくる。磯波は仮面の屋台や福引の抽選場を興味深そうに眺めてみたはいいが、やはり興味沸かずといった様子であった。没頭への期待は裏切られ、祭りを楽しむ機会を失した状態。展示を物珍しげに眺めることは出来ても、行為の動機には不十分な刺激しか得られない故の磯波の手持ち無沙汰は白雪に同胞意識を芽生えさせた。

白雪は初雪と磯波に取り敢えず食事だけはしっかりしておこうと提案した。今夜の夕食はここで済ますことになっており、既にフランクフルトやりんご飴を食した腹であったが、まだ夜中に空腹に苛まれる不安があった。

夏祭りにおける屋台の食べ歩きには一種の孤独感が付きものであった。祭り後のいつもより一層ひそやかなる夜に一人だけ飢えで目が冴えてしまうことへの恐怖が一つの原因である。克服は満腹によってのみなる。

しかし、祭りの渦中にある時は何も食べないでいいという気分にもさせられる。それは祭りの愉快に心奪われ空腹を気にする余地もない飽和のためか、お祭り価格というものに何かしらの経済的損失を感じる吝嗇のためか理由は人によりけり。

白雪にとって飢餓への不安も漠然とした損失への嫌悪も未来に根ざしており現在のものではなかった。行為の是非のどちらもが観念的であった。青写真は行為の動機になりえなかった。

屋台巡りの孤独とはつまり虚しい観念どもの独り相撲を背にして己が恣意のみを頼りに行為を生み出さなければならないという定言風の必要に起因しているようだった。状況を見て行為を正当化してきた白雪には難しく思われる案件である。

もちろん何の気兼ねもなく屋台を巡る娘もいて、深雪などは焼きそば、お好み焼き、イカ焼きに焼きとうもろこしと諸手をあげてかろうじて支えているような有様であったりもする。

白雪たちはそうではなかった。殊更に食べたいと思うものもない。しかし、飢餓による覚醒の、己を唯一の悲劇役者としてみなす自惚れも否めない、心細さも確かであり、食事を互いに示し合うように済ましたいという思いがあった。

たい焼きやかき氷といった屋台は留保され、重く腹持ちの良いものが望まれた。焼鳥屋を見つけると、食べ歩きに便利で良いと頷きあった。その大きな屋台看板「海鷲の焼き鳥」の下では、ハチマキを巻いた瑞鶴が加賀の前に七輪をどんと据え、これみよがしにウチワを叩いて黒い煙で加賀をずいずいと燻していた。

加賀が今にも瑞鶴を屠殺せんばかりに柳眉を逆立てるのを見て慌てて祭り実行委員の翔鶴が割って入る。瑞鶴の焼鳥屋は退去を余儀なくされた。瑞鶴は泣いた。赤城は焼き鳥を貪っていた。有志の艦娘たちが祭りを準備していたりするので、こんな事態もありうることであった。

結局、浦風の営むお好み焼き屋、ではなく、その隣にある龍驤のたこ焼き屋で済ますことになった。瑞鳳が手伝うたこ焼きは明石焼きに近いものであって、鶏卵ベースのふわふわした黄色い生地から真っ赤なタコ足が飛び出している。すすき色のだし汁につけて食べるので、舌に赤猫の這う心配もなく、あっさりした味わいであった。

射的屋には叢雲がおり、コルク弾を詰めた銃口を揺らして目を眇めつつ景品に狙いを定めていた。間の抜けた射出音。ぬいぐるみに着弾。軽い音を立てて弾がはじける。ぬいぐるみ微動だにせず。ちょっと! これ釘でもいれてるんじゃないでしょうね! 至誠に悖るなかりしか! この長門がそのような卑劣を許すはずがない、ただビッグセブンの装甲が伊達ではないだけだ。叢雲は硬貨と引き換えにコルク弾を追加した。弾を詰めると浴衣がはだけるのも気にせず構え直す。意地でもぬいぐるみを取るらしかった。

磯波が白雪に射的をしないのかと尋ねてきた。改まったその確認は白雪にある印象のせいであったのかもしれない。確かに白雪は弾幕というのに快い興味を持っていたが、それは必ずしも引き金を引きたいという欲求に結びつかなかった。

敵を追い立てて弾着がぐんぐん伸びていき、風を切る音も遠くへと、海を白く吹き割る着弾のそびえた衝撃波が鯨鐘の響きのようにのんきに間延びしていく調子が白雪は好きだった。積水を千仭の谷に決するが如くに、大質量が意識外へ引きずり込まれ、存在の影が手を振り去っていく感じは白雪に催眠の恍惚を与えてくれるものだったのだ。

遠のく味方弾幕は白雪にとって平仄も合わさった暗幕も下るような子守唄であった。それゆえ、白雪は射的の軽くて近い響きに魅力を感じなかった。磯波の提案をやんわりとのけて、綿菓子を食べようと提案した。

屋台では北上が割り箸を回し、電と雷に綿菓子を手渡していた。白雪たちが注文するとやはり面倒そうな表情を見せ、回転釜から吐き出される砂糖の糸を割り箸で手早く絡め取った。手作りの綿菓子は市販品とは異なり、綿というよりカイコの繭のようである。柔らかさにもムラがあり、ずっと単調なものより飽きにくいようであった。

白雪は指先に綿菓子がついてしまっていることに気付いた。指を合わせてこすってみても、粘りは落ちそうもない。そろそろ花火も上がるんじゃないかと吹雪と深雪が合流する。白雪は砂糖のベタつきがどうしても気がかりだったので洗い落とそうと決めた。吹雪がどこに行くのかと聞いてきたので「はばかりに」と答えた。

拝殿から少し離れた所の手水舎に至る。茶色く変色した乾いた竹から柄杓を取り、指先に水をかけて洗う。滑りで指先から砂糖を根こぎにできない感じに少し苛立つ。指先から顔を上げた白雪は舞殿を見た。

今の演目は歌や踊りではなく、帆布に描かれた海戦模様を雑色の光線で照らすだけの「つなぎ」であった。一応、キネオラマと題されているが、演目だとも知られず誰も立ち止まらせない海戦は風に揺られて色彩加減が朝夕の間に低徊し東に西にと太陽を振り子のようにして時間的に停滞していた。

白雪は鎮守府に配属されて間もない頃にあったタンカー護衛任務を思い出す。艦娘たちは護衛任務などの場合には夜半その船で休息を取らせてもらえることがあった。深海棲艦は基本的に昼に遭遇して状況により夜戦まで長引くというのが一般であったから、特殊な海域でもなければ夜に出会うことはないと随分気楽なものであったのだ。

白雪も何度かその厚意に甘えさせてもらったことがあり、白雪が記憶している中でも特に潮騒も優しく穏やかな夜、タンカーの甲板にて船乗りたちと見た恐怖映画があった。その時の同伴艦は暁であったので、船乗りたちに父性的な悪戯心が芽生えたらしく、いっちょ怖がらせてやろうと甲板に棒を突きたて白い帆を張って彼らは簡易的な劇場を作ったのだ。

して、その鑑賞の結果はというと、何とも不思議な気分であった。誰も恐怖を示さなかった。大海原にある一隻の輸送船。夜空は満月と満天の星に彩られ、紺一色の海は光の破片をいぶし銀に揺らしていた。見渡す限りでの水平線は境目をなくしており、海も空もなくただ世界に抱擁されている印象を受ける。舷側を過ぎていく波の音ももはや前進を示唆せず、ただ何か無限に崇高なものを感じとらせるのみであった。

我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまないと誰かが自然につぶやいても不思議ではない環境において恐怖映画は全くの無力であった。あらゆる我執から解放されたような晴れた気分で臨まれては貞子も恐怖を教えようがなかった。

白雪たちは貞子を芸術品でも眺めるような観照的態度でもって観察した。スクリーンの帆が潮風に揺れて膨らむと、まるで貞子の白ワンピースの裾がまくれ上がったように見えた。船乗りの誰かがそれをマリリンモンローだと称したので、一同は爆笑した。何がそこまで面白かったのか、白雪と暁を含む皆が腹をよじって大笑いしたものだった。

白雪はふと冷たい思いをした。無意識のうちに手を洗うことを続けていたようで、白妙の袖を濃く濡らしてしまっていたようだった。白雪は柄杓の柄を洗い流して置いた後、袖を手ぬぐいで拭いてみたが、依然と冷たいままであり、少し揺らすと広い袖口は断続的に手首を掠めてきて落ち着かない感じにさせられた。

白雪は濡れ袖を抱えて、努めて暗い往来を選んだ。濡らした袖は何だか浅ましく思われたのだ。拝殿の奥は屋台も人通りもなく、ただ本殿の白亜の壁がかがり火によって明るく照らされていた。

かがり火に小走りで寄って、袖を炎にかざした。松割木がパチパチ音を立てて黒くなっていき、白い灰が黒い煙の中を埃のように舞っていた。静寂の中、霧島と青葉の声がどこからか聞こえてくる。実行委員の事務的な会話らしく、祭りの電源はここのキュービクルから引いているのだが、ちょっと古いらしく真空遮断機の調子が悪いとかいう味気ない内容であった。

白雪はふと現実に引き戻された感じを受けてちょっと意外であった。何だかんだ白雪もちゃんとお祭り気分を味わっていたのだ。しかし、失ってから気付いても遅くその気分を改めて楽しむことは出来ない。白雪は目の前のかがり火にわびしさを感じた。

白雪にとってかがり火の最も形相的な心象は宮内庁が管轄する長良川の鵜飼であった。千年以上の伝統を持ち芭蕉やチャップリンも賞賛した鵜飼に燦然と輝くかがり火。その猛々しさと誇らしさといったら、これこそかがり火だという思いにさせられた。それが目前のかがり火には全くないようだった。同じかがり火なのに何が違うのだろう。

霧島と青葉の声。じゃあ安全のために一応明石さんか夕張さんを呼んできますか。いえ、彼女達はもう花火の最終調整のために下に降りています。では、花火ということで電源を落としてみますか。などと軽く言いながら気配は遠のいていった。

白雪は濡れた袖を摘んでみた。まだ湿っていた。そもそもこの喧騒の隅に追いやられたかがり火の熱では袖を乾かすにも不十分なんじゃないかという気分にもなった。袖を再び抱える。本殿の脇に目立たない小道が続いているのに気付いた。白雪は行くあてもなくその道に下駄を鳴らした。

道の頭上は厚い梢草に覆われており真っ暗であった。然るに、白雪は特に不便もなく進んでいく。木立にぶつかりそうな気もするが、どうしてか避けて通れる。昔、モンシロチョウをケージに入れてその下板の上に色とりどりの紙を置いてみたことがあった。チョウチョはどの色が好みなのか気になったのだ。チョウチョは緑の上にいることが多かった。これを葉っぱだと勘違いしているのだと考え白雪はバカだなあとそれを可愛がった。

ある日チョウチョは実際の葉っぱを前にすると緑紙なんて目にもとめないことを知った。モンシロチョウははっきりと虚実を判断していたのだ。チョウチョでさえもそうならば人間にも何か暗闇の中で虚実を判断する第六感があってもおかしくないのかもしれない。危なげなく歩を進めていると開けた場所に出た。

そこでは名も知らぬ神を祀る小さな末社が月明かりに白く照らされていた。驚いたことに既に先客があり、黒浴衣の男が向拝下の小さな階段に腰掛けていた。お互いに存在を認知し合っているのを白雪は感じた。引き返すことはできない。できないので、前進し男に近づいていく。

黒浴衣の横に静かに座る。会話はない。挨拶の素振りさえも互いに示さなかった。白雪も男もそれに何か気兼ねする様子でもない。こうした沈黙を許しあう関係とは何だろうと考えても白雪には分からないが、無関心ではなさそうだと思った。

白雪は濡れた袖を月明かりに透かして見た。あやめ文様がいよいよ濃く浮かび上がってくるようだった。男が白雪に飲みかけの缶コーヒーを渡した。苦い。ブラックだった。それでも喉が渇いていたので、一気に飲み干した。缶を置く。

ぶらぶらと袖を揺らしていると遠くからコミカルに落ちるような間抜けな打ち上げ音が聞こえてきてパンと鳴った。花火が打ち上がっていた。随分と歪な円であり、未練がましく火花が宵闇に残り続けるような花火だった。白雪も男も打ち上がる花火を上向いて眺めた。白雪のぶらぶらと袖を振っていた手は男の浴衣袖を密かに摘んでいた。

呉の藍。優しく消えゆく赤橙の花火は、仄かに彼らを紅く染めるようだった。白雪はなつかしき色ともなしにと思えど、黒い浴衣袖を放すことはしなかった。喧騒よりも近くに感じる花火の咲く音は白雪にとってあの心地よい音色に近かった。しかし、白雪は眠る気にはならない。きっとブラックコーヒーのせいだった。


おわり

>>13
拝殿の奥→境内の奥

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