兄「ばってんじるし」(39)

午後九時。
とある大学生が住むアパートの呼び鈴が鳴らされた。

「どちらさまですか」

彼はドアの小窓で相手を確認することもなく、あっさりとドアを開いた。
そこに立っていたのは十代半ばの少女。

「こんばんは」

笑う少女を見て、青年は信じられないように呟いた。

「……妹、か?」

青年は少しだけ迷う素振りをしたが、とにかく中に入れることにした。
十二月の夜の空気によって少女が震えていることに気づいたからだ。

「覚えていたんだね。かれこれ十年は会ってなかったんじゃない?」

「お前は目が大きかったし、泣き黒子があるからな。ギリギリ覚えてた」

「それは良かった。忘れていたらどうしようかと」

「むしろ覚えているほうが驚きだよな」

「確かに」

長期間離れていたブランクがあったとは思えないほどの会話。
少女はくたびれたボストンバックを部屋の隅に置いた。

「というより」

「うん?」

「お前、生きていたんだな」

青年から出された暖かいお茶が入ったコップを両手で包み、少女は微笑む。

「うまく逃げられたからね」

「…そうだったのか」

「それからは親戚の一人暮らしのじいちゃんのところにずっと身を寄せてた」

「学校は?」

「戸籍もないのにどう通えと」

少女はふぅふぅと息を吹きお茶を冷ます。
それを青年は複雑そうな表情で眺めていた。

「…悪いな」

「何が?」

「なんか、こっちは学校行ってるのに」

「気にすんな。私だって、今からでも警察行けば戸籍ができるだろうさ」

舌をお茶にいれてみて慌てて引っ込める。
まだ熱かったようだ。

「なんでしないんだ?そのじいさんは何も言わなかったのか?」

「じいちゃんは何も言わなかったよ。色々考えてはいたんだろうけど」

ことりとコップをおいて目の前の青年を見つめる。
青年も少女を見つめ返す。

「本当はじいちゃんが死んでから警察行こうと思ってたんだけどね」

「じいさん、死んだのか?誰か知らないが」

「あんまり人付き合いなかったからね。老衰でなくなったよ」

「そうか」

恐らく少女はその老人に迷惑をかけまいとしたのだろうと青年は考える。

仮に生きている内にそんなことしたら保護者責任やらなんやらでその老人がひどい目に合うのは目に見えて分かる。
そもそも、学校に通わせていないのだ。
事情が事情とはいえ強く世間からバッシングされてしまうことだろう。

だから彼が死んでから警察に行こうとした。

「でも、行ってないよな?」

「行ってないね」

「なんでだ?」

その質問はちょっと困るんですがねぇと照れ笑いしながら少女は言った。



「まだ保護はされたくないの」



「これから人殺すつもりだから」

あっけからんとした答えに青年は一瞬言葉を失った。
ちらと側にあったこの部屋の少ない娯楽品のひとつ、ラジオを見やる。

「……性格は父親似になったか」

「やめろ」

先ほどとはうって変わった強い命令口調。
少女の口元からは笑みが消えていた。

「あの女と男が嫌いなのは、兄ちゃんも分かるだろ」

「そうだな。すまん、迂闊だった」

無理もないかと青年は思う。
十年以上前、彼らの両親は自分の子供に虐待を重ねた上に蒸発した。
あんなの、愛しているという人間のほうが異常だ。



彼の謝罪に少女はハッとした顔になる。

「…ごめん、私も思わず感情的になっちゃって」

「いや」

気まずい沈黙。
青年はラジオに手を伸ばしぱちんとスイッチをいれる。
最近流行っている曲が流れ出した。

「そうだ妹」

「なに、兄ちゃん」

「お前のことなんて呼べばいいんだ?」

「あー…」

少女は視線を空中に泳がせた。

「決まった名前はないんだ」

「…じいさんには何て呼ばれてたんだよ」

「おいとかお前とかかな。私も特別名前を欲しくはなかったしね」

どうやら積極的に外で活動するなどはしなかったようだ。
決まった名前はない、ということはその都度偽名を使っていたのか。

「俺はミドリって名前なんだ」

「ほー、ミドリね。良い名前じゃん」

「そりゃどうも」

「色つながりでアカネとかアオイとかどうだ?」

「……何の話?」

「何って。お前の名前だよ」

わけわからん、といわんばかりのぽかんとした顔。
青年は妹にお茶を注いでやる。

「…アカネかアオイ、ね」

「ああ。好きな方を選べ」

「アカネ。うん、アカネにする」

「そうか、分かった。お前は今からアカネだ」

「私はアカネ。おっけ、良い名前」

兄妹は初めていっしょに笑いあった。

午後十時半。
ラジオはニュースを流していた。

「今日は泊まっていけよ」

「優しいね」

「こんな寒い日に女の子、しかも妹を放り出す鬼畜がどこにいる」

「じゃあさ、お風呂借りていい?」

「おう。洗濯機も俺のと良いなら使え」

少女は礼を言いボストンバックから下着を取りだして、少女は浴場へと歩いていった。

今夜あの少女をこの狭いアパートのどこで眠らせるか思考しながらラジオに耳を傾ける。

『では次のニュースです』

『今朝、○○市で現在捜索願が出されている男性と見られる遺体が――』

キャスターの滑らかな喋りから出てきたのは地元の名だった。

「……」

青年は立ち上がり、少女のボストンバックを開けた。
財布、着替え、小学生低学年から中学年向けに書かれた文庫本。
それらの中に丁寧にタオルで巻かれた何かがあった。

持ち上げて観察する。
少しだけタオルを上にずらして出てきたのは、

「マジで言ってるのか、あいつ」

ナイフの刃――だった。

ナイフを元通りにしまう。
詳しい話を聞くのは明日でも構わないだろう。彼女がまだここにいたらだが。

ラジオを切り、手近にあった少年雑誌を拾い上げた。
と。

「兄ちゃん」

振り向くとずぶ濡れの少女が立っていた。

「タオル、どこ」

濡れた真っ黒なロングヘアが蛍光灯によって怪しく輝いている。
白い肌は熱いお湯に触れたためにほんのりと赤みかがっていた。

それだけならば欲情的な光景だった。
大理石で作りあげた彫刻のごとく美しい体を少女は持っていた。

しかし、その白い肌を埋めるのは無数の傷痕。

細い肩に、小さく存在を主張する乳房に、引き締まった腹に、均等のとれた太ももに、様々な傷が存在していた。
無事なのは顔だけだ。

「そんな格好で出るなよ」

無表情で青年は腰をあげ、バスタオルを探しに行く。
その後ろを水滴を足らしながら少女がついていく。

「無かったんだもの」

「ちゃんと探せばあるはずだ」

浴場に行き、棚の扉を開けてバスタオルを取り出す。

「ほら」

「分かるわけないよ。人ん家なんだし、開けるわけにはいかないし」

「まあそれもそうか」

そのまま少女の頭にバスタオルを乗せわしゃわしゃとかき回す。
ひゃーと嫌がっているのか嬉しがっているのか分からない声をあげた。

昔は、あの日までは彼らはいっしょに風呂に入れられていた。
あがる度にこうして髪を乾かしてやっていたことを思い出し、青年は小さく口元を曲げた。

「…大きくなったな」

「なに今さら」

「あんなちっこかったのに」

「そら成長するよ。生きてるんだしね」

「そうか。俺ら、生きているんだな」

「うん」

再びの沈黙。
だが、それは先ほどのような気まずいものではなく、ば暖かいものを含んでいた。

休憩

あと言い忘れましたけど、ディープなエロとか兄妹恋愛はありません
期待させていたらすいませんでした

午後十二時近く。

布団をひき、そこへ少女を誘導した。

「お前はここで寝ろ」

「兄ちゃんは?」

「予備の毛布あるから。疲れてんだろ」

「兄ちゃんだって疲れてるんじゃあないの」

「明日休みだからいいよ」

「じゃあほら」

布団の半分に潜り込んで、空いているスペースを叩く。

「いっしょに寝よう」

「やだ。狭い」

「寒いからいいじゃん!暖かいよ、きっと」

仕方なく横に寝てやる。
少女はご満悦そうだ。

「やっぱり暖かい」

「やっぱり?」

「覚えてないの?兄ちゃん、私とよく寝てくれたじゃん」

「ああ、思い出した」

冬は毛布を一枚しかくれなかったために幼かった兄妹は身を寄せあって眠っていた。
少女はそのことを言っているのだ。

青年にとっては死すら覚悟した冬の寒さはトラウマ当然で、あまり思い出したい代物ではない。
ただ久々に感じる人のぬくもりは心地よいものではあった。

暗闇は大丈夫かと聞いてから電気紐を引っ張る。
豆電球がぼんやりと部屋を照らす。

「兄ちゃん」

アカネと名付けられたばかりの少女が青年の胸の中で小さく呟いた。

「ん?」

「私が人を殺したらどうする?」

「そうだな…」

どうしようか。

警察につき出すのか。
それとも黙って見逃すのか。

どちらもあり得る選択肢で、どちらも取りたくない選択肢だ。

眠りに落ちる寸前になんとか言葉を口に出す。

「その時考える」

なんじゃそりゃ、と呆れた声がした気がした。

――

翌朝、午前七時。

目をさますと隣にいたはずの少女がいない。
黙って出ていったかと慌てて起き上がって探すと、台所に少女が立っていた。

「あ、おはよう」

エプロンこそしていないが、髪を後ろにまとめて器用な手つきでネギを切っている。

「ごめん、冷蔵庫の勝手に使ってる」

「構わないけど…作れるのか」

「じいちゃんのところにはただ居候していたわけじゃないよ」

家事全般は出来ると、少女は自慢気に笑った。
俺も出来るんだがなとは青年は言わないでおいた。

朝食をとった後、今日これからの用事について語り合う。

「もうちょっと、ここにいてもいいかな」

「おう」

青年としても今まで意識の隅にずっとちらついていた存在が目の前にあるのだ。
簡単には手放したくない。
あとはこの町に来た理由と人殺しをする理由を聞き出しておきたい。
一応それとなく事情だけは聞いておいて対策を練ったほうがいいだろう。

今は切迫した顔色ではない。
まだ行動に移す予定ではないのかもしれない。

「いるなら買い物付き合え。お前の服とか日用品も揃えよう」

彼女の持っていた大方の服は外に置いてある洗濯機に放り込んできた。
しかし枚数が少ないため雨でも降れば着るものがなくなることは明白だ。

「お金は?」

「奨学金とバイト代と伯母さんからのお金で余裕だ。そんな遊ばないし」

「……兄ちゃん、友達いないの?」

「うるせぇ」

露骨に目を逸らしたことを少女は見逃さなかった。

頑張れよ

しかし『友達』がいないのは少女のほうも同じだったりはする。
うっかり自分の経歴を話してしまいそうなので敢えて人付き合いは避けてきたから。

ただ学校という同世代の人間がいる中でなぜ友達が出来ないという状況が発生するのかは不明だったが。

「まぁ兄ちゃんに友達いないのはどうでもいいとして」

「いや、少ないけどいるからな」

反論は聞き流される。

「じゃあ、ちょっと甘えさせてもらおうかな」

「おう」

少女は恥ずかしそうに笑った。
そして何かに気付いた顔をする。

「…あ、なんだかんだであの時の約束は叶ったんだね」

「約束…ああ、あれな」

意識したわけではないが自然に声がハモった。

「「みんな仲良くお腹一杯ご飯が食べたい」」

あの時はとにかく空腹だった。
見えない未来に希望を先回りさせておかないとやっていけなかった。

「あの時の俺らは健気だったな」

「まったくだよ。健気だったね」

「平和になったもんだ」

「そうだね」

「でも最近はここら辺殺人事件が起こってるらしいが」

無意識に言ってから気付いた。
突然帰ってきた妹。人殺し宣言。ナイフ。

ちらりと少女の表情を伺う。

「ねー、物騒だよ」

青年が自分を見ているとは気づかず、放置されていた少年雑誌に興味を奪われたらしい。

「通り魔らしいな。共通点がないみたいだから」

「そうだね。でも今回は違うと思うよ」

雑誌をパラパラと捲りながら少女は続ける。

「通り魔は通り魔でも、目的を持っているはず。今回はね」

「……?」

言っている訳が分からない。
少女は兄の顔へ一瞬だけ視線を移動させ、再び雑誌へ目を落とす。

「今までも通り魔あったじゃない」

「あったな」

「あれ全て同一犯、のはず」

「嘘だろ!?」

思わず身を乗り出した。

「ほんとほんと。曖昧なのはひとつぐらいは便乗犯がいるかもしれないから」

「いや、でも断定したよな。同一犯だって」

「それは」

少女はふいに時計を見上げる。
つられて見れば十時前。

「買い物いかない?」

と、少女は言った。
それまで話していたことをすっぱり切って。

「これはまた夜に話そう。これからだってまだ話せるんだから」

「…分かった」

落胆していないというのは嘘だが、また続きは話してくれるらしい。
話をやめたのは恐らく今は話すような気分じゃなかったからだろう。
朝だから、とかそんな理由で。
気分屋なところは変わっていなかった。

午前十時過ぎ
近くの服量販店に来た
開店したばかりなので客はまだ少ない

「まあなんか選んでこい」

「おおー」

カゴを持たせて走り去った。
女の子の服選びは長いと聞くので辛抱強く待っていようと青年は思う。

が、五分後。

「選んだ」

「いくらなんでも早すぎるなオイ」

地味なパーカー二着とズボン。
そういえば今少女が来ているのも少し地味かもしれない。

「もっと可愛いのにしろよ。フリフリしたやつとか」

「…似合わないよ」

唇を尖らせてそっぽ向く。
やれやれと青年は息を吐いた。

「似合う似合わないは着て見なきゃわかんないだろ」

「でも私、何が合うか…」

「めんどくせぇ、ちょっと来い!」

数十分かけて五着ほど選び試着室に少女を放り込んだあげく三着に決定した。

「めんどくさいのはどっちだ……」

青年がレジに行っている間、少女は疲れた顔をして呟いた。

「ほれ、これ持て」

「分かったよ」

仲良く横に並びながら量販店を出る。
十時もとうに越したので町は賑やかになってきていた。
散歩するひと、走るひと、急ぎ足で歩くサラリーマン。
近くで殺人事件が起きたなど思えない長閑さだった。

「近くにスーパーあるからそこいく」

「あいさー」

「車あればもっと大きなスーパーいけるんだけどな。あいにく無いから」

「車かぁ。乗ったことない」

すぐ横を走り抜ける車を見やりながら少女は言った。

「ないのか」

「うん」

「……ちょっと待て、お前どこから来たんだ?」

「秋田」

お米がおいしい。

「ここは?」

「神奈川」

有名なのはタイヤ工場。

日本海沿いから太平洋沿い。

「……」

「……」

「はぁ!?そんな遠くから何で来たんだよ!」

「何って…徒歩で」

さらりと吐き出されたその言葉に青年は急な立ちくらみに襲われた。
新幹線でも数時間かかるところから徒歩で。

「…なんで徒歩で来たんだよ…」

「事情が事情でね。それに私は路線図なんて見てもちんぷんかんぷん」

事情とはなんのことなのか。
青年が聞いても適当にはぐらかされてしまった。

十年という月日はやはりそれなりに溝を作ってしまっていたらしい。

正午前。
スーパーから帰ってきてそろそろ昼ごはんを作ろうと青年が動き始める。
中身が潤った冷蔵庫をあけてなにを作ろうか思案する。

洋服をバックに仕舞っていた少女はその背中をぼんやり眺める。

「ご飯なーにー」

「チャーハン」

「中華ですな」

「中華でござろう」

卵とチャーハンの素を取り出してフライパンに油をひき、溶いた卵を流し入れる。
それを菜箸でかき混ぜながらご飯を投下。
ある程度解れたらチャーハンの素を混ぜ合わせる。
非常に大雑把な作り方だった。

ご飯が焼ける音を聞きながら少女はこてんと横になった。
ボリュームの絞られたラジオからは知らない曲が流れている。

「疲れた」

小さく、青年には聞こえないように少女は言う。
確認のように。

「でもあと一踏ん張りかな」

自らを励ますように。

「でも、それが終わったら――どうしよう?」

少女は未来のビジョンが描けなかった。

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