咲「これが私の麻雀だよ」 (283)



『あなたたちの才能は目を瞠るものがあるわ…』

       『勝つのよ。麻雀はトップに立ったものこそが先へ進めるのだから』

  『照、その調子よ。咲…あなたには話があります』

『どうして甘い手を打つの!』


     『私はお前がこわい』


  『――咲、お前のやっていることは、麻雀じゃない』




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咲「…じゃあ、どうしたらよかったのさ」

 じっとりとした嫌な汗の感触に目が覚めた。
 額に浮かぶ珠のような汗の理由は、夏という季節のせいではなかった。

 嫌な夢。少女――宮永咲の心に今もぽたりと黒い雫を垂らす苦い記憶。
 今は遠く、大都会で暮らす彼女の肉親が彼女に残した醜く惨たらしい傷痕。

 独りごちた問いに返ってくるのはやさしく彼女を包む言葉などではなく、喧しいクマゼミの輪唱だけだった。

咲「…ぜんぶ悪い夢だったら、いいのに」

 
 うだるような暑さの長野に、ひとりの女性が降り立った。
 小鍛治健夜。とある界隈では伝説とまで呼ばれる彼女は、そこらを見渡せばどこにでもいるような軽装で、群衆に紛れていた。

健夜「お母さんったら…たまにはおじいちゃんに線香でもあげてこいとか言って…そのくせ自分はついてこないなんて」

 からっとした太陽の下で、どこかじめっとした空気を漂わせて。
 
健夜「どこでもいいから涼めるとこ…ってもこの辺は民家だらけでなにもないんだよね」

 涼しげなせせらぎを奏でる小川に飛び込めたらどれだけ爽快であろうか。
 魅力的な誘惑を、『いい歳した大人』という足かせの羞恥心からはねのけ、なおも歩を進める。


 広大な田園の脇を歩き、寂れた線路に沿って歩き、舗装もされてない砂利道を歩く。

 やがて見えてきた小さな霊園。そこの片隅にある母の旧姓が刻まれた墓石の前でしゃがみ込む。

 いくらほどもない手荷物のなかからカップ焼酎と線香、ろうそくを取り出し、墓前に供えていく。

 鼻の奥に澱むような線香の匂いにどこか懐かしさを感じながら、取り留めもない報告をし、立ち上がった。

 奥に広がる鬱蒼とした林から蝉の鳴き声が降り注ぐなか、日光を遮るように手をかざし、目を細める。


 来た道を戻り、道が広くなってきたところで、気紛れに横道へ逸れてみた。

 道なりに進むと、周囲の原風景とは毛色の違う建物が目に入った。

 雀荘。だれでも麻雀を打つことができる公共の場。

 涼む目的で冷やかしていこうか、と思い立ち、自動ドアをくぐった。

 偶然入った雀荘――ただそれだけのそこで目にするもの、感じたこと、出会う人物が、小鍛治健夜の夏を一際強烈に彩るのであった――

 ――


 咲は目が覚めてから、シャワーを浴び、頭を切り替えてからどうするか考えていた。
 学校は夏期休暇中でない。父は仕事でいないし、彼女には気軽に連絡を取り合い遊ぶような友人もいなかった。
 内向的な性格で、だれかといることより一人でいることを好んだ。
 一人でいる時は本を読むことが多いが、しかし彼女の時間の過ごし方はそれだけではない。

 どうするかすこし悩んだ後に、年頃にしては遊びのない格好に着替え、靴をつっかける。

咲「行ってきます」

 返ってくるあてのない言葉を吐き出し、家を飛び出す。
 送り出してくれるあたたかい言葉などなかったが、迎えてくれる外気は暑苦しさで溢れ返っていた。


 見慣れた道をいくと、向こう側から見知った顔が近づいてきた。
 自転車にまたがったその人物は、咲のすぐ目の前で止まると身を乗り出して咲へと笑いかけた。

 「よう宮永!」

 咲はその無邪気な笑顔に気後れしながら、彼の名を返事とした。


咲「こんにちは、須賀君」

 須賀京太郎。咲と同じ学校、同じクラスの少年。
 咲とは正反対の性格の彼は、だれにでも砕けた接し方で、咲に対して距離を作らない稀有な存在だった。

京太郎「あ、宮永さぁ、今暇か?これからクラスのやつらと川で涼もうかって話になってんだけど、来る?」

咲「うーん…ごめんなさい。私、これから行くところがあるから」

 クラスメートと川遊び。それはそれで青春の一幕を飾るイベントになるかもしれないが、しかし咲は固辞した。
 目的があっての外出であったのは事実だし、それに、自分はそういった場にそぐわないと思ってもいた。


京太郎「あー、そっか。残念! まぁ思い返せば集まったのは野郎ばっかだし、宮永だってむさ苦しいなかにいたくはねーよな」

 少年は屈託のない笑顔でそう言うと、使い込まれているであろうマウンテンバイクに跨り、ペダルに足をかけた。それはもう行くという意思表示であり、咲は正しくそれを汲み取って安堵した。

京太郎「じゃあ行くわ。またな」

 そう言い残すと、勢い良く走り出した少年はあっという間に陽炎の向こうに消えて行った。

 咲はしばらくそこに立ち尽くし、熱を帯びた景色をぼうっと眺める。

 ――もし。もし、彼の伸ばした手を掴むことがあったら。その時…その先には、どんな光景が広がっているだろう?

 そんな思索は、熱に浮かされて漂い、青い空に呑み込まれて消える。

 つまらない妄想だった。もしくは淡い期待とでも言おうか。

 行くつもりのない場所にどれだけ思いを馳せても意味はない。

 頬を伝った汗が顎から滴り落ちて、アスファルトにしみを作る。
 その場に留まっていた影はいつの間にかどこかへ行き、やがて容赦なく注がれる陽光に溶かされ、しみさえも消えてしまった。


 すこしの間足を止めてしまったが、ようやく咲は目的地へと辿り着いた。
 そこで、咲は早くも踵を返して来た道を戻り家へ籠もりたい気分になっていた。

 雀荘。そこはだれでも麻雀を打つことができる公共の場。
 そう。だれでも、である。


 「きたか、咲! さぁ、始めよう、げにげにおかしき狂宴を!」

 一見して小学生低学年ほどにも思える体躯の少女。
 頭から伸びる、かわいらしいリボンの耳。
 無垢のなかに凶悪な熱を灯す大きな瞳。
 
咲「意味わかんない。何言ってるの天江さん」

 少女は名を天江衣といった。咲のすげない返事に、少女は表情を一転、今にも泣き出しそうな年相応(?)の反応を示す。

衣「意味わかんなくない!」

咲「わかんないものはわかんない。というか、よく毎日こんなところにくるね。天江さんの住んでるところって結構遠いんでしょ?」

衣「衣の遊戯の相手が務まるのは咲くらいだからな!」

 彼女もまた、咲に対して距離を作らない人間であり、咲に自分から近づいてくる人間だった。
 そんな天江衣に対して、咲はやはりどう接しいいかわかりかねている部分があり、ゆえに前のめりになってしまうことも多い。

咲「友達いないの?」

衣「う…いな…いる!とーかがいる!はじめもいる!」

咲「じゃあその人たちとユウギでもなんでもしたらいいよ」

衣「フフ…とーかもはじめも友達だから、本気は出せないんだ。衣が満身の力で以て対面すれば、相手は大抵毀れてしまうからな!」

 薄い胸をめいっぱい張って鼻息荒く捲くし立てる少女。


 意気軒昂の衣とは反対に、咲は冷めた目でその様を見つめている。

咲「それ、前も言ってたけど、天江さんの全力ってそんな勝率高くないよね」

衣「そっ、それは咲が相手の時だけ!というか全力じゃないっ!日中だと全力じゃない!」

咲「あぁそうだったね。そういう設定だったね」

衣「設定じゃないぃぃ」

 トゲのある咲の言葉に、いよいよ泣き出しそうになる衣。
 涙がうっすらとにじみだしてる様子に咲はひとつ嘆息を落とし、カウンターに向かう。

咲「二人、同じ卓でお願いします」

衣「さ、咲!」

 浮かんでいた涙もどこへやら、相好を崩すその様はまるで幼い子供。

咲(相変わらずころころと表情の変わる子だなぁ)

 苦笑を湛えて卓へ向かう咲だった。

 ――


 対局が始まってしまえば、和やかな雰囲気はどこぞへ吹き飛んでしまう。
 それだけ二人の間には半荘という勝負に対する真剣さが現れていた。

 ふたりと共に卓を囲むのは面識のない年配の男性二名。
 よどみのない動作から打ち慣れていることが窺えたが、打ち筋は至って凡庸だった。

 卓上でただひとり宮永咲という打ち手の本性を知る天江衣は、開始早々牙を剥いていた。

 衣の放つ雰囲気が怖気を誘う。
 横に座る男性たちも知らず冷や汗を拭い、粘性の唾液を嚥下し、息詰まらせ震えを押し殺す。


 いくら理論的な打ち筋が確立されていようと、麻雀は運の要素も強い。
 配牌などは積み込みやすり替えなどの所謂イカサマを用いない限り、理論上では完全な運である。
 流れや勢いなど、その場限りの要素で多少の良し悪しがあったとしても、基本的には対局者全員が対等なはずなのである。

 しかし、この卓上では、その前提がことごとく覆っていた。

 有効牌をツモれない。そんなことは麻雀をやっていればいくらでもあることだ。
 一局のなかでそれが延々続くと内心でボヤくこともあるかもしれない。
 それが数局続くと、誰もが気付く。

 『おかしい』と。

 息苦しささえ覚える閉塞感、圧迫感。手の進まない苛立ちと浅くなる呼吸からくる軽い酸欠で正しい判断が下せない。
 …いや、判断など、この場ではなんの役にも立たなかった。
 逃げ場がない。安全地帯のない異常事態。
 もはや河が判断材料にならない。ちいさな悪夢の捨て牌が、まるで大口を開けて待つ奈落への落とし穴のように見えて。

 眼鏡をかけた男性が手を崩す。大した役も付かない二向聴だが、それでもこれまで身を削る思いで揃えた面子を崩した。
 直前で対面の小太りの男性が捨てた牌。聴牌気配が濃厚な少女――天江衣が見逃した牌。
 ここを通せば手の内にはまだ同じ牌が一牌ある。対子落としで二巡もやり過ごせばまた状況は変わるだろう。

 そう思った男性の展望は、和了宣言によって脆く打ち砕かれる。

衣「ロン、だ。11600の二本場は12200」

 親の高目、直撃。眼鏡男性の点棒が一瞬で底つきかける。
 それは、まるで悪夢だった。


衣(できれば咲から取りたかったが。…ここで咲にツモ巡を回せば、同じ轍を踏むだけ。その先に待つのは敗衄の辛酸だ)

 強者の布く圧政。抜け出すことの叶わない一方的なルール。それは『支配』と呼ばれるもの。

 天江衣と相対した者は手が進まない。反則的な、だからこそ彼女を強者たらしめる支配。
 
 しかしそれも、無敵ではない。

 「カン」

 非常識な支配を破る、常識の埒外からの声。

衣(きたか…!)

咲「ツモ。嶺上開花・ツモ、800・1600」

 衣の独壇場の様相を呈していた場に投じられた一石。
 安手ゆえに状況に大した変化を見られず、静かに波紋を広げる水面。

 大きく安堵の息を吐く両サイドのふたりとはべつに、衣の表情が険しさを増していく。

 
 衣の親でなくば支配が及ばないわけではない。実際、男性たちの手はやはり渋かった。

咲「カン」

 しかし、絶妙に挟まれる咲の鳴きで、狂っていた歯車が徐々にずれ、歪に噛み合いはじめる。

眼鏡「つ、ツモ!500・1000!」

衣(くっ…此は如何にせん…)

 大きく沈んでいた男性たちの点数がすこしずつ戻り始める。
 それはほとんどが咲を経由して衣から零れた点数であった。

 いつの間にか均されてきた点数。それでも衣がひとつ頭が抜けていた。

衣(逃げ切る…いや、そんな及び腰では一縷の目もない。押し切る?容易くはない…が、為さねば負けを甘受することになるだけ!)

 眦を引き締め、配牌に視線を落とす。
 理牌を済ませ、神経を研ぎ澄ます。




咲「ダブルリーチ」



 投じられる千点棒。卓上に落とされる、最初の捨て牌。

 しばたたかれる三対の眼。

 あらゆるすべてを超越し、ことごとくを置き去りにする。
 そうして少女――宮永咲はわらう。

咲「カン――ツモ。ダブリー嶺上開花一発ツモドラ…6。三倍満、6000・12000。終局ですね」

 決着。
 その形は、咲の勝利というもので。


咲「ありがとうございました。…天江さん、私の勝ちだね。場代、よろしく」

 微笑む咲の真正面で、ゆっくりと、涙を湛える衣。ガン泣き一歩手前といった様子だ。

衣「う~~~~~~っ!」

咲「唸ってもだめだよ。私、お手洗いにいってくるね」

 席を立つ咲。それに続いて、男性たちもやおら離席すると、口々に「強いね、お嬢ちゃんたち」と称賛の言葉をかけ、苦い笑いを浮かべて店を出ていく。
 咲と衣の対局に居合わせた人間は濃密すぎる半荘に草臥れ、足早に帰っていく。
 おそらく、彼らの胸中を推し量るに麻雀は当分やめておこうと思っていることだろう。


 衣はひとり、卓に取り残され、半眼で辺りを見渡していた。

 視界の隅で付き人の執事が如才なく会計を済ませていた。そこから横に滑っていくと、ひとりの女性が茫然と立ち尽くしている。 
 先程まで咲と衣が対局していた卓に視線を釘づけにされている。

 勝負の後で常より昂揚していた衣は、手慰みにその女性に話しかけていた。

衣「理解できないか?」

 薄ら笑いを貼り付けた少女の問いは、女性の思考には届かなかった。

 彼女――小鍛治健夜の頭のなかには、オーラスを一息に終わらせた少女の見せたわらいが占めていた。

健夜「彼女…名前は」

衣「宮永咲だ」

 べつにだれに問うたわけでもなかったが、すぐそばにいた少女(あるいは女児とも見えた)が教えてくれる。
 健夜はその名を、深く噛み締めるかのように反芻する。

健夜「宮永…咲…」

咲「はい?」

 唐突に背後からかかるもうひとつの声に健夜の心臓が跳ねる。

健夜「うわあ!?」

咲「…なんですか?ひとの名前を気安く呼んだり、返事をすれば大仰に驚いてみせたり。失礼ですよ」
 
 非難するように睨めつける視線はかなり冷やかだったが、健夜としても真実心底驚かされて困惑していた。


 健夜は、身勝手な残影を目の前の少女に投影していた。
 手折る。千切る。打ち砕く。踏み躙る。
 圧倒的で、他を寄せ付けない、ゆえに退廃的で孤独な麻雀。
 それは、まるで鏡写しに見る自分のようだった。

 だからこそ、思わずにはいられない。それはやはり身勝手で独善的な干渉。
 ――彼女を導きたい。その手をとって。自分の見られなかった、色づく景色を。

 駆け巡る思考のなかで、加速する世界のなかで、小鍛治健夜はその稚気を帯びた輪郭に手を伸ばす。

健夜「ねぇ…私と打ちませんか」

咲「お断りします」

 にべもそっけも、おまけに取りつく島もなかった。

 ――


 意識がゆっくりと覚醒していくのを感じる。

 たぶん、もう日も高くなり始めている。そんな予感を抱きながらも、身体を起こす気にはなれなかった。なんなら瞼を開く気力さえ湧かない。
 憂鬱すぎた目覚めの原因は、過去や夢にはない。珍しく、現在進行形で咲の頭を悩ませている問題のせいだった。
 億劫げに伸ばされた手が硬質ななにかを掴む。愛用の置時計だ。
 目の前まで持って行くと、針は九時前を差していた。
 
 もうすぐワイドショーは始まる…が、そうではない。もうすぐ、そう、もうすぐ。
 そうしてぐずぐずしていると、突如家中に甲高く間延びした音が鳴った。
 来客を報せるインターホン。咲を精神的に追い詰める悪魔の足音だ。


咲「…はい。どなたでしょうか」

 軽い身支度を手早く済ませた咲は重い足取りで玄関へ向かった。
 あわよくば、来客が単なる配達員か、それか勧誘かなにかで、身支度の間に諦めて帰っていてくれたら。
 そんな希望を持ちもしたが、ドアを開けた瞬間に咲の目はどんよりと曇った。

健夜「あの、おはよう。今日もきました」

 来ないでいいです。そう返そうと思い、トゲトゲした言葉は舌の上で転がって、喉の奥へと戻っていった。
 この女性、小鍛治健夜と出遭ってしまった、明くる日にすでに言って、今のところ効果の見られない要望だったためだ。
 どうせ意味を為さないやりとりに体力を費やしたくはなかった。殊にこの頑固者相手には。

咲「どうぞ上がってください」

健夜「ごめんね、ここのところ毎日お邪魔しちゃって」

 本当だよ…と呟いてみるも、そんな迂遠な非難は彼女には届かない。そんなことは初日にすでにわかっている。
 家に上げなければこの炎天下のなか延々と家の前で立っているのだ。もはやホラーである。


咲「お茶しか出せませんけど」

健夜「おかまいなく」

 ここ数日でお決まりになったやりとりを済ませ、テーブルにつく。

 咲は改めて目の前の女性を眺め、とりとめもなく浮かぶ物思いに思考を委ねた。

 どこか野暮ったくて、内向きな性格でありそうなことが外観からにじみ出ている。
 直向きさのなかに、なにかねじくれたものを感じる。
 そんな、彼女を形作るパーツのひとつひとつに、(許しがたいことではあったが)不可思議なシンパシーを感じてもいた。

 小鍛治健夜。調べてみれば…いや、さほど調べるまでもない。彼女は麻雀において、世界的に有名な人物であった。
 若くして手にした称号は数知れず、『麻雀』を嗜むうえでは知らないことが恥と言えるほどの存在だ。
 なのに、今こうして咲の目の前にいる。ふつうにお茶を飲み、氷を口のなかで転がしたりもする。ふつうにふつうだった。


健夜「宮永さんは、高校はもうどこいくか決めたの?」

咲「どうしてそんなこと聞くんですか?」

健夜「いや、ほら。もう中学二年生なんでしょ?中二の夏といったら進路に向けて動き出す頃じゃない?」

咲「そんなこと知りたがるなんて、親戚のおばさんみたいですね」

健夜「お、おば…」

 変哲もない日常会話。互いに意図をわかりきったうえで、はぐらかして引き延ばす中身のないやりとりだ。
 それでもそれは無意味ではない。結局核心を突かずして話は進まない。進むことは咲にとって好ましくないが、それでも進めすぎないよう細心の注意を払って、いけるところまではいかないといけない。そうしないと状況は動かないのだから。


咲「近いところから選びますよ。清澄なんていいんじゃないですかね」
 
健夜「風越にいこうとかは思わないの?」

 なぜここで風越という校名が出て来たかは明白だ。
 健夜は長野の高校をよく調べている。特に、『麻雀部が強いかどうか』に重きを置いて。
 そして、健夜がしきりに風越へ関心を向けようとしてる意味を咲は十分に理解していた。
 理解したうえで、やはりはぐらかす。

咲「制服がかわいいって噂ですよね。私はわざわざ遠くから通おうとは思いませんが」

健夜「えっと、そうじゃなくて…」

咲「他も遠いんですよね。私、朝は弱い方なので、あまり遠いと通学が辛いですし」

健夜「違うんだって!そうじゃなくて、風越がここいらじゃ一番麻雀が強いでしょ?だから…」

 慌てて言い募る健夜に、咲は静かに視線を落とす。コップの外面を伝い落ち、テーブルに溜まった水滴を見つめ、息を吐く。

咲「だから?私が風越で麻雀をするって、小鍛治さんはそう言いたいんですか?」

健夜「うん…」

咲「…私がいったところでなにもなりませんよ。知らないんですか?風越は名門なんですよ」

健夜「知ってる。だからこそ、宮永さんならって」

咲「私なら…きっと、伝統ある風越麻雀部を崩壊させるでしょう。べつに自分からそうするでもなく、きっと成り行きで」

 瞼を閉じればいつだって、咲にとっての悲劇はそこにある。
 いくつものシーン、いくつものセリフのなかで、決まって咲は俯いている。
 ただそれを焼き直すだけに他ならない。だから、風越を目指すなど咲には考えられなかった。


健夜「他は、たとえば城山商業とか」

咲「どこでもいっしょですよ。私が混じったら、そこがいままで築いてきたものをいたずらに崩してしまうだけだと思います」

 それはともすれば傲慢ともとれる発言。しかし、健夜はそれを笑い飛ばすことをしない。自分に重ね合わせれば、咲の言葉を三味線だと切り捨てることはできない。

 そう。枠のある場所に宛がっても意味はないのだ。咲を収める枠などそうあるものでもないのだから。
 だからといって枠のない場所では、それ即ち環境がないことを意味し、咲を腐らせるだけ。
 自分はこうして咲の放つ輝きがだれも知らないところで摩耗して塵芥に埋もれていくのを眺めていることしかできないのか。
 
 グラスのなかの氷は溶けきるまでたっぷり考えて、そこでようやく健夜は結論を見出した。


健夜「それなら…元からある場所を壊すのがいやなら、なにもないところで一から始めたらいいよ」

 その暴論に、咲は呆気にとられた。
 言うだけなら易いものだろう。しかし現実はそう易くはない。
 一から始めたとしよう。それでなにができる?
 結局環境が整っていなければ、健夜の目的である、高校生に混じって麻雀をするという目論見は達成されない。 
 部がない。人がいない。道具もない。
 それでは麻雀はできないではないか。

 咲が反論の代わりに、たっぷり冷やかな目線でもって追及すると、健夜は鼻息荒く捲くし立ててきた。

健夜「私の母校、茨城の土浦女子。そこにきて。あそこは私がいた時は強豪扱いだったけど、いまは悲しいかな、弱小もいいところで部はほとんど活動もしてないと思う。でも必要なものはあるはずだし、それに母校なら私の顔も利く」

咲「…人はどうするんです?私と小鍛治さんのふたりじゃ、練習もできませんよ」

健夜「私が集めるよ。こう見えて、麻雀の才能を見る目は確かだから」

 熱のこもった語り口に、健夜の本気が見て取れる。
 咲は瞬きするのも忘れて、爛々と輝く健夜の瞳を見つめていた。


咲「…正気ですか?」

健夜「傍から見たら狂気かもね。でも、私は本気だよ」

 力強い返事に、用意していた諸々の言葉たちがすごすごと引き下がっていく。

 何も言えない。言い返せない。言い返したところでどうにもならない。

 それがわかっていて、咲はひとつ、嘆息した。


健夜「…やっぱり無理、かな」

咲「無理なんですか?」

健夜「え」

 俯きかけた健夜の面が、まるで引力に惹かれるように上がる。
 そこに、健夜を胡乱げに見つめる半眼はない。
 あるのは真剣味を帯びた、意志を感じる真顔。

咲「無理を通そうとして嘯いていただけだったんですか?」

健夜「もっ、もちろん宮永さんがその気になってくれるのであれば、全力を尽くすよ!でも…その、いいの?」

咲「いいですよ」

 あまりに呆気なさすぎる翻意に、健夜は自身の頬を抓ってしまうほど信じられなかった。

咲「なにをやってるんですか…」

健夜「い、痛い…いや、どうしてこんなにあっさり心変わりしてくれたのかなって思って…」

咲「べつに。というか、きっとそんなに意外なことでもないですよ。そもそも、まったく関心がないのであれば小鍛治さんをこうして家にあげて話を聞いたりなんてしませんし」 

健夜「そ、それはたしかに…」

咲「その気になればおまわりさんを呼んで解決もできたでしょうし」

健夜「ひえっ…」

 一瞬で青褪めた健夜の顔を見て、咲がちいさく笑った。
 それを見て、健夜はようやく宮永咲という少女に一歩近づけた気がした。


咲「それに…私だって、このままじゃだめだって思っていたところですし」

健夜「え?それって…?」

咲「さぁ。そうなったら話は早いほうがいいですね。その土浦女子についていろいろ教えてくださいよ」

健夜「えっ、あ、うん。そうだね」

咲「お話次第ではこの件はお流れになりますから」

健夜「そ、そんなぁ!」

咲「がんばってくださいね小鍛治さん。期待してますから」


 咲は望んでいた。
 咲は欲していた。
 咲は求めていた。
 
 自分の麻雀を変えてくれるなにかを。

 それを探す旅に出るのだと、止まってしまった自分のなかのなにかを動かせる時がきたのだと。

 そう、信じて。


 前編 カン

黒い咲さんのif話
全4部構成予定です
各部ごとに書き溜め・完結したら投下するスタイルでいこうかと思ってます

ごめんなさいね
リンシャン一発ツモってなんだっつーね
適当に補完お願いします

一応ここはスレが2か月持つし、2か月ごとに生存報告してれば落ちないから一つのスレで収まるようならここでやってほしいな。
落ちたスレを改めて探すのって大変なんだ。


 テレビから無秩序に垂れ流される情報の羅列が、季節の移ろいを知らせる。

 自宅の自室、いまはぐちゃぐちゃに広げられた資料やら雑誌やらに埋め尽くされた空間にて、小鍛治健夜は頭を抱えていた。

健夜「うあ…どうしよう…ま、まったく捗らない…」

 手元の紙束を繰り、紙面に記載されている情報に目を通す。
 友人である福与恒子から提供された莫大なデータ。そこには中学生から高校生まで、有望とされる女子雀士が並んでいる。

 眼球がインクのしみを追うだけで、健夜の琴線に触れる者はいなかった。いや、正確には、いたとしても現実的に考えて交渉の余地もないであろう人間ばかりだ。
 狂気の沙汰ともいえる話に巻き込む相手だ。すでに舞台を見つけ、上がっている者ではまず望みがない。
 探すべきはそれこそ咲のような、埋もれてしまっている才能。土浦女子という寂れた舞台から、遠く輝く華やかな世界を睥睨できる者だ。


 一通り目を通した結果、紙をめくった時のわずかな風で前髪はなびいただけだった。

健夜「だめだ…」

 重くなりはじめた頭が重力に従って下がる。
 テーブルにこつんとぶつかり、額にひやりとした感覚が広がった。

 まずい。まずいにも程がある。
 時間はあまり残されていない。この調子でいけば、なにひとつ収穫のないままその時を迎えてしまう。
 
 咲が高校生に上がる時。

 その時、土浦女子の制服に袖を通した彼女が、ただひとりで待つ健夜を見た時、なんと言うだろうか。
 健夜には容易く想像がついた。それもかなりリアルな音声つきで。


咲『あれだけのことを豪語しておいて、やっぱり人が集まりませんでした?』

 『はぁ…まぁ、ある程度予想はついてましたけど。それにしたってどうなんですか?』

 『小鍛治さんって、意外と人望がないんですね』

 『麻雀以外に能がないならその辺に埋まっててください』


 五割増しで辛辣さが際立ったただの被害妄想だったが、健夜のモチベーションに鞭を入れるのに一役買っていたのは事実だった。

 散らかすだけ散らかした部屋のなかで孤軍奮闘を続けた末に、健夜はついにあるひとつの憶測へと至った。

健夜(やはりこの目で直に見ないことにはどうしようもないかな…?)

 福与氏の協力が無に帰した瞬間であった。


 それからというもの、健夜はプライベートのほぼすべてを人材発掘に費やした。
 プロとしての仕事がある時は、柄にもなく他のプロ雀士に話を振り、情報を集めた。
 試合で地方へ出かける時があれば、時間を見つけては付近のめぼしい学校を巡る。

 幸い、自身の持つ知名度がハードルを幾分も下げてくれていた。
 簡易なアポイントメントで目的との接触を果たせたし、情報を引き出すことも容易かった。

 慣れない人付き合いに精神を削られながらも、着々と数をこなしていく。

 時は瞬く間に過ぎ去っていき、気付けば年が明けていた。


健夜「――だめだ…」

 道端のベンチに座り込む陰鬱な顔。
 その目は生気が失われ、負の世界に片足どころか両足どっぷりといった様相だ。

健夜「見つかんない…見つかんないよお…」

 状況は芳しくない。
 部屋でうだうだやっていた頃と比べたらいくらかマシではあったが、とにもかくにもよろしくなかった。


 咲には団体戦でインターハイを目指してもらう必要がある。個人戦では意味がないのだ。
 団体戦となると最低でも五人、本人を勘定にいれると四人、集める必要があった。

 ひとりはアテがあった。確定というわけではなかったが、本人は乗り気で、あとは保護者の了解さえ得られたらといった具合だ。話をしに伺った時は溺愛っぷりが目に余るほどだったので、おそらく最終的に本人の意思が優先されるであろう。
 もうひとり、可能性のある者がいた。こちらは渋りそうだったが、しかし知らぬ仲でないのでしぶとく説得すれば、と算段があった。

 しかし、希望が持てるのはそこまで。あとのふたり分の席はまったくといっていいほど望みがない。


 髪をさらう冷たい風に心まで凍てつきそうになる。  
 重苦しく感じる胸中をすこしでも慰めようとおおきな溜め息を吐き出した、その時、着信を知らせる機械音が鳴り響く。

 突如喚き出した携帯電話によくわからない緊張感を抱きながら、呼び出しに応じる。
 相手は登録されてる数少ない人物、福与恒子だった。

健夜「もしもし?」

 『あ、すこやん?』

健夜「はい、“スコヤ”です」

 『例のアレ、どーお?捗ってる?すこやん』

 電話口でもわかる、どこまでもマイペースな友人の調子についていけず、何度目かもわからない溜め息が出る。
 
健夜「アレって?人材発掘のこと?」

 『それそれ。どうなんよー』

健夜「…まあまあだよ。まあまあ」

 『あちゃー。やっぱだめかー』

健夜「まあまあって言ったじゃん、だめってどゆことなの…」

 実際だめ気味なのが現状だが、それにしてもまっさきにだめだと思われたのは納得がいかなかった。
 通話越しにも容易く想像できる呆れ顔に不服ではあったが、すぐにもたらされた新しい情報に、健夜の目の色が変わった。


 『こっちも色々調べてみたんだけどさ。なんか、人材発掘といえば、って人がいるっぽいよ』

健夜「…え?ちょ、ちょっと恒子ちゃん、それ詳しく」

 『欲しがるねえすこやん。熊倉トシってゆーおばあちゃんみたいなんだけど…』

 心ばかりが逸りまったく動けない現状にくすぶっていた健夜の前に、思いがけず開けたかすかな光。
 気付けば、その足は急げ急げと走り出していた。

 ―――


トシ「どうも、はじめまして。熊倉トシです。お会いできて光栄です、小鍛治プロ」

 熊倉女史の第一印象はやさしそうなおばあちゃん、だった。
 アポを取った時の声からも滲み出ていたように感じたが、実際に対面してみると改めてそう思う。

健夜「ど、どうも。このたびは急なお話に応じてもらい…」

トシ「かまわないよ、そんな堅苦しい話をしにきたわけじゃないんでしょう?」

健夜「あ、はい」

 お仕着せの外面をすぐに剥される。
 それを許す気安さがおだやかな笑みに含まれていて、それが健夜には、とりわけいまの気が急いている彼女にはありがたいことでもあった。


健夜「あの…率直に言いますと、私いま、ある事情で有望な雀士の子を探しているんです。来年には高校生で、かつ女子であることが条件で。人材発掘といえば熊倉さんだと噂に聞いたもので、厚かましいお願いだと承知の上でご教示賜りたいと…」

トシ「ふむ…」

 考え込む仕種のトシ。眉間に皺を寄せ、への字に固く結ばれた口は、それだけで健夜の不安を煽った。
 やがて健夜へと意識を戻したトシは、値踏みするように頭の先から爪先までを一通り眺め、ようやく口を開いた。

トシ「小鍛治麻雀ゼミでも開くのかい?」

健夜「いえ、まあ、近くはありますけど…」

トシ「指導する側に立つってところは合ってるってことかい。若いのにずいぶんと生き急いでるんだねえ」

健夜「どうしても…いま、共に歩みたい子がいるんです」

トシ「……」 

 健夜のその言葉に、トシの表情から色味が抜け落ちる。
 そこにあるのはやさしげでにこやかな老婆の顔ではなく、一角の勝負師の顔。


 張りつめた空間を跨ぎ、見つめ合うふたりの雀士。
 片や指導者になろうという者。方や指導者として名を馳せる者。
 果たして、その睨み合いは数秒、数十秒と続き。

トシ「…いいだろ。すこしだけ、手を引いてあげる」

 先程までの真剣味が嘘のように薄れ、そこにいるのは会った時と同じ好々爺だった。
 内心で安堵の息を漏らし、目礼する。
 にこやかな笑みでも以て受けたトシは、ゆっくりと語り始めた。


トシ「南浦聡を知ってるかい?」

健夜「シニアの南浦プロですか?知っていますが…強面ですよね」

トシ「あっはは。若い人らはそう見てるのかね。あんなのただのむっつり爺だよ」

健夜(たしか南浦プロってすっごく気難しくて厳しい方だって、前にインタビューのお仕事した恒子ちゃんが言ってた気が…それをむっつり爺呼ばわりとか、熊倉さんって何者…?)

 笑みが引き攣りかける。幸いにも、話を続けるトシはそれに気付いた素振りを見せない。


トシ「南浦には孫がいるのを知ってるかい?」

健夜「いえ、初耳です」

トシ「その子は南浦聡に師事を仰いでるらしい。来年には高校生になる年の頃で、どうやら南浦は孫を無名校にあえて行かせるつもりらしいよ」

健夜「ということは…」

トシ「当たってみたらいい。もしかしたら、その子を引き入れられるかもしれないよ」

健夜「あ、ありがとうございます!さっそく交渉してみます!」

トシ「頑張りなさい」

 柔和に微笑むトシに見送られ、健夜は密かに思った。トシはどうやってそこまで詳細な情報を手に入れてきたのだろう、と。
 疑問に思いながらも、どこか空恐ろしい感覚に寒気を覚え、結局はその疑問を黙殺することで健夜はやり過ごすことにした。

 ―――


 再び長野へと舞い戻ってきた健夜はさっそく南浦氏のもとを訪ねていた。

 今時和風な畳座敷にて、卓袱台を挟んだ向こうに胡坐をかく南浦聡。
 その厳しい目つきと口角の下がりきった口許、総じて無愛想と取れる印象からトシとは正反対の人間であることが見て取れた。

 慣れない正座に四苦八苦しながらも、健夜は「これは手強そうだ」と内心冷や汗をかいていた。


聡「数絵をあなたに預けろと、そう仰るわけですな」

 重々しく口を開けば、その言葉の端々にふざけるなとでも言わんばかりの威圧を感じる。
 それは健夜の一方的な被害妄想じみた感想であったが、それも仕方ないほどに、その場の空気は重く沈み込んでいた。

聡「ふざけるな」

 空気を切り裂く静かな怒号。
 被害妄想が現実となり、健夜は泣きたくなった。
 そんな健夜の心境を知ってか知らずか、聡は鋭い眼光で以て睨みつける。


 「失礼」とだけ断り、煙草を咥えた聡は安っぽいガスライターを手に取った。

聡「…もしもあなたがそこらの馬の骨だったら、そう一蹴しているところです」

 剣呑な空気のなかで続けられた言葉は、意外にも前言を翻す意味合いのものだった。
 それを受けて、健夜のなかに希望が芽生える。

健夜「それなら…!」

聡「では」

 期待に浮ついた健夜の声は厳めしい声音に遮られて尻すぼみに消えていく。

健夜(なんなの…)

 いい加減逃げ出したい衝動に駆られながらも、続く言葉を待つ。
 聡は大人しく聴く体勢に入った健夜を認め、話を続ける。


聡「改めて問わせていただきたい。数絵は私が手塩にかけ育んできた蕾だ。あれには私の麻雀を余さずすべて注ぎ込んできた。あなたに、それを託すだけの価値がおありか」

 投げかけられた問いに、健夜の全身が硬直する。
 
 どうすれば。なにを以て、この相手に自分の価値を伝えたらいいのか、わからなかった。
 万言を尽くし、どれだけ自身の実績を語ろうと、そこに氏の知りたいものはない気がした。
 ならばどうしたら。
 
 どうしようもない。どうすることもできない。

 巌のようなその存在は、指導者である前に、ひとりの祖父であった。
 当然だ。如何程にも与り知れない人間に、そう易々と孫を預ける祖父など、いはしない。

 では諦めるしかないのか。


健夜(それこそありえない…!)

 高い壁がそびえているから、だから背を向け逃げ出すのか。それこそが何よりも無礼にあたるのではないだろうか?

 断られるにしても、本気でぶつかっていく。未熟で青臭いなりに、こちらも退けないのだとつんのめる。
 そうすることが、彼と、そして彼女への最大限の礼儀なのではないか。

 健夜は思った。
 それならば、他にどうしようもない。


健夜「いまの私に、それを証明する手立てはありません」

聡「……」

健夜「不躾を承知のうえで、それでもお願いします。私に南浦数絵さんを預からせてください」

聡「……」

健夜「未熟ながら、全力を尽くさせていただきます。私のもとにいる間を、意義のある時間にしてみせます」

聡「……」

健夜「ですから…」

 わかっていた。健夜本人も。
 語れば語るほどに、その価値が零れていくことに。
 わかっていながらも、語るしかないのだから。言葉を紡ぐより、他にすべを持たないのだから。
 それこそが小鍛治健夜に出来得る最大限の努力だった。そして、それをせずに背を向けることはまかりならない。

 だから、語る。空々しくも、訥々と。
 悔しさに歯噛みしながら、己の浅さを痛感しながら。

健夜「…お願い、します」

 いつしか、健夜の目線は畳へと向けられていた。


 自分はなにをしているんだろう。なにが私をここまで駆り立てるんだろう。
 ふと、ぽつりと滴るその疑念に、ある顔が浮かぶ。

 物寂しげな、それを隠す幼い笑み。

健夜(そうだ。決めたんだから。私は宮永さんの手を引くって)

 それを思うだけで、健夜の覚悟が強まっていく。  
 再び、顔をあげ、対面の強面を確りと見据える。
 語るべくして語った。もはや退く道はない。
 ならば突き進むのみ。
 どんな結末であろうと、聞き届ける。南浦聡の出す答えを。


聡「……」

健夜「……」

聡「…どうだ、数絵」

 ふいに名前を呼ぶその声に、健夜の背後、座敷の入り口に気配が現れる。

 健夜が振り向くと、そこには制服姿の少女がいた。

聡「お前の意見を聞こう」

数絵「私は…おじい様の指示に従います」

聡「…そうか」

 聡は、咥えた煙草についぞ火を点けることなく、箱へと戻した。
 その表情は、健夜がはじめて見る、やさしげな微笑みを湛えていた。


聡「はてさて。ここらで巣立つ時がきたのやもしれんな」

数絵「それでは…」

聡「ああ。悪いとは思うが、どのみちお前に高校は選ばせてやらんつもりだった。つまらん枠組みのなかでお前の麻雀を費やさせるのは御免だったからな。名も無い麻雀弱小校であえて戦わせるつもりだった」

数絵「それがおじい様の教えなのでしたら、私は喜んで受け容れます」

聡「そうか。ではそうしよう。小鍛治プロ、あなたの要望をお受けしましょう。高校は、なんと言いましたかな」

健夜「あ、えっと、茨城の土浦女子です」

聡「承った。小鍛治プロ。あなたには…まぁ、あまり期待せんことにしましょう。精々、よろしく頼みますよ」
 
健夜「は、はい…」

 含みのある言葉が気にかかりはしたが、とにもかくにも交渉は成立。
 大層気疲れしたが、一歩前へと進んだ手応えを感じ、健夜の頬が緩んでいた。


 南浦邸を後にし、数絵に見送られて健夜は帰路につこうとしていた。
 満足げな健夜に対して、数絵の表情は険しい。

数絵「小鍛治プロ。来年より、御指導御鞭撻の程、よろしくお願いいたします」

健夜「あ、そんなに畏まらなくてもいいよ?」

数絵「そうですか。それではお言葉に甘えまして」

 凛とした数絵の鋭い双眸が、健夜を射竦める。

数絵「私にとって、祖父の麻雀を体現することこそがすべてです。それが私の存在意義です。くれぐれも、私の妨げをなさらないようお願いします」

 そう言うと、一礼の後に踵を返し、数絵は去って行った。

 大きな壁と思われていた祖父・聡の説得を成し遂げ浮かれていた健夜は、数絵本人の強烈なパーソナリティに前途多難を感じて、めまいがした。

 ―――


 あとひとり。
 色々と問題はあったが、とにもかくにもあとひとりだった。

 そうとなれば、あとは手段を選んでいられない。
 片っ端から、手当たり次第総当たりで事に臨んだ。
 その様をして、友人である福与恒子に「いまだかつて見たことも無いアクティブすこやん」と言わしめる程だった。

 そうして辿り着いた先――大阪は三箇牧高校にて、事態は進展を迎えた。


憩「ごめんなさい。小鍛治プロのお目に叶ったということはすごく光栄なんですけども、慎んで遠慮させていただきます」

 もう何度耳にしたかわからない「お断り」。
 最近では中学生のみならず、高校一、二年生にもあたっては砕けていた。
 そのなかの一人に過ぎない、三箇牧高校の荒川憩。
 彼女は、断った後に、しかしそこで終わらせはしなかった。

憩「でも、紹介ならできますよぅ?」

 楽しげに語られたその情報は、健夜にとって予想外のものだった。

 曰く、その少女はあらゆるゲームにおいて、天才的であると噂されていると。
 愛知にいるという少女の噂。健夜は憩に礼を言い、確かめに向かうことにした。


 ところが。

 健夜は立ち尽くしていた。
 あまりに情報不足で、あまりに無謀な試み。
 わかっていることは愛知に住み、ゲームの天才で、包帯ぐるぐる巻きの奇怪な格好をしていて、現在中学三年生であり、名前は対木もこであるということだけ。
 
 途方もない手探り感に、茫然と立ち尽くすことしかできない。
 どうしたものか。健夜は悩みに悩み、とりあえず足を動かしてみることにした。

 まさに、その直後のことであった。


 歩き出した健夜はなにかにぶつかってしまった。
 軽い衝撃にたたらを踏む。よろめきはしたが、たいしたことはない。
 問題は目の前に転がっていた。

 ちいさな少女が、倒れていた。
 いかにも虚弱でありそうな少女は、いまにも天に召されてしまいそうな儚さをまとっている。
 
健夜(う…うわあああああああっ?え、これ私のせい!?)

 目の前に光景に動揺した健夜は、慌てふためき少女へ駆け寄った。


健夜「だっ、だいじょうぶ!?息してるっ?死んでない!?」

 抱きかかえるように少女を起こすと、その軽さにまたしても驚かされる。
 比較的小柄な部類の健夜の腕のなかにすっぽりと収まってしまう少女は、本当に華奢という言葉が似合った。

 薄く開かれた瞳が、わずかに揺れる。

健夜「い、生きてる…けがは、痛いところはない?」

 捲くし立てるように訊ねる健夜の腕のなかで、少女はごくごくちいさく呟いた。

 「苦しい」と。


 どうにか落ち着きを取り戻し、ぶつかってしまった少女とふたり、連れ添って近くのベンチで一息入れていた。
 健夜は改めて少女の身形を確認し、思う。

健夜(この子…もしかしなくても、対木もこちゃんなんじゃ)

 そうとしか思えなかった。
 なぜなら、少女は包帯ぐるぐる巻きの奇怪な格好をしていたから。
 こんな珍奇な格好をした少女など、そうはおるまい。

 ひとつ、ふたつ、呼吸を整え、健夜は思い切って聞いてみた。

健夜「あの…あなたの名前、もしかして対木もこって言わない?」

 ゆっくりと健夜へ向くその顔が、すこし驚きの色を帯びたような気がした。
 ちいさな頭が縦に揺れ、頭に巻かれた包帯が風になびく。


健夜「あの…あ、私は決してアヤシイ者ではないんだけど」

 そう言ってる時点でアヤシイよね、と自分自身思ってしまう。
 どう説明したらいいものか、考えに考え、

健夜「私はこういう者なんです…ケド…」

 名刺代わりに、ウィークリー麻雀トゥデイという雑誌の過去号を取り出して見せる。
 自身の特集ページを見ず知らずの少女に見せびらかすというなんともいえない羞恥に耐え、自己紹介をする。

健夜「プロ雀士の小鍛治健夜と申します」

 少女、対木もこは手渡された雑誌をしげしげと眺め、それから健夜を横目でちらっと見遣り、ぺこりと頭を下げた。
 あいさつが通じたものとみた健夜は、本題へと移った。

健夜「麻雀、やったことはあるかな?」

 問うと、少女はちいさく首を横に振った。


健夜「そっか。実は私、麻雀の才能がある子を探しているんだけど、対木さんがボードゲームの類で噂になってるのを耳にしたんだ。天才だって」

 今度は照れくさそうに、少女は身をよじる。
 言葉少なにも感情が現れている。会話がなくとも、通じている気がした。

健夜「それでね、対木さん、麻雀に興味ないかなって」

 そこで、もこの顔が健夜へ向けられる。
 コハクのような瞳が、好奇心の色を伴って輝く。

もこ「……昔」

健夜「え?」

もこ「……覚えよう…と思った…ダメだった……」 
 
 麻雀に挑戦してみて、無理だった、と。

 たしかに麻雀のルールは複雑で難しい。
 だれかに教えてもらわなければ、こどもには無理があるかもしれない。


健夜「私が教えてあげる。だから、今度は私と…私たちといっしょに麻雀、やってみない?」

 包帯の下で、無表情ながらも、感情が揺れ動いているのが感じられた。
 
健夜「興味があったら、これ、私の連絡先。茨木の土浦女子ってところで来年、麻雀部をやる予定だから」

 紙切れを差し出す。
 しかしそれを受け取る素振りがない。
 だめか、と思ったその矢先。

もこ「……いく」

健夜「え」

もこ「……麻雀…教えて…さい」

 あまりにちいさな声で聞きとりづらかったが、間違いなく、健夜の期待していた返事だった。
 
健夜「ありがとう…まかせて。私も頑張るから!」


 なんとか、人数は集まってきた。
 これで定員割れという最悪の事態でいままでの頑張りは水の泡に、各方々から冷やかなバッシングを受ける、ということもなくなりそうだ。
 
 後は座して待つだけ。時が――彼女が、やってくるのを。

 健夜の慌ただしい一年が過ぎ去り、冬を越し、春の訪れ。

 新たな門出に胸を膨らませた若人たちが、高校という舞台に上がる。

 それは、新しい物語のはじまり。

健夜「――ようこそ、茨城へ」


 外伝 カン

>>51の意見を汲み、一応このスレで完結させるつもりでいきます
ここまでがいわゆる前日譚、次の中編からが本編的な感じになります

先に謝ります。大変申し訳ありません。
>>33で言ったことは嘘です。中編がなかなか終わる見通しがつかないので中編だけは刻んで投下しようと思います。計画性のなさが露見してしまいまして大変申し訳ない。
あとは注意事項といきたいですが長ったらしいのもアレなので省いてとにかく謝っておきます。読まれたら察しがつくかと思われますが本当色々と失望されたら申し訳ない。


 未だ寒さの残る春先。
 厳しい冬を越え、緑が芽吹き始める季節。

 少女――宮永咲は父に見送られ、長野を発とうとしていた。
 
 行く先になにが待っているのか、不安はある。
 それも含めて、門出なのだと胸中で噛み締め、故郷を発つ。


咲「……で?」

 移動の汽車のなか、座席に深くもたれた咲は、隣の席に座ったちいさな影を呆れ混じりに見る。
 知らぬ顔ではない。その少女はトレードマークである大きなリボンをたのしげに揺らし、足をリズミカルに刻む。

衣「汽車、汽車、ぽっぽ~♪」

 天江衣。咲に執心する、稀有な少女。
 突如咲の前に荷物を持って現れ、あれよあれよという間に引っ付いてきたのだ。


咲(まさか、小鍛治さんの集めた人のなかに天江さんも…はぁ、そうきたかぁ)

 内心で呆れの息を吐く。
 だめなわけではない。むしろ、麻雀の方は望ましいレベルにある。知らぬ仲ではないし、気安さもあった。
 彼女もまた、自分と同じで、自身の力を持て余している節もあった。ゆえに、咲と衣は似通った者でもあった。
 それにしても、と思わないでもないが、それでも拒絶する理由はない。

咲(天江さんの件は、向こうについてから小鍛治さんを問い詰めればいいか)

 旅は道連れ。道中過ぎ行く景色も、慣れないであろう新生活も、共有できる相手がいるに越したことはない。
 
衣「咲、これからは共に切磋する間柄だ!よろしく頼む!」

 差しだされたちいさな手を、咲は苦笑いで受け止めた。


健夜「ようこそ、茨城へ」

 到着した咲たちを待ち受けていたのは一年半振りに見る小鍛治健夜だった。
 その顔はすこし疲れているようにも見える。

 実際、咲たちを待つ間は健夜のとって準備期間ともいえ、慌ただしく動き回っていたために疲れているのは事実だった。

 そんな様子の健夜を見て、咲は用意していた言葉の数々を胸の奥にしまい込んだ。

咲「これから、よろしくお願いします。小鍛治さん」

健夜「うん。よろしくね。じゃあさっそくなんだけど」

 健夜が身体を傾けて指し示したのは一台の車。
 運転席には、スマートな女性が座っている。


健夜「乗って乗って。これからふたりの下宿先にいくから」

恒子「へろー、大志を抱いてるかい少女諸君。私は名も無き人気アナウンサー、福与恒子。ヨロシクねん」

 想像の斜め上をいくフランクさに、後部座席に座った咲がちいさく会釈する。
 脇腹を小突く健夜、「およしになってすこやん」という冗談交じりのやりとりから、ふたりが親しい仲であることが窺えた。


 車内から外の風景を眺め、ほうっと息を吐く。
 咲にとって、新天地である茨城はなにもかもが新鮮で、心のなかの幼い部分があらゆる角度から刺激された。

衣「あれ!咲、あれなんだろう!」

咲「ファミレスかな」

衣「はみれす!衣、知ってるぞ!」

 目を輝かせて咲とは反対の景色を見つめる衣もまた、同じようだった。
 そんな後部座席の様子をミラー越しに見て、大人たちは微笑み合う。


 やがて四人を乗せた車は大きな通りから小枝のような小道に入り、入り組んだ住宅街をさらに奥へと進んでいく。

 そうして辿り着いた先には、古めいた二階建ての集合住宅。
 ボロアパート、という感想がしっくりきた。

健夜「ここが、これからふたりの住むおうちになります」

衣「うむ!ボロい!」

咲(言っちゃうんだ、それを)


 三人を下ろすと、福与恒子は「ぐっどらっく」とだけ残して去ってしまった。
 
健夜「大家さんが私の親戚の方なんだ。べつに特別融通が利いたりはしないけどね…」

咲「でも、いいんですか?こっちでの生活を小鍛治さんに全面的に助けてもらっても」

健夜「いいのいいの。みんなを引き込んだのは私なんだし」

衣「衣には無用の気遣いだがな。とーかからお小遣いをもらってあるし」

健夜(そりゃ、龍門渕だしね…かわいげないなぁ!)

 健夜には持て余し気味の貯えがあった。
 どうせ使い途がないのならば、と気前よく少女たちへの投資に使ってしまおうという腹積もりでいた。


 門前で物珍しげに建物を眺める二人の少女に、ちいさな影が近づいていた。

 「健夜ちゃん、きたかい」

 親しげに話しかけてきたその人物は、やや細面で年齢を感じさせるものの、健夜に似通った面立ちの女性だった。

健夜「泰江おばさん、こんにちは。こちら、残りのふたりです」

 泰江と呼ばれた女性は、人好きのする笑みでふたりの礼を受け入れた。


 色川泰江。小鍛治健夜の叔母にあたる人物であり、大家でもある。

 物腰の柔らかい大家に迎えられ、咲と衣はいくぶんか緊張が解けていた。

泰江「ふたりの部屋はこっち。はいこれ鍵、失くさないようにね」

咲「はい」

衣「わーい」

泰江「お風呂とトイレは各部屋に備えてるけど洗濯物だけは共用ね。あとでうちの子をいろいろ教えにいかせるから、その時に詳しいことを聞いて」

 通された部屋は今時古風な畳敷きの部屋。
 外見からは想像もつかないほど手入れが行き届いてあり、清潔感のある部屋だった。


 上り框のうえで足を止め、咲は部屋のなかを見渡した。
 これから生活していく居住空間を感慨深げに眺め、深呼吸する。

衣「咲ー」

 開け放したままだったドアの影からぴょこんとリボンが揺れ覗く。

咲「なに?天江さん」

衣「そっちいってもいい?」

 すこしの不安が混じった声音で訊ねてくる衣を若干不審に思ったが、咲は拒む理由もないかと思い、「どうぞ」とだけ返した。


咲「…で?どうして荷物まで持ってきてるの?」

衣「?だってこっちにきてもいいって」

咲「あ、そういう意味?こっちの部屋がよかったの?じゃあ私はあっちに」

衣「じゃあ衣も」

 咲が荷物を持って立ち上がると、衣も倣うように立ち上がる。
 奇妙な間があき、ふたりは見つめ合う形で固まってしまった。

 そんな硬直を破ったのは、部屋にやってきた健夜の声だった。

健夜「あ、ふたりともおなじ部屋にいたんだ」

咲「小鍛治さん」

健夜「手間が省けちゃったね」

 健夜的にはそうだろうが、咲としてはあまり喜ばしくはなかった。
 しかし衣の我儘っぷり、強情さは咲もよく知っていた。
 諦めの境地で荷物を再度下ろした咲は、健夜の背後に控えていた人影に目を遣った。


咲「そちらは?」

健夜「うん。色川朝水ちゃん。泰江さんの子で、私の姪にあたるのかな」

 紹介された少女、朝水は会釈だけして、目を逸らした。
 
健夜「朝水ちゃんも宮永さんと同じで今年から土浦の一年生なんだよ」

咲「へえ。私、宮永咲っていいます。これからよろしくお願いします」

 外行きの態度で自己紹介する。が、相手は横目でちろりと見ただけで、反応は極々薄いものだった。
 さすがにむっとしたが、続く衣の威勢の良い発言で咲の気勢は削がれてしまった。


 それから二言三言、健夜のほうから取り成すような言葉をいただき、朝水の主導で色々な説明を受けた。
 あまり騒がしくしないよう、夜出歩くことは極力避けるよう、どうしても用事がある場合は大家に知らせてから、などなど。最後に付け足された部屋を汚くしないよう、という注意は他に比べて一際力が入っているように見えた。彼女が各部屋の管理をしていたのだろうか、と咲は取り留めもなく思った。

 一通りの規則を教えられ、ようやく一息ついた頃。
 健夜はすこし待つよう三人に伝え、部屋を出て行った。
 待つよう言われても、そもそもここがこれから住まう部屋なのだからどこにも行きようがないと咲は思った。


 畳のうえで足を崩し、窓の外に目を向けると、青い空が広がっている。
 まぶしげに目を細めていると、朝水がふと立ち上がり、彼女もまた部屋を出て行ってしまった。
 
 きまずくなって出て行ったのだろうか。健夜は三人に待つよう言っていたがいいのだろうか。

 そんなことを思っているうちに、朝水はすぐに戻ってきた。

 その手には湯呑の乗った盆を持ち、部屋に上がると咲と衣の前に湯呑を差し出した。
 「いただきます」と一言いい、湯呑に口をつけると、程よい温度のお茶が口内を湿らす。
 渋みや苦みは控えめで、すっきりとした味わいが口のなかに広がる。淹れ慣れている味だった。

 落ち着く味にほうっと息をつく。不意に視線を感じ、ちらと見遣ると、朝水が盆を両手で抱えて咲の凝視していた。
 目が合うと、やはり視線を逸らされる。だが、出されたお茶のおかげで肩の力が抜けていた咲には、それが別段不快には感じなかった。

咲(きっと、あまり人との付き合いが得意な子じゃないんだな)

 他人事のようには言えないか、と苦笑を漏らしながら茶を啜る。


 そこでようやく戻ってきた健夜は、新たな顔ぶれを従えていた。

 朝水は、ちいさな健夜といった印象の子だった。まるっきり同じとはいかないものの、ハの字に下がった眉やどこか素朴な顔立ち、まとった緩めの雰囲気などがどこか血の繋がりを感じさせた。

 では、新たに登場したふたりはどうだろうか。

 片方は清楚といった印象だった。
 青いリボンで結った髪を揺らし、垂れ気味ながら芯の強そうな眼差しで咲を見つめている。
 凛とした眉や真一文字に引き締められた口、ピンと伸びた背筋や楚々とした佇まいから和風美人という言葉が似合った。

 もう片方。
 フリル過多な(おそらく)私服に、見てるこちらが痛ましく思えてしまうほどに身体のほぼ全面を覆っている包帯。
 片目もリボン風な包帯に隠れ、人形のような無表情でただそこに立っている。
 きっと、宮永咲という人生のなかでおよそ関わり合うことはないであろう、そんなインパクトを与える風体だった。


 説明を求める戸惑いの目線に気付いた健夜が、ぎこちない笑みを湛えて紹介する。

健夜「えっと、こちら、南浦数絵さんと、対木もこちゃん」

咲「はぁ…宮永咲です。よろしく」

衣「天江衣だ。よろしく!」

健夜「えーと…この五人で、土浦女子麻雀部として、活動していこうと思います」

 その宣言に、咲は困惑した。
 いきなりのことだったからそれもしょうがないことではあるが、それ以上に、若干一名の激しすぎる動揺を目の当たりにして、どういうわけなのかと困惑していた。

朝水「え?え?え?」

健夜「朝水ちゃんは驚いていると思います。そうだよね。だっていま初めて伝えたから」

咲「ちょっと待ってください」

 聞き捨てならない言葉があった。看過してはならない情報だった。


 咲は健夜に向けて愛想十割増しの不自然笑顔を向け、低い声を器用に捻り出して問う。

咲「小鍛治さん、ちゃんと『面子が揃った』って私に言ってましたよね?なのに本人の了承を得られてないとはどういうことでしょうか?」

健夜「ちょっと待って、宮永さん、怖いよ!」

 咲から一歩距離を置き、手を伸ばして牽制する健夜。あまりの怖気づきっぷりに、横の数絵から呆れまじりの嘆息が吐かれる。

健夜「ほら。私と朝水ちゃんのよしみでね?頼めば聞いてくれると思って」

咲「完全に皮算用じゃないですか…しかも本人はかなり困ってるみたいですけど」

 そういい視線をやると、朝水は盆で顔を隠し、逃避の体勢に入ってしまっていた。


 健夜は申し訳なさそうに頬を掻き、首を竦めた。

健夜「ごめんね。本当は朝水ちゃんに無理に頼らなくてもいいようにしたかったんだけど…」

 そこで、言葉に詰まる。
 咲はその先に続くべき言葉を察した。つまるところ、健夜はメンバー集めに苦心していたのだ。

咲「…まぁ、小鍛治さんですしね」

健夜「はうっ」

 あまり意識せず口を突いた言葉だったが、それだけに健夜の心を深く抉った。
 大ダメージに健夜の足がよろめく。

咲「それにしたって、事前に話を通しておくべきだったんじゃ」

健夜「…それは、ほら。朝水ちゃん、私ひとりで頼んでも絶対逃げるから。みんなが揃った時に打ち明けて逃げ場をなくしちゃえばって…ね?」

数絵「卑劣ですね」

健夜「うぅっ」

 今度は横からの不意打ちだった。どうせ数絵が言わなくとも咲がおなじようなことを言っていただろうが、むしろ咲からの口撃に備えていただけにこの不意打ちは健夜の残った精神力を根こそぎ刈り取った。


健夜「そこまで言わなくたって…」

 くずおれる、もうじき三十路の伝説の肩に、ちいさな手がやさしく置かれる。

衣「そう気にすることもない!な?」

健夜「うわああああああああああん」

 なまじ子どもにしか見えない衣に慰めの言葉をかけられ、情けなさに拍車をかけられた健夜はついに泣き出したくなっていた。
 視界がぼやけていたから泣いていたかもしれない。あまり認めたくはないことだったが。

 どうしようもない空気になりかけていたその場を繕ったのは、意外にも朝水だった。

朝水「と、とりあえず…詳しいお話を」

ちょっと寝る、

「いろかわあさみ」ちゃんです
従姉妹です。許してください
唐突なオリキャラですがオリキャラのためのssではなく、話のためのオリキャラってことで許してください
許してください!


 ―― 

「なるほど…」

 咲との約束、それぞれのメンバーを勧誘するにあたっての経緯、今後の方針等を健夜がかいつまんで説明したところ、見事なユニゾンでうなったのは咲と数絵のふたりだった。

 そして、その後に健夜に向かって放った言葉もまた、奇しくもおなじものだった。

「バカなんですか?」

健夜「うっ…そ、そんなふたりして貶さなくったって…」


咲「麻雀をろくすっぽ知らない初心者を、センスの有無だけで頭数に入れるのはどうかと思いますが。しかもそのセンスというのも又聞きした噂程度のものだなんて。正直小鍛治さんの計画性のなさには若干引きます」

数絵「本人の承諾も得ていない、最近は麻雀に触れているのかもわからない、そもそもここ数年顔も合わせていないような親戚の子に対してよくもまあそこまで楽観的な期待を持てますね。そんなのでよくあれだけの大口を叩けたものですよ」

健夜(こ、このふたり、こわいよう…)

 小動物よろしく震える健夜を前に、切り捨てるような弁舌はなおも止まらない。
 見かねた件のふたりがおずおずと助け舟を出した。

もこ「………あ、の……わたし…がんばり…ます、から……」

朝水「あ、あまり健夜さんを責めてあげないでください」

 あまりにもちいさな援護に、鋭いふたつの双眸が向けられる。
 健夜は無実のふたりを巻き込むまいと手を伸ばすが、時すでに遅し。

咲「色川さんはやさしいんだね。いきなりへんてこな話に巻き込まれちゃったっていうのに」

数絵「対木さんは悪くないんだよ。麻雀を覚えたいんだってね?だいじょうぶ、すぐに覚えられるよ」

朝水「はぁ…」

もこ「……あり、がと…?」

健夜(私以外にはすっごくやさしいんだ…というか、私にだけめちゃくちゃ辛辣…?)

 納得のいかない健夜であったが、なんとか剣呑な空気が薄れたことにはもこと朝水に対し感謝し、話を戻した。

健夜「でも、これで五人揃ったんだよ。土浦女子麻雀部は、ここからまた始まるんだ…」

朝水「え?私、やるとは言ってないけど…?」

健夜「はい?」


朝水「えっと…麻雀なんてもう何年もやってないし…」

健夜「…土浦女子麻雀部は、ここからまた」

朝水「聞かなかった体で話を進めないでよ…」

 肩を落とす朝水に、健夜はちいさく耳打ちする。

健夜「気が乗らなくても、とりあえずすこしだけ付き合って!あとで進学祝い多めにあげるから!」

 肩越しに感じる白い目に怯えながら囁くその姿は紛れもなく情けない大人の姿だった。
 素の健夜の性格をよく知っている朝水は意固地になってもしかたないと悟り、目を伏せる。
 
朝水「…来年はお年玉ちょうだいよ?」

健夜「…わかってるって」

 こうして、五人目の説得は健夜の手腕(?)によってとりあえずは為されたように見えた。


 改めて、これから共に闘う仲間たちを、それぞれ見回す。

 特に咲は注目の的だった。

 小鍛治健夜が、今回動くきっかけになった少女。
 小鍛治健夜が手ずから導きたいと望む少女。
 どんなだろう、と思われてもしかたがない状況だった。

 殊に、この中で咲についてほとんどと言っていいほど知らず、それでいて麻雀と、麻雀における小鍛治健夜の偉大さをよく知る南浦数絵は一際咲への興味を隠さずに発していた。

咲(きまりが悪いなぁ)

 好奇の視線を浴びせかけられた咲はばつの悪い様子で身体をよじり、視線を外した。
 どうにか空気を変えようとあれこれ考え、

咲「そうだ。衣ちゃん、制服を見にいこうよ」

衣「おお!もうか!いいぞ、いこういこう!」

 ふと思いついた提案だったが、思った以上に食いつきが良い。
 これにて解散、という空気に持って行きたかった咲だったが、

もこ「……私も…ついてって、いいです、か…?」

 ちろりと窺い見るように見つめられると無下にもしづらい。
 咲は「そうですね。まだでしたら、いっしょに」と答えた。


 思わぬ飛び入りがあったものの、衣といっしょの時点でゆっくり落ち着いてというのも無理な話かと思い直して、咲は立ち上がろうとした。

 そして自然、視線が前方へと向き、そこでちらちらとこちらを見る者の姿が目に留まる。

数絵「…ゥンン!天江さんと対木さんもいっしょか。それなら、うん、私もいこうかな。友好な関係を築く機会みたいだし」

 わざとらしい咳払いと共に、小柄なふたりをちらちらと横目で見ながら、空々しくのたまっている。
 咲の数絵を見る目が次第に疑わしげな目に変わっていく。

咲「失礼ですが、南浦さんってちいさい子どもが好きなんですか?」

数絵「本当に失礼だな。言葉には気をつけてくれ。それだと私が変質者みたいじゃないか」


 先程の様子を見てそう思わないほうが難しいだろう、と咲は内心で独りごちた。
 実際、今も盗み見るような目は衣ともこを捉えている。どころか、いままで固く結ばれていた口が綻んで見えてすらいた。

咲「…で、ついてくるんですか。天江さんと対木さん目当てで」

数絵「人聞きが悪い。私も、親交を深めるためにご一緒しようと言ってるだけだ」

咲「さいですか」

 いっそ空々しくさえある言い分は暖簾に腕押し柳に風。おそらく、どれだけ追及しようと彼女はけして自身の主張を曲げない気がした。

 ここまでくると、もはや何人いようが大して変わらないだろう。横での「制服かぁ、懐かしいな。みんなでだなんて、なんだか楽しみだね朝水ちゃん」「え、私たちもいくの…?」というやりとりも右から左、どうにでもなれと咲は溜め息を吐いた。

 ――


 高校生活への準備期間である春休みはあっという間に過ぎ去り、入学式の日を迎えた。

 衣は二学年に編入ということで、一足先に通学している。
 衣が同学年の平均的な学力を大幅に上回っており、編入試験を余裕で通過していたことに咲が驚くという一幕もあった。

 なにはともあれ、今日から咲も土浦女子の生徒だ。
 真新しい制服をまとった新入生の列にまぎれ、式に臨む。

 特別目新しいことはない。老人の長話に付き合い、新入生代表者が頑張って練ったであろう長文を聞き流し、祝電の読み上げをうわのそらでやり過ごし、吹奏楽による校歌の演奏を聴き、ようやっと立ち上がる頃には尻が痛くなっていた。


 渡り廊下に出た途端にざわめき始める周囲がすこしだけ鬱陶しく感じられ、咲は意識をべつのことへ傾けた。

 中学ではそこそこに周囲と付き合って、目立たずはぐれずの立ち位置にいられた。
 だが、まったく新しい環境ではそうはいかないかもしれない。
 いじめられたりしたらどうしよう。ふと芽生えた不安にすこしだけ気が重くなった咲は、道中、人だかりが出来ている箇所で足を止めた。

 クラス分けの結果が掲示板に貼りだされている。
 遠巻きに眺め、自分の名前を探していると、隣の生徒と肩がぶつかった。
 
咲「あ、ごめんなさい…って、対木さん」

もこ「……みやなが、さん……」

 包帯は控えめ、しかし頭に巻いたリボン包帯はしっかり装着した、異彩を放つ新入生、対木もこだった。 

 人混みに入っていく勇気がなかったのか、咲とおなじように遠巻きにクラスを確認しているようだった。


咲「あ、対木さんの名前あったよ」

もこ「みやながさんのも……」

 お互いが、お互いの名前を発見し、指さす。
 その先は、おなじクラスの欄だった。

咲「おなじクラスだね」

もこ「……うん」

咲「ちょっと安心した」

もこ「……わたしも……」

 見知った間柄の相手がおなじクラスだと、やはり安心感が違う。
 微笑みを交わすふたりに、近寄る人影があった。

数絵「やあ」

咲「南浦さん」

数絵「私もおなじクラスだったよ。色川さんもね。こうなってしまうと、天江さんが仲間外れになっちゃったみたいだね」

咲「へえ、色川さんも」

数絵「うん。とりあえず、教室に行ってみよう」


 土浦女子高校において、第一学年の教室群は校舎の四階にあった。
 学年が上がる毎に、教室のある階が下がっていき、階段の昇降に伴う苦労も減るというわけだ。
 
 最年少である咲たちがえっちらおっちら列を成して四階まで上がり、クラス名表示プレートを見上げては各々割り振られた教室へと入っていく。

 五十音順に割り当てたであろう席順の表に従って着席する。
 周囲を見渡せば、他の生徒は近くの席になったクラスメートと雑談に興じたりしている。

 
 朝水は前方出入口に一番近い席に座ってそわそわしていた。
 もこと数枝は前後の席順で、特に数枝は嬉しそうだった。

 咲は窓際の前方で、窓の外を眺めていた。
 見慣れない景色がフレームのなかに収まっていて、なんともいえない想いが胸の奥を締め付ける。
 それは期待か、郷愁か。行方の知れない旅路に対する不安かもしれないし、もっと単純に教室内の騒がしさにうんざりしてしまっているだけかもしれなかった。

 やがてやってきたスーツ姿の女性教諭に目線を移し、意識も新たなクラスでのあれこれへと移っていった。 
   
 いろいろな物の配布や様々な事柄に関する注意・説明を受けるうち、何人かの生徒は気さくに発言を始め、そのうちのひとつである席替えの提案が教諭によって承認された。


 その結果、もこと朝水が廊下側の席で隣同士、咲と数絵が窓際で前後同士という席に相成った。
 もこと朝水がお互いにぎこちなくコミュニケーションを取っているのを見て微笑ましく思った咲は、ちらりと後ろを振り向いた。
 そこには悲壮感と静かな怒りに能面然とした数絵がいた。
 咲は何も言わず、正面へと向き直り、衣は今頃どうしているかと二年の教室へ思いを馳せた。

 ―――


 初回のホームルームが終わるととりあえずは解散の運びとなり、一年生の教室からぞろぞろと人が吐き出されていく。

 昼にはまだ早い時間だが、どうやら上級生も本日は終業らしく、衣が廊下の端に立っていた。
 咲の姿を認めると、てこてこと駆け寄って来る。

衣「咲ー」

 咲へぴったりと密着するようにひっつき、咲もそれを何も言わず受け容れる。
 その様子はすこしばかり、事情を知らぬ他の生徒たちの注目を集めていたが、当人たちはまったく気にしていなかった。(あるいは気付いていなかったとも)

 とまれ、咲と衣が揃い、そうなると咲と同じクラスであるもこや数絵もなんとなしに同行し、朝水もそこに随従するように後を追う。
 一団体として、校舎を上から下へ。


 やはりというべきか、どこか衆目を引く集団であった。新入生はだいたいが多くても二、三人くらいで集まっているばかりのなかに、五人もが連れ立っているのだから、当然と言えば当然でもあったが。

 ひそひそ話に眉を顰めた衣が舌打ち混じりに非難がましく呟く。

衣「寄ると触ると口さがない、まったく以て煩わしいな」

咲「新しいクラスで何か嫌なことでもあった?」

衣「べっ、べつに…」

 どこかうんざりとした様子の衣を見下ろし敏く察した咲が問うと、大きな瞳が盛大に泳いだ。
 苦笑いを浮かべる咲も、内心では多少の辟易を感じていた。

 いままで注目を浴びないよう立ち回って生きてきただけに、現状に多大なストレスを感じ、知らず溜め息も漏れる。


朝水「部活の勧誘もやってるみたいだね。昇降口の周りから一階の踊り場までは上級生たちでごった返してるんだって」

 最後尾から遠慮がちに朝水が言う。
 その通り、一階どころか二階の廊下あたりまで勧誘に精を出す上級生で溢れていた。

 先頭を歩く咲の足がはたと止まる。あまりの人口密度の高さに頬が引き攣っていた。
 
数絵「詳しいんだね」

朝水「あ、うん…健夜さんが、だから絶対捕まるなって」

数絵「…なるほど」

 背後で繰り広げられる話を背中で聞きながら、咲は苦み走った表情で先の人混みを見つめている。

衣「どうした?」

 訊ねる下からの声に、言葉にするのも大儀そうに指差す。


 指し示した先では、よく見ると周囲より一層熱を放つ集団が色めきだっていた。
 さらによく見ると、どうやら生徒以外の人間が、生徒たちに囲まれて握手やらサインやらをせがまれているようだ。

 有名人ばりに囲まれていたのは小鍛治健夜その人だった。

 気付いた衣も数絵も、あまつさえ朝水までもが呆れ返っている。
 
 これはどうしたものか、という空気の五人は、咲が振り返りとりあえず見つからないうちに戻ろうとジェスチャーで示したところで、下から声がかかった。

健夜「あ、おーい!みんなー!」

 俯き、もういやだと言わんばかりに手で顔を覆った咲を、他の四人が慰める。
 唯一皆と合流できたと喜ぶ健夜だけが、沈みつつある空気をまったく読み取れていなかった。


 校舎の一階端、体育館へ続くものとは反対側の渡り廊下を行くと、別棟に辿り着く。
 そこは移動教室の際に使われる教室が並んでいて、それらの教室は文化部の部室になっていたりもする。

 奥にあるプレートも掲げられていない教室。定期的に清掃がなされているようで清潔さは保たれていたが、使われなくなって久しいであろうことが隅々から感じ取れた。

 室内は、やはりくたびれた感が隅々に見られたが、唯一新品同然の全自動麻雀卓が部屋の中央で一際存在感を放っていた。


健夜「大変だったんだよ、元々あったものは自動卓じゃなかったうえにホコリやカビでヒドイことになってたから、私がお世話になってるプロのチームに無理言ってひとつだけ融通してもらったんだ。ただでさえ、しばらくの間プロ活動を休止させてもらったりで迷惑かけてたのに、もうオーナーさんには頭が上がらないよ…。
 それに、学校側にだって、もう部員がいなくて廃部同然だった麻雀部を復活させてもらったり、私が出入りできるように計らってもらったり…正直一生分頭を下げた気がするよ…」

 卓の縁に手を置き、しみじみと苦労を語る健夜。
 五人はそれぞれ、反応に困った様子で顔を見合わせていた。

咲「えっと…おつかれさまで…した?」

 首を傾げ、疑問形で放たれた労いの言葉だったが、健夜がそれでも満足したようだ。
 ようやく口許に笑みを乗せて、やる気を煽るよう努めて溌剌とした声をあげた。

健夜「よーし、それじゃ夏のインターハイに向けて、がんばろう!」

衣「おー!」

 元気よく返ってきたのは衣の声だけ。
 どころか、朝水がやや食い気味に上擦った声で、

朝水「え!?た、大会に出るの…?」

 心底嫌そうな顔で、不安げに言う。
 麻雀部をわざわざ再建するのになんの目的もないわけがないのは考えればわかりそうなものだが、朝水の頭には大会出場という可能性はなかったようだ。


健夜「……」

 ここにきて部への帰属が危ぶまれかけてきた朝水をどうするか、健夜は一瞬考え、

健夜「とりあえず一試合打とうか」

朝水「流さないでよぉ!」

 うやむやにして誤魔化そうと目論むも、さすがに無理があった。

 健夜は咲へと目線を送り、アイコンタクトを試みる。
 視線に気付いた咲は、顎でくいと廊下を示した。さっさと話し合って落としどころを決めろということだろう。

 数絵がもこを卓に座らせ、麻雀の基本ルールを教え始めたところに、咲も入っていった。
 朝水の問題には没交渉を決め込むつもりだった。


 健夜は盛り上がり始めた卓に背を向け、朝水に対して手招きした。

 人気のない廊下は、春先といえど冷え冷えとしていて、あまり動かずに長居したい場所ではなかった。
 廊下の端、非常口の近くの隅まで移動した健夜が、率直な物言いで訊ねる。

健夜「そんなに公式戦に出るのが嫌?」

 いつになく真剣なトーンに、朝水は返す言葉を見失う。


 そうだ、と肯んずるのは簡単だ。そうすることが、こんな望んでもいないことから解放される手っ取り早い方法だということもわかっている。

 それでも、首を縦に振ることさえ叶わない。
 
 健夜の言葉を引き金に引き出された、朝水を縛り付けている苦い記憶が、全身の自由を奪っていた。
 
 このまま黙りこくっていれば、いずれ呆れ返ってこの話が終わってしまわないだろうか。
 そんな希望を他人事のように頭の片隅に浮かべていた朝水は、次の瞬間鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。


健夜「それは、中学での県予選が原因かな?」

 まさに核心を突くその言葉。

 彼女の心に植え付けられた罪悪感の種に、絶やすことなく水を与え続ける過去の出来事。
 忘れてしまえるものなら忘れてしまいたい、だが忘れることなど到底許されはしない。
 いまもなお、彼女を蝕み苛むそれを、健夜は知っていた。

朝水「なん…なんで、どうして?」

 乾いた口内で舌がもたつき、上手く言葉を発せない。
 冷や汗が背筋を伝い、どこからか侵入してくる隙間風に身体が震えてしまう。


健夜「ごめんね、いま私すごく心無いことしてる。それを自覚して、朝水ちゃんを傷付けちゃうかもしれないってわかってて、それでも厚かましいこと言うね」

 茶化すでもなく、真剣味は薄れるどころか向かい合う朝水が怖くなるほどに増し、凄味を伴ってすらいた。
 
健夜「ちょっと前、色々調べてた時に、朝水ちゃんの中二の時の公式戦の記録を見つけたんだ。その時はあまり気に留めず、ただ朝水ちゃんもまだ麻雀をやってるなら、ってくらいに思ってた」

 滔々と語られる。じりじりと、朝水が決して忘れないよう刻みつけ、なるだけ思い出さぬよう覆い隠した記憶の甘皮が剥されてゆく。 


健夜「泰江叔母さんから聞いちゃったんだ。朝水ちゃんが、友達や先輩に期待されて駆け足でレギュラーになったこと、先輩の中学最後になる大事な大会の初戦で大きな失点をしちゃったこと、それを負い目に感じて麻雀部と友達、先輩とも疎遠になっちゃったこと…」

 ついに、その核が丸裸にされてしまった。ちいさな疼痛が胸の奥深くを突き、言い知れぬ絶望感に押しつぶされそうになる。

 気付けば朝水の足は震え出していた。
 あの日、あの瞬間、あまりにつらすぎる敗北を刻んでしまったあの時のように、惨めにもへたり込んでしまいそうになる。

 ――逃げ出せ。あの時のように、脱兎の如く。

 朝水の本質的な弱い部分が、本能がそう囁く。

 知らんぷりして、関わり合わないようにして、そうしてやり過ごせと。


健夜「逃げちゃだめ!」

 無意識のうちに後ずさろうとした足が、震えごとぴたりと止まる。

 静かに発せられたその言葉に、心臓まで鷲掴みにされたような錯覚に陥る。

健夜「ううん、そんな押し付けがましいお説教なんかじゃなくて…逃げる必要なんかないんだよ、朝水ちゃん」

 打って変わってやさしげな言葉に、全身の硬直が解きほぐされていく気がした。


健夜「みんなの力で勝つこともあれば、だれかのせいで負けることもあるのが団体戦っていうものなんだよ。大事なことはその結果だけじゃなくて、その結果に直面した時、チームとしてどうあるか。もちろん勝つことを目標として、勝つつもりで臨むけど、負けたからってだれが悪いとか、そういうのは良いチームとはいえないと思う。勝利を共に喜び、敗北は共に噛み締め、どちらも次への糧とする。そんなチームが理想的だと思うんだ」

 青臭くて絵に描いたような理想論。
 それがどうした、理想を語ってなにが悪い、とでも言いたげなほどに、堂々と語るその姿は、どこか眩しくて。

健夜「きっと朝水ちゃんが味わった挫折感だとか後ろめたさみたいなものは、私が無責任に語っていいことじゃあないんだろうね…。だから、過去のことは口出しできないし、どうにもできないよ。でもいまは、この土浦女子麻雀部には朝水ちゃんが必要なんだ。ただの数合わせとかじゃない、私の指導者としての見通しのなかには、朝水ちゃんの力が欠かせないの」


 朝水は、目を細めた。
 どうしてだろう、どうしてこんなにも、胸が疼くのか。
 胸を掻き毟るほど強く押さえつけても、出るのは苦しげな吐息ばかり。
 許されないはずなのに、それをわかっていながら、どうしてこんなにも。

健夜「だから…信じてほしい。きっと負けない、たとえ負けてもみんなでもっと強くなれる土浦女子麻雀部を!」

 こんなにも、心が高ぶっている。

 伸ばされた手が、こんなにも近い。
 すこし手を差し出せば掴めてしまいそうなほどに。


 ――麻雀が好きだった。
 牌を摘む感触が好きだった。点棒が擦れ合う音が好きだった。卓に座って相手と向き合った時のなんとも言えない緊張感が、好きだった。
 
 親戚に有名なプロがいたから、最初はそんな理由で誘われてむっとしたが、いっしょに卓を囲めば、そんなことはお互い関係なかった。

 だれかの為に打つことが、どこか誇らしくて。だからこそ、あの日あの瞬間の取り返しもつかない失態は自分自身がだれより許せなくて。

 逃げてしまった。
 臆病な自分が嫌いになった。
 卑怯だと自身を罵りさえした。

 そんな自分が、また麻雀をしていいのか。
 
 差し伸べられた手を取ることで、封じ込めた過去と向き合うことができたなら。
 その時はきっと――


朝水「…宮永さん?」

健夜「うぇっ!?」

 短い沈黙を経て唐突に発せられた朝水の言葉に咲が出てきたと勘違いした健夜は、怖ろしく俊敏な動きで振り向いていた。

朝水「いや、ちがくて…健夜さん、変わったよね。宮永さんが原因?」

 苦笑交じりに言い直す朝水。
 健夜はすこし複雑そうな面持ちで歯切れ悪く答える。

健夜「そう…かな。そうだったとしたら…そう、だね。宮永さんかな」

朝水「そっか。どうしてそんなに宮永さんのことを気に掛けるの?」

 興味本位から出た問いは、ふたりの間を彷徨い、わずかな沈黙を落とす。


健夜「…あの子は、私なんだよ」

朝水「え?宮永さんが健夜さん…?…だいじょうぶ?」

 心配そうに顔を覗き込む朝水を見つめ返し、繕った笑みを浮かべる。

健夜「ごめんね。ヘンなこと言ってたね。忘れて」

 その貼り付けたような笑みが朝水にはすこし引っかかったが、それ以上詮索する気は起きなかった。

朝水「そう。宮永さんって、そんなに強いの?」

 代わりに、これから共に戦うチームメイトについて訊ねることにした。

健夜「強いよ。きっと、彼女がいれば負けることはない」

 迷いなく断言する健夜に、朝水は面を喰らった。
 言い切った健夜の表情が、わずかな影を作っていた気がして。
 しかし、すぐにいつもの表情に戻った健夜が、朝水の肩を押し、部室へ戻るよう促す。

健夜「なにはともあれ、協力してくれる気になったでしょ?ね?」

朝水「…しょうがないから、すこしだけだよ?」

 おもねるような冗談めかした態度に苦笑いしながら部室に戻ると、もこを囲んで三人があーだこーだと言い合いをしていた。
 戸惑うもこをすこし憐れに思いながらも、朝水は遠巻きに眺めるに留めた。

 中編第一幕カン


 ――

健夜「じゃあ、一試合打ってみようか」

 健夜の一声により、場の空気がひりつく。

 活動二日目。
 初日の、もこに基本ルールをレクチャーするというゆるやかな時間とは打って変わって、開口一番の宣言によりそれぞれが身構えている。

健夜「みんな、まだお互いがどれくらい打てるかもわからないよね。仲間の力がどの程度のものか、知っておかないとね」

咲「小鍛治さんも把握しきれてないでしょうしね」

健夜「……」

 すかさず突っ込まれた咲からの指摘に図星を指され、目が泳ぐ。
 お決まりの流れになりつつある咲と健夜のやりとりに何の反応も示さなくなってきた面々は、各々が卓の周りへ移動し、はたと気付く。

朝水「五人のうち、誰かは外れなきゃいけないね…どうするの?健夜さん」

 発言したのは健夜の近くにいた朝水だった。
 小首を傾げる朝水に対し、健夜はあらかじめ考えていたことを伝える。


健夜「もこちゃん、基本的な部分は覚えられたかな?」

もこ「……点数計算は、まだ、ちょっと……それ以外、は、なんとか……」

 咲から差し出された野菜ジュースを飲みながら応えるもこの顔色はすこし悪そうに見えた。
 実際、一夜漬けで麻雀のルールを貪るように吸収し続けたもこは寝不足で貧血気味だった。

健夜「想像以上だよ…ごめんね、無茶させちゃったみたいで」

数絵「そうですよ。あまりに無茶すぎです」

 ふらふらと頭が揺れているもこを心配そうに数枝が見つめていた。
 健夜はその様子を見て若干の罪悪感がむくむくと膨らんでいくのを感じていたが、それもすぐに拭われた。

もこ「だいじょうぶ……ゲームのルールを覚えるのは、得意だし……みんなと麻雀できる楽しみのほうが、今は大きい、から……」

 そう言い、卓の上に並べられた牌を撫でるもこの瞳は輝いていた。

 その場の全員が、もこの直向きな熱意にあてられて、目を見開く。

健夜「…じゃあ、さっそくやろうか。最初に打つのは――天江さん、南浦さん、もこちゃん、朝水ちゃんの四人」


 名指しされた四人が、同時に視線を送る。
 呼ばれなかった、咲へと。

 本人は一切の動揺を見せず、静かに続く指示を待っていた。

健夜「私はもこちゃんの後ろについて適宜アドバイスをします。ここでのアドバイスというのは、私の考えや読みを伝えるものではなく、一般的なセオリーなどを指導していくものです」

数絵「それはかまいませんが…」

健夜「宮永さん。あなたはこの半荘をしっかりと見ていてください。あとでいろいろと聞くので」

咲「はい」

 改まった健夜からの指示を受けた咲は、卓から一歩引いて、対局を見届ける体勢に入った。


 続いて、健夜は衣と数枝のふたりを手招きして、そっと耳打ちする。

健夜「ふたりはいつも通りに打って」

数絵「いつも通り、とは?」

健夜「そのままの意味だよ。初心者が相手だからとか、そんなことで手心加えたりはしないでってこと」

衣「存分に遊んでかまわない、ということだな」

健夜「天江さんの遊ぶはどっちだかわからないなぁ…。南浦さん、できる?」

数絵「…甘く見られたものですね。卓の上で、私が麻雀を忽せにすることなどありえません」

 淀みなく言い切り、数絵は踵を返した。衣も不敵に笑み、数絵に続く。
 これならだいじょうぶそうだ、と微笑み、健夜もふたりに倣って卓へと向かった。


 はじめの席決め。裏返された四つの風牌を、思い思いに選び取っていく。

 真っ先に選んだ衣は東家を引き、無邪気に喜ぶ。続いて西家を引いたもこが間違えないよう慎重に席につく。
 朝水に促され、数絵が残ったふたつの牌を見下ろし、一瞬瞑する。

(おじい様…) 

 あらゆる雑念を遥か遠く置き去りにして、純粋な想念だけが思考を支配する。
 それはすなわち、自負。
 揺るぎなき信念の下に、数絵は手を伸ばす。

朝水「南浦さんは…南家ですね。では私が北家ですか」

 数絵の指先をなぞる、その文字。
 何も特別なことではない。だからこそ、その“当たり前”に感謝と畏敬を抱いて。

数絵「参ります」

 数絵は、確と戦いの場を見据えた。


咲(南浦さんが南家か…)
 
 咲は、いまのどうということはない一幕にさえ、細心の注意を払っていた。
 健夜の「この半荘をしっかりと見ろ」という指示。そこに込められた意図を違わず汲み取った咲は、ただひとつの違和さえ見逃すまいと目を凝らしている。

咲(ただの洒落だったらつまらないものだけど…さて。だいたい南浦さんに関してはアタリがついたかな)

 思案に意識の大半を割きながらも、次々進んでいく卓上を眺める。


衣「サイコロころころ!」

 やたら嬉しそうに衣がボタンを押すと、ふたつのサイコロが勢いよく回転し、乾いた衝突音を鳴らす。
 やがて勢いを失い、完全に止まったふたつの立方体。出目は、九。

衣「衣が親だな!」

 凶悪な笑みを浮かべる衣。
 幼く、ゆえに残酷。無垢、ゆえに強烈。
 さながらそれはおもちゃを前にした幼児のように無邪気でいて、自己中心的な支配性。

咲(天江さん、たのしそうだな)

 卓を囲む三人が牙を剥き出しにした衣を前に冷や汗をかいている後ろで、咲は何の気なしにそう思っていた。


 配牌が終わり、理牌へ移る。
 たどたどしい手つきのもこを微笑ましく見つめ、それから淀みなく理牌を済ませた三人の配牌も流し見る。

咲(全体的に見て…衣ちゃんの支配が弱い。時期のせいかな)

 四人の配牌に著しい偏りは見られなかった。
 至って普通の滑り出しだ。
 だから何もないと決めつけるのは早計だが、咲は焦点をべつの部分へと移した。

咲(やっぱり当面は南浦さんかな。他の二人は打ち筋もわからないし、天江さんはいやってほど知っているし…この人が現状で一番動きがわかりそう)

数絵(見られてる…)

 数絵の配牌も特別良くはないし、悪くもない。
 上手く伸びれば満貫は固い、安く仕上がればノミ手というごくありふれた手だ。


 咲が見ている分には、数絵は手堅い打ち筋だった。
 場に開示されている情報と、推測される情報を基に効率的な打牌を導く。
 巧さもさることながら、経験の豊かさが一手一手、あらゆる動作から見て取れた。
 だが、それだけでは咲には、南浦数絵のうわべを舐めた程度にしか感じられなかった。

咲(やはりまだ…となると…とりあえずは南浦さんについては様子見か)

 意識が数絵の対面、朝水の手牌へと移る。

 朝水の手はあまり芳しくない。目立ったミスは見られないが、数絵と比べると地力の差は歴然だ。
 数絵同様手堅さがある。言いかえれば、保守的な麻雀だった。


 健夜を後ろに従えたもこは、ツモ順が回ってくる度すこしの時間をかけて、大局を止めていた。
 最初のうちはワンテンポ遅れるくらいだったが、手が整い始めると、健夜からのアドバイスが挟まれ、その分だけ時間がかかる。

 そうして山もだいぶ消化されてきた頃に、漸う場が動き出した。
 
衣「ツモ――1300オールだ」

 衣の和了宣言。
 ツモ牌がちいさな手で卓上へ落とされ、手牌が倒される。
 
 先制は親の衣。痛手になるほどの点数ではないが、大きな和了りともいえた。

 衣らしからぬ和了りではあったが、

咲(大方、時間のかかるもこちゃんに痺れを切らしたんだろうな)

 咲はそう断定し、特に深くは考えなかった。
 そして、それは正鵠を射ていた。


衣(四半分も無い、か…それはそれで面白い!)

 自らの手を愛おしげに見つめ、笑む。
 大きな瞳は爛々と輝き、その様はまさに楽しみを見つけた幼子のよう。

 ――いつからだったか。
 牌の感触がここまで心地よく感じるようになったのは。

 「天江の子、忌むべき子」と陰口を言われ、疎んじられていた頃、少女にとって麻雀とは自身の存在意義そのものであった。
 麻雀によってのみ、天江衣は天江衣として存在することを許される。

 しかし、その麻雀は相対する悉くを打ち毀す。天江衣という存在が、余人が並び立つことを許さなかった。
 
 言わば、必然的な孤独。逃れようのない袋小路。
 あまりにも皮肉で悲惨な悲劇。
 
 ひとり、またひとりと毀していくその一打は、いつしか自身さえも耐え難い重みを伴っていた。

 あの日、あの時、遥か高みを仰ぐことになった、その瞬間までは。


衣(衣は麻雀を打っている…打たされているんじゃない。この手で!)

 その笑みは凶悪な光を灯す。
 曇りのない、輝きに満ちた光を。

衣「ロン!7700の一本場、8000!」

咲(…まぁ、この早さだと振ってもしょうがないかな。にしても、直撃は痛いね、色川さん)

朝水「…」チャラ

 為すすべなく、瞬く間に一万点近くを失ってしまった朝水。
 いくら力の程が未知数とはいえ、衣相手にそうそう点を稼げるものではないと咲は思っていた。それにしても、あっという間に誰かが箱割れして終了では見るものもなさすぎる。
 
 どうするのか、と咲が朝水の配牌を窺い、目を見開いた。


衣(上々。ここからさらに積み上げる…点棒を!)
   
 衣が逸って牌を切る。

 その打牌は、場の状況、手牌などを考慮した上で衣にとっての最適解だった。さらに付け加えて言うと、衣は他家の聴牌気配を読み取るのに長けている。この早い巡目で、わずかな気配の揺らぎもなければ、考慮の必要などない。ただ、まっすぐ和了りへ向かえばいいだけの話だった。

朝水「――ロン」

 されど、対敵手はそれを許さない。

朝水「満貫、8000の二本付け、8600です」


 予想だにしなかった和了宣言に、衣の意識が瞬間揺らぐ。
 気配は感じなかった。少なくとも、満貫に届く手であれば感じるであろう程はなかった。
 加えて、衣が連荘した直後、ほぼ配牌であろう手での早和了り。

衣(此奴…此奴もまた、凡百の者とは一線を画す存在…!)

 運の一言ではおおよそ説明がつかない。そんなことが衣の世界にはありふれていた。
 しかし、世界を見渡した時、そこにありふれているものかと問われれば、それは否である。
 ゆえに衣は気付き得た。色川朝水が秘めたる、稀有なる才覚に。


 衣は不機嫌そうに眉をしかめる。

衣(衣の親が流された!)

 その幼い表情の変化に気付いた朝水が、少し申し訳なさそうに点棒を受け取った。

咲(色川さんが垣間見せたモノ…いくつか可能性として挙げられるけど、さて)

 変わって数絵の親番。
 親だというのに数枝がずいぶん消極的な打ち筋だったことを除けば、ごく普通に進行していった。
 衣がもこから直撃を取って、呆気なく終局。

 健夜がもこを励ましているうちに、親番とプレートが回ってくる。
 
 その局はノミ手でもこが和了り、親を繋ぐも次局、衣のツモ和了りによって親っ被りを受ける。
 
 次局、朝水の親番。
 またもや朝水が衣を上回るスピードで手を作り、ツモ和了り、すかさず失点を取り戻す。
 朝水の沈んでは浮き上がる様子を目の当たりにして、咲はひとつの結論に至った。


咲(点を失った分だけ取り戻せるのか…)

 憶測に過ぎない考察ではあったし、判断材料が拙い分かなり曖昧だったが、その輪郭はおぼろげながらも確かに思えた。

咲(点数調節…とはまた違う。そこまで能動的なものには思えない。とすると…マイナスから原点に戻ろうとするチカラ)

 そう考えると、途端に朝水に対する見方が変わってくる。
 衣の支配がほぼ発揮されていない、かつ面子との相性もあるのだろうが、それにしてもなかなかに非常識なチカラだ。
 麻雀は詰まるところ点数のやり取りだ。その根幹を揺さぶる強力無比な条件付き支配。

咲(…小鍛治さんの見る目というのも、あながちバカにはできないのかも)


 もうひとり、様子が変わった面子に目を向け、咲はそう思った。

 対木もこ。小動物的で、人形のような少女。
 あまり感情を面に出すタイプではない。それは浅い付き合いである咲にもわかっていたことだ。
 それが、いまはどうか。

 その薄紅を引いたような口が、僅かに歪み、笑みを作っている。
 そこに狂気のようなものを感じて、咲は思わず目を細めた。

咲(豹変した…いままでの凪いだ気配とは違う…)

 その変化は、すぐ横に付く健夜も察しているようだった。
 それがまた、咲の洞察を確信へ近付ける。


 もこの打ち筋が、その変化を裏付けた。
 時に荒く鳴き、時に鋭く通す。
 そうして強引ともいえる道筋を、拓いていく。

もこ「…ツモ…2000・4000…!」

 叩きつけられた和了牌が衝撃に震える。

咲(どうだろう…対木さんにも、確かな変化があった。それは…場の移ろいとは無関係に思える)

 もこの和了による点数の推移があり、そこで咲は勘付く。

咲(…点数が減ったら?あるいは相手に和了られたら…。どっちにしろ、やられた分だけやり返す感じかな…。色川さんとの違いは、色川さんが原点を基準としたものなのに対して、対木さんのはきっと基準点が存在しない…上にも下にも際限がないから、上手くやれば稼げるけど、下手を打てばそのまま飛ぶこともある)

 傷を負うほどに狂気を増すその様はまるで狂戦士。
 小さいそのシルエットは、チカラを揮うことをまるで躊躇わない。そして、奪われることさえもまた然り。

咲(センスの塊みたいなものだよこれは。だって、セオリーなんてまったく省みない荒っぽい麻雀だもの)


 そこまで考えた咲の前髪が、かすかな風に小さくそよぐ。

咲(風…?)

 不思議に思った咲の目に、南浦数絵の不敵な笑みが映る。

咲(…そっか。もう――南入)

 朝水、もこと垣間見えた才覚に忘れかけていたが、ついに来たのだ。彼女の独壇場となる場が。

 咲の予想を裏切ることなく、数絵のチカラは南場になって大きくなっていた。
 ノッてきたもこも、先程のもこの和了でわずかに沈んだ朝水も、南入した朝水の早さに追いつかないようだった。

朝水(すごい…南浦さん、なにかに後押しされてるみたいに力強い…!)

もこ(届かない…!)

数絵「ツモ――2000オール」

 圧倒的なチカラ。南場という水を得て活き活きと打つ数絵は凄まじい勢いだった。


衣(衣の最後の親も易々と流し、容赦なく和了ってくれおって…)

 序盤の勢いはどこへやら、点棒を失うばかりの衣が、椅子へと深くもたれて天上を見上げる。
 その表情には些かの悲壮感もなく、嬉々として輝かんばかりだった。

衣(――面白い!これこそが麻雀だ!)

 衣の瞳に、再び獰猛な光が灯る。
 衣の意気に、牌が応じる。
 
 やや手の伸びが鈍った数絵が警戒を抱く暇もなく。

衣「ツモ!1600・3200!」

 衣が今一度、場に降り立つ。
 数絵も、もこも、朝水も、それを見て、なおも笑う。


 南三局。あとたったの二局、されども勝負は行方知れず。
 
 楽しげに牌が躍る。

 いつの間にか、お互いがお互いを認め合っている。

 それは心も躍る、真剣勝負になっていた。


 ――


健夜「案外接戦だったね…トップが天江さん、次いで南浦さん、朝水ちゃん、もこちゃんか」

もこ「……負けちゃった」

健夜「全然、大健闘だよ。やっぱり私の見る目は間違ってなかったよ」

もこ「……」

 すこしだけ落ち込んだ様子のもこだったが、健夜の言葉に照れの混じった笑みを返した。


数絵「まさか、南場で私がまくられるとは思いませんでした」

衣「こっちこそ、衣が万全でないとはいえ、ここまで拮抗されるとは思いもしなかったぞ」

数絵「…うそでしょう?あれで万全じゃない?」

朝水「あはは…二人とも、最後の方が特にすごかったよ。いっしょに打ってて手に汗握っちゃった」

 一勝負終え、和やかな雰囲気が漂う。
 健夜は一頻りもこを褒めると、おもむろに立ち上がり、咲へと耳打ちした。

健夜「どうだった?みんなのチカラの程は」

咲「そうですね…まず色川さんはおそらく失点を取り戻そうとするチカラ。たとえば-10000の状況に際した場合、満貫や跳満に届き得る手を引き込むようなものかと。南場になってから思ったように動けてなかったのはきっと南浦さんの支配に競り負けてのことでしょう。
 南浦さんは有り体に言ってしまえば南場に強くなるもの。げん担ぎ程度かもしれませんが、席決めで南を引いたことも多少関係があるのかもしれませんね。
 対木さんについてはかなり曖昧になりますが、打たれたら打たれただけ段階的に強くなるものかと。条件が点数なのか放銃なのかはまだ判別できていませんが、かなりリスキーであることには変わりないですね」

健夜「そうだね…。私もだいたい同じ見解だよ」

 咲との答え合わせにうんうんと頷く健夜。


 やがて、健夜は思考を打ち切り、もこの横へと戻っていった。

健夜「もこちゃん。交代してくれる?」

 その言葉に、全員が驚く。
 もこがおずおずと席を離れると、入れ替わるように健夜が腰を下ろす。

健夜「さぁ。次は宮永さんの番だよ」

 その視線はどこまでもまっすぐで、咲の心まで深く突き刺さる。
 伸ばされた手は、すぐ目の前で咲を待っている。


 咲はひとつ息を漏らし、卓へと歩み寄った。

咲「天江さん、代わって」

衣「うん…」

 横にずれるように衣が退いた席に、咲が座る。

 咲と健夜、向かい合う構図での対面。

 場に、筆舌しがたい空気が横たわる。

健夜「それじゃあ…私と、打ちましょう」

咲「喜んで」

 緊張感が最高潮に達する。

 期せずして。人知れず。
 その勝負は幕を開けた。


 ――

朝水「いやー…すごかったね…」

 朝水の、何度目かもしれない漠然とした感想を、健夜は聞き流す。

健夜「んー…」

朝水「いや、ほんとに…すごいとしかいいようがないよあれは」

健夜「ん」


朝水「宮永さんがあっという間に嶺上開花で一局、その次の局で健夜さんが国士無双の槍槓和了り…たった二局、それもどっちも山を半分近く残して、そこで終わりだなんて…」

 朝水の言う通り、咲と健夜が卓に就いた半荘は、ただの二局で終わってしまった。咲のハコテンという劇的な幕切れだった。

 一局目。数絵の親から始まった最初の局は、五巡目、嶺上開花ツモドラ1で咲の和了。

 続く二局目。早々にカンをした咲の一萬を健夜が槍槓和了。親の国士無双、48000点によって咲の点数を一挙に取り、咲のハコテン半荘終了と相成った。

 結果だけを見れば、健夜が元世界二位の実力を見せつけたという形に思える。
 
 しかし、健夜本人は、そうは思っていなかった。


健夜「朝水ちゃんさ…おかしいなって思わなかった?」

朝水「え?なにが?」

健夜「あの場面で、宮永さんはカンを宣言する前に数秒、手を止めてたじゃない?」

朝水「そうだっけ?」

健夜「そう。手牌の槓子に手をかけ、直後に私を見た…そして、そこで一瞬目を閉じて、カンをした…」

朝水「それが?」

健夜「…」

朝水「なんなの?ねえ、気になるでしょ」


 健夜の思考には、もはや朝水の催促など届いてはいなかった。

 何度も、何度でも、巻き戻しては再生されるその場面。

 咲は知っていた。一萬のカンは、健夜の国士無双槍槓和了りに帰結することを。
 知っていて、勘付いていて、それでもなお強行したのだ。
 一体なんの為に?
 決まっていた。

 健夜がそれを成せるかどうか、見る為に、だ。

 健夜は咲の打ち筋を知っていた。そのチカラのおおよそも。
 対して咲は健夜のチカラの片鱗さえも知らないはずだった。
 初めから対等な勝負ではなかった。
 その前提の上で、咲はあえて貫き通したのだ。その勝負の意味を違えることなく全うするために。


 健夜にとって、咲のチカラを確と測る為の勝負であった。
 それと同じように、咲にとって、健夜の程度を測る為の勝負だった。
 それは久しく感じていなかった、試されるという感覚。
 
健夜(あの子はどれだけ…)

 健夜の心中は、斜陽に照らされたあの半荘第二局の和了後の卓上に縛られ、薄もやのような不透明感に囚われたままだった。 

 ――


 衣がふと目を覚ますと、薄暗闇のなかで佇むシルエットが映り込んだ。

 まだ日も昇らない時間帯。静けさが支配する空間で、同居人である咲が窓際に腰かけ、黄昏れていた。

衣「さき…?」

咲「…起こしちゃった?」

 申し訳なさそうに苦笑いする気配。眠気眼をこすり改めて見遣ると、その手には小さな花が収まっていた。

 わずかな光に映える、白い薔薇。
 先日、近くの雑貨屋に立ち寄った時に咲が手に取った造花だった。
 
 薄暗がりのなかで、白く映える薔薇を手にする咲はなんとも言い難い儚さを漂わせている。


 その姿を見つめていると、衣の記憶の底が、わずかに震えるような感覚に襲われた。
 放ってはおけないような、放っておいてはいけないような、そんな不安感が胸のなかで疼く。

 普段は滅多に聞けないような、咲の穏やかな声音が衣の鼓膜をやさしく打つ。

咲「…徒花なんだ。咲けど、開けど、意味はない。後には何も残さない。だれも、この手を取ってはくれない。だれも」

 抗いがたい心地よさに、衣の意識が再び眠りへ誘われる。
 なにかを言わなければならない。なにかを伝えるべきなのに、そのなにかははっきりと形になってはくれなくて。
 
 「…ごめんね。まだ眠いよね。ゆっくり休んで――」

 そのやさしさに包まれて、ついに衣の意識は安らぎを享受した。

 再び、静けさが世界を包み込む。
 そのなかで、彼女はひとり、世界が動き出すのを眺めていた。

中編第二幕カン

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