仕事を辞めた俺は超自然現象対策室に再就職した 最終章・後編 (98)

※始める前に

今回はコロコロ視点変更してます、あらかじめご了承下さい。
最後ということで色々と急展開、駆け足気味でおかしいところもあるかと思いますが、どうかお付き合い頂ければ幸いでございます。
それでは投下していきます。



 私たちは一体何のために生まれてきたのか。

 人にはそれぞれ生まれた意味があると考える者もいるが、明確な答えはない。
 生物学的に言えば種の存続のためと簡単に言い切れるだろうが、そうじゃない。
 人間には理性だとか心と呼ばれるものがあって、他の種よりも考える生き物である。

 だからこそ厄介なのがこの問題だ。
 一層のこと生まれる前に神様が役目を与えてくれれば楽なのかもしれない。
 それに沿って生きていけばいいのだから。
 しかし、そんな簡単なものではない。
 生きることというのは死ぬことより辛いものなのかもしれない。
 こうして何かに悩み、躓きながらもそれでも生きていくことこそが超自然的なものなのか。

 そうすると私が「天城礼奈」として生まれてきたのも超自然現象なのか。
 私は一体何者だ。
 どうして生まれ、何をして生きるのか。

 そもそも超自然現象とは一体何だ?

――私はどうしたい?

 人間がこの世に産み落とされたことそれ自体が超自然現象なら、それによって生まれた私は何故それを封じなければならないのだろう。
 もしかすると…… 私たちは目に見えないものを恐れる傾向があるが、それを想像し創り出しているのは私たち自身、つまり―― 

――私たち自身が超自然現象なのではないか。

 人間という存在、そして宇宙や地球の誕生を超自然的な力と結びつける者は多いだろう。
 例えば神という存在がそれだ。
 しかしそれはどうしても憶測の域を出ないのである。
 神なんて存在が本当にいるかも分からない。
 それも人間の想像の産物なのかもしれない。
 だとすれば、そういった超自然的な存在を想像し、そしてこの世に生み出させているのは他ならぬ私たち自身なのではないか。

 それなら、私たち自身が「神という存在を生み出させている神」とも言えるだろう。だったら――

――私たちが超自然現象を生み出させているのかもしれない。






 それなら、人間という超自然現象によって生み出されたそれは超自然ではなく必然である。
 
 私は私たち人間が生み出したそれを、必然という名の現象を封印する立場にある。
 何故だ? 何故私はそれをする?
 秩序を守るためか、自分を守るためか。
 私は人間の尻拭いをさせられているのか?
 現象と呼ばれる存在は私たち人間の汚らしい願望や罪を押し付けられて創造された被害者なのではないか。
 だったら私は、私たち人間は何て醜い生き物なのだろう。
 私たち人間が神ならば、それは「神」などという高尚な存在ではなく、神という名の罪なのではないか。
 私たち人間は生まれたこと自体が大きな罪なのか。
 私たちは――

 皆、罪という名の大きな十字架を背負っている。






 照明が半ば落とされたオフィス内。
 時刻はもう深夜に達している。
 私たちは最近こうして帰宅することもなく連日連夜オフィスに泊りがけでこもっている。

「天城――」

 そんな状況で、私を呼ぶのはボスの声。

「――はい」

 それに応えた後、やけに長い間が空く。
 
――超自然現象対策室本部、そのオフィスの一画で。

 オフィス内には幾つものモニターや電子機器がひしめき合って光を放っている。
 薄暗くなった室内はそんな光でぼーっと照らされ、なんだか違う世界のようにも感じられた。

「考えなければならないな――」

 長い沈黙は独り言のようなボスの呟きで破られる。
 私のデスクから見る彼の表情はどこか憔悴しているようにも見えた。

「我々はなぜ超自然現象を封じなければならないのかを」

 虚空に視線を置いたままのボスはそう言い切って話を終わらせた。

「ボス、依然として教団並びに榊氏の居場所を特定できていません」
「ああ――」

 駄目だ。
 私も連日の疲れがたまって疲弊している。
 確実に精神が磨り減ってきている。

「そして、神山君の行方も」
「――そうだな」

 私とボスの会話は成立しているようでどこか成立していなかった。
 矛盾しているが、言い表すならばそんな状態だった。
 そう―― 私たちは精神を完全に磨り減らしている。

――連続で訪れた悲劇は私たちを混乱の渦中へ容易に突き落とした。

 私たちが連日連夜本部に縛り付けられているのには理由が二つある。

 まず一つ目は第三機関への強制捜査の隙を突いて雪子をさらっていった教団、そしてその首謀者である榊右近による凶行があったため。
 一種のテロとも言える彼の陰謀を阻止するために私たちは日夜居場所の特定に全力を注いでいるところだ。
 しかし雪子がさらわれ、榊が犯行声明を出してから一週間ほど経った現在でもそれは叶ってない。





――雪子の体内には荒神を封印した御神体が眠っている。

 榊はそれを彼女の体内から取り出し、我が物にしようとしていると思われる―― というのも、榊本人がそのような供述を犯行声明で口にしていたからだ。
 まさか雪子の中にそんなものが眠っているとは……

 ボスによればその荒神というのは彼女の一族が封じてから代々祀ってきたものであり、教団は彼女が幼い頃にそれを奪い取ろうと襲撃したらしいが…… その際御神体の封印が解けて荒神は襲撃をかけた教団の者を全て葬り去ったのではないかとのことだ。
 それはボスが現場へ赴いた際に、教団の者が全て亡き者にされていた光景から浮かび上がった説であるらしい。
 そして生き残っていた雪子と桜子はそこで保護され、その後児童養護施設へ預けられ育ち、やがてこうして対策室の対策員その一人になったと。

 しかし雪子の一族が祀ってきた荒神の封印は解けて、教団の者を葬った後どこかへ消えたとのことであるが…… それなら何故彼女の体内にその御神体があるのか。
 それはボス自身も知り得ない話で、この一連の説はあくまでも現場の光景から推測した結果生まれた仮説に過ぎないらしい。そして雪子と桜子も気を失っていて記憶にない部分ということであるようだから有力な情報は得られず、不明な点が多いとのことだ。

(これじゃまるで――)

 夕月と似たようなケースだ。
 何故雪子の中にその御神体が眠っている?
 彼女ならそれを知っていれば私たちに何かしら伝えていたはずだ。
 夕月は現象そのものを植え付けられていたが、しかし雪子は違う。
 彼女の中にあるのは御神体だ。
 だから雪子の場合は無理して体内からそれを取り出す必要もないだろう。また、取り出すにしても夕月のように難航するわけではないと思われる。
 即ち私たちが彼女を消すということはない…… その封印が解けない限りは。
 雪子ならその事実を知っていれば最初から私たちに告げていたはずだ。
 
 しかし今の今まで、榊が告げるまでそれは判明していなかった。
 ということは雪子本人でさえ知らなかったということだ。
 どうしてだ? そして何故榊がそれを知っている?
 彼女が気絶していた間に答えはあるのだろうが、それを目撃した者はいない。
 いたとしても全員死んでいたのだろう……

――ともかく、まずは教団や榊の行方を突き止めることが先だ。

 何故雪子の中に御神体があるのかは後回しだ。
 それが榊によって取り出され、封印が解かれれば大変なことになる。
 もしかしたらこの国や世界を脅かすような大惨事になるかもしれない。
 そして榊はそれを利用して己の欲望を満たそうとしている。

 絶対に奴の好きにはさせない――

 だから一刻も早く居場所を特定しなければならないのだが、手掛かりは何一つとしてない状態。彼らの潜伏先は未だ掴めていない……






――そして二つ目の理由。

 夕月の中に眠る凶悪な現象を身代わりとなってその身に移した神山君が失踪したため。
 私たちは彼の行方も追っているが、教団の件もあり人員が足りず、結果これも成功していない。

 何故神山君は彼女の身代わりに――

 事の発端は第三機関への強制捜査だ。
 私たちは第三機関の一人と接触することに成功し、「身の安全は保障する」という条件のもと味方に引き入れた。
 そして彼に全ての情報を吐かせて、染谷氏の居場所や第三機関の潜伏先を全て特定することにも成功し、その結果強制捜査へ踏み切ったのだ。

 しかしそれと同時に思わぬ事実が発覚する。
 染谷氏が神山君を第三機関へ加わるよう勧誘していたことが分かった。
 それが判明した時には全てが遅かった。

 そうして最終的に最悪の事態へ陥ってしまう。
 私たちが引き入れた第三機関の機関員を染谷氏の潜伏先に潜入させ、情報提供をさせていたところ、一体どういうわけか神山君と一人の女が現れて…… 神山君は夕月の中に眠る現象を身代わりとなって己の身に移させたのだ。

――私は彼の考えが分からない。

 一体何故だ?
 彼は以前夕月や染谷氏と偶然接触し、それで第三機関という組織の存在についてもボスによって知らされた。
 あの場にいた彼が、どうしてそんな行動に出たのか。

 神山君は知っていたはずだ。
 そんなことをすれば狙われる対象は自分になるということを。
 それにも関わらず、他人同然の夕月のためにあんなことをしたのだ。
 対策室の一部でもある彼が、そんな彼が私たちに背いてまであんなことを――

 私たちは強制捜査により神山君を捕まえて、それで一時的に収監することになった。
 凶悪な現象は今や彼の中に眠っているから、それをどうにかしないといけない。
 だから一時的に拘束し、現象と彼を引き離すための儀式を行う予定だった。
 そのためには致し方ない措置だったのだ。
 彼は罪の一つを背負ってしまった。だからああするしかなかった。

 しかし。

 そこで教団の犯行声明が届き、私はその事実を神山君へ告げてしまった。
 こうなったのは私の責任か――
 だが、彼は雪子や桜子の支部で働いていた…… だから伝えないわけにもいかないと思って漏らしてしまった。
 私は愚か者だ。





――神山君は脱走した。

 どのような方法でそれに至ったかは分からない。

 その報告を聞いて急いで独房へ向かったところ、そこにはぽっかりと穴があいた鉄格子と、気絶する看守、警備員たちの姿があった。
 そして現場には炎で焼かれて焦げたような痕跡。
 彼は術者じゃない。だから恐らく体内に眠る現象の力を使ったということ。
 即ち凶悪な現象は彼の体を使って現界しつつある…… いや、現界している。

 彼の行方も一刻も早く突き止めねばならない、
 私たちの前には二つの大きな壁が立ち塞がっている。

 一体私たちは、私はどうすれば――





「天城、神山君の行方は後回しにしよう――」
「――ボス!?」

 仄暗いオフィスの中。
 ボスは俯いたまま、こもった声でそう呟いた。

「神山君の現象はもうその姿を完全に現しているかもしれないのですよ!? いや、あの痕跡を見ればそうなっているに違いありません! このままでは――」
「――まずは教団だ、天城」
「ボス――!!」

 ボスはそこで俯いた顔を起こす。

「――ボス」
「天城、君はヨダカの星という童話を知っているか?」
「一体どういうことですか――」

 今は私とボスしかいないオフィスの中。
 急に何の脈絡もない話を切り出した彼の声は室内に低く響いていた。

「はい―― 道徳などの時間で習った気がします」
「ああ、君はあの話についてどう思う?」
「どうと言われましても…… 確か他の鳥たちから酷い言葉を浴びせられ、そして鷹からも名前を変えるよう脅されて。そのうち自分の存在意義を知り悟ってしまったヨダカは絶望して、誰かを傷つけるくらいならいなくなってしまおうと最終的には空高く飛んでいって…… それで誰も知らない星になって輝いた。そんな話だったかと思います」
「――そうだな」
「しかし何故その話を今…… 今はそんな話をしている場合じゃ――」
「――もしかしたら」
「ボス?」
「彼は、そんなヨダカのようになろうとしているのかもな――」

 一体それはどういうことであろうか。

「神山君は、もしかしたら全てを終わらせるつもりなのかもしれない」
「――どういうことですか?」
「彼は、恐らく教団のもとへ向かうだろう」
「何故そう言えるのです!?」
「あくまでも直感に過ぎないが…… 彼は自分の存在意義を見出したのかもしれない。彼はヨダカのように神山龍一という名を、世界をその命をもって守り抜く気なのかもしれないな。私たちは何もできなかった。その責任を負うべきなのは私たちの役目なのにも関わらず――」

 ボスの声はどこか震えているようにも感じられた。

「私たちは、私は―― 結局問題から逃げていただけなのかもしれない。自分の身を守ることだけ、あくまでも保身のためだけにしか動いていなかったのだ。現象を封じることは人間を守るため―― 確かにそうだ。だが、私はその使命をいつしか保身のためだけの道具へと変えていたのかもしれない」





――人間は誰しも自分の身を一番に考える。

 程度の差こそあれど、誰だって自分の安全が第一なのだ。
 だから私は現象を一方的に抑え込んできた。
 しかしそれは保身に過ぎなかったのだ。
 根本的な問題から目を逸らし、こんな状況になるまで逃げていた。
 そのツケが今回ってきたのだ。

「ボス――」

 そう付け加えた彼はまるで懺悔しているようであった。

「天城、神などいないのかもな」

 そして視線は虚空へと注がれる。

「はい―― もしかしたら神も、現象も私たちが生み出させているのかもしれません。私たちの醜い願望が生み出しているのかもしれません。超自然現象はそんな願望を押し付けられた被害者―― 私たちは生まれながらに罪を背負っているのかもしれませんね」
「神山君は、きっとその罪を私たちに代わって一身に引き受けようとしている。醜い私たちの罪を…… 今一度考えねばならない。どうして私たちは現象を封じるのかを。そして一刻も早く教団の、榊の陰謀を阻止せねばならない。神山君に全ての責任を負わせるわけにはいかない――」

 弱々しい呟きは、やがて力強い覚悟を孕んだものへと変わった。

「――ボス! 大変です!」

 その時、オフィスに捜査班の部下の一人が勢いよく入室してくる。

「時間だな――」

 神山君、君はどこにいるんだ。
 君はどうするつもりなんだ…… いや、君のことだからきっと雪子を助けに向かうだろう。

 神山君―― 君はヨダカの星に、1572の超新星に…… ティコの星になろうとでもいうのか。





 全ては流れるように、嵐のように過ぎ去った。

「どうして――」

 あの日私たちの支部は定休日で、いつもの休日の一つとなるはずだった。
 龍一は大学時代の友達と遊びに行ったらしく、お姉は原稿を執筆していて、そして私は特に予定がなく、友人からの誘いもなかったのでだらだらと過ごしていた。
 本当は龍一とどこかへ行きたかった。お姉も誘って。
 だけどみんなやることがあるから、久しぶりに一人の時間を過ごそうと思っていた。

 そんな時だった。

(――いたぞ! ようやく見つけた!)

 脳裏に焼き付いて離れることはない光景、悪夢のような惨劇。
 それは一瞬の出来事。
 私の家に突然異様な集団が押しかけてきた。

(やめて―― 離して!)
(お前が咲夜雪子だな?)

 そしてお姉をさらっていった。

(お姉を放しなさい!)
(お前に用はない――)

 刹那の間だった。
 その集団のリーダー格と思われる男はお姉を捕まえて、それで反攻しようとした私は彼に一瞬のうちにやられてしまった。
 その男は術者だった。その時は一体彼らがどんな集団なのか分からなかったけれど、後に本部の人やボスの山地さんが彼らは教団の人間であることを私に教えてくれた。
 そしてあの男は教団の創設者榊右近だったことも。
 私は榊にやられた。
 あっという間にお姉を捕まえて彼らはどこかへ消えてしまった。

 一人家に取り残された私は最後の力を振り絞って携帯をポケットから取り出し、そうして龍一へ電話をかけた。
 本来なら本部だとかボスだとか礼奈さん、それから茶髪チャラ男などに連絡するべきだったのかもしれない。
 しかし混乱していた私は龍一に電話をかけた。
 電話をかけたのだけど…… 何度呼び出しても龍一は出ない。
 やがて私は最後の最後で龍一に「助けて」とメールを送って、そうして力尽き気を失ったのだった――




「――どうして?」

 そういう惨事に遭って、攻撃を受け傷つき気を失った私は近場の総合病院へ運び込まれ、そして入院した。
 式神からの攻撃で吹き飛ばされて頭部に衝撃、両腕に裂傷を受けたものの幸い傷は浅く、検査の結果脳へのダメージも問題なかったみたいで数日の入院で済んだ。
 後に聞いたところによれば、事件後周辺の支部の方がたまたま私たちの家に用事があって来たみたいで、その際に気絶した私を見つけて通報してくれたとのこと。

 そうして私は大事には至らず退院できて、経過観察のために通院しながら日々を過ごしている。
 費用などは本部が全部出してくれた。
 しかし私の家は事件現場となり現在も捜査を受けているから、自分の家なのに帰れない。
 本部からの指令により周辺支部の方が場所を提供して下さって、そこが今は仮住まいとなっている。
 そこから私は通学し、いつも通りの日々を過ごしているのだ。
 また、私は友達や学校など表向きには「事故に遭った」ということになっている。
 これも本部の口添えによるもので、私自身説明するのが億劫だったし、そんなことを考えている余裕もないのでそういうことにした。

 本部や支部の方々が支援して下さっているおかげで生活に不自由はない。
 だけど―― 独りは嫌だ。
 私の家と比べたら随分小さな部屋なのに、私一人ではこの一室さえも広く感じる。
 理由は明白で、お姉や龍一がいないから。

――どうしてこんなことになっちゃったの?

 入院している時にボスがわざわざお見舞いに来てくれて、そこで全ての話を聞かされた。
 まず一つが、お姉の中には私たちの一族が祀っていた荒神を封印した御神体が眠っていて、榊が己の計画のためにそれを狙ってお姉もろともさらっていったということ。その犯行声明が本部へ寄せられたということ。
 ボスから「知っていたか?」と聞かれたけど、私もそれは初耳だった。

 確かに私とお姉、それに私の一族は私が幼い頃に教団からの襲撃を受けた。
 そしてそれは私たちが祀っていた御神体を狙うためであったことも知らされた。
 だけどあの時私とお姉は気絶していて、目を覚ますと大勢の亡骸があって…… だから何も覚えていないし、なんでお姉の中にその御神体が眠っているのかも分からない。

(もしかしたらお父さんとお母さんが――)

 何者かも分からない怪しい集団に奪われるくらいなら―― そういう苦肉の策でお姉の中にそれを閉じ込めたのかな……
 それにしても私たちを襲った教団の者は何故、私たちが目を覚ました時に全員死んでいたの?
 あの時のことはもうおぼろげになって覚えていないし、思い出したくもない。
 教団なんて絶対に許さない。
 私たちから大切なものを全部奪っていった奴ら…… なんで榊という男はお姉の中に御神体があることを知っていたのだろう…… どうやって突き止めたのだろう。

 ともかく、お姉を早く助け出さないと。
 私は何も出来なかった。大切な、本当に大切なたった一人の家族を守れなかった――





「なんで―― なんで!」

 思い出す度に自責の念が沸いてきて、それに押し潰される。
 一人の部屋では虚しく響くだけで、私の叫びもやがて弱々しく消えていく。
 表向きでは普通の生活を送っているつもり。
 あれから退院して学校に通って、友達と過ごし、楽しい日々を送っている。

「もう限界だよ――」

 だけどもう無理。
 大切なお姉が、大好きなお姉がいない中で普通に過ごせるわけなんてない! 楽しいわけなんてないのに―― なのに!
 私が弱いせいだよ…… 私がお姉を守れなかったせいで……
 早くお姉を助けないと。
 こんなことしている場合じゃないのに。

――でも、私一人じゃ何もできない。

「龍一…… 龍一!」

 馬鹿龍一!
 あんたはほんとに――

「なんで龍一もいなくなっちゃったの?」

 私の大切な人が、大好きな人がみんないなくなっちゃった。

 ボスから聞かされた二つ目の話は、龍一は夕月という女の人の体に宿った現象を身代わりとなってその身に移したということ。

「嘘つき――」

 あんたは喜びや悲しみも共有しようって、一緒に背負ってくれるって、そう言ったじゃない。
 どうして私やお姉に言ってくれなかったの?
 どうして「友達と遊びに行く」なんて嘘をついたの?
 分かるよ…… あんたがそういう人間だってことは。だけど、だけど――!

――龍一は身代わりになった。代わりに罪を背負った。

 第三機関と夕月という女の人にまつわる話も全てボスから聞かされた。
 そして龍一が彼らと接触してしまったこと。
 夕月という人は教団から、榊から凶悪な現象そのものを体に閉じ込められた。
 それで本部に保護されたけど、現象と彼女を切り離すことはできず最終的に苦渋の選択で彼女もろとも現象を消すという方向になった。
 それに異を唱えた染谷って人が彼女を連れ出して第三機関を創設し、身を潜めた…… そして、何故か龍一はそんな彼らと関係を持ってしまった。

 やがて龍一は友達と遊びに行くと言ったあの日に、あの休みの日に実は機関の潜伏先へと向かっていて。
 そして夕月って人の中にいる現象を身代わりになってその身に移した。

――あんたって、そういう人間だったよね。

 きっとその人と出会ってしまって、全ての話を聞かされて、それで誰にも言えずに…… けれど助けたい一心でその選択に行き着いたのだろう。
 あんたは超が付くほどお人よしの馬鹿だから。

――大好きだよ、大好きだけど。

 そんなところが大好きだけど、でも大嫌いだよ―― 龍一。
 どうして何も言わずにいなくなっちゃうの?
 ボスによればあんたは捕まったけど脱走したらしいよね…… どこにいるの?
 誰にも罪はない。夕月って人にも龍一にも誰にも。悪いのは全部教団だ。
 だけど―― 龍一、戻ってきてよ。
 お姉がさらわれちゃったんだよ?
 あんたにとってもお姉は大切な人だよね――?





「お姉、龍一、会いたいよ――」

 どうして私はこんなに弱いんだろう。

 とめどなく涙が溢れ、ボロボロと流れていく。
 そうするともう止まらなくて、吞み込んでも止まらなくて。

「嫌だよ、こんなの嫌。独りにしないで…… 私を置き去りにしないで」

 受け止めてくれる人は誰もいない、独りの部屋。
 私以外誰もいない部屋。
 誰も、誰も――

「――桜子ちゃん」

 その時シャン、と鈴の音が聞こえた気がした。

「桜子ちゃん」

 気付くとカーテンも閉め切っていたはずの窓が開いていて、冬だというのに何故か暖かい風が吹いて、その風でカーテンはサラリとなびいている。

「――どうして」

 悲しい感情が見せた幻覚かと思った。
 そこには――

「ごめんね―― 独りにさせて」

 幻覚じゃなかった。
 悲しみに凍える私の体はその時、優しい声と優しい体に包まれる。
 私は誰かに抱き締められていた。

「どうして――」

 私を優しく抱き締め癒してくれたのは。

「――ヤエさん」

 ヤエさんだった。





「ヤエさん、ヤエさん私――!」
「ごめんね桜子ちゃん―― ごめんね」

 私は独りじゃなかった。
 悲しみに暮れる私のもとへヤエさんが来てくれた。
 私はヤエさんの胸の中で全てを洗い流す。全てを吐き出す。
 彼女は嫌な顔一つせずそれを受け止めてくれた。

「今まで独りにさせてごめんね」
「恐い…… 凄く恐いの。みんながいなくなっちゃうんじゃないかって――」
「大丈夫よ、大丈夫」

 まるで幼子をあやすように、ヤエさんは私を包み込んでくれる。
 そうすると気持ちがだいぶ落ち着いてくるのだった。

「私が知っていることを桜子ちゃんに伝えに来たの――」

 やがてゆっくりと抱擁は解かれて、ヤエさんはそう切り出した。
 抱き締めていた手は、今度は私の頭に添えられていた……
 そうして私の頭を優しく撫でながら、ヤエさんは語り部のように優しく言葉を紡いでいく――

「私―― 龍一様と共にいたの。だけど他の人には言えなかった」
「どうしてなの…… ヤエさん」
「それが龍一様の意志だったからよ」
「――意志?」
「そう、あの人は二人を巻き込みたくなかったのよ」
「そんな――! そんなのって……」

 それでも―― そんなのってないよ。
 誰も悪くないんだ、それは分かってるの。だけど――
 行き場のない悲しみと苛立ち、やりきれなさ。

「あの人は―― 龍一様は全てを救いたかったのよ。理不尽な世界が、人間が許せなかった。あの人なりに考えて覚悟した結果がこの決断だった。これがあの人なりの世界を変える方法だった――」
「龍一はどこにいるの?」

 ヤエさんはそこで首を横に振る。

「――そんな」
「どうかあの人を責めないで」
「私が責められるわけがないよ…… でも――! こんなのってない! あんまりだよ」
「ごめんね…… 私も龍一様を止めることができなかった。あの人の覚悟を無下にはできなかった。龍一様は言っていたわ―― 大切な人を失いたくないって。あなたのお姉さんもいつか救いたいって」

 お姉のことを救う―― それって。





「どうして龍一がお姉のことを知って――」
「桜子ちゃんがどこまで知っているか分からないけれど、私は龍一様と共にいたわ。そして夕月という人を救いに行った。やがてあの人は彼女の全てを代わりになって背負った」
「そこまでは聞いたわ―― でもヤエさんが一緒にいたなんて知らなかった」
「ごめんね、誰にも言えないことだって龍一様が言っていたから」

 龍一は身代わりになって、やがてその場面で現れた対策室の面々に身柄を拘束された。
 しかし脱走し、今は行方不明――

「私は龍一様をあの場から逃がすためにあなたたちの組織と戦った―― 結果虚しくあの人は捕まってしまったみたいだけれど」
「そんな……」
「私のことは大丈夫よ、心配してくれてありがとう―― あの人を見送って、それから私は姿をくらませてここにいるってわけ。その後のことは何も知らない。龍一様がどこかへ消えたこと、それにあなたのお姉さんが悪い奴らにさらわれたこと以外はね」
「ヤエさんも全て知っていたのね」
「そうね―― 龍一様とはぐれてから今まで色々と探ってきたけど、それ以上は知らないわ」
「何で龍一はお姉の秘密を知っていたの――?」
「龍一様は言っていた―― 以前列車の中で現象に襲われて、そこでお姉さんの全てを知ってしまったと」

 列車の中で―― もしかしてそれは。

「――夏の休暇で旅行に行っていた時だと言っていたわ」

 記憶は巡る。
 旅行と言えばあの時以外に心当たりはない―― 忘れられない私たちの想い出。
 あの時、旅行に行った時の列車で…… 

「その時に彼女の過去の記憶に干渉してしまったと」

 その時―― 旅行の二日目の夜、龍一とお姉が海岸線で話していたあの場面。
 私は近くのコンビニに行っていて、そしてそこから二人のもとへ戻ったあの時だ。
 二人の会話が私にも届いてきた―― 私たちは行きの列車で現象に遭ったと。そして龍一はその現象のせいでお姉の過去を知ってしまったと。

――あの時龍一は既にお姉の秘密を知っていた?

 私はあの時現象に遭ったなんて知らなかった。違和感みたいなものはなんとなくあったけれど……
 お姉は無事解決できたって言っていた。だから問題ないと思っていた。

 だけどお姉の秘密―― お姉でさえ知らない秘密を龍一はその時知ってしまったの?






「――分からないよ」

 もう分からない―― 本人がどこかへ消えてしまった今、その真相を知る術はない。

「戻ってきてよ―― 龍一」
「龍一様はきっと戻って来るわよ」
「ヤエさん――」
「あの人は夕月って人、そしてお姉さんを救いたいって言っていたわ―― そして覚悟を決めて行動に移した」

 今になって龍一の顔が脳裏で鮮やかに蘇る。
 第三機関とのごたごたに巻き込まれて、そこから帰ってきて、酷く悩んだ顔をしていて――

「馬鹿、龍一の馬鹿」

 あの時から既に、龍一は全てを背負おうと決めていたの?
 私たちには言えないで、一人で抱え込んで……

「馬鹿龍一――」
「絶対戻ってくるわ。その時に今まで不安にさせた分を償ってもらいましょ?」

 そう言ってヤエさんはウインクしてみせた。

「私たちはどうすればいいのかな――」

 ヤエさんが来てくれたおかげでだいぶ救われたけれど…… お姉や龍一を想えばまた大きな不安が押し寄せてくる。
 何かするべきことがあるはずなのに、私は人に任せてこうして膝を抱えて待っていることしかできないのか……

「待つことも大事な仕事よ」
「でも――!」
「それが今の私たちにできる唯一のこと」
「人任せになんてできないよ……」
「それでも、今の私たちには待つことしかできないわ。そうでしょ?」

 流しきったはずの涙がまた浮かんでくる。

「大丈夫―― きっとみんな戻って来るから」
「そんなの今は分からないよ」
「そうね、だけど全て解決して戻って来る―― そんな気がするの。私の勘って結構当たるのよ?」
「ヤエさんは不安じゃないの……?」
「もちろん私だって不安よ―― だからあなたのもとへ来た。一緒に待ちましょう? きっと龍一様はここに来てくれるわ」
「――ここに?」
「そう―― そしてあなたのお姉さんも戻って来る。あの人がそうしてくれる」
「龍一が――」
「そう、だから私たちは待ちましょう。それが私たちの役目よ」

 絶望的な状況―― だけどみんなが戻って来ると信じて待つ。
 それが私たちの役目。

「少し休んだほうがいいわ」
「うん……」
「子守唄を歌ってあげる?」
「私は子供じゃない…… でも、ありがとう」
「ふふっ―― そうね、お休みなさい」

 泣き過ぎたせいかドッと疲れがやって来て、そして眠気もやって来た。
 私はヤエさんの中で眠りにつく。
 ヤエさんの匂い、雰囲気は私を落ち着かせてくれて…… 眠りの世界へ連れて行ってくれる。
 今はいない二人を想いながら、戻ってくると信じて。
 私はゆっくりと目を閉じた――





 仄暗い、ジメッとした気色悪い部屋。
 そんな一室を照らすのは天井からぶら下がる裸電球。
 どうやらここは地下室のような場所らしい。

「さて―― そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?」

 そして、鉄格子を隔てて私の前に立つ男。

――私はさらわれた。

 そう、この男―― 榊右近と彼が操る教団という組織によって。

「――私は何も知りません」

 さらわれたあの日以来私は鉄格子で仕切られたこの牢獄に閉じ込められている。
 今のところ酷い仕打ちを受けたりもせずになんとか生き延びているけれど、そろそろ潮時だと思われた―― 私の精神も同様に。

 監禁生活の中で精神は死につつあった。
 彼は私の中に眠る御神体目当てで私をさらったと言っていた。

――そんなこと初めて聞いた。

 確かに私は幼い頃にこの教団から襲撃された。
 けれどあの時私や桜子は気を失っていて―― 

(雪子、目を閉じて――)
(すまない、こうするしかないんだ――)

 父と母はそう言って私に何かをした。
 そこまでは覚えている…… しかしその後私は目を閉じて、気を失って、それからのことは覚えていない。

――もしかするとあの時私の身に御神体が。

 嘘だと思いたい、けれど――

「――これの封印を解く方法だ、君にも知らされているはずだろう?」

 そう言って目の前の男―― 榊右近は何かを掲げて見せる。

――それは私の体内から取り出された御神体だった。

 当の私でさえ知らなかった。
 私の中には本当に御神体が眠っていたのだ。






 事の発端は数日前まで遡る。

 さらわれて、謎の施設に閉じ込められた私。
 閉じ込められて監禁生活が始まって、それから間もなくのことだった。

「これから儀式を行う」
「止めてください! 離して――!」

 私の体内から御神体を取り出す儀式が始まった。
 それは私の一族が封じ込め代々祀ってきた荒神を宿したもの。
 何故そんなものが私の中にあるのか、どうして私をさらったのか―― その訳を男はこう話した。

「俺は全てを見ていた。君が我々からの襲撃を受けたあの日を覚えているか?」
「忘れるわけがありません―― あなた達を絶対に許さない!」
「君たちのことなどどうでもいい…… 俺は君の中にある御神体にしか興味はない。あの日もそれを手に入れる為に襲撃をかけた。それなのに君たちは――」

 男はそう言って癇癪を起こす。

「君の中に御神体を閉じ込めた。本当に面倒なことをしてくれた―― そしてどういうわけかそいつの封印が一時的に解けたではないか!」
「――何を言っているの!? 訳が分からない!」
「分からないのも同然だ、君は気絶していたようだからな。俺もあの現場にいた、全てを見ていた―― 遠くからな」

 あの地獄の中で、当事者であるこの男は遠巻きからそれを眺めていたということ。

「君は御神体を宿され、気絶した。そして何故か知らないが君の中の御神体、その封印が一時的に解けた―― やがて君の体を使って現界した荒神は俺の部下を葬り去った。君が俺の仲間を全て殺したとも言える」
「何を言っているの…… そんなわけ――」
「ああ、知らないだろうな。君は気絶していたのだから。君と荒神はその時一体化した。君と荒神は仲間を葬った。その後一体化した君は再び気絶し倒れ、一体化も解けた」

 私と荒神が一体化…… 信じられなかった。
 私が人を殺した? そんな記憶はないのに……
 信じられない、信じたくない話―― しかし否定できる根拠もなかった。

 嫌―― 私は人殺しなの?

「その場面から間もなくして警察や対策室の奴らがやって来た。だから俺は撤退を余儀なくされたのだ」
「何の為に―― あなたたちが来なければ!」
「だから俺は御神体が欲しい、それだけだ。君たちのことなどどうでもいい―― 俺はその後君の行方を追った。そうする内に段々と尻尾を掴めてきたから、より確定的にする為に現象を各地にばら撒いたという訳だ」
「現象を、ばら撒いた――?」

 現象をばら撒く―― この男は私の行方を掴む為に現象を各地にばら撒いていた。

「君とよく似た特徴を持つ人間が対策室にいるという噂を聞いた。だから現象をばら撒けばいつか君が姿を現すと思ってな」
「そんな…… あなたのせいで今までどれだけの人が――!」
「そんなの知るか。全ては君を見つける為だ」

 今まで私たちが解決してきた現象も、あの現象の数々もこの男の仕業だったということ――?

「そしたら君を見つけることができた! だからここへ連れてきた!」

 癇癪を起こしていた男は、やがてその表情を酷く狡猾じみた汚い笑みへと変える。





「どうしてこんなことを――」
「君の中にいる荒神とやらは、全てを…… この世全てを統べる力を持っている。俺は全てが欲しい。この世界の真実、真理が欲しい! その為には君が持つ荒神の力が必要だ…… 荒神、暁月(ぎょうげつ)の力が」

 暁月―― それは私たち一族が封じ祀ってきた神の名だった。

「俺は神を手に入れる。夕月のような出来損ないではない、正真正銘の神だ! 暁月と一体化し俺が神そのものになってみせる! だからこれから君の中の御神体を頂く――」

 夕月はいわば実験体だった。本当に神と呼べるような力を持っているか人間に直接宿し試してみたが…… 失敗作だった。扱いは困難、実用的になるまで時間がかかり過ぎる。しかし暁月は違う、その力は既にこの俺が目にしている! 

 男はそう言ってこれでもかと顔に愉悦を浮かべて。

「この時を長らく待ち侘びていた! 儀式の準備から胸の高鳴りを抑え切れなかった! さあ、始めるぞ――!」

 私の体から暁月を封じた御神体を取り出す為―― そうして私は儀式に連れ出されたのだった。





「一族を継承する立場だった君が、この御神体の封印を解く術を知らない―― そんなわけないだろう?」

 牢獄、鉄格子の外から私に詰め寄る男、榊右近。
 その手には儀式によって私の体内から取り出した位牌のような形の御神体がある。
 儀式については―― 以外にも苦痛の類は見られずスムーズに終わった。
 催眠術のようなものにかけられ眠っているうちに全ての儀式は終わっていたのだ。
 しかし御神体を取り出すことには成功したものの、その封印を解いて暁月を現界させる術は不明―― それが現在の状況だった。

「――私は何も聞かされていません」

 それは事実だった。
 狗神憑きと言われた私たちの一族は、狗神暁月を封じ祀ってきた。
 一族の人間は代々特殊な力を持って生まれてくる。
 それは私と桜子も例外ではなく、こうして魔力、妖力と呼ばれる力を発現し術者となって対策室の対策員となった。
 両親の指導のもと、幼い頃から術を行使する為の訓練を受けたり、私たち一族の歴史を聞かされたりしてきたけれど、暁月の封印を解く術は知らされなかった。知らされる前にこの男らによって殺されてしまったとも言えるだろう。

 だから私は知らない――

「そうか、分かった」

 彼はそこで一つため息をつく。

「御神体の封印を解くために試行錯誤して何日経っていると思う?」
「そんなこと知りません――」
「対策室の奴らもいずれここを突き止めるだろう。そして君の同僚もな」

――同僚?

「同僚って―― それは」
「君の同僚じゃないのか? 君の家で働いていた奴らしいな」

 私の家で働いて―― 

「――龍一さん!!」

 彼の顔が蘇る。
 該当するのは彼しかいない。
 私の、私たちの大切な―― 大切な人。

「どうして龍一さんのことを!!」
「だから―― 君の居場所を特定する為に色々と探ってきたと言っただろう? 君の居場所が知れてからも突入する時期を窺っていた、監視していた。だから君を取り巻く環境は既に知っている。妹の存在、そして同僚がいることもな」
「龍一さんがここを突き止める――?」
「そうだ。色々とやってくれているみたいだな、彼は」






 どうして、どうやって―― 龍一さん。

 強くあろうと決めたつもりなのに、彼の名を呼ぶと―― 姿が、声が、仕草が、何もかも呼び起こされて。
 私を呼ぶ声がする―― 優しくて、けれど力強くて、全てを包み込んでくれる彼の声が。

 それに伴って桜子の姿も…… 桜子も私を呼んでいる。

(ごめんね―― こんなお姉ちゃんで、こんな私で。全部私のせいで)

 涙が…… 駄目、もう涙は枯れたはずでしょ?

――どうして?

「そうか―― あの男を慕っているのか?」
「そんなことあなたには関係ありません」
「ふふっ! そうだな―― 時間の余裕はない、そして封印を解く術も見つからない。手掛かりを知るはずの君も知らないの一点張りで口を割らないと」
「私は本当に何も知らされていません!」
「――というわけだ。だったら強引な手段に出るしかない、そう思うだろ?」

 そこで、この上ないほどいやらしく下劣な笑みを浮かべる男、榊。

「何をするつもりですか」

 その笑みは私をゾッと震え上がらせる。
 背筋を伝う悪寒と、ドクドク脈打つ鼓動。

「君が口を割るようにする―― それだけだ」
「だから…… 私は何も知りません!」
「どんな方法がいい? 辱めを受けるか、拷問か、それとも――」
「嫌―― やめて!」
「その男を殺すか」

 まるで鈍器で殴られたかのような―― そんな衝撃。

「龍一さんを―― 殺す?」
「そうだ! その男を失いたくなければさっさと口を割るのが賢明だと思うがな」

 そんな――

 大切な人が、いなくなる。

(まるで―― あの時の)

 それはいつかの現象が見せた夢の内容と同じだった。
 私が、私のせいで龍一さんと桜子が―― 大切な人が全員亡くなってしまう。

(未来は変えられる)

 そうだよね? 
 私はそう信じて、みんなに助けられて前を向いたはずなのに――






「いや…… やめて」
「やめて? そうだな―― それじゃ、言う通りにしろ」

 二人を失いたくない―― 大切な二人を。

「封印を解く鍵は、恐らく君の体にある」
「私の…… 体?」

 私の命よりも大切な二人を。

「そうだ、例えば君の血液だとか―― 君の体を儀式に用いれば封印は解けるはずだ。君が本当に知らないと言うのであればそうするしかないだろう」

 私の体を用いて…… それはつまり。

「――暁月を現界する為、君の体を生贄にする」

 私を生贄に暁月を――

「君がイエスと言えば、その男や妹に手出しはしないと誓おう…… どうだ?」

 私が生贄になれば、二人の安全は保障される。
 この男がそんな約束を守るはずがない…… それは分かっている。
 分かっているけれど…… 私が首を横に振れば、その瞬間に――

(お姉、今までありがとね)
(雪子、ありがとう)

――駄目だ。

 私にはそんなことできない。

「そうか、いい娘だ。それじゃさっそく儀式の準備に取り掛かるとしよう」

 二人の顔が浮かんで、そして私は首肯する。
 感情は半ば死にかけていた。
 壊れて、崩れて、真っ黒な闇がやって来る。
 もう何も思い出せない。
 楽しかったあの日々も、愛しい人たちも、綺麗な想い出も全部。
 私の記憶のキャンバスは漆黒で埋め尽くされていった。
 黒く、黒く塗られて―― もう何も描けない。

 何も―― 思い出せない。

「暁月を現界し、そして我が物にする―― ああ、楽しみだ」

 人形に成り果てた私の中には、狂った男の笑い声がいつまでも響いていた。





 それはある夜のことだった。

「君は――」

 私はとある一般の総合病院に入院していた。
 対策室の部隊と交戦し、そして敗れ傷つき拘束されここへ搬送された。
 運良く生き長らえることはできたものの、しかしこの傷が癒えれば即牢獄行きとなるだろう。
 傷が癒えるまで、束の間の時間を私はこの病室で一人過ごしている。
 懺悔の為の時間―― そう位置付けることもできるだろう。
 しかしそんな時間でさえも、私は完全なる自由の身ではなかった。
 日夜私の病室の外には監視の為の人員が交代制で配置されている。
 不審者を通さない為と、私の脱走を防ぐ為だ。
 完全なる面会謝絶状態で、ここを訪れるのは対策室の面々のみ。

 私と、そして私が創設した第三機関という組織はあっけなく終焉を迎えた。

 今となっては何もかもどうでも良くなってしまった。
 責任を負う立場の者として実にいい加減で、自分勝手なのは承知している。
 私の中で燻る心情は、巻き込んでしまった者たちに対する謝罪の念と、自責の念それのみ――
 全て私の責任で、私の力不足でこうなってしまった。
 私の理想は私が叶えるには程遠いものだったのだ。
 幼子の反抗と何一つ変わらなかったのだ。

 全てを救うことなどできない――

 理想は理想のままでしかない。
 私は夕月の不幸に対し同情していただけ―― きっと、それだけだった。
 同情じゃ何も変えられない、変わらない。
 きっと最初から分かっていた。
 分かっていたのに、私は自分の理想に酔っていた。

 人間とはなんと醜い生物か。
 誰もが他人を少なからず利用している。
 それは自分の為に、だ。
 いかにも高尚な理由をチラつかせては他人を欺き、そうして利用するのだ。
 私もそんな人間どもと変わりなかったということ。
 私は私の理想の為に夕月を利用して、他人を巻き込んでいただけだった。

 一人の病室で考え込んで、ようやく行き着いたのはこんな情けない結論だ。
 全てを救うなんて、ただの理想に過ぎなかった。
 そんなものは神様でしか実現できない奇跡―― いや、神などいない。
 神は私たちが勝手に創造した存在で、私たちの自慰的感情を押し付けられた被害者だ。
 だから神は「神」などという存在ではない。全ては必然だった、こうなったことも、何もかもが生まれ死んでいくことも。だから神は必然だ。本来の神などという超自然的なものは存在しない。

 神など存在しない世界で、人間は汚い理想の為に生きる。

 奪い合い、利用し利用され、そうして理想の中で死んでいく――
 誰もが、人間全てが、理想実現の為に生まれ、そして死んでいくのだ。
 理想は人間を生かす術にもなるが、同時に殺す術にもなり得る。

 私たちはこんな汚い世界に生きていた。





「君は――」

 しかし、この男だけは違った。

「――染谷さん」

 一人の病室、長い夜。
 気付くと窓が開いていて、冷たい外気が室内へ吹き抜けて来た。
 なびくカーテン、煌々と浮かぶ満月。
 そして窓際には一人の男が立っていた。

「教えてくれ――」

 月の光を受けてぼんやりと浮かぶシルエット。
 影によって男の表情を窺うことはできない。
 ただ確認できたのは―― その男の目が赤く光っていることと、背から禍々しい漆黒の羽を生やしていることだった。

 まるで堕天使、悪魔―― いや、この男こそが神だと思えた。
 神などいない…… そう思っていた矢先で。

――汚い世界に舞い降りた唯一の神。

「君は―― 神山君なのか?」
「――ああ」

 その男は、神山龍一だった。

(ああ―― そうか)

 この男だけは違っていた。
 この男の覚悟は、理想は―― 虚構ではなかった。
 私たちの汚い理想などではなく、理想と呼ぶに相応しい、まさに理想そのものを掲げて実行し叶えた男。
 この男は私たち人間とは違っていた。
 自分を生かし他人を利用する、そして他人を殺すようなそれではない。
 自分を生かし、他人も生かす―― もしくは、自分の命を放り捨ててでも他人を生かすという真の理想、気高き理想。

――醜い世界でこの男はそれをやってのけた。

 男は、こんな世界を許さなかった。
 ただ一人世界に反抗した。
 私たちのような子供じみた反抗ではない、正真正銘の反抗だった――

「神山君、どうしてここへ――」
「――教団に関する情報を、奴らの居場所を教えて欲しい」

――そういうことか。

 何故か顔が綻んでくる。
 この男は一体どこまで―― 

「なるほどな―― 対策室の人間が言っていたな、教団が動いたと。彼らも私に何か知らないか尋ねに来たよ」
「あんたなら色々と知っていると思ってな―― ここへ来た」
「――その体は?」
「夕月と契約した―― 今は大丈夫だ、暴走はしていない」
「君は教団を潰すつもりなのか?」
「大切な人が奴らにさらわれた」
「――そうか」

 面白い―― 何故かそう感じてしまう。
 この男はなおも理想を追っている。
 醜い世界に一つ光明が差したように思われた。
 この男だけは違うのだ。この男ならばきっと――

――こんな世界を変えてくれる。

「わかった―― 私が持つ全ての情報を君に明かそう」
「――ありがとう」
「私たちは対策室を監視する他、様々な情報を取り扱うことで組織を生かしてきた―― 教団の居場所それ自体は残念ながら不明であるが、それに辿り着けるような情報は多くある」
「それでもいい、教えてくれると助かる」
「対策室の者にも聞かれたが、私は聞かれたものに対する返答しかしていない―― しかし君になら全て話すことができるだろう。教団は私たちのように全国各地に居場所を設けているようだが――」

 神などいない―― そう思っていた。
 しかしそれはあっけなく覆される。






――神山龍一、彼こそが神と呼べる存在なのではないか。

 漆黒の羽を翻し夜空高く飛翔していった男を見送り、私はそんなふうに思った。

 もちろん、彼が行っていることは必ずしも賞賛を得られるようなものではないだろう。
 自己犠牲は一歩踏み外せば自己満足や自己陶酔となんら変わりはないし、第三者の視点から見れば愚かな行為と位置付けられることもあるだろう。
 しかし、彼は誰もが臆する中でそれを一心に貫いたのだ。
 その意志は決して他者が介入してよいものではない。
 それを貫く彼の意志は、何もできなかった他者が勝手に口出ししてよいものではないのだ。

 だから―― 彼の姿が神々しく見えてしまった。
 個人に心酔、または崇拝する行為は愚かだろう、寒いだろう。
 しかし…… 彼の姿を見てそう感じずにはいられなかった。
 神山龍一という男は―― 彼は超自然的存在になった。今や彼の意志こそが超自然現象と呼べるものだろう。
 いや…… 人間という存在そのものが超自然的なのかもしれない。

 醜い人間、私たち人間こそが超自然現象だったのか――
 だったら…… 裁かれるのは、封印されるべきは私たち人間なのかもしれない。

「――話し声が聞こえたぞ、誰かと話していたのか?」
「なんのことだ? ここは私一人、監視するのは君たちの役目だろう?」

 一人の病室。
 窓とカーテンはピシャリと閉め切られ、暖房の生ぬるい空気が部屋に漂っている。
 監視役の男二人が何かを察知し病室に入り込んできたが、室内に何も異常がないことが分かると訝しげな表情をしたまま退室していった。

「神山君――」

 君は全てを救おうとでも言うのか。
 理想を理想のままで終わらせまいとしているのか。
 だったら――

――この醜き世界を、不条理を君の手で壊してくれ。

 人間は醜く汚い。
 しかし―― あの男のように美しさを持っている者も存在したのだ。





 始めに、はらわたが煮えくり返るほどの怒りがやってきた。
 それは誰に向けられたものでもなく、私の中で激しく燃え盛っていた。

「どうしてこんなことに」

 自分に対する怒り。
 何もできない、何もできなかったクセに、最後には都合よく人に救ってもらった。
 そんな私に対する怒り――

 そうして次は、悲しみの波が押し寄せて怒りをさらっていく。
 悲しみの波に怒りは溺れて、怒りの大陸は涙の海へと変わっていった。
 全てが涙で水浸しになると、そこを無常の風が吹き抜けていく。
 すると世界は無に還り、後に残ったものは淡く薄い哀愁であった。

「ごめんなさい」

 一人の部屋で呟く。
 声は沈黙の中へ溶けていき、少しの残響が生まれた。
 一人の世界を巡りに巡って、ぐるりと元の位置へ戻った時には思考が停止していた。
 浮かんでくるのは謝罪の言葉それだけ。
 その言葉は、その情念は最早誰に向けられているものなのかすら分からなくなっていた。
 今は昼なのか夜なのか…… それすらも、もう――

 確実に精神は終わりへと向かっていた。
 全ての希望が潰されて、延々と続く絶望が訪れたとき…… 人はきっとこんな状態になるのだろう。
 瞳の輝きは失われ、思考は止まり、生の実感は消え失せて―― そう、これが絶望に陥った人間の成れの果て。

 ただ、そんな朦朧とした意識の中で…… 一人の男の顔だけがぼんやりと浮かんでいた。

「龍一――」

 その男…… 神山龍一という男がいた。
 今や彼の存在は私という人間の全てになっていた。

 もう思い出したくもない過去があって、そんな忌々しい人生を変えようともがいた。
 しかし運命は覆ることもなく、私以外の世界すらも巻き込んで動いていった。
 様々な人を巻き込んでしまった―― 彼という人間も。





 彼、龍一の名を呼ぶと…… ふとあの夏の日が蘇る。
 私の子供みたいな反抗、どうしようもない運命への精一杯の抵抗の中で出会った人。
 龍一は見ず知らずの私に手を差し伸べてくれただけでなく、新たな世界を与えてくれたのだった。
 新たな世界…… それは閉ざされた私の世界、運命を導くような優しい光。

 外界のことなどほとんど何も知らない籠の中の鳥。
 そんな私に飛び方を教えてくれた、外の世界を教えてくれたのは彼だった。

 ほんの短い間でのことだったけれど、あの時間は今までのどの瞬間よりも色濃く鮮やかなものだった。
 楽しかった、嬉しかった…… 龍一は私が望む世界そのものだった。

――そして、龍一は私を救ってくれた。

 私の運命を身代わりとなってその身に背負った。
 夕月という呪われた運命を全て引き受けた。
 私の願いを叶えてくれた。
 こんな私の為に―― 何もできなかった私に。

 感情は死んだはずだった。
 涙も枯れたはずだった。
 なのに…… また何かが込み上げてきて、彼の顔が鮮やかに浮かぶ。

「ごめんなさい」

――まただ。

 もう何度目、何百回目の謝罪が口をついて出る。
 龍一は夕月という呪いを、呪われた私の運命を代わりに背負ってくれた。
 私は何もできなかった…… 私の名を呼ぶ彼の声が聞こえる。
 私はもう夕月ですらない。
 まるで抜け殻みたいだ。私という人間は今や夕月ですらなく、名前がない。人間なのか怪物なのか、それすらも分からない。

 私のせいで龍一は捕まってしまった。
 全ては私のせいなんだ…… 私があんな怪物をこの身に宿されたせいで。
 そして救いを求めてしまったせいで。

――私って、何で生きてるんだろう。

 私の人生って何だったの?
 人に散々迷惑をかけておいて、今もこうしてのうのうと生きている。
 生きる目的、意味なんて分からない。私は抜け殻。
 人間にもなりきれず、怪物でもない…… 存在理由がすっぽりと抜け落ちた抜け殻なんだ。

 それなのに―― 心のどこかではまだ「生きたい」と思ってしまう。
 最低だよね…… 生きる理由が欲しいなんて思ってしまうんだ。
 生まれた場所も、産みの親も、家族も知らない…… そして怪物の名前を与えられて人間じゃなくなった。でも今はそれすらもなくなって、人間なのか怪物なのかも分からない。

「私って―― 一体誰なの?」

 死んでしまいたい、消えてしまいたい―― でも、そんなことできない。そんなことをしたら私を救ってくれた龍一はどうなるの?
 彼の覚悟に泥を塗ることだけはしたくない。
 それでも…… 消えてしまいたい。
 私って本当に最低の人間だよね。

 消えたい…… でも生きたい。

 また一人になっちゃった。
 龍一と離れ離れになって、人間でも怪物でもない私は対策室の保養所みたいな施設に預けられていた。
 私の中にはもう恐ろしい怪物はいない…… だからこれからは自由だ。
 私が回復したら、社会に復帰できるように対策室の人たちが支援してくれるって。

「自由なんだ―― 私」

 そうだ、私はもう自由なんだ。
 私を縛り付けるものはもういないし、これからはやりたいことに何でも挑戦できる。
 そう…… 私は自由。




――胸元で煌くネックレスがある。

 私の大事な証…… 龍一が奇跡を起こして与えてくれた、私が生きている証。
 そうだ、私はもう自由なんだ。

「自由、自由……」

 なんだろう――
 自由になれたはずなのに、これからは好きにできるはずなのに。

――ちっとも嬉しくない。

 まったく、これっぽっちも嬉しくなれないの。
 どうしてだろう。

(ああ―― そうだ)

 きっと、その理由なんて最初から分かっていた。
 その理由は――

「龍一―― ごめんね、あなたに会いたい」

 彼がいないからだ。
 私って本当に最低な人間だよね。
 助けてもらったのに、まだ何かを欲しているの。
 わがままもいいところだよね…… 龍一がいないなんて、そんな人生なんて。
 自由でもなんでもないよ――

「――龍一」

 気付けば外は夜だった。
 東京の郊外、対策室が所有する保養所らしき施設。
 その一室で、一人の部屋で。
 ぼーっと響く暖房の音。暗い部屋を照らす月明かり。
 仄かに香る芳香剤の匂い。

「龍一……」

 ベッドに腰掛けて、彼の名前を呼ぶ。
 今はいない彼の愛しい名前を。

「ごめんなさい…… 私が救いを求めてしまったせいで、あなたは――」

 今更遅いよね、最低だよね、ほんとに最低――

「ごめんなさい」

 何度謝ったところで私の罪は晴れることはないのに。

「ごめんなさい―― ごめんなさい」

 冷たい雫がこぼれて頬を伝って落ちていく。

「私のせいで、私なんて――」

 私なんて、私なんか。

「さっさといなくなってしまえば良かったんだ」

 そうすれば龍一を巻き込まずに、誰も巻き込まずに済んだのに。
 それなのに救いを求めてしまったせいで……

「私なんて生まれてこなければ――」

 良かったのに。




 そう言いかけたところだった。

「――夕月」

 気のせいだよね?
 きっと幻覚か何かだ。
 おかしくなった私の心が見せた幻だ。

――そう思った。

 冬なのに、暖かい風が部屋を吹き抜ける。
 閉め切っていたはずの窓が開いていて、カーテンが揺れる。
 その窓辺に浮かぶ一つのシルエット。
 人の形をしたそれは、その人は――

「――夕月」

 今はいないはずの人、愛しい彼の声がする。
 その声は私のものだった名前を呼ぶ。

「あなたは――」

 人型の影が、私の方を向いた。
 影は月明かりに照らし出される。
 ぼんやりとしたシルエットは確かなものとなり……

「夕月――」

 今、はっきりと浮かび上がる。

「龍一…… なの?」

 月明かりに照らされ浮かび上がった男の顔。
 それは―― 私を救ったあの人のものだった。





 あれは何だったのだろう。
 夢や幻の類だったのかもしれない。
 でも…… 妙な現実味を帯びていた。
 夢と片付ければそれまでだけど、だけど妙な現実味を帯びていて…… そしてあの肌の温もりは決して夢や幻で済ませられるものでもなかった。

――あれは一体。

 気付けば私は眠りについていて、そしていつものようにベッドの上で目を覚ました。
 優しい日差しがカーテンの隙間から差し込んでくる。
 小鳥のさえずり、冬の優しい日差し…… 平和な朝。

 確かに昨夜、ここにあの人が来た。あの人がいた。
 あれは夢なんかじゃない…… でも、夢なのかもしれない。

――昨夜の出来事を思い出す。

 私の前にあの人が…… 龍一が現れた。
 彼は何も言わず、涙を流す私をそっと抱き締めてくれた。
 しっかりとした肌の質感、温もり。
 確かに龍一がここにいた。

 彼はただ無言で私を抱き締める。
 それは突然のことで…… 私は何も言えなかった。
 言いたいことが山ほどあるはずなのに。
 なのに、何も言えなかった。

 そうしてどれくらいの時間が流れただろう。
 龍一はゆっくりと抱擁を解いて、正面から私を見据えた。
 いつしか涙は止まっていて、私は彼の瞳に吸い込まれそうになる。

「ごめんなさい」

 瞳に釘付けになりながら、私はそんなことを言おうとした。
 それは私の意識の範疇ではなく、ごく自然に、私も意図していない中でのことだった。
 ふいにその言葉が口からこぼれそうになったのだ。

 しかしそれが口をついて出そうになった時…… 龍一はまるでその言葉が出るのを最初から分かっていたような素振りで、そうして私の唇を人差し指で塞いだ。
 依然として無言のままで、指を離してから彼は首を数回ゆっくりと横に振る。
 優しい眼差しだった―― そしてようやく龍一は口を開いた。

「大丈夫だ」

 彼はゆっくりと、綺麗な旋律でそれだけ言った。
 そう…… それだけだった。
 あの言葉の中にどれほどの意味が込められているのか…… それが知りたかった。





 だけど―― 私は救われた。

 そんな気がした。
 あの言葉が、「大丈夫だ」の一言が私を救った。
 今までの悲しみ、自責の念全てが…… 全てが、その一言に包まれて流されていった。
 まるで春風のように優しく、心地よく。
 心につかえた重荷がすーっと、小川のせせらぎのように流れていったのだ。

「必ず迎えに来るから」

 そして、私の内に龍一のその言葉がじわりと入り込んできた。
 不思議な感覚…… 白昼夢を見ているような。
 彼が直接言ったわけではない、だけどその言葉が私の意識の中に植え付けられたのを確かに感じた。

――そして、気付くと朝になっていた。

 私は夢を見ていたのだろうか。
 なんとも不思議な目覚めだった。
 おとぎ話の世界に紛れ込んだような、現実から乖離していたような、言葉にしづらい妙な時間だった。

 体を起こしベッドから出て、そしてカーテンを開けて窓も開ける。
 冬の冷たい外気が顔をそっと撫でる。
 龍一はもういない―― それは分かっているのに、何故か何かを確認するように窓を開けた。

 そうして心を整理するように私は外に出る。
 朝食前に施設の周りを散歩した。
 昨日までの複雑な感情は今の私には不思議と存在しない。
 ただ無心に、ぼーっとして…… 自分がここに生きていることを噛み締める。
 穏やかな朝の時間、木々に留まり元気にさえずる野鳥、遠くからやって来る国道を行き交う車の走行音。

――私は自由だ。

 まるで龍一に救われて目を覚ましたあの瞬間のような…… 私が生まれた感覚。
 あの時の感覚が再び私に訪れる。
 なんて清々しいのだろう―― 私は自由だ。
 自由になってもいいんだよね?
 問いの答えは返ってこないけれど…… それでも、誰かから許されたような気がする。

「ありがとう」

 ごめんなさいはいつしかありがとうに変わっていた。

――そして、私は一つ決心した。

 これからは…… これからはあの人の為に生きる。
 償いに―― 決して償いきれる罪ではないかもしれないけど、それでも償いに生きる。
 私に飛び方を教えてくれたあの人に、自由を与えてくれたあの人の為に。
 それが私の存在理由だ、生きる意味だ。
 誰に何を言われようと、私はその為に生きる。それが私の自由。

 ありがとう。

 昨夜の龍一が本当に彼だったか…… それは分からない。
 幻かもしれないし夢かもしれない。
 それでも、それでもいい。
 ありがとう…… 龍一。

「迎えに来るのを待ってるね」

 待っているから―― いつまでも待っているから、だから迎えに来て。
 そしたら私はあなたの為に生きる。あなたの為に生きさせてください。

 幼い頃…… 榊右近という男に育てられていたとき、教育係のお手伝いさんからある話を読み聞かされたことがある。
 それは、とある一羽の鳥に纏わる話だった。
 その鳥はやがて夜空高くまで飛翔し、遂には星になってしまうのだけれど、その前に兄弟分の鳥のもとへ挨拶に周っていたのだった。

 今、私の心は実に澄み渡っている。
 だけど…… ふとその話が思い出されて。
 昨夜の龍一とその鳥がどうも重なって見えてしまった。
 もしかしたらあれは、いわゆる「虫の知らせ」だったのかもしれない。
 そう感じてしまうと、澄み渡った心に暗雲が立ち込める。

 でも…… きっと大丈夫。
 龍一は必ず迎えに来ると言ってくれた。
 だから私はここで待つ…… ずっと、どれだけ長い時間でも。

 だから―― 必ず迎えに来て。





 11月某日、今日も朝から寒い。
 日々は無常にも刻々と過ぎていく。
 事件を解決する一心で焦燥に駆られる私たち対策室の面々とは裏腹に、ビル街の大通りは早くもクリスマスの色をポツポツと表し始めた。

 夜は街路樹に掛けられたイルミネーションが煌々と歩道を照らし、赤、青、黄色と点滅する光がせわしなく行き交う人々の目を惹きつける。
 通りに面したブティックのウィンドウは、あれこれとクリスマスや年末の商戦を生き抜く為の目玉商品で華々しく飾り付けられていた。

 仕事も納めどき。
 一年もあっという間に終わってしまう。
 クリスマスの次は大晦日、お正月…… そうやって新しい年が始まり、またあっという間に過ぎていくのだろう。

 こうやって何気なくも平和な日々を人々は変わらず毎年送り続けるのだ。
 しかし―― そんな人々は知ることがないだろう。
 平和な日々が脅かされそうになっているという事実を。
 世界のどこかで、世界の裏で、何かと戦っている者たちがいることを。

 誰も知ることはないだろう。
 そうだ、それが人間なのだ…… 自分の世界が全てなのだ、自分が見ている景色が全ての世界なのだ。

「――あれ? 礼奈さんってタバコ吸ってましたっけ?」

 対策室本部、ビル内のとある喫煙所。
 空気清浄機とエアコンの音が虚しく鳴り響く小部屋に男が一人入ってきた。

「別に吸わないわけではない、ずっと禁煙してたんだ―― 吸いに来たわけでもないが」
「意外とヤンチャなんすね、姐さんも」
「その呼び方は止めろと――」
「一本どうです?」

 隣に立って、スッとタバコの箱を差し出してくる男…… 間山聡太。
 超自然現象対策室本部、捜査班の中でコンビを組んでずっとやってきた同僚の一人。
 立場的には私の方が先輩ということにはなるが、別段それを意識したことはない。

 今日もいつも通りチャラついた風貌、絶えず笑っているような細目、口角も相変わらず。
 何を考えているか分からない浮ついた風来坊気質であるが、やる時はやる人間で信頼できる男だった。たまに起こす独断的な行動さえ落ち着けば今後組織を率いていく有望株の一人になるだろう…… そんな男。





「すまない、それじゃ一本いただく」
「――うぃっす」

 目の前に差し出されたタバコの箱。
 それを持つ聡太はシュッと手を上下に振ると、振動で中のタバコが一本だけ上へ突出する。
 それを私は抜き取って一本もらうことにした。

「火、どうぞ――」
「すまない」

 タバコを咥えると聡太はチャキン、とオイルライターの蓋を開けてこちらへ差し出してくる。そうして火をつけてもらい一服した。
 くゆる紫煙…… 久しぶりに煙を取り込んで、そしてふぅっと吐き出す。

「禁煙、破っちゃいましたね」
「そちらから勧めてきたのだろう」
「あ―― ばれちゃいました?」

 そう言ってわざとらしく肩をすくめおどけてみせる聡太の方もタバコを取り出し、咥え、点火して一服し始めた。
 緑色のパッケージに入ったタバコはどうやらメンソール入りのものであるらしい。
 煙を取り込む度、口中に微涼が生じる。

「そういえば―― どうして一人でここに来たんすか? 今は吸っちゃってますけど、吸う為に来たわけでもないんすよね?」
「ああ…… まあ、察してくれると助かる」
「乙女の心は天気以上に予想が困難っす」
「――切り刻むぞ」

 冗談を交えながら、私は頭を整理することに努める……

「今日も朝から会議、会議、会議…… 会議と出動の連続で死にそうっす。ろくに家にも帰れないし」
「しょうがないだろう……」
「やっと帰れたの昨日っすからねー、録画してるアニメがどんどん積まれて――」

 隣でぼやく聡太。
 そう、今日も朝から会議があった。
 議題はもちろん今後の方針についてだ。
 榊右近と雪子の居場所は依然として判明していないが、事態は新たな局面を迎えていた。
 そのことも踏まえての作戦会議だったのだ。

「はあ、それにしても――」

 機関銃のようなリズムでぼやいていた聡太はそこでいったん区切りを入れる。
 ふぅーっと煙を吐き出して。

「どえらい展開になってきましたね」
「――そうだな」
「対策室、警視庁とか警察庁、それに防衛省まで出てきて合同捜査本部が組まれるなんて…… こんなの初めてっす」

 新たな局面……





「教団、黒は黒…… 真っ黒っすね」
「ああ、予想はできたが…… それを遥かに超えていた」

 数日前の夜、捜査班の部下の一人がこれ以上ないほど動転した様子で飛び込んできた。
 それは新たな局面を告げる知らせだったのだ。

「昨夜も新たに摘発されたみたいっすね」

 事の発端は教団の潜伏場所、ねぐらの一つが明るみになり摘発されたことだった。
 部下の一人が知らせにきたのはその事実であった。
 その一件以降は連鎖的、芋づる式となって次々と教団やそれに関わる裏組織の居場所が露見されていく……

 そうして昨夜も教団の居場所が新たに摘発された。
 このような結果を踏まえ、政府からの緊急発令も受けて公安委員会を開催。合同捜査本部が創設されることとなった。
 対策室だけでなく警察と全面的に連携して教団の摘発に臨み、更に最悪の場面を想定して自衛隊を統轄する防衛省にも協力を仰いだ次第である。

 教団は極明教(ごくめいきょう)、革命救世教会(かくめいくぜきょうかい)などという複数の新興宗教団体を隠れ蓑にして全国数箇所に潜伏していた。
 信者を集め資金源を確保し、それだけでなく裏では麻薬、人身売買などを取り仕切る組織とも繋がっていたのだ。
 その手は日本のみならず海外にも及んでいた…… また、某政党にまでパイプを伸ばしていることも明らかとなった。

 摘発により教団や裏組織の構成員・幹部の拘束に成功し…… 彼らから事情を聴取して新たな潜伏先も掴めてきた。
 よって、私たちは榊のもとへ徐々に近付きつつある……

 事態は好転し、暗雲に光が差したように思われたが―― 同時にある疑問が浮かび上がった。

「それにしても、ここまであっという間っすよね…… いい展開ですけど」

 聡太は言いながらタバコの灰をトントン、と落とした。

「そうだな―― 急展開すぎる」

 私たちにとって都合のいい展開なのには変わりないが、それにしても急展開過ぎたのだ。
 いきなり教団の居場所が一つ露になって、それからは連日雪崩のように次々と明るみになっている。
 いい傾向だが…… 急過ぎる。
 何故、降って湧いたように露見したのか。





「多分…… 神山さんっすよね」

 煙を吐き出して、聡太は一人呟くようにボソッとこぼす。

「――ああ、間違いない」

 それからは沈黙…… 空気清浄機とエアコンの音が虚しく響く。

 この一連の摘発劇、その陰の立役者は神山龍一…… 神山君で間違いないだろう。

(一人の男―― いや、バケモノにやられた)

 それは数日前、私が摘発の事後処理へと向かった時である。
 場所は教団と関わりを持つ裏組織の事務所だった。
 私が赴いた際には全てが収束していて、その現場には流血、気絶し倒れ付す悪人の姿があった。
 その中の一人、まだ意識が残っていた幹部の一人がそんなことを口にしたのだ。
 バケモノが現れ、瞬く間に俺たちを薙ぎ払っていった―― と。

 やられた悪人どもは全て負傷こそすれ命に別状はなかった…… まるで私たちに「捜査が迅速に進むように」と証拠を残してやった、と言わんばかりの有様だったのだ。
 それによって連鎖的に続々と摘発されていくのだが…… どの現場も似たような惨状で、取調べに同行した際もそこにいた人間たちは口々に同じことを言った。

 バケモノが現れ、一瞬で無力化され―― 仲間はどこにいるのか、お前たちのヘッドはどこにいるのかと尋問してから消え去る。

 私たちが拘束した悪人は皆そう言った。
 彼らは何も素手で挑んだわけではない…… 武装していたのにも関わらず、そのバケモノには何一つ効果がなかったと言うのだ。

 バケモノ―― 今やそれに該当するのは一人の男のみ。

「神山君……」

 今ここにいない男、どこかに消えた男…… 夕月というバケモノと同化した男。
 こんなことができるのは彼を措いて他に存在しない。
 彼…… 神山君は私たちに証拠を残し、そして雪子を助ける為に榊のもとへと向かっているのだろう。

 どうやって教団の居場所を割り出したのかは不明であるが、彼は私たちよりも早く榊のもとへ向かっていると思われる。

「アヴェンジャー…… か」

 捜査線上に浮き上がった一人の男。
 名は神山龍一。夕月という現象と同化し、そして―― 現在彼は通称アヴェンジャー、復讐者と呼ばれる「現象」になった。

 超自然現象対策室、超自然現象、現象を封じる私たち対策室…… 神山君だって曲がりなりにもその一部には変わりなかった。
 そんな彼が今や「復讐者」という現象そのものになってしまった。
 一人の人間が超自然現象に変わり果てたのだ……





「なあ―― 聡太」
「どうしたんすか? 姐さん」
「私たちは何故現象を封じるのだと思う?」

 超自然現象という脅威がある。
 人間という生物はそんな見えない脅威を神だとか幽霊だとか妖怪だとか…… そのように具体化させて戦ってきた……

「姐さんらしくないっすね――」

 タバコの火をもみ消し、それから二本目に火をつけて―― 聡太は呟いた。

「私だって人間だ、悩みもするさ」
「可愛いところあるじゃないっすか……」
「斬り捨てられたいか?」

 隣の男はフッ、と一つ笑って。

「簡単っすよ」
「どういうことだ?」
「俺は仲間を守るため―― そのために現象と戦ってます」

 当たり前だというような様子で聡太は言い切った。

「なるほどな…… たまには言うじゃないか」
「姐さんはどう考えていたんすか?」
「私は――」

 もしかしたら現象という存在は私たちが勝手に決め付けて、こうあるものと決め付けて…… そうして私たち自身が生み出させているものなのではないか。
 だから私たち人間に全ての責任があるのではないか…… 現象という存在ではなく、人間を封じなければならないのではないか。

 人間という醜い生き物を――

「――だから、私たちは一体どうすればいい?」
「確かにそうかもしれないっすね、でも――」
「でも?」
「そんなことは神様でもない限りできませんよ…… 俺たち人間は神になんてなれないっすから」
「そもそも現象とは一体何だ……?」
「姐さんの言うとおり、俺たち自身が作り出している存在かもしれないっすね……」

 その先を言い淀み、口ごもる聡太。
 少しの沈黙が流れ――





「でも、これだけは言えます」

 やがて思いついたように、虚空に置いた視線を隣の私へと向ける。

「さっき言ったように、仲間を守るために戦う―― それだけっす」

 そしていつもらしからぬ、やけに爽やかな微笑みを浮かべた。

「――どういうことだ?」
「難しく考えるとドツボにはまりますよ、姐さん。大切なことはちゃんと考えないといけないっすけど…… そんな哲学的な問題は学者に任せとけばいいんすよ」
「これは大切なことではないと言うのか?」
「いや、大切なことかもしれないっすけど…… でも、時には考え過ぎないことも大事っす」
「考え過ぎない……?」
「はい、確かに現象っつー存在があるのは俺たち人間のせいかもしれません。だったら――」
「――だったら?」
「それを封じるのも俺たち人間の責任ってわけっすよね?」

 そうか―― 私は考え過ぎて最も大切な、根本的なことを見失っていた。

「俺たち人間がこの世から全て消え去ってしまえば現象もなくなるかもしれないっすけど…… それは核戦争だとか未知のウイルスのパンデミックだとか隕石衝突だとかが起こらない限り、この先ずっとありえないことっす。だから俺たちは生きている限り現象と戦い続ける…… それは俺たち自身を、仲間を守るためと、それから現象を生み出させてしまった罪を俺たち自身が償うためなんじゃないっすか?」

 つらつらと流暢に、聡太は語った。

「大切な人を守るため―― 今はそれで十分っす」
「そうか…… いや、そうだったな」

 大切な人を守るため…… 理由はそれで十分じゃないか。
 現象が愛する人を襲うなら、私たちは守るために戦う。

――それで十分だ。

 法が不正を裁くように、正義のヒーローが悪を打ち倒すように。
 私たちは現象を封じる。
 それでいい―― それを根幹に、根源にして、後の細かいあれこれはその考えをもとに派生させればいい。
 こんな身近に正解があったんだ。

「まさか君に説き伏せられる時がこようとはな――」
「いつもお世話になってますから…… 恩返しっす」
「借りができたな…… 礼を言う」
「いえいえ、あっ――」
「どうした?」
「今度、飲みおごってくださいよ姐さん!」
「ふざけるな」
「ええ……! そりゃないっすよー」
「しょうがないな――」





 人は醜い―― 人同士利用し合って、傷つけて傷つけられて、そして現象という存在を生み出し、それさえも利用する。

 けれど…… 醜いばかりでもなかった。

 醜い人間、醜い私が今感じているこの気持ちは…… この温もりは、醜さとは無縁で程遠い場所にある何かだ。
 何か―― それを言葉にするなら美しさか。

 そうか…… 人間とは醜くもあり、美しくもある存在だったのだ。
 現象よりも恐ろしい存在であり、しかしどこまでも透き通った美しい存在でもあったのだ。

 これが人間の全てであった。

「――先輩方、ここにいらしたのですね!」

 やがて答えに行き着いたとき、酷く焦った様子で捜査班の部下の一人が喫煙所に現れた。

「どうした?」
「緊急の召集がかかりました!」
「召集…… 何があった!?」
「詳しくは分かりませんが…… ボスからの指令です! 直ちに捜査本部へ集合せよ、とのことです!」
「――分かった、ありがとう」
「また会議っすかぁ!?」

 がっくりうな垂れる聡太を横目に、部下の後をついて捜査本部となる一室へと向かった……




――北海道だ。

 広大な会議室に整然と並べられた長テーブルとパイプ椅子。
 私たちが入室した時点でそれらほぼ全てがギッシリと多くの人間で埋め尽くされていた。
 合同捜査本部の会議室となったこの場所には、今や私たち捜査班や対策室の人間だけでなく、警察関係の者たちや政府の役人と見られる人間も多く存在していた。

 そうして私と聡太、部下の一人は辛うじて空いているスペースに腰を下ろす。
 すると、着席とほぼ同時のタイミングでボスが現れ…… 彼は最前列でマイクを取るなりそう言い放った。

 ざわざわとした雑音がボスの一声で一気に静まり返る。
 引き締まった空気は更に厳粛なものへと変貌した。
 シンと静まり返る会議室…… 静寂過ぎて「キーン」という音まで聞こえてくる始末。

「幹部への聴取で教団の本部が割れた…… 場所は北海道だ」

 ボスは独りでに語り始める。
 ピシャリとした空気はその一言で幾分か驚愕の色を帯びた。

「よって…… 我々は早急に本部へ乗り込む、強襲をかける」

 誰のものか…… ゴクリと生唾を呑み込む音がどこかから発せられる。
 それはもしかしたら私のものだったかもしれない。

「――これから本部突入の作戦会議を始める」

 そして、威勢のよい号令と共に始まった。





――遂にここまで来たか。

 遂にここまで来られた。
 教団の本部が遂に判明したのだ。
 ある種の達成感のような感情が浮かんでくるが、ボスは顔色一つ変えず淡々と会議を進行させていく……

「簡単に手はずを説明していく――」

 大まかな作戦の流れがボスの口から語られた。

「首相からの令により引き続き対策室、警察、自衛隊と合同で本作戦を行う。手順は至ってシンプルだ――」

 広大な北海道地方、その道東に教団の本拠地があった。
 道東のとある町、その外れにひっそりと存在するらしい教団本部。
 そこへ私たちは乗り込むことになった。

 本部へ繋がる主要幹線道路の何箇所かを対策室、道警などの手で封鎖し関係者以外通行止めにする。
 一般人の混乱を防ぐ為に徹底的な報道規制をかけ、そして最悪のケースを想定し自衛隊を待機させておく。
 突入に至っては私たち捜査班と、それから対策室の対現象強襲部隊が先陣を切って行う。

 ボスが語る大まかな作戦の流れはこうだった。
 準備が整い次第私たちは北海道へ向かうということ。
 目まぐるしく状況は変わっていくが…… 一刻も早く、迅速に向かわなければならない。
 雪子の身が心配だ…… 彼女の体内から御神体が取り出され、更にその封印が解かれてしまえば、この国だけではなく最悪世界を巻き込んだ大惨事となってしまう恐れがある。

 これでチェックメイトだ…… 全てを終わりにさせる。
 教団も、榊右近という男の陰謀も、何もかも。

 これで終わりにしてみせる。
 どうか雪子…… 無事でいてくれ。





「ここは…… どこ?」

 真っ白な世界。
 見渡す限りの白、白、白…… 不気味なまでに白い世界。
 私たち咲夜家が封じて祀ってきた荒神、暁月…… 榊という男の手によってそれを封じた御神体の封印を解く儀式は始まった。

 私の体を生贄にして。

 牢獄から引っ張り出されて、地下を抜け地上に出て…… 教会にあるような大きな祭壇の上に固定された。
 そして榊の号令により儀式が始まり、私はいつの間にか気を失ったと思われる。

 やがて目を覚ましたとき…… 目の前にはこの真っ白な世界が広がっていた。

「誰かと思えば貴様か―― 小娘」

 状況を整理する間もなく混乱する私。
 そんな時にふと後ろから誰かの声がやってきた。

「私を呼んだのは小娘、貴様か?」

 振り返るとそこには…… 

「あなたは――」

 白装束を身に纏い、長い髪はその衣装のように真っ白で、しかし所々銀色にも見える…… 加えて頭からは獣のようなふさふさの耳を生やし、腰辺りからは同じような尻尾をぶら下げている。
 耳も尾も、身に纏う衣装も、頭髪も全て雪のような白だった。
 そんな様相をした人型の何かがそこにいた……

 端正な顔立ち、瞳は仄かな朱色。
 体つきは女性のもの。
 この人は…… この女性は。

「なんだ…… 貴様が呼んだわけではないようだな」

 目の前の女性はまるで…… まるで、私のようだった。
 その姿を捉えると、突然ある記憶が蘇る。
 いつかの夏、最高の想い出となったあの数日間。
 その中で遭遇した現象…… そう、あの時の記憶が。

「私を呼ぶ声がする」

 私をジッと見つめながら、ボソリと呟く女。
 私に似た…… 私そのものの女。もう一人の私。






「人間か…… 人間の分際で!」

 そして彼女は何かを察知したような素振りを見せ、表情を酷く険しくさせた。

「貴様ら人間は調子に乗りすぎたな」

 表情にはハッキリと怒りの色が浮かんでいた。

「小娘…… 貴様の体を借りるぞ」
「いや――! やめて!」

 女は私の肩を荒々しく掴む。

 一体どうなっているの? 何が起こっているの?

「人間、貴様らは図に乗りすぎた! 私が全てを終わりにしてやろう」

 女が何を言っているのか理解できなかった。
 私は何も言えなかった……

「どうやら私を蘇らせて、また利用しようとしているようだな…… だが、そうはさせん」

 怒りで険しくなった表情は、徐々に汚い笑みへと変わっていった。

「貴様らは私たち神を封じ、利用してきた…… 都合のいいようにな! 私たちが全てを与えてやったのに、全てを創造してやったのに…… その恩を仇で返す汚らわしい種族よ」

 真っ直ぐな視線は私を見据えて離さない。
 蛇に睨まれた蛙のように私の体は硬直する。
 ギラギラと輝く朱色の瞳には、どす黒い執念が浮かんでいるように見えた。

「神を冒涜し…… そして奴隷のように酷使する、それが貴様ら人間だ。貴様らを野放しにしてやったのがそもそもの間違いだったのだ。神の良心を汚す下等な生物め…… 私は貴様らを許さない!」

 グググ…… 私の肩を掴む女の手に力が込められていく。

「私が全てを終わらせてやる…… 小娘」





 そうして女は私を呼んだ。

「小娘、貴様はたった一人の人間だった者として生かしておいてやろう…… 下劣な人間が滅びゆく様をその目に刻み付けるがいい…… 人間代表としてな」
「嫌…… やめて、やめて下さい……!」
「私と一体化するのだ、小娘…… 喜べ、貴様も神の一つとなる」
「嫌……! 放して!」
「さあ、全てを無に還そう! 何もかもを燃やし尽くし、この世界をはじまりへ戻そう!」

 女は狂ったように、高らかに笑う。
 そして私の肩を掴んでいた手が…… 私の体の中へ「溶けて」いった。
 溶ける…… そう表現するしかなかった。
 これが一体化ということなのだろうか。

 何も抵抗できず、抵抗させてもらえず、それからはほんの一瞬だった。
 女の手が私の体の中へ吸い込まれ、腕全体が、そして最後に体が…… 瞬く間に溶けて消えていく。

(さあ―― 小娘、全てを見届けるがいい)

 脳裏で響く女の声。
 ああ…… 私の中に女が入ってしまった。
 私は私でなくなってしまった。

 女の声がエコーのようにずっと響いて、そして激しい頭痛に苛まれる。
 その痛みはやがて下へ下へと飛び火していき…… そうして全身に強烈な痛みがやってきた。
 何もできずに、口からは呻きが漏れる。
 頭の中は真っ白で―― そして機械の電源が切れるように「プツン」と一つ音がして。

 そして目の前が真っ暗になり、闇の世界へ落ちていく……





「見ろ! なんと神々しい…… やった、私は真実を手にしたぞ!」

 世界は終焉を迎える。
 無に還る…… もう私たちはどうすることもできない。

「これで全てが私のものだ――」
「邪魔だ」

 私は…… いや、もう一人の私、暁月は目の前の男をその手で貫いた。
 ズブリと突き刺さる暁月の手。
 男、榊の腹部を貫通し、生々しい鮮血が飛び散って周辺を赤に染めた。
 狂気の赤…… その返り血を浴びる暁月、私。

「榊様…… クソ!」
「失せろ、人間――」

 いとも簡単に、私たち咲夜家の仇は崩れ落ちる。
 私は…… 私の体であるはずなのに制御がきかない。
 体は暁月の意志により勝手に動く。
 私と暁月は一体化した…… いや、私は暁月そのものになってしまったのか。

 グシャリ―― 超自然的な恐ろしい力が働いて、私を取り囲む男たちの体が自然に弾け、壁に叩きつけられた。

(やめて…… お願いだからやめて!)

「小娘、しかと見届けよ!」

 暁月は止まらない。
 私の体なのに、私の意志では抗えない。
 まるで第三者視点で私を見ているような感覚…… 暁月を止められない、私は私を見ていることしかできない。

「恐怖に打ち震えるがいい! 救いを乞うがいい!」

 何事かと駆けつけてきた大勢の教団の人間をことごとく、瞬く間に地に沈めていく暁月。

「だが―― 貴様ら人間に救いなど与えてやらん!」

 また一つ、また一つと衝撃、血飛沫が上がる。
 最早一方的な粛清劇だった。

「私が神だ!」

 そして―― ここにいる人間は全て羽虫のように呆気なく潰された。
 断末魔の叫びは一瞬にして静寂の中へ吸い込まれていく……

「まだまだ…… これからだ」

 もう、こんなのって…… 

「悲しいか? 小娘」

 どうしてこんなことに。

「大丈夫だ、じきに何とも思わなくなる…… こんな下等な種族のことなど」

 暁月は教団の施設の中をゆっくりと周り、全ての人間を打ち倒してから外へ出た。

「さて―― 全てを終わらせよう」






 そして暁月は…… 私の体、その背から真白な翼を生やして空高く飛んでゆく。
 僅かな時間で一気に上昇し、刺すような気流をものともせず、冬の夜空に舞い上がった。
 ゴウゴウとつんざくような冬の風…… しかし寒さは感じない。
 ここがどこであるか分からない…… そんな場所に、そんな世界にチラチラと雪が降り始めた。

 高く、高く…… もう下界はミニチュアのように、アリのように小さく見える。

「まずはここからだ――」

 暁月は滞空しながら片手を天にかざす。
 すると…… その掌から真っ黒な、まるでブラックホールみたいな物体が現れた。
 球体状のそれは渦のようにうごめきながらどんどん巨大化して。

「――終わりだ」

 やがて気球のような大きさまで膨れ上がり、暁月はそれを下界へ放とうと振りかぶる。

 ああ…… もう止められない。
 全てが終わってしまう。
 どうして、何で…… こんなの私が望む結末じゃないのに。
 桜子、龍一さん、みんな―― ごめんね、ごめんなさい。
 私のせいで…… 世界が終わってしまう。

 今になって走馬灯のように記憶は巡る。
 色々なことがあった。
 平和だった日々が壊されて、絶望の淵をさまよい、暗黒の日々を過ごした。
 右も左も分からない、けれど唯一の家族と、桜子と助け合って暮らしてきた。
 こんな姉を責めもせず、頼りにしてくれて、支えてくれて…… まだ何も桜子に返していないのに。
 今まで支えてくれた分を、何一つ返せていないのに。

 こんなお姉ちゃん、お姉ちゃん失格だよね。

 そして龍一さん。
 始まりは奇妙な出会いで…… そしてまた奇妙な巡り合わせで共に過ごすことになった人。
 あなたも私を支えてくれた…… こんな私を。
 龍一さん、あなたが私たちをどう思っているかは分からないけれど、私にとってあなたは本当に…… 本当に大切な存在です。
 家族のように…… いや、それ以上に。
 それ以上、なんと言い表せばいいのか分からないけれど―― 私は、私と桜子にとってあなたは家族以上の存在です。

 振り返れば一瞬のように過ぎた時間の中で、色濃い時間の中で。
 私たちは鮮やかな時を刻んできた。
 桜子と、龍一さんと、私…… 夢のような時間。

 夢―― 夢だったのかもしれない。
 何もかも夢…… 夢は覚める、覚めてしまう。
 宝石のような、あの大切な瞬間たちは過去のものとなって…… 色あせていく。
 それが止められないのがとても悔しい、歯がゆい、悲しい。
 まだ覚めないで欲しいのに、覚めて欲しくないのに。

 世界は残酷で、想い出は一方的に壊される。
 夢は覚めてしまう……





「終わりだ」

 終焉の鐘が鳴り響く。
 超自然の世界に生まれ、超自然の中に消えていく。
 超自然の生命はあるべき場所へ還っていく……
 私は、私たち人間は…… この世界は全て超自然現象だった。

 それで良かった。
 いつの日か私たちは必然を創り出し、それに縛られていった。
 超自然を必然で塗り替えて、私たちは己の身を己で縛り付ける。
 これで良かったのかもしれない。
 必然なんていらなかった。
 謎は謎のままで…… 超自然は超自然のままで良かったんだ。
 無理やり必然にする必要なんてなかった。
 だからこれで良かったのかもしれない……

 必然を無に還し、超自然の中にしまってしまおう。

――暁月は今、かざした手をゆっくり振り下ろしていく。

 これで本当に全てが終わるんだ。

(本当にこれで良かったの?)

「これでいいんだ――」

 これでいいのか…… 私は本当にこれで……
 桜子、龍一さん、みんな…… 愛する人たちみんな。
 私はこれで……

(いいわけない……!)

 嫌、嫌…… こんなの嫌!
 これで終わってしまうなんて、そんなの……

 私は人間だ、欲深き哀れな人間だ!
 そう、それが人間だ…… これで終わって欲しくない。
 みんなともっと過ごしたい、みんなといたい―― それだけなの。
 たったそれだけ…… それだけの願いなの!
 それでいいじゃない…… それのどこかいけないの。





「小娘…… 抵抗するな!」

 未来は変えられる―― そうですよね? 龍一さん。
 そう…… 謎は謎でいい、超自然は超自然のままでいい。
 人間だから、人間の罪は人間が祓う!
 私たちが少しずつでも変わっていけば…… 罪を消せる、超自然を生み出さずに済む!

 私たちが変えてみせる…… だからまだ終わらないで!

「やめろ…… どの道もう遅い!」

 遅くない…… 未来は変えられるの!

「無駄だ!」

 抵抗虚しく、終焉を纏ったその手は確かに振り下ろされていく……
 終わらせない…… けれど私の力ではこれが精一杯だった。

(駄目…… 駄目!)

 終わってしまうのか。
 愛する日々が、愛する人が、全てが。
 もう――

(限界だ……)

 暁月はもう一度振りかぶり、これでもかと勢いをつけて。

「滅べ―― 人間!」

 嫌だ…… こんなの。
 助けて、助けて…… 
 助けて―― 龍一さん。

 漆黒の空。
 そこに浮かぶ暁月が今、世界へ終わりを告げようとした時……

――彼方に浮かんだ明星が一つ、漆黒の闇を切り裂いた。






「貴様は…… 夕月か」
「お前は、暁月だな」

 今、白と黒…… 表と裏が交わる。
 厳しい冬が訪れた北の大地、その東方でのことだった。
 ようやく辿り着いた場所。
 全てが終わる場所。

 染谷さんから貰ったヒントをもとに教団の居場所を探し出し、ひとつずつ潰して回ってきた。

「お前が言った希望の世界ってやつは…… このことか?」

 もう一人の俺が問いかける。

――ああ、そうだ。

 神山龍一というただの人間だったこの俺が、悪魔みたいな存在…… いや、もう一人の自分、もう一つの世界と契約を結んだことで超自然現象そのものになってしまった。

 だが、それでいい。
 これは俺が選んだ道だ。
 名を夕月という、もう一つの世界、裏世界の怪物と契りを交わし現象になった俺は、教団の居場所を一つずつ回っていって、最終的にはここへ辿り着いた。

 引き裂くような冷気が流れる空。
 そこに「彼女」はいた―― なるほど、俺は彼女の姿を確認したとき全てを察した。
 第六感とでも言うのだろうか…… その姿はいつか垣間見てしまった記憶の中にいた彼女の姿だった。

 白装束、白みを帯びた銀の髪、仄かに赤い瞳、美しき面…… 彼女は咲夜雪子という俺にとってとても大切な人間であり、そして現象を抱えた人間でもあった。

 つまり…… 一足遅かったということだ。
 雪子を助けるために夕月の力で脱獄、脱走して染谷さんのもとへ行き、教団の居場所を巡って…… そうして俺はようやく教団本部へ辿り着いたのだが、そこへ突入したときには既にもぬけの殻…… いや、何者かによって一方的に打ち倒された教団員しか存在しなかった。

「何故貴様がここにいる」
「――さあな」

 雪子の体内に閉じ込められていた御神体は取り出されたかなんだかで、最終的にその封印は解けてしまったようだ。
 俺は全てを悟った…… 俺は今、俺自身を第三者視点で見ているような不思議な感覚の中にいる。
 俺は神山龍一であり、しかし同時に夕月という現象でもある。
 俺は夕月と同化し、超自然的な力を手に入れた。加えてこの化け物の記憶、情報なども共有している。

 だから全て分かる…… 悟ってしまうのだ、感じてしまうのだ。何かを。





 雪子も今、封印が解けてしまった怪物と同化しているように見える…… いや、間違いない。
 俺の経験と、そして夕月が持つ情報…… こいつは「暁月」という現象だ。
 雪子の先祖が封じて代々祀ってきた荒神、暁月。
 教団の襲撃をきっかけにそいつを封じた御神体は彼女の体内へ閉じ込められ、しかしその封印は同じく教団の手により解けてしまった。
 そして暁月は雪子の体を使い現界している―― この俺と同じく。

 最悪の結果となってしまった。
 だが、泣き言をこぼしている暇はない。
 雪子を助ける―― 絶対に。
 彼女の声が聞こえたのだ…… 助けてくれ、と。

 暁月はこの世界に終わりを告げようと手を振りかざしたところだった。
 俺の存在に気付いてその動きを止める。
 夕月の力かどうかは分からないが…… それによって何かを感知した俺の体は自然とこの空に引き寄せられた。
 そうやって違和感の出所を辿った結果雪子を、暁月を見つけることができたのだった。

(お前は俺を表の世界へ還すと言ったな)

「――ああ」

(それはつまり、こういうことだったのか…… おもしれぇ、やってみろ)

 夕月はそう言って笑った。

「もう一度聞こう。どうして貴様がここにいるのだ―― 夕月」
「暁月、あんたを止めに来た」
「止めに来た……? 笑わせるな」

 白い翼を生やした暁月と、黒い翼を生やした夕月。

「貴様も人間というふざけた種族に封じられた存在だろう?」
「ああ…… そうだな」
「それなら―― 何故私を止めようとするのだ」
「知らねぇ、面白そうだからだ」
「何だと……? 貴様はこの現状に何も思うところはないとでも言うのか?」
「現状?」
「ああ、そうだ…… 愚かな人間どもは図に乗りすぎたのだ。貴様がそんな人間の汚らわしい感情によって創られたもう一つの世界なら、私もそいつらの汚らわしく醜悪な希望によって創られた世界の一つだ」
「そうだな…… 俺が裏ならお前は表ってところか」
「そうだ…… 神の存在を願う人間全員の汚い願望によって生み出されたのが私たちだ。人間は私たちを都合のいいように使役してきた。都合のいいように解釈し、利用し、恐れ、封じる…… 好き勝手に」
「それが人間ってやつだ」
「そうだ……! 強引に私を呼び出し、汚らわしい希望を寄越す…… いきすぎた希望はやがて暴発し災厄を生む。全ては人間の自業自得、因果応報なのだ。それにも関わらず人間はその事実すら私たちに全てなすりつけ、最後には厄介者にして封じ込めるのだ」

 暁月の顔には強い怒りが刻まれていた。





「度々の忠告、制裁を無視し思うままに汚していく…… もう度が過ぎた。人間は無に還らなければならないだろう。だからこのまま全てを破壊し、二度とこんな事態に陥らないよう私が世界を治めるのだ」

 怒りに滲む覚悟…… 暁月は一旦静止させた動きを再開する。

「待て、暁月」
「どういうつもりだ」
「確かに人間は調子に乗りすぎたな―― だが、今のお前はそんな人間どもと同じだ」
「――何だと?」
「自分の為だけに破壊するなら、それは人間と同じことだ」
「貴様も人間どもに使役された存在なのだろう……? 奴隷のようにな。私の為だけじゃないはずだ」
「ああ…… だが、人間の罪は人間が償えばいい」
「貴様、己が何を言っているか分かっているのか?」
「分かっている。確かに人間は愚かな存在だ―― だが、面白い存在でもある。それに気付かされた」

 夕月、お前――

「償いの機会さえ奪ってしまうようなら、それは横暴そのものってことだ。それこそお前が忌み嫌う人間と同じ」
「貴様、人間の肩を持つのか?」
「そうじゃない―― 消えるべき人間なんざいくらでもいるだろうよ。だがな、それも人間の罪だ、それは人間が償うべきだ」
「馬鹿な……! 消えるべき者が多すぎるのだ、だから私が変わりに罪を祓ってやる。それだけのことだ」
「それじゃ面白くねぇ…… 人間の中には面白い奴だっているのさ」
「面白いだと? どういう意味だ」
「消えた方がいいような人間とは程遠い、対極の位置にいる馬鹿野郎のことだ。そういう馬鹿がいるから人間は面白い…… 消してしまうには惜しいと言っているんだ」
「――やはりお前と私は相容れない存在のようだな」

 夕月は人間が持つ裏の感情によって創られた裏の世界なら、暁月は人間の表の感情…… 当時は尊く潔白であった表の感情によって創られた表の世界。
 しかしいきすぎた希望、願望はやがて暴走し変色する…… それが暴発して結果的には災厄を招く形となってしまった。
 それが暁月という存在、世界なのだと、そう感じた……





「そうだな…… 俺が裏ならお前は表」
「表と裏、白と黒…… 明けの月と暮れの月は決して相容れることはない」
「だから俺はお前を止める。人間を消すにはまだ惜しい…… 俺は裏だが、表へ還る。そしてお前と俺はやがて無に還るんだ。無限の空間で全てを燃やして星になり、てっぺんから地上の行く末を見ていようじゃないか」
「――邪魔をするなら、排除するのみ!」

 暁月は純白の翼を翻す。
 赤の瞳には覚悟が燃える。
 そして夕月も―― 俺も、漆黒の翼を翻す。

 雪子…… 必ずお前を助けてみせる。
 帰ろう―― 俺たちの居場所へ、あの洋館へ。
 俺たちの罪は俺たちで償う。この一生をかけて、愛する人たちと。
 それでいい、それだけでいい…… 俺は人間だ。罪深き人間だ。
 それでいい…… 俺たちは罪と向き合い、それを背負って生きる存在だ。

 ちっぽけな存在だが、それでも世界を変えている。
 罪は消せるだろう…… それを願って歩いていけば。
 その奇跡を、超自然現象を俺たち人間が起こしてみせる。

 超自然現象を打ち消す超自然現象を――





 それはさながら超新星爆発、スーパーノヴァ。

「遅かったか――」

 雪がチラつく夜空に浮かぶ鮮やかな光。
 それは互いに激しくぶつかり合い、点滅し、新たな色の光を生む。
 まるで花火のような―― いや、新しい宇宙の誕生、もしくは全ての終焉を告げる光か。

 私たちは一体どうすれば……

 ほんの数時間前、私たち対策室は教団本部へ突入した。
 熾烈な戦いになると予想していたが、それは呆気なく覆されたのだった。
 中へ入ると倒れ伏す教団員の姿…… そして息も絶え絶えな榊右近がいた。
 やがてその光景に唖然とする私たちのもとへと一報が入る。

 それは共同で作戦にあたっている警察からの連絡だった。
 道東のとある地域に建設中の高速道路、その高架橋上空に謎の光を捉えたというのだ。
 私たちは本部の捜査、後始末と現場へ向かう人員を割り振り、やがて到着したボスと共にこうして報告された地点へやって来た。

 しかし…… 一足遅かった。

「ボス、私たちはどうすれば――」

 冬の夜空、遥か上空でぶつかり合う光…… ここからではその光だけで姿を確認することはできないが、あの二つの光は……

「どうすることもできない」

 傍らに立つボスの口からその言葉が出ようとは…… 正直言って聞きたくなかった言葉であるが、しかし私たちにはどうにもできなかったのだ。
 事実、ここにいる私やボスや聡太…… それから他多数の者たちはただ傍観することしかできない。傍観に徹することしかできない。
 口は開いたまま、目を大きく見開いて。

「現象を封じる責任は我々にあるというのに――」

 為す術もなく、ボスの瞳には無念、懺悔、屈辱などが入り乱れて浮かんでいるようだった。
 最早ここにいる誰もがそのような境地にいることだろう……
 あの二つの世界、その間に入り込む余地は私たちにはなかった。
 何かしなければならない―― しかし、そんなことは許されない世界があった。
 クビもいいところだ、糾弾されるだろう…… だが、私たちにはどうにもできない……





「あの光は――」

 聡太がふいに呟く。

「恐らく…… 神山君と雪子だろう」

 そう、雪子の中にあった御神体は榊によって取り出され、そして封印は解けてしまった。
 本部で見たあの光景から察してそういうことなのだろう…… 加えて本部には雪子の姿がなかった。
 つまり御神体に封じられていた荒神は、夕月と神山君のように雪子と一体化してしまったのだろうと思われる…… 全てが解決しない限りは確定することができないが、そうとしか思えなかった。

「見ろ、光が……」

 どれくらいの時間が経ったか…… しばらくの間ぶつかり合っては点滅していた光が一つになり、そして激しく輝いた。
 光は一つの色となって漆黒の闇を照らす。
 夜に太陽が現れた…… それほどの輝きだった。

 夜の太陽と舞い散る雪―― この光景はさながらハルマゲドンか、最後の審判か。
 これで世界は終わってしまうのか。

 眩い光は更に激しさを増して上へ上へと真っ直ぐ飛んで行った……





「捕まえた――」

 惑星同士がぶつかり合ったような激しさ、閃光。
 世界がバラバラに崩壊するような衝突の後に、俺はようやく暁月を…… 雪子を捕まえる。

「何をする気だ」

 雪子、待ってろよ。
 必ず助ける、もう大丈夫だ―― 未来は、世界は変えられる。

「言っただろ―― 星になるってよ」

 捕まえて…… 強く、強く抱きしめた。
 もう絶対に離さない。何があろうと離さない。
 この華奢な体を、全てを包み込む優しさを、今度は俺が包んで離さない。離すもんか。

 そして今一度翼を強くはためかせ、夜空を突っ切って行く。
 誰にも止められはしない、止めさせはしない。龍のように…… いや、俺は鷹だ。夜の鷹だ。

 俺には夢がある。
 ちっぽけな夢だ。
 俺に優しさをくれた人へ、愛する人たちへ…… 今度は俺がそれを返すんだ。
 それでいい…… 俺が生きる理由はそれだ。

――俺は何がしたかったんだ。

 大切な人たちと出会う前、そして出会ってからも俺はその疑問と戦ってきた。
 結局その答えは未だ見つかっていない…… でも、それでいい。
 俺が生きる理由はある。
 それが全ての答えだ。

「離せ――」
「離すもんか…… 雪子」

 高く、高く…… 夜空の黒が徐々に青みがかってくる。
 雲が晴れる…… 成層圏のコバルトブルーがやって来た。
 上昇を止めない、覚悟のもとに飛んで行くのみ。
 記憶は巡る。





――初めに仕事を辞めて帰省した。

 成層圏を突破して、今度は中間圏に入ったようだ。
 寒い…… 全てを凍らせる気流。
 だが、マイナス何百度だろうと俺は上昇する。

――仕事を辞めて、雪子と出会った夏。

 中間圏を突破して、次は熱圏。
 灼熱が体を燃やす。
 しかし何千度の熱だろうと俺は止まらない。

――雪子と出会って、桜子とも出会って、そしてヤエとも出会った。

 そして最後の関門、外気圏までやって来る。
 無限の空間はもうすぐそこだ。
 上がっていくにつれて青はまた黒へ変わっていく。

――そうして夕月にも出会った。

 人と、人でないもの…… 短い間に様々な想いと相見えた。
 それぞれの想いは形となって、現象という存在を創り出した。
 俺たちも彼らも一緒だった。
 何かを感じて、考えて、表に出す。
 一緒だった…… 俺たちは何も変わらない。
 ああ、全ては現象だった。人間もそうでないものも何もかも超自然現象だった。

 俺たちは想いで動く、想いに動かされる。
 超自然とは全ての想いが形となったものだったんだ。

――全ての大気を越えて、俺たちはとうとう宇宙へ到達した。

 何も聞こえない、何も感じない……
 だけど―― 聞こえる。

「お前は…… 一体」
「俺たちの想いで世界は変えられる、変えてみせる」

 聞こえる…… 想いが。

「だから―― 一番高いこの場所から見守ってくれ」

 俺は夢を見ている。
 とても綺麗で美しい夢だ。
 無限の空間で星になる夢だ。
 俺は夢の中で星になる。

「何をする気だ」

 抱擁を解き、暁月からゆっくりと離れる。





「魂の解放を求めるならば、答えよ」
「それは――」

 俺の片手に雪子の聖典が現れる。

「万物の聖典が」

 人間は罪深い生き物だ。
 だけど…… 今更そんなことどうでもいい、知るか。

「原理が――」

 優しさをくれた大切な人たちへ、その世界へ…… 今度は俺がそれを返すんだ。
 もっと一緒にいたいんだ…… それでいいだろ?
 その気持ちが、温かな想いが、俺たち人間の罪を消してくれる。
 だからこれでいい―― 難しいことなんて知るか。俺の好きなようにやらせてもらう。
 これが人間だ。

「――汝を導く」

 聖典が瞬く。
 今までに閉じ込めた想いたちが無限の空間へ還っていく。
 オーロラのように、何億光年も前から届けられた光のように。
 あるべき場所へ還って行く…… 命は、想いは繰り返す。

「お前は――」

 暁月の目が見開く。
 彼女の体も淡い光を放つ…… 新たな命の誕生だ。
 淡い光は徐々に濃くなり、無限の宇宙に新たな世界を刻み込む。
 そして。

「ありがとう」

 俺は夢を見ている。
 これからも見続ける。ずっと、ずっと夢を見る――

「おかえり―― 雪子」

 光を放ち、暁月は星になる。
 いや、もしかしたら月になったのかもしれない…… そして、暁月の中から雪子が戻ってきた。

「龍一さん――?」
「おかえり、雪子。見ろ、地球が……」
「凄く、凄く綺麗です…… ここは……?」
「多分、夢の中かもしれないな」
「夢…… あっ――」

 雪子の体が離れていく。

「大丈夫だ」

 雪子のもとへ翼を翻し、掴んで、引き寄せる。

「もう全て終わった、何もかも。もう大丈夫だ」
「龍一さん、本当に、本当に…… 何と言っていいのか……」
「ありがとう、雪子」
「龍一さん…… あの、それは私の方こそ――」
「今までのお礼だ」
「お礼……?」
「ああ―― 見てみろ。こんな綺麗な景色、初めてだ」

 俺たちは言葉も忘れ、それからはただただ無言で地球という惑星を眺めていた。





「私…… ずっとこうしていたいです」

 雪子がふと、そんなことを呟いた。

「俺もだ―― だけど、夢は覚めちまうからな」
「そうですね…… それに、桜子やヤエさんやみんなのところへ戻らないと」
「ああ」
「夢は覚める…… でも、また見ることができますよね?」
「そうだな、これからも夢を見よう。次はみんなでここに来るってのはどうだ?」
「ここに…… 来られますかね?」
「来られるさ―― きっと」
「そうですね、きっと来られます」

 おもしれぇ人間だ―― これからもせいぜい楽しませてくれ。

 そして、俺の翼が消えた。
 夕月という現象もあるべき場所へ還って行く。

「ああ…… もちろんだ」

 約束を交わし、遠くなる光に一つ手を振った。

「龍一さん!」
「大丈夫だ、雪子! 掴まれ!」

 翼を失った俺たちの夢は覚める。
 そのまま真っ逆さま、地球へと堕ちていく。
 雪子は俺の胸元へ飛び込んできた。
 俺は彼女を受け止めて、きつく抱き締める。

「これは夢だ―― 覚めれば全部元通りだ」

 そう、覚めれば全て元通り。きっと大丈夫。
 雪子にも、そして自分にも言い聞かせ…… 俺たちはゆっくり目を閉じた。
 あの景色はとても綺麗だったけど、やっぱりみんなの所が一番だ。

 帰ろう、俺たちの場所へ。





「龍一さん――」

 そうして…… 気付くと夢は覚めていた。
 刺すような冷気を感じて目を開ける。

「夢だけど、夢じゃありませんでした」

 サラサラと舞い散る雪。
 俺たちは地面に落ちていた。
 仰向けに倒れる俺の上に雪子が覆いかぶさっている。
 雪子の温もりは冬の厳しい冷気も寄せ付けなかった。

「龍一さんの言葉―― 全部届いていました」

 俺の顔を覗き込む雪子。
 そんな彼女の瞳から涙が伝って、俺の頬へ落ちた。
 雪子は涙ですら温かかった……

「おかえり、雪子」

 もう一度、想いを形にする。

「ただいま、龍一さん」

 そして、雪子はそっと俺の胸元へ。
 彼女の体を下から優しく抱き締める。

「みんなのところへ戻ろう」
「はい、家に帰りましょう」

 やがて抱擁は解け、どちらからともなく体を起こす。

「綺麗……」

 体を起こすと、雪子は思わず感嘆の声を漏らした。
 何もない大地。見渡す限り、視界を遮るものは何もない…… そんな地平線の彼方まで続くような草原に俺たちは落ちていた。
 更に、舞い落ちる雪がそんな草原を白く染めて…… まるで白百合が一面に咲き誇っているかのようだった。





「雪子」
「龍一さん」

 荘厳な雪化粧を眺め、自然と声は重なる。
 そんな声と同じように、もう一度そっと抱き合った。
 この雪のように綺麗な長い銀髪と、妖艶な朱色の瞳と。
 慈愛を湛えた美しい面と、華奢でも思わず包み込まれそうになる体。

 ちっとも寒くない…… この温もりがあれば。
 いつまでもこうしていたいと思った。

 何も言わず、お互い無言のまま…… 優しい沈黙が流れ、しんしんと雪が降り積もる。

 そして、ようやく体を離して…… 見つめ合う。
 少し空気は変わって妙な沈黙が生まれた。
 俺たちは何も言わない…… ジッと見つめ合って、視線で意思疎通を図り、次第に互いの顔は近く――

「――二人とも、無事か!!」

 その時、彼方から男の声が……

「あなたは――」
「大丈夫か! 神山君、雪子!」

 振り向いた先には対策室のボス、山地泰介さんが。
 そしてその先、遥か先には草原にかかった滑らかな道路に何台もの車両が停まっているのが見える…… 煌々としたいくつものヘッドライトによりその存在は闇の中でもひときわ目立つ。
 何故だか複雑な心境に陥りそうになったけど、ボスの顔を見ると安堵が訪れた。

「はい…… 俺も雪子も何ともありません」
「そうか―― 本当に良かった」

 彼の顔を見て全てを悟る―― 無事に終わったのだと。
 俺と雪子は顔を見合わせて、それから微笑み合い、立ち上がった。

 全て終わった…… もう大丈夫だ。
 今は難しいことはいらない。
 
 そうして、俺と雪子はあるべき場所へ帰って行く。
 ふと見上げた夜空。雪が降っているような天気模様なのに、恐らく西の空だろうか……
 明星が一つ、瞬いていた――






「こんにちはー、宅配便です。サインお願いします」
「はい…… お疲れ様です」

 暦は12月になった。
 クリスマスイブ、クリスマスが終わり、新しい年を迎える準備で世の中はより一層慌しい。

「桜子…… それは宅配便?」
「お姉宛だってさ」

 そんな年末のある一日、午前中。
 私は学校が冬休みに入ったのでやることがない…… なので仕事納めまで色々とせわしない対策室の仕事に追われるお姉を手伝っている。

「あ…… 新しい聖典だ」
「ようやく来たんだ…… ってか、こんな大事なものを普通の宅配便で送っていいの?」
「いいみたいだね……」

 溜まった書類の整理、報告書の作成…… そういった諸々の事務仕事をせっせとこなしていたところに宅配便が届いた。
 お姉は小柄なダンボールに入ったそれをさっそく開封すると、中には聖典が入っていた。
 それは新しい聖典、お姉の新しい商売道具……

――あれから一ヶ月ほど過ぎた。

 最終的に、怪我一つなくお姉は無事に帰ってきた。
 本当に良かった―― そして、私はボスやお姉から全ての成り行きを明かされた。

 教団、榊右近という男に拉致されたお姉。
 そんなお姉の体内には私たちの家系が封じて代々祀ってきた荒神、暁月が眠る御神体があった。
 それはどうやら幼き頃、御神体を狙う教団から襲撃を受けた際に苦肉の策でお父さんとお母さんがお姉の中に閉じ込めた可能性が高いとのことだった。
 榊はその現場を目撃した後一時は撤退したものの、それからずっとお姉の行方を追っていたという。

 そして―― 先月にお姉は拉致され、御神体は榊らの手によって取り出された。
 更に封印も解けてしまい…… 暁月はお姉の体を使ってこの世に現界したのだ。
 荒神、恐るべき神…… 暁月。
 暁月は私たちの仇である榊をいとも簡単に打ち倒し、そしてこの世界を無に還そうとした。





 しかし、その時。

 龍一が現れた。
 彼は夕月という女の人に無理やり植え付けられていた恐るべき現象(夕月)を身代わりとなってその身に宿した。
 第三機関への強制捜査で同時に拘束された龍一は、その現象の力を使って、現象と一体化して脱走し、その後は教団の居場所を潰して周っていたという……
 どのような方法で居場所を知ったのかは聞かされなかったけれど、そのおかげで対策室は全国にある教団を次々と検挙していく。
 やがて龍一は榊たちの居場所を突き止めることに成功し、教団本部へ向かったとみられる。

 そうして最終的に、暁月と夕月…… お姉と龍一は刃を交えてしまう。
 この世界の命運を賭けた戦いといっても過言ではない状況で、龍一はお姉を捕まえて空高く上昇していく……

 何も知らない私からすれば信じられないような話だった。

 お姉でさえも、「あれは夢だと思う―― けれど、夢だけど夢じゃなかった」と不思議そうな面持ちで語っていた。

 お姉と龍一は宇宙みたいな不思議な空間の中にいたらしい。
 そんな無限の空間で、龍一はどうやって調達してきたのかお姉の聖典を取り出し…… 暁月を封印した。
 いや―― 全ての現象を「あるべき場所へ還した」とお姉は言っていた。
 その際にお姉が今まで使ってきた聖典は消えてなくなってしまったらしい。

 長い回想はようやく終焉を迎える。
 そうして最終的にお姉に憑いていた暁月は宇宙だか何だか…… 夢のような世界の中で消滅して、龍一に憑いていた現象も同様に消えたみたいで。
 それで二人はそんな世界から生還し、全ては解決…… そういうことであるらしい。





「――二人ともお疲れ様―、差し入れよっ!」

 頭の整理が終わり、中断していた仕事を再開したとき…… ヤエさんが現れた。

「さあさあ、あそこの和菓子屋の大福を買ってきたわよ! 召し上がれ!」
「これは…… ありがとうございます!」
「あー! これ私も好きなんだっ、ヤエさんありがと!」

 お姉が無事に戻ってきてくれて…… 本当に良かった。
 一時は本当にどうなることかと…… それでも、ヤエさんが言った通りに龍一がお姉を助けてくれた。

 お姉が戻ってきてからは、それからはまたいつも通りの日々が始まった。
 平和な時間が戻ってきて…… 久しぶりの日常を噛み締めた。
 そして、年末で慌しさを増す私たちの仕事具合を見かねてヤエさんが手伝いに来てくれるようになった。

 もう現象だからとか、そんなことはどうでもいい…… いや、どうでも良くはないんだけど、もちろん人々を襲うようなものは私たちがどうにかしないといけない。
 けれど―― 私の中には以前感じていた現象に対する憎しみはもう存在しない。

 ヤエさんは大切な人。
 今はこうして平和な時間を皆で過ごせていることが嬉しい…… だから現象だからとか、人とは少し違う存在だからとか、そんなことは今更どうでもいいと思える。

「それでは―― 少し休憩しようか? 桜子」
「そうだね…… 大福食べよっ!」
「お茶入れてくるね」
「お姉さんは座っていてくださいな。お茶なら私、ヤエが淹れてきましょう」
「あ、すみません」

 そうして私たちは一つ休憩を入れることになった。





「ボス、榊氏への判決が下りました―― 無期懲役です」

 対策室本部、最上階に位置する室長室。
 その一室で、私からの報告を聞くとボスは「そうか……」とだけ呟き、数秒顔を伏せた後に立ち上がって、こちらに背を向けて窓辺に立った。

「無期懲役…… か」

 ボスは高層ビルの最上階から外を眺める。
 どこまでも続くビルやマンション、住宅地や繁華街、平野…… 彼方にはうっすらと山々の影が浮かび、この世界の広さを今一度痛感する。

「君はどう思う…… 天城」

 ボスは語りかけるような口調で、低い声で私へと問いを投げかけた。

「正直言いまして、不服な部分はあります」
「そうだろうな」

 元同僚でもある榊に対し、彼も何か思うところはあるのだろう…… 依然として外の景色を眺めたまま答える。

「司法とは中立的でなければならない」
「そうですね……」
「私欲の介入など言語道断だ」

 恐らくボスも私と思っていることは同じだろう。
 あれからのこと―― 私たちの手によって榊は拘束され、後に逮捕が決まった。
 雪子や神山君からの証言もあって、教団本部でのことやその他全てが明るみになる。
 榊は暁月からの攻撃で絶命したように思われたが、息を吹き返した。
 そしてひっそりと裁判が行われ、彼に無期懲役の判決が下されたのだった。

 雪子や神山君については、現象に憑かれていたという見解に行き着き…… 罪には問われずに済んだ。
 ともかく、神山君の功績があって私たちや警察は教団の居場所を突き止め、引き続き続々と検挙することに成功している。よって彼や雪子に罪はない。
 加えて現在は神山君や雪子の中にはもう現象は存在していないのだから。

 現象を生み出し、使役し、世に放ち社会を混乱に陥れる…… また、組織を運営するにあたり裏組織とのパイプを作った榊。彼の余りある罪を考えれば死刑以外は考えられなかった。
 しかし判決は無期懲役……





「奴は死刑に値する人間だ…… 奴によって教団は膨れ上がり、他の裏組織とも繋がり、その手は今や海外にも及んでいることが分かった。その過程で失われた尊い命は数多い」
「はい……」
「しかしこの判決…… 司法という場においても、もしかすると何者かからの圧力があったのかもしれん」
「何者か…… そういった組織のことでしょうか」
「いや、もしかすると政府の中枢にも―― ともかく、無念だが我々にはこれ以上どうすることもできん。単に司法が裁いた結果なのか、それとも奴を死刑にさせないように誰かが動いた結果なのか…… 真相は不明だが、かえって都合がいいかもしれん」
「都合がいい……?」
「――天城」

 そこで、ボスはようやくこちらを振り向く。

「奴が生きている以上、これからは奴に全てを語ってもらう…… 教団のことも、何もかも。そういう意味で好都合だ」
「確かに…… そうですが」
「我々が全ての教団員や関連組織をしらみ潰しに捕まえていくには限界があるだろう…… 奴らも待ってはくれない。こうしている内にも奴らは捜査の手を逃れる為にあれこれと動いているに違いない」
「――はい」
「だが、我々は奴らと、現象と戦い続ける」

 我々は何故超自然現象を封じなければならない?

 いつかのボスの声が蘇る。

「我々は何故超自然現象を封じるのか―― 君は答えられるか、天城」

 何故私たちは現象と戦う?

(大切な人を守るため―― 今はそれで十分っす)

 そうだったな、聡太。

「誰かからの受け売りですが、私は大切な人を、仲間を守るためだと…… そういう結論に至りました」

 真っ直ぐなボスの視線を見つめ返して、私は本心そのままに答えた。

「そうだな――」

 幾ばくかの沈黙の後に、ボスはそう答える。

「ありがとう」

 そして、そう言って朗らかに笑った。
 こんなボスの笑顔を、私は今まで見たことがなかった。
 一体どんな意図があってその一言を発したのか、今の私には分からない。
 しかし……

「私もあれこれ考えたが…… そんな結論に達したよ。単純なようで、最も大切なことだ」

 しかし彼の心中は謎のままでも…… それでもいいと思った。
 私が今感じているこの不思議な温かさ…… これがあれば、これだけでもう十分だと思う。




 そうして、少しこそばゆいような時間が流れて。

「ボス、神山君についてですが―― 彼の処置についても完了しました」
「そうか…… 状態はどうだ?」
「至って正常です、問題ありません」
「そうか、良かった…… 彼には感謝してもしきれないほどだ」
「はい、おっしゃる通りです」
「後で謝礼を送らねばならんな…… そして謝罪も」
「彼は…… 恐らく断ると思いますが」
「どうしてそう言えるのだ?」

 神山君の姿が浮かんできて…… 何故だか顔が綻んだ。

「いや、なんとなくです…… すみません」
「ほう……?」

 ここへ入室してからしばらくあった厳粛な空気は、今や完全に弛緩していた。
 そんな空気をボスは「ゴホン」と一つ咳払いしてからもう一度引き締めなおす。

「ともかく―― 我々は仲間を守るため、人々を守るため、これからも現象と戦い続ける」
「はい」
「だが…… 修正すべき部分もあるだろう。柔軟な思考をもって対応していく」

 修正すべき部分…… そう言うボスの顔には反省の色と、それから新たな決意が浮かんでいるようにも見えた。

「これから戦いは新たな局面を迎え、そしてより激しくなるだろう―― そんな気がする。教団の魔の手が予想以上に様々な分野へ伸びていることが分かったからな」

 政府、裏組織、海外…… 教団が検挙されるにつれて、新たな事実が次々と浮き彫りになっている。

「実は…… 海外の情報、防諜機関並びに行政機関などからも捜査の協力要請が来ている」
「本当ですか!? それは一体……」
「教団員と思われる何者かが海外に手を伸ばした結果だと思われる…… 奴らは海外の裏組織と協力して現象を創り出し、世界を混乱に陥れようと各地で行動しているようだ…… それについて我々が持ちうる情報を開示し、解決のため捜査に協力せよと要請が来ている。我々も一部で行方は追っていたが…… 身柄の確保には至っていない」
「つまりは、私たちの国で生まれた罪は私たちが祓えと…… そういうことですね?」
「そのようだな―― だが、いかんせん海外の捜査となると逮捕権だの身柄引き渡しだの現地との交渉だの事情が複雑。まずは身の回りを整えることが先だ」

 そうしてボスは再び皮製の椅子へ腰掛ける。

「現象は我々が生み出している―― それは本当かもしれんな」
「はい、現象も恐ろしい存在に変わりはありませんが、それを生み出させているのは私たち人間」
「人間が一番恐ろしい存在なのかもしれん」
「はい…… 全ての元凶は人間にあるのかもしれませんね」

 現象とは人間の想像の産物なのかもしれない…… 今までの出来事と、それから神山君が語っていた言葉でそのように思い至った。

 これから戦いはより広域に、そして激しくなるだろう。
 しかし、神山龍一という男が見せてくれたように…… あの男のように、私たちは仲間を守るために、大切な人を守るために戦い続ける。
 それが私の、私たちの存在理由だ。

 全ての報告を終え、一礼し部屋を出る。
 そうして私は改めて己の存在理由を胸に刻みつけた――





「いやー、桜子ちゃんったらあの時はほんとかわいかったわー」
「ちょっと、ヤエさん!」
「お姉さんのこと大好きだもんね」
「だから……!」
「心配かけて本当にごめんね、桜子……」
「お、お姉は何も悪くないんだから謝らないで!?」

 休憩中、時刻はお昼の時間帯へ向かっていた。
 ヤエさんは私がここへ戻ってきた時の桜子の様子を思い出したようで、少しからかうように話題に出した。けれど決して馬鹿にするような素振りではなく、とても微笑ましいやり取りに見えた。

「さて―― それじゃ私は大掃除でもしましょうか」

 そして空気を切り替えるように、ヤエさんはそう切り出した。

「そんな…… それは悪いですよ」
「いいのよ、お姉さん。龍一様がいないのだから、あの人の代わりを務めるのは私の役目よ」
「龍一……」
「龍一さん……」

 龍一さん…… ヤエさんの口からその名前が出ると、空気は少し重くなる。

「あれ―― ごめんなさい、地雷を踏んでしまったわ」
「ヤエさん、それわざと?」
「いや、そんなことないわ…… ごめんなさい」

 やってしまったと言わんばかりに、ヤエさんは肩をすくめてから目を伏せた。

 また家に帰ってこられて、桜子やヤエさん、大切な人と無事に再会できて…… 全ては解決した。
 無事に終わった、日常が戻ってきた。
 だけど―― 完璧ではなかった。
 そう…… この場には一人、大切な人の存在が欠けている。

「龍一様…… ごめんね、二人をからかうつもりはなかったの。私だって凄く辛いわ」
「分かってるよ…… 私たちを励まそうと盛り上げてくれてたもん、ヤエさんは」

 この場に龍一さんの姿はない。
 永遠の別れだとか、もう帰って来ないだとか…… そういうことでないのは分かっている。
 龍一さんは必ず戻って来る…… それは知っているのに、彼がいない日々が続くと酷く不安になる。

 私たちの中で龍一さんはもう計り知れないほど大きな存在になっていた。
 家族のように? 異性として? それとも仲間意識で?
 それは分からないけれど、私たちは彼と確かな絆を結んだ。
 ほんの短い期間だった。
 出会いは夏、それから秋、冬と…… 実に短い期間だ。
 でも―― そんな短い間で私たちは分かり合えた。

 だから…… まだまだこれからなのに。
 これからもっと、今まで以上に近く、親しくなって分かり合いたいのに。
 早く戻って来てください―― 龍一さん。





「あの馬鹿…… お姉の誕生日にも顔出さないし」
「それは…… しょうがないよ」

 私の誕生日でもあるクリスマスも過ぎて―― 龍一さんはまだ戻って来ない。
 事情は知っているけれど…… 皆で今までの空白期間を埋めるように祝いたかったのも事実であるけれど。

 恋しい、愛しい…… 桜子の言葉を借りますが、あなたは馬鹿です。
 こんなこと私が言ってはいけません、その権利はありません…… 私を、みんなを助けてくれて、支えてくれて、全てを解決してくれたあなたに。
 けれど―― あなたは馬鹿です。

 私たちの中に入って来て、絆という糸を紡いで、全てをさらっていったあなた。
 私はあなたのことが―― 龍一さん、あなたのことが好きです。
 自分を犠牲にしてまでみんなを助けてしまうあなたが嫌いだけど、大好きです。
 みんなそう思っているでしょう。
 私も、桜子も、ヤエさんも、みんな……

 そんなお馬鹿さんで真っ直ぐなあなたが大好きなんです…… みんな。
 あなたはもしかしたら…… いや、あなたこそが超自然現象だったのかもしれません。
 私たちの心をさらっていった超自然現象…… それがあなた、龍一さんです。
 でも封印はできません―― なぜなら、私たちはあなたという超自然現象に飲み込まれ、そして私たち自身も超自然現象になってしまったのだから。

 だから―― 責任を取ってください。
 これからも私たちの傍にいてください…… ずっと、ずっと。

「――あら、来客のようね」

 重い沈黙がヤエさんの一言で消え去った。

「お客さん、ですか?」
「誰もいないよ?」

 仕事部屋から窓越しに庭を眺めるけれど、そこには誰もいなかった……

「もう、ヤエさんったらまた冗談?」

 桜子は振り向いて、ヤエさんへぼやく。
 対するヤエさんは優しく微笑んだまま、無言で首を横に振った。

「どういうこと?」
「戻って来られたようね―― お出迎えしてあげましょう?」

 戻ってこられた、お出迎え―― それは。




「嘘だったら絶交だからね!!」

 まるで小学生のような文句を言って、桜子は矢のように部屋を飛び出した。
 口調とは矛盾して、その表情はとても嬉々としていた……

「私の勘って結構当たるのよね――」

 ヤエさんはどこか自信あり気な顔で呟いた。
 それを見届けてから私も桜子が飛び出して行った玄関の方へ向かう。

「何だ…… やっぱり嘘!?」

 玄関扉を開け放ち、立ち尽くす桜子。
 その肩越しに私も様子を伺うけれど、確かに庭には誰もいない。

「――嘘じゃないわよ、ほら」

 そして私の背後からヤエさんの優しい声がやって来る。
 私も桜子も振り返って彼女を見る―― すると、ヤエさんは庭の入り口の方へ向け顎をしゃくった。

「いや、何もないけど―― あっ」
「どうしたの? 桜子」
「ほらね、言ったでしょ?」

 桜子は何かを察知したようだけれど、私は何があったのか分からない……

「お姉、ヤエさん――!」

 未だ何が起こったのか飲み込めない…… そんな私と、それから既に何かを悟ったヤエさんの手を取って、桜子は室内履きのまま私たちを引っ張って外へ出た。

「お姉、何か匂ってこない?」

 匂い――

「いや…… あっ」

 最初は何も感じなかった…… けれど、その時ふと風が吹いて。
 それは冬なのに何故か暖かい風で。
 その風に乗って、仄かな香りが運ばれてきた。

「この匂いは」

 確か……

「この匂いは――」

 それは、あの人が吸っていたタバコの煙の…… その匂いだと思った。





 冬の寒空の下、俺はなだらかな坂道を歩いている。
 厳しい寒さが続く今日この頃であるが、足取りは実に軽快で、気分も同じ。
 仕事を辞めて帰省した半年前辺りとどこか似ているような心境。
 しかしあの時のような心のモヤモヤはもう存在しない。
 今の俺には居場所がある。
 ほんの何週間か離れていただけなのに妙に懐かしく感じる地元。

 俺はなだらかな坂道を上っていく。
 この道を歩いててっぺんまでいけば、そこにはあの洋館がある。
 中学の時に肝試しで来て、怖気づいて引き返した廃墟みたいな洋館。
 仕事を辞めて帰省して、あの頃のリベンジを果たそうと再び突入した洋館。

 そこで出会った一人の女。
 やがて俺はその出会いがきっかけとなり不思議な世界へ足を踏み入れることとなる。
 今となっては全てが懐かしい。
 あの出会いがなければ俺は今頃何をしていただろうか。

 そうやって今までの記憶に浸りながら、俺は坂を上っていく。
 ジリジリと燃焼するタバコをふかしつつ―― 上る。
 いつもなら車に乗って来るはずが、今日は歩いて来た。
 歩いて来たかった…… そんな気分だった。

 なだらかな坂道、なだらかな丘のてっぺんまではもう少し。
 俺はその間心の整理に、心の準備に取り掛かった。

 今までの選択が正しかったか、それは分からない。
 俺の生き方は、選んだ道はこれで良かったのか…… ただ、最悪なケースは回避することができた。
 大切な人を失わずに終わることができた。それで十分だ。

 北の大地での一件、その後俺はしばらくの間対策室本部にお世話になった。
 それは俺の中にあいつが…… 夕月が存在しているか否かの確認のためだった。
 そいつの有無を確認するために今まで儀式のようなものを受けていたのだ。
 お祓い…… よく必勝祈願などでスポーツチームが神社でお祓いを受けているが、あんな感じの儀式を受けていた。

 その結果俺の中にあいつはもう存在しないことが確認されたようなので、俺は晴れて自由の身になったわけだ。





 しかし……

 タバコの火をもみ消して、吸殻を携帯灰皿の中へ収納する。

 あいつが、もう一人の俺がいた証は俺の首筋に小さく刻まれている。
 まるで刺青のように…… ほんの小さな刻印があった。
 ボスや本部の人たちは「特に問題ないだろう」と言っていたので心配はない。
 そうして俺は解放されてここへ戻って来た。

 あいつはもしかすると…… いや、あいつは俺たちの負の感情を背負わされて生まれた世界だ。
 負の感情そのものになってしまった。
 俺はあいつに希望を与えられただろうか、表の世界に還すことができただろうか。
 分からないが…… お前は、もう一人の俺は空からこの世界を見ていてくれ。
 俺一人で何ができるわけでもないが、俺は大切な人とこれからも大切な日々を過ごしていく。
 そうすることによって、少しずつでもこの世界を変えられるかもしれない。お前のような悲劇を繰り返さずに済むかもしれない。

 人間とは実にちっぽけな生き物であるが、しかし世界は変わっていく…… 俺たちはたとえほんの少しでも周りの世界を変えている。
 だから悲劇という名の超自然現象を誕生させぬように、俺たちはそうやって少しずつ世界を変えていこう――

 難しいことはこれで終わり。
 夕月や雪子の問題は解決した。一件落着だ。
 後は本部の人間が対策を講じていくことだろう。榊右近のその後についても聞いている……
 ともかく、もう終わったんだ。
 俺はただの使用人、手伝い―― だったわけだが、ボスから正式に対策室の人員に登用する旨を深い謝罪と共に伝えられた。
 それはこの上ないほどの僥倖であったが、俺は断った…… 今はまだ考えを整理したいので時間が欲しいという言葉を添えて。

 全ては終わった。
 そしてまたここから始まる…… 俺たちの日常が。
 止まっていた時間は動き出す。

 坂道を上りきる。
 見慣れた庭の風景が徐々に大きくなっていく。
 見慣れたはずなのに、しかしどこか懐かしくも感じた。

 ただいま。

 心中で呟く。
 今、俺は戻ってきた―― 丘のてっぺんにある洋館へ、俺の居場所へ。





「りゅーいち!!」

 すると、洋館を見上げる俺の胸元へ飛び込んでくるやつが一人。

「ごめんな―― 心配かけた」
「馬鹿…… 龍一の馬鹿!!」
「そうだな、俺は馬鹿だ…… ただいま、桜子」

 そして、もう一つ優しい衝撃が加わる。

「龍一さん!」
「雪子も、ただいま」
「本当に良かった…… おかえりなさい、龍一さん」

 想いが溢れて、俺の体を優しく包む。
 更にそこへもう一人。

「おかえりなさい、龍一様」
「ヤエも、本当にありがとう」

 三人の優しさに包まれて…… 俺はちっとも寒くない。
 桜子は子供みたいに泣いているし、雪子ももらい泣きしているし…… ヤエも泣いている。
 もう何がなんだか分からずに、俺も嬉しくて泣いた。
 ただただ泣いた…… 泣いているのに笑って。笑いながら泣いて。

 俺は生きている。
 その事実だけで嬉しかった。
 今ならこう言える―― 俺の人生は、俺の選択はこれで良かった。
 何がしたかったか、何をしたいのか…… その問題とはこれからも向き合っていくことになるだろう。
 だけど、俺はこれでよかったんだ。

 人や現象という存在の想いに触れて、俺は今ようやく自分の存在を認めることができた。
 長かったようで短かった。
 これでいい…… ここからまた歩いて行こう。

 泣き声は次第に笑い声へ変わる。
 泣き顔はゆっくりと微笑みへ変わる。
 俺たちはきつく体を寄せ合う。

 きっとこの世界に初めて生まれたものは「想い」であった。
 その想いは超自然的な力へ変貌を遂げ、やがて人間という存在を創る。
 そうして人間の中にも想いは宿り、それは現象という存在も生み出した。
 俺たちは皆、想いから生まれた。
 そんな俺たち全てがきっと、超自然現象なのだろう。





 超自然現象対策室、その支部である咲夜家の使用人、神山龍一の朝は早い。
 季節は巡って春になった。
 俺は大切な日常を、大切な人たちと共に生きる。

「桜子、弁当忘れてるぞ!」
「あ―― ありがと!」
「今日から新学期か? 頑張れよ、受験生」
「ありがと龍一、行ってきます」
「おう、行ってこい」

 春のとある一日、高校三年になった桜子を送り出す。
 庭へ続く坂道の両側、林の中に生えた桜の木はその花びらを満開に咲かせ、風に煽られては雪のように舞い落ちる。
 そんな幻想的な風景の中、桜子は自転車を漕いで坂道を下って行く。
 名前にあるように、この花や風景は彼女にピッタリだと、そのもののように感じた。

 そして――

「ジャーン! どう? 似合う?」
「ああ、似合ってるぞ―― 夕月」

 桜子を送り出して、さっそく自分の仕事に取り掛かったとき。

「作業着にピッタリだと思って買ってきたんだ」
「俺もユニフォーム的な意味で買ってきた方がいいのか……?」
「執事服みたいなの龍一に似合うと思う! いいと思うよ!」

 白と黒のエプロンドレスを身に纏い、金髪で灰色の瞳をした女が目の前にいた。

「二階の掃除、廊下は終わったよ!」
「お、すっかり板に付いてきたな。ありがとう」
「次はどうする?」
「それじゃ分担して各空き部屋の掃除からいくか」
「りょーかい!」

 彼女は名を夕月という。
 現象と同じ名を付けられた彼女は、彼女を取り巻く問題が解決して、その後この家で俺と同じように手伝いをするようになった。
 自由の身となった夕月。彼女がやりたいことを見つけるまでここに居させてあげるのはどうか―― そんな提案を俺は周囲に持ちかけたところ、「さすがお人好しの馬鹿」という褒め言葉(主に桜子から)を貰いつつ全員が、そして本部も許可してくれたので、そうして俺は夕月を迎えに行った。
 夕月もそうしたい、そうさせて欲しいと言ってくれたので色々あって現在はこうなっている。

 夕月がここへ来た当初はああだこうだと慌しかったけれど、今ではすっかり雪子に桜子、それにヤエとも仲良くなって俺たちの中へ溶け込んだ。
 自由の身となっても行き場があるかは分からない。だから居場所を見つけるまで力になりたい―― そんな想いに駆られて、押し付けがましくお節介な行動かもしれないけど、俺はそうしたのだった。

 夕月は自分のせいで俺たちに迷惑をかけてしまったと、そうやって何度も謝罪し塞ぎ込んでいたが…… もう全て解決したことだし、お前のせいではないと全員に励まされて元気を取り戻した。
 何より夕月のおかげで俺は自分の仕事の負担が減ったし、他の手伝いに注力できるのでとても助かっている。
 彼女も前向きに日々を過ごし、大切な存在が一人増えてとても賑やかな毎日となっている。




 さらに、さらに――

「りゅーいちさまー! 愛しのヤエが来ましたよー」
「おい…… 仕事の邪魔だ、帰れ」

 正午へと向かう時間の中、来客が一人。
 それは巫女服姿の化狸(ヒト科狸系女子)だった。

「お前、バイトはどうした?」
「抜け出してきちゃった!」
「宮司さんに通報しとくわ」
「いやーん、やめて!」

 ヤエが普段どこで何をして過ごしているか…… それは謎に包まれていた。
 しかしある日に本人へ尋ねたところ、「アルバイトをしている」としれっと答えたのである。
 しかもどんな伝手を得てそうなったのか、バイトの場所は彼女が封印されていたあの下坂神社だった。
 そこでヤエはバイト…… いや、巫女として宮司の手伝いをしているとか。
 加えてヤエは駅周辺のとあるアパートの部屋を借りて住んでいるらしい…… もう人間と何一つ変わりないな、それ。

 人間の生活が面白そうだから、などと彼女は言っていたが……

「――というのは嘘よ、龍一様」
「何だ…… それでどうした?」
「お客様を案内しに来たわ」
「お客様?」





 ヤエがそう言うと、洋館の玄関扉が勢い良く開かれる。

「来たよ!」
「――ゲッ」

 ゲッ…… なんて言葉にする日がこようとは。
 ヤエの後ろから続々と入ってくるおばあちゃんズとおじいちゃんズ。

「これは……?」
「畑で採れたタマネギじゃ、食ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
「――龍一さん? お客さんですか?」
「あらーいつ見ても雪子ちゃんは綺麗だわねー」
「うちのせがれんとこさ嫁いでくんねーか!?」
「あ、あのー、それは……」
「はいはい、皆さんお茶出しますから食堂へ行ってください、ほら――」

 そう、今やこの対策室支部には様々な者が訪れるようになった。
 何がきっかけだったか…… それはもう思い出せないが、一人また一人と田舎ネットワークによって伝えられた結果、こうなってしまった次第である。
 人間も、そうでない者も―― この洋館には多くの者が訪れるようになった。

「龍一、ちょっと畑さ人手たんねーから明日来てくんねーか?」
「いや、あの…… 分かった行くよ…… フミオじいさん」

 どうしてこうなった―― 俺は田舎ライフに付き合うつもりはないぞ。

 超自然現象対策室なのに、都合のいい便利屋になっているまである。
 ひっそりとして不気味な洋館には、どういうわけか多くの者の声が溢れていた。
 誰が連れてきたか…… 時に笑い、時に泣き、皆で共有する時間。

 一人と出会い、そしてまた一人…… そうやって繋がって人の輪は大きくなっていく。
 やがて皆の想いは合わさって、形となって世界は変わる。

「龍一、まだ嫁さもらわねぇのか?」
「大きなお世話だ」
「もしや雪子ちゃんさ狙ってるのけ?」
「りゅ、龍一さん!?」
「ちげぇ! 黙れバ○ア!」
「おー怖い怖い、これだから今の若者は…… それじゃ桜子ちゃんか?」
「違う! それにあいつは高校生だ!」
「それとも、金髪ナイスバデーのゆうちゃんか?」
「龍一…… そうなの?」
「黙れ変態ジ○イ!」
「あーら、龍一様はこの私と――」
「仕事の邪魔だ! お前ら帰れっ!!」

 世界は変わる…… こんな風に。

 世界は残酷だが、嫌なことばかりじゃないはずだ。
 こうやって繋がっていけば…… 想いで満たされていけばきっとこの世界は、俺たちの世界は優しいものになるはずだ。
 ただの甘い考え、希望的観測に過ぎないだろう。けれどそれは一つの真実でもある。

 人間の一生なんてあっという間だ。
 俺たちは大人になって、老けて死んでゆく。
 しかしこの繋がりがあれば、俺たちは世界から消えても誰かの中で想いとなって生き続ける。永遠に。
 だから怖くない…… 人と違っていてもいい、誰かと比べる必要などない。
 時に躓き、転び、笑われても…… 自分の道を行けばいい。
 道を探して生きるのもいい。

 過ぎ去る季節の中で、俺はそんな結論に達した。
 俺は俺だ。
 俺には俺の世界がある。他人には他人の世界がある。
 だから、これでよかった。

 俺の人生はこれでいい――





「龍一、一つ聞いていい?」
「どうした、桜子」

 今日も一日は終わりへと向かう。
 なんだか最近、対策室への依頼もあるにはあるのだが…… それにも増して対策室とは関係ない厄介ごとを持ちかけられる方が多い気がする。

「その六缶パックのビールは何?」
「あー、それな…… ヤエが花見でもしないかって言ってきたからさ」

 そして仕事終わり、その夜に。

「ヤエさんのせいにしたけど、あんたも随分楽しもうとしてるじゃない」
「いやー…… バレた?」
「酔っ払って変なことしたらどうなるかわかってるでしょうね?」
「――はい、合点承知です」

 ヤエの一言により洋館の二階、そのバルコニーで花見と称した宴をすることとなった。
 やがて仕事が終わり、早速買出しに行って…… そこからまた戻って来ると、学校から帰って来た桜子に呼び止められる。

「龍一様、料理の準備ができたわよ!」
「私も作ったよー!」
「皆さん揃ったようですし、始めますか?」

 桜子に釘を刺されていると、ヤエ、夕月、雪子の順にぞろぞろと姿を現す。

「まったく…… お姉にもあんまり飲ませちゃだめだからね?」
「イエス、ユアマジェスティ」

 ぶつくさ不満を垂れる桜子も、そう言いながらどこか喜びを隠しきれない様子だ。

「それじゃー始めますか!」

 そして俺の言葉を皮切りにささやかな宴は始まった。





「あの…… 龍一さん」

 春の夜、二階のバルコニー…… 花見とは謳っているものの、ライトアップしているわけでもないので桜の姿を明瞭に捉えることはできない。
 しかしささやかな宴は盛り上がって、俺はトイレで一度席を外していたところだった。

 再びバルコニーへ向かっていた時に、雪子から声を掛けられる。
 バルコニーに面した絢爛な洋室、そこに彼女は一人立っていた。
 白のブラウスを腕まくりして、下は膝丈で紺色のプリーツスカート。清楚かつ爽やかな姿。
 流れる銀髪は照明を受けて妖艶な輝きを放ち、どこか物憂げな淡い朱色の瞳は俺をそっと見据えていた。
 すっと伸びる手足、背丈。新雪のように白く儚い肌、魅惑的な体つき…… 神話を描いた西洋画のように幻想的な一光景。

 開け放たれた窓の外には桜子、ヤエ、夕月がいて。
 三人の賑やかな声がBGMとなり洋室へ届けられる。
 そんな三人を遠巻きで眺めるような位置に俺と雪子は立っていた。

「あの――」

 雪子に呼び止められたので目前まで歩み寄ってみたものの、彼女は何か言い淀んで綺麗な目を伏せる。心なしか頬が紅潮しているようにも見えた気がした。

「どうした?」
「あの……!」

 何か覚悟を決めたようにハッと顔を上げる雪子。
 大きく見開かれた淡い朱色の双眸はらんらんと輝いて俺の心を引き寄せる。
 その瞳に捕えられた俺は息をするのも忘れるほどで、何かを訴える彼女の瞳をジッと見つめ返す。
 そんな状態で、なんだかこちらまで鼓動が早鐘を打ち始めた……

「あの…… 実は私」

 実は私―― そこで一旦飲み込む雪子。
 その先は一体…… 脈打つ鼓動が内で鳴り響く。
 いや、もしかしたら彼女にも聞こえているかもしれない…… この鼓動が。

「私、実は……!」

 彼女の一挙一動、何もかもを見逃すまいと意識はそちらへ全て注がれている。
 思考は止まった状態で、何も考えずにただそれだけに集中していた。
 雪子の唇が微かに震えたのを捉える…… 振動は音となり声となって遂に放出された。

「新しい話を書いたんです!」





 ようやくのところでそう言い切った雪子は、後ろで組んでいた手をこちらへ差し出す。

「これは?」

 差し出された彼女の両手には、紐で綴じられたA4用紙の束があった。
 それは傍から見ても100ページ以上は優に超えているような量があって、受け取ってみると確かな重みを感じた。

「以前お話したことがあったかと思いますが――」

 その前置きの言葉である瞬間が脳裏をよぎる。

「これは…… ああ、もしかして完成したのか!?」
「はいっ!」

 俺の言葉に雪子は満面の笑みで返した。
 雪子は趣味で執筆活動もしていて、以前から書き進めていた話が完結したようだ。
 白地には彼女の言葉がギッシリと詰め込まれていて、それは適度な間隔を保ってずっと続いていた。

「完成したら読みたいとおっしゃっていたので…… もしよろしければ、少しだけでも読んで下されば幸いです」

 少し控え気味に、頬をやや上気させて……
 両手に感じる確かな重み。
 それは単に物量からくるものだけではなく―― もちろんそれもあるが、その他にも見えない何かが詰まったような重さにも感じられた。
 見えない何か……

「つまらないものだったらすみません…… ほんの少しだけでもいいので……」

 それはきっと、雪子の「想い」。

「いや―― 完成したら読ませてくれって言ったのは俺だし、興味あるし、是非読ませてくれ」
「――本当ですか!?」

 雪子の表情は驚愕から喜びへ。

 ああ…… この顔だ。
 俺はこんな表情を見せてくれる彼女のことが――
 それに、彼女の想いが詰まったこの話は絶対に面白いだろう。

「後でじっくり読んでもいいか?」
「はい、もちろん! ありがとうございます!」
「こちらこそ…… でも、やっぱり気になるから最初だけざっと簡単に読んでみるわ」

 酒もあることだしな。
 雰囲気に浸りながら酒を飲むのも一興だろう。
 さっそく三人の輪の中から俺の酒をさらってきて、洋室のソファーに腰掛ける。
 女三人寄れば…… とはよく言ったもので、俺が抜けても三人はあれやこれやとお祭り騒ぎのようなので問題ないだろう。



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