八幡「贈り物には想いを込めて」 (111)

・俺ガイルSS
・地の文有り
・キャラの心情に関しては自分なりに解釈しているところがあります

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まだ薄暗い部屋の中で目が覚めた。
脚だけが熱を帯びているようなじわりとした倦怠感がある。。
擦りむいた傷口の違和感と筋肉の張りはまだ残り、疲れが取れていないことを知らせていた。

布団の中で暫くウダウダしていたが、起床時間が迫ってきたので仕方なしに重たい身体を起こす。

月末のマラソン大会から3日が経過し、カレンダーは1枚めくられ2月になっていた。
大会翌日の筋肉痛はぐわあああああああーーーーーッ!と某獣王ばりの叫びをあげたいレベルだったが今は多少落ち着いている。
クロコダインさん馬鹿にすんなよ?獣王激烈掌カッコいいだろうが。
どうでもいいが、色ピンクなのな。勝手に緑だと思い込んでたぜ。

家を出て自転車に跨り走りだす。

天気予報では特に気温が低いとは言っていなかったが、風が強いためか体感気温はぐっと寒く感じた。

マフラーと顎のわずかな隙間に寒風が入り込みブルッと体を震わせてしまう。ああ寒い。千葉の冬って雪とかほとんど降らないくせに本当に寒い。
千葉以外の土地で冬を過ごしたことがないので、あまり比較はできないが。
なんなら一生千葉から出たくない。もっと言ってしまえば働きたくない。

少しだけマフラーをキツく巻きなおし、いつもの道を走らせた。

そそくさといつも通り教室に入り、そっと椅子を引いて腰掛け、自分の机に腕を枕にして突っ伏す。
あー学校来た途端に帰りたくなるぐらいダルイなー、もうダメだ。一歩も動きたくない。

朝から自堕落な念にかられていると、ふと左側に気配を感じた。
おもむろに顔を上げると、そこには天使がいらっしゃった。

「おはよう! 八幡!」

「おはよう戸塚。今日も可愛いぞ」

相変らず学校指定のジャージに身を包んだ天使もとい戸塚と挨拶を交わす。
というか戸塚の制服姿って見たことないな……。思わずスカートの方を想像してしまう

俺は悪くないよね?悪くないよね?でも男子の制服でもものすごい美男子っぷりを発揮しそうだから一度は見てみたい。

「か、かわいいって……ぼく男の子なんだけどな……」

「はは、悪い悪い」

まあ本心なんですけどね。あぁ~ほんと癒されるわ。
少しばかり呆けていると、こちらをきょとんとした表情で戸塚が見つめているのに
気が付いた。その顔もいいな。写真撮って家に飾りたいレベル。

「どうした?」

「いや、何となくだけど八幡疲れてる?」

「ああ、まあちょっとマラソンの疲れがあるな。これでも楽にはなったけど」

眉尻が下がった、本当に心配そうな表情で尋ねられた。こんなん惚れてまうやろ~。
戸塚だって同じ距離を走っているのにまったく疲労の色は感じない。
今日だって朝練をこなしているはずだし、なんだかんだ言っても運動部の部長なんだなと感心してしまう。

「そっかぁ。八幡頑張ってたもんね。疲れてるときは無理しちゃダメだよ。ちゃんと
身体のケアはしてね」

「おう。戸塚も……なんていうか、ありがとな。感謝してる」

「あはは。いいって、友達、でしょ?」

俺にしては珍しく素直な返答が出来たと思う。
しかしまあ、戸塚の少し上気した頬でこちらを窺うような調子は一瞬ドキリとさせられる。
本当に間違っちゃいそう……。いかんいかん戸塚は男、戸塚は男。

「ああ、そうだな……」

「うん!あ、チャイム鳴ったからまたあとでね!」

ちょっと恥ずかしくて思わず素っ気なく答えてしまった。
友達、友達か。
思わず顔の表情が緩む。
ニヤついていつもの気持ち悪い表情(自覚あり)になってそうだったから、改めて机に突っ伏して誤魔化した。
よーし、今日はちょっとだけ頑張れる気がしてきたぞー。

―――――
―――
――

そんな朝の出来事でちょっとだけ元気をもらったわけだが、授業をこなすにつれてパワー切れを起こす我が肉体である。
結局授業ではほとんどの内容を聞き流し、午後の数学は完全に寝て過ごして放課後となった。

本日も社畜よろしく、決まった場所に決まったルートで決まった時間通りに向かう。
もはや身体に染みついてしまった事に今更驚くことなど何もない。

放課後の解放感からかやたらとテンションの高いクラスメイトたちを尻目に、静かにコートを羽織り、マフラーをやや適当に巻いて
鞄をいつものように背負い教室前方の出口へ進む。
出るときに左目でちらと教室の後方、リア充たちの巣窟を見やると、三浦達と談笑しながら身支度をする由比ヶ浜と目が合った。

目が「ちょっと待ってて」と訴えかけているような、そんな気がしたので教室を出たところのいつもの定位置で壁に背を預けて待つ。

壁に体重を預けるとコートを着ていてもヒヤリとした温度が伝わってくる。
いや、むしろ逆だったか。物体に体温を吸収されるから、ヒヤリと感じるらしい。

金属を触って冷たく感じるのは熱伝導率が高いから熱を吸収しやすいとか何とか……。

理系じゃないから詳しくはわからないが、小学校くらいの時に聞いてへー、と感心した記憶がある。

ものの1分ほどでガラリと扉が開けられ、きょろきょろと周りを見ながらパタパタとした
足取りで教室から由比ヶ浜が出てきた。

待っていたこちらと目が合うと、花が咲いたような笑顔でこちらに近づいてくる。

「ごめんね~ヒッキー、待たせちゃって」

「いや、まあ気にすんな。俺が勝手にここにいただけだし」

少しだけ目を見開いたあとにクスリと、微笑ましいものを見るような目で見つめられると
何となく居心地が悪く、思わず少しばかり身を捩った。誤魔化すように悪態をつく。

「何かしら由比ヶ浜さん。あなたのその顔、ちょっとムカつくわ」

「ムカつくってなんだし! てかゆきのんの真似うまくて反応に困るし!」

「はいはい。……行くか」

やや決まりの悪くなってしまった顔を見られないように、そっぽを向いて特別塔の部室へと足を向けた。

ちょっと待ってよーと慌てた様子で後ろから由比ヶ浜が追いついてきて、並んで歩きだす。
俺よりもいくぶん小柄な彼女に歩調を合わせていると、ひとりで歩いているよりも随分とのんびりしたペースに感じた。

「今日は依頼くるかな?」

右隣を歩く彼女がこちらを少し覗きこむように、身長差のせいもあり上目遣い気味に話しかけてくる。

「さあな。来ない方がいいんじゃねえの?」

「え~、なんで?」

ぶーと口をとがらせて、先ほどと同様にこちらを見上げる。
歩調に合わせてリズミカルに髪が揺れ、覗きこんだときにさらりと流れた。

実際依頼なんてない方が良いはずなのだ。それだけ悩みを抱える生徒がいないとも言える。
しかし、依頼がない=悩みを持つ生徒もいない、という単純な等式は成り立たない。

人に言えない悩みだってある。相談するとしても、相談相手を選ばなければいけないような悩みもあるだろう。
少なくとも俺なら、知らんやつに何かを相談する気にはならない。

それに、奉仕部は大々的に活動をアピールしている部ではない。
あくまで平塚先生からの紹介などで、依頼者が訪問する場合がほとんどだ。ゆえに自発的に部室を尋ねてくる生徒はほぼいない。
……窓際族ってこんな気分なのだろうか?

「そうだな……依頼がない方が早く帰れるし、何より俺が楽できる」

「なるほど……って理由がすっごく自分勝手だ!?」


1秒でも早く帰りたいに決まってんだろ。今日は特に疲れてるしな。

由比ヶ浜が振ってくる他愛もない話に適当に答えつつ歩を進める。

由比ヶ浜主導で話は進み、それに俺が答えるスタイルは変わらない。

目的の場所が近づいてきた。西日に照らされ、やや紅色に光を反射した特別塔の廊下を進み、部室の扉を開ける。

がらりと抵抗なく開かれた扉の先には、いつもと変わらぬ様子の部室の主が背筋良く、椅子に足を揃えて文庫本を手にして待っていた。

「こんにちは」

「うす」

雪ノ下と短い挨拶を交わし定位置の、彼女の対角線上に置かれた椅子に腰かける。

「やっはろー! ゆきの~ん会いたかったよ~」

「こんにちは、由比ヶ浜さん」

優しげな微笑みを向ける雪ノ下に、嬉しそうにじゃれつく。
元気な足取りで椅子をガタっと引き寄せ、雪ノ下の方へ距離を詰めてえへへーと笑いかけている。

「由比ヶ浜さん……ちょっと近いわ」

「えーこれくらい普通だよ? ダメ?」

「もう……」

仕方ない子ねと、わがままだけど可愛い我が子を見る母親のような、そんな慈愛に満ちた瞳にも見える。


雪ノ下は少し変わった。外見的変化ではなく、内面的なものなのでわかりづらいが、端的に言えば雰囲気が柔らかくなった。

以前から持ち合わせていた凛とした佇まいも健在ではあるが、この空間では暖かい雰囲気が前面に出ているように感じる。

つーか、ゆるゆりしてるところ悪いが俺もいるんだけど。

完全においてけぼりにされているが、よく考えずともいつも通りのことなので
俺もいつものように鞄から文庫本を取り出し挟んでいた栞を抜く。

えーどんな展開だったかなと思い出そうとしたところで、対角線上に座る雪ノ下からの視線を感じた。

首だけをそちらに向けると、何か言いたげに、所在なさそうな様子でこちらをじっと見ている。
こいつがこういう、もじもじした様子ってあんまり見ないな……。

不覚にもちょっとカワイイとか思っちゃったよ。これがまさかギャップ萌えってやつか。本人には絶対に言わないよ?
言ったら何されるかわからんし怖いし。

「……なに。どしたの?」

はっ、と一瞬だけ目が見開かれた。少し視線を外して、ぽそっと呟く。

「いえ、大したことではないのだけれど……怪我はもう大丈夫なの?」

瞬間的に、保健室でマラソン大会で出来てしまったキズの治療中の出来事を思い出してしまう。

至近距離で、お互い触れそうな距離で見つめ合った、2人だけの空間。
気恥かしくて、視線をやや右上の方に逸らしてしまった。

「あー筋肉痛はあるけど、だいぶ良くなったな。擦過傷が風呂に入った時に少し痛むくらいだ」

あかん。雪ノ下の方を直視できない。努めて何にもないように、平静を装って答える。

雪ノ下は胸を撫で下ろしたような、そんな安心したような表情を見せながらも俺にちくりと一言攻撃、もとい口撃してくるのは忘れない。


「そう、それは良かった。やはり再生能力が高いのね」

「おい、それどういう事? 暗に俺がゾンビみたいって言ってるの?」

「いつもそう言っているじゃない?」


きょとんと小首を傾げて笑いかけるな勘違いしちゃうだろうが。

話の内容的には色気も何もあったもんじゃないんですがね。何となくいつもの調子が戻ってきたように思う。

横で見ている由比ヶ浜は「むーなんか良いふいんき」とか言ってるし。

「由比ヶ浜。どうでも良いけどふいんきじゃなくて、ふんいきな。ふ・ん・い・き」

「へっ?あっべ、べつに間違ったわけじゃないし! それに意味は通じてるからオッケーだもん!」

「由比ヶ浜さん。正しい日本語を覚えましょう?」

「ゆ、ゆきのんまで……うー」

悔しそうに、唸りながら身を小さく捩っている姿を見ると本当に犬のように見えてくる。
というかこいつ、ほんとよく総武高に合格できたな……。

「そ、そういえばもう少しでバレンタインだね!」

自らに不利な旗色になっていたのを打開しようとしたのか、由比ヶ浜のやや上ずり気味な元気な声が室内に響いた。

バレンタイン。
2月14日に女性が親愛の情をこめて男性にチョコレートを贈る、というのが一般的だろうか。
現在は義理チョコ、友チョコなどと範囲は広がり、今では男性から女性に贈る逆チョコなんてものもあるらしい。

日本国内の年間のチョコ消費量の2割がバレンタイン近辺に集中することから、各製菓会社が義理チョコや友チョコ、逆チョコといった
新概念を頑張って考えているとか。飽きられたら終わりだからなーこういうのって。必死に考えもするのだろう。

しかしまあ、露骨に話変えてきたな。

たしかに毎年この季節になるとウザいぐらいに各社チョコ関連のCMばっかだし、スーパーやコンビニに行けば
店内に入って一番目に付く場所にバレンタインフェアとかでコーナーが出来ていたりするものだ。
避けようとしても嫌でも目に飛び込んでくる。

男子たちは無駄に浮足立っているし、女子たちは年1回のイベントにこれまた色めき立つ。
ほんと高校生とか大学生ってそういうイベントごとが好きだよな。というか日本自体にそういうところがあると思う。

俺にとっては365日のうちの1日にすぎん。べ、別に強がってなんかないし!

リア充グループに属する由比ヶ浜のことだから、そういう流行りものの話を振ってくる気持ちはよく分かる。

「ああ、そうだな」

「ええ、そうね」

「反応薄すぎ!? もうちょっと話広げようよ!」

とは言ってもだな……。俺も雪ノ下も多弁な方ではないから、基本的に話を振られて会話をするタイプだ。
それに加えて話題はバレンタイン。そんなリア充イベントに縁があると思うか?いや、ない!(反語)

その事に関しては雪ノ下も同様だろう。彼女の優れた容姿に魅せられた異性から好意を寄せられはしても
雪ノ下が誰かに好意を寄せるところはまったく想像ができない。

特にバレンタインやクリスマスのような異性に好意をアピール(笑)するようなイベントには縁遠そうに思える。
そういう意味では将来的にひらつ化しそうだよな。おっとこれ以上は止めておこう。

「バレンタイン。起源は諸説あるけれど、ローマ皇帝の迫害で殉教した聖ヴァレンティヌス司祭に由来するキリスト教の記念日とされているわね。
日本では女性から男性へ親愛の情を込めてチョコレートを贈るというのが一般的だけれども、キリスト教圏では特にそういった文化は一般的ではなく、
日本の独自文化であるとも言われているわ」

淡々とした調子でバレンタインうんちくを読み上げる雪ノ下さんであった。
俺も海外ではチョコを贈る文化はないってことは知っていたが、起源まですらすら出てくるあたりは流石の博学さである。

「さすがユキぺディアさんだな」
「ほえーそうなんだ……。やっぱゆきのん物知りだねー」

俺の感想に続いて、由比ヶ浜も感想を述べた。

「そうでもないわ。この程度なら一般常識の範疇よ。あと比企谷くんはその不愉快な呼び方をやめなさい、通報するわよ?」

「俺にだけ当たり強くない? 泣くよ? 泣いちゃうよ?」

「あはは……ドンマイだよヒッキー」

泣きそうになる俺を由比ヶ浜が励ましてくれる。雪ノ下はふふんと楽しそうな様子だ。
俺をいじめてる時だけウキウキしているのは気のせいでしょうか?

今度は何か思いついたのか、由比ヶ浜が雪ノ下に声を掛けた。

「ゆきのんは毎年バレンタインは誰かにプレゼントとかするの?」

「そうね……昔は家族にしていたけれど、最近は特にないわ。毎年クラスメイトの女子からいただいてばかりね」

「女の子から貰うんだー。ゆきのんモテモテだね! あたしもチョコあげるからね!」

ふんふんと感心した様子を見せたと思ったら今度はにこぱーとした表情に変わる。
ころころ変わる表情は見ていると退屈しない。しかし由比ヶ浜のチョコか……。

「そういうわけではないけれど……。あと由比ヶ浜さん、チョコを作るのなら絶対に味見をしてね?もしくは既製品でもかまわないわ」

「んー、なんか馬鹿にされてる?」

「気のせいではないかしら」

されてるな。主に料理の腕に関して。
手作りチョコ(笑)なんて言ったって、やってることはチョコを溶かして冷やして固めるだけだし、何も難しいことはないと思うんだが。

料理下手なやつはオリジナリティを出そうとして、無駄なアレンジをレシピに加えていることが大半だ。
レシピも忠実に再現できないで何がアレンジか。隠し切れない隠し味は止めて欲しい。

以前作っていたクッキーよりチョコづくりの方が遥かに難易度が低いとはいえ、何をするかは想像できる。

ベタなところで言うと湯煎とかいってお湯にチョコ溶かしてそう。間違いない。

「今年は……誰かにあげるの?」

由比ヶ浜が少しおずおずした、様子を窺うような調子で尋ねる。
相手の出方をみるような、自信のない事柄に対する確認作業のような、そんな口ぶりに聞こえた。

「今年は、そうね……少し、考えているわ」

煮え切らない返事をした雪ノ下の方へ顔を向けると、何故かちょうどこちらを見た雪ノ下と視線が交差する。
交差したと思ったらプイッと逸らされた。
なんでちょっと顔が赤いんだよ……。

「あ、じゃああたしチョコ作って来るから交換しようね!」
「ええ、構わないわ。ただ先ほども言ったように味見をしっかりね?」

「まったく信頼されてない!?」

ショックを受けてうー、とかヒドイ、とかぶつぶつ呟く由比ヶ浜に、くすくすと楽しそうに笑う雪ノ下。仲良いですね本当。

「そうだ! ヒッキーは去年はいくつチョコ貰ったの?」

え、何か副音声で「まさか貰ってるわけないよね?」っていうのが透けて見えるんだけど。

しかし、黙っていればこの話題から逃れられると思ったがそんなに甘くはなかった。
下手に誤魔化した方が後々面倒くさそうなので、ここは正直に答えておくのが得策だろう。

「ひとつだな」

「え、ウソ! もらったの!? 誰に!?」

答えた瞬間由比ヶ浜は驚愕の表情を浮かべ、その向こうの雪ノ下の肩がピクリと跳ねた後に
胡乱げな瞳でこちらを見つめてくる。
その反応は非常に失礼だと思うのですが、何、俺が間違ってるの?

「小町からもらったぞ。愛がたっぷり詰まったやつな」

口の端をにやりと歪ませた気味の悪い表情で答える。
自覚があるのは良いことだと思います。うん。俺は悪くない。こんな話をするこいつが悪い。

「あなたの事だからそんな事だとは思っていたけれど……その表情は止めなさい。
見ていて心臓に悪いから」

ふっと嘲るようなニュアンスで馬鹿にされた上に、遠まわしにキモい死ねって言われちゃったよ……八幡悲しい。

てか心臓に悪いってなんだよ。嫌なら見るな!嫌なら見るな!


「あ~小町ちゃんね。それ以外にはなかったの?」

「まだこの話題続くの? さっきから俺の精神ゴリゴリ削られてるんだけど」

「だ、だって……。気になるんだもん……」


何でそんなウルウルしてるんだよ……はぁ仕方ない。ここは俺の持つ108のトラウマ話の1つをしてやろう。

「去年は小町の1個だけだ。中学の時は同級生に貰ったことあるが」

「その話! 詳しく聞きたいな!」

こちらに少し身をよじってガタっと椅子から身を乗り出すように近づいてきて覗き込んでくる。
動いた拍子だろうか。グッと距離が近づいたこともあり、いつも好んでつけているであろう柑橘系の爽やかな匂いが鼻孔に伝わる。

ちょっとさっきからこの子の気合の入り様は何なの?てか近いんだけど。パーソナルスペースが狭いのかしらん?

「まぁよくある話だ。中学の時にバレンタインデーの放課後、誰もいない教室に呼び出されたんだよ。
そこでクラスメイトの女子からチョコを貰ったってだけだ」

「ほえー……。そこで告白されたとか?」

ジトッとした目つきで見つめてくる。何だよ俺にそういうイベントがあっちゃダメなのかよ?

まあ、そういうイベントが俺にあると素直に思っちゃう時点で八幡検定、略して八検5級以下だな。ふっ雑魚め。

「いや、俺に渡した直後に引きつった顔で教室を出ていってな。外で待ってた他の女子に慰められてたよ。
良く頑張ったねー辛かったねーってな。そいつはその後号泣してたな」

「ヒッキー……それは……」
「あなた……それは自慢げに話すことではないでしょうに」

呆れたような声が重なった。

由比ヶ浜は先ほど詰めた距離以上にガタっと椅子を引いて、うわーという顔。
雪ノ下は頭痛をこらえるように、こめかみに手を当てている。

貰った時はちょっとじゃなく勘違いして浮かれたが、冷静になると、いや冷静にならずともただの罰ゲームです。本当にありがとうございました。

てか泣いちゃうほど辛いのかよ俺とのふたりきりの空間って?
そんな罰ゲームを強要する女子のほうがよっぽどヒドイと思うんだけど?

あぁまた過去のトラウマを自分でえぐりにいってしまった。
何やってるんだろうね俺は。思わず乾いた笑みが口から洩れる。

でも、自虐ネタとして話せるくらいには、もうあの頃の事は気にしていないのだろう。
こうやってひとつ、またひとつと忘れていくのだろうか。

無為に過ごす間にも現在は過去へと押し流されている。そして、押し流された現在は記憶としてプールされる。
蓄積された記憶をどうするかは果たして自分次第だろう。

思い出す事なく底に沈むものもあれば、ふいにフラッシュバックする嫌な思い出も、そして忘れたくない思い出も、決めるのはいつだって自分だ。

今この時が全てじゃない。

曰く、世界はどこかで帳尻が合うようにできているらしい。
けれども、今にしかないものもあると、その人は言った。まったくもってその通りだ。

願わくばこの時間を、この優しい空間を忘れたくないと思った。この今という時を。
そう、ただ願った。

―――――
―――
――

「今日はここまでにしましょうか」

いつもどおりに雪ノ下の合図で部活は終わりの時を迎えた。

バレンタインの話のあとは雪ノ下の淹れてくれた紅茶を嗜み、いつも通り読書をして活動時間のほとんどを過ごした。

んー本日の業務は終了っと。よく頑張りました。何もしてないけど。
立ちあがって両手を天に突くように伸びをする。猫背に丸まっていた背中を伸ばすとポキッという軽い音がした。

3人がめいめい身支度を整えると部室を後にする。
部屋の電気を消して、廊下に出ると静けさと外の暗さも相まってよけいに寒々しく感じた。

「では私は鍵を返却して来るわ」

「あ、一緒に行くよ」

由比ヶ浜が雪ノ下にじゃれつきつつ言う。ほんと仲良いですね。
こうなると何を言っても離れないとわかっているのか、雪ノ下も好きにさせている。

「じゃあ俺は帰るわ」

「比企谷くん。また明日ね」
「バイバーイ、ヒッキー!」

「また明日な」

ふたりと別れてひとり家路につく。

夜の帳が下りた世界を校舎の窓からわずかに漏れる光が照らしていて、ふぅと吐いた息は白く濁り空中を漂いすぐに霧散した。

この時期特有の乾いた風が体の防寒されていない箇所にあたると、痛いくらいに冬という季節を感じてしまう。

早く暖かくならないかな。夏になったらなったで早く涼しくならないかなとか思うんだけどね。


……こういう時は、あれだな。
そう思い立ったら、あとは自販機を目当てに歩きだす。

目指すはグラウンド近くに設置されている自販機コーナー。部室棟にも近いからか、運動部の練習後であろう連中が
たむろしているのが遠目から見えた。

サントリー、キリンと並んでおっ、あるぞあるぞコカコーラ。やっと出会えたぜ。心の友よ~。
大長編のジャイアンってなんであんな良いやつなの?普段はバットで殴りかかってくるんだぜ?

お目当てのマッカン(あったか~い)を迷いなく購入し、歩きながらプシュ。
お行儀悪いとか言わないで。誰に言ってんだ俺?グイッと呷ればあまーい練乳入りコーヒーが心も体も満たしてくれる。やっぱこれだね~。

駐輪場に向かっていると後ろからせんぱーい!という声が聞こえたが、なに、気にする事はない。

この学校に先輩なんていっぱいいるし、部活やってれば先輩なんて呼称は当たり前だ。

特に振りむく事もなくそのまま駐輪場に向かい、マイチャリまで辿りついた。

鞄を前カゴに放り込み、馬蹄錠とスタンドのロックを解除してよっこいせとサドルに跨る。

右脚をペダルにかけグッと力を入れて漕ぎだした、んだけど進まない。
あれーなんでかなー?おかしいなー?
後ろから謎の抵抗を感じたのでギギギと振り返る。

「……先輩?何シカトしちゃってるんですか?」

「……一色、奇遇だな」

MY自転車の荷台に一色いろは、わが校の生徒会長が両手でしがみついていた。

いろはす顔がこわいぞー。ニコニコしてるけど目が笑ってないし、声もいつもよりドスが効いてるぞー。

「わたしが向こうで先輩呼んだの絶対気が付いてましたよね? あのあと反応ないのにひとりで叫んじゃってすっごい恥ずかしかったんですから!」

「あー……なんか呼ばれてた気はするが、先輩なんてその辺にいっぱいいるだろ?それに、気が付かないならうしろから肩でも叩いて呼べばいいじゃん?」

プンプンとご立腹の様子の一色に持論を展開してみる。一応筋は通ってるし、これは反論の余地はないだろう。
完全勝利を確信。敗北を知りたい。

「仕方ないじゃないですかー、まだ部活の片づけ中でしたし……それに! これでもすぐに先輩を追いかけた方なんですよ?」

なるほろ、今日は珍しく部活の方に顔を出してたわけね。だから奉仕部にも来なかったと。

生徒会と、最近だと奉仕部に入り浸っている印象が強いからサッカー部のマネージャーってイメージ薄れてるな。


「ほーん……で、片付けの途中だったんだろ? こっち来て大丈夫なのお前?」

「それは大丈夫です! 戸部先輩に押し付け……引き受けてもらいました!」

「あ、そう……」


きゃるんとした調子で悪びれなく言い放ちやがった。
しかも押し付けてって言いかけたよね?黒い!いろはす黒い!

しかし戸部が不憫でならない。あいつ良いやつなんだぞ。うるさいしウザいけど。
あれ?本当に良いやつなのか?良いやつだよね?

「先輩は今から帰りですよね? よーし一緒に帰りましょー」

「待て一色。俺チャリ。お前歩き。OK?」

「いや……それはわかってますけど。どうしたんですか先輩?輪をかけて変ですよ?」

は?何言ってんのこいつ?みたいな目で見られた。
やだいろはすったら冷たいわ。キンキンに冷えてやがるっ……!

確かに言葉足らずなところはあったので、これは補足が必要だろう。

「ほら、お前駅まで歩きだろ。 一緒に帰るとなると俺までチャリ押して歩くことになっちゃうだろ?
帰るの遅くなるし、何よりマラソン大会の疲れがあるから早く帰りたい」

「あー、なるほどそういうことですね……」

んー、と右手の人さし指を唇に押し当てて思案を巡らせている。

ぷにと指が当てられて艶やかな唇の形が変わるのを思わず目で追ってしまったのを気取られぬよう、手持無沙汰だった両手を、何も入っていないブレザーのポケットに突っ込んで気を紛らわす。

そうこうしているうちに、一色は何か思いついたのか声をあげた。

「だったら良い案がありますよ先輩♪ ではでは自転車に跨って下さい!」

「……何する気だ?」

「ほら、いいからいいから~」

言われるままに渋々自転車に跨ると、んしょと小さく呟いて荷台に腰を降ろしてきた。
体は前に向けたままの体勢で、首だけうしろにめぐらせてキャリアに座る後輩に尋ねる。

「……なにしてんの?」

「えー見ての通りですけど? これなら一緒に帰れるし、先輩も早く家に着けるし、まさしくwin-winじゃないですか~」

俺のwinは一体どこにあるの?こいつを駅まで送る時点で遠回り確定だから早く家に帰れなくなっちゃうんだけど?
それにwin-winとか言っちゃうあたり、一色もかなり意識が高くなってきたな。それある!

「疲れてるって言ってんだろ……」

普段運動をあまりしないくせに、サッカー部の葉山のペースに途中までとはいえついていくのは身に応えた。途中でオールアウトはしたが。
早いとこ帰って飯食って風呂入ってベッドに沈み込みたい。

「えー……今日は朝から先輩とおしゃべりしてないから、寂しかったんですよ?……どうしてもダメですか?」

「ぐっ……」

視線をいったん地面に落してから、ちらとこちらを窺うように静かな語調で問うてくる。

普段の調子ならあしらい易くはあるのだが、こうなると少し弱る。
なんで急にしおらしくなっちゃうんだよ……。断りづらいだろうが……。

「はぁ……稲毛海岸まででいいか?」

「えっ! いいんですか先輩? あとできれば千葉みなとまでがいいです~」

顔をこちらにぐるんと向けて、喜びと驚きが同居したような声を出しつつ馬鹿な提案をしてくる。
一駅隣な上に方向真逆じゃねーか。

一駅分ならなんてことのないように聞こえるが、京葉線稲毛海岸駅から千葉みなと駅間は4km以上あり、やたらと長い。
元気な時なら考えなくもないが、今日は無理だ。

すげなく一色の提案は断る事にする。


「遠いから却下」

「えー……まぁ仕方ないか……。でもやっぱり先輩ってチョロ……あっ、頼りになりますね!」

「そこまで言ったらもうチョロいって言っていいからね?」

俺も大概こいつに甘いなとつくづく思う。いや、一色が甘え上手でもあるが。

それに、彼女に対して何も思うことはないか?と問われれば、答えはノーだ。

一色に生徒会長になることのメリットを提示し、生徒会長に仕立て上げたのは俺だ。
それに、ただ単純に彼女を推しただけではない。

雪ノ下と由比ヶ浜を生徒会長にさせないため。奉仕部の、あの空間を守るという目的のため。
つまるところ自らの願望を叶えるためだ。

奉仕部を守る――こんな綺麗なお題目を並べても、結果的に彼女を利用したということに変わりはない。
そして俺は間違えた。

以前とは違うはずだったのに。ただ、方向性が違うというだけで成長はしていなかった。

俺の選択が多くの人を変えてしまった。自分が影響力のある人間だなんて思わないけれど、事実、苦しんでいる人はいた。それをただ悔いている。


だからこそ思う。彼女のお願いを聞く事で清算しているのかもしれないと。それはまるで贖罪のようにも思える行為だ。

誰が、いつ許してくれるのかなんてわからないし、救いが存在するのかさえ知らない。
清算を終えたのか、まだ途中なのか。未だ終着点を探している。

それを決めるのは誰でもない。きっと自分なのだろう。

―――――
―――
――

一旦止まります

学校の敷地を出て、人通りの少ない場所までは自転車を手で押して向かう。
敷地内でもし教師に2人乗りを見つかった時には面倒なことになるし、警官などに見つかった場合は最悪切符を切られる恐れもある。出来る限り人目につきにくいルートで駅に向かうことに決めた。

リスクヘッジの出来る俺ってマジ有能。ならそもそも2人乗りすんなって話か。反省してまーす。

「この辺で良いだろ。よし乗れ」

「はーい、じゃあ失礼しますねー。あ、先輩これカゴに入れて貰ってもいいですか?」

一色の鞄を左手で受け取り、自身の鞄と並べてカゴに押し込む。
さすがに2つ入れると収まりきらんな……振動とか段差で落ちそうだ。

どうしたものかと思案していると、一色がキャリアに跨ってきた。
わずかに軋むような音を立てて、彼女の体重を受け止める。

そもそも自転車の荷台って重量制限あるんだよな。27kgまでって書いてあるし。
1万円以下の自転車だと18kgまでしか積めないものがザラにある。
小町を後ろに何回も乗せてるし、これだけ酷使して壊れないなんて日本の技術は世界一ィィィィィィィ!

(※日本の自転車の99%は中国生産です)

「うーん……やっぱり自転車の荷台ってどこ座っても痛いですね。どうにかしてくださいよー」

「俺にどうしろっていうんだ……」

実際どうにもならない。カップルで2人乗りしてるやつらの荷台にはよくクッションがついていたりするが、そんなものはない。
むしろアレつけておくとマークされちゃいそうじゃない?警察もそんなに暇ではないか。

収まりのいい場所を探すためか、荷台の前後方向に腰を擦りつけるように動かしている動作にも、んしょとか、ん~とか漏れるように
届く声にもドギマギしてしまう。

どうしてこうなった……。
その時、一色の目がキラリと光ってカゴの鞄を指差した。

「先輩、鞄取ってください」

「?」

鞄の中に何かクッション性の良いものが入っているのだろうか?
先ほどカゴに収めたばかりの一色の鞄を手に取って渡そうとすると、その動きを一色に制された。
ぶんぶんとかぶりを振って、もう片方の鞄を指差す。

「違いますよー。先輩のが必要なんです」

「まぁなんでもいいけど……」

もう一度カゴに手を伸ばして、自身の鞄をつかみ手渡す。オラなんか嫌な予感がしてきたぞ。

ありがとうございます、と受け取った彼女は一度荷台から立ち上がり、今手にした俺の鞄を荷台に置く。
ぽんぽんと手で形を軽く整えたあとに、よいしょと鞄の上に跨った。

「よし。これいい感じですよー」

「よし、じゃねーよ……」

ふんふんと満足げな一色さん。マジで何してくれてんの?
後ろを見れば、一色の尻に敷かれるマイバッグ。
平均より少しだけ短く折られたスカートからすらりと伸びた生足に思わず目を向けてしまい、思わずごくりと喉が鳴る。


「あー先輩今やらしいこと考えてるでしょ?わたしに興奮しちゃいましたかー?」

「ちちち、ちげーし! ていうか自分のに座れよ……俺のに座る意味ないでしょ……」

「わたしのはほら、生徒会の重要書類が入ってるんです。折り目とかつけるわけにはいかないじゃないですかー?
それに先輩も嬉しいですよね? わたしに踏まれて♪」


その心意気は立派だが、俺の鞄に座っていい理由にはならないじゃねーか……。
これで喜んでたら相当の変態さんだと思います。

俺たちが話しているすぐ横を大型車両が通り抜けていった。
車体が巻いたような風を生み出し、立ち止まってやりとりをしている体の温度を奪っていく。

うだうだ言っても無駄だ。人生諦めが肝心。引き際を見極めることが生きる上では大切だ。

「はぁ……行くか」

「レッツゴーですよ!」

本日何回目かの溜息をついてから一色の合図でペダルを漕ぎだす。

わずかな浮遊感のあとにぐっぐっ、と力を込めていくと安定巡航に入った。

リズムよく足を上下させ、一定のペースを心掛ける。
一色へ伝わる振動を抑えるため、出来る限り舗装の悪い箇所や段差等を回避する。
同時に点数稼ぎのステルス警官への注意も怠らない。あいつらどこに隠れてるかわからないからな。

後ろに腰かける一色が奏でるハミングをBGMにして、黙々と駅までの道を進んでいく。

「先輩、なんだか慣れてません? まさかの経験豊富ですか?」

駅まであと半分くらいかという所まで来た時に、少し茶化すような口調で一色が尋ねてくる。


「妹を学校まで送ることがたまにあってな。それのせいじゃねーの」

「そういえば妹さんいるって選挙の時に言ってましたもんね。一度会ってみたいなー」

「……まぁ機会があればな」


「機会があれば」社交辞令の代表格に当たる。

相手の提案に対して、実際にやる気はないが、前向きに考えてますよー感を出すことが出来る便利な言葉だ。
これは「行けたら行く」「怒らないから話してみなさい」と並んで信じてはいけないとされる。ソースは俺。

それに、こいつを小町に会わせるわけにはいかん。
俺の小町が一色の疑似ゆるふわオーラに毒されていく様を見たくはないからな。やだ俺の独占欲高すぎ……?

「機会があればって……先輩絶対やる気ないですよねー? わかっちゃいますよ?」

「…………」

なん…だと…。どうやら完全に読まれているようだ。やはりこいつは俺と言う人間をよく分かっている。

こういう時どうすればいいんだろうか?シカトすればいいと思うよ!

「せんぱーい。無視ですかー?泣いちゃいますよー?」

背骨のあたりを指でつんつんと突いてくる。指が当たった箇所が妙にこそばゆい。
こういう時に構うと余計に面倒な事になると経験上わかっているので、特にこちらからは声を掛けず、されるがままにしておく。

「むぅー……えいっ♪」

「へあっっ!!」

こ、こいつ……。わずかな逡巡の後に俺の体の左右、空いてる脇の下の部分にするりと手を伸ばすと、そのまま腰の部分
にぎゅっと抱きついてきた。体が重ねられた背中が、腰に回された手が、彼女の体温を服越しではあるがしっかりと伝えてくる。
ヤバい何がヤバいって超恥ずかしいし、心臓ドッキドキでヤバい。とにかくヤバいくらいヤバい。(この間0.5秒)

村上くん的思考に陥ってると、くすくすと笑い声が背中から漏れ聞こえてきた。


「へあっっ!!ってなんですかーウルトラマンですか。キョドり過ぎてちょっとキモいですよ先輩」

もぞもぞと一色の頭が背中に擦りつけられているのがわかり、思わず身を固くしてしまった。

「うるせー……。てか本当に危ないから離れてくれ」

「えー……はーい」

不承不承といった声をあげつつ、重なっていた体が離れていく。
離れると同時に新たに体が引っ張られる感覚があった。

そちらをついと見やるとコートの裾の部分をきゅっと小さな手が掴んでいるのが見える。
―――ま、これくらいならな。

駅に近づいてきた。

仕事帰りや学校帰りだろうか、人の往来は先ほど走って来た道と比べてかなり多くなりつつある。
夜闇に飲食店の看板のネオンが光り、街はすっかりと昼に見せるものとは違う顔を見せ始めていた。

ここまで順調に来ていたが、目前の信号が赤になり、一旦停車する。

一息ついていると、ふと左側のコンビニの入り口付近に設置されている赤いフラッグが風でゆらゆら揺れているのが目に付いた。
周囲は煌びやかに彩られ、赤い生地に白い文字で今日散々部室で話したあのイベントの名前が銘打たれている。

「なあ、お前バレンタインはどうすんだ?」

ふと疑問に思い、ぽつりと呟くように前を向いたまま問いかけた。

「はぁバレンタインですか……?はっ! もしかして今口説いてましたかチョコが欲しいならちゃんとあげますからお礼は3倍返しでお願いします!」

「ちげぇよ……」

一息に捲し立てたせいで少々息が乱れ気味で、彼女の吐いた白い息が視界の端に映る。
あれ、ていうか今回は振られてない気がするぞ?もしかしてチョコ貰えるのかしらん?

「だって、急に先輩がらしくないこと言うから……」

俺がバレンタインって言っちゃダメなんですかね?らしくないのは同意だが。

「俺が聞きたかったのは、葉山にどうするのかって話だ」

「……そうですね」

その思い悩むような反応に小さな違和感を覚えた。

色ならばこうしたイベントを見逃さず、迷うことなく葉山にアピールをするものだと思っていた。
一色の行動原理の中心には「可愛くありたい」というものがある。

そして、その矛先は主に葉山に向けられているはずだった。
信号が青に変わり、再び走り出す。


彼女の見せた反応が意外で、さてどうしたものかと考えつつ自転車を走らせていると一色が言葉を続けた。

「何というか……怖いんですかね」

「怖い?」

ホワット?どういうことだ?
平素の声音とは違う、落ち着いた声で過去を振り返るような調子で語り始めた。

「一回振られてしまって、それは勝利のための布石だって言いましたよね?これからも諦めないって。
でも、やっぱり強がってたんですよね。振られてしまったことが、想いを拒絶されるってことが時間が経つにつれて怖いこと
何だってわかってしまいました」

「ああ……」

夜の街を坦々と走り抜けていく。その想いが聞きたくて、無言のまま言葉の続きを促した。
一色はすう、と一息ついてから再び話し出した。

「それから学校で会っても、部活で話していても、葉山先輩との間にどこか……壁のようなものを感じるようになってしまって。
葉山先輩は変わらず接してくれているはずなのに、違うんです。以前とは何かが違うんです」

「だから……怖いんです。バレンタインでチョコを渡そうとして拒否されてしまったら……
そうしたら、葉山先輩が今よりもっと遠くに離れていってしまうんじゃないかと考えてしまって。それが、怖いんです」

一色は震えるような声で、絞り出すように心中を吐露した。

痛いほどの真剣な様子が、彼女の顔を見ずとも伝わってくるようだった。

言いたい事はわかる。これ以上拒絶されるのが怖い。
今まで通りでいられなくなるのが怖いという。それは至極当然なことのように思える。

着地点が捉えられない変化なら尚更だ。ゴールの見えない物事ほど怖いものはない。

人の想いとは、期間に差はあれど、時間をかけて個々人が積み重ねるものだ。
想いの否定は、大なり小なりの違いはあるが積み重ねた時間の、それこそ人生の否定だと思う。

想ってきた時間を無に帰すものが拒絶なのだ。


仮に、告白をしたとする。そして失敗したとしたら。
そこには「振った側」と「振られた側」というふたつの立場が生まれることになる。

ここでよく掛けられる言葉に「これまでと変わらずに友達でいよう」というものがある。
その場しのぎの常套句。なんて陳腐で、残酷な言葉なのだろうか。願望の押し付けほど醜いものはない。

振った側は相手に対して申し訳ないと思うだろう。これ以上傷つけたくない、だから一定の距離を保つように言葉を探し続ける。

そして振られた側も、相手の願いに応えようとする。健気にも、これ以上変わってしまわぬよう努めるのだろう。
嫌われたくない、その想いは遠慮を生む。そして人は離れていく。

お互いに感じる引け目。それこそが、一色が現在葉山に感じている「壁」の正体だ。

変わらない関係を強要することがより相手を傷付ける。
それはがんじがらめにされて動けない獣を想像させた。もがけばもがくほど縄は食い込み、やがて命を奪う。

少なくとも俺は知ってしまった。変わらない関係なんて存在しないことを。

そして、きつく結ばれてほどけなくなった縄をほどく方法も。今は知っている。

「葉山は……逃げないと思うぞ。少なくとも今のお前からは」

「え……?」

急になされた返答に一色がわからない、という声を上げたのでそのまま続けて話す。

「単純にあいつのことだから、チョコを受け取るのを拒否することは多分ないんじゃねーの?そこから先は一色次第だ。
結局現状を変えるには……そうだな、素直な気持ちをぶつけるしかないんじゃないか」

「気持ちを、ぶつけるですか?」

確認を取るように繰り返す。言葉を反芻し、しっかりと噛み砕いて我が身の糧とするかのように。

「結局人間何考えてるかなんてわからんしな。言わないでも分かりあえるなんてありえないし、言葉にしても理解できないことはある。
ただ、今抱えているもの、本心を伝えることは間違いなんかじゃない」

正解かどうかは俺もよくわからんが、と一人ごちた。少し前の自分に向けられた言葉のようにも思えてくる。

考えて考えて考え抜いて。そして残ったもの。なんどもフィルターに掛けられたその想いこそが、人の気持ちを動かすのだろう。

心に保存しておくだけでは駄目なのだ。伝えなければ腐り落ち、やがて形を無くしてしまう。

そうこうしているうちに、もうすぐ先に駅が見えてきた。ここまで来ればもう大丈夫だろう。
後ろでだんまりを決め込んでいる一色に降りるよう促す。

「もう着いたぞ。この辺でいいか?」
「せ、先輩って……」

「あん?」

適当な人の往来の邪魔にならない場所に停車させて後ろを窺うと、細い肩がぷるぷると震えているのが目に入った。
どうしちゃったのよ~いろはす?俺なんかした?これ何か戸部っぽいな。

「なんか先生みたいですね! ぷっ、あははははは。な、なんだか、先生に諭されてるみたいで、ぷっっくくく」

「あ……そう」

楽しそうに、肩を震わせて身を屈めるように笑っている様子を見ていると、さっきの沈痛な声で話していたのが
遠い昔の出来事のようにも思えた。

これでもかなり真剣に話したんだけど、ちょっと失礼じゃないのこの子?これだから最近の若い子は……。

クスクスと笑いつつ、よいしょと踏みつぶしていた俺の鞄から降りると、手近なベンチに腰をかけた。

俺も近くまで進み自転車のスタンドを立てて、一色の左隣に腰を落ち着けた。
ヒヤリとした冷気とごつごつした感触がスラックス越しに感じられる。

「あーおかしかったぁ……。でも、確かに先輩の言う通りかもですね。葉山先輩は優しいから……受け取ってはくれるでしょうね。
難しく考えすぎてた気がします」

「ま、シンプルに考えればいいってことだろ。俺が将来働きたくないって思ってるくらいにな」

「台無しですよ先輩……」

やれやれといった具合に肩をすくめて見せてきた。
一色の呆れ顔にちょっとだけイラッ☆としていると、先ほどとは一転して表情が引き締まる。忙しいやっちゃ。

「先輩の話を纏めると、要は素直な気持ちを伝えることが大事?ってことですよねー」

「まぁ、そうなるな」

今度はニヤリと意地悪そうな、いたずらを思いついた幼子のような表情を作る。

「なるほど。だから『俺は本物が欲しい』と。そういうわけですね?」

「おいやめろ」

ちょ、マジ止めて!また悶えちゃうから!3日に1度くらいの高頻度でフラッシュバックしてるんだから!
気恥ずかしさを誤魔化すために両手をポケットに突っ込んでそっぽを向いていると、一色はこちらをじっと見つめた後に
照れた様に笑顔を向けてくる。

「でも……真剣に答えてくれて、ありがとです。おかげで楽になりましたよ?」

「……どういたしまして」

素っ気なく答えた俺に、薄く笑いかけるとすくっと立ちあがった。
ピンと伸ばされた背筋は彼女の今の心の在り様を示しているようだ。

「ではでは先輩。送ってくださってありがとうございました!」

「気をつけて帰れよ」

右手で小さく敬礼。一色はこれでしっかりしている所がある。礼は言えるし、なんだかんだで責任感もある。
不純な理由ではあるが、なってしまった生徒会長の役職を投げ出さずに全うしていることが何よりの証拠だ。

「はい! あ、あと先輩」

別れの挨拶をしてさて帰ろうかというところで、ちょいちょいと招くように手を動かしている。
どうやらもう少し頭の位置を下げろということらしい。

仕方なしに一色の顔と同じ位置まで下げると、耳元でいつものような砂糖たっぷりの甘ったるい声で囁く。

『わたしが座ってた鞄の匂い、嗅いじゃダメですからね?』

「なっ!」

また明日でーす!とかいいながら改札口に向かって小走りで駆けていく。

改札を抜ける前にこちらをちらっと振り返ると、ぶんぶん手を振ってきたので放心しつつ小さく振り返す。
そのまま見えなくなるまでその場を動けずにいた。

耳元で呟かれたウィスパーボイスを思い出すと、思わず身震いしてしまう。
なんちゅー爆弾発言だよ……。

荷台に残されたままの鞄が、やけに存在感を主張してくる。せっかく意識しないようにしてたのに。
嗅がないからな。絶対に嗅がないからな。

あえてぞんざいにカゴに放り込んで、家に向かって走り出す。うしろに誰も乗っていない自転車はやけに軽く感じた。
その軽さが、先ほどまでここに彼女が存在していたことを伝えてくる。

声を聞いて、想いを知った。

想いなき声はひどく空虚でどこかの片隅にも置かれないものだが、彼女の声には熱があった。
こちらが浮かされるほどの熱量が確かにあった。

考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。―――そうでなくては、本物じゃない、か。


今の彼女にとって杞憂なのかもしれないなと、そう感じた。



―――――
―――
――

時は流れて2月も中旬。日めくりカレンダーは2月の13日目。
つまり翌日バレンタインデーが迫っていることを指し示していた。

俺にとってはだから何?といった感じではある。
バレンタインも、その前日もただの平日に変わりない。なんなら毎日がエブリデイ変わりない。

しかし、変わりない俺を尻目に昼休みのクラス内の空気はいつもよりどこか落ち着きがない。

具体的に言うと男子のテンションが高い。男子同士の固まったグループ内で話していても、女子グループの方をチラッチラッ見てたりする。
あと無駄に声がデカイ。
あれはあれで何かのアピールなんだろうか?わからんな。

チョコ貰えるやつはもらえるし、貰えないやつはもらえない。
バレンタインなんて最初から結果が決まっている出来レースみたいなものなのに、何故世のモテナイ男子は可能性を信じてしまうのだろう。

下駄箱から靴を取りだすのが異様にゆっくりだったり、ロッカーや机の中を無駄に確認してみたりするが、断言する。期待を持つんじゃない。

勝手に期待して、勝手に裏切られて。そして自分に落胆する。ハナから誰もお前のことなんて見ていないぞ?


ていうか普通に怖くないか?誰とも知らぬ相手からの贈り物とか八幡警戒レベルマックスでメーター振りきっちゃうレベル。

下剤とか仕込まれてたらどうしようとか勘繰っちゃって絶対口に出来ないわ。
やっぱ手渡しじゃないと駄目だな。貰えるわけないけど。自分で言ってて悲しくなってくるぜ……。

くしゃりと食べ終えた惣菜パンの包装をつぶして、空いてるビニール袋に放り込んだ。さてと……。

通常、昼は外に出て食べるのだが、今日はすこぶる寒いため仕方なしに教室内で黙々と食事を終えた。もちろん一人でだよ言わせんな恥ずかしい。

お天気お姉さんによると今季最大の寒波が到来したとかで、千葉でも朝にみぞれが観測されたほどだ。

今季最大とか、今シーズン一の冷え込みとかって更新しすぎでしょ?
どんだけ記録更新に精を出しっちゃってるの?ボジョレーなの?

ぼっち飯の特徴として食べ終わるのが早い、という点が挙げられる。
誰かと会話することがないので、坦々と食事タイムを消化するだけである。
故に昼休みはゆうにまだ30分以上残されている。

文庫本を読みふけっても良いのだが、ここでは落ち着かない。少々寒いが仕方ない。
外に出るとしようか。
小銭と本を用意して、静かに教室をあとにした。


―――――
―――
――



「いや寒すぎだろ」

思わず口に出してしまった。誰にも聞かれてないよな?
1階まで校舎を降り、マイベストプレイスまで来た。

図書室でぬくぬくしようと思ったのだが、扉を半分まで開けたところで年中コートを羽織ったデブメガネ(材木座)
が目に入ってしまったので静かに閉め直した。

あいつと同じ空間で読書はキツイ。

目の前のテニスコートからは規則的にボールで壁を打つ音が聞こえてくる。

戸塚か?と期待したが、知らない生徒だった。ただ、戸塚の頑張りのおかげだろうか。
昼休みでもこうして自主的に練習している生徒がテニス部内にも生まれたのは喜ばしいことだ。

しかし本当に寒い。マフラーかコートでも持ってくればよかったと後悔しつつも、自販機で買ったマッカンを呷り文庫本を開いた。

物語の世界に浸ろうと文字列に意識を向けた瞬間目の前が真っ暗になった。ポケモンかよ。

「だーれだっ!」

「戸塚」

両目が小さな柔らかい手から開放され、再び視界を取り戻して後ろを振り向くと、元から大きな目をさらに大きく見開いた戸塚彩加がいた。
持っていたノートを小脇に抱え直して、ぱちぱちと両手を合わせて叩く。

「すごいね八幡。一発でわかるなんてびっくりしたよ」

「ああ。俺レベルにもなると匂いだけで戸塚とそれ以外を判別できるぞ」

思わず気持ち悪いことをサラッと言ってしまった。戸塚を前にするとお口にチャックが出来なくて困るぜ……。
あはは、と若干引き気味の戸塚を見ていると、何故ここにいるのかとふいに疑問が湧いた。

「で、どうしたんだ? なんかあったのか?」

「うん。あのね、昼休みに部長会があってね。ちょうどそこの教室でやってたんだ。終わって歩いてたら八幡が見えたからさ」

「そういうことか」

なるほど部長会、そういうものもあるのか。ってことは雪ノ下も出席してるのか?はて、どうなんだろうか?
今度聞いてみようとか考えていると、くしゅんと、かわいらしいくしゃみが聞こえた。

「八幡ここ寒くないの?」

とっても寒いな。でもお前がいればあったかいんだからぁ~。
ただ何となく、あの空気の教室には今は戻りたくなかった。

「寒いけど、まあ色々あってここにいる。戸塚は戻ってていいぞ」

「うーん……あっそうだ。ここでご飯食べていい?まだ食べてないからさ」

「もちろんいいが。戸塚こそ寒いけど大丈夫なのか?」

首を縦に振り、戸塚の提案を快諾する。やはり教室に戻らないルートを選択したのは正しかったようだ。
おかげで戸塚がご飯を食べる姿を見る事ができる。

「寒いけど……一緒なら大丈夫かなって。じゃあお弁当取って来るね!」

軽く手を上げて挨拶を返し、戸塚の後ろ姿を見送った。やべえニヤける。

もう死んでもいい。いや、死んだら駄目だ。戸塚とご飯食べられなくなっちゃうだろ。
戸塚の事で頭がいっぱいだったためか、もう一人の来訪者の接近に気が付かなかった。

「やぁ」

「…………」

「なんて嫌そうな顔なんだ……」

葉山隼人が後ろから覗きこむように立っていた。
くそっこいつの接近に気が付かないなんて、八幡一生の不覚!俺って何回一生の不覚を重ねるんだろうか?
現時点で何個黒歴史あるかわかんねーよ。
てか気安く話しかけてくんなよ友達かよ。突き放すように言葉に刺を含ませて言い放つ。

「別に……ていうか俺の背後に立つな」

「ゴルゴか君は……隣いいかい?」

「は?」

エリカ様ばりに不機嫌オーラ全開で答えたはずなのに、よっという掛け声とともに葉山は俺の右隣に腰掛けてきた。
俺の意思は無視ですかそうですか。つまり君はそういうやつなんだな。

並んで座っているものの特に話すこともない。向こうも同様なのか、外のテニスコートへ目線が向けられたまま動かない。

「……部長会か?」

「ああ、まあそんなところだ」

会話と言えないような会話をした後は再び沈黙が続く。何か用があるのではないのか?

そうでなければ葉山が俺に話しかける理由などないはずだ。
その真意を知りたかった。

変わらず沈黙を貫く葉山にしびれを切らし、こちらから問いかけることにした。

「……なんか用なのか?」

「用がなければ話しかけちゃいけないのか? クラスメイトなのに」

こいつ……。
口元は笑っているが、目は薄く開かれているだけでそこに笑みはない。

皆が知り、普段から柔和な笑みを浮かべている葉山が、普段もつそれとは明らかに違う。

こいつがこういう顔をするのは、大抵何かの意図を持って行動している時だ。
思わず警戒レベルを一段階引き上げる。目には目を、歯には歯を、皮肉には皮肉を。


「生憎だが、俺にとってのクラスメイトは一部を除いてほぼ見ず知らずの他人と同義なんだよ。ただ同じ教室内にいるってだけだ。
気安く見ず知らずの人間に話しかけるか?」

「……あいかわらず捻くれてるな。まあ用はあるんだけど」


葉山は一旦立ち上がり、こちらに向き直ると正面から向き合う形になった。
見下ろすような様な視線が問い詰めているように見えてしまう。

「最近になって、いろはが積極的でね……この前も遊びに行かないか誘われた」


そうか一色のことか。そうなればある程度合点がいく。
何故葉山が話しかけた来たのか、何を聞きたがっているのか。ある程度の予想は可能だ。そして、俺の答えは決まっている。

「自慢か?そういうのはお友達にしてやってくれ」

「そういう話じゃない。比企谷なら知ってるんじゃないかと思ってね」

ついつい皮肉めいた返しをしてしまう。葉山の前では素直になれない俺ってまじ乙女。
心の中で思ってても我ながらキモいな。

葉山はふっと呆れたような笑みを浮かべつつ、こちらを変わらず見据えてくる。
その目には有無を言わさぬ強制力があった。知っていることを言えと、言外にそう滲ませているようだった。

「さあ? あいつは元から積極的だったろ。そんなに変なことか?」

俺がやる事はひとつだ。ここはあくまで白を切り通す。

一色いろはに発破をかけて葉山隼人に再びアピールをさせたのは、事実上俺なのだろう。
あの帰り道の会話が起爆剤となっていることは間違いない。

葉山は疑問に思ったはずだ。
距離を保って、近づけないようにした彼女が再び距離を縮めようとしてきた。

そこに何か理由があるはずだ、とそう考えたのだ。

教えてやるのは簡単だ。あの日の出来事をつまびらかに語ればそれで終わる。
だがそれは駄目だ。一色いろはの抱えた想いはどうなる?

勇気を振り絞って、葉山隼人との距離を詰めようとしたはずだ。

彼女が感じたという「壁」を乗り越えようとしたはずだ。

凝り固まった人間関係を変えることは大層難しい。
印象をプラスのベクトルに向けさせることは並大抵のことでは叶わない。
そのくせマイナスには簡単に転じてしまうからタチが悪い。
それこそ、小さな過ちで容易く切り捨ててしまうほどにだ。

俺はその勇気に応えたい。
一色の行動に比企谷八幡と言うファクターを挟んで欲しくなかった。
あくまで一色の自発的な行動なのだと、そう葉山に思わせたかった。

きっかけを与えただけだ。どうするかは一色次第だとも言った。あいつはそれに応えてくれた。

傍から見れば一色を葉山にけしかけたようにも見える。

だが違う。そんな事は些細な問題だ。
一色の想いは本物だと思った。だから背中を押してあげたくなった。

あいつの先輩として。そして単純に一人の人間として。
本物の想いを伝えることはきっと間違いじゃない。
それはきっと美しいことなのだから。

「……そうだな、君に聞いても素直に答えてくれるわけないか」

戻るよ、と呟いて座っている俺の横を抜ける。そのまま教室の方へ体を向けて歩き出した。
その背中へ短く声を掛ける。

「……葉山、逃げるなよ」

半身だけ振り返って、含みのある笑顔を向けてくる。

「それはお互い様だろ?」

じゃあと左手を挙げて、今度こそ一言も発することなく冬の日の冷え切った廊下を静かに立ち去っていく。

その背中は、どこか立ち枯れた木を想像させるような、一抹の寂しさを連想させた。

葉山とすれ違うように戸塚がやってくるのがここからも見える。二言三言会話をしてから小走りで駆け寄って来た。

待たせてごめんね、と呟くのが耳に聞こえるが、そちらの方を向かなかった。
こちらをひょいと軽く覗きこんで、はっと何かに気が付いたあとに少し怯えたような声を掛けてくる。

「……八幡どうしたの? 顔怖いよ?」

「……なんでもねーよ」

戸塚は悪くないのに、こんな言い方になってしまう自分が嫌になる。
お互い様、ね……。

「わかってんだよ。そんな事くらい」

無意識なのか、冷え切った空き缶を強く握りしめていたのに気が付く。

それでもスチール缶はびくともせず、わずかなへこみを右手の掌の形に合わせて作り出しただけだった。
それが自らの力のなさを証明するようで、ひどく物悲しかった。

―――――
―――
――

「たでーまー」

玄関を開けると暖かい空気が迎えてくれた。もう誰か帰って来ているようだ。

誰かと言っても、共働きの両親は帰りが遅いので必然的にその誰かは限られてくるのだが。
ぱたぱたと音がして、奥の方から小町が駆け寄ってきた。

「お兄ちゃんおっかえりー。寒かったでしょ? 先お風呂入っちゃう?」

「そうだな。手とか超痛いわ」


寒風にさらされた両の手はグローブをつけていても真っ赤にしもやけ、完全に感覚を失くしていた。
これお湯につけるとビリビリするから嫌なんだよなー。

それにしても小町ってホント気が利くよな。俺と血が繋がってるのが信じられないレベル。
普段の俺ってどんだけ気が利かないキャラなんだよ?そんなことないよね?

ローファーを脱ぎながら自問自答していると、元気な声が玄関に響く。

「お風呂のあとはご飯だよお兄ちゃん! いっぱい愛情込めたからね~。今のは小町的にポイント高いよ!」

「ああ高い高い。で、今日の試験どうだったの?」

「いつもより適当すぎるよお兄ちゃん……。まあ試験はぼちぼちかなー?」

適当にあしらいつつ、小町の試験の出来を尋ねてみる。

本年度の千葉市立高等学校選抜者入学試験は2月12日と13日に行われた。
総武高の場合1日目が学力試験で2日目が面接になっている。

2日間の総合得点で合否が決まる格好だ。

「お前昨日もぼちぼちとか言ってたけど本当に大丈夫かよ?」

「だ、だだだ大丈夫だよ! たぶん……」


言葉が尻すぼみになってしまうほど不安げな様子だ。
終わってしまったことをどうこう言っても仕方がないのに、人はどうしてあれこれ考えてしまうんだろう?

嘆いたところで今更答案用紙を書きかえることなんて出来ないのに。

「全力は出したんだろ?それならいいんじゃねーの。それに、あの由比ヶ浜だって受かってるんだぞ? 心配ない心配ない」

すっかりシュンとしてしまった小町に声を掛けた。フォローを忘れない俺ってマジ真摯。
落ち込ませたのも俺だけどね!
ガハハと笑いかけるが、えーって顔された。えーって。

何か間違ったかとを言ってしまっただろうかと考えていると、小町が呆れ顔で溜息をひとつ吐いた。


「前向きは前向きだけど結衣さんに失礼すぎだよお兄ちゃん……小町的にポイント低いよ」

おっとジト目攻撃だ八幡に80000ダメージ!これだからゴミは……とか言わないで小町ちゃん。
せめていつもみたいにごみいちゃんにしてくれ……。

妹にまでごみ扱いされたらこの世に俺の居場所がなくなっちゃう。
ぶつぶつ不服そうに呟く小町に、俺なりに優しく話しかけた。

「ま、受験お疲れさん。結果出るまではしばらくのんびりできるな。あとで久しぶりにゲームでもやるか」

「おっ、いいねぇーやろうやろう。そうそうそうだよお兄ちゃん! やったー受験終わったんだー! 遊ぶぞー!」

やったーと両手を掲げて万歳ポーズで喜びを爆発させている。単純なこって……。

受験のみならず、試験終わったあととかはやっぱり解放感あるよなー。
こう、肩に乗ってたものが下りるというか。重荷から解き放たれるというか。そんな感じだ。

重荷から解放されて喜ぶ小町が、少しだけ羨ましかった。

――――――


寒さに加えて強風が吹き付け、窓が時々ガタと音を立てて揺れている。

風呂にも入り、小町の作った夕食を食べ終えても時刻はまだ21時。

リビングのソファに小町と肩を並べて座り、某レーシングゲームに興じている。
○リオとかド○キーとかその辺のキャラのやつだ。ヒアウィゴー!!

「ときに八幡さんや」

「何かな小町さんよ」

妹のよくわからない振りに一応反応する。ゲーム内のコーナー進入に合わせて体をうねうねと傾けつつ答えた。
むふふと含み笑いをしている小町を横目に見る。画面を見ながら楽しげな様子だ。

「明日はあ・の・日、だね♪」

キャピルンと華やかな笑顔を浮かべて今度はこちらの様子を確認してくる。前見ろ前。
落ちちゃうぞ。

「……なんのことかなー」

「ごまかしが雑すぎるよお兄ちゃん……」

そのまま変わらずピコピコとゲームは続く。あまりこの話題にしたくはないので、その後特に何も発しない俺に小町が優しく諭すように語りかける。

「大丈夫だよ。今年は、少なくとも3つは貰えると小町は予想してるよ?」

「何が大丈夫なんだ……。あとその3つの内訳は?」

ふふん、と薄い胸を張る。特にどうとも思わないが。家族に欲情するやつは病気だと思います。

別に期待しているわけではない。

期待して、裏切られる怖さを俺は知っている。だからいつしか他人に期待しなくなった。
否、意図的に持とうとしなかったのかもしれない。

ただ、今年は例年と違いすぎた。仕様を変えたときは致命的なバグが見つかることがある。
この先がどうなるかは甚だ不透明なままだ。
んーと小さく溜めてから小町は口を開いた。

「結衣さんでしょ?雪乃さんでしょ?あとは、もちろん小町のだよ♪」

超にっこり小町スマイルを浮かべる。あざとい……。あざといけど可愛いのが一色との唯一にして最大の違いだな。
真面目に返すと面倒なのでこういう時は適当にはぐらかすに限る。

「俺は小町からひとつでも貰えれば何もいらねーよ。今の、八幡的にポイント高いな」

「お、お兄ちゃん……それは小町にとってもポイント超超高いよ!」

精一杯キリッと聞こえるように言い放った。小町はキャーとか奇声を発しつつ足を上下にばたつかせている。
こうかはばつぐんだ!上手く誤魔化せただろうか?

しかしあの2人が俺にねぇ……。可能性はゼロではない、か。

知り合ってまだ1年にも満たない短い付き合いだが、今までの人生よりもそれなりに密度の濃い時間を過ごしてきたという実感はある。
だがそれが何だというのか。

可能性はゼロではないと、心の片隅で思う時点で期待をしている証拠になってしまう。

自分がふと思ってしまったことに空恐ろしさすら感じる。
あれだけ期待する事は怖いことだと、そう学んできたはずなのに。
また同じことを繰り返すのだろうか?

ただ、こうとも考えられる。
そうまで思わせる何かが、あの場所にはある。

探しに行くんだ。

何を?と問いかけても答えは未だない。
だから探し続けるしかないのだ。



―――――
―――
――

今日はこの辺で。
全部書き終わってるので明日には完結すると思います。

ちょっと書き貯め修正するので、のちほど投下します

冬が寒いのは変わらない。夏が暑いのと同じくらい不変の真理だ。

昨日到来の寒波はなりを潜め、本日は一転穏やかな朝だ。

結局あの後は誤魔化しきれず、小町から親が帰ってくるまで延々と質問責めをくらった。
なんでああいう話が好きなんだろうか?

女子が他人の話に一喜一憂し、キャーキャー騒ぐのはもはやどこでも見られる光景でもあるけれど。

昨日吹きすさんだ強風は夜のうちに止み、本日は穏やかな晴れ模様ではあるが、朝の寒さの中を自転車で登校するのは慣れない。
慣れても結局寒いと言う方が近いだろうか。

寒い寒い言ってるから寒くなるんだ!寒いなんて言うな!とかいう超理論があるが意味わからん。
寒いもんは寒い。心の持ちようで変わるもんじゃない。

それと限界を超えろ!とかいうのも頻繁に聞くが、あれも正直意味不明で理解に苦しむ。
それ以上の力を出せないから限界なのであり、それを超えるというのはどう考えてもおかしな話である。

超えられちゃったやつは最初から本気出してなかっただけなんじゃないの?俺みたいに。
なんなら最後まで本気を見せないまである。


誰に言ってるのか自分でもよくわからなくなりつつ、いつも通りの時間に通用門を潜る。

ぱらぱらと校舎に向かう生徒たちから少し外れ、校内の駐輪場へ向かった。
いつも通りの決めている場所に自転車を停め、スタンドをかけて施錠する。

強風の影響か、枯れ葉が駐輪場内にひしめいている。

積もった落ち葉が踏まれてざくざくと音を立てた。
トタン製の屋根に開いた穴を風が吹き抜けるヒューヒューという何とも寒々しい音も聞こえてくる。

カゴから鞄を手にして肩に掛け、両手をポケットにつめて暖を取る。ふぃー暖かいぜ。

さあ行こうかと校舎へ脚を向ける。
がさりと、誰かと落ち葉を踏む音が重なったかと思うと、不意に後ろから右肩をぽんぽんと叩かれた。

はて?と何の気なしに首を右方向にめぐらすと、細くしなやかな、女の子特有の人さし指が頬にささった。

「せーんぱい。おはようございます♪」

「……おお」

やーい引っ掛かったーと言わんばかりの楽しそうな調子に、うげぇーとか思ってしまった。
何でこんなとこにいんだよ……。自転車通学始めちゃったの?ヒーメヒメヒメ~。

「先輩テンション低いですよー?せっかく朝からわたしと会えたんだから、もっとアゲて下さい!」

「いやそうは言ってもだな……。歩きながらにしようぜ。遅刻するぞ」

アゲるって何だろう?サゲるのなら得意だ。主に場の空気を盛り下げる方向で。
一色を伴ってもいいからさっさと下駄箱へ行こうと体を翻すと、ついと腕が引かれた。

そちらを見ると一色がコートの肘の部分を握り、俺の動きを制止させている。
顔をちらと見るとうっすら赤い。え、なんなのこの雰囲気?

いつもとは違う彼女の表情に呆けていると、ゆっくりと一色が口を開いた。

「今日が何の日かはさすがにわかってますよね?」

「……まあ、それくらいは」

あれだけこの日のことについて一色と話した上で、昨日の小町との会話だ。意識しない方が難しい。

一色は鞄をごそごそ探ると、中から青のチェック柄が入った小さなラッピング袋を取りだした。
こちらを真っ直ぐに見つめる瞳にたじろいでしまう。
普段のあっけらかんとした態度とは違い、その瞳には強さと覚悟を感じた。意を決したように彼女の口が開かれる。

「先輩。いつもありがとうございます。生徒会のことも、あとその……個人的な悩みも聞いてもらっちゃって……。
とってもお世話になってます。だからこれは感謝の気持ちです。受け取って、もらえますか?」

顔が赤い。彼女も、そして多分自分も。


上目遣いで自信なさそうに問うてくるその姿は、何故か在りし日の小町を連想させる。

作られた一色の「可愛さ」を知っているからこそ、その恥ずかしがる所作はとても新鮮で、そしてこれこそが彼女の
女の子としての素の顔なのかもしれないと感じた。

ここで受け取らない、という選択肢なんて存在しない。今の目の前の道は一つだ。

受け取らないということは想いから逃げることであり、それではただの臆病者だ。
卑屈で、最低で、陰湿でも構わない。だが臆病者は、もう嫌だ。

一歩こちらから近づき、中途半端に上げられた一色の手から袋を受け取った。

「その、なんだ、……ありがとう?」

「何で疑問形なんですか……?」

はぁーと溜息を吐きつつも、その顔を晴れ晴れとしている。
クスッと微笑むと、瞳を閉じて安堵の表情を浮かべた。

「仕方ないだろ……。こういうの慣れてないんだよ」

「まあ、なんとも先輩らしい理由ですねー」

しかし、まさか本当に貰えるとは思わなかったぜ。
昨日無駄に色々考えてたのが馬鹿らしくなってきてしまう。

そしてこういった経験、小町以外の異性からチョコを貰ったことがないからこそ気になった事がある。

そう、袋の中身だ。

「これ開けてみていいか?」

「へっ? こ、ここでですか? うーん、まあいいですけど……」

貰ったものだが、本人を目の前にして開けていいものか一応許可を取ってみる。

渋々といった様子の一色から許可を貰うと、綺麗に折りたたまれた袋のシールを少しづづ丁寧に剥がしていく。
その様子をじーっと見られているので、若干やりづらい。

なんかさっきからすっごいモジモジしてるし。か、かわいいとか思ってないよ?ほんとだよ?八幡ウソつかない。

シールを綺麗に剥がし終えて、袋の口を広げて中身を確認する。
黒色のパッケージに入っているのが見えたので、ひっくり返して掌の上に出した。

朝日に輝くパッケージには黒い稲妻・ブラックサンダーの文字。

確かにこれなら一目で義理と分かる潔さだな。うむ。本命貰えるなんて思ってないけど。
これは世の男子を勘違いさせない素晴らしいチョイスだ。

ふむふむやるなと感激しつつ、礼を述べておく。

「一色ありがとな。お前の気持ちは痛いほど伝わったぞ」

「えへへ、そんな恥ずかしいですよぅ……って、あれ!? 何で何で!?」

What’s happen!と言いたくなるようなあわあわと慌てた様子で、一色は鞄の中を確認した。
次いで、あっちゃーという声が漏れる。

居住まいを正し、右手を口にやりつつコホンとひとつ咳をして呼吸を整える。
こちらを再び見据えつつ言った。

「あのー先輩? 実は渡すの間違っちゃいまして……先輩のはこっちです」

そう言うと改めて青色の、どちらかと言えば水色に近い袋を渡してくる

そのまま空いている手で受け取った。

思わずどういうことだ?と怪訝な顔をしていると身振り手振り付きで一色から補足が入る。

「さっき渡したのはクラスの便利な……あっ、お世話になってる男子に渡す用なんですよー」

「あ……そうなの」

テヘペロッ☆とまたまた悪びれなく言い放った。
いやだから言い直さなくていいから。むしろ言っちゃってるし便利って。

せっかく最近いろはすに感心してたのに、これは評価を改めなくてはいけないかもしれませんね……。
台無しだよ!

「あ、あとですね先輩。さっきは思わず許可しちゃったんですけど……。出来ればわたしがいないところで
今度は開封してほしいかなー?って思いまして」

「? わかった」

簡潔に了解という旨を伝えると、一色は小さく礼を述べる。
その時予令が鳴った。登校までの猶予はあと僅かだと教えてくれる。

「名残惜しいですが遅刻しちゃうのでそろそろ行きますね。わたし下駄箱こっちなので」

1年生用の下駄箱を指さして言う。俺もそれに呼応するように言葉を返した。

「ああ。あとな一色」

「はい?」

はて?というか、ぽかんとした表情をして俺の言葉を待っている。

こんな事を言うのは無粋かもしれない。
ただの自己満足かもしれないけれど、それでも言っておきたかった。
勇気ある彼女に、臆病な俺なりのエールを。

「……頑張れよ」

「……はい!」

一体何に対しての言葉なのか。そのあまりに短いエールは無事一色に伝わったのか、大きくうなずき今度こそ
背を向けて歩いて行く。

太陽を受けた背中が、とても眩しく見えた

一色を見送り、2-Fの下駄箱へ向かった。
外履きを脱ぎ、内履きに履き替えて教室までの道を行く。

ふと左手に持ったままの一色からの贈り物に目を落とすと、何か四角いカードのようなものが入っているのが見えた。

誰も見てないよな……。
周りをざっと確認する。

もう予令もとっくに鳴り終えたからか、周囲に生徒は確認できなかった。

気になったので、教室に入る前に太陽が差し込む階段の踊り場で封を開けることにする。
綺麗な形のチョコレートクッキーと、案の定ピンク色の紙のようなものが入っている。

中に手を入れて件のものを掴もうとするが、2つ折りの小さなものなので掴みにくい。
器用に指だけでつまむように取り出すと、折り目に合わせて紙がはらりと開いた。

女の子らしい丸文字で、短いメッセージが書かれているのがすぐに目に入る。

左から右に目をめぐらし、内容が頭で理解されると、瞬間顔が熱くなる。

「反則だろ……」

独り言が思わず口をついて出てしまった。マフラーを片手で緩ませパタパタと扇ぐ。
それでも顔の熱はなかなか引いてくれない。

誰にも見られないように右手で口許を隠しながら教室へ急いだ。本令がもう鳴ってしまう時間だ。


何かを伝える方法は色々ある。今回のケースなら気持ち。

直接声に出して伝えることもあるし、今回のようにメッセージカードや手紙を送るのも一般的な方法だ。

だが、得てしてうまく伝わらないことも多い。
伝えたいことが多ければ多いほど、要点をかいつまんでわかりやすくしてやる必要がある。

大事なのはシンプルさ。
一言に気持ちを詰めること。過度に装飾された言葉は必要ない。

そういう意味ではこのメッセージカードはお手本だな。
本当に、あざといやつ……。




『大好きですからね♪ せーんぱい!』


可愛い後輩のしたたかな笑い声が聞こえた気がした。


―――――
―――
――

バレンタイン当日の教室は昨日以上に落ち着かない空気、というかピリピリした殺気までもが
漂いまくっており、常に冷静沈着でクールなニヒルを気取る俺もさすがに限界である。

おかげで休み時間の度に外に出ては自販機まで行って無駄に往復してきたり、行きたくもないトイレに行って時間をつぶしたりもした。
午後を迎えた今となっては暇つぶしの限界を超え、もはや机に突っ伏すしかない。

左目で教室内の様子を確認する。

この空気を作り出している一端を担っているのは葉山隼人と言える。

休み時間になるたびに他クラスの女子がクラスを訪れ、葉山にチョコを渡しているからだ。
瞬く間に大き目な手提げ袋がチョコレートで埋まっていく。それ全部食うの?死んじゃわない?

「マジぱねーわー隼人くん。ぞれ何個目よ?モテすぎっしょ! チョーうらやまだわー」

「それな」

「はは、そんなことないよ」

葉山がチョコを貰うたびに戸部がいつもの調子で茶化す声が教室に響き、大岡だが大和だか、あれどっちだっけ?それに同調する。

戸部は何か言うたびに海老名さんのほうをチラッチラッ見ている。なんて分かりやすいんだ……。
海老名さんは気が付くことなく、いや気が付かないフリだろうか?由比ヶ浜と談笑を続けていた。


しかしそんだけチョコ貰っといてモテてないって俺はいったい何なんだ。
もはや人間じゃない何かにカテゴライズされそう。

あ、でも今年はすでに小町以外に一個貰ってるわ。
なんとか人間は辞めずに済みそうだ。本当にありがたいろはす~。

「戸部ぇ、あんたうるさい」

「あ、優美子マジごーめんって! 怒らしちった? 反省しまくりんぐだわ~」

「黙れ」

「うぃ……」

あれだけうるさかった戸部をシュンとさせるとは……。
上述の教室の空気をピリピリさせている最大要因は三浦優美子だろう。

なんせ、女子が葉山にチョコを渡すのを邪魔はしないまでも超ガン付けまくりんぐなのだ。
あ、戸部の口調が移った。っべー!マジベーわ。
三浦のプレッシャーでたじろぎすぎて渡せない女子とかもいたし、あーしさん半端ないっす。
プレッシャーかけちゃうとかニュータイプかよ。

そんな事を考えていると、また顔も名前も知らん女子の2人組が入って来て葉山にチョコを渡す。
受け取る葉山の顔を見やると、いつもの柔和な笑顔を浮かべてはいるものの、どこか困っているようにも見えた。

三浦の無言のプレッシャーに押し出されるように2人組は教室を出ていくと、戸部が葉山の持つ、受け取ったばかりのチョコをまじまじと見つめながら再度茶化し始める。

「かー、隼人くんまーた貰っちゃってるじゃん。去年より多いんとちゃう?」

反省していない様子の戸部に三浦がキッと睨みつける。

葉山はその様子を見て苦笑しながら言葉を発する。
その笑みは届かぬ何かを想っているようで、声には僅かだが諦観が滲み出ている、そんな気がした。

「そうだな……ただ、数じゃないんだ。俺が本当に欲しいのは……」

「隼人くん? どーしたん?」

最後の方は声が小さく、こちらの耳にははっきり届いてこなかった。

それでも何となくニュアンスは伝わった。

葉山は視線を教室内をめぐらした後に、こちらの方をじっと見つめてくる。こっち見んな。

話を聞いていたのがバレただろうか?まぁばれても別に困ることはない。それに、あんな大声で話す方が悪いのだ。

それよりまずいのは……あれだ。
腕を枕にして、完全に机に突っ伏すスタイルに変更しておく。
あれの相手をする気にはさらさらなれない。

「ぐ腐腐……隼人君の意味ありげな視線がヒキタニ君に……。俺が本当に欲しいのは女の子のチョコじゃなくて
お前のチン……ぶはっ!!」

「海老名マジで擬態しろし」

「あはは……」

危惧していた通り、腐のオーラの持ち主に目ざとく発見されてしまった。

三浦は慣れた様にポケットティッシュを取りだすとオカンっぷりを発揮して垂れてしまった鼻血をふく。

それでも未だ妄想世界から帰還しない海老名さんを、由比ヶ浜は引き笑いで見ている。
まあ、知り合い同士がそうなってるのを想像して普通にしている方がおかしい。

勝手にカップリングするのはやめていただきたい。許可を取られても絶対に嫌だ。
はぁ、もう諦めて寝ることにしよう。

目を閉じて暗闇の中で思考を巡らす。

あいつが本当に欲したものは何だったのか。今日という日を考えれば、チョコ。

それも葉山が想いを寄せるYというイニシャルの持ち主のものだろうか。
そして、あの諦観に満ちた顔が表わす意味は?


これに関してはいくら考えたところで答えが出るものでもない。

俺は葉山ではないし、誰にもなることなんて出来ない。故に人の考えていることなんてわからない。
言葉の裏を読んで、計算して、予測を組み立てることは可能だ。
それでも正確性には欠ける。結局わからないことだらけなのだと突き付けられる。

何でも持っていると思っていた完璧な彼にも強く欲するものがある。

何かを欲するということは、それを持っていないから。
持っていないから手に入れようとするのだ。もがいて、苦しんで、手を伸ばす。
伸ばした先には掴むものなどないかもしれない。
それでも欲する葉山はとても泥臭くて、ただの人間らしかった。

そんな考えに耽りつつ、最後の休み時間を消化していった。

時は放課後。
部活に行くものもいれば、友達と連れ立って帰るものもいるし、教室でたむろしておしゃべりに興じるグループもいる。

その括りで言えば、俺は部活に行くグループに属していることになる。
こんな俺だってグループには属しているのだ。

さらに言えばクラスに属し、学校に属し、あとは地球人というカテゴリーにも何とか属している。俺のグループって大枠すぎないか。

無駄に壮大な思考を頭の隅に追いやり、部室への道を一人で歩く時の速い歩調で進む。

由比ヶ浜はグループ内でおしゃべりをしていたので、邪魔をするのも悪いと思い一人で教室を出ることにした。
自分の知り合いが誰かと話しているときに割り込んで行く時のドキドキ感は異常。
え、お前誰?みたいな目が痛くて仕方ない。

俺には知り合いも少ないからそんな経験はほぼないとは言えるのだが。

部室に到着し、右手でドアを開け放とうとして力を込める。
いつもはするりと開かれる扉に、本日は固い抵抗を感じた。

その抵抗の正体が、部室にかけられた鍵なのだと気が付くのに時間は要しなかった。

早く来すぎてしまっただろうか?
確かに平素よりはやや速いペースで来たが、今まで部室が開いていなかったことはなかった。

そのまま体の向きを変え、部室前の扉にとんと背を付けて雪ノ下の到着を待った。

廊下の窓から西日が差しこみ、眩しさから目を細める。
滲んだ赤い夕陽がじりじりと高度を落として、地平線の彼方へ沈み込んでいくのをぼーっと
目で追い続けていると、間も無く由比ヶ浜がやって来た。

「やっはろーヒッキー。なんで外で待ってるの? 中入ろうよ」

「鍵が閉まってんだよ。だから雪ノ下待ちだ」

「え、ゆきのん来てないの? 珍しいね~。なんかあったのかな?」

そう言うと由比ヶ浜は携帯を取り出し、何かを確認しだした。

恐らく雪ノ下からのメッセージか来ていないかを確認しているのだろう。

あいにく彼女の連絡先は由比ヶ浜しか知らないので、自然手持無沙汰で回答を待つだけになってしまった。
こういうことは今まであまりなかったので意識していなかったが、雪ノ下と俺の通信手段は未だない。

クラスも違うので部室や、廊下ですれ違う時に直接話すだけだ。
なのでこうした事態ではもっぱら由比ヶ浜頼りになってしまう。

連絡先を知っているから友達とか、まったくそういうことではない。
ただ少し歯がゆい、そんな感情を抱いた。


「うーん特にメールとかもないし……どうしよっか?」

「……とりあえず職員室行って鍵だけ借りてくるか。平塚先生に言えば大丈夫だろ」

雪ノ下がこの時間になっても現れず、遅刻する旨や部活中止の連絡もない。

普段の彼女を知る身としては違和感を覚えることばかりだ。

だからといってここで待っていても仕方がない。
俺の提案に由比ヶ浜もうん、と首肯する。
連れ立って職員室までの道を歩き出した。

失礼します、と決まりきった挨拶をしつつ職員室の扉を静かに開ける。
目的の人物はすぐに見つかった。

自席で煙草を左手で持ち、煙を燻らせている。
ふーっと吐き出すと、少し疲れ気味な表情を浮かべた。

「すんません先生」

「おっ比企谷に由比ヶ浜か、珍しい。どうかしたかね?」

俺と由比ヶ浜が連れ立ってきたのに気が付くと、体をこちらに向けるようにくるりと椅子を回す。
火をつけてまだいくばくも経っていないであろう、まだ吸う余裕のある煙草を灰皿に押し付けて火を消した。
フィルターに残る薄紅色のリップが妙に艶めかしい。

「ゆきのんってこっち来ませんでした? 鍵が開いてなくって……」

「ああ、そういうことか。雪ノ下は君たちにまだ何も言ってないようだな」

ピクリとその言葉に反応する。やはり何かあったのだろうか。
由比ヶ浜と顔を見合わせるが、彼女も首を横に振って知らないというポーズをとった。
そうなればもう聞くしかない。

「どういうことっすか?」

「うーん、言っていいのか? いやでもなぁ……」

うーんと唸るだけでいまいち正鵠を射ない、そんな態度だ。そんなに言いにくいことなのだろうか。
しばしの黙考の後に、うんと決心をつけたように先生は話し出した。

「実はだな、雪ノ下は午後の授業中に体調不良を起こしてな……」

「えっ! ゆきのん大丈夫なんですか!?」

「まあ落ち着け由比ヶ浜」


話途中に割り込んでしまった由比ヶ浜をなだめる。心配をする気持ちはわかるが、今は正しい情報を得る事だ。
情報を得た上で、最善の行動をする必要がある。

ごめん、と呟くと、再び先生の話を聞く体勢を作る。先生は俺たちを交互にしげしげと眺めつつ言葉の先を続けた。

「……それでだ、今は保健室で眠っているはずだ。私が見た時は辛そうだったからな、君たちに連絡を入れる余裕があまりなかったのかもしれん」

「……体調不良ってのは具体的にどういう感じなんですか?」

体調不良と言っても、それではただ単に体調が万全でないことを示しているだけだ。
雪ノ下の症状が気になり問いかけるが、横から由比ヶ浜に鋭く射すくめられた。

「ヒッキー? ちょっとデリカシーないかも」

「はぁ?…………そういうことなの?」

少し考えると由比ヶ浜が何を言いたいのかわかった。

家族に姉や妹がいるやつならわかりやすいかもしれない。
気恥かしさで首筋を抑えていると、俺たちの会話を聞いていた先生がまるで面白いものを見たかのように、気さくに笑いかけてくる。

「はは、そういうものではないよ。ただ少し熱があるだけだから安心したまえ。最近寒かったから、その影響かもしれん」

確かに昨日はもの凄く寒い1日だった。それで風邪を引いてしまったと、なるほどそういうことか。

雪ノ下細いもんなー、主にどこがとは言わないけど。
体脂肪少ないアスリートとかは風邪ひきやすいっていうもんな。
体の一部に立派な体脂肪を蓄えてるこいつは元気そうだし、と由比ヶ浜を見やる。

「どしたのヒッキー?」

「いんや何でも。それで、先生。保護者に連絡とかは行ってるんですか?」

ふと気になって尋ねてみた。あいつは一人暮らしだし、帰りの交通手段のこともある。保健室で寝込むくらいなら尚更だ。

「それ何だが……こちらが電話しようとするのを頑なに拒んでな。自分で電話はするからいいです、と聞かないんだ」

「ああ、そういう……」

さてどうしたものか、と困ったような呟きが聞こえた。

何となくその光景は想像できた。雪ノ下が安易に家族に頼るとは思えない。
本来家族にこそ弱みを見せても良いのだと思うが、彼女は逆だ。

弱みを見せないことに必死になっている。隙を見せればやられるとでもいうような、まるで狩られてしまわないような必死さだ。
彼女にとっての外敵から身を守るバリケードが、あの一人暮らしのマンションのようにも思えてくる。

そして自分で電話するというのも恐らく嘘だ。体調がある程度回復し次第、一人で帰ろうという算段だろう。

「ゆきのん……電話とかしなそうだよね。家族とあんまり仲良くなさそうだったし・・・・・・」

「……だな」

短く同意する。由比ヶ浜も俺と同様の考えを持っているようだった。

こいつはこいつで、友達だから当たり前のことなのかもしれないが、雪ノ下のことをしっかり見ている。
思考の共有は済ませた。ならばあとは行動するだけだ。

「見舞いに行くのは構わないですよね?」

「別にかまわないが、真っ先に君が言い出すのは意外だな。部活が休みになったぜラッキーとか言いそうなのに」

「そこまでクズじゃないっすよ……」

俺ってそんな薄情な人間に見られてるのかしら?根性が曲がってるだけで情にはあつい……かどうかは、うん微妙だな。

少なくとも全員にはこうはならない。
比較的近しい人間限定だな。小町とか、戸塚とか。

「軽い冗談だよ。今の君はそんなことは言わないのは知っているからね。行ってあげなさい、その方が彼女も喜ぶだろう」

「……うす」

子の成長を喜ぶ親のような、優しい微笑みだった。つい照れくさくてぶっきらぼうに答えてしまう。

確かに平塚先生くらいの年なら子供がいてもおかしくないな。そういう意味では年相応な、大人の女性の顔だ。

これだけ生徒思いのいい先生なのにな、もったいない。早く誰か貰ってあげてくれないかなー?

「比企谷? 今何かの波動を感じたぞ?」

「ヒッ……なんでもありません……」

ゴゴゴ……と背景にオーラが見えた。新手のスタンド使いかっ!!

「まぁいい。……そうだ、これを持っていきなさい」

「?」

掌を出せというジェスチャーをされたので、疑問に思いつつ黙って右手を差し出す。
開いた手の上に四角い物体が落とされた。こ、これは……。

「チョコ……っすか」

「今日はバレンタインだからな。由比ヶ浜、君にもあげよう」

「わー! ありがとうございます!」

まさか先生からも貰えるとは……。この瞬間、過去の記録(1個)を塗り替えました!
その1個は毎年毎年健気に作ってくれる小町のものというのは言うまでもない。

由比ヶ浜は元気に礼を述べ、うやうやしく受け取ったチョコレートを背負ったリュックにしまい込んだ。

「礼には及ばんよ。おっと、では私はこれで」

他の先生に声を掛けられ、平塚先生は書類を手に席を立った。
職員室内の様子を見るとどうにもせわしない。これから会議でも始まるのだろうか。
由比ヶ浜は再びリュックを背負い直し、こちらを覗きこむように意思を問う。

「じゃあ……行くよね」

「そうだな、顔くらい見せるつもりだ」

問いかけに首を縦に振り、俺の意思を伝えた。あちらもうなずきを返す。
そのまま揃って職員室を出て、雪ノ下のいる保健室へ向かった。


―――――
―――
――

職員室から歩いて間も無く、目的の場所は見えてくる。

保健室は奉仕部の部室と同じ特別棟に設置されている。
廊下にいても、保健室独特の消毒液の匂いが鼻についた。

由比ヶ浜が扉を控えめにノックをして、中の人間に対して入室の意を告げる。
しかし、こんこんという軽い音が響いたきり、何も返答はない。
由比ヶ浜がやや困ったように、意見を求めてくる。

「どうしよっか? 寝ちゃってるのかな?」

その可能性は大いにあり得る。体調が悪い人間がやることは寝ることくらいしかないはずだ。

もしくは本を読んだり、携帯ゲームをしたり……これって普段の俺じゃないの?
つまり逆説的に、俺は常に体調が悪いと言える。だからもっと労ってくれ。

「静かに入れば大丈夫だろ。そーっとな」

「うん。そーっとね」

由比ヶ浜と目配せして、そろそろとゆっくり扉を開けて室内に入った。

保健室内は養護教諭が気を利かせてか、かなり暖かい空気に満ち溢れている。
冷え冷えとした廊下との温度差からか、ここは立っているだけでふわりと暖かい布団に包まれているようだ。

入って左側にベッドが並べられているのだが、その一番奥のカーテンだけが閉ざされているのがわかった。
そこにそろりと足音を忍ばせ近づくと、漏れるような規則的な呼吸音が耳に届く。

『やっぱり寝てるみたいだね』

『だな。起こすのも悪いから、起きるの待って挨拶して帰るか』

『そうだねー』

起こさぬよう小声で密談をすると、由比ヶ浜の顔がすぐ近くに見えた。

それは、ここで雪ノ下から治療を受けたあの時間を思い起こさせるような、息が顔をくすぐるような近さだった。
ふい、と顔を背けて誤魔化し手近な椅子を手繰り寄せて腰掛け、文庫本を開いた。

由比ヶ浜もそれに倣ってか、空いている椅子を持ってきて左隣に腰を掛けた。

やっていることは変わらない。

普段と場所は違うが、ここでも穏やかな時間が流れている。
結局場所が重要ではないのだろう。大切なのは、誰と共にするかだ。

ここに来て1時間ほど経っただろうか。
雪ノ下の浅い規則的な呼吸音が、心地の良い環境音のようにも聞こえる。

『ゆきのんずっと寝てるね~。どんなこと考えてるんだろ?』

『さあ? てか寝てる時に考え事なんてすんの?』

『え、しないの? あたし結構考えてるよ。朝ごはん何かなーとか。それで朝起きて食べたいなって思ってたメニューだったら超テンション上がるし!』

由比ヶ浜と顔を寄せ小声でやり取りをする。

普通寝てる時に何も考えられなくない?夢とか見るなら全然わかるんだけど……。
ふーんそういうもんなのかと考えていると、ぽつりとトーンを落とした呟き声が左から聞こえた。

『あとね……ヒッキーのことも……』

『はい?』

え、どういうこと?寝てる間も俺のこと考えてるってことなの?つまり……どういうことだってばよ。

俯いて保健室の床を見つめる彼女に、意を問う様にじっとした視線を向けた。

『言葉のままだよ。あたし、さ。ヒッキーのこといつも考えてるんだ。今なにしてるのかなーとか、なに考えてるのかなーとか?
授業中の暇な時とか、部活中とかもさ。色々ね 』

『……そうか』

やめてくれ、そう思っても口に出ることはなかった。いや口に出すことができなかった。
それほどまでに由比ヶ浜の顔から目が離せない。言葉に射すくめられてしまう。

『でもね、考えても考えても、やっぱりわかんないことの方が多くて……人の考えてることは簡単にはわからないって、もうわかってたはずなのにね?
それでも、あたしはヒッキーのことわかりたいって思うんだ』

『…………ああ』

やめてくれ。口が渇いて声がうまく出せない。
ゆっくりと、本当にゆっくりと言葉を紡いでいく。
わかって欲しい。理解されたい。その想いが滲み出る。

『あはは……何言ってんだろあたし。でもね、大変だけど、それでも“わからない”で考えを終わらせっちゃったら、やっぱりダメなんだと思う。
ヒッキーのこと知りたい、わかりたい。それで……あたしのこともわかって貰いたい。この想いはあたしの特別なんだ』

視界が靄が掛かっているようだ。何故か景色が滲んで見える。

『だから、ね……』


カバンのチャックを広げて、中から綺麗に包装された箱を取り出す。
一切音が聞こえない保健室内に、その音ははっきり響いた。


「いつもありがとう。あたしの傍にいてくれて。大切な想いを教えてくれて。本当に、ありがとう」

綺麗な笑顔だった。
溢れた涙が、一筋流れる。




そのまま頬を伝ってスラックスを濡らした。

保健室内は静謐な空気が流れていた。
時たまエアコンが暖かい空気を流す、僅かな駆動音が聞こえるだけだ。

由比ヶ浜からチョコを受け取った後お互いどうにも余所余所しくなってしまい、現在は一人待ちぼうけだ。
飲み物を買ってくると先ほど出て行ってから、まだ帰ってくる気配はない。

今しかないか。

「雪ノ下、もう起きてるだろ」

カーテンの内部で、ごそと人が動く気配があった。
先ほどまで聞こえていた浅い呼吸はもう聞こえない。
反応を窺っていると、カーテンを通してくぐもった声が響いた。

「……ええ」

やはり起きていたか。予想通りといえばそうだ。
少し鼻にかかるような声での返答で、彼女が風邪をひいていること再確認させられる。しかしカーテン挟んで会話するのも妙な感じだ。

向こうが透けて見えそうなカーテンなのに、静けさと部屋の暗さも相まってやけに重苦しく感じてしまう。


「いつ頃から起きてたんだ?」

「由比ヶ浜さんがあなたに何かを渡す前、くらいかしら」

嘘は言っていないだろう。ちょうどあの時くらいから寝息が聞こえなくなっていたと思うから、辻褄は合う。
それに、こんなことで嘘を吐くメリットはない。


「起こして悪かったな。うるさかったか?」

「そうでもないわ。少し微睡んでいたらあなた達の声が聞こえて、それで起きたの」

「そうか。体調は?」

「今は熱も下がってきたみたい。少し楽になったわ」

「なら良かった」


そこで会話が一旦途切れた。
ただでさえ会話は苦手なのに、カーテン越しで表情が見えないというのはここまで話しづらいものなのか。
目は口ほどにものを言うというが、視覚的な情報も会話には重要な要因となるらしい。

何かを思い出したのか、ふいに雪ノ下が口を開く。

「こちらこそごめんなさい……連絡が遅れてしまって。待たせたでしょう?」

そう言って反省の弁を述べる。表情は窺えないが、声の調子からなんとなくどんな顔をしているかは推察できる。
こういうところは本当になんというか律儀で、雪ノ下らしいなと微笑んでしまう。

「部室にいてもここにいても本読んでただけだからな。お前が気にすることでもねーよ」

「……そうね。あなたらしいわ」

くす、と笑い声が響いた。
そこから再びの沈黙。今日の雪ノ下は刺がなくて少しやりづらいなと、頬をかいた。
体調が悪いようだし、話すこともないならと椅子から腰を上げた。

「それじゃ、もう帰るわ。あんまりここにいても悪いしな。そのうち由比ヶ浜も戻ってくるから」

「待ちなさい、比企谷くん」

そう言って扉の方に向かって歩き出した俺を、雪ノ下の静かな少しくぐもった声が押しとどめる。
何だろうかと、その場で脚を止めて続きを待った。

「顔くらい見せていきなさい。見舞いに来たのなら、病人に顔を見せるのが最低限のマナーだと思うのだけれど」

え、そういうマナーってあるの?八幡わかんない。

雪ノ下が言うならきっとそうなのだろう。きっと間違いなんかじゃないはずだ。
彼女の言う事だから無条件に信頼するわけではない。

ただ、行動するには充分すぎる理由を貰い俺は動いた。

カーテンの前まで進む。中には人の気配が当然ある。
薄布越しに確認を取った。

「開けるぞ?」

「ええ」

はらりとカーテンを開ける。こんなに薄いものなんだなと、ふと手で触って感じた。
中に入ると、久方ぶりに見る彼女の姿。ベッド上で上半身を起こしてこちらを待っている。

熱でやや上気した顔。ベッド脇の机を見れば綺麗に畳まれて置かれたブレザーとカーディガン。
3番目のボタンまで開けられた、リボンタイのついていない真っ白なブラウス。
寝汗をかいたせいだろうか、僅かに肌に張り付いている。ちらりと普段は目につかない彼女の鎖骨まで見えてしまう。

制服を着崩さない彼女が見せるその姿は、とても新鮮で違う一面を伝えてくる。

「立っていないで座ったら?」

正直顔を見せたら帰ろうと思っていたので、この提案は意外だった。

特に断る理由もみつからず、ベッド脇の丸椅子にゆっくりと腰を降ろす。

もう静かに行動する理由もないのに、無意識下でそういう動き方になっているのが少し可笑しかった。
椅子に座ると、ベッド上にいる雪ノ下と視線が同じくらいの高さになる。
目を合わせて懸案事項を投げかけた。

「そういえば家に連絡は入れたのか?」

「…………いえ、特には」

合わせた綺麗な目がすーっと横滑りした。

案の定というか、予想通りだから特に驚きはない。
雪ノ下はやましいことがあるような、そんな態度でこちらの方を真っすぐ見て来ない。

「平塚先生には自分で連絡入れるって言ったんだろ?嘘になっちゃうぞ」

「嘘にはならないわ。これから電話すれば」

「屁理屈だ……」


屁理屈だよね?雪ノ下がそういうことを言うのはあまり見たことがない。
先ほどから随分楽しそうにクスクス笑いが止まらない。熱に浮かされちゃってるのかしら?

「あなたはいつもこんなことばかり言ってるのだから、少しは聞く側の立場にもなってみなさい」

「そうっすか……」

それから2つ、3つ会話をして、再び静かな時間が流れる。

俺も彼女も多弁ではない。言葉が少なくて間違えることもあった。

ただ、この沈黙は不思議と苦痛じゃない。それを彼女も感じているかはわからないのだが。
目の前の穏やかな笑みを見れば、きっと悪くは思ってないのだろう。


「ところでチョコは何個貰ったのかしら?」

「……お前がそういうこと聞いて来るの初めてだな」

「あら、それはこの前のお返しのつもりかしら? 他意はないわ。純粋な興味よ」


マラソン大会の日の保健室でのやりとりの意趣返しのような気持ちで言葉を返したが、それはしっかり伝わったようだった。
他意はないと言いつつ、雪ノ下の目は意地悪そうに輝いている。
俺はふぅと息を吐くと右手の指を3本すっと立て数をアピールした。

「聞いて驚け……現時点で既に3つだ。もうすぐ4つになるから歴代の記録を大きく塗り替えるな」

胸を張って自慢気に答える。実際嬉しいから仕方ない。
家に帰って小町から貰えればそれで4つになる。すごいな今年の俺。去年の4倍だぞ、4倍。

「あら、すごいじゃない? 自称ぼっちのモテ谷くん」

「おいなんだそのあだ名」

目を丸くして心底感心したような声で変なあだ名をつけてくる。少しだけ言葉に棘が垣間見えたのは気のせいだろうか?
こちらもチクリと反撃する。

「で、お前は? 誰かにあげたの?」

ニヤリと少し意地の悪い顔になっている自覚があった。
雪ノ下は少し視線をこちらから外して窓の外を眺める。何かを憂うような表情に思わず惹きつけられる。

「私は……これから渡すわ」

「へっ?」

表情に見入っていたのと、その予想外の答えに変な声を上げてしまった。
雪ノ下はむっと不機嫌そうに端正な顔立ちを歪めて文句を垂れる。

「私がバレンタインに贈り物をする事がそんなにおかしい? 今年はあげるつもりって部室でも言ったじゃない」

「ああ、そんな事言ってたな」

いけないいけない忘却の彼方だったぜ。刹那で忘れちゃった☆

確かに部室でバレンタインの話題になった時に今年は少し考えているような事を言っていた事を思い出した。

「まあ、あれだな、お前から貰えるやつは幸せもんだな。料理とか上手いしさ」

何となく思ったことを口に出してしまった。

夕暮れが迫り薄暗い室内、エアコンから流れる暖かい空気、何より2人きりというこの状況が心を弛緩させている。
気を許している、のだろうか。

何よりも手拍子の会話が苦手だ。つい言葉の裏を読んでしまうし、真意を悟られないように言葉を濁してしまう。
今まで気の置けない友人は持ったことがない。
だから、わからなかった。

暫時心ここに在らず状態の俺の顔の前に、いつの間にか綺麗な包装紙に包まれた箱が差し出されていた。
その元を辿れば、雪ノ下が穏やかに微笑みを浮かべている。

「そうね、比企谷くんは本当に幸せものね。私からチョコレートが貰えるのだもの」

「……俺に?」

声が詰まる。
まったく期待していなかったと言えば嘘になる。期待するのは怖いことなのに、可能性を捨てきれなかった。
だから、つい素直に受け取れなかった。
そんな卑屈さに呆れたような、それでいて優しさに満ちた声が、狭い室内にこだまする。

「せっかくあなたのために作ってきたのだから、素直に受け取りなさい。……それとも迷惑、だったかしら?」

「迷惑、なんかじゃない」

「え……?」

自分でも驚くほど芯の通った声が出た。
常とは違う様子に、雪ノ下は僅かばかりに戸惑いの声を漏らした。こちらをじっと見据えてくる。

手はベッドの上に両手を揃えて置かれており、答えを聞く体勢は整っていることを知らせているようだった。
俺は先ほどの言葉をそのまま繰り返す。

「迷惑なわけあるかよ」

今まで、人から色々な気持ちを向けられることがあった。
蔑視され、嘲弄され、軽侮され、卑しまれ、語ればきりがない。

悪意の奔流に流されぬよう、自己という杭を地面に突き刺し必死に耐えていたと思う。

俺は俺なりに考えて、選んで、そうして生きてきた。
その生きてきた結果として、向けられた悪意に屈してしまったら?
俺は今までの自分を否定することになる。
自己否定。それがたまらなく嫌だ。とてつもない屈辱だ。
自分が自分を肯定してやらないなんて間違っている。

そんな負の感情にまみれた俺に、今日だけでどれだけ暖かな感情が向けられただろうか。

曰く、バレンタインは異性に親愛の情を伝える日だという。
親愛の情。辞書通りならば、親しい人を大切に想う気持ちのことだ。

そんな気持ちを向けられて、迷惑だなんて思えるはずがなかった。


「あんまこういうの慣れてないから……まぁ慣れててもうまく言える気がしないけど、その、あ、ありがとう」


どんどん自信を失くして小さくなっていく声で何とか言いきった。
俯いて顔を見られないように、がしがしと側頭部を掻いて誤魔化す。
こんな簡単なお礼の言葉を伝えるのにこんなに勇気がいるとは、告白とかしたら死んじゃうんじゃないの俺?

くす、と小さな笑みが零れた気がした。

「……じゃあ、はい」

そちらを見やれば、先ほどと同様に包装された箱がこちらに差し出されている。

「……おう」

今度はしっかりと受け取る。

落としてしまわぬように、失ってしまわぬように、鞄にしっかりとしまい込んだ。
鞄を改めて地面に置き直したタイミングで、計っていたかのように保健室の扉が開けられた。

「……ゆきのん起きたかな? あれヒッキーどこ行ったんだろう?」

由比ヶ浜からはカーテン内にいるこちらの様子を確認することはできない。そのせいで気が付かないのだろう。
カーテンから少しだけ顔を出し、位置を知らせた。

「由比ヶ浜こっちだ」

「あ、やっぱゆきのん起きたんだね。よかったぁ」

由比ヶ浜がカーテン内に入りやすいよう、入口のカーテンを広げたまま抑えておく。

ありがと、とこちらに小さく目配せし、雪ノ下に近づいていった。
しかし、この狭い空間内に3人。しかもうち2人は女子だと、ものすごく甘ったるい香りが漂っている。

何で女子ってこんな良い匂いするんだろう?
女の子独特ともいえる匂いに内心ドギマギしていると、心配そうな声で雪ノ下に声が掛かる。

「やっぱちょっと顔赤いね。もう大丈夫そう?」

「ええ、寝ていたおかげで楽になったわ。由比ヶ浜さんにも迷惑をかけてしまって……ごめんなさいね」

「ぜーんぜん迷惑なんかじゃないよ! あ、そうだゆきのん……」

「……?」

そう言って由比ヶ浜は雪ノ下にどんどん顔を近づけていく。

垂れた髪をすっと片手で耳に掛けてそれはまるで接吻でもするかのようなうっとりとした表情だ。
なっ!何をするだァーーーーッ。ガチゆりか?ガチゆりなのか?

実際キスなんてするわけもなく、雪ノ下の耳元でこそこそと話しを始めた。
両手で声が漏れぬよう耳をしっかり覆っている。

聞かれたら困る話なのだろうか?ならば口をはさむ様な無粋な真似はしない。

そう思って雪ノ下を見ていると、由比ヶ浜が何かを伝えた瞬間僅かに目を見開いた。
次には遅れたように、顔に紅が差す。
由比ヶ浜と目を合わせると、こくりと頷いた。

それを見た由比ヶ浜は満足げに顔を離すと、両手を後ろに組んで満面の微笑みを向ける。

「良かったねゆきのん。本当に良かった……」

「……あなたには敵わないわ」

顔を見合わせると楽しそうにくすくすと笑い合う。
何なんだ一体……。そう呟いて両者を交互に見ていると、声が重なった。

「ヒッキーは気にしないの!」
「比企谷くんは気にしないで」

女の子同士の秘密の話に口をはさむのは確かに無粋な行為だ。
でも気になるものは気になる。
しかし、それに踏みこむには勇気が足りない。ただ勇気ばかりあって考えなしに踏みこむのも駄目だ。
踏み込み過ぎればただのウザいやつになってしまう。

要はバランスだ。空気を読むとも言っていい。
今回はそうだな、空気を読むとしようか。

「……おお」

日はすっかり暮れ、夜が近づいてくる。窓の外を見やれば、落ち葉がからからと地面の上をスライドしていくのがわかった。
どこかの隙間からかヒューヒューと風が漏れるように吹き込む音もする。今日も夜にかけて風が強くなってきた。
そんな冬らしい景気を目にしていても、不思議とここは暖かい。
暖房のお蔭だけではないと、はっきりとそう感じた。

―――――
―――
――

「さみぃな……」

「寒いね……」

自転車を押して、由比ヶ浜と並んでバス停までの道を歩く。

やっぱさっき暖かいと感じたのは暖房のお蔭ってのが多分にあるなと再認識させられる。えーそれでいいの?
寒いものは寒いのだ。それ以上もそれ以下もない。

あの後も引き続き話していると、様子を見に来た平塚先生と養護教諭に帰るよう促された。

雪ノ下は先生の車でマンションまで送られるらしい。俺も、と同乗したかったが自転車を置いて帰ると通学に不便なので
しぶしぶ諦めることにした。

結局あいつは家族に頼ろうとしなかった。

駄々をこねる子供のように電話を拒否する雪ノ下を見るのは中々新鮮だったが、そこまで抵抗するのはやはり上手くいっていないんだろう。

だからと言ってそこに深入りするのはおかしな話で、それこそ正に空気を読めというやつだ。

家族の問題に他人が顔を突っ込むのと、女の子のお喋りに口をはさむのでは訳が違う。
だから、基本は待つしかない。待ちガイルだ。ちょっと違うな、うん。

待って、待って、待ち続けて。それで向こうが話してくれたら、それでいいと思う。

校門を出て、停留所まではあと少しだ。
いつものように他愛もない話をしつつ、のんびりとしたペースで進んでいく。

停留所に到着し、由比ヶ浜が立ち止まる。
自転車の左レバーを握り込むと、キィと微かなブレーキ音が無人の停留所に響いた。

由比ヶ浜はくるりとその場で回ると、俺と真正面に向き合う格好になった。

「ヒッキー、ゆきのんにも貰ったでしょ?」

「……貰ったけど、お前に言ったか?」

正直もうバレンタインの話は勘弁して欲しかったが、聞かれたことには答えよう。
何を?とかそういう煩わしい事は聞かなかった。今日この日という限定ならば、聞かずともわかる。

うーんと考え込むと由比ヶ浜は口を開いた。

「言われてないけど……まぁいいじゃんいいじゃん!」

「何なんだ一体……」

あははとバシバシ肩を叩いてくる。過剰なボディタッチはやめなさい、勘違いが止まらなくなっちゃうだろうが。

そういえばと思いだしたことがあったので、由比ヶ浜の手を制しつつ尋ねる。

「そういや飲み物買ってくるって保健室出てったけど、やたら時間食ってなかったか?
自販機ならすぐ近くにあっただろ。結局飲み物買ってきてないし」

「うえっ!え、えーっと……」

保健室から歩いて1分ほどのところに自販機は設置されているはずだ。そんなに時間がかかる道理はない。
それに戻って来た時に由比ヶ浜は手に何も持っていなかった。

飲み物を全て飲みきってから戻ってきた可能性もあるが、わざわざ寒い屋外でのんびりと飲んで帰って来るというのも季節柄不自然に感じた。
そしてこのしどろもどろな反応。

導かれる答えは決まった。

「……聞いてたのか?」

「ごめんっ!」

ガバッと頭を下げて謝る。やはりそうだったか。
ちょっとカマ掛けてみたつもりだったけど見事にビンゴしてしまったようだ。

「別に気にしなくていい。聞かれて困るようなことは話してないしな」

「でも……」

気にするな、と言われて、はい気にしないです、と言える奴なんていない。
そんな奴がいたら見てみたい。どんだけ面の皮が厚いんだよって話だ。

だから、そういう意味では由比ヶ浜の今のばつの悪そうな顔は正しい。
彼女のころころ変わる表情からは、本当に生きている人間らしさを感じさせてくれる。

「あー、ほらお前もチョコくれただろ。それでチャラだ」

ぶっきらぼうに一気に言い放った。あの保健室でのやりとりを思い出してしまい顔が熱くなる。
由比ヶ浜はきょとんとした顔になったと思うと、優しく微笑んだ。

「なんていうかヒッキーらしい励まし方だな、って思ったよ」

「いや別に励ますとかそういうんじゃ……」

ごにょごにょ言っていると、通りの向こうから路線バスがやって来るのが見えた。
交差点の赤信号で止まったが、到着までは時間の問題だろう。

「バス来ちゃったね。ほんとに今日はありがとう。ヒッキーはやっぱり優しいと思うよ?少なくとも、あたしはそう思ってるから」

多分ゆきのんも、と付け加える。
面と向かってそんなことを言われると、なんて返したら良いのかまったくわからず、当たり障りのない答えを返すしかなかった。

「……どういたしまして」

バスが到着した。ハザードランプを点灯しつつ、停留所にぴたりと停車する。
先に前方の降り口が開き、運賃を清算しつつ数人が降りていった。

今度は乗車口が開き、由比ヶ浜が乗り込む。
車内アナウンスが備え付けのスピーカーから聞こえた。

夜間で道が空いているせいか、出発予定時間前に到着をしたため時間調整を行うらしい。
時間を確認すれば、もうあと1分も無いくらいか。

「ヒッキー」

「ん?」

入口に立ったままの由比ヶ浜を見る。

「あたしも頑張って作ったからさ……その、ちゃんと食べてね?」

不安そうな顔だった。単純に、そんな顔は見たくはないと思った。
明るく楽しそうに笑っているのが彼女らしいのだから。

そんな普段の顔が見たくて、俺も普段のように小馬鹿にしたように返す。


「そうだな。死なないように注意しなきゃな」

「あっもう!またあたしのことバカにしてるでしょ! バカヒッキー! ばーかばーか!」

「低レベルすぎるだろその返し……」


やれやれと呆れていると、アイドリングストップしていたバスにエンジンがかかる。
もうお別れだ。
扉から一歩離れて別れを告げる。

「じゃあな。また学校で」

「うん。またねヒッキー」

プシュという音とともに入口のドアが閉まり、彼女を乗せたバスは走り出した。

笑顔で、胸の前で小さく手を振る由比ヶ浜を 見えなくなるまでその場で見送った。
バスが角を曲がって完全に見えなくなってから、自転車に跨って家に向かって走り出す。

冬の夜道を行く。

自転車が小さな段差を越えるたび、それに合わせて鞄が跳ねる。
鞄の中には、渡す人それぞれの想いを込められた贈り物が詰まっている。

バレンタインの形は様々だ。
友チョコ、義理チョコ、はたまた逆チョコ、なんでもござれ状態である。
それは細かく枝分かれした木を想像させる。

枝分かれの数だけ、人への想いがある。

ではその幹は?枝葉が存在するのは根幹があるからだ。
バレンタインの根幹にあるのは、やはり……好意、だろうか。

今日彼女らが何を込めたのか、それを知る由はない。
人の気持ちなんて、他人がどれだけ考えたって正確に理解できるものじゃない。
それは自分が一番良くわかっている。

もしも、仮の話だ。

知ってしまったら?
俺はその時逃げ出さずにいられるだろうか?

逃げるなよと、そうどこかから聞こえた気がした。

かつて彼の背中に掛けた言葉が、自らを苛む。

逃げずに立ち向かうには勇気が必要だ。でも背中を見せて逃げるのは、もっと勇気がいるんじゃないか? 

だったら、俺の答えは一体何なんだろうか。


未来を憂いても、過去を悔やんでも、結局何がわかるわけでもないし、何も変わらない。

だったら、今は少しくらい浸っていたいと思った。


このぬるま湯のような、幸せな気分に。



<了>

以上です。
感想くれた方はありがとうございました。


ところでボタン3つも開けたらおっπが見えると思うんですがそれは

え、伸びたんすか?
公式バレンタインと内容被ったら嫌だなーと思って頑張って書いたのに……
もちろん僕はわたりんじゃないです。

>>94
2つか3つか悩んで、3つにしました。気にしないで下さい。

特に書くこともないのでHTML化依頼出します

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