杏「雲の水仙」 (28)


こんなはずじゃなかった

この言葉は、杏の人生そのものだ

だって世の中にはめんどくさいことが多過ぎる
後で後悔することなんて、山程ある

例えば、アイドル
なんだこれ、印税で暮らせて楽になるんじゃなかったのかこれ
毎日頑張って働くなんて、杏の性にはあってない

……いやまぁ、アイドルが嫌いってわけじゃないし
のんびりと、本当にのんびりとやるのなら悪くはないかもなーなんて思っているけどさ

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それでも、ブレたくはない
仕事は杏にとって最大級の敵であって、杏はアイドルでも自宅警備員系アイドル

だから出来るだけ逃げたり甘えたりするんだ
隠れたり、匿ってもらったり、飴もらったり、おんぶされたり、引きずられたり

今日もいつも通りそんな感じ
プロデューサーからのお仕事のお誘いを無視して、優雅でもなんでもない小さなボロアパートのふかふかベッドの中

ああ、柔らかい
お布団には魔法がかかっている
いつまでも永遠にこの中で快適に過ごせる魔法
素敵なやつだなこいつ


ピンポーン


「……」


時計を確認する
奴に指定された時間を越えて約三十分程度
針をくるくる回して一時間前にしてみる


それでも響く二回目のチャイム


魔法は簡単に解けた


部屋の中に反響する間の抜けた高い音
チャイムなんて壊れてしまったっていい気がした、宅配使えなくなると杏は死んでしまうけど

まぁいい、ドアの外は不穏な空気が流れている
ここでドアを開けてしまうと不幸が訪れることなんて分かり切っている

だがそういうところはぬかりないぞ杏、なんたって一級のニートアイドルだ
自宅警備員にはいつだって、ドアの鍵という強い味方がいるんだ


……あ、あれ、鍵?


杏は鍵、どうしてたっけ
以前きらりが女の子の一人暮らしなんだからって、頬を膨らませながら怒っていた記憶だけがあって


遠くからガチャリと、ドアノブが回る音が聞こえる


……警備員も失格されたら、杏はどうやって生きていけばいいんだろう


「あー、んー、ずー……!」


近所迷惑になるんじゃないかってぐらい大きくて、低く太い響きが杏の体を震わせる


「いつも事務所には来てたお前が、ついに無断欠勤か!」


その声色はいつもより怒りの具合が強いように思えて正直ちょっと怖い、会いたくない

けど、このまま放置するともっと大変なことになりそうだ……とりあえず、玄関へ向かうしかないんだろう


「中に入るぞ、杏」

「へっ」


魔法が解けてもあったかいお布団を体から必死に剥がして、ゆっくり立ち上がろうとしていた
それなのに、靴の脱げる音が聞こえて足音が近付く


ちょ、ちょっと待ってよ


「ここ、乙女の部屋だぞっ! 勝手に入ってくるなーっ!」


別に杏は乙女らしい女の子じゃないし、散らかってるものも別に見られて困るものじゃない
それでも間髪いれず杏の部屋に入ってきた奴に戸惑う


「乙女? こんな汚い部屋でよく言えるな全く……」


余計なお世話だ、と
そう口を開こうとした時にはもう彼は目の前にいた
杏は慌てて目の前のお布団を手繰り寄せて体を隠す、なんとなくだけど


「寝巻きか、いや、いつもそんな服だったから判断しづらいな」


まくしたてるように続いていく奴の言葉
それは少し早口だ


「そのままでいいから早く準備して外へ出ろ、車で事務所まで行くぞ」


威圧してるような……いや、してるんだと思う
言い方が少し、気分悪い
こっちに何か話させる気がないような、そんな空気を感じたから

そりゃ、確かに怒らせたのは杏だけどさ


だからいつも通り言う
変わらないし、変える気もないこの言葉を返す


「働きたくない」

「ダメだ」


即答だし


「……言い方、いつもよりキツイよね」

「事務所にも来ないとは思わなかったからな」

「じゃあ事務所行ったら仕事休ませてくれる?」

「そういう話じゃ、ないだろう」


キレ長の彼の目は細められると瞳が見えなくなる
まるで蛇のような眼差しだ


ここはもう、引くべきかもしれない
杏だって空気ぐらいは読める
働くのは嫌だけど、怒られるのだって大っ嫌いだもん


でも、自分の部屋にいる彼を見た時に少し思った

自分の場所、ここに奴が存在しているという異物感
その感覚は杏も少し、おかしくしてる


「意地でも仕事させてくるよね、プロデューサー」

「当たり前だ、ただ、俺の仕事はお前らに仕事を与えるんであって……やらせるというわけじゃないはずなんだが」

「それならじゃあ、杏も考えがあるよ」

「なんだよ」

「プロデューサーが無理やり仕事させてくるなら……うーん、そうだ……」

「……無理やり犯されたーって、皆に言いふらしてやる」


軽口はなんだか錆びた釘のように尖った言葉になってしまった
奴は喋らない
ただじっと蛇の目で杏を睨むだけ

といっても、プロデューサーに睨まれることなんて日常茶飯事だ、怖いとか全く思わないし思えない

……あぁそうだ、もう少し意地悪をしてやろう


「もしくはね」

「杏をここで襲ってもいいよ、有給くれるなら」


怒った顔が崩れた
片手で額を叩いて困ったような、もしくは呆れたような顔……後者かなぁこれ


「鏡を見て言え」

「失礼な、杏はアイドルなのに」

「デカイやつだ体全体が映るやつ、発育不良」


発育不良とはなんだ、需要があるんだぞこれでも

そう続けようとした矢先に彼に体を持ち上げられた
お姫様抱っこやおんぶなんて可愛らしいものじゃない、横に抱えられる


「胸、胸触ってる! いしゃりょーをせーきゅーする……!」

「肋の間違いだな……それに触れてるのはお前の腹だ、人聞きの悪い」


手や足を振り回しても効果はなく、そのまま杏は連れてかれようとしてる
運ばれるのは楽チンでいいんだけど……またこんな流れか、もう飽きた、いや、飽きたというか気に食わない

ここ最近はずっとそうだ、奴は仕事のことばかり
杏は甘やかされてない、何回も甘えようとしてるのに全部無視される


「寝言は寝て言え、どれだけ甘やかしてると思ってる」


えー……

これで甘やかしてるなんて思っているなら杏を舐めてるよ
その気になれば杏のために死んでくれるぐらいには甘やかしてもらわないと納得いかない


「お前のために死ぬとかアホらし過ぎる」

「じゃあ、プロデューサーはどこまでなら杏を甘やかしてくれるの」

「仕事をくれてやるぐらいだ」

「……杏の知ってる甘やかしと違う」


それ以降、会話は無いまま杏は車の中に放り込まれた、もうちょい丁寧に扱え

いつだってそうだ、奴と杏の話は意味なんかない、ふわふわとした軽い言葉が交わされるだけ
それが心地よいものだというのは認めるけど、本音は全部何処かに隠れたまま、隠したまま


プロデューサーはどこまでなら甘やかしてくれるの
空中に浮かんだその言葉はやっぱりふわふわなままだったけど、消えることはなかった






「どこまでってなぁ」


事務所の一角、小さなソファーと小さな机
この部屋は相変わらず慌ただしい人ばかりで、この狭くゆったりとした空間だけが杏の聖域に思う


「無理だろう、俺みたいな人間に二人も三人もって」

「ね、プロデューサーは杏で精一杯だもんね」

「自覚はあるのか」


どうも奴はえらい人にプロデュースする相手を増やすよう提案されたらしい

それもそのはずだ
うちはアイドルとして働いてる人達がプロデューサーの数よりずっとずっと多いし
杏だけを担当するとかもう職務怠慢に近いんじゃないかって思う


「実際俺はお前に精一杯だよ、だから二人以上を担当するのなんて無理だ」

「本当に?」


嘘をつく必要があるのか
笑っても彼の瞳は見えなくなってしまって、感情がどこにあるのかはわからない

だから仕方なく、もう少し揺さぶってみる
いつもならもっと可愛く、あざとく、おねだりをするけど、今日だけはふてぶてしくいこうと彼に向かって手を広げる


「なんだその手?」

「動くのめんどい」

「相変わらずふてぶてしく頼んでくるな」

「……」


心外だ

それでも奴は運んでくれるんだろう
頼んでもないのに杏を担ごうとするくらいだし、でも今日は一筋縄じゃいかないからな

例えばそう


「抱っこした状態で飴を所望する!」

「はい」

「お菓子、飲み物!」

「はいはい」

「仕事休ませろーっ!」

「それはダメ」


あれ、プロデューサーってこんなに優しかったっけ

これ以上甘やかして貰うのって、どうすればいいんだっけ


「くだらないこと言ってないで、さぁもうお昼が終わるぞ」

「終わらないよ、杏がそう思ってたら昼休憩はずっと続くし」


頭を小さく叩かれた、プロデューサーは軽い気持ちなのかもしれないけど実はちょっと痛い
体罰として訴えてやれば、少しは有給貰えたりするんじゃないだろうか

叩かれたところを手でさすりながら、奴の方を見上げてみる
相変わらずその目は細く塞がっていて何の感情も見えなかったけど、口角が少し上がっていて気持ち悪かった






今日一日、杏の思いつく限りを尽くして甘やかしてもらった気がする
まぁ、お仕事休ませてっていうのは全部断られたのだけ気に食わないくらい、他の殆ど全ての要求は全部のんでくれた

なんでこんなに言うこと聞いてくれるんだろう、もしかしてプロデューサーって


「杏のこと好きなの?」

「嫌いだよ」

「酷いよ、それ」

「いいから黙ってシートベルトしろ」


シートベルト苦手なんだよなー
なんだか、落ち着かないし
でもそんなこと言ったらなんで助手席に座ったんだとか言われそうだ


「今日は疲れたな」

「ごくろーさま、頑張らなければいいのに」

「お前に頑張らされたんだよ」


テールランプが流れていく
もう夜だっていうのに、周りのお店や家の光が眩しいくらいにうるさい
街灯だけだったらなんて、そんなことをちょっとだけ思う


「さみしかったのか?」

「……どーかな」


すぐには言葉は出なかった
ただ、少しムカつく、プロデューサーのこういうところが嫌いだ

たった一言そう言って、それっきり彼は無言で運転を進めた
心なしか車のスピードはさっきより速い


今日は悪くなくもなくもなくもなくもない一日だったのかも

お仕事はめんどくさかったけど、甘えるだけ甘えることができた
何を勘違いしたのか分からないけど、奴も言うことをほいほい聞いてくれた

そして、そんな今日もあとちょっとで終わる


「おうち帰ったら」


いつの間にか星が見えていた
ポツポツと淡い光が降り注いでるのがきれー……だとか思わないぞ、流石にらしくないし


「お風呂入れてよ、体洗って」


今日初めて、お仕事以外の理由で甘えるのを断られた






「何をニヤニヤしてるんだ」

「なんでもない」


それより、なんでまだうちに居座ってるのさ
杏を送り届けたんだから、わざわざこの部屋にいる意味なんてもうないでしょ

そう続けようとしたけど、それは言わないでおく

どうせそう言ってもきっとまたとち狂ったことしか言わないだろうし
二度もその言葉は聞く必要なんてない

代わりに杏が何か二度言うならそう、やっぱりからかいの言葉が良いんだろう

それで、いつになったらお風呂入れてくれるの、とか


「いいぞ、入るか」

「そ、その返しは考えてなかった」


さっきはダメだって言ったじゃんか
というか、ダメだってのは分かりきってるじゃんか


そう言い放った奴はしてやったりな顔で口角を釣り上げている、杏はこの顔が気持ち悪くて好きじゃない

だからこれもまた、ふわふわと浮かんでるだけなんだろう
細く笑う蛇の目、その表情に馬鹿にされてるように思えた


そうか、笑っちゃうんだ、でもそうなら、後悔するがいい

杏には杏なりの矜恃ってものがある


一息ついて、自分の服の裾をつまんで、ニヤリとプロデューサーに不敵にドヤ顔をキめる
そのまま、思いっきり腕を空に引っ張り上げた

……ちなみに、下着ってのは特につけてない
勿論下は履いてるけど、めんどくさいんだもん


杏の突然の行動に奴は戸惑ってるのか、それとも平然としてるだけなのか、ただぼんやりこちらを見ていた

間髪いれず下も脱ごうとする、正直これ、恥ずかしい、何のプレイなんだろう

Tシャツにスパッツっていう凄く簡単な服装だから、脱ぐものももうこれだけしかない


「お、おい、冗談にきまってるだろう、何急に脱ぎ出してるんだ」

「プロデューサーも脱ぎなよ、服着たままお風呂入るの?」


別に動揺してるのはプロデューサーだけでいいのに、杏も声がちょっと高くなってしまったかもしれない
しまったって顔だけは見せないようにする


「いいから早く服を着ろって言ってるんだ」

「着たまま入るの? マニアックだなー」


「……お前の言葉はいつも、――――してるな」


プロデューサーに言われたくないし
なんだろう、あっかんべーでもしてやろうかな

そうこう言い合ってるうちに、プロデューサーはゆっくりこっちに近づいてきた

これから奴は何をしてくるんだろう


怒られるかな

叩かれるかな

それとも、襲われるかな


どれも全部、嫌だけど






だからこれも、考えてなかった
ヘタレだもん、何も出来ないだろうなって思ってた
いや、襲われているというわけじゃないんだけど、少しは似たようなものかなこれ


「せまい」

「仕方ないだろ、二人で入るようになってないんだ」


頼んだのは確かに杏で、文句を言うなんてとてもできないけど
それでも一緒にお風呂に入るのは、セクハラでしょ

プロデューサーとしてそれはどうなんだろう

奴が体を縮こめて座ってるところに、杏がすっぽりと入る
きらりと比べると全体的にゴワゴワとしてて心地悪い、何度も体をよじって位置を変える

というかなんでこの人、服着たままなの
いちいちこっちにも水を含んだ服が張り付いてくる


「プロデューサーとアイドルだぞ、妥協点だ」

「それはどこを妥協したのさ……」


それに、それは男としてどうなんだろう、なんて


まぁ奴が裸で入ろうが入るまいが、関係はない、杏はお風呂に入れてもらってるんだから

結局、杏のワガママは全部叶えられてしまった
これ以上のことだって言えないこともないけど、そんなの甘えるとは全然違うことくらい分かる

体を湯船にどんどん沈めていく
杏の小さな体はすぐに口までお湯に呑まれてしまって、溜息の代わりに吐いた息でぶくぶくと泡を立てておいた


「さみしかったのか」


……二度目だ、やっぱりイラっとする

勘違いしないでよって、水中で呟いたその言葉は重くて届かなかった


「俺さ、結構分かんねえんだよ杏のこと」

「いっつも軽口を叩いてきてさ、くだらないことも、大切なことも……どこを捉えたらいいか分からない」


へぇ、杏のことをそんなに分かりたいんだ
もしかしてプロデューサーって


「あんふのほのふきはふぉ?」

「ちゃんとお湯から出て喋れ、何言ってるかもっと分からん」

「絶対にやだ、断る」


浴槽に張られたお湯が弾むように揺れる、小さな波が杏の体を小さくくすぐった
目なんか見えなくても、きっと呆れらてるんだろうなって分かる


「……好きだよ、これでいいか」

「ふーん」

「ふーんって、お前」

「じゃあ……はぁ、めんどくさいなぁ、とか」

「めんどくさいのはお前だろう」


そのぐらい許して欲しい

だってそう、世の中にはめんどくさいことが多すぎる
後で後悔することなんて、山程ある

確かにそのめんどくさいことの中に、自分が生み出してしまったものもあるけどさ


奴は黙ったまま杏の頭を柔らかく叩いてきた
そんな雰囲気で誤魔化すようなことをしやがる割に、何も分かってない
分からないまま杏を甘やかしてる

プロデューサーは杏のことをどこまでも甘やかしてくれたけど、結局言葉は空中に浮いたまま

どうしてそんな簡単に、好きとか言えるんだろ

そんなにも簡単に、好きになんてならないで欲しい


「プロデューサー、杏はね」


それなら杏だって変わらないまま、軽い言葉を返すことにする
ふわふわだけど、プロデューサーと杏が一緒にいればずっと、消えることはないだろうし



「そういうプロデューサーのこと、嫌いだよ」



杏の家には勿論プロデューサーの替えの服なんて無い、お風呂から上がったらどうするつもりなんだろう

まぁでも、そんなことはお風呂からあがって奴が考えればいいことだ、杏には関係ない
だから今はもう少し、甘えることにする

名前欄にsagaぶちこむの本当もうやだ

読んでくれてありがとうございました
駄文失礼しましたー

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