安部菜々「ピーターパンのお髭」 (28)

 私と同世代の人に「ピーターパン、知ってる?」と言うと、
 その人は「ああ、ピーターパンね」と懐かしそうに笑うだろう。

 昔(と言うのも少し抵抗があるけど)、私はテレビの前へ張り付いて動かなかった。
 家族になんと言われようと、週に一度のその日だけはチャンネルを譲らずに、
 ピーターパンが飛び回る魔法の世界にときめいていた。

 始めは、教養番組のちっぽけなマジックショーだったネバーランド。
 ふざけて箱に入ったティンカーベルが消えてしまって、
 ピーターパンが悲痛に叫んだときは、目をぎゅっとつむって必死に祈ったものだ。

 消えないで、ティンカーベル!

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 童話的な演出を凝らしたマジックショーは、子どもだけじゃなく大人にも人気があった。
 人気が上昇するにつれて、どんどん大掛かりなステージでマジックを披露するようになった。
 ステージが変わっても、ピーターパンは空を飛んだし、ティンカーベルは消えて、みんなの祈りで戻ってきた。

 ネバーランドのマジックショーに終わりはないんだと、誰もが思っていた。
 けれど、急に彼は姿を消してしまった。

 その理由は口伝えに聞いただけで、真相は知らない。
 私が高校二年生だった頃の、確か夏だったっけ。
 ピーターパンはそれまでで一番大掛かりなショーを演じることになっていた。

 私は一月前に始めたバイトの初任給でそのチケットを買おうと思っていたけれど、
 あまりの人気で買えなかった。苦い思い出。

 その大掛かりなショーを区切りに、ピーターパンは居なくなってしまった。
 アタシも、噂で聞いただけなんだけどね、と友だちは話してくれた。
 あの大掛かりなショーで最も盛り上がる場面、ティンカーベルの消失マジックを失敗したらしい。
 ティンカーベルは消えたまま、帰ってこなかった。

 それきりだ。消えたティンカーベルを追うように、ピーターパンも芸能界から消えてしまった。
 そして、誰も彼を忘れてしまった。


 ――信じたものがそこにあるのさ。

 私はそんなピーターパンが大好きだった。

 ――――

 そして、大好きだったピーターパンは、今は私のプロデューサーをしている。
 ピーターパンだった頃の彼を正確に覚えている自信はないけど、
 今のプロデューサーさんはあの頃と同じ少年のような顔つきへ、微かに青年らしさを滲ませている。

 実際の年齢は……多分、四十前後なんだろうけど、十代と言われても違和感はない。
 さすがに元ピーターパンだけある。

 どうしてマジシャンからプロデューサーになったのか、私は知らない。
 だって、あんまり、彼と話すことも少ないし。


 着替えを済ませて事務所へ戻ると、二人のアイドルがプロデューサーさんを囲んでいた。
 プロデューサーさんは集まる視線を手繰るように、手の上で平打ちの指輪を転がしている。

「いいかい、種も仕掛けもないよ」

 そう言って、手をぎゅっと握り込むと、彼はしつこくウムムと唸った。
 二人のアイドルは握り拳に注目している。

「はい!」

 プロデューサーさんがパッと手を広げると、二人は歓声を上げた。
 手のひらに指輪はなかった。

 私自身、その手品に見入っていることに気がついて、軽く頭を揺すった。
 まあ、終わりまでは待ちますとも、そこまで野暮な女じゃありません。


「じゃあ、これから不思議な魔法で指輪を探そう」

 二人にせっつかれて、プロデューサーさんはまたウムムと唸り始めた。

「ここかな?」

 プロデューサーさんは一人のおデコに手をかざした。

「それともこっち?」

 彼は唸りながら指輪を探した。そして、ぐるっと私の方へ向きを変えると、パッと空を掴んだ。


「ここにあった」

 手のひらの上に指輪がキラリと光っている。二人は再び沸き立った。
 もう一回もう一回とせがむのをなだめて、プロデューサーさんは指輪を指へはめた。

 間違いなく私もその手品を楽しんでいたのに、それが終わると思わずため息をついてしまっている。
 そうすると決まって、今まで満面に明るかったプロデューサーさんの表情は暗く濁るのだった。

「ごめんなさい、今行きます」

 彼は二人へ「また今度新しい魔法を見せるからね」と手を振って、それからやっと私の隣へ来た。いつもこうだ。


「ナナはとっくに準備していたんですけど」

「それならそうと言ってくれれば」

「……もう、いいです」

 プロデューサーさんはいつもこうだ。
 彼の手を見ると、左手の指で銀色がグラグラとしていた。あの指輪はサイズが合っていない。

 社用車へ乗り込むと、いの一番に小言が名乗りを上げた。

「今日は、大事なオーディションの日なのに」

「はい、分かってます」

「分かってないじゃないですか」

「さっきのこと?」

「……もっと、真剣になってください」私はぎゅっと服の袖を掴んだ。

「僕だって、ふざけているわけじゃないですよ」彼は口を尖らせた。


 確かに、彼が仕事に対して真剣じゃないはずはない。それはよく分かってる。
 余裕があるときはいつもレッスンを見てくれるし、
 レッスンのあと「今日のナナはどうでした」なんて訊くと重箱の隅をつつくようにダメだったところを挙げていく。
 事務仕事だって手伝っているようだし、自分でできることはなんでもやってしまう人。

 だけど、足りない。プロデューサーさんはどこか足りない。
 例えば以前、オーディションで不合格だったとき。ナーバスになっていた私に渋面で言ってきたことがある。

 ――どうして、続けるんですか。

 その言葉は堪えた。実力が劣ってて、実績だってなくて、年齢も……。
 夢だから。そう、言いたくても言えなかった。喉が震えて声なんか出ない、涙と鼻水で睨むこともできない。
 未だに、そのことが頭にちらつく。
 彼はウサミン星を信じていないし、時々うっとうしそうな顔をするのだった。


「着きましたよ」
 はっと目を上げると、オーディション会場のそばにある駐車場へ、車が立ち止まっていた。
 私が助手席から降りても、彼はさも当然のようにハンドルを握ったままだった。

「オーディションが済んだら、電話をよこしてください。すぐに向かいますから」

 私は返事もせず、ビルへと早足で入って行った。
 タイヤとアスファルトの歯軋りが飛沫みたいに背中へかかった。


 ――――

 番号で呼ばれるのも慣れたものだ。
 その時々違う番号で呼ばれて、はい、と元気よく返事。
 ちょっと歌って、ちょっと踊って、――その先はない。
 その時々の番号だって、呼ばれるのは最初の一度だけ。

 大事なオーディションだったのに、いつもと全然変わりなかった。
 ビルを出て、風に目を細めて、それから歩いてプロダクションへ帰った。
 プロデューサーさんに連絡しなかったのは意地を張ったからじゃない。

 情けなかったから。怖くなったから。なにより、夢を信じられなくなっていた。
 事務所へ着く頃には、太陽は地平の裏側へコトリと落ちていた。電気を消したみたいに暗い。


「遅かったですね」

 プロデューサーさんは私を見て、デスクから腰を上げようともしないまま言った。

「どうでしたか」

「ダメでした」

「そうですか」彼はパソコンの画面へ視線を戻した。

 私は涙をこらえなきゃならなかった。


「なにか言わないんですか」

「ええ。次、頑張りましょう」

「……もうダメだとか、よく諦めませんねとか、言ったらいいじゃないですか」

 堪らず、涙が溢れる。

「どうして続けるのか、訊けばいいじゃないですか」

 プロデューサーさんは驚いたようにデスクから立ち上がった。
 私は事務所を飛び出た。普段絶対使わない非常階段を駆け上がって、屋上へと靴を叩いた。


 高いところだから、風が強かった。馬鹿と煙は高いところが好きだと言う。
 じゃあ、もっと高いところへ登ってやろうと、屋上の隅にあぐらをかいている貯水タンクのはしごに足をかけた。
 その頂上へ立ったとき、ちょうどプロデューサーさんが屋上のドアを開けた。

「降りてください」彼は私を見上げ、さして動揺した風でもなく言った。

「落ちろってことですか!」

「そうじゃないです、登ったときみたいに、降りてください」

 涙と鼻水を袖で拭って、夜空を見上げると三日月が切ったあとの爪みたいに落ちていた。

「ウサミン星に帰りてぇー!」

 私は叫んだ。
 プロデューサーさんはあからさまに眉をひそめた。
 闇を払うような街の灯、私の居るべき場所はここじゃいけませんか。


「夢だったんですよ! ずっと、アイドルはぁ!」

 私が言うと、プロデューサーさんは神妙な面持ちで言い返してきた。

「誰だって、夢から醒める」

「ティンカーベルが消えてしまったからですか、貴方が夢から醒めたのは」

 彼ははっとしたように、目を見開いた。そして、微かに呟いた。

「……ティンカーベルは消えてない」

「たった一度の失敗でピーターパンを辞めたんですか」

「みんながそう望んだからだ」彼は唇を噛んだ。


「それでもナナは! ウサミン星からやってきたウサミン星人なんです!」

「夢を与えたって誰もがそれを忘れる。そして、あとになって笑う。子ども騙しだと」

 彼は自嘲気味に笑った。

「君もそうだ」

「……ナナは、ピーターパンが大好きでした。本当に魔法が使えるんだと」

「夢は、ニセだ」

 吐き捨てるように言う彼が、そのとき、どうしてかすごく悲しかった。


「信じたものがそこにあるんだって、教えてくれたのは貴方じゃないですか!」

「誰も信じなくなった! ティンカーベルは消えた、ネバーランドも」

「ナナは信じてます」

「ピーターパンも」

「ウサミン星を信じるように、ナナは信じてます」

「どうして、信じられる?」そう言って、彼は俯いた。

「夢だからです」

 私は涙を拭った。でも、もう信じられないかもしれない。
 プロデューサーさんが、ピーターパンだったと。


「僕は……もう、子どもじゃないんだ」

「知ってます。私も貴方も、そう」

 それから、もう一度、三日月を見上げたときだった。
 強い――いや、さほど強くないのかもしれない、
 よくわからない風が――それは風だったのか、
 私を貯水タンクから、埃を払うように。

 ふわっと一瞬すべてが軽くなったように感じて、涙が目を離れると落ちるんじゃなく飛び上がって、
 三日月がすごい速さで空を引っ掻いて、それからようやく足を滑らせたことに気がついた。

 宇宙を掴もうとしたのか、私は手を伸ばしていた。


 お父さん、お母さん。すみませんでした。親不孝な子でした。
 せめて、晴れ姿を見せたかった――。

 思い出が次々に頭に浮かんでくる、走馬灯のように? というらしい。
 たくさんの人、たくさんの場所、たくさんの夢……最後の最後に、
 ピーターパンがステージを飛び回る姿が、鮮やかに目の中で踊った。

 ああ、ピーターパン。私はその名前を呼んだ。


「助けてっ! ピーターパン!」

 何秒経った? アドレナリンが……ああ、いや、それとももうすでに?

 彼の呼ぶ声がした。足元を見ると、プロデューサーさんもまた猛スピードで落ちてきていた。

「菜々!」

 落ちながら、彼は私を抱きかかえた。
 私は目をぎゅっとつむって、それから目を開けると、私は屋上の床へへたり込んでいた。
 そして、傍でプロデューサーさんが私の肩を支えている。


 彼は泣いていた。弱い月影に水銀のような涙を流して、彼は私の肩をしっかりと抱いていた。

「菜々は、本当に僕のことを信じてくれていたんだね」

 プロデューサーさんはぐすぐすと泣きながら、私を抱きしめてきた。

「ごめん、菜々」

「あ、いえっ、いいんです……っていうか」

 飛べたんですね、と、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

「僕はきっと、菜々を信じるよ。君が僕を信じてくれたように、きっと信じるよ」


 なんだか不思議な時間だった。なのに、妙に頭は冴えていた。
 十時間くらい寝たあとみたいに。
 涙で濡れた彼の頬を撫でると、ヒゲがチクチクした。


 安部菜々「ピーターパンのお髭」 了

以上、拙い文章でありましたが、読んでいただきありがとうございました。

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