海未「箱入り園田」 (369)

目を覚ましました

布団の上に手を置くと、お日様の暖かさがじんわりと感じられます

室温からしても、おそらくお昼は過ぎているでしょう

窓の外、少し離れた国道から安っぽいバイクの排気音が聞こえます

私の部屋の天井は相変わらず白く、ごろんと寝返りをうって壁に視線を移せば、昨日の夕飯の残骸が見えます

腰を起こし、布団からひんやりとしたフローリングに素足を押し付け、ぺたぺたと洗面台まで歩きます

誰にも見せるつもりでも無いのに、顔を水で洗い、もう一度布団に入ります

今日は何曜日だったか、わかりません

分かりませんが、また夜になったら調べます

再び目を閉じました



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私が眠っているうちに、私のことを話しましょう

私の名前は園田、園田海未です

高校三年生のとき、進路に迷った私は、一度家を出てみることにしました

生まれ育った家を立ち、下宿をして、そうやって大学に通うことに決めたわけです

ひとつには、志望した大学への通学時間が長いという、地理的な理由がありました

そしてもうひとつには、自分ひとりで生きていく、そんな強さが欲しかったわけです

日舞の家元の家に育ち、両親の手厚い保護を受けて育ってきました

そんな自分も、箱の中から飛び出してみたかったということです

穂乃果やことりとは、ずっと一緒で、ずっとふたりに頼ってきた私ですが

10年以上の時を経て、ふたりの幼なじみにはしばらくの別れを告げ、真っ白な世界に身を置こうとしました

これから、新しい自分の生活が始まる

ゼロから始まる新生活に、不安と期待で心がゆれ動いていました

しかし、現実はそうも上手くはいかないものです

大学に入って一年目

入学式の前に種々の説明会があり、私も当然、出席したわけです

そこで座った席でした、隣の男性に声をかけられました

「園田さんですか?」

海未「はい、そうです」

「おお……本物だ……ちょっと、おい、みんな!」

「園田?海未ちゃん?」

「わぁ、本当だ」

「この大学に来たんだ」

「他の誰かは来てないの?」

海未「いいえ、来てません」

「一人で来たの?」

海未「そうですね」

「へぇー」


もちろん、私の素性はアイドル活動をしていたことで全国に知られわたってしまっています

ある程度、そうなることの承知はしていました

初対面の人達と、自分の勇気を振り絞って、仲良くなろうとしましたが

どうやら、私の知らないところで、私と仲良くなりたい人はたくさんいたようです

ゼロから始める新生活のつもりでしたが、私は結局、高校の頃の、あのアイドルの園田海未を引きずって生きることになったわけです

誤解を招くような書き方をしましたが、このことは不満ではありませんでした

私と話してくれる人は、すごく良い人ばかりでした

ただ、一方通行で私のことを知っている人に囲まれるのは、少々慣れずに戸惑いました

一日目は、早めに帰りました

帰りに本屋とスーパーに寄って、料理本を読みながら、はじめて料理を作ってみました

それほど美味しくないものができました

しょっぱいお味噌汁をすすりながら、母の味を思い出し、すこし切なくなりました


入学式を終え、授業が始まっても、私は有名人でした

講義を受けていると、どこか遠くで私の話をする声が聞こえます

「園田さんいる?」

「最前列。青みのかかった髪の毛」

「いるいる」

初めのうちは、その声が気になって、授業に集中できませんでした

しかし、しだいに慣れを感じ、何も聞こえなくなりました。人間とはなにごとも適応する生き物です

また最初は、廊下を歩いていると、通り過ぎる人達が私のことをちらりと見る視線が気になりました

けれど、これもすぐに慣れました。毅然とした態度で、歩を進めるようになりました


さまざまなサークルや部活に勧誘を受けました

私は悩みましたが、結局、弓道をすることにしました

深い深呼吸ののち、澄んだ空気を肌に感じ取り、矢の飛ぶやさしい音が私の心を癒しました

ここでは、私を邪魔する声はありませんでした

何も感じずとも、やはり周囲の視線に知らず知らずのうちに疲れを感じ、私は講義が終わると逃げ込むように弓道場で矢を放ち続けました

そうして、無心で、学校と家との往復を繰り返していたわけです

やがて、一ヶ月が経ちました

色んな人とお話をしました

けれど、友達と呼べるひとはまだ、できませんでした

私が、再び目を覚ましました

過去はまたすこし後に語りましょう

夜の十時を過ぎています、道路からの音も止み、街は静まり始めました

こうした時間に、私はジャージを着たままサンダルを履いて、徒歩三分のコンビニに行きます

そうして食べ物を買って、三十分以内には、再び家に戻ります。誰にも気づかれること無く。

部屋に戻ると、カップに入ったサラダと、レトルトのカレーライスを口に運びます

成人した私は、食後に小さなグラスにお酒を一杯注ぎ、その味を楽しみます

程よく酔いがまわり、気持ちがよくなっていきます

ぐるぐると、目の前が周りはじめます

さて、最初は気持ちがいいんですが、しばらくすると回転がとまり、そうして涙が流れてきます

涙を拭った私は、ぼんやりと白い壁を見つめます

こうしてぼーっと何時間も過ごします

他に、特にすることがないので、朝が来るまで、だいたいはこうしています

そして日が昇ると、再び夜まで眠ります

不思議なことにそうしているといつもおなじ、とあるイメージが浮かんできます

白い箱です

白い箱の中には、小さな人形のような私が座っています

人形の目は限りなく深い黒色をしていて、不気味なので、なるべくこの人形の顔は想像しませんでした

ちょこんと座った人形は、箱の側面についた小さな扉を開いてくれる人を待っています

人形は喋るわけではありませんが、なんとなくそんなことを考えている気がします

けれど、箱の中には誰もやってきません

人形は、涙を流します

そうして、私も悲しくなるのです

大切に大切に育てられた、箱入り娘の私は、そんな箱を破って自分で外の世界に飛び出したつもりでした

しかし、現実には、もっと狭い、この白い壁面と天井に囲まれた、より小さな箱の中に自分を押し込んだだけでした

私は何も変わることが出来なかったわけです

こうなってしまえば、私を訪れてくれる人などいるはずもありません

あのとき、少しのあいだ、外の世界に出ることの出来た私は、愚かにもせっせと箱を再び作り上げて、自分で勝手に入り、そうしてメソメソ泣いているのでした

今回はここまで

唯一の取り柄でもあり、同時に欠点でもあったバカ真面目ささえも、私は失いました

私は何者でもない、本当に何も持たない人間になってしまったのです

そうして、一切の精神活動を停止し、ただ棺に入れられた死体のようにこの部屋に横たわっているわけです

唯一、死体と違うと言えば、夜中に棺桶から抜け出して食糧を求め夜の街をさまようところでしょう

つまり、どちらかと言えばゾンビに近いわけです。人は襲いませんが。


私はそれこそ、ひとりでは本当に何も出来ない人間であったわけです

きっと、世の中で生きている数多の人々は、多かれ少なかれ、自分も一人では生きていけないことは自覚しているでしょう

しかし、世間一般の皆さん以上に、私はあまりにナイーブで、あまりに世間知らずだったわけです

他人に支えられて生きていることを自覚するのが、私はあまりに遅すぎました

純粋な人間だと言われていました。清純な人間だと言われてきました。

しかし、純粋であるのは私だけで、水清ければ魚住まず。世間は当然、底の見えないにごった沼のようなものなのです

もちろん皆は、それに気がついていたわけです




ただ、私はそんな得体の知れないものから逃れようと、保護され続けることを選んできました

家族以外に、私の生活を知られたくはありませんでした

数少ない友人以外に、私の何かを話したくありませんでした

私が住むのは、いつも小さな世界でした

だからこそ、こういった弱々しい精神しか持ち合わせない私が、こんな混濁とした世間という沼に飛び込むなど、さながら身投げをするようなものだったのです

純粋であるとはつまり、無知であるということに他なりません

私のことを大人びていると評する人々にも、たくさん会ってきました

結局のところ、私ほど幼稚な人間は、いるはずもなかったのです



私の銀行口座には両親からの仕送りが振り込まれ、そこから毎月の家賃は引き落とされています

両親とは数ヶ月のあいだ連絡を取っていませんが、便りがないのは良い知らせ、というわけで、きっと私は元気に過ごしていると思ってくれていることでしょう

高校の頃の友人とも、長いあいだ話さずじまいです

きっと、きっとみんな、栄養バランスを考えた食事をとり、適度な運動と、学業を疎かにせず、丁寧な物腰で優しい友人をたくさん作り、そうして遠くの地で健気に生きる私を想像していることでしょう



ことり「海未ちゃんはしっかりしてるから、ひとりでも大丈夫そうだね」

穂乃果「向こうに行っても、きっと女の子にも、男の子にもモテモテだよっ」

幼なじみと別れた日、彼女たちがかけてくれた言葉が蘇ります

現実は、電子レンジだけでつくれる粗雑な料理を食べ、運動はせず、講義にも出席せず、暗闇の中で布団とお付き合いし、明日になればこの身体が腐ってしまってもおかしくないような、そんな暮らしをしているわけです

元々白かった肌は、より一層不健康そうに白くなり、髪は伸び、目はまるで壁に開けられた穴のように、輝きを失っていました

そんな自分を見るのが嫌で、部屋の鏡もずいぶん前に捨ててしまいました

なので、今は自分がどんな顔をしているのか、さっぱりわかりません

それゆえ一層、どんな顔をして皆の前に出ていけば良いのか、見当もつきません



そういえば、携帯電話はどこにいったのでしょうか、充電が切れたまま、部屋のどこかにはあるようですが

きっと、私は今頃どうしているのか、そんなメールでいっぱいでしょう

だけど、見たくもありません。きっと悲しくなりますから

メールなんかじゃなくて、誰かがこの部屋を訪れてくれるのを、私はずっと、怯えながら待っています

しかし、誰もが私を、強い人間だと思い込んでいます

私の行いを疑ってくれる人が、私にはできませんでした

私はいい子でありすぎたのです

結局、それが私という人間だったというわけです

鳥の声が聞こえ、空の向こうが明るくなり始めたので、私は再び布団にもぐり、目を閉じました

ドアの向こうで、私を呼ぶ声がかすかに聞こえた気がしました

どこから夢なのか分からなかったので、はっきりとしたことは言えませんが。


今回はここまで

続きを話しましょう

私は高校の時と同じく、授業は一度もサボらず、遅刻もしませんでした

むろん予習復習も怠らなかったので、模範的で優秀な学生として周囲は見ていたことでしょう

しかし、本当はその逆でした

大学に入ったら、この堅苦しい、過剰に生真面目な性格を多少緩め、人並みに友達と笑い合える、そんな人間らしさを手に入れたかったのでした

私は、私というどこかへ逃げ出し、そうしてまた初めから、「明るく元気な」女性になりたかったのかもしれません

なるほど、大学デビューですか?俗な言葉ですが、まぁそう言っても大差はないでしょう

けれども、私を知らない人間は、ほとんど居なかったのです

いまや、日本のどこに逃げても、私を知らない人はいないのです

なるほど、その自覚が遅すぎました

私は私自身について非常に鈍感なようです


さて、私は、私に与えられた一日の二十四時間をそうして勉学に勤しむ以外に埋めることができなかったのです

起床、朝食、通学、講義、昼食、講義、弓道、帰宅、復習、予習、夕食、洗濯、清掃、入浴、歯磨、就寝

ああ、これでようやく二十四時間がすっかり埋まりました

やることが与えられていれば、後はそれを黙々とこなすことで、私は迷わなくなりました

あの高校の部活動の時に見せた笑顔も頭蓋骨の中に引っ込んでしまったように消え去ってしまいました

このスケジュールには、一切の他人が含まれていませんでした。すべて私の私による私のための行動計画でした

大理石の上を回る車輪のように滑らかなサイクルでこの計画は繰り返されました

気がつくと、夏休みが来ました

友達は、まだ一人もいませんでした

不思議なことに、模範的な大学生とは、模範的な大学生ではないのでした


夏休みは数週間、実家に戻りました

父に、向こうではどうだ、と聞かれました

「学業も家事も順調です」

私はそう告げました。嘘ではありませんよね、実際、学業も家事も、上手くいっていたのですから。

それを聞くだけで父は胸をほっとなで下ろし、安心したようでした

ああ、私がしているのは学業と家事「だけ」だというのに、それは結局、言い出せませんでした

高校の友人たちにも会いました

久しぶりに「友人」という存在に再会し、私はいつになく興奮していました

けれども、私にとってあまりにも痛々しい話が、そこでは繰り広げられてしまいました


海未「大学というものは、自分で何から何までしなくてはいけないので、大変ですね」

穂乃果「そうだよねー。海未ちゃんは料理も自分でするんでしょ?すごいなぁ」

海未「料理は楽しいですよ、自分好みの味を自分で作れるのは面白いです」

ことり「穂乃果ちゃんと海未ちゃんは、どんな友達ができたの?」

穂乃果「大学はいろんな人がいるよねー!私はサークル二つ入って、バイトもしてるから……うーん、数えきれないなぁ、みんな面白い人たちばっかりだよ!」

海未「……私は、まぁ……それなりに、いますね、はい」

穂乃果「海未ちゃん、サークル何入ってたっけ?」

海未「サークルというか、部活ですね。弓道です」

穂乃果「弓道ね、ふむふむ……」


ことり「私はなんだか、まだ慣れなくて、オドオドしちゃって……ちゃんとした友達は5人くらいしかいなくて……」

穂乃果「そうなんだ、ことりちゃんと喋らないなんて、みんなもったいないなぁ」

ことり「でも、次の学期からは手芸サークルに入るつもりなんだ」

穂乃果「うんうん、同じ趣味で集まったら、すぐ友達できるよ、大丈夫!」

海未「……そうですね」

ことり「うん、ちょっと頑張ってみよう!」


弓道部での私の友人は、弓矢だけでした。馬鹿馬鹿しいにもほどがあります

ああ、この二人は当たり前のように、他人と仲良くなれるのでした

思い返せば、この二人の友人たちが、そのまま私の友人だったのです

つまり、私固有の友人というものはほとんどなく、私はこの二人のついでにたくさんの人と仲良くなれただけなのでした

あの日、あの時、穂乃果とことりの二人が私と仲良くなって「くれた」あの日からずっと。

幼い頃から、こんな性格の自分が友人に恵まれていたことが不思議でしたが、なんのことは無かったのです

早かれ遅かれ、あの二人から離れてしまえば、私には新たな友人など出来るわけがなかったのです

その意味で、私は自分からただ一人の友人を作る力さえ無かったのでした

これはなにも大学で始まった現象では無かったのでした

私は友達を大切にすることはできても、ただの一人も友達を作ることの出来ない人間だったのです



私の目が覚めました。過去のお話の続きはまた明日にしましょう

さて、日も既に沈んでいたので、今日の食糧を買いにいきましょう

布団に入っていたままの服を着て、財布と鍵を握って玄関のドアを開けます

階段で一階まで降りて、徒歩五分のコンビニへ。

そこでふと、郵便受けが目に留まります

私に届く手紙など、電気代の請求用紙か、あるいは広告のチラシだけのものでしょう

しかし、長いこと自分宛の郵便物の確認をしていなかったので、これを機に確認しましょう

銀色のつまみを上に引き上げると、何十枚かのチラシが無造作に詰め込まれているのがわかりました

まったく、無価値なものばかりです

こんなチラシは束にして、コンビニ前のゴミ箱にぽいっと捨ててしまいましょう

おや、しかし、なにやら茶色の封筒がひとつ挟まっています

住所が手書きで書いてあるところを見ると、どうやら広告の類いではなさそうです

しかし、切手も貼ってないので、直接ここに入れられたようで、奇妙です

その封筒だけを脇に挟み込んで、のこりの紙くずはすべて捨ててしまいました

さて、適当なものを買いそろえ、部屋に戻りました

この気になる封筒を開けてみることにします

見慣れた字で書かれた一枚の手紙が入っていました



海未ちゃんへ       


海未ちゃん、元気ですか?

今は何をしていますか?

電話もメールもずっとお返事が無く、心配です

ちょうど近くを通りかかる用事があったので、海未ちゃんの大学に行って、いろんな人にお話を聞きました

三回生になってから、海未ちゃんのことをすっかり見かけなくなったと聞きました

海未ちゃんの下宿先のチャイムを鳴らしても、お返事がありませんでした

外から見ても、電気がずっと消えたままなので、もしかして、ここには住んでいないんでしょうか

ひょっとして、海外留学でも行っているんでしょうか

この手紙は、この郵便受けの前で書きました

帰ったら、海未ちゃんのお父さんとお母さんにも、海未ちゃんのことを聞きに行ってみようと思います

もし、この手紙を読んでくれたなら、連絡をしてくれたら嬉しいです

どうしてもできないなら、仕方ないけど、出来るだけ早くお願いします

わたしだけじゃなくて、音ノ木坂のみんなも心配しています

何かあったなら、教えてください



南ことり 




とうとう、こんな手紙が来てしまいました

心音が早まり、汗が吹き出し、身体が小刻みに震え、寒気がしてきました

お酒を飲んでもいないのに、目の前がぐにゃっと歪んで見えます

親しいはずの友人の手紙が、こんなにも恐ろしいとは

私が思っていた以上に、私を巡る事態は深刻になっていたようです

怖くて、怖くて、布団をかぶって、ぜぇぜぇと息を切らします

ああ、もう、そろそろおしまいのようです

遅くとも数日中に、両親がこの部屋にやってくるでしょう

そうして、私という人間が、本当はどういう人間なのか、皆に暴かれてしまうのです

今までの私を作り上げて来たすべてが虚構であったことを、白日の下に晒されてしまうのです

それはなんと恐ろしいことなのでしょう!これならいっそ、今この場で死んでしまいましょうか?

しかし、私にそんな勇気が無いことも、私は十分に知っています

なにより、身体が動いてくれないので、こうして布団にしがみついている以外にどうしようもないのです

今日はここまで

携帯電話はどこに行ったのでしょうか?

他人と交信できる、あの素晴らしい機器は?

おそらく、物理的にも、そして私の心自身がその機器を必要としていなかったから、この部屋のどこかに消えてしまったのでしょう

しかし、今はことりに、一刻も早く返事を返さねばなりません

布団から這いずり出た私は

地層のように長い時を経て積まれた衣服をひっく返し

使わなくなった文房具を収納していた棚を引き開け

ぎっしりと詰まって重くなった本棚の裏を調べたりします

しかし、そいつは見つかりません



煙のように消えてしまったか、あるいは放置されたまま風化したのかもしれません

ふと、そこで思い出します。私のおもいでを詰めこんだ段ボール。

ガサゴソ漁ると、ありました

あの頃の思い出の写真に包まれて、天国に送られるように、眠っていました

どうしてここに入れてしまったのか?

それはおそらく、私は人との接触の一切を「おもいで」にしてしまいたかったのでしょう

この携帯電話は、それを象徴しているように思われます

一緒にしまってあった充電器をコンセントに差し込んで、暫く待ちます

ずいぶん久しぶりなので、ひょっとしたら起きてくれないかもしれませんね

待つことにはずいぶん慣れてしまっていたので、壁にもたれかかって、三角座りをして、じっと画面がつくのを待ちます


暫くすると、画面が明るくなります

私の心の乱れも、ちょっぴり和らいだ気がします

ブルブルと震え、メールが数百件溜まっていることを、教えてくれます

ゆっくりとその羅列に目を通すと、大学関係の事務連絡の間に、懐かしい名前が挟まっています

これは穂乃果

これはことり

これは花陽

これは真姫……

μ'sのみんなの名前が8つ揃っています。みんな、私が受け取らなかった言葉たちです

しかし、今は目を通している暇もありません

私は電話帳を呼び出し、「南 ことり」に向けてメッセージを打ち込みます



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ことりへ

長い間、返事を書けずに申し訳ありません

そして、心配をかけて申し訳ありません

私は元気です



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そこまで書いて、これは嘘だな、と思います

どう考えても、元気ではないでしょう

しかし、彼女を安心させてやりたいのです

私のせいで不幸になるなど、そんなもったいない目に遭わせたくないのです

彼女にはもっと、自分のために使って欲しい時間があるのです

そしてそれは私自身のの両親にも言えることです

頭のなかにあることを、文字にするのは久しぶりで、たった三行で疲れてしまいました

一息ついて、続きを打ち込みます



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訳あって、今は会うことができません

けれど、時間が出来たら、すぐにでも会いたいです

それまで待っていていてください

皆にも、伝えてくれるとありがたいです

一つ、お願いがあります

私の両親には、何も言わないでください

本当に、問題はないので、無用な心配をかけたくないのです

わがままばかりすみません


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何の解決にもならない、姑息な返事です

体面を取り繕ってはいるものの、読み返すと、恐ろしく下劣な文章です

私が植え付けた、彼女の不安はこんなものでは消えてくれないでしょう

私は、彼女に、そして彼女を含む多くの人にとって、心を蝕む暗闇となってしまったのです

引き返しようがないこの状況を、こうしてなんとか先延ばしにしようと、せこせこと弁明しているのです

私の心はいつ腐ってしまったのでしょう

いや、おそらく、前に言ったように、私はこんな本性の人間だったんでしょう



送信ボタンを押しました

まだ朝の4時です。返事はとうぶん来ないでしょう

夜が明けそうなので、再び布団に潜り込みます

そうして目を閉じ、なにもかもから逃れたような気分になるのです

この白い箱にパッケージされて、冷凍庫で凍ってしまったような心地がします

しかし、私は「あの手紙」を「あの郵便受け」から取ってしまったのです

そして、私の存在は、あのメールの送信によって、この部屋に固定されてしまったのです

どんな返事が来るのでしょうか

どうやら大きく恐ろしい何かが動き出してしまったようです

一層つよく目をつぶり、枕を握りしめます

夜明けには何がくるのでしょうか

おひさまは、輝かしいものです

しかし、今の私はそれにあたると、消えてしまいそうで、怖いのです

この箱が、私を光から護ってくれたのです

すっと、意識が眠りに入ります

今日はここまで

また、昔の話をしましょう

一回生の夏休みが終わり、秋が近づいて来ました

通学路を歩いていると、周りの学生たちは二人、三人、と友人を見つけて、一緒に登校する姿が見えました

私は一人で、一抹の寂しさは覚えましたが、特に孤独感に問題はなかったのです

他人からの目が再び気になり始めましたのが問題でした

たしかに、不本意ながらも有名人となってしまっていた私を、ことさら特別に見る目線は減っていきました

何度も言いますが、人間は何事も慣れてしまうのです、毎日同じことに驚いていたら、それこそ頭が疲れてしまいます

しかし、私に向けられる目線の「質」が以前と異なっているような気がしてきたのでした



具体的な事例がある訳でもなく、言葉で言い表せる変化でもないのですが

あえて言うとするならば、より、冷たく、どこか哀しいものを見るような目線を向けられるようになった気がします

おそらく、周囲の皆さんも、私自身がいかなる悩みを抱えているのか、ある程度の推測がつくのでしょう

哀れな境遇にいることの推測がついてしまえば、後はその人間を哀れむだけです

私はお日様の差し込む歩道を歩いていながらも、どこか自分だけひとり下水道を歩いているような気がしたのです

薄っぺらい被害妄想かもしれません、しかし、時間がその妄想を何重にも積み上げてしまい、気がつくと私が対処しきれないほどの大きな塊を作り上げてしまったのです

あの、私に向けられた「冷たい視線」を高濃度で凝縮した、不気味な塊です

塊は、私の後ろをズルズルと付いてくるのでした。私が立ち止まると、ぴたりとそいつも立ち止まり、再び歩き始めると何事も無くまたそいつも動き始めるのです


すべて、その視線の「質」の変化は私自身の妄想だったのでしょうか

現実に、私に対して何か特別の恥辱を負わせた悪人などいなかったわけです

けれども、この妄想というのは厄介で、一度疑いを始めてしまえば、むくむくと頭の隅で成長してしまうのです

私はその日々大きさを膨らましながら近づいてくる黒く大きな塊に心がつぶされそうになったのです

大学で講義を受けていても、そいつは私の後ろに静かにたたずんでいました

弓道場でさえもそいつは入り込んできて、私の後ろに何の気無しに鎮座しているのでした

帰り道でさえも、そいつはおぞましいながらも付いてくるのです

「視線の塊」は実体が存在しないため、やっつけてしまうこともできません

それに、私が後ろを振り向くと、そいつもものすごい早さで私の後ろに回り込んでしまうのです

この塊が人間の目線を成分として作られたから、当然と言えば当然ですが。

結局、私自身がその塊をこの眼でとらえられたことはただの一度も無かったのです

しかし、たしかにその黒光りしたおどろおどろしい岩石のような塊は、わたしの後ろについていたのです


しかし、こいつにもひとつ弱点があったのです

箱ーーーつまり、私の部屋の中には入ってくることが出来ないのです

こうして、私の部屋はちょっとした聖域となったのです

また、こいつは夜中になると活動を弱めることも明らかになりました

なので、日中はなるべくこいつから離れようと思い、外出時間が減っていきました

無言の塊が、わたしを狂人へと追い込むような圧迫感を持っているのでした


はじめは、この塊に耐えて、以前通りの生活サイクルを繰り返しました

しかし、日を重ねるごとに巨大になっていくこいつに耐えきれず、しだいに家を出る時間が遅くなっていきました

講義が始まる10分前から5分前へ……そして、1分前へと、教室への到着時刻も遅れました

もちろん弓道場に行く暇はありません。そんな場所にも私の逃げ場は既にないのです

私は一刻も早くあの白い聖域に戻らなければならないのです

私を回していた車輪はいびつに歪み始めました


2回生になりました

そのうち、重要度が低いと思われる授業をついに欠席し始めるようになりました

平たく言えばサボり……生まれて初めての経験ですが、四の五のを言ってはいられませんでした

それに、これも繰り返すうちに慣れて来てしまうのです

私が「出席に値しない」と判断するハードルはだんだん低くなって来て、ついには出席する授業の方が少ないようになりました

そして「案外出席しなくてもなんとかなる」ということに気がつき始めたのです

もちろん、なんとかなるはずも無かったのですが

とにかく、授業が終わればあの箱に帰らねばなりません

私は、すべての視線を振りほどかなければいけなかったのです

言い換えれば、人間と関わる、すべての時間を消さなければならなかったのです



電話が鳴り、目が覚めました

着信音など、いつぶりに耳にしたでしょうか

画面には発信者の名前が映し出されています

『高坂 穂乃果』

そう書いてあります

通話ボタンを押すと、覚えのある声が響きます

もっとも、きちんと耳に当ててはいないので、何を喋っているかは聞き取れませんが。

私を呼ぶ声が、した気がします

黙って通話を切りました

むなしく、その声も消えました

静かな室内に、また悲しみが溢れました

今日はここまで

すぐにニ回目の着信音が鳴り響きました

対応はせず、その後も三回、四回の着信もただ虚ろな目で震えた携帯を見つめていただけです

やがて、電話は鳴らなくなりました

なぜ電話に出なかったのかといえば、穂乃果との対話を恐れていた、という精神的な障害があったことが一つの理由です

しかし、そもそも物理的に私の喉が自由に発声を出来ない状態にあるから……これが大きな理由です

長い間、発声器官を使わないと声の出し方を忘れてしまうものです

ゴホン、と咳払いをして、発声練習をしてみました。あー、あー

どこかくぐもった声に聞こえます

わ、た、し、の、な、ま、え、は、そ、の、だ、う、み、で、す

一音一音、舌の動きまで意識的に制御して、ようやく信号音のようなものが喋れました

けれども、生身の人間を目の前にすると、きっと上手くはいかないと思いました

新しいメールが届いていました



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うみちゃんのばか

なんで電話出てくれないの

ちゃんとおしえてよ

そっちにいるなら、今から行くよ



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穂乃果に「ばか」と呼ばれてしまいました

あの頃は、彼女の方がいつも「ばか」なことをして、それを忠告すると反抗して私に「ばか」といったものでした

けれど今は言葉通り「ばか」なのは私の方です。実に正しい使い方です

さて、メールならば喉を振動させることなく返事が返せます。お粗末な物ですが。



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電話に出なくてすみません

風邪で喉の調子が悪くて声が出ないんです

それと、諸事情で、今は会えないんです

こちらに来ても、ダメですよ

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ひどい突き放し方ですね

苦し紛れの風船が、私の中で膨らんで、私自身が中身から破裂してしまいそうです

送信ボタンを押して、メールを受け取った穂乃果の顔を空想しましょう

彼女はどんな反応をしているでしょうか。記憶の底から、彼女の顔を出来るだけたくさん引き出してみました

ああ、そう、この、とびきり哀しい顔です

他人への非難を通り越し、自身への無力感に満ちた、そんな哀しい表情……

二度と見たくなかった、そんな顔をしていることでしょう

彼女は、私という人間に会えて、はたして幸福だったのでしょうか?

その答えを限りなくNOに近づけているのは、他でもない私自身なのですが。

彼女に罪はありません……ただ、私以上に罰を与えられていることに、わずかな良心が痛むのです

ああ、この自己嫌悪がますます事態を悪くします……

車輪は壊れていても、あまりに急な下り坂ならどこまでも滑り落ちて行けるのでしょう



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なんで教えてくれないの?

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ごめんなさい

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頭がぼうっとしてきました

底のほうに膜のようにわずかに残ったお酒の瓶をとり、口に含みました

こうやって、また逃げようとするのです

四方八方、壁に囲まれ、出口が無いのにも関わらず

もっとも、入口も無いのですが

血が出そうなくらい唇を強く噛み締めて、頭を壁に押し付けました

おでこが割れてしまいそうに痛いです

けれど、そうしないとまた涙が止まらなくなりそうでしたので

感情が峠を越えたあと、息を整え、ゆっくりと布団に座り込みました

驚くほどすんなり、また眠りに落ちていったのです




安眠は妨げられました

覚えのある声とともに、玄関の扉を叩く音が鳴り響いているのでした

こぶしの骨を砕いて、ドアを突き破らんばかりの、あまりに大きな音でした

あとから気がついたのですが、どうやら足でドアを蹴る音だったみたいです

私は生きた心地がしないまま、金属音と叫び声の混ざった騒音を受け止めていました

「出てきないさいよ!出てくるまで、止めないわよ!」

ああ、なんとなく、彼女が一番はじめにやってくる気がしてました

私の知る中で、一番執念深く、そして情熱的な女性でした



「外から見たらちゃんと電気もついてるし……ここにいるのはわかってんのよ……早く出て来ないと、近所迷惑も甚だしいわよ!ほら!」

あまりに強く蹴るものですから、ドアが変形して開かなくなってしまうような気がしました

それに、部屋の中でもうるさいと感じるとは、どれほど大きい声なのでしょうか

「あんたがね!顔を見せないから、みんなが不安で、どうしようもないのよ!はやく、この鍵を開けなさい!ほら、お客さんの迎えかたも忘れたわけ?なんならこのまま蹴り破ってぶっこわすわよ!」

我慢比べです。いつまでも、あんなに喧しく騒げるはずがありません

私は息をとめ、嵐が去るのをじっと待ちました

案の定、音は止みました。彼女としては数時間に及ぶ奮闘のつもりでしょうが、実際は10分にも満たない時間でした

彼女は疲れたというより、この時間で私は「説得する価値もない人間」として呆れたのに違いありません

これほど落ち着けているのは、彼女が一番最初にこの部屋に向かってくる予想はついていたからでした




やがて、太陽は沈み、部屋にまで夜の匂いが流れ込んできました

食糧を買い出しにいかねば。そうしてジャージ姿になって、玄関を開けたのです

なんと不用意なことでしょう。しばらく会わなかった私は彼女の性格を忘れてしまっていたのです

彼女は、私の玄関の前(正確には、ドアに付いている来客確認レンズからは見えない位置)に座り込んでいたのです

あの騒音が止んでから六時間……彼女はずっと待ち続けていたのです!

彼女と私が同時にあっと声を上げ、彼女は立ち上がりこちらに走ってきました

あわててドアを閉めようとしても、彼女の足が挟まりました

そこからは力ずくで隙間に体をねじ込まれてしまい……押し返せず、滑り込むように、侵入を許してしまいました


床に倒れ込んだ彼女は、ぜぇぜぇと息を切らしながら、勝ち誇った顔と共に私を見上げていました

「あんた……運動してないでしょ、筋肉、落ちたんじゃない……」

「……」

「ふん……久しぶりね」

私は泣き出したくなりました

私はなんと面倒くさい友人を持ってしまったのでしょう

ぱたぱたとスカートをはらいながら、彼女は立ち上がり、部屋の奥に歩いて、私の布団に腰掛けました

「お邪魔するわよ」

矢澤にことは、そういう人間だったのです

今日はここまで

彼女は首だけをキョロキョロと動かして、室内を見回していました

布団の位置にいると、視界を左右に三十度ほど振るだけで、部屋の中のおおかたは見ることができます

彼女の視界の端、つまり玄関の扉の前で私はぽつんと立ちつくし、彼女を見下ろしていました

正面に視線を定めました。どうやら、本棚を見ているようです

「『初等論理学』『源氏物語』『開国と近代化』……あんた、文学部?専門はどれよ?」

私は黙っていました

彼女は『リヴァイアサン』の一巻を手に取ると画集を見るようにパラパラとページをめくりました

「私はあんまり大学行ってないから、こういう学問から離れて久しいのよね、何書いてんのかちんぷんかんぷんだわ」

実を言うと私もその本は教科書に指定されたから購入しただけで、自発的に目を通そうとしたわけでもないのですが

専攻に関しては決めるまえに大学に行かなくなってしまったのでちんぷんかんぷんです

ともかく、そのような具合で彼女はぶつぶつと独り言を(おそらく私に話しかけていたのでしょうが)繰り返していました


「とりあえず、ね、シャワー借りていい……?着替え、持ってきてるから」

彼女はしおれた髪の毛を揺らし、こちらを向いて言いました

私は黙って頷きました。しかし、ずいぶん準備がよろしいものです

「あ、タオルもシャンプーもあるから大丈夫よ。ドライヤーだけ貸してくれる?あんたもいつまでもそこ立ってないで、自分ちなんだから座ってなさいよ」

私の目の前の扉を開けて、彼女はシャワールームに入っていきました

電気のスイッチを入れてやり、そのまま部屋の奥に歩き、先ほどの彼女と同じように布団に腰をかけました

彼女のカバンが置いてありました

横ポケットからはみだしたスケジュール帳を手に取り、開きました

公演、収録のスケジュールが赤と黒のボールペンでびっしりと書き込まれ、埋まっていました

何かと多忙のようです。もっとも、彼女なら淡々とこなしてしまいそうですが

気になったのは、今日の日付の部分でした

赤色で書かれた『合同公演』の予定の上に黒色で何重にもバツ印がつけられていて

下に小さく『海未』と書いていました



なんとなく不吉な感じがしたので、スケジュール帳をポケットに返しました

シャワーの音が響いていました

ここから彼女の顔は見えませんが、頭の中は見える気がしました

おそらく、とりあえず潜入には成功したので……その次の行動を考えているのでしょう

ちょうど、ハーフタイムの作戦会議のように、思索をめぐらせているはずです

対して、私は作戦を練る余裕もありません

というのも、まずは意思疎通の手段を獲得しなければならなかったからです

水がユニットバスに跳ね返る音に紛れて、声帯を震わせ、<あ行>から順番に発声の練習をしました

途中、彼女は「何か言った?」と扉越しに私に尋ねましたが、それ以上は追求してきませんでした

キュッと高い音が鳴り、シャワーの水が切れたようです

ちょうどそれは、私の発声の終了を告げる指揮者の握りこぶしのようで、また開戦を告げる鐘の音のようでした

大丈夫です、こちらの準備もできました

ドライヤーをかけ終えた彼女は、室内着の上から湯気を全身からもわもわとたたせ、扉から出てきました

私の隣に彼女が座りました


彼女が私の毛先を摘みました

「髪、伸びたわね」

「……そうですね、にここそ伸びたんじゃないですか」

負けじと言い返しました

「あんたのは不健康な伸び方よ、末端がギザギザしてて……どうもよくないわ」

「人前で踊る機会もありませんから」

「……あ、そう。まぁ、こんな回りくどい話をしに来たんじゃないの」

強く、私の方に目を向けました

「何してんのよ……こんなところで」

それはあまりに、問題のすべてを尋ねる聞き方だったので、私は返答に困りました

けれども、彼女はそれを意図した沈黙だと解したようです

「……とにかく、話してみなさいよ。余計な口を挟んだり、非難もしない、約束するわ。大学に入ってからのこと、順を追って説明しなさい」

私も彼女の目を見て、言い放ちました

「はい、説明します……しかし、非難は自由にしてください。私もきちんと話しますから、ひとしきり聞いて、ひとしきり話したら、それで出て行ってくれませんか」

「いいわよ、約束するわ。でもいつ気を変えても構わないわよ」

「結構です」

私は、高校を卒業してからのことを、伝えました

だいたい、みなさんに話したような内容です(より事務的な口調でしたが)


すべて伝え終わると、彼女はいつの間にか首を垂らして、床のほうを向いていました

腕を組み、寝ているかのようでした

「以上です……これだけの話ですよ、つまらなかったでしょう?……あの、聞いてますか?」

「聞いてたわよ」

そのままの体制で彼女は返事をしました

「理解に苦しむわね……そして、対応に苦しむわ。誰か特定の人間のせいであんたがこうなってたなら……そいつを怒鳴りつけにいこうかと思ったのに……」

いかにも、これも彼女らしい発想でした

「もう一度言いますが……これは、事件なんかじゃないんです。これ自体が、私という人間の行く先だったんです」

「……」

「そして、ここであなたが私を修正……いや、外に引き出したとしても、その先にいずれ……そう遠くない未来、わたしはこの生活に戻ってしまう気がするんです」

「なによ……案外、冷静だし、よく喋るじゃない……つまり、あんたは根っからの引き篭もり体質ってわけ?」

「別に、そう思ってくれても構いませんよ……そして、話すことはこれで全部です。これ以上、何も……」

白い壁をみつめ、白い天井を見上げ、私は歯切れの悪い声でそう言いました


「それがあんたなの?違うでしょ……穂乃果を……みんなを引っ張ってたじゃないの。何より、あんなに楽しそうだったじゃない……」

敵を失った彼女の声には、悲痛なものが混じっていました

「やめてください……私は、穂乃果に、ことりに、あの二人にくっ付いていただけですよ……あの二人が私を拾ってくれて……私が二人に懐いていただけです」

「懐いてた、ね……犬みたいなこと言うのね」

少し笑ったような声で言いました

「的確だと思いますけどね……とにかく、にこも含めた、あのときの八人ですね……私を、一瞬だけでも、遠い世界に連れて行ってくれて……ありがとうございました。でも、もういいんです」

彼女は、しばらく黙っていました

顔を上げ、壁にもたれかかり、二人でしばらく天井を見つめていました

不気味なほど……彼女は静かでした

ひょっとしたら、私はこの期に及んで、まだ何かを期待していたのかもしれません


「とりあえず……外に出なさいよ。ここは天井も低いし……中にいるうちは、どんな偶然も入ってこないわよ」

「あなたが入ってきたじゃないですか」

「じゃあ、偶然じゃなかったんじゃないの」

一呼吸置いて、彼女は続けさまに喋りました

「これからどうすんのよ、あんたは……二年もしないうちに、卒業できないことは親にバレるわよ」

「そのときは何とかしますよ、大丈夫です」

「なにが大丈夫だってんのよ!頭おかしいんじゃないの!」

とうとう怒られてしまいました

「……たぶん、おかしいんだと思います。言うとおりですね」

「医者でも行きなさい、精神病か、何かよきっと」

「行きたくありません……無駄ですよ、たぶん」

『たぶん』を言い終わる前に、視界ぐるんとが回転しました

後頭部に熱い痛みを感じ、彼女に突き飛ばされたのがわかりました



「馬鹿よあんたは……!こんな馬鹿、生まれて初めて見たわ!」

「……私を初めて見たのは、だいたい五年前じゃゃないですか」

痛みを感じたところを撫でながら、私は言い返しました

彼女は私の着ているジャージの首元を掴み、引っ張ってきました

「いや、こんなヤツに会うのは今日が初めてよ」

「……痛いですよ、やめてください」

力なく、私はそのまま布団に顔を投げ飛ばされました

音も無く耳のほうから倒れこみ、壊れた人形のように動かなくなりました

彼女も、何を相手にしているのかわからないようでした

「いい加減にしなさいよ……ほんとに!」

また怒られました

不思議と、心は痛みませんでした

そのあとは、何が聞こえているのかも、頭がふらふらして、よくわかりませんでした

なんとなく、お尻のあたりを蹴り飛ばされた気もします




時が過ぎました

頭を起こした私は、彼女の背中を見ました

なんとなく、腹が立ったので、後ろ髪を掴んで軽く引っ張ってやりました

きゃっと彼女は声を上げ、私を睨みつけました

「……なに笑ってんのよ」

「久しぶりに笑ってる気がします」

「……良かったじゃない」

なんとなく、彼女もすこし嬉しそうでした

「今日は、ありがとうございました」

「なに帰らそうとしてんのよ」

「……まだ帰らないつもりなんですか」

彼女はぱたんと倒れて横になり、腕をあげてゆらゆらと振りました

「気が変わったの、今日はここで寝ていくわ、いーのよ、どうせ今日も明日も、予定無いんだし……」

「……嘘ばっかりつかないでください」



疲れを吹き出したように、彼女はすぐに眠りに落ちてしまいました

彼女の丸く子供っぽかった瞳は、すこし幅をもった大人のそれになっていました

それでも、匂いから口調から、素振りまで……なにもかも、あの頃のままでした

私と同じように、彼女も……やはり、人はそう簡単に変わらないものなのでしょうか

月並みな台詞が、今は妙な重みを持って感じられました

彼女の丸めた身体に布団をかけてやり、私も横になりました

久しぶりに疲れてしまいました

心地の良い痛みが、頭の後ろに残っていました

何かが、変わりそうな気がしてきたのです

電気を消し、目を閉じ、眠りにつきました

今日はここまで

油のはじける音で目が覚めました

鼻孔の奥に、懐かしい香りが息づいています

ふと顔を横にすると、流し場の方に蛍光灯が点いているのが見えました

彼女が手慣れた様子でフライパンを揺らしています

折りたたみ式のテーブルの上には、白いお皿が二枚、白いご飯の入った茶碗が2つ並んでいました

「おはようございます……これ、朝ご飯ですか、私の分もあるんですか」

寝起きのまぶたを人差し指で強く擦りながら、彼女に声をかけました

「インスタント食品は意地でも食べないようにしてるの……人間、食べたもので身体が出来てるのよ、そう考えたら嫌でしょ」

彼女は前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えました




「食材、買って来たんですか」

「そうよ、あんた冷蔵庫にお酒しか入ってないじゃない」

そこまで見なくてもいいのにと思い、私はすこしむっとしました

気だるそうな顔をして、彼女がこちらに歩いてきました

フライパンを持った右手をくるんと傾け、お皿に目玉焼きを滑らせました

「はいどうぞ、全然大したもんじゃないけど……あんた起きるの遅いから、お米も炊けちゃったわよ」

ふと横を見ると、炊飯器の電源ランプが一年ぶりくらいに点灯していました

「いつから起きてたんですか」

「んー……2時間くらい前から……はい、いただきます」

彼女は両手を合わせて、黙々とお箸を動かし、料理を口に運び始めました

私と視線を交わすのをためらうかのように、ただ食べ物だけを見つめていました

「……この部屋、テレビ無いの?……私の活躍が見れないじゃない、もう……」

布団から起き上がった私は、正座をしたままうつむいていました

小さなテーブルの上で、彼女の手が動いているのが視界の上辺にかすかに見えました




「ふわぁぁ……変な体勢で寝たから体が痛いわ……あ、でも布団かけといてくれたのね、ありがと」

そう言われて、昨夜の顛末を思い出しました

「……なんで、ここまでしてくれるんですか、変ですよ」

思わずぽつりと言葉が出ました

「なによ急に。泊めたもらったお礼よ、問題無いでしょ」

「変です!……わかりません、昨日だって、今日だって、私のために自分の予定を潰してまで……」

彼女が鋭い目でこちらを見ました。もちろん、私は下を向いていたので、視線を感じただけですが。

「……なんで知ってんのよ、あんた、わたしの予定表覗いた?」

私も顔を上げ、彼女の目を見つめました

「もうしわけありません……でも!教えてください!私は……」

息が途切れ、目頭が熱くなりました

また、うなじをむき出しにして、首が下に傾きます

「私なんかに……どんな価値があるんですか、なんで、ここまで……踏み込んで……」

こんなことを言うと、彼女はきっと怒るんでしょう、そう思っていました

けれど、このときは静かに聞いてくれました


「……そりゃ、あんたは私の後輩だからでしょ……そんだけよ」

あまりに素っ気ない返事でした

私が声を振り絞った反動にしては、それはあまりに小さすぎました

「あと予定には優先順位があるでしょ……予定は後輩の方が優先……別に、私がそう考えてるだけ……ほら、折角作ったのに、冷めるから早く食べなさいよ」

「ずるいですよ!……先輩は、禁止って言ったじゃないですか」

「……だから、先輩は禁止してるわよ、年上だからって私に気使わなくていいって……そう言う意味でしょ」

「だったら……」

「……なによ、後輩は禁止してないでしょ……何か問題あるわけ?」

「先輩は駄目なのに後輩はいいなんて……そんなの、屁理屈です、ずるいです……」

言葉が詰まって、最後の方はほとんど独り言のようになっていました

むろん、彼女を責めるつもりはなかったのです

ただ、こうして優しくされることを忘れていたのでした


彼女はカチャリと音をたてて箸を茶碗に乗せ、頬杖をついて、ぶつくさと喋りました

「年とってるからって偉そうにすんのは好きじゃないのよ、でも、年下の世話は慣れてるし……うちは妹とかもいるし……」

恥ずかしそうで、ちょっぴり誇らしげな声でした

「妹ですか……?私がそんな風に見えますか?」

「ちょっとだけ、そんな気もするわね、ほら、あんた、しっかりしてそうでなんか頼りないじゃない……」

「頼りない……ええ、それなら、その通りです……どうも……」

「ふーん……まぁ、自覚はあるのね……」

品定めをするように、彼女は私を視線で舐め回してきました

「知らない人に見られるのが怖いの?」

「わかりません」

「ずっと、何もしてないんでしょ?」

「……何も出来なかったんです」

「これからどうするつもり?」

「……わかりません、一体、私は誰の役に立てるんでしょうか……この先、何を目指して生きていけば良いのか……」

言葉で詰問されると、何も言い返せません

空っぽの胸は、どんな波長も無音で跳ね返してしまうようです



彼女が再び箸を手に取りました

目玉焼きの黄身をつつくと、ぷつんと膜が破れ、橙色の粘液が流れ出しました

「生きる意味……とか、ね。難しく考えちゃダメでしょ……何のために生きるかって……そんなの簡単な答えがあるでしょ」

「何も、分からないんです。必要とされることも、必要にすることも……誰にも出来ないんです……一人で……そうやって……」

「あんた自身に値段を付けるのも、それを買うのもあんたの仕事じゃないわよ……あんたは自分のために、自分の幸せのために生きればいいの。他の人のことは、後でいいでしょ?」

そう聞いて、ああ、私は彼女のようにはなれないな、とまた軽い諦めが湧いて出てくるのでした

「自分のために……何なんでしょうか。私は、私自身が何をしたら喜んでくれるのか……さっぱり検討もつかないんです」

「……とにかく、外に出なさいよ。そして、何でも良いから見つけなさい。良い友達でも、おもしろい本でも、美味しい食べ物でも、何でもいいから……喜びたいなら、ちゃんと動きなさい」

「……」

「卵の殻だってね……内側から割らなきゃ、産まれることだって出来ないの。そうやって、うじうじしてたら……ほら、外から割られて、液体のまま死んじゃうわよ」




けれども、彼女のようになれなくとも、ただ自分のために

そうやって生きるための、心に生えた細長い紐の端をようやく掴めそうな気がしたのでした

そいつを思い切り引っ張ってやれば、この錆び付いた心臓が煙を吹き出して再び動き出してくれるような、そんな気がしたのです

無言の朝食を終え、再び沈黙の時間が過ぎ去りました

「……今日はありがとうございました」

「こっちこそ、一日泊めてもらって、悪かったわね」

「……時間をください。もう少し、あと少しだけの時間を……」

彼女は訝しげな表情を少し浮かべた後、意地悪そうに微笑みました

「いいわよ。でも、あんたから会いにくるまで、二度と会うつもりはないからね」

「待っていて下さい」

「ふん」

鼻で返事をしながら、彼女はくるりと背を向けました。帰りの支度を始めたようです

永遠にとれることの無い疲労を背負い込んだ、あまりにも小さな背中は、今の私にとって直視に耐えませんでした

けれども、またこちらを振り向くと、あどけない顔を覗かせて、私をほっと安心させてくれるのです

きっと彼女は、後ろ髪を引かれながらも、ただ前に進もうとしてきたのでしょう

私の前を横切って、彼女が玄関のドアから出て行きました

彼女の体の隙間から、目も眩むような朝日が暗い部屋に差し込み、光の帯が生まれ、ドアが閉じると、またいつもの部屋に戻りました

今の光を忘れてはならない気がしました

血を流す私の心音が、部屋に響き渡りました


熱いシャワーを浴び、拡散した髪をゴム紐でぴっちり括り上げました

大きく息を吐き、そして吸い込みます

両手、両足……膝、肘、腰、肩、首……身体は、まだ生きてくれています

それならば、今はともかく、動き出さねばなりません

そして、破らねばなりません……この箱を、誰の手でもなく、自分の手で、内側から!

ドアノブに手をかけ、太陽の下に足を運び出しました

私を拒むような、深く黒い影が足下に生まれました

虚ろな目を引きずって、自分の足で歩こうとしました

自分でも不思議なほどに、息はすぐに上がり、汗がたくさん吹き出てきました

道が、景色が、恐ろしくゆっくりと流れます

私は、何のために、生きなければならないのでしょうか

あまりに辛く、寂しいことがたくさんありました

この世界は、自ら動き出せない人間に、あまりに冷酷で、残忍すぎたのです

きっと、私は知るのが遅すぎたのでしょう

転んでから、やっと地面を歩いていたことに気がついたようです

私は、何のために、生きなければならないのでしょうか

けれども、それを考えるのは、今じゃなくても良いのでしょう

まずはともかく、生きなくてはなりません

今はそれだけで、精一杯ですから。

熱を帯びた頭が、ふらふらと宙をさまよい歩きました

無理にでも、笑顔をつくってやると、少し心が軽くなったような気がしました

今日はここまで

私の久々の日中の外出は30分ほどで終わりました

まだ人混みに出る勇気が湧かなかったので、近所を流れる河川を一望して、それから引き返しました

すっかり汗だくになってしまって、部屋に着くと、またシャワーを浴びなければいけませんでした

長期間、運動をしていなかったので、いやにベタベタとまとわりつく不快な汗でした

体力も、思った以上に落ちているな、と思いました

時間にしておよそ1年ほどのことですが、驚くほど衰えは早いものです

またこれをどうにかするのは大変だな、と思うと同時に、自分が取り返しのつかない寸前まで来ていたことを自覚しました

シャワーが終わり、布団に腰をかけました

汗の匂いを残しながら、携帯電話を覗きました

新しいメールが一件入っていました










矢澤 にこ



希がそっち行くわ

2時くらいに着くから、用意しときなさいよ

希ですか

おそらく、にこの差し金でしょう

正直なところ、そっとしていて欲しかったのですが、放っておいたらまた以前のような生活に戻るかもしれないと彼女は思ったのでしょう

私も少なからずそんな気がして、なんだか心の奥を先に覗かれた気がしてちょっぴり悔しかったです

国道からトラックの走る重低音が響いてきます

お腹にどっしりと伝わってくる、気分の悪い音でした

黙って待っているのが不安だったので、来訪者に備えて部屋の片付けをすることにしました

といっても、着替えも食器も家具も、必要最低限しかないこの部屋には、片付けるものもそう多くは見当たりません

軽く本棚の中身を触ったりしながら、片付けというより、まるで改築業者のように部屋の中を眺め回していました

天井は、やはり低いです

けれども、いま外に出たときの空の高さと、それほど違う気もしませんでした




部活の頃の写真を入れてある小箱がありました

3、4年前の私たちは、今見るとやけに幼くて、ステージ上に立てる風格はどこにも見当たりませんでした

彼女たちは、今、私に何を想っているのでしょうか?

おそらく、皆に再会しなければならないのでしょう

しかし、思い思いの輝かしい未来に進んでいく彼女たちの姿をみると、私などは妙に鬱屈としてしまいそうでした

不安を拭い去れないまま、時が過ぎていくのを待ちました

1時を少し周ったとき、希からメールが入りました

どうやら、アパートの向かいにあるカフェで待っているそうです

私は外出を求められたことに、少し焦りました

静かな雰囲気のカフェとは言え、他人の目があるのは気になるものです

せめてもの身だしなみだけは整えようと、髪をとき、人前に出られるような服装を衣装ケースから引き出しました

鏡は無かったので、どんな姿か確認できなかったのも心残りでした

また汗をかいてしまうんだろうな、と少しシャワールームに目をやり、それから玄関の扉を開けました







「久しぶりっ」

「……こんにちは、久しぶりですね」

橙色の薄暗い照明がかかったカフェの、一番奥の席に彼女はいました

茶色のオーク製の机に肘を置き、待ちくたびれた様子を隠すような調子の良い声でした

薄く黄色がかったシャツを着ていて、白色の柔らかいスカートも机の下から覗いています

後ろに纏められた髪が、イスから優しく零れていました

「何頼む?」

メニューを滑らせてきながら、彼女が尋ねました

「そうですね……カフェモカを」

「じゃあ、うちもモカにしよかな……すみません、2つお願いしまーす」

久々に聴く彼女のスローな口調は、どこか暖かさがありました

私の心の調子と波長が合っているような、そんな気がしました

しばらく沈黙が続きました




声をはじめに出したのは、私のほうからでした

「希は今、何をやってるんですか」

「んー……まぁ、のんびり就活、って感じかなぁ。卒業に要る単位は三回生までにだいたい揃ったから、今は気楽なんよ」

「……私も見習ってはいけませんね。就職は、何か具体的に決まってきましたか?」

なんだか質問攻めだなと思いながら、私は続けて尋ねました

「うーん、会社に入って働くのもいいけど……ちょっと、迷うなぁ」

「他に何か?」

「就職、じゃないけど……小さいお店、例えば雑貨屋さんとか……ひっそりと、そういうのをやりたいって気持ちもあるんよ」

「なるほど……良いじゃないですか……素敵だと思いますよ」

本心からの言葉でした

この住宅街のカフェのような雰囲気に、彼女がよく似合っているような気がしたからです

注文のカップがテーブルに届きました

白いホイップがふんわりと表面を包み、カップの白色との境界を消していました

彼女がそれをゆっくりと口に運ぶ姿は、とても私と一つ違いとは思えないような、淑女の風格を漂わせていました




「海未ちゃんは」

「はい」

「将来の夢とかある?」

「……特に、考えてませんでした」

「お家をを継いだりとかはせえへんの?」

「夢、ですかね?それは……。やりたいこと、というより、収まるべき場所というか……」

「嫌なん?」

「嫌ではないです、ただ……何となく、そうなるだけ、という感じじゃないですか、上手く言えないですが、夢と呼ぶにはあまりに……」

私の両親は、社会経験を積むのも有意義なことだと考えて、私の下宿を快諾してくれました

それでも、昨年までは春や夏などの長期休暇には実家に帰り、お稽古を続けていました

私事がある、とのことで今年の春は帰りませんでしたが、もうすぐ夏休みが来ます

そこで、また家に帰らないとなると、きっと怪しまれるでしょう

なにぶん、こんな風な意欲と態度ですので、家を継ぐなどということが許されても良いのか、そんな器が自分にあるのか、少々不信感が出てきていた頃でした

「まぁ……お仕事だけが夢やないからね、やってみたいこと、何か無いん?」

「……しあわせに……なりたいです」

「……」

「あの頃のようにです、あの、未来が見えていたような……明日を楽しみにして毎日生きていたような、自分に……」

希は黙って聞いていました

また私自身の問題の答えを他人に求めているようで、申し訳ない気持ちになりました

彼女は、もう一度、カップを口に運びました

机に置いたときには、クリームがコーヒーと混ざり、カップの中身は混濁色になりました




「海未ちゃんは」

「はい」

「時間が戻って欲しいと思う?」

「どういう意味ですか」

「いつでも、好きな時間に戻って……自分のやったこと、選び直せるとしたら……どうかな」

「……あまり、思いません」

「なんでそう思うん?」

「きっと、何を選んでも……私は同じだと思いますから……」

「うん……そっか……」

苦い答えを誤魔化そうと、私もカップに手を伸ばしました

けれど、口の中は余計に苦くなってゆくばかりで、どうしようもありませんでした

希は、まぶたを閉じていました

すーっと、息を出す音が聞こえたと思うと、ガラス張りのウィンドウの外に視線を送りました




「うちも同じかなぁ」

彼女が何を見ているのか気になり、私も外を見ました

「いろんなこと、終わっていったのは、ちょっと寂しいけど……思い出せば、ぜんぶ、楽しかったから……」

軽自動車が静かな排気音を立てて横切っていきました

「だから、戻りたいとは思ったりせえへんよ……でも」

「……」

「海未ちゃんは、あの頃の自分が……輝いてた、そう思うんやね」

「……その通りですが」

「どうしたん?」

「……いえ、あの頃とは言いましたが……今も昔も、私は同じですよ、何ら違いはありません」

「ふぅん……」

「自分がどんな人間だか、気がついてしまっただけの話です……」

視線をテーブルに戻しました

「だから、一人で生きて行く……私には、そんな勇気が必要なんです」




私がそう言うと、彼女は少し笑ってカバンのチャックを開け始めました

中から、タロットを取り出し、机に置きました

「懐かしいやろ?」

「ええ、懐かしいですね……占ってくれるんですか」

「ううん……今日は、占いじゃなくて、ちょっと別のお話……うちからの、メッセージ」

「……?」

彼女は、積まれたカードの一番上の一枚を手に取り、裏を向けたまま、私に見せました

「ほらこのカード、何が描いてるか、わかる?」

意地悪そうに微笑みました

「……わかりませんよ、裏を向けてたら」

「……『運命の輪』やね、正解は」

「それはどういう意味でしょうか」

「ううん、意味は別にいいんよ……ほら、海未ちゃんが見てるこっちが表の面……な?」

「それが、どうしたんですか」

「うちが見てるのは、裏の面」

「……」

「海未ちゃんが見てるのは、表……こうやったら、お互い別々の面が見えるやろ?」



彼女が裏を向けて、カードを束に戻しました

「一人じゃ、表と裏は同時に見られない……でも、間違いなく、カードはたった一枚なんよ」

「カードは、一枚……」

「自分を見つめるときにも、忘れたらあかんよ……たった一人の人間……まして自分自身なら尚更、油断してしまうけど……」

カバンにカードをしまいこんで、また目を閉じながら囁きました

「内側からばっかり見てたら、大事な自分を見逃してしまうかも……」

「……はい」

「たまには、ひっくり返してみたらどうかな……自分が裏を見て、そのとき誰かに表を見つめてもらう……」

カップに口をつけ、一呼吸置いて、また私を見つめて言いました

「きっとみんな、海未ちゃんが何を描いたカードか、知りたがってると思うんよ……」

彼女の声は、不思議な力を帯びていました

わからないようで、今の私にはゆっくりとわかってくる、そんな奇妙な言葉でした

また、彼女は明るい笑みを浮かべていました

いつの間にか、カップは空になっていました

私は、無言のまま、目だけでお礼を言って、そのまま他愛も無い色々な話を続けました



時間は流れながらも、ときどき先ほどの言葉が蘇ってきます

私は、どんなカードなんでしょうか?

そして、他人にどんな運命を示してあげられるのでしょうか?

きっと、私は私を裏返さなければ……表の模様を他人に伝えてもらわねば、それは近すぎてピントが合わず、正確に見えないのでしょう

希は、いつだって私に表の模様を見せてくれています

だから、私は彼女のことを、もっと近づいて見てみたくなるのでしょう

なだらかで、優しい曲線……こんなに美しいものを、独り占めする手もあるのに……そう思いました

私のカップも空になり、茶色のシミが底で固まり始めていました

相変わらず、口の中は苦かったですが、嫌な気分はしませんでした

ああ、夏が来るなぁ、とくっきりと落ちた影を見て、思いました

彼女もまた、同じことを考えていた気がしました

今日はここまで

日が傾き、空が茜色に染まる時刻に私たちは店を出ました

彼女は大きくのびをして気持ちよさそうな声をあげていました

「海未ちゃん、明日は何曜日かな」

「ええと……」

「月曜日」

「あ、月曜日……そうですか、どうも曜日の感覚がわからなくなっていて……」

「まぁまぁ、ゆっくりしてたらそうなるよなぁ」

「……」

「んじゃ、うちも明日は学校あるし……少し早いけど、今日はそろそろ帰ろっかな」

「そうですね、このくらいで……」

「それじゃ、バイバイ、海未ちゃん。また何時でも遊びに誘ってなー」

夕焼けを背景に、彼女は笑いながら手を振っていました

「さようなら、今日はありがとうございました」

私も小さく手のひらを揺らし、彼女に応えました

遠ざかっていく彼女の背中を、私はいつまでも見ていたい気持ちでした

太く束ねられた髪がゆらゆらと振り子のように揺れていました

一度、彼女はこちらを振り返りました

距離も大きく、表情を確認するには至りませんでした

けれども、彼女はまた優しく笑っていた気がしました

遠くの交差点を曲がり、彼女の姿が消えました

ブロック塀に挟まれた道路の上に立ち、しばらくその方向を見つめ続けていました

静かな時間でした

遠くから、川の流れる音がかすかに聞こえました



翌朝、近所の理髪店に向かいました

入学時から利用させてもらっている、行きつけの店です

店主は寡黙で、ただ仕事を淡々とこなします

慣れ親しんだ相手なので、私も警戒心を解くことができました

ハサミの音が頭上でテンポ良く鳴り、床上に古い髪が乱雑に落ちてゆきます

代金を払い、店を出ると、頭の軽さに違和感を覚えました

部屋に戻り、熱いシャワーを浴びて、本棚から読みかけの小説を一冊取り出し、カバンに入れました

それと携帯電話、財布、あとは小さなタオル一枚を持ち、玄関から出ました

暖かいというには、すこし暑すぎるほどの気温でした

時刻は十時を少し過ぎた頃、久々の通学路を、私は歩き始めました


横断歩道の前で立ち止まりました

自動車が左右から現れ、そして消えてゆきます

後ろには、私と行き先を同じくする若者たちが同じく数名、黙って立ち尽くしています

またうっすらと汗が出ていたことに気がつきました

さっと軽くタオルで顔を撫でると、信号が青に変わりました

大きな流れの一部として、私も歩行を再開しました

しばらく歩いたのち、大学の門を通り抜けると、賑やかな学生たちの声で溢れかえっていました

数名、私のことに気がついたような素振りを見せる方々がいました

言い様の無い罪悪感を投げつけられた気もしましたが、思っていたより、辛い気持ちもしませんでした

実際のところ、彼、あるいは彼女たちが私に向けるのはいつだって単純な知識欲であり、それ以上のものでは決して無いのです

視線を向けるというのは、対象に好奇心を向ける以上の意味をもつ行為ではないのです

そう考えてしまえば、私自身の中身には誰も無断で到達することはできないのです

頑丈で無慈悲な鍵をかけてしまえば、大方の招かざる客は誰も訪れることはできなかったのです

なら、私の横を通り過ぎていく有象無象に、何の恐れを抱く必要があるのでしょうか

私の最も深いところは、決して覗かれるはずがないのです

胸の奥から湧き上がる不安、恐怖、羞恥……あらゆる感情は、私自身が原因でしか有り得ないのです

私以外の全ての人は、私自身が何を思うか……そのことの小さなきっかけに過ぎないのです

これまで、たくさんの悲しみを引き受けてきました

けれども、その多くは、悲しむ必要もないものだったのでしょう

私自身が、悲しみたかったから……そう考えたから、大げさに悲しんでしまったのでしょう

私は、昔の私と同じです

ただ、知らないうちに、外の世界から私の深部にある感情へと通り抜ける途中のフィルターが異常を起こしていたのでしょう

どんな荒削りのものでも、メンテナンスは必要です

少しずつ、ゆっくりと……周りを傷つけることなく、それを綺麗にしてやらねばなりません

目下、最優先事項ではありますが、焦る必要はありません

私には、まだ落ち着く時間が残されているではないですか

十分すぎる休養はもう得たので、次は、動作テストでしょう

もう一度、人間社会の中で、電源を入れてみなければなりません

今日を、その日にするつもりでした



「海未さん?」

誰かが後ろから、私に声をかけました

「……はい、海未は私ですが」

私は振り返りながら、その声の主にはっと驚きました

「海未さん……!やっぱり!」

金色の髪をたなびかせ、彼女は声を上げました

「久しぶりですね」

「会いたかったです!」

「……ええ、私もですよ」

それにしても、大きくなりました

輝いた目線の高さは、私ともうほとんど変わらないくらいでした

「お、お姉ちゃんもずっと会いたがってました!海未さんに……」

「そうですか、長い間待たせてしまって、申し訳ないです」

「そんな、私だって……」

彼女は目を開き、私を見つめています

いじらしい幼さをまだ残した彼女の雰囲気に、思わず意地悪な笑みがこぼれてしまいそうでした

「……今、時間はありますか?良かったら、どこかに座りましょう、こんな所もなんですから……」

私はそっと提案しました

「えっと、ごめんなさい、今から次の授業があるんです……ああ、すごく残念です!」

「そうですか、仕方ないですね」

「あの、待っていてくれませんか!お昼、良かったら一緒に……」

「ええ、いいですよ」

「ありがとうございます!」

「では、また」

「はい!」




急ぎ足で彼女は去っていきました

足止めをして、悪いことをしたなと思いました

そのあと、お昼になるまで本の続きでも読もうと、図書館に向かいました

少しずつですが、外出にも慣れてきたようです

相変わらず、体の重さは感じますが。

自動ドアをくぐり、冷房の入ったひんやりとした館内で、もう一度タオルで汗をぬぐいました

階段裏のソファに腰掛け、カバンから取り出した本を静かに読み始めました

文字を追いながらも、時折彼女の顔を思い出しました

何を話そうか、私の空白をどう伝えれば良いのか……そんなことを考え、読書への集中が次第に疎かになっていきました

気がつくと、軽く一時間は経っていました

そろそろ行こうかなと思い、外に出ました


「亜里沙は」

「はい」

「自宅から通っているんですか?」

「はい、そうです。電車で二時間だからちょっと遠いんですけど、お姉ちゃんもその方がいいって言うので……」

「まぁ、便利なことはありますよね、たとえば家事などは……」

「ですねぇ。実は、私も一人で出来る自信はあんまり、ないです!」

「ふふふ……、なかなか大変ですよ」

本当は家事などは大した負担でも無いのですが、この際それは言わないようにしていました

「そうだ!……お姉ちゃんから電話があったんです、海未さんに会ったってメールしたら、すぐかかってきて……授業中なのに!」

「絵里から?何を言ってましたか」

「はい、今からこちらに来るそうです」

「今から!でも、絵里も授業があるのでは?」

「ええと、午後からは何もないそうです、なので今すぐ行くと、これは決定事項だと」

「はぁ……何時ごろになりそうですかね」

「ええと、すぐ来るって言ってたから……もう一時間もしないうちだと思います」

「わかりました、はい……」

「じゃあ、お昼ご飯いきましょう!海未さん、おいしいお店、知ってますか!?」

「いえ、特に……あまり外食はしなかったので」

「ハラショー!自炊ですね!流石です!じゃあ、私のおすすめの所へ行きましょう!オムライスがおいしいんです!」

「あ、ありがとうございます……」

異様に元気なので、すこし驚きました

こんなに喜んで話されると、こちらが気後れしてしまいます

でも、ちっとも嫌な気持ちはしませんでした

絶対に、私と同じ大学に行くと……そう言い続けていたそうです

こんな私を慕ってくれる彼女に、どうして醜い感情が湧いてくるでしょうか

私もまた、微笑み返すだけで喜びを貰えるのでした




「おいしいですね!」

目を輝かせながら、私の注文したものの三倍ほどの大きさのある馬鹿みたいに大きいオムライスをスプーンで掘り返しながら彼女は言いました

「はい、美味しいですけど……そんなに大きいの食べきれるんですか?」

「大丈夫です!おなかが空いてるんです、それに、成長期ですから!」

「もう成長期は終ってると思うんですが……」

まるで、山間の採掘現場を早回しで空撮してるような、そんな荒々しさで赤いケチャップに染まったご飯がみるみるうちに彼女の口の中に吸い込まれていきました

食べる子は育つ。私は昔から少食だったので、あまり育てなかったのかも知れません

身長は私と同じなのに、そこは姉譲りなのか……と私はちょっぴり切なくなりました

「海未さん、なんだかあんまり顔色が良くないですよ、大丈夫ですか?」

「いえ、ちょっと不健康な生活をしていたので……」

「だめですよ!せっかくの綺麗な顔が!……ほら、私の分、すこし食べますか?」

「……結構です、それよりなんだか、見ているだけで胃が重くなってきました……」

「す、すみません、私だけ時間かかっちゃって……すぐ片付けますね」

「急がなくてもいいですよ、味わって食べてください……」

震えた声で言ったので、余計な焦りを加えてしまったな、と思いました



「あ」

彼女がスプーンを止めて、私の背後を見て言いました

「お姉ちゃんが来ました」

ゆっくり振り向くと、ガラスの向こうにこちらに手を振る彼女の姿が見えました

私も手を振り返そうとしたら、店内に入ってきて、私たちのテーブルの方に歩いてきました

「海未」

私の方を見ながら、空いた椅子に手をかけました

「亜里沙、隣、座るわよ……海未も、いいかしら」

「うん」

「ええ、いいですよ」

姉妹が横に並んで座りました

亜里沙だけを見ていると、絵里に似てきたな、と思いましたが、見比べてみると、ずいぶん違うものです

亜里沙がまだ幼いというわけではなく……彼女も年相応の姿ではありましたが、似ているのは記憶の中の絵里とでした

今の絵里は、言葉に表せない艶やかな……それでいて、ロシアの血の力強さをその奥に潜めた、勇ましい雰囲気も漂わせていました

「海未、どうしたの?」

「あ、いえ……二人とも、良く似ているなぁ、と思って……」

「ふふっ……よく言われるわ、ね、亜里沙」

亜里沙は口の中を一杯にして、返事が出来なかったので、二度ほど首を振って頷きました

やっぱり似てないな、と私は心の中で思いました

それでも、口に出すと面白くないので、黙っていることにしました

亜里沙の米の山が跡形も無く消滅した後、三人分のコーヒーを注文し、私たちは改めて顔を合わせました

今日はここまで

「久しぶり、ね」

「ええ、久しぶりです」

「近頃、暑くなってきたわね……外出するのが嫌になるくらい、日光が痛くなってきたわ」

なるほど、痛い日光。なかなか、今の私におあつらえ向けの表現でしょう

光の針が私の全身をほじくりまわして、外にいる私は抵抗するように汗を吹き出していました

やはり動物たるもの、適度に日光を浴びた方がよろしいのでしょう

ビタミンB2の問題もありますが、それ以前に空気中に充満する日光への免疫力が低下するのはこれまた厄介なことです

なぜなら、日中の空間に嫌われてしまうのは、人間社会からの存在の消滅を通告されるようなものではないですか!

しかし、太陽は人間の手の届かない偉大なる存在ですが、案外、これを遮ってしまうのは呆気ないほど簡単なものなのです……

それを誰より知っているのは、あの暗い部屋に住み続けた他ならぬ私自身なのでしょう、ああ、生きているうちに気がつけて良かったです……


「また、もうすぐ夏休みです、亜里沙は何か予定はありますか?」

二人だけの会話になってはいけないな、と思い、私は妹の方にも話題をふりました

「特に……友達と旅行に行く以外は、決まってないです。でも、やっと受験も終わったし、ぼんやりした夏休みを過ごせそうで、何も予定はないけどワクワクしてます!」

何も予定はないけどワクワク……ああ、これも私にとっては眩しい言葉です

働き者が束の間の休息を得た時だけに発する言葉……その言葉自体が、働き者であることの証左であるような、そんな輝かしい言葉……

反対に、休息を挟みすぎた私にとっては、再びエンジンをかけようという時に、こうも長期休暇が目前に迫っているとなんだか出鼻をくじかれた気分なのですが。

ともかく、まだ時間を与えられていることに安心するべきなのでしょう……そもそも、大学時代そのものが『人生の夏休み』と呼ぶのに相応しいではありませんか……


「絵里は?……もう四回生ですし、やはり就活ですか?」

「いや、大学院の方に行こうと思ってるの、だから夏休みは院試に向けて勉強漬けね、勉強勉強……」

「大学院……たしか、法学部でしたよね……なら、法科大学院ですか?」

「そう、司法試験、受けるつもりなの、法曹界に興味があって」

「ははぁ……凄いです……是非、頑張って下さい」

「ふふ、ありがとう。海未だって、しっかりしないとダメよ?」

不意に、自分の方に鏡を持ち出された気持ちでした

いざ自分のこととなると、体は自然と防御体制に入り、椅子と一体化したかのように硬直してしまうのでした

「え。しっかりとは……?まぁ、しっかりしていなかったのは事実ですけど……」

「そんなに身構えなくても……言葉通りの意味よ、自分で何かやることを見つけて、きちんとこなせているのが、しっかりしてるってことなの」

「そうですか……その意味ならば、私はいま芯を抜き取られたように、ふにゃふにゃしているということになりますね、恥ずかしながら……」

どうしても、卑屈で矮小になってしまい、どんな激励もお叱りの言葉のように聞こえてしまいます

気がつくと、自分の親指の爪と爪を重ね合わせ、その間だけを見つめ続けていました

沈黙は時間にして一瞬でしたが、音楽のリズムが裏打ちに変わるように、テーブルを挟んだ私たちは少し横ズレしてしまったような感じがしました

「ねぇ、海未……こっちに来て、何か変わったことはあった?……そうね、たくさんあると思うけど、せっかくだから一番のやつを聞きたいわ」

絵里が尋ねました

まるで子供になぞなぞを出しているような、遊び心の溶け込んだ顔でした

私はしどろもどろとしました、何せ、思い当たる節が多すぎて……それも、会話の種になりそうなものを選び出すとなると……

「変わったこと……ですか、それは、変なことという意味でしょうか、それとも……変化したこと、という意味でしょうか?」

「どっちでもいいわよ……まぁ、どっちかというと、変わったことの方ね。何か、面白い話が聞きたいの」

面白い話……そうなると、こちらは白旗を堂々と掲げるしかないでしょう。誇れるものでも無いのですが……

「……すみません、どうしても思い出せないです、とりわけ、面白いといった類のことは無くて……なにせ、無味乾燥な生活を送って言いましたから……」

「そう言うと思った。じゃあ、つまらない話でも、なんでも良いわ」

つまらない話でも?

それなら、幾らでも整理できないほど散らばっているので、そこら辺のものを拾って話して差し上げるのは容易なことです

容易です。が、本当につまらない話をするわけにもいかないでしょう

つまらない話の中でも、比較的面白いもの……最小値の最大値のような、下の上のランクような、そんな話を探そうとすると、これまたひどく難儀してしまうのです

ああ、私の頭はコミュニケーションを司るなんらかの部分が退化してしまったのでしょうか?

以前なら意識せずとも耳が会話のボールをキャッチして口が勝手に投げ返してくれたんですが……

しかし、沈黙は相手に罪悪感を与えるので、タブー中のタブーです

とりあえず、何か手当たり次第にぶつけてみることにしましょう。今は正直に……本能に戻るのが一番のようです


「まぁ……なんと言えば良いのか、ともかく、ダメな大学生活を送ってきたので……今はその回復に向けて奮闘しているところです。それ以外、特にこれといって何も……」

結局何も言ってないのと同じようなことを言ってしまいました

「そう……じゃあ、友達はできたの?」

これまたピストルの殺傷力をもった質問です。まさに音速で飛んでくる言葉の凶器です!

「えっ……ええと、何を友達と定義して言ったら良いのか……同じ学科の人達との食事会に参加したことも、昼食を誰かと一緒に食べたこともあるんですけど……友達というには、あまりに浅い、というか……そこまで仲良くなれていないというか……」

これは正直な気持ちでした

もちろん、年を経るにつれて、所属する集団も拡大してゆき、関わる『べき』人間も多くなり、当然の結果として、個々の人間との関係は薄くなってゆくことは承知していました

それにしても、私はこの浅さに耐えきることができなかったようです

次から次へと相手にする人間がルーレットのように入れ替わって……その誰もが、会うたびにリセットされて初対面になっているような感覚……

きっと、この状況に疲れを覚えているのは私だけではないはずです

しかし、他人と関わること、このことの疲れを、どうやって他人と分かち合えば良いのでしょうか?

私は結局、どうせ一過性の関係ならば、あえて苦労をしてまで本来の自分を曝け出す必要もあるまいと考え始め、その結果、他人との接触面が次第に小さくなって行き……別離を迎え、やがて誰とも交わることが無くなったのです

もちろん、他人から向けられるの視線への恐怖もありました

しかしそれも、自分から他人に関わろうとしないから、相手側からの一方通行の集中砲火のように感じてしまっただけなのでしょう

キャッチボールにしたって、相手が投げてくれたボールに対し、突然背を向けてしまい……それが後頭部に直撃したとしても、タンコブの痛みを相手の責任にすることは決して出来ないでしょう……


「あ……時間だ、次の授業始まっちゃう……」

亜里沙は突然そう言うと、立ち上がりました

「海未さん、お先に失礼します、今日はありがとうございました!お代、ここに置いておきますね」

「いえ、こちらこそ……美味しかったですよ、オムライス」

一礼をして、そそくさと店の外に飛び出して行きました

おそらく、私たちに気を遣ってのこともあったのでしょう

「海未」

彼女の姿が見えなくなると、絵里は再びこちらを向いて言いました

「……海未は、友達って、どこから友達になると思う?」

今度は、先ほどと違い、真剣な表情でした

私も、これは難しいな、と思いながら、結局はまた、ほとんど直感で答えました



「それはやはり……相手に対して、気を許せるかどうか……一緒にいて、心地が良いかどうか……そこが境目になるんじゃないですか?そして、お互いがその基準を満たしあったとき、二人は友人となれるのではないでしょうか」

「そうね、その通りだと思うわ」

「……正解ですか?」

「何を言っても間違ってるわけじゃないわ……ただ、海未のいう友達の意味をはっきりとさせておきたかったから……」

「では……絵里の答えを聞かせて貰ってもよろしいでしょうか?」

「そうね……じゃあ、こういうのはどうかしら、『波の共有』ってのは……」

「波?どういう意味でしょうか」



「人間はみんな、感情の波を持ってるわ、喜んだり、落ち込んだりして、ゆらゆらと揺れる波が……」

彼女は宙に人差し指で波の模様を描きながら言いました

「そして、友達っていうのは、この波の動きを共有してることのことを言うの……例えば……片方が喜べば、もう片方もそれを喜ぶ……片方が悲しめば、それを見てもう片方も悲しむ……」

「ははぁ……」

「よく『傷ついたら優しい友達が助けてくれた』ということを言うけど……ちょっと違と思うの。多分『ある人』が傷ついたら、その波を共有する友達も一緒に傷ついてしまう……だから、『自分の傷』を治すために、その友達は『ある人の傷』を治してあげようと、手伝ってあげる……」

「と、すると……友人を助けるのは、友人のためじゃなくて、いつも自分自身のためというわけですか?」

「そうね……例えば、海未が心の病気になったとしましょう……そのことを知った私は、とてもショックを受ける……そしたらなんとか、このショックから立ち直ろうとするでしょ?」

なにやら……例え話にしては妙に現実に即しているところが気になりましたが……

「じゃあどうすれば良い?海未のことを忘れる?できない。だから、なんとか海未を助けないと……そうするしか、私が助かる方法がないの」

「しかし……それでは、あまりに自己中心的というか……いや、結果的にしていることは同じなんですけど……」

「……感情の波は揺れるだけよ。そこには一切の貸し借りも無いわ。誰か友達が波を幸福の方に振らしてくれたら、ただ、感謝するだけ……お互い様なの。逆に、自分が幸せになれたら、友達はみんな幸せを分けて貰えるの……素敵だと思わないかしら?」



揺れる感情の波。

お互いに共鳴して、もはや離れることの無い波。

友達になるということは、その波の同期を行う契約を結ぶことなのでしょうか?

いいえ、自然とその二つは重なり合ってしまうのでしょう。おそらく、意識も無いままに……

確かに、この世に友人がいなければ、友人の不幸によって悩ませられることは無いでしょう

しかし、一人でも居てしまえば、その人の不幸も自分に伝染してきます

上げるも下げるも共同作業……良いようで、悪いようで……

にこも、希も、絵里も……きっと、私が彼女たちに与えてしまったそれぞれの負の振幅を正の振幅に変えようと……私のところを訪ねてきたのでしょう


「要するに……泣くも笑うも、一緒に動いちゃう……それが、友達ってことだと、私は思うかな」

「……良いと思いますよ、『不幸だって一緒に抱えてしまう』……それは、実に正しい在り方だと思います」

「そう……?気に入ってくれたかしら」

彼女が優しく微笑みました

喜びの波長は目に飛び込んだ瞬間、すぐに伝わって来て……私も自然と笑みがこぼれました

きっと、穂乃果もことりも……私たちの今の姿を見れば、静かに笑ってくれることでしょう

どうやら、今日聞きたかったことはこれだったんだな、と、一人、納得と充実感を享受していました

太陽が傾き、影が随分伸び始めていました

その後の一通りの話を終えると、絵里は帰って行きました

ともかく……授業さえなかったものの……大学に帰ってこられた日です

といっても……旧友とその妹に頼った復帰でしたが……

貸し借りは無し、と彼女は言いましたが、いつか、お返しはしてあげたいです

……そう思うことは、別に悪いことでは無いでしょう?

今日はここまで

帰路、西からの橙色の光線を浴びながら、ゆっくりと私は歩きました

お昼の間にたっぷりと熱を溜め込んだアスファルトが冷め始める時刻です

じわじわとセイロの中の肉まんのように蒸しあげられた私は表面にいくつもの水滴をつけるのでした

自律神経に不調があるのか……どうにも不快に纏わり付く汗が止まりません

髪の毛の根元から生まれた汗の粒は一本一本の毛の間を流れ込み、じんわりと額に溢れ出してきます

私は下唇を軽く噛み、しょっぱい味をほんのりと口内に感じながら、黙々と足を前へと送りました

それにしても、歩行距離にしてわずか大学までタッチして帰ってきただけというのに、足首に痛みを感じてしまうこの身体の弱々しさを、我ながら情けなく思いました

けれども、今はこの皮膚のベタつきも、足の痛みも……私が動き始めた証拠として、愛さねばならないのでしょう

その日はシャワーを浴び、部屋の電気を付けたまま、布団に倒れこんで眠ってしまいました

翌日、気味が悪いほど清々しい起床を迎えられました

ここ一年で経験したことの無いような爽やかな空気が肺に満ちていました

昨日、久しぶりに体を動かしたのが功を奏したのでしょうか?

それにしても、睡眠は疲労の回復のために行うものですが……疲労を抱えていないと良き睡眠にならないというのは、なんだか不思議な感じです

さて、気持ちを切り替え、今日も大学に行こうかと思います

けれど、三回生になってからの履修登録を済ませていないので、受講をしても今さら単位を貰える授業が無いのです

どうせ、来週からはもう夏休みでした。また読みかけの小説が入った軽いカバンを手に提げて、ともかく出かけることにしました


私は何をすれば良いのでしょうか

このまま、私の心身が回復したとして……大学生活を終え、そして家を継ぐのでしょうか

けれども、そうして決められたルートは私の努力とは無関係な力によって、否が応でも成し遂げられるでしょう

不満があるわけではありません

しかし、今の私は皮ばかり色づいてゆき、肝心の中身が熟しきれない果実のようなものです

暦の上では私は二十才でした。けれども、それは私が背負うには些か重量がありすぎる数字のように感じられました

私は何を変えなければいけないのでしょうか

歩行者用の細い河川橋を渡り終え、カーブミラーに映る歪んだ自分の姿を見つめました

少し、微笑みを飛ばしてみました

鏡の中の私が、少し遅れて笑ったような気がしました

突然、背後に自転車のベルが鳴り、私は目が覚めたように慌てて横に飛び退きました

サドルに座った老人は、憎らしい眼を私に向けて、曲がり角に吸い込まれていきました


図書館に着き、いつもの階段の横の椅子に座り、持参した本を読んでいました

時折、小さく声を掛けられたりしました

「海未ちゃん?」

「……はい、海未は私ですが」

「なんだか久しぶりだね、会うの」

「そうですね」

「……あ、それじゃ、またね」

「はい、ではまた」


彼女は、大学で出来た数多くの顔見知りのうちの一人でした

中身の無い会話でしたが、私が幽霊のようにひょっこりと現れたことに軽い驚きを覚えていたような口調でした

それにしても、私がμ’sの一員であったことの世間の注目も、入学時はともかく、今ではかなり冷めてしまったように感じられました

けれども、私たちが望んだのはむしろ皆から忘れられることだったのかもしれません

今でも音ノ木坂、いや、全国で魅力的な後輩たちがステージの上で自分らしさを輝かせているでしょう

もう、私たちは彼女たち以上の存在である必要は無いのです

ただ、私たちは彼女たちを動かす何かの引き金になれたなら……それで十分だったのでしょう

それに、未来永劫に語り継がれる伝説になるなど大それた目標を持つ必要も無かったのです

みんなで叶える物語……すなわち、等身大であり続けること……それが私たちの良いところだったのですから……

終日、図書館にいたので、何人かが私を見て、軽く話しかけて来て、そして去って行くのを見ました

中には、休学の事情を尋ねてきた人もいましたが、諸事情だの何だのと、適当な返事をしておきました

ふと、ひょっとしたら私には友達がいたのかもしれないな、と思いました

ともかく、こんな風に、本と接し続け、ゆっくりと私の一週間は過ぎて行き、やがて夏休みが始まったのでした



部屋のドアが開きました。

「遊びに来たよ!」

夏休み初日。

実家に帰ろうかと思った矢先、先客の予約が入りました

「……そうですか、遊びに来ましたか」

「うん、凛、暇だからね!」

シャツ一枚の軽装に身を包み、玄関前で彼女は体を揺らしていました

髪の長さも、醸し出す雰囲気も昔と変わりませんでしたが……ちょっぴり背が高くなったような気もしました

「海未ちゃん、最近運動してないでしょ?……なんだか、顔が疲れてる感じ、良くないよ」

なにやら審査が始まったようです。しかし、彼女と比較されても私に勝ち目があるはずが無いではないですか。

「元気は元気ですよ、それはもう非常に」

「うーん、そうかな……」

「まあ、運動はしてませんが……」

「だから!」

「……はい」

「何だったっけ……あれ、そう……山頂……なんだっけ、とにかく、今なら大丈夫だから!……最後まで付き合うから!」

なにやら若気の至りで飛び出した単語がブーメランのように半円を描いて戻って来ました

「……最後まで付き合うとは?」

「山だよ、山!登ろっ、今から!」

ドスン。鈍い音を立てて嫌な予感が胸に命中しました

「……今からですか」

「今から……ダメかな?」

「……今……からですか」


市街地から山間部まで駅にして十三駅。

そこからよく揺れるバスに乗ること四十五分。

小さなお土産屋と民宿が並ぶ、渓谷の裾の道路に私たちはぽつんと降ろされました

周りには両手式のステッキを握りしめた年配の方々が暗い山腹に鋭い視線を合わせていました

「あそこから登るんだね」

彼女は風雨に晒されて焦茶に変色した「↑山道」と書かれた看板を指差して言いました

「……そうですね」

「……海未ちゃん」

「なんですか」

「……うん、行こう!」

「……はい」

彼女が先陣をきって軽快に歩き始めました

私は、もたついた足取りで彼女を追いかけました

なんとなく、あの日の彼女の気持ちがわかったような気がして、過去の自分を恨めしく思ったものでした


「はぁ……はぁ……」

登らせる気の無いような急な石段は、私の鈍りきった肉体にはあまりに過酷すぎました

補給した水分もザルを通り過ぎるようにすぐに全身から吹き出してしまい、太腿も思った以上に負担を受けていたようです

「海未ちゃん、もうすぐ!もうすぐ、休憩所があるから!」

「駄目です……もう、歩けません……」

「頑張って、ほら!」

なけなしの体力を雑巾の水分のように捻り出して最後の石段を強く踏みしめました

フラフラと踊るような足つきで休憩所の屋根の下のベンチに倒れるように座り込むと、目の前に大きな案内板が立っているのが見えました

「ほら、見て、海未ちゃん、もう半分登ったみたいだよ!」

『もう』半分とは、なんたる言葉の暴力でしょうか……

水筒に入ったお茶を喉に流し込んで、肺がぺしゃんこになるくらい大きな溜息をつきました

「……少し休もっか」

隣に座って来た彼女が私の顔を覗き込んで言いました

「……いや、十分に休みましょう」


「ああ……情け無いほどに体力が落ちています、昔ならこのくらい半分の時間で難なく登れたはずなのに……」

「……ごめんね」

「何がですか?」

「無理やり、連れて来ちゃって……」

「……いいんですよ、確かに久しぶりで疲れますけど……とても楽しいですから」

「……凛、海未ちゃんに元気になってもらおうと思って、いろいろ考えたんだ」

「そうなんですか」

「でも、気の利いたこと言おうとしても、なんにも思いつかなくって……それでちょっぴりヤケになっちゃったみたいで……だから……」

「……私は、嬉しいですよ、ありがとうございます」

「そうなの……?良かった……」

「ええ……こういうのも、良いものです……とても」

それからしばらく、黙って、目を閉じてみました

時々、目を開いてお互いの顔を見て、何となく笑ったりもしました

先日降った雨の匂いを残した山の匂いを吸い込みむと、心拍数が落ち着きを取り戻して来ました

ふもとの売店で買ったサンドイッチを食べ終え、もう一度深いため息をつき、私が立ち上がると、彼女も続いて腰を上げました

「では……そろそろ行きますよ」

「うん!」

「……山頂アタックです!」

山肌はさらに険しくなり、岸壁をさながらツタのように這って脈々と続く階段をひたすら登り続けました

もはや体力は限界に近かったのですが、私が登っている階段を設置した人々の苦労を想像すると、幾分慰みにもなりました

「大丈夫?海未ちゃん」

「はい」

「また座るところあるよ」

「……大丈夫です」

「ランナーズハイってのだね、ほら、あとちょっとだよ!」

全く、彼女の『あとちょっと』はそれはそれは長いものでありました

山頂に辿り着いたと思えば、無慈悲にも目の前に新たな階段がそびえ立っている……そんなことを何回も繰り返しました




「ううん……あれが山頂だと思ったのに……」

彼女のそんな呟きも何度も耳にしました

考えてみれば、私と一緒でなければ……彼女は自発的に登山をしようなどとは思わなかったでしょう

昔の私が山に向けて目を輝かせていたことを思い出して……これを彼女なりに、私を元気づけようと、プレゼントしてくれたと考えるべきでしょう

二年ほどの短い付き合いでしたが、私は彼女のことをそれなりに知っているつもりです

天真爛漫のようで……実はちょっぴり人付き合いが苦手で、恥ずかしがり屋で……それでもみんなを喜ばせるのが大好きな……優しい彼女をよく知っています

だからこそ、そんな私は彼女の気持ちをしっかりと受け止めてあげなければいけないのです

先んじて歩く彼女に追いつくように、一歩……また一歩。歩いた分だけ標高を上げて行きます

気圧も下がったのか、空気が随分冷たくなってきました

そうして、気がつくと、もう目の前に階段はありませんでした

展望台に登りながら彼女が手を振って私を呼んでいました


「おつかれさまです」

「やっと着いたね!」

「ええ、いい眺めです」

「……山しか見えないけどね」

「山頂はいい眺めと決まっているんですよ、どんな景色だとしても」

「わかる気がするにゃ……」

深々と頷いたあと、彼女はポケットから携帯電話を取り出し、私を入れて二人で写真を撮りました

「……いい汗をかけました、本当に」

写真のために作った表情を解くと、どっと疲れが吹き出してきました

「……なんだか、元気になってもらおうと思ったのに、クタクタにさせちゃって、ごめんね……」

「いいえ、山は……疲れるものですよ、そこが良いんです……そこが……」

カシャリ。またシャッター音が鳴りました

「あ……海未ちゃん、今の笑顔、すっごくかわいかったから……」

「……そうですか、今、笑ってましたか、私?」

「うん、ほらほら!」

携帯電話の画面に映る私は、確かに、良い笑顔をしていました

ちゃんと、元気をあげようとする彼女の期待に応えてあげられた……そんな、一日の締め括りにも良い笑顔だったのでした

下山後、バスに乗っているときは元気だったのですが、電車に乗り換えたあと、彼女は私にもたれかかって眠ってしまいました

私に気を使わせまいと、すこし無理に元気に振舞ってくれていたのが……結局はバレてしまったようで、なんだかその姿が可笑しかったです

私もつられて眠ってしまいそうでしたが、乗り過ごさないようにじっと起きていました

私が降りる駅が近づき、彼女を起こして、お礼を言ったあと、電車を降りて自宅に戻りました

一日の濃い汗を温水で流しきった後、また布団に倒れこみました

きっと明日は筋肉痛だな、そう思いながら、深い穴に吸い込まれるような眠りに落ちて行きました

その日の空気は澄み切っていて、空にはいつもより多くの星が輝いているように見えたのでした

今日はここまで

スロー更新申し訳ないです


案の定、布団から立ち上がるときに、全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げているのがわかりました

なんとか上手く立てたと思ったら、バランスを崩してしまい、トイレに行くのにも壁伝いにズルズルと歩くしかないほどでした

なんのこれしき、これを乗り切れば超回復やら何やらで私の肉体はかつての姿に近づいてくれるはずです

それにしても、痛みを最小限にする動き方を模索しているうちに、いつの間にか爬虫類の真似事の様になっていたのは滑稽でありました

さて、今日は何をしましょうか

実家の方に帰っても良いんですが、こちらの方で何かやり残してしまったことは無いかと考えました

しかし、どう考えても特にこちらには用事はありません

それどころか未来永劫、ここに用事が無い気がしてきて、非常に虚しくなったのでした


「近いうちに、真姫ちゃんとかよちんにも会ってあげてね」

昨日の帰りのよく揺れるバスでよく揺れながら凛がそんなことを言っていました

確かに、私の不在でいらぬ心配をかけたことを謝り、そして生存証明をしなければなりませんでした

けれど、二人とも忙しいんじゃないかと考え始めると、こちらから働きかけるのに臆病になってしまうのでした

彼女たちは社会に順応し、立派に成長していることでしょう

ふと、いつの間にか年齢が抜かれてしまっているんじゃないかという気がしました

いけません!……誰かといる時は意識せずにすむのですが、どうも私は一人にされてしまうと、ウジウジする方に向かってしまいます

もっと自分を強く持たねばなりません、私から、行動を起こさねばなりません

そう意気込んで布団から颯爽と立ち上がろうとしたとき、大腿部に激しい痛みを感じ、転げそうになりました

ああ、肉体の損傷を意識することを忘れていました

心と体が上手く折り合いをつけてくれ無いのもまた一つ私の弱点なのかもしれないな、と思い溜息をつきました

その溜息すら、横隔膜を刺激し、腹筋のあたりに刺激を感じるのでした

そうして、今日はもう動くのはやめた方が良いかもしれないな、としみじみと悟るのでした



「もしもし、海未?筋繊維の回復のためにはタンパク質をよく取らないとダメよ」

電話が鳴ったので何かと思って通話ボタンを押すと、突然の健康講義が始まりました

「疲労性物質の蓄積が原因とも言われているけど、筋肉痛の原因についてははっきりとした原因はまだわかってないわ」

「そうですか」

あまりにも唐突すぎて、最初は文部科学省の健康推進機構のデスクから電話がかかってきたように錯覚しました

「とにかく、自然治癒の過程で痛みが起こることはわかってるから、やれることは安心して寝てるだけよ、わかった?」

「はい、わかりました」

声の主に気がついたのはようやくこの辺りでした

「……真姫ですか?そうですよね」

「……そうよ、今更、何言ってるの?」

呆れたような口調で彼女は返しました

「昨日の夜にもメールしたじゃないの、寝る前に筋肉をマッサージしてあげ無いと翌朝ひどいことになるって……」

「あっ、昨日の夜に……すみません、完全に見逃していました……」

どうやら事前に、凛が私を山に連れていくことを、彼女は伝えられていたみたいでした

「で、どうする?動けなくて暇なら、今から……そっちに行ってあげてもいいけど。たまたま近い場所にいるし……」

たまたま近い場所にいる?

これは多分嘘だなと思い、そして彼女の性格を思い出して笑ってしまいそうになりました

けれども、今の私は患者なのです、ごほんと咳払いをして、畏まって返事をしました

「是非、お願いします」

「わかった、すぐ行くわ」

電話の切れる音。正確に言えば、音が消える、あの無音の音が短く鳴り、それからまた部屋は静かになりました




白い壁、白い天井、必要最低限の生活必需品

なるほど、確かにこの部屋は病室にそっくりです

クランケはもちろん私。そうですね、病名は、『内向性精神形骸症』(つまり引き篭もり)で、特効薬は、睡眠とアルコールといったところでしょうか?

いや、この場合は私個人の性格上の問題なので、病名を与えるのは些か仰々しすぎますね

あえていうならばそうですね……『園田海未症候群』といったところでしょうか

厄介なことに、この病気を治す方法はありません、その理由を説明しましょう

まず、『園田海症候群』は先天的な病気であります

この病気の症状はとても単純で……『園田海未』的な人間になってしまうのです

つまり、もし『園田海未症候群』の患者が『園田海未』である場合……

この病気を治そうとするには、彼女が『園田海未』であることを辞める他に方法は無いのです

そして現在『園田海未症候群』にかかっているのは『園田海未』だけです

つまり『園田海未』が『園田海未』である以上、『園田海未症候群』を治す方法は存在しません。証明終わり。

……なんだか自分でもわけがわからなくなりました、病状は深刻のようです

そんなふうに医学を馬鹿にしたような下らない妄想をしているうちに、玄関のベルがなりました

思った以上に早いです、なるほど、ずいぶん近いところまで来ていたんですね、偶然ではあり得ないと思いますが。




「いたた……、掃除などは行き届いてませんが……どうぞ、お入りください」

「……お邪魔します」

彼女の赤みを帯びた髪は、以前見たときよりも長くなっていて、後ろがゴムでまとまっていました

前会った時よりもずっと端正で美しい顔つきになっていました。身につけているものは勿論、挙動まで品が良いような、そんな素振りで……

「片付いてるじゃない」

「基本的に物が無いんですよ」

「ふぅん……」

やわら座ったかと思えば、彼女は私のほうを静かに睨みつけて来ました

怒りとも非難ともとれる、彼女の見たことのない顔でした

「なんですか?」

何かしてしまったかな、と思い、私が不安な顔を浮かべた直後でした

彼女が小さな机に手をついて、身を乗り出して言いました

「なにが、なんですか……よ!……どれだけ心配してたと思ってるの!……どれだけ!連絡もつかないし、何の報告も無いし……!」

声量はさほど大きくありませんでしたが、力強く、真の通った声でした

私は少したじろぎました

電話の口調が穏やかだったため、訪問後に彼女がこれほどまで感情を高ぶらせるとは思ってもいなかったのでした




彼女は暫く私の顔を視線で突き刺したあと、前のめりになった身体を戻し、張った肩を下ろして、落ち着いた体勢に戻りました

「何かあったら、私に言ってくれれば良かったのに……」

今度はか細い、消え入りそうな声でした

虚ろな眼は、うっすらと室内灯に反射して光り……涙が溜まっていることを示していました

「ありがとうございます……そして、長い間、すみませんでした、私はもう大丈夫です。こうやって真姫に会うこともできます」

「……足」

「足、ですか?」

「痛くないの?……久しぶりに凛に連れまわされて……大変だったでしょ」

「登山は楽しかったですよ?それに、足だって怪我をしてる程ではないですよ、言われた通り、ただの筋肉痛です」

「ただの筋肉痛?」

「ええ、タンパク質をとれば良いんですね?」

彼女は俯き、顔を隠したまま笑いました

漏れた息が、その笑顔を教えてくれていました

「相変わらず、しっかりしてそうで全然してないんだから……」

私もまた、思い出の中の彼女に再開できたことに、素直に喜びを感じているのでした


「勉強は大変ですか?」

二年ぶりほどケースで眠っていた来客用のカップに熱い紅茶を注ぎながら私は尋ねました

「ありがと。まだ二回生だから先は長いわよ」

「えっと、まだ実習などは始まってないんでしょうか」

「もうそろそろ始まってるわ」

「どんなことをするんでしょうか」

「……解剖実習よ、生前の善意で提供された亡くなった人の体のね」

本物の人体を!……目の前の彼女がそんな経験をしていたことに、ちょっぴり畏敬の念を覚えました

「もう、気持ちのいい話じゃないでしょ……私のことはいいから、海未はどうなの」

私のことはいいから……ああ、これも懐かしい、昔から彼女がよく言う言葉でした

「恥ずかしながら、何を学んでいるのか自分でも……哲学、文学、歴史学……ちょこちょことつまみ食いしている程度です」

「ふうん、いいじゃない」

「良くないですよ、三回生の夏にもなって何がしたいのか決まってないんですよ」

「別に、遅いなんてないわよ、いつからでも好きなことやればいいんじゃないの?今くらいしかそんなことできないんだし……」

全く、本当に努力をして自分の能力を磨いている彼女のような人間から諌められると心がズキズキとするものです

人間同士の能力の単純な比較は無意味だと重々承知はしています

しかし、彼女を前にして実際に感じるこの無力感をどう説明すればいいでしょうか!

真姫で良かったです。名も無き匿名の医学部生に叱咤されれば、きっと私は耳を塞いで逃げ出してしまうはずでしたから。


「真姫は、どうして医者に?」

「まあ、パ……父が医者だからよ」

パパ、ですか。どうやら、彼女はよく父上のことを敬愛しているようですね

「跡を継ぐんですね」

「そうね……」

「辛くないですか?」

「辛くなんてないわよ、それより、医者を目指せる環境を与えてもらったことに感謝しなくちゃいけないの。やれるからやる。それだけよ」

「やれるからやる……ですか」

「とにかく、無我夢中ね、今は。忙しくて、進路もそうだけど、他のことを考えてる余裕なんてないくらいだから……」

それでも、私のことを考えていてくれた

良い友を持てました

与えられた環境に、今は感謝すること

偉大な両親の背中を見て、彼女は育ったのでしょう

両親の示してくれた道を、自分の意思で選び、自分の足で踏みしめて、歩いて行ける……

幸せの一つの形だな、と思い、彼女の背負っているはずのあらゆる困難を勝手に無視して、単純に妬ましく思ってしまうほどでした



あっ、と何かを思い出したような声を上げると、おもむろに、バッグから茶色の五線譜ノートと音楽プレイヤーを取り出しました

「そうだ、曲を作ってきたの、といっても、ずいぶん前に出来てはいたんだけど……」

「曲を?……良いですね、聴かせてもらえますか?」

「ええ、しっかり聴いて欲しいわ……そして、海未に歌詞を書いて欲しいの」

「歌詞ですか?……私が?」

「なにキョトンとしてるのよ、何十曲もこうやって作ってきたじゃない」

「そうですけど……なにぶん久しぶりなので……上手くできるかどうか……」

「大丈夫、いざやり始めたら、案外ノッてくるんだから、いつも海未は。そうでしょ?」

はい、実にその通りです。が、わかっていてもやっぱり緊張してしまうのです。これもいつもの園田なんです。



四分ほどのピアノの旋律を聴き終え、イヤホンを外しました

「どうだった?」

「……相変わらず、良い音で、素晴らしいです。弾むようで、ゆったりとした……昔のどんな曲よりも、重層的で、深みのあるような雰囲気の曲でした」

「そう……なるほどね。私も大人になったのかしら」

「この曲、どうするんですか?作ったとして……」

「さあ、私にもわからないわ、ただ、音楽から離れられなくて、何の気なしに作ったから……」

「……誰に向けたわけでも、何の為に作ったわけでもない曲ですか」

「そうね、だから海未の好きにしてくれて構わないわ……どんな風にしてくれても」

「わかりました、では、少し考えておきます」


会話を続けてはいましたが、先ほどのピアノの余韻が抜けきっておらず、夢見心地のようでした

どんな言葉を与えれば、この曲は収まるべき場所に収まってくれるのか

いつだって、曲が先にできて、私が作詞をするときは、彼女の出すなぞなぞを解いているような感じでした

けれども、今回は彼女自身さえも答えを想定する気がさらさらないのでした

これは難しいぞ、と思いながらも、昔のようにまたふつふつと音楽に向かい合う闘志が湧き上がってくることに、静かな歓喜を覚えていたこともまた事実でありました

「それじゃ、楽譜と曲のデータはまたメールで送っておくから、よろしくね」

「はい、わかりました」

二人には慣れたやり取りでした

火山灰に保護され、風が吹き、当時の姿のまま蘇ったような……懐かしい、相棒のような関係でした

弓道場に流れる空気が冷たい心地良さとするなら……音楽は私に暖かい時間を与えてくれるのでした

誰が誰のために歌うのか……あらゆる要素を考えず、産まれた曲は誰にどんな想いを与えてくれるのでしょうか

彼女は窓の外を見ました

差し込んでいた東からの光はいつのまにか室内から消え、もうすぐ正午を迎えようとしている時刻でした

今日はここまで

「海未を見てると思い出すわ、文字通り、いろんなことがあったわね、高校の頃は」

「いろんなことはありましたが、乱雑なものではなく……一貫性の中で色々な思い出があった感じです」

「大学は、自由ね。そういう一貫性とはもしかしたら程遠いかもしれないわ」

「今の私は自由を持て余しています……逆に、部活をして忙しいうちは自分のやることを見失わないで済むので、気が楽でしたね」

「そう?……まあ、大学っていうのはむしろ自由すぎる時間に飽きるための場所とも言えるかもしれないわね」

「人生の夏休み、ですか」

「そう、小学校の夏休みだって、終わりになれば『そろそろ学校に行ってみんなに会いたい』って気持ちになるでしょ……それが社会に出ることに置き変わっただけじゃないかしら」

「……しかし、社会に出るのはこれからが初めてじゃないですか……夏休みはあくまで何かの間に挟まれる休みですよ」

「細かいことはいいじゃない、別に……とにかく、海未もそろそろ立ち止まることに飽きてきた頃ってわけなんでしょ」

「飽きてきた……なるほど、そう考えるのも間違いじゃないですね、飽きるとは、単調な現状に不満を抱くことですからね……」



「学校に行ってみんなに会いたい……ね」

半ば自嘲気味に、彼女が言いました

「どうかしましたか」

「自分で言っておいてなんだけど……小学校の頃、私自身はそういう気持ちにはならなかったと思うわ、あんまり友達いなかったし……」

私はきゅっと胸の辺りが締まるのを感じました

「い、いなかったわけじゃないわよ、ただ、少なかっただけで……それに、高校の頃はそんなことなかったわ」

「友人がいないと、やはり学校に行く気にはなれませんか……」

「だからいないわけじゃ……まあ、乗り気はしないわね、はっきり言って……授業もそうだけど、休み時間とか、つまんないし……」

「そう、ですよね……」




「海未が何を思ってたのか知らないけど」

脚を組み直して、彼女は囁きました

「強がってちゃ、ダメよ……もう少し素直になってあげないと、自分にね。これも、ありきたりな言葉だけど……」

その言葉は確かに、私に向けたものでしたが……独り言のようにも聞こえました

「はい、ありがとうございます」

「別に、そんなかしこまらなくても……」

「……今の私に、必要な言葉です、自分に素直に……その通りです」

「それに、これからのことで悩んでたみたいだけど」

また、脚を組み直して、じれったそうな声で言いました

「結局、どんなものでも……答えは自分で選ぶんだから、自分に聞いてあげないとね……それと、昔の自分にね」

「……昔の自分にですか?」

「小さい頃の自分、数年前の自分……それに、一日前の自分だっていいと思うの」

「……」

「悩むってことは、迷うってこと……要するに、前が見えなくなることでしょ……だからそんな時は、ちょっと前の、悩み出す前の自分に……自分が何をしたいのか尋ねてあげたらどうかしら」

「……はい」


昔の自分に会う……考えてみれば、旧友と過ごすこの瞬間も、過去に生きているようなものでした

いつ頃からでしょうか? 深い森の中、首だけをキョロキョロと動かすだけで、一歩も動けずに立ち尽くしてしまったのは……

自分の家を出て、この白い部屋に入ってから? ……いや、もう少し前の話でしょう

おそらく、迷いが生まれたのは、彼女を含め……かつての友たちに別れを告げた時から……なのでしょう

そして、いつ頃からでしょうか、もう一度、歩き始めようと決心できたのは

それも、かつての友たち……つまり、昔の私を知る彼女たちに再会できた、その時からなのでしょう……

私は、昔の私を知る彼女たちに会うことができたのです

だからこそ、迷う前の自分にも会うことができて……今こうして、あの暗闇から多少なりとも這いずり上がることができたのでしょう

けれど、それは親切な妖精の導きに従い、運良くこの瘴気の森の入り口に戻れただけなのです

それなら、今の私がするべきことは何でしょうか?

……もう一度、一人だけの力で歩き出すことでしょう

そのためには、もう一度……

彼女たちに……本当の、お別れを告げる必要があるのでしょう……

そして、私のことはもう大丈夫だと……胸を張って、笑って伝えてあげないといけないのでしょう……




「私も、近頃ようやく素直になって来たって」

「……誰かから言われたんですか?」

「凛から言われるのよ……たまに花陽からもね。どういう意味かしら」

「きっと、言葉通りの意味だと思いますよ」

「……会うたびに言われるから、うんざりするわよ」

「それだけ嬉しいってことなんですよ……」

「何それ……」

「私も、そう思いますよ、今の真姫を見ると、嬉しくなれます」

「ふぅん……意味わかんないけど……まぁ、ありがと」

彼女はまんざらでも無いような、薄い笑みを浮かべました

自分でも少し、気付き始めているのでしょう

そんな照れ隠しが混ざった、桃色の微笑みでした



「さて、と」

彼女が床についていた左手を捻り、腕時計をちらりと見ながらこぼしました

「どうします?もうお昼ですけど……」

「まだそんな時間だった……?なんだか、夜中みたいな気分だったわ」

「良かったら、食べていきますか?何か作りますよ、パスタでも」

というより、パスタしか無いのですが……あっ、ソースがありません

「いや、体が痛いんでしょ?いいわよ。大人しくしておいたら?」

「痛いと言っても、たかが筋肉痛ですよ、動けないほどじゃありません」

「それじゃあ、料理と言わずにたっぷり動けるわね」

彼女が自分の鞄をたぐり寄せながら意味ありげに言いました

「どういう意味ですか」

「今から、帰らない?海未の実家の方に」



「今からですかっ」

最後が半音上がり、恥ずかしい発音になりました

「こっちに用事あるの?」

「特に……ないですけど」

「じゃあ、両親の都合が悪いとか?」

「それも……特に無いですけど……」

私は非行少女で、彼女に事情聴取をされているようでした

今一度、彼女は部屋を見回しながら

「じゃあ、いいでしょ……部屋に物があまり無いところをみると、準備もすぐにできそうだし」

「しかし、なぜ今なんです」

「午後から大学に用事があるから、帰らなきゃいけないの。それで、帰りの電車が暇になるでしょ?」

「……」

「行きの電車は海未に何を話そうかいろいろ考えてたから、忙しかったの」

「それで、考えた結果、あの妙な電話を」

「あれは忘れて!」

「なぜ怒るんですか……面白かったですよ……ほら、本物の医者みたいで……」

「……出るなら早く荷物まとめて、家に電話しなさいよね、ぐずぐずしてないで!」

そう言いながら、首を徐々に回していって、しまいにはそっぽを向いてしまいました

たしかに、彼女は昔より素直になったかもしれないですが、彼女らしい不器用さはそのままで、やっぱり安心できました

お返しにと、顔が見えないのをチャンスに、声を立てずに笑ってやりました



道路に出ると、街もすっかり夏本番といった風景でした

煮えたアスファルトに打ち水をしている主婦たちやスーパーの店先に並ぶ夏野菜もそうでしたが、何より見える景色全ての明度と彩度が普段より高かったのでした

真姫はつばの広い、白い帽子を被っていました

対する私は頭頂部に直射日光を浴び、つむじのあたりがジリジリと虫眼鏡をかざされたように高温になってゆくのを感じていました

「歩くの平気?」

「ええ、特に無理なほどではないです」

「微妙な返事ね、それ」

「あ、そういえばお昼ご飯食べてませんでしたね……」

「私はあんまりお腹空いてないから、向こうに帰ってから花陽と食べてあげて」

「花陽?なぜ花陽なんです」

「連絡があったの。あの子、午後からヒマらしいから会ってあげて」

凛と真姫と花陽……この二日間……ひどく急テンポです

「良いですよ、真姫は一緒に来れませんか?」

「実は結構時間ギリギリなの、一本電車遅れたら間に合わないくらい」

「そうですか、残念です」


電車が都心に向けて動き始めました

横並びの座席の隣に座った彼女はファイルに綴じたレポート用紙をガサガサと見直していました

大学の方で発表でもあるのでしょうか……それにしても、よく勉強しているようです

私もこの夏のうちに遅れを取り返さねばならないので、そんな彼女を見習う必要があったのですが、思わず直視できず窓の外に目をそらしてしまいました

私が家を出たあの日と、なにもかも反対に風景が流れていました

まるで、フィルムを巻き戻しているような……タイムマシンで過去に戻っているような気持ちになるのでした

記憶の中の色褪せてセピアになってしまった思い出と、うるさいくらい鮮やかな色彩を放つ夏の風景は、反発しあうどころか意外なくらい調和していたのでした

私の昔に会いに行く。

昔の友に会いに行く。

……この電車は、にこと再会した時から始まった、私自身の過去の清算の旅……その終着点へ私を運んでいるのでしょう

一体、何が終わり、何が始まるのでしょうか

不思議な予感と胸騒ぎが車体に揺すぶられカタカタと音を立て始めました

頭の中には、あの未完成のメロディがリピートしていました


車内の乗客は増え、座席が足りないほどになってきました

彼女は時折、優しく私に話しかけ、私もそれに応えました

ゆっくり流れる時は四十分ほど。目的の駅に着いたらしく、彼女は一足先に電車から降りました

去り際に、「みんなによろしくね」と言って、後方の窓へと姿を消しました

隣の空いた席に高校生くらいの女性が座ってきました

彼女は仏頂面で携帯電話の画面に親指を滑らせていました

私は久しぶりに赤の他人に密着して、すこし背筋が強張っていたことに気がつきました

いけません、これからは人混みの中に帰るのです、この程度で何を緊張しているのでしょうか

永久に独りでいることの苦しみに比べれば、人が多すぎることくらいなんだというのですか……



私も目的の駅に着き、人の壁をすり抜けて車外へと滑りだしました

プラットホームに人の立てる余裕はなく、そのまま流されて歩みをつづけます

場所は秋葉原駅、地上に出てすぐの横断歩道を渡ったところで彼女に会うはずでした

しかし、予定の時刻からまだ早いです

私は時間を潰そうとぐるっとその辺りを見て回ることにしました

本当はどこか腰を下ろして休める場所でもあればよかったのですが、皮肉にも人が多くなればなるほど人の休める場所は減ってゆくものでした

来るものを拒まぬ喧騒の街。人の群れが熱気を撹乱するので、まるで進行方向から気流が吹いて来るようでした

脚の痛みはまだありましたが、立ち止まる方が痛む気がしたので、歩き続けました

カラフルな看板を掲げた複合ビルの乱立するメインストリートを通り抜け、歩き慣れた細道に入ります

目的地があるわけでもありませんでしたが、自然と足の進む先は決まっていました

約束の場所はまるで初めからそこであったかのように、彼女はそこにいて、私の方を見つめてきました

初めの数秒、誰だかわからなかったようですが、確信に変わるや否や、早足で私の方へと駆けてきました

唇を強く締め、潤んだ目を大きくし、私を見てきました

私は私で、黙ってそれに応えました

しばらく沈黙に包まれましたが、スピーカーで街道に流れる楽曲が切り替わるのを機に、彼女は口を開きました

「……おかえりなさい、海未ちゃん」

「……花陽、ただいま」


三年振りに覗いたスクールアイドルショップはかさばった商品を抱えきれないようになっていました

「ここも大きくなりましたね、なんとなく、花陽がここにいるような気がしたんです」

「ちょっと寄って行こうかなぁ、って思って……」

「私たちのものはまだ店に並んでいるんでしょうか?」

彼女は店の奥へと私を連れてくれました

壁面の隅に小さく、μ’sのコーナーがありました

「あはは……ご覧の通り……小さくなっちゃったね」

「隣にあるのはA-RISEですね……けれど、私たちの解散からもう四年以上ですよ……それでもまだ残っていたとは」

「思った以上に凄かったみたいだね、私たち……」

自分の顔がプリントされた缶バッヂを手に取ると、不思議な重さがしました

バッヂというより、私の顔がそこにあるので、小さな鏡のように見えました

「海未ちゃん、それ買う?」

「か、買いませんよ……自分のグッズなんて」

「そう?……にこちゃんは買ってたりしてたんだけど」

「にこと一緒にしないでくださいよ、もう……ところで、花陽は何を買いに来たんですか?」

「……特に、買うつもりで来たんじゃないんだけど……今のスクールアイドルってどんな感じなのかなぁって……」

興味本位でたまたまフラっと来ただけという口ぶりでした

しかし、店内陳列に詳しかったことを考えるとかなり脚繁く通っていたのではないでしょうか

私も彼女も、この世界に未練があるわけではありませんでした

しかし、受け継がれるべきものがどのように受け継がれ、そして変革したのか……私でさえ先を追いたい気持ちがあるのですから

まして彼女となれば、その熱意たるや、最早ここで殊更記述する必要もないでしょう……



店を出ました

おそらく、もうここに来ることも無いでしょう

言い訳のしようもなく、私の青春はすでに終わっていたのでした

一抹の寂しさが残るのは否定できません

脚が痛いです

けれど、やはり立ち止まると余計痛む気がしたのでした

もう一度大通りへと私たちは戻りました



「では、おひるごはん食べましょうっ」

彼女が軽く飛び跳ねる調子で言いました

「どこに行きましょうか、私はなんでもいいですよ」

「それじゃあ、私がよく行くレストランに……安くて、美味しいよ」

「はい、そこにしましょう。どのくらい歩きますか?」

「海未ちゃんの背中にあるよ」

くるりと振り返ると、『地中海の恵み』との売り文句が書かれたブラックボードが立てかけられていました

「あっ、ここですか」

「えへへ……本当は、すぐに食べたいから選んじゃったんだけど……」

「花陽らしいです。いいですよ、私もお腹が空いてきました」

チリンチリンとドアを鳴らしてテーブルにつきました

食事自体はイタリアの民家で出てきそうなもので、私は自分の家で食べ損ねたパスタを、花陽は小さいピザをつまんでいました

それにしても、私は彼女がお茶碗に入った白米を注文するかと本気で思っていたのでした

人間、しばらく会わないと個性の上澄みの部分しか覚えていないものなのかもしれません、ちょっぴり期待していた自分がいて、そんな自分を反省する自分もいました


食事自体は簡素に終わりました

味が妙に良くて無言になってしまい、加えて客の回転が早い店だったので、ゆっくり出来ない雰囲気を感じたのでした

終わりの方に近づくに連れてだんだん口に運ぶ速度が速くなった気がして、なんだか妙なことをしたなと思いました

道路に戻り、ふぅ、と一息つくと、花陽は見せたいものがあると言って、そのまま私は連れて行かれました

歩きながら、店内とは切り替わった気持ちでまた別の話をしました

「もうみんなに会ったの?」

「いえ、穂乃果とことりがまだです」

「そうなの?一番最初かと思ってた……」

「……なんだか、先送りにしてしまった感じがします」

「二人とも、早く海未ちゃんの顔を見たそうにしてたよ」

「ことりとは会う日が決まりました」

「ことりちゃんと二人で?」

「そうです、二人で。一人ずつ会いたいんです、向き合って話したくて……」

「でも、穂乃果ちゃんは?」

「まだ会う日が決まっていません」

「……どうして?」

「穂乃果には伝えたいことがあるんです……でもまだ頭の中でまとまっていません、もう少しだけ時間が欲しいんです」



「ふふ」

彼女の横顔が笑いました

「なんだか、海未ちゃんらしいね」

「どういうことですか」

「ううん、なんでもないよ」

今一つ腑に落ちませんでしたが、まあ、彼女の思う私らしさをどこに見出すかは自由でしょう。軽く受け流すことにしました。

気がつくと、電器街を抜けていました。どうやら目的地は秋葉原の中では無いようです

前を見て、時々こちらを伺いながら、彼女はただ進んでゆきます

背中が雄弁に何かを語っていました

初めて会った頃の彼女とは、また違う何かを。



どこに向かっていたかは、途中で気がつきました

私がこの道は、とはっと彼女を見つめると、合わせたように彼女も私の方を見て頷きました

そこからは歩くスピードは同じでしたが、到着までの時間が短く感じられました

この道を戻れば秋葉原……ではなく、私の家に通じています

もはやこの道は道というより……今や使われなくなって私から抜き取られた大動脈のようなものに思われました

夏休みに入った学校は教室の電気も消え静まりかえっています

しかし、校庭からは熱気あふれる掛け声が聞こえてきました

色とりどりの練習着を着た少女たちが思い思いに髪を揺らしています

緑色の草の上に落ちた影と一緒に踊っているようにも見えました

ちらりと屋上に視線をやりました。勿論見えるはずもありませんが、その場所にはもう誰もいないような気がしました


私たちが校門を通り抜けると、隊列に向かい指揮をとっていた一人が手拍子を止め

「部長?」

確かめるように尋ねました。残りの皆も振り返りました

「えへへ、もう部長じゃないよ」

隣にいた花陽が恥ずかしそうに言いました

「花陽さん、こんにちは……あっ」

私の方にも気がついたようで、続けて尋ねてきました

「……海未さんですか?」

「……はい、海未は私ですが」

お互い、恐る恐ると問答しました

ざわざわと、皆がどよめきました

「花陽さん、どうしました?」

私から半歩だけ前に出て、彼女は応えました

「部室、ちょっと入ってもいいかな?」

「部室ですか?どうぞ……はい、鍵です、ここでいるので、帰るときにまた返してください……」

「うん、ありがとう、ごめんね、練習止めちゃって……」

「あ、いやいや……いいんですよ」



「失礼します……」

私は一礼してそそくさと校舎の方へ退散しました

花陽は二つ下の学年……今の三年生と面識がありますが、私はありませんでした

私が知るアイドル研究部の後輩たちはこの春の卒業式ですでに姿を消した後でした

なので母校でありながら、今年からは幾分かよそ者の気分を感じずにはいられませんでした

それでも、人が変わっても、流れる空気は昔のままでした

廊下に入り、花陽は私の少し前方を歩いていました

毅然とした足どりは、何かと気後れする私を含め、二人分の体重を牽引しているように感じられました

部長。

肩書きを失った今でも彼女のことをそう呼びたい気持ちは十分に理解できました

彼女が鍵穴を回しました

屋根裏で見つけた宝箱を開けるように……私たちは秘密を暴くようにこっそりと、静かにその部屋の中に吸い込まれてゆくのでした


今日はここまで

えたるのか?…まだいけるだろう?

>>239
すみません、きちんと完結させます

彼女に手招きされるまま、部室に足を踏み入れました

蛍光灯がチカチカと点滅したあと、ぼわっと灯りました

同時に、彼女は私の前からひょいと横にずれ、微笑みながら言いました

「突然ですが……間違い探しです。さて、この部室……海未ちゃんがいた頃と、どこが変わったでしょうか?」

そう言われたので、私は部屋の中を見回すようにジグザグと視線を走らせました

イス?あのイスは……昔と同じです

机?同じ。



ポスター……

壁の色……床……窓から見える木……

……何もかも、3年前のままです、気味が悪いほどでした

「答えは……ほとんど何も変わっていませんでしたっ……えへへ……」

「間違い探しですよ、そんなのありですか?いや……少し変わってるところはありますよ、パソコンはほら……新しいものに変わっていますし……」

「うんうん!」

彼女は嬉しそうに頷きました

「あっ、μ’sのものが貼ってありますね、ポスター……」

「うん!」

また頷きました、どうも、真意が掴めません


思い切って、もっと踏み込んでみましょう、単刀直入に。

「……私に見せたいものって一体なんでしょうか?」

「これだよ」

一息の沈黙。

「どれですか?」

「この部屋だよ」

また一息。

「何も変わっていない、この部屋ですか?」

「うん、変わらない部屋、私たちが守った部屋」

目を閉じながら、彼女は窓の外の方を向きました

「守った……」

私は、同じく、窓の外を見ようとしました


「海未ちゃんたちが……それに、私たちが力を合わせて、守ったんだよ」

「私たちが……」

「そうだよ、本当は、私が卒業して、それで、廃校になって……消えてたはずなの、この部屋」

「……そうでしたね、そういえば」

「忘れてたのぉ」

首を振りながら、とんでもない、といった態度をしてみせました

「忘れてませんよ、ちょっとぼんやりしていただけです」

「ふふっ……海未ちゃんも、昔のまま」

「さっきも言いましたよね、それ……」

しかし、また笑顔でごまかされました

「私のね、一番の宝物なんだ、この場所って……」

「……」

「あっ、宝物って変かな……物じゃないもんね、大切な場所……って言えば良いのかな。とにかくね、ここが変わらないで残ってるって……ひょっこり覗きにきて、それでも元のままって……私、それだけでなんだか、ほっとしちゃうの」

精一杯、大切に言葉を選びながら、彼女はそう言いました

「……そうですね、いい場所です、ここは」

「あはは……邪魔かなぁ、もう卒業したのに、こうやって来るのって……」

「歓迎されてたじゃないですか、とても」

「うん、それも嬉しいなぁって……後輩が出来て、こんな私にも……」

「素敵なことです」

「うん……」



箱。

この小さな部屋。

私の部屋も、この部屋も、小さな箱に違いありません

だけど、この箱は美しい箱です

にこが3年間守り続けたこの箱を、彼女もまた、3年間守り続けてくれていたのでした。

いいえ、彼女たち二人だけではありません、また新たな3年間……そしてまた新たな3年間……

いつまで続くのでしょうか。決して途切れることなく、鉄骨のようにがっちりと、互いに重なり合って、守り、守られあい、どこまでも続いて行く3年間の連続体……

対岸にたどり着くことのない、霧の中をどこまでも伸びていく、永久に建造中の大きな橋のような、そんな途方もない連続……

私はたった2年間でしたが、たしかにその一部として存在していました

いまもその橋は、堅牢のようです



始まりは、私と同じ、一人っきりの箱です

……矢澤にこ、彼女は逃げていく小さな幸運を追いかけようともせず、この箱の中で待ち続けました

きっと泣きそうになった時もあるのでしょう

でも、きっと泣かなかったのでしょう、彼女は強いですから。

外の世界に、出て行こうとしなかったのです

信じていたからこそ、ここに立ち止まっていたのです

待ち続けて、待ち続けたのです……

彼女はこの場所から一歩も出なかったのです、自分を変えず、そのまま消えていく覚悟を持ち続けたのです

足はつま先から腐り始め、眼はまともな景色を見られないほど濁っていっても、それでも最後まで自分の位置を変えなかったのです

それが最後には、全ての変化を、そして全ての奇跡を吸い寄せることになったのです

……同じ「箱の中から動かない」でも、私とは随分違いますね。

「動かなかった」と「動けなかった」の違いでしょうか?英語で言えば、「would not」と「could not」の違いですね

彼女は自らここに留まることを選んだのです、この場所に、自分の意思で残ったのです

私は、あの部屋にメソメソと引きこもって……あの部屋しか、居場所がなかっただけなんです。単なるシェルター、あるいはアリ地獄だったのです

やっぱり状況が違います。私はそろそろ抜け出して、自分の正しい居場所を探さないといけません

あの部屋だって、いつの日かこの部屋のように風通しが良くて、居心地の良い「抜け殻」になってくれれば良いのですが……



不思議な偶然です

彼女がこの部屋に一人で篭っていたのが二年間

私があの部屋に一人で篭っていたのが二年間

ちょうど、同じ長さです

だからと言って、何があるわけでもありませんが

なんだか、今が好機のように、私も感じずにはいられないではありませんか


「何も変わってないって……思ってる以上に、すごいことなんだよね、きっと」

彼女が言いました

「そうですね、放っておくと、何でも変わったり、消えたりしてしまうものです……いわゆる諸行無常というやつですね」

「海未ちゃんも、変わってないよ」

「やっぱり変わってないですか?」

「うん、だって、なんだか安心するの」

「安心ですか」

「この場所と、海未ちゃん、どっちも昔のまま。だからきっと安心できるの」

「……」

「変かな。さっきから、言ってること……」


変わらないのは彼女の方だと、言い返してやろうとしましたが、ほんのちいさな反骨精神さえも、彼女に抱く気にはなれません

どうしてでしょう。彼女と向き合うと、なんだか時間の流れがおかしくなってしまうように感じます

笑いながら、うんうんと頷いてくれます。突飛な話こそありませんが、何でもちゃんと受け止めてくれます

彼女は優しいのです。それが全てなのです。

他人を語る褒め言葉は数あれど、優しいの一言で、性格を説明できる人間なんて……彼女以外にはちょっと思いつきません

あなたは、あなたこそは何年経っても変わらないままでいて欲しいと……そう、切に願います

花ですか、あと太陽……いい名前ですね、本当に。意味もなく、つい、口に出してしまいます


「花陽」

「どうしたの?」

「なんでもないですよ」

「……なんでもないの?」

「ええ」

「……ふふっ……本当に……なんでもないんだね……」


なんでもない話を続けました

彼女はひとしきり頷いてくれました

なんでも話せてしまうので、ついつい自分を無防備に曝け出してしまいます

それがなんとも言えず、居心地が良いのです

これは、あれです

お風呂ですね

花陽と話していると、お風呂に入っているような、そんな気分です

……私は何を言っているのでしょうか、突然、馬鹿になってしまったのですか?



部室から出て、鍵を閉めました

カチャリと閉まった扉は、もう二度と開かないように見えました

校庭に戻ると彼女は現役の部員達に鍵を返し、何やら短い笑談をしていました

私は、遠くからぼんやりとそれをみつめていました

背景の太陽が高いビルの陰に落ち始めています

「花陽……ですか」

また意味もなく彼女の名前を呟いていました

時々、彼女はこちらの方を見ました

その視線に私は「大丈夫ですよ」と心の中で応えるのでした



夕暮れの道を、影をだらしなく伸ばしながら二人で並んで歩いて帰りました

「久しぶりに会えてよかったぁ」

「ええ、私もです」

「いつまでこっちにいるの?」

「特に決めてないんですが……まぁ、気が済むまで、ですかね」

不意に隣できゅるる、と音が鳴りました

「……何か聞こえた?」

「いいえ、なにも聞こえませんでしたよ……」

「……良かった」

「……」

彼女は顔を赤らめて下を向いていました

夕焼けのせいで、そう見えただけかもしれませんが


家に戻ると、両親には何も変わったことの無いようなふりをして、両親のよく知る、いつも通りの自分でいました

こちらの方に戻ると日舞の稽古が日課となるのですが、幸いなことに道場の改装の都合で暫しの暇を貰えることになりました

ひとしきりの歓迎を受け終えると、かつての自分の部屋に戻り、鞄からノートパソコンを出し、メールを確認しました

真姫から、名も無い曲のメロディと楽譜のファイルが添付されて送られていました

イヤホンを挿し、もう一度その音を確かめます。記憶の音符に色がついていくように、文字通りの再生が行われます

目を閉じ、大きく息を吸い、吐き出します、もう一度目を開く頃には、右手にシャープペンシルが握られていました

やや黄色っぽく変色したノートの新しいページを開き、一文字一文字、思うままに書き連ねていきます

それにしても、誰が歌うのでしょう、この歌詞を

いいえ、誰が歌うのかなど、些細な問題でしかありません

大切なのは、歌を作る今の私が楽しんでいることです

曲を作る人間のために、歌詞を書く人間のために

そういった人達のために存在する音楽だってこの世に一つくらいあってもいいでは無いのでしょうか

つづく
大きく期間が空いてすみません

>>1 よ、もしまだ見ていたら一声投下してほしい
エタるならエタる宣言した方が>>1 にとっても中途半端にならずに済むし、こっちも諦めがつく
続きを書くなら、できるだけ早く書いてくれ頼む

>>338
トリップミスです、すみません

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年04月15日 (水) 22:53:30   ID: mX7dAPRz

頑張ってください

2 :  SS好きの774さん   2015年05月01日 (金) 13:16:19   ID: 8zfSQ8iX

実に興味深い話です。
読んでいる内に、物語に引き込まれました。
続き、期待しています。

3 :  SS好きの774さん   2015年05月02日 (土) 03:07:50   ID: HiPsijWO

続き期待してます。

4 :  SS好きの774さん   2015年05月02日 (土) 08:36:13   ID: _ucN7BHd

面白い

5 :  SS好きの774さん   2015年05月18日 (月) 16:00:00   ID: Ex_8GibV

こういう思い抱えている人って結構いると思います。助けてくれる友人がいる海未ちゃんはまだ立ち直ることができるのでしょうね

6 :  SS好きの774さん   2015年05月22日 (金) 00:15:47   ID: Y3ucWCPE

すごく引き込まれました。続きを期待してます。

7 :  SS好きの774さん   2015年07月03日 (金) 09:21:22   ID: YfR9D0Ys

ゆっくり楽しんでます
投稿いつもありがといございます

8 :  SS好きの774さん   2016年01月19日 (火) 21:31:11   ID: xPJfmYBh

とても引き込まれるような内容で時間を忘れて読んでいました。
μ'sメンバーとの再会で立ち直っていく海未ちゃんみてて、何か自分が大学に通ってる頃を思い出しました。
投稿頑張ってください。 
続き期待してます。

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