モバP「桃華が……倒れた?」 (119)


 長編・地の文初挑戦です。
 アイドルやPの出番までかなり間があります。ご容赦ください。
 シリアス成分、ファンタジー成分が含まれます。お医者様にこれらの摂取を禁じられている方はこっそり読んでください。
 
 よろしければお付き合いくださいませ。

 
 
 桃華ちゃま誕生日おめでとう!


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 ざらざら、ざらざらと。
 今日も雨が降っている。ここのところは特に雨続きだ。季節はまだ、春だというのにね。
 こんな天気じゃあ、咲いた桜もすぐに散ってしまうことだろう。
 なんとも悲しい話だ。ここに桜の木なんて一本もありはしないのだけど。
 
 だけど最近、その雨の中にきらきらしたものが混じっている。
 光の粒のようなきれいな結晶。そんなイメージだ。
 この泥まみれの、ゴミ溜めのような地上から見上げると、それは本当に美しく見える。
 
 雨雲の隙間からわずかに覗く太陽の光。
 その光のを受けてきらきらと輝く結晶。
 運よくボクの方に飛んできたそれを、一度捕まえたことがある。
 それはまるで砕けたガラスのように鋭くて、ボクは少し手を切ってしまったのだけど。
 それでも、きれいなものは良いものだと思う。


 ……初対面のお客様に、いきなり話すようなことではなかったかな。
 どうも、はじめましてかな? それとももう、何度か会っているかな?
 挨拶はこんにちはでいいだろうか。それともこんばんはと言うべきか。あるいはおはようと言った方がいいのかもしれないね。
 申し訳ないね、さっきも言ったように雨続きなものだから。
 このところはずっとここに引きこもっているせいか、外のことがよくわからなくなってしまってね。
 
 とにかく歓迎するよ、お客人。ここには暇をつぶせるものはいくらでもあるけど、それでもいずれ飽きてしまうのでね。
 我が図書館へようこそ。ボクは司書のような仕事をしている者だ。
 名前は……きみがこの図書館に居続けるのであれば、そのうちきっとわかるだろうさ。


 意地悪だと思うかな?
 ごめんごめん。でもここは本当に退屈なんだ。
 だから珍しい客人を相手に、ちょっと遊びに付き合ってもらおう……なんて、考えてしまうのも仕方ないことなのさ。
 代わりと言ってはなんだけど、ボクも君の名前は問わないでおこう。
 
 それも遊びのうちだろうって? 会って間もないのに、よくわかってるね。
 不公平? まあ、確かにそうかもしれないね。
 
 仕方がないなあ。それじゃあ、これをあげよう。
 この図書館の貸し出しカードだ。
 さっきも言ったように、君の名前はあえて問わない。だからこのカードの登録についても、特に手続きは求めない。


 好きなものを好きなように扱ってくれていい。
 別にそんな、価値のあるようなものがこんなところにあるはずもないからね。
 
 おっと、口が滑った。仮にも司書がそんなことを言ってはいけないな、うん。
 気を抜くとつい意地の悪いことを言ってしまうよ。
 
 ……まあ、そういうことだから。
 たいしたものはないが、楽しんでいってくれたまえよ。


 「……」
 そう言ってわたしに白いカードを押し付けると、彼(?)は入口の方へと戻っていきました。
 いったい何者なのだろう、彼は。自分のことをボクと呼んでいた以上、おそらくは男性なのでしょうが。
 しかしその背も、体格も小柄で、大人にはとても見えません。
 少年、というくらいの年ごろなのでしょうか。
 
 一番の決め手になるであろう顔は、わたしには見えませんでした。
 彼は仮面をかぶっていたのです。
 少し紫がかったプラチナの髪をした、女の子の仮面でした。なんだか、ちぐはぐです。
 
 そんなことを思いながら廊下を歩くと、つきあたりに両開きの大きなドアが見つかりました。
 入口のそばにあるプレートには『第一閲覧室』とあります。
 
 ……入ってみましょうか。
 その大きな扉に見合った厳めしいドアノブを握ると、金属の冷たさがわたしの手から体温を奪います。
 がちゃりと回すと、さび付いたような音を立てながら、扉が開きます。


 ぎいぎいと、蝶番が悲鳴をあげながら開いていきます。
 図書館のドアがこんなにうるさいのはいかがなものでしょうか――と思いますが、しかし実際、問題はなかったようです。
 なぜならその部屋は、真っ暗だったからです。
 他の利用者などいようはずもありません。
 
 おそるおそる。足音を立てないように這入ります。
 がたんと、背後で大きな音を立てて扉が閉まりました。
 思わずぶるりと肩が震えます。
 首筋から、血の気が引いていくのが聞こえるようでした。
 
 濃密な闇に視覚を奪われたせいか、ほかの感覚が周囲の様子を察しようと働いているのでしょうか。
 触覚がしきりに寒さを訴えます。
 埃と、年を経た紙の匂いが鼻を突きます。
 聴覚は静寂を通り越して、きーんとした耳鳴りのような音が聞こえています。
 とにかく、明かりのスイッチを探さないと――。


 「……ふぅっ」
 「ひぃぁぅっ!?」
 
 突然真後ろから声が聞こえ、生暖かい空気が首筋を舐めて行きました。
 あのけたたましい音をたてるドアが開いた音なんて、絶対に聞こえていないはずなのに。
 
 「だ、誰? 誰ですか!?」
 瞬時に飛びのいて振り返ります。
 恐怖に襲われても、わたしの身体は動いてくれました。すぐさま問いかけます。
 
 その瞬間。
 ……ぱちんと音がしました。続いて、じぃー、っとノイズのような音がします。
 真っ暗だった部屋が、徐々に明るくなります。明かりはむずがるように明滅しながらも、部屋に明かりが灯りました。
 
 「……電気つけてないから気をつけてね、って言いに来たんだけど」
 その反応は傷つくなあ、と言いながら、後ろ頭をかいています。
 わたしの目の前には、先ほどの仮面の彼がいました。


 ……あれ?
 彼、先ほど会ったときに見たものとは、別の仮面をつけています。
 
 茶色がかった髪の、カチューシャをつけた可愛らしい女の子の仮面。
 でもなんだか、今の彼の印象と相まってか、不吉なオーラみたいなものが漂っているように見えます。
 
 「ふふふ、そんなに驚かれるなんて思っていませんでしたぁ。ごめんなさいねぇ。……なんてね。似合うかい?」
 そう言っておどけて見せます。
 ちょっとイラっとしました。
 
 「部屋に入るのは見えていたんだから、ノックくらいするべきだったかな」
 驚かせてごめんね、と彼は改めて言います。
 ……やっぱりなんだか子どもっぽい。
 
 それに、明かりのことを話しに来ただけじゃないんだよ。と彼は言います。
 「この図書館に収蔵されているものを読むには、本を読むのとはちょっと違ったやり方をするんだ」
 後ろを向いてごらん、と言う彼。
 正直、この子に背を向けたくはないのですが……ここは従います。


 そこには、棚がありました。
 でも本棚ではありません。棚です。ショーケース、というのが的確でしょうか。宝石店にあるようなたぐいのものです。
 しかし、よくわからないのがその中身。
 
 「サッカーボール……?」
 
 気づくと、わたしの後ろにいた彼が、今は隣に立っています。
 うん、と彼がうなずきます。
 
 「これが当図書館の収蔵品になります」
 
 と、こちらに向き直り執事のように礼をしながら言います。正直なところ、まるで似合っていません。


 ちょっと待ってね、と彼がカードのようなものを取り出します。
 先ほどもらった貸し出しカードに似ていますが、彼の持っているものは黒い色をしています。
 それを読み取り機のようなものの上に近づけると、ピッと音がしてショーケースの蓋が開きました。
 
 「さぁ、そのボールに手を触れてごらん?」
 
 ……いったいわたしに何をさせたいのか。
 そんな疑念とは裏腹に、見えない糸に操られるように、私の手はボールへ引かれていきます。
 
 「目を閉じて」
 
 耳元でささやき声。
 言われたとたん、まぶたがすとんと落ちます。
 
 「指先に意識を集中するんだ」
 
 そっと、指先がボールに触れました。

Memory - サッカーボール

 女の子がいます。
 背の高さはわたしの腰よりちょっと高いくらいの小さな子です。小学校に入ったばかり、といったくらいの歳でしょうか。
 その女の子の前には柵がありました。わたしの背丈よりも高さがあって、柵の先が槍状になっています。
 どうやらここは大きな家の庭のようでした。
 彼女はその柵を、柵の向こう側を見ているようです。
 
 柵の向こうにも子どもの姿がありました。だいたい彼女と同じくらいの年ごろに見えます。
 
 半袖、半ズボン。たぶん男の子でしょう。それが3人。
 彼らは柵の向こう側で、サッカーボールを蹴って遊んでいました。
 この女の子はきっと一緒に遊びたいのでしょう。だけど男の子たちの方に気づく様子はなく、自分からも言い出せないようです。


 ……ちょっと、悲しい風景です。
 それなら、わたしがなんとかしましょうか。
 
 ――ねえ、あの子たちと一緒に遊びたいの?
 つとめて優しい声で、怖がらせないように聞きます。
 
 (……余計なお世話だったかな)
 
 彼女は、こちらに向きなおらず、柵の向こうを見続けています。
 確かにあまり大きな声ではありませんでしたし、聞こえなかったのかもしれません。
 それとも無視されてる? などと不安に思っていると、彼女が口を開きました。


 「いいの」
 「きっと、ゆるしてもらえないから」
 
 許してもらえない?
 予想外の言葉が飛び出しました。
 
 「それは……あの子たちが、仲間に入れてくれないって意味?」
 
 これくらいの歳の子には、わりとよくあることです。
 女の子と男の子の間にある、それなりに大きな溝。


 「ああいうことをすると、おかあさまやおとうさまが、いやがります」
 「だから、がまんします」
 そう言って、うつむいてしまいました。
 
 ……普通、こういった場合。
 子どもらしからぬ気遣いをするこの子に、そんなに我慢しなくてもいいんだと、そう話しかけるような場面なのでしょうか。
 
 けど、今のわたしの中には「それなら仕方ない」という思いがあります。
 なぜ?
 この子の考え方は普通ではないと、わたしは思っているのに。
 仕方ないという考え方も、それと同じくらいに理解できてしまう。
 
 ……わたしはこの子に、どう言ってあげるべきなのでしょうか。


 「あ」
 
 男の子の蹴ったボールが、空高く放物線を描いて、こちらに飛んできます。
 
 柵を飛び越えたボールは、わたしと彼女の頭上を越えて庭の中へ。
 外を見ていたわたしたちの視線も、ボールを追って庭へ。
 
 そうして二人とも、黙ってしまいます。
 重たい沈黙。
 我慢していたはずのものが、手の届くところにやってきてしまった。
 諦めたものが、目の前にある。
 その沈黙の重さに耐えかねて、わたしは。


 「……大丈夫。一回くらいなら、バレないよ」
 
 そう、口にしていました。
 
 すると彼女はボールに駈け寄り、息を大きく吸って。
 
 「――いくよ!」
 
 ボールが宙を舞います。
 空高く蹴り上げられたボールは、柵を軽々と越えて持ち主のところへ。
 
 (……あ、転んでる)
 
 丈の長いワンピースを着ていたせいで、足を取られたのでしょうか。
 綺麗な服が土で汚れてしまっています。
 だけど彼女の表情は、そんなことはまるで気にしていないように晴れ晴れとしていて。
 
 良かったと、そう思うことができたのでした。

Memory - サッカーボール End

プロローグ - 2

 眠りから覚めるように、意識が戻ってきます。
 ぼんやりとした視界。
 黄色く光り、ときおり明滅する白熱灯の明かり。
 その明かりに照らされたサッカーボールに、わたしは手を載せています。
 
 「……あ、れ?」
 
 庭も、柵も、女の子も、そこにはいません。
 なんだかなつかしい感じがするような、使い込まれたボールがそこにあるだけです。
 
 ああ、帰ってきたみたいだね。と、仮面の彼の声が隣に立ちます。
 
 「どうだい、ちゃんと読めたかい?」


 ――読む。
 ボールに触れる前にも聞いたその言葉に、はっとします。
 
 (……これが読むということ?)
 
 人に白昼夢を見せるサッカーボールなんて、聞いたことがありません。
 こんなものがいくつもあったら、人は現実に生きることをやめてしまうのではないでしょうか……。
 そう思ってしまうくらいに、リアルな手触りのある体験でした。
 
 何が見えた? と彼が問います。
 あの光景は、女の子とサッカーボールにまつわるとても小さなお話。
 これは、あのサッカーボール?
 そうなのでしょうか。
 あの女の子の思い出が、ここにあるボールに宿っている?
 
 そう考えると、胸にすとんと落ちるような気持ちになります。
 あの体験は、女の子にとって救いになったのだと。
 その思い出の象徴は、時が流れてもこうして、大切にされているのだと。


 「その顔を見れば何を考えているか大体察しが付くけどね。……そんなに良いものじゃないよ、これは」
 
 ショーケースの向かい側から彼が言います。
 表情は読めないけれど、仮面の奥では苦虫を噛み潰したような表情をしているような、そんな気がしました。
 
 見上げるとまた仮面が変わっています。
 首が隠れるくらいの金髪で、ツリ目の女の子。
 
 「さっきも言っただろう? ここにそんな価値のあるものは『無い』んだよ」
 
 ただの一つもね。と彼は肩をすくめます。
 
 ――その姿に、いらだちを覚える。
 ああ。わたしはきっと、こういう人が嫌いな人間なんだな、と。
 わたしがわたしを理解します。


Disconnect


Now-Here Start
 少し、ぼーっとしていたらしい。
 今日もまたいつものように、昔のことを思い出していた。
 
 ときおり仕事をサボる脳に対して身体は勤勉なようで、俺の前にはいつもの光景がある。
 
 水を取り替えたばかりの花瓶と、そこに活けられた桃色のカーネーション。
 無意識でも何も問題がないほどに、その動きは身体に染みついてしまっている。
 
 ベッドには彼女が眠っている。
 それもいつも通りだ。
 この何度も繰り返された朝も、一体何回目なのか。多くはないはずのその回数も、俺は覚えていない。
 毎日がとても長く感じる。
 なのに、その毎日はひどく虚ろで。
 
 これではいけない。
 こんなことでは彼女に叱られてしまう。
 そう思うけれど、身体が上手く動かない。


 (……なんだ。俺は頭も身体もポンコツじゃないか)
 
 だけど、働かなくては。
 俺が担当している子は、彼女だけではないのだから。
 
 「……行ってきます」
 
 彼女は今日も、返事を返すことはなかった。


 実際のところ、今の俺がこなすべき仕事は少ない。
 担当しているアイドルのスケジュールは、一人を除いてだいたい埋まっている。
 今日も彼女たちはレッスンに励んでいるはずだ。
 
 初めのころはレッスンに付いて行き、その様子を見守っていた。
 けれどそれは、俺が勝手にやりたくてやっていただけであり。
 暇な時間を作りたくなかっただけだった。
 
 そんなことだから、俺は、邪魔なだけだった。
 その後トレーナーさんに追い出されてからというもの、俺は付き添いすらも禁じられている。
 
 ならば、とちひろさんに事務仕事の手伝いを申し出ても。
 大した量ではないので、とか。
 一人でも大丈夫ですから、とか。
 Pさんは休んでいてください、とか。


 やめてくれ。
 俺はそんな情けを受けるに値する男じゃない。
 そう叫び出したくなる。
 
 仕事が欲しかった。
 何かしていたかった。
 そうでないならせめて、お前が悪いんだと責めてほしかった。
 
 だから俺がこの業務日誌に手を付けたのは、遅かれ早かれ必然だったと言えるかもしれない。
 
 これは懺悔だ。
 彼女の異変に気づくことができなかったことへの懺悔。
 どうして助けてやれなかったのか。
 彼女はあんなにもボロボロになってしまっていたのに。
 
 思い出そう。
 俺は彼女に何をしてしまったのかを。
 俺が彼女に何をしてやれなかったのかを。

Now-Here プロローグ End


読んでくださりありがとうございました。

今日はとりあえずここまでになります。
桃華ちゃま出番なくてごめんなさいごめんなさいほんとごめんなさい。

でも誕生日までにプロローグだけでも投稿したかったんだよ!
次はちゃんと桃華ちゃま出ます、たぶん。

更新いきます。
ようやく桃華ちゃまに出番が……。

でも最初の方はまだPのターンです。


Chapter.1

業務日誌 x年11月x日

 あれは11月。ハロウィンが終わり、今度はクリスマスだとばかりに街が姿を変えていた頃だ。
 そのころはまだ吹けば飛ぶような零細プロダクションだったうちは、新たなアイドルを求めていた。
 
 なかなか取れない仕事。
 思うようにいかないスカウト。
 
 そんな時だ。うちの社長は俺に出張を申し渡した。


 ……俺は思わず彼の正気を疑ってしまった。疑ったばかりかそのまま口に出した。
 具体的に何を言ったかは覚えていないが、即クビにされても不思議ではないことを言ったという事実だけが記憶に残っている。
 
 未だ担当アイドルがおらず、スカウトの実績もない。そんなプロデューサーとは名ばかりの最底辺にいたのが俺だった。
 そんな奴に突然「神戸までスカウトに行ってこい」なんて言う奴がいたら誰だっておかしいと思うだろう。
 ちなみに後で社長に質問したときは「神社で託宣を受けた」なんて答えが返ってきた。どうかしてる。
 
 ……でも、俺の方も正直参ってたんだろう。同期で何の実績もないのは俺だけだったしな。
 だから行ったんだ、神戸まで。その日のうちに。


 ……アホかと思うよな。
 出張に行くまでは許容できるとしても、なんで今すぐ行かされるんだって。
 
 どうもその予言だか託宣だかには、期限がきられていたらしい。
 明日の朝までには神戸にいないといけないんだとか。
 なんでそれを前日まで黙ってるんだと言いたくなるよ。
 
 すぐに帰って身支度して新幹線に乗ったさ。
 そうして乗ってしばらくして気づいたんだが、券はなぜか大阪行きだった。
 券を粉々に破りそうになる自分を抑えるのに苦労したよ。
 仕方ないから大阪で降りて、夜も遅かったから一旦カプセルホテルを探して、その日はすぐに寝たんだ。
 
 まあ、こんな感じで急な出張になったわけでさ。
 下調べなんてできるはずもなかった。
 
 だから駅では迷うわ乗り換えは間違えるわ、散々でさ。
 人通りの多いところに行くつもりだったのに、気づいたら静かな住宅街みたいなところにいたんだ……。


SideChange

 ……この図書館にやってきてから、どれくらいの時間が経ったのでしょうか。
 わたしは今、この第一閲覧室にある最後の収蔵品にとりかかるところです。
 こうして物に宿る思い出を読んでいると、そのたびに夢を見ているような気分になるせいか、時間感覚がわからなくなります。
 なぜだかお腹も減りませんし、トイレに行く必要もないようです。
 一応眠くはなるので何度か寝てはいますが……。
 
 結論から言いますと、ここに置いてあるものはどれもあの小さな女の子にまつわるものばかりでした。
 あの子の『思い出』――と、一概に言えるかどうかは、わかりません。
 これらの中にはつらい記憶だとか、悲しい記憶といったものがいくつかありました。
 そんなに価値のあるものは無いと言っていた彼の言葉も、そういう意味では以前より、理解はできます。


 それともう一つ、新たな発見がありました。
 最初の思い出では、わたしと女の子は言葉を交わすことができていました。
 けれど一部のつらい記憶、忘れたいような記憶の中では、わたしの言葉は彼女に届かなかったのです。
 
 クラスメートの女の子たちが、裏で陰口を言っているところを見てしまったとき。
 男の子が生まれてほしかったと、両親が話しているのを聞いてしまったとき。
 深く傷ついていたあの子に対して、わたしは何もできませんでした。
 
 ……これは、どっちなのかな。
 良い思い出なのか、悪い思い出なのか。
 
 最後に残ったのは、お姫様が着けるような綺麗なティアラ。
 わたしは目を閉じて、静かに手を触れました。


Memory - お姫様ティアラ

 ――小鳥の声が聞こえます。
 夢の世界に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮上していきます。
 毎日毎日わたくしの眠りを妨げる無粋な目覚まし時計も、今日に限っては大人しいもの。
 ただカチカチと、時を刻む音がちいさく響くだけです。
 意識が少しずつ働きだすと、五感が伝える外気の寒さに思わず布団に潜ってしまいます。


 「ん……ぅ、さむ……」
 
 神戸でも山の手の方にある我が家は、冬になるとひどく冷え込むのです。この部屋は他に比べると狭い方ですが、それでも冷気は容赦なく体温を奪います。

 「……んー」
 
 布団にもぐりこんだまま、ごろごろとベッドの端まで転がります。お目当てはベッドサイドにあるテーブル。
 がさごそと目を閉じたままテーブルの上を探ると、ごとりと何かが床に落ちる音がしました。
 
 おそらく目覚まし時計をひっかけたのでしょう。……ちょっとだけいい気味がします。
 さらにしばらくもぞもぞとしていると、指先がプラスチックの感触を探し当てます。ありました。
 リモコンの電源ボタンをONに。


 大型のエアコンが静かに風を送り始めます。柔らかな、暖かい風です。
 北風もこの慈愛に満ちた暖かさを見習うべきだったのだと思います。こんな暖かな風であれば、旅人のコートを脱がせることもできたでしょうに。
 
 一仕事を終えた手を引き戻すと、やわらかな布団が暖かく、優しく迎え入れてくれます。

 「もうちょっと、だけ……」
 
 頭まで布団をかぶってしまいます。
 横を向いて丸くなると、猫にでもなったような気分になります。
 
 「へやがあったまる……まで、だから……」
 
 大丈夫。
 ちゃんと起きますから。
 わたくし、いつまでも子どもではありませんもの。


 
 
 ――二度目の目覚めは、小鳥の鳴き声ではありませんでした。

 きっともう、どこかへと飛び去ってしまったことでしょう。
 
 次にわたくしが目を開けたのは、すでに正午を回ったころでした。
 (……久しぶりに、やってしまいましたわね)
 カーテンを開けると、東の空にあったであろう太陽は、今は真上に。
 
 「……悔やんでも仕方ありませんわ」
 
 すでに贅沢は堪能してしまったのです。ならば、対価を支払うことも仕方のないことでしょう。
 お叱りは、甘んじて受けることにします。
 
 さぁ。
 冷たい水で顔を洗って、いつものわたくしになりましょう。


 それからきっかり30分。
 鏡の向こうには、いつも通りのわたくしがいます。
 
 寝癖を直して軽くお化粧。
 お気に入りの赤いワンピースと、真っ白なブラウス。黒い胸元のリボンに、かわいいヘッドドレス。
 小学生といえど、わたくしほどの年齢ともなれば、おしゃれに気を遣うのは当然のこと。
 どこから見てもいつものわたくし。お寝坊さんはもういません。
 
 どこに出しても恥ずかしくない、お嬢様の完成です。
 ただひとつだけ、先ほどからお腹の虫がうらめしそうに泣いていることだけは、どうやっても格好がつきませんけれども。


 朝方、床に落としてしまった目覚まし時計に目をやります。
 元の位置に戻しながら、時間を確認します。
 
 現在時刻は1時過ぎ。
 
 (お昼ごはんの時間はもう終わってしまっていますわね……)
 
 もしかしたら、起きてすぐ食堂に降りれば間に合ったかも――という考えが頭をよぎります。
 
 (ないない、ありえませんわ)
 
 そんなはしたないこと、できようはずがありません。
 とりあえず食堂か、もしくはキッチンに行ってみましょう。


 まず、お昼ごはんは無事に食べられました。
 というのも、わたくしが食堂に向かったところ、冷蔵庫に昼食が入っているという書き置きがあったのです。
 
 ちなみにメニューはホタテときのこの和風パスタ。美味でした。
 ……ただ、冷蔵庫には朝ごはんの分も入っていたのでした。その申し訳なさに負けて、つい頑張って、全部食べてしまって。
 
 触るとお腹が膨れているのがわかります。
 そうそう、それともう一つ。
 
 (どうやら今日も、お父様とお母様はいらっしゃらないようです)
 
 お寝坊を叱られることはどうやらなさそうで、一安心。
 
 それにしても、食べすぎたせいかお腹が、苦しい……。
 ちょっと一休みしたら、運動も兼ねてお散歩にでも行ってきましょうか。

 ……ときに、年頃の女の子にとって、体重計というものはなによりも恐ろしい悪魔の化身となりうるのですから。


 一応、お部屋に戻って身だしなみを再チェック。
 とはいえわたくしが食べかすを服に残すなどということ、まずありえないのですけれど……。念には念を入れます。
 歯磨きとうがいを済ませて、お出かけの準備です。
 
 いつも使っているかわいいバッグに、中身を詰めていきます。
 ハンカチ、よし。ティッシュ、よし。お財布、よし。家の鍵、よし。
 スマートフォン、手鏡、防犯ブザー。
 ……あと使ったことはないですけれど、ソーイングセット。
 指さし確認。
 
 ただのお散歩ですし、これくらいでいいでしょう。


 少し散歩へ行ってきます、と家の者にメールするのも忘れずに。
 いつものお洋服の上にコートを羽織って、準備万端です。
 
 玄関で室内履きを脱いで、おろしたての靴に履き替えます。
 我が家は洋館ですが、土足は禁止ということになっているのです。
 
 「それでは、行ってきますわ」
 
 誰の耳にも届かない言葉を小さくつぶやいて、わたくしは扉を開けました。


 しばらく、ゆっくりと家の近くを歩いていました。
 目的地は特に決めずに出ましたけれど、とりあえず公園にでも行こう、というつもりでした。
 でした、が――。
 
 (なんだか、先ほどから)
 (背後から視線を感じるような……)


 最初は気のせいだと思っていました。
 だから公園からは遠ざかることを知りつつも、何度か必要のない角を曲がったりしました。
 偶然道が同じなだけであれば、これで別れられるはず。
 
 ですが視線は、何度道を変えようとも、いつまでも付いてきているような、そんな気配がするのです。
 わたくしが普段、学校などで向けられているような視線。好奇や羨望、あるいは嫉妬。
 そのいずれにも当てはまらない。この視線からはそのような感じを受けます。
 
 獲物を狙う猫のような。あるいは猛禽、猛獣のような視線。


 (……ストーカー、と呼ばれるような人ですの?)
 
 背後を追ってくる人影、というイメージで、真っ先に浮かんだ言葉がそれでした。
 ストーカー犯罪はたびたびニュースにもなりますが、小学生を狙ったストーカーというものはあまり聞いたことがありません。
 では、変質者……というものでしょうか。
 これは学校でも、ときおり先生が気をつけるようお話ししていたことがあります。
 その際、対処法もいくつか習いました。
 
 『もし怪しい人を見かけたら、その人には絶対に近寄ってはいけません』
 
 (基本中の基本ですわね)


 ……いえ、いえいえ。
 そもそもわたくし、追いかけられているのですけど。
 
 よって却下。
 
 そもそも、わたくしを追っている誰か……というのは本当にいるのでしょうか。
 気のせいではないのでしょうか。
 
 そう、よく考えればそれが一番です。それが一番平和です。


 けれど。
 
 振り向いて確認するということは、あまりにも恐ろしい行いです。
 もし振り向いた瞬間が、変質者がわたくしに襲いかかろうとするまさにそのときであったら。
 大きな男性が、目の前で両手を振り上げていたら。
 ……怖い。それはあまりにも恐ろしい。恐ろしすぎる想像。
 けれど、確認しないのもそれはそれで怖い。
 それだけでなく、振り返ったことをきっかけに襲いかかってきたらなどと……考えだすとキリがありません。
 
 (……そうです! 振り返らなければ良いのですわ!)
 
 持っててよかった手鏡。こんなことに使うためのものではないですけれど、指差し確認したかいがあったというものです。
 後ろから見られないように、バッグをお腹に抱えて鏡を取り出します。


 右手に鏡を構えて、背後をちらり。
 
 ……近くのお屋敷の生け垣が続いています。真後ろ……はギリギリ、見えるか見えないかといったところ。
 あまり不審な動きをして、変質者に気取られるのも良くないでしょう。鏡を左手に持ち替えます。


 なるべくさりげなく、さりげなく……ちらり。
 
 向かいのお屋敷の塀。
 塀の上を歩いている黒猫。
 上にまっすぐ伸びている電柱。
 スーツ姿の男。


 (いますわーーーーーーーーーーーっ!!)
 
 見えた。
 見えてしまった。
 なんか、変なのが、いる。
 
 そう認識した瞬間。
 どくんと心臓が大きく跳ね上がりました。
 肩がびくりと震えてしまったのがわかります。


 (お、おおお落ち着きなさい、落ち着くのです櫻井桃華!)
 
 心臓の鼓動は静まることなく、マラソンを終えた後のようにどくどくと早鐘を打っています。
 鏡に写るわたくしの顔も、熟したリンゴのように真っ赤です。
 
 落ち着きましょう。
 落ち着かなければ。
 もしもわたくしの異変に気づかれでもしたら。
 
 そう、そうです、深呼吸をしましょう。
 ……ああいえ、いけません。深呼吸なんて後ろから丸見えではありませんか。
 
 とにかく呼吸です、呼吸しましょう。


 すぅ、はぁ。すぅ、はぁ。すぅ、はぁ。すぅ、はぁ。げほっ、ごほっ。

 ……うぅぅ、過呼吸気味になってしまいました。
 
 なんだかすったもんだしているうちに、少しだけ冷静になってきたような気がします。
 まだ心臓の音はどくどくとうるさいですけれど、とにかく考えましょう。
 
 まずは今見えたものについて。


 大人の男性でした。背の高さはおそらく、うちのお父様と同じくらいか……少し高いくらいでしょう。
 ……わりと大柄ということになります。
 変質者の危険度を、さらに上昇修正。
 
 服装はスーツ姿でした。
 ビジネス街なら目立たないその姿も、真昼の住宅街では異質な存在です。
 というのも、ここは結構高級な住宅街なので、セールスの人がやってくるとは考えにくいのです。


 だんだん頭が回るようになってきました。ふぅ、と一息つきます。
 
 ……落ち着いてきました。それでは変質者への対処、その2でいきましょう。
 ええと、次の対処法は――。
 
 『人目のあるところを通りましょう。人通りの少ないところや、狭い道を通ってはいけません』


 (今の状況って、かなりよろしくない状況のようですわねー)
 
 いや、いやいや。
 プランB、役に立たなさすぎですわ!
 心の声でまるで他人ごとのように現実逃避していたじゃありませんの。
 いけませんいけません。現実逃避なんてしている場合ではないのですわ。
 
 昼間の住宅街に人目を期待するには無理があります。
 かといって、今更公園に向かおうにも……。
 
 (道を外れたことが、まさか仇になるとは思いませんでしたわ……)


 もう一度、背後を手鏡で確認します。
 鏡の中には相変わらずのスーツ姿。
 
 (……まだついてきていますわね)
 
 もし襲われた場合、対処は――。
 考えてみる。
 これでも一応良家の子女として、いくらか護身術を修めています。
 心得のない相手なら、さばききれるだけの自信もあります。
 しかし、それでも体格の差とは埋めがたいものであることも、しっかり教えこまれています。
 生兵法は怪我の元。


 (……相手が突進してくるだけの素人であれば、なんとか)
 
 相手にも武道の心得があるなら、おそらくはまるで相手にならないことでしょう。
 近距離での取っ組み合いは、絶対に避けなければならない。
 
 ならばこちらから、機先を制する?
 
 いける……かもしれません。
 そう、これこそが変質者への対処、その3。
 
 『怪しい人に対しては、逆にこちらから挨拶することで効果があることがあります』
 
 そう、これです。これですわ!
 学校教育が初めて役に立った瞬間です。


ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

今日はここまでです。次回、激突編。

すみません、遅くなりました。なんとか総選挙が終わる前に起承転結の転まで行けたらいいなぁ……と思っていますがどうなることか。
あと>>27だけ手違いでトリップ外れてるんですが、何か不都合とかあるのかな……。


 「そこの……あなた!」
 
 踵を返す。踏み出した右足を軸に回転する。
 スカートはあまりはためかせないように、優雅であれ。
 足の先から頭のてっぺんまで、身体に染みついた一つ一つの細かな動きが、華麗なターンへと結実する。
 そして宙を撫でるように回した右手を、びしりと突きつけるように前へ。
 
 優雅に、凛々しく、威嚇する。
 
 「先ほどからずっと……わたくしを見ていましたわね? いったいナニを考えていらしたの? 教えて下さるかしら」
 
 そして左手は密かに腰からポケットへ。
 指先に触れるのはつるりとした卵型の物体。それを掴み取り、隠れるように握りこむ。
 怪しまれないように、手は元の位置へ。


 ――完璧な動きであったと確信する。
 変質者の視線は、突きつけられた指先に誘導されている。気づかれた様子はない。
 
 彼はぽかんとした顔をしている。隙だらけだ。
 戦果というものは、追撃から生じるもの。勝利もまた同様です。
 ここは、さらに押し込むべきところ。
 
 ダメ押しというものですわ!
 
 「……アナタ、わたくしを見る目が普通の方とはまるで違いましてよ。ゾクゾクするような危うい視線でしたわ」
 
 「さあ白状なさい! いったいわたくしをどうするおつもりでしたの!?」


 ――のちに。
 櫻井桃華は彼女の後輩を相手に、こう述懐する。
 
 相手の全身が、爆発したかのように大きくふくれあがって見えた、と。
 それはさながら、及川雫を目の前にした棟方愛海のようであった、とも。
 
 その勢いに反応することができなかった桃華。
 わずかな逡巡の後にはっきりしたことは、彼がその猛烈な勢いでもって、一瞬にして距離を詰めてきたという事実。


 (――早い!?)
 
 一瞬でした。
 こちらからも距離を詰めてしまったとはいえ、二人の間には3m以上の距離があったはず。
 まさかここまで素早く近寄られるとは――!
 
 この驚きは、わたくしの身体を雷のように貫きました。
 瞬間的な硬直、そして放心。
 ブザーを握りこんだ左手は、指が鉄にでもなってしまったかのように動かない。
 
 近くに寄られると、遠目に想像していた以上に男は大きく見えます。
 彼のその大きな腕が、わたくしの方へと伸びます。


 (いけない……!)
 指をさした状態から、引き戻しかけていた右手をがっしりと掴まれました。
 逃げられない。
 掴まれた腕から力が抜けてしまう。握りしめられた手が少し、痛い。
 彼は絶対に逃がすまいと言わんばかりに、わたくしの右手をつかんだ左手の上から、もう片方の手を重ねました。
 
 ……ああ、もう振りほどけない。
 
 今すぐにスイッチを押さないといけない。
 そうわかっているのに、指が動かない。
 
 男が、さらに一歩を詰めてくる。
 また一歩。
 もう目の前にいる。握られた手に息がかかるような距離。
 
 (ああ……もう、ダメ……!)
 
 その恐ろしさから逃げ出すように、目を閉じてしまう。
 ああ、来る。来てしまう。
 お父様、お母様、ごめんなさい……!


 
 「――アイドルに、興味はありませんか」

 
 
 
 来ない。

 ……というか、この人は今、何と言ったのか。
 
 アイドル?
 それはあの、歌ったり踊ったりするあのアイドル?


 おそるおそる、目を開けてみます。
 彼は、わたくしの前で、スーツが汚れることも厭わずに、ひざまずいていました。
 
 ……目と目が逢います。
 さっき後ろを確認したときと、同じ目です。
 
 心の奥まで覗き込まれるような、そんな目。
 
 さっきまで恐怖に怯えていたというのに、ふと、こう思いました。
 ああ、この人。真剣だ……と。


 「アイ…ドル……?」
 金縛りが少しずつ解けていきます。
 あんなに固く動かなかった指に、血の通う感覚が戻っていきます。
 
 彼が、わたくしの腕を離しました。
 けれどその表情は真剣なまま。
 わたくしは思わず、身を守るかのように胸の前で両手を組みました。
 
 「……そう、アイドル」
 
 彼は続けます。


 「君には、間違いなく才能がある」
 
 彼の声に、熱がこもっているのがわかります。
 
 「……君の立つ姿も、歩く姿も、人の目を惹きつけるだけの力がある」
 
 彼の視線に、射抜かれているのがわかります。
 
 「なにより……」
 
 他の誰が向けてくるものとも違う視線。
 
 「……ちらりと一瞬視界の端に映っただけで、目を奪われた」


 「この子しかいないって思った」
 
 「君と一緒だったら、一番上まで行けるって思った」
 
 ……彼の目は、余計なものを見ていない。
 
 「一目見た瞬間に、君のファンになった」
 
 ……家のこととか、優等生とか、お嬢様とか、そういうものではなくて。
 
 「この機会を逃したら、きっと一生後悔するって思った。だから」
 
 ……彼はきっと、わたしそのものを見ている。
 
 「――俺と一緒に、トップアイドルを目指さないか」
 
 胸の前で組んだ両手を、彼の手が上から包み込んだ。


業務日誌 x年11月x日

 こうして、俺は桃華に出会った。
 桃華の手を握りしめた瞬間、あたりに爆音が鳴り響いたり、どこからともなく黒服の男たちがやってきて取り囲まれたのも、今にして思えばいい思い出だった。
 (……その日、櫻井家は珍しく一家全員が勢揃いしたらしい。親御さんに話を通さなければならなかった俺にとっては、ある意味では渡りに船だったといえるかもしれない)
 とはいえ印象は最悪だっただろうし、桃華がとりなしてくれなかったらどうなっていたことかと思うと、今でも肝が冷える。
 ……それに、桃華ほどの才能を埋もれさせてしまうなんて展開も、たとえ話ですら考えたくない。
 
 とはいえ桃華はアイドルになることを決めてくれたし、両親も承諾してくれた。
 
 それからというもの、今までの暇が嘘だったように、俺と桃華の日常は多忙を極めた。


 まず事務所に所属するにあたって、地方に住んでいた桃華には東京の女子寮に入ってもらうことになる。普通なら。
 しかしそこはさすがの櫻井家というべきか。東京にも当然のように別宅がある。
 だから桃華はそこから事務所へ通うことになるのだと、誰もが思っていた。
 桃華の両親も、俺も、ちひろさんも、社長も。
 
 だが、桃華ただ一人がそう思ってはいなかった。
 桃華は両親の手を借りることをよしとせず、女子寮で暮らすと言い出したのだ。
 
 当然だが、小学生の子どもを一人で住まわせて平気な親なんてそういるものじゃない。
 
 この見解の相違は、平和な事務所の応接室を戦場へと一変させた。


 ……この争いについて、詳しくは述べない。
 一見丁寧な言葉で繰り広げられる舌戦は、俺の胃壁をガリガリと著しく消耗させた、とだけ言っておく。
 
 (完治にはスタドリ、エナドリを10本ずつ要したというあたりから、被害の大きさを推し量ってもらいたい)
 
 結局のところ、桃華は平日の間を女子寮で過ごし、休日には別宅へと帰るということに決まった。
 
 (桃華いわく、東京で仕事をすることも多い両親と会う機会は、むしろ神戸に居たころよりも増えたのだという)
 
 その後俺は桃華と女子寮に置く家具選びに出かけたらしいのだが、あいにくとあまり記憶に残っていない。
 
 「Pちゃまは少し、デリカシーに欠けるところがありますわね……」と言われてしまったあたり、相当だったらしい。
 
 でも正直、桃華の両親に会うたびにロクな目に遭っていないのだから、これについては勘弁してくれ……と思う。


 住処の問題が解決したら次はレッスンだ。
 桃華は歌やダンスにいくらか経験があったようで、乾いた土が水を吸うようにその実力を伸ばしていった。
 こういうのを見てると、やっぱり若いってのはいいもんだな……と思う。
 
 その一方で俺も、桃華の仕事を確保するために駆けずり回ることになった。
 桃華がやってくるまで昼行燈の無駄飯食らいだった身には堪えたが、桃華のためだと思えば不思議と辛くはなかった。
 
 桃華は最高の逸材だと、俺は確信していた。
 彼女を絶対に、トップアイドルまで導いてみせるのだと息巻いていた。
 
 そうして出会いから1月が経ち。
 時は12月。
 俺は、桃華のデビューをとあるアイドルのクリスマスライブの前座にねじ込むことに成功した。


 ……クリスマスに初ライブ、そしてデビュー。
 これ以上ない舞台だ。桃華の初仕事として、最高の仕事を持ち帰ることができたと、そう思った。
 桃華だって喜んでくれていた。
 レッスンにもこれまで以上に熱が入って、遅くまでずっと練習をして、二人で寮に帰る日々が続いた。
 それから本番まで、桃華は週末でも別宅の方には帰らなくなった。
 「初めてのステージだから、悔いのないようにしたい」って。
 
 そんな姿を見て。
 桃華は立派だと、みんな思っていた。


 師走の名前そのままに、12月はあっという間に過ぎていった。
 来る日も来る日も練習、練習、練習。
 一緒にレッスンをしていた他の子の目から見ても、その熱の入れ方は凄かったらしい。
 鬼気迫る、と言われたこともあった。
 
 そんな風に言われると、俺の方としてもちょっと心配になってくる。
 もともと桃華は、アイドルになることに憧れている子ではなかったわけで、そのモチベーションがどこからやってくるのかという点についても疑問が残る。
 
 俺が桃華にアイドルとして在ることを求めて、桃華はそれに応えてくれた。
 桃華は、俺にアイドルとしての桃華を与えてくれている。
 では、俺が桃華に与えることができるものとは何だ?
 
 わからない。
 だから、桃華に直接聞いてみたんだ。


 「……なぜ、アイドルになることを決めたのか。ですの?」
 
 さっきまでライブの振り付けを練習していた桃華の額から、やわらかそうな頬を伝って汗が流れ落ちる。
 
 「おかしなことを聞きますのね。それはもちろん、わたくしがPちゃまに、アイドルにならないか……と誘われたからですわ」
 
 不思議そうな顔をして桃華は言う。
 ……でもそれは違う。だってそれは俺の望みで、俺が桃華に願ったことだろう?
 
 「疑り深いですわね……本当ですのに」
 
 「Pちゃまがその目で、わたくしを見つけてくれたから。だからこそわたくしは、アイドルになろうと決めたのです」
 
 そう言って、桃華はレッスンに戻った。
 
 ……結局、よくわからなかった。
 はぐらかされたのだろうか。
 
 なぜ桃華は頑張り続けられるのか。
 その理由もついにわからないまま、クリスマスは来た。


 ライブが始まった。
 前座である桃華の出番は、ライブが始まってからかなり早い段階にある。
 
 新人アイドル櫻井桃華に与えられた割り当ては一曲分。時間にすると、およそ5分強。
 初めのマイクパフォーマンスは別だが、わずか300秒程度でしかない。
 
 けれどその300秒のためだけに、桃華はこの一ヶ月、ずっと頑張ってきた。
 努力は尊く、美しいものだと思う。
 それが必ずしも成功に結びつくものではないことなんて知っている。
 それでも。


 それでも、桃華には報われてほしい。
 俺は両のこぶしを固く握りしめていた。
 もう俺には、この舞台袖で祈ることしかできないのだから。
 
 5秒前。
 4、3、2、1。
 
 一瞬だけちらりこちらに視線を向けて、桃華は舞台へと飛び出していく。
 
 「みなさま、はじめまして! 櫻井桃華ですわ!」
 
 舞い落ちる雪のように、光の粒が降り注ぐステージ。
 その光を受けて、桃華はまばゆく輝いていた。



 そして――。
 
 ライブは無事、終わった。
 日は暮れて、夜もふけて。今はもうそろそろ深夜に差し掛かろうかという時間。
 事務所に戻った俺と桃華は、未だにその場から動けずにいた。
 
 「……Pちゃまー」
 
 まるで酒に酔ったような声を出す桃華。
 
 「おう、なんだぁー……」
 
 返す俺も、似たような声だった。
 
 「……終わりましたわねー」
 
 「おう、終わったなー……」
 
 二人ともパターン化していた。
 このままだと、いつまでも同じことを繰り返しそうだった。


 ライブは成功だった。
 桃華は立派に自分の役割をまっとうして、その後を引き継ぎ、ステージを降りた。
 文句なしの結果。
 俺にとって、最高のクリスマスプレゼントだったと、思う。
 
 「……聖夜が、終わってしまいますわー」
 
 そんな桃華の声に、時計を見る。
 時間は午後11時過ぎ。
 未成年の桃華を連れ回して良い時間では、決して無い。
 
 桃華を家に、帰さなければ。


 「おう……もう遅いから、帰るぞー」
 
 桃華の家へは、車でならおよそ10分程度。
 日が変わる前には着くだろう。
 ……いまさらその程度で、という気がしないでもないが、悪いのはこちらだ。
 少しでも早く帰すべきだ。
 
 「ねぇ、Pちゃま……」
 
 桃華の蕩けるような声が、脳を揺らす。
 
 「聖なる夜にお仕事だなんて……わたくし達、運がありませんわね?」
 
 ふわりとした口調。
 けれどその言葉に、どきりとする。


 だってそうだろう。
 運がない、聖夜の仕事。
 それは俺が取ってきた仕事なのだから。
 
 いまさらながらに、クリスマスというものが何なのかを思い出す。
 今の俺はクリスマスのことを、玩具会社やケーキ屋の書き入れ時だとか、そんな風にしか思っていなかった。
 自分が昔、クリスマスをどう思っていたか、忘れていた。
 
 ……桃華くらいの歳であれば、クリスマスというのは家族で過ごし、祝う日なのだ。
 
 最高の舞台を用意出来たとしか思っていなかった自分。桃華の立場なら……なんて、考えもしなかった。


 「その……ごめんな、桃華」
 
 そう言うしかない。
 
 「仕事がなければ今頃、家族水入らずでクリスマスだったよな……」
 
 謝ることしかできない。
 取り返しは、つかないのだから。


    ・・・
 「――いいえ」
 
 「それは違いますわ。Pちゃま」
 
 ぼんやりとしていた桃華の声が、急に冷たさを帯びた。
 
 「我が櫻井家では、家族揃ってクリスマスを祝ったことは、まだ一度もありません」

読んでくださった方、毎度毎度ありがとうございます。

今日はここまでになります。これでだいたい全体の1/4くらいを消化したくらい……だったら、いいなあ。
タイトル回収はいったいいつになるやら。

次回は桃華以外のレギュラーキャラが増える予定です。


 ぶつり、と。何かが千切れた音がした、気がする。
 繋ぎとめていた重しを失ったようにして、意識が浮かび上がる。
 夜から朝へ。
 闇から光へ。
 宙に解けていたばらばらな意識が、一塊になっていくような感覚。
 
 どこかでからん、と金属音が響く。少し遅れて足先に鈍い痛み。
 痛みに引っ張られるように、意識が末端まで行き届いていく。
 
 閉じていた目をゆっくりと開く。
 長い夢を見ていたような気だるさが、まぶたに重くのしかかっている。
 
 視界が徐々にはっきりとしてくる。
 世界に色と形が戻ってくる。
 
 「――あ」
 
 薄くぼやけたその視界、手元に持っていたはずのティアラは無い。
 足元で真っ二つに砕けたそれは、もはやティアラではない、ただの金属片だった。


 赤い絨毯が敷かれた床に、かつてティアラであったものが散らばっている。
 落とした拍子にどこかが欠けたといった風ではなく、中央から左右を二分する、いっそ潔いと言えるような壊れ方だった。
 
 (……床に落としただけで、こんな壊れ方を?)
 
 それも、硬質な床ではない柔らかな絨毯の上。
 明らかに普通では考えられない、おかしな壊れ方だという言葉が心に浮かぶ、が。
 
 「言い訳をしても仕方ありません」
 
 ……まずは、彼に謝らないと。


 彼の姿は探すまでもなかった。
 仮面の少年は今もカウンターに座って、私が来て以来、誰ひとりとして通らない玄関を見つめている。
 その微動だにしない姿に、悪いのは自分だとわかっていても、わずかに恨めしい思いがする。
 
 もし彼が他のところに居れば、と。
 少しくらい、気持ちに整理をつける時間をくれてもいいでしょうに。
 
 そんな風に思ってしまう。気後れしてしまう。
 
 先ほどまで見ていた『あの子』ならきっと、そんなことはないんだろうな、と。
 そう思ってしまう。


 ……一歩ずつ、彼に近づいていく。
 玄関ホールに敷かれた絨毯は、私の足音をすっかり消してしまう。
 
 一歩、また一歩。
 
 彼に気づかれてしまえばいいのにと、そう思う。
 そうして先に口火を切ってくれたら、どんなに楽だろうか。
 
 小さな背中の彼は、こちらを振り向かない。
 
 一歩、また一歩。小さな歩幅で。
 それでも歩き続けていれば、いずれ目的地に着いてしまう。


 声を、かけないと。
 
 立派な黒檀の椅子に腰かける、線の細い華奢な背中。
 
 (……自分のことボクって言ってるけど、女の子みたい)
 
 気が重いせいか、思考が変な方向に向かいそうになる。
 そうじゃなくて。
 
 「――あの、ちょっと、いいですか」


 間。
 
 返事を待つ時間が、普段よりずっと長く感じられる。
 天井の高い玄関ホールが、私の声を反響させて広がる。けれどそれもやがて消え、沈黙があたりに漂う。
 
 無音。耳鳴りのような感触で、音のない音が耳に刺さる。
 
 この静けさが、今はとても痛い。
 ……さらにしばらく沈黙が続いてから。
 
 「うん、どうしたのかな」
 
 たっぷりともったいつけたように溜めてから彼が言う。
 しかも向こうを向いたまま振り向かず、こちらを見ようともしない。
 
 もしも振り向いてくれたなら。
 私が抱えているものがどうなってしまったのか、話さずともわかるだろうに。
 


 「……ごめんなさい、その……このティアラ、壊してしまって」
 
 部屋の温度がぐっと下がったように感じる。
 後ろを向いた彼の頭がびくりと反応し、そしてまた固まる。
 表情をうかがい知ることのできない彼の背中から、緊迫した、険しい雰囲気が伝わってくる。
 
 椅子を横向きにして、彼が振り返る。
 
 「――いったい、何が、どうなったって?」
 
 一語一語を区切るように言う。
 その言葉には冷たいものと、同時にあきらかな熱気が含まれている。
 
 彼の仮面がいつにもまして無機質に、無表情に見える。
 けれど私には、その裏側の表情が見える。そんな確信めいた思いを抱いてしまう。
 


 当然だろう。
 このティアラにどれだけの価値があるのかは私にはわからないけれど、展示しているものを壊されていい気がするはずもない。
 
 「……それがどうやって壊れたのか、経緯を詳しく説明してくれるかな」
 
 経緯。
 説明。
 
 ……困った。
 実際のところ、わたしはこれがどうやって壊れたのか、その瞬間を見てはいないのだから。
 
 このティアラの夢を読んでいる最中に手の中から滑り落ち、床にぶつかって壊れた……と、思う。
 だからそう、床に落としたのだと伝えるしかない。
 それがたとえ、ガラス細工であっても無事に済みそうな絨毯の上でも。
 


 今はこちらを向いている彼は、その答えに怪訝な顔をした。
 ……仮面越しで表情は見えないけれど、きっとそう。なぜだか以前よりも、彼がどんなことを考えているのかがわかる気がする。
 
 「それは……どこの床かな」
 
 もちろん閲覧室の絨毯の上だと言うしかない。
 どれだけ信じがたくても事実はそう言っている。だからそう答える。
 
 ――あ、今度は考え込んだ。
 
 「他に……何か、なかったかな」
 
 他に?
 どういう意味だろう。
 
 「何か……と言われても」
 
 困ってしまう。
 わたしが気が付いたとき、これはすでに壊れていたのだから。
 
 「目を覚ましたときにはもう、壊れて――」
 


 「ええと、ちょっと待って」
 
 堅い声で制止される。
 
 「つまりこのティアラは、君がこれを読んでいる最中に壊れたということなのかな」
 
 「……だから君は壊れた瞬間を見ていない。歯切れが悪い理由はそういうこと?」
 
 察されてしまった……。
 
 「いえ、でも、だからといって言い訳をしようとか、そういうつもりでは……」
 
 彼が椅子からすっと立ち上がる。
 ぺたりぺたりと、スリッパの音をさせながらこちらへ歩いてくる。
 
 怒られる――?
 


 彼の顔が目の前に迫る。
 今の仮面はボブカットの女性のもの。よく見ると、左右の瞳の色が少し違う。
 向かって右目が青で、左が緑。
 
 ……あれ。
 わたし、この仮面について何か知っているような……。
 
 「ちょっと失礼」
 
 突然ひやりとした感触が走る。
 思索にふけりそうになっていたわたしの意識が、一瞬で水面上に飛び出す。
 
 「ひっ、ひやぁっ!?」
 
 小さくて冷たいものが頬に触れている。
 手。
 彼の手だ。
 
 さらにもう片方の手が反対側の頬に伸びる。
 


 細い腕に似合わない力で顔を挟まれる。
 ……首が動かせない。
 
 もとより動かそうにも、ヘビににらまれたカエルのようにわたしの身体は固く緊張していたのだけれど。
 
 仮面の奥の瞳が、その内側まで見通そうというように、わたしの目を射抜く。
 ひとつの嘘も見逃さない、というような。そんな雰囲気。
 
 「――夢を見ている最中に、壊れたんだね?」
 
 まただ。
 さっきとだいたい、同じ質問。
 
 早鐘を打っていた心臓が少し落ち着く。
 頬からも赤みが引いたのか、彼の手の冷たさも少し和らいだ。
 
 思うことはひとつ。
 
 ……なぜ、そんなことを何度も確かめようとするんだろう?
 


 とりあえず、この場はそうだと答える。他に言いようがあるわけでもない。
 
 「……じゃあ、どのあたりで目を覚ましたのかな」
 
 あの夢は、櫻井桃華という女の子のお話だった。
 彼女がプロデューサー、という人に出会って、アイドルになって、それから……。
 
 「初めてのライブ」
 
 その、後。
 
 言葉が文章にならないまま、口から滑り落ちる。
 
 「――あ、ええと、ライブというのは……」
 
 「大丈夫。内容はボクもだいたい知ってるから」
 
 「ライブが終わって、それから……」
 
 それから。
 事務所に帰って。プロデューサーと二人きりになって。
 
 わたしは家でクリスマスを祝ったことがないから、そんな家には帰りたくないって……。
 


 ……あれ。
 
 今、なんて考えた?
 
 家でクリスマスを祝ったことがない。違う。
 家に帰りたくない。違う。
 
 『わたしは』
 
 そうだ。
 わたし、って。そう考えた。
 
 ……あの夢の女の子は。
 櫻井桃華というアイドルの女の子は。
 
 わたし?
 


 思い返そうとしても、わたしの中にそんな記憶はない。
 いや、それどころの話ではない。
 
 記憶がない。
 思い出せることがない。
 
 この図書館に、いったいどこからやってきたのか?
 わからない。
 
 なぜこの図書館にいるのか?
 わからない。
 
 そもそも、『わたし』とは誰なのか?
 わからない。
 
 わからない、わからない、わからない。
 わたしは何も、知らない。
 


 頭をがつんとハンマーで殴られたような衝撃。
 あるいは、足元がいきなり崩れてしまって、真っ逆さまに落ちていくような。
 
 頭がくらくらする。
 足に力が入らない。
 膝ががくりと折れる。
 
 落ちる。
 沈んでいく。
 
 真っ暗でなにもない、奈落の底に落ちていく。
 


 「――しっかり!」
 
 はっと意識が帰ってくる。
 声が頭の上から聞こえる。いつの間にかわたしは座り込んでいた。
 
 頬を挟んでいた彼の手は、いつの間にか背中に。
 さっきまでは冷たく感じていた手が、今は温かく感じる。
 
 いや……。
 わたしのほうが、ずっと冷たくなってしまっているのか。
 


 「……だいたい事情はわかった。このティアラのことはもう気にしなくていい」
 
 今までとは全然違う、やわらかい、優しげな声。
 
 「だから、今はもう休むんだ」
 
 ばらばらになってしまいそうだった自分が、少しずつもとに戻る。
 
 この子。
 ちょっと意地悪なところもあるし、驚かせてくるようなこともあるけど。
 
 ……やっぱり、良い子かも。
 


 その後。
 わたしが落ち着くまで、それからさらに30分くらいの間。
 彼はずっと、わたしの背中を支えてくれていて。
 
 後は彼が言った通り、わたしがあのティアラのことについて何も問われることはなくて。
 そればかりか、休むための場所として彼の部屋を使わせてもらえることになって。
 
 彼の肩を借りて、半円形の玄関ホールの壁に沿って左右から降りている階段を登った。
 ホールを見渡せる吹き抜けの廊下を右へ曲がって、一番端の部屋へ。
 
 古風な作りの建物に見合った、洋風の大きな部屋。
 どこか安心感を覚えるその部屋の中。
 天蓋付きの大きなベッドに寝かされたわたしは、まもなく眠りに落ちたのでした。

 ――12月25日。俺と桃華の初めてのライブは無事に終わった。
 桃華が初めてわがままを言ったあの日。結局桃華は、東京の別宅には帰らなかった。
 ライブで疲れて眠ってしまったので、女子寮の桃華の部屋に寝かせたなどともっともらしい嘘をつき。
 俺たちは、誰もいなくなった事務所で二人、クリスマスを祝った。

 クリスマスと言うと、日本ではおおむね恋人たちの夜だと認識されている。
 どこにそんなに潜んでいたのかと言いたくなるほど、カップルがうじゃうじゃと湧いて出てくる日だ。
 
 しかし本来の、欧米でのクリスマスというのは、家族で過ごす日なのだ。
 
 家族が揃い、七面鳥やケーキを食べ、クリスマスを祝う。そんな風景。
 
 俺の家に七面鳥なんて洒落たものはなくチキンではあったが、確かに毎年そんな風にクリスマスを祝っていた記憶がある。
 それは当たり前のことなのだと思っていた。
 
 けれど桃華は、そんな当たり前なクリスマスの風景を、知らないと言った。

 そんなありふれた、当たり前のクリスマスを求めて。
 けれど手に入らなくて。
 ひとりぼっちのクリスマスが嫌で。
 目じりに涙をにじませているのに、それでも気丈に笑おうとする。
 
 そんな桃華をそのまま帰らせるなんてこと、俺にできるはずがなかった。

 だから俺たちは街にくり出した。
 着の身着のままで街に出た。
 スーツ姿の大男と小学生くらいの美少女という、通報されても不思議ではない組み合わせだった。
 
 だが幸いにも、街を行く人々は他人にかまけている暇などないということなのか、俺が捕まるようなことにはならなかった。
 
 電飾がこれでもかと地上を埋め尽くし、空の星の輝きを一つ残らず消し去る。
 そんな首都・東京のクリスマスの夜。
 
 時間が遅いせいか店はあらかた閉まっていたが、イルミネーションを見て歩く分には関係ない。
 
 言ってしまえばただの散歩。
 けれど年相応に目を輝かせてはしゃいでいる桃華を見ていると、そんなことは些細なことでしかなかった。
 
 近場を一通り見て回った後は、事務所の近くのコンビニで売れ残っているケーキを買った。
 1ホールを丸々買ってしまったので、二人では食べきれず結構残してしまった。
 残りは冷蔵庫に入れておいたのだが、翌日にはきれいさっぱりなくなっていた。誰が食べたのだろう。


 ともあれ。
 俺と桃華のクリスマスはそんな風にして終わった。
 
 余談だが、うかつにもプレゼントを用意していなかった俺は、次の舞台衣装に使うつもりで選んだティアラをプレゼントだと言って渡した。桃華はとても喜んでくれたので、その場は特に問題なく終わった。
 
 翌朝、昨日振り込まれたはずの給料を引き出そうとATMに並んだ俺は、ティアラの代金がきっちり天引きされていることを知る。
 
 ……いくらなんでも早すぎだろう、とか。いったいどうやって知ったのか、とか。突っ込みどころは色々あるんだが。
 
 そのとき俺が心の底から思ったのは「ちひろさんにだけは決して逆らうまい」という極めてシンプルなことだった。

 一区切りがついたあたりで、かちゃりと金属同士のこすれあう小さな音がした。ドアの方だ。
 
 人影はない。
 しかし浅く開いた扉の影から、眉を曇らせた顔が覗いているのが見える。
 
 ……ちひろさんだろうか?
 そう思いかけて即座に否定する。彼女にはこんな風にして、おそるおそる扉を開けなければならない理由はない。
 
 では誰か、と思いを巡らせたあたりで、相手の方から声をかけてきた。
 
 「……あの、Pさん」
 
 この声は……。

 この声はそう、ありすだ。
 
 ――橘ありす。12歳の小学6年生。7月31日生まれのしし座、血液型はA型。
 身長は142cmで体重は34kg。
 
 ……たまに思うが、うちの事務所のアイドル達は軽すぎるんじゃないだろうか。
 ちゃんと食事を摂ってるのか心配になってしまう。
 それがサバを読んでいるわけではないということをこの目で確かめたことがあるだけに。
 
 スリーサイズももちろん知っているし、趣味も知っている。
 あとはそう。出身が兵庫であること、とか。
 
 ……兵庫。桃華と同じ出身地。

 ぎぃ、と。
 静かな事務室に蝶番がこすれる音が響く。
 その金属音に切断されて、俺の思考は断ち切られる。
 
 「その……今日のレッスン、終わりました」
 
 言われて時計を見て初めて気が付く。日誌を読み始めてからずいぶんと時間が経っていた。
 ブラインドの隙間から差し込んでいた太陽は、気づけばもう真上に昇ってしまっている。
 
 レッスンか。
 
 トレーナーさんに追い出されるようになってしまってはいるが、せめて送り迎えくらいは……と思っていたはずなのに。
 だというのに、それも忘れて読みふけっていたらしい。
 情けない話だ。

 「あの……それ、なんですか?」
 
 気づけばありすが俺の隣まで近寄ってきていた。
 2メートルほどの距離。
 しかしその距離は、人が面と向かって話をするにはまだ少し、遠い。
 
 ありすはそこから踏み込んではこない。
 他の小さな子たちがするように、覗き込んできたりはしない。
 
 ……以前は、そうでもなかったはずなんだが。

 「これは……業務日誌だよ」
 
 さっきまで読んでいた、桃華との日々が頭をよぎる。
 桃華のことを考えていると、深い海の底に引きずり込まれるような、そんな気分になる。
 
 ……いけない。
 沈み込もうとする自分を吹き飛ばすように、努めて明るく振る舞う。
 
 少し遠くにいるありすへ向けて、俺は声を張った。
 
 「今日の仕事はこんなことがあった……とか、どこが良かったか、悪かったか……とか。そういうことがまとめてあるんだよ」
 
 「……それじゃあ、私のことも書いてあるんですか?」
 
 ありすが少し距離を詰める。
 
 ……自分のことが書かれているかもしれないとなれば、気にもなるか。

 「ああ、でもこれは……」
 
 「ちょっと古い奴だから、ありすのことはあんまり書かれてないかな」
 
 そう言った瞬間、少しずつ近づいてきていたありすがぴたりと止まる。
 
 「私が、ここにやってくる前……」
 
 「それってつまり、桃華さんについて書いてあるってこと、ですよね……」
 
 そう言うと、ありすは顔を伏せてしまう。
 
 ――ああ。
 この子にこんな顔をさせたくなんてないのに。
 
 一歩、二歩、ありすが後ずさる。
 もう少しで手が届きそうな距離にいたありすが、また離れていく。
 
 「……まだ、意識が戻っていないんですよね」

 そうだ。
 桃華はずっと眠っている。
 桃華が倒れてしまった、あの日からずっと眠っている。
 
 身体に外傷はないのだと医者は言っていた。
 脳や神経に異常があるわけでもないと言っていた。
 何かの病気に罹ったわけでもないのだとも言っていた。
 
 どこにもおかしなところはないはずなのに。
 いつまでたっても、桃華は目を覚まさなかった。
 
 まるで、桃華ただ一人だけ、時間が止まってしまったみたいに。
 まるで、毒リンゴを食べてしまった白雪姫みたいに。
 
 桃華は眠り続けている。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
 なぜ桃華がこんな目に遭わなければならなかったのだろうか。
 
 こうならないためには、どうすればよかったのだろうか。
 
 思い返せば、何もできないなんてことはなかったはずだと思う。
 
 いや。
 何もしなかったからこそこうなったのだと、そう糾弾する声が脳裏に響く。

 あの頃、俺は桃華に対して、ほとんど何もしていなかった。
 
 桃華もすっかりアイドルとしての仕事に慣れてきていて、一人でも大丈夫そうだったから……とか。
 アイドルになったばかりで、性格的にも気難しいところがあるありすの方に付いていたかったから……とか。
 
 何よりも。
 いつも穏やかに、優雅に微笑んでいる桃華の姿に、心配するようなことはないと安心しきっていたから。

 ……違うだろ!
 
 桃華は悲しい時でも気丈に振る舞う子だと。
 つらい時でも笑っていられる子だと。
 
 あのクリスマスの日に知ったはずじゃなかったのか。
 わかっていたはずじゃなかったのか。
 
 それなのに、見過ごしてしまった。

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