海未「サナギシェルター」 (46)


 監視カメラなどではなかった、
 あの赤い光はただの月だ。

 いまは厚い雲に覆われているあの鋭い光も、
 実際にはただの月影なのだった。

 恐れることはない。
 目を焼かれることもない。
 いずれにせよ、そらすべきではなかった。

 この冷たい雨も、夜更けには引いてしまうのだから。


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 遠くに降り続く雨音を言い訳に、
 身体に馴染んだ掛け布団のなかでまどろんでいた。
 明日のことさえ忘れるほど、その部屋は時が止まってみえた。

 私の背中に絡ませた腕と、
 胸元のいとしい重みと湿った寝息とが布越しに肌を暖めるせいか、
 触れない方の腕はやけに冷たい。

 それでも、布団の外へ伸ばした腕を仕舞うのはためらわれた。
 ことりの背中に、少しでも冷やしたくはなかった。


 クローゼットの一角を私の部屋着が占めることに、
 ことりのお母さんですら、
 不思議に思わなくなって久しい。

「わたしたち、そういうものだから」。
 誰かに手の繋ぎ方などを訊かれると、ことりがいつもそう答えた。

 もう友達とは呼べないやり取りの、
 密かな呼び方はうまく隠したまま、
 ことりは机の下で繋いだ手と私のことを近づけていく。

 私は幼き日と変わらず臆病で、
 スカートのひだに指を当てるくらいしかできないまま、
 指を掴まえてもらってかろうじて肌に触れられる程度だった。


 雨音にまぎれて階下で甲高い笑い声が聞こえる。

 ことりのお母さんはもう帰っていたらしい。
 昔なじみの同級生と語らう時の、少し子供じみた話し方。
 相手はおそらく私の母上だろう。
 泊まりの言付けを入れた際に、再び掛け直すと聞いていた。

 言葉までは聞き取れないものの、
 砕けた雰囲気が閉めたドアの隙間にも染みるようで、

 私は思わず掛け布団を引いて二人分の身を隠してしまう。
 狭い布団の中では、自分の息と胸の音がやけに耳障りだった。

 無理に潜り込んだせいで、ことりがか細い声を洩らす。
 醒めきらない生乾きの息のにおいが唇の肌触りまで思わせる。

「あは……うみちゃんだぁ」

 花弁が静かに開くような、無防備な微笑み。
 私はそれすら覆い隠そうと、
 腕の中に引き寄せるも、その先にことりの居場所を見つけられずにいた。

 身をよじらせて少しずれた布団の隙間、窓の桟が明るい。


 うみちゃん、まだいたぁ。 ことりが甘えてくれる。
 そうです、海未はここにいますよ。

 汗のにじんだ布団の奥で、
 寝乱れた髪の毛に沿って付け根の肌へと指を滑らせる。

 肋骨の辺りにくすぐったそうな息がこぼれ落ちて、
 誰にも聞かせたことのない含み笑いが小さく鳴る。

 伸ばした脚の隙間を埋めるように、ことりが両脚を絡ませて擦り寄せる。

 もう、たまらないほどなのに、
 薄れていく雲間では白んだ明かりが透け始めていて、
 私は寝返りを打って無理やり身体を部屋に向ける。

 つぶれたことりが腕の中で音を立てる。


 携帯電話の赤いランプが点滅して、充電完了を告げていた。

 あと一時間か少しすれば、日付も変わってしまう。


「海未ちゃん。お風呂、はいろ?」

 布団から冷たい外気に顔だけ見せたことりが、私にそう言った。
 目元の腫れはいつの間にか引いている。
 でも、網膜はまだ赤いままのようだ。

 そうですね、と私が応える。

 うなづけば頭が当たってしまうほど近すぎて、
 後ろの赤い光から目をそらすこともできない。


 寝間着を抱えて部屋の電気をもう一度消して、二人で階段を下りていく。

 階段の照明は点けなかった。
 前を行くことりの揺れる後ろ髪や
 小さな息や熱の感じが、夜にはとても近くに感じる。

 その短かな距離が
 真夏に浴びた水しぶきのように胸の奥を跳ねさせるのに、
 光にあたればすぐにでも蒸発してしまいそうで、なぜか怖かった。

 それでも、抱えた荷物が手を繋ぐのをゆるさない。

 ことりは行ってしまう。


 廊下の突き当たりではリビングの明るさが染み出している。
 わずかに開いたドアの隙間から、ことりのおばさまの声が聞こえる。
 校内では見せない、
 けらけらと明るい笑い声がときどき挟まる。


 小さい頃から、私たちの母はみな長電話が趣味だった。
 三人でこっそり遠出した夜、
 穂乃果と夜遅くまで逆上がりの練習をした夜、
 ことりの落とした家のカギを陽の沈むまで探した日の夜、
 家に着くと母はすべてを見通していた。

 その頃の私たちには秘密など要らなかった。
 私たちの外側で、母の大きな両腕が三人で手を繋いで、囲われている。
 そんな画が何度も頭に浮かぶ。

 影ひとつ作れないその場所は、かつてはきっと楽園だった。

 すべてを知る穂乃果は今でも、
 その温かい場所で光に照らされているのに。

 本当はことりだって、その場で照らされていられたというのに。


 海未ちゃん、
 とリビングから聞こえて息が詰まる。

 私を呼んだのではなく、会話のうちにこぼれた言葉だ。
 それなのに、
 私の手がぴくんと波打って手すりを強く握りしめてしまう。
 階段の手すりは冷たい。
 その冷たさに跳ね返ってくる自分の手の汗は、
 自覚すればたまらなく不快なものだった。
 息が詰まる。

「海未ちゃん、どうしたの?」


 止まってしまった私にことりが呼びかけた。

 反射的に作った笑顔は
 おそらくひどく不格好なもので、
 向こうのことりの含み笑いを誘ったらしい。
 リビングから漏れ出た光に、ことりの静かな微笑みが照らされてしまう。

 その美しくゆがんだ頬は、
 数時間前の雨に濡れた泣き顔とひどく重なってみえた。


 冷たい雨が降り始めた頃だった。
 帰りたくない、帰らないで、とことりがせがんだ。

 音を立てて通学路や世界を濡らす雨は髪の毛や首回りや制服のシャツまで濡らし、
 身体から体温や皮膚感覚を奪っていった。
 背中に重なっては手の甲を掴んで離さない熱の感触だけがそこにあった。
 ことりと接している部分だけが生きている気がした。

 数十メートル先の国道交差点で遅延したバスが左折してこの道に近づく。
 濁った雲に覆われた狭い視界を
 ヘッドライトの強すぎる光が突き刺し
 私の目を射ち抜いたとき 思わず振り向いてしまう。
 自らに課した言いつけや戒めを忘れて、ことりの方へと振り向いてしまう。

 おのれの過ちで命を取り落とすロトの妻のように、
 愛する人を永劫に失う詩人オルフェウスのように。


 さながら捨て子の泣き顔だった。
 光を被けたことりの目は涙に汚され、腫れた目尻を赤くゆがめていた。
 唇はもう言葉を形作ることもできず小さく開いたまま、
 頬にはあの透き通る髪の幾筋かが濡れて張り付いたまま、
 時折しゃくり上げては喘ぎに似た鼻声を洩らし、ただ私のことだけを待っていた。

 その顔はあまりに幼く、迷子どころか、
 堕ろされる間近の胎児を思わせた。


 唇の血の気も薄れ、水に混じる夜風に肌がぴくんと震える。
 腕の震え骨を伝って心臓の壁を鋭く刺す。
 雨よりもつめたかった。

 過ぎゆくバスが闇を残して去ったとき、私はその唇とことり自身を引き寄せた。
 もう、そうするほかになかった。
 私たちは塩の柱のように身体をこわばらせ、
 身動きひとつ取れないまま、なけなしの体温を雨に溶かしていった。


「えいっ」
 不意に指先が頬へと押し付けられる。
 廊下の向こうから戻ってきたことりだった。

「海未ちゃん、ほんとに大丈夫? ぼーっとしてたよ?」
 目の前のことりがいう。

 心配など本当は向こうの明るみに置いてきたような、無邪気におどけた声。
 薄闇越しでも、
 小首をかしげたことりの目が細められるのが分かる。
 頬をつついた人差し指が、やさしく顔の輪郭をなぞっていく。

「えへへ。海未ちゃん、きれいな形してるね」
「どういう意味なんですか……」

 頬から離そうと、ことりの指を手に取る。
 暖かかった。

 ――海未ちゃん、やだよ。一人でいっちゃうの。

 一瞬、くちづけのように顔を耳元まで寄せるとささやいた。


 それからすぐに声が頭の中でぐるぐると反響し続ける。
 洗面所のオレンジの照明にさらされた頃にまで、何度も、何度も。


 作詞の進度を尋ねられたのは、
 ことりが私の背中を流し始めた時だった。

 曇りガラスを雨粒が叩く音もいつしか弱まり、
 ボディソープの泡立つ音に紛れてしまうほどだった。

「まあ、……ぼちぼちですね」

「そっかぁ、進んでないんだね」
 はっきり言わないでください、
 と口にした声がなんだか沈みすぎていて、後ろでも失笑が聞こえる。

「……水曜の終わりまでにどうにかしますよ」

 なるといいねぇ、
 なんて他人事みたいな言い方だ。
 そうですね、
 と投げやりに返す自分も他人事のようで、楽しくなった。

 浮ついた言葉がシャボンの泡みたいに浴室の空気へ立ち昇っては、消える。
 たわいない話を続けながら、
 ことりの手で身体を洗ってもらっているだけで、
 園田海未が一枚ずつ剥がれていくようだ。

 ひどく心許なくて、
 ことりの胸に背中をゆだねてしまうのも、きっと仕方のないことなのだ。


「海未ちゃんはさ、」
 手を止めて尋ねる。

「いつも、どうやって詞を作ってきたの?」

 背中から腰の方へ伸びて、骨の形をなぞるように洗い流していく。

 身から出るものをことりに始末させているようで、
 これまでも何度か止めようとしたけれど、
 私の身体を洗うのだけはやめなかった。


「ねえ、海未ちゃん聞いてる? 今日ひどいよ」
「すみません。……聞いてますって」

 穂乃果ちゃんみたいだね、と低めた声。


「作詞の方法なんて、私にも分かりません。もっとうまい人がいますよ」

 でも、わたしたちは海未ちゃんの詞じゃないとダメなんだよ。

「……あなただって、以前書いてたでしょう。それと、同じですよ」

 違うよ、と言った手が離れる。
 自分の身体の一部が引き抜かれた気がしたけれど、それはことりの手なのだった。

「……よくないですね。こういうのは」
「よくないって、なに? こうゆうのってどうゆうの?」

 知りません。
 風呂場の蒸し暑さに閉じこめられたみたいで、のぼせ方がなんだか息苦しい。


「じゃあ海未ちゃん、ことりも洗ってよ」

「はいはい。髪は洗ってましたから、」

「背中だけじゃなくって、今日は全部です」

「……勘弁してください」

 振り向いた、腕の付け根まで白く汚したことりが私を強い目で見ている。
 視線を下げるとことりの胸元や水滴の滑り落ちる脚などに目移りして、
 私は浴槽の縁ばかり見つめてしまう。

 金属製の持ち手に自分の顔が歪んだ形で映っていて、
 今の自分自身にぴったりはまるようだ。

 するとことりが私の頬を両手でつまむ。

「あに、すうんでふか」
「……にっこにっこ、にー」

 真顔だった。

「それは、ちょっと、違いませんか?」

 うるさい、海未ちゃんのばか。早くことりのこと洗ってよ。
 ことりは私の腕をぐいと引っ張り、イスから無理に立たせると、ぽすんと着席する。
 最近ことりは私と居るとすぐこんな顔をする。
 こうなったらこの子はいうことを聞かない。


 私はため息を魂が抜け落ちるほど長く吐いてから、ボディソープを手に取った。

 フランス語のラベルに描かれた
 貝殻の中のヴィーナスがやけに挑発的な笑みを見せている。
 視界の隅でことりが爪先を浮かせて脚を伸ばす。
 腕も張り上げながら息をもらす身体の重心を崩さぬうちに、ようやく事をはじめる。


 ことりの肌はやわらかな明かりを被けて、
 みずから淡い光を放っているように見えた。

 体温の発する光は、月明かりより壊れやすく、
 私はいつだって手を伸ばすのをためらってしまう。

 すでに編み込まれた髪の毛から、
 滴がしたたり落ちては背中をつつと流れてゆく。
 この子の肌に触れる度に、吸いつくような柔らかさにくらくらする。

 その感触は、私のかたい皮膚とはまるで違うものなのだ。


 肩胛骨のくぼみが造るわずかな影をなぞって、
 ことりの形を崩さぬように
 指を動かしていく。
 手のひらを広げて、背筋に白い泡を広げていく。

 ことりは何も言わず、
 ときに小さな吐息をもらすばかりで、
 私の立てる泡の音だけがひたすら聞こえていた。


 腰骨の辺りに指を伸ばす頃には、
 もう雨音も細すぎて耳には遠くなっていた。


 もう一度肩に手を添えて、右腕からすくい取ってゆく。
 か細いながらも薄く肉の付いた腕に泡を通してゆく。
 少し力を込めても受け入れてしまう柔肌は、
 ほとんど髪の毛を梳くのと変わらないほど指を滑らせていく。

 私はことりの右隣にしゃがみ込んで、その腕の果てを握りなおした。


 この手が、ことりの思い描く衣装を形にしてきたのだ。
 この手が、私の頬に指を添えて接吻を求めるのだ。

 人差し指、中指、薬指。
 一本ずつ、爪の先から付け根まで、
 くちづけほどのやさしさで洗い流してゆく。


 この子の指が触れるものすべてが清らかであれと、
 叶いもしないことを思い描いてしまう。


 ことりはいま、何を見ているのだろう。

 ちらと見えた顔は目を閉じたまま、
 フェルメールが描いた女性たちのように、安らかな表情をしている。

 眠そうにうつむいた影が
 懐かしい毛布のように顔を覆えば、
 ひとときでも朝の明るさを忘れられるだろうか。

 私は風呂場に広がるタイルの線に目を移しつつ、ことりの左脚を洗ってゆく。
 ことりの泡が落ちた所から
 タイルの線があみだくじのように伸びて、行き着く果ては排水溝だった。

「海未ちゃん」
 小さく声が降り注いだ。

「今度、どっか行こうね」
 そうですね、と答えて足首を両手で洗う。

 少し浮かせると、爪先が恥ずかしげに少し丸まっていく。
 縮こまる指を追いかけながら、
 朝顔がしぼむ時のようだと少しわらってしまうと、

 ことりが不機嫌そうに足を引っ込めたりした。


 では、あとはどうぞ、と手を引くのを今日のことりは許してくれない。

「海未ちゃん。こっちも」

 ……さっきあんなことがあったというのに、忘れたようにうきうきしている。

「前だけでいいですね?」

「うん。
 ……いや、さすがに、そこはうん、自分でします」

 途中で声がこもっていく。
 しおれる花のような顔は、見なくても目に浮かぶ。
 少しはことりも、私の気持ちが分かっただろうか。

 ……ところで、私はいつから、
 ことりにそんな顔をさせてよろこぶようになってしまったのだろう。


 見上げると、覚悟を決めたのか、
 ことりは目をつむったまま少し上半身をそらしてみせているようだった。

 両腕はだらりと下がったまま、膝だけ寄せた脚もその先は広げたまま。
 あの子はまっさらな表情で、
 頬を淡い熱に染めたまま、唇が重なるのを待っているようにも見えた。

 顔を背けたくなるほど堂々とした姿勢は、あのヴィーナスと重なって映る。
 すると女神様は気分を害されたのか、
 眉間に皺が刻まれる。

「ねー、海未ちゃんまだぁ?」

 ことりだってはずかしいんだよ、なんて唇をとがらせる。
 あの子はきっと、私の胸の鼓動なんて聞こえもしていない。


 顔をわざと近づけてみた。


 鼻がぶつかりそうなほど、
 唇や肌から立ち上るかすかな熱気すら感じる場所まで。
 閉じられた瞼にさらに力がこもって、睫毛の一本にまで緊張が伝わる。
 前髪から落ちた水滴が涙のように頬を伝っていく。

 ……少しくらいは、
 私の心音も聴こえただろうかすっと顔を離して、また首もとから洗い始めた。


 しないの? ――ことりが言う。

 わかりませんか。 ことりは応えない。


 静脈に沿うように首筋をなぞる滴が、
 こわばった肩から肩胛骨の窪みに流れ込む。

 なめらかな骨の線が形づくる秘密の杯から、
 溢れた滴が柔らかな肌をまた滑り降りてゆく。

 私は杯の方へ手を伸ばし、ことりの形をなぞっては泡を広げてゆく。
 肩の後ろに塗りつけた石鹸の泡は
 畳まれた羽根のようで、
 柔らかな羽根はそっと腰元に絡まるようにして足首へと流れてゆく。

 骨の杯に指を挿し入れると、
 熱い息にまみれて、とろけた声が唇から漏れだした。


 思わず身体ごと指を引っ込めてしまう。
 そらした目線の奥で、泡にまみれた姿が映り込む。

 ……やだ、うみちゃん、どこ。


 指を離した途端にことりが呼んだ。
 目を閉じたまま私に手を伸ばそうとして空を切っている。

 半ばに泡をまとったあの子は毛を刈られかけた仔羊のようで、
 私に触れることなく垂れ下がる腕の軽さも相まって、
 あまりにも無防備な姿だった。

 目の前で浴室の白んだ光にさらされるあの子と、
 雨の中で見せた涙とが重なっていく。


「……ことり」

 気づくと私は両腕でその肩を抱きしめていた。
 できればその顔を見ないままに、私の胸元へ隠してしまいたかった。


 やだなあ、これはじょうだんです。
 喉が震えていた。
 ことりはもっと、隠し事が上手だったはずなのに。

 わたしたちって、なんなんだろうね。
 海未ちゃんが、こんなに近いのに、すぐ遠くなっちゃうの。

「……海未は、ここにいます」

 押しつぶすほど、
 おのれの身体にことりを取り込んでしまいそうなくらい、腕に力を込めた。
 痕になるなんて恐れもその一瞬は忘れていた。
 柔らかな胸が二人のなかで押しつぶされる。

 身体中に塗り広げた泡で滑って離れてしまわぬように、
 この子を取り落とさぬように、さらに力を込める。
 その吐息をうなじで受け止める。

 血流がどくんどくんと音を立てて流れ出すのを、
 速まる脈動を、肌で直接感じていた。
 心臓ひとつを二人で分け合う、いびつなひとつの生き物だった。


 私の腰に、ことりの指が触れる。声を洩らしてしまう。

 伸びた腕が私の背中を強く引き寄せる。

 そうだね、ここにいるね。

 はい。
 ちゃんといるでしょう。

 ことりの手がゆるむ。

 私の腕からも力が取れる。

 海未ちゃん。

 はい。

 ……すきだよ。


 体冷えちゃうね、とことりが言う頃にも、
 私はまだことりと繋がっているようで、生まれたばかりのようにぼんやりしていた。

 すると急に頭の上から暖かい水流が降り出す。
 息が止まり掛かった。

「きゃ!? ちょっ、なんですか!」 「あははっ!」

 シャワーヘッドを握ったことりが立ち上がってこちらに思い切りシャワーを浴びせる。

「ああもう、お風呂で暴れないでくださいっ!」
「やあっ、シャワーかえしてっ!――やんっ目に入ったぁ」
「そっちが先にやってきたんでしょう……もうっ自分でやりますから!」
「やだっかえして……いだっ!?」「っつ!?」
 絡まったまま床に転がり落ちた。

 鋭い痛みが広がる横でことりのうめき声も聞こえる。
 床で逆さになったシャワーヘッドが
 浴室の照明に向かって勢いよく噴きだしたままだ。
 近所の公園の噴水を思い出したとたん、ちょっとこらえきれなくなった。

「ぷふっ……あはっ、あははっ」
「なに笑ってるのぉ……あはっ、ことり、たすけてよ、くふっ、」
「自分だって、っふ、わらって、」 もうめちゃくちゃだった。
 私もことりも、本当に手に負えなかった。


「うみちゃ、シャワー、なんとかして、ぷふっ、鼻にはいる」
「あはっ、すみません、」
 手探りで蛇口を締めた。
 いろいろな後遺症がまだ続いている。
 起きあがる気力も出ないまま、遠くの照明が馬鹿な私たちを照らしていた。

 ……天井、こんなに高かったでしょうか。

 小学生みたいだね、とことりが言った。
 それ以下でしょう、私が言う。
 そうだね、もっと昔みたいだね。

 床から見上げる天井はあまりに高くて、
 本当に自分たちが幼く縮んだようだった。


「よく、三人でお風呂に入りましたよね」

 口から滑り出た言葉が、次第に私を苛んでいく。
 過ちだった。
 ことりもきっと、三人目を思い出していただろうに。


「……海未ちゃん。ちゅうして」
 動けない私の腕を引く。

 床にはしたなく身体をもたげたまま、
 私はごろりと声の方へ身を寄せ、組み伏せるようにして唇を重ねなおした。
 私の頭で影になっても、目を閉じることりはひどく美しかった。
 鼻息にまぎれて湿った夜の声が漏れ出すと、どうしていいか分からなくなる。
 絡まる舌の肉と唾が立てる音の遠くで、
 雨音が鳴り止んでいることには気づかない振りをした。

 息をするために口を離すと、ぱっと目を開いた。

「海未ちゃん、ありがと」
 私の涎に汚された唇も、ことりの笑顔の一部だった。

「身体、冷えるでしょう。お風呂に浸かりましょう」

 そうだね、と今度はすんなり応じた。


 ざぶざぶとあふれる水流の音が引くまで、私たちは何も言わなかった。

 向かい合った反対側で、ことりが静かに見つめている。
 その後ろの窓からは、曇りガラスごしにも分かるほど月の光が滲んでいた。
 あの雨雲は気づかぬうちに過ぎてしまったらしい。
 明日はきっと、日本晴れだろう。

 ことりが水の中で伸ばす右手を掴まえながら、月の光から目を離せずにいた。
 明日はきっと、もう、こんなことは。

「……あの、あなたはどうなのですか?」

 え、なにが、とことり。
 気を遠ざけたくて無理に口にしたけれど、自分でもなんだか分からない。


「その、……ええと、衣装づくりですよ。デザインとか、どうやって考えてるのかなと」

 ああ、と合点がいったことりはぱっと顔を明るめ、それから口元に指を当てて考え込む。

「どうなのかなぁ……
 うんとね、着てくれる人のことを、作ってあげたいその人のことを考えるの。

 そしたら、海未ちゃんならこうかなあって」 「私ですか」

 だって、真っ先にそう思ったんだもん。
 そう、屈託なく付け加えた。


 ぱちゃりと水面から反対の手が伸びて、濡れた指が私の頬をなぞる。
 そのまま耳たぶをつまんでみたり、あごをくすぐってみたり。

「っ、またですか」「ほんっときれいだよねぇ」

 鼻をつまもうとして、さすがに自由な方の手で払いのける。

「ひどい。採寸できないよ」
 顔の採寸なんて必要ないでしょう、さすがに。

「ちがうの。
 海未ちゃんの、心のかたちが知りたいの。
 体と心の形が分からないと、その人に合う作品にはならないの」


 そのまま顔をいいようにされながら、歌詞の書き方を捉えなおしていた。
 窓の方を見ようにも、首や頬に動く指先が邪魔してうまくいかない。
 目を閉じた方がずっと楽だった。

 ついペンを持ちたくなって手を動かそうとしたら、
 何かの合図と勘違いしたことりが代わりに握り返してくれる。
 瞼を閉じても部屋の明かりは感じられた。
 水の中では、手と手が会話をしていた。


「……たぶん、手が書くのです」

 ぱっと見開くと、ことりは手を止めて、不思議そうに私の言葉を待っていた。


「その、私の歌詞の話です。
 うまく言えませんが、きっと私の心が考えて、手が書いているんです」

 私の奥深くの、自分でも分からない場所の声を、手が聞き取っている。
 そして、手がそれを代弁している。

「そんな感覚、ことりはありませんか?」

 ぼんやりと聞いていた、その右手が握り返す。
 それから私を離して、私の左胸、心臓の辺りにその手を載せた。


 ――ここに、海未ちゃんのこころがあるの?

 ことりはそのまま目を閉じて、私の心拍を聞いていた。
 載せられた手に何かを伝えようと、私の心拍が大きくなる。
 私も目を閉じた。
 触れられた部分から自分が溶けていく。
 自分がなくなっていく。

 小さい頃にくるまったタオルケットのようで、
 心音に合わせて一歩ずつ自分を溶かしていくのが心地よかった。


 そっかぁ、海未ちゃんはここにいたんだね。


 瞼の闇の向こう側で、ぽつりぽつりと聞こえる。

 わたし、怖かったの。
 海未ちゃんがそこにいるのに、いないみたいで。
 近づけば近づくほど、海未ちゃんが遠くなるみたいで。

 うみちゃんはやさしいのに、ことりに遠くて。
 さわってくれないし、キスしたって海未ちゃんは遠いし、
 海未ちゃんの形がわからないし、こんなこと、誰にもいえない。

 お母さんにも言えないこと、
 どんどんふくらんでいって、ずっと海未ちゃんがいなくて、
 わかるかなぁ、
 海未ちゃんのかたちが、見えなくなってきちゃって。

 ねえ、うみちゃん、ことり、こんな形してるよ。
 ことりの形、海未ちゃん、わかる?


 目は開けなかった。
 ことりが私に触れているうちは、目を開けなくても大丈夫だった。
 瞼を閉じてもそこに淡い一人分の熱があって、心臓が動いていて、手で繋がっている。

 つっかえた声が、指にこもる力が、ことりの顔色を伝えている。
 胸の奥から湯船に私が溶けだしていく。

 ことり、ことりに会いたいです。

 うん。
 おいで。
 待ってたよ。


 ことりの心拍に触れた。
 まっさらになって、指先の振動を感じてわずかな声を聞いた。
 やっと、やっときてくれたぁ! 触れた場所からことりが溶けだしていく。

 瞼一枚分の闇の中で、まっさらになれた。
 互いにもう一方の腕で近づく。

 薄明かりに照らされた弱い熱気は光の雨みたいで、
 目を開けても夢が続きそうな気がして、
 狭い浴槽のなかで肌を重ね合わせながら、私はことりの形を確かめた。


 蒸気と交じった眩しさが、今は身体に心地いい。
 私の手は、身体は、ことりの形をはっきりと覚えている。
 窓の外はまた少し雲が掛かっていて、誰にも見られなかった。


 あした、まずは穂乃果と話してみましょうか。
 今までのこと、これからのこと。
 窓の外の闇ばかり眺めながら、私が言った。

 ことりの手に力がこもって、それに答えた。
 あした、晴れたらいいね。
 私はうなづく代わりに、この手をきゅっと握りしめた。


 すべては水の中、まだ誰にも見えない所。
 そこで二人は繋がっていられる。
 でも、さすがに風呂のお湯が冷めてしまう。
 もう一度目を閉じて開ける頃には日付だって変わるだろう。


 私はことりを求めた。
 いつか陽の光に乾いた二人分の羽根が、
 暖かい場所へと連れ出してくれる日を祈った。

 月影が目をそらしているうちに、
 浴室の淡い光を受けながら、私たちは今日最後のくちづけを交わす。


おわり。

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