信 桃太郎 第二章 (68)

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1423871786/

[オリジナル]The Five Elements ~New Contract Peach Warrior~

の続編となります。需要なしでも書いてみました。
そしてタイトルが長くて失敗したので変えてみました。
ストーリーは一章を見ていただければ分かるかと思います。

※オリジナル、厨二、黒歴史的
そして長いです。物凄く長いですすみません。これもう(SSかどうか)わかんねえな。
センバツもやってたし野球回にしてみました。

それではまったりと投下します。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1427918713

「――鬼退治、完了」

 闇を切り払い、時間は再び動き出す。
 青白い炎で己を燃やし、そして消滅する怪物。

「あれ? ここは…… 私は――」
「大丈夫ですか?」
「あ、はい…… すみません」

 何が起こったのか。
 顔に疑問の色を貼り付けたまま男は立ち去っていく。

「はあ、なんとか片付いた」
「大丈夫? 和間くん」

 星天市、五行町。
 地方都市の郊外…… 海と山、豊かな自然に囲まれた田舎町。

 そんな田舎町の中心部。人が集まる唯一の場所。
 一方では伝統的な家屋が一本道に軒を連ね、それらは商店街となっていて賑わいを見せている。また一方では駅を中心にポツリポツリとチェーンストアが立ち並ぶ。
 そしてそのような中心部を突っ切ると住宅地へ様相は変わり、更にそこも突っ切って。
 
 中心部を突っ切り住宅地も抜けて…… 町外れにある、寂れた河川敷の公園で。

「和間くん、ご苦労様」
「ありがとうございます、おじさん」

 全てが終わり、俺たちを迎えてくれる老齢の紳士。
 格式が高そうなワイシャツとネクタイ、その上にベストを着込み、下はスーツパンツ。
 そんな紳士の傍ら、公園の外に止まるのは一台の大型SUV。
 運転席のドアには「Laboratory Of Supernatural」の文字。

 春は通り過ぎ、気付けば夏へと季節は移ろう。
 あっという間に過ぎる時間。
 春と夏の間…… 暦は6月に入ろうとしていた。

 日照時間は次第に延びて、夕方は6時。
 綺麗な夕焼け。
 日中とは違い心地よい気温。
 流れる川のせせらぎ。川を横切る鉄道の高架線。その彼方に沈み行く太陽。

 まもなく梅雨がやって来て、それが終われば本格的に暑い季節がやって来る。
 少し早いかもしれないけど、夏がやって来るのが感じられる。そんな匂いがした。

「和間くん、どうしたの?」
「いや、なんでもない大丈夫」
「かえろ?」
「うん」

 季節の移ろいを感じると、この風景も相まってどこか感傷的な気分になる。
 俺の地元とはまた違う風景。
 地球は広い。
 そんな風にも感じる。
 そしてこの都市、この町も広かった。
 幾つかの地区、町、村などから形成される星天市。
 その中でも五行町の面積は比較的広いようであった。

 ぼーっとした俺の手を引く彼女。
 そよ風が運んでくる彼女の匂い。流れる漆黒の長い髪。
 綺麗な白い手は温かく、それは俺の手を遠慮がちに握って黒塗りの車へ誘う。

 振り向きざま、彼女の双眸は宝石のように鮮やかなブルーだった。

 戦いの後、とても平和な時間だった――


「暑い――」

 6月。
 昼休み、教室棟の屋上。
 かんかんと照りつける太陽、少し汗ばんだ開襟シャツ。

「――あちー」

 学園生活、いつもの昼休み。
 昼食は屋上で。
 いつの間にかそれが慣習化してしまった。

「だから昼飯はもう教室で食おうよ朱彦」
「えぇー、秘密基地を放棄するのかよ?」
「いや、暑いって言ったの朱彦じゃん」
「まだ大丈夫! 暑くない! なあ、木ノ下さん――」
「え? うん…… 屋上の方が風通しいいから快適だよね!」
「千春、こいつに無理矢理合わせなくていいんだぞ?」

 コンクリートの上にどこから調達して来たのか友人の朱彦がブルーシートを広げて、その上で適当にくつろぎ、昼食をとりながら談笑に耽る俺たち。
 俺が偶然見つけた屋上扉の鍵。
 そして「秘密基地にしようぜ」という朱彦の提案でいつの間にかこの場所は俺たちの昼食スポットとなってしまった。

 ふと空を見上げる。
 眩しい太陽。
 目を細め、高い空に浮かぶ雲へと視線を注ぐ。

――俺は俺の道を行く。

 そうできているだろうか―― 父さん。

 高い空に父さんの面影が浮かんだ気がした。

 目まぐるしく過ぎていく日々。
 その中でふと、今までの記憶が蘇る。

――この世には摩訶不思議な現象が存在する。

 人々はそれらを超常現象、超自然現象、怪異などと呼んでいる。
 そしてそんな現象の中に 鬼 という存在があった。
 童話、おとぎ話の世界ではお馴染みの存在であるが、なんとそれが実在するという。

 俺がその話を知ったのは最近のことだが、遂に俺もそれを目の当たりにしたのだった――

 父の真土(まさと)を幼い頃に亡くした俺、土門和間。
 それで殻に閉じこもった俺は公私共に暗黒の日々を送っていた。
 そんな日々の中、ある日俺は土門家と関係があり親しかった木ノ下家、その娘木ノ下千春と出会う。
 彼女は閉じこもっていた俺に感情をくれた。救ってくれた。温かな手紙を何度もくれた。

 やがて俺はそんな彼女の傍にいたい、感謝を伝えたいと思い至って今通っているこの大宙(おおそら)学園に入学する。千春の進学先でもあったからだ。
 木ノ下家の厚意で居候させてもらうことにもなった。

 灰色の日々を抜け出せそうと思ったのも一変、俺にあの真実が襲いかかる。

 千春の祖父、春雄さん…… おじさんに連れられて来たのはこの学園の敷地内にある研究棟。その中の研究室。
 
 怪異研究所、またの名をLaboratory Of Supernatural…… L.O.S.

 どうやらそのような名前の政府直属の研究機関であるらしかった。
 そしておじさんは全国に複数ある研究室その一つ、この学園に存在するそれを仕切るトップということ。

 一体何者、何故俺がそんな場所へ……
 疑問だらけの俺におじさんが告げた真実。
 それは俺の人生そのものを揺るがすような話だった。

――この世には鬼という種族が存在する。

 それは時に人間と争い、また時には助け共存してきた。
 しかしある時代を契機に長きに渡る鬼との戦争が始まった。
 人間はそれに勝利し、平穏な時代が訪れる。
 だが、全ては終わっていなかった。

――培養器のような円柱型のケースに眠る恐ろしい怪物。

 俺は鬼を目の当たりにした。
 
 戦争から生き延びた鬼は残党となり、彼ら残党は各地で小競り合いを起こす。
 そうして人間と鬼の戦いは再び始まった。

――それは今もなお続いている。

 更に俺を襲う真実。
 それは―― 俺の父はそんな残党と戦う戦士で、あの円柱型の中で眠る鬼と相討ちになり命を落としたというもの。
 信じたくなかった。

 しかしおじさんは語る。
 研究所で鬼について研究していた彼は鬼と戦う父と出会い、そこから協力関係が生まれ、共に戦ってきた、と。
 そして鬼は人の心の闇に付け入る。鬼が一匹でも生き残っていた場合、奴らはそれに付け入り呪いの力で人間を鬼へ変える。そうして仲間を増やす、と。

 亡くなる前に父はそう言っていたらしい。
 そして。

――鬼は五行の理、その力を持つ五つの鍵を狙っている。

 首に掛けられ胸元で輝く、五角形にかたどられたペンダント。
 五行の理その一つ、「土」の力を意味する鍵。琥珀色に輝くそれ。
 この鍵は亡くなる直前の父の胸元から出現したらしい。
 やがてこれはおじさんの手に渡り、歳月を経て俺に託された。

――鍵は鬼を倒すために人間が創った強力な聖遺物で、選ばれし人間の内に宿る。

 だからそれを鬼の手に渡してはならない。

 受け入れたくなかった真実。
 だけど俺はおじさん、千春、朱彦たちみんなに助けられ、そして父さんにも支えられ、前を向いた。

――そして戦いは始まった。

 俺たちの前に現れた鬼。
 鍵の力で「合体変身」し、鬼と戦う戦士「桃太郎」になった俺。
 苦戦する中で奇跡が起こる。
 五行の理その一つ、「木」の力を意味する鍵が千春に宿った。
 そして千春と合体変身した俺は強い力を得て一匹の怪物を討ち取ることに成功する。

――俺は俺の道を行く。

 父さんのようにはなれなくとも、俺は俺なりに大切な人たちを鬼の魔の手から救ってみせる。

――戦いは続く。

 父さんの意志を受け継ぎ、そして新しい桃太郎となった俺。
 怪異研究所の面々、おじさんは新しい戦士の誕生を歓迎してくれた。
 そして同時に忙しい日々が始まる。
 噂だとおじさんの言っていたこととは違って、俺のような戦士が他にいないこともないらしいが…… ごく少数らしい。
 だから鬼に対抗する手段を一刻も早く見つける為に研究所は俺たちに協力を仰いだ。

 あれからはそんな「手段」を見つける為の実験に駆り出されたり、俺たちもより強くなる為に格闘などの訓練を受けたり…… 実に忙しい日々だ。
 鬼という恐ろしい存在がなければ充実した生活そのものと言えるが。

――戦いを続ける中、新たに分かってきたことがある。

 鬼は人間の心の闇に付け入る…… 父さんの言葉は本当だったようだ。
 今のところ数件、俺と千春は鬼を討ち取っている。
 そのどれもが人間に憑依し、人間を媒介して現れた鬼だった。
 どのようにしてそうなったか分からないが、それは「呪いの力」という魔術じみた力によるものなのだろう。

 研究所は独自のシステムを瞬く間に構築した。
 この五行町を囲むように「結界」というシステムを適用させているらしく、それは鬼がそういった力を用いた際に出現するエネルギーを探知し位置を特定する機能があるらしい。

 その結界に反応があった場合、俺と千春は研究室の車両に運ばれ戦地へ赴くのだ。

 そうして今まで戦ってきたが、戦地にいるのは普通の人間だった。
 その人間は一見すると何も変わりないように見えたが、何かが違った。
 目はどこか虚ろで、気が抜けたような様相。顔色もどこか悪かった。
 やがてそんな人間はバタリと倒れ伏し、青白い炎と共に現れる鬼。

 鬼を討ち取ると人間は意識を取り戻し、そして何事もなかったかのようで…… 憑依されていた記憶も欠けているようだった。

 父さんの言葉…… 鬼は人の心の闇に付け入り、それを利用し人間を鬼へ変える、新たな鬼を生み出させるということ。
 残党は勢力を増やし人間を駆逐する為にそのような方法をとって仲間を増やしているということ。

 それが分かってきた。
 そうなると…… もしかしたら俺たち人間が鬼を生み出させているともいえるだろう。

 しかしまだまだ鬼については不明な点が数多く、そして出現パターンも同様である…… 例外だってあるだろう。そういう摩訶不思議な現象が相手なのだから。
 ともかくこれ以上勢力を拡大させない為に残党を、親玉を叩かなければならないということだろう。

(鬼がまだ一匹でも残っていた場合……)

 つまり鬼を生み出させない為には全ての鬼、親玉を討ち取るしかないということ。
 これじゃ討ち取って、また討ち取って…… 途方もないようないたちごっこだ。
 
 対抗する存在、手段が俺たち以外には今はいないということも事実。
 普通の人間が鬼と互角かそれ以上に戦えるようになるまでは俺たちが奮闘しなければならない……

(普通の人間か)

 俺だって普通の人間だったのに。
 今でこそこんな状態だが、特殊な力を得てそれが当たり前のようになってしまった。
 いつの間にそれを受け入れている自分。でも……

 これが運命なら、俺は俺の運命を、使命を果たさなければならない。

(千春…… ありがとう)

 俺の運命に彼女を巻き込んでしまったとも言える…… しかし彼女は一緒に戦いたい、一緒に守りたいと言ってくれた。俺を支えたいと言ってくれた。

 頭が上がらない……
 いつだって彼女は高貴で、綺麗で、優しくて、それでいて強くて。

 せめてこの平和な日常が続くように。
 この日常を守るために、俺は戦おう。


「おい和間、おーい――」
「――あ、ごめん何?」
「お前ほんとマイペースだよなー」

 昼休み、屋上。
 俺たちの憩いの場。

 心ここにあらず…… 一人回想に耽っていた。
 最近こんな風にたそがれたり、感傷的になるようなことが多い気がする…… 我ながら。
 自分のことなのに、何故だかは分からない。
 だけど平和な時間を噛み締めているようにも思えた。

 どれくらい時間が経ったか――
 
 物思いに耽って遠い所にいた俺は朱彦の一言で呼び戻される。

「――和間、忘れてないか?」
「何を?」
「お前もしやわざとか? あれだよあれ!」

 あれ…… 前後の会話が全く耳に入ってなかったので分からない。

「和間くん、中間試験の――」
「――ナイス木ノ下さん! 思い出したか和間!」
「あ……」

 千春の「中間試験」の言葉で全てが繋がる。
 そう、学園に入学し初めての中間試験が先月あったのだった。
 つまりそのワードから導き出されるのは……

「和間、あれいつになったらやってくれんの?」
「くそ…… やだ! 俺は嫌だ!」
「もう6月なんだけどなー、ねぇ? 木ノ下さん」
「私は…… 和間くんが嫌なら――」
「駄目だ木ノ下さん、コイツを甘やかしちゃ!」

――これを見ろ!

 そう叫んでから朱彦が掲げた紙切れには……

「中間試験、総合点勝負。
俺がワーストだったら購買のパンとジュースを昼食メンバー全員におごり。
木ノ下さんの場合は昼食メンバー全員の弁当を作ってくる。
そして和間、お前がドベだったら――」
「不公平過ぎだろ! 千春は料理作るのが好きだからその罰ゲームは罰にならないし!」
「――お前がドベだったら?」
「何で俺だけ 渾身のギャグ10連発 なんだよ!」
「この紙に了承のサインしたよなぁ……? 和間くん」
「――う」

 そうだ…… なんということか。
 俺たちは中間試験の総合点を競い、そして賭け事をしていた。
 ワーストだった者には罰が与えられる。
 その結果は予想通り千春がぶっちぎりで一位だった。
 ここまでは別に良かった。それなのに……

「お前が俺より勉強できる奴だなんて」
「人を見かけで判断するのは良くないぞ、和間くんよ」

 なんと朱彦が「三位」だった。いつもちゃらけたふりをしている朱彦だが、まさか俺より勉強ができる人間だったとは…… 神様は不公平だ。こんなんじゃ敵なしじゃないか。
 そして俺はワースト、ドベ、最下位。
 罰ゲームは俺……

「何で俺だけギャグなんだよ! 絶対嫌だ!!」
「そういうわけにはいかないんだなー、これが」
「購買のおごりでいいだろ? 俺も!」
「しかし和間、お前は自分がドベになるとは思ってなかったみたいだな。了承しちゃったわけだ。ほれ、このサイン」
「うわあああ! 何が何でも嫌だ! お嫁に行けない!!」
「和間くん…… それ違うよ?」
「木ノ下さんナイスツッコミ!! どうやらこいつはおかしくなっちまったようだ」

 どうかこのまま昼休みが終わりうやむやのまま自然消滅してくれないか…… お願い神様。

――昼休みよ早く終われ!!

「だいたい何で俺だけがこんな――」
「――そうだぞ!! 土門和間!!」

 ガシャン!!

 千春の声でもなく、朱彦のそれでもなく……

 屋上扉が勢いよく開かれ、威勢の良い声と共に姿を現したのは――



「――そうだぞ!! 土門和間!!」

 俺が朱彦に抗議していたその時だった。

 勢いよく開かれる屋上扉。

 そこから登場した女子生徒。

「なんてね――」

 第三者の登場に思わず釘付けになる。
 俺の名を叫んだ彼女は、何も言えずに固まる俺たちをよそにけろっとおどけて見せた。

 眩しく、爽やかな笑顔。
 日差しを受けて燃えるように輝く赤毛。短く切り揃えられたショートヘアー。
 風を受けてそれがサラリと流れる。
 髪色と似たスカーレット、または赤茶色とも言える意志の強そうな瞳。
 キリッと整った小顔に白く綺麗な肌。スラリと伸びた手足、背丈。均整の取れた健康的なスタイル。

「おう、何してたんだ? 夏海――」

 いつものことというような様子で平然と対応する朱彦。

「購買戦争に勝利した! 私を褒め称えるがいい!」
「へーすごいねー」
「――反応薄っ」

――火野夏海(なつみ)。

 俺と朱彦と千春の昼食グループ3人組。
 千春の「友達も連れて来ていい?」という提案を受け新たに加わったメンバー。
 彼女は俺たちと同じクラスで、千春の友人だった。
 今ではすっかり馴染んで、この四人組で行動することも多くなっている。
 新たな友人、大切な仲間の一人だ。

「じゃじゃーん! あん生!」

 そしてなんとも軽快な動きでこちらに駆け寄ってきて、サッと座り込み購買で買ったパンを掲げて見せる夏海。
 風になびくスカート、活発で明るく、くしゃっとした魅力的な笑顔に思わずドキリとした。

「お前よくそんな激甘なパン食えるよな、毎回」
「なにを今更。昔からずっとじゃん」
「見てるこっちが胸焼けしそうだわ」

 朱彦と夏海は小学校から今までずっと同じ学校という、いわゆる幼馴染な関係であるらしかった。こんなデカい学園で一緒になるなんて…… 俺と千春のケースもそうだけど、なんという偶然……
 朱彦曰く「腐れ縁」とのことだが、そう言う彼はどこか微笑ましいような表情をしていたのが強く印象に残っている。

「へへへ…… いただきまーす」
「夏海って甘いもの好きなんだね」
「まーねー」
「夏海ちゃんったら昨日の放課後も喫茶店でこんな大きいパフェ食べてたんだよ?」
「――お前、太るぞ?」
「乙女に向かって失礼な!!」
「誰が乙女だって?」
「わ、た、し!!」

 長年の付き合いから生まれるやり取りということだろうか。
 からかう朱彦につっかかる夏海。
 その様子がどこかおかしくて俺と千春は思わず吹き出してしまう。

 夏海が頬張る「あん生」というパン。
 しっとりとしたような丸いパンの中にあんこと生クリームがこれでもかと入っている。
 だから「あん生」。
 彼女曰く購買の人気商品のようで、このパンを巡って毎日激戦が繰り広げられるとのこと。

 好きな物を食べる夏海はとても幸せそうで、見てるこっちも顔が綻んでしまうほどだった。

 快活で爽やかな彼女はクラス内でも目立つ存在で、男女問わず人気が高い。
 男子のムードメーカーが朱彦なら、女子のそれは間違いなく夏海だろう。
 朱彦の女版…… と言ったらどつかれるだろうけど、まさにそんな言葉がぴったりだった。
 ボーイッシュな見た目と比例して元気な、男勝りな性格だし、締めるときは締めるようなきっちりとした部分も併せ持っている、なんとも心強い存在だ。
 そんな性格からか一部の男子から「姉貴」とか「アニキ」とか呼ばれていたり…… また、彼女を熱烈に支持するような輩もいて、そのような者は火神(ひのかみ)崇拝者と呼ばれているとか。例のいかがわしいランキングの上位にも食い込んでいるとかいないとか……

 更に余談ではあるけれど、ある男子生徒は「地母神キノシタ、火神ナツミ、二神教ここにあり。我が生涯に――」と涙を流し喜んでいたらしい(学園通信から抜粋)。

「――そういえばさっき言い合いしてたみたいだけど、何話してたの?」

 しまった――

「お前聞いてたんじゃなかったのかよ、あの反応は」
「いいやー、ただのジョークってやつ」
「――なんだそれ」

 やけに長くないか? 今日の昼休み……

「それはな…… いつになってもコイツが罰ゲームしないからせかしてたのさ」
「――そうだ! 私も早く見たいなぁー、和間のギャグ10連発」
「だから俺だけ罰ゲーム内容がおかしいって!!」

 俺を煽るようにニヤリとわざとらしく笑う夏海。
 ちなみに彼女は四人中二位。
 スポーティな彼女だが勉学の方も中々らしい、まさに文武両道の模範生といったところか…… 部活には入っていないようだけど。
 彼女の罰ゲームは確か「ラブソングのワンフレーズをアカペラで歌った後恥ずかしいセリフを言う」というこれも中々酷いものだった。
 しかし彼女はどうやら自分が最下位にならないことを確信した上での了承であったようだ。俺と違って本物の確信というやつだ。

「だからいい加減腹をくくれ、和間。男に二言はないよなぁ?」
「――クソ…… それを言われたら」
「そうだそうだ! 千春の前で泣き言を言うのか!」

 朱彦の言動に便乗して囃し立てる夏海。
 このコンビは厄介だ……

 ふっと千春の方へ視線を向けると。

「和間くん、嫌なら――」
「――分かったよ」

 くそう…… 千春の手前かっこ悪いところを見せたくない。
 何より俺の不手際でサインしてしまい了承しちゃったからな……
 約束した以上それを破棄するわけにはいかない。
 今度からちゃんと試験勉強しないと。

「お! ようやく腹を決めたか!!」
「さすが和間! よっ、男の中の男!!」

 バシリ、と勢いよく夏海に肩を叩かれる…… 痛い。

「次は…… 次は朱彦、お前が泣きを見る番だ!!」
「言ってくれるねぇ、それじゃ期末でも勝負な!」
「お、お! これはおもしろいものが見られそうだね。ね? 千春――」
「――そうだね…… 私も頑張らなくちゃ」
「千春はそれ以上頑張らなくていいよ?」

――昼休みの終わりを告げるチャイムがようやく鳴り響いた。

「ま、それじゃ今月中にはお願いしますよ和間くん」
「分かったよ…… ってか10個はさすがに多くないか?」
「――約束、破るのか?」
「分かった分かった!」
「私も期待してるからちゃんと面白いの考えといて!!」
「和間くん…… 私も一緒に考える?」
「いや、さすがにそれは――」

 そうして俺たちはゴミや荷物をまとめ屋上を後にした。
 ギャグか…… そんなキャラじゃないしどうしようか――

「――チームを決めるよ!!」

 午後の授業、最後を締めくくるのは学活…… ホームルームだった。

「それじゃ話し合い始め! さっさと組んじゃってね――!!」

 教壇に立つのは夏海と、佐伯(さえき)という男子生徒。
 二人は体育委員だった。
 我らが担任の男教師、通称「ぬまちゃん」こと飯沼先生は壇上の二人を見守りながら窓際のスペースに立っている。黒縁の眼鏡を掛け微笑む彼は今のところ声を荒げるような姿も見たことがないという、とても優しい先生だった。

 夏海ら体育委員主導のもと展開されるホームルームの時間。
 話し合いが始まりざわめき立つ教室内。

「――朱彦はどうするんだ?」

 前の席に座る朱彦へ声を掛けると。

「おう和間! 野球にしようぜ――!」

――球技大会。

 大宙学園に存在するいくつかの学校行事、イベント。
 球技大会もその一つだった。
 毎年夏季と冬季の二回に渡り開催されているらしいこのイベントは、複数ある競技別にクラス内でチームを組んで挑み、学年優勝目指して争うというものだった。
 その球技大会、夏季球技大会が今月半ばに迫っていたところだったのである。
 今回のホームルームはそのチーム決め、ということだった。

 ちなみに年によって競技種目が変わることもあるらしいが、今回は野球、バスケ、バレーなどのようだ。
 マンモス校でクラス数も多く非常に厳しい戦いになるわけだけど、入賞すれば豪華な特典、景品が貰えるという噂。
 だから今月に入り学年はその話題で持ちきりとなっていて皆祭りの前のようにそわそわと浮ついている。

「よっしゃ! 絶対優勝だ!」「お前バスケやってたんだろ!? こっち来いよ!」「私はバレーがいいかな!」

 もちろん俺たちのクラスもその範疇で、こうして学校行事を楽しもうと、入賞しようと燃えている。

「えぇー、野球?」
「お前球技苦手なのか?」

 そんな中、俺は朱彦に野球にしようと誘われた。

「遊びでやってたぐらいだし…… 動けるかなぁ」

 俺は運動が苦手というわけではなかった。
 むしろ勉強よりかは運動の方がどちらかと言えば得意だし、純粋に好きでもあった。
 しかし野球は幼い頃に遊びで草野球をした程度だ。部活でやっていたわけでもないし、こういう風に本格的な試合をするとなったら…… ソフトボールならまだしも野球に使うような小さいボールをバットに当てられるか、その自信がないというのが正直な心情だった。
 まあ今は試合それ自体に出られるかすら分からないけど。人数によるし。

「それじゃー野球にしようぜ!」
「別にいいけど、足引っ張っちゃうよ? 俺が」
「んなの気にすんなよ! これはイベントだ。もちろん優勝できたら最高だが、特待クラスがあるし、他の奴らは優勝できるなんて思っていないさ。入賞できたら運が良かった、せいぜいその程度だろ」
「そうかなぁ、それじゃ野球にするよ」
「そうこなくちゃ! 大丈夫だ。小・中とクラブでやってた俺がお前に教えてやるよ!」

 対する朱彦は野球経験があるらしい。
 そして、そう…… この学園にも特待クラスという勉学、芸術、運動などの各種技能に秀でた優等生を集めたクラスが存在する。彼らは推薦、特待生制度によって全国から選ばれて来たエリートだ(今になると何故千春が普通科にいるのか疑問になるけれど)。
 そういうわけで、この行事に関してはスポーツ特待生がいるような特待クラスが絶対的に有利であり、絶対的な優勝候補。
 ただ噂を聞く限り野球部は、バレー部は、バスケ部はチームに何人までとか、野球部はピッチャー禁止とかそういうルールはあるみたいである程度公平性は保たれているらしい。
 まあイベントだから「ガチ」ではないし、気軽に構えてもいいのか……

「――よっしゃ! 野球のやつ俺んとこ集合!!」

 気軽に構えても――

 大丈夫だ、とは言ってくれたものの…… それを言った朱彦本人はやる気まんまんでまさに「ガチ」だ。

(大丈夫かなぁ)

 俺の不安をよそに朱彦や夏海ら中心人物がクラスを取り仕切って、そして物事は円滑に進んでいったのだった。


「はあ、大丈夫かなぁ」

 あれから放課後を経て、帰宅して気付けば夕食の時間になっていた。
 広いリビングの食卓に座るのは俺と、千春と、おじさんと――

「――坊ちゃん、おかわりです」
「坊ちゃんって…… すみません、ありがとうございます」

 この屋敷は広い故、清掃等家事を手伝うお手伝いさんを雇っている。
 今日の夕飯はハンバーグというなんとも豪華なものだった。
 作ってくれたのはお手伝いさんの舞白(ましろ)さんと千春。
 舞白さんは俺がご飯をおかわりしようとして席を立つと、それを止めさせて変わりによそってきてくれた。
 お手伝い…… というと主婦などが副業に、というイメージもあるが、彼女は若くしてこの道一本でやっているようだった。千春は「舞白さんも私の家と縁があるの」とは言っていたが、そうなると俺の家のように昔に何かあったのか…… 謎は深まる。

 まるで異国のメイドが着ているようなエプロンドレス。脚には黒のストッキング。
 白と黒の二色を基調としたそれはモデルのようなスタイルの彼女にピッタリでとてもよく映えている。

 そんな、俺を何故か「坊ちゃん」と呼ぶクールな印象の舞白さんはやがて自身も食卓の席に着いた。
 彼女とも一緒に夕飯の食卓を囲むのがいつもの風景の一つだった。

「坊ちゃん、先程何かため息をついておられましたが」
「――私たちの学校で今月半ばに球技大会があるんです」

 思い出して不安になる俺に代わって千春が答える。

「なんと――! それでは春雄様!!」

 するとそれを聞いた舞白さんはまるで人が変わったかのように豹変して、取り乱した。

「そうだね…… 千春と和間くんの雄姿をこの手に収めねば!!」

 おじさんもその瞬間、人が変わったかのように興奮して思わず席を立つ。

(え、えぇー…… 何これ)

 親馬鹿…… ってやつなのか、もしや。

「お嬢様と坊ちゃんは何の種目に出られるのですか?」

 興奮を抑えきれないような様子で舞白さんは千春と俺に問いかける。

「私は――」

 千春が舞白さんとおじさんにあれこれ説明するのを背景に、俺はこれまでの経緯を思い返した。

――記憶はホームルームの時間まで遡る。

「それじゃー私ピッチャーやりたい!!」

 黒板には種目名、そしてその下にクラスメートの名前と人数が書かれていた。
 朱彦や夏海らのおかげで話し合いは円滑かつスピーディに決まったのである。
 そんなこんなでその後は残った時間でチームごとに作戦会議という名の雑談が交わされていた。

「夏海、お前――」
「大丈夫だって! ピッチャー誰もやりたがらないし、それじゃー私やるよ!」

 チームは決まった。
 俺と朱彦、そして夏海と千春まで野球チームになったのだ。
 他の男子は「マジかよ! 二人の神が揃うなんて、火神教と地母神教の夢のタッグ! 優勝間違いなし!」と浮かれていたが……

 そんな中朱彦は今までとは一変してその顔に不安の影を落としていた。
 それを振り切り笑顔で応える夏海。

「あれ? 野球って男子だけの種目じゃないの?」

 そこで俺はそんな疑問を口にした。
 種目によっては男女別となっているものがあったからである。
 例えばバスケットが男子バスケと女子バスケに分かれているという具合に。バレーに至っては女子のみだ。だから野球はそれと同様で男子だけの種目かと思った。

 もし仮に大丈夫だったとして、男の中に女が混じってやるのは純粋な男女の身体能力の差という意味で厳しいところがあるだろう。男女差別的な意味合いではなくて、ただ純粋に体格差という点で、だ。野球といったスポーツでは特に。危険もある。まあ、彼女がそれに勝るほどの実力があるならば全然問題ないわけだけど…… 野球素人の俺が上から言えるような立場じゃないけどさ。
 
 そう感じて不安になっていたところだった。

「――え? 女子も大丈夫って先生言ってたじゃん」
「そうなの?」
「和間ってほんと話聞いてないよねー」

 ハハハ! とそこで周囲から笑い声が発生した。

「和間くん――」

 戸惑う俺を見かねて千春が事の成り行きを説明してくれた。
 どうやら今回バレーは女子だけの種目ということだが、一方の野球は男子だけの種目…… という厳格なルールもないらしく、女子も参加可能らしい。ただそういう男と女の純粋な体格の差という側面があり、女子は必然的に違う種目に集まるというだけで、球技大会の規則的には問題ないみたいだ。
 各種目人数の振り分けも問題ないようなのでこれに決まったらしい。

「――そうなんだ」
「あ、その顔は私が大丈夫なのか疑ってる顔だなー?」
「いや、そういうわけじゃ――」

 規則上問題ないとは言っても、確かに「怪我でもしたら……」というような懸念があったのは事実だった。疑いではなくて。

「――コイツは小学の時のクラブでエースだった。中学でも男子を凌いで試合に出て投げてたしな」

 俺が返事を濁していると、そう言葉を発したのは朱彦。

「マジで?」
「うん。マジだよ」
「夏海ちゃん凄い……」

 確かに容姿からスポーツ万能というような雰囲気はあったが、まさか夏海がそこまで凄いなんて知らなかった。幼馴染の朱彦が言うんだから間違いないだろう。
 それにしても小学生までならともかく中学生の時も男を凌いで活躍していたなんて…… 中学にまで来れば男女の体格差が明確になる頃だ。相当な努力と、それから才能が成せる業ということなのか。

(だったら夏海も何故普通科に――)

 新たな謎と、そして。

「それじゃ姉貴がピッチャーで決まり!」「姉貴頼んだぞアニキ!」「どっちだよ…… まあ、それはともかく俺たち優勝できんじゃね?」「入賞はいけるだろうな!」

 湧き上がるチームメイト。

「落ち着きたまえ皆の衆。まあ…… 久しぶりだしちょっぴり不安だけど。体格差もあるし。だから他にやりたい人いたらそっちに譲るよ」

 少しの不安を顔に貼り付けながら夏海はそれに応えたのだった。

(なんとかなるかも)

 俺も湧き立つチームメイトのように心が躍った……

 しかしチラリと朱彦を一瞥した時、彼の顔にどこか暗い影が差していることだけが唯一の気がかりだった。


「――ということなんです」

 俺の回想が終わると同時に千春のやりとりもちょうど終わったところだった。

「なるほど…… お嬢様は出られるのですか?」
「私は控えでみんなの応援に回ろうかな。マネージャーみたいに!」
「さすがお嬢様です!」
「――そうだね…… でも欲を言えばおじいちゃんは千春の活躍も見てみたいなぁ。もちろん怪我だけはしないように」
「私が出てもみんなの足を引っ張っちゃうから、できることを頑張るよ!」
「うむ…… さすが私の孫娘だ! おじいちゃん感激!」

 未だ興奮は冷めやらぬ…… というような状態の舞白さんとおじさん。

「いつ嫁に出しても恥ずかしくないぞ。なあ? 和間くん――」
「――お、おじいちゃん!」
「え!? き、急に俺に話を振らないで下さい!」

 そこで突然俺に話を振ってくるおじさん。
 話題が話題なので返答に困る。
 千春は千春で顔を真っ赤にして俯かせている。今にも沸騰しそうなほどだった。

 お願いだから止めておじさん…… 心臓に悪いです。

「――君たちには本当に迷惑を掛けて申し訳ない」

 数秒の沈黙の後、おじさんは急にそう言って話題を変えた。
 迷惑…… 恐らく鬼についてのことだろう。
 幸せな時間にいると忘れそうだが、しかしこれは現実なのである。
 だけど――

「迷惑だなんてそんな…… こちらが感謝しなければならない方です」

 そうだ…… 父さんのことから全て。
 今俺がこうして幸せな時間を過ごせているのは、おじさんや千春、舞白さんや大切な仲間たち、みんなのおかげだ。

「こうして俺をこの家に迎えて下さって…… 鬼のこともそうです。おじさんたちのサポートのおかげで俺たちは全力で戦いに挑めるんです」

 以前の俺ならこんなこと絶対に言えなかっただろう。
 俺は変われた…… 前に進めているのだろうか――

「それでも、私たちが戦わせているとも言えるだろう」
「そんなことありません。俺の意志です」

 俺の意志。
 自分でも意外に思うくらい、自然と口をついて出た。

「戦いたくなければそうしていました。でも俺は父さんのことを知って、そしてみんなに支えてもらって…… その上で戦うことに決めたんです。俺の意志です」
「――私もそうだよ…… おじいちゃん」
「二人とも……」
「坊ちゃん、お嬢様…… 立派です」

 俺の覚悟。
 この愛する日々を守るため。
 それだけは嘘偽りない不変の事実。

「ありがとう―― 球技大会、私たちも応援に行くよ」
「え? そんな大規模な行事なんですか?」
「毎年、保護者や周辺住民も集まり大盛り上がり…… らしいです」
「頑張ろうね、和間くん!」
「そ、そうだね――」

 俺の中でプレッシャーが跳ね上がった瞬間だった。
 
 そうして夜は更けていく。


「――ようやく終わった、と」

 夕食後に部屋へ戻り、課題を終えて一段落ついたところだった。
 そうしてジュースでも飲もうと一階へ下りてリビングに来たところ。

「あれ? 千春どうしたの?」

 おじさんは書斎で作業、舞白さんは仕事を終えて帰宅…… とのことだったから誰もいないと思ったが、リビングは明かりが点いていて千春が一人ソファーに座っていた。

「――和間くん…… 漫画読んでたんだ」

 そう言う千春の傍ら、デスクには一冊の単行本が置かれていた。
 読み終えた様子で、そして首に掛かる藍色のペンダント、五角形にかたどられたそれを手にとってまじまじと眺めていたところだった。
 
 色濃く鮮やかに輝くブルー。千春の瞳のように綺麗な色。

「千春、漫画読むんだ」
「うん。夏海ちゃんが貸してくれたの」
「へえー、どんな漫画?」
「野球の漫画だよ。相性があるからとりあえず一巻だけ…… ってことで貸してくれたから試しに読んでみたんだ。凄く面白いから続きも読みたいな」
「なるほど。なんか意外」

 大人しい性格の千春。そんな彼女が夏海のような活発な女の子と仲良くやっていることになんとも微笑ましさを感じた。

「千春は課題終わった?」
「うん。和間くんは?」
「早いな…… 俺は今終わったとこ」
「そうなんだ。それじゃお茶いれる?」
「いや、ジュースにする」
「いれてくるね!」

 千春はそう言って微笑み、すっくと立ち上がる。

「いや! さすがに自分でするよ…… 千春は何か飲む?」
「それじゃお言葉に甘えて、同じのをお願いします」

 戸棚からコップを二つ取り出し、冷蔵庫を開けてジュースが入ったペットボトルも取り出す。
 二人分を注いでから、片方をソファーに座る千春へ手渡した。
 どちらからともなく口をつけ、そうして一息つく。

「――千春、ありがとう」
「どうしたの?」

 心地よい沈黙が訪れて、そんな中消え入るように俺は呟いた。
 数刻前にペンダントを愛おしそうに眺めていた彼女の姿が蘇った。

「俺の運命というか使命というか…… それに千春を巻き込んでしまった」

 未だその考えが心のどこかにあって、払拭できずにいた。

「和間くんまで…… ふふっ」

 何かを思い出したかのように、そう言って顔を綻ばせる。
 さっきのおじさんのことだろうか。

「ありがとう、和間くん」

 そして、これ以上はないというかのような満面の笑みが返ってきた。
 とても綺麗だった。
 過ぎ去った春が戻って来たような、桜吹雪が舞い散る絶景の中にいるような、そんな言葉にしづらい儚さにも似た感覚がやって来た。
 何故だかキュウッと胸を締め付けられる。

「千春――」
「私も和間くんが言うところの自分の意志、だよ?」
「千春……」

 彼女と、そして彼女の名がとても愛おしく思えた。

「和間くんは私を助けてくれた。本当に危ないところだったし、怖かった…… でも、和間くんが救ってくれた。
だから私は、私を助けてくれた和間くんの為に生きたい。それが私の恩返し」
「でも、それにしても昔から俺は千春に――」

 どこか俺は…… 彼女の重荷になっているんじゃないか。
 そんな不安があった。

「――私も昔から和間くんに支えられてきたんだよ?」
「だけど、俺だって!」

 言い終えたところで、穏やかな沈黙。

 そして。

「――私たち、お互いに不器用だね」

 そう言って少し自嘲気味に千春は笑う。
 それすらも愛おしかった。

「今度は…… 今度はテスト、最下位にならないようにしないとね」
「――そうだね」

 自然に話題を切り替える千春。

「ギャグ、私も考える!」
「いや、だからさすがにそれは――」

 恥ずかしい。

 そうして俺たちは互いに笑い合う。
 優しさで胸が満たされる。

(ありがとう――)

 俺の前には常に「鬼」という名の高い壁がある。
 見過ごせない現実。
 しかし彼女が傍にいてくれるから、そして大切な人たちがいてくれるから…… 俺はその壁に立ち向かうことができる。

 不器用と言った彼女。そんな彼女の微笑みの先に一体どんな言葉があるのだろう。

 そして、切なく締め付けられるようなあの感覚。

 満面の笑顔を脳裏に刻み付けて、それから俺は入浴し床に就いた。


 そうして何気なく日々が過ぎる。
 刻々と球技大会の日が迫っていた。
 梅雨の時期に入ったのか、雨が降ったり止んだり…… ジメジメ、ベトベトとした嫌な湿気。そんな日が多くなっていた。
 
 そんな中でも俺たち野球チームは時間を見つけては集まって練習した。
 放課後、休日、登校前の朝…… そんな具合だ。
 鬼の出現はなかったので、俺たちも心置きなくそれに臨むことが出来た。
 朱彦や夏海、他の経験者が中心となり仕切ってくれたおかげで大変充実した時間を過ごすことができている。
 練習場所は専ら町外れの河川敷公園だった。いつしか俺と千春が鬼退治した場所でもある。

 俺は未経験者なので始めに基礎的な練習を朱彦がつきっきりで指導してくれて、その後馴染んでくると全体練習に参加させてもらった。初心者に内野は厳しいということで俺のポジションは外野、ライトになった。
 大会は軟式らしいので軟式ボールを使っている。硬式とは違うようで独自のイレギュラーバウンドや高いバウンドがあり、処理が困難だ。そして怖い。
 加えて飛球の追い方、捕球方法、外野の投げ方など色々と難しいが、ルール自体も細かい部分は曖昧なところがある俺にとっては内野より外野の方が適していると言えるだろう。
 
 野球チームは人数がカツカツなようなので、交代要員は限りなく少ない。
 だから俺がレギュラーで出る可能性もある。皆の足を引っ張らないように俺は帰宅しても借りたバットで素振りしたりバッティングセンターに行ったり、個人練習に勤しんだ。
 朱彦も付き合ってくれて大変ありがたく、そしてまさに「青春」という日々だ。

 俺は今まで部活動の経験がなかったからチームワーク、チームプレイがこんなに楽しいものだとは知らなかったのである。
 以前の俺のままだったら…… と考えるとどこか哀愁にも似た感覚を覚えたが、今を楽しもう、青春を謳歌しようというプラス思考で乗り切った。
 チームメイトは野球経験者が多いようなので心強いし、そして騒がしい連中で面白い。そんな素晴らしい仲間たちだ。
 
 俺は俺に出来ることをしよう。
 幼い頃に父さんとよくナイター中継を見ていたこともあってか、基本的な、最低限のルールは分かる。
 だから後は残り少ない期間でどれだけまともな技術を身につけるか、だ。
 鬼と戦って勝つ為に研究所主導の訓練などを受けていて、体力面は鍛え始めていたから後は技術だ。
 もちろん体力面も疎かにできないけど。
 ともかく出来ることを実直にこなす…… それのみ。

 一方の千春は、以前言っていたようにマネージャー的立場でチームを支えていた。
 もちろん練習にも混ざっていたが、主に裏方としてチームを支えてくれている。
 縁の下の力持ち、俺たちチームの象徴…… 彼女のエール一言でむさ苦しい男たちの士気は劇的に高揚する。そんなシンボル、戦女神、ワルキューレ、バルキリーな彼女。

 また…… 思わず唖然としたのが、なんと千春は給水用のウォーターサーバーや差し入れ、そして軟式ボールやらバット、練習用ネットなど用具一式までもどこからか手配してきたのである。これにはさすがに言葉を失った。
 千春に尋ねてみると「おじいちゃんが知り合いのつてで――」と、さも当然の如く言ってみせたのである。
 
 どうやらおじさんは親馬鹿というか孫馬鹿というか…… 意外にもそんな側面があるようだ。
 ただの「つて」でこんなことになるとは。木ノ下家恐るべし。
 更にそれら用具の運搬は毎回舞白さんがMT車のトラックを運転して運んでくれた……
 舞白さんのスペックも謎過ぎて恐るべし。車も一体どこから…… 庭やガレージでも見かけなかったぞ、あんなトラック。

 そんなこんなで千春、木ノ下家の豪勢な援助により俺たちはまるでクラブそのもののような恵まれた環境でのびのびと野球に明け暮れることができた。
 ほんとに、これじゃ部活動だな。ただの球技大会なのに――


「――お前ら、お疲れー!!」

 そしてとうとう大会当日がすぐ目の前に迫っていた。
 そんなこの頃、大会を明後日に控えた水曜日の放課後。
 学園近くに存在する喫茶店「Season」のボックス席で。
 朱彦の提案で練習を早めに切り上げ、そしてわざわざ町外れから学園近くまで自転車を漕いで移動し、この店で「決起集会」を開くこととなった。
 時間はもう18時を過ぎ19時近くなっていた。
 店内から見る外の景色はもう日が暮れていて、すっかり夜の様相に様変わりしている。

「ったく、お前らもう大人の時間だぞー。たむろしてないで帰れ不良ども――」

 明後日に大会を控えた俺たちは思い思いに当日にかけた想いを熱く語っていた。
 カフェバーという様式らしいこの店はバーラウンジのようなカウンター席とボックス席を兼ね備えた、ゆったりとしていて落ち着きのあるシックな空間、まさに大人のお店だった。
 
「はいよ、もう帰るから安心してくれマスター」
「ったく…… お前ら客単価低いのに長時間居座るからなー、帰った帰った。もう大人の時間ね――」

 そんなところに俺たち高校生が大勢押しかけてボックス席を複数占領している。
 他の客は見る限りでは数人、そしてお一人様であったからまだ迷惑をかけていない…… よな。ごめんなさい。
 
 朱彦にマスターと呼ばれた男性はそう言って彼に愚痴をこぼす。
 30代半ばという具合だろうか。
 キッチリとセットした短髪と整ったワイルドな顔立ち。清潔感溢れるワイシャツ、ジーパン姿のクールな男性。どこか気だるそうな表情。お兄さんという感じの人だった。
 彼は一星(いっせい)さんという名で、若くしてこの店を切り盛りしているマスター。どういう関係なのか朱彦と知り合いらしかった。こんなフランクなやり取りをするくらいには親しいようだ。

「――あ、千春ちゃんや和間くん、それに君たちはいつでも気軽に来てくれて構わないからねー」

 そして一星さんは俺と俺の横に座る千春、それから他のチームメイトにそう言い放った。
 実は俺や朱彦、夏海に千春は以前四人でこの店に何回か来ていた。
 初めは朱彦と夏海に紹介してもらう形で訪れて、そこで俺たちと一星さんは顔馴染みとなったのである。朱彦と同様に夏海も昔からの付き合いというような様子だった。

「おいおい! 俺たちは来ちゃ駄目なのかマスター?」
「酷いよ! 鬼! 悪魔!」

 自分たちだけ蚊帳の外にされて抗議する朱彦と夏海。

「お前たちはうるさいから駄目」
「そんなこと言ってー、実は私たちのこと好きなくせに。ありがとねマスター」
「マスターはツンデレだからなー」
「――うるせえ…… これやるからとっとと帰れ」

 そう言って何やら厨房に消えた一星さんは、次の瞬間にトレーを持って現れる。
 さっさとそれを複数のボックス席のテーブルに置いていって、やがてまた厨房へ消えていった。

「うおおおおお!!」

 トレーの上には一つの大きな皿。そしてそこに盛り付けられるのはから揚げ、ポテト、ウインナーなどのオードブル、おつまみ。
 その豪勢っぷりに思わず俺たちは同時に感嘆の声を上げる。

「うるせえ静かにしろ――!」
「――ありがとうマスター愛してる!」
「だから静かにしろ!」

 大きな声を上げてしまったので、マスターからのお叱りが飛んできた。
 これから夜の営業があり忙しくなるだろう。
 それにも関わらずマスターは俺たちの為にこんなサービスをしてくれた。
 いつしか四人で来た時に、「学校に近いから客が学生ばかりで大変だわ。お前らお願いだから長居すんな。するならもっと注文しろ――」などと朱彦に向けてぼやいていたが、そう言っていた彼の表情は満更でもない様子だった。

(なんだかいいな―― こういう感じ)

 お礼、言わなくちゃ。

「――ほらね。やっぱりマスターはツンデレだよ」
「夏海は出禁な」
「酷い――!!」

 そうして会話も程々に、俺たちは店の迷惑にならないようにすぐさま盛り合わせをたいらげ、そして会計を済ませお礼も言って店を出たのだった――


「――だから私は!!」

 カフェバー、Seasonから出る前に俺と千春はトイレをお借りした。
 そしてトイレを済ませ入り口ドアを開けたところだった。
 ドアを開けて店を出た瞬間、何やら怒気を含んだような夏海の声が俺たちに振りかかる。
 何があったのだろうか…… 初夏の爽やかな夜にも関わらず、尋常じゃないほどの重い空気だった。

「夏海ちゃん、どうしたの――?」

 何が起こったか、千春は不安そうな面持ちで夏海に問いかける。
 他のチームメイトはさっさと帰ったらしく、駐車場には朱彦と夏海、俺と千春だけだった。
 相対する形の夏海と朱彦。こちらに背を向ける朱彦の様子は窺えない。
 
 夏海はいつもの彼女とはまるっきり別人のようで、取り乱している様子。ワナワナと唇を震わせて、鋭い視線。
 よくよく見てみると、肩や握り締めた拳も震わせていた。ただ事ではない。
 彼女がこんなに冷静さを失って取り乱しているような様子は初めて見た。
 重い、重い沈黙。
 夏海の鋭い視線はそのまままっすぐ朱彦へと注がれていた。
 千春の問いかけはそんな彼女に届いていないようである。

「夏海、だからお前は――」
「――嫌! 私は投げる!!」

 ようやく口を開いた朱彦であったが、夏海はそれを拒絶する。

「もう、私帰るね。ごめん――」

 そして夏海はそう言って俺たちに背を向け、自転車のもとへと駆けて行き、やがてそれに飛び乗ってこの場を去って行った。

「朱彦、何があったんだ?」

 心なしか…… 力なさげで弱々しく見える彼の背に向けて投げかける。

「はあ…… やっちまった――」

 そうしてゆっくりとこちらへ振り向く彼。
 そう言って振り向いた彼はどこか物寂しい笑顔を浮かべていた。


「――ってわけなんだ」

 田舎の夜を寂しげに照らす街灯。
 一本道に続くそれの下をトボトボと自転車を押しながら進む俺たち三人。
 車の往来はまばらで、道行く人も俺たち以外にはまるで見当たらない。

「そんなことが――」

 夏海が走り去ってしまい、彼女抜きで帰宅の途に就く俺たち。
 いつも場を盛り上げてくれる元気印がいないせいか、どこか穴が開いたような空虚感に苛まれる。

「夏海ちゃんにそんな過去が――」

 途切れ途切れで呟くようにボソボソ言葉を発する俺と千春。

「――一応、他の奴には内緒な? 和間と木ノ下さんだから話せたことだ」
「もちろんだよ……」
「うん…… 私たちに出来ることはあるのかな?」

――夏海が去って行った後、朱彦から明かされた真実。

 喧嘩したように見えた夏海と朱彦。
 何があったのか問い詰めたところ、彼から夏海の過去を明かされた。
 普段は陽気な性格の朱彦でさえ口にするのを躊躇っているような重い話だった。
 それを語る彼は精一杯の勇気で臨んでいるようにも見えた。

「出来ること、か」

 彼女が声を荒げた理由。
 それを過去の話も絡めて説明された俺と千春。
 大切な仲間の為に何かしてあげたい――
 そう思うのは千春も俺も一緒のようだ。

「あいつは頑固な部分があるからな…… とにかく球技大会さえ終われば決着がつくさ。心配だけどあいつの気を汲んで好きにさせてやるしかないだろうな。
幼馴染ながら情けないぜ」

 遠いところを眺めながら、朱彦はそうこぼした。

「二人とも、なんかすまないな。あいつにはいつも通り接してやってくれ……
それじゃ俺こっちだから、また明日――」
「ああ…… 俺たちに何かできることがあったら言ってくれ」
「うん、一人で背負っちゃ駄目だよ? 何も出来なくてごめんなさい」
「いいや、そんなことない。こうして話を聞いてくれたからな。まあ、俺は大丈夫だ」

 目の前には分かれ道。
 一方は駅へ向かい、もう一方は木ノ下家に続く道。
 朱彦は隣町に住んでいて、電車でここまで来てからは駅近くの駐輪場に停めた自転車で通学といったパターンのようだ。
 だから帰りは電車。ここで別れとなる。
 そんなやり取りをしてから、彼は「じゃあな」と手を上げて自転車に跨り、走り去って行った。

 その背をぼーっと見送っていると、やがて千春から「帰ろっか」と声をかけられる。
 去り際の朱彦、その顔は笑っていながらもどこか悲しげだった。

――私には夢があった。

 机に置かれた写真立てを手にとってみる。
 少し埃を被った写真。
 まるでそれは私の心をそのまま表しているようだった。

(夏海――)

 今でもふと、例えばこうして過去の思い出に浸るとき、決まって私を呼ぶ兄の声が蘇る。

 写真―― 集合写真に写るのは、前列中央でトロフィーを持って満面の笑みを浮かべる私と、その横でピースする兄。
 これは幼い頃に小さな、ほんとに小さな大会で優勝した時のものだ。

 私の栄光と、そして今では挫折や没落や後悔も写した写真。

「――やめよ」

 落ち込むのは私らしくない。
 無理矢理に鬱屈した気分を押しやって、写真立てを元の場所へ戻す。そしてベッドに倒れこんだ。

「私の馬鹿――」

 しかし、いつもと違って今日はなかなか前向きになれない。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿…… 何でだよ――」

 ベッドに顔を埋める。
 次々と想い出が駆け巡る。
 駄目だ。どうして今日に限ってこんな――

――私には夢があった。

 幼い頃にテレビで見た伝説のピッチャーのように、どんな強打者も打ち取って試合の覇者となること。「女のくせに」という奴らのプライドをへし折ってやること。最強のピッチャーになること。

 私は野球を愛していた。
 
 三人兄妹の真ん中に生まれた私は、少年団で野球をしていた長男の影響で野球に惹かれ、そしていつしかそこに加わっていた。
 いざ始めてみると、どんどん好きになってのめり込んでいった。野球漬けの日々だった。

「ピッチャーやりたい」

 そんなある日ふと口に出した言葉。
 どこのポジションをやってみたいか…… 確かそんなことを聞かれた後に答えたのだと思う。
 幼い私の興味を一身に集めたのはピッチャーという存在。
 プロ野球の試合中継を見ていて、そこで打者からバッタバッタと三振を奪うピッチャーの姿に憧れていた。
 エースピッチャーという言葉の響きも好きだった。
 だからそんな強く誇り高い存在になりたかった。

「女のくせに――」

 チームメイトからそう揶揄されることもあったけど、当時はまだ小学生。男女の体格差もそこまでたいしたものじゃないし、女の子でもピッチャーをやっている人はいたからそんな言葉は気にならなかった。
 やがて私の意を汲んでくれた監督がピッチャーをやらせてくれた。

――私の球を受けてくれたのは兄の夏輝(なつき)。

 兄は正捕手だった。
 ピッチャーをやりたいという私を応援してくれて、練習の時はいつも私の球を受けてくれた。
 そんな兄と切磋琢磨しながらマウンドに上がる日を夢見て投げ込んだ日々。

「――夏海、いくぞ」

 ある練習試合の日だった。

 突然監督から告げられた一言。
 最初は聞き間違いかと思ったけど、確かにそれは私に向けた言葉だった。
 本当に嬉しかった。抑えきれない胸の高鳴り…… 緊張より嬉しさが勝っていた。

 試合は私たちの勝ち。
 私は途中交代という形で初めてマウンドに上がらせてもらえた。
 細長いプレートが置かれた土の上は私の自由そのもの。私は自由だった。
 打ち取られた選手の悔しい顔が忘れられない…… 快感。
 終盤でマウンドに上がった私はそのまま最後まで投げきって、そして0点に抑えて勝利したのだった。

 あの日は私にとってのピッチャー人生の始まり。
 そうして私は成長の階段を上っていく。
 あの試合で実力を見込まれた私は、以後登板の機会も増えて…… いつしかエースピッチャーになっていた。

 やがて時は過ぎ中学生になった私。
 もちろん野球が大好きでやめるなんて考えられなかったから野球部に入った。

 しかしそこで見えない壁に遭遇する。
 入部さえ許可されたものの、周りは男子だけ。
 どことなく監督である先生やチームメイトからの冷めた視線を感じた気がした。

「女なのに――」

 視線にはそんな言葉が隠されているようだった。
 中学ともなると、さすがにもう男女の体格差がはっきりしてくる。
 個人個人でもちろん変わってくるけど、そうなると体力面でも厳しくなり女子はついていくのが難しい。
 しかし私は野球が好きだった。他に野球を続けられる環境はそこしかなかったのだ。女子野球部なんてなかったし、ソフトボールには惹かれなかった。そうなればそこで続けることしか頭にない。
 入部届を見た先生から、「ソフトボールじゃなくて野球?」と言われたのも覚えている。
 
 更に、私はピッチャーをやっていたから中学でもやりたいと言うと、遂に嘲笑された。

「女には無理だ」

 その一言であっけなく突っぱねられる。
 
 私の望みを真に受ける者は誰一人としておらず、先生でさえも「せめて他のポジションを……」という始末だった。
 
――しかし、兄と朱彦だけは違った。

 私は夢を諦めきれず、練習終わりなどに一人で投げ込みを続けていた。
 すると兄と朱彦がそれに付き合ってくれたのだ。
 私は兄と同じ中学に入った。
 兄も野球を続けていて、二歳差だったから私が入部した時彼は最高学年の先輩であり、そしてチームのキャプテンになっていた。正捕手だった。
 そんな彼は以前と変わらず私を応援してくれた。
 そして朱彦もだ。朱彦と私は幼馴染でずっと一緒に野球をやってきた。
 彼も私と同じく野球部に入った。
 口では冗談ばかり言って私をからかう彼だけど、昔からそっと手を差し伸べて支えてくれていた。この時もそうだった。

 二人に助けられながら、支えられながら私は投げ続けた。

「――夏海、投げてみろ」

 しかし現実は変わらず、そろそろ心が折れそう…… そんな状態だったある日。いつもの練習中。
 顧問の先生、監督からそんな言葉が放たれた。
 夢かと思った。耳を疑った。
 その日の練習内容は紅白戦、試合形式の練習でレギュラーチーム対控えチームという様相。普段控えの選手にとってはアピールの場として絶好の機会だった。
 そんな機会に控え選手側のピッチャーとして一年の私が指名されたのだ。

 どうせ一年だし即戦力以外はバット引きやファウルボール拾い、ボール運び…… 良くてもランナーコーチャーや塁審係が関の山と思っていた。
 そんなところに突如押し寄せた一報。

 ピッチャーデビューのあの日と同じく、また途中交代でマウンドに上がった。
 懐かしい、やっと戻ってこられた…… そんな風に感じた。
 試合は控えチームが数点差で負けていた。
 そんなところ、試合終盤。

 マウンドに上がれば私のもの。

「女のくせに――」

 私が大嫌いな言葉。

 口にはしないものの、バッターボックスに立つ先輩は明らかにそういった侮蔑を込めた嘲笑を浮かべていた。

(――やってやる)

 どうせ先生も「負けているし現実を痛感させる為に――」と登板させたのかもしれない。
 だからプレッシャーはなかった。
 堂々と投げてやろうとむしろわくわくしていた。

――私の球を受けるのは朱彦だった。

 朱彦は兄のようにずっと捕手をやってきた。
 私たちのチーム、全体的に捕手は少なかった。だからそんな彼は二番手捕手候補に挙がっていて、私と同じく途中交代で控え側の捕手として出場したのだ。

――朱彦がサインを出す。

 小学の頃、兄が卒業していなくなってからはずっと彼が球を受けてくれた。
 練習のときも、試合のときも、はたまた遊びのときも……
 だから彼に全て任せられる。安心して投げられる。
 そのサインはずっと使ってきたおなじみのもので、「速い」か「遅い」か「内角」か「外角」か…… といった単純なもの。
 更にそこへ居残り練習等で身につけた覚えたての変化球のものが加わる。

――まさか。なんと私たち控えチームが試合に勝ってしまった。


 今でも忘れることはない。
 打ち取られて呆然とするレギュラーメンバー、先輩たち。
 目を丸くする監督。
 とても愉快で、これ以上ないほどの快感だった。
 私は点を許すこともなく投げきり、加えて三振もいくつか奪った。
 女には無理と言う男たちのプライドをへし折ってやったのだ。

 私はやれる。

 その確信を得た瞬間だった。

 その後私の力投に触発されたのかは分からないけれど、控えチームの打線が繋がり見事勝利を収めるという下克上を達成する。

――それからは何もかも順風満帆だった。

 後に聞いた話では、私の気持ちを汲んで一度でもいいから私をマウンドに上げて欲しいと兄・朱彦が監督に抗議してくれたとのことだ。
 そのおかげで機会を得て登板し、レギュラー陣を抑え、そして皆から認められた。
 やがて練習試合や公式戦でも登板するようになり、着々と実力をつけていった私。
 何もかも順調だった。
 もちろん完璧超人ではないから負けもしたが、完璧を追い求めて充実した日々を送っていた。
 いつの日かエースになって背番号1を…… そう思っていた。

――しかし、そんな私を不幸が襲った。

 忘れることなどできない。
 辛く、重く、凄惨な現実。
 受け入れることはできない…… 今でも受け入れたくない地獄。

 あれは兄にとって中学最後の公式戦となる夏の大会を控えた、ある日の練習試合。
 その日私は二番手として試合に途中出場した。
 私の球を受けてくれたのは兄だ。
 相手は県内でも強豪と言われるチーム。
 僅差で勝っていた試合、その終盤。
 あの日の私には驕りのような感情があったのかもしれない。もしかしたら夏の大会で投げられるのではないかと噂されていたからだ。
 浮ついていた私は出鼻を挫かれる結果となった。

 私たちは負けた。
 私が打たれて一気に逆転されてしまったのだ。
 それで試合は決まり。

 それも十分落ち込むようなことだったけど、まだそこまでは立ち直れるレベルだったと言える。そこまでは……

――神様なんていないんだ。

 もしかすると私のせいなのかもしれない。
 私があんないい気になっていたことへの罰なのかもしれない。

――兄の夏輝が死んだ。

 スコールのように突如として彼を襲った最悪な出来事。
 悪夢、地獄…… 思い出したくもないのに、思い出してしまう。

 その試合が終わり、私たちは解散し帰宅の途に就いていた。
 落ち込んでトボトボと自転車を押す私。
 隣に並ぶのは朱彦。後ろには兄。
 下を向く私を二人は慰めてくれた。

「――これからもお前の球を受けてやる。お前はいいピッチャーだ…… もっと強くなって優勝しよう。だから夏海は絶対エースになれよ?」

 私をいつも温かく見守ってくれる兄。大好きな兄。
 その言葉はいつも以上に優しかった。
 もっと頑張ろう。
 そう決意を固めて上を向いた。

 そんな時だった。

 比較的大きな交差点。
 確かにあの時車道側の信号は赤で、私たちが横断する方向の歩行者信号は青だった。
 忘れるはずがない……

「ねえ! アイス食べて帰ろーよ――!」
「お、おい―― 待てよ夏海!」
「二人とも危ないぞー、そう焦るなって!」

 気持ちを切り替えようと思った私の視線は横断歩道を渡った先のアイスクリームショップへ注がれていた。
 走り出した私の後に続く朱彦。そんな私たちとの距離が離れて後方にいた兄。
 私と朱彦は横断歩道を渡りきって。そして――

「――夏輝も早く!」
「わかった、今行くよ――」

――ゴオオオオ!!

 それはまるで竜巻、突風、または地震による地鳴りのような恐ろしい咆哮。
 横断歩道、自転車を押しながら歩く兄。

「先輩!! 危ない――!!」

 そう叫びを上げたのは朱彦だった。
 彼が叫びを上げた次の瞬間。
 
 一瞬…… 一瞬だった。
 
 横を向き、静止した兄。
 彼を吞み込んだ大型トラック。
 全ては一瞬。
 兄の姿は突っ込んできたトラックにさらわれ、消えた。

 ガシャリ、と自転車がメチャメチャになるような音がしたかと思うと、次には微かな生々しい響き。流れる赤い液体。

――即死だった。

 即死だったらしい。
 信号無視で突っ込んできたトラックの運転手は居眠り運転だったとか。
 もう何も考えられなかった。
 夢と思いたい。ただの悪夢と思いたい。
 嵐のように襲ってきた不幸に思考は停止する。

 真っ白になって、狂うほど泣き喚き叫んで。
 そうすると感覚が麻痺して、防衛本能からかやがて心が閉ざされて、仮面のような表情になって。
 気付けば作り物の人形のような…… 棺に眠る兄の前にいた私。
 やがて彼は焼かれて、残ったのは骨だけ。
 両親よりも先に逝ってしまった。
 あまりにも早すぎる死だった――


「――これからも受けてやるって言ったじゃん!」

 ベッドに埋もれる私。
 過去を巡って、そして現在に引き戻される。

 私のせいなのかな。
 私があの時もっとゆっくり歩いていれば。
 いきなり走り出さなかったら。
 そうすれば兄は助かっていたかもしれない。
 私は馬鹿だ。人殺しだ。最悪だ――

――兄が亡くなり、私はしばらく閉じこもった。

 野球を始めるきっかけをくれた兄。
 いつも優しくて、怒ることなんて滅多になくて、私のことを支えてくれた兄。
 ワガママを聞いてくれた兄。
 大好きな彼はもうこの世にいない。

 私は自分を責めた。
 あの時から今まで、これからも……

 やがて朱彦が付き添って励ましてくれたおかげで、少し立ち直った私は野球を再開した。
 兄との約束。約束と言えるほどのものなのかどうかは分からないけれど……
 エースピッチャーになれよ。
 その言葉を現実のものにする為。
 私は一心不乱に追い求めた。

 その結果、私は学年が上がってからエースとなり背番号1を背負った。
 約束は果たした。
 だけど何か違った。本来ならば喜ぶことだろうけど、何故か嬉しさはそれほど感じられなかった。

 きっともうこの世に兄がいないからだろう。
 心のどこかに開いた大きな穴は埋められなかった。

――そんな私に、不幸は重なる。

 己の身を粉にするように投球していた結果なのか。
 ある意味当然と言えば当然の結果だった。

――私の野球人生は早くも終焉を迎えた。

 それは肘の痛みと共に突然やってきた。
 ボールを投げられなくなっていた。
 私は投げ過ぎで肘を壊したのだ。
 病院へ行ったのも後の祭り。
 ドクターストップ。
 このままだともう野球は続けられない。投げてはいけない。
 死刑宣告と同じだった。
 不幸中の幸いか…… 手術とまではいかなかったけど、これ以上悪化したら最悪な事態になることには変わらない。どの道続行は不可能だった。
 左投げに転向することは考えた。だけど……

 心は燃え尽きて、そうして遂に全てが真っ白…… 灰になった。

 畳み掛けるような不幸。
 一度深手を負った心に新たなる痛みが加わり、私は参ってしまったのだ。
 左で右のように投げられるか、その自信がなかった。
 私は逃げた。
 私は弱い。私は最低な人間だ。
 逃げるようにして、それを理由に野球も部活も辞めてしまった。

 最低な女。
 それが私――

 本当に馬鹿だ。
 今もそんな性格を直せていない。
 朱彦と喧嘩してしまった…… いや、私が一方的に怒鳴り立ててしまった。
 本当に愚か者だ。
 彼はずっと私を支えてくれていた。こんな私を。
 そして今日「お前、もう投げるのは止めとけ」と心配してくれたのに、それを突っぱねてしまった。

――神様、神様がもしいるのなら…… お願い。

 球技大会で終わりにするから。
 全部…… 私の叶わなかった夢も、希望も、約束も。
 そして過去も全部…… 全部これで清算するから。
 だから大会が終わるまではもってよ。

 私の肘――

 野球を辞めてブランクがあるからこれくらいなら大丈夫と思っていた。
 だけどやっぱり…… いや、当然だけど駄目だったのかな。

――私の右肘、ジワリジワリと蘇る痛み。

 大会に向けた練習で軽く投げていたが、軽くでも駄目なものは駄目だった。
 ピッチャーをやると言った手前今更降りるわけにはいかない。
 みんな私を頼ってくれたんだ。もう逃げたくない。
 なんとか誤魔化してやっていた。
 だけど流石に朱彦には見透かされてしまって、忠告を受けた。
 私の為に言ってくれたのに、私は……

「お願いだよ――」

 情けない。
 シーツが濡れていた。
 いつの間に泣いていたんだ。本当に弱くて、負け犬で……

「お願い…… 球技大会で全部終わるんだ。
諦めたつもりが諦めきれなかった夢に終止符を打つんだ。
それで全部終わりにするから。過去も乗り越えるから。
だから、お願いだよ――」

 もう駄目だ。止まらない。
 次々と溢れる大粒の雫。
 ボロボロと頬を伝い落ちてシーツを濡らしていく。

「夏輝、お願い――」

 どれくらい時間が経っただろう。
 あれから帰宅して自分の部屋に閉じこもって、ずっとベッドに埋もれる私。
 もう涙も枯れて出ない。そうするとドッと疲れが押し寄せてきて、眠くなる。

「このまま寝ちゃおう」

 そうだ。これは悪夢だ。
 だから起きたら全ては元通り。
 明日朱彦に謝って、それで和間と千春にも気まずくさせたことを謝って。
 それで元通り。
 そしたら球技大会。

 大丈夫。
 いつもの私だ。大丈夫。大丈夫……

「――痛い」

 どうして?
 私が何をしたっていうんだ。
 お願いだから治ってよ、私の肘――

 ジワリジワリと痛む肘。
 それは心の痛みのようにも感じる。私が抱えている心の痛みと。

「夏輝――」

 兄の名前を呟く。
 もう戻ってこない大切な人。
 目を閉じるとあの暑い日の記憶が蘇ってしまう。

――兄を襲った不慮の事故。あの瞬間、異様な影を私は目撃した。

 気付いたら目の前には急ブレーキを踏んで停止した大型トラック。
 遠く向こうまで吹き飛ばされた兄。
 私はふとトラックの運転席に視線を移す。
 その時。

 一瞬だった。
 そこには運転手がいるはずなのに……
 真っ黒な影がいた。
 もしかしたらあまりのショックに見た幻覚なのかもしれない。
 この事実は誰にも言えなかった。朱彦はどうだったのかは分からないけど、それは恐らく私だけが見た幻覚だったと思われる。

 影は真っ黒で、でもぽっかりと開いた空洞のような目や口が確認できた。
 それは私を見ていて、ニヤリと笑ったのだ。

 恐ろしい幻覚。
 確かに私には見えていた。ソイツは私を見て狡猾な笑みを浮かべたのだ。
 そしてそれが確認できたとき、影はふっと陽炎のようにゆらゆらと消えた。
 消えた後には眠ったように動かない運転手が――

「――お風呂入ろ」

 駄目だ。
 もうあの日のことは思い出したくない……
 きっとただの幻覚だ。
 眠ろうと思ったけど、このまま眠ってしまうとあの影や事故の瞬間が夢に出てきそうで。
 だからお風呂に入って切り替えようと思った。
 重い体を起こし、ベッドから出て立ち上がる。

――夏海。

 部屋のドア、そのドアノブを握ったとき。

「どうして――」

 泣きすぎておかしくなってしまったのか。
 遂に幻聴まで聞こえるようになった。
 その声は。

「――夏輝?」

 私のすぐ後ろから微かに聞こえてきた声は大好きな兄の優しい声。
 ゆっくりと後ろへ振り向いていく。

「夏海」
「嘘、だよね――?」

 そこには夏輝がいた。
 事故で亡くなったあの日と同じ姿。
 試合帰り、土だらけのユニフォーム。それを着た夏輝が立っていた。

「夏輝、なの――?」
「――夏海」

 夏海。
 それしか言わない夏輝。

「夏輝…… ごめんね」

 涙は枯れたはずなのに。
 微笑む彼を見て、急に込み上げてくる。

「私のせいで――!」

 幻覚であろう彼。
 幻覚と分かっていても、込み上げる想いを抑えきれない。

「私があんなことをしたせいで、夏輝は!」
「夏海、力が欲しいか?」
「――力?」

 目の前の夏輝は急にそう言って、そして声音を変えた。

「夏海、夏海は憎しみを抱えているんじゃないか? 実は」
「え? 急に何を言って――」
「――俺は全部知ってるよ。憎しみ…… いや、妬みと言った方がいいか」
「突然どうしたの夏輝!? 妬みって」

 これは夏輝じゃない!
 目の前の彼は急にそう言って汚い笑みを浮かべた。
 こんな笑い方、夏輝はしない!

「全ての人間に嫉妬しているんだろ? 夏海」
「やめて! こんなの夏輝じゃない!」

 直感が知らせる異変、異常事態。
 私は夢を見ているの!?

「正直に言ってみろよ? 夏海」
「やめて、やめて!!」

 ニヤリ。
 それはまるであの日みた影が浮かべていた恐ろしい笑み。

「どうして私がこんな目に。どうして私だけ。どうして――」

 呪文のようにブツブツと言葉を吐く夏輝。
 やがて呪詛を呟きながら私の頭を片手で撫でる彼。

「正直になれば楽だぞ?」

 目の前の彼と、そしてあの日の影が重なったように感じた。
 撫でられているうちに、何故だか思考が鈍っていく。

「ほら、心の声を口に出してごらん?」

 段々と頭の中が真っ白に。
 やがて意識も曖昧になっていく。

「私は――」
「そうだ、その調子だ」

 駄目だ。
 これはきっと悪夢。
 大丈夫、起きたら全部元通り――

「――私は、幸せな人間が妬ましい」
「そうだろう? いいんだそれで」

 曖昧な世界の中、私が何かを言っている。

「私は幸せな人間が妬ましい。
彼らはまるで不幸なんて存在しないと言うかのように、不幸な人間がいることを気に掛けず、幸福を独占している。そんな奴らが妬ましい」
「よく言った。そうだろう?」
「私はこんなに頑張ってきたのに。それでもうまくいかなくて。
なのに、なにもせずへらへらと生きているような奴らが幸せを独占している。
私はそんな人間たちが妬ましい」

――違う! こんなこと思ってなんかいない! 私はこんな人間じゃない!

「夏海、力が欲しいか?」
「――欲しい」

 やめて!
 私はこんなんじゃ――

「私は妬む、幸せな人間を。
幸福を独占する奴らが許せない。
だからそんな奴らに不幸を味わわせてやる。
嫉妬を植えつけてやる」
「よし、いい娘だ夏海」

 私はこんな人間じゃない!
 どうしてこんなこと言っているの!?
 やめて!

「――よし、そんな夏海に力を貸そう」

 私を撫でる手が止まって、そして目の前の夏輝が。

「これで何でも思いのままだ――」

 恐ろしい影が、私の中に入っていった。
 そんな気がして、そして私の意識はプツリと途切れる――

 あれから翌日。
 球技大会は遂に明日となった。

「――夏海ちゃん大丈夫かな」
「そうだね……」

 放課後、家までの帰り道。
 自転車を押す俺と千春。

「でも、俺たちがずけずけと足を踏み込んでいい問題じゃないし」
「そうだよね……」

 俺たちの気分とは打って変わって、綺麗な夕暮れ。
 大会を明日に備えた俺たちは、朱彦の一言でいつもより早く練習を切り上げた。
 
 昨日朱彦から明かされた夏海の過去。
 それを聞いてどうすればいいか迷っていた俺たち。
 本人から相談を受けたわけでもないので、おいそれと口にできることではなかった。
 そうして歯がゆい想いだけが立ち込めている。

「夏海は大丈夫って言ってたけど――」

 そこで今日一日を振り返る。

 昨日あんなことがあって、しかし夏海はいつも通りの元気な笑顔で現れた。

(みんな、昨日はごめん――!!)

 彼女はそう言って俺たち三人へ勢いよく頭を下げたのだった。

「見た限りではいつもの夏海って感じだったけど」
「うん……」

 夏海は体育委員だから球技大会の前日準備があるとのことだった。
 だから今日の放課後は彼女なしで練習したので、その時に朱彦に尋ねてみた。
 夏海の肘の状態は大丈夫なのかと。
 それが気がかりだった。
 彼女の辛く、重い過去話を聞いて、そんな彼女に無理させるわけにはいかない。

(――あいつ、なんかすっかり治ったとか言ってたぞ)

 ところが朱彦は不思議そうな、疑問を浮かべたような面持ちでそう答えたのだった。

――我慢して嘘言ってるんじゃないかと思ったが、どうもそんな感じじゃないんだ。
 今朝あいつに呼び出されて練習したんだ。そしてあいつの球を受けたが、全盛期の…… いや、それよりも調子のいい最高の球だった。
 ドクターストップがかかるほどの状態なのにあんな球を、それも何球も投げられるのが不思議だ。
 今まではなんとかごまかしごまかし投げている素振りだったのに、急にここにきてそんな状態だった。
 まるで本当に治ったかのようだった…… いや、治るに越したことはないんだけど、肘や肩を壊したら度合いにもよるが復帰は困難だ。いくらブランクがあるとはいえ、昨日まで痛みが再発して顔を歪ませていたのに。
 それなのに――

 と、朱彦は付け加えた。

「――確かに、治るに越したことはないんだけど」

 そう、それ以上に喜ばしいことはない。
 しかし。

「朱彦くんが言っていたように、それほどの状態で急に治るってことがあるのかな――」

 ないだろう。
 それは素人である俺や千春にも分かることだった。

「とにかく、夏海に何もなければそれが一番なんだけど」
「そうだね…… どこか心配――」

 トボトボと歩いている内に、気付けば彼方に木ノ下家が見えてきた。
 
 今日の夏海を見る限りでは、いつもの彼女という様子だった。
 だから大丈夫とも言えるけれど、しかしどこか――

――どこか、彼女の笑顔の裏に何かがありそうな、そんな気がした。

(あいつ…… あれはあいつのせいじゃないのに、あいつは自分の罪として過去を背負って…… それで今も過去に縛られたままなのかもしれないな――)

 朱彦がいつか呟いたそんな言葉が、俺の脳裏でいつまでも鳴り響いていた。


 湧き上がる観衆。立ち込める熱気。
 ジリジリと地上を焼き付ける太陽。
 それに照り付けられながら青春を燃やす生徒たち。
 陽炎を生むダイヤモンド。

――球技大会当日。

 遂に開催されたそれはまるで甲子園のような熱気だった。
 梅雨でジメジメとした気候に入り無事開催されるか不安だったけど、昨日に引き続き快晴。まるで真夏のような気温。梅雨の晴れ間というものか。

 理事長や校長など偉い方々の挨拶で始まった球技大会。
 俺たち一年はその規模の大きさに愕然としたのだった。
 単なる行事の一つに過ぎないと思っていたが、舞白さんがいつか言っていたように保護者や周辺住民が大勢訪れ、応援団のようなものまで来る始末。
 ただの校内行事の一つなのに、まるで祭り…… 全国規模の体育大会と言えるような様相だった。
 体育祭や文化祭ならともかく、ただの球技大会でここまでとは。
 学園の底知れない力に恐怖さえ覚えそうだった。

「――遂に次が俺たちの試合か」
「うん! 頑張ろうね!」

 場所は学園内の野球グラウンド。
 生徒数が多いので運営上周辺の運動公園や球場なども一日貸しきっているらしい。
 俺たち一年は学園内で、二年や三年は市の運動公園などで競技を行っているようだ。
 形式はトーナメント。一度負ければそれまでだ。

 野球部が強豪かどうかは知らないけど、野球グラウンドはまるでプロ選手が使っているような本格的な設備だった。大きなナイター用の照明と、人工芝だろうか? 外野は芝生に覆われていた。

 まさに球場そのものと言える様相だった。ここで練習できるなら生徒たちも本望だろう。
  
 そんな球場そのものの野球グラウンド。
 試合は既に順を追って始まっている。
 とうとう俺たちの初戦が次に迫っていた。
 球場外で出番を待つ俺たち。
 球場から聞こえてくる地鳴りのような群集の歓声、叫び、応援団の声援、管楽器や打楽器のファンファーレ…… これってただの球技大会だよな……?
 あまりの熱狂具合に俺は身がすくむような状態だった。
 そんなところ一人呟くように言葉を吐いて緊張していたら千春から声を掛けられる。

「これってただの球技大会だよね?」
「そうだね…… まさかこんな大規模なものだったなんて」

 さすがに千春も驚きを隠せない様子。

「どこから集まったのか知らないけど本格的な応援団までいるし」

 たかが一日限りの球技大会。
 野球もクラス数などの関係から一試合5回まで。延長した場合は追加で二回あるけど、それを超えればじゃんけんで勝負を決めるという、競技内容自体は小規模なものだった。
 それにも関わらず、まるでプロや全国大会の試合のような盛り上がりぶりなのである。応援団の正体も未だ謎のまま。

「――ま、私たちは試合に集中するだけってことよ」

 その時、俺の背後から肩を組むようにして覆い被さってきたのは夏海だった。

「和間も出るんだから。頑張ってよねライトフィールダーさん。そして千春も頑張ろうね!」
「うわっ! ちょ、わかったわかった!」
「そうだね! ありがとう夏海ちゃん!」

 ふいに押し寄せた柔らかな感触や爽やかな匂いに思わず動揺してしまう。

「そうだぞ和間。まあ、応援団とかについては謎だが、それも一興ってやつだ。精一杯楽しもうぜ」

 俺の呟きは彼らにも聞かれていたらしい。
 夏海に続き現れたのは朱彦。そしてその手には――

「よーしお前ら集合! 試合前に気合入れるぞ! 家庭クラブの女子がクラスの旗まで用意してくれた! 円陣組むか!」

 朱彦が片手に持つ、アルミ製のようなポールに結わえ付けられ、風になびく応援旗。
 まるで体育祭や文化祭で使うような応援旗。
 そこには赤の生地に「必勝 1-B」と鮮やかに文字が描かれている(ちなみに俺たちは1年B組だった)。
 そして朱雀だろうか。中国に伝わる伝説の四神、その一つである朱雀が威風堂々と文字と共に描かれている。誰が描いたものなのか分からないが、それを見ると思わず身が引き締まる思いだった。

 それを片手に持つ朱彦の一言で、俺たちは円陣を組む。

「よーし! それじゃ…… 何て言えばいいんだ?」
「おい! しっかりしろキャプテン!」

 自分から円陣を促しておいて、いざ組んだ時に冗談を言う朱彦。
 いつもの調子で自然とツッコミを入れる俺。

「そうだな…… とりあえず楽しもう! 欲を言えば勝とう!」
「優勝だよ、優勝!」

 夏海が皆を扇動する。

「よし。それじゃー1のB! 絶対勝つぞ!」

 うおおおおおお!!

 俺たちのテンションは吹っ切れて最高潮へ向かう。
 朱彦の掛け声に続き雄叫びを上げるみんな。
 全員が一つとなった瞬間だった。

――そして遂に、俺たちの夏が始まった。

――9番。ライト、土門君。

(アナウンスまであるなんて――)

 遂に俺たちの試合は始まった。
 バッターボックスに立つとまるでスローモーションのように時間は流れる。
 走馬灯のように流れる時間。
 その中で俺は朱彦の言葉を思い出す。

――1年D組との初戦。俺たちはなんと勝っていた。

 後攻めになった俺たち。
 初回は夏海が男子顔負けの豪快なピッチングで安打一つも許さず完封する。
 驚愕の顔を浮かべる相手チーム。
 それは俺たちも同様だった。
 肘の状態を心配していた朱彦や俺、千春だったが、彼女の堂々とした他を寄せ付けないピッチングに度肝を抜かれ、チームメイトはそれに触発される形となり打線が繋がる。
 やがて朱彦を始めとするクリーンナップの打線が猛威を振るい、続けざまランナーを帰したことで先制したのだ。
 
 夏海のことが心配だったけど、彼女はまるで肘の痛みなど元から存在しないというかのような軽快な動きを見せ、本当に治ってしまったようだった。
 不思議に思ったけど、痛みがないならそれが一番だ。
 女房役となる捕手の朱彦(女性ピッチャーに対して女房というのもいささか可笑しい表現ではあるけれど)は彼女に「もし痛みがあったら即座に交代する」と条件を付けたようだが、その危惧は杞憂なものだったようだ。

 そうして夏海の活躍で相手に一点も許さず、迎えた三回の裏。
 俺たちの攻撃。ツーアウトランナー二塁。
 チャンスで打順は俺に回ってくる。

「――いいか和間、長打なんて狙う必要はない。球を叩きつけるイメージで打て。それだけだ。あとは好きにやってこい」

 打席に立つ前、朱彦からの言葉が蘇る。

(わかった。大体の流れは掴めたし)

 これまでの打席、俺はヒットを打つことはできなかった。
 しかし今までの特訓の成果か、素人ながらバットに球を当てることができたのが何より嬉しかった。
 大体の流れは掴めたので、次はヒットを。

(相手ピッチャーは大体、初球はストレートを投げているようだよ)
(千春…… いつの間にそんなスコアラー的な分析ポジションに――)
(――俺と夏海が頼んだんだ。さすが木ノ下さんだぜ)
(私にできることと言えばこれくらいしかないから)
(十分だよ。ありがとう千春)
(そうだな。だから和間は直球を狙え。変化球は見逃していい。狙うなら初球のストレート、もしくは決め球のストレートだ)
(うん。変化球は今のところ外す時、釣り球で揺さぶる時にしか使ってないみたい。あくまでもカウントを稼いでいるのは直球が多いし、バッターを追い込んだ時も直球が多いみたいだね)
(というわけだ。だから狙うなら初球のストレート、もしくは決め球で投げてくるストレートだ。直球に自信があるみたいだが、狙ってくるコースこそ正確でも球速自体はたいしたことない。頑張れよ――)

「――よーし」

 アドバイスを思い返して、肩の力を抜き、そしてバットを構える。
 大会ルールで盗塁は禁止だったから、ピッチャーはランナーが出てもそれを気にせず打者に集中して投げてくる。
 それを迎え撃つ俺。
 大丈夫だ。今まで何回もバットを振ってきて、それで素人でも当たったんだ。
 この手に出来たマメは嘘じゃない。まるで野球部のように野球に明け暮れた日々。

――大丈夫だ。

 やがてピッチャーが振り被り、そして――


(なんだと!?)

 初球。
 バチンと小気味よい音を立てるキャッチャーミット。審判の「ストライク!」の掛け声。

 まるで手が出ずに見送った。
 ストレートが来ると高をくくっていたら、相手が放ってきたのは変化球だった…… 右投げの相手が放ったそれは斜めに曲がるようにしてストライクゾーンに納まったので、恐らくカーブだろう。

(投球パターンを変えてきた!?)

 初球はだいたいストレート…… ということだったし、俺が見てきた限りでもそうだった。
 しかしここで相手ピッチャーは変化球を入れるようにして路線変更をしてきたのだ。

――1ストライクノーボール。続いて二球目。

 振り被って、そして投げてくる。

(次は何だ――!)

 遅い球を投げてきたのなら、次は。

「――ックソ!」
「ストラァァァァイク!!」

 空振り。
 相手は緩急を突いてきた。
 そう来るだろうとは予測できた。
 できたけど、遅い変化球のあとに投げられた直球はまるで矢のような速さに見えて、それで振り遅れというかたちになり空振りしてしまった。

――ツーアウトランナー二塁。カウントは2ストライクノーボールだ。

 くそ…… 次は何を投げてくるんだ……

 高鳴る鼓動。
 今にも心臓が口から出てしまうのではないかという程の緊張だった。
 震える足。

「――和間、バッチ一本だ!」
「打てるよ和間!」
「和間くん頑張って!!」

 一塁側のベンチから俺の背を押す声援。
 朱彦、夏海、千春、チームメイトのみんな。

(やってやる)

 冷静になれ。
 相手から見ればカウントに余裕がある。
 このまま決めてくるか、それとも一旦外してくるか、その二つだ。
 相手はどう来る?
 俺は素人だし、下位打線の9番だ。しかもヒットを打ってない。
 要するにアウトを取るならうってつけなのが俺だ。

――そうなれば。

 ベンチ、外野スタンドから飛び交う声援。
 管楽器や打楽器のファンファーレ。
 どこから押し寄せたのか分からない応援団、そして保護者の方々が奏でる応援歌。
 俺を呼ぶ声。

――三球目。ピッチャーは振り被り……

(来た――!!)

 それは何と名前が付いた感覚かは知らない。
 けれど相手が放った三球目のボールはストレートだった。
 それが投げられた瞬間にハッキリと分かったのだ。まるでその一瞬だけ時間が止まったかのような、そんな感覚だった。
 変化球を入れてくると思っていたが、そんなところに相手は決め球のストレートを投げてきたのだ。
 もしかするとどうせ俺くらいなら直球でも打ち取れると思っていたのかもしれない。事実そうだったことだし。

 でも、そんな感覚が俺に訪れて、そしてバットを振った。振っていた。
 いつの間に俺はバットを振っていたのだ。
 まるで木の棒のようにバットが軽く感じた。
 この上ない快感だった。

 バキン!!

 自分がスイングしたことに気付くと、次にやってきたのはバットの芯で捕らえたような感覚。そしてバットから発せられた軟球、ゴムボールを打ち抜いた快音。

「和間走れー!!」

 ふわふわとした感覚の中呆然とする俺は朱彦の叫びで現実に引き戻された。

「やった――!!」

 ヒットだ!!

 俺はヒットを打った!!
 やった!!
 やや外角高めで放たれたストレート。上から打ち下ろすようなスイングで打った球はライナー性で一塁手の頭上を抜けていった。
 塁審がフェアのジェスチャーをしながら叫ぶ。

 俺は走る。
 ファウルゾーン寄りに抜けた球をライトが今、捕球した。
 俺は一塁で止まる。
 ふと二塁ランナーの行方を追うと、彼はホームへ達していた。

「よくやった和間!!」

 チームメイト、観客から歓声が上がった。
 空間を揺らすような叫び。
 
 やった、のか……

 驚きが先行して、次に少しずつ歓喜が湧き上がってくる。
 鳴り響く応援団のチャンステーマらしき音色。
 どこまでも突き抜け木霊する音。

(やった…… やった!!)

 俺にも出来たんだ。
 適時打を打てた!!
 チームに貢献できた!!

 その事実に俺の心は舞い上がる。

「和間くん――!」

 余韻に浸っていると千春の声がして、その方向へ視線を移す。
 すると千春がベンチから身を乗り出すようにして、まるで自分のことのようにはしゃいでいた。
 その姿に俺まで嬉しくなって、俺たちは何回も頷き合っていた。


 これほど喜びを共有できたことがあっただろうか。
 初戦を勝利で飾った俺たちはその勢いで快進撃を続けていた。
 夏海のピッチング、それに応えるチームメイトの活躍で快勝し勝ち進んだ俺たち。
 まるで夢のようだった。
 勝てればいいか…… そんな風に思っていたのがまさかここまで来れるなんて。
 
 俺はというと、勝ち進むごとに当然相手のレベルも上がっていってあれ以来ヒットを打てなかった。
 そしてあくまでもクラスの親睦を深める為のイベントなので、公平に出番が回るようにと俺は他の選手と交代したり、また出場したりの繰り返し。大会ルールで交代は何度でも大丈夫とのことだった。
 守備の方はエラーもなくちゃんと出来ていた…… と言っても、夏海の活躍のおかげなのかライトへはほとんど球は飛んでこなかったのだ。
 外野に行くのは打ち損ねのフライか、また、ヒットでも長打性のものはなく外野ゴロだけ。
 唯一俺のところへ来たのはその外野ゴロだった。
 後ろへそらさない一心で体全体を使って捕球しに行った。
 なので今のところ守備にミスはない。これからも飛んで来ないように祈るのみだ。

 一方朱彦は経験者ということもあってか大活躍。四番打者だった。
 主に彼が起点となりチャンスは作られる。
 それが他の打者と見事繋がって点となり勝ち進んだのだ。
 また、夏海とは幼馴染でずっと野球をしていた…… 兄と共にずっとバッテリーを組んできただけはあってその息はピッタリ。以心伝心のような二人はまさに達人の域だった。

 夏海も絶好調で、エースピッチャーそのものだった。
 男子顔負けのピッチング。空振りも何度か奪っていたほどだ。
 肘のことが心配だったけど、彼女は痛む素振り一つも見せずに力投していた。
 痛みを抱えながらあんな投球できるわけがない。
 痛みは本当に治まっていたようだ。
 彼女のピッチングに目を丸くする相手選手の顔がなんともおかしく見えた。
 いや、彼女の姿を見れば誰だってそうなるのは自然な成り行きだろう。

 それほど夏海の実力は凄まじいものだった。
 男をねじ伏せチームを勝利へと導く姿に、どこかジャンヌダルクのような神々しい存在とさえ思えてきた。
 バッターを追い込んでからの決め球、そのストレートはまるで生きているかのように伸びていき、朱彦が構えたコースにピッタリと納まる。ミットを突き破るかのようなバチン、という捕球時の快音。そしてバッターはまるで手を出せずに見送って、審判からストライクのコールが出る前に夏海と朱彦はベンチへと戻っていく…… 唖然としたままバッターボックスに置き去りにされる打者。
 あの姿はまさに俺たちの勝利そのものだった。

 そして千春。
 千春は主に裏方としてチームに貢献してくれていた。
 給水の差し入れだとか、分析役だとか。
 千春自身がどう思っているかは分からないけれど、それは彼女に最も適しているポジションに思えた。
 千春はチームの象徴で、彼女が頑張れの一声をチームメイトに掛けると、まるで魔法や暗示に掛かったかのように彼らは奮起し、そしてチャンスを作っていた。
 そんな彼女に対する俺たちの掛け声はいつしか「イエス、ユア、マジェスティ!」へと変わっていた……

 また…… なんとも面白かったのは、千春も打席に立ったことだ。
 朱彦の計らいで千春も打席に立った。別にそこまではおかしいとか面白いとか抜きで純粋に応援していたのだが――

(おい! 我らが陛下に死球でも与えたらどうなるだろうな!)

 周りから、それに味方であるはずのチームメイトからも圧力を掛けられる相手ピッチャー。さすが千春……
 その全員からの圧力に屈した相手ピッチャーは緩い球を投げるしかなかった。
 そしてなんと――

――千春もヒットを打ったのだ。

 あの光景は思わず二度見してしまったほどだ。
 全てを包み込むような優しさを持つ彼女。
 そんな彼女が今まで見せたことのないような力強い眼差しと共に豪快なスイングをしたのだ。
 体の軸はまるで一つもぶれずに、お手本そのものと言える綺麗なフォーム。
 いつの間にそんな…… 彼女は学業や芸術面そして運動にも秀でているまさに天才だった。
 天は彼女に一体何物を与えれば気が済むのか…… いや、地母神と言われるくらいだから彼女自身が神なのかもしれない。
 豪快なスイングによって打ち返された球は三遊間を綺麗に抜けてシングルヒットとなったのだ。

 あれ? これ千春出せば確実に勝てるんじゃね? という声が上がったが、彼女がフルで出ると試合そのものが壊れる(我らが女神に何かあったら社会的に抹殺されるという無言の圧力が主に男子の間であるから)恐れがあるので、彼女は代打の切り札として温存されることとなった(後にこの現象は男子の間でマジェスティ効果と呼ばれるようになる)。

 一方ヒットを打った千春本人はそんな裏の駆け引きがあるなんて知らないから「やったよ和間くん!」と大喜びで飛び上がるほどはしゃいでいた。
 まったく…… 罪な女だぜ。
 と思わずこぼれそうになったのだった。

 順調に勝ち進んでいる俺たち。
 気付けば時間は正午を回っていた。
 午前の試合はそこで終了となり、昼食を隔てて午後の部となる。


「――和間飯食いに行こうぜ!」
「そうだね」

 午前の試合が終わり、そして勝ち進んでいることもあって気分上々な朱彦と俺。

「そういえば、朱彦は飯買ってきた?」
「いや、これからだ」
「購買?」
「そうだなー…… 和間は?」
「それが実は――」

 いつもは千春が弁当を作ってくれるのだが、実は今日は――

「――私の家でお昼準備してきたんだけど、良かったら…… どうかな?」
「木ノ下さん! どういうことだ?」
「実は千春のおじいちゃんとお手伝いさんが応援に来てくれているんだ。お昼も用意してくれたって。だから朱彦も一緒に食おうぜ。夏海もさ」
「うおおお! マジか! 是非いただきます! おい夏海、行こうぜ――」

 今日の昼食は千春と舞白さんが皆の為に作ってくれたらしい。
 こうやって皆で昼食を食べるなんて、幼い頃の運動会が思い出される。
 地元の家族は元気にしているだろうか…… なんて郷愁じみた感情も生まれてきた。
  
 そんな感情に浸っていると、俺たちの輪から少し外れて遠くを見ている夏海がふと目に入った。
 ぼーっと、その視線は雲一つない青空の彼方へ注がれているようだった。

「おい、夏海どうした? もしかしてお昼準備してきたのか――?」
「――えっ? いや、購買で買おうと思ってた」
「夏海ちゃんも一緒にどうかな?」
「――何が?」
「だからお前、木ノ下さん家がお昼準備してくれたんだって。ぼーっとしてるけど大丈夫か?」
「あ、ああ! 本当に!? ありがとう! それじゃ私もいただきます――!」

 朱彦の言葉で放心状態から我に返る夏海。

(大丈夫かな?)

 普段の彼女らしからぬ様子。
 大丈夫と言っていたし、その言葉通り絶好調という状態の夏海だけど……
 数秒前の彼女を見て、俺はどこか不安のような感情を拭えずにいた。


――体はこの上なく軽い。

「ストラァァイク!」

――絶好調だ。

「ストラァァァァイク!」

――もしかしたら現役時代を遥かに超えているかもしれない。

「バッターアウト!!」

 いわゆるランナーズハイのような極限状態の中に私はいる。
 誰も私を止められはしない。
 脳内麻薬が溢れるほどに流れ、私の体を満たしていく。
 この盛り上がった土の上は私の天国だった。

――沸き立ち空気を震わす人々の歓声。

 声援。
 ジリジリと焼くような暑い日差し。
 どこまでも鳴り響く応援歌。

――球技大会決勝。

 まさかここまで来れるなんて。
 私自身でさえもこうなるとは思っていなかった。

 兄の「影」を見た私。それが私の中へ入ってきたように感じられて、そして気を失ったあの日。
 あの日を境にまるで肘の痛みなど最初からなかったかのように、それは治まっていた。
 あの幻覚がなんだったかは分からない。もしかしたら単なる夢だったのかもしれない。
 だけど亡き兄が力を貸してくれているという風にして、それを信じ頼って投げることにした。

 するとどうだろう…… 今見ているこの光景でさえも夢なのではないかと思えてくる。
 それくらいに絶好調だった。
 どのような言葉で言い表せられるか…… まさに夢の中という状態。
 体は思いのままに動き、全ての事象はイメージ通りに進んでいく。
 イメージ…… 勝利のイメージ。勝利の確信。
 その確信が今の私には常にある。
 負けるなんて考えられなかった。はなから浮かばなかった。

 気付けば決勝。
 五回ばかりの短い試合。
 相手はスポーツ特待クラスだった。
 そんな才能の塊みたいな集団相手に、安打一つも許さず初回を抑える。私たちは後攻だった。

「――ずっと投げてきたけど、大丈夫か?」

 ベンチに戻ると朱彦が心配そうに、周りに聞こえないような声で私に尋ねてきた。

「大丈夫だよ。まだまだ投げられる!」
「そうか…… その、お前にもこれからの長い人生があるんだ。ここで故障して二度と使えなくなっちまったら――」
「――大丈夫だって! ありがとう。本当に大丈夫だから」
「もしちょっとでも異変を感じたら言えよ? 絶対だ」
「分かった。ありがとね」

 これからの長い人生――
 確かに私も10代でまだまだこの先は長い。
 だけどここで諦めてしまったら、この先の未来には意味がない。
 せめてこの瞬間、この時間だけ。
 たとえこの体がボロボロになろうと、私はこの瞬間に賭けたい。
 輝いていたい。

 これで全てが終わるんだ。
 私の夢と兄の夢。
 私の過去や私の罪。
 ここで全て終わりにするんだ。
 これが終われば何一つ後悔なく前へ進んでいける。
 だからこの瞬間に全てを賭ける。

(だから夏輝、力を貸して――)

 その時ワーッ、と歓声が上がる。

「――おいおいマジかよ…… ナイバッチ!!」

 シングルヒットで仲間が出塁した。
 信じられないと言うかのような朱彦の顔。

「俺たち優勝できんじゃね?」
「当たり前じゃん。あんたと私と、それにみんながいるんだから――」

 幸せだった。
 出来るならこの時間がいつまでも続いて欲しいとさえ思う。

――打順は回る。

 シングルヒット、そして犠打によってランナー二塁。ワンナウト。

「――よっしゃ! それじゃ行ってくるわ! お前に回すから頼むぜ」
「はいよ、そっちも頼むよ四番!」

 打順は一番二番を経て三番に回ってきた。
 ランナー二塁アウトは一つだからランナーの判断ミスなどでダブルプレーが起きない限り必然的に四番の朱彦まで回ってくる。
 ネクストバッターズサークルへ向かう頼もしそうな彼の背中を見送り、そして私も自分のバットを取った。

「夏海は何番だっけ?」

 ベンチ内、ずっと使ってきた愛用バットのグリップを握ったとき、ふと後ろから声を掛けられる。

「私は五番だね」
「そっか、頑張れよ!」
「ありがと! きっと私にも回ってくるから準備しとくね」
「――だな。バッチ一本…… だっけ?」
「そうだね。和間も頼んだよ!」
「うん、ありがとう」
 
 振り向くとそこには和間がいた。
 風にそよぐ栗色の毛。鮮やかな琥珀色の瞳。
 初夏の心地よいそよ風と、そんな風のように優しく爽やかな笑顔を見て何故だかドクンと鼓動が跳ねた。

「――夏海ちゃん頑張ってね!」
「千春もありがと!」

 私たちを支えてくれている千春。
 私の大切な仲間、親友。お姫様みたいに綺麗な女の子。
 彼女の期待にも応える為に。

――よっしゃあああああ!!

 再び生まれた歓声、叫び。

「面白くなってきた――」

 三番のチームメイトがレフト前へ綺麗なヒットを打った。
 二塁ランナーは三塁で止まり、ワンナウト一・三塁。
 打順は四番の朱彦へ。

(私にも回って来る)

 バッターボックスに向かう朱彦。
 彼と視線が合う。

「頼んだよ――」

 ニヤリ、と彼は笑った。
 
 見届けて私もネクストサークルへ向かう。


「まさか…… スキンヘッドランニング――」

 大チャンスでバッターは四番。
 芝生に覆われた外野席。
 そんな時、そこで応援してくれる大勢の保護者や一般客、どこから来たのか分からない謎の応援団が奏でたのはそんな名前のチャンステーマだった。
 人々の声が重なり合って、響きあって、突き抜ける。
 体の底からふつふつと沸き上がってくるような闘志と、それを駆り立てるこの応援。

「――やった!! 回れ!!」

 そしてこの応援がそうさせてくれたかのように、朱彦が右中間を切り裂くライナーを放った。
 どこまでも抜けていく打球。
 三塁、一塁ランナーが続けざまにホームベースを踏み帰って来る。

「ありがと!」

 生還したランナー二人と続けざまにハイタッチして、朱彦にガッツポーズを送った。

「やるじゃん――」

 二塁ベースに立って高々とガッツポーズする朱彦。
 2対0。
 私たちが先制した。

(これならいける)

 打順が回り、やがて私も打席へと向かった。
 朱彦がランナーを帰してくれたので幾分か肩の荷が下りたけど、まだチャンスは続いている。
 そう、まだチャンステーマが流れている。

(私だって)

 このまま流れに乗って私もヒットを。
 土をならし、そしてやや脱力気味にバットを構えた。

(私だって――!)

 グリップを絞る。
 優勝してやる。
 優勝して綺麗に締めくくり、それで全てを終わりにする。
 私の夢、過去、罪。
 全部これで終わりにするから。

 だから――

「――何で」

 そう覚悟を決めたときだった。

(何で――)

 あまりの衝撃に思わず声が漏れる。

――私の右肘に突如として鋭い痛みが稲妻のように走った。

「お願い、投げさせて――!」
「もう駄目だ! 交代する!」
「駄目! やだ! まだ大丈夫!」
「お前――」

 どうしてなの?
 
 蘇る右肘の痛み。
 ズキズキと私を蝕む痛み。

(さっきまで全然大丈夫だったのに!)

 突如蘇った痛みは私を襲う。
 一回裏、私の打席で蘇ったそれのせいでろくにバットも振れず凡退。後の打者も凡退。結果2点のまま終わってしまった。

 それからはずっと苦しい時間が続く。
 絶好調が一変して絶不調の底まで急落し、そうなると当然相手も見逃してくれるほど甘くはない。
 ズキズキとした痛みは次第に強くなり、それに比例して相手の打線も徐々に活発となる。

――2対2。同点で迎えた五回表、ツーアウト。

 相手の攻撃、ランナーは満塁……

「もう駄目だ、やめろ!」
「嫌! まだ大丈夫!」
「大丈夫なわけないだろ…… お前が壊れたら――!」

 点を許してしまったけど、ここまではなんとか同点で抑えてこれた。
 もう本当に痛いんだけど、そんな肘に鞭を打って無理矢理投げた。
 勢いのない死んだストレートにスローボールを交えてなんとかごまかし、そうしてあまり差のない緩急をつけて打ち取ったが、もうそれも見破られてきて…… そろそろ限界かもしれない。

 最終回はシングルヒット、犠打でワンナウトランナー二塁。打球が高くバウンドし内野安打、次に内野フライでツーアウト一・三塁。そして私…… ピッチャーへの強い当たりはグラブを弾いて前へ転がり、取り損ねてエラー。幸運にも三塁ランナーは進塁せずそのまま満塁へ――

 痛みのせいで守備にも集中できなかった。
 そんなところで次の相手バッターが打席に立つ。
 その時に朱彦がタイムを掛けて走り寄ってきたのだった。

「お前に何かあったら、俺は――!」
「ごめん、だけど私…… 投げたいの!」

 朱彦は声を荒げて私をマウンドから下ろそうと詰め寄ってくる。

 分かってる。
 兄と一緒に、兄が亡くなってからも私を支えてくれた大切な存在。そんなあんたの言葉は重々分かってる。

 あんたは優しいから、こんな私を心配してくれていることは分かってる!

 だけど――!!

「おい…… 姉貴大丈夫か? 無理すんなよ」
「大丈夫だって! もし負けたってここまで来れたのも十分過ぎるほどの奇跡だ。入賞確定だし」
「そうだ。それを叶えられたのは姉貴のおかげだ。だからもう無理しないで休んでくれ」

 私と朱彦の激しい応酬具合を見かねて、遂に内野のチームメイトもマウンドへ集まって来て声を掛けてくれた。

「そうだ、だからもう無理すんな。お前に感謝こそすれ不満を言うやつなんて誰一人としていない」

 そうだ、と朱彦の後に続き首肯するみんな。

「ありがとう――」

 そんなみんなの優しさが胸に染みて泣きそうだった。

 でも――

「――ごめんねみんな。だけど…… 私投げたいの」
「夏海! そんな状態で投げられるわけないだろ!」
「お願い――!!」

 どうしてこんな意地を張っているんだろう。

 思わず張り上げてしまった声に押し負けてみんなは口を噤み、そして沈黙が訪れる。
 何があったのかとざわめく相手チーム。

「夏海……」
「もう、これ以上わがまま言わないから…… これだけ聞いて」

 例えこれで負けても。
 投げきることに意味がある…… そんな気がした。
 私の自分勝手なわがまま。
 だけど、ここで下りてしまったらあの日の弱い自分に戻りそうで……
 それが何よりの恐怖だった。
 もう後ろは向きたくない。
 だからこれは私のけじめなんだ。

 兄を亡くして、野球から逃げて、そんな現実から目を背けてきた私の、こんな最低な私の精一杯の抵抗。けじめ。

 だから。

「――あのぅ、そろそろ続行してもいいかな?」

 覚悟を口に出そうとしたとき、時間一杯で痺れを切らした主審が駆け寄ってきて、そんな風にプレー再開を促した。

「大丈夫。これで全て終わりにするから。投げさせて」
「お前――」

 剣幕にも似た私の強い態度に押し負けるようにして、そのまま皆は定位置へ戻って行った。

――プレイ!!

 そうして再開される試合。
 大きく構える相手バッター。
 ここで試合を決めて全てを終わりにしてやると、そんな気持ちが透けて見えるようだった。
 朱彦のサインは外角低めのストレート。
 もうまともなコースにまともな球を投げられる状態ではない。でもやるしかない。
 あんな日々に戻りたくないから。
 死んだような日々はもうごめんだ。
 
 これで負けたって投げきることができれば、その事実があれば後悔はしない。
 これまで私にのしかかっていた重荷からようやく解放される。

 だから私は投げる――

 もうやけくそだ。
 今までと同じワインドアップで。
 ずっと使ってきたこのフォームで。
 苦し紛れでも精一杯の力で、死力を尽くして。
 ランナーはいるけど盗塁はなしってルールだし、満塁だし。どのみちツーアウトだ。
 だからこのフォームで。
 思い残すことは何もない。

――振り被ってから、やがて。

 スローモーションで流れる時間。
 
 ゆっくりと、ゆっくりと……

 ゆっくりと。

 ミットの一点に視線を注ぎ。

 そして――

「――いい夢は見れたか? 夏海」

 突然亡き兄の声が響き渡って、そして時間は止まった――


「――いい夢は見れたか? 夏海」

 今投げようとしたとき、突然時間が止まった。
 
――時間が止まる。

 言い表すならばそんな言葉。
 そう形容するしかなかった。
 言葉通り、時間が止まったのだ。

――私以外の時間が。

 そう、私以外の時間が止まった。
 空間、景色は灰色で、白黒で…… そんな世界に変わっていた。
 朱彦も相手バッターも主審も、振り返ればチームメイトも、ベンチのみんなも、観客も。
 全て灰色で石像のように固まったまま身動き一つしない。無音の空間。
 そして。

「どうだ? 楽しかったか?」

 兄の声がして、その方向に視線を向けると。

「夏輝なの……? どうして――」

 打席にはいつの間にすり替わったのか相手バッターではなく今は亡き兄の夏輝が立っていた。

「どうして? お前に力を貸すって言っただろ?」
「それにしても…… これは何!?」
「ああ、この世界のことか――」

 この世界。
 兄はそう言って顎に手を当て、数秒間黙考してから。

「お前の夢だよ。お前の願望だよ。それを具現化した世界だ」

 夢? 願望? 具現化……

「まだ分からないか?」
「何なのこれは……! 私は夢を見ているの!?」
「夢―― そうだな。お前は言っただろう?」
「言った…… 一体何のこと!?」
「おいおい…… 忘れちゃ困るよ――」

――お前は言っただろ?

 私は全ての人間が妬ましい、と。
 幸せな人間が許せないってな。
 だからそんな人間どもに今度はお前が嫉妬を植えつけてやるって。

「私が…… 妬ましい……」
「そうだ! 思い出したか!」
「嘘、嘘だよそんなの!」
「困ったな。自分で言ったことなのに」

――記憶は巡る。

 部屋に閉じこもっていた私が見た幻覚。兄の幻覚、影。
 その影に誘われるようにしてこぼした私の言葉。
 やがて影は私へと吸い込まれ――

「――そんな」
「ようやく全て理解したか。これはお前の望んだ世界だ。夢だ。楽しかったか?」
「嫌……! こんなの違う!」
「わがままだなぁ。残念だがもう夢から覚めないといけない」
「私に投げさせて!」
「駄目だ。もう十分楽しんだだろ? 俺はお前に夢を見させてあげたんだ。人間に嫉妬を植え付ける為のな」
「意味が分からない…… これは一体――」

 これは何なの!?
 せっかくここまで来れたのに、これもまた夢なの!?

 パニック、混乱。
 脳内はめちゃくちゃで、収拾は到底できそうにない。私は本当におかしくなってしまったのか。

「――お前の嫉妬、お前の心の闇、とてもうまかったぜ!」
「私の、心の闇」
「そうだ。そのおかげでこうして現界できた――!!」

 何を言っているか分からない兄。
 そんな彼の姿が――

「ここにいる人間どもを順に喰わせてもらうか。なあ? 兄弟よ――!!」
「ハァー! たまらねぇぜ!!」

――兄の姿が化物に変わった。

 これは悪夢なのか。兄の姿は二本の角を生やした禍々しい巨体へと変わり、そしてそんな化物の掛け声に応じたのは……

「嘘でしょ? 一体何なの――!?」

 声の発生源は外野席、謎の応援団がいた所だ。
 応援団の数と同じくらいの化物が現れてわらわらと、スタンドを飛び越えて一瞬でこちらに詰め寄ってきた。まるで応援団が化物だったかのように感じられた。

「夏海、お前の夢はもうおしまいだ。これは全部夢。この光景は全てお前自身が望み具現化した世界だ。
この大会も、試合も、それからあの観客も応援団も全て」
「違う! そんなのおかしいよ!」
「まだ気付かないか。それなら、ほら――」

 兄の声をした化物は、そう言って指をパチリと鳴らす。

「嘘でしょ――」
「ほうら、これで何もかも分かっただろう」

 指が鳴らされて、その音がした後一瞬で…… 一瞬で全てが消えてしまった。
 灰色の世界の中で固まっていた朱彦、和間、千春、他のチームメイトや観客全てが消えて無くなってしまった。

――私は化物の世界に、地獄に一人取り残されてしまった。

「――そんな」

 絶望が訪れ、力は抜けていき、膝から崩れ落ちる私。

「もうおしまいだ。安心しろ、これが覚めれば元通りだ。お兄ちゃんと一緒にこっちへ来るんだ」
「嫌…… こんなの夏輝じゃない」
「全ての者が妬ましいんだろ? これからもそんな人間どもを不幸の底へ叩き落としてやろう」
「嫌、嫌……」

 私がいるマウンドへゆっくりと歩み寄って来る化物。
 もう何も考えられない。
 力は抜けて、ぼーっとして、意識でさえも――

「――お兄ちゃんと一緒になろう、夏海」

 化物は私の首を片手で鷲掴みにして。

「これで楽になれる――」

 何でこんなことになってしまったんだろう。
 私はただ、自分の弱さを克服する為に全てを終わらせたかっただけなんだ。
 他の人の幸福に嫉妬したり、憎んだり…… そんなことはしていない。
 していないのに、私の本心は実はそうだったということなのだろうか。
 汚く、酷く、とても表に出せないほど下劣な感情を抱えていたのか。

 嫌だ―― そんな私なんて、大っ嫌い。

「そうだ。いい娘だ――」

 私の首を絞める化物の手。
 その力は徐々に強くなっていく。
 楽になりたい。
 これが終われば、私は。

(全ての重圧から解放されるのかな――)

 視界がゆらゆらとぼやけていく。
 思考は止まり、真っ白になって。
 やがて。

「それでいいのかっ!!」

――エ?

「それでいいのか夏海ぃぃぃぃぃぃぃぃいい!!」

 ぼやけていた聴覚が捕えた轟音。

「何だ貴様はぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「あ、アニキ助けてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ!!

 私の首を絞めていた手が離された。
 解放され、咳込み、呼吸を整えて…… 何が起こったのかと周囲を見回す。

「なにこれ――」

 あれだけいた他の化物がまるでゴミのようにバラバラと地に伏していて。
 そして。

「貴様何者だぁぁぁ!!」

 化物が見つめる視線の先、そこにいたのは。

 格式高い、マントが付いた燕尾服。
 胸元に青い龍が刻まれた燕尾服と、同色の鮮やかなネクタイ。
 片手には淀み一つなく煌く日本刀。
 髪色はまるで千春のそれのように綺麗な漆黒で、瞳も彼女のもののような澄んだ藍色。
 首から下がる五角形をかたどったネックレスは青く輝く。
 そんな姿をした男が。

「――俺が」

 そんな姿をした――

「新しい桃太郎だ」

 和間が、そこには和間が立っていた。

 まさかここで鬼が出現するとは。

 試合中、突然時が止まった。
 鬼の力なのか俺の体は石のように固まって動かない。
 しかし思考まではその限りではなかった。
 それは千春も同じようで、成す術はないと思われたが……
 俺たちは互いに意志疎通を図ることができた。
 これも鍵の力によるものなのか、しかしそれが出来るならば試してみるしかない。

 そういう結論に至って、俺たちは「合体変身」と叫んだ。
 すると俺たちの止まった時は動き出す。
 見事変身に成功して、夏海を助けるために鬼退治へ向かったのだった――

「和間、なの?」

 マウンドに崩れ落ちる夏海と、傍らに立つ二本角の鬼。
 おぼろげな視線と、消え入るような弱々しい言葉を彼女は呟く。

「――そうだ」
「これは、夢?」
「違う―― これは現実だ。
そしてそこにいるのは夏海のお兄さんなんかじゃない。
そいつは鬼だ。夏海を誘惑してやがて夏海自身も化物へ変えようとする外道だ」
「何で夏輝のことを――」

――ごめんね夏海ちゃん。

「この声―― 千春なの!?」
「ああ。千春と俺は今一つになっている」
「どういうこと?」

 俺と合体し、俺を中の世界から支えてくれる千春。
 彼女の声は内側から響き、そして夏海の脳内へ直接注がれる。そのイメージ。

――私たち、あの放課後の日に朱彦くんに聞いてしまったの。勝手なことしてごめんね…… 大事な話なのに。

「千春…… こっちこそ心配かけちゃってごめんね」
「俺も、ごめん」
「いいよ和間…… 私が全部悪いんだから」
「――ちょっと貴様らいい加減にしてくんねぇかなぁぁぁぁぁ!!」

 自分だけ蚊帳の外にされた鬼はようやくそこで割って入ってきた。

「貴様ら、自分が今どんな状況か分かってるよなぁ!?」
「もちろんだ。俺たちがお前をぶっ飛ばす状況だったな」
「なんだと人間風情が!!」

 掠れたような声でがなり立てる鬼。

「夏海、詳しい話は後だ。まずはコイツを退治する!
俺たちがずけずけと踏み込める話じゃない。
だけど夏海、夏海の過去は罪なんかじゃない。
夏海の努力は、栄光は偽りなんかじゃない。
だから夏海、夏海は過去の影に囚われずに自分らしい道を……
夏海は夏海の道を行けばいい」
「――和間」
「って、亡くなった俺の父さんも言ってたしね――」
「――まずは貴様からだこのやろおおおおお!!!」

 鬼の言葉、そして朱彦が語った夏海の過去。

 
 もしかしたら彼女は己の罪として過去を背負い、そしてそれに囚われて、やがて「心の闇」も生まれて…… 
 それに目を付けた鬼が兄の姿で彼女を誘惑したのかもしれない。


――来るよ! 和間くん!

「ああ! 一気に終わりにする!!」
「死ね――!!」

 こちらとの距離をひとっ飛びで詰めて来た鬼は、激しい拳と蹴りの嵐を起こす。

「まだまだぁぁぁ!!」

 見える、問題ない。
 体は軽く、イメージ通りに動く。
 鬼の攻撃を全てかわす。

「――そこだ!!」

 千春の鍵…… 五行の理その一つ、「木」を意味する鍵によってもたらされる力。
 片手に持つのは、それを最も具現化した武器。仁龍。

 鬼が大きなモーションで繰り出した回し蹴り。
 それをスウェーでかわして、そのまま仁龍による横一閃――


――ガキィィィィィィン!!

「あまぁーい!!」
「何だとっ!?」

 勝利の確信が訪れようとしたその時。

「名付けてジェラシーバットだ!!」
「グハッッ!!」

 丸腰であるはずの鬼の片手から瞬時に現れたそれによって一閃は防がれ、驚愕した隙を突かれつばぜり合いに押し負けてしまい、うろたえる俺への追撃で吹き飛ばされる。

 すぐに立ち上がり、体勢を整えた。

「貴様ら人間は愚かな種族だ。我々と分け合おうともせず一方的に独占する!」
「それは俺たちだけじゃなくお前たちにも言えることだ! 今お前がやっていることのようにな!」
「これは制裁だ! 俺は貴様らが妬ましい…… 喰ってしまいたいほどになぁぁぁぁ!!」

 激昂し、再び襲来する鬼。

「ジェラシーバット、ホームラァァァァァン!!」

 鬼が顕現した武器は、汚い…… 汚い紫の炎に包まれたドデカい一本のバットだった。
 それを大きく振り被る鬼。
 俺との距離はまだ大きく開いている。

 どうするつもりだ!?

――和間くん、何か飛んでくる!!

「飛んで――」

 来る?

 豪快なスイング。
 俺との距離が開いていて、スイング自体は俺に届くはずがない。
 ということは――!!

「――危ねっ!!」

 豪快なスイングで放たれたのは、バットに纏わりついた汚い炎。
 それがまるで野球ボールのように丸く変形し、一点集中で俺へと無数に放たれた。
 スピードは弾丸ライナー。
 しかし横に大きく跳んで間一髪というタイミングの内に逃れる。

 よけた後、直撃した球場の壁へ視線を移す。
 ゴウゴウと音を立て消えることなく燃え続ける炎…… あれが直撃していたら。

「まだだ! 地獄の千本ノックの始まりだぁ!!」

 クソ……! このままじゃジリ貧だ!

 一閃を仕掛けようと足を踏み出すが、その瞬間飛んでくる火球の雨。
 どうすれば……

「――ほらほらほらぁ!」
「何度寄越そうが無駄だっ!!」

 肉食獣から逃げ切るガゼルのような。そんな颯爽としたイメージが訪れて、高速移動しグラウンドを駆け回る。一旦距離を取ろう。
 まさか鬼でもスタミナは無尽蔵というわけではあるまい。
 消耗時を狙い攻撃を仕掛ける作戦で、今は回避に徹する。

「ほう―― ならこれはどうかなぁ!!」

 だいぶ距離が開き、相手が放つ球数も減ってきた。
 今度はこちらの番だ――

――攻撃に移ろうと構えた時。

「ジェラシーピッチ!! トルネェェェェェド!!」

 彼方に見える鬼がなにやら叫んで、そしてバットを置き投球動作に入った。

――また何か飛ばして来る気か!?

 鬼は振り被り、何かを投げた。

「速っ――」

 音速、光速というかのような、そんな速さで飛んできたのは炎を纏った球。
 たださっきと違うのは、球に纏わり付く炎が渦巻いて、やがて全部を包み込み大きな竜巻となったことだ。
 まるで龍のように巨大になった竜巻は、周囲を汚れた炎で焼きながら俺に襲い来る。

「形を変えても同じだ!!」

 巻き起こる熱風は空気も燃やす。
 力を足に集中させ、襲い来る瞬間に大きく横へ飛んだ。

「――あちー」

 これもなんとか回避したが、呼吸が苦しくなるほどの熱風に思わず悶える。
 チクチクとした痛みが腕に走り、その箇所をふと見ると燕尾服が焦げて穴が開いていた。

「クソ…… 今度は俺の番だ!!」

 今度こそ俺が攻撃する番だ。

「――かかったなぁぁぁぁぁ!!」

 しかし。

「何だと――」

 鬼が勝ち誇った雄叫びを上げて。

――和間くん後ろ! 危ない!

 警戒を呼びかける千春の叫び。
 それが言い終わるかどうかという内に。

――渦巻く獄炎は背後から。

 よけたはずの炎が俺を襲った。

「あぁぁぁぁぁアアアアア!!」

 業火は一瞬で俺の体を焼き尽くしていく。
 呼吸が出来ず悶え苦しみ、そして狂い転げ回るほどの激痛。
 もう何もかも分からなくなって。

「――誰が俺をぶっ飛ばすだって?」
「や、め、ろ」

 やがてプスプスと灰のように燃え尽き崩れ落ちた俺の頭上、そこにはいつの間に仁王立ちする鬼が。
 鬼は屈み込み俺の髪を掴んで、無理矢理顔を上げさせる。

「何が桃太郎だ。人間など所詮こんなものだ。お前を喰って、鍵もいただくとするぜ?」

 駄目だ―― 鍵だけは。

 そして千春…… 逃げるんだ。

「駄目…… 私も――」

 攻撃を受け力が弱まり変身が解けてしまった。
 俺の内から外の世界に再び現界する千春。
 彼女もまた俺の横に倒れ伏し、今にも消えそうな掠れた声で呟く。

「おお。この娘も鍵を持っているな。美味そうなこいつからいただくか!」
「や、めろ!!」
「貴様は黙ってろ死に損ないが!!」

 掴まれた髪、頭はそのまま地面へ強く叩きつけられる。
 キーン、という高音。ゆらめく視界。
 駄目だ…… 俺はもう。

 こんなところで…… 力が全く湧いてこない。
 遠くなる意識をなんとかこの世界に留めようとするが、その意志でさえも曖昧なものになっていく。

――駄目だ駄目だ! 俺は、俺の覚悟はこんな簡単に折れてたまるか!!

 起きろよ――
 やっとこうして大切な人たちとの大切な日々が始まったんだ。
 父さんが、おじさんが、千春が、舞白さんが、朱彦が夏海が、みんなが!
 みんながくれた大切な日々を――!!

――逝くな俺!!

「さてと、この娘からいただきまぁすっ!!」
「ちは――」

 千春を掴もうと伸ばした手は虚しく空を切る。
 全ての意識が途絶えようとしていた。

「――やめろ化物!!」

 その時、夏海の力強い叫びが木霊した――

 もう何がなんだか分からない。
 突然時間が止まって化物が現れたかと思えば、今度はおかしな格好の和間が現れてその化物と死闘を繰り広げている。
 理解が追いつかない。到底受け入れることはできないであろう光景。
 しかしこれは夢ではない。夢じゃないらしい。和間はそう言っていた。

 二本の角を生やした化物。
 正体不明な化物だけど、しかしあの時見た影に似ている気がした。
 兄が巻き込まれたあの事故、そして部屋にいた時に見た影。
 あの恐ろしい影と、この化物はどこか似ている気がした。
 確証はないけど、私の第六感…… 直感的な感覚がそんなことを告げていた。

 そんな化物に和間が今殺されようとしていた。
 千春と一つになっている…… それもどういうことなのか今は謎だけど、和間が言っていたことは本当だったようだ。
 倒れ伏す和間と、彼の体の中から光とともに現れた千春。彼女もまた彼と同様力尽きたように倒れている。

 信じられない光景だけど、段々と冷静さが取り戻されていくにしたがって、現在の状況も把握できてきた。
 細かいことは何も分からない。だけど「ピンチ」という状況なのは分かる。
 夢じゃないのなら、和間と千春はこのままじゃ――

――大切な仲間を見殺しになんてできない。

 二人は殺されようとしていた私を助けてくれたんだ。
 そんな二人が今、あの化物の手にかけられようとしている。

 怖い、足がすくむ。
 でもあの二人が殺されるのを見過ごすわけにはいかない。
 そんなこと、できない。

――ベンチに立てかけてある私の愛用バット。

 何か手はないかと周囲を見回したとき見つけたそれ。
 あんな化物に通用するなんてこれっぽっちも思えないけど、心許ないけどそれしかないと感じた。
 時間もない。早くしないと二人は!

 急いでベンチへ向かいバットを手にとって。
 二人と化物がいる外野へ向かう。

――走れ、走れ!!

 化物の背中が近くなる。
 千春へ手を伸ばす化物。呻きを上げる和間。
 化物は私の接近にまるで気付かない。
 バットのリーチに入った。
 野球道具をこんなことに使いたくないけど、そんなこと言っている場合じゃない。
 思い切り振り被って。
 そして。

「――やめろ化物!!」

 ボコォ。

 鈍い音。

「いてぇ――」

 そんな。
 ビクともしない化物。
 頭部を狙った一撃。
 音を上げたのはバットの方だった。
 当たり前と言えば当たり前か。こんなバットで――

「よくもやってくれたな」

 屈み込んだ体を起こしてこちらへゆっくり振り向く化物。

――終わった。

 そんな言葉が浮かぶ。

「駄目じゃないか。お兄ちゃんにこんなことしちゃ」

 恐怖で膝がわなわなと震える。
 化物はそんなふざけたことを言った。
 表情は変わらないけど、その言葉は笑っていた。
 私を嘲り笑うかのような語調。

「お前は夏輝なんかじゃない――!!」

 私は死ぬ。
 恐らくこの化物に簡単に殺されるだろう。
 まるで羽虫を潰すように、なんの躊躇いもなく。
 逃れようのないデッドエンドを迎える。

 だけど…… どうせ死ぬならば。

 そう考えるとある種の開き直りのような感情も浮かんできて、死に対する恐怖が和らいだ。
 この化物を退治すると言っていた和間。
 もしまだその可能性が残されているなら。
 二人が持ち直してこいつを倒す可能性が少しでも残されているのなら。
 それに賭けるしかない。

――その為に。

 私が犠牲になって時間を稼ぐ。

 これは私のせいだ。
 私を助けようとしてくれた二人へ、せめてもの恩返し。せめてもの礼。
 その方法。これしかない。 
 最後の悪足掻きだ。

「夏海はそこで見ていてくれ。これが妬ましい人間の最後だ。俺たちへ刃向かう者はこうなるのだ」
「ふざけないで! 二人は私の大切な仲間なんだ!」
「仲間!? 笑わせるな! お前もこんな人間どもが妬ましいのではなかったのか!」

――私は愚かだった。

「違う――」

 もしかしたらこの化物は私が生み出した悪夢なのかもしれない。
 私の嫉妬が生み出した悪魔。

「私は人間だ!」
「お前もこいつらに味方するのか」

 嫉妬。
 私は知らず知らずのうちにそれを生み出していたのかもしれない。
 こんな怪物のような醜い感情を自分でも気付かぬうちに抱えていたのかもしれない。
 そうだったとしたら、私は愚かだ。この上なく愚かな存在だ。

 嫌だ。
 こんな悪魔になりたくない。
 大切な人たちを傷つけるような、そんな最低な人間になりたくない。

「あんたは私が生み出した悪魔――」

 こいつは私の罪だ。
 私の過去だ。
 私の罪は私が、私の手で消さなければならない。
 それが責任だ。

「あんたは私の罪。もう一人の私。どうしようもなく酷い、弱い私」
「そうか―― 刃向かう気なら殺す!」

 私の眼前に立ち塞がる化物。
 ゆっくりと片手をこちらへ伸ばしてくる。

「確かに私は嫉妬を抱えていた――」

 自分だけが不幸の底にいるんだと思い込んでいた。
 私は幸せではなく不幸を独り占めしていたんだ。
 兄を亡くして、肘を壊して、大好きな野球でさえ出来なくなって…… どん底に落ちて、そして他の人間が眩しく見えて、自分もそうなろうと手を伸ばしたけど届かなくて。
 だから自分を責めて、過去に閉じこもって。
 その内に嫉妬も抱えるようになって。
 私を突き動かしていたのは嫉妬だった。

 化物の手は私の首を掴む。

――私は愚かだった。

 人間は幸福を追い求める。
 不幸を、嫉妬を、羨望を抱えながらも、それを乗り越えるために進んでいる。
 多かれ少なかれ、誰だってその誘惑の中にいる。
 私は愚かだ。
 私は他人と自分を比べていた。
 それは無意味なことだった。

 人生は一度きりで、長いようで短く、短いようで長い。
 そんな一度きりのチャンス、その道をどうして他人と比べる必要があるのか。

 兄と野球漬けの日々を送っていたあの頃。
 あの頃はそんな気持ちはなかった。
 いや…… そういった気持ちがまったくなかったわけではなかったけど、しかし今とは違かった。
 こんな汚い感情ではなかった。
 自分を高めるために、高みを目指して自分と闘っていた。
 自分の道を進んでいた。
 自分の道、一度きりの人生を他人と比べる必要なんてない。そんなものは愚の骨頂だ。
 逃げたい時は逃げてもいい、休みたいときは休んでもいい。回り道、遠回りしてもいい。
 そうして躓きながらも進んで行くことが真の幸福なんじゃないか――

 徐々に強く絞められる首。

(夏海は夏海の道を行けばいい――)

 そうだ。

 ああ、こいつはもう一人の私だ。
 汚く、醜く、弱い過去の私。

 そう考えると恐怖は完全に消え去った。
 そして弱い自分に対して怒りがわいてくる。
 なんて醜いのか。
 こんなの私じゃない、私らしくない。
 こんな私なんて消えればいい――!!

「さよなら」
「何だときさま――」

 右の拳にありったけの力を込めて。

「ふっざけんなああああああああ!!」
「――んゴフッ!!」

 そして殴った。思い切り殴った。
 バットじゃビクともしなかったのに、私の拳は化物を吹き飛ばした。

「な、なんだとっ!?」

 まさか人間にここまで反抗されるとは思っていなかったのか、化物は驚愕の声を上げてすぐに立ち上がる。

「あんたはもう一人の私、弱い私だ!
だったら私はあんたをぶっ飛ばして、弱さを乗り越える!」

 もう恐れなどない。
 私は己の弱さを克服する。

「これは――」

 その時。
 眩い光を上げる私の胸元。
 そこから生じた光はゆっくりと下へ落ちていく。
 思わず両手ですくうように受け取った。

「ペンダント?」

 やがて光は消えて、私の掌に残ったものは――
 
 それは燃えるように赤く煌く五角形をぶら下げた何か。
 ペンダントにも見えた。

「なんだと! 貴様も鍵を――」
「――鍵?」

 このペンダントの正体を知っているのか、私を指差すようにして声を荒げる化物。

「――夏海!」
「夏海ちゃん!」
「二人ともっ! 大丈夫っ!?」

 そして傷つく体を重々しく起こして立ち上がる二人。
 良かった…… 二人とも無事だ!

「クソ…… 手こずった! 許さん、貴様らまとめて殺す!!」

 化物は二人の方へ踵を返す。

「――そうはさせない!」

 ペンダントを握り締める。
 すると沸々と体の底から湧いてくるように不思議な感覚が訪れて、やがてそれは私の体を満たしていった。

――その時、私に「イメージ」が訪れる。

「これは――」
「――夏海! 叫べ!」
「叫ぶ?」
「夏海ちゃん!」

 二人と目が合う。
 おぼろげなイメージは徐々に強く刻まれて。
 そして。

「――わかった」

 今、全てが分かった。
 そんな気がする。
 このペンダントは私の力。
 弱い私とはもうお別れだ。
 この力で全てを終わりにする!

「二人とも、行くよ!」
「――そうはさせんぞ人間ども!」

 私は嫉妬を、過去を乗り越える――!

「「「――合体変身!!」」」

 新たな力は漆黒の闇をかき消す光。

「鬼退治の時間だ――」

(これは一体――)

 俺に訪れる新たなイメージ。

(なんか凄く気持ちいい――)

「俺と千春、そして夏海。俺たちは三人で一つ」

(和間…… この空間は――)
(私たちは今和間くんの中にいるんだよ)
(千春!?)

 合体した俺たちは時間を、空間を共有する。
 俺の中にいる二人は俺と共にある。

(なんか、まるで世界を第三者視点で見ているような)
(もう一人じゃない。みんな一緒だよ?)

 闇を滅ぼす五つの鍵。
 それがもたらす強き力。五行の理。
 俺の「土」と千春の「木」、そして新たに加わったもの。

(和間が見える…… でも髪と目の色が、ネクタイの色も――)

――五行の理その一つ、「火」を意味する鍵が加わった。

 夏海のもとに顕現したその鍵、その力は俺と一つになり力をもたらす。

「――これは夏海の力、夏海の色だ」

 髪は燃えるような赤。それと似たスカーレットの瞳。夏海の色。
 真紅のネクタイと、そして。

(またイメージが――)

「言葉は強い力となり闇を滅ぼす。夏海、イメージを言葉にするんだ」
「――何度立ち上がろうと同じだ! めちゃくちゃにして殺す!」

 身構える鬼。
 今度こそ、今度こそこちらの番だ!

「――木は燃えて大きな炎となり、やがてそれは燃えきって灰に変わり土へ還る。
そうして大地を肥やす。
木と火と土、俺たちは相生。三人で一つ!」

――私は木。それは即ち「仁」の心。

――私は火。それは即ち「礼」の心。

「そして俺は土。それは即ち 信 の心」

――五行の理、火が指し示すもの。
 季節なら夏、色なら赤、守り神は朱雀!
 そして持つのは礼の徳。
 それは全ての規範、道徳、秩序。迷える者への道標。
 私はもう迷わない! みんなが私を助けてくれたように、今度は私がみんなの背中を押す!
 私は私の礼を貫く!

「そうだ! 共に試練を乗り越えよう!」
「今度こそこれで終わりだ――!」

 振り被る鬼。先程と同じ技を繰り出すつもりか。

「そう何度も同じ手が通用すると思うなよ!!」

 燕尾服の胸元に刻まれたのは、夏海の火の力が指し示す守り神、朱雀。
 真紅の朱雀は燃えるように、胸元で大きく翼を広げ飛翔する。

――和間受け取って!

「ありがとう――」
「――死ねええええええ!!」

 夏海がくれたイメージ、力を具現化する。
 鬼は獄炎の竜巻を寄越そうと振り被り、そして投げた。しかし――

「なんだとおおおお!?」
「それはもう通用しない!」

 投げられる直前、火の球を打ち抜く一本の矢。炎を纏った一本の矢。

「礼弓・朱雀――」

 火の力を具現化した武器。それは大柄な弓。

「大切な人に化け、そして誘惑し闇へ陥れようとした罪は重い。
俺たちはお前を許さない。
湧き上がる熱い炎、この礼の炎はお前の汚い嫉妬の炎を滅却する!」
「くそ! まだだ!」

 懲りずにもう一度投げ寄越す鬼。

「ピッチャー返しだああああ!!」
「なにいいいいいいいいいい!?」

 俺の手から顕現する炎の矢を弓へ掛け、そして放つ。
 それは投げられた火球を貫き、そしてそのまま鬼をも貫いた。

「――くそおおお! 妬ましい人間めええええ!!」
「ど真ん中ストライク」

 矢は鬼の胸、ど真ん中を貫いた。

「終わりだ――」

 新たなイメージを具現化する。
 俺の背から生える二つの翼。それは朱雀のそれのように大きな翼。
 燃える翼を翻し上空高く舞い上がって、そして――

「――赤帝・五月雨。
俺はお前の嫉妬を貫く!!」

 一本の矢を上空へ。
 するとその矢は激しく燃え盛り、やがてその炎の中から無数の火の矢が現れた。
 無数の矢、爆撃、業火のフレシェットは地上の鬼のもとへ――

「やめろおおおおおお!!」

 何百、何千の火の雨が鬼へと降り注ぎ、貫く。
 そうして鬼は青い炎を纏いながら消滅していった。

「――鬼退治、完了」

 一時はどうなるかと思ったが、夏海が起こしてくれた奇跡に救われた。
 全てが終わった。
 まさか夏海にも鍵が宿るとは。

 余韻に浸っていると……

 灰色の世界には亀裂が生じ、バラバラと崩れていく。
 止まった時は再び動き出したのだった――

「――プレイ!!」

 主審の声がグラウンドに響く。

(あれは―― 夢じゃなかったんだよね?)

 灰色な世界は崩壊し、それが分かると眩い光に包まれて。
 そして私は、気付くとマウンドの上に立っていた。マウンドの上に立ったままで…… それで目を覚ました。
 打席には大きく構える相手バッター。キャッチャーボックスには朱彦。
 ベンチにはチームメイト。あの世界で一緒に戦った和間と千春もいる。
 現実の世界に戻っていた。

 二人へ順に視線を送ると目が合った。
 和間も千春も優しく微笑んで、そして一つ頷いた。

(ああ…… 夢じゃなかったんだ)

 もう一人の弱い私を乗り越えることができた。
 肘は依然として痛いまま。
 だけどこれでいいんだ。

「ジョックロックか――」

 痛いのに、何故か笑えてくる。
 謎の応援団も観客も、みんなここにいる。
 現実に戻ってこれた。
 相手側の応援団はチャンステーマをかき鳴らしている。
 そういう名前の有名なチャンステーマだった。

――最終回となった五回の表、ツーアウト満塁。

 そうだ…… 私は過去を乗り越えた。
 和間、千春、朱彦、そして他のチームメイトのみんな。みんなのおかげ。
 私はこれでいいんだ。私は私の道を行く――

(それでいいんだよね? 和間)

 だったらこれで終わりだ。
 この打席で、この一球で決めてみせる。
 この試合が終われば、今までの私とはお別れ。

「でも、終わりは始まり――」

 そう。今までの私はここで終わって、そして新しい私の人生が始まる。
 私は生まれ変わる。
 この上なく清々しい気持ちだった。
 肘は痛むのに、その痛みさえ愛おしく思える。
 朱彦のサインは外角低めのストレート。

「じゃあね、今までの私――」

 思いっきり振り被って、今出せる精一杯の力で投げ込んだ。

「ありがとう、夏輝」

 痛む肘で投げたストレート。
 それは朱彦のミットへ向かって――

「――かんぱーい!!」

 カチン! と打ち鳴らされるグラス。
 もちろんグラスの中はソフトドリンクだ。

「いやー、みんなお疲れ!」
「キャプテンもお疲れ様。予想外に楽しかったなー」
「そうだね! 冬の大会も楽しみだね、夏海ちゃん」
「うん! みんなありがとね。迷惑かけてごめん――」

 カフェバー、Season。
 球技大会の翌日、今日は土曜日で学校はなかった。
 俺たちいつもの四人組は打ち上げと称して、こうして集まった。
 最初は木ノ下家で、特に何もしないまま雑談などに耽っていた。その後は市の中心へ繰り出しぶらぶらと遊びまわって、また五行町に戻ってきて。
 そうして締めくくりはここ、一星さんのお店で。

「――お前ら昨日球技大会があったんだって?」

 お店のブラインドの隙間から真っ赤な西日が差して、俺たちがいる窓際のテーブル上へ降り注ぐ。
 
 一星さんがオーダーした料理を運んで来てくれて、そんなことをこぼした。
 人数分のパスタは出来たて。湯気を放ちいい香りが立ち込める。

「そうだ! 聞いてくれマスター!」

 テンションは最高潮、といった様子の朱彦。

「なんと、俺たち準優勝したんだぜ!? 凄いだろー!」
「おおっ、それはスゲーな。クラス数めちゃ多いのに」
「そうそう、だからこの飯代はマスターのおごりでお願いしゃす!」
「無理だ。優勝だったらおごっても良かったけどなー」
「えー、マスターのけちんぼぉ」
「気持ち悪いからやめろ」

 二人のやり取りがおかしくて俺たちは笑い合った。

――球技大会、決勝の結果は俺たちの負けだった。

 それでも十分すぎる結果だろう。
 ただの普通科のクラス、それも他のクラスがいくつもある中で準優勝だ。奇跡と言ってもいいんじゃないだろうか。
 それに相手はスポーツ特待が集まるクラスだ。
 そんな集団相手に5対2、ボロ負けというほどでもない。それに最初は俺たちが勝っていたんだし。

 談笑を交えながらさっそく料理にありついた。
 試合での出来事を楽しそうに話すみんなを傍目に、俺も昨日の瞬間一つ一つ、順を追うように脳裏で再生させた。

 順調に勝ち進んで決勝、最終回という場面で鬼が出現した。
 あの鬼がどのような経緯で生まれ出現するに至ったか定かではないが、しかし夏海に付け込んで現れたことは分かった。

 夏海の過去と、彼女の心の闇。
 恐らく夏海は朱彦が言っていたように兄を亡くした事故を自分の責任として背負って、いつしかそれが重い罪となっていたのかもしれない。
 やがてその罪に苛まれ、心の闇ってやつが生まれて。
 そうしてそこに目をつけた鬼が彼女を利用し、やがてこの世に顕現して悪事を働く…… そういう結果に至ったのかもしれない。

 あのまま鬼が俺たちを喰っていたら。
 喰う…… それが奴らにとってどんな利益をもたらすかは分からない。そうすることによって仲間を増やすことができるのかもしれない。もしくは力を蓄える為にするのか。
 ともかく俺たちにとって最悪の事態になるのは明らかだが。

 夏海は過去を乗り越えた。
 ピンチという状況で彼女に宿った「火」の鍵。
 そのおかげで俺たちは鬼を討ち取ることに成功した。

 やがて止まった時は動き出し、同点で迎えた最終回はツーアウト満塁。
 夏海が精一杯の力で放った球は鮮やかに打ち返され、左中間を切り裂いた。
 ランナー一掃。
 三者がホームへ還り5対2。
 その後なんとかアウトを取って交代、五回裏、俺たちの最後の攻撃。
 しかし打線も意気消沈して三者凡退。試合終了。

 これからもあの光景は忘れることができないだろう。
 マウンドに集まり、天高く「ナンバーワン」と腕を突き上げる相手チーム。
 その歓喜ぶりは甲子園、優勝が決まったチームのものとまるで同じに見えた。
 一方の俺たちは正反対。
 肩を落とし何も言わず、ただただその光景を眺めるだけだった。
 相手側応援の歓喜の叫びがどこまでも木霊していた…… それは試合終了のサイレン。
 俺たちのひと夏の一ページはこうして幕を閉じたのだった。

「――いやー、木ノ下さんのヒットはマジでビビッたわ」
「そう! それね! 千春のスイング凄い綺麗だったし! かっこよかったよ!」
「え? そうかな……! ありがとう!」

 あの瞬間、脳裏に強く刻まれた情景がある。

「夏海ちゃん、肘の痛みは大丈夫?」
「アハハ…… ごめんね心配かけて」
「そうだぞ、俺たちをヒヤヒヤさせやがって」

 肩を落とす俺たちをよそに。

「これまた病院に行かないとなー…… なんて思ってたら、不思議なことに昨日のうちに引いてたんだ」
「今度こそ本当だろうな?」
「本当だって」
「もう無理しないでね?」
「みんなごめんね? もうあんな無理しないからさ――」

 夏海はあの時、爽やかな微笑みを浮かべていたのだ。
 何も心残りがない…… というようなとてもさっぱりとした様子で。
 夕立の後に吹き抜ける優しいそよ風や燃えるように真っ赤な夕日、もしくは真夏の空に浮かぶ虹のような。
 その景色を彷彿させるような、そんな綺麗な顔だった。

「――さてと、それじゃ今日のところはお開きにするか?」

 空になった食器、グラス。
 沈む夕日と夜の訪れを告げる黒。
 その黒と僅かなオレンジが織り成すコントラストがなんとも綺麗で思わずじっくりと眺めていたくなる。
 カラスが山へ帰るように、夜の訪れを前に俺たちは家路に就く。

「それじゃマスター、明日よろしくねー」
「ったく、また騒がしくなりそうだな。問題は起こすなよ?」
「分かってるって、それじゃー明日!」

 俺たちは個人的に打ち上げを行ったわけだが、実は明日もここで野球チーム全体の打ち上げがある。
 見事準優勝に輝いた俺たち。入賞した俺たち野球チーム、1年B組へは賞金…… というわけにはいかないようで、景品として学食や購買の引換券がクラス全員へ配られることとなった。賞金でも貰えればそれを打ち上げ費用に…… と算段を巡らせていたがそうはいかず、みんなでお金を出し合って行うことになった。

 朱彦が予約を済ませて、そうして俺たちは店を出た。

「鬼…… かぁ――」
「そう。信じられないかもしれないけど、私たちは鬼と戦っているの」

 あれから翌日。
 私に真実が告げられる。
 私たち四人組で打ち上げをして、そして帰宅した後のことだった。
 私のもとに千春からメールが届いた。

「明日私の家に来て欲しいの――」

 なんでも大事な話があるとのことだった。
 きっとあの悪夢みたいな現象と、そしてあの化物のことだろうとはなんとなく予想できた。
 私が遭遇したあの出来事、あれは現実のことで。
 あの戦いを経て試合が終わって、それでその日の放課後に和間と千春から「後で詳しく話す」ということを告げられたから、きっとそのことだろうと。
 だからその誘いに承諾し、全体の打ち上げを控えた日曜日、その午前中にこうして千春の家に来た。

「ということは、あれはやっぱり私のせいで――」
「いやいや! 悪いのは奴らだ。夏海のせいじゃないよ」
「そうだ。夏海ちゃんには何の責任もない」
「うん。鬼は人の心に付け入る、ということだから」

 いざ千春の家に着いてみると、出迎えてくれたのは千春と、千春のおじいちゃん。それから千春の家に居候している和間。
 その三人に広いリビングへ通されて、そしてあの化物についての詳しい話を聞かされた。
 ああいう化物がいること、それと戦う人間がいるということはざっくりと試合の後に二人から聞いたけど、今日はそれにまつわる深い話を聞かされた。

――この世には怪異などと呼ばれる現象があって、その中に鬼という存在がある。

 鬼と人間は共存していたが、ある時代を境に争うようになって。
 鬼と人間の戦争は続き、人間が勝利を収めた。
 しかし鬼の生き残り、残党が各地で小競り合いを起こし、それは現在も続いている。
 鬼は人間を駆逐し世界を支配しようとしている。そして。

「それじゃこの鍵ってやつは――」
「そう。俺の土の鍵と千春の木、それから夏海の火の鍵」
「これは鬼と戦う為に生み出された聖遺物なの」
「そうだ。そして君たちのそれは選ばれし者に宿る」

――五行の理。その力を司る五つの鍵。

 それは人間が鬼と戦う為に生み出した聖遺物で、選ばれし者に宿るということらしい。
 五つあるらしいこの鍵は、現在和間と千春、それから私にも宿った「火」を合わせて三つ。

「それじゃ、私は鍵に選ばれた…… ってことなのかな?」

 どんな現象が起きて私に宿ったのか、私がそんな重大な役目の一つを担っていいのか、次々と疑問は生まれる。しかし。

「そうだね。そしてこの鍵は――」
「――鬼に狙われているの」
「あの化物に?」
「そうだ――」

――鬼は人の心の闇に付け入る。
 もしまだ鬼が一匹でも生き残っていた場合、奴らはそれに付け入り人間を鬼へ変える。そうして仲間を増やし、勢力を拡大させるだろう。
 そして鬼は鍵を狙っている。鍵が持つ力を我が物にしようとしている。
 だから絶対に鍵を奴らに渡してはならない。鍵が全て渡れば人間はたちまち鬼に滅ぼされるだろう。

「――と、和間のお父さんが生前言っていた」

 千春のおじいちゃん、春雄さんはそう付け加える。

「和間のお父さん!?」
「うん。俺の父さんは残党と戦う戦士だったんだ。今の俺たちのように」
「和間くんのお父さんは鬼との戦いで命を落とし、そして和間くんは、私たちは彼の意志を継いで鬼と戦っているの」

 そんなことが。
 決意を込めたような和間と千春、春雄さんの眼差し。

「――そして私は鬼の研究をしている。君たちの学園にある研究室でね」
「学園…… 研究室?」

 次々と新しい情報が押し寄せてきて、私の脳内はパニックそのものという状態。

 なんでも春雄さんは鬼について研究しているらしく、その研究室の一つは学園内にあるらしい。
 そんなの全然知らなかった。見慣れない建物があるなとは思っていたけど……
 その研究室はどうやら政府直属のものということらしかった。
 更に和間と千春はそこ主導の実験や訓練にも参加しているようだ。

「――ということは、あのまま私が鬼にやられていたら」
「俺たちもやがて鬼になっていたかもしれない」
「私たちが今まで退治してきた経験からすれば、鬼は恐らく心の闇を利用しこの世界に現れる。そうして誕生した鬼は私たちを襲い、私たちを鬼へ変える…… とも言えるかもしれない」
「なら、私たちが鬼を生み出させているかもしれない。その可能性があるってこと?」
「そうとも言えるかもしれないね。奴らは何かしら悩みを持つ人間に付け入り利用しているみたいだ。まさしく父さんが言っていたことのように――」

 そうだったのか…… 
 そうすると私も、私の心の闇を鬼に利用されたということか。
 未だ信じられないような内容だけど、偽りではないということがみんなの表情から見てとれる。

 やがて一連の説明が終わってリビングに静寂が訪れた。

「そんなことが―― それじゃ二人はこれからも」

 私の大切な仲間、大切な友達が化物と戦う戦士だったなんて。
 これからも…… これからも二人は私たちを鬼の魔の手から救うために戦い続けるのだろうか。

「――ああ。俺たちはこれからも戦う」
「うん。私も実は鬼に襲われて…… その時和間くんが助けてくれて、やがて私にも鍵が宿って。
だから私は助けてくれた和間くんの為に、そしてみんなの為に戦うことに決めたの」
「そうだったんだ――」

 まるで二人が映画やアニメのヒーローのように、手の届かない憧れのような存在に見えた。

「人類を救うだとか、そういう高尚なものでもなくて。もちろんそれもあるかもしれないけど。
俺は俺たちの日常を守るために。
その為に戦ってるって感じかな」

 そして和間は少し照れたように笑う。

「――私はどうすればいいのかな」

 そこで、そんな疑問が沸いてくる。
 二人は鬼と戦っていて、私はそんな二人に助けられて。

 その時、今までの思い出が突如として蘇った。

 兄と共に駆け抜けた野球漬けの日々。そんな兄を襲った事故。もしかしたらあの時見た影も鬼そのものだったのかもしれない。
 そして肘を壊し野球を辞めて。
 過去に閉じこもったけど、朱彦に支えられて、みんなに支えられて立ち直って。そうして球技大会に臨み。
 鬼を、私の過去を乗り越えて。そして――

「――夏海に鍵が宿った以上、これから夏海もまた鬼に狙われる可能性がある」
「そうだね…… 夏海ちゃんも私たちと一緒に戦え、なんてことではなくて。
でも私たちは鍵を守る為に、夏海ちゃんを守る為に戦う」

 二人は私を助けてくれた。こんな私を。
 二人の、みんなのおかげで私は過去を乗り越えられたんだ。だから。


「――私も一緒に戦わせてよ」
「夏海!?」
「夏海ちゃん…… 無理することはないんだよ?」
「いいの、二人は私を助けてくれた。それに――」

――私に宿った鍵。私に訪れたあのイメージ。

「――この鍵、火の鍵が示すものは礼。
私は二人に礼を尽くす…… みんなの為に礼を尽くす」

 もう昔の私じゃない。
 これから新しい日々が始まる。新しい、生まれ変わった私の日々が。

「純粋にそう思うんだ。みんなが私にしてくれたように、今度は私がみんなに尽くしたい」
「本当に、いいのか?」
「うん、私たちのことは気にしないでいいんだよ?」
「二人が日常を守る為に戦うなら、私も二人と一緒に守りたい。駄目かな?」
「夏海――」
「――私は私の道を行く。そうでしょ? 和間」
「夏海ちゃん……」
「これが私の道、ってことで」

 首にぶら下がるペンダント、私の「火」の鍵。

「私たちは三人で一つ、でしょ?」

 戦いは恐ろしいものかもしれない。とても厳しいものかもしれない。
 けれど二人がいるから大丈夫。
 鍵が宿った私の、そんな私の役目、新しい道。
 そうだ、だから私は二人と共に新たな壁を乗り越える。新しい道を進む。

「だから、私も一緒に戦う。
まだ分からないことだらけだから色々教えてね? 先輩――」

 ようやく、やっと。
 私の新しい日々がスタートした。
 そんな瞬間だった。

「――そうか…… それなら後で私たち研究室や上へ報告しないとな。
後で研究室にも案内するよ。
新しい仲間の誕生を歓迎するよ」

 数秒の沈黙、その後春雄さんはそう言ってニッコリと微笑む。

「ありがとう夏海」
「ありがとう、夏海ちゃん」
「こちらこそ、よろしくね?」

 そうして私たちは互いに手を取り合う。
 鬼という恐ろしい存在はあるけど、だけど今はとても嬉しく清々しかった。

「それじゃ、打ち上げに行くか!」
「うん。朱彦くんと待ち合わせしてるしね」

 みんな、ありがとう。
 私は過去と別れを告げ、そして生まれ変わる。
 私にのしかかる重圧は、過去の罪は存在しない。
 私は私を受け入れ、乗り越え、新たな道をようやく歩き始める。

 とある一日。
 ジリジリと身を焦がすような太陽の光。
 アスファルトに浮かぶ陽炎。
 高い青空と、それを覆い尽くすような入道雲。

――真夏。とある真夏の一日。

「夏輝、来たよ――」

 まだお盆という時期でもなかったけど、私はこうして兄が眠るお墓へ、それが置かれたお寺へ来た。
 墓石に水をかけてあげて、仏花をたむけて、好物だった品をお供えして、線香を上げて。
 そして目を閉じて祈りをささげる中で、私は自分自身に区切りをつける。

――私の新しい日々が始まった。

 和間や千春、研究室の方々…… みんなと協力し鬼と戦う。
 そんな日々が始まった。
 よく分からないけど、人間が鬼と対等に渡り合う為の力を開発する実験に付き合ったり、戦う能力を磨く為の訓練に挑んだり。
 そして時に鬼という怪物が現れてそれを退治する。

 鬼という恐ろしい存在があるけれど、それを抜きにすればとても充実した日々だった。

「私は私の道を行く。いいよね? 夏輝――」

 今は亡き愛する兄へ。
 兄からすれば都合がいいと思われるかもしれない。
 あれは私のせい、私の責任かもしれない。
 そういう不安は未だ拭いきれないけれど――

――頑張れよ、夏海。

「夏輝――!?」

 ふと、兄の声がしたような気がした。
 目を開けてみるけど、もちろんそこには誰もいない。
 誰もいないけど、兄の声がした。

 その声はとても優しく、あの化物のものではない、正真正銘兄の声そのものだった。
 優しく、懐かしい響き。
 何か込み上げるものを感じて、ジーンとして、熱いものが目から流れた。

「ありがとね、夏輝――」

 優しい声から、在りし日の兄が微笑む姿が蘇る。
 まるで兄が見守ってくれているかのような、そんな気がした。

「私、頑張るから」

 もしかしたら、あの一連の現象は兄が私に与えてくれた試練なのかもしれない。
 過去に縛られ、囚われる私が、そんな私がそれを乗り越える為の試練。
 兄を失った悲しみを乗り越える為の試練を、兄自らが与えてくれた。
 今になるとそんな風にも思えるのだった。

「私、行くよ――」

 みんなのおかげで、兄のおかげで乗り越えられた。
 だから私は行く。新しい私の未来を。
 誰のものでもない、私の未来を。
 私の前には未来が広がる。未来という新しい道が広がる。
 それは酷く荒れた道かもしれないし、途中では別れ道があるかもしれない。

 だけど私は進む。
 それが私の道だから。

 だから。

「夏輝、一緒だよ――」

 見守っていて。
 一緒に色んな景色を見よう。

 一つ礼をして、名残惜しいけどお墓を後にする。
 
 高い、高い空。
 どこかからサイレンの音が聞こえてきたような。
 それはゲームセットじゃなく、プレイボールの合図。
 足は軽い。
 うん、大丈夫。もう大丈夫。

 合図とともに、私の夏がようやく始まる――


「――右ヨーシ、左ヨーシ、俺…… ツヨシ!!」
「お前は和間だろ!」

 アハハハハハ!

「続きまして一発ギャグ、嫌な空気を物凄く感じる人――」

 ある日の昼休み。いつも通りの日常、いつも通りの屋上で。

「――はあああ! 嫌だなああああ! 嫌だなああああ!」

 アハハハハハ!

「続きまして――」

 そういえば忘れていた罰ゲーム、一発ギャグ10連発を俺はやらされていた。
 約束だからしょうがない。今日は朝からずっと胃が痛い。
 しかし何とか考え抜いて研究して編み出した俺の一発ギャグは上々の出来栄えだったようだ。

 そうしてなんとかウケもそこそこに勢いに任せて10連発が終わった。

「まあ及第点ってとこだな、中々だ。よくやった和間」
「もうやりたくない――」
「あー、腹が痛いっ! 和間お笑い芸人になったら?」
「そんな簡単になれるわけがないだろ? いいか夏海、お笑いの世界は厳しいんだ」
「知ったような口だけど、お前いつから芸人になったんだ?」
「この罰ゲームで難しさがよく分かったって意味だよ!」
「――ンヒッ」
「どうした千春!?」

 顔を俯かせ、腹を抱えて何やら悶える千春。
 まずい…… 昼食を喉に詰まらせたか!?

「和間、もう一回ツヨシのくだりやってみろ」
「何でだよ!」
「あー! あれ私も好き! もう一回やって?」
「ふざけんな! こっちは恥ずかしすぎて死にそうなのに!」
「――プッ」
「千春!?」

 今度は顔を俯かせたまま両手で口を覆っている千春。
 まずい、もしかして気分が悪いのか!?

「和間、やってみろ」
「お願い和間!」
「だから何で――」

 そこで朱彦と夏海の視線がチラリと千春へ注がれた。

――あ。

 俺は悪い子なのかもしれない。
 ようやく察した俺は、そこで嗜虐心にも似た感情に支配される。

「――右ヨーシ、左ヨーシ、俺ツヨシ!!」
「ンヒッ、ンフフ――」

 今や千春はその体をこれでもかと折り曲げて必死に堪えている…… 笑うことを。
 もう一回、朱彦が無言でそのジェスチャーをした。
 よーし。千春を吹き出させてやる。

「なぞなぞでーす! パンはパンでも食べられないパンは――」
「――フフッ、ンフ」
「パンパパン!」

 パンパパン。その言葉と共にアホ顔で手拍子をする。

「一発ギャグ、空気を食べる人――」
「――もうやめて和間くん! お願いだから…… ンフッ」

 俺の勝ちだ。
 何も勝負してないけど。

「もう和間くんなんて知らない!」
「あーあ、木ノ下さん怒らせたー」
「もう私たちしーらない!」
「お前らふざけんなよ!?」
「和間くんのいじわる――」
「――俺、ツヨシ!!」
「ンフッ――」

 このギャグは使えるかもしれない。

 いつもの四人組内でのことだから、これまでは良かった。
 しかし後にクラス内、朱彦のいじりによって思わず反射的にギャグを繰り出してしまい、俺がそういうキャラになってしまうこととなるのは、この時の俺は知る由もなかった。
 朱彦許すまじ。
 今度のテストは奴を負かして俺以上の罰ゲームを与えてやる。
 そう決意した一日であった。

――そして。

「和間、ありがとね――」

 とある日の放課後。
 朱彦は用事があるとかで、そして千春も夕飯の買出しに行くと言って先に帰ってしまった。
 千春の手伝いをしようとしたが、その際夏海に声を掛けられ、こうして今日は珍しく二人きりで帰っていた。
 途中一星さんのお店に寄って、その帰り。

「ありがとうって、何が?」
「ほら、球技大会の時とか、今だって――」

 梅雨は少しの間に明けてしまい、本格的な夏が訪れようとしていた。
 連日厳しい暑さが続き、報道でも「熱中症が――」と取り上げる…… そんな季節。
 夕刻は伸びて、今日は燃えるように真っ赤な夕暮れだった。
 地球が終焉を告げているような、思わずそんな言葉でさえ浮かぶ。それほどの赤。

「いや、俺なんて何もしてないよ。千春や朱彦の方が――」

 帰り道、遠くからヒグラシの鳴き声が響いてくる。
 そのせいでどこかもの寂しくもあり、しかしそんな寂しさが愛しくも思える…… そんな微妙な感情。

「――でも、和間もあの時助けてくれたし」

 鬼と戦う仲間が増えた。
 自転車を押しながら隣を歩く夏海。
 この夕暮れのように真っ赤なショートヘアーはサラリと流れ、同じような色をした、透き通る淡いスカーレットの瞳は俺を僅かに見上げている。
 その姿が今は絵画のように、なんとも幻想的に見えた。

「夏海、辛い話を思い出させてしまうかもしれないけど…… お兄さんのことは大丈夫?」

 人の過去話に干渉するべきではない。
 けれど訪れた沈黙が妙に照れ臭くて、そして彼女が心配になって、つい口に出してしまった。

「大丈夫だよ。ありがとね――」

 しかし夏海はそう言って微笑んだ。
 魅力的な笑顔、頬は僅かばかり上気しているようにも見えた。
 その笑顔に思わず釘付けになってしまいそうになる。

「みんなのおかげだよ…… 和間、千春、朱彦、みんなの。
だからもう大丈夫!」
「肘も大丈夫?」
「――うん」
「もうあんな無理しないでね」
「分かった、ありがと。あれは私が区切りをつける為に必要だったんだ」
「区切り?」
「うん。私は過去に縛られていたの。
だけどみんなのおかげで乗り越えられたし、鬼も倒せたし。
あの化物はもしかしたら弱い私自身だったのかもしれない、試練だったのかもしれないって、そんな風に思うんだ――」

 そう語る夏海の視線は前へ向いていた。

――夏海も乗り越えたんだ。乗り越えられたんだ、過去を。

「そっか…… それじゃ大丈夫だね」
「うん! これからはみんなの為に頑張る!」
「ありがとう、夏海」
「こちらこそ。ふふっ――」

 気付くと目の前には分かれ道。
 一方は駅へ、一方は木ノ下家へ。

「――私は私の道を行くから。ありがとう和間」
「うん、俺も俺の道を行くよ。それじゃ――」

 夏海も朱彦と地元は同じ。だから学園から駅までは自転車で、そこからは電車で帰る。

「また明日」
「うん、また明日――」

 手を振って俺たちは別れる。

「――あ、そうだ!」
「どうしたの?」

 そして。

「いや―― やっぱなんでもない!」
「なんだそれ」
「ありがとう―― じゃあね!」

 何か言い残したらしい言葉を言い淀む夏海。
 そのまま口にせず帰って行く。

 暮れなずむ夕日と、そんな夕日のように眩しい彼女。
 その背をぼーっと見送って、やがて俺も家へと向かう。
 去り際の様子が少し気になったけど、別にそれでもいいかと、そんな風に感じる。
 彼女は彼女の道を行く。俺は俺の道を行く。
 こんな風に別れもするけど、また交じり合い共に進むこともある。
 それでいい。そんなもんさ。

 時に熱く、激しく、また時に優しく心地よく。
 そんな夏のような、夏そのもののような彼女。
 彼女、夏海の季節がやって来た――





 第二章 終

ありがとうございました
そういえば視点変更ありなこと表記忘れていましたすみません……

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