エノキダケの青春(48)
ある日。
俺宛てに差出人不明の1枚のDVDが郵送されてきた。
プラスチックケース入りの、タイトルも何も書かれていない市販のDVD─R。説明書どころか紙切れ一枚添付されていない。
封筒には俺の宛て名と住所を明朝体で打ったシールが貼られてある。
いかにも、俺がまったく関知しないところで作られた名簿からプリントアウトしたって感じだ。
普通なら「気味が悪い」と思って当然だろう。
俺の名前と住所を知る誰かが、自分に関する情報を一切明かさず一方的に送りつけてきたんだから、そのままゴミ箱行きにして何の問題もないに決まってる。
ディスクに何が仕込まれてるか分かったもんじゃない。
しかし人間、往々にして怖いもの見たさっていう心理が働く。
それだけじゃなかった。俺の悪い癖──妄想癖が抑えようもなく頭をもたげていた。
(もし万が一、俺に思いを寄せている内気なクラスメートの女子が、ビデオレターとして告白してきたんだとしたら!)
(しかも「私を見て」とか言って全裸で! あるいは突然、ストリップを始めたりとか!)
……そんな自分に俺は負けた。
エロい内容である可能性も考え、両親が寝静まってからリビングに入り、テレビのスイッチを入れてDVDデッキに挿入する。
「明日は学校があるし、長い映画だったら翌日回しにしよう」──そう。俺は絵に描いたようなバカだった。
(「一緒にオナニーしよ…… 一枚ずつ脱いでいくから俺君も」)
(「パンツ脱いだ? ほら見て…… 私のここ…… 俺君のことを考えて、もう、こんなにぐちょぐちょだよぉ……」)
独り善がりな妄想が暴走を始めていた。俺の股間がどんな状態だったか言うまでもあるまい。
再生が始まった。突然、大写しの題字。
「エノキダケの青春」?
太字のマジックで書いたような、お世辞にも上手とは言えないその白抜きの字が、黒地画面で小刻みに震えている。
そして画面全体を羽虫のように乱れ飛ぶノイズ。昭和初期の映画かよこれは。
空気が抜ける風船の勢いで股間の一物がしぼんでいく。
やべぇ。
こりゃなんとも怪しげな意図が臭う…… そう感じた時点で直ちに停止ボタンを押すべきだった。しかし俺は押さなかった。見続けてしまった。
題字からいきなり、アップになった男の子の顔。
ぞくりと頭から背中に痙攣が走り、飛び退くようにソファの背もたれにのけぞった。
上半身裸で真正面を向いた男の子が……? 白黒画面の下から上へと出たり入ったりしている。何だこりゃ。
……ジャンプを繰り返しているのか?
男の子は六つか七つぐらいだろう。坊主頭で満面の笑顔。白い歯を見せている。ナレーションもBGMも一切無し。
無音の白黒画面で、男の子は延々と跳躍を続ける。時々口の開き加減が変わるのは、跳ねながら笑ってるってことか。もちろん笑い声など聞こえてこない。
背景は…… あれは空なんだろうな。小さな雲らしきものが、1秒に1回ほどのペースで跳ねる男児の左横にうっすらと垣間見えている。
体の底から恐怖がにじみ出てきた。でもここで見るのをやめれば、確実に薄気味悪さだけが残る。
(「毒食わば皿まで」って言うだろ? クソッタレめ、こりゃ最後まで見届けるしかないじゃねえか!)俺は覚悟を決めた。
カメラが引いて、男の子が一人増えた。最初の子の左斜め後ろで45度ほど横──左外側方向──を向き、やはり上半身裸の坊主頭で笑っている。そして二人の跳躍は完璧に同調している。
ひたすら、寸分の狂いもなく同じタイミングの跳躍を反復する二人。
トランポリンにでも乗っているのか? 古めかしい画面からして戦前を彷彿とさせるが、当時そんな気の利いたものがあったのか?
これを撮った奴は何を伝えたかったのだ?
で、何がいったい「エノキダケの青春」なんだ?
跳躍する男児の足元が見たいという、狂おしい思いが高まる。そんな俺の気持ちになどお構いなく、上下運動する上半身の映像が延々と続く。
突然、画面が切り替わった。白地に荒々しい筆致で書かれた漢字4文字。
乾
坤
一
擲
激しいノイズの中に鎮座するその黒々とした縦書きの4文字を、俺は茫然と眺めた。
読み方は……くそ、「けんうんいってき」? いや「けんしん」だったっけか? 物事の決着を一気につけるとか、確かそんな意味だったと思うが……
畜生、何の意図があってこんな四文字熟語を挿入したんだよこいつは。
ただただ見ている奴を混乱させるのだけが目的なんだろう? だんだんお前の意図が読めてきた気がするぜ……
で、次は何だ?
「乾坤一擲」は4秒ほどで消えた。
男の子が5人に増えた。カメラは微かに下へ移動し角度を上向きにしたらしく、子供らを仰視する構図に変わっている。
顔の向きはてんでんばらばら。微妙な角度で互いにそっぽを向いている5人が、上下運動を続ける一つの台に乗っているかのように、見事な同調ぶりで画面を出入りしている。
しかし…… ここに機械は介在していない。これはどう見ても人体の跳躍。そのタイミングが、常軌を逸したレベルで統一されてるってことだ。
シンクロナイズド・ジャンプとでも呼んだらいいのか? 空に筋状の雲が流れ、なんとなく秋を感じさせる。運動会の一コマ? いや。これはそんなものじゃない。
明らかに異常だ。
どの子も「完成の域に達している」とでも言うしかないような、こぼれんばかりの健全な笑顔で白い歯を見せている。それがいっこうに崩れる気配もない。
そして互いに視線を交わすことはおろか、別の子に対する意識とか配慮といった微かな感情の動きも、彼らの表情からは見事に拭い去られている。
時折、わずかな変化がある──口が一瞬閉じられたり唇の開き具合が変わったりする──のは、まるで生き人形でないことを証明するためだけのようだ。
「何か新しい展開があるはず」──そういう切実な、祈るような気持ちに縛られて、俺は跳ねる坊主頭を凝視し続けた。
しかし願いは空しかった。五つの坊主頭が突然消えた。
そしてエンドロールもなく唐突に、ノイズの舞う白地画面に切り替わる。右下にチラチラと、小さく黒い「終」の字が震えている。
固まったままの俺をあざ笑うように、「終」の画面は2秒ほどで消え、気がつくと俺は黒いディスプレイに映る自分の影と向き合っていた。
後悔先に立たず。
半端じゃない虚脱感の中に俺は取り残された。
どんな悪意があったのか知らないが、この映像を送ってきた奴の術中にまんまと嵌った自分を責めるしかない。
犯人は? とりあえず考えられるのは同じ高校の誰かだ。
俺の住所を知っていて、何かの事情で俺に恨みを持ったか、そうでなくても陥れようとするだけの動機がある奴。
中学時代の同級生って線もあり得るが、それだと行き先の高校がバラけているだけに面倒だ……
それでも俺は、過去の経緯から容疑者とおぼしき連中を3人に絞り込んだ。
明日学校でそいつらにこの封筒を見せ、反応を確かめるか。で、犯人が分かったら、動機を小一時間問い詰めてやろう。
もちろん、どうやって制作したかも洗いざらい吐かせる。
既存の動画を繋いだだけなのか? ならばそのソースは? オリジナルだとしたら、この子供たちはどこにいて、どうやって出演を承諾させたのか?
当然、俺は彼らに会いに行き、そこで嫌というほど小言を言って聞かせずにはいられない!
で、十分納得がいったら、……それからどうしよう。前途ある17歳男子が蒙ったトラウマがそれで解消するのか?
ベッドに入った。きっと眠れないだろう──そう覚悟していたのに、俺はあっさりと熟睡した。
翌朝。
俺は巨大な一本のエノキダケになっていた。
いつもの自分の背の高さで、部屋のドアが見えている。
ドアとの位置関係からして、自分が寝ていたベッドの前に立っているらしい俺の体はぜんぜん動かない。
だって仕方がない、俺はエノキダケなんだから。
キノコが歩いたりするかよ。
そうか。これが、「エノキダケの青春」の意味だったのか。少年の心にトラウマを与えるだけの悪ふざけだと思ってた俺が甘かった。
でも悪夢なんだろこれ!? 早く覚めろよ! おい!
……マジかよ。いつまでたってもエノキダケだぜ……
自室でひょろひょろと屹立するエノキダケの俺は途方に暮れる。
これからどうしたらいい? 人間に戻れんのか? 学校は? これからの人生は?
泣くこともできねえ。「笑うしかねえ」っつーより、キノコじゃ笑えもしねえよ。
そんな世界でも時間は普通に流れてるらしいから驚きだ。ドアをノックする音が聞こえた。俺がいつまでも出てこないから、母親が心配したようだ。
俺を呼ぶ声が続く。次第に声が大きくなる。何も反応がないとなれば…… この姿を見られるしかないのか。
俺は涙を流さずに泣いた。いや哭いた。
ドアノブが回転する。ドアがゆっくりと開けられ、隙間から差し込んだ母親の顔に驚愕が走る。
そしてホラー映画みたいに半狂乱になるかと思ったら──一瞬で無表情に戻った。
母親が入ってきた。ドアを後ろ手に閉め、巨大なエノキダケと化した俺の正面に立つ。
その顔に、今まで見たこともない喜びの表情が広がる。口が横に大きく広げられ、犬歯までむき出しになる。
最後に見たのは、両手を広げて飛び掛かってくる母親の姿。それからすぐに闇が訪れた。俺は食われた。だってエノキダケなんだから。
エノキダケが母親の大好物だったっていう記憶はない。だとすると、俺はよほどうまそうなエノキダケに転生したらしい。
俺はむさぼり食われていく。ああ、あんなDVD見るんじゃなかった。エロい妄想を抱いたばっかりに、こんな羽目になるなんて。
それにしても、どうしてこんなことするんだ? 俺が何か悪いことしたってのか? 何の恨みがあったんだよ!
─────
渡り鳥がシャチの頭を舐めるのを見たことがありますか。
隊列を組んだ渡り鳥の下を、シャチの群れが潮を吹きながら一列になって泳いでいます。
時々渡り鳥がシャチの頭に舞い降り、シャチの頭をペロリとひと舐めしてから隊列に戻っていきます。
あれはいったい何をしているのでしょう。
実は渡り鳥は、シャチの頭に浮いた脂を舐め取っているのです。
シャチの頭の脂はバターのように濃厚な味がある上にたいへん栄養価が高いので、渡り鳥はシャチの脂を貰うことで長時間飛ぶ力を補給しているわけなのです。
おまけに、シャチは渡り鳥に舐められる瞬間は体が硬直してしまうくらい、ものすごく気持ちがいいんですって。これは秘密だよ。
人間の世界でも似たようなことがあります。
最近、こんな事件がありました。
罰ゲームを課せられた女子中学生が友達2人に抱え上げられ、電車内の入口付近に立っているハゲ親父の背後にそーっと近づきました。
突然後頭部をペロリと舐められたハゲ親父は、走り去るJCたちのけたたましい笑い声を聞き、その場で歓喜の表情を浮かべてイってしまったのです。
すぐに険しい表情の男性客たちが近寄り、白目をむいて恍惚状態のハゲ親父の両腕を捉え、次の駅で降りていきました。
ハゲの後頭部を舐めたJCは飲み込むまでが罰ゲームだったので、その後3日間は吐き気と下痢が止まらなかったそうです。
ハゲ脂の威力。それは、シャチの頭に分泌されるような、そんな生易しいものではなかったのでした。
そして連行されたハゲ親父はなんだか訳の分からないうちに、痴漢行為を働いたとして会社をクビになりました。
人間の場合だと誰の得にもなりませんね。あ、JCに舐められたハゲ親父はその一瞬だけが至福の時だったかもしれないけど。
─────
意識が途切れる直前、俺の脳裏をそんなバカ話が走り抜けた。
終わり。
おやすみ諸君。
……私はそう呟き、「終」を打って書き込みボタンを押した。
PCの白い画面左上に「書きこみが終わりました」のメッセージが現れるのを待ち、トップ画面に戻ってレス数が増えているのを確認する。
これで、何人の読者(「毒者」という誤変換に苦笑する私)が胸糞の悪い思いをすることだろう。
構うことはない。作者にしろ読者にしろ、多くが書きたくもないものを書き、読みたくもないものを読んでいる。
今日はこのssでも読んで、せいぜい眠れぬ夜を明かすがいい。
むしろ私は、若い読者──つまりは子供たち──がこれに懲りて、二度とssなど読みたくないと思うぐらいなら本望だ。
そもそもガキが好き放題ネットにアクセスできること自体間違っている。
私はそう信じて疑わない。それほどに、インターネットの奥に広がる闇は深い。
そして膨大な屑情報を介して、菌糸のように広く深くはびこる害毒は日増しに勢いを増している。
その行きつく先は、徹底的な想像力と感性の破壊。
いずれ「倫理」や「道徳」は実体のない絵空事になり、思考停止を至上とする「空気」が支配するだろう。
……もっとも私自身、こうやってssなど書いているのだから偉そうなことを言えた義理ではないが。
ssを書くのに取りつかれて3年。会社と家庭で孤立感ばかり深める中年男が、ふとしたきっかけで投稿を始めたらたちまちのめり込んでしまった。
これまでに長編5本、短編30本は書いているだろう。
そのストレス解消効果は、麻薬と言うしかない。むしろ「魔薬」と言った方が当たっているかもしれない。
なんといっても、スレッドを立てるときの、あの背徳感を伴う興奮。心臓の高鳴り。この快感はいつになっても衰えない。私はこの興奮の虜になった。
そして家族は、私のこのひそかな趣味を知らない。
息子。今回の主人公と同じ17歳の一人っ子は、自分のスマートフォンで私の作品を読んでいる可能性もある。
学校で、あるいは登下校の途中で私の作品を読む息子の姿を想像すると、自然に頬がゆるみ、悪魔のような笑いが広がるのを禁じ得ない。
息子よ。これは父からお前への贈り物だ。
お前は昨日、私に向かって「社会の粗大ゴミ」とか抜かしたな。
お前はリビングに立ち尽くす私を、それこそゴミのように打ち捨てて自室へ引き揚げて行ったが、その言葉を忘れることはないぞ。私が生きている限り。
だからこのssをお前に贈るのだ。父の愛情がこもった、手作りの一品を。
エノキダケとなって目覚めるお前は、私たちの手を離れて、この「世界」という荒野へ出て行く。
そこは、エノキダケのように突っ立っていれば、たちどころに頭から食われる場所なのだぞ。私はそれをお前に教えたかったのだ。
何よりも今、私の手元にあるものがその現実を雄弁に物語っている。
黒い帳(とばり)を開けて中に入る。
薄暗い天幕の中は、地面いっぱいに広げた絨毯の上に男女20人ほどが座り、熱気でむせ返るようだった。その連中が皆、天幕の奥に鎮座する一人の老人に目を向けている。
老人は足の高い木の椅子に腰かけて会衆を見下ろし、身振り手振りを交えながら、俺にはさっぱり分からない言葉で盛んに何かを話していた。
会衆の男女には分かっているんだろうか? 皆、目を輝かせて一心に聞き入っているが。
まばらな白髪と髭を残し、完全に肉の落ちた焦げ茶色の皮が、頭蓋骨に張り付いているだけ。
「師父」の顔は俺の目にはそう見えた。言葉が発せられるごとに、口の中に2、3本残った前歯が白く見え隠れする。
茶色の衣装をまとい頭に黒い被り物を載せた老人の姿は、輪郭が闇に溶け込んだようにぼやけて見える。
そんなぼやけた輪郭の中で、二つの目がせわしなく動き、時折、蝋燭の炎を受けてぎらりと光った。
俺を導き入れた女も、横で老人の話に聞き入っている。
布で覆われていない額(ひたい)に、ほの白い蝋燭の光が揺れる。その額の下にある目が、こちらの視線に反応したのを機に俺は言った。
「何を言ってるのか分からない」
「分かるようになるまで聞く。皆そうしてきた」
その時突然、老人が俺を指さして何か叫び声を発した。会衆の目が一斉に、入口の前に立っている俺に向けられる。
老人は飛び出さんばかりに目を見開き、俺を指さしたまま、激しい勢いでまくし立てる。会衆は老人と俺の顔を交互に眺めて、不安げに言葉を交わしたり首を横に振ったりしている。
どうやら俺は非難されているらしい──残念なことにその憶測は、老人が手元にあった什器やら燭台やらを手当たり次第に俺に投げつけ始めたことで、疑いようのないものになった。
なぜ、非難されねばならないのか。俺は両手を広げ首を振って当惑の意を表したが、老人は容赦しない。
投げつけられる品々と罵声を背に受け、俺は嫌も応もなく天幕を追い出された。
老人の迫害にさらされた俺は悲しく、情けなかった。しかし、会衆が迫害に加わらなかっただけでも感謝しなければいけないのだろう。
俺は頭のどこかで確信していた。俺を見据えた老人の目にあったのは怒りではなく、恐怖以外の何物でもなかった、と。
そして、「やむを得ないのだ」と思っていた。
追い出され、力なく座り込む俺の上には、照り付ける太陽。
前方には相変わらず駱駝。そして俺の横に立つ、顔の下半分を隠した女。
日差しとともに女の声が降ってくる。
「師父は『あれは悪魔の草だ』と叫んでいた」
「悪魔の草……」
「そう。清浄なこの砂漠にあってはならない、不浄極まる草」
ほとんど消えてしまった記憶の残滓の中に、怪しげなものがぴくりと動いた。
「俺はその、不浄極まる悪魔の草なのか」
「悲しまなくてもいい。今のお前がそうだというわけではない」
「でも師父は俺を指さしてそう言った。そうなのだろう」
「師父の目は、私たちの想像も及ばぬ世界を見る。ここにいるお前だけを見ているのではない」
「だとするなら…… それは俺の罪なのか」
女は答えず、オレンジ色の裳裾を翻して俺に背を向け、どこかへ去った。
俺は立ち上がった。
振り向くと、緑色の天幕は前と同じように立ち、入口は黒い帳で閉ざされている。中からは何も聞こえてこなかった。
俺は天幕に背を向けて足を踏み出した。どこまでも青く広がる空。照り付ける太陽。
駱駝のいる水場に近づく。
水面に自分の姿が映る。俺の顔を透かして小さな魚が跳ねるように動き、顔の上に波紋が広がる。
俺は被り物を取り、両手で水をすくって頭からかけた。そうやって何度も何度も、頭と顔に水を浴びせた。
濡れた髪も肌も、熱気のせいでみるみる乾燥していく。その心地よさに俺は時の経つのも忘れた。
気がつくと、日がだいぶ傾いている。そうか、やがて夕刻か。
太陽が回っているのは確かなようだ。
そう。回っているのは太陽だ。俺のいる地面が太陽の周りを回ってるわけじゃない。そんなはずはない。
いずれ「夜」が来て、地上にあるものは冷気にさらされるのだ。
どこかから声が聞こえてきた。
女の声。俺の知らない言葉で織りなされる、低いうなりのような朗誦。
その声がうねりながら、乾ききった空気の中に尾を引いて流れていく。
俺は立ち上がって辺りを見回したが、声の主らしき姿は見当たらない。
周囲に散在する天幕の中から発せられているのか。
そう思って耳をそばだてても、うなり声は地表近くに沸き立つ霧のように、出どころをとらえられぬまま空気の中へ解け入ってしまう。
遠いのか、近いのかも判然としない。
あるいは地平線の彼方から、風に乗って響いてくるのかもしれなかった。
うたわれているのは、嘆きあるいは呪い、さもなければそれらが渾然となった何か。
そもそも、あれは歌なのか。それとも祈りなのか。
独り言が口を突いて出る。
「歌と祈りの境などない」
その愚かしい言いぐさに、自分ながら苦笑する。
波が引くように苦笑が収まった。俺は砂上に膝を折り、仰臥して空を眺める。
砂が背中に熱い。
朗誦は休止を挟みつつ、いつ終わるともなく続いた。
「終わったか」──そう思っていると、再びどこからか声が沸き上がる。そのたびに俺は不思議な安堵に包まれる。
唐突に、狂ったように砂漠を走る自分の姿が脳裏に浮かんだ。
今、聞こえているのが、嘆きでも呪いでもなく、歓楽の歌でもない「何か」だったとしたら。
俺はきっと……目の前に広がる砂漠を、干からびるまで走り続けるしかなかっただろう。
日が地平線に近づき、風に冷たさが増した。
ゆっくりと遠ざかるように朗誦は絶え入り、長い休止に入った。
それでも俺は、闇の色がにじみ始めた空を眺めて耳を澄ました。
やはり何も聞こえてこなかった。
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