幼馴染「いっしょにいようよ」 (425)


 夕暮れ。公園。ブランコ。

 ジャングルジムの影の網目。ベンチに置き去りのランドセル。赤と黒。
 水飲み場のそば。濡れた土。砂場に埋まるジュース瓶の王冠。

 敷地を示すフェンスの内側。道路側からは覗けない、滑り台の影。

「ねえ……」

 ぼくらは。

「キス、しよ?」

 ぼくらは。

 誰かを好きになるなんてこと、言葉の上ですらよくわからなかったぼくらは。
 ただお互い、すぐに近くにいたというだけの関係で。
 他の誰よりも近かったという、ただそれだけの理由で。

 その気持ちが、他の誰かに対して抱くものと、どう違うのかさえ分からないままに。
 それでも真実だと信じて。

 好奇心や興味じゃない、ましてや欲望なんかじゃない。
 そんなまがいものの感情なんかじゃないと、信じて。

 ぼくらは。



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「好きだよ」

 キスをした。
 誰にも見つからないように。
 他の誰にもわからないように。

 キスをした。

 嘘みたいに綺麗な夕焼け。
 むせかえるような、雨上がりの草いきれ。

 間違っているって、最初から分かっていた。
  
 オレンジの夕闇に包まれた街の中、住宅地の児童公園は人影どころか誰の気配もなくて。
 世界からぼくら以外の人が消えたような気がしていた。
 世界が、ぼくらを隠してくれているような気がした。守ってくれているような気がした。
 錯覚なのかもしれない、そんな祝福を、たしかに肌で感じていた。

 こども、だった。





 金曜の夜には、計画を立てる。

 まずは、やらなくちゃいけないこと。
 数学の課題。今度の検定の勉強。あとは多少の予習復習。

 次にやりたいこと。
 このあいだ買った映画のDVDを観る。集めているマンガの新刊が出るころだから本屋に行く。
 結構前に買ったRPGも、序盤のダンジョンから進めてないから、本腰入れてやってしまうのがいいかもしれない。

 そういうあれこれを思い浮かべながら、計画を立てる。

 よし、土曜の朝は早めに起きて、空いてる時間で勉強を進めて、本屋が開く時間に合わせて出かけよう。
 帰ってきたらマンガを読んで、映画を見て、それが終わったらまた勉強をすればいい。

 やることをその日の夜に済ませてしまえば、日曜はどっぷりRPGにひたるのもいいだろう。

 そんなことをひと通り考えたあと、金曜の夜は、とりあえず課題を終わらせることにした。
 苦手科目とはいえ、集中してやればそう時間はかからない。

 計算違いは、その課題が簡単すぎて、すぐに終わってしまったところから始まった。
 やらなければいけないことをひとつ済ませた俺は、ちょっと余裕ができた気がして、ゲームを始めてしまった。
 日曜に余裕を持ってプレイできるといっても、昨今のRPGは大容量すぎてやたらと長い。

 日曜まるまる使ったって、エンディングまで辿り着けはしないだろう。
 それに、プレイするのが久々すぎて、展開なんかを忘れていそうだったから、勘を取り戻しておきたかったというのもある。


 で、結果……俺は土曜の午前三時までファンタジー世界の傭兵としてお姫様の護衛をしていた。
 さすがにそろそろ寝ないとまずい。いまさらそんな自制心(というより、眠気の方が勝っていたが)に突き動かされる。
 まあ、目覚ましをセットしてりゃ起きられるだろ。そう思って、さらっとシャワーだけ浴びて、寝た。

 目を覚ましたのは十一時五十分。ああ、やっちまったなあ、と思う。
 
 携帯のディスプレイにはスヌーズ機能が動作した形跡が残っていたけど、どうやら深い眠りの淵にいた俺には届かなかったらしい。
 
 ああ、どうしようかな、と思って、ベッドの中でぐだぐだ考えているうちに正午を回る。
 よし、と覚悟を決めてベッドを抜けだして、ぐーんと伸びをしたあと、さて、どうしたもんかと考えた。

 昨夜遅くまでゲームしていたせいか、体は変に気だるくて、頭も少しぼんやりした。
 おかげで出掛ける気にはなれなくて、枕元においてあったマンガ(何度も読んだやつ!)をぺらぺらめくっているうちに十二時二十分。

 そうこうしているうちに段々と眠気がとれてきて、そういえば昨日(厳密にいうと今日だけど)はいいところまで行ったんだよなあなんて考える。
 で、ゲーム機の電源を入れて、ふたたび俺は仮想世界の旅人になった。

 現実にかえってきたのは、目の疲れが頭痛に変わり始めた午後四時。
 ゲームは中盤に差し掛かっていて、続きが気になるところだったけど、さすがに休憩することにした。
 


 ベッドの上で目を閉じて休んでいるうちに、またうたた寝したらしくて、起きたのは夜中の十一時過ぎ。
 空腹に突き動かされて台所に向かい、冷蔵庫の中をあさったが何もない。

 ああ、なんだよ、と俺は思う。

 水道水だけ飲んで部屋に戻ると、暗い部屋の中、消し忘れたゲームの登場人物が、言葉の途中で話を止めてしまっていた。
 セーブもせずに、俺はそのまま電源を消してしまった。もう二度とプレイしないだろう。

 ゲームなんかして、なんになる?
 何にもならない。

 でも……じゃあ……。

 続きを考えるのはやめて、ふて寝するみたいにベッドに体を投げ出した。
 開けっ放しのカーテンの隙間から、夜の暗闇が風に乗って入り込んでくるような錯覚。
 窓は閉じたままなのに、そんな気がした。


 次に目を覚ましたのは、眠りすぎたせいだろうか、朝の四時を回ったくらいのことだった。
 起きてすぐ、憂鬱になる。

 二度とやらないゲームのために潰してしまった土曜日。
 俺の人生に訪れてくれる土曜日の数は決まっているのに。

 俺は椅子に座り、フローリングの床を踏みしめた。
 それから、頭の中で考えていた計画と、それを実行できずにいる今のことを考えた。

 ルーズリーフを一枚机の上に横向きに広げ、シャープペンで縦に線を引いて左右に分ける。
 計画したこと、漠然と思い描いていたこと、やろうと思っていたこと、こうなるだろうと思っていた未来を左に。
 その計画と現状との乖離、思い描いていたことの困難さと、その理由、現在の状況を右に書く。

 途中でうんざりして、ルーズリーフをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げたけれど、
 中身がいっぱいだったせいで、弾かれた紙の玉は床に転がってしまった。




「お兄ちゃん、起きてる?」

 ……。

「お兄ちゃん?」

 ……。

「ちょっと、、話があるんだけど」

 ……。

「あの、お兄ちゃん? ドア、開けるよ?」

 ……。

「お兄、」

 ……。

「――え?」

 ……。




「……おにいちゃんってば!」

「うわあ!」

 と、声に驚かされて飛び起きると、真横には十年来の付き合いになる幼馴染の姿があった。
 ちみっこい体と栗色の髪の毛が、のけぞった拍子にふらふら揺れた。

「お、おっきな声出さないでよ、びっくりするでしょ」

 ぶつぶついってる彼女をとりあえず思考の隅に追いやって、俺は周囲の状況を確認する。

 時計は八時半を指してる。俺は椅子に座っている。床には丸められたルーズリーフのボール。
 どうやら、あのまま居眠りしてしまっていたらしかった。

「……あ、てて」

 変な姿勢で眠ったのと、急に体を起こしたせいだろう、肩と首のあたりがきしきし痛んだ。

「だいじょうぶ?」

「あー、うん」

「なんで椅子で寝てたの?」

「……さあ。寝るつもりがなかったからじゃない?」

「居眠り?」

「たぶん」

「ばかみたい」

 あくびをしてから、窓の外を見る。天気はどうやらいいらしく、陽の光が東の窓からまぶしいくらいに差し込んできた。


「夜更かししたの?」

「いや。早寝したよ」

「うそだあ」

「嘘じゃないよ。午後四時に寝て、午前四時に起きて、居眠りして、今に至る」

「……よくそんなに寝られるよね」

「自分でも不思議なんだよな、それが」

「ばかみたい」

「紆余曲折あったんだよ」

「へんなの」

"ばかみたい"と"へんなの"は、こいつの口癖みたいなもので、どちらもだいたい一日に十回くらいは耳にすることになる。

「……で、何か用事?」

「あ、そうだ。ね、おにいちゃん、今日暇?」

 言われて思い出したみたいな顔で、彼女は笑った。暇に決まってるよね、と言いたげな顔で。

「暇じゃない」


「うそだあ」

「なんだよ、嘘だあって」

「べつに、他意はないけど」

 他意でもなんでもなく俺が暇に決まってると言いたいらしかった。

「勉強しなきゃいけないんだよ」

「ふうん。大変だね。じゃあ、映画見に行かない?」

「……あのさ、話の前後がつながってないんだけど。勉強するんだって、俺」

「夜にすればいいじゃん」

「そうやってやらなきゃいけないことを先延ばしにしてると、何にもできないまま人生終わっちゃうんだぞ!」

「妙に実感こもってるね」

「……まあな」


「でも、ほら、前から言ってたでしょ、観たい映画があるから始まったら付き合ってねって」

「ひとりで行けば?」

「おにいちゃん、つめたーい」

 おどけた感じの甘ったれた声が、起き抜けの頭にはアイスクリーム頭痛みたいにキンキンして聞こえた。

「……あのさ、その"おにいちゃん"っての、やめろよいいかげん。お互いいい年なんだからさ」

「いい年って、十七歳で口にする言葉?」

「じゃあ、お互い思春期だし、やめようぜ」

「わたしは気にしないもん」

「俺が気にするから言ってるんだろうが。なんでぜんぶ自分基準なんだ、おまえは」

「世界の中心は自分自身だから、人の言うことなんか気にするなって教わったんだよね」

「だれに」

「おにいちゃん」

 皮肉っぽい満面の笑みで、彼女は人差し指を俺に向ける。

「人を指差すんじゃありません」

「はーい」

 ほんとに、なんでかわからないけど、こいつにはペースを握られっぱなしだ。


 そもそも、母親同士の仲が良すぎたのが問題なんだ、と思う。

 隣近所に住んでいて、やたらと気が合うからって理由で、俺たちの母親同士は姉妹みたいに仲が良かった。
 同じような時期に子供を生んでいたのも理由のひとつなんだろう。

 うちの親は仕事で家を空けることが多かったから、子供の頃からこいつ――深山志鶴――の家に預けられることが多かった。
 ひとりでいるよりは楽しかったし。世話になったのは事実だし、いまでも向こうの親はかわいがってくれてる。

 それに年下だとは言っても、年の近い女の子と仲良くなれるのは悪い気がしなかった。
 そういう言い方をすれば不満なんてひとつもないんだけど。

 でも、こういう関係っていうのは、中学にあがるくらいで自然と距離ができてしまうものだと思う。

 そうしたいってわけじゃないけど、なんでそうならなかったのかを考えると、なんとなく……。
 申し訳なくなる。

「で、付き合ってくれるの?」

「……わかったよ」

 べつに、一緒に出掛けるのがいやってわけじゃない。
 でも、こいつだって高一だ。俺だって高二だ。

 いいかげん、子供の頃仲が良かっただけの相手より、学校の友達なんかと出かけた方がいいと思う。
 余計なお世話なのかもしれないけど、なんとなく心配になってくる。


「……俺じゃなくて、友達と見に行ったらいいのに」

「だって、映画の趣味、合わないし」

 そりゃまあ、SFアクションの新作洋画を見たがる中学生女子なんて、そうそういない気はするが(偏見か?)。
 でも、俺の趣味ってわけでもない。

 そこらへんに気を使わないくらいには、親しい仲だと思ってくれてるのかもしれない。
 ……いや、逆か。
 気をつかって誘ってくれているんだろう。きっと。

「……着替えるから、下で待ってて」

「はーい。あ、映画、十一時四十五分からだから」

「了解」

「寝ないでよ」

「これ以上眠れないよ、たぶん」

「……たぶん、なんだ」

 呆れた調子で溜め息をついてから、彼女は部屋を出て行った。
 




 ここ数日はずっとどんよりした曇り空で、外に出るにも憂鬱だったが、今日はそこそこ爽やかな晴れ空だ。

「絶好の外出日和だね!」

 自分の選択の正しさを補強しようとするみたいに、志鶴はわざとらしい声をあげる。
 こういうおどけて見せる癖も、学校なんかじゃ猫をかぶって、あんまりしないらしいけど。本人談。

「調子いいよなあ」

「出かけたくなかった?」
  
「いや」

 あのまま家でくだを巻いているよりは、マシな気分になれそうなことは確かだ。
 
「……おにいちゃんには、素直さが足りないよね」

 話しながら、バス停までの道のりを歩く。夜の間は雨が降っていたのか、どこかの家の庭先の紫陽花が濡れていた。
 


「こんな良い天気の日に出掛けないなんて……」

「……出掛けないなんて?」

「フケイザイだよ!」

 ……どっちだ。不経済か? 不敬罪か?
 どっちにしても、違う気がするけど。

「……フケイザイなら、しかたない」

 どっちでもいいやと思って、俺は素直に頷く。
 志鶴は俺のその態度が気に入らなかったらしい。不服げに眉をひそめていた。

 そういう気分をあんまり引っ張らないのが彼女のいいところなんだろう、
「ま、いいや」って顔をしてから、彼女は進行方向に視線を移して鼻歌なんか歌い始めた。
 
 そう早い時間ってわけでもないけど、日曜の朝だ。
 通りには、犬の散歩やジョギングをしている人の姿があった。



 一応、近所に住んでる顔見知りばかりだから、声を掛けられたり、挨拶をしたり……。
 って言っても、たいがいが志鶴に対してのもので、俺はおまけみたいな扱いだけど。

 人徳ってやつだろう。俺には真似できない。
 せいぜい、軽い挨拶を交わすくらいが関の山。それ以降はどうも会話が続かない。
 まあでも、志鶴と歩くのが珍しくもないおかげで、セットみたいに扱われるときもあるし、別に悲観することでもなさそうだ。

 そういう面でも助けられてる。たぶん。

「いつも思うけど」

「なに?」

「感心するよ、おまえには」

 俺の言葉に、志鶴は首をかしげた。

「なにそれ。嫌味?」

「……おまえさ、どうしていちいち、俺の言葉に裏があると思いたがるんだ?」

「べつに、そういうつもりじゃないけど……じゃあ、褒めたの?」

 俺はどう答えようか迷って、結局「そうだよ」と答えた。

「うわあ」

「なんだよ」

「おにいちゃんがわたしのこと褒めた」


「……珍しいか?」  
 
「どうしよう、せっかく映画見に行くのに……」


「なにが」

「雪が降るかも」

 俺の褒め言葉は天変地異の前触れなのか。

「……あのな。おまえは近隣住民の皆様がたと上手いことやってて、すげえなって、俺はそう言ったんだよ」

「なに、それ。べつにすごいことないでしょ」

 すごいことないことないけど、まあ、できるやつにはわからないことっていうのもあるもんだ。

「それになんか、その言い方だと、おにいちゃん、このあたりの人じゃないみたい」

「……や、そういうんじゃないけど」

 べつに、なんてことない話の流れだったはずなのに、そこで一度会話が止まってしまった。



「や、でも、おにいちゃんがわたしのこと褒めるなんて、半世紀に一回くらいだよね」

 凍った空気を忘れさせようとするみたいに、志鶴は言葉を重ねる。
 俺もそれに乗っかることにした。

「……俺たちの人生、まだ半世紀経ってないんだけど」

 人生で初か、俺の褒め言葉は。
 いくらなんでも長い付き合いだし、褒めたことくらい、もっとある。……はずだ。

「お褒めにあずかり光栄のいたりですよ、おにいさま」

「……うん。よきにはからえ」

 なんかめんどくさくなってきて、適当に流した、風に、会話を区切る。

 空気を変えようとして、得意でもないはずの道化のまね事をしてくれたんだろう。
 そういうのがわからないわけじゃない。

 痛そうなくらいの気遣い屋。きっと、くせになってる。
 だから、たぶん、彼女が俺のところに来るのも、なにかと出かけようと誘ってくるのも、きっと。

 気にしてくれているんだろうけど……。まあ、自意識過剰かも知れない。


「ところで、おにいちゃんさ」

「なに?」

「最近彼女できた?」

「あー、彼女なー、うーん」

 彼女?

「は、彼女?」

「うん」

「なに、急に」

「や、ただの世間話ですけど?」

 本当にただの世間話みたいな調子できかれたせいで、戸惑ってしまった。
「試験勉強してる?」みたいなノリで聞いてきやがって。

「や、できてないっすよ?」

 数秒、沈黙。

「ふーん」

 どうでもよさそうな、そっけない相槌。
 ほんとになんなんだろう。


「……で、なに、その質問」

「こないだ、おにいちゃんが女の人とふたりで歩いてるところ見かけたから」

「どこで」

「学校」

「……え、いつ?」

「月曜日」

「……月曜」

 少しだけ、考える。

「放課後?」

「うん」

「委員会だな」

「入ってるんだっけ」

「図書委員」


「ふーん。なんだ、つまんない」

「一緒に歩いてるだけで付き合ってることになるなら、今だってそうなっちゃうだろ」

 志鶴はちょっとだけ考えるように黙りこんでから、俺とは目を合わせずに、

「……ま、たしかに」

 と静かに言った。思ったよりもおとなしい反応に、俺は少しだけ戸惑う。
 もっとおおげさに、嫌がるか、ふざけるか、すると思っていた。

 べつに取り決めがあるわけでもないけど、
 お互い、そういう話題が出るのを避けているところがあると、俺は勝手に思っていた。

 今まで偶然、そういう話をするタイミングがなかっただけなのかもしれないけど。
 
「おにいちゃんが女の子と一緒に歩いてるの初めて見たから、浮いた話でもあったのかなって」

 いくらなんでも、初めてってことはない(はずだ)。


「それだけなんだけどね」

 今思い出したから言ってみただけで、なんでもない質問なんだと強調するみたいに、彼女は言った。

「あ、そ」

 それ以上その話題が続いたところでたいした話にできそうもなかったから、俺は相槌を打って話を区切った。

「それにしても、今日はなんだか蒸し暑いね?」

「……そうか?」

「暑くない?」

「……言われてみれば、確かに」

 たしかに暑い。言われるまで、気付かなかった。
 でも、なんだろう。暑さが、遠いような気がする。




「おまえにマトモな恋愛ができるとは思えねえけどな」

 いつだったか、俺の数少ない友人、千家龍は、
「ポイ捨てを批判するのにゴミの分別をしないってのは、欺瞞だ」とでもいうような憤った口ぶりでそう言った。

 放課後の教室。残っていたのは俺たちだけで、ふたりで椅子に座ったままだらだら時間を無駄にしていた。
 今年の春のことだろう。というか、千家と話すようになったのも、その頃、つまり二ヶ月前くらいが最初だし。

「そういうの、偏見っていうんだよ」

「ま、そうな」

 俺の精一杯の自己弁護に根拠はなかったが、だからといって、あえて追及してくるようなことを千家はしなかった。
 彼からしたらどうでもいい話だったんだろう。

 でも、俺からしたらどうでもよくない話だったので、一応理由を訊いてみることにした。

「ちなみに、なんでそう思う?」

「だっておまえ、半分死んでるじゃん」

 ゾンビかよ、俺は。適当にそうツッコんだら千家は楽しげに笑った。
 彼の笑いどころはいまいち分からない。




「あ、猫だ」

 バス停を目指してまったり歩いていた途中で、志鶴はそう声をあげた。
 ここらへんにはあんまり野良猫っていうのはいない。
 だいたい、見かける猫は近所のどこかで飼っている猫で、だいたい首輪をつけている。
 
 でも、その茶トラは首輪をつけていなかった。

「見慣れない顔だなー」

 とかなんとかいって、志鶴は猫の前にかがみこむ。
 飼い猫ではなさそうだけど、人には慣れているようで、逃げようとはしなかった。
 志鶴は首の下を指先でひっかくように撫でながら、

「ほーれ、ほれ」

 と怪しい声をあげた。ちょっと呆れながら、「早く行こうぜ」と声をかける。
 
「だいじょうぶ。時間あるし」

「そりゃ……。まあいいか」

 まあ、べつに急ぐ用事でもなし、もともと志鶴の目的に付き合うって名目で出掛けているんだ。
 こいつがしたいようにすればべつにそれでかまわない。

 そんなに長くはならないだろうし。

 案の定、志鶴はすぐに立ち上がって、猫から離れた。
 俺たちが歩き始めても、猫は何かを待ってるみたいに来たときと同じ場所に佇んでいる。

 そんな猫の姿を志鶴はしばらく名残惜しげに眺めていたけど、何秒か、だ。



「猫、好きだっけ?」

 訪ねてみると、

「べつに?」

 と不思議そうな顔で首をかしげられる。

「……あ、そう」

「普通くらいだよ」

 俺にとって普通というのは無関心のことで、
 だから道端で猫を見つけても立ち止まって撫でたりしないものだと思うんだけど、
 でもまあ、言葉の使い方の違いをどうこういうのは不毛だろう。

「……なあ、そういえば」

 思い出したことがあって、話しかけようとすると、隣から志鶴の姿が消えていた。

「……ん?」

 振り返っても、前を見ても、志鶴の姿は見えない。
 曲がり角までは距離があるし、隠れる時間も場所もない。そもそも姿を隠す理由がない。

「あれ、志鶴?」

 名前を呼んでみても返事はない。さっきまでいたはずの猫の姿も、見えなくなってしまった。




 ついさっきまでそばにいたのに、どこにいっちゃったんだろう。
 
「……ひょっとして白昼夢……?」

 急にひとりにされた不安から、思わずひとりごとを言ってしまう。
 日曜の太陽は静かに道を照らしている。

 六月の晴れた朝、俺は道の真ん中に一人で立っている。
 古くさいブロック塀の狭間に置き去りにされて、はぐれた誰かを探している。

 見慣れているはずの道が、急に姿を変えたような錯覚。
 実際、変わっているのかもしれない。変わっていたとしても、俺は気付かないだろう。

 気にかけていなかったから。

 こんなことが、ずっと昔にも、一度だけあった。
 
「……馬鹿か、俺は」

 とりあえず、志鶴を探さなければ。
 いつのまにこんな忍者みたいな真似を覚えたんだ、あいつは。



「おい、志鶴、どこいった?」

 やっぱり、返事はない。
 仕方ないか。

 歩き出してから、なんだか肩のあたりが痛むのを感じた。
 やっぱり、変な姿勢で眠ったせいだ。さっきまで意識せずにいられたのは、話すのに夢中になっていたからだろう。

 そういう意味では、誰かと話すのは嫌いじゃない。
 何かに夢中になっている瞬間も。だから、志鶴がしてくれることには、いつも助けられている。

 そのはずなんだけど。

 近頃は、なんだか、自分を遠くから見ているような気がする。
 自分の背中を、眺めている自分がいるような気がする。
 
 そのせいで、何をやっていても、ある瞬間を境に、唐突に冷めてしまう。
 
「……志鶴?」

 近くには誰もいないはずなのに、急に恥ずかしくなって、小声で彼女の名を呼ぶ。
 でも、かえってバカバカしくなった。届かない声で名前を呼んで、誰が返事をかえせると言うのだ?



 俺は頭を振って、努めて何も考えないようにする。
 ひとりになると、すぐこれだ。

 溜め息が出る。

「まったく。どこいったんだか」

 なんて言葉を、わざとらしくぼやいてみる。
 不安を紛らわせるためだって、自分でも気付いてる。

 あいつも同じタイミングで、同じことを言ってるかもしれない。
 そう思うと少しだけ気分が晴れて、そのせいでまた曇った。

「……めんどくせー奴」

 頭をかきながら、呟く。


 来た道を引き返すか、行くべき道を進むか、俺は少しだけ迷った。

 でも、結局すぐに結論を出した。

 引き返すことはない。同じ場所を目指して歩いているのだから、すぐにまた会える。
 彼女もそう考えるだろう。

 まったく、出かけようとしてすぐにはぐれるなんて、幸先が悪いとかいう以前に、変な話だ。
 
 一応、周囲の様子を見て、志鶴がいないかを確認しながら歩いて行く。
 坂になった道を降りていく途中、住宅街の真ん中に児童公園がある。

 日曜だけど、人の気配は少ない。
 昼下がりとか夕方頃になると、近所の子供がいたりするんだけど、午前中に見かけることはそんなにない。
 
 公園の脇の歩道を歩きながら、ぼんやりと横目で敷地内の様子を眺める。
 志鶴はいそうにない。

 そう思って通りすぎようとしたとき、奥のベンチに、ひとりの女の子が座っているのを見つけた。
 それだけだったら、目を引くこともない。

 女の子が公園のベンチに座っていて、何が悪い?



 でも、彼女はランドセルを背負っていた。昔ながらの赤い奴。
 今日は、日曜だ。学校に用事でもあったのかもしれないけど……だったらなんで、午前中から公園にいるんだろう。

 なんとなく気になったけど、だからって声を掛けたりするのも変だ。

 ……変だけど。

 なぜ、気になるんだろう。見覚えはない。あのくらいの年頃の女の子に、知り合いなんていない。
 錯覚なんだろうか。なんとなく、落ち着かないような、据わりが悪いような気持ち。

 夢の中にいるような気分。自分の体が自分のものじゃないような錯覚。
 誰かに操られるみたいに、俺の体は公園の中へと足を踏み入れていく。

 ベンチに近付き、少し距離を置いて立ち止まって少女を見下ろす。
 彼女もまた、座ったまま俺を見上げる。
 
 こんな少女は知らない。

 でも俺は、この子と会ったことがある。そんな気がする。

「……なにをしているの?」

 何かを言わなければいけない。そう思った。本当は、すぐに立ち去るべきだった。
 少女は、うつろな目をしていた。

「アリを、見ていたんです」

「蟻?」

「アリ」

 少女の足元には、蟻の行列が蠢いていた。一方向へと歩く行列。


「殺したこと、ありますか?」

「なにを?」

「アリです」

「あるよ」

「どうして?」

「……さあ。忘れちゃった。べつに、面白くもなかったけど」

「そうですか」

 そう言って、少女は砂のついた水色の子供靴を、蟻の行列の途中に下ろした。
 蟻の混乱。

「わたし、思うんです。蟻を殺すのは、べつに悲しくないのになって」

「そうだろうね」

「命の価値がみんなおんなじなら、蟻を殺すのだって、たいへんなことだと思うんです」

「まあ、蜘蛛を殺さなかったくらいで極楽行きの糸を垂らしてもらえた大悪人もいたらしいしね」

「蟻が死んでも悲しくない。でも、みゃーが死んだときは、わたし、悲しかったです」


「みゃー?」

「飼い猫です」

「ふうん」

「だから、思うんです、わたし。命の価値にも、重さとか、軽さってあるんだなって」

 そうかな。どうかな?

「だったら、しかたないかな、って」

「なにが?」

「きっと、みんなにとって、わたし、アリなんです」


「……」

「アリだから。わたしが痛かったり、苦しかったりしても、悲しくないんです、みんな。
 前に、男の子が、トンボの羽をもいでるのを見ました。楽しそうだった。もがくのが、おもしろかったのかな。
 だから、きっと楽しいんです。アリが慌てるのも、おもしろいんです。指先で潰したら、黒い塊が肌について、
 それが少し気持ち悪いけど、でも、それはアリが死んだからじゃなくて、ものとして気持ち悪いだけなんです」


 そして彼女は、言葉を続ける。

「きっと、わたし、誰にとっても、居ても居なくてもかまわない存在なんです」

 言い切ってから、ちがいますか、と言うみたいに、俺の方を見上げた。
 まるで先生か何かにでもなったような気分だ。

 そうかな。どうかな。
 
 俺は。
 まるで、それが決まっていることみたいに。
 映画の台本でも読むように、見ず知らずの少女に向けて、言葉を続けようとしている。
 
「そうだよ」と俺は頷いた。

「きみも俺も、驚くくらい無価値な生き物なんだ」





「小児的潔癖さ」、と、神崎美園は俺の性質をそう呼んでからかった。
 つい先週のことだ。

「どういう意味?」

「現実離れしてる、って意味かな」

 月曜放課後、図書室のカウンターに、俺と彼女はいる。
 神崎と俺は違うクラスだけど、図書委員で一緒になって、月曜の貸出カウンター係を一緒に担当していた。

「いや……地に足がついていない、っていうほうが、正確かもしれない」
 
「……潔癖さ?」

「神経質って言ってもいいけど」

「そうかな」

「誰も気にしないことを気にするのを、神経質って呼ばない?」

「知らない」

「あ、そ」

 どうでもよさそうに、彼女は首をかしげて前髪を揺らす。
 窓から差し込んだ夕日に、彼女の黒髪はきらきら光っていた。
 


「でも、子供はそういうことを気にする。子供の頃は、どうだっていいようなことを気にする」

「エジソンみたいに?」

「エジソンじゃなくても」

 神崎は溜め息をつく。

「みんな、だんだんチューニングの仕方を覚えていって、忘れちゃうんだよ。気にしなくても生きていけることは気にしなくなる」

「はあ。たとえば?」

「テレビの仕組みとか、サッカーがなぜ十一人で一チームなのかとか、どうしてゴールキーパーは手をつかっていいのかとか」

「……はあ」

「だって、そういうふうにできてるんだもん。それで上手いこと回ってるんだし」

「世はなべてこともなし」

「まさに」

 神崎は手にしていた本のページをめくりながら、ちらりと俺の方を見て、すぐにまた本に目を戻した。
 


 何も変わらない月曜の放課後。季節は初夏、天気は小雨。客足は無し。
 月曜の放課後はみんな、部活に行くなりバイトをするなり早めに帰るなりしてる。
 
 週末に本を借りた奴は昼休みに返しには来るし、そうしなかった奴がくるのだってせいぜい最初の十数分くらい。
 だから、月曜放課後の図書室を訪れる物好きは、そうそういない。

 ただでさえ暗くて、静かで、あんまり気分のいい場所じゃない。
 暗くて静かなのが好きってやつもいるかもしれないけど、図書委員が常駐しているのだ。そういうところに、彼らは来ない。
 だから俺たちは、存分に、くだらない会話のやりとりで時間を浪費することができた。

「俺にはよくわからないんだよ」

 神崎は、本から視線だけをこちらに向ける。
 俺の言葉が彼女の集中を遮ってしまったらしいが、申し訳ないとは思わなかった。

「なんで、みんな、迷わずにいられるのか」

「みんな、迷ってるよ」

 神崎は、くだらない、というふうに俺の言葉をあざ笑う。

「見えないようにしてるだけ」

「そういうんじゃなくて……」

「どういうこと?」

「だったら、なんで、耐えられるのかってこと」

「……それだって、みんな、きっと考えてるよ」

「そうなのかも、しれないけど」

 でも、それだったら、どうして? 考えないふりをしているんだろうか。
 そんな続きを口にする気にはなれなかった。

 神崎はまた、本のページに視線を落とす。話は終わった、というみたいに。 





「あ、おにいちゃん!」

 と、うしろから声がして、振り向いた先に志鶴がいた。

「……あ」

「まったくもう、どこ行ってたの?」

「いや、いなくなったのはそっち……」

「おにいちゃんでしょ。急にいなくなったからびっくりしたじゃない」

「……」

「すわ神隠しって思った!」

「……すわ、て」

 ほっとしたのか、呆れたのか、志鶴は妙にハイテンションだった。

 ふとベンチの方を見る。少女の姿はなくなっている。
 さっきまでの、妙な感覚は消えている。

 それなのに、どことなく現実から遊離したような浮遊感だけが、なくなってくれない。
 体から影が切り離されて、その影に意識が引っ張られているみたいな。

「ほら、行こう? いそがないと、映画、間に合わないよ」
 
 でも、志鶴が俺の手を引くから、まあいいかって思った。
 今はまだ。





「ずっと前に、さ」

 月曜の放課後、ホームルームの後、俺と千家はふたりだけで、教室に残っていた。
 何かするつもりだったわけではなく、単にまだ、動きたくなかっただけだ。

 本当は委員会の仕事があるから、すぐに図書室に向かうべきだったんだけど。
 まあ、少しくらい遅れても問題はないだろう。

「この世は修行の場だって言われたことがあるんだよな」

「修行?」

「生まれてくる前、俺たちは別の世界に生きてたんだ。
 でも、その世界にいる段階では、まだ俺たちには欠けている部分がある。
 だから、その欠けている部分を手に入れる為に、この世に修行に来るんだと」

「……」

「修行だから、つらくて苦しくて、悲しいのが当たり前なんだとさ。
 だから、あっちからこっちに来るとき、俺たちはみんなに泣かれながら見送られるんだ。
 とうとう行くんだね、がんばってねって」

「へえ」


「だから俺たちは、この世に来るのが悲しくて、泣きながら生まれてくる。
 そして、この世で精一杯生きたら、その欠けた部分を手に入れることができて、
 それで、死んだあと、もう一度あっちの世界に行くんだってさ」

「……」

「そうすると、みんなが待っているんだ。見送ってくれた人々。
 笑顔で迎えてくれるんだよ。よくがんばったね、ってさ」

「死後の世界ってこと?」

「そもそも、この世それ自体が、よくできた虚構ってことなのかもしれないけどな」

「……」

「でも、そんなのは嘘だよな」

「……」

「みんな、苦しみに理由が欲しいんだ。自分が苦しむこと、痛い思いをすること、悲しいこと。
 ……そういうことに、理由がないと耐えられないんだよ。
 だから自分たちで物語をつくる。前世のカルマだとか、修行だとか、超人になるためとか、解脱するためとか」

 でも、全部違う、と千家は言った。


「意味なんてないんだ」

 昨日のテレビの内容を話すみたいな気安い調子で。

「苦しいのにも、痛いのにも、悲しいのにも、息苦しいのにも、理由なんてない。
 俺たちはただ、意味もなく生まれて、意味もなく苦しんで、意味もなく悲しくて、
 意味もなく生きて、意味もなく死ぬ。何にもなれない。どこにも行き着かない。
 しなければいけないことも、してはいけないこともない」

「……」

「そう思うのは苦しいから、悲しいから、人は物語を作るんだよ。
 物語を作れない奴は子供を作る。そうやって生き延びようとする」

「……」

「いじらしいだろ?」

「たしかにね」、と俺は頷いてから、話を終わらせて、鞄だけを持って、教室を出た。

「また明日」と千家は言う。
「また明日」と俺も言う。明日が本当に来る確証なんてなかったけど、だからといってそんなこと気にも留めなかった。




 図書カウンターには神崎美園の姿があった。
 月曜の放課後になると、彼女は俺よりも遥かに早く、ここを訪れている。
 あるいは逆なのかもしれない。俺が彼女より遥かに遅く、ここを訪れているだけなのかもしれない。

「遅かったね」

「少しね」

「物思いにでもふけってた?」

 からかうような調子で、神崎は笑う。

「そんなのはここでもできる」

 適当に答えて、カウンターの中に入る。カウンター内のスペースはそんなに狭くはない。

「ま、たしかに」

「どっちにしても暇なのは変わらない」

「うん。それも、たしかに」

 神崎は深々と頷いた。


「そんな内海くんに朗報です」

 いつもみたいな無気力な響き、でもどことなく茶化すような調子。
 神崎の言葉はいつものっぺらぼうみたいに表情がないのに、だからこそ、かすかな変化で印象を変える。
 内海くん、というのは俺のことだ。ここには俺たちふたりしかいないので、当然。

「なに?」

「お願いされたことがあるんだ」

「……また?」

「というと?」

「手伝えっていうんだろ」

「そうだけど、でも、今回の話は、内海くんにとっても、つまらない話じゃないと思うよ」

 神崎美園という女生徒は、月曜放課後の図書カウンターを、何でも屋の窓口みたいに扱ってる。
 彼女個人が、友達かだれかに頼まれた仕事なんだろう。
 書類の整理だとか、資料の作成だとか、そういうこまごまとした雑務をどこからか「頼まれてくる」。

 そしてその片付け、雑務処理に、俺も付き合わせる。
 なんでかは知らないけど、たぶん、断ったことがないからだろう。


「つまらない話じゃないって、どういう意味?」

 少なくとも、段ボール箱を資料室に運ばされたり、落とした自転車の鍵を探すのを手伝わされたりするのは、面白いとは言えなかった。
 そんなことを言うと、神崎は眠たげな目で何度かまばたきをしたあと、にんまり笑った。

「今回のお仕事は、幽霊退治なのです」

 数秒、俺は言葉を失った。
 そして溜め息をつく。

「……溜め息をつくと、幸せが逃げてくよ?」

「逃げてくほどの幸せがあったらの話だろ」

「ちなみに最近では、溜め息にはストレス解消効果があるという話もあります」

「……あ、そう」

 自分の発言を自分で覆すってことは、どうでもいいんだろうな。その場のノリで喋ってるだけで。


「で、幽霊ってなに?」

「幽霊は幽霊だよ。そういうの、信じる?」

「さあ。べつに。どっちでもない」

「ふうん? それだけ?」

「幽霊なんているとしたら、面倒ではあるよな」

「はー。内海くん、面倒なの嫌い?」

「好きな奴なんているのか?」

「……いないかも?」

 どうでもよさそうだった。


「幽霊退治ってなんだよ。いつから図書委員会はゴーストバスターになったんだ?」

「というのは嘘で、本当は幽霊の正体の調査です」

「……説明の仕方、間違っただけだろ」

「内海くん、めんどくさーい」

 ホントにめんどくさそうな顔で溜め息をつかれたので、俺はさすがに黙った。

「誰かが幽霊みたんだってさ。で、怖いから調べてくれないかって」

 続きがあるのかと思ったら、神崎はそこで黙ってしまった。

「……あのさ」

「ん?」

「信じたの、それ?」

「半信半疑、っていうか、他の可能性もあるかもって思うけど、でもほら、それを確認するために調べるわけで」


「あのさ……」

「なに?」

「見間違いだろ?」

「じゃないかもしれないよ」

「じゃないとしたら、なんだよ」

「幽霊でしょ?」

「……」

 本気で言ってるのだろうか。

 幽霊。
 死んでしまった人間の思念。
 行き場のない怨念。失われた生。


「悪いけど、ひとりでやってくれよ、そういうのは」

「そりゃ、こっちはお願いしてる立場だから、そう言われたら仕方ないけどさ」

 そう言って、神崎は一度矛先を収めた。

「でも、どうして幽霊は嫌なの?」

「どうしてって?」

「だってさ、書類整理とか失せ物探しの方が、退屈だし、つまんないし、おもしろくないでしょ?」

 全部同じ意味だと思うのだが。

「幽霊なんて、おもしろそうじゃん」

「おもしろいことあるかよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

「なーんか、隠してるなー」

「仮にそうだとしても、俺が神崎に秘密をつくっちゃいけない理由はない」

「ま、それはそうなんだけどね」


 神崎が背もたれに体重をあずけると、パイプ椅子は控えめな音を立てて軋んだ。

「とにかく、調査っていっても、屋上をちょちょっと見に行くだけなんだよ」

「……屋上?」

「そうそう、屋上」

「なんで屋上?」

「屋上で目撃されたんだよ、幽霊さん」

「……」

 幽霊さん、ね。

「っていっても、はっきり見たってわけじゃないらしいけど」

「……どっち?」

「その子、ちょっとした用事で屋上にいたらしいんだよ。放課後。
 それで、屋上から立ち去ろうとしたときに、後ろで物音がしたんだって。
 でも、それまで誰の気配もなかったから、不思議に思って屋上に誰かいないか確認したらしいの。
 そしたらちらっと人影が見えて、追いかけたんだけど、やっぱり誰も居なかったんだって。物陰にもどこにも」

「鳥だろ」

「鳥かもね」

 ……鳥じゃないかも、と言いたいのだろうか。


「友達に相談しても、そう言われたんだって。でも、本人は絶対に鳥じゃなくて、人の足音だったって」

「足音」

「何かが転がる音にしては、靴の音が何度も連続して聞こえたらしいよ。慌てて逃げるみたいな感じで」

「……はあ」

「恐くて逃げ出したけど、やっぱり気になるから、誰かに調べてほしいって、そういう頼みだったわけ」

「……ちなみに、その子、屋上でなにしてたの?」

「勉強の息抜き」

「……ふうん?」

 屋上、幽霊、足音。
 俺は想像する。

 夕日の差す屋上に、女の子がいる。彼女は疲れた体をフェンスの近くまで引きずって、深く息をする。
 勉強疲れでぼんやりした頭に、少し湿った六月の空気を吸い込んで酸素を回す。
 
 少しだけすっきりした頭をぶらさげて、屋上の鉄扉へと踵を返す。
 物音。けれど、そこには誰もいないはずだった。
 彼女はその音が無性に気になって、あちこちに視線を動かす。ちら、と物陰に人の姿を見る。
 
 彼女はそれを追いかける。けれど、その影は、既にその場から消え去っている。
 幽霊。



 気のせいだと、普通は思わないだろうか。
 ……まあ、普通、なんてこの場合は役に立たないか。
 問題は、当人が「幽霊かもしれない」と感じて、それを恐れてしまったということ。
 友人たちにも信じてもらえず、それでも気になったから、こうして神崎に頼んできているということ。

 流れは、まあ、分かった。

「幽霊」

「うん」

「なるほど」

「そろそろ帰ろうか」

「来たばっかりだけど?」

「なんだか帰りたくなって」

「帰りたいときに帰れるなら委員会なんてお役御免だよ」

 立ち上がりかけた俺の制服の裾を引っ張って、神崎は言った。

「まったく内海くんは不真面目だなあ。それじゃ、行こうか」

「どこに?」

「屋上」


「……委員会は?」

「どうせ誰も来ないよ」

「帰りたいときに帰れるなら委員会なんてお役御免なんだろ?」

「だったらお役御免なんだよ」

「都合の良い話だ」

「都合の良い話なのでした」

「なのでした」と会話のなかで神崎が言ったあとは、だいたいの場合、こっちの話を聞いてくれなくなる。




「なんだかんだいって、内海くんっていつも協力してくれるんだもんなー」

 前を歩く神崎についていきながら、廊下の窓から外を見る。
 中庭の大きなケヤキ。風で枝葉が揺れている。

 空は灰色にくすんでいて、雨が降り出しそうに見えた。

「ひょっとして、わたしのこと好きとか?」

 リノリウムの床に響く靴の音。並ぶ教室に生徒たちの気配はない。
 みんなどこかへ行ってしまったのだろう。

「内海くん?」

「え?」

「あのね、ツッコんでもらえないとわたし、勘違いしてる人みたいだから」

「……悪い、聞いてなかった。なに?」

「言わないよ。このタイミングで言ったら変な人だもん。会話はナマモノなんだよ?」

「あ、そう。ならしょうがない」

「なにが?」

「死んじまったものにいつまでもぐだぐだこだわるなんて、時間の無駄だろ。会話が死んだなら仕方ない」

「来世にご期待ください」と言って、俺は手を振った。

「ナマモノって、そういう意味じゃないと思うけど……。ま、いいや。じゃあ、わたしたちはこれから時間を無駄にしにいくわけだね」

 乞うご期待、と神崎は呟く。どうでもよさそうな顔で。
 そういえば俺は、無駄じゃない時間の使い方というものを知らない。そんなことを思い出す。突然。




 屋上には幽霊なんかいなかった。夕日の明るさが広がる灰色雲のせいで曖昧にぼかされている。

「雨が降りだす五秒前」

 と神崎はまたもどうでもよさそうに呟いて、そうしたら五秒後、本当に雨が降り始めた。

「的中する予言っつうのも迷惑なもんだよな」

「言ってみただけなんだけど」

「言霊って、あれ本当らしいしな」

「それは自己暗示みたいなものであって、天気に影響を与えるようなもんじゃないと思うけど」

「噂は呪いってやつもあるだろ」

「それは今は関係ないよ」

「ま、雨が降りだしたのは事実だけどな」

「わたしのせいじゃない」

 神崎はなんだか怖がってるみたいな顔で俯く。
 なんでかわからないけど、さすがにこれ以上からかうのはよすことにした。

「知ってるよ。もともと曇ってただろ」


 鉄扉の内側のスペースで、雨の音を聴きながら、しばらくふたりで立ち尽くす。

「さて、どうしたもんかな。もう帰るか」

「……」

「委員会に戻るって感じじゃないし、図書室に鞄取りに行こう」

「……」

「神崎?」

「……あの、なんか」

「どうしたの」

 蒼白な表情。

「……あの」

 まさか。
 見たってわけではないだろうけど。

「……ごめん、ちょっと」

 急に、彼女は膝を折ってうずくまる。俺はどうしたのかと思って戸惑う。
 寒気に襲われたみたいに、彼女は両腕で自分の体を抱いた。


「どうしたの、神崎」

 できるかぎり落ち着いた調子で、俺はそう問いかけた。

「あの、ね……」

「うん」

「……なんか、吐きそう、かも」

「……は?」

「なんか急に、具合、わるくなっちゃって」

「……あ、うん」

 拍子抜けした、と言いたいところだったけど、神崎は本当に体調が悪そうだった。
 さすがにからかうことも茶化すこともできない。

 それにしても急だ。さっきまで、平気で歩いてたのに。無理をしていたのかもしれない。

「保健室、行く?」

「大丈夫、ちょっとすれば、治ると思うから」

 
 それから彼女は俺の方を見上げて、苦しげに笑う。

「先、帰っていいよ。わたしも、あと、帰るからさ」

 どうしようかと思った。 
 本人が大丈夫だと言ってるんだから、言う通りにするべきかもしれない。
 気分が悪いときに人がそばにいたら、気を使って余計に気分が悪くなるかもしれないし。



「いや。待つよ」

「でも……」

「邪魔だっていうなら、離れてるから。あんまり喋るなよ。気にすんな」

 本当は離れるべきだったのかもしれないけど、
 気分の悪化が、本人が思っているほど軽度じゃなかったらと考えると、置き去りにはできない。

 このまま気分が悪くなっていく一方で、声も出せないほど弱ったり、意識を失ったりしたら、
 彼女は誰にも助けを求められない。

 もちろん、そんなことは滅多にあるもんじゃないだろうけど。
 最悪、明日の朝に死体になって発見されたりしかねない。最悪、だけど。
 可能性は低い。でも、無いわけじゃないし、もしそうなったら、俺は気分が悪い。たぶん向こう十年は。

「……うん、ありがとう」

 神崎は階段に座り込んで、腕を組んでそこに頭を俯けて隠した。
 これ以上口を開かせたくなかったから、俺は返事をしなかった。

 雨の音がうるさいくらいに聞こえてくる。傘を持ってきたかどうかとか、そんなことが急に気になってくる。
 このまま神崎の調子が治らないようだったら、引きずってでも保健室に連れて行かなくては。


 幸い十分もしないうちに、神崎の調子は回復した。そのときには雨は止んでいた。たぶん、因果関係はない。

「ごめん。ありがとね。なんでかわかんないけど、急につらくなって」

「いいよべつに。持ちつ持たれつだよ」

「……わたし、持ってるとこないかも」

「まあ、そういう面もあるかもなあ」

「否定してよ」

「どこを?」

 はあ、と神崎は溜め息をついた。まだ少し表情に澱みがあるけど、軽口を叩けるくらいには回復したらしい。

「じゃあ、帰ろうか」

 少しだけ待ったあと、様子をみながら、俺は立ち上がって声をかけた。

「あ、待って」

「なに?」

「一応、屋上、見ときたいなって」

「たぶん、濡れてるけど」

「少しくらいなら、大丈夫だよ。マットもあるから廊下は濡れない」

 そういう問題じゃないと思うけど。いや、そういう問題か?


 神崎は慎重な様子で立ち上がると、振り返って鉄扉に向かい合う。

 そして、扉を開けて――閉めた。

「……」

「……神崎?」

「……あ、うん」

 ドアノブに手をかけたまま、彼女は首だけ振り向いて、困った風に笑った。

「ごめん、まだ体調、悪いみたい。急に立ち上がったからかな」

「そっか。なら、早めに帰ったほうがいいな」

「うん。ごめんね、変なことに付き合わせちゃって」

「それはべつにいいよ」

「調査は、明日にしよっか」

「……それ、俺が参加するの確定か?」

「だめなら、いいけど……」

 俺は、少しだけ考えた。

「……いや。やるよ」

 神崎は、意外そうな、戸惑ったような顔をした。
 




 図書室に鞄を取りに行ったあと、神崎は忘れ物をしたといって教室に戻り、そのまま帰るようなことを言っていた。
 体調を崩しているわりに急ぎ足だったから、転んだりしなければいいんだけど。

 ただでさえ利用者の少ない図書室、それも月曜の放課後に、人なんてどうせ来やしないんだけど、一応、俺はカウンターに残ることにした。
 けっきょく時間一杯、図書室のカウンターの中で本を読んで過ごした。そのあいだドアは一度も開かなかった。
 
 図書室の鍵を締めて、職員室に返しに行ったあと、俺は昇降口へ向かう。
 外にでると、雨上がりのアスファルトが黒く濡れている。
 
 なんとなく、千家のことを思い出した。
 放課後になると、近くのコンビニに必ず寄るのが日課の千家。
 あいつは今日もコンビニに行ってるんだろうか。

 やめとけって何度も言ったのに、聞きやしない。
 でも、まあ、俺には関係のない話だけど。

 そんなことを考えながら、校門にさしかかったとき、見慣れた立ち姿を見つけた。

「志鶴?」

「おっそーい」

 俺の声に振り返ると、志鶴は演技っぽいわざとらしい不機嫌な顔を作った。

「遅いって、べつに待ち合わせなんてしてなかったと思うけど」

「うん。勝手に待ってた。今日、委員会なんでしょ?」

「……べつに、待ってなくてもいいのに。いつになるかわからないんだし」

「わたしが勝手に待ってたの」

 志鶴は繰り返した。
 


「……ストーカーか、おまえは」

「たまに一緒に帰るくらい、いいでしょ」

「そりゃ、まあ」

「おにいちゃん、そういえば最近同好会出てないでしょ」

「ああ、まあ。ときどきは顔出してるけど」

「サキ先輩、会いたがってたよ。話したいことがあるとかって」

「話したいこと? なんだろう」

 志鶴と俺は並んで歩きはじめる。


 俺たちはどちらも同じ同好会に所属している。
 もともと俺が入っていたところに、一年後に入学した志鶴が入ってきたというだけなんだけど。
 
 それにしたって、わざわざ同じ同好会に入ることもなさそうなものだけど。

 しかも、「想像力同好会」なんて意味も目的もわからないようなところだ。
「なんだか面白そうだったから」、と志鶴は言っていた。まあ、傍から見たらそうかもしれない。

 会長は三年の野々宮サキ。所属しているのは、二年が俺、一年が志鶴だけ。

「……やだなあ、あの人と会うの。どうせまたお説教だよ」

「お説教されるようなこと、いつもしてるの?」

「俺としては普通に過ごしてるだけなんだけどね」

「へんなの。でも、そういうのとは違うみたいだったよ」

「違うって?」

「なんか、友達について話を聞きたいっていってた。せん……せん、け、さん?」

「……千家?」

「そう、そういう名前の人」

 そういえば以前から、サキ先輩は千家の話を聞きたがってたような気がする。
 なんでかは知らないけど。


「……おにいちゃん?」

「え?」

「なんか、疲れてない?」

「いや。そんなことないけど」

「でも、溜め息ついてた」

「最近じゃ、溜め息はストレス解消になるって説もあるらしいよ」

「でも、ところかまわず溜め息ついてたら、かまってほしい人みたいだよねえ」

 ……ま、そりゃそうか。

「悪い。無意識だった」

「ううん、それはいいんだけど」



「というか、そのおにいちゃんっての、やめろよ」

「内海先輩」

「……」

「どうしたんですか、内海先輩?」

「……やっぱり、いつもどおりでいい。気持ち悪い」

「……気持ち悪いって、なに」

 志鶴は本気でむっとした様子だった。

「べつに、疲れてるわけじゃないんだけどさ」

「うん」

「……志鶴は」
 
 雑談のような話の流れ。頭に浮かんだ質問は、たいしたものでもなかったのに、訊ねることを躊躇した。

「なに?」

「……幽霊って、信じる?」

「え?」

 言葉の続きを待つように、彼女は俺を見上げた。



「……どしたの、急に」

「いや、ちょっと、訊いてみただけ」

 ヒビが入ったみたいな不自然な笑顔。
 普段の志鶴が見せない、そんな表情のせいで、訊いてはいけないことを訊いてしまったような気分になる。

「幽霊、か……」

「もし、そんなのがいたら、どう思う?」

 彼女は思い悩むように俯いて、笑みを消した。

「……わたしは、困るかな」

「困る?」

「うん。だって、もしいたら怖いでしょ?」

「……」


「だから、困るかな」

 なんだか変な理屈だったけど、それ以上話を続ける気にはなれなかった。

「おにいちゃんは、どう思うの? 幽霊なんてものがいるとしたら」

「俺は……」

 少しだけ迷ってから、俺は返事をした。

「……そんなの、いないよ」

 仮定をぶち壊すと、志鶴はほっとしたように溜め息をつく。

「うん、そうだよね」

 彼女は取り繕うように笑う。それから俺たちは、声もなく帰路を進んでいく。
 雨上がりの夕日がやけに綺麗で、街の影をより濃く映えさせていた。

つづく




 知り合いに、自称幽霊と自称超能力者が一人ずついる。

 幽霊に関しては近頃は顔を合わせてないが、というか会えなくなったのだが、超能力者はすぐ傍にいる。

「超能力っていうにはチンケだけど、他に呼び方がないもんな」

 超能力者の名は千家龍。世界のすべてを斜め上から見下ろしている。
 なにもかもが気に入らないような表情で、噛み付く相手をいつも探している。

 超能力が使えるんだ、と彼が最初に言ったとき、俺はもちろんその話を疑った。
 じゃあ、実際に見せてやるよ、と彼は言った。
 
 教室の隅の机に陣取ったまま、千家は鞄から財布を取り出して、一万円札を一枚取り出した。

「何に見える?」

「金」

「一万円札か?」

「ああ」

「そうだろうな」



 それから千家は立ち上がって、ついてこいよ、と廊下に出た。
 俺たちはものも言わずに歩く。彼が連れていってくれたのは、階段の脇にある自動販売機だった。

 そこで彼は、万札を俺に手渡した。

「入れてみろよ」

「……この万札を? 使えないだろ?」

「いいから、入れてみろよ」

 言われた通りに、俺は一万円札を自販機に飲み込ませた。すぐに吐き出される。はずだ。
 
 投入額が表示されるデジタルディスプレイに、赤い数字が現れる。

 1000。



「……なにこれ」

「見た通りだろ。おまえが入れたのは千円札だったんだよ」

「……いや。どう見ても、諭吉さんだったんだけど」

 千家はレバーを捻って自販機に金を吐き出させた。出てきたのもまた、一万円札だった。
 彼はそれを指先でつまんで、俺の顔の前でひらひらと揺らした。

「どう見ても、万札だろうな。大きさも質感も色も図柄も」

「……は?」

「これが俺の能力だよ」

 千家はかっこつけた調子で宣言した。

「これが俺の力……千円札を一万円札と錯覚させる力だ」

 くっだんねえ、と、そのときは思ったものだった。




「超能力なんてものが本当に存在するとしたら、この世の終わりだね」

 そう言ったのは野々宮サキだった。
 想像力同好会、とかいう、わけのわからない胡散臭い会を設立した変人。

 傑物かバカかのどちらかだと俺は思う。

 線が細く、手足はすらりと長い。背中まで伸びた黒髪は、揺すればさらさらと波打つ。
 背がそこまで高いわけでも、体格がいいわけでもないのに、どこか威圧感があるのは、態度と姿勢の問題なのだろう。

 背は俺よりも低いくらいなのに、見ているこっちが怖気づくくらい、彼女は凛然としている。

「超能力なんてものがあったら、おもしろいじゃないですか。同好会的には」

「前から思ってたけど、内海はわたしたちの会の理念を誤解しているよね」

「そうですか?」

「べつにわたしは、世界に宇宙人やらUMAやらがいたら面白いよねって言いたくて、こんな会を開いたんじゃない」

「へえ」

 てっきりそうだと思ってた。

「そんなのつくるなら、名前も変えてたよ」

 世界不思議発見同好会とか、と、彼女は冗談なんだか真面目なんだかよくわからないことを言った。


「で、なんで超能力なんかがあったら、この世の終わりなんです?」

「そりゃ、理屈が壊れるから」

「理屈?」

「みんな縦と横の移動だけしかできない。そういうシステム、約束事を作ってるのに、ひとりだけ奥行きを移動できたら困ったことになるんだよ」

「つまり、超能力者なき世界は横スクロールアクションゲームなんですか」

「そういうことになる」

 ならないと思うけど、俺は何も言わなかった。どうでもいい。

「でも、そんな力を持ってしまった超能力者っていうのも、きっと、十分過ぎるくらいに不幸な存在なんだろうけどね」

 サキ先輩はそんなことを言った。まあ、どうだろう、そうかもしれない。
 
「でも、現に超能力者的であったわけだ、きみの友人は」

「千家は、うん、そうですね。あれは超能力と言ってもいいでしょうね」

「ふうん。ちなみに、どんな?」

「千円札を一万円札と錯覚させる能力ですよ」

 サキ先輩は眉をひそめて数秒黙り込んだあと、何かを思い出そうとするみたいに天井を睨んだ。
 それから、なんでもなさそうな顔をして、意味ありげに溜め息をついた。

「……ふうん?」

 彼女は俺と目を合わせてはくれなかった。





 幽霊と出会ったのは小学五年生の初夏のことだった。

 今は使われていない、小学校の旧校舎。何十年か前に校舎が移ってから、誰も近付かない廃墟になっている。
 古い木造校舎。窓は割れ、敷地内には草木が茂っている。

 小学校一年生の頃、何かの授業で、その校舎まで歩かされたことがある。
 自然の草花を見に行くとか、そんな名目だったと思う。

 授業では、敷地の中で知らない花を探したくらいで、校舎には足を踏み入れなかったけど、俺はその場所のことをずっと覚えていた。

 小学五年生になった年の初夏、俺はひとり、自転車を走らせて、その校舎へと向かったことがある。
 急にその場所のことを思い出して、中に何があるのか、たしかめてみたくなったのだ。
 
 入口には立て札とロープがあった。
 少し歩くだけでぎいぎいと軋む床板は、ところどころ抜け落ちていた。 
 カビの匂いが鼻のそばで澱んでいる。天井は雨漏りのせいか、剥がれ落ちているところがあった。

 誰もそんな場所を訪れたりはしない。
 捨て去られた時間。存在するはずなのに、誰からも見向きもされなくなってしまった場所。


 蜘蛛の巣が露に濡れていた。
 雨の匂いが割れた窓から染み込んできた。

 まるで自分まで死んでしまったような気がした。 
 暖かで確かだったものが、急に失われて、たくさんの色彩がなくなってしまったような、そんな感覚。
 
 そこで俺は彼女と出会った。
 
 死んだような顔をしていた女。
 実際に死んでいるんだ、と、笑いながら言った女。

「どうして死んだの?」

「どうだっていいことだよ」

「どうだっていいことで、死んだの?」

「ううん。どうして死んだかなんて、どうでもいいことだってこと」

「どうして?」

「だって、死んでるんだもの」

「つらくない?」

「なにが?」

「死んじゃって」

「生きているときより、だいぶマシな気持ちかな」



「そうなんだ。それって……」

「うん?」

「悲しいね」

 そうかもね、と女は不器用そうに笑った。

「痛かった?」

「死ぬとき?」

「そう」

「……そうだな」

 思い悩むような溜め息の後、何かを励まそうとするみたいに、女は呟いた。

「痛かったよ。でも、一瞬のことだよ」

「そうなんだ」

「うん」

「だったら、よかった」

「どうして?」


「痛いのが死んでからもずっと続いたら、つらいでしょう?」

「痛みは、体が感じる刺激だよ」

「……」

「感じるのは、脳だよ。死ねば、脳も機能しない。死んだあとは刺激を感じない。だから、痛みも感じない」

「他のものも?」

「どうだろう、きっと」

「じゃあ、ぼくが触っても、感じない?」

「そうだね、きっと」

 俺は彼女の手を取った。
 その手は、生きてるみたいに暖かで、死んだなんて嘘なんじゃないかと思うくらい生々しくて。

「でも、じゃあ、どうして話せるの?」

「……」

「どうして、ここにいるの?」

「……わからない」

 それまでの彼女は、どこか遠くから語りかけてきているみたいに、遠い存在に思えたのに。
 そう言ったときの彼女の表情はあまりに自然で、俺はそのとき、はじめて彼女のことを怖いと思った。

「それを、考えていたところだったの」




 火曜日、放課後の教室に、俺と千家は、またふたりで残っていた。

 千家はスマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。
 珍しいことだったから、つい気になって、思わず訊ねてしまった。

「なに見てるんだ?」

「ん? ああ、ちょっとな」
 
 べつになんでもないことだと言うように軽く笑って、千家は携帯をポケットにしまう。

「どうしたもんかと思ってさ。楽しそうなことがあったから」

「なに?」

「よく言うだろ。人生楽しまなきゃ損だって」

「……それ、本気で言ってるの?」

「いや。言う奴がいるってだけの話で、俺はそんなことを言う奴、あんまり好きじゃないけどな」

「そう」

 べつにどうでもいいやと思った。どうやら、何を見ていたかについて、話してくれる気はないらしい。


「おまえ、今日はどうすんの?」

 そんなふうに、彼が俺のことを気にするのは珍しいことだったから、俺は少し面食らった。

「同好会に出ようかと思ってたけど」

「あの変な会か」

「そう。でも、どうしようか迷ってたところ」

「迷うって、なにを?」

「約束があるから」

「約束?」

「ちょっと、幽霊について調べなきゃいけないんだよ」

 はっ、と千家は笑う。


「幽霊ね。出るのか、うちの学校。また図書委員の頼まれごとか?」

「そう。屋上に、出たって話らしい」

「屋上?」

「そう」

「……東校舎か?」

「……まあ、そうなるけど。なにか知ってるの?」

「いや。そんな噂、あったなって思って。ちなみに、見たのは誰?」

「……知らない。神崎の知り合いみたいだけど」

 なにか変だと思ったけど、だからといって気にしたって仕方がない。
 千家はしばらく考えこむみたいに黙っていたけど、やがて立ち上がって、

「用事を思い出したから、もう行くよ」

 と言った。俺は頷いた。

「また明日」

「また明日」




 妙に千家の態度が引っかかって、しばらく教室に残ったまま、奴とのやりとりを頭の中で反芻していた。
 十数分くらい経った頃、神崎美園があらわれて、

「うっつみくん、あっそびましょー」

 とやる気のない声で言ってきたものだから、俺は神崎と俺との関係性を見直すべきなのかもしれないと思った。

「普通に声をかけろよ」

「だって、なんか物思いにふけってるふうだったから、ちょっとむかついて」

「ただ椅子に座ってるだけで、なんでムカつかれなきゃいけないんだ」

「そういう人だっているよ」

 いるだろうけど。
 まあ、そんなのは、神崎にしてみたらどうでもいい、いつもの軽口のつもりでしかなかったのだろう。
 それまでの会話の流れなんてなかったみたいに、彼女は本題を切り出した。

「今日こそ、屋上を調べようよ」


 本当は同好会に顔を出すべきかどうか迷っていたんだけど、一応は約束したことだったから、俺は頷いた。

「今日は平気なの?」

「うん。昨日のあれが嘘みたいに快調だよ」

「そう」

 顔色は、たしかに昨日よりはマシになっていた。
 
「さ、早く行こうよ」

 そう言って神崎は手振りで俺に立ち上がるように求める。
 妙に体が気だるかったけど、俺は従った。

「それにしても、考えれば考えるほど変な話だよな」

「なにが?」



 教室を出て、昨日と同じように屋上への道を歩く。
 今日の図書カウンターの担当は三年の先輩。神崎が部活に入っているかどうかは知らないけど、一応自由に振る舞える。

「屋上で変な物音を聞いて、怖くなったってところまでは分かるんだよ」

「うん」

「でも、それを誰かに調べてもらおうとするって、変じゃないか?」

「変?」

「それも、友達でもなんでもない相手にさ」

「一応、友達だよ?」

「……誰なの、見た人って」

「わたしと同じクラスの筒井さん」

「……筒井あまね? 生徒会役員の」

「そう」


 筒井あまね。二年。生徒会役員。成績優秀。物静かで落ち着いた雰囲気で、達観したような雰囲気がある。
 
 前に千家が話しているのを聞いたことがある。
 クラスの男子と女の子の話をすると、一度は筒井の話題になる、って。

 容貌は、ずば抜けていいってわけでもないけど、雰囲気とか立ち振舞いとか態度の柔らかさもあって、人気だとかなんとか。
 ただ、実際に話したことがあるやつはそんなにいないらしいけど。

 筒井と仲の良い女子は、男子とはあまり絡まないタイプの奴ららしいし、接点もそう転がってない。
 彼女自身も、あまり口数が多い方ではないらしい、とか。

 全部聞いた話だけど、クラスが違う俺でも、廊下ですれ違ったりしているだけなのに、彼女の顔と名前は一致している。

 その筒井が、幽霊を見た? しかも屋上で?
 ……まあ、誰が見たかは、この際あんまり関係ないか。 


「そういや、幽霊を見たのって、いつのことなの?」

「えっと……先週?」

 ……そもそもの話。

「筒井は、幽霊を見たって言ってたの?」

「ううん」

 ……。

「じゃあ、なんて言ってたの?」

「だから、不審な足音が聞こえたのに、その正体がわかんないから怖いんだって」

 だったら、普通、近付かなければいいだけじゃないのか?
 かかわらずにいれば、そのうち気のせいだったって自分を納得させられるだろうに。

 ……考えたって仕方ないか。
 とりあえず、屋上に行って、確認すればいい。何もいなければそれでいいのだ。
 何かいたら?

 そのときは……まあ、そのときだろう。




 東校舎は文化部室や多目的教室が並んだ特別教室棟で、図書室もそこに含まれている。
 視聴覚室、音楽室、理科実験室なんかは南校舎にあるから、東校舎に立ち寄るのは文化部員と、あとは図書委員がほとんどということになる。

 図書室の利用者が少ないのは、普通教室から遠いという理由もあるのかもしれない。

 文化部といってもそう数があるわけではないから、教室は不思議なくらい余っている。
 同好会なんかもあるにはあるから、余った分は多目的教室、自習室として開放されている。

 おおらかな校風、というよりは、放し飼いみたいなものなんだろう。
 利用者の割に広くて、教師の目も届きにくいから、けっこう好き勝手に使っている奴らもいると聞いたことがある。

 筒井は勉強をしていたというから、たぶん、自習室を使っていたんだろう。もちろん、幽霊が出たのは屋上だから、関係ないんだけど。

「内海くんは、屋上って好き?」

 階段を昇りながら、神崎はそう訊ねてきた。質問の意図が分からずに答えに窮する。

「好きも嫌いもないよ。そもそも近付かないし」

「ふうん。わたしは、嫌いじゃないよ」

「どうして?」

「さあ?」

「……」

 ……なんだったんだよ、今の会話。本当によくわからない奴だ。


 そして俺たちは鉄扉をくぐり、屋上に出た。

 空は曇り模様だったけど、昨日と比べれば、まだ明るく見える。
 外に出ただけで開放感があるように思えるけど、実際にはそうじゃない。
 高いフェンスで囲われた屋上では、外部から切り離されている感覚が増す。

 籠の鳥のような閉塞感。
 灰色の空でさえ、フェンスの網目に切り取られている。
 
「……幽霊、いないね」

 そりゃそうだろ、とは言わなかった。
 そんな言葉で片付けるなら、そもそもこんな場所にくる必要はない。

 神崎は屋上に足を踏み入れると、フェンスまで近付いたあと、振り返った。
 首をめぐらせて、屋上の様子を確認している。
 俺は扉の傍に立ち止まったまま、彼女の様子を黙って眺めていた。

 ひと通り屋上を見回し終わると、彼女はうろうろとさまよいはじめる。
 奇妙な演劇にでも付き合わされている気分だ。

 校舎内につながる扉がある塔屋の裏手に回ったとき、ふと、神崎は何かに気付いたみたいに一箇所に目を留めた。
 彼女の背を追って、俺もそちらに視線を向ける。

「……なんだろ。ゴミかな」

 たしかに、何かのゴミが落ちている。誰が掃除をしているわけでもなさそうなのに、他に落ちているものはないのに。


 神崎はその何かに近付いてしゃがみむと、指先でそれをつまみあげた。
 
「……たばこの吸殻」

「……煙草? なんでこんなところに」

「誰か、隠れて吸ってたのかな」

「わざわざ、学校で? そんなやつ、いるかな」

「人間、いつだって冷静な判断ができるわけじゃないよ」

 それはそうだろうけど、可能性としては低いような気がする。

「先生かもしれない」

「……先生が、屋上で煙草?」

 神崎は少し考えるような素振りを見せた。

「禁止されてるんじゃないかな、さすがに」


「されてたとしても、ここなら見つかりにくいだろうし、隠れて吸ってる奴はいないとも限らない」

「……」

 東校舎には教師の目が届きにくい。それはつまり、教師にしてみても、同僚の目が少ないってことだ。

「でも、わざわざ屋上まで来て吸うかな?」

「じゃあ、やっぱり生徒だと思うか?」

「どちらかといえば、だけど」

 神崎は黙って煙草の吸い殻を見つめている。
 フィルターから三センチくらい残っている。途中で吸うのをやめて、慌ててもみ消したみたいに、折れてしまっていた。
 彼女はフィルターを見つめて、そこに書かれた銘柄を読み上げた。

「……ポール、モール?」


 思いついたように、神崎は俺の方を見上げる。

「幽霊の正体は、不良だったりして」

「不良?」

「屋上で煙草を吸っていた不良が、誰か来たと思って、慌てて姿を隠したとか」

「……隠れる場所なんて、どこにあるんだよ」

「この梯子」

 神崎は壁に掛かった梯子を指さした。

「上の給水塔のある場所まで繋がってるでしょ? 隠れられるかもしれない」

「……筒井は、屋上を隈なく探したんじゃなかったか?」

「でも、とっさに梯子までは昇らないと思うよ」

 たしかに、それで納得しようと思えば、できなくはない。
 納得するための物語。整合性をもった想像。都合の良い解釈。 

「……足音は?」

「え?」



「隠れようとしたなら、物音は立てないはずだろ。慌てて逃げるような足音は起こらない」


「……」

「筒井は足音を聞いて、誰かがいたって思ったんだろ?」

「……うーん。でも、気のせいかもしれないし」

 気のせい?

「ひょっとしたら、もっと別の音を、足音だと誤解したのかもしれないよね?」

「……たとえば?」

「思いつかないけど、たとえば、足音は屋上じゃなくて、どこか他の場所から聞こえたとか」

「それじゃ、話が振り出しだろ。他の場所の足音を誤認しただけなら、不良がいたかどうかだって関係ない」

 筒井はたしかにここで足音を聞いた。だから誰かがここにいたんだと考えた。
 足音がここで響いたものじゃないとするなら、不良がいたかどうかだって、どうだっていいことだ。

「気のせい」だと言ってるのと変わりない。それで納得できるなら、筒井は神崎に頼み事なんてしていないだろう。


「……そっか。でも、そんなのどうでもいいんだよ、内海くん」

「どうでもいいって?」

「慌てた不良が、つい足音を立てるつもりもなく立ててしまったのかもしれない。
 梯子を昇るときの音が、考えたよりも大きかったのかもしれない。
 姿を隠すのを優先したなら、音が出たことも、考えられないことじゃない、でしょ?」

「……」

「わたしたちの目的は、というより、わたしの目的は、筒井さんを安心させることなんだよ。
 幽霊なんかじゃなくて生身の人間だったってことにすれば、筒井さんは怖がらなくてもいい。
 幽霊が実際にここにいたかいなかったかなんて証明しようがない。
 だから、わたしたちがしなきゃいけないのは、それらしい物語をつくって、筒井さんを納得させることなんだよ」

 俺は彼女のその言葉に、少しだけ唖然とした。

 てっきり、面白そうな噂を見つけて、すかさず食いついただけだと思っていた。
 それなのに彼女の目的は、事実をたしかめることではなく、筒井を安心させることにあったのだ。

「でも、それだと、今度は不良に怯えるはめにならない?
 筒井に顔を見られたと思って、口封じのために近付いてくるとか……」

「そこまでするほどの不良がこの学校にいるとも思えないけど」

「……」

「そもそも、顔を見られたって確実に分かってるわけでもないのに近付いたら、自白してるようなものでしょ?」


「……筒井は生徒会役員だし、優等生だ。教師に告げ口するかもって思ったら、様子をうかがうくらいはするんじゃないか」

「偏見っぽいなあ、それ」

「不良だって偏見を抱くだろ。実際にどうするかなんて関係ない」

「でも、急いで隠れたなら、さすがに相手の顔はわからないと思うよ」

「だけど、筒井はしばらく屋上の様子を調べてた。顔を盗み見る隙くらいあったんじゃないか」

「筒井さんの顔が相手に見えたなら、筒井さんだって相手の姿を見られたはずだよ。
 隠れたなら、相手の姿が見えるような場所に顔を出すかな?」

「……」

 ここでこれ以上話しても、根拠のない妄想にしかならないか。

「心配性だな、内海くんは。でも、そうだね。
 不良ってことにしたら、筒井さんもちょっと不安かもしれない。もっといいの、考えておこうか」

「……なあ、神崎は、最初からそのつもりだったのか?」

「なにが?」


「つまり、最初から適当な話をでっちあげるつもりで、本当は調査する気なんてなかったのかってこと」

「まさか。でも、ほら、これ」

 と言って、神崎は俺に向けて吸い殻をかざした。

「誰かがここにいて、しかも隠れる理由もあったってことでしょ。だったら、たぶん、それで合ってるんじゃないかな。
 だって、他に足音みたいな音が聞こえる理由なんて、想像できないもん」

 まあ、それでいいのかもしれない。物音がたしかに起こったという根拠さえ、筒井の言葉以外にはなかったのだから。
 物音が起こる可能性があったことを証明しただけで、まあ、目的は達成したと言えるかもしれない。

「さて、面倒になったら嫌だし、一応この吸い殻は処分するとして……」
 
 といって彼女は、ポケットティッシュを取り出して、吸い殻を紙に包んだ。

「じゃあ、帰ろっか」

 立ち上がった神崎の表情は、いつもの無気力そうなものとは違う、はっきりとした笑顔だった。
 それを作り物のように感じるのは、たぶん、俺の心境のせいなんだろう。




 教室に鞄を置きっぱなしだったことを思い出して、そのまま帰るという神崎と別れて、俺は本校舎に戻ることにした。
 
 神崎の話にはいまいち納得しきれなかったけど、彼女がしていたことなのだ。俺がどうこういうのはお門違いだろう。

 そのまま帰ってしまおうかとも思ったけど、昨日の志鶴の話を思い出して、同好会に顔を出すことにした。
 同好会は東校舎の多目的室を一室借りて、部室にさせてもらっている。同好会なのに部室なんて、変な言い方だけど。

 会員数の少ない同好会に、学校もよく部屋を与えてくれますね、と先輩に言ったとき、
 彼女は一言、「蛇の道は蛇」とだけ言った。あまり深く知りたくはない。

 二階の廊下の一番奥、普通教室と同じ作りで、使われていない椅子や机が置かれている、物置みたいな埃っぽい場所。
 野々宮サキは俺が入学する前からそこにいて、きっと今もそこにいる。

 扉を開けると、そこにはサキ先輩と、志鶴の姿があった。
 ひとつの机にふたつの椅子を向かい合うようにおいて、何かをしているように見えた。

 なにかというか。
 机の上のカードと手の動きを見るに、

「……スピード?」

「あ、おにいちゃん」

「ひさしぶり、内海」


「……なんで、トランプやってるんですか」

「息抜き」

 こんなただだべってるだけの同好会活動のどこに、息を抜く必要があるんだか。

「内海、最近来なかったね。なにかおもしろいことでもあった?」

「……べつに、何も」

「特に理由もなくサボりか。それはよくないよね、内海。非行の第一歩だよ」

「……校舎の一室を占拠してトランプするのは非行じゃないんですか?」

「ま、このくらいは黙認されてるしね」

 勝負は終わったらしい。サキ先輩はカードをまとめて箱にしまったあと、座ったまま俺の方を見上げた。

「じゃあ、想像力同好会らしいことをしようか」

「……らしいことって?」


「内海が今日、ここに来るまでに、何をしていたかを当てるんだよ」

「……はあ。べつに、かまわないですけど」

「そ。じゃあ、ヒント集めから始めようか。志鶴ちゃん、どう思う?」

「うーん……委員会は、月曜日だし」

「委員会? 入ってたんだっけ?」

「図書委員だって言ってましたよ」

 ふたりのやりとりに黙って耳を傾けながら、俺は段々と落ち着かない気分になってきた。

「ふうん。そうなんだ。じゃあ月曜日は図書室なんだ。なるほどね」

「でも、今日は火曜日ですし……」

「うん。でも、放課後になってすぐじゃなく、時間が経った今になってここに顔を出したってことは、何かはしてたんだ」

「……部活は、ここですもんね。自習室に行って勉強なんてしないだろうし」

「図書室で調べ物をしてたとか」

「どうかな。内海の性格上、委員会の人たちと仲良くなんてしてなさそうだし、顔見知りがいるってわかってるのに近付かない気がするよ」

「教室でぼーっとしてたとか」

「それはありそうだけどね。でも、誰かと会ったり話したりっていう線はないかな」


「……誰かと? でもおにいちゃん、友達少ないし」

 余計なお世話だ。

「うーん……。たしかに、話に出てくるのはいつも千家って子だけだよね」

「あ、でも、そういえば、こないだの月曜日、知らない女の先輩と一緒に歩いてました」

「女の子? へえ」

 なんとなく名誉に関わるような気がして、俺は口を挟んだ。

「図書委員で一緒の子ですよ」

「ふうん。志鶴ちゃん、歩いてたって、どこを?」

「ここに来る途中で見かけたんです。だから、この校舎ですね」

「内海、月曜日が委員会っていうのは、図書カウンター係ってことだよね?」

「……まあ、はい」

「係はふたり?」

「三人の日もあるみたいですけど、俺たちはふたりです」

「じゃあ、先週の月曜の放課後、係がふたりそろって図書室を離れてたってことだ」

「……俺、放課後って言いました?」

「さっき志鶴ちゃんが、ここに来る途中だったって言ってたもん」

 相変わらず、気味の悪い人だ。志鶴の言葉があったからとはいえ。
 言葉の端々をつなぎあわせて、物語の欠けた部分を埋め合わせようとする。

「かまわない」と言った手前、ゲームを途中でやめにしろとも言いにくい。


「委員の用事で図書室を出る必要があっただけなら、片方は図書室に残るのが普通だよね。
 ということは、ふたりは委員会の仕事で図書室を出たわけではなさそうだね」

「……それって、どういうことですか?」

「さあ。ふたり一緒にどこかに行ったんだろうってことはわかるし、それが委員会の仕事じゃないってのもわかる。
 でも、何をしていたのかまではわからないな」

「そこ、想像してもらわないと」

 志鶴が不服げにサキ先輩を見ると、彼女はおかしそうに笑った。
 俺は溜め息をついた。

「それで、その話が、今日の俺の動向にどう関わってくるんです?」

「そうだね。これは想像だけど、内海、その子とけっこう仲が良いんじゃないの?」

「……」

「昨日も一緒の担当だったんでしょ? たとえば、昨日、何かの約束をして、今日も会ってたとか。
 CDの貸し借りとか、なにかの頼まれごととか……」

「……根拠のない妄想ですね」

「うん。まあ、証拠も根拠もなにもない、ただの想像だけどね。どう? 正解?」

「秘密です」

「そ」

 ふたりはどうでもよさそうに笑った後、疲れたみたいに溜め息をついた。


 ただの想像? 笑えない冗談だ。
 俺が今まで何をしていたか、その可能性なんていくつもある。

 教室で居眠りしていたかもしれないし、誰かと話していたかもしれない。 
 図書室で本を読んでいたのかもしれないし、自習室で勉強していたのかもしれない。
 誰にも会わずにあたりをうろうろしていただけかもしれない。

 にもかかわらずこの人は、わずかな手がかりで可能性を洗いだした上で、
 直感だけで、正解に近い答えを引きずり出してしまう。
 
 超能力者なんていたら理屈が壊れると彼女はいうが、俺に言わせればこの人だって、超能力者みたいなものだ。

「そういえば、千家の話が訊きたいって言ってたらしいじゃないですか」

 一刻も早く話題を変えたくて、俺は自分から話を振った。

「あ、志鶴ちゃんから聞いた? うん。そう、なんだけどね」

「……」

「……でも、今はいいや」

 沈黙。
 俺は、何をしにここに来たんだろう。



「……喉渇いたな。わたし、ちょっと飲み物買ってきます」

 そう言って、志鶴は鞄から財布を取り出し、廊下へと出て行った。

「……やっぱり、良い子だよね、志鶴ちゃん」

「俺もそう思いますよ」

「で、なにか話したいことがあるんじゃないの?」

 なにをどう話すべきだろう、少し迷った。
 でも、事実以外の何を話せるだろう。

 人の名前だけを伏せて、俺はさっきまでの出来事をサキ先輩に話す。
 口止めされたわけでもないのに、妙な罪悪感が働くのはなぜだろう。

 わからないけれど、誰かに話を聞いて、答えてほしかった。
 俺が抱いている違和感の正体を、教えてほしかった。




 屋上、幽霊、煙草の吸い殻、足音。

 話を聞き終わった先輩は、なんだか呆れるみたいな顔で、俺を見た。

「それで、どうしたいの?」

「どうしたいって……」

「その子の言うこと、そんなに見当違いとは思えないよ。まあ、ちょっと無理のあるところもあるけど。
 そもそも屋上で煙草を吸うなんてステレオタイプの不良、それ自体未確認生物みたいなところあるし。
 でも、現実的に解釈すれば、それが妥当じゃない? 与えられた情報に嘘がないって仮定が、信頼できるならだけどさ」

 含みのある言い方。まるで、なにか気に入らないと言っているみたいに。

「……妥当、ですか」

「内海が気にしてるのは、その話の整合性? それとも……別のこと?」

 急に、さっきまでの、没入感に近い熱が冷えていく。
 違和感に突き動かされて、サキ先輩に話をして、そうまでして、気になっていたこと。

 その正体に気付くことで、自分の心が自分から遠ざかっていく。
 ああ、俺はこんなことを考えていたのか、と、自分の背中を眺めている自分が現れる。
 べつに俺は、幽霊の正体なんてどうだってよかったんだ。


「……先輩、訊きたいんですけど」

「なに?」

「煙草の吸い殻。どう思います?」

「わたしには、想像することしかできないけど」

「想像でいいです」

「……わたしには学校の屋上で煙草を吸う不良っていうほうが、幽霊より胡散臭い気がするんだよね」

「でも、現に吸い殻はあった」

「うん。だから誰かが煙草を吸った。定番は、第一発見者が犯人ってやつかな。その方面白そうだし」

 つまり、神崎に頼み事をした筒井あまねが、煙草を吸っていたとする話。

「……でも、それじゃ話がおかしい」

「そうだね。それならわざわざ、屋上を調べるように頼んだりはしないはずだよ。それに、吸い殻が残っているのも。
 だから、この答えはハズレってことになる。わたしの想像は、まあそこで打ち止めかな」

 それにこの想像は、ちょっと欠陥品だね、とサキ先輩は言った。


「どうして?」

「当たり前だけど、現実っていうのはミステリー小説じゃない。関係者として登場してる人以外が犯人になりえないってわけじゃない。
 超能力だってあるようだし、まあ、幽霊がいたっておかしくない。なのに、近いところに答えを求めすぎてる。
 ミステリーなら破り捨てたくなるような展開だって、絶対にありえないわけじゃない。隠し扉があるとかね。
 カニッツァの三角形は、三角形じゃない。そう見えるということと、そうだということは、別なんだよ」

「……」

「犯人は証拠をばらまいたりしないし、矛盾した証言を必ずしてくれるわけじゃない。
 それに、探偵役がわざわざ犯人を追及してくれたりもしない。なにせ観客がいないから、劇を盛り上げる理由もない。
 解きやすいように気を使ってくれたりもしない。現実っていうのは、アンフェアだし、不合理なんだ」

 もちろん知ってるだろうけどね、とサキ先輩は笑う。

「内海の手伝いは終わって、依頼者は悩みが解けてすっきり、図書委員の子も手助けができて、めでたしめでたし。
 ……それで、この話は終わりだよ。くちばしを挟む隙間なんてどこにもない。屋上には、ただ吸い殻が落ちていただけなんだ」

 俺は黙りこむ。
 めでたし、めでたし。それで終われたらどんなにいいだろう。
 幸せになると同時に終わってくれる物語。それは、どれほどの救いだろう。

「でも、内海はそんなのどうでもいいんでしょ? 内海が気になってるのは、きっとそこじゃなくて……」


「……まあ、そのあたりのことは、今度会ったときにでも、聞いてみますよ」

「そ。話してくれるといいね」

 そう。話してくれればいい。
 でも、話してくれなかったら?
 ……仕方ない。それでも、日々は続いていく。

「ところで、訊いてもいいかな?」

「……なんですか?」

 少し、嫌な予感がした。警戒心を顔に出さないように気をつけたつもりだったけど、たぶんそのこわばりは見ぬかれている。

「どうして、幽霊なんて突拍子もないものについて、調べようと思ったの?」

 射抜くような視線。意味なんてなさそうな質問。どうとでも、答えられそうな疑問。
 俺は一瞬、言葉に詰まってから、答えた。

「……意味なんて、ないですよ」




 俺とサキ先輩の話が終わってから、十五分くらい経った後、志鶴はようやく戻ってきた。
 ずいぶん遠い自販機だったな、なんて茶化したりはもちろんしなかった。

 サキ先輩が帰るというから、同好会はそこで解散になった。
 
 志鶴は一緒に帰ろうと言ってくれたけど、俺は断って、ひとりで残ることにした。
 図書室で借りたい本を思い出したから。そう言ったけど、たぶん信じていないだろう。
 俺の嘘はいつだって見え透いている。

 ひとりになった俺は、階段を昇る。
 鉄扉へと向かい合い、ドアノブをひねる。

 扉を出て、屋上を見渡す。 ここにはもう、景色しかない。
 もう、吸い殻も残されていない。
 
 吸い殻……。
 
 ――吸い殻、濡れてたっけ?



 筒井が物音を聞いたのは、先週のことだったらしい。
 そのとき、誰かが煙草を吸っていて、処分し忘れたらしい吸い殻が、昨日まで屋上に残っていた。
 神崎の想像だと、そういうことになる。

 でも、そう考えるのは変だ。
 
 昨日、雨が降っていた。それなのに、それ以前から落ちていたはずの吸い殻が濡れていないのは、ありえない。

 どうしてこんな単純なことを失念していたんだろう。

 明け方や深夜のことまでは分からないが、少なくとも、昨日の夕方に、雨は一度降った。
 それより前に、あの吸い殻が落ちていたはずはない。

 ありえるとすれば、俺と神崎が昨日、この屋上を立ち去った後、
 それから今日、もう一度ここを訪れて、吸い殻を発見するまでの間。

 つまり、昨日の放課後から、今日の放課後までの間だ。
 先週と同じ人物が、昨日か今日、またここにやってきた?
 見つかりそうになったのと同じ場所に? ……それも、変な話だ。

 途端に、薄気味悪い気分になる。
 屋上なんて誰も近付かない場所だと思っていたのに、昨日や今日、誰かがここを訪れていたかもしれないなんて。
 なんだか、気味が悪い。

 でも、それ以上に気になるのは、神崎がこの事実を見過ごすはずがない、ということだ。
 俺は単純に気付かなかっただけだ。煙草の吸い殻を見つけたという、ただそれだけに意識を吸い込まれていた。

 神崎は、このことに気付かなかったのだろうか。
 そんなわけはない、と思う。でも、根拠がない。

 ……どっちにしても、幽霊がどうとかいう騒ぎに対して、あの吸い殻は何の効力も持たない。
 誰が吸っていたかは知らないけど、無関係。つまり、物音の正体も、分からないままだ。

 また、振り出し。



 神崎は、気付いていたのかもしれない。
 でも、彼女の目的は「それらしい物語」をつくることで、事実を追及することではなかった。

 だから、それで満足したのだろうか。
 吸い殻が落ちていた、という事実を、強引に起こったことに結びつけるのだろうか。

 そうだとしたら、なぜか、悲しい、と思った。

 ……まあ、いいか、と思う。
 物音は気のせい。吸い殻は、不良か教師が吸った。それで満足してしまえば、それで済む話だ。

 俺は溜め息をついて、空を見上げた。今にも雨が降り出しそうな、灰色の雲。

 何をやっているのだろう。意味のない、消耗だ。くだらない。

 そう思って、扉の内側に引き返そうとしたとき、物音が聞こえた。

 一瞬、体が硬直する。物音は、屋上から聞こえた。それは間違いない。

 俺は、息をひそめた。本能的に、扉に背をつけて、体を隠しながら、屋上を見回す。
 音は、頭上から聞こえたような気がした。


 しばらく、静寂が続いた。一分や二分ではない。気のせいかと、片付けてしまいそうになる。
 でも、たしかに聞こえた。

 風の音。頭上を飛ぶ鳥の影。雨が降り出しそうな空。
 心臓がどくどくと鼓動している。なにを不安がっているのか、自分でも分からない。

 やがて、

「……大丈夫、みたいだね」

 そんな声が聞こえた。
 
 足音。続いて、溜め息。静かに、梯子を降りる音。
 俺は息をひそめている。何かの義務みたいに。
 
 今すぐ、逃げ出したい気分なのに。


 梯子を叩く靴音が止む。着地音。でも、もうひとつ、梯子を降りる音が聞こえる。
 ふたりいる。

 足音は、徐々に近付いてくる。当たり前だ。出入口は、俺の背中にしかないんだから。
 どうするか迷っているうちに、俺の前に、足音の主が姿を現した。

 ふたりは、俺の姿を見て、硬直した。なにかまずいところを見つかったみたいに。
 でも、俺もまた固まってしまった。べつに俺は、まずいところを見つかったわけでもないのに。

 ふたりの女子生徒。両方、この学校の制服。つまり、この学校の生徒。
 ……単純な話だろう。俺が来るより先に、梯子の上のスペースにいて、
 俺が来たことに気付かずに、あるいは俺が立ち去ったと思って、降りてきた。

 それだけの話のはずだ。単純に考えれば。
 でも。

「……神崎?」

「え?」

 ただでさえ、戸惑ったような顔をしていたのに、俺に呼ばれて、彼女はいっそう混乱を深めた様子だった。
 知らない人に名前を呼ばれたような、面食らった顔。  


 夕日に照らされているせいかもしれない。神崎の髪は、薄く、茶色がかっている気がした。
 混乱して、何を言えばいいかも分からない俺に、もうひとりの少女が近付いてくる。

 俺の顔をじっと睨んだあと、彼女は唇を動かした。

「……最悪」

 吐き捨てるように、そんな言葉を残してから、彼女はこの場を立ち去った。俺の体を押しのけて、扉をこじあけ、校舎へと入っていく。

 神崎は、少しのあいだ、俺と扉とを交互に見やっていたが、何かを言いたそうにしたあと、少女の背中を追った。

「待って!」

 少しの間、身じろぎすらできず、立ち尽くす。
 やがて、ぽつぽつと、雨が降り始めた。六月の雨が、やさしいほどの静けさで、混乱したままの俺を嘲笑っている気がした。

つづく





「はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、さっとんざうぉーる、
 はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、はーだぐれいとふぉーる、
 おーるざきんぐすほーすぃーず、あんどーるざきんぐすめーん、
 くーどゅん、ぷっとはんぷてぃー、とぅーげーざあげいん」





 ふと目を覚ますと、夕方だった。

 場所は教室。どうやら、放課後までうたた寝をしてしまっていたらしかった。
 今朝、神崎と話をしてから、なんだかずっとぼんやりしていたような気がする。

 妙な頭痛をおぼえて、額を押さえる。もちろんそれで治るわけがない。
 起きたばかりの気だるさと頭痛のせいでしばらく動く気がしなかったが、少し待つとどちらも溶けるように消えていった。

 さて。

 気になっていたことは神崎に確認した。なにひとつ分からなかったし、混乱が余計に深まった気がするけど。
 
 でも、状況を冷静に考えてみれば、もう俺がすべきことはひとつもない。
 神崎は筒井に昨日のことを報告しただろう。調査もおしまいだ。

 どうしたものか、と考えて、そういえばサキ先輩が、千家について訊きたいことがあると言っていたのを思い出す。
 


 話さなければならない義務はないが、義理はある。
 昨日話を聞いてもらったばかりだし、それに、べつに何か悪いことをするわけではないのだ。

 なんとなく、サキ先輩が千家を気にかけている理由も気になる。

 教室を出て、俺は東校舎に向かうことにした。

 歩きながら、昨日サキ先輩に言われた言葉を思い出す。

 ――どうして、幽霊なんて突拍子もないものについて、調べようと思ったの?

 どうして?

 話を持ちかけられたから。神崎の頼まれごとに付き合うのは、図書カウンターでぼんやりしているより退屈しないから。
 どちらも間違いじゃない。でも、それがすべてではない。

 幽霊のことを思い出す。
 子供の頃、少し顔を合わせただけの相手。

 もうよく思い出せない。
 ずっと長い間、彼女と会っていたような気もするし、実は、二、三回しか会っていないのかもしれないという気もする。
 記憶は朧気で、引き伸ばされたり縮んだりしていて、正確なところはわからない。

 何度目かに、彼女はあの場所に現れなくなった。
 会話だって、全部を思い出せるわけじゃない。でも、あそこで彼女と出会ったことと、その印象だけは薄れない。
 白昼夢のような記憶。

 だから俺は、幽霊という言葉に引きつけられたのかもしれない。
 


 部室には、サキ先輩だけしかいなかった。志鶴も毎日来ているわけではないのだろう。

 サキ先輩は、開け放した窓の桟に座ったまま、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
 俺が来たことに気付くと、「二日続けてくるなんて珍しいね」と笑う。

「昨日はありがとうございました」

 俺の言葉に、彼女は戸惑ったような顔をした。

「え、なにが?」

「話を聞いてもらったので」

「ああ、いや、いいよ、そんなの」

 本当に、礼を言われるようなことじゃないというみたいに、先輩は顔の前でひらひらと手を振った。

「それより、今日はどうしたの? 普段はあんまり、近寄りたがらないのにさ」

 べつに、近寄りたがっていないわけじゃない。
 この同好会の趣旨は未だにわかっていないけど、それでも俺は、彼女の話を聞くのが嫌いではなかった。
 彼女の鋭さが、刺さるみたいに痛いだけで。

「先輩、何か聞きたい話があるって言ってたじゃないですか」


「……ああ、それか」

 彼女は窓の桟から体を落とし、教室の後方に置かれた机と椅子を運んだ。
 ひとつの机にふたつの椅子。

「まあ座ってよ」

 言葉の通り、俺は椅子に腰掛けた。サキ先輩は窓側に、俺は廊下側に背を向けていた。
 机の上にかすかに積もった埃。教室を使っているといっても、あまり掃除をしたりはしない。
 ときどき志鶴が、気まぐれを起こして掃除をはじめることはあるみたいだけど。

「千家のこと、気にしてるって聞きました」

「うん。そう。内海、友達なんでしょ。彼について、いろいろ知ってるって思ってさ」

「べつに、話すのはかまわないです。あんまり言いにくいことは、言いませんけど」

「でも、超能力のことは教えてくれたよね」

「そんな話信じる奴はいないから、誰に言いふらしてもかまわないって、本人に言われたんです」

 サキ先輩は少し考えるような素振りを見せた。

「……まあ、そうか。信じてどうなる話でもないし」


「話す前に、訊いてもいいですか?」

「なに?」

「サキ先輩は、どうして千家のことを気にするんですか?」

「……嫉妬?」

「……」

「冗談だよ」

 へらへらと笑う。余裕のある態度に、いつも呑まれてしまう。
 見透かされているような気分になる。何を見透かされたくないのかも、わからないのに。

「その質問に答えるのはかまわないんだけど、先に話をしてしまいたいかな」

「最初に教えてもらうわけには、いかないんですか?」

「ん? うーん、ちょっと込み入った話になるんだよ。質問は、すぐ終わるからさ」

「……分かりました」



 俺が頷くと、サキ先輩は満足気に笑った。

「えっと、まず最初に、彼って、超能力者なんだよね? 千円札を一万円札と錯覚させる」

「はい。手品かもしれませんが」

「超能力だとして、それって、任意なのかな? それとも、彼が手に持っている間だけとか、手から離れて数分間は絶対とか?」

「聞いたことは、ありませんけど……。たぶん、任意ではないと思います」

「彼が持った千円札は、絶対に一万円札に見えちゃうってこと? 本人の意思に関係なく?」

「あいつ、五百円玉を大量に持ち歩いてるんですよ。銀行で両替してるって言ってました。
 千円札での支払いが難しいから、そうしてるんだと思います」

 一万円札で百円の買い物をすれば、返ってくるのは九千九百円。
 普通なら、五千円札一枚と千円札四枚。それから五百円玉一枚、百円玉四枚だ。

 千家にとっては、一万円を出したのに、四万五千九百円が返ってくるということになる。
 最初の頃は自販機で千円札を崩していたと言っていたが、そのうち煩わしくなって、小銭を持ち歩くことにしたという。

「わざわざ銀行で? ご両親とかは知ってるのかな」

「どうでしょうね」

 千家の能力は、千円札にだけ適用される、らしい。五千円札か一万円札、もしくは小銭でなければ、問題のない買い物ができない。
 だが、自販機は千円を千円として読み取ったのだから、両替機を使うとするなら、千円札をもらっていても問題はないかもしれない。

 もっとも、彼の家庭のことを俺は聞いたことがないから、どんな生活をしているのかも知らないのだが。


「ふうん。その気になれば悪用できそうだけど、彼がそういうことをしているって聞いたことは?」

「……さあ。聞いたことがないですね」

 これは嘘だ。
 千家はときどき、「小遣い稼ぎ」と称して、コンビニで安い買い物をするとき、
 千円札を出して、店員から九千円以上を釣りとして受け取っている。
 
 ――この力のせいで、俺の人生は普通じゃいられないんだ。このくらいの役得、何が悪い?

 たしかに、千家の生活には、その能力のせいで多くの不都合が生じているのだろう。
 人間相手の金のやりとりの際、必ずといっていいほど意識させられる異端さ。
 能力がどのようにあらわれるのか、俺は知らない。だから、細かいことはわからない。

 だが、金のやりとりが過剰なほどあふれる世の中で、彼が抱えるハンデは、見た目ほど小さくはないだろう。

 千家は、懐に常に小銭を絶やさない。それを俺は、彼の自制心の表れだと考えていた。
 だから、彼の悪口は、あまり言いたくない。

「内海からは、千家くんってどんな人間に見える?」

「……俺から、ですか」

「そう。真面目か不真面目か。冷淡か情熱的か。希望にあふれているのか失意に満ちているのか。
 交友関係は広いか狭いか、人を傷つけるのをためらうかためらわないか、やさしいか、やさしくないか」


 俺は一瞬、答えに窮する。
 
 ある意味では真面目だが、普通の意味では真面目とは言えない。
 情熱的かどうか、という問いも、似たような答えになる。

 少なくとも、希望にあふれてはいない。交友関係も広くはない。
 たぶん、人を傷つけるのも、ためらわない。やさしいかやさしくないかでいえば、やさしくない。

 答えのすべてが、否定的なものに思える。

「千家くんって、どんな人?」

 サキ先輩の問いかけは続く。どう答えようか、迷う。

「……わかりません。飄々としているところがあって、でも、話している分には普通です。
 かといって、気楽とか、穏やかとか、そういうのではないですね」

「というと?」

「べつに、悪い奴ってわけじゃありませんけど、斜に構えているところがあるっていうか……」

「斜に構えてる?」

「うまく言えませんけど……」

 なんだか、不安になってくる。
 千家は、べつに悪いことはしていない、はずだ。
 いや、しているけれど、それは些細とは言えないまでも、何かの事件を起こすとか、それほどのことではないと思う、のに。



 サキ先輩の質問の仕方は、俺から何かを引きずり出そうとしているみたいで、不安になる。

「ごめん。どんな人って訊かれても、とっさには難しいよね」

 先輩はそう言って、一度言葉を止めた。

「じゃあ、質問の仕方を変えるね。彼、部活とかは入ってるの?」

「いえ」

「運動とか、苦手な方?」

「べつに、そうでもないと思いますけど、単純にやる気がないって言ってました」

「やる気かあ。けっこう、無気力っていうか、ぼんやりした学生生活してるのかな」

「そういうのとも、また違う気がしますけど……」

 怠惰なのではない、と思う。
 ただ、冷めているのだ。


「勉強とかは?」

「やる気はないみたいですけど、そこそこやってるんじゃないですか。
 ちゃんと進級してるわけですし、まったくできないわけじゃないでしょうね」

「……ああ、うん。つまり、内海と似た感じの人ってことかな」

「そう、でもないと思いますけど」

「まあ、内海は飄々としてるって感じじゃないし、人と話すのが苦手っぽく見えるところはあるけど」

 ……余計なお世話だ。

「でも、内海も斜に構えてるっていうか、皮肉っぽいところがあるように見えるし……。 
 って、ごめんね。べつに内海の話はいいんだよね」

「……はあ」

「内海と千家くんは、似てるから仲がいいのかな」

「……正直、仲が良いってわけでもないと思いますけど」



「そう? わたし、内海が他の男子と話してるの、見たことないよ。
 だって、内海は同年代の男子が苦手でしょ?」

「……」

「女子相手だと、ある程度は普通に話せてるけど、男子相手だと固くなるっていうか……」

「見てきたみたいに言いますね」

「ときどき見かけたからね。廊下とかで、クラスの男子に話しかけられてるときとか。
 口数が減るとか、どもったりするとかってわけじゃないけど、リラックスできてないっていうか、警戒してるっていうか。
 女子相手だとリラックスできてるってわけでもなくて、ちょっと肩の力が抜けてる感じになるだけだけどさ」

 どうして、俺の話になってるんだ?

「それって、ひょっとして劣等感?」

 俺は答えなかった。何がどうなって、自分の話になったのかわからない。
 そのまま黙っていると、先輩は、ちょっと気まずそうに溜め息をついた。


「ごめん、わたしの悪い癖だね。勝手な想像で、他人についてとやかく言うの」

「……いえ」

 でも、サキ先輩の想像は、不思議といつも遠くないところにたどり着く。
 実際、自分でも薄々気付いていることではあった。

 同年代の人間を避けている事実。
 でも、たしかに女相手より男相手の方が、苦手意識が強いかもしれない。
 なぜなのか、わからない。

 女は男とは違う。だから、分からないことを割り切ることができる。男子には分からない価値観を、女子が持っていること。
 でも、俺は男で、それなのに、普通の男子が知っていること、楽しんでいること、好きなことを、ほとんど知らない。
 知らない、ような気がする。

 みんなが当たり前にしている話に混ざれない。みんなが当たり前に興味を持つことに、興味を持てない。
 でも、そんな「普通」なんて、本当はどこにもないと分かっている。

 俺も「男子」のひとりでしかなくて、「男子」の中に俺のような奴もいるというだけだ。
 みんな、べつに、俺がどんなことを考えている人間だろうと、「男子」から爪弾きにされたりはしない。

 被害妄想じみた、疎外感。自分でも分かっているのに。
 なんとなく、気後れを感じてしまう。緊張してしまう。いつも。

 でも、俺が苦手意識を感じているのは、たぶん、男子だけってわけでもないだろう。
 一部の人達とは軽い気分で話せるし、そのなかには千家も含まれている。
 たまたま、女子の方が多いだけ……といっても、先輩と神崎、それから志鶴くらいのものだけど。


 コミュニティに依拠した人間関係。俺が苦手なのは、きっとそれだ。
 学校、部活、出身小学や中学校、クラス、体育祭の組分け。
 あるいは、特にスポーツ観戦が趣味というわけでもないのに、
 ワールドカップが始まれば、いつも自国チームを応援できるような、迷いのなさ。

 帰属意識が、薄いのか。はぐれたような、気持ちなのか。
 
 みんなが何かを一緒にしようとしているとき、俺はいつも途方に暮れてしまう。
 自分だけが、そこに加わるための文脈を持っていないような気がする。
 何かが始まる前まで放っておかれてるのに、何かが始まった途端、一緒に何かをやろうなんて。

 そういうのに、なんだか、馴染めない。

 ――小児的潔癖さ。

 ……神崎の言う通りなんだろう、たぶん。
 子供の頃からずっとそうやって馴染めずにいて、だから今でも、馴染めずにいる。
 今は過去の地続きで、培った性格は簡単には変えられない。
 
 卑屈になってるわけじゃないけど、
 居心地の悪さを隠して愛想笑いをするよりは、一人で居た方が気楽だった。
 誰かに話せば、酸っぱいブドウと笑われるかもしれないけど。

 救いは、そういう奴と関わってくれる人間もいるということで、
 彼ら、彼女らは、コミュニティから独立した行動をとる人たちだった。



「……内海の話は、今度にしようか。今は、千家くんの話」

 サキ先輩が話を変えてくれたおかげで、俺はそれ以上何も考えずに済んだ。
 でも、思い出すみたいに疑問が湧く。答えは、後回しにされてしまったけど。

「千家くんと内海は、どうして仲良くなったの?」

「クラスが同じで、席が近かったんです。そうしたら、たまたま話しかけられて」

「ふうん。千家くんから」

「はい」

「どうして、内海だったんだろうね?」

 ――同類だから。

 千家は、そう言っていた。俺は、違うと思うけど。

「……さあ、偶然近くにいたからだと思いますけど」

 話すのもばかばかしいようなことだったから、俺は答えなかった。

「そっか」


 それからサキ先輩は、立ち上がって窓際に近付き、溜め息をついた。
 背を向けられて、表情は見えない。何かを待つような、奇妙な沈黙。

「ごめん。ありがとね、千家くんのこと、教えてくれて。
 もうちょっと詳しく聞きたいところもあるんだけど、今はいいや」

「……」

「千家くんのこと、わたしがどうしてそんなに気にするか、だっけ」

「……はい」

「勝手な想像なんだ。根拠もない、想像。だから、内海は不愉快に思うかもしれない」

 彼女はこちらを振り返り、俺と目を合わせた。
 何かを気遣うような慎重そうな表情。それはとてもめずらしいものに思えた。

 続いた声は、かすかに震えているような気がした。

「内海、実はね――」




 昇降口を出たところで、空を見て、溜め息をついた。
 
 今にも降り出しそうな曇り空。
 景色は灰色にくすんでいて、憂鬱が増す。
 
 何かの本で、天気によって株価の上下が左右されることがあると、読んだことがある気がする。
 天気が晴れていると、人は交感神経が刺激され、前向きになる。
 反対に雨の日は副交感神経が優位で、疲労を感じやすく、意欲が低下しやすい。

 投資家も人間だから、無意識にそういう身体的な影響を受け、判断を変える、という話だったような気がする。

 人間は、不合理な動物だ。頭ですべてを合理的に判断し、決断するわけではない。
 状況、心境、気分、近況、さまざまな要因によって、「判断のくだしかた」が変わる。
 
 気分が暗いのは天気のせいだ。そういうことにしておこう。

 いますぐ千家と話がしたかったが、連絡をとる勇気はなかった。
 明日、学校で会ったとき、少し話をしてみよう。

 そう思い、歩き出したところで、校門の傍に誰かが立っていることに気付いた。



 肩まで伸びたまっすぐの黒髪。
 うちの学校の制服を着た女子。誰かを待つみたいに……待ち構えるみたいに、校舎の方を睨んでいる。
 その視線は、俺を見ているような気がした。

 気に留めず、校門を向けて歩く。知らない相手だ。話しかける理由もない。

 そう思ったけれど、近付くにつれ、その顔に覚えがあることに気付きはじめた。

 昨日、見た少女。
 神崎と、屋上にいた女の子。

 彼女は、俺を睨んでいた。
 通り過ぎればいいものを、立ち止まってしまう。声をかけられたわけでもないのに。

 見覚えがある。見覚え? そんなものではすらないように思う。
 昨日見かけただけのはず、の相手。それなのに。
 
 俺は彼女を、知っているような気がする。
 
 誰かに似ているというわけでもない。
 不思議な感覚が、胸の内側で静かに広がる。
 なくしたはずのジグソーパズルのピースが、ひょっこりとどこかから出てきたみたいな。



「ねえ……」

 彼女は、俺の目を見て、俺に向けて、声を掛けてきたのだろう。
 周囲に人はいない。確認したわけではない。でも、さっきまで誰も周りにいなかったし、今もきっと誰もいないだろう。
 そんな推測に基づいた合理的な判断ではなく。

 彼女は俺に向けて話しかけているのだと、直感で分かった。

「あなた、名前は?」

 怒ったような、悲しいような、そんな顔で、初対面といってもいいような女の子が、俺の名を訊ねた。
 突然の話。普段だったら、不思議に感じるくらい、不自然な出来事。

 俺は、それなのに、当たり前みたいに答えることができた。

「……ヨウ」

 彼女の顔がこわばった気がした。

「内海、陽」

 名を告げたとき、彼女の表情が、ひび割れるみたいに歪んだ気がした。
 自分でも不思議なほど、落ち着いた気分。
 ここに立って、声を出すことが、俺の体ではない、他の誰かの身に起こっていることのように感じる。

「そう、なんだ」

 納得するような声を出したあと、彼女は視線を地面に落とした。俺は、慎重に尋ね返す。

「きみは?」

「――ユイ」

 その名前を、この場面で聞かされたという動揺も、今は、感じない。
 すべてがただ、なんとなく他人事のようで、それなのになぜか……彼女が俺に向ける視線が怒りに満ちていることが、悲しかった。

「わたしは、ユイ。あなたが嫌い。……大嫌い」

129-3  、、 → 、

つづく




 木曜の放課後、俺は千家と、東校舎の屋上に立っていた。
 この場所を選んだのは、俺ではなく千家だった。

 どんな理由かは、知らない。彼が東校舎に立ち寄る機会があるのかどうかも、知らない。
 俺は千家について、ほとんど何も知らない。

「おまえが俺を呼び出すなんて、珍しいな」

 千家の言葉の通り、話があると言って呼び出したのは、俺の方だ。

「ああ、うん……」

「話があるなら、早めに済ませてくれよ。最近、ちょっと忙しいんだよ」

「バイトでも始めたのか?」

「そう思うか?」

「いや」

 他に、忙しくなる理由がわからないだけだ。


 屋上は、フェンスによって切り離されている。幽霊もいない。鳥の声すらしない。
 雨も降っていない。今日は、雲もそんなにない。
 六月の日暮れは遅い。まだ、空は明るい。

 ぬるい風が吹いている。

「おまえ、ここにはよく来るのか?」

 訊ねると、千家は笑った。

「なんでそう思う?」

「なんとなくだよ」

 そういえば、神崎に付き合って屋上を調べることになったと千家に話したとき、彼はすぐに「東校舎か」と訊いてきた。
 そんな噂を聞いたことがあると、そのときは言っていたけど、あれは本当だろうか。

 筒井が物音を不安がって友達に相談したとき、友人はまともに取り合ってくれなかったという。
 そして、筒井は、「不審な物音」について、神崎に相談してきたのだ。

 幽霊と言い出したのは、神崎自身だった。

 もし本当にそんな噂が流れていたなら、筒井の友人にせよ、神崎にせよ、そのことに触れてもおかしくない。
 千家は、そうではなく、「幽霊」と誤解されかねないようなものが東校舎の屋上にあることを、知っていたんじゃないだろうか。


「……でも、まあ、正解だ。この校舎は教師の出入りも少ないしな。
 それに、高い場所は、低い場所からはよく見えない。角度的にも、他の校舎から見えにくい位置があるしな」

「ここで、何をしていたんだ?」

 千家は、制服の内ポケットから赤い箱を取り出した。
 ポールモール、と書かれた箱。

「俺は、模範生じゃないからな」

「この間落ちてた吸い殻、おまえだったのか」

「ああ、吸い殻、片付けるの忘れてたっけか。普段は、気をつけてるんだけどな」

 彼は箱から煙草を一本取り出すと、それをくわえてライターで火をつけた。

「どうやって買ってるんだよ、それ」

「服装とか髪型を多少それらしくしとけば、よっぽど顔立ちや態度が幼くないかぎり、店員も身分証を出せなんてそうそう言わないんだよ」

「学校で吸ったら、臭いとかでバレないもんなのか?」

「俺に近付いてくる人間なんてそうそういないし、教師でもないかぎり、臭いがしても気に留めないよ」

「……」

 べつに、それはかまわないんだけど。



「千家、おまえ、ひょっとして、吸い殻をわざと残したんじゃないのか」

「……どうしてそう思う?」

 あの吸い殻は、濡れていなかった。

 俺が千家に屋上の調査について話したのは火曜の放課後。
 吸い殻が見つかったのも、火曜の放課後。そして月曜の放課後には、雨が降っていた。

 だとすると、月曜の放課後、雨が止んだ後から、火曜の放課後、俺たちが屋上に行くまでの間にしか、吸い殻は落とし得ない。
 でも、雨上がりの屋上は濡れていたはずで、そうだとすると、あの吸い殻はもっと汚れたり、濡れた痕があったりしてもおかしくない。

 月曜日に落とされたものだという可能性は、低いように思える。
 それに、千家が理由もなく吸い殻を片付け忘れるようなヘマをするなんて、俺には思えない。
 
 だとすると、千家は、俺と神崎が屋上に向かうことを知ったうえで、わざとあの吸い殻を残したんじゃないのか。

 そう訊ねると、彼はバカバカしそうに笑った。

「おまえ、妄想過多だよ。俺がそんなことをする理由がどこにある?
 第一、おまえだけじゃなく、図書委員のなんとかってやつも一緒だったんだろ」

「神崎」



「そう、その神崎だよ。おまえだけならともかく、神崎に煙草を吸ってるところを見られたら、面倒だろ。
 誰かが来るかもしれないっていう日に、どうしてわざわざ吸い殻を残すんだ?」

「煙草を吸うのが目的なんじゃなくて、吸い殻を見つけさせるのが目的だったんじゃないのか?」

「どうして俺がそんなことをする?」

 たしかに、理由がない。
 俺はそこで黙った。根拠のない想像。

「まあ、そういうのが面白いから、おまえと話すのは嫌いじゃないんだけどな」

 煙を吐き出しながら、彼は塔屋の壁に背中をもたれた。

「俺はここによく出入りしている。だから、幽霊うんぬんって話が出たとき、ひょっとしたら俺のことかもしれないと思った。
 だから、その日はここに近付かなかったし、これまでも少し近付くのを避けてた。なにかおかしいか?」

「……なにも」

 そうだ。おかしいのは俺だ。どうして、自分以外の他人が何かを企てているような妄想ばかりしてしまうんだろう。
 千家の行動に不自然なところはない。


「俺は屋上が好きなんだよ。煙草を吸えるからってわけでもない。景色を見下ろせるからだ」

 彼はそう言って、ポケットから携帯灰皿を取り出して、火を消した。
 ……やっぱり、彼が吸い殻を忘れるとは、俺には思えない。

 彼は灰皿を再びポケットにしまうと、フェンスに向かって歩き出した。

「来いよ」

 屋上の縁近くまで行くと、彼は振り返って俺を呼んだ。俺は黙ったまま彼の傍まで歩いた。

「何が見える?」

「空」

「ほかには?」

「街」

「そうだよな。建物、道路、人。あっちの方からはグラウンドも見える。よく運動部の連中が走り回ってるよ」

「……」

「吹奏楽部の練習音も聞こえるな。いろんな奴がいる。いろんな奴が居て――どいつもこいつも、狂いそうなくらいマトモだ」

 吐き捨てるみたいに呟く千家は、腹を立てているみたいに見えた。


「無邪気だよな。きっとあいつらにも、それなりの悩みがあって、それなりの幸せと楽しみがあって、
 それなりに勉強して、それなりに進学したり就職したりして、それなりに成功したり、それなりに恋愛したりするんだ。
 そして子供を作って、親になって育児をして、それなりに死ぬんだ。きっと、そのことに不満もないんだろうな」

「まるで、それが悪いことみたいな言い方だな。
 まともに生きて、まともに死ぬことが、軽率で、浅はかって、そう言ってるみたいに聞こえる。
 なあ、おまえみたいに世界の意味とか、そんなことを考えずに生きることって、そんなに悪いことなのか?」

「……分からねえんだよな、俺には」

 深い、溜め息。心底不可解だというような、戸惑った表情。

「なんでみんな、そんなにマトモでいられるんだ? どんな生き方をしたって結局は死ぬ。
 なにも残せやしないし、なにも得られやしない。ほしいものがあるから? したいことがあるから?
 それを得て、幸せな気持ちになりたいから?
 でも、ほしいものが手に入ったって、また次のほしいものができるだけだ。欲望や渇望が尽きないなら、何を手に入れたって意味はない。
 楽しいとか嬉しいなんて感情だって、結局は電気信号だろ? たとえば誰かひとりの人間と一緒にいることで、幸せを感じられるとして……。
 それが物質的に生み出される感情である以上、それはそれ以外でも再現可能な、代替可能な刺激なんじゃないのか?」

「……」

「だったら何かを得る必要なんて何もないだろ? 結局全部、求めてたらきりがないし、取り換えがきくんだ。
 脳を電極に繋いでそれらしい信号を与えてやれば、
 好きな子と手をつないでるときの幸せな気持ちだって再現できるようになるかもしれないぜ。
 幸せなんて、その程度のもんなのかもしれない。気付いてるのか? 気付いてないふりをしてるのか? 
 それとも、それでもかまわないって思ってるのか?
 わからないんだよ俺には。だってこの世界にも、俺にも、おまえにも、意味なんてないじゃないか」

「……」

「あいつらの信じてる物語が、俺には薄っぺらな虚妄にしか見えない。見え透いた後付の理屈にしか見えない。
 こんなことを言ったら、あいつらは逆のことを言うんだろうけどな。
 でも俺には、世界が続くことにも、人が生きることにも、地球が回ることにも、意味なんて見いだせない」

 だってそうだろ、と千家は怒鳴るように言った。



「欲しい物を手に入れたときの快感、したいことをしているときの充実感、それらはすべて物質的な刺激だ。
 そして時間が経ってその刺激を忘れたら、新しい刺激を欲しがるようになる。その繰り返しだ。死ぬまでずっとそうだ」

 ラットの脳のある場所に、電極を植えこむ。
 そしてラットの前に、ふたつのレバーを用意する。
 片方を踏めば餌が出てくるが、もう片方を踏めばラットの脳にある刺激が起こる。

 その刺激は、脳内ホルモンを分泌させ、ラットに快感を味わわせる。ラットは刺激を得られる方のレバーを踏み続ける。
 餌が出る方のレバーには見向きもせず、ただひたすらに刺激を求め続ける。

「したいことをする」「ほしいものをする」「やりたいことができた」「むずかしいことができた」
 これらの達成感、充足感は、ラットの身に起こったものと類似した報酬系の刺激と呼ばれる。

 達成感、充足感、幸福感を求めることは、ある意味では、ラットがレバーを踏み続けることに似ている。
 快楽は長続きしない。だからまたレバーを踏む。新しい快感を求める。その果てに何があるだろう。

 少なくともラットを待っていたのは餓死だった。

「だから、俺は言う」

 千家は、憤ったような調子で、俺の目をまっすぐに睨み、宣言した。

「何かを求めて得られることにも、何かを与えられて喜ぶことにも、何かを達成して満たされることにも、意味なんてない。
 肉体が感じる快・不快でしかない。意味も価値もない。何にもない。
 そこに強引に物語をつくろうとして、不自然な信仰を、信仰とも思わずに信じ続けて、
 何もわからずに刺激を求め続けて、満足気な顔で死んでいく。それが悪いとは言わない。
 でも、それが価値あることであるかのように語ることを、それが必要であるかのように語ることを、俺は認めない」

 彼は怒っているように見える。それなのに、悲しそうにも見える。

「――俺は、根拠のない物語を盲目的に信じ続けて、その物語への疑いを無検証にあざ笑うような奴を、認めない」


 彼の言葉は、きっとずっと、頭の中で唱え続けられたものなのだろう。
 澱みがなかった。迷いもなかった。溜め込んでいたものが、溢れでたような自然な口調で、
 彼は意味を否定する。

 彼の言っていることが、わからないわけじゃない。
 極端すぎるとは思うが、そう考えてしまう理由も、わかるような気がする。
 世界は、迷いや惑いに対してあまりに冷たい。

 でも、

「――だから、傷つけるのか?」

 そんなことは、どうでもよかった。

「意味がないから、何をやってもかまわないのか?
 傷つけても平気なのか? 意味がないから、奪ってもかまわないのか?
 意味がないから、ためらいなく壊せるのか?」

 千家は、俺の言葉を鼻で笑った。

「……何の話をしてるんだ?」


「千家は、サキ先輩を知ってるっけ?」

「……誰だ、それ」
 
「うちの同好会の会長だよ」

「あの、変人か」

「まあ、その認識で合ってる。彼女には、従姉がひとりいたらしい」

 怪訝げに、千家は眉をひそめた。俺はかまわずに話を続ける。

「中学のときにいろいろあって、引きこもりがちになってたらしい。
 でも、二年くらい前って言ってたかな。どうにか外に出られるようになったんだそうだ。
 夜間制高校に通いながら、昼間はコンビニでバイトをしてたらしい」

「……」

「最初の頃は、大変だったみたいだ。俺には真似できないな。
 一度落ちたら、抜け出せる気がしない。でも彼女は、克服しようとしたんだな」


 ヒキコモリは甘えだ、と切って捨てる人間がいる。
 ……想像力の欠如だと、俺は思う。

 最初は甘えだったかもしれないし、逃げだったかもしれない。
 でも、長期化するにつれ、段々と怖くなってくる。外に出ること。人の視線を浴びること。
 家の電話に出ることも、宅配便の荷物の受け取りも。

 普通の人が普通にできることが怖くなる。
 普通のことが普通にできない。そのことが、余計、怖くなって、そのぶん余計に、できなくなっていく。

 でも、普通の人にはその「怖さ」がわからない。
 だから……甘えるな、っていう。おまえがつらいなんて嘘だって。何もしてないならつらいわけがないって。
 でも、そんなのは冷静でいられる奴の理屈だ。

 親を責める奴もいる。でも、自分の子供が「普通でいられない」ことに気付いた親が、自分を責めていないわけがない。
 悪いところがなかったか、検証しないわけがない。どうすればいいのか、悩まないわけがない。
 混乱して、自分を責めて、落ち込まないわけがない。事情も知らない赤の他人が責める言葉を投げるのは、無責任だ。

 コンビニでレジに並ぶとき、脂汗を垂らし、手が震えるような恐怖。
 それを感じたことがない人間が彼らを責められるのは、他人事だからじゃない。単に、無知だからだ。
 知ろうとすらしないからだ。知ろうとすらしないくせに、知っているようなふりをするからだ。

 まるで、誰かを責めることで、「その誰かよりまともな人間」だという称号をもらえるみたいに。
 自分がやっていることが、誰かをいっそう痛めつけているということに気付かない。

 もちろんこれは、ステレオタイプなイメージだ。実際に、サキ先輩の従姉がどうだったかはわからない。
 案外、平気でやっていたのかもしれないし、深刻な状態にあったのかもしれない。



「学校に通いながらバイトを続けて、上手くやって、そこの人間関係にも馴染んでたらしいよ。
 でも、あるときから変なことが起こり始めた。
 彼女がレジに入った日だけ、九千円前後の違算が出るようになったんだ」

 千家は、黙ったままだった。

「マイナス九千円前後。ぴったり九千円の日が多くて、ときどきそれが前後した。
 彼女がシフトに入っている時間帯だけ、狙いすましたみたいに。
 それが何回も続いた。最初の頃は、店側も防犯カメラで確認したりしてたらしいが、どうも原因が見えない。
 どういう話になるか分かるか? ……彼女が防犯カメラの死角をついて、金を盗んでたって、そう言われるようになったんだよ」

 九千円、という額の不自然さも、繰り返し起こる違算の前では問題にならなかったのだろう。
 理由なんて、当人以外には分からない、と言ってしまえばそれだけのことだ。

「……」

「……おまえなんだろ?」

 千家は、笑った。

「知らねえよ。どうして俺がしたってことになる? そいつが釣りを渡し間違えてただけかもしれない。
 千円札を一万円札と勘違いして、九千円を渡してたとかな」

「……それが、何度も続くのか?」

「俺がやったって、誰に証明できる?」

「誰にもできない。おまえが実際にそのコンビニに通っていたって、
 千円札を出したのか、一万円札を出したのかは、おまえにしかわからない。
 でも、少なくともおまえには、それができた」


「……そいつのその後は知ってるよ」

 千家は、また笑った。

「クビになっただろ。どの時間帯にも、どの曜日にいなくなってた」

「……どうしてそんなことをしたんだ?」

「聞いたら、おまえ、怒るよ」

「言ってみろ」

「弁当買ったときに、箸を入れ忘れたんだよ、あの店員。ムカついたから、嫌がらせしてやろうと思って。
 無能な店員なんて、店にも客にも迷惑だろ? 慈善事業みたいなもんさ」

「死んだらしい」

「……は?」

「その人、自殺したらしい」

「……へえ」

 千家の顔に、少しだけ動揺が走ったように見えた。視線が、落ち着かないようにさまよいはじめる。
 けれど、強がりのように、笑みは解けない。


「それが、どうした?」

「おまえの力、最初はくだらないって思ってた。少ししたら、不便そうだと思った。
 でも、まさか、人が殺せるほどの力だとは思わなかったよ」

「おいおい、俺のせいか? 違うだろ? 死んだのはそいつの勝手だよ。
 俺はそいつにとって、ひとつの要因にはなっただろうが、俺が殺したわけじゃない。
 ……そいつが弱かったから死んだ。それだけだろ?」

「――だから!」

 怒鳴り声が、腹の底から湧いてくる。
 怒りか。憤りか。悲しいのか。わからない。

 人の生にも、死にも、意味はない。そこに意味をつくるのは、いつも、根拠のない物語だ。
 俺も、千家も、他の誰もが、驚くほど無価値な存在だ。

 でも、それは俺と千家の信じる物語だ。
 他の物語を信じる人間に、自分の物語を押し付けるのは、ただの暴力でしかない。
 暴力がいけないというのも物語だ、と千家は言うだろう。

 俺はきっと、そう言われたら答えられない。
 言葉を続けられない俺に退屈したように、千家はつまらなそうな顔をした。


「意外だな。おまえが、そんなに怒るなんてさ。
 おまえにしたら、赤の他人だろ。腹を立ててどうなる?
 俺にしたってそうだ。おまえ、赤の他人が死ぬたびに腹を立てるのか?
 子供が餓死するたびに悲しむのか? 事件が起こるたびに犯人に憤るのか?
 そんなんじゃ、一生使いきったって、悲しみ尽くすことなんてできないと思うけど」

 俺は答えない。

「おまえと俺は、似てると思ってたんだけど、どうも、違うみたいだな」

 俺は、答えない。

「別に、どうなったってかまわないはずだろ? 俺はどうでもいい存在で、おまえもどうでもいい存在で。
 何をしてもしなくても、結局はぜんぶ、死んでしまえばおしまいだ。重要なのは、ゼロがイチになって、またゼロになることだ。
 どんなふうにゼロに戻るかなんて、気にしてどうする? なにをしたって、変わりはしない」

 俺は、答えられない。

「……おまえ、そんな幽霊みたいな顔で、いったいこの世界に何を期待してるんだ?」

 俺は、
 答えられない。

つづく




「小学生の頃にね、一度、迷い込んだことがあるの」

 翌週の月曜、放課後の図書カウンターに、俺と神崎はいた。

「学校からの帰り道だった。その頃は、寄り道ばかりしてた。
 家には帰りたくなかったけど、学校にも居たくなかった。だから、どこにいたらいいか分からなかったんだ」

 ユイが言っていた、世界は双子、という言葉の意味を訊ねると、神崎はしばらく迷った様子だったが、結局話を聞かせてくれた。

「行き場なんてなかったから、家に帰るしかなかったんだけどね。
 でも、その日はなにか、変だった。いつもの帰り道に、知らない路地があったんだ。
 こんな道あったっけなって、入ってみた。そうしたら、迷子になっちゃった」

 俺は黙って彼女の話を聞いている。図書室にはやはり、俺たち以外の誰の姿もない。
 時計の秒針が動く音が聞こえる。

「なんとか、家に戻る道は見つけたんだけど、何か変だなって思った。
 そしたら、わたしの家があった場所、空き地になってたの」

「……空き地?」

「うん。でも、間違いなくそこにあったんだよ。そこがたしかに、わたしの家のはずだった。
 でも、家がない。そうしたら、どこに行けばいいのかも、よくわからないでしょ?」

 俺は黙って頷いた。


「だから、そこらじゅう探しまわったんだよ。知らない路地に入ったせいで、似てるけど別の道にきたんだって思った。
 必死になって、そこらじゅう歩きまわったり、一度学校に戻ってみたりもした。
 それから、いつもどおりの道を歩いて帰ろうとするの。そうすると、やっぱり知らない路地があったけど、今度は無視した。
 でも、たしかな道順で帰ってみても、家は空き地のままだった。悪い夢だって、思った」

「……」

「日は暮れて、あたりは暗くなって、でもわたしには帰る場所もなかった。
 どこに向かえばいいのかもわからなかったし、何が起きたのかも分からなかった。
 心細くて泣き出しそうだった。想像できる?」

 俺は首を横に振った。

「そこにね、声をかけてきた人がいたんだ。どうしたの? って。
 今にして思えば、心配してくれたんだね。でも、そのときのわたしは、知らない誰かと話すのも怖かった。 
 もともと人見知りする子供だったんだろうけど、混乱してたし、余計に。
 だから逃げちゃった。それで、走って逃げちゃった」

「……」

「気付いたら、知らない道まで来てた。でも、知ってる道だったとしても、家がないんじゃ仕方なかったんだけど。
 お母さんとお父さんに会いたくなった。そんなの久々だったから、よく覚えてる。
 なんだかんだいって、わたしは何か起こったら、あの人達を求めるんだって、後になって思った」
 
 言葉の意味は、よくわからない。今はただ、記憶をなぞるように朧気な彼女の言葉に耳を傾ける。

「目の前に、小学校の旧校舎があった。わたし、とにかく隠れなきゃいけない気がしてた。
 何かに追われてるような気がして、にげなきゃって」

「……その校舎に、入ったの?」

「……うん。怖い場所だった。暗いし、音もしないのに、変な気配があるような気がして。
 そこにね、"わたし"がいたの。わたしとはべつの、"わたし"がいたの」



 日没後の廃校舎で、もうひとりの自分と出会う。
 詩的と言えなくもない出来事だろうが、ある意味ではホラー映画的でもある。
 悪夢的、というべきかもしれない。

「わたしを見た"わたし"は驚いてた。わたしも驚いた。でも、少しの間だけだったよ。
 お互いに、すぐ分かった。わたしたちはふたりともわたしだった。"わたし"はわたしじゃないけど、神崎美園だった」

「……」

「あっちの"わたし"のことを、わたしはのんちゃんって呼んでた。不便だから呼び方を決めようって言われたの。
 それで、わたしは"みいちゃん"。自分にあだ名をつけるなんて変な気分だったけど、どっちも美園じゃわかりにくいから。
 それに、そうしないと、なんだかお互いがお互いに吸い込まれそうな気がしたんだと思う。
 自分たちが、同じだけど別の存在だって、確認しておきたかったんだね」

 自分とそっくりの誰か。それはほとんど、怪物のような存在に思えそうなものだ。
 仮にそんなものに出会ったら、俺はまともではいられないだろう。

「その旧校舎は、のんちゃんの隠れ家だったんだって。ずっと、大人たちに内緒の遊び場にしてたって言ってた。
 わたしはわたしの住んでた家の話をして、家が空き地になってたんだって言った。
 そしたらのんちゃんが、自分の家は引っ越したんだって言った。
 わたしはそこで初めて、違う世界に迷い込んだんだって思った。そういうの、アニメかなにかで見たことあったし」

 空想のような出来事に巻き込まれた経験。それを神崎は他人事のように語る。
 本の内容を説明されているような気分になる。


「わたしは怖くなって、泣いた。帰り方がわからないし、きっとずっと戻れないんだって思った。
 こっちの世界の"神崎美園"のスペースは、のんちゃんが埋めてて、わたしはどこにも入れない。
 居場所がどこにもなくなって、存在してるのにしていない、幽霊みたいな存在になったんだって」

「……」

「のんちゃんは、わたしを匿ってくれるって言った。方法を探して、もとの世界に帰れるように協力するって。
 それからわたしたちは、自分たちの話をしたの。教室の窓辺に腰掛けて、ふつうの友達同士みたいに。
 気付いたら眠っていて、ふと目が覚めたら、隣にのんちゃんはいなかった。
 真夜中だったけど、わたしはそれから、家までの道を歩いた。どうしてそうしようと思ったのかはわからない。
 知らない道だったし、思ったより距離があった。
 でも、今度は家がちゃんとあって、両親はわたしのことを探してくれてた。すごく怒られた」

 それからね、と神崎は言う。

「それから、わたしはときどき、"あっち"に行くことがあった。でも、いつも帰って来られた。
 のんちゃんが"こっち"に来るときもあった。そのうち、自分たちの意思で行き来できるようになったの。
 行きたいってときに行けて、帰りたいってときに帰れる。
 わたしたちは、この不思議なことをみんなには秘密にすることにした。それが、のんちゃんとわたしの約束」

「……そっか」

「……ユイちゃんはね、のんちゃんの友達なんだって。ひとつ下だけど、昔からずっと仲が良かったんだって言ってた」

「……」

「ユイちゃんの身に何かがあって……それがなんなのかは知らないけど、とにかく、匿わないといけないんだって言ってた。
 先週の月曜、屋上を見に行ったとき、雨が降ったでしょ? あの後、もういちど屋上に行こうとしたとき、のんちゃんがいたんだ」

「……」

「移動するときは、できるかぎり人に見つからないところって、決めてた。
 あっちもこっちも、屋上に人が少ないのは分かってたから。でも、まさかあのタイミングで来るとは思わなかった。
 それに、幽霊だ、とか、物音だ、とか言われても、とっさにのんちゃんのことに頭が回らなかった」


 だって、不思議なことは世界にたしかにあるってことを、わたしは知ってたから。 
 神崎はそう言って不器用っぽく笑った。

「つまり、筒井が聞いた屋上の物音は、"あっち"の神崎だったってこと?」

「たぶんそうなんだろうなって、わたしは思った」

「"世界を移動する力"……」と言うと、大仰だ。俺は言いながら笑った。

「……のことは、他の人には秘密だ。だから、煙草の吸い殻で、適当な話をでっちあげてごまかした」

「そういう言い方をされると、なんだか申し訳ないけど、そのとおり」

「……赤の他人も、一緒に世界を移動できるのか」

「手を繋いでいればね」

「……」

「持っているものとか、服とか、そういうのも一緒に向こうに持っていってたから、きっと人も、とは思ってたけど」

「……ま、たしかに」

「でも、実際に試したのは、ユイちゃんが初めて」



「……だから神崎は、俺に妹がいるって知ってたのか?」

「そう、だね。ユイちゃんに、お兄さんの名前を聞いて……って言っても、聞いたのはのんちゃんで、わたしは又聞きしただけだけど。
 のんちゃんは、内海くんと会ったこと、なかったみたい。でも、わたしは知ってた。
 妹さんの話、聞いたことなかったから、こっちの内海くんにはいないのかもとも、思ったけど」

「……なるほど」

 面倒な話だ。あっちとか、こっちとか。

「まあ、流れは分かった」

「……嘘だって、思わないの?」

「どうかな。半信半疑ってところだけど」

 でも、べつにどうでもいい。
 再確認できた。

 神崎の力も、ユイも、俺には関係のない出来事だ。どうでもいい、対岸の火事だ。
 千家の力がそうだったように。

 俺にとっては、テレビの中の出来事とそう変わらない。
 あのユイは俺の知ってる結じゃないんだから。

 何かから逃げようが、隠れようが、どうでもいいことだ。
 



「……筒井は、どうなった?」

「え?」

「筒井。屋上のこと、報告したんだろ」

「あ、うん」

 神崎は戸惑ったみたいに視線を揺らした。
 
「報告したよ」

「なんて言ってた?」

 べつに聞く義務もなかったはずだけど、多少関わりを持っただけに、その後のことが気になっていた。

「煙草のことを言ったら、納得したみたいだった。まだちょっと、不安そうだったけど」

「……ふうん」

 納得、するものなんだろうか。
 筋が通っているといえば通っているけど、根拠に乏しい。

 千家は、"幽霊と思われたのは自分かもしれない"と考えたらしい。
 神崎も、"もうひとりの自分が出した物音かもしれない"と考えたようだ。

 結局、筒井が聞いた物音っていうのは、なんだったんだろう。


 誰かがいた、という証明が吸い殻でできるとして、筒井はそれで納得できるんだろうか。
 物音の正体を、神崎に頼むくらいに気にかけていたはずなのに。

 そもそも筒井は"幽霊"だとは言っていなかった、と神崎は言っていた。
 だとすると、筒井はどうして、その些細な物音を気にし続けていたんだろう。

 ……まあ、ちょっとしたことで心配になる人間もいる、ということなのかもしれない。

「でも、筒井さん、様子が変だったな」

「……変?」

「なにかに怯えてるみたいに見えたし、わたしが報告したときも、なんか、どうでもいいみたいに見えた」

 考え過ぎかもしれないけど、と神崎は言う。 
 俺は少しだけそのことについて考えてみたけど、所詮俺は筒井じゃない。
 他人が何を思っているかなんて、俺には分からない。





 志鶴が校門で待っていた。

「また待ってたのか」

「また待ってた」

 俺たちは並んで歩きはじめた。待っていることについてとやかく言う気にもなれない。
 こいつが好きでやっているなら、こいつの勝手だ。
 
「今日は委員会だったの?」

「ああ」

「図書委員って、大変だね」

「そう?」

「だって、毎週でしょ?」

「……そういう言い方をすると、たしかに」

 まあ、実際にやっている側からすれば、さして忙しいとは感じない。
 むしろ暇だ。

 でもまあ、一週間のうちの一日、放課後を委員会で潰すと考えれば、たしかに忙しいかもしれない。



 どうでもいいことを話しながら、無関係だと切って捨てたはずの神崎の言葉を思い出す。

 小学校の旧校舎、と神崎は言っていた。 
 旧校舎。思いつく場所はひとつ。同じ街のなかに、古い校舎がふたつもそのままにされたりはしないだろう。
 少なくとも俺は、他の場所の話を聞いたことがない。とはいえ、"あっち"のことは、なにもわからないけど。
 
"あっち"の神崎は、ユイと「昔から仲が良かった」のだと、神崎は言った。

 俺と神崎は、小学校も中学校も学区が違う。
 でも、"あっち"の神崎は引っ越したのだとも言っていた。
 引っ越した結果、小学校も転校することになり、そこでユイと知り合っていたとするなら。
 
 そして、"あっち"の神崎は小学校の旧校舎の存在を知り、そこを隠れ家にしたとしたら。
 そう考えれば、辻褄が合う。辻褄を合わせなければならない理由は、ないけれど。

 旧校舎。
 近頃、やけにあの場所を意識してしまっている。

 もう、あのとき会った彼女の顔すら、よく思い出せないのに。

「おにいちゃん、どうかしたの?」

「……え?」

「さっきから、上の空だから」

 俺は何も答えられなかった。普段、志鶴とどんな話をしていたかすら、思い出せない。
 


「……先週から、おにいちゃん、変だよ」

「そう?」

「うん。ずっと、ぼんやりしてる」

 どうしてだろう。
 千家のせい? 神崎のせい? ユイのせい?
 
 どれもそうだと言えるし、そうではないとも言える。
 変? 上の空? ぼんやりしてる?

 全部、いつものことだ。

「なにか、あったの?」

「なにもないよ」

 すぐに答えることができた。だって、それは本当のことなのだ。
 
 志鶴は何かを言いたげに口をもごもごさせていたけど、結局何も言わなかった。
 そして俺たちは別れた。いつもどおりに。





 家に帰ってから、ひさしぶりに自転車を引っ張りだした。通学は徒歩とバスだけですんでいるし、俺の行動範囲はそう広くない。
 自転車なんて、中学を卒業してからほとんど使っていない。

 誰もいない家に、「いってきます」と言った。返事はなかった。

 見慣れた道も自転車に乗ると違ってみる。視点の高さが違うんだから当たり前のことだ。
 そのまま、例の旧校舎を目指す。位置を忘れたことはない。

 そういえば、俺はどうしてあの場所に近付かなくなったんだっけ。
 思い出せない。

 廃校舎の幽霊。
 彼女はどこにいったんだろう。

 自転車を走らせているうちに、妙な気分になってくる。
 あの場所への道のりは今も変わっていない。
 背丈が伸びて、見える景色が変わった。それでも、道も、景色も、手段も変わっていない。

 結が死んでしまってから、俺はなにひとつ変わっていないと思っていた。 
 なにも変わるわけがないと思っていた。

 結が俺の世界のすべてで、世界は壊れてしまって。
 そこで何が起こっても、もう何も変わらないって、そう思っていた。

 それなのに、俺はこの道を走っているだけで、寂しいような、心細いような、懐かしいような、そんな気持ちに襲われている。
 
 どうしてだろう。
 俺は変わらないのに。
 変わっちゃいけないはずなのに。

 ペダルを漕ぐのをやめて、片足を地面につけた。悲しくないのに涙が出ていた。
 制服の袖で拭ってから、俺はふたたび自転車を走らせる。



 旧校舎の様子は、数年前と変わらない。
 草木の侵掠がいっそうひどくなっているように見えるだけだ。
 放置された校舎の荒涼ぶりは、さして変わったようには見えない。

 俺は、自転車を周囲からは見えない位置に停め、校舎へと近付いていく。
 近付くたびに、その建物の、意外なほどの小ささに驚く。
 
 二階建ての木造校舎。小さい頃は大きな口を開けた怪物のようにさえ見えたのに、今ではそれはただの廃墟だ。
 時間はたしかに流れていた。

 ふと、視界に何か動くものがあった。
 校舎の前を横切る途中で、昇降口に向かい、その影は建物の中に吸い込まれていく。
 遠目でも、うちの学校の女子生徒だということが分かる。制服を着ていたからだ。

 ……制服。

 高校に進学するとき、俺は迷わずに今の学校を選んだ。
 それは、とても感傷的な理由だ。
 あの廃校舎の幽霊が着ていた制服が、その高校のものだったから。

 なんだか落ち着かない気分になって、俺は急いでその人影を追うことにした。

 校舎内に足を踏み入れると、床がいまにも抜けそうなほど大きな音を立てて軋んだ。
 けれど、校舎のなかから、他の物音は聞こえない。
 誰かが歩けば必ず床が軋むような、そんな頼りない建物なのに。

 中の様子もまた、数年前と変わっていないように見えた。
 


「……気のせい、ってわけじゃ、ないと思うんだけど」

 たしかに人影は建物に入っていった。それなのに、校舎内から物音はしない。
 隠れている? 何のために?

 そもそも、その人影は、どうしてこんな場所に来たんだろう。

「……人のことは言えないか」

 古い建物の暗さと独特の臭い。妙に響く自分の声。 
 ひとりごとが増えるのは、寂しいからか、不安だからか。

 どうでもいいや、と思った。いないってことは、気のせいだったってことだろう。
 あるいは、幽霊か何かとか。……それこそ、悪趣味な冗談だ。

 俺はとりあえず、人影のことを頭の端に追いやった。
 さて、当初の目的を果たさなくては。

 といっても、べつに目的があってきたわけじゃないんだけど。



 子供の頃歩いたのと同じ通路を歩き、あの教室を目指す。
 あのころは何かの部屋としか思わなかったけど、今となって思えば、あそこは美術室だったのだろう。

 教室は、子供の頃きたときよりも、ずっと近くに感じた。通路はずっと短く、低く、狭かった。

 扉は開け放たれている。

 放置された椅子。教室の隅の水道。外に繋がる扉。
 床に染み付いて汚れた絵の具。そっけない木の椅子。

 あたりまえだけど、誰もいない。

「……どうして、こんなところに来てたんだか」

 本当に、どうしてなんだろう。
 子供の頃考えていたことなんて、もう思い出せないけど。
 
 ひとりになりたかったのか。
 時間の流れを、意識したくなかったのか。

 ここはあまりに朽ち果てていて、そのせいで、時間の流れという概念が希薄になってしまっている。
 時間とともに削られていくものが、削られきってしまったような。
 残されるものはこれだけだとでもいうような空虚。

 俺が来る前から失われきっていて、俺が来たあとも失われたままの空間。
 ある意味での、不変と言ってしまってもいいかもしれない。

 失われたものは失われたままで、二度と元には戻らない。
 


「こんなところに、用事?」

 驚いて、心臓が止まりそうになった。
 振り返ると、入り口に神崎が立っていた。

「……びっくりした。なんでいるんだよ、こんなところに」

「本当にびっくりしてたね。ビクってなってた」

「そりゃ、驚くよ。誰もいないもんだと思ってたし。……さっきの人影、おまえか?」

「人影?」

「さっき、ここに誰か入ってくるのを見たから」

「わたし、いま来たばかりだよ。たまたま、きみの背中を見つけたから」

「なんでこんなとこに……」

「なんでって、隠れ家だから」

 隠れ家。

「……きみ、"あっち"の神崎か?」

「あれ、気付いてなかった? 髪の色、違うんだけどな」

 そう言って、彼女は指先で前髪をさらさらと撫でた。
 光の加減のせいでよくわからないが、たしかに、"こっち"の神崎より、少し明るい色をしている気がする。


「このあいだ、ごめんね。わたし、君がみいちゃんと知り合いだって知らなかったから。
 知ってても話さなかっただろうけど、一応、移動中、互いの知り合いにあってもなるべく関わらないってルールだし」

「このあいだ?」

「ほら、屋上で」

 ……ユイと初めて会ったときか。あのとき、会ったのは、こっちの神崎だったのか。
 冷静に考えれば、分かるような話だけど、すっかりいつもの神崎だと思い込んでいた。

「隠れ家って?」

「あっちの世界ではね。わたしの隠れ家」

「……そう」

「いいでしょ、ここ。なんか、雰囲気あるしさ」

 そう言って自然に笑う。神崎の顔なのに、神崎だったらそうしないだろうというような、わかりやすい笑顔。
"こっち"の神崎は感情表現がわかりにくい。それに比べて、彼女はずいぶん、明るくてわかりやすい。
 違和感がつのるほどだ。

「同一人物とは思えないな」


「なにが?」

「きみと神崎」

「わたし、神崎だよ。それに、同一人物ではないよ」

「じゃあ、なんて言えばいいんだろう」

「名前のこと? それとも、同一人物じゃなくてってこと?」

「どっちも」

「名前なら、のんちゃんって呼んでくれていいよ」

「……それは、嫌だな」
 
 小学生でもあるまいし。というかまあ、小学生のときでも嫌がっただろうけど。

「じゃあ、のぞみって呼んで」

「……なんで、のぞみ?」

「みそのを逆から読んで、のぞみ」

「濁点はどこから来たんだよ」

「"のそみ"じゃ変でしょ?」

 まあ、そのとおりだけど。



「同一人物って言葉については、間違いだから。
 わたしとみいちゃんは別の人間。共有してるのは、名前とか血液型とか両親の名前とか、そういうもの。
 違う経験をして、違う思い出を持ってる。そう感じたからこそ、きみもユイを振ったんでしょ?」

「振ったって、なんだよ」

「あの子、ブラコンだし。わたしに黙って、勝手に会いに行くくらいだもんね」
 
 ……まあ、解釈は人それぞれだろう。

「同一人物じゃなくて、別の自分、ってところかな。これもちょっと語弊があるけど、細かいことはいいでしょ」

「のぞみ」

「いきなり呼び捨て?」

「……のぞみさん」

「さん付けはちょっと気持ち悪いなあ」

「なんて呼べばいいんだよ」

「のぞみでいいよ」

「……なんだったんだよ、今のやりとり」

「いきなり呼び捨てにするのと、呼び捨てでいいって言ってから呼び捨てにするのとじゃ、意味が違うよ」

「……細かいことだろ」

「わたしにとっては細かくないからね」

 のぞみはからから笑った。
 ……たしかに"こっち"の神崎とは別人だ。言うことも態度も。



「にしても、ここもダメかな」

 のぞみは、あたりを見回してから、そう呟いた。

「ダメって?」

「きみには関係ないよ。内海……なにくんだっけ?」

「陽」

「そ。よーくんには、関係ない」

「たしかにね」

「ま、べつに言ったっていいんだけどさ」

「……なんで一回答えなかったんだよ」

「実は、ユイの隠れ家を探しててさ。みいちゃんは両親と一緒に住んでるんだって、わたし忘れてたんだよね」

「……」

「数日はごまかせたんだけど、さすがにみいちゃんもずっとはつらそうだし。
 それに、ずっと隠れて暮らすのはユイもつらいだろうしね。ちょうどいいとこ、探してたんだけど……」

 なかなか見つからないんだよね、とのぞみは笑う。


 それから何かを思いついたように、

「あ」

 と声をあげた。

「……なに」

「きみの家は? よーくんちはどうなのさ? ユイが言ってたけど、同じとこ住んでるんでしょ?」

「……」

「……って、ダメか。同じってことは、ご両親もいるんだもんね」

 それ以前の問題だ。
 こっちの結は死んだんだと、こいつは聞かされていないのだろうか。
 まあ、ユイなら、言わないかもしれない。

 結が生きていたとしても、ユイが入り込む隙間はない。
 結が死んでしまった今、それでもユイが入り込む隙間はない。

 もちろん、両親が家に帰ってきているならの話だが。

「両親はいない」

「どうして?」

「離婚した。父さんはときどき様子を見に来るけど、本当にときどきだな」

 父も母も、帰ってこない。母は他に居場所を見つけたらしい。
 父もまた、そうなのだろう。
 居場所がないのは俺と結だけで、今となっては俺だけだ。


「だったら、ユイのこと、引き受けてくれない?」

「……」

「……だめかな?」

「どういう神経してるんだよ」

 べつに怒ったわけではないが、いいかげんにしろとは言いたかった。

「こっちの結は死んだんだ。どうして死んだ妹のそっくりさんと一緒に暮らさなきゃいけないんだ?」

 のぞみは、俺の言葉に少しだけ驚いたようすだった。目を伏せて、床を見つめている。

「……ごめん」

「……」

「でも、他に頼れるものがないんだよ」

 俺は応えない。

「こっちじゃ、わたしもユイも、幽霊みたいなものだから。
 居場所がないし、誰の助けも期待できない。知ってるのはきみと、みいちゃんだけ」

「……」

「悪趣味な話だって思うかもしれないけど、ユイはほとぼりが冷めるまで、こっちにいないとダメなんだよ」



「……匿ってるって言ってたな。いったい、何があったんだ?」

「……教えたら、協力してくれる?」

 どうしようか、迷った。
 聞いたところで、俺に関係のある話ではないし、聞いてしまったら面倒なことになる。
 それに、聞くのが少し怖い。どうしてか、わからないけど。

 のぞみは、勝手に話し始めてしまった。

「ユイ、高校に入学してすぐに彼氏ができたんだよ。先輩なんだけど……その人がちょっと、悪い人だったっていうか。
 最初はやさしかったって、ユイは言うんだけど、でも、しばらくしたら脅されるようになったんだって」

「脅される?」

「……その、画像とかね。そういうの、使って。それで、危ないことさせられてたっていうか」

 耳鳴りが、
 聞こえた。

 傷つく理由なんてひとつもないのに、俺は傷ついていた。
 憤る理由なんてひとつもないのに、俺は憤っていた。


「段々、エスカレートしていって、そうなったときにようやく、ユイがわたしに相談してくれて。
 家まで知られてて、逃げようとしても逃げ場がないっていうから、わたしがこっちに連れてくることにしたの」

「……」

「しばらく隠れてれば、そのうち相手も諦めると思うし。希望的観測かもしれないけど……」

 赤い色を思い出す。
 
 ジャングルジムの影の網目。ベンチに置き去りのランドセル。赤と黒。
 水飲み場のそば。濡れた土。砂場に埋まるジュース瓶の王冠。

 敷地を示すフェンスの内側。道路側からは覗けない、滑り台の影。

 嘘みたいに綺麗な夕焼け。
 むせかえるような、雨上がりの草いきれ。

 間違っているって、最初から分かっていた。
 それでも、俺はそこで満たされていて、彼女もそこで満たされていたと信じた。
 互い以外を必要としない世界。

 でも結は死んでしまって、
 ユイは結じゃない。

 いまさら悲しむ理由なんて、ひとつもないのに。


「……やっぱり、だめかな」

「……」

「こんな言い方、卑怯だってわかってるけど、でも、ほかに頼れる相手がいないんだよ」

 のぞみは、俺を利用しようとしている。
 都合のいいだけの存在。赤の他人。
 どうせ時間がくれば縁が切れるだけの存在。

 その程度のものと思っている。
 
 両親も妹もいないとなれば、俺は一人暮らしだ。
 危ないとか、思わないんだろうか? ましてやユイは、『そういう』ありがちなパターンに引っかかったのに。
 
 舐められているのか。それとも、それだけ必死なのか。
 どうでもいいやと思った。

 今は全部、どうでもよかった。最初から、どうでもよかった。
 結のいない世界に意味はなくて、何が起ころうと変わらない。

 そうじゃないといけないから、だから拒絶する理由だって、本当はない。

「……わかったよ。好きにしろよ」


 暗かった表情が一転して、明るさに満ちる。
 器用な使い分けだ。わざとじゃないとしたら、天性の役者だ。

「ありがとう!」

「……本当に、こっちの神崎とは、別人だな」

「わたしには、教えてくれた人がいたからね。みいちゃんにも教えたけど、あんまり効かなかったみたい」

「なにが?」

「ずっと前、わたしが子供の頃にね、その人は教えてくれたの」

 お気に入りの詩を諳んじるように、のぞみは笑う。

「"きみも俺も、驚くくらい無価値な生き物なんだ。
 でも、それは、他の誰でも変わらない。
 きみはきみを踏みつぶそうとする奴を嫌う権利がある。
 きみはきみのしたいように振る舞えばいい。きみを踏みつぶそうとする奴を、踏みつぶすこともできる。
 この世に、してはならないことなんて、ひとつもない。
 世界は驚くほど無価値で、だから、きみは世界を踏みにじってかまわないんだ"」

 彼女はそう言って、つくりもののように綺麗に笑う。
 それが彼女のマントラであるかのように。

 くらくらと、目眩がする。ぐらぐらと、足元が揺れている。

つづく




 ユイとのぞみは、その日のうちに俺の家にやってきた。
 
 部屋は余っている。四人暮らしていた家に今は一人しか居ないのだから、当たり前といえば当たり前だ。
 彼女たちはほとんど身一つだった。持っていたのは財布くらいで、携帯すら持っていなかった。

「持ってたとしても使えないんだよ」とのぞみは言った。

「画面が真っ暗になっちゃうんだ」

 理屈はわからないけど、そう言われたらそういうものだと納得するしかない。

「ごめんね、迷惑はかけないから」

 とものぞみは言ったが、ここに来ることそれ自体が迷惑なことなのだと考えが及ばないはずもない。
 誰もが無価値だという言葉を信仰する彼女にとっては、俺もまた無価値なのだろう。
 だとするなら、どうして彼女はユイのために行動しようと思えたのだろう。

 俺にはそこがさっぱり分からなかった。
 無価値なら、どうなってもかまわないはずなのに。
 それとも、それは話が別なのだろうか。



 一応、ふたりに家の中を案内した。
 キッチンや冷蔵庫の中身は勝手に使ってもかまわない、風呂場も好きに使ってくれていい。
 面倒ならカップ麺を箱買いしてあるから、それを食べてもかまわない。
 何をしてもかまわない。金が必要なら少しなら工面できるし、暇なら本やDVDを貸してもいい。

 けれど、できるかぎり二階の部屋には近寄らないでほしい。俺が言ったのはせいぜいそのくらいのことだけだ。

 返事や相槌をよこしたのはのぞみだけで、ユイは気に入らないように黙り込んだままだった。
 べつにここを追い出されたってかまわないというような顔。

「不満気だな」

 俺が訊ねると、ユイは「当たり前でしょ」と言いたげにこちらを睨んだ。

「べつに俺は、きみがどこに行ってどうなってもかまわない。頼まれたから場所を貸すだけだ。
 きみが俺にとって不愉快なら、出て行ってもらうこともできる。
 でも、そうなったとき、迷惑を被るのは俺じゃなくて、きみの友だちじゃないか?」

 ユイは、軽蔑したようにこちらを睨む。傷つく理由はない。

「仲良くしようぜ」

 俺は笑った。ユイは不愉快そうに溜め息をついたあと、

「ありがとう」

 と儀礼的に言った。俺はそれで満足した。




 一人で部屋に戻る。物音はしないのに、家に人がいるというだけで落ち着かなかった。
 べつにそれが年頃の女の子ふたりだからというわけではない、と思う。

 考えても仕方ないことだと割りきって、俺は机に向かった。

 ルーズリーフを一枚広げ、シャープペンを取り出す。

 何かを書こうと思ったはずなのに、いざとなると書くべきことを思い出せない。

 横にしたルーズリーフに、俺は文字を並べる。

 神崎美園
 千家龍
 筒井あまね
 野々宮サキ
 のぞみ
 ユイ
 
 別に意味はない。ここのところ関わることの多かった名前を並べて、それらに説明を付け加える。

 神崎美園 ― 女。図書委員。
 千家龍 ― 男。同じクラス。
 筒井あまね ― 女。同学年。生徒会役員。屋上。
 野々宮サキ ― 同好会の会長。先輩。
 のぞみ ― 別の世界の神崎美園。
 ユイ ― 別人。



 それから起こったことと、分かったこと。

・屋上の幽霊。正体は千家龍、あるいはのぞみ。
・千家龍と神崎美園は、超能力者。
・筒井あまねは神崎美園に屋上の調査を依頼した。吸い殻。
・野々宮サキの従姉はコンビニ店員だった。千家が殺した。
・ユイは何かのトラブルに巻き込まれ、こちらの世界に逃げこんできた。
・神崎美園は両親と同居しているため、ユイとのぞみを匿うことができない。
 
 不思議な話だ。
 不思議なほどに、俺には関わりのない話ばかりだ。

 千家のことも、ユイのことも、神崎のことも、俺には関係のない話ばかりだ。
 俺に関係のある話なんて、ひとつもない。
 でも……。

・屋上の調査をしたのは、俺と神崎美園。
・ユイとのぞみは、俺の家を宿にすることになった。
・野々宮サキに千家龍の超能力について教えたのは、俺。

 もし、俺が神崎に誘われなければ、俺は屋上に行くこともなかったし、その結果のぞみたちと顔を合わせることもなかった。 
 もしそうならなければ、この家にのぞみたちがやってくることもなかったはずだ。

 同時に、俺がサキ先輩に千家のことを教えなければ、千家のしたことを俺が知ることもなかった。
 サキ先輩は俺の言葉があったから、自分の従姉の死について、それまでとは違う解釈を想像できた。

 
 俺にはなにひとつ関係がないことなのに、いつのまにか、巻き込まれている。 
 ひどく回りくどく、けれどはっきりと、俺は関わりを持ってしまっている。



 何かが、俺の身に起きようとしている。
 そんな考えが頭をよぎる。もちろん、誇大妄想だ。

 ふと思いつき、俺は項目を加える。

・のぞみが旧校舎で唱えた言葉は、

 途中で、ペンを放り投げた。あまりにもバカバカしいことだったから。

 そこで、携帯が鳴った。電話の着信音。
 画面を見ると、志鶴からだった。俺はワンコール置いてから電話に出た。

「もしもし、おにいちゃん?」

「どうしたの?」

「べつに、用事があったわけじゃないんだけど……」

「……珍しいな。用事もなく電話をよこすなんて」

「なんだか、最近、変だから」

「……さっきも言ってたな。俺、そんなに変か?」

「おにいちゃんだけじゃなくて、サキ先輩も。それに、学校全体も」

「……学校?」

「うん。なんか、変な感じがする。根拠はないんだけど」

「変って、どう変なんだ?」

「わかんないけど。わかんないんだけど……」


 志鶴はそこで、一度言葉を切った。

「おにいちゃん、わたしね……」

「……なに?」

 続きを促しても、志鶴は何も言ってはくれなかった。

 おにいちゃん、と、いつものように、志鶴は俺をそう呼ぶ。
 でも、俺は彼女の兄ではないし、彼女は俺の妹ではない。
 
 いつからだっけ。どうしてだっけ。志鶴が俺を、おにいちゃん、と呼ぶようになったのは。
 
 息を呑むような音が、電話口から聞こえる。
 
「わたし、おにいちゃんのことが好き」

「……どうしたんだよ、急に」

「おにいちゃんは、わたしのこと、どう思ってるの?」

「……どうって、言われてもな。おまえ、本気なのか」

「本気だよ」

 志鶴の真剣な声は、初めて聞くみたいに新鮮だった。 
 俺の知っている彼女とは、べつの人みたいに思えた。



「……ごめん、嘘だよ」

 やがて、ごまかすみたいな笑いをにじませて、志鶴はそう言った。

「びっくりしたでしょ?」

「……まあ」

「さくせん、せいこー」

 彼女はくすくす笑う。

「……ねえ、おにいちゃん」

「なんだよ」

「おにいちゃんは、わたしとずっと一緒にいてくれる?」

「……なに、それ」

「……聞いてみただけ。ねえ、わたしが、わたしがさ。
 すごく卑怯で、汚くて、悪い子だったとしても、おにいちゃんの傍に、いてもいい?」

 俺は、少しだけ迷って、「好きにしろよ」と、そう言った。
 
 彼女はほっとしたように、あるいは緊張をほぐすみたいに、震えた声で「そっか」という。



「おまえの方が、変なんじゃないか」

「……そうかもしれない」

「なあ、志鶴」

「なに?」

「俺はすごく卑怯で、汚くて、悪い人間みたいだ」

「……」

「最近、気付いたんだ。俺はとても、矛盾した人間かもしれない。そうだったとしても、それでもおまえは、俺の傍にいてくれるのか?」
 
 志鶴は少しだけ黙ったあと、

「だったらお互い様だね」と笑った。

「お互い様、か」

「お似合いだよ、わたしたち」

 だから、と彼女は言葉を区切る。

「いっしょにいようよ」

 俺は、志鶴に甘えている。多分。
 でも、志鶴は……志鶴には……でも……。

 泥のような理屈にまみれて、足をとられて、身動きがとれない。沈み込んでいく。沼の底まで。
 体の感覚が失われていく。徐々に、記憶さえ絡め取られていく。わからなくなっていく。
 結のこと。志鶴のこと。俺は、もうよく思い出せない。あのときのこと。赤い景色。

 わかるのは、俺がこうなったのは、まぎれもなく俺自身が望んだ結果だということだけで、
 それは間違いではなかった。間違いだと、思ってはいけない。

 志鶴の言葉は、うれしい。うれしいのだと思う。でも、うれしいと感じてはいけない。
 ……それは、どうしてだっただろう。

7-5 、、 → 、

つづく




「志鶴ちゃんって、けっこうモテるみたいだね」

「は?」

 火曜の放課後、同好会の部室で、サキ先輩は唐突にそんなことを言い始めた。

「昨日の昼休み、男子に呼び出されてたみたい。初めて見ちゃった、人の告白シーン」

「……はあ」

「にしても、校舎裏ってのもベタだよね」

「……なんで昼休みにそんなとこ行くんですか」

 サキ先輩は立ち上がって窓辺に近づくと、ちょいちょいと俺を手招きした。
 近づくと、今度は窓の外のすぐ下を指さす。

「校舎裏」

「……まさかここでお昼食べてるんですか?」

「知らなかった?」

 知るわけない。


「けっこうかっこいい男子だったけど、振っちゃったみたい。からかおうと思ったのに、今日は来ないね」

「……」

「内海はさ、志鶴ちゃんのこと好きなの?」

「好きですよ」

「あら」
 
 おどけた調子で、サキ先輩はわざとらしく驚いてみせた。

「ちなみにそれはどういう意味で?」

「好きにどんな種類があるのか、俺は知りません」

「つまり、べつに変な意味ではなくてってことかな」

「どうでしょうね」

「じゃあ、わたしのことはどう思う?」

「べつに、普通です」

「ふうん」

 彼女はどうでもよさそうに溜め息を吐いて、椅子に腰掛けた。
 


「ま、いいや。……そういえば、千家くんとは話したの?」

「どうして?」

「……だって、内海はこないだ、すごく怒ってたみたいに見えたから。 
 すぐに彼にたしかめに行くんだろうなって」

 ……アタリだ。

「まあ、話はしました」

「なんて言ってた?」

 どう答えようか、少しだけ迷う。

「……べつになにも。心当たりはないって言ってました」

 本当のことなんて言って何になる?
 誰も千家を咎められやしない。

「そっか」

 何かを隠されたことには、きっと気付いているのだろう。
 何かを隠されたことに気付きさえすれば、その内容もきっと、彼女なら想像できるだろう。
 
 本当は隠す意味なんてなかった。でも彼女は、俺が隠そうとする理由まで想像してしまう。
 だから、そこを尊重してくれる、と思う。これは身勝手な押し付けか、それとも都合の良い期待かもしれない。


「今日は、一年生の教室でなにかあったみたいだね」

「……なんですか、それ?」

「聞いてない? わたしも友達から聞いたんだけどね、盗難騒ぎがあったみたい」

「……盗難?」

「一年の子が話してるのを、友達が聞いたらしいんだけどね。
 なんでも、体育前の着替えの時間に、鞄から財布を盗まれた子がいたみたい」

「はあ、それはまた……」

「どう思う?」

「事実なら、バカな話ですね」

「ちなみに」

 とサキ先輩は話を区切る。

「犯人はミヤマシヅル、らしいよ」

「……ミヤマシヅル?」

 ……深山志鶴?

「まさか」

「うん。わたしもそう思うよ」


「……噂、なんですよね?」

「そう。噂。実際に盗難騒ぎがあったのはホントみたい。
 それ以上のことはわからない。でも、一年生の間では、志鶴ちゃんが犯人って話になってるとかなんとか。
 聞いた話だから、どこまでホントかわかんないけどね」

「……志鶴が、人のものを盗むわけがない」

「どうかな?」

「サキ先輩は疑うんですか?」

「そういう段階じゃないよ。噂だし。どういう話なのか、わかんないし。
 でも、志鶴ちゃんだから無条件で信じるっていうのも、なしかな。
 そういうのって、それはそれでしんどいことだと思うんだよね、わたしは」

「……疑うのだって、しんどいことだと思いますよ」

「うん。だからきみは信じる役。わたしは疑う役」

「……」

 ――ねえ、わたしが、わたしがさ。

 ――すごく卑怯で、汚くて、悪い子だったとしても……。

 俺は、立ち上がった。立ち上がってから、座っていたことを思い出した。

「どこか行くの?」

「……少し、外の空気を吸ってきます」

「ふうん。ま、いいけどね」

 サキ先輩はどうでもよさそうだった。
 どうでもよさそうに見えた。





 俺はそのまま志鶴の教室に向かったが、生徒はひとりも残っていなかった。
 べつに変な話じゃない。一年の教室はほとんど空っぽだった。

 廊下から教室を覗いたまま、俺は溜め息をついた。
 妙な焦りに支配されて早足でここにやってきたものの、俺に何ができるというんだろう。
 志鶴は帰ってしまったんだろうか。

 ……何をしにきたんだろう、俺は。

 サキ先輩の言っていたことはただの噂だ。
 本当のこととも限らない。誤解や勘違いかもしれない。
 むしろ俺は、そうであることを願った。

「おにいちゃん?」

 後ろから声が聞こえる。そのタイミングの良さに、俺は戸惑った。
 振り返ると、志鶴が当たり前のような顔で立っていた。
 いつもみたいな表情。

「どうしたの?」

「……いや。志鶴、なにしてるかと思って」

「へんなの」

 と言って、彼女は教室の中に入り、鞄を持って再び廊下に出てきた。

「何かあったのか?」

「……なにかって?」

 彼女は平然と首をかしげる。
 


「……いや。妙な噂、聞いたから」

「噂って?」

「なんでもないなら、いいんだけど」

「べつに、なにもないよ。どうしたの?」

 本当になんでもなさそうだった。
 安堵の溜め息をつく。

「わたし、今日は先に帰るね」

「……同好会、出てかないのか?」

「うん。ちょっと用事あるから。本屋さんに行きたいし」

 どうするか、迷った。

「おにいちゃんは、同好会でしょ?」

「なんで?」

「鞄、持ってないし」
 
「……本当に何もなかったのか?」

「どうして?」

「いままで、何してた?」

「保健室で休んでた」

「……そっか」

 それ以上、何も聞かなかった。
 





 家に帰るとユイとのぞみが揃ってリビングで映画を観ていた。
 
「ただいま」
 
 というと、のぞみが「おかえり」と言ってくれた。
 
 つとめて意識しないようにしていたんだけど、のぞみは神崎とほとんど同じ顔をしていた。
 生活も性格も違えば多少顔立ちも違ってくるものなのか、まったく瓜二つというわけではない。 
 それでも双子の姉妹と言われれば納得する程度には似通っていた。

 同じ学校の女子とまったく同じ顔立ちの子が家に泊まっているというのは、ひどく奇妙な感じがした。
 
 次あったときに神崎とはうまく話せないかもしれないな、とぼんやり思っていると玄関のチャイムが鳴った。
 なにかと思ったらただの宅配便だった。

 ちょっと前に本屋に行って買おうと思っていた漫画の新刊を、面倒になってネットで頼んだんだった。
 俺はサインをして荷物を受け取ってから、中身に不釣合いに大きい外箱を破るように開封した。

「うわあ、雑」

 とのぞみが口を挟む。

「関係ないだろ」

「物の扱いが雑な人って、たぶん女の扱いも雑だよね。だからモテないんだよ」

「……なんで俺がモテないって知ってるんだよ」

「見てれば分かるよ」

 当たり前みたいな顔で言われて、俺は少し落ち込んだ。
 印象論って、ときどき的を射てるから困る。

「ね、ね、じゃあさ、ちょっといい?」

「なに?」

 のぞみは俺が放り投げたダンボールを拾い上げて、テーブルの上からペンを引き寄せた。



「ここにさ、思いつくかぎりでいいから、女偏のつく漢字を書いてみてよ」

「……なに、それ」

「ちょっとした心理テスト、みたいな」

「……」

 言われたとおり、俺は思いつく限りの漢字を書いてみることにした。

 始、如、妃、嫁、姉、姑、姪、好、嫌、妙、奴、姫、娘、嫉、妬、妊、娠、

 途中で、のぞみは「うわあ」と声をあげた。

「きみ、そうとうゆがんでるね……」

「……どういう理屈だよ、それ」

「嫉妬とか妊娠とか、ふつう思いつかないよ……」

「女偏って言っただろ」

「しかも、字へただね……」

 やかましい。

「これ、何の意味があるわけ?」

「女偏の書き方が雑な男は、女の扱いも雑っていう、わたしなりの経験則がね……」

 すげえどうでもよかった。


 それからのぞみは、なにかを思い出したみたいに言葉を吐き出した。

「地上にとどくまえに……」

「……」

「予感の、折り返し点があって……」

「……なに、それ?」

「忘れた。どっかで見た詩」

「何の意味があるの?」

「意味なんてないよ」

 あまりに平然と言われたものだから、さすがに俺は戸惑った。

「それに、あれは音読するべき詩じゃなかったね」

「……ふうん?」

「声に出して読めない日本語ってのも、あるもんなんだよ」

 知らねえよ、と思ったところでもう一度玄関のチャイムが鳴る。


「はい」と言いながら玄関の扉を開けると、神崎美園が立っていた。

「……あれ」

 俺は"のぞみ"がふたりに増えたような錯覚を受けたけど、その認識は当然間違いだった。
 目の前に立っているのはもちろん神崎美園の方だ。

「どうも」

 神崎は、いつもみたいなぼんやりした様子とは違う、少し緊張した、手持ち無沙汰そうな態度で玄関先に立っていた。

「……どうも」

 俺も頭を下げる。

「えっと……のんちゃん、いる?」

「あ、うん」

「今日、学校で話そうと思ったんだけど、捕まえられなかったから。
 のんちゃん、昨日飛び出していっちゃったから」

「……ああ、まあ。うん、入れば、とりあえず」

 神崎はどことなく落ち着きのない素振りだった。
 玄関で靴を脱いでから、リビングに戻った俺についてくる。

「みいちゃん!」

 とのぞみが飛び上がり、ドタドタと走り寄って神崎に抱きつく。

「……勝手にいなくなることないでしょ?」

 神崎は、少しほっとしたみたいな顔で、それでもうんざりしたポーズのまま、のぞみの頭をぺしぺし叩いた。
 こうしてると、姉妹がじゃれあっているようにしか見えない。
 こんな仲の良い姉妹、そこらにはいないような気がするが。


 神崎とのぞみはふたりで何かの話をしていた。
 いつまでこっちにいるのかとか、問題は解決しそうなのかとか、そんな話。
 
 その話に終着点があるようには思えなくて、俺は適当に聞き流していた。
 ユイもまた、自分に関係のある話だろうに、話を耳に入れる気はないようだった。

「その漫画」

「え?」

「それ。読んでいい?」

 まだビニールに包まれたままの漫画を指さして、ユイはそう言った。

「いいけど」

「ありがとう」

 べつに今すぐ読みたいってわけでもないし、と思って答えると、ユイは素直にありがとうと言う。
 かけっぱなしの映画を観ている奴は誰もいなかった。

「漫画、読むんだ」

「まあ」

「これ、少女漫画だよね」

「まあ世の中、女児向けアニメのターゲットが成人男性だったり、少年向け漫画が女性に大人気だったりするし」

「……あ、そう」

 どうでもよさそうだった。



「なんでこの漫画なの?」

「なんでって?」

「この漫画、好きなの?」

「どうだろう。惰性もあると思うけど。新しい漫画買おうとは思わないし」

 昔からずっと続いている漫画。嫌いというわけじゃないし、読めば面白いんだけど。
 
「ふうん」

 彼女はそのまま黙って漫画を読み始めた。
 気付けば神崎とのぞみの話は終わっていたらしい。

「内海くん」

 神崎の方にそう呼ばれて、俺は振り返る。

「ごめんね。迷惑だったら、連れて帰るから」

「……べつに迷惑ってことはないけど」

「でも、内海くんには関係のない話だし」

「そりゃ、そうだけどね」

 べつに神崎がふたりを連れて行きたいというなら止める理由はない。
 ここに住まわせるのが不安だというならなおさらだ。

 でも、関係ないと言ってしまえば……。
"のぞみ"の都合も、神崎には関係がないような気がする。
 ふたりは互いに互いを知っているから、関係があるように感じるだけで。
 ユイがどうなろうと、のぞみはどうあれ、神崎には関係がない。そう考えるのは、まあ、感情の面では間違いかもしれない。



「かまわないよ。どうせ誰も住んでない家だし」

「それなら……うん。助かるんだけど」
 
 殊勝な態度で、神崎はうつむきがちに礼を言う。
 そんな彼女は珍しくて新鮮だったけど、どうでもいいことで感謝をされるというのは据わりが悪かった。

「でも、少し聞いてもいい?」

「なに?」

「神崎は……」

 と俺が呼ぶと、ふたりが揃ってこちらに首を向けた。

「……なんて呼べばいいんだよ」

「わたしは、のぞみでいいよ」とのぞみは言う。
 やけにあっさり名前を譲る奴だ。

「じゃあ、わたしは美園」

「……」

 べつに、のぞみがのぞみなら、神崎は神崎でかまわないじゃないかと思う。
 美園と呼んだら、両方美園なわけで。

 でもまあ、考えるのが面倒だったから、俺は仕方なくそう呼ぶことにした。
 とはいえ、すぐに呼ぶのはなんとなくむずかしく感じたから、機会があればそうしよう、という程度だけど。

「きみらは、手を打つつもりなの?」

 美園が、首をかしげる。



「手を打つって?」

「いつまでもこっちに逃げてるつもりはないんだろ?」

「うん。そりゃね。せいぜい二週間くらいが限界かなって思うよ。
 長く休んでたら学校から家に連絡行くかもしれないし」

「……二週間隠れて、どうにかなる話なの?」

「待って」とユイが口を挟んだ。

「あんた、わたしの事情を知ってるの?」

「のぞみから聞いた」

「……美園?」

 とユイが呼んだ"美園"はのぞみの方で、ユイとしてはそれが自然なのだろうが俺の頭は混乱する。

「ごめん。ここに匿ってもらう条件だったから」

「足元見たんだ。最悪」

 ユイは軽蔑したようにこちらを睨んだ。べつにどう思われようがかまわない。

「で、どうするつもりなんだ、のぞみは?」

「うん。それなんだよね。どうしようかなあって思って」


 のぞみはテーブルの上のボールペンのキャップを外したりはめ直したりしながら、視線を天井にやった。

「一応明日、あっちに様子を見に戻ろうと思うんだ。
 案外、もう諦めちゃってるかもしれないしね」

「……」

 そうかな。どうかな。

「もし諦めてなかったら?」

「悪い方に考えたって、人生始まんないよ? 良い方に考えないと」

「かもしれない運転って、聞いたことない?」

「あ、知ってる」

 ……皮肉も通じやしない。

「どっちにしても、いつまでもこっちにいるわけにはいかないんだろ?
 だったらどうするかだけでも決めてた方がいいんじゃないか」

「あんたには関係ない」

 とユイは言った。

「たしかに。でも、このまま時間切れになったら、状況が変わらないままあっちに戻るハメになるんだろ」

「そのときはまたこっちに逃げてくればいいよ」

 のぞみは気楽そうにひらひらと手を振る。


「こっちに連れてくるためには、ユイがのぞみと一緒にいないといけないんだろ。 
 いつでも一緒に行動できるなら、それでもいいだろうけど」

 そんなの現実的に不可能だ。

「うーん、まあ、たしかに」とのぞみは考えてるんだか考えてないんだかよくわからない顔で溜め息をつく。

「だったら、どうしろっていうわけ?」

 苛立たしげに呟いたユイに対して、俺は言葉を失う。

「それを考えるのは俺じゃないだろ」

「あきれた。無責任」

「……そもそも俺に責任なんていないだろ」

「だったら口出ししないでよ、部外者さん」

「……どうもきみは、この家が俺の家だってことを忘れがちだな」

 ユイはふてくされたように漫画にページを落とす。
 たしかに卑怯で、無責任な言い方かもしれない。 
 実際、俺には何もできない。

 結局三人とも、俺の言葉に対して何も言ってくれなかった。
 当然といえば、当然なのかもしれない。





 飲み物がほしくなってコンビニに行こうとすると、神崎――美園とのぞみがついてきた。

「ふたり一緒に歩いていいのか?」

「堂々としてれば、姉妹にしか見えないよ」とのぞみは言った。神崎も否定はしない。

「ユイは?」

「漫画読んでるって」

 べつに、好きにしてかまわないんだけど。

「……不思議なんだよな」

「なにが?」

 のぞみは、俺の言葉に首を傾げた。

「なんできみは」

「のぞみ」

「のぞみは……ユイをこっちの世界に匿うんだ?」

「だって、友達だもん」

「でも、きみにとって、その力……。この世界のこととか。それって、すごい秘密だろ?」

「すごいっていうか、うん。最大の、って言っていいかも」

 俺たちの会話に、美園は黙って耳を傾けているようだった。

「それをあっさり話してまで、ユイを匿う。それってすごい無茶じゃないか? 
 だって、あれはユイの問題なんだろ?」

「うーん、そりゃ、そうなんだけどね」

 のぞみは、どう言葉にすればいいかわからない、というふうに頭を振る。


「……"世界は、驚くほど無価値"」

「え?」

 俺の言葉に、ふたりは反応する。

「踏みにじってもかまわないはずの世界の中で、きみがユイを守ろうとするのは、どうして?」

「……えっとね、わたしはべつに、ニヒリストってわけじゃないよ」

 言葉を選ぶようにゆっくりと、のぞみは話し始める。

「わたしにとってあの言葉は、救いの言葉なんだよ」

「救い?」

 いや。俺はその言葉を救いと受け取る方法を知っている。
 不思議なことはなにもない。ただ、確認したかっただけなのだ。

「週に三回の習い事と塾。してたんじゃない。させられてた。わたしの子供時代ってそういうものだったんだよ。
 今になって思えば、そう悪い状況でも、なかったんだろうけどね。
 全部上手にやらないと、誰も褒めてくれないの。上手にできないわたしに、価値はなかったの。
 良い子に振る舞えないわたしは、生きてる意味がなかったの。そう感じてたってだけなんだろうけど」

「……」

「学校でも良い子に振る舞って、でも、みんな気に入ってくれなくて、それからいろいろあって。
 疲れちゃったんだよね。そういうふうに振る舞うことに。でも、他にやり方も知らなかった。
 落ち込んでるうちにね、いろんなことができなくなっていったの。みんな叱るだけで、誰も褒めてくれなくなった」

「……」

「自分が本当に無価値な存在に思えた。こんな自分、生きてる意味が無いって思った」


 道を歩きながら、俺は空を見た。今に降り出しそうな雨雲がのしかかっている。

「でもね、その言葉を聞いたときに、思ったんだ。べつに誰かに肯定してもらう必要はなかったんだって。
 わたしは嫌なことを嫌と言っていいし、嫌いなものを嫌いと言っていい。
 嫌なことを拒む権利があるし、好きなことをする権利がある」

 だって、意味があることなんてひとつもないんだから。

「わたしには、ダメな子供でいる権利がある。嘘つきでいる権利がある。卑怯者でいる権利がある。
 大人にとって愉快じゃない子供でいる権利がある。だって、大人にとって都合の良い子供でいることにも、意味なんてないんだもん。
 何かをしたり、何かを達成したりすることでもらえる意味なんて、そんなの苦しくなるだけだよ。
 神様か誰かから押し付けられる意味や価値なんて、わたしには束縛にしか思えない」

「……」

「だからわたしは、好きなことをするの。守りたい人だけ守るし、嫌いな人には怒る。
 そうやって生きていくって決めた。もう一度いうけど、わたしはニヒリストじゃないの。
 世界の意味なんてどうでもいいの。誰も気にかけない猫の死を、わたしだけは悼むの。
 それが誰かにとってどうかなんて、わたしにはどうでもいいの。わたしの世界では、わたしだけがルールなの」

 本当に。
 ここまで言われてしまうと何も言い返せない。

 世界にとって私は無意味だ、と、私にとって私は無意味だ、はつながらない。
 それは当たり前のことで、俺がこの数年間、しようとしてきたことの完成形で。
 だから俺は憧れに似た感情を抱く。決してそうはなれないと気付いているのに。


 コンビニに着いて飲み物を買って外に出ると、美園が立っていた。ユイはまだ、店の中で何かを選んでいる。

「あいつ、金持ってるのか?」

「一応、多少は持ってきてたみたい。あっちじゃバイトしてるみたいだし」

「へえ」

「……のんちゃんの話、どう思った?」

「どうって?」

「ふつうに、感想」

「……べつに。いいんじゃないの、あれはあれで」

「内海くんは?」

「なにが?」

「内海くんは、どう思うの?」

「……」


「世界は無価値で、すべての人に意味はなくて、だからどうでもいいことなの?
 それなのに、ユイちゃんが戻った後のこと、気にかけてるの?」

「……また、小児的潔癖さって言って笑う?」

「内海くんは、本当は、世界の意味とか、価値とか、どうでもいい人でしょ」

「……」

「内海くんは、無理してるように見えるよ。まるで、世界が無意味じゃないと困るみたいに。
 世界が無価値じゃないと、何かの歯車が狂っちゃうみたいに」

 今にして思えば、俺は神崎に、自分の話をしすぎたかもしれない。
 
「内海くん、わたしも、のんちゃんと基本はおんなじなんだよ。彼女みたいに開き直れはしないけど。
 だからね、何か困ったことがあったら、わたしにも教えてね。教えてくれなくてもいいから、思い出してね」

「……なんで?」

「だってわたしたち、友達でしょう?」

 そうかな。どうかな。
 湧き上がるような暖かい感情が芽生えるのに、俺は気付かないふりをした。

つづく




 志鶴の身に起きていることについては、サキ先輩がひとりで調べてくれると言ってくれた。
 志鶴自身が望んでいるかどうかは分からないが、誰かの悪意で起こったことなら、続きがないとも限らない。

 かといって複数人で動いてしまえば、かえって問題になるかもしれない。

「とりあえずはわたしに任せてよ」とサキ先輩は言った。

「アテはあるからさ」

 そういうことなら、と俺はサキ先輩に話を任せることにした。 
 実際問題、犯人――と呼んでいいのかわからないが――を特定するには、込み入った手段が必要になるに違いない。
 少なくとも、例の男子に妙なことを吹き込んだ二年生だけでも、特定できればいいのだが。

 筒井の方はというと、こちらも神崎が直接話を訊いてみると、不審な態度だったという。

「何もないって、はっきりとは言ってくれなかった。気にしないでとは言われたけど」

 それがどういう意味なのかは、筒井と親しくない俺には分からない。

「直接は言えないけど、何かはある。もしくは、何かはあるけど、直接は言えない。……そういう意味だと思う」

 だとしたら、彼女は助けを求めているのかも知れない、と彼女は言った。

「……思い込みじゃない?」

「分からない。でも、ちょっと調べてみようと思う」

「どうやって?」

「最近、彼女、放課後にどこかに行ってるみたい。それを追いかけてみようと思うの」

「本格的にストーカーだな」

「仕方ないよ」

 神崎は開き直ったような顔をしていた。まあ、べつに彼女がやる分にはかまわないだろう。





 問題は、翌日になってものぞみが帰ってこなかったことだ。
 神崎が筒井のことを気にしているとはいえ、こちらの方が優先して解決すべき問題だと思えた。
 なにかしら理由があれば、俺やユイに伝言を残していてもおかしくないわけで、それがないということは非常事態なのかもしれない。

「土曜日、あっちの様子を見てこようと思う」
 
 神崎の意見はそんな具合だった。
 自分もついていく、とユイは言ったけれど、それでは問題が逆戻りだ。

 結局、のぞみのことは神崎に任せるしかない。
 もともと俺は無関係の人間だ。彼女たちのために何かをしようという気にもなれないし、首を突っ込む資格もない。

「まかせてよ」と神崎は笑った。

 筒井のことものぞみのことも、彼女はひとりで引き受ける。
 
 けれど、だから、しかし、それなのに、だけど、にもかかわらず。

 続く言葉はどこにもない。





 そして土曜、神崎は俺の家を訪れた。

「これからあっちに行ってこようと思うの」

「……疑問なんだけど」

「なに?」

「その、世界の移動? って、どこでもできるのか?」

「うん。まあね」

「だったら、なんでわざわざ屋上だったんだ?」

「他に適当な場所がなかったから」

「目立たない場所ならどこでもいいんだろ?」

「でも、ほら、わたしとのんちゃんは家も違うし、どこかのトイレとかだと誰かが使ってたりするかもしれないじゃない」

 それに心情的に嫌だし、と神崎は続けた。

「何の用途もない場所。誰も近づけない場所。そういう場所じゃないと、なんだかね」

「でも、これから学校へ行くわけでもないんだろ」

「うん。のんちゃんの隠れ家を使おうと思って」

「……小学校の旧校舎?」

「そうそう。あそこなら人目もないし」

 ユイは俺たちの会話を黙って聞いていた。のぞみについて何かを言うということもしない。
 けれどどこか、不安そうではある。


「なあ、神崎、ひとつ提案があるんだけど」

「なに?」

「俺も一緒にいっちゃだめかな?」

「それって、あっちにってこと? それとも、校舎にってこと?」

「あっちに」

「なんで?」

 興味本位……と答えようか迷って、一瞬口を閉ざしたが、結局それ以上の答えは浮かばなかった。

「興味本位」

「内海くん、さいてー」
 
「自覚はある」

「ならいいや。べつについてきてもいいよ」

「……あんたら、なんか緊迫感ないよね」

 呆れたように、ユイが口を挟んだ。それも、自覚がある。

「あの子が帰ってこないのは、"帰ってこられない"からかもしれない。
 ひょっとしたら、何かあったからかもしれない。あの子が約束を破ったことなんて、今まで一度もないもん」

「それをたしかめに行くんだよ」と神崎は笑う。ユイの表情は一層暗くなった。

 もちろんそんなことは、神崎だって俺だって分かっている。
 少なくとも、「何か」はあったはずだ。問題は、その程度。



「とりあえず、ユイはここで待ってろよ。食糧はあるし、金も多少は置いておくし。
 今日中には帰ってこれるはず……だよな、神崎?」

「何もなければね」と彼女は笑った。

「……なんであんたまで行くの。あんたには、関係ないでしょ?」

「興味本位って言っただろ」

「……」

 
 ユイは何か言いたげに俯いた。俺は肩をすくめて時計を見た。時刻は十時半。 

「のんちゃんの部屋にいってみて、バイト先にも顔を出してみて、それで会えれば、すぐに帰ってこれるよ」

 神崎の言葉に、ユイはか細い声で「ごめん」と言った。

「なんで謝るの?」

「だって、わたしのせいかもしれない」

「なんで?」

 本当に不思議そうに神崎は首を傾げた。ユイは毒気を抜かれたみたいに、心細そうに微笑む。

「ちょっと様子を見に行くだけだから」

 簡単そうに「いってきます」と言って、神崎はユイに手を振った。俺は彼女を追いかけて玄関を出る。

「あんたも……」とユイが俺の背中に声を掛けてきたけれど、振り向いたときには彼女の視線は床に落ちていた。

「……なんでもない」

 俺は頷いて、「いってきます」と空虚な挨拶をした。ユイは何も言わなかった。





 神崎はどうやらバスに乗ってここまで来たらしかった。
 一緒に行動するとなると、俺たちは旧校舎まで徒歩で歩かざるを得ない。

「たぶんのんちゃんもそうしたと思う」

 それに自転車で行くと、旧校舎の傍に置きっぱなしにすることになる。
 誰かに不審感を抱かせるようなことは極力避けたい、と彼女は言った。
 
 仕方ないか、と思い、俺は神崎とふたり並んで短くはない道のりを徒歩で歩いて行くことにした。
 小学一年生の気分で。
 
 話したいことがいくつかあるような気がしたけど、俺は何も言わなかった。
 口を開いたのは神崎の方だった。

「なにか、あったと思う?」

「なにもなかったら、帰ってきてるだろ」

 そうだよね、と彼女は頷いた。

「でも、何があったんだろう」

「さあ。交通事故に巻き込まれたとかかな」

「……」

 少し、彼女は不安そうな顔をした。しくじったと思ったけれど、訂正する気にはなれない。
 帰って来られない理由なんて、そういくつも思い浮かばなかった。

「とにかく、行ってみないと何も分からないんだよね」

 ひとりで納得してしまうと、神崎は押し黙ったまま歩き続けた。 
 俺もそれに倣う。





 旧校舎の敷地に足を踏み入れたとき、神崎が溜め息のような微妙な声を漏らした。

「なに?」

「いま、誰かが居た気がする」

「……校舎?」

「うん、昇降口」

「……へえ?」

「制服、着てた」

「制服? 今日、土曜だぞ」

「でも、制服だったよ」

「……どこの?」

 少し言いにくそうに、神崎は口元を歪めた。

「……うちの学校」

 このあいだ見た人影のことを思い出す。
 俺は少しだけ、考え込んだ。

「……誰かいるにしても、行くしかないだろ」

「でも、いったい誰がこんなところに来るっていうの?」

「そんなのわかるわけないよ。人には人の都合ってものがあるんだし」

「……なんだか、変な感じ」


「行こう」と俺は言った。神崎は頷いた。
 
 なぜ、どうして、どんな理由で、と問いかけたいことが多すぎる。
 だから俺は考えないことにした。「なぜ」を突き詰めることに意味はない。
 
 以前と同じように、昇降口から校舎に足を踏み入れた。
 独特の臭気は薄い皮膜めいた隔絶を感じさせる。

「どこに向かうの?」

「こっち」と神崎は入り口から左の廊下に折れた。
 俺はそれで少し安心した。

 職員室、何かの準備室、それに理科室。そんな教室がいくつも並んでいるようだった。
 神崎は廊下の突き当りの傍、保健室の扉を開けた。

 窓からは午前十時の日差しが差し込んできて、積もった埃がきらきらと白く光った。  
 暗がりから覗く外の光はそれだけで別世界のようだった。
 浅くなった暗闇がほのかに退廃の気配をさらす。流れた時間が俺を巻き込んで削り取っていくような気がする。



「さて、じゃあ、行くよ」

 彼女は俺と向い合って、手のひらをこちらに差し出してきた。

「なに?」

「つかんで」

「……」

「じゃないと、一緒にいけないから」

 俺は仕方なく彼女の手を取った。

 と同時に、神崎は俺の体を強く引きながら、後ろに一歩下がった。
 
 引っ張られた俺の体はぐいと傾いて、思わずその場でたたらを踏む。
 踏み出した片足で体重を支えきろうとしたけれど、勢いに負けて俺の体は倒れこむ。
 神崎は驚いたみたいに目を丸くしていた。

 景色は緩慢に動き始める。スローモーションに歪んでいく視界。俺のからだは宙に浮かんで落下をはじめる。
 
 不意に、
 めまぐるしいほどの、
 光が、
 あふれる。
 




「はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、さっとんざうぉーる、
 はーんぷてぃ、だーんぷてぃ、はーだぐれいとふぉーる、
 おーるざきんぐすほーすぃーず、あんどーるざきんぐすめーん、
 くーどゅん、ぷっとはんぷてぃー、とぅーげーざあげいん」




 ロウソクの火を吹き消すと部屋の中は真っ暗になった。
 蝋の臭いが部屋に横たわる。おめでとう、と誰かが言った。

 おめでとう、おめでとう、誕生日おめでとう。俺たちは椅子に座って祝福を口にする。
 立ちのぼる声の楽しげな響きに影が照れるのが見えた気がした。けれど部屋の中は真っ暗だ。だからそれは錯覚だったのだろう。

 おめでとう、おめでとう、祝福は鳴り止まない。俺たちは生まれ、そしてここまで生きた。

 暗闇は俺の首筋を這いずるようにうごめいている。伸びた影が生き物の手足のように俺の首を柔らかに絞める。

 俺は何かを言おうとした。けれど影は俺の首を締め、言葉をさえぎる。
 それは言ってはならないんだ、と影は言う。それだけは言ってはならないんだ。

 そう。俺も知っていた。それは言ってはならない。すべきなのは祝福だ。祝福以外は、呪詛でしかない。
 俺は口を塞がれる。躊躇いがちに拍手する。膝にのせていた笑顔の仮面を誰もが嵌める。
 歓声が鳴り止んだあと、パチンと音がして光があふれる。

 おめでとう、おめでとう。中心に座る誰かが照れたように笑う。その姿は本当に幸せそうなのだ。
 だから俺は影に感謝する。口を封じてくれてありがとう。俺はこの笑顔を台無しにせずに済んだ。
 
 ありがとう、ありがとう。光が満ちていく。






 長い長い橋の上を俺たちは歩いている。橋はあまりに長いために、前を見ても後ろを振り向いても果ては見えない。どこまでも橋が架かっている。
 橋の下は雲のような霧が覆っていて覗きこんでも何があるのかはわからない。
 様々な者が霧を指さして勝手なことを言った。霧の向こうに楽園があると語るものもいたし、霧の向こうには針の山があると言う者もいた。
 霧の向こうには何もありはしないと、それが近頃では定説だという。

 この橋がどこに続いているのか知るものは誰もいない。知っていると語るものも居たが誰も信じなかった。
 俺たちはただ延々とこの橋を渡っている。その先には何もない、ただ橋が続いているだけだ、というのも近頃では定説らしい。

 けれど俺たちは歩いていた。見上げれば太陽は明るく、空は嘘のように綺麗だった。誰もがそれを信じ込んだ。
 俺の隣を青ざめた顔の女が歩いている。女は今にも倒れそうに見えた。彼女は俺に気付くと苦しげに微笑んでくれた。
 俺もまた微笑み返したが、それは微笑みというよりねじれて奇妙になった出来損ないの表情の幼虫のように見えたかもしれない。
 
 彼女は俺の顔を見て笑った。俺はそれが少しだけ嬉しかった。だから俺たちは並んで歩くことにした。





 真っ暗な部屋に彼女といる。何があるのか、何がないのかもさだかではない。
 俺たちはただここに立って向かい合っている。俺は暗闇の中で笑顔の仮面をつける。そして手を差し出す。彼女は俺の手のひらをそっと受け取ってくれる。
 
 俺たちは踊りだす。誰に習ったわけでもない。ただ踊りたくなった。暗闇の向こうから音楽が聞こえる。
 音楽は闇にまぎれてかすかな光を呼ぶ。俺たちはその中に溺れている。酸素の代わりに暗闇を啜る。俺たちは互いの呼吸で肺を満たし合う。

 暗闇のなかで俺たちは融け、交じり合う。どこに行き着くかもどうでもいいような気がしていた。
 俺と彼女は手と手を結び合わせ、ふたつでひとつの物質になった。暗闇の中で肉体は物質ではなく魂のように思えた。
 信じられるものは体温と感触と呼吸だけ。そこにはもう俺たちを蝕むものは何もなかった。

 どこかからスポットライトがあらわれ、俺たちを照らす。 
 現れた俺たちの影はつながってひとつになっていたけれど、ひどく奇妙でいびつだった。
 
 光は俺たちがふたつでひとつの物質などでなく、分かたれたふたりの人間だと露わにした。
 客席から、俺たちを責める声が鳴り響く。俺は光の中で、彼女の手が俺の手ではないことに戸惑い、心細くなる。
 
 誰かが俺たちを嗤っている。
 彼女はスポットライトから逃げるように、俺の手を拒むと舞台袖へと走り去っていく。
 俺は舞台の上にひとりで残される。スポットライトは俺を照らし続けている。
 あらわになった俺のそばに残されたのは、果ても見えない深い暗闇と、どこかから鳴り響き続ける怒号だけだった。





 赤ん坊が泣いている声が聞こえる。
 白いシーツの上に赤ん坊は横たわっている。

 俺はその姿を眺めている。最初はか細かった泣き声は徐々に強く、鋭くなっていく。俺は責められているような気がした。
 俺はその赤ん坊にさよならを言う。細い木の幹のような首筋に手を伸ばす。

 静かに力を込める。




 こんな物語がある。

 壁画の中の女に恋をした男がいた。
 彼は壁画を愛していた。愛するあまりに悲しんだ。壁画は彼の愛に応えない。
 声を持たず目を持たず、触れ合うための術もない。壁画は男とは違う世界に住んでいる。
 
 壁画に意思はない。だからその慕情は倒錯でしかない。男はそれに気付いている。
 壁画に仮に意思があったとして、彼の想いに応えるともかぎらない。男はそれにも気付いている。

 彼は壁画を愛していた。愛するがあまり、壁画を愛することについて考え続けた。
 壁画は応えない。

 ある日彼は、偶然立ち寄った街で、壁画の女によく似た女性を見つける。
 彼と彼女は出会い、そして恋に落ち、幸せになった。

 これが愛ならば滑稽だ。





 朝の街に俺は仮面をつけて出掛ける。首筋に糸を巻く。喉が過ちを犯しそうになると、指先が糸を引いて喉を目覚めさせる。
 過ぎた光は暗闇に近付いていく。光は視界を焼きつくし何も見えなくする。
 何もかもがあらわな場所は何もかもが覆われた場所とよく似ている。

 強い光の中、砂糖菓子の匂いが鼻から入り込んでくる。
 その甘みは俺の体を柔らかに痺れさせ、思考を押しとどめ、声をあげさせる。
 視界は光に満ちる。けれどそれは長く続かない。
 
 立ち並ぶビルは裏山の小枝。太陽は画用紙に刺された画鋲の痕。人々は指人形のように呼吸を感じさせない。
 そう感じるのは俺の責任なんだと俺は知っている。ビルはビル、太陽は太陽、人は人だと、そう感じられないのは俺のせいだ。
 
 頭上を雲が暗く覆う。

 俺は人混みのなかで立ち止まる。十字路の中心で途方に暮れる。誰もがどこかに向かっていくのに、俺は立ちすくんでいる。
 誰も俺に声を掛けたりしないし、俺の手を引いてどこかに連れて行ってくれたりはしない。俺にどこかに行けと強要するものさえいない。
 
 砂糖菓子の匂いは消える。





 ダイニングテーブルの上には果物カゴ。 
 リンゴ、ブドウ、ミカン、レモン、バナナ、メロン、様々な果実が小さなカゴの中に収まっている。
 色鮮やかに熟れた果実は誰かの口に運ばれる時を待っている。
 
 俺はそれを眺めている。
 誰かが手を伸ばし、ブドウの一粒をむしる。俺はそれを眺めている。 

 ブドウは誰かの口の中で幸せそうな音を立てて弾ける。
 甘い香りが部屋に広がる。

 人々が立ち代わり現れ、カゴから果実をむしっていく。果実はなくならない。
 甘い匂いが部屋中に広がる。誰かが俺に果実を勧める。

 俺はそれを眺めている。





 瓶の底で、それは光っている。机の引き出しにしまわれた小瓶をときどき取り出して、彼女はそれを眺めてみる。
 きらきらとした輝きを自ずから放つ不思議な粒に、彼女は魅了されていた。 
 それは彼女だけの秘密の小瓶。誰にも見せることのない輝き。

 引き出しの奥に秘めた輝きを彼女は大事そうに守っている。
 
 誰かが小瓶を見つける。きらきらと輝いていたそれは、亜鉛の粉末のように鈍く光を反射するだけだ。
 誰かは瓶を指先でつかみあげると、フローリングの床に向けて投げつける。
 誰かは部屋をあとにする。

 彼女は床の上で粉々になった瓶を見つける。きらきらと輝く粒は今となっては灰褐色の砂でしかない。 
 開け放たれた窓から風が吹き込む。
 
 砂埃のように粉は舞い、部屋をすり抜けていく。
 残ったのは小瓶のガラス片だけだ。

 彼女はそこにかがみこみ、さめざめと泣いている。





 静まり返った静寂は大理石の冷たさのように威圧的に俺を押しつぶそうとする。
 
 行かないで、と俺は言う。そばにいて。どこにもいかないで。でもみんないってしまう。
 
 俺はひとりになる。テーブルの上のケーキに火が灯されている。
 吹き消すんだよ、と誰かが言う。暗闇を誘い込んで、その隙に笑顔の仮面をつける。

 仮面は言う。きみはひとりではないよ、と。暗闇は視界をやさしく染め上げる。

 俺は息を吹き込む。

 暗闇の中で人々は舌を出す。 
 不意にあふれた光。人々は笑顔の仮面をつける。

 おめでとう、おめでとう。俺たちはここに生まれ、そしてここまで生きてしまった。

 最初からずっと変わらないような、笑顔の群れが、俺に祝福の言葉を投げかける。
 俺は少しだけ嬉しくなる。

 それを物語と呼んだ。 




 誰かが俺の頭を撫でている。俺はそれを感じている。午睡のような安らぎが、体を静かに包み込む。
 泣き出したいような気持ちになるのはどうしてだろう。

 何もかもが剥製のように呼吸をなくしたはずの場所。そこに安らぎを見出したのはどうしてだろう。
 
 不意に、瞼を開けてしまいたくなる。瞼を開けよう、と思える自分に気がつく。
 脈絡のないイメージは俺の内側の柔らかな部分を静かに刺激していった。

「……あ、起きた?」

 目を開くと、すぐ傍に神崎の顔が見えた。
 状況を把握しようとする。俺の体は床に寝そべっている。頭はなにかあたたかいものに触れている。

 理解してすぐ、体を起こして距離を取った。

「……な、んだよ、いまの状況」

「なんだと言われても……膝枕?」

「なんでそうなった」

「急に、気を失ったみたいだったから。よかったよ、目、覚ましてくれて。こっちじゃ救急車も呼べないし」

「……」

 こんな状況になっていまさら、普段目にしていない私服姿だとか、長い髪のこととかが気になりはじめて、俺は自分を殴りたくなった。

「悪い。俺、どのくらい寝てた?」

「五分も経ってないと思う。でも、こんなの初めて。意識を失うなんて。のんちゃんがユイちゃんを連れてきたときは、平気だったって言ってたし。
 でも、やっぱりいろいろあるのかな。ちょっと反省」

 神崎はどうでもよさそうな顔をしている。俺はバツの悪さに顔をしかめる。



「とにかく、着いたよ」

 神崎の言葉に、俺はあたりを見回す。様子は、さっきまでと変わらない。差し込む日差しの角度さえ変わったようには見えない。

「服、埃ついてる」

 そんなことを言いながら、神崎は立ち上がった俺の背中をぱんぱん叩いた。

「やめろよ」

 と言って、俺は距離をとって自分で埃を叩く。

「子供みたい」

 彼女はくすくす笑った。
 今は何を言っても優位に立てそうにない。……いや、立ちたいわけではないのだが。

「……ほんとに着いたのか?」

「うん。そんな感じしない?」

「しない。全然」

「だよね。わたしも」

 ……なんなんだ。こいつは。

「それじゃ、いこっか。急がないとね」

「……最初はどこに向かうんだ?」

「近いのは、のんちゃんのバイト先かな」

「……何回か、来たことあるの?」

「ま、何度かね。遊びに来ただけだけど」

 まあいいや、と俺は思った。頭を振って余計な情報を振り払う。
 とにかく今は、のぞみ探しだ。

「さて、捜索開始」

 おどけたみたいな神崎の声が、なぜか心強く感じた。

つづく




「どうするか、迷ったんだけどね」

 つぶやきながら、のぞみは夜道を歩いている。俺の斜め前。街灯さえまばらな夜の道。
 嘘のように明るい月の下を、俺たちはふたり、同じ方向に向かっている。

「みいちゃんには、話したくない。でも、誰にも話さないのも、フェアじゃない気がするから」

「だからって、どうして俺なんだ」

「関係ないからだよ」とのぞみは言った。なるほど、と俺は口先だけで納得してみせた。

「でも、きっと言わなくても、気付いているんだろうな」

「神崎のこと?」

「みいちゃんと、きっとユイも」

 話がある、と呼び出されて、俺は夜更けの道をユイとふたりで歩いている。
 どこに向かっているのかは聞かされていないけど、分かっている。
 
 ……べつに、構いやしないんだけど。

「ね、よーくん」

 不意に歩くのをやめて、のぞみはこちらを振り向いた。



「今日、なにかあった?」

「何もない日なんてないよ」

「そうだね。そうかもしれないね」

「……」

「なんか、有名な小説の一節があったよね。よく思い出せないんだけど」

「どんな?」

「あなたが虚しく過ごした今日という日は」とのぞみは言った。

「きのう死んでいったものが、あれほど生きたいと願ったあした、ってやつ」

「……ああ。よく聞くね」

「あれさ、わたし、好きじゃないんだよね。言葉自体はべつにいいんだけど、そういうことを言いたがる人がさ」

「へえ」

「たとえばわたしが、一日を虚しく過ごしたとするでしょ? 
 夢も希望もないし、やりたいこともほしいものもなかったとするでしょ?
 ああ、くっだんない一日を過ごしたなって、そう思って一日を終えたとするでしょ?
 そのときに、誰かが言うの。『おまえが虚しく過ごした今日は……』って」

 でも、それがなんだっていうの?

「たしかにそうかもしれない。でも、それがなんだっていうの?
 じゃあ、わたしが一日を虚しく過ごさなかったら、その人は死ななかったの? 
 それとも、わたしが楽しい日々を過ごしたら、その人が生きていたことに何かの意味が生まれるの?
 昨日死んでいった赤の他人と、今日生きているわたしとの間に、そのそれぞれの時間に、いったいどんな互換性があるの?
 そんなのは、死んでいった人に対しても失礼な話だって、わたしなら思うんだ」



「知らねえよ」

「たとえばね、生きることが虚しくて、死んじゃいたいってわたしが思ったとして、
 今に死にそうな人が、死にたいっていうくらいなら代わってほしいって思うかもしれないじゃない?
 でもそんなの、『わたし』じゃないから言えることだよ」

「……」

「じゃあ、代わってあげるって言って代わってあげられたらいいよね。
 わたしがその人の立場になったらきっと、死にたいなんて思わない。きっと生きたいって思う。
 でも、その人がわたしの立場になったとき、ああ、生きられてよかったなんて思わないと思うんだ。
 もし思うとしたら、それは『代わった』ことにはならないでしょ?」

 俺は黙ったまま、のぞみの話に耳を傾けている。

「死にたいって思う人は、生きたくてしょうがない人の気持ちをないがしろにしてる。かもしれない。
 でも、だから、死にたいっていうななんて、そういうのはさ、死にたいって思う人の気持ちを想像できてない」

「……」

「"生きたい"って言う方が、"死にたい"って言うより正しいっぽいから、"生きたい"を守ろうとする。
 実際に死を目前にしたら、どうせ死にたいなんて言えなくなるって誰かが言う。
 でも、じゃあ、生きたいって言ってる今に死にそうな人が、実際、簡単には死なない境遇になって、
 それでつらい目にあったり、ひどく孤独だったり、打ちひしがれたりしたら、その人はそれでも生きたいって心の底から思えるのかな?」

「不謹慎だよ」と俺はうわっつらだけの返事をした。

「立場はおんなじなんだよ」とのぞみは言う。

「相手の境遇の、自分に都合の良い部分だけを見て羨む。身勝手にね。相手が実際にどんな気持ちかなんて考えないでさ」
 
 小学生みたいだよね。親のいない子供を見て、おまえんちは口うるさい母ちゃんがいなくていいよなって言うみたいな。
 そういうレベルの……くだらない、くだらない話だよ。



「誰かが生きたいことと、誰かが死にたいことの間に、いったいどんな関係があるっていうのかな」

「おまえ、死にたいのか?」

 のぞみは首を振った。

「そうじゃなくて、わたしは……"生きる"ことを素晴らしいことだって思って、
 それを根拠に善悪や正否を判断するような考え方が嫌いなんだよ」

「……」

「わたしが虚しく生きた今日は、誰かが生きたかった明日、だったとして。
 でも、わたしが心の底から楽しくて笑った今日は、誰かが苦しくて苦しくて死にたくてたまらなかった今日でもあったはずだし……。
 わたしが幸せを感じているときに、誰かがつらくて耐え切れないような気持ちでいるかもしれない。
 そのなかから、どうしてひとつだけを取りあげて、自分と比較しなきゃいけないのか、よくわからない……」

「……」


「ううん、そうじゃなくて……わたしが嫌いなのは……」

 きっと……と何かを言いかけて、のぞみは歩くのを再開した。
 こちらに背を向けたまま、彼女は言葉を続ける。初夏の夜の空気には快も不快も見当たらない。

「きっと、他人事を言う人なんだよ」

「……」

「立場を無視した一般論、とか、境遇や状況を考慮しない善悪の判断、とか。当事者の視点を意識していない、とか。
 べつに、全部が全部そうなればいいって思ってるわけじゃない。割り切りは必要だと思う。
 でも……第三者が全員、正しい方だけにつくこと、ないじゃない? 立ち止まって、どう見ても悪く見える人の話に、耳を傾けてもいいじゃない?」

「……そうかもね」

「どうでもいい?」

「そうでもない」と俺は答えた。思ったままの言葉を、そのまま吐き出す。

「でも、誰もそんなこと気にしてない。正しいとか、悪いとか、そんなの、もう誰も気にしてない。誰もそんなところで戦ってないんだ」

「……そうかも」とのぞみは頷く。


「神崎が言ってたな」

「みいちゃんが? なんて?」

「小児的潔癖さ、って」

「……」

「誰も気にしないことを気にするのは、神経質だって」

「……みいちゃんは、割り切れる子だから」

「でも、優しいひとだよ」

 のぞみは一瞬だけ、驚いたように目を丸くしてから、笑った。

「……うん。知ってる。わたし、みいちゃんみたいになれたらよかったのに」

「意見が合ったな」

「意外にもね」

「……こんな話、聞いたら神崎、怒るかもしれないけどな」

「なんで?」

「あいつはあいつで、おんなじこと思ってるかもしれないよ」

「そうかな。……どうかな」


「……聞いても、どうしようもないことかもしれないけど」

「うん」

「今を逃したら、機会がないかもしれないから、聞いておきたいんだ」

「なに?」

「……どうして、世界はふたつに分かれてるんだろう?」

「ふたつじゃないかもしれないよ」とのぞみは言う。

「わたしたちが確認できたのが、ふたつだっただけで」

「どうして、分かれてるんだろう」

「"どうして"なんて、きっとわからないよ」

「……」

「無理に説明しようとしたら、それは宗教でしょ?」

 俺は頷いた。
 俺と千家は、それを物語と呼んでいた。


「でも、そうだな。少し質問に答えると、世界がふたつになったのは、そんなに昔のことじゃないと思う」

「どうして?」

「似すぎてるからだよ。もし大昔からふたつに分かれてたなら、この街も人も、もっとばらばらだったと思うんだ。
 変化や違いはあるけど、それは些細なものだし、だからきっと、世界が分かれたのは遠い昔のことじゃないんだと思う」

「……最初から分かれてたわけじゃないのかな」

「……わからない。どこかで枝分かれしたって考えた方が、自然だと思う」

 どうして、は語れない。代わりに、どのように、を俺たちは語る。
 
「どうして、きみたちには、そんな力があるんだろうな」

「自然現象みたいなものなんだよ、きっと」
 
 諦めたみたいな調子で、のぞみはそう呟く。



「きっと、わたしたちだけじゃないよ。いろんな人が、こういうものを抱えているんだと思う」

「何の理由もなく?」

「そう。何の理由もなく。ひょっとしたら、よーくんだってね」

 あーあ、とやけになったみたいに、のぞみは空を見上げた。

「よーくんみたいな人がいれば」と彼女は言う。

「あっちで会えてたら、よかったな」

「どうして?」

「こんな話を聞いてくれる人、そうそういないからさ」

「ああ。それはそうかもしれない」

「そしたら、ちがう道もあったかもね」

「でも、そうじゃなかった」

「うん」

 のぞみは笑う。

「だから、もしも、の話」




 夜の旧校舎にやってきた俺たちは、言葉もなく例の保健室まで歩いた。
 夜の暗闇から、生き物みたいな息遣いが聞こえてきそうだった。
 明かりはない。前を歩くのぞみの足取りに、迷いもない。

 保健室には、のぞみの部屋にあった黒いバッグのうち、ふたつが置きっぱなしにされていた。

「気付いてたよね、きっと」

「想像はした」と俺は答えた。

「正解」と彼女は言って、バッグを持ち上げた。

「埋めようと思うの。必要な道具は準備してある」

「完全犯罪だよな」と俺は答えた。

「下手を打たなければね」

「つらくなかった?」

「それはこれから分かるんだと思う」

「後悔は?」

「それも、これからだと思う。他に手段がなかったから」

 俺が何かを言うより先に、のぞみは俯いて、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、呟いた。

「そうなのかな。……どう、なのかな」

「訊いていい?」

「どうぞ」

「ここまでしなきゃいけないくらい、ユイはきみにとって大事な存在だったの?」

「大事、っていうのとはちがうけど……。でも、わたしは、快不快で、行動を決める人だから」

 他人事のような言い方。そこには少し、迷いが見えた気がした。



「……やめよう。説明したらきっと、うそっぽくなるから」

「……うん」

 バッグを校舎から運び出して、俺とのぞみは敷地内で適当な場所を探した。
 グラウンドの端の方、木々が群生してる場所。

「このあたりならきっと、誰も近付かないよね」とのぞみは言う。

「深く掘らないといけないよな」

「……訊いてもいい?」と今度はのぞみが言った。

「なに?」

「怒らないの?」

「俺の立場では」と俺は言う。

「きみに味方したくなるような状況だ」

「……」

「無関係な第三者だけど、俺はべつに法の番人でもないし、もともと天国にはいけそうにない」

「……ありがとう、って言うべきなのかな」

「どうかな」




 穴を掘りながら、俺は結局、全部を他人事のように感じることはできなかったんだと、ふと思った。

 雲もない星の綺麗な夜で、きっと今も誰かが死んだり、生きる喜びを謳歌したりしているんだろう。
 そういう時間を、俺たちは穴を掘って過ごしている。
 
 千家を責めることは、俺にはどうやらできそうにない。
 何をどうすればいいのかも、何がしたいのかも、今は分からない。
 
 でも、のぞみを手伝うことは、今の俺ができることのなかで、一番自然な選択だと思えた。
 少なくとものぞみを責めることについては他の誰かがやってくれるだろうし、きっと本人がいちばん徹底的にやってくれるだろう。

「顔、見る?」

 のぞみはそう訊ねてきた。俺はどうするか迷って、いくつかのばらばらの感情と思考をないまぜにして、頷いた。

「よーくんにはさ、本当は、背負わせちゃいけないよね、こういうの」

「……」



「でも、ここまでしたら、知っておきたいかと思って」

「……そういうのとは違うけど、一応」

 そう言って、俺は掘った穴から這い出て、のぞみの傍らにおいてあったバッグに近付く。
 顔を見たとき、俺は言葉を失った。
  
「不思議だよね。実感が沸かないのかな。わたし、何も感じてないみたい」

「……」

「……よーくん?」

 ああ、と、かろうじて頷きながら、俺の視線は"顔"に奪われたままだった。
 
「……知ってる人だった?」

「……ああ」

「そっか……」
 
 ごめんね、とのぞみは謝った。
 少しのあいだ身じろぎもできなかったが、しばらく後、俺は何も言わずに作業に戻った。


つづく

屋上さんの人?




 何ひとつ変化もないまま、一週間がすぎた。
 サキ先輩の調査も行き詰まった。

 それも当然といえば当然の話で、仕掛けた人間はもう分かっているのに、それを証明する手立てがない。

 千家が志鶴を陥れた。彼の言葉を信じるなら、筒井あまねもそれに協力した。
 その情報をどうすればいいのか、俺には分からない。
 
 適当に触れ回ったところで状況が変わるとも思えないし、かといって確証などいまさらつかめない。
 
 千家も特に新しい行動は起こしていないようだった。徐々に志鶴の立場が悪くなっているだけだった。

「大丈夫だよ」と志鶴は言う。

「きっといつかみんな忘れるから」と。

 もちろんその言葉を信じたわけじゃない。けれど俺は、できるかぎり志鶴と一緒の時間を作るようにした。
 登下校、部活に行くまでの時間。そういう時間は志鶴のもとを積極的に訪れることにした。

「そういうの、しなくていいよ」と彼女は言ったけど、俺は耳を貸さないことにした。

「いっしょにいようよって、そう言ったのはおまえの方だろ」

「それはそうだけど……」

「おまえと一緒にいることで、俺は実害を受けたりしない」

 そう答えた。それはなんだか、ひどく婉曲的な言い方だという気がした。
 もっとふさわしい言い方があったはずだ。それは分かっている。
 
 けれど、どう伝えればいいのだろう。こんな状況で。





 ある日家に帰ると、のぞみとユイが自分たちの荷物をまとめていた。

「どうしたの?」と訊ねると、「もう大丈夫らしいから」とユイが答えてくれる。

「大丈夫?」

「うん。迷惑かけたけど、そろそろ帰るよ」

 ありがとね、と彼女は言った。俺はそんな言葉が聞きたかったわけじゃない。
 だからといって、俺に何が言えた? 何ができた? 
 わからない。俺はただ流されていただけだ。

「あのさ、あんた、ひょっとして、落ち込んでる?」

「どうして俺が?」

「わかんないけど。でも、でもね、思ったんだ。こっちに来てる間、なにもできなかったから、ずっと考えてた。
 もしかしたらわたしは、いろんなことから目をそむけていたのかもしれないって。
 だから、ちょっと、だけどね。耳を傾けてみようって思ったんだ。身の回りの、いろんなことにさ。
 自分ひとりで考えて、自分ひとりで行動して、それでいっぱいいっぱいになっちゃったから、なおさら」

「……」

「お兄ちゃんとも、話してみようと思うんだ」

「……大嫌い、なんだろ」

「大嫌いだったけど。大嫌い、だったけど。でも、もしかしたら、あっちにはあっちで、すごく大変だったのかもしれない。
 すごく、行き詰っていたのかもしれない。だから、話してみようと思う」

 あんたは気にしないでね、とユイは言った。

「あんたは、何にもしてないんだから」





 俺はここにいる。息をしている。家に住んでいる。学校に通っている。
 買い物をする。家事をする。誰かと話をする。勉強をする。漫画を読む。テレビを見る。 
 俺は生きている。呼吸をしている。食事をする。排泄をする。睡眠をとる。一定のリズムで寝起きする。
 
 そして、それ以外のことをほとんど何もしない。
 それでかまわないと思っているわけではない。でも、それ以外に何をすればいいのかが分からない。

 ただ俺の前には茫漠とした砂漠のような時間が横たわっているように思えた。
 俺はそれを前に途方に暮れて立ち尽くしている。

 どこを目指せばいいのかも、何を求めればいいのかもわからない。
 逆さにされた砂時計のように、膨大に見える砂の粒はゆっくりと地の底へと引きずり込まれていく。
 地響きがうなりをあげ、俺は徐々にこの砂漠が狭まってきているのを感じている。

 砂漠の果てには高い砂の丘がある。
 それを越えた先にまた高い砂丘があるだけだということを俺は知っている。
 
 遠くで行列の足音が聞こえる。人々は砂漠の果てに向かっている。整然とした足踏みの音は打楽器のリズムのように響いている。
 
 誰かが泣いている。誰かが叫び声をあげている。誰かが助けを求めている。
 誰かが笑う声がする。誰かが幸せを感じている。誰かが誰かの幸せを祈っている。
 それは俺には無関係のものだ。誰も俺を求めてはいないし、誰も俺のために祈らない。
 
 当たり前だ。俺の方だって、誰のことも求めていなかったし、誰のためにも祈ってこなかったんだから。

 手のひらが冷たくて痛い。冷えきった砂漠の中心で、俺はぬくもりをもとめている。 
 吹きすさぶ風が砂を巻き上げる。痛みに慣れることはない。平気なふりに慣れていくだけだ。

 視界を覆う白い粒のベールは、舞い落ちていく桜の花びらか、それとも海の底に降り積もるプランクトンの死骸か。
 




 神崎と俺は、のぞみたちを見送るために旧校舎へと向かった。
 金曜の夕方のことだった。旧校舎は何もかもを受け入れてくれそうなおぼろげな暗闇に閉ざされている。

「ありがとね」とのぞみは言う。

「なにもしてないよ」と神崎は言う。

「ごめんね」、とユイは何度も謝った。
 俺が何も言わずにいると、ユイは静かに俺の手をとった。

「……なに?」

「ごめんね」と、彼女は俺の目を見て謝った。

「なにが」

「あのね……」

「……なに」

「志鶴のこと、大事にしてあげて」

「……なんで」

 志鶴のことを知ってるんだ。そう思った。

「たぶん、それがね、こっちの結が望むことだよ」

「そんなの……都合の良い解釈だろ。死んだ人間の気持ちを勝手に想像してるだけだ」

「でも、本当は、そうしたかったんでしょ?」

「……そっちにも、志鶴はいたの?」

 彼女は静かに頷いた。


「わたし、ちょっと前まで、こんなのひどいって思ってた。
 自分の身に起こったことの全部が、納得できなかった。でもね、分かったの。
 わたし、あんたにそう伝えるために、こっちに来たんだと思う」

 ううん、と彼女は言葉の途中で首を振り、

「違うか。……そう思うことにしたの。そう伝えるために、こっちに来たんだって、そう思うことにしたの」

 千家の言葉を、俺は思い出す。

 ――みんな、苦しみに理由が欲しいんだ。
 ――自分が苦しむこと、痛い思いをすること、悲しいこと。
 ――そういうことに、理由がないと耐えられないんだよ。

 全部嘘だ、と千家は言った。苦しんだことにも、痛かったことにも、悲しくてしかたないことにも、意味なんてない。
 でも、それじゃあまりに悲しいから、人は物語を作る。
 けれどそれは、いけないことなのだろうか。求めてはいけないものなのだろうか。

「志鶴のこと、許してあげて」

「許すも許さないも、俺はべつに……」

「ううん。志鶴が、志鶴を許してないんだよ」

 だから、許してあげてね。認めてあげてね。ユイは、そう言った。


 そのときだけ、本当にそのときだけ、彼女が結と同じ存在であるような気がした。
 結が、何か、途方も無い旅を終えて、俺に会いにきたのだと、そんな錯覚を抱いた。

 妄想だ。でも、俺はそれにすがりたかった。

「きっとこの先、つらいことだっていくつもあるんだよね。
 何もかもに嫌気がさすかもしれない。耐え切れないようなことだって起きるんだと思う。 
 何かを裏切られるかもしれないし、何かを裏切るかもしれない。そのたびにわたしは悲しくて……。
 でも、きっと、悲しいだけじゃ死ねないんだ、わたし」

 だから、心配しないでね、と。
 その言葉はきっと、俺ではなく他の誰かに向けられたものなんだろう。
 俺は彼女に何もしていないんだから。彼女は俺に、他の誰かを重ねている。
 
 それなのに、どうしてかわからない、染み入るように、胸の内側をズタズタに引き裂いていく。
 破れたカーテンは陽の光を遮らない。あたたかさを、もう拒めない。

「志鶴を好きになることは、結に対する裏切りじゃない。 
 結はきっと、あんたのことが本当に大好きだった。でもそれは、もう終わったことなんだよ。
 志鶴はきっと、あんたを必要としている。あんたはそれに応えることができる」

 だからね、と彼女は言った。

「あんたもあんたを、許してあげてね。わたしたちはきっと、動物だから。動物でしか、ないんだから」





 俺の体は冷えていく。脳は誤った判断を繰り返し、誤った学習を続ける。
 それを認め新しい場所を目指すのは勇気のいることだった。
 
 からだが冷えていく。
 砂の嵩が少しずつ減っていく。

 何が悲しい? 

 差し伸ばされた手を拒み、助けを求める声を無視し、誰かの笑い声に耳を塞ぐ。
 
 かつて俺の手のひらは誰かの手のひらとつながっていた。そのことはちゃんと覚えている。

 静かに、景色が傾いでいく。
 
 からだがあたたかさを覚えている。
 俺は手のひらを握りしめ、冷めてしまいそうなぬくもりを閉じ込めようとする。
 けれど、からになった手のひらは何も握ってはいない。
 
 新しい熱が生まれることもない。俺は虚空を握りしめているだけだ。
 ぬくもりはとうに、そこから失われている。惨めなほど力を込めて握っても、すり抜けていく。冷めていく。
 それが悲しかったのだろうか。寂しかったのだろうか。





「また遊びに来るよ」とのぞみは言った。

「何もなくても、きっとね。かまわないでしょう?」

 俺は頷いた。

「巻き込んで、ごめんね」

「いいよ。巻き込まれたとも思ってないし」

「そんなら、いいんだけどさ」

 それからのぞみは、少しの間口ごもっていた。

「なに?」

「うん。よーくんさ、ちょっと神経質すぎるよ」

「……なに、急に」

「もうちょっと、好き勝手に振る舞ってもいいんじゃない?」

「……べつに、好き勝手に振る舞ってるつもりだけど」

「そういうところだよ」と彼女は言った。

「そういうところ。自覚して、内省して、閉じこもっちゃうところ」

「……」

「相対的にものごとを見たってなにも進まないんだよ、きっと。
 よーくんはよーくんの立場で、感じて、考えた通りにすればいい。
 相手の立場なんて、無理に考えることないんだよ」

「……それは、自己弁護?」

「かもね」とのぞみは言った。
 
 じゃあまたね、と最後に彼女はそう言ったけど、俺たちが会うことは二度となかった。
 




「結局、わたしたちってさ」

 ふたりになってすぐ、神崎は口を開いた。

「なんだったんだろうね?」

「さあ?」

「なにもできなかった」

「うん」

「でも、なにができたんだろう」

「……」

「よく、わからないよね」

「……でも、腹を立てていたんだよ」

「まるで、たしかめたみたい」

「なにを?」

「なにもできないんだって」

「うん」

「内海くん、筒井さんのこと、何かわかったんじゃない?」

「……どうして?」

「なんとなく」

「俺の周りには、読心術が使える奴しかいないのかよ」

「……どうなの?」


「関係してそうな奴がいるのは、分かった」

「誰?」

 俺は少しだけ、言葉を止めて、結局答えた。

「俺の友達」

「……そっか」

 俺は窓の外に広がる荒涼としたグラウンドを眺めた。
 隅の林に、眠っている。

 あるいは、俺ものぞみのように、行動を起こすべきなのか。
 でも、それでいったい、なにを取り戻せるのか。

 わからないけど、腹が立って。
 腹が立つのに、ひどく悲しい。

 それなのに今は、なぜか、別のことを考えていた。




 神崎が帰ってしまってからも、俺はひとり、旧校舎に残り続けた。
 
 時間の果ての果てのような場所。朽ちて滅んだ、だめになった場所。
 ましていく暗闇には、けれど、息遣いがあった。
 
 失われた時間のなかに呼吸がある。
 それでいいのかもしれない。そう思った。
 手のひらは冷めている。でも、俺のからだは熱を覚えている。
 それでいいのかもしれない。

 そこに、足音が響く。
 それが誰なのか、俺はなんとなく、気付いていた。
 
 保健室だった場所の入口に、筒井あまねが立っていた。
 前に会った時のように、おどおどしていない。抱いていた印象のように、凛としているわけでもない。
 何かのくびきから解放されて、目に見えるすべてとのつながりを断ち切った幽霊みたいに、彼女はそこに立っている。

「こんなところでどうしたの?」と、見知った誰かに話しかけるみたいに、ほとんど初対面の俺に、筒井は話しかけてきた。

「そっちこそ」と、俺は訊ね返す。ばかばかしくなって笑う。すると彼女も笑った。



「わたしは、子供を探してたの」

「子供?」

「ここでいつも会っていたんだけど、いなくなっちゃって」

「へえ」

 筒井の髪は、鋏で乱雑に切り落としたように、ある地点からばらばらに途切れていた。
 制服姿のままの彼女は、俺に昔のことを連想させた。

 のぞみが言っていた。きっと他の誰かも、何かの力を持っているのかもしれないって。
 それは、無自覚なのかもしれない。彼女にも、そんな力があったのかもしれない。

 あったとして、どうにもできないような力だったとしても。
 考えてみれば、神崎たちの力も、千家の笑い話のような超能力だって、なんの役にも立ちそうにないものばかりだ。
 天災みたいなものだ。

 筒井は俺の顔を見て、いまさらのように驚いてみせた。

「わたし、あなたに会ったことがある?」

「何度かね」

「そうなんだ」

 他人事みたいな言い方だった。千家のことを訊ねようかとも思ったけど、やめた。


「ねえ、子供、見かけなかった?」

「いや、見てないよ」

「そっか。もう来てくれないのかな」

 残念、と筒井は呟いて、背負っていた鞄から何かを取り出した。
 それが何かはすぐに分かった。煙草の箱とライターだった。

「……神崎に屋上を調べさせたのは、それのせい?」

「……きみ、誰?」

「図書委員」と俺は答えた。

「神崎さんの友達? そっか」

「俺に、見られていいの?」

「こんな場所に来るような人が、誰かに話すとも思えないし」

「……まあ、たしかに」


 吸う? と、筒井は俺に煙草の箱を差し出してきた。
 俺はそれを口にくわえ、ライターを借りて火をつけた。

 しばらく、沈黙が続いた。煙を吐く音だけが、やけに大きく響いている。

「学校では、吸わないようにしてたんだけどね」

 やっと口を開いたかと思ったら、筒井はそんなことを言い始めた。
 まあたしかにここは学校といえるかもしれないけど、と言おうとして、彼女が言っているのがそういう意味じゃないことに気付く。

「迂闊、だったなあ」

 抑えきれない後悔が、こぼれたような声音。
 
「……訊いてもいい?」

「なに?」

「きみが聞いた物音って、結局なんだったの?」

「シャッター音」と彼女は言った。

「神崎に屋上を調べさせたのは……」

 筒井はしばらく押し黙ってから、恥じ入るような自虐的な笑みを浮かべた。

「屋上によく出入りする人を特定できれば、誰が撮ったのかわかるかもしれないって、そう思ったんだよ。
 いまにして思えば……軽率っていうか、馬鹿げてたかな。でも、なんとかしなきゃって、そう思って……」

 バカだったなあ。弱音と溜め息が、煙と一緒に宙を舞った。



「子供って、どんな子供?」

「男の子なんだけどね。なんだか、とっても弱ってて、ひねくれてた」

「……」

「意味が無いのが、悲しいんだって言ってた」

「意味?」

「うん。ばかみたいだよね。意味なんて、ないのにさ。
 でも、本当に悲しそうに泣くんだよ。耐え切れないって言って、ぽろぽろ泣くんだよ」

「……」

「だからね、言ってあげたの。だったらきみが意味をつくればいいんだって。
 失われた何かとか、痛みや苦しみに、きみが意味を与えればいいんだって。
 創りあげて、ごまかして、騙し騙しで生きればいいんだよって」

「……」

「そうすれば、いつか、そんなことを考える余裕もないくらい、圧倒的なものに出会えるかもしれないって」

 そんな言葉を俺は、
 いつか聞いて、
 信じたわけでもないのに、頼りにしてきたのかもしれない。

 意味なんてないと言っていたくせに、何かに期待して。
 それがたぶん、俺にとっての物語だった。

「うそ、なんだけどね」

 筒井は煙草を床に落とすと、靴の底で踏みにじった。


「本当はわたしの方だったんだ。意味がなくて怖いのも、つらいのも、苦しいのも。
 どこにも居場所なんかないし、どれだけうまくやったって、それは偽物なの。
 本当のわたしを覆い隠して、それで上手くやったって、好きになってもらえるのは偽物のわたしなの。
 誰かがわたしを好きだって言ってくれても、本当のわたしは奥の方で、ずっと震えたままなの」

 それから彼女は、ごまかすみたいに笑った。

「どうして、俺にそんな話をするの?」

「たまたま、そこにいたから」

「……そっか」

「でも、それ以上に、いったいなにが必要なんだろうね。わたしには、よくわからない」

 たまたまそこにいただけの相手と、
 たまたまそこにいたという理由だけで、
 ときどき、結びつく。本当のところ、理由なんて、他にはなかったのかもしれない。

「やめてしまうの?」

 と、俺は訊ねた。筒井はまた、煙草に火をつける。


「うさぎは寂しいと死ぬっていうじゃない? あれ、嘘なんだって」

「……」

「でもね、うさぎは、怖い思いをするとショック死するの。驚いたり、怖かったり、危険を感じたりすると、死んじゃうの。
 うさぎは弱い生き物だから、危険を感じると、生きるのを諦めるんだって。抵抗する力も持ってないから。
 でもね、それってさ、愛なんだって思わない?」

「愛?」

「なるべくなら、痛い思いも、怖い思いも、苦しい思いも、短く済みますように、っていう、遺伝子からの愛」

「……」

「とても弱い生き物だから。せめて、あまり苦しむことがありませんように、って」

 そう言って笑った筒井は、本当の本当に幽霊みたいだった。
 もう、死んでしまっているように見えた。

 屋上から飛び降りて、地面にたたきつけられるまでのあいだ。
 その狭間に、彼女はいるような気がした。

 放物線のような少女。

「俺がきみに言えることは、きっとなにもないんだろうな」

「……うん」

「無責任だし、身勝手だ」

「うん。そうだね」

「でも、不思議だよな」

「なにが?」

「少し悲しい」

 彼女は他人事みたいに笑った。


「うそ、ついちゃったな」

「……子供のこと?」

「そう。ちょっと、罪悪感、かな。わたしだって本当は信じてないからさ」

「……」

「あの子、これから、大丈夫なのかな。きっともう会えないから、少し、心配」

「平気だよ。……きっと、生きていくよ。騙し騙し。何か圧倒的なものに出会えるまで」

「……どうしてそう思うの?」

「さあ?」と俺はごまかした。

「でも、たぶんそうだよ。それで、もしきみの言うようなものに出会えなかったら、きっときみを恨むんだ」

「……わたし?」

「うん。あの嘘つきにまんまと騙されて、死ぬまで期待して生きちまったってさ」

 筒井は、今度はちょっとうれしそうに、笑った。

「……うん。それ、いいね」

 ありがとう、と彼女は笑う。

「それ、最高のトドメだよ」

 翌週の火曜、高校の中庭の大きなケヤキの枝に、彼女の死体は吊るされていた。




 筒井あまねの首吊死体が発見される前日の月曜、学校の昇降口を入ってすぐの掲示板に何枚もの写真が貼られていた。
 
 内容に関しては、まあ、だいたい想像した通りのものだった。

 素行のよい生徒として知られていた筒井あまねと写真の中の筒井とのギャップに、彼女を知る多くの生徒が戸惑った。
 噂は波紋のように広がった。教師さえも戸惑いを浮かべ、混乱した様子だった。
 建前みたいな緘口令が敷かれたあとも、生徒たちは口をつぐもうとはしなかった。

 写真を貼った人物や、その人物がそのような写真を撮ることができた理由について話をしていたのはごく一部だけだった。

 その月曜の放課後が、俺が千家と顔を合わせた最後の日になった。

「脅迫してたんだな」

 たしかめるつもりもなく、俺は彼の背中にそう訊ねた。
 東校舎の屋上。フェンスはいつものように高い。閉じ込められているみたいだ、と俺は思う。

「おもしろい遊びだったよ」

 つまらなそうに、千家は言った。

「喫煙写真なんかで、まさかああも話に乗ってくれるとは思わなかった。
 両親にバレるのがよっぽど怖かったらしい。おもしろいくらいに怯えてくれたよ」

 でも、もう飽きた。そう呟いた彼は、俺の目を見ようともしなかった。余裕そうな表情さえ浮かべてはくれなかった。



「千家、おまえってさ」

「なんだよ」

「嘘、下手だよな」

「……なんだよ、急に」

「おまえが飽きたんじゃないだろ。筒井が、おまえに従わなくなったんだろ」

「……」

「違うか?」

「……なんだそりゃ」と千家は空虚に笑った。

「そんなのどうでもいいだろ、なあ。内海、おまえ、俺がムカつくんだろ?」

 俺は答えない。

「どうしてこんなことをしたって、前みたいに腹を立てないのか?」

 答えない。

「俺みたいな奴が許せないんだろ? たまらなく憎くなるんだろ?」

 答えない。

「ほら、俺に何か言ってみせろよ。俺を糾弾しろよ。俺を断罪しろよ」

 俺は答えず、代わりに笑った。


「……知るかよ、そんなの」

 本当に、ばかばかしいような気持ちになる。
 千家はこちらを振り向く。

「何笑ってんだよ」

 からっぽの目で俺を睨んで、拳を振り上げる。
 鈍い痛みが頬に走った。

 体が叩きつけられる。
 俺は溜め息をつく。響く痛みに頭がくらくらして、鼓動が知らず速度をあげた。

 からだを持ち上げて、立ち上がる。手足も、頭も、ぶら下がっているみたいに重い。
 こころはからだを離れて、後ろに寄り添う影みたいに、自分を見つめている。

「想像したんだよ、千家」

「……何を」

「おまえがそうなった理由は分からない。
 でも、おまえが誰かを傷つけるような行動をとらずにいられなかった理由。
 それは、なんとなく分かったような気がする」

 千家は黙って俺の言葉を待った。俺はまた笑ってしまった。

「――引っ込みがつかなくなったんだろ」

「……ああ?」


「遊んでたつもりだったんだろ。誰かに嫌がらせをして、悦に入ってただけなんだ、おまえは。
 筒井を脅迫しようとしたときも、最初はそこまで大それたことをするつもりはなかったんじゃないのか?」

「……」

「途中で引っ込みがつかなくなったんだ。だから止まれなかった」

「なに言ってんのか、わかんねえな」

「サキ先輩の従姉……」

「……」

「まさか、死んでるなんて思わなかったんだろ?」

「……ああ。でも、それがどうした?」

「だからだよ。おまえは、だから、酷いことをし続けなきゃいけなかったんだ」

 千家は溜め息をついた。

「どうしてそうなる?」

「世界には何の価値もなくて、だから何をしてもしなくてもかまわない、っていうのが、おまえの理屈だ」

「……なんなんだ、いったい」


「でもおまえはべつに、何かをしたいと思っていたわけでもなかった。
 だから、意味もなく誰かを傷つけたりすることなんて、めったになかった。
 ときどき確認するみたいに誰かに嫌がらせをしてみせるだけの……小物だった」

「俺を怒らせたいのか?」

 俺は首を横に振った。

「でも、あるとき、その嫌がらせで、人が死んでいたことを知って、おまえはショックを受けたんだ」

「……」

「理屈じゃない。おまえの"からだ"が、ショックを受けたんだ」

 千家は黙り込んだ。俺は話を続けることにした。その先に何もないと分かっていたけど。

「でも、ショックを受けるなんて変だよな、おまえの理屈じゃ、誰が死んでもかまわないはずだったんだから。
 矛盾と混乱。理屈と感情の食い違い。おまえはそれを否定しなきゃいけなかったんだ」

「……」

「だから、誰かを傷つけても自分が平気だと、そう証明するために、誰かを傷つけようとした。
 おまえは、自分の物語を自分の中で保つために、人を傷つけたんだよ、千家」

「……なあ、内海。そういうのも、妄想っていうんだろ?」

「ああ」

 千家はなにかを振り払うみたいに、俺に背を向けた。


「……でも、おまえに、サキ先輩の従姉の話をしたのは、俺だ」

「……ああ」

「だから、もしそうだとするなら、原因は俺だったんだ。志鶴のことも、筒井のことも」

「誇大妄想だな。……どうでもいいんだよ、そんなこと」

「……」

「俺が訊きたいのは……おまえが俺を、どうするつもりなのかってことだよ。
 俺のことを許せないなら、どうするつもりなのかってことだ」

 俺は溜め息をついて、答えた。

「どうもしないよ」

「……どうして?」

「どうできるっていうんだよ。おまえに何をしたって何も変わらない。
 逆に訊きたいくらいだよ。……おまえは俺に、いったいどうしてほしいんだ?」

 千家は何も言わずに、俺を横切って屋上を出て行った。
 それが彼を見た最後になった。




 筒井あまねは遺書を残していた。
 一年の間で起こった盗難騒動が自分の仕業だということ。 
 ある人物に脅迫されそのように行動したこと。
 
 他にもいろいろなことが書かれていたらしかったが、詳しくは知らない。
 人の口に戸は立てられないというが、そのおかげで志鶴の疑いは、大部分は晴れた。 

 深読みをしすぎる奴は、筒井に遺書を書かせて自殺させたのが志鶴じゃないかとも言っていた。
 
 でも、そんな話はどこにでもあるくだらない陰謀論めいていた。
 不謹慎だと咎められ、そんな噂はすぐに途絶えた。
 
 筒井は死に、千家は学校に来なくなった。学校以外の場所にいるかどうかも、怪しいものだ。





「千家くんのこと、許したの?」

 部室に顔を出すと、サキ先輩は俺にそんなことを訊ねてきた。

「許すも何もないでしょう」

「でも、内海は怒っていたような気がしたから」

「そりゃ、そうですけどね」

「……なんだか、悪い夢でも見てるみたい」

 たしかに、と俺は思う。
 校内のあちこちからざわめきが聞こえる。そのどれもが出来の悪いドラマみたいだった。

「自分のとった行動が、どんな結果になるかなんて、誰にも想像できないんだって、そう思ったんです」

 俺の答えに、サキ先輩は歯がゆそうな顔をした。

「でも、だからこそ、想像しなくちゃいけないって、わたしはそう思う」

「……」

「誰かの痛みとか、悲しみとか、そういうものに、敏感にならなくちゃいけないって、そう思うんだ」

「……そうなんでしょうね、きっと」

 千家は、どうだっただろう。のぞみは、ユイは、どうだったんだろう。
 俺は想像なんてできなかった。何がどう繋がって、この結果になったのかなんて。

「でも俺は、そういうの、どうでもよくなってしまったみたいです」

「……」

「人のことなんて、俺にはどうにもできない。俺にできるのは、自分のことだけなんです。
 ひどいことかもしれないけど、俺は誰にも、手を差し伸べられない。目に見えるものしか、わからないんです」

「……そっか。そうなのかもしれないね」


「……俺、この同好会、辞めようと思うんです」

 サキ先輩は目を丸くした。

「どうして?」

「わからないです。でも、もうここにはいられないって、そう思うんです。
 いろいろ世話になって、申し訳ないって思うんですけど……。
 もう、正しさとか、どうあるべきかとか、そういうのを考えるのは、やめたいんです」

「……そっか」

「無責任だって、思ってくれていいです。でも俺は、また誰かと繋がりたいみたいなんです。
 傷つけるかもしれないし、裏切られることになるかもしれないし、失うことになるかもしれない。
 嫌なことばかりたくさん想像して、関わらない方がいいんじゃないかと思ったけど、
 そうしていても、何も得られなかった」

「……無責任なんて、思わないよ」

「……ありがとうございました」

「ううん。こっちこそ、今までありがとう。わたしの趣味に付き合ってくれて」

 サキ先輩はそう言って笑った。ひび割れたような笑顔だった。 

「でも……それじゃあ、誰ともつながれない人は、どうなるんだろうね」

 最後にサキ先輩は、そんなことを言った。
 首でも括るのかもしれない、と、俺はそう思った。





「お兄ちゃん、起きてる?」

 ……。

「お兄ちゃん?」

 ……。

「ちょっと、、話があるんだけど」

 ……。

「あの、お兄ちゃん? ドア、開けるよ?」

 ……。

「お兄、」

 ……。

「――え?」

 ……。




 沈んでいく砂漠は、けれどまだ俺の目前に茫漠と横たわっている。

 何も芽生えない不毛の地。ただ延々と続いているだけの孤独。
 人の姿は影のように朧気で、感覚は蜃気楼のように嘘くさい。

 まやかしはときどき、本当のように見える。
 あるいは、逆なのか。本当のものを、まやかしだと思っているのか。

 どちらなのか、よくわからない。

 手を伸ばせばつかめそうな蜃気楼。ゆらゆらと揺れて、今に消えてしまいそうなかげろう。

 幻は、けれど、あたたかで、
 だから俺は、閉じていた手のひらを開き、
 それに手を伸ばす。

 ラットの脳のある場所に、電極を植えこむ。
 そしてラットの前に、ふたつのレバーを用意する。
 片方を踏めば餌が出てくるが、もう片方を踏めばラットの脳にある刺激が起こる。

 その刺激は、脳内ホルモンを分泌させ、ラットに快感を味わわせる。ラットは刺激を得られる方のレバーを踏み続ける。
 餌が出る方のレバーには見向きもせず、ただひたすらに刺激を求め続ける。

 俺はレバーを踏む。
 動物だから、動物のように。

 悲しくはない。少し寂しいだけだ。




 翌週の月曜、俺と神崎は、いつものように図書カウンターに居た。
 彼女はひどく憔悴した顔をしていた。
 自責なのかなんなのか、追い詰められているようにも見える。

 俺は神崎に何かを言うべきだと思った。
 何か。それが何なのかは分からない。
 でもとにかく、俺は彼女に何かを言うべきだ。そう思うのに、何も思いつかない。

 人との交流を恐れていたツケが回ってきたのか。
 軽口のひとつだって叩けない。

「……何もできなかった」

 誰もいない図書室に、神崎の声が響く。
 無力感は、俺の内側に伝染する。何かが起こり、通り過ぎた。
 自分に関わりのあることなのに、俺も神崎も、どうすることもできなかった。

「どうして、こんなことになっちゃったのかな」

 筒井への仕打ちが千家によるものだと、俺は神崎に説明していた。
 けれど彼女は、そんなことはもうどうでもいいみたいだった。

「……変なの」

「……なにが?」

「今までは、その気になれば、いつでもあっちにいけたのに。
 ……なんでかな。扉が、開かないんだよ」

「……」

「どうしてなのかな」

 なぜか、なんて、誰にも分からない。


「……悲しい?」

 そう、俺は訊ねた。バカみたいな質問だと、自分で思う。

「悲しい」、と、神崎は答えた。

 かなしい。かなしい。かなしい。
 かなしいことばかりだ。ここは。

「全部、起こったことだ」

「……うん、そうなんだよね」

「今もどこかで、きっと起こってる」

「……うん」

 でも、と彼女は言った。

「でも、筒井さんのことは、わたしにとって、特別なことなんだよ」

 神崎は顔を覆い、何度も謝った。誰に対してかもわからない。筒井だろうか。それ以外の誰かだろうか。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。こだましている。
 ずっと、鳴り止まない。




 校門で、志鶴が待っていた。

「おそい」と彼女は言った。

「委員会だったから」と、俺は答える。

「待たせたんだから、少しは謝ってよ」

「ああ。うん。ごめん」

 たしかに、待たせたのは俺だ。俺が、待っていてくれるように頼んだんだから。
 俺たちは並んで帰路につく。

 通りから、蝉のなきごえが聞こえる。
 夕方の街並みはまだ明るくて、なにかもが橙色に染まっていて、夢の中にいるような気分だった。

「話があるんでしょ?」

「うん。……その後、どう?」

「……どうかな。まだ、よくわからない」

「……」

「なにがなんだか、よくわからないんだ。何が起こったのか、いまだに実感がわかなくて……」

 筒井の死に関して、志鶴は無関係だったはずなのに、彼女の遺書によって当事者の一員になってしまった。
 なにもかも、まだ、曖昧に混乱したままだ。


「そのことについて、聞きたかったの?」

「……」

「ばかみたい」と志鶴は言った。

 俺はしばらく言うべき言葉を探していた。
 何を伝えるつもりなのか、自分では分かっている。
 でも、そのまえに確かめないといけないことがあった。

 それなのに、口が重く開かない。それは言い訳だと、自分でも気付いていた。
 たしかめるのが怖いのだ。本当に、俺は怯えている。

 そうこうしているうちに、家の近くまで来てしまった。
 沈黙は続けば続くほど重く堆積していく。
 プランクトンの死骸みたいに。

 志鶴は、ふと立ち止まる。俺もまた、歩くのをやめた。

「……猫」

「……」

 猫は、何かを待つみたいに、立ち止まっていた。立ちはだかるみたいに、そこで停まっていた。

「志鶴」

 急き立てられるみたいに、俺は声をかけた。


「なに?」

「志鶴は、どうしてずっと、俺の傍にいてくれたんだ?」

「……なにそれ」

「昔から、ずっと疑問だったんだ。どうして、俺なんかの傍にずっと居たのかって」

「……いまさら、へんなの」

「それってさ、罪悪感、だったのか?」

 一度とぎれた沈黙が、ふたたび重くのしかかってくる。
 隙間を埋めるような蝉の声が、なんだかうっとうしかった。

「結は」と、志鶴は口を開いた。

「結が死んだのは、わたしのせいだから」

「……」

「わたしのせいで、結が死んだから。おにいちゃんから結を奪ったのは、わたしだから」

 だから、と、志鶴はそこで話すのをやめた。

「……罪滅ぼし?」

「……わからない」

「ずっと、そう思ってたのか?」

「……」

「自分のせいで、結が死んだんだって」

「……わからない」

 彼女は俯いて、拳を握りしめる。こちらからは、背中しか見えなかった。

「……わからないよ。何を考えてたのかなんて、ぜんぜん、わからない」


 結が死んだのは、志鶴のせいじゃない。
 そう言って、それで全部が解決するくらいなら、ここまで話は込み入ったりしなかっただろう。

 許してあげて、とユイは言った。
 でも、俺に志鶴を許すことはできない。志鶴を許すことは、彼女自身にしかできない。
 それがきっと、何よりむずかしいのかもしれない。

「志鶴、おまえが罪悪感だけで俺に付き合ってたなら、もういいんだ」

「……」

「結のことは、もう起こってしまったことだから。それにいつまでも囚われてることはないんだよ」

「……ばかみたい。人のこと、言えないくせに」

 そう言って、彼女は歩き出そうとした。俺は、その手を掴んだ。

「俺はさ、志鶴――」

 言いかけたときに、奇妙な感覚が肌の上でざらついた。


◇◆

 見慣れているはずの道が、急に姿を変えたような錯覚。
 何もかもが入れ替わったような、違和感。それは、現実だったのかもしれない。
 
 それでも、俺の手は志鶴を掴んだままだった。

 急に降ってきた感覚に戸惑っていると、不意に、猫が尻尾を揺らして、歩き始めた。

 俺たちを横切って、通りへと向かう。

 志鶴はそれを追いかけ、俺の方を振りかえる。
 彼女は泣いていた。泣いたまま、俺を横切った。

 唐突な出来事に混乱する。俺もまた、彼女を追いかけて後ろを振り向いた。

「待って!」と声をあげて、志鶴は走りだした猫を追いかける。
 
 驚くほどのスピードで、猫は俺の前を駆けていく。志鶴もそれを追いかけている。
 どれだけ必死に走っても、距離は全然縮まらなかった。アキレスと亀みたいに。



 やがて、大通りの交差点に辿り着く。

 猫の姿は見当たらない。
 ランドセルを背負った少女がふたり、点滅する信号に立ち止まっている。

 志鶴は首を巡らせて、あちこちに視線をうつしている。

「待てよ、どこにいくつもりだよ!」

 追いついて、俺は志鶴の手を掴んだ。
 信号が赤に変わる。

「だって、あの猫……」

 何かを言いかけた途中で、志鶴は視線を一箇所に止めた。

 横断歩道のはじまりに、猫はいた。

 信号待ちをしていたランドセルの片方が、猫を追う。
 信号が変わる。

「駄目!」

 と、そんな声が聞こえて、それから先はよくわからなかった。




 分かったのは、志鶴が少女の手を引いて、彼女を歩道にとどめたこと。

 それから、飛び出した猫が、車にはねられたこと。
 
 俺も、志鶴も、ふたりの少女も、何も言わなかった。
 ただ車は、当たり前みたいに目の前を通り過ぎていく。
 
 雨か風か、そういうものみたいに。

 志鶴に手を引かれた少女が、静かに呟く。

「……猫、死んじゃった?」

 志鶴は俯いたまま、答えた。

「……死んだよ。でも、これでよかったんだよ」

 彼女は、そう言った。

「……本当は、猫なんて見殺しにするべきだったんだよ」

 俺は志鶴の肩に手を乗せて、振り返らせた。
 ぽろぽろと、彼女は涙をこぼしている。

 ごめんね、と彼女は言った。
 
「あなたのせいじゃないんだよ」、と、志鶴は言った。

「わたしのせい。だから、わたしを恨んでね」

 それから志鶴は、少女の手を離す。少女は、怯えたように何も言わなかった。
 俺は志鶴の手を掴んで、「帰ろう」と言った。志鶴は何も言わずに頷いた。





 帰路に戻る途中に、何かを通り過ぎたような感覚があった。
 蜘蛛の巣にひっかかったような、据わりの悪い感覚。
 
 その感覚が少しの間、俺のからだに宿ったままだった。

 手を繋いだまま、俺たちは黙々と歩き続ける。
 長い橋の上を歩いているような錯覚。その橋は、もしかしたらどこにも繋がっていないのかもしれない。
 
 もう、何かを言うタイミングではなくなってしまったかもしれない。
 いまさらすぎて、伝えたところでどうにもならないかもしれない。

 見て見ぬふりを続けてきた感情。妙な理屈で押し殺してきた言葉。
 でも、それはきっと、今言わなければ、ずっと言うことができないのだ。

「志鶴、聞いてほしいことがあるんだ」

 彼女は、黙って立ち止まった。
 俺は一呼吸置いて、口にした。

「俺、おまえのことが好きなんだ」

 沈黙が少し続いて、
 その果てで、彼女は俺の手を振り払った。

「なに、それ。ばかみたい」


「うん。勝手だよな。ずっと、何気ない顔して、今までやってきたのにさ」

「……おにいちゃん、自分で言ってること、分かってる?」

「分かってるつもりだよ」

 志鶴は何も言わない。
 だから俺は言葉を続ける。

「結のことは、もうどうでもいいの?」

「そうじゃないよ」

「でも、そういうことでしょう?」

「結は死んで、俺はひとりぼっちだった」

「……」

「おまえがいてくれなかったら、俺はずっとひとりぼっちだった。
 俺がひとりで平気なふりをしていられたのは、きっと、おまえが傍にいてくれたからだ。
 おまえが傍にいてくれたから、俺は平気なふりができたんだ。おまえに甘えてたんだ。
 薄々気付いてたけど、ようやくわかったんだ」


「……状況、わかってる?」

 蝉のなきごえはやまない。
 こんな言葉を告げたところで、現実はなにも変わらない。

 俺は答えずに言葉を続けた。

「……勝手な言い分だけど、俺にはおまえが必要なんだ。
 面倒なら、嫌がってくれていい。義務感だけで俺と一緒にいたのなら、投げ捨ててくれてかまわない。
 でも、おまえがいないと俺は、こんな広い場所でひとりぼっちで取り残されてしまう気がする。
 それはきっと、とても寂しいことなんだと思う」

「……わたしを、憎まないの?」

「憎まないよ。最初からずっと、憎んでない」

「……どうでもいい存在みたいに、扱ってよ」

「どうでもいいって、思えないみたいなんだ、俺は」

「どうして……」
 
 どうしてかは、分からない。でも、それはきっと、傍にいてくれたから。
 
「わたしは汚くて、卑怯な人間だよ。結が死んだとき、わたし、心のどこかで喜んでたんだよ」

 志鶴はまた、泣きだしてしまった。

「嫌ってよ。……誰よりも、わたしが、そんな自分が嫌だったのに」

「でも、傍にいてくれた」

「励ますとか、元気づけるとか、放っておけないからとか、そんな言い訳で、わたし、おにいちゃんと一緒にいたんだよ。
 本当は傍にいられたらなんでもよかったくせに、適当な口実をつくって、言い訳して……」

「かまわない」と俺は言った。



「俺がおまえを好きなんだよ。いま話してるのは、そのことだけなんだ」

 志鶴は、俺の方を見て、くしゃくしゃに顔を歪めた。
 
「傍にいてほしい。おまえが必要なんだ」

 倒れこむように、彼女は俺に向けてからだを投げ出した。
 不格好に、俺は彼女を受け止める。本当に俺は、いろんなことを見過ごしてきたのだと思った。

「いっしょにいようよ」と、俺は、彼女がいつか言ってくれた言葉を、そのまま告げた。

 蝉のなきごえがやまない。すぐ傍で、志鶴が泣いている。きっと俺にそれを止めることはできない。
 俺には、彼女が泣き止んで、ふたたび歩き出すまで、傍にいることしかできない。
 彼女がずっとそうしてくれていたように。

「ごめんね」と彼女はかすれた声で呟いた。

「いっしょにいたい。いっしょにいたいよ。……一緒に居てよ、陽くん」

 ああ、そうだった。
 彼女はこんなふうに、俺を呼んでいた。結が死んでしまうまで。

 俺は彼女の背中に腕を回す。彼女はそれを拒まなかった。
 なにかが満たされるような、あたたかい感覚。
 それはきっと、かつて結に教わったもの。今、志鶴から受け取っているもの。

 再現可能で、代替可能な電気信号。でも、そんなことはどうでもよくなるくらい、圧倒的に満たされてしまう。

 きっとこの瞬間も、誰かが悲しんでいる。誰かが誰かを求めて、満たされずにいる。
 首を括るか、何かを信じるか。そのふたつしか選べない人が、きっとどこかで泣いている。

 俺には幸運にも志鶴がいてくれた。それで、満たされていく。
 嘘みたいに綺麗な夕焼け。

 幻かもしれない。それでもかまわないと思った。

 世界から、俺たち以外の人間が消えたような気がした。
 世界は俺と志鶴だけで完成して、それ以外に何もいらないような気がした。

 蝉のなきごえが聞こえる。

 俺たちはキスをする。


おしまい

>>378
はい

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