提督「矢矧が好きだ」【艦これ】 (182)

短編、ほぼ非安価です。

地の文多用につきご注意ください。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1424176787

一つの鎮守府に三人の提督っていうのも今じゃ珍しい話じゃない。

増える艦娘と居なくならない深海棲艦。大きくなり続ける鎮守府を一人で管理するのは難しくなってしまった。

「へえ、ここが鎮守府なんだね。可愛い子が多そうだ」

少し軽い感じの彼は艦娘管理を。社交性に長け、一人一人の状態を見極める能力がある。

「おい……私達は深海棲艦を駆逐するために来たんだぞ」

お堅い眼鏡の彼は艦隊指揮を。戦力を把握し、適切に運用して実戦に対応する能力がある。

「案内役との待ち合わせは、ここだよな」

「そのはずだよ。僕が聞いた感じじゃ可愛い子の声だったなぁ」

「なんだそれは……む、アレか」

そして俺は平時業務を。物品管理、事務仕事はできる……ほとんど雑用だ。

そんな俺達の下に来たのは、長く艶のある黒髪をなびかせた一人の少女。

「――お待ちしていました。軽巡矢矧、御三方の案内を務めさせていただきます」

それが、彼女との最初の出会いだった。

着任から、はや数ヶ月。

春の花見も夏の祭りも終えてしまえば、鎮守府も秋に向けて次第に落ち着いていく。

俺達新任提督もそれなりに慣れてくる……頃ではあるんだが。

「提督、これは私のほうで処理してもいいのかしら?」

「ああ、頼むよ」

「分かったわ」

矢矧が黒髪を揺らし、目線を俺から机上に向ければそこで会話は途切れてしまう。仕事中ということもあるけれど、そもそも俺自身の口下手さの問題もあった。

話すのが嫌な訳じゃない。むしろ話したいとすら思うのだけれど。

「……時報ね。もう上がってもいいかしら」

「ああ。お疲れ様」

「ええ、明日もよろしく」

「ああ」

伝えたい言葉は多くても、俺の口から漏れるのは「ああ」の一言ばかり。

……もしも好きだと言えたなら。

日毎に重くなる心は、少しでも救われるのだろうか。

彼女の笑顔は、一度として俺のために向けられたことが無い。

俺が見られるのはいつも、誰かのための笑顔だけだ。

「でさあ、僕がこう言ったら加賀ちゃんが苦笑いなのよ……っと、おーい矢矧ちゃーん!」

「あら、2人ともどうしたの?」

「今からお茶でも、ってね。コイツがぶらぶらしてたからナンパしちゃったよ」

部屋まで押しかけてきたクセに、よく言うよ。

矢矧もそれは分かっているんだろう。困ったように、隣りの彼に笑いかけながら言うんだ。

「もう……ダメよ、迷惑かけたりしたら。ねえ提督?」

「ああ、いい迷惑だよ」

それだけが俺と彼女の交わした会話。

大げさで楽しくて面白い彼との話に花を咲かせる彼女は、それだけで魅力的だ。

俺では、彼女のこんな顔は引きだせない。

「それじゃあね矢矧ちゃん、今度デートする?」

「ふふ、遠慮しておくわ。お疲れ様」

「お疲れ様……ありがとな」

お礼の言葉を受けた後、彼は怪訝な顔をして、すぐに人好きのする笑みを浮かべた。

俺の言葉は間違いなく本心だ。

矢矧の笑顔を見せてくれて、本当にありがとう。

「提督さん! こんにちはっ」

「ああ、阿賀野。どうしたんだ?」

「えー? ご用は無いけど挨拶よ。ほらほら提督さん、こんにちはー」

楽しげな阿賀野の声は、まるで幼稚園の先生のようだ。

反発する心は微塵にもわかず、思わず苦笑しながら子供のように返す。

「こんにちは阿賀野。矢矧なら今日は司令部の方だぞ」

「ええ、知ってるわ。矢矧ったら昨日の夜、遅くまで各陣形の利点について勉強してたもの。あの真面目さんの講義に一生懸命なのね」

「……良い事じゃないか」

ヘタクソな作り笑顔も遅れる返事も、阿賀野にはまったく通じない。

そっと頬に手を添えられて、いつものように優しく言われてしまう。

「提督さん。矢矧はあの真面目提督さんの講義が好きみたい」

「っ……」

「提督さんはどうするの?」

励ますように、叱咤するように。見つめてくる阿賀野の瞳は俺の心を覗き込んでくる。

そして俺はいつもと同じように目を逸らし、同じ答えを返すだけ。

「いいんじゃ、ないか? 向上心があってあの真面目な性格なら十分信頼できるし――」

「提督さん」

ほんの一言で俺の言葉は遮られ、代わりに阿賀野の言葉が響く。

「勇気を出して、ね?」

いつもと同じように彼女の言葉に応えられない。

諦めた阿賀野が困ったように笑うまで、俺達の奇妙な光景は続いていた。

月に一度、俺達三人は艦娘たちの評価をする。練度に作戦指揮能力、他艦娘との交流などから翌月の計画を建てるためだ。

「矢矧に関しては私からは以上だ。この所、彼女の戦術的指揮の向上が著しい。来月は旗艦として一層の練度向上が見込めるだろう」

「ちょっと待った、矢矧は僕の方でも欲しいんだよね。駆逐艦や重巡、戦艦ともしっかり話せる貴重な人材だよ」

自分の畑の仕事をこなせる艦娘は取り合いだ。旗艦としての務めも、艦娘のまとめ係になるのも、重要な仕事だ。

「矢矧の事務処理能力は高い。この所、資材関係がシビアだから調整の上手い彼女がいるとありがたい」

だから、三人で取り合いになる時には。

「とはいえ、俺の方は緊急じゃないな。トラック泊地急襲の大規模作戦が控えている以上、実戦指揮に回ってもらった方がいいか」

俺は後回しだ。例え二人が微妙な表情をしていようとも、俺は身を引かないといけない。

それを二人も分かっているからこそ、矢矧の勤務先はすぐに決まる。

「では矢矧は来月、私の方で預かる。次に酒匂だが」

「あの子は少し心配だね。僕の方で阿賀野型のいない艦隊に馴染ませてみるよ」

会議は淡々と進んでいく。艦娘の数は多く、俺の恋情なんてものに介入されては困るんだ。

その日が矢矧にとって少し特別な日だと知ったのは、阿賀野のお蔭だった。

「よければ何かあげてみて? 多分、喜んでくれるから」

何がいいだろう。悩んで悩んで、雷に頼っていいのよ! と言われながらも考えた。

ふと、秘書艦になって貰った数日の間の事を思い出す。


『どうにも借り物のペンは使いにくいわね……』

『自分のペンとか万年筆は持たないのか?』

『買おうと思ったことはあるけど、なかなかね。あった方がいいんでしょうけど』

『そうか』


万年筆。思いついてみればなるほど、彼女の雰囲気にも似合っている気がした。

休みの日に街に出ては文具屋を訪ね、少し高めの物を探した。まるで少年のようだったけれど、高鳴る胸も、案外悪くない。

そうして見つけた藍色のシャープなシルエットの万年筆。包んで貰うだけでも内心紅潮しながら、その日を待った。

来たるその日。

午前の仕事を終えて、司令部に居るという彼女を訪ねることにした。

内ポケットに潜ませた細身のプレゼント箱の感触で酷く緊張しながら、ようやく彼女を見つけ。

声を掛けようとしたときに、見てしまった。



「これを私に?」

「ああ、今日は君の進水した日だろう。常日頃の努力に報いる……といっては大げさだが、私なりの労いだ」

「ありがとうございます、それって万年筆よね」

「包装もせず済まないな。何かしら実用的であった方がいいだろうと思ったんだが」

「そうね、ありがたいわ。使わせてもらうわね」

「他の二人も何かしら送るようだ。受け取ってやれ」

「ふふ、それなら楽しみにしておくわ」



きっと、俺のせいだった。真面目な彼は俺が何を送るかを聞いてきたのに、俺は気恥ずかしくて別の物を答えたんだ。

だから俺が結局万年筆を選んだなんて、彼は思わなかったんだろう。

……内ポケットの感触が痛い。気付けば、俺は執務室へと踵を返していた。

渡せなかった後悔と、渡さなかった後悔。おめでとうの言葉すら掛けずに、その日が終わるまで多忙を装うことしかできなかった。

―――――

「矢矧、進水記念日おめでとっ!」

飛びつく阿賀野の祝福を受け、矢矧は笑顔を差し向ける。

「阿賀野姉さん、ありがとう。こんなに色んな人に祝ってもらえるなんて思ってなかったわ」

「それだけ矢矧が愛されてるってことでしょ? 阿賀野は嬉しいなー、このこのぉー」

「んもう……」

頬ずりをする姉を引き剥がすこともできず、困ったように矢矧は笑い続ける。

その笑顔に、阿賀野は悪戯っぽく語りかけた。物事の推移など、彼女には分かるはずもないから。

「提督たちからも貰ったんでしょ? 真面目くんとチャラ男くんと、仏頂面くんから!」

だから、その後の返事に阿賀野の内心は凍りつき、怒りに燃えたのだ。

「……二人からは貰えたわ。でも、あの人には祝っても貰えなかった」

寂しそうな笑顔も、阿賀野の怒りの燃料になる。

「あまり声を掛けて貰えないから、私は好かれていないと思ってたの……仕方ないわ。私が、悪かったんだと思う」

「でも姉さん達から祝ってもらえたから大丈夫。ありがとう、姉さん」

阿賀野は姉だ。矢矧が晴れやかに笑っていても、その裏で泣きそうだということさえ、分かってしまう。

次の日の朝。姉は、執務室のドアを力任せにノックしていた。

―――――

――矢矧

私があの人を意識したのは、以前の大規模作戦の時の事だった。

誰もが全力で戦うことに臨み、訓練と出撃、演習の毎日。

その時ばかりはほとんどの艦娘が駆り出されていたから、事務作業はあの人に重くのしかかっていたのに。私はそれを気にとめていなかった。


ある夜の事、私は事務舎に用があって、大淀の所へ行っていた。

その帰りに開いていたのは提督の執務室。なんとなく除いた隙間から見えたのは、膨大な書類に追われるあの人の姿。

情けない事に、私はその時まで、事務作業の事を頭の隅に追いやっていたの。

慌ててあの人に手伝いを申し出たのに、疲労した声でキッパリと断られて。

『君達は明日も出撃があるから休んで貰わないと困る。これでもどうだ?』

そう言って差し出されたのは、小さなチョコレート。見れば傍らに同じ包み紙が積まれていた。

こんな深夜に女の子に食べさせるの? そう聞くと慌てたように謝るあの人が、なんだか可愛らしく見えて。

それから、段々あの人のことを知っていったわ。あんまり笑わないのに甘いものが好き、意外と人の話を聞くのが好き。ピーマンは嫌い。

……私には、あまり話しかけてくれない。私が近づくと、軽く挨拶だけしてすぐにどこかへ行ってしまう。

他の提督がいれば留まってくれるけど、私とはあまり話してくれない。

秘書艦になっても、仕事の話だけ。「ああ」だなんて、そっけない言葉ばかり。

何故かそれを悲しいと思うようになり始めた時。私が進水した日を迎えた。

真面目な提督も軽い雰囲気の提督も、お祝いの言葉とプレゼントをくれたわ。

けどそれ以上に、あの人も祝ってくれる、プレゼントをくれるはず。それを聞くだけで嬉しくなって、頬が少し熱くなるような気がして。

……だから。夜になって阿賀野姉さんに『三人から』と言われた時、凄く悲しい気持ちが湧き上がってきて。

ああ、私はあの人の事が好きなのかもしれない。そう思えば思うほど悲しくて悲しくて、あの人にどうも思われていないんだ考えるほどに嫌な気持ちになって。

せっかく祝って貰った日に、私は一人泣いてしまった――

「どういうつもり?」

「……何が」

「あの子の進水日、教えたわよね」

「……」

「何か言ったらどうなの?」

阿賀野の怒りから目を逸らすように手元の書類にサインを入れる。

真新しい藍色の万年筆は、とても使いやすかった。

数分の沈黙。臆病な俺の時間は、阿賀野の冷淡なため息で終わりを迎えた。

「もういいわ。提督さん、しばらくあの子に近づかないであげて。ね?」

「……もう一度だけ、チャンスをくれないか」

思わず口から出た言葉の虫の良さに我ながら呆れてしまう。阿賀野に関してはもう、侮蔑の目付きだ。仕方のない事だけれど。

「最後でいい。これで矢矧を傷つけたら、二度と彼女に話しかけないと誓う……頼む」

恥も何もあったもんじゃない。

帽子を取り、机に額をこすり付けて懇願する提督がどこにいる。それでも、そうせざるを得ないという思いがある。

しばらくそのままだったが、やがて根負けした阿賀野がため息をついた。

「はあ、もういいわ。矢矧なら今日は自室にいるから、今すぐ走って!」

「……了解だ」

阿賀野の見送りを受けて廊下を駆ける。すれ違う艦娘に驚かれ、怒られながら、衝動のままに恋しい彼女の元へと足を動かした。

「矢矧! 矢矧、開けてくれ!」

人の迷惑を考えないような荒いノック。こんなことをしなくても開けてくれただろうが、心のままに動く体は酷く乱暴だ。

「はい……提督、どうしたの? そんなに息を乱して」

出てきた矢矧は目を丸くして俺を心配してくれる。

……これはただの独りよがりだ。矢矧には、あまりに迷惑かもしれないけれど。

「こ、れ……っ」

「これって、万年筆? これがどうかしたの?」

「……プレ、ゼントに、って、思って……」

息を整えるためという大義名分を借りて、矢矧を見ずに万年筆を差し出す俺はやはり卑怯者だろう。

数秒が数十秒、数分にも感じる。整っていく息が恨めしい。そして何より、手の平に乗せた万年筆の重さが消えたことに安堵する俺自身が、殴りたいほど情けない。

「ありがとうございます。頂いておきますね」

その声に、顔を上げるより早く。

「あ……」

視界に映るのは『矢矧』と書かれたプレートの光る部屋扉。つまり、扉を閉められたということだ。

「はは……」

後悔は無い。例えこれでお終いだとしても、渡せたというだけで満足だ。

だから。

「ああ、くそ……大の男が、泣くなんて、情けなさすぎる……っ」

頼むから、さっさと止まってくれ。

――矢矧


鼓動が激しくて、扉を背にしてへたり込んでしまう。

悲しかったのに、嬉しくて、それと少しムカついてる心が私の顔を彩っていくのが分かる。

「……ばか」

頬が熱い。

「万年筆だなんて、他の人と被ってるじゃない……」

ああイヤだ、声が震えている。

「それにこれ、使用済み? 誰が、こんなのっ、喜ぶのよ」

それなのに悲しくなくなっちゃうなんて、簡単な女だと思う。

「大体、遅いのよ……っ! 昨日、来てくれたら良かったのに」

面と向かって文句を言えば良かった? 無理ね、だって、来てくれた時点でこんなに嬉しいんだもの。

「……よかった……良かったぁ……!」

多分、嫌われてない。プレゼントをくれたんだもの、ね?

それだけのことなのに、私は子供みたいに泣きじゃくっていた。

ああ……私はやっぱり、あの人の事が

――――

それからというもの、俺には一つのあだ名がついた。

「チキン提督さんっ、こんばんは」

「阿賀野……それは、やめてくれないか」

「えー? だって提督さんってば、真っ直ぐプレゼントも渡せないんでしょ?」

ぐうの音も無いとはこのことだ。あれだけの音を立て、廊下を走り去った末の光景は見事青葉のカメラに収められ、瞬く間に鎮守府内に広まった。

そして金剛が放った「チキンテートクぅ! 頑張ってネー!」の言葉。半日で俺のあだ名は固定される始末。

更にはあの二人の提督がニヤつきながら黙認するものだから、誰もそれを直しやしない。

「それよりほらほら! 今日は矢矧が秘書艦なんだから、早く執務室に行ってみて!」

「ああ……分かったよ」

あの日の夜。もう矢矧に近づけないな、と半ば抜け殻だった俺の元に来た阿賀野は「合格点より及第点ね」と言うと、一日一回矢矧に会うことを命じてきた。

そして今日からは、しばらく矢矧が秘書艦になる。どうやら他の秘書艦当番がこぞって辞退したとのことで、ありがたいやら、恥ずかしいやら。

それでも――

「今日からよろしくな、矢矧」

「ええ。こちらこそ、よろしく」

例え会話が事務的なものだとしても。

矢矧の手の中に藍色の万年筆があることと、たまに目が合うことが、今はこれ以上ないほどに嬉しい。

ここから先に進むには……もう少し、時間が必要かもしれないけれど。

以上で終わりになります。
突然の視点の切り替えもあり、分かりにくい点が多々あったと思いますが、読んでいただきありがとうございました。

ありがとうございます。
超不定期更新、地の文全開、視点切り替え多用
以上の要素が含まれていても良ければ、しばらく続けて見ようかと思います。

失礼、酉間違えました

バレンタイン当日の事は、語るまでもない……語りたくも無い部分が多すぎる、というべきだろうか。

「ぷっ! ふ、ふふふっ! 提督さんってば、そんなにショックだったの?」

「うるさいな……」

「あははっ! ご、ごめんなさい、もう面白くってぇ。でも似た者同士でお似合いよ?」

机の上には、チョコ、チョコ、チョコの山。それがバレンタイン翌日、つまり今朝に続々と届けられたものの正体だ。

その山にもう一つチョコを積み上げながら、阿賀野は涙さえ浮かべて笑い続けている。

「それにしても提督さんも結構モテモテなのねえ。こーんなに沢山貰えるなんて」

「同じ分だけあいつらにも配られてるだろ」

「それでもこれは多いでしょ、矢矧を悲しませたら承知しないんだから」

「……その結果がこれだと思うんだが」

阿賀野は何も答えない。ただ面白そうに笑って、新しいチョコを差し出すばかり。

結局の所、誰もが阿賀野と同じだったわけだ。

『彼女の後で、彼女が渡してから、彼女が終わってから』

みんながみんな気遣ってくれたおかげで、今この状態がある。優しいというやら、余計なお世話というやらだ。

「ん……甘いな」

「当たり前じゃない。矢矧のチョコなんだもの、気持ちはこの山よりも沢山詰まってるわ」


一番最初に貰ったチョコは、何の変哲もない板チョコで。

一番美味しくて、一番嬉しいチョコだった。

かの日の前日。阿賀野は妹の様子を心配し、困惑し、昼前には呆れ返っていた。

「矢矧、そこは違うでしょ?」

「え……あ、ごめんなさい」

書類仕事はおおむね提督の仕事とはいえ、艦娘もまったく無いわけではない。

いつも通りであれば、阿賀野が間違え、能代が直し、矢矧が一足先に終え、酒匂が助けを求めるのが馴染んだ光景なのだが。

「矢矧が阿賀野姉ぇに注意されるなんて……」

「矢矧ちゃん、全然大丈夫じゃないねぇ」

能代にとって、その光景は有り得ないものだ。顔色まで悪いのがその証拠とも言えるだろう。

「でも人ってこんな風になるんだねー。矢矧ちゃん、心がどっか行っちゃってるよぉ」

「そうね。あんなに気の緩んだ矢矧、見たこと無いわ」

二人の目の先には、何かに悩むように眉根を寄せる矢矧の姿。

まるで書類に悩んでいるように見えるが、あいにくその意識は全て、別の事に向けられていることだろう。

「チョコなんてなんでもいいじゃない。あげればいいんでしょ?」

「ぜーんぜん違うよ、分かってないなぁ。能代ちゃんはもっと乙女心が要るんじゃないかなあ」

ケラケラと笑う酒匂を小突きつつ、能代は思う。

どうせチキン提督のことだから、矢矧に貰えれば喜びすぎるくらい喜ぶでしょうに、と。

今日はこれだけで。今回提督の出番は多分冒頭だけ、メインは矢矧サイドになると思います。
更に地の文全開です、ご容赦ください。

ご意見ありがとうございます、このスレの文章は名前は付けずに行こうと思います。
見辛いなど不便をおかけしますがご容赦ください。

昼の休憩時間ともなれば、食堂は多くの艦娘達でごった返しになるのが常だ。

思い思いに会話を交わす彼女達からは、普段は多くの話題が飛び交い、各人がそれぞれ小さく盛り上がる程度でしかない。

しかし今日ばかりは、どの話題もバレンタインに関連した物ばかり。駆逐艦から戦艦まで、戦場の空気とはかけ離れた少女らしさに満ち溢れていた。

それは阿賀野型の4人も同じこと。昼食のトレイを置いてすぐ、食事に先んじて会話が始まっていく。

「えー? 矢矧ちゃん、板チョコにしたのぉ?」

「ええ……ダメかしら」

「別にいいんじゃないかしら。安いし味も確かだもの、私は好きだわ」

「女子力低い能代ちゃんには聞いてないよぉ……ぴゃあっ!?」

能代と酒匂のじゃれ合いも見慣れたものだ。ストレートな酒匂の言葉は阿賀野と矢矧であれば流す所だが、能代は几帳面に受け止める。

「でも矢矧、どうするの?」

「どうって……この後提督に渡すつもりだけど」

「それなら明日一番に渡した方がいいんじゃなぁい? 提督もモテちゃうから」

困っちゃうね、と苦笑する阿賀野に矢矧が返したのは、間の抜けた言葉と声。

たっぷり十秒ほど箸を浮かせた後、テーブルに置いた板チョコを見つめ。



「チョコレートチーズケーキかな。マジで面倒だけど感謝の印って奴だし」

「うーちゃん、提督のために生チョコ作るっぴょん!」

「提督へのプレゼントか。大和、お前と連名でハンカチ辺りでも買うのはどうだ?」

「バレンタインっぽい玉子焼きにしよっと」



静かになった矢矧達という空間に周りの声が流れ込む。誰もが嬉々として語る自分自身の工夫、そんな言葉の数々。

耳に入るほどに冷や汗となって、矢矧の頬を伝い落ちていった。

矢矧は歩く。

「ごめんなさい矢矧さん、もうチョコは全部売れちゃって」

矢矧は走る。

「ご、ごめんなさいなのですっ! 余ってた分もあかつ、みんなが全部食べちゃったのです……」



矢矧は止まる。

手元には板チョコが一枚、銀紙が夕闇の中で街灯の明かりに輝いているのがかえって物悲しい。

「どう、しよう」

「こんなの渡せるわけない……」

俯く矢矧の脳裏に艦娘達の姿が浮かぶ。

慣れた手つきで製菓道具を振るう足柄も、楽しげに失敗を繰り返して最後に小さな成功品を作った第六駆逐隊も、それぞれが提督たちに贈るのだろう。

その中には矢矧が想うその人も含まれているはずで。

「こんなみっともないもの……渡せない……っ」

銀色の上に大粒の水滴が落ちる。一度決壊すればあとは堰を切ったように、嗚咽と共にアスファルトを濡らしていくだけ。

それは途中で止むことは無く、やがて枯れるまでの間ずっと落ち続けていた。

当日の朝、心中を憂鬱で覆う矢矧は一つの不幸に見舞われていた。

それは普段の日常なら幸福だったはずのもの。それだけで髪を結わう事に何分も何十分も掛けてしまうような事だったはずのこと。

「矢矧、そろそろ行かないと遅れるよ?」

「分かってる。今、行ってくるから」

阿賀野に言葉を返しながら酷いものだと自嘲する。鏡越しに見える目はまるで怯える子供ようだ。

きっと大人からすれば大したことの無いことに怯える、そんな子供の色をしていた。

「ちゃんと荷物持った? せっかくの当日なんだから、一番に渡さないと!」

「ええ……そうね」

「秘書艦は一番に会えるんだもの、その時に渡しちゃいなさいっ」

「分かってるから。それじゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃぁい!」

笑顔で大きく手を振る阿賀野に後ろ手を振り返す。矢矧の表情が見えたなら彼女はどうするだろうか。

泣きそうな目で唇を震わせる矢矧を見たのなら、きっと阿賀野は強引にでも引き戻すだろう。

それを思い浮かべて苦笑しながら矢矧は提督の執務室へ歩く。

今一番会いたくて、会いたくない人の元へと。

――食堂――

午前中に執務室を訪ねた艦娘達は一様に疑問を浮かべていた。

それが同じ疑問なのだから、やがて彼女達が集まり話し合うのは、ある意味当然の事だった。

「絶対おかしいわ! 矢矧さんが渡してないなんてあり得ないもの!」

「けれどどうやら貰っていない様子でしたし……その中で、矢矧さんの目の前で渡す訳には」

「いっかないデース! 不倫のお誘いはノンノンだからネー!」

鳳翔の手が困ったように頬を撫でる。反対の手には感謝の贈り物として用意したチョコ煎餅。

後の二人も同じようなものだ。世話好きの雷もイベント好きの金剛も、それぞれ手には感謝と親愛の形。

ただ渡せばいいそれはしかし、執務室を訪れた時点で頓挫していた。

「大体、どーしてハギーはテートクに渡してないんデスカー!?」

「そうよ! 矢矧さんは提督が大好きなんだから、渡してないとおかしいわ!」

「それはそうですけど……」

矢矧の好意など艦娘達にとっては知れたもの。それを微笑ましく、応援したいと思うからこそ。

「ハギーが渡してないとワタシ達も渡せないデース……」

「矢矧さんを差し置いてなんて無理よっ」

「やはり一番最初に渡すのが矢矧さんでないというのは、気が引けますね」

そう思うからこそ彼女たちは後ろ手に隠したものを差し出せず。

ただひたすら執務に励む矢矧と残念そうな提督を見て、困惑しながら踵を返してきたのだ。

今日はこれだけで。

淡々と仕事をこなす矢矧にとって誰かの視線も、今の空気も、心に棘のように刺さっていく。

(渡せばいいのに、どうして渡さないのかしらね……ごめんなさい)

つい先ほども高雄が訪れ、戸惑いながら綺麗にラッピングされた物を差し出さず、帰って行った。

せめて誰かしらが安っぽい市販品をそのまま渡してくれれば。矢矧も勇気を振り絞ることが出来たかも知れない。

「提督、この書類の数字が違うわ」

「ああ……ありがとう。よくこんな細かい数値まで分かったな」

「良く見れば、ね」

矢矧自身の言葉でさえも酷く痛むように感じてしまう。提督を見れないから必死に書類に目をそむけているだけで、とても自慢することではないのに。

もしもチョコについて聞かれたら。もしも催促されたら。もしも、渡して落胆されたら。

そう思うだけで矢矧は怯え、そしてなによりも。

(ごめんなさい、みんな……ごめんなさい)

誰もが自分に気を遣って気持ちを伝えずに帰っていく。

そのことが何よりも矢矧の心を一層みじめなモノへと変えていくのだった。

それでも時間は止まることなく過ぎるもの。

やがて昼を知らせる半鐘の音が執務室にも届き、言葉さえ掛けあぐねる提督を突き動かすきっかけにもなる。

「矢矧、その、昼になったし……食事でも行かないか」

「……え?」

「嫌ならいいんだ。今から行っても混むだろうし、いつも矢矧は阿賀野達と食べてるだろう。ただ」

気恥ずかしさを隠すような早口で提督はまくし立てる。その姿を阿賀野辺りが見れば歓声上げて提督を褒め称えるかもしれない。

思わず矢矧も下を向き、頬の熱を自覚してしまう。例えただの昼食であっても、誘われたことに変わりなく。

はにかむように口を開き、弾む声で承諾を返す直前に。

「ただ、何か辛そうだったから、相談くらいなら乗れるかもしれない。食べながらでいいから教えてくれないか?」

声は、行先を見失う。

「多分将校スペースも使えるから他の艦娘にも聞かれないようにできる。もし矢矧がよければ」

「ごめんなさい」

提督の息を飲む音に泣きそうになりながら、矢矧は言葉を紡ぐ。

「私、今日も姉さん達と食べるから。ごめんなさい」

「……そうか。いきなり誘った俺が悪いんだから気にしないでくれ」

「ええ、ごめんなさいね」

「いや、本当にいいんだ。それじゃあ済まないけど食堂に行ってくる」

「ええ。行ってらっしゃい」

俯く矢矧の前を提督が通り過ぎていく。矢矧にとって酷く長い時間をかけて、扉の向こうへ消えていく。

握りしめた手が真っ赤になるほど爪を食い込ませ嗚咽を漏らさないよう震えだすのは、その直後の事だった。

姉と食べると言いながら、矢矧は結局食堂に向かう気など僅かにも無かった。

万一想い人とすれ違ったりしたらどんな顔をすればいいのかも分からない。それくらいなら、ここで座っていた方がマシだったから。

「……何してるのかしらね、私。包んだところで中身は何も変わらないのに」

丁寧に紙に包まれた板チョコを手に、まるで私みたい、と矢矧は自嘲する。

「外面だけ無理やり整えて中身はつまらない。本当に馬鹿みたいだわ」

震える声を止めるために矢矧が出来る事は一つだけ。

それがきっと自分の心を裏切ることだと分かっていても。

「バレンタインなんて……嫌いよ……」

指先から滑り落ちたチョコは柔らかな音を立てて沈んでいく。

不要になった紙ゴミを掻き分けて、ゴミ箱の奥底へとその姿を消していった。

「っと、もうこんな時間か。お疲れ様」

「お疲れ様提督。お昼はごめんなさいね」

「あ? ああ、いや」

「お詫びに少しお茶でもどうかしら? あまり時間は取れないかもしれないけれど」

終業後、突然の誘いに提督は戸惑っているようだった。

仕方のないことだろう。昼はすげなくされたというのに、午後になった途端にいつもと同じ態度になり、今は逆に誘われている。

微笑む矢矧を見てもその心の変遷はようとして知れず、しかし誘いを断れるわけもなく。

「そういう事なら。少し待ってくれ、これだけ片付ける」

「いいえ」

強い口調が矢矧の喉を震わせる。

「提督は片付けてから来てちょうだい。私は先行して準備を済ませておくわ」

「あ、ああ……わかった」

「待ってるわね」

言い捨てるようにして矢矧は提督に背を向ける。

今だけは、自分の心の内を提督に推し量って欲しくなかった。

(こんなことのためなら誘えるのね……こんな、下らない浅知恵のためなら)

俯き歩く姿は酷く弱弱しい。これからすることは、提督だけでなく他の艦娘達への裏切りでもある。

「バレンタインって、本当に嫌なものね。こんな気分になるくらいなら……」

いっそ嫌われた方が良い、という続きの言葉が出ることは無い。

言おうとすればするだけ痛む胸が自分の恋心を教えてくれる。自覚すればするほど痛むというのに、見せつけてくるように。

今日はここまでで。

「ごめんなさい、バレンタインだけど用意してないの」

矢矧の言葉に食堂は一瞬騒然とし、次の瞬間居心地の悪い静寂に切り替わった。

誰もが自分たちを目を見張って注目していることを感じながら、心を隠して言葉を続けていく。

「私からはあげられないけど、他の子は色々用意してるみたいよ。受け取ってあげてちょうだい」

紙コップから昇る湯気を遮るように矢矧は目蓋を閉じる。もっとも、それは目の前の想い人を見ないための方便でしかなかったが。

「……さっきから黙ってるけど、どうしたの?」

「あ、ああ。いや……その、気を遣わせたか?」

ばつの悪そうな顔をする提督に矢矧は笑いかけた。

「いいえ。私の方こそみんなに気を遣わせてしまったわね……ごめんなさい、みんな」

立ち上がり、頭を下げる。無駄のない所作ではあったが、それを綺麗だと思う者はいない。

むしろ無駄が無いからこそ違和感を感じてしまう。まるで、うろ覚えの役を演じる役者のような薄気味の悪さ。

「それじゃあ提督、私はこれで」

「……帰るのか?」

「ええ、仕事も終わったもの。何か変かしら」

「晩飯はどうするんだ? もうあと十分もすれば」

想い人の言葉から逃げ出して、矢矧は足早に食堂を後にした。

誰かの声も、誰かの視線も、なにもかもが身体に纏わりつくようで、矢矧の心を蝕んでいく。

後悔を振り切るように走り出した矢矧の目尻からは、昨日から何度も溢れる透明な滴が、性懲りもなく零れていた。

どれだけの時間が経ったのだろう。部屋はとうに暗くなり、膝から顔を上げても見えるものは闇ばかりだ。

「……お腹が空くと思ったら、お昼も食べて無かったわね」

こんな気分なのに、と矢矧は笑みを零す。思えば今日自然と笑えたのはこれが初めてのことだ。

「もう食堂も閉まってるかな。間宮さんが残ってたら何か分けて貰えないかしらね」

廊下を歩けば人の気配も少なく、いつものように夜戦を求める騒ぎ声がどこからともなく響いている程度。

近付いてくる食堂の灯りもどこか頼りない。まるで自分の心の中のようだと自嘲へ向かわせるほど、今の矢矧には夜が物悲しい風景に見えていた。

幸い裏の扉は空いていた。体を滑り込ませて薄暗い厨房をのぞき、人影が見えたことに息をつく。

「ごめんなさい間宮さん、こんな時間に申し訳ないんだけど……何か食べるものは無いかしら?」

「……」

「あの、間宮さん?」

「間宮さんはもう帰ったわ。矢矧のぶんは残しておいてくれたから、温めるね」

闇の中から聞こえる声に矢矧の心臓が大きく跳ねる。朝以来聞いていなかった声が、責めるように耳を刺すような気がした。

「ねえ矢矧、チョコは提督さんに渡せた?」

知っていて聞いているのだろう。当事者の姉だ、例えその場に居なくても誰かが伝えるはず。

「矢矧は意外と臆病だから心配してたのよ。渡せなくて泣いてるんじゃないかって」

「わ、私は……」

「矢矧」

置かれたスープの匂いと姉の手が矢矧を逃がさない。

何よりも、真っ直ぐに見つめてくる阿賀野の目から逃れることは、できそうにもなかった。

スープをすする音が二人の間に響く。

怯えたように窺う矢矧だが、阿賀野はにこやかな笑みを浮かべたまま見つめるばかり。それにますます身を縮めてしまうという悪循環だ。

「ねえ矢矧、当ててあげよっか」

矢矧は手を止めず、阿賀野も口を止めようとしない。噛みあわない光景だが、阿賀野は気にもしない。

「怖くなったのね? 板チョコ一枚の自分のみすぼらしさと工夫の無さが。他の人は好意や誠意を込めて色んな物を作っているのに、自分は安いだけの半端物」

「……やめて」

「だから逃げたのよね。提督に自分の想いがその程度だと思われるのが怖くて」

「やめて姉さん」

「それで結局渡せなかった。それが一番提督さんを失望させるって分かっているくせに」

「やめてって言ってるでしょ!?」

テーブルが艦娘の拳に悲鳴を上げる。睨みつける矢矧の眼光はいっそ戦艦をも凌ぐほどだったが、阿賀野はそれが虚勢だと知っている。

「渡さなくて良かったって思ってる? 明日から気持ちよく出勤できる?」

「お願い……やめてよ……っ!」

「明日から提督さんと笑えるの? ご飯に誘われて喜べるの? 好きだって言われたら、嬉しいって言えるの?」

「う、うぅああああ!」

噛み締める奥歯がギシリと鳴り、矢矧はがむしゃらに、自分を責める目の前の人へと。

「やめろって、言ってるのよ!」

血がにじむほどの力を込めて、拳を振り下ろした。

「満足した?」

「……なんで」

「これでもお姉ちゃんだもの! 実は鍛えてるのよ?」

悪戯っぽく笑う阿賀野を見上げ矢矧は釣られたように唇の端を緩める。

勢い任せに振り下ろされた腕は絡め取られ、あっという間に床に転がされてしまった。痛みさえも無いのだから矢矧も呆れるばかり。

それだけ、自分が理性もなく力任せに腕を振るっただけということなのだから。

「まだやる?」

「……もういいわ。ごめんなさい、頭に血が昇ってたみたい」

「えー? 矢矧ったら物分り良すぎてつまんなーい」

「もう、姉さんったら」

思わず噴き出す矢矧を目ざとく見咎め、阿賀野の頬はリスのように膨らんでいく。

「ふーんだ! 良い子の矢矧は早くスープ食べて、提督さんのとこに行っちゃいなさい!」

「……もう、こんな遅い時間だもの。迷惑になるわ」

遅れた言葉は矢矧自身の迷い。そこに前向きな心の欠片を見つけ阿賀野は手を伸ばす。

クシャリと頭に触れた手が、優しく、慈しむように撫で付けた。

「そんな事無いわ。あの提督さんが、矢矧が来て驚きはしても嫌がることなんか絶対無いんだから」

「……どんな顔をすればいいのかも分からないわ」

「矢矧は可愛いんだから、にっこり笑って行けば大丈夫よ」

「…………でも、チョコも無いし」

次の瞬間、いつの間にか阿賀野の手に握られていた板チョコが、矢矧の鼻先をつつく。

「これあげるから、ね?」

「これ、でも姉さんの……」

「だいじょーぶ、どうせ提督さんにあげるためのチョコだもの。明日また買ってくるわ」

朗らかな阿賀野に押されるように、矢矧の視線は板チョコへ注がれる。

ラッピングも無い銀色の紙。なぜだかそれが、矢矧の目には隠さない好意のようにさえ思えて。

「……そう、なのね」

「え?」

「なんだか分かった気がする。きっと、物じゃないのかも知れないわ」

薄闇の中で銀紙がほのかに輝く。それは温かな……阿賀野の気持ちだったのだろうか。

「ありがとう姉さん。私、あの人の所へ行くわ」

お礼の言葉に首を傾げる阿賀野は、矢矧にとって見慣れた姉でもある。面倒くさがりで、少し抜けていて、とても頼りがいのある人。

「大丈夫? 一緒に行く?」

一転して心配そうにうろたえるほど、誰よりも自分たち姉妹を案じてくれる人なのだ。

「大丈夫よ。それに姉さんと一緒に行ってどうするの?」

「ほ、ほら! よく言うでしょ、苦しみは二人で分かち合う、みたいなやつ! 渡しにくいならその重圧も半分になりそうじゃない?」

「……遠慮しておくわ。これも返しておくわね」

阿賀野の気遣いを無碍にするつもりは全く無い。ただ、矢矧には曲がりなりにも自分の心を込めたチョコに心当たりがある。

「せっかくの私の想いだもの。伝えに行った時、姉さんと一緒で半分しか伝わらなかったら嫌よ」

「えうっ!? ひ、ひどいよ矢矧ぃ」

「ふふっ、ごめんなさい……でも、ありがとう。やっと気持ちが軽くなった気がするわ」

「んもう! ……いってらっしゃい。頑張ってね」

「ええ。いってきます」

足取りも軽く、とは口が裂けても言えなくとも。

執務室へと運ぶ足は確かに自身の行く先を定め、確実に前を向いていた。

薄暗い食堂の中、二人の影が並んでいる。

時々つまづきそうになる阿賀野と違い、もう一人は闇をものともせず厨房へと歩を進めて行った。

「ごめんなさい間宮さん、無理言っちゃって」

「いいえ、構いませんよ。今日の矢矧さんは明らかに様子がおかしかったですし、なにより……あの人のためですから」

あの人、と口にした時の間宮の感情の揺れは明らかだった。

矢矧が提督へと向けるものと同感情のそれ。秘めてもなお現れるほどの、間宮自身も困ってしまうほど大きなものだ。

だからこそ阿賀野は申し訳なく思う。ある意味矢矧を立ち直らせることは、間宮のチャンスを潰すことでもあるのだから。

「……阿賀野さん、私はあの人には幸せになって欲しいんです。あの人が好きな相手があの人の事を好きなら、一緒になって欲しい」

「間宮さん……」

「それが私でなくても構いません……その程度の好意、なのかもしれませんね」

皿を洗いながら自嘲するように言い放つ。自嘲とも諦めとも取れる言葉に、阿賀野はただ押し黙ることしかできない。

「それに私自身、あの人が後方支援担当なことに胡坐を掻いていましたから。前線で活躍する艦娘の方々はそういった仕事は苦手ですし、私の方が話す機会も多いんですよ」

手早く仕事を終えた間宮が阿賀野の元に戻れば、あとは静寂と間宮の言葉だけが響く。

「……取られたとは思いません。だから、矢矧さんの事は本当に応援しているんです」

そう言ったきり、間宮の言葉は止まる。そして。

「ちょっと、熱くて飲みにくいですね」

阿賀野は音を立ててぬるいお茶を啜る。間宮の小さな嗚咽が、決して外に響いていかないように。

今日はここまでで。次の更新でどうにかバレンタインが終わりそうです。ダラダラ長くて申し訳。

「あった……馬鹿ね私、結局未練たっぷりじゃない」

暗い執務室の中、ゴミ箱からチョコを拾った矢矧は淡い笑みを零す。

そもそも捨てたはずのゴミが残っていることのがおかしいのだ。仕事が終わった際に片付けるはずなのに、今日に限って捨て忘れていることなど奇妙な話。

要するに、捨てておきながら手の届かない所に行かせたくなかったということ。そんな自身の気持ちに気付き、苦笑をこらえきれなくなってしまう。

「臆病、ね。一人じゃ渡すこともできなくて、かといって捨てきることもできないなんて」

阿賀野が居なかったらと思うと、あまりにも情けない体たらくだ。

「……さ、早めに行ってあの人が寝る前に渡さないとダメね」

なおもネガティブな方向に向かおうとする心を叱咤するように頬を叩き、想い人の部屋へと急ぐ。

提督の私室は艦娘の部屋とは別の場所にあり、夜戦を求める声すらも届かない。

静けさに包まれた廊下に足音が響くたびに矢矧の心臓は跳ねて、部屋が近づくほど頭が混乱していくようだ。

「大丈夫よ、渡すだけなんだもの。落ち着いて……」

自分に言い聞かせる言葉さえも鼓動の音に消えていく。

頬を染め息を弾ませながら、矢矧は意を決して扉をノックした。

今日は1レスだけで。申し訳。

遅い時間と言っても日を跨ぐにはまだまだ早く、動く気配と共に扉が開かれる。

現れる人影に矢矧の心は踊る。予想していたはずだというのに、否応なしに。

「矢矧? こんな時間にどうしたんだ」

「ええ……一つだけ今日のことで訂正があるの。早めに伝える必要があったから」

「訂正って、緊急を要する書類も無いし明日でいいんだぞ?」

「ダメよ」

強い語調に提督はたじろぐ。可愛く言えればいいのに、と自身に落胆しつつ、それでも言葉を止めることはない。

「プレゼントは用意してないって言ったでしょう。バレンタインの」

「ああ……」

「嘘よ」

堰を切る、とはこのことだろう。細切れの言葉に提督が戸惑おうとも矢矧の言葉はあふれ出していく。

「嘘なのよ。用意していて渡せなかっただけ。だって滑稽なんだもの!」

変だな、と矢矧は心の中で笑う。ただ謝って渡すだけのはずだったというのに。

「貴方のために、作ろうって思いもしなかった……他の子とは違う、特別な、気持ちにしようって思わなかった!」

水滴が廊下を濡らしていく。

「貴方に……失望されたく、なかったの……っ」

矢矧が顔を伏せたまま、時間だけが静かに過ぎる。

提督も顔を上げろとは言わない。もしくは、以前プレゼントを贈った自分を思い出し、言う事が出来ないのか。

それでも。

「……気の利いたことは言えないけど、その、そう言ってくれて嬉しい」

歪む視界に映るのは、どこか軟弱で、けれど大きな手の平。

行き場無さそうに揺れる手は提督の性格を表しているようだ。抱きしめるようなことはできず、かといって突き放すこともできない。

本当にチキンね、と彼のあだ名を思い出すと、矢矧は思い切り涙を拭い去った。

「これが、私からのバレンタイン……ごめんなさい」

差し出すチョコは薄く、どう見てもラッピングしただけの安物だ。

見れば見るほど貧相なそれが情けなくて、受け取ってもらえないのではという不安が湧き上がる。

もっとも、それは弱気な矢矧の杞憂でしかないのだけれど。

「ありがとう矢矧、君から貰えて本当に嬉しい」

「あ……」

矢矧の手から離れたものを追って見る。

その先にある想い人の微笑みと視線が結ばれ、燃え盛る炎のように紅潮していった。

「それから? それから矢矧はどうしたの?」

「それからって……それだけよ。夜に訪問したことをお詫びして帰ってきたから今ここに居るんだけど」

「えええ!? 好きです、って告白とか、ぎゅーって抱きしめ合ったりとかは?」

「し、しないわよそんなこと!」

真っ赤になって返す言葉も阿賀野を追い払うことはできないらしい。

這い寄り矢矧に絡みつき、やたらとしつこいあたりがなんとも阿賀野らしく、能代は呆れたままコーヒーを啜る。

「でも矢矧ちゃんも司令もチキンさんだよねぇ。バレンタインなのにねー」

「本当よ! 提督さんもこう、泣いてる君は見たくない、って抱きしめるとかすればいいのに!」

「そのままちゅーとかかなぁ?」

「それ! 酒匂やるじゃない!」

「それ、じゃないでしょう。他人の恋路をとやかく言うものじゃないと思うの」

適当なことを言う酒匂に、テンションのまま話す阿賀野。この二人をコントロールなどできるはずもない。

「ぴゃぁ……能代ちゃんってばやっぱりイケズぅ」

「ぶー、いいじゃなぁい!」

不満をあらわにする二人とは対照的に、矢矧はホッとため息を漏らす。

「能代姉さん……ありが」

「とはいえ」

能代自身も、年頃の艦娘であるからにして。

唇を歪め目を細める能代に、矢矧の頬を冷や汗が伝い落ちていく。

「聞かせて貰おうかしらね。つまびらかに、矢矧と提督とのやり取りを」

夜は次第に更けていく。艦娘達も眠りにつき、徐々に窓から見える灯りは消えていく。

しかし、阿賀野達の居る部屋の灯りだけはその日、最後まで煌々と輝いていた。

寝静まる部屋、矢矧は布団の中で考えに耽っていた。

(もし、渡した時に告白できていたら)

あの人は受け入れてくれただろうか。俺もだよ、と照れくさそうに返してくれただろうか?

あるいは、ごめん、と謝られてしまうのだろうか。

(……ダメね、こういうことを考えていると暗くなってしまうわ)

妄想でフラれて悲しむなど、まるで幼い少女のようだ。

(それなら逆のことを考えてみましょう。好きだと言って受け入れて貰えたら……)

もしも灯りが付いていたのなら、みるみるうちに朱に染まる矢矧を見られただろう。

思わず口元まで布団で隠すのは、緩んでしまう口元を隠すため。

(もし、もしも、あの人から好きと言ってもらえたら)

次の瞬間、布団を大きく跳ね上げる音が部屋に響いた。

翌朝に陽が昇るまでのあいだ、ついぞ矢矧が緩みきった顔を出すことは無く。

誰かに起こされて見られたりということも無かったのは、矢矧にとって幸いなことだったのだろう。

ようやくバレンタイン編終わりです。長くて申し訳。今日はここまでで。

ホワイトデイ。

刻一刻と迫るその日に何を送るべきなのか、近付くほどに悩みが焦りに変わっていく。

「阿賀野、書類はできたか?」

「ちょ、ちょっと待ってってば提督さん! そんなに早くできないわ!」

焦りが手の動きへと変わっていくのが分かる。今の状態が仕事能率的にはありがたいのが、なんとも言えない。

書類を確認して整え、必要があれば加筆修正を加える。阿賀野のそんな仕事さえ上回り、消化された書類達が積み重なっていく。

「阿賀野」

「んもう、まだできないってば!」

何を返すべきか、という思いが頭の中をぐるぐる回る。

仕事の事など今しがた終えた最後の書類と共にどこかへと飛んで行ってしまっていた。

「どうすればいいと思う?」

「待ってって言ってるでしょ!? そんなに暇なら出掛けてこればいいじゃない!」

怒られてしまった。思わず首を竦めるが、ふと彼女の言葉が引っ掛かる。

「……出掛けてくる、か。それは、悪くないな」

「はいはい。じゃあいってらっしゃい」

「どうやって誘えばいいと思う?」

はあ? と胡乱げに睨みつけてくる阿賀野を見て思う。

ホワイトデイには、何かご機嫌を取れそうな物を送ろう、と。

バレンタインにホワイトデーは終わってから始めるもの。続きはまた今度、すみません。

――提督――

並び歩く矢矧との間の距離は丁度2歩。あるいは一人分の隙間とも言える。

「少し歩いたし、どこかに入ってコーヒーでも飲もうか」

「疲れてないから大丈夫よ。それよりも買う物は決まっているの?」

「ああ……クッキーの美味しい店があるらしいんだ。そこで買おうかと思ってさ」

にべもない。しかしそんな凛とした態度も、背筋を伸ばして歩く姿を見るのも好きなのだから、俺という奴はどうしようもない。

そういえば、と気付いてみれば、彼女の服装を褒めただろうか?

黒のジャケットにシフォンスカート、髪を纏めるシュシュと合わせてなんとも可愛らしい。

凛々しさがいい意味でやわらぐと言えばいいのか。見た瞬間、思わず見惚れて声も出なくなったのは記憶に新しい。

「あそこだ、混んではいないみたいだな」

まだ午前という時間もあってか、多少の人影はあるが混雑というほどではない。

「なかなかいいお店ね。こういう所にも行ったりするのかしら?」

「いや、これは間宮に教えてもらったんだ」

漏れて出た言葉は馬鹿正直すぎて泣けてきそうになる。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

「そう……間宮さんなら詳しいでしょうね」

更に言えば。

他の女性の名前を出してなお微笑んでいる矢矧は、俺のことをどう思っているのだろうか。

――矢矧――

誘って貰った時は嬉しかった。舞い上がって、自分の服を選ぶことに一晩かかるくらいには。

そして今、いざ出掛けた後が問題だった。

「少し歩いたし、どこかに入ってコーヒーでも飲もうか」

「疲れてないから大丈夫よ。それよりも買う物は決まっているの?」

ああ嫌だ。本当に嫌で嫌で仕方がない。

二人で一緒にカフェに入って、一緒に笑いあえたらと思うのに。

自分から誘う訳でもない。誘って貰えて、はいと頷けばいいだけなのに、どうしてこんなに勇気が出ないんだろう。

『絶対だいじょうぶ! 矢矧の私服は絶対可愛いんだから、自信を持って!』

そう姉さんは言ってくれたけれど、きっとそれは間違いだ。

ほら、今だって提督の目が私を見ている。私らしくない服を、変だと思ってるから、距離だって開いてしまうに決まっているんだから。

「あそこだ、混んではいないみたいだな」

まだ午前中だからかもしれないけど、人はかなり少ないみたい。

「なかなかいいお店ね。こういう所にも行ったりするのかしら?」

「いや、これは間宮に教えてもらったんだ」

「そう……間宮さんなら詳しいでしょうね」

ああ。

早く、この場から逃げ去ってしまいたい。

2レスだけ。視点切り替えが更に見にくくお送りします。

――提督――

もともと、誘った時に失敗したんじゃないかとは思っていた。

「能代姉さんは甘すぎない方がいいわね。酒匂はストロベリーが好きよ」

「阿賀野は?」

「甘いものはなんでも好きだけど、ココアクッキーがいいかしら」

あれよあれよというまに艦娘達へのお返しがバスケットの中に積み上げられていく。

無難だというからクッキーを選んで、少女達の好みが分からないから矢矧に同行を頼んだ。それは一応功を奏したと言っていい。

少なくとも俺一人で選ぶよりずっとバリエーション豊かになったし、何より矢矧と並んで選んだことが嬉しくもある。

しかし、それは。

「これで全員分は選んだのかしら?」

「いや、まだ」

矢矧の分だけが無い。

……目は口ほどに物を言うという奴で、軽く目を見開いた矢矧はおかしそうに笑みを零す。

「ふふっ、私の分は……そうね、そこの」

伸びる指先が、一瞬揺れる。それが何を指していたのかは残念ながら分からない。

「そこのケーキでいいわ。少し高いけれど今日付き合ったお礼に、いいわよね」

「ああ、もちろん」

ショーケースの中、黄金色に輝くモンブランは人の目を惹きつける。

それで彼女の歓心が買えるなら。男というのは本当にどうしようもない生き物だ。

――矢矧――

ホワイトデーのお返しを一緒に選んでほしい。それが誘ってくれた理由だけど、私はそれでも構わなかった。

それが、一緒に出掛けられる理由になるのなら。

「能代姉さんは甘すぎない方がいいわね。酒匂はストロベリーが好きよ」

「阿賀野は?」

「甘いものはなんでも好きだけど、ココアクッキーがいいかしら」

他の子の好みはある程度把握している……というより、生活を共にするのだから誰が何を嫌いだとか好きだとかは自然と耳に入って来るもの。

ましてや、甘い物。嫌いという人はまず居ないから選ぶのも大した手間じゃない。

……それにしても私ときたら、どうしようもない女だ。

さっきまで帰りたいと思っていたのに、こうして二人で並んでいるだけでもう少しだけ、なんて思ってしまう。

「これで全員分は選んだのかしら?」

「いや、まだ」

あれ、と思って見た彼の目は、なぜか私を貫いていて。私の分を、と言いたげな瞳にまた心臓が跳ねそうになる。

「ふふっ、私の分は……そうね、そこの」

……やっぱり私ときたら意気地なしだ。

「そこのケーキでいいわ。少し高いけれど今日付き合ったお礼に、いいわよね」

「ああ、もちろん」

一瞬だけ指さした先のキャンディが、寂しげに輝いたように見えた。

短いですがこんだけで。

――提督――

時間は八時を過ぎた頃。鎮守府全体が動き出し始める、そんな時間帯だ。

当然、提督の仕事も粛々と進めて行かなければならないのだが。

「司令ってお馬鹿さんだよねぇー」

「……うるさい。頬を抓るな」

「ひゃー、すっごく伸びないねぇ! かたーい」

男の頬に何を求めているのか。それよりもまず、秘書艦の仕事をしてほしい。

「でもぉ、せっかく矢矧ちゃんとお出かけなのに一か所だけの買い物でしょ? 何しにいったの?」

「買い物に決まってるだろう」

昨日、俺と矢矧は一緒に買い物に行ったにすぎない。

それだけのことなのに、酒匂は頬を膨らませて不満げだ。

「そーじゃないよぉ! デートなのにみんなへのホワイトデーのお返し買って終わりなんて、バカバカ! バカの丸焼きだよっ!」

何を言ってるのか、悪口なのかすら分からない、なんて言うべきじゃないのだろう。

俺自身分かっているんだ。

「……俺は、どうすれば良かったんだろうな」

「わかんないけど、バカ!」

そう、俺は馬鹿だ。

酒匂の言葉では無く、俺を罵倒する俺自身の言葉が、心を深い場所へと貶めていくのだ。

――矢矧――

能代姉さんは根掘り葉掘り聞いてくる人じゃない……基本的には。

「矢矧、照準が合ってない!」

「ごめんなさい……」

昨日はあの人と一緒に出掛けて楽しかった。そう思いたいはずなのに。

「……矢矧、ブレすぎてるわ」

まるで私の心のように揺れ動いてしまう。

嬉しかったのか、楽しかったのか、悲しいのか、寂しいのか。的を射ることなくゆらゆらと揺らめいて、何度撃っても当たらない。

「っ……!」

能代姉さんの目は私を責め立てているようだ。きっと私の勘違いなのに、静かな瞳に見られているだけで、心にさざ波が立って収まらない。

「矢矧」

だからこそ、優しい声を掛けられると、弱くなってしまう。

「ここには私の他に誰も居ないわ。話してちょうだい」

「……姉さん」

くしゃり、と頭の上で音がする。温かい手の平が私の心をなだめる様で。

「阿賀野姉ぇみたいにはいかないけど、私なりに矢矧を励ませられるかもしれないわ」

抱き寄せられるまま頭を垂れて、まるで私は母に泣き縋る子供みたい。

「いいの。泣いてもいいから、少しずつでいいから。何があったのか教えて、ね?」

姉さんの肩は湿っている。歯を食いしばって、思い切り目を瞑っても、その湿り気は広がっていくばかりだった。

――提督――

お礼、と渡したクッキーが喜ばれるのは用意した身としては嬉しいことだ。

だがそれと同時に返されるものに痛みを感じるとあっては、渋い顔にもなってしまう。

「すまないな鳳翔、呼びつけてしまって。バレンタインの礼に……クッキーだが」

「ありがとうございます。時に提督? 昨日は矢矧さんと出掛けたとのことですが」

「……ああ」

お前もか、と漏れるため息に、鳳翔も苦笑を隠さない。それでも言葉を続けるのだから、さぞかし言いたいことなのだろう。

「なんでも一軒だけ買い物に行き、寄り道も無く帰ってきたのだとか。そして買ってきたのは今頂いたクッキーですね」

耳も痛いが頭も痛い。額に当てた手は熱を帯びて、自分を落ち着かせることすら難しい。

「お茶もせずに帰って来るとは何事か、そう言いたいんだろう」

鳳翔の微笑みは止まらない。

「ただお金や時間を浪費すればいいとは思いません。けれど部下の方から上司に向かって、休みましょう、なんて言えると思いますか」

「……俺の方から提案するべき、か。他には?」

柔らかくなる視線から伝わるのは、努力を褒める上司の心持ちだ。立場の逆転も甘んじて受け入れるべきだろう。

――矢矧――

ようやく治まった目の腫れのおかげで、休憩時間は随分遅くまでずれ込んでいた。

「ねえ矢矧……貴方、自分が悪かったと思ってるでしょ?」

けほっ、と喉に引っ掛かったコーヒーが弾かれるように飛び出していく。

「なん、で、それ……こほっ……何でそんなことを」

「見ていれば分かるわよ。矢矧は提督に対して何の愚痴も言わないじゃない」

「それは……」

黒い水面に映るのは、自分に自信の無い女の子。最近髪を切ってないから前髪も纏まってないし、不安そうな表情には可愛げの欠片も無い。

……髪の毛は目立たない黒髪。姉妹艦なら阿賀野姉さんや能代姉さんの方が。

「ほら、また何か考えてる。それもとびっきり馬鹿なこと」

「え……」

顔を上げれば私に向けた面倒くさげな目。ため息と一緒に突き出されたコーヒーフレッシュとシロップは、勝手に私のコーヒーに色を足していく。

「真っ黒な貴方に足りないのは、単純に甘えることよ。好きだと言えないならトコトン甘えなさい。そうでもしないと、あのヘタレ提督は動かないわ」

「……でも、どうしたらいいのか」

ぽん、と頭を叩く姉さんの手の平。乱れた前髪をもっとクシャクシャにしながら、私を励ましてくれる。

「身勝手な事を言って困らせてあげなさい。貴方が今したいことをね」

……やっぱり、私よりも能代姉さんの方がいい女だと思う。優しく包んでくれる手の平は、心まで温めてくれるみたいだ。

――提督――

「ダメだな、このままじゃ」

今日の何度目の溜息か。頭の中の鈍い思いをどれだけ吐き出しても、次から次へと湧き上がってくるとは困ったものだ。

仕事もろくに手に付かず、解決策はきっとただ一つ。

「酒匂、矢矧を呼んでくれないか」

「ほぇ? うんっ、うんうんっ! いいよ~、ちょっと待っててねっ!」

あっという間に終えた内線から、彼女がやって来るまでの時間。

それだけが、俺に残された考える時間。

「……酒匂、明日のスケジュールなんだが」

へへぇ、と無邪気に笑う今日の秘書艦は有能だ。俺の一言でしっかり意図を汲んで必要なことを調べ上げてくれる。

……いつもこのくらいなら、と思わないでもない。

「えっとねぇ、司令は午前中はダメだけど午後は遠征報告と演習会議だけだよぉ」

「会議は報告だけだったな。酒匂、任せていいか」

「了解! それと矢矧ちゃんのスケジュールだけどねぇ……」

子供っぽく悪戯っぽく。イヒヒと笑う顔を見ればある程度分かりはするが、それでも力が籠ってしまう。

「ごあんしーん! 矢矧ちゃんは午後休だよぉ?」

「良くやった!」

机に叩きつける手が痛いとか、そんなことはどうでもいい事だ。残るは一つ、彼女をどう誘うかの一点に尽きる。

――矢矧――

「ええ、分かったわ……今から行くから」

内線で伝えられた執務室への召喚を、仕事の話と思い込むのは簡単なこと。

けれどそうじゃないはず。きっと昨日の事のはずで、何を言われるかと思うと一気に不安が膨れ上がってしまう。

そしてそんな私の心を見透かしたように、姉さんは肩を押してくれる。

「ほら、行ってきなさいな。ごろにゃん甘えてこればいいのよ」

「ご、ごろにゃんって……」

「それくらいの気持ちで、ってこと! ほらほら行った行った!」

押す程度の力から押し出す力へ。段々強くなってきて、終いには叩き出す勢いで。

「姉さんったら、細かいようで強引なんだから……全然悪いことじゃないんだけど」

足踏みを許さない能代姉さんに促されるままに執務室への廊下を歩く。

一歩一歩重くなる足取りを振り払い、あの人の元へ。

「甘える……甘えるって、どうすればいいのかしら」

何を言えばいい? 昨日あんなに失敗した自分が甘えるなんて、恥の上塗りみたいなもの。

「でも、姉さんはきっと」

それを全部あの人に被せてしまえ。あの人と分かち合えと、そう言いたいのだろう。

「そんな恋人みたいなこと……できないわ」

けれど、『できない』と『したくない』は全く別物。私の心は『したくない』なんて一言も言っていないのだ。

――提督――

ノックの音に襟を正す。今から掛ける言葉は、一昨日のような曖昧な誘いであってはいけない。

一つ息を吸ってみれば、早打ちの鼓動が全身に響くようだ。深く息を吐いた後、どうにか出た言葉が震えていなかったことに、自画自賛をしたいほど。

「入ってくれ」

「失礼します……お呼びでしょうか、提督」

相も変わらず、入室する姿は凛として綺麗なものだ。

「急に済まない。更に言えば私用で申し訳ないんだが、聞いてくれるか?」

少し伸びた前髪が涼しげな目元を覆い、柔らかい印象を出している。そのせいだろう、とてもじゃないが目を逸らすことなどできやしない。

急速に高鳴る鼓動と溢れ出る唾液。それを誤魔化すにはもう、早口でも何でも用件を話す以外に道は無いはず。

「単刀直入に言いたい。明日の午後なんだが、何か予定はあるか?」

畳み掛けるような言葉に、矢矧は少し迷ったように首を傾げた後、小さく首を振った。

正直に言えば、怖い。なぜ迷うような仕草があったのか、やはり俺の不手際に愛想を尽かされたのか。

「なら……俺と、昼から出かけて欲しい」

見開かれた目の意味は。

「何かを買わないといけない訳じゃない。ただ、君と一緒に出掛けたい」

ああ。

君とデートがしたい。そこまで言えたら、どれほど嬉しいだろう。

――矢矧――

「何かを買わないといけない訳じゃない。ただ、君と一緒に出掛けたい」

馬鹿だ。私は馬鹿だ。

どうして何も言えないの? はい、って一言言えばいいだけなのに、どうして。

どうして、私の喉は震えたまま動いてくれないのだろう。

「私は……」

思い出すのは昨日のこと。何もできず、ただ申し訳なさと後悔だけが残った買い物のこと。

ぐるぐると頭の中に様々な感情が渦巻いていく。ほんの二文字の言葉さえ引きずり込まれて、消えていくような――

「矢矧ちゃん、焦らすのはそのくらいで許してあげてねぇ?」

「……酒匂」

ぴゃんっ、とおどけた様に笑う酒匂の手が、渦の中から私を掬いだしてくれる。

微笑みに促されるまま、提督へと向き直る。真っ直ぐな視線に熱くなる心と体を押さえ込むように、矢継ぎ早に口を開いていく。

「はいっ、是非お願いします! 私は、ええと、お昼の後からなら。それと……」

「ああ、ありがとう……それと?」

「あ、いえ……なんでもありません」

あと一歩。私のワガママはあと一歩の所で恥ずかしそうに隠れてしまう。

それは提督にワガママだと思われたくない一心で、だからこそ、提督に言われれば容易に出てきてしまうのだけれど。

――提督――

徐々に体から力が抜けていくのは、誘いに乗ってくれたことへの安堵に間違いない。

しかし、顔を赤らめながら言葉を引っ込められては困るというものだ。もし希望があるなら俺はそれを叶えたい。

叶えさせてほしい。いつもなら手を引く場面だが、今この場面では俺は随分強気なようだ。

「言ってくれ。もし何か他の用があるなら早めに戻るし、行きたい場所があるなら一緒に行こう」

一緒に行こう、なんて言葉が出るのがその証拠。酒匂が頬杖を突きながらニヤついているが、それさえも気にならない。

俺の言葉を聞いて、矢矧は数秒の間目を閉じる。やがておずおずと開かれた瞳にある色は。

「じゃあ……昨日のお店に行きたいの」

「昨日? あの店でいいのか?」

小さく頷く矢矧の顔は更に赤く、茹蛸のように染まっている。

更にたっぷり時間を掛けて動き出した口からは、更に遠慮がちな声が。それでも消えることは無く確かに紡がれた。

「……キャンディーを買って欲しいの。本当は、ケーキじゃなくてそっちが良かったから」

ワガママでごめんなさい。小さな呟きに俺は内心で深く感謝さえしていた。

――矢矧――

『いい? 歩く時はもっと近くを歩くこと。いっそ腕まで組んでしまいなさい』

誘われてから出発までの間、私はてんてこ舞いだった。

髪を整えて、服は改めて選び直し。能代姉さんからは歩き方まで聴取されて矯正される始末。

始めは乗り気でなかったその指導に……今は感謝せざるをえない。

「髪、少し切ったのか」

「え? え、ええ。変かしら……」

「まさか。その……矢矧の顔がよく見えて良いと思う」

近くで歩くからこそ見えるものもある。

細かく動く視線は私を捉え、赤くなった耳からは提督の気恥ずかしさが十分に伝わってくる。

そして、身体の横側に感じる体温がとても心地良い。

「そう、かしら? 自分では分からないけど……そ、そういえば今日は人が多いわねっ」

「あ、ああ、そうだな。さすがに週末にもなると人も多いよ」

褒められて、話を逸らすことしかできない自分が恨めしい。もっと褒められたい、喜びたいと思っているのに。

もっとも、人が多いのは本当の事。道を埋め尽くすとか、はぐれそうという程ではないけれど。

けど……逃げようとする自分を押さえ込む理由には十分で。私は初めて人混みというものが嬉しいと思うことができていた。

――提督――

もしも、もしも俺と矢矧が恋人に成れたのならどうなるだろうか。

もしも成れたのなら、こんな時にどうするのだろうか。

「そう、かしら? 自分では分からないけど……そ、そういえば今日は人が多いわねっ」

「あ、ああ、そうだな。さすがに週末にもなると人も多いよ」

交わされる言葉に手が揺れる。互いに何も持たないまま、居場所を忘れた様に。

互いに感じる腕の熱。逃れるように離れては、甘えたいと寄せ合って。

それが俺には――俺に、一つの言葉を喋らせるのに十分な。

「矢矧」

「はい?」

少しずつ互いの隙間が埋まる様に歩いてみれば、腕の放物線が重なり合っていく。

「――好きだ」

自分でも酷いシチュエーションだと思う。何の前振りも無く、人混みの中での呟き。

……それでも。

「私も……好きよ」

重なった手の平が、互いを求めあい指先が曲がる。同じ軌道を描くようになった放物線が、恥ずかしそうにぎこちなく揺れていた。

――矢矧――

「――好きだ」

隣の少し上のほう。聞き慣れた声で紡がれた言葉を理解できたのは、口が動き終わってからだった。

「私も……好きよ」

言葉にしてしまえば一秒で足りる言葉。けれど今までは、いつまで経っても喉から登って来なかったその言葉。

私の一番言いたかった言葉で――一番、欲しかった言葉。

「ムードが無いと思うのだけれど?」

「……悪い」

見つめ合うわけでもなく、二人っきりの場所でもない。人混みの中で歩きながらなんて、きっと最低に近いシチュエーションのはず。

それでも、自分の手の平に感じる彼の手の平の熱に、緩んでしまう頬を抑えることはできない。

だから、軽口で誤魔化してしまおう。そして――。

「帰ったら阿賀野姉さん達に報告するから。後で怒られてちょうだい」

「それは困ったな……分かった。明日は平身低頭で業務に励むさ」

少しだけ。頭を彼の肩に乗せるくらいは、甘えてみてもいいわよね?

ここまでで。長い間空けてしまって申し訳ありませんでした。
これで完結とさせていただこうと思います。ありがとうございました。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2016年01月15日 (金) 14:09:49   ID: PXEp1-im

来ればをこればって、書く奴は文章書く前に日本語勉強しろよ。

2 :  SS好きの774さん   2017年05月30日 (火) 23:16:37   ID: g55Khg2L

>>1
下らんことで、見知らぬ作者を罵倒。
言葉ができても、人としてどうなんだ?

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