澪「ずっと、あなたが好きだった。」 (84)

なぁ、律。覚えてる?



私は、覚えてるよ。


………

…………


「なあ、律」

「なんだ?澪」

「私たちもさあ…いつか恋人ができたり、結婚したりするのかな?」

「…なんだよ、急に」

「いや…なんか不安になるじゃないか。一生ひとりだったらさみしいなー…とか」

「大丈夫だろ、ほとんどの人が結婚できてるんだから」

「でも…」

「それに澪なら選びたい放題だろ。モテてたんじゃん、中学の時」

「自分の好きな人と恋人になれなきゃ意味ないだろ」

「…ま、そりゃそうだな」

「そうだよ。好きな人とじゃなきゃヤダよ」

「ん?待てよ。てことは…

 …自分が好きになった相手も自分のこと好きじゃなきゃダメってことか?」

「…うん」


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「…」

「…」

「それ、めちゃくちゃハードル高いだろ!」

「だから心配してるんだよ!」

「ああー!私ゼッタイ無理だ!恋人も結婚もできる気がしない!」

「私もだ…」

「だいたい私のこと好きになってくれる奴なんて…

 …ホントにいるのかな…想像できねーよ…」

(そんなことないと思うけど…)ボソッ

「何か言った?」

「言ってない!」

「…はあ」
「…はあ」

「…」
「…」

「…じゃあさ、こうしよう」

「?」

「30歳になった時、お互いに恋人もいなくて結婚の予定もなければさ…」

「…なければ?」

「私たち二人で一緒に暮らそう!」

「縁起でもないこと言うな!」


30歳で未婚なんて、別に珍しくもない時代だけどな。

私は律の頭をはたいた。
それはいつもの光景だった。

そして、二度と戻らないしあわせな少女時代だった。


*****

1月14日。

この冬初めて降った雪が、生まれ育った町を銀世界に変えていた。

私は桜ヶ丘に帰ってきていた。
大学を卒業して以来、お盆とお正月にさえ帰ってくることがなかった、
久しぶりの故郷。

雪がどんどん降ってくる。
コートにマフラー、耳あてまでしているのに体が震える。
こんなに寒いところだったっけ?
まるで私の知らない町みたいだ。

母は迎えに行くと言ってくれたけれど、私は断った。
久しぶりの桜ヶ丘を、私は歩いて帰りたかった。


帰り道、少し寄り道をして懐かしい家の前で足を止めた。


ピンポーン。


インターホンを鳴らす。
このベルを鳴らすのは何年振りだろう?高校時代以来だから…


『はい、どなたですか?』

「あ、澪です。秋山澪です。お久しぶりです」

『澪ちゃんって…あの澪ちゃん!まぁまぁまぁまぁ久しぶりね!!今玄関開けるわね!』


ぱたぱたと家の奥から駆けてくる音がして、ガチャッと扉が開いた。
何年振りだろう。
久しぶりに会う田井中のおばさんは、相変わらず元気でキレイなままだった。

「うわぁ~澪ちゃん久しぶり!綺麗になったわねぇ…でもどうしたの、突然?」

「お久しぶりです。すみません急に来たりして…」

「何言ってるの、全然構わないわよ!何かあったの?」

「ちょっとこっちに帰ってくる用事があったものですから…律、いつも何時くらいに帰ってきますか?」

「最近忙しくしてるみたいだからね、今日もたぶん…帰ってくるのは遅いんじゃないかしら」

「そうですか…」

「ごめんね。もしかしてあの子、澪ちゃんと約束してた?」

「いや!違うんです。私も何も連絡してなくて…本当に急に帰ってきたものですから…」

「そう、悪いわね」

「いきなり顔見せてびっくりさせてやろうかなーって思って…また私の方から律に連絡してみます」

「家で上がって待っていてくれてもいいのよ?」

「いえ、でもウチで両親も待ってますから…じゃあ…」

「あ、そうだ澪ちゃん」

「はい?」

「お母さんから聞いたわよ。おめでとう」

おばさんはにっこりと笑った。
私はそれに応えるように曖昧に笑いながらお礼を言った。




律は去年の春、桜ヶ丘に帰ってきたらしい。
転勤で勤め先がこの近くになったそうだ。
元旦に届いた律からの年賀状でそれを知った。



私は律に会いに帰ってきた。
律に会うためだけに。
伝えなくちゃいけないことを伝えるために。

*****

どうやら私はまわりの人とはちょっと違うらしい、ということに気がついたのは、
大学生活も終わりに近づいた頃だった。

通っていた大学は女子大だったけれど、
高校生とは違い、さすがは女子大生。
恋人を持つ周囲の友人たちは少なくなかった。

恋愛?
私にとってそれはあくまで物語の中のお話。
自分から遠く離れたことだと思っていた。

私以外のけいおん部のメンバーも、大学に入りたての頃は私とそんなに変わらないくらいの意識だったと思う。
だって晶が高校時代の先輩とどうこう~、なんてレベルの話で盛り上がるくらいだったから。

でもまわりの環境は少しづつ変わってゆく。
部活やバイト、晶たちの高校時代の友達。
人脈が広がるにつれて、私たちも少しづつ男性と接する機会が増えていった。



2回生の夏頃だっただろうか。
私たちの中で初めに恋人ができたのは律だった。


なんだか急に私のまわりの世界が変わってしまいそうで、
とても恐ろしいことのように思えた。


けれど、まず初めに打ち明けてくれた相手が私だったこと、相手の男性は私は勿論、唯もムギも梓も知っている人だったことは、まだ救いだったかもしれない。

対バンで知り合ったその人は、元気いっぱいドラムを叩く律に惚れたんだってさ。

生まれて初めて男子に告白された律が私にこのことを相談してきたときの、
真っ青で追いつめられたような表情が忘れられない。
てっきり必修授業を落として留年でも決まったかと思った。

律は「なんて返事したらいいかわからない」って言ってたけど、
律も相手に好意を持っていることは知っていた。






私は背中を押してやった。











心の内側はバラバラになりそうだったのに、努めて平静を装い、
親身に相談に乗る頼りになる親友を演じていた。

私は律の不幸を願う人間にはなりたくなかった。

でも、精一杯の笑顔を作ろうして…

泣いた。

涙が止めらなかった。
私の泣き顔を見て律も泣き出した。
変な奴。

生まれて始めて告白されて恋人ができたっていうのになく奴があるか…バカ。



二人はうまくいっていた。
見ていてこっちが恥ずかしくなるくらい。

でも、恋人ができたからといって、
律と私たちの関係には、大した変化も見られなかった。

少しだけいっしょの時間は減ったけど、
お菓子を食べて、くだらないことおしゃべりで盛り上がって、みんなで演奏して…
律は律のままだった。

私は安心した。
律はどこにもいかない。
恋人ができたって何も変わらない。
私の隣にいてくれる。

律は私に彼のことをよく話していた。
付き合いが長くなるにつれ、主にそれは愚痴になっていったけれど、
聞かされる方になってみれば、それはのろけ以外の何物でもなかった。

律の彼からもよく、相談を受けた。
喧嘩の仲裁も何度立ち会ったか知らない。
こいつらが結婚することになったら、ご祝儀の2割くらいはもらう権利があるんじゃないかと思ったくらいだ。




唯はこう言った。

「澪ちゃんは二人のキューピットだね!」

ムギは言った。

「結婚にはご両親だけじゃなくて、澪ちゃんのおゆるしも必要ね♪」

梓は…別に何も言ってなかったかな?忘れた…。


『本当に結婚することになったら、誰より先にまず私に報告しろよ。約束だぞ』


…なんて笑いながら話を合わせて言ってみたっけ。ハハ…
そしたら律の奴。照れちゃって…

『結婚なんて…先のことは…わかんねーし……』

バカ。律のバカ。バーカ。


私が二人を結びつけた。
律に恋人ができたことで、一緒にいる時間は減ったけれど、
却って親友としても結びつきは強くなった…

そうだろうか?

律は律のまま、ずっと変わらない?
そんなバカな。

人は変わる。律も変わる。

律の中には私の知らない律が生まれ始めていた。

私は気づいていた。
私が知らない律。
彼だけが知っている律がいること。

少しづつ少しづつ律は変わってゆく。離れてゆく。

私が二人を結びつけるほど、律は私から離れていった。

なあ、唯。私はさ、キューピットなんかじゃない。

ピエロだよ。


私は耳を塞いだ。
私の心の内側の、奥の方から響いてくる音を遮るために。

気づきかけた真実から目をそらし、
反対に深く深く奥の方にしまい込んで、
そっと扉に鍵をかけた。

*****

3回生に進級する頃になると、みんなそれぞれに決まった恋人ができた。私にも。

他人から見れば、それは自然なことなのだろう。

私だっていつまでも高校時代の人見知りの秋山澪じゃない。
男子とだって普通に喋る。それくらい平気になった。

やさしい人だった。
一緒にいて楽しい人、私を大切にしてくれる人…それが私の恋人。
まだあの頃はウブだったから、好きだと言われるまで相手の気持ちには気がつかなかった。

彼を異性として意識したことはなかった。
ましてや付き合う相手として考えたこともなかった。
でも嫌な相手じゃなかったし、断る理由もないと思って私は首を縦に振った。


私もこの人に恋をするのだろうか?
これから好きになってゆくだろうか?


私が告白を受け入れる返事を伝えると、彼は大げさに万歳して喜びを露わにした。


それから…二人で一緒に出掛けたり、手をつないだり、キスしたり、

セックスもした。


普通のカップル。「まともな」…大学生のカップルだった。


でも、それがなんだというのだろう。
昔、夢に見ていた恋物語を自分自身で体感しているような感覚は一切なかった。
いつか訪れるのではないか、と期待していた彼への恋情は、
姿を現す兆しすらいっこうに見せなかった。



大人の恋と子供が憧れていた恋は別物なの?

決まったレールの上を走るように、お約束事をこなしてゆく。
デートして、キスして、セックスをして…やがて結婚でもする、
結婚したら子を産み、育て、年をとり、死ぬ。

大人の恋とは社会的営みの、「まともな」人生の通過点でしかない…。



それが普通?



レールから外れたところにある恋は存在するのだろうか?
あったとして、存在を許されるのだろうか?

結婚もできず、出産もできず、周囲に祝福されず、世間に承認されず、蔑まれ…「まともに」生きていれば約束されるはずのしあわせすら手放して、それでもそうせざるにはいられない、そんな恋はあるのだろうか?

手をつないで二人で出掛けることすら憚られる恋なんて…

私にはわからなかった。
恐ろしかった。
そんなことは考えたくなかった。


みんなと同じように生きよう。
そうだ、それが「まともな」生き方だ。


私は、恋をしていなかった。
いや、恋をしたかったんだ。
「まともに」生きていくために彼に恋をしたかった。
でもできなかった。



そんな私と反対に彼は…私の「恋人」はそうではなかった。
たぶん…本当に恋をしていた。

彼は…今になって思えば…強い愛情を注いでくれていたんだと思う。
いつも私を楽しませようと精一杯頑張ってくれていた。
そして、 私が微笑むと、本当にしあわせそうに笑ってくれた。

私は人として彼に好意を持っていた。
彼となら、ずっと一緒にいてもいいかもしれない。
それくらい彼に好意を持っていたのだ。
けれど、それでも。
私は彼に恋をしていたわけではなかった。


私は「男女交際」という舞台の上で、恋人役を演じているだけだった。


あるとき彼はこういった。
『キミが何を考えているかわからない』。


彼の私に向ける熱情に対して、私の彼への態度は、実に冷静であり続けた。
次第に彼は、私の自分に対する愛情の注ぎ方に不満と不信を募らせていった。

彼は誠実だったんだろう。そして賢明だった。

私が自分に対して恋情を持っていないこと、今後も持つ可能性がないことを悟った彼は、自ら幕引きを買って出た。

どうやら私は、与えられた役を上手く演じられていなかったみたいだ。

「恋人」という役柄を上手く演じきれば、
「結婚」という次の舞台に上がることを許される。
それは世の中の約束事。
けれど私は失敗した。

こうして、大学卒業を前にして私は初めての恋人と別れることになった。

私は一滴の涙も流さなかった。

みんなは泣くこともできないくらいショックだったのだ、と思ったのか、
やさしい言葉をかけ、慰めてくれた。律は一晩中側にいてくれた。

でも私はちっとも悲しくなかったのだ。

だって私は「失恋」していないもの。

私は「まともに」生きることを願った。
外れることが怖かったから。
レールに乗って。
自然に。普通に。

「まともな」恋がしたい。


人一倍恋に憧れていたはず私は、外れることを恐れ、自分の恋に背中を向けた。
それとは反対の遠いところへ、必死に走ってゆこうとしていた。


*****

1月14日、夜。律とのメール。

…今、桜ヶ丘に帰ってきてるんだけど、明日会えないか?…

返事はなかなか返ってこなかった。
これほどメールの返事を待ちこがれるのは、初めてケータイ電話を持ったとき以来のような気がした。

日付が変わる頃になり、ケータイがブルッと震えた。

律からの返事。

…返事遅れてゴメン!澪、帰ってきてるのか!会おう会おう!!夜なら空いてるから大丈夫だ、せっかくだしどこかでおいしいディナーでも…

…何かっこつけてんだ律。普通のところでいいよ、そうだ!久しぶりにMAXバーガーはどうだ?…

…えーっ!この年になって晩飯がハンバーガーって…

…文句言うなよ、いいじゃないか久しぶりなんだし、高校生の気分に戻って、さ…

…まぁ澪がそういうなら、じゃあ18時な、遅れそうになったらまたメールするからな!…

…ああわかった、じゃあな、また明日…

律と会える。明日、律と会える。

いや、もう今日だったな。

*****

社会に出てから、私は何人の異性と付き合っただろうか。
年齢を重ねるに連れて、どうやら私は異性の目から見てなかなか魅力的に見えるらしい、ということを学んだ。
それと同時に付き合い方、あしらい方も覚えていった。



私は恋を知りたかった。
「まともな」恋。
しあわせな恋。
私も、彼も、まわりのみんなもしあわせになる恋。
よかったね、って祝福されて、ありがとう、って返事ができる…そんな恋。


最初のときと同じように、不快ではない相手からアプローチがあったときは、なるべくそれを受けることにした。
一緒にいる時間が増えてゆく過程で、恋とは何かわかるかもしれない。



そうして何度同じことを繰り返しただろうか。
でも、どうしても私には恋ができない。
自然に恋ができない。

「まともに」恋ができない。




私が付き合った相手は、全員向こうから言い寄ってきたくせに、
別れを告げるのも全て相手からだった。
いや違った。
別れを告げることなく別の女と付き合いだした男もいたな。

比較的長く付き合ったこともある。

共に過ごした時間が長くなれば情が湧く。
たまには、この人となら結婚してもいいかもしれない、と思っていた男もいた。

でも相手はそうじゃなかった。一緒にいる時間が増えるほど、
相手の男は私の心の内にある空虚に気づいてしまったのだろう。

この女は自分を見ていない。そう気がついたのだろう。

自分と向き合ってくれない相手とはこれからも一緒にいられない。
その男も賢明だった。
学生時代に付き合った男と同じように、私が相手を見ていないこと、
今後もその可能性がないことを知って、離れていった。


確かに私は相手の男をきちんと見ていなかった。
今まで付き合ってきた男たち、誰一人とも向き合ってこなかった。


私は見つめていたのは、少女の頃、胸の中に宿った幻だけだと気がつき始めていた。
でもそれは幻。
現実になることはない。

「まともに」生きていくために、現実にするわけにも、いかない。

*****

1月15日。

雪はやんでいる。
当たり前だけど今日は平日。律は仕事。
でもちょっと早めに上がってくれるみたい。
うれしいな。待ち合わせは、18時。

雪の通学路を歩く。
3年間、この道をふたりで歩いて通った。

あの頃、毎日のように見慣れた風景が、今はこんなに懐かしい。

つるっ。

うわっ。
周りをキョロキョロ見ていて足元がお留守になっていた。
凍った道に足を滑らせて危うく転ぶところだった。

そういえば昔もこんなことがあったな。

私が滑って転びそうになって、律にしがみつこうとして律まで巻き込んでふたりで転んで…。

思い出し笑いをかみころす。
今はしがみつく相手がいないんだ。転ばないように気をつけなきゃな。


少し早い時間に着いた。

律が来るまでコーヒーを一杯だけ注文して席に着く。

放課後のファーストフード店は女子高生でいっぱいだ。

大きな声で笑い、はしゃぐ彼女たち。
制服の着こなしが自分が高校生だった頃とはちょっと変わっていることに気がついて、時間の流れを感じる。

自分もかつてあの中にいた。
あんなふうに笑っていた。
昨日も今日も明日も…同じような毎日が永遠に続くように思えてならなかった。

「今」が「過去」になるなんて思いもしなかったそんな頃があった。

随分早く着いてしまった。
まだ約束の時間まで30分もある。
ぼんやりと窓の外を見やる。

また少し、雪が降り出していた。

*****

私に好意の眼差しを向けてくる相手は、異性に限らなかった。

女子高女子大と7年間女の園で暮らしていたから、
所謂同性愛者がいることは知っていた。

けれど、私自身が同性に対して特別な感情を抱いたことはなかったし、
昔からそういうアプローチはなくなかったけれど、丁重にお断りしてきた。



私は外れることが怖かった。



私が恋をする相手は異性でなくてはならなかった。

同性が同性に恋をする…世の中にそういう恋が、愛が、存在するのだと頭で理解していても…私自身が嫌悪を抱いていないとしても…まわりはどうだろう?はたして世の中は許してくれるだろうか?
世界の多数派からこぼれ落ちた存在を許容してくれる場所はあるのだろうか?
あったとしても私はそこにたどり着くことはできるのだろうか?

私は怖かった。
だから、考えることをやめた。
とにかく、深く深く気持ちを心の奥にしまい込んだ。

*****

そんな私の前に現れたのは高校時代の同級生、佐々木曜子だった。

恥ずかしい思い出を披露すると、高校時代の私にはファンクラブなるものが存在した。
結成に至った理由はここでは明かせない。
元来照れ屋だった私にとって、その存在は黒歴史。
彼女はその一員だった。

彼女が私に憧れの視線を向けていたことは知っていた。


あの日、高校卒業以来初めて会った彼女は、もう立派な大人の女性だった。



あれは偶然の出逢いだったのだろうか?



あの日、直前になって約束をすっぽかされた私は、
ひとりで喫茶店でコーヒーを飲みつつ本を読んでいた。
そんなときたまたま同じ店に入ってきた高校時代のクラスメイトに声をかけられるなんて。
出来過ぎた偶然じゃないだろうか。

最初、彼女のことがわからなかった。
曜子は曖昧な笑顔を見せた私の表情を見て、そのことを悟ったのだろう。
寂しそうに笑い、高校時代にクラスメイトだった佐々木曜子だと名乗った。


「私は後ろ姿を見てすぐに秋山さんだ、ってわかったよ」

「あの頃から素敵だったけど…本当にきれいになったよね」


曜子はそういって笑った。
彼女の笑顔と言葉には、普通の女友達のものとは異なる意味合いが含まれていることを、私は感じ取っていた。

「もし、よかったら…」彼女は言った。「ちょっと映画でも見に行かない?」



どうせ予定はなくなったのだ。私は彼女の申し出を受けた。


映画はありきたりなラブストーリーだった。

映画の登場人物たちは、どうしてこんなに…自然に…「まともな」恋ができるのだろう。私にはわからない。

まったく持って退屈な展開。
眠たくて仕方がなかったけれど、さすがにそれは誘ってくれた曜子に悪い。
うつらうつらしながらも、寝落ちしないように2時間をやり過ごした。


「退屈だった?」

「え?いや、そんなことなかったよ」

どうやら曜子にはバレていたらしい。

「うそ。秋山さん、寝てたじゃない」

「あ…ごめん」

「ううん、いいの。だって私が無理に誘ったんだし。でも意外」

「なにが?」

「だって、秋山さん。こういうラブストーリー好きかなって思ってた」



十年だぞ。
人が変わるには十分すぎる時間だ。
でも、高校時代の私は、いつかこんな映画みたいな恋をするんだって、
当たり前のように信じていた。


「せっかく誘ったのにごめんねー…そうだ、お詫びに晩ご飯おごるよ」

「いいよ、悪いし」

「なにか予定、あった?」

「ないけど…悪いよ」

「じゃあ、割り勘でいいから付き合って。いいでしょ、久しぶりに逢ったんだし」


こんなに積極的な子だったろうか?いや…そもそも私は曜子のことはあまりよく知らなかった。
それに人は変わる。
十年だぞ?
人が変わるには十分すぎる時間だ。

断る理由のなかった私は、曜子に付き合うことにした。
なかなか雰囲気のあるレストランでディナーを済ませると、彼女はちょっと飲み直さないかと私をバーに誘った。
もうこうなったら、最後まで付き合うつもりで私は彼女についていった。



「映画にレストラン、最後はバー。いかにも定番のデートコースね」

「…そうだな」

「相手が私で残念?彼と一緒に来たかった?」

「そんなことないよ。久しぶりに同級生に会えて嬉しい。楽しいよ」

「そう?ありがと。お世辞でも嬉しい。私も秋山さんに逢えて…嬉しい」


曜子は笑った。
彼女は笑うとき、けして私の瞳から目を離さない。
私はいまさらながらこのときに初めて、なんだか急に緊張したように胸の鼓動が早くなるのを感じた。


「顔が赤いよ、秋山さん。大丈夫?」

「うん、大丈夫。そんなに飲んでないから」

「そう?あまり無理、しないでね」


曜子はそういいながら、カウンターの左隣りに座った私の背中をさすってくれた。
その撫で方は、私の体をさわる時の男のそれとよく似ていた。


「でもちょっと残念だな」

「何が?」

「さっきの話。さらっと流されちゃったけど…恋人、いるんだね」

「まあ、ね。もういい年なんだし」

「そうよね、いるわよね。恋人くらい」


私には曜子の意図がよくわかった。
羽虫のように私に寄ってくる男たちは、こんな風に私を口説くことがあったから。
それに気づいた私は、少し意地の悪い質問をしようと考えた。


「佐々木さんは?恋人、いないの?」

「今はね」

「前はいたんだ。どんな人?」

「いいじゃない。そんなこと。もう忘れちゃった。それより秋山さんは?」

「え?なに?」

「…結婚とか…しないの?」


上目遣いをしながら曜子が尋ねる。


「うまくいけばね。でもよくわかんないかな」

「どうして?何か問題でもあるの?」

「いや別に…何もないよ。たぶんうまくいってる」



その時付き合っていた相手は、本を読むことが好きな、のんびりとして穏やかな男だった。
毎日真面目に働き、帰宅して料理を作り、洗濯を欠かさず、休みの日には部屋をきれいに掃除して整理整頓を怠らず、少しの余暇に読書を楽しむ男だった。

ときに、私をアクセサリーのように…ただ美しい女を横に携えて町を歩きたい…そんなくだらない願望を隠すこともない破廉恥な男もいたけれど、彼はそんな男ではなかった。

彼が、顔を真っ赤にして私に愛を告げてくれたことは、私にとっても嬉しい出来事だった。
いろんな男たちが(ときには女たちも)私に言い寄ってきたけれど、彼ほど真剣なまなざしを向けてくれた人はいなかったように思う。

私は素直に嬉しかったのだ。でも。

私は恋をしていなかった。
彼に恋することはできないでいた。
残酷だけれどもそれは真実だった。

彼がそれに気がついていたかどうか、私にはわからない。


けれど、彼は自分が愛されていなくても、
私が側にいてくれさえすればそれだけでよいのだ、と多くを望んでいないようにも見えた。


彼も、私と同じなのかもしれない。
私がそうであるように、彼も都合の悪い真実から目を背けていたのかもしれない。

この女は自分を愛していない、
そして自分は一生愛されることもないのかもしれない、
という疑念を封じ込めて、私と付き合っていくことができる男のように思えた。

彼となら、恋をしなくても自分の「役柄」を全うできるような気がしていた。
ちゃんと次の舞台に上がることが出来るような気がしていた。


彼となら…結婚して出産して子供を育てて…「まともに」暮らしてゆける。普通に。


恋なんて必要ないじゃないか。
私たちは必要以上に恋愛に縛られ過ぎている。
恋なんてしなくたって生きてゆける。
そう、恋をするより「まともに」生きて幸せになる方が、よっぽど大事なんじゃないか…。

恋って、どんなものなんだろう。一体、なんなのだろう。
それがわからないのだとしたら、私にとって大切なのは、「普通」をはみ出さず、「まともに」生きていくことだった。

彼はいつだって私を大切にしてくれた。
酒の付き合いもほどほどに、約束の時間に遅れたこともなく…今日がはじめてだ。
約束を違えたのは。急な仕事って言っていたけれど…。


「どうしたの秋山さん。ぼうっとして」

「ごめん、なんでもない」

「何か悩みでもあるんじゃないの?」

「ないよ、ないない」

「そう?ならいいんだけど…でも秋山さんも結婚かぁー」

「いやまだ決まったわけじゃないから」

「いずれはそのつもりなんでしょ?」

「うん。たぶん…」

「たぶん、って何よ…好きなんでしょ?彼のこと」


なんでこの歳になって、こんなときに上手にごまかすことすらできないのだろう。
私は変なところで自分に正直だった。

答えに詰まって返事の遅れた私の隙を、曜子が見逃すはずはなかった。


「…好きじゃないの?」

「そういうわけじゃないんだけど…」

「そうかしら?秋山さん、自分に嘘ついてるでしょ」


そう言って、曜子はまた私の瞳をじっと見つめた。
私の神経を逆なでした彼女の図々しい物言いに、腹が立って強い口調で言い返す。


「そんなことない。久しぶり会った佐々木さんに何がわかるんだよ」

「興奮しないで、秋山さん」


手をぎゅっと握られる。心臓を鷲掴みにされたみたいだった。


「私にはあなたの考えていることがわかるの、あなたの本当の気持ち」

「何がわかるっていうんだよ!なんでそんなことが言えるんだ!」

「わかるわ。だって私…ずっと澪のこと見てたもの」


曜子はごく自然に…まるで昔からそうしていたかのように、私を下の名前で呼んだ。


「気づいてなかった?
 そうよね、あの頃の澪は私のことなんて少しも見てくれなかった。
 ずっとあの人のことばかり見てたもの。

 でも今は違うわ。
 今、私は澪を見てる。
 そして澪は私を見てる。
 そうね、私なら教えてあげられるわ。
 澪も、澪の彼も知らない本当のあなたの気持ち。


 私が教えてあげる」


曜子はそう言って、蠱惑的に微笑んだ。

獣を相手に隙を見せてはいけない。
わかっていたはずのに油断した私が悪かった。

今までまとわりついてきた獣(男共)と勝手が違うのは、
相手が同性で旧友だったことだ。

うさぎだと思っていて気を許してしまっていた。
けれど曜子は狼だった。
十年のときを経て、彼女は立派な獣になっていた。

狼は、期を見て牙をむき、私に噛み付いた。
私は振りほどくことができずそれに飲み込まれていった。

*****


17時55分。律からのメール。

『悪い!残業が長引いて帰れそうにない!もうちょっと待ってもらっていい?』

おい。5分前に送る文面じゃないだろ。

『わかった。でも新幹線の時間があるから、待てるの20時までだぞ』

ブーッブーッ…返信早いな。

『な、なんとかその時間までには…ガンバリマス』

おい。それ、ちょっと待つじゃないだろ。まったく律の奴…

でも高校時代と変わらないやりとりに、私はしあわせを感じていた。

*****


私は恐れていた。

同性愛者として、世の中からどのような目で見られるのか…その視線を恐れた。

恋をすることなく、普通に生きることに退屈さを感じながら、
「普通」からはみ出し、
「みんな」から違ってしまい、
「異端」として罵られることを。
好奇と嫌悪の目に見られることを恐れていた。



あれから…曜子との関係は続いている。

但し、二人きりで逢うのは、一週間で一度だけ。
曜日は決まっていない。
私から誘うことはない。
でも彼女に誘われたら私は断らなかった。
その日が無理なら別の日に必ず二人で逢うことにした。

再会したあの日と同じように、レストランで食事をし、ホテルのバーでお酒を飲み、夜を明かした。
周囲から見れば仲のよい友人にしか見えなかっただろう。

曜子は私にまとわりつくような行為は一切取らなかった。

困らせるようなことは何もしない。
逢うのは必ず一週間に一度。
メールも電話も必要最低限。
どこに行きたいとも、言わない。
逢うのはいつも同じレストラン、ホテル。

彼のことをとやかく言うような愚かなことも何一つしなかった。



それが却って不気味だった。





私は曜子の手のひらの上でもて遊ばれているようだった。
ゆっくりと、しかし確実に絡めとられてゆく。
そうして彼女から離れられないようにさせられていった。


私はいつのまにか、曜子から連絡が来るのを、彼女に逢う日を、心待ちにするようになっていた。


私は曜子に恋をしていたのだろうか?


未だに恋とは何かわかりかねている私にとって、
そのときの自分の心の動きを恋と名付けてよいものかどうか判別できなかった。

もし私が曜子に恋をしているのだとしたら、長年の疑問に答えを出すことができる。私が今まで恋をしなかったのは…相手を男性に限定して考えていたからだ、と。

けれどそれは私にとって恐るべき真実だった。

恋を知らぬこと以上に、世間から白眼視されることの方が、
私にはよほど恐怖だった。
だから私は真実をねじ曲げ、奥底に押し込めようとした。


「ねえ澪。私、あなたの彼に会いたいわ」

ある日、曜子の口から、恐れていたひと言が漏れた。

「やあね、そんな引きつった顔をして。何もしやしないわよ」

曜子はカラカラと笑った。私は嫌だと断った。

「嫌ならいいわ。その代わりもう澪とは二度と逢わない」

私は押し切られるようにして、二人を引き合わせた。
彼は、私と曜子の偶然の再会を興味深く聞き入って相づちを打った。
へえ、そんな偶然もあるものなんだね、と。

昔から仲が良かったの?と聞く彼に、曜子は笑顔で答えた。


「そうなんです。私たち、高校時代親友だったんですよ」

「でも大学が別々になってから連絡が途絶えちゃって…再会できたのは運命なのかもしれませんね」

「最近よく澪には付き合ってもらってるんです…私、澪のことが大好きなんです」


そういって曜子は私の方を見た。
その表情にはいつも通り蠱惑的な笑みが浮かんでいた。



彼は私の高校時代を知らない。
昔、音楽をやっていたこと、女子高にいたことくらいしか知らない。

唯のことも、ムギのことも、梓のことも、そして、

律のことも、知らない。

曜子と私が高校時代親友だったと言われて信じてしまうくらい、
彼は私のことを知らない。


その日の晩。曜子から電話がかかってきた。
シャワーを浴び終えたばかりだった私は、慌てて電話を取ると、職場から呼び出されたと嘘をつき、まだ湿っている髪もそのままに彼のアパートを飛び出した。


曜子は私のアパートの前に立っていた。

「ごめんね、急に」

「困るよ」

私は不愉快な感情を隠さなかった。
曜子がこんな行動を取るのは初めてだった。
私は今まで私が築いてきた「普通」の生活が揺らぎ始めていることに恐れを感じていた。


「あら、髪、湿っているじゃない」

「いいよ、そんなこと、どうでも」

「よくないわ、風邪ひくわよ。冬だもの。1月よ、今」

「そんなことどうだっていいって言ってるだろ。なんで急に電話なんてしてきたんだ」

「何を怖がっているのよ」

「何も怖がってない」

「怖がっているわ」

「怖がってない!」

「大きな声を出さないで…取りあえず中に入れて。いいでしょ?」


扉をあけて、私が先に部屋に入る。
私について部屋に入った曜子は後ろにまわして右手で鍵を締めた。


「ねえ、澪」



後ろから声をかけられて振り向くと、不意をつかれて唇を奪われた。


「キス、したくなっちゃったから♪」

「やめろよ、そういうことするの」

「あら、何言ってるの?こういうことするの、大好きなくせに」

「バカなこと言うな」

「何怒ってるのよ。本当なら澪が私に怒られなきゃいけないところよ」

「なんで私が怒られなきゃならないんだよ」

「私は今日一日、恋人が別の男といちゃつく様子を見せられていたのよ、
 つらかったわ。とてもつらかった」

「お前が会わせろって言ったんじゃないか!」

「そうよ。でもいざ会うと、やっぱりつらいものよ」

「勝手だな」

「勝手よ。でも恋ってそういうものじゃない」

「私にはわからない」

「そうね、澪にはわからないわ。嘘ばっかりついてる澪にはね」

「私は嘘なんてついてない」

「そうね、澪は正直なところもあるわ。だって私の誘いを絶対に断らないもの」

「…それは」


「認めたくないの?
 そうよねずっとそうやって大事なときに嘘をついて、
 自分を偽って、逃げるのね。
 『まとも』じゃなくなくなっちゃうのが怖いんでしょ?
 無理よ、あなた。もう『まとも』じゃなくなっちゃっているわ。

 今更なによ。

 昔からずっと、あなたは嘘ばっかり。
 そしてこれからも嘘をつき続けるの。

 『まともな』フリをし続けるためにね」

「…何が言いたいんだ」

「本当にわからないの?」

「わからない」

「結婚するんでしょ、あの男と」

「…聞いたのか」

「聞いたわ。あなたが席を外した時にね。喜んでいたわよ、彼」

「…」


私はため息をついて、ソファに座り込んだ。
曜子はコートも脱がず立ったまま、私を見下ろしている。



「隠していたわけじゃない。そのうち言おうと思っていたんだ」


「別に私、そんなこと気にしないわよ。澪が結婚しようが、しまいが」

「…そうなのか?」

「関係ないわよ。だって私、澪と結婚したいわけじゃないもの」

「それに結婚してもしなくても…

 どうせ澪は私を捨てるわ」

「…そんなことは」

「あら、本当?
 じゃあ一生、私の側にいてくれる?」

「…」


何も言い返すことができなかった。曜子はいつものように私の瞳を見て、言った。






「うそつき」











「…用事はなんなんだ。呼び出したんだから何かあるんだろ?」


私は話題を変えた。こんな話をするために、呼び出したんじゃないだろう。


「来てくれて嬉しい、本当に嬉しいわ。
 少なくともあの男よりは私のことを愛していてくれるのね」

 それともなにかしら。
 私があなたたちの『しあわせな結婚』を邪魔するとでも思った?
 それで必死になって駆けつけたのかしら?」

「本気で怒るぞ」

「怒りなさいよ。
 澪、あなたには本気で私を怒ったりなんてできないわ。
 だってあなた、私を愛していないもの。

 愛していないことに後ろめたさを感じているわ。
 欲望に溺れてただそれを目当てに私と付き合っていることに、
 罪の意識を感じているでしょう。違う?」


私は我慢ができずに曜子の頬をはたいた。
乾いた音がして、彼女の横顔が赤く腫れた。



「あら。少しはかっこいいこともできるのね」

「…バカにするな」

「ついでだから、もう一つ教えてあげるわ。

 私ね、言っちゃった♪」


曜子はたのしそうに、本当にたのしそうに笑って言った。


「あなたの彼にね、『私は澪と付き合っているんです』って♪」

「な…」

「最初はね、理解できなかったみたい。
 だからね…丁寧に説明してあげたの。
 私と澪が、どれだけ逢瀬を重ねているか…
 どれだけ互いを求めあっているのか…。

 ウフフ…傷ついてたみたいね~♪自分の婚約者が浮気してた…しかも『女』と」


私は何も言い返すことができない。


「あら?もしかしてまったく気づいてなかったの?
 さっきまで彼と一緒にいたんじゃなかったの?」


いたさ。でも…わからなかった。私の目にはいつもと変わらないように見えた。


「あらあら…澪ったら、本当に彼のこと、何一つ見ていないのね。
 どうなっちゃうのかしらね?あなたたち。
 結婚、ダメになっちゃうかもね」


音を立てて崩れていく。
大切なものを代償にして、手に入れたいと願った『まともな』人生が。



「アハハ、いい気味よ。罰が当たったのよ」


曜子の甲高い笑い声が、部屋中に響いた。


「澪、あなたはこれまで一体、どれだけ多くの人を傷つけてきたのかしら?これはね、その報いよ」


私の目を強く見据えて、言い放つ。


「あなたは、きっと誰にも愛されない。
 目の前の相手を愛したフリだけして…それが嘘って気づいたとき、
 相手がどれだけ傷つくと思う?
 ずっと嘘をついて、たくさんの人を傷つけて…
 どれだけ罪を犯したかわかっているの?
 それなのにまるで純粋無垢なフリをして、
 これからも嘘をつき続けて…『まともに』生きていこうなんて…」








『わたしはぜったいゆるさない』













今まで必死で守ろうとしてきたことが、全て壊されてしまった。
恋を知らず、そして「まともに」生きていくことも叶わず。


「でもね澪。私はそんなあなたが大好きよ。愛しているわ、澪」


曜子は私を…自分から離れられなくしようとしているのだと思った。

私はもう、それでもいいような気がしていた。
「まともに」生きていくことができないのなら、曜子と生きてもいいように思えた。彼女なら…彼女だけは、私を愛してくれる。

誰か一人でも私を必要としてくれたなら、それだけで私は生きていける。


「だからね、あなたのことが大好きだから…今日はね、どうしても伝えたいことがあったの」









「私たち、別れましょうか」

















「澪に逢うのはこれで最期。もうあなたの前には現れないわ」

「なんで…私が結婚するからか…?」

「ううん」

「じゃあなんで…」

「傷つけてやりたかったからよ」


「なんで…なんでそんな…」


「私だけは、あなたのことを愛していると思った?」

「……」


「そうよ。愛しているわ、澪。
 だからあなたと別れるのよ、あなたのためよ。

 狂ってしまいなさいよ、外れてしまいなさいよ。
 『まともに』生きようなんて…あなたには無理なのよ。

 恋をしたらね、狂ってしまうの。

 澪、あなたはずっと、恋をしていたでしょう?
 狂っていたのよ。それなのに本心を閉じ込めた。
 だからあなたの恋心はいびつに歪んでしまった。

 そうやって苦しんでるあなたを見ているの…ツラかったわ。
 だからなんとかしてあげたかった。

 無理をするのはやめなよ…そんなのちっとも『まとも』じゃないわ。

 私はね、傲慢なことを言うようだけど、これが私の役目だと思っているの。

 あなたのこと、大好きだから。愛しているから。
 澪を愛している私だから、あなたを縛り付ける鎖から解き放ってあげなきゃいけないって思っているの。



 素直に、なりなよ」







曜子の瞳は赤く潤んでいた。
彼女が泣くの見るのは、はじめてのことだった。



「ねえ、澪。
 少しは…ほんの少しくらいは…私のこと、好きだった?」

「…………ああ」

「そう。ありがと。
 でも…『好き』って言葉に出して言ってはくれないのね」


私は自分でどうにもならないくらい残酷らしい。
いつも嘘ばかりついているくせに、なんで肝心なときに…やさしい嘘をつくことくらいできないのだろう。


「わかってるわ。私は澪を抱くことを、澪は私に抱かれることだけを望んだ。
 ただそれだけの関係でしょ。それも今日でおしまい」

「…ごめん」


「いいのよ。私が澪をそうしたんだから。

 …こうしてね、まだ澪が私に抱かれたいと思ってくれているうちに、
 澪の身体が私を覚えているうちに、別れを告げようと思っていたの。

 それに…あなたを傷つけてやりたかったの。

 そうすれば、澪は私のことを覚えていてくれる。
 ずっと忘れずにいてくれる。
 忘れられるのは悲しいもの。高校生のときみたいに。

 今日だって、呼び出せば必ず澪はやってくるってわかってた。
 あなた、ホントにエッチなんだから」


曜子は笑った。
でもその瞳にはいつものように私を惑わせる光は宿っていなかった。


「私…こうして澪のこと…『秋山さん』じゃなくて『澪』って下の名前で呼ぶことができるだけで…本当に幸せだったわ。

 ありがとう、澪」


「ありがとう、曜子。曜子に逢えて、私、よかった」

「うそつき。あなたのうそにはもう、うんざりだわ」


そう言いながら言葉とは裏腹に、曜子はフッとほほえんだ。
そして、スッと手を伸ばし、私の二の腕を掴んだ。


「ほら、行くわよ」

「え?どこに!?」

「決まってるじゃない。
 桜ヶ丘に帰るのよ」

「はぁ!?何で?!」

「はいこれ、高速バスのチケット」

「おい!いつの間にこんなもの…何なんだよ一体!」

「善は急げっていうでしょ、ほら、もたもたしない!」


曜子は強引に私を連れ出してマンションの外に出た。
そこにはもうタクシーが待ち構えている。


「思ったより待たせちゃったわ。悪いことしたわね」

「ちょ、ちょっと!わけがわからないよ!ちゃんと説明してくれ!」

「いつまでもうじうじしてたら何も変わらないの。
 私みたいに行動に出さないとダメ」

「え?」


そうして私をタクシーに押し込むと、駅に向かうよう運転手に言付けた。


「さよなら、秋山さん。
 ちゃんとお膳立てしたあげたんだから、気持ち、伝えないとダメよ」



『さよなら。秋山さん』

*****

20時ちょっと前。律から電話がかかってきた。

『悪い!今近くまで来てるんだけど、雪のせいで渋滞しちゃっててタクシー動かないんだ…悪いけど間に合いそうにない!』

「…わかった。私も急に会いたいなんて言って悪かったよ。
 今後帰ってくるときは前もって連絡するようにするな」

『ホントごめんな…次はゼッタイにこの埋め合わせするから!』



それでも私は待っていた。

律はもう来ないって、わかっているのに。
私はまだ店を出る気にならなかった。

もう少し待とう。
もしかしたら律が来てくれるかもしれない。
律は近くまで来てる、って言ってた。

あと少し…あと少し待っていたら律が…。



……
………
…………
……………
………………
…………………
……………………


20時半を少し回った。律は来ない。

私は店を出た。外では雪がちらちらと降っている。


私は風邪を引いたのだと嘘をつき、仕事を休んだ。
いや、風邪気味だったのは本当だ。
やっぱり半乾きの髪をそのままに、冬空の下、あわてて帰ったのはよくなかった。

有給休暇を使うのははじめてだった。


寒いので少し早足で駅まで向かう。雪のせいか、人通りが少ない。

着の身着のまま帰郷したものだから、手袋を忘れてきた。
そのせいで、手が冷たくて仕方ない。

律の言った通り、道は混んでいる。
ついてない。こんな日に限って雪が降るなんて。


昔はいつでも一緒にいたのになぁ。
あの頃、逢いたい時に律に逢えない日がやってくるなんて想像もできなかった。



サク



 サク


サク

   サク
サク…
  サク…サク…



雪を踏みしめる足音が近づいてきたことに気がつき、私は立ち止まった。
そして空を見上げて大きく息を吸う。

それから、うつむいて息を吐き、唇をきゅっと結んで、振り返った。


「よ、久しぶりだな、律」

「うわっ!なんでわかったんだ!」

「…わかるよ。律の足音は」

「ハァハァ…エスパーかよ…せぇーっかく驚かせようと思ったのになぁー」


そう言って律はいたずらっぽく笑った。

きちんとメイクをして、カチューシャなしに前髪を綺麗に整えた律はすっかり大人の女性の雰囲気をたたえていたけれど、
笑顔は私の知る明るくてキラキラした律の笑顔そのものだった。

どれくらい走ってきてくれたのだろう。
随分と息が荒い、いくつもいくつも白い息を吐きだした。



「お、おい、大丈夫か?」

「…いや…もう…走った方が…ゼェゼェ…早いと思ってさ。
 店に寄ったらもう…澪いなかったし、急げば間に合うかなーって…」

「まったくもう…無理するなよな…」


胸の奥の方から温かいものが広がっていくのを感じた。


「だって…澪に会いたかったから。
 このチャンスを逃したら今度いつ会えるかわかんないし」

「おおげさだな、律は。逢おうと思えばいつだって逢えるだろ」

「何言ってんだ。けいおん部OGの集まりにもぜーんぜん顔出さないくせに。
 唯もムギも梓も、みんな寂しがってるぞ」

「ああ、ゴメンな…忙しくてな…」


ずっと逢うのが怖かった。
律に逢うことで、自分の本心に気づいてしまうのが怖かった。

律だけ避けて他のみなに会う不自然をごまかすために、私はずっとけいおん部の誰とも会わないようにしてきた。



「6年振り…だったっけ?」

「7年振りだ。梓の卒業以来」

「ありゃ?そうだったっけ?…そぉかぁー私たちも年取るわけだよなぁー…」

「そうだな。でも律も大人になったな」

「そう?」

「うん。ホント。それにきれいになった、びっくりしたよ」

「…な、なんだよ急に…///誉めたって何にも出ないぞ?」


頬を赤く染めながら照れる律。こういうところは昔から全然変わらないな…。


「いいよ。何も要らない。律に逢えたんだから。私は十分だ」

「おっと、忘れるところだった。渡すものがあったんだった」

「なんだ、やっぱり誉めたお礼に何かくれるのか?」

「いや…そうじゃなくて…」


そういいながら律はカバンの中をごそごそとあさると、可愛らしくラッピングされた小箱を取り出した。









「澪、誕生日おめでとう!…はい、これ」

「え…」

「ごめんな。今日会えるってわかってたら、もっといいもの準備できたんだけど」

「プレゼント買うために寄り道してて澪に会えなかったら元も子もないところだったぜ…」


「あれ…澪?」


「あらら?」


「…あれー…泣いてるの?秋山さん?」


「泣いてない!ちょっと風邪気味なだけだ!」

「ホントかなぁー??もしかして感動しちゃったー??」



鼻をズルッとすすって私は顔をあげた。



「律のバカ」

「バカとはなんだ、バカとはー!」


バカ。こんなことされたら、もう…私…


「誕生日プレゼントなんて、もうそんな歳じゃないだろ、私たち」

「ま、そうかもな」

「…でも」

「…でも?」

「…すごくうれしい。ありがと、律」

「…へへ」

「覚えてくれてるとは思わなかった」

「覚えてるに決まってるだろ。毎年ちゃんとメールしてるじゃんか」

「…そうだったな」


言わなくちゃ。
今、言わなくちゃ。

これを逃せば、きっと一生伝えられない。



「なぁ、律」

「なんだ?澪」

「今日帰ってきたのには理由があるんだ」

「どうしたんだよ、改まって」

「約束…覚えてるか?」

「約束…」

私は覚えてるよ。

「ああ、覚えてる」

…覚えてて、くれたんだな。

「伝えたいことが…あるんだ」

「実は、私も」


まさか、まさか、ね。でも、律も…律も私と同じ気持ちなら。



「澪から言えよ」

「いいよ、律から言って」

「澪から」

「律から」

「いや、ここは『秋山さん』からでしょう!」

「学校か!バカなこというな。じゃんけんするぞ。負けたら先に言う」

「わかった。じゃーんけーん…」

「「ぽん!」」

私はグー。律は…チョキ。

「私か…」

「なんだ?伝えたいことって?」

「うん…私な…」

「うん」

「私…」

























「結婚するんだ」























「…え」

「って言ってもまだもうちょっと先のことだけどな…」

「…そうか」

「まず誰よりも先に、澪に伝えたかったんだ」

「約束…しただろ?」

「…うん」私は小さく返事をした。

「あ、ちなみに相手は……」


大学時代からずっと付き合っていたらしい。
初めて付き合った相手と結婚か。よかったな、律。


「ゼッタイ別れると思ってたよ」

「うお!ひどい言い草!…ま、でも確かにアイツに私はモッタイナイかもな!」

「逆逆!愛想つかされないように気をつけろよ」


落ちてゆく気持ちを持ち上げて、必死で軽口を叩く。

足ががくがくと震えるのはたぶん、寒さのせいだけじゃない。
私、ちゃんと笑えているかな?


「おめでとう…律」

「ありがと、澪」

「よかったな、好きな人と結婚できて」

「ん…ああそうだな。ずっと…好き………だったからな」


年甲斐もなく頬を真っ赤に染める律。
いくつになっても少女のようだった。



「式では澪に何か余興をやってもらいたいなー」

「それはヤダ」

「思い出ビデオには伝説の学園祭のライブを…」

「やーめーろ」

律…律…もう手に届かないところに行ってしまうんだな…律…。

「じゃあ次は澪の番だな」

「ん?」

「いや、だから澪の番」

「何?」

「何か伝えなきゃいけないことがあるんだろ」

「あ、ああ…」

それはもう、何の意味もないことだった。

「やっぱりいいよ」

「は?なんだそれ…」

「大したことじゃないから。ちょっと律をからかいたかっただけだ」

「はぁ!?久しぶりに会ってすることかよ…」

「昔から散々からかわれてきたんだ。たまにはいいだろ?仕返ししたって」

行かなくちゃ。もうすぐ電車がやってくる時間だ。

「私はてっきり…

 澪も結婚するって話だと思ってたよ」



「……知ってたのか」


「澪ん家のおばさんに聞いた」

風が。冷たい風が吹いている。

「なぁ~んで言ってくれないんだよ?」

「…別に、大したことでもないから」

「大したことだろ」

「大したことじゃないよ。結婚くらい、ほとんどの人がしてることだろ?」

「まあそりゃあ…そうだけど…さ」


伝えなくちゃいけないことは、伝えられない。
知られたくなかったことは、知られてしまった。



「お祝い…したいじゃんか」

「…ありがと」

「結婚式、日取りがかぶらないようにしないとな」

「…そうだな」

「呼んで…くれるよな?」

「…もちろんだ」

この話、やめようよ、律。こんなこと伝えるために帰ってきたんじゃないよ。

「あのさ」

「ん」

「もしかしてだけど…」

「…嫌なのか?」

「え?」

「結婚、したくないのか?」



したくないよ。
私は律といっしょにいたい。
昔みたいに律といっしょにいたい。
今ままで我慢してた分、これからずっと、側にいたいんだ。


「そんなわけないだろ」

「なら…いいけど」

言えるわけない。律のしあわせを壊したくない。

「大丈夫か?」

「何が?」

「いや、その…いろいろと。急に帰ってくるしさ。
 結婚するのにちっとも嬉しそうじゃないし…心配になるだろ」

「やさしいな、律は」

大きく息を吸い込んで、吐き出して、言葉を紡ぐ。
笑顔をつくりながら。

「私は大丈夫。元気だよ」

ちゃんと、笑えているかな?

「…なあ澪」

「その…相手のこと…好きじゃないのか?」

「…」


なんで…なんで…どうして?「好き」って言えないのだろう?
どうしても言えない。
やっぱりこういうときに…嘘がつけない。
だって好きじゃないもの。私が…好きなのは…


「辛かったら…結婚、やめちゃえよ」


「無理だよ、今さら」


「好きな人じゃなきゃ、イヤなんだろ」



律…あのときのこと…、覚えててくれたのか?



「逃げちゃえよ」


「できないよ」

律は私の手を握った。ぎゅっと、力を入れて強く握った。

「…つめた。凍っちゃいそう」

「…心があったかいんだよ。私は」

「ハハ…唯がそんなこと言ってたな、高校ん時だっけ?」

律は俯いてじっと手を見ている。重なった手。私と律の手。



そろそろ電車が来る時間だ。

「行かなくちゃ」


「行くな」

「ここにいろよ」

「明日は仕事だ」

「サボっちゃえよ」

「ダメだよ、そんなの。大人として」

「いいだろ、それくらい」

律は手を離してくれない。

「律…ありがと」

「大丈夫。もう大丈夫だ」

律は何も言わずに下を向いたまま私の手を握っている。


「本当だ。本当にもう、大丈夫だから」


本当。私は大丈夫。
生きてゆける。
こうして律が…強く私の手を握ってくれた。それだけで。

律の手の温かさを忘れずにいられたら、私はきっと、大丈夫。





律のカバンから軽快な音が鳴り出す。


「オイ、律。電話じゃないのか?」

「…いい。大丈夫」

「私のことはいいから電話に出ろよ」

「いいってば」

「…アイツからなのか?」

「…」


律は電話に出ようとしなかった。
けれど一瞬、私を握る力が弱くなった。
その時私はスッと手を引き、

私たちの手と手が離れた。





電話が鳴り止む。

「電話、してやれよ」

「ああ、あとでな」

冷えきっていた手は律のおかげで温かさを取り戻していた。

「行くよ」

「…」

何も言わず俯いたままの律に背を向けて、私は歩き出した。

「…信じていいのか?」

後ろから律が私に声をかける。

「本当に大丈夫なんだな?」

振り返ると、律は顔をあげていた。
気のせいか、瞳は赤くうるんでいる。

「うん、本当だ」

「そっか」

律は笑った。私も笑った。

「そうだ、律」

「なんだ?」

「さっき言わなかったことだけどさ」
「うん」


「私さ…


 律のことが好きだ、」



ようやく、言えた。


「近くにいても、遠くに離れていても。
 昔も、今も、
 これからも、ずっと。

 律のことが好きだ」



律は一瞬ちょっと驚いた表情をしたけれど、すぐにニカッと笑って言った。


「うん。知ってた」

「そっか」

「あったりまえだろ!わかるよ、澪のことは……なんだって…でも」

「でも?」

「うれしい!すっげーうれしい!」

「そっか」

「私も、澪のこと大好きだぞ!」


律がどういう意味で私の言葉を受け取ったのか、それは私にはわからない。

ただこれだけはわかる。律の好きと私の好きは違う。

律が恋をしている相手は、私じゃない。別の誰かだ。
そしてその誰かも律に恋をしている。
二人は愛し合って、結ばれる。

いいんだ。もういいんだ。

踏切の信号機が鳴りだした。
雪のせいで電車が遅れていたらしい。
どうやら間に合ってしまいそうだ。


「じゃあな。少しだけど、律に逢えてよかったよ」

「私も澪に会えて嬉しかった。次はゆっくり会おうぜ」


別れの挨拶を交わし、振り返ることもなく、急いで電車に駆け込む。



電車が出発してからしばらくたつと、指先はまた冷たくなっていった。

律の体温はもう、残っていなかった。

おわり。

おしまいです。
以前書いたものの加筆修正ですが、一応澪誕SSです。

お付き合いくださりありがとうございました。

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