ミカサ「私にも、その表情のつくりかたを教えてくれる?」(142)

乙一氏の著作「GOTH」のパロ
都合により設定捏造しまくり
グロホラー注意

<暗黒系>

「――あ?」

初めてミカサに話しかけられたのは、二年に進級して同じクラスになった時だった。
黒い髪に白い肌、整った顔立ち――だと思う。

ミカサは休憩時間になっても、廊下を歩いている時も、常に一人で行動していた。
俺とは大違いだ。友達は割と多いほうだし、くだらない話で騒いだりもする。
だが、それはあくまでも表面的な付き合いにすぎず、クラスメイトに向けられる笑顔はすべて作り物だった。

教室にだれもいなくなった放課後、ミカサは俺の前に直立して無表情に言い放った。
おそらく、内心では俺のことを嘲っていたのだろう。

それが五月の初めのことだった。
それ以来、俺たちは時々話をするようになった。

ミカサは基本的に黒い色のものしか身に着けず、綺麗な髪から靴まで暗黒に包まれていた。
それは見た目だけの話ではないらしく、凄惨な殺人事件に関する話を淡々と語るその目は輝きを帯びているように見えた。

やがて夏休みが訪れ、登校日にミカサと顔を合わせた俺はある手帳を見せられた。

「拾った」

「俺のじゃねえぞ」

「知っている」

手帳を差し出す彼女には、どこか楽しげな雰囲気があった。
ぱらぱらと中身をめくると、前半部分に細かい文字が連なっている。
後半は白紙のままだ。

「読んでみて」

ミカサの言うとおり、誰が書いたか分からない文字を最初から目で追っていった。

五月十日
 駅前でAという女と知り合う。
 年齢は十六。
 声をかけるとすぐに車へ乗りこんできた。
 そのままT山に連れていく。
 女は窓の外を眺めながら、母親が新聞の投稿欄にこっていることを話す。
 T山の頂上付近に車をとめる。
 トランクからナイフや釘などの入った鞄を取り出していると、女は笑いながらそれは何かと尋ねてきた。
 …………

文章はその先もまだ続いている。
俺はAという名前に見覚えがあった。

……三か月前、登山客によって女性と思われる遺体が発見された。
木の幹が赤黒く汚れているのを不審に思った登山客が視線を移した。
すると、何か小さなものがたくさん釘で打ちつけられているのが目に留まった。
それらがAだった。

彼女の体は森の奥で何者かに解剖され、木の幹に固定されていたのだ。
ある木には上から順番に左足の親指と上唇と鼻と胃袋がはりつけにされていた。
また別の木には彼女のほかの部分がクリスマスツリーの飾りのように並んでいた。

ミカサの持ってきた手帳には、Aという女を殺害し、どの部位から木に貼りつけていったか、
どんな種類の釘を使ったかが、特に感情を交えず記録されていた。

俺はこの事件に関して新聞やネットで情報を漁りまくったから結構詳しい。
それでもこの手帳には、一般に公開されていない情報まで語られていた。

「私は、その手帳の持ち主が彼女を殺害した犯人だと思う」

Aは今も世間を賑わせている猟奇殺人の「最初の」被害者となった。
似た手口の事件がもう一つ起きており、これらは連続殺人として考えられている。

「二番目の被害者のことも、書いてある」

六月二十一日
 買い物袋を抱えてバスを待っていた女に声をかける。
 女はBと名乗った。
 車で家まで送ろうかと話を持ちかける。
 H山に向かっていたところ、家の方角に向かっていないことをさとり、助手席で女が騒ぎ出す。
 いったん車をとめて金槌で殴ると静かになった。
 H山の奥にある小屋に女を入れた。
…………

……彼女が発見されたのは一か月前のことだった。
H山へ山菜を取りに来ていた麓に住む老人は、早朝、いつもは閉まっているはずの小屋の扉が開いているのを発見する。
不思議に思い近づいてみると、異臭が鼻をついた。中を確認すると……

彼女は小屋の床に並べられていた。
一人目と同様、体を各パーツに分けられて。
几帳面にもそれぞれ十センチほどの間隔を開けて縦に十、横に十となるよう、百のパーツに分解されていた。

手帳にはその作業の工程が描写されている。
いまだに犯人は見つかっていない。

「私は、この事件のことをニュースで見るのが好き」

「なんでだ?」

「異常な事件だから」

ミカサは淡々と言った。
俺も同じ理由でいつもニュースを見ていたから、言いたいことはよく分かる。

人間が殺されて、撒き散らされた。
そうした人間と、された人間が実際に存在する。

俺とミカサはこういった残酷な話に特別の興味を抱いていた。
お互いにはっきりと口にしたわけじゃないが、無意識のうちに互いがそうであると感じ取っていたんだろう。

「この手帳、どこで拾ったんだ?」

「喫茶店で拾った。そこは静かな店で、気に入っている」

「雨が降り出して、帰ろうと思っていた客がまた座り直した。その時、客は五人いた」

「私はトイレに行こうと思い席を立った。歩いている時にこの手帳を踏んづけてしまった」

「持ち主に返そうとは思わなかったのか……」

「トイレから出た後も、客の数は変わっていなかった」

「雨は相当激しかったのだと思った。用事で外に出ていた店長は全身ずぶ濡れだったから」

「私は二回トイレに行った。一回目の時、手帳は落ちていなかった」

「その後雨が降りだし、客が固定された。犯人はあの中にいる」

確かに、二つの死体は俺たちの住む町から二、三時間ほどの場所で見つかっている。
だが、あまりに現実味のない話だと思った。

「想像して書いたって可能性もあるだろ?」

「続きを読んでみて」

ようこそ。とでも言いたげな感じだった。

八月五日
 Cという女を車に乗せた。
 S山の近くの蕎麦屋で知り合った。
 山の南側の森に行くと、神社があった。
 女といっしょに、森へ入った。
 …………

手帳の中で、Cの体が破壊されていく。
眼球が、内臓が、子宮が。
そして、彼女は森の奥に捨てられた。

「Cという名前に聞き覚えは?」

「……ないな」

登校日の次の日、俺たちは待ち合わせてS山に向かった。
学校の外でミカサと会うのは初めてだった。
私服姿が新鮮だったので、じっと見ていると嫌な顔をされた。
周辺に一軒しかない蕎麦屋でミカサは言った。

「ここで犯人とCは出会った」

俺は手帳をめくった。持ち主を示すようなことは書かれていない。
手帳を警察に渡すという考えはなかった。
別に良心は傷まない。ひどい人間だと自分でも思う。

「四人目の犠牲者が出たら、俺たちが殺したことになるんだろうな」

「いたたまれない」

俺とミカサは蕎麦をすすりながらそんな話をした。

神社に向かって歩く途中、ミカサはずっと手帳を眺めていた。
犯人が触ったであろう箇所を何度も指でなぞっている。
崇拝にも似た気持ちを抱いているのかもしれない。俺もそうだった。

もちろん殺人はいけないことだし、犯人は逮捕されるべきだと思う。
でも俺たちは虜になってしまったんだ。
奴らは日常にひそむ一線を越えて、人間の尊厳を踏みにじり破壊しつくす。
それが悪夢のように俺たちを惹きつけてやまないんだ。

神社にたどり着き、死体の捜索に取り掛かった。

Cは、大きな木の根元に座っていた。首の無い状態で。
頭部は割かれた腹の中にあった。
えぐられた眼球はそれぞれの手の中に握らされ、眼窩には腐葉土が塗り込められていた。
木の幹に巻かれていたのは、かつてCの腹の中にあったものだった。

俺たちは何も言わず、死体をただ静かに見た。

帰りの電車の中で、ミカサはぼんやりと景色を見つめていた。

「手帳を返してほしい」

次の日。いつものように簡潔なミカサからのメールを受け、俺たちは駅前で待ち合わせた。

ミカサはいつもと違い、女子高生らしく可愛らしい恰好をしていた。
そのため最初は誰なのか分からず、まじまじと見つめてしまってまた嫌な顔をされた。

ミカサはあの場所から立ち去るとき、地面に落ちていたCの服を拾っていた。
服は切り裂かれていたので、似たものを探したんだろう。

「遺体のことをCの家族に知らせるか?」

「彼女は、いつ警察に見つけてもらえると思う?」

まるで会話になっていないが、知らせる気がないということは分かった。

ミカサの様子はいつもと違っていた。
明るく社交的で、どうでもいい話で頬を緩めたりする。
最初は違和感がぬぐえなかったが、そのうち俺の目の前にいるのはCなんじゃないかと思い始めた。

「当分その格好で過ごすのか?」

「面白そうだから」

ミカサは自然と俺の手を握って歩いた。
無意識だったらしく、俺のほうからも特に指摘はしなかった。

きっと俺は死んだはずのCに手を握られているんだろうな。

ミカサと別れて家に戻り、まずテレビをつけた。
例の猟奇殺人についてニュースが流れていた。

内容は今までに見たものを繰り返しているだけで、目新しいものはない。
Cの名前はまったく出てこなかった。

画面に映る被害者たちの写真を見て、俺は少し嫌な予感がした。
でも、そんなことが起こるのはめったにないはずだ。
そう思って否定しようとしたが……

写真に写っていた二人の服装、髪型がCに似ていた。
つまり、今のミカサは殺人犯が追い求めるタイプだということだ。

駅前であった三日後、ミカサからメールが届いた。

「たすけて」

俺はしばらく考えて尋ね返した。

「何があった?」

返信は来なかった。
俺は気になってミカサの実家に電話する。
彼女は家に戻っていなかった。

まさか、ミカサが襲われるとは。
犯人はやはり喫茶店の近所に住む人物で、ミカサと生活圏が重なっていた。
殺したはずのCが歩いているのを不審に思ったのかもしれない。

今頃ミカサは殺されているんだろうか。
山奥に撒き散らされた死体は、きっと綺麗なんだろうな。
そんなことを考えながら眠りについた。

翌日、ミカサの家にもう一度連絡をした。
やはりまだ戻っていないようだ。
無断外泊は初めてらしく、母親は心配していた。

「ところであなた、あの子の彼氏なの?」

「いや……違います」

「またまた、私にはわかってるのよ」

母親は、ミカサとは似ても似つかず陽気な人物だった。

「最近あの子服装も明るくなったし、男が出来たに違いないって」

「あのー、彼女の部屋に手帳が置いてありませんか?」

「ああ、確か机の上に……」

ミカサは手帳を持ち歩いていたわけではなかった。
口封じのために殺されたわけではないらしい。

手帳を受け取りに家を訪ねることにした。

「まあまあ、いらっしゃい」

母親は愛想よく俺を出迎えた。
手帳受け取りながら、中身を読んだかと尋ねると彼女はいいえと答えた。

「あの子、二年生になってちゃんと学校に行くようになったと思ったら……こういうことだったのね」

ミカサは一年のころはあまり登校していなかったらしい。
趣味が特殊なうえに不器用だから、そうなってしまうんだろう。

「娘さんを最後に見たのはいつですか?」

「昨日の昼ごろだったかしら。家を出で行くのを見たけど、行き先は聞かなかったわ」

「娘を見つけてくださるの?」

俺ははいと答えた。

ただし、生きた状態ではないでしょうね。

手帳には山の名前が連なったページがあった。
死体遺棄のしやすい山をリストアップしてあるんだろう。
◎マークの付いた山が四つあり、そのうちの三つで死体が見つかっていた。

俺は残るN山に登りミカサの死体を探した。
歩き回りながら犯人のことを考えた。

心理分析なんてガラじゃないよなと思いつつページをめくる。
汗が一滴したたり落ち、文字が滲んで読めなくなった。
犯人は水溶性のインクを使ったのか。

犯人はどこでこの文章を書いた?
家や車に戻ってからか? 
おそらく犯行中じゃない。犯行を思い出し、想像に浸りながら書いたんだ。

俺は山を下りることにした。
もしかしたらミカサはまだ殺されておらず、捕まっているだけなのかもしれない。
もしすでに殺されていたら、死体をどこに捨てたのか聞き出す必要がある。
なぜかって、見てみたいからだ。

どっちにしろ山を下りて、犯人に会いに行くつもりだった。

例の喫茶店は、駅前の繁華街から奥まった場所にあった。
入るのは初めてだったが落ち着いた雰囲気で、ミカサが好みそうだと思った。

店内には俺以外に一人、若い女性の客がいた。

注文を取りに来た主人に俺は尋ねた。

「あそこにいるのは常連の方ですか?」

主人は無言でうなずいた。
小柄だが眼光鋭く、妙な威圧感のある男だった。

俺の質問を不審に思ったのか、主人が怪訝そうな顔をする。
何でもありませんと取り繕い、さらに訊いた。

「握手してくれませんか? 記念に」

主人は不思議そうな顔をしたが応えてくれた。
ごつごつした手だった。なるほど、この手で。

「俺はミカサって子の友達なんですけど」

「常連だな」

「その子、まだ生きてますか?」

「……」

主人は動きを止めた。

鋭い目が、何の感情も宿さず俺を見つめている。

彼が犯人である可能性が一番高いと俺は思っていた。
そしてそれが正解であったと悟った。

「この手帳は、ミカサが先日拾ったものです」

「よく分かったな」

俺は主人に考えたことを説明した。

この手帳は何のために書かれたのか?
記念のため? 犯行を思い出すため?
どちらにしろ、犯人にとっては大切なものだ。落としたことに気づかないはずがない。

ではいつそれに気づいたのか? おそらく一日は開いていないはずだ。
そして、最後に手帳を読んだのはいつだったかと思いだし……
その間に自分が動き回った場所を探すだろう。

これは俺の勝手な思い込みだが、犯人はある程度狭い地域で手帳を落としたのではないか。
なぜなら、手帳を頻繁に見たいからだ。
暗黒の気持ちに支配されそうになったとき、自分で書いたそれを見て心を落ち着ける。
だから手帳を落とした場所は限定される。犯人は捜しまわった。しかしない。

ここで犯人はどう考えるか?
おそらく、手帳は誰かに拾われてしまった。

……だったら新たな犯行は控えるはずだ。少なくとも俺ならそうする。
しかし、ミカサはいなくなった。

我慢できなくなったとか? いや違う。
手帳には三人目の被害者のことが記されていた。
しかし、ニュースを見ても一向に彼女が見つかった様子はない。
そこから犯人が導き出した答えは――

「手帳は誰かに拾われたが、内容は読めなかった」というものだ。

「……それで、どうして犯人が俺だと?」

「インクは水溶性で、水に濡れると文字が読めなくなる」

「犯人は外で手帳を落としたんじゃないかと考えたんですよ」

「そしてあの日、雨の中外に出て行ったのは……あんただけだ」

ほとんど想像だけで組み立てた話だったが、主人は無表情にこう告げた。

「ミカサは二階にいる」

彼は手帳を大事そうにしまうと、店を出て行った。
常連客がレジに向かい、マスターは? と声をかけたが、俺は首を横に振った。

ミカサは縛られていたが、乱暴された様子はなかった。

「あの店長は骨折したふりをして荷物運びを私に頼んだ」

「……気づいたらこうなっていた」

俺はあたりを見回し、棚にナイフセットを見つけた。
机の上には無数の十字架が描かれた紙が置いてあった。
おそらく殺人に使われたナイフでロープを切ってやる。

「早く逃げないと見つかってしまう」

「あの人はもう来ねえよ」

おそらく二度とこのあたりには現れないだろう。俺はほぼそう確信していた。
口封じのために俺やミカサを殺しに来る可能性がないわけでもなかったが……
俺とあの異常者は、どこかで心を通じ合わせてしまった気がした。

「あなたにメールを打ったけど見つかってしまった」

「ひどい目に遭った。ので、もうこの店には来ないことにする」

ミカサは少し不機嫌そうだった。

俺はナイフセットと紙を拝借することにした。
全てを知った警察がここを捜索した時、凶器が見つからずに困るかもしれない。
でもそんなことはどうでもよかった。

「でもよかったじゃねえか。あの人に会えて」

「あの人……? そもそもあの店長はなぜ私をこんな目に」

ミカサは気付いていないようだ。
まあ、それもいいだろう。
俺は紙の上の十字架をいつまでも見つめていた。

つづく

乙!


良い!!

乙ですが、駄目ならいいんですけど誰が喋ってるか書いてほしいです。駄目ならそのまま見ます。作品自体は期待です

応援ありがとうございます

>>24
小説っぽくしたいのでこのままいきます。ごめんなさい。

<犬>

ぽたぽたと血を流しながら、相手は茂みの中へ逃げ込もうとする。
でも、私にとって前に回り込むのは簡単だった。
目の前の生き物は全身ぼろぼろで、もう抵抗することもできないだろう。

早く楽にしてあげたい。

私は相手の首筋に噛みついた。ごきりという音がして、その動物は力なくたれ下がる。
容赦はしない。
本当はこんなことしたくないけど、サシャがそう望むから、私は相手を殺す。

口を開けるとその動物は落下し、地面にどさりと横たわった。
私は吠えた。

この四本足の動物は、さっきサシャが橋の下へ連れてきたものだった。
ある家の前を通りがかったとき、サシャがじっと立ち止まり、品定めをするように門の奥を見ていた。
彼女の視線の先を見ると、この動物が首をかしげて私たちを見返していた。
サシャは私を見て言った。

――今夜の獲物はこの子にしましょう。

私にはサシャの話す言葉が理解できるわけじゃない。
でも、何を言っているのかはなんとなく分かる。

この儀式は時々、夜に行われる。
街で見つけた獲物を橋の下に連れて行き、サシャが私たちを戦わせる。

彼女の命令に私は従う。
サシャの命じるまま私は地を駆け、飛び掛かり、喰い殺す。
獲物はいつも私より体が小さいから、飛び掛かっただけで簡単に壊れてしまう。

私が勝つとサシャは嬉しそうにする。
言葉は通じないけど、彼女の感情は自然と私の中へ流れ込んでくる。
だから、喜んでいることがよく分かる。

サシャは私が小さかったころからの友達だ。
母親に抱かれて眠っている時、サシャが好奇心旺盛な顔で私を見下ろしていた。
そのことを未だに覚えている。

戦いを見守っていたサシャが立ち上がった。

――帰りましょう。

私は死骸を咥えて、草むらを分け入った先にある穴の中に捨てた。
穴は私たちがこの場所を見つけた時からそこにあって、誰が何のために掘ったのか分からない。
死骸を放り込むと、小さな相手の体はまっすぐに落ちていき、やがて見えなくなった。

儀式を始めたばっかりのころは、頭が真っ白になってどうすればいいのか分からなかった。
でも今は違う。戦いに慣れ、冷静に相手を殺すことができる。
強くなった私を見て、サシャは満足そうにする。

ふと、誰かの気配を感じて振り返る。
草むらが音もなく揺れていた。
……気のせいか。

放課後、ミカサと駅前で待ち合わせをしていた。
ミカサはベンチに座って本を読んでいた。黒い綺麗な髪の毛が顔を隠している。
俺が声をかけると彼女は顔を上げた。相変わらず人形みたいに整った顔だ。

「では、行こう」

ミカサがよく通っている古本屋に案内してもらう予定だった。
歩きながら俺は尋ねた。

「最近、近所で起こってるペット誘拐事件を知ってるか?」

ミカサは首を横に振った。知らないらしい、俺は説明した。

近所で飼われていた犬が、朝起きると忽然と姿を消していた。
最近多いらしく、一週間に二度、火曜と金曜の夜に犯行があるのだという。
さらわれたのはすべて犬だった。

「犯人は犬を集めてどうするのだろう……ちょっと待って」

俺は立ち止まった。どこかで犬の鳴き声が聞こえる。

「古本屋はまた今度にしよう」

ミカサは残念そうだった。
こう見えて結構頑固なところのある彼女を屈服させるとは。

「犬が怖いのか?」

返事はなかったので肯定と受け取った。

反対方向へと歩き出そうとしたミカサは、少し歩いてまた立ち止まった。

「しまった。挟まれた」

道の先から、大きな犬を連れた女子高生が歩いてくる。うちの学校の生徒じゃない。
犬はゴールデンレトリーバーだ。豊かな毛並みをしている。
女子高生のほうは髪をポニーテールにまとめ、快活な印象を受けた。

すれ違う瞬間、犬のほうと目が合った。深くて暗い、知的な目をしていると思った。

一人と一匹は家の中に入っていった。
犬小屋は見当たらない。中で飼ってるのか?

女子高生と犬がいなくなると、壁際にピッタリと身をくっつけていたミカサは何事もなかったように歩き出した。

「危ないところだった」

内心ほっとした様子だった。
別の道を通って古本屋に行けないかと尋ねてみたが、遠回りになるのでよそうと返ってきた。
すでに案内する気がなくなっているらしい。

俺は歩きながら事件のことを考えた。
何故週に二回、火曜と金曜の夜に活動するのか?
連れ去られた犬たちはその後どうなるのか?

俺とミカサは異常な事件や、それを実行した人間に対して暗い魅力を感じる。
心が引き裂かれそうになるほど悲惨で、不条理な、死。
その向こう側にある、暗い底なしの穴を見てみたい。

今回の事件は別に異常って程じゃないが、近所というのが気にかかる。
外国の大火事より身近なボヤ騒ぎだ。

「連続飼い犬誘拐事件の犯人がどんな奴か興味はないか?」

俺が尋ねると、ミカサは無表情にこう言った。

「分かったら教えてほしい」

やっぱり犬が苦手なんだろ可愛いところあるよな、なんてからかってみたくなったが、やめにした。

家には私とサシャ、そして「ママ」が暮らしている。
「ママ」は朝早く出ていき、夜遅くまで帰ってこない。

時々「ママ」と一緒に大きな人間の男が家にやって来る。
私とサシャはそいつが大嫌いだ。
なぜなら、そいつは「ママ」がいないときサシャをいじめるからだ。

そいつは家に上がると「ママ」に笑いかけながら私の頭をなでる。
でも、決して目を合わせようとはしない。
そいつの手の感触を感じながら、私は噛みついてやろうかといつも思う。

あいつの態度は家に来るたびにひどくなった。
おなかを蹴られたサシャが苦しそうにうめく。
庇うように立った私がそいつを見上げると、舌打ちをされた。

あいつが家に来る日は決まっている。そんなとき、私たちは耐え切れずに家を出る。
サシャが私に動物を殺させるようになったのは、あいつが来るようになってからだ。
私といるときはいつも楽しそうなサシャが、時々ぞっとするような暗い目をするようになった。

私はそれを、悲しく思う。

「気づいたのは夜中の十二時頃だったわ」

幼い赤ん坊を抱いた主婦は、俺にそう説明した。

「寝る前に主人が様子を見に行くと、小屋にいなかったの……」

学校の帰りに、犬をさらわれた家を訪ねることにした。
俺は高校の新聞部で、ペット誘拐について調べているんだと説明しておいた。

「そういえば、夜の十時ごろ激しく吠えていたような気がしたわ。よく吠えるから気にしなかったのだけど」

「それが最後に聞いた声ですか?」

俺がそう聞くと、主婦は悲しげに目を伏せた。

「犯人は犬小屋から紐を外したんですか」

「いいえ、紐は残っていたわ。それと、食べかけのからあげが落ちていたの。多分家庭で作ったものよ」

手なずけて誘拐したのか。庶民的な感じがすると思った。
俺は取材に協力してもらったことを感謝するふりをした。

「いいえ。それより、犯人を絶対に見つけてね」

静かだったが、彼女の声には殺気がこもっていた。

別れを告げて背を向けたところで、向かいの家も犬を飼っていることに気が付いた。
背丈が俺の腰ほどもある、黒い毛の大きな犬だ。

「チョコレート、という名前なの。そうね……あの子はあんまり吠えないから」

犬小屋はこの家よりも目立つ位置にあったが、静かにしていたので気づかれなかったのかもしれない。

家に帰ると、妹と母親が並んで夕食の支度をしていた。
俺とは違って性格のいい妹はよく家の手伝いをしている。
この調子で将来は俺の代わりに、妹が両親の老後の世話をすることになるんだろうな。

そんな妹にはある特別な才能がある。
その点について俺は一目置いているが、本人はほとんど呪いのように思っている。
だがこうして普通に生活している分には、どこにでもいる人間に見える。

「あんた、またゲームセンター行ってきたの?」

帰りが遅くなったときにはそう言い訳することにしている。
俺はぼんやりと料理を作る二人の背中を見つめた。息があっている。
二人が話しかけてくるので、俺は適当な返事をする。

「もう、笑わせないでよ! こぼれちゃう。それで? コニーって子はどうしたの?」

妹にそう言われて、俺は学校であった面白い話をしていたことに気づく。
時々、自分が何を言ったのか、なぜ周囲の人間が笑っているのか、何もかもわからなくなる。
なぜなら家族やクラスメイトとの会話のほとんどは、無意識の反射に過ぎないからだ。

それでも不審に思われることはない。
はたから見ている分には何も問題は起きていないんだ。
実際、家族が俺に向ける視線は「勉強は苦手だが人を笑わせる元気で明るい青年」に向けられるのと同じものだ。

でも俺からすれば違う。
俺たちの間に何の会話もなかった。話したことは次の瞬間には忘れている。
俺はずっと黙っているのに、なぜか周囲の人間は笑っているという不思議な感覚にしばしばなった。

「友達の家で飼ってた犬、いなくなっちゃったんだって」

妹の発言に俺は耳をすませる。

「ソーセージでおびき寄せたような跡があったって……」

「犬の種類は? 大型犬か?」

そう聞くと、妹が眉をひそめて俺を見た。

「お兄ちゃん?」

どうやら俺は、家族に対してあまり見せないような顔をしていたらしい。

「ん? どうした?」

そう言って俺はごまかした。

「いなくなった犬は、雑種だったみたい。結構小さいの」

それを聞いて、俺はさきほどの飼い主に聞き忘れたことがあったのを思い出した。

「すいません。お宅で飼ってた犬は、どれくらいの大きさでしたか?」

「それを聞くためだけにまた来たの……? まだ子供だから、それほど大きくはないわ」

俺は礼を言って立ち去った。

犯人はなぜ犬小屋に紐を残していったか。
紐を首から外し、抱えて運んだのか?

そしてなぜ向かいの家で飼っていた静かな犬を狙わなかったのか?
犯人が、小さな犬を選んでいるとしたら?

なせ小さな犬ばかり狙うのか?
犯人は車など、犬を運ぶ乗り物を持っていないんだ。

俺は前に読んだ異常快楽殺人における心理分析の本を思い出した。
犯人は無意識のうちに、自分よりも小さい獲物を選ぶという。
この飼い犬誘拐事件に関しても同じだとしたら……?

家に帰ると父親が仕事から帰って来ていた。
俺はコンビニに行っていたと説明し、自然な様子で家族の会話に混じり、さりげなく庭で犬を飼っている家をたずねた。

「あ、あそこの犬ってかわいいよね。なんで家の中で飼わないのかな?」

「家の中だとうるさいからじゃないか」

妹の疑問に父親が答える。
今日は火曜日だ。夜、その家に犯人が現れるかもしれない。

夜の十時。犯人が来るとしたらそろそろだ。
俺はポケットに手を触れ、ナイフの感触を確かめた。
例の主人から譲り受けた――強奪した――武器だった。

犯人を見つけても遠くから眺めるだけなのでいらないっちゃいらないんだが、何となく持ってきた。
このナイフは使われるべきなんじゃないかと思ったからだ。

時計を見る。水曜日になっていた。
今回ははずれか。

家に戻ると両親は眠っていたが、妹が受験勉強のために起きていた。
コンビニに行っていたと俺は説明した。

今日はあいつの来る日だと分かっていたのに、居眠りした私がいけなかった。
サシャの悲鳴で目を覚まし、声のしたほうへと駆けた。

サシャが倒れて呻いている。痛みをこらえるような悲しい目をしている。
あいつは無表情にサシャを見下ろしていた。
ああ、なんて無力なんだろう。

体中が怒りに沸騰する。私は吠えた。
あいつは振り返ると、目を大きく広げて驚いていた。

倒れていたサシャが私に目を向けた。愛しいものを見る目。
私は命に代えても守らなければならないと心に誓った。

玄関の開く音がし、「ママ」が帰ってくる。
あいつの手に噛みつこうとする私を「ママ」が押さえつける。あと少しだったのに。

その隙にサシャが立ち上がり、私たちは一緒に家を飛び出した。
外は真っ暗だったけど、サシャと一緒だったから私は怖くなかった。

――夕方に見つけたあの家の動物を、今夜の獲物にしましょう。

サシャはそう言った。今日散歩をした時に、連れ出せそうな動物を見つけていた。
私たちはその家を目指した。

サシャも気づいていると思うけど、最近獲物を見つけるのが難しくなっていた。
私たちの存在が警戒され始めている。
もし誰かに見つかってしまったら……そう考えると恐ろしかった。
離れ離れになってしまうのはきっと死ぬことよりも辛い。

その家が見えてきたとき、私はかすかな物音を聞いた。
誰かがいる。私たちを監視しているのかもしれない。

私はサシャに目で語りかけた。今日はやめにしよう、と。
サシャは私に何かを殺させたがっていたけど、私は何も殺さずに済んでほっとしていた。

でも不安は消えなかった。
私たちを追う誰かは、そのうち目の前に現れる予感がしていた。

水曜日、俺は家族やクラスメイトに消えたペットがいないかさりげなく尋ねた。
その結果、犯人はその夜には何もしなかったらしいことが分かった。
ペットの消えた家で聞き込み調査もしたが、特に成果は得られなかった。

金曜日になった。今日もまたどこかでペットが消えるのか。
そう考えながら歩いていると、声をかけられた。
中学の制服を着た妹が自転車を押しながら歩いていた。

「今日は塾じゃなかったのか?」

「わけありでね」

俺は何が起こったのか――何を見たのかを悟った。

「また、見たのか」

「うん」

妹はよく死体を発見する。
本人は嫌がっているが、天賦の才能だと思う。

最初は小学生の時、遠足で道に迷って行き倒れを。
次は四年後、海で水死体を。
次は二年後、頭蓋骨に足を引っ掛けて転んだ。

感覚がだんだん短くなっているのがわかる。
この調子だと婆さんになったら一分に一体の死体を発見するかもしれないな。

「それで、何を見たんだ?」

「塾に行く途中……ちょっと、気持ち悪いものを……」

妹の話によると、自転車に入れておいたタオルを落として土手に拾いに行っていたらしい。
大きな橋のかかった、開けた土地である。
草むらをかき分けて歩いていると、穴の周りを蠅が飛び回っているのが目に入った。
穴を覗き込んでみると……

「……」

穴の中には、おびただしい数の、何かの塊が敷き詰められていた。
ぼろぼろで原形をとどめておらず、最初は何なのか分からなかった。
黒く、そして赤い塊だった。

俺は腐臭に耐えながら屈んで底を覗き込む。
犬らしい顎、尻尾、そして首輪が見えた。
ぐちゃぐちゃになった毛皮の間から無数の蛆が這い出している。

これらがかつては野山を元気に駆け回っていたのかと思うと、不思議な気分になる。
これこそが、死と破壊の持つ魅力だった。

ミカサに知らせなきゃな。でも犬はだめだったか。

俺は妹を先に帰らせ、例の土手へと足を延ばしていた。
妹の見つけたものは俺の探していたものである可能性が高い。
俺は正直者だから、素直に今も寝込んでいる妹が羨ましいと思った。

この穴の底に、あの主婦が飼っていた犬もいるんだろうな。
俺はその場を立ち去った。夜に、また来るつもりだった。

「今日は犬好きの人間が見られるぜ。一緒に来るか?」

「ごめんなさい。本当は行きたいのだけど、宿題があるから」

「宿題なんか出てなかったぞ」

「……お母さんが病気で死にそうだから」

「無理に誘ったりしねえよ。じゃあな」

俺は電話を切り、土手へと向かった。

雑草の中に身を隠す。カメラも準備していた。
十二時ちょうどに犯人はやって来た。

茂みの中をゆっくりと進んでいく。草に隠れてここからではよく見えない。
やがて円形の開けた土地に一人と一匹の姿が現れる。

ポニテの女子高生と、毛並みのいい犬。
前にミカサとすれ違ったのを思い出す。

女子高生の胸には小さな犬が抱かれていた。
犬は暴れまわるが逃げ出すことは叶わない。犬の扱いに慣れているようだ。
俺はカメラを構えた。

そこで、おぞましいものを見た。

私と相手の犬を残して、サシャは離れた場所に座った。
いつもそこで殺戮を眺めるのだ。

相手は不安そうな声で鳴いた。飼い主を捜しているんだろう。

――かかって!

サシャの名が下る。私は地を蹴り、一気に距離をつめ、肩からぶつかった。
相手は跳ね飛ばされ、転がる。

――噛みついて!

彼女は叫ぶ。憎しみに焦げ付いた声。
あの男に向けられたものだ。
私にこうさせることで、サシャは心にたまった苦しみを開放している。

どうしてこうなってしまったんだろう。私は吠えた。

相手の毛が空中に飛び散り、痛みによろめく。
ようやく立っている、といった状態だ。

今、終わらせてあげるから。

私は心の中でそうつぶやき、相手を押さえつけた。
上あごと下あごを大きく開け、首の後ろに噛みつく。
歯が皮膚を突き破り、深く食い込む。溢れる血液で口が濡れた。

私は殺すことがうまくなった。それがいいことか悪いことかはわからない。
でも私の顎は武器にもなるのだと、彼女は教えてくれた。

やがて相手は動かなくなり、体温が失われていくのが分かる。
サシャは立ち上がった。彼女の強い意志が流れ込んでくる。
私はたった今、この儀式の意味を理解した。

――あれは今夜、うちに泊まってます。

――明日の朝、決着をつけましょう。

サシャはそう言った。

私は死骸を穴に捨て、口を川の水で洗い流した。
還ろうとして、ふと足を止める。

――どうしたんですか?

私は背後の草むらを振り返った。さっきまでそこに誰かがいた気がしたからだ。
なんでもないよ、行こうと声をかける。

私たちはもうここに来ることはない。二度と会うこともないだろう。
でも、そこに潜んでいた誰かに、私たちの行動の意味を教えてあげたい。
不思議とそう思った。

「ペット誘拐の犯人を突き止めたぜ」

「そう……。眠いので、また今度」

相変わらずそっけないな。
撮影には失敗した。気づかれないようフラッシュは焚けないし、街灯の明かりだけでは不十分だった。

俺は女子高生と犬の家に向かった。
今日は土曜日だが、何かが起こる予感がしたのだ。
念のためナイフも持ってきていた。使う機会があればいいんだけどな。

朝が来た。
私たちは決心して、布団を離れる。

私とサシャは、音を立てないよう廊下を歩き、「ママ」の部屋の前に立った。
あいつはいつも「ママ」の部屋で寝るけど、「ママ」は朝早く出かけていく。
今はあいつ一人だ。

私はゆっくりと部屋の中に侵入した。入口でサシャが心配そうに見守っている。
あいつはぐうぐうと眠っている。

一瞬、視界の隅で何かが動いたような気がした。
私は警戒したが、カーテンが揺れただけかもしれない。
今は目の前の男に集中しなければ。

私は振り返り、サシャを見つめた。
言葉はいらない。何をしてほしいのか、目を見ればわかる。

私はゆっくりと顎を開けた。
今まで行ってきたことをこいつ相手にやればいいだけなんだ。

私は噛みついた。
歯が男の喉に食い込み、皮膚が破け、血があふれ出した。
そのまま食いちぎるつもりだったけど、人間の喉はやっぱり強靭だった。

男が目を覚ました。

上体を起こしても私は離れない。男の動きにしたがって私も引っ張られる。
男は悲鳴を上げた。ようやく事態に気が付いたらしい。
でも大きな悲鳴は出なかった。喉の重要な部分はもう壊れてたから。

男は私に気づいて目を見開き、頬をぶった。
私は床の上に転がる。口の中に含んでいたものを吐き出す。
とうとう噛み千切ってしまった喉の肉片だった。

男は茫然とした顔でそれを拾い上げ、えぐれた部分に押し当てた。それでも血は止まらない。
ひゅうひゅうと息を漏らしながら、私に飛びかかってきた。
サシャのほうを振り返って私は叫ぶ。

――逃げて!

でも、サシャは逃げなかった。
男が私の首をしめる。血と唾の混ざったものが顔にかかる。
私は男の手に噛みついた。怯んだすきに、サシャと一緒に逃げた。

だめだ、力の差が大きすぎる。
必死で廊下を走る私の耳に、男の足音が迫る。

あと少しで玄関に到着するという時だった。
サシャが足を滑らせて転んでしまったのだ。

――サシャ!

私は叫んだが急には止まれず、玄関扉に激突した。
サシャを助け起こそうと振り返ったところで私は動くのをやめる。
あいつが、サシャのそばに立っていた。

私には何もできなかった。
一人で逃げるわけにはいかない。
男が私に近づいてくる。

――ごめんね。

床に倒れたサシャが私を見上げている。

――助けてあげられなくて、ごめんね。

男の手が私の首に迫る。

――サシャ……。

その瞬間、背後で何かの気配がした。
私の後ろには扉があるだけだ。その向こうに、誰かがいる。
ギィ……何かの軋む音。足元に金属製の何かが落ちる音。

男の手の動きが止まった。突然のことに気を取られたらしい。
扉の向こう側で靴音がした。だんだん遠ざかっていく。
新聞受けから、それは投げ込まれたらしい。

私とサシャを覗いていた知りたがりの誰かだ。そう確信した。
私が男よりも早く動けたのは、その誰かの存在にうすうす感づいていたからだ。
それがおそらく運命を分けた……。

やがて、女子高生と犬が門から走り去っていった。
俺は身をひそめてそれを見届けると、家に侵入した。

玄関には男の死体が横たわっていた。
心臓には深々とナイフが突き刺さっている。
回収しようかとも思ったが、そこがナイフのあるべき位置だという気がした。
死体の写真を撮り、家を出た。

昼過ぎに例の土手を訪れた。
円形に開けた土地に、犬がいた。
ここに来れば女子高生と犬に会えると思ったが、予想は半分しか当たらなかった。
犬の首輪に手紙が挟まれていた。

ナイフをくれた人へ。

そこには、自分たちが今までどんな仕打ちを受けてきたか、なんのために犬を殺していたかが綴られていた。
最後に、犬をもらってほしいと書かれていた。
ためらったのか、何度も決して書き直した跡がある。
自分が捕まったら、一緒に処分されてしまうと考えたらしい。

犬は首輪をしているだけで紐はついていない。どうやって持って帰るか。
俺は犬に背を向け、そのまま歩き出した。
犬は従順に家までついてきた。

家には両親はいなかったが、妹がテレビの前で宿題をしていた。
犬を家に上げると、うれしい悲鳴を上げる。
犬を飼うことになったと俺が告げると、妹は嬉しそうに名前を考え始めた。

俺はこれをやめさせた。
確か、手紙に書いてあったはずだ。

「その犬には、サシャって名前があるんだよ」

今朝、女子高生の家の窓から、部屋を覗いた時の様子を思い出す。
ちょうどあの女子高生が男の喉に噛みつく場面だった。
初めは何が起こっているのか分からなかったが、あの手紙を読んですべて理解した。
手紙には、ところどころ飼い犬のサシャを崇拝するような文章があった。

「この子、どうして飼うことになったの?」

「友達の家で飼われてたんだけどな、義父が犬嫌いでいじめるらしいんだよ」

「こんな子をいじめるなんて!」

妹が憤慨したように言った。サシャは首を傾げて、深い色の目を彼女に向けた。
あの手紙に書かれていたようにサシャが考えていたのかどうか。
あの女子高生は、瞳に映った自分自身と会話をしていたのかもな。

携帯が鳴った。ミカサからの電話だ。
俺は妹と犬を残して二階に上がった。

「この前一緒に歩いたあたりで殺人があったらしい」

「ああ。致命傷を与えたナイフは誰かによって投げ込まれたものらしいぜ」

「何でそんなことまで知っているの?」

「さぁな」

俺は犯罪者を見るのは好きだが、深くは関わらないようにしている。
だが今回、そのルールを破ってしまった。
でも悪いことはしていない。良心はまったく痛んでないからな。
きっとあのナイフが望んだことだったんだと思うぜ。

<記憶>

十月のある日のことだった。
ミカサがうつむいて教室に入ってきた瞬間、空気が静まり返った。

綺麗な黒髪が顔に垂れ下がって表情を隠し、ゆっくりと足を引きずるようにして自分の席へと向かった。
いつも張っている透明なバリアが棘のように変形し、近づく人間を片っ端から攻撃するような凶暴性をまとっていた。
周囲の人間はミカサに話しかけないのはいつものことだが、緊張した表情で授業を受けていた。

その日、俺とミカサが会話をする機会はなかった。
ミカサは俺とクラスメイトが会話している時には決して話しかけない。

俺が理由を知ったのは翌日の放課後だった。

「最近睡眠不足だから。不眠症かもしれない」

「それで様子がおかしかったのか」

ミカサは俺のイヤホンを取り上げると、コードを首に巻きつけた。

「駄目。しっくりこない」

意味が分からない。尋ねると、ぼんやり遠くを見つめながらこう答えた。

「不眠症になると、首にコードを巻きつけて眠る」

「前回使った紐はなくなってしまった。ので、新しいのを探しに行こう」

意味が分からないが、つきあうことにした。

大型雑貨店で、俺たちは紐を物色した。

「すぐに切れてしまうような、細いのは駄目」

「この縄なんてどうだ?」

「……昔住んでた田舎によく置いてあった」

ミカサは小学生までは田舎に住んでいたが、利便性を考えて今の土地に引っ越したらしい。

「お前は自殺するなら首つりじゃなくてリスカだと思ってたぜ」

「これのこと?」

ミカサは手首に張り付いた、ミミズののたくったような線を見せた。
傷のことを尋ねたのは初めてで、理由も知らなかった。

「別に自殺しようと思ったわけではない。なんとなく、発作的に」

発作的に手首を切らせるほどの何かがあったんだろうか?

人間の溢れすぎた感情はどこへ向かうか。
スポーツや遊びで発散させたり、物を壊したり。
ミカサの場合はそれが内側へと向かうんだろう。

「お兄ちゃん?」

声のしたほうを振り向くと、妹がいた。
ドッグフードを買いに来ていたらしい。

「もしかして彼女さん? お兄ちゃんのくせに、こんなきれいな人捕まえて」

「ちげーって」

ミカサはこちらを見ようとしなかった。
妹ではなく、ドッグフードの袋と目を合わせないためだ。

妹は俺と違って性格がいいので、色々とお使いを頼まれているらしい。
忙しい彼女と別れると、俺はミカサに声をかけた。

「妹がいるの? ……私にもいた」

いた。

「名前はミサキ。首つり自殺で死んだ」

ミカサが満足するような紐は見つからず、俺たちは雑貨店を出た。
バス停で何を待つでもなくぼんやりと座る。

「妹の話を聞かせてくれ」

「……分かった」

妹が死んだのは小学二年生のころだった。
私たちは双子で、ほとんど見分けがつかなかったらしい。

二人でよく一緒に遊んだ。絵を描いたり、死体の真似をしたり。
見た目は一緒だったけれど、中身は少し違っていた。
妹は私と比べて感情が表に出やすい子供だったし、私よりも妹のほうが弱虫だった。

昔、犬を飼っていた。
私の命令で、えさの中に漂白剤を混ぜさせた。
犬と妹が苦しむ姿を見たかったから。
罪悪感というものはなかった。そこは、あなたと同じかもしれない。

一度だけ首吊りの遊びをしたことがあった。
箱の上に立って、梁からぶら下げた紐の中へ首を通す。
あとは箱から飛び降りて死ぬだけだった。

一緒に飛ぼうと言ったけれど、そうするつもりはなかった。
自分は飛ばずに、妹が死ぬ姿を見たかったから。
でも妹は飛ばなかった。
何故飛ばないの、と叱っても、怯えた目で私を見るだけだった。

妹が死んだのは夏休みのことだった。
雨が降る中、妹は一人で納屋に入っていった。私は一人で本を読んでいた。

一時間ほどたって、祖母がやって来た。
近所の人から果物をもらってきたらしい。
私は妹を呼ぶために納屋へ向かった。

そして、私はそれを見た。

首つり自殺だった。でも、事故でもあった。

妹の体を吊り下げている紐の他に、もう一本縄があった。
胸の周り、ちょうど脇の下に巻かれていて、一方の端は床に垂れていた。

天井の梁にも同じ縄がかかっていた。
元々それらはつながっていて、一本だった。

妹は死ぬつもりなんてなかった。
首つり死体のふりをして、みんなを驚かせるつもりだった。
でも、ぶら下がった瞬間に体を支える縄が切れてしまった。

不幸な事故だったのだと思う。

「お前はそれを見てどう思ったんだ?」

「思わず悲鳴を上げてしまった。すぐに祖母を呼びに走った」

「妹はお前にいじめられてたんだよな」

「そういうことになる」

「何とも思わなかったのか?」

「どうして、あなたがそんなことを聞くの?」

まあ、そりゃそうだよな。

「お前と妹の力関係に家族は気付いてたのか?」

「いいえ」

俺はしばらく妹について質問したが、そのうち何も答えてくれなくなった。

ミカサから死んだ妹のことを知らされた二日後、俺はミカサの生家へと向かった。
どうしても確かめたいことがあったからだ。

昨日、俺はミカサに尋ねた。

「ミカサが住んでた家に行ってみたい」

「なぜ?」

「俺は人の死んだ家をたずね歩くのが趣味なんだ」

ミカサは俺に妹の話をしたことを後悔しているようだった。

「一人で行ってきて」

「突然知らない男子高校生が訪ねてきたら驚くだろうな」

「……分かった。連絡しておく」

ミカサは何か言いたげな様子だったが、それ以上は何も言わなかった。

俺はミカサの描いた地図を解読しながら家を目指した。
二日前の話で、どうしても腑に落ちないところがあった。

何故妹が死んでいるとすぐにわかったのか?
いつも死体の真似をして遊んでいたのに。

「よくいらっしゃったわね」

「そのうち、ミカサを嫁にもらってやってくれ」

俺は祖父母の歓迎の言葉を聞き流しながら、双子について尋ねた。

「あの子たちが小学生のころ書いてた絵がまだあるのよ」

祖母が持ってきた二枚の画用紙には、ほとんど同じものが描かれていた。
家の断面図の中で、二人の少女が並んでいる。

「何をしている絵なんだかよく分からないけれど」

「部屋で二人で並んでる絵じゃないのか」

「まあ、そのままじゃない」

祖父母は微笑ましそうに笑っていた。
俺は黙っていたが、これはおそらく首つりをしている絵だ。
二人の少女の首から赤い線が天井まで伸びている。

「ミサキちゃんが死ぬ数日前に書いた絵なの」

そう言って祖母は涙ぐんだ。

俺は二枚の絵を見比べた。

どちらも大差ないが、ミサキのほうが少し細かく描いてある。
積み上げた木箱、家の上の太陽、二人の少女が履いてある靴。
ミカサのほうは、背景は塗りつぶされ、靴を描こうともしていない。

ミサキの絵の靴に俺は注意を向けた。
片方の少女は白い靴、もう片方は黒い靴を履いている。

俺は眺めていた絵をテーブルに置くと、森の風景を撮影したいと言い外へ出た。

外では雨が降っていた。
納屋へと向かい、扉を開ける。

ここでミサキが死んだ……。
しばらくぼんやりと見つめていると、声をかけられた。

「ここでミサキちゃんは亡くなったの」

「あの時のことはよく覚えているわ。昼ごろから雨が降り出して……」

「私が近所から帰ってきて傘をたたんでいると、ちょうどミカサちゃんが玄関にいたの」

ミカサから聞いた話とだいたい同じだったが、ひとつわからない点がある。
それを聞こうとしたとき、靴の裏側におかしな感触がした。

いつのまにか、靴底が地面に張りついていた。
天井から漏れる水滴で、粘度が高くなっていたようだ。
足を上げると、地面に薄く靴跡が残っていた。
ミサキが死んだ日も雨だった。靴跡は残ったのか?

雨は昼ごろから降り始め、それからミサキが納屋に入り、ミカサはずっと家にいた。
首つり死体を見た時も、すぐに祖母を呼びに走り、中には入っていない。

もし、ミカサの祖母があの日、納屋でミカサの靴跡を見ていたら……?
死体を発見する前に納屋で過ごしていた証拠になる。

俺はミサキの死について、ミカサを疑っていた。

「ミサキが発見されたとき、納屋にミカサの靴跡はありましたか?」

「ミサキちゃんの靴跡ならあったよ」

「何でわかるんですか?」

「あの子たちは外見が一緒だから、靴で見分けていたのさ」

「ミカサちゃんは黒い靴、ミサキちゃんは白い靴。靴跡も違うからすぐにわかるよ」

なるほど、あの絵の靴はそういうことか。
ミサキは発見されたとき、多くの自殺者がそうするように靴をそろえていたらしい。

俺は犬用の戸口を調べた。
木の板が蝶番でぶら下がっているだけの簡単なつくりだ。
板を押せば中からも外からも開く。

そのあたりの地面は乾いていた。
雨が降った時に可哀想だから、犬は地面が濡れない場所につながれていたらしい。
ここを通れば足跡はつかないはずだ。

「今日は泊まっていきな。雨も強くなってきたし」

少し考えて、お言葉に甘えることにした。

「ミサキについていろんなことが分かった」

俺がそういうと、ミカサは目を伏せてつぶやいた。

「……悪い予感はしていた」

「お前は、殺したんだ」

「納屋に私の靴跡はなかった」

「いや、お前はちゃんと証拠を残していたんだよ」

自分の作った首つり死体と、自分の残した足跡を見て窮地に陥ったお前は――
そろえて置かれた靴を見て、ある決心をする。

それまで履いていた自分の靴を脱いで、転がっていた木箱に乗る。
自分の足跡を残さないよう注意しながら、そろえて置かれていた靴を履く。
代わりに、さっき脱いだ自分の靴をその場に残しておくことで、靴跡は自分のものじゃなくなった。

「あとは、犬用の出口を使って外に出ればいい」

「……動機は?」

「憎しみだろ」

「……さっき『ミサキについていろんなことが分かった』と言ったときに気づいた。……もう、ばれてる」

「九年間黙ってるのは辛かったよな、ミサキ」

祖母の話について疑問に思ったのは、何故玄関を開けてそこにいたのがミカサだと分かったのか? ということだ。
彼女は黒い靴を履いていたので、ミカサだと思い込んだんだろう。

俺は想像する。

あの日ミカサは、天井の梁から二つの紐を下げていた。
首を吊る紐と、体を支えておく紐。
一つを首に巻き、もう一つを脇の下に巻く。

ミカサは木箱から飛び降り、首が吊られたように見える。
だが、胸に巻かれた縄で空中に支えられる。

そこへ、ミサキが近づいてくる。ハサミを持って。
ミカサの胸に巻かれ、天井の梁につながっている縄を切断する。

支えていた縄が切れ、吊られていたミカサは今度こそ首でぶら下がる。

「あなたの言うとおり」

「いつも姉に命令されて、泣かされていたのが私」

「……どうして分かったの?」

「ミサキは自殺するときに靴を脱ぐ習慣を知らなかったんだよ」

ミカサの生家で見た絵のこと。
雑なように見えて、事実に沿っていたのはミカサの絵のほうだったんじゃないか。
雨の日に首つり遊びをしたから、背景は塗りつぶされていた。
靴を描かなかったのは、自殺の習慣を知っていたから。

「だが、発見された死体は靴を脱いで揃えていた」

「もし一人で死体のふりをして遊ぶんなら、ミサキは靴を脱いだりしないだろ」

「……そう。でも一つだけ違う点がある」

「私は縄を切っていない。……自然に切れてしまった」

首つり死体の真似をして、みんなを驚かせよう。

姉の提案に乗って、納屋で二人で作業をした。
姉だけが死体のふりをして、私は納屋まで誰かを連れてくる役目だった。

姉は梁から下がっている紐と縄をそれぞれ身に着けて飛んだ。

姉は楽しそうだった。いつも無表情だったけど、そういう時だけは。

でも、すぐに体を支えていた縄が切れてしまった。

私は姉を死なせないように抱き留めた。
姉は暴れて、何度も私のおなかを蹴った。

――しっかりして! このぐず……

それを聞いた瞬間、急に体の力が抜けて……

……それ以降は、あなたの話した通り。

家族の前でミカサのふりをするのは、別に苦じゃなかった。
もう昔のようには笑えないと思う。

「最初に私の名前を呼ぶのは、あなたではないかと思っていた」

「そうだミカサ、お前の家で見つけたんだけどな」

俺は犬用の紐を取り出した。

「俺が巻くから、目を閉じててくれ」

俺はミカサの白い首と、黒い髪の毛を一緒に紐の中に閉じ込めて軽く絞めた。

「そう。この感じ……」

彼女は自分の求めていたものが、かつて姉との首つり遊びで使った紐だと気づいてるんだろうか?
姉は犬用の紐で首を吊って死んだ。
犬嫌いの原因はそこにあったわけだ。

「私は姉を憎んでいたわけではない。時々酷いこともされたけど、かけがえのない存在だった」

俺は帰ることにした。

「もしお前が死にたくなったら、その時は俺が殺してやるよ」

つづく

>>65ミス
体を支えてたのは縄です

<リストカット事件>

人の少なくなった教室で帰り支度をしていると、背後に誰かの立つ気配がした。
振り返ってみると、ミカサだった。

「あなたにどうしても話したいことがある」

ミカサはそう前置きした。俺が身構えていると、

「昨日、レンタルショップで変な映画を借りて……」

悪趣味な映画の話を淡々と語り始めた。
ミカサはその話を誰かにしたくてしょうがなかったらしい。
教室で彼女と話すのは俺だけだ。少なくとも俺の知っている範囲では。

俺とミカサが話しているのを、教室の隅に立った女子たちがじっと見つめていた。
俺たちが付き合っていると誤解しているのかもしれない。
早く誤解を解かなければならない。俺はともかく、ミカサにとっては非常に迷惑な話のはずだ。

ミカサは黒板に向かって何か字を書き始めた。本格的に映画の説明をするつもりらしい。
制服からのぞく白い腕に目がとまる。

ミカサは整った顔立ちをしているので、以前は言い寄ってくる男も多くいたらしい。
だが、少し前に彼女がある教師を痴漢撃退用スプレーで攻撃し、椅子で殴りつけるという事件があった。
俺はその場面をひそかに目撃していたのだが、それ以降彼女に声をかける男はいなくなった。

ミカサの白い手を見るたびに、俺はその事件を思い出す。
連続手首切断事件。知らないうちに彼女はそれに巻き込まれていたのだ。
まだ彼女と話す前の、五月末のことだった。

エルヴィンは自分の手を見つめて考える。

手は人間のすべてだ。子供のころからそう思っている。
雑踏の中にいても、目に映るのは人間の集団というより二つの手をぶら下げた生物だった。

人形の手首をハサミで切り取ったこともある。
手首のない人形は捨て、切り取った部分をそっと指でなぞる。
微妙な凹凸の感触は、親や先生がかける言葉よりもしっかりと内実を伴ってエルヴィンに何かを語りかけてくる。

犬や猫の前足の先端を剪定ばさみで切り取ったこともある。
人間のように何かを掴むことはできないが、独特の進化をしていて面白いと思う。

手以外の部分は人間の本質ではない。
だが、周りの人間を観察すると、頭と口による中身のない言葉ばかりが世界を支配している。
自分の考えは特殊なものだから隠さなければならない。エルヴィンは子供心にそう誓った。

しかし、ふとした時に手のことを考える。

この春、初めて人間の手首を切断した。乳児の手だった。
母親が乳母車から一瞬目を離したすきに剪定ばさみで切断する。
乳児の小さな手は、熱く、ふっくらしていた。
泣き声がする前にその場を離れ、持ち帰った手は冷蔵庫に保存した。

乳児の手だけにはとどまらなかった。
小学生を気絶させ、暗闇の中で手首を切断した。
中学生、高校生、社会人。

成長した人間の手は、剪定ばさみで切断するには太すぎた。
のこぎりだと切り口が汚くなってしまうため、肉切り包丁を使った。
気絶させた人間の手首に思い切り打ちつけると、骨まで鮮やかに切断することができた。

死んだ人間はいなかった。
エルヴィンは手が欲しいだけで、殺したいわけではない。
手以外の部分は死んでいようがいまいが関係ない。

テレビでニュースを見ると、被害者たちはいずれも犯人の顔は見ていないと証言した。
エルヴィンは胸をなでおろす。やはり逮捕されるのは心配だ。

手そのものも好きだが、手を切断する作業も楽しかった。
手とそれ以外の部分を切断する瞬間、開放感が全身を駆け巡る。
世界を支配する歪んだ価値観から自身を開放することができるからだ。

職場では、小さな人形の手を切ることもあった。
指はなく、腕の先端は丸みを帯びているだけだ。
だからと言って手であることには変わりない。人形の手を切るときも解放感に包まれた。

切断した手は、すべて冷蔵庫に入れた。
家に帰り冷蔵庫を開けると、無数の手がエルヴィンを出迎えてくれる。
彼らとはさまざまな話をした。

「本当にそうだね、先生の言うとおりだ」

子供の手の凹凸や弾力が、手のひら越しにそう語りかけてくる。
エルヴィンは穏やかな幸福感に包まれた。

「昼休みに科学準備室の片づけをするので、暇なものは手伝いに来てほしい」

午前中の授業で化学教師はそう言った。

「誰がわざわざ貴重な休みをつぶすんだよ」

クラスメイトのコニーが自分にそう言ったので、俺は何かを言い返した。
コニーは笑っていたので、多分面白いことを言ったんだろう。

クラスの連中はやる気がなさそうだったし、化学教師自身も手伝いを期待している風ではなかった。
だから、俺の姿を見て彼は驚いていた。

俺が手伝いに行くことをクラスメイトには黙っていた。
教室での俺はそんなキャラじゃないし、お利口ぶってると思われたくはない。
実際にボランティアのために来たわけでもないしな。

「それじゃあまず、このゴミ箱を化学講義室に持って行ってくれ」

俺はうなずくと、ごみ箱を抱えて講義室へと向かった。

俺たちのクラスを教える化学教師には、テストの問題を準備室で作るという噂がある。
そのメモをゴミ箱に捨てる可能性があり、片付けついでにそれを手に入れられないかと考えたのだ。

片付けの手順はこうだ。
まず準備室のゴミ箱を講義室に運び込み、準備室の掃除をする。
その後で先生と一緒にゴミ捨てをする。ゴミはどんどん増えるので二人がかりになるだろう。

このままではゴミ箱を漁る時間がないので、俺は次のような計画を立てた。

あらかじめほかの教室からゴミ箱を借りて、講義室に隠しておく。
それから準備室を訪ね、片付けの手伝いをする。
準備室のゴミ箱を講義室へ運び、二つをこっそりすり替える。
学校中のゴミ箱はどれも同じ形状をしているので、ばれる心配はないだろう。

準備室にあったゴミ箱は、片付け中は講義室の机の下にでも隠しておけばいい。
最後に教師と焼却炉まで運ぶのは、ほかの教室から借りてきたゴミ箱になる。
片付けから解放されたのち、ゆっくりと講義室でメモを探すことができるというわけだ。

俺は自然な様子で先生に従った。不審に思われないように気を付けなければならない。
ただでさえ目つきが悪いとかで教師受けはあまりよくないんだ。
ちょっとヤンチャだけど、根はまっすぐでいい奴なんですよ。

二つの部屋は扉一枚でつながっており、廊下に出る必要はない。
講義室に入ったとき、予想外の事態が発生した。

さっきまで誰もいなかった講義室に、人がいた。
今年度から同じクラスになったミカサだと気づく。
一瞬目が合ったが、すぐに読んでいた本に目を落とす。

ミカサはクラスの誰とも関わらず生活していた。
孤独を愛し、常に暗黒に身を置くような存在だった。

俺はあらかじめ隠していたゴミ箱と、抱えてきたゴミ箱とをすり替えた。
ミカサに気づかれた様子はなかった。
抱えてきたゴミ箱は、ミカサと一緒に講義室の中に放置する。

準備室に戻ると化学教師が話しかけてきた。

「昼休みになるとほぼ毎日講義室に来る子がいてね」

化学講義室は薄暗く、学校の中でも静かな場所だった。
時間が止まったような静けさに包まれ、生き物の生死を冷ややかに見つめる。
ミカサが気に入りそうな場所だと思った。

「彼女みたいな黒い髪の女子生徒は、ここらでは珍しいな」

確かにミカサの髪は目を惹いた。内面も相まって神秘的な雰囲気を醸し出している。
いつも元気でクラスの中心にいるような人間とは、正反対のベクトルの輝きがあると思った。

俺は妹もあんな感じですよと適当に返事をする。
教師は準備室のパソコンのキーボードに圧縮空気のスプレーを近づけ、溜まった埃を取っていた。
几帳面な性格らしい。その後も手伝いながら適当な雑談をした。

片付けを終えて教師と別れ、講義室に入った。
ミカサはいなくなっていた。メモを探すには好都合だ。

俺はゴミ箱を漁ったが、目的のものは見つからなかった。
その代わり、ゴミ箱の奥から紙で厳重に包まれたものが出てきた。

手首から先の無い人形だった。

俺は最近ニュースを騒がせているリストカット事件のことを思い出した。
化学教師――エルヴィン先生が、本当に?

手の無い人形を見つけて以降、俺は毎日リストカット事件のことを考えた。
この事件は、最近の中では特に俺が気に入っているものだった。
犯人の、手に対するおぞましいまでの執着。

俺と同じ種類の人間がいる。

直感的にそう悟った。
もちろん異なる部分はあるだろうが、なぜかこういった事件の犯人には親しみを覚えてしまう。

休み時間に化学講義室を覗くと、ミカサとエルヴィン先生が話をしていた。
ミカサが胸に抱えている本を見て、その続きを自分も持っていると先生は話していた。
ミカサは無表情にそうですかと答えた。

俺は相変わらずで、ミカサも相変わらずだった。
クラスメイトとの中身のない会話をこなしていると、ふと耳に入った言葉があった。

「ミカサって、中学の時自殺しようとしたらしいぜ」

俺はそれを聞いてミカサの手を見つめる。
理由はよく分からないが、きっと彼女にとっては生きにくい世界なんだろうな。

俺も演技をやめたときミカサのようになるんだろうか?
周囲の人間は俺の本質を知ってどう思うんだろう。
その時を想像して、今とどっちが孤独かを比較してみる。
まあ、大差ないだろうな。

人形を見つけて三日後、俺はある計画を実行に移すことにした。

エルヴィン先生の家はどこにでもあるような一戸建てだった。
一人暮らしをしていて、今日は職員会議があるのでしばらくは無人だろう。

周囲にだれもいないことを確認し、家の裏手に回る。
手にタオルを巻き、窓ガラスを叩き割る。
耳をすませ、人の気配が無いことをさとり、鍵を開け靴を脱いで侵入する。

リストカット事件の犯人は、人間の手を切断し持ち帰っている。
そのあと被害者の手をどうしているのかは知られていない。
眺めて楽しむのか? 食べるのか?

どっちにしろ証拠が残っているはずだ。それを見つけるのが今回の目的だった。

出来るだけ足音を立てず、証拠を残さないように室内を物色する。
割れたのはリビングの窓だった。雑誌やリモコンなど、整然と並べられている。

二階に行くと寝室があり、デスクトップのパソコンがあった。
部屋には埃ひとつなく、棚に並んだ本は定規で計ったように整列している。

エルヴィン先生が犯人であると示すものは何一つない。

部屋を出るたびに、何か落とし物をしていないか確認した。
そこから身元が分かってしまうのは最悪の失敗だと思ったからだ。

台所へ向かった。

エルヴィン先生は自炊するんだろうか?
どこか生活感がなく、化学講義室のように静まり返った死のにおいが漂っていた。

死のにおい?

俺は自分の手を取り、脈を図った。
どうやら俺は緊張しているらしい。普段よりも激しく、どくどくと波打っている。

どこだ? 異様な臭い。確かに鼻が嗅ぎ取っている。
命が腐って死んでいく臭いだ。

俺は臭いの元を探し、冷蔵庫にたどり着いた。
取っ手にハンカチを当て、指紋が残らないよう注意して引く。

俺は自分の推測が間違っていなかったことを知った。

手、手、手。
冷蔵庫の冷えた空気の中、ランプに照らされて無数の手が並んでいる。
人間の手。人形の手。犬や猫の手。

そのうちのひとつを手に取った。
赤いマニキュアが冷たく光っている。女性のものだ。

死人の肌を触る。
いや、死人じゃない。被害者はいずれも生きている。
手を失ったまま生活しているんだ。だが、この手は死んでいる。

右手もあれば左手もあり、変色し黒ずんだものから瑞々しく張りのある手もあった。
俺は手を撫でながら、エルヴィン先生の心を垣間見た。
おそらく普通の人間には理解できない感覚。だが、俺には容易に思い浮かべることができる。
誰もいない台所で一人、無数の手に語りかけているエルヴィン先生の姿を。

先生が犯人であると分かったが、もちろん通報するつもりはない。
俺にはほかの目的があった。
冷蔵庫の中の手をすべて、用意していた袋の中に入れる。

エルヴィンが帰宅した時、あたりはすでに暗くなっていた。
家に上がり、リビングに向かったところで異変に気が付いた。

窓が割られている。何者かに侵入されたのか?
考えはすぐに手へと向かった。台所に行き、冷蔵庫を開ける。

自分の見たものが信じられなかった。

朝のうちは賑やかにひしめき合っていた手が、すべて消えている。
人間の手。人形の手。犬や猫の手。
みんななくなっていた。

何か引っかかるものを感じた。それが何かは分からない。
正常な思考ができなくなっていた。

二階へ行き、パソコンを起動させて椅子に座る。
何者かが侵入して手を奪った。さらわれた手のことを考える。

これまでの人生の中で、切断したいくつもの手に触れた時ほど心が安らいだことはない。
他人からすれば無言で何をやっているのだろうと思われるかもしれないが……
自分は確かに、何も語らぬ手に触れることで世界と言葉を交わしあっていた。

犯人に対する憎しみが湧き上がる。
警察に通報されることよりも、手を盗んだ人間に対する復讐のほうが重要だった。

犯人は報いを受けなければならない。
これまでだれ一人殺さなかったが、そいつは最初の例外になるだろう。

エルヴィンは誓った。犯人を捕まえ、その手を救出しなければ。
残りの部分は首を絞めるか心臓を刺すかして死に至らしめる。

問題は犯人をどうやって突き止めるかだ。
エルヴィンはパソコンの前で考えた。埃が目に入る。
傍らに置いてある空気圧縮スプレーを手に取ったとき、あるものが目にとまった。

間違いない。これは犯人が落としていったものだ。
そこでさっきの違和感について考える。なるほど、そういうことか。
犯人は大きな失敗をした。愚かなことだ。
そのために自分の正体を知らせてしまったのだから……。

翌日、エルヴィンは肉切り包丁を鞄に忍ばせて学校へ向かった。
まだ一晩が経過したばかり。盗まれた手は無事だと信じたい。

午前中は授業があり、犯人に会いに行くことはできなかった。
だがその正体は分かっている。早く捕まえて手の場所を聞き出す。
そして犯人を殺し、汚い部分から手を救い出してやらなければ。

同僚の教師と中身のない会話をする。
手、手だ。まず手があって、それに同僚という人間がくっついている。
だからこんな会話に意味はない。

エルヴィンは自分の担当するクラスで試験について説明しながら考えた。
このクラスには四十二人の人間がいるので、手は八十四個ある。

なぜ犯人は人形の手まで持ち去ったのか?

そこを考えれば、おのずと犯人は絞られる。
昼休みになると、エルヴィンは鞄を持って化学講義室へ向かった。

昼休みになると、俺は化学講義室へ向かった。
中には誰もいない。扉を閉めると、講義室は静寂に包まれる。

手首で脈拍を測ると、あの時と同じようにどくどくと脈打っているのが分かる。
エルヴィン先生は手が無くなっているのを発見してどう思っただろうか?
何も分からない。すべては推測するしかない。

気をつけろ。何かおかしな仕草をすればたちまち見通されてしまう。
エルヴィン先生はまだ俺が犯人だと気づいていないとは思うが、それも推測でしかない。

もしかしたら、自分で気づいていないだけで俺は何かミスを犯したのかもしれない。
それにエルヴィン先生が気付いたとしたら、きっと俺は殺されるだろう。

そう考えていると、扉の前に誰かが立つ気配がした。

エルヴィンが扉を開けると、一人の生徒が見えた。
その顔を見た瞬間、激しい衝動に駆られる。

ぶちのめしたい。

何とか怒りを押さえつけ、穏やかに挨拶する。
まずは知らないふりをして近づこうと考えていた。

「こんにちは、先生」

特に変わりない、いつもと同じ様子である。
しかし内心では自分のことを笑っているのだろうとエルヴィンは思う。
こうやって演技をして楽しんでいるに違いない。
手を失って動揺している自分を見るためにここへ来たのだろう。

吐き気にも似た怒りを感じながら、エルヴィンは生徒の背後に立つ。
この生徒はまだ何も気づいていない。愚かにも逃げようとすらしていない。

なぜ犯人は人形の手まで持ち去ったのか?

人形の手には指がなく、腕の先端が丸みを帯びているだけだ。
誰があれを手だと認識できる?
それはもちろん、手を切り取られた人形を見た人物だけだ。

エルヴィンは生徒の肩に手をかける。

「なんですか、先生」

演技が上手いものだ。エルヴィンはそう思った。

手の無い人形は、科学準備室のゴミ箱に捨てておいた。
そしてそれを見ることのできる人物は限られる。

準備室の片づけをしたあの昼休み、講義室に置いていたゴミ箱の中身を漁る時間のあった人物――

目の前のミカサのみである。
自分を手伝っていた男子生徒には、そんな時間はなかったはずだ。

「先生、手をどけてください」

いつものように講義室で読書をしていた彼女はあくまで冷静に言う。

昨日、パソコンのキーボードの埃を見て気づいた。
キーの隙間に黒い髪の毛が落ちていた。自分のものではない。
さらに本棚を見ると、目の前のミカサが読んでいる本の続編が置いてある位置が微妙にずれていた。
疑いようがない。犯人はミカサだ。

「手をどこに隠したのか言いなさい」

出来る限り紳士的に尋ねたが、相手は首を振るばかりだ。
知らないふりをしているのか。
そう思った瞬間、彼女の首に手をかけていた。

ミカサは驚いた顔でこちらを見つめていた。
さらに力を込める。ミカサは苦しそうにする。
しばらくすれば動かなくなるだろう。それも仕方のないことだ――

そう考えていると、視界の端で何か細長い円筒状のものが動くのが目に入った。
何かのスプレーだと分かった時には、すでに噴射口は目の前にあった。
圧縮されたガスの吹き出る音。エルヴィンは目に激痛を覚えた。

ミカサは痴漢撃退用のスプレーを常備していたらしい。
エルヴィン先生はそれを浴びせられ、さらに椅子で殴られた。
ミカサは大声で人を呼んだ。悲鳴も上げなかった。

野次馬で講義室が溢れかえるまで、俺は隠れていた教壇の裏から出ることができなかった。

エルヴィン先生は学校を追われた。ただし、リストカット事件の犯人としてではない。
先生の家から持ち出した手は、すべて自分の家の庭に埋めた。俺にとっては必要のないものだ。

俺の欲しい手はただ一つ。

あのとき、ミカサが手を盗んだ犯人であると先生に思わせようとした。
人形の手を利用して先生の意識をミカサに向かわれることは、もともと考えていた。
それに気づくほど先生が頭のいい人間でよかったと思う。
ただ、俺がゴミ箱をすりかえて、あとでゆっくり漁る時間があったことを知らなかっただけで。

さらに、家で採取した妹の髪の毛をキーボードに残しておいた。
片付け中にも気にしていたから、きっと気づくだろうと考えた。
そしてそのたくらみは当たったわけだ。本棚をずらしたのは駄目押しだったな。

エルヴィン先生がミカサを犯人であると断定し、彼女を殺して手を切断すれば俺の計画は完成する。
あとは冷蔵庫に保存した手を盗みに行けばいい。

残念ながら、失敗しちまったけどな。

世間がリストカット事件のことを忘れてしばらくたった。

「なあ、リストカット事件って覚えてるか?」

「ええ」

「もし自分が被害者になったらどうする?」

「たぶん、腕時計を巻くたびに困っていたと思う」

ミカサは、何故そんなことを聞くのか分からない、といった顔をした。
彼女は今でもエルヴィン先生が犯人だったことに気づいていない。

俺は今でもミカサの手に見とれることがある。
エルヴィン先生に切断させなくてよかったとも思う。
生きてるほうが美しいとかいうことじゃない。
先生は、間違った場所で切断しかねないからな。

「別に、なんでもねえよ」

俺がミカサの手を欲しいと思ったのは――
自殺しようとしたことを示す、リストカットの美しい傷跡が手首に残っていたからだ。

<土>

「アルミン、ここから出してくれよ」

親友のマルコが懇願する声。それを聞いて、アルミンは心を痛めた。

マルコは土の中に埋まっている。棺桶に入れられて。
蓋の空気穴に通した竹筒には、朝顔の蔦が絡まっている。
何も知らない人間が見れば、朝顔を支える親木だと思うに違いない。

「アルミン、君はなぜこんなことをするんだ」

竹筒が、喋った。
マルコを昏倒させたのも、棺桶に入れて土をかけたのも、全部自分だった。
それなのにどうしてこんなに胸が痛むんだろう?

アルミンは無意識のうちに竹筒にホースをはめ、箱に水を流し込もうとしていた。
自分はどうしてこんなに恐ろしいことを……。

「分からない、分からないんだ……」

アルミンは首を振ることしかできなかった。
ごめん、ごめんね……。

そう心の中で呟きながら、蛇口を捻った。
普通の人間にあるはずの良心が、うまく機能していなかった。

棺桶に充満して行き場を失った水が、もう一つの竹筒から溢れ出てくる。
夏の太陽が水に反射して輝く。不意に、綺麗だと思った。
マルコの声は聞こえなくなっていた。

アルミンは子供のころから、ほとんど誰にも暴力をふるったことがなかった。
虫も殺さないような優しい人間。周囲にはそう思われている。
家族に愛されて育ち、朝顔の咲く広い庭で何不自由なく暮らしてきた。

それなのに。

目の前に横たわる少女を見て、アルミンはため息をついた。
十月も下旬に入り、秋が深まったころだった。
自分はまた同じことを繰り返そうとしているのか?

少女はおそらく自分と同じ高校生だ。学校は違うみたいだが。
下校中背後から襲った際に、鞄から飛び出したハンカチに目がとまる。

ミカサ・アッカーマン。

それが少女の名前らしい。
誰にも見つからないよう、大きなキャリーケースに入れて庭まで運ぶ。
結構重い。アルミンは非力なので自分は殺人には向かないと思っている。
だが、それ以上の情熱が彼を動かしていた。

両親は共働きで、夕方、家には誰もいない。
「作業」を行うにはもってこいだった。

マルコを埋めた地面の隣で、少女のための穴が口を開けて待っている。
少女を棺桶に入れ、空気穴に竹筒を通し、土をかぶせた。

マルコを埋めた時には朝顔をカモフラージュに使ったが、今の季節には不自然だろう。
とりあえず竹筒はそのままにしておいた。夏は朝顔を育てるために使っていると思ってくれればいい。

作業が終わって、アルミンは不思議な幸福感に包まれた。
殴って怪我をさせた少女が地上にいる間は恐ろしいだけだった。
それが地中に埋まって見えなくなった途端、恐怖は甘美な気持ちへと変化する。

「……う」

声が聞こえた。アルミンは耳をすませる。

「誰か……ここから出して……」

ああ、可哀想に。この少女は何も知らないのだ。

地中に埋めた少女も、自分と同じように親に愛され、愛情をもらって生きてきたに違いない。
その愛の塊を、自分は粉々にしようとしている。

なんて残酷で、興奮するんだろう。

自分の履いた靴よりも下の地中で、少女は何もできずに埋まっている。
それを考えるとこみあげてくるものがある。
小さな犬や猫を目にした時のような、自分の優位性。

「僕の声が聞こえる?」

「誰……? そこに誰かいるの……?」

弱々しい声だった。アルミンは胸が締め付けられるような感覚を覚える。

「君は僕に埋葬されたんだ」

「埋葬……? 私はまだ生きてるのに……」

「死人を埋めても面白くないからだよ」

当然のことだと思いながらアルミンは口にしたのだが、少女は一瞬口をつぐんだ。

「残念だけど、君を出すことはできないんだ」

「……彼がきっと私を見つけ出してくれる」

彼。美しい少女だったから、恋人がいても不思議ではない。

「彼の名前を教えてくれる?」

「どうして……?」

「君を失って悲しんでいる彼の様子が見たいからだよ」

少女は彼の名前を言ったきり黙りこんだ。怒らせてしまったかもしれない。
そろそろ両親も帰ってくるし、今日はここまでにしよう。
明日になれば機嫌も直っているだろう。

「やあ。起きてる?」

次の日も、家に帰るとアルミンは少女に声をかけた。

「……あなたの名前は?」

閉じ込められてはいるが、少女は気丈に振る舞っていた。

「アルミン・アルレルトだよ」

「アルミン……なんであなたはこんなことをするの?」

アルミンは何も言えなかった。自分でもよく分かっていないのだ。

「ごめんね……明日にでも、君は僕に溺死させられるんだ」

ゴムホースで水を流す計画を彼女に打ち明ける。
少女はさすがに絶望に耐えられなくなったのか、声を震わせつつもなお言い放った。

「あなたに殺される前に、私は自分で命を絶つつもり……ポケットにシャープペンシルが入ってるから」

鞄は足元に埋めたが、制服の中までは調べなかった。

「それで頸動脈を突き破るつもりかい? 僕に殺される前に自殺することでプライドは保てるかもしれないけど……」

「君は土の中で、一人孤独に死んでいくことに変わりはないんだよ。分かってる?」

「自殺した君の死体は、誰にも発見されることなく腐っていくんだ」

「違う!!」

アルミンは思わず身構えた。少女がこんなに大きな声を発したのは初めてだった。

「私は一人では死なない」

「誰かと一緒に死ぬってこと? 昨日言ってた彼のことかな」

「彼は私を一人で死なせたりしない」

アルミンはわずかな不安を覚えた。思わず胸に手を当てる。
そこで、重大なことに気が付いた。

生徒手帳がない。

いつも制服のポケットに入れて持ち歩いているのに。
まさか、昨日彼女を襲ったときに落とした……?

誰にも見られていないとは思うが、もし物音を誰かに聞かれていたら……。
あの時は恐怖で頭が真っ白だったから気づかなかっただけで、ひょっとしたら悲鳴を上げられたかもしれない。

昨日の夕方、あの道で落ち葉の掃除が行われたと聞く。
その時になかった手帳が今、発見されたとする。
持ち主は昨夕から今朝にかけてあの道を通った人物だ。

親が帰ってくるまでにはまだ時間がある。
……手帳を探しに行ったほうがいいかもしれない。

出かける前に彼女に声をかけようと振り返ると、けたたましい笑い声が聞こえた。
とうとう恐怖のあまり狂ってしまったのか。アルミンは不憫に思った。

アルミンは昨夕、少女を襲った現場を訪れ手帳を探した。
落ち葉をかき分けても見つからない。汗が流れるのは疲れのせいだけではないだろう。

アルミンは少女が言っていたことを思い出した。

真っ暗闇に取り残されてもなお、あれほど他人のことを信じられるものだろうか。
少女を埋めてから、アルミンの頭の中には心地よい靄がかかっていた。
それが急速に薄まってくるのを感じる。

自分があの少女に対して行った仕打ち。吐きかけた恐ろしい言葉。
それらを思い直し、吐き気がするほどの罪悪感に襲われた。

一体いつからこうなってしまったんだろう?
以前の自分は、心優しい善良な人間でいようと誓っていたはずだ。
マルコを埋めた時から何もかもおかしくなった。

じゃあ、自分は何でマルコを埋めたんだ?
分からない。何も考えたくなかった。

地中で身動きのできない少女に対し優越感を覚え、それでようやく生きていると実感することができる自分。
それは果たして人間と言えるのか?

声をかけられたのはそんな時だった。

「探し物か?」

声のしたほうを振り返ると、学生服の少年が立っていた。
自分よりも背は高く、目つきが悪い。おそらく同じ高校生だろう。
友達に接するかのように気軽に話しかけてきた。

「ちょっと……ね」

どう答えていいのか分からなかった。
どこかへ立ち去ってほしいが、そう頼むのも不自然な気がした。

「この辺に住んでるのか? 名前は?」

特に深い考えもなく正直に答える。

「アルミン、昨日このあたりで悲鳴が聞こえたらしいんだ。何か知らないか?」

心臓に氷を当てられたような気分だった。

「いや、僕は何も……」

「……そうか、実はクラスメイトが行方不明なんだ」

少年は沈痛な表情をする。ひょっとして、彼女が言っていた彼というのは――。

「その子は毎日ここを通って学校に行ってたんだ」

やっぱり自分が埋めた少女のことだ。

「君は、彼女と仲が良かったの?」

「まあな」

恋人の割にはそっけない態度だ。「彼」とは違うんだろうか。

「君は彼女が心配でここに……」

「いや、観光みたいなもんだな」

「観光……?」

「俺は人が死んだ場所を眺めて歩くことが好きなんだ」

少年の言葉に、ぞくりと背筋が泡立つ。

「もしかしたら、現場に戻ってきた犯人に会えるかもしれないだろ?」

まさか……。
全て知っているのか? 僕の手帳を拾って?

頭上でカラスの鳴き声がした。
アルミンにはそれが、破滅の前兆のように聞こえた。

「ところで行方不明のクラスメイトなんだが、今どこにいるんだろうな?」

「さあ……僕に聞かれても」

「お前なら何か知ってそうだと思ったんだけどな」

「どうして……?」

自分は何かおかしいことを言っただろうか?

「お前は悲鳴を聞いていないと言った」

「でも俺がクラスメイトの話題を出した時「彼女」って言ったよな?」

「俺はクラスメイトが女だとは一言も言ってないのに、何で知ってるんだ?」

アルミンは真綿で首を絞められるような居心地の悪さを感じていた。

「大丈夫か、顔色悪いぞ」

「実は、ちょっと風邪気味で……」

「そうなのか、悪かったな」

「ううん、もう家に帰ろうと思う」

この後、数歩だけ進んでから立ちくらみで倒れるふりをするつもりだった。
そこで少年が駆け寄ってきたら、親切心に付けこんで家まで送ってもらう。
そこで隙をついて殺害し、ポケットを改めれば問題はない。
だが、そんな面倒な演技をする必要はなかった。

「家まで送ってやるよ」

少年は心配そうな顔をしていた。都合がいい。

「ありがとう。家はあっちだよ」

二人で並んで歩く。
気分が悪いのは事実だったので、風邪のふりをするのは難しくなかった。

この少年はいったい何者なんだろう?
どうやって殺せばいいだろう?
アルミンはまるで勉強の計画を立てるように少年の殺害計画を立てている自分に気づきぞっとした。

もうこれ以上恐ろしいことをするわけにはいかない。
自分の中のまともな部分がそう訴える。
でも、このままだと自分が異常犯罪者だということがばれてしまう。
両親は? クラスメイトは? どんな顔をするだろう。

想像しただけで耐えられなかった。
だから、少年を殺すのはしょうがないことなんだ。そう自分に言い聞かせた。

「でけえ家だな、森みてえだ。……あのあたりだけ、木がないな」

「……縁側の見晴らしが悪くなるから」

少年が指差したあたりには、少女と、もはや原形を留めてないであろうマルコが埋まっている。

「お茶持ってくるから縁側で座って待ってて」

「ミカサには、どうも変質者を引き寄せる力があるらしい」

少年の言葉を聞き流しながら、アルミンは震える手で包丁を握った。

少女を埋めた時の甘美な気持ちは、もはや微塵も残っていない。
その代わり悪夢へ放り出されたかのようなひどい気分である。
目に映るものすべてが腐敗臭を放っているような気がしてくる。
その中で最も醜い生き物は、きっと自分だ。

マルコを殺した時から、いや自分がこの世に生まれた時から、こうなる運命だったんだろう。
人殺しとしての避けられない衝動が、ヤカンの水とともにふつふつと煮えたぎっている。

人殺しの自分と、善良な市民としての自分。
二人が分裂しておかしくなってしまいそうだ。
いや、とっくにおかしくなっているんだろう。

マルコはどんな顔をしていたっけ。
もう思い出せない。僕たちは、親友だったはずなのに……。

湯のみを置いた盆を持って、アルミンは少年の元へ向かった。

少年は携帯を耳に当てて話をしていた。
もしかして、警察に?
アルミンは一瞬動揺したが、口調からして友人との電話のようだった。

「さっきより顔色が悪いぞ」

「……ちょっと、眩暈がひどくなって」

自分は、心の中に潜む恐ろしい獣と戦わなければならない。
包丁は台所に残してきた。
マルコの顔を思い出せないことに気づいたとき、そうするべきだと思ったのだ。

少年は湯のみを見つめていたが、口にはつけずこう言った。

「そうだ、良い知らせがあるんだ」

「昨夜から行方不明だったミカサが、さっき家に戻って来たらしい」

深夜一時。両親はとっくに眠っている。
アルミンは部屋を抜け出し、少女の埋まっている地面の前に立った。
スコップを地面に突き刺し、穴を掘り進める。

少年は湯のみのお茶が冷めもしないうちに帰っていった。
ミカサはひどい目に遭ったそうだが、命に別状はないらしい。
もっと話を聞きたかったが、そろそろ両親の帰る時間だったのでアルミンも家に戻った。

彼女は土の中から脱出したのか? そんなはずはない。
自分は勘違いをしていたのだ。ハンカチは、土の中の少女が拾ったものだったのだろう。

スコップの先端が土に当たる感触を感じながら、アルミンは自分がまるで人形であるかのような気がしていた。
自分の罪の塊が、そこにある。
彼女はまだ生きているだろうか……?

永遠に続くと思われた作業は、やがて終わった。
自分で作った棺桶が姿を現す。
アルミンは嗚咽を漏らしながら、バールで蓋をこじ開けた。

最初にむせ返るほどの血の臭いが鼻を突き、次に箱の中に眠る制服姿の少女が現れた。
彼女は胸の上に手を組んだ状態で仰向けに寝ていた。
美しい顔や箱の内側は地で赤黒く汚れていた。彼女の首から溢れ出た血だった。
宣言したとおり、シャープペンシルで頸動脈を突き破ったのだろう。

アルミンは膝をついて吐いた。ずるずると箱から遠ざかる。

「クリスタ!」

声がして、ハッと顔を上げる。
夕方に会った少年が、暗黒に包まれるようにして目の前に立っていた。
さっき言葉を発したのは彼ではない。
大柄な少年が、箱にすがりついて泣いている。こちらの顔には見覚えがない。

「お前が埋めたクリスタの恋人だよ」

少年が説明する。名前を聞くと、少女が言った名と合致した。
彼は少女に語りかけている。少女の小さな体を揺さぶるたびに彼の背中が震えた。

「最初はミカサが襲われたのかと思った。竹筒が不自然だったから、埋められたんだろうってな」

「でも無事だと分かって、埋められたのはクリスタの方じゃないかと思った」

「夜中、お前が眠っているすきに二人で掘り返すつもりだったんだ」

「でもまさか起きてて、しかももう掘り返してるとは思わなかったぜ」

少年はさほど驚いた様子もなかった。
アルミンは改めて穴を見た。自分の埋めた少女のそばに、その恋人という人物がいる。
二人の絆の深さは、少女の発言からもよく理解できた。
彼は少女に語りかけるのをやめていた。沈黙したまま棺桶の中を見つめている。

「僕の生徒手帳は、君が?」

「俺は知らないぞ」

少年は否定する。だったら――。

「……彼女の体を調べてほしい」

アルミンは、もう穴に近づくことはできなかった。

「あったぞ」

そうか。手帳を持っていたのは彼女だったんだ。
自分が死んでも、発見されたときにその手帳が手掛かりとなり、アルミンを破滅へと導く。
彼女を埋めた時から、すでに自分は負けていたのだ。

彼女が笑ったのは狂ってしまったからではなく、そんな自分の愚かさを嘲笑ったのか。

「アルミン。お前は何でクリスタを埋めたんだ?」

「……分からないんだ。埋めたくて、埋めてみた」

「そうか」

少年の態度からは、犯罪者を憎む姿勢は感じられなかった。
それどころか、どこか親近感を抱いているような……。

自分はこれから、どうやって生きていけばいいんだろう?

ただ、まっとうに生きていたかった。
人を生き埋めにすることに快感を覚えることもなく。
夜中に穴を掘って心を落ち着けることもなく。
普通の人間が送るような、当たり前の人生を夢見ていた。

それなのに。

アルミンはいつまでも泣き続けた。

どれほどの時間が経っただろうか。
気づけば空は白み、そろそろ両親が起きだす時間だった。
腹をくくらなければならない。

「ずっと泣いてたぞ」

少年が声をかけてきた。ずっとここにいたんだろうか?
頬を触ると、まだ乾ききっていないものが残っていた。

あたりを見回すと、掘り返したはずの穴が見当たらない。
竹筒が四本立っている。一瞬、何もかも夢だったのではないかという錯覚を覚えた。

「あの竹筒は呼吸穴だったんだな」

少年の発言から、彼が再び穴を埋めたことが分かる。
なんのために?

「僕は自首しようと思う」

おそらく自分の人生はそれでおしまいになるだろう。
それでも構わなかった。自分に残っていた、まだ人間である部分が勝ったのだ。

「自分でそう決断できてよかった」

「……あと半年くらい待ってくれないか?」

少年が言った。なぜそんなことを言うのか分からない。

「それから、警察には全部自分でやったと説明してくれ」

俺やミカサのことは誰にも言うな。アルミンはそう誓わされた。

「あいつは自ら望んだんだ。助け出そうとしても拒否するはずだ」

そう言い残し、少年は一人で去っていった。

一人で?

少女の恋人はどこに行ったのだろう?

予感はあった。
よろけそうになりながら立ち上がり、棺桶が埋まっているほうへと向かった。
アルミンは筒の先端に耳を近づける。

声は地中から聞こえた。

「愛してる。ずっと、そばにいるから……」

つづく


ライナーさん…

どんでん返し素晴らしいね
沢山更新乙です

「ミカサ、また犬に追い掛け回されて放浪してたのか?」

「その話はもうやめて」

「分かったよ。……なあ、世の中には殺す人間と殺される人間がいるだろ?」

「ええ」

「俺はどっちかっつーと前者の方じゃないかと思うんだよな」

「どうしてそんな話を?」

「さあ、どうしてだろうな。……隣のクラスの奴が殺されたって、聞いたか?」

「知っている」

「お前も興味あるよな?」

「猟奇的な事件だから」

「そうそう。確か名前は――」

<声>

『アニ……この声は君に届いてるかな?』

ラジカセにセットしたテープから、彼の声が再生されている。
ベルトルト・フーバー。
私の恋人、だった男。彼が遺した、最期の言葉。

『今、僕は目の前に差し出されたマイクに向かって録音しているんだけど……』

『でも、本当に君に届いてるのか、僕が確認することはできないんだ……』

郵便受けに入っていたテープ。
差出人の名はなかった。直接投げ込んだのか。

『よく聞いてほしい……僕は、伝言を遺すことを許されたんだ……』

『どんなことでもいいから……今、一番言いたいことを誰か一人に向けて話せって……』

彼の死体は、廃病院で見つかった。
安置室で、私はそれを見た。

『それを聞いて、真っ先に君の顔が思い浮かんだんだ……』

『言わなければならないことが、たくさんあるって気づいた……』

散らばった体を集めるのが大変で……。
刑事は、そう言った。

『今、マイクを差し出している彼……』

『彼のことは、話してはいけないことになってるんだ……。ごめんね……』

彼は死んだ。もうこの世にいない。
何者かによって、殺された。

『その彼が、録音したテープをあとで君に届けるって言ったんだ……』

『君の反応を見て楽しむんだって……悪趣味だよね……』

『でも、僕の声が君に届くのなら、それでも構わないと思う……』

私は自分の部屋でこれを聴きながら、身動きが取れなくなっていた。
これ以上先を聴いてはいけない。嫌な予感が膨れ上がってくる。

『僕は今、薄暗い部屋にいる。動けないんだ……』

『周りはコンクリートで、寒い台に寝かされている……』

私は口を手で押さえ、出かけた悲鳴をこらえた。
マイクで話している彼が、どのような状況にいるのか頭に思い浮かぶ。

『ここは、どこかの廃墟みたいだ……』

私は思わず、スピーカーに右手を差し出していた。
彼の声に追いすがるように。

『アニ。ごめんね……』

その一言が、私の指先のすぐそばで発生して消える。
わずかな振動が余韻として残り、小さな声の塊を掴んだような感覚がした。
やがて彼の呼吸する音が消え、スピーカーからは雑音さえ出なくなる。
録音はそこで終わっていた。

テープを聴いた翌日、私はいつものように学校に通った。
彼が死んでからも学校は休んでいない。
腫物を触るように扱われるのは家でも学校でも一緒だからだ。
それなら時間を有意義に使ったほうがましだと思う。

黒板に並んだ文字列は私にとって何ら意味をなさない。
彼がいなくなってから、目に映るすべてのものが色を失って見えた。
一日の学習作業が終わり、廊下を歩いていると声をかけられた。

「アニ! 大丈夫か?」

声の主は、隣のクラスで同じサッカー部のエレン・イェーガーだった。
明るく社交的な性格で、今の私とは対極の位置にいる人間だ。
彼が死んでからも何かと私のことを気にかけてくる。

「何か用かい、エレン」

ぶっきらぼうに返すと、エレンは困ったような顔をした。

「お前最近部活に来てないだろ。心配で」

「……そのうち顔出すから」

「あっ、おい……」

心配する気持ちは痛いほど伝わってくる。
それでも、今は一人の時間が欲しかった。

しばらく公園で暇をつぶした後、バイト先のコンビニに向かった。
こんな時でも単純作業はできるものなんだと自分に感心する。

「アニ!」

気づくと目の前にエレンが立っていた。いつの間にぼうっとしていたらしい。

「あんた、どうしてここに」

「今日はジャンプの発売日なんだよ」

実に高校生らしい理由だと思った。
支払いを終えると、エレンが小声でささやいた。

「シフト終わったら、コンビニ横のベンチで待ってるから」

「ベルトルトのこと……だよな」

「……」

二人でベンチに並んで座っていた。
冬の寒さは日に日に厳しくなっている。
私の心は、いまだに溶ける兆しがない。

「……あんま気の利いたこととか言えねーけど……」

エレンはしばらくの間、学校で起こった他愛もない出来事の話をしていた。
彼なりに気を使って、私を元気づけようとしているのだろう。

話す姿を見ていて気付いたことだが、彼の表情はころころと変わる。
きっと彼は、私の触れた痛ましい世界とは無縁の場所にいるのだ。
色を失った世界の中で、二つの金色の瞳だけが輝いて見えた。

「おっ、ミカサ」

彼の視線の先に目をやると、ちょうどコンビニから隣のクラスのミカサ・アッカーマンが出てくるところだった。
クラスは違っても、彼女を巡る様々なうわさは耳に飛び込んでくる。

「結構な有名人みたいだね」

「ああ。なんでも先生を痴漢撃退スプレーで追い払ったとかそうでないとか――」

彼女のことを得意げに話すエレンに対し、ふと悪戯心がわいた。

「好きなのかい? 彼女のこと」

エレンは一瞬固まったが、すぐに否定する。

「別に好きとかじゃねえよ。ちょっと気にはなってるけど――」

それを好きっていうんだよ。
そう言おうとしたとき、エレンが立ち上がった。
ミカサに話しかけようと思ったのだろう。しかし、彼女の隣を歩く人物を見て眉をひそめる。

ミカサの隣には、エレンと同じ制服を着た男子生徒が並んで歩いていた。
男の方はなれなれしくミカサに話しかけているが、ミカサのほうは無表情のままである。
どう見ても対等なカップルとは思えなかった。

「美人だし、ああいうナンパは慣れっこなんだろうね」

「……」

エレンが何かを呟いた。気がした。

「エレン?」

「なんでもねえよ。じゃ、また明日」


「……有害な獣は駆除してやらねえと……」

『アニ……』

『これまでありがとう、迷惑かけてごめん……』

『僕は……この場で殺されるみたいだ……』

翌日、郵便受けに入っていた二本目のテープ。
彼の声がだんだん切羽詰まっていくのが分かる。

『最初は冗談だと思った……』

『僕はさっきまで、目隠しと猿轡をされて暗闇に放置されていたんだ……』

『助けを呼ぶことも出来ない……僕はここで死ぬんだ……』

『そう思ったとき、急に後悔が押し寄せてきた……』

『君に謝らなくちゃならない……』

『だから僕は、君あてに伝言を遺すことにしたんだ……』

『このまま何も言わずに僕がいなくなると、君は知らないままになってしまうから……』

『ちゃんと伝えなくちゃ……』

テープはそこで終わっていた。

停止しようと思ったが、念のためにB面を回してみた。
しばらく無音が続き、彼の声ではない、聞き覚えのある人物の声が再生された。

『もしもーし、アニ? 聞こえてるか?』

『これを聞いてるってことは、もうそういう運命だってことだよな』

『十二月三日の夜十一時、ベルトルトの死んだ廃病院まで一人で来てくれ』

『そこでテープの続きを渡すからな、絶対来てくれよ』

今度こそ本当に終わりだった。

十二月三日はすぐにやって来た。
学校を終えて家に帰り、部屋に入ると二本のテープが無くなっていた。

私が行方不明になれば警察がこの部屋を捜索し、テープが証拠となるだろう。
つまり、犯人は私を無事に帰すつもりがないということだ。

不思議と恐怖感はなかった。
私はテープを受け取りに行くつもりだったが、そこで間違いなく殺されるだろうこともわかっている。
それでも抵抗するつもりはなかった。
彼が死んでからずっと望んでいたことだったからかもしれない。

いつものように食事を終え、両親と妙な距離感を保ったまま会話をした。
これでいいんだろうか。もう二度と会えないかもしれないのに。
最期の時というのは、意外と呆気なくやってくるものだ。
私はそれを痛いほどよく知っている。

家を出るとき、心の中で両親に詫びた。
親不孝者でごめんなさい。私は、彼のところに行きます。

死とはどういうものだろう。

廃病院に向かいながらそんなことを考える。
生きていたものが、生きることをやめる。
そこには明確な境界線があるはずだ。

以前の私にとっては、確かにそうだった。
自分は生きている。彼も生きている。そう感じていた。

彼の死体を見たときから、その境界線があいまいになった。
無慈悲な破壊を目の当たりにしたことで、死の領域に片足を踏み込んでしまった感覚。
全てが灰色。自分が生きているのか、死んでいるのか分からない。
おそらくその二つに大した違いはないのだろう。

私は死に向かっている。
体が、心が、そうすることを止められない。

廃病院にたどり着いたとき、あたりはすっかり暗くなっていた。
魔物が大きな口を開け、私の命を飲みこもうとしている。

入口を抜け、中に入る。
懐中電灯であたりを照らすと、ぼろぼろになったベンチや割れた窓ガラスの破片が無造作に散らばっていた。

一体何年放置されているのだろう? 
たくさんの命が救われ、消えていった場所。今はすでに生きることをやめている。

廊下を進むたびに呼吸が浅くなった。
天井はどこまでも続き、常に頭を押さえつけられているような圧迫感を覚える。

彼が見つかった部屋を探して歩く。確か、一回の奥にある――

手術室。

扉を開けた時、私は妙な雰囲気を感じて足を止めた。
この部屋だけほかの場所よりもやけに暗く、闇が濃かった。
火事でもあったかのように、天井や壁、床がことごとく黒い。

中央に、いたるところ錆びた金属製のベッドがある。
いや、ベッドではない。手術台だ。
彼はここで殺された。

そこで、私は気付いた。

壁や天井は煤けていたのではない。
それらの黒い染みは、中央の台から広がって、私の靴が踏んでいる床まで黒く染めていた。
手術室の床一面を侵食し、入口から外にまではみ出している。

私は思わず後ずさりし、壁に背中をつけた。
懐中電灯を持っていないほうの手で口を押さえ、こみ上げてくるものを押さえつける。
黒い染みの正体は、かつてここで流れた彼……ベルトルトの血だった。

暗闇の中で一瞬、見た気がした。
警察が拾い集めたという、かつて彼であったものの一部がうごめいているのを……。

『アニ……この声は君に届いてるかな?』

すぐそばで、彼の声がした。
びくりと身を震わせ、ゆっくりと声のした方を振り返ると――

「アニ、よく来たな」

エレンがそこに立っていた。

エレンは片手に黒いラジカセを持っていた。
もう片方の肩で、何かを大事そうに抱えている。
小型のもので、彼の声はそのスピーカーから聞こえている。

『その彼が、録音したテープをあとで君に届けるって言ったんだ……』

『君の反応を見て楽しむんだって……悪趣味だよね……』

再生はずっと続いている。
彼の憔悴した息遣い、呼吸の音が、コンクリートの壁面に反響しながら血塗られた部屋に満ちていく。

「ベルトルトはこの台の上でテープに声を吹き込んだんだ」

エレンはラジカセを置くと、台のそばへ立った。
抱えていたものを、床の上にそっと下ろす。

「何で私をここに呼びだしたんだい?」

「さっきテープが言ってた通りだ」

手術台を優しく撫でる。慈しむような手つきだった。

「アニ、こっちに来いよ」

エレンは私を死へと誘う。
どんな意味もなく、理由もなく、不条理な死をもたらす存在。
逃げ出そうと思えばできた。でも、不思議と体が動かなかった。
金色に光る目が、私を捉えて離さない。

私はしばし硬直した。
手術台から私までの距離は三歩ほどしかない。
その気になれば、一気に距離を詰めて捕まえることも出来るはずだ。

だが、エレンはそうしなかった。
私が自ら近づいていくことを知っているように。

ふらふらと、死に引き寄せられる。
エレンは諭すように言った。

「自分でも、もう気づいてるはずだ」

「お前は俺に殺される。それが分かっててここに来たんだろ?」

「生きている家族よりも、死人の声を選んだんだよ」

その通りだった。私は、死に魅入られてしまったのだ。

「……エレンは、何でこんなことを……?」

「さあな。俺にはわからないんだ」

「すべてが偽物に思えるんだよ」

「学校で明るく振る舞ってるのも、今こうして話してるのも」

「ここは俺の生きてる世界じゃない。何かが足りないんだ」

「血と臓物にまみれた。苦痛に泣き叫ぶ声を聞いた」

「それでも、まだ足りない。ここはリアルじゃない」

「何でなんだろうな? 何が足りないんだろうな?」

「お前を殺したらわかるかもしれないんだ。だから殺されてくれよ」

私は背筋の凍る思いがした。
いつも陽気で、快活で、陽の当たる場所にいたエレン。
そんな彼が心の奥にしまい込み、決して人に見せることのない暗黒の深淵。
私はそれを垣間見た気がした。

「お前もそろそろ死にたいだろ? 早く楽にしてやるよ」

そう言って笑うエレンの顔は、他愛もない話で私を元気づけていた時と全く同じもので。

「別にこっちから先にやってもいいけどな」

エレンは先ほど肩から下ろしたもののそばにしゃがみ込んだ。
暗くてよく見えないが、一体何だろう。

「ん……」

その何かが動いた。

「おとなしくしてろ、ミカサ」

それは人の形をしていた。両手足を縛られ、猿轡を噛まされている。
ミカサはつい先ほど目を覚ましたらしく、状況を飲み込めずしばらくもがいていた。

「次に殺る候補は二人いたんだ。アニとミカサ。面倒だからまとめてやることにした」

ミカサは信じられない、といった顔をしていた。
彼女の顔が変化したのを見るのは初めてだった。

「お前には冷たい死がよく似合うよ」

黒い髪を優しく梳きながらエレンが言う。
エレンが彼女に抱いているのは、好意などという生易しいものではない。
もっと奥深く、おぞましいものだ。

「どっちから先にする? じゃんけんで決めるか?」

エレンは屈託なく笑う。
あくまでも無邪気に、この状況を楽しんでいるのだ。

黒いラジカセのそばには、三本目のテープがまとめて置かれている。
私を解体しながら彼の最期の言葉を聴かせるつもりなのだと思った。

もう一人が入ってきたのは、そのときだった。

「ミカサ!? どこだ!?」

やってきたのは、いつだったかミカサの隣を歩いていたナンパ男だ。
勇敢にもここまで助けに来たらしい。

「よう、待ってたぜ」

「エレン? お前、何で――」

彼はその言葉の続きを口に出すことはできなかった。
エレンの手から伸びたナイフの柄が、男の腹から飛び出している。
音もなかった。相手が油断しているすきに一気に刺したのだ。

「う……ぐ……」

男は小さく呻き、その場にぐったりと倒れこんだ。
血だまりが、床の上に新たな染みを作っていく。

「駆除完了、っと」

ミカサのほうを見ると、驚愕に目を見開いていた。
エレン・イェーガーはためらいなく人を殺すことのできる人間である。
圧倒的な現実感をもって、そう理解された瞬間だった。

「こいつは人じゃないぞ」

私の考えを見透かしたようにエレンが言った。

「ちょっと人と形が似てるだけの獣だ」

人を一人殺したというのに、何の達成感も罪悪感も感じていない様子だった。
エレンにとっては、さっきの出来事も現実ではないのだろう。

「どうする? 早く決めよう――」

エレンの動きがぴたりと止まった。

「逃……げ、ろ……」

さっき倒れた男がエレンの足首を掴んでいる。
息も絶え絶えになりながら、絞り出すように言葉を吐いた。

「今、の……うちに……早く……!!」

この男は今、生と死の境界に立たされている。
生と死を分けるもの。そこに確かに存在している。

「死んじゃえよ、もう」

エレンが男の頭を踏みつける。
一刻の猶予もない。私は考える。

私の彼は、もう死んでしまった。
私は? 私は生きている。確かに生きているのだ。
今、すべきことは――

「――――っ!!!」
ラジカセとテープをひっ掴み、ミカサを肩に担いで走り出す。

ミカサは気を失っているようだった。
さっきの光景がよほどショックだったのか。意外と繊細なところがあるのかもしれない。

「死ねっ、死ね! お前みたいなやつは、こうなって当然だ――」

エレンは男を痛めつけるのに夢中で、私を追いかけてくる様子はなかった。
男はおそらく殺されるだろう。
それでも最期の力を振り絞り、ミカサと私を救ったのだ。

私は男の呻き声を振り払うように、ひたすら走った。

ごめんなさい、ごめんなさい……。

気づくとどこかの公園まで駆けてきていた。
全力疾走の後だったが不思議と疲労感はない。
色々なことを受け入れるのに精いっぱいで、疲れを感じるのを後回しにしているのかもしれない。

ミカサはまだ目を覚まさない。
このことを警察に言うべきか悩んでいた。
ベルトルトを殺したエレンには罰を与えたいし、あの男の死体が発見されないまま朽ちていくのは忍びなかった。

それでも、さっき起きたことを警察に説明する場面を想像すると、どうしても違和感が拭えなかった。
何もかもが現実感のない、悪い夢であったような気がしてくる。

どうせなら、彼が死んだことも夢であってほしかった。

私はラジカセに手を伸ばした。三本目のテープを再生する。

『アニ……何度も言うけど、ごめんね……』

『ユミルとのことは、本当に何でもないんだ……』

こんな時に、そんなつまらないことを。
本当に、つまらない勘違いだった。

『彼女は親友を失って落ち込んでいるみたいだったから……』

『僕に何かできることがないかと思って……』

そんなこと。
とっくに分かっていた。

『僕は……アニのことが好きだ……大好きだ』

分かっていたのに。
自分はつい彼に当たってしまった。
それが最後になるなんて、思わなかったから。

『それだけは……これからもずっと変わらないから……』

彼を一人にしなければ。一緒に帰っていれば。
エレンに捕まることはなかったかもしれない。
私の緩慢な自殺は、罪滅ぼしのつもりだったのか。

『僕はもうじき死ぬ……犯人が次に狙うのは、おそらく君だ……』

『どうか逃げて……生きて……幸せになってほしい』

私は、危うく彼の最期の願いを踏みにじるところだった。

『さようなら、アニ……』

彼の声が途切れ、何も聞こえなくなった。

気づくと視界が涙で滲んでいた。
自分はこんな風に、か弱い少女のように泣くこともできたのか。

隣で衣擦れの音がした。

「ミカサ……? 気が付いた?」

猿轡と手足を縛っていた縄は、ここに来た時に外していた。
ミカサはしばらく考えて、こう言った。

「私は何も聞いていないから……」

「あの後、結局どうなったの? 私は気を失ってしまって……」

廃病院での一件から数日後。
俺とミカサは、誰もいない放課後の教室で向かい合っていた。

「ああ、あいつならもう学校には来ないと思うぜ? 俺に全部知られちまったからな」

「そう……」

ミカサは頷いたが、納得した風ではなかった。

「それにしても、あの時は本当に驚いた」

窓から吹く冷たい風が、ミカサの黒く美しい髪を揺らした。

「あなたが死んでしまったのかと思った。……ジャン」

俺は、エレンの死体を廃病院の裏手に埋めた。
あそこは曰くつきの上に荒れ地になっており、しばらくは新しい建物が立つこともないだろう。

ミカサからのメールを受けた俺は廃病院へと向かった。
エレンがいたのは予想外だったが、念のためジャンプと血のりを腹に仕込んどいて正解だった。
おそらくあのメールを打ったのもエレンで、俺をおびき寄せて殺すつもりだったんだろう。

死んだふりをしてエレンが油断したところを、ためらわず刺した。
鈍く光る刃は、エレンの心臓へとまっすぐに吸い込まれていった。

体に刃が刺さって、エレンがうめき声とともに小さく血を吐いたとき。
ナイフの柄を握りしめた俺の手は、乾きの癒える確かな手ごたえを感じていた。
エレンの命を飲み込んで腹を満たしたのかもしれない。

エレンはしばらく驚いたような顔で俺を見つめていたが、やがて薄く笑うと、
「ああ、これだ」と呟いてそのまま動くのをやめた。
ベルトルトの命を奪ったのと同程度の簡単さで自分の死を受け入れたんだろう。

死体を埋めるとき、俺はエレンに言った。

「俺たち、きっと似た者同士だったんだろうな」

違う形で出会えていれば、親友になっていたかもしれない。

待ったが返事はなかった。無視しやがって、むかつく奴だ。
やっぱさっきのは撤回する。

「エレンもこっち側の人間だとは思わなかった」

「よほど擬態が上手かったのだと思う」

エレンが同種であることにはすぐに気づいた。向こうもそうだっただろう。
だが、お互いに馬が合いそうにないことをどこかで感じ取っていたのか、
人間の皮をはごうとはせず、深く関わることもしなかった。

ちょっと人と形が似てるだけの獣。
エレンの言ったことは、なかなか的を射てるかもしれない。

「あなたは、人間の輪切りが展示してある博物館で姿を見かけたので、そうと分かったのだけど」

なんだ、そんなことか。
ミカサはこれまで数々の異常者に接触してきたが、いずれも正体に気づいた様子はなかった。
唯一それと分かって近づいたのが俺だったので、これはもう運命に違いないと思っていたのだが。
とても残念だ。

ミカサは俺が死んでもか弱い少女みたいに泣いたりしないんだろう。
それが悲しいことなのかどうか、俺にはわからない。

「そろそろ帰ろう」

黒い髪をたなびかせ、ミカサが歩く。

いつか、あの髪に触れてみたいと思う。
俺の腕の中で眠るミカサの冷たい体温を感じながら。

帰り際、アニの姿を見かけた。
今日から学校に来ていたらしい。

アニが廃病院での一件を警察に言うかどうかは正直どうでもよかったのだが、
俺に警察の手が及んでいないことを考えると、言わなかったんだろう。

アニは俺の顔を見てしばらく驚いていたが、その後何度も礼を言われた。
彼女に何をした覚えもないので適当に相手しておく。

ミカサのほうは彼女に話があるようだった。
興味が無いので適当に聞き流す。

俺はメールを受けて廃病院に行き、エレンを殺して埋めただけだ。
アニのことはほとんど何も知らないといっていい。
そもそも、向こうがこっちの名前を知っているかどうかも怪しかった。

話は終わったらしい。
アニとはそこで分かれ、しばらく二人で歩いた。

「私はあなたに言いたいことがある」

ミカサがそう言ったのは、分かれ道が近づいてきたころだ。

「ジャンと私は正反対だと思う」

「最初、私たちは似ていると思った」

「あなたを見ていると、姉さんを思い出すから」

「でも違った。私たちは似ていない」

ミカサはこんな精神状態で無事に家まで帰ることが出来るんだろうか?

「私は、時々あなたを哀れに思うことがある」

「私の知っているあなたと、みんなの知っているあなたが違いすぎて」

「あなたはそうじゃないように見えるけど、そういう人間」

「言っておくけど、私は逆だから」

ミカサは赤い目で俺を見つめた。

「言われなくても知ってるよ」

そう答えると、ミカサは伏し目がちに言った。

「……そう、それならいい。おかしなことを言って悪かった」

「アニのこと、私はよかったと思っている」

「喧嘩したまま死に別れるのは辛すぎるから」

姉のことを思い出しているんだろうか?

「少しでも救いがあって、ちょっと羨ましかった……」

そんなことを言われても反応に困る。
感動的な物語があったりしたんだろうか。
どっちにしろ俺には関係ない話だと思った。

どこかに面白い事件は転がってないかと考える。

別れ道に来ていた。
ミカサはあれから何もしゃべらなかった。
俺たちは別れの挨拶もしないまま、その場所で反対方向に歩き出した。

おしまい

色々とアレな話ですいません
叙述がやりたかっただけ

独特な雰囲気に背筋がムズムズ楽しかった!
乙でした~

でも…
実は死んでおらず真犯人ジャンを追い詰めるエレンの話はどこですか?
エピローグ的な?


読後感の悪さが凄く好きだ!!
もやもやするけど 癖になるね

次も期待

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年02月03日 (火) 13:22:17   ID: JLtOEuT1

何故かフィルター無効化しないと全部読めない

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom