雨の足跡(43)

町に足を踏み入れると同時に、ポツリポツリと雨粒が町に入り込んだ。
やがてボクを追い抜くように雨脚は強まり、雨は町に降り注ぐ。
僅かに見掛ける人影は、慌てて建物の中に避難する。

ボクはそれを見ながらゆっくり歩いていく。ずぶ濡れになることがない存在なのだから、慌てる必要などないのだ。

ボクはこの町に果たさなければならない目的がある。とても大切で、命を投げ出す覚悟が必要なほどの目的。
とはいえ、ボクの命はとっくに失われている。今のボクは意識だけの存在。『幽霊』という存在だ。
本来ならば成仏しなければならない。しかし、大切な目的のために成仏することを放棄した。

成仏することを放棄すれば、二度と転生することも適わず、意識が失われたままこの現世に彷徨い続ける。
それほどの覚悟で臨んだのに、なんという皮肉だろう。現世に現れた途端に、記憶も大切な目的も全てが手のひらから零れる様に失われた。

「そろそろ移動しないか?」

そう語りかけてきたのは、ふわふわと宙に浮かぶ光の玉だった。この光の玉は『仲介者』という存在だ。
魂を導く存在であり、同時に現世に彷徨う魂を消去する執行人。
死神のような存在だが、そう呼ぶと憤慨する。本人(?)曰く人間の作り出した幻想と重ねるなと。
幻想を体現した存在に言われてもちっとも説得力がない。

「さて、現世に着く前にも言っておいたが念のため。君は最低限の知識と記憶以外は失われている」
「一時的にとはいえ現世に蘇らせた代償だ。目的や必要な知識については自力で思い出すように」

随分と気楽に言われてしまった。自分が何者かすら判らないのに、記憶を取り戻すことなど可能なのか。

「ああ、そうそう。君が現世に滞在できるのは24時間といったところだ。せいぜいよく考えて行動したまえ」
「さもないと、君の『意思』は永遠に失われる」

おまけに現世に存在できる時間に限りがあるときた。『意思』が失われるまでの僅かな時間だけ。
24時間は長いようで短い。町を出て何処かへ行く余裕などないだろう。この町に目的があることを祈るしかない。
不安が胸を過ぎる中、町の中心部へとボクは歩き出した。雨はますます強くなるばかりだ。

周囲は田畑が並び、時折小さな一軒家が見えるぐらいだ。遠くには連なる山がその存在を強調しており、
それを遮る建物はなかった。
自然以外何もない田舎だけど、どこか心穏やかになる。生前に訪れたことがあるのだろうか。

しばらく山に沿ってクネクネ曲がる道を進むと、ポツポツと建物が並んでいるのが見えてきた。
町の中心部へ近づいている。そう思い歩幅を大きくして歩こうとしたら、山側――ボクの右側にいきなり切り取られた空間がある事に気付いた。
公園だ。町の中心部から少し離れた場所のためか、大分広い。それに反比例して遊具はあまり設置されていない。

ボクは吸い寄せられる形で公園に足を踏み入れた。
公園の中にはベンチとブランコ、シーソーがあるだけだ。他にも遊具があったとおぼしき形跡があるけれど、どうやら撤去されたみたいだ。
ブランコにも縄でしっかり固定されていて、遊べないようにされている。

公園というには寂しい光景は、とても寂しく見ていて痛々しい気分にさせられる。
唯一取り残された形のシーソーに手を置く。
幽霊なのだから触れる事など出来ない――ギィッという錆付いた音が鳴る。手に少し力を加えたら揺れた。

そんな当たり前の事に驚いた。何故だ。ボクは幽霊だ。触れることなど出来ないはず。
一人驚愕していると、『仲介者』はスッとボクの横に移動してきた。

「ああ言い忘れていた。一応物体や人には触れる事が出来る。生前以上の力は発揮できないけど」

考えてみれば幽霊が普通に歩いている時点で気付くべきだった。
ボクの身体は一向に浮く気配がない。どうやら死んでも常識というのは存在するようだ。

ボクはシーソーに跨った。地面を蹴り付ける。一瞬の浮遊感の後、重力に押される形で地面に下りる。
下りた際のお尻から伝わる衝撃は、まだボクは生きているのかと錯覚させた。

こうしてシーソーで遊んでいると、懐かしい何かが頭をよぎる。けれど今一歩のところで判らない。
喉に魚の骨が刺さったような感覚。この歯痒さに座り込んだままボクは思案の渦に呑み込まれる。

「どうした。もう漕がないのかい?」

発せられた『仲介者』の言葉にハッと意識を取り戻し、声のした方へ顔を向けた。
ボクの反対側、上がりきった片側に『仲介者』はいた。時折クルクルと片側の部分を回る。
どうやら早く漕げと言っているらしい。
人がせっかく記憶に関して思案しているというのに、随分とお気楽な『仲介者』だ。

とはいえ、これ以上考えても思い出せそうにない。ボクは促されるままに漕ぎ始めた。
当然『仲介者』が漕ぐことはできないので、一人で漕ぐ形だ。
それでも、一人でするより二人――いや、一人と一つの方が楽しめる。

上下するシーソーに合わせて、『仲介者』も一緒に上下する様子に幼い頃の記憶を呼び起こす。
あの頃はまだ遊具も規制されず遊び放題だった。一緒に遊んだ友達は特にシーソーがお気に入りで、困ったらとりあえずシーソー、といった具合でボクを誘った。

そういえば、何か約束をした気がする。ボクの目的はその約束と大きく関係している。そのために甦った。
けれど、約束の内容が浮かんでこない。そもそも誰と約束をした?
肝心な部分が塗り潰されたままだ。これでは何の意味もない。

ふと立ち上がろうとして、ボクは異変に気付いた。
立ち上がれない。視界がグルグル回り耳鳴りがする。吐き気が込み上がっているのに吐けない。
一体何が起きたか判らず、ボクは地面に倒れこみ呼吸を整えようと抗う。
幽霊と化した存在に呼吸を整える意味があるのか判らない。それでも、そうするしかなかった。
やがてそれらの症状は治まった。あれは、一体何だったのか?

そんな疑問に答えるように『仲介者』はボクの頭上に移動してきた。

「記憶が取り戻せたみたいだね。おめでとう。けれど忠告しておくよ」
「物体に触れるのもそうだが、記憶を取り戻すにも『意思』が失われる。気をつけて思い出してくれよ」

どうしてそんな重要な事を言わないのか。思い切り睨みつけるが、何処吹く風とばかりに『仲介者』は
ボクの頭上をくるくる回る。
幽霊であるならば宙に浮かべれば良いのに。そう思わずにはいられない。

しかし、告げられた言葉は軽い口調とは裏腹にかなり重い。
考えなしに触れることはもちろん、あまり目的と関係ないことを思い出せば、それだけ『意思』を削られる。
慎重に行動しなければあっという間に彷徨うだけの亡霊と化す。

とにかく町の中心へ向かおう。ここでじっとしていても仕方がない。何もせずとも期限は迫ってくるのだから。

公園を後にしようとしたが、『仲介者』はシーソーの周りを回っていた。
無視して進もうと思ったが、結局ボクは傍に近付いた。

「一人だけでは意味のないモノ。一人では何も出来ないモノ。脆弱と罵るか。怠惰であると侮蔑するか」
「無意味な、無価値な存在と愛想を尽かすか?」

ボクに質問しているような、自問自答しているような定まらない言葉が呟かれた。
『仲介者』の言葉の真意を汲み取ることは出来なかった。その代わりボクはシーソーに乗った。
先程と同じ要領で漕ぎ始める。

あれこれ考えて答えが出ないなら、こうして身体を動かした方が良いはずだ。
そんなボクの言葉にならない声を聴いたのか、『仲介者』はまたシーソーの片側に移った。
それを確認したボクは地面を蹴り上げる。カタン、カタンと一定のリズムを刻んで音が響く。
ボク一人で漕いでいるが、律儀にシーソーと一緒に上下する『仲介者』を見ると、誰かと一緒に漕いでいる錯覚に陥る。
ほんの短い間だったけど、雨雲に似た重たい空気は消えていた。

「全く単純だな君は。相変わらず考えなしだ。考えているこちらが馬鹿みたいだよ」

開口一番に貶し言葉が飛んできた。光の玉だから表情は判らない。
ただ、やれやれと言わんばかりにゆっくり左右に揺れる様は、君には呆れるといった感情が窺えた。
どうやら人間、表情がなくとも相手の意思を知ることが出来るらしい。あまり嬉しくない発見だ。

それにしても、相変わらずとは何を指しているのか。生前に出会ったことがあるのだろうか?
そんな疑念が表情に出ていたのか、『仲介者』は弁解するように言葉を綴った。

「ここに運ばれる直前に、出会ったよ。その時に君の性格を把握した」

歯切れの悪い言い方だった。一体何があったのか気にはなるが、先程記憶を取り戻し、さらにシーソーで
遊んだため『意思』が大分削れるのを感じた。
下手に突いてどうでも良い事を思い出しては、さらに貴重な残り時間を失ってしまう。
すでに『仲介者』はシーソーに飽きたらしく公園の隅で漂っていた。その下には小さな黄色の花が
ひっそりと咲いている。
今度こそ『仲介者』を無視してボクは公園を後にした。

用事が出来ましたので一旦止めます
夜に再開させていただきます。一応酉つけておきますのでよろしくお願いします

失礼しました、再開させていただきます

ところで携帯で確認したら改行が変な感じになっていますが、何かご存知の方ご教授お願いします

公園を後にしたボクは、道なりに進んで商店街に辿り着いた。
商店街入り口付近に設置されていた無駄に大きな地図では、この商店街は町の中心に位置する。
しかし、雨が降っているのも原因だろうが、どうにも古臭さは拭えず、寂れている様子だ。

地図によれば他に目ぼしい場所は、小さな山と駅、いくつかの社寺しかない。
じっとしても仕方がないので、商店街を歩くことにした。
歩道を進んでも人とすれ違うことはなく、時折思い出したように車道で車が走っているだけだ。
開いている店も少ない。その数少ない開店している店からも、店内のBGMが流れてくるだけで活気のある
声は聞こえてこなかった。
町の中心に足を運べば、何かしらの情報を得られるかもしれないと目論んでいたが、これでは期待できない。

「随分と寂れているね。田舎町とはいえ、もう少し活気が欲しいところだよ」
「果たしてこんな所に、君の記憶があるのか疑問だね」

あちこち飛びながら他人事のように『仲介者』は呟いた。呟きは聞こえなかった事にして歩き続ける。
誰かと出会えれば、あるいは何か縁のある建物でも見つかれば記憶を取り戻せる。
そう楽観的に考えていたが、とうとう商店街を抜けてしまった。

何の手掛かりも得られなかった。雨に濡れることがないボクだが、心中はずぶ濡れだ。
この町はボクと関わりのある町だと考えていた。けれど、それは勝手な思い込みだったのだろうか。

落胆は隠し切れない。思考は重ねれば重ねるほど霧散してしまう。
考えながら歩いていたためか、ボクはいつの間にか商店街から遠く離れて住宅街にまで足を運んでいた。
記憶している地図では、住宅街の先は小さな山があるだけだ。まだ探索すべき場所はあるはずだ。
登山している暇などない。

引き返して今度は駅まで歩いていく。心なしか足取りが重い。
無駄足をした精神的な苦痛のためか、それとも『意思』が削られているためか。どちらであるか考える事すら億劫だ。

住宅街から三十分といった所だろうか。
時計を持ち合わせていないので正確な時間は判らないが、そう遠くない場所に駅はあった。
駅舎は寂れた町同様、所々ペンキや板が剥がれていてぼろぼろだ。
一応無人駅ではなく、利用している人もいる。丁度電車が到着したらしい。疎らであるが人が降りてきた。
人がいれば希望はある。話しかけて何か情報を得られるはずだ。
しかし、そんなボクの淡い希望はあっさり裏切られた。

話しかけても誰も振り返らないのだ。迷惑そうに無視しているならばまだ良い。
誰もボクの存在に気付いた素振りがない。あまりの事態にボクはおじいさんの腕を掴んだ。
どうしても気付いて欲しかったのだ。
けれど、怪訝そうな顔をして周囲を見回しただけで、すぐに歩き去ってしまった。

「どうやら誰も気付けなかったようだね」

誰にも気付かれない。ボクは自分が『幽霊』という存在であるとまざまざと思い知らされた。
ボクからは見えるのに、誰からも気付かれない。これがどれほどの孤独か、苦痛か!
思わず膝から倒れ地面に突っ伏してしまう。

みっともなく大声で泣いた。けれど声は聞こえてこない。
いくら喉が裂けそうなほど叫ぼうが発した声はボクにも響かない。

「言っただろう。最低限の知識と記憶が失われていると。君は自分の声すら、姿すら判らない」
「それが、甦る者の代償なんだよ」

訂正
誤:あまりの事態にボクはおじいさんの腕を掴んだ。

正:あまりの事態にボクは通り掛ったおじいさんの腕を掴んだ。

言われてボクは水溜りまで這い寄った。
波紋が広がる水溜りを覗き込むと、そこには黒い雲と周りの木々が映り込んでいるだけだ。
ボクの、姿は見えない。

「今更気付いたのか。呆れたものだ。普通の人間ならまだしも、君は『幽霊』だ」
「記憶を失えば姿はもちろん、声も失う。悪化すれば今見ている光景すら失われる」
「さあ、君は目的があるのだろう? そんな所で水遊びしている暇はあるのかな?」

呆然としていてボクは『仲介者』の言葉が聞こえなかった。いや、聞こえているのに認識できない。
立ち上がって近くの店に近付く。
ガラスならば映るのではないかと、無駄な足掻きをしたのだが、もちろん何も映らない。

これが『幽霊』ということか。今更ながらボクはその意味を痛感した。
『意思』が消えてしまえばこの絶望的な光景すら失われる。何も判らぬまま彷徨い続ける。
それは、どんな世界なのだろう。

「どうしたのかね。諦めるのか、進むのかハッキリしてくれよ。日が暮れてしまうぞ」

ボクは、歩き出した。
恐ろしい事実を知った。記憶を失う前のボクは、この事実を知ってなお現状を受け入れたのだろうか。
それともどうにでもなると安易に受けたのか。今のボクには判らない。
でも、諦めたらそれこそ何のために現世に戻ったのか。意味がなくなってしまう。目的が果たせない。
それが何より恐ろしかった。

頭の中だけでなく、心まで揺らぎ始めた。それでも必死に考える。これからどうするべきか。
けれど目的はおろか自分自身の事すら覚束ないボクには、何処へ行くべきか、何をするべきなのかも
判らない。焦燥感だけが募っていく。

そういえば、先程までボクの周りを回って喚いていた『仲介者』の姿が見えない。
気紛れな性質なのかどうも一箇所に留まっていない。
何か変化が欲しいと思ったボクは、『仲介者』を探すことにした。一人で考え込んでも何も判らない。
ならば、うるさい奴でもいないよりマシだろう。

ひとまずの結論に至ったボクは気合を入れて歩き出した。しかし、そんな気合は空振る。
簡単に『仲介者』が見つかったのだ。なんて事はない。駅前の小さな店の前にいた。
近寄ってみるとその店は駄菓子屋であると判った。両隣の建物に押し込まれる形の小さな店。
その軒先に置かれた植木鉢に咲く小さな花を、まるで指先で突くような仕草で花弁を揺らしていた。
背後に立つと聞いてもいないのに語り始めた。

「この小さな花は福寿草といって、冬の終わり頃から春に咲く花だよ。この辺りのは気が早いらしい」
「冬も半ばを過ぎると咲き始める。正月用に育てる手間が省けるね」

随分と詳しい。花屋でも開業していたのだろうか。
そんなボクの感想などお構いなく『仲介者』はまた花を突いて遊び始めた。暢気な様子にボクは溜息をついた。

そういえば駄菓子屋に来るといつもお店の中には入らず、周りに置かれているものに触れていたな。
夏は蝉の抜け殻を。冬はこうして軒先に咲いた花を突いていた。
変なところはあったけれど、それは仕方がなかった。普段触れる事が出来ないのだから。

何故なら……何故なら。なんでだ。
突然流れ込んできた記憶は留まることを知らず、あっという間に流れていった。
代わりに激しい痛みを頭の中に置いていく。

あと少し。もう少しで思い出せるのに、それが出来ない。鋭い痛みが考える事を阻む。
思わずよろめいて片膝をつく。思わず助けを求めるように『仲介者』を見る。
ボクが置かれている深刻な事態など我関せずで、ガラス戸に張られた黄ばんだポスターを眺めている様子だ。
期待したボクが愚かだった。

痛みに苛まれながら恨みの籠った視線を『仲介者』に向けていると、ふと気付いた。
ガラス戸の下側は木製だ。ささくれ立っていて判りづらいが、マジックで何か書かれていた。

痛みに苛まれながら恨みの籠った視線を『仲介者』に向けていると、ふと気付いた。
ガラス戸の下側は木製だ。ささくれ立っていて判りづらいが、マジックで何か書かれていた。
木目に沿わず書かれていることもあって、かなり読み辛い。それでもかろうじて読む事は出来た。

そこには、相合傘と二人の名前が書かれている。幼い子供が書いたのか、どちらも平仮名だ。
ボクは促される形で駄菓子屋の中に入る。幼い頃書いた約束は、成長した時改めて刻んだ。

幼い頃から悪戯ばかりして迷惑を掛けたボク達は、お詫びも兼ねて駄菓子屋のお婆さんに贈り物をする事にした。
当時から人が少なく、その上駄菓子屋に好んでくる子供は俺達以外ほとんどいなかった。
だからすっかり顔馴染みというか、孫のような扱いを受けていた。そんなお婆さんにボクも感謝していた。
適当に記念日だ何だと理由をつけて、花束と日用品を贈り、一緒に預け物をしたのだ。
それは約束を果たす時に、改めて受け取りに来る。それまで元気で居て欲しいと願ってのことだ。

先程から流れ込んでくる記憶によって『意思』が削られていく。薄暗い店内がますます暗く感じた。
それでも進む。カウンターを見ればお婆さんは居眠りをしている。元気そうで良かった。

「……あれぇ、お客さんがね?」

訛りの強いしわがれた声。カウンターの前に着くと人の気配を察したのか、お婆さんは目を覚ましたようだ。
寝ぼけ眼ではあるが、しかしこちらをしっかり見詰めている。
これは一体どういうことだ。駅前では誰からも見向きもされなかったのに。
『仲介者』に疑問を投げ掛けるべく姿を探したが、どうやら駄菓子屋の中に入ってきていないらしい。
狼狽するボクだけど、構わずお婆さんは語りかけてくる。

「久しぶりだねぇ。元気にしてたかい? あの子はどうしたの?」

すでに頭痛だけでなく吐き気まで込み上げてきた。そんな状態のボクにうまく話せる自信がなかった。
そもそも声が出せないのだ。どうすれば預け物を手に出来るのか。

あと少しだ。預け物にボクの目的に関するモノがある。あと少しなのに、届かない。
一人で焦っていると、お婆さんは何か納得したように頷いた。
そして一旦カウンターのすぐ後ろにある居間に入っていった。
すぐにお婆さんが戻ってきた。手には小さな長方形の箱がある。

「確か二人で来たら、これを返す約束だったねぇ。大丈夫、ちゃぁんと、覚えてるよ」

そう言ってボクに箱を手渡してくれた。その手は記憶の中よりも深い皺が刻まれていた。
ずっと覚えていてくれたのだ。ただただ感謝するしかなかった。
ボクは頭を深く下げて、駄菓子屋の戸に手を掛ける。振り返るとお婆さんはまた眠っていた。
もう一度頭を下げてガラス戸を閉めた。

雨に濡れないように軒先で箱を開けた。厚紙で作られた簡素な箱の中には、やはり簡素な中身だった。
紙が二枚。たったそれだけだった。拍子抜けしそうになるが、これこそがボクの目的。
果たすべき約束が書かれている。

確信するボクは、眩暈や吐き気を抑えて一枚の紙を手にした。紙、というより書類というべきだろう。
『婚姻届』だ。二つの筆跡で名前が記されている。
そうだ。これが、これこそボクが。

俺が果たさなければならない約束。死んで悔やむことは数多くあったが、これだけはどうしても諦め切れなかった。

卒業して社会人となったなら、必ず果たそうと約束した。けれど、卒業して間もなく交通事故で命を失った。
悔やんでも悔やみきれない。一目でも会いたいと願った。だからこそ、俺はここに居る。
もう一枚の紙には俺が書いた下手くそな字と、もう一人が書いた字が一緒に書かれている。

『結婚する前に、必ずあの山へ行く!』
『結婚式挙げたら、いつもの場所へ行こう!』

誓約書などと書かれた紙。子供が書いたのかと思うほどいい加減で、大雑把な約束事。
けれど、俺達にはとても大切なことだった。

行かなければならない。約束した場所に。

雨は小降りになったのに足取りは重い。果たすべき目的が判明した。俺自身のことも判明した。
まだ相手の事を全て判っていないが、向かう場所は判っている。
それなのに、一向に進まない。まるで水中を歩いているようなもどかしさ。
流れ込んできた記憶は、『意思』を削る。先程から激しい頭痛と眩暈、吐き気に襲われている。身体全体に
力が入らない。

電柱に手を置いて息を整える。駄菓子屋から住宅街に入ったが、山の入り口はまだ見えない。
こんな所で休んでいる暇はないというのに、どうしたことか。
いつの間にか『仲介者』は俺の前に移動しており、ゆらゆら不規則に舞っていた。

「大変そうだな君? 目的があるなら這い蹲ってでも目指さないといけないぞ青年」
「ほれ、応援してやるから頑張れ。はっはっは!」

有り難いお言葉を頂いて俺はまた前進する。
幽霊ならば宙に浮ければ良いのに。『仲介者』を見る度に強く思う。
とはいえ宙に浮かべても『仲介者』と追いかけっこする余力はもはやない。

何度も転びそうになったが、無事に山の入り口に辿り着いた。
入り口にはご丁寧に看板が設置されていて、山頂までの道程が描かれている。たまに近所の人が散歩で登るほど小さい山だ。
子供の頃から何度も登っているから、迷うことはない。

問題は俺自身だ。なるべく見ないように意識していたが、誤魔化しきれない。腕を見れば透けている。
腕だけじゃない。胴体も、脚も全て透けている。
登りきるまで持つのだろうか。過ぎる不安を振り払い、歩き始める。
記憶の中では楽に登れていたが、今の俺には苦行であった。雨で滑りやすくなっている上に、力が入らない俺の組み合わせは最悪だ。
何歩か進むと転び、滑り落ちる。また進んでは転んで滑る。その繰り返し。

幽霊となって救いなのは、転んでも怪我はしないし泥や土で汚れないことだ。
けれど、なかなか前進できないのは、やはり悔しい。

「……青年。もう充分だろう。登るのは諦めた方が良い」

無様に何度も転ぶ俺を見かねたのか、『仲介者』が俺の前にやって来てそう語りかけた。

「今からでも遅くはない。成仏することを考えろ。まだ君には『意思』が残されている」
「何もこんな所で彷徨う亡霊となる意味はない。考え直して、成仏するべきだ」

そんな事が出来るのか。言葉の真意は判らない。けれど、『仲介者』は必死に訴えているように思える。
言われた通り成仏したほうが良いのだろう。彷徨う亡霊となれば、俺が駅前で味わった孤独や苦痛を永遠に受け続ける。
『仲介者』はそれを消す役目を持っているため、いずれは消滅するのだろう。
けれど成仏と違って心安らかにはなれないことは、『仲介者』の言葉から想像するのは容易だった。

だからといって、俺は諦めることは出来なかった。
ここで諦めるぐらいなら、初めから現世に戻ったりなどしない。
『仲介者』に言われた通り、俺は這い蹲って進んだ。歩こうとしてもどうしようもないのだ。
ならば開き直って進もう。どんなに無様な格好だろうと、果たしたい約束がある。
そのためならば一々格好付ける必要なんてない。

「…………」

本当に這い蹲って進む俺を見て『仲介者』はどこかへ去っていった。愛想が尽きてしまったのか。
けれど気にしている暇などない。少しでも前へ進まなければ。

どれほど時間が経っただろうか。いつの間にか雨は止んでいた。
陽が暮れたのか、雲に覆われていることもあってますます暗くなっている。
それともこれは『意思』がなくなりつつある予兆なのか。

滑りながらも確かに前進していた。さっき頂上まであと五十メートルと書かれた看板が見えた。
あともう少しで到着できる。すでに身体は半透明、いやほとんど消えかかっている。
残された時間は少ない。
焦る気持ちを抑えながら前進し続ける。ただただ前へ。愚直に。

突然視界が拓けた。先程までの鬱蒼とした草木は消えうせて、代わりに台地が俺を出迎えた。
見覚えがある場所だ。俺はここを良く知っている。
道の両端には転落防止の柵が設けられており、少し小高い所に三角点がある。
三角点の近くには花壇のスペースがあり、何かしらの花が咲いている。

ああやっと。やっと頂上に辿り着いたのだ。
柵に寄り掛かりながら立ち上がり、周囲を見渡す。ここに会うべき人物がいる。
約束を果たすべくここにいるはずだ。
けれど、俺の想いとは違って一向に相手の姿が見えない。約束の場所はここで間違いないはずだ。

ゆっくりと三角点へと向かう。きっと、きっとあそこにいるはずだ。
すでに頭痛も眩暈も吐き気も、何も感じない。ふらつく脚を叱咤して進む。ここまで来て諦めきれない。

三角点に辿り着いた時には既に限界だった。俺は倒れ込んだ。
目が霞み、視点が定まらない。もはや自分の腕すら見えない。
いや、辛うじて見えるが、目を凝らしてようやくといったところだ。
相手は覚えていなかったのか。俺だけが一人で空回りしていたのか。あいつはそんな奴ではないはずだ。
そうあいつは、あいつは……

そこまで考えて、俺は相手が誰なのか判っていない事に気付いた。
名前だけは判っても、どんな容姿でどんな性格だったのか。全く思い出せないでいた。
ここに至って俺は全く愚かな人間だと思い知った。
約束を果たすのは大事だが、肝心な相手が誰なのか判らないのでは、何の意味があるのか。

自分の馬鹿さ加減を呪った。呪うしかなかった。このまま亡霊となるなんて、あまりに悔しがった。
けれど、どうしようもない。相手が誰かも判らない。そもそもここには誰もいない。
もう足掻く力さえ、残されていなかった。

「良い眺めじゃないか。青年、君もそう思うだろう?」

頭上から声が聞こえる。この生意気な声は『仲介者』だ。何処に行ったと思えばこんな所にいたのか。
俺の現状とは正反対の明るい声。文句の一つでも言ってやろうと思ったが、顔を上げることすら苦しい。

「身体がほとんど透けているね。もう、限界かな」

背中に突かれる感触が伝わる。俺は蝉や花じゃない。どっか行ってくれ。

「良いのか倒れていて。目的の場所に辿り着くのだから、胸を張ったらどうかな」
「約束の場所はあと少し。それこそ這って行ける場所だ」

約束の場所。ここではないのか。約束を果たす場所……いつもの場所。
そこが何処なのかハッキリとしていない。だけど、まだ行っていない場所がある。
俺はこの山の頂上こそ約束の場所と考えて行動していたから見逃していた。

花壇。まだそこには行っていない。
そこは地元の住人が世話している花畑だ。時期によって植えている種類が異なるが、いつ行っても花が咲き誇っていた。
ここから本当に目と鼻の先だが、今の俺には地球の裏側ほどに遠い。
それでも、出来ることがあるならやってみよう。どうせ成仏など出来ないのだから。やるだけやってしまえ。

消えかかった『意思』を手繰り寄せて進む。一歩進むことが苦痛。二歩目には倒れこむ。
這って進み、視界が歪む。脚で無理やり使って這い進む。息が詰まる。

身体のどの部分を使い、その結果どんな代償を負ったのか。もう定かではない。
それでも、俺は花壇に辿り着いた。もう呼吸すら苦痛だが、喜びは沸いた。
しかし、誰もいない。見えるのは小さく黄色の花――『仲介者』が福寿草と教えてくれた花だけだ。

「頑張ったね。ここが約束の場所」

いつも減らず口を叩く『仲介者』が労いの言葉を掛けてくる。
クルクル回ったと思うと風が吹き福寿草が小さな花弁を揺らし、いくつか花びらがこちらに飛んできた。思わず俺は目を閉じた。
このまま目を開けるのも億劫だ。眠ってしまおうかと考えたが、それは出来なかった。

「いつまで寝ているのかな。さあ起きた起きた!」

うるさい『仲介者』の声が耳元で聞こえる。相変わらずうっとおしい奴だ。目を開けて睨んでやろう。
けれど、俺は思わず目を大きく開けて見詰めてしまった。

「どうしたのかな。まるで幽霊でも見たようだよ」

クスリと笑ったその顔はどこか儚げで、けれど綺麗だった。何より、俺はその笑みを見たかったのだ。
けれど、何故彼女がここにいるのか。そもそも何処に隠れていたのか。
疑問が浮かんでは消えていく。口をパクパクさせるが、声が掠れてしまう。

「金魚みたいだねその口。まあ待って。君が言いたい事を当ててあげるよ」
「ずばり、私は何処にいたのか……ってところかな?」

他にも色々聞きたい事は沢山あるが、やはりそれが一番気になることだ。
彼女の目を見て頷くと、俺を抱き寄せ片手を背中に回して支えてくれる。そして心得たとばかりに語ってくれた。

「何処に居たも何も、ずっと君の傍にいたよ。最初からね」

それはつまり、『仲介者』として存在していたということか。全く気付かなかった。
表情に出ていたのか、彼女は仕方がないよと俺を慰める。

「君は記憶を消されていた。私は姿を消されてしまった。気付く方がどうかしているよ」
「私は『仲介者』として存在することに決めたからね。前の、この姿はしちゃいけない規則だったんだ」

どうして『仲介者』になろうとしたのか。何とか口を動かして伝えようとした。
無駄かと思ったが、さすがは竹馬の友。俺の意図を理解してくれた。

「実はね、私死んじゃったんだよね。君がこの町を出た後に、その交通事故で」
「そしたら『仲介者』が来て、どうするって言うから……『仲介者』として現世に戻ったんだよ」

……死んだ。彼女が死んでいるだと。
その事実は、自分が死んだ事より重大なことだ。俺は何も知らずに生きていた。
どうして誰も教えてくれなかった。

「多分ね、誰も知らせてないと思うよ。ほら、私達の仲は家族みんな知っていたから」
「これからの生活に支障が出たらいけないって、必死になっちゃったんだと思う」

自分の家族が思い浮かばない。もう思い出すだけの『意思』もない。
だが、きっと問題はあっても仲が良かったのだろうと思えた。それは彼女の言葉からでも判る。

しかし、とんだ空回りをしていたわけだ。相手は死んでいて、約束など果たせない。
おまけに『仲介者』だから、亡霊と化した俺は消されるだろう。本当に、馬鹿な話だ。
 
「本当はさ、若いまま死んで悔しかったんだ。やりたい事沢山あったのに」
「婚姻届もさ、二人でちゃんと出して。一緒に暮らしたかった」
「全部、駄目になったけどね。でも君は生きていると思っていたから、いつか会えると思ったから」
「だから記憶を保ったまま会うには、『仲介者』になるしかなかったんだよ」
「なのに、君はすぐに死んで。しかも、私を探すために記憶を失ってしまうなんて……とんだ笑い話だよ」
「『仲介者』になったら、姿を現したらいけないって言われたし。正直諦めてた」

何もかもがすれ違っていたのだ。俺はすぐに判るようにと姿を残し、彼女は記憶を残した。
二人とも姿を残すか、記憶を残していたならば、ここまでややこしくならなかっただろう。
ずれた奴だと思っていたが、死んだ後も二人してずれているなんて、本当笑い話だ。

「もう、消えるみたいだね君。ほとんど姿が見えないよ」

言われて気付いた。確かに自分でも身体が見えない。これが亡霊になるということか。
誰にも気付かれず、自分自身も判らず彷徨う。そんな存在になるのか。
不思議と以前感じた恐怖はなかった。彼女と出会えたためか、それとも恐怖も感じなくなったためか。

「まあいずれ私もそうなるけどね。結局『仲介者』としての役目放棄したから」
「生きている間、ずっと一緒に居た気がするけど。死んだ後も一緒だなんてすごいよね私達!」

ふざけた口調で話しているが、彼女は震えていた。自分も亡霊となって彷徨うことが恐ろしいのだろう。
もう消えてしまう。その前に彼女の恐怖を少しでも取り除きたかった。
最後に彼女に伝えたい。感謝を。想い出を。俺の気持ちを。
俺は残された力で、彼女の手に自分の手を重ねた。
不意の行動に驚いて彼女が顔をこちらに向けた。

「愛してる」

残された『意思』では短い言葉しか紡げなかった。声は掠れていて、格好良さとは程遠い。
それでもこれが俺が出来る精一杯だった。
キスをすると彼女の温もりが伝わった。それと同時に、俺の『意思』は瓦解する。
彼女に気持ちが伝わっただろうか。その結末も判らず、意識は、霧散した。

いつの頃か、ある町で小さな都市伝説が広まっていた。
冬の半ばを過ぎると雨が降り、それは春の訪れを伝えるだけでなく幸運や幸福を招くと。

誰が何の意図で広めたのか判らないまま、町全体に伝播していった。
けれど誰も躍起になって否定しようとしなかった。
幸運や幸福を招くならば大歓迎という気持ちはある。
だが、それ以上に一緒に伝わっている話が町の人達を魅了しているためだ。

それは町に咲く小さな花――福寿草にまつわる話。
春の訪れを告げる花はこの町では他の地域より早咲きするのだが、雨が降ると必ず咲くと言うのだ。
ただ町全体の花が咲くわけではない。

町外れから商店街、住宅街を抜けて小さな山に連なる道にだけ咲くという。それはまるで誰かが
足跡を残したようだと口々に町の人は言う。
その足跡に沿って歩くと恋人と相思相愛になれる、あるいは健康になるといった話だ。
いつの頃か伝わる小さな都市伝説。

今年もまた、雨の足跡が聞こえる時期が訪れた。

以上で終了となります

以前反省して深夜VIPらしく、○○「」形式で書こうとしたのに、昔書いた古い話を発掘したのが運の尽き
・終盤が近付くにつれ、強引さが目立った
・去年の内に終わらせようとして出来なかった
・大幅に改訂しておきながら、結局文章に成長が見られなかった
この辺り猛省すべき点だ

ともかく読んでくれた人、乙

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