低俗霊iDOL@TRY (165)

最初に聞いたのは、学校だった。

「ねぇ春香、首吊りマンションって知ってる?」

随分と久しぶりに会った気がする友人は唐突にそう切り出した。
思わずきょとんとしてしまった私に友人は畳み掛ける。

「学校に来る途中にさ、廃ビルがあるでしょ?あれ、元々はマンションだったらしいんだけど……」

「ちょ、ちょっと待って?あの、なんで今そんな話するの?」

時刻は朝八時半。
これから授業が始まろうという今、何故私は良くわからない怪談を聞かされているのだろうか。
だが質問を受けた当の彼女は事も無げに言う。

「え、なんでって……今日行ってみない?って言おうと思って」

私の笑顔が音を立てて凍ったが、その音は私の中に響いただけで相手には伝わっていないらしかった。

hanging mansion-首吊りマンション

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次に聞いたのは事務所だった。

「首吊りマンション?」

と言っても、今度は私がフったのだけど。
千早ちゃんは今朝の私と同じように不思議そうな顔をした。

「うん。元マンションで今は廃墟になってるビルがあるんだけど、そこで昔住んでた人が自殺したらしくてさ」

「首を吊って?」

「そう。それから、そこでは何故か首吊りが良く起こるようになったんだって」

千早ちゃんが分り易いため息をついた。
いや、そんな顔されても。私だってなんだかなーとは思ってるけど。

「随分と、その……ありがちな怪談ね。テンプレートそのままって感じの」

まぁ、その通り。

「それで、それがどうかしたの?わざわざ事務所に来て言う事でも無いように思うけれど」

少し勘付いているのかもしれない。
何故私がわざわざ事務所に来て、千早ちゃんにこんなどうでもいい話をしているのか。

「……この後、そこに行かないかって誘われてて。良かったら千早ちゃんもどうかなーって」

「お断りするわ」

見事に斬られた。

だろうなーとは思っていたけど、これは参る。

「いや、あのね。行って帰ってくるだけでいいんだよ?」

「春香の友達の事を、私は知らないもの。気まずくなるだけよ」

「……そうかもしれないけどさぁ。怖いんだよ~」

ちょっと甘えてみる。
当然、もう、しょうがないわね……と言ってくれる事を期待してのものだ。

「ごめんなさい。本当に無理なの」

思った以上に真剣な反応が帰ってきて、私は面食らう。
千早ちゃん、そんなに怪談とか苦手だったっけ?ホラーは平気だったはずだけど。

「というより……春香も、行かないほうがいいかもしれない。なんだか嫌な予感がするのよ」

背筋がぞくりとした。
彼女の澄んだ声が持つ神秘性と、予感という予言めいた言葉。

「あ、あはは……あんまり脅かさないでよ、千早ちゃん」

無理やり笑って空気を変えようと試みる。

「本気よ」

彼女の一言で全て無に帰ったけれど。
申し訳なさそうに私を見る千早ちゃんを見て、私は誘いを断る事を決意する。
しかし、メールしても電話しても応答が無く、結局私は件のマンションの前に立つ。
悪寒はまだ取れていない。
アイドル活動が忙しくなってきた今、事務所以外での交友関係の維持には少し気を使いたくて、だから、断るにしてもきちんとその意を伝えたくて。
でも連絡がつかなくて、仕方ないから集合場所まで来て。
いつまで待っても来ない彼女に流石に腹が立ち、帰ろうと思った時、マンションの中に彼女の姿を見つける。
三階の一室、窓から私を呼んでいる。
私はおっかなびっくりマンションに足を踏み入れる。
その部屋が首吊りのあった部屋だとは知らず、そこへ向かった。

「君みたいな可愛い子がこんな事してるなんて、びっくりだよ。いや……可愛いからしてるのかな?」

その男はたまたま街であっただけの人だった。
それなりに金を持っていそうだから声をかけて、今ふたりきりでここにいる。

「ああ、そこそこ。そこで立って」

マンションの一室、用意された椅子の上に立つ。
男はしゃがみ込み、足元からスカートの中を覗いている。

「はぁ、はぁ……いいね、学生らしい下着で。可愛いよ」

興奮しすぎているのか、手が小刻みに震えている。
その震える手は私に触れる事もなく、ベルトを外してそれを取り出した。

「ふぅ、はぁ、はぁ……そのまま、ちょっと足を開いて」

言われるままにポーズを変える。
大丈夫、慣れている。
同じだ……今までと。
頭の中で微分方程式を解いていれば、その間に満足して終わる。
この行為に大きな意味は無く、ただの暇潰しだと思っていれば、それで。
何分か男の言う通りのポーズを取り続けていると、男の手がペースを上げる。
そろそろだ。

「はぁっ、はぁっ!はっ、うぅっ!うっ!」

短くそう唸ると、男は私の足元に白濁を飛ばした。
少し足にかかったが、特に気にしない。とりあえず、終わりだ。

「待った!待って。そのまま、そのままでいて!」

突然男が叫ぶので驚いてしまった。
戸惑いながらもそれに従う。
微分方程式はもう完全に解き尽くされ、小さくなって頭の奥にある。
そうなると、突然状況が怖くなってきた。
男の妙にギラギラした目が私を射竦める。

「そのまま、そのままで。これ……」

男が差し出したのは縄だった。
先に輪がついている。
……テレビや漫画でしか見たことがない、首を吊るための……。

「大丈夫、椅子の上にいていいから。締めなくていいから。首に引っ掛けてたっててくれたら、ね」

男の声が震えている。
この人はそういう対象に興奮するのだろう。
そう無理やり納得させる。
さっきまでの達観した気分は消え失せて、ただただ早く終わらせたかった。
怖かった。

「大丈夫、倍、倍出すから。ね。安心していいから。ね」

言われるままに渡された縄、先についた輪に首を通す。
男は慣れた手付きで縄を持ち、それをカーテンレールに通す。
この椅子がなくなれば、私の体は宙に浮き、自分の体重が首を締めて……。

「大丈夫だから。手は出さないから。安心して、輪っかから手離して。ね」

もう逆らえなかった。
そっと、輪から手を離す。
その瞬間、男が私の足元を蹴った。
椅子が揺れ、私はふらつき、もう一度。
完全に椅子が足元を離れ、私の体は振り子のように揺れる。
窓にぶつかり、背中が痛かった。
けれど、それ以上に首に食い込む縄に焦った。

「ごめんね、ごめんね。きみがあんまりかわいいから。ごめんね」

男はそう何度も謝りながら自分自身を慰めている。
その手には同じ縄が握られていて、なんとなく私の隣で同じようにぶら下がるんだろうと思った。
頭にもやがかかり始める。
首を何度も引っ掻くが、頑丈な縄は緩む気配すら見せない。

「ごめんね、ごめんね」

男が謝りながら腰を振っている。
気持ち悪い。
いよいよぼんやりしてきた。
視界が何故か赤く染まる。

あれ?
今まで私と男だけだった部屋に、誰か別の人がいる。
子供だろうか。小柄な人影だ。
薄れゆく意識の中でその子を見る。
青い髪、なんだか見覚えがある。
ああ、そうだ。
千早ちゃんに、にてるんだ。
そっか。
どあがあく。
だれかがはいってくる。
このひとはだれだったかな。
もうなにも

わからない。

「春香ちゃん!」

ゆきほ?

その日、午前中に事務所にいたのは私と真ちゃんだけだった。
あ、もちろんプロデューサーと音無さんはいたけど、アイドルは、って意味で。
プロデューサーと音無さんにはもう出していたから、真ちゃんの為にお茶を淹れる。
良い香り。これならオーケー。

「どうぞ、真ちゃん」

朝からどこかを走ってきたらしい真ちゃんの前に湯のみを置く。

「おっ、サンキュー雪歩!いやーやっぱり雪歩のお茶が一番だよね」

真ちゃんが笑顔でそう言うから、私も笑顔で返した。
隣に座って自分のお茶を飲む。
手前味噌だけど、美味しいと思う。文句なし。

「ねぇ雪歩、今度のライブなんだけどさぁ」

「う、うん。あの曲って……」

真ちゃんと他愛もない会話をする。
プロデューサーは仕事をしていて、音無さんは私達を見てにこにこしている。
いつもの事務所、平和な事務所。
私の大好きな……。

ドアが開いて、日常が壊れる。
事務所の入り口に立っているスーツ姿の男性を、私は知っている。
柧武惣一郎さん。
東京都生活対策課に務める、心霊嫌いの公務員。
そして、私のもう一つの仕事を知っている人。

「失礼します。萩原さんいらっしゃいますでしょうか」

気弱な態度で挨拶をする彼に、プロデューサーが黙って視線を送る。
その視線の意図を理解してかどうか、柧武さんはにへらと笑った。

「いえ、ほんと申し訳ないです。深小姫さんが旅に出てなければ良かったんですが……」

柧武さんは本当に恐縮しているようで、さっきから何度も頭を下げている。
ここまで謝られるとこちらこそ申し訳ないが、真ちゃんは納得いかないようでまだ怒っている。

「全く……いいですか惣一郎さん。雪歩はですね、もうAランクアイドルなんですよ?」

「はぁ、存じております……最近、よくテレビでも拝見しますし。いや可愛いのなんのって」

にへら、と笑ったその顔に正拳がめり込む。
何を言っても真ちゃんの神経を逆撫でするだけなんだろうと思うと、やっぱり気の毒だった。

「忙しいし、あんな危ない事はもうやらせるわけにはいかないんです!」

「ですが、プロデューサーさんは何も……」

「それは……」

真ちゃんもついに黙ってしまう。
そう、プロデューサーさんと真ちゃんは私が何をしていたか知っている。
柧武さんからの依頼がそれ以外無いことも知っている。
だけど、プロデューサーは何も言わなかった。
……きっと、私に決めろと言っているんだと思う。

「あの、話してください。今日は何故来たのか」

柧武さんが真面目な顔になる。仕事の顔だ。
と、思ったら、鼻から赤い物が垂れた。

「……ズッ」

一度真面目な空気にしてしまったせいで気まずいのだろう、柧武さんは無言で鼻血を啜った。
私が笑いながらティッシュを差し出すと、彼もまた笑って受け取った。

「失礼しました。今日来たのは都内にある“あるマンション”で口寄せをして欲しいからです」

「マンション?」

柧武さんが頷いて、続ける。

「通称、首吊りマンション。首吊りが多発する為、買い手のつかないビルです」

「あの……私の勘違いで無ければ、ですよ?アイドルの萩原雪歩さんと菊地真さんじゃ……」

「ああ、彼女達そっくりでしょ?良く言われるんですよ」

柧武さんが笑いながらフォローしてくれる。
ほんの一年前とくらべて随分と動きづらくなったなぁ、と改めて思う。
有名税というヤツなんだろうか。

「そうですか……ええと、マンションですね。いや、それがですね。自殺者なんていないんですよ、あそこ」

マンションを管理しているらしいおじさんはそう言った。
柧武さんから聞いた首吊りマンションの噂と違う。

「あの、僕達はどこかに物件の事を吹聴する事はありませんので……」

「いやいや違うんです。本当に出てないんですよ」

柧武さんが言うには、あのマンションが駄目になったのは首吊り自殺が出たからで、それ以後も何人も死んでいると……。
でも、管理人さんの話ではそんな事は無いという。
変だ、明らかに。

「ならどうして首吊りマンションだなんて噂があるんです?」

「それは……出るんだそうです。首を吊った男女の幽霊が」

「男女の幽霊?」

思わず首を突っ込んでしまった。
話を聞くだけのつもりだったのに。

「驚いた、声までそっくりだ。ええ、そうなんです。そのせいでどんどん入居者も減って……売りに出しても買い手がつかず、生活対策課さんにお願いしたわけです」

「その幽霊は決まった場所で出るんですか?」

「ええ、いつも三階のある部屋に……」

柧武さんが私を見ている。
真ちゃんも心配そうにしている。
……決断しよう。今。

「わかりました。案内してください。……口寄せしましょう」

口寄せ。
有名な所だと恐山のイタコだろうか。
死者の霊を自分の体に降ろし、自分の口を死者に貸して彼らの意志を伝える行為。
当然特殊な体質を必要とし、死者に近寄る分現実に帰還できない可能性を孕む危険な行為。
そして、それを生業にする者もいる。
口寄せ屋。
口寄せを行い他者から報酬を得る者。
私は本職ではないけど、その素質があるのは昔からわかっていた。
小さい頃はよく心配されたけれど、死者と生者の区別がつくようになってからはそんな事も無くなった。
そして、一年前のあの日。
あの一件以来、私は時折柧武さんの依頼を受けて口寄せをしている。
“アイドル”萩原雪歩の裏の顔は……“口寄せ屋”萩原雪歩だった。

「ゆき……ごほん。わかってると思うけど、危ないんだよ?いいの?」

真ちゃんが心配してくれている。

「心配しないで、私は大丈夫」

私が口寄せをするのは、失礼だけど柧武さんの為じゃない。
もちろん、報酬が目当てでもない。
苦しみ続ける死者の為だ。

柧武さんの車の中で衣装に着替える。
集中するための衣装……ある口寄せ屋の人に倣って身に付ける事にしている。
上からコートを羽織り、その場へ。

「この部屋です」

いる、と思った。
何かの跡がある。けど、これは……。

「もしかすると、この部屋で起こった事じゃないのかも」

ぽつりというと、真ちゃんが不思議そうな顔をした。
……柧武さんは、幽霊が怖いので車で待っている。

「どういう事?このマンションにいるんじゃないの?」

「私にもまだわからないけど……大丈夫。これだけ跡があれば、追えるから」

部屋のドアを開ける。
埃が舞った。
やっぱり、いる。

「あの……随分とお若いようですが、本当に大丈夫なんですか?」

心配そうな管理人さんを真ちゃんが手で制した。
有り難い。集中できないと、彼らには会えないから。

「すぅ……」

埃っぽいのを我慢して大きく息を吸い、

「はぁ……」

それを全部吐き出す。
目を閉じて、開く。

「……あなたね」

そこにいたのは、私達と同じ年頃の女の子だった。

雪歩の目が虚空を見つめて止まる。
見えているんだ、ボク達には見えない者が。

「もういいですよ、管理人さん」

「あ、はぁ……すみません、邪魔をしてしまって」

管理人さんがぺこりと頭を下げる。
頭頂部が少し薄くなっているのが見えた。

「……でも、大丈夫なんでしょうか。見る限り気の弱そうなお嬢さんですし」

この人は良い人なんだなと思う。
マンションの事でなく、雪歩の事を心配してくれている。

「大丈夫ですよ。口寄せに必要な物が何か、お分かりですか」

「えっと……すみません、見当も」

「まずは先天的な才能。そして引きずられない意志の強さ。それから……」

ボクは思う。
雪歩は天性の口寄せ屋だと。
なぜなら、彼女は……。

「優しさ、です」

誰よりも深く、人を想う事ができるから。
生者死者の別け隔てなく、人を感じる事ができるから。
心配はしている。だけど、信じてもいる。
自分の中にある奇妙な感情が可笑しくて、少し笑った。
管理人さんは、そんなボクを不思議そうに見ていた。

彼女の過ごした日々が見える。
ここは、彼女の住んでいた家だったのだろう。
両親と、姉。
四人家族で暮らし、そして死ん……

「……違う」

先へ。
彼女の残した物を辿っていく。
彼女がいわゆる援助交際を始めた場面。
妙な男を見つけた場面。
そして、死ぬ場面。
ここじゃない。このマンションで死んだわけじゃない。
ここで暮らした時間が長かったから、ここにいるだけ。
なら、本当に死んだのはどこ?

『……ぁ』

彼女が何か言った。
私はそこに集中する。
唇を、意識を、彼女と、重ねて、理解を。

「……る、か」

彼女が、笑った。
パチンと弾けて意識が元のマンションに戻る。
体中から嫌な汗がどっと流れる。

「雪歩!大丈夫!?」

真ちゃんが倒れそうになった私を支えてくれる。

「大丈夫……けど、わかった。全部、わかったよ」

管理人さんも一歩遅れて入ってくる。

「管理人さん。ここに住んでいた家族に、高校生の娘さんがいませんでしたか?」

管理人さんは少し首を捻って、手を打った。

「ああ!確かにいました!姉妹だったんですけど、下の娘さんが誰かと心中したって話で……それがあって、一家は引っ越して……って、まさか?」

「はい。男女の霊っていうのは、その娘さんと心中したっていう男の人の二人です」

「そういえば、あの一家がいなくなってから噂が広まっていたような……でも、現場はここじゃないですよ」

「それもわかりました。けど、彼女はここで住んでいた時間を日常と思っていて、亡くなった後も帰ってきていたんです」

管理人さんがうぅむと唸ったが、納得するまで説明する余裕はない。

「真ちゃん、柧武さんの車まで連れていって。急がなきゃ」

「え、う、うん。どうしたの?」

「……春香ちゃんが危ないの」

「惣一郎さん!もっと飛ばして!」

真ちゃんが運転席の後ろから柧武さんを煽る。

「目一杯ですって!これ以上は流石にまずいです!」

「友達が危ないんですよ!もっと出して!」

あのマンションにいた女の子は、いつか見せてもらった春香ちゃんと同じ制服を着ていた。
恐らくは同級生で、友達だったんだと思う。
そして、彼女だけが死に、その後春香ちゃんを呼んだ。

「もう到着しますから!危ないからじっとしててください!」

「雪歩!準備いい!?」

真ちゃんの声に頷く。
蝋燭を四本と、スコップをしっかりと握る。

「柧武さんは車で待っていてください。すぐ終わらせますから」

柧武さんは驚く程力強く頷いた。

「……情けないなぁ」

真ちゃんはそう言うけど、そういう人だって必要なのだ。
車を降りてマンションの階段を駆け上がる。
ヒールで走りにくいけど、そうも言っていられない。
事務所に電話をかけたら、春香ちゃんはもう向かったと言われた。
間に合わなくなる前に、連れて行かれる前に。たどり着かなくてはならない。

「ここ!」

埃の上に残る足跡を追い、三階の部屋の前に立つ。
一度深呼吸して呼吸を落ち着ける。
コートのボタンを全てはずし、脱ぎ捨てた。

「真ちゃん!」

「オッケー!」

真ちゃんがコートを持ってくれる。
蝋燭四本全てに火をつけて、部屋のドアを開けた。

「ゆ、雪歩!?なんて格好して……」

はっと気付くと私はちゃんと地面に立っていた。
首に縄もかかっていない。

「あれ?私……」

ボンテージ姿の雪歩がすっと部屋の隅を指差す。

「見えるでしょ、あの人が」

それは、さっきまで目の前にいたはずの男の人だった。
まだ、その……自慰行為をしている。

「ひゃうっ!?ちょ、なんでこの人……雪歩もどうして平気なの!?」

「あの人はね、殺人鬼なの」

雪歩は驚くほど冷静で、今の状況を全部理解しているようだった。

「援助交際を持ちかけてきた女子高生を、首を吊らせて殺した。それが、あの子」

指差す方向が変わる。
今度は窓の方だ。
私はそこに何がいるか知っていた。
今日、私を誘った友達が、ぶら下がっているのだ。

「春香ちゃん、知ってるよね」

「う、うん。同級生だけど……ちょっと、待ってよ。死んだって、え?」

意味がわからない。
じゃあ今日話したあの子は何で、今私は何を見ているの?

「……春香ちゃんの意識はね、今現実と死後の世界の間にいるの」

「死後の、世界……私死んじゃったの!?」

「まだ大丈夫。けど、何でここに来ちゃったかわかる?」

ここに来た理由?それは……

「えっと、呼ばれた、から?」

「そう。あの子が春香ちゃんを呼んだんだよ。寂しかったから……だと思う」

寂しかった。
確かに、あの子とは仲が良かった。
忙しくなって、あんまり会わなくなって、でも……それって……。

ぎぃいいい。

どんっ。

突然音がした。

「なっ、何!?」

「春香ちゃん、私から離れないで!」

雪歩が火のついた蝋燭を前に出す。私は隠れるように後ろに回った。

「あの子……すごく強い意志を感じる」

音の原因はその友達だった。
体を揺すってカーテンレールを軋ませて、壁に体をぶつけていたのだ。
その真っ黒な目はじっと私を見つめている。

「寂しいのはわかる。私だって一人は嫌いだから。でも、だからって友達を巻き込んでいいの?」

雪歩は彼女に語りかけているようだ。説得するつもりなのだろうか。

「春香ちゃんはまだ生きてる。あなたは……可哀想だけども死んでしまったの。一緒にはいられないの!」

ぎぃいいいい、どんっ。

音はどんどん大きくなっている。
これは……説得出来ているんだろうか?

「どうして……?寂しかったんじゃないの……?」

悩む雪歩に声をかけようと思った時、雪歩の体が硬直する。

「ゆ、雪歩……?」

『……い、だ』

雪歩の口から雪歩の物でない声が響く。
私はその声に聞き覚えがあった。

『きらいだ』

『きらいだきらいだきらいだきらいだきらいだきらいだきらいだきらいだ』

『はるかなんてきらいだ』

この言葉は、あの子の言葉だ。

『わたしよりかわいいわたしよりにんきだわたしよりわたしよりわたしより』

『あんたなんかしねばいいしねばいいしねばいい』

彼女は寂しくて私を呼んだんじゃない。
はっきりと憎悪を持って私を呼んだんだ。
でも私は驚かない。

「……やっぱり、私のこと嫌いだったんだね」

『きらいだきらいだきらいだきらいだしねしねしねしねしねしね』

雪歩の口から聞こえる彼女の思い。

「ごめんねぇ、アイドルで。人気者で。あなたなんかよりずっと可愛くて」

私はそれを理解した。

「でもね」

何故なら。

「私だってあなたなんか大嫌いだった。なんでも出来るあなたが」

「私が可愛い?こーんな特徴無い私が?私はね、ずっと羨ましかったんだよ?」

言っていて涙が出てきた。

「私なんかよりずっと綺麗で、勉強も運動も得意で。友達付き合いも上手で、要領が良くて」

『きらいだきらいだきらいだきらいだ』

雪歩も泣いている。
つまり、あの子も泣いている。

「だいっきらいだった!どうして私なんかと友達でいてくれるのかなって!ずっと!鬱陶しかった!」

比べられる事が嫌で、隣にいるのが嫌で。

「嫌いだったよ……なのに、なんで?なんで私の事そんなに認めてたって、今更……死んじゃった後に言わないでよぉ!」

『きらいだ』

泣きじゃくる私を、雪歩が抱きしめてくれた。
皮の匂いがする……。

「雪歩……あの子、自由に出来る?」

「……出来るよ、春香ちゃん」

「なら、お願い。死んだ後も私にこだわる必要なんか無いよって、教えてあげて」

雪歩は黙って頷いた。

「あなたはもう、ここに居続けなくていいの。ね?」

彼女はもう暴れていなかった。
最初からいなかったように、その場から消えて失せる。
私の顎から、最後の涙が切れた。

「雪歩……あの子はどこへ行ったの?」

「いつか、私達も行く所。でも、きっとずっと後にだけどね」

雪歩が微笑む。
私も笑った。

「春香ちゃん、聞いて。ずっと遠くから声が聞こえるでしょ?」

雪歩の言うとおり、声が聞こえる。
これは、誰の声だったっけ。

「真ちゃんの声だよ。その声に集中していたら、戻れるから。ほら……」

「……ヵ……るか!はるか!」

「雪歩」

「ん?」

「ありがとう」

最後に見えたのは、雪歩じゃなくて彼女の笑顔だった。

春香ちゃんの意識は元に戻ったようだった。
ひとつため息をついて、部屋の隅を見る。

「彼女は、ただの女子高生。悩んで、人を好きになって、嫌いになって、それだけ」

男は今までずっと使っていた彼女がいなくなったから、今度は私を見ている。
その手はずっと股間を握って、扱き続けている。

「けどあなたは違う。あなたは、彼女を巻き込んだ……全ての、元凶」

私が部屋に入る時、握っていた物。
いつも使っているスコップを認識する。
手元にずしりと重みがあって、スコップがこの世界にも現れる。

「嬉しいの?私の格好が好き?これがいいの?」

ちーっ、と胸元のジッパーを下げる。
男の顔が喜色に染まる。

「……これだから、男は」

本当に嫌になる。
もちろん全員がそうだとは言わない。
女だって醜い部分はある。
だけど、この人だけは許してはいけない。

「穴掘って、埋めてやる」

「もう、大丈夫なんですかね?」

柧武さんは怯えきっている。

「大丈夫です。もうあそこには何も残ってません」

そう、何も残っていない。
不幸にも巻き込まれたあの子は春香ちゃんの言葉を受けて旅立った。
そして、原因になった男は……私が消した。

「そうですか!いやぁ流石萩原さん!お疲れ様です!」

あっはっはとどこかネジが外れたように笑う柧武さんを傍目に、春香ちゃんの様子を見る。
春香ちゃんは、私を見てどう思っただろうか。
不気味だと、思っただろうか。

「……」

事務所に送ってもらっている間、私達は無言だった。
柧武さんだけが、愉快そうに笑い続けていた。

「ねぇ、雪歩」

事務所に着いてすぐ、春香ちゃんに話しかけられた。

「……なに?春香ちゃん」

「あの、さ。えっと……どうして、ボンテージなの?」

真ちゃんと私は一度顔を見合わせてしまった。

「春香、そ、そこなの?疑問に思うの!あは、あはははは!」

「ち、違うの。趣味じゃなくて、えっと……理由があって!えっと……真ちゃん、笑ってないで何か言ってよぉ」

何を聞かれるかと身構えていたのに、まさかの衣装について。
今更ながら恥ずかしくなってしまった。

「……雪歩、あれって、幽霊の言葉を聞いてたの?」

「……うん。そうだよ」

春香ちゃんは何も言わない。

「気持ち悪いよね、こんなの……不気味って、思うよね」

不安が口をついて出た。
いつもそうだ。知られた後は拒絶が待っている。
受け入れてくれたのはプロデューサーと真ちゃんだけ。

「普通じゃないよね、私。あの、でも、別に普段はそんな事……」

「うん、普通じゃないけど。気持ち悪いとは思わないなぁ」

春香ちゃんは事も無げに言った。

「だって、あの子を助けられたのって雪歩のおかげだし、私が助かったのだってそう。すっごく感謝してる」

たったそれだけの事で、私は驚いてしまって言葉が出なくなった。
何故か涙が出てきて、黙ったまま涙目で春香ちゃんと真ちゃんを交互に見る。

「ど、どしたの雪歩。私、なんか悪いこと言っちゃった?」

心配そうな春香ちゃんを見て、真ちゃんが笑う。

「ウチの女王様はお礼言われると混乱しちゃうんだよ。で、そういう時はこうしてあげると落ち着くんだってさ」

ぎゅっと体に手を回される。
今度は春香ちゃんが笑った。

「そっかそっか。じゃあ私もー」

両側から抱きしめられる。
なんだか余計に混乱して、顔が真っ赤になった。

「あはは、雪歩は心配性だなぁ。春香が雪歩の事嫌いになるわけないじゃない。ねぇ?」

「そーだよ、当たり前でしょ?ゆーきほっ!」

真ちゃんに頭を撫でられながら、春香ちゃんに頬ずりされる。

「あぅ、あわっ……わ、わわ私、あ、穴掘って埋まってますぅ!」

「ほー、そりゃ良かった。無事終わったんだな」

次の日、私はあった事をプロデューサーに話してみた。
予想通り、プロデューサーは雪歩の事を知っていたようだ。

「でもすごいですよね、雪歩。私だったらとても……怖くて、あんな事出来ないと思います」

プロデューサーは腕組みしたまま笑う。

「はっはっは、そりゃそうだろう。雪歩本人だって毎回ビビってるんだからさ」

「え?でも、すごく堂々としてましたよ?何ならステージ上がる前の方がびくびくしてるくらい」

「んー、そうだなぁ。雪歩はほら、人の為に動く時が一番力出るタイプだから」

それはすごく良くわかる。

「あいつはなぁ、なんていうか……言い方は悪いけど、どっか壊れてるんだよ。男が怖かったり、犬が怖かったりも一種の副作用だな」

壊れてる?

「壊れてるってどういう事ですか?」

「……普通じゃない力があると、普通には生きられないのかもな。あいつの精神の深い所で、バランスが狂ってるんだ」

バランス。
さっきの話から考えれば、人の為に尽くしすぎる、という事だろうか。

「でも、人のために何かが出来るって良いことだと思うんですけど……」

プロデューサーが真顔になる。

「春香。雪歩は今回、お前の為に命を賭けたんだ。口寄せってのは戻ってこれなくなるかもしれない危ない事だからな。それはわかるか?」

「えっと、はい」

「放っておくと、あいつはそれを何度だって繰り返す。薄いんだ、執着が。あいつは……少しだけ、俺達から遠い場所にいる」

昨日見た雪歩の姿。
儚くて、消えてしまいそうな雪のお姫様。
現実と死後の世界、その狭間での奇妙な存在感。
雪歩にとって、あそこが本当の居場所なのかもしれない。

「真がついてたのは、お前を引き戻す為じゃない。雪歩を遠ざけない為なんだ。楔がないと、雪歩はどこかへ行ってしまうからな」

そんなのは、嫌だ。
私を助けてくれた雪歩。
今度は私が助けてあげたい。

「でも、春香が知ったのは良い事だな」

「え?」

「今度は春香も楔の一つになってくれ。俺や真だけじゃ、もしかすると……」

プロデューサーは先を飲み込んだ。
言いたく無いんだろう。私も聞きたくない。
続きを促す代わりに、私は大きく頷いた。

冬の日差しが差し込む事務所、雪歩が柔らかい挨拶と一緒にやってくる。
私は一度プロデューサーの顔を見た後、雪歩に駆け寄って思い切り抱きしめた。

hanging mansion-首吊りマンション 終

「雪歩。幽霊が物に取り憑くって事はあり得るのか?」

プロデューサーが不意にそう言った。
私は口に運びかけた湯のみを置いて首を傾げる。

「物に、ですかぁ?うーん……」

幽霊と一口に言っても様々だ。
強いて言うならば残留思念という言葉が近いように思う。

「私がいつも見ているのは、言ってみれば場所に憑いてる幽霊ですよね。建物や土地を物として見るなら……」

「なるほど、物に幽霊が憑く事もあり得ると」

頷く。
今まで見たことは無いけれど、思いの残る場所に幽霊がいるならば……物も同じはず。

「けど、どうして急にそんな事聞くんですか?」

プロデューサーが机の後ろに置いてあった何かを手に取った。

「実は俺も相談されたんだよ。で、これだ」

「これって……」

見覚えがある、というか……

「まぁ、シャルルなんだが。昨日、ちょっとな」

rabbit charles-うさぎのシャルル

「ねぇアンタ、幽霊って信じる?」

伊織が突然そんな事を言ってきた。
まぁ、雪歩の事もあるし信じているが……

「うーん、まぁ半々だ。それが?」

伊織は非常にバツが悪そうにしている。
今日一日妙にそわそわしていたのは、これを言い出すタイミングを測っていたのか?

「別に伊織が幽霊信じてたって笑ったりしないぞ。何かあったんだな?」

黙って頷く。
ふむ、参ったな。

「あのね、この子なんだけど」

胸に抱いていたうさぎのぬいぐるみを差し出す。

「最近、変な夢を見るのよ。その夢にウサちゃん……シャルルが出てくるの」

「でも、夢の話だろ?」

言ってからしまった、と思った。
伊織の事だ、バカにされたと思ってへそを曲げるかもしれない。

「あー、いや、大したことないって話じゃなくてだな」

フォローしようとして気付く。
伊織はまだ深刻そうに眉を寄せていた。

「……そうよね、多分大したこと無いんだと思う。けど気になるのよ」

765プロのスーパーアイドルは、いつになく弱気だった。

「そういうわけで一回預かってみる事にしたんだ」

プロデューサーはうさぎのぬいぐるみでぴこぴこと遊んでいる。

「うーん……こういうケースは初めてで、私にもよく……夢の内容は聞きましたか?」

プロデューサーがシャルルの後ろに隠れる。

「それは教えてもらえなかったよー。伊織ちゃん、相当参ってるみたいだねー」

裏声のプロデューサーに苦笑を返して、少し考える。
変な夢……で、人には言いたくない。
私もそういう時はあるけど……。
ふと、この前見た夢を思い出した。

「……なんで雪歩が真っ赤になってんの?」

一瞬トリップしてしまっていた。
頭を振って意識をはっきりさせる。
もう……真ちゃんのせいなんだから。

「なんでもないですぅ!えっと、それ……口寄せしてみましょうか」

今のところ何も感じないけれど、もしかするとなにかわかるかもしれない。

「いや……それはいいよ。なんかあったら困るし。とりあえず様子見で事務所に置いとく事にする」

そうですか、と答えてお茶を飲む。
シャルルは戸棚の上でくったりとしている。
伊織ちゃんは小さいころから持っていると言っていた。
なら、もし伊織ちゃんが幽霊になったら……シャルルに取り憑くのかな?
それはない気がする。でも、それ以上に思い入れの強い人って……?
じっと見ていると、シャルルがこちらを見返したような気がした。

「はぁ……」

今日何度目かの溜息が出た。
いつになく調子が悪い。

「いおりんだいじょぶ?どっか痛い?」

亜美が私のおでこを擦ってくる。

「っさいわねぇ、ていうかアンタはおでこ触りたいだけでしょーが」

「あら、バレたぁ?」

おどけたように言う亜美にちょっと救われる。

「でも、本当に平気なの?伊織ちゃん、ここの所ずっと変よ~?」

あずさもそう言う。

「平気よ、全然ね。ちょっと夢見が悪くて……いつもより睡眠時間が短いだけ」

ていうか、あずさもデコぺたぺたしてくるのね。全く……。
楽屋のドアが開いて、律子が入ってくる。

「三人共お疲れ様。それじゃ、帰るわよー」

律子には相談しても良いんじゃないかって思うけど……でも。

「あ、伊織。疲れてるなら帰るまで寝てていいから。助手席座りなさい」

「あ……そうさせてもらおうかしら。ありがとう、律子」

律子も、亜美も、あずさも、私を心配してくれてるのがわかる。
他愛無い話にリアクションを取るのも疲れてきた。
これ、ほんとにヤバいかも……。
自然と口数が減ってきて、周りも静かになる。
ああ、余計心配させちゃうわね。

「ほら、伊織。事務所ついたら起こすから、迎え呼んどきなさい」

駐車場について、車に乗る。携帯を取り出して新堂に電話。
新堂が出るのを待つ間に眠ってしまいそうだったから、律子に任せる事にした。

「律子、代わりに電話してくれない?ちょっと……眠くて」

辛うじてそこまで言えたけど、返事は覚えていない。
携帯が手から離れた気がしたから、承諾してくれたんだと思う。
後ろの席で亜美とあずさが何か言っていて、律子が変に恐縮した声で新堂と話していて……。
その声が遠くなって、私の意識は落ちていく。
落ちて……。

これは、夢だ。
もう何度も見た景色だからよくわかる。
そしてこれから起こる事も知っている。
私は知らない部屋のベッドに眠っていて、枕元にはぬいぐるみが置いてある。
くまやキリン、あれはキツネ?それからカピバラ……うさぎはいない。
部屋の主はきっとぬいぐるみが好きなんだろう。
内装的にも女の子の部屋に思える。
ぼんやりそんな事を考えていると、アイツがやってくる。
軋む音がしてドアが開き、私の良く知ったアイツが。

「いやっ……」

消え入るような声で言っても、アイツは意に介さない。
いつも一緒だったぬいぐるみ、うさぎのシャルル。
大きさが大の大人と同じくらいなのが、夢なんだなって自覚を強める。

「来ないで……!」

暴れようとしても体は動かない。
シャルルはベッドに上がり、私を跨ぐようにしてのしかかる。
いやだ。
この後何があるか、私は知っている。
私のスカートがずり上げられて、下着が降ろされる。
いやだ、やめて!
どれだけ叫ぼうとも声にならない。
股の間、アノ部分に裂けるような痛みが走り、私はやっぱり声にならない悲鳴をあげる。
痛い、痛い!やめて!
シャルルの布地の奥から何かが滲み出してくる。
赤黒くて生臭いそれは、私の体の中を巡っている物と同じで。
びちゃびちゃと顔や体に降り注ぐ液体が不愉快で、痛みはまだ続き、私は何故か目を閉じる事も出来ないまま犯され続ける。
最悪の夢。
でも本当に最悪なのは、最後の最後。

「あ」

最後に私の口から出る声は、痛みじゃなく恐怖でもなく、悦楽から来る甘い声だって事。

「伊織!」

ゆっくり目を開けると、律子が不安な顔で私を覗きこんでいた。

「アンタ、顔真っ赤よ?やっぱりどこか体調が……」

「っ……!平気よ!平気だから!」

見られた?見られた!
頭のなかがぐるぐる回ってわけがわからなくなる。
下着がちょっと気持ち悪い。またやっちゃってる。

「そ、そう?事務所ついたけど……あれだったら病院でも」

既に到着していた新堂が私達に気付いて一礼する。

「帰ってから行くわ。今日はもう帰るから……じゃあね」

早口にそう言って車を降りる。
新堂が恭しくドアを開ける、その間すら嫌になるほど焦っていた。

「出して」

新堂にそう告げて後部座席に体を沈める。
見られた。きっとだらしない顔してた。

「~~~~っ!」

悶々する。じっとしていられなくてじたばたしてみた。
特に何も変わらなかったけど。
……落ち着かない。やっぱり、シャルルがいないと。

「ふーん、伊織がねぇ」

真ちゃんはシャルルをつついている。

「うん。でも今のところ何も感じないの」

プロデューサーが置いていったシャルルを見て、いろいろ試してみたけれど……。
結局、何もわかっていない。

「雪歩が何も感じないなら、幽霊じゃないんじゃないの?変な夢だってほら……思春期だしさ」

その可能性は十分あると思った。
あれ、ということは私もまだ思春期?

「……なんで雪歩が赤くなるの?」

「ひゃっ!?な、なんでもない!なんでもないよ!」

真ちゃんの顔が見れない。
思い出したらちょっとキュンと来た。

「これ、手触りいいなぁ。伊織のぬいぐるみだし、やっぱ高いのかなぁ」

「そ、そうなんだ?私にも触らせて?」

はい、とシャルルを手渡される。
やっぱり何も感じな……

「プロデューサーいます!?」

突然事務所のドアが大きく開かれた。

「いや、今出てるけど……律子、どうしたの?」

「いや、その……ああ、隠してもしょうがないわね。伊織がいなくなったのよ」

伊織ちゃんが?
そう言って立ち上がろうとした時だった。

「あっ」

股間に違和感。

「雪歩、どうか……ちょ、雪歩!太もも!」

真ちゃんが言ってくれるけど、ちゃんとわかってる。
でも、おかしいな……この前終わったはずだったのに。
考える私の目の前に、巨大なうさぎが現れる。
さっきまで手に持っていた小さなぬいぐるみが、人間サイズで立っている。

『やめて』

「雪歩……?」

律子さんの声に気が付くと、またぬいぐるみは元に戻っていた。

「何か見えた?」

真ちゃんが“換え”を手渡しながら聞く。
私は黙って頷く。

「律子さん」

入り口に立ったままぽかんとしている律子さんに声をかける。
多分、私じゃどうにもならない。けど、時間もない。

「すぐにプロデューサーを探してください。それから、今から言う場所へ行ってください」

伊織ちゃんが、危ないです。
そう付け足すと、意味がわからないまでも……切羽詰まっている事は理解してくれたようだった。

「わかった……アンタ達はどうするの?」

「先に行って、ちょっとでも時間を稼ぎます」

目が覚めると知らない部屋だった。
はっきり言って汚い……散らかった部屋。
誰かの呟く声が聞こえる……。

「……俺……だったんだよなぁ……俺が……」

誰だろう、知らない男。
何かぶつぶつ言いながらこっちを見ている。
体をよじったけど、自由に動けなかった。
両手が後ろに回され、親指をぎっちり縛られている。
片足がどこかへくくられているようで、ここから移動する事も出来ない。
もう片足が自由なのは……何のためか、考えたくもなかった。

「俺、ファンだったんだよ。アイドル……だから……」

男が近付いてくる。
あの夢を思い出して寒気がした。

「あ、アンタ……なんなのよ。こんな事して、ただで済むと……」

ぱんっ。
乾いた音がして、少し遅れて左の頬が熱くなった。

「ファンだから、アイドルが相手するのは当たり前だと思うんだよ」

男の目は濁っていて、何を考えているのかわからない。
言葉が、通じない。
同じ言語を使っているのに、会話にならない。

「ファンだから、喜んで受け入れてくれると思うんだ」

男の腕に注射の痕が見えた。
実際に見るのは初めてだったけど、それが医療行為によってついた物で無い事はわかった。

「やめて……お願い……やめて……」

無駄だろうな、とは思ったけど、言わずにはいられなかった。
案の定、今度は逆側に平手が飛ぶ。

「うるさいなあ……黙ってればいいのに」

下着が濡れているのがわかった。
今更恥ずかしいとも思わないけれど、この男に知られるのは嫌だった。

「いやだぁ!やめて……やめなさいよ!このっ……!」

自由な片足で男を蹴って抵抗する。
男の体は大きく硬い。
抵抗になっていないのはすぐにわかった。

「鬱陶しいなぁ……動かなくしてからにするか……」

その言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。

「けどすぐ冷たくなるからなぁ……急がないと……」

男の太い指が首に食い込む。

「げっ……ぎゅ、ぐ」

必死にもがくけど、無駄。
力で勝てるはずもない。

「はぁ……一回しか出来なそうだなぁ……女ってのはこれだから……」

また、意識が遠のく。
今度は永遠に目覚める事の無い眠りに……。

「ん?」

男の指が離れた。

「っひゅ、ぜっ、は……?」

耳鳴りが酷い上に視界が明滅して何が起こっているかわからない。
ただ、散らかったこの部屋に光りが差し込んで、そこに立っていたのは……。

「伊織!」

王子様だった。

「ここ、ここだよ真ちゃん!」

タクシーを飛ばしてやってきたアパート。雪歩が二階の一室を指差して言う。

「おっけー、わかった。雪歩はここにいて」

雪歩はなにか言いたそうにしていたけれど、飲み込んでくれたみたいだった。

「心配ないって。時間稼ぎだけだから」

ボクだってアイドルだ。
危ない事はしないに限る。
その場を駆け出して、二階まで登る。
雪歩が言った部屋の前に立つと、大きく息を吸って、吐いた。

「……よし!」

覚悟を決めて、木製のドアを叩く。
なるべく大きな音を立てるように。
これで出てきてくれればいいけど……。

「……?」

ドアに耳を当てると、中で人が動く気配がした。
ノブが回る、ドアが開く。
と、同時に体ごと開けた相手にぶつかった。

「なんっ……!?」

男の声がする。
体格的にはボクより二回り以上大きいけど、不意打ちに驚いたみたいだった。
そのまま床に倒れこむ。

「あがっ!」

床に何かがぶつかる音がした。
多分、頭をぶつけたんだろう。
好都合だ!

「伊織!」

正面の扉を開く。
いた。床に転がされている。

「まこ……と……?」

伊織が掠れた声でそう言った。
首に痣ができている……。

「喋らなくていい!今解いたげるから待ってて!」

腕は後回しでいいけど、足はなんとかしないと。
刃物が見つからなかったから、硬い結び目を解く事になった。

「まこ……にげ……」

「伊織を置いて逃げられるわけないだろ!このっ……解けた!」

足に繋がるコードをなんとか解いて、伊織を立ち上がらせる。
部屋を出ようとすると、男が立ち塞がっていた。

「なんだよ……邪魔するなよ……」

廊下は狭い。二人一度には通り抜けられそうもない。

「……伊織、ボクがあいつの相手するから、その間に部屋を出て」

「なっ……無理よ、アンタを置いていくなんて……」

伊織はそう言ってボクの手を掴んだ。
ボクはそれを振りほどく。

「どっちも捕まったらおしまいなんだ。絶対追わせないから……頼むよ」

伊織はじっとボクの目を見て、それから力強く頷いた。
よし。覚悟を決めよう。
もしボクが捕まっても、伊織だけは……?

「え、えぇーい!!」

ごいんっと鈍い音がして、男が再び倒れた。
男の背後に立っていたのは……。

「ゆ、雪歩ぉ」

スコップを持ってあたふたしている雪歩だった。

「あのっ、は、早く逃げよう!」

伊織の手を引いて、雪歩と一緒に部屋を出た。

「……スコップで殴るって、死ぬわよ、下手したら」

伊織が小声でそんな事をいうから、ちょっと笑ってしまった。

「麻薬中毒だったらしい。もともとチンピラだったみたいだが」

警察の事情聴取を終えたプロデューサーが私達にそう言った。

「まだまだ余罪もあるらしいな。空き巣や強盗、強姦殺人。警察も怠慢なもんだ、そんなヤツを野放しにしてたんだから」

「つまり、ロリコンの犯罪者だったってワケ?」

すっかり元の調子に戻った伊織ちゃんが呆れたように言う。

「ま、言ってしまえばな。しかし、雪歩と真はよくやってくれたよ。……いや、褒めちゃダメなんだがな、本当は」

私達は苦笑する。
プロデューサーの立場からすれば叱るべきなのだろう。
でも、何かしなきゃと思った。
シャルルに憑いていたあの子の為にも。

「ねぇ、伊織ちゃん。お友達に、眼鏡の……ショートカットの子とか、いない?」

伊織ちゃんはきょとんとしている。

「お友達って……クラスメイトとか?友達らしい友達にそんな子はいないけど……どうして?」

ちょっと迷った。
口寄せの事は基本的に秘密にしている……大抵が気味悪がられるからだ。
真ちゃんを見ると、意味ありげに微笑んだ。

「あのね。私……幽霊の声が聞けるの。口寄せって言うんだけど」

「……ふぅん。やっぱり、何か憑いてたのね」

一瞬だけ目と口を見開いたけれど、伊織ちゃんは何も言わない。
春香ちゃんの時と同じで。

「シャルルに憑いてたのは、多分前の被害者の子。あの人に、殺されたんだと思う。それで、伊織ちゃんが危ない事を教えてくれたの」

あの時……。
生理かも、と思ったけど違った。
アレは多分、初めての時の血で……つまり、彼女は、そういう事をされたのだろう。
やめて、やだ。
そう言っていた。
助けて、とも。

「……!その子、多分知ってるわ。握手会に来てた子だと思う」

伊織ちゃんが思い出したように言う。

「大人しそうな子だった。同い年くらいの。私が手握ってあげたらすっごい焦って、そのぬいぐるみ可愛いですね!って……そう、死んだのね」

伊織ちゃんは……。
そっと。
優しく。
うさぎのシャルルを撫でる。
もうただのぬいぐるみに戻った、それを。

「多分、あの子は空き巣のついでに殺されたのね。夢に見たのはあの子の部屋だったもの」

伊織ちゃんの目に涙が溜まっている気がした。

「今度、お礼を言いに行くわ。ぬいぐるみ持って」

伊織ちゃんが笑うと、皆も少し笑顔になった。

「……さて、それじゃ俺は仕事に戻るわ。もう一人になるなよ、伊織」

わかってるわよ、という伊織ちゃんを置いてプロデューサーが帰る。
仕事はきっと増えてしまっただろうけど、何故かちょっと嬉しそうなのが気になった。

「そういや伊織、結局なんで一人になったの?新堂さんと帰ってたんでしょ?」

黙っていた真ちゃんがふとそう言う。

「……この子を取りにね。戻ろうとして、その時によ」

事務所に預けたままのシャルル。
それを取りに戻ろうとして……?

「でも、伊織ちゃんも納得して預けてたんじゃ……?」

「そうなんだけど……でも落ち着かなかったの!いいじゃない別に!」

真ちゃんと二人でくすくす笑う。

「伊織はまだまだお子様だなぁー、ははは」

「もう!……でも、子供でいいかもね。あんな痛い思いして大人になるならゴメンだもの」

ん……?

「あの、伊織ちゃん?痛い思いって?」

伊織ちゃんの顔が見る間に真っ赤になっていく。

「……伊織、変な夢ってどんな夢だったの?」

「なんでも無いわ!忘れなさいったら!」

伊織ちゃんは命の恩人のシャルルをぶんぶん振り回して暴れる。
何かを察して笑う真ちゃんと、自分を鑑みて笑えない私。
まぁ、とりあえず……解決したから、良しとしておこう。

rabbit charles-うさぎのシャルル 終

テレビ局には曰くが多い。
あのスタジオには亡くなったスタッフが……とか、あるいは亡くなった女優が……とか。
芸能界の華やかさの裏には、そういう厳しさがあるという事だろうか。
大抵のそういう場所には結構本当に幽霊がいたりするらしい。
信頼できる“見える人”からの情報だ。ウチのアイドルの事だが。
そんな曰く付きのスタジオで撮影があり、無事仕事を終えたのが一週間前の話。

「で、それからどうもおかしいんだよなぁ」

俺の担当アイドルの一人……というか、三人を除いて全て俺の担当アイドルではあるが……。
とにかくそのうち一人の様子がどうもおかしい。
なんだかぼーっとしているし、いつものような快活さが無い。

「亜美の方は何かおかしかったりしないか、律子」

アイドル、双海真美は双子の姉だ。そして俺が担当していない三人の内一人、双海亜美が妹。
どちらかに異変があればもう片方がすぐ気付く、そういう二人だった。

「んー、特にこれといって……とは言え、私が気付いていないだけかもしれないですけど」

亜美を担当しているもう一人のプロデューサー、律子はそう言って首を傾げる。

「そうか……亜美だったら何か知ってるかと思ったんだが」

ま、それならそれで仕方ない。
双子と言えどわからない事もあるだろう。
ただ、これは勘だが……俺一人で解決できる事では無さそうだった。

「急に悪かったな。こっちで何とかしてみるから気にしないでくれ」

そう言って仕事に戻ろうとすると、律子が突然手を打った。

「あっ!そう言えば……亜美が言ってました。夜、真美が変な声を出すからいつもより眠れてないって……何か関係ありますかね?」

「変な声……?」

「なんだか苦しそうな喘ぎ声というか……あっ」

律子は真っ赤になって絶句した。

Orgasmus-オルガスムス

「なぁ真美、お前最近疲れてるのか?」

やはりぼーっとしたまま収録を終えた真美に軽く聞いてみる。
返事はない。

「おーい、真美さんよ」

それでやっと、気付いたように顔を上げる。
こりゃ重症だな……。

「え、ごめん兄ちゃん。何か言った?」

「お前、疲れてるのかって聞いたんだ。調子変だろ」

「あー……うーん……」

再度顔を下げて考えこむ。
律子に聞いた話が本当ならまだ……いや、年齢的にはおかしくもないのか?
男よりそういうのは早いと聞くし。
とはいえ、仕事に支障を出されては困る。

「あのな、真美。お前にもいろいろあるんだろうが……」

「ねぇ、兄ちゃん。エッチな女の子ってどう思う?」

説教じみた事を言おうとしたら機先を制された。

「……アレか?あのー、なんというか、体がこう、な?」

この年頃の女の子にどう話せば良いものか。
全くわからずに意味不明な事を言ってしまった。

「なんか恥ずかしいんだけどさ。授業で習ったんだけど……じーこーいとか、オナニーって言うんだよね」

「やっぱそうか。亜美に声聞かれてたみたいだぞ」

「うっそ!?」

さて、参った。
事実がはっきりしたのはいいが、結局俺から何て言うべきか?
するな、というのは間違っているだろうし、じゃあ……バレないようにしろ?
それも論点が変わってる気がする。
やはり仕事に支障が出ないように……加減しろ、だろうか。
それができたら苦労はしない。
10代の頃の自分を振り返るにそう思う。
いや、男女や個人の差はあるんだろうけど。


「真美よ、俺も大人だからな。お前の気持ちもわかるよ。けど仕事や生活に支障が出るようじゃダメなんだ」

「うん……わかってるんだけどさぁ……」

真美はまだぼーっとしているようだ。
目はとろんとしているし、頬はほんのり上気しているし、半開きの口から荒い息が漏れてるし、股間に手が伸びて

「おい!おまっ、場所考えろって!」

まさか楽屋でおっ始めるとは思ってもみなかった。
というか、いつも以上に様子が変じゃないか?

「真美!こっち見ろ!」

顔を無理やり掴んでこっちを向ける。
真美ははぁはぁと荒く息をしながら笑っている。
その目がまずい。
見たことがある。これは……憑いてる奴の目だ。

「あはぁ……ねーえ兄ちゃん。真美エロい?興奮するぅ?」

妙な浮遊感を感じる。
真美の唇がぬらりと光った。

「真美、落ち着いてゆっくり息をしろ。大丈夫だから」

わかっている、無駄だ。
真美が下着の中に手を突っ込み、俺の目の前に差し出す。

「ほら……見て。こんなになってる……』

今の声は真美の物か?それとも別の……?
股間に血が集まっていくのがわかる。
これは、俺も飲まれ始めてる。
意識が白い膜に覆われるようにぼんやりとし始める。

『きもちいいことがきらいなひとなんていないでしょ?だからがまんしなくてもいいんだよぉ』

目の前にいるのが真美なのか別の誰かなのかわからない。
自然と手が胸に伸びる。

『やわらかい?あはは。うふふ。ははははは』

駄目だ。
このままじゃ、俺達は戻ってこられなくなる。

『うふ、ふふふふふ。あは、あはは。ふふふふふ』

くそ、やりたく無いけど仕方ない。

「んぬぉらっ!!」

思い切り、一切の加減をせずに、自分の顔面をぶん殴る。

「ぶふっ!んぶっ……ふー……」

鼻血が出たが気にしていられない。
真美の首に手を回して頸動脈を抑える。
真美は怪しく笑うだけで抵抗らしい抵抗もしない。
好都合だ。

「あはははは……は……」

真美の体から力が抜けた。
担ぎ上げて行ってもいいが……またさっきみたいになると困る。

「確か、今日は……」

同じ局内にあの二人もいるはずだ。
俺は真美を寝かせて楽屋を飛び出した。

「雪歩!」

目当ての楽屋を見つけて飛び込む。
雪歩と真が心底驚いたようにこっちを見る。

「ぷっ、プロデューサー?あの、鼻血出てますけど……」

真がハンカチを差し出してくれて、雪歩はまだ固まっている。

「俺は後でいい。雪歩、今いいか」

雪歩も何かを察したらしく頷いてくれた。

「真美が大変なんだ。すぐ来てくれ」

何がなんだかわからない雪歩と真を連れて真美の楽屋へ戻る。
ドアを開けると奇妙な匂いがした。

「これって……」

雪歩と真が顔を見合わせる。
俺には余り馴染みはなかったが、嗅いだことのある匂いだ。

「ぅあ……あっ……ひくっ……ひっ……ん……」

真美は既に目を覚ましていた。

「やだぁ……兄ちゃん……見ないで……んぁっ!ダメ、ダメダメぇ!」

真美が大きく仰け反り、白い喉がひくひくと収縮した。
それでも手は止まらず、大きく開かれた両足の間……年齢相応の下着の中で蠢いている。

「お、おい真美!ちょっと一旦止まれ!」

混乱した俺が真美に近付こうとすると、雪歩に手で制される。

「プロデューサー、待ってください。一度出てもらえますか?」

「あ?あ、ああ……わかった」

真も黙って楽屋を出る。
雪歩と真美を残して、ドアのすぐ外に立つ事にした。

「……」

真は何も言わない。
黙って出てきたという事は、多分何か察しているんだろうが。

「雪歩も真美も平気だといいが……な」

無意識にそうこぼすと、真がこっちを見て笑った。

「そんなおたおたしてるプロデューサー、初めて見ました」

……まぁ、鼻血啜りながらアイドルの心配をした事はなかった気がする。

「いつもはなんていうか、頼りになる人って感じじゃないですか。でも、こういう時は慌てたりもするんだなーって……ちょっと安心しました」

ポケットからティッシュを取り出して鼻に詰める。

「お前たちアイドルは自分の子と同じくらい大切だからな。慌てもするさ。むしろそんな風に思われてたのが意外だ」

「頼りにしてますよ、いつも。……ボクはどうなんだろう。雪歩はボクの事、どう思ってるのかな」

溜息。

「頼られてると思うけどな」

真は口を尖らせて言う。

「でも、今だって目で合図されて。真ちゃんも出てってーって。結局最後のラインは守ってる感じなんですよね」

俺も気付いてはいた。
雪歩と真は傍から見てもわかるくらいに仲が良い。
特に雪歩から真へのそれは依存に近いレベルだ。
で、あるにも関わらず、雪歩は真に心を許しているわけではないように思える。
それが彼女なりの気遣いなのか、あるいは臆病さなのかはわからないが……。

「誰にだって秘密はあるし、好きな相手だから見られたくないって事もあるんじゃないか」

「そうかもしれません。けどボクは、例え雪歩が何を隠していても受け入れたいです。だって……仲間じゃないですか」

仲間、と言う前に何か言い淀んだ気がした。

「ま、いろいろあるんだろ。いろいろな。結局ソレはお前が勝ち取るしかない事なんだよ。何に焦ってるんだか知らないけどな」

本当はわかっている。
春香や伊織が……真と俺しか知らなかった雪歩の秘密を知った。
あれから二人は雪歩に前以上に接近している。
個人的には喜ばしい事なのだが……真もまだ子供なんだろう、結局。

「でも」

真が何か言いかけた時、楽屋のドアが開いた。

「お待たせしました。プロデューサー、片付け手伝ってあげてください」

雪歩の声が暗く沈んでいる。

「わかった。大丈夫なのか?」

「はい。私はちょっと……行く所があるので」

こちらを一瞥もせずに目的地に向かおうと歩き出す。
あんなに怒っている雪歩を見たのは初めてかもしれない。
数歩進んだ所で、真が後を追っていない事に気付いた。

「おい、まこ……」

俺がそう言う前に雪歩が振り返る。

「えっ……真ちゃん、つ、ついてきてくれないの?」

さっきまでの怒りに満ちた顔じゃなかった。
虚を突かれたような、信じられないというような。
目を丸く見開き、口元が微かに震えている。

「あ……」

ほら見ろ。やっぱりお前は頼られてる。
真はほんの少し笑うと、雪歩の隣に並んだ。
さて、と。

「兄ちゃん!こっち見ちゃダメだってば!」

「だって見ないと片付けられないじゃないか」

「こっちは真美がやるから!そっちやってよ!」

真美にギャーギャー言われながら楽屋を片付ける。
何をどうしたのか、恐らく真美から出たいろんな液体で辺りがびしょびしょだった。
やれやれと思いつつも黙々と片付ける。

「……ねぇ、兄ちゃん」

しばらく黙っていた真美がぽつりと言う。

「好きになっちゃいけない人って、いるのかな」

小さく、しかしはっきりと。
少し震えた声で、そう。

「……いないよ、そんなの」

しかし、だ。

「どれだけ思いを寄せても、応えてくれない人はいる。応えられない人はいる。そういうのが世の中で、当たり前の事だ」

あえて真美の方を見ないようにしてそう答える。
例えば、性別。
例えば、職業。
そういう“倫理”が阻む関係は世の中にいくつも存在する。
もしそれを知らないか、知っていてもどうにもならない想いを……まだ子供な、何の罪もない者が抱えていた場合……
それを教えるのは大人の仕事だ。

「だよね。真美もわかってた」

例えばお互いが、社会や世間を全て敵に回す覚悟があれば話は別だが、少なくともそれは大人になってから考える事だ。
今捨てるには、未来が余りに大きすぎる。

「でも、好きでいるのはいんだよね」

真美の声は今にも消えてしまいそうだ。

「勿論だ」

俺が迷わずそう言うと、背中越しに小さく「うん」と聞こえた。

「あっ、ゆきぴょっ……ダメぇ……んひぅ、見ないで……」

真美ちゃんはもう体を投げ出して悶えている。
多分、昇ったまま降りて来られないんだろう。

「大丈夫だよ、真美ちゃん。恥ずかしくないから」

隣に座って、体を起こしてあげる。
少し触れただけなのに体が跳ねる。
喘ぎ続ける真美ちゃんを背中側からそっと抱き寄せた。

「怖いよね、こんなの知らないもんね。でも、大丈夫だから。怖がらないで、力抜いて?」

真美ちゃんはお尻側までびしょびしょで、膝に乗せた私のスカートも濡れてしまう。
けど、気にしない。
するりと服の中に手を入れて、膨らみを包むように触れる。

「一回落ち着こ。大丈夫だから、大丈夫……」

呼吸するのも必死で、真っ赤になった耳元にそっと囁く。
返事する余裕はないみたいだけど、何度もコクコクと頷いてくれた。
何も気にしなくて済むように、左手でそっと目隠しをする。
右手は、もう下着の役目を果たしていないそこへ……。

「ひぁっ!?」

大丈夫だよ、とまた囁く。
少し、体の力が抜ける。

「一回、思い切り昇って……昇り詰めたら、おしまい。体が変なのも消えて、いつも通りに戻れるから。ね?」

ぐちゅ、と。
子供のそことは思えない感触がした。
制御できずに弄り続けているうちに、すっかり解れている。

「我慢しなくていいからね。思い切り……イって」

最初は、“あ”だった。
口を大きく開いて手足をビクビクさせながら。
少し変化を付け始めた辺りで、“え”に変わった。
呼吸の間隔がどんどん狭くなって、ぜぇぜぇと喘息の呼吸のように。
次は“い”だった。
開いていた口が閉じて、たまに歯の鳴る音もした。
そして、その時が来る。

「ひぃいっ!んぐっ……っひぐ、んぎぃっ!」

真美ちゃんの打ち震え方が段々大きくなってきて、頭をぶんぶん振り始める。
ガチガチと歯を鳴らして食いしばる。
手足にぐっと力がこもり、ピンと伸びる。
そして……。

「イっ……くぅふぅうう……」

高く、深く、声を絞り出して、体から全ての力が抜ける。
何度か余韻の痙攣をして、真美ちゃんの体が完全に私にもたれかかる。

「お疲れ様。落ち着いたでしょ?」

まだ荒く呼吸をする真美ちゃんを見ながら、無意識に右手の指を舐めた。

「っは……ぅ……はぁっ……ん……」

そっと額を撫でる。
汗で前髪が張り付いていたのを避けてあげた。

「ぅ……怖かったよ……変になっちゃうって思って……」

「もう大丈夫だから。安心していいからね」

真美ちゃんは疲れた顔で、でもにっこりと笑った。

「ゆきぴょんはさ……なんで平気だったの?真美たち女の子同士なのに、こんな……」

ぎくりとした。
一瞬体が固まった事に気付かれただろうか。

「……真美ちゃんは、好きな人っている?」

真美ちゃんも一瞬固まった。

「え……いる、よ」

まだ顔が赤い。
これはさっきの余韻だろうか、それとも別の理由だろうか。

「プロデューサーかな?」

真美ちゃんは目を逸らす。

「私の好きな人はね。女の子なの。男の人がどうしても好きになれなくて、それで」

初めて話す事だった。
プロデューサーにも、誰にも……特に、真ちゃんには絶対に言えない事。

「だから、女の子同士だって平気だし、女の子を気持ちよくさせるのは得意なの。自分と同じだから」

そう言って笑う。
ちゃんと笑えただろうか。

「……でもさ。女の子同士じゃ子供出来ないよ」

真美ちゃんの純粋な疑問が痛い。
わかっている。
私は異常者だ。

「そうだね。だから真美ちゃんが羨ましいな。私は……どれだけ好きでも、好きになっちゃいけない人が好きだから」

真美ちゃんをそっと寝かせて立ち上がる。

「プロデューサー、呼んでくるから。一緒に片付けてもらってね。私、行く所あるから」

返事を待たずに楽屋を出る。
すぐ側にいたプロデューサーに声をかけて、あるスタジオに向かう。
真美ちゃんをおかしくした相手を口寄せする為に。
誰に非があるわけじゃないのはわかっている。
だけど、この胸の痛みは償ってもらわなければならない。
……そんな事に意味がないのは、知っているけれど。

「結局……セックスでしか愛してもらえなかった女の幽霊だったわけか」

その後、帰ってきた真から話を聞いた。
原因はそういう事だったらしい。
真美がたまたま影響を受けただけだそうだ。

「本来なんてことない相手らしいんですけど、真美は丁度……体を持て余すというか。上手く処理できない年頃だったのが原因じゃないかって」

あとアイドルの前でセッ……とかいうのやめてください。
真はそう言ってちょっと赤くなった。

「それで、そいつはどうなった」

「消えました。というか、雪歩が消しちゃったみたいです。……あんな怖い雪歩、見たこと無かった」

真美と何を話したのかはわからないが、どうやらそいつは雪歩の逆鱗に触れたらしい。
怒らせたら怖いアイドルナンバーワンかもしれないな……。

「しかしアレだな。今回といい前の事といい、どうもあんまり高尚な幽霊ってのはいないもんだな」

雪歩が以前言っていた。
自分程度でどうにかなるのは低級な幽霊くらいだと。

「いや、人間なんてそんなもんか?死んでまで俗だといっそ笑えてくるな」

「低級霊じゃなくて、低俗霊ってとこですかねー」

真と二人、そう言って笑った。
ところで、幽霊の影響があったからといって中学生相手に勃起してしまった俺はアウトだろうか?
いや、うーん……。
一番低俗なのは俺なのかもしれない、とぼんやり思った。

Orgasmus-オルガスムス 終

散歩していて、たまたま通って道に小さな女の子がいた。
すぐに気付いた。

彼女は生きている人ではない。

Daydream-デイドリーム

小さな子供が迷っている事は多い。
子供は死を理解出来ない場合が多いからだと思う。
特に事故で死んだ子供は、自分に何が起きたのかすらわからずその場にいる事が多い。
彼女も恐らくはそうなのだろう。
車道を挟んで向こう側に立って、じっとこちらを見つめている。
じっと見ていると、膝に擦り剥いた傷がある事に気付いた。

「あ……」

照り付ける太陽。
痛む膝。
心細さ。

気が付くと、違う道に立っていた。
目の前に私がいる。
小さかった頃の、私。

『おかあさん……おかあさん……』

どうやら逸れてしまったみたいで、泣きながら歩いている。
膝からは血が流れている。
転んだ時に擦り剥いたようだ。
いよいよ心細くなって、足も痛くて、私は座り込む。

『……うぇ』

昔はよくあんな風に大泣きしてた気がする。
泣いて泣いて、大声を出せば、誰かが手を差し伸べてくれる。

『大丈夫?怪我してるね?』

ほら。
知らないおじさんが手を差し伸べてくれて、私はそれを取って立ち上がる。

『おじさんの家、おいで。絆創膏貼ってあげるよ』

頷いてついていく。
ああ、見たくない。

『はい。ちょっと待ってね、薬箱探すから』

そう言っておじさんはカルピスの入ったコップを置いた。
小声でお礼を言って一口飲む。
あまり美味しくなかった。

『あったあった、足上げて』

おじさんに言われるまま、絆創膏を貼りやすいように膝を上げる。
股の間に視線を感じる。

『はい、これで大丈夫。良かったね』

私はお礼を言う。
そんな必要なんてないのに。

『いや、いいよいいよ。ただ……よかったらちょっとおじさんのお手伝いしてくれないかな』

子供なりに、おじさんの雰囲気が変わったのがわかって、私は怯える。
何故か逆らってはいけないと思った。

『だいじょうぶ、いたくないから』

悪いドラゴンにさらわれたお姫様。
ドラゴンのざらざらした舌が胸を這う。

『ぐるるるる、うまそうなむすめだ(はだがしろくてきれいだね)』

気持ちが悪いけれど、我慢する。
だって、私は知っているから。

『やわらかいにく、よいかおりのかみ。きっとおれのしたをまんぞくさせてくれるだろう(おじさんはきみみたいなかわいいおんなのこがだいすきなんだよ)』

囚われのお姫様にピンチが迫った時、王子様が助けに来てくれるんだ。

『それではいよいよいただこう。どれっしんぐをかけて(はぁ、はぁ、はぁ、うっ……ほら、さわってごらん)』

私は目を閉じてその時を待った。
おじさんが自分で自分を慰めて、私のお腹の上に白いねばねばした汁を飛ばした。
それをティッシュで拭きとって、この事は誰にも内緒だよと言われた。

王子様は、来なかった。

目の前に、私が立っている。
小さかった頃の、私。
もう泣いてはいなかった。
お母さんを呼んでもいない。
ただぼんやりとこちらを見ていた。

「大丈夫」

私は私を抱き締める。

「汚れてなんかいないから。あなたは綺麗なままだから」

私は、あなたは、何も悪い事をしていない。

「だから……そんな顔しないで。お願い。お願いだから」

暗く沈んだ目。
薄く開いた唇。
慰めが意味を成さないのはわかっていても、自己弁護を繰り返さずにはいられない。
大丈夫。
あなたは大丈夫。
私は大丈夫。
大丈夫。
大丈夫って言って。

『うっ……ぐずっ……ふっ……ぐふっ……うぁああああ……』

私は泣いた。
大きな声で。
だけど、今の私は知っている。
泣いたからって誰かに救われるわけじゃない。

「あの、大丈夫ですか?」

顔を上げる。
知らない間にうずくまっていたみたいだった。
もう私はいなくて、代わりに女の人が心配そうにこっちを見ている。

「あっ……大丈夫です。ちょっと立ち眩みが」

今のは何だろう?
記憶、というには少し違う気がする。
夢……白昼夢?

「そうですか、なら良かったです」

そういって、女性は電柱の側に花を置いた。

「あの……」

もしかすると、と思った。

「ああ、これですか?……うちの子、事故に遭って」

儚く笑う女性を、女の子は見ている。

『まま、ばいばい』

少女の言葉を口寄せする。
あの子は理解できずにここにいたわけじゃない。
母親に伝えたい事があったから留まっていたんだ。

「……すみません、突然。ただ、なんとなくその子がそう言ってる気がしたんです」

母親は一度驚いた後、また笑った。

「ありがとうございます。……おかしな事だけど、あなたが言うとなんだか本当みたいね」

あんまり自然にそう言われたものだから、少し照れてしまう。

「いっ、いえ……その……あの……」

あたふたする私に一つ礼をして、女性は帰っていった。
変な子だと思われなかっただろうか。
女の子も消えている。
……満足、出来たのだろうか。

「……私も帰ろう」

本当はあの時、死のうと思っていた。
だけど私にとって死は解放じゃない。
死んだ後もそこに在り続ける人たち。
誰かに手を差し伸べてもらわなければ、どこにも行けない者たち。
……私のような。

「あれ、雪歩。どうしたこんなとこで」

突然声をかけられる。

「えっ、ぷ、プロデューサー?」

プロデューサーは私服で、手にドラッグストアの袋を提げている。

「俺、この辺に住んでんだよ。今日休みだし」

そう言えばそんな事を言っていた気がする。
何故か恥ずかしい所を見られた気がして、ちょっと居住まいを正した。

「私は……ちょっと散歩してたんです。天気が良かったから」

「ああ……そうだな、今日は良い天気だ。帰り、送ろうか?」

……それに、生きていればこんな事もある。
男の人は嫌いだけど、プロデューサーは別だ。
遠慮がちに頷いてお礼を言う。
二人で並んで歩いていると、プロデューサーの携帯が鳴った。

「もしもし?ああ、律子?……あー、悪い。買い忘れた。今から買ってくるわ」

プロデューサーは携帯をしまって、バツの悪そうな顔でこっちを見る。

「悪い雪歩、ちょっと買い忘れた物あってさ。悪いけど、一人で帰ってくれ」

私はちょっと残念そうにしながらも、平気ですと答える。
背後にプロデューサーの気をつけてなーという声を聞きながら、私は帰路につく。
まぁ、人生そうそう美味しい話ばかりじゃない。

Daydream-デイドリーム 終

いつの頃からだろうか。
夢に彼女が出るようになったのは。
まるで雪のような白い肌。
さらさらと揺れる髪。
そして、肌と同じく白いワンピースには血の赤が冴える。
彼女はいつも、何も言わずにこちらを見ていた。

DumbGhost-ダムゴースト

その日は、事務所に誰もいなかった。
小鳥さんが珍しく休みを取って、プロデューサーと律子は他の子について出かけた。
だからボクは、ソファーに座ってただぼんやりするしか無かった。

「……暇だなぁ」

久しぶりにオフで、でも家にいても退屈で、だったら誰かに会えないかと出てきたのに。
出掛けのプロデューサーに出くわして、留守番を頼まれてしまった。

「んー……雪歩はオフかぁ。どうしよっかな」

ホワイトボードに書かれた予定を眺めて首をひねる。
一番早く戻ってくるのは誰だろう。
今がここだから……。

「あれっ、そろそろ帰ってくるんじゃ?」

指が止まる。
そこにはダンスレッスンの文字があり、終わりは半時間前になっている。
スタジオからここまでの道のりを考えると、多分そろそろ帰ってくるはずだ。

「せっかくだしお茶でもいれてみようかな。って、どこに何があるか微妙にわかんないけど……うーん……」

雪歩なら全部わかるんだろうけど、と思いながら給湯室を漁る。
急須は見つかったけど、お茶っ葉が見つからない。
昔聞いた歌を思い出した。

「ただいまーなのー!」

元気な声がして、ドタドタ足音がする。
帰ってきたみたいだ。

「おかえり、美希。お茶っ葉どこにあるか知らない?」

「え?あ、真クン!今日お休みじゃなかったの?」

声に気付いてぴょこんと顔を出した美希は、キラキラする笑顔でそう言った。

「んー染みるのー……」

結局お茶っ葉は見つからなくて、自販機でスポーツドリンクを買ってきた。
ダンスレッスン後の美希にはありがたかったらしくて、満足そうにしている。

「お疲れ。最近美希、頑張ってるんだってね。プロデューサー喜んでたよ」

美希のアホ毛がぴこっと揺れる。

「そりゃそうなの!だってね、だって頑張ると頑張った分ハニーが喜んでくれるんだよ!」

相変わらず、純粋な好意を隠そうともしない。
こらが美希で、だから美希なのだろうけど、ちょっとだけ今のボクには鬱陶しい。
隠さなくちゃいけない想いがあるなんて、美希は考えもしないだろうから。

「……真クン?どうしたの?何か、暗いよ」

うつむき気味にしていると、美希は覗きこむようにボクを見る。
綺麗な目をしている。

「いや、何でもないよ。うん。それよりさ」

すっと手を伸ばし、美希の胸を撫でる。

「やんっ……え、嘘……」

さっきまでとは違う表情。
多分プロデューサーも知らない、ボクと美希だけの……。

「ま、真クン……こんなとこじゃ、マズイよ……」

さっき予定は確認した。
他のみんなが帰ってくるまでにはしばらく時間がかかる。
右手で美希の顎を持って、左手で肩を押す。
一緒にソファーに倒れこみながら顔を近づけると、美希の瞼がそっと閉じた。
相変わらず、美希の唇は柔らかい。
軽く何度か啄んだ後、肩にあった手をそのまま下へ……。

「ほんとに……するの?」

そう言う美希の目にあるのは不安だけじゃなかった。
ほんの少しの期待と興奮。
潤んだ瞳をじっと見つめて、ちょっと微笑んでみせる。

「もう、真クンのえっち」

「そんな事言って、美希だって……」

そう言って、スカートの中に手を差し込もうとした時だった。
不意に、背後に人の気配を感じて振り返る。

「……真クン?」

誰もいない……おかしいな。

「ああ、いや、なんでも……」

向き直ると、今度はそっちに人影が見えた。

「ちはっ……!」

や、じゃない。
というか、誰もいない。
気のせい……だったんだろうか?

「……美希、ごめん。やっぱやめとこう。なんか今更怖くなってきた」

「ええー……ちょっとノってきたのに……もうっ」

軽く謝って美希の上を退く。
今のは、なんだろう?

「ひどいのーほんとひどいのー」

膨れる美希のほっぺたをつつく。

「ごめんごめん。でも誰か来たら大変だし、ね?」

唇を尖らせながら、それでもちゃんと理解してくれる辺り美希だなぁと思う。
自分の意志を主張する時と、それでも引かなければならない時がちゃんとわかっている。
美希はワガママだけど、それが可愛らしく思えるのはそこの所が上手いからだと思う。

「美希は、ボクの事好き?」

突然、聞いてみたくなった。
まさか嫌われてるとは思わないけど……でも、どのくらい好きなんだろう?
ボクの後ろめたさが消えるくらいだったらいいのに。

「ん?好きだよ?」

まっすぐな笑顔。

「でも、プロデューサーの事も好きなんでしょ?」

「そうだよ?」

まっすぐな、笑顔。
なんでそんな顔ができるんだろう。

「じゃあボクとプロデューサーだったらどっちが好き?」

笑顔が曇る。
眉間にしわを寄せて、何か考えこんでいるみたいだ。
自分でも意地悪な事を聞いたと思う。

「うーん……わかんないの。真クンも大好きだし、ハニーの事も大好きなの」

適当に言ってるんじゃないのが美希の良いところだけど、悪いところだ。
他の誰かなら誤魔化そうとしてこう答えるかもしれない。
けど、美希は違う。
本音でそう思ってるからこう言うんだ。
胸がずきずきする。

「でも、ボクと美希は女同士だよ」

ふつうじゃないよ。

「そんなのわかってるよ?ミキ的には……誰かを好きになる事に性別とか、年齢とか。そういうの気にしちゃうのって損だと思うな」

まぶしすぎて、まっすぐに見る事も出来ない。

「だってだって、誰かが好き好きって思うとね。胸の所がふわーって暖かくなって、それでどんな事でも頑張るぞーって思えるの。だからきっと、それが一杯ある方がおトクなの」

そう言って笑う美希は、まぶしくて、可愛くて。
思わずまた押し倒してしまう。

「わぷっ……やっぱり、する?」

黙ってキスをして、舌を入れる。

「っぷぁ……真クン、大好きなの」

美希の目に、再び情欲の炎が燃える。

いっそそのまま
全部
燃えてしまえ。

いつもの夢だ。
まるで雪のような白い肌。
さらさらと揺れる髪。
そして、肌と同じく白いワンピースには……喉元から滴る血の赤が冴える。
彼女が何も言わないのは、そのせい。
その手に持ったナイフで、自ら首を切り裂いたせい。
美希は……。
本当に、ボクとプロデューサーを手に入れるつもりだろう。
もしくは、手に入らなかったとして……それでも、愛されるつもりだろう。
独占欲が強いわけではない。
愛の数も、量も、種類も、制限が無いと思っているからだ。
それが眩しい。
それが羨ましい。
少し、妬ましくもある。
彼女はどうだろう。
ボクは……どうだろう。

『あなたも、ボクと同じなんですよね』

以前、真美が取り憑かれた時……真美は心に悩む事があったらしい。
霊とは、同じ悩みを持つ者に惹かれるそうだ。
逆に、人から近付く事もある。
彼女が何故死ぬ事になったか、少しは想像できる。

『同情は、します。マイノリティに育ってしまった身としては』

苦笑が漏れる。
同情、ね。

『でも、ボクがあなたにできる事は無いし、ボクの事はボクが解決します。だから、二度と来ないでください』

ぱちりと瞼が開く。
暗い部屋……自分の部屋だ。
時間は、ちょうど日付が変わった辺り。
一時間くらい寝ていたようだ。

「……さて、と」

携帯を持ち、連絡先リストから一つ選ぶ。
もう寝ているかもしれないけど、今言わないときっとまた言えなくなる。
どうなるだろう。
どう転んでも、ろくな事にならないと思う。
けど。

『もしもし?』

数度のコールの後、雪歩の声が聴こえる。

「ああ、雪歩?ごめんねこんな時間に。寝てた?」

『ううん、起きてた。珍しいね、真ちゃんが電話くれるなんて』

「そうかな?」

『そうだよ~』

ころころと、澄んだ笑い声が聞こえる。
やっぱり、ボクは。

「雪歩、あのね」

君が好きだ。

DumbGhost-ダムゴースト 終

隠さなければならない事は、間違いなくある。
それは自らを守る為であり、誰かを傷付けない為でもある。
世の中を回す大人たちはみんなそれを知っていて、ボクらはまだ大人になれていない。

隠せばいいと一言に断ずるのは容易くて。
でも、それはとても残酷な事。
私たちもわかってて、だからこそずっと隠していて。

それを愚かと言うだろうか?
それとも、賢明だと思うだろうか。
どちらにせよ、ボク/私たちは世界の逸れ物で、誰かの理解無くして生きてはいけなかった。
……それは、誰だって同じだと思うけど。

ComingOut-カミングアウト


「えっ、まこ……何、ど、え?なん……」

頭が上手く働かない。
舌が回らなくて何度もつっかえる。
対して真ちゃんはすごく落ち着いているみたいで、静かな口調だった。

『雪歩が好き。好きなんだ』

嬉しい!けど。
勘違いしちゃいけない。
ここで返答を間違えると大変な事になる。
深呼吸、深呼吸。
ライブや撮影の前と同じ。
胸に手を置いて、気持ちをお腹の底に沈めるイメージ。

「わっ……たしも、私も、好きだよ?真ちゃんのこと……」

どちらとも取れる言い方。
ずるいかな?ううん、これは賢いやり方だよね。

『雪歩が、友達や仲間としてじゃなく、好きだ。恋人になりたいと思ってる』

真ちゃんは許してくれなかった。
逃げるなと、言葉が背中を押す。

「……でも、女同士だし」

また逃げる。
本当は喜んでる。
こんなに嬉しい事は無いくらい。
絶対に叶わないと思っていた夢が叶ったんだから。
でも、素直に聞けない。
それはおかしい事だから。

『わかってる。だけど好きなんだ』

ずっと言われたかった言葉。
頭が真っ白になる。
真っ白に……。

「……ダメだよ、そんなの」

不意に。
本当に、不意に。
私自身、思いもよらない事だったけど。
真っ白になった頭の中に、一つの黒点があった。
牛乳に落ちた墨汁。
決して消える事のないインク。
その名前は、“プロデューサー”。
真ちゃんへの好きとは全然違う好きだったはずなのに、今何故か、あの人が私の中にある。

「私たち、女同士だし……それに、アイドルだもん。どんなに好きでも、それは、ダメ」

多分、二度と無い機会が消えていく。
私の言葉で、私のせいで。
でも、だって、私は!
叫びだしそうになるのを必死に抑えていると、電話越しに小さい嗚咽が聞こえた。

『……そうだよね。ごめん、変な事言って。おやすみ』

「真ちゃ……!」

通話は切れた。
視界が歪む、滲む。
久しぶりに、大声を出して泣いた。

小さく、小さく。
自分の内側へ入って行くように、泣いた。
泣いたのなんて何時ぶりだろう?
泣くな、強くあれが父さんの教えだった。

「ゆきっ……ふ、ぐっ……雪歩っ……雪歩ぉ……」

意味もなく名前を呼ぶと、余計に寂しくなった。
ボクは雪歩に拒絶された。
世界で一番好きな人に。
好きなのに。愛しているのに。

「……やっぱり、駄目なのかな。ボクみたいなのは……あっ」

いけない。
このままじゃ明日、目が真っ赤になる。
撮影があるのに……メイクで多少は誤魔化せるけど、自己管理も仕事のうちだ。

「確か、前にもらった目薬が……」

立ち上がって鏡を見た。
ひどい顔……ファンが見たら卒倒するんじゃないだろうか?
でも、こんな顔になっても、こんな想いをしても……ボクは、アイドルだ。
アイドルであろうとしている。
そのことがおかしくて、ほんの少しだけ笑えた。
……明日も仕事だ。

「何も無かったように振る舞わなきゃ。大丈夫、ボクなら出来る。きっと……」

まだ頬を伝う涙を拳で拭って、目薬を取りに行った。

「ねぇ、本当に大丈夫?真クン、目真っ赤だよ?」

……結局、目薬でも誤魔化せなかった。
ちょっと瞼も腫れてる気がするし、散々だ。

「ああ、いや、昨日ちょっとあってさ。今は平気。全然ね」

そんなわけはないけれど、受け入れなければならない。

「ミキ、話くらいなら聞くよ?」

美希は心配そうにしている。
なんだか無性に泣きたくなった。
事務所には今日も、美希とボクだけ。
少し、話してみてもいいかもしれない。

「昨日の夜さ。告白したんだ。ずっと好きだった人に……そしたら、フラれちゃった。それだけ」

笑って見せるけど、ちゃんと笑えてるかはわからない。
美希の顔を見るに、多分あんまりちゃんとはしてなかったんだろう。

「失恋ってしたことないからよくわかんないけど……辛いよね?えっと、その……あれ?真クンの好きな人ってミキじゃなかったの!?」

心配そうにしていたと思ったら、突然驚いて口に手をやる。
よく動く表情だなぁ……ファンの人にはこれがウケてるんだろうな、と思った。

「実はそうだったんだ。ごめんね」

「ミキ、怒ってないよ。そんな事もあるかなーって思ってたし。あ、でもやっぱちょっとヤなの!おこなの!」

今度は怒ってみたり。
本当、面白い。
さっきよりはマシな顔で笑えた。

「……ごめんなの。ミキ、あんまり良い慰め方とか思いつかなくて、だから」

だから、の先は無くて、ボクの唇に美希の唇が重なる。
いつもどおり柔らかくて、ちょっとだけグロスがぬるりとした。
一瞬驚いたけど、すぐに目を閉じる。
ボクは美希に逃げていた。
美希はボクにこうすることで、どんな気分なのだろうか。
嬉しいのだろうか。満たされるのだろうか。
ドアの方で何かが落ちる音がしたけど、ボクは気にしない。
もう目も向けない。

「なるほどな……」

プロデューサーは黙って話を聞いて、深く頷いた。

「やっぱり、変ですよね……?」

昨日あった事は全部話した。
誰かに相談したくて、そんな事言える人はプロデューサーしかいなくて……。
忙しい合間を縫って、私の話をきちんと聞いてくれる。
そんなプロデューサーが、私は好きだ。
昨日躊躇したのはきっとそのせいで、なら当人に解を求めてみようと思った。

「まぁ、変だな。悪いかどうかは置いといてだ」

プロデューサーは事も無げに言った。

「とりあえず言えるのは……恥ずかしかったりとか、悩んだりとかあるだろうのにちゃんと相談してくれた事がな。それは良い判断だ。嬉しいよ」

くしゃっと頭を撫でられた。
この人はどうしてこう……安心させるのが上手いのだろうか。
それとも私が気を許しているからだろうか?

「しかし……参ったな。仲が良いとは思ってたけどそうなってくるとどうしたもんか……プロデューサーとしては雪歩の判断が正しかったと言いたいが」

じっと。
プロデューサーは私の目を見る。
目を逸らしそうになるけど、耐える。

「雪歩の気持ちはどうなんだ。お前たちが望むなら、俺は協力したっていい。無理するのは良くないからな」

「私も好きです」

プロデューサーが目を丸くした。
私も驚いてしまった。
ほとんど無意識に返事をしていた。

「……ま、ほどほどにな。勇気はいるだろうけど、大丈夫だろ?」

だったらわかるな?と言わんばかりにプロデューサーが微笑む。
私は思い切り頷いた。

「とりあえず、レッスン終わらせよう。それからだな、何するにしても……ああ、スキャンダルだけは気を付けてくれよ、ほんとに」

その後のことはあまり覚えていない。
とにかく、事務所に帰ったら多分真ちゃんもいるから……なんとか二人になって、それで……って、色々考えていた。
帰りの車の中でも上の空で、プロデューサーが苦笑いしていた事だけは何故か覚えている。

「俺、また別の現場行かなきゃならないから……がんばれよー」

そう言ってプロデューサーがいなくなって、私は深呼吸をする。
事務所の階段を登って、ドアの前に立つ。
さっきまでの勢いはすっかり消えて、心が小さく小さくなっていた。
ちょっとびくびくしながらゆっくり、細くドアを開ける。
真ちゃんがいる。
美希ちゃんも。
二人は……

「えっ」

持っていたかばんが足元に落ちた。
美希ちゃんが“真ちゃんごしに”こっちを見る。
一度目を大きく開いて驚いたようにした後、目を細めて笑った。
何も考えられなくなって走りだす。
どこに行くのかも考えないままに。
誰か、誰か。

「プロデューサー……」

そうだ、プロデューサーに電話を……携帯を取り出して番号を選ぶ。
コールがもどかしい。
早く、早く……。

『もしもし?』

電話に出たのは良く知った声だった。

「あ、律子……さん?」

思わず立ち止まる。

『雪歩よね?どうかしたの?』

「あの、あの、プロデューサーは……」

向こうで何か言う声が聞こえる。

『プロデューサー、今運転してるのよ。本当は私が伊織たちの送迎する予定だったんだけど、ちょっと体調悪くて……話があるなら後で聞くって言ってるけど?』

「あ、えと、その……なんでも、ないです」

『え?雪歩?どうし』

電話を切る。
結局自分がどうしたいのかわからなくなってしまった。
私は、男の人が嫌いで、かっこいい真ちゃんが好きで、それで……。
じゃあなんでプロデューサーも好きなの?
ただ男の人から逃げて、男の人の代わりに真ちゃんを好きになったのかな。
ぼんやり考えながら適当に歩く。
好きってなんだろう。
私は、どうして……。
涙が出そうになったけど、歩きながら泣いていたら何を思われるかわからない。
というか、かばんを事務所の前に落としたままだ。
ああ、何をどうしたらいいんだろう。
何もわからない。
私の事さえも。

「おい、雪歩なんて?」

代わりに電話に出てもらった律子は首を傾げている。

「それが、なんでもないって……どうかしたのかしら」

まぁ、多分どうかしたんだろう。
きちんと気持ちを伝えられなかったのかもしれない。

「……律子は、同性愛ってどう思うよ」

運転しながらちらりと後部座席を見る。
伊織たちは眠っている。
さっきまであずささんが相手をしてくれていたのに、そのあずささんも今は寝息をたてていた。

「いや、どうと言われても……そういう人もいるんじゃないですか?悪いとは思いませんけど、大変だろうとは思います」

「だよなぁ」

ため息が出る。
アイドルとしてなら俺にも手助け出来るだろうが、あいつら自身の事には手を出せない。
もどかしいけど、こればかりはどうしようもない。

「俺たちは幸せなのかもなー。普通に、社会的に認められた関係性。異性同士の恋愛」

赤信号で車が止まる。
律子はなにか難しい顔をしている。
身を乗り出して、頬にキスをする。
シートベルトが邪魔だった。

「んなっ!?何するんですか!」

両手を頬にやって飛び上がらんばかりに驚く律子を見て、俺は笑う。
こんな風に、自由に恋愛も出来ないのは……可哀想だよなぁ。
アイドルっていうのも、因果な商売だ。

「あいつらの力になってやりたいなぁ。俺は大したことない男だけど、出来る事ならしてやりたい」

どうすればいいだろう。
世論を変える?無理だ。
せいぜいひた隠しにする事くらいだろう。
あの二人が……真美よりは、ほんの少し大人に近いあいつらが何を選ぶか。
世の中のルールに負けない、なんていうのは簡単だけど。

「俺なんか俗だから、事務所のみんなみたいな可愛い子たちに囲まれてたら目移りしちゃって困るけどな」

律子は何も答えない。
信号が青に変わった。
とりあえず、事務所に帰ろう。

気付けば辺りは暗くなっていた。
どこをどう歩いたのか、結局事務所近くの公園に私はいる。
いい加減寒くなって来たし、もう真ちゃんたちも帰っただろう。
かばんを取りに行かなくちゃ……。
重い、重い重い足を動かして事務所へ向かう。
まだ電気はついている……。
階段を登った所で、かばんがなくなっている事に気付く。
誰かが拾ってくれたのだろうか?
とりあえずドアを開ける。
真ちゃんは……いない。美希ちゃんも。

「あの、雪歩ちゃん」

小鳥さんが一人、気まずそうに立っている。

「これ、プロデューサーさんから……」

事情を知らないのだろう小鳥さんは、一枚のメモを渡してくれた。

「プロデューサーさん、本当は待ってたかったんだけど……律子さんがどうしても調子が悪いって言うから、連れて帰るって。それで、その」

私は黙ってメモを読む。
驚くような事は書いていなかった。

「小鳥さん」

小鳥さんはなんだか泣きそうになっていた。

「ありがとうございます。私、行ってきます」

背後に声を聞きながら歩く。
屋上だ。

「……っくし!」

屋上に菊池真のくしゃみが響くのと、萩原雪歩が足を踏み入れるのは同時だった。
日はほとんど沈んで、空は茜色を過ぎて紫に染まっている。

「ああ、雪歩。はい、これ」

手摺りにより掛かるようにして立つ真に近付いて、雪歩は自分のかばんを受け取る。

「見られちゃったか」

雪歩は何も答えない。

「……逃げてたんだ。美希にさ。どうせって思って、駄目だからって。受け入れてくれる人に」

真は淡々と言う。
言いながら、雪歩を見た。
俯き気味に隣に立つ雪歩の表情は、周囲の暗さも手伝ってどうにも見えない。

「私も、逃げてたんだと思う」

雪歩の手のひらには小さいメモが握られている。

「プロデューサーが好きだって思ってたんだけど、それって……お父さんに甘えるみたいな事で……受け入れてくれるかもっていう、勝手な期待だったんだよね」

今度は真が黙る。

「律子さんと、付き合ってるんだって。知らなかった。私、好きな人の事なのに……」

風が吹いた。
遠くでサイレンの音が聞こえる。

「昔から、男の子みたいに育てられて。憧れが、恋愛に変わって。ずっと隠してたけど、ライブの前とかさ。着替える時に意識しちゃって」

「昔、男の人に……悪戯されて。それからずっと、男の人が怖くて、かっこいい女の子を好きになって」

「なんで、ボクらはこんな風になっちゃったんだろう。好きな人に好きって言うだけで、こんなに苦しくなるなんて」

「どうして、私たちはこうなってしまったのかな。ただ、みんなと同じように恋愛したいだけなのに」

お互いが、ぽつりぽつりと、吐き出す。

「上手くいかないよね、いろんな事がさ。どうしてこんな……どうして」

真が俯くと、コンクリートに染みが落ちた。

「ボクは、ただ……さ……雪歩が……」

二滴、三滴。
雫が溢れて落ちる。
その視界に、白い布が差し出された。

「私ね、真ちゃん」

真はそのハンカチを受け取る。

「いろんな人を見てきたんだ。生きてる人と同じくらい、死んじゃった人も」

いつもの綺麗な声だった。

「どんな人も、死んだ後もこの世界に残りたいくらい……上手く行かなかった人ばっかりで。失敗したとか、拒絶されたとか。自分の事で精一杯で」

「昔はそれが嫌だった。みんな同じ、自分勝手で低俗だって思ってた。でも、最近はそうじゃなかったんだ」

真が顔をあげると、目の前に雪歩が立っている。

「上手く言えないんだけど……みんな、一生懸命で。そういうの全部含めて人間なんだなって。今日私、取り乱して、頭の中ぐちゃぐちゃになったけど……」

「真ちゃんの顔を見たら、なんかすっきりした。同じ、なんだと思う。みんな、人間って。抱えてるものがあって、間違ったりして、えっと……上手く言えないけど……私」

雪歩は、笑っていた。
やわらかく、暖かく。

「私、やっぱり真ちゃんの事好きだな。えと……愛してる」

雪歩に借りたハンカチで目元を拭う。

「ボクも、雪歩の事好きだよ。愛してる」

二人、並んで屋上の端に立つ。
眼下には夜になり始めた街が広がっている。

「失敗もするし、間違う事もあるよね。そりゃそうだ。だってボクら、人間だもん。まだ子供だし。開き直りすぎかな?」

真は笑う。雪歩は首を横に振る。
ううん。
多分、それでいいんだと。
雪歩はそっと手を伸ばして、真はその手を握った。

「私たち、アイドルだから……あんまりいろんな事は出来ないけど。このくらいならいいよね?」

雪歩がそう言うと、二人の距離は縮む。
唇と、唇が、触れ合って、
融け合う。

「……大丈夫か、ほんとに」

律子は真っ赤な顔をして布団に入っている。
風邪か何かだろうとは思うが、そこそこ熱があるみたいだ。

「はい、多分……ちょっと、あんまり眠れてなかったんで。そのせいだと思います」

しれっと言ったが、それは結局俺にも責任ある事で。

「お粥、食べるだろ。作るわ」

キッチンに向かう。
さて、あの二人はどうなっただろう。
二人が二人、思い通りにいかないだろうと早々に諦めて逃げ道を探していたのだから……今頃、そうじゃない事を理解しているだろうか。
結局は似たもの同士、俺が何か言うような事もないだろう。

「……つながれば夜も、昼も、いつも、流れば目、指、絡め、途切れれば死、終わり、けれど、途切れて」

途切れないわ!っと。
鼻歌を歌いながらお粥を作る。
目先の事に流されない人間なんてきっといない。
それを責めるのは酷ってもんだ。
低俗と言われようが、生きている限り誘惑はあって、それに抗えない時もある。
あいつらだってそれは……もしかしたら俺よりわかってるはずだ。

「なー律子ー」

「なんですか?」

けほっと一つ咳き込んで返事をしてくれる。
いや、俗と言えばやっぱり俺だ。

「やっぱり今日もシていいか?」

例えばこんな風に最低な事言って、最低な事しても……引っ叩かれて、それで、おしまい。
そういうもんだろ、多分。

ComingOut-カミングアウト 終

……。

「なぁ、惣一郎。私今バイト終わったとこなんだよ。わかるだろ?」

「はい、それは、その、わかってるんですけど……」

「だったらちょっとは気ぃ利かせろよ!この格好で口寄せしろってのか!ええ!?」

「い、いつもそうじゃないですかあだだだだだだ!」

「ったく……まぁ、やるよ。なんか最近他の子に仕事の皺寄せ行ってたみたいだし」

「そ、そうなんです!だから是非ですね、ここは……」

「わかったわかった、わかったから話聞かせなってば、聞いちゃるから」

「はい。……自殺者が多数出ています。その裏に、以前のあの事件のような関連性が疑われています」

「……やっぱ、やめていい?」

……。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

暑い。
まだ春だっていうのに、なんだってこんなに暑いんだろう。
日課のジョギングに冬仕様装備で出た事を本気で後悔する。

「だぁーもう!荷物になるけどいいや!脱いじゃえ!」

上着を脱いでタンクトップだけになる。
あ、だいぶマシになった。

「よーし、じゃあこのまま……」

ふと足を止める。
少し先に見知った人影。
ボクと同じように、暑さに項垂れてるあの子は……。

「やよいー!」

声を掛けると、やよいもこっちに気付いた。
やよいは一気に笑顔になると小走りにやってくる。

「真さん!おはよーございます!」

思い切り頭を下げるいつもの挨拶をして、何かを期待するように手を伸ばす。

「うん、おはよう!せーの、ハイターッチ!いぇいっ!」

ぱちん、と小気味良い音が鳴った。

Convolvulus-ヒルガオ

「そっか、今日オフだっけ」

やよいの歩幅に合わせて、少しペースを落として歩く。

「はい!だけど、家にいたらあんまり休めなくて」

気まずそうにやよいは言う。
ボクも苦笑いして納得した。

「やよいの家は小さい兄妹多いからねぇ。でも、出てきてよかったの?家の事とかは?」

以前ちょっと手伝った事があるからわかるけど、アレは激務だ。
こんな小さい体でよく切り盛りしてるなぁと感心する。

「ちょっとの間だし、みんなも気分転換に散歩でもしてきたらって言ってくれたし、甘えちゃってます」

「そっか。優しいね、みんな」

「はい!」

やよいの笑顔はすごい。
今ので周りの気温がちょっと上がった気がする、良い感じに。
暑いんじゃなくて、ぽかぽかする感じだ。

「じゃあちょっと歩こっか。ボクも仕事まで時間あるし」

「いいんですか?じゃあ一緒にお散歩しましょー!」

やよいはいつも元気が良い。
春が似合う子だ。
見ているだけで笑顔がこぼれる。

「あ……でもちょっと失敗しちゃったんですよー……」

「何が?どうかしたの?」

「服……今日こんなにあったかいと思わなかったから……」

なるほど、それであんな顔……。
とはいえボクみたいに脱いでもいいようにしてるわけでも無さそうだし。

「まぁしょうがないよ。昨日まで寒いくらいだったのにさ」

午前中なのに、まるで夏みたいな日差しと気温。
実際夏になれば、多分もっと暑いんだろうけど。

「太陽さんも気まぐれで困っちゃいますね」

そう言って二人で笑った。
さて、でもどうしよう。
さっきまで走ってたから喉が乾いてきた。
見える限りは自販機も無いし、ていうかよく考えたら……。

「……財布、事務所に置いて来ちゃった。あー、参ったな」

ぼそりというと、やよいが不思議そうな顔をしてこっちを見る。

「ああ、いや、ちょっと喉乾いたなって。けど財布、荷物と一緒に事務所に置いて来ちゃったんだよね。ちょっと走って戻るつもりだったから」

「ええー!そ、そうだったんですか?えっと、小銭……あ……今日のお買い物……」

ぶつぶつと何か呟く。
野菜の名前を言ってるから、多分買い物リストからジュース代分引く計算をしてるっぽい。

「いやいや、大丈夫だから!喉は乾いたけど、どうせ自販機もこの辺無いみたいだしさ!」

小銭を一生懸命数えるやよいを慌てて静止する。

「うぅー、ごめんなさい」

しょげかえるやよいをなだめながら周りを見る。
やっぱり自販機もコンビニもない。
やば……飲めないとわかると本当にキツくなってきた……。

「大丈夫ですか?えっと、えっと……」

あ、やよいが余計心配してる。
何か言わなくちゃ。何か……。

「あ……」

街路樹の根本に花が咲いていた。
薄ピンクの、小さな花が。

「真さん、どうかし……あ、ヒルガオですねー。こんな所に咲いてるなんて珍しいです」

「ヒルガオ?アサガオじゃなくて?」

覗きこんだやよいが何故か嬉しそうにぴょこっと頷く。

「はい!このお花はヒルガオですー。弟が前に教えてくれたんです、お昼まで咲いてるからヒルガオだーって」

なるほど、朝のうち咲いてるからアサガオで、昼まで咲いてるからヒルガオか。
小さい子って、アレで大人の知らないような事も知ってるんだよなー。
日差しが強い。
俯いてヒルガオを眺めている首筋がじりじりしてきた。

「……くぁー、本格的に暑いね。事務所帰ろうかなぁ」

額に滲んできた汗を手の甲で拭う。
やよいの顎にも汗が伝っている。

「うー、私もそろそろ帰ろうかな……でも、その前に……」

やよいと顔を見合わせる。
どうやら考えている事は同じみたいだ。

「み、水!スポーツドリンクとか言わないから、水が飲みたい!」

「冷えた麦茶とか、美味しいですよねー……ジュースはあんまり無いけど、毎年この季節にはお母さんが麦茶作っておいといてくれるんです」

二人で街路樹の狭い影に入ってしゃがみ込む。
夏とはいえこの暑さは流石に参る。
やよいも僕も夏だっていうのに微妙に着込んじゃってるし、帰るまでに脱水症状起こしかねない。

「麦茶でよければ、ウチにあるわよ」

顔をあげるとおばあさんが一人。
困ったような顔で微笑んでいた。

「ぶぁー……」

「はふぅー……」

すだれが落とす縞模様の影。
冷たい畳と扇風機の風。
釣られた風鈴が涼しい音で鳴る。
ボクとやよいはおばあさんの家にあげてもらっていた。

「ほんと助かったって感じだね」

「はい!熱中症になっちゃうところでした」

「うふふ、それは大変だったわねぇ」

風鈴とはまた違う澄んだ音。
グラス同士が触れ合うカチャカチャという音。

「あ!すみませんわざわざ……いろいろお世話になっちゃってごめんなさい」

やよいがぺこっと頭を下げて、ボクもそれに習う。
おばあさんは薄茶色の液体が入ったグラスを2つ持ってきてくれた。

「いいのよ、困った時は……って言うでしょ?本当ならジュースの方が良かったんでしょうけど」

「いえ、そんな……いただきます」

一言お礼を言って、グラスに手をやる。
水滴が手に吸い付いて、キンと冷えた温度が手のひらに気持ちいい。
もう我慢できなくて、一気に一杯飲み干してしまった。

「んぐっ……ごくっ……っぷはぁ!っあー美味しい!やっぱ夏は麦茶ですね!」

おっと、と思った。
仮にもアイドルがはしたない事をしてしまった。
おばあさんをちらりと見ると、嬉しそうに微笑んでいる。

「あなたは元気がいいのねぇ」

……見回してみると、居間にテレビはない。
おばあさんだし、ボクらの事は知らないのかもしれない。
いや、知っていてもボクだったらあんなふうに一気飲みしそうなイメージあったりして……。
これは由々しき問題だ。帰ったら早速プロデューサーに言わないと。
ボク、もっとおしとやかなキャラで行きたいですー!

「美味しかったです!あの、お一人で住んでるんですかぁ?」

ボクが将来の売り出し方のプランを考えている間に、コクコクと可愛らしく麦茶を飲み終わったやよいがそう言う。

「いいえ、おじいさんと二人暮らしよ。昔は息子もいて、もっと賑やかだったんだけど……孫がちょうどあなたたちと同じくらいの兄弟なのよ」

おばあさんはそう言ってボクたちを見る。

「それで、困っているのが放っておけなくて。喜んでもらえたなら嬉しいわ」

「そんなそんな、めちゃくちゃありがたかったですよ!今度お礼持ってきます!」

ボクがそう言うと、今度は困ったような顔になる。
表情の豊かなおばあさんだなぁ、と思った。
きっといろいろな経験をして、でも今は結構幸せなんだろうと思う。

「そんな、お礼が欲しかったわけじゃないから。困るわ、そんな気を使ってもらっちゃ」

「でも、助けてもらったらお礼はしたいです……よね?」

やよいがボクを見る。
ボクも頷く。

「そうですよ!物とかじゃなくて、なんでもいいからお返し出来たらなって思うんですけど」

ボクらがそう訴えても、おばあさんは困った顔でそんなのいいと言うだけだった。

「うーん……それじゃ、そうねぇ。また遊びに来てくれるかしら。今度はおじいさんも紹介したいし。老人二人って結構寂しいのよね」

ボクとやよいはノータイムで大きく頷いた。

「お安いご用ですよ!友達も連れて、みんなで来ますね!」

「うっうー!約束ですぅ!」

そう言って伸ばしたやよいの手に、おばあさんはちょんっと触る。

「約束のハイタッチ。ふふ、今度はジュースでも買っておくわね」

日陰や、冷たい麦茶よりも何よりも、その優しい笑顔にボクらは癒やされた。

「素敵なおばあさんでしたね!」

やよいはとても嬉しそうだ。
ボクもそう思う。

「ボクがもっと大人になって、それからおばあさんになったら……あんなふうになりたいな。人に優しく出来て、笑顔が可愛い感じ。やよいは?」

返事はなかった。けど、やよいの顔を見ればわかる。

「いやー、今日はなんかいい日だったね!それじゃ、ボク事務所に……」

ふ、と。
違和感を覚える。
今は何月だったか。

「やよい、ヒルガオっていつ咲くのかな」

「え?えっと、確かアサガオと同じ季節のはず……」

やよいも気付く。
さっきまで感じていた焼けるような日差し。
今感じている温かい日。
ボクとやよいは何も言わず、あの街路樹を探した。

「……あ、ありました!」

やよいが声をあげ、ボクもそこに駆け寄る。
そこには小さなヒルガオの花があった。

「狂い咲き……っていうんだっけ?あるんだね、こんな事」

ヒルガオの花は確かに咲いていた。
だけど、夏の日差しやあのおばあさんは確かなものだったのか?
ボクは今やほとんど無くなった公衆電話を探し、覚えている4つの番号のうち一つにコールした。

「どうだった?」

電話を受けてわざわざ出てきてくれた雪歩は、少し困ったように微笑んでいる。
おばあさんのした表情に、ちょっとだけ似ていた。

「うん。多分、真ちゃんの思ってる通りだと思う」

ため息が出た。

「えっと……?」

やよいが不思議そうにボクと雪歩を交互に見ている。

「あのおばあさんは……うん。以前に亡くなってる人だと思う」

言い辛そうな雪歩に変わってボクが説明する。
雪歩の事、今日の事。
狂い咲きしたヒルガオが呼んだ、夏の日の記憶。
話し終わった時、やよいは目と口を目一杯開いていた。

「あ、う、えぇ?ゆ、雪歩さん、すごいです……」

雪歩は苦笑している。

「まぁ、そういうことなんだよ。……お礼、出来そうにないね」

おばあさんとの約束は果たせそうにない。
やよいも一拍置いてそれに気付いたようで、目線を下に落とした。

『いいえ、そんなのいいのよ。あなたたちと話せて楽しかったわ、とっても』

落とした視線が跳ね上がり、声の主を見つめる。
ボクは笑う。

「ありがとう、雪歩」

雪歩は、あの時のおばあさんの表情そのままに微笑んでいた。
いつもは割りと蚊帳の外のボクだけど、たまにはこういう事もあるか。
事務所へ向かう道すがら、やよいは雪歩をずーっと褒めちぎっていた。
気のせいか、一瞬だけ夏の匂いがした。

Convolvulus-ヒルガオ 終

「でねでね、その運転手が後ろ向くと……シートがびっしょり濡れてたんだってー!」

「あらあら~……お客さんはどこに行っちゃったのかしら~?」

亜美ちゃんのテンプレートな怪談に、あずささんがどこかズレたツッコミを入れる。
いつものテンポ、いつもの風景。
私は嬉しくなって、思わず頬がゆるんでしまう。

「いや、だからー!お客さんが幽霊だったんだって!消えちゃったの!」

「まぁ、怖いわ~。本当にあるのかしら~」

幽霊タクシーなら、本当にある。
私は知っていた。

Ghost taxi-幽霊タクシー

夜の道を、ヒールを鳴らしながら歩く。
普段は履かないけれど、今日は特別。
仕事着にはやっぱりこれが合っているから。
街灯をいくつか通り過ぎた辺りで、正面から車のライトが近付いてくる。
『空車』のマークを確認してから私は手をあげる。
タクシーが、止まった。

「どちらまで?」

最寄り駅を告げる。
運転手は頷いて運転を始めた。

「こんな時間までお仕事ですか?危ないですよ、夜道は……」

適当に相槌を打っておく。
私はこの運転手を探していた。
あずささんの事があったからだ。

私がその報を聞いたのはプロデューサーからだった。
スタジオからの帰り道、寄り道をするというプロデューサーに理由を聞いて、帰ってきた答え。
あずささんが怪我をした。

「まぁ大したことはないらしい。けどちょっと、精神的に参ってるみたいだ。だから見舞いにな」

プロデューサーを思い切り急かした。
私にとって、あずささんは憧れの人だ。
そのあずささんが大変なら、行かない理由はない。

「あら、プロデューサーさん……雪歩ちゃんも来てくれたのね。わざわざありがとう」

あずささんはベッドで寝ていた。
私たちが病室に入っていくと、上半身を起こしてぺこりと会釈してくれた。

「そんな、あずささんが大変なんだから飛んで来ますよ。なぁ雪歩?」

私は思いっきり頷いた。

「ふふ、嬉しいです。でも怪我は大したことないんですよ。擦り傷と打撲くらいで……痕も残らないって」

ほっと胸を撫で下ろす。
あの綺麗な顔が傷付いたりしたら大変。

「それで、その……一応、聞いてはいるんですけど」

プロデューサーは何故か歯切れが悪そうにしている。
精神的に参っている、というのと関係があるのだろうか?

「あ……大丈夫、です。何もされていませんし、ちょっと怖かっただけですから」

あずささんはそう言って笑ったけど、私には嘘だってわかる。
小さく、手が震えていた。

「……俺に出来る事はしますから。とにかく今は、養生してください」

「ええ、ありがとうございます」

何があったかは聞いていない。
でも、察した。
覚えがあったから。
その帰り道、あずささんにあった全ての事を聞いた。

タクシーはどんどん山の方へ入っていく。
当たり前だが駅とは別方向だ。
私はその事を運転手に告げる。

「……まぁ、このへんでいいか」

車通りの絶えた辺りで、路肩に駐車する。
運転席が開いて、運転手が降りる。

「あんたも鈍いねぇ。気付くのが遅すぎだよ」

後部座席のドアが乱暴に開けられる。
運転手の拳が私のお腹にめり込む。
視界がパチパチして、息が止まった。

「誰も来ねぇからな、騒ぐなよ」

コートのボタンが外される。
抵抗する気はない。
これを待っていたんだから。

「……おいおい、なんて服着てんだ。綺麗な顔してSM嬢かなんかか?」

革製のボンテージが露わになると、男は下衆に笑った。
……あずささんは。
仕事終わりに道に迷って、このタクシーを止めた。
そして私と同じように……が、必死で抵抗し、逃げた。
それがプロデューサーから聞いた事の顛末。
犯人探しは苦労したけど、柧武さんに頼んだのは正解だった。

「なんか、白けるな。お前みたいに抵抗もしないと。まぁいいや」

男がベルトを外し、気持ち悪いアレを出そうとしている。
私は抵抗していないわけじゃなかった。
ずぅ~っと呼んでいたのだ。
この人を。

「……俺の後ろに、なんかいるのか?」

私の視線に気付いた男が後ろを見た。
が、何も見えなかったらしくまた私を見る。
私には見えている。
やり過ぎたのか、あるいは最初からそのつもりだったのか……。
犯すだけでは飽きたらず、殺された女性。
このタクシーには、彼女も乗っていた。
私は彼女のしようとする事を止めるつもりはない。
今、彼女の手は男の首にかかっている。
幽霊というのは、肉体という枷がない分想いの強さそのままに力を出せる。
男が異変に気付いたのは、自身の首の骨が軋み始めた時だった。

「なんっ……ごりゃ、おば……なに、じだ……!?」

私は何もしていない。
彼女に少しだけ力を貸してあげただけだ。
男は自身の行いによって苦しめられているにすぎない。

「ごっ……ごぉっ……ぐぼっ……ががが」

男の顔は最早こっちを見ていない。
彼女の手によって180度首を捻られているからだ。
そして漸く見えたらしい。
憤怒に歪んだ彼女の顔が。
悲鳴をあげようにも、気管が潰れていて声にならない。
なにより、男自身が人のいないここを犯行場所に選んだのだ。

「だずげっ……でっ……」

私はゆっくりと体を起こし、微笑んだ。

「さようなら」

タバコは吸った事がない。
これからも吸う事はないと思う。
でも、こういう時、ちょっと吸ってみたくもなる。
街は遥か遠くに見える。
……誰が喜ぶわけでなくとも、やらなければ気の済まない事もある。
正義では決してないし、認められる事もない。
それでも、悪意の報いを受けずに生き続ける事を……私は認められない。
胸中にはいろいろと複雑な想いが渦巻いたが、とりあえず、ヒールには厄介な距離を歩かねばならない事だけが気がかりだった。

Ghost taxi-幽霊タクシー 終

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