男「蓋のない瓶の底で暮らしてるだけの今」(56)


ガラス瓶の底で暮らし始めて三日が経つが、
僕は未だにその生活に慣れることができないでいた。
トイレ以外には何もないし、瓶底は冷たいし、夜になると寒くて仕方がない。

蓋はされていないが自分の意思で外に出ることはできないし、
仮に脱出できたとしても僕に戻る場所は残っていないだろう。
きっと僕の仲間たちは僕がもう死んだものと思い込んで、
またべつの土地へ向かっているはずだ。僕は深い溜息を吐いた。

するとガラス瓶を横から眺めていた女が口をひらいた。「怒ってる?」

ふん、と僕は鼻を鳴らした。いきなり捕まえられて小さな空き瓶に
閉じ込められているのに怒らない奴がいるのなら見てみたいものだ。

「ご、ごめんね?」と女は言った。もう三日間で五〇回くらい聞いた言葉だった。

「うるさい」と僕は言った。

「あっ、久しぶりに喋ってくれた」女は笑顔になった。
「ねえ、ええと……あなたは何? 小人?」

「そんなことどうでもいいから、早くここから出してくれ」

「そ、そんなに怒らないでよ」

「いきなり捕まえられて小さな空き瓶に閉じ込められてるのに怒らない奴がいるのなら見てみたいよ」

「ご、ごめんなさい……」


「謝るのなら出してくれ」

「それはできない……かも」

「“かも”ってなんだよ。早く出せ」

「うう……駄目!」

「うるさいから大きな声は出さないでくれ」

「ごめんなさい……」

「はあ」と僕はため息を吐く。いったいこんなやりとりが三日間で
何度あっただろうかと思い返すだけで頭が痛くなる。
こうしているあいだにも仲間は遠ざかっていってることを思うと
更に頭が痛くなるし、もう諦めたほうがいいような気がしてくる。

「し、質問に答えたら出してあげる」と女は言った。

「どうせ嘘なんだろ」と僕は言った。

「ぜんぶに答えてくれたらちゃんと出すから」


僕が黙っていると、女は続けて言った。「あなたは何なの? 小人?」

「お前らから見ればそういうことになるんだろうな」と僕は言った。

「ふうん」女は満足そうに微笑み、質問を続けた。「あの神社で何をしてたの?」

「ただ通りかかっただけだ」

「どこへ向かって歩いていたの?」

「落ち着ける場所。新しい居場所を探していた」

「引っ越しの途中だったの?」

「そう。それなのにお前に見つかった」

「うう……ごめんなさい」

「謝るのなら最初から出してくれればいいのに」

「それは、できない」

「なんだよ。じゃあさっさと質問を終わらせてくれ」

「……質問は、また明日」

「はあ?」僕は立ち上がって瓶を内側から叩いた。「ふざけんな! さっさと出せ!」


「ひっ」と女は驚いて後ずさったが、
僕に何もできないと分かると瓶を掴み、左右に振った。

僕は瓶の中で左右にごろごろと転げて、全身を軽く打った。
ほんの五秒ほどで揺れは収まり、また瓶は定位置に置かれた。
僕は蓋のない瓶の底でうずくまっていることしかできなかった。
あまりの情けなさに涙がこぼれそうになったがそこはぐっと堪えた。

ぐったりしている僕を見た女は瓶を爪で軽く叩き、「だ、だいじょうぶ?」と言った。

「お前がやったんだろうが……」

「そ、それはそうだけど……」

「もういいから放っておいてくれ……。どうせ出られないんだろ……」

「あああ……ほんとうにごめんなさい」

僕は冷たい瓶の中に座り込み、打撲した部位をさすった。
女はそれを見ながら、「お腹減ってない?」と訊いてくる。

「減ってるに決まってるだろ、三日も何ももらってないんだから」

「ご、ごめんなさい……。パンでいいかな」

「なんでもいいから早く食い物をくれよ」

僕がそう言うと女は急いで部屋を出ていった。


僕が閉じ込められている瓶があるのは、あの女の部屋に置かれた机の上だった。
瓶の横にはサボテンが置かれていて、そのとなりには本が並んでいる。
僕はサボテンや本と同じように扱われているのだろうかと思うと悲しくなってきた。

女が戻ってきたのはこの部屋をあとにした三〇秒後くらいだった。
女は片手に袋を持っており、その中には何かが入っていた。

「それは何だ」と僕は訊ねる。

「パンだけど、小人くんは食べない?」

「その小人くんっていうのは何だよ」

「あなたのことだけど……名前はあるの?」

「あるに決まってるだろ、サボテンじゃあるまいし」

「このサボテンにはちゃんとした名前があります。……あなたはなんていう名前?」

「お前には教えない」

「うう……」

「いいから早くそれを食わせてくれ」

「どうぞ」女は大きな塊から千切った何かを瓶に入れた。
僕はそれを口に含み、咀嚼し、飲み込んだ。


「なんだこれ」と僕は言う。「味もしないし、すかすかじゃないか」

「……もしかして小人くん、パン食べたことない?」

「当たり前だ。誰がこんなもん食うか」

「普段は何を食べてるの?」

「ダンゴムシやミミズ」

「うええええええ……」女は露骨に不快な表情を顔に浮かべた。

「なんだよ。お前もしかしてダンゴムシもミミズも食ったことないのかよ」

「いや、ふつうは食べないと思うんだけど……」

「ええっ、お前つまんねえ人生送ってんな。ミミズの旨さを知らないなんて」

「それは知らなくてもいいけど……、たしかにつまらない人生ではある……かも」

「なんだそりゃ」

女は黙り込んだ。

僕は瓶底に散らばったパンを食べて、綺麗になった瓶底に寝転がった。
見上げると煌々と照る電球の光が射して目が痛かったので、結局座り直した。


女は机に数冊の本を広げて、何かを書き始めた。
そのあいだはどこかから小さな音で音楽が流れ、女は黙りこんでいた。
「何してんだ」と質問をすると答えを返してくれたが、「学校の課題」と
言われても僕にはそれが何なのかいまひとつよく分からなかった。

あまりにも退屈だったものだからうとうとしていると女は手に持っていた棒
(シャーペンというらしい)をことんと机に置いた。僕はその音で目を覚ました。

「終わったのか」と僕は言う。

「あ、うん。終わったよ」と女は言った。

「質問の続きは」

「明日するから、待ってて」

僕はため息を吐いて、瓶底に寝転がった。

「寒くない?」と女は言う。

「寒いよ。お前は僕を凍死させる気か」

「ご、ごめんなさい。そういうつもりでは……ちょっと待ってて」


女はそう言うと机の引き出しの中を漁り、
そこから淡い青色の布を取り出して、ハサミで小さく切った。
そしてそれを瓶の外に置き「これでどうかな?」と言った。布団の代わりということらしい。

「それでいいからさっさと貸してくれ。凍えそうなんだ」

僕が催促すると、瓶の口から布が二枚、ひらひらと降ってきた。
僕はそれを捕まえ、二重にしてからそれに包まった。

「ふたりとも、おやすみ」と女は言う。

明かりが消え、カーテンの隙間からは月の光が差し込んでくる。
ふたりって誰だよ、と思いつつ僕も眠った。




目が覚めると瓶を覗きこむ女の顔が見えた。
身体の節々が痛いし、寝起きから気分は最悪だった。

「なんだよブス」と僕は起き上がりながら言った。

「今から学校に行ってくるから、わたしは夕方まで帰ってこないよ」と女は言う。
「朝とお昼の分のパンは小人くんのとなりに置いてあるから。
……勝手に逃げちゃ駄目だよ」

「はいはい」

「じゃあふたりとも、行ってくるね」女はそう言い残して部屋を出ていった。

ふたりって誰だよ、と僕は思いつつ、朝の分のパンを頬張った。
昨日と違って今度のパンはちょっと甘かった。

パンを食べるとやることはもうなかった。
瓶の底にあるのはトイレ用の小さな容器と、二枚の布団とパンだけだった。
自由と娯楽を奪われた僕は何もせずに時間の経過を待った。

途中で眠っていたりしたからどれくらいの時間が経ったのかは分からないが、
ふと瓶の外へ目をやると、部屋の壁を歩く蜘蛛の姿が目に留まった。
蜘蛛はすこし移動して止まり、またすこし移動して
止まりを繰り返し、ゆっくりとどこかへ向かっていた。

「どこに行くんだよ」と僕は蜘蛛に訊ねてみた。もちろん蜘蛛は答えなかった。


「僕も連れていってくれよ」と僕は言った。

蜘蛛は家具と壁の隙間に吸い込まれるように消えた。僕はその隙間から
目を離さないようにしたけど、いつまで経っても蜘蛛はそこからは出てこなかった。

僕はまた瓶の底で寝転がることにした。でも目を閉じて眠ろうとすると
身体のあちこちが痒くなってきて、それどころではなくなった。

何十分も全身を掻きむしりながら瓶の底をぐるぐると
歩きまわったけど、身体の痒みはなかなか消えなかった。
苛々して汗が出てくると、頭にもちくちくとした痒みが現れた。
もう三日は風呂に入っていないのだ。

あの女、僕のことを何だと思ってやがる。犬や猫か
サボテンか何かと勘違いしているじゃないのか。
それとも囚人や人質みたいなものだと思っているんだろうか。

たしかに今、僕の命はあの女が握っていると言ってもいいような状況だ。
贅沢を言える立場ではないが、生き永らえさせるのならきっちりと
世話をしてほしいし、放っておくなら食事もトイレもいらないのに。
何を考えているのか分からない、中途半端な女だ。

帰ってきたらそのことを言ってやろう。

なんか引き込まれる


そういうことがあって、僕は学校とやらから戻って来た女にそのことを言った。
はっきりしてくれこの中途半端女、お前はいったい何がしたいんだ、と。

「ごめんなさい」と女は抑揚を欠いた声で言った。

「ほんとうに分かってるのか?」と僕は言った。

「分かってます……ほんとうにごめんなさい……」

女はそう言うとベッドに身体を沈めて、ぼうっと天井を眺めはじめた。
僕はこの部屋で蜘蛛を見かけたことを言おうかと思ったが、やめておいた。

「お前さ、夜は元気だけど学校から戻ってくると元気がなくなってるよな」

「うん」と女は言った。

「なんで? 何かあったわけ?」

「何もないよ」


「何もないのに落ち込んでるのかよ」

「何もないから落ち込んでるんだよ……。ほんとうに、何もないから……」

「僕だって一日中こうやって瓶の中に閉じ込められて何もなかったけどな」

「ごめん……」

「そう思うならさっさと出してくれ。それで今日の質問は?」

「夜に、また……。夜まではそっとしておいて……」女はゆっくりと立ち上がる。

「どこに行くんだよ」

「神社。あなたを見つけた、あの神社」

「なぜ?」

「静かだから……」

「僕がうるさいっていうのか?」


「そういうことではなくて……こう……あの場所がいちばん落ち着くというか」

「自分の部屋よりも神社が落ち着くのかよ」

「うん」

「ふうん。お前、こうやって落ち込んだら神社に行くわけ?」

「そう」

「毎日神社に行ってるんじゃねえの、お前」と僕は冗談を言った。

「バレたか」と女は作り笑いを浮かべて言った。

女が外に出るとドアは閉まり、僕はまた部屋に取り残された。



結局、女が神社から部屋に戻って来たのは外が暗くなってからだったが、
それからも夕食やら風呂やらで部屋を空けている時間は長かった。

そのあいだ僕は蜘蛛が入っていった壁と家具の隙間をじっと観察し、
あそこには何があるのだろうと時間の限り考えを巡らせた。
たとえば外に通じる道があるとか、蜘蛛がうじゃうじゃいるとかだったらおもしろいな、
とか思っただけで、べつにそれが瓶から脱出する具体的な何かに繋がるわけではなかった。

待っている時間は退屈だった。となりのサボテンに話しかけてしまうくらいに暇を持て余した。
でも僕がサボテンに話しかけている途中で、女は部屋に戻って来た。

「その子ね、かっくんっていう名前なの」と女は言った。

「かっくん。かっくんって何だよ……」僕は笑いを堪えながら言った。

「そのサボテン、ギムノカリキウムっていうんだけど……ちょっとそこ、笑いすぎ」

「いやお前、かっくんって……」

「瓶、揺らすよ」

「すみませんでした」

「ふふっ」女は笑い、机の前にある椅子に腰掛け、頬杖を突いて、ガラス越しに僕を見た。


「質問は?」と僕は訊ねる。

「あ……ええと……わたしが見つけた時、小人さんはひとりだったけど、友だちは?」

「……さあね。みんな俺のことを放って新しい住処を探しに行ったんじゃないの」

「あ……。そう、なんだ……」

「お前に捕まったのが運の尽きだったよ。仲間とは
はぐれるし、こんな瓶に閉じ込められるんだもん」

「その……ごめんなさい」

「謝るなら出してほしいね」

女は黙って僕を見ていた。月のように光るふたつの目が僕を捉え続けている。

「お前はどうして僕を閉じ込めてるんだよ」と僕は訊く。
「何のためにこんなことしてんの?」

「わたし」女は言った。「友だちが欲しかったの」


「友だちって……冗談だろ? いきなり拉致監禁しておいてそれはないだろう」

「ごめん」

「お前の近くにはお前みたいなやつがいっぱいいるから、そいつらと仲良くなればいいだろ」

「……それができないから困ってるの」

「だからこうやって僕みたいに力の弱いやつを閉じ込めてるわけ?」

「……そう、です」

「……他に質問は?」

女は黙っていた。

「今日は終わりか?」と僕は言う。

「うん……」女は立ち上がって上着を羽織った。

「どこに行くんだよ」と僕は訊ねる。

「神社」と女は答えた。「戻って来たらお風呂にいれてあげるから」



女は部屋を空けた。僕は冷たい瓶の底で無力感を抱えて寝転がることしかできなかった。

あの女は僕を瓶に閉じ込めておきながら僕と友だちになれると本気で思い込んでいるのだろうか。
できることはやっているつもりで、僕もそれに満足していると思っているのだろうか。
他人の生きる道を捻じ曲げておいて友だちが欲しかっただなんて言われると身体から力が抜ける。

三〇分ほどで女は戻って来た。上着をハンガーにかけると部屋から出て、また戻って来た。
湯を張った茶碗と何かを持ってきているところを見ると、どうやら女は僕を風呂に入れてくれるらしかった。

「いい?」女は瓶の中の僕に言う。「ぜったいに逃げないでね」

「どうしようかな」

「もし逃げたらその時はあなたを……」そこまで言うと女は口を塞いだ。

「殺すんだ?」と僕は言った。

女は首を横に振る。「……そんなことしない」

「分かった分かった、逃げないから」


女は瓶の中に手を突っ込み、僕をそっと掴んで引っ張り出した。
瓶の外の空気は冷たくて綺麗であるように感じられたから、僕は思いっきり深呼吸をした。

僕はまず机の上に降ろされた。この高さなら飛び降りたら命に関わると女は思っているから、
この机の上に僕を出したのだろう。目の前には湯気のたつ茶碗と何かの袋が置かれている。

「お湯加減はこれでだいじょうぶかな」と女は茶碗に指を突っ込んで言った。

「どれどれ」僕も茶碗に腕を突っ込んでみた。「悪くない」

「そう? よかった」

女はじっと僕の方を見ていた。

「……お前、僕にここで服を脱いで入浴しろっていうのか?」

「あっ……で、でも、逃げられたら困るし……見張ってないと」

「なんか落ち着かないな。まあ、仕方ないか……」

「ちょ、ちょっと待って。タオル作るから」

女は机の引き出しから布とハサミを取り出して、適度な大きさに切って僕に渡した。
それは僕に渡した布団の代わりの布と同じ色と模様だった。


「これでどうしろっていうんだ」と僕は言った。

「こう……うまいこと隠して……」

「めんどくさい……脱ぐあいだだけ向こう見ててくれればいいよ。それからタオル巻くから」

「す、すみません……」女は手で顔を覆い、僕に背を向けた。

僕は手早く服を脱いでタオルを腰に巻き、茶碗に張った湯に浸かった。

「もういいぞ」と僕が言うと、女は手で顔を覆ったまま僕の方に向き直り、指の隙間から僕を見た。

「何してんだ」と僕は言う。

「い、いや……なんでもない」女は顔を近づけて僕を見続けた。
「これってあれだよね。ゲゲゲの鬼太郎の……ええと、あの目玉なんていうんだっけ……」

「何それ」

「ううん、なんでもない」


「ところで、そこにある袋は何」

「入浴剤だけど、いる?」

「どっちでもいい」

「じゃあ入れてみるね」女は袋を振り、ハサミで袋の端を切り取った。
「お茶碗に入浴剤を入れるのは初めてだから分量がよく分からないけど……」

「だいじょうぶなのか?」

「たぶん……」

袋に開いた口からさらさらとした粉が茶碗の中に流し込まれた。
湯が緑色に染まり、息を吸い込むと落ち着く香りが胸の中に広がる。

「これはいいな」と僕は言った。

「ほんと? よかった」

「みんなにも教えてやりたいよ」

「そ、そうだね……」

「ふう」僕は言う。「僕はまたあの瓶の中に戻されるのか」

女は言う。「だって、そうしないと逃げるでしょ……」

「当たり前だろう」

「……それは駄目」

「だろうと思った」

そこで話は途切れ、それからはぼけっと湯に浸かっているだけの時間が過ぎた。
女も黙って僕のことをじっと監視していたが、また口をひらいた。「着替えはあるの?」

「お前が隠してる僕の荷物の中にあるよ」

僕は女に捕まった時に鞄を取り上げられていて、その中には生活に使う様々な道具が入っている。

「あっ、そうなんだ」

「返せよ」

「着替えだけは返すけど、それ以外は駄目」

女は引き出しの中から僕の鞄を取り出し、机の上に中身をばらまいた。
散らばったものの中から服を掴むと、それを茶碗のとなりに置いた。

「もう出るから、着替えるあいだだけは向こうを見ててくれよ」

「うん。じゃあこれ、バスタオル」と女は言って、
また新しい布を差し出し、先ほどと同じように僕の方から目を背けた。


僕はぱっぱと新しい衣服を身にまとった。「もういいぞ」

女はさっとふり返り、僕をそっと掴んだ。

「なあ、もうちょっとだけ瓶の外にいさせてくれないか」と僕は言った。「お前が寝るまででいいから」

「……逃げない?」

「逃げないし、どんな質問にも答える。お前のことを悪く言ったりもしない。これでどうだ」

「……分かった」女は手の力を緩め、僕を解放した。

「ああ、そういえば」僕は伸びをしながら言った。「今日、この部屋で蜘蛛を見たぞ」

「ふうん」

「まだこの部屋にいるかもしれないぞ」

「そうだね」

「あれっ。お前、蜘蛛とか平気なの?」

「まあ、蜘蛛なら……小人くんは蜘蛛嫌い?」

「いや、べつに。嫌いな奴が多いし、お前も嫌がるだろうと思ったから言ったけど、平気なのか」

「うん」

「つまらん」


「どうせわたしはつまらない女ですよ」

「でもサボテンに名前をつけるっていうのはおもしろいと思うぞ」

「フォローになってないよ。というかあなただってサボテンに話しかけてたくせに」

「うるさい、あの時は暇だったんだよ」

ふうん、と女は言った。「あっ、ひとつ質問してもいいかな」

「何」

「わたしに捕まる前、普段はどういうふうに過ごしてた?」

「どういうふうって……ふつうに、朝起きて飯食って運動して風呂入って寝る」

「ひとりで?」

「仲間とだよ。お前とは違うの」

「そ、そうだよね……」女はがくりと肩を落とした。「はあ……」

「お前めんどくさい女だなあ、だから友だちのひとりもいないんだよ」

僕がそう言うと、女は呆然としたように動かなくなった。
それから無言で泣き始めた。雨粒のような雫が机に落ちて跳ねる。

「な、泣くなよ」と僕は言った。

「分かってる……」女は言う。「そんなこと言われなくたって、ぜんぶ分かってる……」

「……悪かったよ、ごめん」

「いいよ……ぜんぶほんとうのことだから……」

「嫌なら嫌って言えよ。それくらいできるだろ」

「うん……」

「まあまずは顔拭けブス」

「ブスって言わないで……ひどい」

「そう。嫌なら嫌って言え」

女は服の袖で涙を拭うと、机に向き直り、昨日と同じように「学校の課題」にとりかかった。

その間僕は机の隅っこで、ちいさく鳴る音楽に耳を傾けつつ、紙の上を走るシャーペンの動きと
女の顔をじっと観察していた。紙はだんだんと灰色の文字で埋まっていき、女の表情は暗くなっていった。

「それ、たのしい?」と僕は訊ねてみる。

「たのしくない」と女は手を止めずに言った。

「何をしてる時がたのしい?」

女は僕の質問には答えなかった。その代わりに、「明日は朝からここにいるからね」と言った。


夜に続く

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その翌朝に目を覚ました時、僕は冷たい瓶の底にいた。
女は言っていたとおり部屋にいて、服を着替えていた。

「どこかに行くのか?」と僕は訊ねた。

すると女はぎょっとして変な悲鳴を上げてから転んだが、
急いで起き上がり、日が昇るようにゆっくりと机の下から顔を出した。

「見た?」と女は言った。

「見た」と僕は言った。「貧相な身体だな」

「振るよ?」

「ごめんなさい」

「とりあえずごめんなさいって言っとけばいいと思ってない?」

「思ってない思ってない、ほんとうにすいませんでした」僕はさっさと話を変えることにした。
「それで、着替えてるけどどこかに出かけるわけ? 僕を置いて?」

「外に出る準備をしただけで、べつに外へ行く予定はない……と思う」

「準備をしたのに?」

うん、と女は言った。

「変なやつ」と僕は言った。


女は椅子に座り、引き出しから無地の布と木の箱を取り出して、ぽんと机に置いた。

「今日はなんで家にいるの?」と僕は訊ねてみる。

「学校が休みだから」

「ふうん。それで、今から何をするの?」

「小人くんに服を作ってあげようと思って」

「べつにいらん、それよりもここから出してくれ」

「はいはい」

女は笑顔でそう言うと、僕を瓶から出してくれた。
僕は机の上で深呼吸をして、窓から射す日の光を浴びた。


「今日は機嫌がいいな」と僕は言った。

「お休みだしね」と女は言い、箱からハサミと針、様々な色の糸を取り出した。
「服を作るとは言ったけど、どれくらいの大きさがいいんだろう……むずかしい」

「べつにいいよ、そんなことしてくれなくたって」

「そういうわけにはいかないかなと思って……」

「僕を逃してくれたらそんなことしなくてもいいのにな」

「今のところは、そういうわけにはいかないかも」

「今のところって、もともと僕を逃がす気なんてないだろ。もう分かってるから」

女は裁縫に集中しているようで僕の声に反応を示さなかった。
ハサミで布を適度な大きさに切り、糸を針に通し、布を器用に縫い合わせた。
服が出来上がるのに大した時間はかからなかったが、服の出来はあまり良くはなかった。

「これ、どうかな」と女は控えめに訊ねてくる。

「ちょっと大きいんじゃないのか」と僕は言った。「まあ、悪くはないけど」

「そ、そう? でも、背も伸びるだろうし、ちょっと大きいくらいなら……」

「……そうだな。まあいいや。ありがとう」


女はにこにこしながら僕に出来たばかりの服を渡した。早速それに着替えてみたが、
やっぱり着心地はあまり良くなかった。でもこの為に時間を割いてくれたことには
感謝しておこうと思い、僕はもう一度「ありがとう」と言った。

女は服を着た僕を見てにこにこしていた。何をそんなに嬉しがっているのかが
分からないが、何も訊かないことにした。機嫌が良いのは結構なことだ。

「いっしょにどこかへ出かけようか」と女が言った。

「僕は瓶に詰めるのか?」

「だって、そうしないと逃げるでしょ」

「そうだな、逃げるかもな」

「行こう」女は僕を瓶に入れて蓋をして、鞄の中に入れた。「暗いけどちょっと我慢してね」

「お前が瓶詰めで真っ暗な場所に閉じ込められた時、どう感じるだろうな」と僕は言った。

「ごめんね。でも、できるだけいっしょにいたいから」

「ふん」と僕は鼻を鳴らした。鞄の口が閉じ、僕の入っている瓶は暗闇に包まれた。
その暗闇が瓶を圧迫して潰してくれないものかと思ったが、何も起きない。


鞄は上下左右に細かく揺れた。おそらく女が鞄を持ってどこかに移動しているのだろう。
僕はそのあいだ、これからどうするかを考えたが、今の視界のように先は暗かった。
ここから逃げられたとしても、もう僕を待っている人は遠いところにいる。

もう諦めてこの女のものになってしまうというのはどうだろう、僕は思う。

あれが悪いやつではないということはなんとなく分かる。
欠かさず飯を用意してくれるし、頼めば風呂にも入れてくれる。悪くないのではないか。

いやどう考えても悪い。そもそもこの女がいなくても僕は
欠かさず飯を食えるし風呂にも入れる。それらに加え自由に動き回れる。
やっぱり逃げるべきだけど、肝心の逃げる方法が思い浮かばない。

机から飛び降りてもおそらく無傷で済むだろうが、逃げきれるような気はしない。
逃げ切れるのであれば僕は今頃ここにはいない。どうせまた捕まるだろう。


何十分も鞄の中で揺られていると、突然頭上から神様からの救いのようなまっすぐな光が射した。
僕は目を細め、鞄の口のほうを見上げた。そこには鞄を覗きこむ女の顔がある。

「着いたのか」と僕は訊ねた。

「うん」女は頷くと瓶を外に出した。

「まぶしいな」あまりの眩しさに、自分の皮膚に光が突き刺さっているような感覚をおぼえた。

女が瓶を安定した位置へ置くと、僕は瓶の底で円を書くようにぐるりと歩き、周囲の景色を観察した。
どこかで見たような景色だったが、思い出そうとすると胸がむかむかした。

瓶の蓋が開くと、冷たい空気が何かの隙間を埋めるように瓶底へ降ってくる。
僕は女が作った服の上に昨日まで着ていた服を羽織った。

「ここはどこだ」

「神社」と女は言った。

「ああ……僕がお前に捕まった神社か……どうりでむかむかするわけだ」

女は僕の嫌味を無視して言う。「ご飯食べる?」

「食べる」


女は鞄から袋を取り出して、中に入っていたパンを千切って僕に渡した。
僕が瓶の底に座り込み、それを頬張った。
今日のパンは今まで食ったどのパンよりも旨かった。

「うまい」と僕は言った。「この黄色いのが旨い」

「クリームパン好きなんだ?」女は笑って、千切ったパンを口に入れた。

「これは旨い」

「ふふっ」

パンがなくなってから僕は瓶の底に寝転がった。背中にひやりとしたガラスの感触がある。
見上げた冬の空には太陽だけが浮かんでいて、あらためて世界の広さを僕に教えてくれているようだった。
風が吹くと緑の香りが瓶の中にまで流れ込んできた。僕はその空気を肺に閉じ込めるように呼吸を止めた。
でも息が苦しくなってすぐに吐き出したから、もう一度吸い込んで呼吸を止めた。

周りには林があって、僕らは木で造られた大きな建物の外に座っていた。
風向きが変わると古い木の香りがして、その建物は年季が入っているものだということが分かる。
建物のすぐ側には冬であるのにもかかわらず、緑がたくさんあった。
僕はそれに隠れてこの神社を抜けようと考えていたのだが、この女に見つかり、捕まってしまった。

「外、出る?」と女は僕に訊ねる。

「出ていいのかよ」と僕は言う。「逃げるかもしれないぞ?」

「うん……すこしだけだよ。逃げてもちゃんと捕まえるから」
女は瓶に手を突っ込んで僕を掬い上げた。


冷たい空気が僕の肌をちくちくと刺した。僕は女の横にそっと降りた。

「いい場所だと思わない?」と女は言った。

「このオンボロな建物が? そうかなあ……」

僕は建物の方を見上げる。使われている木は加工されて流麗な曲線を
描きつつも繊細な形をしており、細かいところまで装飾が行き届いていた。
建物全体の大きさからも、これを作った者の苦労が伝わってくる。

でも現在の状態を立派というには少々無理があるように思えた。
木のあちこちは腐り、見える釘はすべて錆びているし、建物を覆うように苔が繁殖している。
まるで誰からも見捨てられ、自然と一体化しようとしているようだった。

「こういうのが好きなの」と女は言った。

「お前と似てるもんな、この建物」

「そうだね。……だから好きなのかな」

「ここほんとうに神社なのか?」

「知らない。昔からわたしが神社って呼んでるだけで、ほんとうはこれが何なのかは
分からない。昔からずっとここにあって、昔からずっとわたしはここに通ってた」

「寂しいやつだな。この建物と同じじゃないか」


「だって、黙ってわたしに居場所をくれるんだもん……静かだし、誰もこんなところには来ないし……」

「それなら僕は必要ないんじゃないのか」

「それは……」

「その気はないんだろ。逃げてるだけじゃないか」

女は黙っていた。

「行ってもいいか」と僕は訊く。

女は首を振り、僕をそっと掴んだ。

「もう外は終わりかよ」

僕はそう言ったが、女は何も言わずに僕を瓶に入れた。

「なあ、泣くなよ」と僕は言う。

女は何も言わなかった。


僕は鞄に詰められ、また上下左右に揺られる暗い時間の中に閉じ込められた。
永遠のような時間が過ぎ、女の家に着いて鞄から出された時、
女は何事もなかったかのように笑っていた。

「どうしてそんなにへらへらできるわけ?」と僕は訊ねた。

「こうしていないと泣いちゃうから」と女は答えた。

その日の残りは部屋の中で過ごした。僕は机の上だけを自由に動きまわり、
女は音楽に耳を傾けながら僕やサボテンに話しかけた。夕方になると僕はクリームパンをもらい、
女は部屋を出て(おそらく)家族と食事をし、風呂に入ってから部屋に戻ってくる。

それから僕も風呂に入れてもらい、また机の上だけの自由を味わった。
食べ飽きた味の飴玉をいつまでも舐めさせられているような気分だった。

次の日も僕は服を縫ってもらい、連れられて神社に行き、パンを貰って食べた。
また泣かれてしまわないように、言葉を選びながら喋るようにした。
夕方まで神社で過ごし、黄昏時になると女は僕を連れて逃げるように家へ帰った。
パンをもらい、机の上の自由を与えられ、風呂に入れてもらい、僕は眠った。





翌朝の僕は強い揺れを感じて瞼をこじ開けたけど、その瞬間に僕の身体は
瓶の内側に打ち付けられた。瓶はどこかから落ちて、更にまた落ちた。

僕は一度目の落下の時に瓶から放り出され、瓶とはすこし離れたこの部屋の床に落ちた。
全身を激しく打ち付けたが、致命傷を負ったわけではなさそうだった。

壊れ物を扱うようにそっと身体を起こし、辺りを確認する。

机の上にあった瓶とサボテン、教科書は、無造作に床に散らばっていた。
他にも棚の上にあった小物が床に転げていて、机の引き出しが中途半端にひらいていたりして、
まるで見えない何かに部屋が荒らされてしまったようだった。

僕は呆然としながら辺りを見渡し、気づいた。女は部屋にいない。
今なら逃げられるのではないか、と僕は思った。

幸運なことに、おそらくそれなりに大きな地震か何かが起こったのだろう。
女は不用心で、いつも瓶に蓋をしていなかったことも幸いした。
今頃は僕が逃げ出していないかが心配でそわそわしていることだろう。
そう思うとぜひその姿を拝んでやりたいという気がしてくる。


僕は落ちたパンの欠片を拾い集め、女が戻ってくるまでどこかに身を隠すことにした。
どうせドアも窓もきっちりと施錠されているから部屋からは出られないのだ。

さあどこに隠れようと僕は考える。隠れるのにぴったりな場所はすぐに思い当たった。
蜘蛛だ。あの蜘蛛が入っていった家具と壁の隙間に隠れていよう。

早速僕は部屋の壁沿いに歩き、蜘蛛が姿を消した隙間に身を隠した。
どんどんといちばん暗い場所であろう奥を目指して進んでいると、
そういえばあの蜘蛛はどうなったのだろうという疑問が湧いてきた。
ここには蜘蛛がうじゃうじゃいるのだろうかと考えたことを思い出し、
ここには外へ通じる抜け道があるんじゃないかと考えたことを思い出した。

そしてそのすべての答えは奥にあった。そこには蜘蛛もいなかったし、
外への抜け道もなかったが、かつて蜘蛛だった生物の残骸があった。
胴体は一部が何かに囓られたみたいに欠けていて、脚が二本しか残っていなかった。
蜘蛛の糸と埃が混ざり合って出来た小さな塊が、周りに散らばる六本の脚にまとわりついていた。

それを見た僕は猛烈な吐き気に襲われたから、この隙間の入り口まで急いで引き返した。
咳き込みながら光の当たる位置に腰を下ろし、そこで女が戻ってくるのを待った。



床に転げるサボテンを観察していると、勢いよくドアが開け放たれた。
女が戻って来たのだ。僕は家具の影に隠れ、そっと女のほうを覗き見た。

思った通り、女は焦っていた。空っぽの瓶を見つけると、
サボテンも助けずに、あちこちを捜索し始めた。

「ね、ねえ、いるんでしょ? 出てきてよ……」女は消えそうな声で言った。

僕は必死に笑いを堪えた。

「お願いだから出てきてよ……。ねえ、どこ……」

女は必死になって床に散らばった教科書をひっくり返したり、開いた引き出しをひっくり返して中身を確認した。
動かせそうな棚を動かしてその裏を確認し、明かりを持って机やベッドの下に潜り込んだ。
僕が隠れているのは大きな家具の僅かな隙間だったので、女に見つかることはないだろう。

かなりの時間が経ってから、女は諦めたのか、部屋の中心にぺたりと座り込んだ。
それは散らばった小道具や教科書と同じように、打ち捨てられたものみたいに見えた。

僕は笑みを堪えながら先ほどまでと同じ場所にいた。
さあこれからどうやって逃げようかと考え始めた時、
女はどこかに向かって「出てきて」と言った。


覗いてみると、女は手で顔を覆って泣きじゃくっていた。出てきて、出てきて、
ごめんなさい、ごめんなさい、と同じことをうわ言のように繰り返していた。
そこまでされるのは僕も予想外だったので、すこし心が痛んだ。でも見つかるわけにはいかなかった。

女は机に突っ伏して泣いた。咳き込んだかと思うと大声を上げて泣くのを再開した。
僕は驚きつつもすこし罪悪感を感じた。僕がいなくなったからって、なんだっていうんだ。

しばらくすると母親らしき女性が部屋に入ってきて女に「ご飯できてるけど、食べられる?」と声をかけた。
女は机に突っ伏したまま、「いらない」と答えた。
すると母親は何をするわけでもなく、さみしげな表情で部屋を出ていった。

どうして泣いているのかを訊かれないことが不思議だった。母親なりの気遣いなのだろうか。
それとも女は母親に嫌われているのだろうか。母親にすら?

女は泣き止む気配がなかった。何かにとり憑かれたみたいに声を上げて机を濡らした。
その声が僕を責めてるみたいに思えて、僕は落ち着かなかった。
じわじわと胸に罪悪感が蓄積しているのが分かるし、早く出て謝ろうと思いさえしたけど、踏みとどまった。

悪いのはあの女で、僕は今まで閉じ込められていた。そして今僕は
自由になろうとしているというのに、どうしてこんなに気分が悪いんだろうか。

すこし時間が経って、また母親が部屋にやって来た。でも冷えた夕飯を机に置くと、母親は消えた。

女は夕飯には手をつけず、いつまでも泣いていた。声は枯れかかっていた。
それはもう僕が思わず慰めの言葉をかけてしまうくらいにかわいそうな姿だった。

「なあ」と僕は隙間から出て言った。「泣くなよ」


女は数秒の間を置いてから鼻をすすった。「もう会えないかと思った……」

「もう会うつもりはなかったんだけどな」

「よかった……」女は安心したのか、また涙をぼろぼろこぼし始めた。

「なんで泣くんだよ」

「だって……だって……」

「だって何なんだよ」

「ううううう……。うううううううう……うううううううう」

「お、落ち着け。そんなに泣くとブスに磨きがかかるぞ」

「またブスって言った……うううう」

「ああああ、もう、悪かった、ごめん、だから落ち着こう、なっ?」

女は頷いた。


「まずは飯食え、飯。そんで俺にも食わせろ」

「うん……」女は頷いて僕をそっと掴んで机にのせた。

「これ勝手に食うけど、いいよな」と僕は訊いた。

「うん……いいよ」

僕は手で冷えた白米をひと粒ずつ食べ、女は冷めた豚のしょうが焼きを泣きながら食べた。
たまにしょっぱい白米が混じっていたから、それは女に渡した。
そしたら生姜焼きをくれたから、僕はそれを頬張ったが、好みの味ではなかった。

完食すると女は食器を持って部屋を出ていき、すぐに戻って来た。

「落ち着いたかブス」と僕は言った。

「うん」と女は言った。

「よし、じゃあ着替えろ」

「えっ? なんで……」

「僕を神社に連れていけ」

「神社」と女はつぶやいた。


「どうせお前も行くつもりだったんだろ」

「あなたが見つからなかったら行くつもりだったけど……もう見つかったから」

「でも僕が行きたいんだ。連れていけ」

「分かりました」

女はそう言うとハンガーに掛けてあった上着を羽織り、僕をそのポケットに入れた。

「なんだ、着替えないのか」

「帰ってきてから着替える。落ちないように気をつけてね」

「お前が僕を落とすとは思えないな」


女は家族に軽く挨拶をしてから家を出た。夜の風は乾いていて、肌に突き刺さるような冷たさだった。
女が自転車に跨がり、ペダルを漕ぎ始めると、その冷たさは更に強まったように感じられた。

夜風の中で一〇分ほど耐え忍んでいると、自転車は止まった。
僕はポケットから顔を出して辺りを見渡したが、暗くて何も見えなかった。

「真っ暗だ」と僕は言った。

「携帯電話のライトがあるからだいじょうぶ」

「何それ」

女は僕の問いには答えず、僕の入っているポケットとは
べつのポケットから携帯電話とやらを取り出して、画面をいじり始めた。
まもなく灯りが点いて、女は光の向いている林の中へ勇み足で入っていった。

「神社ってこんなところにあったっけ」と僕は言った。
僕はこんなところを通り抜けようとしていたのだろうか?

「ここが近道なの」と女は嬉しそうに言った。


三分も歩けばあの今にも崩れそうな木造の建物が見えた。
女はいつもと同じ場所に座り、僕もポケットから出て女のとなりに座る。

夜風が辺りの木々をがさがさと揺らす音が心地よく聞こえた。
濃い緑の香りが鼻腔をつんと突き、僕は思わずむせた。
思いっきり息を吸うと肺に冷たい空気が充満し、吐き出すと白く染まった。

「これからはこうしてくれ」僕は提案した。「お前が学校に行っているあいだ、
僕を自由にしてくれ。お前が帰ってくる頃には戻ってくるから」

「それって、もう逃げようとしないってこと?」

「さあ? どうだろうな。お前の態度次第だ」

「いちおうわたしがあなたを捕まえている立場にあるんだけど……」

「お前は僕が今すぐにでも逃げられるということを理解していないのか」

「ああああああ、に、逃げないで。ごめんなさい、逃げないでよお……」

「逃げてない、逃げてないから。よく見ろ」

「わ、分かってるけど……」

「お前だってずっと瓶の底で暮らしたくなんかないだろ」

女は自分を納得させるように何度も頷いた。


「ちょっとくらいは他人を信じてみろって」

「……分かった」

「ちゃんと飯と風呂は用意してくれよ」

「分かってますって」

「それならいいんだ」僕はその場に寝転がった。「ここは星がよく見えるな」

「この辺りはあんまり明るくないからね」

「お前みたいだな」

「暗いってこと?」

「べつにそうとは言ってないけど」

「そう言ったんでしょ。分かってるよ」

「きれいだ」

「そうだね」


「お前くらい背が高いと、星はどんなふうに見える?」

「どんなふうって、ふつうだけど……」

「僕をお前の肩にのせてくれ」

女は僕をそっと掴み、肩にのせた。「これでいい?」

「うん」僕は女の肩に座る。「なんか、思ったほど変化しないな。星は星だ」

「耳元でしゃべられるとくすぐったいかも……」

「じゃあ黙っててやるよ」

「ああ……やっぱり喋っていてほしい……かも」


僕は話題を探した。「……あの部屋には蜘蛛の死骸があるぞ」

「えっ、死骸? どこに?」

「でかい家具と壁の隙間。掃除しとけ」

「わ、分かりました……」

「サボテンも早く救出してやれ。死ぬぞ」

「あああ! かっくん忘れてた……」

「まあ……とにかく明日からはよろしく」と僕は言った。

「よ、よろしく、おねがいします……」

僕らは無言で空を見上げる。宵の星はちかちかと、まるで誰かを笑うように瞬いていた。

おわり

(正直「僕」が自力で瓶から逃げる方法を思いつかなかったから、色々とひどい展開になったことは反省している)

もうちょい続くかと思ったがおしまいか
面白かったよ 乙

酷い展開ではないと思うけど二人の今後が気になるんで続けてほしいと思いました乙

もう少しだけ楽しみたかったけど乙

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