和「フランスより」咲「愛をこめて」 (391)

ー注ー

フランス・パリを舞台にした和咲です
2人とも社会人になってます
別のスレで書かせて頂いてる十二国記パロの合間にちょこっと書く程度なので更新は遅いです

以上、苦手な方はブラウザバックお願いします

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咲は途方に暮れていた。

何かの間違いではないかと思ってもう一度手にした地図を見る。

少しくたびれた紙には、味気ないフォントで住所とホテル名が印字されていた。

そのどちらもが目の前の看板と全く同じである。

咲「……写真と全然違うんだけど」

ぼそりとこぼれた言葉に応えてくれる者は誰もいない。

咲が出国前にサイトで見たのは、小洒落た建物だった。

古い石造りで、少しむらのあるグレーが歴史を感じさせる。

随分と小さそうだったが、どうせ一人で泊まるので気にならなかった。

それよりもプチホテルという響きに魅かれる。

日本の画一的なホテルよりよほど面白そうだった。

ところが咲の目の前にあるのは――今にも崩れ落ちそうな、おんぼろ宿である。

外壁には無数のひびが入り、ところどころカビのような黒い汚れがこびりついていた。

路面を見れば、誰が捨てたのか無数のゴミが散らばっている。

咲「こんなところで最初の夜を過ごすなんて……」

咲の口から深いため息が吐き出された。

元々疲れきっていた体がますます重くなる。

咲「はぁ……」

後悔しても、もう遅い。

大体この旅行には最初からケチばかりついていた。



■  ■  ■


咲は小さな編集プロダクションで働くライターである。

そう言えば聞こえはいいが、実際の仕事はろくでもないものだ。

朝晩関係なしに締切に追われ、どんな無茶苦茶なテーマにも全力で取り組まねばならない。

そのくせ咲の名前はどの雑誌・書籍にもクレジットされることはなかった。

なぜなら咲はライターはライターでも「ゴーストライター」

――表舞台には決して出ることのない、秘密裏の代筆屋である。

芸能人のエッセイ、最近話題の企業家によるビジネス書、ブロガーによるハウツー本など

咲が今までに手がけた本は数知れない。

鋭い洞察力とそつのない文章力のおかげで、ゴーストライターとしては常に引っ張りだこだった。

作家専属の誘いも何度かあったくらいである。

もっとも咲自身はその誘いすら直接受けることはほとんどなかった。

ゴーストライターとしてその存在を外に知られるわけにはいかない咲は、常に社内にひっこんでいたからである。

仕事や打ち合わせの窓口は全く別の人間が担当していた。

メールですら、別の社員が受け取った上で転送されてくるのみである。

作品はあれど、書き手の存在はひたすらあやふやな幻のライター――それが、咲だった。

咲(まぁ、全部過去の話だけど)

思い出すのは数週間前、実質上の解雇宣告を受けた時のことだ。

編集長「咲、お前しばらく来なくていいぞ」

軽く肩を叩かれ、編集長にそう告げられた。

まるで食事の誘いをかけているような気軽さであった。

咲「来なくていいって……どういうことですか?」

編集長「そのままだ。お前、このところ一文も書けてねぇじゃないか」

咲「それは……っ」

咲はスランプ状態一ヶ月を突破したところだった。

何か書かねばと思ってもひとつも言葉が思い浮かんでこない。

資料を読んでも、情報が頭の中を通り抜けるだけで何も残らなかった。

未だかつて経験したことのない大スランプである。

その間も咲の元へ仕事は舞い込んできたが、今は全て別のライターの手に委ねられている。

この業界、重視されるのは結局質ではなく納期だ。

編集長「まぁ、スランプ自体は誰にもあることだし。咲の場合、今までずっと働きっぱなしだったしな」

咲「……」

編集長「ここでいっちょ、気分転換に旅行にでも行ったらどうだ? コレ、やるからさ」

咲「はぁ……」

編集長がポケットから出してきたのは、紙切れの束だった。

よく見れば有名な航空会社のロゴと金額が入っている。どうやら商品券のようであった。

編集長「全部で10万円分ある」

咲「え……」

編集長「マイレージで交換したんだよ。ほら、数年前やたらと海外に飛ばされていたときあっただろ」

編集長「あの時溜まったヤツの期限が切れそうで換えたんだが、結局ソイツも使えねぇままでさぁ」

咲「……」

編集長「という訳でスランプの見舞金代わりにやるから、使い切って体験記の一つでも書いてくるまで会社に来るな」

満面の笑みとともに親切ごかして言われたものの、咲にとっては死刑宣告に等しかった。

というのも咲は正規の社員ではない。

時間で雇われているのではなく「原稿一本いくら」の形で食い扶持を稼いでいた。

さらにフリーではなく、あくまでこの編プロと専属契約を結んでいるので他から仕事を得ることは出来ない。

「会社に来るな」とは、すなわちライターとしての収入が閉ざされることを意味していた。



咲「たった10万で、何が出来るっていうの……」

ワンルームの自宅で寝転がったまま、咲は独りこぼす。

手にしたこの商品券が、咲が会社を去るにあたって与えられた全てだった。

いわば、退職金だ。

咲「たった、10万円」

それでなくてもこのところ咲の生活は苦しい。

例のスランプで、一ヶ月の間一銭も得られなかったからだ。

浪費するたちではないので今までの貯金はあるが、将来のことを考えると容易に取り崩せなかった。

咲「いっそ金券ショップにでも売ろうかな…」

安く買い叩かれるだろうが、それでも現金が手に入る。

中々いいアイデアのように思えたが、実行するには例の編集長が怖かった。

昔は大手政治部の記者として鳴らしていたらしいあの男は、

時折とんでもないところからとんでもない情報を仕入れてくる。

警察の会議机の下に潜り込んで事件をすっぱ抜いたという過去は伊達ではないのだ。

咲が商品券を売り飛ばしたことを気づかれる恐れは大いにある。

どうしようもなくなって、咲はごろりと横を向いた。

このところ片づけをサボっていたせいで、部屋には読みかけの本が散らばっている。

目の前にあるその一つが妙に気になって、咲は手に取った。

パラパラとページを捲っていると、あるフレーズが目にとまった。


咲「ふらんすへ行きたしと思えども、ふらんすはあまりに遠し……」

荻原朔太郎の詩「旅情」の一文である。

咲「ふらんすは、あまりに遠し……」

彼の生きた時代には、海外へ行くなら船が基本だった。

たどり着くだけで数ヶ月はかかる、長い長い旅路である。

咲「まぁ、今だってフランスは遠い国だけど……」

それでも現代には飛行機がある。

乗り継ぎ便を利用したとしても、10数時間しかかからない。

咲「ふらんすへ、行きたしと……」

咲の口から、再び詩のフレーズが零れおちる。

フランスに憧れた作家は多かった。

永井荷風や遠藤周作に渋澤龍彦――もっともその影響は日本人に留まらない。

いつの時代も、世界中がこの芸術の国に魅了されてきた。

咲「……」

咲はもう一度例の商品券を見つめた。

今、フランスに行くのにはいくらぐらいかかるのだろう。

この10万円で、足りるだろうか。

咲「少なくとも10万円分の費用は浮くってことだよね」

自分の中に、何か決心のようなものが灯っていく。

咲「パスポートの期限ってどうなってたっけ…」

緩慢に立ち上がると、咲はしまい場所を忘れたパスポートを探し始めた。


■  ■  ■

――こうして、咲はフランスはパリへとやってきたのである。

旅行のシーズンからは外れていることもあって、航空券は意外とすんなり取れた。

貰った商品券を全て使ってしまったが、無事日本の航空会社による直行便を抑える。

羽田発の深夜便は、就航直後ということもあって様々なキャンペーンを張っていた。

エコノミーでもふんだんに振舞われるフランスを意識した飲み物や機内食、

事前に購入したガイドブックの美しい写真もあって、咲の心はいよいよ浮き立つ。

咲(私、これからフランスに行くんだ……テレビや本でしか知らなかった、あのパリへ)

その気持ちがガラガラと音をたてて崩れ落ちたのは、空港に到着してすぐのことであった。



咲「え……どこへ行けばいいの?」

荷物を持ったまま、咲はぽつんと独り立ち尽くす。

早朝のシャルル・ド・ゴール空港は薄暗かった。

機内にいた沢山の人はいつの間にかいなくなっていて、降りるのに手間取っていた咲は取り残された形となる。

周囲には係員の姿すら見つからず、唯一申し訳程度に英語表記のある案内看板が頼りだった。

咲「えーっと、こっちでいいんだよね……」

大きな不安を抱えたまま、咲は出口を探して歩きはじめた。

咲(英語だけでもやっておいてよかったよ)

英文科の大学へと進んだ咲には、カナダに留学していた経験がある。

ネイティブには程遠いが、英語の資料も何とか原文で読める。

咲がゴーストライターとして重宝された特技の一つだった。

咲「空港だし……いざとなれば英語で道を訊いても大丈夫だよね」

そんなこんなで難儀しながらも、咲は出口に向かって進んでいく。

途中うっかり乗り継ぎの列に紛れ込みそうになりながらも

1時間後にはなんとか空港から出ることができていた。

咲「えぇっと……」

ガイドブックや事前にネットで調べたところによると、空港からパリ市街へ向かうルートは主に三つある。

タクシー、シャトルバス、電車――金銭と時間帯から、咲はほとんど迷うことなく電車を選んだ。

RER(地域急行鉄 道網)B線は、様々な観光案内で頻出する路線である。

――ところが、これが大失敗だった。

咲(ななななんなんなの、この電車は!)

咲は荷物を抱えながら、隅っこでふるふると震えている。

それは咲が今までに乗ったどの電車よりも古くて汚く、危なげな空気に満ちていた。

シートのほとんどは薄汚れていて、ところどころ破けている。

窓は砂埃で灰色に曇り、床にはゴミがたくさん落ちていた。

目線をそらせばよくわからないラクガキが目に入る。

人はあまり乗っていなかった。

咲のような旅行者が数人、やはり心細そうに隅っこに固まっている。

その中に余裕綽々で座っているのが、ひとりの若いフランス人だった。

肌の色が濃いので移民かもしれない。

荷物を何も持たず、ガムをくちゃくちゃと噛んでいる様がどうにも恐ろしかった。

そんな乗客は、駅を過ぎるごとに数を増していく。

中にはフランス語で何かをしゃべりながらあからさまに旅行客を哂っている者もいた。

咲「……っ」

咲は、手にした大き目のボストンバックをギュッと握り締める。

荷物を少なくしたのは正解だったかもしれない。

元々服装に気を使う方ではないし、現地で買うのも面白いと思って数日分しか用意してこなかったのだ。

例のヤバそうな乗客の視線は、常に大きなスーツケースを携えている人々に向けられていた。

30分ほどで目的駅に着いたが、咲には一時間くらいに感じられた。

電車から降りた瞬間、背中にかいた汗がすっと冷えるのを感じて驚く。

どうやら自分でも気づかないほどに緊張していたらしい。

咲「さてと……また、か」

そして咲は再びため息をついた。

パリでも有数の規模を誇るターミナル・北駅(Gare du Nord)は、あのシャルル・ド・ゴール空港と同じ雰囲気があった。

すなわち、やたらと大きくて広く、薄暗い。

しかも困ったことに空港と違ってあまり英語が通じなかった。

どうも向こうは聞くことができてもしゃべることができないらしい。

たまに話せる係員にいきあってもなまりがひどく、咲が聞きなおすことが多々あった。

方々さまよった挙句、やっと出口にたどり着いた時にはすでに日は高く上っていた。

時計を見ると、予定より随分と遅い。

思わぬ時間のロスに、咲はまた深いため息をついた。

咲(でも……まぁいいか)

何せ急ぐ旅ではない。添乗員もつかない個人旅行なので、時間の束縛は一切なかった。

ポケットに忍ばせていた地図を見ながら、咲はパリの道を一歩一歩踏みしめる。

テレビで見たのと同じ石畳が、妙に歩きづらかった。

――そして何とかたどり着いた宿泊先で、咲は呆然と立ち尽くすことになる。


咲「……」

目をこすっても、頬を叩いても、目の前の光景が変わることはない。

相変わらずそこにはサイトで見たような洒落たプチホテルではなく、今にも潰れそうなボロ宿があるだけだ。

咲「ここが、パリで初めて過ごす場所……」

咲はもう一度深く長いため息を吐いた。

そして、意を決して荷物を持ち直す。

咲「嘆いていても仕方ないよね」

薄汚れたドアノブに手をかけた。

――ガラン、ガラン。

少し調子外れのベルの音が耳を掠めていく。

ホテルの玄関ホールは狭かった。

実家の玄関とそう大きさが変わらないかもしれない。

少し奥にいった脇にフロントデスクがあり、痩せぎすの若い女性がひとり座っていた。

手持ち無沙汰に新聞を読んでおり、口はへの字に曲がっている。

マンガに出てくるような無愛想さだった。

咲「えーっと、ボン・ジュー……?」

恐る恐る声をかけると、女性は咲をギロリと睨みつけてくる。

しばらく沈黙が続いた後、なまりの強い英語で「宿泊?」と訊いてきた。

咲「あ、はい」

慌てて英語で答えると、カバンから印刷してきた予約表を渡す。

咲「先日予約したサキ・ミヤナガです。シングルルームをお願いしていると思うのですが……」

咲の言葉に女性は何も返さなかった。黙ったままパソコンを弄りはじめる。

しばらくして咲の予約を見つけたらしい。 

デスクから鍵を取り出すと、咲によこしてきた。

女「5階、515号室」

咲「メ、メルシー……」

終始ニコリともしない従業員に面食らいながらも、咲は言われた部屋へと向かおうとした。

咲(5階ということは、エレベーター使った方がいいかな)

そうしてくるりとエレベーターの方を向いたところで、咲はまた呆然とすることになる。

咲「え、故障?」

人一人がやっと入れるくらいの小さなエレベーターには張り紙がしてあった。

フランス語はよくわからないが、なんとなく壊れていることはわかる。

何より紐か何かで封鎖されてしまっているのだ。

戸惑う咲に、例の女性が「階段!」と冷たい声を投げかける。

辺りを見回せば、古ぼけた螺旋階段が目に入った。

咲「これを登っていくの?……5階まで?」

くらりと眩暈がするけれども、他に方法があるわけもない。

咲はぐったりと重い体に鞭打つと、のそりのそりと階段を登りはじめた。

咲(スーツケースじゃなくて、本当によかった……)

――もっとも、悲劇はここで収まらなかった。

咲「う……っ」

やっとたどり着いた515室、ドアを開けた途端襲ってきたのは何とも言えない臭気だった。

カビ臭いのとホコリ臭いのが、入り混じったような感じだ。

咲「何なの、この部屋!」

そればかりではない。咲を出迎えたのは部屋一面のベッドであった。

別にベッドが特別大きいというわけではない。部屋が極端に狭いのだ。

しかも三角形に近い変形らしく、ベッドの向こうに行くにはベッドを乗り越えなければならないようだ。

シャワールームやトイレにクローゼットなど、サイトに記載されていた設備は確かに揃っている。

しかしその状態はひどいものだった。

シャワールームはところどころヒビとカビが目立ち、トイレにはなんと便座がない。

ドサリ、と肩からボストンバックが落ちる。

目の奥から溢れてきそうになった熱いものを、すんでのところで咲は堪えた。

咲「こんなの……普通ありえないよ」

咲は決して安宿が初めてではない。

仕事柄色んなところに安い経費で飛ばされてきた。

国内であれば、場末のホテルになど何度もお世話になっている。

それでもここまでひどいのは見たことがなかった。

むしろ生半可に国内の安宿に慣れていたからこそ

外国、しかもフランスの安宿がここまでだとは思いもしなかったのだ。

咲「……二泊にしておいてよかった」

今回の旅の日程は、およそ十日間。

その間できれば色んなところに泊まりたいと咲は考えていた。

調べると、パリではよほどの人気ホテルやシーズンでない限り、当日訪れても案外泊まれるものらしい。

そこで最初の二日間だけ事前予約しておいて、あとは現地で探すことにしていたのだ。

咲「まぁ、最初にドン底経験しておいたら後で何があってもショック受けないよね」

空笑いをしながら、咲はもう一度二日間の宿を見渡した。

咲「……多分」

部屋の隅を何か黒いものがよぎったのは、 気のせいにしておきたい。


■  ■  ■


咲「なんとか、たどり着けたよ……」


長い階段を登りきり、咲は深く息を吐いた。

ここは北駅からメトロで南に下ったところにあるバスティーユ駅である。

その名の通り、かのフランス革命の大舞台となった場所であり、駅の壁画などにその名残を見ることが出来る。

ホームの一部では、バスティーユ牢獄の遺跡が今も残されているらしい。

もっとも咲の目的は歴史建造物の見学ではなかった。

慣れないメトロに苦戦しながらもここまでやってきたのは、気分転換に憧れのカフェで一服するためである。

咲「ええっと……っと」

メモしたノートを開いた途端に肩からずり落ちたカバンを、咲はなおざりに持ち直した。

本来ならこのボストンバッグはホテルに置いてくるはずだった。

ところが、例のボロ部屋はなんと鍵が壊れていたのである。

フロントに文句を言ってもスタッフはちっとも取り合ってくれなかった。

「私たちは安全だ」などと言われても、咲が安心できるわけがない。

貴重品を置いていくわけではないといえども、どうしても不安にかられてしまう。

結局何とか持ち歩けそうだということで、このボストンバッグを抱えて出かける羽目になったのである。

お目当てのカフェは、駅から少し離れた路地の奥にあるとのことだった。

咲の好きな作家のお気に入りで、彼のエッセイによく出てくる店である。

地元の人にも人気らしくテレビ番組にもしばしば映っていた。

咲「この辺りのはずなんだけど……」

パリの街は複雑だけれど、意外と迷いにくい。

というのも小さな路地ですら通りには全て名前がつけられているからだ。

さらに、通り名は比較的わかりやすく看板の形で示されている。

地図にも住所にもその通り名が明記されているので、

首尾よく通りを発見できれば目的地におのずとたどり着けるというわけだ。


咲が目指す通りも、同様にすぐ見つけることが出来た。

大通り沿いの派手な店には目もくれず、咲は薄暗い石造りの路地へと入る。

目的の店はちょうど短い通りのちょうど真ん中にあって、少し色あせた赤い日除けが目立っていた。

大通りに面した店はどこも客で埋まっていたが、それはここも同じようだった。

路地裏にあるとはいえ「人気の」と謳われているのは伊達ではないらしい。

とはいえ観光客らしき姿は咲以外には見当たらなかった。

テラス席で銘々にくつろいでいるのは明らかに地元民である。

まさしく自分が知りたかった「本当のパリ」の予感に、咲の胸は久しぶりに高鳴った。

困ったことに外に店員の姿は見当たらなかった。

テラスの客は少し咲に目をやったあとは、それぞれのおしゃべりや読書に戻ってしまっている。

やむを得ずに咲は覚悟を決めて店の中へと首を突っ込んだ。

外のテラスとはうってかわって、中はとても薄暗い。

しかし奥のカウンターで客と話し込んでいるスタッフらしき姿は確認できた。

咲「ボン・ジュー」

咲は声をかける。できるだけ大きな声を出したはずだった。

咲(えぇ……?)

けれども店員も客も咲の方を見向きもしない。

困り果てた咲は、もう一度声を張り上げた。

「ボン……ッ」と叫んだところで、いかにも「面倒くさい」という雰囲気で店員が動いた。

眼鏡をかけた細身の白人男性で、レンズのせいか表情はわかりづらかった。

咲「あの……ここでコーヒーと軽いものをいただきたいのですが」

一か八か、英語で話しかけてみる。

そもそも簡単な挨拶しかフランス語が出来ないので、ここで通じなければ色々とあきらめざるをえない。

最近の若いフランス人は英語が話せると聞いての賭けだったのだが、どうやら咲は勝ったようだった。

店員「観光のお客さん?」

咲「あ、はい。今朝日本から着いたばかりで……」

店員「悪いけど、今日は満席なんだ」

咲「えっ?」

何か聞き間違えたのかと思った。

確かに店は空いているとは言いがたいが、それでも空席はいくつかある。

目で確認しただけでも、テラス席に一テーブル、店内は二テーブル分空きがあった。

咲の視線で言いたいことがわかったのだろう。店員はわざとらしくため息をついてみせた。

店員「生憎、そこもあっちも埋まっているんだ」

咲「それは、どういう……?」

店員「もうすぐ2時だろ」

咲の問いに、店員は壁にかかった時計を指差した。

店員「そろそろ、テラスのあの席にはマリーばあさんがやってくる」

咲「はぁ……」

店員「それから三十分くらいしたら、右の席にはアンソニーが、奥の席にはルイのじいさんが座ることになっている」

咲「……」

店員「わかるかい、日本のお嬢さん。ここはこの町の人たちのためのカフェだ。どの席も、まずは常連さんのためにあるんだよ」

店員の英語はわかりやすく、咲の心に突き刺さった。

店員「君が探しているような『パリらしい』カフェなら大通りに沢山あったろう?地元民には地元民の、観光客には観光客のための店がある」

店員「それが、パリという街だ」

咲「そんな……」

憧れだった場所で突きつけられた「パリの現実」に、目の奥がぎゅっとしびれてくる――その時だった。

?「Hey!」

誰かがふいに大きな声をあげる。

注文かと思いきや、その若い女性はキラキラとした笑みを浮かべてこちらを見ていた。

店員とはやはり顔見知りらしく、親しげに声をかけている。

2人は暫く何やら言い合いをしていたが、フランス語だったために咲には何が何やらさっぱりだった。

やがて店員の方が「お手上げ」と言わんばかりに首を振ると、何処かへといってしまう。

あっけにとられている咲だったが、間を置かずさらに度肝を抜かれることになった。

女「コチラへ、ドーゾ」

ぎこちないが、日本語で話しかけられたのである。

例の若い女性が、ニコニコと咲に手を差し伸べていた。

咲「えっと……」

女「オチャ、イカガデスカ?」

そう言って、女性は空いている自分の正面の椅子を指差す。

どうやら咲に相席をもちかけているらしい。

咲「え……えぇっ?」

目をぱちくりさせている咲に、女性はさらに満面の笑みを差し向けた。

女性の名前はエマといった。

どうやら日本に興味があるらしく、日本語は独学で覚えたそうだ。

もっとも、なんなく意思疎通するにはレベルが足りないらしい。

咲が英語話者であるとわかると、すぐに切り替えてきた。

エマ「観光に来たっていうけど、パリは初めて?」

咲「はい」

エマ「じゃあ、本当にびっくりしたでしょう」

エマの言葉に咲は苦笑する。

咲「いえ、私の勉強不足でした。なんだか失礼をしてしまったみたいで」

エマ「そんなことないわよ!ジャンってば、頭が固くて爺みたいなの」

エマ「もっとも今回のことは、私にはちょっとラッキーだったけれど」

咲「それは、どういう……?」

首を傾げた咲に、エマはウインクを寄こす。

エマ「だってこういうチャンスがなければ、あなたのような可愛い子とお茶なんてできなかったからね」

さらに柔らかく手まで握られてしまい、咲の頬に羞恥と困惑で朱がさしていく。

咲「可愛いだなんて……」

エマ「あら、咲はとってもチャーミングよ。もっと自信を持って!」

咲「はぁ……」

多少面食らうところはあったが、エマは非常に面白い人物だった。

彼女自身もこのあたりに越してきて地元民としては日が浅いらしく、

色々困ったことなどを面白おかしく聞かせてくれる。

逆にエマは日本や咲自身のことをたくさん知りたがった。

当たり障りのないことを話してやっても、様々なリアクションを交えながら聞いてくれる。


エマ「ねぇ、このあと予定はある?」

そう訊かれて、咲は随分と時間がたってしまっていることに気づいた。

最初にエマが頼んでくれたカフェ・ラテもすっかり空になっている。

咲「そうですね、そろそろお暇しないと…」

エマ「なにか急ぎの用事でも?」

咲「いえ、特にはないんですが」

咲の答えに、エマは笑みをいっそう深めた。

エマ「それなら、この近辺を案内がてら一緒にゴハンも食べましょうよ」

彼女の申し出は、正直に言うとありがたかった。

如何せんパリは初めてだし、このカフェでの失敗もある。

パリっ子の道案内ほど心強いものはないだろう。

咲「でも、会ったばかりなのにそこまでしてもらうのは……」

渋る咲に、エマは「日本人ねぇ」と笑う。

エマ「今日は私は休暇だし、咲とゴハンが食べられるなら嬉しいわ」

エマ「今は恋人もいないしね。独りで暇してたのよ。だから、ね」

そうまくしたてるエマに腕までつかまれては、咲も断るすべを知らない。


結局お茶をご馳走になったあげくに観光案内までしてもらうことになった。

エマ「じゃあ、行きましょう」

浮き足立つエマに引き連れられて咲はカフェをあとにする。

ふと振り返ると、あきれ果てたような例の店員が見えた。

その冷えた視線が、どうにもひっかかっていた。


■  ■  ■


パリは薄暗がりに染まりつつあった。

この街では蛍光灯の白い光にはあまりお目にかからない。

黄色味を帯びた柔らか光が、無数に瞬いては建物を照らしている。

それは確かに写真やテレビで見たような幻想的な光景だった。

エマ「綺麗でしょう」

咲「えぇ、本当に……」

ほぅと感嘆の吐息を漏らした咲の耳朶を、エマの柔らかい声が掠める。


いい夕暮れだった。

気温は確かに東京よりもうんと寒いが、美しい光景に興奮しているせいか気にならなかった。

エマの話は相変わらず面白く、咲はところどころでクスリと笑ってしまう。

エマ「路地に入るけど、こっちが目当ての店の近道なのよ」

誘われて足を踏み入れたのは、石畳の小さな路地だった。

あのカフェがあったところに雰囲気は似ているが、それよりも少し道幅が狭いように思える。

咲「どんなお店なんですか?」

エマ「美味しいわよ。フレンチじゃなくてスパニッシュなんだけど」

エマ「とにかくエビや魚が最高なの。日本人はシーフードが好きなんでしょ?」

咲「そうですね。私も大好きです」

エマ「あの店の茹でエビを食べたら、咲は日本に帰りたくなくなるかもね!」

咲「ふふ……っ」

エマの言葉に咲は再び笑い声をあげた。

それに何故かエマは何も応えなかった。

怪訝に思って顔をのぞくと、実に穏やかな顔でこちらをじっと見つめている。

そのヘーゼル色の目だけが光っているようだった。

エマ「……咲は本当にかわいいわね」

咲「エマ……?」

エマ「あなたは本当にかわいくて、チャーミングで……あぁっ、やっぱりもう我慢できないっ!」

視界が、急に流れた。

何が起きたのかを咲が把握できたのは、背中に鈍い痛みを覚えたからだ。

店と店の隙間の路地裏に引っ張り込まれ、壁に押さえつけらえている。

咲「何をす……んむっ!?」

抗議の声をあげる暇すらなく、咲は呼吸を奪われていた。

その唇を、熱い何かが覆っている。

エマに口付けられているのだと気がついたときには、舌の侵入を許していた。

咲「ふ……っん、ん、んぁ……はっ」

エマ「ふぁっ……ああ、咲。あなた本当にかわいいわ」

息を整えきれない咲に対し、エマが恍惚とした声を投げかけてくる。

エマ「カフェで逢った時から、こうしてみたくて仕方なかったのよ…」

咲「ふざけないでください!同性の…しかも初対面の人に何を…っ」

エマ「同性?初対面?それこそ何の問題があるのかしら?」

きっと睨みつける咲すら愛しいと言わんばかりに、エマはニタリと笑った。

エマ「ここはパリ、自由と恋愛の街よ。気が合えば、誰だってアバンチュールが楽しめる……」

エマ「咲だって、私の誘いにのってくれたでしょう?」

咲「私は、そんなつもりじゃ……っ」

咲の背に、ぞわりとしたものが走った。

厚着しているはずの衣服を押し分けて、エマの手が自分の肌を直にまさぐっている。

咲「あ……やめ……っ」

エマ「本当に滑らかで……シルクみたい。堪らないわ」

咲が必死になってもがいているのを意にも介さず、エマは舌なめずりした。

エマ「美味しいものを食べて呑んで…それから咲をいただこうと思っていたけど、つまみ食いくらいならいいわよね」

その言葉に咲の頭は真っ白になっていく。

咲「や、やだ……っ」

エマ「いい子にして、咲。気持ちよくしてあげるから、大人しく……」

咲「いやあああっ!」

咲は力の限り大きな叫び声をあげた。

人気のない路地だとわかってはいても、わずかばかりの助けの可能性にかけて。

その祈りが届いたのだろうか。

?「……」

ふと、視界が真っ暗になった。

咲に手をかけようとしていたエマが横を見上げたまま動きを止めている。

その様子につられるように、咲も同じ方向を見上げた。

路地の入り口をふさいでいた人物は、影になっていてよく見えない。

その人物がこちらに話しかけてきた。

エマが慌てふためいて何かを喚く。

2人ともフランス語を話しているせいで、その内容は咲にはさっぱりわからなかった。

けれども何か助けのヒントにならないかと耳をすませているうちに、どうにも奇妙な感覚が咲を支配していく。

咲(この声……聞いたことがある……あっ!?)

高校の時の友人の面影と目の前の姿が、咲の脳裏でピタリとあっていく。


咲「和ちゃん…?」

和「咲、さん…?」


それは間違いなく日本語だった。


咲・和「「やっぱり……!」」


2人の日本人の声が、見事にシンクロする。

まさしく高校でともに青春を過ごした友人――原村和であった。

とりあえずここまで。

十二国の方は最終話までのプロットは書き終えてますので今年中には余裕で終わります。
どちらも必ず完結させますので、宜しければお暇な時にでも覗いてやって下さい。

それからは、まるで映画を早送りで見ているようだった。

一瞬蚊帳の外にいたエマが我を取り戻し、咲にはわからない言葉で和に何かを話しかける。

機嫌が悪く和を追い出そうとしているのはわかった。

それに対し、和が低くやはり異国の言葉を吐き出す。

エマは途端に顔色を変え、こちらに一瞥もくれずに明るい大通りへと消えていった。

咲「え……」

助かった、のだろうか。

咲の体から一気に力が抜けていく。

自分を支えることもできずに、その場へ座り込みそうになった。

和「何をやってるんですか」

それを寸前で引き止めたのは和だった。彼女の手は咲の腕を掴んでいる。

和「というか……どうしてこんなところに咲さんがいるんですか」

和の声は固く、視線はぎろりと冷たかった。

咲の腕を掴んでいる手には、割と容赦のない力が込められている。

とても旧友との偶然の再会を喜んでいるようには思えなかった。

むしろこの場にいた咲を責めたてているようだ。

咲「……」

咲は答えあぐねていた。

うまく言葉を見つけられないでいると、

和が再度「ねぇ、咲さん」といらだった声をあげた。

和「……さっきのあの人、お知り合いなんですか?」

「さっきのあの人」とは、恐らくエマのことであろう。

咲はますます困ってしまった。

今日会ったばかりとはいえ、一応エマは色々よくしてくれた人だ。

見知らぬ、とは言い切れない。

咲「えと……知っているといえばそうかも……」

和「はぁ?」

仕方なしに答えを濁せば、和の声がさらに不機嫌なものに変わった。

和「では合意の上だってことですか?私はただのお邪魔虫だったようですね」

咲「合意の上って……違うよ!それは絶対に違うから!」

ここで初めて咲は和の質問の意図がわかった。

さらにとんでもない勘違いをされていることに気づき、慌てて首を横に振る。

咲「私、観光でこの街に来たばかりで……そしたら、彼女が親切に道案内を……」

和「……してもらった報酬に、まんまと喰われそうになったワケですね」

咲「喰わ……っ?」

明け透けな和の言葉に、咲の頬がかぁっと熱くなる。

それを見た和が盛大にため息を吐き出した。

咲「あ、あの人は女の人だよ!」

和「だから?この街じゃそんなこと関係ないんですよ!」

和の目がまた剣呑に光った。

和「観光で浮かれているところに、現地の優しそうな女性に声かけられて…いい気になってホイホイついて行って」

その眉間に、きゅっと深い皺が刻まれる。

和「バカじゃないんですか!」

和が吼えた。

和「ただでさえ日本の観光客はいいカモにされるっていうのに……」

和「私がたまたま近くにいなかったら、貞操が奪われていたかも知れませんよ!?」

咲「う……っ」

咲は耳が痛かった。確かに和の言う通りである。

結局、咲はエマにつけこまれていたのだ。

ちょっとした親切を真に受けて、とんでもない目に合うところだった。

もっと運が悪ければ、奪われていたのは貞操どころか財産や命だったかもしれない。

和「大体、観光ならどうしてこんなところにいるんですか!?」

和「ルーブルとかエッフェル塔とか、もっとメジャーなところに行けばよかったんです!」

咲を置き去りにして、和の叱責は続いていた。

その厳しい言葉のどれもが、咲の無知と無謀を責めている。

和「というか、ただでさえ咲さんは色々と危なっかしい人なのに…独りでこんなところに旅行とかありえません!」

咲「……」

和「むしろ日本から出てきては駄目です!」

その言葉に、咲の奥で何かがぷちんと切れた。

咲「……んで」

和「咲さん?」

咲「なんで、私ばっかりこんな目にあうのっ!」

和「さ、咲さん?」

うろたえる和の姿があっという間にぼやけて大きく歪み、

すぐにクリアになったかと思えば頬に熱いものが走る。

咲「日本でも散々な目にあって、それを忘れたいからせっかくパリまでやってきたのに……」

この旅行――いや、それ以前から溜まっていたものが、大粒の涙となって咲から溢れだす。

咲「もぉ、やだぁぁあああっ!」

まるで子供のように泣きじゃくる咲の声が、石造りの狭い路地に響きわたった。

和「……ごめんなさい。少し言い過ぎました」

咲の視界が暗くなったのは、それから少し間を置いてからだった。

押し付けられたところからトクトクと心の音が聞こえて、

咲は和に抱きこまれていると気がつく。

和「咲さんに泣かれると、困ってしまいます…」


――咲さんに泣かれると困ります

咲の脳裏に、今の和の声より少しトーンの高い同じ言葉が蘇る。

そうだ、昔も一回だけ和の前で盛大に泣いたことがあった。

家族のことで悩んでいた際、堪らなくなってついわんわんと泣き崩れたのだ。

咲「……あの時も、そういえば抱きしめてくれたよね」

和「咲さん?」

咲「ごめんね。取り乱しちゃって…」

和の腕の中はいつも不思議だった。

そこにすっぽり収まってしまうといつだって心がポカポカと暖かくなる。

咲「ちょっと、この街に来てから色々あって……ダメだね。和ちゃんは私を助けてくれたのに」

涙を拭いて「ありがとう」と笑いかければ「たまたまです」と少し拗ねたような声が返ってきた。

それもあまりに懐かしく、咲はますます笑みを深める。

和「何、笑ってるんですか?」

咲「いや。変わってないなぁと思って」

和「……そんなことはありません。あれから何年たったと思ってるんですか?」

その言葉が軽く思えるくらい、和とは久しぶりだった。

最後に和の正面に立ったのはいつのことだろう…

少なくとも、今日まで咲の中の和は高校生で止まっていた。

咲「本当に、久しぶりだね」

万感込めてそう言えば、和がふいとそっぽを向く。

ちらりと見えたその耳朶は少しだけ赤かった。


散々泣きわめいたせいか、少し喉が腫れている。

それでも何とか呼吸が落ち着いたところで、和はようやくその腕をほどいた。

和「大丈夫ですか?」

咲は頷く。その様子を見て、和の口の端がかすかに持ち上がった。

和「それなら送っていきます」

そうボソリと呟いて、和は咲に手を差し伸べる。

和「ホテル、市内にとってるんでしょう?街外れほどじゃないですが、このあたりだって治安がいい方じゃないですから」

咲「……和ちゃんは、パリは長いの?」

あれだけ流暢にフランス語を話していたのだ。

和が咲のような観光客だとは全く思えなかった。

さらにはパリの土地勘もあるようで――恐らく年単位で住んでいるに違いない。

咲の推測は的を得ていたようで、和は「はい」と答えた。

和「色々あって、今はこちらで働いているんです」

咲「そうなんだ…」

訊きたいことは、たくさんあった。

今の職業、住んでいる場所、この街に来たきっかけ――今まで、何をしていたのか。

和「……」

けれども和が纏う空気が許さなかった。

和の顔は少しだけこわばっていて、無言のうちに拒絶を伝えてくる。

咲「あ……」

出てきそうになる問いかけを咲はぐっと飲み込んだ。

一呼吸おいて、思考を切り替えるために先ほどの答えを口に出す。

咲「その、ここからメトロに乗って結構かかるんだけど……」

和「結構って、いったいどこに泊まってるんですか?」

咲「北駅の近く」

和「北駅っ!?」

咲がその名前を口にした途端、和の目尻がギリギリとつりあがった。

和「なんてところに泊まってるんですか!」

咲「え、ええっ?そんなにマズい場所だったの?」

和「もちろん駅前ですよね? まさか……」

咲「ちょっとそこから歩いたところなんだけど……」

和「馬鹿じゃないんですかっ!」

呆れてため息――などという勢いではなかった。

再度咲を叱りつけると、和はポケットから携帯を取り出す。

和「何泊でとってるんですか?」

咲「二泊。滞在自体は十日の予定なんだけど…」

和「わかりました。……荷物はホテルに置いてきているんですか?」

咲「ううん。その、鍵がかからなかったし荷物少ないんで」

そう言って、咲は例のボストンバッグを抱えなおしてみせた。

それを確認した和が短く頷く。

和「では、電話番号」

咲「え?」

和「ホテルの電話番号です。教えてください」

言われるがままに、咲はホテルの連絡先が印刷された紙を和に渡した。

紙を受け取るや否や、和の指がものすごいスピードでボタンを操作する。

和「……Allo?」

しばらくするとフロントにつながったようだった。

なにやら険しい顔と声で、和が電話に向かって話している。

しばらく怒鳴りあい寸前の応酬が続いたあと、おもむろに和が電話を切った。

咲「あの、和ちゃん……」

和「咲さんのホテル、キャンセルしておきましたから」

あっさり言われたその言葉に咲は目を丸くする。

咲「ちょっ……それ、どういう意味っ?」

和「一泊分無駄になりましたけど、鍵もかからない無法地帯に泊まるよりはマシでしょう」

咲「だからって……私、これからどこに泊まれば……」

和「ちゃんと案内しますから。大人しくついてきてください」

混乱した頭のまま抗議しようとした咲の手を、和が強く握りしめた。

咲「……お願いします」

その懐かしい体温に、咲はそれ以上何も言えなくなってしまう。

いつかの日々を思い出しながら、咲は仕方なしに和のあとを追った。

今回はここまでです。
次はしばらく開きます。


「大して変わりはないですから」と言われて、咲はパリの夜道をひたすら歩いていた。

その手はしかと和に掴まれているが、二人の間に会話はない。

観光客と地元民の声が入り混じった喧騒だけが唯一の音だった。

石畳の道を過ぎると一際大きな通りに出た。

見上げるような大きな木々が規則正しく平行に並んで道と街を彩っている。

北駅やバスティーユ界隈と同じように、ここでもそっくりな石造りの建物がみっしりと並んでいる。

恐らく同じくらい古いものだろうに、あのホテルのような「残念感」は全く感じられなかった。

ライトに照らされた淡いクリーム色の石は夜目であることを差し引いても美しい。

やっと、咲はそう思えた。

咲(場所が違うだけで、こんなに変わるなんて……)

和に遅れをとらぬよう気をつけながらも、咲は周囲の建物にあちこち目をやってしまう。

外観は古く画一的でも、内装は実に多種多様であった。

モダンに設えたもの、クラシカルな雰囲気を残したもの、斬新でポップなデザイン――

まるでバラバラなのだが、外観が同じせいかどの店舗もこの街並みにしっくりと馴染んでいる。

咲「あ……」

あたりを見回す咲の目に飛び込んできたのは、一つのショーウィンドウであった。

白をベースに少し濃い目のピンクと紫をあしらった個性的な配色でまとめてある。

どうやら洋菓子店らしく、美しく細工の施されたチョコレートやケーキがピカピカと宝石のように光っていた。

咲「……おいしそう」

咲の咥内に、思わず唾が溜まる。

そういえば今日は色々ありすぎて結局夕食を食いはぐれてしまっていた。

咲はかなりの小食だが、それでも腹はきちんと減る。

意識したとたん鳴りそうになるそこへ咲はぐっと力を込めた。

咲(……あとで和ちゃんにここまでの道のりを教えてもらおう)

そうすれば、滞在中にまた来れる――そう咲が決心した時だった。

咲「え?」

和がふいに方向を変える。

そして何のためらいもなく例のショーウィンドウのある店のドアを開けた。

咲「え、えぇ?」

咲はワケがわからなかった。

てっきりどこか別のホテルを案内してもらうのだと思っていたのだ。

それとも入り口が洋菓子店というだけで、そこから上はホテルなのだろうか。

パリがどうかはわからないが、海外ではそういう複合的なつくりのビルが多いと聞く。

引っ張り込まれた店内は、ショーウィンドウと同じようにセンスよくまとめられていた。

どちらかというと派手な配色なのに、不思議と下世話な印象はない。

むしろ居心地よく思えてくるくらいだった。

和「ちょっとそこで待っていてくれますか?」

そう言って和が指差したのは、奥にあるテーブルだった。

決して広くない店内だが半分は喫茶コーナーになっているらしい。

大き目のテーブルが三つに、極々小さなテーブルが二つ。

その小さなテーブルに座ってろ、ということらしい。

言われるままに席に着くと、和はすぐにカウンターへと向かった。

奥の方から二人ほどスタッフが出てくる。

咲「…あっ!」

そのうちの一人を見て、咲は驚きのあまり声をあげる。

彼女はまじまじと見つめてくる咲の方へと向かってきた。

憧「久しぶりね、宮永さん」

咲「新子さんも。お久しぶり」

和が二人の会話を見やりながらが唐突にカウンターの奥へと消えていく。

誰も咎めないところみると、和はどうやらこの店の関係者のようだった。

恐らく勤め先なのだろう。

憧「和はまだこっちで少し仕事があるの。退屈だろうけど待っていてくれる?」

――これでも食べながら。

そう言って差し出されたのは、小さなエクレアだった。

もっとも咲が知っているものとは随分違う。

コンビニで売られているものより一回り小さいかわりに可愛らしいデコレーションが施されていた。

コーティングのチョコレートは白とピンクで、

中にたっぷりと詰められたクリームからは宝石のようなベリーが顔をのぞかせている。

咲「食べるのがもったいないくらいだね」

思わず感嘆のため息を漏らすと、憧はくすりと笑った。

憧「ま、食べてみてよ」

再度憧に薦められ、咲はようやくエクレアを手に取った。

そのままカプリとかじりつくと、濃厚な甘味とさわやかな酸味が口いっぱいに広がる。

咲は思わず目を細めた。

咲「美味しい…!」

憧「気に入ってくれたみたいで良かったわ」

そんな咲を満足げに見ると、憧は紅茶らしきポットとカップを置いて再びカウンターに戻っていく。

憧「Bonjour!」

そこにはすでに何人かの客がいた。

憧はどうも接客要員らしく、次々と客をさばいていた。

訪れている人は若い女性が中心だが、中には男性もいる。

持ち帰る人とその場で食べる人の割合は四対一くらいだった。

咲「ごちそう様でした」

ゆっくり味わって食べていたものの、やはり小さなエクレアはすぐに咲の腹に消えてしまった。

一緒に出された紅茶はまだ残っていたので、それもまた大事に飲んでいく。

何か特別なものなのか、今まで飲んだことのない香りと味だ。

和「お待たせしました」

和がやっと咲の元に戻ってきたのは、その紅茶も最後の一滴を飲み終えた時だった。

おもむろに空いている隣の席に腰掛けると「疲れました」と肩をぐりぐりと回している。

咲「お仕事お疲れ様……お菓子屋さんだったんだね」

和「はい」

咲「そっか。和ちゃん、料理得意だったもんね」

咲「高校時代もよくケーキとか作ってきてくれてたし」

和「…覚えてくれていたんですね」

咲「当たり前だよ」

そう言って咲が笑むと、和は僅かに頬を赤くした。

咲「そのうち部長も対抗してケーキ作ってきてたよね」

和「ああ、あの真っ黒焦げのケーキの味は忘れられません…」

咲「部長お手製のケーキ食べた後、ばったりと倒れちゃったんだよね。和ちゃん」

咲「あの時はみんな大騒ぎして大変だったよ」

くすくすと笑いながら言う咲に、和が真っ赤になって叫ぶ。

和「そ、そこは忘れてください!」

咲「嫌だよーだ」

和「忘れてくれないと、咲さんでも容赦しませんよ!」

物騒な言葉とともに和の手が咲の頭を盛大に撫でくりまわした。

あの頃と全く変わらない遣り取りに、咲の中で忘れかけていた懐かしさがまた火を灯す。

憧「ねぇ、二人とも」

じゃれあう二人の動きを止めたのは憧の声だった。

憧「これからどうするの?宮永さんは今日の宿がまだ見つかってないんだって?」

咲「あ、うん」

憧「もし、宮永さんさえよければ……」

和「それなら、ミヤコさんところに連れて行くつもりです」

憧の言葉をさえぎったのは和だった。

和「この時期なら、例の部屋も空いてるでしょう」

憧「あぁ、ミヤコさんのところなら安心ね。ここからも近いし」

咲「ミヤコさん?」

いきなり出てきた日本人の名前に、咲は目をパチクリさせる。

憧「この店から10分ほど歩いたところにあるプチホテルのマダムなの」

憧「この辺に住む日本人の顔役みたいな人でね、私たちも随分世話になったわ」

和「咲さんが最初に選んだところよりも、絶対にマシですから」

憧「最初はどこに泊まるつもりだったの?」

和「北駅の裏手です」

憧「ふきゅっ」

和の答えに憧の顔が引きつった。

改めてとんでもないところに泊まろうとしていたのだと咲は思い知らされる。

咲(サイトでは「格安ホテルを探すならココ!」なんて書いてあったんだけどな……)

憧「あまり飛び込みは歓迎されないんだけど、和の紹介ならまず問題はないわね」

憧の横で、和が横柄に頷いた。

和「そういうわけですから。私はこのまま咲さん送っていきます」

すっと立ち上がると、和は咲の手をまたしっかりと掴んだ。

和「では」

最初と同様に咲を引っぱり、和はそのまま店を出ようとした。

憧「ちょっと待って」

それを止めにかかったのは憧だ。

憧「宮永さんも今日は疲れているだろうし、いくら近いからって徒歩はやめなさいよ」

和「でも10分もかかりませんよ?」

憧「私も今日はもう終わりだし、車で送っていってあげるよ」

和「憧の車、狭いので苦手です」

憧「ワガママ言わないの」

そうピシャリと言い放つと、憧は一人で店の外へと出ていってしまった。

それを見送りながらプクッと頬を膨らませている和を見て、

とうとう咲は堪えきれずに噴出してしまう。

和「なんですか、咲さん」

咲「ううん。新子さんと息が合ってるなぁって」

和「別に……たまたま憧とは入店が一緒だったってだけです」

和が相変わらずの拗ねた声を出す。

その様子を見るだけで、本当に気安い仲なのだと知れた。

咲「良い仕事環境みたいで良かったね、和ちゃん」

少しの間しか見ていないが、心の底からそう思えた。

異国の地で働くのは想像以上の苦労があるだろうが、

和がいい職場と同僚に囲まれていることは、咲にとっても嬉しい事実だった。

和「……私の人生を変えたのは、咲さんですよ」

ぼそりと、下を向いた和が呟く。

咲「え、今、なんて……?」

憧「和、宮永さんお待たせ!」

聞き返す間もなく、店の入口から憧が顔を出した。


■  ■  ■


憧の車は小さくて丸っこい形をしていた。

パリの細い路地を巡るにはこういう小型車が便利らしい。

和「はあ…、だから嫌だったんです」

後ろの座席で窮屈そうに座っている和が文句を零す。

憧「あともう少しだから」


憧の言葉の通り、車はほどなくしてゆっくりとある路地に停まった。

咲「ここなの?」

憧「そうよ。通り側に看板が見えるでしょ?」

咲たちは先ほどまで走っていた大通りに出る。

看板は無数に出ていたが、人目でホテルとわかる星付のものはひとつだけだった。

「Hotel Latin」という文字が暗闇に浮かび上がっている。

入り口は、びっくりするほど狭かった。

北駅のあのホテルと同じか、もしかしたらもう少し小さいかもしれない。

よく磨かれたガラス戸の向こうはちょっとした廊下になっていて、その奥にフロントデスクが見える。

和「では行きますよ」

当たり前のように咲の荷物を持つと、和がスタスタと歩き始める。

その背中を咲は慌てて追った。

さらにその後ろを、ゆっくりと憧が歩いてくる。

?「あら、いらっしゃい」

「Bonsoir」と和が声をかけるまでもなく、フロントのスタッフはすぐに咲たちに気づいたようだった。

少しふくよかな中年の女性である。恐らく彼女が「ミヤコさん」だろう。

和「彼女は日本から来たんですが、とんでもないを宿とってまして」

和「例の部屋が空いていたら貸してほしいんですが」

ミヤコ「あらあら。パリは初めてかしら」

咲「はい。その、北駅がダメなエリアだって知らなくて……」

ミヤコ「あっちにしてしまったのね。あの辺りもいいホテルがないわけじゃないけど、初めての人にはきついかもねぇ」

咲「そのようで……」

ミヤコ「パリにはどれくらいのおつもり?」

咲「一応、十日を考えています」

そんな会話を交わしながら、ミヤコはなにやらパソコンを弄りはじめた。

やや大げさな音をたてて何かを印刷すると、それを咲に提示してみせる。

ミヤコ「北駅のホテルほど安くは出来なけれども、こちらでどうかしら?」

そこには英語とフランス語で一泊あたりと十日間合計の宿泊費が書いてあった。

一日五十ユーロは確かに少々予算オーバーだが、背に腹はかえられない。

咲「こちらで、お世話になりたいと思います」

ミヤコ「ちょっと狭いお部屋だけれども、そこは我慢してちょうだいね」

咲「……あの部屋よりひどくなければ、大丈夫です」

忘れかけていた惨状を思い出し、咲の声がぐっと重くなる。

それをケラケラと笑い飛ばすとミヤコは一枚の鍵を渡してきた。

カードキーではなく昔ながらの鍵だ。

ミヤコ「場所は和と憧が知っているわ。ちゃんと案内してあげてね」

和「分かりました」

ミヤコ「あ、でもエレベーターは一人しかダメよ」

和「それも分かっています」

そう返すと、和は一人でさっさと階段を登りはじめてしまった。

咲「えっと、私は……」

憧「部屋は最上階だから、宮永さんがエレベーター使って」

憧が指差した方を見ると、北駅のホテルで見たのと似た小さな扉がある。

咲が一人なんとか入れこめそうな狭い空間が、エレベーターとのことだった。

憧「そこのボタンを占めたら、勝手に動き始めるから」

咲「え、あ、うん」

憧の指示通りに押すと、ガコンガコンとすごい音をたてて扉が閉まる。

憧「じゃ、上でね!」

憧の明るい声を下に聞きながら、咲を乗せたエレベーターはやはり大きな音で喚きながら上へと登っていく。

――ガ……ッコン!

咲「わっ」

二分ほど乗っていただろうか。

よろけるくらいの衝撃と共にエレベーターが止まった。

ほどなくして、締まる時と同じような騒音と共にエレベーターの扉が開いていく。

憧「お疲れ様」

扉の向こうには、すでに憧と和が待っていた。

日本のホテルのようなエレベーターホールなどなく、

エレベーターを降りた先はすぐに狭い廊下になっている。

和「ここから先は階段だけですから」

咲「まだ登るの?」

和「はい。部屋、屋根裏ですから」

咲「屋根裏っ?」

予想もしなかった場所に絶句していると、憧がその背中を押してくる。

憧「まぁ、絶対に北駅のホテルよりはいいはずだから」

咲「はずっ?」

不安は増すばかりだったが、ここでやめるわけにもいかない。

咲は大人しく古い木の階段を登りはじめた。

――そして再び言葉を失った。

小さな扉を開いた先には、こじんまりとした穏やかな空間があった。

オレンジ色の小さなランプに照らされた先には小さなベッドが置いてある。

シーツは真っ白ではなく、暖かみのある黄色をベースにパッチワークのような幾何学模様が散らばっていた。

ベッドから視線をはずして周囲を見渡せば、木製の小さな机とクローゼットが目に入る。

なにより、細長くて大きな窓があった。

今はカーテンで閉めきられているが、きっとあの通りを眺めることが出来るのだろう。

憧「ちょっと狭いけど、居心地はいいはずよ」

和「大丈夫ですよ。私だってここで一ヶ月暮らしたんですから」

咲「和ちゃんもここに泊まったことあるの?」

和「はい、こちらに来た頃に。中々家が見つからなかったもので」

憧「そういう日系のね、駆け込み寺みたいなところなんだよ」

憧「狭くて移動が大変な代わりに、宿代はこの辺りでは破格」

憧「もっとも怪しいヤツは長期間泊められないってことで、基本紹介がないと無理だけど」

咲「へぇ……」

憧「私もお世話になったわ。懐かしいな……バスタブはないけどシャワー浴びられるのも嬉しかったし」

その言葉に合わせて目を向ければ、確かに奥にもう一つ扉が見える。

あれがシャワーと洗面台にトイレのブースだということだった。

咲「すごい……」

ここは、咲がまさに夢見ていたパリのプチホテルだった。

大きく斜めに切り取られた天井がなければ、とても屋根裏だとは思えないほどに。

しばし感じ入っていると、憧が「じゃあ」といって鍵を手渡してきた。

憧「私たちはそろそろ帰るわ」

咲「新子さん、今日は本当にありがとう。……和ちゃんも」

咲は、改めて和の前に立って深く頭を下げる。

咲「路地裏の件といい……和ちゃんがいなかったら、とんでもないことになってたよ」

和「別にいいですよ。危なっかしい咲さんをほっとけなかっただけですし」

そっけない言葉遣いと裏腹に、和の声は柔らかかった。

和「それで、明日からどうするんですか?」

咲「特に予定は決めてないけど……」

和「わかりました。……それじゃあ、明日は勝手にココから出ないでください」

咲「えっ?」

急に語気を強めて言い放たれた言葉に咲は耳を疑った。

咲「出ないでって……私だって、観光くらい……」

和「独りで行く気ですか?また今日みたいな事になったらどうするんですか」

咲「あ、あれは本当にイレギュラーで……」

和「信用できません」

咲の言い訳を一蹴すると、和は咲とじっと目線を合わせた。

和「だから、明日は私が迎えにくるまでここにいてください」

咲「え、それって……」

和「明日はお休みですし、私が街を案内してあげますから」

そう言って咲の頭をふわりと撫でると、和は憧と共に扉の向こうへと消えていった。


■  ■  ■

今回はここまでです。
こちらは月1のスローペースになります。

翌朝の目覚めは、すっきりとしたものだった。

咲「うーん……」

程よい弾力のベッドの上で咲は大きく伸びをする。

天井まである細長い窓からは柔らかな日の光が差し込んでいた。

噂どおり、パリはまだまだ寒い。

しかしこうして見る日差しは明らかに春の色だった。

?「オハヨウ!」

身支度を整えて地下の食堂まで降りると、陽気な白人男性が片言の日本語で出迎えてくれた。

彼がこのプチホテルの管理人兼マダム・ミチコの夫である。名をカルロといった。

カルロ「オレの爺さんはミラノからこの国にやってきたんだ。それからはずっと家族でこのホテルを切り盛りしてきたのさ」

アメリカほどではないがフランスもまた移民の国である。

ただし彼らの立場は決して楽なものではない。

自国民の利益を第一に守るため、法律や社会慣習に厳しいものがあるのだ。

ミチコ夫人と結婚するにいたったのは、そういった「どうしようもない移民の哀愁」をお互いに共有できたからだという。

望んでこの国にやってきたけれども、その全ての苦労に納得できるわけではない。

そんなやりきれない気持ちを抱え、この夫婦はパリを乗り越えて――やがて二人には共通の夢のようなものが出来た。

カルロ「何でもしてやれるわけじゃない。けどこの街にやってきた『余所者』達のちょっとした駆け込み寺になれないかなってさ」

パリで生活するには住む場所を決めるのが全ての基点である。

ところが東京以上に深刻な住宅不足に陥っているパリで、外国人がアパルトマンを借りるのは容易ではない。

1ヶ月以上かかることも普通にあるらしい。

カルロ「だからといってホテル暮らしじゃ金もすぐに尽きるしな」

カルロ「それなら部屋探しが終わるまで、うちの空いている部屋を格安で使ってもらうのはどうだろう…って」

カルロ「そうミチコが言い出したんだよ」

咲「それが、あの屋根裏部屋ですか?」

カルロ「あぁ。旅行客に使ってもらうには不便すぎるだろ?昔からあんまり人気もなくて、もてあましていてね…」

カルロ「まぁ、お互いにメリットがある名案だったてことさ」

最初の駆け込み客はミチコを頼ってやってきた年下の従妹だった。

それ以来、二人の親戚や友人の紹介を持って様々な人々があの屋根裏部屋の世話になってきた。

カルロ「もちろん和もだよ」

咲「そうなんですか」

朝食を準備しながらカルロの口はポンポンと調子よく開く。

それに相槌を打っているうちに、咲の目の前には様々な皿が並んだ。

焼きたてのクロワッサンにハムとチーズ、それにオレンジジュースのグラスである。

仕上げに「コーヒーと紅茶、どっちにするかい?」と訊かれ、少し悩んだあとに紅茶を選んだ。

カルロ「Bonappetit!これがパリジャンの朝ごはんだ」

カルロ自慢のクロワッサンは日本では見たことがないくらい大きなものだった。

口に含めばすぐにぱりぱりと音をたてて皮が崩れ、バターの香ばしく甘い香りが咥内いっぱいに広がる。

量は決して多いとは言えないが、少食の咲にとっては充分だった。

それどころか朝からチーズなんて食べられるか心配していたくらいである。

ところが、しっかり肉の味のするハムとの相性が抜群で、平らげるのに何も苦労はいらなかった。

ひとしきり口が落ち着いたところでオレンジジュースのグラスを取った。

爽やかな酸味が喉に嬉しい。絞りたてのジュースならではの風味である。

咲「ご馳走様でした。美味しかったです」

食後の紅茶をちまちまと飲みながら、咲は辺りをそっと見渡した。

地下といえどもここは正確には半地下というべき場所だった。

たった三段の階段があり、その先はフロントとロビーになっていた。

一応食堂と名乗ってはいるものの、このスペースにテーブルは咲が座っているものも含めて三つしかない。

昨日は色々とありすぎてちゃんと把握できていなかったが、

どうやらこのホテルはうなぎの寝床のような形になっているらしい。

間口が狭く、奥にぐんと細長く広がっている。

日本では京都などの古都でよく見られる形だ。

日本だと税金対策であのような形が流行ったと聞くが、はたしてパリの場合はどうなのだろう。

そんなことをつらつらと考えていると、フロントの方から軽い靴音が聞こえた。

待機してたらしいミチコさんが「Bonjour!」と誰かに呼びかけている。

それにぼそりと「Bonjour」と返す声に、咲はもちろん聞き覚えがあった。

咲「和ちゃん、おはよう」

和「おはようございます、咲さん」

食堂に入ってきた和が咲に向かって歩いてきた。

咲「和ちゃん、今日はよろしくお願いします」

咲はぺこりと頭を下げた。

今日は和をガイドにパリを観光する予定なのである。

和「はい。朝食を終えたのなら早速行きましょうか」

ホテルを出てすぐに和は大通りを下りはじめた。

昨日歩いた大通りと同じように、こちらの通りにも石造りのビルが延々と並んでいる。

やはり内装は自由なのか、それぞれの店にあわせた看板やショーウィンドウが目に楽しかった。

和「そうそう、あのスーパーは覚えておくといいですよ」

そう言って和が指差したのは、白地に濃いピンク色のサインが印象的な店舗だった。

和「割と遅くまでやっていますし、何よりデリが美味しいんです」

咲「デリ……お惣菜とかお弁当だっけ?」

和「はい。私はクスクスとか好きです。食べたことありますか?」

和のいう料理名に心当たりはなかった。

聞けばアフリカ伝来のパスタのようなもので、カレーライスのような料理として食べるらしい。

咲「アフリカかぁ……今まで全く知らなかったよ」

和「私もこちらにきて初めて食べました。最初は変な味だと思いましたけど、慣れると意外とクセになるんです」

咲「クスクス以外にもあるの?」

和「お菓子もありますよ。凄い色をしてます。この近くに店があるから後で行ってみますか?」

その誘いに咲は勢いよく頷いた。

和「アフリカ以外にも、日本で見たことのなかった料理が沢山ありました……ギリシャとかレバノンとか」

咲「なんか、すごいなぁ……」

咲ほぅと感嘆の吐息を漏らす。

列挙される異国の名前は、それだけでパリが移民の街であることも教えてくれた。

今朝方聞いたばかりのカルロの話が現実のものとしてまた咲の身に染みていく。

和「ところで、パリのどんなところが見たいんですか?」

そう尋ねられたのは、大きな交差点に差し掛かったところだった。

目の前には石造りの橋が架かっていて、その奥にテレビで見たことのある教会がそびえている。

和「ベタなコースに行くのなら、ルーブルとかオルセーとか……その辺りならここから歩いていけますし」

和「エッフェル塔やモンマルトルなどになると、メトロに乗らなきゃいけませんけど」

咲「うーん……」

咲はしばし悩んだ。

ルーブルもオルセーも、咲が是非行きたいと思っていた場所だ。

エッフェル塔はもちろん、有名な映画の舞台になったモンマルトルも気になっている。

けれども、それでは何だかもったいない気がした。

咲はちらりと隣の和を見る。


――本当に、久しぶりの再会だった。

高校卒業後、咲は東京の大学に、和は地元の大学にそれぞれ進学した。

もうあまり会う機会はないと思っていた。

事実、別れてから昨日になるまでその息災すら知らなかったのだ。

それが、またあの頃のように彼女が隣にいる――和の隣に、いる。

そんな奇跡の様な偶然を、ただの観光でつぶすのは本当にもったいない気がした。

咲「せっかくだし、和ちゃんのオススメでお願いしたいなぁって」

そう咲が切り返すと、和は怪訝な表情になった。

和「オススメ、ですか?」

咲「うん。和ちゃんが好きな場所とか好きなお店とか……そういうところが知りたいな」

和「私、こちらに来てからすぐ働きづくめになったもので、観光できそうなところは知りませんよ?」

咲「観光名所は自分でもなんとか行けそうだし……それよりも、またあのお菓子屋さんでお茶してみたいな」

上目遣いに「和ちゃんさえよければ」と付け加えれば、何故か和はふいと視線をそらした。

咲「最後まであのホテルでお世話になろうと決めたし、もしこの近くに詳しいのなら色々教えてもらいたいの」

和「……分かりました」

和「この辺も観光地といえばそうですし……土地勘をつけておけば安心ですからね」

そう言って和は橋の方へと歩きはじめる。

和「メトロを使う方が早いですが、とりあえず今日は歩きます」

和「ちゃんと道覚えてくださいね」

咲「うん……!」

咲は慌ててその背中を追いかけた。


■  ■  ■

石造りの橋を渡り、例の大きな教会を横目に真っ直ぐ進む。

巨大な長方形を二つ並べたような不思議な形の建物こそが、かの有名なノートルダム大聖堂であった。

和「今わたしたちがいるのがシテっていう小さな島です」

咲「ここが、パリ発祥の地……」

ガイドブックなどで知ってはいたが、今実際にその土地を踏んでいると思うと感慨深い。

このシテ島に鎮座する先ほどのノートルダム大聖堂と西にそびえたつエッフェル塔――

その間が、いわゆる「パリの中心部」となるらしい。

和「だから、これから行くバスティーユもちょっと外れていますし、北駅なんて……」

咲「あーもう、わかったって!私が不勉強だったから……っ」

和の説教であの散々な日を思い出しそうになり、咲は思わず耳を塞いだ。

その様子を見て和の目が柔らかく細められる。


シテ島を渡ったあとは、東に向かってセーヌ川沿いを歩くことになった。

石畳の遊歩道には揃いの緑色の屋根を携えた屋台が行儀よく並んでいる。

咲「あれは何を売っているの?」

日本で屋台といえば食べ物が中心だが、どうやらこちらは別のものを取り扱っているらしい。

咲の目に飛び込んできたのは少し古めかしい絵画やポスターのようなものだった。

好奇心に推されて近寄ろうとすると、「ダメです」と不機嫌な声で和に止められた。

和「咲さんは、アレに近づいちゃダメです」

咲「どうして?危ないものには思えないけど……」

和「ダメッたらダメです。絶対に離れなくなっちゃうんですから……」

そう言ってぐいぐいと引っ張られてしまえば咲に抵抗するすべはない。

名残惜しくも咲はその正体を諦めざるをえなかった。

和「店まではまだまだ歩くんですからね」

咲を緑の屋台の誘惑から引き離すために和はぐんと早足になる。

それを小走りで追いかけながら、咲はちらちらと辺りを見回していた。

咲(とても静かで……穏やかだな)

今頃になってやっと気づいたことだが、パリは静かな街だった。

もちろん世界有数の大都市なので喧騒とは無縁でいられない。

しかし日本にいると必ずまとわりついてくる何かのBGMや街宣の音はいっさい聞こえなかった。

それが寂しいのではなく心地よい。

道を往く人々は実に様々だった。

咲たちのような観光客もいれば、通勤中なのかスーツを着てせかせか歩く人もいる。

犬を連れた老夫婦やジョギングを楽しんでいるスエット姿もちらほら見かけた。

しばらく川沿いを歩いていたところで、ふいに和が方向を変えた。

斜めに入るやや細い道を進んでいけば、金とブロンズで出来たモニュメントが見えた。

これなら咲にもわかる――バスティーユ広場だ。

咲「あのホテルから歩いてこれるんだ……」

時計を見ると、ホテルからここまで三十分ほどである。

和「天気もよくて時間もあるなら散歩にはもってこいですけど、私は面倒ですね」

和「お金はかかりますがメトロを使った方が早いです」

咲「でも、私はこうやって和ちゃんと歩けて楽しかったよ」

にこりと笑ってそう言うと、和は頬を赤く染めた。

視線を明後日の方向に投げていてもごまかしようもない。

和「次、こっちですから……」

少し拗ねたような口調に、咲はこっそりと笑いをこぼした。


夜と昼間では大分様子が違うとはいえ、どことなく見覚えのある通りに出る。

この辺りはやはり目抜き通りの一つであるらしかった。

カフェもその他の店も、昨晩と同じように其々賑わっている。

――くぅ

少し間抜けな音が聞こえたのはその時だった。

シーフードレストランらしき店頭で香ばしい匂いに気をとられていた咲が、ぱっとお腹を抑える。

和「咲さん?」

咲「あ、あはは……」

和「……まぁ、それなりにいい時間ですからね」

時計を見ると十一時半少し手前だった。

バスティーユ界隈で少し寄り道していたこともあって、ここまでくるのに一時間程かかったらしい。

久しぶりにそれなりの距離を歩いたせいもあるだろう。

気がつけば空腹と疲労が咲の体に満ちていた。

もっとも、それは決して不快なものではない。

咲(こんなにお腹が空いたの、随分となかった気がするな……)

和「安くて美味しい所がありますから、そこに行きましょう」

咲「うん」

元々の目的地である例の洋菓子店を通り過ぎて、和はひょいとある路地に入った。

咲は昨晩のことを思い出して一瞬身がすくむ。

その様子に気づいたのか、和が無言ですっと手を差し出してきた。

咲(……これも、久しぶりだな)

そっと和の手をとると、やはり懐かしい体温があった。

高校の頃は迷子癖のある咲を見失わないようにと、こうやって和に手を引かれていたものだ。

本当に、懐かしい想い出だ。

和「あちらのお店なんですけど」

和の指が指し示す先にはえんじ色の壁で彩られた小さなレストランが見えた。

同じ色の日除けには太い金文字で「Cafe du Marais」と記されている。

咲「カフェなんだ」

和「店の名前はそうですが、実際はビストロ……というか定食屋です」

間口が随分と狭い店だった。

大通りの店と同じように外にもテーブルがあるにはあったが、

あまりに小さいせいか誰も座っている客はいない。

和「Bonjour!」

和が勢いよくドアを開けた。カランコロンと古いベルの音が鳴る。

咲「ボ、ボン・ジュー」

和の陰に隠れるように、咲も続いて入った。

昨日の店とは違うとわかっていても、いかにも地元民が使いそうな店はどうしても気後れしてしまう。

老人「Bonjour……oh,nodoka!」

出迎えてくれたのは柳のように細い老人だった。

ぱりっとした白いシャツに黒のギャルソンエプロンをきりりと締め、胸元は蝶ネクタイで決めている。

どうも二人は顔見知りらしく、その場でフランス語の会話が始まる。

当然咲には何が何やらさっぱりわからない。

咲「……」

退屈紛れに厨房の方に視線を向ける。

入り口の正面が厨房に面するカウンター席になっているため、咲の位置からよく見えた。

働いている料理人は二人ほどだった。

ふいにそのうちのひとりがこちらを振り向き、咲たちの方へと向かってきた。

明華「あら、あなたは……」

咲「あ、臨海女子の……」

明華「明華です。宮永咲さんですよね?和からよく話を聞いてますよ」

咲「えっ?」

和「明華さん!余計なことは言わなくていいんです」

明華の言葉を、和の叫び声が邪魔をする。

和「それより私達は食事をしに来たんです」

明華「お食事ですか、了解しました。それでは宮永さん、ゆっくりしていって下さいね」

そう言ってにこりと咲に微笑んだ明華は厨房へと戻っていく。

ウェイターに案内されたのは、奥の方にある席だった。

二人だというのにゆったりとした四人がけのテーブルである。

咲「明華さんもパリに住んでるんだね」

椅子に座ると、咲は早速気になったことを尋ねた。

和「ええ。なんでも父親と進路でもめた挙句に家出をして、こちらにいる知り合いを頼ってきたらしいです」

和「で、その方のコネでこの店で雇ってもらったんだそうです」

咲「へぇ……そうなんだ」

そんなことを話していると、いつの間にオーダーしていたのか一品目が運ばれてきた。

美しい翡翠色をしたスープだ。さらにグラスに注がれた白ワインが当たり前のように置かれる。

咲「あの、これって……」

和「呑めませんか?」

咲「ううん、それは大丈夫だけど」

何せこれは夕食ではなく昼食だ。

日の出ている間に酒を飲む習慣などない咲はどうしても面食らってしまう。

けれども和にとってはごく当たり前のことらしい。

和「これ、店からのサービスだそうです」

咲「そうなの?」

思わず咲がウェイターを見ると、入り口そばで控えていた老紳士は茶目っ気たっぷりにウィンクを返してきた。

和「まあ、とりあえず『パリへようこそ』ということで」

グラスを掲げた和に従って、咲も慌ててワインに手を伸ばす。

和・咲「乾杯」

カチン、と澄んだ音が耳に心地よく響いた。

今回はここまでです。
次回はまた1ヶ月ほど開きます。

咲「はー、おいしかった……!」

すっかり満腹になった咲は充足感にため息をついた。

その正面で、和はデザートのチョコレートムースを頬張っている。

フランス語で「menu/ムニュ」という定食は、スープ・メインディッシュ・デザートに食後のお茶というスタイルだ。

もちろんパンも添えられていて、これが中々しっかりしたものである。

皮は固く中はもっちりとしていて、噛めば噛むほど味が出てくるのだ。

和「小食の咲さんにしては結構食べましたね」

咲「うん。あっさりしてたんで、するっと入っちゃったよ」

フランス料理というとこってりしたものをイメージしていたのだが、

ここの料理はどれもあっさりとした味付けであった。

素材の持ち味を活かすというのがモットーらしく、塩ベースの料理はどこか日本的で舌に馴染む。

メインはチキンソテーだった。

かなりのボリュームで食べきれるか心配だったが、これも結局最後まで平らげてしまった。

シンプルだけど深い味わいのソースは明華が担当したらしい。

厨房からひょこひょこ顔を出してはこちらをうかがっていたのが何だか微笑ましかった。

咲「本当に美味しかったよ。ご馳走様でした、明華さん」

明華「しばらくはこっちにいるんでしょう?よかったら、また来てくださいね」

咲「はい。今度は夜にでも……」

別れ際にそう明華に挨拶していると、ぐいと和に腕をひっぱられた。

和「ほら、ここじゃ邪魔だから行きますよ」

咲「ち、ちょっと待ってよ和ちゃん!」

明華「また、咲さんと来てくださいね。和」

和「……」

こちらをニヤニヤと見つめる明華とウェイターに別れを告げて、咲は和と共に店を出る。

咲「あ、和ちゃん……ご馳走様でした」

和「……いえ」

支払いはいつの間にか和がすませてしまっていた。

「今日だけ特別」と言われてしまえば、咲も素直に甘えるしかなくなってしまう。

咲(この次は、私が……)

そう思って、咲ははたと気がついた。

咲(次っていつだろう?)

今日はたまたま和が休みで、こうして案内してもらえている。

けれども明日以降は彼女にだって仕事があるだろう。

咲の滞在中にまた休みがかぶるのは難しそうであったし、帰国後ならなおさらだ。

お互いに生活の基盤が別の国にあるのに、そう易々と「次の機会」があるわけがない。

なんだか急に寂しくなってしまって、咲はそっと鼻をすんと鳴らした。


■  ■  ■

そのまま和の勤め先へ向かってもよかったのだが、二人は腹ごなしにまずは付近を散策することにした。

咲が道すがら色んな店に興味をもったせいだ。

咲「ねえ和ちゃん。あのお店も覗いてみていいかな?」

和「……またですか」

咲が袖を引くと、和はげんなりとした声を出した。

それでも結局は咲に付き添ってくれる姿にまた懐かしさを覚えて嬉しくなる。

咲の目に留まったのは本屋だった。

店の外にはワゴンがあって、色とりどりの本がぎっしりと詰まっている。

表紙からみるに、どうも美術書が中心のようだった。

この辺りは有名なポンピドゥー・センターに程近く、さらにはピカソ美術館など小さめのミュージアムがたくさんある。

その影響か、芸術関係や個性的な品揃えの店が多かった。

和「本なんて重くて持ち帰りにくいですし、程ほどにしておいた方がいいですよ」

和の小言を聞き流しながら、咲はいそいそとワゴンへ駆け寄った。

本は名画集から前衛的な写真集まで多種多様で、言葉はわからずとも捲っているだけで楽しい。

咲(たくさんは無理でも、一冊くらいは持って帰りたいなぁ……)

自然とそういう欲がわいてきて、咲は己のことなのに驚いた。

本を買いたいと思うなんて、そういえば随分久しぶりだということに気づいたのだ。

ライター業をしているくらいなので、咲はそもそも本が好きだ。

高校の頃などは暇さえあるといつも何かを読んでいて、

久からは「活字ジャンキー」と揶揄されたものだった。

それだけ好きでいつも渇望していたものに執着しなくなったのは、いつからだろう。

気がついたら咲にとって本は「書かされているもの」になっていた。

仕事をしている以上離れられないもので、プライベートではあまり目に入れたくないものになってしまっていた。

そんな気持ちを忘れてしまっていたのは、ひとえにここにあるどの本も個性的な装丁をしているからだろう。

咲が日頃触れていた画一的な本とはまるで違うため、一応は同じ本なのに全く別の代物に思えるのだ。

咲「うーん、一冊となると中々迷うなぁ……」

和「咲さん、まだですか?」

咲「もうちょっと待ってて」

和の催促にそう返した咲は、ひとまず候補を二つに絞った。

一冊は色使いとアングルが個性的な風景写真集で、もう一冊は古いポスターを集めた画集である。

咲「うぅーん……」

和「咲さん」

咲「わ、わかったからっ。決めたよ!」

咲は写真集のほうを手に取った。

画集も捨てがたいのだが、こちらは日本でも人気のあるアール・ヌーヴォーが中心だ。

いつか母国でも似たような本が手に入るかもしれない。

咲「じゃあ買ってくるね」

和「一人で大丈夫ですか?」

咲「うーん、英語通じるかな?」

和「よほどの年寄りでなければ大丈夫だと思います」

咲「わかった。行ってくるね」

和「「はい。待ってます」

和に見送られて、咲は店の中へと入る。

他の店と同じように古い建物を改装した店内はうっすらと紙とインクの匂いがした。

天井までの背の高い本棚がいくつもあって、その向こうにレジカウンターが見える。

中に座っている店員は30代くらいの男性だった。

「ボン・ジュー」と2回ほど声をかけたところで、やっと店員は咲の方を向いてくれた。

和の言葉を信じて英語で話しかければ意外なほど流暢に返答される。

店員「この本ね。20ユーロだよ」

咲「ありがとうございます」

店員「はい……君は旅行?」

咲「ええ、観光できました」

店員「日本人?それとも中国から?」

咲「え、あの、日本人ですが」

店員「そうか。英語しゃべってるから中国人かもしれないと思ったんだ……日本か。いいね、好きな国だよ」

そういうと、先ほどまでむすっとした顔が笑みの形に綻ぶ。

店員「遠いから行ったことはないけれども……景色が素晴らしいね。写真集やテレビでよく見る」

咲「あ、ありがとうございます」

そう返答した咲の胸は気恥ずかしさと誇らしさでいっぱいだった。

フランス人は親日家が多いと聞くけれども、こうして面と向かって褒められると感慨深いものがある。

真っ赤に染まっているだろう頬を隠すようにうつむきながら咲は本を受け取る。

その白い手に、何故か店員がそっと己の手を添えた。

咲「え、あの……」

店員「見たところ連れがいないようだけど、一人旅かい?」

咲「えぇ?」

店員「この辺りは道が複雑で迷いやすい。私はもうすぐ上がれるから、君さえよければ……」

和「咲さん、遅いです!」

店員の声を遮ったのは不機嫌さを隠していない和の叫びだった。

小さなドアからぬっと顔だけを突き出している。

店員「……連れがいたのかい」

咲「はい、案内してもらっていて……ですから、あの、失礼します」

ぺこりとお辞儀をして、慌てて和の元へと戻った。

その腕をむんずと捕まえて、和が咲を店外へと引きずり出す。

和「まったく……ちょっと目を放した隙に何をやってるんですか!」

咲「何って……世間話をしていただけで……」

和「世間話?どう見てもナンパでしょう」

キッと和の眉間の皺がますます深くなった。

和「まったく、咲さんは隙がありすぎです!昔より抜けてるんじゃないですか?」

咲「な……っ、和ちゃんが大げさなだけだよ!」

和「……そう思いたければ思えばいいです」

そう突き放すように言い捨てた和だが、言葉の勢いとは裏腹にそっと咲を抱き込んだ。

和「ほんと……危なっかしいんですから」

聞こえた声は、どこか甘い響きがあった。


■  ■  ■


平穏というには色々あったが、無事付近の散策を楽しんだ咲は和と共に彼女の勤め先へと足を運んだ。

当初の目的だった、あの洋菓子店である。

和「Bonjour!」

憧「あら、いらっしゃい宮永さん」

和と共に中に入ると、憧がカウンターで出迎えてくれた。

憧「どうだった?パリ観光は」

咲「うん、色々と楽しめたよ。本も買えたし」

憧「そういえば宮永さんは無類の本好きだものね。よく和から話を聞いてるわ」

咲「和ちゃん、そんなに私の話をするんだ……」

憧「それはもう。耳にタコができるほど、ね」

意味深な笑みでそう言った憧が、他の客に呼ばれてそちらへと向かっていく。

同時に同僚と言葉を交わしていた和が咲の方へと歩いてくる。

その時、カランとドアベルが鳴った。

気になって振り向けば、女性が二人店へと入ってくる。

?「珍しいな。和が休みの日に顔を出すなんて」

和「友達を案内してきただけです、カレン」

カレン「そうか」

そのカレンと呼ばれた女性の隣に佇んでいる、スーツ姿の女性を咲はまじまじと見つめていた。

咲「あの、どこかでお会いしたことが…?」

貴子「ああ。以前に風越のコーチをしていた久保貴子だ。よく覚えていたな」

咲「ああ、やっぱり……!でもどうしてパリに?」

カレン「まあその話は後で説明するとして。……君が咲だな?」

咲「えっ?あ、はい」

貴子との会話を遮り、カレンが話しかけてきた。

カレン「和から話をよく聞いていたよ。ようこそパリへ!私はこの店のオーナーのカレンという」

咲「ええっ!?」

なんと彼女はこの店のオーナーパティシエだった。

若くしてその才能を認められ、本人曰く「腕試し」にこの美食の町で店を開くことにしたのだという。

咲「はじめまして。宮永咲と申します」

そう自己紹介すると、カレンはなぜか感慨深く頷いていた。

カレン「うんうん、そうか……君があの咲か……」

それに対して咲は「えぇ、その、はい」などといったはっきりしない声しか出せなかった。

咲(ここでもまた……和ちゃんったら、いったい私の何を話してるんだろ?)

高校以来会うことのなかった自分を忘れずに気にかけていてくれたのは素直に嬉しいが、

その反面穴に入りたいような気恥ずかしさもしっかりある。

そんな声無き咲の問いに、周囲は誰も答えてはくれなかった。

カレンは和と咲を交互に忙しなく見比べて、なんだか含んだ笑みを浮かべるばかりである。

和「……カレン。咲さんに失礼なのでやめてください」

カレン「そうはいっても、あの『咲さん』がやっと和の元に……」

和「カレン!」

カレン「わかった!わかってるよ和。嬉しいだけでからかうつもりはないんだ」

和「……もう」

貴子「ところで、こちらとしては早く本題を切り出したいんだが」

カレン「貴子のこともちゃんとわかってるって」

カレン「ときに咲、君英語できるんだって?」

咲「え、はい一応は」

カレン「だそうだ。良かったな貴子」

貴子「ああ。…宮永、簡単な通訳を頼めないか?」

咲「えっ?でも、そんな通訳できるほどじゃ…」

貴子「それでも日常会話なら支障がないんだろう?」

咲「はい」

貴子「なら、ぜひともお願いしたい。いや恥ずかしながら、私は英語がからきし駄目でな…」

そう言って貴子は名刺を一枚咲に差し出してきた。

風越のコーチを辞めた彼女の今の仕事は、エージェントと呼ばれる「何でも屋」であるらしい。

学生の頃の在仏経験を活かして、主に日本の出版社向けに様々な取材の約束を取り付けるのが主な業務だ。

貴子「それが、懇意にしている出版社経由でシンガポールからの仕事が入ってな」

咲「シンガポール?」

貴子「一応向こうも多少はフランス語の知識があるらしいが、出来れば英語でコミュニケーションをとりたいと言われてしまって…」

ところが肝心の貴子は英語が不得手。

そこで、彼女は友人である日系フランス人のカレンを頼ることにした。

彼女の店には海外から来た英語話者が何人かいたからだ。

貴子「それで英語のできる従業員を借りようかと思っていたんだが、皆スケジュールが中々会わないらしくてな」

貴子「で、途方に暮れていた所に丁度良く宮永がやってきた、というわけだ」

咲「でも私は旅行客ですよ?その、お仕事だったらマズイんじゃ…」

貴子「一緒にいて、たまに会話を手伝ってくれるだけでいいんだ。それくらいならバイトにもならないだろう」

貴子「巡るのは観光地だし、リサーチをかねて会食もするから食費も浮くぞ」

貴子「あまり沢山は渡せないが、もちろん心づけも用意するし…」

貴子の勢いに戸惑いながら、咲は和を見やった。

和は何故か眉間に皺を刻んだ難しい顔をしている。

咲「和ちゃん…」

何だか急に心細くなって、咲は和の袖を引っ張った。

咲「私、どうしたら…」

和「…貴子さんが、ずっと一緒にいてくれるんですよね?」

ずっと黙っていた和が、ぼそりと口を開いた。

貴子「それはもちろん。彼女が泊まっているホテルまで責任もって送るさ」

和「大体、どの辺を回るつもりなんですか?」

貴子「オペラ界隈とサンジェルマン付近だな。両方の対比を魅せる企画なんだ」

和「そうですか…」

和は暫し何かを考えているようであった。

咲にとっては長い沈黙が続いたあと、「そういうことなら」と和が口を開く。

和「咲さんを貸してあげます」

咲「和ちゃんっ?」

慌てて抗議の意を込めて和の袖を強く引っ張った。

しかし和はさっきとはまるで違う余裕めいた顔で咲を見つめるばかりだ。

和「昨日と今日とで思い知りましたけど、咲さんを一人にしていると危なっかしすぎます。すぐにナンパされるし」

咲「だから、アレは和ちゃんが大げさに…」

和「私がずっとついているわけにもいかないですし…その点、貴子さんと一緒なら安心できます」

そう言い切る和の傍らで、何故か貴子が誇らしげにうんうんと頷いていた。

貴子「宮永、四日ほど力を貸してくれないだろうか」

咲「え、でも…」

和「貴子さんは観光では頼りになりますよ。この辺に詳しいですし」

貴子「宮永、頼む」

咲「わ、わかりましたっ」

咲はとうとう降参した。

確かによく考えれば咲にとっても大いにメリットのある話だ。

なんせ仕事の同行とはいえパリのエキスパートに案内してもらえる。

和と会わなくなったらどうしようという不安もこれでなくなったし、何より彼女は和と懇意にしているらしい。

今日でまた途切れるかもと思った和との縁が、もう少し続くかもしれない。

咲「少しでもお役に立てるよう、頑張ります」

貴子「ああ、よろしく頼む」

握手を交わす咲と貴子を、カレンは微笑ましげに見つめていた。

和は、何ともいえない曖昧な表情だった。


■  ■  ■


今回はここまでです。
次はまた1ヶ月ほど開きます。

貴子「元々はある富豪が妻に送った舞踏会用の別邸で、ご覧の通り中国風の意匠が随所に施されています……咲」

咲「はい。Ah,here is one of the historic theater in Paris. Originally, it was……」

久方ぶりに頭をフル回転させながら、咲は貴子の言葉を英語になおしていく。

流されるままにはじめた貴子の手伝いは想像以上に楽しいものだった。

いくら英語が出来るといえども、専門的な言葉となると難しい。

電子辞書が片時も離せない不恰好な通訳になってしまったが、

貴子にも彼女のクライアントにもそこそこ評価をもらえている。


今日は仕事を始めて三日目だった。

前半はパリの中心地として名高いオペラ地区を巡り、

念願だったルーブル美術館にも少しではあるが滞在することが出来た。

今はセーヌ川の向こう岸に広がるサンジェルマン地区を周っている。

高級デパートが立ち並ぶハイソな雰囲気の右岸とは違って、どこか下町を感じさせるエリアだ。

妖艶で退廃的な香りのする古い映画館、学生街でもあるこの地区で愛されてきた本屋、

最新鋭のファッションアイテムをそろえたブティック――様々なパリの一面を楽しませてもらったあと、

咲たちは貴子オススメのカフェで一息ついていた。

貴子「こちらは、パリでも歴史ある映画館の一つです」

貴子「こちらは、パリでも歴史ある映画館の一つです」

貴子「元々はある富豪が妻に送った舞踏会用の別邸で、ご覧の通り中国風の意匠が随所に施されています……咲」

咲「はい。Ah,here is one of the historic theater in Paris. Originally, it was……」

久方ぶりに頭をフル回転させながら、咲は貴子の言葉を英語になおしていく。

流されるままにはじめた貴子の手伝いは想像以上に楽しいものだった。

いくら英語が出来るといえども、専門的な言葉となると難しい。

電子辞書が片時も離せない不恰好な通訳になってしまったが、

貴子にも彼女のクライアントにもそこそこ評価をもらえている。


今日は仕事を始めて三日目だった。

前半はパリの中心地として名高いオペラ地区を巡り、

念願だったルーブル美術館にも少しではあるが滞在することが出来た。

今はセーヌ川の向こう岸に広がるサンジェルマン地区を周っている。

高級デパートが立ち並ぶハイソな雰囲気の右岸とは違って、どこか下町を感じさせるエリアだ。

妖艶で退廃的な香りのする古い映画館、学生街でもあるこの地区で愛されてきた本屋、

最新鋭のファッションアイテムをそろえたブティック――様々なパリの一面を楽しませてもらったあと、

咲たちは貴子オススメのカフェで一息ついていた。

彼女とシンガポールからのクライアントはこの後会食があるという。

パリにいる別のグループも交えての商談となるらしく、昨日とは違って咲は参加できない。

貴子「そういうことで、申し訳ないんだが……」

咲「心配しないでください。大分この辺の土地勘も出来てきましたし、もう一人でホテルにだって帰れますよ」

少しバツの悪そうな貴子に咲は笑ってみせた。

一体どんなことを和は言ったのやら、彼女はやたらと咲に対して過保護に振舞うことがある。

もちろん初めて一人で過ごすパリの夜に多少の不安はある。

しかし、同時に少し楽しみでもあった。

咲(レストランでの食事は美味しいけど胃にもたれてきたし…)

咲(今夜は和ちゃんに教えてもらったスーパーでデリを買ってみよう)

そんなことをつらつらと思い描いていたら、貴子が「もしよかったら」と封筒をひとつ差し出してきた。

咲「これは……?」

貴子「昨日、憧から預かってきたんだ。ホームパーティの招待状だ」

咲「ほーむぱーてぃ……」

封筒を開けてみれば、確かにそこには場所と日時が記されていた。

ドレスコードまで指定してあったが、読めば「普段着で、ドレスは禁止」と冗談めいて書いてあるだけだ。

貴子「憧がアパルトマンの住人を誘ってやっている極々私的なものだ。予定がないなら、気兼ねせずいってくるといい」

咲「え、でも……」

貴子「和も参加するはずだぞ」

咲「はぁ……」

トドメの一押しみたいに貴子に言われて咲は面食らった。

和に会えるのは確かに嬉しいが、どうも彼女はそれ以上のものを含んでいる気がする。

結局、咲を動かしたのは「素敵じゃないか!」というクライアントの言葉だった。

クライアント「ホームパーティなんて、普通の旅行じゃ招かれるものじゃないよ。知り合いも来るというなら参加してきたら?」

咲「でも、他の住民の方のご迷惑にはならないでしょうか」

クライアント「わざわざ招待状出してくれているんだから、それはないだろう。面白そうじゃないか」

クライアント「よかったら感想なんかを私にレポートしてくれよ」

そう快活に言われてしまえば、咲も中々首を横に振れなくなる。

咲「……」

カードに記された場所は、和たちの店からそう遠くない場所にあった。

ここからはメトロを乗り継いでいかねばならないが、どちらも治安の悪い路線ではない。

咲だけでも何とか行けそうだった。

クライアント「日本ではライターだったんだろう?これも、ひとつ取材だと思ったら」

咲「……せっかくですし、楽しんできます」

咲の答えに、貴子もクライアントも満足そうな笑みを浮かべた。

パーティ会場であるアパルトマンにはすんなりとたどり着くことが出来た。

もっとも、咲の手柄ではない。

駅の付近で迷いかけていたところを、店から会場へ向かっていた和が見つけてくれたのだ。

和「鈍くさいにも程があるんじゃないですか?」

咲「う、うるさいなあ」

そんな口げんかをしながらたどり着いたのは、古い石造りの建物だった。

咲の倍はありそうな大きな木の扉が目の前にそびえたつ。

その脇には何やらコンソールがついていた。それを和が慣れた手つきで押していく。

和「それじゃあ入ってください、咲さん」

ギギーッと音を立てて扉がゆっくり開いた。

和が押し開けてくれている間に、急いで咲は中に入る。

扉の向こうは薄暗い廊下のようになっていた。

奥に進むとさらに入り口があり、そこはすでに開放されている。

そこから賑やかな笑い声が聞こえてきたが、咲は気後れしてしまって先に進むことが出来なかった。

和「どうしたんですか?」

咲「いや、勝手に入っていいものかなって……」

和「大丈夫ですよ。今日はこのアパルトマン全体の呑み会ですし」

咲「住人の方みんな集まるの?」

和「まあ、強制じゃないですけど。月に何回か憧主催でこういう集まりをするんです」

咲「そんなところに、本当に私がお邪魔してもいいのかな」

和「住人っていっても憧や明華さん……咲さんが知っている人たちもいますよ。私もここに住んでいますし」

なるほど、それでここに入るのに一切の戸惑いがなかったわけだ。

和「だから、さっさと中に入ってください」

そう背中を押されて、咲は声のするほうへと進んでいく。

憧「あ、いらっしゃい宮永さん!」

談話室らしき部屋から出迎えてくれたのは主催者である憧だった。

憧「迷わずに来れた?……って、あぁ。心配は無用だったわね」

すぐに後ろの和に気づくとニィと口の端をあげた。

和「迷っていたところを、たまたま見つけただけですから」

憧「はいはい、『たまたま』ね」

くすくすと笑いながら、憧は二人を談話室の奥へと誘う。

広めのリビングくらいのその部屋には、すでに10人近い人々が集まっていた。

その中には明華の姿もある。

憧「さ、皆にもちゃんと紹介しないとね」

憧「皆ちゅうもーく!こちらが、あの和がいつも話してた宮永咲さんです!」

咲「ど、どうも初めまして。宮永咲です」

慌ててぺこりと頭を下げる咲へと視線が集まる。

友人1「よろしく、咲」

友人2「和から噂は聞いていたわよ」

友人3「アジア人にしては色が白いよね。…わぁ、お肌スベスベ!」

友人4「何か特別なお手入れとかしてるの?」

咲「え、あの、その……っ」

気がつけば様々な面々に咲は取り囲まれていた。

友人5「髪もさらさらね。触ってみてもいいかな?」

一人が咲の頭に手を伸ばした時、ずいと咲の体が後ろに引っ張られた。

次いで、背中にぽすんと誰かの体があたる。

和に抱き込まれていると気づいたのは「いい加減にしてください」という声が聞こえたからだった。

和「咲さんは皆さんのオモチャじゃありません!」

和の腕がギュッと咲の体を抱きしめる。

その光景を見やり、周囲はニヤニヤと笑いはじめた。

中には口笛を吹くものまで現れる。

友人1「ヤキモチ焼いちゃってるよ、和ったら」

友人2「そりゃ『咲さん』がチヤホヤされてたら焦るよなぁ」

和「はぁっ?何言ってるんですか!」

和をからかうためなのか、威嚇されても誰もが咲にちょっかいをかけようとする。

たくさんの手が自分へ伸びてくると少し怖い。

腕の中で咲が身をすくめたのがわかったのか、和がさらに咲を強く抱きこんだ。

和「もう、ほんとに何なんですかっ!」

憧「まぁ、和も落ち着いて。みんな悪気はないんだから」

本格的に怒りを露にした和をなだめたのは憧だった。

憧「皆嬉しいのよ。ほら、和は今まで誰にも靡かなかったし。そんな和の本命に会うことが出来たんだからさ」

咲「本命?」

憧の言葉に咲は首をかしげた。

話の文脈がよく理解できなかったからだ。

どういうことかと和を見ると、和は見間違いようもなく狼狽していた。

脂汗のようなものまでかいていて、眠たげな目はギリリと釣りあがって憧をねめつけている。

和「ちょっと憧。私と咲さんはそんなんじゃ…」

憧「今さら誤魔化さなくてもいいわよ」

そんな和をものともせず、憧はニヤニヤと笑い出す。

憧「何かあればいつも『咲さん』の話ばかりだったじゃない」

明華「ですよね。咲さんが和の宝物だなんて、みんなわかってますよ」

和「だから……っ!」

憧「大体ヤキモチ焼いてみせたのがいい証拠でしょ。今だって、そんな風に抱きしめて」

そして、憧はしたり顔で「ははぁ」と笑みを深める。

憧「あれか、宮永さんをこのアパルトマンに泊めなかったのも、皆を警戒して……か」

和「はぁっ?」

憧「バカねぇ和。あんたの本命に手を出すほどみんな野暮じゃないし」

憧「大体、独り占めしたいなら自分の部屋に囲い込めばいいだけの話じゃない」

和「憧っ!」

憤る和に抱きかかえられたまま、咲の脳裏は大混乱に陥っていた。

憧の話は明らかにおかしい。

だって、独り占めしたくてヤキモチ焼いただなんて、それはまるで――

咲「私が、和ちゃんの恋人みたいじゃない」

咲にしてみたら冗談のような一言だった。

あるいは憧の言葉が冗談だと確認するためだった。

「からかっただけよ」なんて、飄々とした答えを期待して。

けれど憧は満面の笑みを浮かべながら「だって、そうでしょ」と言ってきた。

憧「和から宮永さんの話は何度も聞いてたしね。日本に大切な人を残してきてるって」

和「ちょっと、憧!」

友人1「和は男にも女にもモテるクセに、全くなびかないのよ」

友人2「そうそう。一晩だけといってもダメ。日本に恋人がいるからって」

咲「え……っ」

咲は慌てて和の顔を見た。

和は赤いんだか青いんだか判別つかない、ものすごい形相になっている。

ただオモチャのようにブンブンと首を横に振り続けているだけだ。

咲「あの、私はそんなこと知りませんでしたし……」

咲「大体、それだと和ちゃんの恋人が、その……私とは限りませんよね」

そう切り替えしたものの、憧は相変わらず飄々とした笑みを崩さない。

憧「和もこんなだから、はっきりとは言わなかったけどね。和の口から出る日本の思い出といったら殆どが『咲さん』のことばかり」

明華「ですね。しかも咲さんの事を話すときにはね、こちらが妬けてしまうくらい甘い目をするんですよ」

咲「え……」

確かに咲と和はとても仲がよかった。

一緒のクラスには一度もなれなかったが、同じ麻雀部部のレギュラーだった。

しかし、それは「友達」というべきだろう。

確かにただのチームメイトよりは濃い付き合いをしてきたけれども――

咲「和ちゃん……?」

咲は、思わず問い詰めるような声をあげた。

いったい彼女は皆に何を話していたのだろう。

和と袂を分かってからもう六年近くたつ。

自分と同じように、高校での思い出を大切にしていてくれたことは嬉しかった。

けれども、それだけではすまされない何かがあるような気がした。

憧「和はね、本当に宮永さんのことを大事にしてる」

明華「まあそんな風に咲さんを情熱的に抱きしめているだけで証拠は十分だと思いますよ?」

憧と明華の言葉に、周囲から何故か賛同の声が沸きあがった。

中には「いい加減、腹くくれ!」なんて野次もある。

友人1「日本ではまだまだ同性愛者の立場は厳しいって知ってる。でもここは自由と恋の街だ。素直になっていいんだよ」

友人2「そうそう。和に会いに、単身乗り込んできたくらいじゃないか」

咲「えぇっ」

自分と和以外の誰もがとんでもないことを勘違いしている。

和のいう恋人が咲で、さらには咲が和に会いにやってきたのだと。

咲「ご、誤解ですっ!」

慌てて否定しても、憧たちはニヤニヤと笑っているだけだ。

確かに和との再会は自分でも出来すぎだと思う。

咲が和を訪ねに来たとした方がよほど自然だ。

しかし、それがどうして恋人を追いかけたという話にまで飛んでしまうのか。

咲「和ちゃんっ!」

咲はもう一度和の名を叫んだ。

周囲は勘違いのラブロマンスに浮かれきっていて、誰も咲の話をまともに取り合ってくれそうにない。

けれども和も否定してくれたのなら事態を収拾できる気がした。

和「咲さん……」

振り向いて見た和の顔は、心なしか真っ白に見えた。

友人3「別に隠す必要はないだろ」

友人4「それともアレか、和。お前、まさか片思いじゃないだろうな」

和「う、うるさいです!」

友人4「なんだ図星か」

友人の指摘に、和の顔は一気に真っ赤になった。

周囲の喧騒も一際大きくなる。

友人1「あの和が片思いだって?」

友人2「意外と奥手だったのね。かっわいい~」

友人3「もうバレてるんだしビシッと告っちゃえよ」

友人4「『咲さん』だって、満更じゃないって」

意図的か知らない英語の野次に、咲も己の頬が熱くなるのがわかった。

咲(な、何なのこのノリはっ……)

友人1「惚れた相手がこんな所にまで来てくれたのに、キスの一つも出来ねぇのかよ。このヘタレ!」

そう言ったのは誰の声だったか。

和「……ヘタレって誰のことですか」

次に咲の耳を打ったのは、恐ろしく低い和の呟きだった。

その掌がむんずと無遠慮に咲の顔を掴んだ。

咲「え、和……ちゃん?」

和「私、ヘタレじゃありませんから」

もう一度そう言うと、あろうことか和は咲の唇に喰らいついてきた。

咲「ん、んーっ!?」

息なんて出来るはずもなかった。

抵抗する間もなく舌が入り込んできて、咥内をこれでもかと嘗めつくされる。

後頭部は和の掌で固定されて身動きすらとれない。

咲「ん、ふ……っあ」

酸欠でどんどん意識が霞んでいく。

誰かが何かを叫んで囃したて、ピュウと口笛の音まで聞こえてきた。

けれどもそれに応える理性など、もう咲には残っていない。

咲「ふぁ……」

かくりと突然力が抜けた。

倒れこもうとする身体を支えたのは和の腕だった。

ぼんやりとした頭の中で「やりすぎでしょ!」と顔を真っ赤にした憧が見えた気がした。

憧「さっきまでヘタレだったクセに……極端すぎっ」

和「だからヘタレじゃありませんって!だいたい憧には言われたくありません!」

憧「それ、どういう意味よ!」

和「そのまんまの意味です!」

騒がしい軽口の応酬はやみそうにもないが咲はどうすることもできなかった。

くたりとした身体を動かすことも出来ず、全て和のなすがままだ。

和「それじゃあ、咲さんもこんな感じですし私たちは先にひっこんでますね」

明華「和」

和「別に変なことはしませんよ……あ、でも野暮な邪魔はやめて下さいね。特に憧」

憧「するかっ!」

「ごちそうさま」だなんて、誰かの野次がまた聞こえる。

和「とりあえず、私の部屋に行きましょうか」

咲はふわふわとした意識のまま、和に手を引かれて部屋を出ていった。


■  ■  ■

咲「んぁ……っ」

どさり、という音と共に、咲の意識が浮上する。

背中に固いスプリングの感触があって、ベッドの上に投げ出されたのを知った。

和「ようやく我に返ったようですね」

そう笑った和が咲の額にかかった髪を梳いていく。

和「隙だらけで揉みくちゃにされて。最後には私にあんなことまでされて…」

声は陽気そうだったけれども和の眉間には皺が寄っていた。

和「言っておきますけど、私は謝りませんから」

吐き出された言葉とは裏腹に、和の顔がくしゃりと歪む。

何かを堪えるように唇を噛み締めていたかと思うと、おもむろにその場を立ち去ろうとする。

寸でのところで、咲はその裾を掴むことができた。

咲「謝らなくていいから、教えてほしいな」

和「……何をですか」

咲「どうして私にキスしたの?」

そう言った瞬間、和の瞳がぐらりと大きく揺れた。

和「……ただ悪ノリしただけです」

咲「そういう答えに逃げないで」

言われた言葉に、和がひくりと喉を動かした。

咲「普通……友達同士なら舌をつっこむキスなんてしないよね」

和「……」

咲「ねぇ、和ちゃん……」

咲はじっと和を見つめた。

色んな熱にあてられた今は、情けないことに思うように体を動かせない。

ベッドに転がされたまま視線で和を引き止めることしかできなかった。

咲「和ちゃんにとって、私はどういう存在なの?」

口にした途端、咲の中でモヤモヤとしていたものがはっきりとした形となっていく。

そうだ、ずっと気になっていた。

再会は偶然だとしても、それ以降の二人をどうやって説明すればいいのだろう。

「昔仲の良かった友達」で片付けるには、自分たちの距離は随分と中途半端な気がしていた。

あと数歩で別の何かに変わってしまうような、そういう位置で一生懸命踏みとどまっている。

和「それを知って、どうするって言うんですか」

ギシリとベッドが軋む音が鳴り視界が暗くなった。

横たわる咲の上に和が覆いかぶさっている。

筆舌しがたい苦い光が、その目には宿っていた。

咲「どうするって……」

和「そういうことをハッキリさせないから、隙だらけだっていうんですよ」

和との距離がぐっと縮んだ。

剣呑な目が間近にあって、少し荒い吐息が唇を掠めていく。

和「大体、私の答えなんてわかっているくせに……」

ぼそっと囁いた和の指が、ぐっと力を込めて咲の手首を捉える。

今度は咲が唇を噛み締める番だった。

和「どうしますか?今ならさっきの質問をなかったことにできますよ」

和「咲さんが気に入るような答えにしてあげてもいいです」

咲「じゃあ私が『友達でいて』って言ったら……和ちゃんはそうするって言うの?」

和「はい」

返事は明快だった――ならば和は絶対にそうするだろう。

咲が掴めそうで掴めない本心を、隠したままで。

咲「……れは、いや」

和「咲さん?」

咲「それは絶対にイヤ」

偶然の再会で、消えかけていた火がまた燃え上がっただけなのかもしれない。

だって、六年だ。

そんなにも長い間二人は疎遠になっていて、思い出すことも時折で――けれどずっと燻っていた。

相手が大事だったことだけは確かだったから、曖昧に全てを終わらすことなんて許せなかった。

咲「私が知りたいのは和ちゃんの答えなの。例え、それがどんなものだって……」

和「……分かりました」

またギシリとベッドが鳴いた。

距離があまりに近くなって、もう咲は和の瞳しか見えなくなる。

和「そういうことなら、教えてあげます。今度はもっと深く刻み込んであげますから」

そうして和はまた咲の唇に噛み付いた。

唇を塞いだまま性急に咲の肌を探りはじめる。

その感触にふるりと震えながら、咲はぎゅっと目を閉じた。


■  ■  ■

今回はここまでです。
次はまた1ヶ月ほど開きます。

和「そろそろ起きてください、咲さん」

咲「……う……ん」

頭上で聞こえる和の声に、咲はうっすらと意識を取り戻した。

寝ぼけ眼をあちこちに彷徨わせていると、すました顔の和に行きあたる。

咲「あ……」

和「早く支度してくださいね。私、もうすぐ出なきゃなりませんから」

咲「う、うんっ」

和に急かされて、咲は慌ててベッドから起き上がる。

…そうしようとした途端、腰に鈍痛が走った。

咲(え、なに、どうして……?)

いったい自分の身体に何が起こったのか。

記憶を辿っていくうちに咲はみるみる真っ赤になる。

咲(そうだ、昨日は……!)

和と、いたしてしまった。

身体の隅々まで暴かれて、指で貫かれて。

そうしてとうとう処女を散らしてしまった。

咲(私……和ちゃんと何てことしちゃったんだろ……)

羞恥が過ぎて頭を抱えだした咲に、和の固い声が降りそそぐ。

和「私、謝りませんから」

昨日のコトを言っているのはあまりにも明白だ。

和に組み敷かれて、ろくに抵抗も出来ずに抱かれてしまった。

咲(でも……そう仕向けたのは、私だよね)

きっかけを作ったのは間違いなく咲だ。

自分の言動が、和を煽ってその箍をはずしてしまった。

咲「……」

和「咲さん」

グルグルと回る思考は、和の声で再び現実に戻される。

和「ボーっとしてないで早く着替えてください」

咲「あ、ご、ごめん……っ」

咲は考えることをやめて、急いで傍にあった自分の服を掴んだ。


■  ■  ■

咲「これからどうしよう……?」

和のアパルトマンを出たあと、咲は通りで途方に暮れていた。

昨夜アレだけ咲に無体を働いておいて、翌朝は非情にも咲を追い出した和を恨む気にはなれない。

どうも朝の勤務が入っていたらしく、急いでいたのは良くわかったからだ。

遅刻しそうな状態にも関わらず簡単な朝ごはんなどの世話を焼いてくれたのだから、むしろ感謝すべきである。

腰の痛みはまだあるものの、それ以外の不調はなかった。

体だってすっきりとしている。

どうやら和が拭いてくれていたらしい。

服は汚される前に脱がされていたので、今の咲のいでたちは全く普通に見えるはずだ。

咲「お休みなのが仇になっちゃったな」

貴子との仕事は一日休みとなっていた。

元々予定されていたのか、昨夜のパーティーに気を使ってくれてのことかはわからない。

咲(どうせなら、仕事で頭を空っぽにしたかったのに……)

こうして独りでいると、どうしても前夜の記憶が蘇る。

冷静に振り返るのならまだしものこと、あの悦楽まで思い出しそうで辛抱ならなかった。

咲「大人しくホテルに戻ろうかな」

こんな状態では観光する気にもなれない。

それなら、いっそあの居心地のいい部屋に一日くらい引きこもるのもありだと思った。

咲(教えてもらったスーパーでデリや飲み物を買って…この間の写真集でも眺めよう。うん、それがいい)

そうして気分が落ち着いたら、もう一度考えればいい。

昨日、いや六年前からの自分と和の関係を。

咲「……よしっ」

そうと決めて、咲は歩き出す。


パリの空は快晴だった。気温もいつもより暖かい。

咲はメトロではなく歩いてホテルまで戻ることにした。

腰痛は消えていないが我慢できないほどではないし、

少しでもパリの街を歩いてみたいと思ったのだ。

――プッ、プ!

少し間抜けなクラクションの音に呼び止められたのは、路地の角を曲がったところだった。

続いて「宮永さん!」と自分を呼ぶ声が聞こえる。

振り向けば、あの小さな車から憧が顔を出していた。

憧「一人でどうしたの? 和は……あぁ、今日は出勤日だったか」

咲「え、うん」

憧「貴子さんのところは、今日はお休みだよね。これから予定はあるの?」

憧の問いに、咲はホテルに戻るところだと簡潔に答える。

咲「まだまだ日にちはあるし、一日ホテルでゆっくり休もうかなって」

憧「なるほどね……」

憧は少し何かを考えているようだった。

しばらくして、「宮永さんさえ良かったら」と切り出してくる。

憧「私も今日は夜まで予定がないの。よかったらランチに付き合ってくれない?」

咲「うん、喜んで」

咲としても誰かと時間を過ごせるのは歓迎だ。

憧は話し上手だし、いい意味で頭を空っぽに出来そうである。

ただ、如何せん彼女はあの夜に居合わせた人物だ。

強いて言うなら、その点で少し躊躇してしまう。

そんな咲の心境を知ってか知らずか憧はゆっくりと目を細めた。

憧「誰かと約束しているとか、そういうことでなければぜひ。案内したい場所もあるの」

助手席を勧められて、咲はおずおずと乗り込む。

ドアを閉じてシートベルトを閉めたところで、憧が「それに」と言い出した。

憧「色々と訊きたいことがあるしね……宮永さんと和のこと」

咲「えっ」

思わずぎくりとする咲をよそに、車がエンジン音とともに動き出す。

憧「明華の店には行ったんだよね?」

咲「うん。和ちゃんが連れて行ってくれて……」

憧「わかった。じゃあ、全然違う雰囲気の方がいいわね」

そう言って憧がハンドルを切った。

二人が乗った車はセーヌ川を越えてどんどん大通りを進んでいく。

咲が滞在しているホテルもすぐに通り過ぎてしまった。

窓の外を眺めていると、どんどん景色が変わっていくのがわかる。

古い石造りの建物が徐々に近代的なコンクリートものに変わっていくのだ。

咲「うわぁ……」

やがて咲の目の前には巨大なモダンビルディングが三棟現れた。

その一つは、パリでは滅多に見ないほど高い――パリのシンボルマークの一つ、モンパルナス・タワーだ。

憧「ここからは少し歩くよ」

巨大ビルの二つ目、モンパルナス駅近くの駐車場に車を停めると、

憧は咲をある通りへと連れて行った。

彼女らのアパルトマンがある路地と同じくらいの大きさの道には、ずらりと似たような雰囲気のお店が並ぶ。

どの店にも鮮やかな色の日除けがかかっていて、「Creperie」と印字されていた。

憧「ここにしようか」

そのうちの一軒に憧がふらりと入った。

慣れた様子で店員に何事かを告げると、テラスではなく奥の席に座る。

小さな木のテーブルには荒っぽい彫刻が施されていて、確かに明華のレストランとは違う趣だ。

憧「多分まだガレットは食べたことがないと思って」

憧が勧めてくれたのは、そば粉を薄く焼いたブルターニュ地方の郷土料理だった。

日本では一括して「クレープ」と呼ばれているが、正確には塩味のものはそば粉の「ガレット」

甘いものが小麦粉で作った「クレープ」になるらしい。

咲は憧と同じハムとチーズのガレットを頼んだ。

焼き上がりには少し時間がかかるらしく、

「その間に」と陶器のポットに入った何かが運ばれてくる。

咲「これは……」

憧「シードルだよ。リンゴから作った発泡酒で、ガレットには欠かせないのよ」

にっこり笑いながら、憧はお茶碗のような器に蜂蜜色の液体を注いだ。

シュワシュワと細かい泡が浮かんでは消えていく。

咲「また、昼間なのにお酒……」

憧「日本では習慣がないからね。でも適度なアルコールは胃を緩めてくれるよ……人の心もね」

その言葉に咲ははっと顔を上げた。

そうだ、憧は咲に聞き出そうとしているのだ――和と咲の過去を。

緊張が伝わったのだろうか、憧が「別に詰問はしないわよ」と笑みを深めた。

憧「宮永さんは和からどこまで話を聞いてる?パリに来た理由とか」

咲「ううん、何も……」

憧「そっか……それは和から直接聞いた方がいいかもね。じゃあ宮永さんにはパリでの和のことを話そうかな」

憧が何かを話しかけようとした時、陽気なウェイターの声がした。

どうやらガレットが焼きあがったようだ。

憧「いいタイミングだね。短い話じゃないし、食べながら聞いてちょうだい」

そうして、憧はゆっくりと昔のことを語り始めた。

憧「私ね、高校を卒業する前に東京に旅行に行ったんだ」

咲「旅行?一人で?」

憧「ん。その頃ちょっと忘れたいことがあったからね……」

咲「え……?」

憧「まぁ、それはいいとして。その時たまたまカレンが来日しててね。都内の百貨店でお菓子作りの実演をしてたのよ」

咲「実演?」

憧「うん。カレンの手でどんどん完成されていくキラキラしたお菓子の数々を、瞳を輝かせてひたすら見つめてたわ」

憧「で、その後お菓子作りに見事に嵌った私は専門学校に通った後、カレンに弟子入りするためこのパリまでやってきたってわけ」

咲「そ、それは……随分と思い切ったね……」

憧「今思うと凄い行動力よね」

くすりと笑みながら、憧が話を続ける。

憧「で、単身パリに渡ってカレンの元に押しかけたらね……いるじゃないの、和が」

咲「えっ!?和ちゃん、その頃からすでに……?」

憧「そう。もうビックリしたわよ、高校を卒業してからほとんど連絡もとってなかった知り合いが目の前にいるんだから」

咲「だよね……。私もパリで和ちゃんと再会した時はまさかと思ったよ」

憧「宮永さん、和と再会するのは久々なんだよね」

咲「うん……」

どこか寂しげに頷いた咲を見て、憧はまた話を元に戻す。

憧「でね、和は期待の新人って呼ばれてて。その頃にはすでにフィリングを任されてたくらいだったの」

憧「これってかなりすごいことなのよ。何せ味の決め手に携わってるからね」

咲「へえ……、和ちゃんってそんなにすごいんだ」

憧「ところで、宮永さんはお菓子を作ったことがある?」

咲「え、うん。たまに作るくらいだけど」

憧「そう。製菓で何が一番大変だと思う?」

咲「うーん、やっぱり味付けかなぁ」

憧「たいていの人はそう思うのよ。でも実は違うの」

咲「違う?」

憧「ん。泡立てや混ぜる作業なの。意外でしょ?」

咲「へぇ……」

憧「味覚っていうのは案外意識して鍛えられるものなの。流行の味は、時代や地域によって随分変わるしね」

憧「でも「混ぜる」となると勝手が違う。単純だからこそとても難しい」

憧「作る菓子の種類、材料、その日の気温――そういった要因にあわせて、混ぜ具合を変えていかなくてはいけないの」

憧「どれぐらい混ぜるのか、最初と最後の力の入れ具合も考慮しなくちゃいけない」

憧「そういった絶妙な力の配分というのは、どうしても才能によるところが大きいのよ」

咲「へぇ…お菓子作りにも色々とあるんだね」

憧「そう、案外奥が深いのよ。でね、和はこれが天才的にうまかったの」

咲「和ちゃんが?」

憧「ん。そういう才能はパティシエにとっても大きなメリットなのよ」

憧「で、周りの人間は小手先の技術でそれを補おうと必死でね。でも和にはそれが分からない」

憧「分からないから――サボっているようにも見えたんでしょうね」

咲「えっ……」

和『どうしてこれ位のことが出来ないんですか?』

和『結果も出せないくせに、私に指図しないでください』


憧「ただでさえ力の差を見せつけられて呆然としてる所に、こういった言葉が投げつけられる。たまったものじゃないわ」

憧「和は四六時中こういう態度で、そりゃもう職場はトラブル続きでね」

憧「みんなね、思い知らされるの。和の言葉と和の手が作り出す全てに――誰に才能があって、いかに自分が無能かを」

憧「そして私もそんな一人だった」

咲「……」

憧「単身パリに乗り込んだくらいだし、これでも腕に自信はあったのよ」

憧「でも、和を見て愕然とした。どうしても敵わない才能ってものがあるんだって」

憧「それでもね、私も二年は足掻いていたわ。意地になってたの。努力が才能に負けるはずないって」

憧「やたらと和に張り合ってたこともあったし」

咲「和ちゃんと?」

憧「ん。私も和も気が強いからね。で、和に「もうやめたらどうですか」なんて言われたりもしたわ」

憧「でも不思議なことに、カレンはそんな和を一向に諌めなかったの」

憧「和に負かされて悩むスタッフの相談には応じていたみたいだけどね。そんなカレンに逆恨みをするヤツラもいた」

憧「おいしいお菓子を作るのに必要なのは、砂糖と小麦粉だけじゃない」

憧「才能だって努力だって等しく大切だし……何より、一人じゃ作れない」

憧「だけど、和はそうじゃないんだよね。そこそこおいしいものなら一人で作れちゃうのよ……」

咲「……」

憧「まあ、そんな和もまだ卒業試験に合格してないんだけどね」

咲「試験……?」

憧「そう。カレンの目の前でガトーを作るっていうもので、和に示されたテーマは『特別』だったわ」

憧「これ自体は、それこそ別に変わったものでもなんでもない。お菓子は特にお祝い事に良く使われるから」

憧「スペシャリテのオーダーなんて頻繁に入るし。和も最初は何にも戸惑ってないようだったし」

憧「いつものように苦労ひとつもなく幾つかガトーを焼き上げて、それをカレンに持っていったらしいわ」

憧「私も見せてもらったけど、見た目も味も申し分のないものだった。でも……」

憧「どれ一つとしてカレンから合格を貰えなかった」

咲「……」

憧「……今も何度も挑戦しているみたいだけど、全く駄目みたいね」

憧の目元に、少しだけ皺が寄る。

憧「和は何だかんだで皆の希望の星だし、なんとか合格させてやりたくてね……」

憧「で、宮永さんが来たと知った時にね、皆これで『イケる』って思ったの」

咲「え……?」

唐突に出た自分の名に咲ははっと顔を上げた。

憧「和から宮永さんの話はたくさん聞いてたからね。和が宮永さんとの想い出を大切にしていたのはわかってたから……」

憧「そんな和の特別が傍にいてくれたら、和もなにか掴めるんじゃないかと思って」

なるほど、憧を含め色んな人の妙な歓待ぶりはここに原因があったのか。

咲「でも、私は……」

憧「宮永さんたちは、どうしたってただの友達じゃないでしょう?」

その問いに、咲は答えられない。

けれども憧はその沈黙を肯定と取ったらしい。

憧「人の感情だからね。明確な線引きができるわけもないし」

憧「和と宮永さんが随分疎遠だったって言うことも、和から聞いてるわ」

テーブルの上に乗せていた咲の手を、憧がそっと握ってきた。

優しい仕草だけれども咲には心臓を掴まれた様なものだった。

憧「だからこそ、こうやって傍にいる今は和から逃げないでやってほしいの」

憧の声に、熱いものが滲んでいく。

憧「宮永さんといる時の和の表情はすごく生きてた。流石に失敗の連続で、最近は濁った目ばかりしてたから……」

憧「ただ傍にいてあげるだけでもいいの。宮永さんといるだけで、多分和には何か掴めるものががあると思うから」

咲「……買い被りだよ」

自分でもびっくりするぐらい、かすれた声しかでなかった。

咲「和ちゃんは私にとって大切な友人だよ。でも私は和ちゃんにとってそんな大層な存在じゃない……なりようが、ないの」

憧「宮永さん……?」

咲「私は……、和ちゃんを傷つけるようなことをしたから……」


■  ■  ■


咲が話を終えた時、すでに日は傾き始めていた。

ガレットはとっくに食べきって、デザートに頼んだクレープが半分皿の上で冷えてしまっている。

飲み物はシードルからカフェオレに変わっていた。

憧「なるほどね。そんな事があったんだ……」

ぽつりとこぼれた憧の言葉に、咲は無言で頷く。

六年間の疎遠は、よくある自然の成り行きではなかった――咲が招いたことである。

「仲のいいチームメイト」のはずだった和との関係を咲が断ち切ったのは、高校一年生の夏。

インターハイ真っ盛りの頃だった。

団体戦で優勝を決めた清澄高校だったが、和の父はそれで満足はしなかった。

個人戦で、和一人の力で頂点を掴まないと東京の学校へ転校させると言ってきた。

もう後がない和は個人戦で優勝することを誓い、

咲や皆と離れたくない一心で個人戦準決勝の舞台まで上りつめた。

そこで和はともに勝ち進んできた咲と対戦することになる。

咲は、和が負けると転校させられる話を偶然知ってしまい、和と全力で勝負することに躊躇する。

思い悩んだ咲が出した結論は――――和への援護。

和に勝ちを譲り、自らは敗退するというものだった。

その後決勝戦が終了し、和は個人戦で2位という成績をおさめた。

優勝はできなかったものの、全国2位という好成績に和の父も漸く満足したのか、

結局和の転校の話は無くなった。

だが喜ぶべき和の心は酷く荒んでいた。

どんな理由であれ、咲に手を抜かれたという事実が心に突き刺さっていたのだ。

そんな和の心情を悟り、思いつめた咲はやがて麻雀部を退部した。

その後和との仲も疎遠になっていき、やがて高校を卒業する頃には

麻雀部での思い出も風化していった。


和のことを忘れたことはないが、頻繁に思い出すこともなかった。

それなのに、再会した途端に彼女のことが胸を占めるのはどういうことなのだろう。

憧は何も言わなかった。黙って何かを考えているようである。

それなら、と口を開いた時には、結構な時間がたっていた。

憧「宮永さんにとって、和って何?」

咲「……」

憧「和のこと、今はどう思ってる?」

咲「……わからない」

どうにかして搾り出した声は、情けなく震えていた。

咲「今でも和ちゃんのことは、大事な友達だと思ってる」

咲「でも、それ以上のことは……ちっともわからないの……」

憧が言いたいことは、何となくわかる。

早くこの感情に名前をつけてしまえというのだろう。

けれどもそれが咲には出来なかった。

如何せん、和への罪悪感が強すぎる。

咲「ごめんなさい……」

様々な思いを込めて頭をさげれば、滑らかな掌が咲の髪を撫でた。

憧「ううん。こっちこそごめんね。色々と訊きすぎたわ……話してくれて、本当にありがとう」

店を出て、駐車場に置いていた憧の車に乗り込む。

今日はこのままホテルに送ってもらうことにしていた。

咲「あの、ご馳走様でした」

助手席に乗り込んだところで、咲は憧に礼を述べる。

咲「とっても美味しかったよ」

憧「それはよかったわ」

咲の言葉に、憧がニッと目を笑みの形に細める。

憧「また時間が合えば連れてってあげる」

咲「ありがとう。楽しみにしてるね」

エンジン音とともに車が動き出す。

憧の車が見えなくなるまで手を振り、やがて手を下ろした。

咲「特別、か……」

先ほど言われた言葉をそっと呟いてみる。

咲「こんな私は……やっぱり和ちゃんの『特別』になんてなれないよ」

吐き出した言葉を聞く者は誰もいなかった。


■  ■  ■

今回はここまでです。
随分と時間が開いてしまってすみませんでした。

今月の更新は無理そうです、すみません・・・

お前色んな咲の出てくる百合スレで待ってる待ってるって定期的に書き込んでるけど
そんなレスするぐらいならどこがよかったとか面白かったとかの感想書いてやれよ
保守のつもりなら速報では1ヶ月以内に一度レスが付けば必要ない

横からですまんが確かにそう思ったので言いたいこと書く

>>1 咲のど、いやのど咲か、書いてくれてありがとう 本当に感謝してる
最近はこの2人の二次作品がめっぽう減ってきてるから現在進行形で更新してくれてるとかまじですばら
一ファンとして尊敬してる。こんくらいすごい文書くの時間かかるのわかるからマイペースでがんばってほしい
あと完結した暁には印刷して毎日枕の下に敷いて寝たいと思ってる…ダメなら言ってください…こんな夢を見たいんだ…

お待たせしました。
少ししか書き溜めできてませんが投下します。

翌日は早朝から貴子との仕事が入っていた。

取材の最終日とあって予想外に忙しくなる。

本来は夕暮れまでには全ての予定を消化して、

夜にはみんなで打ち上げをすることになっていた。

ところが昼過ぎに訪れたギャラリーでちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまった。

おかげでスケジュールが次々と狂いだし、

最後の取材を終えた時には深夜に近い時間帯となってしまった。

当然、全員がクタクタに疲れきっている。

リーダー「これじゃあ、とても打ち上げというわけにはいかないねぇ」

シンガポール・チームのリーダーが力なく笑いかけてきた。

咲も同じように情けない笑みを返す。

リーダー「ねぇ、咲。ちょっと提案なんだけれど」

咲「なんでしょう?」

リーダー「もし君と貴子の都合がよければ、明日打ち上げをしないか?」

その言葉に他のスタッフたちも顔を明るくして頷いた。

リーダー「君たちには本当に感謝しているし、こういう終わり方も何だか味気ないじゃないか」

リーダー「是非ともこれまでのお礼にご馳走させてくれよ」

咲「えぇっと……」

好意は嬉しいが、自分で判断は出来ない。

咲は目下の上司である貴子を頼った。

咲「なんか、そういう申し出をいただいたんですけど……」

貴子「ありがたいことじゃないか。夕方なら私は都合がいいけど、咲は?」

咲「私も大丈夫です」

咲の場合、元々予定なんてあってないようなものだ。

貴子「それじゃあ、お言葉に甘えることにしようか」

貴子の返事を伝えると、シンガポール・チームが破願する。

それが、くすぐったくも嬉しかった。

■  ■  ■

咲「あー、疲れたぁ……」

ホテルに戻った頃には日付を越えてしまっていた。

体は疲労で重く、階段を登るのもやっとだ。

「オツカレサマ」というカルロの言葉にも、生返事しかできなかった。

咲「し、死ぬぅ……」

ドサリと乱暴に身体をベッドの上に投げ出す。

本来ならせめて着替えだけでもすべきだろうが、とてもそんな気力はない。

シャワーを浴びるなどもっての他だった。


咲(そういえば、今日は和ちゃんに会えなかったな……)

昨日は一応顔をあわせたとはいえ、朝の慌しい中だ。

実質ここ二日ほど和とまともに言葉も交わしていない。

それまでは、何かと都合をつけて彼女の働く洋菓子店に出向いていたのに。

思えば再会してからほとんど毎日のように和と会っていた。

それがたった数日会わないだけで、なんだか随分彼女が遠くなってしまった気がする。

咲(でも、今はこれで良かったのかも)

何せ、しばらくはまともな顔を和に見せられそうにもない。

あのパーティの夜に加え、憧と話したことで六年前の件もすっかり思い出してしまった。

とても和の前で平静を装う自信などなかった。

それに暫くは独りで考える時間が必要だと思った。

咲は今、六年前からなおざりにしてきた和との関係に名前と定義をつけねばならない。


咲(私は和ちゃんのことをどう思っているのか、……かぁ)


昨日憧に問われたことが咲の脳裏に蘇る。

友達かと言われれば、迷うことなく頷くだろう。

疎遠にしていた六年は決して短い時間ではないし、最後はひどい有様だった。

けれども和や他の仲間たちと過ごした日々は咲の宝物だ。

自ら縁を断ち切ったとしても、その気持ちが褪せることはない。

そうでなかったら、どうしてあの再会の夜に和の手を取っただろうか。

咲(でも……『特別』とは違うのかな)

憧が考えている「特別」とは――「恋仲」だ。

咲「うーん……」

考えつつ、ゴロリと寝返りをうった。

六年前ならまだ可能性はあったかもしれない。

二人の仲は確かに他の友人より突き抜けたものだった。

何かの折に言葉でももらっていれば――きっと、今こんなに悩まずに済んでいたのだろう。

けれどもその前に和との縁が切れてしまった。

咲の脳裏に、六年前と先日に見た和の苦い顔が重なる。

あの大会の日、和の自尊心を傷つけてしまったことが深く胸に突き刺さる。

和はおそらくあの日の自分の行為を今だ許してはいないだろう。

だから、うぬぼれてはいけない。

いくら和が昔のように接してくれたとしても、彼女の憤りは消えてないのだ。


咲「それなのに、あんなに優しく抱くから……」

これでは咲だってそのうち憧たちのような勘違いをしてしまうかも知れない。

咲「和ちゃんの、バカ」

自分でも理不尽だと思う呟きを最後に、咲はとうとう眠りの底へと沈んでいった。


■  ■  ■


今回はここまでです。

>>203
レスは乙だけでも凄く嬉しいのでお気遣いなく。

>>204
丁寧な感想ありがとうございます。
頑張って完結させますので、その時はこんな駄文で宜しければぜひ枕の下に敷いてやって下さい。

その日の午前中は、観光には行かずにホテルで過ごした。

近所のスーパーでデリを買い込み、先日手に入れた写真集を眺める――いつか立てた予定の通りだ。

意外と疲労が残っていたこともあって、我ながらよい判断だと咲は思う。

和の元へは行かなかった。

恥ずかしい想い出に加えて、昨日から妙に彼女に対しては悲観的になっている。

一日たてば落ち着くかと思ったが、やはりまともな顔で和に会うことはできないと思った。


咲「さて、と……」

シンガポール・チームとの打ち上げは、夜の七時からである。

場所は明華が勤めるレストランだった。

軽く身支度を整えた咲は、多少迷いながらも無事入り口にまでたどり着く。

明華「咲さん!」

相変わらず趣のある店の前で、明華が迎えてくれた。

クライアントと貴子はすでに到着しているとのことで、咲の案内を引き受けてくれたのである。

咲「こんばんは、明華さん。またお邪魔できて嬉しいです」

明華「夜は昼とまた違いますからね。今度はデザートまでしっかり食べてくださいね」

咲「が、頑張ります」


通されたのは一番奥の大きなテーブルだった。

この一角はパーテーションで区切られていて、ちょっとした個室のように設えてある。

そこには明華の言葉どおり咲以外のメンバーが勢揃いしていた。

咲「すみません、お待たせしてしまって……」

リーダー「いや、こちらが早く着きすぎたんだ。貴子のお勧めのお店だろう。もう楽しみで楽しみで……」

そう答えるクライアントは今にも舌なめずりしそうな勢いである。

乾杯は、辛口のシャンパンから始まった。

前菜はパリ名物のエスカルゴに店の名物である野菜のココットである。

素材の持ち味を活かした料理は、相変わらず咲たち東洋人の舌に馴染んだ。


リーダー「さぁ、咲。遠慮なく呑んで!」

シンガポール・チームのリーダーは、華僑ということで大層な呑ませ上手である。

グラスが空きそうになると絶妙なタイミングで勧めてくるので、咲もついつい杯を重ねてしまった。

食事をしながらとはいえ、あっという間に酔いが回ってくる。

様々な言葉のごった煮が飛び交う様は、聞いているこちらも楽しかった。


リーダー「そういえば、咲は観光で来ていたんだって?」

リーダーにそう水を向けられたのは、メインの一品目が来た頃だった。

熱々の鴨肉のローストに舌鼓を打っていると、目の前の赤ら顔がニコニコと笑ってこちらを見ている。

咲「はい。縁あって旅行券と休暇を貰ったので……」

リーダー「それはラッキーだったね。じゃあ、帰ったらまた仕事に戻るのかい?」

咲「それは……」

正直、咲は迷っていた。

和や貴子たちのおかげで今回の旅は予想以上に楽しいものである。

日本であれだけ磨耗していた心も随分癒されたように思えた。

まだ筆を取るに至ってはいないが、「旅の記憶を忘れないうちに」という欲は沸いている。

けれども前の仕事に戻れるかというと――途端に何も考えられなくなった。

急に始まった咲の沈黙をどう捉えたのだろうか。

リーダーはふっと真面目な顔になって、ゆっくりと話し出す。

リーダー「君にはあくまで通訳として仕事してもらったけれども、私は君の作る言葉が好きだよ」

咲「……」

リーダー「とてもわかりやすかった。言葉をただ置き換えるのではなく、その背景や周囲にまで気を配って訳してくれたね」

咲「ありがとう、ございます……」

彼の言葉は嬉しかったが、同時に戸惑いもした。

通訳についての謝辞は折に触れて伝えてもらっていて、正直これ以上は自分には過ぎているように思う。

しかしリーダーの目はひたすら真っ直ぐに咲を見つめるのみだ。

リーダー「ライターとしての君の仕事は見ていないけど、あれだけ言葉を大事にしているんだ。きっと素晴らしいものだと確信してる」

リーダー「これまでもこれからも、困難はたくさんあると思う。けれど自信と誇りを持って仕事を頑張ってほしい」

それは、間違いなく励ましの言葉だった。

咲の仕事への迷いなどを、この経験豊かな男性は感じ取っていたのだろう。

だから「胸をはれ」と。

そうやって堂々と仕事に取り組みなさい――そう言ってくれたのだ。

咲「……はい。ありがとうございます」

感謝の言葉を呟くと同時に、心の中に靄がかかったような気になる。

咲(仕事に誇り、か……)

リーダー「咲?どうしたんだ、顔色が悪いけれど」

咲「あ……えっと、少し酔ってしまったみたいです」

リーダー「そうなのか。大丈夫かい?」

咲「はい。ちょっと表の風に当たって酔いを醒ましてきますね」

リーダー「一緒に着いていこうか?」

咲「いえ、一人で大丈夫ですから」

リーダーの気遣いに微笑みながら、咲は出口へと向かっていった。



夜のパリをひとり歩き出す。

無心になって歩いていたところで、はっと我に返り歩みを止める。

気づいたら見知らぬ街角にいた。

昼間とは違って灯りも少なく薄暗い中では通り名を確認することもままならない。

咲「しまった……、これじゃ明華さんのお店が分からないよ……」

有り金を置いてきてしまったので、タクシーに乗ることも出来ない。

運の悪いことに携帯電話の電池も切れていた。

咲(せめて通り名だけ分かればいいんだけど……)

看板を見落とさぬようにゆっくりと歩いていれば、ようやく一つに出会えた。

心もとない外灯の下で地図と照らし合わせると、バスティーユとの境目にいるらしい。

咲(よかった。これなら何とか歩いて帰れそう)

方向と道筋をしっかり確認すると、咲は再び歩き始めた。

咲(早く戻らないと、皆さんが心配しちゃうかな……)

焦る心の中、ふと和の顔が頭に浮かんだ。

咲(和ちゃんか……)

彼女との関係は、まだ自分の中でケリがついていない。

この旅行が終わるまでにはどうにかなっているのだろうか。


そんなことをつらつらと考えている時だった。

――ドンッ

咲「わっ」

ふいに咲は誰かとぶつかった。

考え事が祟って、路地から出てくる人影に気がつけなかったのだ。

咲「エクスキューズ・モワ……」

片言のフランス語で謝って、咲はすぐにその場を離れるつもりだった。

「咲?」

それなのに、相手は急に咲の腕を掴んできた。

「咲…そうだわ、やっぱり咲じゃない!」

相手は、はしゃいだ様子で英語をまくしたてる。

その声に咲はかすかに聞き覚えがあった。

咲「…エマ?」

エマ「覚えていてくれたのね!」

それは初日にカフェで出会ったフランス人の女性だったのだ。

彼女もどこかで呑んだ帰りなのか、吐息からはアルコールの臭いが漂ってくる。

エマ「あれからずっと心配していたのよ……あの桃色の髪の女は?」

咲「今はひとりです。これからホテルに帰るところで……あの、離してください」

エマ「そう、ひとりなの」

咲の願いとは反対にエマは決して手を離そうとはしなかった。

それどころかぐいぐいと咲を自分の元へと寄せようとする。

エマ「咲……二度も会うなんて、私たちはやっぱり運命なのよ!」

咲「やめてくださいっ」

抵抗をしたくても酔った身体は思うように力が入らない。

あっという間にエマに抱きこまれ、気がつけば彼女の顔が間近にあった。

エマ「咲……」

咲「や、やめ……っ」


「Arretez!!」


路地に突然の怒声が響く。

いつの間にか咲の前に見知った背中が立ちふさがっていた。

いつかを髣髴とさせる和の登場に、エマの顔が夜目にも真っ青になっていくのがわかった。

そのまま彼女は咲には一瞥もせずに逃げ出していく。

和「咲さん」

その姿を呆然と見ていた咲は、恐ろしく低い声に呼ばれておずおずと振り返った。

咲「和ちゃ……」

――パンッ!

彼女の目をまともに見る前に、頬が急に熱くなった。

平手を打たれたと気づいたのは、しばらくしてヒリヒリと痛み始めてからだ。

和「何やってるんですかっ!」

頬を押さえている咲を、和は容赦なく怒鳴りつける。

和「勝手に街へ飛び出してこんなところまで…前に危ないって言ったでしょう!何考えてるんですかっ」

咲「あ……」

ようやく自分の愚考を叱られているのだと気づいて、咲の目に涙が滲みはじめる。

和「……」

それを見て和がぐっと息を呑んだ。

無言で咲を胸に抱き寄せると、そのままどこかへ電話をかける。

和「もしもし、明華さんですか?咲さんを見つけました。ブレゲ=サバンの方まで行ってて……」

和「はい、無事です。変な輩に絡まれてまして…まだ少し取り乱しているみたいですし、このまま私が引き取ります」
 
話し終えると、和の掌が咲の頭を優しく撫でた。

和「というわけで、今夜は私のところに来てもらいます」

「落ち着きました?」と尋ねられ、返事の代わりにぎゅっと抱きつく。

安堵か呆れか判別できない甘いため息が、和からこぼれおちた。


■  ■  ■


今回はここまでです。

和「適当に座っていてください」

二回目の訪問となる和の部屋は、記憶よりも随分と散らかっていた。

特にテーブルの上が酷い。

粉や何かの液体で汚れ、ボールや木ベラなどが散乱している。

咲「お菓子作ってたの?」

和「はい。……憧に聞いたんでしょう?」

「卒業試験」のことを言っているのだとわかり、咲はこくりと頷いた。

咲(こんなに遅くまで……頑張ってるんだね)

改めて見れば、ただのお菓子作りではなく試作品を手がけているのがわかった。

粉まみれのデザイン画が何枚か落ちていたからだ。

和「とりあえず、これでも飲んでください」

そう言って和から手渡されたのはマグカップに入っているショコラだった。

暖かい湯気と共に、ほんのりチョコレートとは違う甘い香りがたっている。

何かのリキュールが入っているらしい。

そっと一口すすれば、体の芯がポカポカと温まるのがわかった。

和「先ほど貴子さんから連絡がありました」

咲が座っているソファの向かいに腰掛けた和が、咲と同じようにショコラを口にする。

和「なかなか戻ってこないから心配したって」

咲「そっか……貴子さんには今度お詫びに行かないと」

和「私も…明華さんから咲さんが戻ってこないと連絡が来た時、どうしようかと思いました」

咲「あ……」

和「見つけられて、よかったです」

咲「……うん。ありがとう和ちゃん」

和「……」

咲「……」

甘く穏やかな沈黙だった。

ショコラの温かさもあって、咲はついうとうとしそうになる。

和「あの……日本で、何かあったんですか?」

彼女にしてはおずおずと切り出された問いは、咲の胸に突き刺さる。

そんな咲の気持ちを読み取ったのだろうか。

和が困ったように顔を歪めた。

和「貴子さんが、咲さんは何やら仕事の事で悩んでいるようだと言ってましたので」

咲「それは……」

和「……」

咲「……大したことじゃないよ」

ようやく口に出来たのは、そんな逃げだった。

けれども和は逃してくれなかった。

和「大したことなくても私は知りたいです」

そう囁きながら、和の柔らかな指が咲の口元に触れた。

和「知りたいです。咲さんのことなら何だって……私が知らないことを、全部」

その目はただひたすらに真っ直ぐ咲を見つめている。

咲(あぁ、もう……駄目だ)

その感覚は、あまりに唐突にすとんと咲の中に落ちてきた。

こんな目で見つめられたらもう自分をごまかすことは出来ない。

何か口にしようとすれば、あの散らかったテーブルが見える。

ここまで自分の仕事に真摯な和に、咲の現状はどのように映るだろうか。

それがとても怖かった。

咲(きっと幻滅される。『また逃げ出したのか』って)

握り締めた手に爪がちりちりと突き刺さる。

咲(もう、友達とも呼んでくれないかもしれない)

ギュッと固く目を瞑る。

咲(でも今更それが何だっていうの……!)

最後の決心をつけるために、咲は大きく息を吸った。


咲「……私は、ゴーストライターをしていたの……」





和「……そうですか」

長いようで短い咲の話が終わった時、和はただ一言そう呟いた。

咲(まぁ、そうとしか言い様がないし)

改めて口にすると無様なこれまでに咲だって辟易しているのだ。

咲「呆れちゃうよね」

ぼそりと漏らした言葉に、和のこめかみがひくりと動く。

咲「中々実現しない作家の夢を諦めて手に入れた仕事のはずなのに……誇りも何も持てなくて」

和「……」

咲「最初は割り切っていたつもりだったの。正規のライターだって名前が載るのはそう多くはないし」

咲「好きな文章書いてお金がもらえるなら……って。でも、やっぱり駄目だった」

和「……」

咲「私の書いた本が別の人の名前で紹介されているのを見て、本当に腹がたって」

あの時のどうしようもない屈辱感を思い出し、咲はギュッと拳を握る。

咲「その内どんどん文を書くことが苦行になっていって……決定打は、最後に手がけたエッセイだった」

咲「海外でモデルとして活躍している人で。書きたいことを箇条書きにしてもらうだけで、あとは全部私が書いたんだけど」

気がつくと咲の手は力の込めすぎで青くなりかけていた。

咲「すごく、自信を持って仕事に取り組んでいた人なの」

咲「思っていた以上に困難を歩んでいたらしいけど、卑屈じゃなくて。それこそ自分の全てに誇りをもっているような人で……」

喉奥から、言葉の代わりに嗚咽があふれそうになる。

それを咲は必死に堪えていた。

咲「その人に比べたら、自分は一体……一度そう考え出したら、もう何も書けなく、なって」

いつの間にか溜まっていた涙が、咲の意志を無視してぽたりと零れ落ちる。

咲「その人のエッセイは、根性で書き上げたんだけど、あとは……もう、何も」

和「……」

咲「パリに来ても、周りはみんな仕事に一生懸命な人ばかりで……」

咲「貴子さんもシンガポールの人たちも、和ちゃんやお店の人たちだって、誰もがみんな輝いていて」

咲の脳裏には、この数日間のことが目まぐるしく蘇っていた。

異国の地で、それぞれの人生を堂々と歩んでいる人たち。

咲「皆に比べたら、自分は本当に情けないなって……ここへ来て、ずっとそう思ってた」

シンガポールのリーダーから語られた「自分」は、ある意味咲が理想としていた姿で――

だからこそ現実との差を叩きつけられた気がしたのだ。

和は相変わらず何も言わなかった。

ただじっと咲を見つめている。

その視線が心に痛かった。

咲「呆れたでしょ」

咲にとって、和もまた輝いている一人だった。

確かに今は大きな壁にぶつかっているかもしれない。

けれども彼女が真剣に菓子作りに取り組んでいることは、あの汚れたテーブルを見ればわかる。

和は昔からそうだった。

何事にも決して手を抜いたり妥協したりすることはなかった。

それに比べ――。

咲「私は逃げてばかりで……麻雀からも、仕事からも。高校の時から何も変わってない……」

和「……それを言うなら私もですよ」

ようやく吐き出された和の声は、どこか苦いものが混ざっていた。

和「私だって、いつも逃げてばっかりです」

咲「でも、和ちゃんは今だってこうやって……」

咲は思わずあのテーブルを指差した。

けれども和は首を横に振った。

和「あれだって、結局逃げでしかないんです……一人前になりたくて、やってるわけじゃないですから」

咲「え……?」

和「ただ、日本に帰る言い訳が欲しかっただけです」

そう言い捨てた和の顔がぐしゃりと歪んだ。

和「それに、私は咲さんにも麻雀部の皆にも嫌な思いをさせてしまいましたから」

転校の話を咲たちに黙っていたこと。

それが元で皆との絆を壊してしまったこと。

和「ずっと悩んでいたんです。高校を卒業しても、ずっとその事が頭から離れませんでした」

咲「……」

やがて大学に入学し、将来を考えはじめた時。

これまでやってきた独りよがりな麻雀ではなく、何か人の役に立つような仕事に就きたい。

多くの人を笑顔にするような、そんな仕事。

和「パティシエの道を歩もうと思ったのは、その時からです。……でも……」


単身パリに来てみて思い知らされたこと。

テレビで見るほど綺麗じゃないし、食べ物だって外れもある。

言葉だって難しい。

極めつけが人間関係。

和「個人主義の国だからあまり干渉はされないものだと思っていたんですが、働いてみれば色々スタッフが煩いですし」

とつとつと語られる和の本音は、咲には全く予想外のことで。

咲はただ言葉もなく和の話に聞き入っていた。

和「私も咲さんみたいに全部嫌になった時がありました。そういう時に……咲さんの顔を思い出して」

咲「私……?」

和「そうしたら、酷く咲さんに会いたくなっしまって」

咲「……」

和「でも、こんな私でなくちゃんと成長した姿で咲さんに会いたい。そう思って仕事も真面目に取り組みました」

相変わらず眉間には皺を寄せたまま、和がうっすらと笑う。

和「で、卒業試験を受けて……本当はすぐにでも合格して日本に帰って咲さんに会いたかったんですけど、このザマです」

咲「……そこまでして、私なんかに……」

「どうして」という言葉が、自然に乾いた喉から漏れでてくる。

和「それは、」

咲の吐息のようなかすかな声を、和は拾い上げてしまったようだった。

和「咲さんことが好きだから」

咲「え……」

和「やっぱり、分かってませんでしたね」

またも驚きで目を見張る咲に、和は「鈍感」と告げた。

和「高校の時からずっと好きでした。咲さんのことだけ見てました」

咲「え……と、それは友人としてじゃなく……?」

和「恋愛対象として、です」

今回はここまでです。

和「私も咲さんみたいに全部嫌になった時がありました。そういう時に……咲さんの顔を思い出して」

咲「私……?」

和「そうしたら、酷く咲さんに会いたくなっしまって」

咲「……」

和「でも、こんな私でなくちゃんと成長した姿で咲さんに会いたい。そう思って仕事も真面目に取り組みました」

相変わらず眉間には皺を寄せたまま、和がうっすらと笑う。

和「で、卒業試験を受けて……本当はすぐにでも合格して日本に帰って咲さんに会いたかったんですけど、このザマです」

咲「……そこまでして、私なんかに……」

「どうして」という言葉が、自然に乾いた喉から漏れでてくる。

和「それは、」

咲の吐息のようなかすかな声を、和は拾い上げてしまったようだった。

和「咲さんのことが好きだから」

咲「え……」

和「やっぱり、分かってませんでしたね」

またも驚きで目を見張る咲に、和は「鈍感」と告げた。

和「高校の時からずっと好きでした。咲さんのことだけ見てました」

咲「え……と、それは友人としてじゃなく……?」

和「恋愛対象として、です」

>>245で誤字があったので再投下。
いつもレスありがとうございます。

来週あたりに投下予定です。
お待たせして申しわけありません。

待ってるのよー

>>260
ありがとうございます。
あと次回更新分は少々エロシーンがありますので苦手な方はご注意願います。

咲「……」

和「何でそんなに鈍感なんですか。今までの私の態度で分かりそうなものでしょう」

咲「だ、だって私、恋愛とかしたことなくて……そういうの、考えたこともなかったから……」

しどろもどろで答える咲を、和はじっと見つめる。

和「じゃあ、今はどうですか?」

咲「えっ」

和「こないだ私と寝た時はどうでしたか?」

咲「あ、あうぅ……」

和「咲さん、凄く気持ち良さそうでしたよ」

開き直りでもしたのか、和はニィと意地が悪そうに笑った。

咲「なな、な……っ!」

和「それとも咲さんは、好きでもない人に触られても平気なんですか?」

淫乱なんですねと揶揄する和に、咲の頭は一気に怒りで爆発した。

咲「そ、そんなわけないでしょ!」

和「じゃあ、私のことはどう思ってるんですか?」

ふいに和の目がすっと冷えた。

和「本当は、会えたらずっと訊いてみたかったんです。ここで会うなんて思ってもいなかったから中々言い出せなかったですけど」

咲「……」

和「咲さん」

咲「……よく、わからないの」

咲の声は、はっきりと震えていた。

咲「新子さんにも同じことを尋ねられて……私自身もずっと考えてたんだけど、答えが出なくて」

とつとつと答える咲を、和はじっと見据えている。

咲「友達だったのは確かで、多分それ以上に大切なところもあって……でも、私は一度それを断ち切ってしまった」

咲「だから、そんなこと言える資格は本当はなくて……」

和「難しく考えすぎなんじゃないですか? 」

事も無げに言い放った和を、咲はまじまじと見つめ返す。

その視線を和は鷹揚に受け止めた。

和「さっきも言いましたけど、咲さんは好きでもない人に触られて平気な人じゃありませんよね?」

咲「当たり前だよ!」

和「じゃあ、何で私には許したんですか?」

咲「……っ」

顔を真っ赤にしてうつむいた咲の顎を和の指がひょいと掬い上げる。

和「もし、それが分からないって言うのなら……」

もう片方の手はいつの間にか咲の腕を捉えていて――和の目が、ちろりと瞬いた。


和「もう一回、試してみれば分かりますよね」


そして和は当たり前のように咲の唇を塞いだ。

咲「ん…っ、和ちゃ…ッ …んぅ」

噛み付くような口付け。

舌が痺れるほど強く吸われ、口腔を余す事無くねぶられた。

鼻で息をしようにも呼吸自体が追いつかない。

堪らずに和の服を強く握った。

咲「ぁッ…んんっ」

ぬるりと口蓋を舐められ、ぶるりと身震いした。

怯える舌を絡み取られ、熱く柔らかいものが幾度も角度を変えてぬるぬると蠢く。

唾液が溢れてきて、淫らがましい音が頭に直接響いて羞恥に頬が赤く染まる。

熱くて苦しくて恥ずかしくて、離してほしいと思うのに、両手は和の背中に縋りついてしまう。

上ずった声は、あまりにも淫ら。

けれど。

あまりにも永く唇と口腔を蹂躙され、息が切れた。

とんとんと背中を叩くと漸く離された。

和「…咲さん」

きつく抱きしめられる。

はぁはぁと息を整える間。

抱き締め返してみたのだけれど。

ふと腕が緩み、覗き込んできた貌は苦さを湛えていて。

腫れた唇を指で撫でられぞくぞくしたが、色に表さずなんとか堪えた。

再び和が唇を重ねてきた。

今度は殊更ゆっくりとした動きで。

呼吸を奪いすぎないように、という配慮なのだろう。

一つ一つの舌使いがやたら明確に感じられて、ひどく恥ずかしい。

唇の熱さや柔らかさをはっきりと認識してしまう。

努めてゆっくりと舌が絡まり、唇の角度を変えるのも、咲に合わせてくる。

急速に熱くなる身体が止められない。

首筋に顔を埋められ、つうっと舌で辿られる。

咲「ッン!やっ、待って」

和「待てません」

首筋を降りた舌が鎖骨を這い、窪みをぺろりと舐めた。

和「今更待てると思ってるんですか」

咲「で、でも……あッ!」

和の手が咲の下肢に伸びる。

十分に濡れた秘所に指を埋め込まれた。

漏れそうになる嬌声を、咲は唇を噛んで耐える。

一度目の時は痛みを感じた挿入も、今回は何の抵抗もなく身体が自然と受け入れる。

咲「あっ…ぁん…」

和の繊細な指が咲の中を掻き乱す。

たまらず高い声を上げてしまう。

和「イイですか?咲さん…」

咲「んっ…イイ……あ、ああっ」

びくびくと震える身体を抱きしめられる。

中を蹂躙する指の動きが早まる。

咲「あっ…んんっ…和ちゃん…も、もう…っ」

和「いいですよ、イっても」

耳たぶを食まれて、舌でねっとりとねぶられた。

咲「――――ッ!!」

咲はビクンと大きく身体を震わせ、果てた。

和「咲さん……」

悦楽の余韻に浸る中、囁くような和の声が響く。

うっすらと目を開けて見上げれば、そこにはひどく優しげな表情をした和がいた。

咲「……っ」

ドキリと心臓が高鳴る。和の顔から目を反らせない。

胸がぎゅうっと締め付けられるような感覚。

咲(あ……。これが、愛しいって感覚なのかも……)

それを言葉にしようと口を開けた瞬間。

咲「…ああっ!!」

中に埋められたままの和の指が、再び蠢き出した。


■  ■  ■



■  ■  ■


咲「ん……?」

咲は鼻をひくつかせた。

何だかとても甘い匂いがする。

目を開けると、そこはあまり見覚えのない部屋だった。

どこにいるのだろうとしばし考え込んで、そういえば和の部屋に泊まったことを思い出す。

咲(前にも似たようなことが……)


咲「あぁぁああっ!!」


一瞬にして昨夜のことが蘇り、咲はベッドから勢いよく身体を起こした。

和「咲さん、どうかしたんですか?」

悶絶していると、エプロン姿の和が駆け込んできた。

咲「いや、その、あの……」

和「昨夜は一切手加減しませんでしたからね。身体が辛いでしょう」

咲「あうぅ……」

和「今日は私も休みになってますし、そのまま大人しく寝ていてください」

咲「わ、わかった……」

咲の返事を聞くと、和はまたキッチンへと戻っていく。

随分と慌てているようだった。


咲(お菓子でも作ってるのかな……)

ようやく醒めてきた今ならわかる。

部屋に漂っているのは、バターと砂糖が焦げる匂いだった。

今回はここまでです。

ご無沙汰しております
更新お待たせしてすみません
今月末には投下できると思います

キッチンからはカチャカチャと何かを混ぜる音がする。

軽快なリズムが妙に耳に心地よかった。

泊まっていた屋根裏部屋よりも大きな窓からは、春の陽が差し込んでいる。

急いで歩いている人がガラス越しに見えて、鳥と子供の声も聞こえてきた。

パリに来て一番穏やかな朝だった。



和「お待たせしました」

空腹を覚えてきた頃、和がキッチンからトレーを持って現れた。

ベッドから出ようとする咲を制すと、ブランケットの上にそのトレーを置いてしまう。

中には焼き菓子が幾つか並んでいた。

和「時間がある朝は練習も兼ねてこういうのを作ってるんです。本当は冷めてから食べるんですけど、焼きたても美味しいですし」

咲「ベッドの上で食べてしまっていいの?」

和「今日は特別です」

咲の額にキスを落すと、和は小さなテーブルと椅子をベッドの傍らに持ってきた。

カフェオレも用意してくるという和を待ちながら、咲は改めてトレーの中身を見る。

載っている焼き菓子は三種だった。

パウンドケーキのようなもの、クリームの入ったタルトのようなもの、最後はベリーを散らしたクレープだ。

生クリームのケーキのような華やかさこそないものの、どれもひどく食欲をそそった。


和「はい、どうぞ」

戻ってきた和に渡されたのは、まるで茶碗のようなボウルだった。

訊けばカフェオレ用のボウルはみんなこの形をしているのだという。

和「昔は、ティーカップも取っ手がなかったらしいです」

咲「そうなんだ。お茶とかにも詳しいんだね」

和「習いましたから。料理の歴史とか。試験にも出ますし」

咲「そんなことまでやるんだね……」

他愛もないことを喋りながら、早速和お手製の朝ごはんを食べる。

まず口にしたのはクレープだった。

憧と食べにいった店のものとは違う、随分とシンプルなものだ。

具もクリームもなく、カラメルソース以外はトッピングのベリーだけ。

しかし何故か食べると濃いオレンジの香りがする。

咲「おいしい……けど、不思議」

和「オレンジのお酒をかけているんです。アルコールは飛ばしてますから大丈夫です」

咲「そうなんだ」

次に手に取ったのは、パウンドケーキのような焼き菓子だ。

カトルカールという名前で、ずばりパウンドケーキのフランス版なのだという。

もっとも咲の知るパウンドケーキにはナッツやフルーツがぎっしり入っている。

が、こちらには何も入っていない。

先ほどのクレープ同様、実にシンプルだ。

けれどもこのケーキは咲が今まで食べた中でも一番おいしいパウンドケーキだった。

とにかくバターの風味が素晴らしい。

咲が朝嗅ぎとった甘い匂いが、より濃厚に口の中へと広がっていく。

甘さ控えめに淹れてくれたカフェオレとの相性も抜群だった。

咲「最後のこれは、なんていうお菓子なの?」

和「これですか?フランです」

こちらは、見た目を裏切ったもっちりとした食感だった。

中に入っていたのはカスタードクリームというよりはプリンに近い。

表面の焦げたところだけが薄皮のようで面白かった。



咲「ごちそう様でした!」

すっかりお腹一杯になり、咲はぽすんと枕に背を預けた。

和「お味はどうでした?」

咲「どのお菓子もすっごく美味しかったよ!それに、何だかとても贅沢な気分になれちゃった」

和「贅沢?」

首を傾げた和に、咲はフフッと笑みを浮かべる。

咲「朝からお菓子、それもパティシエさんが作った焼きたてを食べられるなんて……何だか王様になったみたいで」

ベッドで朝ごはんを食べるという経験も、今までにはなかったことだ。

咲「それだけで、特別な朝を過ごせた気分だよ」

うっとりとした心地でそう礼を述べると、何故か和はぽかんとした顔になった。

和「別に、どれも大したお菓子じゃありませんよ?簡単ですし、どこにでも売っているものですし」

咲「でも朝にお菓子を食べるなんて、私したことなかったし。それに……」

和「それに?」

咲「好きな人が作ってくれて、好きな人と一緒に食べられるのは……やっぱり特別なことじゃない?」

和「……好きな……人……」

咲「あ、えっと、その……っ」

瞬間、咲は羞恥で隠れたくなった。

和「つまり……咲さんも私のことが好きだと。そういう解釈でいいんですね?」

ずいっと顔を近づけてくる和に、咲は頬を赤らめながらこくんと頷いた。

咲「……うん。昨夜和ちゃんと、その……寝て……やっと分かったの」

和「……はい」

咲「私、和ちゃんのことが……特別な意味で好きなんだって」

和「……!!」

それまで散々和との仲を友達どまりにしておいて。

自分でもかなり虫のいいことだと思う。

しかし和はそれに対して文句など何一つ言わなかった。

和「特、別……」

咲「和ちゃん?」

和「……そうですか。特別って……そういうことで良かったんですね」

和の目が、日の光を受けてきらりと瞬いた。

和「ありがとうございます……私、ずっと咲さんにそう言ってもらいたかったんです」

咲「和ちゃん……」

和「私も、咲さんを愛しています……誰よりも」

ぎゅっと和に抱きしめられる。咲も和の背に腕を回す。



そのまま暫くの間、互いの体温を感じながら抱きしめ合っていた。






ふいに咲を離した和が立ち上がる。

傍らに放っておいたエプロンをおもむろにつけると、咲を振り返った。

和「食べ終わった食器はそこのテーブルに置いておいてください」

咲「和ちゃん?」

和「ちょっとキッチンに篭もりますから」

咲「へっ?」

和「咲さんは体調が戻るまでベッドで寝ていてください」

咲「えぇっ、ちょっと……えぇっ?」

咲の戸惑いをよそに、和は本当に宣言通りにキッチンへ籠もってしまったのだった。


■  ■  ■





今回はここまでです。

今月末に更新予定です
お待たせしてすみません

今週末に更新予定です

出発は、その日の深夜だった。

空港には夜の九時頃までに着いておけばいい。

なので、約半日分はスケジュールに猶予がある。



咲「本当にお世話になりまして……」

ミチコ「こちらこそ、快適なパリのお手伝いができて嬉しかったわ」

会計を終わらせた後。

マダム・ミチコがにっこりと笑って領収書を手渡してくれた。

ミチコ「出発まで荷物を預かることも出来るけれども、いいの?」

咲「はい。そんなに多くはないですし……これ以上ここにいたら、帰りたくなくなってしまいます」

ミチコ「まぁ。嬉しいこと言ってくれちゃって」

好意は気持ちだけ受け取っておくことにして、咲は十日間の住まいを後にした。

パリ最終日、咲がまず向かったのは貴子のところだった。

待ち合わせ場所はすっかり馴染みとなった、明華が勤めるレストラン。



咲「Bonjour!」

いつの間にか口に馴染んだフランス語で挨拶をすれば、明華が出迎えてくれた。

明華「貴子さん、奥の方に座ってますよ」

咲「わかりました。明華さんにも本当にお世話になりました」

明華「寂しくなりますね……。またぜひ食べに来てださいね、咲さん」

咲「えぇ、ぜひ」

固く握手を交わすと、咲は貴子が待つ奥へと進む。

貴子は日当たりのいい席でゆっくりとカフェを楽しんでいた。

咲「お待たせしました」

貴子「咲」

咲「昨日はあのまま帰ってしまってすみませんでした」

貴子と目が合うと、咲はすぐに頭をさげた。

貴子「いや、何か変な輩に付きまとわれたんだって?災難だったな」

咲「いえ。和ちゃんが助けてくれましたから」

貴子「大事にならなくて幸いだったな。今日が最終日らしいが、どうする予定なんだ?」

咲「特には……あ、昼過ぎくらいから新子さん達が送別会をしてくれるそうなんですけど」

貴子「和は?」

咲「それが……」

貴子に問われて、咲は眉間に皺を寄せた。

和と結ばれた翌朝、最初は穏やかに朝食などを楽しんでいたのだが――

どうも、咲の何かが彼女に天啓を与えたらしい。

キッチンに引きこもって出てこなくなってしまったのだ。


貴子「引きこもるって……あれか、カレンの『卒業試験』」

咲「ご存知なんですか?」

貴子「あの店を知る者には結構有名な話だからな。そうか……じゃあ、和も壁を壊せそうなんだな」

咲「だと良いんですけど……」

咲の顔は晴れることはない。

もちろん、今の和の状態は歓迎すべきものだ。

行き詰っていた作品作りに突破口が見つかったのは、彼女を応援するものとして素直に嬉しい。

咲(でも、これじゃあ最後に会えるかどうか……)

先の別れ際にアドレスを交換したというものの、次はいつ会えるかわからない。

それが、咲にはどうにも寂しかった。

貴子「つまらなそうな顔をしているな」

そんな咲を見て貴子が笑う。

貴子「まぁ、今生の別れでもないんだし……メールやスカイプだってあるんだから」

諭されるように言われてしまえば、咲もいつまでもふてくされているわけにもいかない。

気を落ち着かせるためにショコラを一口飲んだところで、貴子が「それで」と切り出した。

貴子「日本に帰ったら、どうするんだ?」

咲「……」

貴子「仕事に戻るのか?」

それは咲の胸に痛い質問だった。

貴子には、咲が今の仕事がうまくいっていないことが薄々知られているようだった。

咲「仕事は……やめようと思います」

決死の思いで出した返事は、掠れたような声になってしまった。

咲「無職になってしまいますが、貯金も少しあります。暫くは暮らしていけると思うので、新しい仕事を探そうと思ってます」

咲「今度は貴子さんたちのように……胸を張って誇りを持って、文章を書いていきたいです」

貴子「そうか……」

咲の決意を静かに受け止めると、貴子は傍らのカバンから名刺を一枚出してきた。

貴子「日本にいる知人だ。私のようなエージェントをしている。スポーツ関係が得意で、関係メディアへの顔は広い」

咲「はぁ……」

貴子「先日連絡を取ったんだが……ちょうどアシスタントを探しているらしい」

咲「え、それって……」

貴子「文章力と根性のあるヤツなら大歓迎だそうだ」

そうして彼女はぎこちなくウィンクをしてみせた。

貴子「それと、シンガポール・チームもな。日本の面白い話をレポートにして送ってくれと」

咲「……!!」

貴子「咲と一緒に仕事をした全員の総意だ。引き受けてくれるな?」

咲の目に思わずきらりと光るものが滲む。

咲「もちろんです!貴子さん、ありがとうございます……!」

咲は、もう一度深く頭をさげた。



――ピリリリリ

しばらく貴子と談笑していると、突然機械的な音が鳴り響く。

貴子「ちょっと失礼」

味気ない電子音は貴子の携帯電話だった。

フランス語で応対するものの、相手のせいかすぐに日本語に切り替わる。

貴子「そうだ、今その話をしていたところで……え、咲か?」

咲「え、私?」

貴子「ちょっと待て……咲、今からカレンの店に行けるか?」

突然の貴子の問いかけに、咲は「一応」と緩慢に頷いた。

咲「予定は二時までないので、その間でしたら……」

貴子「わかった……憧、聞いての通りだ。今から咲をそちらに向かわせる」

咲「新子さん?」

咲は目をぱちくりと瞬かせた。


■  ■  ■

ビストロから歩いて程なくして、咲の視界に特徴的な看板が入ってくる。

「Rendezvous」――アメリカから単身やってきた女性が作り上げたパティスリーは「出逢い」という名前だった。


咲(確かに、ここで沢山の人に出逢うことができた……)

先ほどの貴子にオーナーのカレン、プチホテルの管理人であるミチコ、カルロ夫妻

咲の背を幾度となく押してくれた憧に明華。

しかし、咲にとっていつだって中心にいたのは一人だった。

咲(和ちゃん……)


カラン、と音を鳴らしてドアが開く。

カウンターには先ほどの電話の相手である憧が佇んでいる。

憧「来てくれてありがとう。宮永さん」

咲「あの、私に用事って……」

憧「和の卒業試験のことなんだけどね」

咲「な、何かあったの?」

その言葉に反応して、咲は思わず憧に詰め寄る。

それを彼女は「落ち着いて」と優しくいなした。

憧「和から連絡があったの。『今までで一番のものが出来ました』って……」

咲「!!」

憧「それで、これからカレンが見ることになったの」

咲「出来た、の……」

キッチンにこもること半日以上、和はまた壁に挑戦しようとしている。

咲(どんなものが出来たんだろう)

彼女の最高傑作がどういうものか酷く興味がわいた。

カレンの目に叶えば、和のオリジナルとして店頭に並ぶ――

今度こそ、そのチャンスはやってくるのだろうか。


憧「それでね。その試験に宮永さんも同席してもらいたいの」

咲「はぁ……えぇっ!?」

ふいに憧から言われた予想外の言葉に、咲は小さく叫んだ。

咲「で、でも私は部外者だよ!?」

憧「和たっての希望なの」

咲「それにしたって……」

憧「宮永さんがいたからこそ、出来たお菓子なんだって……それでカレンも特別に許可を出したの」

そう憧が告げる横で、他のスタッフ達が何故か意味ありげにうんうんと頷いている。

憧「もうすぐ和の準備が終わるはずだから、そこから厨房に入って……見届けてあげて」

咲「でも……」

憧「お願い。和も柄になく緊張して縋りたいだけなんだから」

咲「わ、分かったよ」

咲は言われるままおずおずとカウンターの奥の厨房へと入っていく。

今回はここまでです。
あと2回程で終わります。

今月中に更新予定です
お待たせしてすみません

全てがステンレスで出来た室内には、あの朝と同じような甘い匂いが漂っていた。

しかしどこかが少しだけ違う。

バターと砂糖だけではなく、別の香ばしい匂いが混じっているようだった。

カレン「来てくれたんだな。咲」

最初に咲に気づいたのはオーナーのカレンだった。

彼女は自分の隣の席を咲に勧める。

厨房にきちんとしたテーブルなどもちろんなくて、厨房の真ん中にある巨大な作業台がその代わりだった。

和「出来ました……って、咲さんっ!?」

オーブンから何かを取り出していた和が素っ頓狂な声をあげる。

作業に集中していたのか、何も気づいていなかったようだ。

カレン「お前が所望したんだろうが、和」

和「そうですけど……本当に来てくれるとは……」

咲「私、やっぱりお邪魔かな?」

和「そんなことないですっ!」

咲の言葉を、和は慌てて否定する。

和「どうしても……完成品の第一号は咲さんに食べてもらいたかったんです。出来上がるのがギリギリになりましたけど」

そう言って和は小さな皿を咲の前に置いた。

咲「これは……」

小さなパイのようなお菓子だった。

ドーム型をしており、表面には果物で美しくデコレーションされた王冠が載っている。

咲「食べてもいいの?」

和「どうぞ!」

その言葉を受けて、咲はさっそくフォークをいれてみる。

さくりと軽快な音と共にあの不思議な甘い香りが広がった。

中にはクリームがぎっしりと詰まっていて、ところどこ ろにナッツを砕いたものも入っている。

どうやら香ばしいのはローストしたアーモンドのようだ。

一口頬張れば、より深い香りで満たされていく。

フランス菓子らしい、たっぷりのバターと砂糖の風味。

しかし想像以上にくどくない。

余計なものを使っていないせいか、食の細い咲でもぺろりと食べれてしまいそうだ。

カレン「……ふむ」

うっとりと舌鼓を打っていると、鋭くなったカレンの声が聞こえてきた。

彼女の目の前にもいつの間にか咲と同じ焼き菓子がある。

半分ほどが、すでにカレンの胃に消えたようだった。

カレン「こいつの名前は?」

和「Matin pour le roi(王様の朝)です」

応える和の声も表情も、いつになく厳しいものだ。

カレン「コンセプトは?」

和「名前の通り、朝に食べるケーキです……まぁ、昼でも夜でも良いんですが」

和「普段お菓子なんて食べない時に食べるケーキ、です」

カレン「大元はガレット・デ・ロワだよな?コンセプトも実物も、私が出した『特別』とはかけ離れている気がするが」

和「……私も最初はそう思ってたんですけど」

和の声が、一瞬だけ震える。

和「誕生日とか、何かのお祝いとか。ガレット・デ・ロワもそうですけど、ケーキって大体『特別』な日に食べるものでしょう」

和「だから、特別な日って……案外ケーキにとっては普通なんじゃないかと思いまして」

カレン「特別な日が、普通……ねぇ」

和「それよりも、特別にお菓子を買って食べようとは思わないような時に敢えて食べるケーキって凄く特別で贅沢なものだって……」

和「咲さんが、私に教えてくれたんです」

カレン「へぇ」

ちらりとカレンの視線を受けた咲は、何だか恥ずかしくなって誤魔化すようにまた一口ケーキを頬張る。

和「あと、咲さんが教えてくれたことがもう一つありまして」

そう言った和がもう一品出してきた。

見た目は先ほどのケーキと瓜二つだが、味と香りがまるで違う。

今度はベリーとカシス、ほんの少しのオレンジに満ちていた。

和「こちらはMatin pour la reine(王妃の朝)っていうんですけど、最初のと対になっていて」

味わいこそ違うが、飽きが来ずに食べ切れそうなところは同じであるという。

和「咲さんが教えてくれたもう一つの『特別』が……好きな人と一緒に食べることでしたから」

和「これなら生菓子じゃないので、焼きたてでも冷めても美味しいですし」

和「あっさり目に仕上げましたから、名前通り朝に食べても胃に持たれないのではないかと」

和「二種類あれば、誰かと食べる時に交換とかしても面白そうですし」

和の話を聞いて思い出すのは、どうしたってあの穏やかで幸せな朝だった。

そう言えば、帰り際に好きなフレーバーを訊かれて

「こっちで食べたカシスとオレンジがびっくりするほど美味しくて」と答えた覚えがある。

咲(まさか、こっちの王妃のケーキって……)

ますます羞恥で顔が逆上せあがるのが分かった。

それを知ってか知らずか、和はあくまで凛とした声を張り上げる。

和「何でもない瞬間を特別なものに変える、何でもないお菓子……それが、私の答えです」

そうして真っ直ぐに注がれた和の視線の先。

そこにいるカレンは、しばらく考え込んだまま何も言わなかった。

ケーキは両方ともほとんど完食されている。

けれども、沈黙が何とも怖かった。

カレン「……」

和「……カレン?」

カレン「……ent」

和「え?」

カレン「Excellent, Nodoka!」

和「えっ、ちょ、んむっ」

突然カレンが叫びだしたかと思うと和の元へ飛び込んだ。

そうして和の顔をぐいと掴んで――思いっきりキスをしたのだ。

咲「かかかかカレンさん、なにをしてるんですかっ!!」

友人兼恋人と金髪美女との熱愛シーンに、咲も思わず立ち上がって駈け寄った。

和「咲さん、来ちゃ駄目です……っ!!」

咲「え?」

カレン「Saki! You're also amazing! 」

未だに和に齧りついたままのカレンを引き剥がそうと、咲が彼女に手を伸ばす。

その手をカレンはがっしりと掴んだ。

そして咲はあれよあれよという間に彼女に抱き寄せられて――

和「あああああああぁっ!!」

咲「え?……んんーっ!!」

咲もまた、カレンに唇を奪われてしまったのだった。


■  ■  ■


カレン「いやー、すまんすまん。つい」

憧「カレン……」

照れ笑いを浮かべるオーナーに呆れた声を投げつけたのは憧だった。

彼女が、様子のおかしい厨房に乗り込んで和と咲を助けてくれたのだ。

げっそりしている咲の横で「カレンはキス魔だから」と憧が苦笑する。

そういう情報はできれば事前に知りたかった。

カレン「まぁ、では改めて……」

オーナーの目が、すっと真剣なものに変わる。

カレン「おめでとう、和。合格だ」

和「え……」

和がぽかんと口を開けた。

咲も、あまりにあっさり言われた言葉の重みにまだ追いつけないでいる。

カレン「何でもない日を特別に変えるお菓子……素敵じゃないか!」

満面の笑みがベテラン・パティシエールの顔に広がる。

カレン「しかも、誰かとシェアすることを念頭においているのも面白い」

カレン「伝統菓子のレシピを応用したものは、今まではウチになかったものだし……うん、これはいい」

そう言うとカレンは咲が食べそびれていたケーキをひょいと摘んだ。

彼女も、王妃の方がお気に召したらしい。

和はまだ放心していた。

無理もない。今までどんなに豪勢で完成度の高いケーキを作っても突っぱねられてきたのだ。

彼女が自信作として出してきた二品は、それらに比べたら遥かに地味で素朴である。

憧「ねぇ、カレン。参考までに訊いていい?」

それは誰しもが思っていた疑問のようで、代表のように憧が「合格の決め手は?」と問いかけた。

カレン「そうだな……まず、前提として私は各人に別の課題を与えてるんだけど」

憧「うん」

カレン「その答えもまた、当然バラバラなんだ」

オーナーの目がちろりと光った。

カレン「和が今までに作ってきたケーキは、それは素晴らしいものだった。もし他のスタッフが作ったものだったら私はすぐに合格を出していただろう」

咲「えぇっ?」

憧「なんで……?」

あまりに意外な事実に、方々から声が上がった。

それをカレンは一瞥だけで抑える。

カレン「何故なら、和にとっては特別でもなんでもないからだ」

和「……つまり?」

カレン「和は掛け値なしに天才だ。だからこそ凡人が気力を注いでやっと作れるケーキも、お前にかかっては片手間でできてしまう」

カレン「そこに、作り手としての『特別』なんて何もないだろう」

和「………」

カレン「お客の味覚って、私らが思っているよりずっと敏感なんだ。おざなりに作っているケーキは、やっぱりそういう味がする」

カレン「だからこそ、特別なケーキは作り手も特別な想いを込めて作らなくてはならない」

咲はもう一度ケーキを見た。

そして、あのなんともいえない素晴らしい味を思い出す。

カレン「だけど、このケーキは違う。和が見つけた、和ならではの『特別』が詰まっている。それこそが、私が求めていた『特別』なんだ」

ここまで言い切ると、カレンは咲を見つめた。

カレン「そして、和はこのお菓子を一人ではなく、咲というパートナーと二人で作り上げた」

咲「そんな、私は何にも……っ」

カレン「和にインスピレーションを与えてくれたんだろう?大した仕事さ」

「いわば、二人の共同作品だな」とカレンは笑った。

憧「あれ?でも、試験は独力じゃないとダメって……」

カレン「まぁ、それも一般的には、だな。製菓は分業が多いから、どうしても自分の得意分野以外は疎かになりがちだ」

カレン「だから、例え将来どういうポジションについても一人前たるもの、最初から最後まで手を抜かず自力で作れって言う意味だったんだが…」

憧「和は違ったってこと?」

カレン「憧もわかるだろう?和は、最初から独りで作ってた。だから、むしろ今回は誰かと共に作ってくれた方が嬉しかったんだ」

いよいよ全てを言い終わると、カレンは「もう一口いいか?」とケーキに手を伸ばした。

カレン「しっかし本当にうまいな。クラシック通り、バターと砂糖と……」

指についた最後のひとかけらを、彼女は真っ赤な舌でぺろりと舐めとった。

カレン「何より、『Amour』がたっぷり詰まっている」



■  ■  ■


昼下がりから予定されていた咲の送別会は、一転して和の合格祝いとなった。

ついでに二人が(やっと)本当に恋仲になったこともみんなにバレて、パーティーはますます喧騒を深めていく。




和「……そろそろ時間ですか?」

今、和と咲は夜のシャルル・ド・ゴール空港にいた。

主役二人を何とか会場から抜け出させてくれたのは、パーティーの仕掛け人である憧である。

時刻はもう少しで夜の十時だ。

咲はそろそろ空港のセキュリティゲートを抜けなければならない。

そこから先は、和は着いてくることができない領域だった。

和「荷物はそれだけでいいんですか?忘れ物は?」

咲「大丈夫だよ。元々持ってこなかったし……ほら、あの本はちゃんとここに」

いつか和と歩いていた時に見つけた写真集をボストンバックから覗かせた。

和「本当に、大丈夫でしょうか」

咲「もし忘れ物をしてしまったときは……」

涙が滲みそうになる瞳を上へ向けた。

咲「和ちゃんが、届けに来て」

和「咲さん……」

咲「そうじゃなかったら、メールでもなんでもいいから教えて。私が取りにいくから」

鼻の奥がつんとなって、今それを必死で堪えている咲の顔はひどいものに違いない。

咲「ここに、残るんでしょう?」

和「……はい。一人前になるまで、日本には帰らないと決めましたので」

咲「……うん。それでこそ和ちゃんだね」

無理に笑みを作った咲が呟く。

和「――――いつか、きっと。迎えに行きますから」

咲の手をぎゅっと握りしめながら和が囁く。

咲「………うん」

和の手を握り返し、咲は頷く。

咲「ねえ、和ちゃん。フランスと日本ってね、今では12時間くらいで行けちゃうんだって」

和「はい」

咲「だから、いつ和ちゃんに逢いたくなっても……ひとっとび、だよ」

現実は、そんなに簡単にいかないことはわかっている。

旅費は掛かるし、時間だって働き始めたら取れるかどうかわからない。

けれども、もう和と咲は最初の時と違うのだ。

お互いにお互いから逃げて、でも完全に切り捨てることは出来なくて――

いつのまにか相手を見失って後悔していた自分たちはもういない。

メールアドレスとスカイプのID、そしてもう疑うことのない愛が、今は二人をしっかりと結び付けている。

咲「元気でね」

和「咲さんも」

和の腕が、その胸に咲を抱きこんだ。

そのせいで咲はうっかり和の服を濡らしてしまう。

咲「……もう行かないと」

和「……はい」

名残惜しい熱と鼓動から我が身を引き剥がし、今度こそ咲は笑って和に手を振った。



咲「また逢おうね。和ちゃん」



今回はここまでです。
次で終わります。

今月中に更新予定です
お待たせしてすみません




■  ■  ■



都内某所。主要でもない駅から徒歩20分というやや不便な立地にあるその洋菓子店は、

小さいながらも知る人ぞ知る名店といえた。

店主が手ずから改装したという趣味のいい店内。

カランカランと控えめな鈴の音と共に出迎えてくれるのは、

ウォールナット材の上質なフローリングと厨房から漏れてくる菓子の甘い匂い。

シンプルながらしっかりとしたテーブルと椅子に、

清潔なテーブルクロスの上にはいつも瑞々しい季節の花が飾られている。




冬の終わりに植えてみたローズマリーは悪くない出来だった。

咲は葉の質を確かめながらいくつか籠に取り、

今日テーブルに飾る花をハサ ミで手折ると服に付いた土を払いながら立ち上がった。

ハーブと花を摘んだ籠を持って店の中に入る。

灯りが充分に明るい室内を、咲はこよなく愛している。

和と共に探した理想の家は、南向きに面した大きな窓から直接庭に出ることが出来る。

庭は決して広くは無いがその分管理もしやすく、何よりも天気のいい日の日向の匂いが咲のお気に入りだった。

和「咲さん」

店の奥から自分を呼ぶ声がして、咲は小走りに店内に入った。

途中チェストの上の小物に少し埃がかかっているのを見付けて心のメモに書き留めながら厨房へ向かう。

ふんわりと漂ってくる、うきうきするような心躍る甘い匂い。

咲は手に持っていた籠の 中から花だけを寄り分けると、和の手の届く場所に置く。

和「咲さん、悪いですけどソースのほうを見てください。手が離せなくて」

咲「分かったよ」

和「ありがとうございます。ローズマリーはどうでした?」

咲「いい感じだよ。美味しいハーブティーができそう」

和「それはとても楽しみです」




店の開店は10時で、夜の閉店は20時。

和がお菓子作りをしている間に咲が店内を丁寧に掃き清める。

そうして二人で入り口に行き、下げ看板をclosedからopenに変えた。

和「今日もよろしくお願いします、咲さん」

咲「よろしくね、和ちゃん」

カランカランカラン……レトロな鐘の音が、この店に客が訪れる合図である。

今日最初の客は女性客二人だった。

咲「いらっしゃいませ。お二人様でよろしいですか?」

「はい。二人です」

咲「お席は好きなところをどうぞ」

微笑みながら言うと、女性たちはテラスにほど近い位置に腰掛けた。

咲は厨房へ行き、グラスと水の入ったピッチャーを運ぶ。

咲「ご注文はのちほど伺ったほうが?」

「いえ、いま。ケーキセット2つでミルクレープといちごのタルトを。飲み物はどちらもアイスティーで」

咲「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」

咲は礼をして静かに立ち去る。

咲「和ちゃん。ミルクレープといちごのタルトお願いね」

和「了解しました」

咲が告げると 、和は手早くケーキを作る準備に取り掛かりはじめた。

その隣で咲は二人分のアイスティーの用意をする。

咲が飲み物を運んで行くと、女性たちは雑誌を開いたままなにやら話し込んでいた。

咲「こちら、アイスティーで…」

「あの、もしかして宮永プロの妹さんですか?」

急に話しかけられ、咲はきょとんと目を輝かせたのち軽く頷いた。

姉の照は麻雀のプロとして活躍している。

甘いものに目がない彼女は頻繁にこの店にやってきては菓子に舌鼓をうっていた。

咲(そういえばお姉ちゃん、この間雑誌の取材でこの店のことを話したって言ってたっけ)

女性たちが見ていた雑誌はもしや姉関連のものかと、咲は納得する。

咲「はい。宮永照の妹で咲といいます」

「やっぱり!すっごく似てるなって二人で話してたんです」

はしゃぐ女性たちに、咲も淡い微笑みを浮かべながら会釈する。

咲「ありがとうございます。それではごゆっくりどうぞ」





その日の、午後7時過ぎのことだ。

ラストオーダーも間近、平日ということもあり自分たち以外には客もおらず、

そろそろ閉店準備をしてもいいかと和と話していた頃だった。

穏乃「こんばんは~」

憧「久しぶりね。咲に和」

カランカランカラン……と聞きなれた鈴の音と共に現れた女性二人に咲は頬を綻ばせた。

咲「いらっしゃい、憧ちゃんに穏乃ちゃん。今日はお店の方 は?」

穏乃「うちの和菓子屋なら憧のお姉さんに任せてきちゃった」

和「いいんですか?店主が二人ともお店を放って東京までやって来て」

厨房から出てきた和があきれ顔で問いかける。

憧「いいのいいの。お姉ちゃん、専業主婦で暇を持て余してるんだから」

穏乃「それに久々に二人に会いたかったしな」

咲「ふふ。それは光栄だね」

咲は二人からスプリングコートを受け取ってハンガーに掛け、二人を店で一番いい席に案内する。

その席からは昼でも夜でも関係なく庭が良く見える特等席だった。

特に今の時間帯は夜仕様にライトアップされている。

ホームセンターで買ってきたものを二人で設置しただけの簡単なものではあるも のの、手を掛けた分思い入れが強い。

咲は二人にグラスと水が入ったピッチャーとメニューを渡す。

穏乃「何を頼もうかなあ」

憧「和の作ったお菓子はどれも絶品だから迷うわね」

穏乃「そういう憧だってお菓子作りうまいじゃないか」

憧「……私は結局パティシエにはなれなかったからね」

ぽつりと呟かれたその言葉に、穏乃は気遣わしげに憧を見やる。

穏乃「憧……」

憧「ま、でもいいんだ。一番なりたかったものになれたんだし」

穏乃「なりたかったものって?」

憧「決まってるでしょ。しずのお嫁さん!」

穏乃「……バカ」

憧の答えに、穏乃は頬を赤く染めながら呟く。


和「すみません、いちゃついてないでさっさとオーダーしてくれませんか」


甘い雰囲気をぶち壊すかのように和の声がかかる。

穏乃「わわっ、ごめん和!」

憧「和ってば相変わらず堅物ねえ。咲も苦労してるんじゃない?」

和「そんなことはありません!」

むっとして言い返す和にくすりと笑みながら、咲が言葉を返す。

咲「そこが和ちゃんの良いところだよ」

和「咲さん……」

和が先程の穏乃よろしく頬を赤くして咲に寄り添う。

憧「あんた達だっていちゃついてるじゃん……」

しっかりと手を繋ぎ合う咲と和に、憧はそっとため息を吐いた。




あの日のことを、咲は昨日のことのように思い出せる。


和とフランスで別れてから2年後。

貴子に紹介されたエージェントのアシスタントとして働いていたある日のことだった。

咲の携帯に、和からの着信があった。


咲 「…もしもし?」

和『お久しぶりです、咲さん』

咲「どうしたの?こんな時間にスカイプでもなく電話で。パリはいま深夜じゃ」

和『咲さん。聞いてください』

咲「…和ちゃん?」

いつになく真剣な声の和に咲は押し黙る。

そのとき来客を告げるチャイムの音が鳴った。

こんなタイミングになんだと、最初は無視をしようとしたが。

音を鳴らしている主は全く構うことなくチャイムを鳴らし続けている。

宅配便だろうか?

和の話に集中したいが、このままでは意識が散漫してしまう。

咲「ごめんね和ちゃん。来客みたいなので一旦切るね――」

咲は携帯に耳を近付けたままドアを開ける。

すると、目の前に広がったのは――――


和「咲さん!」


深紅の薔薇の花束とその香り。

そして大好きで大切な人の、眩しい笑顔。


和「私と、ずっと一緒にいてください」


ぽかん、と咲は人生で最高だと断言できる瞬間に間抜け面になった。

和は一段と大人っぽくなっていたが、あの頃と変わらぬ少女のような顔をして嬉しそうに笑っている。

咲の頭に一気に血が上っていった。

あまりの事態に混乱が勝り、和の差し出した花束を無意識に受け取ってしまう。

咲「…………和ちゃん、仕事は」

和「辞めてきました」

咲「え……」

和「カレンにも、もう私に教えることは何もないってお墨付きをいただきましたし」

咲「………」

和「明華さんに聞いたら『プロポーズには薔薇の花束』っていうことですので」

咲「プロポーズ……」

和「プロポーズです。ちゃんと指輪もあります」

和は何でもない様にポケットを探り、ぱかりとジュエリーケースを開いて見せる。

咲は花束に顔をうずめた。

目の前が真っ赤だった。

ふわりと、和が咲の頭を優しく撫でた。

和「咲さん」

咲「…………」

和「咲さん」

咲「…………」

和「咲さん。泣いてないで、返事を聞かせてください」

咲「…………遅いよ。バカ」

和「ふふ。素直じゃありませんね」

Je t'aimeと和が美しい発音で囁いたが、咲には「私もすき」と

絞り出すように言うだけで精いっぱいだった。



それから和はパリから帰国し、

二人で新しい住処を探して店を構え、今に至る。




憧「ねえ。この後久々に皆で麻雀しない?」

和「いいですね」

穏乃「さんせーい!」

咲「それは楽しみだね」

憧「じゃあ早く食べてしまわないと」

穏乃「そんな急かすなよ憧~」

和「そうです。ちゃんと味わって食べてください」

咲「だね。和ちゃん自慢のお菓子なんだから」




その洋菓子店の名前は「BONNE FORTUNE」

店で出されるお菓子がどこか優しく、どこか暖かい味がするのは

「食べて、幸せになってほしいひとがいるから」という話である。


カン!

以上で完結です。
読んでくださった方、レス下さった方ありがとうございました。
和咲尊い!

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年04月13日 (月) 02:55:30   ID: s5bNMgfQ

久しぶりにすごくよいSSを読みました
続きを強く希望します
このようなサイトには不慣れなのですが
同じ作者様の他の作品も読みたいです

2 :  SS好きの774さん   2015年05月27日 (水) 15:24:29   ID: hSHthOux

たしかに良かった

3 :  SS好きの774さん   2015年05月27日 (水) 15:56:02   ID: gqxMYgpi

勝手に探せよww

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