赤城「なまえのないかいぶつ」 (242)


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


夢を見ていた。

視界の彼方、遠くに光がゆらめいていた。
少しずつ遠ざかる光、消えていく光。
それがなぜだかどうしようもなく悲しくて、光に向かって腕を伸ばした。

左腕。
その薬指には、指輪。
愛する人からの指輪。
愛の証の指輪。
なによりも大切な指輪。
霞む視界の中で最後に見たものは、あの人からもらった指輪だった。

夢はそこで終わった。
そこで、終わりだった。


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◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第一話「赤い月」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「おはよう。良きお目覚めのようでなによりだわ」

「……ぁぃ?」


ため息混じりの挨拶を目覚ましに、赤城は声にならない声を上げた。
視界に広がるのは自室の天井と、端の方に呆れ顔をした同室の同僚。
そして、窓から差す朝日。

後頭部に鈍痛が走っている。
痛みに身じろぎして顔を左右させたところで、赤城はようやく自分が寝台から落ちていることに気が付いた。


「っつぅ、ふわあぁ。おはよう、加賀さん」

「まったく。連合艦隊南雲機動部隊の誇り、一航戦の赤城がそんなことでどうするの。こんな様を見られたら、五航戦の子たちに示しが付きません」

「面目ありません。言い訳をするつもりはないけれど、なんだか夢見が悪くて」

えっ
タイトルからして不条理シュールギャグSSだと思ったのに…

赤城「ゴキュバリバリモグモグパリゴクムシャ。」赤城はまた鎮守府を食い破ってしまいました


言葉ほどには棘のない加賀の表情を眺めながら、赤城は曖昧に笑った。
実際、夢見は悪かった……ような気がする。


「夢? どんな?」

「……それは覚えていませんけれど」

「はぁ。まあ、夢とは得てしてそういうものかもしれませんね」

「でしょう? 大した意味はありませんよ、夢なんて」

「その『大した意味のないこと』で無様に寝台から転げ落ちるのです。よほど気が抜けていると見えるわね」


話を逸らしたつもりが藪蛇だったようだ。
これ以上の論戦に収穫はないと見切りを付け、赤城は跳ね起きた。
ことさら明るい声色で問いかける。


「今朝のご飯はなんでしょうね、加賀さんっ」

「さあ?」


取りつく島もなかった。

球磨スレの人?


「もう。いけませんよそんなことでは。軍人たるもの腹が減ってはなんとやらです」

「武士は食わねどなんとやら、とも言うけれどね」


とはいえ赤城は知っている。
あくまで素っ気ない素振りの加賀が、実は自分に負けず劣らず食事の時間を楽しみにしていることを、赤城は知っている。
なにか言いたげな視線を無視して身支度を整えると、赤城は自室の扉に手をかけて、


「行きましょう、加賀さん」


笑いかける。


「……ええ」


首だけで振り向いた先には、暁光を背にした加賀の姿があった。
赤城はまぶしさに目を細めると、ドアノブを回して一歩、外へと踏み出した。


「でね! そこで多聞丸が言ったのよ! なんて言ったと思うっ?」


朝の喧騒に染まる食堂に、竹を割ったような気持ちのよい声が一際響く。


「『俺が三人前食うんだよ。勝手に下げんな』って! もー渋いわよね多聞丸ったら!」

「あ、朝から飛ばしてるわね、飛龍ってば……」

「飛龍先輩は本当に山口提督がお好きなんですね」


食堂で席次など定まっているはずもないが、この日は偶然正規空母ばかりが一つの卓を囲んでいた。

飛龍が敬愛する山口多聞提督の名を高らかに叫ぶ。
蒼龍が苦笑する。
翔鶴が柔らかくフォローを入れる。


「上官の勇名を喧伝するのも結構だけれど、もう少し落ち着いて食べられないのかしら」

「そもそもこれって勇名なの……?」


味噌汁の椀を置きつつ加賀がたしなめる。
瑞鶴が呆れ顔で箸を口元に運ぶ。


「まだまだあるわよー、多聞丸百物語は!」

「聞き終わった時に死んでたりするやつじゃない、それ?」

「まあ瑞鶴ったら、百物語とはそういうものではないわ」

「五航戦は一般教養からしてなっていないのね。呆れたこと」

「なんか言ったぁ!?」

「ま、まあまあ加賀さん、そんな噛みつかないでもいいじゃない」

「ず、瑞鶴、先輩に失礼よ。やめてちょうだい」

「そう、あれは遡ることおよそ半世紀! 我らが多聞丸はハワイ海戦において……」


女三人姦しいという。
女五人ならばなおさらのことだった。
いつも通りの面々の、いつも通りのやりとりだった。


そんな騒ぎのただ中で赤城はといえば、


「ん……ふむ……これはまた美味……」


一人マイペースに、黙々と、箸を動かし続けていた。
椀を置く。
茶を啜る。
また椀を持ち箸を躍らせる。
そんなことを数回繰り返すうちに、目の前の膳は綺麗に片付いていた。


「ふう。ご馳走様でした」


箸を揃えて手を合わせると、パンと鳴らして小さく一礼。
場が一瞬、シンと静まり返ってのち、毒気を抜かれたように瑞鶴が眉尻を下げた。


「赤城さんはホント、いつも通りねぇ」


「ええ。あなたたちがいつも通りであるように、私もいつも通りの私です」


食に充足している、というささやかで偉大な幸せを実感しながら、赤城は微笑みで返す。


「一日の始まりは朝食から。心気健やかに保つためには、あなたぐらいの態度の方が良いのかもしれないわね」

「ほほう。その実赤城さん以上の健啖家たる加賀さんが仰ると説得力があるわね。ねえ飛龍?」

「なっ」

「ええ、健啖なのは素晴らしいことよ。多聞丸だってそう言ってたわ!」

「結局先輩は山口提督なんですね……あはは」


加賀が、蒼龍が、飛龍が、翔鶴が、めいめい笑顔でそれに続いた。
加賀などは二航戦にからかわれて頬を少々染めていたが、おおむね平和な光景だった。

人間にしろそうでないにしろ、他のものが少し足りずとも、胃さえ満ちていればこうして和やかな時間を送れるものなのだ。

食後のお茶を啜りながら、赤城はそう独りごちた。


「私ら空母機動部隊のまとめ役っていうと、加賀さんってイメージがあるけどさ」

「む?」


話しかけてきたのは瑞鶴だった。
常になく穏やかな表情をしている。
視線の先で加賀が不機嫌そうにむくれていることと、あるいは関係があるのかもしれない。


「影のドンは赤城さんよね。普段は加賀さんみたいに小うるさいこと言わないで、ここぞってところで締めてくれる」

「そう、かしら? 私などまだまだ若輩者ですし……」


くるくる、耳にかかる髪を一房巻き上げる。
なにやら背中がむず痒かった。


「だとしても、私。赤城さんがここにいてくれてよかった、ってそう思ってるわよ」


そう語る瑞鶴の表情は真剣で、耳たぶが少しだけ熱くなった。


「ありがとう、瑞……瑞鶴」


どうにも言葉に詰まってしまう。
赤城はそれだけを早口に言うと席を立った。

見れば瑞鶴はにんまり笑って、右の手を顔の前でひらひらさせている。
これ以上褒め殺されてはたまったものではない。
膳を持つや回れ右、そそくさとその場を離れることにした。


「一○○○に弓道場集合です。忘れないように」


加賀の声が背後からかかった。
振り向くことなく、首をこくこくとだけさせて応答した。
これだけでも伝わると確信していたので、振り向くことはなかった。


「……」


だから赤城は、瑞鶴の視線が去りゆく己の背に投げかけられていることに、まったく気が付かなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


窓の外に照る夕焼けが、オレンジを通り越して赤々しくさえあった。
男は一人、自室の執務机に向かって空のケースを眺めていた。
上等な意匠の小箱を開くと、そこには五ミリほどの窪みがある。

ちょうど、そう。
例えば指輪などを収めるのに、ちょうどよい窪みだった。


「赤城」


指輪を預けた想い人の名を呼ぶ。
男は無意識のうちに、左の薬指を右手でまさぐっていた。
そうしていると途方もなく愛おしい気持ちが込み上がってくるのだ。
そう、途方もない愛おしさと、そしてもう一つ――


「提督、加賀です」


ノックと同時にそう呼ばれて、男は現実に引き戻された。

提督。
この鎮守府の最高司令官たる、自分を指す言葉であった。


「入れ」


促しつつも慌ててケースをしまった。
こんなところを見られたら、どんな視線を向けられるかわかったものではない。


「失礼します」


軍帽を意味もなく深く被り直していると、名乗った加賀に続いてもう一人執務室に入ってきた。
当然のことであったので驚きはない。
二人を呼びつけたのは、他ならぬ男だった。


「一航戦加賀、御前に」

「同じく赤城、参上いたしました」


整然と敬礼をする右手ではなく、逆側の手の、特に薬指の辺りに視線が行ってしまうのは仕方のないことなのだろうか。
男は心の中だけで苦笑して、立ち並ぶ二人の顔に目線を戻した。

端正な美貌、凛とした佇まい。
冷厳な加賀と涼やかな赤城の違いこそあれど、根本の性質は同じだ。
ほどよく糸の張った一本の和弓のような、あくまで武人として完成された「美」がそこにはあった。


「空母機動部隊の練度はどうだ」


心なし赤城よりだった視線を均して、悟られないようそっと加賀に向ける。
もっとも、とっくに気付かれていたかもしれないが。


「問題ありません。彼女のことも含め、訓練工程は順調に消化され、実戦演習へと入る段階に来ています」

「五航戦とは仲良くやっているか?」

「必要性を感じません。調練に必要なのは峻厳さ、ただそれのみです」

「まあ、連携に問題さえなければ私としても言うことはないがな」


軽口を叩き合いつつ、男と加賀は示し合わせたように横目になった。
常ならこのあたりで差し挟まれるその声が、今日に限ってなぜかしない。


「……赤城?」


呼ばれて、赤城の肩がわずかに跳ねた。
男の目には、何事か考え込んでいたかのように映った。


「し、失礼しました。訓練の話でしたよね」

「いや、今日の夕食の献立について話していた。ローストビーフが振る舞われるそうだぞ」

「本当ですかっ!?」

「嘘だ」

「やはり聞いていなかったのではないですか」

「はっ!!」


静かに怒気を湛える加賀に、赤城が縮こまった。
しかしその仕草さえもどこか芝居がかっている。


「……なにか、気になることでもあるのかしら?」


加賀も同じことを思ったのだろう。
赤城にそう問いを投げた。
対する赤城はしばし顔を伏せていたが、意を決したように、


「提督、お聞きしたいことが」

「どうした」


上がった面は見たことのない色相で染まっていた。
恐怖、期待、苦渋、栄光、後悔、憤怒、絶望、そして希望。
すべてを綯い混ぜにしたその色は、間違いなく見るに堪えないものであるはずだ。

だがそれでも、赤城の凛とした美しさだけは揺るいではいなかった。
まぶしさとは違うものが男の網膜を突き刺す。
今度は反対に、男が目を逸らす番だった。


「次に行われる作戦が……あの」


目を逸らしたまま、男は赤城を手で制していた。


「どこから聞いた?」

「先ほど工廠に寄った際、妖精たちが噂を」

「……連中の防諜意識の低さには困ったものだ」

「前大戦の敗因をそこに求める向きもあります。改善すべき問題ではないかと。最も、深海棲艦に諜報の概念があるとも思えませんが」


加賀の言葉に頷くと、男は一枚の書面を取り出した。
もう一度赤城を見る。
相変わらずこわばった顔をしていた。


「大本営よりの正式な通達だ。大規模作戦が近く発令される運びとなった。当然、我が鎮守府も艦隊を出撃させる」


赤城が目を瞑って天を仰いだ。
加賀でさえわずかに息を飲んだのではないだろうか。


「作戦海域は北方アリューシャン方面、及び北太平洋ミッドウェー方面。両面作戦となる」


顔の前で腕を組み、男もまた目を瞑った。




「AL/MI作戦の始まりだ」




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


暗がりの奥から歪んだ赤がせせら笑う。


「チョクジョウ……バクゲキ……シズンデシマエ……」


敵対者を、世界を、海に生きるすべてを嘲笑う。


「シズメ……シズメ……ナンドデモ……」


歪な光に宿るのは、絶望と、渇望。


「シズメ、シズメ、シズメ、ヒノタマトナッテ……!」


この絶望を共有してくれ、という渇望。


「……………………………………ヨコ、セ。ワタ、シニ」


その絶望を共有させてくれ、という渇望。


「――セ。ワタシニ、スベテヲ」


血霧に煙る夜、浮かぶ赤い月。
毒々しい赤を滾らせて、怪物は笑った。

>>4
申し訳ありません、注意書きをしておくべきでしたね
ギャグだったりMONSTERクロスだったりはしません
ごくごくありきたりな夏イベSSです

>>6
なんか恥ずかしくて過去スレ貼りませんでしたが、多分そうです
昨日球磨スレ立てたばっかの人です


あっちのスレもこっちのスレもあまり長々とは続けません
こちらは全7回程度を予定している中編となります

それではご一読ありがとうございました

モンスター関係ないんかーい

まだ間に合うからあの絵本のパロディに路線変更しろ
簡単に一定数の読者がゲット出来るぞ急げ

時に熱く義理堅いヘルドクターテンマ提督を期待した俺の純情かえせ!!

>>23
うん、まあ、まったくないわけでもないんですけど、ごめんなさい

>>24
シュールギャグなんて引き出しにありません
というわけで誰か書いてください

>>27
ボクはルンゲ警部が好きです(半ギレ)
今は赤城純愛ドロドロ路線でいくんで許してくださいお願いします!


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


愛する人がいた。

愛している人がいる。
愛している人が、目の前に座っている。

ただしそこは小洒落たカフェーのテラスでもなければ、夢にまで見た想い人の部屋でもない。
ロマンもなければムードもへったくれもない、行きつけの大衆食堂の片隅で、想い人は昼食の丼物をかっこんでいた。

それでも赤城はため息などつかなかった。
幸せだった。
ただこうしていられることが幸せだった。
いつも通りの自分たちでいられることが、泣きたくなるほど幸せだった。

じっとその面差しを見つめていたせいだろう。
愛する人はなにを勘違いしたのか、丼の中身をレンゲに掬ってこちらへ差し出してきた。

食べるか?

はい、いただきます。

赤城は例えようのない幸福感を抱いて、想い人のお節介な厚意に、好意に、甘えることとした。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第二話「FAIRY TAIL」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「あむっ」

「……美味いか」

「ええ、とてもっ」


男は一つ、苦笑気味に息を吐いた。
赤城は武人としても女性としても非の打ちどころがない存在だ。
あえて短所を挙げるとすれば、常人よりほんの少しだけ食い意地が張っているところ、などがそうだろうか。
他にも、生真面目が過ぎて思い詰めがちであったりと、探せばないわけではないのだが……


「食事を摂っている時の赤城は、普段通り粛々とはしているのだが……なんというか、雰囲気が楽しそうだな」

「人であるにせよ艦であるにせよ、食足りずして幸福なし、ですよ提督」

「はは」


その短所すらも美貌と愛嬌に吸い取られて薄まっているのだから、眼前の女性のなんと卑怯なことだろう。
そう、男は苦笑せずにはいられなかった。


「提督、本日はありがとうございました。こんな素晴らしいところに連れてきていただいて」


店を出たところで赤城が頭を下げてくる。
実に流麗な所作だった。


「『素晴らしいところ』、か」


どこにでもある大衆食堂にすぎないのだが。
喜んでくれているのならば良し、と思うことにしておいた。


「さて、次はどこに行く?」

「そうですね……あっ、提督!」

「ん?」

「ソフトクリームが売っています!」

「ああ、うん。美味しそうだな」

「はい!」


元気いっぱいの口調とは裏腹に、その仕草は淑やかそのものだった。


店の主人からソフトクリームを一つ受け取って、赤城に差し出した。
芳醇なミルクの薫りが実に芳しい。
普段なら食欲を刺激されてもおかしくなかったが……


「提督はよろしいのですか?」

「ああ、甘い物は苦手でな」


嘘である。
本当は腹がいっぱいで口にする気になれないだけだ。

たった今、自分と同量かそれ以上の昼食を掻きこんだ赤城の前で、それを言ってしまうのは憚られた。
ただそれだけだった。


「そうですか。では失礼して」

「ゆっくり食べなさい」

「稚児ではないのですから、そのようにご心配なさらなくとも」

「はは……」


上品に傾げられた小首は、そこだけ切り取れば良家の娘も裸足ものであった。
だというのに両手に持つのはソフトクリーム。
おかしなギャップに思わず口角が上がる。

少し歩いた。
赤城は珍しく食べ歩きをしている。
彼女曰く、ソフトクリームはこうやって味わうのが作法だそうだ。
静かな口調ながらも人差し指を立てて力説された。
そんな姿に男の頬もますます緩んだ。

余所行きの白いワンピースは意外なほどよく赤城に似合っている。
あの純白の生地の上にクリームをこぼしてしまわないのだろうか。
傍から見ていてハラハラさせられる光景であったが、杞憂に終わったようだ。

赤城は綺麗に、丁寧に、お上品に、手の中のソフトクリームをあっさり平らげてしまった。


「それにしても、本当によかったのか」

「はい?」


人通りも疎らになってきたところで、男は横須賀の街並みを眺めながら問いかけた。


それは、本心からの疑問であった。
照れ隠しなどでは断じてない。


「作戦前最後の休暇を、私などと過ごしていて。もう少し有意義なことに時間を使っても」


そこまで言って口をつぐんだ。
つぐまざるを得なかった。
赤城の眉が吊り上がっている。
なまじ元の造形が美しい分、迫力があった。


「提督」

「あ、ああ」


静かで、微かだ。
だが確かに怒っている。
自然、男の背筋はピンと伸びた。


「この際、はっきりと、申し上げておきます」

「うむ」


男は精一杯の威厳をかき集めて頷いたつもりだったが、果たしてどこまで効果があったことか。


「この赤城。提督と過ごす時間を、無駄だなどと思ったことは」


赤城が一拍、小さな呼吸を挟む。
心なしかその耳朶が赤みを帯びていた。


「一度たりとも、ありません」


心なしか、ではなかった。
赤城の頬は、ついこの間見た夕焼けと同じ色をしていた。


否が応にも左の薬指に意識がいく。
薬指をまさぐりたい衝動をこらえると、軽く奥歯が軋んだ。
耳に障る音だ。
だがそれ以上に、心臓の音がうるさかった。

赤城は真剣な表情をして、自分の次なる言葉を待っていた。
相変わらず赤い顔をしていた。

どくん、どくん。
ばっくん、ばっくん。

先ほどから喧しくてしょうがない鼓動の音には、もしかしたら赤城のものも混じっているのかもしれなかった。


「……赤城」


赤城は覚悟を決めていた。
ならば自分も、いい加減に腹をくくらねばなるまい。

下らないこと――そう、最早どうしようもなく下らないことだ。
それに囚われて目の前の娘の誠心を踏みにじることなど、許されるはずがない。


「いつか、いつか然るべき時が来たならば」


いつかこの海が平和になったならば。


「その時はお前に渡したいものがある」


見せてあげたい風景がある。
聞かせてあげたい音がある。
会ってほしい人がいる。


「だから、赤城。私は……私は、お前の思っているような男では、ないかも、しれないが」


だから、私と――


「ストップ」


幸せなおとぎ話は、細長い人差し指に止められた。
赤城が止めた。
赤城によって、止まった。


「それ以上聞いてしまうと、世に言う『旗』なるものが立ってしまいます」


これから向かう海が、怖くないわけがない。
その海の名を聞いて、気負いがないわけがない。
それでもなお、いまだ微かな赤らみの残る微笑みは、ただ単純に綺麗だった。


「この続きは、ミッドウェーから帰ったら聞かせてください。その方が私個人としても士気が上がるというものです」

「……それはそれで、『旗』を立てるに十分な危険発言だぞ、赤城」

「あれっ!?」

「ははは。それも一つの慢心だな」


やはりどこかが抜けている。
いや、あるいはそれすらも計算の内なのだろうか?
そこまではまだ、男には理解できなかった。


「了解した。今しばしの間、私はただお前の上官足らんとしよう。それでいいな」


軍帽を直そうとしてから、私服のためそもそも被っていないことに気が付いた。
ごまかすように額へ指を添えた。
幸いにも赤城は気付かなかったようだ。


「無論。我々の勝ち鬨を、あのミッドウェーの海に轟かせるべく」

「ああ、全霊を尽くして指揮を執ろう。だからお前も」

「はい。必ず生きて、あなたの下に戻ります」

「……どのようなジンクスがあろうと知ったことか。命令だ。必ず帰ってこい、赤城」

「はっ!」


純白のワンピースが陽に映える。
華やかな装いに身を包んでなお、敬礼をとる赤城の姿は凛と研ぎ澄まされていた。
男はしばらくの間、目を細めたまま立ち尽くした。

その細い指先が震え続けていることに、最後まで気が付かないふりをしたままで。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


夜。
夢を見た。


『いつかこの海が平和になったならば』


おとぎ話の夢だった。


『見せてあげたい風景がある。聞かせてあげたい音がある。会ってほしい人がいる』


幸せなおとぎ話が、滔々と愛する人の口から語られる。


『だから、私と――私と一緒に生きてくれ、赤城』


微笑みを返した。
これは夢だとわかっていたが、間違いなく幸福な夢だった。


『はい、提督、喜んで。あなたとならばきっと、あの運命の5分間も――』


抱きしめられた。
無上のぬくもりが全身を歓喜に震わせる。
とろけるような幸せに包まれながら、赤城の意識は深い深い水底へと沈んでいった。

艦これ一の美人は赤城あるいは扶桑姉様であるというのが私の持論です
ご一読ありがとうございました


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


飛び交う怒号。
空を埋める黒煙。
火柱に染まる艦橋。

命が零れ落ちていく。
母なる海へと還っていく。
怪物はその様をただただ、どこか遠くの場所から眺めている。
どこか遠くの場所だと思っている。


「シズメ……」


彼女の瞳に憎しみの色はない。
絶望の色しかない。
渇望の色しかない。


「オマエモ、シズメ」


燻り続ける炎をその瞳に映しながら、怪物は時を待つ。
待っているという自覚もないままに、ただ待つ。

邂逅の、そして運命の瞬間は、すぐそこまで迫っていた。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第三話「MONSTER」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「……戦闘終了」

「戻って、友永隊っ」

「江草隊、ありがとう!」


着艦と同時に加賀は弓を下ろした。
飛龍と蒼龍がそれに倣う。
見れば水平線の彼方に黒煙が立ち上っていた。

ここは北太平洋ミッドウェー海域。
加賀たち南雲機動部隊にとって、まさに因縁の海である。


「敵空母、全艦中破以上。発着艦不可能と断定……ふう。空母機動部隊の皆さん、お疲れ様!」


観測機からの報告を受けて、随伴護衛艦隊の長良が朗らかな声を上げた。
そこまで確認して、ようやく加賀は肩から力を抜いた。

ほう、と息を吐く。
僚艦の空母勢を見やると、蒼龍がサムズアップで応えてくれた。
飛龍がその隣で汗をぬぐっている。
表情を極力動かさず、加賀も蒼龍に頷きを返した。


「ご苦労じゃった皆の衆! 索敵は我らが念入りに行っておく故、しばし休息を取るとよいぞ!」

「その間、提督への戦況報告をよろしくお願いいたします」


休む間もなく零観を飛ばし始めたのは利根と筑摩だった。
この二隻に先ほどの長良を加えた三隻が、連合艦隊随伴護衛戦力の要である。


「わかりました。空母戦ではあなたたちの『目』こそが私たちの命綱……よろしくお願いするわ」

「大船に乗ったつもりでおるがよい、加賀よ! この時のために、カタパルトは整備したのだからな!」

「海鳥の一羽も漏らさぬ索敵網を、お約束しますね?」

「……ありがとう」


さも空母戦で自分たちが休んでいたかのような口ぶりの利根姉妹だったが、彼女たちの身体にも微細ながら戦傷が垣間見えている。
護衛艦隊は文字通り、身体を張って機動部隊の盾となってくれたのだ。
感謝の念を内心だけに留めるをよしとせず、加賀は二人に小さく頭を下げた。


「私も彩雲を出します」


その時、怜悧な声が空気を裂いた。
ただ一人、戦闘終了の号令にも弓を下ろさなかった、南雲機動部隊最後の一人。


「あ、赤城? それは吾輩たちがやっておくから、お主は小休止をだな」


赤城が険しい表情を崩さぬまま、つがえた矢に載せて彩雲を発艦させた。
偵察機が空の向こうまで飛び去ってからも、赤城はその航跡をじっと見据えて動かなかった。


「……はぁ」


加賀はため息をついて、利根と筑摩に目配せをした。
なにか言いたげな利根を筑摩がなだめつつ、姉妹はその場を去っていく。

二人を横目で見送ってのち、加賀は立ち尽くす赤城の背を視界に入れたまま、耳に手のひらを当てた。
通信機構が作動する。


「提督、戦闘が終了しました」

『ご苦労だった』


ノイズ混じりの掠れた音声に、それでもどこか安心している自分がいることに気が付く。
撫でた肩にわずか残された、最後の気負いも溶けて失せた。


『損害報告を』

「はっ」


味方艦隊の損傷が極めて軽微であることを伝える。
まずは上々の立ち上がりといえた。
その後も二言三言と、少ないながらも言葉を交わす。
現在の連合艦隊の位置――ミッドウェー島の南東数百浬――座標、事前に予測された深海棲艦の勢力から判断するに、作戦続行可能であることを確認し合った。


『どうだ加賀、初の本格的な空母戦は』


一通り報告が終わってから、提督が幾分声を柔らかくした。

訂正:ミッドウェー島の南東数百浬→南西数百浬


「神経をいつも以上に使うわ。瑞鶴が言うところの、アウトレンジ同士での撃ち合いですから」

『互いの攻撃が届いているのだから、厳密にはアウトレンジとは違うだろうが……そうか、加賀でも精神を擦り減らすほどか』

「帰ったらボーキサイトの備蓄を確認しなおした方がよろしいかと」

『はは、帰ったら、か。頼もしいな』

「帰ります、必ず」


本心からの言葉だった。
今回の出撃は所詮、第一次作戦に過ぎない。
MI作戦はまだ始まったばかりなのだ。
こんなところでつまずくつもりなどなかった。


『……その様子ならば、気負いはなさそうだな』


たった今失せたばかりだけれどね。

そう告げるのは視線の先の背中に、そして赤城に憚られた。


「ええ。慢心も気負いもありません……私には」

『……皆の様子は?』


含みのあるニュアンスを察したのだろう。
提督の質問をきっかけに、加賀はぐるりと視線を巡らせた。

利根と筑摩、長良が真剣な顔をして額を突き合わせている。
哨戒網、索敵網に遺漏がないかチェックしているのだろう。

駆逐隊は各々散らばって、油断なく周囲を警戒していた。
先の空母戦では飛び交う爆撃をことごとく回避してみせた、極めて練度の高い部隊だ。

蒼龍と飛龍は少し離れた場所にいる。
機動部隊の近衛を務める榛名、霧島の両戦艦となにごとか言葉を交わしている様子だ。
時折笑顔もこぼれているが、決して緩んではいない。
気力の充実した笑みだった。


「良い部隊です。あなたの鍛えた艦たちですから」

『加賀から世辞が聞けるとは思わなかったな』

「本心です」

『光栄だ』


巡る視線が一周する。
元の場所に戻ってくる。
その背中は先刻と較べても微動だにしていない。
彼が本当に聞きたいのは、彼女のことに相違ないのだろう。

赤城の意外な危うさを、加賀はこの出撃に際して初めて見た思いだった。

赤城は一本芯の通った武人であり、女性である。
それは往往にして美徳と持て囃されるだろうが、この時ばかりは勝手が違った。

芯が、通りすぎているのだ。
あまりにも真っすぐすぎるのだ。
その直向きさゆえに、彼方の過去の慢心を、敗戦を拭おうと気負いすぎている。

加賀とて作戦前は人のことを言えた心持ちでもなかったのだが、今の赤城を見ているとかえって冷静にさえなれた。
それほどまでに今の彼女は危うかった。


「彼女にも、慢心は、ありません」


それでも加賀は、赤城の気持ちを優先したかった。


提督はそうか、とだけつぶやいた。

彼にもおおよそのところは把握できているのだろう。
なにしろかの人は赤城を愛している。
彼女の精神状態に関してまったく察しがつかない、というほどに鈍い男では断じてなかった。

それでも提督は、加賀の判断を優先してくれた。

通信機越しにも関わらず、加賀は感謝に腰を折った。


「……赤城。赤城、さん」


視線の先では飛龍が赤城の肩を叩いていた。
さすがにこれは赤城も無視できなかったらしい。
彩雲がどうの、江草隊や友永隊の配属が羨ましいだの、そんな世間話をしているようだ。


「今度こそ、あなたを、守ってみせる」


懺悔するかのように、加賀は声を絞り出した。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


掻き分けられた波濤が白んでは後方に消えていく。
海風が頬を流れて耳を掠める。
目指す空には雲一つない。
後背から照りつける強い日差しを、赤城は微塵も厭うことはなかった。

連合艦隊は可能な限りの速度で北進していた。

当初予定ではこの時間、艦隊はミッドウェー島に攻撃を行っているはずであった。
一時的に島の反撃能力を低下させてのち、反転して敵機動部隊との決戦に臨む。

事前に立案された作戦は、大まかにはこんなところだった。

しかし現在、艦隊はミッドウェー島防衛部隊の射程を避けるようにして、西に回り込みつつ北進を続けている。
詳細な説明は省かれたが、どうやら敵の主力機動部隊が事前の予想を覆して南下を開始したらしい。
それも「鬼」級の新型空母を擁する、極めて強力な部隊だ。

島を攻撃している最中に挟撃を受けることを、提督は強く懸念した。
前大戦の二の轍を踏むようなものだ。
当然、加賀を通して作戦目的の変更を通達してきた。

作戦目的とは即ち、敵空母機動部隊の確実な撃滅である。


ミッドウェー島の真西まで来たところで艦隊が速度を緩めた。
同時に多数の索敵機が北へと飛び立っていく。
駆逐隊は先行して哨戒網を形成するのだろう。

ここから先の水域において会敵する可能性が、非常に高いということだ。


「MI島部隊に動きはありますか?」

「……ない。まったく、ない」


ただ一人、艦隊の東端に陣取る利根だけが、電探をフル稼働させながら真東を――ミッドウェー島の方角を睨みつけていた。
加賀の質問に対する彼女の表情は、実に訝しげなものであった。


「それは果たして、朗報と受け取ってもよいのですか?」

「そのはずじゃ。そのはずなのじゃが……なぜ動かぬ? 我らに気付いておらなんだか? いや、だったらどうして機動部隊は南下を始めた? 連携が取れておらんのか?」

「……機動部隊撃破前に挟撃を受ける可能性が生じたら、旗艦である私の判断にて即時撤退します。これは提督より事前のお指図を受けてのことです」


加賀は冷静を保ったままそう断じた。
飛龍と蒼龍は頷いたが――


「赤城?」


赤城の耳には、すべての音がおぼろげにしか聞こえていなかった。

先ほどから、何度も何度も頭の中で声がしている。
赤城の声だ。
そう、紛れもなく『赤城』の声だった。

索敵をおろそかにはするな。
今度こそ醜態を晒すな。
慢心は大敵である。
絶対に沈むな。
絶対に沈めろ。
敵を探せ。
敵を倒せ。
倒せ。
倒せ。
倒せ。

殺せ。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




カエセ





◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「――ッ!」

「敵艦発見!! 航空攻撃の射程内までわずかです!!」


『声』が赤く「染まった」のと、長良のつんざくような叫びが響いたのとは、ほぼ同時だった。

加賀が静かに弓を構える。


「空母機動部隊、第一次攻撃用意」


飛龍が、蒼龍が矢をつがえる。
連合艦隊全艦が臨戦態勢に入っていく。

赤城は『声』を振り払うように小さく一呼吸した。
心気を統一する。
弓を構えた。

敵がいる。
この矢先が向く遥か果てに、私の宿敵がいる。
なぜだかその確信だけは、なんの疑問も伴わずにすとんと胸まで落ちてきた。


駆逐隊が続々と引き返してきては陣に加わる。
長良が矢継ぎ早に指示を出して水雷戦隊を統率する。
利根、筑摩、霧島、榛名が四方を固める。
陣形の中央には空母四隻が鎮座して、航空戦闘の主力を担う。

いよいよ陣形が完璧に整った。
交戦開始が迫るに連れ、艦隊を取り巻く空気が徐々に熱を帯びていく。


「ところで長良。報告は正確なのね?」


そんな中、加賀が短く問いを発した。
ほとんどの者がその意味するところを理解しなかったが、長良だけは小さく首を縦に振った。


「私が発見したのは、敵『艦隊』じゃあありません。敵『艦』なんです」


赤城の心臓が一度、ひっくり返りかねないほどに大きく跳ねた。

霞む水平線の向こう側に、小さな小さな黒い、そして赤い影が、一つ。
いる。
あそこに、いる。




「敵は、『鬼』級空母ただ一隻です……!」




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


抑えがたい衝動が怪物を突き動かしていた。

索敵をおろそかにはするな。
今度こそ醜態を晒すな。
慢心は大敵である。
絶対に沈むな。
絶対に沈めろ。
敵を探せ。
敵を倒せ。
倒せ。
倒せ。
倒せ。

殺せ。

すべてを置き去りにして怪物は進む。
進む。
突き進む。

やがて水平線の向こう側に、蠢く無数の影を怪物は認めた。
いる。
あそこに、いる。


「ヨコセ、ワタシニ。ソシテ、オマエモ……」


怪物は笑った。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


そして怪物は、出会った。


「ナンドデモ、ナンドデモ、ナンドデモナンドデモナンドデモ――シズンデイケッ!!」

「南雲機動部隊、一航戦、そして『赤城』の誇りにかけて――第一次攻撃隊、発艦ッ!!」


怪物もまた、出会った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

いろいろ細かい問題点もありましょうが、生温かい目で見ていただければ幸いです
ご一読ありがとうございました


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


思い出すのはあの日の記憶。
『赤城』が沈んだ日の記憶。

飛び交う怒号。
空を埋める黒煙。
火柱に染まる艦橋。

命が零れ落ちていく。
母なる海へと還っていく。
赤城はその様をただただ、どこか遠くの場所から眺めている。
どこか遠くの場所だと思っている。
思いこもうとしている。

手を伸ばした。
光に向かって。

名を呼んだ。
愛しい人の名を。

そして、なにもかもが暗い水底へと沈んでいった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


鉄の鳥が空を埋め尽くす様は圧巻だった。

風切り音が鳴る。
烈風が敵機と馳せ違った瞬間、叩き落としていた。

稲妻が迸る。
紫電が敵の後背を取って撃墜した。

影さえ消える。
熟練の操る零戦(ゼロ)が、空に無数の墓標を打ち立てた。


「制空権、確保!」


敵味方合わせて百を数えるであろう翼が飛び交う。
幾十の鳥が落ちる激戦の末、空の覇者が勝ち鬨を上げた。
勝利に沸く艦戦の隙間を縫って攻撃機が飛び出していく。
目指すは敵、「鬼」級空母。

星雨が降り注ぐ。
彗星が、天山が、大挙して怪物に襲いかかった。


赤城は、いまだ視認には遠すぎる敵空母を睨みつけた。
視線を片時も外さないまま、つい先刻のやりとりを反芻する。


『一隻!? どういうことなのよ長良、随伴艦はいないの!?』

『待って、今偵察が戻って……空母の後方から遅れて南下してきている艦が、五隻確認できました!』

『馬鹿な! 旗艦が随伴艦を置き去りにしたというのか!?』

『なんの理由があってそんな……』

『皆、落ち着きなさい。敵随伴艦との距離は?』

『どれだけ早く見積もっても、この戦場に到着するには、一時間はかかると思う……思います』

『……航空戦に半刻かけたとして、猶予はもう半刻。どちらにせよ、この好機を逃す手はないわ』


加賀が目を見開いた。


『ここで、確実に落としましょう』


航空戦の結果、味方艦隊まで到達した敵艦載機は一機たりとも存在しなかった。
いかに「鬼」といえど四対一では無理もない。
敵方に随伴する防空艦が一隻でもいれば、また状況は違っただろう。

一つ気になる点があるとすれば、味方航空隊の損耗率の異様な高さである。
数の上で四対一だったとは思えないほど、南雲機動部隊の艦載機は消耗させられていた。
飛龍所属の友永隊、蒼龍所属の江草隊はさすがの生還率であったが、他が酷い。

敵航空隊の練度は、少なくとも友永・江草両隊に匹敵するということだ。
自らが撃墜される寸前になってもなお敵を道連れにするその執念などは、見ていて寒気がするほどだった。


「友永隊、天山、目標到達!」

「江草隊、彗星、同じく!」


爆炎、半拍置いて爆音。
水飛沫が上がって敵空母を覆い隠す。
霧状になった海水が、一時艦隊の視界を遮った。


「これで終わってたら楽なんだけどね」

「飛龍、それフラグよ、フラグ」


二航戦が軽口を叩いていたが、今の赤城に乗る余裕はない。
霧の向こうを見通さんばかりに凝視する。
唾を飲もうとして飲みこみそこねた。
喉がカラカラだった。


「距離、よし……高度、よし……」


霧島が眼光鋭く左手を掲げた。
弾着観測射撃の態勢だ。
彼我の距離は航空戦の間にじわじわと縮み、今や戦艦主砲の射程内だった。

靄が徐々に晴れていく。
その向こう側に、ゆらりと仁王立ちする影を認めた瞬間、


「全門、斉射ぁーーっ!!!」


霧島が主砲の発射音にも負けない怒声を張り上げ、


「な……!?」


同時に「鬼」が、霧の中から一直線に飛び出してきた。
その耳元を、脇腹を、41cm砲から放たれた豪火が掠めていった。


表情を視認するにはまだ遠いが、赤城には一つ、確信できたことがあった。

敵――空母棲鬼はこの血腥い地獄にあって、なお嬉しそうに笑っている。


「申し訳ありません、外しました……!」

「大丈夫です、榛名さん! 私と利根姉さんでフォローに回りますから!」


航空母艦が、戦艦や巡洋艦に対してレンジを詰めてきた。
彼我の射程差を考えればまずありえない愚行だ。
水上戦闘の常識をまるで逸脱した行為に、一瞬連合艦隊の動きが止まる。

そのわずかな隙をついて、狂人は着々と距離を縮めてきていた。


「速度10ノットで後退、同航戦の形態で引き撃ちを行います! 空母部隊は第二次攻撃用意!」


そんな状況下においてなお、赤城の相棒は冷静だった。
加賀が的確に指示を飛ばして戦線を整理していく。
こうなると連合艦隊もさすがに歴戦の兵だ。
動揺は刹那の内に収まり、水雷戦隊の砲撃を中心に一撃、また一撃とダメージが積み重なっていった。


だが。


「堅い……っ!」


赤城は臍を噛む思いで拳を握った。
敵は装甲も耐久力も相当なレベルにあるらしい。
最初に戦艦の砲撃を外されたのも痛手だった。
空母棲鬼は幾十の小さな弾痕をその身に刻みながらも、前進を止めようとはしなかった。


(なぜ?)


眼前の狂える怪物に対して疑問は尽きない。

なぜ随伴艦を無視して突出したのか。
なぜMI島部隊と連携しないのか。
なぜ二次攻撃を行わないのか。
なぜ距離を詰めてくるのか。
なぜ、なぜ、なぜ――


赤城の脳裏をぐるぐると巡る疑問のうち、一つが次の瞬間霧散した。


「……あ」

「秋雲っ!!」


怪物が急激に、掻き消えたと錯覚せんばかりに速度を上昇させた。
前衛を務める駆逐艦の一人に肉薄する。

その手に握られていたのは、血のように赤くぬめる6inch砲だった。


「――――ぁぁっっ!!」

「秋雲、秋雲おおおっ!!!」

「副砲!? そんな、データにはなかったはず……!」

「落ち着いて! 落ち着いてみんな! 大破艦を下がらせて! 水雷戦隊は陣形の穴を埋めて!」


赤城は奥歯を砕かんばかりに噛みしめた。
さすがの加賀も絶句している。

空母が空母たる意義を放棄しての近接戦闘、そしてゼロ距離射撃。
正しく、狂人による凶行以外のなにものでもなかった。


規格外、そう言う他にない。
装甲、耐久に加えて、敏捷性も尋常なものではなかった。
先ほどはこちらの攻撃を避ける素振りも見せなかったが、その気になれば極めて高い回避性能を発揮するだろう。

あれでもしも正常な判断力を有していたら、もしも随伴艦を伴っていたら。
そう思うと肌に粟が生じる。

間違いなく、赤城が今まで出会ってきた中で最強の敵だった。

さりとてこのまま指をくわえているわけにもいかない。
赤城は弓を渾身の力で引き絞り、憎き深海よりの使者に狙いを定めた。


「第二次攻撃隊、発艦はじ……」

「待って赤城さん! 前衛と敵の距離が近すぎる! このままだと誤爆するわ!」


蒼龍に利き腕を掴まれて制止された。
忸怩たる思いで赤城は弓を下ろす。
見れば戦艦勢も同じ結論に達した様子だ。

数の上では圧倒しているというのに、決定打を加えられない。
歯痒さと無力さとが、胸の奥できりきり渦を巻いた。


しかし戦局は待ってはくれない。
焦りを押し殺したように声を張り上げたのは利根だった。


「加賀! MI島の連中が動き始めたぞ!」

「っ……到達までの猶予は?」

「観測機が戻るまでの時間を省いて……一刻。それ以上は保証できん!」


一秒か、二秒だったか。
加賀が目を伏せ思索に入った。

そうしている間にも水雷戦隊と空母棲鬼の間では激闘が繰り広げられている。
不意を突かれた秋雲以降、幸いにも大破艦は出ていない。
だが赤城から見れば時間の問題だった。

時間。
そう、時間がない。
敵の随伴艦隊に合流されるのも、MI島部隊に側面を突かれるのも、いずれにせよ時間の問題だ。


『加賀、鶴だ。お前にもわかっているだろう』


耳の内側から声がした。
司令本部からの通信だ。
その声の持ち主とは即ち。


「提督……!」

『瑞鶴考案の例の戦術で行こう。なかなかに常軌を逸した策だが、この気狂い相手ならばむしろおあつらえ向きだ。条件も整っている』


赤城はもう一度空母棲鬼を見やる。

怪物は水雷戦隊の撃滅を目的としているようには見えない。
明らかに怪物は、水雷戦隊の先にいる「なにか」を攻撃目標に定めている。
そういう動きだった。
今のところは水雷戦隊が、それを必死で留めているという形なのだ。

五百年の昔に廃れた、それも陸の戦術。
しかし確かに、「鶴」を使うには絶好の機会だった。


「しかし、『鶴』は護衛艦隊への損害が……」

『時間がない。加賀、これは当然のことだが、艦隊運用に付随する事象のすべては私に帰責する』


提督の声には強い意志の色が覗いていた。
誰もなにも言えない。
あの加賀をして気圧されていた。


『やれ』


最後の言葉は、命令は短かった。
腹を括ったのは加賀より赤城の方が早かったようだ。


「加賀さん。やりましょう」

「……随伴護衛艦隊! 密集しなさい!」


面を上げた加賀にも、もう逡巡の色はなかった。


全艦が後退を停止した。
輪形陣を崩して水雷戦隊が密集隊形をとる。
満身創痍の駆逐隊に変わって霧島が、榛名が利根が筑摩が、次々とその身を砲弾に晒した。

空母棲鬼からすれば的が動かなくなった上に大きくなったようなものだ。
6inch砲の弾が面白いように命中していく。
反面、霧島たちの反撃は信じ難い反射速度によってことごとく回避される。
致命弾を回避する、という程度の正気だけは辛うじて持ち合わせているらしかった。


「もう少し……もう少しだけ、持ちこたえて……」


祈るようなつぶやきは誰のものであっただろうか。
果たして祈りは神に通じた。
「準備」が整うまで、見事長良たちは随伴護衛艦隊を維持しきってみせた。


「散ッ!!」


合図と同時に前衛が左右へと弾ける。
鶴翼が天に向かって開くかのごとき、美しいまでの艦隊運動だった。

怪物からすれば、眼前を塞ぎ続けていた鬱陶しい壁が自分から消えてくれたことになる。
ついに空母棲鬼は、連合艦隊の中核たる空母機動部隊を視界に捉え――


「沈みなさい」


その鼻っ面目がけて、一機一機が無双を誇る最強の航空機編隊が殺到した。


「ナッ」


護衛が稼いだ時間を使い、敵に気取られぬよう水面すれすれで空中編隊を敢行した、南雲機動部隊の精鋭操縦士たち。


「ガアアアアアアアアアアアッッッッッ!?!?!?」


彼らの完璧な空中統制の下、狂える怪物に雷火の鉄槌が叩き込まれた。


「やったああああ!!」


歓声が上がる。
赤城も思わず握り拳を振り下ろしていた。
間違いなく有効打、場合によっては致命傷だ。
憎き強敵の歪んだ顔が、はっきりと赤城の目にも




















「――――――あか、ぎ、さん?」


仰向けに倒れ果てた怪物は、腕を天に伸ばしたまま少しずつ沈んでいき、やがて赤城たちの目の前から消えた。
作戦目的を達成した連合艦隊は鎮守府に帰還する。

戦果を自慢し合う者、傷を癒しにドックヘ運ばれる者、さっそく戦勝祝いだと食堂へ駆け込む者。
様々だった。


「……なにか?」


そして赤城は、帰還早々執務室へ向かおうとした加賀の肩を、思いきり掴んで引き止めた。


「あの人は誰ですか」

「あの人、と言われてもわかりません。固有名詞を出してもらえるかしら」

「それがわからないから聞いているんです!!」


胸倉を突き上げる。
加賀は無表情を保っていた。


「ちょ、ちょ! ちょっと待ってよ!」

「赤城さん、赤城、落ち着きなさいって!」


飛龍と蒼龍が泡を食って割り込んできた。
それにも赤城は噛みつく。
そうせずにはいられなかった。


「加賀さんが教えてくれないのなら、飛龍さん、あなたでも構いません。誰ですか、あれは」

「それ、は」

「……教えてくれないんですか、私には。私が、私が」


周囲が諍いに気付いたのかざわつき始めた。
しかし赤城は一切を無視する。


「私が、着任して間もない、未熟で練度の低い空母、だから、ですかッ!!!」


「落ち着きなさい、『赤城』」


加賀が柔らかな声色で自分の名前を呼んだ。
赤城。
そう、自分は赤城だ。


「加賀さん。あなたにとって私は『赤城』です。そうですよね? だったら」


加賀は答えない。


「あなたにとっての『赤城さん』とは、いったい誰のことを指すのですか?」


加賀は答えない。
沈黙が答えだった。
飛龍も俯いている。
蒼龍は目を逸らした。
沈黙が、あまりにも雄弁だった。


「……ああ、私は」


赤城は膝から崩れ落ちた。
わかっていた、理解していた。
本当は頭の片隅では理解できていた。

あの怪物は何者なのか。
なぜ加賀が、飛龍たちが、赤城より遥かに早く着任していた古参の艦たちが、その相貌を目にして一様に顔色を変えたのか。

本当はすべてわかっていた。

沈みゆく怪物が伸ばした左腕に、その薬指に、なぜ「あんなもの」が存在していたのか。
己の同じ指には存在していない「あんなもの」が、いったいどうしてあそこにあるのか。


「そう、なんですね。私は。私は」


そして、なにより、なによりも。


「加賀、飛龍に蒼龍もか。これはいったいなんの騒ぎで……」

「提督、待ってください! 今はダメです!」


どうして私の愛する人は、


「私は、二人目、なんですね?」


私に対してあんなにも、


「あか、ぎ?」


悲しげな目を向けるのか。


「ねえ、提督、お願いです。私を見てください。『私』を見てください」


なにもかも、赤城はわかっていた。


「提督。提督。お願いだから、『私』から、『赤城』から――」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


第四話「目を逸らさないで」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


怪物は夢を見ていた。

否、それはややもすると、夢ではないのかもしれなかった。

視界の彼方、遠くに光がゆらめいている。
少しずつ遠ざかる光、消えていく光。
それがなぜだかどうしようもなく悲しくて、光に向かって腕を伸ばす。

遠い昔にも、こんなことがあったような気がした。

左腕。
その薬指には、指輪。
愛する人からの指輪。
愛の証の指輪。
なによりも大切な指輪。

愛おしげに指輪をさする。
その瞳の色は赤。
歪んだ赤。
歪んで、濁ってしまった赤。


「……トク……アナタトナラバ……ウンメイノ、ゴフンカンモ……」


摩耗した記憶を愛おしげに抱きしめて、再び怪物は水底へと沈んでいく。

『赤城』の悪夢は、まだ終わらない。

当初予定よりちょっと長くなりそうですが、一応ここで折り返しです
戦闘については、うん、まあ……見逃してやってください
ご一読ありがとうございました


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


彼に初めて出会ったのがどれほど昔のことになるのか、今となっては定かではない。

経験の浅い未熟な新米提督。
初めのうちは自分が彼を導く立場だった。
艦隊唯一の正規空母として、かの人を正しく導くことこそが、『赤城』の役目だった。

幾十の戦場を共に駆け抜けた。
砲弾と血の雨をくぐり抜けるごとに、一歩ずつ逞しくなっていったあの人。
いつしか保護欲は被保護欲とすり替わり、敬愛は情愛へと変質していった。

よく通る声。
生真面目さの滲み出る横顔。
繋いでみたら思いの外大きかった手のひら。
抱きしめられて知った鼓動の熱さ。

そして赤城は、愛の言葉と共に指輪を贈られた。

泣いて、笑った。
口づけを交わした。
必ずこの人の許へ戻ってくると、誓いを立てた。




その翌日の出撃を最後に、赤城が鎮守府へと戻ることは、二度となかった。




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第五話「消せない傷」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「かくして我が艦隊は、新型『鬼』級空母こと空母棲鬼を撃破し、ミッドウェー島攻略に向け橋頭保を築いた、と」


どうにか平静を取り戻した赤城は、執務室にて加賀と並び立っていた。
第一次ミッドウェー攻略戦の経緯を、加賀が簡潔に説明する。


「素晴らしい戦果だ。敵機動部隊の不意の南下という事態にも関わらず、お前たちは実に冷静に対処し、最良の結果を出してくれた」

「光栄です、提督」


加賀が報告を敬礼で締めくくる。
提督が帽子のつばを人差し指の腹で撫ぜた。

そう、第一次作戦は考え得る限り最良の結果に終わった。
ミッドウェー島攻略に際し、最大の障害となる主力機動部隊の、その首魁を潰した。
大破艦は終わってみれば駆逐艦一隻。
味方空母の損害はごくわずか。
すぐにでも第二次作戦を発令できる状況だ。


「ここまではいい」


提督が帽子のつばの右端をつまんだ。
その指先に震えはない。
しかし赤城は見逃さなかった。
間違いなくその指先には強い力が、そしてなにかしらの感情が込められている。

そう、ここまではいいのだ。


「赤城。空母棲鬼の行動と、その他諸点について、存念があるとのことだが」

「……はい」

「それは、今聞かなければならないことなのか?」


男の目つきは荒鷲のごとく獰猛で、鋭かった。
つい先日、大衆食堂でレンゲを差し出してきた男性と同一人物だと、にわかには信じ難かった。


赤城は負けじとその眼差しを見つめ返した。


「少なくとも私にとっては、今訊かなければならないことです」


加賀の視線を頬の辺りに感じたが無視した。
提督は机に肘を突き、顔の前で手のひらを握り合わせると、


「……聞こう」

「では単刀直入に申し上げます。我々が今しがた遭遇した空母棲鬼」


息を吸う。
吐く。
二度は繰り返さない。
一度で十分だった。


「彼女は『赤城』です」


一度で、十分だった。


しばし、刺すような静寂が執務室を覆った。

赤城は加賀の方を見る。
加賀は目を瞑って直立不動の姿勢を保っていた。
心なしか肩が強張っている。

提督に視線を戻す。
彼は赤城の言葉にも微動だにしなかったが、言葉を発することもなかった。

彼らを責めたいわけではない。
赤城は口を開く。


「彼女はかつてこの海に沈んだ赤城の一人です。本戦闘における攻撃目標は私でした。私以外のことはまったく、それこそ敵味方問わず眼中になかった、といって過言ではありません。彼女の目的は、私をその手にかけること、それ以外にはなかったのです」


彼らを責めたいわけではない。
ならばなにをしたいのか、と聞かれたところで赤城には答える術がない。

いったいなにをしたいのか、赤城自身にもわかっていなかったのだから。


「……なぜ『空母棲鬼』に狙われていたのが、自分だと思った? 聞けば交戦の直前、お前の様子がおかしかったとのことだが」


その問いには答えなかった。
頭の中の『声』のことを、なぜだか言う気にはなれなかった。


「確かにな、赤城。お前の言う通りだとすれば、あの空母棲鬼の不可解な行動にも、一部説明がつく」


随伴艦隊を置き去りにしての突出。
MI島防衛部隊との稚拙な連携。
愚かにもレンジを詰めてまで機動部隊に迫ろうとしたその行動。

なんのことはない。
狂人による凶行、単純にそれ以外のなにものでもなかったのだ。
そしてその狂気の矛先は、ひたすらに鋭く研がれて自分に――赤城に向けられていた。

要するに、ただそれだけのことだったのだ。


「だが、戯言の域を出んな」

「提督!」


視線が交錯し、パチリと音を立てた。
見かねて加賀が割り込んでくる。


「赤城。確かに深海棲艦の出自には諸説あるわ。轟沈した艦娘がその由来だとする風聞も、この界隈ではまことしやかに囁かれている」

「しかし、それを証明するような研究結果は未だ出ていない。風説は、あくまでも風説だ」

「……彼女の左薬指には、指輪が嵌まっていました」


告げた瞬間、提督と加賀の表情に変化はなかった。


「深海棲艦が装飾品を身に付けてはいけない、という法もないでしょう」


加賀が涼しい顔で返してきた。
本気で言っているとは思えなかった。


「百歩。百歩譲って、だ。かの空母棲鬼が、かつてどこかの海に沈んだ艦娘であったとして。過ぐる日我々の仲間であったのだと仮定して」


提督が細長く息を漏らす。
将棋の駒を指すかのごとく、小さく強く、言葉の刃を叩きつける。


「すでに彼女は沈んだ。我々の……私の命令によって沈んだ。轟沈し、ミッドウェーの水平線のその下へと、還っていった。いいか赤城、原則を忘れるな」


その一手を以って詰みだった。
その一手があるからこそ、ある意味で提督と加賀は平静を保っていたのだろう。
赤城に返す言葉はなかった。


「沈んだ艦は戻ってこない。絶対に。それがこの海のルールだ。もう……すべては終わったことなんだよ」


まるで自分に言い聞かせているようだ。

そう、赤城は思った。


返す言葉はなかった。
至極正論だった。
死者の正体を詮索することなど、こと戦争においてはなんの意味もない。
死者が決して戻ってこないことを、軍人ほど実感している者は他にいないからだ。

加賀が、飛龍たちが、そして提督が、たった今ミッドウェーでなにをしたのか。
赤城の推測――赤城にとってはもはや紛れもない事実――が正しいとした場合、なにを「してしまった」可能性があるのか。
考えるだに恐ろしいことだった。

だから赤城は諦めた。
怪物の正体を彼らに認めさせることを、今は諦めることにした。


「了解しました。ですが提督、最後に一つだけ」


ただ、一つだけ。


「なんだ」


一つだけ、どうしても明らかにしておかねばならないことがあった。
どれほど不毛な行為だとしても、それだけは聞いておかねばならなかった。




「あなたの思い出の海に、指輪を受け取った『赤城』は棲んでいますか?」




◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


返答を得て、赤城は執務室を退去していった。
部屋には男と、その秘書艦の加賀だけが残された。


「加賀」

「なんでしょう」

「私が赤城に対して、お前に『彼女』を重ねてなどいない、と告げたとして……その発言に、説得力はあるか」

「客観的に見て、ありません」

「そうか」


苦笑した。
そう言われるとは思ったが、それにしてもあまりに直截な物言いだった。

そしてなんとも困ったことに、男は「これ」以外の方法を思いつかなかった。


煙草を一本ケースから抜き出す。
口に咥えたところで、隣に佇む秘書艦が自分の喫煙行為を好ましく思っていないことを思い出した。

彼女の前の秘書艦なら、自分の好きなように吸わせてくれた。


「っ」


無意識のうちにそう考えていた自分に、男は嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
誰しも消せない傷がある。
そして男の傷は、どこまでも深く、どこまでも醜い。

火も灯さず自己嫌悪に浸っていると、斜め後ろからライターが差し出された。


「加賀?」

「私は、信じます」


首だけで振り返った先には、加賀の真剣な表情があった。


「あなたは『赤城さん』も『赤城』も、等しく愛している。愛していた」


煙草の先端が仄赤く染まる。


「その想いは、等量で、不可分で、だけれども確かに独立している」


吸う。
煙が肺に優しく染み渡る。


「それをあの子に……赤城に、はっきりと告げてあげること。私から言えることは、このくらいだわ」

「……ありがとう、加賀」


懐かしい感覚に、頬を一筋伝うものがあった。
椅子を回して窓の方を向く。
背後で加賀が部屋を出ていく音がした。
もう一度、心の中で優秀な秘書艦に感謝を告げた。

消せない傷を抱きしめながら、今はもうどこにもないはずの愛しい面影を、男は暫時追憶することにした。


彼女に初めて出会ったのがどれほど昔のことになるのか、今となっては定かではない。
ただ、初めて出会った時のことは鮮明に思い出せた。


『航空母艦、赤城です。空母機動部隊を編成するなら、私にお任せくださいませ』


頭を思いきり、金槌で殴られたような衝撃が走った。

経験の浅い未熟な新米提督。
その下に配属された最初の正規空母。

彼女にすればそれが始まりだったのであろう。
だが男にとっては違った。
一目だった。
一目見て、落ちた。


「赤城」


呼んだ名は、明確に「一人目」を意識してのものだった。
もはや彼女のものではなくなった名前。
右手が左の薬指をまさぐる。


「なぜ、私より先に死んだ」


かつてはそこにあった指輪を求めて、右の指は空を切った。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


赤城は――かつて赤城と呼ばれた怪物は、己の左手を大事に、大事そうに胸の内に抱きしめる。
膝を丸め、目を瞑り、世界のすべてを己の意識から遮断する。
そうして意識を左手の、その薬指に集中する。
右の親指で左の薬指の付け根を撫でる。
冷たい金属の感触。

愛おしい冷たさだった。
懐かしい愛おしさだった。
今にも消えてしまいそうな懐かしさだった。

赤城は――自分が赤城と呼ばれていたことさえ忘れた怪物は、己の左手を大事に、大事そうに胸の内に抱きしめる。
そうしている間だけは、幸せな夢に浸っていられたから。

幸せな悪夢に、いつまでも浸っていられたから。

ずいぶん間が空いてしまいましたが、今後はさくっと終わらせにいきます
今月中には確実に完結させて次のスレにいきたいですね
それではご一読ありがとうございました


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


一陣の風が吹く。
風に落ちた軍帽を拾って、彼の頭に被らせてあげた。
歳若く実直な青年は途端に頬を染めて、


『子供扱いしないでもらいたい』


と怒鳴りながら、軍帽を頭の上から押さえつけて深く被り直した。
その様がおかしくて、くすくすと笑ってしまった。
青年はさらに怒ってそっぽを向いてしまう。
慌てて、謝って、なだめた。
しばらくすると青年も許してくれたが、それ以来、意味もなく軍帽を深く被るのが彼の癖になった。

自分だけが知っている、彼の秘密だった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第六話「あの日の旋律」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


北太平洋ミッドウェー諸島。
旧帝国海軍にとって悲願の地である。
少なくとも当時の海軍司令部は、この島を奪取すれば早期講和への道が開けると、そう公算を立てていた。

日ノ本の軍人にとっては、遥か見果てぬ夢への道標。
片手をかけながらも辿りつけなかった場所。

そしてそれは、瑞鶴ら五航戦にとっても。


「終わってみれば呆気ないもんね」


瑞鶴はミッドウェー島港湾部をあてどなく散策していた。
激しい戦闘の跡があちらこちらに残されているが、敵勢力が撤退した後とあっては静かなものだ。
見上げた空だけが青々しく、横須賀で見るそれと変わりなかった。


第二次MI作戦は一次作戦で温存された五航戦を中核として進められた。
北太平洋西部の制海権を握った連合艦隊は一気に進撃。
MI島に肉薄し、島防衛の最後の砦である中間棲姫と対峙した。
中間棲姫は呆れるほどの耐久力を誇る化物であったが、制海権を失った挙句、昼夜問わずに攻撃されてはさすがにどうしようもない。


「三式弾って反則よね……私なんて周りの雑魚を掃除してただけじゃない」


結果、呆気ないほど簡単に、悲願の島ミッドウェーは陥落したのであった。

瑞鶴と姉の翔鶴は、太平洋戦争におけるミッドウェー海戦に参加していない。
直接の敗因は奇襲を受けたことだが、もしも自分がその場にいれば、と夢想したことは一度や二度ではなかった。
敬愛する赤城、飛龍、蒼龍、ついでのオマケに加賀の無念を晴らす機会を与えられたことに、瑞鶴は内心狂喜していたのだが……


「なにかしらね、この微妙な気持ち。もう少し達成感があるもんだと思ってたわ……」


重い。
瑞鶴個人の心持ちとしてもそうだし、艦隊全体に漂う空気も重い。

そして、この沈滞感の中心にいるのが――


「あ……」


埠頭の先端に見慣れた後ろ姿があった。
腰まで届こうかという長く艶やかな黒髪が、潮風にさらさらと揺れている。

赤城さん。

そう声をかけようとして、瑞鶴は少しためらった。
輪郭がぼやけて見える。
いつもの凛とした佇まいからは程遠く、触れようと手を伸ばした瞬間、消えてしまいそうですらあった。
それほどまでに、赤城の後ろ姿は弱々しかった。


「赤城さん。こんなところでボーッとしてたら危ないわよ?」


一瞬の躊躇を乗り越え、それでも瑞鶴は赤城の背中に向かって呼びかけた。
その背をさらに通り越した水平線上に、いくつか極小の船影が浮かび上がっている。
すべて味方の哨戒艦だ。


「深海棲艦の増援部隊が動いたらしい、って赤城さんも聞いてるでしょ? 私たちは、なんとしてでもこの島を死守しなきゃいけない」


MI島奪取後に深海勢力が再奪取を図ってくることは、大本営の予測の内だった。
だからこそ今現在、この島には瑞鶴たちの守るべきものが「いる」のだ。


「提督さんはあなたが……私たちが守るの。私たちの手で、命に代えても」


大本営がMI島駐留艦隊の司令に任命したのは、瑞鶴たちの提督だった。
陽動のAL作戦を無事に成功させた提督は、横須賀からはるばるこの北太平洋までやってきた。
今頃は仮設司令部で防衛計画のチェックに追われているはずだ。

そう、すべてはミッドウェーの因縁に決着をつけるために。


だというのにここにきて、もう一つ奇妙な因縁が持ち上がってきてしまった。
それがすべての「重さ」の原因だった。


「……瑞鶴さん」


赤城がようやく声を上げた。
振り返りはしなかったので、表情までは窺えなかった。


「瑞鶴でいいってば。あなたの方が艦として先輩なんだし、さ」

「でも練度はあなたの方が上ですよ……もっと言えば、着任だってあなたの方がずっと先です」


事実だった。
そして赤城の言の葉の裏側には、物言いたげなむず痒さが張り付いていた。

赤城はなにかを聞きたがっている。
なにを聞きたいのか、少し考えればすぐにでもわかるはずだったが、あえて瑞鶴はなにも考えずに赤城の隣まで歩み寄り、並び立った。

なぜなら瑞鶴は、彼女を友人だと思っているからだ。


「聞いてもいいですか?」

「どうぞ」


真横からの問いかけ。
寄せては返す波濤の果てに視線を置いたまま、瑞鶴は頷いた。


「なぜ、沈んだのですか?」


主語のない問いかけではあったが、聞き返す必要はなかった。


「……特にね、なにかドラマチックな事情があった、とかじゃあないのよ」


先代赤城。
その呼び方が相応しいものかどうかはわからないが、確かに瑞鶴は彼女の最後に立ち合ったうちの一人だった。
誰かからそのことを聞いて、こんな質問を投げかけてきたのだろう。


「19がガダルカナルで、戦艦ノースカロライナに魚雷を当てたって話は聞いたことある?」

「手前のワスプを狙ったら、外れた魚雷が10km先のノースカロライナとオブライエンに偶然命中したという……まさか」

「多分、だけどね。私たちは必死で魚雷を発射した艦を探したけど、周囲に敵影はまったく見つけられなかった。だから、その時と同じことが起こったんだと思う」


赤城が隣で嘆息する気配がした。
無理もない。
当時の瑞鶴とて、嘆くより先に呆然と立ち尽くしてしまったのだから。


「撤退中ではあったけれど、索敵はまったく怠ってなかったわ。当然よね。なにせあの人が旗艦だったんだから」


だというのに、赤城は沈んだ。
撤退中、中破状態で流れ魚雷を二発被弾。
奇跡的な確率で起こった、半ば事故に近い悲劇だった。
無情。
他に言葉はなかった。


「せめて鎮守府には連れ帰らせてほしい、っていう私たちの頼みも、あの人は聞き入れてくれなかった。あなたたちの身を危険に晒したくないから、それに、提督さんにこんな姿を見せたくないから、って」


命なき姿での帰還を拒む赤城に待ち受ける運命は、雷撃処分、それのみだった。
最後の決断を下したのは無論、通信機の向こう側の提督だった。

ごめんなさい。
彼女が最後に発した言葉に、提督はなにも返さなかった。
言いたいことが多すぎて、ついぞ言葉にならなかったのだ、と瑞鶴は思っている。

再び、痛いほどの静けさ。
十秒か、百秒かして、赤城が唇を割った。


「もう一つ、いいでしょうか」

「ええ、どうぞ」

「どんな人でしたか?」


瞼を下ろし、眼球への光を遮った。
赤城がなにを考えているのか、難しくはあるが考えれば届きそうな気もする。
だが瑞鶴はあえてなにも考えず、ただ赤城の問いかけにのみ真摯に向き合うことにした。

押し黙った。
赤城が答えを急かしてくる気配はない。
彼女の優しさに――あるいは臆病さ、だったのかもしれない――に甘えて、瑞鶴は瞼裏に過ぎ去った日々を投影することにした。


赤城。

南雲機動部隊所属、第一航空戦隊一番艦。
我らが鎮守府最初の正規空母。
我らの提督とともに、幾十の鉄火場を突破してきた古強者。

赤城。

加賀の相棒。
飛龍と蒼龍の戦友。
翔鶴と瑞鶴にとっては頼りがいのある優しい先輩。

赤城。

かの人が、愛した人。

赤城。

それは彼女が沈む瞬間まで、彼女のものであり続けた名前。
瑞鶴たちが、唯一彼女のためのものであると信じた名前。

赤城。

今この瞬間瑞鶴のすぐ横で、寒さではないものに震えている彼女の名前。
彼女が自分たちの前に現れた瞬間、彼女のものになった名前。


瞼を上げて光を迎え入れる。
初めて赤城の顔を見る。
赤城もこちらを見た。


「あなたには、あまり似てなかった、かな」


顔が似ていた、とは思う。
声が似ていた、とも思う。
纏う空気が似ていた、という風にも思える。

愛した人も、同じだった。

それでも瑞鶴は目の前の友人と、喪った先達が似ているなどとは微塵も思わなかった。
彼女と彼女は別の存在だと、はっきりそう思っていた。
ただ、それを口に出すことはしなかった。

それは自分の役目ではないと、そう思ったからだった。


そのかわり、ただ笑いかけた。


「そう、ですか」


赤城も笑った。
笑みの奥の翳りは消えていなかった。


「赤城さん」

「はい」

「あなたが来てくれてよかった。ここにいてくれてよかった。前にそう言ったわよね」

「はい」

「その気持ちに、嘘偽りはないから。それだけは、覚えておいてほしいかな」


信じてほしい、とは言わなかった。
そのかわり、ただ笑いかけた。


「……はい」


赤城も、笑った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


瞼を閉じればいつでも思い出すことができる。

その見目の麗しさに一目で撃ち抜かれた。
長く時を共に過ごすうち、彼女の内面に触れてますます惹かれていった。


「赤城」


目を瞑ったまま、男は一言呟いた。

周囲が思っているほど食い意地は張ってはいなかった。
そのくせ食べ物を目の前に出されるとついペロリと平らげてしまう。
時折、頭の中の声がどうこうなどと言い出す、いわゆる「不思議ちゃん」な側面もあった。

そんな、子供じみた素顔。

索敵の重要性を何度も何度も、口を酸っぱくして説かれた。
戦場での峻厳な顔の裏側で、過去の慢心から来る恐怖に苛まれていた。
そのことに気付くまでにだいぶ時間がかかってしまった。

初めて見た、弱々しい素顔。


戦術を巡って激論を交わした。
喧嘩など数えきれないほどやった。
食事を共にして水に流すのがお約束だった。
どこにでもある大衆食堂が二人の行きつけになった。
敗北を背負ってともに泣いた。
勝利を分かち合ってともに笑った。

愛を告げ、思った以上に華奢な身体を抱きしめた。

忘れまいとしているわけではない。
忘れようと思っているわけでもない。
ただ、忘れられなかった。
瞳を閉じている間だけ、自然と思い出された。


「提督」


ノックの音がして、一瞬後に声がした。
瞳を開く。
ミッドウェー島基地の仮設司令部で、男は一人椅子に腰掛けていた。

開いた瞳に映る世界に、彼女の影は揺らめくことすらなかった。


「入れ」


軍帽を意味もなく深く被り直しながら、男は来訪者を迎えた。


「一航戦、赤城。入ります」


男は驚かなかった。
仮に、扉が開く前にその声を聞いていなかったとしても、おそらく驚かなかっただろう。
なんとなく、来る気はしていた。


「提督。お話があります」

「奇遇だな。私もだ」


瞼を開いた世界にのみ存在する愛しい人の姿を捉えながら、男は懐の小箱に意識をやった。


「場所を、変えよう」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


耳鳴りが絶えずしている。
うるさい。
眠らせてくれ。

怪物は呻いた。

もういいじゃないか。
苦しい目には散々遭った。
辛い目にも散々遭った。
楽しいこと、嬉しいことがあったのかは思い出せない。
あったかもしれない「あの日」を、今となっては思い出すことができない。

ただあたたかさだけがあった。
優しいあたたかさだけが左腕の先からじんわりと染みて、全身を包み込むかのようだった。

もう、いいじゃないか。
これで終わりで、いいじゃないか。
このあたたかさを抱いて沈んでいけるのならば悪くはない。

声にならない呟きとともに、怪物はゆっくりと、水底のさらに下にある地獄へと





トリカエセ





びくん。

水中に横たえられていた怪物の身体が、一つ大きく跳ねた。
眠りに沈んでいくのを待つばかりだった瞳が、突如くっきりと見開かれる。


「――カエセ」


再び光を宿した瞳の色は、いっそう激しく歪みねじれた、血のような赤だった。

三分の二が終了、あとは最終盤を残すのみです
ご一読ありがとうございました


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


そして、怪物は。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第七話「ほら見て、こんなに        」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「……この辺りでいいか」

「はい」


満ちる直前の月が煌々と辺りを照らし出していた。
男は赤城と二人、日の落ちたミッドウェーの浜辺で向かい合う。
遠くの方で哨戒に当たる艦隊が、二度、三度と探照灯を回転させた。


「私の話から、先に始めさせてもらっても?」

「はい。私もそのつもりでした」

「そうか。では、赤城」

「はい」


一呼吸、挟む必要性すら感じなかった。
すでに覚悟は決まっている。
男は赤城の相貌をじっと見つめながら、


「お前を、愛している」


告げた。


「先に言っておくが、旗がどうのという言い訳は聞かんぞ。今言っておかねばならないと思った。この気持ちに勝るものはない」


今言わなければ後悔する、と思った。
今言わなければ、赤城は途轍もない間違いを犯すのではないか、とも思った。
根拠はないがそんな気がした。

赤城は目を伏せたまま、男の告白に身じろぎもしなかった。
男は辛抱強く待った。


「『一人目』よりも、ですか?」


ようやくその形の良い唇から洩れた言葉は、不気味なほどに平坦で抑揚がなかった。


「その呼び方を、私は認めるつもりはない」

「便宜上の問題です。他に呼びようがありませんから」


男は小さく憤慨したが、赤城の側は取りつく島もない、という態度だった。
これ以上この点において争っても仕方ない、ということらしい。


男は細く息を吐いた。
息と一緒に、なにか大事なものが漏れ出ていったような気がした。


「比べられない」


返した言葉は短かった。
そして、紛れもない本心だった。


「お前と彼女を比べることなどできない。比べることに意味もない。なぜなら彼女は、もう死んだからだ」


偽らざる本心だった。
そして、残酷なまでに正しい真実だった。


「彼女のことは、終わったことにすぎない。今の私にとってはお前だけが唯一だ……信じられないか?」


実に姑息な問いかけだ、と男は内心自嘲した。
加賀が言ったように、客観的に見てこの発言に説得力を求めるのは無理がある。

男は前任者の存在を赤城に隠していた。
男のどんな意図がそこに介在していたのだとしても、赤城の存在の根本に関わる重大な事実を隠匿していたことは、客観的に見て否定のしようがない。


言ったところでどうしようもないことだった。
一言で表せばそういうことになる。

あなたと同じ名前の前任者は、あなたがこれから仕える相手の想い人でした。

そんなことを言われたところで赤城にはどうしようもない。
返答のしようがない。
新米を委縮させるだけの結果に終わるだろう。
加賀を始めとする艦娘たちもこの意見には賛同してくれた。
だからこそ、誰も赤城に本当のことを言わなかった。

しかし今になって考えれば、それは単なる臆病さの発露にすぎなかったのかもしれない。


「信じ、られないか?」


もう一度問いかけた。
信じられないだろう。
念を押しているかのような響きが、無意識のうちに言霊に浸透していた。

しかし。


「いいえ、信じます」


赤城が面を上げた。
普段通りの涼やかな表情だった。


「あなたは私を代替品として扱ったわけではないと、そう信じます」

「……そう、か」

「そして、だからこそ。あなたがそういう人だと信じているからこそ、お聞きしたいことがあります」


間髪入れずに、だった。
わずかな心の隙を突かれた。
愛の言葉の返礼を、求める暇もなかった。


「『一人目』に、帰ってきてほしいとは思いませんか?」


風が凪いだ。
沈黙が、耳にうるさいほどだった。


「正直に言おう」


一つ一つ、男は言葉を丁寧に吟味する。
ここから先の答え方に正解はない。


「まったく思わない、といえば嘘になる」


しかし、おそらく間違いはある。


「だがそんな議論に意味はない」


言ってはいけない言葉が、ある気がする。
そう思うと慎重にもなった。


「意味はあります。私が彼女の代替品ではないように、『一人目』も、彼女もまた私の代替品ではありません。れっきとした一個人です。提督、あなたはまだ、彼女を愛しているのですよね?」

「違うな。まだ愛している、ではない。かつて愛していた、だ。彼女はもう死んだ。沈んだ艦は決して帰ってこない。それがこの世界のルールだと、そう言ったはずだぞ」


「本当にそれで良いのですか?」


良い悪いの問題ではない。
怒鳴り散らしたい思いを必死で我慢した。
あと何回、彼女が死んだと認めれば許されるのだ。


「どちらをより愛しているか、という質問には曖昧なまま答えていなかったな」


それでも怒りを押さえつける。
赤城に対しての怒りではない。
この無情な世界に対する怒りだった。


「だがこれならば言える。どちらが大事なのか、それは決められる」


決まりきっている。


「今、ここにいるお前の方が、大事だ」


「……提督」

「帰ってこない者のために、今ここにいるお前を蔑ろにしたくはない。たとえそれが、泉下の彼女の心をいかほどか傷付ける行為だとしても、だ」


瞼に映る夢の世界よりも、瞳に映る現の世界を選ぶ。
それが男の結論だった。


「彼女は死んでなどいません! 私たちの前に姿を現したではありませんか!」


そして赤城は、男に夢を切り捨ててほしくはない、と思っているらしい。
現の世界の住人でありながら、男に幻影を追ってほしい、とそう思っているらしい。
それは果たして赤城の優しさなのか、あるいは――


「百歩譲ろう。お前たちが目撃した指輪が、かつて私が誰かに贈ったものとまったく同一であったと仮定する」


だがしかし、その議題はすでに「詰」んでいる。


「だが『鬼』はもう沈んだ。私たちはすでに、彼女の眉間に突きつけた銃の、その引鉄を引いてしまった後なのだ」


それでも赤城は諦めない。
なぜか諦めない。


「死んだと思われていた『一人目』が生きて、ああして姿を現したのならば、もう一度蘇ってくる可能性も否定はできません!」

「仮定の上に仮定を重ねる、か。いいだろう。もう百歩譲ろう」

「もう、百歩?」

「万が一私が、作戦開始よりも前に、かの『鬼』がかつて愛した女性の成れの果てであるという報せを、真偽が定かでないとはいえ得ていたとする」


男は諦めた。
一つ諦めて、一つ選んだ。
だからこそ今の自分がある。
だからこそ、赤城はこうして自分の目の前にいる。


「それでも私は、やはり引鉄を引くだろう」


男は、「一人目」をすでに諦めていた。


「割り切るん、ですか」

「ああ、そうだ。割り切る」


赤城が唇を噛んで俯いた。
愛する人に「あなたが一番大事だ」と告げているのに、どうして愛する人をこんなにも悲しませる羽目になるのだろう。


「割り切れる、ものなんですか?」

「できるできないの問題ではない。割り切るんだ」


実をいえば男にはもう、その理由までもがわかりきっていた。


「……私が」

「ああ」

「いつか私が、死んでも」

「ああ」

「私が死んでも、あなたは……私を、割り切るんですか?」

「……ああ。軍人だからな」


やはりそうか。

男は心中密かに頷いた。
赤城が今抱いている焦燥感の根本は、まさにこれだ。
だからこそ彼女は、「一人目」の存在を男に認めてもらいたがっているのだ。


「赤城。お前は私にとって、この世で最も大事な存在であると同時に――戦友だ。軍人である以上、戦友の死なら私は割り切る。割り切れなくとも、割り切ろうとするだろう」


赤城がいっそううなだれる。
男の言の葉の一つ一つが、間違いなく赤城を傷付けている。
赤城を傷付けるたび、男の心臓もまた、切り裂かれたような悲鳴を上げている。

だが言わなければならない。
これまでに多くのことを赤城に隠してきたからこそ、今はすべて本当のことを告げねばならない。
これ以上のごまかしは、赤城に対しても「彼女」に対しても、この上ない不誠実になるからだ。


「だから、死ぬな」

「……え」


だから、告げた。


「死ぬな、赤城。私よりも先に沈んでくれるな。私にお前を、割り切らせないでくれ」


懐から小箱を取り出して、赤城の目の前で開いて見せた。
上等な意匠の小箱。
執務机に大事に仕舞いこんだものとは、大本営から支給されるそれとは、また別の。
五ミリほどの窪みがある。
ちょうど、そう。
例えば指輪などを収めるのに、ちょうどよい大きさの――

ぽた、と音がしてひとしずく、砂浜に吸い込まれて消えていった。


「わた、しで……いいん、ですか?」

「お前がいい。お前だけがいい」

「だって、だって! なら彼女のことは!」

「切り捨てる」


言った瞬間、心臓を真っ二つに裂いたような痛みが、喉の奥まで這い上がってきた。
間違いなく自分は今、とてもとても大事にしていたなにかを、自ら足蹴にして踏み砕いた。
許されないことをした。
死ねば地獄行きは免れないだろう。


「赤城、赤城。それはもうお前の名前だ。お前以外の何者のものでもない、お前の名前だ」


そうまでしてでも男は、目の前で泣きじゃくる愛しい人を胸に抱きたかった。


「お前たちが見たものは、ただの………………怪物、だ」






「名前のない、怪物だ」






すべての音がしなくなった。
時が止まった。
少なくとも、男はわずかの間そう錯覚した。


「ああ」


錯覚に過ぎないと気付いたのは、胸の中に閉じ込めた女性が声を上げたからだった。
ああ、と一言、短い声だった。
言葉ですらなかった。


「ああ……」


異様だった。
思わず男は、腕をほどいて女の顔を覗きこんだ。


「気付いていますか、提督」


女は泣いていた。
相変わらずはらはらと泣き続けていた。


「怪物が、ここにいます」


零れ落ちていく涙粒には、一欠けらの感情もこもってはいなかった。
赤城はただ、事実として泣いていた。


「なにを言っている、赤城」

「いるんです、ここに。見えませんか?」

「見えない。私にはなにも見えない」

「いるんです」

「だから、どこにだッ!!」

「……私の、中に」


自分が息を飲む音が、鼓膜を破らんばかりに激しく響いた。


「提督、提督、見てください。提督、提督、見てください」


口元は寂しげに笑っている。
目尻は悲しげに下がっている。
両手は嬉しそうに広げられている。
涙にはなんの感情もない。
最後に赤城は、踊るように回って海上の月を背にした。


「私の中の怪物が――」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第七話「ほら見て、こんなに          」












     「             大きくなったの」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


多くのことが一度に起こった。

怪物がいた。
赤城のことではない。
男は赤城を怪物とは認めていない。
赤城の後ろに怪物がいた。
比喩でもなんでもなく、真っ赤な月を背中に負って、そこに存在していた。

空母棲鬼が――否、空母棲「姫」がそこにいた。

走った。
腰の銃に手をかけた。
赤城が後ろを振り向く。
叫んだ。
声が聞こえた。
歓喜の声だった。
狂喜の声だった。
さらに走った。
走りながら銃口を怪物に向けた。
怪物の眉間に向けた。
男はついに、怪物と出会った。
その顔を見た。
叫んだ。


「ああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!!」


次の瞬間、男の右肘から先が、弾け飛んだ。

ふう、あとちょっと
ご一読ありがとうございました


猛進してくる影があった。
おそらく声の持ち主だろう。
こちらに小銃を向けている。

怪物は回避の必要性をまったく感じなかった。
この身体にニンゲンの兵器は通用しない。
そのことを怪物は知識として知っていた。
なぜか知っていた。
ゆえに、男の存在を意識から消し去った。

女が、怪物の敵がようやく、一歩飛び退いて臨戦態勢に入った。
しかし遅い。
はるかに遅い。
撃つ。
殺す。

ドン。
パン。

撃った。
殺した。

怪物がそう心の中で反芻したのと完全に同時だった。
怪物の耳元を、風の塊が掠めていった。


音が二つした、という事実に怪物はようやく気が付いた。
自分が放った砲撃の、ドンという音。
それよりはるかに小さくて軽い、パンという音。

なんの音だ。
決まっている。
耳元を掠めた風の正体だ。
銃声だ。
誰の立てた銃声だ。

そこまで考えたところで、怪物の視界をなにか白い物が横切った。
ひら、ひらと夜風に舞い上がった「それ」は、やがて音もなく地に落ちる。
白い、布で出来た、人の頭ほどの大きさの「それ」。

怪物は無意識のうちに、「それ」に向かって手を伸ばしていた。
軍帽だ。


『提督、お帽子が落ちましたよ』


瞬間、筆舌に尽くし難い痛みが脳髄を内側から掻き毟った。


痛みそのものは一瞬で去った。
軽く目まいがしたが、首を振って払いのける。
怪物の視線は、月明かりに青白く照らされた軍帽から、そのすぐ近くにある「赤」へと自然に移っていった。


「ありがとう、ございます」


女の声がした。
怪物にとって不倶戴天の敵である、女の声がした。
声はほとばしるほどの殺意に満ちている。
悪意ではない。
敵意ですらない。
純然たる殺意そのものだった。


「ありがとうございます。私に『正義』を与えてくれて」


女の姿はすぐに見つかった。
「赤」のすぐ近くに跪いて、なにか布を引きちぎっている。
周囲を守護するように無数の航空機が飛び交っている。


しかし怪物の眼中には女の姿も、最強の敵たる空の精鋭たちの影も、完全には入っていなかった。
すべての感覚が、その向こうの「赤」を捉えて放さなかった。


「これで理由ができました。これで理由が増えました」


「赤」の真上に横たわるものがある。
ちょうど人間のような大きさをしている。
ちょうど人間のように手足が付いている。
ただし手足のうち一本が不自然に短い。
ちょうど人間のように、胸の部分を荒く上下させている。
ちょうど人間のように頭が付いている。
頭の表面にはまるで人間が苦痛に耐えているかのような、歪みきった表情が張り付いている。


「あなたを壊す、理由ができました」


月明かりが差し、その顔が怪物の目にも――


「―――――――――――ァァァァァッッッ!!!!!!」


「赤」は血だった。
「赤」は人間だった。

遠い昔にどこかで出会っていたような気がする、人間だった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


第八話「黒い雨」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


加賀が現場に辿り着いた時、すべては終わっていた。


「提督っ!」


最初に目に付いたのは赤黒く変色した砂浜と、その上に横たわる提督の姿だった。
すぐ横に上衣を脱いだ赤城が座りこんでいる。
服を脱いで引きちぎり、止血に使ったのだろう。
血に汚れた布がそこらに大量に転がっていた。

仰向けにされた提督には右肘から先がなかった。
左腕にも無数の裂傷が走っている。
顔を背けたくなるような光景だが、軍人にとっては悲しいことに、これもまた日常の一環である。
あまりにも非常識な、自分たちの日常の一つにすぎない。

加賀は額に人差し指を当てて、一つ深呼吸をした。
なすべきことをなさねばならない。
まずは現状の把握からだ。

提督の右上腕にはきつくきつく布が縛り付けられている。
応急手当はまず適切なようだ。
手近な妖精を呼びつけて軍医を急がせた。


少し離れた場所で砂浜が窪み、内側が煤けていた。
爆破の跡、それも爆撃機によるものだと加賀には瞬時にわかった。
おそらくは九九艦爆だ。

対照的に赤城と提督の周りには、ほとんど戦闘の跡が存在していない。


「敵襲を受けたと聞きましたが。これはどういう状況なのです、赤城」

「……提督が、私が回避行動をとったその瞬間、敵の射線上に入ってしまいました。そのせいで、私を狙った砲弾が、銃を構えた腕を抉ったんです」

「……なんということ」

「完全な直撃とまではいかなかったのが、不幸中の幸いでした」


こう言っては酷だが、提督のとった行動は愚かだとしか言いようがない。
人間と艦娘では肉体のスペックがそもそも違う。
なにしろ直撃でもない一撃で腕を持っていかれているのだ。
砲弾を受けたのが赤城だったならば、少なくともここまでの重傷ではなかったはずだ。
ましてや指揮官が部下を庇うなどとは――


「しょうがなかったんです。相手が、相手でしたから。提督が冷静な判断力を失ったとしても無理ありません」

「……敵を取り逃がしたとのことだけれど」

「私も提督の治療で手一杯でしたから、追撃をかけられず。申し訳ありません」

「……そうね。その点に関してはしょうがないわ。それにしても、哨戒艦はいったいなにをしていたのですか……!」

「彼女たちを責めないであげてください。あれはどうしようもありませんでした」


赤城は落ち着いた様子だった。
声のトーンもいつもどおり涼やかなものだ。


「どういう意味かしら」


それがかえって、加賀には奇妙に思えた。


「怪物……敵、空母棲姫は哨戒網の内側に、この場所にいきなり現れたんです」

「……要領を得ないわ」

「生まれたんですよ。今、この場所で。深海棲艦が。哨戒網になどかかるはずがありません」

「なん、ですって」

「現に彼女は、哨戒線を内側から突破していったのでしょう?」


そういう報告は確かに入っていた。
この場に現れた空母棲姫が、こちらの哨戒網をくぐり抜けるような技術を有していないことの、完璧とは言えないまでも有力な証左だった。


「そして、彼女がなぜここで生まれ変わったのか。私のすぐ側で目を覚ましたのか。最早説明の必要はありませんね?」

「……空母棲姫は、指輪を?」

「していました」


加賀は天を仰がずにはいられなかった。
『赤城』の悪夢は、まだ終わっていないということなのか。


「加賀さん。彼女はどこへ?」

「島から見て二時方向。敵増援が到来すると思われる、まさにその方角に他ならないわ」

「そう、ですか……」


増援、と口に出したところで加賀は、迫りくる現実の重苦しさに眉をひそめた。
提督は人事不省の重傷だ。
しかし次なる作戦は防衛戦。
指揮官がいかなる状態にあろうと敵は待ってくれない。

提督抜きで戦うしかない。
加賀が数呼吸の間に至った結論が、それだった。


「赤城、もう一つ確かめておきます。空母棲姫はなぜ撤退を……」


言いかけたところで、下から声がした。


「指揮は……私が執る……」


「提督……!? 喋ってはなりませんっ」


提督が薄目を開けて、うわごとのように呟いた。
うわごとのようでうわごとではない。
提督は確かに、しっかりとした意識の下で言葉を発していた。


「たか、が……腕の一本ごときで、大げさ、だ……お前たちが日頃受けている痛みに比べれば、この程度……」

「なりません、提督。まずはゆっくりお身体を休めて」

「加賀」


語気が著しく強まった。
死に体の男のそれではない。
加賀は口をつぐまざるを得なかった。


「引鉄は、私が引く。私が撃つ。外さない。撃たねばならない。今度こそは」


鬼を殺すと告げるその表情は、まさしく鬼の形相と呼ぶに相応しかった。


「大丈夫ですよ、提督」


その時だった。
場違いなほど涼やかな音色が空気を震わせた。


「あか、ぎ……?」


今まで黙りこくっていた赤城の声だった。
張り詰めすぎず緩みすぎず、完璧な調整の施された和弓のような声だ、と加賀は思った。


「私が撃ちます。ですから提督は、どうかお体を労わってくださいませ」

「ふざ、けるな。これは私の役目だ。私が、私が彼女の息の根を止める。今度こそ、眠らせてやらないと」

「撃ちます」

「赤城ッ!!」


提督がどれだけ雄々しく吼えようと、赤城は優しげな微笑みを崩さなかった。


「大丈夫です、提督。大丈夫です、提督。赤城は必ず戻って参ります」

「そういう問題ではない、と、こほっ」

「そういう問題なのです」

「……お前は」

「提督。赤城は絶対に、あなたとの約束を守ります。あなたから頂いた指輪にかけて」


はっとなって加賀は赤城の左手を見た。
薬指に指輪が嵌められている。
シンプルで飾り気のない、しかし見たことのない指輪だった。
以前に見た物とは違う。
少なくとも官製品ではない。

指輪を愛おしげに一撫でして、もう一度赤城は、小首を傾げながら微笑んだ。


「たとえなにが起こったとしても、あなたのところに帰ってきますから」


言葉を失うほどに、美しい笑みだった。


一週間後、MI島基地の電探がついに深海棲艦の増援勢力を捉えた。
MI島確保戦の幕開けである。
そしてそれは同時に、ミッドウェー海戦の最終幕でもあった。


「連合艦隊、出撃……!」


連合艦隊にして二個艦隊分、通常艦隊に換算して四個艦隊を投入。
第一連合艦隊を加賀、第二連合艦隊を飛龍が、それぞれ指揮する。
島に駐留一個艦隊のみを残しての全力出撃だった。
艦隊の存亡を賭けた一戦、といって過言でない。
なにしろこの戦に敗れれば、艦娘のみならず、彼女らの指揮官までもが命を落としかねないのだ。


「第一連合艦隊、交戦開始!」

「第二連合艦隊、敵影見ゆ! これより交戦に入る!」


戦端が開かれたのは一○○七。
空全体に分厚い黒雲の絨毯が敷き詰められていた。
雨が降っていた。
黒い雨だった。


数時間が経過した。

戦局はこちらに有利に推移していた。
決して楽な相手ではない。
楽どころか、敵増援艦隊は質量ともに極めて高い水準である。

それでも戦局は艦娘たちに有利だった。
士気が圧倒的に高いのだ。
背後に守る者がいるがゆえの強さ、そしてもう一つ。
転んでもただでは起きない、提督の勝利への執念の結実でもあった。


『皆、心配をかけてすまない』


指揮官不在という危機的状況。
重苦しい空気に囚われる艦娘たちの前に、突如として提督が姿を現した。
それも出撃直前という絶妙のタイミングで、だ。


『私はこうして無事だ。指揮は執ってくれるなと我らの秘書艦殿に泣いて頼まれたから、以後医務室に引っ込むことにするが……少なくともこうして、立って歩ける程度には無事だ。生きている。私は生きている。お前たちが守ってくれる限り、私は死なない。お前たちが生きて帰って、無事な笑顔を見せてくれる限り、死ねるものか。だから生きて帰ってこい。私を死なせないためにも、生きて帰ってこい』


お世辞にも褒められた演説ではなかったが、艦隊の士気は一気に爆発した。
提督は自らの負傷さえも逆手に取り、カードの一つとして切ってみせたのだ。


『加賀さん、大暴れして引きつけてやったわ! 今のうちに敵中枢を!』

『第一艦隊了解。ありがとう、飛龍。武運を祈ります』


交戦開始から五時間、加賀の率いる第一連合艦隊は、ついに敵旗艦へ向けて進撃を開始した。
艦隊に落伍艦はない。
陽動を引き受けてくれた第二連合艦隊も、損耗こそ激しいものの轟沈艦はないとのことだった。

あと一歩。
あと一歩ですべての因縁に決着を付けられる。


「……行きますよ、赤城」

「はい」


それでもなお加賀は、状況をまったく楽観視できていなかった。
原因はもちろん、加賀の隣の相棒にあった。


赤城を本作戦から外すべきか否か。
提督と加賀は何度も話し合った。

あの月夜の晩に目撃した言動が、あまりにも不穏にすぎる。
このまま行かせれば取り返しのつかないことになるのではないか。
二人の意見は一致していた。
そして、辿り着く結論もいつも同じだった。

正規空母を一隻遊ばせておく余裕など、今の自分たちにはない。

睫毛にかかる雨粒を払う。
せめて自分が目を離さずにいるしかない。
加賀はそう思っていた。


「いよいよね、赤城さん」

「必ず勝ちましょう、先輩っ」

「ええ。そして必ず、提督のところに戻りましょうね」


瑞鶴、翔鶴と言葉を交わす赤城の姿に気負いはない。
一次作戦の時より余程自然体だった。

これならば心配はいらない。
いらない、はずだ。


さらに一時間後、長良が短く叫んだ。


「敵影発見!」


艦隊に緊張が走る。
いよいよだ。
加賀は第一次攻撃の態勢に入る。
瑞鶴、翔鶴も当然それに倣う。
赤城は――


「赤城?」

「……ごめんなさい、加賀さん」


赤城は、水平線上に姿を現した敵に視線をやりながらも、弓を構えようとはしなかった。
加賀もつられてそちらを見る。

小雨に濡れそぼる視界の奥に、一、二、三、四、五。
敵影は五つ。
一つ足りない。
その上、陣形の中央に不自然な穴がある。
穴というより道だ。
まるで誰かを通そうと、道を空けているかのような――


「ここから先は、私一人で行かせてください。彼女が待っています」


「報告! 前方の艦隊よりはるか後方、敵影1! 敵旗艦かと思われます! 随伴艦の姿は近くにありません!」


ふざけないで。
そう加賀が怒鳴るよりも先に、長良が再び声を上げた。

待っている。
彼女もまた、赤城を待っている。
「鬼」だった時より格段に配下の艦を掌握しておきながら、それでも一人で赤城を待ち受けている。

雨粒が大きくなりはじめた。
ぽつぽつ、からざあざあ、へと。
海面の弾ける音が加賀の思考に斑を打った。


「加賀先輩。敵艦隊、航空攻撃の射程外で停止しました。攻撃を仕掛けてくる様子がありません……」

「……どうすんのよ、アレ」


翔鶴が戸惑いを隠さずに報告を上げてくる。
瑞鶴が神妙な顔で、矢をつがえたまま弓を下ろした。
艦隊全体が困惑に包まれていた。


状況がどうあれ、赤城の申し出を受け入れる道理はない。

第一に、敵が赤城を無事に通してくれる保証などない。
赤城が敵陣の中央まで進んだところで総攻撃を受けるかもしれない。

第二に、赤城一人では空母棲姫には勝てない。
「鬼」は連合艦隊と一人で互角に渡り合った化物だ。
それが「姫」級にまでなってしまったのならば、赤城一人で勝てる道理などどこにもない。

第三に、赤城を彼女の前に連れていくだけならば、こんな申し出を受ける必要はない。
今ここで敵随伴艦を殲滅し、然るのちに連行艦隊全艦で空母棲姫に相見えればよいのだ。


「加賀さん、お願いします」


正論はいくらでも頭に浮かんでくる。
しかし加賀はそれらを口には出さなかった。
赤城の目を見て、言うのをやめた。

赤城はわかっている。
加賀の言いたいことをすべて理解した上で、なおこんな無茶苦茶を言っているのだ。


「あなたのしようとしていることは、明確な軍紀違反です。鎮守府に、提督の下に戻れば、厳罰は免れませんよ」

「加賀さん……どうか、わかってはくれませんか?」

「間宮のアイス、一年分」

「え?」

「今後一年、引換券が支給されたら返上するように。ここにいる第一連合艦隊、全員で分け合うこととしますので。もちろんあなたの取り分はゼロです」

「……それは、ひどい厳罰ですね」


赤城が肩を竦めて苦笑した。
彼女の笑顔に違和感を覚えなかったのは、実に久々のことだった。


「ありがとう」


深々と加賀に、その場に居合わせた全員に頭を下げてから、赤城は行ってしまった。
敵艦隊は陣形の間を通り抜ける赤城に対して、視線を向けることすらしなかった。
相変わらず雨は酷い。
赤城の背中が視界から完全に消えるまで、五分とかからなかった。


「これで、よかったの?」


赤城の背を見えなくなるまで追っていた瑞鶴が、ぽつりと呟いた。


「よいわけがないでしょう。一航戦と五航戦は連帯責任なのですから、なにかあったら覚悟しておきなさい」

「わ、私たちもですかぁ!?」


翔鶴が泡を食ったように叫ぶ。
対照的に瑞鶴は、先ほどの赤城同様、軽く肩を竦めただけだった。


「あはは。やっぱり加賀さんは、赤城さんに甘いわね」

「言ってなさい。とにかく一度、司令部に通信を……」


耳に手を当てて総指揮を代理する大淀を呼ぶ。
目は前方の敵艦隊を捉えたままだ。
敵意は感じるが仕掛けてくる様子はない。
こちらから接近するまではあのままなのだろう。

と、その時だった。
切迫した声が脳の内側に直接響いた。




『か、加賀さん! 大変です! 大変なんです! 提督が……提督が……!!』




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


そして、怪物は出会った。


「こうして出会うのは三度目ですね、怪物さん」


怪物が小首を傾げて微笑む。
怪物はその目を見据えたまま動かない。


「改めて、自己紹介をさせていただきます。まだ『名』乗っておりませんでしたから」


怪物が頭を恭しく下げる。
怪物はただ黙ってそれを見ていた。


「こんにちは。私は怪物です」


降りしきる雨の中、怪物は出会った。
怪物は出会った。


「名前のない、怪物です」


怪物と、出会った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

次回最終話
相当長くなりそうですが無理にでも詰めこみます
ご一読ありがとうございました

では最後です
アホ長いですのでご注意ください


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


一介の新米提督と、一介の正規空母から始まった。
一緒によく笑い、泣き、食べ、怒り、また笑った。
なにをするにも共に時を過ごした。

なのに最後の瞬間だけは共にできなかった。
命のぬけがらさえも彼女は自分に残してくれなかった。
後には手足を根こそぎもぎとられたような、堪えがたい痛みだけが残った。

そして男は、赤城と出会った。
男は一介の中堅提督として、一介の新米空母である彼女に出会った。
出会ってしまった。

はじめのうちは顔を見るだけでも辛かった。
喪った恋人の影を重ねずにはいられなかった。
それが二人の赤城を侮辱する行為だと知りながらもやめられなかった。

なぜ私の前に現れたのだ。

無邪気に笑う赤城に対し何度も問いかけた。
誰も答えてはくれなかった。
声に出さなかったのだから、誰にも答えられるはずがなかった。


ある日、空母部隊の訓練を視察している時のことだった。
強い風が吹いて、男の軍帽が飛ばされてしまった。
軍帽は風に乗ってひらひらと、訓練中の赤城の下へと飛んでいく。

取ってくれ。
いや、取るな。

頭の中で二つの声が同時にした。
頭上を舞う帽子の存在に気付いて、赤城がなんの気なしに手を伸ばす。

取ってくれ、赤城。
やめろ、取るな、赤城。

次の瞬間、赤城はバランスを崩して濡れ鼠になっていた。

加賀の背筋も凍るような怒声が響き渡る中、男は両目を片手で覆って笑った。
自分でも意外なほど朗らかな笑いだった。
やがてそれは訓練中の部隊にまで聞こえるほどの呵々大笑となり、赤城と二人、加賀の前で正座をさせられた。
加賀の目を盗んで赤城が笑いかけてくる。
愛らしい笑顔だ、と素直にそう思った。

男はその時初めて、赤城の笑顔が彼女にそれほど似ていないことに気が付いた。
男はその時初めて、心からの笑顔を赤城に返した。
加賀に気付かれて説教が一時間伸びたが、些細なことだった。

その日以来、目を開いている時に「彼女」の影が横切ることは二度となかった。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


遠くの空で黒い絨毯が千切れた。
雲間からわずかに覗く夕陽はもう沈みはじめている。
雨はまだ止まない。
怪物と名乗った少女、赤城の言葉を、怪物はただ黙って聞いていた。


「私は一つ、思い違いをしていました」


取り返せ、取り返せ、取り返せ。
頭の中で声がする。
何度も何度も何度も何度も、無限に繰り返し続けている。

それでも怪物は黙って少女の、怪物である少女の言葉を聞き続けていた。


「返せ。あなたは何度も、私にそう訴えかけてきた。あなたが返してほしいものとは、あなたが愛し、私が愛した人。私があなたから奪った人」


少女の瞳に優しくあたたかな灯がともる。


「ずっとそう思っていました」


しかしまばたき一つののち、そこには静かな殺意のみがあった。


「あなたにはその権利があると思った。だから私は、あなたにならばこの居場所を譲ってもよい、とまで思いました」


切望の色、悲哀の色、嫉妬の色。
多くの色がその瞳を過っては消える。


「しかしあなたはあの人を撃った」


それでも下地の赤だけは揺るがない。
とろとろと弱火で煮込んだかのごとく、激しさはなくとも濃密な、真っ赤な殺意の色。


「どんな言い訳も聞く気はありません。あなたの身にどんなことが起きたのだとしても、あの瞬間あなたはあの人への愛より、私への純然たる殺意を選びとった。あの人は叫んだのに。あなたを見て叫んだのに。あたかも自分の存在を誇示するように、その耳に届くようにと声を上げたのに」


決して揺るがず、ますます色合いが濃くなっていく。


「なのにあなたはあの人を撃った。撃って、傷付けて、ようやく気が付いた」


気が付いた。
そう、気が付いていた。
怪物はあの時、なにか大事なものを忘れていることに、ようやく気が付いた。
苦悶に歪む男の顔を見た瞬間、思ったのだ。

このままこの場所で闘えば、あの男は確実に死んでしまう。

首の後ろから背筋にかけて、冷たいものが走り抜けていった。
この身体を受け入れて以来、初めて感じる恐怖だった。

男を死なせてしまう。
女を殺せ。

二つの声が右と左から交互に聞こえてきた。
女を殺せば男を死なせてしまう。
男を死なせなければ女は殺せない。

恐怖した。
選択を、決断をできない自分に恐怖した。
だから逃げた。
選択肢を保留して、あの月夜の浜辺から一目散に、怪物は逃げ出したのであった。

結果としてはそれで正解だった。
あの日あの時に感じた恐怖を、もう怪物は覚えていない。
思い出せない。
男の顔も声も、ぬくもりも、言葉も、なにもかもを覚えていない。

そうして怪物の内側には、眼前の怪物に対する殺意だけが残った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


「だからもう、あなたに私の居場所は返せません。別に構わないでしょう? そもそもあなたは、『それ』が欲しかったわけではないのですから」


赤城が放つ言葉を、怪物はただ黙って聞き続けていた。
その相貌にかつて浮かんでいた狂気はない。
こちらの言葉に、本当の意味で耳を傾けているのかも定かではない。

赤城はそれでも構わなかった。
聞いてもらうことに意味があるのではない。
言葉として口に出すことに意味があった。
これは赤城の禊だ。
誰に対するものかも、なんのためのものかも定かではないが、しかし間違いなく禊だった。

怪物の表情は動かない。
赤城の言葉の一切に反応を見せない。
ただ目だけが光っていた。
殺意の赤を宿して、仄暗く輝いていた。


ここまでは聞いてもらわなくとも構わない。
赤城は本気でそう思っていた。


「改めてお聞きします」


だがここからはそうはいかない。
聞いてもらわなくてはならない。
答えてもらわなくてはならない。


「あなたは私に、『なに』を返してほしいのですか?」


これだけは絶対に、なにがあっても確かめておかなくてはならない。
極論赤城は、「これ」を確かめるためだけに、一人でここまでやってきたのだから。

見据える。
殺意に彩られた赤い瞳を見据える。
自分の考えが正しいならば、その殺意の奥の奥には――


「――ナマエ」


透明な切望の色が、今もまだ棲んでいる。


「名前、ないんですか?」

「エエ」

「私に奪われたんですか?」

「エエ」

「私から名前を奪い返さない限り、あなたは何者にもなれない?」

「エエ」


赤城は笑った。


「私もです」


嬉しくも楽しくも悲しくも寂しくもないのに、なぜか笑みがこぼれた。


「私にも、名前がありません」


透明な笑みだった。


「ずっと思っていたんです。考えていたんです。薄々気付いていたんです。この世には私じゃない『赤城』がいる。なのに『私』は一人しかいない」


みんなが言ってくれた。
言葉に出して言ってくれた人がいれば、言外に告げてくれた人もいた。

自分は『赤城』である、と。
自分こそが『赤城』なのだ、と。
『赤城』はもう自分の名前なのだ、と。
みんながみんな、軽い気休めなどではなく、心の底からそう言ってくれた。


「だったらきっと、『私』は『赤城』なんかじゃない」


無意味だった。
他人がなにを言おうと、自分自身がそう思えない限りは無意味なことだった。


「あなたがいる限り。私があなたを『赤城』だと認めている限り。私は『赤城』にはなれない。私に名前はない。ただの怪物です。あなたを殺して初めて、私の『生』が開始する」

「……ワタシニモ、ナイ」

「あなたにとっては私が『赤城』です。だからあなたは私を殺したい。私を殺してようやく、あなたの『生』が再開する」


重要なのは客観ではない。
主観だ。
「赤城は誰なのか」という問いは二人にとって、主観の問題以外のなにものでもない。


「私が勝てば、私が『赤城』となってあの人の許に帰ります。では、あなたが勝ったら? あなたは『赤城』の名前を取り戻してのち、どうするつもりですか?」

「ワカラナイ。ナニモキコエナイ」

「本当に? 他になにも、声はしなかったんですか? 例えば――『死なせたくない』とか」

「ッ!」


その反応だけで十分だった。
これで100%だ。
元より99.9だった確率が、100になった。
それだけで十分だった。

これで『赤城』は、100%の確率であの人の許に帰ることができる。
自分が勝とうと、彼女が勝とうと。


「申し訳ありません、無駄な夢想をさせてしまいましたね。あなたは『赤城』にはなれません」


弓に左手をかける。
矢筒に右手を伸ばす。
澄みきった闘気が怪物の周囲を満たし、雨を裂いた。


「私が勝ちますから」


怪物が目を細めた。
瞳の底の殺意が表出する。
禍々しい闘気が怪物の周囲を渦巻き、弾けた。


「あなたに『赤城』は返さない。あなたにあの人は返せない。あの人を撃ったあなたを、あの人が撃てなかったあなたを、私が撃つ」


正義は与えられた。
悪意の代償は願った。
因果の代償はこれから払う。
払わせる。

黒い雨はまだ止まない。
沈みゆく夕陽が放つ最後の一条が、光の針となって二人の間の海を裂き、消えた。


「さあ、壊しましょう、怪物さん。互いが互いに、壊される前に」


さあ、この身体を受け入れ、共に行こう。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


最終話「名前のない怪物」


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


日が落ちた直後とはいえ夜間戦闘である。
尋常な練度の空母では、とてもではないが航空戦など行えない。
海戦の常識からして行えるわけがない。


「一次隊、発艦!」

「ユケ……!」


しかし二人はやってのけた。
血の滲むような修練の果てに限界を超えたかつての赤城はもちろん、未だ他の正規空母に劣る現在の赤城もやってのけた。

わかる。
目を瞑っていても相手の居場所がわかる。
本能が教えてくれる。

無論相手は静止目標などではなく、その上周囲は大雨かつ薄闇。
座標がわかったところで命中させるのは至難の業だ。

だがそれでもできる。
確信がある。
左の薬指が輝きを放っていた。
目に見える輝きではない。
力を感じた。
顔も声も言葉も温もりも、なにもかもを忘れてしまった怪物にさえ、指輪は力を与えてくれていた。


どうしようもない懐かしさが心臓の奥底でたゆたっている。
泣きたくなった。
否、泣いた。
あふれる涙を夜雨に融かしながら、怪物はそれでも戦いをやめようとはしなかった。

食らい尽くせ。

怪物が声を上げずに叫んだのと時を同じくして、第一次航空戦の幕が上がった。
次々と発艦していく球状の新型艦載機。
対する赤城も弓を幾度となくしならせ、闇空はあっという間に鉄の鳥の羽ばたきで満たされた。

聞く、見る、感じる。
五感のすべてを駆使して怪物は戦況を把握する。
とりわけ重要なのは敵艦載機の種類と数だ。
戦場が完全に宵闇に沈む前、このタイミングで測っておくしかない。

零式艦戦21型、約20機。
烈風、約20機。
そしてこの闇夜の中、最大の猛威を奮う『切り裂く雷光』。
震電改、約30機。

合計70機、すべて艦戦。

思いきった手に出てきたものだ。
航空優勢は譲るしかない。
怪物は瞬時にそう判断した。


だが構わない。
航空劣勢程度なら構わない。
この程度の優勢ならくれてやる。
せいぜいが劣勢止まりならば、


「――カミチギレ」


犠牲の多寡を問いさえしなければ、空の刃は敵に届く。

さあ避けろ、躱してみろ、もがいてみろ、そして沈んでゆけ。

混戦を抜け出した黒い鳥が5羽、赤城の喉元目がけて殺到していく。
艦攻1、艦爆4。
退路を顧みぬ神風特攻だ。

第一射、雷撃。
空戦の行方に最大限の注意を払っていたのだろう、赤城が素早く回避行動をとる。
左に身体を傾けた瞬間、雷撃が赤城の右方50cmほどの空間を通過していった。

第二射、爆撃。
態勢を崩した赤城に襲いかかる。
赤城は左手に持ったままの弓で海面を思いきり薙ぎ払った。
立ち上った強烈な水飛沫がその姿を覆い隠す。
爆撃は水の壁に遮られて狙いをわずかに逸れ、またも直撃を外された。


第三、第四射は二機編隊の同時攻撃。
赤城がバランスを失いながらも左から右に払った弓が、その先で待ち構えていた右手と合流する。
右の手にはすでに、艦載機を搭載していない空の矢が握られていた。
海面へと横っ跳びに倒れこみながらも、赤城が弓を引き絞る。
放たれる矢。
ありえない、と怪物がつぶやくより先に、第三の刺客はその身を貫かれていた。

信じ難い神業だった。
いったいなにがあの女に味方しているというのか。
目を瞠らずにはいられなかったが、攻撃はまだ終わっていない。

第四射を防ぐ術を赤城は持たない。
今度こそ終わりだ。

そう思った時、再び稲光が走った。
震電が空戦を強引に――後背を取った「姫」の艦載機を振り切らないままに――離脱し、母艦を襲わんとする仇敵の尾に食らいついた。
二つの翼が墜落する。
その身を呈して母を守り抜き、震電は荒波のただ中へと落ちていった。

この段階で直撃弾ゼロ。


「――――」


認めよう。
この結果は怪物の想定の上だ。
赤城は見事に自らの限界を超えてみせた。


「か、ぁあっ!!!」


だが限界を超えてなお、怪物の魔弾から逃れることは敵わない。
第五射、爆撃、直撃。


「ぐっ、つぅ……この、程度ぉ!」


赤城が「左肩」を押さえ、痛みに耐えながらも吼える。
左肩。
怪物が狙ったのは左に倒れこんだ際、自然と爆撃に晒される「右肩」のはずだった。
空母の命、飛行甲板が装備されている右肩のはずだった。

だというのになぜ左肩に命中しているのか。
答えは簡単だった。
赤城は爆撃が命中する直前、倒れた身体を半回転させて右肩を庇ったのだ。

この攻撃をもって第一次航空戦が終了。
すべての艦載機が各々の母艦に戻る。
結果、「姫」の損傷は完全なゼロ。
そして赤城の損傷は――小破。

小破止まり。
怪物の攻撃機、爆撃機は敵戦闘機の狂ったような猛攻に八割ロストという惨状だった。
そこまでやって、小破止まり。


「……ク」


腹の底から湧き上がる歓喜を押し殺して、怪物は短く笑った。


小破止まり。
結構ではないか。
大した問題ではない。

艦戦しか積んでいないことが割れた以上、彼女に攻撃の手段はない。
逆に言えば、攻撃の手段もないのに一対一の決闘を挑んでくるはずもない。

となれば、問題は第四兵装。
赤城は先の空戦で、烈風、零戦、震電の三種しか兵装を晒していない。
よもやここまできて偵察機ということもないだろう。
間違いなくあのスロットには攻撃用の兵装が積んである。
攻撃機か、爆撃機か、あるいは――

思案すべき問題は山積みだ。
しかし怪物はここで、このタイミングで、あえて狂った。
なされて然るべき思考の束をすべて放棄した。


「アアアアアアッッ!!!!」

「な……!」


放棄して、怪物は前進制圧を選択した。
赤城が立ち上がろうとする前にはもう動き始めていた。
前傾姿勢のまま6inch砲を構える。
艦載機は使用しない。
再発艦に時間がかかるというのもあるし、弓矢に撃ち落とされるような頼りない羽虫を出す気になれなかった、というのもある。


なにより怪物は、赤城を己が手で撃ち殺したかった。
己が手で、宿敵の命が砕け散る感触を味わいたかった。

赤城が濡れ鼠になりながらも慌てて体勢を立て直した。
重心を後ろにずらしたのがここからでも確認できる。
後退して戦況をリセットする腹積もりだろうが、すでに遅い。

二者を隔てる距離は今まさに、航空戦のレンジから砲撃戦のそれへと移行した。
砲身が唸り声を上げる。
敵対者の命を狩り取るべく、無慈悲な弾丸が空を穿つ。

中る。
怪物は確信した。

そして赤城は――


「……!」


今度は、怪物が息を飲む番だった。


「ああああああっっ!!!」


赤城はあろうことか弓を構えていた。
ろくに上がらないはずの左腕を軋ませて、矢を放ったのだ。


弓矢の風切り音は風雨にかき消される。
一拍置いて、爆音。
爆発は赤城から十数メートル手前で発生した。

つまり、赤城には中らなかった。
矢が砲弾を叩き落とすなどという馬鹿げた現象が、怪物の目の前で起こってしまった。

奇跡だった。
しかも今度は航空機よりはるかに小さい的に当ててみせた。
赤城は奇跡を二度まで起こした。
いや。
二度起こる奇跡など奇跡ではない。
ならばもはや、これは奇跡などではない。

刻一刻と濃密になっていく闇の中、怪物は小さな光を視界に捉えた。
目に見える光ではない。
怪物は眼球以外のもので、光がそこにあると感じとっていた。

光は、赤城の左薬指から発せられていた。


「ク、フッ。フフ、フ」


怪物は、また笑った。


ああそうだ。
それでこそ艦娘だ。
それでこそ『赤城』だ。
それでこそあの人が選んだ女だ。


「ソレデコソ――ワタシノコロスベキテキダッ!!!」


怪物の咆哮が遠く高くへ谺する。
それを号砲代わりにして、とうとう最後の攻防が始まった。

怪物は再び前進を開始した。
手札はすべて見せた。
この砲塔以外の武装で宿敵の命を狩るつもりなど毛頭ない。
再装填を開始する。
終了まで七秒。

対する赤城の手札も、ほぼすべてが場にオープンされていた。
残すは問題の第四兵装のみ。

さあ、見せてみろ。


「――――」


怪物の声なき声に応えるかのように、赤城が叫んだ。
最後の手札を渾身の力で叩きつける。
上に向けて。
怪物の「直上」に向かって。


「お願い、村田隊ッ!!!」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


大前提として。
空母棲姫はその異常なまでの俊敏性に裏打ちされるように、回避力が極めて高い。
前回の交戦では弾着観測射撃を回避してみせたほどだ。
これに攻撃を命中させようと思ったら、尋常な手段では通用しない。

誘導兵器があれば一番なのだが、艦娘の装備にそのような便利な代物はない。
ないなら知恵を絞るしかない。
赤城に思いついたのは、距離を詰めるか不意を打つかの二択だけだった。

そこで「村田隊」の出番である。

村田重治。
帝国海軍が誇る「雷撃の神様」の名だ。
飛龍飛行隊に友永丈市がいたように、蒼龍飛行隊に江草隆繁がいたように、赤城飛行隊には村田重治がいた。

音はしない。
この風と雨では、妖精の駆る艦載機の羽音など聞こえない。
影はない。
日はすでに落ちている。
ならば影など落ちるはずがない。
赤城の合図でようやく怪物は、航空戦の最中宵闇に紛れて姿をくらまし、たった今真上に迫りつつある脅威の存在に気が付いた。

気が付いて、くれた。


村田隊、と殊更その存在を強調するように大声で叫ぶ。
目線を上げさせる。


(――第四兵装、装着ッ!!)


同時に赤城は、第四兵装に積んだ15.5cm三連装砲を、右腕に顕現させた。

敵から詰めてくれた距離を、赤城の側からも前進して縮めにいく。
砲身を向ける。
この距離なら絶対に外さない。
撃つ。
中る。

ドン。

撃った。
中った。

爆音と雨音とに紛れてパラパラ、という機銃音が真上から降ってきた。
怪物の直上に迫っていた影なき影の正体は、零戦だった。
熟練の搭乗する精鋭機体ではあるが、決して攻撃機ではない。
ましてや「雷撃の神様」など乗ってはいない。
「雷撃の神様」が急降下爆撃などするはずがないし――そもそもそんな艦載機は、全鎮守府を通して未だ開発されていない。


赤城は賭けたのだ。
怪物が『赤城』であり続けている可能性に、賭けたのだ。
「直上」、そして「村田隊」。
赤城が『赤城』である限り、脳裏に焼き付いて離れないキーワードのはずだった。


(お願い、五秒で構わないから……!)


間髪入れずに次弾装填。
元より一撃で倒せる相手だとは思っていない。
それでも連続攻撃なら、そしてこの至近距離からの直撃弾なら。
そう思って赤城は賭けに出た。

すべては二回目を命中させる、その隙を作るため。

爆発が引き起こした粉塵は間もなく晴れるだろう。
装填を待たずして砲口を標的に向けた。
再装填完了まで残り二秒。
撃てば中る。
撃てば勝てる。
煙が晴れる。


「あ」


そして赤城は、自分が賭けに負けたことを悟った。


ゼロ距離で目が合った。
キーワードが琴線に触れなかったのか、あるいは策を看破されたのか。
怪物は直上から降り注ぐ豆鉄砲に、視線をくれることすらなかった。

赤黒くグロテスクな砲身が、大口を開いて赤城の鼻先で鈍い輝きを放っている。
怪物の右腕と一体化したかのような、食らった命の味を覚えているかのような、生々しい血の色。

撃つ。
撃たれる。

二つの確信が一斉に赤城の脳内で鐘を打った。

ドン、ドン。

砲声が二つした。
一瞬早かったのは怪物の6inch砲だった。
一瞬遅かったのは赤城の15.5cm砲だった。

赤城の砲弾は狙いを逸れて怪物の左脚部に吸い込まれる。
なぜこの距離で逸れたのか。
怪物の一撃が、咄嗟に盾代わりとした15.5cm砲を直撃したからだ。
最後の意地で一発叩きこんでのち、赤城の第四兵装はその役目を終えた。

戦況確認。
空母赤城、小破。
空母棲姫、中破。
中破。
中破止まり。
赤城にもう第四兵装はない。

勝敗は、決した。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


傷は決して浅くはなかったが、怪物は省みることをしなかった。
もはや怪物の頭には、この後到来するであろう敵連合艦隊も、ミッドウェー海戦の行く末もありはしない。

この勝負にさえ勝てればよかった。
そして、勝った。


「参りました、ね。これを躱されるなんて。賭けは、私の負けです」


もう赤城に攻撃の手段は残っていない。
間違いなく勝ちだった。
引導を渡すべく三発目の装填に入る。
完了まで七秒。

終わりだ、『赤城』。
こんなにも呆気ないものなのか、そう独りごちながら敗者の表情を見やる。

刹那、心臓が早鐘を打った。
脳髄に刻まれた戦いの記憶が警告を発した。


「では――もう一博打、打たせてもらいましょうか」


赤城の眼は、まだ死んではいなかった。


着弾の衝撃に、そして敗北の絶望に震えていたはずの赤城の身体が、流れるように動作する。
役目を終えた砲塔を投げ捨て、右手が背負った矢筒に伸ばされる。
そして左手は、よく見れば最初から弓を掴んでいる。
掴んでいるというよりは、放していなかったというべきか。

装填完了まで残り六秒。

無駄な足掻きである、と怪物の理性は断じた。
あの矢で落とせるのはせいぜいが艦上機までだ。
深海棲艦の、ましてやこの空母棲姫の装甲は絶対に貫けない。

残り五秒。

勝利の確信揺るがぬ怪物の眼が、信じられないものを捉えた。
赤城が矢筒から引き抜いた矢の先端に、艦上爆撃機が搭載されている――!

馬鹿な。
あり得ない。
思い返す。
赤城は70のスロットをフルに使って艦上戦闘機を投入したはず――いや、違う。

『赤城』の第一から第三兵装までの艦上機合計搭載数は「72」だ。
道中戦で墜落したか、些少な数え間違えだ、とばかり思っていたが実際は違った。

最初から使用していない艦載機が、わずかに一機だけ隠してあったのだ。


残り四秒。

これは、間に合わない。
弓矢など効くはずがないという慢心が一手の遅れを招いた。
回避行動がとれない。


「この九九艦爆に、私たちの『神様』は乗っていません。しかし」


残り三秒。


「それでも私は空母だった。あなたは空母であるべきだった」


限界まで引き絞られた矢が、目と鼻の先の宿敵を討たんと放たれた。
発艦とほぼ同時に九九が投下した爆弾は、弓矢から得た慣性に従って一時的に水平軌道を描く。

赤城のカウントがゼロになる。
怪物のカウントはもう進まない。


「あなたの敗因は、ただそれだけです」


心臓の真上に、赤城の渾身の一撃が炸裂した。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


決着だった。
空母棲姫の左胸には大穴が穿たれている。
いかに人ならざる存在といえど、これで助かるわけがない。

時間にすればおそらく、三十分程度の戦いに過ぎなかっただろう。
それでも丸一日分の生気を使い果たしたような心地がして、赤城は母なる海へと吸いこまれそうになる五体を必死で繋ぎ止める。
全身が汗と雨とでぐしょ濡れになっていたが、それを拭う気力さえ湧かない。

雨はまだ止まない。
風が強まっている。
夜は深まりつつある。


「カエ、セ」


そして怪物は、まだ動いていた。


「あな、たと、いう人は」


信じられなかった。
完全に致命傷のはずだ。
こんなことがあり得るわけがない。


その時赤城は見た。
怪物の左薬指が輝いている。
すべてを失った今もなお、目に見えない輝きを放ち続けている。

死闘の最中、幾度も赤城を助けてくれたあたたかな光。
火力、速力、空戦能力、対空能力、すべての面で怪物に劣る赤城を、この勝負の間だけ一つ上のステージに引き上げてくれた力。
大本営が開発したシステムの限界をも超えて、未熟な自分を支えてくれたあの人の愛。


「ああ……」


それとまったく同じ光が、愛が、怪物へと成り果てた彼女の真上に、今もまだ降り注いでいる。
泣きたくなった。
否、泣いた。

こんなにも愛し愛される二人が、なぜ引き裂かれなければならなかったのか。

残酷すぎる。
無慈悲にすぎる。
どうして彼女が死ななければならかったのか。
どうして自分は生まれてきてしまったのか。
あの人の誠心への裏切りだとは知りつつも、考えずにはいられなかった。

誰もが一生懸命だっただけなのに。
誰もが誰かを愛しただけだったのに。
誰もが幸せになれる結末を、どうして選びとることができなかったのだろう。


涙に曇る視界の果てに、一度目の攻撃を成功させて飛び去った九九艦爆が、必死でターンをかけている姿が映った。
残った6号爆弾が投下されれば、今度こそ空母棲姫は轟沈するだろう。
しかし遅い。
はるかに遅い。
もう間に合わない。

怪物に次の爆撃を避けるだけの余力は残っていないだろう。
これで怪物は死ぬ。
今度こそ死ぬ。
かつて赤城と呼ばれた怪物は、確実に死ぬ。

だがその前に自分も死ぬ。
空母棲姫はわずかに残された生命力を振り絞って、右腕の砲を放つつもりだ。
装填はすでに完了している。
赤城にこれを避けるだけの余力はない。
赤城と呼ばれている怪物も、確実に死ぬ。


(ごめんなさい、提督。約束、破ります)


なんということだろう。
100%などではなかった。


(『赤城』は、あなたの許に帰れませんでした)


死力を底の底まで振り絞り尽くした身体は、もう言うことを聞いてくれなかった。
できることはもうなかった。
目を瞑る。
その時を黙して受け入れる。








次の瞬間、一発の銃声が嵐を貫いた。








永遠にも等しい一秒間ののち、赤城は目を開けた。
痛みがない。
身体が動く。
死んでいない。


(そんな、なぜ、私は生きて……今確かに銃声が……銃声?)


音の残滓は冷たい風雨に流されてしまっていた。
しかし間違いなく、今の音は銃声だった。

砲声ではなく、銃声だった。


「……エ?」


怪物が右のこめかみを押さえていた。
銃弾が一発、そこに着弾したのだ。
ダメージは微塵も通っていない。
通常兵器による攻撃だからだ。
そして通常兵器とは、人間の扱う武器のことだ。

そこまで考えが至ってようやく、赤城は音の発生した方向を見た。
敵の目の前だということも忘れて振り向いた。
怪物もまた、振り向いた。

艦があった。
極限まで兵装を取り払い、船足のみを追求した非自律艦。
赤城はその艦を知っていた。


嵐に紛れたせいか、戦闘に集中しすぎていたせいか、あるいは両方か。
灯火をも抑えたその艦の接近に、赤城たちは今の今まで気付いていなかった。
小銃の射程に入ってさえ気が付かなかった。


「許せとは言わん」


舳先に人が立っている。
男だ。
男には右手がなかった。
左手で銃を構えていた。
覚束ない足場に加え射程限度からの、それも利き手とは逆の手での狙撃。
常識で考えて中るはずがない。

しかし、中るはずのない弾は、中ってしまった。
あるいはそれを、人は運命と呼ぶのだろう。


「恨めよ」


怪物の、空母棲姫の身体から力が抜け、傾いていく。
母なる海へと吸いこまれていく。

かつて赤城と呼ばれた少女の指輪は、男の銃弾を受けたその瞬間に、光を失っていた。


「提、トク」


そして、最後の五秒間。


「ゴメン、なさい……それ、ト」


運命の五秒間、その最後に直上から。


「あり、ガトウ……ございました」


旋回を終えた九九艦爆の爆撃が。


「サイゴに、あなたニ、会えてよかった」


そう、まさに「直上」から。


「さようなら、愛しい人」

「ああ。さらばだ」


甲板に、直撃した。


風はまだ止まない。
夜はまだ明けない。
ただ、雨だけは降り止んでいた。


「提督、お怪我の具合は……?」


赤城は提督の乗ってきた艦に上がると、その背中に向かって声をかけた。
彼は変わらず舳先に佇んでいる。


「どいつもこいつも大げさすぎるんだ。現に私は戦端が開いた直後にはベッドを抜け出して、艦に乗りこんでいたんだからな」

「無茶をされる方なんですから。加賀さんに怒られますよ。アイス一年没収の罰です、きっと」

「はは、怖いなそれは」


朗らかな笑いとは裏腹に、男の身体は身動ぎ一つしない。
愛した女性が影を落としていったその場所を、ただただ見つめ続けている。

赤城も海面に視線を向けた。
なにも残っていない。
身体も、躯も、なにもかも残っていない。
魂すら残っていない。
彼女がどこか遠くに旅立っていってしまったことを、理屈ではないなにかで赤城は感じとっていた。

声は、もう聞こえなかった。


おそらく、彼女が自分たちの前に現れることは二度とないだろう。
提督にもそれはわかっているはずだ。
わかっているからこそ、彼女の最期を瞼の裏側に焼き付けようと、じっと目を凝らし続けている。


「さらば」


が、それもやがては終わりを告げる。
男は女に別れを告げる。
軍帽のつばに手を伸ばして振り返ると、提督は赤城に向かって笑いかけた。


「おかえり、赤城」


言いたいことはいくらでもあった。
言わなければならないこともたくさんあった。
独断に走ったことへの謝罪も、無茶をしでかしてくれたことへの怒りも、愛の告白への返答も。

だが今だけは言わなくてもいいと思った。
言わなければ伝わらないことがある。
反対に、言わずとも伝わることがある。


「……はい、提督。空母『赤城』、ただいま戻りました」


今は、今だけは、これで十分だった。


「泣いても、よろしいんですよ?」

「泣かんよ。日本男児は泣かないものだ」


宵闇に染まるミッドウェーの海を背景に、ぽつ、ぽつ、と音が二つした。
男が軍帽のつばを引っ張って目許まで下ろす。
女は男の顔を覗きこもうとして、なぜか失敗した。


「おや、参ったな。また雨か」


雨だった。
冷たい雨だった。
あたたかい雨だった。
悲しい雨だった。
優しい雨だった。


「ええ。雨ですね」

「せっかく上がったと思ったのにな。困ったものだ、なあ赤城?」

「ええ、本当に……困った、ものですね」


他のどこにも落ちることなく、ただ男と女の足下だけを濡らす、そんな雨だった。



書きたいもの書けて満足しました
読んでくださった方がどの程度いらっしゃるのかわかりませんが、もしいらしたのならお付き合いいただきありがとうございました
大人しくイチャラブ書く作業に戻ります

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2014年09月19日 (金) 20:44:28   ID: vBFvRE_a

EGOISTかな?

2 :  SS好きの774さん   2014年11月03日 (月) 04:27:10   ID: V4aIxpgs

この人って龍田や大井とかの激甘SS書いてた人だっけか

こういうのもいいな

3 :  SS好きの774さん   2015年02月04日 (水) 16:54:38   ID: J7NBYfsC

こういうのもいいけどやっぱり俺はいつもの甘いのが好きだなぁ。NO悲哀YESいちゃラブ!

4 :  SS好きの774さん   2015年02月10日 (火) 00:08:39   ID: 5FsHI0Ia

存分にサイコパスやねw
このコラボは中々ないでしょう

5 :  SS好きの774さん   2020年03月08日 (日) 07:23:09   ID: Sc76J4Sh

何度も読み返してます
これ映画化して欲しい

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