咲「愛を失くした日」爽「愛が芽生えた日」 (178)

溜め息をついて、星ひとつ見えない夜空を見上げた。

大学の仲間内での遊びに付き合い、そろそろお開きにしようと別れた後。

夜もだいぶ更けたというのに今だ喧騒を見せる街並みを爽は通り抜ける。

早い所、家に辿り着かなければこの空の様子だといつ雨が降り出してもおかしくなかった。

そもそも「夜半には雨が降るでしょう」と朝方のニュースで見たときに今日の誘いは断っておくべきだったのだ。

爽はまた溜め息をひとつ吐く。

上京してからというもの、どうも家に居ても外で遊んでも鬱々とした気持ちが晴れない。

わざわざ濡れ鼠になりに外に出ることはなかったと内心苛つく気持ちで眉を潜め、足を速めた。

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ようやく駅前の広場が見えた頃にはポツポツと顔に水滴が落ちてきていた。

歩いているうちに次第に激しくなる雨の勢いにタクシーを拾おうかと逡巡したが、

それほどの距離ではなく運転手に嫌な顔をされそうだったので止めることにする。

それでなくても勢いを増した雨に濡れた衣服は敬遠されることは間違いない。

少し小走りで先を急ぐ。

先程までの喧騒が嘘のように駅前は静まり返っていた。

平日ならこの時間でも会社帰りのサラリーマンが疲れた顔で歩いているのだが、

休日ともなると遊んだ帰り風の若い男女がポツポツと通るだけだった。

雨のせいか更に人通りは見られない。

ピンクとイエローで鮮やかに造られた舗道を水を撥ねながら走ると小さい広場が先に広がった。

この広場の右手にある階段を下ったところに爽のアパートがある。

あと少しかと息を吐き、歩調を緩めた。少しだけ息が荒い。

ふいに視界に人影が移った。

その姿にぴたりと足が止まる。

小さな広場の中心にある噴水の前に、以前見たことのある人物が立っていた。

茶色の髪を降り始めた雨に濡らしながら前を見つめる視線には見覚えがあって。

彼女を認めた途端、心臓がことりと動いた。


初めて彼女と会ったのは高校の時のインハイの会場だった。

だいぶ前のことなのに、鮮やかに脳裏に浮かぶその姿。

彼女はあのときと同じ顔で前を見つめて立っている。

髪の毛の先で玉になった雨が垂れて冷たく頬を濡らした。

凍りついたように地面に張り付いていた足を漸く動かして、彼女のすぐ側を通り過ぎる。

ちらりと横目で見た際の、彼女の何も映っていないように前を見据える瞳が少しだけ気になったが、

話をしたことなどなかったし彼女が自分を覚えているとも思えなかったので知らない顔を作る。

あの大会で、彼女は敗者である自分のことなど視界に入っていなかったに違いない。

それは憶測でもなんでもなくて確かな確信。

すぐ横を通り過ぎた自分に、彼女は一度も目をくれようとすらしなかったのだから。

言葉に出来ないような失望に似た思いがよぎるのを無視して、

駆けるように階段を下りた。


ふいに、決勝戦のときの彼女の瞳を思い出す。

強く煌めく瞳。

強い者と対戦するのが楽しくて仕方ないと語っていた綺麗な瞳を。

ぞくりと何かが背筋を這い登った。

冷たい雨に打たれていたせいかもしれないと思うことにして、

ようやくたどり着いたアパートの入り口へと足を踏み入れた。

風邪を引かないうちに温かいシャワーでも浴びてさっさと寝ようと、

玄関の鍵を開けて脇の浴室へと直行する。

この時期、季節が秋から冬へと移り変わろうとするためか昼と夜とでは気温の差が激しい。

少しでも甘く見ていると体調に異変をきたしてしまう。

浴槽の脇のボタンを押し、勢い良く流れ出るお湯を見ながらふと思う。

彼女はもうあの場所から帰っただろうか。

考えて、ふるりと頭を振って口元に苦笑を浮かべた。

たぶん待ち合わせをしていたに違いないのだから。

きっともうその人物は現れて一緒にどこかへと去っただろう。

洗ったばかりの新しいタオルを棚から取り出して浴室にかける。

濡れて体に張り付く衣服を脱ごうとして、手を止めた。

早くしなくては風邪を引く。

そう思いながらも、先ほどの姿が脳裏をちらついて仕方がない。

紅色に濡れた瞳はいつか見た光彩を放ってはいなかったようにも見えた。

傷ついたガラスのような曇った光が浮かんでいた二つの暗闇を思い出して、奇妙な焦燥感が湧く。

彼女だって馬鹿ではないのだから、冷たい雨の中いつまでも居るはずがないと思いながらも。

気づけば傘を手に家を飛び出していた。

我ながら馬鹿なことをしていると思いながらも、雨の中広場へと出る階段を急いで駆け上る。

赤の他人にしか過ぎないのに、なぜこんなに急いでいるのか自分でも理解できないまま。

そもそも居るかどうかも分からないというのに。

最後の数歩を駆け上って、広場へと踊り出た。

全速力で走ったせいで息が苦しい。

息を整えながら前方を見渡していると、雨が空から落ちて来る一定の音に交じって

水面を弾くピシャンという音が聞こえて目を凝らす。

噴水の前で立っていた姿は見えず、

代わりに微かに動きながら柔らかく光るライトが、噴水の中心で立ち尽くす人物を浮かび上がらせていた。

きらきらと光る水滴を跳ね返しながら、顔を上に向けている艶やかな姿に息を呑んで立ち尽くす。

天を向いているせいで彼女の表情は見えない。

驚愕が抜け切らないまま、爽はゆっくりと彼女の方へ足を進める。

ライトアップされた水面に浮かび上がるその姿はどこか幻想的で

本当に其処に存在しているのか、という思いが脳裏を過ぎた。

近づくにつれて克明に映る彼女の顔を見て、呼吸が止まるような感覚が胸を襲った。

声も無く、冷たい水の中でじっと立ち尽くしたまま。

ぽっかりと開いた底の見えない双眸からまるで涙を流しているような姿に。

それは空から降ってきた雨粒なのかもしれないし、噴水から溢れる水のせいかもしれない。

けれど爽には、全身ずぶ濡れになった彼女自身が流す涙にしか見えなかった。

青褪めたような白皙の頬に揺れるライトが映るたび。

幾筋もの水跡が色を変え、きらきらと光を反射させる。

その光景に捕えられたようで足が動かない。

あと数歩なのに。

彼女をいつまでも冷たい水の中に浸からせておくべきではないと頭では分かっているのに。

身に光を浴びて、ただ水に打たれて立ち尽くす彼女に声すらかけられないで立ち尽くす。

全身を打つ冷たい雨に指先が凍えるように固まったままで。

動かそうと指先に力を入れたつもりが、逆に手の中から傘が滑り落ちてしまい

地面にことりと音を立てて落ちた。

ふいに自分を視界に捕えるようにゆらりと紅い双眸が揺らめいた。

じっと感情の見えない瞳で此方を見つめたかと思うと、ふるりと口元が動いて彼女が小さく笑う。

まるで幼子のように無邪気な笑みを浮かべて微笑む彼女に、全てが奪われるような感覚が全身を包む。

ふと彼女が何かを呟いた。

それに動かされるように、爽はぎこちなく足を進めて側に寄る。

甘い表情を浮かべた彼女は瞬きもせず。

瞳に自分を映したまま掠れた声で笑った後、

ゆらりと揺れて倒れそうになるのに、慌てて手を伸ばして支えた。

片足だけ突っ込んだ水の冷たさに反して

嘘のように熱い彼女の身体にハッとする。

色の無い瞼を閉じたまま腕の中で微かに荒く呼吸をする彼女を

慌てて抱え上げ、噴水の中から出した。

瞬間考えた後、荒く息を吐く身体を安定の良いように抱きなおすと、

アパートへと続く階段へと足を向け、爽は勢いよく走り出した。


*****

ほの暗い灯に照らされて眠る表情は、

酷く苦しそうだった当初に比べると幾分か穏やかには見えるが

それでもまだ呼吸は荒く、白い顔には赤が交じっている。

冷たい身体を温めようと湯に浸からせようとも考えたのだが、

風邪の引き始めのような状態にそれは良くないと

とりあえず濡れた身体を拭いて自分の服を着せベッドへと寝かせたままだ。

医者を呼んだほうがいいのかもしれないと、爽は心配げに眉を顰めて苦しげに眠る彼女を見る。

汗ばんだ額に手を伸ばそうとして、まだ自分が濡れた服を着ていたことに気づいて手を止めた。

早く彼女を楽にさせようと焦っていたせいで自分のことは後回しにしていたのだと苦笑する。

今だ呼吸の荒い彼女が気がかりだったが、

目を覚ましそうになかったので部屋を出て浴室へと足を向けた。

濡れた頭をごしごしとタオルで乾かしながら爽は考える。

彼女をどうすべきなのか。

あの状態では家に帰すことも出来ない。

今夜はここに泊めることになるだろうが、家に連絡をしたほうがいいのではないだろうか。

連絡先は分からないがスマホを見れば分かるだろうと、脱がせた衣類に入っていたスマホを手に取った。

けれど、こんな夜に誰かと待ち合わせをしていたのなら

そのまま家には帰らないつもりだったのかもしれないと番号を押そうとして止める。

じっと手の中のスマホを見つめていたが、はぁっと息をついてしゃがみ込む。

自分でも説明の出来ない衝動に任せて彼女を連れてきてしまったが、

思ったよりやっかいかもしれない。

今さらのように自分の考えなしの行動を後悔する。

そもそも話したことの無い彼女をどうしてこんなに気に掛けるのかが分からなかった。

だいたい麻雀の対戦以外で初めて視線を交えたのだって、ついさっきの出来事だ。

もっとも彼女が自分のことをはっきり認識していたとは云えなかったが。

いったい彼女が何を呟いたのかは結局分からなかったが、

たぶん自分にではなく誰か、

きっと待ち合わせていた誰かに向けての笑顔だということは容易に想像できることだ。

卓で不敵な眼差しを見せた彼女が、その下に隠した綺麗な表情を惜しげもなく見せる誰かに向けて。

彼女の隣に並ぶ、その誰かを想像してつきりと心臓が動いて。

ちょっとコレはやばいかも、と呟いて爽は慌てて立ち上がった。

そろそろ目が覚めるかもしれないと思いながら様子を見に寝室へと近づくと、

中から苦しげな呼吸と共に掠れた声が微かに聞こえてきて慌ててドアを開けた。

彼女が眠るベッドに近寄り、火照った顔を覗き込むとまだ瞳は閉じられていて、

まだはっきりと意識は戻っていないようだった。

けれど薄くピンクに色づいた瞼はぴくぴくと動いていて、眉も苦しげに寄せられている。

何か悪い夢を見ているらしいその表情に起こした方がよいと思い

爽が手を伸ばそうとした瞬間、彼女が何かを呟いたのを聞いて目を見張った。


咲「…に、…て」


泣きそうに歪められた顔で、消えそうに掠れた声で、同じ言葉を繰り返し紡ぐ。

何度も、何度も。ただ同じ言葉を。

胸をつかれる哀しい表情で、ただ繰り返す。

ふるりと瞼を一回振るわせた後、其れをゆるりと解いて

彼女は瞳を薄暗い虚空に漂わせ始めた。

夢現のような表情でぽっかりと開いた双眸を、

爽は声を出すことも出来ずに見つめている。

その瞳にぶわりと滴が盛り上がり、円を支えきれなくなった水球が綺麗な弧を描いて頬を伝う。

それから堰を切ったように大きな瞳を見開いたままぽろぽろと泣き始めた姿に、

痛々しくて爽はぎゅっと右手を握り締めた。

掌に食い込む爪が痛みを訴える。

彼女はまだぼんやりと視線を宙に漂わせている。

問い掛けるようにただ同じ言葉を繰り返し呟いた後、声も無くはらはらと涙を零したままだ。

それ以上痛々しい姿を見ていられなくて、止まったままの腕をぎこちなく動かして額に乗せて声をかける。

喉に詰まったような籠もった声しか出ない。


爽「宮永…?」


その声にゆらりと瞳を動かした咲に双眸を向けられて、訳の分からない胸の痛みが増すのを感じた。

それを押し殺してただ黙って咲の意識が戻るのを待っていると、

ゆらゆらと揺れていた瞳に微かに光が燈った。

甘い笑みでにっこりと笑って口を尖らす様を見て、胸の痛みが増す。

咲「…遅いです。どれだけ待ったと思ってるんですか?」

熱に浮かされた表情のまま拗ねるように甘える姿に、気づけば自然と口が動いていた。

まるで誰かを真似るように、優しげに言葉を紡ぐ。

爽「…ごめんな。ちょっと、急用ができて」

咲「それなら、仕方ないですけど…」

その言葉に納得したようにふわりと笑い、

でもあんなに待たせたんだからやっぱり許さない、と口を尖らす。

その小さな手は燃えるように熱い。

爽「どうしたら、許してくれる…?」

ゆる、と瞳が泣きそうに震える。

傷ついたような光が奥に見え隠れする。

きゅっと眉根を寄せて小さく震える唇が動くのが視界に映った。

咲「…キス、して」

痛そうに笑う小さな姿にそっと唇を落とす。

触れ合った箇所は手から伝わる熱よりもっと熱かった。

咲「…ッ、もっと」

ねだられるままに与える。

また涙をはらはらと零し始めた眦にも唇を寄せた。

ぺろと舐め取った水滴はしょっぱくて、嘘みたいに熱い。

震えながら身体を摺り寄せる咲を腕の中に抱きとめる。

柔らかく華奢な腕できつく抱きついてくる感触を首に感じた途端

熱いものが胸を襲って、息を奪うくらいに深い口付けを与えた。

唇を放すと苦しそうに呼吸をつく細い身体を開く。

うっすらと汗をかいた身体は驚くほどに白く、綺麗で目を奪われた。

腕の柔らかい部分を食むと赤い唇から甘く吐息が零れる。

それを聞きながら胸の中心へと指先を滑らせた。

咲「あっ…」

身を捩じらせながら、潤んだ瞳をぎゅっと閉じる。

痛々しい光が見えなくなったことにどこか安心しながら、ぴんと立った突起に舌を這わせる。

咲「ああっ、んっ」

柔らかい身体の何処に触れても、指先から、舌から、全てを焼き尽くすような熱が伝わってきた。

眉を寄せて荒く息を吐く咲を見つめながら、身体の奥深くを暴く。

指で柔らかな秘肉を割り開いた。

咲「やっ…んんっ」

嫌がるように弱々しい動きで手で肩を押される。

けれど優しく口付けると、震えながらもしがみついてくる姿に胸が痛くなる。

秘部から洩れる水音がただ暗闇に響いた。

咲「あっ、あっ…もっと…、して…っ」

ぎゅっと肩にかけられた手に力が籠もるのを感じた。

熱に浮かされながら。それでも咲は何かに傷つけられている。

怒りのような、痛みのような熱い疼きが身体を覆って。

ねだられるままに、指を増やして中を蹂躙する。

咲「ああ…っ、んう…っ」

大きく見開かれた瞳から涙が零れる。

眉を顰めて快感に喘ぎながらも、涙を流し続けたままの姿は胸に痛くて。

涙が止まるのを祈るように爽は口付けを与え続ける。

何度も、優しく、深く。

こんなのは自分らしくないと頭で思いながらも、

溢れる雫を掬い取るように口付けた後、苦い笑みを浮かべた。

自分らしくなくて当然だ。

今、自分は咲の恋人を演じているのだから。

咲の紅色の瞳が映しているのは自分ではない、誰か。

痛む胸を堪え、中の柔らかい部分を掻き回す。

咲「あぁっ…んっ!はぁ…っ!」

高く叫ぶ甘い声を、深く口付けて奪った。

きつく絡まってくる柔らかい舌の根元を愛撫するように噛む。

腕の中の身体がびくりと跳ねて、大きな瞳から一筋涙が零れた。

耐えるように眉根を寄せて震えた言葉を苦しげに吐き出す。



咲「先輩…っ、…す、き…ッ」


嬉しそうに、けれど哀しそうに甘く微笑んで言われた言葉に

ずきりと身体が熱い痛みを襲う。

その衝動に任せて、ひときわ激しく指を動かした。

咲「あああッ…!」

びくびくと震え、高く嬌声を放ちながら絶頂する華奢な身体を強く抱きしめた。


そのまま、ことりと意識を失って腕の中で力をなくした咲の表情を

爽は黙ったままじっと見つめる。

指を中から引き抜いた今でも、身体には熱が残っていた。

たぶん、哀しい涙をずっと浮かべていた咲から伝わってきた熱が。

きっと次に起きたときには咲は今夜の事を覚えていないに違いない。

熱に浮かされ、朦朧とした意識で抱かれたのだから。

自分ではない、咲の恋人に。

泣きながら「好き」だと告げた彼女の恋人に。

爽(―――それでも)


ぎゅっと手を握り締めた後、開く。

熱は逃げず、体の中で今も籠もっている。

それでも、もう奪われてしまった。

ただ涙を流す彼女に。

危険だとシグナルを鳴らした理性を撥ね退けた結果に少しだけ後悔が湧く。

いとんでいたけれど退屈な日常を望んでいたのも確か。

それでも、艶やかな表情を見せる咲を自分のものにしたいという欲求には逆らえそうにない。

もう、彼女に痛い涙を流させたくない、と望む心には。

哀しい表情で眠る咲の頬に付いた水跡を拭って、にいっと不敵に微笑んだ。


爽「覚悟しとけよ、宮永咲。本気の女は怖いんだぞ」


全ての始まりは、明日。咲が目覚めてから。

とりあえずは眠りにつこうと、細い身体を腕に抱いて目を閉じた。



*****

某スレで爽咲に目覚めてしまったのでカッとなって書きました。
続くかもしれません。

濃い空気が今だ漂う部屋の中でベッドに寝ころがり、

カーテンの隙間から入る月明かりだけを頼りにして互いの輪郭を確かめ合う。


情事の後で火照った肌に触れるシーツの感触はさらりとしていて酷く心地よい。

両手に余る位にはこの部屋を訪れたことがあり、それなりの時間は共に過ごしてきていた為

何事にも執着心など露とも見せず常に飄々とした態度を崩さないこの女性が、

実は自分の所有する物には意外なほど拘りを持つことを知っていた。

きっと、今この肌の下にあるシーツも入念に吟味を重ねて選んだ物に違いない。

咲は爽が寝具売り場に立ってシーツを熱心に手に取る姿を思い浮かべてしまい、

思わず吹き出してしまった。

爽「なんだよ、いきなり思い出し笑いなんかして。エロいやつだな」

咲「ごめんなさい。でもエロいのは爽さんの方でしょ」

この手は何ですか、と未だ熱が燻る身体に這わせられた長い指を止めさせるべく掴むが、

反対の手で握られシーツに縫い付けられてしまう。

爽「それならご期待に添えるよう、もっかいシよっか?」

咲「何バカなこと言って…ん…ぅ…っ」

ぎし、と上から乗りかかられて深く口づけられ、逃げることもかなわない。

そのまま互いの口内を探る粘着音だけが暗闇に響くのを

咲はぼんやりと霞む意識で捉えるしかない。

本格的に身体が再び熱を持ち始めそうな気配を感じて、

爽は名残惜しげに甘く柔らかい唇から離れた。

長いこと呼吸を奪われた所為で薄くなってしまった酸素を補おうと、

白い胸を上下させ潤んだ瞳で抗議を訴える咲の姿に抑えきれない情欲が増すのを感じる。

文句を言いたげに薄く開いた赤い唇も、逆に煽るだけで抑止の効果はもたなかった。

何度抱いても満たされない。飢餓感だけが募るばかりだ。

欲望のままに華奢な身体を貪りたい衝動を頭の片隅に残っていた理性で何とか抑えて、

代わりに腕の中に優しく抱きこむ。

抵抗する気力がないのか、それとも諦めたのか

大人しく抱かれたままの咲からはどこか甘い香りがする。

昨夜一緒に入った時に咲がお気に入りだと言った入浴剤の匂いではない、

柔らかく甘い芳香は夜の光の中では微かに淫靡を帯びて漂う。

咲自身が放つ香りに誘われて、

もう一度、けれど今度は軽く啄ばむようにキスをおとした。

大人しくキスを受ける顔はあどけなく、喉を鳴らす猫のようで酷く愛らしかった。

爽「…やべ、何度シても足りねー」

咲「何言ってるんですか」

爽「あー、なんつーか咲の恋人に怒られそうだな、私」

咲「…きっとあの人は怒らないですよ。……たぶん興味ないんじゃないかな」

その双眸に諦めたような傷ついたような鈍い色を映し、

ぽつりと呟く姿に胸の奥が騒ぐ。

咲の様子は今にも消えてしまいそうに儚く危うい。

傷つけるもの全てから守ってやりたいと思わせるような。

胸に沸き起こるのはこんな顔を咲にさせる女への、憎悪が交じった感情。

中途半端に繋ぎとめて苦しめるくらいなら、

いっそ其の手を振り払い解放してやれば良いのに。

中途半端な嘘の優しさを与え続けるから。

咲は其処から一歩も動けない。

卓の上で見せる本来の姿のように、自由に翔けることもままならずに。

そしてまた自分も。

咲の瞳に囚われた自分も、此処から身動きがとれない。

あの雨の日。

ずぶ濡れで捨て猫みたいな瞳をした咲を拾ったあの日。

それから幾度となく彼女に囚われ続けている。


爽「なぁ。いい加減、観念して私のものにならね?」

睦言のように幾度となく囁いた言葉。

咲「あなたも物好きですね」

その度に皮肉めいた物言いではぐらかされる。

けれど爽を揶揄する言葉とは裏腹に、

影が落ちた目元には自嘲めいた色が刷かれていた。

まるで自分は恋人にも必要とされていないのに、とでも言いたげな。

きっと咲は今この瞬間、恋人以外の他の女の腕の中で。

確かに恋人を想ってる。

咲とその恋人との関係がどうなっているのかは深くは知らない。

けれどあの全身が凍えるような雨の日に、

咲がびしょ濡れになりながらも噴水の前で凛と立っていたあの日に、

彼女らが逢う約束をしていたことは熱に浮かされた咲が口にした言葉から知っていた。

結局待ち人は現れなかったことも。



拾ったその夜、高熱のせいか酷く魘されながら

咲が苦しげに呟いた言葉が今でも耳から離れない。

哀を伝える其の囁きが。



――――永遠を誓ったのに、……ドウシテ…?


それは、想いを遂げることを誓った筈の恋人への不実を詰る小さな訴え。

そのまま咲は声もなく、瞳を開いたまま涙をはらはらと流し始めた。

ぼんやりと虚空を見つめ泣き続ける表情は空虚で、

自分が何処に居るのかも分かってはいないようだった。

そんな咲の余りに痛々しい様子を見ていられなくて、

そっと声をかけ熱で火照った頬に手をやると。

虚空を彷徨っていた瞳をゆっくりと此方に向けて、咲はふわりと綺麗に微笑った。

そして、まるで花が咲くような笑みで、唇を尖らす。

咲「…来るのが遅いです。どれだけ待ったと思ってるんですか?」

そして愛しげに自分の頬に当てられていた爽の手に柔らかい自分のそれを重ね、

縋るようにぎゅっと握った。

その華奢な手からも燃えるような熱さが感じられ、

咲が今だ夢の世界に漂っていることを教えてくれた。

自分は彼女が待ち望んでいる想い人ではない。

けれどもせめて幸せな夢を壊してはいけないと、

強請られるままにキスも、それ以上の行為も惜しみなく与えた。


初めて触れた咲の身体は柔らかく甘く、

そして驚くほどの熱さをその華奢な身体に保有していた。

静かに、けれど高温を示す青い色が其のまま表しているかのような咲の想い。

それは爽の中に止め処もなく流れ込んできて、

そして内から放出されることを許されずに身体の奥で燻り続けた。

その小さな炎は決して消えることはなく、

寧ろ自分の中に眠っていたはずの微かな想いに引火して、

今では燃え盛る大きな炎となりこの身を食い尽くす。

命さえも危うい。

此れは確かに恋だ。

咲が今、恋人をどう想っているのかは分からない。

彼女が話すことをしない限り爽に知る術はない。

ただ、大学の休日に誘われるまま自分と逢っていることから、

彼女と恋人との現在の距離を察することはできた。

けれど稀に見せる切なげで苦しげな表情が、

今ではもう切れ掛かった恋人への消えることのない炎が未だ存在することも、

そしてそれに苛まれ続けていることも教えてくれた。


初めてこの手に抱いた次の日の朝、

咲は前夜起こったことを何も覚えてはいなかった。

熱の下がった頭で、自分の体に残る愛撫の跡と目の前にいる裸の女、乱れたシーツから

自分に起こった出来事を理解し困惑する彼女に、

一度も二度も変わらないと甘言でもって丸め込み、その後も情事を重ね続けた。

その度に胸の奥で炎が大きくなってこの身を焦がす。

それはもはや体だけの関係では飽き足らないほどに大きく燃え盛ってしまった。

咲が移した想いの種火で轟々と渦巻く炎が彼女にも移ればいい。

そんな願いを込めて腕の中の咲に囁く。


爽「好きだ」

咲「知ってます」

爽「何度でも言ってやる。好きだよ、咲」

咲「……」

爽「本気で好きなんだ。…だからいい加減、私のものになれよ」

何時もの逃げることを許すような軽口めいたものとは違い、

本気の色を冴えた眼差しの中に見せた爽に

咲は今まで隠していた想いを見せ付けられた気がした。

もう逃がさないと強く訴えるその眼差し。

酷く熱く切なげな瞳を容貌に乗せる爽を見て、咲の心臓が騒々しく高鳴る。


―――本当を言うと。

終わりの見えている恋に縋り続けているのにも疲れてきていた。

半ば意地になっていたのかもしれない。

あの時永遠を誓った言葉はいったい何だったのかと。

あの人が装った優しさで、偽善とも云えるような態度で自分に接してくる度に

もうあなたなんか要らないと叫んでしまいたかった。

けれど燃え盛る炎を急に消すことは出来ず、

愛を誓い合った恋人への未練も充分過ぎるほどに在って、

その手を離せずにいた。離したくなかった。

今もその炎は胸の奥で微かに燈っているが、以前の狂おしい程のものではない。


あの雨の日から、必ず来ると信じて待ち続けて。

けれどあの人から何の連絡も無かったあの日に

自分では覚えていないが爽に抱かれたときから、

自分の中で渦巻いていた炎が静かに引いていくのに気づいていた。

代わりに伝わるのは、触れ合わせた肌から感じる熱。

爽は意外なほどの熱さで自分を抱いた。

それは酷く心地が良く、自然と自分に伝わってくるもの。

共に過ごす中で彼女のよく通る声や、奔放な話し方、器用に動く綺麗な指、

笑うと下がる目尻、意外と夢見がちなところなど、爽はすんなりと咲の中に入ってきた。

それらには随分と助けられたとも思う。

今では、彼女と過ごす時間は自分にとって掛け替えの無いものになりつつあった。

そろそろ覚悟を決めるとき、決断するときが来たのかもしれない。

胸に痛く甘く起こるのは遠く離れた筈の恋人への仄かな恋情か。

永遠を誓い合った時には、こんな日が来るとは思わなかった。


あの時、確かに自分は永遠を信じていた。

今はもう、其れは夢でしか無いことを知っている。

たとえ爽の手を取ったとしても、いつか放さなければならない日がくるかもしれない。

けれどこのままでは自分も彼女も前には進めずに留まることしか出来ない。

それなら―――

咲「……雨が。次にまた雨が降ったら」

咲「そしたら、ちゃんと返事します。だから……」


だから、それまでは

あなたの熱が全部

私に移るくらいに抱いて


最後まで口に出さずに、けれどぎゅっとしがみ付いてくることで想いを伝えようとする咲を

確かに受け取ったかのように爽はきつくかき抱き、奪うように深く口づけた。


願わくば

彼女への燃え盛る想いが

触れ合った肌から入り込んでその侭移ってしまえばいい

彼女も同じ炎に焼かれて焦がれてしまえば


まるで祈りにも似た願いを込めて――――



*****

続きます。

いつのまにか窓の外では灰色を帯びた雲が全てを覆い尽くすようにその身を大きく広げていた。

黒の粒子を内側に孕み、淀んだ光が硝子を通って侵入する。

咲は机に肘をつき、昏い双眸でただその様子を眺めて。

微かに痛みを主張する目元を誤魔化すかのようにそっと瞼を閉じた。


――もうすぐ、雨が訪れる


硝子を打つ緩慢な雨音が耳に届いて、

爽は机から顔を上げて窓に目をやった。

昼頃からぐずついていた空模様は放課後になった今、

本格的な雨を運んできたようだった。

前方の教壇では語学担当の教師が熱心に授業内容を語っていたが

その声は爽の耳を通り過ぎていく。

爽の意識は、とうに教室という空間から遠く離れていた。

まるで硝子を打ち破ろうとするかのように段々と激しくなっていく雨音が、

記憶の中の光景を鮮明に呼び起こす。

今、思考を埋め尽くすのは。

いつかの雨だれの音と彼女の泣き顔だった。

綺麗な紅色の瞳から綺麗な涙を流す咲。

今まで人の泣く姿など見ても何も感じなかったのに、咲の泣き顔だけは唯一違った。

ぽっかりと空いた深淵から盛り上がった水球が、

色の無い瞼の淵で破裂しぽろぽろと音もなく零れる。

その幻想的な光景に思わず見惚れた。

そして声も無く哀を訴えるかのような咲の涙を見て、

自分の胸の奥から身を裂くような痛みが産まれるということをその時初めて知ったのだった。

今まで感じたことのないような胸の痛み。

誰かの泣く姿を見て苦しいほどに胸が震えたのはあの時が初めてだった。


逢瀬のような時間を繰り返し過ごすうちに、

雨が降ると決まって咲の表情が曇ることに爽は気づいた。

いつかその理由を聞いたとき、咲は痛みを押し殺したような表情で小さく笑った。

顔を隠すように俯いた拍子に、咲の栗色の髪が白いうなじへはらりと落ちるのを見て

胸の何処かが甘く疼いたのを思い出す。

咲『…雨が振った時に、あの人と恋に落ちたんです』

窓の側で流れ続ける雨垂れを眺めて立ち尽くす細い後姿が甦る。

咲『あの人と初めてキスをした時も…初めて、あんなに近くであの人を感じた日も雨だった』

カーテンをぎゅっと掴んだ小さな手が痛々しいほどに白くなるのが目に映った。

咲『…それから。あの日も…永遠なんか無いんだ、ってあの人が教えてくれた日も。雨が振ってた』

爽『私が可愛くて気まぐれな小猫を拾った日だな。あれはマジ運命的な出逢いだったわ』

暗い部屋の中で何処か消えそうに浮かぶ華奢な後姿を引き止めるようにきつく抱きしめた後、

爽はわざとふざけた声でからかった。

後ろから覆い被さるように抱きしめてくる爽の腕に白い両手をかけて、

俯いた咲は小さな笑い声を洩らした。

咲『知ってました?キスの時の爽さんのクセ。……舌をね、噛むんですよ』

爽『…今まで咲としかキスしたことないし、そんなこと知らなかったな』

いつものように軽い調子を装って話す爽に咲はくすくすと笑う。

ふわふわと甘い香りで漂う咲の髪に顔を埋めた爽に、

咲はくすぐったい、と小さく笑ってから爽の腕へときつく顔をうずめた。

そのまま暫くの間じっと動かなかった咲の、

酷く薄い肩がぴくりと微かに震えたのに爽は気づいてしまう。

くぐもる声を押し殺すように、きつく顔をうずめた彼女は震える言葉を吐いた。

咲『……あの人も……そう、だった…っ』

そう言ったきり静かに身を震わし続ける細い身体を、

爽はただきつく抱きしめるしかなかった。

雨粒がぱたぱたと窓硝子の縁に落ちては流れていく。

はらはらと止め処もなく流れ続ける水滴は咲の涙と何処か似ていた。

雨が降ると彼女はいつだって泣きそうに笑うから。

その度に、何度も何度も胸が苦しくなった。

今も泣くのをこらえた表情でいるのだろうか。

想像して胸がつきりと痛んだ。

彼女はいつだって。

自分といるときだって、恋人を想って見えない涙を流す。

まるで滂沱に流れ続ける雨のような滴を、綺麗な瞳から。


咲『次にまた、雨が、降ったら。…そしたら、ちゃんと返事します』


雨、降ったぞ。咲―――

揺杏「爽、迎えにきた。部活行こうぜー」

直ぐ横からかけられた声に、宙に浮遊していた意識を無理やり引き戻されて

爽は緩慢な動作で振り返った。

その何処かぼんやりとした視線に一つ年下の幼馴染、揺杏は

きょとんとした顔をした後心配そうに声をかけた。

揺杏「どうしたんだ、ぼーっとしたまんまで。具合でも悪いのか?」

爽「いや、そんなんじゃないんだけど…」

爽「……やっぱ、調子悪いから今日はもう帰るわ」

急に毅然とした表情でがたんと勢いよく席を立った爽に揺杏は目を丸くする。

揺杏「おー…いいけど。帰んのか?」

爽「うん。……大事な用があるからな」

揺杏「へ?」

爽「じゃあな」

右手を軽く上げた後教室の後方の扉から勢いよく飛び出す爽の姿を

揺杏は呆然とした表情で見送る。

揺杏「…あんな真剣な爽の顔、初めて見た」

いつのまに外に出ていたのか、見下ろした窓の下では雨に打たれるのも構わず

一心不乱に走り続ける爽の姿があった。

揺杏「あーあ、爽のやつ傘もささねーで何やってんだか」

どこか鬼気迫るような彼女の姿を見て、ぽつりと呟く。

どんなときも冷めた眼差しで笑うことしかなかった普段の爽からは想像できないような必死な姿。

揺杏「……ようやく夢中になれるもんを見つけることができたのかな。あいつ」

苦笑して、踵を返した揺杏はのんびり部室へと向かった。


*****

憧「ねえ、咲」

握ったスマホを睨むように見つめていた咲は、後ろから名前を呼ばれてゆっくりと振り向いた。

咲「なに?憧ちゃん」

憧「今日も部活行かないの?」

咲「うん。ちょっと用事あるから」

友人に言葉を返しながら、スマホをぎゅっと握りなおす。

重い表情で唇を噛み締めながら掌を開くと、

体温が移り仄かな熱を持ってしまったスマホをきつく見据えた。

一瞬、躊躇ってから迷いの無い手付きでスマホを操作し始めた。

暫くしてから送信先にメールが無事に届いたことを確かめて咲は静かに立ち上がる。

咲「じゃあ私、今日はもう帰るね」

憧「……もしかして、先輩に会いたくないから?」

確信をついた憧の言葉に、咲の心の音がことりと動いた。

同じ大学に入ってから仲良くなった憧には、よく先輩とのことで相談に乗ってもらっていたから。

今の自分と先輩との距離もまるで自分のことのように心を痛めてくれている。

そんな憧を心配させたくなくて、咲は努めて明るい口調で言った。

咲「先輩のことはもういいの。それより憧ちゃんは江口プロとデートだっけ?」

憧「まあね。新しくできたスイーツのお店に行こうって約束してるんだ」

咲「ふふ、明日そのお店の様子教えてね」

憧「もち。よさげなお店だったら今度一緒に行こうよ」

咲「楽しみにしてる。じゃあね、憧ちゃん」

憧「バイバイ咲、また明日ね」

窓を打ち続ける雨にもう一度だけ目をやった後、

躊躇いの色を消した強い瞳で踵を返した。


『今から行きます』

止まない雨音が耳を痛くする。

そんな日は決まって、くしゃっとした顔を見せながら笑う爽の処へ行った。

あの人と顔立ちも背格好も髪の色も口調も、どこも全然似てなんかいないのに。

彼女がふと見せる仕種は、嫌になるくらいあの人に似通ったものだった。

キスのときのクセも、彼女には言ってないけれど耳朶をしきりに触りたがるところも、

抱きしめるときには決まって頬に口づけを落とす仕種も。

何もかも嫌になるくらいあの人と似ていた。

けれど今、舌の根元を甘く噛む綺麗な白い歯も、左耳を触る綺麗なも、

自分の視界を被さるように落ちてくる髪も、その先を辿るように思い浮かぶ姿は爽だった。

同じ仕種、同じクセ。

けれどすぐに脳裏に浮かぶのはあの人ではなく、彼女。


本当はとっくに答えは出てたのに、

心の奥で怖がる自分が居たから口には出せなかった。

だって永遠なんて何処にも無かったから。

変わらないモノなんて、心なんて、何処にも無いんだと。

あの日、あの人が無理やり自分にそう教えてくれたから。

でも本当は、もう一度永遠を信じてみたかった。

そして彼女の側ならそれが叶うかもしれないと思えたから。

止まない雨音が耳を痛くする。

そんな日は決まって、くしゃっとした顔を見せながら笑う爽の処へ行った。

あの人と顔立ちも背格好も髪の色も口調も、どこも全然似てなんかいないのに。

彼女がふと見せる仕種は、嫌になるくらいあの人に似通ったものだった。

キスのときのクセも、彼女には言ってないけれど耳朶をしきりに触りたがるところも、

抱きしめるときには決まって頬に口づけを落とす仕種も。

何もかも嫌になるくらいあの人と似ていた。

けれど今、舌の根元を甘く噛む綺麗な白い歯も、左耳を触る綺麗な指も、

自分の視界を被さるように落ちてくる髪も、その先を辿るように思い浮かぶ姿は爽だった。

同じ仕種、同じクセ。

けれどすぐに脳裏に浮かぶのはあの人ではなく、彼女。


本当はとっくに答えは出てたのに、

心の奥で怖がる自分が居たから口には出せなかった。

だって永遠なんて何処にも無かったから。

変わらないモノなんて、心なんて、何処にも無いんだと。

あの日、あの人が無理やり自分にそう教えてくれたから。

でも本当は、もう一度永遠を信じてみたかった。

そして彼女の側ならそれが叶うかもしれないと思えたから。




*****


休みなく走り続けた所為で酸素が足りない。酷く呼吸が苦しかった。

顔にかかる雨滴が視界を奪い、アスファルトの上で跳ねた水溜りも足をもつれさせる。

それでも重く振り続ける雨をはねのけるように爽はただ走り続けた。

時折り水しぶきを上げながら通り過ぎる車越しに赤い傘を見つけて目を見張る。

その鮮やかな赤はアパートの窓から何度も見た色。


『今から行きます』


ただそれだけのメールが入った後は、毎回窓際で見下ろすように立って咲を待っていた。

じゃあ、と素っ気無い別れの挨拶と共にアパートを出て行った彼女を、

窓際で毎度見送る爽の目に映るのも揺れる赤い傘だった。


思わず彼女の名前を大声で叫んだ。

爽「咲!!」

咲「…爽さん!?」

一心不乱に前を向いて半ば駆けるように歩いていた咲は

行き成り自分の名を大通り越しに呼ばれてぎょっとしたように足を止め、

ガードレール越しに身を乗り出すように。

傘もささずずぶ濡れのままでこちらを見ている爽に驚いたように立ちすくむ。

咲から届いたメールに途中で気づいて、

行き違いにならないといいがと心配していた爽はホッとしたように息をはいた。

辺りを見渡し、近くに信号も横断歩道も見当たらないのを確かめると濡れたガードレールに手をかける。

爽「ちょっと、そこで待っててくれ!」

声をかけてから、大通りを走りぬける車の間を器用にすり抜けて

こちらの舗道へと渡ってくる爽を咲は心配そうに見つめた。

危なげなく大通りを渡りきった爽は、

灰白の薄汚れたガードレールをひょいと跨いで咲の前へと降り立つ。

荒い息を整えるように黙り込んで暫くの間お互いの顔を見つめ合っていたが、

咲がふと眼を緩ませ爽の顔へ白い手をついと伸ばした。

そのゆっくりとした手の動きをただ目で追うだけの爽の、

濡れた前髪をすくうように撫で上げながら咲はそっと笑う。

咲「何で傘もささずに走ってたんですか?ずぶ濡れじゃないですか。…傘、入ります?」

爽「今さらだし遠慮しとく。咲こそ傘さしてるわりにはえらく濡れてんじゃねえか。そんなに急いで何処行くんだよ」

爽の顔の滴をぬぐうように伸ばし続ける咲の手を優しく掴んで、

何処に行くかなんて知っているくせに爽は微かに笑いながらからかった。

全身を濡らしたせいで体温が奪われた筈の爽の手は酷く温かくて、

それはいつのまにか肌に馴染んだ温度で。

咲はぎゅっと手を握り返し、視線を少しだけ揺らしながら口を開く。

咲「あなたに、会いに」

爽「奇遇だな。私もだ」

咲 「……ちょっとだけ、傘持っててください」

ふいに爽に傘を押し付けるように渡して咲は鞄からスマホを取り出した。

何も言わず黙って見つめている爽の顔を、咲も同じように見ながら電話の相手が出るのを待つ。

何度目かのコール音の後、聴きなれた声が耳に響いた。

以前は誰より近く聞いていたはずの声なのに他人のように感じて。

何よりも愛しいと想っていた筈の声なのに。

けれど今はまったく知らない人のようだった。

遠く離れた彼女との距離と自分の心境の変化を見るようで、咲は苦い笑みを口元に浮かべながら口を開いた。

咲「突然すみません……はい…そう、…ちょっと、話したいことがあって」

すぐ側で立つ爽にも相手の声は聞こえていたはずだが、

咲が何をしたいのか分かっているみたいに、顔色も変えずただ手を強く握り直してくれた。

それに安堵して同じようにきつく握り返してから咲は話し出す。

思ったより自分の声はずっと落ち着いていた。

咲「―――別れましょう。……さようなら、先輩」

それだけ言うと咲は相手の返事も聞かずにぶつりと電源を切った。

爽「…それだけでいいのか?」

咲「…けじめを、つけなきゃって…ずっと思ってたんです」

咲「でも、先輩とサヨナラするときは雨の日だって。そうずっと決めてたから」

そうして少し痛そうに笑った咲に、爽は傘の柄をきつく握って眉をひそめ低く唸るように言葉を吐いた。

爽「…あんなやつ、殴ってやったらいーんだよ」

以前に咲の部屋で、咲がシャワーを浴びてる時にこっそり盗み見たアルバム。

そこには咲とその恋人である女の写真が数えきれないほど飾ってあった。

仲睦まじく手を繋いだり、腕を絡ませあったり。

なかには唇を寄せ合っている写真まであって。

爽は思わず手にしたアルバムを投げ捨てていた。

その女の顔を思い出し爽が瞳の奥で怒りの焔を露わにするのを、

咲は困ったように見上げた後、頬を緩ませた。


いつのまにか雨雲の切れ間から陽光が射し込んで、

傘の赤色が爽の顔に映るように影を作って落ちている。

急に頬を緩ませて上を見上げた咲に、爽も同じように空を見上げる。

あんなに重苦しく降り続いていた雨足もいつしか治まってきたようで、

傘を打ち付けていた雨音は優しいものへと変わっていた。

爽「…止まない雨なんて無いんだな」

ふいに低く呟かれた声に咲は視線を爽へと戻す。

其処に酷く真剣な色を見つけて、どこか甘い痛みを伴なった心を抑えるように

濡れた服の胸をぎゅっと握りしめた。

一つだけ、爽に聞いてみたいことがあった。

どうしても弱い気持ちがあるから、最後に一つだけ。

言葉が震えないように喉にきゅっと力を入れながら問いかける。

それでも揺れてしまう瞳までは隠せない。


咲「爽さんは…永遠がある、って思いますか…?」

爽は少しだけ痛そうに眉をひそめた後、強い視線で対峙する。

爽「……永遠なんて何処にもないのかも知れない」

爽「けどな、それだったら私がお前にソレを見つけてやる。それまでは絶対に咲の側から離れない」

そう強く言い切った爽に咲は顔を歪めた。

何処か泣き出す前のような、微笑むような、でも酷く綺麗な表情で。

咲「私も…あなたの側に居たい…っ」

顔を歪ませて最後は叫ぶように言葉を吐いた咲の表情に、言葉に。

爽もくしゃりと顔を歪ませて握った手をぐいと引っ張る。

そして、もつれるように倒れこんできた華奢な身体を痛いほどに両腕できつく抱きしめた。

爽の手から放された傘がふわりと飛んで地面に音を立てて落ちるのを視界の端でとらえながら、

咲は雨に濡れ続けるのもかまわず背中にぎゅうっとしがみついて顔をうずめる。

雨の匂いをかき消す様な強い爽の香りに全身を包まれ安心したように息をはいた。

胸の中で小さく震えた咲の髪に唇を落として、くぐもる声で爽が低く呟く。

爽「好きだ。何度も言ったけど咲のことが好きだよ」

咲「…はい、何度も聴きました」

咲「初めはまた先輩とのようになるのが怖くて、だからずっとはぐらかしてたけど」

咲「何回も何回も真剣な顔で爽さんが好きだ、って言うたび」

咲「何度も抱いてくれるたびに、それが本当ならって…それを信じたいって、思うようになってた」

ふふ、と肩を揺らした後、顔を上げて小さく笑いながら。

コレって爽さんの粘り勝ち?と首を傾げる姿に、

爽は濡れた咲の頬を拭うように両手で触れ、奪うように深く口付けた。

咲「ん…っ」

爽「…好きだ」

咲「私も、あなたが好きです」

はにかんだように頬を染めて甘く囁いた咲に

爽はたまらなくなって攫うようにきつく抱きしめたまま

何度も何度も口付けを交わし続けた。

瞼を震わせながら大人しく全身を任せていた咲も、

呼吸を奪うような深い口付けに段々と苦しくなる。


うっすらと瞼をあげると雲の切れ間から青空がいっぱいに広がるのが見えて、

いつのまにか全身を打っていた雨がなくなっていたことを知った。

それに微笑んで再び瞼を閉じると、一層きつくしがみ付くように自分から深く爽の唇を奪った。


きっと永遠なんて無いのかもしれない

でも本当はもう一度信じたかった。側に居たいと思えた

あなたがそれを教えてくれた

雨が降っても、きっともう胸は痛まない

あなたが永遠を見つけてくれると約束してくれたから


雨が上がった青空から今、

零れんばかりの光が射して二人を包み込んでいた。


*****

もうちょっとだけ続きます

咲の恋人はあえて明かさないでいこうと思ってたんですが、
ちゃんと名前出した方がいいんでしょうか

授業も終わり、部活へ向かおうと揺杏が歩きだすと

中庭に設置されたベンチに座る影を見つけた。

それは最近になって頻繁にこの大学内でよく見られるようになった、

この大学の生徒ではない栗色の髪の少女。

自然と足がそちらへと向かう。

彼女と少し話がしたかったのかもしれない。

自分がよく知るひとつ年上の幼馴染と今、恋愛関係にあるという彼女と。

異彩を放った酷く印象に残る麻雀を繰り広げていた彼女が、

この大学に姿を現すようになってから三ヶ月が経とうとしていた。

はじめて大学内で彼女を見かけたときには驚いたが。

しかし、それにもまして彼女に気づいた幼馴染の表情には酷く驚かされたものだった。

急にどうしたんだ、と幼馴染が酷くうろたえた声を上げるのを聞いて揺杏は目を丸くした。

普段滅多なことで波立つことの無い幼馴染の瞳には何処か暖かな色が宿っていたようにも見えた。

聞いたことも無い声音。

そして見たこともない、その表情。

酷く驚いて暫く二人の居る場所をぽかんと見やることしかできなかった。

けれどその時、揺杏はいつかの雨の日を思い出して独り心中で納得したのだった。

視線の先で、彼女に心配げな声を上げながら構う幼馴染の瞳に

いつかの雨の日に見た色を垣間見た気がしたから。

多分、あの時揺杏は確かに安堵したのだ。

揺杏「よっ宮永、こんな早い時間に珍しいな」

咲「こんにちは、岩館さん。今日はうちの部活休みなんです」

突然背面からかけられた声にも動じることなく、

ゆったりと瞬きをしながら咲が振り向いた。

揺杏「隣り、いいか?」

咲「どうぞ」

その返事にさっと咲の隣へと腰を下ろす。

肩に掛けていた大き目のバッグを降ろし、ベンチに置くと

それを興味深そうに咲が見ているのに気づく。

揺杏「ん、なんだ?」

咲「随分と大きなバッグですね。重くないですか?」

揺杏「ああ、こん中は全部衣装だから。全然重くねえぞ」

咲「へえ」

揺杏「よかったら見るか?」

そう言いながら、バッグの中から衣装を取り出して広げてみせる。

咲「この衣装、岩館さんが作ったんですか?」

揺杏「そうだぜー。どう、可愛いっしょ?」

咲「はい。すごく」

華奢な身体を乗り出すようにして、じぃっと好奇心旺盛な子どものように見つめてくる。

揺杏「そんなに気に入ったんなら着てみるか?」

何だか微笑ましく思えて問い掛けると、微妙に表情を輝かせて。

いいの?とでも言いたげに陽光を反射させる大きな瞳に、

揺杏は益々微笑を深くすると衣装を差し出した。

どこか嬉しそうに零れそうな瞳を揺らしてほっそりとした手を差し出した咲だったが、

その身体が半分揺杏の方に乗り出していたせいかバランスを崩し、危なげにぐらりと揺れる。

揺杏は慌てて伸ばされたままの咲の左手を取って支えた。

揺杏「おいおい、大丈夫か?」

咲「すみません」

まさかベンチから落ちそうになるとは自分でも思っていなかったのか、

ニ、三度瞬きをして微かに目を見張って驚いたままの咲だったが。

繋がれた揺杏の手をじっと見つめていた。

揺杏「ん、どうした?」

咲「岩館さん、ココ。怪我してますよ」

揺杏「え、マジ?」

咲「はい。あ、私絆創膏持ってます」

そう言って咲がポケットから絆創膏を取り出した。

咲「よかったらどうぞ」

揺杏「お、サンキュ」

咲から絆創膏を受け取ろうと揺杏が手を伸ばす。

その咲の左手の薬指を、透明な判創膏が覆っているのに気づいた。

揺杏「なんだ、宮永も怪我か?」

咲「えっ?…ああ、これですか」

咲は可笑しそうに小さく笑った。

咲「…コレは、傷じゃないんです」

それだけポツリと呟いて。

咲は何処か満たされたような視線で中庭の先を見やった。

自然と揺杏の目線もそれを追う。

ちょうど校舎から出てきた爽がこちらへと向かってきているところだった。

手を振りながら柔らかな表情を浮かべる爽に、同じように手を振り返す咲。

その双眸を弛め、恋人を見やる咲にふと声をかける。

揺杏「…なぁ、宮永。あいつの…爽のことを、その、ちゃんと好きなのか?」

爽をじっと見据えるようにして、揺杏はぎゅっと両手を握り締めながら訥々とした台詞を紡いだ。

組んだ親指が判創膏を擦って違和感を喚起させる。

興味本位ではないと分かる揺杏の問いかけは酷く急なもので、

戸惑ったように咲は揺杏を見あげる。

なんと答えるべきか困ったように目を瞬かせながら地面に目線を落とすと、

祈るようにきつく握りしめられた揺杏の両手を見て大きく瞳を開き、そして微かに笑った。

どうやら恋人は思ったよりも友人から思われているらしい、と。

心配なんだとでも言いたげに眉を顰めたままの揺杏の気持ちが酷く胸に温かかった。

咲「…好き、ですよ。きっと爽さんが考えているよりは、たぶん、とても」

揺杏 「…そっか」

ふいに咲は揺杏の目の前に左手を晒し、悪戯そうに笑った。

そして秘密を洩らすように小声で囁く。

咲「…コレ。本当はキスの痕を隠してるんです。愛の証、らしいんで」

そう言って咲は瞳を可笑しそうに揺らした。

揺杏「爽が?あいつがまさかそんなくっさいこと言うなんてな」

咲「ふふ。大学を卒業したら本物を贈るから、って。今はコレで勘弁してくれって」

咲「そう言って真剣な顔で指にキスするんですよ?」

本当、バカなんだから、と身も蓋もない言葉で爽を斬って捨てて、

肩を揺らして笑う咲の表情はそれでも酷く嬉しそうだった。

それを見て揺杏も頬を弛めて笑う。

揺杏「あぁ、バカだな」

でも、そんなバカみたいなことを本気で出来る相手が見つかって良かった。

揺杏は心の中だけで小さく呟くと苦笑を零す。

昔から何事も冷めた目でしか見れなかった幼馴染が、

ようやく夢中になれる相手を見つけられた。


ふと、揺杏の中で悪戯心が湧く。

揺杏「なら、そんなバカな女とはさっさと別れた方がいいんじゃねぇの?」

何処か優雅な動きで咲の手を取ると、怪訝そうな表情で見てくる咲の瞳から目を離さず。

揺杏は軽い音を立てて咲の指先に口付けた。

にやりとした笑みに歪んだ口元は態との様に判創膏の貼られた薬指に当てられている。

その仕種に咲は呆然と目を見張る。

悪戯が成功した後のような達成感で前を見ると。

しっかりと見ていたらしい爽が憤然とした表情で此方に向かおうとしていた。

咲「岩館さん…あんまり引っ掻きまわさないでください」

揺杏「ハッ、こんくらいしねぇとつまんねーだろ」

咲「完璧に面白がってますね…」

段々と近づいてくる爽のしかめっ面にため息をはきながら。

揺杏に握りしめられたままの手をするりと抜き、咲は立ち上がった。

咲「自分でも知らなかったんですけど。私もバカだったみたいなんで丁度いいんですよ」

咲は悪戯そうに笑うと顔の横で左手を掲げた。

咲「…こんなバカなことする人をカワイイって思うってことは」

咲「やっぱり私もバカってことでしょう?」

ひらりと身を返して恋人の元へと駆けて行く後姿を見送った後。


揺杏「あーあ。私も誰か見つけっかなー…」


ぼそりと、でも楽しげに揺杏は呟いた。



*****

次でラストです。

咲の元恋人は謎なままが良いみたいなので、このまま名前は出さないでおきます。
ヒントが欲しいってことなので一言。Bブロックです。

欠伸をかみ殺しながら、傍らの爽を見る。

自分と違って彼女は酷く真剣な顔でテレビの画面を見ていた。

いつもの冷めたものではなく食い入るような眼差し。

こんな爽の顔は珍しい。よほどこの映画が気に入ったのか。

自分にはあまり良さが分からないのだが。

シェイクスピアの有名な劇を現代風にアレンジし直したという映画は、

公開時にはかなりの反響を呼んだらしいが。

どちらかといえばミステリーものを好む咲にとっては、

きっと観ることはないと思っていたものだった。



大学を卒業すると同時に爽と結ばれて、漸く一年がたった。

ラブストーリーものを酷く好む爽は暇さえあれば、

甘ったるい映画を色々と借りてきては一緒に観ようとする。

咲としてはそんなものよりも麻雀をしたいと一応ごねるのだが、

大抵なんだかんだと言い包められて有耶無耶になってしまう。

今日も、愛が足りないなどと訳の分からないことを切々と訴えられてしまった。

落ち込む振りをする様を見て『分かりました。付き合いますから』とつい口が滑ったが

しまった、とすぐさま後悔しても、もう後の祭り。

嬉々とした爽に簡易上映会と称されて仲良く部屋に引きこもることとなってしまい、

それで今寄り添って映画を観る、という状況に落ちいってしまったのだ。


退屈からか次第に眠気が襲ってきた。

それを散らそうと欠伸をかみ殺した所為で涙が目尻に浮かぶ。

ぼやける視界を拭いつつ、咲はぼんやりと画面に視線を戻した。

ちょうどクライマックスに近づいたようで、

テレビからは壮大な音楽と共にヒーローとも呼ぶべき男が走るのが見えた。

そのあまりの急ぎぶりにここで転んだら面白いのに、

なんて隣の爽が聞いたら嘆きそうなことを考える。

そういえば女のほうは何処に行ったんだろうか。

一応は画面を観ていたはずなのに、いかんせん興味がないためか

話の筋が掴めていないので分からない。

熱心に観ている爽に聞くのも何だか悪い気がして、もう内容を追うのも諦めて

咲は背中で凭れていたソファの上にごろりと横になった。この姿勢のほうが楽でいい。

別に爽も自分が同じようにこの映画に夢中になることを求めているわけではないと分かっているから。

隣に居て、同じ空気を吸うことを望んでいるだけにすぎないのだから。

ただ、手の触れる場所にさえ居ればいい。

そして自分も彼女に手が届くところに居ることを望んでいて。

大事なのは同じ空間で同じものを観るということだけ。

漸く画面にはエンドロールが流れ始めた。

爽「……咲。オマエほとんど観てなかったろ」

爽「大事な場面で欠伸かみ殺してんの横目で見てたぞ」

映画に夢中になっていたと思いきや。

実は咲が隣で退屈そうに目を潤ませながら、

こっくりこっくりと舟を漕ぎ出しそうになる様までばっちり見ていた。

爽は薄情な嫁に憮然と抗議する。

咲「だって、普段こういう恋愛物って見ないですし」

すげなく言い返されて脱力しつつ、

念願叶ってようやく結ばれた咲に自分が弱いのは重々承知していたので

これ以上何か言うのを諦めて早々に降参することにした。

爽「そうだな。私が全部悪うございました」

爽「それなら次は激しいエロでも借りてきてやる」

降参はするが、小さな抵抗でもって悪あがきをしてみる。

けれど咲に呆れた顔でちろりと見られてしまう。

咲「そんなの絶対見ませんからね。それよりお腹すきました」

咲「今日の食事当番は爽さんでしたよね」

そっけなく食事の用意をしろと要求する咲の言葉に、素直に従うしか術は無い。

爽「はいはい分かりましたよー」

そう返して立ち上がり、財布を片手にドアに足を向けた。

爽「腹ぺこの新妻のためにひとっ走り行って何か買ってくるわ。今、冷蔵庫空だしな」

咲「ああ、昨日憧ちゃんとセーラさんが遊びにきて食材ほとんど使っちゃいましたからね」

爽「あいつら遠慮なさすぎなんだよ。どんだけ食うんだっつの」

咲「まあまあ。賑やかで楽しかったし良いじゃないですか」

ぶつぶつと文句をたれる爽に咲は苦笑しながら宥める。

咲「それじゃあ沢山買いおきしておかないと。私も付き合います」

そう言って咲が腰を上げる。

爽は近づいてくる咲に手を差し出した。

爽「新婚らしく仲良く手繋いでいこうぜー」

咲「うーん、じゃあ私に追いつけたら握ってあげます」

もし追いつけなかったら、今度揺杏さんと遊びにいこっかな。

そう呟いて、咲は軽やかに走り出した。

そのまま適当に靴をひっかけて、

タイミングよくちょうどやって来たエレベーターに飛び込む。

瞬間にして青褪めた爽の脳裏には

久と付き合いだしたくせに、からかい半分で咲にやたらと言い寄る幼馴染のにやけ顔。

爽「あっ、ずるいぞ咲!フライングだぞ!」

玄関先で慌てて叫ぶ爽が視界に入ったが、気にしない。

後から家を出る爽は玄関に鍵もかけなければならない。

エレベーターは今自分が使っているし、階段を使うにも二人の部屋から一番離れている。

そのタイムラグを有効に使わなくては、と。

階下についたエレベーターのドアを押し開けるように勢いよく走り出した。


殆ど人気の無いアスファルト道を風を切って走る。

固まっていた身体がほぐれるようで酷く気持ちがいい。

顔に感じる冷たい夜風を楽しみながらも、二つ目の角で足を止めて身を潜めた。


――見たかったのはたぶん、必死な顔で走る彼女の姿


慌てたあまりに転んでしまったらどうしよう。

と先ほど映画の男に期待したことを今度は爽に当てはめてみる。

くだらないことで笑い合うのはとても楽しくて、胸の中心が仄かに温かくなって。

そしてどこか幸せだ。

まさかこんな日が来るなんて思ってもみなかったけれど、

今となれば失くしてしまうのはとても恐い日々。

あの人を失ったときみたいに。

でも、それは杞憂に過ぎないことも分かっているから大丈夫。


例えば自分が死にそうになったら彼女は走ってきてくれる。今みたいに。

例えば自分が死んでしまったとしても、きっと彼女は一緒に眠ってくれるに違いない。

そんな自信があった。

それは今まで過ごした日常で爽が植えつけてくれた愛情の賜物と呼べるものかもしれない。


ねぇ、あなたは今幸せですか?


遠い昔、笑い合った恋人に問いかける。

高校の時にIHで出会い、大学に入ってから部活で仲を深め恋仲になった彼女とは

確かに永遠を誓いあう程好き合っていた時期もあった。

その日々はわずか半年で終わってしまったけれど。


挙式にも呼ばなかった彼女が今、どうしているかなんて知らない。

それでも彼女と過ごした一時も、自分の中ではかけがえのない時間だったから。


どうかお幸せに―――


声には出さず、囁いた。

やがて必死に走ってくる爽をこっそりと見た。

生い茂った緑柵のおかげで自分が此処にいることは気づかれていない。

いつもはすました容貌を、焦りに染めながら走る姿なんてそうそう見れるものじゃない。

影からこっそり必死な顔を見ていたことを知ったらどうするんだろう、

なんてその光景を想像して、咲は悪戯めいた笑いを洩らした。

左手の薬指に光るリングを愛しげに眺めながら。


爽「咲、私と一緒の墓に入ってくれ」


大学の卒業式の日、爽にそう告げられてからそろそろ一年。

その言葉通り、二人が天寿を全うし同じ墓に入る日は、まだ先の話。



終わり

爽の偽者感が半端ないですが、これで終わりです。
ここまで見て下さった方ありがとうございました。
早く本誌で2人の絡みが見たいなあ。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2014年09月05日 (金) 14:20:59   ID: 94Ukh_KS

2 :  SS好きの774さん   2014年09月06日 (土) 10:37:17   ID: ajS5ohrm

さ?
それはそうと続きはよ

3 :  SS好きの774さん   2016年08月22日 (月) 22:48:10   ID: P4TgXIOf

某スレってどこのスレなんや……

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