輿水幸子「1/2」 (32)


地の文、モバマスSSです。


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01


「……遅いですね 」

世界一カワイイボク、こと輿水幸子はとある喫茶店の前で待ち合わせをしていました。

行き交う人々も例外なくこちらを見てはさり気なく目を逸らして行きます。
きっとボクがカワイすぎて声を掛けたくても掛けられない……そんなところでしょう。
カワイすぎるってのも罪ですよね。
でも恨まないでくださいよ?
ボクがカワイイのはボクがボクだからなのですから。
腕を組んで待つ姿も堂に入っている事でしょう。さすがボクです。

話を戻しまして、待ち合わせ相手はボクのプロデューサーです。
正直言って冴えない人ですが、プロデュースの腕はまぁ、そこそこに評価出来ます。
ボクはカワイイ上に器が大きいですから、ここはせいぜいボクのカワイさを全世界に広めるために役立ってもらいましょう。
プロデューサーだって、ボクのために働けるのですから嬉しくて仕方がないハズです。

それにしても……本当に、遅いですね。
何か事件でも……いえいえ、あのプロデューサーさんのことです、どうせくだらない理由で遅刻しているに違いありません。
ボクがプロデューサーさんのことを心配するなんてことある訳ないじゃないですか。
まったく、ボクが紫外線にやられたらどうしてくれるんですか。
まあ、ボク程にもなるとお肌のケアもバッチリですので、日焼けしたりにきびが出来たりはしませんけどね。
完璧な美少女は自己管理も完璧なんです。

「…………うん」

暇ですね。
ええ、これも全てプロデューサーさんのせいです。

そうですね……丁度いいですし、着いたらどんな皮肉と罵声で迎えるか、考えておくとしましょう。
ボクを待たせた罰です。
これは是非とも受けてもらいましょう。


えーと。

『遅いですよプロデューサーさん、ボク程の女の子を待たせるには十年早いんじゃないですか?』

プロデューサーさんは大学を出て数年、と言っていたのでまだ二十代半ばだったはず。
アイドルのプロデューサーとはいえ女の子の扱いにはそこまで慣れていないでしょう。たぶん。
モテなさそうな顔をしていますしね。

というわけで、女性を扱う年齢としては早いのに、ボクの元に来るのは遅いんですね、というウィットに富んだ文句です。
ふふん、さすがはボクです、何をやらせても一流ですね。

次です。

『まったく、本当にプロデューサーさんはボクがいないとダメダメなんですから』

これはいつものボクですね。
彼はボクがいるからこそプロデューサー業を営んでいられると言っても過言ではないハズです。
ボクがいなかったらきっと今頃は路頭に迷っていてもおかしくないでしょう。

一見、バカにしているように取ることも出来ますが、その実は、それでも貴方にボクのアイドル生命を任せてあげているんですよ、というボクなりの優しさが含まれています。
まあそれに気付くかどうかは彼次第、といったところでしょうが、この程度のことに気付かないくらいではボクのプロデューサーは務まりませんよ?

『プロデューサーさん……寂しかったんですから……!』

変化球としての一手です。
いつも自信と実力が伴う美少女として馴らしているボクのこと。
そんなボクがいきなりしおらしくなったらプロデューサーさんもさぞやビックリすることでしょう。
涙のひとつでも付けたらなお効果的ですね。

涙は女の最大の武器、とも言いますし、それをボクが使ったら鬼に金棒、いえ、輿水幸子に涙という新しい慣用句が出来ても全然おかしくありません。
新しい慣用句まで産み出してしまうとは、ボクはどこまでスゴいのか自分でもわからなくて怖いくらいですよ、本当に。

ですが根が天使なボクです。
涙で他人を謀るというのも気が引けます……惜しいですがこの案はお蔵入りですね。
優しいですねえボクは。

『プロデューサーさんのバカ! もう知りません!』

これはこれで効果的です。
装飾も捻りも何もない言葉ですが、それだけに与えるダメージは大きいハズです。
もちろん、ボクは女神様のように寛大で器の大きいことで有名ですから、本気で怒ったりはしません。
つまり怒ったフリです。

いくらボクが寛容な女の子とは言え、それにつけこんで怠惰になるようでは意味がありません。
ですから、時にはこうやって怒ってあげることも必要なんです。
まったく、自分のことだけでなく担当プロデューサーなんかのことまで考えてあげるなんて、ボクは本っ当に人が出来ていますね。
中学生でここまでなんです、大人になる頃には一体どうなってしまうのか、怖くて想像できないじゃあないですか。
神様も不公平ですよね、ボクみたいな完全無欠の存在を産み出してしまうなんて。


「……幸子、なにさっきから世間様にドヤ顔を振りまいているんだ」

「ひあぁっ!?」

いきなり背後から声を掛けられ、前方につんのめります。

転ぶのを咄嗟の身体能力で回避し後ろを振り向くと、声の主、プロデューサーさんがいました。

「お、脅かさないで下さいよ!」

「いや、何度か声は掛けたんだが」

お前気付かないんだもん、とプロデューサーさん。
どうやら考え事をしていて気付かなかったようです。
カワイイだけじゃなく頭がよすぎるってのも考えものですね。

「そ、そんなことよりボクを待たせるなんて何考えてるんですか!」

「ん?」

「まったく、女性の扱いもまともに出来ないんですかプロデューサーさんは! レディを待たせるなんて男として失格ですよ!」

そっぽを向きながら皮肉も十二分に文句を言います。

さっきのことを忘れてもらうためにも勢いで流してしまいましょう!
ええ、完璧なボクに失態なんて許されませんからね!

「いや、今、待ち合わせ時間十分前なんだけど」

「……え?」

腕時計をぐいと押し付けてくるプロデューサーさん。
あ、腕太いなぁ、男の人って。

思わず固まってしまいます。
このまま彫像になってしまえばきっと世界遺産として登録されることでしょう。

「成程なあ、流石は世界一可愛いアイドル輿水だ。俺みたいな木っ端のプロデューサーにまで気遣いして早く来てくれるなんて、アイドルの鑑だよ全く」

「くぅ……っ!」

ニヤニヤと厭らしい笑顔を浮かべながら褒め殺しにかかるプロデューサーさん。

「……プロデューサーさんは意地悪ですね。そんなことでは女性にもてませんよ」

「わかったわかった、そこの喫茶店で打ち合わせしながら茶でも奢ってやる」

「そ、それなら許してあげなくもないですよ」

本当はもっと言い足りないところなのですが、まあこれくらいで許してあげましょう。

ボクは優しいですからね。


オシャレな喫茶店にてプロデューサーを対面に優雅なティータイムです。
アイドルたるもの、プライベートな場でも常にアイドルであることを意識しなければなりません。
特にボクみたいな超有名人はどこにいたって素性がばれてしまいますからね。
有名税とはいえ人気者は辛いですねえ。

「幸子、注文決まったか?」

「はい、どうぞ」

「すいませーん」

プロデューサーさんが声をかけると、店員さんがやって来ます。

「クリームソーダと……若鶏の和風照り焼きセット、ライス大盛りで」

「エスプレッソとスペシャルプリンパフェを」

「かしこまりました」

店員さんが去るのを見計らってプロデューサーさんが呆れたように溜息を吐きました。

なんですか、レディの前でこれ見よがしに溜息なんて失礼ですね。
それに打ち合わせでがっつりとご飯を食べるなんてデリカシーに欠ける人です。
そんなのだからハタチを越えても彼女が出来ないんですよ?

まあそういうことは思っていても口に出さないのが大人ですよね。
気遣いのできるボク、さすがです。

「皆まで言うな。お前の考えは手に取るようにわかるぞ幸子」

「なんのことですか?」

「いつもココアやカフェオレを頼むお前が、今までコーヒー系の類なんてミルクと砂糖の入ったものしか飲まなかった幸子が、何故今日に限ってエスプレッソを頼むか、だ」

「え……プロデューサーさんが、な、なにを言っているのかよくわからないんですけど」

「この間、俺が子供だなぁ、って言ったの気にしてるんだろ?」

頬杖をつき、ニヤニヤと厭らしく口元を歪めながら笑うプロデューサーさん。

……気に入りませんね。
特にボクのことは何でもお見通しですよ、と言わんばかりのその言い草は。
でもその程度の挑発に乗るボクではありません。
ここは大人の対応というべき返しをしてあげましょう!


「はて、なんのことだか分かりませんね。ボクはエスプレッソが飲みたいから頼んだだけですよ?」

「じゃあなんでそれなりに幸子と付き合いの長い俺は、今まで頼んでいるところを見たことがないんだ?」

「それは世界一カワイくて優しいボクですから、子供っぽいプロデューサーさんに合わせてあげていたんですよ」

「……へえ」

そうなんだ、と感心しているのか微妙な表情で固まるプロデューサーさんでした。

ふふん、ボクの言葉巧みな筋道の通った解説にぐうの音も出ないみたいですね。
ボクをからかおうだなんて百年早いんですよ。

それに、よく食べたりよく表情がころころ変わるから子供っぽいっていうのは間違っていませんし。

「それはいいけどさ、幸子」

「はい?」

「お前、エスプレッソがどういうものなのか知っているのか?」

「どういうものって……コーヒーの仲間でしょう?」

エスプレッソを作っているところなんて見たことないですから確証はありませんが、ドリンクバーとかで見る限りはコーヒー……ですよね?

プロデューサーさんには内緒ですが、正直言うと飲んだことはありません。
コーヒーやカフェオレがなくてエスプレッソしかない、なんてお店は寡聞にして知りませんし、そもそも選択する理由がないんですよね。
でもエスプレッソってなんだかブラックコーヒー以上に大人の飲み物、ってイメージがあるじゃないですか。

「間違っちゃいないんだが……まぁいいか」

「?」

「お待たせいたしました」

プロデューサーさんが何を言いたいのか結局わからないまま、店員さんが注文の品を持ってきました。

「……あれ?」

「どうした幸子?」


先に持って来たのは、調理の手間の少ないであろうボクの注文……でしたが。
なんでしょう、エスプレッソがものすごく小さいです。
それこそ一口でなくなってしまいそうなほどに。

……わかりました、こういうものなんでしょうね、きっと。
恐らくは希少価値が高いから量が少ないんです。
だからこその味のわかる大人の飲み物、という認識なんですね。
さすがボク、推理力も半端ではないですね。

ここは初めてということをプロデューサーさんに気取られたくありませんし、平然と対処しましょう。

「いえ、何も? ああ、いい香りですねえ」

黒い少量の液体は、香りも色もどこからどう見てもコーヒーの類でした。
まったく、ボクを脅そうとしてもムダですよ。
ボクを誰だと思っているんですか。

「では、お先にいただきます」

「どうぞどうぞ」

未だにプロデューサーさんが笑っているのは気になりますが、十四歳の未成年とはいえ、ブラックコーヒーが飲めないほど子供でもありません。
小学生じゃないんですから。

幼児用かと思うほどの小さなカップを手に取り、口をつけました。
コーヒーの香りは情熱のアロマとも言われています。
優雅でセレブなボクにはぴったりな謳い文句ですね。

「…………!」

舐める程度の量を口に含み、小さな音を立ててカップを置きます。

ふうん……これがエスプレッソですか、へえ……うん。

プロデューサーさんが脅かすからどんなものかと思えば、いう程大したことありませんね。
決して苦くて飲めないとか、砂糖やミルクを入れたいという誘惑に駆られているとかじゃありませんよ?

……違いますよ?

「どうした幸子、美味いんだろ?」

「え、ええ、そりゃあもちろん美味しいですよ。やっぱりエスプレッソはいいですね。ボクは大人ですから」

「……そんな小刻みにぷるぷる震えながら涙目で言われても説得力皆無だぞ」

「違うんです! こ、これはその……そう、寒くて! 冷房効きすぎですよこの店、まったくもう」

「ああ、そうだな。確かに冷房は効きすぎだ」

いや違うんですよ、本当に。
決して苦すぎて思わず震えてしまったとかではないんですよ。

いや、でも……。
なんなんですかコレは、苦すぎにも程がありますよ。
まるで親の仇を討ち漏らしたサムライの心境のように苦いではありませんか。


「お待たせいたしました」

続いてプロデューサーさんの注文が届きます。

「ったく、無理するなよ」

店員さんが注文を並べ、 去った後にボクのエスプレッソを強奪し、クリームソーダと交換するプロデューサーさん。

「……なにするんですか」

「急にエスプレッソが飲みたくなった。交換してくれ」

「な、なら仕方ないですね。ボクは天使のように優しいですから、交換してあげますよ」

プロデューサーさんのこういうところは素直に評価してあげましょう。
わざとだとはわかっていますが、男の人を立ててあげるのもいい女の条件です。

「……あ」

「ん? どうした幸子?」

エスプレッソをぐいっと一口で飲み干すプロデューサーさんを見て気付いてしまったことが。

ボクもプロデューサーさんも右利きです。
そしてコーヒーカップには持つ取っ手の部分がついています。

つまり……。

(…………間接……いやいや、ボクもちょっと触れただけですし!)

ボクとしたことがうかつでした……プロデューサーさんが気付いていないのがまだ救いでしょうか。

……顔、赤くなってないかな。

「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純で、恋のように甘い」

「……? なんですか、そのポエムは」

「ポエムじゃねえよ。昔のフランスの政治家の、有名なコーヒーを現した言葉だ」

「ふふん、まるでボクのためにあるような言葉ではないですか」

「幸子のどこが黒くて熱いんだよ」

「天使のように純で、恋のように甘い……というのは合っているじゃないですか。素敵です」

「半分ね……それもどうだかな」

失礼なプロデューサーさんですね。
ボクほど純で甘いなんてキュートな言葉が似合う女の子もいないでしょうに。

「幸子はまだ子供なんだ。背伸びする必要なんてどこにもないんだぞ」

そんなボクの葛藤などいざ知らず、プロデューサーさんはお行儀悪く食べながら、無神経なことをのたまいます。

「せ、背伸びなんてしていません!」

「はいはい」

まったくもう、本っ当に女心のわからない人ですね。

「雨、降りそうだな」

「降ったら、送迎してくださいよ」

「駅までな」

仮に背伸びしているとしたって、誰のせいだと思っているんですか。



02


帰宅途中。

がたん、ごとん、という不定期な揺れと窓を叩く雨のメロディが心地よく、緩やかな眠気が訪れます。
でも仮にもアイドルが電車で寝るわけには……うぅ、寒い。
なんで電車ってこんな冷蔵庫みたいに冷房入れるんでしょうか。
寒いのは苦手なのに。
女の子は下半身を冷やしちゃいけないんですよ、もう。
まあ、そのお陰で寝ずには済みそうですが……。

「なあ、今週のシンデレラプロのイベント行く?」

「行く行く、仁奈ちゃん出るしな」

「可愛いよなー、俺は美嘉ちゃんが好き」

「俺は年上のお姉さんがいいな……和久井さんや高垣さんとかたまらん」

眠りたい、でも寒くて眠れない狭間でうとうとしていると、大学生くらいの男の人が三人くらいでお話をしていました。
どうやらボクの所属するシンデレラプロダクションのイベントについて、のようです。
今週の土日で開催されるフェスイベントで、大所帯を持つ我らがプロダクションの半数が出演するビッグイベントです。

ちなみにボクも出ますよ。
お兄さん方、輿水幸子はいかがですか?
世界一カワイイボクは推しメンにぴったりですよ!

そんなボクの願いが通じたのか、お兄さん方はボクの話題に突入しました。

「輿水幸子ってどう?」

「ああ、ウザ可愛いよな」

「あの根拠のない自信はなんなんだろうな。可愛いけど」

ウザ可愛い!?

いや……ま、まあ、いいでしょう。
カワイイという点で許してあげますよ。
ボクは寛容ですからね。


「やっぱあれってキャラなのかね」

「そりゃそうだろ。あんな女の子いねえよ」

「実際のさっちんは超素直で大人しい子だったりしてな!」

彼等の談笑をそこまで聞いて、ふと気付きました。

アイドル輿水幸子なんて、いない。

ボクは輿水幸子だ。それは間違いない。
けれど、アイドルをやっている間のボクは、みんなの意識の中にはいるけれど、実体は何処にも存在しない。

アイドルの本来の意味は偶像崇拝だ。
そういう意味では決して間違っていない。
本当の意味で輿水幸子を知っている人間は、ボクの周囲の人たちしか、いない。
その証拠に、ボクの話をしているお兄さんたちも、すぐ側にボクがいるのにすら気付いていない。
きっとボクは、神話や寓話、しいてはマンガやドラマの登場人物のようなものなのだろう。
しっかりと存在はしているのに、一個の人間としてではなく、まるで別の世界の生き物のように。

ボクはボクのカワイさを世に広めるためにアイドルを始めたはずなのに。

……プロデューサーさんが、カワイイって言ってくれたから、それを俺一人が知っているのは勿体無い、って言ってくれたから、アイドルをやっているのに。
じゃあボクは、何のためにアイドルをやっているんだろう。

ボクにして珍しく誇張でも自己顕示でもなく、アイドルは白鳥のようだ、と思います。
華やかで煌びやかなイメージとは裏腹に、その水面下では凄まじい努力と駆け引きが必要です。

アイドル、芸人、歌手、芸能に関する仕事を志す人はそれこそ無数にいますが、それだけに競争率も激しい。
ボクの年齢でさえ、志半ばにして辞めて行く子は何人も見ていますから、もっと長いスパンで見たらとてつもない人数が出入りしている業界とも言えます。

過去に伝説として残ったアイドルは、何十年という時が経ってもその栄光と名誉は残っています。
そんなアイドルになれるのは、恐らくは何万人に一人なんて甘い割合ではなく、もっと天文学的な数字。
相応しい実力と、容姿と、運を兼ね備えた者のみがなれる、そんな狭い門。


ボクならばなって当然ですよ、なんて言えない。

言えるはずもない。

ボクもそこまで自分に酔ってはいませんし、何より他のアイドルとして頑張っている皆に失礼です。

その中で一流を目指すのであれば、それなりの代償も必要です。
ボクの場合は、何を犠牲にしているのか。

それは多分、自分の存在だ。

ボクのあのキャラは、半ば嘘で出来ている。
プロデューサーさんとファンの皆さんの前だけくらいで、本当のところは強がりに過ぎない。

ボクは、本当は弱いから。

身体も同年代の子に比べたら小さいし、それこそ大の大人に組み伏せられたら抵抗すら出来ない。
だから強がって、自分の心に嘘をついてまで、カワイイことだけを武器にしている。

アイドルをすることは、多くの人の特別になるということは、裏を返せば何者にもなれないことに等しい。
アイドル輿水幸子として活動すればする程、ボクは輿水幸子という人間の濃度を希釈している。

そんな気がして。

もしボクが可愛くなかったり、アイドルとして使いものにならなくなったら、プロデューサーさんは――――。

……一人になると、弱気になってしまう。

いつものボクじゃない。

いけない、この感覚は良くない。

どろりとして、黒くて、重く粘った澱のような感情が湧き上がってくる。
ダメだ。
これに搦め捕られると、立ち直れなくなる。

呼吸が異常に速くなっている。

おなかの中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような感覚。

「……っ!」

ボクは吐きそうになるのを抑えて、目的地でもない駅で逃げるように電車から降りました。



03


無我夢中で駅を飛び出して、気付くと事務所の前にいました。

どうやってここまで来たのか、何をしに戻って来たのかもよく思い出せないまま、扉を開ける。
時間が時間でしたから、そこにはプロデューサーさんとちひろさんだけがいました。

「……幸子?」

「どうしたの幸子ちゃん、びしょ濡れじゃない!」

ああ、そういえば雨でしたっけ。

「傘を忘れたのか?」

「傘……? 傘は……どこなんでしょう」

「……どうした幸子。何か、あったのか」

プロデューサーさんは取り乱しもせず、極めて冷静にボクの顔を見据えています。

いつも軽い態度のプロデューサーさんのその真面目な顔は、かなり嫌いじゃないですよ。

「ちひろさん、着替えとタオルを持ってきて貰えますか?」

「は、はい」

アイドルたちの控え室へと急いで向かうちひろさん。
プロデューサーさんだけじゃなくてちひろさんにも迷惑をかけちゃったようです。

ごめんなさい、でも、このまま一人でいたらどうにかなってしまいそうで。


「怪我とかは……ないみたいだな、熱は……冷たっ、どれだけ雨の中にいたんだよ」

夏とは言え、濡れた衣服は容赦無く体温を奪っていく。

寒い。
寒くて凍えそうです。
濡れたボクの髪をかきあげて、額にプロデューサーさんの手が触れる。
大きくて温かい。

「ボクは……どうしてアイドルなんてやっているんでしょうか」

「……幸子?」

「アイドル輿水幸子がいるのなら、ボクは必要ないじゃないですか。アイドルじゃないボクは、誰にも必要とされない、生意気な子供じゃないですか。ボクは、プロデューサーさんがスカウトしてくれたから、ボクのことをカワイイって言ってくれたから、アイドルをやっているんです。でも」

堰を切ったように言葉が止まらない。

蒙昧で醜い激情の渦がボクを突き動かす。

ボクは、卑怯だ。

いつもプロデューサーさんに甘えてばかりで。
今でもそうだ、プロデューサーさんに優しい言葉を掛けて欲しくて。

でも、そうでもしないと、壊れてしまいそうで。

「プロデューサーさんは……ボクが可愛くなかったら、ボクのことを……」

好きな人に認めてもらえないことは、何よりも辛くて、悲しい。

アイドルになったのも、初めは興味本位だった。
カワイイと褒められるのは嬉しかったし、普通の人とは違う、特別な存在になれるのには心が躍った。

でも、その過程で産まれて初めて人を好きになった。

凄いな、って。偉いぞ、って言って欲しくて虚勢を張った。

ボクは特別な人間になりたいんじゃない。

誰かの特別になりたかったんです。

「そう考え始めたら……頭の中がぐるぐる回ってきて……」


「……そうか、怖くなったんだな」

ぐしぐしと頭を撫でられ、何かが救われたような気がしました。
水しぶきが跳ねて、事務所の床を濡らしています。
もう、女の子の髪をそう簡単にいじるものじゃないですよ。

「わかるよ、自分が誰かの代替品だなんてたまらないよな。俺も美大出てるからよくわかる。だから俺も、俺でしか出来ないことを探した結果、今プロデューサーをしている」

ボクにしか出来ないこと。
他の誰でもなく、ボクでなければ駄目なこと。

でもそれはきっと、アイドル輿水幸子じゃない。
だったら何なのか、それがわかればこんなに苦労はしません。

「その途中で、俺は幸子を見付けた。今はそれが俺にだけ出来る大事な仕事だと思ってる」

「お為ごかしは結構です……! ボクが子供だからって適当な慰めはよして下さい……!」

「適当って、そんなつもりは……」

「馬鹿にしないでくださいよ! 貴方にボクの何がわかるんですか!? ボクは……ボクは、貴方の特別になりたいんです!」

「…………」

ああ、言ってしまいました。

あわよくばお墓まで持っていこうと思っていたくらいなのに。

ボクがいくら可愛くても、プロデューサーさんにとってボクは十以上も歳の離れた子供です。

だから、少しでも早く大人になりたかったのに。

そんなことも、理解してくれなかったのに。

「……ありがとう、幸子。幸子にそんなことを言ってもらえて、すげえ嬉しいよ。でも」

「……う、っく……」

涙が止まらない。

やだ。

やめて。

でも、なんて言わないでくださいよ。

その続きは聞きたくない。

どうなるかなんて、火を見るよりも明らかじゃないですか。

年齢の問題に加えてアイドルとプロデューサー。

ロミオとジュリエットではありませんが、こんなのロマンチックでもなんでもありませんよ。

悲しいだけじゃないですか。

なんとかしてくださいよ。

貴方はボクのプロデューサーなんでしょう?


「今はお前の気持ちに応えるのは無理だけど……幸子、お前はもう誰にも代わりの効かない女の子だよ。少なくとも、俺にとっては、な」

「……え?」

一転、とくん、と動悸が大きく速くなっていく。

視界はぼんやりとして、プロデューサーさんの顔がまともに見られない。

首から上がとても熱い。

鏡で見るまでもなく、自分の顔が真っ赤になっているのを感じる。

口からは吐息と共に心臓が飛び出しそうだ。

「それって……どういう」

「ちょ、ちょっと待ってろ、今温かいものでも淹れて」

なんだろう、これ。

鼓動を止めてしまいたい。

呼吸が荒くなっているのを気付かれたくない。

「お、おい、幸子?」

「……もっと、言ってください」

ボクは、何をしているんだろう。

視線を逸らしプロデューサーさんのおなかあたりにぎゅっとしがみついて、顔を埋める。

あたたかい。
いい匂いがする。
プロデューサーさんのワイシャツが濡れてしまいますが、ボクのためなら服くらい濡らしてもいいですよね?
ボクが風邪なんてひいたら大変じゃないですか。

ああ、そうだ。
もっとプロデューサーさんに近付けば、このおかしな身体の調子も治る……気がする。

なら、もっと、

「もっと……プロデューサーさんの言葉を……ください」

「俺は、お前よりだいぶ歳を食っているし、それに」

「そんなことは、どうでもいいんですよ……プロデューサーさんの気持ちが、聞きたいんです」

「……幸子」

首筋を撫でられる。

いや、プロデューサーさんはただちょっと触れただけだ。
身体中が敏感になっているのか、鳥肌が立ちそうな感覚と共に小さく身体が跳ねる。


「ん……っ」

「俺は、幸子が好きだ。もちろん、一人の女の子として、初めて見た時から、ずっとだ」

「……ウソじゃ、ないですよね」

「今まで俺が幸子に嘘付いたことが……あるな、沢山」

「……ばか」

「でも、陳腐な表現で悪いが一目見て宝石のようだと思った。でもいい年した男が中学生に言い寄る訳にも行かないしな……その時ばかりはアイドルのプロデューサーで良かったと思ったよ」

プロデューサーさんの言葉を聞くたびに、冷たかった身体が熱くなっていく。

血液の流れる音すら聞こえてきそうでした。

「う……うぇ……ひくっ」

「お、おい」

好きな人に好きだって言ってもらえることが、こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。

嬉しすぎる時には涙が出るなんてことも、知らなかった。

「う……っく、好き、好きです、プロデューサーさん……大好きです……」

涙と鼻水で顔中くしゃくしゃにして。

みっともなくて誰にも見せられないくらいなのに。

なのに、嬉しくて。

「俺も、世界の誰よりも幸子が一番大事で、好きだよ……ほら、顔拭け。アイドルにあるまじきひどい顔になってるぞ」

「うぐ……」

ハンカチで少し乱暴に顔を拭われる。
少しは女の子の扱いを覚えてくださいよ、もう……。

ああ、安心したらもっと欲しくなってきたじゃないですか。

もっとプロデューサーさんに触れたい。

褒められたい。

好きだって言って欲しい。


「プロデューサーさん」

「なんだ?」

「ボクのこと、いっぱい触ってください……」

ボクの濡れた身体と涙やその他諸々で汚れてしまったワイシャツを拭きながら、プロデューサーさんは目を丸くしています。

こういうところはカワイイですよね。
ボクほどではありませんけれど。

「お前……何言ってるかわかってるのか? 俺だって聖人じゃないんだ、普通の男だぞ」

そんな事を言いつつも、ボクの頬に手を添えるプロデューサーさん。

やばい。
寒さとは別のぞくぞくが止まらない。

「そ、そんな事言って……どうにかできる度胸が……ん、ぷっ、プロデューサーさんに……あれば、れすけど」

自分が何を言っているのかさえ胡乱だ。

舌が上手く回らない。

意識は蕩けたかのように曖昧で。

「は……中学生相手に、興奮するなんて、プロデューサーさんは……やっぱりヘンタイだったんですね……」

「……幸子が可愛いからいけないんだよ」

「嬉しいので……もっと……ください」

「さ、幸子……」

ごくり、とプロデューサーさんが喉を鳴らす音がやけに大きく聞こえました。
ふふ、動物みたい。

まぁ、ボクを目の前にしたら理性がなくなっても仕方ないですよね……今のボクも、正気を保てているかと言われれば、自信がありませんし……。

「ボクに……もっと先のこと……教えて、ください」

それこそ飛びそうになる意識の中で口走った言葉は、音塊となってプロデューサーさんの耳に届いたことでしょう。

正直なところを言えば、怖いです。
こんな状況、産まれて初めてですし、何をされるのか予想も……いや、少しはわかりますけれど。
でも、嫌じゃないからいいんです。


誰かを好きになったのも、はじめてだから。

でも、そんなボクの蠱惑的な言葉を受けたプロデューサーさんの対応は、

「駄目だ」

「…………え?」

予想外の言葉に、浮かされていた熱が少し飛びました。

男は狼なのよ、気を付けなさい、と川島さんが言っていたのに。

ボクはボクなりに一世一代の覚悟くらいで言ったのに。

「……女の子にここまで言わせておいて恥をかかせる気ですか」

正気ですか、と視線で責める。

いや、待って。
さすがの朴念仁プロデューサーさんもここまで言えばボクの言葉の意図に気付かないなんて訳ありません。
ただでさえ世界一カワイイボクに迫られているんですから、これで反応しなかったらプロデューサーさんはホモか、違うのなら男として死んだ方が良いでしょう。

……ボクがまだ子供だからでしょうか。

でもでも、日本人は若い子が好まれる傾向が強いって雑誌で見たし……。

もしかして、ボクの身体がどこかおかしいんでしょうか?
そりゃあ、胸やおしりはあんまり大きくないですけれど、スタイルにはそれなりに自信が……。

「いや……本音を言えば今すぐにでも襲っちまいたいくらいなんだが……出歯亀がいる」

「え……えぇっ!?」

プロデューサーさんが控え室に繋がる扉へと視線を遣ると、確かに少しの隙間から幾つかの眼が覗いていました。
ボクたちに見つかったのにも気付いたらしく、慌てふためいています。

ちひろさんに蘭子さん、莉嘉ちゃんに美嘉さん……。

「天光に暴かれし闇の同胞よ!(もう、見つかっちゃいましたよ!)」

「もうちょっとでいいところだったのにー!」

「やるねープロデューサーも。女の子には手を出せないヘタレだと思ってたのになぁ。写メ写メ★」

「……覗きとは趣味が悪いですよ、ちひろさん」

「いえいえ、お邪魔してはいけないと思いまして」

さすがに事務所で一線越えようとしたら止めますが、とちひろさん。

……何処から見られていたんでしょうか。

ちょっと待ってくださいよ、ひょっとして、今までの会話全部……?

そう考えたら一気に顔が熱くなって来ました。
どうしよう、明日からどうやって皆と接したら……。

「幸子、ここはいいからシャワー浴びて着替えてこい」

ちひろさんから受け取った着替えとバスタオルを手に、ボクを追いやるプロデューサーさん。

そうですね、いい加減風邪をひいてしまいそうですし、一旦頭を冷やしましょう。



04


温水で暖を取った後、冷水で気持ちを落ち着かせます。

冷静になって改めて思いましたが……我ながらすごいことをしてしまいましたね。
しかもばれたのが人間拡声器たる美嘉さん莉嘉ちゃんとなると、明日には全員に伝わっていてもおかしくありません。
本当に明日からどんな顔をして来ればいいんだろう……。

シャワー室を出て、身体を拭き着替えます。
と、シャワー室を出たところにプロデューサーさんが待ち構えていました。

「ちひろさん以外は帰したよ、お疲れ様」

缶コーヒーを二本掲げるプロデューサーさん。
ブラックコーヒーとカフェオレ。
どっちがいい、ということでしょう。

少し迷ってブラックを選びます。

「はぁ……蘭子は目を輝かせて質問攻めして来るし、美嘉と莉嘉に散々からかわれたよ」

「謝ったり、後悔したりはしませんよ」

「ん?」

プルタブを開けて、コーヒーに口をつけます。
涙やら何やらで色々と流れ出してしまったので、今はどんな飲み物でも美味しく感じます。
ちょっぴり苦いけれど、それも何処か心地よくて。

昼間、プロデューサーさんとした会話を思い出しました。悪魔のように黒くて、地獄のように熱くて、天使のように純で、恋のように甘い。

今はまだ、半分のボクです。
苦みも熱さも、プロデューサーさんと半分こしてようやく一人前の、言わばカフェオレです。

「大人になるまでに、黒さも熱さも飲み込んで一人前になってみせますから」

このブラックコーヒーは、その第一歩としましょう。
今はまだマズいですが、慣れれば美味しくなりそうです。


「無理して飲むんじゃないよ……交換してやろうか?」

「いいんですよ。貴方の前では、いつまでも生意気でカワイイボクで居させて下さい」

「馬鹿言え、幸子はいつだって、いくつになったって、俺にとっては世界一可愛い女の子だよ」

「そうですか、嬉しいです」

プロデューサーさんは何とも言えない表情でこちらを見ていました。
なんですかその顔は。

「……幸子らしくないな。いつもの幸子なら、顔を真っ赤にして『ボクがカワイイのは当たり前じゃないですか!』くらいは返ってくると思ったんだが」

貴方の前では、強がっていたかったから。

可愛くて、強いボクでいたかったから。

でも、もうそんなの必要ありませんよね。
自分の心に嘘をついてまで、自分を偽る必要はなくなったんですから。

「ボクがカワイイことは充分、わかってくれているんでしょう?」

わかってくれる人がいる。

大好きな人がわかってくれている。

ボクがボクじゃなければならない、って、言ってくれた。

なら、ボクはボクのままでいるまでです。

「なんか……大人になっちゃったな、幸子」

「こんなボクは嫌いですか?」

「いや、小悪魔な幸子も悪くない」

小悪魔、ときましたか。
悪くない響きです。
人々を魅惑し翻弄するボクにはぴったりではないですか。

ではでは、リクエスト通り小悪魔らしく振る舞うとしましょう。

「お、おい」

プロデューサーさんのネクタイを手前に引っ張り、顔を位置をボクの目の前へ。

プロデューサーさんの驚いている間抜け顔に、そっとボクの顔を重ねます。

数秒の後、ぺろりと舐めとった唇は仄かに甘くて。

甘いのはきっと、はじめてだからとかではなく、プロデューサーさんの飲んでいたカフェオレのせいなのでしょう。

これくらいは、いいですよね?

「前借し、です。ボクの利息は高いですよ?」

ボクはまだ子供です。

知らないことも、わからないことも沢山あります。

それはおいおい、プロデューサーさんに返済も兼ねて教えてもらうとしましょう。

世界一カワイイボクを好きだって言ったんだから、それくらいは覚悟してますよね?

「一生かけて、ボクに尽くして返してくださいね?」


輿水幸子「1/2」 END

拙文失礼いたしました。

読んでくれた方々、感想共にありがとうございまする。

今気付いたけど幸子は左利きだった……。
リサーチ不足で申し訳ない。

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