モバマス土佐日記 (96)

・このSSは、紀貫之(きの つらゆき)の「土佐日記」をベースにしています。

・作者独自の解釈、脚色が含まれます。ご了承下さい。

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 十二月 二十一日


最近、世間では日記を書くことが流行っているようですね。
一介の召使でしかないボクも、流行に乗ってみることにしました。

ボクは、紀貫之という方に仕えている侍女です。
貫之様に較べたら、名乗るほどの者ではありません。

貫之様は、またの名を輿水幸子と言い、容姿の可憐さは比類がありません。
それに勉強も運動もできる人で、才色兼備という言葉は、幸子様のためにあるのではないかと思います。


ある年の12月21日の午後8時頃に、一旦ある場所へ移りました。
その様子を、以下に記します。



幸子様は、土佐での任期を終え、京へ帰ることになりました。
土佐での人気は絶大なもので、可愛い幸子様を見て、
頬が緩まない殿方はいません。

旅立ちの日は、皆さんに盛大な宴会を開いて頂き、
結局その日は宴会だけで潰れてしまいました。


 十二月 二十二日


京まで無事にたどり着けますようにと、神社に安全祈願のお参りをしました。


 十二月 二十三日



八木という人が、送別会を開いてくれました。
よく気が回る方で、この人が宴会をするととても楽しくなります。


 十二月 二十四日



国分寺の住職が、わざわざ別れの挨拶をしに来てくれました。
周りの人も酔いつぶれてしまい、結局その日は宴会だけで終わりました。



贈り物はありがたいのですが、船旅なのに餞別の品が馬というのは、どうなのでしょう?


 十二月 二十五日~二十六日



幸子様の入れ替わりでやってきた国司様が、送別会を開いてくれることになりました。
二日かけての宴会で、詩を詠んだり歌を歌ったりして、大盛り上がりです。


また、新しい国司様と幸子様が、互いに歌を交換し合うという場面もありました。


国司様は


『都出でて 君に逢はむと 来しものを 来しかひもなく 別れぬるかな』

(都を出発して、貴方に会おうとはるばるやってきたのに、
貴方はすぐに旅立ってしまうのですね)


という歌を詠まれ、幸子様は


『白栲の 波路を遠く 行きかひて 我に似べきは 誰ならなくに』

(白波の立つ波路を、お互いにはるばると行きかい、
私と同じように任期を終えて帰るはずの人はあなたなのですね)


と見事な返歌をされました。



可愛いうえに、こんなに素晴らしい歌も詠めるなんて!
ふふーん! 流石は幸子様ですね!


 十二月 二十七日


ようやく宴会の大安売りは終わり、今日から出発です。
まずは、大津から浦戸に行くことになりました。

しかし、京で生まれた女の子が土佐で亡くなってしまったので、
一行の頭上には重い空気が漂っています。


ある人は、


『都へと 思うをものの 悲しきは 帰へらぬ人の あればなりけり』

(いよいよ都へ帰れるのだと思うと、嬉しいはずなのに、
とても悲しいのは生きて帰れない人がいるからだ)


という歌を詠んだり、またある人は


『あるものと 忘れつつなほ なき人を いづらと問ふぞ 悲しかりける』

(亡くなってしまったことを忘れてしまい、つい呼びかけてしまうのは、
なんとも悲しいことだ)


と詠んだりしていました。


鹿児(かこ)の崎というところで休憩をしていると、後ろから追ってきた人が見えます。
何かなと思って見ると、それは今までの送別会に間に合わなかった人たちで、
浜辺でまた宴会が始まってしまいました。


これを読んでいる皆さんには、幸子様が土佐でいかに人気だったか、
お分かり頂けるかと思います。


『をしと思ふ 人やとまると 葦鴨の うち群れてこそ 我は来にけれ』

(鴛鴦というわけではないが、貴方の別れを惜しむ人達を連れてきたら、
葦鴨の群れのようになってしまった)


『棹させど 底ひも知らぬ わたつみの 深き心は 君に見るかな』

(あなた方の厚意は、例えるなら、棹を指しても深さの分からない大海のようだ)


などの歌も交わされていました。


しかし、船頭は「もののあわれ」も解しない野人であり、
「潮が満ちてくる」と適当な理由をつけて、船を出そうとしました。
そのため、宴会は中途半端に終わってしまったのです。


 十二月 二十八日



浦戸から漕ぎ出し、大湊を目指します。
相変わらず、皆さん船上で飲んだくれています。


 十二月 二十九日



大湊に停泊しています。
近くに住む医師が、わざわざ御屠蘇を持ってきてくれました。


さすが幸子様! どこに行っても人気者ですね!


 一月 一日



しまった! 新年だというのに、酒を海に落としてしまいました!
しかも、正月用の料理も何も用意していません。
これでは正月を祝うことができません。


幸子様に事の次第を報告すると、

「許してあげますよ。ボクは可愛いので!」

とのことでした。なんと寛大な心の持ち主でしょう!
ボクは感動のあまり、涙ぐんでしまいました。


結局、押し鮎(塩漬けの鮎)をしゃぶるしかなく、皆さんは終始無言でした。
鮎の口をしゃぶって、やらしいことを考えている人もいるのでは……?


 一月 二日



あいかわらず、大湊に停泊中です。
住職が、食べ物やお酒を持って来てくれました。


 一月 三日


海が荒れていて出航できません。

あっ、まさか! 風や波が、幸子様を引き止めようとしているのでは……?


 一月 四日


やはり停泊中。

いろんな人から贈り物を頂いてきましたが、そろそろ心苦しくなってきました。


 一月 五日


やっぱり停泊中。

来客がひっきりなしです。
人気がありすぎるのも、困りますね!


 一月 六日


昨日に同じ。


 一月 七日


こんなに長期間足止めを喰らっていると、暇を持て余してきます。

魚などを持ってきてくれた人から、今日は七草を祝う日だと聞きました。
それには歌がついており、


『浅茅生の 野辺にしあれば 水もなき 池に摘みつる 若菜なりけり』

(魚は「池」という土地から持ってきたが、ここは浅茅が生い茂る場所なので、
まさに水のない池から持ってきた若菜というわけです)


というものです。とても気の利いた歌ですね。

ちょっとした宴会になり、あまりに皆さんが馬鹿騒ぎするので、
舟が転覆しないかと心配になってしまいました。


そうそう、この地に滞在している間、いろいろなことがありました。

かいつまんで書き記すと、ある人が――名前は忘れましたが――
宴会に勝手に入ってきた挙句、下手な歌を詠み、ぬけぬけと返歌をもとめてきたのです。

もちろん誰も相手にしなかったので、その人は帰っていきました。


だいたい、ボクたちが波で足止めされているのに、
歌に「白波」という言葉を混ぜるとは、いったいどういう了見なのでしょう?



これだから田舎者は……


 一月 八日


……いい加減出発したいです。


今夜、月が海に沈んでいく景色を見て、在原業平が詠んだ


『山の端逃げて 入れずもあらなむ』

(山の稜線よ、月を隠してくれるな)


という歌を思い出しました。


もしそれが海辺だったとしたら、


『波たちさへて 入れずもあらなむ』

(波よ、月を隠してくれるな)


このようになったのでしょうか。


『照る月の 流るる見れば 天の川 出づる水門は 海にざりける』

(月が海に隠れていく姿をみると、天の川も地上の川と同じく、河口は海だったのではあるまいか)



あれ、これ誰の歌でしたっけ?


 一月 九日


やっと出発です。
次の目的地は奈半(なは)です。


この期に及んでもなお、幸子様の見送りに来る人が絶えません。
幸子様の人徳の成せる業であり、また、
この国の人々の心の温かさによるものでしょう。


沖へ漕ぎ出すと、すぐに海辺の人々の姿が見えなくなりました。
いざ別れるとなると、急に寂しさが湧いてきます。
もっとお話がしたかったなぁ……


『思ひやる 心は海を わたれども ふみしなければ 知らずやあらむ』

(別離を惜しむ気持ちは、海を渡ることができない。
この気持ちを、海辺の人々は分かってくれるだろうか)

やがて、宇多の松原を通りすぎました。
松の木がどれだけあるのか、いつからこの松はあるのか分かりません。

船中には、この景色の素晴らしさを歌に詠む人もいました。


『見渡せば 松のうれごとに すむ鶴は 千代のどちとぞ 思ふべらなる』

(松の梢に住む鶴は、松を千年来の友人と思っているようだ)


すっかりあたりは暗くなり、西も東もわかりません。
船旅に馴れていない人は、夜は男性でも心細くなるようです。

ボクは真っ暗な景色が怖くなり、船底で泣いていました。
しかしそのとき、幸子さまがボクの手を握ってくださったのです。

「ふふーん。ボクは闇なんて恐れませんよ! カワイイので!」

幸子様は、いつでも頼りになるお方ですね!


一方、船頭や楫取りたちは何とも思っていない様子です。


『春の野にてぞ 音をば泣く 若薄に 手切る切る
摘んだる菜を 親まぼるらむ 姑や食ふらむ かへらや』

(春の野で、声を立てて泣くのだ。若薄で手を切りまくり、
やっと摘んだその菜を、親が食べるのか、姑が食べるのか。帰ろう)


『夜んべのうなゐもがな 銭乞はむ
そらごとをして おぎのりわざをして 銭も持て来ず おのれだに来ず』

(昨夜のあの子に会いたいものだな。銭を取ってやろう。
嘘をついて後払いで買って、銭も持って来ないで顔さえ見せないよ)


船頭達は、この他にも色んな歌を歌っていましたが、とても書ききれません。
この陽気な歌声で、心は少し穏やかになりました。


 一月 十日


奈半の港に停泊しました。


 一月 十一日


まだ夜の明けないうちから、室津へと目指します。
あたりは真っ暗ですが、月を見て方角を知りました。


途中、羽根(はね)という所についたのですが、この地名を聞いた女の子が、
「羽根のように軽いのかしら」と言いました。

幼い子の言うことに、周囲の大人たちはつい笑ってしまいます。
女の子は、大人たちが笑っているときにこんな歌を詠みました。


『まことにて 名に聞く所は はねならば 飛ぶがごとくに 都へもがな』

(この土地がまことに鳥の羽根ならば、飛ぶように早く都へ帰りたいな)


表現が直截すぎて、あまり上手な歌とはいえません。
しかし、なるほど、と思ってしまうところもあります。

ボクは、この女の子の姿を見て、出立前に亡くなった子の事を思い出していまいました。
いつになったら、忘れられるのでしょうか。

京に着いたとき、人数を数えたら足りない……
そんな情景を想像し、思わず涙が出ます。


『世の中に 思ひやれども 子を恋ふる 思ひのまさる 思ひなきかな』

(この世で、亡き子を慕う親の情に勝る思いなど、存在しない)


 一月 十二日


雨は降らず、快晴です。


 一月 十三日


夜明け前に少し雨が降りましたが、すぐに止みました。

女達は水浴びをしようということで、適当な場所に降りていきます。
幸子様の肌はとても滑らかで、女のボクでもドキドキします。


また、水浴びをしながら遠い海の景色を眺めていたのですが、
こんな歌を思いつきました。


『雲もみな 波とぞ見ゆる 海人もがな いづれか海と 問ひて知るべく』

(空に流れる雲が、波のように見える。
近くに漁師がいたら、あれが海なのかと尋ねてみたい)


 一月 十四日


夜明け前から雨が降るので、同じ場所で停泊しています。

幸子様の節忌(せちみ)が終わりましたので、
楫取が持ってきた鯛と米を物々交換しました。
幸子様はその鯛を召し上がって、精進落としをされました。

楫取は、釣ってきた魚を米や酒と交換できたので、上機嫌です。


 一月 十五日


天候が悪い日が続くので、旅は進みません。

皆さん暇そうにしています。
そんな中、ある女の子がこんな歌を詠んでいました。


『立てば立つ ゐればまたゐる 吹く風と 波とは思ふ どちにやあるらむ』

(風が立つと波も立つ。風が止むと波も止む。風と波は友達なのだろうか?)


 一月 十六日


風と波が止まないので、やはり同じ場所に停泊しています。
早く、御崎(みさき)という場所を通り過ぎたいと思います。

ある人が詠むには、


『霜だにも 置かぬかたぞと いふなれど 波の中には 雪ぞ降りける』

(この南国は雪は降らないそうだが、波の中を見ると、飛沫が雪のように見える)


だそうです。


 一月 十七日


空に雲がなく、明け方の月が実に趣深いということで、
小船で漕ぎ出してみました。

空の月が海の底にも輝いており、それを見てある人がこんな歌を詠みました。


『水底の 月の上より 漕ぐ船の 棹にさはるは 桂なるらし』

(水底に映る月に棹を立てて漕いでいく様子は、月に生えているという桂に見える)


また、この歌を聞いて別の人が詠んで曰く、


『影見れば 波の底なる ひさかたの 空漕ぎわたる 我ぞわびしき』

(波の底に大空が映っているが、その空を漕いでいく私はちっぽけな存在に見える)


こんな風流なやりとりをしているとき、船頭たちがやってきて、
「黒い雲が出てきたから、早く御船に戻れ」と言います。

船頭達が言ったとおり、船に引き返した直後に雨が降ってきました。
中途半端に終わってしまい、やりきれない思いです。


 一月 十八日


……やっぱり同じ場所にいます。
いつになったら天気が良くなるのでしょう?
景色は良いのですが、さすがに飽きてきました。

男性陣は、漢詩などに興じているようです。
どうやら、幸子様も参加しているようで、楽しげな笑い声が聞こえてきます。

また、普段滅多に歌を詠まないひとが、こんな歌を詠んでいました。


『磯ふりの 寄する磯には 年月を いつともわかぬ 雪のみぞ降る』

(荒波の打ち寄せる磯には、年月など関係なく雪が降っているようだ)


また、別の人が詠んだ歌は、


『風に寄る 波の磯には うぐひすも 春もえ知らぬ 花のみぞ咲く』

(風や波が寄せる磯には、白梅もなく、鶯も知らない波の花が咲いている)


この二首を、まあ悪くないと思い書き残しました。


更に、一行の最年長の老人が、うさばらしにこんな歌を詠んでいました。


『立つ波を 雪か花かと 吹く風ぞ 寄せつつ人を はかるべかなる』

(立つ白波を、雪か花かと見間違えるように、風も吹き寄せて人の眼をだまそうとしている。
この勝負は引き分けだろう)


これらの歌を、周りの人々が批評しています。

そこで、また別の人が歌を披露しました。しかし、その文字なんと37文字もあります。
人々は笑いを抑えきれずに噴出してしまい、歌を詠んだ人は大層機嫌を悪くしていました。


書き残そうと思ったのですが、あまりにも意味不明な出来だったので、
正確に記録することはできないと思い、断念しました。


だって聞いたばかりの今日でさえ、思い出しづらいのですから。


 一月 十九日


相変わらず天候が悪い。


 一月 二十日


天気が悪く、船を出しません。
さすがに、皆さんも苛々し始めていました。

しかし幸子様だけは、泰然自若としています。さすがです!


二十日の夜に、月がでました。
ここは都と違って、月が海から出るのです。

昔々の阿部仲麻呂(あべのなかまろ)という人が唐の国に渡り、二十日の月を見て


『青海原 ふりさけ見れば 春日鳴る 三笠の山に 出でし月かも』

(海原を遠くに眺めると、そこに見える月は奈良春日の月と同じなのだな)


と詠んだのです。唐の国もわが国も漢字を使いますから、和歌を書き留めることができたのでしょう。
この歌は、向こうの人々に絶賛されたそうですよ。

使う言葉は違いますが、月に風流を感じる心は同じなのですから、
人の心も同じなのでしょう。


また今日は、幸子さ……おっと、ある人がこんな歌を詠んでいました。


『都にて 山の端に見し 月なれど 波より出でて 波にこそ入れ』

(都の月は山から出たり入ったりするが、ここでは波から出て、波に入っていくのだよ)


 一月 二十一日


ようやく天気が良くなり、港に停泊していた船が一斉に漕ぎ出していきました。
ボク達の乗っている船には、ボク達に雇ってもらおうとして、幼い子供が何人かついてきます。
その内の一人が、


『なほこそ 国の方は 見やらるれ 我が父母 ありしと思へば かへらや』

(やっぱり、懐かしい故郷の方を向いてしまう。あそこに自分の両親がいると思うと、帰りたくなる)


という舟唄を唄っていました。
しみじみと胸を打ちます。


また、船君(ふなぎみ:船のオーナー)が海賊が出るという噂を聞いて、心配になったそうです。
しかし彼は、

「海賊に恐怖して、また海も恐ろしいものだから、髪が真っ白になってしまったよ。
海というのは、頭の上にあるものらしい」

と、上手いことを言っていました。


『我が髪の 雪と磯べの 白波と いづれまされり 沖つ島守』

(島守さん、私の白髪と海辺の白波を較べると、どちらが白いですか)


一月 二十二日


次の港を目指して、船は進んでいきます。

一行の中に9歳ぐらいの男の子がいるのですが、
船が進んでいくにつれて山もついてくるように見えるのを不思議がり、


『漕ぎて行く 船にて見れば あしひきの 山さへ行くを 松は知らずや』

(漕いでいく船から見ると、遠くの山をついてくる様に見えることを、浜辺の松は知らないのかな)


という、子供らしい歌を詠んでいました。


また、今日は海が荒れており、打ち寄せる波が花のように見えます。


『波とのみ 一つに聞けど 色見れば 雪と花とに まがひけるかな』

(打ち寄せる響きは紛れもなく波の音だが、
飛沫を見ていると、雪か花に見間違えてしまう)


 一月 二十三日


天気は、晴れたり曇ったりを繰り返しています。
このあたりは海賊が出るとのことなので、神仏に祈りを捧げました。


 一月 二十四日


昨日と同じ場所にいます。


 一月 二十五日


楫取が「北風が吹いているのでよくない」と言うので、船はだしませんでした。


相変わらず、海賊がやってくるとの噂が絶えませんが、ボクは安心しています。
なぜなら、幸子様がいるのですから!


 一月 二十六日


海賊の噂が絶えないので、道祖神に祈願してみます。
楫取が言うには、幣(ぬさ)が散る方向に船を漕ぎ出せば良いとのことでした。

その様子を見た女の子が、


『わたつみの ちふりの神に 手向けする 幣の追ひ風 やまずに吹かなむ』

(海神に捧げる幣をたなびかせる追い風よ、どうかそのまま吹き続けてくれ)


という歌を詠んでいました。


さて、海神様のご加護でしょうか、風向きが良くなってきました。
楫取たちは得意になって帆を揚げます。
それを見た人々も大はしゃぎしました。

一行の中で、淡路の婆さんという人が詠んだ歌を記しましょう。


『追ひ風の 吹きぬる時は 行く船の 帆手うちてこそ うれしかりけれ』

(船の帆が追い風にたなびき、拍手のような音を立てている。
それを見て私達も、手を叩いて喜んでいる)


 一月 二十七日


海が荒れているので、船は出せません。
人々は気落ちし、男性陣は漢詩を吟じています。

その漢詩を聞いた、ある女性が


『日をだにも 天雲近く 見るものを 都へと思ふ 道のはるけさ』

(あの太陽でさえこんなに近くに見えるのに、都の何と遠いことか)


こんな歌を詠み、またある人が詠んだのは、


『吹く風の 絶えぬ限りし 立ち来れば 波路はいとど はるけかりけり』

(風が絶えない限りは船を出すことが出来ず、旅路はますます遥かに思える)


こんな歌でした。

それにしても、同じような景色が続くので、何か新しい歌が聞きたいところです。


 一月 二十八日


一日中雨が止みません。


 一月 二十九日


やっと出発です。

ふと爪を見るとかなりの長さに伸びており、出発してから随分経つのだなと思いました。
しかし、今日は子(ね)の日なので爪は切りません。


『おぼつかな 今日は子の日か 海人ならば 海松をだに 引かましものを』

(今日は本当に子の日なのだろうか。
私が海人ならば、海に潜って海松(みる)でも引いてみるのに)


こんな歌が聞こえてきましたが、海上で子の日の歌というのは、
いかがなものでしょう?


『今日なれど 若菜も摘まず 春日野の 我が漕ぎわたる 浦になければ』

(今日は子の日なのに、若菜さえ摘まない。
若菜摘みの名所である春日野は、海の上には無いので)


 一月 三十日


良い天気なので、船を漕ぎ出していきます。

幸子様曰く、

「海賊は、夜歩きしないんですよ!」

とのことなので、夜中に出発しました。


真っ暗な闇の中を進んでいくので、男も女も必死に祈り続けています。

夜明けに沼島(ぬしま)を通り過ぎ、多奈川を渡ります。
そして急ぎに急いで、和泉の灘という場所に到着しました。

海上には波らしい波もなく、神仏の恵みを受けたというところでしょうか。

また、初めて船に乗った日から数えると、もう39日目になっています。
いろいろと危険な目に遭いましたが、和泉の国に来たので海賊の心配をする必要はありません。


幸子様の判断力は素晴らしい!


 二月 一日


今日は和泉の灘から漕ぎ出します。
その後、箱の浦という場所から、船を引っ張っていきました。


『たくましげ 箱の浦波 立たぬ日は 海を鏡と 誰か見ざらむ』

(「箱の裏」と呼ばれる箱の浦で波の立たない日は、
誰だってこの海面を「鏡箱」に入っている鏡のようだと思うだろう)


また、船君はもう二月になってしまったことに、愚痴を吐いていました。


『引く船の 綱手の長き 春の日を 四十日五十日まで 我は経にけり』

(船を引く綱のように春の長い日を、私達は海上で過ごしてしまった)


あまり上手な歌ではないと思ったのですが、幸子様から、

「船君が苦心して思いついた歌なんですから、あまり下手だとか言っちゃだめですよ!」

と見抜かれてしまいました。
さすが幸子様! 大人の対応です!


 二月 二日


風や雨が止みません。

一日中、神仏に祈りを捧げました。


 二月 三日


海が荒れており、出航できません。
これにつけて幸子様が、歌を詠まれました。


『緒を縒りて かひなきものは 落ちつもる 涙の玉を 貫ぬかりけり』

(糸を縒り合わせても、全く甲斐が無い。
長旅の苦しさのあまり流した涙を、その糸で貫いて止めることはできない)


 二月 四日


楫取が、「今日は天気が悪くなるから、船は出さない」
と言ったので、出航しませんでした。

しかし、その日は一日中穏やかな天気で、雨粒一つ落ちてきません。


この楫取は、天気も読めない愚か者だったのですね!


そうそう、この港の浜には美しい貝が沢山落ちています。
それを見た人が、亡くなった娘を偲び、


『寄する波 うちも寄せなむ 我が恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ』

(波よ、恋しい人を忘れられるように、あの貝を打ち寄せてくれ。
船を降りて拾いに行くから)


こんな悲しい歌を詠んだので、別の人が気晴らしに


『忘れ貝 拾ひしもせじ 白玉を 恋ふるをだにも 形見と思はむ』

(たとえ貝を波が打ち寄せても、拾ったりはしない。
亡き子を慕う気持ちを忘れないことこそ、亡き子の形見だと思うので)


また、依然として足止めを喰らっているので、
ある女の人が詠んだ歌は、以下の通りです。


『手をひでて 寒さも知らぬ いづみにぞ 汲むとはなしに 日ごろ経にける』

(泉とは言いながら、手をつけても冷たさを感じない名前ばかりの和泉で、
水を汲むわけでもなく、無駄に日を過ごしている)


 二月 五日


今日は、和泉から小津まで向かいます。
見渡す限り松原が続いており、誰もがこの長旅にうんざりしています。


『行けどなほ 行くきやられぬは 妹は績む をづの浦なる 岸の松原』

(女達が紡ぐ麻の糸が尽きないように、この松原も果てしなく続いている)


じれてしまったのでしょうか、船君が船頭に向かって
「今日は天気が良いのだから、もっと速く漕いでくれ」と頼んでいました。


それを聞いた船頭が、楫取に言います。

『御船より おほせ給ぶなり 朝北の 出で来ぬさきに 綱手はや引け』

たまたまでしょうが、なんだか歌のように聞こえました。


でも、船君とは逆のことを言ってます。
慇懃無礼とはまさにこのこと。
船君の面目は丸つぶれじゃないですか!


 二月 六日


ついに、難波(なにわ)の河口につきました。

淡路の婆さんは、船酔いで臥せっていたのですが、京の近くまで来たと言うと、
急に元気になりました。しかも、こんな歌まで詠んだのです。


『いつしかと いぶせかりつる 難波潟 葦漕ぎそけて 御船来にけり』

(待ち遠しかった難波潟にたどりつき、葦を分け入って御船がようやくやって来た)


 二月 七日


今日は淀川の河口に入り、川を遡上します。
しかし水が涸れており、なかなか船は進みません。

そんなとき、病気がちな船君が妙な歌を詠みました。


『来と来ては 川上り路の 水を浅み 船も我が身も なづむ今日かな』

(やっとの思いでここまで来たが、川の遡上も自分の体調も思わしくない)


また、一首だけではもの足りないと感じたのか、


『とくと思ふ 船悩ますは 我がために 水の心の 浅きなりけり』

(船を困らせるのは水が浅いからだが、私を思う水の心も浅いのだ)


こんな歌まで詠んでいました。

しかし、お世辞にも上手い歌とは言えません。
淡路の婆さんの歌のほうが、よっぽど上手です。


船君もそれを感じたのか、「歌なんて詠まなければ良かった」などと言いながら、
不貞寝してしまいました。


 二月 八日


依然として遡上には難渋しており、御牧(みまき)という場所に泊まりました。
また、近所の方が魚を持ってきてくださったので、お米と交換しました。

このような物々交換は、あちらこちらで行われています。


 二月 九日


あまりにも進まないので、夜明け前から出発です。
しかし、船底が川底につっかえて、なかなか前に進みません。

そうこうしているうちに、「渚の院」という場所に着き、
船上から眺めながら進んでいいました。

幸子様によると、ここは昔、在原業平が


『世の中に 絶えて桜の 咲かざれば 春の心は のどけからまし』

(この世に桜が無かったら、人々の心はもっとのんびりしていたでしょう。
桜の儚さを知ることが出来ないのですから)


という歌を詠んだそうです。

さすが幸子様。博学ですね! 尊敬します!


 二月 十日


諸事情により、今日はお休みです。


 二月 十一日


少し雨が降ったので増水し、進みやすくなりました。

また、東の方に山が横たわっているので、あれは何ですかと幸子様に聞いてみると

「あれは八幡宮ですよ!」

とのことでしたので、喜びのあまり舞い上がってしまいました。


 二月 十二日


山崎にいます。


 二月 十三日


まだ山崎にいます。


 二月 十四日


雨が降りました。
今日は従者に、京へ車を取りに行かせました。

べ、別に駄洒落ではありませんよ?


 二月 十五日


手配しておいた車がやって来ました。
皆さん、船にはうんざりしたと見えて、次々に車に乗り換えていきます。


この日はある人の家に宿泊したのですが、家の内装が豪華すぎて少し嫌味な感じがしました。

ですが幸子様は、気に留める風もなく、主人の歓待にいちいち礼を述べています。
幸子様の器の深さがわかりますね!


 二月 十六日


車に乗って、京の街中へ入りました。
以前と変わったところは無くて少し安心しましたが、幸子様が言うには、

「人の心まで変わっていないか、わかりませんよ」

とのことでした。さすが幸子様! 深い読みです!


また、鳥坂という場所で歓待を受けました。
わざわざここまでしなくても良いのに、と思ったのですが、
これは幸子様の人気ゆえです。しかたありません。


夜になってようやく屋敷に戻ることができました。
聞いてはいましたが、想像以上の荒れようです。

庭に植えていた松は、五年しか経っていないのに、千年も経たかのようにぼろぼろになっています。
しかし、新芽が出ていました。

それに、ところどころ地面がへこみ、池のように水が溜まっている箇所もありました。


『生まれしも かへらぬものを 我が宿に 小松のあるを 見るが悲しさ』

(この地で生まれて京へ帰れなかった子もいるのに、
庭に新しい松が生えているのを見ると、なんとも悲しい気分になる)


忘れがたいことや、心残りはありますが、とても書き尽くすことはできません。

誰かに見られたら恥ずかしいので、こんな駄文は破り捨ててしまいましょう。


 ~事務所~


P「……」カタカタ

幸子「……」カリカリ

P(……そろそろ休憩しようかな?)

幸子「……」カリカリ

P(幸子は真面目だな。時間があれば、事務所でいつも勉強してるもんな)

幸子「……」カリカリ

P(いや、ノートを清書してるのか。それにしても、最近の中学ってそんなに勉強難しいのかな?
 少し見てやろうか)


P「お~い幸子。さっきからずっと勉強してるが、そろそろ休憩したらどうだ?
 わからないことがあるなら、教えてやるよ」

幸子「!! な、ななな。べ、別に構いませんよ!ボクは勉強は得意なので!
  別に教えていただかなくても結構ですよ!」

P「ふーん、幸子は偉いなぁ。ところで、最近の中学生ってどんなことを勉強してるんだ?
 ちょっとノート見せてくれよ」ヒョイ

幸子「あっ、見ないでください!」ガバッ




P「これって……」

幸子「あぁ……」






P「『勉強も運動もできる人で、才色兼備という言葉は、
 幸子様のためにあるのではないかと思います』」

幸子「わー!」

P「『可愛い幸子様を見て、頬が緩まない殿方はいません』」

幸子「わー! わー!」

P「『可愛いうえに、こんなに素晴らしい歌も詠めるなんて!
 ふふーん! 流石は幸子様ですね!』」

幸子「ノート返してくださいよ~!」ジタバタ



P「……」

幸子「あ……あぅ……」

P「……なあ、幸子。一つ、良いかな?」

幸子「な、何ですか!?」


P「自演乙」

幸子「うわぁあああん!!!」ジタバタ



おわり

・読んで下さった方、ありがとうございました。

・紀貫之は当時最も人気の歌人でした。時の権力者・藤原忠平が代筆を依頼する際、
 自ら貫之の屋敷まで足を運んだほどです。

・ちなみに、紀家は武門の一族です。
 関係あるか分かりませんが、当時瀬戸内海で海賊が流行していたのに、
 貫之が土佐にいる間は、土佐近辺で海賊は殆ど発生していません。
 もしかしたら、貫之自身が海賊を取り締まっていたのかもしれません。
 (貫之の帰京直後に、藤原純友が挙兵しています)

・「土佐日記はネカマの元祖」とよく言われますが、ネカマをするだけの変人ではなかったということですね。

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