希「青春の影」 (337)

絵里「青春の影」の社会人verです。
書きためなし。百合、エロ、シリアス。



とある大学の研究室――

教授「……というわけで、本日のゼミは以上です。次は来週の……」

院生「希ちゃん、ありがとう。あの英訳全然分からなくて困ってたんだよ」

希「いいですよ。丁度、最近読んだ論文と内容が被ってたんで」

院生「私も未読の論文溜まってきちゃってるんだよねー……」

希「夏休みの宿題、最後まで残しておくタイプですか?」

院生「……そーなの」

希「ファイトです……」クスクス

院生「笑わないでよ、もう」

希「笑ってなんか」

院生「かーおー」

希「あ、ちょっと頬っぺた引っ張るのやめてくださいって」

院生「もちもちしてて羨ましいねー」

希「先輩の方が……女性らしい」

ぷるるる――

院生「彼氏……?」

希「違いますよ?」

院生「そっか、良かった」

希「?」

希は携帯を見る。電話をかけてきた人物の名前が表示されている。
胸がざわつく。心地よいものではない。希は少し息を吐いた。

希「じゃあ、先輩また明日」

院生「ええ」

希はポケットの車のキーに手をかけて、足早に廊下を駆け下りていった。



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ピッ――

希「もしもし、ごめん遅くなってもうた」

絵里『大丈夫、にこが遅れるって伝えたかっただけだから』

希「にこっちも? 良かった」

絵里『私を待たせるとどうなるか分かってるわよね?』

希「久しぶりに再会する友人脅してどうするんよ」クスクス

絵里『だって、せっかく有休つかってるんだもん。一分でも早く二人に会いたいし』

希「はいはい。じゃあ、車に乗るからまた後でな」

絵里『はーい。待ってるわ、希』

ピッ

希「えりち、ちょっと喋り方やわこくなった?……気のせいかな」

希は車のフロントミラーを覗く。ぽつりと呟いて、左肩にかかるサイドテールをくしゃりと掴む。それから、軽くアクセルを踏んだ。

高校を卒業して、絵里と希は県外の別々の大学へ進学した。
始めの頃は、それこそ毎日のように連絡を取り合っていた。
夏休み等には、他のメンバーもたまに交えて旅行に行ったりもしていた。
しかし、互いに卒業が近づくにつれ、就職活動や、院試等で連絡がまばらになっていった。

大学を卒業して、希は大学院へ。絵里が希の通う大学院のすぐ近くの会社に就職したことを知ったのは、院試が終わって1月程経過した頃だった。偶然ね、と電話で語った絵里。

その電話は淡々としていた。電話自体何か月ぶりだというのに。
久しぶりの絵里の声に喜ぶべきだったのに、希は心を燻らせた。
その電話からまた1年ほど経過して、今度は絵里からの同窓会のお知らせ。


希「……嬉しいはずなんやけど」

同級生との再会に胸は踊る。ただ、希は高校生の時、あのトンネルの向こう側で交わした絵里との約束が、脳裏を過っては消え、過っては消えていくのだ。

希「あんなのもうとっくに忘れとるかもな……」

もう、5年も6年も前の話。
そんなものを後生大事に覚えているはずがない。

希「あかん、笑顔笑顔」

信号にひっかかり、希はブレーキを踏む。
ふと、窓の外を見る。

希「……あれ、にこっち?」

ハーフアップの黒髪を揺らして、見るからに足を痛そうにして歩く小さな女性――にこがいた。希は信号が青になってから、車を左に寄せて窓を開ける。

希「にこっちやん、久しぶりー」

にこ「ッ!?」

息の荒いにこが、急に車にへばりついてくる。

希「な、なに?」

にこ「乗せなさい!」

希「そ、それは全然構わんけど……」

にこ「足に靴擦れできた……」

希「履きなれん靴履いてくるけんやで」

にこ「今日履きたかったのよ」

希「ふーん? ま、早く乗って。後ろから車来てしまうよ」

車内――


にこ「ふう、助かったわ。ありがとう、希」

希「うちが通らんかったらホテルまで歩いて行くつもりだったん?」

にこ「うー、まあ」

希「嘘やろぉ」

にこ「途中までは、真姫ちゃんが送ってくれてたんだけど、実習先の真姫ちゃん家の病院からお呼び出しがあって……」

希「なになに? どういうことなん、それ」

にこ「……酒の席で話すわよ。今は言えない」

希「ほほう。楽しみにしておくわ。というか……にこっち、お酒飲めるんやっけ?」

にこ「前の同窓会で、飲んでたでしょ?」

希「ジュースっぽいの飲んでたなあ、そう言えば」

にこ「カクテル! そういうあんたはビール一杯で酔いつぶれてたじゃない。あの後、絵里もいないから私一人で介抱してやったんだから、忘れたとは言わせないわよ……そう言えば、あの時なんで絵里いなかったんだっけ?」

希「……仕事、始まったばかりで断れなかったって言ってたかな」

にこ「ふーん……」

今日はここまでです。

希「にこっちは仕事とあっちの方の両立はできそう?」

にこ「あっち? ああ、劇団のこと?」

希「うん、この間、役もらえたって言ってたやん?」

にこ「まあね、すぐに主役級の役もくるんじゃないかしら」

希「すごいやん。何年か前に、アイドルから舞台俳優になりたいって言った時はどうなるかと思ったけど」

にこ「アイドルは適齢期ってもんがあるのよ。それに、女優もアイドルも私自身を売り込むのは変わらないしね」

希「……そっか、にこっちもなんか大人になったなあ」

にこ「同い年じゃない。にこだけ老けたみたいな言い方よしなさいよ」

希「ごめんごめん」

希は横目で、ふくれっつらのにこを見た。にこはもともと童顔で、怒った時の顔は高校生の時のまま。それがなんとなく可笑しかった。

にこ「あ、そのコンビニの前の国際ホテルじゃない?」

希「ほんまや」

希はアクセルを緩めて、道路端に立つ整理員の指示に従った。



車を地下駐車場に止め、ホテルのエントランスに辿り着いた頃には見知った顔の人間が何人か立っていた。

幹事「あ、東條さんと矢澤さん。遅かったねー」

希「ごめんな。ちょっと長引いてしもうて」

絵里「希、にこ!」

後ろから呼びかけられ、希とにこは同時に振り向いた。

希「えりち……」

白と黒のバイカラーのワンピース姿の絵里がすらっと立っていた。
希は一瞬目を奪われる。青色の瞳が希とにこを交互に向けられた。

にこ「……絵里? 老けたわね」

にこがばっさりとそんなことを言った。

絵里「もともと老け顔だったし、今さらそんなこと言われてもね」

にこ「なによ張り合いない」

希「にこっち、さらっと受け流されてるで」

絵里「にこはパーティードレス? 希はゼミが終わってからそのまま来たのよね? 着替える?」

希「あ、うんちょお着替えようと思いよったんよ」

絵里「更衣室に案内するわ」

幹事「あ、その前に二人ともこれ引いて」

幹事は何本かの割り箸を右手に握って、にこの前に差し出した。

にこ「なにこれ?」

希「くじ?」

幹事「席順だよん」

にこ「どこでもいいけど、じゃあ、これ」

にこは迷いなく一番手前を引いた。

希「ほな、うちは……」

ふと、視線を感じる。絵里がこちらを見ていた。

希「えりち?」

絵里「へっ、ああ何でもないの」

希「うん?」

首をかしげつつ、割り箸を引き抜いた。

にこは五番。希は八番。
テーブルの番号らしい。

絵里「私は、ちなみに一番だったわ」

希「席離れてしもたな」

にこ「二次会もあるんだから、一次会くらいいいじゃない」

絵里「にこは二次会行くの?」

にこ「せっかくだしね。あんたは、同窓会は今回初めてよね? 行くの?」

絵里「え、うーん……」

絵里が希の方を確認する。

希「うちは、えりちが行くなら行くかな」

心細そうな絵里の表情に、希は思わず噴き出した。
ぱあ、と絵里の顔が綻ぶ。

絵里「そう? じゃあ、行くわ」

今日はここまでです

希「それに、べろんべろんのえりち見てみたいしね」

絵里「悪いけど、私、お酒弱いから飲まないわよ」

希「ですって、矢澤さん聞きましたか?」

にこ「ええ、前にμ'sで集まった時もそんなことを言ってましたわね」

絵里「な、なによ」

絵里は怯えた目つきで後ずさる。

希「何杯目で酔うかかけませんこと?」

にこ「いいですけど、私達が先に伸びないようにしなくてはいけませんね」

希「確かに……」

にこ「……」

絵里「二人よりは強いと思うけど?」

希・にこ「……」

その後、にこは会場へ先に向かい、希は絵里に更衣室へと案内された。

希「えりち、今日むっちゃセクシーやんな」

絵里「そう? ありがと」

希「帰りにナンパされんように気をつけないとね」

希は鞄から、淡いパープルのシフォンドレスを取り出す。

絵里「ないない」

笑いながら絵里は首を振った。

希「そんなこと……えりち」

絵里「なに?」

希「これ下着だけになるから、あんまこっち見ないで欲しい……」

絵里「今さら何恥ずかしがってるのよ。一緒にお風呂だって入ったじゃない」

希「……大学入ってから激しく動くとかせーへんやろ? 体重増えて……」

絵里「……へえ? それは、プローポーション作りの鬼と言われた私には聞き流せないことね」

希「そんなん初めて聞いたで」

絵里「初めて言ったけど」

絵里は希に詰め寄る。

希「ちょ、何する気?」

絵里「一体どこのサイズが増えたのかしら~?」

希「その手つきは……まさか、わしわし?」

絵里「ほーら、脱ぐの手伝ってあげるからさっさと脱いじゃいなさい」

希「えりち、やめっ」

絵里「そーれっ」

ガバッ

希「お助けっ」

上着をはぎ取られ、下に来ていたノースリーブのロングシャツをずるずると引き上げられる。
途中、シャツが胸に引っかかる。

絵里「希、大きくなった?」

希「……っ」

絵里「希?」

希「そーですよ……そーです。だから、見せたくなかったのに……」

希は両手で胸を隠した。

絵里「いーじゃない、女性らしくて」

希「いややもんっ」

絵里「私は大きい方が好きよ?」

希「えりち、からかわんといてって、もう!」

希は絵里の言葉の真意がわからずどきりとする。

絵里「からかってなんか……」

希「だって、大きいと太って見えるし……ブラもサイズ合うの少ないし……良いことない」

口を尖らせて、ドレスを拾い上げる。
と、後ろから絵里の腕が希の細いウエストに巻き付けられた。

絵里「ほら、こんなに細いのに、気にすることないわ」

希「え、えりちっ」

絵里は希の胸に手を忍ばせる。

希「どこ触ってっ!?」

ひんやりとした絵里の細い指が下乳を持ち上げた。ふっと胸が軽くなる。

絵里「でも、これだけのものを持っていると、肩も凝っちゃうわよね」

希「そ、そうやで、それもネックで」

絵里の手が触れたところが、かっと熱を帯びる。血液の流れが早くなる。
息苦しい。

希「もう、ええやろっ。早く着替えんと」

希は絵里の腕を解きながら、ぎこちなく笑った。

絵里「あ、そうね」

心臓に悪い。希は絵里の顔を上手く見れず、下を向きながら手早くドレスを着た。


絵里「ハラショー……可愛い」

希「ありがとさん」

絵里が軽く拍手する。更衣室についている鏡で、希は髪と化粧を直した。

希「よし、準備できた。お待たせ」

絵里「ねえ、希……」

希「なあに?」

絵里「あ、いえ、やっぱり後で言うわ」

希「変なえりち」





会場――大ホール


幹事「はーい、みなさん静粛にー!」

パンパンパン――

幹事「挨拶は抜きにして、まずはちょっとした余興を……」

幹事「高3の思い出を振り返るのにこれは欠かせないと思いまして……」


8番テーブル――

希「なんやろ」

同級生「去年は、元演劇部が劇をやらされてたわよね」

希「あの事後承諾はえげつないもんやったな」

同級生「今年はどの部活が醜態をさらす羽目になるのかしら」

希「細かいことまでは覚えてへんよねえ」

同級生「これだけ人数いるんだから当たるわけ」

希「そやねえ」



幹事「μ's3人に、全力で持ち歌を歌ってもらいまーす」


ガタっ!!(三か所同時)

にこ「……ちょっと! 聞いてないわよ!」

絵里「さ、さすがにそれは」

幹事「決定事項です。えー、御三方には申し訳ないですが、今回はたっての希望がありまして、持ち歌っつーか、『スノハレ』をラップ調・演歌調・ノーマルで歌って欲しいとのことで」

にこ・絵里「ちょっと!?」

にこと絵里の声が綺麗にハモる。

にこ「どこの放送作家が考えたネタよ!?」

幹事「えっとー、バックには卒業前に録画していた映像を流せと。ハガキの最後に、『饅頭's』と書いております」

にこ「あほのか……っ?!」

絵里「ハガキって……何で後輩から応募したのよ」

幹事「録画もしといてって言われてて、なんか次のμ'sで集まる時の酒のつまみにするとか……あ、これ言っちゃダメだった。てへっ」

にこ「あいつ、絞める……」

絵里「こらこら……でも、素面のうちからこんなことをさせられるなんて」

希「面白そうやん!」

にこ「……希、あんた本気で」

希「やろ、ね? やろ?」

にこ「ぐっ」

絵里「希、これは明らかに常軌を逸してるわ、お願いよ正気になって」

希「ねー、えりち、お願い。やろ? 一緒にやりたいなー、ねーねー」

絵里「の、希」

幹事「ねーねー、やろ?」

にこ「あんたは御黙り!」

希「ね?」

のちに、まるで穂乃果が乗り移ったかのようだと絵里とにこは語った。

オープニングは大爆笑の内に終わった。

にこ「つ、疲れた……なんで演歌」

絵里「私なんてラップ調よ……」

希「ぷくくっ……」

にこ「あんたいつまで笑ってんのよ!」

にこは希を羽交い絞めにする。

希「ギブギブっ」

絵里「女子高ってときどき、えらくパワフル……」



幹事「はーい、にこえりのぞでしたー。ありがとうございます!」

幹事「それでは、盛り上がったところで、さっそく乾杯しましょう! グラス持ってない方いませんね? かんぱーい!!」


『かんぱーい!』

にこ「え、にこのサインが欲しい?」

同級生「うん、将来売れるかなって」

にこ「……なんちゅー、守銭奴。まあ、いいわ、いい値で裁きなさいよ」

同級生「わーい、ありがと!」




絵里「え、あそこの企業ってあの大手の系列の?」

同級生「うん、でもやっぱり大企業ならではのブラックな一面が……」

絵里「大変よね。でも、それだけやりがいもあるんじゃない? 最近一部上場したって言うし、暫くは諦めないでお互い頑張りましょう」

同級生「か、会長~っ」ぶわっ

絵里「会長はやめてよ、もお」

同級生「うえーんっ」

絵里「誰よ、この子にお酒飲ませた人……むちゃくちゃ弱いじゃない」





希「いくでいくで……そおい!」

同級生「ど、どう? 今年の出会いは?!」

希「待ち人来たり、春遠からず。来たり給え、運命の人よ、ヤーレンソーラン」

同級生「なんか色々混じって……」

希「スピリチュアルやな」ヒック

同級生(……あれ、この人一口二口くらいしか飲んでないよね?)

幹事「はいはーい。みなさーん、飲んでますかー?!」


『はーい!』


幹事「元気元気! この後二次会ありますけど、お車の方は代行か歩きか、飲んでない方と乗り合わせて来てくださいねー!捕まっちゃやーよ?」

幹事「それでは、デザート各種盛りの入場でーす!」


ガタっ(各テーブルから)


幹事「獣ども、落ち着け! みなさんが野獣のように群がると、容易に大乱闘が予想されますので、お席の各代表が取りに来てくださーい」

幹事「デザートが行き渡ったら、いったん食べるのを待っててください。サプライズがありますので」

ガヤガヤ――


幹事「はい、みなさん行きわたりましたねー?! それでは、そのデザートの中に、一枚だけ二次会の一発芸を誰がするか決める券が……、あ、やだ、ちょっと物を投げないでっ痛い痛いっこれだから、元女子高出身は! あ、はい、私もですっ」

幹事「というのは冗談で、都内の高級ホテルのペアチケット……あ、こら! まだ喰うな! あ、ちょ!」

幹事の声を無視して、みな一斉にデザートをほじくり始めた。

幹事「恐ろしい……」


『ない! ない!』

『あ、これ……ってパイシートか……』

『おいひー!』


絵里「もう、食べてもいいのかしら……」

絵里「ん? なにこれ」

ケーキの下に、赤色のプラスチックの札が張り付いていた。

幹事「ほう!」

絵里「……っ」びく

幹事「当てましたね……?」

絵里「え、あ、これ?」

カランカラン――!

幹事がどこからともなく鐘を取り出し、大きく振った。
そのあと、各テーブルから落胆と悲壮な諦めの声が上がった。

一次会は最後に全員の集合写真を撮って、終わりを迎えた。


幹事「はーい、二次会行く人! お店で会いましょー!」


希、絵里、にこは三人でタクシーに乗り合わせて、二次会会場の居酒屋へ向かった。
車内で、希は上機嫌に鼻歌を歌っていた。

希「ふんふーん……」

にこ「ちょっと、絵里を一緒に潰そうって約束したじゃないの」

希「うん、した」

絵里「希、無理しないで? 大丈夫?」

希「いやや、平気やって」

にこ「……部屋の隅にまた転がしておくわよ?」

希「まだ大丈夫だからね?」

絵里「心配だわ」

いったんここまでです。

にこ「昨年も、二次会の乾杯の音頭とともに寝こけたっけ」

希「んー?」

にこ「はあ、話したい事あったんだけどね」

希「聞くよ? ねえ、えりち」

絵里「ええ、まあ」

にこ「いいけどね、別に」

希「別にー? なんや、真姫ちゃんみたいなこと言って」

絵里「からまないの」

絵里はにこを覗き込む希の体を、シートへと戻す。
後部座席の真ん中にいた希は絵里の方を振り向いた。

希「……えりち」

絵里「なあに? ほら、もうすぐ着くわよ」

希は絵里のベージュのポシェットに視線を移す。
この中には、先ほど絵里が当てたホテルのチケットが入っているのだろう。
希はぼんやりとそんなことを思った。

希「そのチケット……」

誰と行くことを想像したのか。言葉は最後まで音にならなかった。

運転手「着きましたよ」

絵里「あ、はい。まとめて払っておくから、後で割り勘ね」

希「うん……」

にこ「悪いわね」

時刻は午後8時。二次会は地下にある居酒屋で行われた。
明日、仕事がある者が多く、メンバーは昨年とあまり変わらなかった。


お座敷――

幹事「そこで寝こけてる狸は……希さん?」

にこ「あー、ほっといてほっといて勝手に起きて食べて飲んで勝手に寝るから」

絵里「希って、ほんとお酒弱かったのね」

にこ「μ'sの飲み会ではみんなと話したいから自制してたらしいわよ」

絵里「そうだったの……知らなかった」

希「……聞こえとるよー」

重たい瞼を開けることができず、希は手のひらを振る。

絵里「希、料理運ばれてきたけど食べる?」

希「……食べたい食べる食べさしてえ」

床を這いずるように絵里の膝元まで移動する。
力尽きたように絵里の太ももの上に顎を落とした。

幹事「可愛いねー。酔うとイメージ変わるよねこの人」

絵里「ええ……私も驚いてる」

絵里は希の頭を撫でた。

くすぐったくて、希は小さく頭を振った。

にこ「希、わさびとタバスコどっちがいい?」

希「……どっちでもいい」

絵里「ちょっと、にこ」

にこが今なんと言ったのか、頭では理解していたつもりだった。

にこ「はい、口開けてー」

希「あーん」

意味だけがすっぽりと抜け落ちたかのようだ。希はにこの言うとおりに口を開ける。

絵里「こらっ、だめ」

絵里が一人声を荒げている中、箸先の刺身は希の舌に着地していた。

希「はむっ……」

舌先から鼻と瞼に駆け上がってくる衝撃。

希「っっう!?」

絵里「お水……ああ、もう切れてる。下からお水取ってくるから」

軽いため息が上から降ってくる。頭の下から太ももが抜き取られる。

希「にこっひ……」

ひりひりとしたしびれにも似た感覚に耐えながら、にこを睨みつけた。

にこ「起きたじゃない」

希「お陰さまで、眠気も酔いも吹っ飛んでいったよ……」

にこ「話、聞いてくれるんでしょ」

希「……」

にこ「私さ、真姫ちゃんと付き合ってるのばれちゃったの」

希「誰に?」

にこ「あっちの両親に。こっぴどく叱られて、家にも上げてもらえなくなっちゃった」

希「……いつから?」

にこ「今年の始めくらいかな……薄々おかしいって思ってたみたい。お付きの人にパパラッチされてさ。それから、真姫ちゃんほとんど病院に磔状態なのよ。ひどい話よね」

希「にこっち……」

にこ「娘の将来がかかってるんだもんね、当たり前よね。でも、未来の大女優に対して、あんまりな仕打ちじゃない?」

希「その話、他に誰かに話たん……?」

にこ「分かってて聞いてるの? 他に、誰に話すっつーのよ」

にこの目に涙が浮かんでいた。希は彼女の小さな手にそっと自分のを重ねた。

絵里「希、お水……どうしたの?」

希「えりちありがとぉ。なんでもないで……? あ、にこっちも、ちょっと飲まん?」

にこ「どーも……」

希「ほんとに口から火吹けるかと思ったで?」

にこ「ふぁーへん」ゴクゴク

絵里「……」

希の酔いが完全に醒めた所で、絵里へのお酌タイムが始まった。

絵里「このおちょこに入ってるのは?」

にこ「み・ず」

希「それと表面張力でなんとか溢れずに済んでるあ・い」

絵里「……化学薬品の匂いがするんだけど」

希「良薬苦しって言うやん?」

にこ「言うやん?」

絵里「なんだか、あなたたち仲いいわね……」

絵里は暫く小さな水面を見つめ、思い切ったようにぐいっと口元に運んだ。

絵里「……っはあ」

希「お、お姉さんいける口やん?」

にこ「サービスしておくわよ?」

そして、またおちょこへ『水』が注がれる。

絵里「……っ」グイ

何杯目かに、絵里が『トイレ!』と叫んで立ちあがって滑りそうになって希を押し倒してしまった所で、そのゲームは終了した。そして、程なくして二次会も終わりを迎えた。


絵里「愛してる……バンザーイ……」

絵里はにこに抱き着きながら、ずるずると引きずられている。

にこ「離しなさいっての! 帰れないでしょ!」

絵里「バンザーイ……」

希「えりち、こっちおいでー」

希が両腕を広げる。

絵里「……」

絵里は一度希の方を向く。ぐるんぐるんと頭部をゆっくりと揺らして、少しずつにこの体から離れていく。

にこ「希、そいつ任せたから」

希を支えにして、絵里はやっとのことで立っているという感じだった。

希「にこっち、久しぶりに会えて良かったで。また、電話するから」

倒れそうになる絵里を支えながら、希はにこに笑いかける。

にこ「ええ……私も。また、話し聞いてもらってもいい?」

希「もちろん。うちができることがあれば何でも言ってな」

にこ「……サンキュ」

絵里「……にこ」

にこ「なに?」

絵里「ううん……またね」

にこ「あんたも頑張んなさいね」

絵里「?」

にこ「それじゃ」

希「足、気い付けてな」

にこ「ああ、うん」

タクシーに乗り込むにこに小さく手を振る。
あの靴ずれは、もしかしたら何かの当てつけだったのだろうか。

希「えりち……」

絵里「うん、ちょっと待って……ちゃんと立つから」

希の裾から手を放し、ヒールを鳴らす。

希「ええて、家に着くまで持っておいて大丈夫やで?」

絵里「そんな、悪いわ……」

そうは言っても、絵里の千鳥足は一人で帰すには不安すぎる。

希「駅まで歩ける? タクシー呼ぼうか?」

絵里「……う」

希「どしたん?」

絵里「生まれる……」

希「……」

希は片手を上げる。道行くタクシーがすぐに気付き、急停車する。

希「吐きそうなんやね……?」

絵里「いえ……そんなことは」

希「運転手さん、一番近いホテルまでお願いします」

ホテル――とあるシングルの部屋


希「胃薬買ってきたで」

絵里「ありがと……」

ベッドに倒れ伏した絵里。くぐもった声でお礼を述べる。

希「生まれた?」

絵里「……」

絵里は無言で首を振った。

希「明日休みとっといて良かったな」

絵里「希は……明日学校でしょ……ごめんなさい。もう、一人でも大丈夫だから……」

希「大丈夫やで、明日は午前ないから。それに、酔ったえりち放って帰る方が目覚め悪いやん」

絵里「……ありがとう」

暫く、絵里は喋ることもなくベッドに沈むように体を預けていた。
希は手持無沙汰に絵里の横顔を見つめていた。火照った絵里の顔は、少し情けない。それも、また可愛らしかったが。

希「……」

ふと、ベッドから腰を上げる。

絵里「希……?」

掠れた声。

希「シャワーだけ浴びさせてもらうね」

絵里「ええ……」

ドレスもいつまでも着ていると肩が凝って仕方がない。
持っていた服を鞄から取り出して、シャワールームへ。

ガチャ――バタン。

希「ふうっ……」

熱いのはお酒のせいだけではないのだろう。
服を素早く脱いで、髪留めを外す。少し温めに温度を調節して、栓をひねった。

浴槽に直接飛沫が落下し、滝のような音が響く。

希「……」

タバコ臭さやアルコールの匂い、湿っぽい汗の香りも全て流れていく。

希「化粧落としついとるんや……ラッキー」

ピリピリと小袋を破く。中の透明な液体をぬるま湯で程よく泡立てる。
顔全体にふわりと被せた。仮面が剥がれていくような気分。
今日は絵里の前で上手く笑えていただろうか。変な表情になっていなかっただろうか。

希(変なって、どんな……)

頭を叩くシャワーが心地よく、そんなこともどうでも良くなっていく。

希(えりちも、なんや落ちこむことでもあったんかな……)

絵里のことが希は心配だった。
酔っているとはいえ、憔悴しているようにも感じられる。

希(会社でなんかあったんかな……)


ガチャ――

希「……」

シャワールームから出ると、絵里の姿が見えなかった。どこに行ったのかはすぐに分かった。
カーテンがひらひらと風に揺られている。

希「えりち?」

ベランダの柵に、絵里が両肘をついてもたれかかっていた。
希も隣に立って、夜景を見つめる。

絵里「今晩は、風が涼しいわね」

希「そやな、毎晩暑苦しいのに。でも、昨日は風が強かったから、風音がうるさくて眠れなかったけど」

絵里「うん、私も……違うところに住んでるけど、感じてることは同じようなことなのね」

希「えりちって、うちの住んでるマンションの近くに住んでるんよね?」

絵里「ええ」

希「今度、遊びに行くな」

絵里「希なら、いつ来ても大丈夫よ」

こんな風に不自然な約束をすることに多少息が詰まった。

絵里「夜景なんて、久しぶりに見るわ……」

希「覚えてる? 高3の時トンネルの向こうで見た夜景」

絵里「ええ、覚えてる。あの時は、恐怖の方が勝っていてあまり見入る余裕はなかったけど……でも」

絵里は希を見る。

絵里「希と見る夜景はやっぱり綺麗ね」

希「えりち……」

絵里「……また、眠たくなってきちゃった」

希「疲れたんやね。もう遅いしえりちベッド使って」

絵里「やーね、あなた下で寝る気?」

希「ちっさいソファあったやん?」

絵里は体ごと希の方を向いた。真っ直ぐに立つと、絵里を少し見上げる形になった。
前よりも少し背が高くなっていた。

希「……」ドキ

絵里は腰に手を当てる。

絵里「介抱してもらったのに悪いわ。希もベッド一緒に使えばいいじゃない」

希「でも……」

絵里「二人でも十分寝れるサイズよ」

希「えりちがええならうちはええんやけど」

絵里「遠慮なんてらしくないわね。それとも」

彼女は髪をかき上げる。意地悪く目元を細めた。

絵里「……私のこと、嫌い?」

希「そんなわけないやん」

この数年、どんな気持ちで過ごしてきたと思っているのだろうか。
呪いみたいなものだ。いつか、を当てにしてきた。

絵里「そう、嫌われてなくて良かった……私、まだ見込みある?」

希「えりち……?」




絵里「希……」

窓辺に向かって希は後ずさった。
絵里は両手を希の顔を挟み込むようにして窓ガラスに手を置いた。
月光が乱れた絵里の姿を映し出す。美しい獣がいた。青色の瞳は、獲物を捕らえて離さない。

希「えりち、手が」

絵里の手は希のふくよかな胸に当てられていた。

絵里「いや……?」

ふいに、にこの言葉がフラッシュバックする。
物欲しそうな絵里の表情がにこと重なる。

希「あ……」

絵里「何も言わないのは、拒絶してないのと一緒よ?」

絵里の顔が徐々に近づいてくる。勝手だ、と希は思った。
昔の絵里ならば、こんな風に強引にする前にきっと迷っている。
手で押しのけようかと思った矢先、

絵里「……賢くて可愛くなったら戻ってくるって言ったの覚えてる?」

希「……うん」

絵里「まだ、分からないの。これが正しいか……」

絵里は目を閉じる。それから、軽く啄むように希のおでこにキスをした。
希は右手でおでこに触れる。

絵里「あなたに久しぶりに会って、体はこんなに熱いのにね」

希「うちだって、えりちに抱きしめて欲しい……」

永遠なんてない。そう言ったのは自分だ。
また、にこの話し声が耳に燻る。












今日はここまでです。

正しい正しくないかで判断すれば、自分と絵里の関係も、いつか、『ひどい話し』にされてしまうような気がした。そうならない保証はどこにもなかった。それは、やはり正しくないがゆえの罰かもしれない。それが、二人のためだと。にこは可愛そうなのだろうか。

希「大人っぽくなったね、えりち……」

絵里「……あなたを追いかけていただけよ」

嬉しかった。離れていても、繋がることはできる。
絵里はそれを教えてくれた。

希「ねえ、えりちの話し、聞きたい」

絵里「できるのは、仕事の話しくらいよ」

希「うちも学校の話ししかできひんもん」

絵里「……そう、そんな話でも良かったのよね。生活に追われて……会わないって決めて、離れることじゃなかったのに」

絵里は窓ガラスから手を離す。希の手を引いて、部屋に上がっていく。

希「えりち……」

絵里「求めていたものが目の前にあると、こんなに実感が湧かないのね……」

希「それは、うちもえりちも知らないことが多すぎるからや。お互い、会わない時間が長かったせい」

希はそれを埋めたかった。自分を絵里に、絵里を自分に埋めて空虚感を無くしてしまいたい。

絵里「……じゃあ、仕事の愚痴聞いてくれる?」

希「あはは……うん、何でもいい。えりちのことなら」

二人はベッドに腰かけ、同時に仰向けに転がった。
両手はどちらともなく繋がっていた。

絵里はもしかしたら、もっと性的な欲求を持っていたのかもしれない。
それは、高3の時に希が求めていたものに似ているのだろうか。

その後の絵里とのお喋りは楽しかった。
けれど、希はそれ以上の何かを口にすることはできなかった。

希が目を覚ました頃には、絵里はシャワーを浴びていつの間にか買ってきた真新しいシャツを羽織っていた。

希「ん……」

絵里「起きた? お寝坊さん。顔洗ってきたら?」

かすんだ視界にデジタル時計の午前10時の文字が映り込む。
希はベッドから降りて、洗面台に向かった。体が固まっていて、少し節々が痛い。

絵里「お水飲むー?」

背後から絵里の声。

希「うん」

多少覚醒しつつ、返事する。

絵里「はい」

備え付けのミネラルウォーターの入った紙コップを手渡された。

希「ありがとぉ」

口に含むと、張り付いた喉が潤った。

絵里「車はどこに停めてあるの?」

希「ホテルの駐車場やね。えりちは、今日お休みなんやっけ?」

絵里「ええ、でも仕事も少し残してるからあまり楽しめないけど」

希「そっか。無理せんでな……そや、朝ごはん下で食べる?」

絵里「そうね、軽く食べていきましょうか」

希「すぐ用意するからちょっと待っててな」

朝食を済ませ、ホテルを後にする。急がなくても、午後の講義には十分間に合うだろう。
腕時計を確認してから、ホテルの駐車場に着いた時、絵里を送っていくと希は提案した。

希「そこやったらうちのマンションからそんなにかからんなぁ」

絵里「希の部屋、見てみたいわね」

希「えっ、今ちょっと散らかってるから10分くらい待ってくれたら」

絵里「ふふ、何焦ってるのよ。気にしないわ」

希「うちが嫌なんっ」

絵里「一緒に片づけましょうか?」

希「遠慮しておきます……」

絵里「何が落ちてても驚かないって」

希「そんな目輝かせながら言わんといてや……」

絵里「μ'sの誰かが来たことってあるの?」

希「あー、にこっちが去年泊まっていったんよ。記憶があんまりないんやけど、いつの間にか部屋におって二人で伸びてたっていう」

絵里「……ふーん」

希「えりち? なに、怒っとん?」

絵里「怒ってないわよ」

希「だって、眉毛吊り上がってる」

絵里「上がってないって」

希「声もちょお低くなったし」

絵里「元からよ」

希「……」

人差し指で、絵里の頬を突く。

絵里「なに」

希「お父さん、怒っちゃい・や」

絵里「誰がお父さんだっ」

高校生に戻ったような気持ちだった。絵里が変わっていなくて、少しほっとした。
どうしようもなく女の子な絵里が可愛かった。けれど、あのにこ相手に悔しがるなんて。

希「ぷっ……クスクス」

絵里「希っ」

希「ごめんごめん、ほないこっか」

絵里「流したわね?」

希「えりちメンドクサイで」

絵里「う……」

絵里は項垂れた。横髪がさらりと首筋を流れていく。

希「……あかんな」

絵里「え?」

希「ううん。シートベルト忘れんようにね」

希は軽くアクセルを踏んだ。

希「ちょっとだけ、待っててな!」

部屋の扉の3歩後ろに絵里を控えさせ、希はバタバタと片づけを開始した。

絵里「急がなくても待つからゆっくり片づけてちょーだい」

小窓から絵里のそんな声が聞こえる。

希「そーは言っても……」

特別、散らかっているという訳ではなかったけれど、友人らとの宴会の残骸などはさっさと捨てておくべきだった。

希「誕生日祝いにもらった、意味のわからないクリスマスツリーとYES・NO枕をどこにしまうべきか……」

希「まあ、いっか。オブジェにしてしまおう」

ツリーなど、クローゼットにそもそも入らない。希は考えるのを放棄した。

希「えりちー、お待たせー」

絵里「お邪魔しまーす」

希「ふうっ」

絵里「ダイニングキッチンか、広いわね……わあ、この木製の丸テーブルお洒落」

希「荷物、適当に置いとってな」

絵里「前に希が住んでた所にちょっと似てるかも」

希「分かる? あの間取り好きやったから」

絵里「あ、豚のヤカン」

希「懐かしいやろ」

絵里「ええ……」

絵里がこの部屋にいるのが不思議だった。
はしゃぐ絵里に思わず顔が綻ぶ。

絵里「……これは」

彼女が指を指す。

希「……クリスマスツリーやな」

絵里「……」

YES・NO枕に意外にも絵里は初心な反応を見せた。

絵里「ちょっと……希」

のも束の間で、すぐにいつもの彼女に戻った。

希「んー……?」

あからさまにとぼけながら、希は言う。

希「それ、何に使うか知ってるんやー。ロシアの人も使うん?」ニヤニヤ

絵里「……それより、これ使ってるの?」

希「へっ?」

絵里がさっと詰め寄る。

絵里「どうなの、希」

希「使ってるけど」

絵里「……っ」

絵里が枕をベッドに放り投げる。いや、叩きつける。

希「え、えりち?」

絵里「だれっ」

希「はい?」

絵里「相手は誰なの……」

希「……」

希は肩を震わす絵里に耐え切れず、お腹を抱えて大爆笑した。

仁王立ちの絵里に希が土下座して、そろそろ学校へいかなくてはいけない時間になった。
希はラフな格好に着替えて、二人は部屋を後にする。

会えずにいた時間。それが少しだけ薄まったような気がした。
車内に流れるJ-POPに浸りながら、絵里が口を開く。

絵里「また、来てもいい?」

希「ええよ」

絵里「……もし、私の勤め先が別の地域だったらこんな風に約束もできなかったのよね」

希「えりち、まさか……わざわざ」

絵里「違うわよ。さすがに出来過ぎてるけど、偶然。本社は東京なの。本社勤務を希望してたんだけど、下積み時代はみんな支所で働くらしくて、頑張れば本社に行ける。支所も適正な評価の元、割り振られたし」

希「じゃあ、今、ほんまに大変な時期なんやね……」

絵里「それはお互い様。希だって、大学院に通いながら休みの日は神社の巫女さん、でしょ? こうやって会える時って、ホントに限られてしまう」

希「そうやね……」

約束。それはとても曖昧で切ない。


絵里のマンションは車で30分程の所だった。マンションの玄関前で絵里を降ろす。

絵里「今日はありがとう。次は二人で食事にでも行きましょうか」

希「うん、うちも連絡するね」

絵里「……」

絵里はポケットから何かを取り出す。

絵里「これ、持ってて」

希「なに?」

絵里が希に渡したのは鍵だった。

絵里「ここの合鍵」

プー!

後ろから車のクラクション。

希「え、えりち、でも」

絵里「待ってるわ、希。いつでも来てね」

希「う……ん、また」

絵里が手を振る。希も軽く手を振って、躊躇しながらアクセルを踏んだ。

絵里が残した合鍵を使う暇はそれから暫く訪れなかった。修論の準備や、神田明神での行事にもいくつか顔を出していた。
また、学会が近づくと家に帰る時間も減っていった。もともと、時間の使い方、タスク管理が苦手な方で、1日が24時間しかないことに嘆く日々が続いていた。

その日、ゼミが終わってポスドクの30代後半の女性と、院生とで来月の学会の会場準備を行っていた。

院生「教授、こういう雑用ホントやらないですよね」

ポスドク「やらないというか、苦手なんですよ」

院生「そーなんですか? てっきり面倒なだけかと」

ポスドク「……まあ、一概に否定はできませんけどね」

希「この立て看板、ポスターの数より少ないですね。学務に看板の申請だしてきましょうか?」

ポスドク「ええ、助かるわ。ついでに、看板設置の許可も取ってきてもらっていい?」

希「わかりました」

2歩、3歩駆け出した所で、膝がかくんと折れた。

希「ひゃっ……?!」

顔面から床に突っ伏する。

希「あいったた……」

院生「だ、大丈夫?」

希「ひゃ、はい……」

院生「あー、顔擦り剥いちゃってるね」

ポスドク「最近、ちゃんと寝てる?」

二人が、しゃがみ込んで希の手を引っ張る。

院生「いや、それよりちゃんとご飯食べてる?」

院生は掴んだ腕をまじまじと見つめる。

院生「ほそっ」

希「最近、軽食で済ませてることが多くて……睡眠はちゃんととってます6時間くらいは」

ポスドク「若いから、多少無茶したって大丈夫だとは思うけど。貧血かしらね」

院生「……今日、バイト入ってる?」

希「え、私ですか? 入ってませんけど」

院生「今日、ご飯作りに行くから。決まりね」

希「へ?」

ポスドク「料理できるの?」

院生「失敬ですね。ギリギリアウトで作れます」

ポスドク「アウトか……」

希「いいですよ。先輩、悪いですから」

院生「希ちゃん、倒れちゃったら自分だけじゃなくて周りにも影響あるんだよ? まず、私泣いちゃうよ?」

希「えっと……」

ポスドク「こう言っているようだし、頼っておいたら?」

希「……ほな」

院生「うん!」

ポスドク「希ちゃん、あなたのスケジュール今度教えてね。この子もやりたいことに合わせて課題仕上げてるのよ? あなただけよ、リスケジュールもキャンセルもないの。本文は忘れちゃ困るけれど、多少の融通は利かせられるんだから」

院生「そうだよ。もっと頼っていいんだよ」

希「ありがとうございます……」

ギイ――

教授「君ら……しゃがみ込んで何してるの?」

「「「あ」」」

その夜、先輩の手料理を御馳走になった。黒くて香ばしい匂いのする何かが食卓に並べられ、希は思わず目を背けそうになってしまった。それを、決して顔には出さず希はそれらをたいらげた。お腹を壊していない所を見ると、見た目意外は普通ということだろうか。

それでも、こうやって自分のために作ってもらったものを食べたのは久しぶりだった。

院生「ねえ、希ちゃんってスクールアイドルやってたんだよね」

希は驚いた。誤魔化すことも考えたが、その必要もないかと逆に問う。

希「うち、先輩に言いましたっけ?」

院生「ううん、言ってないよ」

希「誰かに聞いたんですか?」

院生「違う違う。元から知ってたの。私、μ'sのファンだったから」

希「……ええ!?」

院生「あ、うちの大学けっこういるんだよ。隠れファン」

希「そ、そうなんですか」

院生「あの頃、流行ってたじゃん。ラブライブ全盛期に突如現れた新星って言われてたんだから」

どこかの週刊誌の煽り文句のようだ。

希「ラブライブ……」

久しぶりに耳にする。懐かしさがこみ上がる。


院生「ねえねえ、昔のアルバムとか持ってきてない? も、もし良かったら見せて欲しいなあ。あ、け、決してこれが目的で来たわけじゃなくてですね……」

希「ぷっ……いいですよ。いくつかありますから」

先輩の慌てる姿がなんだか可愛くて、希は思わず吹き出してしまう。

院生「おありがとうございます……」

猫みたいなポーズで土下座する先輩が可笑しくて、希はお腹を抑えながら戸棚を開ける。

希(なんや、憎めん人やな……)

希(これと、これと……あ、これ)

希 (さすがにこれは恥ずかしいな……えりちが変なこと吹きこんどるし)

リボンのついたCDケースを一番奥にしまいなおす。

希「ざっと、こんな感じですね」

院生「……おお、宝の山じゃ」プルプル

希「そんな大げさな」

希は卒業式にもらったアルバムの1ページ目を開く。淡いピンク色で『μ's』と可愛らしく書かれている。その周りにはそれぞれのメンバーの似顔絵とイニシャルが書き込まれていた。

院生「可愛いアルバムだね」

希「はい……これをもらった時、すごく嬉しくて言葉も出なくて、涙だけが出ちゃったのを覚えています」

希は軽く瞬きする。

希「……」

希はもう一ページを開く。最後のライブの写真や、集合写真が切り抜きで張られている。
一瞬、風が通り抜けるように思い出が色づいて蘇る。

院生「希ちゃん?」

希「え……あ、次のページ捲りますね」

院生「こういうのってさ、いつ見てもくるものがあるよね」

希「そうですね……」

院生「あー、これ希ちゃん髪型サイドに垂らしてるやつ……むっちゃセクシー! 高校生とは思えない色気……」

希「もう、変態ですか……」

院生「この凛ちゃん、むっちゃ可愛いねっ……」

希「こら、指で愛でないでください。気持ち悪いですよ?」

院生「希ちゃんが毒を吐くっ……うう」

希「ふふっ」

隣にいるのはμ'sのメンバーではない。あの時間にはもう戻れないけれど、こうやってμ'sが誰かの心でふと息を吹き返す。
それは、奇跡のような何かだ。

希「うち、こうやってアルバムを誰かと見るの実は始めてなんです……」

院生「そうなの?」

希「小さい頃から転校ばかりで、アルバム自体もらってなくて。あっても見るだけで空しくなってしまって」

先輩は持っていたアルバムを取り落としそうになる。

院生「ご、ごめん……私、悪いことしたね」

希「違うんです。嬉しいんです。こうやって誰かと、思い出を共有することが。それもμ's以外の人とできることが本当に凄いことだって、思うんです」

今日はここまでです

呼んでくださってる方、ありがとう。ちょっとだけ続けます。

希は笑いかけた。

院生「……希ちゃん」

希「ありがとうございます。μ'sを好きでいてくれて……」

院生「応援してるから……」

希「……先輩」

院生「私、μ'sの中でも希ちゃんが一番好きだった。それは今も変わらないんだ……」

希「そうなんですか? なんや、照れます……」

院生「母親っぽいポジションなのに、ちょっと影のある感じがさ庇護欲をそそられるというか」

希「そんなオーラ出してました……?」

院生「出てた出てた」

希「客観的に観察されるって恥ずかしいですね……」

希は顔を押さえる。

院生「あ、ごめんね。でも、高校生らしいあどけなさというかやんちゃな感じもあって可愛いなあって思ったの。すっごく苦しい時期に、希ちゃんやμ'sの曲を聞いて乗り越えれたこともあったんだよ」

彼女は希の頭に手を置いて、優しく撫でた。

院生「だから、こちらこそありがとね」

希「……あ、の、喉乾きませんか?」

院生「あ、ちょっとだけ」

希「紅茶とコーヒーどっちがいいですか?」

院生「コーヒープリーズ!」

希「ふふっ……はい」

希は立ち上がって、豚のヤカンに手をかける。
その手が震えていたことに彼女ははたと気づいた。

希「……」

院生「どーしたの?」

希「いえ」

あどけないのは、先輩。子どもがふと見せる優しさのように、希の世界にふいにしみ込んだ。
一瞬のことだ。どうってことはない。希は軽く息を吐く。

戸棚を軽く引く。絵里にもらった鍵が入っている。
追いかけているのはどちらなのだろうか。

今週の日曜は確か何も予定が入ってなかったっけ。
絵里に連絡してみようか。寂しくて会いたくなった、とでも。

しばらく先輩と軽く雑談して、思い出話に花を咲かせた。

院生「じゃあ、そろそろお暇しようかな」

希「今日は、ありがとうございました。帰り大丈夫ですか?」

院生「私の家も近いから、それにバイクで来てるし大丈夫だよー」

彼女は席を立って上着を羽織った。

院生「あ、ねえ今週の日曜さ、暇?」

希「えーっと」

院生「ホラー映画好きって言ってたじゃん? 新作上映開始したっぽいからどーかなって」

希「ごめんなさい。今週は用事があって」

院生「そっか。ううん、また誘うから、次の日曜は空けておいてね!」

希「はい」

先輩が無邪気に笑う。

院生「よしっ」

先輩は、とても良い人だ。

それから数日経って、希は教授に呼ばれて午後の空きコマに食堂へ来ていた。
人はまばらだった。

教授「お待たせ」

希「いいえ、私も今来たところです。教授、修論のスケジュールどうでした?」

教授「いいと思うよ。まあ、一人でこなすこと前提にしても余裕あるだろうね。君は、確か実家を継ぐんだったね」

希「そのつもりです」

教授「そうか。研究職も似合っているなあと思ったんだが、どう?」

希「遠慮しておきます……」

教授「それだけの才能、蓄積がくすぶってしまうのはおしいね。君、最近時間の使い方も上手くなってるし」

希「あははっ……」

教授「何か良いことでも?」

希「そういうんじゃないですよ」

教授「……女性の宮司はまだ歴史が浅い。頑張んなさいな」

希「はい」

教授「……神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ」

希「御成敗式目ですか?」

教授「ああ。君にこの言葉を贈るよ」

希「そんな、卒業じゃあるまいし……」

教授「今の君に必要かなと思って」

希「……教授、それはどういう」

教授「スピリチュアルかな」

希は齢60の彼からその言葉を聞き、思わず吹き出してしまった。

教授「偶像が、ただの置物じゃないのはそれを信仰する者がいるからだね」

希「はあ……?」

教授は胸元からそっと何かを取り出した。

教授「これ、僕の息子の部屋にあったんだけど」

希はその写真を見て、開いた口が塞がらなかった。

教授「なかなか可愛らしいね」

μ's時代の希のスナップショットだった。

希「き、き、教授」

教授「アイドルもいいかもしれないよ」

希はぎこちなく首を横に動かした。

教授「もともと、君はそういう人間なのかもね」

教授の言わんとしていることは希にはよくわからなかった。

教授「お腹空かないかい?」

希「ちょっとだけ」

教授「腹が減ると、愚鈍になる。老若男女問わず」

希「食堂、まだ何か残ってるでしょうか」

教授「あるね」

彼の視線が冷蔵のガラスケースに向けられている。
手作りのプリンが2・3個残っていた。

希(うちの研究室の人らは、なんでこう無邪気なんやろか)

それから程なくして、日曜はやってきた。
先日、絵里にはメールで連絡しておいたのだが、彼女からの返信はなかった。
電話も何度かしておいたものの、着信もなかった。

希(忙しいんやろな……)

そうして、絵里から何の音沙汰もないまま、希は彼女の部屋のインターホンを押した。

ピンポーン――

希(出んかったらどうしよか)

希(当てつけに、鍵をポストに入れておこうか)

希(なんや、メンドクサイ女みたい)

ガチャ――

希「えりち……?」

絵里「……あ、の、ぞみ」

希「おはよう」

絵里は昨日の服のまま寝てしまっていたようで、ヨレヨレのシャツの胸元がはだけていた。
それから、少し酒臭い。

絵里「っ……頭、いた」

希「大丈夫?」

絵里「あー、平気よ。昨日、上司のお酌につき合わされて……弱いって言ってるのに」

絵里はずるずると壁にもたれかかりへたり込む。

希「え、えりち……スーツ着たまんまやん。ほら、脱がんとしわになるよ?」

絵里「分かってるわよ……体が言うこと聞かないの」

廊下に上着が脱ぎ捨てられていた。

希「とにかく立って」

希は絵里の肩を担ぐようにして、絵里を立たせた。
自分の足で立つ意思が弱く、互いによちよちと歩く。

絵里「お風呂、入らないと……私、汗臭いでしょ」

希「そんなことはないけど」

絵里をリビングまで運ぶ。二人掛けのソファーに彼女を横たえさせた。

絵里「のぞみー……」

希「なん?」

絵里「冷蔵庫に、もらいものだけどキャラメルケーキ入ってるから」

希「……」

絵里「好きだったでしょ……」

希「うん……」

絵里は目をつむったまま、シャツのボタンに手をかける。
が、途中で力尽きる。

絵里「……」

希「えりち?」

絵里の小さな寝息。

希「まだ寝るん? お寝坊さんはどっちなん」

希はふっと息を吐く。

希「冷蔵庫ね」

見ると、磁石でA4サイズの用紙――会社の資料か何かだろうか――が何枚か貼り付けてあった。

希「……」

冷蔵庫を開ける。

希「高そうなお店のケーキ……」

希「えりち、もらっていいの?」

絵里「……すー」

希は箱を取り出して、キャラメルでコーティングされたケーキの一つを手に取った。

希「食べるで、えりち。ホントにうち、食べるで?」

絵里「うん……どうぞむにゃ」

希「……あむ。……ごほっ」

甘かった。ねっとりとして――、

希「気持ち悪い……」

キャラメルは嫌いだった。もっとしょっぱくて香ばしいものが好き。

希「何年も経ってるし、仕方がないやんか……」

誰にともなく呟く。

希「……これ、全部は食べきれないなあ」

絵里「ん……」

希「えりち、もう」

希はソファーに近づき、絵里のシャツのボタンを外す。

希「はい、バンザーイ」

絵里「愛してる……」

希「ちゃうちゃう……」

希は軟体動物のようにぐにゃりとした絵里の腕からシャツの袖を捲り取る。
上半身キャミソール一枚になった絵里は、小さくくしゃみした。

絵里「はっ……ここは」

希「風邪ひくで」

絵里「希っ……ひゃ!? ど、どうして私こんな……希、あなたいつの間に来てたの?」

希「ぼけとるなあ」

絵里にシャツを脱がせるまでの経緯をざっと話した。

絵里「お恥ずかしい……」

希「面白いからいいけど」

絵里「と、とりあえずシャワー浴びてくるから」

希「洗濯しとこか?」

絵里「自分でやるから。希はTVでも見ながらくつろいでて」

希「そうは言っても」

絵里「あ、冷蔵庫のケーキ、どれでも好きなの食べていいからね」

希「うん……」

もう貰ったとも言えず、希は笑って頷いた。


今日はここまでです。読んでくださってる方、ありがとー

途中で寝てしまったらすいません。1レスでも書けたら……

洗濯機を回す音が聞こえてくる。

希「……」

口の中の甘さに、希は居心地の悪さを覚えていた。

絵里「のぞみー、そこのタオルとってくれない?」

希「この椅子の上の?」

絵里「そうそう」

脱衣所の扉から顔だけ出して、絵里が頷く。

希「はい」

絵里「ありがと」

タオルを受け取った絵里の表情はまだ少し眠たそうだった。
希は絵里がお風呂に入ると、テレビのリモコンのスイッチを入れてぽふんとソファーに腰掛けた。
二人掛けのソファー。一人では少し大きすぎる。

希は視線を上げて時計を見つめる。転じて、壁にかけてある写真や、立てかけてあるアルバムを眺めた。

希(えりちの目線……)

自分ならば堂々とアルバムを飾ることはあまりない。
家族写真が楕円形のフォトフレームに入っていて、テレビより少し高めの位置に飾られてある。
他にも花の写真や、妹の写真。家族への愛が感じられる。
そして――、

希「あ……」

卒業式でのツーショット。にこが撮ってくれたものだ。
互いに少し、照れ臭そうにしている。

希「……ッ」

目頭がふいに熱くなり、瞼をきつく絞って息をきゅっと吸い込んだ。

希(不意打ちやんな……)

眠いので、少し寝ます・・・

他にも何かあるかもしれない。希は部屋の中をぐるりと見回した。
コルクボードに希の知らない人――会社の同期か上司だろうか――との写真が張り付けてあった。

希(仲良さそう……)

肩までの黒髪。切れ長の瞳と、細いフレームの眼鏡。
雰囲気が絵里に似ている。

希(普段、この人とどんな話しするん……?)

希(って、何詮索して……)

自分だって、彼女の知らない人間と彼女の知らない話をするのだ。
空白は、今から埋めていけばいい。

希(……この人、ここにも来るんかな)

ブーブー

希「んッ……?」

絵里の携帯のバイブレーションだった。

希「びっくりした……」

なかなかそれが鳴りやまないものだから、希は携帯を掴んでお風呂場へ向かう。

希「えりち、めっちゃ携帯鳴ってる……」

磨りガラスの向こうで、絵里がシャワーを止める。

絵里「だれからか見てもらっていい?」

希「んーと、上司って出てるで」

絵里「うそッ……!」

ガラ――!

希「ちょッ、えりち!」

前も隠さずに絵里は腕を伸ばす。

絵里「……ごめんなさい、携帯貸して」

希「あ、うん」

なぜか、その電話の内容は聞かない方がいいような気がして、希はリビングへと戻った。
テレビの音が、丁度言葉が聞き取れない程度にかき消してくれていた。

希(休みの日も大変なんやな……)

希「ん?」

何かが希の足元に触れる。
見ると、パンツとブラが落ちていた。

希「……」

絵里の物にしては、少し小さい気もする。

希「誰の……」

ピンポーン!

インターホンが鳴り響く。
絵里の方を見やると、まだ裸だった。ジェスチャーで出てくれと言っていた。

希「仕方ないなあ……」

カメラの映像を見ると、先ほど絵里と映っていた写真の人物だった。
黒のパンツスーツ。彼女は休日には似つかわしくない恰好をしていた。

希(仕事の話やろか……)

希「今、あけまーす」

『ごめんね、絵里。忘れ物しちゃった』

甘えた声。
それに抵抗を感じつつも、希はドアを開けにいく。

ガチャ――

上司「絵里……あれ」

希「今、えり……絵里さん出れなくて、何のご用でしょうか?」

上司「私、綾瀬さんの勤務先の上司なんですけど、忘れ物してしまって」

希「でしたら、私取ってきますね」

上司「……あ、えっと」

言いよどむ。

希「?」

上司「ぱ……」

希「ぱ?」

上司「パンツとブラジャー……なんです」

あれはこの人のだったのか。

上司「自分で取りに行かせてもらえたら……」

恥ずかしそうに、彼女は俯いた。
先ほどの甘えた感じもない。
あれは、絵里の前だけで見せるものだったのか。

希「あ、はい……」

希(ええんかな……でも、うちやったら赤の他人に下着持って来られるのはきついし)

希は彼女を上がらせる。
と、タオルを体に巻き付けた絵里がとたとたと紙袋を持ってきた。

絵里「すみません……マネージャー」

申し訳なさそうに頭を垂れている。

上司「忘れたの私だから……」

絵里「でも、潰れた私を送ってくださったんですよね?」

上司「……あ、う、うん」

絵里「そう言えば、どうして下着だけ……」

上司「それは……絵里、覚えてないの?」

絵里「?」

上司「あなた……が私に命令したんじゃない。昨日はびっくりしちゃった……あんなに積極的だなんて」

絵里「え?」

希「……?」

上司「……」

彼女ははちらりと希を見た。

希「……あの?」

希が口を挟む前に、絵里がしどろもどろに言った。

絵里「マ、マネージャー、私一体何を」

上司「それは、恥ずかしくて私の口からは言えないけど……」

絵里「……き、記憶が無くて」

上司「それはしょうがないって、あれだけ飲んで、あんなことまでして正気だったらびっくり」

絵里「ご、ごめんなさい!」

上司「責任取って、明日はランチに付き合ってくれる?」

絵里「は、はい」

上司は意地悪く微笑んだ。

上司はもう一度、希を見た。

上司「お友達?」

希「あ……はい」

上司「変な所見せてしまってごめんなさい」

一言彼女は謝った。
その言葉には、希の入る隙を作らせない威圧感があった。
希の勘違いでなければ。

希(……牽制……されてる?)

絵里「あの、希これは」

上司「じゃあ、また明日ね、絵里」

絵里「あ、マネー……」

絵里は追いかけようとする。その腕を希は掴んだ。

絵里「希?」

希「……」

上司「ごめん、今から会議なの。また、明日ね」

彼女は笑って帰っていった。

希「えりち……」

絵里「あ、えっと」

希「そのままやと風邪ひくで……」

絵里「うん……」

絵里が着替え終わって、二人でソファーに座った。
二人の間には人一人分の距離があった。

希「なあ、えりち」

絵里「うん」

希「うちも気になるなあ? 一体昨夜何があったん?」

絵里「それは、覚えてなく……」

希「覚えてなければ、下着を脱ぐような行為に走ってええん?」

絵里「そういうわけじゃないわよッ」

絵里を見ると、彼女も切羽詰った様子でこちらに顔を向けていた。

希「ごめんごめん。えりち、酔ってたんよね……しゃーないしゃーない」

希は笑った。少し苛立ってしまったのも事実だが、それを絵里にぶつけてはいけないのだ。
なにせ、まだ彼女と何も始まってはいないのだから。

絵里「そう言ってもらえると、助かるわ。あの人も普段はもっと立派な感じで、あんな冗談言う人じゃあいんだけど」

希「けっこう仲ええん? さっきの人と」

絵里「仲がいいというか、研修中からお世話になってるの。あんまり頭が上がらないかな」

希は、上司のことについて、会社のことについていくつか質問した。
さきほどのことは水に流して、単純にお喋りしようとした。
それで、絵里がどことなくほっとしていたからそのまま話を続けることにした。
うやむやにしてしまった方が、お互いに楽だとも思った。
なにより絵里を疑うような真似はしたくない。
それは、自分もしんどいだけだ。

絵里「ねえ、お昼どうする?」

希「駅前の美味しいパスタ屋さんは?」

絵里「あ、知ってるわ。何回か行ったことあるのよ」

希「そうなん? うちも。グラタン美味しいやん、あそこ?」

絵里「そうそう、中のチーズが絶妙よね!」

希「行く?」

絵里「行っちゃおっか?」

希「その後どうする?」

絵里「うーん、あ、映画見たいのあったのよ」

希「じゃあ、それで決定やんな」

いつも通り、あの頃のまま。
高校生の頃は、あんなに大胆だったのに。
どうして、こんなに臆病になってしまったのだろうか。

ここまで。続きはまた夜に書けたら

綾瀬じゃなくて絢瀬や

>>118
おお、すまん

絵里と出かけた日曜は希にとって嫌なこともありはしたが、やはり彼女といる時間は幸せで、結局別れ際には彼女の上司のことなど希の頭からは遠のいていた。そして、数日後、希はもう一つ忘れてしまっていたことに気が付いた。

院生「え? 映画見ちゃったの?」

希「はい。堪忍です」

希は45度に腰を曲げた。

院生「いいって別に! 約束って程でもなし、それに、希ちゃん元気そうだし。ならばよし」

希「先輩って、本当に優しいですよね」

先輩は怒ることはなかった。
むしろ、元気になったと喜んでいる。
できた人だ。

院生「私の半分は優しさでできてるんだよ。知らなかった?」

希「知ってました」

希は口もとに手を当て笑う。

院生「……そうやって笑ってくれるとこっちも嬉しいんだって。って、これもセクハラ?」

希「そんなことないですよ」

院生「良かったー。あ、ところでさ、学会の日の夜に懇親会あるんだけど聞いてる?」

希「そうなんですか?」

院生「あのじじい、やっぱり言ってなかったなッ」

希「強制参加ですか?」

院生「自由参加だよ。立食パーティーだって。一人2000円」

希「先輩行かれるんですか?」

院生「ふふ、私は強制連行さ……ドキドキするよう」

希「あはは……先輩が行くなら、うちも行きます」

院生「ちょっと遅くなるかもよ? いいの?」

希「来て欲しかったんじゃないんですか?」

そう言うと、院生は鼻をすすりながら満面の笑みを浮かべて抱き付いてきた。

希(犬みたいやんな……)

こういった甘え上手な人間がたまに羨ましい、と希は感じる。

希「先輩って、末っ子ですか?」

院生「そうだよ?」

希「そんな感じがします」

院生「希ちゃんは一人っ子でしょ」

希「はい」

院生「でしょー。自分のことは自分で何とかしなきゃってオーラがある」

希は自分の体を見回してみる。
何も見えるわけないけど。先輩がそれを見てにやついていたので見るのを止める。

院生「希ちゃんて、誰かに何か相談することってあんまりない? あ、ただの素朴な疑問だからね」

希「うーん、そうですね。けっこう事なかれ主義というか」

院生「神道だけどキリスト教的な?」

希「あー、違いますよ。ただの楽天家です。なるようになるかなって」

院生「タロットカードとかはまだしてるの?」

希「いえ、実家に置いてきてます。うち、今はカードなしで運命が見えるので」

院生「え、マジで」

希「例えば、先輩はこの後、私に黙って一人だけ冷蔵庫の最後の一個のしょうゆ餅を食べるとか」

院生「ぎくぅッ?!」

希「なんて、冗談ですよ。さっきから冷蔵庫ばかり見てましたから」

院生「ばれてーら……」

希「いいですよ。遠慮の塊、遠慮なく食べてください」

院生「目が怖いんだけど、希ちゃん」

希「うち、しょうゆ餅好きなんて一言も言ってないので安心してください」

院生「言ってる言ってるぅ!」

その後、院生とお餅を半分こして食べた。



希「お喋りしてるだけで、時間過ぎちゃいましたね」

院生「ほんと……学会間に合うかな」

希「……先輩、何か手伝いましょうか?」

院生「え、いいの? あ、いや、だめ! 一人でできるもん!」

希「ぷッ……じゃあ、うちそろそろ帰ろうかなあ」

院生「できる! あと、1時間で今日の分終わらせるから! もうちょっと待って! 一人にしないで!」

希「はーい」

猛スピードでキーボードを叩き始める院生。やればできる人なのだけれど、気が散りやすいのが悪い癖かもしれない。

今の時間は、絵里なら仕事中だろうか。
いや、定時はもう少し早い時間帯だった気もする。
希は、ふと携帯を取り出してSNSを開く。


希【えりち、もう帰ってる?】


少し待つ。文章に既読表示がなされた。
書き込み中の表示。メッセージにすぐに反応してくれるのがなんだか嬉しい。


【帰ってる所、今日は電車で来たから徒歩で帰宅中】絵里

希【この間の映画思い出すなあ^^】

【ちょっと……】絵里

希【いつまでも消えない足音。物陰の老婆】

【希!】絵里

希【今、どの辺り歩きよん?】

【……マンション近くの橋の上】絵里

希【川に何か浮いてるで】



絵里からの返信が途絶える。
既読されていない。もしかしたら、川の方を見てしまったのかもしれない。

希【えりち? まさか、見てしもた?】

希【……おーい】


既読表示が出た。


【のぞみ……】絵里

希【何?】

【こわい……】絵里

希【ごめんなあ^^ 悪気はなかったんよ】


そしてまた返信が途絶えた。
と、絵里からの着信。

希「? 先輩、ちょっと外で電話してきます」

院生「ういー」

棟と棟とを繋ぐ渡り廊下の小さなパイプ椅子に腰かけて、希はボタンを押す。

ピッ――

希「もしもし、えりちどしたん?」

絵里『……怖くて、近道しようとしたら迷ってしまったみたい』

希「うん……?」

絵里『街灯も急に切れて、引き返そうと思ったけど……どっちから来たか分からないの』

希「落ち着いて、えりち。携帯のGPS起動させてマップで見たらわかると思うから」

絵里『分からない。使ったことない……怖いッ』

希「うそん……えりち、ご近所の人に道を聞いたらどうやろか」

絵里『電気ついてない……ひい!』

希「どしたん!」

絵里『猫、猫だったわッ……ふう』

希「電気って、そんなどの家もついてないなんてことはないやろ?」

絵里『ほんとに、どこもついてないのよ。ねえ、お願い、電話切らないでね? 絶対切らないでよ?』

希「ごめんなえりち、怖い思いさせて」

絵里『ほんとよ、まったく!』

威勢のない絵里の声音から、本気で怖がっていることがわかる。

希「歌、歌ったらええんちゃう?」

絵里『例えば?』

希「元気の出るやつ」

絵里『歌って……』

希「……だって可能性感じたんだ……そうだ…ススメ♪」

絵里『……前向こう、上を向こう……♪』

とりあえず絵里を落ち着かせるため、希は一曲歌いあげた。

絵里『あ、明るい所に出てきたわ…‥』

希「お、良かった」

絵里『でも、まだ、歌っててくれる……?」

希「……ええよ」

今日はここまでです。読んでくださってる方ありがとう。

待ってくださってる方すいません。ありがとうございます。
まだのろのろ続くので、ゆっくりしていってください。

何曲かサビだけ歌って、一息吐いた。
小声で歌っていた割に、体力を使ったようだ。

絵里『希の声、落ち着く……』

希「ほーなん?」

絵里『ええ……怖いけど安心するかな』

希「えりちはホント怖がりやなあ」

絵里『希だって怖いものくらいあるでしょ?』

希「うち? うちはないで」

絵里『嘘ばっかり。一人で暗い夜道歩く時とかどうなの?』

希「あんまり考えたことなかったなあ」

小さい頃から一人で帰ることは多かったし、特に気にしたこともない。

絵里『誰もいない家で、急に停電になった時とか』

希「ちょっとワクワクするな」

絵里『変、変よ』

希「そう?」

怖いもの。私の怖いもの。
希は首を捻り、恐怖を思い出そうと試みる。

希「ああ……」

そう言えば。

絵里『え?』

希「ううん、なんでもないで」

絵里『そお? あ、大通りに出た……はあ、ありがとう希』

希「良かったなあ」

砂利を踏む音。希は顔を右に捻る。

院生「あ、電話中ごめんね。できたよー」

希は音もなく頷いた。

絵里『え、まだ学校だったの?』

希「うん、ちょっと時間空いたからえりちでもからかおうかなって」

絵里『ちょっと!』

希「ごめんごめん、じゃあ今から家に帰るから」

絵里『ええ、気を付けてね』

希「迷子にならんようにな」

絵里『もおッ……今晩怖い夢見たら希のせいだからね』

希「えへへ」

絵里『じゃ、お疲れ様』

希「お疲れ」

携帯をポケットにしまう。

院生「良かった?」

希「大丈夫ですよ」

院生「よし、じゃあどこか食べにいかない? お腹空いちゃった」

希「あー、そうですね」

院生「焼肉? 寿司? それとも希ちゃんの手料理?」

希「先輩はどれがいいんですか?」

院生「最後かな」

希「やっぱり……」

院生「だめ?」

希「また、そんな可愛くおねだりして」

院生「だめなら」

希「ダメなんて言ってないですよ?」

院生「わーい!」

その喜び方は30代手前として構わないのだろうか。
そんな、どうでもいい疑問が希の頭に浮かんだ。

誰かと一緒にご飯を食べるのは、好き。
暗い夜道を一人で帰るのは、別に怖くはないけど、嫌い。
誰もいない家で停電を経験するより、誰もいない家にいるのが、嫌い。

怖いもの?

突然の転勤。別れ。
そんなものだった気がする。

母と父のことを思い出した。
二人が同じ部屋にいる映像がさっと視界を掠める。
胸が落ち着かない。これも恐怖かもしれない。

希は自分のマンションの部屋の前で立ち止まった。

希「ちょっと待っててください……片付いてないかも」

院生「あー、何分でも待ってるよ」

希「すいません……」

扉を閉めて、希は部屋の散らかり具合を確かめる。

希「これくらいなら、先輩だし……ええか」


誰かが帰ると分かっている家で、誰も帰って来ないことがどれ程怖いものだったかを、希は思い出していた。
高校生くらいまでは感じていた感覚。

希「……」

ここは、希以外誰も帰って来ない。
期待することもない。だからこそ、期待しない誰かが来るのが嬉しいのだ。

希「えりちだって、上司の人あげてたし……ええよね」

希は誰にともなく呟いた。

今日はここまでです。また、時間空くかもしれないです。
最近仕事でむしゃくしゃして別のss書いてたので、お待ち頂いている間、
良ければ暇つぶしにどうぞ。


昼下がりの中学生 百合ver
昼下がりの女子中学生 百合ver - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1407248521/)

希「さて、こんな感じでと……」

院生「……私、何したらいい?」

希「レタスちぎってもらって」

院生「オッケー!」

希「それが終わったら、席で待っててください。もうすぐできます」

院生「はい!」

希「家にあった残り物で、煮物にしたんですけどお口にあうかどうか」

院生「この香ばしい匂いだけで、もう十分美味しさは伝わってるよ!」

希「いやー、食べてみないと分からないですよ」

希は火を消して、深めの皿にホクホクと湯気の立つ煮物を見栄えよく入れていく。
と、炊飯器が鳴った。

院生「ご飯、蒸らす? 私は、どっちでもいいよ」

希「もうお腹空いてるんじゃないですか?」

院生「お腹空いたあ~」

希「クス……じゃあ、もう食べちゃいましょう」

院生は年上の女性である。しかし、そう感じさせないのはこの甘え上手な所だろう、と希は思う。
そして、自分自身も甘えるよりも甘えてもらった方が気兼ねがない。
彼女といる時間は、希に安らぎを与えてくれた。

院生「この里芋、凄く美味しい……希ちゃんの旦那さんになる人が羨ましいなあ」

希「そんな予定もないですけどね」

院生「そうなの? てっきり彼氏いるのかと」

院生は箸を止める。

希「まさか」

院生「そっか、じゃあまだ私諦めなくてもいいんだ、良かった」

希「え?」

院生「あ」

希「あ、の?」

院生「え、えっと、あ、待ってね今のはナシ、聞かなかったことにして!」

希「そんなこと言われても」

院生「あのその、一ファンをまだ止めなくていいかなって言う意味でね、別に他意はないんだよッ」

苦笑い気味に、顔を伏せる。

希「先輩……」

院生「や、希ちゃんホントごめん。ホントに……忘れて」

忘れて、という彼女の声は小さかった。

希「忘れていいんですか?」

院生「え」

希「忘れろって言うなら、私はそういう風に努めます」

院生「や、やだなそんな深刻そうな顔して……」

希「今の、そんな軽く流していいんですか」

院生「いいよ、いいって。あー、私バカだから突拍子もないこと言っちゃうの!」

希「ダメですよ、そんな風に言わないでください」

院生「……ダメだよ。私、希ちゃんを困らせたくないの。それ、一番嫌……」

希「困りませんよ……」

院生「優しいなあ……」

院生は背中を縮こませる。
消えてしまいたい、そんな心の声が聞こえてくるようだった。

希「先輩……私」

院生「ごめん、お手洗い借りていい?」

希の言葉を、院生は強引に遮った。

希「あ、はい……」

院生「やあ、恥ずかしいな。取り乱してごめんね、ちょろっと頭冷やしてくるから」

苦笑いして、彼女は席を立つ。
その腕を希は掴んで、引き止めた。

院生「希ちゃん?」

希「先輩、私は先輩の悲しい顔を見るのは辛いです」

院生「な、なに一丁前なこと」

希「本当の気持ちです」

院生「ダメダメッ、私を甘やかすのは」

そうだ、何を言っているのだろう。
私には――がいるのに。
――が知ったら、なんて思うか。

希「先輩……」

院生「ダメだよ、私我慢できなくなるッ」

院生は言って、希の腕を掴む。
たぶん、その腕を払うために掴んだのであろう。
けれど、すがる様に裾を掴んでいた。

希「……私」

院生「ちょっとだけ……待って」


こんなに弱弱しい彼女を見るのは初めてだった。
子どものような先輩のいつもより低くなった頭を撫でてあげたい、と思った。
沈黙が二人の間に流れた。

先輩のしたいようにさせてあげたい、そんな気持ちが沸々と湧き上がってきているのに気が付いていた。
同情、なのかもしれない。
思い通りにいかないこと、その辛さが分かるから。
けれど、この場合同情も非情だ。

なにせ、私には――でなくてはいけないのだ。
でも、いつからそんな風に自分を縛ってしまっているのだろう。

希はふと我に帰る。
院生は希を震えてる手で抱きしめていた。

院生「……諦めようとしたんだけどね、ダメっぽい……」

希「先輩……分かりますよ」

院生「分かったところでだよ……」

希「……」

院生「希ちゃんが研究室に来てくれて私は死ぬほどハッピーだったんだ。毎日毎日、会えるのが楽しみで、気づいてた? いっつもそわそわしてたの」

希「知りませんでした」

院生「へへ、頑張って隠してたわけですよ」

希「私も、先輩と過ごす時間はすごく楽しいです」

先輩の好意に対して、上手く応えてあげることができない。
それがもどかしい。
私を引き止めているもの、それは何か。

院生「ありがとッ」

長い一本道が私の目の前にはあった。
一人じゃなかったはずなのに、今は追いかける背中を見失ってしまっているのかもしれない。

情けない。えりち、うち、迷ってる。ごめんな。
希は院生の肩に手を置いた。

希「だから、これからも先輩でいてくださいね」

これで、いいのだ。

院生「うんッ」

感極まったのか、院生は泣きながら希に抱き付いた。

希「わッ」

院生「ッ……ッん」

彼女は希の胸に顔を埋めていた。
たった数年で、寂しさが募り他の人に寄りかかりたくなってしまう。
なんて脆くて自分勝手なんだろう――。

希は目を瞑って、彼女のすすり泣く声に耳を傾けていた。

今日はここまで
亀更新でごめん

院生と出会ってから、彼女の独特な温かさにいつも救われていた。彼女を嫌いになる理由はないし、好きにならない理由もない。高校の時の出会いが全てなんてこともないし、人が人を好きになる理由なんてどうとでも後付けができてしまう。

彼女がこんなに涙もろいなんて知らなかった。
まだ、泣いている。
希は食事を終えて、院生を自分の部屋のベッドに座らせた。
両手で目をこするものだから、赤く腫れていた。

院生「そんなに見ないでよ……」

希「後ろ向いてましょうか?」

院生「うん……」

冗談混じりに言ったつもりだったのだが、希は言う通り後ろに向いた。

院生「……」

希「ティッシュ、ベッドの前の棚にありますから」

院生「うん」

答えながら、彼女は希の背中に指を這わせた。

希「先輩?」

肩越しに希は振り向く。

院生「……」

背中に何か書き始める。ぞくりとして、希は背を震わせた。

希「?」

『ごめんね』

希「なんて書いたかよく分からないです」

院生「そっか」

嘘だった。彼女の指が止まる。
書くのを思い止まったようにも思えた。

『スキ』

その文字は、すぐに上から指で消された。

希「先輩? なんて書いてるんですか?」

院生「秘密」

希「教えてください」

院生の懺悔のような告白は、その後5分程してから、希の背中で幕を閉じた。

彼女はその晩泊っていった。
希はシャワーを浴びて、念入りに髪を乾かして自分の部屋に戻る前に、ベランダへ出た。

肌寒い風が吹いていた。ビル群の明かりが爛々と輝いている。
あの中の一つに、もしかしたらえりちの会社が含まれているかもしれない。
会いたい、そんな感傷で夜更かししたこともあった。

携帯を取り出して、SNSを開く。
眩しくて、目を細めた。

『えりち』

そう打って、送信ボタンを押そうとして、やはり止める。
会いたい、それは独り善がりで独占的な感情だ。

希「えりち……」

変わらないものなんてないのに。流れていった時間は、希を大人に染めていく。
諦めが育っていく。一日一日根深くなって、枝や葉っぱを切り落としたくらいでは容易に引っこ抜けはしない。

希「ずっと……なんて、ないんやで」

私は、怒って良かったのかもしれない。
もっと嫉妬して良かったのかもしれない。
それができないのは遠慮?
心が冷えているから?

それとも?

希は部屋に戻って、寝息を立てる院生の隣へと潜り込む。
目を瞑ると、すぐに眠気が襲ってきて、希は考えるのを止めた。

口の中がからっとしていた。
傍にあったペットボトルを掴んで、一口飲んだ。

『お疲れ様』

穂乃果ちゃん。

『もう、休んで構いませんよ』

海未ちゃん。

『希ちゃん、大丈夫?』

ことりちゃん。

希「何言うてるん? まだ、練習始まったばかりやん」

まだ、曲は終わってない。
踊ろうとして、足が縺れた。
とすんと尻もちをついた。

希「あいたッ」

『無理は禁物にゃー』

凛ちゃん。

『絵里ちゃん、呼んでこようか』

花陽ちゃん。

希「あかんて、えりちは忙しいんやから」

『希だって、同じでしょ』

真姫ちゃん。

『もっと、甘えればいいじゃない』

にこっち。

屋上だった場所が、ライブ会場に変わる。
スポットライトがμ’sを照らしているた。
希はライブを見ている側の人間だった。

希だけが大学生の容姿で、他の8人はあの頃のまま。
あの場所には戻れない。

あの頃、それは希にとって手の届かない奇跡。
そこにはもう居場所など――。
それでも、9人が揃ったあの場所は永遠だ。

大丈夫。

誤魔化すのは得意だから。
言わなければいい。

大丈夫。

もともと一人には慣れてる。
深入りしない術も知っている。

寝苦しい夜だった。
何度か目が覚めてしまった。
時計を見ると、先ほどは4時、次は5時半、今は6時。
うつらうつらと目を閉じた。カーテンの向こうはすでに明るい。
バイクや車の音。

隣には院生。
えりちはいない。

今日はここまで。
読んでくださってる方、ありがとう。

次に目が覚めた時には、希は夢の内容を忘れてしまっていた。
ただ、何かを見ていたことだけは覚えていた。

現実で望んだことが、夢の限界で、
それ以上は、どこにもない。
それが、現実の限界で、
いつまでも、夢を縛っている。

彼女だって、同じ事。いつまでも。
追いかけて、追いかけられて。
そんな、夏の夜の夢を見せられている。見続けている。
いつまでも。どこまでも。

手の届く、すぐそこにあるはずなのに。

彷徨いながら、おぼろげながら、
過去という揺りかごが心地よく、
何度でも揺られて、何度でも眠りへと誘われて。

その日、希は絵里に今日会えるかどうかというメッセージを送った。
その返信は返ってはこなかった。

絵里が忙しいのは希も分かっていた。きっと、希なら分かってくれる。
そんな風に、期待されているのか、それは分からないけれど。
日をまたいでも返信がないというのはそういうことなのかもしれない。

希は午後に出たレポートを仕上げるために、図書センターへ来ていた。
携帯は先ほどから時計の機能しか果たしていない。
これが終わったら、買い置きしていたアイスでも食べよう。
夕方過ぎの図書センターは、冷房設備があるとはいえ、西日で部屋全体が温まっていた。

レポートは明日の朝までに提出すればいいい。
ゆっくりと仕上げよう。
今日は、まだ研究室へ向かわなくてもいいだろうか。

誰にともなく言い訳して、希はペンを走らせた。

ごめん、もう限界なので寝ます。

駐車場に乾いた音が響いた。
希は驚いて、男女の方を見た。
男は顔を背けていた。

「冗談じゃないわ。私があなただけしかいないと思わないでよ……あ」

希は女と目が合ってしまった。

「あなた……」

彼女は男のことなどもうどうでもいいのか、その場を離れて希の方へ近づいてくる。

希「え……あ、えりちの」

マネージャー、だったか。
希はわずかに後ずさった。

上司「あなた、この間の、絵里のお友達じゃない」

希「はい……」

上司「ちょうどいいわ、付き合ってちょうだい」

希「え、ちょ」

彼女は希の腕を引っ張って、

上司「暇なんでしょ」

有無を言わせず彼女の車へと引きずっていく。
あまりのことに呆気にとられた。

希「はい……?」

気が付けば、助手席へと座らされていた。
呆然と、こちらを見る先ほどの男性。

上司「シートベルト締めなさい」

上司は車を急発進させた。
希は勢いを押し殺せずに、前につんのめって、危うくおでこをぶつける所だった。

希「き、急になんでこんな……」

上司「あなたがそこにぼーっと突っ立てるからよ。見世物じゃないわよ」

希「見ようと思って見ていたわけじゃありません」

上司「どっちにしろ見たんでしょ」

まるで、希に非があるかのような口ぶりだ。
希は溜息を吐く。

希「引き返してください」

上司「無理よ。だいたい、あなたが抵抗せずに乗ってきたんでしょ」

希「それは、驚いて……」

上司「今の、絵里に知られるわけにはいかないのよね」

彼女は口元を斜めに引き上げて笑った。

希「なっ」

上司「あなたを海に突き落とすのもありかしら」

上司は首を捻る。

上司「それとも、山に生き埋めにしておいた方がいい?」

何を言っているのだろう。
淡々と感情なく喋る彼女の言葉の真意が掴めない。
何を考えているのだろう。

上司「沼に放り込むという手もあるわね」

息苦しい冗談。

希「あなたは、絵里……さんの何なんですか」

上司「恋人」

真顔で彼女はそう言ってのけた。

今日はここまで

希「それって……」

上司「あなたこそ絵里の何?」

上司が矢継ぎ早に質問してくる。
彼女のペースにずるずると引っ張られ、希は口ごもった。

希「それは……」

上司「言えないの? ただの友達なんでしょ」

希「は、い……」

上司「隠すようなことじゃないじゃない」

希「ええ、まあ……」

上司「ねえ、絵里、今大事な選考の最中なのよね」

希「……」

上司「直属の上司である私の意見ももちろん反映される。彼女が上に上がれるかどうかって、私しだいなわけ」

いったい何が言いたいのか。

上司「あの子、お人形みたいよね。傍に置いておくだけでも良かったんだけど、あんなに懐かれちゃうとねえ」

希「……」

上司「けっこうアプローチしたけど、全然気づかない鈍感ちゃんだし。男がいるのかなって、思ってたけど、安心したわ。ちょっと重たい友達が一人いるだけだった」

彼女はせせら笑った。

希「なッ」

頬が熱くなる。
抉るような傷跡ができたような気がした。

上司「でもね、この大事な時期をその重たい友達のせいで台無しにされちゃうと困るの」

希「私に……絵里さんと関わるなって言いたいんですか?」

上司「そこまで言ってない。ただ、良いお友達でいてねって、絵里のことよろしくねって言ってるだけ」

まるで、自分の私物のような物言いだった。

希「それを、あなたに決められることを、絵里さんが望んでいるとは思いません」

上司「絵里が望まなくても、あなたはそうするしかないんじゃない? それとも、そんな薄情な人間なの?」

希「私を脅しているんですか」

上司「……そんなに凄んでも、絵里はあーげない」

希は、こめかみを擦った。

希「さっきの、さっきの男性とはいいんですか」

上司「ああ、飽きたからいいのよ。それに、私、略奪愛って好きじゃないから」

どの口が――。
希は、未だピンとこない現状と嫌悪とどうしようもない怒りが、胃に重たくのしかかり吐きそうになった。

上司「今の要望を受け入れてくれないなら、絵里は一生何も気づかずに認められないまま終わるかもね」

希「そんなことないはずです。絵里さん程優秀な人なら、あなたじゃなくても周りが認めてくれるはずです」

上司「……その時まで、絵里がこの会社にいたらの話だけどね」

希「や、止めてくださいッ」

上司「だったら、分かるでしょ?」

希は上司の握っているハンドルを切り替えして、このまま二人とも絵里の前からいなくなった方がいいんじゃないだろうか、とさえ思った。でも、それは無理だった。そんな勇気も覚悟もない。
希は何もできなかった。
友達のままでいろ、とこの上司は命令している。

上司「いいじゃない、別に会うなって言ってるわけじゃないんだから」

希は再度こめかみを抑えた。
絵里の部屋で会ったあの瞬間に、いったいこの人はどれ程嫉妬していたのだろうか。

希「……」

生まれて初めて、こんなにも人間を不快に感じた。

希「分かりました……」

上司「物分かりが良くて助かるわ」

希「分かりましたから、ここで降ろしてください」

上司「あら、車はさっきのカフェにあるんじゃないの?」

希「この辺りで、少し用があるので大丈夫です」

上司は道路脇に車を停めた。

希「失礼します」

背後で上司が何か言ったような気がした。
希は逃げた。
彼女から、彼女の車の中の醜悪な空気から。
彼女の車が見えなくなってから、希はふらりと歩を進めた。

自分にはどうしようもないことから、希は逃げた。

希「……」

カフェからはそんなに離れていない。
タクシーか、バスで帰れる距離だ。

希「うッ……」

胃が熱い。
重だるい。

さっきまで、いったい何を言われていたっけ。
不快感が蘇る。

私が何をしたと言うのだろう。

希「ッ……」

よそ見をしている間に。
なぜか、こちらが道を外れてしまった。

涙は出てこなかった。
驚きの方が大きくて、現実感もなかった。

それから、バスに乗ってカフェの近くのバス停まで戻った。
歩いてカフェまで行って、そこでココアを一杯注文した。

希「甘いなあ……」

置いてあったシロップを全部入れると、さすがに舌がまいった。
涙が出てきたのは、少し時間が立ってから、絵里からメールで、

『遅くなってごめんなさい! どうしたの? あ、もしかして寂しかった? 私も、凄く会いたいわ』

という文章が返ってきてからだった。

店員「お客様?」

希「あ、なんでも……目にゴミが入って」

声が震えた。店員は二本目のおしぼりを置いて、去っていく。
その涙は、哀しみが押し出したものではない。

彼女の言うとおりにする必要などない。
けれど、上司が絵里に近況を聞けば分かる話だ。

上司に言われたことは、今までと変わらないポジションにいろということ。
訳が分からない。なぜ、そんなことをしなくてはいけないのだろう。

彼女は一体何様だと言うのか。
思い出せば思い出すほど、腹が立ってきた。
怒りで、人は涙が出るものなのかと希は初めて知った。

夜、希は家に帰らなかった。
絵里のメールに、

『寂しかったんやけど、大丈夫になったでー(笑)』

と返してから、にこに電話を入れた。

にこ『もひもひ? 何よ、今、歯を磨いてる最中なんですけど』

希「これから、にこっちの家、行ってもええかな?」

にこ『は? 冗談は寝てから一人で言え。あんたの住んでる所からどんだけかかると思ってんの』

希「うん、そやな……うん、ごめん、寝てたみたいや」

にこ『はあ?』

希「疲れとるところいきなりごめんなあ。ほな」

にこ『ちょっと、何の用よ』

希「寂しくって、にこっちの顔見たくなったんよ」

にこ『なにそれ、気持ち悪いこと言わないでよ』

希「ふふ……ほやな」

にこ『私、明日劇団行かなきゃいけないのよ。だから、さっさと寝てお肌の潤い成分閉じ込めたいの』

希「また、キュウリ? ほんま、好きやな」

にこ『きゅうりじゃないわよ!』

希「くすくす……うん、分かってる、じゃあ……」

にこ『……あ、なんか、吐き気が……おえッ』

希「え、にこっち、大丈夫!?」

にこ『う……や、やばい。これは昨日食べた焼肉のせいだわ……これじゃあ、明日はどこにも行けない……お家のトイレに張り付いてないと……』

希「へ……?」

にこ『それより、真姫ちゃんに来てもらわないと……ああ、西野木総合病院に急がなくっちゃ……24時に行こう』

希「はい?」

にこ『二度も言わせないでよ。西野木総合病院前に、23時! 遅れたら帰って寝るから!』

希「あ、うん……すぐ行く!」

にこ『おえッ』

演技とは思えない。
さすが、未来のアカデミー賞候補。
希は電話を切って、すぐに車を走らせた。

高速を使っても約3時間離れた場所だ。
私の我がままに付き合ってくれるにこに本当に感謝している。

ふと、唇に痛みを覚えた。
強く噛んでいたようだ。

喉を震わすような溜息を吐く。
何も吐き出せてはいない。

携帯が鳴動する。
絵里かと思ったが、違った。
送信者に一瞬どきりとする。

院生だった。
私を心配してくれていた。

ごめんなさい。
希は心の中でそう呟いた。

ちょっと、ご飯食べてきます。1時間後くらいにまた

読んで下さってる方、ありがとう。

訂正→にこ『二度も言わせないでよ。西野木総合病院前に、24時! 遅れたら帰って寝るから!』

訂正するところ、もひとつ

西野木→西木野

時刻は24時――。

希「あ……」

常夜灯に照らされて、にことそれからなぜか真姫が眠そうに目をこすりながら立っていた。

にこ「時間ぴったりじゃない」

真姫「……ふあ」

希「にこっち、ありがとお。真姫ちゃんお久しぶりやけど……なんで」

真姫「にこちゃんが吐きそうとかって言うから……親に止められたけど振り切ってきたのよ」

真姫はにこのほっぺたを捻る。

にこ「痛いって真姫ちゃんてば!」

真姫「なのに……本人、ピンピンしてるってどういうことよ!」

にこ「ごめんごめん」

真姫「もうッ」

にこ「だって、こういう時頼りになるのって真姫ちゃんだし?」

真姫「こういう時って、どういう時よ」

にこ「希の人生相談」

真姫「……」

真姫がこちらを振り向く。

希「えっと……?」

真姫「ちょっと、希が困ってるじゃない」

更新は嬉しいけど無理はしなくてもええんやで

にこ「そうよ、あんた。困ってるんでしょ。いっつもいっつも、分かりにくいのよ」

真姫「にこちゃん……?」

希「……にこっち」

にこ「素直に甘えなさいよ、希」

そう言って、彼女は小さな体を反り返して腕組みした。
鼻をふんと鳴らす。

希「何言うてるん……十分甘えさせてもらってるから」

喉もとまで上がってきた言葉は、どうしようもないことばかりで。
「聞いて欲しい」なんて言えない。

それでも、にこに会いたくなった。
にこだけじゃない。
絵里に会いたかった。
みんなに会いたくなった。
あの頃に帰りたいと。
そう強く思った。

真姫「立ち話もなんだし、にこちゃん家行きましょうよ」

にこ「ええ」

>>219
ありがと。惚れた。

真姫の車の中で、希はにことずっと喋っていた。
それは、話の核心ではなくただの雑談だったけれど。

眠そうにあくびする真姫がたまに突っ込みを挟む。
それが懐かしかった。
これが、明日も明後日も続いていくならどんなに良かったのだろう。

車のヘッドライトに照らされた道が、合宿所への山道なら?
なんて素敵なんだろう。
明日はμ’sのライブの練習で。
新曲の相談でもしながら。
結局、海に遊びに行く流れになって。

にこと話しながら、そんなことを想像していた。
遠くに連れていって欲しかった。
戻りたい。
帰りたい。

ここは、音乃木坂ではないし。
自分は高校生ではない。
住む街を飛び出たけれど。
所詮、今の延長だ。

にこ「希、降りるわよ」

希「うん……」

ヘッドライトが消えた。にこの住むマンションの地下駐車場は薄暗かった。
希は携帯の電源をオフにして、車から降りた。

部屋のドアを開けると、良い匂いがした。

真姫「にこちゃん、こんな夜に何食べてたのよ」

にこ「ち、違うわよ。明日の朝ごはんッ」

玄関先の靴箱の上に、写真が置いてある。
μ’sの集合写真。
ラブライブの時のものだ。
希はそれを手に取った。

にこ「懐かしいでしょ」

希「せやな……」

真姫「次は、いつ集まるの?」

にこ「穂乃果が言うには、冬にまた集まるって話だけど……あ、そう言えば3年生の同窓会のこと思い出した」

真姫「……私は、知らないわよ」

希「そんな、あからさまに私嘘ついてますみたいな顔せんでも」

にこ「にこ、何にも言ってないんだけど?」

真姫「し、してないわ」

にこ「いやあ、あの時はさんざん恥ずかしい目に合ったわ」

真姫「待って、やろうって言ったのは穂乃果で……う」

にこは真姫を羽交い絞めにした。

今日はここまでです。ありがとう


音ノ木坂じゃなかったっけ

>>228
せやった

真姫「あいたたッ」

にこ「次の次に集まる時は、高校の制服で阿波踊りでも踊ってもらおうかしらね」

希「あー、それは見たいなあ。頑張って」

真姫「やんないわよ!」

にこ「痛すぎるわよ、真姫ちゃん」

にこはケタケタと笑う。

真姫「ていうか、にこちゃんの方が似合うんじゃないの?」

にこ「はあ? それ、どういう意味よ?」

真姫「いつまでも育たない、その曖昧ボディ……」

にこ「なんですってぇ?」

希「こらこら……」

にこ「いいじゃない、ちょっと表に出なさいよ!」

真姫「こちらこそ、望むところよ」

希「なんでそうなるーん……?」

と、ピンポーン――
インターホンが鳴った。

希「あ、はーい」

ガチャッ

穂乃果「まてまてええい! 喧嘩は良くないよ! レッド参上!」

海未「は、話し合えばいいじゃないですか! ブ、ブルー……見参……だめッ恥ずかしすぎます!」

希「……」

穂乃果と思しき人物は、赤いマスクを被って、海未と思しき人物は青のマスクを被って、
大仰に入ってきた。

穂乃果「だめだよ、ブルー! 今は異国のグレーのためにもファイトだよ!」

凛「イエロー参上!」

穂乃果「!? バイトは終わったの?!」

凛「友達が急病で倒れたって言ったら、すぐに信用してくれたよ!」

海未「き、汚い。さすがです! イエロー!」

希「あ、あの……」

ガチャッ

希「へ?」

花陽「グリーン!」

希「花陽ちゃんやん……」

花陽「ぐ、グリーン!」

希「花陽ちゃんやん?」

花陽「グリーン!」

希「……」

真姫「ちょっと、赤、私のイメージカラーなんだけど」

穂乃果「そんなことより、喧嘩はやめるんだああ!」

凛「そんなことより!」

真姫「あんた、オレンジでいいでしょ。そういう打ち合わせだったじゃない」

穂乃果「や、やめて真姫ちゃん!」

海未「ほ、穂乃果はレッドの方がリーダーっぽいと言って……」

希「あの、さっきから何の話を……」

花陽「……あ、暑いですッ」プハッ

にこ「ちょッ、あんた何勝手に脱いでんのよ」

花陽「く、苦しくってッ……」

真姫「ねえ、ちょっと、穂乃果ってば」

穂乃果「ご、ごめん真姫ちゃんッ」

凛「凛も意外と暑苦しいからリタイヤするー」プハッ

にこ「こ、こらあんたたち!」

にこが希の方をちらりと見た。
希はそれで、にこが自分のために考えた即興の演出だと悟った。

希「ぷッ……くすくすッ……あはッ……あはははッ」

にこ「ちッ」

にこもそれに気づいたのか、気恥ずかしそうに舌打ちしている。

穂乃果「あ、笑った! ミッションクリアだよ!」

海未「穂乃果、少し黙りましょうか」


穂乃果達が嵐のように到着して、一段落してからにこの寝室で彼らが買ってきたお菓子を広げていた。

希「はー、ことりちゃん海外留学してるんや。凄いなあ」

海未「ええ。あ、穂乃果、クーラーボックスにある飲み物持ってきてくれますか」

穂乃果「はーい」

にこ「あんたら、ポップコーンに、ポテチに、スルメにってこのラインナップ何よ?」

穂乃果「あれ? 宴会するんじゃないの?」

にこ「するか!」

凛「凛は明日午後からだから飲んで帰るにゃー!」

花陽「え、凛ちゃん飲むなら私も……」

各々が好き勝手に袋からお菓子をつまみ、缶チューハイを開けていく。
希はコップを取りに、キッチンへと向かった。海未も空いた袋をまとめてから、一緒に立ち上がる。

希「なんや、プチ同窓会やん」

海未「ええ……。にこが、片っ端から電話をかけたみたいで……」

希「なにそれッ……迷惑やんなあ。ははッ……ッグス」

海未「ど、どうしたんですか?」

希「なんでもないで……うん」

凛「あー! 海未ちゃんが希ちゃん泣かせた!」

にこ「あらー、早速粗相? ペナルティね、海未!」

海未「あ、ええ!? い、今のは!」

誰が買ってきたのか、焼酎の注がれたおちょこを穂乃果が海未に手渡す。
その横では、真姫が頭を抱えていた。

花陽「はい、希ちゃん……」

希「おおきに」

花陽は遠慮がちにビールを注いでくる。

希「みんな、馬鹿やなあ……」

乾杯の音頭など誰も取らずに、好き勝手に飲み始めて、希もそれに加わった。



にこがみんなをどんな風に招集したのかは分からない。
絵里の話題を誰も出さないのはなぜか、それも分からない。

ただ一つ言えるのが、幸せは『過去』ではなく、『今』にあって。
仲間がいるからこそ、それを思い出せる。

それが分かったから、こんなにも嬉しくて切なくて。
上司の話題を出すことなど、希にはできず、みんなも気づかって、深堀りすることはなかった。
やりきれない悲しさが、希を追い詰めていく。

日々の幸せが募るほほど、彼女との幸せが、遠ざかっていくようだった。

翌日、希が起きたのは昼も過ぎていて、掛けられていたタオルケットを剥ぐ。
と、すぐ隣に猫のようにまるまっているにこ。他には誰もいない。
部屋もほとんど片付いている。

にこ「すー……」

希「みんな、もう帰ったんか……」

にこ「……んあ?」

もぞもぞとこちらの腰にしがみついてくる。

にこ「真姫ちゃん……」

希「あらら、ごちそうさま」

にこ「ぬー」

顔をぐりぐりと希の脇腹にこすりつけている。普段も、こんな風に無邪気にじゃれあっているのだろうか。
希は少し前に、絵里と泊まったホテルで手を繋いだのが、ふっと脳裏によぎった。

希「……」

にこ「……すー」

そう言えば、にこも真姫の両親と上手くいっていないのだったか。

希「お互い、大変やな……」

にこの頭を撫でる。
認められない、というのはどれくらい辛いことなのだろう。
果たして、自分はその段階までいけるだろうか。

高校生の頃はあんなに大胆だったのに。
今は、取り返しのつかないことが本当に怖い。

希は瞼をこする。
涙もろくなっていけない。

上半身だけ起きて、カバンの中から携帯を取り出す。
電源を入れ直す。

メールが何件か届いていた。
不在着信が3件。

全て、絵里からだった。

希「……」

電話くらいいいやんか。
希は発信ボタンを押す。
再度、確認のメッセージが表示される。

希「……」

親指が揺れる。

あの上司の言葉を鵜呑みにするのか。
どこまで本当かもわからない。
黙っていればバレることなどない。
絵里に相談すればいい。
いや、だめだ。
彼女ならば、自分自身のことなど後回しにしてしまうはずだ。

そこまで考えて、希はキャンセルボタンを押した。

にこ「のぞみい……?」

希「あ、起きたん」

にこ「あー……みんなもう帰ったのね。起こしてくれてもいいのに」

希「うちも今起きたばっかりや」

にこ「……うー、頭痛い」

希「にこっち頑張ってたもんね」

にこ「そーよ……」

にこはふらふらと立ち上がる。
目元をこするその仕草は可愛らしい。
希は自然と笑みがこぼれた。

にこ「帰る? お風呂入っていけば?」

希「あ、うん。にこっち先にどうぞ」

にこ「あー……じゃあ、先に行くわ」

ペンギンのような後ろ姿。
妹がいたら、にこのような子がいいなと希はこっそりと思った。

ちょっと抜けます。1時間後くらいにたぶん戻ります

にこの後に希もシャワーを浴びた。
汚れた感情が流れていくようだった。
ただ、それは気のせいで、すぐにまた希の中に戻っていった。

にこ「希、出かけるわよ」

希「どこに?」

にこ「お昼ご飯食べによ」

希「確かに、お腹すいたかも」

にこ「近所の大きな公園に移動式のピザ屋が来てるの。むっちゃ美味しいから」

希「へー、期待してるで?」

にこ「もうすぐ帰っちゃうから、早く髪乾かしなさいよ」

希「はーい」

朝に何も入れてないせいか、にこに言われて胃の辺りが食料を求めるように締め付けてくる。
まだ頭がはっきりせず、もたもたと乾かしていると、にこがドライヤーを手に取った。

にこ「じっとしてて」

希「うん」

長いスタンドミラーに椅子に腰掛ける希と、中腰のにこが映る。
すぐ後ろで楽しそうに髪をすくにこ。

希「ありがとう」

近所の土手沿いを進むと、遊具やベンチが設置してある公園に着いた。
木々に溶け込むように、ワーゲンバスを改良した山吹色のピザ屋があった。
数人ほどの行列ができている。車内の様子が映された写真パネルが立てかけてあった。
バスの中に、石窯が設置されてあるようだ。

にこ「あれあれ」

希「むっちゃいい匂いするな」

にこ「鼻の穴広がってるわよ」

希「ひどーい」

笑い合って、列の中に加わった。

にこ「特に、美味しいのはシンプルなやつ、あれ」

希「チーズとトマトとバジル……へー。素朴な感じや」

絵里も好きそうだ。

にこ「あと、どれも500円」

希「えー、迷うやんか」

にこ「迷え迷え」

希「うー」

希はメニュー表と睨めっこする。
受け取り口を見ると、他にもプラス50円でオプションが付けられるようだ。
雰囲気もいいし、ぜひ今度絵里と――。

希「あ…」

にこ「何? 決まった?」

希「ううん、ごめんもうちょっと」

にこ「にこはね、あのジャーマンポテトのやつにしよっかな」

希「うん、あれも美味しそう」

希は頷く。
頷きながら、頭では絵里のことを考える自分に不思議と腑に落ちるものがあった。
共有したい、知ってもらいたい。
それは、誰にでもある自然な感情だ。

希「うちは、まずはオススメやんな」

誰でもなく、最初に絵里に伝えたい。
やはり、この想いが消えることなんてない。
なぜなら、それほど、彼女と分かち合う未来を望んでいるから。

それは、あの上司なんかに邪魔されて壊されてしまうような、脆いものだったろうか。
希の一部のような彼女との生活を捨てられるわけがなかった。

にこ「ほら、希、注文」

希「うん……」

壊れてくれないからこそ、こんなにも希を辛くさせているのだ。

今日はここまでです。

手に持ったピザに息を吹きかける。

にこ「あっつ! ふー……ふー……」

希「熱いうちに食べるんが美味しいで」

にこ「よく食べれるわねッ……ふー」

二人ともベンチに座って、土手沿いを散歩する人を眺めていた。

希「こっちも食べる?」

にこ「ちょっともらう」

希「そっちちょうだい」

にこ「ん」

希は遠慮がちに、にこの注文したピザをかじる。
美味しかった。じゃがいもが香ばしい。

希「真姫ちゃんとも来るん?」

にこ「あー……まあ、前はけっこう来てたけど」

にこが少し言い淀む。

希「そっか」

にこ「お互い、忙しかったりすると予定合わせるのって難しいしね。何より、あっちの両親の目が光ってるからってのもある」

希「真姫ちゃんはなんて?」

にこ「それが、あの子も親に強く言えるような子じゃなくってさ。もういい年だってのに、可笑しいでしょ」

希「……」

にこ「なんだか、強引にお見合いさせられたってこの間愚痴ってたわよ」

にこが苦笑する。
普段だったら、もっと感情を顕わにするだろうにこが、抑えたような声で笑うのが痛々しかった。

にこ「あの真姫が大人しく座ってるって言うだけでも可笑しいけどね」

彼女はピザにかぶりつく。

すいません
ここまで

希「それで、そのお見合いどうなったん?」

にこは口の端に付いたケチャップを舐めて、もう一回かじりついた。

にこ「さあね……そういや、相手も医者の息子で、医者らしいんだけどさ」

希「……」

にこ「ほら、医者って家柄とか重視するって言うじゃない? それって、やっぱり生活環境とか価値観の違いとか生まれるから、実際問題同じような敷居の高さの家じゃないとそりが合わないってのもあるのよね……」

希「真姫ちゃんは、そんなん気にする子やないやろ」

にこ「そうね、うん」

希「まさか、にこっちが……」

にこ「わ、私は別にそんなの気にしてないしッ」

希「ウチにまで強がらんでもええんやで」

にこ「そんなんじゃない……と思う。でもさ……ほとんど家に戻らない真姫ちゃんや、帰ってきたら疲れてすぐ寝ちゃう真姫ちゃんを見てるとさ……不安になるし、両親にも止められちゃった今は、私じゃあの子の支えになってあげられないんじゃないかって思うのよ」

ぽつりぽつりとにこは語る。それでも、彼女は強い。
真っ直ぐな瞳をしている。
希はにこの表情を見れず、下を向く。
その強さは自分にはない。

希「にこちゃんはそんな真姫ちゃんを受け止められるはずや」

にこ「なんで、そんなこと言えるのよ」

希「カードがそう言っとる」

にこ「……もう、希らしいと言えばそうだけど」


希「なーんて、そんなん関係ないんやない? 家とか職業を好きになったんじゃなくて、真姫ちゃんを好きになったんやから。忙しくてもお見合いしても、真姫ちゃんはそれを一番分かってくれとると思うけどなあ。それに、何たらに障害は付き物って言うやん?」

自分で言っていて、こんなに腹落ちしないなんて。
希は内心可笑しかった。

にこ「そうね……。ありがと、何か愚痴ったらちょっとスッキリしたかも」

希「えーよ。怖がらずに、今度お見合いの話もちゃんと聞いてみよな」

にこ「ええ……」

にこがため息を吐く。

希「どしたん? うち、何か怒らしてもおた?」

にこ「違うわよ。慰めてやろうと思ったのに、逆に慰められたのが気に食わないの」

希「やー、今の流れだと仕方ないって」

にこ「もー……希のバカ」

希「なんで、うちがバカになるん。にこっちのバカ」

にこ「カバッ」

希「バナナ」

にこ「なまこ」

希「こあら」

にこ「ッ……ちがう! 違う違う」

希「な、なんやのいきなり」



にこ「別にしりとりがしたいわけじゃないのよッ」

希「何がしたいん?」

にこ「だから、その、ほら、こんだけ場を作ったんだから、もういいでしょ」

希「?」

にこ「じれったいわね……あんたの話が聞きたいのッ」

希「あ、ああ。そう言うこと」」

にこ「察しなさいよ」

希「ごめんごめん」

にこ「で?」

すまん眠い、また明日

>>262
ありがと

希「ウチは……」

何を話そうか。

希「うん……そやなあ。最近、えりち忙しくて、少し寂しいなあって思ってた」

にこ「それこそ、言えばいいじゃないの」

希「そうやね……」

にこが真剣な表情でこちらを見ていた。

彼女はきっと、自分が何かを誤魔化そうとしているのを見抜いていたのかもしれない。
その後も、希は当たり障りのない愚痴を述べた。言うべきことはもっとあったのだろうに。

にこは希が話してくれるのを待つように、追求することはなかった。
それからにこの部屋まで戻り、彼女の作りおいていた肉じゃがを包んでもらって、希は帰路に着いた。

午後からのゼミにだけでも顔を出そうと、希は大学に向かった。
気まずさを押し込めて研究室の扉を開けると、先輩が普段通りに挨拶を返してきた。

希「お久しぶりです」

微笑むと、先輩も笑ってくれた。が、すぐに眉を引き上げる。

院生「おそーい! 溜まってるよ」

希「え?」

見ると、机の上に山済みの論文。

院生「これ、私一人で和訳したら大変なことになっちゃうからね! 日本語的に!」

ぷりぷりと彼女が頬を膨らませる。

希「すいま……堪忍です」

院生「学会も近いんだから、ほら、早く早く」

彼女は立ち上がって、希の肩を押して席へ座らせる。
そして、真向かいの自席へとすんと腰掛ける。

院生「さあ、学会まで日がないぜえ! 頑張ろお!」

希「……はいッ」

勢いに押されながら、返事をする。
マウスに手を伸ばすと、何かに触れた。
醤油餅が一個。

希「……ぷッ」



院生「……なんですかぁ?」

希「いえ……これまだ食べれるかなって」

院生「……大丈夫ですけどぉ」

希「そうですか……あ、先輩」

院生「んー?」

希「肉じゃがあるんですけど、食べます?」

院生「食べますぅ」

希「はーい」

希は戸棚から皿を出して、肉じゃがをよそう。

院生「手作り?」

希「ええ、私の友達の」

院生「えー、希ちゃんのじゃないのー」

希「そんなこと言う人にはあげませんよ」

院生「わ、冗談だよッ。せっかくもらったものなんだし、ありがたくご相伴に預からせて頂きます!」

希「ええですよ」

希はついでに醤油餅も半分こする。昨日の研究室であった出来事を院生が話し始める。
教授の孫が来て暴れていったとか、隣の研究室の事務員が犬を拾ってきたとか。

院生「希ちゃん来なくて寂しかったなあ」

ぽつりと言った言葉を、彼女は隠すことはない。

希「今日は来たので、許してください」

彼女に半分こにした醤油餅を渡す。

院生「良かろう」

希「……ありがとうございます」



いつも通りに迎えてくれて、本当にありがとうございます。

それから数週間経ち、学会の日となった。
他大学や企業、行政委託研究等の発表の間、希は会場の受付に回っていた。
自らの研究を発表する際には、院生と交代して慌ただしい一日を過ごしていた。

お昼休み――

希「意外と発表時間みなさん長かったですね」

院生「ホントに、なんのための制限時間だか……あとがつっかえるちゅーの」

希「まあまあ」

院生「あー、がだごっだー」

希「先輩、声濁り過ぎです……クスクス」

院生「ふんがー……」

希「何か買ってきましょうか」

院生「え、いいよいいよ」

希「まあまあ」

院生「いえいえ」

希「……チョコでいいですか?」

院生「……お願いします」

希「はい」

希は時計を確認する。まだ時間はある。
外のコンビニまで行って、限定のものがあればそれにしよう。
先輩は季節限定に弱い。

コンビニには案の定ちらほら新商品が出始めていた。

希「んー……」

これかな。希は手を伸ばす。これなら、甘いものが苦手な自分でも食べれそうだ。
と、自分の手を覆うように別の誰かの手が伸びてきた。

絵里「……え」

希「……あ」

絵里「希……あ、そうよねこの近くの大学って言ってたわよね」

希「う、うん」

希はお菓子を掴む。

希「ご、ごめんな。今、学会の最中で」

こんな所で会うなんて。
エンカウント率の良さに希は動揺した。

絵里「希、待って……」

希「早く戻らんと怒られてしまうんよ……」

絵里「希ッ……」

絵里が希の腕を掴む。

希「えりち、スーツってことは仕事のお昼休みか何かやろ? こんな所で油売っとったらマネージャーにどやされるで」

絵里「マネージャー? 大丈夫よ、それより」

希「……大丈夫?」

絵里「希?」

希「大丈夫なわけないやんッ」

絵里「……え」

希「あ……ううん、ごめん」

絵里「携帯も全然出てくれないから……にこに聞いても、知らないって言うし」

希「……」

にこが黙ってくれているのは、ありがたい。

絵里「これでも心配したのよ」

わかっている。着信が何件も溜まっている。

希「ちょっと、学会の準備とかで夜遅くまであったりして、それで」

絵里「体調崩してない?」

希「元気元気ッ」

絵里「心配かけさせないでよ、もお。ま、私も忙しくてお互い様かー」

希「心配せんでも、大丈夫やで。えりちは、えりちのやりたいことしっかりしてな」



絵里「ありがと……あの、希、今度」

希「これから、忙しくなるから、えりちとは暫く会えんなるんよ」

絵里「あ、無理にとは言わないけど、一回くらい」

希「その一回も難しいな」

絵里「……希、私、あなたに何かしたかしら?」

希「……そんなんあるわけないやん」

絵里「さっきから、突っかかるようなことばかり言ってるの気づいてる?」

希「そう聞こえてしまったんなら謝るわ。でも、えりち……少し、距離置かせて欲しい。ごめん。」

絵里「何よそれ。謝らなくていいわよ……なんで、そんなこと言うのかが知りたいの」

と、絵里の携帯が鳴り始める。

希「鳴ってるで」

絵里「……ッ」

絵里は唇を歪めた。

今日はここまで。読んでくれてありがと

希「えりち……」

絵里「希……あなた、変わった」

希「そうなんかな。そうかもしれんなあ」

絵里「どうしてそうやって逃げるの」

希「逃げてなんか」

絵里「逃げてるじゃないッ、自分の気持ちから。昔の希も臆病だったけど、今の希はそれ以上に弱虫だわ」

希「……」

絵里「一人で溜め込まないで、言ってよ……ねえ、お願い」

希「ウチだって溜め込みたくて溜め込んでるわけじゃないんよ。えりち、高校生の時に言ったよね。ウチはそんなに強くないって。あの頃も今も、えりちに見せられない弱い所、たくさんあるんやで」

希はちらりと時計を確認する。
もう、行かなくては。

希「なあ、最後に聞いておきたいことがあるんよ……。えりち、ウチの嫌いな食べ物知っとる?」

絵里「え……」

絵里は、急に何をというように声を詰まらせた。
希は待った。待った末の彼女の解答は的を外れていて、希は静かに言った。

希「えりちとおってもしんどいことの方が多すぎるん」

こんなことを――。

絵里「そんな……」

希「じゃあ、行くね」

絵里の携帯がまた鳴動する。

絵里「希ッ!」

希「ほら、待ってる人おるやろ」

言いたいわけではなかったのに――。

言わせないで――。
でも、言ってしまった。
言ってやった。

お昼時でコンビニも混んできた。
店内がざわつき始める。

絵里は呆然と立ち尽くす。
ロシア系の端正な顔を固まらせていた。

傷ついた、とでも言いたげだ。
傷つけ、とでも言ってしまおうか。

μ’s結成時、放課後の校舎で、絵里の泣き顔を一度だけ見たことがあった。
眉根を寄せて、唇をわなわなと震わせて。その時の表情が重なる。
あと、一言でも何か言ってしまえば、もしかしたら絵里は泣いてしまうかもしれない。

絵里「私は……あなたに待っていて欲しいのよ」

彼女は、くしゃりと顔が歪むのを抑えながら、言った。

子どもみたい、と希は思った。
駄々をこねれば、望みが叶うのだろうか。
否、叶うわけもない。

嘘つきだ。

私のことだ。
マネージャーのことだ。


希「……」

ここまでです。おやすみ

追いかけていたのは、どちらだったのだろうか。
少し前に、希はそんな疑問を抱いたのを覚えている。

私?
それともあなた?

上司「絵里、いつまで待たせるの?」

その声に、希は息を吸い込んだ。

絵里「あ、すいません! マネージャーッ」

絵里は目元を軽く拭う。
そんな彼女の後ろから小さくため息をついて、上司がこちらを睨み、

上司「あら、あなたこの間の……」

そして、白々しく言った。

絵里「あ、高校の時の友人なんです」

希「……どうも」

上司「仲が良いのはいいけど、ほどほどにね。絵里、それ早く買ってきなさい」

絵里「は、はい」

彼女に言われたとおり、絵里はレジへ向かう。
上司は、希の方へ顔を近づけて、

上司「言うことを聞かない人は嫌いよ」

希「ウチは……!」

上司が希の手首を掴んだ。
そして、爪を立てながら握り潰す。

希「ッぁ……!?」

上司「体で覚えないとわからないでしょ? 逆らうと、どうなるか」

希は力一杯腕を引っ張った。
瞬間、上司も手を離した。
商品棚にぶつかりそうになる。
希はとっさに身体を捻った。
どさっという音。
右手首に衝撃が走る。

希「いたッ……」

上司「まあ、大丈夫!?」

上司が駆け寄って希を抱き起こした。
希は彼女を見上げながら、手首からじわじわと熱を感じていた。

絵里「の、希? どうしたの」

絵里と、そして周囲の好奇の目がこちらに向けられていた。
希は何も言えなかった。

上司「彼女、そこで躓いてしまったみたい。大丈夫? 立てる?」

上司はわざとなのか、痛めた手首を引っ張る。

希「つぅッ!?」

絵里「右手捻ったのッ? 見せて!」

希「大丈夫やッ……」

ここを離れたい。
希は怖かった。
目の前の女性が。
ここにいたら、何をされるか分からない。

右手首は間違いなく腫れているだろう。
希は手首を隠すようにして、立ち上がる。

希「お恥ずかしい所見せてしもうたわ……すんません。学会中なんで、ウチはこれで」

勝ち誇ったように、上司は眼鏡の奥で笑っている。

絵里「あ……」

上司「後で、手首冷やして置いたほうがいいわ。さて、絵里、私たちも行かないと」

希は商品を棚に戻して、上司の視線から逃れたい一心でコンビニを出た。

大学に戻ると、院生が目を丸くしてこちらを見ていた。

希「どうしたんですか?」

院生「目、赤いし、うさぎみたいになってるけど大丈夫?」

希はポケットから手鏡取り出す。

希「ほんまですね……」

充血している。
そして、涙だけが溜まっていた。
外に流れていくことなく。
瞼を閉じないように、希はハンカチで瞼を抑える。

希「砂埃がさっき目に入って……」

院生「それ、目洗った方がいいんじゃ」

希「あ……えっと、さっき洗ったのでたぶん大丈夫だと思います」

院生「そう? 後ちょっと時間あるから、トイレ行っておいでよ」

希「大丈夫ですよ。もう痛くないので」

院生「むー? どれどれー?」

院生が希の瞳を覗き込む。

希「せ、先輩」

院生「何も入ってないとは思うけど……」

両手で瞼を引っ張って院生は真剣に調べていた。

真剣に、彼女はいつも私のことを考えてくれる。

院生「そういや、研究室にゴーグルあったよ」

希「玉ねぎじゃないんですから」

院生「そうだねえ」

希「そうですよ……」

この人は私のことが好きなのだ。
どうして、私は答えてあげないのだろうか。

院生「それじゃあ、受付にもどりましょうかね」

希「はい」

院生が、私の左腕に抱きついてくる。

院生「もうちょっとで宴会だから頑張ろう!」

希「それは語弊がありますよ?」

院生「どうせ飲むんだからおんなじおんなじ」

心臓を包まれているような安心感。
好きになった人が安らぎを与えてくれるとは限らない。
幸せをくれる時もあれば、不幸をくれる時もある。

どうして、絵里なのか。
もういいじゃないか。

自分はにこほど強くない。
弱い者は弱い者らしく生きた方が、楽だ。

なぜ、いつも支えてくれるのは絵里じゃないんだろうか。
泣きついてしまいたいのは、いつもたった一人だけなのに。

惨めだ。あまりにも。

希「……先輩」

院生「うん?」

――けてください。

希「私、先輩のこと、やっぱり……」

院生「……」

助けてください。
助けて。お願いです。

希「す……」

言い終わる前に、院生の人差し指が希の唇に触れた。

院生「希ちゃん」

希「……」

院生「つい、うっかり、当たっちゃった」

お願い。
そんなこと、言わないで。

院生「そういうことってあるよね」

希「ありませんよ……」

院生「ふっふ、それがあるんだよ。人は、それを魔が差したと言う」

希「人為的ですね」

すがる手を、彼女は取ってはくれなかった。
なんて、酷いんだろう。
酷すぎる。
無神経にも程がある。
甘い顔で近づいて。
最初から、分かっていたのに。
選ばなかったのに。
酷い。


誰が?
彼女を巻き込もうとする、自分がに決まっている。

懇親会が始まってからも、右手首の痛みは収まってくれなかった。
グラスを持っても痛みが出てしまうため、希は左手でフォークを使って食べられる物を探して皿に乗せた。

教授「……飲まないのかい?」

希「あ、そういうわけでは」

赤ら顔の教授は片手にビール瓶を持っていて、希は仕方なく皿を置いてグラスを左手に持った。

教授「お疲れ様」

希「ありがとうございます。お疲れ様です」

グラスが鳴った。
彼は一口飲んで、胸ポケットから写真を取り出す。

希「あ、私の写真……ですね」

教授「あー……息子がね、君のサインが欲しいらしくて。すまないが、これに一筆頼まれてくれないかな」

言いにくそうだ。

希「サインを書くような人間じゃないですよ」

教授「嫌なら、うん、構わないんだ……」

教授は、もしかしたら親バカの類なのかもしれない。
下を向いて、彼は後ろ頭を掻いた。

希「嫌なわけじゃないんです……ただ、書いていいのかなって。こんなウチのサインで申し訳ないんです」

教授「……今日はえらく悲観的だね」

重そうな瞼を少し開けて、彼は眉根を寄せる。

希「そういう時もあります」



ファンのためにμ’sをやっていたかというとそうじゃない。
自分のためにやっていたのだ。
9人が揃うところを見たい。
ただ、それだけのために。
彼女たちが一つになった時、どんな風に物語を紡ぐのか。
それを見たかった。

希「もう、あの頃みたいに踊れないし、歌えないんです。違う人間みたいになってしまってます」

教授「それでも、君にはファンがいるんだよ」

希「みんな知らないんです。私が子供のまま臆病な大人になってしまったのを」

頬が熱くなる。
お酒のせいだ。
こんな、舞台劇のようなセリフを吐くのも。
教授に八つ当たりのように、言葉をぶつけているのも。
たった一口が災いのもと。

教授「君も知らないんじゃないのかい。君の周りが変わってしまっていること。当時、高校生だった息子も、もう社会人さ。毎日上司に怒られる落ちこぼれ野郎だけれど、君がアイドルじゃないことくらい、もう分かっているよ」

希「私、このままでいいんでしょうか」

教授「僕には分からない」

希「そうですよね……絡み酒しちゃってすみません」

教授「いいんだよ。同じ顔なんかしなくたって。僕だってそうだよ。妻の前では赤ん坊みたいになるし、息子の前ではヒーローでいたい」

希「あははッ……」

教授「ただね、自分の顔を忘れてもいいから、思い出させてくれる人を大切にしなさいな。笑ったり、怒ったり悲しんだりそんな当たり前のことを与えてくれる人を大事にしていけばいいんだよ」

希「悲しんだり、怒ったりは嫌です……」

教授「んー、確かにそうだね。はははッ」

希はグラスに残った液体を飲み干した。



教授「そうしたらね、案外どうにかなるものだよ」

希「……はあ」

教授の声が薄もやの中から聞こえてくる。

教授「どうしたんだい?」

希「ちょっと、酔ったみたいで」

教授「そろそろ、終わりも近い。ちょっと、休んでいなさい。きっと、学会が終わったから緊張が解けて疲れがどっと出たんだろう」

希「わかりました……」

教授「帰りは大丈夫かい?」

希「あ……」

教授「もし、誰か迎えにきてくれるなら連絡を入れておきなさいな」

希「はい」

希は返事をして、携帯を取り出した。
迎え?
誰が?
彼女は立ち上がる。

希「ちょっと、外で電話してきます」

携帯の待受を見る。
穂乃果を中心に、9人が顔をしわくちゃにして泣いている。
写真を撮ってくれたのは、穂乃果のお父さんだったと思う。

絵里に電話を返そうとして、待受を見る。
すると、つい手が止まってしまう。
電話の向こうには、自分の知る絵里はいないのだと。
それが分かるから。

希「……」

気だるさが襲ってくる。

院生「希ちゃーん、大丈夫?」

扉を開けて、院生がこちらに手を振っている。
大丈夫。
じゃない。
いや。
大丈夫。

選択しないと。
どちらか。
もう一度。
希は院生に手を振り返す。

希「大丈夫です。ちょっと、電話してきますね」

院生「はーい」

ちょっと、抜けます。1時間後くらいにまた。

―――
――



り――。
絵里――。

絵里「あ、はい!?」

上司「仕事が終わったらさっさと帰りなさい。それと、携帯、鳴ってるわよ」

絵里「マネージャー? え、携帯ですか?」

絵里は携帯を見た。
希だった。

絵里「……」

上司「どうし……」

マネージャーが携帯を覗き込んでくる。

絵里「あ、なんでもないですよ。希でした。ほら、昼間の」

上司「ああ、あの子。絵里も大変ね」

絵里「何がですか?」

上司「重たい友達を持つと、苦労するでしょう」

上司は絵里から携帯を取り上げた。

絵里「え?」

そして、素早く着信を拒否する。

上司「付きまとわれて、いい迷惑だったんじゃない?」

絵里「そんなことは」

絵里は唖然として、彼女から携帯を受け取った。
マネージャーが静かに笑う。

上司「今日のだって、もしかしたらあなたの気を引くためだったりして」

絵里「希はそんなことしませんよ。でも、そういう人もいるかもしれませんね」

上司「ごめんごめん。でも、絵里は可愛いから。ストーカーには気をつけなさい」

絵里「マネージャー?」

彼女の指が、絵里の頬を撫でる。

上司「あんな子にはもったいない」

絵里「あの……マネージャー」

絵里は彼女の瞳を見つめた。

上司「何?」

絵里「コンビニでのことなんですけど」

上司「ええ」

絵里「失礼だとは思うんですけど、確認しておきたくて。実は、あのお店を出る時、周りにいた人が言ってたんです。マネージャーがわざとああいう風に仕向けたって。きっと、角度が違うとそういう風に見えるんだけだと思うんですけど」

彼女は笑った。

上司「私が、あの子をひっくり返して怪我させてなんのメリットがあるのよ」

絵里「そうですよね……すみません」

上司「全くよ。あれは彼女が床を滑って起こった事故なんだから」

絵里「そうですよね……あれ? 昼は躓いたって言ってませんでした?」

上司「……どちらでもいいじゃない」

昼間は確かに躓いたと言っていたような。
確かに、どちらでも良いことだ。
なのに、どうしてこんなに引っかかるのだろう。

絵里「そうですけど、確か、マネージャー隣で見てたんですよね」

上司「目を離したと思ったら、勝手に転んで手首捻ってたの」

絵里「え、マネージャー、希が手首捻ってたの知ってたんですか? それなのに、引っ張ろうとしたんですか?」

上司「私も、目の前でいきなり倒れたから気が動転してただけで、わざとじゃないわッ」

絵里「分かってます。だって、マネージャーがそんなことするわけ、ないです」

上司「そうよ、分かってるじゃない。疑わないでよね」

絵里「私も、信じたいですから。こうやってもやもやしてしまうより希本人に直接聞いてすっきりしますね」

上司「は?」

絵里「私、けっこう白黒つけないと落ち着かないタイプで。疑うわけじゃなくて、疑いを晴らすためですよ」

上司「しなくていいわよ」

絵里「だって、自分の中でマネージャーを疑ったままなんて嫌ですから」

絵里はもう一度、携帯に手をかけた。

上司がまたその手から携帯を奪おうとする。
がたん、と絵里は立ち上がる。
彼女の手が空を切る。

上司「別に聞くのはいいんだけどさ、結果は同じだと思うけどね。あーあ、絵里がこんなに面倒な性格だったなんてね」

絵里はびくりとする。
こちらを見やる彼女の視線が突き刺さった。

上司「やっぱり略奪愛って、苦手。すぐに飽きちゃう」

絵里「マネージャー、何言ってるんですか」

上司「今頃、泣いてるんじゃない? 人前で涙とか見せないタイプみたいだし……あははははッ!!」

彼女は突然大きな声で笑い始める。
お腹を抱えて、何がそんなに可笑しいのか。
絵里は、しかし、彼女の言わんとしていることが分かってしまった。

絵里「なんで、マネージャー……」

上司「私の傍にいれば、昇進は確実よ? それでも電話をかける? かけれないわよねえ」

絵里「なかったことにしろってことですか……」

上司「物分りのいい子は好きよ。あなたがあの重い友達のものになるのも耐えられないし」

絵里は携帯を握る手がじんわりと汗ばんできたのが分かった。
彼女の言葉を吸った肺が苦しい。

絵里「嘘、嘘ですよね……?」

上司「あなたもっと素直に従順に生きたほうがいいわよ」

絵里「希に何をしたんですか……」

上司「あなたのために釘を刺しておいただけだから、心配しないで。ねえ、絵里。あなた、本社勤務を希望してるんでしょ? あなたを上に行かせたいだけなのよ。私と一緒に頑張りましょう、ねえ?」

絵里は彼女が冗談をついている様に見えなかった。
だからこそ、絶望的な程その言葉は理解しがたいものだった。

上司「あなたの道を潰すことくらい、私には可能なのよ?」

絵里「……ッ」

裏切られた。
いや、一方的な狂信的な信頼だった。
絵里は糸の切れた人形のように、膝から崩れ落ちた。

上司「そういう、抜け殻みたいなあなたもいいわね」

頬に生暖かい感触。
啄むようなキス。
絵里は視線だけを彼女へ向けた。

絵里「ッ……あ」

いつの間にか絵里の首筋に、彼女が顔を埋めていた。
そして、鎖骨に吸い付く。

絵里「やぁッ……!?」




マネージャーを力任せに押し返す。

上司「いいの?」

口の端を釣り上げて、彼女は言った。
絵里は、突き飛ばした方の腕を握った。
腕をマネージャーを交互に見た。

いいの? 

彼女の薄い唇が、もう一度開いた。

いいの?

自分の判断次第で、夢を潰されてしまう。
絵里は足を震わせた。
また、夢を叶えられないのか。

努力は報われない。
絵里の目の前で、スポットライトがチカッと光った。




蹴った石ころが、光とは逆の方へ吸い込まれていく。
築き上げたものを、もう一度やり直さなくてはいけなくなる。
もしかしたら、築き上げることすらできなくなるかもしれない。


当たって砕けて――。
ダメだ。
それだけは。
だって、何がある、その先に。
取り返しがつかない。

絵里「やッ……」

マネージャーが顎を掴む。

上司「綺麗な肌ね」

夢を見ていた。
願い続けて、叶わないものなどないと。
彼女を迎えに行くと。
一歩目を間違えてしまったのだろうか。
知っていたのに。
一歩目を間違えれば、後は散々だ。

希。昼間の彼女の言葉が蘇る。

『えりちとおってもしんどいことの方が多すぎるん』

絵里「あ……ぅッ」

上司の手が、絵里の胸をまさぐった。

上司「意外と大きいし……柔らかい。美味しそう……」

背筋がぞくりと戦慄く。
冷たい手が、太ももを撫でた。

ねえ、希。
好きなものって、何だったの?

上司「んッ……はあ」

首筋をざらざらとしたものが触れた。

上司「しょっぱい……今日はけっこう外回り長かったからかしら」

絵里「……あ」

どうしよう。
思い出した。
こんな、気味の悪い状況で。
彼女の好きなもの。

キャラメル。
あの子、嫌いだって。
言ってたじゃない。

私、なんで、また希を傷つけちゃうんだろう――。

絵里「ッう……ひッ……ッ」

上司「いい顔……」

夢。
それは、
なんだろう。
そんなことも分からなくなったのか?

がむしゃらに、掴みたいもの。
そういうものじゃなかったか。

心から夢中になれたのは、いつだって。
君といたから。

絵里の携帯が鳴った。はっとして、現実に引き戻される。
それを掴み、マネージャーの顔を引っぱたいた。

上司「んあッ?!」

絵里「はあッ……はあッ」

上司「絵里……分かってるの?」

彼女が頬を抑えて、上半身を揺らつかせる。
絵里は立ち上がって、二歩三歩後ずさった。

上司「絵里!」

絵里「私、希に……謝らないと」

上司「そんなことのために人生を棒に振るの?!」

絵里「あなたにとってはそんなことかもしれないですけど……私にとっては」

絵里は踵を返す。

上司「待ちなさい! 絵里! なんで、なんでよ……」

絵里「マネージャー……思い返す暇がなくて、見つけ出すきっかけさえ見失ってしまってました」

上司「……行かないで」

絵里「私……約束してたんです。月並みで、あなたからすれば陳腐に聞こえるかもしれないですけど」




大切な人に、迎えに行くって――。

―――
――


諦めようと思ってかけた電話が繋がって、希は携帯を取り落としそうになった。
一度目を瞑る。
見間違い、ではない。
いいの?
いいから、話だけでも。

希は親指をスライドさせる。

希「えりち……」

声が低すぎた。
落ち込みすぎだ。
希は咳払いする。

希「あのな、今日、えりちの家行ってもいい? うち、謝りたいことがあるんよ……? えりち?」

絵里の声がくぐもって聞こえづらい。

希「泣いてるん……? 馬鹿やなあ。泣きたいのはウチの方や」

酔いが希の言葉を押し出してくれていた。
絵里がなぜ泣いているのか分からなかった。
でも、どうやら、迎えに来てくれるようだ。

希「ありがと。うん。分かった、待ってる」

さあ。
終わりにしよう。
大切な人を守るために。

よく覚えていないけれど。
少し火照った顔。
寄りかかって、何かぐだぐだと言って。
崩れ落ちて。




希が目を覚ましたのは絵里の部屋ではなくて都内の高級ホテルだった。
ぼんやりと天井を見ていた希は、ゆっくりと顔を動かした。

希「うち、いつ寝てしまったん?」

こちらを覗き込む絵里が微笑み返す。

絵里「ここに入ってからかしら」

右手をついて起き上がろうとすると、激痛が走った。

希「いつッ……」

重力のままベッドへ。

絵里「痛む……? 痛むよね」

希「えりち、へーき……あ」

ゆっくりと絵里が覆いかぶさってきて、希の腕を優しく両手で包む。
そこに額を近づけて、まるで神への祈り、否、懺悔。

絵里「これは私の責任だわ……」

希「何言ってるん……これはウチが勝手に一人で」

絵里「もう、いいのよ。もう、知ってるから。ごめんね、希」

希「知ってるって? 何言うてるん」

絵里は数秒程無言になる。

絵里「マネージャーに聞いたから。こんなの、酷いよね……私のせいだわ」

希は左手で絵里の肩を掴んだ。

希「あかんよ!? それ以上、何も言わんといて……!」

絵里「なんでよ……相談して欲しかった」

希は首を振った。
下を向いて、絵里がこの後どうなってしまうかを想像して、やはりダメだと顔を上げる。
腹立たしさなど、絵里の将来のためならいくらでも飲み込める。

希「いい、えりち。今からでも遅くない。マネージャーに謝ってきて、な」

絵里「嫌よ」

希「そんなことせんでええんよ……えりち」

絵里は大きく首を左右に振った。

絵里「あんな所こっちから願い下げだわ」

希「あかんて……どうするんよ、これから」

絵里「クビになるってわけじゃないんだから。そうビクビクする必要もないし」

希「でも本社勤務が……」

絵里「うーん……そうね、ちょっと難しくなったかな」

希「ウチは平気やから」

絵里「もう、いい……そんな風に自虐的に生きないで」

絵里は小さく悲しそうに笑った。

絵里「気にしないで、私は大丈夫。あなたがいれば……」

絵里は身体を起こして、窓際へと移動する。
夜景を見ていた。
夜の光で映し出される彼女は、吸い込まれほど綺麗だった。

希「ばか……えりちのばか」

絵里「ごめんね……謝っても足りないよね」

どうかしてる。
自分一人のために。
頑張っていた自分が、一番ばかみたいだ。

希は思う。
この動揺が彼女に少しでも伝わればいいのにと。
絵里のとった行動に、どれだけ自分が打ちひしがれたか。

希「忙しくて会えなくても……我慢しようと思ったんよ」

絵里「うん……」

希「合鍵だって使わないようにしようって……」

絵里「……うん」

希「えりちがやりたいことをして欲しいから……」

絵里が困った顔で笑う。

絵里「希、もういいの」

希は左手を支えにしてベッドから起き上がり、足元をふらつかせ絵里の傍へ立った。
どうして、単純に彼女の傍にいられないのだろう。

絵里が抱きしめてきた。
力強かった。
そして、耳元で嗚咽を漏らす。

絵里「待っていてくれてありがとう」

希「そんなんやない……ウチ、えりちにそんな風に言ってもらえるような」

絵里が希のおでこを触って、前髪をかき分ける。
希は目を細めた。

絵里「愛してる」

絵里の心が流れてきて、希はもう我慢できなかった。
大きな声で子供のように、泣いた。

希「ウチ……だって」

愛してる。
誰よりも。
二人で、追いかけ合って。

絵里「漸く言えた……」

青い瞳が、
私を捉えて離さない。

弱虫な、二人。
壁があっても壊せない。
戦う術を知らない。

この一本道では、
邪魔な木々や、
遮る大岩や、
道を惑わす者、

そんなもので、
傷ついてしまうこともあるけれど。
痛みは、
一人で背負う必要などなくて。

ただ、手を繋いで、
簡単じゃない方法で、
大切な人と、
ゆっくりと、
歩けば良かったのだ。

絵里「ねえ、希」

希「なん?」

絵里「明日の夜、焼肉行こっか」

希「……」

絵里「あれ?」

希「いいけど……」

絵里「顔、すっごい緩んでる……」

希「見んといて!」





終わり

こんなぐだぐだに付き合ってくれてありがとうございます。
読んでくださった方、夜中に励ましてくださった方もありがとうございます。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2014年07月18日 (金) 13:43:09   ID: JmS8OM4R

絵里かわいい

2 :  のんたん大好き   2014年08月09日 (土) 18:48:56   ID: s_ptgT8g

のんたんかわいい

3 :  SS好きの774さん   2014年08月26日 (火) 23:22:15   ID: klYz55DZ

※1はぁ、てめぇみてぇな糞野郎はお呼びじゃねぇわ死んどけカスえりとか糞ロシアだろう、口が臭そうなクソビッチが可愛いとかキモッ糞童貞がほんとに死ねよ、やっぱり希ちゃんが一番なんだ、

4 :  SS好きの774さん   2014年08月29日 (金) 04:37:28   ID: Ajg9Yxbm

のんたんも絵里ちも皆可愛いね。
推しはのんたんだけど。

5 :  SS好きの774さん   2014年08月30日 (土) 01:02:50   ID: Xy6y3zXf

3どうした
のぞえりいいね

6 :  SS好きの774さん   2014年09月17日 (水) 20:12:08   ID: cCrcRGlR

続き楽しみです

7 :  SS好きの774さん   2014年10月06日 (月) 14:46:58   ID: KNLa5bsZ

リアタイで読んでたけどもう一度読みに来てしまった
二人とも可愛かった、めちゃくちゃ好きだわ

8 :  SS好きの774さん   2014年11月01日 (土) 19:43:04   ID: EL8beJm1

引き込まれる文章だった
のぞえり最高

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