ホワイトアルバム2(cc~coda)cc編 『心の永住者』 (917)




ホワイトアルバム2(cc~coda)cc編


『心の永住者』




作:黒猫








1-1 かずさ ウィーン冬馬邸 12月上旬







東京の冬と比べるとウィーンの冬は寒い。

今年で3度目のウィーンの冬であったが、いまだ慣れることができない。

体が寒いだけなのか、心が空虚で何も受け付けないだけなのか、

それともその両方なのかは分からないが、かずさは冬を喜べなかった。

なによりも、冬が来るとどうしても3年前の日本での冬を思い出し、

よりいっそう心が苦しくなってしまう。

そんな3度目の冬であっても、かずさの心の傷は、ふさがることも、

対処することもできずにいた。



ふと時計を見上げると、もうすぐ6時を過ぎようとしている。

朝食をとったのが午前10時ごろ。

その後ずっとピアノを弾いていたとこともあって空腹を感じてしまう。

キッチンに行けば、ハウスキーパーが用意した食事があるはずだが、

どうしてもこの防音処理がされた窓がない部屋から出たくはなかった。

この部屋を出たら、窓の景色を見てしまう。

そして、冬を感じてしまう。

だから、空腹を感じるのを忘れるくらいピアノに没頭するしかなかった。




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1402390303



ふいに部屋の空気が乱れる感覚を覚え、部屋の入口を見ると、

曜子が「ただいま」の挨拶もなしに部屋に入ってくる。

いつものように何も言わず、いつものソファに腰掛け、

しばらくかずさのピアノの演奏を聴いてから、そのまま出て行くのだろう。

しかし、どうも今日はなかなかソファから動こうとはせず、

かずさのことを興味深そうに眺めている。

かずさにその視線がまとまわ付き、くすぐったく感じてしまう。

別に、曜子にみられることが嫌なわけではない。

むしろ嬉しく思う。

いつも何も言わず聴いてくれているだけであったが、

それでも曜子が興味をもってくれていると分かり、安心してしまう。

だから、今日みたいに見つめられると、心がかき乱され、

つい内心とは反対のことを言ってしまう。



かずさ「なんだよ、さっきからずっと。」

曜子「なんだよ?って、それは、あたなの演奏を聴いてるんじゃない。」

かずさ「それはそうなんだけど、いつもはちょっと聴いて、

    すぐどっかいってしまうだろ?」



拗ねた子供みたいな発言だと気が付き、曜子から視線をそらす。

若干顔が赤くなってしまったかもしれない。

顔を隠すように俯くが、それがかえって曜子の心を刺激してしまう。

だから、なにもなかったかのように演奏を続けるしかなかった。

でも、曜子には、そんな行動も全てお見通しなんだろう。

これ以上刺激しても、面倒だし、何も言わないほうがいいだろうか。

あとは胸に秘めておくことにした。



曜子「それはそうなんだけど、今日はあなたに用があったのよ。

   それと、ちょっとじっくりとあなたのピアノ聴いてみたかったって

   いうのもあるかな。」

かずさ「・・・・・ふぅん。」





今のかずさにとっては、曜子が自分のピアノに興味を持ってくれるのならば

素直に嬉しかった。それが、どんな意味を示そうとも。



かずさ「で、・・・・どうだった?」



さすがに誉め言葉だけを期待できるわけではない。

むしろ自分に足りない部分を指摘してもらった方が、これからの為になる。

それでも、誉め言葉を求めてしまうのは、仕方がないといえよう。

少し考えるそぶりをしたが、かずさの方を見つめると感想を述べ始める。

かずさも、それを遮らないように、曜子の声が聞こえるのと同時に演奏をやめ、

じっと鍵盤を見つめ、曜子の声に集中した。



曜子「いつもそうなんだけど、ここにはいない誰かに向かって演奏しているみたい。

   目の前にいる観客なんて関係ないって感じで。

   それはそれでかまわないわ。だって、何かを想って演奏することは、

   私だってあるんだから。でもね、かずさ・・・・・。」



そこで言葉を閉じ、続きを言おうとしない。

曜子の言葉の続きが予想できてしまい、それがかずさの心を乱してしまう。

しかし、曜子の言葉の続きが気になり、曜子に視線を向け、先をうながす。



かずさ「でも、なんなんだよ。」



少し荒げた言葉になってしまったかもしれないが、できる限り冷静な言葉で

先をうながそうとした。それでも、かずさのいらだちを覚えた顔を見てしまえば

それが強がりだと曜子にはわかってしまう。



曜子「うぅ~ん、そうね。艶っぽくて、色気を感じる演奏だとは思うのよ。

   これはこれで演奏家として成長はできてる。このまま続けてても

   きっとお色気全開のピアニストが出来上がって、それなりに評価も

   されるんじゃないかしら。」

かずさ「あたしは、そんな評価望まないけどな。」





そう言うと、不本意だとばかりに視線を背ける。そんな態度をとることも

曜子には予想できていたのか、かずさにかまわず話を続ける。



曜子「で、ね。こころから本題なんだけど、あなた、私と一緒に年末日本に行かない?

   ちょうど大晦日に日本でニューイヤーコンサート企画してて、

   12/20~1月末まで日本にいく予定なの。」



「日本」という言葉にぴくっと肩を震わせてしまう。

忘れようとしても忘れられない故郷。

いや、日本そのものに興味はなかった。

彼がいる場所ならば、そこがアメリカでも南極であってもどこでもよかった。

ただ、「日本」という場所が春希と結びつけてしまうために、反応してしまう。

しかし、忘れようとしてはいるものの、曜子の指摘通り、

いつも日本にいる春希に向けて演奏しているかずさは、まさに矛盾を含んだ行動をしていた。

ピアノの演奏後しばらくしたら春希を忘れようとするも、朝になったら

もう一度ピアノと向き合って見えない春希とピアノを通じて会話をする。

いや、忘れること自体、春希を忘れるふりをして、

春希を思い出していただけかもしれないが。

そんな矛盾に満ちた毎日が3年も続けられていた。



かずさ「あたしは、ここに残って練習してるからいいよ。

    日本に行っても寒いだけだしさ。」

曜子「こっちに残っても寒いじゃない。」



穴あきだらけの防波堤は簡単に崩れていく。



かずさ「ここから出なければ、寒くないだろ。」



それでも、必死に穴をふさごうと応戦するも、相手の方が一枚も二枚も上手で

穴をことごとく打ち壊される。






13 春希 エピローグ






あれからすぐ、かずさの骨髄適合検査が行われた。

もちろん俺も検査を行い不適合だったが、

驚くことに、かずさは適合検査に合格した。

血縁者は適合確率が高いというのは有名であるが、それは兄弟姉妹間に限る。

親子間となるとぐっと適合確率が低くなってしまう。

それでも、かずさが適合したのは、曜子が遺書たるビデオレターで言っていた

曜子とかずさが美人「姉妹」というのも、あながち嘘ではない気がした。

もちろん遺伝子レベルの確率で、そんな妄想は当てはまりはしないが

奇跡が起こったことに何度も神に感謝したほどだった。



今その曜子さんは、アンコールの舞台に行くために舞台そでで

かずさの息が整うのを待っている。

曜子さんの演奏はかずさの前だったので、その分しっかりと休憩が取れてるため

疲れはみえない。



曜子「もう疲れたの? もうちょっと体力つけたほうがいいんじゃない?」

かずさ「うるさい。いつもの半分しか弾いてないんだから、

    疲れてなんかいない。」

春希「ほらかずさ、水飲んでおけ。」

かずさ「ありがと。」

曜子「春希君とかずさって、息がぴったりねぇ。

   これが阿吽の呼吸ってやつかしら?」

かずさ「だから黙ってろって。」

春希「汗ふいて。」

>>5はミス投稿

ちなみに、『心はいつもあなたにそばに』の内容です



曜子「日本に行っても、あなたのことだから、部屋にこもってるだけじゃない。

   いい年した若い娘がこんな部屋にこもってないで、たまには外に出なさい。」

かずさ「そのいいよう、年寄り臭い。」

曜子「うるさいわね。」



少し照れくさそうに横を向く曜子を見て、してやったりと思うかずさではあったが、

結局は曜子に圧倒されてしまう。



曜子「私としては、このままあなたが小さくまとまってしまうのは避けたいのよ。

   一応私を目標に頑張ってるんでしょ?」



わざとらしくかずさに挑戦的な目線を送ると、まんまとはまったかずさが

曜子に反骨的な目線と言葉をぶつける。



かずさ「今だけだ。あと5年。いや3年であんたの尻尾くらいは掴んでみせるさ。」

曜子「だったら、私の言いつけに従って、日本に一緒に行きなさい。」

かずさ「それとこれとは・・・。」



ほんの数秒までの勢いはなくなり、声が小さくなってしまう。

それと同時に体も小さく丸まっていく。



曜子「今のままが全て悪いってことじゃないのよ。

   でも、今のままもよくないって感じるのよ。

   それに、もうハウスキーパーには20日から1月末まで休暇だしちゃったし。」

かずさ「なっ!?」



日本という言葉に受けた衝撃以上のショックを受ける。

これはもやは死刑宣告とかわりがない。

生活能力ほぼゼロのかずさに一カ月以上も寒いウィーンで

一人生き抜くことなんて不可能といってもいい。

そもそも、曜子はかずさにお伺いをするためにやってきたのではなく、

決定事項を伝えに来ただけだとわかってしまった。



曜子「それでもあなたがここに残りたいって言うんなら、もう止めはしないわ。」



これでもかっというほどわざとらしい演技がかずさの神経を逆なでする。



かずさ「その場合は、ハウスキーパーを呼びもどしてくれるんだろうな。」

曜子「それは無理よ。彼女も、もうクリスマスの予定をいれてるだろうし。

   日本人でもクリスマスの予定をキャンセルさせたらがっかりさせてしまうのに、

   この国でそんなことしたら、もっとかわいそうなことになるんじゃない?」

かずさ「それわかってて、計画立てたんだろ。」



だんだんと曜子にたてつくのが、馬鹿らしくもなってしまう。

これ以上たてついても自分の言い分が通ることはないと経験上わかっているから。



かずさ「わかったよ。でも、練習は休みたくない。」

曜子「大丈夫よ。ピアノは用意してあるわ。日本の自宅、まだ売れてないから

   そこ使えるようにしておくわ。そのほうがあなたも気が楽でしょ。」



日本の自宅という言葉で、本日3度目の衝撃を受ける。

日本の話が出てから身構えているものの、受け流すことができない。

それだけかずさにとって大切な事柄と言えるが、

それさえも自覚しないようにしてしまっていた。




かずさ「そっか・・・。」



そうつぶやくと、もうこれ以上聞くこともないだろうと主張してか、

ピアノの演奏を再開する。心は既にここにはないという感じの表情で、

どこか遠くを見つめているようだった。

ただ、その視線の先には、はっきりと見えているものがあるのだろう。

曜子にも何が見えているか推測できはしたが、あえて尋ねようとはしなかった。

そして、これ以上の話をすることを諦め、そっと部屋を後にした。

かずさは、曜子が部屋を去ったことにも気がつかず、午後9時30分すぎまで

練習を続けた。



かずさ「お腹すいたな・・・。」



そう一人つぶやくと、のそのそとキッチンに向かう。

窓の外を見ても、真っ暗でよく目をこらさないと何も見えない。

しかし、閑静な高級住宅街といっても、昼間に出歩けばクリスマスを意識できる。

そんなわずかな冬の情報さえも拒絶するかのように、窓の外をあまり見ない。

そんな自分が小さい人間だと、逃げている人間だと自覚してしまう。

外は暗く、廊下の寒さだけが冬を伝えてくる。

それさえも振り払おうと、冬の寒ささえも自分から切り離そうとした。

















1-2 かずさ 成田空港 12/20 月曜日







空港内は空調がきいているおかげで冬を肌に感じることはない。

しかし、空港内の人々を見ると当然だが冬の装いをしているせいで、

いやでも視覚から冬を感じてしまう。

しかも、ここは日本。ウィーンならば、日本人、アジア系の人間をこれほど

見ることもないので、日本の冬を思いだすきっかけにはなっても、

なんとか押しとどめることができた。

だけど、・・・・ここ日本ではそれはできそうもない。



曜子の少し斜め後ろに付き、何も考えないように曜子の後姿だけを追って

進んでいったものも、ふと前を見ると、その曜子の姿がない。

周りを見渡してみるが曜子を見つけることは出来なかった。

どうしたものかと考え、案内掲示板を見上げると、3年前に彼と通ったはずの

場所をさしているようだった。

ここまま進めば、あの時迎えに来てくれた彼と乗った電車で東京に行くこともできる。

それも魅力的な選択だと思えたが、すぐに選択肢から除外した。

ここには、そんな思い出を追想するためにきたわけではない。

そう自分に言い聞かせ、いつもピアノを通して語り合っていた彼を頭から

追い出そうと必死にもがいた。

彼を意識しないようにするために、意識して彼を頭から追い出そうとする。

「意識しない」為に「意識する」なんて

終わりのないイタチごっこを繰り返すしかない。

曜子がどこに行ったかわからず、どこに向かえば分からないように、

ただその場にたたずむしか、かずさには選択肢が残されていなかった。





曜子「どこ行っちゃったのか探したわよ。

   久しぶりの日本だからといって、・・・・・・。」



かずさの肩の手をかけ、軽く振り向かせようとすると、そのまま曜子の胸に

かずさが倒れこんでくる。そこまで強く引っ張ったわけではないので少し驚く。

もう片方の手も肩にやり、顔を見ようとかずさを少し引き離し、尋ねる。



曜子「どうしたの?」



その問いかけに反応して、かずさがゆっくりと顔を上げるが、

その顔を見た曜子は何も言えず、かずさを抱きしめることしかできなかった。

















1-3 かずさ 日本・冬馬邸・地下スタジオ 12/24 金曜日 











成田空港から直接タクシーで冬馬邸に来たかずさは、

その日から一歩も外に出ることはなかった。

しかも、ハウスキーパーが用意した食事を食べるときや、

トイレ、入浴のとき以外はずっと地下から出てくることはない。

寝る時も地下スタジオのソファーで横になり、毛布を頭からかぶって寝ていた。



どうしてもこの部屋にいると、あの二人の事を強く感じてしまう。

楽しくもあり、身を引き裂かれそうな辛い思い出を思い出さずにはいられなかった。

何度もこの部屋から飛び出し、家の外に逃げ出そうと考えもした。

しかし、どうしても最後の最後で、部屋のドアの前で立ち止まってしまう。

一歩でも家の外に出たら、駈け出していただろう。

あの日、あの雪の日見上げた、彼と抱き合ったマンションに行ってしまう。

いまさらどんな顔をして、彼に会えばいいのだろうか?

彼は、何も言わずあたしを抱きしめてくれるだろうか?

彼は・・・・・・、春希はあたしを忘れないでいてくれてるだろうか?

春希の腕に抱かれたい。そして、思いっきり春希の匂いを吸い込み、

春希に満たされたい。何もかも忘れ、春希だけを感じていたかった。




だけど・・・・・。

どうしても、春希に寄り添う自分のことを親友だって言ってくれた彼女を

思いだしてしまい、ドアノブにかけた手をおろしてしまっていた。

雪菜は、きっとあたしのことを許してなんかくれないだろう。

もう親友だなんていってもくれないはずだ。

そんな雪菜が春希の側にいるかもしれないのに、春希がいるマンションに

行く勇気なんかかずさには持ち合わせていなかった。



世間ではクリスマスイブで盛り上がっているが、そんな日付の感覚さえ忘れ

地下にこもっていたかずさであったが、久しぶりの訪問者によって

今日がクリスマスイブだと思いだす。



曜子「元気にしてた?」

かずさ「あいかわらず突然だな。」

曜子「クリスマスイブだっていうのに辛気臭いわね。」

かずさ「ほっとけよ。」



数日ぶりに発した言葉は、うまく声にすることができた。

成田からここに連れられ、そのまま放り出されたが、あえて干渉してこない曜子に

感謝を覚えていた。

たしかに、少しは、いや何度も薄情な母親だと呪ったが、

なにも言ってこない曜子の対応は助かっていた。

もし、なにか言われたとしても、

どんな顔をして、何を言えばいいかわからなかったから。

今も、何を言えばいいかわからない。だけど、こんな軽口くらいなら言えるくらい

回復していると思えた。





曜子「あなたをほっといたのは、悪かったと思ってるわ。」

かずさ「本当にそう思ってるならな。」

曜子「まあ、いいわ。忙しかったのは確かなのよ。調整にリハーサル。

   それに、うんざりするような取材、取材・・・・・取材。

   美代ちゃんったら、久しぶりの日本公演だからって、張り切りすぎなのよ。」



曜子は、取材が嫌いなわけではない。

かずさが知っている曜子は、派手な行動をマスコミに隠そうとはしていない。

いや、むしろ自分に注目を集めるために

わざと目立つ行動をしていると思えることもある。実際そうなんだろう。

その曜子がうんざりするような取材の量って、ちょっと興味を覚える。

もし自分だったら、最初の取材で椅子を蹴飛ばし、部屋を去っていたと確信できるが。



かずさ「それで、今日はどんな用で来たんだ?

    クリスマスプレゼントでもくれるのか?」



別にクリスマスプレゼントが欲しいわけでも、期待しているわけでもない。

ただ曜子との軽口を続けようとしただけ。

それなのに返ってきた言葉は意外なものだった。



曜子「なんでわかったの?」



曜子はほんとうに驚いたのか、わざとらしい演技をみせる。



かずさ「え?」

曜子「なにを自分でふってきた話題で驚いてるのよ。

   ちょっとしたプレゼントを用意したのは本当。

   でも、それよりも食事に行かない? 

   今日はイブだし、親子で食事といきましょう。」

かずさ「食事に行っても、カップルばかりでうざいだけだ。」

曜子「別にむこうじゃ家族で過ごすのが普通なんだし、どうでもいいんじゃない?

   誰と過ごそうが、自分が過ごしたいと思う人と一緒にいるのが一番よ。」

かずさ「自分が一緒にいたい人か・・・・。」




そう小さくつぶやくとピアノの鍵盤に目を落とす。

そして、ピアノの向こうにいる春希を見つめようとするが、

曜子はかずさのつぶやきを聞こえないふりをして、話を続ける。



曜子「さ、私お腹すいちゃった。早く行きましょ。

   そんな服装じゃ風邪ひくから、とっとと着替えてきなさい。」



部屋のエアコンの温度が高めに設定しているため、かずさは半袖のシャツに

7分丈のデニムといった夏の装いをしている。

ウィーンの自宅でも、一年中同じような服装だが、

さすがに真冬の東京に身をさらさなければならないのならば、着替えなければならない。



かずさ「わかったよ。」



そう短く答えると、思考を中断して着替えが入ったトランクをあさり、

冬服を身に付けた。
これ以上考えると深みにはまるし、それで曜子に心配を


かけさせるのも嫌だった。

そして、心配した曜子から、かずさの思考が言語化されて目の前に突きつけられるのは

なによりも避けたかった。



















1-4 かずさ 御宿・宿泊ホテル・レストラン 12/24 金曜日 









クリスマスイブということもあって、レストランは満席だった。

普段は値がはる価格設定のレストランともあって若い客は多いとはいえない。

しかし、今日という特別の日のために予約しただろうカップルが

いつも以上に陣取っている。

逆に、曜子とかずさのような親子連れの方が目立ってしまうほどである。

この目立つ要因が二人の人並み離れた美貌によるもののほうがでかいが。

そして、今まさにワイングラスを掲げ、今日という日を祝福される言葉を

ささやく絵は、映画のワンシーンのようでもあった。



曜子「乾杯。」

かずさ「なににだよ。・・・・じゃ、あんたのコンサートの成功を祈って。」



本来メリークリスマスと言うべきところを、そのことを既に忘れているあたり

冬馬親子らしいと言えばらしかった。

かずさは、そっけなく曜子のコンサートの成功を祈り

ワイングラスを軽く傾け、一気にワインを喉の奥に流し込んだ。

その様子を面白そうに眺める曜子は、自分もと軽くグラスに口をつける。



曜子「私のコンサートの成功なんて祈らなくてもいいのに。

   どうせ大成功よ。」






たしかに曜子がコンサートで失敗する姿など想像もできない。

自分が描く曜子は、はるか上をお気楽な顔をして優雅に歩いている。

その土台となる鍛錬や精神力は、この3年、目の前で見てきて、

これでもかというほどの実力の差を実感させられてきている。

だから、コンサートについてなにも不安などあろうはずもなかった。



かずさ「それならそれでいいよ。ただ、なにも言うセリフがなかっただけだ。」

曜子「そっかぁ。」



そうため息にも似た返事をした曜子は、つまらなそうに付け加える。



曜子「じゃあ、あなたの成長と成功を祈って。」

かずさ「それこそなんなんだよだ。あたしは成長してるさ。

    毎日練習だってしてる。」

曜子「それは当然のことでしょ?」

かずさ「そうだけどさ。」



毎年何人ものピアニストが、自分の実力に見切りをつけてピアノから去っていく。

そういう人間をウィーンでも何人も見てきている。さすがに恩師のレッスン以外は

自宅に閉じこもっているかずさであっても、コンクールに出れば、

世間のピアニスト事情を垣間見てしまう。

何人ものピアニストがコンクールに挑み、そして、夢破れて去っていく。

自分ももしかしたら、その一人になっていたかもしれない。

それでも、今まで生き残れたことについては、自信を持っていたし、

なにより母曜子に感謝していた。



自分が言ったことが、いかに幼稚だったかを隠すようにグラスの淵を指でなでる。    



かずさ「そんなこと言いたかったんじゃないんだ。」

曜子「わかってるわ。あなたの3年間を見てきたんだから。」

かずさ「ありがとう。」



何についての「ありがとう」かは、かずさ自身分からなかった。



ウィーンに連れ出してくれたことにか。

ウィーンで最高のレッスン環境を用意してくれたことにか。

曜子の才能を受け継げたことにか。

日本に連れ戻してくれたことにか。

それとも、別の何かかもしれない。だけど、曜子に感謝の気持ちを伝えたかった。

曜子は何についての感謝の言葉か理解しているのだろうか?

ふと気になりもしたが、これ以上追及すると再び闇に飲まれそうになりそうなので

再び食事に意識を集中させた。













おおむね食事が終わり、デザートの時間になっていたが、この二人のテーブルだけは

違っていた。今からがメインともいえるような品ぞろえといえる。

テーブル狭しと言わんばかりに、店の全メニューのデザートが並べられている。

そして、今日という日の象徴の一つであるクリスマスケーキもホールごと

テーブルの中央に存在感を醸し出していた。



曜子「ところで、あなたに渡さなきゃいけないものがあったわ。」



そう言うと、今までずっと忘れられていたクリスマスプレゼントを差し出す。

もちろんかずさも、そのプレゼントがずっと視界に入っていた。

だからといって、自分から催促するのも癪なので黙っていたが、

ここでようやくその中身がわかる。別になにか期待したわけでもなかったが

曜子からのプレゼントとなれば、自然と嬉しくもなる。



かずさ「ありがと。」

曜子「メリ~クリスマス。」



にこやかにほほ笑みウィンクするあたり、きざすぎるが、さまになっているので、

我が母親ながらなんともいえない。

ちょと恥ずかしそうに下を向きながら受け取ると、そのまま中身を確認する為に

包装紙をはぎ取る。

中身は包装紙の上から予想した物の一つであったから、驚くことはなかった。

しかし、その雑誌の表紙を見ると、いやでも顔に血が昇っていくのと感じ取れた。



かずさ「な、な・・・・・・・・、なんなんだよ、これ!。」



静かに落ち着いていたレストランにかずさの声が響く。

それと同時に、全ての人の目がかずさに向けられる。

しかし、そんな視線など気にもせず、言葉を続ける。

さすがに他人のことを気にはしないが

自分に注目がこれ以上集まるのはうっとうしく思え、声は抑える。



かずさ「なんであたしが載ってるんだよ?」

曜子「この前のコンクールであたなが2位になったから。

   それと、これの前にのった記事も評判良かったかららしいわよ。」



端的にかずさの質問に答えていく。

つまらないこと聞くのねといったふうに、フォークでケーキを口に運ぶ。

そして、気にいらない味だったのか、そのケーキの皿をかずさの方に押しやる。



かずさ「それで、表紙にもなった雑誌を見て、あたしに喜べって言うのか?」



曜子は話を聞きながらも、ケーキの物色を続ける。



かずさ「こんな雑誌貰っても、うれしくなんかない。

    どうせあることないことおもしろおかしく書かれているだけだ。

    そんなの見ても、気分が悪くなることがあっても、嬉しく思うことなんてない。」



今度のケーキは好みなのか、すぐに皿を空にし、追加注文をする。



かずさ「聞いてるのか?」

曜子「聞いてるわよ。ちゃんとね。

   そんなこと言わないで、読んでみなさい。

   えっと、たしか12ページから16ページだったかな。」



そう言われると、コンクールで撮られただろう写真がアップで載っているページを

いくつかとばし、指定されたページを開く。

どうやらかずさの生い立ちから学生時代について書かれている記事のようだった。

その見出しを見ただけでも、どんな内容かかかれているか予想でき

眉間にしわが寄っていく。



曜子「そんな顔しないで、読んでみなさい。」

かずさ「・・・・・・・。」



高校入学時から始まり、母曜子とのすれ違いによる確執についてまで、

こと詳細に触れられている。ここまで突っ込んだ内容を書くとなると、

膨大な時間と労力が必要だったと、かずさ自身でもわかる。

それは、かずさについて知っている人物が限られていることに起因する。

ましてや、かずさを知っている人間でさえ本人の深層心理まで知っているわけではない。

だから、この記事を書いた記者は、よっぽどのキレ者か、それとも、・・・・・・。

それとも、初めからかずさの身近にいて、かずさをよく知っているただ一人の

人物でしか書くことができない。

そう、春希が記者にかずさのことを話したとしか。



かずさ「これって、春希がインタビューに答えたのか?

    いや、春希が・・・・・、でも。」



ここにいない彼に話しかけたのか、そのままかずさは一人記事を読み進める。

曜子は、そのかずさの何度も変化していく表情を、興味深く観察しているだけだった。

何も言わず、ただ、心の奥を覗き込み、かずさの真意を解き明かそうと。



指定された16ページまでを一気に読み終えると、もう一度12ページから読み直す。

今度はじっくりと、記事の言葉遣いまで理解するように頭に叩き込んでいく。

かずさの本能が、ウィーンで3年間恋焦がれていた彼の言葉だと察知し、

心に刻んでいく。

そして、最後まで読み終えると再び最初から、今度は心に刻んであった彼の声と

雑誌の文章を照らし合わせるように読みこんでいく。

そこまでの作業は終わり、ほっと一息つき、窓の外の見ると雪が舞っている。

ホテルに来る時も降っていたのかもしれないが、その時はとくに気にしていなかった。

気にしなかったのではなく、見ないようにしなかっただけだが、

今は彼との思い出を強く結び付けてくれた。そっと指で唇を撫で、

雪の日の彼の唇の感触を思い出そうとしたが、窓に映る曜子の視線を感じ、

急ぎ手をテーブルの下に隠した。



曜子「どうだった?」



かずさをじっくりと観察していた曜子は、満足した顔を隠しつつも、いつもとは違い、

かずさを冷やかすこともせず、記事の感想を求めた。



かずさ「これ書いたのって、春希だろ?」

曜子「どうして、そう思うの?」

かずさ「春希が人に話すはずがない。もし話すとしても、自分が直接書くはずだ。

    それに、こんな上から目線の、説教じみた記事を書く奴なんて

    あいつくらいしかいない。」

曜子「別に、上から目線で、何も分かってないのにえらそうな記事書く記者なんて

   たくさんいるわよ。」



わざと揺さぶりをかけようとしているのか、かずさの反応を見逃さないように

視線を固定する。



かずさ「そうじゃない。この言葉遣い、間違えるはずがない。」



そういうと、自分の正しさを証明する為か、もう一度記事を確認する。

そして、その正しさを伝えようと曜子の顔を見ると、自分がしていることに気づく。



かずさ「あっ・・・・・。」



曜子は慈愛に満ちた顔をしていた。

それは、ただの親心か、それとも、同じ女としてなのか。

そもそも「普通の女」と規格が外れている二人であるから、常識に照らせばだが。



曜子「そのクリスマスプレゼント気にいってくれた?」

かずさ「・・・・・・。」



なにも返事がないことは、気にいった証拠とみなし、次の話題をふる。



曜子「それでね、その記事を書いた彼。今度のニューイヤーコンサートに

   招待したから。ちょうどあたなの隣の席を用意したから、

   ゆっくり話すといいわ。」

かずさ「春希が・・・・・。」



曜子の言葉に心が躍ったが、すぐさま心が冷え込む。

テーブルの下で右の指で左の指を確認するように一本一本いじるまわす。

だが目は伏せ、迷走する指さえも見てはいなかった。



曜子「かずさ?」

かずさ「ああ、聞いてるよ・・・・・・・・。」




かずさが聞いているわけがない。

それでも、もう一度言葉を投げてみる。



曜子「私は、春希君が書いたなんて一言も言ってないわよ?」



そのボールはかずさを素通りして、遥か後ろに転がっていくだけだった。

曜子が窓を見上げると、雪はさらに強くなっている。

窓の隅から雪が溜まりつつあった。










第1話 終劇

第2話に続く













第1話あとがき







cc~codaのcc編始まりました。

週一回のアップでやっていこうと思います。

現在あと8週分のストックありますから、貯金を使いきる前にcc編を

書きあげたいです。

ストックがあっても、アップ直前にもう一度チェックいれないといけませんし、

なによりも、いくら書き進めても、前の方の話を書きなおさないといけないことが

多いです。

だから、いくらストックがあっても、とても不安です。

大きな話の流れを作り変えないとしても、

数字とか設定を直さないといけないところが出ないかドキドキしています。

さすがに、前の方の話は書き直す心配は低いと思いますが。




『やはり雪ノ下雪乃にはかなわない第二部』の方の連載は大丈夫かと

心配されている方もいらっしゃると思いますが、

こちらも第4章まで書き終わってました。

来週分までは、出来上がってましたが、第5章を書くにあたり、

第4章を書き直すことになりました。

といっても、2割くらいで済むと思います。

あと、これは言い訳になってしまうのですが、

ニヤニヤする展開をずっと続けることは不可能です。

ですから、シリアスな話も、重い話もあると思います。

しかし、なるべく軽い感じで書こうと努力はしてます。

その辺の事情をご理解して頂けるとうれしいです。




一人だけのシーンが多いと、暗くなって辛いです。

タイトルは、アップ直前まで迷いました。

本日(6/10夕方)、『心はいつもあなたのそばに』のアップが終了します。

それに合わせてのcc編突入予定でしたので、

タイトルが決まらなくてあせりました。



短編読んでくださった方は意外かもしれませんが、

本作品は暗いです。

胃薬はいらないと思いますが、書いている方は胃薬が欲しいくらいでしたw



また来週アップできるようがんばります。

楽しんで読んでもらえたら幸いです。






黒猫--アップ情報



WHITE ALBUM2




『ホワイトアルバム 2 かずさN手を離さないバージョン』長編
(かずさNのIFもの。かずさ・春希)
ホワイトアルバム 2 かずさN手を離さないバージョン - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1394068852/)

『心はいつもあなたのそばに』長編
(かずさNのIFもの。かずさ・曜子・春希)
心はいつもあなたのそばに - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1397636998/)

『ただいま合宿中』短編
(かずさ編・雪菜編)
ただいま合宿中 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1398739337/)

『麻理さんと北原』短編
(麻理ルート。麻理・春希)
麻理さんと北原 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1399500141/)

『世界中に向かって叫びたい』短編
(かずさT。かずさ・春希・麻理)
ホワイトアルバム2 『世界中に向かって叫びたい』(かずさ) - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1400991999/)

『誕生日プレゼント~夢想』短編
(夢想。かずさ・春希・曜子)
ホワイトアルバム2 『誕生日プレゼント~夢想』(冬馬かずさ誕生日記念) - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1401263874/)

ホワイトアルバム2(cc~coda)cc編『心の永住者』長編
(cc~coda・cc編。かずさ・春希・曜子・麻理・千晶・雪菜)
やはり雪ノ下雪乃にはかなわない - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1387361731/)







やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。




『やはり雪ノ下雪乃にはかなわない』短編
(由比ヶ浜誕生日プレゼント後あたり。雪乃・八幡)
やはり雪ノ下雪乃にはかなわない - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1387361731/)
レス30からお読みください。1~29を読みやすいように書きなおしたのが30~です。

『やはり雪ノ下雪乃にはかなわない第二部』長編
(リメイク作品。雪乃・八幡・由比ヶ浜・陽乃)
やはり雪ノ下雪乃にはかなわない第二部(やはり俺の青春ラブコメはまちがっている ) - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1401353149/)





ホワイトアルバム2(cc~coda)cc編『心の永住者』

のリンク間違っていました。正しくは、

ホワイトアルバム2(cc~coda)cc編 『心の永住者』 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1402390303/)





ホワイトアルバム2(cc~coda)cc編『心の永住者』
ホワイトアルバム2(cc~coda)cc編 『心の永住者』 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1402390303/)

ですが、原作White Album 2 を知らなくても楽しめる内容になっています。

序盤は暗くシリアスな展開になっていますが、

それでも読者の皆様が引き込まれるシナリオになるよう努力しております。

もしよろしかったら、せめて5週目くらいまでは読んでから判断して頂けると

嬉しく思います。







黒猫 with かずさ派







コメントありがとうございます。

来週も頑張ります。




第2話



2-1 春希 有海インテグラルホテル前 12/25 土曜日 午前0時30分頃









クリスマスイブも終わり、クリスマス当日をむかえていた。

結局、嘘で固められた俺のもとにはサンタはやってくるわけもなく、

みごと女神にも嘘を見破られてしまった。

今までさんざん俺の嘘を飲み込んでくれていたが、今夜だけは許してくれなかった。

それも当然と言ったら当然かもしれない。

もし雪菜が全てを見ないふりをして俺を受け入れていたとしても、

俺は雪菜を見て抱くことはできかっただろう。

誰の顔でもない、ただの女としての記号しか持たない体を相手に抱かなければ、

少しでも気を緩んでしまえば、きっとかずさを思い出してしまう。

そのためだけに雪菜の体を生贄にするなんて俺にはできない。

雪菜を通して、3年前のあいつの温もりを求めてしまう。

そして、きっと雪菜はそれを見抜くだろう。

だけど、何も言わず、胸の奥にしまいこんでくれる。

そんなこと、俺にはできなかった。

もしかしたら、俺は雪菜に拒絶されて、ほっとしているのかもしれない。






空を見上げると、雪は既にやんでいる。

もうサンタはやってこない。

残ったのは、踏まれ黒ずんだ雪の塊しかなかった。

もう元には戻らない。あとは黒く濁っていくしかない。

それさえも、いつか消え去ることができればと、願わずにはいられなかった。












2-2 春希 開桜社 12/25 土曜日 午前2時前頃










編集部からは、ありがたいことに明りが洩れている。クリスマスイブ、

もうクリスマス当日だけど、こんな日まで働いているとは恐れ入る。

そんなワーカーホリックの巣窟でも、今の俺に頼るべき場所はここしかない。

少しでも、誰でもいいから、人の側にいたかった。

誰かに必要だって証明してほしかった。



近くの24時間営業のスーパーで買ったケーキの差し入れを片手に、

何度もトイレの鏡の前で練習した顔でドアを開ける。

編集部には、一人しかいなかった。それも、心の奥で願っていた、でも、

それは叶ってはいけない人物がいてくれた。

最後の最後で、お情けでサンタがクリスマスプレゼントをくれたみたいだ。

こんな最低な男にプレゼントをくれるだなんて、どうかしている。

俺のところになんかこないで、

一人ホテルに残された彼女のもとに行ってくれたらよかったのに。

偽善に満ちた願いをしても、俺は、目の前の彼女にすがってしまうのだろう。



麻理「どうしたんだ一体? こんな日の、こんな時間に。

   しかも、こんな天気の中わざわざ。」



PC画面から顔を上げ、若干驚いた表情でたずねてくる。



春希「こんな天気だからこそ、こんな時間でも来れました。」



頭の中で何度もシミュレーションした言葉を吐き出す。

言えた。大丈夫だ。




麻理「「こんな日」に関しての答えがまだのようだけど・・・。」



麻理さんは、一口も飲んでいない香りも温かさも抜けきったコーヒーを一口ふくみ、

渋い顔をみせる。仕事に集中してしまい、今回もせっかくいれたコーヒーを

無駄にしてしまってるようだった。



春希「他には誰もいないんですか? 麻理さんだけ?」

麻理「今から嫌み言うつもりなら、

   私もそれ相応の態度をとらせてもうつもりだけど?」

春希「遅くまでお疲れ様です。

   ・・・・・新しいコーヒーいりますか?」



ここまでは、いつもの仕事の上司と部下の会話ができているはず。

なにもおかしい発言も顔をしていない、と思う。

上司を慕う部下として、さりげなくコーヒーを入れ替え、そして、

差し入れのケーキを渡す。こうやって、自然となにげないクリスマスイブの

編集部での会話を作り上げれば、きっと不自然なことはないはず。



・・・・・・・・何が大丈夫なんだよ。



一瞬だが表情が固まってしまったかもしれない。

麻理さんになにか勘づかれたか確認しようとコーヒーカップをとるついでに

顔を確認したが、とくに変化はなかった。

ただ、麻理さんは軽く首を振り、手でカップを軽く押さえ、

コーヒーのお代わりを断った。



麻理「そっか・・・・・。言っておくが誘いがなかった訳じゃないぞ?

   ただ、仕事より魅力のあるイベントじゃなかっただけだ。」

春希「はは・・・。」





俺のわざとらしい乾いた笑いと、それ以上にわざとらしい話のそらし方にも、

麻理さんきちんとのってきてくれた。

心地よい距離感のまま、俺を放置してくれる。

本当によかった。この人がいて。・・・この人しかいなくて。



麻理「ところで北原・・・お前、それどうするつもりだ?」

春希「その先の24時間営業のスーパーで千円だったんですよ。」

麻理「あ~、確かに売ってたなぁ。昼間はまだ二千円だったのに。」

春希「最近は叩き売るの早いんですね。まだ明日の25日だって立派に

   クリスマスなのに。あ、もう今日になっちゃったか。」



麻理の表情が曇っていく。

じっとケーキを凝視したあと、春希の顔を睨みつける。



麻理「・・・・・・・。」

春希「イブでないともう価値がないんでしょうかね。

   それとも単に賞味期限が切れかけてるだけ・・・・。」



そんな麻理さんの表情の意味はわかっていたけど、あえてそれにのせてもらう。

そうしないと、自分が保てそうもない。


麻理「・・・・。」

春希「・・・・麻理さん?」

麻理「・・・嫌みか?」



ほら。しっかりと麻理さんは、俺が望んだ返答をしてくれる。

だから、この人なら安心して会話を続けられる。

鏡を見なくても、きっといつもの上司と部下の顔をしているはず。




春希「何がです?」

麻理「24を過ぎたらもう価値がないとか、賞味期限切れとか・・・」




春希「・・・・・あ~。」



そういえば、麻理さんも25オーバー・・・・。



麻理「自虐を素で同情されたり馬鹿にされたりすると、普段より余計に傷つくんだぞ?

   お前、そういう女の気持ちがわかって・・・・・。」

春希「麻理さん、本気で言ってます?」



この人が本気で愛する人は、どんな男なんだろうか?

年を気にするそぶりは見せるが、それを超える美貌を持ち合わせているワーカーホリック。

いつも仕事を最優先にしていて、男を優先する姿なんか想像もできない。



麻理「・・・ま、今のはネタだけど。男にも結婚にも興味ないし。」

春希「両立するんじゃなかったんですか? 恋と仕事。」

麻理「あれは若手の話だ。」

春希「麻理さん・・・・、やっぱり若手じゃないって自覚して・・・・。」

麻理「北原・・・、お前いい加減にしろよ? 

   いつの間に、私に対してそこまで遠慮がなくなった?」

春希「麻理さんだから遠慮なく言えるんです。」

麻理「それは誉め言葉ってとらえていいのか困るところだが、

   今日のところは誉め言葉として受け取っておく。

   さて、・・・北原は、そのケーキを切り分けてこい。

   それと、コーヒーも頼む。」

春希「わかりました。ブラックでいいですよね?」

麻理「それでかまわない。」



俺は、麻理さんの冷たくなったマグカップを持って、

コーヒーのお代わりを取りに向かう。

湿った革靴が歩くたびに不快を伝えてくるが、足取りは軽かった。

その理由は自覚している。麻理さんのおかげで、癒されているって。

食器棚のガラスに映る俺の顔は、ぼんやりとしかは形作っていないが

きっと笑顔を無理やりひねり出す必要なんてなくなっていると感じられた。














編集部に戻ると、麻理さんが席にいない。

深夜の為照明が落とされている窓際に立っている。

何をしているのか気になり、近寄っていくと、窓に何かを描いていた。



麻理「あ、北原戻ったか。」

春希「なにをやってるんです?」

麻理「見てわからないのか?」

春希「わかりますけど、・・・・意外な才能ですね。」

麻理「うっ・・・・。笑いたければ、笑ってもいいんだぞ?」



白く曇った窓ガラスに、でかでかと「Merry Christmas」と描かれている。

そして、デフォルメされたかわいらしすぎるサンタクロースと

今まさに制作中のトナカイも登場していた。

あまりにも麻理さんが描くとは思えないコミカルなイラスト。

意外な才能を垣間見てしまった。



麻理「そんなにまじまじと見るな。・・・・・・・恥ずかしいだろ。」

春希「見せるために描いたんじゃないんですか?」

麻理「そうだけど、お前が少し苦笑しながら、つっこみを入れて終わりかと

   思ってたから。」

春希「今まで知らなかった意外な一面を見られてよかったです。」

麻理「意外なっていうところが引っかかるけど、よしとするか。」

春希「かわいいですね。」

麻理「えっ?」



麻理さんの肩が弾み、トナカイを描く指が止まる。

麻理さんの想定外の反応に戸惑いを覚え、沈黙が訪れる。

こちらに振り向いた麻理さんは、部屋が暗いせいだけでなく、

下を向いていることもあって、顔色を伺うことができなかった。



麻理「北原・・・・。」



吐息を洩らすような呼び声に、編集部にいることを忘れそうになる。



春希「ト・・・トナカイもかわいいですね。」

麻理「トナカイ?」



顔を上げた麻理さんは、驚きと非難の視線を向けてきた。



春希「ええ、こんなにも愛らしいイラストを描けるだなんて、

   麻理さん、可愛いですね。」

麻理「!?」



今度こそ声にならない悲鳴を上げる。



麻理「変なこというな。」



麻理さんの顔色を確認したい気持ちがわき出てきたが、

いつもより若干高い声を確認できただけで満足することにして、

麻理さんに逃げ道を提供することにした。

今、麻理さんに踏み込みすぎたら戻れない気がする。

俺の身勝手が麻理さんを振りまわしているって自覚していてもやめられなかった。



春希「でも、水滴が垂れ始めてて、もうホラーですね。」



涙目どころか血の雨をかぶったサンタクロースは、可愛さと相まって

笑いと恐怖をプレゼントしてくれそうだった。



麻理「お前が余計なこと言うからいけないんだぞ。

   せめて乾杯が終わるくらいまでは、もつ予定だったんだから。」

春希「それは、すみませんでした。・・・・・あっ。」



麻理さんの濡れた手のひらを見て、その手をハンカチで包み込む。

ハンカチ越しで麻理さんの手を両手で握る格好になってしまうが、

これは手を拭いているんだって、頭の中で言い訳なんかもしてしまっていた。



春希「手が濡れていますよ。」

麻理「ありがとう、」



小さくつぶやく声に目を向けると、頬を赤く染めた顔がそこにあった。

細長い指先からは、普段の偉大な上司を感じられない。

ここにいるのは、気になる女性が一人いるだけ。

次第に、もっと触れていたい欲望が出現し、指に力が入ってしまう。



麻理「っつ。」



顔を少し歪ませた麻理さんは、俺を気遣って非難などしなかった、



麻理「もう大丈夫だ。拭いてくれてありがとう。

   さて、ケーキを食べるとするか。」



ハンカチから手を引き抜き、何事もなかったように俺の横を通り抜けていく。

通り抜けざまに、肩を軽く叩いていく感触に引き寄せられて

俺は麻理さんのあとを追った。















席に戻ると、コーヒーが温くなってきているようだが、問題はないだろう。

シャンパングラスの代りにマグカップを掲げる。



麻理「・・・・メリー、クリスマス。差し入れありがとう。正直嬉しかったよ。」

春希「~っ!」

麻理「・・・じゃ、いただきます。うん、美味しそう。」



もう、どうしても普段通りの自分が作れなくて、とうとう麻理さんに背中を向けて、

体を震わせてしまう。

二人きりで、こんなふうにあからさまに顔を背けてたら、今自分がどんな状況で

いるかなんて、気づかれないはずがないのに。



麻理「・・・バタークリームくどいな。しかもすんごい甘い。

   そりゃ早々と値引きするよ。こんあもの売り切れる訳ないだろ。」



それでも麻理さんは、俺にかまうことなく、ケーキをぱくつき、

忌避なき感想をのべてくれる。

だから俺も、背中を向けたままケーキを口に運び、

彼女の言った通りの甘さとくどさにむせそうになる。

・・・・・本当に、ここに来て良かった。







麻理「北原は年末年始、バイトどうするんだ?」

春希「一応バイトに来る予定です。ほかにやることもありませんし。」

麻理「あまり大学生らしい冬休みとはいえないな。

   旅行とか遊びに行かないのか?」

春希「苦学生にとって、こういう時こそ稼ぎ時なんですよ。

   麻理さんこそ、仕事してそうですね。」




やっといつもの口調に戻れた。これなら大丈夫なはず。



麻理「私は、仕事もあるけど、ヴァカンスでグァムに行くんだぞ。

   そんな仕事中毒患者みたいな扱いするな。」



さも不愉快ですというポーズをとるが、自分が仕事中毒患者である自覚はあるらしい。



春希「・・・いつから行くんです?」



自分でも声から生気が抜けていってるのがわかった。

心の拠り所をほんのひと時でも失いたくはない。

目の狼狽を隠すように目を伏せがちにして、コーヒーを飲むふりをする。



麻理「28日に出発して、NY、LAで仕事を片付けてから、グァムでバカンスだ。

   ・・・・あぁっ、勘違いするなよ。佐和子と行くんだ。

   女同士でホテルで飲みまくってるだけだぞ。」

春希「それはそれでどうかと・・・・。」



麻理さんが何を否定したいのかわからないが、両手を大きく振って否定する。

それが、あまりにもいつもの麻理とはかけ離れた女の子らしい仕草だったので

思わず微笑んでしまいそうになったが、女同士でホテルで飲みまくってるだけ、

という落ちを聞き、いつもの苦笑いしか出てこなかった。



麻理「いや、まあ・・・、そのなんだ。どうせ佐和子の相手しかしてなくて

   暇だから、なにかあったら、いつでも電話してこいよ。

   コレクトコールでかまわないからさ。」



麻理さんの気遣いに癒されてしまう。もともと姐御肌ではあったが、

どうしてここまで俺を心配してくれるんです?





麻理「それと・・・・・、なにもなくても電話してかまわないからな。」



さりげなく付け足したようだったが、麻理さんを意識してしまう。

本人は俯き、空になったケーキの皿を見つめているため、

どんな顔をしているかわからない。

でも、きっと麻理さんのことだから、くさいい台詞を言ってしまったって

顔を赤くして後悔しているのかもしれない。



春希「ありがとう、ございます。」



一息ついてから、一番聞きだしたいことを尋ねる。



春希「あの、それで・・・・、いつ帰ってくるんですか?」



麻理さんから出された薬がなくなる前に戻ってきてほしい。

この薬がなくなったら、俺が俺でいられなくなるかもしれないから。

ここで、致命的な失敗に気がついてしまった。

「いつ帰ってくる」かではなく、「いつから出社するか」を聞かなければ

意味がない。たとえ帰国していても、会社に来るかはわからない。

すぐにでも言い直したいけど、自然に聞けるか疑問だった。



麻理「5日には戻ってくる予定。だから、6日から仕事だな。

   戻ってきても、山のような仕事があるんだろうなぁ。

   長期休暇とっても、休んだ意味ないよな。」



ニカッと笑いかけてきたので、苦笑いを返す。

俺の失敗は、取り越し苦労で終わってくれた。

しかし、ほっとしたのもつかの間、これ以上会話をする元気が俺にあるはずもなく、

麻理さんが話しかけてこない以上会話は続かない。




室内には、麻理さんの力が入ってないキータッチの音だけが静かに鳴り響く。

それっきり麻理さんは話しかけてくることもなく、仕事に戻ったようだ。

しかし、いつものような仕事の勢いもなく、パソコンのキータッチの音も遅く、

あまりはかどっていない。

という自分も、任されている仕事があるわけもなく、パソコンを起動しても

なにもないスケジュールを何度も確認して、無意味に時間を消費させていた。



麻理「あぁっ、もう!」



最後の会話から5分も経過していなかったが、うやむやした雰囲気に我慢できなく

なった麻理さんが沈黙を破る。



麻理「何か言いたい・・・・、いや、聞いてもらいたいことでもあるんじゃないか?」



麻理さんが一歩俺に踏み込んでくる。

俺に介入してこない距離から、一歩だけど介入してくる距離に。

介入してこない麻理さんを求めていたのに、

今は介入してくれる麻理さんに喜びを感じている。

ほんと俺って弱いな。だけど、その弱さを無視してでも、今は求めてしまう。



春希「そんなことは・・・・。」



今までの俺と同じ返答をする。しかし、麻理さんはそれを許さないだろう。

そして、俺も麻理さんが許してくれないことを望んでいる。



麻理「ま、クリスマスの夜中に、いきなりこんなところに来ることからして、

   何かありますよって言ってるようなものだったし。

   悩みがあるんなら言ってみろ。

   ・・・まぁ、言いたくなければそれでもいいけど。」





ほら。

麻理さんは、俺の望み通り踏み込んでくれる。

最初は雪菜が少しでも癒されることを望んでいたのに、

そして、一人にいたくないから、踏み込んでこない距離感でいてくれる麻理さん

といることを望んでしまったのに、

挙句の果てには、今は麻理さんに癒されることを望んでしまった。



春希「言いたくないこと・・・・ないです。」

麻理「そ・・・そうなんだ。」



俺の素直にすがられて、麻理さんがほんのちょっとだけ慌てる。

きっと、俺がそんな簡単に弱みを見せるはずがないって、

たかをくくっていたところもあったんだろうな。



麻理「なに、どうしたの。

   クリスマスのせいで、昔の恋人のことでも思い出してしまったとか?」

春希「・・・そんな感じです。」



けれど今のおれは、こんな絶好の機会を逃せない。

麻理さんの優しさに付け込まないとどうしようもない。

だって今日を逃したら、麻理さんとしばらく会えない。

こんな気持ちを抱えたまま年を越すなんて・・・・、嫌だ。



麻理「へ、へぇ・・・、冬馬かずさのこと?」

春希「・・・・・。」

麻理「・・・・もしかして、クリスマスにデートした時の思い出とか?」

春希「旅行に・・・・行きました。泊りがけで。」

麻理「・・・・・ええっ!?」





麻理の声が静かな部屋に響く。

俺は、その驚きの声を無視して話を続ける。



春希「・・・と言っても二人きりじゃないですよ。友達と、北関東の方に。」

麻理「な、な、な・・・なんだぁぁ・・・・、脅かすな。

   ・・・・それとも、この後に更に驚愕の展開があるのか?」



照れ隠しか、麻理は、机にあったボールペンをカチカチといじりだす。

話の続きも気になるらしく、ちらちらを俺の方を伺うが、

まっすぐ見ることはまだできないらしい。



春希「何もなかったですよ。

   露天風呂に入って、浴衣で酒飲んでどんちゃん騒ぎ・・・・。」

麻理「それも何て言うか・・・・、クリスマスにあるまじきパーティだな。」



自分のいやらしさに、少しだけ嫌悪感を抱く。

肝心なところを少しだけぼかして、あの旅の本当の意味を伝えることなく、

それで自分の今の気持ちを分かってもらおうなんて・・・。



春希「ねぇ、麻理さん。」

麻理「なんだ?」

春希「俺、冬馬かずさのこと、今でも好きなんです。」

麻理「そ、そうか・・・・。」



それでも、この言葉を言いたかった。



春希「それに気づいてしまったんです。。」



俺がこんなこといってしまったら、きっと麻理さんは自分のせいだと自己嫌悪に陥る。

でも、麻理さんには俺のことを分かってもらいたかった。




春希「気づいちゃいけなかったのに、気づかされてしまったんです。」

麻理「・・・それって、私のせいだよな。

   私が冬馬かずさの記事を書くようにって、北原に。」

春希「それはきっかけでしかないですよ。

   ほんとうに、きっかけに過ぎなかっただけです。

   あの記事を書かなくても、きっと同じ結果になってたはずです」



いつの間にか、キータッチの音はやんでいた。

それでも俺たちは、お互いの端末から目を離さず、

だから、二人の視線が触れあうこともなく。



麻理「あ、あのさぁ、北原・・・・。」

春希「いいんですよ。」

麻理「な、何が?」

春希「何てアドバイスしていいかわからないんでしょう?

   ・・・・・まさか俺はこんな話するとは思わなかったから。」

麻理「お前、本当に私のこと何だと思って・・・・。」

春希「別に、アドバイスが欲しくて話したわけじゃないんです。

   ただ、麻理さんには、どうしても聞いておいて欲しかっただけなんです。」

麻理「・・・なんでだ? 報告・連絡・相談は、

   上司に次の指示を仰ぐためのものだろ?」

春希「上司に報告した訳じゃないです。

   麻理さんに聞いてもらっただけです。」

麻理「同じ事だろ。私は北原の上司なんだから。

   ああ、でも。私でよかったら、いつでも話ぐらい聞いてやるから。

   役に立てるかは保証できないけど」



またくさいセリフを言ってしまったと後悔するように顔を背ける。



春希「俺・・・麻理さんのそういうとこ、好きですよ。」





へんに肩肘張るところ。

上司風邪を吹かせてるように見せかけて、実は単なる親分希質なところ。

仕事は完璧なのに、プライベートは結構抜けたところがあるところ。

女性としてすごく魅力があるくせに、そのことを押し隠そうとして、

逆にかわいくなってしまうところ。



もうこれ以上は無理だった。

これ以上俺から踏み込んでしまったら、戻れなくなる。

俺は麻理さんに依存してしまう。



俺の話が終わったと判断したのか、麻理さんはこれ以上話を聞いてこない。

俺は麻理さんが踏み込んでこないことに、ほっとしてまっている自分に気がついた。

そのあと、麻理さんから少しばかりの仕事を貰い、始発電車が動き出す頃帰宅した。


















2-3 春希 開桜社 12/27 月曜日











やっと月曜になり、麻理さんに会えると思うと足が軽くなる。

しかし、バイトに来てみると麻理さんは今日は外回りの挨拶だけで、

開桜社には顔を見せない。

そればかりか、今週分の仕事さえ指示してくれてなかった。

先日の影響かもしれないが、仕方がなく他部署から仕事をかき集め、

持って帰ってくると、松岡さんから呼びだされた。

最近では、こんな仕事まかれれても大丈夫かなというものが増えてきたが

松岡さんの直接の上司である浜田さんが注意してくるまでは、

いや注意はされているが、ありがたく頂戴する。

だが、なにか仕事かなと思い赴くと、予想に反して封筒を渡された。



松岡「これ冬馬曜子オフィスから。さっき麻理さんから電話あって、

   直接北原に渡してくれってさ。」



松岡さんが封筒をひらひらと振っているのを、ひょいっと抜き取る。

封筒の宛名を見ると、開桜社宛てにはなっているが、北原春希と記載されている。

また、切手が張られていないところを見ると、直接渡されたのだろうか?

アンサンブルの編集長が冬馬曜子と親しいらいいので、曜子さんだろうか?

かずさの母・曜子と会ったのは3年前の一度きりだし、

俺のことを覚えてるとは考えられない。

だから、他の書類と一緒に送られてきたかもしれない。

それでも、もし、曜子さんが直接渡したならば、

俺は、期待してもいいのだろうか?





松岡「聞いてるか? 北原。」



封筒を凝視してしまい、松岡の話を聞いていなかったらしい。

すぐに松岡の方を向き、謝罪する。



春希「すみません。冬馬曜子オフィスがなんでかなって、考えてしまって。」



松岡も同じことを考えていたのか、俺の言い訳に納得してくれる。



松岡「よっぽど気にいったんじゃないか?

   俺の同級生も取材するようなことしてくれないかな。」

春希「ははは・・・・。」

作り笑いをして、さりげなく気になっていたことを質問する。

春希「それで、麻理さんは、他に何か言ってましたか?」

松岡「特に何も言ってなかったな。」

春希「そうですか。」



暗くなる気持ちを抑えて、返事をする。ぐっと腹に力を入れなければ

今にも崩れそうになる。



松岡「何か用事でもあったか?」

春希「用事がなかったから聞きたかったんですよ。」



松岡が意味がわからないという顔をする。



春希「麻理さん、今週分の仕事の指示してくれてないんですよ。

   だから、他部署まで仕事をかき集める羽目になったんです。」



かき集めてきた成果を見てよという仕草をわざとらしくして、自分の机を指す。





松岡「そうだったな。北原が席外す時そんなこと言ってたから、

   麻理さんから電話来た時も誤魔化しておいてあげたぞ。」

春希「え?」



得意げに、気がきく先輩という表情を見せつ松岡であったが、この時ばかりは

今にも殴りかかってしまいそうであった。

そんな俺の事情も知らず、松岡は続ける。

もちもん、松岡さんに落ち度はない。普段だったら、ありがたい対応だった。

でも、今だけは。



松岡「お前、他部員からの仕事は勝手にとるなって、この前も麻理さんから

   きつく言われてたろ?」

春希「そんなことも言われたかもしれませんね。」

松岡「お前なぁ。」



あきれ顔の松岡。

どうやらいつもの北原春希を演じられている。



春希「松岡さんも、なにかあったら仕事下さいよ。」

松岡「上司も上司なら、部下も部下だな。」





理解できないと言いつつも、松岡さんはごっそり仕事を与えてくれた。

席に戻ると、封筒を開け、中を確認する。



冬馬曜子ニューイヤーコンサート

開桜社協賛

12/31 20時開演



コンサートに行けば、かずさに会えるのか?

俺のことを覚えていてくれているのか?

俺が会ってもいいのか?

チケットをいくらくいるように見つめても、かずさが答えてくれることはない。

あまり長い時間チケットを見ていると怪しまれるので、

気持ちを押しこむようにチケットを鞄にしまった。










第2話 終劇

第3話に続く








あとがき




第2話2-2ですが、シナリオ構成上ここだけは原作を多く流用してしまいました。

大変申し訳ありません。

今週までが物語の導入部分となります。

来週から、物語が動き出す予定です。

来週の火曜日もアップできるように頑張ります。










黒猫 with かずさ派



今週も読んでくださり、ありがとうございます。

個人的には、先週の話になってしまいますが、

1-2 かずさ 成田空港 12/20 月曜日 のラストが好きな分だけ

歯がゆい思いをしています。

かずさの表情を見て、曜子が抱きしめることしかできないシーンですが

ここをもっと印象的に書きたいです。

しかし、今の自分には読者の皆様の想像力に頼る書き方しかできず、

悔しい思いをしています。

もっと書く力をつけて、少しはまともな文章になるよう頑張ります。




第3話







2-3 春希 自宅 12/28 火曜日 午前8時






春希は、開桜社のバイトに行く準備をすると、携帯を確認する。

メールフォルダには、まだ送信していない武也宛と依緒宛のメールが表示されていた。

昨晩何度も読み返しながらも作成した12/24の出来事の報告書。

今まで俺たちの仲を取り持ってくれた友人だけあって、

小さな言葉遣いまで気を使ってしまう。

それと、ホテルに誘ったのは雪菜だったとか、ホテルまで行く経緯は省略した。

二人に俺の気持ちが全て伝わるとは思わないけど、

俺が全面的に悪いということだけは伝えたかった。

だって、雪菜に振られたのは、俺がかずさを忘れることができなかったせいだから。



アドレスから武也の番号を検索する。

大学に入ってから、武也からはほとんど着信履歴ばかりで、

発信記録に表示されることは少なくなってしまった。

12/25早朝に一度。午前10時過ぎに2度目の着信。

それからは、武也と依緒からの電話やメールが何度も来ていたが

全て無視していた。

二人になにを話せばいいかまとまってなかったといえば聞こえがいいが、

ほんとうに頭の中が真っ白だった。

それでも、昨日松岡さんから冬馬曜子ニューイヤーコンサートのチケットを

渡されて、このままじゃいけないって、強引に覚悟を決めた。

俺がうじうじしていたら、武也だけじゃなく、バイト先でも迷惑をかけてしまう。

そしてなによりも、雪菜に対して申し訳ない。

3年間も俺がはっきりした態度を取らなかったから、逃げてしまったから、

雪菜の3年間を灰色にしてしまった。



俺なんかに関わらなかったら、きっと雪菜は輝いていたはずだ。

合コンやミスコンなんかは、苦手で敬遠してたかもしれないけど、

今よりはもっと活動的で、そして、家庭的な一面を知る友達も増えていたはずだ。



武也に直接会って話すことができなくても、せめて電話で話すのが筋だとは

わかっていたけど、今でさえ何を話せばいいかまとまっていない。

何度も読み返し、何度も何度も書き直して、今朝やっと完成した報告書。

だから、せめてメールを送ることだけは、武也に伝えたかった。



携帯電話の発信ボタンを押す。すると、2コール目で武也は出た。

いかにも驚いた風で、急いで着信ボタンを押した感じある。



武也「春希! 生きてたか?」

春希「生きてたよ。それよりもなんだ。それが電話に出る対応か?」



武也がそんな対応するのも俺だってわかる。

もし逆立場なら、同じような言葉を言ってたはずだ。しかも、説教付きで。



武也「そりゃ生きてたか心配もするさ。依緒なんか、おまえんちに乗り込もうと

   してたんだからな。」

春希「心配掛けて、ごめん。」

武也「それはいいって。俺たちがけしかけたんだから。」

春希「それでもさ・・・・。」



武也は、ちょっと言うべきか迷った風であったが、

はっきりした口調で春希に告げる。



武也「依緒が雪菜ちゃんに会って来たんだ。」

春希「雪菜に?」

武也「ああ。お前と同じで最初は電話にも出なかったんだけど、26日の夜やっとな。

   その時は夜遅かったから、詳しいことは翌日ってことで、

   依緒が会いに行ったんだ。」

春希「そっか。」



雪菜が依緒に会えるくらいには回復していたことに、ほっとしてしまう。

今が冬休みでよかった。



武也「でもさ、雪菜ちゃんは何もなかったってしか言わないんだよ。

   しかも、全部雪菜ちゃん本人が悪いんだって。

   それしか言わないんだ。なあ、春希。何があったんだ?」



何もなかったから、雪菜が悪い。雪菜からしたら、そうなのかもしれない。

誰から見ても、そんなことないってわかっていても、

今まで俺の罪を認めてこなかった雪菜なら自分のせいにしてしまうだろう。



春希「・・・・たしかに、何もなかったよ。」

武也「何もなかった訳ないだろ。」

春希「武也。・・・あの日、何があったか出来る限りに詳細にメールに書いた。

   俺もまだ頭の中がぐちゃぐちゃでさ。うまく話せないと思う。」

武也「春希・・・。」



あの理屈屋の俺が言葉で話せないなんてって、ショックを受けてるかもしれない。

でも、今、武也には伝えたい。

これ以上隙伸ばすことなんてできないんだ。



春希「依緒にも同じメールを送るつもりだ。

   俺は大丈夫だから、雪菜のこと頼むな。」

武也「おい、春希! 俺は雪菜ちゃんだけじゃなくて、お前の味方でもあるんだぞ。」

春希「ありがとうな。でも、俺は大丈夫だから。」

武也「大丈夫じゃないだろ。現に今だって。」



大丈夫じゃないからメールにするのに、最初から俺の論理は破たんしてる。

武也にも気がつかれるなんて、相当やばい状態だって、自覚してる。

いや、武也は論理とかじゃなく、純粋に俺を心配してくれてるのか。




春希「俺は、冬休みが終わるまでには立ち直るからさ。

   大学始まったら、いつもの俺に戻るから、それまで一人にしてくれないか。」

武也「でも・・・・。」

春希「頼むよ。」

武也「わかった。でも、大学始まっても、お前の調子が戻ってなかったら

   そのときは有無を言わさず介入するからな。」

春希「その時は頼むよ。じゃあ、雪菜のこと頼むな。」



そう言って、これでおしまいって意思表示で会話終了ボタンを押す。

そして、武也と依緒にメールを送信した。




















3-1 かずさ 冬馬邸地下スタジオ 12/30 水曜日










曜子がスタジオをドアを開けると、いつも以上にテンポが速く、荒々しい演奏が

鳴り響いていた。力強いタッチを通り越して、鍵盤に指を叩きつけている。

演奏というよりは、純粋に感情を吐き出しているだけだが、

そうであっても聴きいってしまう誘惑にとり付かれてしまいそうだった。

何時間演奏したかは見当はつかないが、汗だくのかずさをみれば

指だけではなく、体力面でも、精神面でも限界を迎えようとしているのは明白だった。



曜子「今日は、ここまでにしなさい。」



曜子は、力強くかずさの手を握り、演奏を強制的に止める。

かずさは、驚き、顔を上にあげるが、ここでようやく曜子が来ていたことに気づく。

ばつの悪そうな顔を隠すため、顔を背けた。



かずさ「どうかしたのか?」

曜子「どうかしたのかじゃないわよ。どうしちゃったの?

   そんなふうに弾いてたら、指を痛めるわ。」



あきれ顔でかずさを眺めていたが、心配する気持ちが勝ち始め、表情も変化していく。

かずさも、曜子に指摘されようやく理解したのか、手の握力がなくなっているのに

気が付き、そっと手を握る。



かずさ「どうしちゃったんだろうな・・・・・・。」



静まり返った室内が、熱気を失った瞬間温度を奪い始める。

エアコンのスイッチがついていなかった。

かずさのエネルギーだけで温めていた部屋がその火元を失ったせいで冬の侵入を許す。

数秒前まで情熱的な演奏をしていたかずさであったのに、

今や肩を震わせ、体を小さく丸めている。




曜子「かずさ。」



曜子はかずさの手を握り、軽くマッサージを始めた。そのままかずさの前に

腰を落とし、マッサージをしながらかずさの顔を下からのぞきこもうとするが、

かずさは顔を背けたままだった。

しばらく曜子のマッサージが続くが、二人とも声を発することはない。

それでも、マッサージが終わると、かずさの気持ちも落ち着いたのか、

ぽつりぽつりと語りだす。



かずさ「うれしかったんだ。・・・・・・あの記事読んで、うれしかったんだ。

    春希があたしのことを忘れてないって知って、うれしかった。

    それだけじゃない。すぐにでも会いに行きたかった。

    でも、できなかった。

    もしかしたら、いや、きっと、彼女がいるかもしれない。

    それなのに、昔の女がのこのこと会いに行っていいのかって考えてしまうんだ。

    そんなことしたら、あいつを困らせてしまう。

    でも、・・・・でもぉ、

    会いたくてしょうがないんだよ。」



涙ながら切なげに訴える。今ここにはいない春希に向かって。



曜子「会いに行けばいいじゃない。困らせたっていいじゃない。」

かずさ「そんなこと、できるわけないだろ。」

曜子「後悔しない?」

かずさ「・・・・・・・・・・・。」



かずさは息をのんで、じっと考え込んだが、結局何も答えず、

ゆらゆらとした足取りで、シャワーを浴びにいった。



曜子は、かずさが消えていたドアをにらみ、一人ごちる。




曜子「いつまでも逃げてたんじゃ、幸せになんてなれないわよ。

   って、逃げてるのは私か。」



両手を腰に当て、何もない天井を見つめる。



曜子「ギター君。このままじゃかずさ、駄目になっちゃうかもね。」



曜子は、防音加工されたこの部屋に、わかっていても八つ当たりしたかった。

誰の声も、防音加工されたこの部屋からは、外に響くことはなかった。


















3-2 春希 開桜社 12/31 木曜日 夜










大晦日。いつも忙しいが口癖のこの編集部も、この日ばかりは閑散としていた。

残っている人たちも切り上げる準備をして、家路につこうといている。

バイトの俺を一人残すのを気にしていた浜田さんも、

今しているので終わりという条件で残ることをしぶしぶ了解してくれた。

俺も7時にはここを出る予定だったし、今日ばかりは仕事をセーブしていた。

というか、バイトをして、お金をもらっている身なのに恥ずかしいのだが、

仕事に全く身が入らなかったというのが実情。

PCの時計を何度も確認し、そして、さっき確認した時から5分も経っていない

ことに気がつくようなことが何度もあった。

でも、うけもった仕事はきちんとこなさないといけないと、

わずかに残った集中力を絞り出す。今やってるのは、年をまたいでもよかったけど、

仕事を来年に持ち越したくなかったことと、今やるべきことがなくなって

しまうのが怖かった。

だって、コンサート会場に行ったからって、かずさに会えるとは限らないけど、

かずさのことを考えずにはいられない。

自分に都合がいいかずさなんて想像もできない。

俺のことを忘れて、ウィーンで曜子さんとうまくやって、そして、

向こうで新しい友達を作って、・・・・そして、・・そして、彼氏だって。

こんな後ろ向きだけど、ありえる現実を考えないようにするためには仕事を

しなければならない。

気を緩ますと表面に出てきてしまう。麻理さんが今の俺を知ったら、

仕事に申し訳ないって仕事を取り上げてしまうかもしれないけど。



春希「さてと、これで終了。」





任された仕事をデスクに提出して時計を確認すると7時15分。

今からゆっくり歩いていっても十分すぎる時間がある。

自分の机に戻り、帰り支度をし、まだ残っていた編集部員に挨拶をしてから

エレベーターにのった。



外に出ると、北風が身にしみるが、いつもより人が多いので若干暑苦しくも思える。

年末特有の浮かれモードといった雰囲気をよそに、俺はセンター試験に

行く受験生って感じなんだろうな。実際には推薦で大学決まったから受けてないけど。

今から結果を知りに行く合格発表じゃなく、試験。

だって、俺はまだ、何もしていない。

雪菜だけではなく、かずさにも、3年間何もしなかったから、今からが本番。

遅すぎるってわかってるけど、雪菜が気がつかせてくれたから。

雪菜のかえり血がべったり付いた俺の本心だとしても。














腕時計を見ると、まだ7時31分。

思ってたより早くコンサート会場についてしまった。

それもそのはず。いつもと同じペースで歩きだしてけど、気がつけば、

ずいぶん早い早歩きになっている。いつもは無理をして渡らない信号だって

立ち止まるのを避けるためのに走って渡ってしまった。

武也に、なんのげんかつぎかって言われそうだし、俺自身何が何だか

わからないけど、もう立ち止まりたくなかった。





日本でも有数の規模を誇るコンサート会場。

さすがにドームや国立競技場みたいなキャパはなけど、クラシックコンサートで

チケットがネットで高値で取引されているって聞く限り、大盛況といえる。

今はヨーロッパを中心に活動している冬馬曜子だけど、クラシックに疎い俺でさえ

名前ぐらいは知ってるんだから、クラシックファンならば、久しぶりの日本公演、

ネットで定価の数倍のお金を払ってでも聴いてみたいと思う気持ちを分からなくもない。

そんなファンには申し訳ないけど、俺は曜子さんの演奏を聴く自信がない。

かずさのことが気になって、耳にピアノの音色は入ってこないだろう。

失礼だと分かっていても仕方がない。

このコンサートに来たかった浜田さんにも悪いと思ったけど

すぐに浜田さんの顔は消え去った。





雑誌アンサンブルの名前を言えば、コンサート前に楽屋に通してもらえるだろうけど、

さすがにコンサート前で集中しているピアニストに会いに行く無神経さは

持ち合わせてない。

たかが4時間弱。俺がかずさから逃げていた3年に比べれば大したことない。

そう自分に言い聞かせて、係員にチケットと差し出した。
















3-2 春希 コンサートホール内 12/31 木曜日 午後8時









舞台に冬馬曜子が現れる。3年前にあったときと少しもかわらない若さで輝いている。

いったいいくつになるんだって計算しようとしたけど、麻理さんの顔を

思い浮かんでしまったので途中でやめてしまった。

そういや、あと数時間で麻理さんの誕生日か。

お祝いの電話しても大丈夫かなって、物思いにふけっていると演奏が開始された。



途中休憩が2度挟まったが、どの観客も満足している。

興奮やまずに連れと語り合うものや、CDを買い求める客であふれているようだった。



俺は、一斉に消えていく観客をよそに一人席に座っている。

右隣の席は、コンサートが始まっても誰も来なかった。

もしかしたら、途中休憩のとき、ひょっこりかずさが現れるんじゃないかって

期待もしたけど、そんな夢物語、簡単には実現しない。



開演前は4時間どうやってすごそうかって、ふてぶてしい事考えていたけど

そんな必要はなかった。20年後のかずさがいたら、こんな風になってるのかなって

考えてしまい、気がつくと夢中で聴いていた。かずさにこんなこと言ったら

けり飛ばされて、あたしは母さんみたいにはならないって言われそうだけど、

考えずにはいられなかった。



あんまりゆっくりしていると、曜子さんが会場から出てしまう恐れもあったが、

そんな心配はないはずだ。なにせ、開演前に事務所スタッフを見つけ、

アンサンブルの名前を出して、コンサート後に会えるかどうか聞いてほしいって

伝えてある。コンサートを聴いて、逃げ出してしまわないように自分で退路を

断つ意味を兼ねてお願いしておいたが、そんなのは杞憂に終わりそうだ。




今も心臓がバクバクいっている。早く会いに行きたいって。

かずさがいるとは思わないけど、曜子さんに会えば、会わせてくれるかもしれない。

その興奮を鎮めさせるために、誰もいなくなった会場で自分を見つめていた。



楽屋前に行くと、先ほどお願いした事務所スタッフが何やら他のスタッフと

話している。割り込んでは失礼なので、話が終わるのを待っていると、

むこうがこちらに気が付き声をかけてきてくれた。



美代子「アンサンブルの方ですね。」

春希「素晴らしいコンサートありがとうございました。」

美代子「それはよかったです。冬馬のほうに伺ったところ、大丈夫とのことです。

    さ、どうぞお入りください。」



話がすんなり通ったことに安心し、ほっとする。軽く会釈をして感謝の意を伝えると、

スタッフのあとについて楽屋に入る。



美代子「失礼します。

    先ほどお伝えしたアンサンブル編集部の方がいらっしゃいました。」



楽屋は花が所狭しと飾られていた。それと同じように、ケーキなどのスウィーツ類も

多種多様に積み上がっているところが冬馬家の血筋って思え、

緊張していた俺の精神を和らげてくれる。



春希「このたびは、コンサートにお招きいただきありがとうございました。

   クラシックに精通しているとはいえない自分でさえ、興奮しました。」



興奮した理由が違うところにあるのは事実だけど、言えるわけもない。

スタッフは、先ほど話していたスタッフとまだ仕事があるのか、俺を曜子さんに

会わせると楽屋から出て行く。




曜子「やっぱりあの時のギター君だったのね。

   アンサンブルの編集がクラシックに疎いっていうのはどうかと思うけど、

   正直な子は好きよ。」



クラシックに疎いことにまったく気にしてないようで、笑い飛ばす。

クラシックに疎い俺をよんだところを見ると、ますます期待してしまう。



曜子「あのギター君が、アンサンブルで記事書いてるんだもの。

   驚いたわ。まっ、驚いたというよりは、わらっちゃったけど。」



豪快に笑っているところを見ると、本当に俺の記事を気にいってくれたらしい。

かずさがこんなに笑ったところを見たことはないけど、やはり親子だなって思える。

そんな小さなかずさの面影を見つめていると、曜子は笑いすぎたと勘違いしてしまう。



曜子「ごめんなさい。でも、ほんとうによかったわ。」



曜子の笑いはなかなか収まりそうもない。



春希「そう言ってくださると、書き手としては幸せです。」

曜子「今は大学生よね? 峰城大学?」

春希「はい。大学の講義とバイトの毎日を謳歌しています。」

曜子「それを謳歌って言えるか疑問だけど。

   たしかに、バイトの身でありながら記事を書かせてもらってるんだし

   謳歌っていえるか」



曜子は、苦笑いを浮かべながらも、変に納得している。

笑えない冗談だったけど、少しは余裕が出てきた。

これなら、違和感なしにかずさのことを話題にできるかもしれない。



曜子「そんなに講義とバイト大変? 大学生って遊んでるイメージあるけど。」




春希「人それぞれですね。自分みたいな学生には暇なんてないです。

   それに、大学入ってから一人暮らししたので、色々ものいりで

   バイトの方も力をいれないといけないんです。

   それでも、開桜社で働けていることは、幸せだって思っています」

曜子「若いころの人脈って大切よね。」



曜子さんも一人ヨーロッパで活動してきたので、人脈についての発言の意味が重い。

日本の価値観と全く違う国で戦うことなんて想像できないけど、

世間には見えない努力があったはずだ。



曜子「そんなに一人暮らししたかったの? 

   大学は高校の隣だし、通うのに不便はなかったでしょ? 

   あぁ~、女の子連れこむためか。」



なにやら下世話な視線を送ってくる。

それには、はっきりした態度で対応させてもらおう。



春希「そんなことしませんよ。

   なによりも、そんな相手、この3年間いませんでしたから。」



嘘は言っていない、と思う。雪菜との関係は、恋人といえたのだろうか?

つかず離れずの微妙な距離感。うまく言葉で説明できそうにない。



曜子「そっかぁ。」



今度はなにか面白そうな答えを聞けたのか、曜子さんは、

誰もいない花の山に向かってニヤニヤする。



曜子「それで、今はどこに住んでるの?」

春希「大学の側のマンションです。」

曜子「南末次の?」

春希「ええ、はい。駅と大学の間くらいですかね。」





いつの間にか、記者と質問対象者が入れ替わっている。

曜子さんの質問に違和感を感じることもなく、俺は答えていってしまう。



曜子「けっこういいところに住んでるのね。」



たしかに家賃は高い。普通の家庭の大学生が、しかも、わざわざ一人暮らしを

する必要もないのに、高い家賃を支払うなんて、馬鹿げてるって言われるかもしれない。



春希「小さい部屋ですけどね。それでも、大学の側なので便利です。」

曜子「それでバイトかぁ。

   なんか期待の新人が入ってきたって聞いたわ。期待されてるのね。」

春希「それは、俺がついた上司がよかったんですよ。あんな風になりたいって

   思える目標みたいな人で。でも、けっして越えられないような人ですけど。」

曜子「かずさも、私を超えるんだっていつも意気込んでるわよ。

   あっ・・・・。」



曜子さんは、俺の顔を変化を見逃さなかった。いや、この部屋に入ってから

ずっと俺の顔を見つめている。曜子さんなりに、なにかしら俺から情報を

引き出そうとしていたのかもしれない。



春希「・・・・・・・・・・。」



楽屋に入ってきてから、曜子さんに失礼にあたらないように、隙があらば

部屋の中を探っていた。

でも、やはりかずさはいない。そんな俺の心を見透かしたのか、



曜子「ごめんなさいね。かずさ来てないの。来るように誘ったんだけど、

   どうしても無理だって。今も一人ウィーンにいるわ。」



そう俺が一番聞きたかったことを伝えてくれた。

予想していた中でも期待度合いとしては下の方にランクしていた答えともあって、

露骨に顔に出てしまった。麻理さんに対してもそうだったけど、

最近年上の女性に対してポーカーフェイスができなくなっている気もする。





曜子「そんなに残念だった? かずさがいなくて。」

春希「・・・・はい。」



俺の気持ちを隠しても意味がない。だから、正直にまっすぐな気持ちを打ち明ける。



曜子「そっか。」

春希「それで、その。かずさは・・・・、かずささんは日本に来る予定は

   ないんですか?」

曜子「それは、開桜社の編集部員としての? それとも、北原春希としての質問?」



曜子さんが俺の目を覗き込んでくる。その視線にひるみそうになったけど、

逆に曜子さんの真意を見つけ出そうと見つめ返す。



春希「北原春希としての質問です。」

曜子「それなら、答えてあげる。答えは、NOよ。」



目の前にいたはずの曜子さんが黒くぼやけていく。

足にも力が入っていかなくなり、ふらついてしまう。

背筋から嫌な汗が流れ、あれほどまで高まった興奮が冷める。



曜子「ちょっと、大丈夫?」



椅子が机か何かにぶつかる音が重なる。

俺の反応が予想外だったらしく、あわただしく立ち上がり

俺を支えようと手を貸そうとするが、俺は手を前に出し遠慮した。



春希「大丈夫ですよ。今頃になって、立ちくらみが来ただけです。」



今さら立ちくらみなんて起きやしない。

曜子さんも、わかっているが、それ以上追及はしてこなかった。




春希「今日はありがとうございました。

   後日、アンサンブルの方でもご挨拶に伺うと思いますが、

   そのときはよろしくお願いします。

   それでは、失礼します。良いお年を。」



早口になってしまったが、これ以上曜子さんの言葉を聞いていられなかった。

もう、自分の足で立つ気力さえなくなっていっている。

ここで倒れる訳も行かないので、早くここから去らないと。

みじめな昔の男を、かずさの母親に見せる訳にはいかない。



曜子「本当に大丈夫? ちょっと休んでいっても。」

春希「大丈夫です。それでは。」



曜子さんの申し出も言葉早に断り、楽屋を逃げ去る。

楽屋を出ると、誰もいなかった。

誰にも俺の顔を見られなくてよかった。

誰にも俺の顔を見られないよう下を向き、

コンサートホールに来た時以上の早さで立ち去る。

外は全く寒くない。

俺の方がむしろ冷たいほどだった。












第3話 終劇

第4話に続く








第3話 あとがき






本文書くよりも、あとがきの内容を考える方が悩んでしまっていますw

もちろん、向上しない文章表現に日々葛藤していますが。



今回コンサートですが、いわゆるコンサートルートとは違うのかな?って

気もしています。

何が違うのかといわれると答えられないのですが、

最初に考えていたストーリーと今考えている展開は全く違います。

なにせ、「~coda」に関しては、当初の構成をほぼ破棄しています。

そうなると、いったん話を完成させてから、もう一度別ルートも書くんですね、

わかりますって突っ込まれそうですが・・・・・。



来週の火曜日もアップする予定です。

また読んでくださるとうれしいです。






黒猫 with かずさ派






今週も読んでくださり、ありがとうございました。

会話があると書きやすいですけど、一人だけのシーンは難しいですね。

これからもがんばります!




第4話








3-3 かずさ 楽屋 1/1 金曜日 午前0時20分頃







静まり返った楽屋に、曜子ではない誰かが立てた音が鳴り響く。

春希が出て行ったドアをしばらく見つめていた曜子は、物がぶつかる音に反応して

誰もいない花束にむかって声をかける。



曜子「だってさ。

ギター君、なんか誤解したまま出て行っちゃったけど、

   このままでいいの?」



花で埋め尽くされた花の壁が崩れ落ちる。

高い胡蝶蘭やら、普段目にしないような鉢植えの花さえも問答無用にひっくり返る。

その倒した主は花など気にもせず、テーブルの間から這い出てくる。

曜子の方も、花のことを気にするそぶりは全くなかった。



花びらが舞い散り、かずさの頭や肩に舞落ちる。いっけん幻想的なシーンではあるが、

当の這い出てきた本人の顔色を見れば、夢も覚めてしまうだろう。

服のシワや汚れを気にすることもなく、眉間にしわを寄せ、曜子を睨みつける。

圧倒的なまでの存在感を醸し出す。

まさしく冬馬曜子の娘といった貫禄だったが、曜子はまったく怯むこともない。



曜子「そんな睨めつけたって、あなたが居留守をするからいけないんじゃない。」



曜子は首を振り、やれやれといったポーズをわざとらしく見せつける。

それを見たかずさは、さらに目をきつくして、曜子を批判する。



かずさ「あたしは、あんなこと言ってくれなんて言ってない!」



春希が出ていったそのドアに向かって投げられた花瓶が

大きな音とともに砕け散る。



曜子「あなたがいないことにしてくれって言ったんじゃない。

   ギター君には、日本に来ていないことにしてって、あなたが頼んだのよ。」

かずさ「それはそうだけど。あれじゃぁ、春希が・・・。」



かずさは、悔しそうに歯を食いしばり、俯く。

脚が体を支えられなくなり、その場に崩れ落ちる。

しかし、きつい目だけは、そのままに、曜子を睨みつけることだけはやめない。



曜子「あれじゃあ、春希君が誤解しちゃう?」

かずさ「そうだよ。あたしが、春希に会いたくないみたいじゃないか!」



今にも曜子をつかみ倒しそうな勢いで答えるが、曜子は冷たい目でかずさを諭す。



曜子「でも、ああ言えって言ったのは、あなた。

   春希君から、逃げ出したのもあなた。

   私が春希君に会えるチャンスを作ったのに、それを台無しにしたのもあなたよ。」



曜子の冷酷な姿にひるみ、負けじと維持してきたきつい眼さえも失われつつある。

それでも負けじと曜子に噛みつく。



かずさ「そうだよ。せっかくのチャンスを台無しにしたのはあたしだよ。

    3年前もそうだった。まったく成長してないんだよ。

    だけどさ・・・・・、会えないだろ。今のままのあたしじゃ。」



かずさの目から涙があふれ、爪で絨毯を引っ掻く。

曜子を見つめる目には既に力強さはなく、焦点がぼやけていく。



かずさ「あいつは、成長していた。

    あんなすごい雑誌に記事が載るくらいになってた。

    しかも、バイトなのにさ。普通ありえないだろ。

    それくらいすごく成長していた。

    それに、ちゃんと前に進もうとしていた。

    あたしなんか、3年前から、一歩の前に進んでないのに。」

曜子「かずさ。」



曜子からも冷淡さが消え去り、かずさを心配そうに見つめる。



曜子「もういいの?」



曜子がなにについて「もういいの?」と聞いているのかわからない。

でも、答えは決まっている。

もういいわけあるわけないって。



かずさ「わからない。」



答えは出ていても、どうやったら春希にたどり着くかわからない。

でも、答えが出ていなくても、前だけは見つめていようと決心した。



曜子は、かずさに舞落ちた花を、優しく取り除いていった。

















3-4 春希 1/1 金曜日 午前1時頃






どうやって開桜社編集部に戻ってきたかわからない。

守衛に鍵をもらうとき、嫌な顔をされたが、家に戻ったら突然電話で叩き起こされて

編集部に急ぎ戻るよう指示されたことを伝えると、気の毒そうに鍵を渡してくれた。

俺の疲れ果てた顔を見た守衛は、去り際には励ましの言葉をくれ、

同情までしてくれた。



まだ少しだけど、頭は機能しているようだ。

誰も傷つけない程度の嘘ならまだできる。

だけど、もう自分を守る嘘なんてつけそうにない。



編集部に行くと、当然だが部屋は暗く、誰もいない。

必要最低限の明りだけつけ、自分の机を素通りして、麻理さんの机の前で立ち止まる。

あのイブの日は、麻理さんがいてくれた。

どんなに俺の心が救われたことか。

だけど、今はこの椅子の主人は南国でヴァカンス中だろう。



普段は物で溢れているデスクなのに、今は綺麗に片づけられており

物悲しく感じられる。

そっと椅子をなでる。冷たく硬くなった椅子には、麻理さんの温もりなど残ってなどいない。

椅子をそっとひき、躊躇なく座る。

俺が普段使っている椅子と代わり映えがない椅子。俺より身長が低い分

低く設定されているだけの、それだけの椅子。



こうもこの席の主がいないだけで心もとなく感じてしまうのは

麻理さんに依存しているってことなんだろうか?

1時間前は、あんなにかずさを求めていたのに、俺ってこんなに節操無しだったのか

って思い知らされる。



今頃、麻理さんは日ごろの疲れを癒し、ぐっすり睡眠をとってるんだろうな。

グアムだと、今午前2時だから、まだ佐和子さんとお酒でも飲んでるかも。

あの二人が普段どんなことを話してるか想像できないけど、

きっと楽しく飲んでるに違いない。



椅子の背もたれに身を任せると、体中の力が抜けていく。

ただ目を閉じることだけはできなかった。

まぶたに浮かんでくるのが、もし麻理さんだったらと思うと怖くてできない。

ちっぽけな俺の最後の抵抗だった。










眠ることもできず、天井を見つめていると、鞄の中から携帯の着信音が鳴り響く。

コンサート会場を出た時に、無意識に携帯の電源だけは入れ直したところをみれば、

ワーカーホリックの一員としての癖は抜けていないみたいだ。

無視しようと鞄にさえ目を向けなかったが、急に麻理さんかもって

身勝手な思い込みをして、急ぎ携帯を取り出し、通話ボタンを押す。



春希「もしもし?」



少し上ずった声だったが、しっかりと聞こえたはず。



女「もしもし、春希君? ハッピーニューイヤー。

  もしかして、寝てた?」

春希「起きていましたので、気にしないでください。

   ところで、どなたです?」



いつもなら誰からの電話か確認してから電話に出るのに、

あまりにもあわてていて、見るのを忘れてしまっていた。

声の主も、聞いた声ではあるはずだが、名前が出てこない。



佐和子「麻理の友達の佐和子。もしかして、忘れちゃった?」

春希「覚えていますよ。あけましておめでとうございます。」



佐和子さんからということは、麻理さんが近くにいるはず。

そう思うと、声に力が戻っていく。



佐和子「明けまして、おめでとう。今何してたの?」

春希「一人で、ぼ~っとしてました。」



さすがに麻理さんがいるかもしれないのに、編集部にいるなんて言えない。

しかも、麻理さんの椅子に座ってるなんて、絶対に言えない。



佐和子「なにそれ。」



笑い声が受話器から響く。よくきくと麻理さんの声も聞こえてくる。



(ちょっと、代わりなさいよ。)

(あとで代わるから、もうちょっとだけ。)

(なんか余計なこと言いそうだけら、駄目だって。)

(あ、わかる?)



しばらく受話器の向こうでもめていたが、ようやく俺が求めていた声が

遠いグアムから運ばれてきた。



麻理「すまない。佐和子が突然電話かけるっていいだしてな。」

春希「かまいませんよ。ちょうどひましてましたから。」



いいえ。待ち望んでいました。



麻理「そうか。それならよかった。・・・・明けまして、おめでとう。

   今年もよろしく頼むな。」

春希「はい。明けましておめでとうございます。

   今年もよろしくお願いします。」



いつも世話になって、・・・・依存してるのは俺の方。



春希「それと、誕生日おめでとうございます。今年で、にじゅ・・・。」

麻理「言わなくていい。祝いの言葉はありがたく受け取っておく。」



俺に年を言わせないために、声をかぶせてくる麻理さん。

年の差なんか気にならないくらいかわいらしい人なのに。



春希「麻理さんが帰ってきたら、またケーキ用意しておきますね。

   今度は、美味しいのを探しておきます。」

麻理「本当か?」

春希「自分で買ってきておきながらいうのもあれなんですが、

   あれはまずかったですね。」

麻理「私は、そうでもなかったぞ?」

春希「たしか、さんざんな酷評をいただいた気もしますが?」



心が軽くなっていくのが自分でもわかる。

麻理さんからの声が体中にしみわたっていく。



麻理「そうか? そんなこといったかな。」

春希「だったら、同じケーキ用意しますね。」



今の俺だって、麻理さんとなら軽口も言える。



麻理「や・・・・、そ・・それはやめていただきたい。」



この返答も予想通り。

気がつけば、麻理さんの椅子で足を組み、椅子を軽く回転しながら電話している。



春希「だったら、どんなケーキがいいんですか?

   麻理さんが好きなのを用意しますから。」

麻理「イチゴがのってるショートケーキ。」



消え去りそうな声でリクエストをしてくる。

目を閉じると、真っ赤な顔をして、ショットケーキとつぶやく麻理さんが

はっきりと現れてしまった。



俺の油断が、最後の最後で崩壊する。

目を閉じて、麻理さんが浮かぶのを必死で避けてたのに。

組んでいた足を戻し、席を立つ。

そして、今までの声の調子から外れないように細心の注意を払って演技をする。



春希「でっかいの用意しておきますね。

   以前使ったケーキ特集ありましたから、それ参考にして選定しておきます。」

麻理「楽しみに待ってる。」

春希「はい。期待していおてください。」



一呼吸置き、



春希「すみません、友達に誘われて、初日の出見に行くので、申し訳ないですが。」
   
麻理「悪かったな、突然電話かけて。」

春希「そんなことないです。うれしかったです。」

麻理「そうか。うれしかったか。」

春希「はい。」

麻理「じゃあ、またな。

   あと、なにかあったら電話しろよ。」

春希「はい、わかりました。おやすみなさい。」

麻理「おやすみ。」



電話を切ると、手から携帯が抜け落ちていく。

そのまま床に座り込み、膝を抱えるように座った。

見上げると、今まで座っていた椅子が見える。



何を夢見てたんだろう。

見ちゃいけない夢だったのに。



今夜は夢も見れそうにない。

もう、眠ることなんてできそうになかったから。

夢の中にまでも麻理さんが現れてしまったらと思うと、眠ることなんできなかった。
















4-1 春希 開桜社 1/5 水曜日









目の前に立つ麻理さんが静かに俺を見降ろしている。

海外から戻ってきた麻理さんは、今年初めての挨拶をしてくる同僚をも視界に入れず

まっすぐ俺の前までやってきた。

麻理さんの顔を見ることはできない。

麻理さんが横にいるのを気が付いているが

集中しているふりをして液晶画面を見るふりを続ける。

顔を見なくたって、何を言いたいかはわかっていた。

それだけのことをこの数日やってきた自覚があるからなおさらだ。



麻理「何をやってる?」



無視を続ける俺に、ふだんより低い声が発せられる。

編集部内は、自分の作業をやめ、みんな俺たちの動向を気にしていた。

麻理さんのただならぬ雰囲気が、空気をより一層重くする。



麻理「何をやってるんだと聞いてるんだけど。」

春希「お帰りなさい、麻理さん。申し訳ありません。

   勝手に麻理さん以外から仕事を貰ってしまって。」

麻理「わかってるんなら、何故だ?」

春希「それは、俺が麻理の出張前に仕事の指示を貰うのを忘れてしまったからです。

   本当に申し訳ありませんでした。」



立ち上がり、頭を下げる。

麻理さんの顔をまだ見てはいないが、さらに逆上させてしまっているはずだ。

麻理さんが、編集部にきた瞬間に俺は既に詰んでしまっている。

もう何をやっても逃げることはできない。

あがけばあがくほど、見苦しい失点を増やしていくだけなのに、

俺はなおもあがこうとしてしまう。



麻理「それは、私のミスだ。北原に仕事の指示を出すのを忘れてしまったことは

   すまなかった。だけど・・・・・。」



麻理さんが言いたいことはわかってます。

だけど、そうしないと俺が壊れてしまっていたから。

そんな俺を作ってしまったのは、麻理さんなんですよ。



逆恨みに等しい言い訳が浮かぶけど、言えるはずもなく。



麻理「勝手に私以外の他の部員から仕事貰うなって約束したよな。」

春希「はい。」


麻理「それはな、お前がこなせる仕事量を自分自身で把握できないからだ。

   いや、仕事そのものはこなしてしまっているか。

   でもな、このままじゃ、つぶれてしまうぞ。」

春希「・・・・・・・。」

麻理「鈴木から聞いたぞ。お前、大晦日からずっと編集部にいるみたいだな。」

春希「そんなことはないですよ。家に帰ってます。」

風呂に入って、着替える為だけだけど。

麻理「ここ数日の睡眠時間は?」

春希「そんなに多くはとってないと思いますけど、具体的な時間までは。」


おそらく3時間も寝ていない。これが5日間の合計睡眠時間。

一日の睡眠時間だとしても、不健康すぎるって理解できる。

理解できるけど、寝ることができなかった。

麻理さんのいらだちが増し、ついには俺の腕を掴んでくる。



麻理「お前、他の部署に入り浸っているときもあったそうだな。

   さっき確認してきた。ここにずっといたら、怪しまれるからな。

   そういうところにはまだ頭が働くんだな。」

春希「そういうところだけって。与えられた仕事はしっかり仕上げてますよ。」



麻理「ああ、それも聞いた。だけどな、北原。

   そんな風になってしまったお前を心配する奴もここにいるって

   覚えておいてくれ。」



切なく訴えてくる声に我慢できず、麻理さんの顔をとうとう見てしまった。

麻理さんの瞳が俺の目を捉えると、俺はもうその瞳から逃れることはできない。

この人を求めてしまう。

この人を求めてしまった。



麻理「なんで私に電話してこなかった。

   何かあったら話くらい聞いてやるって言ったよな。

   そんな程度の関係だったのか?」

春希「・・・・・・・・。」



今すぐにでも視線を外したいのにできなかった。

声に出して何があったか全て吐き出したかったのに、それさえもできない。

俺に出来ることは、麻理さんを見つめながら、

麻理さんにむかって崩れ落ちていくことだけだった。



















4-2 春希 タクシー 1/5 水曜日 昼過ぎ







編集部員たちはみな、俺の手を引き、

無表情でエレベーターに乗り込む麻理さんに恐る恐る目をむける。

怖いもの見たさもあったはずだが、この俺の対しての後ろめたさもあったかもしれない。

俺の異変に気がつかずに、仕事を割り振っていたことに対して。

しかし、それに気がつけって言う方が気の毒だ。

気がつかれないように演技してたんだから。

もし気がつくとしたら、よっぽど俺のことを普段から注意深く見ていないと

わかりっこない。

俺は、その演技を一瞬で見破ってくれた麻理さんに感謝さえしている。

ちゃんと俺のことを見ていてくれた。

災悪を自ら引き起こして起きながらも、そんな俺を気遣ってくれる麻理さんに

愛情に近い感情を抱いてしまっていた。



タクシーの窓の外を眺めると、南末次駅前まで来ている。

俺がマンションの住所をかたくなに言わないから、麻理さんは仕方がなく

記憶を頼りに最寄駅をタクシーの運転手に伝えていた。



麻理「北原。ここからどこへいけばいい?」



これ以上は俺の指示がないと無理だと、早く教えてくれとせかしてくる。

そんな麻理さんのいらだちさえ、自分に対してむけられる感情だと思うと

退廃的な嬉しさを感じてしまう。



春希「ここでいいですよ。あとは歩いて帰れますから。」



嘘だ。

引き止めてもらいたいから、麻理さんが食いつく言葉を投げかけてしまう。

困った顔をする麻理さんに、さらに困らせる言葉を投げかけてしまう。



麻理「ここまで来たんだ。家まで送ってやる。

   大した差じゃない。」

春希「寄るところもあるんですよ。」

麻理「だったら、私もそれに付き合ってやる。」

春希「麻理さんに、そこまで付き合ってもらう価値なんて俺にはないですから。

   それじゃあ、送ってくれて、ありがとうございました。

   それと、仕事のこと、すみませんでした。」



俺は、麻理さんの方を見ることもなく、謝罪と謝礼と別れの挨拶をして、

タクシーから降りる。



麻理「待ちなさいったら。」



ほら。

麻理さんなら、落ちていく俺を見捨てることなんてできないってわかってた。

自分が今、何をしているのかもわかってる。

麻理さんを利用してる最悪な男になり下がってるって。



麻理さんが俺を追ってタクシーを急いで降りる。

俺を手放さない為に、俺の背中から力強く抱きしめてきた。

絶対に離さないっていう強い意志が感じられるけど、

そんな必死にならなくても大丈夫なんですよ、麻理さん。

だって、麻理さんの手を振りほどくことなんて、絶対にない。

麻理さんの手を誘導する為の演技なんだから。



麻理「何があったのか知らないが、壊れかけているお前を一人になんかできるものか。

   悪かった。一人にして。もう大丈夫だから。」

春希「麻理さん。」



俺の胸まで回された手を、包み込むように握りしめる。

やっと手に入れたという感動しかなかった。

病的で、独善的で、詐欺まがいの愛情をついに掴んでしまった瞬間であった。



俺は、麻理さんに寄り添ってもらいながら、再びタクシーに乗り込む。



麻理「須黒まで。」



麻理さんの肩に頭をうずめ、独りよがりの幸福を堪能する。

いつの間にかに俺の心に住み着いていた麻理さんが、

やっと俺に踏み込んできてくれた。

純粋にそれが、うれしかった。



本当にうれしかったんだ。

心に触れられることがこんなにも温かいんだって。

3年も閉ざしていた心の扉を、麻理さんが解き開けてくれた。

いや、違うな。

俺の心は、未だに閉ざされている。

でも、ほんの僅かに空いた隙間から、麻理さんだけが入り込んできてくれたんだ。

だから、俺の心の中には麻理さん以外入ってこれてない。



最初から俺の心に住みついているあいつを除いて・・・・・。






かずさ「春希。・・・・・・・なんで、いつも、こうなっちゃうんだよ」



幸福に酔いつぶれている俺は、俺を見つめる瞳に気がつかない。

こんなにも俺の間近までやってきてくれた心の永住者に気がつくことができなかった。







第4話 終劇

第5話に続く








第4話 あとがき





ネタばれと言いますか、第3話での、書いた本人しか気がつかねぇよフラグについて。

第3話終盤 春希と曜子の会話で



今度はなにか面白そうな答えを聞けたのか、曜子さんは、

誰もいない花の山に向かってニヤニヤする。



曜子「ちょっと、大丈夫?」

椅子が机か何かにぶつかる音が重なる。



の2か所ですが、「花の山に向かってニヤニヤする」と

「ぶつかる音が重なる」が、かずさに対しての文章でしたw

誰も気がつかねぇよって、物を投げるのだけはやめてくださいorz

できることならば、読者が気がつくようなキーワード文章を

書けるようになりたいものです。

でも、そういう文章ばかり書いてしまうと、読む方が疲れてしまいますので

考えものなのですが。




追記



他サイトでのアップにて、そこでご指摘をいただいたのですが、

4-1 春希 開桜社 1/5 水曜日

春希「それは、俺が麻理の出張前に仕事の指示を貰うのを忘れてしまったからです。

   本当に申し訳ありませんでした。」

で、春希が麻理を呼び捨てにしていますが、これは誤植です。

しかし、今回はあえて訂正しないことにしました。

ちょっとキレ気味の春希ならば、本音を漏らすこともあり得ますし、

また、そのほうが危険な二人の雰囲気を演出できると考えたからです。

後出しの話作りになってしまいましたが、今回だけはご容赦ください。

また、今訂正してしまうと、どこが違っていたか、

後から読んでくださった方々には、わからなくなってしまいますので。





来週も、木曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださればうれしいです。





黒猫 with かずさ派





今週も読んでくださり、ありがとうございます。

かずさも麻理さんも好きなキャラクターなので、書くのがつらいっすorz

今回は、かずさにとって辛く悲しい展開でしたが、

悲しいイコールひどい扱いにならないようにと気を使っています。

悲しい展開ながらも、愛情が感じられる文章が書けるのが理想なんですけど

なかなか難しいですね。



第5話





4-3 かずさ 冬馬邸 1/5 水曜日 早朝










元日の早朝に母さんが宿泊するホテルから帰ってきて以来、

4日ぶりに母さんが会いに来た。

たぶんどう接したらいいか、わからなかったんだろうな。

春希が楽屋を出て行ったあと、自分でも驚くくらい荒れたし。

母さんもあたしの顔を見るのがつらいのかもと思いはしたけど、

そんな杞憂はすぐさま吹き飛んだ。



曜子「何やってるの、こんな早朝から?」



怪訝な顔をして、まるで理解できないっといった態度をしている。

リビングに広げられている新品の荷物の山。

注目するなという方が無理だといえるが、母さんの態度が少し気にいらない。



かずさ「見てわからないのか?」

曜子「朝からハイキング?」

ソファーに置かれた新品の厳寒用ブーツを、恐る恐る突いたりしている。

かずさ「真冬のこの時期に、ハイキングなんか行くわけないだろ。」

曜子「そうよねぇ。」



見るからに温かそうなブーツに興味を持ったのか、実際に自分で履いたりして

「うわぁ、温かい」などと、自分では使うことがない靴に感動を覚えたりしている。

そもそも母さんが寒い外を歩くとは思えない。

外出はするが、車での移動。実際寒い外を歩くのは、車から建物までの数歩のみ。

だから、真冬の登山靴なんて、必要になることなんてないはずだ。



曜子は、テーブルに山積みにされているチョコバーを一つつまみあげ観察する。

コンビニで買いこんできた特別なものではないから、そのままテーブルに

戻すのかと思いきや、おもむろに袋を破り口に運ぶ。



母さんが、あたしを見て驚くのも無理がないと思う。

あたしも母さんの立場だったら、同じことを言うか、見ないことにして

そのまま立ち去っていただろう。

だけど、あたしはいたって大真面目であった。

テーブルには、チョコバーをはじめとするカロリー高めの携帯食。

他には、水筒・ホッカイロ・登山用ダウンジャケットやタイツなどの装備一式。

どうみても、冬山登山か真冬のハイキングに行く挑戦者にしか見えない。



かずさ「寒いから、防寒機能が高い服を買っただけだよ。

    あたし寒がりだし。」

曜子「そうだけど、あなた、外に出ないじゃない?」



たしかに、冬山どころか、近所のコンビニにさえ行こうとしないでいる。

必要なものがあれば、ハウスキーパーに頼めばいいし、

それに、たいていのものは全てそろえられているから、外に出る必要もない。



かずさ「たまには出るから、その時用だ。

    それにしても、母さんこそ、こんな時間にどうしたんだ?」



時刻はまだ、午前4時になったばかり。

こんな時間にかずさが起きていることはもちろん、

曜子が訪ねてくること自体異常だった。



曜子「ちょっと寝付けなくてね。

   それで、かずさどうしてるかなって。」



母さんに心配かけてるな。

それだけのことをやってしまった自覚はあるけどさ。



かずさ「どうしてるって、今から出かけるところだ。

    閉じまりよろしく。」




テーブルに用意した食料などをバッグに詰め込み終わったあたしは、

昨日買ったばかりの防寒具を身に付け、これ以上詮索されるのを

逃げるようにして家を出た。



曜子「ちょっと、・・・どこに行くかくらい言ってくれてもいいのに。

   ・・・・って、行くところなんて、あの子には一つしかないかな。」



かずさが消えていったドアを見つめ、成功を祈り、頬笑みを送った。

床を見てみると、かずさがバッグに入れ忘れたチョコバーが落ちている。



曜子「そそっかしいんだから。」



チョコバーを拾い上げ、封を切ると、中から砕けたチョコクッキーが

こぼれ落ちてくる。



曜子「もう。」



かずさが床に落として踏んでしまったのか、中身はボロボロだった。

曜子は、手に持っていたチョコバーをゴミ箱に捨て、床にぶちまけたほうは

そのままにしして部屋を出る。

かずさが散らかした部屋を含め、あとはハウスキーパーに任せることにした。












昨日は、寒さで凍死する寸前だった。

手足は寒さで感覚が消え去り、帰りのタクシーの中では、運転手が悲鳴を上げるくらい

ガンガンに暖房を強くしてもらったのに、微塵も温かさを感じられなかった。

春希が住んでいるって言っていた最寄駅で春希が来ないか張り込んでいたが、

そう簡単に会えるわけもなく、空振りに終わる。

家を出るときは、コンビニに行くついでと、誰にも言い訳をする必要がないのに、

わざわざコンビニでお菓子類を買い込む。


コンビニを出ると、駆け足で駅まで行ってしまったが、

服装はコートを一枚着ているだけ。

これで長時間冬空のもと張り込みをするのは難しい。



6時間ほど粘ってみたが、寒さで感覚がなり、震えが止まらない。

それよりも、駅前で人通りも多いこともあって、ナンパをしてくる連中が

なによりようざかった。

寒さでいらだちも格段に増しているのに、そこにハエのごとくまとわりつくナンパ。

何度も春希を恨んだことか。

だけど、その数だけ春希に自分の弱い心を詫びた。



ついに寒さとナンパの我慢の限界(主にナンパだが)を迎える。

そこで、明日からの備えをするために御宿まで出て、

登山用の防寒装備一式を用意したわけだった。

もちろん顔を隠す為のニット帽とマフラーも買いこんだ。



さすがにこの服装なら、誰も言い寄ってこないな。

ニット帽を深々とかぶり、マフラーで鼻の上まで顔を隠す。

周りから見れば、怪しさ満点だけど、寒さとナンパ回避には変えられない。

ナンパしてくる奴が50人突破したら、春希が現れるっているんなら

いくらでもナンパされてもいいんだけどな。

それよりも、春希がナンパしてくれたら・・・・・、って

あの堅物がするわけないか。



寒さで思考さえも寒々とした妄想に陥っている事にため息をつく。

温かい息がマフラーで覆った口元に充満するが、すぐさま寒さが忍び寄る。

すでに朝6時前から7時間も張り込みを続けていたんだから、

いくら防寒に気をつけていたと言っても、足もとは寒さに蝕まれている。

見回しがいい場所を選んだおかけで春希を探しやすいが、

その分突き刺さるような冷風の前に体をさらすことになっていた。









疲れを癒そうとバッグの中からなにか食べるものをと探していると、

10メートルほど離れたところにタクシーが止まる。

春希がタクシーで駅までやってくるとは思えないが、一応確かめようと

目を向けると、扉が開かれる。

中からは、楽屋で見たあの春希が降りてきた。

手にしていたバッグが地面に落ち、中からお菓子がばらまかれる。

そんな些細な事は気にせず駆け寄ろうとしたところで、タクシーからもう一人、

綺麗な女性が降りてくる。

そして、その女性は春希を抱きしめた。

力強く、春希を離さないように。

春希の顔は、はっきりとわからない。

だけど、春希が女性の手を包み込むように握りしてたところで

あたしの思考は停止する。

目の前の現実に、心が砕け散っていくのが理解できた。

でも、春希から目が離せない。

これ以上、こんな残酷な現実を見たくないのに。

見てる時間が長引くほど、自分が傷つくって分かってるのに、

愛しい春希から目を離すことなんでできやしなかった。



そして、その綺麗な女性は、春希に寄り添うようタクシーに乗り込み、

タクシーはすぐさま走り出していった。

あたしは、タクシーが視界から消え去っても、

いつまでもタクシーの影を探し続けていた。















4-4 春希 麻理のマンション 1/5 水曜日 昼







タクシーに再び乗車した俺たちの間には会話はなく、沈黙が支配していた。

どんな言葉だろうと、お互い過剰に反応してしまう気がしたからかもしれない。

それだけ感情が静かに高ぶっていた。



マンションに入ると、麻理さんに手を引かれるまま10階最上階にある部屋まで

連れられていかれた。

タクシーに乗ってから、ずっと握られていた手は、支払いの時一度離されているが、

それ以外の時はずっと堅く握られたままでいる。

麻理さんの心遣いが俺の心を溶かし、罪悪感まで溶かしつつあった。








部屋に入ると、麻理さんは、素早く電気をつけ、

部屋を暖めるためにエアコンにスイッチを入れる。

俺が座る場所を確保する為に、ソファーに脱ぎ散らかした服などを

隣の部屋に放り投げた。



麻理「あまり部屋の中を見るなよ。

   帰国して、そのまま編集部に顔を出してるから、掃除していないんだ。」



目につくものを隠すように、散らかった部屋を少しはきれいに見せようと努力している。

しかし、それぐらいでは綺麗になるとは思えない惨状だったが、

言わないほうがいいのだろう。



春希「すみません。俺のせいで。

   ・・・・・・・、

   あのタクシーの運転手の人。年上の魅惑的な女性に捨てられそうになって

   自暴自棄になってる情けない男だって思ってるんでしょうね。」


麻理「そう思ってくれたんなら、光栄だな。

   私としては、その逆だと思ってたんだが。」

春希「そんなことないですよ。

   麻理さんは、魅力的すぎる女性ですから。

   あまりにも眩しすぎて、すがってしまうほどに。」

麻理「気にするな。私が好きでやってることだからな。

   それに・・・、悪かったな。お前が大変な時に、側にいてやれなくて。」



違うんです。

麻理さんが俺の心に住み着いてしまったから、

どうすればいいかわからなくなったんです。

それを忘れるために、仕事に没頭しただけ。



春希「それこそ、麻理さんに心配かけさせてしまって、すみませんでした。

   全て俺が招いたことなんですから。」



そんなむなしい努力も、麻理さんを目の前にしては、無駄だったけど。



麻理「部下の心配をして何が悪い。上司は、部下が仕事がしやすいように

   職場環境を整えるのも仕事のうちだ。」

春希「ただの部下のために、ここまでしてくれるんですか?」



卑怯だって、分かってる。

こんなこと言ったら、麻理さんがどういう反応をするかわかってて

言ってるんだから。



麻理「なにがあったんだ?」



その言葉じゃないです。

欲しいのは、もっと俺を求める言葉だから、沈黙で答えるしかない。



麻理「今度は、だんまりか。」

春希「俺の質問の答え、もらってないからですよ。」



麻理さんは、ため息をつきキッチンに向かう。

戸棚からカップを二つ用意し、インスタントコーヒーをいれ、

一つを俺に渡してくれる。



麻理「ブラックでよかったよな。」



うなずき、礼を伝える。

しかし、意図したわけではないが、言葉で礼をしなかったことが、

麻理さんの答えを貰えるまで口をきかないとも受け止められると気がついてしまう。

必要以上に麻理さんにプレッシャーをかけるべきではないと反省したが

麻理さんの方が先に折れてくれた。



麻理「ただの部下じゃい。特別な部下だ。

   お前が私をどう思っているか分かりかねるが、

   お前が一人前になってもらわないと、私が困る。」

春希「じゃあ、その部下が大変な時は、自宅まで連れ帰って、

   面倒みてくれるですか?」



もう引く気はなかった。だって、癒されたいから。



麻理「それは・・・・・・、分からない。

   私だって、混乱しているんだ。」



俺がついに、麻理さんの心の奥に踏み込んでしまった。

俺が麻理さんの心をかき乱してしまってると思うと、

今までの勢いは消失して、罪悪感が俺を支配してしまう。

わからない。なんで急に怖くなったか、わからなかった。



春希「ごめんなさい、麻理さん。こんなはずじゃなかったんです。

   なにやってるんだ、俺?」



持っていたカップが手から離れ、床にシミを作る。

勢いよくソファーから立ちあがり、手で顔を覆い、

情緒不安を垂れ流しながら歩き回る。



春希「ごめんなさい。ごめんなさい、麻理さん。

   こんなとこしちゃいけないって、分かってたのに。

   弱みに付け込んでるだけじゃないか。」

麻理「北原、落ちつけ。

   とりあえず、座って、深呼吸でもしてみろ。」



俺の急変に驚いた麻理さんであったが、落ち着きを装って、俺をなだめようとする。

しかし、俺の変貌には、ついてこれなかった。

麻理さんが俺の肩に手を置き、ソファーに座らせようとしたが、

その手を払いのける。勢いあまって麻理さんが倒れてしまう。



春希「ごめんなさい。・・・・・失礼します。」

麻理「待て、北原!」



見下ろした麻理さんの表情は、困惑しきっている。

俺は、麻理さんを心から追い出す為に麻理さんを振りかえりもせず、

マンションの出口に向かった。

しかし、ドラマみたくかっこよく逃げ出せるわけもなく、

エレベーターが来るのを待っているところで、麻理さんにつかまってしまう。

あまりにも現実的で、情けない。

そのおかげか、とり乱していた心が覚めてしまった。



春希「かっこ悪いですね。映画だったら、このまま逃げ出せていたんですけど。」

麻理「悪いな。これは映画じゃなくて、現実なんだよ。」



二人して見つめ合い苦笑いをする。

苦笑いもいつしか安心からの笑いに溶解していく。



麻理「部屋に戻るぞ。嫌だって言ったら、引きずっていくからな。」

春希「もう逃げませんかよ。」



俺は、麻理さんの手を握ることなく、今度は一人、麻理さんの部屋に向かった。











部屋に戻ると、まずは床にこぼしたコーヒーの処理をするあたり、

落ち着きを取り戻せていると実感した。

ついでに、散らかった部屋も少し掃除しますかと提案したら、

さすがに丁重にお断りされたけど。



麻理「顔色は悪いけど、いつもの北原らしくなってきたな。」

春希「俺にどんなイメージあるか聞きたいですね。」

麻理「いいぞ。今度、今日の礼として飲みに連れてけよ。

   それじゃあ、よくないな。回帰祝いとして、私が奢ってやろう。」

春希「いえ、お礼として俺が奢ります。」

麻理「そうか? ま、どっちでもいいか。」



緊張していた麻理さんから力が抜けていいく。

いくら俺がいつもの通りの行動をしてみても、

実際話してみなければ信じられなかったのだろう。

春希「ありがとうございます。」



麻理さんの目を見て、心からの感謝の意を伝える。

こんな言葉だけじゃ足りないってわかってるけど、俺の手持ちはこれしかないから、

いつか必ず恩返しをしないとな。



麻理「好きでやってるんだから、いいよ。」

春希「麻理さん・・・・・、聞いてもらいたい話があるんです。」

麻理「時間はある。気が済むまで話しなさいよ」



俺は、高校時代のことから、去年のニューイヤーコンサートに起こった出来事で

どう正月を過ごしていたかを全て麻理さんに打ち上げた。

かずさのこと。

雪菜のこと。

そして、麻理さんに対する気持ちまで包み隠さず。











俺が全て話し終わったときには、既に夜になっていた。

明りをつけることもしてなかったので、室内は暗い。

暗闇に目が慣れて、外からの光もあったおかげで、麻理さんの輪郭ぐらいはわかった。

麻理さんは、俺の話を聞き終えた後も、ソファーに座ったまま、動かずにいる。

俺は、怖くないと言ったら嘘になる。

麻理さんに嫌われるんじゃないかって、今も心臓が締めけられながらも

麻理さんの判断を待っている。



黒い影が動き、ソファーから去っていく。

俺は、体を支えていた力が抜け、ソファーに沈んでいった。

しかし、すぐさま部屋に明かりがつき、目の前が白くかすむ。

目の焦点が戻ると、目の前には麻理さんがいた。



麻理「悪かった。お前が苦しい時、側にいてやれなくて。仕事が終わった後

   ヴァカンスなんか行かなければよかったんだ。」

春希「仕方ないですよ。決まってたことなんですから。

   それに、これは自業自得なんですよ。」

麻理「それでも私は、側にいたかったんだ。」

春希「そう言ってくださるだけで、十分です。」

麻理「そうか・・・・・。これから、どうするつもりなんだ?」

春希「まずは、麻理さんへの依存をどうにかすることですかね。」



笑って言おうとしても、うまく笑えない。

演技なんて必要ないってわかってるから、体が拒否反応でもしたんだろうか。



麻理「私は、頼ってくれても・・・うれしいんだけどな。」



麻理さんは、赤くなった顔を一度は隠そうと顔をそらすが、

まっすぐと俺の目を見つめてくる。



春希「このまま頼ってしまったら、麻理さんにおぼれてしまう気がするんです。

   それは、かずさへの裏切りだから、できないんです。」

麻理「そうか・・・・。」



春希「学園祭の後のことを思い出したんです。

   目の前にいくら自分が求める幸せの一つがあったとしても、

   自分が一番大切にしているものを裏切るのなら、手を伸ばしてはいけないって。」

麻理「私は、お前の求める幸・・・・・いや、なんでもない。」



麻理さんは、途中で言うのをやめてしまったが、

なにを聞きたかったかくらい理解できた。

しかし、麻理さんが言わないのならば、俺は答えないほうがいいのだろう。



春希「でも、麻理さんを頼りにしてますよ。

   まだまだ教えていただかないといけないことが、たくさんありますからね。」

麻理「そんなの当然だ。これからだって、今まで以上に鍛えてやるつもりだった。」



演技ではない笑顔ができそうだったのに、麻理さんの言葉にひっかかりがあることに

気が付き、表情が固まってしまう。



春希「だったって?」



俺をまっすぐ導いてくれるはずだった目に、力が失っていく。

でも、目をそらさないでいてくれていることは、どんなことがあっても、

俺から逃げないでくれるんだと信じたい。

麻理さんは、俺の前まで来て、ゆっくりと床に座り、俺を見上げる。



麻理「今回の出張は、NY支部への異動を兼ねてなんだ。

   今、記事をほとんど書いてないだろ? 

   もう向こうでの仕事の準備がメインになってる。

   一応3月からNYってことになってるが、

   準備の関係で向こうに行くことが増えると思う。

   ・・・・・・・こんなときに、すまない。」

春希「大丈夫ですよ・・・・とは、言えないですけど、

   やけにならないでジタバタしてみます。

   これでも、麻理さんに鍛えられてきたんです。

   やれるところまで、やってみます。」




麻理さんを心配させないでNYに送りだすことなんてできやしない。

俺に出来ることなんて、麻理さんを心配させることぐらいだ。

だけど、心配させるんなら、前向きな心配くらいなら、今の俺にもできるはずだ。



麻理「やれるところまでやってみろ。いつだって、電話でなら相談にのってやる。

   あ、でも、ギリギリまで我慢なんかするなよ。

   お前のギリギリは、つぶれる寸前なんだからな。

   そうなると、電話だけでは済まなくなって、

   飛行機に乗って会いにこなければならなくなるんだからな。」

春希「麻理さんが会いに来てくれのでしたら、限界までやってみたくなりますね。」

麻理「そういうことはいうな。

   まるで、お前が私に会いたいみたいじゃないか。」



麻理さんの頬が朱に染まる。麻理さんは、それを隠すように両手で頬を包み込む。



春希「会いたいですよ。」

麻理「なっ。」



麻理さんが、自分の発言に身を悶え、頬だけではなく目まで手で覆う。



春希「ある意味、愛の告白かもしれませんね。」

麻理「はいはい。もういいって。それでも、冬馬かずさが一番大事で

   彼女を傷つけない範囲でってことだろ。」



これ以上赤くはならないってくらい上気した顔で、これ以上は言うなと

訴えかけてくる。

いくら麻理さんを大切に思っていても、

俺からは触れてこないって理解してくれているから。



麻理「何もなくても、電話くらいしてこいよ。

   私の方もガス抜きくらいは必要だからな。」

春希「はい。NYのことも気になりますし、麻理さんに聞いてほしいことだって。」



その後、俺達は色気も何もない仕事のことや、NYでの準備について語り合った。













麻理「なあ北原、聞いてるのか?って、何日も寝てないんだから、無理もないか。」



意識の外から麻理さんの声が聞こえる。温かい陽だまりのようで心地がいい。

瞼が重い。もはや抵抗なんて無理なようだ。



麻理「寝るんだったら、ベッドを使え。・・・・ほら。」



意識があまりない中、麻理さんの肩を借り、ベッドに崩れ落ちる。

柔らかい感触と、心地よい臭いが全身に伝わり、抱きしめてしまう。



麻理「私を押し倒してどうする。」



麻理さんは、俺を横に転がせ、俺の拘束から逃れる。

しかし、俺に体重をかけないようまたがり、俺の顔の横に両手をつき、

顔を覗き込んできた。



麻理「なあ、北原。

   私は、冬馬かずさの代わりだったのか?」



遠くの方から声が聞こえる。

囁くような静かな問いかけなのに、耳にはしっかり入ってくる。



春希「ちがい・・・ます。麻理さんは、麻理さんでしかないです。」

麻理「冬馬かずさのことを、愛しているのか?」

春希「愛してます。」

麻理「風岡麻理のことが、好きだったか?」

春希「今でも、大好きです。」

麻理「風岡麻理に、側にいてほしいか?」

春希「側にいてください。」



俺は、誰だかわからない彼女の問いに答えていく。

夢の中の彼女は、あまりにもリアルで、温もりや臭いがあるのがわかるのに、

顔だけはわからなかった。

俺は、そんな彼女の問いに本音で答えたと思うが、

俺がなんて答えたのかは覚えてない。



覚えているのは、柔らかな重みが唇に残っていることと、

大好きな彼女の香りが肺に満たされていることだけだった。








第5話 終劇

第6話に続く










第5話 あとがき






昔に書いた文章ほど、チェックが面倒だったとはorz

少し考えれば分かることなのに、全面的な書き直しなどできる時間もなく

日々葛藤しております。

少し前までは違和感程度だったのに、ここまでくると神経質なんでしょうかね。



さて、今回はすごく先の話について。

~codaのラストなのですが、3候補ありました。

といっても、企画を作った段階の第1案は、すでに没案になってます。

シナリオも全て廃案となっていますし。

もったいないっていったら、もったいないですけどね。

そして、第2案と第3案ですが、両者は対極的な関係にあるわけで

どうするか迷うところです。

ちなみに、ccのラストは、最初からほぼ変わっていません。

演出などは変わっていても、ラストだけは、変わりませんでした。

ccは、もうすぐ書き終わると思いますが、~codaに関しては、

書きださないと分からないところが多く、不安でいっぱいです。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、とてもうれしいです。





黒猫 with かずさ派





今週も読んでいただき、ありがとうございます。

自分も読者なら、こいつ「with かずさ派」ってほんとかよって疑うレベルです

身が凍るような寒いシーンを書いているわけですが、リアルでは夏。

これからもっと暑くなるというのに・・・・・。


第6話






5-1 かずさ 冬馬邸 1/5 水曜日 深夜







かずさが目を覚ますと、見覚えがある天井が目に入った。

記憶がとんでいる?

たしか、春希に会うために、駅前で張り込みを・・・・。

涙が頬を流れ落ちる。

涙があふれるほど、昼間の光景を鮮明に思い出してしまう。

止めたいのに、止めたくない。

心の底から会いたかった春希が目の前にいたんだから、

見たくない現実であっても、春希を求めてしまう。



曜子「大丈夫? だいぶうなされてたみたいだけど。」

かずさ「母さん?」

曜子「心配したのよ。ハウスキーパーから連絡がきて。

   あなたが帰ってきたら、いきなり倒れたって。

   しかも、高熱出してて大変だったんだから。」

かずさ「あたし、倒れたのか。そっか・・・・。」



かずさは、他人事のようにつぶやく。

涙が止まった代わりに、表情が抜け落ちてしまっていた。



曜子「なにがあったの?って、その様子からすると、春希君には会えたみたいね。」

かずさ「ねえ、母さん。ウィーンに帰るよ。ここにいる必要がもうあたしにはない。」

曜子「春希くんに、あなたの気持ち伝えたの?」



かずさは、顔を背け、何も言わない。

言わないことがその答えだと、察してくれと言わんばかりに。



曜子「言えてたら、こんなことにはなってなかったか。」



曜子は、ベッドに潜り込む。かずさは、曜子の存在を察知し、身を固くするが、

後ろから抱きしめられることに拒絶を示さなかった。

むしろ、今まで緊張から身を固くしていた力が全て抜け落ちていく感触であった。



曜子「もう、いいの? 納得できた?」

かずさ「納得なんか、でき・・・・ない。

    でも、受け入れないと駄目だって、わかってるんだ。」



涙声で声が詰まりながらも、ゆっくりと気持ちを吐露した。



曜子「でも、春希くん、彼女いないって、言ってたじゃない。」



どうも曜子は、かずさが見てきた光景を信じられないでいた。

あの北原春希が嘘をついているとは思えない。

しかも、コンサートの楽屋まで、かずさに会いに来たから、ますます謎が深まるばかり。



かずさ「タクシーから、女の人と一緒に降りて来たんだ。」

曜子「タクシーくらい女性と乗るくらいあるんじゃない?」

かずさ「しかも、・・・・抱き合ってたんだ。」

曜子「それは・・・・・。」

かずさ「年上で、すごくきれいな人だった。春希とお似合いだったよ。」



かずさは、見てきたことをこと詳細に語る。

まるで、自分に言い聞かすように、鮮明な映像を求めて。

曜子は、かずさが自嘲気味に語るその女性の姿が、

昼間アンサンブルの編集長から聞きだした春希の上司と一致してくる。

しかも、その上司は、春希を無理やり帰宅させている。

曜子は、かずさの話をさえぎり尋ねる。



曜子「それって、今日のことよね?」

かずさ「当たり前だろ。」



かずさは、むくれながらも答えた。



そのかずさの答えで全てが分かった曜子は、かずさの不機嫌さをあざ笑うかのように、

実際かずさを馬鹿にするように大笑いを始めてしまう。



曜子「かずさって、かぁ~わいいんだからぁ・・・。」



乱暴にかずさの頭を撫でくり回し、かずさを抱きしめる。

かずさも抵抗するも、曜子の勢いには勝てず、されるがままだった。



かずさ「やめろよ。・・・・・やめてくれよぉ。

    もう、ほっといてくれたっていいじゃないかぁ・・・・・・。」



涙で濡らす声を振り切るように、背を向けているかずさを強引に正面を向かせる。



かずさ「なんだよ・・・。」

曜子「あなた、勘違いしてるわよ。」

かずさ「なにが勘違いだ。あたしは、この目で、はっきりと見てきたんだ。」



かずさの激昂に怯むことなく、冷静にかずさに伝える。



曜子「今日、春希くんの様子が気になって、開桜社に電話してみたの。

   この前言ったアンサンブルの編集長ね。

   そしたら、春希くんったら、大変なことになってて、驚いたわ。」

かずさ「なにがあったんだよ。」



曜子の肩を掴み、前のめりになって聞いてくるかずさをなだめめ、話を続ける。



曜子「ちょっと、そんなに強く掴まないでよ。話すから。

   あなた、春希くんとなると、すごいわね、」

かずさ「いいから、早く話せ。」

曜子「はい、はい。・・・・・えっとね、大晦日のコンサートの後、春希くんったら

   編集部に戻って仕事していたらしいの。

   しかも、今日までほとんど寝ずにずっと働いてたんだって。

   もちろんずっと編集部にいたら怪しまれるからって、家に帰って着替えたり、

   別の部署で仕事貰ってたりしてたみたいなのよ。」  






曜子の話を聞くことに全神経を集中させるかずさだが、話を聞くほど顔がこわばる。

曜子の肩を掴んでいた手も、その所在がわからなくなり、宙をさまよっていた。

かずさの様子が気がかりな曜子は、かずさの心を温めようと、かずさの手を握りしめる。



曜子「それでね、かずさ。あたなが見たっていう女性だけど、

   それって春希くんの上司よ。」

かずさ「上司?」

曜子「若くて綺麗な人だけど、とても優秀な方らしいわ。

   その分、部下に対しても相当なものを求めるみたいで、

   よく春希くんがそれについていけるなって、編集部では有名な話みたい。」

かずさ「そうだったのか。」



かずさの手から力が抜け、安心したかずさだったが、目の前には真剣な表情の

曜子が見つめている。かずさの手を強く握りしめ、強く訴えかける。



曜子「でもね、かずさ。この数日の春希くんは異常よ。

   普段も無茶はしてたみたいだけど、ここまでひどいことはなかった。

   寝てないのよ、彼。大晦日からずっと。」



曜子の宣告に息をのむ。そのまま息ができなくなり、声が出ない。

肺に残ったわずかな空気を絞り出すように、かすれた声で問う。



かずさ「あたしが会わなかったから?」

曜子「そう考えるのが妥当なんでしょうね。」



かずさの顔が崩れていく。曜子もその顔を見るのがつらく、一度は顔をそらすが、

全てを見届けるため、かずさの姿を目に刻みこむ。



曜子「このままでいいの?」

かずさ「いいわけないだろ!」



ベッドの中で暴れるかずさを曜子は抑え込む。

必死に、そして、包み込むように。



かずさ「あたしが春希を傷つけた。また、傷つけたんだ。・・・うぅ・・・

    どうして、あたしは春希を傷つけることしかできないんだ。」



曜子「傷つけたと思うんなら、癒しなさい。

   あなたが持ってるもの全て使い果たしても、彼を救いなさい。」



慈愛に満ちていた曜子が一転、かずさを突き放しにかかる。

戸惑うかずさは、春希を救いたいと思っても、考えなんかまとまりはしない。



かずさ「わからないよ。わからないったら。

    ・・・・・・・もう、なにもかもわからないんだ。」



再び泣き出すかずさを、娘には甘いと反省しつつも、頭を撫でて心を落ち着かせる。



曜子「ほんと、泣き虫ね。」

かずさ「悪いかよ?」

曜子「悪くないわ。女を泣かせる男が悪いだけよ。」

かずさ「春希を、悪く言うなぁ・・・・。」



曜子は、泣き、ぐずりながらも、愛する彼をかばうかずさに、尊敬の念さえ覚えてしまう。

自分には、ここまで愛せる男がいただろうか?

幾人もの男を知っている曜子であっても、

かずさほど情熱的に男を愛したことなんてなかったかもしれない。

そう思うと、曜子はかずさに嫉妬してしまった。



曜子「今日は、もう寝なさない。

   体を回復させてから、じっくり今後のことを考えましょう。」



曜子は、かずさが眠りについても、かずさを抱き続けた。

かずさが曜子の服を離さなかったこともあったが、

今はただ、かずさの寝顔を見ていたかった。

   










5-2 春希 麻理のマンション 1/7 金曜日 13時






目が覚めると、体中の節々が痛い。

起き上ろうにも体がいう事をきかないので、起き上がることを諦める。

わずかな首の可動範囲と、目だけを動かし周囲を見渡すと

隅の方に雑然と衣類が詰まれていた。

主に女性物の衣服であることが確認できたことで、ようやくここが麻理さんの

マンションであることを思い出せた。



春希「麻理さんに・・・・・・・。」



独りごちるもむなしく声が響き渡るのみ。

意を決して、体が悲鳴を上げるのを極力無視して起き上がる。



春希「っつぅ・・・・・・。」



軽くストレッチをするだけでも、ゴキゴキと体から音が鳴る始末。

ようやく一息つけるような体になったころには、空腹を覚えていた。

それもそのはずだった。リビングのテーブルには、今朝の朝刊があるが

その日付は2日後の1/7を示していた。



春希「まじかよ。」



新聞をめくるも頭に入ってこないので、読むのを諦め、テーブルに新聞を戻す。

その時、テーブルには仕事で見慣れている麻理さんの文字で書き置きが

残されていたのを発見した。



麻理「北原へ。


   起きたら私に電話すること。

   なにがあっても私に連絡がつくようにしておくから、必ず電話しろ。
   

   風岡麻理 」



麻理さんらしい言いたいことのみを示した簡潔な文章に心が安らぐ。

俺に気を使っていながらも、絶妙な距離感を保ってくれる。




だけど、今までよりは一歩、いや、

二歩以上も俺に近づいてきてくれていると実感できた。

そんな新しい関係が心地よかった。



さすがに喉が渇ききっていたので、電話をする前になにか飲み物をとキッチンに

向かい、冷蔵庫を開けてみると、見ごとにビールを中心とした酒類と

申し訳程度のおつまみしかなかった。

どうにか炭酸水だけはあったので、瓶を取り出し、一気に喉に流し込む。

強い炭酸が喉ではじけ、大きくむせかえる。

炭酸水なのだから、いつもなら一気に飲むはずもないのに・・・・・。

食事もしていないから、栄養不足の脳が悲鳴を上げ、ストライキをしているらしい。

先に食事をして、脳に餌を与えてからの方がまともな会話ができるとも考えたが、

一刻も麻理さんに無事を、というか、麻理さんの声が聞きたかったので、

脳のブーイングをスルーして携帯を探すことにした。



麻理「はい風岡です。お世話になっております。

   ・・・・・・・はい、資料は用意できていますので、

   後ほど折り返し連絡をいたします。」



麻理さんに電話をしてみたものの、意味不明な事務連絡を伝えられ、

あっさりと電話を切られてしまった。

たしかに麻理さんだと名乗っていたし、麻理さんに違いない。

もしかしたら、着信表示を見ないで出たのかもと考えていると、

麻理さんからの着信が鳴り響いた。



麻理「やっと起きたのか。さっきは、すまなかったな。

   さすがに編集部内で話せる内容じゃないからな。

   ただでさえ噂になってるのに・・・・・。」



どうやら周りの目を気にしての発言だったらしい。

よく考えれば、「折り返し連絡いたします。」と言ってる。

麻理さんの声を早く聞きたく電話したが、やっぱり頭がまわっていない。



春希「麻理さん、おはようございます。色々ありがとうございます。」

麻理「それは私が好きでやってることだから、気にするな。

   それにしても、「おはようございます。」って時間ではないだろ。

   もう1時を過ぎているぞ。」




春希「それは・・・。新聞で二日も寝てたことは理解してたのですが、

   時計までは。たしかに日が高いですね。」



窓の外の見上げると、太陽の光が心地いい。

眩しさが無理やり脳を活性化させているようだった。



麻理「寝すぎて脳が働いてないみたいだな。食事はとったか?」

春希「いいえ、まだです。早く麻理さんの声を聞きたくて、電話を優先させました。」

麻理「っつぅ~・・・・・。」



何かがぶつかり落ちる音がした。麻理さんの声にならない悲鳴も聞こえてきて

不安を覚える。



春希「大丈夫ですか?」

麻理「大丈夫なものか!」

春希「すみません。」



とっさに誤ってしまったが、麻理さんに何があったかわからずにいた。



麻理「すまん。北原が悪いわけじゃ・・・・・・ないってこともないか?」

春希「なにがあったんです? 

   俺に責任があるなら、教えてもらえないと対処のしようも。」

麻理「気にするな。」

春希「そうですか。」



なにか釈然としないが、これ以上この話題を引っ張ってもろくなことはない気もする。

それに、麻理さんの声も棘があるし、触らないほうがいいか。



麻理「体調の方はいいのか? 気持ち悪いとか頭が痛いとか

   体の異変がちょっとでもあるんなら言ってくれ。

   お前は、自分が思っている以上に体にも精神にも負担をかけてたんだからな。」



切り替えが早い麻理さんは、一瞬にして棘は抜け、俺をいたわる麻理さんになった。

人によっては事務的な会話に聞こえてしまうが、

俺にとっては最高に優さを感じる会話だと思える。






春希「寝てたせいで体が若干重いですが、体調面では問題ないと思います。

   それに、精神面でも麻理さんに癒されましたから。」

麻理「そ・・・・そうか。」



裏返った声が聞こえたが、これも言わないほうが無難なんだろうな。

そう思うと、こっちも何を言ってらいいか迷ってしまっていた。



麻理「何か言ってくれよ。」

春希「・・・・あぁ、すみません。」

麻理「本当に体大丈夫なのか? 無理してるんだろ。

   やっぱり今すぐ帰るから、そこでおとなしくしてろ。」

春希「大丈夫です。・・・・・・本当にだいじょ・・・・・・。」



俺が弁解しようとしたときには電話は切れた後だった。

話の途中で聞くのをやめ、反射的に行動するなんて、今までの麻理さんからは

想像もすることができなかった。

それだけ心配させることをしでかしてしまったかと思うと、情けなく思えてしまう。

それと同時に、許されないことだと分かっているけど、麻理さんの優しさが

なによりも嬉しかった。



春希「って、感傷に浸ってる場合じゃない。早く麻理さんを止めないと。」



俺はすぐさま麻理さんに電話した。

















5-3 かずさ 冬馬邸 1/7 金曜日 13時過ぎ








曜子「かずさ、食事持って来たわよ。一緒に食べましょう。」

かずさ「ありがとう、母さん。・・・・・今日も仕事休んで大丈夫なのか?」



かずさが倒れて以来、曜子はホテルを引き払って冬馬邸に移っていた。

もともとコンサートが終われば、コンサート前ほどマスコミの相手をするわけでもなく、

仕事といってもニューイヤーコンサートのBD・CD発売に向けての打ち合わせが

ほとんどであった。

そのことを考えれば、かずさに気兼ねなく付きっきりになれる状況であったのは

幸いともいえる。

ただ、打ち合わせの調整を全て任された美代子さんの負担は計り知れない。

美代子さんも、曜子がかずさにつくことに積極的に後押しをしているので

曜子はかずさが全快するまでかずさ中心の生活を送るつもりでいた。



曜子「それは昨日も言ったでしょう。仕事は、もうそれほど残ってないの。

   でも、日本での休暇を楽しむのも仕事のうちっていったら、

   仕事は残ってるわね。」

かずさ「だったら、あたしなんか置いて、温泉でもどこでも行ったらいいじゃないか?」

曜子「温泉なんかより、かずさの看病している方がよっぽど充実した休暇になるわ。」

かずさ「人が病気になってるのを見て楽しむなんて、悪趣味だぞ。」

曜子「そんな趣味ないわよ。

   ・・・・・・・・・・たまには母親らしいこともしてみたいなって。」



曜子は、かずさの手を握り、少し恥ずかしそうに言った。



曜子「ダメかしら?」



あの自信家で、天真爛漫で、策略家の冬馬曜子が、下手に出て

かずさに甘えようといていた。

曜子を知るものが見たら、これさえも曜子の計画かを思ってしまうかもしれないが

かずさには、曜子の気持ちを素直に受け取ることができた。

たとえ3年間すれ違いをして離れて暮らしていても、

かずさは生まれてからずっと曜子のことを見てきている。

母親冬馬曜子に関しては、かずさ以上に知っている人間などいないのだ。




かずさ「駄目じゃない。むしろ、・・・・・・居てくれた方が助かる。」

曜子「ありがと。それと、私に気を使うんじゃないわよ。

   好きでやってるんだから。それっじゃあ、食べましょうか。」



曜子は、屈託のない笑顔でそう宣言すると、持ってきたトレーをかずさに渡した。











曜子「そんなに美味しくない?」



あまりにもかずさが美味しそうに食べてないので、

曜子は、かずさのおじやを勝手に試食する。

たしかに、病人が食べやすいようにハウスキーパーが料理したが、

昨日よりも体調がよくなったかずさ用に味の調整はされているはずだった。



曜子「おじやなんて、こんなものじゃないか?」

かずさ「病人なんだから、美味しそうに食べる訳ないだろ。」

曜子「そう?

   でも、なにか一口食べるごとに土鍋を睨んじゃって、

   見てる方としては美味しくないんじゃないかって疑っちゃうわよ。」

かずさ「ほんとうになんでもないんだ。

    ・・・・・なんでも・・・・・・・ない・・・・

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わけない。」



かずさがれんげを落とし、土鍋の淵に当たり鈍い音が響く。

曜子がれんげを拾い、かずさのトレーを取り除いてあげると、

かずさはそのまま泣き崩れた。



曜子は、かずさになにがあったなんてわかるはずもなかった。

しかし、なにが原因で泣いているかだけは確信できている。

かずさが思い悩むことなんて、北原春希以外にありえなかったから。



曜子は、かずさが泣きやむのを黙って待つ。

春希のことを聞きだすのでも、慰めるのでもない。

曜子には、自分にできることの限界があることが分かっていた。

今は待つことしかできなかった。






5-4 春希 麻理のマンション 1/7 金曜日 14時頃







結局のところ、麻理さんに再び電話してみたが、電話に出てもらえることはなかった。

麻理さんのことだ、仕事を抜け出してくるとしても、

そのまま放り出して来ることはないはず。

ならば、来るまでにはもう少し時間かかるかな?

それにしても、あの麻理さんが仕事より優先するものがあることに驚きだ。

でも、部下の管理も仕事のうちか・・・な?

と、麻理さんが来る時間があるので、部屋の掃除をすることにした。

恩返しにもならないけど、やらないよりはましだ。








麻理が帰宅すると、部屋の中は静かだった。

リビングは綺麗にかたずけらている。寝室に行くとベッドはシーツはとりかえられ、

掛け布団は干されているのか寝室にはなかった。

キッチンものぞいてみたが、使った皿類が洗われシンクも掃除され、

自分の部屋ではない感じがする。

春希がいないのも自分が部屋を間違えたからではと疑ってしまう。



麻理「北原?・・・・・・北原いないのか!」



春希を呼んでみたが、返ってくる返事はなかった。

もしやトイレなら、とかすかな希望をもって点検したが、やはりいなかった。

最後にいないとは思うがバスルームもチェックしておくかと扉を開けたところ、



春希「麻理さ・・・・・ん、お帰りなさい。」



タオルで体を拭き、バスルームから出てくる春希と遭遇した。



麻理「ただいま。」



春希を凝視する麻理。春希が裸であることを認識し、

春希の顔から視線を動かせないでいた。






麻理「すまない!」



慌て謝罪する麻理さんだったが、あまりにも気が動転していて、

目を瞑ることさえできないでいた。

春希も動揺していたが、あまりにも慌てふためく麻理を前に、自分が動揺することさえ

忘れてしまい、冷静さを取り戻していた。



春希「できれば後ろを向いてくれませんか。」

麻理「どうして?」

春希「どうして?って、俺、今裸なんですけど・・・・。」



ここまで麻理さんの思考が停止してるとは。

呆けた顔で俺を見つめていた麻理さんは、俺の声に反応したのか、

視線を顔からゆっくり下に移していく。

そして、俺の下半身で目が止まると、後ずさりをし、勢いよく扉を閉めた。



麻理「北原すまない! 私は今の状況が呑み込めていないんだが、

   どうして北原は裸なんだ?」

春希「2日も風呂に入ってなかったので、肌がベトベトだったんですよ。

   さすがに麻理さんが戻ってくるんなら、臭いも気になりますし

   勝手に風呂借りるのは悪いと思ったんですが、勝手に使わせてもらいました。」



ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえる。

声からの推測にすぎないが、わずかだが落ち着きを取り戻してくれたみたいだ。

ドアから布が擦りながら落ちていく音がした。最後に堅いものが打ち付けられる音が

したことから、きっと麻理さんがドアに寄りかかって座っているのだろう。



麻理「そうか。・・・・別にバスルームくらい勝手に使ってもいい。

   とり乱してすまなかった。

   それと、・・・・・・裸見て悪かったな。」



今さらながら俺の方が恥ずかしくなってきてしまった。

麻理さんが落ち着いてきた分、それが俺の方に乗り移ってしまったのかもしれない。



春希「いえ、気にしないでください。」

麻理「気にするなって言われてもな。」





春希「はは・・・・・。そうですね。」

麻理「そうだ。」



麻理さんも再び恥ずかしさを取り戻したようで、お互い気まずい雰囲気になってしまう。

このまま裸でいる訳にもいかないので、落ち着いたふりをして、声をかけた。



春希「なにか着替えるものありませんか?

   このままだと、さっきまで着ていた汗だくの服を着ないといけなくなるので。」



言い終えた瞬間に、俺は馬鹿なことを言ってしまったと気がつく。

麻理さんの部屋に男物の着替えがあるとも思えない。



麻理「すまない。あいにくお前が着られそうなものはない。

   ちょっと待ってろ。すぐに着替え買ってくるから。」



麻理は床から立ち上がり、すぐさま出ていこうとしたので、

俺は慌てて引き止めた。



春希「麻理さん! ちょっと待ってください!

   俺も行きますから。」

麻理「それはかまわないが、その服着ていかないといけないし、

   気持ち悪くないか?」

春希「買ったらすぐ着替えますから大丈夫ですよ。」

麻理「そうか。だったら、向こうで待ってるよ。」



そう言うと、麻理はリビングに消えていった。

さすがに麻理さんに俺のパンツを買ってもらうわけにはいかないだろ。

麻理さん気がついてないのかな?

麻理さんが照れながらもパンツを選んでいる姿を想像すると、少しおかしかった。











第6話 終劇

第7話に続く








第6話 あとがき






冬が羨ましい・・・・。

冷房ガンガン入れても外に行けば30度オーバー。

体がだらけて動きたくないorz



麻理さんの性格ですが、やはり原作そのものをもってくるのは無理でした。

ストーリーが違えば、性格の違いもでてくるわけで、

その辺はご容赦ください。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

来週も読んでくだされば、嬉しく思います。






黒猫 with かずさ派






今週も読んでいただき、ありがとうございます。

文章上、現在麻理さんとの肉体関係はありません。

もちろん、後であの時、肉体関係を持っていたなんていう後出し情報を出してしまえばそれまでなのですが、

そのようなこともありませんので、ご安心ください。



第7話 








5-5 春希 カジュアル衣料店 1/7 金曜日 15時前






麻理さんに連れられ、麻理さんのマンションからほど近いカジュアル衣料店に来ていた。

お金を節約したい学生としては、無駄な出費は抑えたい。

だからといって、安くても2度と着ないような服は買いたくない。

それを考慮して連れてきてくれた結果がここというわけだ。



麻理「これなんか似合うんじゃないか?」

春希「そうですか? あ、ちょっと待ってくださいよ。」



北原に似合う服を見繕ってやると宣言され、今や俺は、麻理さん専用のマネキンに

任命されてしまった。

俺に服をあてては真剣に悩む麻理さんは、仕事場とは違った無邪気さをはっきしていて、

かわいく思えてしまう。



麻理「私のセンス疑ってるんだろ?

   私がスーツしか着てないなんて思ってないだろうな。」

春希「思ってませんよ。今着ている服だって、とても似合ってて綺麗ですよ。」

麻理「そうか? だったら、よし。」



麻理さんは、鏡で自分の服を確認し、両手で小さくガッツポーズなんてするものだから、

あまりにもおかしくて、あまりにも愛らしい。

かずさへの想いを最優先にするなんて言っておきながら、

目の前の麻理さんといることに喜びを感じてしまうなんて、

俺って薄情だなと思いながらも、麻理さんに再び夢中になりかけていた。



散々とっかえひっかえ着せかえられ、1時間かけてようやく麻理さんが

納得するコーディネートが完成される。

寝まくって睡眠不足は解消されたが食事がまだの俺には、少々きつかった。

しかし、楽しそうなはしゃぐ麻理さんを見ていたいという気持ちが勝り、

俺も時間が過ぎ去るのが気にならなかった。





麻理「こんなものかな。どうだ、北原? 私もやるもんだろ?」

俺と服とを繰り返し見て、自慢げに訴える。

春希「ありがとうございます。あともう一つ買いたいものがあるので、

   ちょっと待っててもらえませんか?」

麻理「なんだ北原。ここまでやったんだ。最後まで私が見てやろう。」



早く案内しろと訴えてくるが、俺はその場を離れることができなかった。

なにせ、欲しいのは下着だし・・・・。

そんな俺の気持ちを察してくれるわけもなく、なかなか動こうとしない俺に

業を煮やして、ついには俺の腕を引っ張っていこうとする始末。

これ以上ここで押し問答をしても解決するわけもないので

麻理さんがどんな反応をするか予想がつくけど、

ストレートに俺が欲しいものを伝えよう。



春希「麻理さん!」



意を決した俺の声は、勇気を振り絞って声を出してしまったため、

大きくなってしまう。

そんな俺を見て、麻理さんは、きょとんとして俺を見つめかえす。

この人は、本当に気がついてない。

平日の昼間ということもあって店内には客は少ないが、注目されてしまったのは事実。

どうしたものか・・・・・。



春希「麻理さん、ちょっと。」



麻理さんの手を引っ張り、人がいない場所に移動する。

訳も分からず連れて行かれた麻理さんは、頬を染めながらも困惑気味であった。



麻理「北原、どうしたっていうんだ。」

春希「大声出してしまって、申し訳ありませんでした。

   それで、俺が買おうとしている品なんですが・・・・。」

麻理さんの耳元に寄り、小声でささやく。

春希「下着が欲しいんです。」



お互い密談しているというシチュエーションもあって、照れてしまうが、

俺の発言を理解した麻理さんは、俺の比ではない。

麻理さんは、その場でフリーズするも、風呂場での一件でわずかな耐性ができたらしく、

すぐさま再起動を開始できたようだ。






麻理「察してやれなくて、悪かった。・・・・・外で待ってるから。」

春希「はい。支払いを済ませた後、すぐ行きます。」



俺の返事も聞き終わらないうちに、麻理さんは、なぜかロボットのような歩行で

駆け去って行く。

いまどきの中学生でも、もっと落ち着いた対応できるはずなのに、

恋愛に大きなブランクがあるとここまで退化するのかなと、ほほえましく思えた。

人のこと言えないのが痛いけど。
















5-6 かずさ 冬馬邸 1/7 金曜日 14時頃








曜子は、自分の食事をとることもなく、かずさの気持ちが落ち着くのを待っている。

話しかけることも、かずさを見つめることもせず、

ただかずさに背を向けて窓の外を眺めていた。

心地よい日差しが曜子をくるみ、静かな午後が眠気を催そうとしていたが、

ようやく重たい口が開く。



かずさ「作ってくれたんだ。

    学園祭直前、あたしが倒れた時、春希が雑炊作ってくれたんだ。」



かずさの声で瞬間的に覚醒した曜子は、かずさの方に振り向く。

かずさは、春希の幻でも見ているかのように語ってくる。



かずさ「料理へたくそなくせに作ってくれたんだ。

    あいつの料理を食べたのなんて、あれが最初で最後だったけど

    今でも覚えてる。

    すごく美味しいってわけでもないし、全然普通の味だったけど、

    脳が記憶しちゃって、忘れることなんかできやしないんだ。」




ときたまかずさの視線が曜子と重なることがあっても、

かずさの視線の先には曜子はいなかった。

曜子は、自分の方が幻なんじゃないかと錯覚してしまう。



かずさ「優等生のくせに、朝あたしが来ないからって、学校抜け出して

    あたしを探しに来てくれたんだ。

    電話に出なくても、それくらい気にしないでほっとけばいいのに、

    わざわざ来ちゃうんだ。

    風邪で弱ってるあたしに付け込んでくれればよかったのにって

    腹立たしく思ったりもしたけど、そんなことしたら蹴り飛ばしてたかもな。」

曜子「もう少し素直だったらよかったのにね。」

かずさ「母さん? ああ、そうだな。

    もう少し素直で、もっとずる賢かったらって思うこともあるよ。」



かずさが曜子の存在に気がつく。

本当に曜子の存在を忘れていたと分かった曜子は、苦笑いするしかなかった。



曜子「あなたには、ずる賢い女なんて似合わないわよ。

   でも、素直になるのは必要ね。」

かずさは、曜子の提案に深くうなずく。

かずさ「そうだな。あの時、あたしの方から迫って、もし駄目だったとしても

    弱ってたから近くにいたお前にすがってしまったなんて

    計算づくで演じることなんて、あたしには無理だろうからな。

    後になって、あの時ああすればよかったって考えることはできても

    あたしには、それを実行することなんて、この先もできそうにないな。」

曜子「そんな計算づくのあなたなんて、魅力的じゃないわよ。

   きっと春希くんも、そう思ってるんじゃない?」

かずさ「どうだか?」



一通り話すことは話したのか、かずさは口を閉ざし、幻と会話を始める。

その姿が、曜子が見たこともない女の顔をしていて、

同じ女であったとしてもドキリとした。

艶っぽくて、そして、彼に素直に接している姿は、さっきまで素直になれないと

嘆いていた少女だとは思えなかった。



曜子「それで、この先どうするつもりなの?

   なにもしないでウィーンに戻るのは、お勧めできないわ。」

かずさ「母さんに頼みがあるんだ。」

かずさは、幻と別れ、曜子をはっきり見つめて告げた。











5-7 春希 スーパー 1/7 金曜日 16時頃








支払いを済ませ外に向かうと、何もなかったかのように麻理さんは笑顔で俺を

迎えてくれた。

といっても、俺の顔を見ようとはしてくれないけど。

俺も、もし視線が交わってしまったら、どうしたらいいかわからなくなって

しまうと思う。しかも、お互い街の真ん中でフリーズ状態で見つめあってるなんて

考えただけでも恥ずかしかった。



麻理「さあ行くぞ。私がよく行くスーパーで、ワインの取り扱いも豊富なんで

   重宝してるんだ。24時間やってるのも助かる。」



出かける前にキッチンを見てきたが、麻理さんがワインやビールがメインなのは

明白である。麻理さんの需要からすれば、そのスーパーは麻理さんのリクエストに

見事応える店なんだろうと思っていたが、思いのほか、野菜や魚、調味料まで

豊富に取りそろえている。

麻理さん、偏見を持ってごめんなさい。

でも、麻理さんがいうように、酒類の取り扱いも素晴らしく充実してたけど。



春希「麻理さんは、ここのお弁当をよく買うんですか?」

麻理「なんでお弁当限定なんだ? 野菜とか肉とかも、たくさん売ってるだろ?」



麻理さんは心外だという顔を見せ、むくれてしまう。

今日は、いろんな麻理さんの表情を見られる日だなって、嬉しく思っていると、

その表情が馬鹿にしていると感じた麻理さんは、眉間にしわが寄ってきた。



春希「すみません。そんなつもりはなかったんです。」

麻理「そんなつもりってどんなつもりだ?」

春希「それはその・・・・。」



墓穴を掘った俺は、素早く敗戦処理をしなくてはならなく、






春希「ここのスーパーのお弁当美味しそうじゃないですか?

   それに外食ばっかだと飽きるし、それに・・・・・・。」



麻理さんの視線を見ないように顔を背け、本当に言いたかったことを

付け足しのようにつぶやく。



春希「麻理さん、料理全くしていないみたいでしたし・・・・・・。」

麻理「聞こえてるぞ、北原。」



麻理さんは、俺を睨めつけながら、俺が逃げないように腕をからませてきた。

麻理さんの柔らかい感触が俺の腕に押し返されて形を変え、じかに温もりを伝えてくる。

なんで俺はここにいるんだっけ?

そもそも、麻理さんが編集部から戻ってきた時点で、俺が家に帰れば済む話じゃ

なかったのだろうか?

着替えなんか買いに来なくても、電車で帰るくらい我慢できたはず。

現に、今だって服は買っても着替えないでいるし。

俺が難しい顔をしていると、逆に麻理さんの方が気を使って自虐ネタを披露してきた。



麻理「悪かったな。料理できなくて。だから、男にも振られるんだ。

   お前の言う通り、ここのお弁当だって全て制覇してる悲しい女だよ。

   栄養だって偏ってるし、年を重ねるごとに肌の張りだって・・・・・・。」



自虐ネタを演じようとしたら、本当に落ち込みだした麻理さん。

これはやばいと感じた俺は、笑顔を引き出して、フォローに回る。



春希「料理できなくたって、それ以上の魅力が麻理さんにはありますよ。」

麻理「例えば、何があるんだ。」



ぐずった声で、上目遣いで迫ってくるのは反則ですよ、麻理さん。



春希「えっと、仕事ができること。アネゴ肌で面倒見がいいところ。

   先頭きって突っ走る強いところ。・・・とか?」

麻理「それは全部仕事のことじゃないか。」



涙目になって今にも泣きそうになってるのは、

ここが酒コーナーに近いからだからですか。

酒なんか飲んでいないのに、感情の起伏が激しくなってる気がした。





いつもは感情をコントロールして、仕事に徹しているあの麻理さんが、

素顔の風岡麻理を俺に見せてくれてるのか?

それは、大変光栄なことだけど、それって、つまり、そうなんだろうか・・・・・・。



春希「あとはですね・・・・。」

俺の頭に、今日見てきた麻理さんがよぎる。

春希「例え勘違いであっても、大変な時には仕事を放り投げても助けに来てくれる

   ところですかね。それに、普段は熱血漢でクールに仕事してるのに、

   ちょっと抜けてるところがあって、それがなんか見ていてかわいいなって、

   思えてしまうんです。顔を真っ赤にするところなんて、

   中学生かよって言いたくもなるくらい愛らしくて。

   ・・・・えっと、まあ、そんな感じです。」



妙に恥ずかしいことを語ってしまった俺は、最後だけはぶっきらぼうに締めた。



麻理「そうか。」



俯く麻理さんは、まさしく俺が言った中学生そのものだった。

しかし、腕から伝わる感触は、まさしく大人の魅力そのものであって、

大人と少女の魅力を両方兼ね備えた麻理さんは、暴力的な魅力をふるっていた。

俺は、これ以上はまずいと思い、話を切り替える。



春希「そういえば、編集部の方は大丈夫なんですか?

   麻理さんが突然抜けたら、泣き出しそうなメンツがそろってる気も。」

麻理「その辺は大丈夫だ。しっかりと割り振ってきたし。

   それに、普段からこういう時があっても大丈夫なように、鍛えてきたつもりだ。」

春希「それはそうですけど、麻理さんが仕事を抜け出してくるなんて、
   想像できませんでした。」

麻理「それは私自身も驚いてる。この私が嘘をついてまでして

   仕事を放り投げたんだからな。」

春希「すみませんでした。」

麻理「いや、いい。私の勘違いもあったんだし。

   それに、嘘をついたのも私がしでかしたことなんだから。」

春希「麻理さん。」



麻理さんは、本当に後悔なんてしていないって伝えようと、笑いかけてくる。

俺、はそれにどう応えればいいか、わからなかった。





麻理「それで、北原は何を御馳走してくれるんだ?」



もうこれで仕事の話は終わりってことなんだろう。

麻理さんの優しさに素直に乗っかることにしよう。



春希「難しいものじゃなかったら、リクエストにこたえますよ。」

麻理「本当か? う~ん・・・・。なにがいいかなぁ。」



考えに集中してるせいか、俺に体重を預けてくるせいで、

ますます麻理さんの温もりが伝わってきてしまう。

そんな俺の苦労なんてつゆ知らず、麻理さんは真剣に悩んでいた。



麻理「オムライスがいいな。卵が半熟なやつ。

   これだったら、できるだろ?」

春希「うまく半熟にできるかわかりませんが、オムライスくらいなら作れますよ。」

麻理「よし、決まりだ。そうと決まれば、さっさと買いものを済ますぞ。」

春希「ちょっと待ってください。そんなに引っ張らなくても・・・・。」



元気よくぴょこぴょこ揺れる黒髪を見つめながら後を追う。

普段からは想像もできないはしゃぎようにうれしい戸惑いを覚えていた。



春希「そういえば、麻理さん。」

麻理「なに?」



勢いよく振り向くものだから、組まれていた腕が引っ張られてバランスを

崩しそうになる。



麻理「あっ・・・、すまない。」

春希「大丈夫ですよ。」

麻理「それで、なに?」



謝っておきながら、全然反省しているとは思えない。

笑顔で謝るなんて反則すぎます。

思わず見惚れてしまいました。



春希「あっ、はい。台所を見たところ、フライパンなどの道具は揃ってたんですが、

   調味料とかは全くないですよね?」




麻理「砂糖と塩くらいならあるんじゃないか?」

春希「それだけで、どうやって料理するんですか。」



この人の壊滅的な生活能力にため息が漏れる。

洋服も脱いだまま散らかってたし、俺の周りには、

生活能力がゼロか100かのどちらかに偏っている人物しかしないのではないかって

本気で信じてしまいそうだ。



麻理「あとは、えぇ~と・・・・・、マスタードとか?」

春希「マスタードをどうやってオムライスに使うんですか?」

麻理「世の中にはいるかもしれないぞ。」

春希「だったら、麻理さんのオムライスにはマスタードを入れますね。」

麻理「北原が、い・じ・め・るぅ」



甘えた声で訴える麻理さんをみていると、

なんか、俺が勝手に作っていた風岡麻理のイメージが壊れていく。

大人の女で、面倒見がいい姐御肌。

仕事に情熱を注ぎ、誰よりも自分の仕事に厳しい。

生活能力はないけど、そのマイナス面でさえ魅力だと感じてしまうほどの安心感。

だけど、今、目の前にいる麻理さんは、そのどれにも該当しなかった。

あまりにも無邪気で、どこまでも愛らしい姿をしている。

そんな風岡麻理の全てを見逃すまいと目が追っていた。



春希「それにしても、フライパンだけじゃなくて、包丁まですごいのそろってますね。

   それほど料理に詳しくなくても、名前を聞けばわかるような高級器具でしたし。」



オレンジ色のホーロー鍋や、有名フライパンセット。

包丁にいたっては、用途別にそろえられた包丁セットだけでなく、

見るからに切れ味が抜群そうな輝きをもつ鋼の日本包丁。

しっかりと製作者の名前まで掘られていて、調べればすぐに名前が出てくるのだろう。

そんな一流器具が新品のまま埃をかぶっていた。



麻理「ああ、あれね。あの部屋に引っ越した時に、佐和子とそろえたのよ。

   使うわけないのに、この部屋だったら似合うだろうって。」

春希「なんとなく想像できます。」

麻理「誉めてないだろ。馬鹿にしているのがまるわかりだぞ」




怒ってないのに怒ったふりをする麻理さんを、ほほえましく思える。




この数日抱えていた溶けない悩みを、優しく包みこんでもらっている気がした。

けっして解決できない悩みを無理やり解決するのではなく、

寄り添って痛みを忘れさせてくれる。

それは依存であって、誉められた対処法ではないのかもしれないけど、

今の俺には必要だって思えた。



結局麻理さんは、レジで会計をするまで腕を離してくれなかった。

俺も、それを指摘することはない。

それにしても、あんなにお腹すいていたのに、

麻理さんがいてくれるだけで空腹感を忘れてしまうなんて、現金なものだな。















5-8 曜子 冬馬邸地下スタジオ 1/7 金曜日 17時頃









曜子「病み上がりに録音しなくてもいいんじゃない?

   練習不足もあるだろうし。」

かずさ「大丈夫。・・・・・今の気持ちを残しておきたいんだ。

    それに、無理言って機材用意してもらった美代子さんにも悪いだろ?」



そう宣言するかずさの顔色は、けっして良いとは思えなかった。

透き通るような白い肌は、今は寒々しいほど白い。

しかし、鍵盤を走り抜けるかずさの指先は、病気だったことを感じさせなかった。

むしろ邪念が抜けた分だけ余計な力が入っていない。

以前、曜子がお色気全開のピアニストと揶揄したことがあったが、

その評価は今も変わっていない。

ただ、一つ変わったことがあるとしたならば、

・・・・・・・・・・・・いや、以前から全く変わってなどいなかった。

かずさは昔も今もまっすぐ北原春希のみを見つめていたのだ。

それを意識して全面的にピアノで表現しているかいないかの違いがあっても、

かずさの本質は変わることなどない。




聴く者によっては不幸の谷底に叩き落とされる音色。

あまりにも純粋すぎる吐息は、人の建前や社会的地位などを崩壊させてしまう。

それほど一途なピアニストを見て、曜子は寒々しいほどの興奮を覚えた。

一方で、母親としては、力になりたいと思う気持ちがわいたが、

それと同時に、女としては、北原春希に強い関心が芽生えた。



曜子「別に今すぐ録音する為に、美代ちゃんを呼んだわけじゃないのよ。

   たまたまスケジュールが空いてただけなんだから。

   それでもあなたやるつもり?」



我ながら建前すぎるセリフを吐くもんだと辟易していたが、

手だけは録音の準備を進めている。

この瞬間のかずさを切り取りたいという願望の方が強かった。

今この場にいられることに感謝さえしている。

コンサートで、身が震えるほどの感動を覚えた演奏に出会ったことはあった。

なんども繰り返されるコンサートであっても、その時その時によって

演奏は微妙に変わってくる。

気候によっても音色は変わるし、奏者の精神状態によっても変わる。

ただ、そんな違いがあっても、何度も繰り返されるコンサートのなかの一回にすぎず、

いずれ感動も薄れていってしまう。

この瞬間でしか聴くことができないという演奏には出会ったことがない。

たった一度。冬馬かずさのこれから演奏される音色は生涯で一度きりだろう。

それも、特別すぎるほどに特別な演奏。

だから、これから始まるここにはいないたった一人ためだけに開催されるリサイタルに

第3者としであっても居合わせることができて、これほどまでの幸運はないと思えた。



かずさ「準備できた?

    早く始めたいんだけど。」

曜子「もうできるわよ。一応美代ちゃんがいたときに全て準備は整えたから。

   だけど、もうちょっとだけ待ってちょうだい。」



そう言うと、曜子は録音開始ボタンを押し、

最高の演奏が聴ける席に移動させたソファに身を沈める。



曜子「じゃあ、始めてもいいわよ。」




かずさは、返事の代りに一つ深呼吸をする。

吐き出した空気さえも演奏の一部だと感じてしまうのは、

かずさの存在そのものが芸術へと転化してしまっているからだろう。

曜子は、二つの呼吸と二つの鼓動を、一つの呼吸と一つの鼓動にしてしまいたいジレンマ

をかかえつつ、歓喜の瞬間を待った。

そして、かずさが最初の音色を紡ぎ出す。










第7話 終劇

第8話に続く











第7話 あとがき





自分が書くときの特徴といいますか癖なのですが、

登場人物が少ないです。

あまり多いとさばききれなくなりますし、なによりも人物像が浅くなってしまいので

ばんばん登場人物を増やすことはできません。



さて、小木曽雪菜は、まだ登場していません。

そのことについては、申し訳ありませんが、なにもコメントできません。



来週も、火曜日、同じ時間帯にアップできると思います。

また読んでくださると、大変うれしいです。





黒猫 with かずさ派





今週も読んでいただき、ありがとうございます。

世間では、連休というものがあったらしいですが

風邪をひいた自分は、一歩も外に出ることなく過ぎ去っていきましたorz

やはり書いてる物語でもそうですが、冬が一番っすw




第8話







5-9 春希 麻理宅 1/7 金曜日 17時30分頃







チキンライスの食欲をそそる香りがキッチンに充満する。

腹ぺこの俺だけではなく、麻理さんも臭いにつられて俺がふるうフライパンを

俺の邪魔をしないようと後ろから覗き込んでくる。

しかし、俺の両肩に手をのせるのはいいのだが、

背中に柔らかいふくらみを押しつけるのはやめてもらいたい。

ただでさえ俺の首元から覗き込む横顔にどぎまぎしてしうのに。

胡椒やケチャップを取ってほしいとお願いすれば、

喜んでサポートしてくれる。

でも、それが終わると麻理さんの定位置となった俺の背中に戻ってくるのは

もうどうしようもないのだろう・・・・。

揚げ物などをやるとなると危険なので注意する必要があるけど、

今回はそれほど邪魔にもならないので、強くは言えない。

どんな言い訳をしても、こんな状態を喜んでいる自分がいることは

否定などできやしないのだけれど。



春希「チキンライスをよそうお皿用意してくれませんか?」

麻理「これでいいのか?」



あらかじめ用意していたお皿をガス台の側に2つ並べる。

それに手際よく盛り付けると、今回の最難関、半熟玉子の制作に入らなければならない。



春希「さすがに半熟玉子は自信ないので、ちょっと離れていてくれませんか?」

麻理「あぁつ、そうか。そうだな」



麻理さんは、意識しないで俺の背中にへばりついていたことに初めて気が付き、

頬を染める。

俺としては、背中から追い出したいわけではなかったのに、

結果的に追い出してしまったことを名残惜しく思えた。


麻理さんのことだから、意識してしまえば、

俺の背中に自分の意思でやってくることなんて皆無に等しいだろう。



なんて邪念を持っていると、本当に卵を失敗しそうなので意識をフライパンに

堅く結びつけた。



半熟オムライスの成績は、俺としては満足がいく1勝1分けであった。

最初のオムライスは我ながらうまくいったと思う。

だけど、気を良くした俺は2回目の盛り付けで、最後の最後で失敗してしまった。

半熟具合は申し分ないが、形が崩れて卵がやや右寄りになっている。

食べる分には問題ないので、半失敗作は俺の目の前に鎮座している。

麻理さんは、オムライスを並べるときに麻理さんの方に半失敗作を

持っていこうとしたが、

それは丁重に遠慮してもらった。

味は問題ないけど、麻理さんには見た目でもオムライスを堪能してほしい気持ちが

あったから、押し問答の末、どうにか俺が半失敗作を手にすることができた。



麻理「北原は、料理もできるんだな。一家に一人欲しいくらいだよ」

春希「ちょっとは自炊するんじゃなかったんですか?」

麻理「そうだなあ、結局独りだと自炊しないくなる気も」

春希「それじゃあ、最初から駄目じゃないですか」

麻理「私に女の魅力が欠如しているっていいたいんだな。

   どうせ私には仕事しかないし・・・・・・」

春希「そんなこと言ってないじゃないですか。

   もし料理を始めるんでしたら、俺も手伝いますから。

   といっても、俺も人に教えるほどうまくないですけど」

麻理「本当か?」



忙しく表情を変える麻理さんであったが、そろそろ今の笑顔で定着させて

食事に移りたい。

考えてみれば、俺だけじゃなくて、麻理さんも昼食抜きだったはず。



春希「本当ですよ。俺ももっと料理覚えたいと思っていたので。

   それよりも、早く食べましょう」

麻理「そうだな。いただきます」

春希「いただきます」



昼食兼夕食となったオムライスは、空腹以上のスパイスが目の前にいてくれるおかげで

最高の味となった。





麻理「なかなか美味しいな」

春希「よかったぁ」

麻理「何度も味見してたじゃないか。そういう用心深いところは評価できるけど、

   もう少し大胆さも普段から持ち合わせたほうがいいわよ」



たしかに麻理さんの言うことは的を射ている。

普段は用心深すぎるくせに、なにか問題が起きれば、周りの迷惑など度外視して

行動にでてしまう。今までは致命的な失敗をしてきていないから

周りも強く責めはしてこなかったが、社会人となって、社の看板を背負っての

行動となると、そうもいかないだろう。

自分一人の責任ならいくらでも受け入れるが、会社の問題にまでなると

俺一人の問題ではすまなくなる。



春希「そうですね。麻理さんを見習って覚えていきます」

麻理「そうだな。もう少しお前の側にいたかったよ」



麻理さんが春からNYに転勤になることをすっかり忘れていた。

あまりにも今が楽しすぎて、あまりにも麻理さんがいることが当たり前すぎて

目の前にあったはずの現実を見ないようにしていた。



春希「これで会えなくなるわけじゃないですよ。

   いつか日本に戻ってくるんですよね?」

麻理「その予定だが。それでも、3年から5年くらいは向こうだと思う」

春希「だったら、休みをとって会いに行きます」

麻理「北原・・・・・・」



おだやかな頬笑みを浮かべる麻理さん。

年上の女の人だって思えないくらいの無邪気な姿は、

小さいころから隣にいる幼馴染とさえ思えてしまう。

その柔らかい瞳に吸い寄せられていくが、

突如として変化したきつい目つきに驚きを覚える。



麻理「そんな口説き文句は、一番大切な相手に言ってやれ」

春希「麻理・・・・さん」



目の前が鮮やかな色彩から灰色に変わっていく。

俺が選んだ選択肢だったはずなのに、俺が現実に追いついていけない。






麻理「お前は、冬馬かずさを選んだんだろ。

   だったら、これ以上私に優しくするな」



突き付けられる現実に、俺は何も言えないでいた。

かずさを傷つけたくないからって、一度は麻理さんの前から逃げ出しておきながら

今になって麻理さんにすり寄っているなんて、どうしようもない馬鹿男だ。

俺だけじゃなくて、麻理さんも傷つけてしまうってわかっていたのに。



春希「そんなつもりじゃ・・・・・・」

麻理「どんなつもりだったんだ? 

   お前は、私に嘘をつかせて会社を抜けさせたんだぞ。

   こんなこと前代未聞の出来事だ」

春希「すみませんでした。でも、俺は・・・・」



灰色となった世界は、今は何色になってるかさえ判断できない。

麻理さんらしき人が目の前にいるはずなのに、

今は別人がいるみたいだ。



麻理「すまない。嘘をついたのは私自身の判断だ。

   北原の責任は全くない。忘れてくれ」

春希「忘れらるわけないじゃないですか!

   こんなにも優しくされて、なかったことになんかできるわけないですよ」

麻理「だったら、どうすればいいんだ。

   お前は、冬馬かずさを愛しているんだろ?

   それなのに、私は、・・・・私がお前の側にいちゃ、駄目だろ・・・・・」



触れただけでも消え去りそうな麻理さんに、近づくことさえできなかった。

今まで作り上げてきた心地よい距離が、今やどう距離を取ればいいかさえ

わからなくなってしまっている。

一歩踏み込めば、離せなくなる。

一歩遠のけば、一生会えない気がした。

しかも、今のままでいることは許されないだろう。



春希「でも、・・・・・麻理さん!」

麻理「北原は、もう大丈夫。進むべき道が決まったから。

   ここにいちゃ駄目なのよ。

   これを食べたら、家に帰りなさい」






春希「帰りません」

麻理「帰れ」

春希「嫌です」

麻理「頼むから」

春希「麻理さんの側から離れません」



麻理さんが目を見開き悲しい喜びを受け取る。   

最悪な選択だってわかってる。麻理さんを傷つけるだけだって、わかってるのに。

俺の一方的な我儘で、その手を離せないでいた



麻理「お願いだから、私を喜ばせないでくれ。

   それとも、私を愛人にでもするつもりか?

   別に、私は構わないぞ。どうせ仕事ばかりで、家庭に割く時間なんて

   ほとんどとれないんだ。

   気が向いたときに会うなんて、素晴らしいじゃないか」



最低な自虐を披露する麻理さんだったが、一言つぶやくごとに自分を鋭くえぐる。

いつもの自虐ネタなどではない。

自分を傷つけるために言ってるとさえ思えた。



春希「そんなことできるわけないじゃないですか。

   麻理さんを傷つけることなんて、できやしない」

麻理「ふざけるな!

   北原が今していること自体が私を傷つけているのよ。

   散々私を喜ばせて起きながら、最後の最後で絶望に突き落としてるのが

   理解できないでいるつもり?」



全てを、俺のことさえも理解している麻理さんに何も言えない。

沈黙しか許されていなかった。



麻理「もういい」



そう小さく愚痴ると、俺の横まで歩み寄り、俺の肩に手を置く。



春希「麻理さん?」

麻理「もういいや。今夜だけでいい。今夜だけ、私のものになって。

   そうすれば、私が全てを抱えてNYまで行ってやる」






そういうと、麻理さんは、かがみこみながらキスをしようとせまってくる。

何も言えず、何も考えられなかった時間が動き出す。

3年前の光景が鮮明に脳裏に映し出す。

長い一日だったはずなのに、1秒で全てが再生され頭に叩き込まれる。

かずさの本当の想いを知らずに抱いたあの夜。

喜びをかみしめていた俺の横で、一夜限りの契りを胸にやってきたかずさのことなど

気が付きさえできなかった。

今度は、麻理さんがかずさと同じ道を行こうといいる。



春希「できません。麻理さんが一人で全て抱えてNYに行くっていうなら、

   キスなんてできません」

麻理「私は、それで満足だっていってるんだぞ」

春希「それだと、かずさと同じじゃないですか!」



先日の俺の身を切りさく告白を思い出し、麻理さんもショックを隠せない。



麻理「冬馬かずさが・・・・・そうだったな」

春希「ええ、そうですよ。俺は、かずさの気持ちに気が付きもせずに、

   他の女性と付き合っていたんです。

   かずさが俺のことなんて、好きになるわけないって自分で決めつけて

   結果的には、彼女もかずさも二人とも悲しませてしまったんですよ。

   そして、今、麻理さんがしようとしていることは

   3年前のかずさと全く同じことだったんです」

麻理「そうか。・・・・そうだよな。そうするしかないんだ」



焦点が定まらず、痛々しい笑いを洩らす麻理さん。

そんな麻理さんを、ほっとけるわけもなく・・・・。



麻理「北原・・・・・」



俺の腕の中にいる麻理さんが、顔を上に向け、俺を見つめてくる。

俺はついに麻理さんの手を掴んでしまった。

一度手にしたら、離すことなどできないって理解しているのに。

俺と視線が交わると、麻理さんは視線を外し、俺の胸に頬を擦りつけてきた。



麻理「もういいよ。わかったから。

   お前は、とってもひどい男だって理解してしまったよ。

   だから、お前は私を離してくれないんだな」




春希「そんなつもりじゃ・・・・・」

麻理「だから、もういいって。

   半分だけNYに持っていってやる。

   だから、お前は責任もって日本で半分管理しろよ」

春希「え?」

麻理「別にキスしろっていうんじゃないぞ。

   私に少しでも好意をもっていたことを忘れないでいてほしいんだ。

   私も、お前が好きな気持ちを忘れずにNYに行くからさ。

   一人で持つには、重すぎるだろ?」



一人で背負うには重すぎる荷物。

そんな荷物を作り出してしまった。

一人で担ぐには重すぎるけど、二人だったら・・・・・・。



春希「俺が責任をもって大切に持ってます」

麻理「確認だけどさ、私は冬馬かずさの代わりじゃないわよね?」



妙な強気でいた麻理さんであったが、今の発言だけは少女そのものだった。

震える瞳が、俺の返事を待っている。



春希「麻理さんは、麻理さんでしかないです。

   俺の腕の中にいる風岡麻理が全てですよ」

麻理「そうか。ならよし」

春希「はい」

麻理「もうこれ以上望まないから、今夜だけは側にいて。

   お願い」

春希「俺も、今日は、一人は嫌です」



他人からしたら、まやかしの幸せだっていうのかもしれない。

自分だって、そんなのわかりきっている。

だからといって、それを認めないなんていうのは、他人の都合でしかない。

げんに、俺達はまやかしであろうと、強く求めてしまったのだから。



体から力が抜けていく。

二人して、寄り添うように絡み合う。

もうハンカチ越しに手を触れる必要なんてない。

触れたいと思ったら、こう、自分の手で直接握りしめればいいんだ。





ほら、麻理さんも俺の手を握り返してくれる。

強く抱きしめなくても、麻理さんはいなくならない。

NYへ行くとしても、会えなくなるわけではなく、

会いたいと思えば、いつだって会いに行けるんだ。



緊張の糸がほどけると、脳は2番目の欲望を優先させる。

麻理さんにいたっては、朝から。

俺にいたっては、2日以上も食事をとっていない。

だから、俺達の腹の虫が大騒ぎしても、いたって自然なことで・・・・。



麻理「色気もロマンスもあったものじゃないな」

春希「はは・・・・、俺達らしいっていったら、らしいかもしれませんね」

麻理「せっかく北原が作ってくれたんだ。冷めないうちに、って、もう冷めてるかも。

   でも、食べよう」

春希「そうですね」



ぎくしゃくしながらも抱き合う手をほどきながら、自分たちの席に戻っていく。

食事を再開するものの、視線は絡み合うが、会話のとっかかりが見つからない。

俺は、沈黙したままでも、うれし恥ずかしい食事を楽しめていた。

しかし、麻理さんは、沈黙そのものに耐えきれず、



麻理「北原、なにか話す話題くらいないのか?」

春希「そんな器用な真似できましたら、苦労しませんよ。

   あいにくプライベートに関しては、つまらない人間なので」

麻理「それって、暗に私のことも仕事馬鹿だって揶揄ってるのか」

春希「前から思っていたんですが、仕事人間であることも、プライベート壊滅なことも、

   そして、年齢のことも、俺にとってはマイナスな面は一つもないですよ。

   むしろ、プラス評価でしかないです」

麻理「そ・・それは嬉しい評価だけど」



麻理さんの食事の手は止まり、スプーンを握る手が震えている。

次の言葉を紡ぎだそうとしてるようだが、口をパクパクするだけで

声を発することができないようだった。



春希「麻理さん?」

麻理「お前が心臓に悪いことを言うからだ。

   それに、年齢については、どう言い繕ってもかわりようがないだろ」






春希「年齢そのものは変えようがないですけど、麻理さんに関しては

   年齢なんか関係ないくらい綺麗じゃないですか」

麻理「お世辞を言っても信じないぞ」



疑う気満々の目を俺にぶつけてくる。

こんな子供っぽい表情さえも、魅力の一つだって、この人は気が付いていないんだ。

だったら、今から一つ一つ伝えていけばいい。



春希「今の表情なんか、とてもかわいらしいですよ。

   大人の魅力に無邪気さが相まって、破壊力抜群です」

麻理「な・ななな・・何を言ってるんだ」



顔から首まで朱に染まっている。

俺が麻理さんの魅力を全て伝え終わるころには、指先まで赤く染まるかもしれないと

思うと、少しおかしく思えた。



麻理「やっぱり冗談だったんだな。笑うなんてひどい奴だ」

春希「違いますよ。麻理さんが、かわいすぎて。

   仕事を誉められるのは慣れすぎているのに、

   プライベートの方では、全く耐性がないと思うと、愛らしくて、

   ほほえましく思えてきたんですよ」

麻理「そ・・・・そうか。だったら、いい」



俺達は、食事が終わっても、夜遅くまで語り合った。

仕事しか共通の話題がないって杞憂してたのは、たちまち霧散していく。

麻理さんの高校時代、大学時代、そしてこれから先のことだって、

話す話題は尽きることがなかった。




















6-1 春希 麻理宅 1/8 土曜日 6時00分頃









昨夜、というか今朝何時に寝たかわからないが、体内時計が強制的に体を叩き起こす。

午前6時。

寝たのが、おそらく午前3時過ぎだと思うから、3時間も寝ていないはずだった。

寝不足状態で朝日を浴びるのはつらいが、冬の優しい朝日なら

ちょうどいい覚醒ツールとして使える。

ソファーで寝こけてしまったが、風邪を引いていないのは麻理さんが

毛布をかけてくれたからだろう。

窮屈な体制で寝てしまい、悲鳴を上げている節々をほぐす為に体を伸ばす。

それと同時に、近くにいるはずの麻理さんの様子を探ろうと見渡すが

いる気配がなかった。

といっても、麻理さんの消息はすぐに判明する。

置手紙によれば、すでに出社したとのこと。

昨日の仕事の遅れを取り戻す為に早く行くと書いてあるが、

それも真実だろうけど、俺と顔を合わせた時、どんな顔をしたらいいんだろうって

迷いに迷って逃げ出したんじゃないかって思えてしまう。

麻理さんは、気が付いていないのだろうか?

今顔を合わせるんなら、自宅だから、どんなに気まずくても二人しかいない。

でも、編集部でだったら、好奇の目にさらされてしまうのに。

って、あまりにも自信過剰な妄想をしてしまったけど、

あながち間違いではないんだろうな。



さてと、顔を洗ってから掃除でもしますか。

ながらくお世話になったこの部屋を本来の主に返さないとな。



顔を洗い、少しばかり冷蔵庫から拝借して腹ごしらえでもと思いキッチンに

行ってみると、テーブルにはサンドウィッチが用意されていた。

ざっと見たところ、昨日の余り物のトマトとハムとチーズが挟まれているようだ。

インスタントコーヒーをいれ、昨夜と同じテーブルの席に着く。

目の前には麻理さんはいないけど、料理を全くしない麻理さんが作ったサンドウィッチ

が目の前にあると思うと、顔が緩んでしまう。



春希「いただきます」





編集部にいる麻理さんに届くようにと、しっかりと手を合わす。

麻理さんが、料理をしないという危うさを忘れて、

ためらいもなく大きくサンドウィッチを頬張る。



春希「うっ!」



辛い!

食べられないわけじゃないけど、マスタードが効きすぎている。

パンをめくるとたっぷりとマスタードが塗られていた。

他のはどうかと確認したところ、マスタードが異常に塗られていたのは

最初の一つだけで、他のは適度の量しかぬられていない。



春希「あぁっ・・・・・、ははは・・・・」



もう笑うしかない。

朝だというのに、腹がよじれるほど笑えてしまう。



春希「子供かよっ」



麻理さんは、昨日のスーパーでのことを覚えていたんだ。

オムライスにマスタードを使えばなんて暴言への仕返しなんだろう。

しかも分かりやすいように、俺が座った席から一番取りやすい位置に

トラップサンドウィッチが置かれていた。

だから、これを食べて思い出せよ的な思考なのだろうな。

でも、俺がこの席に着くっていう麻理さんの根拠なき自信は、本当にありがたい。

その根拠なき自信は正解ですよって、今すぐ言ってあげたかった。

俺が昨夜の席に座って、麻理さんのことを思い出しながら

食べるんだろうって麻理さんは妄想して用意してくれたのだろうか。



あぁっ! 麻理さんのことばかり考えてしまってる。



俺は、マスタードがたっぷりのサンドウィッチを口に放り込み

麻理さんのことも押しこもうとした。



ぐふっ!



といいうものの、爆弾マスタードは俺の予想範疇を飛び越えていて、

俺の意図は見事に破られてしまう。





だから、俺が麻理さんのことを考えてしまってもいいんだって、

誰に言い訳するわけでもないのに取り繕おうとしてしまった。

そして、俺は、コーヒーを一口すすり、2個目のサンドウィッチに手を伸ばした。











第8話 終劇

第9話に続く











第8話 あとがき






夏なのに真冬のお話。

さて、日の出って何時だったっけと思い返すも思い出せません。

ググれば出てくるけど、まあいいかって感じでスルーです。

とりあえず、本編に大きく関係があるわけでもないので

直し作業はごめんなさい。




さて、cc編ってあとどのくらいなのかなって計算してみたのですが、

わかりませんでしたw

たぶん、第14話か第15話くらいまでなのかなって気もするんですが、

こればっかりは書いてみなければ、わかりません、

あらすじといいますか、時系列的なスケジュールは決まってるので、

それにのっとって書くだけですが、さすがに分量までは読めません。

とりあえずcc編のラストは書き終わっていますので、

あとはそれに向けて書き進めるのみっす。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。






黒猫 with かずさ派





今週も読んでいただき、ありがとうございます。

毎週の楽しみとまで言っていただけるなんて、大変うれしいです。

さて、物語も中盤まできましたが、コメントに制限があるのは厳しところです。

ネタばれほどつまらないものはありませんから、発言には気をつけないといけませんし。

ある意味胃薬が必要な展開になってきましたが、

原作みたいに胃薬が必要な展開を書くのって難しいですねorz


たしかに、このまま麻理さんルートの物語も読んでみたいというご意見もありますね。

麻理さんをふるなんてかわいそうだ、というコメントもありますし、

読者に愛される麻理さんを描けて、嬉しく思っています。



第9話






6-2 春希 麻理宅 1/8 土曜日 13時00分頃





部屋の掃除を終えてマンションをあとにするころには、日は既に高く上り終え

傾き始めている。

心地よい午後の日差しと、掃除をして適度に体を動かしたせいで眠気が襲う。

人通りも多いことから、あくびをかみ殺しつつも、数日間放置していた携帯の

確認を始める。

とりあえず、道のど真ん中で立ち止まるのも迷惑なので、ビルの陰に身を寄せた。

発信履歴は、もちろん昨日の麻理さんへの電話が最後であったが、

着信履歴は、麻理さん以外にも入っていた。

一番新しい履歴には、珍しい名前が表示されていた。

和泉千晶。

同じ学部のさぼり魔。

ゼミの教授にはさじを投げられ、俺が教育係に任命までされてしまっている。

やればできるやつだと思うけど、やらせるまでが一苦労だし、

やったはやったで、持続させるのも骨が折れる。

もう一件気になる履歴といえば、武也からであった。

クリスマス直後に電話して以来、メールさえも着ていない。

それもそのはず、冬休みが終わるまでは一人にさせてくれと頼んであるのだから。

それを律儀に守ってくれて、ありがたかった。

それなのに、連絡をよこすとなるならば、よっぽどのことなのだろうか?

とりあえず、武也の連絡は昨夜であったので、

今朝電話をくれた千晶に電話することにした。

数コール待っても千晶は電話に出ない。

とりあえず留守番電話にメッセージでもと思っていると、

数日ぶりに聞く悪友の声が耳元に響いた。


千晶「もしもし春希。せっかく連絡したのに電話に出ないなんて薄情すぎない?」

春希「携帯なんてそんなものだろ。電話に出られれば出るし、出られない状態なら

   放置するに決まってる。だから、出られないってことは、

   出ることができない状態だって気がつくものだ」

千晶「あぁ、なんでいきなり説教になるのかなぁ・・・・。

   まっ、いっか。それでね春希」

春希「いっかじゃない。って、おい聞けよ」





俺のお小言など慣れているせいか、見事にスルーされる。

そして、千晶の要件とやらを俺に押し付けてきた。


千晶「今日暇でしょ?」

春希「特にようはないけど」

千晶「今どこ?」

春希「須黒」

千晶「それなら、・・・え~と、3時に春希のマンションの側にあるカフェね」

春希「駅側の方の?」

千晶「そそ。じゃあ、3時にね。よろしくぅ」


千晶は用件だけ述べて、しかも、勝手に約束までさせて、さっさと電話を切ってしまった。

仕方ない奴だなぁと、頭の中で文句を二桁ほど並べたが、

足取り軽く駅に向かった。









南末次駅の改札口を抜けると、もう一件の武也からの電話を思い出す。

冬休み明けまでほっといてもらう約束はしていたが、だからといって、

無視することもできない。

千晶との約束の前に、いったん家に戻って荷物を置いてこようと考えていたが、

一本電話入れるくらいの時間の余裕はあった。

千晶に電話した時とは異なり、やや気が重く感じられる。

動きが鈍い手を強制的に動かし、武也に連絡をいれた。


武也「悪いな、春希」

春希「どうしたんだよ?」

武也「大学始まるまで待とうと思ったんだけど、その前にゆっくり話そうと思って」

春希「大学も来週からだし、俺はかまわないけど」

武也「そうか。ほんとうは迷ったんだけど、大学始まっちまったら、

   ゆっくり時間取れないだろ? だから、大学始まる前の週末なんて

   どうかなって考えていたわけよ」


俺が拒絶しなかったことで、武也は気が楽になったのか、饒舌になる。

俺も、武也に気を使わせてばっかりで、悪いなとは思う。

だから、こうやって俺との関係を取り持ってくれることに感謝していた。


武也「今お前どこにいるんだ?」

春希「南末次駅だけど」





武也「そっか。さっきお前んち行ってみたけど、留守だったからさ。

   それなら、これから会えるか?」

春希「これからか? この後行かないといけないところがあるから、

   1時間くらいなら大丈夫だけど」

武也「そうか、じゃあ、今からな」


携帯のスピーカーからの声と、リアルに空気を震わせ耳に届く声が重なる。

横を向くと、武也と依緒がそこにはいた。


武也「よう、春希」

春希「ああ、久しぶりだな武也。それに依緒も」

依緒「久しぶり」


武也とは対照的に、緊張した面持ちの依緒が俺を見定めている。

武也は、俺と依緒の歯切れの悪い状態を振り払おうと、わざとらしい明るい態度で

俺達の間を取り持ってくれた。


武也「ここで立ち話もなんだ。それに、春希も時間がないみたいだし、

   そこの喫茶店で話そうぜ。春希んちまで行くのも時間がかかるしさ」


武也なりの気遣いだろう。俺のマンションで、たった3人で話すとなると

葬式以上に重い雰囲気になってしまうだろう。

ならば、BGMとして他人の会話が流れてくる方が、よっぽど気がまぎれるかもしれない。

だけど、今から向かおうとしている喫茶店に問題がある。

まだ千晶と会う時間には早すぎるけど、もし武也たちとの話が長引けば

最悪、千晶と鉢合わせになってしまう。

別に千晶が武也たちに会ってまずいことはない。

しかし、根拠はないけど、千晶を会わせてはいけないって気がしてしまった。

そんな俺の気苦労もしらず、武也は俺と依緒の肩を抱いて、喫茶店に歩み始めた。


























6-3 春希 喫茶店 1/8 土曜日 14時00分頃







学校が始まっていないので、峰城大生も付属の高校生もほとんどいないようだ。

高校生にいたっては、部活で高校に来ていない限り私服なので判断できないが。

自分たち以外の客を観察しつつ、千晶がいないことを確認する。

無事いないことを確認すると、胸の中で小さく一息ついた。

さて、目の前の武也はともかく、依緒に関しては既に臨戦態勢だった。


依緒「メール読んだけど、もう一度春希からちゃんと聞きたいんだけど」

武也「最初からとばすなよ。物事には順序っていうのがあってだな・・・」


武やが依緒を必死になだめようとするが一向に収まりそうもない。

ここに来るまでだって、いかにも話したそうな視線を送ってきていたもんな。

その視線をうまく武也が遮ってくれていたけど、

ここまできたんだ、依緒が納得する答えは提供できないと思うけど

全てを吐き出す覚悟はできている。


春希「ありがとう武也。でも、もう大丈夫だから。

   二人が気持ちの整理をつける時間くれたからさ。

   だから、俺はもう大丈夫なんだ」

武也「そうか」


武也はなにかを悟ったような悲しい笑顔をみせた。

一方、依緒は依然として厳しい表情のままでいる。


春希「俺は、クリスマスイブの夜、雪菜に振られた。

   原因は、俺がかずさを忘れることができないで、今もかずさを愛しているからだ。

   だから、雪菜には、なにも非はない」


武也は切なそうに俺を見つめるだけで、何も言うことはないようだった。

今日は依緒を納得させるための仲裁役をかってくれたのだろうか?

いや、そんな甘い考えはよそう。武也にも悲しい思いをさせたことは事実だ。


依緒「雪菜が本気で別れたいって思ってるわけないでしょ。

   そりゃ、冬馬さんのことは引きずってしまうけど、それはしょうがないっていうか。

   春希も引きずってるんだから、これから二人で乗り越えればいいことじゃない」


必死に訴える依緒をみて、薄情ながら傲慢で冷酷な分析を下す自分がいた。

そうじゃないんだよ、依緒。全く違うんだ。依緒はわかっていない。

雪菜のことは好きだけど、それは、好きでしかない。





恋焦がれ、自分が壊れてしまうんじゃないかって思うくらい愛しているわけじゃない。

そう、自分が壊れてしまってもいいくらい愛しているのは、かずさだけなんだ。

いつも俺の心の中にいるのは、冬馬かずさただ一人だけ。

それを依緒は、理解していない。理解しようとしていなかった。

いや、理解するのを拒否してたんだろう。


春希「俺は、かずさのことを引きずってるんじゃないんだ。

   今も愛してるんだよ」

依緒「っ! どうして? 雪菜のなにが悪いっていうのさ」

春希「雪菜は悪くないんだ。俺がかずさを愛してるだけなんだ」

依緒「3年だよ。3年もつかず離れずいた雪菜も問題あるけど、

   あんたたちの歴史はそんなものだったの? 違うでしょ」

春希「3年も曖昧な態度をとってきたことに弁解する気はない」

依緒「ならさ、なんでもっと早く雪菜を振ってあげなかったのさ。

   雪菜を振ってあげてたら、今頃雪菜も新しい恋に向かっていたかもしれないのに」


依緒に言われなくても分かっていた。

雪菜の貴重な3年間を浪費させてしまった。大学の3年間という貴重な時間。

社会人になっても途切れることがない友人を作るチャンスを邪魔してしまった。

雪菜を内向的にさせてしまったのは、俺に責任がある。


春希「悪かったって思ってる。償うこともできないってわかってる。

   だけど・・・・」

依緒「なに・・・?」

春希「俺に雪菜への気持ちがないのに付き合ったって、雪菜を苦しめるだけじゃないか?」


依緒の表情が変わりゆく。

理解するのを拒否している状態から、理解させられている状態に。

依緒が聞きたくない事実だとしても、俺は妥協を許さない。

このままじゃ、依緒の大切な時間までも浪費させてしまうから。


依緒「それは・・・・・」

春希「たとえかずさがウィーンにいようとも、俺はかずさを愛している。

   報われない愛だって笑われようが、変わることはないんだよ」


依緒は、テーブルの上に所在なさげ放り出していた手を握りしめ、

最後まで諦めようとはしなかった。


依緒「ウィーンに行ってしまった冬馬かずさじゃなくて、今あんたのそばにいるのは

   小木曽雪菜なんだよ」

春希「俺の側にいるかなんて、関係ないんだ。愛しているっていう事実は変わらない」




千晶「そうだよね。いくら常に隣にいて、好き好きオーラを彼氏が送っていても

   彼女の方が気がつかないふりをして、友達を続けている人もいるからね」


俺の斜め後ろから、聞きおぼえがある声が聞こえる。

振り向くとそこには、千晶がいた。
   

依緒「何が言いたいのさ」


俺への戦闘モードから、千晶へ攻撃目標を変えた依緒は、千晶を睨みつける。

その攻撃対象の千晶というと、いつも通りのおちゃらけた様子は変わらないのだが、

今まで見たことがない棘のある表情を見せていた。

俺達のテーブルが修羅場っぽい雰囲気に激変したこともあって、

店内のざわつきもまし、俺達は注目を集めてしまったようだ。


千晶「自覚がないっていうなら救いようがないけど、自覚があるっていうなら

   残酷すぎる仕打ちだよね。それも計算に入れてやってるんなら

   ・・・・・、あぁ、もうよそうか。そっちのほうには全く興味が持てないからさ」

依緒「あんたになにがわかるっていうんだよ。

   そもそも部外者のあなたが、って、あなた、春希の友達?」

春希「すまん、依緒。こいつ口が悪くって」

千晶「ふぅ~ん。・・・・・たださ、あんたよりは理解しているつもりだけどね。

   見ないふりをして現実を受け入れないなんて、しょうがないでしょ?」

依緒「私は、私は、雪菜と春希のことを思って」


悔しそうに手を握りしめる依緒は、すでに現実を全て受け入れさせられてしまっていた。

変わりようがないかなしい現実に身をさらされてしまった。


千晶「それって、ほんとうに春希達のため? 

   あんたたちの身代わりじゃないの?

   自分の理想を他人に押し付けてるみたいで気持ち悪い。

   そんなこと言うんなら、あんたら二人で理想の恋人を成立させればいいじゃない。

   身勝手なのはあんたのほうでしょ?」

依緒「なにを!」


テーブルを激しく叩き、勢いよく立ちあがった依緒は、

今にも千晶を掴みかかろうとする。

冷たい目をした千晶は、激情に揺れる依緒を遥か上の彼方から見下ろしているようだった。


武也「もういいだろ。依緒もそこまでにしておけ。

   そっちもそれでいいな?」


調停者は決め込んでいた武也であっても、意図しない訪問者が来てしまっては

黙っているわけにはいかなかった。





千晶「私はそれでかまわないけど」


依緒は悔しげに俯くだけで、崩れるように席に座り、肩を落としている。


武也「なあ、春希。今日はここまでにしとこう」

春希「そうしてくれると助かる」

武也「最後に一つだけいいか?」

春希「いいけど」

武也「もう雪菜ちゃんとは会うつもりはないのか?

   その・・・・・・さ。友達として会うこともできないのかなって」


武也は、今日はこの問いだけを俺にぶつけるつもりだったのだろう。

俺と雪菜が恋人としてはやっていけないと分かっていた武也は、

苦肉の策というべきか、最後の最低な妥協案を提示するか苦しんでいたんだろうな。


春希「ああ、雪菜が許してくれるなら、雪菜と友達になりたい。

   そうじゃないな。俺は、雪菜と友達になりたいんだ」


俺は武也に正直な気持ちをぶつける。

俺の覚悟を受け取った武也は、悲しそうな笑顔を脱ぎ棄て、

覚悟を決めた男の笑顔をみせた。


武也「わかった。あとは任せとけ・・・・・、って言いたいとことだけど、

   できる限りのフォローはするつもりだ」

春希「ありがとう武也」

武也「いいってことよ。それと、依緒もこんな感じだし、

   悪いけど、先に帰ってくれないか」

春希「悪いな武也。支払いはしとくから。

   それじゃあ、また大学で」

武也「大学でな」


笑顔で見送る武也を背に、俺は既に依緒のことなど眼中にない千晶を連れてカフェを

あとにした。

依緒は最後まで顔を上げることはなかった。


















6-4 春希 大学 1/8 土曜日 15時00分頃







春希「おい和泉。どこまで連れいていく気だよ」

千晶「もうすぐだって。そこのホールが目的地だから」


和泉に引っ張られてこられたのは、大学の奥に位置する多目的ホール。

サークルがやってるものなら、このあたりも頻繁に来るかもしれないが、

あいにく俺はサークルに所属したこともない。

だから、連れてこられたホール自体も存在だけは知っていても、

利用することなどない。

普段はサークルの連中が行き来して、大学の奥地だとしても人気があるはずだが、

あいにく冬休みということもあって、人の気配がない。

古びた建物がよりいっそう寒々と感じさせ、身震いをしてしまった。


千晶「悪い春希。ここってエアコンないから、冬はとことん寒いのよ」


俺が寒さにまいっていると勘違いした和泉は、一応の気使いをしてくれる。

普段は、人に無関心って感じをする掴みどころのない奴だけど、

今日ほどこいつの意図と掴めなかったときはなかったと思う。


春希「お前、さっきは言いすぎだぞ」

千晶「え、なに?」


ホールの鍵を開け、中に進む和泉は俺の声に反応して振り返るが、

まったく俺の言葉は耳に入っていない。


春希「なんでもない」


仮に耳に入ったところで、まともな答えが返ってくる望みは低そうなので、

さらなる追及は無意味だろうな。

それよりは、こいつが何の目的でこんなところまで連れて来たのかの方が興味深い。


千晶「そう。さあ、こっちこっち」


俺の手を掴み、舞台の中央まで引っ張り出す、

客席には何もなく、がらんとしているが、人が入ればそこそこの熱気に包まれそうだ。

だけど、真冬に長時間拘束されるのは、遠慮したいかも。


春希「なんなんだよ。ここになにかあるのか?」


俺の手を離し、舞台の中央、観客席に一番近いところまで歩み寄ると、

芝居がかかったまじめくさった表情をみせる。




千晶「2月14日。ここでヴァレンタインコンサートがあるんだけど、

   春希に出演オファーがきてるんだ」

春希「なにいってるんだよ。俺が歌なんて歌えるわけないだろ」


ヴァレンタインコンサート。たしか、放送部も関わってるイベントだったはず。

去年武也がなんか騒いでいた気がする。

放送部ということは、『届かない恋』を演奏してくれってことなんだろうけど、

とぼけるしかないか。


千晶「春希は、ギターでしょ」


背筋が伸び、嫌な汗がわき出てくる。

こいつは、どこまで知ってるんだ?

目の前にいる和泉千晶は、俺が知っている和泉千晶とは別人に思えた。

手に力が入り、身構えてしまう。

和泉が舞台の端から俺の方へと近寄ってくる。


千晶「なぁに怖い顔してんの。普段からくそまじめで辛気臭い顔してるのに

   眉間にシワまで寄せちゃったら、幸せも逃げてくよ」


と、生意気なことをほざいて、俺の額を軽く小突く。


春希「これは生まれつきだから。で、なんで俺がギターなんだよ」


主導権を握られっぱなしはやばい。早く主導権を握らないと、まずい気がする。


千晶「だって、この前春希んちいったとき、写真立ての写真みたよ。

   あれって高校の学園祭でしょ。ギターもって、かっこつけちゃって、このこの」


肘で俺を小突くのを半歩横にずれてかわす。

いつもの和泉のようで、なにか違和感を覚えるのは、場所のせいだろうか?


千晶「隠すことなかったのに」

春希「隠してなんかいない。聞かれなかったから、言ってないだけだ」


和泉がこんなにも俺に踏み込んでくるなんて、気さくで女を感じさせない女だと

思っていたのに、今日に限って何故?


千晶「一緒にうつってたのって、冬馬かずさでしょ。

   今話題のピアニスト。だからさ、春希」

春希「なんだよ」


かずさのことまで知ってるとは。たしかに、かずさは雑誌に載ったけど、

和泉が知ってるとは誤算だった。





千晶「そんなに邪険にしなくても」

春希「してないって」

千晶「ま、いっか」


最初っから気にしてないだろ。


千晶「冬馬かずさと交渉して、春希と二人、コンサートに出演してくれない?」


途中から予想できてたけど、自分が受ける衝撃を受け止める準備はできていなかった。

いくら時間をくれたって、準備なんかできやしないだろうけど、

和泉の目の前でうろたえるのだけは回避できてたかもしれない。


春希「無理だよ」

千晶「なんで?」

春希「そもそも、冬馬が出演してくれるはずもない。ウィーンいるんだぞ」

千晶「母親の冬馬曜子は来ているんでしょ?」

春希「そうだけど、冬馬本人は来ていないよ」


俺の心をチクリと針が刺される。じわじわと痛みを忘れさせないように。


春希「それに、仮に冬馬が出演したとしても、ギターとキーボードだけじゃ

   ライブにならないだろ」

千晶「写真に写ってたもう一人の女の子?」

春希「そうだよ。ヴォーカルがいないんじゃ、話にならない。

   まずはヴォーカルを連れてきてから依頼に来い」

千晶「ヴォーカルがいるんだったら、問題ないってことね」

春希「そうだよ」


雪菜が出演するとは思えない。

それに、冷戦状態の今、交渉すらできそうにないっていうのに。


千晶「OK、OK。ヴォーカルのあてはあるから、これで春希は出演OKってことね」

春希「は?」

千晶「だから、ヴォーカルのあてはあるんだってば。

   ギターは春希に頑張ってもらうとして、あとはキーボードか。

   これはちょっと時間くれないかな」

春希「おい和泉ったら」


俺の声など聞こえないふりをして、舞台を飛び降り、出口に向かう。

出口の前で振り返った和泉は、ホールの端から端まで届く声で言う。

けっして怒鳴ってるわけでもないのに、よく通る声ではっきりと。




千晶「ここの鍵、開けといたままでいいから。

   じゃあ、放送部には出演OKって伝えておくね!」


手を大きく振って別れの挨拶を強引にした和泉は、俺の返事などきかずに

扉の外へと消えていった。











第9話 終劇

第10話に続く







第9話 あとがき





千晶登場です。

千晶には嫌な役を任せてしまいましたが、

きっとひょうひょうとこなしてくれるでしょう。

千晶って、物語にアクセントをつけるにはもってこいの存在だなって

改めて感謝しています。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。




黒猫 with かずさ派




今週も読んでいただき、ありがとうございます。

千晶は、書きやすい人物ですね。曜子さんレベルで描きやすいキャラだと思います。

では、逆に書きにくいのは、と考えてみたのですが、春希ですかね。

会話の相手がいるのならば、いいのですが、春希一人のシーンはいつも苦労しますorz



第10話








6-5 春希 大学 1/8 土曜日 15時30分頃








和泉がホールから出ていった後、俺は、しばらく何をすることもなく客席を

眺めていた。

舞台から脚を投げ出し、底冷えする舞台の上で座り込む。

これから何をすべきかなんてわからない。

だから、まずは、わかっていることから整理していくか。

ヴァレンタインコンサートは、去年武也から聞いたことがある。

うちの大学の生徒が参加する、わりと人が集まるイベントらしい。

お金をかけなくても女の子を口説けるイベントだって、武也が言ってたはず。

女の子がそんな裏事情を知ってしまったら、幻滅しそうだけど。

そのイベントで、俺がギターを演奏?

馬鹿げている。最近全く弾いていないのに、人前で弾けるはずもない。

・・・・・今から練習すれば、一曲くらいなら、間に合うか。

って、俺一人がどうしようが、意味がない。

ヴォーカルは、和泉が手配するみたいだけど、雪菜以外のヴォーカルでいいのか?

それに、キーボードのかずさもいないわけだし、一番へたっぴだった俺のギターが

あっても、コンサートなどできるはずもないだろ。

雪菜か・・・・・・。




武也「もう雪菜ちゃんとは会うつもりはないのか?

   その・・・・・・さ。友達として会うこともできないのかなって」

春希「ああ、雪菜が許してくれるなら、雪菜と友達になりたい。

   そうじゃないな。俺は、雪菜と友達になりたいんだ」




さっき武也にえらそうに言っておきながら、何も行動を起こしてないな。

たしかに、冬休みを使って、雪菜への気持ちの整理はできた。

だけど、「雪菜への気持ちの整理」イコール「雪菜との関係」ではない。

いくら俺の中で気持ちの整理ができても、雪菜との関係が改善できたわけではない。

俺と雪菜との関係は、クリスマス・イブの夜から停滞している。




このまま自然消滅でいいのか。

雪菜が俺のことをこのまま忘れ去って、過去のことだと割り切ってくれるのだろうか。

・・・・・・分からない。なにもなかった3年は、長すぎた。

だったら、俺は、

・・・・・・・・・・・友達として、最初からやり直すか。



そうと決まれば、やることは一つだ。

俺は、舞台から飛び降り、ホールの出口に向かう。

出口を開けると、眩しい光が俺を迎え入れる。

暗闇に慣れきった目が、明るい世界になじんでいく。

北風が俺を撫でるが、舞台の冷たさに比べれば、温かいものだ。

俺は、携帯電話を取り出し、冬馬曜子オフィスに連絡をいれた。











美代子「冬馬曜子オフィスです」

春希「私、開桜社アンサンブル編集部員の北原春希と申します。

   先日のニューイヤーコンサート後に楽屋の方に伺った者なのですが、

   その時のことで、一点確認したいことがありまして、

   冬馬曜子さんとお話しすることは可能でしょうか?」

美代子「あのときの方ですね。覚えています」



男性で楽屋に通されたのは、俺一人ってことなのかな。

覚えていてくれたほうが、話を通しやすい。幸先いいな。



春希「無理を言って冬馬さんに話を通してくださり、ありがとうございました」

美代子「いえいえ、あらかじめ冬馬の方から、北原さんがいらっしゃいましたら、

    お通しするよう言われていましたので」



思いがけない発言に体に衝撃が走る。

曜子さんは、俺が楽屋に来るってわかってたのか。

いや、来てもいいように準備をしていたってことか。

つまり、かずさがらみの話を最初からするともりだったととるべきか。



春希「そうだったのですか」


美代子「ええ。北原さんの写真まで渡されていましたから、間違えようもないです」





俺の写真って、どこから手に入れたんだよ。

開桜社からか? それとも高校のときの・・・・。

卒業アルバムって線もあるか。

どうも曜子さんは、俺の数歩先を行ってる。

出し抜こうとかかは考えていないけど、何を考えているかわからないのは

危険かもしれない。

もし、曜子さんが俺とかずさの仲を快く思っていないのなら、

俺がかずさに会うチャンスは限りなく小さくなってしまう。

弾むように軽かった心は鉛のごとく地面に這いつくばり、

携帯を握る手には汗がにじんでくる。



美代子「すみません・・・少々お待ちください」

春希「はい」



電話は素早く保留音に切り替わる。

陽気なメロディーの保留音が鳴り響く。

まだか、まだかと、数秒も経っていないのに、焦る気持ちがかき乱れる。

携帯を持っている方の人差し指で、携帯を何度も小突き続ける。

いらだちの濁音が耳に響き、いらだちを盛り上げる。



曜子「もしもし? 北原君」



俺の名を呼ぶ電話主の声が、先ほどとは違う。

この声は、忘れようもない。



春希「はい、北原です」

曜子「私、冬馬曜子。お久しぶりね」

春希「お久しぶりです。コンサートの後、楽屋にお招きいただきありがとうございました」

曜子「ううん。私もあなたと話してみたかったの。

   だけど、心配しちゃったのよ。だって、あなた、すっごく体調が悪そうだったから」

春希「心配をかけさせてしまい、申し訳ありませんでした。

   でも、もう大丈夫です」

曜子「そう? でも、かずさのことを聞いてから体調が急変したから、

   もしかしてって勘ぐっちゃったわ」



この人は・・・・。

どこまでわかって、なにをたくらんでいるんだ?





下手に小細工をしても、意味なんてないんだろうから、

だったら、まっすぐ突っ込むしかない。



春希「その通りです。かずさに会えなくて、落ち込んでいました」

曜子「え?」



一瞬だが、曜子さんがうろたえる。

俺の正攻法すぎる突撃は、予想していなかったとみえる。



曜子「そっか。今も会いたい?」

春希「会いたいです」

曜子「ふぅ~ん。・・・・・で、今日はどういったご用件で?」



最後の最後で調子を崩されてしまう。

うまくいってるようで、まったくうまくいかない。

曜子さんの意図なんて、一生理解なんてできないのかもしれない。



春希「はい。今度うちの大学でヴァレンタインコンサートがあるんです。

   そこで自分もギターとして参加する予定です」

曜子「へぇ~。ギター君復活かぁ」

春希「えぇ、まあそんなところです」

曜子「今でもギター弾いてるんだ」

春希「いえ、最近はまったく。ですから、家にあるアコギで練習再開しようと

   考えていまして」

曜子「エレキギターではなくて、アコースティックギターの方が得意だったの?」

春希「いえ、家にアコギがあるので、アコギにしようかと」

曜子「でも、学園祭の時はエレキだったじゃない?」

春希「あれは、学校の備品でして、自分のではないんです」

曜子「ふぅん」



ピアノはともかく、ギターなど、楽器に癖がついてしまう楽器のレンタルなど

音楽家としては、許せないのだろうか?

まずい受け答えしてしまったかも・・・・・。

曜子さんは、なにやら考え込んでいるらしく、何も言ってこない。



春希「曜子さん?」

曜子「あ、うん。わかった、わかった。じゃあ、こうしましょ」






勝手に一人納得されても、どう対処すればいいかわからない。

そもそも聞いたとしても、真の意図まではわかる気もしないが、

今は黙って聞くしかない。



春希「なんでしょう」

曜子「アコギはやめて、うちにあるエレキにしなさい」

春希「はい?」



しょっぱなから、意味不明の言葉がアクセル全開に駆け巡る。



曜子「だから、私、コンサート終わって、少し暇なの。

   だから、私がギター教えてあげるって言ってるのよ」



これが本当だとしたら、とんでもないことだ。

ピアノではなく、ギターというところは考えものだが、

あの冬馬曜子のレッスンとなれば、世界中から受けたいという申し出がきてしまうはず。

そんなプラチナチケットがただで貰えるのか?

変に勘ぐってしまう。



春希「それは、ありがたいお誘いです。で・・・・・・」

曜子「そう! だったら、話は早いわね。

   来週の月曜時間ある?」



俺の決まりきったビジネス会話はかき消され、曜子さんの決定事項を伝える声が

携帯から流れ出る。



春希「はい、ありますけど」

曜子「そうねぇ、午前10時で大丈夫?」

春希「はい、大丈夫です」

曜子「じゃあ、10時に、うちに来て」

春希「うちって、日本に住んでいた時の家ですか?」

曜子「そうそう。あの家、売りに出したんだけど、買い手がいなくて、

   今使ってるの。だから、ちょうどよかったわ。

   運がいいわね、ギター君」



なにが運がいいのかわからないが、曜子さんが描いた大きな渦に巻き込まれて

しまったのだけは、理解できた。





春希「わかりました。月曜の10時に伺います」

曜子「うん、待ってるから。それじゃあね」

春希「はい、それでは」



って、それじゃあねじゃないって!

一方的に電話を切られてしまった。

月曜日になれば、詳しい事情が聞けるはずだ。

だけど・・・・・・・・・・・・・・・、

俺の方の要件は、まったく話してないじゃないか。

人の要件を全然聞かず、自分の方の要件のみって。

しかも、俺の方から電話したっていうのに、あの人は。

散々文句が頭の中で駆け巡って入るが、

顔は緩み、笑みが浮かんでいると思う。

和泉にしろ、曜子さんにしろ、俺を引っ張り回す人物ばかりだ。

だけど、それが悪いだなんて思いはない。

むしろ、俺の中の価値観を全てひっくり返すほどのパワーを持つ二人に

感謝してもよいほどであった。

武也に知られれば、お前ってマゾ?っておもいっきり引かれそうだけど

今はその名誉、潔く引き受けよう。









澄み渡る空のもと、俺を次の連絡先を携帯から引き出す。

と、その前に、和泉にコンサート了承のメールを一応送る。

勝手に俺のコンサート参加を決められてしまったけど、

今度こそ俺の方から正式に参加了承を告げることにした。



麻理さんのアドレスを表示し、発信ボタンに手をかける。

和泉に、曜子さんときて、麻理さんか。

やっぱ麻理さんも一筋罠にはいかないのかも。

今日は絶対に女難の相が出ているだろ。

でも、それさえも快く引き受けよう。

俺は、えいやって、勢いよく発信ボタンを押す。



数コール後に出た麻理さんは、事務的な口調ですぐに折り返すと述べ、

すぐさま電話をきる。

やっぱり仕事中はまずかったかなと後悔をしだしたが、

麻理さんが仕事をしていない時間を見つける方が難しいかと思い悩んでいると・・・。



その言葉通り、数分も経たないうちに、麻理さんからのコールバックがくる。

その声は、編集部で聞くような頼りになる声色ではなく、

先日一緒に買い物や食事をしたときの、愛らしい声色であった。



麻理「移動したから大丈夫よ。ここなら誰もいないし」

春希「朝食ありがとうございました。

   パンチが効いた朝食だったので、眠気も一発で吹き飛びましたよ」

麻理「あぁ、あれか」



ふざけすぎたのではないかと、後悔でもしてるのだろう。

あの麻理さんが、今日もうろたえている。



春希「マスタード、美味しく頂きました」

麻理「北原が悪いんだぞ。私をいじめるから」

春希「俺は、リクエスト通りにオムライスを作っただけなんですけどね」

麻理「それでもだ。・・・・・北原と一緒にいると、調子を崩されっぱなしだ」

春希「すみません」

麻理「いいのよ。そんな私も、嫌いではないから」



俺だけが知っている麻理さん。

知れば知るほど、俺の想像を裏切り続ける愛しい人。



麻理「ところで、今頃起きたの? さすがに寝すぎではないか?」

春希「いいえ。少し用があって、大学の方へ。今は、大学にいるんです」

麻理「そうか」

春希「それですね、麻理さん」

麻理「なに?」

春希「来週から、編集部のバイト出ようと思ってるのですが、

   その前に一度会えませんか?」

麻理「ひゃい?!」



人がいない場所で話しているって言ってけど、さすがに今の奇声は注目を

集めてしまうんじゃないかって心配になる。

普段の麻理さんしか知らない編集部の人たちならば、麻理さんが知らぬふりを通せば

誰も麻理さんが声の主だって、信じないかもしれないけど。



麻理「私に会いたいの?」

春希「これからも会いたいですけど、今回会うのは、会っておいた方がいいと思いまして」




麻理「それはどういう意味?」



麻理さんは、全然自分の状態を分かっていない。

自分の状態が分かっていないから、何も気にせず編集部に顔を出せるともいえる。



春希「さっきの麻理さんの驚きの声もそうなんですが、編集部でいきなり俺と

   顔を会わせるのって、危険じゃないですか?」

麻理「それは・・・・」

麻理さんも少しは自覚していたのかもしれない。

春希「ひょっとして、今朝早く出社したのも、俺の顔を見るのが照れくさかったって

   ことないですか?」



押し黙っているところを見ると、正解だったみたいだ。

といことは、少しではなく、おもいっきり自覚してたってことになる。

だから、頭がショートして、編集部で俺といきなり会う危険性を考慮できなく

なってしまったってことか。



春希「明日、会えますか? 少しの時間でもかまいませんから」

麻理「あ、・・・・・・うん。今日どうにか仕事を片付けておけば、時間作れると思うわ」

春希「場所は、麻理さんの家でいいですか?

   それとも、俺の家でもいいですけど」

麻理「ふぁい?!」



本日2度目の奇声となると、さすがに編集部の人たちも勘づくんじゃないか。

そこまで、麻理さんを驚かす発言はしてないつもりなんだけどな。



春希「外で会ってもいいんですが、今の俺達の状態を考慮しますと、

   外だと大変気まずい気がしませんか?

   それこそ、他人には見せられないような事態になりかねないかと」

麻理「そ、そうね。それは、まずい。うちにしよう。

   そうだな、お昼も兼ねて12時はどう?」

春希「はい、いいですよ。なにか食べたいもののリクエストありますか?」

麻理「そうだなぁ・・・。どうせ難しいものは作れないんだろ?」

春希「簡単なものだと助かります」

麻理「北原に任せるよ。今は、ぱっと思いつかない」

春希「わかりました。なにか考えておきますね」



料理の勉強始めるか。家に帰る前に、本屋で料理の本でも買っていくかな。




自分が食べるだけの料理だと、エネルギーをとることのみを考えてしまうけど、

人の為に作るとなると、それだけで気持ちが高ぶり楽しくなる。



麻理「期待してるわ」

春希「期待なんかしないでくださいよ」

麻理「いや、期待させてくれ」

春希「わかりました。でも、味の保証はできませんからね」

麻理「別にいいよ。文句だけはいうけど」

春希「それって、意味ないですから」



二人の笑い声が響き渡る。

電話する前は、気まずい雰囲気になるんではないかって不安にもなったが

まったくそんな心配はいらなかった。



麻理「あまり席を離れていると鈴木の奴に勘ぐられるから戻るわ」

春希「はい。では、明日」

麻理「ああ、明日」



電話を切ろうと切断ボタンに手をかけたところで、急ぎ麻理さんに声をかかる。



春希「麻理さん」

麻理「ん?」



間一髪電話は切れていなかった。

電話を切られてもおかしくもない時間は経っていたはずなのに。

ひょっとして、麻理さんは、俺が切るまで待っててくれたのではと、

うぬぼれてしまいそうになる。



春希「朝食は、マスタードたっぷりのサンドウィッチでかまいませんから」

麻理「ほぇ!?」



本日3度目の奇声を耳に、今度こそ切断ボタンを押そうとする。

しかし、一応もう一度確認ということで、携帯を耳にあてる。



麻理「き~た~は~ら~~!」



奇声を飛び越えた絶叫がかき鳴らされているが、今度こそ切断ボタンを押す。

麻理さん、もう他の編集部の人たちに気がつかれてますって。




この後、麻理さんが鈴木さんたちの好奇の視線を集めてしまうと思うと、

いたずらしすぎたかなって、ほんのわずかだけど後悔の念が押し寄せる。

ごめんなさい、麻理さん。

マスタードの仕返し、してしまいました。

・・・・・・あれ?

俺がバイトに行った時、俺にも火の粉が降りかかってこないか・・・・・・。

俺は、甘い係争を思い浮かべ、ほくそ笑んだ。














7-1 麻理 麻理マンション 1/9 日曜日 午前3時








午前4時。あと数時間経つと朝になってしまう微妙な時刻。

北原が来る前に準備する時間が欲しいから、あまり睡眠時間はとれないか。

でも、気持ちが高ぶっていて寝むれそうにはないか。



玄関の扉を開けると、自分の部屋ではない。

脱ぎ散らかした靴は一足もないし、

読みもしないで放り投げているダイレクトメールの山も消え去っている。

部屋の鍵はあっているわけだから、部屋を間違える訳もない。

玄関を出て、部屋番号を確認もしたが、たしかに自分の部屋であった。



なるほど。これが汚部屋ビフォーアフターってやつか・・・・・。

たしかに掃除はしてなかったけど、人を呼べないほどじゃないよな?

北原も、何も言ってなかったし。

だけど、自分の部屋じゃないって思うほど綺麗に掃除されてると

感謝よりも女としてのプライドが傷つけられるって事をあの馬鹿は知らないんじゃないか。

この掃除の仕方、北原らしいな。



麻理は、部屋の掃除具合を確かめるために、玄関から確認していく。

別に、難癖つけようと言うわけではない。

むしろ、北原が頑張って掃除している姿を思い浮かべたいほどである。




革靴は、新品のまま隅に追いやられていた靴墨を使って磨きあげられ、

向きをそろえて並べられている。

玄関の床など、ワックスで磨いたのではないかと見受けられた。

うちにそんな掃除用具はないから、買いそろえたのかもしれない。

そして、バス・トイレ・キッチン・リビング・・・・・と、北原の足跡を辿るように

北原の影を追っていった。



私だったら、大掃除をやっても、こんなには綺麗にできないわよ。

いや、私だったら、ハウスクリーニングを頼んで終わりか。

本当に北原の主夫力は、すさまじいな。

あいつがいてくれたら、プライベートも充実するのかな?

いやいや、掃除をしてほしいってわけじゃなくて、一緒にプライベートも楽しめて、

・・・・・・・・・そうではない・・・・・な。

北原には、冬馬かずさがいるんだし。

はぁ・・・・・・・・・・・・・・・。



麻理は、独りで喜び、勝手に落ちこみながらも、部屋の確認を進める。

最後に寝室に入ると、ベッドのシーツは変えられ、

昨夜までいた北原の痕跡を一つも残してはいなかった。

麻理は、ベッドに倒れ込み、あるはずもない彼の温もりを探し始める。

冷え切ったベッドは、麻理から体温を奪うばかりで、温もりなど与えてはくれない。

臭いくらいはと、大きく吸い込みはしたが、柔軟剤の香りしかしなかった。



どこまで私をいじめれば気が済むんだ、あいつは。

はぁ・・・・・・、ん。すぅ~・・・・・。



もう一度再確認のためと大きく息を吸いはしたが、やはり柔軟剤の臭いしかしなかった。

どこかに一つくらいは、痕跡はないかと室内を見渡すと、服の山を発見する。

ベッドから降り、服の山を確認すると、脱いだままにしておいた服と下着が・・・。

クリーニングに出さなければいけないものは、畳まれて別に置かれていたが、

下着は、服の山の下の方に隠すように置かれている。これは女としては痛い。



北原。主夫力は高いかもしれないけど、もう少し女心をわかってくれないか。

まあ、洗濯までしてあったら、今日どんな顔をして会えばいいかわからなかったはず。

いや、会えないだろ。

はぁ・・・・・・。

今日何度目になるかわからないため息をつくと、洗濯ものを抱え、

洗濯機に放り込む。とりあえず乾燥までやっとけば、あとで畳むだけだし。




そこまですると、大した労力をつかったわけでもないのに、疲労感が押し寄せる。

とりあえず、水を飲もうと冷蔵庫を開けると、ラップにかけられた食事が鎮座していた。

ハンバーグにポトフ。それにサラダ。

しかも、こっちは朝食用なのかサンドウィッチまで用意されていた。

テーブルに、レンジで温めるだけのご飯が置いてあった、最初はなんだろって

疑問に思いもしたが、これでようやく疑問が解ける。



私に依存してるだって?

私を北原に依存させようとさせてるのは、あいつの方じゃないか。

やばいって。もう、抑えきれなくなる。

駄目だって、わかってるのに。辛いだけだってわかってるのに、引きかえせなくなる。



冷蔵庫から、冷え切ったおかずを取り出し、レンジで温め直す。

その間にお茶の用意を済ませ、全てが温もりを取り戻したころには、

食欲をそそる香りが部屋に充満されていた。



麻理「いただきます」



さっそく箸をとり、ハンバーグを口に運ぶ。今度はスプーンに持ち替えて

ポトフを食べてみるが、美味しいはずなのに、味がわからない。

サラダを食べても、なにを口にしているのかわからず、

市販のご飯を食べてもただ熱いということしかわからない。

あいつが作ってくれただけで、とてもうれしいはずなのに、

いくら食べても味がわからなかった。











第10話 終劇

第11話に続く










第10話 あとがき





そろそろ『心はいつもあなたのそばに』の容量を超えるんでしょうかね。

ここから『~coda』もあるので、全部合わせれば確実に越えるのでしょうが、

『~coda』よりも『cc』のほうが容量多い気がしてなりません。

まだ『~coda』の方を書き始めていないというのが原因ですが、

前編で力尽きないよう頑張ります。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。





黒猫 with かずさ派




今週も読んでいただき、ありがとうございます。

書いている本人も、麻理さんかわいすぎるなぁって思えてしまうのですが、

その分かずさのことが気になってしまう方も多いようで・・・・・・。

たしかに、目の前に愛らしい麻理さんがいたら、手放せなくなりそうですよね。





第11話








7-2 麻理 麻理マンション 1/9 日曜日 午前9時







目覚ましを止めると時計は9時を示している。

あまりにも遅い夕食を食べ終わった後、シャワーを浴び、ベッドに潜り込んだものの

朝日が昇っても寝付けなかった。

遮光カーテンから漏れ出る朝日を眺めつつ、

この部屋にいた北原の姿ばかり思い出している。

だから、目覚ましも、9時のアラームが鳴るのをカウントダウンをして待ち、

鳴り始めた直後にスイッチを切っていた。



カーテンを開けても、さそど眩しくはない。カーテンの隙間からの陽光だとしても

日の出から太陽の光に目を慣らしていたおかげだった。

キッチンに行き、うがいをしてから、冷蔵庫からサンドウィッチを取り出す。

おもむろに一つつまみあげ、ゆっくりと味わって食べる。

中身をみると、卵、トマトとレタス。それにアクセントとして

炒めたみじん切りの玉ねぎが挟まっていた。

料理は得意ではないと言いながらも、できる限りの料理をしてくれるのが心にくい。

一つ目を食べ終わると、次のサンドウィッチに手を伸ばし、

一つ目とは違い、勢いよく食す。途中喉に詰まりそうになるが、

水を流し込み、サンドウィッチを喉に流し込む。

そして、お皿にあったサンドウィッチは、またたく間に麻理の胃袋に収まった。



食事が終わると麻理は、すぐさま春希を迎える準備にとりかかる。

まずは、夜セットしておいた洗濯物を片づけ、春希の目にとまるとやばいものを

クローゼットの押し込んでいく。

春希が掃除してくれたおかげで、綺麗だった部屋は、とくにいじるところはない。

むしろ麻理が触ると余計なゴミが発生しそうなほどである。

なので、部屋の片づけは早々に切り上げ、自分の準備に取り掛かった。

まずは歯を磨き、次にバスルームにこもって、念入りに体を洗い、シャワーで流す。

本当は湯船にもつかりたいところだけど、北原のことだ。時間より早く来るに決まってる。

だから、ゆっくり湯船につかる時間はないと断念する。


服選びに時間を取られ、メイクもばっちりしたところで、時刻は11時40分。

あと10分もすれば、あいつのことだからやってくるはず。

麻理は、インターフォンの受話機がよく見えるところに陣取って、

いまかいまかと春希の訪れを待ち望んだ。








時刻は11時50分ちょうど。待ち望んでいたチャイムが鳴り響く。

時間ちょうどに鳴ったところをみると、マンションの前で時間調整したのが読みとれる。

そう思うと、自然と笑みがこぼれおちる。

インターフォンに向かう足取りも軽く感じられた。

インターフォンに映しだされる北原を確認すると、

すぐさまエントランスの解除キーを操作する。



麻理「北原。今開けたから入ってきていいぞ」

春希「はい。ありがとうございます」



北原の声が聞けただけなのに、麻理の心は躍る。

急いで玄関に向かおうが、すぐに北原が来るわけでもないのに、早足になってしまう。

玄関の扉を開けて待とうか、それともエレベーターまで迎えに行こうか迷う。

結局どちらも北原に重い女と思われるのが嫌なので却下されるが、

迷う時間があったおかげで待ち時間でじれる必要がなくなり好都合であった。















7-3 春希 麻理マンション 1/9 日曜日 午前11時53分









春希「こんにちは、麻理さん。今日の料理考えてきました。

   お気に召すかわからないので不安ですが」



昨日、本屋で今日の料理候補を決め、本を購入し、そのままスーパーで

食材のチェックを済ませてある。



しかも、第3候補まで考えてあるんだから、どれかしらOKがでるはず。



麻理「いらっしゃい。ちゃんと考えてきたんだな。えらいぞ、北原」

春希「難しい料理ではないので、期待されると困るんですが、失敗する可能性だけは

   下げてきました」

麻理「それを聞くと、いかにも北原らしい発想の料理理論だな」



麻理さんから笑みが漏れるとこで、俺も気が少し楽になる。

どうしても実際会って話すまでは、身構えてしまっていた。

どう接していいか戸惑うところがあったが、今の雰囲気ならば杞憂に終わりそうだ。



春希「あまり誉められてない気がするのは、気のせいですかね」

麻理「誉めてるぞ。ふふっ・・・・ははは・・・・・」



麻理さんがお腹を抱えて笑うようなことは言っていないのに。

いつもの二人の距離感のはずなのに、なにか違和感を感じずにはいられなかった。



春希「そんなに笑わなくても」

麻理「いや、すまない。・・・・ふふ。で、何を御馳走してくれるんだ?」

春希「はい。エビと鶏肉の黒酢あんかけにしようかと思っています。

   それに、みそ汁とサラダをつければいいかなと。どうです?

   一応他の案も考えてきたので変更もできますよ」

麻理「それでいい。楽しみにしているぞ。では、行こうか」



麻理さんは、靴を履き、そのまま俺の腕を取って、玄関の外に引っ張っていく。

俺は連れて行かれるまま、エレベーターに再度乗り込むことになる。



春希「どこに行くんです?」

麻理「決まってるだろ。スーパーに買いだしに行かないと、材料なんてないんだから」



麻理さんが、質問すること自体馬鹿げたことだと言わんばかりの表情を見せる。

いかにして料理を作るかを考えてばかりいて、食材を買ってくることを忘れていた。

あれだけスーパーで材料の吟味までしていたのに、買うこと自体を計画に

いれるのを忘れてしまうとは。

やはり俺の方は本調子とはいかないみたいだ。

エレベーターが1階に着き、エレベーターの扉が開くのを待つ。

扉が開ききり、だれも正面にはいないことを確認してから動きだそうとするが、

その前に左腕が引っ張られる。




あまりにも自然すぎて、あまりにも俺がその位置にいてほしいと思ってしまう彼女が

俺の腕に絡まっている。

柔らかい温もりを左腕から伝わり、心が揺れる。

俺は麻理さんに腕を組まれたままスーパーに向かった。










平日とは違い、休日の昼間ということもあって、スーパーは賑わいに満ちていた。

いくら買うものが決まっていようと、人が多ければ動きも鈍くなる。

しかも、右手に買い物かご、左腕には麻理さんという動きが制限される状態ならば

なおさらである。

買い物かごに商品をいれようとしても、麻理さんは腕を離してくれることはなく、

俺がとってほしい商品を告げるしかなかった。

別に麻理さんが俺に寄り添ってくることが迷惑と思うことはない。

むしろ嬉しかった。だからこそ、嬉しいと思ってしまう自分が許せずにいた。










マンションに戻ると、麻理さんは腕を解放してくれた。

スーパーでも、レジや荷を詰めるときは離してくれている。

麻理さんが俺の左腕が所定の位置であり、なおかつ、

俺がそれを受け入れていること自体が問題なのだ。

だけど、簡単に解決策など見つかるわけもなく、今目の前にある料理という難題に

取り組むことしか道はなかった。



料理を始めると、とくに問題などなく、スムーズに料理が完成されていく。

料理の本を参考にいして、自分なりにノートにまとめたのが功を奏したらしい。



麻理「料理まで自分なりにまとめてくるなんて、面白いやつだな」

春希「失敗できませんからね。必死なんですよ」

麻理「そうなのか? 私は失敗してもいいと思ってたけど」

春希「失敗作なんて食べてもらえませんよ」

麻理「お前は、彼女が失敗作を作ったら食べないのか?」

春希「そんなことしませんよ。美味しいって言って、全部食べると思います」

麻理「だったら、今も同じよ」





つまり料理の良しあしも重要だけど、

作ってくれるという過程と心遣いが大切ってことか。

逆の立場のことなんか考えもしたことがなかったから、気が付きもしなかったな。



春希「そうなんですかね。できれば、美味しいって思ってほしいですよ」

麻理「そうだな。では、私もはりきって手伝うよ」

春希「あ、それ。入れる順番違います」

麻理「す・・・・すまん」



立派な大演説をしてたかと思えば、可愛いミスをしでかす。

ほんと、見てて飽きない人だ。ほんとうに愛らしい女性だと思える。

いつまでも見守っていられるんなら、どれだけ・・・・・・。



春希「そういえば、昨日作っていった料理どうでしたか?

   自信はないですけど、食べられないでほどではなかったと・・・思うのですが」

麻理「ああ、美味しかったよ。また作ってくれると助かる」

春希「それはよかったです。サンドウィッチも大丈夫でしたか?」

麻理「あれも美味しかった。仕事の差し入れで今度作ってきてほしいほどだ」

春希「それは構わないですけど、鈴木さんになにか言われますよ?」

麻理「大丈夫だって。隠れて食べるから」



笑いながら言ってるけど、本気なんだろうな。

作ってあげたい。それに、NYに行くまで日数も限られているし。

それにしても、マスタードがほんの少し増量したサンドウィッチが一つ用意しておいたけど

麻理さんは辛くなかったのかな?

辛いものが好きなら問題はないだろうし、自分がやった罠に自分が返り討ちに

あったのを隠しているのか?

ふと疑問にも思いもしたが、目の前の料理に集中すべく、疑問を頭の片隅に追いやった。










綺麗に空になった皿を目の前にして、ようやく肩の荷が下りる。

いくら美味しいって言ってもらえても、食べてもらえなければ自信をもてるはずもなく。



麻理「北原は、なんでもできるんだな。料理はあまり得意ではないと言いながらも

   こんなにも美味しい料理を作ってしまうのだから、まいるよ」




春希「誉めてもらえるのは嬉しいのですが、そこまで誉めてもらえるものは

   作ってないですよ」

麻理「謙遜するな。私が満足してるんだから、それでいいじゃないか」

春希「そうですか。今度作るときは、もっと腕を磨いてきますから

   その時は、もっと自信をもって作れるようにしてきます」

麻理「そうか。また作ってくれるんだな。楽しみにしてるからな」

春希「ええ。あっ、そうだ。麻理さんに部屋の鍵返そうと思って、持って来たんです」



俺は鍵を取り出し、麻理さんに差し出す。二人の視線は、自然と鍵に集まる。

麻理さんの部屋の鍵。

麻理さんのプライベートに立ち入ることが許される免罪符ともいえる心の鍵。

もう、麻理さんに返さなければならない。俺にはもつ資格などないから。

しかし、麻理さんは鍵を受け取ろうとはせず、ただ鍵を見つめるだけであった。



春希「麻理さん?」

麻理「その鍵は、北原がもっててくれないか」



突然の申し出に俺は戸惑うばかり。

一方、麻理さんは真剣な眼差しなのだから、俺をからかってるわけではないみたいだ。



春希「でも、な・・・・いえ、俺が持ってて大丈夫なんですか?」



何故なんて、分かり切ってる。それを聞くなんて、麻理さんを傷つけるだけだろうな。



麻理「あまりかしこまると、こっちが困る。いや、困らせてるのは私の方か」



自嘲気味に笑う麻理さんが痛々しい。



春希「俺は、困りなんかしませんけど、でも・・・・」

麻理「これから、NYにいったり来たりで部屋を留守にするからな。

   だから、たまに空気を入れ替えてくれると助かる。

   それに、家に誰もよりつかないとなると物騒だろ」



麻理さんが言うことがこじつけだっていうことは、俺にだってわかる。

それを指摘するのも簡単だけど、俺は・・・・、



春希「わかりました。時間ができたら、空気の入れ替えだけではなく

   掃除もしておきますね」




麻理「そこまでする必要はないって言っても、お前のことだ。掃除するんだろうな」

春希「分かってるんなら遠慮しないで下さいよ」

麻理「なら、掃除も頼むわ」

春希「はい、喜んで」



その後、二人並んで食器を片づけたり、ソファに二人寄り添って

今後のNY息の予定や、大学の試験の日程やバイトのシフトを話し合う。

すでに二人でいることに俺は違和感を感じることはなくなっていた。

そこにいるはずの存在が、当然のごとく存在している。

それに何故違和感を感じるのだろうか。

だけど、そんな甘えは、いつまでも俺には許されてはいない。

今日麻理さんに会いに来たもう一つの理由が、俺を引きとめる。



春希「2/14なんですけど、NYに行く日を一日遅らせませんか?

   その日大学でヴァレンタインコンサートがあるんですが、俺も出演するんです。

   だから、できれば麻理さんにも見に来てほしいです」



麻理さんの表情が移り変わるのが見てとれる。

穏やかな頬笑みから、驚愕と戸惑い。そして、諦めと決意へと。

俺は、その一つ一つの心の変化が手にとるように理解できてしまう。

理解できてしまうからこそ、心が痛む。

今は、その心の痛みこそが、心の支えとなった。



麻理「どうしても見てほしいのか?」

春希「はい、是非麻理さんに見に来て欲しいです」

麻理「そうか。わかった。スケジュールは調整しておくわ。

   ヴァレンタインを過ぎたら、今度日本に戻ってくるときは、

   最後の引き継ぎだろうし。

   ま、最後の引き継ぎといっても、顔見せと書類の提出程度だろうけどな」

春希「最後なんですね」

麻理「そう暗い顔するな。NYまで会いに来るって約束しただろ」

春希「はい。きっと・・・・、そうですね、ゴールデンウィークには行きます」

麻理「気が早いな」



懸命に笑いを作り出す麻理さんの心が俺に突き刺さる。

そして、俺は、喜んで痛みを受け入れる。



春希「計画的って言ってほしいですね」




麻理「計画的な北原は、その次はいつの予定なんだ?」

春希「夏休みにでも」

麻理「そっか。・・・・・・就職は、うちにするのか?」

春希「できれば」

麻理「お前なら大丈夫か。もし落とすようなら、うちの方が危ないな。

   その時は、私も転職を考えないと」

春希「そこまでは・・・・・」

麻理「冗談だって。いや、冗談ではすまない事態かもな」



麻理さんは、笑いを込めて真剣に悩む。俺は、どう反応すればいいか迷ってしまう。



麻理「ま、大丈夫だろ。人事にも同期がいるし、北原のこと高くかっていたしな」

春希「そうなんですか?」

麻理「お前は、私が育てたんだ。だから、自信を持ちなさい」

春希「はい」



夜は更けていく。深夜になろうが、始発電車が走り出そうが、

二人寄り添いソファーで朝を迎える。

もうじき朝日が昇ろうとするころ、俺達は少し早い朝食をとって、

俺は自宅へ、麻理さんは開桜社へと戻っていく。

麻理さんが、駅で名残惜しそうに俺の腕から手を離していく姿が脳裏に焼きつき、

いつまでも忘れることができなかった。

集中が途切れるたび、月光の中、身をよじる麻理さんの温もりと柔らかさを思い出す。

肺いっぱいに吸い込んでいた麻理さんの香りは、肺から抜け出すことはなく、

細胞の奥までしみ渡っていた。














8-1 春希 冬馬邸 1/10 月曜日 午前9時49分







約束の10時まで、もうすぐちょうど10分前。

チャイムを鳴らそうとすると、玄関の扉が開く。

中からは曜子さんが顔を出し、俺の顔を確認すると目を丸くする。




曜子「ほんとに10分前に来るのね。言ってた通りだわ」

春希「誰が言ってたか追及しませんが、おはようございます」

曜子「おはよう、北原君。さ、あがって」



曜子さんに俺のことを話すやつなんて一人しか思い浮かばない。

しかも、悪口込みで言ってそうだから、曜子さんの俺の評価を聞くのが恐ろしい。



曜子「なにをしているの? 寒いから中に入ってちょうだい」

春希「すみません。久しぶりに来ましたけど、すごいお屋敷だなって」

曜子「そう? ウィーンの方がでかいわよ」

春希「そうですか・・・・。おじゃまします」



とっさについた出まかせだったのに、その嘘のせいでびっくりするとは。

冬馬家の財務状況ってどうなってるんだよ。



曜子「さっそくで悪いんだけど、説明していくわね」



曜子さんは、玄関に上がるとすぐに今後の方針について話し始める。

色々俺のことやかずさの事を聞かれるよりは、ましだけど、

どうも話のリズムがつかめずにいた。

歩きながら説明を続け、リビングまで行く。

部屋の中は、意外と生活感が残っている。ウィーンに越してしまっているから

家具などはないと思っていたけど、以前来た時よりは断然殺風景だが、

最低限暮らしていくには必要なものは揃っていた。

だけど、ここにかずさはいない。

一番必要なピースが欠けているこの部屋は、俺が知るかずさの家ではもはやなかった。



曜子「この家にあるものは、なんでも使っていいわ。

   お腹がすいたら冷蔵庫の物を食べてもいいし、疲れたならソファーで寝ても

   いいし、お風呂に入ってもいいわ。掃除なら気にしなくても

   昼間ハウスキーパーが来て掃除するから、なにもしなくてもいいわ。

   あ、でも、2階には上がらないでね。

   仕事で使ってるから、色々まずいものもあるの」

春希「はい、わかりました」

曜子「よろしい」







そう言うと、地下スタジオに独り向かう。俺は置いていかれないようにと

慌ててついていく。



地下スタジオに入ると、こちらも記憶に残るスタジオとは異なっている。

部屋の中心に陣取るピアノは同じなのだが、部屋に複数設置されている集音マイク、

ビデオカメラ、PCなど、最新の機材が設置されていた。

曜子さんが言うように、この家を使って仕事をしているのだろう。

もともと本格的なスタジオだったから、少し手を加えれば録音くらいできるだろうし、

マスコミの目も気にしなくていい分、レンタルスタジオよりは断然使い勝手がいい気がした。



曜子「はい、このギター使ってね」



曜子さんが差し出すギターは、俺でさえ知っている有名ギター。

しかも、見てからして高級そう・・・・・・。



春希「もっと安いギターでよかったんですけど」

曜子「そう? 御希望なら、安いギターを改めて用意するけど」

春希「いいです。それでいいです」



俺は、慌ててギターを掴み取り、安いギターを辞退する。

この人、絶対俺の金銭感覚わかってて言ってるはず。

安いギターだとしても、1万はするし、それを改めて買うなんてもったいない。

俺が、このギターを使うのももったいないことだけど、

このギターの腕に見合った人が使ったほうが有意義だと思うけど、

無駄遣いだけは遠慮したい。

曜子「ふぅ~ん」




俺を細部まで観察する曜子さんの目がこそばゆい。

俺の今の反応さえ予想の範ちゅうなのだろうか?

かずさは、どこまで俺のことを曜子さんに話しているんだろうか?

ふと疑問に思いもしたが、それよりも、かずさが曜子さんと俺の事を話題にするにせよ

会話ができる親子をやっていることに、胸をなでおろした。



曜子「じゃあ、ギターの練習について説明するわ」

春希「はい」

曜子「曲は、『届かない恋』1曲だし、そもそも弾けてたわけだから

   反復練習しかないわ。そこのカメラ見える」




曜子さんが指差す先には、2台のカメラが設置されていた。



曜子「そこの椅子に座ってくれれば、あなたとギターの手元が映るように設定

   されているわ。あとで微調整しなくちゃいけないけど」

春希「そうなんですか・・・・」

曜子「別に、ずっとその椅子で座って練習しなくちゃいけないわけじゃないけど、

   細かい指示を貰いたいなら、そこに座ってくれると助かるわ」



カメラにマイク。俺を撮影するためみたいだけど、いまいち事態が読みきれない。



曜子「その顔をみるところ、どうやらわかってないみたいね。ごめんなさい、

   とばしすぎて」

春希「いえ、説明を続けてくだされば、理解していきますし、

   それでもわからないことがあれば、後で聞きます」

曜子「そう? じゃあ説明を続けるわね。

   私は24時間付きっきりで練習見てあげてもいいんだけど、

   それだと春希くんも気まずいでしょ?」

春希「そんなことは・・・・」



あるわけだけど、言える訳はない。

かずさの母親と2人きりで、かずさのことを考えるなという方が無理だ。



曜子「安心して。私も少しは仕事があるし、練習しているところを録画しておいてくれれば

   後で見直して、そこのノートパソコンに気がついたことを

   メールしておくから」

春希「なるほど、わかりました」

曜子「だけど、リアルタイムでも見ているときもあるから、気を抜いたらだめよ」

春希「そんな時間ありませんって。それに、ずっと録画されてるのに

   気を抜くも抜かないもないじゃないですか」

曜子「それもそうね。春希君のほうも、聞きたいことがあったら、パソコンで

   メールしておいてくれれば、なるべく早く解答するわ」



もともと反復練習がメインだけど、プロの目からのアドバイスはありがたい。





曜子「それと、ここを使っていい時間だけど、夜の8時から朝の8時まで。

   だから、悪いけど8時前には出ていってくれると助かるわ。

   ハウスキーパーがそのあと掃除に来て、昼間は事務所として使うし、

   スタジオもね。夜中しか使ってもらえないのは心苦しいけど、ごめんなさいね」

春希「そんなことないです。スタジオを使わせてくれるだけでも感謝しているのに、

   しかもアドバイスまで頂けるのですから。

   でも、こんなにも甘えてしまっていいんでしょうか?」

曜子「かまわないわ。私が好きでやってるんだから」



ここで合宿が始まる。

ピアノの主はいないけど、大切な思い出の地に戻ってきた。

俺を見つめる曜子さんの視線は気がかりだけれど、今はここに戻れただけで幸せだ。

さっそくギターの音を出してみようと奏でてみたが、

調子っぱずれの音に、俺も曜子さんも失笑を漏らすしかなかった。







第11話 終劇

第12話に続く









第11話 あとがき




このあとがきを書いているころ、cc編の最後の話を書いています。

といっても、以前にも話題にしましたが、結末だけは書いてあるので、

ラストちょっと前のお話になりますが。

ただ問題がありまして、第14話と第15話の容量ですね。

第15話の文章量が多い分にはいいのですが、足りないとなると困ります!

皆さまとは違った意味のドキドキ感でcc編最終話に突入ですw





来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。



黒猫 with かずさ派


今週も読んでいただき、ありがとうございます。

麻理ルートというと、麻理さんと佐和子さんの言葉の掛け合いが印象的です。

今回まだ佐和子さんは登場していないけれど、出してみたいキャラですね。


原作みたいに胃が痛くなるストーリーを書くのが目標ですけど、難しいっす・・・・・。




第12話









8-2 春希 冬馬邸 1/10 月曜日 








曜子「ところで、北原君」

春希「なんでしょうか?」



冬馬邸、地下スタジオ。かずさの母親だと思うとプレッシャーを感じずには

いられなかったが、いまはそんなことを考える暇もない。

早くギターが弾けるようにならないといけないという新たなプレッシャーの前に

一人思考にふける時間もなくなるだろう。



曜子「北原君の他には、誰が出演するのかしら?」



この人は、根本的な事を全く気にしていないとは。

それに、俺が電話した時の要件さえいまだに話せてはいない。

もはやあきれることさえ、意味をなさない。

こういう人だと割り切って付き合わなければ、今後疲労していくのは俺だけだ。



春希「ボーカルはいるらしいです。ベースとドラムは、どうなんでしょうかね」



今は、ほぼ何も決まっていない。ボーカルは、和泉が用意するとは言ったものの、

なにも決まっていないといってもいい。

俺のギターさえ、まだまだ人前で演奏できる代物ではないのだ。

ましてや、高校の学園祭とは違い、二人の頼りになる存在さえいない。

だけど、今も昔も、俺がやるべきことは決まっている。

俺は、ギターを弾けるようになればいい。

他人任せだってあきれるかもしれない。言いたいやつには、いわせておけばいい。

俺は、本来自分勝手なんだよ。



曜子「ボーカルは別として、北原君のギターだけで、演奏成り立つの?」

春希「それは、俺も心配してるところなんですけどね・・・・」





乾いた笑いがこぼれ落ちるしかない。だって、事実だし。

仮に、和泉が連れてくるボーカルが雪菜級であっても、俺のギターだけで、

演奏を成り立たせられるなんて思えない。

それこそ、大学やバイトを全て休んで、一日中練習しなければ間に合わない。



曜子「そっかぁ・・・・」



曜子さんは、考えるそぶりを見せつつも、笑みを絶やさない。

きっと面倒なことを考えているに違いないって、思えてしまう。

曜子さんと話す機会なんて、わずかしかなかったけど、そのわずかな時間だけでも

和泉千晶レベルの問題児だって、認識できてしまう。



曜子「ここにいい案があります」



にやっと不敵な笑みを俺に突き出す。おもわずたじろぐ俺をみて、

さらなる笑みをにじみ出す。



春希「なんでしょうか?」

曜子「これよ、これ」



曜子さんの手には、DVDかCDのケースが一枚。

俺がぽかんと見つめる中、俺にはかまわずTVに映し出す用意を始める。

曜子さんは、用意ができるとソファーに座り、俺を呼び寄せる。

突っ立っていても邪魔になるし、他に座る場所といっても限られる。

それに、わざわざ呼んでいるのに、それを無視して違うところに座るのも

機嫌を損ねてしまう。機嫌を損ねるだけならいいけど、その後の仕返しが怖いし。

俺は、観念して、曜子さんからなるべく離れたソファーの隅に身を沈める。

曜子さんは、一瞬むっとした顔を見せたが、それも一瞬。

とりあえず、納得はしてくれたか。

そうこうするうちにTVに映像が映し出される。

画面に映されたのは、



春希「かずさ」



ピアノに向かいあうかずさ。場所は・・・・・、おそらくこのスタジオ。

映像は、かずさをアップにして撮ってるため、場所を特定するのは難しい。

だけど、この背景。見間違えるはずもない。だって、今俺もその場所にいるんだから。

映像とスタジオを交互に確認する。やはり間違いはない。





と、確信を得ると、演奏が始まる。

これは・・・・・、『届かない恋』。

かずさが奏でる音色は、まったく色あせていない。

むしろ洗練されていて、艶っぽく成長している。

郷愁と夢想が俺の心を駆け巡り、俺を虜にする。

くいるように画面を見つめる俺は、いつしか前のめりにソファーに腰掛けていた。

一瞬一瞬のかずさの演奏を、一つも見逃すまいとくらいつく。

たった5分の演奏は、あっという間に終わりを迎える。

たった5分だというのに、永遠にも等しい時間。

3年もかずさと離れていたというのに、まったく色あせぬかずさへの想い。

俺は、再生が終わった画面の向こうのかずさを想い続けた。



曜子「そろそろいいかしら」



曜子さんにとっては十分すぎる時間。俺にとっては、一瞬だったが、

かずさの演奏を聴いてから、すでに30分は経過していた。



春希「すみません」

曜子「いいのよ。私も初めて聴いたときは、あなたと同じだったし」



いつ撮った演奏なんだろうか。曜子さんに聞けば、教えてくれるのだろうか?



春希「これって、いつ撮った演奏なんですか?」

曜子「それ聞いて、なにか意味でもある?」

春希「聞いて何かできるわけではないかもしれないですけど、俺は知りたいです」

曜子「そう・・・・・。三日前よ」

春希「え?」



三日前。ということは、かずさが日本に来ていた?

このスタジオにかずさが・・・・・?



曜子「ごめんなさい、北原君。ニューイヤーコンサートだけど、あの時も

   かずさ来ていたのよ」



俺は、もはや言葉さえ発せられずに、曜子さんを見つめていた。

喉が渇き、唇も乾燥していく。握りしめた手には、汗がにじみ出て、

焦点もぼやけていく。俺の混乱をよそに、曜子さんは、事実を俺に叩きつける。





曜子「あの子、今は会えないって。コンサートの時も、この演奏を撮ったときも、

   今は、会えないって・・・・・・」

春希「そう・・・・ですか」



声にできていいるかわからない。切なそうに見つめる曜子さんが、俺を包み込む。

そっと抱きしめられるが、いやらしい気持ちなど一切抱くことはなかった。

けっして魅力がないってわけではない。むしろありすぎる。

年齢を感じさせない若々しさ。強烈に女性らしさを演出する体の曲線。

だけど、今の俺には、曜子さんの全てがかずさと結び付ける。



曜子「もう少しだけ待っててあげて。あの子、今大きく成長しようとしてるの。

   無理やり日本に連れてきて正解だったわ。

   きっとあと数年で開花するはずよ。あと3年。ううん、あと2年。

   その時、かずさに会ってくれないかしら」

春希「かずさは、俺に会ってくれるんですか?」

曜子「あの子が会いたくないわけないじゃない。今も会いたい気持ちを我慢してるのよ」

春希「そうですか」

曜子「私とかずさの我儘に付き合わせてしまって、ごめんなさいね」

春希「いいですよ。3年もかずさを待たせたんです。あと2年や3年くらい待ちますよ」

曜子「ありがとう」

春希「そうだ。一つ言い忘れていたことがあったんですけど、いいですか」

曜子「なにかしら」

春希「この前電話した時言おうと思ってたことなんですけど、

   今度のヴァレンタインコンサートのDVDをかずさに渡してくれませんか。

   それを伝えるために電話したんですよ。それなのに、まったく聞いてくれずに

   今日ここにひっぱりだされてしまいました」

曜子「そうだったの。DVD、必ず渡すわ。でも、今日ここに来てよかったでしょ」

この人は。人の話を聞かなかったことに、まったく悪びれもしないで。

春希「来てよかったです。ほんとうによかった」



その後、さらに30分かけて平常心を取り戻す。ようやく曜子さんのレッスンが始まるが

まさに地獄。かずさの指導が優しすぎるって思えるくらいであった。

ブランクがあるとはいえ、厳しすぎるレッスンに、かずさへの想いの余韻に

浸ることさえできずに、時間が過ぎ去る。

今夜はゆっくり寝られそうだ。かずさの温もりが側にあるから。













かずさ「おつかれさん」

曜子「なかなか骨が折れそうね。でも、根性だけはあるから、間に合うかな」

かずさ「大丈夫さ。春希なら」

曜子「それもそうね」

かずさ「それよりもさ・・・・・・」

曜子「なにかしら・・・・・・」



かずさの鬼気迫る迫力におびえる曜子。なにに怒っているかなんて明白すぎる。

うまくスルーしてくれそうだと思っていたのに、それは無理だったか・・・・・。



かずさ「春希に抱きつくなんて、やりすぎだ。何を考えているんだか。

    この色情魔め。年を考えろ、年を」

曜子「あら、年なんか関係ないわ。春希くん、ちょっといいかもしれないわね。

   3年前にあったときは、なにも感じなかったけど、今は・・・・・」

かずさ「ふぅ~ん」

曜子「うそよ。うそ。娘の彼氏を横取りなんかしないから。

   ねっ、ねっ」



うろたえる曜子を睨みつけ、かずさの怒りはおさまりそうもない。

朝までみっちり北原君の練習をみていたっていうのに、まだ寝られそうにないか。

曜子は、朝日を眩しそうに見つめ、嬉しいため息を漏らした。
















9-1 春希 春希自宅 1/11 火曜日 








今日から大学も始まる。ギターの練習で夜はバイトができないし、

今後のこともある。今できることは、今のうちに手をまわしておきたい。

そうしないと、ギターに集中できないし、俺に振り回されている人たちにも

申し訳なかった。




まずは、こいつからかな・・・・・・。俺は携帯を取り出し、アドレスを呼び出した。



武也「おう春希。この前は、痛いところをつかれたよ。

   依緒の方は、まあ、なんとかな・・・・・・・・」

春希「悪かったな。依緒のフォローまったくできなくて、すまない」

武也「いいってことよ。俺の方も考えるとところもあったし、春希が出てきても

   かえって感情的になってかもな」

春希「そうか。・・・・・それで、今日から大学始まるけどさ、

   出席日数ギリギリで出ると思うから、あまり大学では会えないと思う。

   だけど、それは決して雪菜に会いたくないってことではないんだ」

武也「OK、OK。今度は雪菜ちゃんのフォローしておけよってことだろ」

春希「話が早くて助かるよ」

武也「いいってことよ。春希が俺に頼ってくれてるうちは、大丈夫ってことだからな」

春希「いやな判断基準だけど、ありがとな。」

武也「おう」



和泉の乱入でひと騒動あったというのに、軽口をたたけている。

こいつが親友でよかったと、しみじみ思えた。だからこそ、雪菜を任せられる。

武やが親友でよかったなんて、口が裂けてもいうことなんでできやしないけど。



春希「うちの大学で毎年やってるヴァレンタインコンサートって知ってるよな?

   お前が毎年女の子とデートしてるやつ」

武也「知ってるけど、後半の情報は余計だ。チケット欲しいのか?

   2枚くらいなら顔がきくと思うけど、

   今年はなぜか既にチケットが全てさばけたらしい。

   隠れた人気があるコンサートで、値段の割には質もいいしな。

   今年はチケットとれるか微妙だったけど、春希の頼みなら全力で奪い取ってきてやる」

春希「いや、チケットはいい」



俺は思わず苦笑いをするしかなかった。

既に裏では『届かない恋』の噂が広まってるのだろう。

自信過剰な評価かもしれないけど、あながち過大評価とはいえないとも思える。

武也はまだ知らないみたいだけど、明日から大学が始まるし、きっと噂を嗅ぎつける。

だから、雪菜も・・・・・・・、知ってしまう。



武也「そうか? じゃあ、なんだよ?」

春希「俺が出場するんだ」

武也「は? 聞いてないぞ。雪菜ちゃんは? って、出るわけないか」




春希「ああ、雪菜はでない。それに、まだ俺が出るって言ってもない。

   だから、武也が雪菜を誘ってほしいんだ。

   今、雪菜に顔をあわせる準備もできていないし、申し訳ないけど」



そう、主にかずさと麻理さんのことで、雪菜に顔をあわせるなんて、できやしない。

かずさと麻理さんの間で、微妙なバランスをとっている今、雪菜まで加えて

バランスを取る自信なんてありはしない。

自分勝手だってわかってはいるけど、誰に対しても不誠実でいなければ

全てが崩れ去ってしまう気がしていた。



武也「それはいいけどよ、それでも春希が直接誘ったほうがいいんじゃないか?

   まあ、依緒も誘って、3人でいくことになるだろうけど」

春希「すまない。俺の我儘なんだ」

武也「わかった。俺に任せておけって。でも、チケットよろしく頼むな。

   出演者枠で何枚か貰えるだろ? ほんとは、今年どうしようかって

   考えてたところなんだよ」

春希「わかった、わかった。3枚でいいんだな。聞いておくよ」

武也「おう。・・・・・・・あのな春希」

春希「なんだよ?」

武也「お前の方は大丈夫なんだよな?」

春希「大丈夫・・・・・・だと思う。大丈夫になるようにコンサートでるんだし」

武也「そっか。わかった。雪菜ちゃんのことは俺と依緒にまかせろ。

   コンサート楽しみにしているからな」

春希「ああ、まかせろ・・・・って言いたいところだけど、ぎりぎりだな」

武也「そっか。お前がギターのことで任せろだなんていう方が心配だ。

   ギリギリって言われた方が、なんとかしそうだから、頼もしいよ。

   ・・・・・・、そういや、なにを演奏するんだ?」



話の流れとしては、聞いてくる話題だって、わかっていた。

わかっていたけど、携帯を握る手に力が入る。

口の中が乾き、口を緩やかに動かすだけで、声が出ない。



武也「春希?」

春希「あ、ああ。ごめん、ちょっとぼうっとしてた。徹夜明けなんだ」

武也「そうか。で、なにやるんだよ?」



武也は気がついてしまったはず。苦しい言い訳だからこそ、

いつも通りに語りかける武也に感謝せずにはいられない。





春希「『届かない恋』なんだ」

武也「そっか・・・・・。で、誰が歌うんだ?」

春希「文学の友達が用意するって話なんだけど、とりあえず、

   ギターの俺に声がかかったってところかな」

武也「雪菜ちゃんにはどう説明する気なんだ?」



武也の声も堅くなるのが、いやでもわかる。俺のほうなど、震えてないか心配するほどで。



春希「そのまま言ってくれてかまわない。たぶん、明日になれば大学で

   噂くらいは聞くと思うし」

武也「なるほどな。今年のチケットの売れ行きが良すぎると思ってたら、

   こんな裏事情があったんだな」

春希「チケットのことは俺も初耳だったけど、人が集まりそうだな。

   ・・・・・なあ、武也。嫌な役回り押しつけて、悪いな」

武也「そう思ってるんなら、雪菜ちゃんとのこと、しっかりけじめつけろよ。

   やっと中途半端な状態から動こうとしたんだ。

   お前が雪菜ちゃんと友達になるって宣言したんだし、俺はそれを応援するよ」

春希「ああ、頑張ってみるよ」

武也「ああ、頑張れ」

春希「じゃあ、また大学で」

武也「大学でな」



電話を切ると、心地よい疲労感で満たされる。

どうにか一人目は、クリア。次は・・・・・。

和泉に電話をしてみたが、留守電に繋がるのみ。

この勢いのままって、意気込んだけど、出鼻をくじかれるとは。

さすがは和泉だって、つまらない関心をする。

とりあえず、コンサートのことで話があるから、いつでもいいから電話がほしいと

留守電にメッセージを残す。

さてと、少し仮眠をとるか。

起きたらバイトだ。長時間の練習で疲労困憊ではあったが、

充実した時間に、体は動きたくてうずうずしていた。

















9-2 春希 開桜社 1/11 火曜日 









意気込んでバイトにきたが、思いのほか平和そのものだった。

見た目の上でだが。

気持ちの切り替えができた麻理さんは、いつも以上に仕事に精を出す。

NY行きのことは、編集部内では皆知るとこるところとなり、

エースが抜けた穴を埋めようと、引き継ぎ作業に没頭する。

だから俺も通常業務の負担を減らそうと、麻理さんのお咎めがない程度にみんなの

仕事を引き受けていた。

もう無理なんかはしないって、心に決めている。これ以上の不安要素を麻理さんに

持たせたままNYへなんて行かせるわけにはいかない。

麻理さんがいない開桜社でも仕事をしていけるって証明したい。



麻理「北原、それ終わったら、こっちのほうもよろしく」



仕事を机に置き、一言声をかけるだけ。

たったそれだけの行為なのに、特別な行為だと意識する。

だって、俺の肩にそっと手をかけて、振りかえった俺に頬笑みを向けてくれるんだから、

意識するなっていう方が無理だ。

今までだって、肩をぽんっと叩くことぐらい何度もあったはず。

しかし、今日の麻理さんの行為は、今までとは全く性質が異なる気がする。

たったひとつ、頬笑みが加えられただけなのに、それが大きな意味を持つ。

でも、麻理さん。俺はとてもうれしいんですけど、ここには情報通で

噂好きの鈴木さんがいるってこと、忘れていませんか?

さっきから、俺と麻理さんが近づくたびに妙に視線が感じられるんですよね。

ほら。鈴木さんが麻理さんの後姿を追っていたと思ったら、

俺の方を見て、にたぁって笑みを浮かべてるし。

だから、「こほん」と、わざとらしく咳をする。

これ以上深入りしてこないで下さいと警告を込めて。

だけど、俺に注目している人物は一人ではないと覚えておくべきだった。

麻理さんは、俺のわざとらしい咳払いに反応し、ちらりと俺に視線を送ると、

手をキーボードの端に移動させ、指だけ上げて、手を振ってくる。

ほんの一瞬の出来事であったが、すかさずチェックをいれる鈴木さんがいるんですよ、

って、今すぐ席を立って教えてあげたい。





麻理さんは、数秒の休憩は終わりとばかりに仕事に集中してるし・・・・・。

これはもう、諦めるしかないんだろうな。

ま、いいか。俺のバイトのシフトも、麻理さんが日本にいるときに合わせて

入れられているだけだし。鈴木さん以外だったら、俺の上司は麻理さんですから、

大学の試験もあるのでそれに合わせただけですっていう言い訳も通用するのにな。

ここは、鈴木さんが噂をバラまかないことを祈るしかないか。

俺は、もう一度麻理さんの姿を少しの間見つめると、

再度気合を入れ直し、仕事に立ち向かった。









昼の休憩を済ませ、昼食から帰ってくる部員をよそに、俺はまだ仕事にいそしんでいた。

麻理さんの休憩に合わせて一緒に食事でもと企んではいたけど、

とうの麻理さんは、打ち合わせに出て、編集部にはいない。

食事のタイミングを逃した俺は、砂糖を大量に投入したコーヒーをちびちび飲んで

飢えをしのぐ。5時にはあがる予定だし、あと数時間だ。

このまま食事をしないでも大丈夫かなと考え始めたころ、突然声をかけられる。



麻理「北原。食事まだだって聞いたのだけれど、これからのバイトスケジュールや

   今後のことを話しながら食事でもどうかしら?」

春希「はい。食事に行きそびれていたので、お腹すいてたんですよ」

麻理「そうか。じゃあ、行くか」



いつもの上司と部下を演じているつもりらしいけど、麻理さんの声は堅く、

手足の動きもぎこちない。

今までさんざん自然を装って俺の肩や腕に触れてきたっていうのに、

ここにきてなんなんですか。

こればっかりはフォローのしようもありませんよ。

これ以上編集部内に麻理さんを晒さない為にも、俺は、急ぎ出かける準備をする。



春希「さ、行きましょう」



麻理さんは、返事の代りに俺の腕に自分の手をからめようとするが、

すんでのところで、ここが編集部であることに気がつく。

自分のミスに気がついた麻理さんは、誰かにばれていないかと急ぎきょろきょろと見渡す。

そして、だれも見ていないとわかると、急ぎ足で編集部をあとにした。

麻理さん。もう遅いです。鈴木さんが見てましたよ。




ほら、麻理さんが行った後、俺に向けて親指を立てて、にへらぁ~って笑ってます。

俺は、鈴木さんの応援を振り払い、麻理さんの後を追った。










俺のバイトの時間は終わり、帰り支度を始める。

編集部内を見渡すと、いまだ仕事に精を出している部員の人たちが見受けられる。

麻理さんも、食事から戻ってからは、2度ほど仕事の受け渡しに乗じてスキンシップを

とったきり、あとは仕事に没頭している。

今は午後5時すぎ。本来の俺だったら、深夜まで仕事をしているけど、

8時からギターの練習があるので、ここまでにしてもらう。

仮眠もとなければならないし、そもそも昨夜もほとんど寝ていない。

そろそろ活動限界に近いけど、とりあえず携帯の着信だけは確認しようと

携帯をいじる。

すると、今朝留守電を入れておいた和泉千晶からの連絡が来ていた。

俺の眠気など、一瞬で吹き飛んだ。







第12話 終劇

第13話に続く










第12話 あとがき






cc編書き終わりました!

懸念していた第15話の容量は大幅に増量され1万字を超えました。

どうにか容量不足だけは回避できてよかったです。

さて、今度は~coda編を書いていくわけですが、やはり不安です。

まあ、裏事情をいいますと、あとがきを書くタイミングは適当なので、

第12話をアップした時には、すでに何話か書いているかもしれません。(希望的観測)

ちなみに、あとがきを書いている今日は8月19日です。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。





黒猫 with かずさ派





毎週足を運んでくださり、ありがとうございます。

coda編。書きたいことははっきりしているのですが、それを描くのはなかなか難しそうです。

テーマを絞って、だらだらした感じだけは避けたいものです。

描きたいテーマがでかすぎるんですけどねorz



cc編は、第15話まで続きます。まぎらわしいコメントをのせてしまい申し訳ありません。





第13話








9-2 春希 開桜社前 1/11 火曜日 







麻理さんに仕事の終わりと帰りの挨拶を済ませると、俺は急ぎビルをでる。

留守電を確認すると、千晶からいつでもいいから電話をくれとのこと。

要件は既にメールでも伝えてあるので、メールでもいいかなと考えはしたが、

電話が欲しいとのリクエストがあるのならば、電話がいいのだろう。



千晶「もしも~し、春希。もしかして、私からの電話無視してない?

   ちっとも電話に出てくれないじゃない」



開口一番文句とは。しかも、この前俺が言ったことさえも忘れてるし。



春希「前にも言ったよな。電話に出られない状況だから、電話に出ないんだ。

   電話に出られるんなら、すぐに出てるさ」

千晶「そう? 私からの電話に反応して、すぐに出るって、

   春希にもかわいいところがあるじゃない」



あぁ、もうっ。ちっとも話しが進まない。いきなり話の脱線とは、恐るべし。



春希「もう本題に入っていいか?」



ここは心を鬼にして、話を切り出すべきだな。

俺は、感情を込めずに、事務的に切り返した。



千晶「あ、いいよ」



ほんとめげない奴。厭味も通じないのかよ。って、わかってて受け流している節もあるか。



春希「コンサートの件だけど、ピアニスト見つかったぞ」

千晶「まじで? 冬馬かずさの出演交渉成功したんだ?」

春希「冬馬かずさ本人は出ないよ。でも、音源だけは確保した」




千晶「えらいっ、春希。音源だけでも大したものだよ。

   これでコンサートも無事出演できるね」

春希「ギターとピアノだけだけどな。ヴォーカルの方は、どうなったんだよ?」

千晶「ああ、ヴォーカルねぇ・・・・・・」



こいつ、俺が聞かなきゃ、すっとぼけようとしたな。



春希「どうなってるんだ? ヴォーカルがいないだなんて、ライブ成立しないぞ」

千晶「大丈夫だって。あと、もうちょいだから。もう少しで、いい感触掴めそうでさ」

春希「そうか? だったら、お前を信用して待つとするよ」

千晶「ありがと、春希。愛してるぅ」

春希「やめろ。気軽に愛してるなんて言うべきじゃない」

千晶「えぇ~。・・・・・・私は、本気と思ってもらっても、いいんだけど」

春希「だったら、なおさらやめろ」



一瞬垣間見た千晶の女の顔。声だけなのに、妙に現実味を帯びた声に、背筋が凍る。

女を感じさせない女友達だったはずなのに、一瞬だがそれを忘れるほど

俺に近づいてきてる感じがして、思わず飛びのきそうになってしまう。



千晶「ま、いっか。でね、その音源って今から聞きたいんだけど」

春希「悪い。これからギターの練習なんだ。明日は大学行くし、講義のあとでいいか?」

千晶「それでいいよ。そういえば、春希、今日大学来てなかったでしょ」

春希「お前も大学行ってないだろ」

千晶「え? 私は春希と違ってまじめ君だから、大学に行ってるって」

春希「俺が知っている和泉千晶は、まじめからは遠く離れた存在なんだけどな。

   それに、お前が大学に来てないから、明日は大学に来るように伝えてくれって

   メール来てたんだけどな」

千晶「え? それは・・・・・その」

春希「お前は、課題も出していないし、このままだと進級も危ういぞ。

   明日俺も一緒に行ってやるから、明日はちゃんと大学こいよ」

千晶「うぅ~ん・・・・・・。こっちもちょっと忙しくてさ」

春希「できる限り俺もサポートするから、一緒に進級しようぜ」

千晶「そう?」



俺がサポートを申し出た途端に明るい声を出しやがって。

してやったり顔をしている千晶が目に浮かぶよ、まったく。



千晶「だったら、一緒に進級してあげようかな」



春希「あげようかなじゃない。進級するのは、自分のためだろ」

千晶「今日はお説教はいいからさ。・・・・・・ま、いっか。進級するから、

   講義の後、冬馬かずさの音源聴かせてね」

春希「講義の後、俺の家で聴かせてやるよ」

千晶「じゃあ、カレーでいいから」

春希「は?」

千晶「だから、食事はカレーでもいいって、言ってるの」

春希「だから、なんで音源聴くのが、カレーになるんだよ」

千晶「それは、春希だから?」



俺を何だと思ってるんだ。俺は、千晶の飼い主ではない。

そもそも俺が飼い主だったら、しっかり勉強させて、進級が危ういとか

そういう状況にはさせやしない。毎日しっかり大学で勉強させて、

課題も提出期限ぎりぎりではなくて、余裕を持って提出させるはず。



千晶「お腹がすいてたら、冬馬かずさの演奏に集中できないし、

   これからのことだって、ちゃんと考えられなくなるでしょ。

   やっぱ、腹ごしらえして、脳にしっかり栄養与えないと」

春希「あぁ、もう。わかったから、カレー用意しておくよ」

千晶に甘いってわかってるけど、いつの間にか千晶のペースにさせられてしまう。

千晶「やった。そうこなくっちゃ。春希、愛してるよぉ」

春希「はい、はい」



今度の愛してるは、いつもの女を感じさせない千晶でほっとしている自分がいる。

もしかしたら、さっきの千晶は聞き違いかもしれないと思えてもくる。

だけど、聞き違いなんて、あろうはずもないくらい、

しっかりと俺の脳には千晶の声がこびり付いていた。














9-3 春希 春希マンション 1/11 火曜日 







教授の元に千晶を連行し、長々とためになる話をしてくれたというのに、

千晶はすでに教授の努力を忘れ去っている。



今千晶が夢中になっているのは、大盛りによそわれたカレーライス。

俺が大学に行く前に作っておいたものだが、このままの勢いでいくと

二杯目に突入しそうだ。



春希「演奏聴かなくていいのか?」

千晶「ん?」



俺に呼ばれた千晶は、スプーンを置き、一口水を飲んでから、俺に向き合う。

話しながら答えないところをみると、存外育ちがいいのかもしれない。

でも、・・・・・・・今までもそうだったか?



千晶「もうちょっとで食べ終わるから、あと少しだけ待ってよ。

   しっかり栄養取ってからじゃないと、演奏に集中できないでしょ」

春希「まあ、時間もあるし、ゆっくり食べろよ」



現在午後3時。どう多く時間をみつくろっても、ギターの練習までには聴き終わる。

聴かせる部分は『届かない恋』だけでいいんだし。

ほかにも何曲か収録されてはいたけど、それは誰にも聴かせたくはない。

曜子さんと一緒に聴いたというのに、人目を気にせず号泣してしまった。

心を鷲掴みにされる感覚というのだろうか。

丸裸のかずさが俺の心に入り込み、それと引き換えに俺の心を全てもっていかれる。

気がついたときには魅了されていて、心地よい脱力感が俺を支配していた。



千晶は、返事の代りにスプーンを持ち上げ、食事に取り掛かる。

俺は、そんな千晶の食事の風景を眺めつつ、ほんのひと時の仮眠へと落ちていった。



千晶「春希。春希ったら。起きてよ」

春希「ごめん。寝てた?」

千晶「うん。気持ちよさそうに熟睡してた」

春希「まじで? 今何時?」



掛け時計をみると、午後3時30分。あれから30分しか経ってはいない。



春希「少ししか寝てないじゃないか」

千晶「そう? でも、いくら呼んでも起きないから、DVDの準備しておいたよ。

   これでいいんだよね?」



スプーンではなく、TVのリモコンをもつ千晶は、再生ボタンを押す。



TV画面には、色あせないかずさが演奏に入ろうとしていた。

演奏が始まると、千晶の顔色が変わる。今まで見たことがない表情に鳥肌がたつ。

かずさの演奏に触発された部分もあるが、俺の視線はかずさではなく、

千晶に注がれている。別に、女としての千晶に興味があったのではない。

千晶の圧倒的な存在感が俺の目を引きつけてしまったのだ。

けれど、得体のしれない存在であるはずなのに、妙に引き付けられ、

そして、どこか懐かしい感じを醸し出していた。



千晶「もう一回見ていい?」



演奏が終わると、千晶は俺の返事を聞く前に、最初から聴きなおす。

俺もアンコールを断るつもりはなかったので、黙って千晶を見続ける。

いや、まだ千晶を見ていることができることに感謝さえしていた。

もう少しで何か分かりそうなのに、掴むことができない。

千晶の目線。瞬き。呼吸したときの胸の動き。ピアノに合わせて揺れ動く肩や

なめらかに踊る指先。

あと少し。あともう少しで、なにかが・・・・・・・・・。



千晶「ありがと、春希。これでいけるって・・・・・って、春希?」



突然目の前に俺を覗き込む千晶を認識して、思わず後ろに倒れそうになる。

どうにか片手で支えて難を逃れることができたけれど、

面白そうに俺を見つめる千晶に、もう少しで掴めそうだった感覚が霧散してしまった。



春希「もういいのか?」

千晶「うん。でも、これのコピー貰えるんだよね? もう一度聴きたいし、

   ヴォーカルの子にも必要だしさ」

春希「それは構わないけど、CDの方だけな。映像が入ってるDVDは遠慮してくれ。

   もう一度見たいんなら、俺のところにきたらいつでもみせてやるからさ」

千晶「ふぅ~ん。自分の大切な彼女は、誰にも見せたくないってことかな」

春希「誰にもって、お前に見せているだろ。・・・・・・・・、まあ、

   外に出したくないっていうのもあるかもな。

   CDの方も、ヴォーカルの子以外、誰にも渡すなよ。コピーは厳禁だからな。

   お前を信用して渡してるんだから、頼むな」

千晶「そこまで言われちゃ、春希の信用に応えないとね。

   でも、ライブの時、DVDの映像もあったほうが盛り上がるんだけどなぁ」

春希「そりゃ今話題の冬馬かずさが出てきたら、盛り上がるさ。

   でもさ、冬馬かずさという名前で聴いて欲しくないんだ。

   冬馬かずさの演奏そのものを聴いて欲しいのかもな」



千晶「そっか。じゃあ、もし観客が冬馬かずさの演奏そのものが聴きたいっていったら

   DVDの映像も流してもいいってこと?」

春希「そうなるかな。そんなこと無理だろうけどさ。もしできたのなら、

   流してもいいよ。ま、仮定の話は置いておいて、ベースやドラムの方

   なんとかしないか?」

千晶「え? いらないでしょ」

春希「ピアノとギターだけでやるつもりなのか?」



とんでもない提案に俺の声も大きくなってしまう。

だって、かずさのピアノはともかく、その相棒が俺のギターだけって、

釣り合いがとれないだろ。



千晶「そのつもり。というか、前から考えてたけど、今日冬馬かずさの演奏聴いて

   確信した。だって、冬馬かずさは、北原春希しかみてないでしょ。

   だったら、ベースやドラムなんて雑音にしかならないって。

   ううん。もしかしたら、ヴォーカルさえもいらないのかもしれないけど・・・・・・」



千晶の鋭すぎる指摘に、言葉を失う。

たしかに、かずさの演奏は他の音色を寄せ付けない。

かずさのピアノそのもので、完成された曲を形作っている。

でも、うぬぼれかもしれないけど、

仮にピアノの音色に申し訳程度に寄り添うことができる音色があるとしたら、

俺のギターだけかもしれないって、思ってしまった。

だって、かずさが俺を呼んでいる気がしたから。

俺の中に入り込んだかずさが、俺にギターを弾いてくれって呼びかかけていたから。



春希「千晶がそうしたいんなら、それでいいんじゃないか。

   俺は雇われの身だし、それに、俺やヴォーカルがいなくても

   ピアノだけでも観客を沸かせられる気もするしな」

千晶「そだね。圧倒的すぎるかも。下手なヴォーカル連れてきたら、

   あっという間にのまれるね」

春希「なあ、ヴォーカルの子は、本当に大丈夫なのか?」

千晶「大丈夫だって。これ聴いたら、きっとうまくいくから」

春希「千晶が大丈夫っていうなら、信じるよ」

千晶「じゃあさ、カレーもう一杯おかわりしていい?」



元気いっぱいに空の皿を突きだす千晶に、俺は苦笑いを浮かべ、受け取るのであった。

本当に大丈夫なのか?




大丈夫だと思うんだけど、なんか心配になってしまうのが千晶の特性かもな。

俺は、もう一皿棚からとりだし、自分の分のカレーをよそって、

夜からの練習に備えることにした。



春希「そうだ。忘れるところだった。千晶に頼みがあったんだ」

千晶「ん?」

千晶は、カレーをパクつきながら俺を見つめてくる。

千晶「なぁに?」

春希「話す時くらい、食べるのはよせって」

千晶「だって、美味しいんだもの」

春希「すぐに終わるから、ちょっとくらいいいだろ」

千晶「春希がそこまで言うんなら」



千晶は、いやいやスプーンを置き、豪快にコップの水を飲み干す。

そして、水のお代わりとばかりに俺にコップを差し出す。

俺は、コップを受け取り、水を入れに行くついでに、自分の要件を千晶に伝える。



春希「ライブのチケットなんだけどさ、4枚手に入らないか?

   どうしても欲しいんだけど、もう手に入らないらしくて」

千晶「お、サンキュ」



水のお代わりを受け取った千晶は、コップをテーブルに置くと、その代わりというべきか

スプーンを手に取る。



千晶「うん、4枚だったら大丈夫。それだけ?」

春希「それだけだけど」

千晶「じゃあ、もう食べてもいい?」

春希「いいよ・・・・・・・」



俺の要件、ちゃんと千晶の頭に入ってるのか?

カレーにしか興味がないんじゃないかって、心配にはなるけど、

俺が作ったカレーをこんなにも美味しそうに食べてくれるのは、なんかうれしかった。

とりあえず俺も、エネルギー補給といきますか。

もう半分以上食べ終わっている千晶を横目に、

俺も大きく口を開いて食べ始めるのであった。














9-4 春希 冬馬邸地下スタジオ 1/11 火曜日 









今日から一人での練習なわけなのだが、カメラで見られていると思うと

指に力が入ってしまう。

たとえ曜子さんに見られていなくても、コンサートまでの時間もないわけで、

気合の入らない練習などする気は毛頭なかった。

しかし、妙に視線を感じてしまう。

カメラ慣れしていないということを差し引いても落ち着かない。

二時間ほど練習をしたころ、休憩がてらに水を飲む。

スタジオを見渡すと、かずさのことばかり思いだしてしまう。

この前は曜子さんと一緒だったし、感傷に浸る時間などはなかった。

スタジオに一人でいる今、誰も俺の追憶を邪魔する者などはいない。

ただ、かずさがいたころと同じものは、このスタジオ自体とピアノのみ。

もしかしたら、ピアノも別物かもしれないけど、かずさがいたという事実のみで

俺がかずさを思い出すには十分すぎるほどであった。



さて、そろそろ練習に戻ろうかと、ペットボトルをテーブルに置くと、

これもまた新しく設置されたパソコンが目に留まる。

そういえば、何か質問したいことがあれば、このパソコンを使ってメールしてほしいって

言ってたよな。今日が初日だし、挨拶もかねてメールしてみようかな。

まあ、あの曜子さんがどんなメールを送ってくるかの方が気になるんだけど。

もし、あの性格に似合わず、几帳面なメールが来たら、それはそれで貴重かもしれない。

案外、対外的な性格とは違い、内面は几帳面で計画性にすぐれているのかもと、

あれこれ夢想していると、すぐさま返事のメールが届く。



春希「え? 早すぎないか。ということは、今、リアルタイムで見ているってことか?」



俺は、おそるおそるカメラに目を向ける。じっとレンズを見つめると、

その向こうの曜子さんの瞳が俺を見つめている気がして恥ずかしい。

何をとち狂ったのか、俺は、カメラに向けて手を振ってみる。

やばい。練習を始めるときも緊張してたけど、しっかりと見られていると分かった今の方が

断然緊張している。なにやってるんだよ、俺。手なんか振っちゃって。

と、脳内でぼやいていると、再びメールの受信音が鳴り響く。





俺の肩がピクリとふるえる。カメラからの視線を気にしつつ、

パソコンのカーソルを最新のメールにあわせ、内容を表示させる。



曜子(カメラに手を振って、ふざけている暇があるんなら、とっとと練習しろ。

   お前はいつまで休憩しているつもりだ)

春希「あっ」



勢いよく振りかえり、思わずカメラを見てしまう。じっとカメラを見ていると

また何かメールがきそうなので、すぐにパソコン画面に視線を戻す。

やっぱり見てるんだ。もう一度メールを読み返すが、怒ってるのか?

なにが几帳面なメールかもだよ。リアルの曜子さん以上に口が悪いじゃないか。

もしかしたら、面と向かって話す時は、目の前に相手がいる分セーブしているのかもな。

メールだと相手の顔が見えないし、曜子さんの本心がストレートに出てしまって・・・・・。

ゆっくりと休憩している暇なんてないか。とりあえず、最初に来たメールを確認して、

練習に戻ろう。



曜子(練習だというのに、なにを緊張してるんだ。今はあたしだけが見てるだけだけど、

   本番ではたくさんの観客が見てるんだぞ。今のままでは先が思いやられるな。

   でも、あたしはお前の敵じゃない。お前を見守っている味方なのだから、

   緊張などせずに、胸を借りるつもりで練習に励むといい)



曜子さんは、最初から練習を見ていたのかもしれないな。

味方か・・・・・。そうだよな。せっかく練習を見てくれるって言ってくれたんだし、

駄目なところをばんばん指摘してもらう方がいいに決まってる。

変にかっこつけて、緊張なんかしてたら時間がもったいないし、曜子さんにも申し訳ない。

俺は、感謝のメールの代りに、ギターを手に取り、練習へと戻っていった。













10-1 春希 冬馬邸からの帰り道 1/12 水曜日 午前8時頃









練習が許された約束の午前8時よりも10分早い時刻に俺は冬馬邸の門を出る。



そろそろハウスキーパーさんがやってきて、掃除が開始されるかもしれない。

親切でスタジオを貸してもらっているんだ。掃除の邪魔などしたくはない。

本音を言えば、時間ぎりぎりまで練習していたかったけど、

曜子さんの信頼を裏切りたくはない。

俺は、自分が持ち込んだゴミだけはまとめて、冬馬邸をあとにした。








通勤通学の時間ともあって、人も多い。身が入りすぎた練習で体力を減らしまくった俺には

満員電車は少々こたえる。人と波に揺られること数分。自宅への最寄り駅に着いた俺は、

これから大学に向かうであろう生徒と共に電車を降りた。

ちょっと前までの俺だったら、大学をさぼってギターの練習したり、

バイトに行ったりなんかしてしなかったよなぁ。

俺の本質が変わったわけでもないし、要は優先順位が変わっただけ。

今は、ギターとバイト。これに全力を注ぎたい。

じゃあ、ギターとバイト。どっちの優先順位が高いのか?

・・・・・・・・・それは、答えを出すのが怖いので、考えないようにした。

俺は、大学へと向かう生徒たちの流れに身を任せて、自宅へと進んで行った。

そういえば、麻理さんの誕生日パーティーするって約束していたけれど、

正月に電話したまま、あれっきり何も計画立ててないな。

たしか、イチゴがのってるケーキだっけ。

麻理さんがNYに行く前に、しっかりとお祝いしたいな。

俺は立ち止まり、人の波に逆らう。

急に立ち止まったために、訝しげに俺を見つめて過ぎ去っていく人々を見送る。

どこか人の邪魔にならないところは・・・・・・。

それに、人に聞かれてしまうのも。

さすがに朝の通学時間ともあり、一人になれる場所などはない。

どこを見渡しても、大学生やら高校生がひしめいていた。

しょうがない。急いで家に戻るか。

そうすれば、始業前に麻理さんと電話できるかもしれないしな。

いくら始業前といっても、

麻理さんに始業前なんか存在しないきもするけど。

俺は、練習の疲れなど忘れ、軽い足取りで家へと急いだ。







第13話 終劇

第14話へ続く




第13話 あとがき





~coda編を書き始めたのですが、とくに変わりもなく書き続けております。

まあ、cc編からの続きですから、名前が変わろうが書く姿勢に変化が出る訳でもなく。

最初の段階では、cc編10話、~coda編10話。合計20話いけばいいなと

思っていましたが、cc編を書き終えてみると15話までいけて、

書いた本人が一番驚いています。

この分だと、~coda編は全5話でも大丈夫なはず(弱腰)。

なにせ合計20話まで、あと5話ですから。

~coda編、どのくらい書けるかわかりませんが、

もうしばらくお付き合いして下されると大変嬉しいです。




cc編は、第15話まで続きます。

前回、紛らわしいコメントをのせてしまい申し訳ありませんでした。






来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。



黒猫 with かずさ派




今週も読んでいただき、ありがとうございます。

原作は、ノベライズも完結しますし、コミケのお疲れ様本も一般販売され、

ますます打ち止め感が強くなってきていますね。

あとは、ミニアフターで終わりなんでしょうかね?




第14話








10-2 麻理 春希マンション 1/15 土曜日 昼








綺麗に片づけられている部屋。こまめに掃除がされているのがよくわかる。

よくいえば清潔感が感じられるといえよう。しかし、悪く言えば物が少ない。

麻理が初めて春希の部屋を見た感想は、こんなものだ。

もちろん春希の部屋に初めてあげてもらったことへの感動や、

自分の部屋の汚さへの落胆、わずかながらも抱いてしまう下心も入り乱れてはいたが、

春希らしい部屋。自宅が住人の性格をよくあらわしているとよくいったものだと

感じずにはいられなかった。



麻理「綺麗にしているのね」

春希「物が少ないから掃除も楽ですよ。この部屋には、

   寝に帰ってきているようなものですからね」

麻理「そう・・・・・・・」



私も自宅には寝に帰ってるようなものだけどね。

同じような生活環境で、こうまで部屋が違うとは、同じ人間とは思えない

と、自嘲気味に笑いをこぼしてしまう。



春希「これにコートかけてください」

麻理「ありがと」



麻理からコートを受け取った春希は、裾のしわを丁寧にのばしてから、

コートをかける。

細かい気配りが、この部屋の清潔感の維持に繋がってるのかもしれないか。

あまり部屋をじろじろと観察するのは失礼だとはわかっているが、好奇心には勝てない。

北原春希という人物を知りたい。ただその一点だけは、止めることができなかった。

本棚は、その人物の趣味をよくあらわしているというが、あいにく大学のテキストや

参考資料しかない。これはこれで北原らしいといえばらしすぎるのだが、

いささか拍子抜けで落胆を隠せない。すすっと横に目を走らせていってもテキストのみ。

ふとテキストがない空間が出現する。



そこには、写真立てと、その中におさまった写真が一枚鎮座していた。

好奇心に負けて、本棚なんか見なければよかった。

写真の中の北原は、麻理が見たこともない自信に溢れて、ちょっときざっぽくギターを

構えている。いや、一度だけ見たことがあったか。

峰城大付属高校から送られてきた学園祭のDVD。

その映像の中の北原も、この写真と同じように光り輝いていた。

今の自暴自棄に陥りやすい北原とはまったくの別人。



春希「麻理さん? ちょっと待っててくださいね。

   今すぐ準備してしまいますから」

麻理「ああ、わかった」



急に現実に引き戻された麻理は、見てはいけないものを見てしまった気がして

後ろめたかった。

細かいところまで気にかける北原のことだから、見られて困るものではないか。

私にしっかりと、冬馬かずさが好きだって、宣言している。

だから、私が入り込む隙間などない。

今私が北原の隣にいるのは、リハビリ期間。

北原から自立する為に許されたほんのわずかな時間にすぎない。

テーブルの席に座ろうと部屋の奥に進むと、

バラの花束と綺麗にラッピングされた小さな箱が置かれている。

限られた小さな部屋といっても、バスルームに隠すとかぐらいはしてほしかったかも

しれない。

女心に疎いところさえ愛らしく感じられてしまうけれど、

バラの花束とプレゼントの小箱を渡してくれた時には、おもいっきり喜んでやるかな。

そう自分に誓いはしたが、すでに笑みがこぼれ出ていることに

麻理が気がつくことなどありはしなかった。












10-3 春希 春希マンション 1/15 土曜日 昼








春希「誕生日おめでとうございます」

麻理「ありがとう」



満面の笑みを浮かべる麻理さんをみて、ほっとする。

なにせ誕生日だ。

年齢を気にする麻理さんにとって、一才年が増えるのは

耐えがたいイベントだろう。

それでも、俺のエゴに付き合って誕生日を共に祝らせてくれているんだ。

精一杯のもてなしをしたい。

テーブルには、鳥の空揚げ、ポテトフライにサラダ。

春希としては頑張ったといえるパエリアが並んでいる。

ある意味ファミレスの食卓。子供が大好きなメニューが並べられていた。

麻理さんをレストランに連れて行くとなると、これと同じメニューが

ならべられている店へは連れて行けやしない。

もし行くとしたら、もっと落ち着いていて、大人っぽい雰囲気の店を選びたい。

だけど、俺の料理スキルと相談すれば、テーブルの上に鎮座するメニューが限度。

これ以上手の込んだ食事となると、

店で買って来たものを温め直すことしかできやしない。

自分が料理して、麻理さんに食べて貰いたいという、俺のエゴを貫いたせいで

麻理さんにはがっかりさせてしまうかもと杞憂していたけど、

どうにか喜んでもらえて心底うれしかった。



麻理「このローソクを消せばいいの?」

春希「はい」



テーブルの真ん中におさまっているのは、イチゴがのった誕生日ケーキ。

麻理さんからのリクエストにこたえたケーキではあるが、

ろうそくの数には頭を悩ませた。

やはりろうそくの火を消すイベントは避けられないし、ろうそくの数を減らすのも

わざとらしくて使えない。

ならばと、苦肉の策を打ち出した結果が目の前にある。

ケーキの上には、ろうそくが一本。小さな火を灯して揺らめいていた。



麻理「一応聞くけど、何故一本なんだ?」

春希「俺と麻理さんが二人で祝った最初の第一回目の誕生日って意味です。

   だから、来年は二本になる予定ですよ。

   ほら、麻理さんの誕生日って元日ですし、どんなに忙しくても休みとれるじゃ

   ないですか。もちろん毎年恒例の佐和子さんとの旅行へ行かれるのでしたら

   別の日になりますけど」

麻理「佐和子との旅行なんていつだっていいのだけれど、

   来年も祝ってくれるの?」





春希「ええ。麻理さんが嫌でなければ」

麻理「そうか。なら、お願いしようかな」



遠慮がちにほほ笑む麻理さんに、心が痛む。

麻理さんもわかっているのだろう。いつまでも一緒になどいられないって。

俺は、かずさを選んだのだから。



麻理「ろうそくの火を消すわね」



ろうそくに顔を寄せ、ふっと息を吹きかける。

ちょっと照れくさそうに笑みを洩らす麻理さんは、

いつもの俺にだけに見せる麻理さんに戻っていた。

そうだな。いつまでも続くかわからないとしても、今を精いっぱい楽しまないとな。



春希「誕生日おめでとうございます。これプレゼントです」



すでに目にとまって知っていただろうけど、

バラの花束と小さな箱におさまったプレゼントに麻理さんは喜びをみせる。

バラの花束なんて、ちょっときざすぎるけれど、こういう特別の日くらいはいいだろう。

花屋で買う時、すっごく恥ずかしかった。普段の俺の行動範囲を明らかに超えている。

それも麻理さんの誕生日という日が俺の心をマヒさせてくれていた。



麻理「開けてもいいか?」



バラの香りを一通り堪能した麻理さんは、もうひとつのプレゼントに興味を移す。

バラの花束とは違い、いくらプレゼントの存在がわかってはいても

ラッピングの中身までは、見ることはできない。

ただ、過剰な期待だけはしてもらっては困るけれど、その辺は学生の

懐事情を察してくれると助かります。

麻理さんは、丁寧にラッピングを剥がしていくと、むき出しになった箱のふたを開ける。

中からは一本の赤いボールペン。

Waterman カレン。ずっしりと重さを感じる書き心地がなめらかなボールペン。

色々となにをプレゼントしようかと迷ったのだけれど、貴金属類は意味深すぎて

手が出せない。ならば、日常使えるものはと考えてみたが、一向に決まらず、

最後の最後にようやく以前麻理さんがボールペンをなくしたエピソードを思い出し、

プレゼントはボールペンと決まった。

なくしたボールペンは、見つかりはしなかった。




そもそもコンビニで買った安物のボールペンだから、愛着もないし、

くまなく探して時間を消費するくらいならば、新しいボールペンを買ったほうが

麻理さんらしい。



麻理「ありがとう」



そっと箱から取り出したボールペンを指で撫でる。

愛おしそうに見つめる姿を見たら、選んだかいもあったといえる。

貴金属に及ばないけれど、普段見につけるボールペンとなると、それはそれで

意味を持ちそうだ。その辺は深く考えないようにしていた。



春希「気にいってくれるといいのですが」

麻理「ちょっと試し書きしてもいい?」

春希「なら、この紙使ってください」



差し出したコピー用紙になにやら書き込んでいく。なんて書いているのかなって

気になって覗き込むと、さっとコピー用紙を隠されてしまった。



麻理「見るな。・・・・・・・照れくさいだろ」

春希「試し書きなんですし、アルファベットでも、今日の日付でもいいじゃないですか」

麻理「そ・・・そうなんだけど、ぱっと思いついたのを書いてしまって」



頬を朱に染める麻理さんは、紙を背に隠すと、ボールペンをケースに戻す。



麻理「手になじんで書きやすいわね。大事にするわ」

春希「ちょっと重いから、好みが分かれそうなのが気がかりだったのですが、

   気にいってくれてよかったです」

麻理「ほんとうに女心には疎いわね。仮に手になじまないボールペンだとしても、

   手になじむまで書き続けるに決まってるじゃないか。

   北原からプレゼントされたんだぞ」



下を向き、小さくつぶやく麻理さんの声は聞きとりにくい。

ぱっと上を向いたその顔は、はにかんでいたのだから、

全ては聞きとれなかったけど、きっと悪い内容ではないはず。

だから、俺はもう一度聞きなおすことなどしはしなかった。

俺の意識は、俺の手に握られているチケットに向けられてもいたから。



春希「これは誕生日プレゼントというわけではないのですが、

   コンサートのチケットです」




俺が差し出すチケットを笑顔のまま受け取る。

その笑顔からは何を思っているかは読みとれない。



麻理「この前言っていたヴァレンタインのコンサートね。

   ちゃんとスケジュール調整したから大丈夫よ」



きっと思うところもあるだろうけど、全てを押しこむように鞄にしまい込む。

チケットと一緒にボールペンと試し書きをした紙も鞄にしまったのだが、

運よく?なにが書かれていたか読みとれた。

別に隠すような内容は一切書かれてはいない。

ちらっととしか見えなかったので、もしかしたら他にも書かれていたかもしれないが

俺が見えたのは、人の名前だけ。

「北原」と「麻理」。

ただ俺達二人の名前が書かれていたのに、どうして恥ずかしがる必要があったのか

首を傾げるしかなかった。














10-4 春希 冬馬邸 1/25 火曜日









春希「よっと」



休憩がてらに夜食をと冷蔵庫を漁る。

曜子さんからは勝手に食べてもいいと言われてはいるが、勝手に人の家の冷蔵庫を

漁ることに抵抗がないといえば嘘になる。

しかし、そういった性格を先読みしてくれているのか、夜食用の食事が

あらかじめ用意されていたのは嬉しいかった。

かずさは、どこまで曜子さんに俺のことを話しているのだろうか。

この合宿も、俺が気持ちよく練習を打ちこめるようにと、

細かい心づかいがなされていた。

俺のことをよく観察して、長い間俺のことを見続けている人間にしかできやしない。






春希「今日もありがとうございます」



おそらくハウスキーパーさんが作ってくれた料理であるから、仕事のうちなのだろう。

しかし、そうであってもわざわざ曜子さんが指示をして夜食を用意してくれたことには

感謝せねばなるまい。

そこで、心ばかりのお礼として、サンドウィッチを持参してきていた。

最近バイトに行く時は必ずといっていいほど、麻理さんへの差し入れ弁当を作っている。

そのかいもあって、自分で言うのもなんだが、少しは料理の腕も上がってきた気もする。

今回作ってきたサンドウィッチは、渋谷の某デパート前のパン屋のパクリ。

ちょっと小ぶりのフランスパンに、具材を挟み込むだけのいたって平凡なものなのだが、

具材とパンの堅さが病みつきになる。

小ぶりのフランスパンなのだが、製法や大きさによって名前が違うみたいだが

ここでは割愛しよう。なにせ料理初心者。見よう見まねで作っているわけで、

具材の秘密の方に意識を集中したほうが建設的だといえる。

そして、今回どうにか味は全く違うけれど、自分としては美味しい物を

作り上げられたので、お礼としてもってきたわけだ。

あとで冷蔵庫に感謝の品を入れておきましたとメールすればOKかな。

さてと、急いで夜食を食べるか。

なぜか休憩に入り、スタジオに戻ってくるとお怒りのメールがくる。

トイレ休憩くらいの短い時間ならば大丈夫だけれど、夜食タイムとなると

必ずといっていいほどお叱りのメールが来る。

ここまで見てくれているのなら、一緒にスタジオに入ればいいのにって思うこともある。

俺の下手なギターをずっと聴きながら自分の仕事をするのは

苦痛なのかもしれないのかもな。

なにせ、いつもだれもが聴きほれるほどの演奏を耳にしているわけだ。

そこに、半日近くも調子っぱずれの雑音を耳にしては、仕事もはかどらないだろう。

スタジオに戻ると、今回も例にもれずにお小言メールが到着していた。



曜子「いつまで休憩している。お腹が減ったとしても、

   お腹が減ったことを忘れるくらい演奏に集中しろ。

   お前がお腹が減ったと感じたってことは、

   それだけギターに集中できていないってことの証だ」



とまあ、もっともな事を仰るから反論もできない。

俺はパソコンに向かい合い、

さっそく感謝の品を冷蔵庫に入れておいたことをメールする。

すると、いつもだったら即座に返事が来るはずであるのに、返事のメールがこない。




しばらく待ってみたものの、返事が来ないので、スタジオにいたとしても

あまり休憩を長くしていると再びおきついメールがきそうなので、練習に戻ろうとする。

しかし、電子音が鳴り、メールが来た事が表示される。

立ちかけた腰を再び椅子に戻し、急ぎメールを表示させた。



曜子「冷蔵庫に入ってるの?」



たったそれだけであった。ちょっと意外な質問ではあるが、質問が来たのならば

返送せねば失礼にあたる。



春希「冷蔵庫に入れてあります。

   弁当箱の方は使い捨てですし、捨ててくれて構いません」



とメールする。すると、さらに短いメールが即座に届く。



曜子「ありがとう」



俺は、カメラの角度を確認すると、カメラに隠れるようにそっと笑みを浮かべる。

どうにか喜んでくれるみたいだ。でも、まだ食べていないし、油断はできないか。

俺は、奥歯を噛み締め、笑みもかみ殺す。

さて、そろそも本当に練習しないとな。

俺は、カメラ中央の席に戻り、邪念を叩きだすように練習を再開させた。














10-5 かずさ 冬馬邸 1/25 火曜日







春希からのお弁当。どうしたものか。

今すぐ食べたいけど、春希にばれないか?

今は練習に集中しているし、一度練習に入ってしまえば、しばらくスタジオから

出てくることもない。

しかも、さっき夜食を食べに行ったし、トイレに行くこともないか。

だったら、多少物音がしても防音処理をしているスタジオならば気がつかないだろうな。



よしっ。行くか。

自分の欲求を抑えきれない。なにせ同じ家に何日もいるというのに、

直接会うことができない。毎日カメラ越しで様子を伺っているけど、

本心では、今すぐ春希の胸に飛び込みたかった。

でも、自分で決めたことだし、コンクールが終わるまでは我慢だ。

きっと春希が変われたように、あたしも変わってみせる。

だから、今だけは冷蔵庫に向かってもいいよな。

もし春希に見つかったときは、そのとき考えればいい。

むしろ、偶然のハプニングを望んでしまいそうだけど、まあ、あれだ。

偶然なら仕方ないよな。

あと、冷蔵庫からサンドウィッチがなくなっていることを春希が気がついたとしても、

その時は、春希が練習に集中していて、

母さんがいったん家に来たことに気がつかなかっただけ

とでもメールしておけばいいか。

細かいところにまで意識してしまって、

あたしのことに気がついてしまうかもしれないけど、

それもまた、偶然のハプニングだ。仕方ないよな。

あたしは獲物を確保すべく、閉ざされていた扉を開ける。

そっと聞き耳を立てるが何も物音はしない。もう一度モニターで春希の様子を確認するが

練習に集中している。さ、行くか・・・・・・。

行ってしまうと、拍子抜けなほどあっけなかった。

部屋に戻ってくると、心臓の鼓動が落ち着かない。まだ早鐘のごとく鳴り響いていた。

目の前には春希が作ってくれたお弁当が鎮座している。

おそるおそる手を伸ばすが、あと数センチのところで手が止まる。

本当に今食べて大丈夫か? やっぱり冷蔵庫に戻してきて、

春希が帰ってから食べたほうがいいんじゃないか。

でも、もう目の前にあるわけだし、いまさら戻したところで・・・・・・。

しばし目の前の欲望と葛藤する。じりじりと重い手をお弁当箱に伸ばし、

欲求が自制に勝ち始める。ぴたりとお弁当箱に人差し指と中指が触れると

欲望は抑え込むことができなくなる。

蓋を開けると、メールの通り、サンドウィッチが入っている。

食パンではなく、フランスパンか。

この大きさだとフィセルかな。生意気な。春希にしては、こじゃれたものを。

目の前のご馳走に笑みを隠せない。春希がこの家にいなければ、気が抜けて

よだれさえこぼしていたかもしれない。

もちろん口内には、食欲がそそられて、唾液が充満していたが。

とりあえず、このまま食べたとしても喉が渇きそうだし、飲み物を用意しないとな。

マックスコーヒーを一度手に取るが、元に戻す。





せっかく春希が作ってきてくれたお弁当を、別の味で上書きなんかしたくはない。

そこで隣にある炭酸水を手に取り、席に戻る。

さて、準備は整った。食べるか。












かずさ「はぁぁ・・・・・・」



艶めかしい吐息が漏れる。この3年間で最高の時間だったと断言できる。

十分すぎる喜びが体を走り廻るのと同時に、新たな欲求が沸き出てしまう。

空になってしまったお弁当箱を睨みつけるが

食べてしまったものが元に戻ることはない。



かずさ「はぁぁぁ・・・・・・・」



もう一度春希以外には聞かせられない妖艶すぎる吐息を深く吐く。

至福な時間は、あっという間に終わる。時計の針を見ると、さほど進んではいない。

もったいなすぎて、あれほどゆっくりと食べようと心掛けたのに、

自分が食べるペースにブレーキをかける威力はなかった。

物足りない。一度叶えてしまった願望は肥大して、さらなる欲求を求めだす。

駄目だ。決めたんだ。自分が春希の隣に立てるだけの自信と実績をつくるまでは

会わないって決めたんだ。

このお弁当の味を糧に、あたしは成功してみせる。

だから、春希。待っていてくれ。

でも、お礼のメールくらいは出すのが人の礼儀だよな。

おもむろにパソコンに向かい合い、メールを出そうとするが、送信ボタンを押す寸前に

指を止める。さすがに今メールを出すのはまずい。

今は家にいないことになっているのだから。

明日の9時頃ならいいかな。それまでは、送信しないでおこう。

メールには、こう書かれていた。



曜子「心がこもったお弁当ありがとう。とても美味しかったし、

   とても料理がうまくなっていて、びっくりした。

   他にもどんな料理ができるか、気になるところかな」





最後の一文は、付けるか付けないかで一時間以上考え続けてたが、結局は入れることにした。

結果としてはそれは成功だった。なにせ、その戦利品として、

翌日からは差し入れのお弁当が冷蔵庫に入れられるようになる。

ただし、今回みたいに春希がいる間に取りに行くことは諦めた。

これ以上自分の欲を求めても、きっといいことはない。

だったら、今の現状に我慢して、十二分にそれを満喫すできである。

それに、冷蔵庫にご馳走があるのに何時間も「待て」を指示されるわけだ。

忍耐を鍛えるには十分すぎるお預けであった。








第14話 終劇

第15話に続く
















第14話 あとがき






誕生日エピソード。実は忘れていましたw

cc編の最終話は第15話ですけど

第14話がcc編では最後に書いたお話となっております。

元々書く予定でしたが、ストーリー構成メモに書くのを忘れていたのが原因です。

色々頭の中で場面を想像して、ある程度形にしてからざっと構成メモに

文字化する場合もあるのですが、たまに忘れてしまうこともあるのが難点ですorz

走ってるときなんて暇だしちょうどいいんですけどね。

汗だくで疲れてもいるので、忘れないように紙に書くのは面倒ですが・・・・・・・。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。



黒猫 with かずさ派




今週も読んでくださり、ありがとうございます。

どうしてもかずさは春希との接点が少ない分、デレが少なくなってしまいます。

一方、麻理さんはデレまくるわけで、二人のバランスをとるのは難しいですね。

そういや今週はノベライズ発売ですが、とらのあな特典のSSってどうなんでしょうね?

本編よりも著丸戸短編や特典SSの方が気になります!


開催日:2014年11月3日(月・祝)  会場:東京卸商センター3階

「Snow Memories」のイベントですか? 今のところ、行く予定はありません。

コミケもそうですが、イベントに行ったことも参加したこともないんですよ。

一度は体験してみたいですが・・・・・・。





第15話








11-1 春希 大学 2/6 日曜日 昼






ヴァレンタインコンサートまで、あと一週間と迫った日曜日。

大学の定期試験もあと数日で終わる。

それなのに、俺ときたら、これから初のヴォーカルとの顔合わせを予定していた。

千晶がようやく会わせてくれると連絡が来たのが今日の朝。

俺の方のギターの腕も心配ではあったが、ヴォーカルの方も気がかりではあった。

今心配がないものといえば、かずさのピアノしかない。

しかも録音だから、風邪をひく心配もないだろう。

静まり返ったサークル棟を歩み進める。さすがにのんきなサークル活動に情熱を

注ぎ込んでいる連中であっても、試験期間ともあって、誰もいない。

今いるのは、試験そっちのけでギターに情熱を燃やす俺と

試験にはどうにか顔を見せている千晶。それにヴォーカルの子くらいだろう。

目の前には、プレートに劇団ウァトス書かれた扉がある。

千晶が指定した部屋はここであってるはずだった。

千晶とこの劇団との関係は知らされてはいないけど、今日この部屋を使う許可は

おりていることだけは確認済み。

詳しいことは、これから会うヴォーカルの子についてと一緒に聞けばいいか。

それとも、ヴォーカルの子がこの劇団に所属しているのだろうか?

ともかく部屋に入ればわかるか。

俺はやや強めにドアをノックし、千晶の返事を待った。



千晶「さすが春希。約束の時間のちょうど10分前。

   約束の時間を10分遅く教えておいてもよかったね」



扉の中から顔を出した千晶は、とんでもない挨拶とともに現れる。



春希「お前は俺を信頼しすぎ。もし俺が時間に遅れてきたらどうするんだよ」

千晶「そのときは、そのときでしょ。私が10分待てばいいだけじゃない」

春希「そういうことをいいたんじゃなくてだな」

千晶「今日はお説教はなしね。早く歌とギターをあわせたいし」





春希「時間も限られてるしな。って、ヴォーカルは、まだ来ていないのか?」



狭い部屋を見渡しても、千晶一人しかいない。

千晶は、にひひっと意地悪そうな笑みを浮かべながら俺を見つめてくる。

なにがそんなにおかしいのかわからないけど、早くあわせたいっていったのは

お前の方じゃないのか。



千晶「目の前にいるでしょ」

春希「目の前って・・・・・」



千晶が指差し、俺が指差した先には、千晶一人しかいない。

つまり、そういうことなんだろう。

俺に会わせたいヴォーカルとは、和泉千晶その人だったわけだ。



千晶「そっ。私が歌うの」

春希「あぁ・・・・・そうか。なんか、すべて納得できたというか」



千晶が話を持って来た時から胡散臭いとは思ってはいたけど、

千晶が全て仕組んでいたのかもしれない。



春希「全部話してくれないか? ここの劇団についても全部」



俺が千晶の瞳を覗き込むと、ついっと視線をそらし、パイプ椅子を勧めてくる。

俺に座れってことか。俺が荷物を置いて、椅子に腰をかけると、目の前の席には

千晶が座る。そして、テーブルに筋を突いて、じっと俺を見つめてくる。



千晶「全て話しても大丈夫?」

春希「大丈夫って? 話を聞いてみたいとわからないだろ」

千晶「そうなんだけどぉ・・・・、まっ、いっか」

春希「なんだよ」



ネコのようにコロコロ表情が変わるやつ。とらえどころがないってわかっていたけど、

今目の前にいる千晶ほどわからない存在は出会ったことがなかった。

踏み込めば、ただではいられない。なぜかそう確信できる。

漠然とした感覚を、明確なビジョンにするためにも、今踏み込むべきなのだろう。



千晶「なにから話せばいいのかなぁ・・・・・・・」




春希「全部聞いてやるから、話しやすいところから話せよ。

   わからないとことがあったら、そのつど俺が質問していくから」

千晶「OK、OK、じゃあ始めるね。

   まずは出身高校だけど、春希に教えたのは嘘」

春希「は? いきなりとんでもない告白だな」

千晶「一応春希と同じく、峰城大付属高校出身なんだけど、

   春希は私の事知らないみたいだよね」

春希「一学年でもそれなりに人数いるし、全部が全部知ってるわけでもないからな」

千晶「そこんところは別にいいよ。ただ、学園祭のとき、

   私もそれなりに注目されてたんだけどね」

春希「それはすまん! ライブ当日の朝まで練習だったし、

   学園祭当日もバタバタしてた」



俺が悪いことをしているわけではないが、なぜが手を合わせて誤ってしまう。

千晶の方も全く気にしていなく、むしろ、事実をたんたんと述べていってる感じさえする。



千晶「私は演劇部で主演やってて、自分でいうのもなんだけど、高評価だったと思う。

   それでも春希達のライブに観客の興奮を全部もっていかれたけどさ」

春希「へぇ、千晶が出てた劇か。見てみたかったな」

千晶「演劇はこれからも続けるし、そのうち見る機会もあると思うよ。

   春希がみたいと思うなら」

春希「今度やるときは教えてくれよ。見に行くからさ」

千晶「それはありがたいんだけど、今度の公演延期になっちゃって、当分は白紙かな」

春希「え? どうして?」

千晶「まあ、さ・・・・・・・。それをこれから話すんだけどね」



思いつめるように俺を見つめる千晶の瞳には、さまざまな感情が入り乱れていた。



千晶「はぁ・・・・・・、たぶん怒られるんだろうなぁ」



深くて軽いため息を吐くと、いつもの千晶がそこにはいた。

体を机に投げ出し、ぐたーっと這いつくばる。くるっと顔だけ上をあげ、

俺を見つめる瞳には、悪戯がばれた子供そのものだった。

ほんと、お前じゃなくて、俺の方がため息を突きたくなるよ。




千晶「春希達がやったライブからヒントを得てさ、そこから脚本書いたんだ。

   でもさぁ、肝心なところでわからなくなっちゃって、

   もう、どうしたらいいんだってところよ。

   座長なんか泣きながら公演延期の手続き始めちゃったけど、

   まあ、それは仕方ないよね。座長の仕事だし」



軽く言ってのけるけど、脚本を書く労力と時間は、相当なもののはず。

俺も作詞経験がある。書きたいイメージがあっても、それを形にするのは難しい。

たとえ自分がイメージした内容を形にできたとしても、それを100%相手が

理解することなどありえない。俺は、そこまでのレベルを目指したわけでもないし、

目指すほどの実力も経験もなかった。それでも、大変だった記憶が残っている。

もちろん俺の作詞と千晶の脚本を比べるだなんて

おこがましい。なにせ大学の劇団で採用されるわけだし。

千晶の知られざる才能に関心してしまった。

もしかして、大学の授業がさぼりがちなのって、劇団のほうが忙しいからか?



春希「座長さんも災難だな」

千晶「別に同情しなくたっていいって。こういう後始末をする為に存在してるんだから。

   でね、座長の話はもうよくて、脚本煮詰まっちゃって困ったなぁって思ってたら

   ヴァレンタインライブの話が出てさ。これだって思ったわけ。

   春希と小木曽雪菜・・さん、は、峰城大にいるでしょ。

   でも小木曽・・さんは、ちょっと駄目かなって思ったから、

   春希にオファーを出したんだ」



これで全部か? 全て話して晴れ晴れしたって顔してるけど、

これくらいだったら別に怒るようなこともない。



春希「そんな事情があったのなら、最初から全部話してくれればよかったのに」

千晶「ほんと?」



がばっと起き上がり、元気一杯の笑顔を見せる。

目がらんらんと輝き、なにかよからぬことを考えていそう・・・・・だが。

なんか俺、まずいこと言ったかも。

今度は俺の方が机に突っ伏しそうだ。



春希「俺の方に時間があったらだけどな」

千晶「でも、今もギターの練習してくれてるんだし、きっとやってくれていたはずだよ。

   それが春希だし」




春希「どうだかな」



あまりに信用されすぎて、なんだかこそばゆい。

思わず視線を外しそうになったが、千晶がにたぁっていたずらネコっぽい笑みを

浮かべるものだから、意地になって目を背けるのをやめてしまった。



千晶「それでも春希なら、きっとしてくれたよ」



今度はしおらしく言葉を発する千晶に、俺の方が追い付いていけない。

どれも千晶なんだろうけど、こんなに感情が豊かだったのか?



千晶「ヴァレンタインコンサートはさ、初心に帰ってみようって思ったんだ。

   やっぱ一番最初の学園祭ライブの感動をもう一度生で味わえば

   なにか掴めるはずだし」

春希「ふぅ~ん、・・・・・そっか。だったら、俺に何ができるかわからないけど

   協力させてもらうよ。こっちもこっちで事情があるし、お互い様ってことで」

千晶「そう? そういってくれると助かる」

春希「じゃあ、時間も残り少ないし、練習しようか。

   俺はまだ千晶の歌、聞いたことないしな」

千晶「大丈夫だって。だいぶいい感じに仕上げられてきたから。

   ほんと冬馬かずさ様様だよ」

春希「かずさが?」

千晶「この前見せてくれた演奏で、びびっときちゃった感じ。

   もう電流が流れる感じで頭ん中に感情が流れ込んできて、

   あの時本当はパニックになりそうだったんだから。

   ほんと、まじやばすぎるでしょ、あの子・・・・・・・・。

   どれだけ春希を独占したがってるんだって。

   あんなの聞いちゃった他の女なんか、泣き崩れちゃうんじゃないの。

   ううん。私がもう少し春希に本気出してたら、廃人になってたかも」



千晶は自分に言い聞かせるように話すものだから、半分以上は聞きとれなかった。

しかも、千晶の真剣な顔つきが、俺に聞きかえすことをためらわす。

これが芸術家ってやつなのかもな。いったんスイッチ入ってしまうと

周りが見えなくなるっていうか。



千晶「さてと、私の美声を聴いて驚くなよ」

春希「はい、はい。俺のギターはもう少しだから、お手柔らかに頼むな」



すっと立ち上がり、千晶が息を整える。



狭い室内の空気を震わせ、俺に感動を直接叩きこむ。

手が届く距離にいる千晶からは、全ての息遣いが読みとれる。

激しくもあり、切なくもある歌声に、雪菜とは違った衝撃が駆け巡った。

それは、聴いたことはないはずなのに、懐かしくもあり、温かいぬくもり。

俺が長年求めていた何かが、そこにはある気がした。
















11-2 春希 ヴァレンタインコンサート 2/14 月曜日








暗闇から現れた彼女に、俺は心を奪われる。

ステージ中央のマイクスタンドの前にいる長い黒髪の女性は、

艶やかな髪をなびかせ振りかえる。

肩にかかった黒髪を軽く払いのけて、少し心配そうに俺を見つめた。

懐かしい峰城大付属高校の制服。首元には、リボンではなく男子生徒のネクタイ。

きりっと俺を睨みつける瞳に、おもわず吸いこまれそうになる。

ふらっと足が彼女の元へと歩み出しそうになるが、天井から降り注ぐスポットライトが

ステージの上だと認識させ、俺を思いとどめた。

なんで、かずさが?

まばゆい光の中にいる彼女を見つめ続けると、ようやく目の焦点があってくる。

かずさ?・・・・・ではなく、千晶か?

暗闇から突然スポットライトの強烈な光のせいで視界がぼやけていたが、

はっきりと見ることができるようになった今なら、千晶であると断言できる。

あれはカツラか。衣装はステージの上まで内緒だっていってたけど、

とんだサプライズを用意してくれたものだ。

それと、かずさの真似をしているのなら、そのにやけっつらはやめろ。

俺の中のかずさのイメージに傷がつくだろ。

俺に想像通りのサプライズがおみまいできて喜んでいるようだけど、

歌がメインだからな。

俺が睨みつけると、千晶は顔をひきしめて、軽くうなずく。

客席と向き合った千晶は、後ろからでもわかるくらい安心感が感じられた。





観客席からの話声が聞こえなくなる。

会場内が静まり返ったタイミングですかさずピアノの演奏がスタートされた。

俺は、かずさの演奏に遅れまいとリズムに合わせる。

きっとうまくいく。だって、俺以上にギターがうまい奴は山ほどいる。

しかし、この曲に限っては、誰よりもかずさの演奏に合わせられるって胸を張って言える。

だって、かずさが俺を導いてくれるから。



ピアノの音色にギターの音色が混ざり合う。

そして、千晶の歌声が合わさり、俺達の演奏が完成する。

それは、俺が思い描いた『届かない恋』ではない。

だって、俺の想いを届けたい相手が歌ってるのだから。

かずさに俺の恋心を届けたいのに、なんでかずさ本人が歌ってるんだ?



千晶らしいいたずらに、俺も最初聴いたときはしっくりこなかった。

もちろんかずさが『届かない恋』を歌っているところなんて、一度も聴いたことはない。

だけれど、千晶の歌声を聴いた瞬間に、かずさだってわかってしまった。

俺は、その時やっと千晶が怒られるのを覚悟して、全てを話そうとした意味を察した。

でも、千晶のやつ、全部話すとか言っておきながら、一番肝心なところを話してないよな。

たぶん、お前が作ってる脚本って、俺達のこと題材に書いてるんじゃないか?

直接聞きだしてはないけれど、きっとそうだって思ってしまう。

だって、こんなにもかずさに近い千晶がそこに出来上がっているのだから。



しかし、残念だけど、千晶は千晶だと思うぞ。

いくらまねようとしても、かずさにはなれない。

かずさはかずさだからって、言ってしまえばそれまでだけど、

それだけじゃないんだ。

かずさは、きっと届かない恋に気が付きやしない。

自分に好意が向けられているだなんて思いもしないんだよ。



だけど・・・・・・・・、

届かないんだったら、直接届けにいくしかないよな。

な、そうだろ千晶。

いつまでも立ち止まってなんかいられない。

時間は有限なんだから。

だから、俺は行くよ。

前に進むって決めたんだ。

千晶、ありがとう。













ピアノの最後の音色が響き渡る。

音色の余韻が消え去っても、観客の熱気は冷めやまない。

それは、舞台にいる俺達二人も同じで、息を乱していても興奮は静まらない。

千晶が観客に向かって大きく手を振ると、静かだった観客席が一気に騒ぎだす。

ひとつひとつの言葉は聞きとれはしないが、おおむね良好な反応のようだ。

それはそうだよな。俺のギターはともかく、かずさのピアノと

千晶の歌声は十分すぎるほどの合格点だろうし。

むしろ、かずさと千晶だけでもよかった気もする。



千晶が一通り観客への挨拶を終えると、舞台袖に向かって何か合図を送る。

すると照明が落ち、ホールは闇に包まれる。



俺はこんな演出聞いてないぞ。アンコールはあるかもって思いはしてたけれど

これから何が起きるんだ?



突然観客席が沸きたつ。光が俺の後ろに浮かび上がる。

俺は光の方へ振りかえると、そこには、スクリーンに映し出されたかずさがいた。

これは、千晶にも見せたかずさの映像。

あの時は、純粋にかずさの演奏だけを観客に聴いてもらいたくて

映像はNGにした。

だけど、条件付きでOKもだしている。

それは、観客がかずさの演奏そのものが聴きたいって思えたら映像を出していいって。

ま、千晶にしてやられたな。

最初の演奏はかずさの映像なしで、純粋にかずさのピアノだけで観客を盛り上げて

感動を植え付けたんだから。

でも、勝手にDVDを持ち出したことは、あとで説教だ。

千晶がカレーを食べているときに、ちょっと寝てしまった。

きっとその時にこっそりコピーされてたな。

それと、DVDとCDは確実に回収して、コピーがあるんならそれも回収だ。

悪いけど千晶。俺も独占欲が強いんでね。














正面を振りかえり、ピアノに合わせて演奏を始める。

俺の方にもお情け程度に照明があたる。

最初の演奏の時よりは弱い光だけれど、しょうがないか。

だって、主役はかずさなんだから。

それにしても千晶のやつ・・・・・・・と、千晶がいるはずの

舞台中央を見ると、マイクスタンドごと消え去っている。

俺は、初めて千晶にDVDを見せた時のことを思い出してしまった。



千晶「前から考えてたけど、今日冬馬かずさの演奏聴いて確信した。

   だって、冬馬かずさは、北原春希しかみてないでしょ。

   だったら、ベースやドラムなんて雑音にしかならない。

   ううん。もしかしたら、ヴォーカルさえいらないかもしれない・・・・・・」



まさしく有言実行だな。自分の想い描いたことを真っ直ぐと実行するところが

お前らしくて、羨ましくもある。

観客も喜んでいるみたいだし、いっか。

俺は脇役らしく、かずさのエスコートをやらせてもらいますよ。

俺は、かずさの音色に身を任せ、誰よりもかずさの音色に酔いしれていった。

たくさんの観客がいるはずなのに、みんなが俺達の曲を聴いているはずなのに

俺には観客なんて見えやしない。

俺の目に映っているのはかずさだけ。

もちろんスクリーンに背を向けているから、スクリーン上のかずさを見てるわけでもない。

だけど、俺にはかずさが見えている。

かずさならきっと小生意気な態度で呆れた目をして俺を見つめてくる。

だけれど、誰よりも信頼できるパートナー。一生隣を歩いていくって誓った生涯の伴侶。

今は会うことができないけれど、きっと俺達は再会できる。

だって、こんなにも息があった演奏ができるんだぜ。

きっとかずさは、まだまだ練習が足りないって文句を言ってくるんだろうけど、

いいよ、何時間でも、何日でも、何年だろうと、かずさが納得するまで

一緒に練習してやるよ。

だって、俺達の未来には、一緒に過ごしていく時間が待ってるんだからさ。
















コンサートの熱気が冷めやまぬ中、俺は観客席の間を突き進む。

皆かずさの音色に心を奪われ、俺のことなど眼中にない。

それも当然だ。なにせ初めて曜子さんにDVDを見せられた時から感じていたことだ。

ときたま友人たちが手を振ったり、声をかけてくる程度で、かずさのオマケの俺など

誰も見向きなどしない。

そんな中、俺に熱い視線を向けている瞳を見つける。それは、必然であり、

舞台の上からもひしひしと感じていた視線である。

彼女の隣には、武也と依緒がわきを固めていた。

再会した時に何を言おうか何度も考えていたのに、その全てのセリフが手のひらから

こぼれ落ちる。何も言わず、何もしない俺に、雪菜は笑顔を曇らす。

唇を軽く噛み締め、悲しそうに手を振る。



俺は、雪菜と友達になる為に武也に雪菜を連れてきてもらった。

それなのに、泣かせてどうする。

なにやってんだよ、俺。

せっかくさっきまでは少しはかっこよくきめていたのに、ステージから降りた瞬間に

駄目男に逆戻りか?

違うだろ!



春希「雪菜!」



俺は、両手で大きく手を振る。力いっぱい、俺の気持ちが届くように。

俺の必死すぎる行動に、雪菜は驚き、笑みを取り戻す。

やっぱり、雪菜には笑顔が似合う。下を向いている雪菜なんて、似合わない。



春希「また明日、大学でな」



会場は、人で溢れ、俺の声が雪菜に届いているかなんて、わからない。

隣にいる奴の声ですら、うすぼやけて、聞き取れないほどだった。

だけれど、俺には雪菜の返事が聞こえる。

きっと雪菜なら、こういったはずだってわかるから。

俺は、雪菜が小さく手を振るのを確認すると、俺を待っている彼女の元へと急いだ。

何度も雪菜の返事をかみしめながら。

















会場の外は既に暗く、会場内の熱気も及ばない。

舞台で沸騰した体も北風を浴びるたびに体温を奪い去っていく。

会場から少し離れた街灯の下に、柔らかな光を浴びる麻理さんを発見する。

わずかしか離れていない距離であっても、すぐさまゼロにすべく駆け始める。

俺が駆け寄ってくるのに気がつく麻理さんは、頬笑みと共に俺を迎え入れた。



春希「お待たせしました」

麻理「走らなくても、よかったのに」

春希「会場の出入り口からですから、ほんのちょっとですよ」

麻理「そんなわずかな距離でさえも走ったっていうことは、

   そんなに早く私に会いたかったってことか?」



冗談でも、照れ隠しでもない。素の風岡麻理がそこにはいた。

だから、俺は、正直に答えなければならない。

それが、俺を大切にしてくれている麻理さんへの精一杯のお返しだから。



春希「はい。早く会いたかったです」

麻理「そうか」

俺を見つめる瞳には、陰りはなかった。

春希「俺は、諦めませんから。麻理さんと、上司と部下の関係だけではなく、

   それ以上の関係、築いてみせますから」

麻理「うん・・・・」

春希「俺は、かずさを愛しています。でも、俺の身勝手かもしれないけど、

   麻理さんとは・・・・・、麻理さんとは、

   生涯付き合っていけるパートナーになりたいです。

   麻理さんの隣で肩を並べられる、誰よりも信頼してもらえるパートナーに」

麻理「身勝手なやつだな」

春希「すみません」

麻理「いいわ」

春希「えっ?」

麻理「だから、パートナーになってやるっていってるんだ」

春希「本当ですか」

麻理「嘘なんか、言うわけないだろ」

春希「ありがとうございます」

麻理「だけど、今すぐってわけには、いかないかな。

   ・・・・・・だって私は、北原春希を愛しているから」

春希「・・・・・麻理・・・・さん」




麻理「そう身構えないでよ。クリスマスからのほんのわずかな時間だったけど、

   幸せだったよ。苦しい時もあったし、それも後悔はしていない。

   だって、最高に幸せだったんだから。だから、この幸せな時間は、

   誰にも否定させない。北原にだって、否定なんてさせないんだから」



麻理さんの強気が剥がれ落ちていく。強い意志で塗り固められた瞳は、

涙で洗い落とされ、今、目の前にいるのは、

純粋な瞳でまっすぐ俺を見つめる麻理さんのみ。







麻理「心配しなくてもいい。


   きっと、北原と正面を向いて付き合っていけるようになる。


   でも、それまでの間だけでいいから、


   ちょっとの間だけでもいいから、


   冬馬さんの邪魔なんかしないから、


   私が一人で立っていられるようになるまで、


   そのときまで、


   隣にいて・・・・・、春希」







無邪気でいられる時間なんて限られていた。人は成長し、そして、現状を把握する。

そっと未来を見つめ、自分を顧みる。

自分の立ち位置を確認しないで、人を好きになんてなれない。

身勝手に好きになってしまえば、

自分たちだけでなく、俺達を大切に思ってくれる人たちさえも苦しめてしまう。

無邪気な目で俺を見つめていた麻理さんは、ずっと先の未来を見つめていた。

そこになにがあるかなんて、俺にはわからない。

だけど、その未来に、俺が隣にいる為の努力くらいしたっていいだろ。



春希「隣にいます。麻理さんが必要ないっていっても、ずっと隣にいさせてください」

麻理「ありがとう。・・・・あと、今日で最後だから」





俺にそっと近づくと、俺の両肩に手をかけ、俺の頬に軽くキスをする。

ほんの一瞬。麻理さんから伝わってくる温かさは、唇が離れた瞬間に

夜の冷気が奪い去る。

まるで幻でも見ていたかのような感覚であったが、

頬を染める麻理さんが、現実だって証明する。



麻理「それと、これヴァレンタインのチョコ。

   手造りではなくて買ったもので悪いんだけど」



オレンジ色の小さな紙袋を差し出してくる。

いくら夜であっても、オレンジ色の紙袋は目立つ。

しかも、ヴァレンタイン。意識しないでいる方が難しい。

光沢があるオレンジの紙袋は、目立つ色の割には落ち着いた雰囲気を形作っている。

それが妙に麻理さんに似合っていて、麻理さんの為にある紙袋とさえ思えてくる。

さすがにそれは言いすぎだってわかってるけど、絵になるほど目に焼き付いてしまう。



春希「かまいませんよ。誰がくれたのかが、一番重要ですから」

麻理「そういってくれると助かる。でも、味は保証する。

   このチョコレートは、私が一番好きなものなのよ」



ガレー。そう紙袋には印刷されていた。たしか麻理さんの部屋にもあった気がする。

中身はなかったけれども、紙袋が散乱していたような・・・・・・・。

今ここで麻理さんの名誉の為にも、不名誉な室内を思う返すのはやめておこう。

なによりも、麻理さんとは、過去よりも未来を見つめていきたいし。



春希「大切に食べますね」

麻理「ふふっ・・・・・。大切に食べたまえ」

春希「ホワイトデーは、たぶん編集部も忙しい時期ですし、

   会いに行くのは難しそうですね」

麻理「いつでもいいわよ。でも・・・・・・・・」



言葉を詰まらせ、俺を見つめる。瞳は揺らめき、ためらいを感じられた。

なにをためらってるなんて明らかだ。だって、俺も同じ気持ちだから。



春希「ホワイトデーは無理でも、きっとNYまで直接渡しに行きますから、

   待っててください」



俺の言葉で麻理さんの瞳に力がよみがえる。




肩から力が抜け落ち、そっと俺に寄り添ってきた。



麻理「うん、待ってる。来年のヴァレンタイン前日までに来てくれればいいから。

   それまで気長に待つとする」

春希「俺はそこまで気長に待てないので、もっと早く行ってしまいますよ」

麻理「なら、なるべく早く来てくれることを願っているわ。

   さて、もう行くかな。

   また今度ね、北原」

春希「はい。NYに行きますから、待っててください」

麻理「じゃあ」

春希「はい」



麻理さんは、一度も振り返りもせず去っていく。まっすぐ前だけをみて、突き進む。

それでいいんだ。未来をしっかり見据えていれば、きっと再び再会できる。

それに、今振りかえられたら、泣き顔を麻理さんに見られてしまう。

こんな情けなく、涙もろい俺なんか見られたら、幻滅しないまでも、

俺のことが気がかりでNYにいけないんじゃないかって、身勝手な妄想もしてしまう。



口づけを確かめようと、手を頬にあてても、なにも足跡は残ってない。

ほんのわずかだけれど、たった今、そこに麻理さんがいたっていう証拠の残り香を

肺に満たし、麻理さんの残像を思い出す。

俺は、今日この日を忘れない。

数年後、今日という日を思い出す為にも、前に進もうと決意する。














曜子「どうだった?」



ソファーに腰掛け、今さっき帰宅したかずさを出迎える。

曜子は、かずさの様子をみて、かずさの返答を聞く前だというのに

満足そうな笑みを浮かべていた。



かずさ「よかったよ」

曜子「そう」

かずさ「あたしが鍛えたんだ。当たり前だろ」



今日はちょっと饒舌になってるのかな? 

それなら、一緒にワインでも・・・・・・・。

って、この子にはワインよりもピアノかもね。

曜子は読みかけの本を閉じ、一度はキッチンにワインとグラスを取りに

向かおうとしたが、再びソファーに身を沈める。

そして、挑発的な顔つきで、かずさに問う。



曜子「決心できたの?」

かずさ「あたし、コンクールに出るよ」



そう宣言するかずさの目には、陰りは一つもなかった。











第15話 & 『心の永住者 cc編』 終劇

『心の永住者 ~coda編』 & 第16話に続く























































『~coda編』






NY  マンハッタン島の、とある一室






麻理「北原、まだ準備に時間がかかる?」



毎朝、今の時間帯のこの部屋の住人達は忙しい。

慌ただしく動き回り、身支度を整える。

だからといって、雑に行うことはない。ひとつひとつ確実に丁寧に進めていく。

それがここの住民達の性格をよくあらわしていた。



春希「お弁当もできましたし、あとは閉じまりだけです」

麻理「そうか。なら、私が見ておくわ」



朝の微笑ましくもあり、慌ただしいいつもの一コマ。

これから始まる開桜社NY支部での仕事は、日本以上に忙しい。

そうであっても、健康に気遣ってお弁当を作るあたり、北原春希も成長していた。



春希「もう行けます。閉じまりは大丈夫でしたか?」

麻理「大丈夫よ。さて、行きましょうか」

春希「はい」



俺は二人分のお弁当と仕事道具が入った鞄を手に、俺達が暮らす部屋をあとにした。

静かになった二人の部屋は、深夜になるまで静かなままだろう。

慌ただしく突き進む足音が、扉の向こうでこだましていた。







次週、『~coda編』スタート







心の永住者 cc編 あとがき





今週は、cc編最終話ですし、休日でもありますので

いつものアップ時間よりフライングですが、アップ致します。




かずさへの永遠の愛を誓っておきながら、麻理さんと暮らしているとは!

と、お叱りを受けそうですが、その辺は次週以降をお楽しみ下さいとしか言えません。

さて、ここまで物語が進んでしまったので白状しますと、この物語、

小木曽雪菜は登場しません。

今回ラストにちらっと姿だけ出てきましたが、セリフは一切ありませんでした。

雪菜が嫌いというわけでもないのですが、

この物語は、冬馬かずさと風岡麻理のストーリーです。

ですから、小木曽雪菜は出ません。

さて、心の永住者の初期企画段階では、かずさと雪菜の物語を書こうとしたのですが

どうも筆の勢いが悪い。

書いていても、全く面白くありませんでした。

麻理さんも、ニューイヤーコンサート後辺りで出番が終わる予定でしたが、

思いのほか筆が進み始め、ノリノリになって書いた結果が現在というわけです。

その時点で、雪菜は降板し、麻理さんがヒロインへと昇格したわけですが

その時やっと何で筆の進みが悪いかに気が付きました。

理由はシンプル。原作をなぞるような展開に陥りそうだったからです。

原作をちょっと改変して書いていっても、何も面白くありませんし、

読んでくださる皆さまも劣化版のwhite album2を目にすることになるわけです。

今書いている物語がすごいだろ、誉めてくれよって言いたいわけでもないのですが、

自分でも先が見えない物語を紡いでいくのを楽しませてもらっています。

そして、その原稿が少しでも楽しんでもらえる出来になればと、

願わずにはいられません。




来週は、火曜日、いつもの時間帯にアップすると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。








黒猫 with かずさ派





来週も、このスレで「~coda編」をアップしていく予定です。

2ちゃんねるの
【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖50杯目
WHITE ALBUM 2 *152
【WHITE ALBUM2】小木曽雪菜スレ ヒトカラ16曲目
を覗くと、詳しいことが書かれていますよ。

あまり2ちゃんねるでは、欲しかった情報が得られなかったようなので、補完しておきます。
以下、とらのあな特典SSのネタばれが入っています。







































































ページ数は、18。ただし、文字数すかすかも含む。
雪菜T後の結婚式披露宴。
挨拶程度の近況報告の会話。
ラストにかずさ登場で、三人で演奏披露。
そして、夢おち。
会話に関しては、特筆すべき内容はないです。
本当にたんなる挨拶と世間話














































































とらのあな特典SSを
買えなかった人もいたらしい事と、自分がレスしたので、補完しました。
ネタばれを少しでも見たくない人は、ここ275と、この上274のレスを見ないようにしてください。

今週は、アップ時間を早めてしまい、申し訳ありませんでした。
『cc編』最終話ですし、祝日で休日でもあったので、ゆっくり読んでもらいたく、勝手な事をしてしまいました。
さて、来週は、このスレにて『~coda編』をアップしていく予定です。
いつもの時間にアップする予定ですが、来週の火曜日は祝日なんですよね。
いつもの時間より遅くアップするようなことはいたしませんので、来週も読んでくださると大変嬉しく思います。





ホワイトアルバム2(cc~coda)~coda編





『心の永住者』





作:黒猫





第16話





1-1 春希 3月14日 月曜日







暦の上ではもうすぐ3月だというのに、冬物のコートは手放せない。

それでも冷たく身にしみる北風が吹くことも少なくなってきている分、

春が近づいてきているはずだ。それに、

大学受験シーズンも終わり、街でもほっとした若者たちが陽気な声を奏でている。

なかにはどんよりと来年への決意を胸に予備校選びに駆け巡ってるかもしれないが、

新生活に向けての準備をするせわしなさは平等に訪れるのだろう。

俺も4月からは大学4年生。学生でいられるのもあと一年。

いつまでも学生気分ではいられない。

ただ、今日は3月14日。ヴァレンタインデーの熱気とはいかないまでも

街はそわそわして微笑ましい。

さすがにヴァレンタインデーのような期待と不安に満ち溢れたイベントでは

ないのだけれど、それでも世間を巻き込んでのイベントともあって賑わっていた。

俺も、今年は3個だけチョコレートを貰うことができた。

そのうち2個だけはバイトの前に預けてきている。

本来ならば直接渡すのが筋というものだが、あいにく俺にチョコレートをくれた全ての

相手が海外居住ともあって、直接渡すことができない。

一つ目の相手は、かずさの母親でもある冬馬曜子さん。

もちろんこれは義理チョコでもあるわけだが、意味が深い「義理」だけに

貰った時には、どう反応すればいいか迷ったものだ。









ヴァレンタインコンサートのDVDを届けに冬馬邸に行った時のこと。

コンサートの運営側としては、まだ編集できていないのでもう少し待ってほしいと

お断りを受けたが、自分達の部分だけでいいと無理をいって手に入れたDVDを

どうしても曜子さんがウィーンに帰る前に直接渡したかった。

その曜子さんももうすぐウィーンに帰るらしい。

だから、ギターの練習に付き合ってもらったお礼を兼ねて訪ねてきていた。



曜子「はい、一日遅れだけど、ヴァレンタインチョコね。

   義理は義理だけど、「義理の母親」からの義理チョコよ」



ヴァレンタインのチョコレートらしきものが包まれたプレゼントを差し出してきたが

どう受け取ればいいか判断がつかない。



春希「えっと・・・・・・、なんといえばいいかわからないのですが、

   ありがたく頂いておきます」

曜子「遠慮なんかしないで、素直に貰っておけばいいのよ。

   それとも、将来の義理の母親からのチョコレートは受け取れない?

   かずさとの将来の事、真剣に考えてくれているのよね?」

春希「本気です。本気じゃなかったら、ここまでギターを頑張ってこなかったですよ」



毎日寝る時間を削って冬馬邸の地下スタジオに通い詰めた日々。

練習から解放され、ほっとする気持ちもあることはあったが、

今日からは来なくてもいいと思うと寂しい気持ちで一杯であった。



曜子「それもそうね。毎日きっちり時間一杯練習していたものね。

   信用してあげるわ」

春希「ありがとうございます」

曜子「だからというわけでもないけど、これもあげるわ」



曜子さんの手には、もうひとつチョコレートらしい包み紙が握られていた。

これが誰からだなんて俺でも想像がつく。

ここで、事務員の女性からの義理チョコだなんておちがつくんなら、笑い話で

終わるんだろうけど、曜子さんの凛とした眼差しが冗談ではないと物語っていた。



春希「かずさ・・・・からですよね」

曜子「ええ、そうよ」

春希「いつになるかわからないけど、かずさが笑って直接渡してくれる日を待ってますって

   伝えてくれませんか」



曜子「必ず伝えるわ」



こうして間接的ではあるが、二個目のヴァレンタインチョコレートを手にした。





ウィーンまで直接お返しに行ければいいのだが、バイトで忙しい。

なによりも先立つものがない。冬馬家の財務状況ならば、たった数時間の滞在の為に

飛行機に乗ってウィーンまで行って帰ってこれたかもしれないが、

北原春希の財布事情に春はきそうもなかった。

というのは建前であり、本当の理由はもっとシンプルだ。

曜子さんと約束したから。かずさが成長して、

コンクールで納得がいく成績を残すまで会わないって、約束したから。

俺もかずさに負けないように成長しようと日々編集部で仕事にいそしんではいるが

仕事だけがすべてではない。かずさを全て受け止められる男にならなくては。

だから、日本にある冬馬曜子事務所にお返しの品を預けてきた。

そこで待ち受けていたのがニューイヤーコンサートの時に

お世話になった女性職員であった。

彼女の名は、工藤美代子さん。日本の事務所で働く唯一の職員。

曜子さんの演奏活動のメインが欧州だから、日本ではCDや年に一度あるかくらいの

コンサートだけなので、平時は割と暇らしい。

それでも、あの曜子さんのもとで働いているとなると、その根性はすさまじい。

なにせ、たった一カ月ばかりではあったが、曜子さんのすさまじさは経験済み。

それを長年曜子さんの下で働いているとは恐れ入る。並大抵の精神力ではないはず。

それと、あの曜子さんが日本の事を任せていることを考慮すると、

美代子さんはきっと優秀な人材なのだろう。

一人で欧州での名声を勝ち取り、積み上げてきたのだから、その人を見る目も

たしかなはず。なにせコンサートは一人では成功できない。

ピアノを弾くのは一人ではあるが、コンサートを企画して、コンサートホールを手配し、

スタッフを準備し、そして、観客を迎え入れる。

他にも俺が知らないコンサートの仕事がたくさんあるだろうが、

ステージの上ではピアニスト一人ではあるが、その後ろにはたくさんの人が

ピアニストである曜子さんを支えているのだ。

そして、曜子さんの母国でもある日本の担当を美代子さん一人に任せているのだから

それだけの信頼があるのだと推測できた。

さて、最後の三つ目のヴァレンタインチョコは、麻理さんからである。

ヴァレンタインコンサート直後に貰った思い出の品。

これは、麻理さんとの約束もあって、お返しは直接手渡しが大前提だ。

だけれども、3月14日の現在。北原春希がいる国は日本。





あいにくNYへは行けていない。今俺がいるのはバイト先の開桜社編集部。

俺が来年から就職する予定の出版社であるが、ある意味就業時間が存在しない。

夜中に来ても誰かしら残っているし、早朝であっても同様。

唯一明りが消える日があったとしたら、大晦日と元日くらいだろう。

しかし、それも去年は俺が出社していた為に、明りは消えはしなかったけど。

内定はまだ貰えてはいないが、麻理さん経由の情報によれば、

ほぼ確実に内定が出るとのこと。

NYにいても俺のことを気にしてくれているあたりありがたいことだ。



麻理「同期なんて、使い倒す為に存在するのよ。それに、普段は私が面倒みまくって

   いるんだから、たまには貸しを返してもらっても罰はあたらないでしょ。

   それと、人事と編集部でちょっとした問題になってるのよね。

   北原の新人研修をどうするかでもめちゃってね」

春希「どうしてです?」

麻理「編集部としては、形だけの新人研修なんてやらないで、とっとと編集部で

   仕事してほしいのよ。だって、今さら新人研修なんてする必要ないでしょ」

春希「それは、社の方針に従うしかないのでは?」

麻理「でもね。編集部も万年人手不足だし、使える人材がいるんならひと時でも

   手放したくないのよ。それも、新入社員とは名ばかりの頭数に数えられる

   優秀な人材ならなおさらね」

春希「そこまで評価していただけているのは嬉しいのですが、それでも新人研修は

   やっておいた方がいいのではないでしょうか」  

麻理「それって、私が教えてきたことを疑ってるって思ってもいいのか?

   私の教えよりも、誰だかわからない新人研修教官を信じるってことでいいのね?」



麻理さんは、語気を強めて、脅迫じみた勢いを見せ始める。

でも、NYにいる麻理さんの表情は、きっといたずらじみた事を言ってやったと思って

ニヤニヤしているに違いない。



春希「そうは言ってませんよ。麻理さんの教えはきっちり体に叩き込まれていますし、

   誰よりも麻理さんを信頼していますから」

麻理「そう? だったらよろしい。でもまあ、おそらく新人研修はないと思うわ。

   たぶんテキスト配られて終わりかしらね。あと健康診断くらい?」

春希「入社式を忘れていますよ」

麻理「それこそ必要ないわ」



とのこと。





麻理さんの同期人事部職員からの情報だから、信憑性もあるが、

今まで積み上げてきた実績と、なによりも麻理さんからの信頼の為にも、

ホワイトデー返上で仕事にいそしんでいた。







日はすっかり暮れ、街灯の光が街を浮かび上がらせていた。

窓の外は、日の光とは違った人工のまばゆい光が規則正しく明りをとぼす。

夜になろうと人の活動は衰えず、むしろせわしなく動き回っていた。

俺はというと、外界のささいな変化など気に留める余裕もなく、

目の前の仕事に没頭していた。

外が暗くなったのを知ったのは、与えられた仕事が終わった9時すぎではあったが

そんなのはいつものことだ。

この分であれば待ち合わせの時間には間に合うだろう。

新たな仕事が回ってこなければだが。





待ち合わせのバーにつくと、佐和子さんは既に何杯目かのグラスをあけていた。



春希「すみません、遅くなってしまって」

佐和子「ううん、いいのいいの。遅くなるって連絡貰ってたから、

    ちょっと寄り道してからここにきたし」



あのあと、帰ろうとした俺に浜田さんがよこした仕事を終えたのが11時30分頃。

約束の時刻が11時なのだから、間に合うわけもない。

俺は急ぎ佐和子さんにメールを送り、返送メールを確認する間もなく仕事に入る。

俺も佐和子さんも仕事で約束の時間に間に合わないことがしょっちゅうある。

だから、返事を見なくとも「了解」と簡素なメールが来ると予想ができた。

仕事が終わり携帯を確認すると、予想通り「了解」と返事が来ていた。

「了解」の後に、ハートの絵文字が入っていたことは

見なかったことにしておいたが・・・・・・。



春希「ペリエお願いします」



俺は店員に炭酸水を注文すると、佐和子さんの隣に腰掛ける。

麻理さんがNYへ行って以来、定期的に佐和子さんと会うようになっていた。

麻理さんを交えて3人で会うことはあったが、二人でというのは異色だ。

一緒にいるのが嫌だというわけでもなく、むしろ会話を楽しめてもいる。





だけど、なんで佐和子さんが俺を誘うのかは疑問であった。

何度目かの食事の時、おもいきって聞いてみると、理由は単純であった。



佐和子「麻理から頼まれているのよ。北原君が仕事頑張りすぎていないか

    様子を見てくれって。会社の方でも聞いてるんじゃないかな。

    でも、私に春希君の近況を探ってくれっていうのが一番かな」



と、笑いながら話してくれたものだ。どう反応していいか困り果てて、

それをさらに笑いのネタにされたのは、いい思い出にそろそろなってほしい。



佐和子「バイトだっていうのに頑張るわね。

    今日だって、NYに行こうと思えば、行けてたんじゃないの?」

春希「勝手にバイトのシフト入れられてたんですよ。

   しかも、逃げられないように厳重に」

佐和子「それはご愁傷様」

春希「そんな佐和子さんだって、今日はホワイトデーですし、デート・・・・・・・」



俺の言葉は最後までいわせてはもらえなかった。

なにせ、それ以上言ったら殺すと、隣の方が殺気をみなぎらせている。

俺が言葉を飲み込むのを確認すると、殺気をしまい込んだ佐和子さんは、

話の軌道を戻すがごとく新たな話題を振ってきた。



佐和子「普通、バイトだったら比較的自由に休めるものじゃないの?

    正社員にもなると難しいけど、ほぼ内定が決まってるとはいえ

    北原君はまだバイトの身でしょ」

春希「そうなんですけどね。でも、仕事の頭数に入れられてもらえてるようで。

   そのことは感謝しているんですけど、バイトのシフトを作るからって

   大学の時間割を決めたら提出するようにと言われてもいるんですよ」

佐和子「それは、おめでとうと言ってもいいのかしらね。

    仕事で認められるのって時間がかかることだし、みんなの期待にこたえたいって

    いう気持ちもわかるわ。

    でもね、北原君。あなたはまだ学生なのだから、そのことも忘れないでね」

春希「はい。だから、ゴールデンウィークには、必ずNYへ行けるように

   調整してもらってます」

佐和子「はぁ・・・・。それはすでに正社員の行動だから。

    でも、麻理の奴も北原君が行ったら喜ぶわね」

春希「そうだといいのですが。佐和子さんがNYへ行くのは、再来週ですよね」




佐和子「ええ、そうよ。麻理が会えない分、私が北原君に会ってるから

    相当やっかみを受けると思うわね」

春希「ははは・・・・・・・」



どう反応すればいいかわからず、わざとらしい笑いでごまかすしかない。

ありがたいことに佐和子さんは、隣にいる俺ではなく、ターゲットを麻理さんに

定めた用で、意地汚い笑みを浮かべていた。



佐和子「絶対返り討ちにしてやるんだから。北原君ネタで散々いじりまわしてやるわ。

    待ってなさい、麻理!」



腕を高らかに突き付けると、グラスを掲げ、今日2度目の乾杯をかわした。













1-2 春希 開桜社 4月4日 月曜日 昼







来週から大学の授業が始まるが、今年はバイトの方を重点的に活動しようと思っている。

お金が欲しいからというわけではなく、早く一人前の編集部員になるべく現場での

仕事を優先した。

もちらん大学での講義も大切だが、めぼしい講義は既に受講済みであるし、

あとは卒論を仕上げればいいだけだ。

それも一年あるわけだから、比較的のんびり大学生活はすごせそうではある。



浜田「北原。こっちのほうも頼む。さっき渡したのよりも、こっち優先で頼む」

春希「わかりました。すぐに取りかかります」



いつもの編集部。いつもの騒々しい仕事場。活気に満ち溢れた雰囲気が俺の背中を押す。

俺をいつも見守ってくれていた麻理さんはもうNYにいっていない。

それでも俺は元気にやっている。

今頃麻理さんは寝てるのかな? いや、あの人のことだから、まだ仕事か。

と、思いをはせていると、携帯のバイブが震え、着信を伝えてくる。

携帯の液晶を見ると、佐和子さんからであった。





これは珍しい。佐和子さんからは、電話がかかってくることがあっても、

朝か夜がほとんどだ。たまに昼食時をねらってかかってくることがあっても

就業中にかかってくることはまずない。

たしか今日NYから帰ってくる予定だったか。

それでも、就業時間にかけてくるなんて、よっぽどのことなんだろうか。

俺は、ざわつく胸を押せえきることができず、席を立ち、廊下に向かい、電話に出た。



春希「もしもし?」

佐和子「北原君、ごめんなさい。バイト中だったよね」

春希「少しなら大丈夫ですよ。それと、おかえりなさい」

佐和子「ただいま・・・・・・・」



佐和子さんは、要件があって電話をしたはずなのに、何も言ってはこない。

沈黙が俺にのしかかる。何も語らない時間が引き延ばされるほど、

嫌な予感が増大してしまう。



春希「佐和子さん?」



俺は、努めて冷静を装って問いかける。どこまでできているかは疑問だが、

声を荒げなかっただけ、ましかもしれない。



佐和子「うん。・・・・・・うん、あのね北原君。

    電話で話すような内容でもないから、今夜会って話せないかな。

    何時だっていいの。でも、できるだけ早く話さないといけない事だから

    本当に何時でもいいから、会えないかな?」

春希「おそらく10時には行けると思います」

佐和子「ごめんなさいね」

春希「いえ、かまいませんよ。それで、いつものバーでいいんですか?」

佐和子「できれば、北原君の家か、私の家がいいかな。

    でも、私の家は帰って来たばかりで散らかってるの。

    だから、悪いけど、北原君の家でもいい?」

春希「それはかまいませんよ。それならば、駅前のカフェで待ち合わせでいいですか?」

佐和子「ええ、それでいいわ。・・・・・ふぅ、麻理ったら」

春希「麻理さん? 麻理さんになにかあったんですか?」



予想はしていたけれど、実際麻理さんの名が出ると動揺を隠せない。




佐和子「ふぅ~・・・・・・。それは会ってから話すわ。

    こんな電話なんかしたら心配させてしまうってわかってはいるんだけど、

    そうも言ってられないのよ」

春希「わかりました。できるだけ早く仕事を終わらせますから、待っててください」

佐和子「ありがとね、北原君」



電話をきると、暴れ狂う動揺をかみ殺し、デスクに戻る。

さあ、仕事だ。今俺に出来ることは、素早く、かつ、丁寧に仕事を仕上げるのみ。

そのかいもあって10時前には待ち合わせのカフェにつくことができた。










自宅に着くと、佐和子さんの上着もハンガーにかけ、部屋の奥へと促す。

普段から掃除しているから、いつ来客が来ても問題ない。

最近では、武也と千晶くらいしか寄りつかないが、

もともと人を呼ぶこともなかったから、相変わらずの静けさだ。



春希「コーヒーでいいですか?」

佐和子「ええ、ありがと」



キッチンに向かい、お湯をかける。しばしの沈黙がこの場を支配しようとするが、

俺は荷物を片づけたり、カップを用意したりとせわしなく動き回る。

別に、部屋に着いたらそのまま話を聞くことだってできた。

コーヒーくらいは用意しただろうが、聞くことだけならできたはずだ。

しかし、今の俺はそれをできるだけの準備が不足している。

昼に電話がきたのだから、心の準備くらいできたはずだけれど、

ついさっきまでいち早く仕事を終わらせる為に仕事だけに集中していた。

だから、佐和子さんの話のことは、一切考える余裕がなかった。

いや、考えないようにしていたという方が正しいかもしれない。

だって、どう考えてもNYから帰国した佐和子さんが暗い声で伝えようとしていたら、

麻理さんに関わることだってわかってしまう。

コーヒーの香りが部屋に漂い出す。安物のインスタントコーヒーでもそれなりの味だ。

しかし、俺の心の準備をできるまでの時間稼ぎにはならなかった。

俺は、無理やり勇気を奮い立たせ、佐和子さんの正面のテーブルの位置に腰を下ろす。



春希「コーヒーどうぞ」

佐和子「ありがと」




味はともかく、温かい液体が心をほぐす。佐和子さんも同じようで、

少しは落ち着きを取り戻したようだ。



佐和子「うん。回りくどいことは抜きにするわね。

    単刀直入に言うわ」

春希「はい」

佐和子「このままだと、麻理、駄目かもしれない。仕事もやめなくてはならなくなるわ」

春希「え?」



俺の顔から表情が滑り落ちる。どう反応すればいいのか、どんな顔をすべきかわからない。



佐和子「仕事でミスったとか、職場でうまくいってないとかじゃないのよ」

春希「そうですか・・・・・・・・」



仕事はうまくいってるのかな。でも、仕事が原因じゃないとすれば、なにが?

そこまでいうと、佐和子さんはちょっと困った感じの表情をみせる。



佐和子「単刀直入に言うって宣言したけど、どこから話せばいいかな」

春希「最初から話してくだされば助かります。答えだけを言われても

   変な先入観を抱くかもしれませんし」

佐和子「わかったわ。じゃあ、私がNYに着いて、麻理と再会した時から話すわ」



佐和子さんは、マグカップを両手で包み込むように握り、

黒く濁った水面を覗き込むように語りだす。

底が見えない水面が、これからのことを暗示しているようで、

あがけばあがくほど、どこまで続くかわからない水底へと沈みゆく感じがした。










第16話 終劇

第17話に続く







第16話 あとがき




~coda編スタートです。

cc編は書く予定ではありませんでした。

本来ならcodaからスタートだったのです。

しかし、あまりにも自分が描きたい結末に導くには障害が多すぎて断念orz

それならばと書き始めたのがcc編ですが、前回のあとがきで書いたように

ヒロインは雪菜から麻理へと交代しています。

ただ、いくらヒロインが交代しようと、テーマは同じですので

ようやくcodaを書き始めることができま・・・・・・せんねw

これからしばらくは「~coda」の「~」部分をお楽しみください。

「~」と「coda」の境界は曖昧ですので、

なんとなくcodaもスタートしているはずです。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップすると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。





黒猫 with かずさ派




【レス277訂正】

「そのうち2個だけはバイトの前に預けてきている。」

→ 「そのうち2個だけは、あらかじめ3月14日に本人達に届くように預けてある。」

に訂正します。そうしないと時の流れがあわなくなります。

ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。


今週も読んでくださり、ありがとうございます。

『~coda編』始まりましたね。

物語の区切りとしては折り返し地点です。

今後も頑張っていきますので、これからも読んでくださると大変嬉しく思います。




第17話






1-3 麻理 空港 3月29日 火曜日






麻理「はぁ・・・・・・・・」



今日何度目のため息だろうか。

いくらため息をつくこうが佐和子がやってきてしまう。

渡米を先延ばしにしてもらおうとも考えはしたが、結局は来てしまう。

それだったら、少しでも体調がいいときに来てもらったほうが

佐和子は気がつかないかもしれない。

しかし、それも気休めにもならないって自分でもわかっていた。

ため息と同じように何度も確認している服装を再びチェックに入る。

やっぱり首元までしっかりと隠れているのにした方がよかったかも。

でも、普段あまり着ないような服装の方が、

かえって佐和子に気がつかれるかもしれない・・・・・・。

今着ている麻理の服装は、いたってシンプル。

ロングダウンを羽織り、パンツスタイルにブーツ。

多少は着膨れしているかもしれないが、この時期のNYであれば、

いたって無難で地味な格好ではある。

しかも、やってくるのは佐和子である。

これが北原だったら、かなり気合が入った服装になるが、今日は佐和子しか来ない。

だから、麻理が服装を気にする必要などないとも言えた。



佐和子「麻理~。元気してた?」



飛行機は予定通りに到着し、佐和子も予定通りに待ち合わせ場所にやって来る。

ここまではいたって順調。時間通りで予定通り。

このあと、私がいつも通りに軽く挨拶して、佐和子から北原ネタでいじられて、

その後私がちょっと拗ねながらも、マンションに連れて行くだけ。

なにも問題ないし、疑われるような行動もない・・・はず。

でも、その後の事は考えてはいない。

だって、ダウンを脱いでしまったら気がつかれてしまう。

ちょっとくらい先延ばしにする作戦だけど、ちょっとくらいはいつもの佐和子との

気軽な関係を満喫しても罰は当たらないはず。



もしかすれば、その場の軽いノリで佐和子もわかってくれるかもしれない・・・・・、

と思いを巡らしながら、ぎこちない笑顔で挨拶をしてしまった。



麻理「まあまあかな。そっちは長旅で疲れたんじゃない?」



私が出迎えの挨拶をするところまでは、ちょっとぎこちなさがあっても、順調だったはず。

だって、佐和子も笑顔だった。

・・・・・・でも、佐和子は今は、心配そうに私を見つめている。



佐和子「ちょっと、麻理。しっかり食事してる?

    いくらなんでも痩せすぎ・・・・・・・」



佐和子は、持っていた荷物を両足で挟み込むと、

今度は空いた両手で私の顔を挟みこんだ。 

佐和子のしっかりと冬用にハンドケアされて潤いに満ちた指先が

かさかさに乾いた私の頬をなぞり、さする。

そして、指先が首元まで下がってくるころには、佐和子の顔は豹変し、

焦りがにじみ出していた。

私は佐和子にされるがままだった。だって、もうばれたんだもの。

隠したってしょうがない。佐和子の気が済むまで調べてもらうしかないだろう。

最後に佐和子は、私のダウンの袖をまくりあげると、細すぎる腕を見て驚愕した。



佐和子「麻理?」

佐和子が何を知りたいかだなんて、明確すぎる。

私が逆の立場だったら、同じことを気になるはず。



麻理「とりあえず、私のマンションに行こうか。ここで話すような事でもないから」



私の薄暗い笑みに、佐和子はぎこちなく頷くだけであった。

佐和子は、私の先導にしたがって後からついてくる。

タクシーに乗り込んでも、マンションについても、一言も言葉を紡がない。

ただ、私の体に触れた手を確かめるように手のひらを見つめているだけであった。

















佐和子をリビングに通すと、予想通りいぶかしげな眼で私を見つめてくる。

玄関は綺麗に掃除されており、脱ぎっぱなしの靴など溢れてはいない。

しかも、リビングまでの廊下も拭き掃除がされ、綿ぼこり一つない。

そして、リビングにいたっては、雑誌や書類などは綺麗に整理整頓され、

脱ぎっぱなしの服などは存在していなかった。



佐和子「一応確認しておくけど、ハウスキーパー雇った?」

麻理「雇ってないわ。・・・・・・・コート貸して。掛けておくわ」

佐和子「ありがと」



佐和子からコートを受け取ると、

佐和子の為に用意しておいた部屋のクローゼットにしまいこむ。

佐和子も自分の荷物を部屋に持ってくるが、いくら部屋を見渡したって、

ベッド以外の調度品は存在していない。



佐和子「ねえ、この部屋・・・・・・ううん。これも後で説明してくれる?」

麻理「あとでね」



荷物を部屋の隅に並べると、リビングに戻り、ソファに腰をかける。

本来ならば、コーヒーでもいれるべきなんだけど、

そんなものを用意してしまったら、話などできやしない。

佐和子が何も言ってこないから、このまま話を進めるようかしら。



麻理「全部話すわ」

佐和子「ええ、私が理解できるように話してくれると助かる」

麻理「まず、病気ではないわ。不治の病ってわけでもないから心配しないで、

   って、このありさまじゃ無理か」

佐和子「そうね。病気って言われた方が納得できたかもね」

麻理「一応病気ってことでもあってるんだけどね」

佐和子「一応?」

麻理「心因性の味覚障害」

佐和子「味覚障害って、味が変になっちゃうやつでしょ。

    詳しくは知らないけど、病気じゃないの。

    ん?・・・・・・・心因性って?」

麻理「その名の通り、心の問題・・・・・・・かな」

佐和子「NYでの仕事が原因ってわけではないわよね?」

麻理「仕事の方は、いたって順調よ。順調過ぎて怖いくらい」

佐和子「それって、体調が悪いのを忘れる為に仕事に没頭しているだけでしょ」





さすが佐和子。私の事をよくわかってらっしゃる。

そんなに心配そうに見つめないでよ。こうなるってわかってたけど

心配されるのには慣れないな。



麻理「まあ、そんな感じかな」

佐和子「笑い事じゃないわ。原因は?」



原因か・・・・・・・。そうよね。心因性ってことなら、理由がはっきりしてくるはず。

このまま目をそらしても、数秒の時間稼ぎにしかならないかな。

私のぎこちない笑顔をみると、佐和子は膝をついて、私に詰め寄ってくる。

けっして責めているわけではない。むしろ心配してるんだろうけど、

私にとっては、大した差はなかった。

だって、どちらにせよ理由をいわなきゃならない。

理由を言ってしまえば、きっと北原がNYに来てしまう・・・・・・・。



佐和子「北原君ね? そうでしょ」

麻理「そうよ。北原が原因。でも、こんなことになってしまったのは私のせいだから」

佐和子「違うでしょ。あなたも言ってたじゃない。

    北原君があなたに依存してきて、それがとても心地よくて、

    いつのまにかに麻理が北原君に依存するようになってしまったって」

麻理「その通りよ。でも、味覚障害までなってしまったのは、私の責任。

   北原は悪くない」

佐和子「でも! ・・・・・・・・今さら責任がどうのとかいってられないか。

    で、具体的には、どんな症状なの? 

    ううん、いつから自覚したか、そこから話してくれないかしら」

麻理「一番最初に自覚したのは、北原が泊まりに来た翌日の夜かしら。

   仕事から帰って来てみると、北原が食事を用意しておいてくれたから

   それを食べたの。すっごくうれしくて、でも、とても悲しかったのを覚えてる」

佐和子「そう・・・・・・」

麻理「でね、食べてみたら味が薄いの。

   北原も料理は得意ではないって言ったし、これからしっかり料理覚えていくって

   宣言もしていたから、今回は失敗したのかなって思ったわ。

   でもね、前の日に作ってくれた半熟のオムライスは美味しかったなぁ。

   また作ってくれないかしら」

佐和子「ゴールデンウィークにNYに予定だし、その時作ってもらえばいいじゃない」

麻理「駄目っ! 今のこの状態の私が会えるわけないじゃない。

   きっと北原の事だから、責任感じちゃうでしょ」






佐和子「麻理が会わなくても、私が帰国したら全部話すわよ」

麻理「そう・・・・・・」

佐和子「その表情見ると、今のあなたの不安定さがにじみ出てて、心配になるわ」

麻理「え?」

佐和子「鏡見なさい。あなた喜んでいるわよ」



佐和子の言葉をやや納得できない私は、壁にかかったインテリアミラーで

自分の顔を確認する。

そこには、佐和子が言うほどではないにしろ、やや口角が上がっている自分がいた。

健康的な笑顔はそこにはない。病的なまでもうつろで、すがるような笑顔。

けっして北原が喜んでくれるような私は既に存在していなかった。



佐和子「ごめん。言いすぎたわ。こっちに戻って、話を続けてくれると助かる」

麻理「ううん。佐和子がいてくれて、助かってるから」

佐和子「私には、いくらだって依存したっていいから、全部話しなさいね」

麻理「ありがと。・・・・・・・どこまで話したのかしら。

   北原がオムライス作ったけど、一つは失敗しちゃって、私がそれを食べようとしたら

   困った顔をして、そのお皿と自分の方に置かれた成功したオムライスと

   とり変えようとした話だったかしら。

   そういう気遣いはできるんだけど、女心がいまいちわかってないところが

   傷なのよね。でも、そういう北原も可愛くて、あたたかいわ」

佐和子「はぁ・・・・・・。今のあなたには、仕事と北原君のことしかないみたいね」

麻理「それは駄目よ。私は北原から独立しないといけないんだから。

   北原には冬馬さんがいるの」

佐和子「そうよね。でも、北原君が冬馬さんと再会するまでに、麻理も元気にならないと。

    そうしないと北原君のことだから、心配して麻理のことを離してくれないわよ」

麻理「そうよね・・・・・・」

佐和子「そこ。うれしそうな顔しない」

麻理「仕方ないのよ。情緒不安定だって、自分でもわかってるんだから」

佐和子「今は仕方ないか。それじゃ、家に帰ってから北原君の料理食べて

    味が薄かったってところから話してくれないかしら」

麻理「その時は、そんなものかなって感じで、特に気にはしなかったわ。

   そして翌朝、といっても、帰ってきたのが朝方だったんだけど、

   仮眠をしようとして、でも眠ることなんてできなくて、

   その日は昼から北原が来るから、とりあえず起きて朝食をとったの」

佐和子「麻理。食事だけじゃなくて、睡眠障害まであるんじゃないでしょうね」

麻理「それは大丈夫。疲れて動けないくらい仕事してるから、家に帰ってきたら

   すぐにぐっすり眠れているわ」





たとえ仕事に集中している理由が、北原を思い出さなくするためであっても。

これだと、仕事に逃げるなって言ったのは私なのに、上司失格ね。

でも、昔とは違うはず。だって、仕事をするのは楽しいもの。

はぁ・・・、変な言い訳ばかりしちゃって、泥沼かな。



佐和子「そっか」

麻理「うん。その日の朝食も北原が作っておいてくれたサンドウィッチだったんだけど、

   今度は全く味がしなかったの。

   見た目はすっごく美味しそうで、北原が作ってくれた料理なら、たとえまずくても

   残さず食べられるのに、全く味がしないとなると変な気分になってしまったのを

   よく覚えているわ。

   まずかったら、それなりのリアクションも取れたはずなのよ。

   でに、なにも味がしないとなると、困ったもので、なにも感じないの。

   だけど、北原が作ってくれたんだから、すべて食べたけどね」

佐和子「その時からずっと味がわからなくなったってことでいいのね?」

麻理「ううん。昼になって北原が来て、その時北原が作ってくれた料理はすっごく

   美味しかったのを覚えているわ」

佐和子「一時的には復調したってことか」

麻理「そうかもね。北原が帰って、一人で食事しても味はあったと思うわ。

   多少は薄味になっていたかもしれないけど、気になるほどではなかったはず」

佐和子「でも、悪化していったのよね?」

麻理「そうね。NY行きが迫ってきて、北原に会えなくなるって考えるようになって

   不安になればなるほど、悪化していったわ。

   その頃北原、お弁当作ってくれるようになってね、お昼は一緒に食べてたのよ」

佐和子「見た目通りまめな男ね」

麻理「お弁当はありがたかったわ。これが唯一の繋がりにさえ思えたから。

   そう思うと、その時は楽しくても、仕事から帰って一人で食事をすると

   味気なかった。おそらくその頃から本格的に悪くなったと思うわ」

佐和子「日本にいた時からか。じゃあ、日本で病院に?」

麻理「ううん。あの頃は引き継ぎとか、NYでの仕事の準備で忙しくて時間がなかったわ。

   病院に行ったのは、佐和子がこっちにくるって言ってきたときね」

佐和子「急に病院に行ったからって、治るような状態でもないでしょ」

麻理「ドクターにも言われたわ。これからはカウンセリングと精神安定剤を使って、

   焦らずに治していこうって」

佐和子「薬は、どう? 効いてる?」




麻理「飲んでないわ。ドクターも調子が悪い時に飲めばいいっていってたし、

   なによりも、精神安定剤を飲んだからって、治るわけでもないのよ。

   ただ気持ちを落ち着かせるだけ」

佐和子「それで大丈夫っていうんなら・・・」

麻理「ううん。たぶん精神安定剤に依存してしまうのが怖いのかもね。

   今は北原に依存しているけど、今度は精神安定剤に依存してしまう自分が

   みじめになるのが怖いの」

佐和子「麻理・・・・・・・」

麻理「もう、十分みじめったらしい女なんだけどね」

佐和子「ついでに重い女よ」

麻理「まっ、悲劇ぶるのは私の性分じゃないから、戦っていくわ。

   ありがとね、佐和子。いつも通りに接しようとしてくれて」

佐和子「違うわよ。他の接し方を知らないだけ」



佐和子は、恥ずかしそうに視線を外そうとしたが、ばっちり照れているのが見てとれる。

佐和子は、こっちを見ないようにして、居心地悪そうに足を組みかえたりもしている。

そして、気分を変えようとありもしないコーヒーカップを取ろうとした。



佐和子「コーヒーもらえないかしら? ちょっと喉乾いちゃって」

麻理「ごめんなさい。できれば、水か炭酸水で我慢できない?」

佐和子「それでいいわ。水お願いするわね」



佐和子の返事を聞いてから、ソファーから腰を上げ、冷蔵庫からミネラルウォーターの

瓶を二つ取り出すと、トレーにコップ二つと布巾ものせ、リビングへと戻る。

瓶のキャップを外し、コップに水を注ぐ。冷たい瓶の感触が、心地いい。

佐和子と話していても、どこか夢のような感触さえあったが、

冷気が私を現実に縛りつける。

覚悟していたことだが、佐和子がいつも通りなのを心から感謝した。



佐和子「ねえ、麻理。もしかして、コーヒーの香りも駄目なの?」

麻理「するどいわね」

佐和子「さすがにね。摂食障害の話なら多少は聞いたことあるわ」

麻理「仕事の時は集中しているから大丈夫なの。でも、外で食べり飲んだりするのは無理。

   だから、食事は自宅でしかしてないわ」

佐和子「それじゃあ、一日二食ってこと?」

麻理「ううん。夜帰ってきても、疲れているから、そのまま寝てしまうことが多いわね」

佐和子「そんなことしていたら、いつか倒れるわよ」

麻理「サプリメントとか栄養ドリンクは飲んでいるから、多少は大丈夫なはずよ」




佐和子「そんなの一時しのぎよ。食事をしなくちゃ、痩せていって・・・・・・。

    今、食事もできないの?」

麻理「できなくはないけど、食べても気持ち悪くなるのよね。

   お腹が痛くなったり、吐きそうになったり。

   味がわからないのは同じなんだけど、食べても気持ち悪くなるとなると

   食事も億劫になってしまうわ」

佐和子「ふぅ・・・・・・。それも症状の一つってことでいいのよね」

麻理「ええ。でも、自宅でなら食事はできるのよ。

   食べた後、気持ち悪くなるのも対処法がわかってきたし、

   だから夜は疲れていて無理でも、朝食はしっかり摂るようにしてるわ」

佐和子「昼食は無理にしても、朝食だけって。夜もしっかり食べないと、

    今度は仕事どころじゃなくなるわよ」

麻理「そんなことは絶対ならないように気をつけてるわよ。

   私には仕事しかないんだから。

   だからね、仕事も土日はしっかり休むようにしてるの」

佐和子「へえ。ワーカーホリックの麻理にしては、すごい決断したわね」

麻理「そういわれると心外なんだけど、土曜は自宅で仕事をするようにして、

   日曜は完全休養にあててるわ。

   だから、土日は、しっかり三食摂ってるわよ」



佐和子の反応も、日本での私を知ってる人なら当然の感想かもしれないか。

だって、休みなんてないも等しかった。

仕事の合間の休憩が休暇で、仕事が入れば休暇は即終了。

どこにいても仕事が最優先だったわね。



佐和子「それで、部屋の中も綺麗なわけか」



佐和子は興味深く部屋を点検していく。

さすがに日本にいたころの部屋を熟知しているだけあって、

この落差にストレートに驚きを見せた。



麻理「それはちょっと違うわ」

佐和子「なぁにかわいこぶってるのよ。あなたのちらかった部屋に何度行ったことか」

麻理「違うのよ。そういう意味でいったんじゃないの」

佐和子「じゃあ、どういう意味なのよ」

麻理「綺麗な部屋じゃないと落ち着かないのよ」

佐和子「はぁ? 体調壊しても、その辺の心境変化はよかったじゃない」

麻理「それも違うわ」




佐和子「だったら何よ?」

麻理「北原が・・・・・・」

佐和子「北原君が綺麗な部屋がいいって?」

麻理「ううん。北原が部屋を綺麗に掃除してくれたの。

   大掃除でもしたんじゃないかってくらい綺麗に掃除していったわ」

佐和子「へぇ・・・。北原君らしいったららしいけど、あんた、掃除までやらせてたの」

麻理「違うわよ。勝手にやってくれたの。家に帰ってきたら、綺麗に掃除してあって

   部屋を間違えたんじゃないかって、驚いたくらいなんだから」

佐和子「そりゃあ、あの部屋が突然綺麗になってたら驚くわね」

麻理「でしょう。よく小説とかでもあるけど、一旦玄関から出て、部屋番号確認
   したんだから」

佐和子「ふふっ。それは傑作ね。でも、あの北原君なんだから、掃除したのも

    一度きりってわけじゃないわよね。実際どうたっだの?」



さすが佐和子。腕を組み、なんでもお見通しですって顔をしている。

その顔、さすがにぐっとこたえるものがあるけれど、我慢我慢。



麻理「私がNYに行ってるときに、部屋の風通しをしてもらってただけよ。

   それに、私がいないんだから、部屋もそんなには汚れていないはずだし」

佐和子「でも、麻理が日本に戻ってきても、麻理は掃除しないんなら、

    結局汚い部屋を掃除するのは北原君じゃない」

麻理「そ・・・それはそうかもしれないけど」



痛いところをついてくるわね。

頼りにはなるけど、隠し事ができないことが難点ね。



佐和子「それで、実際はどうなの?」



佐和子は、早く吐けと詰め寄ってくる。こういう気さくなところはありがたい。

それでも、私にだってプライベートってものがあるのよ。

佐和子からの追及を逃れようと顔をそらそうとしたが、

佐和子の両手が私の頬を挟み込む。

ぐいっと強制的に引き戻された私の顔は、正面から佐和子と向き合うしかなかった。



麻理「ふぁなひぃてくぁあいほぉ、ふぁなせあぃ・・・・・・」



どうにか両手の圧迫で言葉が話せないとわかってくれたのか、頬を解放してくれる。



しかし、一人掛けの狭いソファに強引に割り込んでくてくるものだから、

佐和子は私の腰に体を寄せてくると、ゆっくりとソファーに侵食していき、

私が逃げられないようにと腕を腰に絡めてくた。



佐和子「さあ、白状しなさい」

麻理「別に大したことを頼んだんじゃないわよ。合鍵を渡したことがあって、

   それを返さないでもいいって言っただけ。

   それで、たまには部屋の風通しをしてって頼んだら、

   掃除もしておきますよって言ってくれたのよ。

   ね、大したことないでしょ?」

佐和子「大したことあるわよね」

佐和子は、にたっと盛大な笑みを浮かべると、頬がくっつくくらい迫りくる。

麻理「な・な・な・・・・・なんでよっ!」

佐和子「だって、麻理もその理由がわかってるから、顔を真っ赤にしてるんでしょ」

麻理「え?」

佐和子「え?って、気がついてないの?」

麻理「だから、なにに?」

佐和子「はぁ・・・・・・。ワーカーホリックをこじらせると、こうまで天然というか

    悪女というか、面倒な女になっちゃうのね」

麻理「なに一人で納得してるのよ。私がわかるように説明しなさいよ」

佐和子「だからね、麻理。北原君に麻理の部屋の合鍵を返してもらいたくないから

    部屋の換気を言い訳に、合鍵返さなくてもいいようにしたんでしょ」

麻理「あっ」

佐和子「あって、今頃気が付いたの。もう、うぶなんだか、天然なんだか、

    このこのぉ」



佐和子は、私の頬を人差し指でぐりぐりと押し込んでくるが、

佐和子にかまっている余裕なんて私にはなかった。

きっと佐和子が指摘したように、私の頬は真っ赤なんだと思う。

耳や首まで赤く染まってるってかけてもいい。

それだけ北原のことを、北原との会話を思い出すと、体が熱くなるほど恥ずかしかった。

逃げ出したいとか、失敗したとかじゃなくて、もっと純粋に北原に私の内面を

知られてしまったことが恥ずかしかった。

もう北原は、私が北原の事を好きだってことは知ってるんだ。

ヴァレンタインの日に、告白したしね。でも、その前から北原には、

わずかな繋がりさえも手放せないほど好きってことを知られちゃってたんだ。

そっか・・・・・・。知られちゃってたのか。




佐和子「なぁ~に、乙女ぶって、ニコニコしてるのよ。

    見てるこっちが恥ずかしいわ」



佐和子にも、そして、北原にも全て知られちゃったのか。

心因性味覚障害については、これから北原に知らせないといけないけど、

隠す必要なんてなかったのかな。

だったら、あの時無理なんてしなければよかったなぁ。

せっかくのチャンスだったのに・・・・・・。








第17話 終劇

第18話に続く













第17話 あとがき





『coda編』を書いてみて気が付いたのですが、話の展開が遅いです。

しかも、今回は麻理さんと佐和子さんしかでていなく、

主人公であるはずの春希はまったく出ていませんし。

今度、かずさか麻理さんの独白で、一話まるまる使って書いてみたいなという

無謀な意気込みを持ってしまいそうですw




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。






黒猫 with かずさ派





今週も読みに来てくださり、ありがとうございます。

実際深刻な症状なのですが、そればっかりリアルに書きすぎると暗すぎる内容になってしまいますし、

そのあたりのバランスが難しいですね。

可愛らしいと思ってくださるのならば、なによりです。




第18話








1-4 春希 春希マンション 4月4日 月曜日 夜







佐和子「って、感じだったのよ。それでね、麻理ったら、

自分で部屋を綺麗にするようになったきっかけっていうのが、

綺麗な部屋の方が北原君を感じられるからなんだって。

    もうのろけられまくちゃって、こっちが恥ずかしかったわ」



佐和子さんは、一息にNYでの麻理さんの様子を話しきると、

最後は笑い話で締めようとする。

しかし、その笑い話も笑い話にさえならないって、

佐和子さん自身も気が付いているはずだった。

俺を気遣って、少しでも俺の責任を軽くしようとしてくれているのかもしれないけれど、

俺は気がついてしまう。

だって、話を裏返してしまったら、麻理さんは、自宅であっても

俺を感じ取れない部屋であるのなら、食事ができないってことにほかならない。

もしかしたら考えすぎかもしれないけど、仕事で忙しいのは確かなのだから

掃除をこまめにする時間なんてないはずだった。

仮に食事は関係ないとしても、日常生活で、自宅でも俺を感じられなければ

安らげる場所がないんじゃないかって、大きくうぬぼれてもしまう。



春希「佐和子さん。勘違いならいいんですけど、部屋が綺麗じゃないと

   俺を感じ取れなくなって、食事や日常生活に支障がでてるんじゃないんですか」



俺の指摘に、佐和子さんの顔から作り笑いが崩れ落ちる。

無表情になり、そして、うろたえた表情になりかけたところで

これ以上表情が壊れていかないようにとぐっと我慢していた。



佐和子「まさにその通りよ。別に綺麗な部屋が絶対必要ってわけでもないみたいだけど

    麻理の中での思い出では、上位に位置するものらしいわ」



大学生になって、開桜社にバイトにいき、麻理さんの下で働きだした。





でも、そのただのバイトとしての思い出は多いかもしれないが、

クリスマスイブからNYへ行くまでのたった2ヶ月しかない思い出の方が

価値が非常に高かった。

比較にならないくらい濃密な時間ではあったけど、

時間が少ない分思い出の数も少ない。

だから、麻理さんの拠り所になる思い出も限られてしまうのかもしれない。



佐和子「それとね、3月の初めに日本での最後の引き継ぎに帰ってきたでしょ」

春希「あ、はい。でも、スケジュールが合わなくて、会えませんでした」

佐和子「私も会えなかったわ。でもそれって、

    会わなくてもいいように麻理がスケジュールを調整していたのよ」

春希「それって?」

佐和子「もうそのときには痩せちゃって、私たちが見たら気がつくと思ったんでしょうね。

    食べられないのに、仕事はハードなんだから。

    それは一月もしないうちにガリガリになっちゃうわよ」

春希「そんなにひどいんですか?」

佐和子「今はまだ病的なまで痩せてるわけではないんだけど、

    それでも痩せすぎているって感じかしらね。

    このまま食べないでいるのなら、ガリガリになる前にハードな仕事のせいで

    倒れてしまうでしょうね」

春希「でも、食べないでいるんなら、体がいうことをきかなくなって、

   仕事に支障が出てきますよね? 

   だったら、その時点で仕事に厳しい麻理さんの事ですから、

   質が悪い仕事をしない為にも

   仕事をセーブするようになるのではないでしょうか?」

佐和子「それはないでしょうね」

春希「どうしてです?」

佐和子「だって、北原君の事を思い出す時間を削る為に働いているのよ。

    もちろん麻理だって、仕事をするからには手を抜かないし、

    仕事に逃げているだなんて思われないように、仕事とは真摯に向き合ってるわ。

    それでもね、どう言葉で言い繕っても、結果的には仕事に逃げているって

    思われても・・・・・・、ううん、麻理本人も認めているんでしょうね」

春希「俺がそこまで麻理さんを追い詰めていただなんて・・・・・・」

佐和子「そのあたりについては、麻理も口が堅くて詳しい事は知らないわ。

    まあね、あの子との付き合いも長いし、断片的な話からでもおおよその内容は

    わかっちゃうんだけどね。しかも、本人が無自覚なうちにのろけ話に

    なってるし・・・・・・・、うらやましい」






あぁ、・・・最後の一言だけは、きかなかった事にしよう。

でも、麻理さんが・・・・・・。



佐和子「それで、北原君はどうするつもり?

    あなたの事だけら、麻理の事、ほっとかないんしょ?」



佐和子さんは、姿勢を整えると、まっすぐ俺に向かって問いかける。

それは、お願いでも、プレッシャーでもない。

俺のことをわかった上での事実確認にすぎなかった。

佐和子さんは、俺の決断を尊重し、全力でサポートしてくれるに違いなかった。



春希「具体的に今すぐどうすればいいかだなんてわからないのですが、

   それでもNYへ行こうと思います」

佐和子「開桜社の内定貰ったばかりだし、それに大学はどうするの?」

春希「大学は、卒論の提出時期を7月末までに速めれば、

   後期日程は行かなくても卒業することはできますよ」

佐和子「それって、簡単にいっちゃってるけど、

    本来なら一年かけて卒論を仕上げるものじゃない」
    
春希「普通はそうなんですけどね。俺の場合は、前期日程で卒業に必要な講義って

   2つしかないんですよ。あとはゼミに行って、そして卒論頑張るくらいなので

   卒論を早く仕上げること自体は問題ないと思います。

   一応教授の了承が必要ですが、大丈夫だと思いますよ」

佐和子「それだと8月から行けるってことね。

    でも、麻理が受け入れるかしら」

春希「そこは、これからNYにいって説得してみせます」

佐和子「行く日時決まったら言ってね。チケットとるからさ。

    ホテルはいらないわよ。麻理んとこ泊まればいいんだし」

春希「それは・・・ちょっと、麻理さんがどう思うか」

佐和子「なぁ~に言っちゃってんの。麻理んとこの合鍵もらっちゃってるくせに。

    もう何度も泊まってるんでしょ?」

春希「それは、そうかもしれませんけど」

佐和子「それに、きっと麻理は北原君の側にいたいはずよ。

    もしホテルを用意してくれていても、断ってくれないかな。

    それは、麻理の精一杯の強がりだから。

    もう倒れそうなくらいボロボロなくせに、こういうところは意地っ張りに

    なっちゃうのよね」



佐和子さんは、じっと自分の爪を見つめ話し続ける。





その見つめる先にある握られた手の中には、俺が知らない麻理さんとの思い出が

詰まっているのかもしれない。

親友だから話せる事。親にだけなら話せる事。恋人にしか言えない事。

だったら、俺は、麻理さんのどのような存在でいられるのだろうか?



佐和子「だからね、北原君。麻理の事、よろしくお願いします」

春希「はい、自分にできる限りの事はやるつもりです。

   今まで受けてきた恩がどうとかじゃなくて、自分が麻理さんには幸せに

   なってもらいたいから、NYへ行きます」

佐和子「ありがとう、北原君」

春希「でも、麻理さんのことだから、ただ身の回りの世話をする為だけにNYへ

   行くと言っても、聞き入れてくれないでしょうね」

佐和子「そうねぇ・・・。それだと自分の為に大学やバイトまで休んで来てもらってるって

    感じてしまうでしょうね。実際、北原君が調整して大学を卒業できるように

    してあっても同じでしょうね」

春希「それでも、今のままでは駄目なんでしょうね」

佐和子「あの子ったら、変な所で頑固なのよねぇ」

春希「だったら、麻理さんがわざとらしい理由だと思ってしまっても、

   それなりに筋が通った道筋を強引に作って、

   もうそれが動き始めてるって教えてあげればどうにかなりませんか?」

佐和子「まあ、このさい強引でもいいから、やっちゃった勝ちかもしれないわね。

    それでも、なかなかいい案なんて都合よく思い浮かばないわよねぇ・・・」



俺に適当な案などあるわけもなかった。

仮に時間をもらったとしても、思い付くか微妙な所だ。

俺は、佐和子さんからの視線を逃れるために、本棚を適当に見つめる。

そこに俺が求める答えなどあるわけもないのに、できもしない問題の為に

時間稼ぎをしてしまう。時間だけが過ぎ去っていく。

佐和子さんであっても、都合がよすぎるあらすじなど、簡単には作れない。

俺もいくつか考えてみたが、あまりにも現実から乖離しすぎている内容であった。

もちろんNYへ行くとしても、バイトしなければ食べてもいけない。

麻理さんに養って欲しいと願い出れば、大学を卒業するまでは面倒見てくれるかもしれない。

でも・・・、俺が大学を卒業するまでに、麻理さんの症状が改善する保証など

どこにもないんだ。

俺が就職して後、麻理さんを見捨てて日本に帰国するのか?

そんなことできない。俺は、麻理さんを見捨てることなんて、できやしない。

・・・・・・・・・・・・・・・だったら、NYで就職するか?

それこそ都合がよすぎる展開じゃないか。




どこで都合よくNYでの仕事を見つけるっていうんだ。

俺は、いらだちを抑えようと、意味もなく本棚に並べられた本のタイトルを読んでいく。

そして、一冊の本の前で目がとまった。

その本は、麻理さんから渡されて、一度だけ読んだ冊子。

内容は、開桜社の規則が書かれているものであって、麻理さんに読めと言われなけば

ろく読みもせず本棚に納めていた自信がある。

バイトの休憩時間に編集部で読んでいると、松岡さんが後ろから覗き込んで

言ったものだ。



松岡「こんなの読んでるやつ、この編集部にはお前くらいしかいないんじゃないか?」

春希「麻理さんに一度は読んでおけって言われたんですよ」

松岡「なら訂正。この編集部には、こんなの読んでいる奴らは、

   お前と麻理さんしかいないよ」

春希「もしかしたら他にもいるかもしれないじゃないですか」

松岡「いいや、わかるって。だって、それもらうのって、新人研修のときだぜ。

   研修で疲れているのに、念仏みたいにぐだぐだと使いもしない規則言われても

   寝てるだけだって。ほら、そこにいる鈴木にも聞いてみ。

   絶対寝てたはずだから」

鈴木「え? なになに。私がどうしたって?」



自分の名前を呼ばれた鈴木さんは、生来の好奇心の強さもあって、話に加わってくる。



松岡「北原がさ、社の規則本読んでるんだよ。

   俺達も新人研修の時聞かされたけど、寝てたよなぁって話」

鈴木「あぁ、寝てた、寝てた。熟睡してた自信あるよ」

春希「新入社員の為に時間を割いてくれているんですから、

   寝ないでまじめに研修受けてくださいよ」

松岡「ならさ、お前は今さら新人研修なんて意味あるとでも思ってるのか?」

春希「え?」

松岡「だって、編集部での実際の仕事と、マニュアル通りの新人研修の教則なんて

   まるで違うだろ」

春希「それは、・・・・・俺は新人研修受けてないですから、わかりませんよ」

松岡「だったら、普通の仕事に慣れてきた入社二年目のペーペーが

   麻理さんのもとで麻理さん並みに仕事していけると思うか?」

春希「それは、無理ですよ。だれだって、不可能です」

松岡「だろ。仕事をただ覚えただけの新人なんて、使い物にならないんだよ」

鈴木「なんとなぁくまっちゃんの言いたい事は理解できるけど、

   少し例え話がずれてる気もするなぁ」




松岡「え? 駄目?」



なんてことも今ではいい思い出か。

ほんとあの時麻理さんに言われて読んでおいて良かった。

必要な時に読むだけでいいはずで、必要なときなんてきやしないのが実情だが、

今、その滅多にない必要な時が訪れようとしていた。

俺は、音もなく立ち上がると、その本を取り出し、目的のページを探りだす。

佐和子さんは、興味深く俺を観察するだけで、俺が導き出す答えをじっと待っていた。



春希「これ見てください」



俺が広げたページには、インターン・入社前研修についての項目が書かれていた。



佐和子「これがどうしたの?」

春希「この項目の制度を使おうと思います」



佐和子さんは、俺が指差す項目を読み終わると、顔を上げて不敵にほくそ笑んだ。



佐和子「これだったら麻理も文句は言わないわね」

春希「ええ、きっと問題ないでしょうね」

佐和子「でも、よく思い付いたわね。ふつうこんな制度なんて知らないし、

    使おうとする人なんていないんじゃないかしら?」

春希「うちだと珍しいと思いますけど、企業によっては、

   最初から予定しているところもあるみたいですよ」

佐和子「へぇ~、時代も国際化に対応していってるのねぇ」



佐和子さんはもう一度本の項目を眺めると、感心したのかしみじみ呟くのであった。



春希「明日バイトに行ったときに、上司の浜田さんに相談してみます。

   前例がないと難しいかもしれないですけど、これだったら来年入社しても

   NYで勤務できるようになるかもしれませんからね。

   来年の勤務地ばっかりは麻理さんに頑張って引き抜いてもらわないといけませんが

   うまく流れは作っておけるはずです」



希望が見えてはしゃぐ俺をよそに、佐和子さんは冷静に俺を観察していた。

けっして冷たい目で見つめていたわけではない。

むしろ俺にすがっている感じさえ受け取れてしまった。

だから、佐和子さんが探るように俺に問いかけてのも頷けてしまう。





佐和子「ねえ、北原君。来年も、麻理の側にいてくれるの?」

春希「ええ、麻理さんが大丈夫になるまで側にいるつもりです」

佐和子「それって、いつ終わるかわからないのよ。

    もしかしたら、治らないかもしれない。

    ううん、麻理がもっと北原君に依存しちゃって、

    あなたを離さなくなる可能性だってあるのよ。

    それでも、・・・・・それを覚悟しているのかしら」



佐和子さんの疑問も当然だ。一時の感情で動きで、

それで将来を決めてしまう危うさが俺の発言には秘められていた。

だからこそ、佐和子さんはそれを危惧してしまう。

仮に、一時の感情でNYへ行って、そして、

俺が途中で麻理さんを投げ出しなどしてしまったのならば、

今以上に酷い症状になることくらい誰の目でも明らかである。



春希「俺は、逃げ出したりしませんよ。最後まで麻理さんの側にいるつもりです」

佐和子「でも、冬馬さんは、どうするつもり・・・なの?」

春希「それは・・・・・・」



かずさを待つ。かずさがいつきてもいいように準備しておく気持ちは今も変わりない。

しかし・・・・・・、



春希「かずさのことは、大事です。だけど、それ同じように麻理さんの事も大事なんです。

   どちらか片方だけしか幸せにできないとしても、最後まで諦めるつもりはありません」

佐和子「それって、浮気者の言い訳じゃない」

佐和子さんは、心底呆れたように明るく呟く。

春希「いいんですよ。だれがどう思おうとかまいません。

   俺が決めた未来の為に、突き進むまでです」

佐和子「まっ、かっこいいセリフなんだろうけど、しっかりと麻理を自立させて

    くれるんなら文句を言わないわ。

    でもね、北原君・・・」

春希「はい」



佐和子さんは、キッと、俺を睨みつけると、言葉を選びながら慎重に告げてきた。




佐和子「麻理の将来を、壊すことだけは、やめてね。

    もし、麻理を投げ出すのならば、それは・・・、その時期は、早い方が

    立ち直るのが、早いはずよ。その時は、私が麻理の面倒を最後までみるから。

    だから、麻理を捨てるときは絶対に振りかえらないで。

    あなたが振り返ったりしたら、

    絶対麻理の中にあなたへの、未練が、こびり付いてしまうでしょうから」

春希「わかりました。約束します」

佐和子「ありがとね」

春希「でも、この約束は意味をなしませんよ」

佐和子「え?」



驚いたような顔を俺に見せるが、俺はその顔に笑顔で答えを返す。



春希「だって、俺ってしつこいんですよ。しかも、計画的で、押しつけがましくて、

   いくら相手が嫌がっても、粘りに粘って相手に踏み込んで行くんです」



俺の宣言に、佐和子さんの緊張は解けていく。



春希「だから、計画を練ってNYに乗り込んだ時には、

   後に引くことなんてありはしないんですよ」



佐和子さんの顔から緊張は消え去っていた。そして、新たに芽生えた表情は、

ちょっと困ったような、馬鹿な奴を微笑ましく見つめるような、

今の俺の感情に近いものを映し出していた。



佐和子「そうね。そのくらい強引なくらいがちょうどいいのかもね」

春希「8月からの方針は決まったとして、それまでの間はどうしましょうか?

   さすがに何度も日本とNYを往復することなんて、金銭的に不可能ですから。

   しかも、8月からの事を考えますと、出費も抑えたいですね」



佐和子「悪いわね。北原君にばかり負担かけさせてしまって」

春希「いいえ。自分がやりたいからやってるんですから、佐和子さんが気にすること

   ではないですよ。でも、チケットとか、裏工作など助けてもらいますよ」



俺は、ちょっと意地汚い笑いを作り出すと、佐和子さんもそれにのっかって、

悪役さながらの笑みを浮かべる。

それは、今後の方向性が見つかり、少し気持ちが軽くなったせいでもあるのだろう。

一度動きだしてしまえば、止まることはできない。




計画的で、根回しを得意とし、安全重視の防弾列車。

動きだしは悪いが、目的地に着くまでの早さと確実性だけは、他を圧倒している自信がある。



佐和子「そのくらい任しといてね」

春希「ええ、頼りにしています。そうですねぇ・・・・・・・・、

   まずは、ここのマンション引き払います」

佐和子「え? だって、いいの? 実家に?

    お母さんとは・・・どうするつもり? 

    え? それとも、もっと安いアパートに?」



佐和子さんが慌てふためくのも無理はない。

なにせ大学に入って、しばらくして実家を出てからは、

母親とは顔を会わせる事すらしていないもんな。

けっして互いの事を嫌っているのわけではない。

互いに興味がないだけの関係。

その事を知っている佐和子さんならば、俺がこのマンションで暮らす意味を

理解できている。

俺は、落ち着いた口調で、佐和子さんに事情を語り始めた。



春希「実家に帰ります。別に母も問題なく了承してくれるはずです。

   それに8月までの短い期間ですしね。

   だから、5月からと言わないで、今すぐにでも実家に戻る予定です。

   もちろん光熱費などの生活費は渡しますけど、それでも契約期間ギリギリまで

   ここにとどまっているよりは節約できるでしょうから」

佐和子「北原君は、それでいいの? 

    そのくらいのお金だったら私が出してもいいのよ」

春希「大丈夫ですよ。佐和子さんだって、これからNYに行くことも増えるでしょうし、

   なるべく出費を抑えたほうがいいですよ」

佐和子「そうかもしれないけど、私ができることなんて、たかがしれているのよ」

春希「それでもです。それに、高校時代の生活に、ちょっとだけ戻るだけです。

   たった4か月の共同生活・・・・・、というよりも、間借りですかね。

   そんな感じなので、全く問題ないんです」

佐和子「北原君が大丈夫って言うんなら、それでいいけど」



それでも佐和子さんは、まだ言い足りない雰囲気を漂わす。

しかし、俺はこの話題に終止符を打つべく、新たな話題を投下した。



春希「俺の方は、明日から動くとして、麻理さんの方はどうなんです?

   8月に俺がNYへ行くまでの間、どうにかもたせないと意味がないですよ」



佐和子「そうだったわね。その辺のところは、北原君が8月からNYへ来るってことが

    励みになるし、・・・・・あとそれに、どうにかなるかもしれないような

    できないかもしれなくもない・・・・・・・・

    えぇっと・・・、できるかもしれない・・・かな?」



どうも妙な言い回しに俺は首を傾げるしかなかった。

佐和子さんも、視線を泳がし、はっきりと言えないようでもある。



春希「この際隠し事はなしにしましょう。緊急事態なんですよ」

佐和子「そうなんだけど・・・さ。こればっかりは・・・・・・ねぇ」

春希「なにか麻理さんに口止めでもされているんですか?」



俺の問いかけに、肩を震わせ、動きを止める。

ゆっくりと俺に視線を向け、俺の鋭い視線を確認するや否や、

佐和子さんの挙動不審な行動はピークに達する。



春希「佐和子さん」

佐和子「もう・・・麻理も一応女の子って年でもないけど、女なのよ。

    秘密の一つや二つくらいあってもいいじゃない」

春希「そうはいっても、時と場合によります。今は一刻を争う事態なんですよ」

佐和子「そう・・・なんだけど・・・ねぇ」



どうものらりくらりとうやむやにしたい佐和子さんは、要領を得ない。

だから俺は、佐和子さんに一歩詰め寄り、無言のプレッシャーを与え続けるしかなかった。



佐和子「もう、わかったわよ。そんな怖い顔でみないでよ」

春希「俺は何もしていませんよ。怖いと思ったのは、佐和子さんに後ろめたいことが

   あるからじゃないですかね?」



佐和子さんは、小さくため息をつき、NYの方へ一度謝罪すると、俺と向き合った。



佐和子「あとで麻理には北原君が強引に聞き出したっていうからね」

春希「かまいませんよ。いくらでも俺のせいにしてください」

佐和子「なんか開き直り過ぎじゃない? もう怖いもの知らずって感じ」



佐和子さんは、ちょっと俺の行動に引き気味にもなり、俺から一歩体を引く。



春希「怖いものなんてありませんよ。麻理さんの今後が一番怖いですからね。

   それ以上のことなんて、ありえません」




佐和子「そうね、ごめんなさい」

春希「いいんですよ。・・・・・・・・で、話してくれますね?」

佐和子「もう、降参。でも、これをきいて麻理の事引かないでよ」

春希「たいていの事なら受け入れますよ」



佐和子さんは語りだす。

NYでの出来事を、もう一度追体験するように、じっくりと。

それは、俺が思いもしないような光景であった。

嬉しくもあり、そして、なによりも、

俺の想像よりもひどくつらい現実に叩き落とされた瞬間でもあった。









第18話 終劇

第19話に続く














第18話 あとがき






ちょこちょこと『cc編』にしかけた伏線が出てきていますが、

気がついてくれたでしょうか?

春希がサンドウィッチに仕掛けたマスタードに、麻理が気がつかないあたりは

『~coda』の為に作られた設定ですね。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。





黒猫 with かずさ派





今週も読んでいただき、ありがとうございます。

今週の内容は、ちょっと地味でしたかね。

やはり連載となると、盛り上がる週もあれば、地味な週もあるわけで。

そのへんは生温かく見守ってくださると幸いです。



第19話






1-5 麻理 麻理宅 3月29日 火曜日








いつしか日は暮れ、西日が差しこみ始めていた。

いくら深刻な話をしていようと、体は正直で、欲求をストレートに渇望する。



佐和子「ねえ、麻理。夕食ってどうする?

    一応聞くけど、料理もするようになったの?」

麻理「あいにく料理だけは駄目だったわ。

   人には向き不向きがあるのよ」

佐和子「そんなの自信満々に言われても、かっこよくないわよ」



1か月前より若干小さくなった胸を張る麻理に、佐和子はカウンターを見事にくらわす。

しかし、麻理はそれにもめげずにくらいついてくる。



麻理「掃除も料理も全くしない佐和子には言われたくないわね」

佐和子「はい、はい。自分がちょっと掃除するようになったくらいでえばらないの」

麻理「そんなことないわよ」

佐和子「は~い、わかりました。さて、食事はどうするのかな、

    掃除はしっかりするようになった麻理ちゃん」

麻理「な~んか、馬鹿にしてない?」

佐和子「あっ、わかるぅ?」



佐和子は努めていつものように演じてくれている。

演じるというよりは、これが佐和子と麻理の距離なのかもしれなかった。

なにがあっても揺るがない距離。

佐和子に面と向かって感謝なんてできやしないけど、

これが親友なんだなってしみじみ思ってしまった。



麻理「もう・・・。お弁当買いに行くわよ」

佐和子「お勧めはあるの?」

麻理「ついてくればわかるわよ」

佐和子「はい、はい」














佐和子「えっと、ほんき?」

麻理「なにか偏見もってない?」

佐和子「もってないし、悪くもないとは思ってるけどさぁ・・・」

麻理「だったら、いいじゃない。一度食べてみて、駄目だったら明日は違う店に

   連れていくわよ」

佐和子「まあ、いいかなぁ」



目の前の店には、でかでかとショップ名とともに、ベジタリアン食と表記されている。

日本よりも各自の食文化と宗教を尊重するアメリカならではともいえる。

ただ、麻理がどうしてこの店を使ってるのか、佐和子には疑問が残った。



佐和子「一応聞くけど、ベジタリアンになった?」

麻理「なるわけないでしょ。味もわからないんだから、お肉を食べようと

   野菜を食べようと、変わりはないわ」

佐和子「だったら、どうしてベジタリアン食?」

麻理「どうしてって、健康の為よ。さ、行きましょ」

佐和子「まあいいけどさぁ」



ちょっと不満そうな佐和子をよそに、麻理は店内に入るや否や、

すぐに注文に入る。

佐和子自身、NYでそれなりの食事も期待していたと思う。

だけど、本当に悪いけど、今の麻理にはその希望をかなえる事は無理だった。



佐和子「ちょっと麻理。さっさと注文しないでよ。

    私は初めてなんだし、お勧めとか教えてくれないとわからないわ」

麻理「ごめん、佐和子。お勧めも何も、味がわからないんだから、

   教えてあげることなんて無理よ。

   ・・・・・・私が注文したのは、あれ、だから。

   たぶんそれなりに栄養バランスを考えられたお弁当だと思うわ。

   ・・・・・・ごめん、佐和子。はい、これお財布。

   悪いけど、お金払って、お弁当も貰ってきてくれない?

   ここのお弁当は、私が奢るから。

   私は、外で待ってるわね」




そう佐和子に告げると、麻理は、店内から逃げるように出て行く。

口元を抑え、俯き加減で出て行く様は、事情をある程度知っている佐和子に

新たなる不安を与えるには十分すぎるる状況であった。



佐和子「はい、お財布」



二人分のお弁当が入った袋を片手に、佐和子は財布を差し出す。



麻理「急に店から飛び出しちゃって、ごめんなさい」

佐和子「気にしてないわ。でも、家に戻ったら、しっかり話してもらうわよ」

麻理「わかってるわ」

麻理は、財布を受け取ると、少し青白い顔で力なく答えるのであった。









家に着くころには、麻理の顔色も回復し、その足取りも軽くなっている。

麻理の体調が回復する一方で、佐和子の懸念は増すばかりであったが、

今の麻理に強引に全てを聞き出すことなんて、佐和子にはできはしなかった。



佐和子「本当に大丈夫? 少し休んだ方がいいんじゃない?」

麻理「大丈夫よ。いつもの事だから」

佐和子「そう? ならいいんだけど」

麻理「さてと、聞きたいんでしょ」

佐和子「まあ、ね」

麻理「だよね。・・・・・・外で食事できないのは、いったわよね」

佐和子「ええ」

麻理「食事を見るのも臭いを嗅ぐのも無理なのよ。

   仕事の時は集中しているから大丈夫なんだけどね。

   でも、オフのときは無理・・・かな」

佐和子「それって、そうとう・・・・」

麻理「重症よね。・・・野菜中心にしているのは、特に意味はないわ。

   ただ健康に良さそうな物を選んでいるだけ。

   できるだけ体が拒否反応を起こしにくい消化がいいものを選んでいるだけよ。

   だから、お肉が無理ってわけでもないわ」

佐和子「そっか。色々考えてはいるのね」


麻理「まあね。でも、あまり意味はないみたいだけど。

   さあて、そろそろ食事にしましょうか」




麻理の掛け声にあわせ、佐和子もお勧めのお弁当を若干の期待とかなりの不安と共に開く。

麻理は今まで味がわからなく、見た目でしか判断できていなかったが、

佐和子曰く、そこそこ美味しいらしい。

ダイエットに向いているし、毎日は無理でも、たまに食べる分には十分すぎる美味しさを

兼ね備えているらしかった。



佐和子「NYにまできて、精進料理みたいなの食べるとは思わなかったわ。

    もっとジャンクで、おにくぅって感じのをガツガツ食べると思ってから、

    これはこれで貴重な体験かもね」



佐和子は、一人お弁当の感想を述べ続ける。

麻理があまりにも無言でもくもくと食べるものだから、場を持たせようと佐和子も

必死であったのだが、それが今回のちょっとした失敗をおびき寄せた。



佐和子「私も日本に戻ったら、こういうお弁当探してみようかしら。

    日本も健康ブームが飽きずに続いているし、案外美味しいのもあるかも・・・・・。

    ねえ、麻理。顔色悪くない?」

麻理「ごめんなさい。・・・・・・ちょっと休ませて」



麻理は、弱々しい声で呟くと、ふらふらとソファーに倒れ込む。

小さく足を抱え込むように横になると、テーブルに置かれたリモコンをとろうと

必死に手をのばす。



佐和子「はい、このリモコンでいい?」

麻理「うん」



麻理は、リモコンを受け取ると、再生ボタンを押し、演奏が始まるのを確認すると

深くソファーに沈み込んでいった。



佐和子「大丈夫?」



返事はない。佐和子の声さえ聞いているのも疑わしかった。

けっして演奏の音量が大きいわけでもない。

そのギターの演奏は、静かで、ゆっくりと語りかけてくように音を紡いでいた。



佐和子「麻理?」



やはり麻理からの返事はなかった。



麻理は、世界を拒絶する。たった一つの光を除いて、大切な生きがいの仕事さえも

この時ばかりは外の世界に置き去りにしていく。

ここにあるのは、ギターの音のみ。

彼が奏でるギター演奏が、麻理の心を癒していく。

4分ほどのギターソロが終わり、リピート再生が始まった。

そして、同じ音色を規則正しく奏でていく。

何度となく聴き、すべての息遣いさえも覚えてしまった麻理にとっては、

全てが完璧に構成された世界であった。

三度目のリピート再生が始まるころ、麻理は、ゆっくりと体を戻し、

二人だけの世界から、通常の世界へと帰還する。



佐和子「麻理? 聞こえてる?」

麻理「ええ、もう大丈夫」



まだうつろな目をした麻理に、佐和子は心配そうにのぞきこむ。

いつの間にかに麻理の傍らに佐和子は寄り添ってはいたが、

麻理には佐和子が側にいた事さえ気が付きはしなかった。



佐和子「私は聴いた事はないけど、このギターって、北原君のよね?」

麻理「ええ、そうよ。北原に無理を言って送ってもらったCDのコピー。

   本当はヴァレンタインコンサートのDVDだけだったんだけど、

   私が無理を言って、ギターだけの音源も送ってもらったのよ」



佐和子「北原君なら、喜んでギター弾いてくれたんじゃないかな」



麻理「だったらいいわね」

佐和子「大丈夫よ。あの北原くんなんだから」

麻理「そうね・・・・・・。でね、精神安定剤飲まないって言ったでしょ。

   その答えがこれなの」

佐和子「えっと・・・、どういうこと?」



佐和子は不思議そうな眼で麻理を見つめていたが、答えに気がつくと

急激に顔をこわばらせていく。





麻理「北原のギターを聴いているとね、心が落ち着くの。

   ご飯を食べても、食べているときは大丈夫なのよ。

   でもね、御覧の通り、食べ終わると、急に気持ち悪くなっったり

   お腹が痛くなるのよね。

   でも・・・・・・・、大丈夫よ」

佐和子「大丈夫って、それってつまり」

麻理「北原のギターを聴いていれば、気持ち悪いのも忘れてしまうのよ。

   だから、精神安定剤はいらないの」



佐和子は、気がついてしまった。

だから、もはやこれ以上の言葉は絞り出せなかった。

だって、それは、精神安定剤以上に常習性が強くって、

一度取り入れたらやめることができない悲しい麻薬。

もはや北原春希に依存しなければ生きていけなくなってしまう。

もう後戻りなど、できやしなかったのだ。



麻理「電車もね、食事をしているわけじゃないのに、もし気持ち悪くなったら

   どうしようって思っちゃって、それが自分で自分の首を絞めることになるというのに、

   結果として気持ち悪くなることもあるのよ。

   だから、何度も途中の駅で降りた事もあるわ。

   だって、電車って密室で、急に降りたりできないじゃない」



もはや佐和子は、麻理の一人語りを聞くしかなかった。



麻理「でもね、北原のギターを聞いていると、今いる自分を忘れられるのよ。

   電車に乗っているのも忘れられるし、気持ち悪いのもなかった事になる。

   だから、電車に乗るときはいつも北原のギターを聴きながら乗ってるわ。

   もう駄目ね、私。北原がいないと生きていけないかもしれない」



麻理も、佐和子に聞かせるのではなく、自分に語っていたのかもしれなかった。

北原春希という精神安定剤は、世界中を探しても、たった二人にしか効果はない。

でも、きっともう一人の彼女には必要はないはず。

だって、彼女には彼がいるもの。

今は離れていても、必ず彼は彼女の側に寄り添い、支えていく。

もし彼女に何かあったとしても、彼が直接癒せばいい。

まやかしによる精神安定剤など、必要すらないだろう。

強い依存は、さらなる依存を引く寄せる。

それは最初に依存してしまった者の意図とは異なっていたと思える。




こんな悲劇を引き寄せるだなんて、彼も思いもしなかったはずだろう。

日本にいる誰もが、NYにいる彼女が世界を拒絶していたなんて気がつかないでいた。
















1-6 佐和子 麻理宅 3月29日 火曜日







麻理「殺風景だけど、この部屋使ってね」



佐和子がこの家に訪れ、荷物を置きに来た時も感じたことだが、

誰かを迎え入れる為に用意したとしか思えない部屋だった。

ベッドしかなく、物悲しい雰囲気を漂わせているものの、床を見れば綺麗に磨かれている。

ベッドの白いシーツは、新品を用意してくれていた。

他の部屋も見せてもらったが、物が置かれていない部屋はこの一室のみであった。

そもそも友人を泊めるにせよ、日本ではこんな部屋は用意していない。

あるのは予備の布団くらい。

普段使っていない部屋があっても、そこには荷物が山積みだったし

いくら部屋を掃除する習慣ができたとしても、荷物を置かない部屋などありはしない。

つまり・・・・・・。



佐和子「ねえ、この部屋について、まだ説明してもらってないんだけど。

    ・・・でも、言いたくないんなら、また別の機会でもいいわよ」



もはや麻理は隠し事をする気もなかった。

同様に、佐和子においても、強く説明を強要しようとなど考えてもいない。

順を追って、必要な時に必要な情報を開示する。

佐和子にとって、今一番恐れている事は、強引に麻理の心をこじ開け、

その結果麻理が二度と心を開かなくなる事であった。

だから、麻理のペースでやっていくしか道はなかった。



麻理「この部屋は、北原がゴールデンウィークに来るって言ってたから」

佐和子「そう・・・・・・」



麻理「うん」



佐和子だって、わかっている。

たった数日泊まるだけの為に部屋を一部屋多く用意するなどありえないと。

年に数回遊びにくるとしても、それはいきすぎた準備である。

たとえこの部屋で生活する事を前提にしてたとしても・・・・・・。



佐和子「そっか・・・。ねえ、麻理」



麻理の体が硬直する。これから佐和子が追及するかもしれないという恐怖心が

麻理の体と心を堅く身構えさせてしまう。

その目に宿った脅えの色に、佐和子はどうしようもないやるせなさを感じてしまう。

ここまで親友を変えてしまった彼を、恋愛面では評価できる面もあるが、

総合評価としては、どうしても偏った評価をせざるを得なかった。

たとえ麻理の休眠中の恋愛体質を引き出したにせよ、たとえ実らない恋であったにせよ、

もっとプラスの方向に引き寄せてあげられなかったのかと。



佐和子「今日一緒に寝てもいいかな。

    ほら、NYって思ってたよりも寒いじゃない。

    それに、まだもうちょっと麻理と話していたいかなぁって思ってね」

麻理「ええ、枕だけ持ってきて」



麻理はぎこちない口調で答えると、頼りない足取りで寝室へと佐和子をおいて

進んで行く。

その後ろ姿に、佐和子は一抹の寂しさを感じざるを得なかった。







佐和子「起きてる?」



隣に寝ている麻理からは、寝息は聞こえてこない。

暗い室内に薄っすら浮かぶ親友の横顔を見つめ、何度目かの決心をようやく言葉にできた。

佐和子の呼びかけに、麻理は瞬きを数度繰り返してから、天井をまっすぐ見つめた。



麻理「起きてるわ」



佐和子は、麻理の方にと体を沈ませ、体の向きを変える。

わずかに揺れるベッドのマットに、麻理は身じろぎひとつ起こさない。




でも、佐和子の言葉に、麻理の心は大きく揺れ動くのだろう。

けっして心穏やかにいられるはずもないが、麻理の親友として、

佐和子は言わなければならなかった。



佐和子「ねえ、麻理」

麻理「起きてるって」

佐和子「そのままでいいから、聞いてくれるかしら」

麻理「・・・・・・・・・・」



麻理の体が堅くなるのを、羽根布団から伝わってくる動きから敏感に察知する。

しかし、麻理は、佐和子に背を向けてしまう。

佐和子は、麻理の心の準備ができるまで静かに待った。

数分後、麻理が佐和子に向き合うと、佐和子はゆっくりと、努めて優しい口調で

厳しい現実を麻理に突き付ける。



佐和子「北原君はさ、きっとNYまで麻理を助けに来てしまうわね。

    あの子の事だから、麻理が一人で歩いていけるまで側にいてくれるわ」

麻理「北原にだって、大学があるし、来年は就職よ。

   そんなのは、・・・・・・無理・・・に決まってる」



麻理は、布団から半分だけしか顔を出していなかった。しかも、声も小さい。

だから、布団の中から発せられる麻理の声は、くぐもってよく聞こえるはずもない。

しかし、これだけの悪条件が重なっても、佐和子には、はっきりと麻理の声が聞こえていた。



佐和子「本当に、そう思ってる?」

麻理「・・・・・・」

佐和子「ねえ、麻理? 麻理は、絶対北原君なら来てくれるって確信してるんじゃない?」

麻理「来てくれるかもしれないけど、ずっとそばにいてくれるはずなんてない。

   大学も仕事もあるんだから」

佐和子「ほんとうに?」

麻理「しつこいわね」

佐和子「だったら、私の方が北原君の事、よく知ってるって事になるわね。

    最近仕事終わりに食事する事も増えてきてるからかしら」

麻理「ちょっと! たしかに北原の近況を知りたいから、佐和子に様子見てくれって

   たのんだわよ。でも、佐和子。あんた、北原にちょっかい出してないでしょうね」



隠れていたと思ったに、突然勢いよく布団から出てくるんだから。

北原君の事となると、ブレーキが壊れちゃうのよね。





佐和子「ちょっかいなんて出していないわ。

    彼ったら、目の前に麗しい美女がいるっていうに、話すことといえば

    あなたのことばかりよ」

麻理「そう? なんて言ってたのかな?」

布団からせり出した体を布団の中に戻した麻理は、恐る恐る彼の情報を集めようとしていた。

佐和子「あんたねぇ・・・・・・。自分で言っちゃってなんだけど、

    少しは突っ込み入れなさいよ。言ってるこっちの方が寒いでしょ」

麻理「え? 佐和子、何か言ったの?」

佐和子「はぁ・・・・・・・」



佐和子は、深く、深くため息をつくと、麻理と同じ目線になるべく布団にもぐる。

ただ、麻理と違って、口元を布団で覆ってはいなかった。



佐和子「何も言ってないわよ。あんたがNYへ行っても、ろくに連絡もしてこないから

    心配してたわよ」

麻理「そうなんだ。心配してくれてたんだ」

佐和子「たまに私が電話しても、仕事で忙しいってことしか言ってこないでしょ、あんた」

麻理「それは事実だから、しょうがないじゃない」

佐和子「それはそうだけど、新しい住居がどうとか、食事がどうと・・・・・ごめん」

麻理「かまわないわ」

佐和子「うん。・・・・・・ねえ、麻理」

麻理「うん」

佐和子「本音では、来てくれるって思ってるんでしょ」

麻理「うん」

佐和子「きっとかなり無理目な難題だって乗り越えて、NYまできてしまうわよ、彼」

麻理「うん」

佐和子「責任感が強いってこともあるけど、それだけじゃないんでしょうね」

麻理「うん」

佐和子「愛情に近い感情かしら?」

麻理「・・・・・・うん」

佐和子「もうっ、のろけちゃって」



佐和子は、麻理に襲い掛かり、脇をつついたりくすぐったりして、

麻理の心を解きほぐす。

麻理も佐和子の攻撃に若干の抵抗はするものの、されるがまま身を任せていた。



佐和子「でもね、麻理」





麻理の頭を、胸で包み込んで優しく抱きしめている佐和子には、

麻理の体が堅くなっていくのが感じ取れた。



佐和子「北原君は、あなたの状態がよくなって、一人で歩いて行けるのを確認したら

    冬馬さんの所へ行ってしまうわ」

麻理「うん」

佐和子「あなたの事だから、笑顔で送り出してあげるんでしょ」

麻理「うん」

佐和子「うん」



佐和子の腰に麻理の手が回され、佐和子の体は強く引き寄せられる。

佐和子もその力に合わせて、麻理の痩せすぎた体を壊れないように抱きしめる。



佐和子「私は、ずっと麻理の側にいるからね。

    あんたがおばさんになって、おばあちゃんになっても、いつも側にいるから」

麻理「うん」

佐和子「うん」

麻理「でも、私がおばちゃんになったら、あなたもおばあちゃんよ」

佐和子「今、それ確認する必要ある?」



佐和子があきれ顔で呟くと、そっと麻理は微笑んだ。

儚くも美しい幼女のような頬笑みに、佐和子の心がざわついた。

今まで見たこともない表情に、驚きを隠せない。

それは、窓から差し込んだ月明かりの幻想だったのかもしれない。

もう一度佐和子が確認しようと、その顔をみつめようとするも、

麻理は佐和子の胸に顔をうずめていた。



佐和子「ほんと、北原君って不思議よね。

    麻理との付き合いは長いって自負していたのに、

    まだまだ知らない麻理がいたんだから」

麻理「え? 何て言ったの?」

佐和子「な~んにも」

麻理「なにか言ったわ」

佐和子「ん? 知りたい?」

麻理「別にいいわよ」



このちょっと拗ねた顔なら、何度も見たことがある。




普段はしっかりしているくせに、ちょっといじめるとふてくされるんだから。

それがかわいいってこともあって、いじめちゃうのよね。

だから、この顔を失わせない為にも、北原君、頼んだわよ。



佐和子「麻理って、かわいいなぁってことを言ったのよ」

麻理「ふぅ~ん。北原の事言ってたじゃない」

佐和子「こら、麻理。聞こえてたんなら、聞きなおすな」

麻理「全てが聞こえてたわけじゃ、ありませ~ん」



夜がにぎやかに過ぎてゆく。

この日初めて、この部屋から明るい声が漏れ響いた。

それは、小さすぎて、耳をすまさなければ聞こえないのかもしれない。

それは、小さく、儚く、そして大事そうに呟いた声色で、

そっと耳に記憶していかなければ聴きとることなんてできやしないのかもしれない。

聞く者によっては、彼女らの声は、儚すぎるほどの悲痛なしゃぎ声だったのかもしれない。

けれど、虚勢を張った小さな泣き声が聞こえない夜は初めてであった。








第19話 終劇

第20話に続く












第19話 あとがき




かずさファンの方々、申し訳ありません。

なかなか話が進まず、かずさが登場していません。

もうしばらくお待ちくださいとしか言えません・・・・・・。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。



黒猫 with かずさ派




毎週の楽しみにしてくださり、ありがとうございます。

今のところ2ルート書く予定はないのですが、話の構成としては3ルート考えたうちの一つではあります。

どのくらいの話の規模になるかわかりませんが、

時間がありましたら別ルートを考えてみるのも面白いかもしれませんね。

あせらず書いていこうとは思いますが、間延びしないように気をつけます。




第20話







2-1 かずさ ウィーン 冬馬宅 3月14日 月曜日







ゆっくりとゆっくりとだがウィーンでも冬の終わり迎えようとしていた。

さすがに朝晩は冷え込み、冬の終わりなどまだ先だとコートの襟元をきつく締めるが、

昼間になれば、心地よい日差しが眠気を誘うようになってきている。

但し、一日中エアコンが効いた室内でピアノに向かっているかずさにとっては

もはや季節の移り変わりなど、とるにたらない情報にすぎないが・・・・・・。

それでも時間があれば毎日のようにやってくる母曜子の服装を見れば季節の移り変わりや、

その日のイベントなどがわかりもしたが、

それさえもかずさにとっては意味をなさない情報であった。

といっても、母が来ているときのピアノの音色は、

一人でいるときよりも陽気で小生意気な音色が混ざり合ってるのだが、

その事を知っているのは曜子ただ一人であり、

曜子もそれをかずさに伝えようとはしなかった。

なにせ曜子と同じようにちょっと捻くれている娘でもあるわけで、

仮に伝えたとしても決して認めないだろうし、かえって意固地にもなってしまうだろう。

だったら、曜子の心の中にとどめて、曜子一人がその小さな秘密を楽しんだ方が

建設的であり、そしてなによりも愉快でもあるともいえた。

そして、この日も曜子はかずさに季節のイベントを届けようとしていた。



かずさ「いつまでもそこに立っていられると迷惑なんだけど」

曜子「そう? いつも私がいても、いないのと同じような扱いじゃない?」

かずさ「ピアノに集中しているだけだ。

    それでも、ずっとそんなところにつったっていられると目障りだ」



実際、曜子が立っていようが座っていようが、かずさが気にする事はない。

ただ、曜子の様子がいつもと違うから気になってしまう。

曜子が部屋に入ってきてからすでに一時間は過ぎたというのに、

いつまでもかずさから曜子の姿が全て見える入り口でずっと立っている。。

普段なら、黙ってそのままソファーに腰をかけている。

ときたま二言三言その日見つけたスウィーツの話題を振ってくるくらいで、

黙って入口の側で立っているなんて異常だ。


だから、かずさのピアノの音色には、陽気さも小生意気さも混ざらず、むしろ

疑惑や困惑がにじみ出てしまっていた。

そんな微妙な変化も、曜子にとっては格好の獲物であり、にやにやと娘を見つめるだけで、

その状況を楽しんでいるわけでもあるのだが・・・・・・。



曜子「そうかしら? 別に私がどこで演奏を聴こうが勝手じゃない。

   それともコンサートやコンクールに、自分が気に食わない客がいたら

   演奏がおろそかになってしまうのかしら?」

かずさ「そんなわけあるか。

    あたしはいつだって同じ気持ちでピアノに向き合っている。

    だから、どんな状況であろうと、たとえあんたがコンクール前日に

    くたばったとしても、いつもと同じように演奏できるさ」

曜子「そっか」



曜子は、舐めまわすようにかずさを上から下まで視線を這わすと、すっと目を細める。

そして、おもむろにずっとかずさに見えるように持っていた白い紙袋を肩に這わせ

ソファーに向かっていく。

一歩、一歩、ゆっくりと進む様は、さらにかずさの心を逆なでする。

曜子の指先にかかった紙袋は、曜子が一歩足を進めるごとに揺れ動いて、

それされもなぜだか無性に腹が立ってしまった。



かずさ「座るんなら、とっとと座れってくれ。

    そんなわざとらしく歩かれると、気になってしょうがない」

曜子「そう? 別に私のことなんて気にしないんじゃなかったかしら?

   たとえ私が死んでも、いつも通り演奏するらしいんだから

   たとえ私がわざとらしく歩いたとしても、いつも通り演奏すればいいじゃない」



しかも、今度は挑発的な笑みを従えて、挑発する言葉を投げかけてくるんだから

もはやピアノに集中などできやしない。

それでもかずさは意地でも演奏を止めないあたりは、似たもの親子であった。

たとえ本人達は認める事はないかもしれないが、彼女らを知っている者に聞けば

全員一致の解答を得られるはずだ。



かずさ「もう勝手にしてくれ。あたしは練習があるから、邪魔だけはするなよ」

そう宣言すると、曜子の返事も聞かずに演奏に没頭しようとした。

曜子「ふぅ~ん・・・・・・」



曜子は、わざとらしくつまらなそうにつぶやくと、ごそごそと白い紙袋から

金色のラッピングがされている箱らしきものを取り出す。




そして、するすると金色のリボンをほどいていく。

すると、ほどなくして中から金色の箱が登場する。

いくら曜子の行動を視界の外に追い出そうとしても、わざとらしく行動するものだから

かずさはその様子が気になってしょうがなかった。

曜子も、かずさが時折視線を向けるのを確認しながらラッピングを剥いでいったが、

かずさがまんまと曜子の作戦に乗ってきてくれるものだから、

曜子は笑みをかみ殺す方に必死であった。

そして、曜子は、箱におさまっている小さな物体を一つつまみあげると、

かずさに見せびらかすように聞く。



曜子「ねえ、かずさぁ。あなたも食べるぅ?

   たぶん、すっごく美味しいわよ」

かずさ「いらない。あたしは練習に忙しいんだ」

曜子「そう? じゃあ、食べてもいいのね?」

かずさ「勝手にどうぞ」

曜子「ふぅ~ん・・・。あとで泣いても知らないわよ?」

かずさ「しつこいぞ。食べたいんなら、勝手に食べればいいだろ」

かずさは、そう切り捨てると、曜子に向けていた視線も全て打ち切ろうとした。

曜子「はぁ~い。勝手に食べますよぉ~だっ」



曜子は綺麗に小さな物体の包み紙を剥いでいくと、中の茶色い物体に軽くキスをする。



曜子「いただきま~す」

かずさ「はい、はい。どうぞ」



もはやかずさは曜子を見ていなかった。

見ていないどころか、目を閉じていたのだから何も見えないのだが。



曜子「うぅ~んっ。美味しいわね。さすがベルギー王室御用達のチョコレートね」

かずさ「ふぅ~ん」

曜子「2個目も食べちゃうわよ?」

かずさ「だから、勝手にどうぞ」

曜子「はぁ~い。・・・・・・・でも、春希君も律儀にもホワイトデーに間に合うように

   お返しを送ってくるんだから、まめよねぇ」



ピアノの音が途切れる。

それもそのはず。なにせグランドピアノの椅子には演奏者がいないのだから。




つい数秒前まではいたはずなのに、曜子の言葉が終わるや否や、

椅子を押し倒して曜子が座るソファーへと駆け出していた。



かずさ「ちょっと待てっ! ねえ、ストップ!」



曜子はかずさが駆け寄ってくるのを確認すると、

今度もわざとらしくチョコレートを口に放り込む。

かずさは、それと止めようと必死に手を伸ばしたが、曜子のほうも、

かずさの動きを読んで行動しているわけだから、かずさの手が惜しくも届かないあたりで
わざとらしくチョコレートを口の中へと入れていた。



かずさ「あぁあ~~! なんで食べるんだよ。ねぇ、ねぇったら」

曜子「うん、美味しいっ」



かずさは、半泣きでその場に崩れ落ちそうになるが、曜子の手にはまだチョコレートが

詰まった箱が握られているのを確認すると、もう一度曜子に襲いかかろうとする。



曜子「はい、ストップ。そんな手荒い方法で掴み取ろうとしたら、

   せっかくのプレゼントがぐちゃぐちゃになってしまうわよ」



この一言は、十分すぎるほどかずさには効果があった。

再び曜子にあと数センチというところまで迫ったというのに、

かずさは再び手を伸ばすのをやめるしかない。



かずさ「うぅ~・・・・・・・」

曜子「にらんだって無駄よ。だから、食べたいかって聞いたじゃない」

かずさ「春希からだなんて聞いてないっ!」

曜子「私は、食べたいかって聞いたじゃない?」

かずさ「春希からだなんて聞いてない」

曜子「だって、今日はホワイトデーよ。そのぐらい察しなさいよ」

かずさ「えっ? 今日、ホワイトデーだったの?」



かずさは、間の抜けた顔をして、曜子に今日の日付を尋ねてしまう。

なにせかずさは、本当に今日が何日かわかっていなかった。

もしかすると、何月かさえわかっていなかったかもしれない。



曜子「少しは外の事も知っておきなさい。

   ほんっと、あなたはレッスンに行く時くらいしか外に出てこないんだから」

かずさ「それだけピアノに集中してるってことだろ」




曜子「練習も大事だけど、外から受ける刺激もピアノを上達させるには大切な事よ」

かずさ「それなら問題ない」

曜子「なによそれ。あなたの生活を見て、どうやったらそう判断できるのよ」

かずさ「たった二ヶ月ほどだったけど、日本での生活は何年分にも匹敵するはずだよ。

    ううん、それ以上に大切な日々だったんだ。

    だから、これから2年部屋に閉じこもって生活したとしても全く問題ない」

曜子「へぇ、言うようになったじゃない。

   でも、何年分にも匹敵するって言っておきながら、

   二年しか引きこもっていられないのね」

かずさ「そ、それは・・・・・・」



かずさは、曜子の視線から逃げるように顔をそらし、恥ずかしそうに呟く。

曜子も、最近ではかずさの扱いに慣れてきたのか、かずさから言葉を引き出す為に

余計な横槍を入れるような事はしなかった。

但し、かずさは恥ずかしさのあまり気が付いていなかったが、

かずさを見つめる曜子の視線は、いやらしいほどにニヤついていた。



かずさ「2年以上も春希にあえないでいるのは、あたしが耐えられないだろ。

    だから、さっさとコンクールで満足がいく結果を残して、

    胸を張って春希に会いに行くんだ」

曜子「へぇ・・・ふぅ~ん」



意外にもあっさり曜子が欲しい言葉を手に入れることができたので、

曜子はもはや手加減などしない。

横槍も入れるし、挑発もする。なにせ面白におもちゃが目の前に転がっているのに

遊ばないだなんてもったいなすぎる。



かずさ「な・・・なんだよ」

曜子「べっつにぃ。私は、相槌を打っただけよ」

かずさ「なんか含みがある言い方だったぞ。言いたい事があるんなら言えばいいじゃないか」

曜子「言ってもいいの?」

かずさ「いや、言わなくていい」

曜子「そう?」

かずさ「そうだ・・・って、チョコレートッ!

    春希のチョコレート、勝手に食べやがって!」





話が逸れていたが、再び春希のチョコレートを思いだしたかずさは、

再び曜子に襲いかかろうと低く身構えたが、

春希のチョコレートを傷つけてはいけまいと動けないでいた。



かずさ「春希のチョコレートを盾にするだなんて卑怯だぞ。春希のチョコレート返せ」

曜子「返せって、心外ね。このチョコレートは、私のよ」

かずさ「何を言ってるんだ。春希からのヴァレンタインのお返しだって言ったじゃないか」

曜子「そうよ」



曜子がすまし顔でこたえるものだから、かずさの怒りはますます増すばかり。

あと数十秒このままの状態であったら、多少春希のチョコレートに傷がつこうが

襲い掛かって奪い取っていたかもしれなかった。



かずさ「だったら、あたしのチョコレートじゃないか」

曜子「な~に言っちゃってるの。

   こ・れ・は・・・、

   私が春希君にあげた義理の母親からの義理チョコに対するお返しよ」

かずさ「は?」



かずさは、意外な解答に怒りが霧散してしまう。

曜子が何をいっているのか理解できなかった。

自分宛へのチョコレートではないことは、どうにか理解できたのだが、

それ以外は頭で理解しようとしても、ぽろぽろと頭から抜け落ちてしまっている。



曜子「そういう顔していると、ただでさえお頭が弱いのに、余計馬鹿っぽくみえちゃうわよ」

かずさ「え?」



もう曜子の言葉を理解することもできなかった。

かずさは、首をかしげて、ぼけっと曜子が持つチョコレートの箱を見つめていた。



あたしへのチョコじゃないんだ。

えっと・・・、母さんへの、お返し?

義理の義理チョコ? 

は?

ああ、義理の母親があげた義理チョコか。

なんだ、そうか。

じゃあ、その義理の母親の娘へのチョコレートは、どうなったんだ?

あたしも春希にヴァレンタインのチョコあげたのに・・・・・・。





なんで、母さんにだけはお返しがきて、あたしにはきてないんだ?

義理?

義理チョコだから、お返しがきたのか?

あたしのは、本命チョコだから、お返しくれないってこと?

それって、あたしのことが邪魔ってことなのかな?

だって、本命なんだぞ。

あたしは、春希が大好きなんだぞ。

それなのに、そんなあたしが渡した本命チョコはいらなかったってことなのか。

そうか、義理なら義理でお返しできるよな。

でも、本命だったら、好きでもない相手から貰っても、迷惑なだけ・・・・・・・



曜子「かずさ?」



曜子の呼びかかけにかずさは返事をすることはない。

もはや曜子の言葉など、かずさには届かないでいた。



曜子「かずさったら。ねえ、なんで泣いてるのよ」



かずさの急変に曜子は取り乱してしまう。

手に持っていたチョコレートの箱はソファーに置き、慌ててソファーの下に腰をおろして

かずさの様子を伺った。

かずさの顔を覗き込むと、頬にうっすらと細い透明な線が刻まれていた。

細い線だったのも数秒だけで、今はあふれ出た涙によって太く刻まれていく。



曜子「かずさったら」

かずさ「え?」



曜子に肩を揺さぶられることによってようやく今いる自分を取り戻す。

しかし、あふれ出る感情を押しとどめる事はかずさには無理で、

際限なく湧き出る悲しみに、嗚咽を漏らすしかできなかった。



曜子「どうしちゃったのよ。いきなり泣き出して」

かずさ「だって、・・・だって、春希はあたしへのお返しはくれないんだろ。

    それってつまり、あたしとは付き合えないってことじゃないか。

    ・・・・・・やっぱり大晦日の日の見栄なんか張らないで春希に

    会っておけばよかったんだ。

    そうだよ、ウィーンになんかに戻らないで、日本にいればよかったんだ」

曜子「ちょっと、ちょっと待ってよ、かずさ。ねえったら」





勝手に自己完結していくかずさに追いつけない曜子は、ただただ慌てることしかできない。

そうこうしているうちに、このままほっといたら、今にもかずさは家を飛び出して

本当に日本に行ってしまう勢いでもあった。



曜子「あるわよ。ちゃんとかずさの分のチョコレートもあるわよ」



かずさの目の前に突き出された紙袋の中身を恐る恐る覗きこむと

曜子のいう通りチョコレートの箱らしき包み紙と、もうひとつ細長い包み紙が入っていた。



かずさ「これ、春希からあたしに?」

曜子「そうよ、春希君からあなたによ。もうっ、ちょっとからかっただけなのに

   見事に大暴走しちゃって。ちょっとは日付感覚くらいは持ちなさいよ」

かずさ「しょうがないだろ、コンクールに向けて頑張ってるんだから」

曜子「それはわかってるけど・・・・・・」

かずさ「母さんがいけないんだぞ。

    毎日練習に励んでいるあたしをからかおうだなんてするから。

    それも春希を絡めてくるだなんて最低だな」

曜子「ちょっと待ってよ。こうやってあなたの為に春希君にヴァレンタインのチョコを

   渡してあげたから、今日ここにお返しが来たのよ」

かずさ「それはありがたいとは思ってるけど、やっていい冗談と悪い冗談がある。

    あたしに対して春希関連は全て冗談にはならない」

曜子「そうはっきり宣言されちゃうと困っちゃんだけど、

   たしかにそうだから困ったものね」

かずさ「だろう? だったら最初から素直にチョコレートを渡せばよかったんだ」



偉そうに説教をするかずさに、曜子は何か釈然としない。

さっきまでこの世の絶望に叩き落とされた顔をしていたと思ったのに

いまは鼻息荒くチョコレートを抱きかかえている姿を見れば、

だれだって釈然としないだろう。



曜子「もういいわ。私が悪かったわ。反省してる」

かずさ「わかればよろしい」



かずさの偉そうな態度に曜子は白旗をあげたが、

久しぶりに見たかずさの生き生きとした顔をみると、

ちょっとやりすぎたかなと本当に反省していた。






曜子「ねえ、チョコレートは同じみたいなんだけど、その細長い方のだけは

   私のには入ってなかったのよね。

   だ・か・ら、それちょうだい」

かずさ「あげるわけないだろ!」



曜子がにじり寄ってくる姿を見て、かずさは急いで逃げようとする。

その姿を見て、またしても曜子は子憎たらしい笑顔を見せる。

数秒前に「反省」したというのに、

どうやら曜子には「反省を生かす」という文字は存在していないらしい。



曜子「嘘よ、嘘。でも、中身は気になるから、教えてくれないかしら?」

かずさ「本当にあげないからな。見せるだけだぞ」



かずさは疑い深い目で曜子を観察するが、いたっていつも通りのひょうひょうと

している曜子の姿に、深くため息をつくしかなかった。



かずさ「・・・・・・わかったよ。見せるだけだからな」



そうかずさが宣言すると、曜子はいそいそとかずさの隣に陣取って、

かずさが包み紙をあけるのと好奇心一杯の目でその時を待った。



かずさ「犬?」



包み紙を丁寧にあけると、中には棒付きのキャンディーが一つ入っていた。

何か犬のキャラクターみたいで、行儀よくお座りをしている。

かずさは、角度を変えてキャンディーを眺めるが、

これといってなにか特別なことがあるようには見えなかった。

それでも、春希がくれたものだから、とても大切なものには違いはないが。



曜子「なるほどねぇ」

かずさ「なにがなるほどねぇだ。わかったんなら、さっさと教えてよ」

曜子「へぇ。それが教えを請う者の態度なの?」

かずさ「おしえてくださいおかあさま」



一刻も早くキャンディーの謎を知りたいかずさは、なにも感情がこもっていない棒読みの

セリフではあるが、曜子に教えを請う。




そんなかずさの態度も計算通りなのか、曜子は一つなにか満足すると

素直にかずさに教えてるのであった。



曜子「教えるのはいいんだけど、その前にホワイトデーの品物の意味って知ってる?」

かずさ「意味って、マシュマロとかキャンディーをヴァレンタインのお返しとして

    おくるだけだろ?

    ヴァレンタインと違って、お返しだから、本命とか義理なんかはないと思うけど」

曜子「それだけ?」

かずさ「それだけ?って、ホワイトデーなんて、ヴァレンタインのお返しの日なんだから

    他に何があるっていうんだ」

曜子「だから、お返しの品物自体に意味があるのよ」

かずさ「は?」



本当にかずさはわかっていないらしい。

間の抜けた顔をして、曜子を見つめていた。



曜子「まあ、俗説みたいなもので、あまり意識しない人も多いみたいだけど、

   ホワイトデーのお返しって、何を思い浮かべる?」

かずさ「あれだろ? キャンディーやマシュマロくらいだろ?」

曜子「そうね。あとクッキーも定番ね。それを考えるとチョコレートを贈った春希君は

   ちょっと異例だけど、チョコレートを贈るのも間違いってわけでもないのよね」

かずさ「何が言いたいんだよ」



なかなか話が進まない曜子に、かずさはいらだちを見せ始める。

そもそも曜子が素直にチョコレートを渡していればという根本にまで遡って

怒り出しそうな勢いも垣間見え始めていた。



曜子「だから、キャンディー、マシュマロ、クッキーには意味があるのよ」

かずさ「へえ・・・」

曜子「へえって、本当に知らなかったの?」

かずさ「だって、今回のヴァレンタインで初めてチョコレートを送ったんだから、

    知るわけないだろ」

曜子「そうだったの?」

かずさ「そうだったんだよ。送った事もないんだから、お返しも貰ったことがない。

   だから、貰いもしないお返しの意味なんて、興味を持つわけないだろ」

曜子「へえ・・・」

かずさ「へぇって、当たり前だろ。あたしは春希しか興味がなんだ」

曜子「なるほどぉ、そういう意味もあるわけだ」





曜子は、また勝手に自分一人理解するものだから、かずさのフラストレーションは

再び急上昇してしまう。

おそらく、そのすべての言動が曜子によって意図的になされ、

かずさをおちょくっているだけなのだろうが。



かずさ「もう、話さないなら母さんには聞かないからいい」

曜子「ちゃんと教えてあげるわよ」



かずさがいじけた顔をして顔をそらそうとするものだから、

曜子もそろそろ虐めるのはよしたようであった。



曜子「キャンディーはね、あなたのことが大好きですっていう意味よ」



曜子は、そのあともマシュマロやクッキーの意味も語っていたが

もはやかずさの耳には届いてはいなかった。

なにせ、遠い日本から愛のメッセージが届いたのだ。

今のかずさにこれ以上の重要事項があるだろうか。

曜子は、夢心地の愛娘を見て、今度は本気で虐めすぎたかなと

今日何度目かの反省をするのであった。








第20話 終劇

第21話に続く










第20話 あとがき



ようやくかずさ登場なのですが、思っていた以上に話が伸びてしまいました。

本編に直接関係がある話が出る前に終わってしまうとは・・・・・・。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。



黒猫 with かずさ派



今週も読んでくださり、ありがとうございます。

いつまでも暑いと思っていた夏も過ぎ去り、秋を迎えましたが、

もう少しすればホワイトアルバムの季節ですかね。

ただ、この物語は、いつ完結するのでしょうか?w


このスレも、もう5カ月になりますね。

マイナーな作品でありながらも、ご支援ありがとうございます。

作品の内容も折り返し地点の『coda』が始まっていますが、振りかえりますと著者自身の書き方がだいぶ変わってきているなと。

いや、書いた本人しかわからないような違いだとは思いますが。

いきなり長文の感謝文なんて、驚かれるかもしれませんが、とくに何か発表があるわけではありません。

もうひとつの方の作品で、連載開始から五カ月たったと気がついたので、それでちょっと自分頑張ったなってw

今後の展開ですが、結末までのプロットは作ってあります。

ただ、どのくらいの分量になるかは未定です。

当分物語は続きそうですが。

毎週読みに来てくださる皆様がいるから、ここまで続けられてきたと思います。

じっくりあせらず仕上げていこうと考えていますので、今後ともよろしくお願い致します。



黒猫 with かずさ派




第21話






2-2 曜子 ウィーン 冬馬邸 3月14日 月曜日






曜子「ちょっと、かずさ。お~い、・・・戻ってきなさいよ」

かずさ「あ、なに?」



春希からのキャンディーをもらえた事で顔が蕩けきっているかずさの肩を

おもいっきり揺さぶることでようやく意識を取り戻したが、

相変わらずにやけきっているかずさに、少しあきれてしまう。

だって、キャンディー一つでここまで喜んでしまう経験なんて今まで一度も

経験したこともないし、そこまで純情な気持ちなど、とうに消えてしまっているもの。



曜子「あくまで可能性を言っただけよ。

   ただなんとなく私へのお返しとの違いを出す為に、

   なんとなく目の前にあったキャンディーを買っただけかもしれないのよ」

かずさ「別にそれでもいいよ」

曜子「えっ? そうなの?」



意外すぎるかずさの解答に、素で驚いてしまう。

どこまで色ぼけているのよって、さらにからかってもいいけど、

それさえも色ぼけた答えを返されそうで、こっちのほうが参りそうね。

日本から戻ってきてから、なんだかこの子変わったかしら。

なんかこう、言葉では表現しにくいんだけど、純情で、まっすぐで、

でも奥手で・・・・・・。

ううん、それは前からそうだったわね。

むしろ、それに磨きがかかったわね。

なんで私からこんなにも可愛らしい子が生まれたのかしら?

もしかして、放任主義が功を奏したのかな? なんて・・・。

まっ、ピアノにプラスに働いているうちは大丈夫そうね。



かずさ「だって、ここにキャンディーがあるってことが重要なんだ。

    偶然でも、春希があたしにキャンディーをくれたっていう事実に

    意味があるんだよ」

曜子「あぁ、はい、はい。のろけ話ね」



私は、運命なんて信じやしない。

チャンスがあるんなら、自分の力で勝ち取らないと成功などしやしないって

経験上何度も味わってきたから。

黙って行動しないで、幸運が向こうからやってくるのをひたすら待つだなんてナンセンスよ。

それでもこの子の事を見ていると、運命をちょっとは信じてもいいかなって思えてくる。

それに、この子も自分の力で幸せを掴み取ろうとしてるしね。



かずさ「いいだろ、別に。

    こっちは会いたいのを2年も我慢しないといけないんだからな」

曜子「順調にいけば2年だけどね」

かずさ「だから本番のジェバンニ国際ピアノコンクールの前に

    NY国際コンクールにでるんだろ」

曜子「たしかに曲目も似通ってるし、

   ジェバンニの前哨戦として出場する人も多いわよね」

かずさ「だろ?」

曜子「だけど、NYはジェバンニの1年前の10月よ。

   ジェバンニに絞って調整していくのもありだとは思うわ」

かずさ「そうかもしれないけど、いまのあたしにはコンクールの経験が不足してるだろ」

曜子「そうねぇ。NY以外のコンクールだと曲目が全く違うから時間の余裕が

   なくなっちゃうけど、NYなら大丈夫か」

かずさ「だろ?」

曜子「それにNYって、スポンサーだけはいいのよねぇ」

かずさ「たしか1位になれば欧米のコンサートツアーやってもらえるんだっけ」

曜子「そうよ。むこうもジェバンニ前に優秀な演奏者を確保しておきたいっていう

   下心がみえみえなんだけど、コンサートツアーは魅力的なのよね」

かずさ「ま、そのツアーも貰っておくよ。そうすれば事務所の社長としても

    助かるだろ?」

曜子「それはそうだけど、まだまだあなたの稼ぎなんか期待していないわ」

かずさ「言ってろ。あと5年で逆転してやるから」



ほんと、今の調子でやられちゃうと、5年で私を追い抜きそうなのよね。

簡単には抜かされる気はないけど、伸びしろが違うっていうのは、年のせいなのよね。

成熟しきったといえば聞こえはいいけど、成長しにくくなってるっていうのは事実で、

ちょっとかずさが羨ましく思ってしまうわ。

って、年、年っていって、年齢のせいにするのはよくないわね。

チャンスと同じように、感性だって、ピアノの上達だって、

自分から動かないようでは、求めるものは得られないか。

そう考えると、かずさのこの頑張りようも、私にとってもプラス方面に動きそうね。




私は、密かにほくそ笑むと、ちょっと真面目な顔でかずさの話を進めた。



曜子「期待だけはしておくわ。でもツアーって、1位だけよ。

   2位以下はお情け程度で数回演奏させてもらえるけど、

   ゲスト出演程度で、まったく意味がないわ」

かずさ「わかってるって。そもそも1位しか狙ってない」

曜子「言うようになったわね。それだけの自信があるのは頼もしいけど、

   たしかにNYで1位になれない程度じゃ、ジェバンニで上位に食い込めないのも

   事実なのよね」

かずさ「ま、見てろって」

曜子「楽しみにしているわ」



いくぶん頼もしくなったかずさを微笑ましく見つめていたが、

それも数秒で霧散していく。

なにせ今目の前にいるかずさは、頬を赤く染めながら夢心地な表情をして、

北原春希について語っているときの表情そのものなのだから。



かずさ「それでさ、さっきの話なんだけど・・・・・・」



その言葉を聞いておもわず身構えてしまう。

たしかに春希君の話をかずさとするのは好きよ。

でも、それは春希君ネタでかずさをおちょくるとき限定。

これがかずさによる春希君ネタののろけ話になると、事態は一変しちゃうのよね。

まず、かずさは自分が満足するだけの会話量をこなさなければ私を離さない。

そして、その会話を途中で中断させようことなら、

あとあとが面倒すぎる事態になってしまう。

拗ねるし、話を聞いてくれなくなるし、機嫌を直すために、倍以上ののろけ話を

聞かなきゃいけないのよね。

本人はのろけ話などしているつもりはないみたいだけど、普段ピアノを通してのみしか

春希君と会話ができないのだから、その抑圧された欲求を一度解放してしまえば

その量が想像を絶する量となるのは当然なのかしら。



曜子「な・・・なにかしら?」

かずさ「だから・・・さ、お返しの意味だよ」

曜子「あぁ、あなたの心がどこかふわふわしちゃってたから聞いてなかったのね。

   キャンディーが大好きでしょ。そして、クッキーが友達として仲良くしましょう。

   で、マシュマロがごめんなさいよ」

かずさ「ちがうって、そっちじゃない」




曜子「どういうことかしら? だって、お返しの意味でしょ?」

かずさ「そうだけど、違うって。

    だから、犬のキャンディーの意味が二つあるみたいな事言ってただろ。

    一つ目の意味は大好きですだけど、二つ目の意味は何かなってさ」

曜子「それね。べつにたいしたことではないわよ」



よく覚えているわね。私も思い付きで言っただけなのに、春希君に関わる事だけは

記憶力が極限まであがるんだから、まいったものね。



かずさ「それはあたしが決めるから関係ない」

曜子「そうね。でも、これって私の思いつきにすぎないわよ」

かずさ「構わないって言ってるだろ」

曜子「わかったわよ。そんなに睨まなくてもいいじゃない」

かずさ「にらんでなんかいない。だから、さっさと言ってよ」

曜子「はいはい。犬ってご主人様に忠実なイメージがあるでしょ。

   だから、春希君ってあなたのことを犬みたいに思ってるのかなって思っただけよ」

かずさ「そうなのか?」

曜子「そうなのかって聞かれても、あなたほど春希君に忠実な彼女はいないんじゃない?

   だって、彼に会いたいがために一日中ピアノに向き合ってるんだもの」

かずさ「そう言われてみれば、そうかもしれないな。

    でも、春希がそうあたしの事を思ってくれているんなら、

    すごくうれしいかな」

曜子「でも、ほんとうに思い付きだからね。春希君がなんとなく買っただけって

   こともあるんだから。むしろその可能性の方が高いくらいじゃないかしら」

かずさ「それでもいいって。これはあたしの気持ちの問題だ。

    あっ・・・・・・・」

曜子「なに?」

かずさ「母さんも、あたしの誕生日プレゼントで犬のぬいぐるみをくれたこと

    あったじゃないか。その時はどういう意味だったんだ?」



かずさの厳しい追及の視線にたじろいでしまう。

そんなプレゼントしたっけと、とぼけようとも一瞬思いもした。

しかし、かずさの部屋に飾ってあるのを何度も目にしているし、しかも、

かずさ自身が慣れない裁縫作業によって修繕しているのを聞いているのだから、

とぼけることなどできようもないか。



曜子「あれね、あれ・・・・・・」

かずさ「何だよ。もったいぶらずに言えよ」





曜子「だからね、・・・・・・あれは、ただ目にとまったから買っただけよ」

かずさ「ふぅ~ん」

曜子「ふぅ~んって、なんか意味深すぎる反応で、なんだか気になるわね」

かずさ「べつに。・・・・・・ただ、なんで目に留まったのかなって。

    目に留まるって事は、なんだかの意識が働いているはずだろ」

曜子「なんだか最近鋭くなってきたわね」

かずさ「あんたと話していれば、自然とそうなっていくんだよ。

    悔しかったら自分を恨む事だな」

曜子「ま、いっか。ほんとうに大した理由じゃないのよ。

   私の後ろを健気についてくるあなたが子犬みたいだなって思っちゃって、

   なんとなく目に留まったのよ」



私の解答を聞き終わると、かずさは手を顎にもっていき、無言で考えはじめてしまう。

そのあまりにも真剣な表情に、私はかえって心配になってしまった。



曜子「怒っちゃった? でも、悪い意味じゃないのよ。

   健気に後ろを駆け回っている姿が、なんだか可愛らしいなって思ったのよ。

   ね? 悪い意味じゃないでしょ」

かずさ「別に気にしちゃいないって」

曜子「そう? だったらいいのだけれど」



一応胸を撫でおろしはいたものの、まだなにか言い足りなそうなかずさを見て

完全には安心などできやしなかった。



曜子「まだなにか気になる点があるのかしら?」



かずさは顎にあてていた手をおろすと、まっすぐ私に視線を向けて語り始めた。



かずさ「あのさ、母さんも春希も、あたしのことを犬みたいに思ってるんだなって、

    ちょっと思っただけだよ。

    別に悪いイメージでもないから、悪い気分じゃないよ。

    でも・・・・・でもさ」



そこまで一気に語ると、かずさはいったん視線を外す。

そして、再び視線を渡しに向けた時は、か弱い女の子がそこにはいた。




かずさ「いつもピアノを使ってあたしの気持ちを春希にぶつけてはいるけど、

    生身の春希の気持ちは全然知らないだろ?

    だから、今回のヴァレンタインのお返しで春希の気持ちがほんの少しでも

    感じ取れたからさ、なんかちょっと恥ずかしいなって。

    すっごくうれしんだけど、いつも一方通行だったから、

    なんだから心が通じ合うのっていいなって」

曜子「もうっ」



私は思わずかずさを抱きしめてしまった。

だって、可愛すぎる娘がいるのだから、それを愛でたく思うのは当然よね。

こんなにも可愛い娘が私から生まれてきただなんて奇跡ね。



かずさ「苦しいだろ」

曜子「たまにはいいじゃない。親子のスキンシップも大切よ」



私の胸の中で暴れるかずさを無理やり抑え込んでいたけど、

しばらくすると観念したのか、かずさの体から力がぬけていく。

今は身を私に預け、少しぎこちなさが残るが、軽く抱きかえしてもくれていた。

そして、親子の距離を縮めるきっかけを作ってくれた春希君に対して、

私はそっと感謝した。















2-3 春希 春希マンション 4月5日 火曜日








昨夜の佐和子さんの話を思い返してみても、いまいち素直に受け入れられない部分がある。

俺のギターに麻理さんの心を癒すほどの効果があるとは思えないが、

それでも心の問題になると演奏の良しあしではないのかもしれないか。

・・・・・・依存か。

俺が麻理さんに依存してしまったから、麻理さんの日常を壊してしまった。

佐和子さんは話さなかったけど、

きっと気分が悪くなってしまうのは電車だけではないはずだ。



電車という閉鎖空間で、逃げ出すことができないから気持ち悪くなるって事は

言いかえれば、電車でなくても行動に制限がついてしまう状況なら

どんな場所でも同じってことじゃないか。

たとえば、車の渋滞なんてありえそうだな。

渋滞中に気持ち悪くなったら、車を路上に置いてどこかに休みに行くことなどできない。

そう考えると、極端な話、ビルの高層階でエレベーターが混んでいて

なかなか階下に降りられない状況だとしても、不安を煽る状態に自分で追い詰めてしまったら

たとえ閉じ込められた状態ではなくても危険って事じゃないか。

と、佐和子さんから聞いた麻理さんのとこを思い出しながら料理をしていると

危うく手を切りそうになる。



っと、危ない危ない。いくら最近料理をするようになったといっても、

考え事をしながらはまだ無理だよな。

しかも、考えれば考えるほど思考に没頭する内容だし、

今は料理に集中してさっさとこの後の面倒事も片付けるか・・・・・・。



麻理さんに料理を作ってあげた事をきっかけに料理をするようになったといっても

時間に余裕がある時しかしていなかった。

朝食は料理をするようになる前からも、適当に作って食べてはいたが、

最近では、コールスローやキャベツや玉葱の酢漬けなどを作るようにもなり、

テーブルの上も若干華やかさを持つようになってきている。

もちろん忙しい朝でもあるわけで、酢漬けを作っておくあたりが時間を

有効活用する春希らしい料理ともいえた。



昼のお弁当は、どうにかなるとしても、夕食が問題だよな。

バイトがない時は家で作るとしても、夕食はたいてい編集部で弁当だし、

こればっかりは夕食分の弁当を持っていくわけにはいかないしなぁ。

編集部の冷蔵庫に入れておいて貰うっていう手もあるけど、

個人が勝手に使うわけにもいかないし、さすがに夕食は弁当買うしかないか。



春希「うわっ」



今度こそ危うく手を切りそうになるも、今回もどうにか難を逃れることができた。

いくら料理だけに集中しようとしても、どうしても頭の中に考えるものを

詰め込んでおかなければ、考えてしまうことがある。

それは避けては通れない事柄でもあり、このあと電話をしなければならないことでもある。

佐和子さんの手前では簡単だし、事務的な連絡だから大丈夫とは言ったものの、

いざ実家の母に電話するとなると、いささか不安をぬぐいきる事は出来ないでいた。







お弁当を用意し、朝食も食べ終わると、

そろそろ母に電話するにはちょうどよすぎる時間が訪れてしまう。

高校時代までの経験ではあるが、今の時間帯ならば母に電話してもつかまるだろう。

今のタイミングを逃せば夜になってしまうし、そうなればかえって電話しにくく

なってしまうのも事実である。

だからこそ、気持ちに迷いがあったとしても、今電話しないわけにはいかなかった。

携帯をいじり、いつもは素通りする母のアドレスを呼び出すと、発信ボタンを押す。

発信ボタンを押して、呼び出し音が鳴っている今であっても、

母が電話に出なければいいと思ってしまう自分がいる。

そう、高校時代の自分ならば、大学に入って間もない自分であったのならば、

こうまでも母を意識することなどありえなかったはずだ。

なのになぜ今になって母を意識してしまうのか、自分ではわからずにいた。



春母「もしもし」



久しぶりに聞いた母の声は、自分の中にある無関心を装う母の声とは違っていた。

こうして母に電話をかけたのはいつ以来だったのか、

思いだそうとしても思いだせない。

そもそも高校時代であっても、いくら帰りが遅くなろうと母は関心をみせはしなかった。

だから、電話で遅くなると伝えることもなかったし、メールで連絡する事さえ

必要としていなかった。

今こうして考えてみると、母と電話で会話するのは、最後にいつしたのかさえ

完全に忘れてしまうほど珍しいシチュエーションといえる。

電話口から聞こえてくる母の声は、無関心を装う声でも、自分が小さいころの

温かい家庭であった時の母の声とも違う、まるで初めて聞くような母の声であった。

しかし、知らない母の声であるはずなのに、どこか懐かしさを感じてしまうのは

どうしてだろうか。



春希「朝早くからごめん。ちょっといいかな?」

春母「かまわないわ」

春希「ありがとう。それで、今夜会ってくれないかな?」

春母「大丈夫よ。でも、仕事があるから、少し遅くなるけど、それでもいいかしら?」

春希「こっちがお願いする立場なのだし、会ってくれるだけで十分だよ」

春母「そう?」

春希「じゃあ、今夜そっちにいくから」

春母「ええ、家で待っていてくれると助かるわ」

春希「うん、じゃあ、また」



春母「ええ・・・・・・・・・・・」



電話が切れない事にやや不安を覚える。こちらから電話を切っていいものなのだろうか?

こちらから電話をかけたわけだし、要件は既に伝え終えた。

電話のマナーとしても電話をかけた方から切るべきだ。

だったら、自分からとっとと電話を終了してもいいのだが、

どうも自分から電話を終了する気にはなれなかった。

もちろん、正しいマナーがあったとしても、上司や目上の人に対する礼儀によって

逆になる事もあるが、今はそれとも違う。

だったら何故?

そうこうやきもきしていると、電話口のむこうから再び声が聞こえてきた。



春母「ねえ、春希」

春希「はい?」

春母「もしかして、会ってほしい人がいるのかしら?」

春希「は?」



間の抜けた声が朝の物静かな部屋にぽつりと落ちる。

正直、母が何を意図して言ったのか、理解するまで数秒かかった。

だが、それも数秒後には、いっぺんに全てが理解できた。

はっきりいって、嫌な汗が体を這い廻り、母が言いたい事の意味が怒涛のごとく

頭の中を駆け巡ったほどだ。

たしかに普段まったく会話をしてこなかったわけで、

こちらから電話をかけた記憶もほぼない状態だ。

そんな親子関係でありながらも、朝から会ってほしいと電話したわけなのだ。

しかも、大学4年になって、就職だけでなく、もしかしたら結婚の話だって

あってもおかしくはない年齢でもあるわけで・・・・・・。



春希「違うから。結婚じゃないから」



俺は大慌てで否定するしかない。

もしかしたら、母が少しは好意的に電話をしていたのかもしれないのも

結婚話を念頭に入れてたからか?

そうならば、悪いことしたな。



春母「そうなの?」

春希「そうだよ!」

春母「そう・・・。まあいいわ。そろそろ時間だから切るわね」




春希「ごめん、時間とらせてしまって」

春母「いいわ、べつに。それじゃあね」

春希「それじゃあ」



今度はどちらからともなく電話を切ることができた。

ただ、電話が終わったと思うと、急に疲れた噴き出してくる。

これからバイトだというのに、一日分のエネルギーを消費してしまった気もする。

おもわずそのまま座りこみそうになったが、このまま座ってしまっては

もうバイトに行かず、再び携帯を手にして休みの連絡を入れてしまう誘惑と

戦わなければなりそうだ。

もちろんそんな誘惑には打ち勝つ自信はあるが、それでも誘惑に打ち勝つ為の

エネルギーを考えると、もはやバイトどころではなくなってしまう。



春希「さてと、行きますか」



俺は自分を奮い立たせる為に、わざとらしい掛け声をあげると、

勢いよく玄関に向かったのであった。







第21話 終劇

第22話に続く












第21話 あとがき




ホワイトアルバム2でもそうなのですが、春希の母の名前がわからな~い。

名前がわからない人物が出るときほど困るときはありません。

地の文では適当にごまかせますが、セリフともなると困り果ててしまいます。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。



黒猫 with かずさ派



今週も読みに来てくださり、ありがとうございました。

一話で終わるはずのかずさホワイトデーエピソードが、

2話目までいくとは思ってもいなかったです。

そういえば、かずさの誕生日って5/28か。

もろに話の展開上書かないといけない日付のような・・・・・・。



第22話









2-3 春希 開桜社 4月5日 火曜日








開桜社編集部。いつものように活気に満ち溢れ、せわしなく人が行き来している。

麻理さんがNYへ異動して一月が過ぎ去ったが、麻理さんがいたという形跡は

人の記憶にしか残っていないんじゃないかって思えてくる。

たしかに麻理さんが残していった武勇伝はみんなの記憶に刻み込まれはしているが、

企業としての開桜社からしてみれば、

麻理さんの功績などほんの数滴の雫にすぎないのだろう。

だから、もし俺が明日から編集部に突然来なくなったとしても、

編集部は動き続けると確信できる。

おそらく松岡さんや鈴木さんあたりはねちねちと不平を訴えるだろうし、

浜田さんもスケジュール調整に大あらわになってしまうことだろう。

しかし、それも数日も経てば、北原春希がいた形跡など開桜社からは消え去り、

ほんの数人の編集部員の記憶の片隅にへばりつくのがやっとだ。

もちろん、仕事帰りの飲み会で、俺の悪事を肴に盛り上がるかもしれないが、

それも一月も経てば麻理さんの存在と同じように、

北原春希がいないことが日常になってしまう。

少し感傷的に編集部内を見渡していると、松岡さんと目がかちあう。

俺の事を訝しげに見つめてくると、すぐさま俺の仕事を手伝えを訴えてくる。

だから、俺は曖昧な笑顔を向け、この後松岡さんの仕事を引き受けますと顔で返事をする。

仕事が一つ減った、いや三つ以上盛られる気もするが、

松岡さんは機嫌よく今ある仕事に戻っていく。

俺は、そんな「いつもの編集部の風景」を少し感傷的に体感すると、

決意を胸に上司である浜田さんのデスクへと向かった。



春希「浜田さん。少しお時間いいでしょうか?」

浜田「さっき渡した仕事に不備でもあったか?」



浜田さんから渡された仕事は、まだ半分も終わってはいない。

通常運転の俺ならば、もしかしたら終わっていたかもしれないが、

いつもの俺ではない俺にとっては、半分も終わったといえる。




でも、そんなことを伝えに上司の元にきたわけではない。

そして、浜田さんも俺のただならぬ雰囲気を察していた。



春希「いいえ、特に問題はありません」



訝しげに見つめるその目に、俺は言葉で態度を示さなければならない。



春希「会議室でお話しできないでしょうか?」

浜田「わかった」



そう短く返事をすると、浜田さんは無言で会議室へと進んで行く。

意外すぎるとほどあっさりと二人きりになれたものだ。


おそらく俺のただならぬ雰囲気から、なにかしら嗅ぎとってくれたのかもしれない。

途中、松岡さんや鈴木さんがなにがあったのか教えてくれと目で訴えてはきたが、

今は何も言えず、俺も無言で浜田さんを後を追うことしかできなかった。

あいにく小会議室は、他の本物の会議で使われており、

俺達は大会議室の片隅で向かい合うことになる。

時折廊下から聞こえてくる元気な声をよそに、大会議室は冷えきっていた。

これから話さなくてはいけない事を思うと、

寒さだけが俺の口を重くしているわけではないことは明らかであった。

俺は、これから浜田さんを裏切らなければならない。

それは決して開桜社の規則を逸脱する行為ではないにしろ、

浜田さんからの信頼を傷つける行為に他ならなかった。

俺は、手にしていた開桜社の規則本を広げ、広すぎる会議室に冷えきった声を響かせた。



春希「入社前海外研修制度を使いたいと考えています。

   規定によれば、内定者が申告することによって利用できると書かれています。

   もちろん厳しい審査があるみたいですが」



浜田さんは俺の顔を見やると、すぐさま規定が描かれている冊子に目を落とす。

ただ、冊子にかかれている内容を読んでいるみたいではなかった。

たんに入社前海外研修制度のページである事を確認したくらいだと思えた。

しかし、浜田さんがこの制度を知っているとは思えないが。



浜田「はぁ・・・」



浜田さんのため息が、ひっそりと漏れ出る。




覚悟をしてきたとはいえ、浜田さんの心情は手に取るようにわかってしまいそうで

それがかえって、俺を辛くする。



春希「自分の直属の上司になってくださったばかりだというのに、申し訳ありません」

浜田「はぁ・・・」



二回目のため息が俺の心にさらに重くのしかかる。



春希「すみません。でも、どうしてもNYに行きたいんです」



包み隠さず全ての事情を打ち明ける事は出来ないが、

情報開示を拒んで駆け引きをしている時間などはない。

俺は、駆け引きこそ浜田さんを裏切る行為に思えて、

開示できる情報は初めから全て開示するつもりでここにやってきていた。

頭を深々と下げて、浜田さんの返事を待っていたが、

俺を出迎えたのは三回目のため息であった。



浜田「はぁ・・・・・・」



俺は、さすがに不安に思えて、頭を上げると、さらに四度目のため息を目撃してしまい、

今日ここで行われるべき裏切り行為のシミュレーションとは違う方向へと

動きだしていることに、ようやく気がつく事が出来た。



春希「浜田さん?」



俺の呼びかけに、五度目のため息で返事をすると、浜田さんはようやく重い口をあけた。



浜田「風岡の言っていた通りだな」

春希「えっ?」



浜田さんを驚かす発言をするつもりで来たというのに、

結果としては俺の方が驚かされてしまう。

たしかにNYへ行きたいと言えば、麻理さんのことも話題にはなるが、

麻理さんが入社前海外研修制度について浜田さんに言っていたとは予想だにしていなかった。



浜田「だからな、北原はスケジュールがあわなくて、風岡が最後の引き継ぎに来た時には

   会えなかったけど、その時風岡が冗談っぽく言ってたんだよ。

   北原の事だから、この制度を使って、もしかしたらNYに行きたいって

   言うかもしれないってな」



春希「麻理さんが・・・」

浜田「俺もさすがに冗談だと思ってたけど、風岡の読みはさすがだな」



俺は、驚きを隠せない。

浜田さんが知っていたというよりは、むしろ麻理さんが俺より先回りして

行動を起こしていた事に驚き、そして、嬉しくも思えてしまう。

どこまで俺を知り尽くしているんだよ。

俺をNYへ来させるために誘導していたのなら、別の反応をしたかもしれないが、

入社前海外研修制度を使うことに、ピンポイントで思い付くあたりがすごすぎる。

やはり仕事の上では、まだまだ追いつく事は出来ないかな。

まあ、仕事そのものじゃなくて、裏工作みたいなものだけど。



浜田「一応聞くけど、俺の下が嫌って事での申請か?」

春希「違います。今は詳しい事を言うことができませんが、けっして浜田さんの下が

   嫌というわけではありません」

浜田「お前らしいな。こういうときは、嘘でも適当な理由をでっちあげればいいのに」

春希「そんな見え透いた嘘をついても、意味がないじゃないですか。

   誠意というわけでもないですが、浜田さんには、とても感謝しているので

   嘘はつきたくはなかったんです」

浜田「でも、本当の理由は言えないわけか・・・」

春希「はい。それだけは、すみません」

浜田「まあ、いいよ。風岡もその辺の事情についてははぐらかしていたしな。

   一応このまま編集長に話しておくよ」

春希「ありがとうございます」

浜田「でも、俺もこんな制度聞いたことないし、使ってるやつなんて今までいるのか?」

春希「さあ? 俺もついこの間まで忘れていたほどですし」

浜田「いくら制度上あったとしても、形式的とまでは言わないけどさ、

   前例がないと厳しいんじゃないか?」

春希「そうですよね。俺もそれだけが気がかりで・・・・・・」



俺も浜田さんも苦笑いを洩らすだけで、どうもこの制度の実効性に不安を覚えてしまう。



浜田「風岡の事だから、編集長にも根回ししていたりしてな・・・・・・」



浜田さんはそうぽつりと呟くと、豪快に笑おうとするが、俺の顔を見ると

笑うことができなくなってしまう。

俺が真剣な表情をして批難したわけではない。

むしろ、浜田さんの発言に同意している。



だから、浜田さんが冗談っぽくいった「風岡のことだから」が

あり得る事態だと実感してしまったわけで。



浜田「まさかな・・・」

春希「いや、あの麻理さんですよ」

浜田「でも、ありえるのか?」

春希「ありえるんじゃないですかね」

浜田「前例がないかもしれないんだぞ」

春希「前例がないんなら、制度の正当性と将来への投資を訴えそうですね」

浜田「はは・・・・・・」



乾いた笑い声が低く響くが、俺も浜田さんも笑うことなどできやしないでいた。

なにせ、前例がなくてもやり遂げるのが風岡麻理だ。



浜田「どう思う?」

春希「何がです?」

浜田「風岡がしっかりと根回しできているかだ」



そうですよね。それしかないとわかっているけど、聞かずにはいられないです。



春希「編集長が話を聞いていれば、根回しは完了しているでしょうね」

浜田「そうだな。だったら、編集長はすでに知っていると思うか?」

春希「もし賭けをするなら、編集長が知っているに全財産かけますね」

浜田「それだと賭けにならないだろ」

春希「ですよねぇ・・・・・・」



浜田さんが知っている時点で、全てが動き出していると判断すべきか。

もしかしたら、他にも手をうってるかもしれないけど、

その全てがNY行きと関わっているとは思えない。

むしろ逆方向の対策こそ入念に根回ししていると俺は確信できる。

NY行きを可能にする方法は、おそらくこれ一つ。

だったら、俺は、麻理さんとの賭けに勝ったってことか・・・・・・。

これは、喜ばしい事だけれど、それと同時に、選んではいけない選択だったのかもしれない。



浜田「なあ、いつからNYに行こうと思ったんだ?

   NYに行きたいだなんてそぶりみせていなかっただろ」



浜田さんは、もうNYにいる麻理さんと勝負をしても勝ち目がないと諦めたのか、

目の前にいる比較的組みやすい俺へと目標を変えたらしい。




春希「昨夜思い付いつきました」

浜田「は? 嘘だろ。もし思い付きののりでNYに行きたいだなんていうんなら

   風岡が何を言っても、俺は認めないからな」

春希「のりでとかそういうんじゃないです」

浜田「だよな。お前はそういうやつじゃないし」

春希「ありがとうございます。NYに行きたいと思ったのは昨夜なんですけど、

   将来を考えたら、今しかないと思いまして」



麻理さんとの将来。そして、かずさとの将来を考えたら、今行動しなければ遅すぎる。

それがけっして皆が認めてくれるような結末ではないとしても。



浜田「若いうちしか無理はできないからな。

   まあ、考えようによっては、今NYに行くのはキャリアを考えれば最善かもな。

   運がいい事にNYには風岡もいるし、

   向こうでの仕事もスムーズに入っていけるだろう。

   それに、だな。俺もお前の事を評価しているんだぞ」

春希「はい、恐縮です」

浜田「もしこれが松岡みたいなやつが申請してきたら、説教して、

   この場で申請を却下していたところだ」

春希「松岡さんだって、やるときはやる人ですよ」

浜田「それは、最近になってようやく危機感を覚えたからやるようになっただけだ。

   しかも、その危機感も、危機に陥ってるのに慣れてしまって、

   緊張感がなくなってきてるんだよなぁ」



浜田さんは編集部の方をちらりと見やると、

小さく今日何度目かわからないため息を漏らした。



春希「そ・・・それは、また新しい危機感を感じればきっと」

浜田「そうだといいんだけどな。風岡がいなくなって少しはやる気を見せてくれたのに

   一カ月もたたないうちにだらけやがって。

   今度北原がNYに行ったら、

   また一カ月くらいは危機感を持ってくれればいいんだけどな」



それはご愁傷様です。

松岡さんも悪い人じゃないんだけど、浜田さんの気苦労を知ってるはずなのになぁ。



浜田「それで、いつから行く予定なんだ? 大学の方は大丈夫なのか?」




春希「一応8月からNYに行こうと考えています。

   卒論もそれまでに終わらせますし、

   卒業に必要な単位も前期日程で取り終わる予定です」

浜田「そうか。それなら、編集長にその旨も伝えておくよ。

   話っていうのは、これだけか?」

春希「はい」

浜田「そうか。今度からは、もうちょっと早い段階から相談してくれよ」

春希「すみません」

浜田「風岡みたいにはいかないけど、一応お前の上司なんだからさ」

春希「はい」



少しさびしそうに編集部に戻っていく後姿を見ると、松岡さんだけでなく

俺も浜田さんの気苦労の一つであるんだと実感でき、少し嬉しく思えてしまった。












2-4 春希 春希自宅 4月5日 火曜日 19時前







今日は、夕方から用事があると言って、早々にバイトを切り上げていた。

実家に行き、母に引っ越しの了解を取らなくてはならない。

そして、麻理さんにも今週末にNYへ行く事を伝えねばならないでいた。

いきなりNYに行ったとしても、忙しい麻理さんの事だから会う時間が取れないとなると

何のためにNYに行ったのかわからなくなる。

そう考えると、火曜日という時点は、麻理さんが時間を調整できるギリギリのライン

ともいえるかもしれない。

NYとの時差は13時間だから、今は朝の6時前ってところか。

今の時間帯なら起きているはずだから、ちょうどいいかな。

・・・っと、電話をする前に、実家の鍵を探さないとな。

麻理さんと落ち着いて話をする為に自宅に戻ってきたともいえるが、

一番の理由は実家の鍵を取りに来ることであった。

実家の鍵なんて、実家を出てから一度も使っていない。

なによりも普段持ち歩く事もなくなっていた。

だから、実家に行くのならば、机の引き出しに無造作にしまいこまれている実家の鍵を

探し出さなければならないでいた。



厳重にしまいこんでいたのなら、念入りにしまいこんでいる分、わかりやすい場所に

鍵があるのだが、いかんせ机の引き出しに鍵がおさまるスペースがあったから

そこに無造作に入れていたとなると、その場所の印象は薄すぎる。

むろん鍵の存在を忘れる為に、意図的に行った行為なのだが、

今となってはその時の自分を呪いたいほどだ。

いつか使うかもしれないのに、それを母のと繋がりを消す為に、

子供じみたことをするなと、今の自分なら、何時間も過去の自分に説教できる自信がある。

もちろん過去の自分もその説教にまっこうから反論しそうだからやっかいだな。

俺は、過去の自分と今の自分が言い争っている光景を思いう浮かべ、

思わず苦笑してしまった。

と、誰もが遭遇したくない光景を妄想しつつ

机の中につまっている荷物を丁寧に机の上に並べていくと、ほどなく鍵は見つかる。

やっぱここか。予想通りの場所にあったことに、自分の諦めの悪さに再び苦笑する。

実家の鍵を忘れようとしても、実家の母を忘れようとしても、

どうしてもそれを忘れることができないと実感した瞬間でもあった。



さて、次は麻理さんか。

はたして麻理さんは電話に出てくれるだろうか?

佐和子さんから麻理さんの現状を聞かされていると、知っているはずだ。

だから、お互いなにか気まずい気がする。

電話の呼び出し音が鳴り始め、10コールくらいで出なければ諦めようかなと

デッドラインを心に決めかけたとき、それは無駄だと実感した。



麻理「もしもし」

春希「あ、あの・・・」



こんなにも早く麻理さんが出るとは思わなかった。

だって、まだワンコール目も鳴り終わってないぞ。

いささか気まずい雰囲気を自ら作り出してしまった事を後悔していると、

麻理さんは俺のそんな気持ちを気にする事もなく、話を進めていってくれた。



麻理「私がいなくなって、おはようの挨拶もできなくなったの?」

春希「いや、そんなことは。おはようございます。

   でも、こっちはこんばんはですね」

麻理「そうだったわね。電話だから、ここがNYだなんて忘れそうよ」

春希「はい。いつも俺の側で仕事の指示を出してくれている状況だと、

   錯覚しそうになってしまいます」

麻理「そうね。でも、この距離はゼロにはできないのよね」




春希「はい・・・・・・」

麻理「で、なんのよう? って、佐和子から聞いているんでしょ?」

春希「はい。今日は、NYに行く日を速めた事を伝えようと思いまして」

麻理「え?」

春希「ゴールデンウィークに行く予定だったのを前倒しにして、

   今週末に行く事にしました。もし麻理さんの予定が会わないのでしたら

   また変更します、ただ、元のゴールデンウィークの日程に戻すのは無理でしょうけど」



さすがに今さらゴールデンウィークを再び休暇にしてくれとは言えない。

俺と交換してくれた人の喜びようを見ると、どれだけゴールデンウィークに休暇を

とるのが難しいかが知ることができた。

それなのに、俺の都合で、それをなしになどできやしない。



麻理「それは大丈夫だけど、今週末っていうと土曜日あたりにくるのかしら?」

春希「金曜日の夕方に着く便があればいいかなって思っています。

   このあと佐和子さんに連絡してみないとわからないですけど、

   きまったら麻理さんにも伝えますね」

麻理「わかったわ。佐和子には、多少は無理をしてもチケットを取るように

   お願いしておくわ」



なんだか、すっごく怖い笑顔をしている麻理さんが見えるのですが、幻想ですよね?

あまり佐和子さんに無理な要求はしないでくださいよ。



麻理「それで、北原。・・・・・・佐和子から私の事聞いているんでしょ?」



いつもの強気の発言も早々にトーンダウンし、今は一転して俺の出方を探るべく

弱気な口調に陥っていた。



春希「はい。佐和子さんから全部聞きました。

   それと、佐和子さんは最後まで秘密にしようとしてたんですけど、

   食後のギターのことも聞きました。

   これは、本当に俺が無理やり聞き出したので、佐和子さんは悪くないです」

麻理「そう・・・・・・。別に秘密にしてって頼んだわけじゃないのよ。

   たぶん佐和子が気を使ってくれたんでしょうね」

春希「そうですか。だったら、佐和子さんにもそう伝えておきます」

麻理「そうね。私の方からも言っておくけど、この後佐和子に連絡して

   チケットとるんだったら、ついでに言っておいてくれると助かるわ。

   でもなぁ・・・・・・」




春希「どうしたんです?」

麻理「うぅ~ん・・・。あのね、北原」

春希「はい」

麻理「北原は、あの話聞いてどう思った?」

春希「どう思ったと聞かれましても、俺のギターが役になってくれているんなら

   嬉しい限りです」

麻理「それはそうかもしれないんだけどさ・・・・・・、あのね」

春希「はい?」

麻理「だからね・・・、重いとか思わなかった? 未練がましいとか」



そうか。だから、佐和子さんは、俺に話すのを躊躇したんだ。

麻理さんのかなわない思いを俺に背負わせない為に。

そして、麻理さんの思いを守る為に。



春希「そんなこと全然思ってないです。

   むしろ、麻理さんに思って貰えるなんて歓迎です」

麻理「そういうことは、思ってても言うなぁ。

   全く勝ち目がないってわかっていても、期待しちゃうだろ」

春希「すみません」



そうだよな。期待させるだけ期待させておいて、なにも叶えてあげられないんだ。

佐和子さんも言ってたな。しかも、強い口調で。

中途半端な態度は、麻理さんに失礼だ。

だけど俺は、何ができるんだろうか。

・・・・・・駄目だ。俺が迷っちゃ。



麻理「謝るな。私がみじめになるだろ」

春希「すみません」

麻理「だから、謝らないでよ。もう、自分でもみじめだってわかってるんだから

   これ以上、これ以上私を・・・・・・・」

春希「麻理さん・・・・・・」



麻理さんの声が途切れる。

受話口を手で押さえているんだろうが、それでも麻理さんの嗚咽が聞こえてしまう。

泣かせてしまった。

大事にしようって決めていたのに。

守ろうって覚悟していたのに。

それなのに俺は、今なお麻理さんを傷つけてしまう。




迷っちゃ駄目だ。覚悟を決めたんだから、今一歩踏み込むしかない。

傷つくんなら、俺も一緒に傷ついて、少しでも麻理さんの痛みを和らげなければ。



麻理「・・・ごめんなさい。ごめんね、北原」

春希「俺NYに行きますから。8月になったら、入社前海外研修制度を使って、

   NY支部に行きますから。それまで待っててくれませんか」

麻理「き・・たはら?」

春希「浜田さんから聞きました。麻理さんが根回ししてくれているって。

   俺、麻理さんとの賭けに勝ちましたよ。

   麻理さんは、俺が海外研修制度に気がつかないって踏んだみたいですけど

   俺見つけましたから。

   だから、俺の勝ちです。麻理さんがなんと言おうと

   8月からNYに行きます。その為に今週末NYに行くんですから」



電話口からは、すすり泣く声は聞こえてくるが、一時のひっ迫した雰囲気は消え去っている。

声が少しかすれてはいるが、たどたどしく麻理さんが声を紡ごうとしていた。



麻理「なに、言ってるのよ。賭けに勝ったのは、むしろ私の方よ」

春希「麻理さん・・・・・・」

麻理「北原がNYに来る唯一の方法に期待していたのは、私の方なんだから。

   もし、北原が大学や将来のキャリアをなげうってNYに来ようとしていたら、

   私許さなかったんだからね。

   絶対許さなかった」

春希「俺、間違った選択、しなかったんですね」

麻理「間違った選択にきまってるじゃない。

   北原が選ぶべき選択肢は、ウィーンにいる冬馬さんに会いに行く選択肢よ。

   だから、間違ってるに決まってるわよ」

春希「たとえ間違っていても、その選択肢を正しい結末にもっていく事は可能ですよ。

   だって、俺は麻理さんに鍛えられてきましたから」

麻理「言うようになったわね」

春希「上司のおかげですね」

麻理「そうかもね。今度その上司に会わせてくれないかしら?」

春希「今週末なんてどうですか?」

麻理「そうねぇ・・・。ちょうど予定が空いているわ」

春希「それはよかったです。俺の上司も楽しみにしているはずですよ」

麻理「食事は、オムライスがいいわね」

春希「半熟なやつですね?」

麻理「それだとうれしいわね。それと、食後には、ギターを弾いてくれるとうれしいわ」



春希「ギターも持参していきますね」

麻理「・・・・・・」



再び嗚咽が受話口から漏れ出る。

だけど・・・・・・悲壮感はない。だって、喜びに満ち溢れた声が聞けたから。

たとえ、一時の痛み止めであっても。



麻理「待ってる。・・・待ってるから、春希」

春希「はい。待っててください、麻理さん」



俺がいる限り、麻理さんを癒すことができないってわかっている。

それでも俺達は離れられない。

麻理さんも俺を離さないでいてくれる。

それが心地よくて、お互いが求めあってしまって、かずさを傷つけてしまう。

俺は、かずさに誠実でいられるのだろうか・・・・・・。





第22話 終劇

第23話に続く









第22話 あとがき


『心の永住者』というタイトルは、春希の労働ビザを調べていたときに思い付いたものです。

NYへ行くわけですし、無条件では働けません。

とりあえずインターンや研修制度を使えば大丈夫「らしい」ようです。

ざっと調べただけですので、間違っていたらごめんなさい。

当時タイトルが決まらず、悩んでいたのですが、目に留まったのが「永住資格」です。

ちょうどネットにcc編をアップ開始する直前ですね。

そこで、春希の心にいつもいるかずさは、

春希の世界にいるたった一人の永住資格者だと感じました。

そんなわけで、タイトルは『心の永住者』となったわけです。

とくになにか他の作品のタイトルやセリフからつけたものではありません。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。



黒猫 with かずさ派


今週も足を運んでくださり、ありがとうございます。

ウィーン、NY、東京。書いていて面倒なのは、時差と気候です。

食事のタイミング、生活のリズムも考慮して書かねばならないし、気候も違いますね。

違和感がある場面があったとしたら、そっと指摘してくださると助かります。



第23話








2-5 麻理 NY 4月5日 火曜日 朝







北原からの電話が終わると、

その声が途絶えることに名残惜しさと一抹の不安を感じずにはいられなかったが、

それ以上の満足感が私を支配していた。

鏡は見てはいないが、きっと蕩けきった女の顔をしていた自分がいたにちがいない。

佐和子が見ていたら、いや絶対に佐和子にだけではこんな私は見せないけど、

その後一週間くらいはぐちぐちネタにされていたって自信を持って言える。

もうすでに電話は途切れはしているのに、電話を離すことができないでいた。

さっきまでこの電話から北原の声が聞こえてきて、

そして私の声を北原に届けてくれていたと思うと、

電話を見つめるたびに顔が緩みきってしまうわ。

・・・・・・・なんて、のろけている場合じゃない・・・か。

だって、北原から電話がきて、

思わずワンコールも鳴り終わってもいないのに電話に出ちゃったのよね。

つい反射的に出ちゃったけど、北原が気味悪がったりしていないかしら?

もし、北原がそんな風に私を見ていたら、私生きていけないわよ。

次電話が来た時は、2コールくらいは待った方がいいわね。

ううん、3コールかしら?

ふつうは、何コールくらいで電話に出るのがいいの?

え? 私って、今まで北原以外の電話の場合、どうしていたっけ?

あれ? 考えれば考えるほど、わからなくなってしまうわ。

通常モードの仕事をしている私からしてみれば、

想像もできないほど使えない私になってるわね。

どうしても北原が絡んでくると、一般的な事柄でさえ、うまく考えられなくなるのよね。

でもこれも全て、佐和子がいけないのよ。

もしかしたら北原から電話が来るかもしれないから、

心の準備だけはしときなさいねって言ったのが悪いのよ。

そわそわして、落ち着かなくて、なんとなく電話をいじってたら

本当に北原から電話がかかってくるんですもの。

もし北原から電話が来るとしたら、タイミングとしてはさっきの時間が一番可能性が

高いって思ってたけど、あまりにも計算通りで、私の方が驚いちゃったのよね。



相手の都合を気にしてしまうのが北原らしいっていったら、北原らしいのだけれど、

ある意味かたぶつって言うのかしら。いえ違うわね。マニュアル通りっていうわね。

だから、北原の行動は読めてしまう。

北原の行動が読めなかったのは、・・・読みきれなくなって制御不能になってしまったのは、

私が北原の事を愛してしまったことくらいかしら。

あぁ、もうっ。佐和子がいけないのよ。

佐和子が意識させるからいけないの。

って、なに一人で悶えているのかしら。

そろそろ編集部に行く準備をしないとしけないのに。

私は、一人上機嫌で朝の支度を進めていく。

朝からのスケジュールを頭の片隅で確認しながら、身なりを整えていく。

ただ、本当に頭の片隅でしか仕事のことは考えてはいなかった。

だって、ほとんどの領域で北原の事を考えていたんですもの。

最後に言った言葉が忘れられない。自分でも驚いているわ。

たぶん、これで二度目ね。

私が北原の事を、「春希」って呼んだのは・・・。

北原は、どう思ったのかしら?

こういう時、何も言ってこないのよね。

諦めて、適当に流しているって事はないわよね?

あぁ、もうっ。

なんだって朝から北原の事ばかり考えているのかしら。

そうよ。北原が朝から電話してきたのが原因よ。

・・・まあ、私の事を気遣って電話してきてくれたんだし、

しかも、大きな決断を北原に強制させてしまったのも私なのよね。

きっと、あいつのことだから、悩んで悩んで悩みきったに違いないわ。

でも、北原の事だから、私が育てた北原の事だから、今は真っ直ぐ進んでいるわ。

だって、大事に育てたんですもの。

・・・・・・・その北原のキャリアを台無しにしそうにしているのも私か。

何が正解で、何が間違いかだなんて、今の私には判断できない。

判断できないけど、彼女と同じように、私にも、

北原がいないと駄目だってことだけは理解できてしまう。

朝から大事な打ち合わせもあるのに、全然仕事モードに切り替わらないわ。

だから、私が春希の事を考えてしまうのは、北原が悪いんだ。

仕事モードに切り替わらないと、いつも北原の事を考えてしまうわね。

もう、ある意味病気ね。

今まで仕事ばかりしていたせいで、正常な恋愛ができなくなってしまったのかもね。

それとも、これが私の本質なのかしら。

本来の私は、恋愛に熱中するあまりに、男に溺れるタイプだったりして。




あまりにも笑えない冗談だから、いやよね。

本当に恋愛だけが私のすべてだとしたら、きっと北原は私を見てはくれないか。

そもそも開桜社で仕事をして、誰よりも仕事に打ち込んでいたから北原に出会えたのだから、

仕事人間ではない私とは、北原は出会うことができなかったわけか。

そう考えると、仕事人間になって、恋愛が下手でよかったとも言えるのよね。

まあ、そんな仮定の話を考えている時点で痛い女、か。

仕事があっての私で、仕事があるからこそ恋愛依存症の私が隠れていた。

だとしたら、仕事に打ちこめているからこそ正常な私を維持できているってことね。

そのバランスが崩れてきたって事は、誰のせいでもない。私のせい。

だって、北原のせいにしたって、佐和子のせいにしたって、それは言い訳でしかないわ。

一番悪いのは、心が弱い私のせいなのだから。



朝の忙しい日常は、思いにふけっていても、日ごろの習慣から無意識にこなされていく。

顔を洗い、食事をして、歯を磨く。いつもより時間がない分、無駄なく動いていた。

スーツを着て、メイクをばっちり終えるころには、いつもの出かける時間に

合わせるあたりが、麻理の仕事人間たる仕様だろう。

だから、麻理は気がつかなかった。

北原春希の事を考え過ぎていた為であるだろうが、

朝食を取っても、まったく気持ちが悪くならなかった事に。

麻理がその事を気が付いたのは、夕食のときであった。














2-6 春希 春希実家 4月5日 火曜日 夜







後ろ髪を引かれる中、麻理さんとの電話を切ると、そのまま佐和子さんに連絡をいれた。

色々聞かれると覚悟はしていたが、まだ仕事中だという事で、

チケットの手配だけをお願いして早々に電話を切ることになった。

おそらく佐和子さんは後で麻理さんに電話をして、

根掘り葉掘り俺との電話の事を聞き出すのだろう。

その辺の佐和子さんからの追及は麻理さんを生贄にするとして、俺は実家へと向かう。

若干責任放棄で責任のなすりつけを後ろめたくは感じてしまうが、

こういった話は男の俺とよりも女性同士の方がいいと思いこむ事で責任感を放棄した。



さて、実家まで来たが、母の言う通りまだ母は帰って来てはいないようだ。

一応マンションの下から電気がついているか確認しており、留守は確認済みだ。

もし、母が既に帰ってきているとしたら、それはそれで家の中に入りにくかったかもしれない。

これから会う約束をしている人物なのに、留守である事にほっとするなんで

ちょっと倒錯した感情を抱いてしまうのは、

やはり母子の間の距離感が生み出す溝みたいなものができながっていた。

だから、実家の鍵を鍵穴に入れるときは他人の家に勝手に入る印象を持ってしまった。

むしろ麻理さんの部屋に、部屋の風通しをする為に

麻理さんが留守中に入る方がよっぽど気楽で落ち着きをもてていたと思う。

それでも女性の部屋で、しかも麻理さんの部屋だという事で

違った意味でのドキドキ感が満ち溢れてはいたが・・・・・・。

しばらくぶり過ぎる実家は、多少の変化をもたらしているのではと多少身構えていた。

しかし、家の中に入ってみれば、高校時代と何も変わっていなく、

ある意味拍子抜けではあった。

高校時代のように、誰のいない部屋に踏み入れると、

そこには誰もいないいつもの空間が俺を待ち受けていた。

それは、何度も経験してきた儀式であり、誰もいない事が当たり前になるように

仕向けられた空間でもある。

それでも一か所だけは大きな変化をもたらしている。

俺がこの家から出ていくという大きな変化は、

俺が引っ越した時作り上げた変化のまま時が止まっていた。

静かな部屋を明かりをつけながら進んで行くと、

自然とかつての自分の部屋の前まできていた。

部屋の扉を開けると、そこはがらんとしていて、何も置かれていない。

一応明りをつけてもう一度しっかり確認したが、

家具どころか、小さな小物さえなかった。

それでも何も置かれていないかつての俺の部屋を見渡すと、

実家を出ていった日に見たカーテンだけが俺がいた痕跡を示している。

改めて俺の部屋だったこの空間を見つめれば、

なにかしら感傷的になるかともここに来る前に考えはしていた。

だけど、俺の想像外の展開に、感傷的になる事さえできないでいる。

どうして母はこの部屋を使わないのだろうか?

余っている部屋があるのなら、新たな目的の為に有効活用できるし、

新たな目的がなくても家の家具を分散することで、

今まで以上にゆったりとした住居空間が作り出せるはずなのに。

だから、手つかずのまま放置されるよりも、

なにか他の部屋に生まれ変わっている可能性の方が断然高いはずだと考えていた。

それなのに、俺の部屋は、俺が出ていた日のまま時が止まっている。




複雑な心境を整理できないままかつての俺の部屋に一歩踏み入れると、

定期的に掃除されているのが伺えた。

もしかしたら何かしらの為に使われているのかもしれないが、

使われていない部屋特有のじめっとした空気は感じられない。

掃除するくらいだったら、なにかしら有効的に使えばいいのに。

そう思いこまずにはいられなかった。

そう思いこもうとせずにはいられなかった。




しばらくすると母から9時過ぎには帰宅すると連絡がきたが、まだ9時までには時間がある。

普段の俺ならば、待ち時間に大学のレポートやら課題をやっているはずだ。

しかし、あいにくそういった時間つぶしのツールはない。

自分の部屋ならば、なにかしら見繕えるが、ここはかつての俺の部屋であるわけで

今は何もあるはずがない。

自宅から何かもってきてもよかったが、そこまで気がまわらなかったというのが真相だ。

だったら、掃除でも食事の準備でもしようとは考えはした。

麻理さんの部屋ならば、とくに考えることもなく体が動いたことだろう。

けれど、何度も確認してしまうが、ここはかつての俺の家だ。

好き勝手やれるわけではない。

この実家に戻ってこようってことさえ、自分勝手なことなんだ。

だから俺は、母が帰ってくるまで、

永遠と繰り返される自問自答を繰り返すしかなかった。



玄関のカギ穴に鍵が差し込まれる音が俺の耳が捉える。

時計を見ると、9時を少し過ぎたところだった。

部屋の中に入ってきた母は、特段変化があるわけでもなく、

高校時代に見た姿のまま現在の俺の前に立っている。



春母「話があるそうね」



ただいまも、久しぶりねもなしか。期待していたわけではない。

期待はしないが、挨拶くらいは人間関係を築く上には必要じゃないか?

だから、これがいつもの母子関係だと、かつての感覚を思い出させてくれた。

いや、この母子関係って、どちらから作り上げたんだろうか?

機械的に共同生活を送ってきてはいたが、円滑に事が進められるように、

それなりの人間関係を作るのが俺じゃないか?

それなのに、母を透明人間のように扱ってきたのは、俺だったのか?



春母「どうしたの? ぼおっとして」


春希「ごめん。久しぶりに戻って来たんで、ちょっと」

春母「そう。それで、話って?」



今は、実家に戻ってこれるよう、交渉の方に集中しないと。

やっぱり、久しぶりの実家は、俺でも感傷的になるんだな。

そう俺は無理やり結論付けて、目の前の母に意識を集中させることにした。



春希「いきなりで悪いんだけど、この家に戻ってきたいと思うんだ」

春母「いつから?」

春希「できれば来週から」

春母「わかったわ」

春希「ありがと・・・・・、えっ? いいの?」



あまりの交渉進行の速さに思考がついていかない。

実家という悪条件を加味しても、あまりにも俺の脳は減速していた。

それに、母がこんなにもあっさりと実家への出戻りを許すとは思いもしなかった。

いや、俺に関心を持ってない母ならば、同居人が戻ってこようと

関係ないって事なのだろうか。



春母「いいも悪いも、ここは春希の家でもあるのだから、私が反対するわけないわ」

春希「そう・・・。それなら、ありがたく戻ってこさせてもらうよ。

   それはそうと、俺の部屋は何も使ってないんだね。

   しかも、綺麗に掃除されているから、驚いたよ」



そう言ってしまった後に、しまったと気がつく。

饒舌すぎる。緊張しているといっても、あまりにも母に対して饒舌すぎる俺に、

俺は驚きを隠せなかった。

緊張が失敗をうみ、失敗が俺をさらに狼狽させる。

実家に戻ってくると決めてから、空回りしている自分がそこにはいた。



春母「あの部屋は、あなたの部屋なのよ。私が勝手に使うわけにはいかないわ」

春希「いや、でも。空いている部屋なんだし、何かしら使えばよかったのに。

   しかも、使ってないのに、掃除までして」

春母「息子の部屋くらい掃除するものよ」



どうしてだろうか? なにかが昔とは違う。

こうして母を目の前にしてみると、違和感を感じずにはいられなかった。

それは、俺が大学に入学して、一人暮らしをし、バイトをして、

さまざまな大人を見てきたからだろうか。



麻理さんに出会い、仕事面においても、人間関係においても、

容赦なく鍛えあげられたって自負している。

その結果、まがりなりにも責任ある仕事まで任せられるようになったことで

高校生の俺と、今の俺とでは視野が違い過ぎていた。

だからこそ、母が高校生の幼稚に反抗している俺に合わせてくれていたんだって、

今の俺なら理解できてしまう。

でも、なんで今さら気がついてしまうんだよ。

顔がかっとあつくなってしまいそうであった。

高校時代までは、お互いの事に無関心だと思っていた。

正確に言えば、今の今までそう思っていた。

今までは、無関心なまでに、無関心を装うことを意識していたともいえる。

今朝、母に電話した時、

あの時は母の顔を見えないから油断していて、無関心を装う事を忘れていたのかもしれない。

しかも、今なお久しぶりの会話ともあって、昔の感覚を完全には取り戻せないでいる。

だからといって、今さら母と慣れ合うつもりはない。

母には、母なりの人生があって、今までも、そして、これからも俺が干渉する気はない。

俺が干渉してはいけないんだ。

ただ、今こうして母を目の前にしてしまうと、高校時代の俺は、必死に肩肘を張って

かたくなな態度を母に取っていたのではないかと感じてしまう。

大人であり、俺の母親でもある母は、大人の対応として無関心を装い、

浅はかな幼すぎる高校生をやっている俺に合わせてくれていたんだ。

そう考えてしまうと、もしかするとお互い無関心である母子を母に演じさせることを

強制させてしまったのは、俺の方なのか?

俺が母子関係を崩壊させた原因があると思えてしまう。

もちろん母も父との関係がうまくいかなかったことで、子供に対して母親としての

申し訳なさがあったのだろう。それが後ろめたくて、俺に合わせてくれたのかもしれない。

全ては推測だ。だけど、目の前の母を見ていると、この推測が正しいってわかってしまう。

だったら、俺が無関心を装うのをやめれば、

もしかしたら、良好な母子関係を築く一歩になるのか?

しかし、こんなにもひねくれ過ぎて育ってしまった俺には、今さら良好な母子関係なんて

築いてはいけないし、どうやって築いていくかもわかりやしない。

・・・・・・・なんだ。高校時代にかずさに偉そうに言っておきながら、

自分の方こそ親子関係に困り果てているじゃないか。

冬馬親子の関係のもつれやすれ違いを、馬鹿げた大したことはない事だって

言い捨てておきながらも、今になって自分がかずさと同じ立場になるなんてな。

但し、俺とかずさとの差は、かずさは母である曜子さんと仲を改善して、

今は仲良くやってる事か。

本人達にそれを指摘したら、きっと全力で否定されるんだろうな。




ほんと、素直じゃない親子だよ。

素直じゃないけど、俺達親子ほど捻くれているわけでもない。

だから、素直になれたかずさを、俺は尊敬するし、少し羨ましくもあった。



春希「ありがと」

春母「・・・・・・・」



少し驚いたような表情を見せる母に、俺は自分が言った言葉にようやく気がつく。

感謝の気持ちなんて、最後に言ったのはいつだったか覚えてもいない。

形式的な感謝の言葉なら、何度も言ったとは思う。

そんな形ばかりの感謝の言葉ではなく、

自然とこみあげてきた感謝の気持ちを母に向かって言葉にするだなんて。

でも、俺は今さら母との関係を修繕することなんてできない。

あまりにも遅すぎたし、母も望んではいまい。

それに、俺だって、どうやって修繕すればいいかなんてわからない。

・・・・・・えっ?

なんで俺は、母との関係を修繕したいって思ってるんだ?

無関心なまでに無関係な母親なんだぞ。

それは、今までも、そして、これからだって変わらないはずなのに。

だから俺は、逃げるようにして母の前から立ち去った。


















3-1 春希 4月6日 水曜日







昨夜の事は思いだしたくはなかった。

母には、きっちりと伝える事は伝えたし、

帰る時も適当な理由をでっち上げて早々に実家をあとにした。

一応形の上ならば、うまく立ち回れた事になるはずだ。

だが、俺が気がつかない間もずっと大人の対応をしてきたあの俺の母親が

自分の子供の変化に気がつかないとは、どうしても思えなかった。


どうしても母の前だと、自分がみじめに思えてしまい、昨夜は逃げるように帰ってきたと

言ったほうがどうしても合っている気がする。

そんな子供すぎる俺は、家に帰ってきても、実家でのことを忘れる為に

引っ越しの準備や、木曜から始まる大学の準備など、考える暇を与えないように

寝ずに一夜を過ごすことになってしまった。

たしかに、急な引っ越しであるわけで、しかも週末にはNYに行くわけでもあるので

時間に余裕がないのは確かではあったが。

朝を迎えるころには、今日からNYへ行く日までのタイトすぎるスケジュールが

作り上げられて、予定がびっしりと埋められていた。

これで実家の母の事は考えないでいられると思うと、ホッとする自分がいた。

そのほっとする自分さえも消し去る為に、俺は行動を起こす。

さて、どつぼにはまって自問自答している時間はない。

この後、マンションの契約解除手続き、引っ越し業者への依頼、

そして卒論を前倒しして提出することの報告をしに出かけなければならない。

それらが終わったとしても、バイトもあるし、

引っ越しの準備も途中までしか終わってはいない。

だから俺は、母の事を無理やり思いださないように、

忙しい自分を作り上げることに努力した。







第23話 終劇

第24話に続く











第23話 あとがき



やばぁつ!

長々と一人で語っちゃっている春希一人、麻理一人のシーンが続いてしまって

書きにくいったらあらりゃしませんorz

どうしても、読み直して、書き直す作業が増えてしまいます。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。




黒猫 with かずさ派


今週も読んでくださり、ありがとうございます。

今だとネットがあって調べ物は簡単ですけど、昔はネットもありませんし、

設定の為に調べものするときって大変なんだろうなと、しみじみと思ってしまいます。

ネットがなければ、どのくらい執筆活動が遅くなるのだろうか?

リアルで睡眠時間削りまくったら、脳が働かなくなって非効率。
  
あれは、春希にしかできない神業ですzzz




第24話







3-2 春希 4月7日 木曜日







今日から俺も大学4年生になり、学生生活も残り少なくなってきた。

しかも、夏からはNYへ行くわけで、周りのみんなよりも半年早く社会人になってしまう。

学生生活が名残惜しいわけではない。今となっては、一刻も早く社会人になりたいほどだ。

だからといって、残り少なくなった学生生活を惰性で過ごそうとは微塵にも思っていない。

なにせ、俺の真横に陣取っている「奇跡の4年生」を、

今度は無事に「奇跡的に大学卒業」へと導かなければならないのだから・・・・・・。

しかも、教授直々の、なおかつ、複数の教授達の泣きごと付きの、ご指名なのだから。



春希「ほら、しゃきっとしろ。これで今日の講義は半分終わったぞ。

   和泉が大好きな昼食が終わったら、午後の講義だ。

   ほら、いつまでもグダァッてしていないで、

   さっさと起きて、学食にでも行って来い」

千晶「えぇっ?・・・もうちょっと休憩してからぁ。

   だって、授業中にちょっとだけ休憩がてら仮眠とろうとしても、

   春希が寝かしてくれないんだもん」

春希「当たり前だろ。俺には、お前をしっかりと講義に出席させて、

   無事に卒業させる義務があるんだから」

千晶「えぇっ?・・・そんな義務、捨てちゃいなよぉ」

春希「捨てるかっ・・・って、いうか、全部お前のせいだろ」

千晶「えぇっ?・・・そうだっけ?」

春希「そうだったんだよ」



俺の目の前にいる奇妙な生物。

その実態を知ろうとはしてはいけない。

もし、この未確認生物に興味を持ってしまう人間が現れたのなら、

即刻逃げる事をお勧めする。

とにかく全力で逃げたほうがいい。

ほんの少しでもこの駄目人間に興味をもたれたら最期。

きっと、君は後悔することになるだろう。

もはや普通の生活など送れない事請け合いだ。


それは、大学三年を終える3月。

まだまだ肌寒い日が続いていたが、それでも明るい話題も増えてくる時期。

3年の後期期末試験を終え、みんなそれぞれ春休みの予定を立てていく。

就職活動の為に先輩から情報収集する者や、最後の春休みだからと旅行に行く者。

人それぞれの過ごし方ではあったが、どれも正しい新4年生になる前の春休みの

過ごし方だと思える。

まあ、俺は、バイトに明け暮れてはいたが、これはこれで正しい大学生の暮らし方だ。

でも、和泉の春休みだけは間違っていると断言できる。

なにせ、俺の春休みのバイト生活の予定を大きく狂わせたのだから。

はっきりいって、和泉を切り捨てて、見捨てようって何度も甘い誘惑にかられた。

それでも和泉に甘すぎる俺は、しょうもない和泉を助けてしまうんだよな。

貧乏くじだってわかってる。

あの時の教授の目。俺をいたわる目に、思わず涙しそうになった記憶は新しい。

あれは、3月上旬。

大学生の期末試験も、大学受験生の入学試験も一通り終息を迎えたあの季節。

教授たちも試験から解放されて、ほっと一息つく季節。

あの日。一本の電話から、地獄が始まった。

もし、タイムトラベルができるのなら、その電話に出ないで、

ゆっくりと寝る事を俺に助言したい。

きっと過去の俺は、未来からきた俺に、死ぬほど感謝するはずだ。












4-1 千晶 3月1日 火曜日






てっ、てっ、てぇっと。

は・は・は・・・・春希ぃっと。

私は、くるくると指先で器用に円を描きながら携帯を操作していく。

数秒後には、おなじみの愛しの春希のアドレスが表示された。

困ったときには、春希様一択よねぇっと。

テンポよく、タンって発信ボタンを弾くと、気持ちよく画面が私の指を跳ね返した。



千晶「あっ、おっはよう春希っ。女神さまからのモーニングコールだよ」



呼び出し音が数度なると、聞きなれた春希の声が聞こえてくる。


多少不機嫌そうな声色ではあるけど、まあ、いつも仏頂面だし許容範囲ね。

だって、ニコニコしている春希なんて、きしょいだけで、きもいだけだし。



春希「なにが女神だ。貧乏神の間違いじゃないか?

   こっちは始発でようやくバイトから帰って来たばかりで眠いんだ。

   午前中いっぱいは、睡眠時間だって決めてたんだよ」



そっか。不機嫌そうなのは、寝てたからか。

でもねっ、春希。たぶん、その計画は練り直しだよ。

だって、睡眠時間を確保できなくなっちゃうはずだからさ。



千晶「そっか。今自宅マンションで、睡眠中かぁ」

春希「そうだよ。今までも寝ていたし、これからも寝る予定。

   だから、電話切るぞ・・・・。ごめん、来客だ。本当に切るな。

   大事な用があるんなら、また後で電話してくれ。

   できれば、昼前くらいに頼む」

千晶「ほ~い」



ほんと面倒見がよろしい事で。

最後の最後で私へのフォローを忘れないあたりが春希らしい。

春希が電話を切ると、私は電話を耳にしたまま、時を待つ。

目の前にある扉が開くと、生の春希の声が、直接私の鼓膜を震わせた。



千晶「よっ、春希。女神様のモーニングコールはいらない?」

春希「なんでお前がここにいるんだよ」



携帯片手に飛び出してきた春希は、じと目で私を睨む。



千晶「ここが春希の家だから?」

春希「何故疑問形で聞きかえすんだよ。こっちが聞いてんの」

千晶「じゃあ、私が春希に会いに来たからじゃダメ?」

春希「駄目じゃないけど、こんな朝早くからどうしたんだよ」

千晶「まあ、ね。とりあえず、部屋の中に入らない?

   ほら、もう三月だけど、朝は冷えるし」

春希「それは、俺が言うべきセリフだろ。家の主人が言うべきセリフなの」

千晶「そう? だったら、家のご主人様は、訪問者がいても、さむ~い玄関先で

   ながながと凍えながらお話をなさるおつもりで?」



玄関からは、温かい空気は漏れ出てこない。きっと本当に寝てたんだろう。



暖房をガンガンに効かせて、こたつでぬくぬく居眠りなんて春希がするわけないか。

でも、猫とか犬とか側にはわせて、こたつで温まりながらも仕事とかしていたら

なんか似合いそう。

きっと猫も犬も、春希の仕事の邪魔をしたくてうずうずしているんだろうな。

でも、ご主人様の仕事を邪魔しちゃいけないって、限界まで我慢して我慢して、

仕事が終わったら一斉に飛びかかりそうね。

春希はきっと疲れているんだけど、

疲れているのも忘れるくらい猫と犬を可愛がるんだろうなぁ。



春希「わかったよ。だから、朝っぱらから玄関先でわめくな」

千晶「はぁ~い」



私は春希のお許しを聞くと、春希の脇をするりとくぐり抜けて、部屋の中へと侵入していく。

うわぁっ。やっぱり、寒い。外も寒かったけど、部屋の中のこのひんやり感。

カーテン締めて朝日が入ってきていない分、部屋の中の方が寒いかも。

えっと、だ・か・ら、暖房、暖房。エアコンのリモコンはぁっと・・・・・。



春希「なにやってるんだよ」

千晶「寒いから、エアコンつけようかなって」

春希「リモコンならここにあるだろ」



そう言うと、春希は棚の上に整然と並べられていたリモコンの中の一つを取り上げて、

エアコンのスイッチを入れる。

そして、床に這いつくばっている私の両脇に手を差し入れると、私を引きあげ、

立ち上がらせてくれた。

なんか、まるで猫に対する態度っぽいのが気になるんだけど、まあ、しゃあないか。



春希「床を這いつくばって探したって、リモコンが見つかるわけないだろ?」

千晶「だって、リモコンっていったら、床に転がってて、

   テレビやらエアコンやらのリモコンが入り乱れて、

   テーブルの下とかに転がってるものじゃないの?」

春希「どこの家の住人だよ。つ~か、俺の周りには部屋を片付けられない女が

   集まってくるのかよ。やっぱり和泉の部屋も散らかってるのか?」



なにやら春希は一人事言ってるけど、どうして私の部屋が散らかってるって

わかってるのかな?

もしかして、春希ってストーカー?

まあ、私の魅力的すぎるボディーを毎日拝んでいたら、しょうがないか。




春希も年頃の男の子だし。



千晶「春希が部屋を掃除してくれるんなら、いつでもウェルカムだよ。

   もう、毎日きてくれてもOK。

   なんだったら、添寝も付けちゃうよ」

春希「添寝なんてしてくれなくてもいいし、掃除もやらない」

千晶「べ~つに、遠慮なんかしなくてもいいのに」

春希「遠慮も希望もしてないから」

千晶「そう? でも、気が向いたら、いつでも言ってね」

春希「それはないから、覚えておかなくてもいいぞ」

千晶「もう、春希ったら、照れちゃって」

春希「照れてもないからな」

千晶「そう?」

春希「そうだ」



な~んか、朝から春希もハイテンションになるなぁ。

まっ、寝起きに聞かせるような話じゃないから、このくらいのテンションまで

引きあげないとねぇ・・・。



千晶「でさ、用があってここまできたんだけど、要件言ってもいいかな?」



あれ? なんか春希のテンションが一気に下がってない?

なんか体中から力が抜けきって、心の底から脱力しきってる?

あれ? なんか変なこと言っちゃったかな、私?



春希「どうぞ、どうぞ。さっさと言ってくれ」



春希は、そう投げやりに言うと、その場に座り込んでしまった。

だから、私も春希と同じ目線になるべく、その場に座り込み、四つん這いになって

春希の顔を下から覗き込んだ。



千晶「じゃあ、言うね」

春希「はい、はい」

千晶「あのね、春希。

   とりあえず、お腹すいたから、朝ご飯にしない?」

春希「はぁ? 朝ご飯? いきなり訪問してきたかと思ったら

   今度はその迷惑すぎる訪問者に朝食をふるまえっていうのかよ?」


千晶「何言ってるのよ、春希。

   朝食は大切なんだよ。朝しっかりご飯食べておかないと

   一日が始まったぁって思えないじゃない」

春希「俺は、ついさっき一日が終わったぁって思ったばかりなんだよ。

   これからしっかりと睡眠をとって、それからなら朝食をとる予定なの」

千晶「でも、昼まで寝る予定なんだから、それは朝食じゃなくて昼食じゃない」

春希「いいんだよ。そんな細かい事は。昼に朝食食べようが、一日の始まりの食事には

   変わりがないじゃないか。

   千晶が言っている朝食っていうのは、一日の始まりの食事の事であって、

   時間的意味は指定されていないはずだ。

   一日の始まりが昼ごろならば、その時しっかり食事をすれば何も問題ないはずだ」

千晶「朝からそんな屁理屈聞きに来たんじゃないんだけどなぁ」

春希「お前が言わせてるんだろ」



あれ? なんか春希お疲れモード? ちょっと息切れかけているよ。

春希はもうちょっと楽をすることを覚えるべきだよねぇ。



千晶「言わせてるも何も、ほらっ。春希の顔を見ると、つい言いたくなっちゃうのよ。

   だから、私のせいっていうよりは、春希のせい?・・・かな?」

春希「それ違うから、絶対違うから」



そうかなぁ・・・? これ以上つっこんじゃうと、本当に朝食抜きになりそうだから

この辺が潮時かな。それに、早く朝食をゲットして、本題も言わなきゃいけないしね。



千晶「じゃあ、春希がそう言うんなら、それでいいよ。

   もうっ、春希ったらむきになっちゃって。

   そういうところは、子供っぽいのよねぇ」

春希「断じて違うから。誰がなんて言おうが、あり得ないから」



あれ? 火に油注いじゃったかな?

もう、ほんとうにお腹すいちゃったんだけどなぁ。

私がしょんぼりとしていると、春希は立ち上がって背を向けてしまう。

そして、そのまま部屋から出ていこうとしちゃってるじゃない。

やばっ。本当に春希を怒らせちゃったかな。

まあ、しょんぼりしていたのは、お腹が空いてただけなんだけど、

しょんぼりしているか弱い女の子をほっといて逃げちゃうなんて、

春希、見損なったぞ。

だから、私は抗議の視線を送ろうと顔を上げる。

すると、そこにはいつもの春希がいた。




春希「朝だから、あまり手が込んだものは作れないぞ」



ちょっとぶっきらぼうな言いようだけど、さすが春希。

すがる千晶をほっとかない所がかっこいいよ、春希。

もう、愛しちゃってもいいくらい。



千晶「じゃあ、親子丼とナポリタンで」

春希「なんで、そんな朝っぱらからヘビーなメニューを二つも作らないといけないんだ」

千晶「心外だなぁ。本当は親子丼じゃなくてカツ丼にしたかったのよ。

   でも、朝だから揚げ物はやめようかなって」

春希「それでも、朝から親子丼とナポリタンの組み合わせはないだろ。

   仮に、どちらか一つならあり得るかもしれない。

   でも、二つもいっぺんに朝から食べるな」

千晶「もう、注文が多い春希よねぇ。じゃあ、いいよ。春希のお任せで」

春希「最初からそう言えばいいんだ」



春希はテキパキと料理の準備に入っていく。

あれ? なんか料理の手際がよくなってない?

前は、もっと手際が悪いっていうか、料理慣れしてないかんじだったのに。

最近料理でも始めたのかな?

だとすると、女かな?・・・・・・なんてね。

私は、春希の料理をする後姿を眺めながら、失礼すぎる妄想を繰り広げていた。

後になって知ることになるんだけど、料理を覚えたのが本当に女がらみだったとは。

やっぱ春希も男の子だったのねぇ。

私はもっと近くで春希を観察しようと忍び足で春希の後ろまで近付く。

そおっと後ろから春希の手元を覗こうとしたんだけど・・・。



春希「おわっ! 急にひばりつくな。驚くだろ。刃物を扱っているんだから

   くっつくのは禁止」

千晶「えっとぉ、まだくっついてないと思うけど?」



たしかにまだくっついていないはず。春希の料理をこっそりと、じっくりと

観察してやろうと、わざわざ気配を消して忍び寄ったんだから。

もしや、春希。対千晶用レーダーで気配を察知した?



春希「その・・・な。なんだ」

千晶「なによ?」

春希「言いにくいんだけど」


千晶「いつも言いにくい事でも、

   いらないおっ説教を上乗せして言ってくるのが春希じゃない」

春希「それは心外なんだけど、そのな。・・・・・・・胸が背中に当たってるんだ」



あ・・・、これは失礼しました。春希も多感なお年頃だもんね。

こんな肉の塊だろうが男受けだけはいいのよね。

春希もその一般大衆の一人なのかしら・・・ね?

春希には、色々お世話になってるし、多少はサービスしてもいいけど、

今回のは私の失策か。

やっぱ、せっかく料理してもらってるんだし、へたに邪魔をして怪我でもされたら

たまったもんじゃない。

美味しい料理を食べ損ねるなんて、私が許せるはずないもんね。

だから、偶然だけど、春希の背中に胸を押しつけちゃってごめん、ごめん。

でもね・・・・・・。



千晶「いやぁ、朝早くから春希に手料理ご馳走になるんだし、

   私の方からもお礼くらいはしないといけないと、考えたわけよ。

   だから、春希も素直に私の善意は受け取ってね」

春希「善意の押し売りは、はた迷惑なだけだ」

千晶「じゃあ、悪意の押し売りだから、素直に受け取ってね。・・・えいっ」



私は、心の中とは真逆の謝罪を春希に押しつけるべく、その背中に飛びつく。

そして、その背中に胸の形が崩れるくらい力強く押しつけた。

ま、いっよね。春希もけが予防のために、包丁をまな板の上に置いているし。

こういった危機管理は超一流よね。



春希「やめろって。危ないだろ」

千晶「包丁持ってないからだいじょぶだって。

   だってさ、こうなることがわかっていたから包丁置いたんでしょ?」

春希「それは違うぞ、千晶。こういった事態になっても対処できるようにする為に

   包丁を置いたわけで、こういった事態を望んでいたわけではない」

千晶「そう? 同じ事じゃない?」

春希「全然違う。予想して対処することと、予想してそれを望む事とは

   大きな隔たりがあるだろ」

千晶「予想はしていたんだ」

春希「いちおう、これでもお前との付き合いは長いからな」

千晶「だったら、予想できたんなら、私が飛びつく前に拒否する事もできたんじゃない?」



ちょっと強引だけど、私の主張が正しいって訴えるべく胸をこすりつける。



頭が堅過ぎる春希には、逆効果で、なおかつうっとおしがられること必至だけど、

春希にはもうちょっと砕けてほしいのよね。

これはこれで春希らしくて、私は好きなんだけどさ。



春希「一つの行動パターンとして予想はできても、まだ行動もしてないときに

   拒否することなんてできないだろ」

千晶「言う事だけならできるんじゃない?」

春希「言ったら言ったで、胸の事ばかり考えてるって言いかえしてくるだろ。

   それと、さりげなく胸を擦りつけてくるのもやめろ」

千晶「え? いやだった? これでも罪滅ぼしのつもりだったんだけど」



顔では名残惜しい雰囲気を作りつつ、春希の背中から離れる。

これ以上は、本当に怒らせかねないか。

それでも、だいぶリラックスできたかな?

なんだか年を開けたあたりから、ずぅっと表情が堅かったんだよね。

最近はだいぶ調子が元に戻ってきたみたいだけど、

それでもたまに思い詰めてる顔を見せてるのよね。

本人は隠しているつもりでしょうけど。



春希「お前なぁ。俺だからいいけど、他の男連中にはやるなよ。

   勘違いして、押し倒されているぞ。

   お前は十分魅力的なんだから、その辺のところは認識しておいた方がいい」

千晶「それって、・・・つまり」

春希「なんだよ」



ちょっと、ううん、おもいっきり厭味ったらしい顔を作ると、

これまた春希が一歩身を引くぐらいタメを作ってから、私は言い放つ。



千晶「それって、つまり、春希は私の体に欲情してるってことだよね?」

春希「一般論を言ってるだけだ。一般論であって、俺の個人的な意見じゃない」



そんなに顔を真っ赤にして、両手を激しく振って否定しても、

春希の個人的な意見も一般論に賛成しているって言ってるものじゃない。

普段は自分の感情を押し殺して、そして、理屈っぽいと所がありまくりのくせに、

リラックスしているときは駄目ダメなのよね。

感情だだ漏れで、論理も破綻。

鋼鉄の理性も、こうなったら無意味ね。




千晶「ま、いいか。おなかすいたぁ。まだできないのぉ?」



おどけた声で催促をする。

これ以上つっついても、いいことないしね。

それに、・・・・ほんとうにお腹すいたぁ。





第24話 終劇

第25話に続く










第24話 あとがき



千晶エピソード。

急に書こうかなって思ってしまいました。

もともとプロットだけはあったので、書く内容には困らないんですけどね。

えぇ、また本編の進行が遅くなります。

・・・・・・石を投げるのは禁止です(きりっ)

ごめんなさい。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。


お詫び

今週より、深夜のコメントアップはしません。

あとがき、コメントのネタがつきました。ごめんなさい。

あとがきだけは、もう少し頑張ります。


黒猫 with かずさ派




第25話





4-1 千晶 3月1日 火曜日








春希「お前が邪魔をするからだろ。お腹すいたんなら、黙って見ていろ」

千晶「はぁ~い」



私は素直に春希の料理姿を観察する。

けれど、それも数分で飽きちゃって、冷蔵庫の中やら戸棚の調味料なんかを確認する。

うん、やっぱり調味料やストック食材が増えてる。

さすがに腐りやすいものは少ないけど、長期保存できる調味料や乾物なんかは

以前来た時にはなかったものが多いかな。

女、できた? でも、寝室兼勉強部屋をかる~くチェックしたけど、

女の影はないのよね。

この家には連れ込んでないから?

たしかにこのマンションって大学から近すぎて、大学の友達に見つかりやすいのよね。

だからかな?

でもなぁ、春希が彼女できたからって、大学の友達に隠すかな?

彼女を見せびらかすようなタイプでもないし、だからといって秘密にもしないし。

そもそも、人の目なんて気にしないタイプよね。

やっぱ、ここは直球勝負するしかないかな。



千晶「ねえ、春希」

春希「なんだ? 部屋を勝手に漁るのはいいけど、散らかすなよ」

千晶「散らかしてないから、大丈夫だって」

春希「だったらいいけど。で、なんだよ」

千晶「うん。・・・・・ねえ、春希って、彼女できた?」



うん? 無反応?

手元はさっきまでと同じように野菜をフライパンで炒めてはいる。

これといって、大きな動揺は、一応、表面上は、見せてはいない、か。

うん、見た目だけは、いつも以上に、普段以上に、冷静さを作り出している。



春希「今はバイトで忙しいんだぞ。しかも、就活も始まるし、卒論だってある。

   どこに彼女と楽しむ時間があるっていうんだ」


千晶「そっか。忙しいか。今日もバイト?」

春希「ああ、そうだよ。午後からな」

千晶「へぇ。変なこと聞いてごめんね」

春希「ったく」



そう小さく悪態を吐くふりをして、春希は今まで以上に料理に没頭していく。

ごめんね、春希。

これってやっぱり、彼女できたんだね。

ウィーンにいる冬馬かずさかな。

小木曽雪菜とは完全に駄目になったみたいだけど、だから彼女の事を隠してる?

同じ大学だし、一応は筋は通っているのよね。

でもなぁ、な~んかちょっと違う気がするのよねぇ。

そんなこんなで春希の近況を詮索していると、フライパンから食欲をそそる香りが

私を誘惑してくる。



春希「くっつくなっていっただろ」

千晶「だってぇ。美味しそうな匂いがぷんぷんしてきたから、ついぃ」



これは私も予想外。あまりにも美味しそうな匂いがしちゃうものだから、

春希の背中から、春希の肩に顎をのせて覗き込んでしまった。

春希は背中から襲ってくる強烈な邪念を無視して、お皿に盛りつけを始める。

ケチャップ以外にも、オイスターソースやマヨネーズ、それにハーブの調味料なんかも

おいてあるし、けっこう期待出来ちゃったりする?

おや? これは目玉焼きじゃない。

ナポリタンの上に、半熟の目玉焼きをのせてくれるだなんて、

春希ったら、こんなところでお胸のお礼をしてくれなくてもいいのに。



春希「ほら、運ぶの手伝えって」

千晶「イエッサー」



元気よく返事をすると、春希の指示に従ってお手伝いをする。

うん、食欲の前では逆らえません。

しかも、美味しそうな料理の前だったらなおさらね。







さすが私の鼻。美味しい臭いをかぎわける能力の高さはすさまじいね。

予想通り春希が作ってくれたナポリタンは最高だった。

今もお代わりで貰った目玉焼きが二つのったナポリタンをもうすぐで完食するところだ。



お腹も十分満たされてきたし、そろそろ本題に移らないといけないか。

春希の方も、いつ私が本題を話すのかって気をもんでいるみたいだしさ。



千晶「あのね、春希」

春希「そろそろ話す気になったか?」

千晶「うん、話そうとは思うんだけど、その前にお茶のお代わりいいかな?」



春希は無言で頷くと、私のカップにお茶を注ぐ。

のんぶりと漂う湯気が、ほのかに温かさを匂わす。

私は、そおっとカップを手に取ると、ちょっと大げさに「ふぅ、ふぅ~」って

飲みやすい温度まで下げる仕草をしてから一口お茶を喉に流す。



春希「もう十分か?」

千晶「OK、OK。じゃあ話すね」

春希「そうしてくれると助かるよ」

千晶「うん。とりあえず、時間ないから手短に話すね」



春希は、私の「時間ない」発言を聞いた直後に、すっごく嫌そうな顔をする。

もうわかったのかな? 春希君。

そう、君の期待通りの言葉が続くと思うよん。



千晶「大石教授がね、今日、朝一で春希と一緒に教授の部屋までこいってさ」

春希「は?・・・・・え?」



春希は、きっかり五秒間だけフリーズするが、すぐさま再起動する。

瞬間的に脳をフル起動させると、勢いよく時計の方に振り返った。

そこで、なんと再度のフリーズを起こしてしまう。

えらい、春希。今度は三秒のフリーズですんだみたいだよ。

春希の視線が壁時計から私にへと戻ったころには、

春希が淹れてくれたお茶も飲みやすい温度まで下がり、うぅ~ん飲みやすいぃ。

きっとスーパーで買ってきた特売の緑茶だろうけど、

美味しいナポリタンの後に飲むお茶は格別よね。



春希「のんきにお茶なんて飲んでいる時間なんてないだろ」

千晶「そう? でも、朝一っていっても九時に行けばいいんだよ」



ちょっと、春希さん。痛い子を見るような悲しい目で見ないでよ。

なんか、恥ずかしいじゃない。そんなにぎゅっと見つめられちゃうと。




春希「なにを言ってるんだ。どこの世界での尺度で考えれば大丈夫なんだよ。

   今、もう八時四十分を過ぎているじゃないか」

千晶「大丈夫だって。ここからなら、走っていけば五分もかからないじゃない」

春希「大学の正門まで五分以内についても、

   お前の計算では教授の部屋までの時間は考慮されていないだろ」

千晶「一応全力疾走すれば五分でつくんじゃない?」

春希「だったら、俺が大学に行く支度をする時間は?」

千晶「うん、ごめん。春希なら、もう起きている時間だと思っていたよ」

春希「だったら、朝食なんかねだらないで、部屋に来た時、一番最初に伝えるべき情報だろ。

   それをお前って奴は、ゆっくりと食べて、お代わりまでも」

千晶「それは、春希が悪いんだよ」

春希「なんでだよ」

千晶「だって、美味しかったから、お代わりしなきゃだめでしょ?」

春希「そ・・・れは、どうも」

千晶「どういたしまして」

春希「って、違うだろ」

千晶「うん、そうだね。もう四十五分になりかけているよ」



春希は私の指摘で再び壁時計を確認すると、今度は私の方には視線は戻ってはこなかった。

その代わり、素早く立ち上がると、テキパキと身支度を始める。



春希「食器は流しに水をつけておくだけでいいから。

   帰って来てから洗う。お前も今すぐ大学に行く準備しろよ」

千晶「アイアイサー」



春希の言いつけ通りに流しに食器を持っていき水につけると、そのまま玄関へと向かう。

まあ、私の場合、コート来て靴履けば準備完了なのよね。



春希「・・・・ええ、すみません。今すぐ向かいますので。

   ・・・・・・・・・・はい、わかりました」

千晶「どうしたの、春希? 時間がないって言ってた割には、ゆっくりと電話なんかして」



春希は携帯電話を鞄にしまうと、私に続き、靴を履き始める。

止まって話をする時間も惜しいみたいで、私の顔を見ずに、靴の準備と共に

私への説明も始めた。



春希「大石教授に連絡したんだよ。今から行くから少し遅れるって」

千晶「まめだねぇ、春希も」



春希「お前がもっと早く言ってくれれば、こんなに慌てることもなかったんだよ」



春希のお説教タイム第二ラウンドが本格的に始まるころには、部屋の鍵をかけて、

早足でエレベーターへと向かい始めていた。



千晶「一応昨日の昼に電話して、夕方にもメールしたんだけど?

   でも、春希からは返事来なかったから、こうして今日直接きたんじゃない」



春希はすぐさま携帯を確認すると、ほんの少しすまなそうな顔をにじませる。

でも、急いでる事もあるし、今朝ゆっくり朝食なんて食べてたもんだから、

やっぱり春希は釈然としないみたいね。



春希「すまない。昨日は特に忙しくて、電話もメールもきていた事は気がついていたんだけど

   後回しにしていた。ほんとうにすまない」

千晶「いいって。こうして今一緒に行ってくれているんだし」

春希「そうはいっても、俺がしっかり確認していれば、遅刻しないで済んだのに」

千晶「もういいじゃない。春希が教授に電話してくれたおかげで

   十分間の全力疾走は免れそうだしね」

春希「そうだな。なぁ、ところで、なんで教授に呼ばれたんだ。

   さっき教授と話していても、こっちが遅刻するって言ってるのに

   なんだか教授の方が申し訳なさそうな感じだったんだよな」

千晶「気のせいじゃない?」

春希「そうか?」

千晶「ほら、急がないとねぇ」



ここで春希が余計なこと考えてユーターンなんてしだしたら、たまったもんじゃない。

こっちは春希のせいでこうなったんだから、ね。

私としてはどうでもよかったのに、春希がどうしてもっていうからさぁ。



千晶「急ぎますよ~」



私は、春希の背中を両手で押して、その足を加速させる。

ただ、デスクワーク中心のバイトらしいので、その加速も、私が手を離すと即座に失速した。

けれど、どうにか話題の修正だけはできたので、よしとしましょうか。

教授は待たせておけばいいのよ。

なんたって、こんな朝早くに指定するのが悪い。

なんて、春希からすれば、大変不届きモノの発言らしいけど、

とりあえず素直に春希の背中を追い越し、その隣へと並ぶ事にした。










春希の部屋とは違い、暖房がしっかりと効きすぎている教授の部屋は、

その暖気以上に、目の前の二人の熱気がみなぎっていた。

朝からヒートアップするだなんて、春希はともかく、大石教授はお年なんだし、

リラックスしないとねぇ。



春希「どういうことでしょうか?」

大石教授「つまりですね、和泉さんはこのままだと四年生に進級できないのですよ」

春希「でも、出席日数は余裕があったはずですよね?

   それとも試験の出来が悪かったのですか?」

大石「そのどちらもです」



春希が思わず私の方に振り返るが、どういう表情で出迎えた方がいいかな?

やっぱ苦笑いをしつつ、申し訳なさそうにするのが春希好みだよね。

じゃあ、それでいこっかな。

というわけで、春希好みの「頑張ったけど、ちょっと失敗しちゃった女の子」を

演じることにした。



千晶「ごめんね、春希。前半春希がしっかりサポートしてくれていたから

   大丈夫かなって思ってたんだけ、年明けてから油断しちゃった」



というのは、嘘なんだけどね。

ヴァレンタインライブの為に、練習に気合を入れ過ぎたのがいけなかったか。

結果としては、ライブは大成功して、春希との関係も破綻せずにはすんだ。

それとは引き換えに、劇団公演の方は私の脚本が没になって、急遽代わりの脚本で

私抜きで公演やってるみたいなのよね。

一応最初の公演の方で主役だったし、代わりの公演の方も主役でって団長が言ってたけど、

それはやっぱ、春希優先でライブをとっちゃったしなぁ。



春希「それって・・・」

千晶「違うよ」



私は、春希が言おうとした事を察知して、それを遮る。

なんだって春希は、馬鹿正直なんだろう。

それが春希のいいところなんだけど、今は教授の前でしょ。

絶大なる信頼を得ている春希だからこそ、これからチャンスをもらえそうなのに、

その春希自身が自らの評価を落として、そのチャンスを台無しにしたらどうなっちゃうのよ。

まあ、私は最初から進級なんてどうでもよかったんだけど、そうなんだけど、

最近は春希と一緒に卒業するのもいいかなって思ってあげているのよ。

だから、その辺の私の事情も察しなさいよね。

この鈍感春希めが。



春希「和泉・・・」

千晶「浜口教授には、今日会えるんですか?」


春希には悪いけど、ここはさっさと話を進めさせてもらうわね。


大石教授「この後会う予定ですよ。ですけどねぇ。浜口教授は・・・」



この浜口のおっさんのせいで春希が引っ張り出されたわけなのよね。

そもそも私とは、そりが合わないことが必然すぎて、顔を合わすべきでもない。

春希も苦手ってわけでもないみたいだけど、好んで相手をしたい人間だとは思っては

いないみたいなのよね。

もっとも、向こうの方は春希のことをえらく信頼しているみたいだけど。

一方通行の恋も、相手によっては、はた迷惑極まりない例の極致かな。



春希「なにか問題でもあるんですか?」

大石「先ほども話しましたけど、和泉さんは四年生に進級するには二科目足りません。

   そのうち一科目は昨日レポートを提出することで決着がつきました。

   もちろん北原君が責任をもってサポートすることが条件なのですけど」



大石教授は、自分の事のように申し訳なさそうだ。

このおじいちゃん、面倒見がいいのよね。

ただ、私に対してだけは春希に丸投げだったけど。

それだけ春希を信用していたってことかな。

それとも、自分がやるより春希が面倒見たほうが効果的って考えたのかな?

だとしたら、けっこう人を見る目があるおじいちゃんよね。

今はのほほんと気が弱そうなおじいちゃんしているけど、

昨日の私のレポート提出を勝ち取る手腕は見事な手さばきであることながら、

その根回しの周到さも春希以上だと感じ取れた。

もし春希がこのまま育ちに育ったら、こんなおじいちゃんになるのかも。

それに、あの口うるさい浜口のおっさん対策として、春希を連れてくるあたりが

抜け目がないと評価できた。

まあ、昨日はほんとうにあのおっさんの予定がきつきつで、

面会時間がとれなかったんだけどさ。



春希「千晶のサポートは、もともと任せられていたのですし、問題ないです。

   むしろ、こんな事態になってしまって、申し訳ありません」


大石教授「いやいや、頭を上げてください。私も北原君に全てまかせっきりにしたのが

     いけなかったのです。君はいつも頑張っているから

     つい頼ってしまったのがいけなかったのですよ。

     それにね、ヴァレンタインコンサートの方の評判も聞き及んでいるんですよ。

     大変すばらしかったとか。言ってくだされば、私も見に行ったのに」



そう、意外すぎる人物からのコンサートの賛辞に、春希は面を喰らう。

たしかに、このおじいちゃんがヴァレンタインコンサートなんて似合わなすぎる。

春希の事だから、こんな失礼な意味で驚愕してるんじゃないと思うけどさ。



春希「俺はたいしたことやってないですよ。

   すごかったのは、和泉の歌とピアノで参加してくれた冬馬かずさなんですから。

   だから、俺なんておまけみたいなものなんですよ」

大石教授「そうですか? でも、北原君も頑張ったから、

     メンバーの二人も頑張ってくれたのではないでしょうか」



どこまで知ってるの?って勘ぐっちゃいそうだけど、きっと一般論よね。

たしかに、春希が頑張っていなかったら私は参加してないわね。

ただたんに、冬馬かずさとの記念ライブってことなら、私が参加する意味がない。

でも、冬馬かずさの映像出演なんて、私が勝手にやっちゃったわけで、

もともとは音源だけだったわけだし。

と、考えると、春希がライブで冬馬かずさといちゃいちゃするためだけっていう考えは、

そもそも成り立たないわね。

いやぁ、策士千晶さまも色ぼけちゃったかな。



春希「逆ですよ。二人が頑張っているからこそ俺も頑張ろうと思ったんです。

   だから、俺が頑張らなくても二人はきっとみごとに成功させていたはずですよ」

大石教授「そうでしょうかね。あなたが本当にそう思っているのならば、

それでもいいでしょう。さてと、そろそろ浜口教授のところへ行きましょうか。

     いつまでも待たせておいても失礼ですしね」



大石教授は、そう言うと、テキパキといくつかの資料を手にして席を立つ。

おそらく私の成績とかレポートとかなんだろうなぁ。

昨日も同じようなの持っていたし、きっとそうなのだろう。

こういった根回しっていうか、事前準備の部分も春希そっくりね。

ほんとうだったら、私なんて留年させて、とっとと大学から追い出しちゃえばいいのに。

いらぬお節介で、いらぬ荷物をしょっちゃうあたりも、ほんとそっくり。

気苦労が絶えないから出世しないような感じもするんだけど、

これでも学部長なのよね。




見た目はどこにでもいるおじいちゃんなのに、抜け目がない。

おじいちゃん、おじいちゃんって、心の中では言っちゃってるけど、

こう見えても意外と若いしなぁ。

となると、春希も気苦労を重ねて、将来老けるの速かったり?

ただまあ、食えない性格ってところが春希とは違うかな。

おそらく春希は、このおじいちゃんみたいな隠れた野心家ではないと思うしさ。



春希「教授。行く前にちょっといいですか?」

大石教授「どうぞ」

春希「事情はどうにかわかってきたのですが、あの浜口教授がレポートくらいで

   単位をくれるでしょうか?」

大石教授「おそらく難しいでしょうね」

春希「自分も同じ意見です、浜口教授は、良くも悪くも厳格な方です。

   授業点に関する配点さえも公表するくらいですから。

   その授業点とテストの点の合計点で、合格点に満たなければ

   きっとどのような理由があっても単位はくれないと思います」

大石教授「でしょうね。しかし、このままでは和泉さんは留年してしまいます。

   留年してしまえば、一年棒に振ってしまいますし、なによりも北原君がいなければ

   このまま授業に出なくなり、そして退学してしまうのではないでしょうか?」



大石教授の細い眼が私を捉える。

よく見てるなぁ、このおじいちゃん。

春希じゃないけど、私も同意見ですよ。

春希がいるからちょっと頑張って一緒に四年生になろうとも思ったんだけど、

最後の最後でへましちゃったのよね。

年が明ける前までは、春希に色々文句を言われながらも、どうにかギリギリの線で

頑張っていた。

でも、年明けて、ヴァレンタインライブが決まったところで、事態は急転する。

・・・・・・冬馬かずさ。あの子、何者なのよ。

あの子をトレースしようとしたら、この私が全くトレースできないんだもの。

それでもライブまでには形にはできたんだけど、私としては不完全燃焼で

不完全すぎるお芝居だった。

まったく冬馬かずさを演じられなかった。

けれど、ライブで春希と冬馬かずさのセッションを見て、なんか納得しちゃったかな。

偽物だろうが、冬馬かずさにはなることはできない。

偽物に近い偽物を演じる事ならできるだろうけど、

それだと私のプライドが許さなかった。

偽物は偽物らしく、本物にならなくちゃいけない。


どこまでもふてぶてしく、本物以上の偽物をやらなくて、なにが女優よ。

こればっかりは、私の意地ね。

なぁ~んて、私が考えていたことなんて知らずに春希はライブで

あの冬馬かずさといちゃこらしてたんだろうけどさ。






第25話 終劇

第26話に続く









第25話 あとがき




千晶「著者があとがきから逃亡して、代わりに黒い猫を置いていったって?」

黒猫「にゃ~」

千晶「千晶エピソードって、別に書いていた『千晶、踊る仔猫』なんだよねぇ。

   たしか本一冊分の容量なかったっけ?」

黒猫「にゃぁ・・・」

千晶「このままだと『心の永住者』の本編再開するまで時間かかるから

   著者があとがきから逃げたのか・・・。

   私が活躍するんだったら、困らないけど」

黒猫「・・・・・・」

千晶「でも、『~coda』のプロットは最後まで書きあげてあるんだし、

   最後まで書いちゃえばいいのにねぇ。

   そんなに私の事が書きたいか。

   だったら、書くしかないね(にやり)」

黒猫「・・・・・・」

千晶「まっ、著者のことだから、さわりの部分しか書かないんだろうけど・・・・。

   とりあえず、あとがきってどうするの? 放置?

   もう帰ってもいい?」

黒猫「ニャー」

千晶「え? 駄目? これだけは言ってから帰れって?

   来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

   また読んでくださると、大変うれしいです。

   じゃ、また来週~(すた、すた、すた・・・・・)」



黒猫 with かずさ派



第26話





4-1 千晶 3月1日 火曜日






春希「教授は、和泉を卒業させたいと考えているのですね」

大石教授「そうですよ。だからこそ、北原君に預けたのですが、

     最後の方で失速してしまったようですね」

春希「すみませんでした。自分の監督不行き届きです」

大石教授「いいのですよ。先ほども言いましたけど、コンサートの為に頑張るのも

     大学生の本分だと、私は思っていますからね」

春希「ありがとうございます。それで、教授は、このままただ和泉を留年させるだけでは

   来年からの和泉の勉強に取り組む態度が悪化するとお考えで、

   その為に俺のサポートがフルに受けられる四年生への進級を

   無理にでも推し進めようと考えているのですね」

大石教授「おおむねその通りですよ。レポートで単位をくれると納得してくれた教授も

     北原君が言ったような事を私が昨日言ったら、どうにか納得してくれましたよ」

春希「そうですか。でも、それが浜口教授に通用しましかね?」

大石教授「どうでしょうか。一応和泉君のテストの点は、

     どれも合格点を超えていたんですよ。

     けれど、昨日レポートを勝ち取った科目も、浜口教授の科目も

     どれも出席日数が一日足りないのですよ。

     しかも、レポートの提出や課題の提出があまりにも遅れて提出されて

     いるのです」

春希「それは、単位をくれるにしてもグレーゾーンすぎますね」

大石教授「そうですね。だからこそレポートで手を打ってもらえたのですがね。

     けれど、浜口教授は、あまりにも厳格で、このグレーゾーンも

     黒に近いグレーですね」

春希「でしょうね」

大石教授「だからこそ、今日は君に来てもらったのですよ」

春希「え?」

大石教授「聞きましたよ。あの浜口教授のお気に入りの生徒らしいですね」

春希「え?」



春希は、大石教授の情報源であろう私を睨みつけてくる。

正解、春希。ご明答。春希のご想像通り、私がおじいちゃんに教えたんだけどさ、

でもね、そうでもしないと、このおじいちゃん、昨日帰してくれそうになかったのよ。


なにかしら手を打たないと、確実に私は必修科目である浜口教授の単位を落としちゃう。

その結果、進級要件の必修科目を取得していない私は、来年も必然的に三年生さ。

だからね、春希。お願いっ。一緒にライブをやった仲でしょ。



春希「わかりましたよ。俺が責任を持ってサポートすれば、

   どうにかレポートになるかもしれないですし」

大石教授「いえ、それは無理でしょうね」

千晶「え?」



思わず大声で出してしまった。だって、レポートでかたをつけるんじゃないの?

それともなに? それ以外の方法でもあるっていうの?

私の声に驚いた二人は、私の方に振り返るが、それもすぐに興味を失い、

すぐさま二人の会話に戻ってしまった。

たしかに私が会話に参加しても、なにもいい意見をだせるとは思わないよ。

でもね、こうもあからさまに残念そうな表情を見せないでよ。



春希「だとすると、仮単位ですか?」

大石教授「はい」

千晶「仮単位?」

大石教授「仮単位ならば、どうにか浜口教授も納得してくださるでしょう」

千晶「そなんだ。それで四年生になれるの?」



大石教授「はい、なれますよ。レポートもしっかり提出してくださればね」



千晶「それは、ばっちりOK。なにせ春希が責任を持って監督してくれるからねっ」

春希「そこは、お前が責任を持ってレポートに取り組むっていうべきだろ」

千晶「私が言ったところで、だれも信用してくれないでしょ。

   だったら最初から春希が責任を持つって言った方がいいってものよ」

春希「そうかもしれないけど、これは気持ちの問題だろ」

千晶「そう? でも、そんな気持ちの問題を大切にするよりは

   とっとと見切りをつけて現実的に対処すべきでしょ」

春希「だけど、・・・・・・もういいか」



春希もようやく納得してくれたみたいね。

これで、どうにか私も来年からは四年生か。

って、その前にレポートかぁ。こりゃ徹夜だな。

ん?・・・・・・仮単位って、なに?



千晶「ねえ、春希」




私は、思わず力がない手で春希の服の裾を引っ張ってしまった。

だって、ここまで来たっていうのに、怪しすぎる「仮」単位なんて、

聞き慣れない言葉が出るんだもん。

いくら図太い神経の持ち主の千晶様であっても、弱気になっちゃうわよ。



春希「どうした?」



やっぱ、私が急にしおらしくしたから、春希であっても心配するか。

そうか、心配するか。今度からは、この手も使ってみよっと。

でも、乱発すると効果がなくなるから、今回みたいなここでって時のだけの必殺技だな。



千晶「仮単位って何? 仮って、どういうこと?」

春希「ああ、その名の通りだよ。仮に単位を認めてくれるだけ。

   単位は認めてるから、いちおう来年からは四年生になれるぞ」

千晶「ねえ、その「いちおう来年からは」って、どういう意味かな?」



私の額からは汗がゆるりと流れ出ているかもしれない。

だって、ここにきて、みょうにこの二人が怖い。

なにか、すっごく面倒な事を私に押し付けようとしてるって、びんびんと肌から

感じ取れるもの。ぜったい何かとんでもない事を最後にとっておいてるでしょ。



春希「それも、その名の通りだよ。いちおう来年からは和泉も四年生になれる」

千晶「でも、その後に「だけど」がつくんでしょ?」

春希「よくわかったな」



よくわかったなじゃな~い。

なによ、その偉そうな顔。これがどや顔ってやつか?

ねえ、そうなんでしょ?

くぅ~っ、むかつく~・・・・・・。

春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。

春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。

春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。春希のくせに。

・・・・・・・。



春希「落ち着いたか?」

千晶「春希のくせに」



私は肩を落として、ぜえぜえと肩を揺らしながらも、顔だけ上を向いて春希をにらみつける。



でも、春希ったら、涼しい顔で私を見下ろしてきていた。

もうっ、春希のくせに。



千晶「で、「だけど」の先はなんなの?」

春希「ああ・・・、一応四年生にはなれるけど、

   浜口教授の講義だけはもう一度受けなければならない。

   たぶんこれなら浜口教授も許してくれると思うよ」

大石教授「たぶん大丈夫でしょうね。

     なによりも、和泉君の世話をしたいと思う先生はおりませんでしたし」



なによそれ。今頃になっての新事実?

つまりは、今年留年して、来年私の面倒をみたくないから、ていよく四年生に

させるってこと? そして、春希にぜ~んぶ面倒みさせるってことか。



春希「なんだか不満そうだな」

千晶「そう見えるんなら、そうなんじゃない?」

春希「いちおうこれも言っておくけど、大学は義務教育じゃないんだぞ。

   だから、留年するのも退学するのも、基本的には自由なの。

   ここまで親身になって世話をしてくれている大石教授が特別なんだよ」

大石教授「私はそこまでお人よしではありませんよ。

     なによりも、北原君に和泉さんの事を丸投げしてしまいましたからね」



ううん、違う。本当は大石教授が面倒をみるつもりだった。

私を大学に引き止める為に、大石教授が拾ってくれたって、あとになって聞いていた。

私としては、春希と一緒のゼミになれてラッキーぐらいだったし、

どうやって春希と同じゼミになろうかって悩んでもいた。

そもそも、あの春希が入っちゃうゼミなんだから、入室倍率は高い。

普通に入るんなら、かなり優秀な成績を収めていないと不可能だ。

それなのに私が入室できたのは、特別枠の、特別待遇。

だれも引き取ろうとしなかった問題児を、緊急処置で引き取っただけにすぎない。

だけど、ここで誤算があったのが、大石教授が急遽忙しくなってしまった事だ。

これもあとになって知った事だけど、入試改革をして、大学の価値を上げるために

学部長たる大石教授が責任者になってしまった。

今の世の中、力のない私立大学は廃業していってしまう。

募集定員割れも、うちの大学でも起こっているらしい。

都心にあって、そこそこのレベルのうちの大学が、今すぐ経営危機に直面するわけでは

ないだろうけど、それでも、大学経営が厳しくなっている事は事実なんだろう。




そこで大石教授が責任者として改革チームを率いていくわけなんだけど、

そうなると今までも忙しかった大石教授が、改革チームと問題児を両方面倒見る事

なんてできようもなかった。

だから春希が私の後継人になったわけだし。

教授達からも、生徒からも信頼が厚い春希ならばっていう当然の選任なのだろう。



春希「それでも色々と影から支えてくれていたじゃないですか。

   レポートの提出期限なんかでは、よく大石教授が直接お願いに来たって

   言っていましたよ」

大石教授「あれだけ内緒にして欲しいと言っておいたのに、しょうがないですね」

春希「一応和泉にプレッシャーをかける為でしょうかね。

   まあ、主に交渉していたのが自分ですので、和泉には教授達の思いは

   全く届いていなかったみたいなのですが」

大石教授「そのあたりも痛いほどわかっていると思いますよ。

     だから北原君に言って、和泉さんの手綱を引き締めておいて欲しかったのだと

     思いますよ」

春希「そうだとすると、ますます申し訳ないです。自分が油断したあまりに

   こんな結果になってしまって」

大石教授「もうよしましょう。そろそろ時間ですしね」

春希「はい」



そう二人はこの話を締めくくると、部屋をあとにする。

なんだか臭い芝居を見たあとみたいな気がして釈然としない。

もう、ほんとうにうっすらと涙さえ浮かべているか確かめてやりたいほどだ。

・・・・・・そんな面倒な事はしないけどさ。

だけどっ、なんなのよ。いちばん釈然としないのは、仮単位ってなんなの。

レポートはやらないといけないけど、結局は来年もう一度あの浜口のおっさんの

講義を聞かないといけないってことじゃない。

ほんと、春希じゃないけど、朝一で疲れる報告聞いちゃったな。

私は、とぼとぼと、尻尾をだらりと力なく引きずりながら、二人のあとを追った。










再び大石教授の部屋に戻ってきた私たちは、思い思いの恰好で椅子にもたれかかっていた。

中でも一番疲れきっているのは私だって断言してもいい。

この部屋を出る前に見た春希と大石教授の猿芝居が子供のお遊戯だって思うくらい生易しい

精神的ダメージであった。



今思い返しても腹が立つ。

なんなのよ、あの浜口のおっさん。

あんなんだから、いつまでも独身で、出世もできないでいるのよ。



春希「どうにか予想通り仮単位認定にできましたね」

大石教授「だいぶ渋い顔をしていましたけどね。

     そこはさすが北原君というところでしょうかね」

春希「どうでしょうね」



二人して喜びを分かち合ってるみたいだけで、忘れてないでしょうね。



千晶「なんで単位もらえないのにレポートやらないといけないのよ」



そう。やっぱり仮単位を貰う条件がレポートだった。

さすがに無条件には仮単位といえどもくれないらしい。

来年もあのおっさんの顔を見ないといけないのかぁ・・・。

これだって、私からしたら、非常に不本意なのよ。

それなのに、単位がもらえないばかりか、レポートをやらないといけないなんて。



春希「その顔は不満ですって感じだな」

千晶「当たり前でしょ。

   なんで貰えもしない単位の為にレポートやらないといけないのよ」

春希「それは、浜口教授の講義が必修科目だからだろ。

   これを落としたら、四年生に進級できない」

千晶「でも、なんでレポートやらないといけないのよ。

   来年も受けるんなら、意味ないじゃない」

春希「だから、仮単位といえども、一応は単位認定されているんだから、

   ただで認定するわけにはいかないだろ」

千晶「わかってるわよ。わかってるけど、あのくそ親父の顔を思い出すたびに

   むしゃくしゃするのよ」



私のヒステリーに、春希も同情の色を見せてくれる。

これは珍しい事もあった事だ。

普段だったら、ここぞとばかりにたたみかけてお説教モードに突入するはずなのに

今回だけは鬼の春希にも優しさが灯したらしい。



春希「あれだけねちねち言われたら、わからないでもない」

大石教授「正論なので反論しにくいのもありますね。

     こちらが無理を言っているので、強くも言えませんし」


春希「そうなんですよね。浜口教授の言い分が正しいから反論できないんですよね。

   これが少しでも感情的な言い分でしたら対処のしようがありましたのに、

   一貫して感情論ではなくて正論で押し通しましたからね」

大石教授「それが浜口教授のいいところでもあるんでしょうけどね。

     あくまで公平で明確な基準をモットーにやられてきましたし」

春希「でも、最後はこちらの粘り勝ちでしたね」

大石教授「いえいえ。最初から大石教授も仮単位を認めるつもりでしたよ」

春希「え? ある程度は認めてくれるとは思っていましたけど、最初からですか」

大石教授「そうですよ。あの理論派の浜口教授なのですよ。

     和泉さんが今年留年してしまったら、退学してしまうってことも

     わかっていたはずです。

     だからこそ北原君のサポートが必要だとわかっていましたし、

     北原君がいたら卒業も可能だと思っていたんでしょうね」

春希「だとしたら、何故ああまでしても、なかなか認めてくれなかったのでしょうか」

大石教授「それは、和泉さんの心構えでしょうね。

     なにせ、最初から北原君に頼る気満々だったのでしょう?」



痛いところを突くおじいちゃんだよね。

私の事を春希以上にわかっているのかもしれない。

ぶっちゃけ、大学なんて退学してもいいって思っていたし、四年生に進級することだって

最近までは全く興味を持てなかった。

だけど、この前のヴァレンタインコンサート。

あれで、北原春希と冬馬かずさのことを知っちゃったからには、

この先も見てみたいって思ってしまったのよ。

だとしたら、今、春希の側から離れるのはよくない。

このまま春希と一緒に大学四年生になって、大学を卒業するべきだ。

卒業後は、あれだ。まあ、なんだ。予定も未定で、なにも計画はないけど、

最悪、春希のマンションの側に部屋でも借りて、ご飯目当てに転がりこめばいい。

春希にも会えるし、ご飯にもありつける。

これで一石二鳥ってかんじよね。



千晶「頼る気はあったけど、なんとかしようとは思っていたのよ。

   私も進級したいって思ってたから」

大石教授「そうですか。今度からは、もっとわかりやすくやる気を見せてくださいね。

     そうすれば、浜口教授ももっと早く解放してくれたでしょうから」

千晶「は~い。わかりましたぁ」



もういいや。お腹すいたし。

早く家に帰って、春希のご飯が食べたい。

絶対に食べたいっ。


ほんとっ、春希の料理の腕あがってたよね。

こりゃ、昼食も期待しちゃうでしょ。



春希「では、期日までにレポートを二つ提出させるように頑張ります」

大石教授「いいえ、違いますよ」

春希「え?」

大石教授「私の講義も少し危なくてですね、その分も入れてレポートは三つなんですよ」

春希「わかりました。善処します」



あの春希でさえ苦笑いを浮かべて大石教授から最後のレポートの課題を受け取る。

もうここには用はない。

とっととおさらばしたい気持ちでいっぱいだった。

さっきまで親身になって手助けしてくれたから、ちょっとだけ尊敬しちゃったじゃない。

それなのに、私の気持ちをもてあそんで。

最後の最後になって、大石教授のレポートだなんて。

この際他の二科目のレポートはよしとしましょう。

でも、大石教授のレポートだけは勘弁してほしいな。

なにせ、普段のレポートも学科、いや大学トップクラスの面倒くささを有しているのに。

しかも私が受講した大石教授の講義。

二コマ連続の講義で、なんと一年間の通年講義なのよね。

つまり、この講義。

たった一つの講義であっても、たった一つで四講義分の分量があるっつ~のっ。

もうっ。私を殺すつもりじゃないかしら。

こうなったら、春希の料理でやけ食いだからね。

これは確定事項っ。絶対引かないんだから。










私達は、自然と春希のマンションの方へと足が向かう。

そもそも大学のカフェは春休みで休業中だし、わざわざ学外のカフェで打ち合わせを

するのも金銭的にもったいない。

それに、なによりも外食では春希のご飯にありつけないのだから、自然なふうを装って

既成事実的に春希のマンションへと向かっていた。

部屋に着くと、春希が年寄りくさく床に座るものだから、

一言ちゃちゃを言ってやろうという誘惑にかられる。

きっと普段の私ならば言った事だろう。

だけど、今日の春希の頑張りようや、これからお世話になることを考えると

今日のところはおとなしくしとこっかな。



さて、ここは女の子らしくコーヒーでも自発的に淹れるべきだろうか?

でもなぁ、そんなの私のキャラっぽくないし、困ったものだ。

それに、もう和泉千晶を演じる必要がないっていうのが問題なんだよなぁ。

ヴァレンタインコンサートの時に、春希と冬馬かずさを観察していたって

ぶっちゃやはしたけど、和泉千晶という人格は、春希に近づく為に作り上げたって

事までは教えてはいない。

だったら、このまま和泉千晶を押し通す?

それもいいかもしれないし、なんとなく私と春希の関係においては居心地がいい。

ん~ん・・・・・・。そもそも私って、どんな人格なんだろ?

冷酷非道の女? 

演劇の為なら何でもする非常識人間?

劇団の花形? 

脚本家?

それとも、それとも、和泉千晶?

やっぱ、和泉千晶かな。

性格なんて、時間と共に変化するものだし、これから和泉千晶の性格が

変わっていっても、春希はそんなものかな程度で違和感を感じる事すらないだろう。

げんに、北原春希という人間も、ここ数カ月で劇的に変化を見せている。

私としては、なんとなくいい風にも、悪い風にも変化をしてるって気がする。

プラスの方向に行こう行こうってもがいてるんだけど、

ふとしたきっかけで折れそうで、危うい。

それでもなぁ、なんかしっかりしようって、頑張ってるのよね。

ま、頑張ってとしかいえないか。

だから、和泉千晶という人間も、劇的にとはいわないまでも、変化をみせたって

不思議ではないはずだ。



春希「どうしたんだ、和泉。らしくないじゃないか?

   やっぱり図太い神経を持っているお前でもこたえたか。

   ほら、コーヒー淹れたから、これでも飲んで切り替えろって」



いつの間にかにテーブルを用意してコーヒーまで用意していた春希が

私の顔を覗き込んでくる。

そんなに近くまで顔を寄せて、なんか顔が熱くなっちゃうじゃない。 

きっと、気のせいだね。春希がそばにいるくらいで体温が上がるなんてありえない。

きっと、ふいをつかれたせいに違いないって。

さてと、私は、和泉千晶。

憎たらしくて、それでいて憎みきれない春希の女友達。








第26話 終劇

次週は

インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさ編』

をこのスレでアップ致します。長編は、3週間お休みします。










第26話 あとがき




千晶「今週の話を読んでわかったけど、著者ってサディストだよね。

   これは間違いない。

   だって、こんなにも可愛い可愛い私をいじめてるんだから」

春希「それは、お前に原因があるんだろ。

   とばっちりを受けている俺をいたわれ」

千晶「それは、物語を作る上での必要事項だから仕方がないよ。

   春希が面倒事に巻き込まれないと、話が盛り上がらないじゃない」

春希「・・・・・・」

千晶「次週は、冬馬かずさ濃度200%のお話だってさ。

   インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさ編』
   
   をお楽しみにぃ。

   来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

   また読んでくださると、大変うれしいです」





黒猫 with かずさ派





インターミッション・短編




『その瞳に映る光景~かずさの場合』





著:黒猫







何をやっているんだ。

あたしが春希から待ってくれってお願いされた期限は、遥か昔に過ぎ去っている。

もうかれこれ1時間も持っているんだぞ。

そもそもなんで春希は、自分のミスでもないのに、他人の仕事を一週間も

徹夜続きでやっているんだ。

そんなことだから、あたしが春希に甘えられないじゃないか。

それは一週間前のこと。

今でもあの電話をかけてきたスタッフに蹴りを入れたい気持ちは収まっていない。

たぶん、今度のコンサートで顔を合わすんだろうけど、きっと春希があたしとそのスタッフを

接触しないように配置しているんだろうな。

そういう細かいところはしっかりしているのに、なんであたしに関してはずぼらなんだ。

こんなにも待ち望んでいるのに。

一週間も「待て」を命令されて、お預けを喰らっているのに。

春希ときたら、のんきなものだ。

きっと今も、自分がやる予定ではなかった他人の仕事を、

テキパキと頑張っているんだろう。

でも、今朝の約束では、11時には終わるって言ってたじゃないか。

それなのに、今は12時だぞ。

春希のことだから、もしかしたら早く終わるかもしれないと思って、

10時までには、シャワーを浴びて、ばっちりとメイクをして、

春希がこのまえ選んで買ってくれた服も着て、いつでもデートに出かけられる準備を

完了させたというのに、春希はまだ部屋から出てこない。

それは、寝室兼仕事部屋なのだから、あたしがベッドで寝転がって待っていても

いいんだけどさ。

それだと早くしろって、催促しているみたいじゃないか。

実際、今朝の段階でも、散々文句を言って、催促しまくったけど、

春希が仕事をしているときには邪魔したくない。

その辺の我慢は、覚えたからな。

なにせ、あたしが構ってほしいオーラを出すと、春希はあたしに夢中になってしまうからな。


・・・・・・まあ、構ってくれないと、噛みついたり、ぐずついたりして、

春希が困り果ててしまうってこともあるんだろうけど、

あたしに夢中ってことに間違いはない・・・、はず。

と、仕事部屋へと続くドアの前で2時間も、もんもんと待っているわけだけど、

そろそろ我慢の限界に近付いている事はたしかだ。

あたしは、静まり返った廊下を見渡し、異常がない事を確認してから

ドアノブを回すかチャリという音さえもたてないように、そっとドアを少し開ける。

ドアから覗き込んでも、この角度からは春希は見えやしない。

だから、すっと耳を近づけてみるが、物音ひとつしていなかった。

普段ならば、心地よいキータッチの音が鳴り響いているはずなのに、

物音一つしないだなんて、おかしくないか?

たしかに、春希がこの部屋に入っていくのは確認したし、他の部屋にもいないはず。

あたしは、これ以上の考察は諦めて、行動に移す。

いくらあたしが考えたって、答えが出るはずもない。

それに、このドアの向こうに春希がいるかどうか確かめたほうが早いじゃないか。

というわけで、あたしは警察犬のごとく四つん這いになって中に侵入していく。

ベッド越しから覗き込むと、春希はいるが、ノートパソコンは閉じられている。

さらには、今朝はあったはずの床に詰まれていた書類も、テーブルの横にまとめられていた。

仕事は終わったのか?

でも、だったら何故春希は部屋から出てこないんだ?

ここからだと春希の背中しか見えないし、もっと近づくか・・・。

両手両足を巧みに使い、そろり、そろりと、音をたてないようにして忍び寄る。

春希が気がついた様子はない。

別に気がつかれたっていいんだけど、なんで忍び足なんてしているんだ?

ま・・・、いいか。そんなこと。

それよりも、春希の様子を確かめないとな。

・・・・・・寝てるのか?

春希は、ローテーブルに手をのせて、自分の腕を枕代わりにして寝ているようだった。



かずさ「春希?」



あたしは、ちょっとだけ声を抑えて春希に呼びかける。

しかし、春希は全く反応しなかった。



かずさ「春希?」



もう一度だけ、少しだけ声量を上げて呼びかけてみたけど、春希の声を聞く事は出来なかった。

やっぱり寝ているのか?

徹夜続きだったもんな。今朝も寝むそうだったし。


どおりで春希が部屋から出てこないわけだ。寝てるんだもんな。

でもさ、扉の向こうで、あたしがいまかいまかと待ちわびていたっていう事も

忘れないでほしいよな、ったくぅ。

いつまでも「待て」を命令を守っていると思うなよ、春希。

そんなにあたしをほうっておくと、いつか春希の前からいなくなってやるからな。

そうだなぁ・・・・・、10年。ううん。20年くらいの「待て」なら

待ってやってもいい。

泣きながら待っているんだろうけど、絶対迎えに来いよな。



ガタっ。



突然発せられた物音に、あたしは身を固くする。

春希を睨みつけながらニコニコしていたら、いつのまにやら、

春希の寝顔を魅入っていたらしい。



春希「う、うぅん・・・」



静けさが満たされていた室内に、

心地よい日差しに刺激されて寝返りを打ったようだ。

春希のくせに、脅かしやがって。

そんな姿勢で寝ているから、体を痛くするんだ。

どうせ寝るんだったら、ベッドで寝ればいいのに。

そうすれば、あたしもベッドに潜り込めたのに・・・、くそっ。

あたしの気持ちなんか知らないで、気持ちよさそうに寝てるな。

お疲れさん、春希。あたし達のコンサートの為に頑張ってくれてたんだよな。

こんなにも無防備な姿をさらけ出していたら、危ないぞ。

外での休憩中でも、こんなにもきゅんってくる寝顔を披露しているのか?

その辺の事情は、あとで春希に要確認だな。

・・・・・・そうだな。この寝顔をいつでも堪能できるように、写真に撮っておくか。

あたしが黙っていると、すぐにあたしをほったらかしにするんだよな。

ふんっ、あたし達の為の仕事だからっていう理由がいつまでも通用すると思うなよ。

でも、春希が起きる前に写真撮っとかないと。





1分後

あたしは、寝室のドアのところに置きっぱなしにしてあった携帯を手に取ると、

再び春希の元へと音も立てずに戻ってくる。

春希からの呼び出しがいつ来てもいいように握りしめていたのに、

結局はこの一週間、一度もかかってこなかったな。



でも、今こうして春希の写真を撮ることができるんだから、役には立ってるか。

あたしは、さっそく携帯のカメラを起動させて、フレームに春希を収めていく。

レンズのピントがあい、ここだっというタイミングでシャッターを押そうとしたが、

ギリギリのところでシャッターを押すのを思いとどめることができた。

・・・危なかった。こんなにも春希の耳元で携帯のカメラなんて使ったら、

シャッター音で春希が起きてしまうかもしれないじゃないか。

うかつだった。目の前に美味しすぎる獲物があったせいで、冷静さを失ってたな。

あたしは、気合を入れ直すと、今度は自宅スタジオへと向かっていった。







1時間後



かずさ「ぷはぁ~・・・。んふふふふ」



満面の笑みを浮かべながら大きく息を吐くと、溢れ出る喜びを隠すことができないでいた。

一週間我慢した甲斐があったな。至福の時間とは、こういうことをいうんだな。

もう13時過ぎってことは、1時間近く撮影していたのか。

今日もいい絵が撮れた。春希コレクションもだいぶ溜まってきたし、

これだと写真の個展も開けるんじゃないか?

ピアノだけじゃなくて、写真の才能もあったなんて驚きだけど、

でも、春希しか興味がないっていうのが問題だな。

それに、これ以上春希を表舞台に出すっていうのも気に食わない。

あたしだけの春希なんだから、あたしだけが見て楽しめばいいんだよ。



冬馬かずさコレクション。冬馬かずさの死後、遺族が発見したかずさコレクションは、

遺族が世間に発表した事で、絶大な人気を獲得することになる。

ピアニストとしては世界的に有名だった冬馬かずさではあったが、

死後、写真家として成功するなど誰も予想していなかった。

それもそのはず。なにせ、冬馬かずさが被写体に選んでいたのは、9割以上が夫の

冬馬春希だったのだから、その偏った選択では、成功を予想するなど不可能である。

そもそも家族でさえ、そのコレクションの存在は秘匿されていた。

そして、残り一割の被写体は、子供たちや母曜子の姿であったが、

かずさコレクションの中には、かずさ本人が映っている写真は一枚しかなかった。

それは、母曜子が、初めてかずさが出産したあとに撮った、子供、春希、そして、

かずさの三人を写したものである。

ただ、膨大なかずさコレクションの中でも、絶大な人気を誇り、一番人気となった写真が

母曜子が撮った、たった一枚の写真であると冬馬かずさが知ったのならば、

あの世で親子喧嘩をしているのかもしれない。

あの世でも冬馬親子は元気にやっているはずだ。

なにせ、娘冬馬かずさがピアニストを引退した後も、

母冬馬曜子は100歳まで演奏を続けたのだから。



あたしは、手に持っているミラーレス一眼カメラに収めた画像を確認し終えると、

撤収作業に入る。

春希の周りに設置されている機材を、音をたてないように撤去していく。

撮影用の4K対応カメラレコーダーや高性能集音マイク。

見る者が見れば、その価値を一目でわかるほどの一流品らしい。

その辺素人のあたしであっても、その無骨な存在感と使用目的に特化された機能に

一般使用の物との違いを感じとれた。

これらの機材は、春希が自宅でも収録や撮影ができるようにと集めたものであるから、

プロ仕様の品であり、値段もはるのだろう。

あたしは、最初のうちは自宅での撮影であっても拒み続けていた。

だって、あたしがピアニストであって、グラビアアイドルじゃないんだぞ。

いやらしい視線の前にさらされるだなんて、我慢できない。

なんて、不満たらたらだったけど、結局は春希に丸めこまれてOKしちゃったんだよな。

でも、あたしは以前の何もできないあたしではなかった。

ただじゃ起き上がらない。この高性能機材。春希を撮影するにはもってこいじゃないか。

そうとわかったわたしは、率先して機材の使い方を春希から習ったものだ。

最初は訝しげに見ていた春希も、熱心にあたしがきいているものだから、

あたしが満足するまで説明してくれたっけ。

使い慣れた機材は、手慣れた手つきで音も立てずに片付けるのだって習得していた。

その技術を発揮してあたしが最初この部屋に入ってきた時と同じ状態に戻すと、

あたしが巻き散らかした熱気さえも全て拭いとられていた。

体の内にこもった熱気も、春希の隣でクールダウンしてはいるが、

さらなる熱気が沸いてきそうで、困ったものだな。

散々撮影したけど、やっぱり生で見る春希が最高だ。

今度はレンズ越しじゃなくて、この目でしっかりと見ておかないとな。

と、そう決めて、10分ほど蕩けきっていたが、人間の欲は底がしれない。

そう、見ているだけでは満足できない。

一週間もかまってもれえなかったのだから、見てるだけで満足なんかできなやしない。

あたしは、頬にキスしようと、そっと近寄っていく。

手でしっかりとテーブルを握って、春希に寄りかからないように気をつけて、

慎重に事を進めていく。

あたしと春希の距離がゼロになったとき、この上ない幸福感があたしを襲う。

写真やビデオや録音なんて、やっている場合じゃなかった。

とっととキスしたり、抱きついたりすべきだったんだ。

そう後悔しだしたけれど、それでもコレクションは大切なんだよなと、

あとでこっそり後悔は取り消した。



今度は口だな。キスといったら、口と口でするものだし。

あたしはそう決断すると、さっそく行動に移ろうとした。しかし・・・。



春希「ん・・・むぅ・・・」



春希が寝返りを打つ。この時ばかりは、自分の欲求よりも罪悪感があたしに絡みついてきた。

だから、音を立てずに身をしならせると、ふわりとその場から遠のく。

二メートルくらい春希と間合いを取っても、警戒を緩める事ができなかった。

両手を前に伸ばして、しっかりと両手両足で床を掴んで身を低くする。

どうやら今度も寝返りを打っただけか。

そうとわかれば、警戒モードを解除していき、前方でしっかりと床を掴んでいる両手の

方へと体重を移していく。

そして、両手両足を器用に使ってペタペタと再び春希の元へと戻っていった。

脅かすなよ、春希。でも、いけない事をしているみたいで、ワクワクするのも事実なんだよな。

カメラだって、春希に頼めば撮らせてくれるだろうけど、

このスリル、やめられない、かも。

そう艶っぽく惚けると、再度キスをしたいという欲求をかなえるべく行動する。

しかし、今度は完全に断念するしかなかった。

なにせ、この角度からではキスができないのだから。

春希が寝返りを打ったせいで、キスができないじゃないか。

どうしてくれようか。

あたしは、ローテーブルに両腕をのせて顔をうずめると、じぃっと春希を見つめながら

考えを巡らせていく。

こうしてあたしが困っているっていうのに、暢気なもんだな。

あたしが困っていたら、いつでも助けに来るって言ったじゃないか。

まあ、今助けに来られても、困るだけなんだけどさ。

あたしは、無意識のうちに春希に手を伸ばしていた。

春希の髪は柔らかくて、すぅっとあたしの指と溶けあう。

何度味わっても飽きることがないんだよな。

これが幸せっていうんだろうけど、気持ちよすぎて、やめられないのが玉に瑕だな。

でも、あたしがこんなにもそばにいるっているのに、なんで寝てるんだよ。

そんな気持ちよさそうにして寝ている春希を見ていると、あたしまで眠くなっちゃうだろ。

・・・まあ、いいか。春希のそばにいられるだけで幸せなんだから。

でも、もうちょっと近寄って、春希を感じたいな。

あたしは、春希の体に身を密着させると、そのまま春希がいる夢の世界へと潜り込んだ。










あたしが目を覚ますと、すっかりと日は暮れかけ、西日が忍び寄り始めていた。

日が暮れ出したというのに温かいというのは、

春希に身から温もりを分けてもらっているだけではなかった。

どうやら春希がタオルケットをかけてくれていたようだ。

まめな男だな。こういうまめなところができるというのに、

どうしてあたしをほうっておくことができるんだ?

不思議だよな・・・。ん? タオルケット?

ということは、春希が起きたのか?

あたしは、うっすらと開けていた目をしっかりと開くと、

目の前には春希の顔が迫って来ていた。

細く開かれていた春希の目が、あたしの瞳とかちあう。

春希の肩がぴくっと震えると、春希は気まずそうにあたしから離れていった。



春希「おはよう、かずさ。寒くはないか?」

かずさ「あぁ、おはよう、春希。うん、寒くはないよ」



つい数秒前までは、気まずそうな顔をしていたっていうのに、今はなんでもないですって

いう顔をするんだもんな。切り替えがはやすぎるって。

これが春希の時間短縮術で、仕事をする時間を確保する術なんだろうけど、

あたしとのプライベート時間にまで持ち出すなって言いたい。

余韻ってものがどれほど大切かって、春希はわかっていないんだ。

そんな唐変木な春希だってわかってるあたしだから我慢できるんだぞ。

そこんとこ、忘れるなよ。

・・・と、文句をたらたらに心の中でぶちまける。

一方で、寒くはないって春希に言いながらも、身をこすりつけているあたりは、

母さんからすれば、ずるがしこい女になった証拠だそうだ。

あたしほど最愛の人に忠実な彼女はいないと思うんだけどな・・・。

この辺の感覚ばかりは、世間様の感覚はよくわからないって思ってしまう。



春希「ごめんな、かずさ。仕事が終わったと気を緩めたすきに、寝ちゃってさ」

かずさ「それはしょうがないよ。春希が一人で頑張りすぎたんだからさ」

春希「どうする? 時間も時間だし、食事でも食べに行くか?」



春希は、遅刻してしまったデートを、今までの余韻も忘れて再開させようとする。

だから春希は春希なんだよ。



春希「どうしたんだ? 機嫌直してくれよ。せっかく仕事もひと段落したんだから

   かずさと仲良くしたいんだけどな」




春希は、ぶすくれるあたしの原因がデートの遅刻だと思ってるんだから。

違うって。そうじゃないんだよ。



春希「なぁ・・・。この通り、反省してます。かずさとの約束を破って、

   かずさを一人にしてしまって、寂しい思いをさせてしまって

   申し訳ないって思ってる」

たしかに、春希が言うこともあるけどさぁ。ちょっとは察してよ。

かずさ「それは、まあ、なんというか、理解してるよ。

    春希があたし達の為に頑張ってくれてるんだから、一応我慢できる範ちゅうかな」

春希「そうか。・・・だったら、なにをむくれてるんだよ」

かずさ「・・・キス」

春希「キス?」

かずさ「おはようのキスを途中でやめただろ」

春希「あぁ、そのことか」

かずさ「そこのとか、じゃない。こっちは、心待ちにしていたのに、

    途中でやめるだなんて、あんまりじゃないか」

春希「それは、なんといいますか。・・・突然かずさが目を覚ますもんだから、

   タイミングがな」

かずさ「だったら、ほらっ」



あたしは、顎を上げて、キスをせがむ。

ちょっとぶっきらぼうで、可愛げがない催促だってわかってるけど、

これが照れ隠しだってことは、春希だけがわかってくれているんなら、それでいい。



春希「じゃあ、ほら」



春希は、聞きわけがない子供をなだめるような口調であたしの頬にキスをする。

ふわりと漂う春希の臭いがあたしを酔わそうとする。

でも、軽い頬へのキスは、さらなる刺激を求めさせる効果しかなかった。



かずさ「それだけか?」

春希「おはようのキスだろ? だったら、これでいいんじゃないか?」

かずさ「そうかもしれないけど、さっきは違うところにしてくれようとしてたじゃないか」

春希「さっきは、さっきだ。

   それに、未遂だから、どこにキスしたかなんて、確定していないだろ」

かずさ「いいや。口にしようとしていた」

春希「それは推測だろ? もしかしたら、鼻かもしれないし、おでこだったかもしれない」

かずさ「むぅ~・・・」




屁理屈で武装しだした春希には、あたしの全面的な我儘攻撃でしか突破できない。

ただ、今それをやるべきか?

あたしとしては、心地よい目覚めからの余韻たっぷりのキスを求めただけなのになぁ。



かずさ「もういいよ。・・・このタオルケットは、春希がかけてくれたんだろ?

    ありがとう」

春希「コンサートも迫ってるしな。ここで風邪をひかれちゃ、頑張って仕上げた仕事が

   吹き飛んでしまうからな」

かずさ「それだけか?」

春希「もちろん、かずさに風邪なんて、ひかせないよ」

かずさ「だったら、ベッドの上で裸のままにするなっていうんだ」

春希「それは、かずさが服を着ないからだろ。

   俺が着させようとすると、いつも文句を言ってくるのはかずさの方じゃないか」

かずさ「それは、春希が悪い」

春希「なんでだよ」

かずさ「余韻っていうものを、春希はわかっていない」

春希「かずさほどじゃないけど、俺も大切にしてるよ。

   でも、ほっとくといつまでも俺に絡みついたままじゃないか」

かずさ「それも春希が悪い」

春希「なんでだよ。それこそ言いがかりじゃないか」

かずさ「違うって。春希の温もりから離れられないんだって。

    春希の心臓の音を聞いていると、心が落ち着くんだって。

    だったら、春希から離れられなくなるのが当然だろ」

春希「なんだか赤ん坊みたいな感覚なんだな」



ん? 赤ん坊が母親の鼓動を聞くと、ぐっすりと寝てしまうっていうやつか?

たしかに近い感覚かもな。

春希を感じられると、心が蕩けてしまうものな。



かずさ「でっかい赤ん坊で悪かったな」

春希「悪いなんて、一言も言ってないだろ」

かずさ「そうか? なら、いいけど。

    ・・・・・・・なあ、春希」

春希「ん?」

かずさ「春希もさ、寝るんだったら、ベッドで寝ればよかったんだよ。

    テーブルで寝てたんじゃ、疲れが取れないだろ」

春希「寝る予定じゃなかったからな」



かずさ「だったら、あたしにだけは甘えていいんだからな。

    疲れているんなら、デートの約束をしていても、寝てもいいんだからな」

春希「今度からは、そうさせてもらうよ」

かずさ「うん。・・・でも、春希はわかってない」

春希「かずさ?」

かずさ「デートなんかよりも、春希が健康で、元気にあたしにかまってくれるのが

    一番大切なんだからな」



そうだよ。デートなんて、べつにどうだっていい。

外に食事なんて行かなくたって、春希が作ってくれる料理が最高なんだぞ。

そういうところが、春希は全くわかっていない。



春希「ありがとう、かずさ」

かずさ「うん、・・・・・・でも、でも、春希は全くわかってない」

春希「まだあるのか? この際全部まとめていってくれよ」

かずさ「キスだ」

春希「キス? キスだったら、さっきしたじゃないか」

かずさ「違う。あたしが頬にだけで満足できるわけないじゃないか」

春希「それは、だな・・・」

かずさ「なんだよ?」

春希「かずさは、フライングで俺の頬にキスをしたろ?

   俺の頬へのキスは、その返事っていうか、そんな感じなんだよ。

   だから、口づけをかわすのは、デートに行ってからにしようかなと思ったんだよ」



春希の衝撃的な告白が、あたしの体をぶるっと震わせる。

春希の動きがスローモーションどころか、

あたしの体が100倍速で動きだしそうな勢いであった。

だって、春希は、あたしが12時にこの部屋に来た時、起きてたって事だろ。

いつから起きてたんだよ。このポーカーフェイスめ。

だったら、あたしが、春希の寝顔に見惚れていた事も、

春希の頬にキスした事も、

口にキスしようとしてできなかったことも、

そして、寝顔の写真を撮りまくってコレクションを増やしていた事も

全部知っていたってことか?

・・・・・・逃げ出したい。いや、逃げるとしても、春希の胸の中って決めているんだから、

このままひっついていればいいか・・・。いや、よくないだろ。



かずさ「どこから起きてた?」

春希「どこからって、かずさがこの部屋に来た時から・・・かな」


かずさ「それって、最初からって事じゃないかっ」

春希「まあ、そういうことに、なるかな」

かずさ「だったら、寝たふりなんてしないで、起きてくれればよかったじゃないか」

春希「そうなんだけどさ、ちょっとした好奇心?」

かずさ「ちょっとした好奇心でも、そんなことするなよ」

春希「悪かったって」

かずさ「全く反省してないだろ?」

春希「してるさ。それに、半分寝ぼけていたっていのもあるんだから、仕方ないだろ。

   ・・・・・あと、スタジオの機材を積極的に覚えようとした理由もわかったし、

   目的がどうあれ、仕事にいかされるんなら文句はないよ」

かずさ「っつぅ・・・・・・・」



体が焼けるようにに熱い! 体中の血液が沸騰して、皮膚が真っ赤に染め上がっているはず。

それなのに、体は凍りついたまま、動けないでいた。



春希「かずさ?」



あたしが体を硬直させていると、春希はあたしが困り果てていると察してくれたのだろう。

そっとあたしの体を引き離すと、デートに行こうと準備を始める。



春希「ほら、デートに行くぞ。俺も楽しみにしてたんだから」



行動目標を決めた春希の行動は早い。テキパキとテーブルの上を片付けると、

出かける準備をすべく部屋から出ていこうとする。



かずさ「春希っ」



とっさの行動で、自分でも何をしたかったのかわからないけど、

春希がこの部屋から出したくないって事だけは理解できた。



春希「かずさぁ。ちょっと、重いって」

かずさ「重いっていうな。これは、幸せの重みだ」



あたしは、春希の行動を止めるべく、春希の背中に飛びついていた。

春希もいきなりでおどろいたものの、あたしが振り落ちないように

絡みついた足を丁寧にすくい上げると、しっかりとおんぶをしてくれる。

だから、あたしもそのお手伝いとして、春希のお腹に足をまわしてがっちりと挟み込む。



春希「これじゃあ、動けないって。危ないだろ」


かずさ「だったら、春希がしっかりあたしを支えていればいいんだ」

春希「もうやってるって」

かずさ「春希が悪い」

春希「またか? 今度は何が悪いんだ?」

かずさ「あたしは、デートがしたいんじゃない。春希と一緒にいたいだけなんだよ」

春希「か・ずさ・・・」

かずさ「それに、外に行くよりも家の中の方がいいんだ。

    だってさ、外だと、あたしがひっつこうとすると、春希は照れて嫌がるだろ。

    でも、家の中だと、春希はあたしの我儘を聞いてくれる」

春希「いやいや。外でもひっついて離れないだろ」

かずさ「それでも十分に自重してるんだよ。

    ・・・・・・それに、春希はわかっていない」

春希「今度は、何がわかってないんだ?」



春希は、別段怒っている風でも、呆れているわけでもない。

優しく微笑みかけてくれるから、あたしは心から甘えられる。

だから、春希は、あたしのことを誰よりもわかっている。



かずさ「デートまで、キスの「待て」は、我慢できない。

    あたしがいつから「待て」を喰らっていると思っているんだ。

    一週間だぞ。一週間も待っているのに、それなのに、さらなるお預けを

    するだなんて、あんまりじゃないか」

春希「それは・・・」

かずさ「そりゃあ、さ。春希のためだったら、何時間でも、何日でも、何年でも

    待っていられる自信がある。

    でも、今回の「待て」は、春希の為のものじゃない。

    春希の思い付きで、しかも、あたしを虐める為の「まて」にすぎないじゃないか。

    そんな「待て」を命令するだなんて、あんまりじゃないか」

春希「そんなつもりで言ったんじゃ・・・」

かずさ「わかってる。わかってるけどさぁ。

    ・・・それでも、それでもあたしは、一刻も早く、春希に構ってもらいたいんだ」



そこまでしか、あたしの理性は保てなかった。

春希の自由を奪っていた足を離すと、その背中から降り立つ。

でも、すばやく春希の前に回り込むと、再び春希を拘束した。



かずさ「春希が悪いんだからな。春希がわかってないから悪いんだ」



一週間貯め込んだ春希欲を解放させたあたしは、ここまでの記憶しかない。


あとは、キスを繰り返したっていうところまでは、なんとなく覚えているけど、

昼食? いや、夕食とデートは、延期だな。

あとで、夜食を作ってもらえばいいや。

春希は、わかっていない。あたしの春希欲は、まだ始まったばかりだということに。

春希が悪いんだ。一週間もあたしをほうっておいたから、こんなにも甘えてしまう。

つまりあたしは誰よりも春希を愛している。







インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさの場合』 終劇

次週は

クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる』をアップします。










インターミッション・短編『その瞳に映る光景~かずさの場合』あとがき




短編です。

本編では、かずさの登場回数が少ないと著者自身が嘆いております。

いや、まじですよ。

というわけで、短編でリフレッシュです。

一応『その瞳に映る光景~雪乃の場合』もありますが、原作が違います。

最初は、どちらか一方で書こうとしましたが、いっぺんに2作同時で

同じネタで書くのは初めての試みとなります。

同じネタだけど、両方読んでくださる読者の方々が飽きないように工夫しました。

まだまだ未熟な腕ですが、楽しんでくださればなによりです。

最後にネタばれですが、タイトルの『その瞳』の持ち主は、春希です。



次週は、クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる』を

このスレでアップする予定です。

こちらももちろん冬馬かずさ濃度200%でやらせていただきます。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。






黒猫 with かずさ派


クリスマス特別短編




『それでもサンタはやってくる(前編)』





著:黒猫









あたしにとっての高校最初で最後の学園祭が終わった夜。

興奮と熱気がおさまらない中、リビングのソファーであのキスの瞬間を思いだしていた。

ひんやりと伝わるなめらかな革の感触がいくらあたしの重みを受け止めようとも、

幾度となく繰り返される寝返りを黙って受け止めてくれている。

あたしは気にも留めていないが、さすが母さんが集めてきた家具といったものらしい。

値段を聞いてもピンとはこないが、それなりの高級品みたいだ。

さすがに成金趣味の家具を買い集められていたら、母さんに黙ってすべて処分して

新たに買い集めていたかもしれないが、母さんのお金を使う姿には力が入っていない。

これは元々母さんの実家の財力の高さと教養によるものだろうが、

落ち着いた雰囲気のリビングに仕上げてくれた事には感謝してやってもいい気がした。

時計を見ると、もう10時をすぎようとしていた。

家に帰って来てしたことといえば、ゆっくりとお風呂に入ったことくらいで、

あとはリビングにいたのだから、ほぼすべての時間で北原のことを考えていたに違いない。

・・・・・・仕方ないか。初めてのキスだったんだ。

あたしから北原に、北原には内緒でキスしてしまった。

いけないことだってわかっている。

だけど、しょうがないじゃないか。

だって、この好きな気持ちは抑え込むことなんてできない。

不安と期待を胸に寝転がっていると、時間が過ぎ去っていくのは早い。

再び時計を確認すると10時30分になろうとしていた。

こんな時間に誰だ? インターホンが鳴らされて、不審に思って時計を確認したが

こんな夜中にやってくる訪問者などいない。

いつだって、この家にやってくる奴なんていなかった。

だけど、・・・・北原?

学園祭直前までこの家で合宿していた北原なら、もしかしたら・・・・・・。

あたしは、インターホンの画面で誰が来たかを確認もせずに玄関へとかけていった。










12月に入り、冬休み前の関所をくぐり抜けたつわものたちの顔色は明るい。

今日でようやく期末試験も終わり、誰しもがほっと一息をついていた。

これが一般的な高校であれば、高校三年生の教室であるのだから

これから始まる大学受験にピリピリとした雰囲気で支配されていたはずだ。

しかし、ここ峰城大学附属高校の生徒のほとんどが、その上の峰城大学に

そのまま進むわけで、他大学に進むマイノリティー以外は、

これからやってくる冬休みに心を奪われていた。

一応あたしもマイノリティーの一人ではあったが、いたって平常運転である。

あたしは、来年からウイーンにいる母の元へ行く。

そこで母の師でもあるマーティン・フリューゲルに弟子入りすべく試験を受けるのだが、

大学入試と違ってピアノの実力の身というところはあたしにあっていた。

ピアノを弾くのは嫌いじゃないし、あたしがピアノを弾くのを喜んでくれる彼氏が

いるのだから、他の受験生と一緒にはされたくもなかった。。



親志「春希なら、なんだか担任に呼ばれて職員室行ったぞ」

かずさ「そっか、ありがとう。えっとぉ・・・・・・」



急に呼びとめられてしまい戸惑ってしまう。

同じクラスで、席も近く、今は名前が思い浮かばないが、春希とよく話している男子生徒。

春希を介して何度も話した事があるし、今日みたいに声をかけてくる事もある。



親志「親志だよ。早坂親志。春希ばっか見ているのは止めないけど、

   俺も席が近くのご近所さんなんだから、名前くらい覚えてくださいよぉ」

かずさ「すまない。早坂だろ? 覚えているよ。春希から、早坂に声をかけられたら

    からかってやってくれって頼まれてたんだ」



本当は、突然話しかけられてびっくりして、ど忘れしただけ。

いくら顔見知りであっても、どうしても身構えてしまう。

それだけ人との接点に疎くなってしまったのかもな。

親志「ほんとかよ? 今度春希に文句言ってやる」

かずさ「それは、やめてくれ」

親志「おうおう、夫婦愛が深いねぇ」

かずさ「そういうわけじゃないんだ。さっきのは、・・・・・・・冗談だ」



あたしの冗談発言に、失礼にも笑い転げる早坂親志。

くったくのない笑顔で、くしゅっと笑うその表情は人との壁など作らないって示している。

事実、人付き合いが苦手なあたし相手に、何度ともなくチャレンジしてくるあたりが

早坂の人の良さをよくあらわしていた。



ただ、首に巻いているどぎつい紫色のマフラーはどうにかならないか?

マフラー自体は、悪くはない。巻く人が巻けばおしゃれだと思う。

だけど、この男が巻くと、どう甘く採点してもチンピラにしか見えなかった。



親志「冬馬も冗談を言うようになったか。いい傾向だな。

   学園祭前だったら想像もできなかったしな。これも旦那さんのおかげかもな」

かずさ「春希は、旦那じゃない」

親志「学園祭以降、誰もが認める夫婦漫才カップルじゃないか」

かずさ「誰が夫婦漫才だ」

親志「ボケが冬馬で、つっこみが春希だろ。つっこみっていうよりは、世話係?」

かずさ「あたしは、ぼけてなどいない。でも、春希が世話係っていうのは

    あながち否定できないから痛いな」

親志「だろ?」



面白そうにけらけら笑っているけど、ここだけは事実過ぎて反論できない。

嘘がまじっているんなら、蹴りの一発くらいかましてやったのだが、

しかし、いつも春希の世話になっているしな。

今回の期末試験だって、春希が泊まり込みで家庭教師をしてくれたおかげで

どうにか突破できそうだし、

食事だって、春希による監修が続いている。

作ってくれているのは、ハウスキーパーの柴田さんなんだけど、

食事を作るのを再開してほしいとお願いした時は喜んでくれたっけ。

こちらがお願いする立場なのに、喜んでもらえるなんて思いもしなかった。



親志「そういや、一緒にウィーンに行くんだって?」

かずさ「一緒に行く予定だ。あたしの方としては、向こうでの試験が終わってないのに

    話がどんどん進んじゃって、困っているんだけどな」

親志「フリューゲル先生だっけ? 冬馬のかぁちゃんのお師匠様」

かずさ「そうだよ」

親志「ピアノのことはよくわからないけど、これってすごいことなんだろ?」

かずさ「どうなんだろうな? あたしもその辺の事情はくわしくないからさ」

親志「春希によれば、入門するだけでも難しいらしいっていってたな。

   何人も有名ピアニストを育てているとか」

かずさ「らしいな」

親志「らしいって、自分の先生になる人なんだろ」

かずさ「春希が詳しすぎるんだ。あいつったら、あたし以上に向こうでの事を勉強

    してるんだからな。しかも、ドイツ語だって、すでに日常会話くらいは

    できるようになってるんだぞ」



さすがに春希がドイツ語を少し話せることには、早坂も驚きをみせていた。

なにせ春希ったら、母さんとの初対面以降、あたし以上に母さんと会話をしているもんなぁ。

あたしの知らないところで、どんどんとウィーン行きが決まっていく。



親志「春希ものぼせているな。まっ、しょうがないか。

   結婚はまだだとしても、婚約くらいはしたんだろ?」

かずさ「いや、婚約してない」

親志「そうなのか?」



かん高い声で出すものだから、あたしまで驚いてしまう。

けっして結婚や婚約というキーワードで顔が赤くなったのではない。

あたしは、この男の声に驚いて、顔を赤くしてしまったんだ。



親志「それは意外だな。てっきり婚約だけはしていたと思ったからさ」

かずさ「・・・・・・・あたしはしてもかまわないけどな」

親志「ん? なんだ?」

かずさ「なんでもない。独り言だ」

親志「ならいいんだけど」



あたしの小さな願いを聞き逃した早坂ではあったが、この男の関心は春希そのものへと

向かっていた。



親志「あいつもこのまま上の大学に行くと思ってたら、いきなりウィーンの大学だもんな。

   ドイツ語も覚えなきゃいけないし、高校の成績がいくらいいからといっても

   むこうでの試験とか大変そうだな」

かずさ「らしいな。向こうでの試験日程も、ぎりぎりのタイミングって言ってたな」

親志「俺みたいな凡人がいうのはあれだけど、安全策っていうの?

   いったんこのまま上の大学行っておいて、あまり詳しくは知らないけど、

   大学の留学制度とか使ったほうが安全だろ。

   ウィーンの大学が制度範囲外だとしても、

   色々とサポートくらいはしてくれるだろうし。

   それを突然上への進学を取り消したんだから、そりゃあ担任も驚くよな。

   さっき担任に呼ばれたのだって、その話だろうし」

かずさ「かもな」

親志「ごめん。冬馬を責めているわけじゃないんだ。

   ただ、春希のことだから、結婚とか、そのくらいの覚悟をしての

   決断だったのかなと思ったからさ」



早坂に言われるまで、考えもしなかった。



あたしは春希と一緒にいられる事に喜びを感じていて、

春希が置かれている状況を確かめもしないでいた。

そうだよな。いくら優秀な春希だといっても、簡単にウィーンの大学に行けるわけじゃない。

もちろん母さんのサポートがあるのだから、来年の進学は無理だとしても、

その次の入学ならば、ほぼ確実に入学出来てしまうと思う。

でも、留学だけじゃないんだよな。

これからさきの春希の人生。あたしとともに進む春希の人生。

きっと春希のことだから、寝ずに考えて、たくさん悩んで決断したんだろうな。



春希「おい親志。かずさをいじめるなよ」

親志「虐めてないって」

春希「だったらなんでかずさが暗い顔してるんだよ」

親志「いやいやいや・・・。世間話していただけだって。

   しかも春希を探していた冬馬に、春希の行き先まで教えてたんだぞ」

春希「そうなのか?」

かずさ「まあ、そんなところだよ」



心配そうな顔で覗き込むなって。

嬉しすぎて顔に出てしまうだろ。こんなにも愛されていて、

こんなにも先の事まで考えてもらっていて、幸せじゃない女がどこにいる。












北風が体温を奪っていく中、あたし達はあたしの家へと歩いていく。

黒い通学用のコートだけでは心もとなく、春希に身を寄せてお互いの熱を補っている。

春希もあたしと同じような黒いコートをきているはずなのに、

どうして差が出てしまうんだ?

通学用のコートなのだから、華美なデザインではない。

それでも、高校生が着れば、寒さの中元気よく闊歩する高校生にみえるはず。

けれど、春希がきてしまうと、どうしても公務員にみえてしまうのは、どうしてだろうか?



春希「どうしたんだ。浮かない顔をして。やっぱり親志となにかあったのか?」

かずさ「ううん、関係ない。関係ないよ」

春希「だったら、どうして暗い顔をしてるんだ。・・・・・・もしかして、

   そうとうテストの出来が悪かったのか?」

かずさ「それもちがうって。テストの方は、春希の頑張りもあって、大丈夫なはず」



春希「だったら、どうしたっていうんだよ」



春希の問いに、春希の腕を掴む手に力が入ってしまう。

春希には、隠し事なんてできないな。だって、あたしのことをあたし以上に見ているから。



かずさ「あたしは、春希の負担になってないか?

    あたしのせいで、春希の人生が駄目になってないか?」

春希「なってないよ」



そう短く答える春希に、あたしは甘えてしまう。

やわらかい笑顔で囁くその声に、あたしはこの男のことをどこまでも信じてしまう。



春希「俺は、かずさと一緒にいる人生を選択したんだ。それに留学自体はプラスだよ。

   元々留学には興味があったし、その選択が早まっただけ。

   だから、かずさがそのことで悩むことなんてないんだよ」

かずさ「だけど、急だっただろ?」

春希「たしかに、曜子さんから話を聞いたときは驚いたし、迷ったよ。

   だけど、曜子さんは進路のアドバイスだけじゃなくて、金銭的なサポートまで

   してくれてるんだから、感謝しているよ」

かずさ「それは、母さんが強引に話をもってきたんだから、

    そのくらいのサポートは当然だ」

春希「それでも、ウィーンで事務所職員見習いとして雇ってくれるのはありがたい」

かずさ「そんなのは、母さんの思い付きだ。

    まあ、春希がドイツ語を覚えるのには、実際使う方がいいだろうっていうのも

    あるみたいだけどさ」

春希「それも含めて感謝してるんだ。

   俺一人で決めたんなら、こうもスムーズにことが進まなかったはずだよ。

   それを曜子さんが俺がやりやすいように軌道修正してくれて、

   感謝って言葉じゃ足りないくらい感謝してるんだ」

かずさ「それって、母さんへの感謝だけか?」

春希「違うよ。俺の側にいてくれるって言ってくれたかずさには、

   一生感謝し続けるよ」



あたしは、返事の代りに、春希の腕を掴む力を強くして、身を擦りつける。

ここは、あたしの場所なんだ。あたしだけの特等席。

これからもずっと。なにがあろうとも、その事実だけは変わらない。








あたしを家まで送り届けた春希は、

今日もうちのリビングでドイツ語の勉強をしている、らしい。

らしいというのは、あたしはその時間、地下スタジオでピアノの練習をしているから

実際春希が勉強している所を見ていないのである。

春希のドイツ語の上達速度をみれば、そうとう集中してやっているのはわかるけど、

同じ家にいるんだから、春希も地下スタジオで勉強すればいいのに。

あたしの練習の邪魔をしないようにとも配慮だろうけど、

あたしだったら全く問題ないのにな。

それでも、同じ家にいるって思うだけで、胸がぽかぽかする。

この気持ち、防音処理された地下からは聞こえないだろうけど、

きっと春希には聞こえているんだと思えてしまう。

さてと、もうちょっとで夕食の時間か。

柴田さんが夕食を作り上げるまでのひとときから、

夕食を食べるまでが一緒にいられる時間だって決めている。

期末試験前の泊まり込みは緊急処置だったんだけど、それ以外はずっと

春希がこの家に泊まることはなかった。

それは、春希との約束。

あたし達が二人でウィーンにいられる為の試練。

あたしはピアノ。春希はドイツ語と大学入試。

けっして強制ではないし、他の選択肢だってある。

でも、二人で決めたんだから、やり遂げる覚悟はあるんだ。

だから、あたしは、春希との食事タイムを楽しみにして、

時間ぎりぎりまで練習に打ち込むことにした。










終業式なんて形だけだし、出なくたっていいんじゃないかって春希に抗議してみたものの、

当然のごとく叱られ、朝早く家まで迎えにまできた。

あたしとしては、毎朝玄関まで出迎えてもらいものなんだけど、

時間節約もあって、通常は駅での待ち合わせだった。

とくに用がないのに学校まで行くんだから、出迎えのご褒美があっても罰は

当らないんじゃないかって、春希にいってやりたい。

まあ、いいさ。数時間ピアノの練習を休んで得られる春希との時間。

通学途中は春希の腕に絡まって温もりを感じ、

電車の中では、その温もりを抱いて仮眠して、

学校での退屈な終業式には、春希を眺めてその姿を目に焼き付ける。

まったく充実した半日だ。


今日で2学期も終わって、冬休みに入る。

休み中は、春希もうちにきて勉強するって約束してくれたし、

楽しい休暇を送れそうだ。



かずさ「色々気にかけてくれて、ありがとう」

親志「なんだよ、いきなり」



あたしの感謝の気持ちに驚くとは失礼すぎるな、こいつ。

せっかく今年世話になったお礼をしようと思ったのに。

終業式も終わり、あとは帰るだけとなった放課後の教室。

二日後に控えたクリスマスイブや年末・年始の予定を立てるべく賑わいを見せている。

この早坂親志もその例に漏れず、なにやら友人たちとの予定を立てようとしていた。

さすがのあたしも、友人達と話しているところに話しかけるなんてできないから、

話すタイミングを探っていたのだが、この男が自分の机にバッグを取りに来たところで

どうにか話すチャンスが巡ってきた。



かずさ「早坂には世話になったからさ。一応な」

親志「別に大したことはやってないぞ、俺」

かずさ「あたしにとっては、大した事なんだよ。

    自分が人見知りだってわかってるんだ。でも、どうしようもなくて、

    つい強く言ってしまう」

親志「そうか? 最近は丸くなってきたと思うぞ。

   それに、学園祭のライブを終えてからファンになったって奴が多いじゃないか。

   とくに音楽科の後輩女子からの人気は絶大で、よくここまで見に来てるし。

   それだけかっこよかったってことだよ」

かずさ「それはそれで大変なんだぞ。したってくれて来てくれてのはわかってるけど、

    どう対応していいかわからなくてだな」

親志「いいじゃないか。けっこううまく相手していたと思うぞ。

   一緒に写真撮ってやってたりもしてたじゃないか」

かずさ「あれは、・・・断れなくて」



今思い返しても恥ずかしすぎる。あたしは見世物じゃないんだぞ。

誰もいないところでなら、まあ、一緒に写ってもいい、かもしれない。

でも、教室の前の廊下で、蹴っても蹴っても蹴り足りないくらいのギャラリーの

目の前で写真だなんて・・・・・・。



親志「色々困ることで、人間成長していくんだよ」

かずさ「できれば、困ることなんて遭遇したくない」

親志「そういうなって。イブは、春希とデートなんだろ?」



かずさ「デートなのかな?」



早坂の問いに、無意識に首をかしげてしまう。

最近のあたしたちは、二人でいることが当たり前すぎるから、

デートの定義がわからない。

そもそもあたしに恋愛について語らせようっていうのが間違いなんだ。

あたしにとっては、同じ家で、しかも違う部屋であっても

お互いがやるべき事に取り組んでいるとしたら、それはデートといってもいい気がする。

春希を感じていられるのなら、春希があたしをみてくれているのなら、

春希と同じ時を過ごしているのなら、それは、奇跡で、すばらしいことなんだ。



親志「いくら春希の奴が唐変木の朴念仁だとしても、彼女とのイブデートは計画してるだろ」

かずさ「一応うちで食事する予定ではあるけど・・・」

親志「かぁ・・・、春希らしいな。羨ましいったらありゃしない」



少々オーバーすぎるリアクションだが、どうもこの男がすると馬鹿っぽくて許せてしまう。

・・・・・・そうだな。こういうやつだからこそ、

あたしから話しかけられるのかもしれない。



親志「最近春希の奴がそわそわしていたのは、この事だったのかもな。

   こりゃあ、何かあるかもな」

かずさ「なにかって?」



あたしの問いかけによって、この男の動きがフリーズする。

どこか明後日の方を向くと、ぎこちない動きでこちらに振り向く。

もしかして、適当に言ってたのか? 

たまにその場のノリで発言するからな、こいつ。

それが悪いって事じゃあないんだけど、今回ばかりは期待してしまったから、責任とれ。

と、内心怒りに燃えてしまい、その炎があたしの瞳に宿ってしまったらしい。



親志「にらむなって、出まかせで言ったんじゃない。

   ほら、プロポーズとかするには最適だろ。イブにプロポーズって定番だし、

   春希なら、やりそうだしな」

かずさ「ほんとうか?」



この男の適当すぎる発言に、心が反応して身を乗り出してしまう。

そんなあたしの反応を見て、早坂は二歩ほど身を引いてしまったが。





親志「なんとなく、だけど、さ」



そんなに慌てるほどあたしが怖いか? そんなに鬼気迫ってる顔をしているかな?

たしかに最近のあたしは、春希絡みになるとリミッターが外れているっていわれてるから

もしかしたら今もそうなのかもしれない。



かずさ「なんだよ、なんとなくとは、ずいぶん適当だな」

親志「まあ、あまり深く考えないで発言したのは悪かった。

   でも、まったくのあてずっぽうってわけでもないと思うぜ」

かずさ「そうかな?」



思わず一段高い声で聞き返してしまう。

喜びに満ちた声を出してしまって、なんだか恥ずかしい。

この男の発言によって、一喜一憂してしまっているとは、なんたる不覚。



親志「春希なりの考えがあってウィーン行きを決断したんだし、

   春希みたいな性格だと、なんらかの区切りとかイベントの時に

   大事な話を切り出すかもなって思っただけさ。

   だから、イブなんてもってこいのイベントだろ?」

かずさ「たしかに・・・」

春希「おい、こら。なんだかお前ら、クラス中から注目されているぞ。

   なにを騒いでいるんだ」



突然声をかけられて顔を上げると、春希がいつの間にやら戻って来ていた。

春希の指摘通り教室内を見渡すと、既に帰宅した生徒が半数近くいるが

残りのほとんどがあたし達を見つめている。

そして、あたしがそれらの視線に気がついたとわからる、みんな一斉に顔を伏せたり、

教室から出ていこうとしていた。

ゴシップ好きの高校生だもんな。

あの堅物の春希がデートするだけじゃなくて、プロポーズだったり、

ウィーン行きだったりとか、普段の春希からは想像できない恋愛劇を展開させていたら

誰だって気になってしまうな。



親志「担任の用事はもういいのか?」

春希「ああ、こういう仕事はクラス委員の仕事なのに、

   どうして引退した俺がやらなくちゃいけないんだろうな? いいんだけどさ」

親志「それだけ信頼されているってことだよ」




春希「それだけだったらいいんだけどな。なんだかいいように使われているだけだって

   最近思うようになることもあるんだけど」

親志「気のせいだって」

春希「だったらいいけど。で、なんで注目されていたんだ」

親志「ああ、それね」



まったく使えない男だな。ここで春希がプロポーズの事を知って、

意識してしまったらどうするんだ。

話をそらすんなら、最後までしっかりやってくれ。

あたしは自分勝手な要求を早坂に突き付けてしまいそうになった。



春希「どうせ俺達のクリスマスデートについて聞いていたんだろ?」

親志「ん? あぁ、そんな感じかな」

かずさ「そうだな、そんなかんじだ」

春希「かずさも親志には、馬鹿正直に教えなくていいんだからな。

   ただでさえかずさは目立ってしまっているんだから、彼氏としては気が気じゃない

   っていうか」



ん? なんだか春希が暴走してくれてる?

見当はずれな方向に話がいってないか。ま、いいか。



かずさ「いや・・・、その」

親志「あの名物委員長様がどんなクリスマスデートプランをたてているか

   気になるのは人のサガだってものよ」

春希「そうなのか? たいしたプランじゃないぞ」

親志「それでも、冬馬は楽しみみたいだぞ」

かずさ「あっ・・・」



ほんとうのことだけど、春希とのクリスマスを心底楽しみにしていたけど、

ここで言わなくてもいいじゃないか。

体が火照って、うまく口が回らなくなる。
 


春希「あまりうちのかずさをいじめるなよ」

親志「わりぃな。邪魔者はそろそろ退散するよ。

   メリークリスマス、春希。楽しんでこいよ、冬馬」

春希「ああ、メリークリスマス。また来年な」

親志「おう、じゃあな」

かずさ「メリークリスマス」





あたしは、肺の中に残ったわずかの空気を絞り出すように小さく呟くのがやっとだった。








クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(前編)』 終劇

次週は

クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(後編)』 をアップします。












クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(前編)』あとがき





2週にわたってお送りするクリスマス特別短編ですが、これまた増量しまくって

2週になってしまいました。

『やはり雪ノ下雪乃にはかなわない』のクリスマス短編も1週が2週に

なってしまいましたし、プロットからの見積もりが甘いようです。

ちょうどクリスマス直前まで引っ張ることができて、結果オーライでしょうか。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。





黒猫 with かずさ派




クリスマス特別短編





『それでもサンタはやってくる(後編)』







著:黒猫








クリスマスイブ。

クリスマスだからといって都合よく東京の空に雪が降ることなんてまずない。

そもそも東京の雪というと、年が明けてからというイメージさえあるんだから、

だれがクリスマスと雪を結びつけたんだろう。

日本のイベントではなかったんだから、北欧とかその辺かな?

雪を見ている分には綺麗だし、あたしは部屋の中からしか見ないから

雪なんて、あってもなくても別にいいかって思いもある。

寒い雪の日に、外に出るやつの気がしれない。寒いのによくやるよ。

高校だって、自主休講まっしぐらだ。

ただ、来年雪が降っても自主休講は不可能そうだけどさ・・・。

あたしは、来年の1月か2月あたりに雪が降ったときの状況を思い浮かべてしまう。

ぜったいあいつは朝早くうちまで迎えに来るな。

かけてもいい。あいつもあたしが自主休講をするはずだって賭けているはずだ。

まあ、あたしは、せっかく迎えに来てくれた春希の為に、寒い寒い雪の中、

文句を言いながら高校へとついていってしまうのだろう。

春希は春希でお説教していそうだな。

今は受験シーズンで、受験生はただでさえ精神的に不安定なのに、そんな中、

はらはらした思いで電車を待っている受験生の事も考えてみろっていわれそうだ。



春希「どうしたんだ? 俺、なにか面白いこと言ったか?」

かずさ「ううん、別に」

春希「そうか?」

かずさ「ああ、なんかクリスマスに恋人と一緒にいたいっていう気持ちが

    ようやくわかった気がしただけだ。

    今までは、クリスマスなんか関係ないって思っていたし、

    クリスマスなのに、なんで人ごみの中デートしなければいけないんだって

    思ってもいた。でも、今年は違う」



春希「俺は、まったく憧れみたいなのがなかったとは言わないけど、

   こうして初めて経験してみると、TVとかで騒いでいる理由がわかった気がする」

かずさ「だな」



二人の意見と視線が交わったところで、自然と頬笑みが灯される。

一応世間並みに今日のクリスマスデートを期待していた春希は、

いつもよりも幾分服装に気を使っているようだ。

普段はモノトーンで、地味な顔つきをさらに地味な服装で上塗りしているのに、

今日は珍しく、ほんの少し赤を取り入れていた。

グレーのパンツに、白のポロシャツ。

襟と袖のところに赤いラインが入っているのが特徴だと思う。

春希なりの冒険なのだろうが、赤を入れればクリスマスってわけでもないのに、

ちょっとだけ頑張った春希の服装に、あたしはさらなる笑みを春希に送ることになった。

たしかに、あたしもかなり服装には気を使っているけど、

それは、まあ、女としてのたしなみだ。

ピアノの休憩がてら外に出た時に買った春希へのクリスマスプレゼントのついででしかない。

たまたま通りかかった店で、偶然にもあたし好みの服がディスプレイされていただけで、

本当は買うつもりはなかった。

でも、春希が喜んでくれるかなと思うと、やはりちょっとは着飾ってみたくはなるのは

しょうがないよな。

黒のワンピースというところが地味すぎるかもしれない。

あの店員が似合うからって、しつこかったな。

あたしも気にいっているから、いいんだけどさ。

それにしても、肩や背中が露出し過ぎていないか?

今日は外に出る予定がないからいいものの、こんな服着て外に出たら

きっと五秒で家の中に戻ってくる自信があるぞ。



春希「でも、どこにも行かなくてよかったのか?

   今日は練習時間を短縮させたんだから、

   少しくらいは外出してもよかったんじゃないか?」

かずさ「いいんだよ、別に。あたしは春希と一緒ならどこだっていい。

    むしろうちの中にいる方がくつろげるしな」

春希「たしかにな。レストランだって、今さら予約できないし、

   どこにいっても混んでいそうだ。

   しかも、クリスマス価格っていう名の値上げもしているから、

   どこにいっても値段が高いって気がしてしまうよ」

かずさ「そういう細かいところを気にするあたりが、せっかくのムードをぶち壊すんだぞ。

    今日くらいは、日常を忘れろよ」



春希「そうはいってもな。一般庶民の俺からすれば、クリスマスといえども

   財布のひもはしっかり引き締めておかないといけないんだよ」

かずさ「悪かったな。世間の常識が全く通用しないお金持ちのお嬢様で」

春希「それに、料理と掃除も出来ないのも付け加えないとな。

   あと・・・、そうだな。まとめてピアノ以外の生活能力がゼロでもいいか」

かずさ「それは、・・・いいすぎじゃないところが痛いところだけど、

    好きでこうなったわけじゃない」

春希「いいよ、それで。かずさは、今のかずさのままで」



これって、もしかして早坂が言っていたプロポーズへの布石?

そういえば、春希が家に来てから、ずっとそわそわしていたよな。

食事の準備もあるからそれまではピアノの練習しておけってスタジオに押し込まれた時も

なんだか落ち着きがなかったし。

だとしたら・・・・・・。

あたしの鼓動が加速する。あたし達二人しかいない静かな部屋だというのに、

心臓の音が盛大に雑音を撒き散らす。

凍てつく夜の外気がそっと身を寄せ、

街中でかき鳴らされている陽気なクリスマスソングと混ざり合い、

テーブルを挟んで対峙する最愛の彼から、

あたしと同じようにプロポーズを待っている彼女がいるのだろう。

彼女はどうやって、彼の言葉を待っているのだろう。

息が苦しい。瞳も熱っぽくて、ぼやけてきてしまう。

この彼の言葉が告げられるまでの数秒間を、どうやってあたしは待てばいいんだ。

期待してしまう。嬉しいに決まっている。

でも、とても不安なんだ。



春希「かずさ・・・」

かずさ「はいぃ?」



春希の呼びかけに、声が裏返ってしまう。



春希「そのさ、今日の料理はどうかな?」

かずさ「え?」

春希「さっきからずっと上の空だったから、食事が美味しくなかったのかなって」

かずさ「そんなことないよ。美味しいよ」



なんだ。プロポーズじゃなかったのか。

あいつのせいだ。早坂が変な事を吹きこむから意識してしまったんだ。

本音をいえば、かなりがっかりした。

春希と結婚したい。それは、春希からの告白を聞いた学園祭の夜から思っていた事だ。


漠然としていた恋心が、現実まで降りて来たあの日、

あたしはふがいもなく春希の胸で泣きじゃくってしまった。

急ぐ事はない。あたし達はずっと一緒なのだから。

あたしは、とりあえず気分を切り替えようとパエリアを一口分だけスプーンですくう。



かずさ「そんなに見つめられると食べにくいだろ。それに恥ずかしい」

春希「ごめん」



春希は謝ってはいるが、視線はそのままなんだよな。

一応見ていませんって感じで顔はそらしているけど。



春希「どう?」

かずさ「どうって?」

春希「そのパエリア美味しいかって?」

かずさ「美味しいよ。美味しいけど、ちょっと意外なメニューだな。

    柴田さんは、クリスマス特別メニューだって言ってたのに」

春希「気にいらなかったか?」

かずさ「ううん。美味しいし、嫌いじゃないよ。

    このローストチキンは本格的だけど、あとのメニューは、なんだか家庭的だな」



ローストチキン以外にテーブルに展開されているディナーは、パエリア、ポテトフライ、

アサリとホタテの蒸し野菜、コーンスープ。

けっして出来が悪いわけではない。

けれど、柴田さんだったらもっとクリスマスを盛り上げる見栄えがある料理が

できるんじゃないか?



春希「ケーキは買ってきたやつだけど、他のは全部手作りだぞ」

かずさ「うん、美味しいよ。それに、なんだか温かい雰囲気の食事で、

    なんかいいな」

春希「そっか、よかった。もっと食べてくれよ」

かずさ「あぁ・・・、あたしばかりじゃなくて、春希も食べろよ」

春希「大丈夫だって。俺も食べているよ」



春希は食べているっていってるけれど、あたしのことを見てばっかりじゃないか。

今だって一口食べたら、そのまま手が止まって、またあたしの事を見ている。



春希「他のはどうだ?」

かずさ「美味しいよ」

春希「実はさ、今日の料理は俺が作ったんだ」



かずさ「春希が?」

春希「柴田さんに頼んで、ずっと特訓していた」

かずさ「今日の為に?」



ドイツ語の勉強だって忙しいのに、料理の練習までしていただなんて驚きだ。

柴田さんもあたしに内緒にしていたのか。

今日、柴田さんが食事の支度を終えて帰る時、なんだか陽気だったのは、

このことが原因だったのかもしれない。



春希「それもあるけど、ウィーンで日本食食べたくなるかもしれないだろ?

   いくらハウスキーパーを雇うからといって、日本食は無理だろうしさ。

   かずさも曜子さんも料理はできないだろ?」



春希の言うと通りだけど、今までは気にもしなかったな。

母さんはおそらく、まったく気にしていない。

今までも普段の食事に気をつけていないと思う。

もし日本食が食べたくなったら、日本食を提供するレストランに行くし、

それで満足できなければ、日本まで飛行機にのってやってきているはずだ。

日本に来てもあたしに会う事もせずに、そのままウィーンに帰国していただろうけどさ。



かずさ「ありがとう」

春希「俺がしたくてやったんだ。感謝してくれると嬉しいけど、なんだか照れるな」

かずさ「ありがとう」

春希「やめろって。ほら、このプリンも手造りなんだぞ。

   かずさはプリン大好きだろ? でも、いつも食べているプリンはウィーンでは

   売っていないだろうから、柴田さんと協力して再現してみたんだ」



春希が差し出すプリンを一つ頷いてから受け取ると、脇にあったスプーンを手にとった。

耐熱グラスに入ったプリンは、すも入っていなくて、手造りって言われなければ

買ってきたものだと思ったままだっただろう。



春希「どうかな?」



あたしのことをくいるように見つめる春希の視線が気にならないってわけではない。

むしろ食べる姿をじっくり見られるなんて、スプーンを持つ手を震わせる。

けれど、春希が一生懸命作ってくれた。あたしの為だけに作ってくれたんだ。

こんなにも嬉しい事はないよ、春希。




かずさ「美味しい・・・。言われなければ、あのプリンだと思ってしまうよ。

    ううん、あのプリンよりも美味しいって。最高だ」

春希「なに泣いてるだよ。大げさだな」


かずさ「泣いてないって」



あたしは、涙を隠すように下を向いてプリンを食べ続ける。

春希が今日そわそわしていたのは、プロポーズの為じゃなくて、

料理を披露するからだったのか。

だから、あたしが食べるところを気になっていたんだな。

そうだな。春希は、形だけのプロポーズじゃなくて、その先にある未来を

しっかりと考えている。

料理ができれば体調管理もしやすいし、日本食だって食べられて、

食生活のリズムを崩す事もないだろう。

ドイツ語だって頑張ってくれている。

春希は、あたし以上にあたしとの将来を考えてくれていたんだ。

大粒の涙がプリンの中に雫となって落ちてゆく。

もったいないな。でも、ちょっとだけ塩味がついたプリンも悪くはないか、な。

あたしが大泣きしだしたんで、春希のやつ、慌ててるな。

いい気味だ。あたしを感動させた春希が悪いんだ。

こんなにも素敵なクリスマスプレゼントは、初めてだよ。



かずさ「ありがとう、春希。最高のクリスマスプレゼントだ。

    今年だけじゃなくて、来年も、再来年も、・・・もうずぅっと先まで、

    毎年クリスマスを一緒に祝ってほしい。

    あたしには、春希にしてあげられることなんて、ピアノを弾くくらいだけれど、

    それでも、あたしは死ぬまで、・・・ううん、死んでも一緒にいたい」

春希「ずっと側にいるよ。かずさの側にいたいから頑張れるんだ」

かずさ「ありがとう。あたし今、世界一幸せだ」

春希「まるでプロポーズだな」



春希はとくに意識して発言したわけではないのだろう。だけど、あたしはずっと

プロポーズという言葉を意識してしまってたわけで、その言葉に非常に大きく反応してしまう。

あたしは、体を小さく震わせると、体まで小さく縮こまらせてしまう。

だって、春希からのプロポーズを待っていたのに、いつの間にかに、

あたしの方からプロポーズしていたじゃないか。

もちろん無意識にだ。意識していたなら、絶対に、ぜぇったいに言えるわけがない。

春希がクリスマスに淡い幻想ともいえる期待を抱いていたように、

あたしもプロポーズに壮大なる夢を持っていたわけで。


顔に似合わない乙女っぽい理想があるんだなって、笑いたいやつらには笑わせておくし、

他人はもちろん、春希にだって秘密にしておきたい夢でもある。

おずおずと顔をあげると、春希はあたしの顔を見つめてくる。

その真っ赤な顔を見て、あたしは鏡を見ているんじゃないかって疑ってしまった。



かずさ「なあ、春希」

春希「な・・・んだよ?」

かずさ「あたしのプロポーズ。イエスって言ってくれたんだよな?

    ずっと側にいるって、あたしの側にいたいから頑張れるって。

    ・・・・・・その、どうなんだ、よ?」

春希「結婚か・・・」



春希の呟きに、あたしはこくりと頷く。

春希は、あたしが頷くのを確認すると、椅子を座りなおして、姿勢を正した。

ピンと伸ばしたその背中に、まっすぐ迷いがない瞳があたしを射抜く。



春希「俺と結婚してください」

かずさ「はい」



あたしが想像していたプロポーズとはだいぶ違うけど、

これはこれであたし達らしいのかもな。

あと、さっき最高に幸せだって思ったけれど、あれは訂正だ。

だって、今、プロポーズされて、もっと幸せだしな。

そう考えると、春希と一緒ならば、今よりも、明日よりも、

もっともっと幸せな未来を見つけられる気がする。

もちろん楽しい事ばかりじゃないってわかっている。

レッスンや春希の勉強。ピアノに仕事。いつも一緒ってわけにはいかない。

きっとあたしは春希がいなくて、寂しい思いもするはず。

それでも、春希は、いつもあたしの隣にいてくれてると思うと、

それだけで幸せなんだ。









誰だ? まだ眠いって。



?「春希君。春希君、起きて。これに名前書いてくれないかしら?」



ん? 誰かが春希の名前を呼んでいるみたいだけど・・・。


たしか昨夜は、春希と遅くまで騒いでいたような。

・・・そうだ、昨日の分のレッスンは今日朝早くからやるってことにしてあったんだよな。

それにしても、ちょっと寒いぞ。春希動くなって。あたしの暖房役なんだから、

あたしの隣でじぃっとしていろって。



?「それでいいわ。あと、ここは拇印でいいから」

春希「は、・・はぁ。ん・・・んん~」



春希? 誰と話してるんだ?

あたしは、夢とも現実ともわからないまどろみから抜け出すべく、重い瞼をこじ開ける。

さすがに明け方まで起きていたせいもあって、頑丈すぎるあたしの瞼は、

強制的に開けようとすると激しく抵抗してきた。



曜子「これで完成っと。あとは、かずさの所を記入すればOKね。

   ほらほら、かずさ。起きなさい」



ようやく瞼の抵抗をはねのけると、目の前には、あたしの母さん、

つまり、冬馬曜子がなにやら一枚の紙を持って、あたしを起こそうとしていた。

あたしの隣にいた春希は、先に起こされた事もあり、

あたしより早く脳を再活性化できたようだった。



春希「なんですか、それ? というか、寝ぼけていた俺に何を書かせたんです?」

曜子「婚姻届だけど。証人は、私と美代ちゃんが書いておいたからOKよ。

   それと、春希君のお母さんにあってきて、婚姻の同意書も貰ってきているから

   気にしなくてもいいわよ。未成年だし、同意書も必要だったけど、

   親としては結婚する前にご挨拶しておきたかったしね」

   さあ、区役所に行くわよ」



いきなりの訪問。責任能力なしの状況からの強引な署名。

そして、区役所?

目の前の出来事が、あたしの想像を飛び越えすぎていて理解できない。

婚姻届って、どういうことだよ。



かずさ「いつ来たんだ?」

曜子「メリークリスマス、かずさ。プレゼントは、この婚姻届ね」

かずさ「いつ来たんだって聞いてるんだ」



まったく悪びれもしないで、自分の言いたい事だけ言いやがって。

真っ赤なドレスに、手首や襟元の白いファー。



これって、サンタのつもりか?

こんなサンタがいたら、子供が驚くぞ。いやらしい中年男は喜びそうだけれど、

春希は違うよな?



曜子「昨日の昼頃からよ。春希君が愛を込めて料理をしているあたりかしらね。

   プロポーズのところは、ばっちし録画してあるから、あとで一緒に見ましょうね。

   あ、かずさは録画のコピーが欲しいわよね。ちゃんと用意してあるわよ」

かずさ「ありがとう」

春希「って、違うでしょう。なんなんですか。いつから・・・、って、

   最初からずっといたってことじゃないですか」

曜子「ほら、一応親だし、これから二人は、ウィーンで勉強しなきゃいけないでしょ。

   大人の対応として、春希君には、

   これをクリスマスのプレゼントにしようと思っていてね。

   それと、春希くんのお母さんも、結婚喜んでいたわよ」



母さんは、むき出しの箱を春希に手渡す。

あまりにも直接的なパッケージに、あたしも春希も、顔を赤くするしか選択肢がなかった。

それにしても、いつの間に春希の母親とあったんだよ。

根回しが早すぎるだろ。



春希「コンドームじゃないですかっ」

曜子「今子供ができたら大変でしょ。二人が昨夜、ことをしだしていても、邪魔するつもり

   はなかったから安心してね。その辺の空気は読めるから。

   ちゃんと枕ものとに、そおっとコンドームを置いて、消えるつもりだったのよ。

   でもねぇ、なにもないとは意外だったわ。

   二人とも純粋っていうのか、頭が堅いっていうのかわからないけど、

   二人でいるだけで幸せだなんて、見ている私の方が胸やけしそうだったわ」



そう大げさなジェスチャー付きでほざきやがると、母さんはおもむろに脚を組み直す。

すると、母さんが持っていたペンと何か別の何かが一緒に床に落ちた。

春希は律儀にも、その二つを素早く拾うと、母さんに返そうとしたが。



春希「盗聴器じゃないですか。そういえばさっき、録画したとかいってましたよね?

   今も録画してるんじゃないですか?」

かずさ「娘の情事を盗み聞くつもりだったのかよ」

曜子「そんな悪趣味はないわよ。これはリビングでの会話を聞くのに使っただけ。

   録画の方は、もう撤去してあるわよ。でも、昨夜リビングで始めちゃったら

   どうなってたかわからないけどね」




いやらしい顔で、厭味ったらしい顔をするんじゃない。

ここまでする親だったとは。今まで放任主義だったから油断していた。



春希「やめてくださいよ」

曜子「でもでも、親としては、娘にクリスマスプレゼントを渡したいじゃない?」

かずさ「とんでもないプレゼントを用意していたけどな。

    どこの世界にコンドームをクリスマスプレゼントとして娘に渡す親がいる」

曜子「それだけじゃ悪いと思って、こうやって婚姻届も準備してきたじゃない」

春希「寝ぼけているときに書かせないでください」

曜子「じゃあ春希君は、かずさと結婚する気はないの?」

春希「ありますけど・・・」

曜子「じゃあ、いいじゃない」

春希「結果としては同じかもしれないですけど、過程が間違いまくっていますよ」

曜子「なんか頭が堅過ぎじゃない、春希君?

   しょうがない。そんな春希君には、これをあげましょう」



またもや大げさなジェスチャーで語ると、今度は手のひらに収まる小箱を春希に渡す。

今度の箱は高級そうな装飾もされていて、

さっきのコンドームみたいなことはないと思える。いや、思いたい。

春希は、疑り深く受け取ると、ゆっくりとその蓋を開けた。

その中には、白銀に光る白い輪と、ひと際美しく輝くダイヤが収められていた。



春希「これって・・・、婚約指輪ですか?」

曜子「そうよ。あたしのお古。かずさの父親に貰ったもので、

   たった一日しか、はめてなかったものだけどね。

   でもね、かずさには、私が叶えられなかった幸せを実現してほしくて。

   身勝手な女の押し付けで悪いわね」

春希「そんなことないです。光栄です。でも、いいんですか?

   こんな大切な物を」

曜子「いいのよ。二人が使ってくれるっていうんなら、あの人も賛成するはずよ」

春希「自分は、曜子さんが納得しての決断でしたら、なにもいう事はありません。

   かずさは?」

かずさ「あたしも、なにもないよ。でも、ほんとうにいいの?」

曜子「いいって言ってるでしょ。それとも、あなたの父親の事を聞いておきたい?」

かずさ「それは、どうでもいいよ。母さんが話したくなったら、しょうがないから

    聞いてやる」

曜子「そう? だったら、そのうち聞いてもらおっかな」

春希「本当ならば、俺が用意すべきものなのに、申し訳ありません」



曜子「いいのよ。それに、プロポーズも、この子の暴走がきっかけだったんだし。

   春希君のプランだと、まだ先だったんでしょ?」

春希「そうですけど、早まっても全く問題ありませんよ。

   むしろ光栄です。・・・ただ、なにからなにまで全て曜子さんに用意して頂いて、

   申し訳ない気持ちでいっぱいです。ウィーン行きも、曜子さんの協力なしでは

   実現は難しかったですし」

曜子「あんなのは大したことではないのよ。大変なのはこれからよ」

春希「大した事ですって。俺は今回の曜子さんの協力を一生忘れることはありませんし、

   一生かけても恩返しができないほどです」

曜子「恩返し出来ないほどだったら、素直に受け取っておきなさい。

   それが親孝行っていうものよ。

   親がね、娘と息子の為にしてあげられることなんて、たかがしれているのよ。

   途中で娘をほったらかしにした無責任な親が言うべきではないんだろうけどね」

かずさ「ふんっ。あたしを置いていった時は、頭が真っ白になって、

    どうしたらいいか途方に暮れたさ。でも、今は春希と出会って、

    手をつなぎ、どこへ進めばいいかはっきりしている。

    あのとき母さんがあたしを突き放してくれなかったら、

    いつまでも母さんの背中ばかりおって、成長できないでいたと思うしさ」

曜子「そうね。あなたのピアノ、変わったわ。いい意味でね」

かずさ「でも、感謝はしないからな。怒っていたのも確かなんだし」

曜子「わかっているわよ。いつまでもしつこいのね」

かずさ「悪かったな」

曜子「そう? だったらいいわ」



あたしと母さんとのやり取りがひと段落すると、春希は先ほどの話を蒸し返す。

あたしからすれば、二人の生活を最大限援助してくれるんなら、大歓迎するだけだ。

だけど、春希からすれば、莫大な資金と時間を注ぎ込んでくれる義母に、

感謝だけでなく、多大な困惑を感じてしまうのかもしれない。



春希「いくら親だとしても、俺にまでここまで親切にしてくれるだなんて」

曜子「そうね、もし春希君がかずさを不幸にするんだったら、なにもしていなかったかも

   しれないわね。でもね、かずさも、そして、私も、春希君のことを認めているの。

   あとこれは親のエゴかもしれないけれど、旅に出る娘達には、

   旅に出る前に、出来る限りの援助をしてあげたいのよ。

   いったん旅に出てしまえば、親なんて無力よ。

   コンクールでピアノを弾いている時、私が代わりに弾いてあげることなんて

   できやしないのよ」

春希「それはそうでしょうけど」



曜子「極端な例え話かもしれないけど、私が伝えたい事はわかってもらえたかしら?」

春希「はい」

曜子「かずさは?」

かずさ「わかってるよ」

曜子「だったらいいわ。だから、もう少しだけ、

   あなた達が私の手から離れていってしまうまでの、そのわずかな時間だけでもいいから、

   私の我儘に付き合ってくれないかしら?」

春希「はい、宜しくお願いします」

かずさ「母さんの我儘に付き合うよ」

曜子「ありがとう、春希君。・・・かずさも、ありがとう」



なんだか、照れくさいじゃないか。母さんが、母親らしい事をするだなんて、

これは雪でも降るんじゃないか?



曜子「それじゃあ、区役所に行くわよ。

   外は雪が降っていて寒いから、しっかりと着込んでらっしゃい。

   あ、でも、ハイヤー用意してあるから、車までの距離しか寒くないけどね」



あたしは、そっと窓の外に視線を向ける。

今まで母さんのごたごたに付き合わされていて、外がいつもより白く光っているのに

気がつかないでいた。

いつの間に雪が降ったのだろうか?

降り積もった雪が乱反射していて、目を細めておかないと眩しすぎる。

目の高さにかざした指の隙間からのぞく世界は、今までとは違う。

どこか幻想的で、それでいて現実を突き付けられる世界。

昨日と今日。あたしと春希の関係が一歩進んだだけなのに、それだけなのに

別世界にいるみたいだった。

この日、北原春希は冬馬春希になった。

あたしにとって、これ以上のクリスマスプレゼントはありえないだろう。

・・・・・・これ以上はありえない?

そうじゃない。だって、昨日も最高に幸せだって思っていたら、

数分後には、それを上回る幸せが待っていた。

そして、今日も。

だったら、今日も春希と、そして、母さんと最高の幸せを探しに行こう。

そう心に刻み、母さんに見つからないように、春希にキスをした。










クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(後編)』 終劇

次週は

『心の永住者』第27話をアップします。







クリスマス特別短編『それでもサンタはやってくる(後編)』あとがき



タイトルにも入っている『サンタ』ですが、もちろん曜子さんの事です。

はた迷惑なサンタですが、最高のプレゼントを届けてくれたはずです。

ただこのサンタ。自分へのプレゼントもしっかりとゲットしているあたりが

曜子さんらしいですかね。

さて、次週からは『心の永住者』を再開させます。

予定としては、千晶編は長くするつもりはありません。

長くするつもりはありませんが、長くなってしまったら、ごめんなさいとしか言えません。



今週は祝日という事もあって、アップ時間が異なってしまい、大変申し訳ありませんでした。

来週も、火曜日にアップすると思いますが、年末という事もあって、

いつもの時間帯にアップできるかは不透明です。

しかし、時間帯が変更されたとしても、いつもの時間帯より早めにアップ致します。

今週も読みに来てくださり、たいへんありがとうございました。



黒猫 with かずさ派



第27話






4-2 千晶 3月1日 火曜日







千晶「さすがにねぇ・・・。浜口のおっちゃんの厭味ったらしい顔をずっと視界に

   入れてたんだから、気もめいるわよ。

   それに、なんなの。大石のおじいちゃんの最後の爆弾発言。

   いらないわよ、あんなお土産。聞いてなかったんだから」

春希「俺も教授のレポートだけは勘弁してほしかったかもな。

   レポートの提出期限が11日の金曜日の正午までだから実質10日切ってるな。

   これから提出期限までは、劇団の方も休みにしてレポートに打ちこめよ」

千晶「その辺は大丈夫。今やってるのは、私タッチしてないからさ。

   だから、時間ならたっぷりあるのよ」



これは、本当。今準備している公演には、私は関わっていない。

私が書きあげる予定だった脚本は、結果的には完成する事はなかった。

脚本家の自分としては名残惜しい部分もあるけれど、和泉千晶としては後悔していない。

後悔どころか、これからのことを考えるとワクワクしてしまっている。

だからこそ、こんな面倒っちいレポートを身を削ってでもやろうとしてるんだし。



春希「だったらいいんだけど、でも、他の事に気を取られて、

   レポートに集中できないなんてことにならないようにしろよ」

千晶「わかってるわよ。なにせ、春希のお世話になるんだし、

   春希の顔に泥を塗らないようにしてあげるわよ」

春希「俺はどう思われようが気にはしていないけど、お前の場合は進級がかかってるんだから

   まじめにやれよ。・・・・・・なあ、ヴァレンタインコンサートに

   引っ張り出して、悪かったな。

   あのコンサートさえ参加していなかったら、レポートなんかやらないで

   すんなりと進級できていたかもしれないのに」



怒るよ、春希。

私は、私の意思で参加したいって決めたんだよ。

それに、あのコンサートがなかったら、今の私もいなかった。

そんなの、絶対嫌だ。今の私がいないなんて、たとえ進級できていたとしても

なんの意味があるっていうのよ。




千晶「あれは、私が勝手にヴォーカルやっただけじゃない。

   しかも、春希に内緒で」

春希「そうだけどさ。でも・・・」

千晶「でもは、もうなし。私がいいって言ってるんだから、これ以上言わない事」

春希「和泉・・・」

千晶「それにぃ、春希が責任もってレポートのサポートをしてくれるんでしょ」



私は、厭味ったらしい顔を作り上げて、春希に献上する。

この顔だったら、春希の重荷も取り除けるかな?



春希「もちろん、責任をもって最後までサポートするつもりだ」

千晶「そかそか。だったら、まずは昼食をお願いするね」

春希「すまん。もうそろそろバイトの時間なんだ。

   だから、食事を作っている時間はない。

   それと、レポートの詳しい打ち合わせは明日にしてほしい。

   どうにか明日のバイトだけは休み貰って、

   レポート作成の方向性だけは作り上げるからさ」

千晶「えぇ~。ほんとに? ほんとに食事なし?」



これは、千晶ちゃん、大ショックっ!

大学でのうっぷんを、春希の料理で解消しようって思ってたのに、これは大誤算。

今朝食べた春希の料理があまりにも美味しかったから、期待していたのに。

それに、なによりもお腹が空いたぁ。



春希「食事を作っている時間は本当にない。カップ麺なら大丈夫そうだけど、

   それでもよかったら食べるか?

   その間に俺は、バイトに行く準備するけど」

千晶「今の私の食欲脳は、春希の手料理なんだよ。

   それをカップ麺で代用しようだなんて、到底無理。

   無理むりムリ無理むりムリぃいいいいいい~」

春希「無理言うなよ。悪いとは思ってるんだけど、こればっかりはな」

千晶「そっかぁ。じゃあ、はい」



私は瞬時に気持ちを切り替えると、春希に向かって右の手のひらを差し出す。



春希「はいって?」

千晶「ん?」

春希「いや、わからないって」


千晶「わからないの? きまってるじゃない。この部屋の合鍵貰わないと

   出入りできないじゃない」

春希「は?」



あっ・・・。春希、固まった。

ここでレポートやるに決まってるじゃない。わざわざここまで通うのだって

時間かかるんだし、時間がもったいない。

そして、なによりもここでレポートをやっていれば、春希の料理が食べられるぅ。



千晶「だから、レポートのサポートをしてくれるって、言ったじゃない。

   だから、ここでレポートやるんだから、合鍵ないと不便でしょ。

   どうせ春希はバイトにも行かないといけないんだから、

   春希が外出中、ずっと部屋の中にいろっていうの。

   それは、まあ、私をこの部屋に拘束する方法としてはいいかもしれないけど、

   私を信頼してくれすぎじゃない?」

春希「いやいやいやいやいやいや・・・。ちょっと、待てって。

   どうして俺の部屋でレポートやるんだよ。

   自分の家でやればいいだろ」



猛烈な勢いで不平を訴えてくる春希に、私は理屈を組み上げて言い返してあげよう。

それにしても春希。時間ないんじゃなかったの?

バイトに行くんでしょ。だったら、とっとと白旗あげて、合鍵をよこしなさいって。



千晶「この部屋でやれば、春希のノートとかも使えるでしょ」

春希「ノートくらいだったら、言ってくれれば貸すって」

千晶「それに、わからない個所があったら、春希に直接聞いたほうが早いじゃない。

   今回は提出期限まで時間がないんだから、お互いの家を行ったり来たりする時間の

   余裕なんてないはずだよ」

春希「それはそうかもしれないけど」

千晶「それに、春希の監視がなかったら、私、怠けちゃうかもよ」

春希「その辺は、和泉のやる気っていうか、進級かかってるんだから、真剣にだな」

千晶「うん。もちろん、真剣にやるつもり。だから、春希も全力でサポートしてくれると

   助かるな」

春希「もちろん俺がやれる事はなんでもやるつもりだ。

   教授からのお願いじゃなくても、協力していたと思うし」

千晶「そかそか。ありがとね、春希」

春希「いいって。コンサートだけじゃなくて、それ以外のことだって

   今思えば和泉に助けられたなってことも多いからな」

千晶「そっかぁ。だったあ大恩人には、恩を返さないとね」




私は、にっこりと、特上の笑顔を作り上げると、再び右の手のひらを差し出した。



春希「はぁ・・・。負けたよ」

千晶「そう?」



春希は、大げさに三流役者レベルのため息をつくと、私の手のひらに合鍵をおいてくれた。

やった。勝った。これで春希のご飯にありつけるっ。

本音をいうと、春希のご飯がなかったら、自分の家でやってもよかったとさえ思っている。

ネットカフェっていう手もあるけど、今回はまじでやばいし、

レポートのことを考えると、春希の部屋が最善かもね。



春希「うっ、やば。もう時間がない。俺はもう行くからな」

千晶「いってらぁ~」

春希「できるだけ早く帰ってくるから、レポートの要旨を掴んでおけよ。

   それから、必要となりそうだと思うところを重点的に復習しておけ。

   ノートはそこの棚にあるから、勝手に探してくれて構わない。

   あと、レポート作成にはまだ手をつけなくていいからな。

   方向性決めてからやらないと、二度手間になるし、時間もない」

千晶「わかった、わかった。春希の仰せのままに」



春希は、私の返事を聞いているのかもあやしかった。

自分の言いたい事だけ言うと、玄関で靴を履いてるんだもん。

たしかに時間がないみたいだけど、もう少し私にかまってくれてもいいじゃない。

と、私が春希の背中に向かって怨念をぶつけていると、それが通じたのか、

春希は私の方に振り返った。



千晶「なにか忘れ物でもした? とってあげよっか?」

春希「いや、大丈夫。なあ、和泉」

千晶「ん?」

春希「冷凍庫に、時間がない時用に作り置きしていおいたのがいくつか入ってると思う。

   もし、お腹が空いたんなら、それを食べても構わないぞ。

   あと、冷蔵庫の方にも少しくらいは残ってるかもな。

   あぁあそれと、ご飯は自分で炊けよ」



もうっ、春希ったらぁ。そういうことは、もっと早く言ってくれないと。

千晶脳は、渋々とコンビニ弁当を許容しようとしていたんだからね。

そこに春希から、春希の手料理をぶらさげられちゃったら、もう食べるしかないでしょ。




春希「どうした? 冷凍しておいたのじゃ不満か?

   冷凍してあっても、それなりに美味しいはずだぞ」



あまりのご馳走にフリーズしてしまった。

早く春希に返事をしないと、不審がられてしまう。

最悪、冷凍の春希料理さえも取り上げられる可能性もあるし、それは絶対阻止。



千晶「ううん。春希ったら、料理するようになったんだなって感心していただけ。

   どういう心境の変化があったのかなってさ」

春希「まあ・・・な。ちょっと料理も覚えてみようって思っただけさ」



ふぅ~ん。なにかありそうね。そこのあたりも、レポート期間中に調べ上げるかな。

なんとなくだけど重要そうなのよね。

春希の顔にも、何か隠していますって、でかでかと書かれているし。



千晶「そっか。それはいいことだね。なによりも私のお腹が満たされるしさ」

春希「これからずっと食事をねだるんじゃないだろうな?

   変なのを餌付けしてしまったんじゃないか」

千晶「ふ、ふ~ん」

春希「おい、本気か?」

千晶「さあ、ね。ねえ、春希」

春希「なんだよ」

千晶「バイト行かなくていいの?」

春希「やばっ。じゃあ、行ってくるな」

千晶「いってらっしゃ~い」



私は、春希の足音が聞こえなくなるまで見送ると、

さっそく冷蔵庫探索へと意気揚々で取りかかった。

レポート?

うん、食事をしてからやりま~す。

だって、春希の料理だよ。食べないとね。
















千晶 3月2日 水曜日




春希が帰宅したのは、終電ギリギリの深夜。

私が家で首を長くして待っていなかったら、

おそらく昨日と同じように始発以降で帰ってきたに違いなかった。



千晶「おっかえりぃ」

春希「あぁ、ただいま」

千晶「元気ないね」

春希「まあ、な。誰かさんのせいで、ほとんど寝てないからな」



春希は心底疲れているようで、このままベッドに倒れ込みたそうであった。

でも、そうしないのは、私が健気にレポートの準備をしていたからかな?

その見栄っ張りな所は、さすが男の子。

春希は、いちおう女の私の前では頑張っちゃってる気がした。



千晶「私が春希を離さなかったのがいけなかったんだよね。

   嫌がる春希を無理やり縛りつけて、体力の限界まで頑張っちゃったから」

春希「・・・おい」

千晶「でも、いくら若いからといっても、睡眠時間を削ってまでやるのはよくないか。

   でも、朝の目覚めからっていうのは、サプライズで興奮しない?」

春希「はぁ・・・。どうしてわざとらしく性的意味合いでとれるうような喋り方を

   するんだ。こっちは疲れていて、つっこみを入れるのさえおっくうだというのに」

千晶「やだっ、春希。つっこみだなんて」

春希「もう、いいって。使い古されたネタすぎて、聞いているだけ頭痛がしてくる」

千晶「えぇ・・・。なんだか春希ののりが悪いぃ。

   ボケなんて、使い古されてネタの方がいいんだって。

   春希みたいな古代の化石相手に、新作のネタを披露しても理解してくれないし

   つっこみもいれてくれないでしょ」

春希「おおむねその認識であってるんだが、ほんとうに疲れているから、やめてくれ」

千晶「ふんっ。わかったわよ。こっちは春希の言いつけ通りに、まじめぇに勉強していたから

   ちょっとは気分転換をしたかっただけなのに」

春希「悪いな。それも含めてレポートも明日にしてくれ。

   今は、死ぬほど眠い」



春希は、そう最後の気力を振り絞って呟くと、ふらふらとベットに歩み寄っていく。

途中、私が床に広げたノートや参考資料などを踏みそうになるが、

私が急いでどけてあげなかったら、

今の春希はそのまま踏んづけて進んで行ったかもしれない。


つまり・・・、それだけ疲れていたってことね。

でも、私は春希がベッドにダイブする前にその肩を引き止めた。



千晶「ちょっと待った。寝るの待った」

春希「なんだよ」



振り返った春希の目は、ほぼ閉じかかっており、不機嫌さが顔に滲みでている。



千晶「夕食は? 私、まだ食べてないんだけど?」



今の時間からすると夜食かな。

私は、春希がなるべく早く帰ってくるっていう言葉を信じて、夕食を我慢してるんだよ。

・・・・・・といいつつも、冷蔵庫を漁って飢えを忍んできてはいるけどさ。

でもそれは、お腹が減っては勉強ができないから。

勉強する為に仕方がなくちょこちょこっと食べただけで、本命の春希の料理を食べる為に

今の今まで、春希が帰ってくるのを待っていたんだよ。

だから、帰宅した春希に食事の催促をして、何が悪い。



春希「そっか、冷蔵庫の物を適当に食べてくれ」

千晶「えっとぉ、春希は夕食食べたの?」

春希「適当に菓子パン食べた気がする。いや、おにぎりだったかな?」

千晶「じゃあ、なにも食べないの?」

春希「俺はいいや・・・。和泉が食べたいんなら、俺を気にせず勝手に食べていいぞ」



呆然とする私を見て、春希はもう話が済んだと結論付けたのか、

春希は再びベッドに潜り込もうとする。



千晶「私が春希の手料理を食べたくて、何も食べないで頑張っていたって言っても

   何も作ってくれないの?」

春希「冷蔵庫に作り置きがあるって言っておいただろ?」

千晶「それは食べたけど、さぁ」

春希「なら、いいじゃないか。

今お腹すいているんなら、また冷蔵庫の物食べてもいいからさ」

千晶「そうじゃないでしょ。私は、今、春希が作ってくれた手料理を食べたいの」

春希「冷蔵庫のも俺が作った奴なんだから、同じだろ。

   もういいか。本当に眠いんだ。おやすみ」



あぁ、もうっ。本当に寝ようとする。

私は、最後の抵抗として、春希の体と入れ替えるようにしてベッドの前に立ちふさがった。



けれど、そんなむなしい努力も、春希は私の肩越しをすり抜けるようにして

ベッドに潜り込んでしまった。



千晶「春希っ!」



私が春希の名を叫んでも、深夜の静まりに吸い込まれていくだけであった。

これ以上駄々こねても無意味か。春希も活動限界まで動いていたんだし、

私だって、脳みそをフル稼働させて疲れている。

こう見えても私は、普段から脳みそを使って考えて行動している。

考えなしで、ふらふらっとした和泉千晶は、私が意図的に操って出来上がった和泉千晶

なのだから、考えなしで作り上げることなんてできやしないじゃない。

いわば、計算して男に媚びる女の逆バージョンが和泉千晶っていうこともできるかもね。

ある意味男に媚びない女を作る方が、媚びる女よりも頭使ってるんじゃないかって

思えたりもしている。

だって、媚びない女であって、男に無関心な女ではない。

男に無関心な女だったら、そりゃぁいくらだっているし、男と距離を取ればいいだけだ。

でも、男に媚びないけど常に側にいて、女を感じさせないわけではないけど

女として意識しないで済む女。

な~んか、面倒な注文をする春希さんなんだけど、やってみたら意外と心地いいかもって

思ってしまった。

さて、春希が眠ってしまったんだから、私も寝ますか。

とりあえず、自分の寝床を確保しなくちゃね。

私は、床に散らかったノートなどを部屋の隅に追いり、テーブルも壁に立てかける。

あとは、春希の布団をしっかりと掛け直してから、昼間のうちに持ち込んだ寝袋に

寝ればOKなんだけど、気持ちよさそうな寝顔を見せる春希を眺めていると、

無性にむしゃくしゃしてしまう。とくにお腹の方から、思いっきり。

だから私は、春希の寝顔と手に持つ寝袋を見比べると、寝袋の方を手から離した。

そして、部屋の電気を消すと、春希が眠る布団の中へと、すすすっとネコのごとく

潜り込んだ。

やっぱり温かい。ひんやりと冷え切った寝袋ではありえない心地よさね。

春希の体温で温められた布団に包まれた私は、なれない勉強疲れもあってか

すぐに夢の中にも潜り込んでいった。

せめて夢の中では春希の手料理が食べられますように。

とりえず、これだけは祈っておこう。











千晶 3月2日 水曜日




なにやら悲鳴が聞こえる。朝っぱらから何を騒いでいるんだろ?

私が言えた義理でもないけど、近所迷惑はよくないよ、春希。

・・・ん? 春希?

この声って、春希の声か。春希が朝から大声でわめいているなんて、大事じゃない。

早く私も起きて加勢したほうがいいかな。

役には立たないかもしれないけど、日ごろの恩をこういうときに返しておかないとね。

と、感動的な決意表明をしているっていうのに、誰かが私の肩を大きく揺らしてくる。



千晶「あぁ、誰? 朝から騒々しい」



こう言っちゃなんだけど、春希の声はけたましく鳴り響く目覚まし時計の代りにはなるけど、

モーニングコールには向いてないね。

やっぱりモーニングコールっていったら、私みたいな女神じゃないと。

目を開けて、最初に飛び込んできた光景は、慌てふためく春希であった。

一応私の想像はあってたか。で、何があったんだい、春希君?



春希「なんだって和泉が俺と一緒のベッドに寝てるんだよ」

千晶「一緒のベッド・・・・・?」



事態を確認するかな。

今の私の状況は、春希の腰に腕をまわして、くっついている。

まだまだ寒い朝にはもってこいの春希湯たんぽである。

春希は慌てていて、怒っている感じでもある。

そして、私と絡みあってベッドの中で朝を迎えた。

・・・・・・あぁ、昨夜、憂さ晴らしと寒さ対策で春希のベッドに潜り込んだんだった。

どおりで寝袋にはない快適さと温もりが提供されたわけだね。



春希「ちょっとまて。俺達・・・え? 疲れてバイトから帰って来て、

   そこまでは覚えているんだ。ふらふらで・・・」

千晶「覚えてないの?」

春希「え?」

千晶「(食事を作ってくれない事を)嫌がる私を無視して、そのままベッドへと

   (春希だけが)倒れ込んだんだよ。

   何度も何度も(料理してって)お願いしたのに、春希は(眠りたいっていう)

   欲望のまま、朝までベッドで二人、過ごしたのに。

   それはそれは、体験したことがないほど気持ちよかったのに。

   それさえも、春希は思い出せないの?」




あたしの意図的な衝撃発言を聞き、春希の顔色は目覚ましく変化していく。

朝の寝ぼけた頭脳であっても、あまりの驚きように、あたしのほうが驚いてしまう。

機嫌をよくしたあたしは、もう一度眠りを誘う温もりを求めて、体温が上昇中の

春希の体を引き寄せる。

あったかぁい・・・・・・。

顔を擦りつけるたびに春希の体温を奪ってくる。

頬から伝わる胸板の感触は、やや男としては頼りなさげなのに、

こうも心を穏やかにさせてくれるのは、アロマ効果でもあるのだろうか?

なんて、小難しい事を考えるのは、やっぱりパスかな。

ただ、彼氏とか、恋人とか、そんな面倒な人間関係はごめんだけれど、

まだまだ寒い冬の終わりには、人の温もりがあっても悪くはない。



春希「こらっ、離れろ。お前が勝手に俺のベッドに潜り込んできただけだろ。

   思い出したぞ。ほら話を作りやがって」



ありゃりゃ・・・。あたしが春希から体温を奪いすぎたせいで、春希の頭まで

冷やしてしまったか。

冷静で、頼りになる春希も悪くはない。むしろからかいがいがあるってものよ。

でもね、朝はやっぱり、のんびりとぬくぬくぅってしたいし、してもらいたい。



千晶「嘘は言ってないよ。事実を言っただけなのに」

春希「意図的にミスリードするような言い方するな」

千晶「あれぇ? どう解釈しちゃったの春希?」

春希「どうって・・・」

千晶「あたしは、料理を作ってほしいってお願いしたのを、春希が無視して

   寝ちゃったって言っただけなのに、あれれぇ?」

春希「それこそ、和泉は料理なんて言葉は、一言も言ってないだろ」

千晶「でも、春希は、エッチな方の事を想像しちゃったみたいだよね」

春希「黙秘します」

千晶「黙秘してもいいけど、それ言っちゃったら、エッチな事考えてますって

   言ってる事とと同じじゃない」

春希「うっ」



やっぱり寝起きだと、春希であってもポンコツ脳みそレベルにランクダウンしちゃうんだね。

寝起きからフル回転も可能なあたしからすれば、ここぞとばかりに春希を

虐めてもいいんだけれど、やっぱあたしにとっての最大級の欲求を解消すべきだな。



千晶「ねえ、春希」


春希「なんだよ」



てぇっれちゃって、もう。かっわいいんだから。

頬を赤く染め上げる春希の顔は、少し幼くて、日ごろの大人になろうと急ぎ過ぎている

自称苦労人を忘れさせてくれる。

こういう男の子っぽい顔もするんだね、春希。

なんだか普段の春希こそが作り上げて演じている和泉千晶同様の北原春希という役に

思えてしまうよ。

それはそれでいいんだけど、同じ演者としては、お勧めできない生き方だね。



千晶「うん、重大な事を思い出したのよ」

春希「なんだよ」

千晶「うん、あたしね・・・、お腹すいちゃった」

春希「はぁ?」



春希の盛大なため息は、春希が内包する熱と共に吐き出される。

再びあたしを睨みつけるその瞳には、戸惑いも、うろたえもない。

いつもの春希そのものであった。



千晶「だってさぁ、春希の料理を食べたくて、一生懸命勉強してたんだよ。

   それなのに春希ったら、帰ってきたらすぐ寝ちゃうじゃない」

春希「勉強は自分のためだろ」

千晶「そうだけどさぁ」

春希「今日は、バイトの休みを貰えたから、レポートにとりかかるぞ。

   もし嘘ついていたら、食事なしだからな」

千晶「それって、逆の意味だと、ちゃんとレポートに取り組んでいたら

   料理作ってくれるって言う事だよね?」

春希「そう解釈してくれても、構わない」



もう、不器用なんだから。冬の外気が身を堅くするっていっても、

そこまで器用に不器用さを演じなくてもいいのに。

まだまだ朝日は部屋の中までは足を延ばしてきてはくれないけれど、

あたしがそっと足を隣に熱源に絡ませれば、春の陽気を運んで来てくれた。

心地よい温もりが、眠気と共に顔を見せてくる。

これは料理以外にも、寝るときは春希湯たんぽも提供してもらうしかないかなぁ。






第27話 終劇

第28話に続く


第27話 あとがき




今年一年お疲れ様でした。

ホワイトアルバム2の原作の方はミニアフターストーリーが発表されて

一応終わりを迎えたと言ってもよいのでしょうかね。

『心の永住者』の方は、まだまだ続く予定です。

来年も気合を入れて執筆していきますので、宜しくお願い致します。

さて、現在あとがきを書いているときは、ミニアフターは発送されておりません。

ミニアフターをプレイしても、あとがきを書きなおさなくてもよい事を祈りつつ・・・。



今週は、変則的な時間にアップしてしまい、申し訳ありませんでした。

来週は、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです。

来年も、宜しくお願い致します。



黒猫 with かずさ派


第28話




4-2 千晶 3月2日 水曜日




食事を終えた私は、何故だか春希のジャージを無理やり着せられてから、

テーブルの前でレポートと格闘を始めていた。

たしかに朝布団をまくったら、スカートまでまくれていたのは私の不手際だけれど、

あそこまで怒らなくてもいいじゃない。

私だってレポートで疲れていたわけで、寝るときの服装なんて気にする余裕なんてない。

春希だって、帰って来てから着替えもしないでそのまま寝たくせに、不公平じゃない?

私は、大きすぎる紺色のジャージの袖をもう一度まくりあげながら、不平を噛み殺していた。

正面の春希の様子を盗み見ると、先ほどシャワーを浴びてきて、今朝まであった髭は、

綺麗に剃り落とされていた。

寝不足気味だった顔色も、私という湯たんぽでぬくぬく眠れたおかげで

すっきりとした印象を見てとれる。

私の視線を機敏に察知した春希は、とっととレポートに戻れと訴えかけてくるので

おとなしくレポートに集中した。



春希「ほら、食事にするぞ。テーブルの上のものを片付けてくれから、

   これでテーブルを拭いてくれ」



エプロン姿の春希が台所から顔を見せると、私に台布巾をほおってよこす。



千晶「OK~」



私は、春希の声に反応して台布巾をキャッチしようとした。

しかし、無情にもレポートで全ての体力を使いきった私には、腕を上げるのさえ一苦労で、

放物線を描いた台布巾は減速する事もなく、私の手のひらをすり抜けて、

見事私の顔へと着陸した。



千晶「ぶっ」

春希「大丈夫か? 強く投げたつもりはなかったんだが、悪かった。

   でも、綺麗に洗ってあるから、汚くはないぞ」



春希らしい見事なフォロー付きの謝罪を、嫌みつきのにこやかな顔で受けながそうと顔を作る。



千晶「大丈夫、問題ないよ。春希も、厄介事に巻き込まれてストレス溜まってるよね。

   だから、台布巾くらい私に投げつけても問題ないって」


・・・・・・・あれ?

なんで春希は黙ったままなの?

いつもだったら、ちょっと困った顔をして、お説教付きで言いかえしてくるのに。

今は、俯いたまま神妙な顔をしていた。



春希「そんなこと思ってないから。それは前もって言ってくれた準備もしやすいし、

   スケジュールも確保しやすいかとは思う事もある。

   でも、ストレスがたまるとか、和泉と関わるのが嫌だなんて、思った事はない。

   ましてや、女性の顔に向けて、台布巾であっても投げつけたりなんてしない」



なんなのこの雰囲気。いつもと違いすぎない?

本来だったら、笑いながら食事の準備を進める場面じゃないの?

それなのに、なんでこうなったんだろう。

私はなにもミスをしていない。それとも、私が春希と会っていない間に、春希に大きな変化でも

あったのだろうか?

わからない。ぜんっぜん、わからない。

とりあえず、ちょっと困った感じで、反省しています風の顔を作るか。

あとは春希の出方を見ながら、軌道を修正するしかないかな。



千晶「いやぁ~、ごめんね。私もそんなつもりで言ったんじゃないよ。

   いつもの軽い冗談のつもりだったんだけどさ・・・」



春希の動きが鈍い。私が入れたフォローも不発。

それどころか、ますます春希の顔が厳しくなっていった。

どこか腫れものに触るような目つき。違いよ。違うって。

私は、こんな春希は求めていない。



春希「ごめんな、和泉。いつも冗談を言いあってたけど、和泉も女の子だもんな。

   男友達っていうか、性別を感じさせないから、それに甘えていた。

   でも、それは間違っていた。ごめんな」



なんで? 私は、春希が望む女友達を演じてきたのに。

どうしてこうなったの? わからない。わからないって。



千晶「どうしてそんなこと言うの?」



私の低い声が春希に突き刺さる。楽しい夕食の時間になるはずだったのに、

重い空気が部屋に満たされていく。

キッチンから匂ってくる美味しそうな香りも、どこか別の空間の出来ごとのようで、

なんだか自分の空間を侵食してくるみたいで癇に障った。




春希「どうしてって?・・・それは」

千晶「どうして!」



私は怒鳴りつけるように思いを吐き出すと、春希に詰め寄ってしまった。

あと少し判断が遅れてしまったら、春希の胸ぐらを掴んでしまっていたかもしれない。

春希を押し倒していたかもしれない。

目の前に、春希の悲しそうな顔がなければ、私は理性を失っていたと思う。



春希「それは、・・・和泉が悲しそうな顔をしていたから。

   言葉とは裏腹に、寂しそうな顔をしていたから。

   だから、俺が悪かったんだって、思うじゃないか」

千晶「え?」



春希の告白を聞き、力が抜けていく。膝から崩れてゆき、そのまま座り込んでしまった。

なんなのよ。そんなお芝居していないって。

いつもの和泉千晶を演じていたはずなのに。

両手で顔を確認してもわかるはずなのに、指で顔なぞって何度も確認しようとしてしまう。

春希はきっと、困った顔をしてるのだろう。

だけど、どんな顔をして春希と向き合えばいいっていうの。今は無理。

私は、顔を手で隠しながら立ちあがると、バスルームに駆け込んで、鍵を閉めた。

春希は追ってこなかった。声をかけてくる事もなかった。

けれど、バスルームの前にいる気配だけはしていた。

心配はしているけど、声はかけない。

春希らしい気遣いに感謝しつつ、私は鏡に映る私を確認する。

・・・・・・なによ、これ。春希が心配するに決まってるじゃない。

疲れきった顔。力ない表情。そして、悲しそうな瞳。

こんなの私じゃない。私が作り出した和泉千晶じゃないって。

どうして? どうして? どうして、こうなった?

なんなのよ。なにがあった? わからない、わからないって。

落ちつけ、落ちつけ、私。舞台の上でもこんなミスしたことはない。

舞台の上で、パニックになったことなんてない。

ここは舞台の上。場面は、春希のマンション。

夕食前の楽しい一時。登場人物は、北原春希と和泉千晶。

仲がいい友人で、冗談をいいあって、じゃれあっている場面。

レポートを手伝ってくれる春希。料理をしてくれる春希。

レポートで疲れきっている和泉千晶。春希の手料理を楽しみにしている和泉千晶。

さあ、これから春希の手料理を食べる和泉千晶を演じるんだ。

私は、ゆっくりと顔を上げ、鏡の中にいる和泉千晶を確認する。



ぜんっぜん、駄目。どうしちゃったの、私。こんなの和泉千晶じゃない。

いくらレポートで疲れているからといって、演じられないなんて。

とりあえず、落ちつけ。いつまでもバスルームにこもっていたら、春希が心配するだけ。

時間が立つ分だけ、春希が自分が悪いって思ってしまって、自分を傷つけてしまう。

それだけは絶対しちゃだめだ。春希を傷つけるのだけは、やっちゃ駄目だ。

かちゃりとバスルームのドアを開けると、目の前に立っていた春希が顔を上げる。

目を合わせる事はできないけど、顔をそらすのだけは駄目。

私は、ゆっくりと自分の体を操縦しながら、この場をやり過ごすことにした。



千晶「心配掛けさせちゃって、ごめんね」

春希「いや、俺がわるかった」

千晶「違うんだって。なんだか慣れないレポート作業を根詰めてやったせいで

   つかれちゃったみたい」

春希「そうなのか? 夕食作る前に確認した分までだけど、予想以上に進めていたよな。

   この分なら予定より早く終わりそうだって思っていたんだけど、

   無理はするなよ。

   いくら短期間でやらないといけないといっても、2、3日で終わるものじゃ

   ないんだからさ」

千晶「そだね。休憩がてら、春希お手製の夕食でもいただきましょうか」

春希「そうだな。・・・本当に無理だけはするなよ」

千晶「わかってる」

春希「今日は食事したら、ゆっくり風呂にでも入って寝たほうがいいかもな。

   レポートの方は、一度俺が直し入れてからの方がいいかもしれないし。

   ほら、もし勘違いしている部分なんてあったりしたら、そのまま進めてしまうと

   直しも大仕事になってしまうからさ」



いかにもっていうフォローね。春希らしくあり、気を使っているのがわかってしまう。

だから、今の私は素直にその台本を演じる事にした。

ううん、そうじゃない。私には、それしか選択肢がなかった。



千晶「うん、そうする」



なんだか空々しい台詞が、どこか遠くの方で聞こえるような気がした。













千晶 3月3日 木曜日





真面目人間和泉千晶は、北原春希という看守がいなくとも、一人春希宅にて

レポート作業に没頭する。

内心、昨日の失態を思い出したくない思いが強く、目の前に転がっているレポートに

逃げているともいえるかもしれない。それはそれで仕方がない。

だって、あんなミス初めてだったし、リカバリーさえできなかった。

さてと・・・、いつまでも落ち込んでいたってしゃーないか。

これを糧にして、次失敗しなけりゃいいのよ。

そ・れ・に、今日は3食とも春希が作った食事が用意されている。

昼食用のお弁当。これは、無理を言ってお弁当箱に詰め込んでもらったものだ。

なんとなく、お昼御飯といえばお弁当かなと。ま、気分の問題ね。

で、夕食と夜食はレンジで温めればいいように準備されている。

まさにオアシスよね。もし春希が作った食事がなかったら、きっとテンション低かったし、

適当にレポートを仕上げてたね。

以前レポートを手伝って貰った時はカレーだったけど、あれはあれで文句はない。

美味しかったしね。だけど、今回の食事は、毎回違うし、その分楽しみでもある。

だからこそ、つら~いつらいレポートを真剣にやっているわけで。

だけど、深夜バイトから帰ってきた春希が下した評価は、私の予想をやや下回るものであった。



春希「昨日よりはペースが落ちているけど、これでも想定よりまだ早い。

   このままやっていけば、十分余裕を持って仕上げられるぞ」

千晶「そ・・・っか。うん。昨日は頑張りすぎて最後は失速しちゃったもんね。

   だから今日はペース配分をしっかりしてみましたぁ」

春希「だな。これでいいよ」

千晶「春希は食事すんだの?」

春希「ああ、食べてきた。仕事しながら食べてたから味なんか全くわからなかったけどな」

千晶「それって消化に悪いぞ」

春希「わかってるって。でも、急ぎの仕事だったんだよ。

   松岡さんも急ぎの仕事だってわかってるんなら、もっと早く俺に回してくれれば

   いいのに、ギリギリまで黙ってるんだもんな」

千晶「そんなギリギリの場面で頼ってくれているんだし、ある意味春希の仕事が

   認められたって事じゃないの」

春希「だったら、いいんだけどな。誰かさんみたいに、いいように利用しているだけって

   いう場合もあるから、用心しないとな」



うまく和泉千晶を演じられているはずなのに、なんで苛立ってるのよ。

春希だって、違和感なく私と話しているのに。



この胸を締め付けようとする痛み、いったいなんなのよ。

私は、体の内側で暴れまわる不快感を覆い隠し、春希との会話を演じ続ける。

今日の演技はうまくいっている。うまくいっていると感じること自体が

演者としては落第点なんだけど、今はうまくいってくれと願うしかなかった。












千晶 3月4日 金曜日






誰よ、肩をゆするのは。せっかく人が気持ちよく寝ているっているのに、

なんだって安眠をじゃまするのよ。

ぬくぬくと暖まった布団を手繰り寄せ、外界からの侵入を試みようとする。

けれど、いくら布団を掴もうとしても、手は空を掴むのみだった。



春希「和泉、和泉ったら。寝るんだったらベッドで寝とけよ。

   風邪引くぞ」



春希? 眩しい光が私の眼球を刺激する。強すぎる刺激は私の脳をショートさせ、

視覚を半分以上奪っていた。

寝ぼけながらも自分の身の回りを確認すると、寒いはずだ。

なにせ毛布一枚羽織らないで寝ているんだもん。

エアコンはついているけれど、あまり温度が高すぎると眠くなるからという理由で

やや低めに設定してあったのが裏目に出てしまった。

春希の心配ではないが、これじゃあまじで風邪ひいちゃうって。

げんに寒いっ。少しでも暖を取ろうと体を震わせて、両腕でぎゅうっと身を抱きしめたが

そんな横着すぎる暖の取り方では、冬の夜にはまったく効果を果たさなかった。



春希「ほら、とりあえず毛布でも着ておけって。

   この部屋寒すぎるぞ。エアコンの設定上げておくな」



春希は、私が起きたのを確認すると、私の暴君的要求を聞く前に行動を始めていた。

毛布を頭からかぶって待っていると、ホットミルクが目の前に差し出される。

おずおずと毛布から左手を引き出すと、私が取りやすいようにと

取っての部分を私の方へと向けてくれた。




春希「熱いから気をつけろよ。ハチミツとバニラエッセンスを勝手に入れたけど

   甘いの苦手じゃないよな?」

千晶「だいじょぶ。バニラエッセンスなんて入れてるの?」

春希「バニラエッセンス苦手だったか?」

千晶「苦手じゃないけど、春希が入れてくれるなんて意外だったから」



マガカップを両手で掴んで暖を取りながら中身もちょうだいする。

うん、懐かしい。体がぽかぽかする冬の味。

かなり甘めになるけど、寒い日にはこれよね。



春希「そうか? まあそうかもな。俺も最近料理を勉強し出して覚えたばっかだしな」

千晶「でも、これってかなり甘いから、春希は苦手じゃない?」

春希「甘いのが苦手ってわけではないから、嫌いじゃない。

   嫌いじゃないけど、俺が飲む場合は、もう少し蜂蜜の量を減らすけどな」

千晶「そう? だったら、私の好みに合わせてくれたってわけね」

春希「散々食事をねだられたからな。いくら学食で貢いだと思っているんだ。

   しかも、それ以外でも奢らせようとして、行きもしない店の情報まで

   わざとらしく話していたしな」

千晶「そうだっけ?」

春希「そうだったんだよ。そのおかげで和泉の好みはわかったつもりだ」

千晶「だったら、私の努力も実ったじゃない」

春希「役に立ってほしくはなかったけどな」

千晶「勉強もいつ役に立つかわからないけど勉強するんでしょ?

   それと同じように、私の好みをしっかり勉強したほうがいいわよ」

春希「いかにもっぽく言ってるけど、勉強と食事をたかるのを同列にするなよ。

   ・・・うん、今日の分のレポートはできているな。

   この分だと、予定通りに終わりそうでよかったじゃないか」



春希は、私との会話をしながらも、目と手だけは私のレポートチェックを進めていた。

本格的なチェックはあとになるはずだけれど、ざっと目を通して、今日の成果を

吟味していた。



千晶「頑張ったからね。春希が食事の準備をしっかりしてくれたおかげかな。

   明日も春希が3食分作っていってくれたら、今日みたいな成果が期待できると

   思うんだけどなぁ・・・」



私は体一つ分だけ春希に詰め寄ると、首をかしげながら下から見上げる。



春希「わかったよ。作ってやるから明日も頑張れよ」


千晶「りょ~かい。じゃあ、お風呂入ってくるね」

春希「帰って来る時、かなり寒かったから、しっかりあったまっとけよ。

   今夜も冷えるぞ」

千晶「じゃあ、一緒に入って、私がしっかりとあったまるか春希が監視でもする?」

春希「馬鹿言ってないで、とっとと風呂に入れ」

千晶「はい、はい。鍵はかけないでおいてあげるから、いつでも入ってきていいからねぇ」



そう言うと、春希のお小言を遮るようにバスルームの扉を閉めた。

・・・鍵はかけないでおいてあげよう。

あの春希が入ってくることなんてあり得ないけど、万が一ってこともあるしね。












千晶 3月6日 日曜日





体が熱い。喉が痛い。頭が痛い。目を開けているはずなのに、なんだかぼやけてない?

しかも、私をゆすっているのは誰よ。こっちは体中が痛くって動きたくもないのに

そんなに揺したら、体に響くじゃない。

だから私は文句を言ってやろうと声を出そうとしたんだけど、

その声は目の前にいるはずの人間に届く事はなかった。

なにせ、私の声ったら売り切れだったのか、声が出やしない。

わずかに残った残高分だけかすれ声漏れたんだけど、そんなの役に立つわけないじゃない。

もう誰よ、ほんとうに辛いんだから、やめてったら・・・。

最後の力を絞って抗議してやろうとしたんだけど、出たのは激しい咳のみ。

喉が焼けるような痛みが走り、息が詰まりそうになる。

それでも咳が止まる事はない。咳をするたびに体が揺れ動き、ただでさえ頭が

痛いっていうのに追い打ちをかけてくる。

しまいには涙まで出ているんだから、これはちょっとやばめかも。



春希「しっかりしろ。背中さすってやるからな」



ん? 春希?

咳が収まらぬ中、声の主を探ろうとすると、なんとか春希だということだけは確認できた。

心配そうに見つめる様は、私の症状の悪さを物語っている。

こりゃ、かなりやばめってことか。



春希「水と薬持ってくるからちょっと待ってろよ。

   その前に体温計だな。たぶん風邪だと思うけど、今日は日曜だし病院が

   救急外来しかやってないか。

   とりあえず、風邪薬飲んで様子見て、やばそうだったら、うちの大学病院

   で救急外来やってるから、行ってみるか」



春希はなんだか忙しそうに動いているらしいんだけど、私に薬を飲ませてくれたところまで

しか意識を保つ事が出来なかった。

う~ん・・・、和泉千晶一生の不覚。体調管理さえできないなんて、女優失格じゃない。








なんだか美味しそうな匂いがしてくる。

鼻がひくひくと小動きして、臭いの発生源を探ろうとする。

なんか美味しそうな匂い嗅いじゃうと、お腹もすいてくるじゃない。

お腹がぎゅるるぅって鳴ってしまうのは、私のせいじゃない。

この美味しそうな匂いのせい。だとすれば、その原因とやらを確認しないとね。

ゆっくりと瞼をあけると、部屋は薄暗く、台所の方からの光がわずかに漏れてきていた。

窓の外を見ると太陽はおらず、かすかに伝わってくる街の光が灯されている。

ゆっくりとだが脳が再起動してくれたおかげで自分の状況がわかってきたのだが、

それに伴い体の不調も再認識してしまった。

まず、頭が痛い。で、喉も痛い。さらに体の節々も痛いし、なおかつお腹が空いた。

とりあえず前3つの不調はどうしようもないか。

だったら最後の4つ目の不調を解消すべく、あたしはふらつく足取りで

美味しそうな匂いの方へと歩み寄っていった。



春希「もう起きても大丈夫なのか?」

千晶「大丈夫じゃないけど、お腹が空いたぁ」

春希「もうちょっと待ってほしい。これでも飲んで待っててくれ。

   風邪にはいいんだぞ」



春希は、鍋の中身をマグカップに入れると、私に差し出した。

ショウガの香りがつう~んときて、お腹がすいた私の食欲を掻き立ててしまう。

とりあえず春希の勧め通りに一口喉を通すと、いがらっぽい喉が拒否反応を起こすが、

蜂蜜のどろりとした感触が、うっすらと喉に膜を作ってくれるようで

痛みが緩和されていゆく。

一口、また一口の飲み進めていくと、鼻から柚子の香りが抜け出てくるのが

頭の痛みをやや緩和してくれた。



春希「ほら、これも着ておけよ。エアコン少し強めにしてたけど、温かくしたに

   こしたことはないからな」



春希は、紺色のフード付きフリースの上着を私の肩にかけると、

すうっと私のおでこに手をあてた。

ひんやりとした感触が心地いい。

けれど、春希はすぐに手を離してしまうものだから、もう少し手で冷やしてよって

無言の要求を目で訴える。

うつろな意識のせいで、とろんとした目で見つめ、

熱のせいで上気した頬になってしまう。

けれどこれは演技ではなく、自然に体が反応してしまった結果。

体が熱いんだから、仕方がないじゃない。

だって春希の手が冷たくて、気持ちがいいんだもの。

あっ、わかった。私は風邪ひいたんだ。

ようやくここ数日の不調の原因を認識した瞬間であった。



第28話 終劇

第29話に続く








第28話 あとがき



かずさ「あたしの出番がないんだけど、どうなってるんだ?」

麻理「私もよ」

かずさ「まだいいじゃないか。前半でまくって、春希といちゃついてたじゃないか」

麻理「ごめんなさい」

かずさ「ふんっ」

麻理「でも、さすがに著者も本編を置き去りにできないから、『千晶、踊る子猫』の

   中軸エピソードは書かないそうよ」

かずさ「へぇ、そうなんだ」

麻理「どうなるんでしょうね・・・」

かずさ「・・・・・・・」

麻理「・・・・・・」

千晶「来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

   また読んでくださると、大変うれしいです

   こわっ!」



黒猫 with かずさ派


第29話





4-2 千晶 3月6日 日曜日






キッチンからの漏れ出てくる人工の光を浴びながら

春希が料理をしている後姿を観察していると、お腹がきゅぅっと悲鳴をあげる。

ぐつぐつと煮える鍋から湧き出てくる香りに、体が自動的に反応してしまった。

最後に食事をしたのっていつだっけ?

風邪をひいてもなお空腹を訴えてくるんだから、相当な期間食べていないのかもしれない。

春希のエプロンがせわしなく揺れ動くのを目で追いながら、

自分の現状を把握しようとしても、いっこうに思いだせないでいた。



春希「冷蔵庫には、俺が用意していた食事がほぼまるまる残っていたから

   昨日の朝から調子が悪かったんじゃないか?

   それだったら、俺がバイトに行く前に言ってくれればよかったのに」

千晶「朝は、う~ん・・・、特に問題ないって思ってたんだけどなぁ」

春希「俺もとくに調子が悪いようには見えなかったな。

   じゃあ、昼前くらいから悪くなったのか?

   昼食用の食事は、少しだけしか手をつけられていなかったら、

   たぶんそのあたりからだと思うんだけど」

千晶「ほんとに?」



私は思わず大きな声で聞き返してしまう。

私が楽しみにしていた食事を食べないだなんて、異常すぎじゃない。

たしかに集中しているときは、食事も睡眠も忘れちゃうけど、レポートごときと

天秤にかける必要なんてないし、そもそも春希の食事だけを楽しみに頑張っていたんだから、

食事をしないなんてよっぽどのことが起きない限りあり得ない。



春希「ほんとだって。昨日作ったものだから今日も食べられるけど、

   さすがに病人に食べさせるわけにはいかないから、あとで俺が食べるよ」

千晶「春希が食べなくても、私が食べるって」

春希「無理するなよ。胃が受け付けてくれないぞ」

千晶「もったいないじゃない」

春希「風邪が治ったら、また作ってやるからさ」

千晶「ホントに?」

春希「ほんとだって」

千晶「嘘つかない?」



春希「つかないって」

千晶「条件付けたりしない?」

春希「そんな面倒なことしないよ」

千晶「じゃあ、じゃあねえ・・・」

春希「声かすれきているから、あまり無理して喋るなよ。女優なんだし、喉は大切にしろよ」

千晶「は~い」



春希はちらりと私が頷くのを確認すると、再び鍋の中に視線を落とす。

ぐつぐつと煮える鍋のお米をゆっくりとかき回して、

とき卵を入れるタイミングをみていた。

そして、とき卵を鍋にたらし終えると、鍋のふたをしっかりとしてガスの火を消す。

低く唸っていた換気扇も消されると、もともと静かだった部屋が重苦しいまでもの

静けさに満たされていった。



春希「・・・・・・ごめんな、和泉」

千晶「ん?」

春希「だから、しゃべるなって。だまって聞いているだけでいいから」



私は、春希の言いつけ通り無言で頷く。背中を向けている春希は、私が頷いたのが

見えないはずなのに、私が頷いたのを確認したかのように話を進めた。



春希「昼食も食べられなかったってことは、昨日の昼前から体調が悪かったってことだよな。

   いつごろ倒れたか覚えているか?」



今度はしっかりと春希は振り返り、あたしの返答を確認しにくる。

だから私は、首を振り、わからないと返事をした。



春希「そっか・・・。昼食の皿はラップをかけ直して冷蔵庫に入っていたから、

   その後倒れたんだろうな。夕食を食べた形跡はないし、昼間のうちに倒れたのかもな。

   それとも、夕方くらいまでは起きていたか?」



私は首を振り、否定する。



春希「だったら、丸一日くらい倒れていたのか。エアコンも眠くならないように

   温度が低めに設定されていたし、しかもお前、薄着だったんだぞ」



春希の発言を確かめるべく着ている服を確認するが、春希がいうほど薄着ではない。

むしろしっかり着込んでいるといえるんじゃないかな。



春希「それは、俺が着させたんだよ。・・・あぁ、もともと着ていた服の上に着させたから

   脱がせてはないからな。変な誤解はするなよ」



するわけないじゃない。熱もあって現状把握事だって大変なのに、

春希をからかうことなんて、できないって。

ん? 丸一日倒れていた?

私は、自分の目で現実を確認すべく窓の外を見ると、

しっかりと窓は黒く塗りつぶされていた。



春希「もう夜だよ。午後7時になるところ。昨日は遅くなるって言っておいたけど、

   帰ってきたのが翌日の昼の1時になってしまって、本当にごめんな。

   俺が早く帰って来ていたら、ここまで風邪が悪化しないですんだのに。

   俺が和泉のサポートするって言ったのに、それなのに風邪引いていたのを

   見過ごすなんて、保護者失格だな」

千晶「そんなことないって。春希は、しっかり、ごほっ、ごほ・・・」



急に大声出したものだから、喉に無理がかかって咳が止まらなくなる。

喉はひりつき、咳のせいで酸素がまわってこない。

かすれた咳を繰り返していると、涙で視界がかすんでいった。



春希「ほら、無理するなって」

千晶「無理なんて・・・ごほっ」

春希「それが無理しているんだって」



春希が甲斐甲斐しく背中をさすってくれるものだから、睨みつけて春希は悪くないって

伝えようとも考えたが、ここはおとなしくしておく。



春希「明日までバイトは休みだから、明日中には風邪治してくれよ。

   昨日無理やりバイト時間延長させられたから、明日までの休暇でチャラらしいんだ」



今度こそ本気で睨みつけてしまった。

だって、昨日遅くなる事は伝えられていた。

もしかしたら、今日の昼ごろまでかかるかもしれないってことも伝えられていた。

しかも、今日は昼ごろ戻って来て、再び夜にはバイトに戻らないといけない事も。

そして、明日も昼前からバイトがある事も事前に教えてもらっていた。

だから、今春希が言った事は、嘘だってわかってしまう。



春希「さてと、お前はもう少し柚子茶でも飲んであったまっててくれよ。

   もう少しでおじやできるからな。味噌味に卵を加えたのでいいか?」



春希は、私が春希の嘘を見破っているってわかっているはずなのに、

もう話は終わりだと、一方的に宣言してガス台の前へと戻っていく。

私におじやの味付けを聞いてきたくせに、私の返事をみようともせず戻っていく。

だから、私の記憶は正しいって、春希が示した事になってしまう。



千晶「春希」

春希「もうしゃべるなって。喉痛いんだろ。声がますますかすれてきているぞ」



春希は、黙々と料理を再開する。私にこれ以上しゃべる隙をあたえないように。

春希は、結局料理が出来上がるまで、一度も私の顔を見る事はなかった。

相変わらずキッチンからは美味しそうな匂いが漂ってくるくせに、

私の食欲だけは衰退していくような気がした。











千晶 3月7日 月曜日






千晶「お風呂入りたいぃ」

春希「駄目だって。熱も完全には下がりきってないだろ。

   今みたいな治りかけの時油断するのが一番よくないんだ。

   お前みたいにちょっとよくなったからって動きだすと、また熱が上がって、

   結局は風邪が長引くんだからな」



春希のベッドを占領している私は、掛け布団から顔と手を出して大きくアピールするも、

即時却下される。

だから、不満たらたらですっていう顔を見せてやっているのに、春希ったら涼しい顔で

私の対応を続けていた。



千晶「それって春希の経験談? いかにも動けるときは多少は無理をしてでも動きますって

   感じだもんね、春希って」

春希「うるさい。病人は黙って寝ていればいいんだ」

千晶「だから、汗かいちゃったせいで服がはりついて気持ち悪いのぉ。

   こんな状態じゃ、気持ちよく寝られないぃ。

   それにぃ、せっかく回復してきているのに、汗で体冷やしたら、

   また悪化するんじゃないの?」



ここで私が折れたらお風呂が遠のくじゃない。

病人だし、見栄っていうか、綺麗な私だけを見て欲しいなんていう乙女チックな感情は

ないんだけど、さすがに汗をかきすぎていて体を動かずたびにねっとりと肌にへばりつく

感触には辟易している。

だから、ここは強きでいくしかない。お風呂を勝ち取る為には。



春希「そうかもしれないけど」

千晶「春希が過保護すぎるんだよ。いくら温かくしておいた方がいいからってさぁ。

   できることなら、ベッドのシーツも変えて欲しいところよ」

春希「シーツくらないならいくらでも交換してやるけど、お風呂はなぁ」



もうひと押し? 春希の場合は、正論で押すのが一番ね。

春希が言っている事も間違いではないんだろうけど、正解が一つとは限らない。

だから、もうひとつの正解の有効性を証明すれば、春希だって納得してくれるはずだ。



千晶「私がゆっくりお風呂であったまっているときに

   シーツを交換してくれればいいじゃない」

春希「でも、駄目だ。さっきようやく38度を下回ったばかりじゃないか。

   熱が下がれば風呂に入ってもいいけど、高熱で体力が消耗している今は駄目だ」



私は、春希の顔を見て、肩を落とす。こりゃ駄目だ。

春希の決意は堅過ぎる。これを捻じ曲げるには、強引な正面突破しかないだろうけど、

今それをやるだけの体力は、私にはない。

それに、バイトを休んで看病してくれている春希に、これ以上の迷惑はかけたくもないかな。



千晶「わかったわよ」



口をとがらせて渋々納得してあげたのに、なによその自分は正しいでしょっていう顔は。

実際問題として、このままだと汗で体冷えちゃうじゃない。



春希「その代わり、タオルで体拭けよ。今桶にお湯くんできてやるから」

春希はそうぶっきらぼうに告げると、てきぱきと体を拭く準備に取り掛かった。

春希「お湯を絞る時は気をつけてくれよ。こぼしてもいいけど、なるべくだったら

   そっとやってほしい。でも、体は本調子じゃないんだから無理はするなよ。

   あと、体が拭き終わるまで、俺はバスルームに消えているから、

   終わったら呼んでれ」



噛みそうなくらい早口で私に注意事項を押しつけてると、くるりと回れ右をして

バスルームに逃げ込もうとする。


だから私がちょっと可愛いなと思ってしまってもしょうがないじゃない。

きっと春希の事だから、顔を真っ赤にして、私にその顔を見られないようにと必至なはず。

うん・・・、少しは具合がよくなってきたし、ここは一ついつもの調子でやってみよっかな。



千晶「ねえ、春希。ちょっと待ってよ」

春希「ん? なんだ? 桶のお湯は熱いといっても、手を突っ込んでも問題ない温度だぞ」



もう明らかに安全地帯たるバスルームに逃げ込みたいっていうオーラが出ているじゃない。

まだ服を脱いでもいないっていうのに、振り返りもしないし、どこまで用心しているのよ。



千晶「そんなことで呼びとめたんじゃないって。

   ちょっとお願いしたい事があってね。どうもこればっかりは私じゃ無理みたいだから、

   悪いんだけど、春希にお願いするしかないかなってね。

   ほんとうは自分でできればいいんだけど、風邪のせいか、うまく体が動かないのよ」



弱々しく、たどたどしく、それでいて力強く、

病気でふせっている感じをにじみ出しながら言葉を吐く。

いくら春希が振り返っていないからって、観客が私を見ていなくても演技は全力で行う。

声だけじゃなくて、目、口、頬、あご、手・・・

体全部を使って病気で困っている和泉千晶を演技していく。

ほら、私って女優だし、風邪をひいていても女優は女優。

とはいうものの、本当に風邪で体のいう事が効かないのよね。



春希「俺に出来る事なら何でも言ってくれてかまわないぞ。

   迷惑だとか、面倒とか思っていないから、風邪をひいている時くらい遠慮するなよ。

   あ、でも、普段は少しは遠慮してくれると助かるんだけどな」



あ~ら、春希ったら、冗談をいうくらいには余裕があるみたい。

でも、その余裕、いつまで持つかしらね。



千晶「うん、ありがとね、春希。だったら、お願いしたい事があるから

   こっちを向いてくれないかな? まだ服着てるから問題ないよ。

   それとも、脱いでいた方がよかったかな?」



私の方に振り向いた春希を、ニヤリと底意地が悪い笑顔で出迎えると、

可愛い事に、春希はピクリと体を震わせる。

もう、春希ったらぁ、もう余裕がなくなっちゃったのかなぁ?



千晶「そんなに警戒した顔をしなくても、無理難題を押し付けたりなんてしないって」

春希「すでに大学4年進級という難題を押し付けられているけどな」

千晶「それはそれ。これはこれだって」

春希「ふぅ~・・・。まあ、いいか。で、俺に頼みたい事って?」

千晶「うん、背中拭いてっ」



やばっ。つい春希との会話のノリで明るく言っちゃったじゃない。

ここは力ない声で言わないといけない場面だったのに。

やっぱり本調子じゃないのかな。

と、反省していると、私の相手役たる春希君は、呆然と私を見つめていた。

見つめているというよりは、虚空を見つめている、かな?

そんなに私のお願いが嬉しかったの?・・・・・なわけないか。



千晶「うまく力が入らないんだって。タオルも絞りにくいから、できれば春希に

   しぼってほしいんだけどな」



ここは、背中を拭くだけじゃなくて、タオルもしぼれないのコンボ。

これなら春希だって、折れるしかないでしょ。



千晶「春希? 聞いてる?」

春希「ああ、聞いてる。大丈夫、理解してる」



春希ったら、何度も瞼をぱちくりさせながら落ちつこうとがんばってるじゃない。

でも、どこまで効果があるかしらね。



千晶「そう? だったら、背中拭いてくれない? はい、タオル」



タオルを差し出すと、私の手に吸い寄せられるように春希は手を差し出し、

タオルを受け取る。

タオルを手にしたのはいいんだけど、まだ何故タオルを持っているのか理解して

できていないみたいだった。



千晶「じゃあ、背中拭いてね」



さっそく背中をはだけ出すと、春希はようやく今の状況に理解したみたいで

肩越しで見る春希は、落ち着かない様子であった。



千晶「ほら、早くぅ。いつまでも裸でいると熱が上がっちゃうでしょ」

春希「わかったって」



背中に温かい感触が伝わるのと同時に、タオルで汗をぬぐいさった個所には、


ひやっとする爽快感を残していく。


それと同時に丁寧に痛くしないように配慮する春希の気遣いも伝わってもきて、

お風呂に入れない間にため込んだぬめりも全て取り去ってくれるようでもあった。



千晶「うぅ~ん、気持ちいぃ~。首の後ろのあたりもよろしくぅ」



首の後ろのあたりなんて自分で拭けないわけでもないのに、

春希ったら、甲斐甲斐しく文句も言わずに私のリクエストにこたえる。

春希は肩にかかっている髪を左手ですくいとり、優しくタオルを首にあてていく。

あまりの気持ちよさに気がつかないでいたんだけど、ふと前を見ると今は夜であった。

夜って事を忘れていたんじゃないのよ。夜だってことは知っていたしね。

夜って事は、闇によって黒く塗りつぶされた窓は鏡のようになってしまう。

つまり、窓には私が春希に背中を向けて拭いてもらっている姿が写し出されていた。



千晶「あっ・・・」



私が不注意で漏らした声に反応した春希は、私の真意を探るべく顔を上げる。

すると自然と窓に写った私の目とあうわけで。



千晶「あ・・・ぁあ・・・、ひっ!」



ここにきて、春希を挑発しようと胸を隠していない事でしっぺ返しをくらうなんて、

この台本、出来過ぎじゃない。

どこのラッキースケベ主人公なのよ。

私の悲鳴を察知した春希は、視線を徐々に下げてゆき、ぷるんとした胸へとたどり着く。

大きくてもなお重力に逆らって形を崩さないでいる私の胸を、間接的にとはいえ、

春希に見られてしまった。

顔がほてり、体がピンク色に上気しているのさえ、風邪のせいだけとは思えない。

心臓もバックバクで、春希に聞こえてしまっているんじゃないかと焦りも感じてしまう。

焦りが焦りを生み、どつぼにはまっていっているのに、どこか期待している私もいる。

って、何を期待しているっていうのよ。

ここでも、本調子の私だったら、見たいんならいくれも見せてあげるって

軽口を言えるはずなのに、今の私は、可愛い悲鳴を上げるのが精々だった。



千晶「あのさ、春希。いくら私の胸が立派だからといっても、いつまでも見られていると

   恥ずかしいんだけどな」

春希「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。突然の事で驚いてしまって、

   俺も状況判断ができない状態っていうか、つまり、パニクっててよくわからん」

千晶「うん、私もだから落ちつきなさいって」

春希「ごめん」


千晶「私が頼んだこと何だし、春希に落ち度はないよ」

春希「ごめん」

千晶「ごめんって、誤っている割には、いつまで私の胸を見ているつもり?

   春希にだったら見せてもいいんだけど、でも、そんなに凝視されちゃうと

   さすがの私も恥ずかしいかも」

春希「ごめん!」



春希は盛大なごめんをはじけ出すと、

今度こそ安全地帯たるバスルームに逃げ込んでしまった。

ちょっと意地悪しすぎたかな?

でも、ここまでは計算していなかったしなぁ・・・。

とりあえず、このままだと寒くて熱あがっちゃうから、とっとと体拭いて

服を着替えるかな。



千晶「春希ぃっ。恥ずかしがっているところ悪いんだけど、タオルだけは返してくれない?

   早く体拭いて、着替えたいから」



と、私が催促すると、春希は上半身だけバスルームからだして、タオルを私に

投げ渡してくれた。



春希「タオルを催促するんなら、上着くらい着ておけよ!」



あら? 顎を引いて今の服装を確認すると、見事な二つの胸が抜き出しで出迎えてくれた。

つまり、春希ったら、今度こそ直接私の胸を見ちゃったわけか。

さっきは窓に写ったのを見ただけでもあんなに取り乱していたんだから、

今度はさすがにやりすぎたかな?

でもね、春希。今回のは、まじでアクシデントなんだよね。

だって、私の顔も春希と同じくらい真っ赤に染まっているはずだから。










なんとなく気まずい。

体を拭いて、着替えもして、ベッドのシーツまでも交換したっていうのに、

体にまとわりつくもやもや感が私を悩ませていた。

わかってる。何が原因かってわかっているんだけど、どうも風邪をひいてからは、

うまく台本を作れないでいた。

いつもの和泉千晶ならどうすればいいかってわからなくなる。

でも、今いる私も和泉千晶に違いない。


だったら、難しい事を考えないで本能で体を動かすしかないのかな?



千晶「あのさ、春希」

春希「なんだ? 喉でも乾いたか?」



私のレポートを確認しつつ、これから書いていく部分についての要点をまとめていた春希は

いかにも素人くさいなんでもないですよっていう顔を無理やり作って返事をしてくる。

こんなへたれ俳優が舞台に上がっていたら、蹴り飛ばしてやるところだったけれど、

今は春希のへたくそな演技に救われていた。

春希の困っている顔を見ていると、すうっと肩の力が抜けていくんだもの。



千晶「さっき私の胸見た事なら、まったく気にしてないから、春希もとっとと

   オナニーのネタくらいにでもして、忘れちゃってね」

春希「なっ・・・」

千晶「にひひひひ」



私も春希の真似をして、へたくそな笑顔を見せつける。



春希「女性がオナニーとか言うんじゃない」

千晶「それは、私の照れ隠し?」

春希「う・・・んっ」



こういってしまえば、春希も黙るしかないか。

こちらとて、余裕があるわけじゃないのよね。



千晶「それに、レポートだけじゃなくて、風邪の看病までさせちゃって、

   こればっかりは本当に春希に悪いと思ってるんだ。

   バイトだって、休ませちゃったでしょ」

春希「それは」

千晶「私と春希の間には、遠慮なんて必要ないじゃない」

春希「そうかもしれないけど」

千晶「だったらいいじゃない。わざとらしく嘘をつかれるよりも、

   はっきりとお前のせいだって言われた方が気持ちがいいわよ」

春希「お前のせいだとはいってないだろ」

千晶「それは、今頭が働かなくて、言葉が出てこないだけだって。

   でも、私が言いたい事は、春希にならわかっているでしょ?」



私は自然と笑みを浮かべている。

もはや今の私は私がキャラ設定した和泉千晶ではなかった。



春希が見てきた和泉千晶であり、私の中に根付いた和泉千晶であった。



春希「なんとなくだけどな。下手な気を回させるなら、しっかりと真実を伝えて、

   余計な気苦労をかけさせるな。

   俺達の関係では、建前や遠慮なんかするなって事だろ?」

千晶「まあ、だいたいあってるかな」

春希「だったら、和泉も俺に変な気を使うなよ。

   レポートだって、風邪をひいたことだって、何一つ面倒とか思ってないからな。

   さすがにレポートは、もう少し前に言ってくれさえすればスケジュール調整が

   できて余裕を持てたとは思っているけど、関わりたくないとか、

   和泉の側にいたくないとか思った事はないからな」



あまりにも真剣に春希が言うものだから、きょとんとした顔で春希の演説を

聞いてしまった。

多少はうざい奴って思われていたと思ったのに、こんなの卑怯じゃない。

これは、風邪で弱っている女は落としやすいってやつなのかな?

なんて下世話な事を考えている場合ではないか。

うん、まあ、春希らしいかな。

そんな今の私には、この一言を言うのがやっとだった。



千晶「ありがと」



この言葉を聞いた春希の顔は知らなし、知りたいとも思わなかった。

何せ私は、頭まで布団をかけて逃げてしまったのだから。







第29話 終劇

第30話に続く











第29話 あとがき






春希「和泉エピソードも後半パートに入ったな」

千晶「もうちょいで本編に戻れるみたいね」

春希「だな。でも、これも本編を補強する為に必要なエピソードなんだぞ」

千晶「著者に言ってくれって頼まれたの?」

春希「・・・・・・まあ、そのな」

千晶「でもさ、これで『千晶、踊る子猫』の中軸エピソード書いちゃったりしたら

   何週くらいやることになるんだろうね。

   だって、序章的扱いでこの分量よ。

   しかも、著者ったら、プロットからの文章量見積もりがガタガタだしね。

   中軸エピソード書いちゃったら、読者も本編忘れるんじゃない?」

春希「そうかもな。でも、中軸エピソードは書かないってさ」

千晶「へぇ・・・、なんで?」

春希「著者が『~coda』の本編の設定を忘れてしまうからだってさ」

千晶「だろうね。長編3本も同時に書いていたら、いくら設定まとめてあっても

   書いていないと忘れちゃうだろうしね」

春希「来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

   また読んでくださると、大変うれしいです」







黒猫 with かずさ派




第30話





4-2 千晶 3月11日 金曜日




眠い・・・。静かに朝日が昇り始めたころ、私はようやくレポートの最終チェックを

終えることができようとしていた。

途中風邪をひくっていう私らしくもないハプニングもあったけど、

日頃の行いがいい私は、どうにかレポートを期日までに提出できそうである。

これもまるで春希のような修行僧生活をやってきたおかげね。

その修行生活での唯一の楽しみっていたら、春希が作ってくれる食事かな。

この生活が今後ずっと続くのだったら、いっそのこと本当に出家したほうが

ましだと思うのだけれど、春希の手料理を知ったからには出家なんてできないか。

さて、お~わりッ。レポート終わったぁ・・・。

窓の外にみえる朝日が、私を祝福しているようね。本当に私ったら、やればできるじゃない。

これもひとえに春希のサポートのたまものね。

と、一応テンプレコメントを思い浮かべてから、

私の横で気持ちよさそうにベッドで寝ている春希の上に飛び乗った。



春希「うっ! げほっ、げほっ・・・。なんだっ? え?」

千晶「お~きろ。ご飯の時間だって。春希言ったよね。

   レポート終わったら、私の好きな物を作ってくれるって言ったよね。

   ほらっ、お~きろ。ねえ、起きて、起きて、起きてって」



私のけたましい目ざましによって起きた春希は、若干涙目で、胸のあたりを痛そうに

していたけれど、ばっちし起きられたんだから問題なし。

もうね、食事の事しか考えられないのよ。

娯楽に飢えた私にとっての唯一のお楽しみタイム。

朝起こされたら普通は食事でしょ。

それなのに、この数日は朝起こされたらレポートの直しよ。

少し寝ぼけている頭に春希のお経みたいな呟きが頭に叩き込まれるんだから、

たまったものじゃない。

春希がバイトに行った後も健気にレポートに取り組んだし、春希がバイトから帰って来ても、

まだまだレポートをやっていたのよ。

この囚人生活もこれでお終い。

本日無事に釈放されるんだから、やっぱり好きな料理を食べたいじゃない。



春希「とりあえず俺の上から降りてくれないか?」


千晶「朝から、可愛い女の子が馬乗りになってあげてるんだから、

   男としたら喜ぶ場面じゃないの?」

春希「たしかに、好きな女の子に馬乗りに起こされたのならば喜ばしいかもしれないけど、

   俺は節操なしじゃないからな。特定の女子の以外は遠慮してもらいたいものだ」

千晶「え? 特定の女の子って私? もう、春希ったら、朝から強きねぇ」

春希「どこをどう解釈するば、お前の事を指すんだよ。断じて違うからな」

千晶「もう、冗談だって。わかっているわよ、冬馬かずさでしょ」



私のうまぁい流れからの指摘に春希は顔を背けてしまう。

う~ん・・・ちょっと強引だった? でも、事実だと思うんだけどなぁ。



千晶「冬馬かずさの実家のスタジオを自由に使えて、あの冬馬かずさの音源を手に入れて

   いるんだから、いくら私だって気がつくって」



本当は高校の学園祭ライブから知っていたし、最近の春希の変化は、

冬馬かずさの演奏の録画を見たときに気がついていたけどね。

あれ見たら、あぁやっぱりねって事情を少し知っていれば、誰だって気がつくもんよ。



春希「いつから気がついていたんだ?」



春希のお腹の上に馬乗りになっている私を見上げるその顔には、一点の曇りもない。

なにか無理やり閉じ込めていた思いを解放させたような決意がみなぎっていた。



千晶「高校の学園祭ライブのときからかな」

春希「はぁ? そのころってたしか、そのライブで初めて俺達の事を知ったって言ってたよな。

   以前俺に話してくれた話さえも嘘だったのか?」

千晶「嘘じゃないよ」

春希「でも・・・」

千晶「あぁ~、春希」

春希「なんだよ?」

千晶「あの時私、本当の事を話そうか真剣に悩んで、一大決心をえてようやく話したんだよ。

   しかも、あのとき春希に話しているときなんて、どんな舞台の上でも味わったことが

   ないほどの緊張感で、心臓がばっくばくいってたんだから。

   あの真剣な顔をした和泉千晶を見て、春希は疑っちゃうんだ?」



私はずいっと春希に顔を寄せると、なにやら後ろめたいのか、すすすっと春希は

私から視線を外した。



春希「・・・ごめん」

千晶「いいって。私は、それだけの事を春希にしてきたって自覚しているから。

   春希が最後の最後で私の事を疑ってしまうのも納得しているから大丈夫だって」

春希「ごめん。・・・でも、今すぐ無条件に和泉の全てを信じ切られるかって問われると

   躊躇してしまうのは事実だけど、そうであっても、和泉は俺にとって

   大切な友達だから。友達だから、今回みたいな事だって無条件で手伝ってるんだからな。

   ごめん。こんなこというのは卑怯だよな。ごめん、忘れてくれ」

千晶「ううん、忘れない」

春希「和泉ぃ。お前って、根に持つタイプだったんだな」

千晶「ううん、それも違うよ。私は、春希が言いたいことがなんとなくわかっただけ。

   だから、忘れてあげない。こう見えても、高校3年の学園祭の時から

   ずっと春希を見てきたストーカーなんだよ」

春希「ストーカーにしては、俺になつきすぎだな。なんだか餌付けまでされているしさ」

千晶「そうよぉ。なついちゃったんだから、最後まで世話しなさいよ」

春希「わかったよ」

千晶「うん、・・・・・・あっ、それで、いつから春希が冬馬かずさのことを好きだって

   知ったことなんだけどさ、高校の学園祭ライブを見てたら、なんかぴぃんと

   きちゃったわけ」

春希「直感みたいな?」

千晶「それもあるけど、あのライブで、あの3人の目線っていうの?

   一つ一つの仕草や息遣い。そういう動作をじぃっと見ていたら、

   あぁ、北原春希は冬馬かずさが好きなんだなって。

   そして、冬馬かずさも北原春希が好きだって、わかちゃった」

春希「あのころからかずさが俺の事を好きだって、あとになって俺も知ったけど、

   お前はあのライブを見ただけで理解したっていうことなのか?」

千晶「うん、まあね。あと、小木曽雪菜が春希に恋心を抱いていたのもわかっていたよ。

   そうね、冬馬かずさと小木曽雪菜の恋心は、お互いの恋心を知ってたみたいだけど、

   知らないのは想い人たる北原春希だけだったみたいだけど」

春希「はぁ・・・。当の本人が知らない事を、こうもあっさりと看破するだなんて

   和泉ってすごいやつだったんだな」

千晶「なにその無駄な能力もってるんだなっていう目は。

   さっき私の事を大切な友達だって言っていた人だよね?」

春希「そんな目はしていないだろ」

千晶「そうかなぁ?」



私は、さっき春希に詰め寄ったとき以上に顔を接近させると、うろたえる春希をにらみつける。

鼻と鼻とが触れるくらいまで詰め寄り、じぃっと春希の瞳を覗き込んだ。

小刻みに揺れ動く春希の眼球は、春希の動揺を如実に表していた。

だから、私は・・・。



春希「うわぁっ!」


春希の鼻筋をつつつぅっとぺろりと舌でなめ上げると、春希は私がのっかっているので

逃げられないってわかっているのに後ろに逃げようとする。



千晶「なになに? かんじちゃった?」

春希「んなわけあるか。いきなり何やってるんだ」

千晶「あまりにも春希が緊張しちゃっていたから、少しほぐしてあげようかなって」

春希「緊張を和らげるんだったら、他にも効果的な方法がたくさんあるだろ」

千晶「例えば?」

春希「例えば・・・・、えぇっと・・・・」

千晶「ないじゃない」

春希「今はパニクって思い付かないだけ。和泉が俺の心をかき乱したせいで

   冷静な判断ができないだけだ」

千晶「意外と春希もうぶなのねぇ。いやいや、見た目どおりうぶなのか」

春希「俺の事はどうだっていいだろ」

千晶「それもそうね」

春希「ふんっ・・・」



ちょっとは緊張は解けたかな?

やっぱり冬馬かずさと小木曽雪菜のことを話すと、春希は身がまえちゃうんだね。

私のお尻の下にある春希の腹筋が強張っちゃったんだよね。

あと、顔の筋肉もやや重みを増して表情が堅くなったしさ。

でも、若干拗ねちゃったみたいだけど、これなら話を続けても大丈夫かな。



千晶「で、さ・・・。学園祭ライブの事は、もういいの?」

春希「あぁ、あとはこの前話した事に繋がる感じだろ。

   俺達のライブを見て脚本を作っていた。

   その為に俺に近づいてきた。・・・・・・だろ?」

千晶「まあね、そんなとこ。

   でも、私が春希に手篭めにされるだなんて思ってなかったけど」

春希「手篭めになんかしてないだろ。いつ俺が和泉に手を出した?」

千晶「手篭めにしたじゃない。おもいっきり餌付けして、離れられないようにしたくせにぃ」

春希「だったらリハビリも兼ねて、今すぐリリースしてやる。

   レポートも終わった事だし、今日からは自分で食事を用意するんだな。

   そうすれば、2,3日もすれば俺の食事も忘れられるさ」

千晶「そんなのは、む~り~・・・。お腹すいてもう動けないぃ。

   ご飯作ってくれないんだったら、このまま春希の上から動かないから」

春希「このまま和泉が俺の上にのっていたら、ご飯作れないぞ。

   それでもいいのか? 俺は和泉との約束を守る為に、昨日材料も買ってきて

   あったんだけどな」

千晶「ほんとにっ?」




私が春希に詰め寄る振動で、春希のお腹のあたりを強く押してしまった為に

春希は低く唸ったような気もしたけど、気のせいようね。

うん、気のせい。なかったことにしよう。

というわけで、私は素直に春希の上から退去することにした。



千晶「で、何を作ってくれるの?」

春希「まずは俺を踏んづけた詫びを入れることが大事だろ?」

千晶「べ~つにいいじゃない」

春希「よくない」

千晶「だって、春希って、尻に敷かれるの大好きじゃない」

春希「断じて違う。強く抗議するぞ」

千晶「そうかしら?」

春希「そうなんだよ」

千晶「で、何を作ってくれるの?」

春希「お前ってやつは・・・。もういいや。ナポリタンと親子丼だよ。

   和泉が俺のところに無理難題を持ちこんだ朝に食べたいって言ってただろ?

   あの時はナポリタンだけだったからな。

   だから、今回は両方作ってやるよ」

千晶「まじで? 春希って、実はいい人?」

春希「いい人がどうかはわからないけど、ここまで面倒すぎ和泉千晶にとことん付き合って

   やっている人間を、俺はいい人だと評価するよ。

   まあ、いい人っていうよりは、人がいいというか、苦労症なだけかもしれないけど」

千晶「そんな小さな事はどうでもいいって。

   さ、さ。早くご飯作ってよ。朝ご飯が私を待ってるんだから」

春希「でも、ほんとうに二つとも食べるのか?

   量を少なめにして二つとも食べるか?」

千晶「ううん。両方とも大盛りでいいよ。朝ご飯はしっかりと食べないとね」

春希「食べ過ぎてレポート提出に行けなくなっても知らないからな」

千晶「はぁ~い。気をつけますって」



私はうきうき気分で春希の着替えを手伝おうとしたんだけど、

春希のズボンに手をかけてあたりで部屋から追い出されたのは、どうでもいい話ね。

春希の下着姿なんて見たってなんともないのに。

それよりも、早くご飯にしろ~。










3月の上旬ともあって、大学構内に学生の影はない。

大学に来る途中に、サークルに所属していると思える一団が大学から去っていくのを

見たのが最後で、今この構内には私と春希しかいないんじゃないかって思いさえある。

ま、正門のところには守衛さんもいたし、さっきまで教授にもあってたんだから、

春休み中といっても、わりとたくさんの人が大学で活動しているのだろう。

あっ・・・、そういや劇団の方も公演前で忙しいって言ってたから、

今も徹夜続きで頑張っているかも。

きょろきょろと学内を見渡していると、春希はさっさと先をいってしまうから

私は春希に追いつくべく、てててっとその横まで駆け寄った。

日は頂点に昇りつつあり、3月のまだひんやりとした空気が肌を撫でる中、

太陽のやんわりとした温もりも感じ取れる。

すかっとする空気と、ぬくぬくぅってするまどろみがうまい具合に配分されているって

感じられてしまうのも、レポートを無事に提出出来たからに違いなかった。

風邪から復帰した火曜日から、私も春希も顔をあわすことがあっても

ほぼすべての時間をレポートに費やしていた。

もちろん春希はバイトもあるし、私の食事を用意しなくてはならないわけで、

私以上にやつれているようにも見える。

まっ、それも今日でお終い。

教授も、この分なら進級できるって言ってたし、あとは結果が出る今度の月曜日まで

待つしかないか。

あのおじいちゃんが一応は大丈夫だって言ってくれているんだし、問題ないよね?

春希も、問題があるんだったら、教授がレポートをざっとだけど確認した時に

なにか言っているって言ってたし。

というわけで、レポートを無事に終わらせた事を祝って、打ち上げだね。

もちろん会場は春希宅。



千晶「ねえ、春希」

春希「ん? なんだ?」

千晶「これから打ち上げパーティーするんだから、スーパーに寄ってから帰ろうよ」

春希「何を言っているんだ?」

千晶「なにって、レポートが終わったら、打ち上げパーティーしようって

   言ったじゃない」

春希「たしかにそんな事も言ってたと思うけど、俺は午後からバイトだぞ。

   だから、このままバイトに行く予定なんだけど」



当然の事を聞くなよっていう顔をしないでよ春希。

バイトなんて聞いてないわよ。

このうきうき気分、どうしてくれるのよ。

一応朝食を食べて満足はしているけれど、打ち上げパーティーは別バラでしょ。



私ががっくりと肩を落としているっていうのに、春希は私の事など眼中にないようで、

すたすたと私を置いて駅へと向かおうとしていた。



千晶「ちょっと待ってよ」

春希「用があるなら歩きながらでいいか?」

千晶「わかったから、そんなに早足で行かないでよ」



私の悲鳴に確認した春希は、私の歩幅に合わせるべく、歩く速度を緩めてくれた。

このまま腕にしがみついてやろうかしら。

なんて考えてはみたけど、駅の改札口をくぐる瞬間まで腕にひばりついて抵抗しても

春希の事だからしれっとした顔でバイトに行ってしまうんだろうな。

だったらここは次につなげる行いをすべきか。



春希「レポートも無事に終わったんだし、打ち上げするにしても今日じゃなくても

   問題ないだろ。急いでやるよりも、たっぷり時間があるときにした方が

   楽しめるんじゃないか?」

千晶「たしかに、たしかに春希の言う通りだけどさ・・・、打ち上げって今ある感動を

   分かち合うものじゃないの?」

春希「十分朝食の時に感動していたじゃないか。

   レポートが無事に終わって、バクバク俺の分まで食べていたのは、どこのどいつだよ」

千晶「それは、私の燃費が悪いのが問題なだけ。

   いくら食べても燃費が悪過ぎて、すぐにエネルギーが空になっちゃうのよね」

春希「和泉が空にしてしまうのはお腹だけじゃなくて、その頭もだろ。

   きっと今回のレポートの反省も、新年度が始まったころには忘れているんじゃないか?

   そして6月ごろになったら、また俺に泣きついてきそうだな」

千晶「それはないから大丈夫だって」

春希「どこにその根拠もない自信があるんだよ」

千晶「根拠がある自信がしっかりとあるにきまっているじゃない」

春希「へぇ・・・」



なによそのまったく信じていませんっていう目は。

あまりにもひどくない?

しかも、もうこの話は終わりって感じで興味を失って、歩く速度を若干あげてるし。



千晶「根拠ならあるんだから」

春希「はい、はい。わかってるって」

千晶「わかってないって。だって、春希が私の事をしっかりと面倒見てくれるんでしょ。

   だってだって、教授達にも私の進級条件として、春希の監視が含まれていたんだから」




数歩先を歩いていた春希は急に歩く速度を緩めたかと思うと、

唖然とした顔つきで私を見つめていた。

いくら三月でまだまだ寒いからといって、

顔の筋肉を凍りつけるほどは寒くないと思うよ、春希っ。



春希「そうだった。一番の面倒事を忘れていた」

千晶「なによそれ」

春希「事実だろ」

千晶「この前、私の面倒を見る事は、いやいややってないって言ってたじゃない。

   私が側にいる事も、春希にとってプラスに働いてるって言ってたよね」

春希「たしかに、そんなことを言ったと思う。

   たしかに、いやいややっているわけではないけど、一番の面倒事には変わりないだろ?」

千晶「まあ、たしかに面倒事には違いないか」

春希「だろ?」

千晶「それは、悔しいけど認めるしかないか」

春希「だったら、レポートも終わったんだから、俺を気持ちよくバイトに行かせてくれよ」

千晶「わかったわよ。でもなぁ・・・」

春希「なんだよ?」

千晶「本当に私って燃費が悪いのよねぇ・・・」

春希「だったら、なにか食べていけばいいじゃないか?」

千晶「わかってない。わかってないよ、春希さん」

春希「何がだよ?」

千晶「私の脳は、春希の食事を食べたいって悲鳴をあげているの。

   だから、他の食事じゃ満足しないの」

春希「散々合宿中に食べていたじゃないか」

千晶「レポートやってたんだから、食事だけに集中できていなかったのよ」

春希「その割には美味しい、美味しいって、毎回お代わりしていたじゃないか」



痛い所を突くわね。このままでは時間切れになってしまう。

大学から駅まではそれほど離れてはいないから、あと数分もかからないうちに

春希は改札を通り抜けて電車に乗ってしまうだろう。

さすがに電車に乗ってまで追いかけていく気力も作戦もない。

そもそも力づくで詰め寄っても、春希は首を縦には振らないだろうしなぁ。



千晶「それは、春希の料理が美味しいからしょうがないじゃない」

春希「そこまで誉めてくれるのは嬉しいんだけど、また今度な」

千晶「えぇ~。本当にお腹すいちゃってるのにぃ・・・。

   いくら食べてもすぅぐエネルギーが消費されちゃって、すぐに空になっちゃうのよね」




春希「その割には健康そうな体をしているじゃないか。

   レポートも終わったおかげで、顔色も絶好調そうだぞ」

千晶「むむ・・・」



もう改札口は目の前だった。

もう打ち上げパーティーは無理だってわかっている。

だけど、だけど最後に春希の鼻を明かしたい。

だって、なによその澄ました顔。

その顔をゆがめなきゃ、空になったお腹が報われないじゃない。

私は春希の前に躍り出ると、後ろ向きで歩きはじめる。

すると春希は、お優しい事に歩く速度を遅くする。

この辺の気遣いが春希らしいんだけど、今回はそれを使わせてもらうかなね。



千晶「そうなのよねぇ。燃費が悪いのって、この胸に栄養が流れていっちゃうからなのかな?」

春希「え?」



春希の意識が私の胸に固定されて、春希は歩くのさえ忘れてしまう。

私が胸を強調すべく両手で胸を寄せ上げると、ただでさえでかい私の胸は、

目の前にいる春希に突き出すような形で存在感を醸し出してしまったから。



千晶「ねえ、春希」

春希「なんだよ?」



赤くなっちゃって。顔を背けないことが最後の抵抗かしらね?

くすりと笑みを漏らしてしまいそうになるのを、必死で抑えて隠すのがやっとだった。



千晶「春希の食事をここ数日、ずぅっと食べていたじゃない」

春希「そうなだな」

千晶「だったら、春希が与えてくれた栄養は、どのくらい胸を成長させてくれたのかな?」



あっ。見事な赤面・・・。今までは女らしい武器は使わないようにしていたけど、

案外使ってみると楽しいわね。

ちょっとうぶすぎるって気もするけれど、これはこれで楽しいからいっかな。



千晶「ねえ、触ってみる? どのくらい成長した確かめてよ?」



ん、ん? 固まっちゃった?

やりすぎたかな?




春希「そんなの知るか? たった数日の食事で、劇的な変化をするわけないだろ」



そう負け犬のごとく捨て台詞を早口で言いきると、

春希は私の事を見ないように改札口の中に消えていった。

やっぱりやりすぎちゃったかな?

ごめんね春希。

新しい私と春希の関係って、うまくコントロールできないや。

駅のホームから聞こえてる電車の音が聞こえる。

この電車に春希はかけのったのだろか。

春希のてれまくった顔のまま電車に乗る春希を想像して、笑みを浮かべてしまう私であった。

   






第30話 終劇

第31話に続く













第30話 あとがき




千晶編もそろそろ書き終わりそうなのですが、

おそらく第33話か第34話くらいまでかなという感じであります。

一応番外編的な扱いになってしまいそうですが、これでも本編に関係あるお話なのです。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです



黒猫 with かずさ派





第31話





4-2 千晶 3月11日 金曜日





3月11日。かろうじてだけど、今日はまだレポートを提出した金曜日だった。

それもあと数分で12日になっちゃうけど。

深夜という事もあって、マンション内はおろか、マンションの外であっても物静かな

時を進み続けている。

その静寂は、ほんのわずかな金属がこすれる音がしたとしても私の耳まで届けてしまう。

異変を察知した私は、足音を消し去って玄関前まで忍び寄る。

玄関の鍵が回され、ゆっくりとドアが開かれると、

私の前には呆れた顔をした春希が出迎えてくれた。

ううん、出迎えたのは私の方か・・・。



千晶「おかえり、春希っ」

春希「なんで和泉がいるんだ?」

千晶「なんでって、ここが春希のマンションだから?」

春希「そりゃあ、俺が住んでいるマンションなんだから、俺がここに帰ってくるのは

   当然だろ」

千晶「だから、ここが春希のマンションだから、私がいるんだって」

春希「待て待て。意味がわからない。もうレポートは終わったんだから、

   ここにいる理由はないだろ」

千晶「理由ならあるって。それもすっごく重要な理由がね」

春希「だったら、俺が納得できるような理由をお聞かせ願おうか」



なんだか春希、機嫌が悪い?

顔色もちょっと優れないように見えるし・・・。



千晶「だって、打ち上げパーティーやろうって決めたじゃない。

   だから春希が帰ってくるのを待ってたんだって」

春希「待ってたのはわかるけど、どうやってここに入ったんだよ?」

千晶「それは、合鍵貰ってるからに決まってるじゃない」



ちょっとちょっと、本当に春希大丈夫?

合鍵なんてレポートを春希んとこでやるからって合鍵もらったじゃない。

それを忘れるだなんて、よっぽどお疲れなのかな?




春希「そうだったな。でも、打ち上げは後日って事にしただろ。

   悪いけど、今から食事なんて作る元気はないぞ」

千晶「大丈夫だって。私が用意したから」



私は、大きな胸を突きあげるように胸を張って、私が作った料理を披露する。

そんなに広い部屋ってわけじゃないんだから、テーブルを見れば食事が用意されているのが

わかるっていうのに、春希ったら何を見てたんだろ。

それとも私が食事を用意したなんて思いもしなかったかい?



春希「これ全部和泉が買ってきたのか?

   これだけの量のを買ってきたんだとしたら、けっこうな金額になったんじゃないか?」



それはちょっと失礼な発言じゃない?

そりゃあ普段から金欠の私からしたら、こんな豪勢な食事を用意したとは思わないだろうけど

それでも少しは喜ぶとか、びっくりするとか、プラス方面の反応を先に示すべきでしょ。

それなのに最初に出てきた言葉がお金って・・・、春希も大概ね。



千晶「買ってきたんじゃなくて、私が作ったんだって。

   調味料とかは春希んとこのを使ったし、

   量はあってもお金はそれほどかかってないから安心してね」

春希「は?」



見事な間抜けっ面ね。人間、理解の範ちゅうを超える事象に直面すると

思考をストップさせちゃうのかしら。

こんな馬鹿っぽい春希って、初めて見るかも・・・これはある意味貴重なシーンかも。



千晶「伊達にエプロン付けてないって。

   で・もっ・・・、春希は裸エプロンじゃないと許せない人だった?

   だったら、今からでも準備するよ」

春希「いや、やめろ。服は着たままでいい。

   うん、似合っている。そのエプロン姿、似合っているから服は脱ぐなぁ」



春希ったら、慌てちゃって。手を小刻みに振りながら私を止めようとしなくても、

服なんて脱がないって。・・・だって、寒いじゃない。

裸になった私を温めてくれる人がいるんなら別だけどさぁ。



千晶「そぉお? だったら脱がないけど、でも脱いでほしかったらいつでも言ってね」

春希「思わないし、言わないから忘れてもいいぞ。

   それにしても、これ全部和泉が作ったのか?」

千晶「そうだって言ってるじゃない」


春希「でも、和泉って料理できたのか?

   いつも食事をたかってくるのは見ているけど、作っているは見たことないからさ」

千晶「あっ、やっぱり?」

春希「じゃあ、やっぱりこれは出来あいのを買ってきたのか?」

千晶「違うって、本当に私が作ったの」

春希「どう見たって、俺より料理の腕があるだろ、これって」

千晶「それは食べる人によるんじゃないかな。

   好みとかってあるし」

春希「そうかもしれないけど、見た目からして、相当な腕前だぞ」

千晶「そう? だったら、早く手を洗って着替えてきて、実際食べてみて

   確かめてみればいいじゃない」

春希「そうだな」

千晶「うん、春希が着替えている間に、料理温め直しておくね」



私は、笑みを浮かべながら手を洗いに行く春希を確認すると、

とりあえずスープを温めるべくガスの火をつけるのであった。










揚げ物類は食べる直前に揚げようと思っていたので、

春希が着替え終わっていても終わる事はなかった。

本当は春希にはテーブルについていてほしかったんだけど、

手伝ってくれるっていうんだから、一緒にやったほうが効率的。

それに、一人でもできるけど、二人でやったほうが楽しいっていうのもあるかな。

二人してテキパキとテーブルをお皿で埋めていき、

短時間で温もりに満ちた食卓を用意できたと思える。

とはいうものの、私の財布事情からして、いくら自分で作るとしても高級食材を

使う事は出来ない。

まっ、低予算で美味しいものをたくさん食べるのにだけは自信があるんだから、

今回の出来も我ながらなかなかのものだって自負している。



千晶「どうかな?」

春希「うん、美味しいよ。和泉にこんな隠れた才能があったなんてな」



春希は、春巻きを一口食べると、珍しいものを見るような顔をして

食事の感想を述べてきた。

春希は私の事をいったいどう認識しているのよ。

ただ食べるだけの怠け者って思っているの?


でも、どうやら私の不満が顔に現れていたらしく、素早く春希のフォローが入った。



春希「そんなに不機嫌そうな顔するなよ。わるかったって。

   でも、俺に食事作ってくれってねだるより、

   自分で作ったほうが美味しいんじゃないか?

   どうみたって俺が作るよりうまくできてると思うぞ」

千晶「どうお世辞言ったって、春希が私の事をぐぅたら女だって思っているって事には

   違わないんじゃないかなぁ・・・」

春希「そこまでひどい事はいってないだろ」

千晶「でも、顔に出てた・・・」



私が疑り深い目で見つめちゃったものだから、春希ったら慌てちゃって。

ほんと素直なんだから。普段から素直だったら、なおさら扱いやすいんだけど、

こればっかりは春希だからしょうがないのかな。

融通が効かないのも春希の魅力って言えるのかしらね。



春希「もう言うな」

千晶「照れちゃって」

春希「照れてないって。でも、本当に俺より料理上手だって。

   そもそも俺が料理を始めたのだって最近なんだから、そんなにうまくないだろ?」

千晶「それはそうかもしれないけど、温もりっていうの?

   春希らしい実直さが料理にもにじみ出ていて、安心できる味っていうのかな?

   ・・・うん、何度も食べたくなる味って感じかもね」

春希「自分じゃ、人に食べさせるには勇気がいるレベルなんだけどな」

千晶「春希の自己評価、間違っちゃいないわよ」

春希「はぁ?」

千晶「だから、自信満々に手料理を披露するレベルじゃないってこと」

春希「貶すのか誉めるのか、どちらか一方にしてくれよ」

千晶「うぅ~ん・・・、だからさぁ、春希を知らない人が食べたら、

   まあ、食べられなくもない普通の料理ってこと。

   でも、春希の事を知っている人が食べたら、美味しいって感じられるっていうか」

春希「身内評価による甘々採点ってことか?

   それでも、だいぶ緩く採点してもらえてると思うぞ」

千晶「それもちょっと違うかな」

春希「もっとわかりやすく言ってくれよ」

千晶「まっ、今後も料理を作っていれば、わかってくるかもしれないって」

春希「はぁ・・・」



なんか納得していませんって顔ね。


しょがないじゃない。自分から話をふっておきながらなんだけど、

これを春希に伝えるのは、私が恥ずかしすぎるんだから。

たぶん春希に、冬馬かずさが春希の手料理を食べたのならば、

大喜びするでしょって言ったら、春希はきっと理解するんだろうけど・・・。



千晶「お茶淹れてくるね。緑茶でいい?」

春希「あぁ悪いな。緑茶でいいよ」

千晶「OK~」



私は、逃げるように席を離れると、いそいそとお茶の準備に取り掛かる。

気持ちを落ち着かせるにはちょうどいいタイミングだったかな。

自爆発言なんてしちゃうなんて、まだ本調子じゃないのかも?

ううん、ちょっとずつだけど、私も変わってきているのかな?

さてと、気持ちも切り替えたし、春希んとこに戻るかな。



千晶「はぁ~い、お茶準備できたよぉ」



若干浮つきすぎた声色に自分自身驚きながら席に戻る。

二人分の湯飲みにお茶を注ぎながら春希の出方を伺おうと気配を探ってみたのだが、

あまりにも静かすぎる。

そういえば、私がお茶の準備をしているときも気配が消えてなかったっけ?

自分の浮ついた心を鎮めようと躍起になっていたけど、今思い返すと春希が食事をする気配

すら感じることができなかった。

これが広い家だったならば別だけれど、春希のマンションは、

学生がちょっと無理をして頑張れば借りられるくらいの家賃だ。

だから、キッチンとリビング兼寝室はくっついているわけで、

気配を感じないことなんてありえないはずだった。



千晶「春希?」



私は不安になって春希がいたはずの席を見ると、そこには一応春希はいた。

いたんだけど、いたんだけど、・・・いたんだけど。



千晶「春希っ!」



春希はテーブルにつっぷして倒れいた。

春希がさっき一口食べた春巻きは、床に箸とともに落ちている。

物音をたてないで倒れるなんて、あんたは忍者かなんかなの?

違うって、私が浮かれ過ぎていたんだ。

浮かれた心を春希から隠そうとしたから駄目だったんだ。


もっと春希に心を開いていたんなら、こんな事態になる前に気が着ていたはずなのに。

以前の和泉千晶だったなら、全神経をつかって北原春希の詳細を把握していたのに。

今の和泉千晶は無力だ。自分で自分が制御できていない。

和泉千晶を演技できていないんだ。



千晶「ねえ、春希。春希ったら」



倒れている人間を揺さぶったりしちゃいけないって、わかっているのに、

・・・わかっているのに、目の前にいる春希にすがってしまう。

すがってしまうから、春希に助けを求めてしまう。

弱い。弱過ぎじゃない、私って・・・。



春希「なぁに、泣きそうな顔をしてるんだ?」

春希は顔だけを横に向け、力ない言葉を吐く。

千晶「春希ぃ・・・」

春希「みっともない顔するなよ。って、みっともない姿なのは俺の方か」

千晶「そんなことないって」

春希「悪いけど、せっかくのご馳走食べられそうにない。・・・ごめんな」

千晶「いいって。また作ってあげるからさ」

春希「それは楽しみだ」

千晶「いつから体調悪かったの?」



私は、春希のおでこに手をあてて熱を測る。

なんとなくだが、私の体温よりも熱く感じ取れた。

体温計で測らないと正確な体温はわからないが、それでも春希の体温が

異常に熱いって事だけは判断できた。



春希「いつからと聞かれても、よくわからないな。

   さっきまで風邪だとか思わなかったし、体も動いていたし。

   ・・・そうだな、緊張してから動いていただけかもな」

千晶「家に戻って来て、気が抜けたってこと?」

春希「おそらく」

千晶「だったら、私が春希んちで待機していてよかったね」

春希「不幸中の幸いってところだな。でも、料理食べられなくてごめんな」

千晶「いいって、何度も謝らないでよぉ。

   今日作ったのは、私が食べればいいし、明日も私が食べるから問題ないって。

   それよりも、春希のことだから、今日はろくなものを食べてないんだろうから、

   風邪薬飲む前に何か食べないと」

春希「あんま食欲ないんだ・・・」


千晶「さすがに揚げ物メインのこってりメニューは、病人食にはならないか。

   でも、さすがになにか食べないとね。・・・・・・・なに笑っているのよ?」



私、なにか笑いをとるようなこと言ったかなぁ?

私もつい最近風邪をひいて、本調子じゃない部分もあるから、

自分でも気がつかない失敗でもしたかな?



春希「ごめん・・・。でも、なんだか和泉が頼りになるっていうか、

   まじめだったもので、な」

千晶「なぁに言ってるのよ。ヴァレンタインコンサートのときだって、

   これでも春希の役にたったって、ちょっとは自信持って言えると思えるんだけど」

春希「怒るなよ。その節は大変お世話になりました。

   だけどさぁ、普段のお前をよく知っている俺からすると、

   今の和泉は意外って気がするんだよ。

   ・・・・・・・だから、睨むなよ。ごめんって」

千晶「まあ、心優しい私だから、・・・風邪をひいている病人相手に

   怒ってなどいないけど」

春希「それを怒っているっているんだ」

千晶「はぁ?」

春希「ごめんなさい」



さすがに凄味をきかせた睨みは恐怖しかあたえないか。

それに病人なんだしぃ、それに私は怒っていないんだしぃ、それに優しくしないとだしぃ。



千晶「リンゴすったのなら大丈夫?」

春希「ん? あぁ、それくらいだったら」

千晶「うん、じゃあ春希は薬の用意をしておいて。

   もしなかったら、あとで買ってくるから・・・、あぁ今の時間帯じゃあやってないか」

春希「常備薬なら、ちゃんと用意してあるから、風邪薬くらいあるから大丈夫」

千晶「さすが春希ってとこね」

春希「それ、誉めてないだろ?」

千晶「どうかしらね?」



私は、にっこり笑みを春希に送ると、すぐに視線を外してリンゴの用意に取り掛かる。

ほっとしている自分がいる。

春希がただの風邪でよかったと喜んでいる私がいる。

もちろん、病院に行ったわけではない素人判断だけど、

春希の自己申告と今の状態から判断すれば、風邪なのだろう。

だけど、春希に無理をさせて体を弱らせてしまった原因は私だ。


私の風邪をうつしたとは言えないかもしれないが、それでも、体力をすり減らさせ、

風邪をひきやすい状態にしてしまったのは私に原因がある。

連日のレポート、そして、寝不足のまま激務のバイト。

それを一週間以上やっていたら、春希だって体調を壊してしまうわよ。

なにやってるんだろ、私。

こんなはずじゃなかったのに。

春希が風邪だってわかって気が緩んだのか、それとも自分が情けなかったのか、

はたまた自己分析できていない理由かもしれないが、

私は春希に見つからないように目元の涙をぬぐった。












千晶 3月12日 土曜日








加湿機なんていう文明の利器がない春希宅においては、

風邪ひきがいようと容赦なく乾燥が忍び寄る。

なんて大げさな物言いをしてしまったが、この辺は濡れタオルでもかけておいて代用。

一応私が春希の看病しているんだし、出来る友人を演出しないとね。



春希「なにをやっているんだ?」

千晶「あっ、起きた? どう調子は?」

春希「だから、なにをやってるんだって聞いているんだけど、和泉千晶さん」

千晶「なにって、お粥は作り終わったし、昨日春希が脱ぎ散らかした服をたたんで、

   あとは部屋をちょっと片付けた程度だけど?」

春希「ありがとう・・・」

千晶「いいって、私が風邪をひいたときは春希が私の看病してくれたんだしさ」

春希「ギブ、アンド、テイクってとこか」

千晶「別に見返りが欲しくてやったわけでもないし、春希だって私の看病してくれたのも

   見返りが欲しくてやったわけじゃないんでしょ?」

春希「まあ、そうだな」



私が、にかっと頬笑みを浮かべると、春希はなんだか照れくさそうに返事をした。



千晶「で、どう? 風邪の方は。・・・はい、熱測ってみて」




体温計を差し出すと、春希は素直に脇に挟んで測定を始める。

なんだか、素直に動く春希って、ある意味新鮮かも。

普段からこのくらい素直だと扱いやすい・・・、訂正、可愛げがあるのに。



春希「熱は、38度5分か」

千晶「なかなか下がらないか。今日もバイトあったんでしょ?」

春希「あったけど、風邪をひいている俺がいっても迷惑にしかならないからな。

   ここは、素直に休んでおくとするよ。ただ復帰後は、色々な不平不満と共に

   病気だったやつをいたわる気持ちなど全くない仕事量を押しつけられそうだけどな」

千晶「それは仕方がないんじゃない?」

春希「休んだ分はしっかりと働けって?」

千晶「ううん。だって、病気だったのは確かだけど、

   病気が治ったから仕事に行くわけなんだし、それなのに病気あけっていう理由を

   言い訳にして仕事をさぼられたら、周りから見れば迷惑にしかならないでしょ」



ん? あれ? 春希が固まっている・・・。

なんだかわからないけど、フリーズしちゃったぞ。

あ、そうか。今の春希は風邪をひいているわけなんだし、

いつまでも私と話しているべきではないか。



千晶「ほらほら、春希はまだ熱が高いんだから、しっかり寝ないと」



私は、春希がベッドに横になるようにと、

掛け布団をかけてあげようとしてあげたのだけれど、

春希はまだフリーズしたままだった。

正確に言うならば、春希の目だけは私を追っかけてきていたから、

完全に動きを止めたわけではないみたいだった。



千晶「どうしたの春希?」



私が優しく語りかけると、春希ったら口を大きく開けて、あごの骨でも外れたの?



千晶「春希?」

春希「ふぁあ~」



大きな息をいきなり吐くものだから、びっくりするじゃない。

いったいどうしたっていうのよ。





千晶「春希、どうしたの?」

春希「どうしたのは、こっちの台詞だ」

千晶「はぁ?」

春希「だから、いきなり和泉が正論いうものだから、びっくりしたんだよ」

千晶「正論って?」

春希「だからぁ、病気の時の病人はいたわる必要はあるけど、

   病気が治って仕事に復帰した人間には、

   病気の時みたいに気を使う必要はないってこと」

千晶「あぁ、そのことね。当然じゃない?」



役に立たない劇団員ほど迷惑な存在はない。

私ってぇ病気だったしぃ、病み上がりだからぁ、ちょっと見学していますぅ。

・・・死ね! もう来るな!

実際うちの劇団にこんなバカみたいなことを言う奴なんていないけれど、

病み上がりだろうと、劇団に参加しているんだから、いつも通りに行動してもらわないと

周りに迷惑がかかるじゃない。

いつも周りに迷惑かけまくっている私が言うのは変だけど、いらつくのよね。

自分の弱さを免罪符にして、優しくしてもらおうとしてくる奴が。



春希「当然だけど、和泉がいうものだから、驚いたんだよ」

千晶「どうして?」

春希「どうしてって、今までの和泉の行動パターンを見ていたら、驚くに決まってるだろ」

千晶「なるほどね」

春希「だろ?」

千晶「ううん、30%くらいは当たってるかもしれないけど、あとの70%は外れてるかも」

春希「どういう意味だよ」



春希ったら、納得していないっていう顔をいているか・・・。

ある意味、春希の困惑は当然かもしれない。でもね、春希。

春希が私の事を全部知っているって思っている事自体、間違ってるんじゃないかな。










第31話 終劇

第32話に続く





第31話 あとがき




千晶を描くのがだいぶ慣れてきたなと思ってきたら、もうすぐ千晶編も終了へ。

書いてみての感想としては、書きやすかったです。

今ある心配としては、新章に入ったら、もとの書き方が出来るか不安です。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです




黒猫 with かずさ派


第32話






4-2 千晶 3月12日 土曜日






千晶「うんとねぇ、春希が知っている和泉千晶は、大学での和泉千晶でしょ」

春希「そうだな」

千晶「だとすると、大学以外での和泉千晶は、春希は知らないってことにならない?」



春希の顔から困惑が消えていく。

呑み込みが早い春希で助かったよ。これだけの説明で、うまく伝わったみたいね。



千晶「春希がバイト先でどんな風に働きまくっているかを私が知らないように、

   たとえば、劇団での私のことなんて、春希知らないでしょ?」

春希「たしかに」

千晶「でも、バイト先ので春希は、私の想像通りの北原春希だと思うけどね」

春希「どういう意味だよ?」



睨みつけないでよ。だって、春希の事だよ。見ていなくてもわかるに決まっているじゃない。



千晶「春希のことだから、大学での北原春希と同じように

   面倒見がよくて、仕事が早くて、やらなくてもいい厄介事をしょいこんで、

   年上相手だろうがずばずば意見を言っちゃうんでしょ?」

春希「おおむねあっているから否定できないのが辛いな」

千晶「だって、春希だもの」

春希「なんだか馬鹿にされているみたいで、面白くないな」

千晶「馬鹿になんてしていないって。むしろどこにいても春希は春希ってことで、

   安心したかな」

春希「そうか?」

千晶「そうだよ」

春希「まあ、そういうことにしておくか」



私達はどちらからとなく笑みを浮かべ、

私はちょっと照れくさそうに春希に布団をかけてあげた。

春希も春希も戸惑い気味に、私の促す通りにベッドに横になった。



春希「って、違うから!」




いきなり大声出すものだから、驚いたじゃない。

ほらぁ、喉も腫れているんだから、急に大声出したら咳こむに決まっているじゃない。

さすがに熱があるから起き上がる事は出来なかったみたいだけどさ。



千晶「どうしたのよ? 水飲む?」

春希「いや、大丈夫。

   和泉が正論言うのも変だけど、その前に、お前が着ている服はなんなんだ」

千晶「なんなんだって聞かれても、困っちゃうんだけど」



春希の熱い眼差しに、思わず身をよじってしまう。

じっくり見たいんなら、見てもいいけど、そういう雰囲気でもないか。



春希「困っているのは、俺の方だ。なんだってナース服を着ているんだ。

   しかも、なんでミニスカートなんだよ。

   どこの風俗だ、どこの」

千晶「春希が喜ぶと思って?」

春希「首を傾げるな。言っている事が理解できませんって顔をするな。

   病人の俺につっこみをいれさせるな」



もう、春希ったら、息が切れているじゃない。

病人なんだから、もっと自分の体をいたわったほうがいいよ。



千晶「春希が勝手にかっかかっかしているだけじゃない」

春希「誰のせいだ」

千晶「勝手に熱くなっている春希のせいじゃないの?」

春希「お前のせいだ。お前の・・・。で、なんでナース服なんだ」



あ、立ち直りが早い。その辺は、病気をしていても春希なんだね。



千晶「だから、春希が喜ぶと思って着ているだけじゃない。

   わざわざ部室まで行って調達してきたのよ」



・・・まあ、この衣装は団長の個人的コレクションみたいだったけど、

団長には着させる相手がいないんだから、私が有効活用したほうがこのナース服も

喜んでいるはず。



春希「いらんことをするな」

千晶「えぇ~」



春希「いやそうな顔するな。だだをこねるな。

   看病してくれるなら、もっと普通にしてくれよ」

千晶「ふつうって?」

春希「食事の用意をしてくれたり、掃除してくれたりだな、

   ・・・身の回りの世話をしてくれることかな」

千晶「だったら問題ないじゃない」

春希「はい?」

千晶「だから、問題ないって言ってるの。食事の用意もしてあるし、

   掃除だって春希に迷惑かからないように静かにやったし、

   トイレだってつきそってあげたじゃない」

春希「え?」



春希ったら、高熱があるはずなのに、顔から熱が消えていく。

少し赤みがかかった顔色が、いまや青白く変色していた。



千晶「どうしたの春希? やっぱ体調悪いんだから、もう少し寝たほうがいいよ。

   でも、その前に食事する? 薬の時間には少し早いけど、

   食事できるんなら食べた後の方がいいし、少しくらい早くてもいいかな?」



私が時計とにらめっこをしていると、ふいに春希に腕を掴まれる。

弱々しい顔色なんだけど、その掴む手はしっかりししていた。



春希「トイレって、どういう事だ?」

千晶「あぁ、またトイレいきたいって事? だったら肩を貸すからちょっと待ってね」

私は、春希が立ちあがりやすいようにと、自分の肩を春希の肩に寄せようとした。

春希「トイレはいい」

千晶「え、違うの?」

春希「トイレにつきそったって、どういうことだ?」



春希ったら、照れちゃって。

春希は、私から逃れるように顔を背けると、弱々しい口調で私に質問してきた。



千晶「あぁ・・・私が春希の下半身を見たと思ってるのね」

春希「だから、いくら和泉だからといって、女性がそんな発言するなよ」



なるほどね。そういうことか。

春希があまりにも恥ずかしそうにするものだから、

私は笑いを抑えることができなかった。



千晶「安心して。何も見てないから。私は、春希をトイレまで連れて行っただけ。

   だから、何も見てないよ」

春希「笑うなよ。こっちは意識が朦朧としていて、記憶がはっきりしていないんだから」

千晶「ごめん、ごめん、春希。なんだか春希が可愛らしくて」

春希「だから笑うなって」

千晶「ごめん、それは無理」



笑いのつぼにはまった私は、春希が不貞腐れて狸寝入りを励んでも、

しばらく笑いを止めることができなかった。

だって仕方ないじゃない。こんなにも可愛すぎる春希を見たのは初めてだったんだから。

そういう意味では、私にも、まだまだ知らない北原春希の部分がたくさんあるんだなと、

すっごく嬉しくなってしまった。
 

                           
千晶「それはそうと、バイト先に休むって連絡いれるんじゃないの?」



ひとしきり満足するまで笑い疲れると、冷静さが蘇ってくる。

私に背を向けて寝たふりをしている春希のつむじを見つめながら、

ふといつもの春希だったらすでに行っているだろう行動を思い浮かべてしまった。



春希「そうだった。・・・まだ8時か。今の時間帯なら、浜田さんは出社前だけど、

   鈴木さんなら、そろそろ着ているかな」



未だに私の方に振り返らない春希は、壁に向かって呟く。



千晶「は~るきっ。まだ怒ってるの?」



返事はない。おそらく、停戦のタイミングがつかめてないのだろう。

私の方は、いつだって気持ちを切り替える事が出来るけど、

さすがにさっきはやりすぎだったかな?

だったら、春希が次の行動をしやすいように手を打つべきか?

私は、しばし手元にあるツールを操作して、目的のものを見つけ出す。



?「もしもし? 朝早くから北原君から電話なんて、なにかトラブルでもあった?」

千晶「私、北原春希を看病している和泉と申しますが、

   本日は北原が病欠することをお伝えしたく電話いたしました」

鈴木「え? 北原くん病気なんですか?」



私の、事務的であり、なおかつ、いかにも甲斐甲斐しく世話をする女性らしい声色を

聞いた春希の同僚は、電話の向こうで息を飲む。




それと同時に、こっちの部屋では春希が布団が弾き飛ばして

手足をばたつかせる音が盛大に鳴り響いていた。

春希ったら、電話しているんだし、静かにしなさいよ。

しかも、相手は友達じゃなくて、仕事先の同僚でしょ?

だったら、しっかりと礼儀正しく伝えないといけないじゃない。

そんなんわけで、私は春希の反抗を抑えるべく、春希の上に馬乗りになって

強制的に黙らせた。さすがに風邪ひき中の春希は、抵抗する力がないらしく、

せめてもの反抗として、鋭い視線を私にぶつけてきた。

ごめんね、春希。こっちは電話中なのよ。



千晶「はい、風邪をひいてしまいまして、熱もなかなか下がらない状態なのです。

   ですから、申し訳ありませんが、風邪が治りきるまでは、

   ご迷惑をおかけしますが、休ませていただきたいのです」

鈴木「それはかまわないですよ。むしろ、北原君にはいつも頼りっぱなしで、

   風邪をひいた時くらいは、編集部の事を忘れて、

   ゆっくり休んでもらいたいほどですよ。お大事にと、伝えておいてください」

千晶「ありがとうございます。では、失礼します」

鈴木「はい」



電話を切ると、先ほどまでうるさいほどに聞こえていた春希の反抗は

すっかりなりをひそめていた。

いや、けっこう早くから反抗するのをやめていたかな?

無理に反抗して、電話先の鈴木さんって人に不審がられるよりは、

私が無難に電話連絡したほうが被害が少ないって考えたのかもしれないか。



千晶「どうしたの、春希? すっごく不機嫌そうな顔をして」

春希「まずは俺の上から降りてくれないか」

千晶「あっ、ごめん」

私は、素直に謝るとともに、春希の上から降りて、ベッドの横に座り込んだ。

春希「なんで勝手に電話なんかするんだ」

千晶「だって、春希。鈴木さんって人に電話してバイト休む事伝える予定だったんでしょ?」

春希「そうだけど、和泉が電話することはないだろ」

千晶「だって春希が私の事を無視したのがいけないんじゃない。

   春希って、案外心が狭い所があるよね」

春希「俺は堅物で、融通が効かない男だからな」



春希は、そう言い捨てると、再び私に背をむけて、布団の中に引きこもってしまった。

あらら、拗ねちゃったか。

う~ん、風邪をひいてることも考慮しないと駄目かぁ・・・。


いつもの感じだともうちょっと食いついてきてくれるよに。

これは私の判断ミスかな。だったら、私の方から謝らないとね。



千晶「ごめんね、春希・・・。私、ちょっと調子に乗りすぎちゃったみたい。

   でも、春希の看病をしたいのは本当だから。

   さっきの電話だって、春希の事だから、なにか編集部で問題あったら

   風邪を隠して仕事に行ってたでしょ。

   それだけはどうしても阻止したかったっていうのもあるんだ。

   でもさ、春希が嫌がることしちゃって・・・、ごめんなさい」



私は、ベッドの布団に頭をこすりつけるように頭を下げる。

はた目から見ればちょっと馬鹿っぽい格好だけれど、まあ、しゃ~ないかな。

勢いっていうのもあるしね。

しばらく布団に顔を埋めていると、私側のベッドのスプリングがきしみ

春希が振り返ってくれた。



春希「もういいよ。俺の方も言いすぎた。

   鈴木さんへの連絡も、無難にやってくれたしな。

   勝手に電話するのは今後はやめて欲しいけど、

   俺の体調を気遣ってくれた点については感謝しているよ。

   和泉の言う通り、編集部で問題あったら、風邪を隠して駆けつけていたと思うしな。

   でも、和泉は俺の事を買い被りすぎだぞ。

   俺は、編集部では下っ端なんだからな」

千晶「春希ぃ」



顔をあげると、ベッドに横になったままの春希の顔が目の前に迫っている。

熱でやや赤みがかかった春希の顔が、なんだか頼もしく思えてしまう。

春希はなんだか他にも編集部での自分の立ち位置を力説しているみたいなんだけど、

頭になんか入ってはこない。

なんだかぼぉっとして、ちょっと熱っぽいかも。

・・・やばっ!

もしかして、また風邪ひいちゃったのかな?



春希「和泉、聞いているのか?」

千晶「ん? ごめん、ちょっとぼ~っとしちゃってたかも」

春希「おい、和泉。顔が赤いぞ。もしかして俺の風邪がうつったんじゃないか?

   熱測って、うがいして、風邪薬飲んだ方がいいぞ。

   お前は、風邪が治ったばかりなんだし、マスクしておいた方がいいのに

   マスクもしないで俺の看病なんかするからいけないんだぞ」



春希は、いつのも説教モードに切り替えると、布団の中から手を出すと、

そのまま私のおでこを触れようとしてきた。



千晶「んっ」



ぐいぃっと迫りくる手のひらに、私は思わず身を引いてしまい、

豪快に尻もちをついてしまった。

私自身意識して起こした行動ではなかった為に、目の前で驚いている春希以上に

私の方が驚いていまう。



春希「おい、大丈夫か?」

千晶「うん、大丈夫。ちょっと考え事っていうか、意識が他に向いてただけ。

   急に春希の手が伸びてきたんで、びっくりしただけだから」

春希「そうか? 悪かったな」

千晶「ううん、春希は悪くないって。大丈夫、大丈夫・・・、うん。

   でも、よかったじゃない。休みがゲットできて」

春希「どうだかな。休みを取ったしても、最近では、休んだ分だけ休み明けには

   いつも以上の仕事を渡されるんだよ」



ナイス私。とっさの判断としては、話の流れを変えるには、いい話題なんじゃない?



千晶「そうなの? でもそれって、春希の頑張りが認められたって事じゃないの?」

春希「どうだかな。いいように使われているだけっていう部分もあるんだろうけど、

   どんな仕事であれ責任があるわけだから、その点を考慮すれば認められたって

   ことなのかもな」

千晶「よかったじゃない。おめでとう」

春希「あ、ありがと」

千晶「さてと、なにか温かい飲み物持ってくるね」

春希「ありがと」

千晶「うん、ちょっと待っててね」



やばかった。なにがやばかったかって、それは、何がやばいか私自身がわかっていないことが

非常にやばかった。

もうアドリブしまくりで、なにがなんだかわかったものじゃない。

さすが北原春希の為に作り上げた和泉千晶ってことかしら?

簡単じゃない。でも、簡単じゃないからこそ、やりがいがあるんだけれど、

こういう関係っていうか、私自身が操縦しきれていない和泉千晶。

なんだかいいかもしれないかな。

さて、春希の為にホットアップルジュースでも用意しますか。


マグカップに100%のリンゴジュースを入れ、電子レンジで加熱する。

そこに数滴柚子を絞ったものを加えるのがポイント。

100%リンゴジュースをただ温めてだけでは酸味が出てしまい、

冷えている時と比べて数段甘みが落ちてしまう。

だから、そこに柚子またはレモンをほんの少し加えると甘みが復活して

冷やして何も加えないで飲むとき以上に甘みを感じることができる。

もちろん柚子を入れ過ぎてしまうとすっぱくなってしまうので加減が重要。

今回レモンじゃなくて柚子を使ったのは、季節を考慮して選んだだけだった。

私は、これに蜂蜜を加えて、さらに甘々にして飲むのも好きだけど、

春希はあまり甘すぎるのは苦手かなと思い、やめておいた。

本当は体力を回復させる為にもハチミツも食べさせてあげたほうがいいんだけど、

食事は楽しまないとね。だから、今回はビタミンCだけでもって感じかな。

一応お粥も用意してあるんだけど、春希食べられるかな?

お粥とホットアップルジュースって、組み合わせ的にはどうなのって思うかもしれない。

私はOKだけど、春希は風邪引いているし、組み合わせよりも栄養だよね。

まあ、食後のデザート的な飲み物だって思えば問題ないか。











千晶 3月13日 日曜日




千晶「ねぇ、春希~。これは、ここのタンスでいいの?」



よく晴れた3月の昼。外はまだ肌寒いけれど、

部屋の中の日だまりでぬくぬくぅっとしていると、あくびが出てしまいそうになる。

洗濯物を畳みながら陽を浴びていると、洗濯ものを畳んでいる最中だっていうのに

寝てしまいそうになってしまう。

私があくびを噛み殺すたびに春希が笑みをこぼすものだから、

最後にはなんだか無性に恥ずかしくなって眠気など吹き飛んでしまった。



春希「その段でいいよ・・・って、それ下着じゃないか。

   あとで洗うからまとめておいてくれって言っておいたじゃないか」

千晶「もしかして春希。私の洗濯物と一緒だと嫌とか言うタイプ?

   やっぱ私の下着と一緒じゃ、気持ち悪いよね・・・」



なんて、ちょっと頬を染めながら、しおらしいふるまいをみせてあげよう。



春希「それ逆だから。むしろ和泉が俺に言うセリフだろ」

千晶「だったら問題ないねっ。ってことで、洗濯物は終了っと」

春希「なんだか、お前のペースがこの数日でわかるようになってきたよ。

   これは、俺にとって喜ばしい進化というべきなのか、

   無理やり受け入れさせられた日常というべきなのか判断に困るところだ」

千晶「そんなの決まっているじゃない。

   私だったら進化って答えるけど、春希なら、受け入れてしまった残念な日常って

   答えるに決まっているじゃない」

春希「お前にそう断言される事の方が、残念な事態な気がするよ」

千晶「そう?」



私は、笑顔で答えると、毛布を一枚ひっさげて、この部屋で一番日当たりがいい場所で

ごろんと横になって休憩に入った。

さすがに働きづめで疲れたかも。

自分の部屋であっても、こんなにも働いた事はなかったかもしれななかった。

食事、洗濯、掃除に春希の看護。

ナース服だけは、春希の激しい抗議もあって現在は動きやすい春希のジャージを着用中。

本当は、もっと嫌がる春希を見て楽しんでいたかったけど、

お湯が出る蛇口とシャワーの切り替えをうっかり忘れていて、

お風呂掃除中にシャワーのお湯を頭からかぶってしまった。

だから、ナース服は、先ほどの畳んだ洗濯物の中に含まれていた。



千晶「ほら、春希は動かない。明日からバイト行くつもりなんでしょ?

   だったら今日いっぱいはベッドで寝ている事」

春希「なんだか、いつもと立場が逆じゃないか」

千晶「それは、春希が病人だからじゃない」

春希「そうなんだけどさ・・・。でも、和泉って料理とか掃除なんかの家事が

   しっかりと出来たんだな。全く出来ないものだと思っていたよ」

千晶「普段はしないわよ」



・・・なによ、その沈黙。そして、納得しましたっていう顔は、なんだか失礼じゃない?



千晶「普段は忙しいからいいじゃない。こういうときに出来れば問題ないと思うんだけど」

春希「その認識は間違ってるぞ」

千晶「どうしてよ」

春希「その和泉の感性が和泉らしくて安心できるんだけど、そもそも家事っていうものは

   毎日するもので、休みなんてないんだよ」

千晶「休みも何も、私の場合はやらないんだから、休みなんて概念はないかな」

春希「笑って言うセリフじゃないだろ。だったら、和泉の家事は休みでもいいけど

   その代わり食事も休みだからな」


千晶「食事は、毎日三食食べないと健康に悪いじゃない。

   不規則な食事は、春希が大好きなお勉強にも悪影響がでるんだってよ」

春希「お前に正論を語られると、すっごく頭が痛くなるのはどうしてだろうな?」



そのわざとらしく頭を抱えるのはやめてもらえないかしら。

いかにも三流役者っぽくて、蹴りを入れたくなるじゃない。

でも、これが北原春希という役どころと考えたのならば、問題ない、かな?



千晶「バファリン飲む?」

春希「・・・いや、いい」



そんな疲れ切った目をしなくてもいいじゃない。

わかってるって、春希が言いたいことくらい。



春希「俺が言いたかった事は、家事をやらなければ食事だってできないだろってことだよ」

千晶「わかっているわよ、そのくらい」

春希「だったら、初めからそう言ってくれよ」

千晶「春希が言いたいことがわかっているからこそ言ったのよ」



唖然とする春希に、私は悪びれもせず会話を続ける。



千晶「こうやって冗談や悪態をつくことができるようになったってことは、

   春希の体調もだいぶ良くなったって事でしょ。

   春希の健康状態を確かめるには、春希の言葉を信じるよりも、

   こうやって会話からくみ取ったほうが正確なのよ。

   だって、春希って、いつも隠れて無理するでしょ?」



今度こそ春希は沈黙してしまった。

けれど、どこか嬉しそうな顔をしているのは気のせいだろうか。

でも、今回春希を無理させちゃったのは、私のせいだよね。

春希に私が隠してきた事を打ち明けはしていたけれど、それでも春希を

騙してきたって部分があって、今回のレポートの事を相談できなかったのよね。

本当なら、ここまでの面倒事になる前に春希に相談すべきだった。

だけど、後ろめたくて、いくら図太い神経の持ち主の私であっても無理だった。

3月1日の朝、春希に電話したときだって、隠しとおす事は出来たと思うけど、

実際はドキドキしまくりで、辛かった。

脚本の為に春希を観察していただけだった。

でも、なんか春希って、知れば知るほど興味が沸いて、なにか胸に芽生えてしまった。

その芽生えた物が何かは、今もわかっていない。


これからも、わかる事はないんだと思う。

一緒にいるほど、触れ合うほど、春希は春希なんだなって思えたんだけど、

これだけは絶対春希には打ち明けることはできないと思った。






第32話 終劇

第33話に続く












第32話 あとがき





次週より、千晶編から本編へと切り替わっていきます。

一応千晶編も本編ですので変な言い方になってしまっていますが

便宜上「千晶編」と「本編」と区別させていただきます。

思った以上に千晶編長かったです。

以前あとがきにも書いた千晶編たる「千晶、踊る子猫」の本編は、

そのうち書くかもしれません。

けれど、まずはcodaですね。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです





黒猫 with かずさ派


第33話





春希 3月14日 月曜日






普段の俺からしたら考えられない睡眠時間を頂戴して、かえって体内時計が狂いそうな

気もしたが、目覚まし時計がなくとも体が覚えてしまった時刻に目が覚める。

ベッドの下を見渡すと、芋虫のごとく丸まった和泉が寝袋の中で今も寝入っていた。

こいつから電話があった時は疫病神だと思ったけど、最後は助けられたからよしとするか。

この合宿生活も今日で最後だな。

さてと、朝一で教授に進級結果を聞きに行くとして、その前に朝食だな。

合宿の最後くらいは豪勢な朝食にしてやるか。

といっても、昨日までろくに食事もしてこなかった俺の方がお腹が空いているんだけどな。

俺は、和泉を起こさないように部屋から抜け出すと、

今日から再開するであろういつもの日常の準備に取り掛かった。









春希「これで無事進級だな」

千晶「だね」



さすがの和泉も進級が確定してほっとしたのか、顔が緩んでいる。

そんな和泉を冷静に観察している俺だって、和泉の進級を喜んでいた。

なにせ二週間近くも寝食を共にした、いわば仲間である。

これが一方的に俺が面倒見るだけだったら、ここまでの感動はなかったかもしれない。

それに、今まで謎すぎた和泉千晶の生態を、ほんの少しだけれど知ることができたのは、

大きな成果といえるだろう。

いや、待てよ。踏み入れてはいけない領域に一歩足を進めてしまったとも言えないか?

これが末吉となるか、大凶となるかはわからないけれども、

ほんのわずかな可能性しか残っていない大吉に化けることを祈っておくとするか。



春希「今度は卒業ができないって騒ぎを起こすんじゃないぞ」

千晶「それは春希次第だって」

春希「新学年が始まる前から他人任せっていうのは、どうかと思うぞ」

千晶「だって、春希は私の保護者なんだから、これはいわば春希の活躍次第ってやつでしょ」

春希「だから最初から俺をあてにするなって」

千晶「でも、最初からサポートはしてくれるんでしょ?」



和泉は俺の方に一歩近寄ると、腰を少しかがめてから俺の顎の下から見上げるように呟いた。



春希「サポートだけだからな。あくまで俺は補助であって、俺が活躍する事はよろしくない。

   それに、俺が補助している事に甘えるのも、本当はよくないんだからな」

千晶「わかってますって。私が怠けないように監視するだけなんでしょ?」

春希「そうだ」

千晶「でも、監視と一緒にヒントとかもくれると助かるんだけどなぁ」

春希「それは、和泉の頑張り次第だ。俺だって頑張っている奴は応援したくなる」

千晶「その応援を受ける為にも、日ごろから頑張れってことね」



さっき一歩近づいてきたときでさえ、俺と和泉の距離は近すぎるって思ったのに、

和泉はさらに踏みこんできて、俺の顔を真下からじろじろと覗き込む。

なんだっていうんだ。ちょっと近すぎないか?

でも、ここで俺がそのことを指摘したら、和泉の事だから、俺の事をからかうんだろうな。

だったら、ここは無言でスルーするしかないか。



春希「そういう事だ」



ちょっと声が上擦ってしまう。きっと和泉の事だから気が付いているのだろう。

一瞬だけど、和泉の目が細くなったのを俺は見逃す事はなかった。



千晶「はいはい、了解です」

春希「本当にわかっているのか?」

千晶「それは、これからも私をしっかりと観察して春希自身で判断してよ」



そう言って和泉の頭が俺の胸に軽く押しつけられると、

ふっと、その幻でも見たかのようにその感触は消え去った。

すでに和泉は俺の背を向けて歩き出している。

どこに向かっているんだ? 駅でもないし、俺の家でもない。



春希「どこいくんだよ?」

千晶「ん?」



振り返ったその顔に、俺はどんな言葉をかければいいか戸惑ってしまう。

いつも、いつの間にかに隣にいる猫のような和泉千晶であるはずなのに、

初めて見た女性がそこにはいた。

どこか危なげで、掴みどころがないところはいつもの和泉と同じなんだけど、

今の俺には表現できない和泉千晶が存在していた。

俺は、まじまじとその和泉千晶を見つめてしまう。


なにか大切なものがそこにはあるんじゃないかって、探してしまう。

もう手が届かないってどこかわかっているのに求めてしまう。

そんな俺をからかうように、いつもの和泉が俺に笑顔とともに手を大きく振ってきた。



千晶「じゃあね、春希。ほんと、助かったよ」

春希「あぁ」

千晶「新学期からもよろしくね。あと、春希に困ったことがあったら

   恩返しってわけでもないけど、いつでも連絡してね」

春希「その時は頼むよ」

千晶「りょ~かいっ」



もう一度ニッと白い歯を見せると、再び背を向けて、

今度こそどこか遠くへ行こうとしていた。

・・・そんな気がしてしまった。



春希「和泉っ!」

千晶「ん? なに?」



和泉は振り返らない。ゆっくりとした歩調のまま、俺の声に応じる。



春希「えっと・・・、その、4月から大学くるよな?」

千晶「当たり前じゃない。その為に苦しいレポートをやったのよ」

春希「そうだよな。馬鹿な質問してごめん」

千晶「ほんとだよ。これで進級もしないのにレポートやっていたとしたら、

   それは真正の馬鹿じゃない」

春希「だよな」

千晶「そうだよ」



ゆっくりだけれど、歩幅は小さいけれど、俺と和泉の間の距離は遠のいていく。

話しているんだから、止まってくれればいいのに、

けれど俺はそれを望んではいけない気がした。



春希「じゃあ、またな」

千晶「うん、またね」



ちらりと俺に横顔を見せると、和泉は今度こそ大きな歩幅で歩きだす。

その後ろ姿を見ながら、一瞬見せてくれた和泉の横顔を必死に心に刻もうとしてしまう。

俺が知らなかった和泉千晶の横顔。

きっと俺が気がつかなかっただけで、

今までも俺の側にいるときにもみせてくれていたのかもしれない。



けれど、俺は気がつく事はなかった。見ようともしなかった。

その和泉千晶は、俺の手のひらからこぼれ落ちてしまった気がした。











風邪をひいて休んだからといって、久しぶりに着た編集部ではないというのに

なんだか懐かしさがこみあげてくる。

浜田さんは、気を使って一声かけてくれた。

松岡さんは、相変わらず仕事を押し付ける為に声をかけてきた。

その方がいつもの松岡さんらしくて気が楽だ。

それに、休んだのは一日だけだし、気を使われた方がかえって俺の方が気を使ってしまう。

木崎さんは、俺が出社したときにすれ違っただけだったが、

相変わらず活気に満ちた編集部を匂わせてくれた。

俺とすれ違った時に、軽く手で挨拶してきてくれた事から、

俺が風邪をひいた事を知っていたのだろう。

そして、最後に鈴木さんなんだが、俺は風邪をひいていた時の出来事ともあって

すっかり忘れていた厄介事が待ち受けていた。

そういや浜田さん達も、なんだがほんの少しだけれども俺を見る目が違っていた気がした。

そう、今回の和泉千晶騒動最後の置き土産を編集部で受け取るとは、思いもしなかった。



春希「鈴木さん、おはようございます。きっちり休養をとったので、

   ガンガン仕事をまわしてくださっても構いませんよ。

   むしろ休んでいた分、

   勘を取り戻す為にも仕事をまわしてくださった方がありがたいです」

鈴木「風邪で土日休んだだけじゃない。

   それくらいの休みで勘を取り戻さなくちゃいけないんなら

   まっちゃんなんて年がら年中勘を取り戻さないといけなくなるじゃない」

春希「仕事の勢いみたいなのが欲しいだけですよ。

   一回休んでしまうと、今までの流れが途切れてしまうから、それを補いたいだけです」

鈴木「そぉお? 北原君だったら、そんな勢いとか気にしないで、

   いきなり最高速度で突っ走っていきそうな気がするんだけどな」

春希「いくらなんでもそれは無理ですよ。たしかに気持ちの切り替えは出来ますけど、

   休んでいた分の仕事の進捗具合とかわからないですから、

   どうしてもリズムが狂ってしまうんですよ」

鈴木「そんなこと言ってたら休めなくなるじゃない。

   休暇をとる事も、仕事のうちよ」




大いに呆れ果ててしまっていますという顔を俺に見せる。

鈴木さんも仕事が嫌いなわけではない。

むしろ誇りを持って取り組んでいることを強く示している。

けれど、仕事に誇りを持っていたとしても、プライベートを全て犠牲にするほど

仕事と向き合っているわけではない。

仕事は仕事。プライベートはプライベートとして、その二つのバランスをうまくとって

どちらも充実したものにしようとしている。

ただ、うちの編集部の傾向としては、若干プライベートを犠牲にして

仕事の方に力を入れてしまう伝統があるみたいだが・・・。

さすがに麻理さんクラスのワーカーホリックはなかなかいないけれど、

仕事を最優先にしてしまうのは、仕事の性質上仕方がない事かもしれなかった。



春希「自分なりの区切りをつけてから休みたいって事ですよ」

鈴木「たしかにそれはあるかも」



と、ちょっとばかり俺に同意してくれる鈴木さん。

こんなとりとめもない会話も、

鈴木さんなりの体調を崩すほど仕事をするなっていう忠告なのだろう。

しっかりと鈴木さんの忠告を胸にしまった俺は、

そろそろこれ以上の立ち話もなんなので、仕事に戻ろうとした。

けれど、鈴木さんは俺を引きとめようと俺に歩み寄り、

小さな声で俺に尋ねてきた。



鈴木「それはそうと、この前電話してきた和泉さん。

   もしかして北原君の彼女?」

春希「はい?!」



それは突然の質問であり、予期せぬ事態に見舞われたわけで、

俺は盛大な返事をぶちまけてしまった。

すると活気に満ちていた騒々しい編集部といえども、異変に察知した編集部員の皆さんは

何事かと俺達の方を注目してしまう。

だから俺は、頭を何度も下げて詫びを入れたのだけれど、

鈴木さんだけは素知らぬ顔で俺を見つめていた。



春希「突然どういう事ですか?」

鈴木「私が言った言葉の通りだけど。

   それともなにか隠された意味でも含まれているのかな?」

春希「そんなものは含まれていませんけど、いきなりすぎてびっくりしただけですよ」


鈴木「私としては、北原君が誰とお付き合いしても構わないのよ。

   でも、麻理さんの元部下としては麻理さんに報告する義務があるわけ」

春希「そんな義務はありませんって」

鈴木「じゃあ、義務じゃなくていいわよ。・・・そうねぇ、たんなるお節介?」

春希「それも、はた迷惑だからやめていただけると助かります」

鈴木「だったら私の好奇心?」

春希「もっと迷惑だからやめてください」

鈴木「それなら・・・、麻理さんの元同僚として応援したいからにしとくわ」



俺は沈黙で答えるしかなかった。

それを見た鈴木さんは、どう判断したか正確な所はわからないけど

おそらく俺が了解したと受け取ったのだろう。



鈴木「で、彼女なの?」

春希「違いますって。和泉は大学のただの同級生ですよ」

鈴木「ただの同級生が風邪の看病してくれる?」

春希「なりゆき上そうなっただけです」

鈴木「しかも、ただの同級生を下の名前で呼び捨てって」

春希「和泉ですか? 苗字ですよ。

鈴木さんも和泉が電話した時に聞いているじゃないですか。

   職場に電話した時に名乗る場合、下の名前を名乗る変わり者なんていませんよ」

まあ、和泉が変わり者じゃないって言いきれないところが痛いけど・・・。

鈴木「たしかにそうね。・・・わかったわ。もう仕事しないといけないし、

   詳しい事は昼休み、ランチを取りながらにしましょう」

春希「話すことなんて、もうありませんよ。本当に和泉のレポート手伝っていて、

   その時に俺が倒れただけなんですから」

鈴木「ほら、話すことがまだあるじゃない」

春希「もう勝手にしてください」

鈴木「そう? だったら、私の主観と想像を交えて麻理さんには報告しておくわ」

春希「それは、ねつ造っていうんですよ」

鈴木「どこかの新聞社みたいに、国の威信を貶めるねつ造じゃないんだから問題ないわよ」

春希「俺の品位を暴落させるじゃないですか。

   しかも、ジャーナリストとして、ねつ造はどうかと思いますよ」

鈴木「わかったわよ。その辺も含めて、ランチでゆっくり、じっくり、

   根掘り葉掘り聞かせてもらうとするわ。

   一応快気祝いとして、ランチ奢ってあげるから、楽しみにしていてね」



そう言うと、鈴木さんは自分のデスクへと戻っていく。

楽しみにしているのは、鈴木さんだけですよって、言ってやりたかった。

でも、これ以上の損害は回避すべきか。


俺はその後ろ姿を見ながら肩を落とすしかなかった。

ここは腹をくくって全て説明するしかない。

俺に後ろめたいことなんてないんだし、きっちり全部言えば、

鈴木さんも納得してくれるだろう。いや、納得してください。

・・・ふと視線を感じて顔をあげると、松岡さんが俺の事を見つめている。

俺がそれに気づくと、松岡さんはすぐに目をそらし、自分の仕事へと戻っていく。

・・・・・・わかりましたよ。ランチは松岡さんも含めて三人でしましょうか。

こうして長かった和泉との共同生活は、幕を閉じたのであった。










春希 4月7日 木曜日





千晶「じゃあさっ、とっとと学食行こっ」



ようやく午前最後の授業が終わり、学生達は学食へと向かっていく。

なるべく早く行って席を確保しようとする者以外は、のんびりと行って空いている席を

探す事になるだろう。

比較的のんびりとした校風でもある峰城大学であっても、

昼の学食はある意味戦場だった。

それでも大きな騒ぎや怒声が飛ばないあたりは日本人の特色だといえよう。

ここにいる和泉千晶も日本人であるはずなのに、どうも謎めいているのは

それが和泉千晶であるからなのだろうか。



春希「俺は弁当用意してあるからいいや」



俺は、鞄に忍ばせてあった弁当箱をつまみ上げて掲げる。

そう、今日から今年度の授業が始まったが、それにあわせて昼は弁当を持参することにした。

これは麻理さんに料理をふるまうためなのだが、

春休みの出来事を思い出すと、どうも和泉の次の行動が予想でき過ぎて

顔が引きつってしまう。



千晶「え? お弁当用意してきてくれたの? さっすが春希。

   飲み物だけ買ってくればOK?」



ほら、俺の予想通りの台詞がきた。

春休みの和泉との共同生活で、どんなわけか和泉を餌付けしてしまったらしい。


料理覚えたての俺の料理に惚れ込むなんて、和泉の舌はちょっと特殊なんじゃないかって

疑った事もある。

けれど、和泉が作ってくれた料理を食べたら、その考えは撤回せねばならなくなった。

これも春休みの共同生活での出来事であったが、和泉の手料理を食べる機会があった。

率直に言って、とてつもなく料理がうまい。

掃除だってしっかりできるし、片付けだって細かいところまで気をまわしてくれた。

そう、和泉千晶が最高の家事を毎日続けられるのならば、

お嫁さんにしたいランキング上位に食い込む事間違いなしの家事能力と言ってもいい。

だが、あいにく和泉のランキングは圏外からさえも大きく外れている。

なにせむらっ毛があって、いつも家事をしてくれるわけではない。

俺が美味しい手料理にありつけたのは、風邪をひいたおかげだったのだから。



千晶「え?」



和泉は、肩にかけていたバッグをすとんと床に落とし、表情さえも床にぶちまけてしまう。

さっと影がかかった顔色を見せたと思ったら、烈火のごとく俺に掴みかかってきた。



千晶「どういうこと? もしかして自分だけ美味しいお弁当を食べようって魂胆なの?

   ねえ? 春希ったら」



俺の両肩を大きく揺さぶってくるので、やんわりとその手を抑え込んで、

俺は事情を説明する。



春希「弁当作ろうって思ったのは、ついこの間なんだよ」

千晶「でも、私が春希の料理食べたいっていうの知ってたよね?

   もし私が春希のお弁当見たら、春希だったら私がどう反応するかわかってたよね」



おっしゃる通りで。今目の前に俺の予想通りの和泉千晶がいらっしゃいます。



春希「ごめん。俺の方も色々忙しくて、和泉のこと、すっかり忘れていた」

千晶「春休み、一緒に暮らしていたっていうのに、あんまりじゃない」

春希「あんまり誤解を生むような発言はよしてくれよ。

   もうみんな学食行って人が少ないと言っても、まだまだ人はいるんだからさ」

千晶「でも、でもぉ」

春希「わかったよ。これ食べていいから」

千晶「ホントに?」



俺の提案を聞くと、ぱっと笑顔を咲かせる。

俺があげないって言っても、絶対聞き入れてくれなかっただろ。



俺も俺で、そんな和泉に甘いから、餌付けを続行してしまう。



春希「そのかわり、和泉は俺が食べるパン奢ってくれよ。

   弁当は一人分しかないんだからさ」

千晶「そのくらいまっかせなさい」

春希「まかせなさいって、これはいわば物々交換だっての。

   あと、パン買いに行くついでに飲み物も買いに行こうか」

千晶「おっけ~」



今度こそ和泉は、教室の外へと歩き出す。

もちろん弁当を大事そうに抱え込んでいる事は、言うまでもなかった。

一方で、俺はそんな後姿を見て、微笑ましくなってしまった事は、

絶対和泉には言うわけにはいかない。

俺は、急いで鞄を掴み取ると、和泉に追いつくべく小走りで机と机の間をぬっていった。












千晶「はぁ~、美味しいぃ。最高ね、このお弁当」

春希「和泉は、あい変わらす俺の料理の採点は甘々だな」



先にパンを食べ終えた俺は、

ちびちびとコーヒーを飲みながら和泉の食いっぷりを観察している。

俺の料理を喜んでくれることは、作ったかいもあってうれしい。

けれど、どうも和泉の評価基準はどこか偏っており、俺の料理に関しては採点が緩かった。



千晶「だって美味しいんだもの。美味しいものを美味しいって言って何か問題ある?」

春希「ないけどさぁ・・・」

千晶「だったらいいじゃない」



すっかり空になった弁当箱を満足げに見つめながら宣言する千晶を見ていたら、

もうなにも反論できなかった。

いや、うれしいんだけど、和泉が絶賛するほど自己評価は下がっていく気がしてしまう。



春希「弁当は家で食べる食事と違って、弁当箱に詰めないといけないからな。

   その辺の色合いとかも考えないといけないし、あと、これから暑くなってきたら

   食中毒とかも注意しないといけないし、弁当も簡単じゃないな」


千晶「お弁当でそこまで細心の注意を払って作っている人なんていないって。

   むしろ昨日の夕食の残りを適当に突っ込んでいる人が大多数じゃない?

   あとは冷凍食品とかも便利なのが増えてるし、下手したら包丁さえ使わないで

   お弁当作っちゃってる人もいると思うよ」

春希「俺だって残りものを詰めたりもすると思うよ。

   だけど、ただ弁当を食べる為というよりは、料理を覚えたいから作っているわけで、

   少しはこだわりを持って作っていきたいんだよ」

千晶「まあ、そういうところは春希らしいかもね。

   で、これからも作るって事は、私もそのおこぼれをもらえるんだよね?」



和泉は、俺が座っている方へお尻を動かすと、俺が逃げられないように腰のあたりのシャツを

掴みながら覗き込んでくる。

なんだか最近、女の武器も使うようになってないか?

それでいて、その使い方が男っぽいから対応に戸惑ってしまう。

だけど、そんな新たな和泉千晶に戸惑いを感じつつも、どこか心に馴染んできて、

いつの間にかに心地よい関係が築きあげられている事に気がつかないでいた。






第33話 終劇

第34話に続く











第33話 あとがき




日付の前に2-3とか2-4とか番号をふっていましたが、今回からやめました。

理由としては、日付があるから必要ないかなと。

千晶編なんか、ずっと4-2でしたしw

千晶編終わっても、千晶でているじゃないかという突っ込みは、潔く受け入れます。

ただ、かずさの出番がないのは、ほんとうにごめんなさいと言うしかありません。




来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです




黒猫 with かずさ派



第34話





春希 4月7日 木曜日






春希「わかったよ。降参」



俺は、わざとらしく両手を小さくあげて降参の意思表示を示した。

すると、それを見た和泉は、形が整った唇の口角をあげて喜びを表現する。

そんなちょっとした演技のやり取りだっていうのに、

三流以下レベルの演技につきあってくれる和泉の演技は、どこか様になっていて、

凸凹コンビの片割れの演技を二流まで持ちあげてくれる。



千晶「やたっ。じゃあ、作ってくれるんだよね?」

春希「作るよ。今日昼になって、弁当を鞄から出した時に気がついてしまったよ。

   だから、ばっちし覚悟もしていたから安心しろ。

   でも、お前が期待するような弁当は出来ないかもしれないからな。

   俺はあくまでも料理の練習でやってるんだから、

   そこのあたりをしっかりと理解してほしい」

千晶「わかってるって」

春希「あと、しっかりと料理の評価もしてほしい」

千晶「いつも美味しいから問題ないって」

春希「そうじゃなくて、和泉って料理うまいだろ。

   春休みに俺が風邪をひいたときに作ってくれたけど、相当腕があると思った。

   だから、料理上級者として、俺の料理の問題点というか、

   味付けとかの採点と改善点を教えてくれると助かる」



俺が真面目な顔でいうと、さっきまでニコニコ笑っていた和泉の顔が引き締まる。

どこか挑戦的で、上から目線なのは気にかかるが、料理に関しては和泉が上なんだから

反抗はできない。



千晶「いいよ。お弁当代として支払ってあげる。

   でも、味の評価は出来るけど、改善点を口で教えるのは難しいんじゃないかな?

   作っているところを隣で見ていれば、教える事は出来るけど、

   私もプロの料理人ってわけでもないから、春希のお弁当を食べただけじゃ

   改善点を教えるなんてできないわよ」

春希「たしかに」




それはそうだな。和泉に演劇に関してのアドバイスを聞けば、

プロ顔負けのアドバイスを貰えるかもしれない。

だけど、料理に関しては畑違いもいい所だ。



千晶「じゃあさ、春希がバイトない時に春希んとこにいって料理教えてあげるよ。

   それだったら私でも出来るし、なによりも春希の手料理が食べられる」



あまりにも千晶らしい提案に、俺は苦笑いとともに、惚れ惚れと感心してしまう。

いかにも自分の欲求に忠実なやつだ。

だからこそ和泉っていうわけで。



春希「和泉がそうしてくれるんなら、それでいいよ。

   むしろ俺が頼みたいくらいだよ」

千晶「なら決まりね。さっそくだけど、今週末なんてどう?

   私は当分劇団の方の予定ないし、週末は暇なのよ」

春希「暇って事はないだろ。授業も始まって、予習に復習。それにレポートだって

   出るに決まっている。

   あと卒論もやらないといけないし、暇なんて言ってられないぞ」



そういえば和泉って、卒業後どうするんだろうか。

あまりにも和泉の就活が想像できなくて、乾いた笑いさえ出てこない。

そうだな、和泉がスーツを着ているなんて、絶対に想像できないし、

そもそも似合わないだろうな。

だとすれば、このまま演劇の世界に身を置くのだろうか?

俺は、演劇については素人同然だけれど、やはりいくら才能があっても

その道で生活していくのは大変だという事だけは理解できた。



千晶「はいはい。その辺は、しっかり春希が監視してくれるから問題ないって」

春希「だから、最初から人に頼るなって」

千晶「わかってるってぇ・・・」



ちょっと拗ねた千晶は、俺の腹をつつきながら不満を訴えてくる。

けれど、そのぶすくれた顔もすぐに霧散した。

ほんと切り替えが早い奴だ。



千晶「週末春希のところで料理教えて、その後勉強会ひらけば問題ないでしょ?」

春希「そうだな。それが一番妥当な線だ。

   でも、今週末は無理なんだよ」



千晶「バイト?」

春希「いや、バイトは金曜まであるけど、他の予定がな」

千晶「彼女にでも会いに行くの?」



和泉の何気ない一言に、心臓を鷲掴みにされる思いに晒される。

きっと観察眼が鋭い和泉のことだから、

小さな違和感が一つでもあれば気がついてしまう。

けれど、今回ばかりはけらけら笑いながらだし、からかっているだけかもしれない。

そんな気休め程度のお守りにすがることなんてできないか。

こいつは立派な女優だしな。



春希「彼女に会いに行くんじゃないって。

   NYに、編集部でお世話になった人に会いに行くんだ」

千晶「どんな人なの?」

春希「今はNY支部に異動したんだけど、とても大事にしてもらって、

   いつか隣に立ちたいって、無謀な夢を抱いてしまうほどの人かな」

千晶「春希にそこまで言わせるなんて、相当すごい人なんだね」

春希「すごいって表現が一番合うかもな。

   幾重にも言葉を連ねても、あの人のすごさは表現できないっていうか。

   だから、すごい人って表現するのが一番しっくりくるかもしれない。

   まあ、俺の表現力の限界ってやつで、・・・底が浅いんだよ、俺は」

千晶「ふぅ~ん。で、いつまでいってるつもり?

   春希じゃないけど、お前大学始まったばかりなのに、なに休んでるんだよって

   言っちゃうよ」



いや、似てないだろ。どうせ俺の真似したんだろうけど、似てない。

断じて似てないからな。



春希「急に決まってさ。忙しい人だから、会うにもしても向こうの予定を優先しないと

   会う事も出来ないんだよ。

   そもそも、俺の方が会いたいって言って押しかけていくんだしな」

千晶「ふぅん」



どこか気のない返事に、やはり全てを見通されている気がしてまう。

こいつに隠し事をしたって結局は知られてしまうんだろうなと、

諦めている部分もあるわけで。

しかし、その諦めさえもどこか心地よくて、こいつには絶対教えてなどあげないが、

頼りになる友人だと思うようになってきていた。



千晶「まっいっか。また今度ね」



なにがまた今度なのかは、わからない。わからないけど、想像だけは出来た。

だから俺は、しらじらしく返事を返す。



春希「また今度な」

千晶「じゃあさ、・・・はい」



先送りにしてくれた見返りなのか、和泉は右の手のひらを差し出してくる。

どこか見たことがある光景は、デジャブだろうか? いや、デジャブにしてください。



春希「はいって?」

千晶「だから、また春希んちの合鍵貸してくれないと困るかなって。

   だって、料理教えるのは春希んちでやるわけだし、それに、

   春希ってバイトとかで時間が不規則になることがあるじゃない。

   どうせ私と約束しても、バイト優先になるだろうしさ」

春希「俺は約束の時間には、いつも10分前には着くようにしているぞ。

   約束の時間を守らないのは、和泉の方だろ」

千晶「たしかに、なにかしらの約束をしたのならば、

   ほぼ確実に春希は約束の時間を破らない。

   もし時間に間に合わないようだったら、

   電話なりして遅刻する事を早めに伝えてくるだろうしね」

春希「当然の行動だ。人としての当たり前のマナーだろ」

千晶「かもしれないけど、これが心を許した相手になると変わってこない?

   例えば、バイトと料理教室を天秤にかけて、この料理教室の先生を

   紹介された誰かに頼んだのだったら春希はバイトと同列に見るはずでしょ」

春希「バイトは仕事だから途中でぬけにくいけど、料理教室の先生をお願いしたのなら、

   あらかじめバイトの方で時間の余裕をとって、料理教室の方で迷惑かけないように

   色々対策を練っていたかもしれないな。

   でも、料理教室はプライベートだし、バイトと天秤にかける事はしないと思うぞ。

   まあ、和泉が言いたい事は、なんとなくわかったけど」

千晶「そだね。

   でも、春希が誰かに迷惑をかけないように立ち振舞っていることはたしかでしょ」

春希「そうかな? けっこう迷惑かけまくってるとは思うぞ」

千晶「それでも自分でなんでもやってしまおうとはしているでしょ」

春希「そう言われてしまうと、そうかもしれないけど」

千晶「だからさ、私には気を使わなくてもいいから。

   バイトがあるんなら、とことんバイトしてきていいよ。

   そのほうがすっきりするしね。

   その代わり、私も春希に対して気を使わない。・・・・・ねっ?」



すっごく大胆な事を言っているはずなのに、和泉の言葉がすぅっと心に染み込んでいく。

和泉の表情にも、いつもの人をからかうような軽い印象は見受けられなかった。

こいつなりに考えて言った言葉なのかもしれない。

そうだな。こいつとなら今までとは違う女友達を築いていける気がする。

俺が求める都合がいい女友達ではなくて、お互いが求めあう友人関係。

きっとこれから少しずつ軌道修正していって、しっくりくる形でおさまるのだろう。



春希「お前は今までだって俺に気を使ってないだろ」



だからつい俺の方が軽口を言ってしまう。

俺の照れ隠しだって、俺も、目の前にいる親友も、気が付いているはずだ。

こいつはいつだって俺に気を使ってくれていた。

細心の注意を払って、俺が傷つかないように守ってくれていた。

それが和泉なりの目的があったにしろだ。



千晶「それは酷い言いがかりだよぉ。

   そりゃあさぁ、春希には迷惑かけているし、ご飯も奢ってもらっているし、

   最近でもご飯まで作ってもらっているけどさぁ・・・」



ほら。名女優でもある親友は、俺の状態を俺以上に把握している。

だから、俺が話しやすいように場を和ませてくれている。



春希「俺にたかりすぎだろ」

千晶「そうかなぁ。使えるものは、なんだって使い倒さないとね」

春希「使い倒して、ボロボロにだけはするなよ」

千晶「わかってるって」



さて、和泉には言わないとな。

もちろん今すぐ全てを話せるわけではない。

けれど、話せる範囲で、俺の今後の事を伝えなければならない。

和泉との約束は、守れそうにないな。

こいつが無事卒業できるようにサポートするって、約束したのに。

ごめんな、和泉。

それでも、前期日程だけは、全力でサポートするよ。

後期日程は、側にいる事は出来ないけど、出来る事は全てやってから日本を離れるつもりだ。



春希「なあ、千晶」

千晶「ん?」

春希「千晶が俺の友達でいてくれて、本当によかったよ」


千晶「好きでやってる事だし、問題ないんじゃない?」



俺が書き変えた台詞に気が付いているはずなのに、

千晶はそれが初めからそう書かれているみたいに演じ続けてくれる。

こんなどうしようもない俺につきあってくれるなんて、千晶はどこまでお人よしなんだよ。

普段は俺の事をお人よしだって言ってるくせに、千晶の方がお人よしじゃないか。



春希「そっか・・・」

千晶「まあね」

春希「なあ、千晶」

千晶「ん?」

春希「俺は、後期日程からNYへ研修にいくつもりなんだ」

千晶「そっかぁ。・・・ん、わかった」

春希「驚かないのか?」



千晶が驚かない事に、俺は驚いてしまう。俺にパラサイトしているあの千晶が。

拠り所となる俺がNYへ行くんだぞ。

最近では俺の手料理をねだってくるが、それはこの際問題ないとしても、

大学の講義の方は大丈夫なのか?

卒論なんか、ギリギリまでやらないんじゃないかって不安になってしまう。



千晶「なにかあるとは思っていたけど、想定範囲内かな。

   さすがにNYは驚いたけどね」

春希「卒業を全力でサポートするって言ったのに、途中で投げ出す事になってごめんな」

千晶「ううん。どうせ春希の事だから、

   前期日程で、やることはすべて叩きこんでいってくれるんでしょ?

   なら、あとは私が実際にやるだけだし、春希がやることなんてほとんどないと思うよ」



勘のいい千晶は、俺の不安をすぐさま読み取り、

しかも、俺の背中を押そうとまでしてくれる。

こいつって、こんなにもいい女だったのか。

側にいすぎて気がつかないって、こういう事をいうんだろうな。



春希「もちろん俺がやれる事は全てやってからNYへ行くつもりだけど、

   千晶は、それでいいのか?」

千晶「春希が決めたんでしょ? 

   寂しくなるけど、しょうがないから笑顔で送り出してあげるっ」

春希「ありがと」

千晶「どういたしまして。・・・となると、このマンションはあと半年ってところか。

   寂しくなるなぁ」



春希「そのことなんだけど、今週末には実家に引っ越す予定なんだ」

千晶「はぁ? いくらなんでも急すぎない?」



さすがに俺が当事者じゃなかったら、千晶と同じ感想を持つよ。

しかし、当事者としては、それなりの理由があるわけで。



春希「後期日程からNYに行くからな。それまで、出来る限り節約しようと思って。

   あっ、でも、弁当の事は気にするなよ。

   そのくらいの余裕はあるし、料理の勉強でもあるんだからな」

千晶「さすがの私でも、いきなり自分のお弁当を気にしたりしないって」

春希「でも、他の重要事項が解決したら、弁当の事も騒ぎ出すんだろ?」

千晶「当然」



ほら、そこ。胸を張っていばらない。

それが千晶らしくて落ち着くから、いっか。

弁当に限らず、優先事項上位だけを解決していくだけじゃダメなんだよな。

いくら下位であっても、それは俺の日常の一部であり、

それらすべてによって俺が成り立っている。

後回しにしたとしても、見ないふりをして日本に置いていくことなどできやしない。



千晶「それじゃあ、料理教えるのは、春希の実家でいいの?」

春希「うぅん・・・。たぶん問題ないと思うけど、

   一応母親に使っていいか聞いてみてからだな。

   俺の立場としては、NYへ行くまで置いてもらう身だかな。

   でも、この前会った時の感じとしては、大丈夫だと思うぞ」

千晶「前から思っていたけど、春希の親子関係って、めんどくさそうね」

春希「そうはっきりと言われると釈然としないけど、事実だから言いかえせないのが痛いな」

千晶「でも、親と話してみたりすると、あっさりしたものなんじゃないの?

   自分だけ深く思い悩んでいて、実際行動に移してみると、あっさりすぎるほど

   するっと解決しちゃってさ」

春希「そうかもな」

千晶「え?」



千晶に相槌を打ったというよりは、自分で確認したかっただけだと思える。

母に実家に戻ると伝えに行ったあの日。

実際千晶が言う通りあっさり事が進んだ。

しかも、想定以上にあっさりすぎるほどするっと解決してしまった。

そのために、俺の方が戸惑ったほどだった。




春希「前に話したか覚えていないけど、・・・どうだったかな、親に頼らないように

   暮らしているってくらいは話したか?」

千晶「うん、そうだったかも」

春希「まあ、よくある擦れ違いって奴で、親が離婚した後、母親に引き取られたんだけど、

   お互いの距離感がうまく取れなくなって、そのうちお互い干渉しなくなり、

   そして関心もなくなった。

   で、今に至ると」

千晶「あっさりすぎる説明すぎない?

   険悪な関係ではないけど、お互い興味がないから無関心ってところ?」

春希「まあな」

千晶「ふぅん」

春希「ふぅんって、あまりにもあっさりすぎる反応だな」



同情してもらいたいわけではないけれど、それでもその反応、軽過ぎじゃないか?

・・・俺は、千晶に慰めて欲しかったのか?

違うな。もっと踏み込んで欲しかったのかもしれない。

千晶は、踏み込まない、な。その辺の距離感をよくわかっている。

俺が踏み込んでほしい時、その時になって初めて土足で踏み込んでくるはずだ。

まあ、覚悟しておかないとな。容赦ないからな、この親友さまは。



千晶「慰めて欲しかったの?」

春希「そうじゃないけど」

千晶「だったらいいじゃない。そういえば、NYへにも週末行くんじゃなかった?

   引っ越してからいくの?」

春希「引っ越しの手配だけはしたから、業者がやってくれるよ。

   武也に立ち会い頼んでおこうかなって思っているけど」

千晶「それ、私がしてあげよっか?」

春希「いいのか?」



これはラッキーといっていいのか?

別に武也に絶対頼まないといけないわけでもないし、

武也にはまだ、引っ越しの事を話してもいない。

いずれしっかりと事情を説明するつもりでいても、

ごたごたしていた為に後回しになっていた。

それに、急いで武也に話すよりも、ゆっくり時間を取れるときに話したほうがいいとも

思える。ただそうなると事後報告になってしまう事が心残りだ。

そうだな。詳しい事はNYから帰国してから話すとしても、

引っ越すことだけは伝えておこう。



千晶「いいよ別に。で、いつNYに行って、いつ引っ越す予定なの?」

春希「NYには明日金曜の夕方6時半の飛行機で行く予定。

   それで、帰国は火曜の昼になると思う。

   引っ越しは、日曜の午後からになるみたいだ。

   そんなには遅くならないみたいだけど、1時くらいまでには来るって言ってたよ。

   なにせ引っ越すと言っても近所だからな」

千晶「だったら、はい」



千晶は、さも当然という顔を作って俺に右手を差し出してくる。

これで3度目か?

もう、千晶が何を意味して手を出しているかわかってしまう自分が

ちょっとむずがゆく思えてしまう。



春希「あいにく合鍵持ってないから、いったん家に戻ってからな。

   夕食はいらないから、自分で何とか調達してくれよ。

   冷蔵庫の中身は勝手に使っていいから」



俺の切り返しに、千晶はぽかんと目を丸くしてしまう。

けれど、さすが和泉千晶。切り替えがお早い事で。

不敵な笑みを浮かべると、すかさず俺に斬りかかってきた。



千晶「どうせ冷蔵庫の中身なんて、ほとんど空なんでしょ?

   引っ越し前の春希が冷蔵庫にものを入れているとは思えないもの」

春希「よくわかったなと、誉めてやりたいところだったけど、あいにく入っているぞ」

千晶「うそ?」

春希「嘘をついてどうする。今日の弁当で使った残りの材料がいくらかあるから

   勝手に使っていいぞ。

   どうせ明日は、俺は大学の講義ないし、弁当も作らないからな。

   でも、明日の朝の分もあるから、あとで合鍵取りに戻った時に確認しておくか」

千晶「それだったら、冷蔵庫を確認して私が適当に買っておくからいいよ。

   どうせ日曜までお世話になるんだし」

春希「それでいいんなら、千晶に任せるよ」

千晶「りょ~かい」

春希「ほとんど引っ越し業者がやってくれると思うけど、

   ある程度は自分でまとめたいのもあって、段ボールが積まれているけど、

   それでもよかったら自由に使ってくれ」

千晶「うん、ありがとね。でも大丈夫だから、安心してNYに行っていいよ」



千晶は、NY行きの本当の理由を聞こうとはしてこなかった。



もしかしたらある程度の予想はしているのかもしれない。

いつか俺が話を聞いてもらいたい時、こいつはどんな顔をするのだろうか。

ひょうひょうとした顔をして、なんともないって片付けてしまうのだろうか。

それとも、重く受け止めて、怒ってくれるのだろうか。

どうなるにせよ、千晶は受け止めてくれるはずだ。

今日、俺と和泉との関係は終わりを迎えた。

そして、今日から俺と千晶との新しくもあり、

今までの関係の一部を引き継いだ関係が再スタートされる。

こいつには驚かされる事ばかりで、

今後どんな関係に発展していくかなんてわかったものではない。

わかりたいとも思わないけど、わからない方が面白いに決まっている。

千晶ならそういうはずだ。

これも千晶の影響かと、そう思えてしまう。

きっと他人から見たら歪な関係だって批難されるかもしれない。

批難されるかもしれないが、それがどうした。

何か問題でもあるのか?

俺と千晶が望んで得た関係に、誰であっても文句は言わせない。

これはいいすぎか。文句があっても、聞き流してやる。

これのほうが俺らしいか?

俺と千晶となら、退屈しない日常を送れるはずだ。



千晶「エッチ関係の雑誌とかは、引っ越し業者が来る前に処分しておいてあげるね。

   大丈夫だって。その辺のところは、私は寛大だから、春希がどんなアブノーマルな

   趣味を持っていても、全部受け止めてあげるからさ」



前言撤回。

前途多難のままNYに行かなければならないかもしれない・・・・・・と、思ってしまった。









第34話 終劇

第35話に続く













第34話 あとがき



春希視点で書いてみると、やはり書き慣れた文章でもあるので、すんなり復帰できました。

今までずっと一人称で書いてきましたが、三人称で書いた事ってないんですよね。

そのうち書いてみようかなって思っていたりもいます。

どちらもメリット・デメリットがありますが、

経験しておいた方がいいに決まっていますし、頑張ってみようと思います。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです




黒猫 with かずさ派


第35話





春希 4月7日 木曜日





夕方という時刻は、既に過ぎ去っている。

俺が浜田さんに呼ばれて編集長の元へ訪れたのは、夕陽が消えかけの頃だったと思う。

そして、俺と浜田さんが編集長の元から会議室へ移った頃には、すっかり日は暮れていた。

けれども、編集部内に満ち溢れている活気は衰える事もなく、

今が夜だという事を忘れさせてしまう。

俺としては、静まり返った会議室に浜田さんと二人で放り込まれるよりは、

壁から抜けてくる喧騒に満ちた編集部の騒音をBGMに出来たほうが有難かった。



浜田「やはり入社前研修制度そのものは一般的だったとしても、

   海外まで行った奴はいなかったな」

春希「自分でも予想してはいましたけど、案外制度だけあっても知られていなく、

   実は使われていない制度がたくさんあるような気がしますね」

浜田「自分に関係ない制度ならばなおさらだからな。

   人間、必要を感じなければ気がつかないものさ」

春希「しかし、そういった使っていない制度こそ裏技とか言われるんでしょうね。

   本来は他の制度と同じ通常の制度であるにもかかわらず」

浜田「お前らみたいな奴がいるから裏技だっていわれるんじゃないか?」



どこかあきらめムードを漂わせている浜田さんの口調には、批難の色はない。

むしろ誉めているんだろうけど、俺と麻理さんをどこか規格外の人間だと

思っている気がする。

そんなに強い人間ではないのに。・・・そう、俺も麻理さんも弱い人間だから

こうして人が見向きもしない制度を見つけ出してきては、自分を守ろうとする。

自己分析をするにつれ、自嘲気味に自分を責め立てる影が俺を覆い尽くそうとしだす。

だから俺は、とっさに自己分析を終了させて、心の闇を心の奥深くにしまい込む。

見せられない。見せてはいけない。

俺と麻理さんの秘密を、今、編集部のみんなに知られるわけにはいかなかった。



春希「別に自分はそう思われてもいいんですけど、

   ただ、制度を捻じ曲げているわけでもないので

   ちょっと心外だと思ってしまうところもありますね」

浜田「お前は正論すぎる所があるから、NYへ行ったら、敵を作らないように気をつけろよ」

春希「え?」




俺は、浜田さんの突然の結論に困惑を示してしまう。

だって、編集長は浜田さんに任すとはいっても、

こんなにも早く結論が出るとは思っていなかった。

最終的にはNY行きを許してくれるとは思っていた。

それでも、NYへ行く理由や今後の進路について詳しく話さないといけないと考えていた。

だから俺は、浜田さんに話せる範囲を、矛盾なく的確に話せるように何度も計算していたのだ。



浜田「そんなに驚いた顔するなよ。

   編集長も、あとは俺に任せるって言って書類をくれただろう。

   それに、北原の事だから、俺よりも海外研修の規則を知っていると思ったんだがな」

春希「え?」

浜田「だからな、海外研修を希望する者は、直属の上司及び

   その部をまとめる責任者の許可があれば、その希望を許可するってあるだろ」

春希「あつ」

浜田「やっと気がついたのか。責任者は、編集長だから、すでに許可は下りているんだよ。

   いくら直属の上司の許可が必要だっていっも、上司が推薦もできない部下を

   編集長に推薦するわけないだろ。

   つまり、お前は編集長が書類をくれた時点でNY行きが決まっていたんだよ。

   それとも、あれか?

   俺がもうちょっとごねたほうがよかったか?

   あぁ、引き止めてほしかったとかか?」



浜田さんは一見おどけているような口調をしていても、その顔の固さをぬぐい切れていない。

きっと俺を気持ちよく送り出しらいのだろう。

その気配りが、よくわかってしまう。だって、俺は短い時間であっても、

この人の部下であったし、それに編集部に来てから、ずっとお世話になっている先輩でも

あるのだから。



春希「そ、そんなことはないです。

   ただ、もう少し理由とか聞かれるのかなと」

浜田「話せるのか?」



理由を聞いて欲しいのかとは、浜田さんを言わない。

一般的なシチュエーションならば、ここは上司が理由を聞いて欲しいのかと

普通ならばいうはずだ。

それなのに浜田さんは、「話せるのか?」と言った。

つまり、浜田さんは、浜田さんなりに俺の事情をくんでくれているってことなのだろう。





春希「今は話せません」

浜田「そうか」

春希「すみません」

浜田「いや、いい」

春希「ありがとうございます」

浜田「まあ、な。俺もお前の上司やってたから、お前が理由なしでNY行きなんて

   決めるとは思ってないよ。

   むしろ、こんなにも急に言いだしたんだから、よっぽどの事情だって推測できる。

   だから、今は聞かない。いつか北原が話せるようになったときに

   話してくれればいいよ。

   ・・・うん。別に話せなくてもいいけど、俺を頼ってくれよな。

   お前がNYへ行っても、東京の、この編集部が、お前のホームグランドなんだから、

   いつでも帰ってこられる場所だってことを覚えておいてくれればいい」

春希「ありがとうございます」



俺は、もう一度感謝の気持ちを伝え、深々と頭を下げる。

そして、再び顔をあげたその向こうには、顔を少し紅潮させた浜田さんがいた。



浜田「松岡の奴も、北原くらい行動してくれればいいんだけどな」

春希「最近は、以前より良くなったって言ってたじゃないですか」

浜田「それは、比較論にすぎない。目指すべき目標は、高い方がいいからな」

春希「そうですね。浜田さんも、俺が日本に戻ってくるまでには編集長くらいには

   なっていて下さいよ」

浜田「おいおい。いくら高い目標を持つと言っても、北原が日本に戻ってくるまでに

   編集長になるなんて無理だよ。

   それとも、北原は、ずっとNYにいるつもりなのか?」



自分が招いた失言に、表情を崩しそうになる。

俺としては、重い雰囲気を払しょくしたいだけだったのに、いつもの俺なら仕出かさない

失態に悪態をつきそうになってしまう。

けれど、悪態は再び喉の奥に押し込めて、

冷静を装って明るくなってきた雰囲気を維持しようとした。



春希「だって、俺が日本に戻ってくる時、編集部に席を確保しておいてもらわないと

   いけないじゃないですか。

   だったら浜田さんには、編集長くらいには出世して頂いてもらわないと困ります」

浜田「それは手厳しいな」




春希「まあ、冗談はともかく、せっかくNYへ行くのですから、

   向こうでの仕事をしっかりと覚えてから日本に戻ってくるのもいいかなって

   思っていたりしています。

   そう何度もNYへ行く機会などありそうもないですから」

浜田「たしかにな。俺もそうだが、松岡なんて、ずっと日本にいそうだな」

春希「たしかに。でも、松岡さんばかりを引き合いに出していると、

   松岡さんも拗ねてしまいますよ」

浜田「わかっているよ。でも、あいつもそんなことを言われないように頑張っているところ

   もあるから、ついな」

春希「期待しているんですね」

浜田「期待しているっていうか、可愛いんだろうな。

   ほら、馬鹿なやつほど可愛いっていうだろ?」

春希「そういうことにしておきますよ」



和やかな雰囲気がうまく流れていく。俺は、ほっと一息つきそうになった。

しかし、目の前にいる浜田さんは、一度俺から視線を外し、

再び俺の方に視線を戻した時には少し厳しい目つきで俺に尋ねてきた。



浜田「最後に一ついいか? 答えられないのなら、こたえなくてもいいから」

春希「わかりました。どうぞ」

浜田「俺の下じゃなくて、風岡の下がよかったのか?」



どういう意味で言ったのだろうか?

浜田さんの問いだけでは、その後ろにある意味が読みとれない。

俺のその疑問が伝わったのか、浜田さんは補足説明をしてきた。



浜田「俺は、風岡ほどお前を使いこなせていなかったと思う。

   それは仕方がないで片付けられないとはわかっているけど、

   俺も自分の身の丈はわかっているつもりだ。

   ないものはない。でも、ない事を嘆いているばかりじゃなくて

   俺が出来る精一杯の事はしてきたつもりだ。

   だから、・・・その、北原は、俺の下じゃ、物足りなかったのかなと、な」

春希「そんなことはないです。

   毎日が充実していて、与えられた仕事をこなすのに苦労していたほどですから。

   だから、仕事に関して、なにも不満もありませんし、それに

   上司としても、人としても、尊敬していました」

浜田「そっか、わかった」



浜田さんが本当に聞きたかった質問は、これだったのだろうかと、ふと気になってしまう。


一応最初に、俺がNYへいく理由は聞かないと言った手前、このような質問に

なってしまったとさえ思えてしまう。

・・・浜田さんが一番聞きたかった事。

そして、聞けなかった事。

それは、麻理さんが関係しているのか。その事なのではないかと、思えてしまう。

けれど、この問いを投げかけられなくてよかった。

だって、何度シミュレーションしても満足する回答が出なかったのだから。

嘘をつく事はできない。

ならば、回答拒否? それは、すでに麻理さんと関係ありますと明言しているだけだ。

だったら、話せる範囲で話すべきだったか?

それならば、どこまで話す?

NYへ、麻理さんを追って行く理由を、どこまで話せるというんだ。

一応、麻理さんのもとで、海外での仕事を覚えたいという理由も考えはした。

これは嘘ではないし、理想的な海外修業と言えるだろう。

しかし、平静を装って告げることができただろうか。

どうしても、最後の作り上げた理由を告白する場面でエラーが出てしまう。

嘘ではないのに。むしろ理想的な理由であるからこそ、悲しくなってしまう。

こんなにも幸せな理由を、俺は胸を張って言えるわけがない。

NYで、一人孤独と向き合っている麻理さんに、虚偽の笑顔を強要したくはなかった。



浜田「さて、もうそろそろ戻るとするか。

   鈴木あたりが、今か今かと待ち受けているから、お前の方から説明しろよ」

春希「はい、わかりました」



鈴木さんだけでなく、松岡さんや木崎さんにも伝えなくてはならない。

きっと鈴木さんの松岡さんは、俺と浜田さんのただならぬ雰囲気を察して

色々を推測しているに違いなかった。

これが単なる好奇心からであるのならば、適当にあしらう事も出来る。

しかし、きっと先輩たちはそれだけの為に俺の事を気にしているわけではないだろう。

ただ、NY行きを伝えたら、麻理さんをからめた追及をきっとしてくるだろうけど・・・。







鈴木「へぇ、NYかぁ。で、麻理さんとこに転がり込むの?」



みんなに差し入れとばかりに持ちこんだ編集部備え付けのコーヒーを

俺は盛大に噴き出しそうになる。

どうにか目の前にいる鈴木さんにコーヒーを口からぶちまける醜態は回避できたが、

コーヒーが入ってはいけないところに入りそうになり、むせかえしてしまう。


春希「どこを、どう考えれば、麻理さんの所で居候させてもらうって考えつくんですか?」



いきなり正解を引き当てた鈴木さんに対して、俺はいつもの調子で反論してみせる。

きっと噂好きの、勝手な想像なのだろうけど、核心を見事に突いてしまうあたりは、

油断できない。



鈴木「だって、麻理さんと付き合ってたんでしょ?」

春希「は?」



鈴木さんの切り返しに、今回ばかりは俺も対処ができなかった。

唯一助かった事といえば、コーヒーを口に含んでいなかったことくらいだろう。

もしコーヒーを飲んでいたら、コーヒーを吹きだしていたと断言できる。

それくらい俺にとっては衝撃的な追及だった。

木崎さんは、珍しくもないが、タイミング良く編集部に残っており、もちろん松岡さんも

いつものごとく俺に詰め寄っていた。

しかし、二人とも鈴木さんの発言に驚いてはいない。

驚いているのは、俺一人だけだった。

一応側に入るけど、自分のデスクに陣取っている浜田さんの様子も伺ったが、

これもまた驚いてはいなかった。

先ほどから浜田さんは、俺達の様子を見ているので、俺達の会話を聞こえていないわけはない。
聞こえていてもなお驚いていないという事は、浜田さんにとっても当然の事って

いうことなのだろう。



春希「ちょっと待ってください。いつ、俺が麻理さんと付き合ってる事になったんですか?」

鈴木「いつって、今年になってからじゃないかな?」

松岡「だよな」


さも当然という口調で、迷いがない発言であった。


木崎「北原は、ばれてないと思っていたのか?」



木崎さんまでも当然という顔を見せているので、確たる根拠があっての推論なのだろう。

でも、俺は編集部内で麻理さんと付き合ってるような態度をしたことはないと断言できる。

そもそも実際には付き合ってはいないのだから、断言できるというのは

少しおかしいのかもしれないが、俺と麻理さんのやり取りは、

今年になっても今までと変わらなかったはずだと思えた。

それに、俺は、そして特に麻理さんは、仕事にプライベートを持ちこむことはない。

・・・いや、プライベートを持ちこんだ結果が、NY行きか。

自嘲気味に、自分のふがいなさを猛省しそうになったが、

目の前に展開する好奇の目を感じ取り、

ぎりぎり意識を現実世界につなぎ止めておくことに成功した。



春希「どういうことでしょうか?」

鈴木「え? 本当に私たちが気がついてないと思ってたの?」

春希「だから、どういう意味です?」

松岡「察してやれよ。麻理さんに口止めされているんじゃないか?」

鈴木「なるほどね」



鈴木さんは、何か含みがある笑いをにじみ出すと、勝手に納得して、勝手に結論付けた。



春希「だから、どういう意味なんですか?」

松岡「本当にわかってないのか?」



さも意外そうな顔を見せるので、俺としては不安になってしまう。

この編集部で、俺と麻理さんの関係が、どう評価されているのか不安になる。

鈴木さん達の反応を見る限りは、NYでの真相にはたどり着いてはいないはずだが。

・・・俺だって、NYにいる麻理さんが、あんな状態になっているなんて

想像する事もできなかった。

現実は、想像を超えるとはよく言ったものだが、あまりにもひどいではないか。

俺に責任があるってわかっている。

ならば、俺にすべての責任を押し付けてくれればよかったんだ。

それなのに、麻理さんに責任が襲い掛かってしまった。

その方が、俺がショックを受けるって、最初からわかっていたかのように・・・。



木崎「その辺にしてやれよ。本人達は、いたって本気だと思うぞ。

   お前らだって、経験あるだろ?」

松岡「そうかもしれませんが、でも、あまりにもうぶで、見ている方が恥ずかしかったですよ」

木崎「まあ、な。あれは、ちょっと見ている方が照れたな」

鈴木「本当よ。中学生の恋愛かって、突っ込み入れたくなっちゃったもん。

   でも、麻理さんと北原君だし。まじめ過ぎる二人の事だから、

   まじめに隠そうとしてたんだと思うよ」



今度はなぜか鈴木さんに肩を優しく叩かれて、勝手に慰められてしまう。

本当に訳がわからなかった。

たしかに、麻理さんとのことは、隠さなければならない。

麻理さんの病状は、誰であっても気がつかれてはならなかった。

今、編集部は勘違いしてくれている。

俺が戸惑っている理由さえも、鈴木さん達の理想によって創造された理由に

すり変わってくれていた。

ならば、俺は、この状況を利用すべきではないだろうか。

けっして誉められる方法ではない。


むしろ、麻理さんの病状が回復して、笑って話せるようになった時、

俺がこれからしようとしている、つまり、鈴木さん達を騙そうとしている行為そのものに

反感を持たれてしまうかもしれない。

俺が有する選択肢は少ない。

既に浜田さんには、今は伝えることができない理由があることを打ち明けてしまった。

もちろん、麻理さんと付き合っているからという理由だけで、俺がNYに行くとは

考えてはいないだろうけど、

麻理さんが理由の一つとなっているとは考えているはずだ。



松岡「北原は、顔に出さなかったけど、麻理さんは、顔に出まくっていたからな。

   さすがに仕事中はいつも以上に鬼だったけど、北原が絡んでくると

   顔が違ったからな」

鈴木「だよね。いつだったか、北原君から電話がかかってきたときなんて

   編集部中が麻理さんが必死に隠そうとするのを生温かく見守ってたもんね」

松岡「あれは大変だったな。本人は隠せているって思ってたみたいだけど、

   編集部まで声が聞こえてきたし、声の質っていうの?

   最初は麻理さんじゃない別の人が、麻理さんの声を使ってるって思ったほどだしさ」

鈴木「うんうん。電話の後の顔なんて、仕事中の麻理さんからは想像できないほど

   デレまくってたからね」

松岡「あれは編集部でも話題になったな。仕事の鬼にも春が来たんだって

   みんな喜んでいたな。

   ま、少しは仕事の要求が楽になるんじゃないかって期待してただけなんだけど、

   まったく仕事量は変わらなくて、がっかりしたのを覚えているよ」

鈴木「当たり前じゃない。あの麻理さんなのよ。逆に仕事が増えてたんじゃないかな?」

松岡「たしかに。・・・俺達の方に仕事を振られなかった事は幸いだったけど」



・・・考えがまとまらない。

俺は、この人たちに、どういった態度をとればいいのだろうか。

俺は、曖昧な態度のまま、鈴木さん達の会話の聞き役に徹していく。

自分からは発言しない。求められれば、曖昧にうなずいて、確定事項は伝えない。

卑怯だってわかっている。

冷静な俺だったら、うまくこの場を切り抜けられたのかもしれなかった。

しかし、冷静ではいられない。

俺の事だけなら、なんとでも対処のしようがあったのに。

その為の模範解答は無数に用意してもいた。

それもこれも、全ては麻理さんが話題の中心まで持ちあげれらてしまったせいで

俺の計画は崩壊した。

麻理さんが表舞台まで出てしまっては、俺は不誠実な対応が出来なくなってしまう。

麻理さんをこれ以上傷つけるわけにはいかない。



麻理さんをこれ以上傷つけさせるわけにはいかない。

汚名は全て俺が引き受けるって決めていた。

だったら、俺は、鈴木さん達に嘘だってつけるはずなのに、それができないでいた。



鈴木「まあ、いいんじゃない。麻理さん、とっても幸せそうだったし」

松岡「だよな。仕事だけじゃなくって、プライベートでも幸せになってほしいって

   本気で思ったし」

木崎「たしかに、編集部のみんなも、似たような意見だったな」



俺を置いてけぼりにして話は進んで行く。

曖昧な笑顔を浮かべたまま、話を聞いているふりを演じていた。

いや、反応できないだけで、一応聞いてはいるが正しいかもしれない。

それでも、俺は、これらの発言に対しては、過剰なまでも反応してしまう。

鉄の棒で激しく叩かれる精神状態とは、こういうことだって実感してしまう。

麻理さんが幸せそうだった。

これは嘘ではないと、断言できる。

事実、麻理さんの口から伝えられた事でもあるのだから、否定できない。

そう、・・・俺が麻理さんとの事を、嘘で固めた曖昧な事実をでっちあげて

鈴木さん達に伝えられない理由は、気がついてみれば、シンプルな理由であった。

その理由とは、麻理さんが、光栄にも俺に向けてくれている好意を

たとえ話をそらす目的であっても、否定することなど出来なかったのだ。

麻理さんが注いでくれる愛情を、ほんのわずかでも汚す行為など

俺には到底無理な話であった。

それさえ気がついてしまえば、肩の荷が下りたも同然だった。

俺は、鈴木さん達の執拗なまでの追及に、のらりくらりとかわしていく。

麻理さんからの愛情を否定することなく、嘘を塗り固めていく。

その行為は、倒錯した愛情だってわかっている。

麻理さんの純粋な愛情とは、かけ離れているって、誰よりも理解していた。

俺は、いつもの北原春希を演じながら、そんな醜い自分を分析していた。










第35話 終劇

第36話に続く








第35話 あとがき


風邪をひいたのですが、風邪は早めに体を休めることが重要ですね。

なにせ風邪のひき始めの時、ちょっと体調悪いなと思ったときに労わればよかったのですが

風邪だと認めたら負けだと思い、いつもの運動トレーニングを断行してしまいました。

そりゃあ風邪引いているのに汗だくになるまで走っていたら

風邪は悪化するに決まっています。

風邪は認めたら負けではなく、異変を感じたら速攻体を休めることが重要だと気がつきましたw


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです


黒猫 with かずさ派


第36話





春希 4月8日 金曜日




ついにNYまで来てしまった。

青春の勢いって怖いなって、あとで苦笑いしてしまうかもしれない。

長時間乗っていた飛行機から降りて最初に考えてしまった事は、

本当にどうでもいい内容だった。

NY時間18時30分到着のJFK空港。

降り立った空港を見渡せば、当然ながら日本人はあまりいない。

一緒の飛行機に乗ってきたはずの日本人は、すでに各々の目的地に向かっている。

多種多様な人種が混ざり合った空港ロビーにおいて、俺は他の例にもれず、

人の中に埋もれてしまっていた。

視界を人の波で隠されてしまった俺は、とりあえずその場にとどまり、

腕時計で時間を確認する。

飛行機の中で時差は調整しているので正確な時間を示しているが、

秒針が進むごとに心細さが積み上がって来てしまった。

飛行機は予定通りに到着しており、待ち合わせの場所にも時間通りに来られたと思う。

しかし、初めて来た俺が目印を見つけられないのを防ぐために指示された場所は、

他の待ち合わせ客もよく利用するような目立つ場所であった。

その分人が混み合って、人の中に埋もれてしまうデメリットは避けられなかったが。

さすがに待ち合わせの場所と指定されているので、出会う事ができないとは思えないが、

若干心細くなってしまうのは致し方ないはずだ。

一人で来たNYで、気遅れしているわけではないのだけれど、

どうもアウェー感を感じてしまうのは、自分が島国から来た日本人だからだろうか。

しかし、そんな劣等感は、わずかな時間だけしか思いめぐらすだけだった。

だって、俺の目の前にいる人が、俺の意識を全て奪い去っていったから。

ずっと会いたいと思っていた人が、目の前にいる。

俺がどうでもいいような劣等感を感じている間に、

この人は息を切らせながら俺を探してくれていた。

こんな俺の為に、一生懸命動いてくれていたことが、

どうしようもなく愛しく思えてしまった。



春希「来てしまいました」



俺の声が届いているはずのなのに、麻理さんは返事を返してはくれない。

俺が呼ぶ声で、肩を少し震わせて反応していることから、

麻理さんは俺の声をしっかりと聞こえてはいるはずだった。




それとも、英語に慣れ過ぎて、久しぶりに聞いた日本語では、

反応が遅れてしまうのだろうか?



春希「麻理さん?」



再び名前を呼びかけて、数歩前に詰め寄る。

俺達を一万キロ以上隔てていた距離は、今や50センチほどまで縮まっている。

相手の表情どころか、息遣いさえ感じ取ることができるところまできていた。



春希「麻理さん?」



もう一度呼びかけても、返事はなかった。

麻理さんの長いと思っていたまつ毛は、小刻みに揺れ動き、

コートの上からでも息を整えようとしているのがわかるくらい胸を上下させていた。

けれど、俺を捉えた視線だけは動かない。

瞬きをする1秒に満たないほんのわずかな瞬間でさえ惜しむように俺を見つめてくれていた。



春希「麻理さ・・・」



さらにもう一度呼びかけてみようとしたところで、変化が生じた。

俺と麻理さんとの距離は、一瞬でゼロセンチまで縮まっていた。

麻理さんが俺の胸に無言で飛び込んできた。

飛び込んできたっていうのは、大げさか。

俺の心証としてはあっているのだけれど、実際は、それが当然の成り行きのごとく

俺の胸に静かに収まったという方があっている気がした。

麻理さんは、一歩俺の元へ踏み込むと、俺を放すまいと腰に腕をまわしてくる。

けっして力が入っているわけではないのに、俺はこの腕から逃れられないと実感した。

ただし、俺が自らこの腕をふりほどくことなどけっしてないが。

俺は、ゆっくりと現状確認の為に視線を下を向ける。

ちょうど麻理さんの頭のてっぺんしか見えないはしない。

黒くしなやかな髪が日本にいた時と同じように後頭部で束ねられていた。

今目にしている視覚情報のみならば、麻理さんは日本にいた時と同じと言える。

だけど、俺の腕から伝わってくる麻理さんの情報は、

明らかに日本にいた時の麻理さんとは違うと伝えてくる。

けっして抱き合った事があるわけではない。

麻理さんとリビングのソファーで寄り添ってのんびり過ごしたことはあっても、

抱き締め合う所まではいった事はない。

それでも、俺の体が記憶している風岡麻理の体つきが大きく変化している事だけは読みとれた。



キャラメル色のロングコートに隠された体であっても、

抱きしめてしまえば、コートの上からでも痩せてしまったとわかってしまう。

日本にいた時から細い細いと思っていた滑らかな曲線を描いていた腰は、冗談でもなく、

よくある比喩表現でもなく、

ほんとうにほんの少し力を強く入れてしまうと折れてしまいそうであった。

俺としては、俺の胸にうずめた顔を強引にでもひきあげて、

早く麻理さんの顔を見たいところでもある。

しかし、俺の存在を確かめるようにぴったりと頬を胸に張り付かせているわけで、

その行為を中断させる気にはならなかった。

だから俺は、麻理さんの鼓動を俺に刻みつけようと、

腕や胸から伝わってくる麻理さんの熱と息遣いを感じ取ることだけに全神経を動員した。





・・・再会から数分が過ぎ去ったと思う。

ハグが日常の一部分となっているアメリカであっても、俺達の抱擁は限度を超えていた。

さすがに日本でやっていたら目立ちまくっていたと思う。

まあ、アメリカであっても目立っていたが・・・。

一応、別れと再会の広場である空港であることが幸いだったと言えるのだろうか。



春希「麻理さん。・・・そろそろ俺に顔を見せてくれると助かります。

   こうやってずっと抱きしめていたい気持ちも強いのですけど、

   それと同じくらい麻理さんの顔を見たいんですよ」



俺の声に反応して、俺の胸にこすりつけていた頬の動きが止まったのだから、

一応は俺の声が麻理さんの耳まで届いてはいるようだった。

しかし、いっこうに麻理さんは顔をあげてはくれない。

佐和子さんの話によれば、佐和子さんがNYで麻理さんと再会した時も、

麻理さんは自分が痩せてしまった事を隠そうとしていたらしい。

ただ、今は俺に知られてしまっているわけで、今さら隠す事はない気がする。

まあ、こんな考えばかり浮かんでしまうから、

女心に疎いって言われてしまうのかもしれないけれど。



春希「麻理さん・・・、お願いですから」



強制はしない。強制はしないけれど、甘えるように語りかける。

その甘えが麻理さんにとっては、

どんな命令よりも過激な強制力をもっているなんて、俺は知らなかった。



麻理「うん、わかってる。・・・でも、もうちょっとだけ、お願い」




久しぶりに聞いた生の麻理さんの声は、俺が記憶している声と重なる。

それは、本人の声なのだから、当たり前といったら当たり前だ。

わかっているけど、確かめずにはいられなかった。

麻理さんは、俺の腰にまわした腕の力を緩めると、

ぴたりとはりつけていた頬も俺の胸から放す。

そして、俺の脇の下のあたりの服を握りしめ、やっとあげてくれると思っていた顔は、

おでこを胸に押し当てられる事によって、お預け状態が維持された。



春希「・・・麻理さん」



落胆の声が混じっていたとしても、俺は責められないはずだ。

だって、それだけ期待していたのだから。



麻理「気がついたんだけど」

春希「はい、なんでしょうか?」

麻理「私達って今、すっごく目立ってない?」

春希「そうですね。いくらアメリカだとしても、こんなにも長時間、空港ロビーの

   ど真ん中で抱き合っていたら、目立ちますよ」



俺の冷静を装った事実を聞き、俺を掴む手の力が強まる。

俺だって今すぐこの場から立ち去って、せめてタクシーの中に逃げ込みたい。

麻理さんを置いて行くことなんて論外だから、こうして一人顔をあげて

この場を通り抜けていく多くの人々の視線から耐えていた。



麻理「どうしようぉ・・・」



麻理さんは、ようやく俺の胸の中から顔をあげてくれたと思ったら、

可愛い悲鳴をあげてくる。

その顔つきがいつも見ている編集部での顔とかけ離れていて、20歳くらい幼く見える。

それがあまりにも俺の心をくすぐり、愛おしく感じさせてしまう。



春希「大丈夫ですよ。堂々としていればいいんです」

麻理「そうかしら?」

春希「それに、他人の抱擁なんて見たって、一瞬呆れて、数秒微笑ましく思うだけですって。

   しかもここは空港なんですから、俺たち以上の抱擁をしている人たちだって

   いるはずです」

麻理「うぅ~ん・・・」

春希「それとも、俺とはいやですか?」


麻理「そんなことはない」

春希「だったら、もういいじゃないですか」

麻理「そうね」

春希「麻理さん、約束通りNYまで来ましたよ」

麻理「うん」

春希「我慢できなくて、来ちゃいました」

麻理「うん」

春希「麻理さん?」

麻理「うん」



麻理さんの瞳には、薄っすらと涙の膜が出来ている。

やや肉がそぎ落とされた頬も、麻理さんの美しさに陰りを与える事はなかった。

これは不謹慎だと重々承知している発言だが、やつれているのが見え隠れする顔色さえも

艶っぽく感じてしまうほど、今の麻理さんは輝いていた。



春希「ただいま、麻理さん」



意識して発言した言葉ではない。麻理さんに見惚れていたら、つい出てしまった言葉だ。

声に出した後、麻理さんの元に戻ってきたのだから、ただいまもあながち

間違った言葉ではないと自己分析する。

どうも後付けくさい解説だけれど、感動の再開に理由なんていらない。

必要なのは、俺の腕の中に麻理さんがいるっていう事だけだ。

俺の「ただいま」発言に、麻理さんは目を見開き軽く驚きはした。

しかし、再び頬笑みを浮かべ、すんなり俺の言葉を受け入れてくれたようだった。



麻理「おかえりなさい、北原」



幸せを噛み締めるように語りかけるその声に、とうとう俺は降参して、

麻理さんを力強く抱きしめてしまった。

可愛い吐息が聞こえてきたが、麻理さんの腰が折れる事はなかった。

もはや空港ロビーから聞こえてくる雑音は一切俺の耳には届かない。

俺の耳は、麻理さんの鼓動とささやき声しか受け付けなくなってしまった。

あんなにも気にしていた周りからの視線も、気にならなくなっている。

これもまた、麻理さんだけを見つめていれば問題なかった。

もちろん麻理さんも、俺の要求を拒絶する事はない。

俺の脇の下あたりを掴んでいた麻理さんの手は、

自分の居場所を探るべく俺の腰へと回される。

そして、自分の居場所を見つけたその手は、自分の居場所を主張すべく

力強く俺を抱きしめてきた。



俺は加熱した俺の心が常温に戻るまで、腕の中に舞い降りた幸せを抱きしめ続けていた。

・・・ただし、タクシーの中で可愛い非難をずっと聞き続けなければならなかったが。











麻理「北原って、見かけによらず情熱的な所があるのよね」



タクシーを降りて、途中夕食の材料を買い、そして麻理さんのマンションについてもなお、

麻理さんの抗議は続いていた。

抗議は抗議だが、ニコニコして話しているのを見れば、誰だって怒っていないと判断できた。

ここに佐和子さんがいたら、いつまでもデレまくっているんじゃないわよって、

つっこみがあったはずだ。



春希「抑え込まれていた感情が、誰かさんのおかげで溢れ出てしまっただけですよ」



俺の反省の色が全く含まれていない弁も、タクシーの中で何度も繰り返されていたものだ。

何度も繰り返してきたやり取りなのに、俺達は飽きずに繰り返す。

ゆっくりと、ゆっくりと、今ある幸せを手さぐりで確かめていた。

時刻は既に夜の9時になろうとしていた。

空港についたのが6時30分頃。

道路はそれほど渋滞していなかったので、1時間もかかっていないはずだ。

あとはスーパーでの買い物も、買うものが決まっていたし、

本格的な買いだしは明日行く予定だから、時間がかかるはずもない。

だから、これらを考慮すると、

それなりの時間を割いて抱き合っていたことが示しだされていた。



麻理「その誰かさんって、誰の事なのかしら?」

春希「さあ?」



お互いわかりきっているのに、笑みを振りまき、とぼけながら部屋の奥へと進んで行く。

以前初めて日本の麻理さんの部屋に来た時の印象とは違い、

部屋の中は綺麗に片づけられている。

玄関には脱ぎ散らかした靴は一足もないし、今だって脱いだ靴は綺麗に並べられた。

そして、部屋の隅に積み上げられるはずの洋服は、何一つ存在していなかった。

他の部屋を見てみなければわからないが、おそらく他の部屋に行っても

片付けが出来ていない部屋はないと思われる。

また、部屋を飾るインテリアも必要最低限のもので抑えられているようにも感じられた。



一見マンションのモデルルームと勘違いしそうなリビングルームであったが、

それでもテーブルに積み上げられている書類の山を見ると、

麻理さんの部屋であると認識できた。

ようやく見つけ出すことができた麻理さんの鼓動に、俺は隠れて安堵する。

たしかに佐和子さんから麻理さんが部屋の片づけをしっかりするようになったとは

聞いていたが、極端すぎる変化に驚きを隠すのが難しかった。

けっしては悪い変化ではなく、むしろ部屋を綺麗に使っているのだから良い変化で

あるはずなのに、その変化の原因を知っている俺からすれば、素直に喜べないでいた。

俺が綺麗好きで、自分の部屋を綺麗にしていたから麻理さんはまねてしまった。

なにもない、俺の足跡一つないNYのマンションに、俺の気配を無理やり生み出そうと、

少しでも俺の温もりを感じ取ろうとした結果が、今の部屋の状態だ。



麻理「荷物はその辺にでも置いておいてね」



麻理さんは、俺に指示を出すと、自分はキッチンに行き、買ってきた食材をテーブルに置く。

俺も手伝おうと荷物を邪魔にならないように指示通りの場所に置き、

急いでキッチンに向かうが、すでに麻理さんはリビングの方に戻って来ていた。



麻理「とりあえず、コート脱ごうか。暖房もすぐに効いてくると思うし。

   でも、アメリカのエアコンって、非効率よね。

   家全部を暖めようとするんですもの。

   日本みたいに個別にエアコンを設置すればいいと思わないのかしら?」

麻理さんは、自分のコートをハンガーにかけると、俺のコートもかけてくれた。

春希「ダイキンも、一度は日本のエアコンをアメリカで売ろうとして失敗しましたけど、

   今度は念入りに準備をして再チャレンジするそうですから、

   今度こそ売れるんじゃないですか?

   省エネも強く意識される時代にもなりましたし」

麻理「そもそも部屋を暖める概念が違うのよ。家全部を一辺に暖めようってするのが

   いかにもアメリカって感じがするんだけどね」

春希「そうですね」



キャラメル色の仕立ての良いのがよくわかるロングコートを脱いだ麻理さんは、

よく観察したとしても服の上からは痩せた事を感じさせない。

服装はいたってシンプルで、ゆったりとした白いハイネックのセーターに、

こげ茶色のロングスカート。

黒いタイツを履いて、ちょっとこの部屋には似つかわしくない可愛らしいもこもこの

スリッパを履いているいるのが俺の心を和ませてくれた。

俺のスリッパも色違いの物なので、冬用に買いそろえた物なのだろうか。

毛並みがしっかりしていて、温かさを感じさせてくれていた。


たしかに麻理さんの頬の肉は落ちたが、かろうじて健康体を主張できる顔つきではある。

しかし、俺は知っている。

空港で抱きしめた時に、麻理さんは痩せてしまったとわかっている。



麻理「あのさ、北原」

春希「はい」

麻理「近くにホテルあるけど・・・、部屋、どうしようか?」



俺に選択権を与えてくれてはいる。くれてはいるけど、仕事では先を読んで

事前準備をしっかりとこなすあの麻理さんが、

ホテルを予約してあるとは言ってこなかった。

仕事であれば、確実にホテルの予約が取れていなければ、お説教ものの失態である。

つまりは、今回の麻理さんの意図はそういうことなのだろう。



春希「部屋が余っているのでしたら、ここに泊めてくださると助かります。

   これでも学生なので、出費はできるだけ抑えたいんですよ。

   春休み期間中ずっと編集部にいたので、自分が大学生だっていう感覚は

   薄れてしまいそうでしたけど」

麻理「あいつらは、北原があくまでもバイトだっていう事を忘れているだろ」

春希「一応内定貰いましたので、来年からは正社員になりますよ」

麻理「それでもだ。北原は私が鍛えたのだから信用しているわよ。

   でも、だからといってどんな仕事でも押し付けていいわけではないのよ。

   いくら有能だとしても、まだまだ期待できる新人でしかないんだから、

   しっかりとかじ取りしてあげなければいけないのに、そっせんとして先輩が

   こき使ってどうするのよ」



麻理さんは、すぐには自宅に泊めてくれるとは言ってこなかった。

俺の方も、回答をせかしはしない。

麻理さんのタイミングで切り出してくるまで待つことにした。



春希「その辺は浜田さんが調整してくださっているので、今のところ問題ないですよ。

   麻理さんがNYへ行く前に、何度も言われたことですから、しっかり自分の方でも

   調整しています」

麻理「そうかしら? 北原って、仕事に関しては自分の限界を気にしない所があるのよね。

   もちろん自分が出来ることと出来ない事の分別はできているけど、

   だからといって、出来ない事を他人に丸投げなんてしないじゃない」

春希「出来ない事は、出来ないですよ。だから、フォローといいますか、

   アシスタントくらいはしますよ。

   でも、出来ないままでは今後の支障になりますから、覚えるようにはしていますけど」




呆れた表情を匂わす麻理さんの顔は、

編集部で見せていた頼りになる麻理さんを存分に発揮している。

麻理さんがいなくなってからの編集部を、そして、今麻理さんが所属しているNY支部を、

お互いの知らない隙間を埋めたいと欲してしまう。



麻理「そうね。・・・・あっ、泊まる部屋だったわね。

   ちょうど一部屋空いているから、そこを自由に使ってくれてかまわないわ」

春希「ありがとうございます。遠慮なく使わせてもらいます」



今思いだしたかのような表情で提案する麻理さんの申し出に、

俺はその流れにのっかって申し出を受け入れる。

きっと佐和子さんが言っていた部屋なのだろう。

麻理さんが、俺の為に用意してあった普段は使っていない部屋。

麻理さんがこの話を切り出す時、麻理さんの体がわずかにこわばり、

そして、顔には緊張感が漂っていたことは、注意深く麻理さんを見つめていた俺には

読みとる事はたやすかった

もちろん麻理さんは、なんでもないような風を装おうとしていて、

表情を作りこんでいた、

お互い騙し合っているわけではないけど、

お互いを支え合う為には見ないふりをすることも必要だって、俺は知っている。



麻理「そうね。遠慮なんてしなくていいわよ。

   せっかく荷物置いたばかりで悪いのだけど、部屋に案内するわ」

春希「はい、お願いします」



俺の荷物を一つ持って扇動する麻理さんの背中は、

色恋沙汰に疎い俺であっても、浮かれているって変わるほど弾んでいた。

俺はその背中を見て、顔をほころばせずにはいられなかった。



麻理「どうしたの? 行くわよ」



俺の足音が聞こえない事に不審に思って振り返った麻理さんの顔は、

予想通り笑顔が満ち溢れていた。

そして、俺の笑みを見つけると、さらなる笑みをそこに付け加えた。






第36話 終劇

第37話に続く

第36話 あとがき



ダイキンの話は、実話です。

今度は販売網を買い取ってからの再出発ですから、

うまく日本型のエアコンが売れればいいですね。

とくに意識してエアコンネタを入れたわけではないのですが、

書いていて、エアコンをつけるシーンがあったので、

あぁそういえばって感じで書いた次第です。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです



黒猫 with かずさ派


第37話





春希 4月8日 金曜日




キッチンには、食欲を誘う臭いが充満されていく。

麻理さんのリクエスト通りに、俺は半熟玉子のオムライスを作っている。

これはNYに来る前からのリクエストであり、

今日ここで作るまでに時間もあったので十分練習は出来ていた。

それでも本番になり、しかも隣には期待に満ちた瞳を俺に向ける麻理さんがいるわけで、

練習のときには味わうことができなかった多大なプレッシャーを感じていた。

それでも、ありがたいことに麻理さんとの会話が俺の重圧を軽減してはくれてはいた。

最難関の半熟卵を作る頃には、失敗しても麻理さんとこうして楽しめてたのなら、

失敗もまた一つの調味料になるのではと思えたりもしていた。

まあ、麻理さんの期待にこたえたい気持ちも多大にあるわけで、失敗などする気はなかったが。



麻理「北原。だいぶ腕をあげたのね。

   今日はまったく危なげもなく、二つとも成功じゃない」

春希「まだまだですよ」



前回初めて麻理さんに作ったときは、一つは成功で、もう一つはやや失敗であった。

であるのならば、今回両方とも成功となれば、腕が上がったとも見ることができる。

しかし・・・。



春希「今回はたまたま連続成功しましたけど、ほんとうに偶然なんです。

   もうちょっと安定してくれると、作っている方もプレッシャーを受けないで

   すむんですけどね」



麻理さんのねぎらいの言葉に謙遜の言葉を返す。

とはいっても、俺の顔を見れば素直に喜んでいることが丸わかりなのだろう。

げんに麻理さんの顔を見れば、俺の現状を知ることができたし。



麻理「そうなの? 

   でも、この前失敗したといったのも、味に関しては問題ないように見えたわよ?」

春希「たしかに味は問題なかったですよ。でも、見た目も重要ですよ。

   ぐちゃって崩れているものよりも、綺麗に整っていた方が美味しそうじゃないですか」

麻理「まあ、ね。雑誌の記事となると、さすがプロの仕事ですってものを用意してくるわね。

   見た目だけで、十分すぎるほど食欲を掻き立てるっていうか。

   でも、北原が作ってくれる料理には、そんなプロでも作り出せない魅力があるわ」

春希「そんなの身内贔屓でしかないですって。

   プロの料理人と比べる事自体が・・・」

麻理「ううん」



麻理さんは、短い否定の言葉で俺の弁を遮ると、

俺の体温を沸騰させるような賛辞を述べ始めた。



麻理「北原の料理は、食べて欲しい人に対する思いが詰まってるから・・・。

   いくら失敗したとしても、それさえも美味しく思えてしまう気持ちがこもっているわ」

俺は、そっと両手で胸を抑える仕草に魅入ってしまい、反論など出来ようもなかった。

麻理「たしかに身内贔屓なんだろうけど、身内が贔屓したくてたまらない料理をふるまって

   もらえているのよ。贔屓して何が悪い」

春希「そこまで麻理さんに堂々と贔屓してもらえるのでしたら、光栄ですよ。

   でも、その贔屓に甘えないように、もっと腕を磨きます。

   というよりも、麻理さんは、俺が贔屓だけで評価されるの嫌だって知ってて

   言ってるところもありますよね」



俺は、あまりにも心の奥底までぐっとくる温もりに耐えかねて、

少しおどけた口調で話の方向を無理やり切り替えようとしてしまう。

ありがたい言葉だ。今すぐ麻理さんを抱きしめたくなってしまう。

嫌だって拒んだって聞く耳をもたないで、力の限り抱きしめてしまいそうだった。

・・・麻理さんは、きっと俺の欲望を拒まない。

だから俺は、この雰囲気を変えなければならなかった。



麻理「・・・そうね」



麻理さんは、俺の強引な言葉に、一度は目を白黒と丸くするが、一度目をそっと伏すと、

いつもの俺達の関係に戻ってくれた。・・・踏みとどまってくれた。








食事が終わり、俺達の目の前には、空になった皿の代りにハーブティーがおかれている。

麻理さんの心因性味覚障害については、俺からは問わなかった。

むろん麻理さんからも、何も言ってくる事はなかった。

お互いその現実については、深く認識しているし、もし食事中に麻理さんに異変があれば、

出来る限り対処するつもりでいた。

日本にいた時に俺なりに調べてはきたが、俺が役立てるかなんて疑問だった。

ハーブティーは、俺が日本から持ち込んだ手土産の一つであったが、

これもまた心を落ち着かせ、

胃に優しいものをと選んできた素人くさい処方箋の一つにすぎなかった。


しかも、ハーブティー専門店の店員にチョイスを丸投げまでしたものでもある。

しかし、それでも麻理さんは嬉しそうにハーブティーを飲んでくれているので

持ってきた甲斐はあったようだ。

今のところ麻理さんに異常はないし、食事も美味しそうに食べてくれた。

麻理さんが無理をして笑顔を作っていなければというほろ苦い条件付きではあるが

今のところは俺も麻理さんも、今という時間を楽しんでいた。



麻理「北原がハーブティーなんて、ちょっと似合わないわね」

北原「そうですか? だれだったら似合うんですか?」

麻理「そうだなぁ・・・。鈴木なんて似合うんじゃない?

   意外と女性っぽい所があるし」

北原「鈴木さんが?」



どちらかというとビールが似合いそうですとは、麻理さん相手でも言えはしない。

どう応えれば無難かと思い悩んでいると、

麻理さんは俺の返事を待たずに話を進めていってくれた。



麻理「どうせビールとか焼酎が似合うって思っているんだろ?」

北原「思っていませんよ。いつも編集部ではコーヒーなので、コーヒーかなって

   思っていたところですよ」



ご明答。どうしてわかってしまうのですか?

俺は、さすがにビールという回答はまずいと思い、

あまりにも適当すぎる回答を披露せざるをえなかった。



麻理「それだと編集部員全員がコーヒーってことになるんじゃないか」

北原「まあ、たしかに。

   眠気覚ましにはコーヒーって感じですから、ある意味職業病みたいなものですかね」

麻理「そう言われてしまうと反論に困るが、それでもビールだって思っていたわよね?」

北原「あ、ぁ・・・・・・」



俺はとりあえず答えを濁すような返事をして視線をそらす。

これじゃあ正解ですと言っているようなものだが、これが正解だって俺は知っている。



麻理「まあ、いい。鈴木には黙っていてやるから、私に似合うのはビールって、答えないでよ」

麻理さんは、笑顔でそう言うと、黙って共犯者になってくれた。

麻理「たしかに、ハーブティーはいいかもしれないわね。落ち着くって言うか・・・」



カップを両手で包み込むようにして口に運ぶ。



ハーブティーは、コーヒーは胃を荒らすからという事と、

なにか他の飲み物をということから考えだしたものである。

なにせ佐和子さんが訪れた時には、コーヒーの香りでさえ駄目だったのだ。

もしかしたらハーブティーも、香りの時点で駄目かもしれないと考えてはいた。

けれど、結果としては香りも飲む事も問題なかった。

しかし、何も問題なかったわけではない。

一つ大きな問題があった事に俺は気がついてしまった。

もしかしたら麻理さんは無意識のうちに気がついてしまったかもしれない事。

それは、ハーブティーが北原春希を印象付ける飲み物になってしまったかもしれない事だ。

佐和子さんから聞いた情報によると、麻理さんが部屋を綺麗にするようになったことも、

俺が部屋を綺麗にしているからという理由から始まったことで、

北原春希を思い出すことができるからというのが根底にある。

であれば、食事において、今回リクエストしてくれた半熟玉子のオムライスであれば、

どこで食べても味覚障害を意識しないで食べることができるのではと考えてしまう。

こればっかりは、本人に聞いてみなければわからないことだが、

今はまだその時ではない。

俺も、そして、麻理さんも、当事者二人がそろっていても、心の準備が整ってはいなかった。



春希「ハーブティーにあうと思うのですが、ちょっと遅くなりましたが、

   約束通りバレンタインチョコのお返しを持参してきました」



俺は、話の流れを少し軌道修正する為に、あらかじめテーブルの下に用意して

おいたオレンジ色の紙袋を麻理さんの目の前にとりだす。

麻理さんとの約束。宅配ではなく、直接ホワイトデーのチョコレートを手渡してほしいという

麻理さん本人からしてみたら大胆過ぎるリクエストだった。

当然俺からしたら断る理由も全くなく、こうして笑顔で届けにやってきたわけだが、

目の前の笑顔を目にすれば、そのかいがあったと喜びを感じてしまう。



麻理「ずっとテーブルの下にガレーの紙袋があったから気にはなっていたのよね。

   ガレーだと、チョコレートだとはわかってはいても、自分から催促なんて

   できないし・・・。もしかして、北原。私をいじめる為に見せびらかしていたんじゃ

   ないわよね?」



半分本気っぽい視線を投げかけながらも笑顔を見せる麻理さんに、

俺は対処に困った乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

こんな微笑ましいやり取りも、わずかな喜びだとしても、

大切に両手で汲み取み取っていくしかない。

それがお互いの共通認識だからこそ、俺達は人と気の幸福に身を浸らせることができていた。




春希「俺にそんな高等技術はありませんよ。

   むしろ逆で、いつ渡せばいいかって思い悩んでいて、ようやくお披露目できて

   ほっとしているところなんですから」

麻理「たしかに、北原の言い分の方がいかにも北原っぽくて、納得できてしまうわね。

   でも北原って、無意識のうちっていうのか、これを天然っていうのかはわからないけど、

   私をほどよくいじめることがあるのよね。

   それが心地いいって認めてしまうと、私がマゾだと認定されてしまうので

   いやなんだけど、うまく北原に転がされているところがあることは事実だと思うわ」

春希「それこそ買い被りですよ。麻理さんは俺にとって、仕事面においては、

   自分にとって高すぎる目標ですし、

   プライベートであっても、駆け引きなんてできないですし、したいとも思いませんよ。

   自然体と言いますか、できるだけ生身の自分でいたいと思っているだけですよ」



背伸びはしない。自分の気持ちに正直に向き合って、自分ができる事をやる。

言葉には出さなかったが、心の中で付け足した。



麻理「仕事については、いつまでも私を目標だって考えているようだったら甘いわよ。

   早く追い抜いて、私を引っ張っていくくらいにはなってほしいわね」

春希「どこまで俺を買い被っているんですか。

   まだまだ背中すら見えていないのに、下手したらぐんぐん俺を置いて、

   先に進んでいきそうな気もしますよ」

麻理「それだけ北原の事を評価しているってことよ。

   贔屓目もなしで、北原ならできるって思っているわ。

   だから、早く成長しなさい」



以前にも、麻理さんに評価していると言われた事があった。

それは、どんな誉め言葉よりも嬉しく思える誉め言葉だ。

ましてや、麻理さんの中心は、どんなときでも仕事が中心であり、

仕事が麻理さんを支えている。

その麻理さんが何よりも大切にしている仕事で認められるという事は、

それはすなわちプライベートでも認められていると、身勝手な解釈までしそうになってしまう。

まあ、仕事ばかりにかまけて、目の前の麻理さんを見なくなってしまっては、

本末転倒なのだけど・・・。



春希「わかりましたよ。

   だから、俺が一人前になるまで、麻理さんがしっかりと育ててください。

   目の前で頑張っている目標がいるほどやりがいがありますからね」

麻理「いやな部下をもったものね」

春希「厭味なほど出来のいい上司をもっていますので」


麻理「それはしょうがないかもな」

春希「ええ、しょうがないから諦めていますよ」

麻理「でも、・・・・・・・でも、嫌いではないでしょ?」



やはり麻理さんは俺に一歩踏み込んでくる。

たぶん、確かめたいのだろう。目を放したすきにいなくなるのを恐れていて、

どこにもいかないという核心が欲しいのだと思う。

他人が聞いたらうぬぼれているって言われそうだけど、

麻理さんの心細げな瞳を見ていると、どうしてもそう感じてしまう。

だから俺は、一時的な麻酔薬だとわかっていても、俺もまた、

一歩麻理さんの元へ歩み寄ってしまう。



春希「嫌いというよりは、むしろ好きですよ。

   上司としても、人としても、・・・」



そして、もう一声つなげようとしたが、声に出す事を思いとどまってしまう。

期待させるだけ期待させ、結局は麻理さんを選ぶ事はないのだから、

この言葉は麻酔ではなく、むしろ麻薬に近い。

それでも麻理さんは欲してしまうのだろう。

視線をあげて、麻理さんの顔を直視したら、俺はきっとさからえない。

麻理さんのせいにして、俺はその言葉を言ってしまう。

だから俺は、目を伏したまま、言葉をつなげた。



春希「女性としても、とても好きですよ。大切な人だと思っています」



最後まで言い切ると、瞼を開けて瞳に光を開門する。

そこには、はにかんだ笑顔の麻理さんが、すこし照れくさそうに両手の指を絡めていた。



麻理「そ・・・そぅ。うん、ありがとう」



さすがに俺は、これ以上の言葉を紡ぐ精神力は持ち合わせていない。

今の言葉だって、むずがゆいのを我慢して言ったわけである。

愛をささやくなんて、そもそも俺には似合わないってわかっているからこそ、

ここ一番の重要ポイントだけは外さないようにしていたのだ。

だから、こんな情けないすぎる俺に、これ以上の行動は不可能なわけで、

申し訳ないけど、麻理さんの機能が回復するまで残り少なくなったハーブティーを

ちびちび飲みながら待つしかなかった。

でも、あいにく俺が心配するほどは麻理さんは照れまくっていたわけではなかった。

照れているのを隠せはしないものも、どうにか話す事は出来ている。


むしろ俺の方がダメージがでかかったのかもしれないと、認識を改めた。



麻理「そういえば、いつまでそれを私の前で見せつけているつもりなんだ?」

春希「え?」

麻理「だから、北原が手に持っている、私に暮れる予定らしいチョコレートの包みを

   いつになったらくれるのか、気になっているのよ。

   もう・・・、女の私に催促させるだなんて、やっぱり北原は、意地悪ね」



そう言うながら、顔を横に背ける。

ただし、麻理さんの目は笑っているし、意地悪そうな顔をしているのは、

俺ではなく、むしろ麻理さんだった。

つまりは、麻理さんが助け船を出してくれたってわけか。

俺は、麻理さんの誘導に従って情けない北原春希を演じ続ける。

まあ、チョコレートを麻理さんの目の前に晒しながらも、

実際チョコレートを渡すのを忘れていたわけで、情けない事は事実だった。



春希「すみません。ほんとうに、すみません。

   ちょっと自分らしからぬ台詞を言ってしまった為に、

   意識が別のところにいっていました。

   だから、麻理さんをいじめたいとか、催促させたいとか、

   けっしてそんなことはないですから。

   そもそも麻理さんの方が俺の精神状態わかっていてそんな非難してくるほどですから、

   俺よりもよっぽど麻理さんの方が意地悪ですよ」

麻理「そうかしら?」

春希「そうですよ」

麻理「もし意地悪だったら、そんな女にはチョコレートはくれない?」



だから、どうしてそう震えている子犬みたいな目をするんですか?

もしかして千晶に演技指導うけたことがあるんじゃないでしょうね?

身近にいる名女優に、身勝手な恨み節をぶつけてしまいそうになる。

それほどまで麻理さんの感情は、溢れ出ていた。

鈍感な俺でさえ気がつくほどに、情熱的に。



春希「もし意地悪でしたら・・・、もし意地悪でしても、それが麻理さんなら

   しょうがないですね。

   このチョコレートは麻理さんの為に用意したものですし、

   そもそも意地悪とかそういうのも全てひっくるめて麻理さんなんですよ」



やや苦笑いを浮かべているが、どうにか俺の弁を納得していただけたようだ。



麻理「もういいわ。ここで、北原の言葉には、私が暗に意地悪だって認めているんじゃない

   かってつっこみをいれてもよかったんだけど、そんなことをしていたら、

   いつまでもチョコレートをお預けにされかねないしね」

春希「もうすでに俺の事を揶揄っていますから。・・・でも、もういいです」

麻理「なら、よし」



笑顔でそう言い切ると、麻理さんは席を立って、俺に歩み寄る。

そして、いつでも貰う準備はOKとばかりに両手を少し前に出した。

別に二人掛けのテーブルを使っているので、座ったままでも手渡す事は出来る。

それでも目の前まで来て、受け取りたいっていう意気込みは、

俺の心を熱くさせるには十分すぎた。



春希「バレンタインのお返しのチョコレートです。

   麻理さんが大好きなガレーのチョコレートにしておきました」

麻理「ありがとう、北原。約束を守ってくれて」



オレンジプピールのチョコレートに、ミニチョコレートバーの詰め合わせ。

パッケージもホワイトデー用ではない。

さすがにホワイトデーの時に買って、冷蔵庫に保存などはしていなかった。

だから、包装だけはプレゼント用にしてもらっただけの贈答品用のチョコレートではある。

でも、見た目が大事なんじゃない。

時期が大切なわけでもない。まあ、できればホワイトデーに渡したかった気持ちはあったが。

こうして直接麻理さんに手渡しできる事が重要であり、

目の前で微笑んでくれている麻理さんを目に焼き付けることができることが

なによりも大切な事であったのだから。

麻理さんは、右手でチョコレートが入った紙袋を受け取ると、

もう一つ差し出していた左手を、俺の手にそっと重ねた。










麻理 4月9日 土曜日





朝日が遮光カーテンの隙間から入り込んで、ほどよい明りを提供してくる。

NYに来てからの私の睡眠は浅い。

とはいっても、睡眠がいくら浅くても目をすぐに開けて、意識を覚醒出来るわけではない。

ベッドの中で今日一日の予定を確認して、朝の準備を再確認する。


そして、今日の予定をめいっぱい頭に詰め込んでから行動に移す。

目を開けた時にはスケジュール帳の余白がないようにするのが今年になってからの

私のスタイルになりつつあり、おそらくそうなってしまうだろう。

予定があれば、余計な事を考えないで済むもの。

仕事の事だけを考えていなければ、考えたくなってしまう。

思いをはせてしまう彼への気持ちを抑え込むことができなくなるから。 

しかし、今日の目覚めはいささか体が堅いと感じることからスタートした。

それはそのはず、いつもならベッドで寝ているはずなのに、

今朝はソファーの上で目を覚ましたのだから。

それでも比較的楽な姿勢を無意識に選んでいるのだろうが、

場所が場所だけに体の悲鳴を簡単には収まってはくれないみたいだった。

日本から持ってきた深緑色のソファー。

日本で使っていた家具は、引っ越し費用も考えて、大部分は処分してしまった。

このソファーもその処分候補に入るはずであった代物であり、

NYでも使う頻度はすくないはずであった。

だけど私はこうしてNYまで持ちこんだ。

私の選別基準はいたって明確だった。北原との思い出があるかどうか。

それだけだ。未練がましい女だとは、自分でさえ泣けてくるけど、しょうがないじゃない。

たまに、こうして持ってきた家具を全て廃棄してしまおうと思い悩む夜もあるけど、

翌朝には昨夜の事はすべて忘れて、

ざっと雑巾がけなんかを鼻歌まじりにしてから出社するのがざらだった。

4月に入ったと言っても、NYの朝はまだ肌寒い。

一応暖房を強めにして、毛布一枚羽織っていたはずだ。

これはソファーに落ち着く前に用意したもので、おそらくソファーに墜ちてからは

一度もそばから離れていないはずだった。

そして、毛布のほかに使っていた熱源を寝ぼけ頭のままに引き寄せようとしてしまった。



麻理「ん、ぅん・・・」



小さく吐息を洩らし、手元に寄せた熱源に満足して瞳を開ける。

目の前にいる熱源を認識した私は、もはや暖房は必要なかった。

覚醒していく脳細胞より早く、私の血液は沸騰していき、

春だというのに寝汗をかいた気分になってしまった。

そう、私の目の前には、私が抱きしめているのは、愛しい北原春希本人なのだから。

私は一つ決意の息を北原に聞こえないように吐くと、

もう一度北原を抱く腕の力を強めた。





第37話 終劇

第38話に続く


第37話 あとがき



前回は再会のシーンでほとんで話が進まなかったことで

ちょっと危機感を感じてしまいました。

だからというわけではないのですが、今回は少しは進めましたでしょうか。

ええ、あまり進めていない気もしますが、いつも通りの進展具合なのかもしれません。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです



黒猫 with かずさ派


第42章





いつもより少し遅い時間に到着した教室内は、あらかた席が埋まっている。

しかしもう7月ともあってこの講義も終盤であり、

毎回違う席を狙って座る変わり者以外はたいてい同じような場所に座るわけで、

俺がいつも座っている席も空席のままであった。

まあ、由比ヶ浜が先に来ていて、

俺の分の席も確保しているみたいだったせいもあるみたいだが。



八幡「よう」

結衣「あ、おはよう、ヒッキー」



ノートとにらめっこしていた由比ヶ浜は、俺が隣の席に着くまで気がつかないままであった。

よく見ると、弥生の鞄らしきものも置かれているので、弥生はすでに来ているみたいだ。

ここにはいないのは、きっと奴の事だから誰かと情報交換でもしに行っているのだろう。

あいつは頭がいいんだし、面倒な情報交換なんてしなくても

今の成績をキープできると思うんだけどな。

不安要素を潰したいっていう気持ちだったらわからなくもないが、

あいにくそういう理由で行っている行為とも思えない。

まっ、俺からその辺の詳しい事情を聞く事はないし。

それに弥生だって聞かれたくはないだろう。



八幡「朝から復習とはお前もしっかりしてきたな」

結衣「まあ、ね。そろそろ期末試験だしさ」

八幡「それはいい心がけだ。わからないところがあったら早めに聞いてこいよ」

結衣「うん、ありがと」



俺はひとつ頷くと、授業の準備に取り掛かる。

ノートにテキスト。それに筆箱っと。

由比ヶ浜との会話でわずかながらであっても気分転換できたはずなのに、

どうも朝の後遺症が俺の腕を重くする。

いや、朝の雪乃と陽乃さんの衝突も神経を削りとられたが、それはいつもの光景にすぎない。

このイベントを慣れてしまうのはどうかと思うが、

一種の姉妹のコミュニケーションとして受け入れはしている。

俺の手を鈍らせていたのは、橘教授に呼ばれた事に原因があった。

・・・もう忘れよう。終わった事だ。問題はなかったし、ただ疲れただけだ。



昴「おはよう、比企谷。橘教授はなんだって?」

あ、間違ったw



第38話





春希 4月9日 土曜日






眠りが浅いというわけではない。むしろ深い方だと思っている。

普段からある意味では規則正しい生活をしていて、なおかつ、短い睡眠時間でも

日中はフル活動するようにしているおかげで、寝るときはぐっすりと眠れている。

それが起床時間が一定であっても、寝る時刻が不規則であろうと、

俺の生活リズムは規則正しく刻んでいた。

いつもの朝ならば、今の季節ならまだ薄暗い時間に目が覚めている。

これが夏であったら、今朝と同じくらいの陽の光を浴びてもおかしくはないが、

一晩で冬から夏まで寝過ごすなんてありえはしない。

やわらかな陽光が瞼をくすぐり、赤色に染まっていた瞼を開くと、白い陽光が瞳を出迎える。

朝日から顔を背けると、そこでも見知った顔が出迎えてくれた。

麻理さんは、柔らかい笑顔を浮かべたまま、じぃっと俺の顔を観察している。

俺が現状確認をする為に、頭の再起動を終えるのを待ってから、

麻理さんは艶やかな唇の形を変えながら、俺に朝の挨拶を囁いてくれた。



麻理「おはよう、北原」

春希「おはようございます、麻理さん」



耳の方はしっかりと麻理さんの声を聞きとったが、声の方はまだ試運転段階らしく

ややしゃがれた声で挨拶を返す。

一方、麻理さんの声はというと、けっして大きな声ではないのに、

一音一音はっきりと発声されていて、心地よい音色となって俺の鼓膜を振動させていた。

麻理さんは、いつから起きていたのだろうか。

麻理さんの様子からすると、寝起きというわけではなさそうだ。

顔をじっくり観察してみると、メイクをしていない生の麻理さんがそこにはいた。

もちろん昨夜、お風呂に入っているので、メイクを落とさないわけがない。

ずっと食事が十分出来ていない分顔色が悪いかと思いきや、

麻理さんの顔の肌艶は良好に見える。

本当に目の前にあるのだから、見間違えるはずもなかった。

麻理さんの目は、俺より早く起きていた事もあって、

芯がしっかりとしているいつもの強い視線を朝からはなっていた。

これは個人的な偏り過ぎた評価だが、メイクをしていない麻理さんは、

こうして朝から見惚れてしまうほどに美しかった。


メイクをしていなくともその顔の輪郭は繊細に構築されており、

メイクをしている時よりも華やかさがあるような気もしてしまう。

なんとなく仕事場では落ち着きがある上司を演じる為に地味にしている気さえ

してきてしまった。

むろん麻理さんが職場で落ち着きがあるわけでも、地味に働いているわけではない。

むしろ仕事の早さと正確さ、そして大胆な行動力をもって人を魅了しているのだから。

編集部では、麻理さんの綺麗すぎる顔は、おまけみたいなものでもあった。

世の女性が聞けば、恨み事を一日中言ってしまうほどのぜいたくなおまけではあるが。

はっきりいって、俺を見つめてくれている麻理さんの顔は、

見つめている行為を咎められない限りずっと見ていても飽きないほどである。



麻理「あのさ、・・・北原」

春希「はい、なんでしょうか?」



今までずっと俺の顔を見つめ続けていた瞳をおずおずとほんのわずかだけ斜め下にそらすと

はにかみながら俺に可愛らしい不満を訴えてきた。



麻理「さすがにじぃっと見つめられると、照れるというか・・・なんていうか。

   悪くはない。むしろ嬉しいんだけど、ね」

春希「すみませんっ」



俺は、声と同時に顔をそらす。

女性に対して顔をじろじろと見て観察するのはマナー違反だ。

それがいくら親しい間柄であっても、朝一番にしていい行動とは思えない。

朝じゃなくても、問題だが。

まあ、お互いさまじゃないかという意見もある。

なにせ、麻理さんも俺の事を見つめていたじゃないかという事実があるのだから。

でも、だからといって、その事実を麻理さんの目の前に突き付けるほど、

俺も女心がわかっていないわけではなかった。



麻理「ううん・・・、問題ないわ。ねえ北原」

春希「はい?」

麻理「ソファーで寝ちゃったけど、体大丈夫?

   飛行機もエコノミーで、体を伸ばして寝られなかったのに

   いつまでも北原を引き止めてごめんなさい」

春希「いいんですよ。俺の意思でこうしているんですから。

   それにソファーでも十分睡眠をとれましたよ。

   ・・・えっと、いま何時ですか?」

麻理「8時半くらいかしら」



麻理さんは時計も見ずにそう答えた。麻理さんが嘘やでたらめを言う必要がないので

時計で現在時刻を確かめなくともわかっていたのだろう。

麻理さんにはソファーでも休めたと見栄を張ってしまったが、やはり長旅の疲れもあって

体が硬くなってしまっている。

それでも今日一日活動する為の睡眠はとれているから問題はないはずだ。

ただ、体が硬くなって動けなくなってしまっている理由は、

ソファーで寝てしまった事だけではないのは、今の状態からすれば一目瞭然であった。

長時間ソファーで寝ていたことに加えて、現在進行形で目の前に、顔を少し動かせば

キスできるくらいの距離に麻理さんの顔がある。

つまりは、麻理さんが俺の二の腕を枕代わりにして寄り添っている状態が続いているわけで。

たしかに、日本にいた時も同じような夜を過ごした経験があった。

また、俺と麻理さんが各々使っていた毛布も、NYの夜の寒さに耐える為に

毛布を二枚重ねにして、二人で寄り添って一枚となった毛布を使っている。

だから、ちゃんとした理由があって今の現状にいたるわけだが・・・・・。

誰に言い訳してるんだよ、俺は!



麻理「大丈夫?」



俺が無言で考え事に夢中になって麻理さんを置いてけぼりにしていたせいで、

麻理さんは少し不安そうな声で俺に聞いてきた。



春希「えっと・・・時差ですか?」

麻理「・・・ええ、時差で頭が働いていないのかなって思って」

春希「それなら問題ないですよ。日本でも寝る時間が決まっているわけではないですから。

   麻理さんだって同じじゃないですか」



麻理さんが問いかけたかった質問は、おそらく違う内容だろう。

何が大丈夫か。そんなの決まっている。

俺が無言でいたから麻理さんは不安になってしまったのだろう。

だから、俺と麻理さんが寄り添って夜を過ごした事が大丈夫かって

聞きたかったに違いなかった。

麻理さんは、俺とかずさが復縁するだろうことは知っている。

俺がかずさの事を待つって曜子さんに宣言した事は教えてはいないが、

大学のヴァレンタインコンサートを聴きに来た麻理さんならば察しているはずだった。

俺はずるい。麻理さんが聞きたい内容をわかっていながら時差と内容をすりかえるのだから。

でも、今は仕方がない。そう思いこむことで、罪悪感に蓋をした。

かずさへの罪悪感。麻理さんへの罪悪感。

抑えれば抑えるほど罪悪感は膨れ上がるのに、

俺は罪悪感のインフレを止める手立てを持ち合わせてはいなかった。



麻理「たしかにこれは職業病ね。でもNYに来てからは、だいぶ決まった時間に

   寝られるようになったわよ。日本と違って治安がいいわけではないっていうのも

   影響しているけどね。日本だったら、何時であろうが帰宅できたけど、

   ここではちょっとした気の緩みで身の破たんを招いちゃうから」

春希「麻理さんの事だから、大丈夫だとは思いますけど、仕事優先で動くあまり、

   ここがNYだって言う事を忘れてしまいそうで不安です」

麻理「大丈夫よ。帰りはだいたいいつもタクシーだから」



もしかしたら、電車に乗ると気持ち悪くなってしまう事が起因しているのかなという

疑問もわいて出たが、おそらく治安と時間的な問題だろうと、すぐさま自己解決させた。



春希「それならいいんですけど、それでもタクシーを降りてからマンションまでの

   ほんのわずかな距離であっても危険なんですよ。

   しかも帰宅時間は夜中なわけなんですから、暗闇にまぎれてってことも

   十分考えられるんですから」

麻理「本当に心配症ねぇ」

春希「当然です」



嬉しそうに目を細める麻理さんを前に、声のトーンがダウンしてしまう。

それ、反則です。こっちは心配しているっていうのに、それなのにその笑顔はなんなんですか。

・・・まあ、その理由は、うぬぼれではないと思うけど、おそらくそうなのだろう。



麻理「でも、マンションのエントランスには、24時間勤務の警備員が立っているし、

   意外とセキュリティー面ではしっかりしているのよ、このマンション」



たしかに昨日このマンションのエントランスを通るときに、映画に出てくるような

屈強なガードマンが不審者がいないか目を光らせていた。

どうやら麻理さんは、その警備員と顔見知りらしく、しばらくここに滞在する俺を

紹介もしてもらった。

これでも一応英会話は出来る方ではあるが、まだ耳が慣れていない事もあって

二人がかわす会話についていけず、あぁ、NYに来たんだなって、

今さらながら実感した瞬間でもあった。

本来ならば空港で感じるべき実感であるはずだが、それは全て麻理さんとの再会で

塗りつぶされてしまっていた。



春希「それは頼もしいですけど、油断だけはしないでくださいよ」

麻理「わかってるわ。これ以上北原に心配はかけられないから」



日だまりにいたかと思えば、一瞬で寒空の下に放り出されてしまう。



麻理さんの表情が陰っていくのがまじまじとわかる。

けっして麻理さんが情緒不安定だというわけではない。

普段はしっかり仕事をしているらしいし、食事面と電車を除けば、

いたって普通に生活をおくれている。

問題があるとすれば、それは北原春希の事に関する事についてのみだ。



春希「俺は、そういうことに首を突っ込む為にNYに来たんですよ。

   心配するなって言う方が無理な注文です。

   心配させてください。頼って来てください。不平不満をぶちまけてください。

   全てを解決することなんてできないってわかっていますけど、

   それでも俺は、麻理さんの隣にいたいんですよ」



全てを解決する事はできない。

これは、俺と麻理さんの共通認識だろう。

お互いわかっているから、依存できる。

踏み越えられない境界が明確に線引きできているから、

俺達は許された範囲内で触れ合っていられるんだ、と、言い訳をする。



麻理「うん、ありがとう。・・・もう少しだけ寝ててもいいかな?

   今日と明日は休みだし、もう少しだけ寝ていたい気分なの」

春希「構いませんよ。もう少し寝てから朝食にしましょう」

麻理「うん、北原の朝食、期待してるわ」



そう麻理さんは小さく呟くと、俺の腕に体重を預け直す。

麻理さんの重みが俺の腕を通して信号となって脳に運び込まれ、

今まで蓄積されていた記憶に、新たな麻理さんを上書きしていく。

俺のもう片方の手に自分の指を絡ませてきた麻理さんは、

最後の最後で手を握るかどうかで迷っているらしい。

毛布の中でごそごそとするその動きに、俺は隠れて笑みを洩らす。

だから俺は、ちょっと強引に麻理さんの手を奪う。

一瞬麻理さんの体が膠着するが、俺の手に握られている事を認識すると、

おずおずと握り返す力を増していく。

それがなんだかくすぐったくて、どうしようもなく愛おしく思えてしまう。

今度は麻理さんと逆の立場になって、隣に寄りそう大切な人をそっと眺め続けることにした。










俺達が朝食を食べ始めたのは、あれから1時間ほど経ってからである。

食事の準備をするといっても、サラダやパンの用意をする程度で、

大して手間暇をかける必要もない労力なのに、俺が準備をしている最中ずっと麻理さんは

俺が料理をする姿を眺めていた。

昨夜も同じように俺の料理姿を眺めている。

そして、昨夜の経験を生かして俺の姿が一番見やすい位置に椅子を用意してじぃっと

眺めていた。

そんな経験を積んだとしても役に立つとは思えないが、それを言ったところで

かえってくる言葉は想像できるので、あえて口に出す事はない。

まあ、昨夜の最初のうちは、俺の斜め後ろから眺めていて、邪魔というわけではないが、

ぶつかったり、材料をこぼす危険があった為に、ちょっとした注意はした。

その注意をしたときの悲しげな瞳。今でも忘れられない。

犬を飼った事はないが、愛犬の餌の準備をして、目の前に餌を差し出しながらも

「待て」の命令をし、そのまま「待て」の指示をしたまま餌を片付けてしまったら、

もしかしたらこんな表情になってしまうのではないかと、

麻理さんには悪いとは思ったが考えてしまった。

やや麻理さんに甘いかなという思いはあるが、それが心地よくもあるのだが、

麻理さんが喜んでくれるならばという気持ちが優先して、

注意の直後に囁いてしまった。



春希「包丁を使っていますし、火だって使っています。

   だから、麻理さんの綺麗な肌に万が一の事があったら、俺が困るんです。

   麻理さんが邪魔なんじゃなくて、麻理さんの安全の為に

   少し下がったところで見ていてくれると、俺も安心して料理に集中できます。

   でも、見られていると調子に乗って失敗してしまう事もあるかもしれないですけど、

   そこんところは、好きな女の子の前ではりきってしまう男子だと思って

   見逃してくれると助かります」



こんな発言ばかりしているから、俺と麻理さんとの絆は離れることが出来なくなってしまう。

それじゃあいけないってわかっているのに、どうしても麻理さんの喜ぶ顔を望んでしまう。

それが、かずさへの裏切りだってわかっているのに。







夕食に続いて朝食も無事に終了する。

ある意味拍子抜けな気分になってしまうのもしょうがない気がした。

なにせ佐和子さんから、そして麻理さん本人からも、麻理さんの病状を聞いていたのだから。

もちろん心因性味覚障害によって、今も味がわかっていないのかもしれない。

麻理さんの事だから、俺に心配させまいと、味がわからない事を隠す事は十分に考えられた。

しかし、食後に訪れる吐き気だけは隠せないはずだ。


こればっかりは、いくら気持ちが悪いのを隠そうとしても顔に出てしまうはずだ。

しかし、夕食時も、そしてさきほど終了した朝食においても、まったくというほど

吐き気の様子は見受けられなかった。

むしろ麻理さんの機嫌は良く、饒舌なほどだ。

吐き気を催している人物が、自分から積極的に話しかけはしないだろう。

だから、どうしても麻理さんが心因性味覚障害であると思えなくなってしまう。

そんな気の緩みが、俺を大胆な行動に移してしまい、

その結果として、大きな後悔をするはめになってしまった。

ただ、後悔はしたけれど、どちらにせよ通らなくてはならない道ではあったので、

踏ん切りがつかないでいた自分にとってはちょうど良かったかもしれないが・・・。



春希「昨日今日と、調子がいいみたいでしたから、これはいい傾向なのでしょうか?

   今すぐ全快とはいかないでしょうけど、俺に出来る事は何でも言って下さいね」



俺に振りかかかっている症状ではないから気軽に聞いてしまった。

実際苦しんでいる本人からすれば、言われたくない言葉であったはずだ。

デリカシーがないとか、相手を思いやる気持ちがないどころではない。

いくら相当な覚悟を持ってNYに乗り込んできて、

思っていたような最悪な状態を見ていないからといって、

それが安心できる状態だと、誰が保証したんだ。

今までニコニコして微笑んでいた麻理さんの笑顔が、すぅっと消え去っていく。

ゆっくりと視線を左右に揺れていた瞳が、

明らかに動揺しているとわかるほどに揺れ動きだす。

もはや俺など見てはいなかった。

両手で自分の腕を爪が食い込んでいるのではないかと思うほどに強く握りしめ、

呼吸も乱れ始めている。

嗚咽のような、吐き気を抑えるような呼吸を前にして、

事の重大さを、今になって実感してしまった。



春希「麻理さん!」



俺は椅子を蹴り倒して麻理さんの元へ駆け寄る。

麻理さんは、椅子に座りながらも、いつ椅子から転げ落ちてもおかしくないほどに

体をくの字に曲げて、必死に俺が引き金をひいてしまった症状と戦っていた。



春希「麻理さん」



大丈夫ですかなんて、聞けやしなかった。

俺がしむけてしまったのに、なにが大丈夫だ。

だから、俺は繰り返し麻理さんの名前を呼ぶことしかできなかった。


何度麻理さんの名前を呼んだのだろうか。

ようやく俺の呼び声に気がついて顔をあげてくれた時には、

どのくらいの時間がたったかなんてわかるはずもなかった。

実際には、5分もたっていない。

けれど、心が乱された俺にとっては、長く、果てしない後悔の時間であった。



春希「麻理さん」

麻理「北原・・・」



俺を見つめる目には涙が溜まり、頬には太い涙の線が刻まれ続けている。

顔はゆがみ、さっきまで笑顔だった面影は、

全くと言っていいほど見つけることができなかった。



麻理「ごめんさない。・・・ごめんなさい。ごめんなさい、冬馬さん、ごめんなさい。

   春希を借りちゃって、ごめんね。・・・ごめんなさい。許して・・・」



俺と重なる視線さえも拒絶するように視線を外す。

再び俯いた麻理さんは、許されないとわかっても懺悔を繰り返すしかなかった。

かずさがどう裁きを下すかは、俺だってわかるはずはない。

今こうして謝ったとしても、意味があるとは到底思えもしない。

けれど、激しい後悔が、俺以上の後悔が、麻理さんを苦しめている事だけは理解した。



春希「麻理さん」



俺の声など届いてはいないのだろう。

麻理さんは、何度も、何度も、かずさに向かって懺悔を続けている。

俺こそ懺悔をしなければいけないのに、懺悔することさえ許しを得られそうもなかった、

俺は、激しく揺れる麻理さんの肩を、恐る恐る手を伸ばし、掴み取る。

俺の右手が麻理さんの左肩に触れると、電気が走ったかのように麻理さんの肩が震えた。



麻理「だめっ!」



そう激しき拒絶する麻理さんは、俺が寄り添う事さえ許してはくれなかった。

俺の隣で料理を眺めることも、ソファーで寄り添う事も、

全てが幻だった気さえしてしまう。

しかし、俺の後悔と懺悔は後回しだ。

今は、激しく蒸せ返している麻理さんを助けなければいけなかった。

麻理さんは、吐き気をこらえるようにして蒸せ返すのを繰り返していた。

もはや躊躇などしている時ではない。

今目の前にいるのは、かずさではなく、麻理さんなのだ。


俺が今、助けるべき人は、麻理さんただ一人だって決めてここまで来た。

だから俺は、躊躇なんてすべきではなかったんだ。



春希「麻理さん。・・・俺はここにいたいから、NYに来たんです。

   今さら日本に送り返さないでくださいよ」



俺は、麻理さんの気持ちなど考慮せずに、麻理さんを抱きしめる。

嗚咽に苦しむ麻理さんの事情なんて無視して、俺の事情で麻理さんを包み込んでしまった。

それでも麻理さんは、俺を拒絶しようとする。

吐き気に苦しみながらも、俺から逃れようとする。

元々麻理さんはしっかりと椅子に座っていたわけではない事もあって、

そこに俺が強引に力を加えたものだから、バランスを崩して床に落ちるのも当然だった。

椅子の上からだとしても、麻理さんを下にして落とすわけにはいかない。

このまま何もしないで落ちてしまえば、麻理さんと共に横向きのまま床に衝突してしまう。

だから俺は、力いっぱい右腕で麻理さんの背中を抱き寄せて、麻理さんが床に衝突する事を

回避しようとした。

普段の俺ならば、考えてから行動を起こすのに、この時ばかりは考える前に行動を

起こせたおかげで、どうにか難を逃れることができた。

二人分の重みを背中に受けて、ほんのわずかだけ息が詰まったが、

有難い勲章として今回は受け取っておくとした。

麻理さんは、床に落ちた衝撃もあったことで、俺への抵抗はやめていた。

そもそも、力の差は歴然なのだ。俺は男で、麻理さんは女性なのだから。

基本スペックからして違うのに、ましてや麻理さんは、俺がNYへ来るまで

まともに食事をしていなかったわけで、

力をふるえるほど体力は残ってなどいなかった。



春希「俺と一緒にやっていきましょう。

   俺にできることなんてたかが知れていますけど、

   少なくとも普通に食事をして、普通に食事を楽しんで、

   今までみたいに仕事に熱中できるくらいまでは、なってもらいます。

   俺のせいだって自覚しています。

   許してもらえないって、わかっています。

   ずうずうしくNYまで乗り込んできたとも自覚しています。

   でも、俺は、麻理さんの側にいたいんです」



俺の一方的すぎる演説を聞いていた麻理さんから力が抜けていく。

あんなに激しく拒絶反応を見せていた麻理さんの腕はおとなしくなり、

今やおずおずと俺の服を探り始め、そして、そっと俺の腰に腕をまわして

抱きしめ返してくるところまで来ていた。

春希「えっと・・・、側にいてもいいってことですよね?」

麻理「もう少しだけこのままでいさせて」

春希「それは構わないのですが、吐き気とか大丈夫ですか?」



言ってしまった後に、再び後悔の念が押し寄せろ。

またしても麻理さんが本当に聞きたい事をすり替えてしまった。

おそらく麻理さんは、「自分が一人で歩けるようになるまで」

もう少しだけこのままでいさせてと、言いたかったに違いなかった。

さっきも俺の軽すぎる一言がトリガーになったというのに、俺は成長していない。

たしかに、さっきの今では成長しろという方が無理かもしれないが、今は緊急事態であり、

無理やりにでも成長すべきだったといえる。



麻理「なんか、色々頭の中がごちゃごちゃになって、訳がわからなくなったんだけど、

   ・・・とりあえず今は、吐き気はないかな」

春希「・・・そうですか」

麻理「だから・・・、でも、気分が落ち着くまで、もう少しだけ、このままでいさせて。

   ・・・ね、お願いします」



俺は返事の代りに麻理さんを抱きしめる腕の力を強める。

それが合図になったのか、麻理さんは俺を抱きしめる力を強め、

俺の頼りない胸に頬を擦りつけた。

麻理さんに無理やり「気分が落ち着くまで」もう少しだけ、このままでいさせてと、

言わせてしまった事に、激しい怒りを覚えながら、俺は麻理さんの重みを噛み締めていた。



第38話 終劇

第39話に続く







第38話 あとがき



文章量は、毎回だいたい7500字を目安に書いているのですが、

たまに文章量が増えたりするのは、アップ前にチェックを入れたときの修正分のせいです。

ごく稀にですが、修正入れることで12000字とかになってしまうことがありまして、

その時は次の話以降の文章と結合しながら、話を再分割していきます。

とりあえず、今までの修正作業で文章量が減った事がないのは救いなのでしょうか?


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです



黒猫 with かずさ派



第39話





麻理さんが落ち着きを取り戻すまで、俺は麻理さんから離れる事はなかった。

いや、正確に言うのならば、麻理さんが俺の腕の中から離れるまで

俺は麻理さんから離れる事はしなかったというべきだろうか。

最初のうちは、本当に吐き気がないか疑問だった。

だから真偽はわからないが、とりあえずやらないよりはやったほうがいいとの思いから、

俺は吐き気の軽減と精神の安定のために背中をさすることにした。

一応は麻理さんは気持ちよさそうに俺の胸に頬を擦りつけているわけで、

どのような効果によるものかはわからないが、効果自体はあったみたいではあった。

佐和子さんが以前NYへ来た時、食後に麻理さんの気分が悪くなったのを

直接見ているわけで、その情報通りならば、

今だって気持ちが悪い可能性が高いといえる。

ただその時は、麻理さんは気持ちを落ち着かせる為にヴァレンタインコンサートの時に

練習した俺のギターソロを録音したものを、精神安定剤の代わりとして曲を流していた。

俺のギターソロに精神安定剤としての効果があるのならば、

多少うぬぼれが含まれ過ぎているが、録音したギターソロよりは北原春希本人が

直接麻理さんの側にいる方が効果が高いといえなくはない。

そして、最初こそ精一杯麻理さんに尽くそうと背中をさすっていたが、

20分ほど過ぎようとする頃には、麻理さんは

温もりを手に入れたネコのように俺の胸の中で収まっていた。

そんな可愛らしくもある状態を見ては、頭を撫でてみたいという衝動が出ても

しょうがないじゃないか。

しかも、頭を撫でてみると、それこそネコそのもののように麻理さんは

気持ちよさそうに喉を鳴らした。

そして、俺の腕の中にいる麻理さんは、時計の針が正しいのならば、

もうすぐ一時間近く俺の腕の中でいる事になる。

その頃の俺はというと、自分の精神の安定を保とうと躍起になっていた。

実は言うと、麻理さんが精神の安定を取り戻そうと頑張っているときに、

俺の方も精神の安定を保とうと下心を消し去る努力をしていた。

こんな下衆男の精神と麻理さんの苦しみを比較する事自体がおこがましいが、

俺も男である以上腕の中に魅力的すぎる女性がいれば、

精神の安定が壊れるというものだ。

これが切羽詰まった緊急事態が継続しているのならば、俺だって麻理さんの調子を

気に病んでいられただろう。

けれど、1時間も経てば麻理さんの症状も改善しているように見え、まあ20分経過時

には症状は回復しているようにも見えたが、比較的俺の気持ちも軽くなり、

麻理さんの症状以外の事も考える余裕が出来てしまった。

だからこそ、俺の精神は崩れそうになっていた。

なにせ麻理さんは、魅力的すぎる女性であるのだから。



自他共に認めるワーカーホリックである為に仕事中心の生活を送ってはいるが、

その容姿は10人中9人は美人であると認めるほどの美しさと毅然さを

持ち合わせている。

痩せてしまった為に、元々細かった腰はさらに磨きをかけ、

ウエストが細くなった分胸の大きさがさらに際立つようになっている。

その可憐さと強さを両面を持った顔と、爆発的な魅力を醸し出すスタイルを

持っていれば、当然ながら俺の理性を削りとるには時間はかからなかった。

しかも、実際普段は何を着て寝ているかなどわからないが、

麻理さんが着ている衣服がパジャマではないといっても、

俺を空港まで迎えに来て時に来ていた外行きのしっかりと着込んだ服装ではない。

まあ、しばらく麻理さんの家に滞在するわけで、

もしかしたら普段何を着て寝ているかがわかるかもしれない。

念のために断っておくが、それは意図的に知ろうするわけではないので

俺にやましい気持ちがないと言い切れる。

さて、俺は今、腕の中にいる麻理さんを必要以上に感じ取ることができる状態でいる。

今着ているのは部屋着らしく、いくら春物の衣服だといっても、その女性らしい体つきを

十分すぎるほど俺の手や腕だけでなく、麻理さんと密着している部分全てが

薄い布地を通して知ってしまう。

だからこそ、頭の中でこうした言い訳をしまくっているのだが、

そろそろやばいくらいに切羽詰まってきていた。



春希「麻理さん、落ち着きましたか?」



俺は、ようやくというか、ぎりぎり平静を装える限界になってから麻理さんに声をかけた。

けっして全ての理性が削り取られることを望んでいたわけではない事は記しておく。



麻理「うん・・・、だいぶ良くなったみたい」



なんだか空港での出来事がデジャブだったのでないかと思いもしたが、

佐和子さんが言っていた麻理さんの精神のもろさと一致しだしていた。

やはり麻理さんの状態は、思っていた通りに危うかった。



春希「少し、話を聞いてもいいですか?」



今しかないわけではないが、後に延ばす内容でもない。

けっして避けられない道であった。



麻理「ええ・・・。でも、このままの状態で話してもいい?」



麻理さんは、俺をだきしめたまま、けっして顔をあげようとはしなかった。




もしかしたら、顔をあげられないほど苦痛に満ちた顔だった気もしたが、

俺にはそれを確かめるすべはないし、

どのような麻理さんであっても受け入れる覚悟ができていた。



春希「いいですよ。麻理さんが話しやすいようにしてください」

麻理「ありがと、北原」

春希「いいんですって。俺には遠慮なんかしないでくださいね」

麻理「お前が私を甘やかすからいけないんだぞ。

   甘やかすから、ここから出られなくなる」



こことは?と、一瞬疑問に思い、口に出そうとしたが、

どうにか口の中でとどめることができて、実際麻理さんに問いかける事はしなかった。

そんなの決まっているじゃないか。聞くまでもない質問であった。



春希「甘やかしてなんていませんよ。仕事の時の麻理さんと同じです。

   これが麻理さんに必要だから、俺がこうしているんです」

麻理「へ理屈言うなぁ・・・」



なんだか泣き声に近い声色だったが、どことなく嬉しそうでもあったので、

実際泣いてはいないのだろう。

そんなネコが甘えるような泣き声を聞くと、俺の保護欲はさらに高まることになる。

もう無理かもしれない。離れられないかもしれないと思ってしまう。

それは不可能だってわかっているのに、思わずにはいられなかった。



春希「へ理屈だろうと頭が固いって言われようが、必要だと判断したら躊躇しませんよ。

   だから麻理さんもしっかりと俺を利用してください」

麻理「北原も生意気になったものね」

春希「麻理さんの下についた時から言われ慣れていますよ」

麻理「たしかにそうだな」



ほんのわずかな瞬間だが、俺の言葉への同意を伝えるべく麻理さんが顔をあげてくれた。

それでも、俺の視線に気がつくとすぐさま顔を伏せられはしたが、

麻理さんの調子の方は安定に向かっているようには見えた。



麻理「まあ、いいわ。・・・それで話って言うのは、私が陥っている状態についてね?」

春希「はい」

麻理「北原が来るってわかった時点で全て隠さず話そうと決意していたから、

   何でも聞いていいわよ。今さらかっこつけたって意味ないし、

   それに、もう私の状態もさっき見せちゃったしね」



麻理さんが震える声で俺に宣言する。

全く平気ではないのに、平気なふりをしているのが

明らかすぎるほどに、声だけであってもわかってしまう。

だから俺は、慰めの言葉さえも省略して、本題に突入する。

いたわりの言葉が麻理さんを傷つけてしまうんじゃないかとか、

そういう事を考慮しての判断ではない。

ただたんに、俺が何を言えばわからなかったから、本題をいきなり切り出したと言えた。

それだけ今の俺には余裕がなくなっている。

今も現在進行形ではあるが、麻理さんの柔らかい体を意識してのとは違う、

別方面での余裕のなさであり、その性質は180度意味合いが異なっていた。



春希「それでは聞きますね。もし言いにくいことがあるのでしたら、無理には聞きません」

麻理「今さっき、なんでも話すって言ったわよ」

春希「全てを話すとは言っていましたけど、「今」すべてを話すとは言っていませんでしたよ」

麻理「それこそへ理屈よ」

麻理さんは、嬉しそうに心底呆れた声で俺を非難する。

春希「へ理屈だと思ってもらっても構いませんよ」

麻理「開き直ったわね」

春希「それが必要だと理解しただけですよ」

麻理「なるほど・・・」

麻理さんは、おでこを俺の胸にコツリと押し付けて同意を示した。

春希「では、聞きますね。俺が作った食事ですけど、味はありましたか?」

麻理「いきなりストレートにきたわね。OKよ。回りくどい聞き方よりもすっきりするし。

   ええ、味はいつもよりもだいぶ感じ取ることができたわ。

   でも、普通レベルとは言えないわね。

   そうね・・・、塩分なしの薄味ってところかしらね」

春希「ということは、どうにか味を感じられるというところでいいのですね?」

麻理「おそらく。今まで味覚の強さなんて考えもしてことなかったから、

   味の強さの表現を的確にはできないし、判断基準自体が曖昧なのよね」

春希「それは仕方がない事ですよ。俺だって意識する必要性がなければ気にも

   なりませんし。普段から自分がどうやって呼吸をしているかを

   考えてやっている人がほとんどいないのと同じですよ」


俺は、ここで言葉を一度止めたが、回りくどい言葉を避けるべく、付け加えるようにいった。


春希「何事も、病気にならなければわからないって事ですよ」

麻理「それもそうね」


俺は正解を引き当てたかはわからない。麻理さんの声色に変化はなかった。


春希「食事の後、吐き気はなかったのですか?

   胃を刺激しないよう、こってりしすぎないようには気をつけてはいたのですが」

麻理「まったく吐き気はなかったわ。

   自分でも驚いていて、自分の現金さには呆れてしまうのだけれど、

   北原がいるってことで舞いあがったのかしらね」

春希「男の立場からすれば、意識してくれることは嬉しい事ですよ」



麻理「そうかしら? 一歩間違えれば重度のストーカーよ」



麻理さんは、自分を貶めるかのように言い捨てる。

俺も考えなかったわけではない。

でも、麻理さんの場合は、普通のストーカーとは方向性が違っている。

俺へ向けるべき感情を、逆方向に、俺から離れるようにと向けていた。

だから俺は、麻理さんを逃さないように引き止める。

だからこそ麻理さんは、後ろ向きのまま背中を向けて俺と向き合ってくれている。

今の麻理さんは、精神の崩壊を起こさないぎりぎりの境界線上いるだけで、

麻理さんが仕事で鍛え上げた強力な忍耐力で堪えているにすぎないと思えた。

つまり、その境界線上にいる麻理さんの背中をちょっとでも押す行為があれば、

一気に麻理さんの抑えられた感情が心の奥から逆流し、

俺の手から麻理さんはいなくなってしまうだろう。



春希「そうですか? NYまでやってきた俺の方がよっぽどストーカーじゃないですか」

麻理「たしかに」



俺の切り返しに、麻理さんは小さく笑いを洩らす。

これはうけ狙いで言ったわけではなかった。本気でそう思っただけなのだが、

結果的には麻理さんの気持ちをほぐす効果があったのには助けられた。



春希「まあ、いいですよ。俺はしつこいんです。しつこくて、粘着質で、諦めが悪いんです。

   だから、麻理さんが根をあげたとしても、俺は諦めないですからね」

麻理「覚えておくわ」

春希「えっと、これは思い付きなんですけど、オムライスって麻理さんにとって

   印象深い料理ですよね。・・・俺を連想するような」



回りくどい言い方は避けようとはしたが、さすがに自分をアピールする発言には

俺の方がまいった。言っていて体が熱くなってくるのが自分でもわかってしまう。

ましてや、俺の心臓の側に顔をうずめる麻理さんには、

早まる鼓動がきっと知られているはずだ。



麻理「そうね。北原の言いたい事はわかるわ。

   だったら、オムライスなら一人でも食べられるのではないかって、

   私も思い付きはしたのよ。でも、どうしても違うのよね。

   最初は卵の半熟具合が悪いのかなって思ったり、チキンライスの味とかが

   原因かなとも考えたけど、やっぱり違うのよ。

   北原が作ってくれたというのが意味があるのであって、オムライスそのものでは

   ないのかもしれないわ」

春希「では、他の料理と比べての印象ではどうですか?

   他の料理よりも味が感じやすいとか」


麻理「オムライスの方が、拒否反応が強くなったと思うわ。

   私が色々な店でオムライスを買ってきたのが悪かったのかもしれないけど、

   食べれば食べるほど拒否反応が強くなっていったというか、

   北原のオムライスが神聖化でもしたんじゃないかって感じかもしれないわね」

春希「神聖化はいいすぎですけど、言いたい事はわかりますよ」



つまりは、俺のオムライスへのあこがれが強くなってしまったという事か。



麻理「だから、今では食べないようにしているわ」

春希「だとすると、俺がオムライスを作ったのも、案外ギャンブルだったんじゃないですか?」

麻理「それはないわよ。いくらオムライスに拒否反応を示してるといっても、

   それは北原以外のオムライス限定よ」

春希「それは作っている人間からすれば称賛とも受け取れますけど、

   あまり俺の料理を過大評価しないでくださいよ。

   どうも俺の周りには、俺の料理を甘く採点する傾向があるみたいで」

麻理「へぇ・・・。北原の料理を食べている子が、日本にいるんだぁ」



麻理さんの声に棘があったような気がしたのは、きっと俺の思いすごしだと思いこんだが、

あいにく俺を抱きしめる腕の力が強まった事だけはなかったことにはできなかった。

未だに顔をあげてはくれないので、その表情は見ることができないでいたが。



春希「友達ですよ友達。そいつったら進級に必要な単位を落としそうになってしまって、

   春休みだというのにお情けのレポートやってたんですよ。

   普段の俺がそいつの教育係を教授に任されていて、何度も何度もレポートとか

   講義の出席について注意していたのに、そいつったらいくら言っても

   しっかりしてくれなかったんですよ。

   それで案の定学年末になって慌てる事態になったんです。

   まあ、教授から教育係を任されていたのに、それでも進級に黄色信号を

   灯してしまった責任が俺にもある気はしますよ。

   でも、いくらサポートしても最終的には本人の頑張りようじゃないですか。

   それでですね。春休みだというのに俺は教授に頼まれて、

   そいつの監視役に任命せれたんです。

   そういう事情もあって、俺の部屋を提供した事もあって俺が料理を作るっことに

   なったんですよ。もちろん休みを返上してまでレポート手伝って、

   なおかつ料理まで作ってやったんですから、もしかしたら、

   俺の顔にまずいっていったら許さないって出ていたのかもしれませんね」



嘘つきほど饒舌になると言うが、この時の俺は、まさしく饒舌だったのだろう。

麻理さんに聞かれもしていない事を勝手にしゃべりまくり、

麻理さんにとっては苦しい言い訳に過ぎない話をしどろもどろに話してしまった。

せめてもの救いと言えば、麻理さんが顔をまだ上げていないので、

うろたえた顔を見られずに済んだことが唯一の救いだったのだろう。


麻理「もういいわ・・・」

春希「え?」



ゆっくりと顔をあげながら目元を指でぬぐっている麻理さんの顔には、

笑みが浮かべられていた。

麻理さんは、必死に笑いをこらえようとしていたが、うまくはいっていない。

むしろ俺の顔を見たことで、笑いをこらえる事さえも放棄してしまうほどだった。



春希「えぇっ?」



戸惑う俺をよそに、麻理さんは笑い続けていた。

俺としては、悲しみに苦しんでいる麻理さんを見ているよりは、笑いを止められずに

苦しんでいる麻理さんを相手にしている方がいいに決まっている。

それが俺のことをだしにして笑っていたとしてもかまいはしない。

むしろ麻理さんに笑顔を提供できたことに喜びさえ持ってしまうほどであった。



春希「笑いすぎですよ」



俺は、こまった顔を作って、麻理さんを軽く非難するふりをする。

けっして困ってなどいない。もちろん批難なんてしてやいない。

それは、俺の顔にも、俺の声にもそれは込められており、麻理さんもそれを理解していた。



麻理「ありがと、北原。だいぶ楽になったわ」



返ってきた言葉は、予想外のものであった。

落ちついた声色には、笑いも、悲しみも含まれてはいない。

いつもの前をしっかりと見定め、俺を導いてくれていた麻理さんがそこにはいた。



春希「俺は、なにもしていませんよ。ただ自分で墓穴を掘って、

   盛大に自爆しただけですよ」

麻理「そうなのか? だったらあとで、和泉さんとの春休みの出来事について

   しっかりと聞かせてもらおうかな」

春希「ははは・・・」



今度こそ冷や汗さえもでやしなかった。

出たのは乾いた笑いがかすかに漏れただけ。

鈴木さん、恨みますよ。本当に麻理さんに報告してるじゃないですか。

冗談だと思っていたのに、あんまりじゃないですか。

俺は、とりあえず鈴木さんのリスクランクを一段階引き上げ、

和泉千晶の一段階下に位置させた。今後の見通しはネガティブ。

今のままの状況では、さらなるリスクを生じさせる可能性があるとみられ、

和泉千晶と同一の格付けになる可能性が高いと評価を改めた。



麻理「その前に、私の今の状態と、北原の今後について話さないか?」

春希「はい」

俺に拒否する選択肢などなかった。どうやって話を持っていくか悩んでしたのだから。

麻理「でもその後で、和泉さんについても話してもらうわよ」



麻理さんは、やはり拗ねた感じでそう言い付け加えた。

その表情もあまりにも可愛らしすぎて、状況が状況ならば、悶絶していたはずだ。

ただし、一つだけ訂正すべきことがあった。

俺が思っているよりも、世の中は結構いい加減なのかもしれない。

俺が勝手に作った優先度など、麻理さんの中では、けっこう番狂わせを起こしているようだ。



春希「別に隠すような事でもありませんから、麻理さんが納得するまで話しますよ。

   でも、聞いても全く面白くないですよ。

   むしろ退屈すぎるくらい平凡な大学生のレポート作成だったんですから」

麻理「面白いか面白くないかは、私が決めるから問題ないわ。

   それに、北原がどんな大学生をやっているかも聞いてみたいしね。

   北原って、大学の事はあまり話さないじゃない。

   だから、聞いてみたかったというのもあったのかもね」

春希「そうですか? 本当につまらない学生生活ですよ」

麻理「それでもいいのよ」

春希「そうですか? 麻理さんが聞きたいというのでしたら話しますけど、

   本当に講義に出て、勉強して、時間があればバイトをしているだけなんですよ。

   そう考えると千晶の事が唯一面白みがある話なのかもしれませんね」

麻理「へぇ・・・、和泉さんって、千晶さんだったのね。

   やっぱり女性じゃない。鈴木のやつの誇張だと思っていたのに、

   本当に鈴木の言う通りだったのね。 

   だとすれば、余計に和泉さんについて聞きたくなってきたわね」



目を細め、鋭い視線を俺に向ける麻理さんは、

すでに編集部での麻理さんのレベルまで回復していた。

それが一時のやせ我慢であっても喜ばずにはいられなかった。

今回わずかな時間しか維持できなくても、次につながるはずだ。

笑い方さえ、気持ちの高め方さえ思いだしてくれさえすれば、

麻理さんならきっと再び笑顔を取り戻せるはずだ。

何度も何度も繰り返すリハビリが大変だって、苦しい事だってわかっている。

でも俺は、麻理さんの隣にいるって決めたからには、俺も一緒に苦しんで、

苦しみの一部を引き受ければいいと考えていた。






第39話 終劇

第40話に続く



第39話 あとがき



麻理さんが再登場したのはいいのですが、

かずさはいつ再登場するのでしょうか。

いちおうタイムスケジュール的には、ccとcodaの間なわけで、

かずさが登場していなくても問題ないはずだと、言い訳させてください。

けっして書きたくないわけではなく、書きたいのですが、

もうしばらくお待ちください。


さすがにここまで長く書いていると、読んでくださる皆様も大変だと思います。

毎週読んでくださっていた方はもちろん、一気読み新規の方も

読んでくださり大変ありがとうございます。



来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです



黒猫 with かずさ派



第40話



春希「わかりましたよ。

   千晶の事は、あとで麻理さんの気が済むまでなんでもこたえますから。

   あとでつまらないって文句を言っても受け付けませんからね」

麻理「わかってるわよ」



俺はもう一度だけ念を押すと、

今度こそ覚悟を決めて俺達の今後の事を話すことにした。

やはり俺の表情も声も硬くなるわけで、麻理さんもきゅっと唇を軽く噛んで

覚悟を決めてくれたようであった。



春希「俺の今後の進路なんですけど、8月からのNY行きが決まりました。

   木曜日に編集長に呼ばれて許可を貰ったのですが、

   あとは書類上の手続きを済ませれば正式な許可が月末にはおりるようです。

   本当は木曜日に麻理さんに報告しようと思っていたのですけど、

   会って直接報告したかったので、報告が遅れてしまってすみません」

麻理「ううん、いいわ。以前NY行きの話が出た時にこうなるってわかっていたから。

   だって私が北原を育てたのよ。上が許可しないわけないじゃない」

春希「そういって下さるのは嬉しいのですが、過大評価しすぎですよ」

麻理「だったら、私の教育もその程度だったっていうことかしら?」



麻理さんは意地が悪い表情を浮かべながら笑いをこらえている。

今、麻理さんの心の中がどうなっているかなんてわかるわけがない。

そもそも俺の心の中でさえ俺本人が理解できていないのだから、

麻理さんの心情なんてわかるはずがなかった。

ただ、俺の心の中に住む彼女の心情だけは手に取るようにわかってしまい、

俺の心臓を鷲掴みにしてくるようで息苦しかった。



春希「それを言うのは卑怯ですよ。わかりましたよ、わかりましたっ。

   麻理さんの教育がよかったから、駄目な生徒もNY行きが叶いました」

麻理「なんか投げやりっぽい言い方が気にいらないけど、まあ、

   北原はもっと自分に自信を持った方がいいわよ。

   あなたは自分が思っているよりも周りのみんなは評価しているのだから、

   そのことを意識しないと北原は謙遜しているつもりでも、

   相手からしたらお高くとまってるって思われてしまうこともあるよね」

春希「ええ、そのへんの人間関係はこれからも学んでいかないといけないと

   思っています。

   なにぶん一人で突っ走ってしまう嫌いがありますからね」

麻理「そうね。今回も勝手にNY行きを決めたものね」




麻理さんは呆れた態度を装って、俺の出方を伺ってきていると思ってしまう。

どうしても俺は裏を読もうとしてしまう。

麻理さんの真意を見落とさないようにと、

俺の神経は過敏になっていたのかもしれなかった。

たった一度のミスが、永遠の別れにつながるとわかっているから。



春希「それだけは謝りませんよ。俺は正しい選択をしたって信じていますから」



俺がきっぱりと宣言すると、麻理さんの反撃の意思は徐々に消え去ってしまう。



麻理「正しいわけ、ないじゃない」



でも、意地の反撃だろうか。

麻理さんが小さく呟いた台詞は俺の心に深く突き刺さっていても、

俺は聞こえないふりをした。



春希「それに、もう今住んでいるマンションは引き払いましたし、

   すでにNY行きは動き出しているんですよ」

麻理「それはいくらなんでも早過ぎじゃないかしら?」



さすがの麻理さんでも、俺の行動の速さに驚きを隠せないでいた。

たしかにNYへ来るのは8月であるわけで、早すぎるといったら早すぎる。



春希「あいにく俺はお金に余裕がある大学生ではないんですよ。

   NY行きが決まったとしても、先立つものがなければNYで生活していけないですよ」

麻理「研修中って、お金でないんだっけ?」

春希「どうでしょうかね? 俺もNYへ行くことだけを考えていたんで、

   給料については全く調べていなかったです」

麻理「案外しっかりしているようで抜けているところもあるんですね」



そう言っている麻理さんも、研修については調べて、裏工作までしてくれていたのに、

肝心のNYでの生活たる給料については調べていないじゃないですか。

たしかに、そんなお金なんて些細な出来事かもしれないけど。



春希「お金じゃないですからね。

   それよりも、麻理さんはいつから俺の海外研修について考えてくれていたんですか?」



麻理さんは日本にいた時にすでに編集長や浜田さんに俺のNY行きについて根回しを

してくれていた。それも、俺が海外研修について気がつく前に。

どこまで先を見ているんだって、仕事面では当面追いつけそうもない速度で進んで行く

麻理さんを、俺は必至でその背中だけは見失わないように走り続けていた。



麻理「北原の海外研修自体は、秋くらいかしら。

   夏の終わりの人事異動で海外から戻ってきた部員を見て、

   北原も早めに海外でもまれてきた方がいいなって思ったのよ。

   ずっと私の下で働いて欲しいけど、それだけでは北原の為にはならないし。

   やっぱ環境を変えて、それも国まで変えて仕事に没頭することが必要なのよ。

   こればっかりは私の下では経験できないのよね」

春希「でも、編集長に根回ししてくれたのは別件でですよね?」



これだけははっきりとしておきたかった。

仕事の為に俺の海外行きを用意してくれていたのか。

それとも麻理さんの側にいられる為にNY行きを準備してくれていたのか。

前者であっても光栄なことではある。

だけど、俺としては麻理さんに必要だって思われたい気持ちの方が強かった。

俺は麻理さんの言葉だけでなく、その瞳を、その表情の変化を見逃さないように

意識を集中させていった。



麻理「ええ、そうよ。北原をNYへ呼ぶ為だけに編集長や人事に話を通しておいたわ」



麻理さんは俺の視線を真っ直ぐと受け止めると、毅然とした態度ではっきりと口にする。

その瞳には揺らぎはない。

今、麻理さんの言葉で、俺が必要だって言ってもらえた。

光栄すぎる。

たとえ偽善に満ちた俺の好意であっても、それが必要だと言ってくれた。

けっして交わることがない想いであっても、

いつか離れることが確定していても、

それでも今は必要だといってくれる麻理さんが愛おしく思えてしまう。



春希「ありがとうございますと、言ったほうがいいんでしょうね」



他に言葉が思い付かない。声に出して言っていい言葉が思い付かなかった。

声に出してしまった瞬間に、俺は罪に押しつぶされてしまう。

それは、麻理さんへの罰も執行されることと同義であった。

けっして麻理さんが悪くなくてもだ。



麻理「どうかしらね。お互いの利害が一致しただけだから、感謝の気持ちなんて必要ないわ。

   私がしたくてしただけなのだから、北原が気に病むことがらではないわ」

春希「それでも、言っておきたいんですよ」



俺はまだ麻理さんに必要ではないって烙印を押されていない事が確認できたのだから。

必要とされている喜びを、言葉を変えてでも伝えたいから。





麻理「そう? 

   だったらNYへ来ても、編集部のみんなが納得するような成果をあげることね」

春希「もちろんNYへ行かせてもらえるんですから、社の期待にはこたえますよ。

   慈善事業でNYへ行かせてもらえるわけではないのですから」

麻理「その覚悟があるのならば、問題ないわ」



もちろん麻理さんも理解しているはずだ。

仕事ではない、もう一つの重要な目的。

開桜社の仕事よりも重要で、日本での仕事を投げ出してでも掴み取ろうとした目的。

麻理さんの側にいるっていう、俺の意思を麻理さんは知っているはずだ。

でも、それは簡単には声に出す事は出来ない。

仕事と絡めて話していい内容ではなかった。

いくら俺を麻理さんが必要としていても、仕事に生きる麻理さんが、

仕事を大事にしている麻理さんが、仕事を利用してプライベートに便宜を図るなんて

やっていいことではなかったのだから。

もちろん何一つプライベートに便宜を図った事がないわけではない。

役得とでもいえばいいのだろうか、小さな便宜なら誰だって気兼ねなく受け取っている。

げんに俺だって年末に曜子さんのコンサートチケットを仕事の関係で貰った事がある。

だけど、今回のNY行きは別だ。

仕事の為ではなく、麻理さんの側にいる為だけにNY行きを手に入れた。

たとえそれが立派な大義名分があろうと、

当事者だけが知る実情は仕事とはかけ離れ過ぎていた。



春希「はい、頑張ります。それでですね、麻理さん」

麻理「ん? なによ改まっちゃって」



俺が醸し出す雰囲気ががらりと変わり、麻理さんは何事かと身構えてしまう。

まあ、その反応は当然だろう。

いくら佐和子さんからの強い要請があり、そして俺もそれを望み、

なおかつ麻理さんもきっとそれを望んでいようとも、

世間の目からすれば俺がこれからしようとしている行為はひもであるのだから。

いちおう俺の名誉を守る為に言葉を変えるとしたら、なんとか居候といえるかもしれないけど。



春希「あのですね、できれば今回俺が泊まる部屋を8月からも貸していただけると

   助かります。

   なにぶんお金の余裕もありませんし、海外生活も初めてで、

   このまま一人で住んでしまうと、海外生活に慣れるのだけで時間を費やしてしまい、

   仕事の方がおろそかになってしまいそうなんですよ」



建前すぎる建前を麻理さんに提示する。

誰の為の建前なのか。それはおそらく俺と麻理さんが、二人とも必要なのだろう。




麻理「それはかまわないわよ。部屋は余っているのだし、北原が使ってくれるんなら

   大歓迎よ。それに、北原が毎日食事を作ってくれるんでしょ?」

春希「それは部屋を貸していただけるのですし、当然作らせてもらいます」

麻理「だったら、食事を作ってもらう事が部屋代って事でいいわ」

春希「ありがとうございます。でも、高熱費とかは払いますから」

麻理「いいわよ、そんなのは。北原がいくら使ったなんてわからないし、

   料理を作ったときに発生する光熱費も私の為の分もあるわけだし、

   その辺は全て部屋代に含まれているって事にしましょ」



麻理さんは俺への反論を遮ろうと、理詰めで防壁を築いていく。

さすがの俺も、麻理さんの好意をむげにはできなかった。



春希「だったら食事の材料費だけは俺に出させてください。

   俺が料理を作るわけですし、俺が納得できる材料を選ぶ為には、

   自分でお金を出している方が選びやすいですからね」



と、せめてもの男のプライド?を守ろうとする俺は、

人間が小さいかもしれないと心の奥で思ってしまう。



麻理「北原がそのほうがいいっていうのなら、私はそれでも構わないわ。

   でも、私が必要だと思う食材は勝手に買わせてもらうわよ」

春希「もちろん麻理さんが必要とする食材を、俺が買う事を拒むなんてできませんよ」

麻理「それもそうね。あと、部屋を使う上のルールというか、生活する上での取り決めは、

   何か思い付いたときに決めていきましょう。

   実際引っ越してくるのは、・・・まだ先なのよ、ね」



最後の言葉は、一瞬言葉を詰まらせた麻理さんではあったが、

どうにか最後まで言葉を紡いだ。

やはり「まだ先」が本音だろう。

俺だってこのままNYに住みつく事が出来るのなら、喜んでそうさせてもらう。

それがたとえ「ひも」とののしられようと、

鈴木さんの指摘通り「麻理さんの部屋に転がり込む」行為であろうと、

麻理さんの側にいられるのならば、いくらでも俺は悪名を頂戴しよう。



春希「はい、8月からです」

麻理「うん、待ってる」

春希「はい、待っててください。それとですね、麻理さん」

麻理「うん?」



さて、今俺には2枚のカードがある。

どれを先に出すべきか。どれも麻理さんに伝えなければならないことだった。

一応一番の難関であるNY行きの報告と、NYでの生活の場の確保は済ませた。

とりあえずは、麻理さんがすんなり受け取ってくれそうな話題からするかな。

もしかしたら、最後に残した一枚の方がNY行きの報告以上にやっかいかもしれないけど。



春希「麻理さんの食事についてですけど、一つ試してみたい事があるんですよ」

麻理「それって、味覚障害についてよね?」

春希「はい」

麻理「そんなに怖い顔しなくてもいいわ。

   私は今の私も受け入れているんだから、上手に付き合っていくしかないのよ。

   だから、北原がそんなに力まなくてもいいの」



柔らかい口調で、仕事のミスを励ますように諭してくる。

しかし、そんな悲しそうな顔をして言うなんて卑怯だって言ってしまいそうだった。

麻理さんは、俺がそんなことを受け入れられないってわかっているのに。



春希「力んでなんていませんよ。俺は自分が出来る事をやるだけです。

   しかもこれは俺にしか出来ない事ですしね」

麻理「なにを企んでいるのよ?」



麻理さんは嬉しそうに呆れてた瞳を俺に向けてくる。

・・・・・・俺達はいまだに床に転がりながらも抱き合っているわけで、

俺の顔を至近距離から見ている麻理さんには、俺の表情を手に取るようにわかってしまう。

だから、俺の方も麻理さんの小さな表情の変化もわかってしまった。



春希「大したことではないですよ。ただ、一日2回電話するだけですよ。

   それに今は携帯のアプリやネット回線もあるわけですから、

   お金もあまりかからないと思いますしね」

麻理「何をしようっていうのよ?」

春希「簡単な事ですよ。麻理さんが食事をするときに俺と電話して、

   画像と音声をつなげるだけです。

   麻理さんの職場では無理でしょうけど、朝と夜の食事は自宅ですし、

   何も問題ないと思いますよ」

麻理「ネット回線でつないで一緒に食事をしようってこと?」

春希「ええ、まあ」

麻理「簡単な事って北原はいうけど、日本とNYとでは時差もあるし、

   私の食事の時間も決まった時間っていうわけではないのよ。

   しかも北原にも大学や仕事もあるから無理よ。

   最初は無理を通せるかもしれないけど、

   結局はタイミングが合わなくなって悲しい思いをするだけだわ」

春希「無理かどうかはやってみたにとわからないですよ。

   時差があったとしても、俺が起きている時間は普通の日本人の生活時間とは

   かけ離れていますからね。

   それに、俺が途中で投げ出すと思いますか?」


麻理「たしかにそうかもしれないけど、北原の生活が私に縛られることになるのよ」

春希「俺がそれをのぞんでいるんですから、麻理さんは俺に甘えてくれるだけでいいんですよ」

麻理「北原は、どこまで私を堕落させれば気が済むのよ」



呆れ果てた言葉とは裏腹に、麻理さんの顔からは笑顔がにじみ出ている。

そして、俺も麻理さんもほっとしている部分もある事がお互いに理解できていた。

この方法がどこまで効果があるかはわからない。

だけど、俺がNYまで来て、麻理さんと一緒に食事をしただけでも、

味覚は治ってはいないが気持ち悪くなって吐く事はなかった。

だから、テレビ電話であっても俺との接点があるのならば、

これ以上の悪化だけは食い止められるかもしれないと願ってしまう。



春希「お互い様ですよ。俺が最悪な時に救ってくれたのは麻理さんですよ。

   今こうしてNYにこれているのも、海外研修を認められたのも、

   それはすべて麻理さんが俺に手を差し伸べてくれたからです。

   もし今俺が麻理さんに対してやっていることが堕落と言うのでしたら、

   麻理さんが俺に対してやってくれた事は、堕落以上の甘やかしですよ」

麻理「甘やかしではないわ。でも、その行為には私の打算があったかもしれないのよ。

   北原を慰めてあげれば、もしかしたら私に振り向いてくれるかもしれないっていう

   女のエゴがあったかもしれないわ」

春希「エゴでいいじゃないですか。誰だって100%自分の為ではないことなんて

   できやしませんよ。たとえ慈善活動であっても、そこには自己満足が含んで

   しまいますからね。自分にやる気を起こせない行動なんて、土台無理なんですよ。

   逆に、強制的にやらせるにせよ、やはりそこには自分の為っていう成分が

   必ず入りますしね。もしやらなければペナルティーが課せられるとかの強制であったら、

   ペナルティーを避けたいという自己保身の為っていう理由が含まれます。

   だから、どんな行為であってもエゴは入って当然なんですよ」

麻理「ねえ、北原」

春希「なんです?」

麻理「どうしてなのかしらね?」

春希「え?」

麻理「どしてこんなにも理屈っぽくて、しかも、屁理屈とも言えるような論理を

   平気で人におしつけてけるのに、どうして私は北原を頼ってしまうのかしら」

春希「理屈っぽいのと屁理屈という部分については、素直に認めますけど、

   麻理さんが俺に頼ってくれるのには、理屈なんて必要ないですよ。

   ただそうしたいからそうするでいいじゃないですか」

麻理「そうね」



麻理さんは、俺の顔を見上げていた顔を下げると、ぱふっと俺の胸に顔をうずめてくる。

麻理さんが俺の胸に顔をうずめる行為も、俺が麻理さんを抱きしめている行為も、

理屈じゃない。

今の俺達には必要な事だって本能が欲しているからしているからにすぎない。



春希「そのままでいいんですけど、

   もう一つ麻理さんに言っておきたい事があるんですけど、いいですか」

麻理「別にいいわよ。どうせ私が拒んでも北原が強引に私を甘やかすだけなんだから」



麻理さんは、俺の言葉通りに抱きついたまま返事をしてくる。

そのせいで、その声はちょっとくぐもった音になってしまってはいるが、

拒絶の意思は一切含まれていなかった。

もはや白旗状態なのかなって思えてしまう。

俺が甘やかすから(麻理さん談)、麻理さんからすればとことん甘えてやるって

開き直ったのかもしれない。

でも、それでいいんだ。今麻理さんがすべきことは、俺を利用してでも

味覚障害を克服して、普通の生活を取り戻す事なのだから。



春希「ええ、存分に甘えてください。でも、今からいう事は、どちらかというと

   俺の方が甘えているのかもしれないですけどね」

麻理「ふんっ、口ではそう言っていても、結局は私が甘えている気がするのよね。

  まあ、いいわ。とりぜず言ってみて」



と、疑惑の目と共に麻理さんは顔をあげて、俺を優しく睨んできた。



春希「誤解ですよ。誤解って言いきれない部分も確かにありますけど、

   俺の方が麻理さんに甘えまくっていますよ」

麻理「じゃあ、早く北原春希の自称甘えを言ってみなさいよ」

春希「ええ、まあいいますけど・・・・・・。麻理さん、ちょっとすれてません?」

麻理「気のせいよ。もしそう思うのなら、北原に原因があるわ」

春希「そうですか・・・・・・。そう言う事にしておきますよ。

   で、ですね。俺が8月からNY行きがほぼ決まったと話したじゃないですか」

麻理「そうね」

春希「俺としては、研修が終わってもそのままNYに残りたいって思っているんです。

   もちろん大学を卒業しなければいけないので、いったん日本に戻りますけど、

   できることなら春からは日本の職場ではなくて、

   慣れしたしむ予定のNYの編集部でお世話になりたいと思っています」



俺からすれば大発表の一つではあったのに、麻理さんは驚く事はなかった。

もしかしたら麻理さんが俺のNYでの研修を考えていたように、

その後に俺がNY勤務を望む事も考えていたのかもしれない。

だって、麻理さんの容態が短期間で治ることなどあるわけないのだから。

麻理さんがそっと目を伏して、再び俺の瞳を覗き込んできたときには、

しっかりとした意思が込められていた。

本当にいいのか? 後悔しないかっていう確認を。

だけど、そんなのは今さらだ。


何度も後悔して、何度も思い悩んで、だけど選べないで、

だから俺は今ここにいる。

後悔なんて後付けの理由にすぎない。

そもそも人間は、正しい事のみを選択するなんて不可能なのだから。




第40話 終劇

第41話に続く





第40話 あとがき


なんか気が付けば4月になるんですよね。

物語の上では時間はなかなかすすんでいませんけど。

花粉の季節だけは早く過ぎ去ってほしいと祈りながら

物語を書いています。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです


黒猫 with かずさ派


第41話



おそらく俺が考えている以上にNYの編集部に在籍することは簡単ではないはずだ。

まず言葉が違う。

いくら英語を学んできたといっても、ビジネス英語レベルまでは上達してはいない。

しかも言葉を売りにしている商売なのだから、その正確性が求められてもいる。

大学の講義ではないから優しく間違いを正してくれることもない。

そんな現場に24時間身を置かなければならなくなる。

もちろん文化の違いなどもあるだろうが、そんなのは慣れだ。

そう考えれば英語も慣れなんだろうけど、麻理さんが気にしているのは

そういう誰もが経験するような問題ではないはずだ。

麻理さんが気にしているのは、俺が日本で築いてきた関係を一端精算して、

そしてNYで一から人間関係にしろ信頼にしろそういった時間をかけて築いてきたものを

再び作れるのかっていう事なのだろう。

でも、その心配は不要だといいたい。

どこであっても俺は北原春希をやるしかないんだから。



麻理「それって、私の病気が治るまでずっと一緒にいるっていうことと受け取っても

   いいのかしら? もし中途半端な気持ちだったら、それこそ迷惑な決断よ」

春希「俺が中途半端な気持ちで決めたと思いますか」

麻理「ごめんなさい・・・」



麻理さんはすまなそうにほんの少しだけ視線をそらすが、

俺の決意を見届けようと再び俺の瞳から目をはなさないようにしてくる。

だから、俺も俺の決意を伝えようと麻理さんから目をそらさない。



春希「謝らなくていいです。でも、俺一人の力ではNY勤務獲得は絶対とは言えないので、

   できれば麻理さんのお力添えがほしいところです。

   こういう最後の詰めが甘いところがかっこ悪いんですけどね」

麻理「なにいってるのよ。かっこよすぎるわよ。

   いいわ。人事だろうと編集長だろうとなんだって脅して、揺すって、

   力づくででも北原をNY勤務にしてみせるわ。

   でも、北原も私が推薦できるだけの実績を研修期間中に残しなさい。

   日本での実績は十分あるから日本の人事はどうにかなるけど、

   NYでの編集部はほんとうに実力が物をいうのよね。

   だから、英語に慣れないなんて三日で克服しなさい。

   そして、研修一週間後には仕事にも慣れていないといけないわよ」

春希「脅したりするのはちょっとヤバい気もしますけど・・・」



まあ、俺の仕事に関しては俺が頑張ればいいだけだ。

至らぬ点も多いだろうが、これも甘えかもしれないけど、

そこは麻理さんのフォローが入るだろう。



俺が苦笑いを浮かべていても、麻理さんの勝気な瞳は勢いづくだけであった。

でもそんな頼りになる麻理さんが俺は好きなわけで、

日本の編集部に戻ったような気がして、どこか心地よい疲労感に浸ることができた。



麻理「日本でもNYでも貸しと実績を積み上げてきたんだから、

   こういうときに恩返ししてもらわないでいつ返してもらうのよ。

   散々うちの編集部員のミスやらしわ寄せをフォローしてきたんだから、

   たまには私のお願いを聞いてもらっても罰は当たらないわ」

春希「たしかに麻理さんへの恩を感じている人はたくさんいるでしょうけど……」



俺ごときのことで恩を返してもらうなんて、という言葉を続ける事はしなかった。

日本にいた時の俺たちならば、何も問題ない笑い話で終わったはずだ。

でも、今は違う。俺はもう目をそらさない。

今麻理さんにとって何事にも変えられない重要事項だって、俺は受け入れてしまった。

相手に自分の都合を押し付ける事は不誠実だし、相手の事を見ていないといえるだろう。

それと同じように、相手が俺に向けてくれる感情を見ないふりをする事は、

相手の事を見ていないといえてしまう。

だから俺は、不誠実でありたくない。

麻理さんにとって誠実でありたいと望むほど、

かずさに対して不誠実だというジレンマを抱えつつも、俺はかずさを愛し続けている。

きっといつの日か罰が下るのだろうけど、その日まで愛していさせてほしかった。



麻理「さてと、来年からの北原の身の振り方の方針は決まったことだし、

   あとは研修で結果を出すしかないわね。

   大丈夫よ。北原なら、きっと私の期待にこたえる仕事をしてくれるわ」

春希「ええ、期待に沿えるよう努力しますよ」

麻理「よろしい」



麻理さんは俺の返事に満足したようで、会心の笑みを浮かべる。

ただ、その笑みを顔に定着したまま俺を抱きしめる腕の力を強めていくのは何故だろう。

顔は笑っているはずなのに、仮面のような静かな笑みは俺を不安にさせる。

そして、その笑みに変化が起き、不敵な笑みに変わっていった時には、

俺の直感は正しいと理解できた。



春希「えっと・・・、麻理さん。どうしたんです?」

麻理「ん? いや、なに。ちゃんと最後まで話をしようと思って」

春希「話ならちゃんとしますよ?」



どういうことだろうか?

俺が麻理さんの話を聞かないなどありえないのに。

麻理さんの言葉は俺を納得させる効果は望めず、ただただ困惑させるだけであった。


麻理「そうね、北原なら、しっかりと、話してくれるでしょうね。

   たとえ和泉千晶さんのことであっても」



麻理さんはそう言い放つと、今度こそ綺麗すぎる笑みをプレッシャーとして

俺に押し付けてきた。

力だけなら俺の方が強いはずなのに、その頬笑みが俺の筋力を緩め、

行動不能へと陥れてくる。



春希「千晶の事ですよね。話しますって」



声が上ずってしまう。けっしてやましい事などないのに、どうしても麻理さんからの

プレッシャーが俺を罪人へと押しやってしまう。



麻理「じゃあ、話してもらいましょうか」

春希「もちろんですよ」



俺は麻理さんのご希望に応じようと笑みと共に返事をしたはずなのに、

麻理さんの顔色を見ると、麻理さんの目には俺は

引きつった笑みで上擦った返事をしたようにみえたようだった。

それでも俺は春休みにあった事を全て語り尽くした。

元々隠すような事はないのだから、自分の潔癖を証明する為にも堂々と話すべきだった。

しかし、話が進んで行くうちに千晶が風邪をひいた事も話すことになり、

そうすると俺が忘れていた事実も出てくるわけで、それさえも正直に話すか迷ってしまった。



麻理「それでどうしたのよ? 

   千晶さん、風邪をひいたけど、どうにか提出期限には間に合ったのよね?」

春希「まあ、結果は最初にお話しした通りにレポートは合格でしたので、

   期日には間に合いましたよ」

麻理「でも、なんだかうかない顔してないかしら?」

春希「そうですか?」

麻理「ええ、そうね」



後ろめたい気持ちなんてないって思っていたのに、

たった一点のみ後ろめたいことがあったことを思い出してしまった。

千晶のためであり、俺の精神の健康上の為に忘れていたのに、

どうしてこういう場面にかぎって忘れたままにできないのだろうか。

あのことはもちろん偶然であり、俺の意思ではないんだけど、

たとえ事故だとしても麻理さんに話すとなると勇気がいるわけで、

内心うろたえ始めた俺は、話が進むほど顔にまで動揺が浮かび出てしまったようだ。

そもそも目の前にいるのは麻理さんなわけで、いくら隠し事をしたとしても

きっと見破られてしまうのだろう。

だったら・・・。




春希「申し訳ありませんでした」

麻理「え?」



そりゃあいきなり土下座したら、麻理さんだって驚くってものだ。

だけど、これも俺の誠意なわけで、動揺しまくっている俺には他の方法は思い浮かばなかった。



春希「千晶の看病した時なんですけど、汗をかいたっていって風呂に入りたいって

   言ったんですよ。でも、熱もまだ下がりきっていなかったんで、

   タオルで汗を拭いたんです。

   それで、俺が背中を拭いたんですけど、カーテンを全て締めるのを忘れていたせいで

   窓に千晶の裸がうつってしまいました。

   それで、その・・・。まあ、千晶の裸を見てしまったというか・・・」



俺は床に額をこすりつけながら一気に告白していくが、どうにも要領よく話せているとは

思えなかった。自分が声に出した瞬間に俺の頭から今言った事がこぼれ落ちてゆき、

何を言ったのかさえ理解できていなかった。



麻理「それって事故なんでしょ?」

春希「はいっ」



俺は顔を勢いよくあげると、声を張って返事をする。

目の前にはちょっと情けない弟でも見るような瞳が向けられていた。

どうやら怒ってはいないみたいであり、俺はほんの少しだけ心が軽くなっていく。



麻理「それに、窓に映ったのを見ただけでしょ?」

春希「いえ、それは・・・」



正直者すぎる俺は、どうしても嘘をつく事ができず、目を泳がすことしかできないでいる。

そもそもバスルームから出てきた千晶が上着を着ていなかったのは、

千晶の責任でもあるわけで、俺に全ての罪があるわけではない。

でも、たとえ罪が軽いとしても、どうして麻理さんの視線が痛いのだろうか。



麻理「直接見たの?」



凍てつく声が俺を捉える。目の前にいる麻理さんは、情けなすぎる弟を憐れに思いながらも、

隠しきれない怒りを声に込めてしまっている。

一見見た目は先ほどと変わりはない。

だが、変わらないからこそ、声の変化だけは異様に迫力があり、俺を床に縛りつける。

動けなかった。今すぐ返事をしないといけないってわかっているのに、

口さえ動かなくなっていた。


麻理「千晶さんの裸を、北原は、直接見たか聞いているのだけれど」

春希「はい、見ました。でも、一瞬でしたし、あれは事故だったんです。

   タオルを取りに来た千晶が上着を着るのを忘れていまして・・・」



言い訳をするほど俺はうろたえていき、信頼度が急落しくいく。

それに伴い、麻理さんの表情はますます曇って行くばかりだった。



麻理「北原は私が怒るとでも思っているのかしら?」

春希「え?」



麻理さんは苦笑いを浮かべながら俺の肩に手をあて、ゆっくりと床の上に座らせてくれた。

俺を見つめるその瞳には、呆れはあっても怒りは含まれていない。

俺が勝手にびくついていたことが、幻影を麻理さんに重ねてしまっていた。



麻理「たしかに北原が若くてきれな女の子の裸を見た事に憤りというか

   嫉妬に近い感情を抱いたわ。でも、事故だったんでしょ?」

春希「はい」

麻理「だったらいいじゃない。それとも……私の裸も見て、ちゃらにする?」



俺は呆然と麻理さんの冗談を聞いているしかなかった。

そもそも冗談を言うのでしたら、最後まで堂々としていてくださいよ。

冗談を言った本人が一番照れてどうするんですか。

愁いを帯びたその瞳は、恥じらいも混ざり合って儚い色気を醸し出してゆく。

けっして俺の瞳からそらさない麻理さんの瞳は、俺を捉えて放さない。

だから俺は、麻理さんの色香にのぼせてゆくしか道が残されていなかった。



麻理「もう……冗談よ」

春希「そうですよね」



もちろん、そんなに照れるんなら言わないでください、とは言わなかった。







朝の騒動はとりあえず落ち着き、

俺達は今後の事を踏まえて今まで会えていなかった時の事を語り合っている。

昨夜も遅くまで語りあっていたが、どうしても病気の事は避けてしまう。

どうしてこんなにも話す事があるのだろうか。

たった2カ月あえていないだけなのに、話したい事は尽きないでいた。

穏やかに時間が刻まれてゆき、天高く昇ってくゆく太陽も部屋に温もりを運んでくる。

ずっとこのままの時間が続けばいいのにと思えてしまうほどの緩やかな時間は、

いつまでも続くものではないと、俺達は悲しいほど理解していた。



春希「そういえば思ったんですけど、麻理さんって料理していませんよね?」




俺は昨夜と今朝使ったばかりのキッチンを思い浮かべる。

やはりというか、当然とも言えるのだろう。

麻理さんがいくら部屋の掃除をするようになったとしても、料理まで自動的にできるように

なるわけではない。

俺だって料理の勉強中であるわけだから、その上達の難しさを身を持って

現在進行形で理解していた。



麻理「少しは頑張ってみようとやってみたのよ。

   でも、人には向き不向きっていうものがあって……」

春希「別に麻理さんを責めているわけではないですよ」



膝を抱えて小さく丸まって拗ねている姿も可愛らしく思えたが、

それを麻理さんに指摘すると数十分間は機能停止になってしまうのを

たった半日で理解した俺は、あえてそのことに触れずに話を進めることにした。



麻理「じゃあ、なによ?」



だから反則ですって、半泣きのその姿は……。



春希「ええ、日本にいた時にも言いましたけど、キッチンにある鍋とか見栄えがいい道具は

   そろっているんですよ。

   でも一方で、包丁は各種そろっているのに研ぎ石がありませんでしたし、

   それでも刃が綺麗なままでしたので、使っていない事がよく現れていましたよ。

   あと、菜箸とか地味だけど必ず必要になる道具は一切そろってないんですよね。

   今朝まではフォークとかをうまく使って料理しましたけど、菜箸くらい欲しいですね。

   でも、NYで菜箸って売っているんですかね?

   もしなければ日本で買ってきますけど、一度NYで必要な物をそろえて、

   それでも足りないものはまとめて日本で買ったほうがいいかな……」

麻理「あぁ……。その辺は北原に任せるわ。私も佐和子も料理に関してはまったくだし」

春希「でしたら、昼食を作る前に見に行きませんか?」

麻理「料理グッズを見に?」

春希「ええ、そうです。日本でいうロフトとかハンズみたいな料理グッズを

   取り揃えている店って心当たりありませんか?」



俺はさっそく頭の中で既にそろっている道具とそうでない道具のリストを作り始める。

さらに、すぐにでも必要なものとそうでないものに分け、優先順位を作り上げた。

別に時間がないわけでもないし、麻理さんとゆっくりショッピングするのもいいけど、

どうしても日頃の癖は抜けなく、予定を優先順位をつけてしまう。

でも、何を買うべきかがわからずに、なんども同じところを歩き回るよりはましかと

自分の正当性を作り上げて自己満足をしておいた。


麻理「そうね。それだったらわかるわ。中に入ったことはないけど、道はわかるから

   案内できるわよ」

春希「じゃあ、道案内お願いします」







俺は麻理さんに連れられて目的のものを次々にそろえていった。

一応菜箸も手に入れる事もでき、日本で買わなければならないものなどはない。

中には日本にはないようなグッズもあり、目を引いたが、それはいわゆるデートとしての

盛り上がりを作るのに一役買ってくれた。

それに、料理をしない麻理さんが料理グッズを見ても面白くはないと杞憂していたが、

物珍らさも相まって楽しいんで貰えたようだ。

今も戦利品が入った袋を胸に抱きながら、にこやかに俺に話しかけてきていた。



麻理「これがあれば、私だって料理の手伝いくらいはするようになるわよ」

春希「そこは料理をするようにではないのですね」

麻理「だから、人には向き不向きがあるのよ。その辺を熟知している私は、

   無理な事はしないのよ」

春希「後ろ向きな進歩ですけど、麻理さんが一緒に台所に立ってもらうことは

   いい進歩だと思いますよ。

   俺一人で作っているよりは、一緒にやったほうが楽しいですからね」

麻理「でしょ? やっぱり買って良かったわ」

春希「そうですね」



麻理さんは袋の中身に思いを寄せる。

それは色違いのおそろいのエプロン。

俺のがベーシックなデニムブルーで、麻理さんがブラウンをチョイスした。

もちろん俺が選んだのではなく、麻理さんが選びとったものである。

デニム生地のしっかりとした作りで、地味だけれど、

俺と麻理さんの目を引き付けるのには十分である。

一目ぼれとも言うが、料理をしない麻理さんであっても、

これを身につけた姿を見てみたいと思ってしまう。

それで試着をという流れになり、

これほどまで麻理さんがやる気になるとは計算外ではあった。

計算外ではあるが、麻理さんのエロプン姿をみられたのだから、

俺の想像力の小ささを嘆くのはよしておこう。

エプロン姿の麻理さんを夢想するのは大変有意義な時間だが、

想像上の麻理さんに思いを寄せておくと今目の前にいる麻理さんがやきもちを焼くので、

今目の前にいる麻理さんに意識を集中した事はいうまでもなかった。



春希「買う物はほぼ全て買いましたし、そろそろいったん家に戻りましょうか。

   このままスーパーにいってもいいのですけど、荷物も多いですし、

   家に荷物を置いてから出直した方がいいですね」


今は午後1時過ぎ。遅い朝食をとったおかげで、まだ比較的食欲は沸いてきてはいない。

街のレストランを覗くと人が溢れていて、もう少しだけランチタイムの混雑は続くのだろう。



麻理「ええ、そうね。さすがにこれだけのものを持ってスーパーには行きたくはないわね。

   北原が全部持ってくれるとしても、ちょっとばかしは気がひけるわよね」

春希「俺が持つ事前提ですか?」

麻理「男性なんだし、たまには力がある所を見せてくれてもいいじゃんない?」



陽気な麻理さんは、肩を俺の腕に軽くぶつけると、挑発的な視線を送ってよこす。

すると俺は、普段は頭脳労働メインですけど、これでも一応男ですから

それなりに力はあるんですよ、と目で訴えかけたが、

麻理さんは笑ってそれを受け流すものだから、ほんとうにこの人には敵わない。



麻理「それにちょっと予約してあったのも取りに行きたいんだけど、

   まだ時間が早いのよね。

   だから、いったん家に戻ったほうが時間調整にもなったちょうどいいわ」

春希「そうですか? 俺は構わないですけど、それなら家に戻りますか」



午後の予定が立った俺達は、とりあえず家に戻るべく歩き出す。

麻理さんの左手は、エプロンやこまごまとした小さなキッチン道具が入った袋を握り締め、

右手は俺の腕にそっとそわしていた。

荷物は全部俺に持ってほしいと言っておきながら、きっちりと両手いっぱいの荷物を

持つところは麻理さんらしいと思えてまう。

春の日差しが心地よい風にのって舞い降りてくる中、俺達は歩幅を合わせて肩を寄せ合う。

日本では新生活が始まる季節ではあるが、NYでは暦の中の一つの月でしかない。

この季節、日本で生活雑貨を買いに行けば、新生活への準備の為の買い物に

来ている人達を見かけ、ちょっとあわただしくも微笑ましい雰囲気を味わうものだ。

なんだか違和感があるNYの雰囲気ではあるが、

それも俺が日本に帰国するまでには慣れてしまうのだろう。

再びこの地に戻ってきた時、俺はもう一度違和感に悩まされるのだろうか。

しかし、NYは夏から新生活なのだから、もしかしたら俺の決断は、

スケジュール的には救われているのかもしれないなと思えてしまう。

まあ、気休め程度なんだろうけど。

俺は今新しい生活へと動き出している。

両手いっぱいの荷物を持つこの手には、あとどれくらい荷物を持つ事ができるだろうか?

もし、持ち切れない荷物が出てきてしまった場合、俺は誰に相談するのだろう。

……その答えは、もう出ている。

きっと彼女なら、嫌味を言いながらも俺の話を聞いてくれるはずだ。

そう、遠い彼方を見つめながら、今手にしている荷物をぎゅっと握り直した。



第41話 終劇

第42話に続く


第41話 あとがき



話が進むにつれて設定を見直す事が増えていっています。

大まかな事はプロットとか設定にまとめているんですけど、

やはり全てを覚えておくことなどできないわけで。

執筆した分だけ設定が増えるのですから当然なんですけど、

もしつじつまが合わない部分があったとしら、

疲れているんだし、どんまいって生温かい目で見守っておいてください。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです



黒猫 with かずさ派


第42話



ちょっと遅い朝食をとってから買い物に出かけており、昼食はとってはいない。

そもそも出先で外食などできないのだからして、麻理さんが俺の空腹を気遣って

戻ってきたとも考えられる。

時間的には昼食の時間でもいいころあいだ。さてどうしたものか・・・。

とりあえず荷物を置きにマンションまで戻ってきた俺達は、俺が中心となって

買ってきたばかりの品をキッチンで使いやすいようにしまっている。

一応麻理さんにキッチン道具の配置の指示をもらおうとはした。

けれど、キッチンをほぼ使っていない麻理さんにはわかるわけもなく、

結局俺が使いやすいように配置する事になる。

そのおかげで仕事を貰えた事は都合がよかった。

昼食の事をいくら考えても答えなど出てきそうにもないが、

手くらいだけは動かしていた方がちょっとはましな考えも出てくるものだ。

何もしないで考えているときほど、どつぼにはまってしまう。

こうやって麻理さんを気遣う事こそ悪循環なんだろうが。


麻理「戻って来たばかりなんだし、少しは休んだ方がいいんじゃない?」

麻理さんは椅子に座ったままテーブルに寝そべりながら俺に提案してくる。

春希「麻理さんは休んでいてくださいよ。

   麻理さんが俺に片付け任せてくれたんですから、いいじゃないですか」


俺は麻理さんを横目に見ながらも、手だけは止めずに反論する。

テーブルでぐてぇ~としている様が、なんだか千晶と重ねてしまう。

そう思うと、じわじわと笑みがこみあげてきてしまうもので、

当然麻理さんにも俺の笑っているのに気がついてしまう。


麻理「人を年寄り扱いしてぇ。北原が私を邪魔者扱いしたからじゃない。

   キッチンは北原しか使わないし、私が使うとしても電子レンジくらいだしぃ、

   だから片付けは北原に任せたんじゃない。

   それなのに笑うなんてひどいわよ」


だったらせめてテーブルにひっつけたままの頬を

テーブルから離してくださいよとは言えなかった。

言ったら言ったらで楽しい会話が続くんだろうが、可愛い反感を貰うのも躊躇われた。


春希「年寄り扱いなんて今まで一度もしたことがないじゃないですか。

   それに邪魔者扱いもしていませんよ。

   普段料理をしない麻理さんよりは、少しは料理をする俺が道具の配置をしたほうが

   合理的だって言ったのは麻理さんですよ?」

麻理「そうだけど・・・」

春希「キッチンも二人が動き回れるほど広いわけでもないですし、

   俺一人がやるほうが合理的ですよ」

麻理「それもわかるんだけど」

なおも納得していない麻理さんを見て、どうしたものかなと頭を悩ませる。

麻理さんにとって理屈ではないのだろう。

春希「もうすぐ終わりますから待ってて下さいよ」

麻理「ほんと北原は手際がいいわね。仕事もそうだったけど、料理の方も

   そうとう早く腕をあげるんじゃないかしら」

春希「そんなことないですよ。色々思考錯誤してやっていますよ」

麻理「ふぅ~ん」

春希「さてと、終わりましたよ。

   そういえば取りに行く物があるって言ってましたけど、どうしますか?」


どうも話の流れが悪いと判断した俺は、次の予定を聞く事にする。

強引な話の切り替えだが、麻理さんの方も異論はないようであった、


麻理「ええ、誕生日ケーキを取りに行こうと思って」

春希「麻理さんのですか?」


俺の返事を聞くと、麻理さんはがばっと顔をあげ、信じられないといった顔を俺に見せる。

いや、わからないのは俺の方なんですけどね。

まあ、麻理さんの誕生日は正月なわけで、

俺の答えはそうとうあさっての方向を見ているのは認めますよ。

でも、麻理さん以外の誰の誕生日を祝うっていうんです?


麻理「ねえ、北原・・・」

春希「はい?」

顔を斜めにそらしながら目を細める麻理さんの横顔は冷え切っていた。

どこか荒涼とした雰囲気に、俺が不正解を言ってしまった事にようやく気がつく。


麻理「わざとかしら?」

春希「わざと、とは?」

麻理「その言葉通りの意味よ。北原がわざと言ってるのかしらってことよ」

春希「わざとなんて言ってませんって。

   この場には俺と麻理さんしかいないんですから、誕生日を祝うんでしたら

   麻理さんのかなって思っただけです」


俺の説明を聞くと、冷え切っていた表情が呆れへと変化していく。

肩をわざとらしく落とすと、そのままテーブルにとうつぶせる。

少々オーバーな演技であるが、可愛らしくおあり、

こっそり心の中で微笑んでしまったことは麻理さんには内緒だ。


麻理「どうして北原は自分の誕生日だと思わないのかしら?」

春希「俺のですか?」

麻理「そうよ。4月といえば北原の誕生日じゃない。

   私の誕生日は一月よ」

春希「麻理さんの誕生日を忘れるわけないじゃないですか」

麻理「そ、そう」


俺の反論に麻理さんの頬がうっすらと赤く染まる。


照れて顔を両腕の中に隠さないところは意地なのだろうか。

そのかわり、力が入った瞳で俺を睨みつけてるという反撃を受けてしまった。


春希「でも、今日は俺の誕生日ではないですよ」

麻理「わかっているわよ。でも、北原の生まれた日にお祝いできないじゃない。

   私はNYにいるわけだし」

春希「たしかに・・・」

麻理「ねっ」


今度は俺の方が照れてしまいそうだ。

麻理さんに愛されいるって実感できる。

それに、誕生日を祝ってもらうことなんて、いつ以来だろうか?

大学高校、遡って中学であっても、クラスの連中がプレゼントをくれた事はある。

だけど、ケーキを用意しての誕生日会となると、

親が離婚する前の消えかけている記憶でしか思い浮かばなかった。


春希「俺の為に用意してくれたんですか?」

麻理「北原以外にいるわけないわよ」

春希「そうかもしれないですけど・・・」


目がしらが熱くなる。

いくら愛されても、その愛にこたえる事が出来ないのに、

どうしてそこまで愛を注いでくでるんですか。

こんな卑怯すぎる俺に与えるべき愛情ではないですって、叫びたかった。


麻理「いいのよ。私の自己満足だと思って受け取ってくれないかしら」


俺の心情を読みとってしまった麻理さんは、寒そうに両腕で自分を抱く。

いくら麻理さんを悲しませないって心に誓っても、こうして隙間をついて悲しませてしまう。

穴だらけの俺の防波堤は、その役割を最初から果たしてはいなかった。


春希「・・・麻理、さん」

麻理「でも、料理は北原自身に作ってもらうんだけどね」


暗くなってしまった部屋を麻理さんが痛々しく明るくしようとする。

健気で、意地っ張りで、人情ぶかくて、愛くるしい。

ワーカーホリックをこじらせた仕事人間であるところも、麻理さんらしさを醸し出している。

ただ、北原春希というダメ人間を愛していなければ、

きっと幸せになっていた人なのに。

何度ともなく繰り返されてきた後悔を振り払い、

俺は麻理さんが作ってくれた明りを大切に手元に寄せる。

たとえ不格好な笑顔であっても、人は形から入るものだと変な言い訳までつけて。


春希「俺が今ある腕を全てふるって料理を作りますよ。

   でも、自分の誕生日パーティーだというのに自分で作るって変な気分ですね」

麻理「それって、私が料理が出来ない事を揶揄っているのかしら?」


麻理さんは目じりに涙を浮かべながらも、必死に俺をたきつけてくる。

そうしないと、ちょっとでも気を抜いてしまうと、俺達は沈んでいってしまう事を

二人とも理解していた。


春希「違いますよ。 

   そんなつもりで言っていないことくらい麻理さんもわかっていますよね?」

麻理「だったらどういうつもりで言ったのよ?」

春希「とくに意味はないですけど・・・」

麻理「そう?」

麻理さんは目元を軽く指先でぬぐうと、わざとらしく拗ねた表情を作り出した。

春希「でも、麻理さんと一緒に料理すればいいですかね。

   そうすれば、一応は麻理さんの手料理となるわけですから」

麻理「なんだか余計な事を言われている気もするんだけど、ここはよしとしときましょうか」

春希「それは光栄です」

俺もわざとらしく、うやうやしく一礼する。

麻理「でも、私に料理なんてできるかしら?」

春希「大丈夫ですよ。俺でも作れるものしか作らないんですから、料理といっても

   初心者向けのレシピしか使いませんよ。

   だから、料理をまったくしない麻理さんでも俺の手伝いくらいはできるはずです」

麻理「またしても余計な一言がきこえてきたんだけど、気のせいかしらね」

春希「気のせいですって」


口をとがらせて不平を訴えかけてくるものだから、俺の苦笑いして丁寧に反論するしかない。

まあ、口をとがらせた麻理さんも可愛らしくて、もっと見たいと思ってしまった事も

秘密にしておいた方がよさそうだった。










麻理 佐和子との電話(回想)




麻理「どうしたらいいのぉ~・・・」

佐和子「どうもこうもないじゃない」


私の盛大な心の叫びを聞いてもなお、

親友でもあるはずの佐和子はそっけない返事を返してきた。

こうも冷たい反応ばかりされると、さすがに親友じゃないのかもって疑いたくもなる。

でも、この電話で何度も繰り返された同じ質問に、根気よく何度も答えとほおってよこして

くれる佐和子の根気強さを思い返せば、親友じゃなければできないと、

電話の後冷静になったときに導きだした

一応感謝と謝罪のメールをすかさず送った事はいうまでもない。

主に謝罪9割のメールではあったけど・・・・・・。


佐和子「だって、わざわざ北原君の為に誕生日プレゼント買ったんでしょ?

    だったら渡さなければもったいないじゃない」

麻理「お金の問題じゃないでしょ」

わざとらしくおどける佐和子に、ありがたく私ものっかる。

佐和子「だったら、なおのこと渡さないといけないと思うわよ」

麻理「だけどぉ・・・」

またもや会話の無限ループ陥りそうになり、電話の向こう側から盛大なため息が聞こえてくる。

私だってため息をつきたいほどなのに、一応私の事だから我慢しているのに、

それってちょっとあんまりじゃない?


麻理「ちょっと、佐和子ぉ?」

佐和子「はいはい、聞いてますって。

    北原君が麻理の誕生日にくれたボールペンの色違いをプレゼントするんでしょ」

麻理「ええ、まあ、そうね」

佐和子「大丈夫だって」

麻理「北原のことだから、喜んで受け取ってくれるとは思うのよ」

佐和子「そうね。笑顔で受け取ってくれるわ。

    でも、おそろいのボールペンを送るなんて、あんた重い女になったわねぇ」


これで笑い声までおまけが付いていたら立ち直れないところだった。

佐和子の声色が場を盛り上げようとしているのがわかっていて、なおかつ事実を

私に突き付ける為のものだとも理解は出来てはいた。

でも、もうちょっとオブラードに包むって事を覚えてくれないかしら。

長年の親友は大切だけど、こういった遠慮がなくなり過ぎているところは考え直すべきね。

・・・訂正。遠慮なんてする間柄なんて、ごめんかな。

佐和子には抉るような意見だって言ってほしいもの。


麻理「ええ、そうよ。重い女よ。彼女がいる相手におそろいのペンを送ろうとしている

   残念すぎる女なのよ」

佐和子「事実だからフォローのしようもないけど、Watermanのカレンだっけ?

    いいペンだし、せっかくニューヨークまで来てくれるんだから、

    そのお礼も兼ねて送ると思えばいいんじゃない?」


北原から誕生日に貰ったボールペンは、Watermanのカレン。

赤色のペンで、ちょっとだけ重い。

なんとなく人の存在の重みというか、

北原から貰ったとという実感が重みとして手に伝わって来て、私は大変気にいっていた。

そのペンの色違いをニューヨークで見かけて、つい買ってしまった。

とくに意識して探していたわけではない。

私のペンのインクの替えを買いに文房具店に行き、店員に注文して待っているときに

その青いボールペンが目に止まってしまっただけだった。

ショーケースの中にあるそのボールペンは、赤と青。そして黒の三色がならんでいた。

青を選んだ理由は、なんとなくだった。

別に男性に送るものだから黒を選んでもよかったのだけど、

なんとなく北原には青かなって思ってしまった。


麻理「たしかに大学やバイトだってあるわけだし、

   それに旅費だって北原にとっては少なくない出費なのよね。

   それを考えると、誕生日プレゼントとしてペンを送るだけというのも

   感謝のしるしとしては弱いのかもしれないわね」

佐和子「だったら下着くらいは可愛いのを用意しておきなさいよ」

麻理「はぁ?」


私は盛大な声を電話に撒き散らしてしまう。

いや、わかるわよ。佐和子が言っている意味くらいは、私にだって理解できる。

理解はできるけど、それこそ重すぎる女になってしまうじゃない。


佐和子「なにをとぼけた返事をしてるのよ。勝負下着くらいもっているんでしょ?」

麻理「なにを言っているのかしら、佐和子さん?」

佐和子「あぁ、干からびてワーカーホリックになってしまった麻理には必要ないか。

    そうよねぇ・・・。使わないんだったら買っても意味がないわけだし、

    これこそ本当にお金の無駄使いよね」

麻理「それくらい持ってるわよ!」


どこか鼻につくいい方に、私はついかっとなって言いかえしてしまった。

後になって思い返すと、佐和子の術中にはまっただけとも言えるのだけれど、

言ってしまった事は取り消すことなどできやしなかった。


佐和子「どうせ数年前にかったやつでしょ?」

麻理「失礼ね。グアムで買ったやつよ」

佐和子「それって、この前私と一緒にグアム旅行に行ったときに買ったやつ?」

麻理「えぇ、そうよ」


会話が進むほどに私のテンションは下がっていく。

つまりは冷静になってきたというわけだけど、

どうして誕生日プレゼントの話だったのが下着の話になったのだろうと疑問に思う。

これも自分が佐和子の挑発にのったのが悪いんだろうけど、

数秒前の私に恨み事を言いたい気分になってしまった。


佐和子「あぁ、あれね」

麻理「ね。最近買ったのもあるでしょ」

佐和子「あのエロエロできわどすぎるのかぁ・・・。たしか黒だったわよね?」

麻理「えぇそうよ・・・」


今さら後には引けないってわけではないのに、どうして話を続けているのかしら?

そして、段々とこんなにも不毛な話を続けている私自身が情けなくもなってきていた。

それでもある意味ふっきれたというか、別の角度からみるとぶっ飛んでいるともいうけど、

なんだかテンションが下がるほどに楽しくなってもきてもいた。


佐和子「でも、あんな下着買っても一度も着ていないんでしょ?」

麻理「失礼ねっ。着てるわよ」

佐和子「え? もしかして北原君と・・・」


さすがに私の危ない発言を聞いては、佐和子も低い声で探りをいれてくる。

急に場の雰囲気が変わってしまい私は少し戸惑いもしたが、自分の発言の意味を理解すると、

猛烈なスピードで補足事項を告げていった。


麻理「違うわよ。そういうことは一切ないわよ。

   着ているといっても、大事な会議の時に気合を入れる為に着ただけなのよ。

   だから、佐和子が思っているようなシチュエーションにはなってないからね」


一息に全て告げると、息が切れて頭がくらくらしてくる。

酸欠もあるけど、自分の馬鹿な発言が追い打ちをかけるように頭痛を誘発する。


佐和子「それは・・・、別の意味で痛いわね」

麻理「どういう意味よ。女は見えない部分にも気を使うものよ」

佐和子「女性としてよりも仕事最優先のあんたには言われたくないセリフだけど、

    でも、まあ、これはこれでありかもね」

麻理「どういう意味よ?」


佐和子の怪しすぎる声色に、私は身構えてしまう。

電話だから見えないけど、きっと佐和子の事だから、意地悪すぎる顔をしているんだろう。


佐和子「だってさ。大事な会議の時に麻理ったら、あのエロエロな下着を着てたんでしょ?

    これってある意味すごいシチュエーションかなって思えて」

麻理「そう言われてみると・・・。でも、大事な会議とかの場合、下着とかじゃないけど

   なんかゲン担ぎみたいなことすることもあるでしょ?」

佐和子「それはあるけど、あの麻理が、あの下着で会議でしょ?

    もし会議に出ていた人たちが麻理の下着の事を知ったらと思うと、ねぇ?」


一瞬佐和子の想像を私も思い浮かべようとしたが、頭の中で映像となる前に消去した。


麻理「誰にも言わないし、知られる事もないわよ」

佐和子「そお? けっこう似合ってると思ったんだけどなぁ。

    きっと北原君も見たら、驚くと思うわよ」

麻理「それは・・・、北原が見たら驚くに決まっているじゃない!

   別の意味で。それに北原とは清い関係だし、

   それに北原には冬馬さんがいるのよ。

   どうして私の下着姿を北原に見せることになるのよ。

   北原は冬馬さんの事を裏切れないし、

   私だって冬馬さんの事を傷つけることなんてできないわ。

   ・・・ただ、北原が私の為にニューヨークにまで来てくれる事自体が

   冬馬さんを傷つけているってわかってはいるのよ。

   そもそも私はまだ処じ・・・、ん~~~・・・・今のは、なし」


私は親友の佐和子にも知られていない秘密をばらしてしまったかもしれなく、

いや、絶対ばれているはずだ・・・、沈黙しか選択肢が残っていなかった。

一言でも言葉をだせば悲鳴が飛び出てくる気がするし、

言葉が出たとしても、きっと裏返った声になってしまうだろう。


いまや上気しきった顔は真っ赤に染まり、電話を持つ赤い手は小刻みに震えていた。


佐和子「えっとぉ・・・、まあ、なに?

    自分の身を大切にするってことはいいことだと思うわよ。

    いっそのこと、結婚するまでバージ・・・」

麻理「佐和子っ!」


佐和子の言葉を途中で遮ぎる。

遮ったところで私の事実は変わらないというのに、どうしたものか。

別に恥ずかしい事だとは思わない。

どうでもいい相手に体を触れられたくはないし、体を許したくもない。

だったら佐和子のいう通り、結婚するまでそのままであってもいいとも思う。

でも・・・、声に出して誇るべき内容ではないということだけは確信できた。

だって、いくら佐和子であっても恥ずかしすぎるじゃないっ!


佐和子「ごめん。でも・・・」

麻理「もう言わないで。この話はここまでっ」

佐和子「麻理がそう言うんだったら・・・・」


沈黙が私たちを支配する。

私が作り出してしまった気まずい雰囲気は、簡単には打破できそうにはなかった。

それでも私を心配して電話を何度もかけて来てくれている佐和子は、

こういった沈黙に慣れてきていた。

だからこそ無難な話題も予め用意しているのかもしれなかった。


佐和子「あの下着着たっていってたけど、サイズは大丈夫なの?

    最近痩せてきてるんでしょ?」

麻理「今のところブラのサイズは問題ないのよね」

佐和子「へぇ・・・」


佐和子は意外そうな声を洩らす。とりあえず場つなぎの為に振った話題なんだろうけど、

意外と話を持ちだした佐和子自身が興味をもったようであった。


佐和子「でも、体全体としては痩せたんでしょ?」

麻理「そうね。痩せたけど、うまく調整すれば今までの服もきれない事はないわよ」

佐和子「ブラも?」

麻理「そうね。ウエストとか太ももは細くなってきているのが自分でもわかるけど、

   胸はあまり変わっていないのかしら」

佐和子「うらやましぃ」


恨めしそうな重低音が鼓膜を震えさせる。

きっと気のせいだろうと決めつけようともしたが、

無視しても後が面倒だから諦めることにした。


麻理「なにを言ってるのよ。今のところブラもサイズ調整するだけで大丈夫だけど、

   でも多少の違和感はあるのよ」

佐和子「でも、カップは変わっていなくて、しかもウエストは細くなったんでしょ?」


麻理「そうだけど・・・」

佐和子「女の敵」

麻理「佐和子?」

佐和子「本当は私の体型を思い浮かべて笑ってるのよ」

麻理「佐和子?」

佐和子「最近運動不足なのも響いているのよねぇ」

麻理「お~い・・・、佐和子ちゃん?」

佐和子「もういいわ!」


佐和子が突然大声をあげるものだから、驚いてしまう。

今まで暗いうめくような声色だったのに、突然声をあげたものだから、

ちょっと声量をあげただけでも頭に響いてしまった。


麻理「え?」

佐和子「もういいわ。北原君もニューヨークに行くわけだし、

    北原君が気にいる下着を一緒に買いに行けばいいじゃない。

    きっと北原君は恥ずかしがりながらもフィッティングルームまでお供してくれるわよ。

    きっとグアムで買ったのなんかお子様用だと思えるくらいの

    破廉恥な下着を買うのよね。

    もういいわ。勝手にいちゃついていなさい」

麻理「佐和子?」


佐和子の逆切れ?が私たちに笑いをもたらす。

佐和子もこれを狙って話題を振ったわけではないのだろうけど、

今は佐和子への感謝の念でいっぱいだった。

話題にしている内容なんてお馬鹿すぎる内容なんだけど、今の私にはぴったしである。

ただ、北原がニューヨークに来たら試しに誘ってみようかなと、

ほんのわずかながらだけど真剣に考えてしまった事は秘密にしておこう。



第42話 終劇

第43話に続く





第42話 あとがき


今週より「ハーメルン」「SS速報VIP」とのマルチ投稿となります。

掲載する内容は同じですので、すきなサイトでご覧になってください。

ほんとうはどこか一つに絞ろうかとも考えたのですが、

今までお世話になってきたサイトでもあるわけで、

マルチ投稿でいこうかなと決断を下しました。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです


黒猫 with かずさ派

第43話



夕食兼俺の誕生日パーティーの食事の材料を買い、

さらには麻理さんが注文してあった誕生日ケーキを買った俺達は、

とくに寄り道もすることなく自宅へと引き上げていた。

一応誕生日パーティーということでワインかシャンパンでも買うのかと思っていたが、

麻理さんはアルコールに関しては何も言ってはこなかった。

実は麻理さんのマンションには、ビールをはじめアルコール類が一切おいてはいなかった。

だから料理でほんのちょっとだけ飲む為のワインを拝借しようと思ってはいたが、

それが出来ない為に小さなワインボトルをスーパーで購入していた。

その際何かお祝いとしてワインでも買うのかと思いもあったが、

結局は料理用のワインだけ見てその場を後にする事になった。

そもそも体調を壊しているのだからアルコールを控えるべきなので、

当然とは言えば当然なのだろう。

でも、俺の前ではあまりにも味覚障害の弊害を見せないものだから、

俺は油断をしてしまう。麻理さんは健常だって思ってしまっていた。

ただ、キッチンに立っている俺と、そして麻理さんも、

そんな不安を見せずに今という限られた時間を楽しむことに全力をあげていた。


麻理「ねえ北原。これどうするの?」


さっそくブラウンのエプロンを身にまとった麻理さんは、編集部ではけっして見せない

不安げな眼差しをこぼしながら俺の指示に従って動いている。

俺はそんな麻理さんを頬笑みを浮かべながら料理にいそしんでいた。


春希「はい。火を中火にして噴きこぼれに注意しておいてください」

麻理「わかったわ」


俺の指示に素直に返事をしたわりには麻理さんの顔はうかない。

なにやら不満げな様子を隠そうともしなかった。


春希「なにか問題でもありましたか?」

麻理「ん? どうして?」

春希「ええ、まあ」


顔に出ていますとは言えない。

なにやら不穏な雰囲気を纏った麻理さんに刺激を与えるような言葉を

与えることなどできなかった。

そう、下手に出ようとすると自然と俺の顔にも不満というか不安な表情が

にじみ出てしまうわけで、それさえも麻理さんにとっては不満であったらしい。

ゆっくりと眉尻を吊り上げながら綺麗な唇をゆがめていった。

春希「麻理、さん?」

麻理「料理も全くできない私に呆れているんでしょ?」


可愛い不満を口をとがらせて訴えてきた麻理さんを見て、俺は思わず惚けてしまった。

いや、可愛すぎるだろ、その姿。


いつも年上の事を自虐ネタに使っているけど、こういうときの「ギャップ」を演出する為に

わざと自虐ネタを披露しているんじゃないかとさえ思えてしまう。

それほどまでの威力に俺は太刀打ちできないでいた。


麻理「ほら、また笑った」

春希「笑ってませんって」


またもや新品のエプロンをはためかせながら俺にじゃれついてくる。

その愛らしい姿に俺は微笑ましく思えてしまい、その笑みが麻理さんに反感を与えてしまう。

そして麻理さんが俺に不満を訴えてきて、

そしてまた俺がその姿に見惚れてしまい・・・・・・。

永遠に続いてしまうこのいたちごっこに俺達はじゃれつきまくっていた。

最初こそ麻理さんは本気で俺に不満を訴えてきていたのだろう。

しかし、いたちごっこが進むうちに俺が本気で麻理さんを笑ってはいないと

気がついてくれたようだ。

そうなってしまえば後は、まあ、甘え合う為にじゃれあっているというか、

料理をしているのに麻理さんとの触れ合いに楽しんでしまう。

ただ、その間鍋の火はきっちり切り、包丁などの危険物は手に触れない場所に

隔離しておいているあたりは俺らしいなと、料理再開時に気が付いてしまった。

予定時間より大幅に遅れて料理が完成した頃には、俺達は気持ちがよい疲労感を得ていた。

その疲労感のおかげでテーブルの上には隙間なく料理が並べられている。

といって、もともと二人用のテーブルなわけで、

元々それほどの数の皿を置くころはできないが。

今回の誕生日パーティーの主役のケーキは後で食べるとして、

今から食べる夕食兼パーティー料理の主役はパエリアだろう。

エビやアサリといった目に留まる魚介類もさることながら、

彩り鮮やかな野菜も目を楽しませてくれる。

そしてなんといっても華やかさがありながらも初心者でも作れるというお手軽さだろう。

最初パエリアを作ると麻理さんに伝えた時は、心底俺の料理の上達に感動していた。

だけど、初心者でも作れると説明し、実際に作っているところを見せると、

パエリアの難易度には納得はしてくれたが、やはり料理そのものには感動してくれた。

パエリアのほかにもう一品作ったものは、アサリとキャベツのスープである。

こちらの難易度も初心者向きで、麻理さんであっても俺のアドバイスのみで

作り上げる事が出来た。

この料理は俺が帰国した後に麻理さんが栄養をしっかりと取り、

なおかつ胃にも優しいだろう具材を考えて提案したものでもあった。


麻理「どうかしら?」


俺がスープの味見をするのを、

これもまた編集部では見せてはくれない不安げな表情で俺を見つめている。

やはり味覚障害の影響が出ているのだろう。


春希「美味しいですよ。しっかりとダシがでていますし、これでいいと思いますよ」


麻理「よかったぁ・・・」


胸に手をあて不安を押し流した麻理さんはようやく料理が完成となり、ほっと一息つく。


春希「心配し過ぎですって。麻理さんが作れる料理を選んだんですから」

麻理「その言い方って馬鹿にしてるでしょ?」


緊張が解けた麻理さんは、いつもの麻理さんに戻ってしまうわけで、

俺への追及は厳しくなってしまう。


春希「そんなことないですよ」

麻理「まあいいわ。そういうことにしておいてやる。・・・・・・でも」


そう言葉を区切ると、麻理さんはスープのレシピが書かれたノートを大事そうに抱きしめる。

このノートも午前中に買ってきたものの一つである。

分厚く頑丈な表紙のリングノート。

オレンジ色の表紙には、まだ何も書かれてはいない。

そのノートに俺が持ち込んだレシピを綴っていく予定だ。

今は今回作ったアサリとキャベツのスープのレシピだけだが、

俺が帰国するまでにはほかのスープレシピも書いていくことを約束していた。


麻理「北原がここに来たっていう足跡、しっかりとこのノートに刻まれたわ。

   北原が私の健康の為にって考えてくれたんだもの。

   私も料理ができないなんて言ってないで頑張ってみるわ」

春希「はい、俺も微力ながらサポートしますよ」

麻理「ありがと、北原」


正面から見れば、麻理さんの病状を考えての心優しいサポートと取ることができるのだろう。

だけど俺は、意地悪く側面から物事を見てしまう。

だって俺には明確な下心があったのだから。きっと麻理さんも気が付いている。

その下心とは、麻理さんが俺に寄せる信頼を悪用して、

麻理さんが俺の足跡を探さそうとする心細さを悪用して、

麻理さんが俺の事を好きだという愛情を悪用して、

麻理さんに北原春希の料理というスープを脳に刻み込もうとしてしまった。

俺が日本に帰ってしまった後、おそらく麻理さんは再び食事が出来なくなるだろう。

それは麻理さんとの共通認識でもあった。

そこで俺は成功する保証があるわけではないのだけれど、

俺の思い出が強く残ったスープならば食べられるのではないかという

淡い期待を込めた作戦を立てた。

だからこそ俺はノートに麻理さんが一人でも作ることができるスープのレシピを残し、

なおかつ今料理を教え込もうとしていた。

それはどう擁護された言葉を使おうと、麻理さんの愛情を利用した姑息な作戦としか

俺には思えなかった。

だけど、麻理さんは俺の下心を知ってもなお素直に俺の手ほどきを受けてくれた。


春希「美味しいです。麻理さんが俺の為に作ってくれた気持ちがしみわたっていますよ」

麻理「きざな事言っちゃって・・・・・・、このっ」

力なく俺の額を人差し指で押した麻理さんは、指をそのまま額に押し付けたまま動かない。


麻理「今日の事忘れないから。北原がここに来てくれた事、

   北原が帰国しても忘れないで料理するから。

   そうすればきっと少しは一人でやっていける、はずだ・・・わ」


麻理さんの震えがその指先から俺の額へと伝わり、

そして麻理さんの不安まで俺に流れ込んできてしまう。

励ますことなんて無意味だってわかっている。

励ましてほしいわけではないってわかっている。

麻理さんが望む事さえ許されないことを叶えてあげることなんて俺にはできやしない。

だから俺は麻理さんと一緒にいる事だけを選んだ。


春希「一人じゃないですよ。俺が日本に戻っても毎日電話しますし、

   食事だって画面を通してですけど、出来る限り一緒に食事をするんですから

   麻理さんが思っている以上に俺との時間は多いと思いますよ」

麻理「そうね。ありがと」


俺の額にあてていた指先を、つつつっと下に下げていく。

鼻筋をなぞり、唇は振れるか触れないかの微妙なあたりを通りすぎ、

そして胸のあたりまで下がってきたら一本一本全ての指を押し当てていくように

手を開いていく。指先から俺の鼓動が伝わっていく。

俺が今ここに存在している事が確認されていく。

画面では表現できない生の俺の鼓動を、

麻理さんは忘れないように心に刻み込もうとしているように思えた。


麻理「北原がここにいる」

春希「はい」

麻理「しっかりと生きているのが伝わってくる」

春希「ええ、麻理さんに触れられているので心拍数が上がりっぱなしですけどね」

麻理「そうね。すごく跳ねまわっているわ」

春希「でしょうね」


わかっていた事なのに俺の顔に赤みがさす。今さら照れてもしょうがないのに、

指摘されてしまうとより意識してしまうわけで、どうしようもなかった。

もしからしたら麻理さんはそれさえもわかっていて、

わざと俺にしてきしたかとさえ思えてくる。


麻理「私の鼓動も確かめてくれないかしら。私がここにいるって、

   私が北原の隣にいるって、北原に確かめてほしい」

勇気を振り絞って言ったのだろう。

俺の鼓動を計測している麻理さんの手が震えている。

俺の見つめるその顔も赤く染まり、熱い吐息を洩らしながら懸命に懇願してきた。


春希「無理ですよ。俺は男だからいいですけど、麻理さんの場合は女性じゃないですか。

   だから触ることなんて・・・・・・・」


裏返ってしまった声であたふたと断りの弁を述べる。

あまりにも俺が落ち着きがないせいで、緊張していた麻理さんがかえってリラックス

してしまったほどであった。

そもそも冷静に考えれば麻理さんの心拍を確認することなど簡単であった。

今麻理さんが俺の心拍を確認するのとまったく同じように胸に手をあてる必要なんて

まったくないのだから。

心拍だけなら手首でもいい。それだけで麻理さんが俺の隣にいるって証明できるのに、

どうしても俺達が作り上げてしまった蕩けるような熱に酔ってしまっていた。


麻理「別にいいのに・・・・・・」


口をとがらせて抗議する麻理さんに、俺は狼狽するしかない。


春希「えぇっ!?」

麻理「いやらしい気持ちでしようとするからそう思うだけで、ただ、心臓の鼓動を確かめて

   欲しいだけなのに・・・・・・」

春希「そうだとしても方法が問題なんですよ。いやらしい、いやらしくないが

   問題じゃなくて、方法が大問題なんです」

麻理「だから私が許可してるじゃない」

春希「それでもです」

麻理「そういうところは相変わらず強情なのね」

春希「そういう性格なので理解して頂けると助かります」


納得してくれているか怪しかった。甘めに見繕っても納得はしてくれてはいない。

だけど、こればっかりは俺の方も折れるわけにはいかないわけで、

かきたくもない汗が手のひらを湿らせていく。


春希「俺の心臓の鼓動を感じているんならわかりますよね?

   俺がパニクっていてどうしようもない状況に陥っているって。

   お願いですから、こればっかりは勘弁を」

麻理「う~ん・・・・・・、本当に狼狽しているのがわかっちゃうほど心臓が

   ドッキドキ激しく動いているのよね。

   そういう方面はドライだと思っていたのに、案外うぶなのかしら?」

俺を目踏みする視線に、俺の心臓はさらに大きく跳ね上がる。

麻理「ごめん。ほんとにそうみたいね」


ますますうろたえていく俺とは対称的に、

麻理さんからは笑みさえも漏れ出るようになっていく。

これはこれでいい傾向なんだけど、俺の心臓の方がもつのか心配なところだ。

だけど、麻理さんの心に光が射しこんでいくと、俺の心も軽くなっていく。

この人はこうやって笑っているべきだ。

いつも俺の遥か上を歩いていて、俺はその隣を歩きたいって憧れてしまう。


麻理「きた、は、ら?」


くすぐったそうに俺の名を呼ぶ。


春希「ここに麻理さんがいるって確認出来ましたよ」

麻理「そう、だけど・・・・・・、これは、ずるい」


潤んだ瞳を浮かべては、その拒絶の言葉は本来の効力を持たない。

熱をおびたその言葉は、俺の体温さえも奪い麻理さんを上気させる。

うっとりとした顔で俺が麻理さんの「首」にあてている手に顎をすり寄りせてくる。

熱を帯びたその首すじに、俺は心拍と共に体温の上昇さえも観測してしまった。


春希「だって、さすがに胸に手を置く事はできませんからね。

   首だったらギリギリセーフってところじゃないですか」

麻理「別に胸であってもセーフなんだから、首もセーフだと思うわよ。

   でも、なんだかこそばゆいっていうか、くすぐったいっていうのか、

   なんだか照れるわね」

春希「何を言ってるんですか。

   さっきまではもっと大胆な事を許容しようとしていたじゃないですか。

   それに比べれば首なんてたいしたことではないですよ」

麻理「だったらなんでさっきから鼓動が激しいのよ。

   顔だって真っ赤じゃない」

春希「え?」


少しは冷静さを取り戻していたと思っていたら、それは勘違いだったらしい。

あまりにも緊張しまくって、いわゆる気持ちがハイになってしまっていた。

これでは冷静な判断なんてできやしないはずだ。

そもそも手首で鼓動を確かめれば、首に手をあてる必要さえなかったのだから。


麻理「まあいいわ。もうちょっとだけその存在を確認させて。

   パニックになっている北原も新鮮で人間っぽくていいわよ」

春希「どういう意味ですか」

それってつまり、普段は人間っぽくないって事じゃないですか。

麻理「言葉のあやよ。気にする必要なんてないわ」

春希「気にしますって」

麻理「そういうところは几帳面なのね」

春希「もともとですよ」

麻理「かもしれないわね」


俺達は俺達の存在を確かめあう。心臓の鼓動だけでは飽き足らず、

その声、その熱、その手触り、その激しい感情さえ確かめあう。

こんなにも近くにいるのに、明後日には離れなければならない。

電話や画像で毎日会えると言っても、やはり温もりを持ったその感情を知ったからには

その冷たいデジタル情報だけでは物足りなくなってしまう。

こんなにも技術が向上して毎日だって顔を合わせる事が出来るのに、

どうして人の存在をダイレクトに伝えてくれる温もりを届ける技術だけは

出来ていないのだろうか。











予定以上に時間がかかった食事の準備は、

できあがっていた料理に再度熱を加えることで準備が完了した。

俺の料理スキルではいささかパーティー料理には力が足りないと思ってはいたが、

いかんせ俺達二人だけが食べるわけで、俺達にとっては十分すぎる料理が用意できていた。


麻理「誕生日おめでとう」

誕生日の俺以上に嬉しそうに微笑む麻理さんにつられて、俺も気持ちが軽くなる。

春希「ありがとうございます」

麻理「これ、誕生日プレゼントなんだけど、貰ってくれないかしら」


麻理さんが差し出す細長いプレゼントの箱に軽い既視感を覚えてしまうのはどうしてだろうか。

プレゼントはラッピングしてあるわけで、その中身どころかブランドさえわからない。

だけど俺にはその中に何が入っているかわかってしまう。


春希「麻理さんからの誕生日プレゼントなんですよ。喜んで受け取りますよ」

麻理「そう・・・・・・、でも、開けてみて気にいらなかったら」

なおも不安げな言葉が紡がれていく。

春希「開けてもいいですよね」

麻理「あ、うん、どうぞ」


プレゼントを元気よく受け取った俺は、丁寧にそのラッピングを剥いでいく。

気持ちとしては破いて中身を取り出し、一刻も早く麻理さんを安心させたかった。

おそらく中身は俺が麻理さんに誕生日プレゼントとして贈ったペンと同じものだろう。

箱の大きさからすれば時計だって候補にあがるはずなのに、

俺はWatermanカレンのボールペン以外の候補を一つも思い浮かべる事はなかった。

どうしてわかったのかと聞かれたら返す答えは持ってはいないのだけれど、

麻理さんがプレゼントを差し出した時に答えがわかってしまっていた。

ようやくラッピングを全てはぎ取ると、当然のごとくそのペンがつつまれていた。

青いそのペンは、その特徴通りに指にその重さを伝えてくる。

滑りにくくしてある塗装はしっかりと手に馴染み、

俺の手から滑り落ちることがけっしてないように思えた。


春希「ありがとうございます。大切にしますね」

麻理「あの・・・、そのだな」

春希「お揃いですね」

麻理「うん」


消えそうな声に、俺は手を差し伸べる。

だって、ほんとうに嬉しかったのだから。


春希「よく見つかりましたね。あまり高いペンには詳しくないので知らなかったんですけど、

   もしかしてけっこう有名なペンなんですか?」



麻理「どうかしらね。私もペンは書ければいいと思っていたから、

   高いペンというと万年筆を思い浮かべてしまうのだけど、

   Watermanってけっこう有名なメーカーらしいわよ。

   だから替えのインクもすぐ見つかったわ」

春希「そういえば替えのインクも必要でしたね」

麻理「もしかして、替えのインクのことを考えていなかったの?」

春希「いや、高いペンですから替えのインクはあるとは思っていましたけど、

   どこで買えばいいかを考える事は忘れていました」


たしかに替えのインクが手に入りにくければ、実用性に欠けてしまう。

ましてや仕事で使ってほしいのだから、そのインクも手に入りやすいもので

なければならなかった。

まあ、冷静になって考えてみれば、ネットで注文する手もあるわけだが。


麻理「案外北原も抜けているところがあるのね」

春希「プレゼントを選ぶので精一杯だったんですよ。

   麻理さんのペンを選ぶのだって一日で済まなかったんですから」

麻理「本当に?」

春希「本当ですよ」

麻理「それならよしとしておこうかしらね」

春希「ありがとうございます」


こうして俺の誕生日は祝われていく。

最後に自分の誕生日を祝ってもらったのはいつだっただろうか。

思い返してみると、高校3年の時に俺の誕生日を建前にしてカラオケに行ったのが

最後だった気がするのはちょっと寂しい歴史かもしれない。

祝ってくれなかったわけでもなく、一応武也がケーキも用意してくれたわけで、

ちなみにカラオケ店での誕生日サービスメニューではあったが、

カラオケでも楽しい思い出として俺の中には残っている。

では、家族に祝ってもらった誕生日はと思いだし始めると、灰色の景色が回想を打ち止める。

別に家族が嫌いなわけではない。

母親にだって最近ちょっとだけだが正面から向き合う機会があったわけで、

憎しみなどは抱いてはいない事を確認していた。

だけど、思い出が風化してしまった俺にとっては、

柔らかい温もりに満ち溢れた誕生日を迎えられたのは、

今回がはじめてだったのではないかと思わずにはいられなかった。




第43話 終

第44話に続く







第43話 あとがき


暖かい日があったかと思えば寒い日が舞い戻ってくるわけで、

この物語も一歩一歩季節が移っていければいいなと思わずにはいられません、

もう少しテンポよく進められればいいなと・・・。


来週も、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると、大変うれしいです


黒猫 with かずさ派


第44話



麻理「ねえ、ほんとうに私が作ったスープ、美味しかったのかしら?」


食事が終わり、ソファーでくつろぎながら俺が淹れたハーブティーを飲んでいるというのに、

麻理さんは再び手料理の評価を求めてきた。嫌なわけではない。

俺だって自分が作った料理が美味しかったかを何度だって確かめたいくらいだ。

だけど麻理さんの場合は味覚が薄いこともあり、本当は味がわからないのではないかと

疑問に陥ってしまう。

一応この疑問に関しては、麻理さんからの何度目かの手料理の評価を求めてきたときに

俺の方から質問して解決はしている。答えは味覚は弱いがわからないことはない。

しかし、俺がいないときまでは保証できないであった。

この答えは料理を作っているときにも聞いているものであった。一時的に復活した味覚は

やはり弱いので、そのせいで味を濃くしようと塩分を入れ過ぎる懸念がある。

これは健康にもよくないし、「健康な体」の味覚せえも壊しかねない。

今は精神的に味覚が失われてはいるが、体そのものは健康であり、味覚はあるはずなのだ。

だけど、濃い味のものを食べ続けてしまったら、精神が回復して味覚が戻ったとき、

味覚が馬鹿になっていては元も子のない状態に陥ってしまう。

だからこそ俺は調味料の配分には気を使ってノートに記しているわけで、

俺は今日何度目かになる返事を同じように返すことになった。


春希「美味しかったですよ。味も俺好みでしたし、

   柔らかい味わいでほっとするスープでしたよ」

麻理「ほんとうに? 嘘ついてないわよね?」


俺の隣に身を沈めている麻理さんは、腕を使って俺の方へと身を寄せて詰め寄ってくると、

俺の本音を問い質してくる。あまりにも真剣な眼差しに、

仕事のとき以上に真剣で心細そうな瞳に、俺は何度でも優しく返事をしてしまう。


春希「本当ですよ」


そっとその手を握りしめると、おずおずとしか握り返してくれない。

でも俺はじれったいとは思わない。そうせざるを得ない事はわかっている。

だから躊躇いがちの麻理さんに対して、俺は親指と人差し指を器用に使って綺麗に

整えられている小さな爪を撫で暖めていく。

麻理さんはそれをくすぐったそうにはにかみながら甘い吐息を洩らした。

そして俺の手と麻理さんの手の熱が溶けあいだす頃になると、

麻理さんはようやく俺の手をしっかりと握り返してきてくれた。


麻理「そっか。美味しかったのね。よかったぁ・・・・・・。この味だけは忘れないから。

   他の味を忘れていっても、これだけは忘れないわ」

春希「大丈夫ですよとはいいません。でも、忘れていったとしても、

   麻理さんの舌にあらたな味を記憶させていきますよ。

   今のままの俺のレパートリーでは多大に不安ですけど、

   麻理さんと同じように焦らず増やしていってみせます」


麻理「そうね。北原が私の舌の記憶になっていくのだったら、

   それはそれでいいかもしれないわね」

春希「まあ、大した料理が出来ないのが大問題ですけどね」


俺はパターンとなってしまった行為で話の修正を図ってしまう。

しんみりとした雰囲気をわざとおどけてうやむやにしてしまうしかなかった。

これが暗黙のうちにできてしまった俺と麻理さんのルールであり、命綱でもあった。

これ以上先には行けない。行ってしまったら戻ってくる事は決して俺が許さないだろう。


麻理「期待しているわ。では期待ついでに、ギターを弾いてくれないかしら」

春希「喜んで」


俺はソファーの横に置いてあるエレキギターを手になじませ弾く準備を始める。

麻理さんは自分からギターを弾いてくれってお願いしてきたのに、

手を離した事に名残惜しさを感じているようだ。

だったらどうやってギターを弾けばいいのかって思ってしまうが、

そこはやはり一生理解できないであろう女心なのだろう。

このギターは日本から持ってきたものであり、曜子さんから貰ったものでもある。

つまり、このギターも俺にとっては命綱と言えるかもしれなかった。なにやってるのよって、

きっと曜子さんは目を光らせるだろうけど、こればっかりは謝罪の言葉しか思い浮かばない。

最初はなんて高価なギターを用意するんだって呆れていたけど、

今は俺の手になじみきっているこのギターがなんだか冬馬家との繋がりのように思えて、

心強くもあり、後ろめたく感じていた。

高価なギターに見合う腕ないし、弾ける曲も二つしかない。

しばらく弾いていなかった事もあって何度もつっかえてしまう。

それでも何度も繰り返して演奏するうちに指に植え付けられた感触が蘇ってくる。

それは同時にかずさのことも強く意識してしまうわけで、

麻理さんに気付かれまいとするほど麻理さんは敏感に感じ取ってしまっているようであった。


麻理「ありがと。また弾いてくれるかしら?」

春希「ええ、麻理さんが望んでくださるのでしたら喜んで演奏しますよ。

   そのためにも練習しておかないといけませんね」

麻理「忙しいんだし練習なんてしなくてもいいわよ。それよりも研修の方に力を

   入れなさい。・・・・・・その、来年もニューヨーク勤務目指してくれているんだし」

春希「わかってますよ。なにを優先すべきかなんてわかりきっていることですから」


 麻理さんは何も言ってはこない。頬笑みと戸惑いだけを浮かべて耳を傾けてくる。

もっとギターを弾いてくれとねだってくる。永遠に続くわけなんてない緩やかな時間を、

俺と麻理さんは時間を忘れて身をゆだねていた。

 室内にはギターの音色と、ときおり麻理さんがギターに合わせて口ずさむ声が

ゆっくりとゆっくりと響きわたる。おそらく何度も繰り返し聴いていたこともあって、

麻理さんは俺の下手なギターの演奏を覚えてしまっていたのだろう。

まあ、一曲しか弾いていないのだから当然といったら当然だ。

ただ、麻理さんが口ずさむ歌には歌詞がない。

それはギターの演奏を録音したものだけを繰り返し聴いてきたという証拠であり、


麻理さんが曲を覚えれば覚えるほどかずさが作った曲を完璧に仕上げていってしまう。

俺が作った歌詞だけを置いてきぼりにして物事は進もうとしていた。


麻理「さてと、今日はそろそろ寝ましょうか。昨日もあまり寝られていないようだったし、

   寝不足で倒れるなんて事はないだろうけど」


 時計の針を見ると、12時を過ぎようとしている。日本で仕事をしていた時の事を考えれば、

だまだ仕事が始まったばかりの時間帯とも捉える事も出来るのだが、

さすがに今はそれを持ちだすべきではないだろう。


春希「今日はけっこう歩きましたからね。明日もあるわけですから、

   そろそろ寝てもいい時間かもしれませんね」

麻理「それに北原は昨日はソファーで寝たでしょ。

   しかもその前日は飛行機のエコノミー席で寝てたわけだし、

   さすがに三日連続椅子の上でっていうのは健康上よくないわ。

   今日はベッドでしっかりと寝なさい」

春希「ええ、部屋を用意してもらったわけですし、今日は遠慮なく使わせてもらいますよ」

麻理「たしかに・・・。北原に部屋を貸しているけど荷物置き場と化しているわね。

   これでホテルの部屋なんて取っていたとしたら、

   それこそホテル代の無駄になっていたかもしれないわね」

春希「それは苦学生にとっては厳しいですね。やはり無理を言って麻理さんに部屋を

   借りておいてよかったですよ。ほんと頼りにしています」

麻理「だったら、その可愛いくて頼りになる麻理さんって人に感謝すべきね」

春希「可愛いなんて言いましたっけ?」


 俺の計算しつくした不用意過ぎ発言に、

予定通り麻理さんは頬を膨らませながら腕を柔らかくつねってくる。


麻理「だったら可愛くないっていのかしら?」

春希「どうですかね?」


 今は髪をまとめていないので、長く艶やかな髪がその体を柔らかく包み込んでいる。

髪型の印象は偉大であり、いつもの髪型はどちらかというと編集部での印象が強すぎて

強く美しいといった印象がこびりついていた。だけど今の麻理さんは、

麻理さんの言う通り可愛らしく、俺の目線まで降りてきた大学の同級生って気さえしてしまう。

・・・訂正します。頼りになる憧れの大学院の先輩ってところだろうか。

こればっかりはすみません。


麻理「どうなのかしら?」

春希「そうですねぇ・・・。可愛らしいというよりは、愛らしくて、目が離せなくて、

   見ているだけでこそばゆくて、ときおり抱きしめたくなるのを我慢するのが

   窮屈になるくらい可愛いかもしれませんね」

麻理「それって、結論を言うと可愛いってことじゃない」

春希「まあ、そうなるかもしれませんね」

麻理「でも、我慢、している・・・ってホント?」

春希「ええ、まあ」


 嘘ではない。事実だと自分で認めてしまう事が問題だった。


麻理「そっか・・・じゃあ」


 一度はつねって甘噛みした腕にそっと手をそわし、するすると腕をからませてくる。

そのまま抱きついてくると思っていたが、数秒だけ動きが止まってから額を俺の腕に

押し付けて、そして今度こそ躊躇なく抱きついてきた。

 いや、抱きついてきたという表現はフェアではないか。

俺の方も我慢できなくて抱きしめに行ってしまったのだから。


麻理「我慢しなくていいから。責任は全部私が取るわ」

春希「麻理さん一人に責任なんて取らせませんよ。これは俺の意思でしていることなんですから」

麻理「そう・・・」


 あまりにもわざとらしすぎる内容に、佐和子さんあたりが聞いたりしていたら苦笑いと

盛大の笑みを浮かべてしまうだろう。実際誰にも聞かせることなんてできないし、

もし聞かれたりしたら、それこそ恥ずかしすぎるないようなのだが。

・・・千晶あたりだったら三流脚本家のべたすぎるシナリオだと笑い飛ばすか、

これはこれで一周回って超一流の喜劇になるかもしれないわねって

笑いをこらえながら真剣に言いそうだ。

 どちらにせよ、自分にさえ見せられない甘ったるい会話劇である事は確かであった。


春希「はい」

麻理「さてと、そろそろ本当に寝たほうがいいわね。さすがに疲れたでしょ」


 急にあげられた顔に俺は対応できないでいた。

しかもこれで抱き合うのは終了と言わんばかりにいそいそと距離を取ろうとする。

けれど、腕だけは離せないようで、今もしっかりと抱き抱えたままであった。


春希「そうですね。じゃあ、おやすみなさい」

麻理「おやすみ、北原」


 俺は思いを断ち切ろうと間を開けずに立ち上がろうとする。

しかし、俺たちの決断は一秒も達成する事はなかった。

なにせ麻理さんが俺の腕に絡ませていた手を緩めようとはしなかった。

そして俺の方もその甘い拘束を無理やり引きちぎろうとはしなかった。


春希「もう少しここでゆっくりしますか? 別に俺はソファーでも構わないですよ」

麻理「それは・・・駄目よ。北原の健康によくないわ」

春希「大丈夫ですって。ソファーでも体を休める事はできますから」

麻理「駄目よ。大丈夫だと思っているときが危ないのよ」


 あまりにも笑えない指摘に俺は引き下がるしかなかった。

さすがに健康を笑い話にはできなかった。


春希「すみません」

麻理「ごめんなさい。私の我儘で振り回しちゃって」

春希「いいえ。俺が望んでやっていることですから、迷惑なことなんて一つもないです」


麻理「そう? だったら・・・、一緒に寝てくれないかしら? 

   もちろん一緒にっていってもしっかりと離れて寝るわけで、それに・・・、

   ベッドでもソファーでも似たようなものって気が・・・、えっと、その」

春希「いいですよ。それで麻理さんがぐっすりと寝られるというなら」

麻理「ありがと・・・」


 するりと俺の腕の拘束を解いた麻理さんは顔を斜め下に背けると、

そのまま立ち上がり寝室へと向かっていく。正直顔を合わせるのが

気恥ずかしくもあり助かったといえるのかもしれなかった。きっとそれは

麻理さんも同じはずであり、俺はこれ以上の負担をかけさすまいとその後ろ姿に続いた。

 初めて目にするその寝室は、東京のマンションのイメージとはかなりかけ離れた印象を

与えてくる。落ち着いた色調で、華美さとも高級感を醸し出すその寝室は、

東京で見た寝室と重なる所があるが、大きな違いは物の量と掃除の有無に違いない。

 いくつか仕事で使っているのであろう書籍以外にはとくに目に入るものはなく、

あとは睡眠をとる為のベッドしかない。あと一つだけ重要なものがあるとしたら、

それはポータブルオーディオとそのスピーカーだろうか。

これの用途はおそらく想像通り俺の演奏したギターが収録されているはずだ。


麻理「あまりじろじろ見ないでよ」

春希「すみません。

   でも、東京の時と比べるとまったく恥ずかしがる理由なんてないと思いますけど」

麻理「それは暗に東京の部屋は汚かったと言いたいわけかしら?」

春希「綺麗か綺麗じゃないかの議論については人によって基準が違いますから

   さらなる考察が必要ですけど、そもそも俺は泊めてもらっているわけでして、

   何か言う立場ではないと思いますよ」

麻理「北原って、なにか論点と言うか肝心なポイントがずれているみたいな気がするんだけど、

   まあいいわ。でも、綺麗にはしてあるでしょう?」


 えへんと形がいい胸を張り部屋が片付いている事を強調してくる。

それなのに麻理さんの目だけはちょっとばかし自信のなさを伺わせるように揺らいではいた。


春希「たしかにすごく綺麗にしていますね。物も片付けられていますし、

   これなら夜中暗いままでも物を踏んだりしなくて済みそうですね」

麻理「ということは、東京の部屋では踏んでいたっていうことかしらね?」

春希「あっ・・・・・・」


 麻理さん、それはずるいですよ。

批難の目を向けてもいっこうに気にする様子もなく、涼しい顔のままであった。


麻理「まあいいわ。それは私も認める事だしね」

春希「だったら面倒な誘導しないでくださいよ」

麻理「それはあれよ。・・・・・・だって北原、寝室に来たっていうのに落ち着いているから」


 視線をそらし赤める頬はその心情をよくあらわしており、今まで以上の緊張感を示していた。

これが何も問題がない男女であれば初々しい反応だっていうのだろう。

しかし、俺達には許されない関係であり、俺もそれだけは譲れないラインでもあった。



春希「緊張していますよ。極度に緊張しているせいでかえって落ち着いているように

  見えるだけですって。げんにこのあとどうすればいいかわからなく、

  動けなくなっていますからね」

麻理「そこはあれよ。寝るだけなんだからベッドに入って寝るだけじゃないかしら? 

   ・・・・・・あの、そのね。寝るっていっても、そういう意味じゃなくて、

   そのね。だから、あの・・・。だから」

春希「わかっていますから落ち着いてください。

   ベッドに横になって睡眠をとるっていう事ですね」

麻理「そ、そうよ。・・・・・・やっぱり北原は落ち着いているじゃない。

   これじゃあ私だけが意識しているみたいで恥ずかしいじゃない」


 体をよじりながら不満を吐きだすと、逃げるようにベッドの中へと潜っていく。

麻理さんは俺が平静でいられるっていってるけど、俺は既に平静さを諦めてしまっている。

だからこその俺の対応であり、はっきりいって何もできないで最低限の受け答えしか

できないでいたというのが正直なところだ。

 千晶の裸を見てしまった時も非常にやばすぎる状態であったが、パジャマとはいえ

服を着ている麻理さんの今の状態の方が心臓が破れそうなほど跳ね上がっていた。


春希「俺の方も自分を抑えるのでぎりぎりで、

   麻理さんの事をフォローする余裕なんてないだけですって」

麻理「そっか」


 だから、それが反則なんですよ。布団から顔半分だけ出して俺を覗き見るその姿。

どこかでそういう男のつぼをついて手玉にとる養成講座でも受けているんですか。

 今度ばかりは俺の方が逃げるようにベッドの中に潜り込む。

冷たい布団が俺の上昇しきった体を冷やしてくれ、

ほんの少しだけ冷静さを取り戻すことに成功した。


麻理「おやすみ、北原」

春希「おやすみなさい、麻理さん」


 こればっかりは信じてくれっていうことしかできないが、

麻理さんと一緒のベッドで寝たけれど、けっしてやましい事はなかった。

もちろん麻理さんの寝室に入り、

そのいつも寝ているベッドに潜り込んだ興奮は否定などできない。

でも、俺たちにやましい事はなかった。

 ・・・・・・ただ、麻理さんが言っていた「一緒にっていってもしっかりと離れて寝る」は

ベッドに入ってすぐに破られてしまう。こればっかりは俺達は共犯者であった。

 俺のおやすみの言葉が終わると、麻理さんはそれが当然の成り行きのごとく俺の腕に

しがみつき、その震える体を沈めようと努めていた。

 豪華なマンション。贅沢な家具。成功しつつあるキャリア。頼りになる人柄。

愛くるしい容姿。どれ一つとっても羨望の的であるわけだが、たった一人この人が渦巻く

ニューヨークで過ごす事は俺の想像以上のプレッシャーがあるのだろう。





そこに俺というあってはならない負担までしょいこんでしまった麻理さんは、

一日の疲れをとる為のベッドでさえ休まる場所になりえていなかったのではないだろうか。

 天井を見上げると窓から射しこむ街の光がぼんやりと部屋の輪郭を形作る。

ただでさえ広い部屋だというのに、なにもない天井を見上げるとほんとうに空っぽの部屋に

ぶち込まれてしまった気さえしてしまう。

この部屋で麻理さんは何を思って横になっていたのだろうか。

 思い返してみると、俺は東京の自分のマンションで天井を見上げた事が、

自分が今いる場所を確かめたことがない。変な言い方になってしまったが

、俺は大学生になって、正確に言うとかずさがウィーンに行ってしまってから、

ゆっくりと自分を見つめ直す時間を無意識のうちに避けるようになってしまった。

考える時間があるとかずさの事を考えてしまう。

そして、傷つけてしまった彼女の事も思いだしてしまう。それがつらいってわけではない。

どうせなら俺を滅多打ちにして、再起不能になるまで傷つけて欲しいと願ってさえいた。

 俺が怖かったのは、自分が幸せになることだ。人を深く傷つけてしまった俺が幸せに

なる事が許されるのだろうか。

 だからこそ考えるのをやめてしまった。すこしでも考えてしまったら、

前に進んでしまう。幸せになろうとしてしまう。

 だから俺は一日を振り返ってしまう睡眠前のわずかな時間を削るとる為に

勉強と仕事で体力を根こそぎ削り取ろうとしていた。

いつになったら幸せになる権利が復活するかはわからない。しかし、最低でもこの人が、

麻理さんが幸せになるまでは俺は幸せになりたいとは思えなかった。

 ・・・ただ、今は煩悩を払うべく朝まで苦しむ事にしますか。

どう考えても一週間空腹にした状態で餌を目の前に出された犬状態だろ、これって。

規則正しい甘い寝息、包み込むような温かなぬくもり、

そしてパジャマを通してもなおダイレクトに伝わってくる柔らかな肉体。

人の煩悩をくすぐる拷問としては最凶のはずだ。

 俺は強引でも眠ろうと数を数えることにする。

でも、これも最初のチョイスで失敗していたようだ。なにせ煩悩の数をかぞえ始めたのだから。

その時点でやばい精神状態だったわけで、

とりあえず朝日が昇ってくるまで起きていた事はたしかであった。














第44話 終劇

第45話に続く





第44話 あとがき



そろそろかずさの誕生日ですね。

ということで、去年に続いて今年も冬馬かずさ誕生日記念小説を掲載しようと考えています。

・・・・・・いや、もうほぼ書き終わっているんですけどね。

(4/28時点では既に書き終えています)

今年はというと去年とは傾向を変えていこうかなと思っております。

アフターストーリーも出たわけですしね。そういう意味合いでも違いがありますし、

書き方・中身の方も書いている身としては違うかなとは思ってはおります。

まあ、書いている人が同じ黒猫であるわけで、そうそう違いが出るものではないんですけどねw



来週はGWということもあって今週と同じく早い時間でのアップになるかもしれません。

少なくともいつもの時間より遅れてのアップは避けるよう全力を尽くします。

また読んでくださると、大変うれしく思います。



黒猫 with かずさ派


第45話



4月11日 月曜日



 楽しい時間は、大切にしたい時間はあっという間に過ぎ去り、終わりをむかえてしまう。

昨日も俺が帰国しても当分の間は食べていけるようにと大量の食材を買いこんで

一緒に料理をしていた。その前にちょこっとただけ街を散策したが、

どうも俺はニューヨークに来たという意識が薄いようである。

 その理由はわかっている。俺はニューヨークに来たのではなく、

麻理さんの元に来ただけだから。その意識がある限りここは異国ではなく、

麻理さんがいる街であり続ける。

 なんて考えながら麻理さんと二人歩いていたが、あてもなくいろんな店を冷やかし、

大いに楽しむ事が出来た。但し、ランジェリーショップだけは勘弁してください。

男の俺が入っていい場所ではないでしょうに。

たしかに恋人につれられて入店している男性もいることはいましたよ。

それも人目をはばからずに適度なスキンシップをはかりながら堂々としていました。

 でも、こればっかりは俺に要求しても無理なリクエストだ。

俺にはハードルが高すぎますって。


麻理「痩せてしまったし、ちょっと覗いてみたいんだけど、だめかしら?」

春希「駄目、駄目じゃない以前に、俺が入るべきではないですよ」

麻理「そうかしら? ときには男性の意見も聞きたいものよ」

春希「いやいやいや・・・、俺には無理ですって。

お願いしますからここは今度ゆっくりと一人で見に来てください」

 うろたえる俺に笑みを浮かべる麻理さんに、俺はただただ冷や汗を垂れ流すしかなかった。

今になっても冷や汗ものの思い出にしかなってはいないけれど、

楽しい時間であった事はたしかであった。


春希「もうそろそろ搭乗時間ですね」

麻理「ええ・・・そうね」


 俺が起きる前から起きていた麻理さんは、早朝だというのに元気に俺にちょっかいを

出してきていた。こそばゆくって、くすぐったい。

心地よい目覚めとはいえないけれど、気持ちがいい朝ではあった。

朝食だって楽しく食事ができたはずだ。

それなのに空港に来てからの麻理さんの口数は少ない。

俺が問いかければしっかりと返事はくれる。

しかし、麻理さんの方からなにか言ってくる事はなかった。

なにか言おうと何度もチャレンジしてはいるようだが、

どうしても口から声が響く事はなかった。

 その代わり俺の手をしっかりと握りしめ、腕を絡めて身を寄せてくるその姿に俺は

大学を辞めてこのまま側にいたいとさえ思ってしまってもいた。

もちろん実行する事もないし、一時的な麻酔の為に今まで積み上げてきた手はずを

放り捨てる気もなかった。


 それは麻理さんもわかっているはずだけど、このニューヨークでの数日があまりにも

輝きすぎていた為に、俺と離れてからの反動を恐れているようでもあった。


春希「わざわざ見送りにまで来てくれてありがとうございます」

麻理「いいのよ、私が好きでしているんだし。編集部の方も急ぎの予定はないから

   問題ないわ。今日は予め出社が遅くなる事は伝えてあるから、

   よっぽどの事がなければ何も問題ないはずよ。

   その分しっかりと働いておいたから誰も文句を言わないわよ」

 って、笑いながら言っていますけど、きっと麻理さんの事だから俺が来るまでの間は

いつも以上に働いていたんだって簡単に想像ができてしますよ。

普段だって誰も真似できないほどの仕事量を抱え込んでいるのに、

今回はどれだけやってきたんですか。

まあ、同じ編集部員としてはどのくらいハードに働いていたかについて興味はあった。

 でも、麻理さんの隣にたつ俺からすれば、もっと体を大切にしてほしい。

俺の為になんて言ったりはしない。だから、俺の為に体を大切にしてほしかった。


春希「働き過ぎないでくださいとは言いませんけど、体を壊す働き方だけはしないでくださいよ」

麻理「体にガタがきている私が言っても信じてもらえないかもしれないけど、

   その辺のさじ加減は経験で理解しているはずよ」

春希「信じていないわけではないですけど、心配なんですよ」

麻理「それこそ私の方が北原の事が心配よ。編集部だけじゃなくて大学の方もあるし、

   けっこうスケジュールのやりくりが大変なんじゃないかしら」

春希「大丈夫ですよ。ニューヨークに来たらもっと大変になる予定ですから。

   ニューヨークには頼りにはなるけど仕事には厳しい上司がいますからね。

   その予行演習と考えれば物足りないほどです」

麻理「言ってくれるわね。

   たっぷりと仕事を用意しておいてあげるから日本でしっかりと準備運動してきなさい」

春希「そうさせていただきます。麻理さんに教わった通りいつも・・・」

麻理「あっ・・・・・・」

春希「・・・・・・・そろそろ時間みたいですね」


 俺の手を握りしめる力が増していき、聞き逃してしまいそうであったアナウンスに

気が付いてしまった。きっと麻理さんは俺の事を抱きしめることにほぼ全神経を

集中させながらも、耳だけはアナウンスが流れるのを恐れて見張っていたのだろう。

 俺を見上げるその顔からは笑顔がぎくしゃくと歪んでいき、

いつも心力強い印象を与えてくれるその瞳は涙で曇っていく。


麻理「ええ、そう、ね」

春希「麻理、さん? 麻理さん、麻理さん。麻理さん」

麻理「きた、はら?」

春希「麻理さん、待っていてください。少しの間だけです。

   今このまま残るっていう選択肢もあります。でもそれはきっと間違いだっています」

麻理「何言ってるのよ。ニューヨークに来る選択肢は、どれをとっても間違いに

   決まっているじゃない。だったらもう一つくらい間違いを選んでも・・・・・・」

春希「違います。俺が見つけた、麻理さんが作ってくれたニューヨークへの道は、

   たとえ間違っているっていう人がいたとしても、でも、俺と麻理さんにとっては

   間違いではありません。もちろん簡単な道ではないでしょうし、

   麻理さんはたくさん傷ついて苦しむはずです。それでも俺達はそれを選んで、

   選んで悩んで、苦しんで、最後には地獄に落ちるかもしれないですけど、

   それでもきっと救われるはずです。そういう道を選んだんです」

 発言している俺でさえ何を言っているかわからなかった。

言葉が横滑りしていき制御なんてできやしない。

心に詰まった感情を無理やり吐きだしても言葉にはならなかった。


麻理「そうね。・・・・・・待ってる。待ってるから。北原を待ってるから、

   だから日本で頑張ってきてね」

春希「はい」


 ほどかれた腕はどこか寒々としていて、人でにぎわうロビーからは音が消えていく。

その原因はわかりきっている。だから俺は別れの挨拶もせずにゲートへと歩み出した。

 何度となく振りかえりたい衝動にかられ、その都度冷たい腕を握りしめ感覚を潰した。

きっと振り返れば、俺と麻理さんの決心は砕け散ってしまうだろう。

それは麻理さんもわかっているはずだ。

なにか一言でも発してしまえば俺を引き止めてしまうとさえ思っているのかもしれない。

それはちょっと大げさかもしれないけど、なんとなくこの時はそう思えてしまった。







4月12日 火曜日



 人間の習慣とは恐ろしいもので、実家に引っ越したというのに

今まで住んでいたマンションに向かって歩いていた。見慣れた景色を片隅に、

思考を停止して成田から東京まで来たのだから、

怪我もなくこれた事に感謝したほうがいいかもしれない。

 喪失感ともいうのか、ニューヨークでの時間があまりにも大きすぎて、

その反動が成田に降り立った時から出てしまった。
 もちろん最寄り駅に降りて、マンションまで行く前に帰る場所が違うって気が

ついてはいた。また、マンションは大学の側にあるわけで、

このまま大学の講義に行く事も可能ではある。

だけどその選択肢は脳裏にさえ浮かんでこなかった。そもそもテキストもないし、

予習さえしてもいない。

千晶あたりからすれば、予習なんてする必要はないと一蹴されそうだが。

だから、もう一度電車に乗り、実家がある最寄り駅に行くのが正解なのだろう。

でもこの時は正解を選びたくはなかった。

目の前にあるマンションのエントランスは、日本をたつ前と同じようにそこにそびえている。

たった数日で壊れるくらいの強度だったら、それの方が興味深い事件ではある。

でも、日本をたつ前と後では、見慣れたマンションの入り口が、

なにか今までとは全く違う異質の物体に見えてしまった。


 俺はどのくらいの間、自分が住んでいたマンションを見上げていたのだろうか。

とくに感慨深い気持ちを抱いたわけでもなく、ただただ立ち止まり、

俺が住んでいた部屋を見上げていた。すると下の方から俺を呼ぶ声が鳴る。


千晶「ねえ、見ていて面白い?」


 声の主を辿っていくと、エントランスの階段に腰掛けている千晶がいた。

俺が知っているいつもの和泉千晶が、いつものごとく軽い声をかけてくる。

重い北原春希に、軽い和泉千晶。ちょうどバランスが取れていたんだなって、

今さらながら馬鹿げたことを考えてしまう。それくらい思考がストップしていたので、

どうも本調子にはほど遠いようだ。


春希「ん? 面白いものなんてないと思うぞ」

千晶「じゃあなんでぼけ~っと、ほけ~っと30分も見ているのよ。

   マンションを出入りしていた人なんて、危ない人がいるってもう少しで

   警察呼びそうだったかもしれないかもね。まあ、わたしが側にいたから問題が

   起きないで済んだようだけどね。ほんと感謝してよね。

   あたしがいなかったら不審者扱いよ」

春希「ありがとな千晶。でもどうして千晶がここにいるんだよ。今日の講義はどうしたんだ?」

千晶「ん? 今日は自主休講なんだ」

春希「まだ新学期が始まったばかりだというのにさぼるなよ」

千晶「さぼってないって。大切な用事があったから休んだだけだって」

春希「そっか。でもせっかく大変な思いをして進級したんだし、しっかりと単位取って、

   卒論も書いて、まじめに大学卒業しろよ。せっかく教授が力を貸してくれたんだからな」

千晶「わかってるって。春希ったら、わたしの顔を見るたびに毎回言うんだもん」

春希「それだけのことを春休みにやったのはどこのどいつだ」


 気が付けばいつもの北原春希と和泉千晶がここにいた。

暗いおもりをつけて沈んでいく俺を千晶は軽々と吊り上げてしまう。

釣りあげられながらも、俺は抵抗もせずに千晶に身を任せていた。

 どうも勉強面では千晶の先生でいられるのに、どうしても精神面では千晶の方が

一枚も二枚も上手なのだろうか。社会的には俺の方がしっかりとしているはずなのに、

精神面では千晶の方がずっと大人のような気がする。

今までは特に意識してはいなかったが、どうもこの推理は正しいのだろう。

それは俺と千晶の間合いが縮まって、お互いの顔の輪郭を見る事ができる位置まで

近付いたからこそ気が付く事が出来た今さらながらの事実だと思う。

まあ、武也あたりからすれば、初めから気がつけよと言われそうだが。


千晶「それは・・・、わたしがレポートを頑張っていたっていうのに

   風邪をひいた北原春希くんのことじゃなかったかなぁ」

春希「とぼけるな。俺が風邪をひいたのは千晶がレポートを提出した後だったろ。

   だから俺の風邪は全くレポートとは関係がない」

千晶「そだっけ?」

春希「そうだったんだよ。それにレポート作成中に風邪をひいて寝こんだのはお前だろ。

   しかも俺が看病してやったじゃないか」


 千晶は俺の顎の下から覗き込むように立ち上がってくる。その動作に俺の重心は後ろへ

と下がっていく。別に悪い事をしたわけでもないのに、どうも後ろめたい感情が俺を襲う。


千晶「ん? ん? へぇ・・・・・・」

春希「な、なんだよ?」


 なにかありますっていう顔をするんじゃない。ぜったい何か企んでるだろ。

でもこっちはニューヨーク行きで忙しいし、春休みみたいには構ってはいられないぞ。

 だから、ここはきっぱりと拒絶しないとな。


千晶「そんなに身構えなくても、面倒事なんてないわよ」

   春希「ほんとうか? ・・・・・・千晶にとっては面倒事ではないっていうのは

   なしだからな。俺にとっては絶対面倒事になるんだろ?」

千晶「そういうのでもないから安心してって。ただね・・・」

春希「なんだよ?」

千晶「だから、風邪をひいている千晶ちゃんが抵抗できないのをいいことに、

   服をひんむいて裸を見た鬼畜が日本に帰ってきたんだなぁって思ってさ」

春希「半分以上が捏造じゃないか。嘘を当然のごとく吐くんじゃない」


 俺が住んでいたマンション前で、しかも大学の近くでなんて言う事を言ってくれているんだ。

それをわかっていて言ってるんだから困ったものだ。俺が困るのを楽しむなんて悪趣味だぞ。


千晶「でも、事実もあるってことでしょ?」

春希「ああ、そうだな。日本に帰ってきたっていうところはあってるぞ」

千晶「それだけ?」


 って、おい。いや待てって。それは事実だろうけど、ここで言うべき内容では・・・・・・。

 自分の姿を見ていなくてもわかってしまう。つまりは自分がうろたえているって、

こいつの子憎たらしい顔を見ていればわかってしまう。

しかも、ニヤニヤと品がいい笑いまで浮かべやがって。


春希「千晶が風邪をひいたっていうのもあってるな」

千晶「それだけぇ?」

春希「そうだな・・・・・・、俺が風邪の看病したっていうのもあってるんじゃないか」

千晶「あれぇ・・・、わたし、そんなこと言ったっけな。

   わざわざ言ってもいない事を持ちだすなんて、案外春希は恩着せがましいのね」

春希「事実だからな。レポートだけじゃなくて風邪の看病に加え、寝床の提供、

   食事にいたるまで全面的なサポートをしたじゃないか。

これを恩といわないでなにが恩だというんだよ」

千晶「でも、その恩も、わたしの裸を拝んじゃったんだからちゃらじゃない?」


 千晶の「裸」というキーワードを耳にした瞬間、俺はあたりをせわしなく見渡してしまった。

実際後ろめたくはあるが、事実としては、あれは事故だ。だから俺に非があったとしても

全面的な敗訴ではないはずなのに、どうして本能は正直なんだよ。一応あたりには人影はなく、

ほっと一息ついてしまう。それを見た千晶は隠そうともせずにけらけらと笑うものだから、

俺は憮然とした態度をとるわけで。



春希「あれは事故だろ。俺が服をひんむいたわけでもないし、

   お前が見せようとしたわけでもない。だから今さら蒸し返さなくてもいいだろうに」

千晶「ん?」


 笑いを打ち消し真顔になる千晶に、俺は意識を集中させる。

きっとまた俺をからかう手立てを打ち出してくるに決まってるのだから、

俺は少しの変化も見落とさないように精神を研ぎ澄ます。

 ただ、頭から熱気が鎮まるにつれてこいつが名女優であることを思い出してしまうわけで、

その名女優相手に駆け引きに勝てるわけもない。

そうわかると全身から力が抜けていってしまった。


千晶「だって、わたしの裸、見たよね。しっかりと明るいところで全部。

   もちろんあれは事故だってわかっているけど、それでも無防備な姿を誰にでも

   晒すってわけでもないんだよ。だってさ、風邪ひいているんだよ。

   弱っているわたしを看病して・・・・・・、ううん、レポートを助けてくれて・・・・・・・

   って、おい! どうしちゃったのよ。せっかく春希をからかってあげようと

   していたのに、その白けた顔は何? これじゃあわたしのほうが痛い女じゃない」


 俺も予備知識が少ないまま今の台詞を聞いていたならば、

いつもとのギャップもあって戸惑いまくっていたはずだ。でも、俺には数日間共に

寝食を過ごした実績と、大学での1年間の付き合いってものがあるんだよ。


千晶「あぁあ、なんだかわたしのほうもしらけちゃったかも」

春希「俺のせいにするなよ。で、どうしたんだ? 

   わざわざこんなことをするのが大事な用事ってわけでもないんだろ?」

千晶「別に春希に会うことが大事な用事だなんて言ってないけど?」

春希「だったらどうしてここにいるんだよ?」

千晶「それこそわたしの方が聞きたいわよ。

   だって春希、もうこのマンションから引っ越したじゃない」

春希「だよな。俺もどうしてここにきたかわからない」

千晶「そっか」

春希「千晶こそ、なんでここにいるんだ?」

千晶「ん、ん~・・・、どうしてかな? そうだなぁ、

なんとなく春希がここに来るかもって思ったからかな」

春希「だからここに来たってわけか。しかも大学を休んでまで」

千晶「まあね。でも、大学を休んでも、もしここで春希に会えなくても、

   今日中に春希に会っておいた方がいいのかもって思っていたのも事実かもね」


 千晶はひょうひょうと話を続ける。もしかしたら裏があるかもしれないが、

事実でもあるのだろ。でもきっと、なにも考えてはいないはずだ。

千晶曰く、長年春希のおっかけをしてきた勘ってやつかもしれない

ってやつなのかもしれないと思えてきてしまった。

 どこまで信じたらいいかわからないのが傷だけど。



春希「だったらメールくらいくれればよかったじゃないか。

   もし俺がここにこなかったら行き違いになっていたはずだぞ。

   しかも帰りの飛行機の時間は教えてあっても、

   何時にここに来るかなんてわからないだろ」

千晶「だよね」

春希「おい、千晶」


 俺は冷たく冷え切った千晶の腕を握る。ひんやりとしたその腕は、

外気で冷たくなった俺の手で触れてもなお冷たい事がよくわかってしまう。

4月になったからといっても、いつも温かいわけではない。

寒い日と温かい日を交互に繰り返して段々と気温が暖かくなっていくが、

今日は4月としては寒い一日だった。きっと朝は暖房が必要だったに違いない。

 それなのにこいつったら薄着で何時間待っていたんだよ。

 よく見ると千晶はスプリングコートさえ着てはいなかった。

デニムに、白いパーカーを着て、ちょっとそこまでコンビニに行ってくるっていう

服装とさえ見てとれる。しかも一端部屋の外に出たとしても、

「寒っ! ちょっと春希上着貸してよっ」って部屋に戻ってきそうなほど薄着じゃないか。

それともずっと家に戻っていなくて、昨日の服装のままだったりとか。

一応記憶をたどっても日本の天候は出てはこない。もしかしたら昨日は温かくて、

そのままの服装とかだったのだろうか。


千晶「痛いよ、春希」

春希「ごめん」

千晶「ううん」


 とりあえず俺は着ていたコートは千晶に差し出す。

すると千晶は黙ってコートを着込んでいった。千晶の事だから一言くらい何か

言ってくると身構えていたが、やや拍子抜けの部分が否めなかった。


春希「そんなに体冷やして。何時間待っていたんだよ」

千晶「朝からかな?」

春希「13時前に成田なんだから、いくら朝から待ってても帰ってくることはないぞ」

千晶「それくらいわかってるわよ。でも、なんていうのかな。気持ちの整理? 

   なんだか春希、思い詰めてニューヨークに行ったじゃない? 

   だからどんな顔をして会ったらいいのかなってさ」

春希「そっか」


 編集部のみんなはごまかせても、千晶だけは無理だったという事か。

さすが千晶ってところかな。


春希「そんなに思いつめてたか?」

千晶「どうかな。なんとなく思っただけだし」

春希「どんだけ鼻が利くんだよ」

千晶「だからなんとなくだって言ってるじゃない」

春希「そうだな」


千晶「でもその様子だと、来て正解だったみたいだね」


 今の千晶に俺がどう見えるか聞く勇気はなかった。

それを聞いてもどうしようもないっていうのもあるが、

その事実を認めたくないという思いが強い気さえした。


千晶「じゃ、いこっか」

春希「何も聞かないのか?」

千晶「聞いて欲しい?」


 千晶は駅に向かって歩き出そうとした脚を後ろに戻して振りかえる。

その真っ直ぐと前を見る瞳に俺は何でもぶちまけそうになってしまった。


春希「わからない」

千晶「そっか。じゃあ、言いたくなったらいつでも聞いてあげる」

春希「その時はよろしく頼むよ」

千晶「まっかせなさい。だって半年間一緒に住む間柄だしね」


 そう最後にとびきりの笑顔と、とびきり以上の爆弾発言を投下した千晶は、

今度こそ駅に向かって歩き出す。

 え? 一緒に住む? 

聞き間違いではないだろうけど、俺の思考と体は停止する。

嬉しそうに再度振り返った千晶は、先に進んで行った道を引き返してくる。

そして俺の荷物を半分奪い取ると、俺の腕を手に取り歩き出した。

思考を放棄した俺はというと、ただただ千晶にひきつれられて駅へと歩いて行くしかなかった。

寒そうに身を寄せてくる千晶に体の暖だけでなく、

どうやら精神まで奪い取られてしまったようだ。




第45話 終劇

第46話に続く







第45話 あとがき



日本編スタートです。この辺はあまり長く書く予定はありませんので、さらっと書いて、

そしたらようやくかずさが登場する予定です。あくまで予定であって、

未定であることだけは念頭に入れていただけると嬉しく思います。

ただあまり簡潔に書きすぎると説明文になってしまうわけで、それなりには書く予定です。



来週は、火曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第46話



 数年前までは毎日のように見てきた実家の玄関のドア。それは今も同じように存在していて、

引き出しの奥に眠っていた実家の鍵を差し込んで回せは扉が開くはずである。

そう、別におかしいところは一つを除けばまったくない。おかしなところなんてないはずだった。


春希「なあ千晶。お前がその手に持っているのは、もしかしないでも鍵だよな?」

千晶「ん? 鍵以外の何に見えるのよ。もしかして魔法の鍵とか、

   ・・・わたしの心を開ける鍵だとか思っちゃったわけ?」

春希「そんなこと思うわけもないだろ」


 俺の突っ込みをよそに千晶はさっさと鍵を開け、当然のようになめらかな動作で

部屋の明かりをつけていく。つまりは、手慣れている。この家に来ることに慣れている。

 そもそも俺は千晶を実家に招待したことなんてない。あの母親に千晶を紹介なんてするわけも

ない。俺の一方的すぎる母親との絶縁状態で、どうやってこの千晶を紹介するっていうんだ。


春希「ちょっとまて」

千晶「だから、さっきからなんなのよ」

春希「だから、なんで千晶がうちの実家の鍵を持ってるんだよ」

千晶「あぁその事ね。そんなの決まってるじゃない。春希のお母さんから貰ったの」

春希「は?」


 思考が停止する。停止したら負けだってわかっているのに、

俺の脳はオーバーヒートを回避すべく止まろうとしていた。


千晶「だからぁ、春希の荷物を引っ越し業者が取りに来たでしょ」

春希「それは今さらだけど、ありがとな。助かったよ」

千晶「どういたしまして」


 優雅に頭を垂れる様はおそらくきまっているのに、

どうしてその頭をおもいっきりひっぱたきたくなるんだろうな。不思議だよ、まったく。


千晶「でね、ここまで一緒に引っ越し業者の人ときたわけよ。そしたら春希のお母さんがいるじゃない」

春希「そりゃあ住んでいるからな」

千晶「それでお互い自己紹介して、そしたらここに住んでもいいよって、ね。わかった?」

春希「わかるかっ。わかってたまるか。どうやったらその説明だけでわかるっていうんだ。

   もしわかるというなら、俺が知らない間に人類が進化してテレパシーでも

   会得したんだろうな」

千晶「何言ってるの、春希? そんな空想実現するわけないじゃない」

春希「だぁ・・・、だから、どうしてお前がここに住むんだよ。実家まで来たところまでは

   想定内だよ。色々と母親と話をすることも、嫌だけど、想定していた。でも、

   なんでそれが飛躍しまくって、ここに住む事になったんだ。そこんところを詳しく

   説明して頂きたい」

千晶「わかったわよ。春希が何を聞きたいかくらいわかってるから。でもその前に荷物おかない?

   春希も重い荷物持ってるわけだし、一時休戦ってことで」


春希「わかった。荷物置いたら話を聞くからな」

千晶「らじゃ~」


 そうわざとらしく敬礼すると、千晶は空き部屋だった部屋に消えていく。ちらっと部屋の中が

見えたが、すでに千晶の荷物らしきものが敷き詰められている。あの千晶御用達の寝袋は部屋の

隅に転がり、その横には使われずにしまわれていた客用の布団が畳まれていた。

 俺はもっと部屋の中を見たい気持ちと、これ以上面倒事を抱える事のデメリットを天秤にかけ、

部屋の中を見たいに大きく傾いた。だから俺は反対の行動を選択する。だって千晶だし、

俺の判断は絶対に間違っているはずだ。

 混乱が収まらぬまま自室へと向かう。前回きたときと同じように部屋の空気はどよんでは

おらず、部屋にあるべき荷物が収まっている分生活感が漂ってくる。きっと千晶が今までの配置を

参考にして荷物を押しこんでくれたのだろう。ベッドも机の位置も変わり映えしない。

そもそもこの実家での自室をそのままマンションに押し込んだのだから同じなわけだが。

 ただカーテンだけは真新しいものが下がっていた。薄い水色の遮光カーテンが外の光を

遮断している。俺はゆっくりと遮光カーテンを開け、続いて白いレースのカーテンも開ける。

飛び込んでくる外の景色は、あの時と、数年前のあの時と同じ光景だ。違う点があるとしたら、

あいつが、かずさが下の道路にいないことだけだった。


千晶「まだぁ? それとも片付け手伝おうか?」

春希「悪い。今行く」

千晶「わかったぁ」


 俺は窓を少しだけ開けて風を取り込む。ゆらゆらとした風が舞いこみ、ふわりとカーテンを

なびかせる。それがなんだか俺を歓迎しているように見えてしまったのは、

俺が弱っているせいだろうか。

 新品のカーテンが俺を歓迎してるようなきもするが、これからうまくやっていけるかは不安が

残る。今になって思ってしまう。引っ越しの話をする為に母と向き合った時、何故母の事を

意識してしまったかようやくわかった気がした。あくまで気がしただけで

勘違いかもしれないけど、今はこう思えた。

 それは色々なことが積み上がっての事だが、冬馬親子のすれ違い。麻理さんに対して自分勝手に

作り上げてきた根拠もない強さ。本当は繊細で可愛らしい人であった。たしかに仕事面では

圧倒的な強さは見せるけど。

 だから、母に関しても、高校時代までに自分が勝手に作り上げてきた母親像を

見てきたんじゃないかって思えてしまう。勝手に母だけに責任を押し付けて、

自分は意識さえしていない被害者意識を持っていたのかもしれなかった。

 ニューヨークに行くまでの数カ月で何か変わるかなんてわからない。それでも今度こそ親子の

縁が砕け散ったとしても、母と向き合ってみようと思わずにはいられなかった。





春希「で、なんでお前がここに住む事になったんだよ」

千晶「そのことね。わかった。今から説明するね」

春希「俺が、人間が理解できる説明を頼む」

千晶「傷つくなぁ、その言い方」


 舞台女優のごとく、一番後ろの観客までわかるように大げさに傷ついた演技をこうじる。

それを目の前で見ている俺からすれば嫌味しか感じ取れないが、

それさえも千晶の演出だと思えてしまう。


春希「わかった。悪かったよ。だから説明を始めてくれ」

千晶「よろしい。まず荷物をここに届けたでしょ。で、おばさんに会って、わたしは誰ってことに

   なるでしょ? だから自己紹介をしたってわけ」

春希「ちょっと待て」

千晶「なんだい春希くん?」

春希「お前の自己紹介って、どんなことを吹きこんだんだ」

千晶「吹き込んだなんて心外かな」

春希「それはもういいから話を進めてくれ」

千晶「ほいほい。えっと、まずは大学で春希が勉強面で面倒みてくれているってことと、

   春希が教授にわたしの教育係を任命されているってことかな」

春希「まあ、嘘は入っていないな」

千晶「だから警戒しすぎだっての。でね、春休みになって色々とレポートとかを春希が

   助けてくれて、部屋に泊まり込んで頑張ったってことを言ったかな。そしてその後も

   泊まる部屋がない私を春希が居候させてくれたってことかな」

春希「ちょっと待て。だいたい事実通りなんだけど、

   どうしてそこから千晶がここに住む事に繋がるんだ」

千晶「それはこれから話すんだから、ちょっと待ってよ。せっかちだね、春希って」

春希「うるさいっ」

千晶「はいはい。えっと、春希が実家に戻っちゃうでしょ。そうしたらわたしが住む場所も

   自動的になくなるわけだから、困ったなぁって話になるわけよ」

春希「いや、だから、千晶も実家に住んでいるんだから帰ればいいじゃないか」

千晶「そこんところは話していないかな? いや、どうだったかな?」

春希「しらばっくれるな。わざと話していないんだろ。・・・・・・もういい。

   で、今まで俺ん所に転がり込んでいたから、急に部屋がなくなって困った。

   だからそれを見かねて母さんが部屋を提供してくれたって事なんだな?」

千晶「ま、そんなところかな」

春希「それだけでよく部屋を貸してもらえたな。もしかして恋人とかっていってないよな?」

千晶「それはきっぱりと否定しておいてあげたよ。

   もちろんわたしの裸をじっくり見たっていうのも言ってない」


 体をしならせるな。くねらせるな。色気をばらまくな。・・・・・・思いだしちゃっただろ。

 俺は頭をリセットして邪念を振り払うべく話を強引に進め出した。


春希「その方が賢明だな。いきなり彼女が押しかけてきたら、さすがの母さんも気を使っただろうな」

千晶「だね。でも安心して。春希が海外行くまでの前期日程までしか居候するつもりはないから。

   いくらわたしでも、春希がいないのにここに住んでいられるほど神経図太いわけではないからさ」

春希「すでに十分すぎるほど図太いと思うぞ」

千晶「そう?」

春希「まあいいよ。どういういきさつで住むことになったかはわかった。

   それに母さんは納得していたんだろ?」


千晶「うん、わたしの印象では嫌がってはいなかったかな」

春希「だったら問題ない。俺自身も居候みたいなものだから・・・」

千晶「ふぅ~ん・・・、だからか。やっぱ親子なんだね。思考回路というか考え方? 

   そういうのが似ているかな」

春希「どういう意味だよ?」

千晶「だからさ、二人とも口ではわたしのことを面倒見るとか言ってるけど、実際は

   親子二人っきりで生活していくのを怖がってるって事。つまり二人の間にわたしという

   緩衝材を置く事によって精神的な安定を求めているってことよ」


 びしっと指さすその人差し指をひっつかんで、ぐいっとへし折ってやろうと思ってしまう。

だが、そういう感情的な反応こそが図星であり、俺が考えたくない事実なのだろう。


春希「わかった。降参。その通りだと思うよ。だから千晶も気を使わないでここに住んでくれ」

千晶「言われなくたってわたしが気を使うとでも思ってたの?」

春希「思ってないよ。思ってないけど、多少は気を使うふりくらいをしてくれると助かるよ」

千晶「ふりね、ふり。今度からはそうする。でもさ、一緒に住むわけだから料理の勉強も

   しやすくなるでしょ? その辺は春希にとっては都合がいいんじゃない?」

春希「そうだな。そう考えればそうなるわけか」

千晶「まっ、これから半年間よろしくね、春希っ」

春希「あぁ、よろしく頼むよ」


 固い握手で結ばれた先にある表情からでは、その奥に潜む真意は読みとる事は出来なかった。

 まあ、いいか。どうせ千晶のことはわかりっこない。わかろうと歩み寄ってもするりと

かわされてしまう。だけど、わかろうとする努力だけはしておくか。わからないことと、

わかろうとしないことは大きく意味合いが違う。

 母さんのこともわかろうとしてこなかったわけだし、ついでだ。千晶と母さん。

この半年で少しでもわかる事ができるのなら、それは人として成長できたって思えるかも

しれない、と課題を一つ立ち上げた。





 本日急きょ開催された千晶主催の料理教室はいたって平穏に終了する。味付けなんかは

やはり食にうるさい千晶ともあって大変参考にはなった。あとこれは意外ではあったが、

千晶はけっこうな凝り性でもある。それと同時に面倒くさがりやで時間短縮調理も詳しい。

その相反する料理プロセスを共存させているのはある意味面白い観察対象であった。

 まあ、なるようにしかならないし、いつまで続くかもわからない。それに今俺がすべきことは

麻理さんに連絡をいれること。きっと麻理さんは連絡を待っているはずだ。

 しかし、本当に俺が麻理さんの夕食に声と映像だけで参加して、それだけで麻理さんの症状を

抑えられるのだろうか? 本来なら俺も一緒に食事をすべきだが、千晶がいるとあってそれは

できない。こればっかりは千晶に知られるわけにはいかないしな。

 俺は一つ深く深呼吸をすると、通話ボタンを押した。


麻理「もしもし、北原?」


 ちょっとばかしの予想と、多大な期待通り麻理さんは即座に俺からの連絡を受け取ってくれた。



その映像と声は半日前と変わり映えがない。


春希「少し報告が遅れましたが、日本に無事着きました。今は実家の俺の部屋です」

麻理「そう。無事ついたのなら問題ないわ。・・・・・・親御さんは、お母様とはどうだった?」

春希「母はまだ帰宅していません。ただ・・・、その」


 俺の歯切れの悪い反応に麻理さんは訝しげな表情をむけてくる。俺の方も悪い事を

しているわけではないのに、どうしてドキドキしてしまうのだろうか。それはきっと千晶のことを

話したら、麻理さんの反応がどうなるかわかっているからなんだろうけど、

でも隠しておくわけにはいかないし、ここは正直に言ってしまおう。


麻理「北原、正直になりなさい。隠していてもお前の為にはならないぞ」


 どうしてだろう。神様みたいな慈悲深い笑顔の奥に、

死神のごとく真っ黒なオーラが見えるのは・・・・・・。


春希「はは・・・」

麻理「どうした北原? 笑えるような話なのか? それならば隠していないで私にも教えて欲しいかな」

 だから、どうして笑顔が輝くほどに黒いオーラが増大していくんですっ。

春希「あのですね、これは俺が関知していなかった事で、なおかつ母が決めてしまった事なの

   ですが、俺の大学の同級生も一緒に実家で住む事になりました。俺としては母と

   二人っきりよりも、そいつが一緒の方が何かと気まずくないと思いますし、

   悪い話ではないと思うんですよ」

麻理「そう・・・、わかったわ。で、和泉千晶さんは今も隣の部屋にでもいるのかしら?」


 どうしてわかるんですか? 俺は一言も千晶の事を話してはいないじゃないですか。

 背筋に流れる冷や汗が、麻理さんがすうっと指先で撫でたかのようにひやりと背中を震わせる。

きっと俺の顔は青く染まっているのだろう。


春希「たぶん千晶が使う事になった部屋にいると思います。でもなんで千晶だとわかったんですか?」

麻理「女の勘って言ってしまえばそれまでなんだけど、でもそうね。北原は大学で親しくして

   いる友人って限られているからかな。もちろん北原から聞いた話でしか交友関係は

   わからないけど、その中で北原が実家に住む事を許せる人物となると和泉千晶さん一人しか

   思い浮かばなかっただけよ」

春希「たしかに千晶以外ですと武也っていう腐れ縁のやつがいますけど、

   そもそもそいつは俺のところには転がり込んではこないですね」

麻理「あぁ、あの武也君ね。女癖が悪い」

春希「ええ、その武也です。あいつが住む場所に困ったら女のところに転がり込みますよ」

麻理「北原がそう断言するだなんて、よっぽど女癖が悪いのかしら? 

   そのうち刺されるんじゃない? 大丈夫?」

春希「たぶん大丈夫じゃないですかね。今までも刺された事はないですから」

麻理「ちがうわよ。北原が巻きこまれて痛い目にあうんじゃないかって心配しているのよ」

春希「俺ですか?」

麻理「そうよ。だって武也君は自分で撒いた種でし、自業自得でしょ。ある意味女の敵でも

   あるんだから、責任は彼自身が取るべきね。でも、その騒動に北原が巻き込まれるのは

   別問題よ。だって、彼の問題に北原が巻き込まれる理由がないもの」

春希「はは・・・、大丈夫ですよ。以前間違えられてひっぱたかれた事はありますけど、

   それだけです。麻理さんが心配するような流血騒ぎは起こっていないです」

麻理「そう? ならいいけど、でも北原。気をつけてね」

春希「はい。さて、食事の準備は大丈夫ですか? 俺の方は同居人と食べてしまったので

   申し訳ないのですが」

麻理「準備はできてるから大丈夫よ。一緒に食べられないのは残念だけど」

春希「すみません。できるだけ時間作りますから」

麻理「うん、ありがと」




 電話から聞こえてくる佐和子さんの声は安堵に満ちている。普段はお互いの愚痴ばかり

言っているのに相手の事を思いやる気持ちの深さは測りされないくらい深い。

麻理さんとの食事が終わり、俺の方が先に佐和子さんと電話をする事になった。親友であり、

同じ女性同士である佐和子さんと麻理さんの方が長話になることを見越しての判断である。


佐和子「でも大丈夫なの? 食事って毎日よ。毎日北原君が麻理の食事に付き合うなんて

    難しいんじゃないかな?」

春希「やれることろまでやってみますよ。それに半年もありませんからね。

   そのくらいなら問題ないです」

佐和子「そう? 私がたまに代わってあげる事ができるんあらよかったんだけど、

    私では効果がないんだもの。ほんと色ぼけしてしまってるわね」


 親友である佐和子さんでも、麻理さんの味覚障害を緩和する事はできなかった。

そのやりきれない気持ちは、親友としては辛いものだろう。しかも効果がある俺ときたら半端者

で、全てを頼ることができないときている。きっと俺には言えない本音もあるはずだ。


春希「その事についてはノーコメントで」

佐和子「ノーコメントっていうことは、言えないような事を考えているのかしら、ね?」

春希「それもノーコメントでお願いします」

佐和子「ほんとこういうところはガードが固いのよね。もう少し隙を見せてくれてもいいのに」

春希「そうですか? 俺は結構佐和子さんのことを頼りにしているんですけどね。だから、

   隙を見せているかはわかりませんが、腹を割って話しているつもりですよ」

佐和子「まあ、そうね。もし北原君が本心を隠して麻理に近づいていたのなら、麻理の心を

    中途半端に癒そうとしていたんなら、きっと私はあなたを許さなかった」

春希「・・・・・・その」


 なんと言えばいいのだろうか。いつも通りの口調のはずなのに重く俺の心にのしかかって

くる重圧に、俺は返す言葉が詰まってしまう。


佐和子「ごめんね、北原君。きつい事言って。北原君が麻理によくしてくれているって

    わかってるのに、麻理の為にニューヨークまで行ってくれるっていうのにね。

    ・・・・・・・ほんとごめんなさい」

春希「そんな。俺がしっかりしていなかったことが招いた事なんですから、責められるべくして

   責められているんですよ。それにニューヨーク行きは俺にとって悪い話ではないですから。

   麻理さんからも早い段階で海外での経験を積んだ方がいいって言われていましたから。

  だから、それがちょっとだけ早まっただけです。むしろちょうどいい機会だとさえ思っています」



佐和子「でも、ニューヨークに行くとなると今までみたいに大学とそのバイトっていうわけには

    いかないわよ。一応開桜社が期待してニューヨークに送り出してくれているんだもの」

春希「はい、その点も重々承知しています。開桜社と麻理さんの顔を汚すような事はしない

   つもりです。浜田さんにも色々とお世話になっていますから、その分俺が結果を残さないと

   いけないですからね」

佐和子「だから北原君。あなたは一人で背負いこもうとしすぎよ。あなたはまだ大学生で、

    来年からは編集部に席を置く事が決まったからといっても、今はまだバイトに

    すぎないの。だからほんとこのままだと麻理だけじゃなくて北原君、あなたまでも

    押しつぶれてしまいそうで見ていて辛いわ。・・・辛い、というかな、

    なんか見てらんない。自分が何もできないのもふがいないんだけどね」

春希「なんだかさきほどから同じ事を繰り返してしまってますね」

佐和子「ちょっと北原君?」


 俺の場違いの声色に戸惑いをみせ口をとがらせる。たしかにシリアスな雰囲気に突然陽気な声が

こぼされたら、怒るかあっけにとられるかのどちらかだろう。


春希「これから先どうなるかはわかりません。でも、俺も佐和子さんも、そして麻理さんだって

   みんなの事を心配してるってことですよ」

佐和子「そうだけど・・・」

春希「それにそろそろ電話を切って佐和子さんが麻理さんに電話しないといけない時間だと

   思いますよ」

佐和子「あっ、ほんとだ。これ以上麻理にやきもちをやかせることはできないわね」

春希「佐和子さん?」

佐和子「お互いさまよ。じゃ、また近いうちにあいましょう」

春希「はい」


 電話を切り、窓の外を見る。これから麻理さんは仕事だ。食事は無事終えることができても、

それがいつまで続くかなんてわからない。不安要素をあげればきりがないってわかっていても

考えずにはいられなかった。

 でも、今日はこの後佐和子さんも連絡を取るわけで、気持ちの上での応援は出来る限り送れる

はずだ。そう考えると俺と佐和子さんの連絡は後でもよかった気が今さらながらしてしまう。

仕事には真摯に向かう麻理さんが遅刻までして佐和子さんと長話なんてできやしない。

でも、話し足りないほうが仕事後の楽しみもできるというものか。

 俺はそう勝手な結論をつけると、ようやくニューヨークにもっていった荷物の片づけを始めた。











第46話 終劇

第47話に続く




第46話 あとがき


暑くなってくるとパソコンに向かうのも大変ですよね。

暑いし・・・・・・。

最近執筆ペースが速くなったはずなのに、どうして楽にならないんでしょうか。

本棚には買ったのにまだ読んでもいない本が積まれていっていますが、

最近では本棚の中身を見なかった事にしています。


来週も月曜日にアップできると思いますので

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派

第47話



4月13日 水曜日



 ニューヨークでの時差を体験しようと、そして寝起きする場所が独りを謳歌したマンション

から実家に戻ってこようと、朝起きる時間に狂いはない。今日も目ざましが鳴る数秒前に

目が覚め、アラームもその機能を発揮した直後に今日の役目を終えた。

 そして実家に戻って来ても料理の練習は続けられている。今も昼食用の弁当を作っている

ところだ。まあ、朝食のメニューと重なる部分は御愛嬌だ。弁当に入れた卵焼きと

ほうれん草の胡麻和えは、朝食では目玉焼きなり、ほうれん草はほうれん草とハムの炒め物に

なっている。

 同じ材料でもちょっと手の加え方を変えれば見栄えも味もかわるわけで、忙しい朝には

もってこいのアイディアである。ただこのアイディア。昨夜さっそく千晶に教わったあたり、

なんだか癪に障るのはどうしてだろうか。たしかに料理に関しては千晶が先生であり、

俺が生徒だ。でも、いつもはその逆であるわけで、その思い込みが心が狭い俺に変な優越感を

植え込んでいるようであった。

 これではいけないとわかってはいるわけで、やはりできないことはできないと受け入れ、

素直に千晶の指示に従うのが最善なのだろう。ましてや演劇の分野では当然ながらその差は

歴然であり、俺が優れているなんて思いあがりはもつべきではない。

 おそらく昨夜の千晶の態度が、ほんのちょっと、いや、思いっきり癪に障っただけ

なのだろうけど・・・・・・。

 あいつったら、人に教えることに慣れていないんだろうな。なんでも自分基準で考えて

いそうだ。これもこれからの検討課題として、今は料理に集中しますか。


千晶「おはよぉ春希ぃ・・・。やっぱ起きるの早すぎない?」


 やっと起きてきたな寝ぼすけめ。

 料理の臭いに釣られてきたのか、ふらふらっと現れた千晶は、俺の断りも得ずにパクリと

テーブルに置かれていた卵焼きを頬張る。


春希「おい、こら。つまみ食いするなって。・・・余分に作ってあるからいいか。

   それと、おはよう千晶」

千晶「朝っぱらからお小言はいらないって。でも、余分に作ってあるんなら最初から

   怒らなくてもいいじゃない」

春希「そういう理屈じゃないだろ」

千晶「おっ、これってわたしのお弁当?」


 目ざといやつだな。さっそく見つけたか。もともと隠す気はないからいいんだけど、

でも、なんだかこそばゆい気がして頬が緩んでしまう。

 俺の弁当箱の隣に鎮座している透明のタッパ。よくある保存用容器を利用しての弁当箱だ。

本来なら弁当箱を用意したほうがいいのだが、自宅に弁当箱を何個も用意してある方が

マイノリティーってものだろう。

 そして、さらにもう一つ用意されている弁当箱。俺のより小さなその弁当箱は、

綺麗に保たれているが年季を感じさせる一品である。これは今では使われなくなった

弁当箱ではあるが、昔母親が仕事の時に用いていたものだと記憶している。


春希「そうだよ。約束したからな」

千晶「えらい、えらい。で、こっちのもう一つの方は?」


 お前、わかってて聞いてるだろ。でもこれが千晶なりの優しさか。

春希「母親の分だよ。俺達のだけ作って、一緒に暮らしているのに一人分だけ作らないって

いうのは、作る方もつくって貰う方も嫌なものだろ。だから、まあ、いらないって言われれば

千晶が夕食のときにでも食べてもいいぞ」


千晶「ううん、大丈夫。きっと食べてくれる思うよ」

春希「そうか、な」

千晶「うん、そう」

春希「だと、いいな」


 どこの家でもありそうな一日の始まりは北原家でも同じように繰り広げられる。

そこにはちょっとばかし歪な人間関係がうごめいていても、はたから見れば些細な出来事で

あり、大したことではないと笑われてしまう。

 あの時も、かずさの母子関係について話した時も、俺がそんなこと言ったっけな。

 ほんと、大したことないな。作った弁当を食べてもらえるだろうか、とか、なんで弁当を

作っているんだろうか、とか、嫌がらないだろうか、とか、捨てられないだろうか、

なんて、被害妄想じみたものまで思い浮かべてしまう。

 でも、それも含めて終わってしまえば、明日になってしまえば大したことではなくなって

しまうのだろう。

 まあ、いいか。とりあえず千晶が美味いって思ってくれる弁当を作り上げるかな。





 久しぶりの大学は俺が3年間通っていた風景のまま俺を出迎えてくれる。

 一つ違うところがあるとしたら、それは一緒に登校する相棒がいることだろうか。

今では自他ともに認める千晶の管理責任者であり、教授にまで念を押されて頼まれて

いるわけで、朝から一緒に登校してこようと冷やかす輩など皆無だ。

 これが高校時代であったなら75日経とうが噂が消えうせる事はなかったはずだから、

恋愛関係の話題に飢えている年頃にうってつけの話題だろう。


千晶「ねえ、春希」

春希「ん? なんだよ」

千晶「あのさぁ、なんで春希って大学で講義がない日にも大学に来るの? 

   今日は朝一の講義があるけどさ」

春希「ああ、その事な。俺も本来ならば自宅で勉強していようと思っていたんだけどな。

   でも大学での仕事に和泉千晶の監視っていう項目が付け加えられたんだよ。

   だから来なくてもいい時間に大学にきてんの」

千晶「まじめだねぇ春希って」


 あくびをかみ殺す事もなく大きな口を開け、男性諸君の目の毒な大きな胸をそりかえらせて

体を伸ばす。気ままなネコのようにマイペースで朝の準備を進めていく千晶に、俺は既に

お小言をいう気力を失っていた。



 あまり言いすぎるのもよくはないっていういいわけも、こいつに限っては無意味だ。

意味があるとしたら、お小言を言う監視役の体力を考えるべきということだろうか。


春希「真面目だけが取り柄だからな」

千晶「で、真面目すぎる北原春希君は、あんたの友人が顔に青あざつくっているみたい

   だけど、どうすんの? あの彼って、春希の友達でしょ? ついでに隣にいる

   口うるさい女も一応春希の友達って事であってるよね?」


 おい千晶。お前名前わかってて言ってるだろ。

 俺は千晶を一睨みしてから大学の正門の先にいる武也と依緒に目を向ける。

当然ながら俺の一睨みなど頬を撫でる程度の効果さえなかったようだけど。

 そして俺の視線の先には千晶の言う通り武也と依緒がいた。

 ヴァレンタインコンサート後は、顔を合わせれば挨拶はするし、ちょっとばかりの会話も

したりはしている。しかし、じっくりと時間をかけての会話をする機会はなかった。

それは俺の方がバイトで忙しかった事と、春休みはまあ千晶がらみで手いっぱいであった事が

主なる要因。

 ・・・・・・千晶のせいにしては駄目だな。どうしても俺が身構えてしまう。

それは武也も同じだろうけど、依緒においてはなおさらだ。

 でもいつまでも逃げてばかりもいられないかもな。俺は後期日程からニューヨークに

行くわけで、このこともしっかりと自分の口から伝えなければないらないのだから。


千晶「おっ、どうしたのそのあざぁ。もしかして女に殴られた?」


 おい千晶。いきなりすぎるだろ。俺の方にも心の準備ってものが・・・・・・。


武也「朝の挨拶もなしにいきなりだな。それにけが人相手なんだから、

   怪我の容態聞く前に怪我の原因聞くなよ」


 依緒は千晶の呼びかけに顔をしかめたが、武也の方はいたって普通に返事を返してくれる。

これが武也ってやつのいいところであり、ときには俺を甘えさせてしまう根源でもある。

といっても、いつもいつも甘えさせてくれないところが武也なりの優しさだろうか。


千晶「うわっ、ちょっとさわってもいい?」

武也「って、いてっ。おい、痛いって。さっきできたばかりの打ち身なんだから、

   ちょっとは手加減しろって」

千晶「そんなこといわれたって、そんな事実初めて聞いたんだからしょうがないじゃない。

   で、痛いの?」

武也「だから、さっきから痛いって言ってるだろ?」

千晶「たしかに・・・・・・」


 武也の右目のすぐそばには、大きな青あざが見事にできている。どう見ても殴られたように

しか見えないが、拳で殴られた感じからすると、これが本当に女性関係だとすれば、

腕っ節が強い彼女だったということか。

 そもそも殴られるようなことをしなければいいのにって思ってしまうのに、

まあ武也だしなとも思ってしまうあたりは、俺はすでに武也の女性関係を諦めかけている

証拠かもしれないと思ってしまった。



千晶「じゃあ、もう怪我の容態聞いたいからいいよね。で、さ、どうして殴られたの?」

武也「和泉・・・、お前も大概だな。もうちっとはけが人をいたわれ」

春希「なら俺がいたわってやるよ。どうだ武也、痛みはまだひかないのか? 氷が必要なら

   俺が買ってきてやるから、そこのベンチで座って待っててくれ。それと、

   おはよう武也。依緒もおはよう」

武也「おう、春希はやさしいよな。ここにいる自称女性陣とは大違いだ」

依緒「なにをぉ・・・って、ごめん武也」


 ここでいつもながらの夫婦漫才に入ると思いきや、依緒のトーンはすぐに下がっていって

しまう。だからなのか、武也がすぐに依緒にフォローをいれた。


武也「気にするな」

依緒「そだね。・・・春希おはよう」

春希「あぁ久しぶりだな。でも、久しぶりなのにどうしてこうも何度も見ていそうな光景を

   みているんだろうな。いや、今まで流血沙汰になっていないほうが不思議なくらいで、

   今回みたいに青あざですんでよかったんじゃないか?」

依緒「いや、そのね春希。武也が怪我したのはね・・・、まあその」

春希「依緒?」

武也「そのなんだ、春希。この怪我は女がらみだけど、やったのは女じゃない」

春希「おい武也。今度は彼氏がいる相手にちょっかいだしたのか? 

   それは人としてどうかと思うぞ」


 って、俺が言えるべき立場ではないんだけど、まあいいか。武也だし。


依緒「ちょっと武也。たしかに結果としては私があんたのことをぶん殴っちゃったけど、

   私を女にカウントしないのは許せないんだけど」

春希「おい、依緒」

依緒「ちょっと春希。それ回文になるからやめてくれない?」

春希「すまない」


 おい、依緒。こんなときにまで気にする事か? 今はもうちょっと別のことのほうが

優先順位が高いと思うぞ。


春希「で、もしかして、この青あざって依緒がやったのか?」

依緒「うん、まあ、成り行き上の事故っていうかな。私もやっぱ若いね」

武也「おい、依緒」

依緒「だからやめてよ。武也の場合はわざとでしょ」

武也「んなわけあるか」

春希「もういいから。どういうわけか説明してくれ」


 二人の一方的な主張を俺の偏見と経験によってまとめ上げると、以下の通りらしい。


春希「まずは、武也のあざの原因は依緒が殴ったことによる。これは間違いないな」

武也「ああ、そうだ」

依緒「うん、残念ながら事故で私が殴りました」



春希「よろしい。じゃあ次だ。朝大学に登校しようと電車に乗っているときに二人は

   偶然会った。それで一緒にいたんだよな」

武也「ああそうだ。でも、最近っていうか今年の初めあたりからは朝の電車が同じって事が

   多いかもな」

春希「まあその辺の事情は別にいいよ。それで駅について、今武也が付き合っている彼女

  のうちの一人とはち合わせたと」

武也「その言い方は酷いな。愛を配っている相手と言ってほしい」

春希「ふざけるな」

依緒「そうよ武也。あんたのところ構わずだらしない愛を振りまきすぎた結果が

  これじゃない」

武也「いや、青あざできたのはお前のせいだ」

依緒「なにをぉ」

春希「だから依緒。やめろって。一応これでも武也はけが人なんだからな」

依緒「まあ、そうね。ごめんね春希」

春希「いいって」

武也「謝る相手が違うぞ。それと春希。お前もやっぱり大概だな」

春希「そうか?」

武也「いいよ、もう」

春希「だったら、話を続けるぞ」

武也「はいはい、どうぞ」

春希「その彼女が依緒のことを武也の浮気相手だと思ったという事であってるな」

依緒「不本意だけどその通りよ。どこをどうみれば可憐な私が鬼畜な武也と

   付き合わないといけないのよ」

春希「その辺の事情も今回は考慮しないでおこうな」


お互いの正直な気持ちを出さないから話がこじれてるんだよな・・・・・・とは言えないか。


依緒「わかったわよ」

春希「それで、その彼女と依緒が武也をめぐって修羅場になったと」

依緒「ほんとはた迷惑な話よね。しかも駅前でうちの大学の生徒が

   ひしめく通学時間帯だったのよ」

春希「それはご愁傷様。武也とつるんでるんだから、それくらいは覚悟しておけって」

依緒「言われてみればそうね。ごめん、武也。この事については私の覚悟は甘かったわ」

武也「・・・・・・もういいよ。俺のことは勝手にいってくれ・・・・・・」


 肩を落とす武也に俺も依緒も慰めの視線さえ向けない。ついでも千晶も興味がなさそうに

あくびをしていたけど、まあいいか。


春希「そして修羅場は加速して、さらにもう一人武也の彼女がやって来て修羅場が地獄へと

   変遷していったと」

依緒「だいたいそんなかんじね。だけど私の事は後から来た彼女が知っていたらしくて、

   ようやく武也の彼女ではないって最初の女も納得してくれたのよ。その点に関して

   のみは後から来た女に感謝しちゃうかな」

武也「よくいうよ。さっきも散々文句言いまくっていたくせによ」


依緒「武也何か言った?」

武也「いいえ、滅相もありません」


 お前ら、ほんといいコンビだよ。


春希「ここまでは俺も理解できたんだけど、どうしてここから依緒が殴る事になるんだ? 

   だって依緒は当事者から外れたじゃないか。それなのにどうして興奮して殴ったり

   なんかするんだ?」

依緒「それは、その。まあ、成り行きってやつで」

武也「んな生易しい雰囲気じゃなかったぞ。もう鬼がいるって思ったからな」

依緒「言ったなぁ」

武也「事実だろ?」

依緒「そうかもしれないけど、さぁ」

春希「ほら依緒。俺にわかるように説明してくれよ。どうしてもなんで依緒が殴る事に

   なったかだけはわからないんだよ」

依緒「それはぁ・・・・・・」


 どうもこのことについては歯切れが悪い。それは武也の方も同じで、だんまりを決め込んで

いる。もしかしたら言い訳をしないってスタンスかもしれないが、

ようは依緒の主張を受け入れるって事かもしれない。


千晶「そんなの簡単じゃない」

春希「千晶?」

千晶「だから簡単だって言ってるのよ。そこの女はね、ほかの彼女たちに恨みを

   買っただけだって」

春希「はぁ? だって依緒は彼女じゃないんだぞ」

千晶「だからこそじゃない? 彼女でもない女が四六時中自分の彼氏に付きまとっていたら、

   彼女としては嫌な気分でしょうね」


 たしかに千晶の言い分は筋道がきっちりと通っている。理屈の面でも感情の面でも論理的な

飛躍は見当たらない。だとすれば、千晶の推理が正しいという事なのだろうか。


千晶「概ね彼女二人の言い争いが、いつしか彼女でもないそこの女への恨みへと変わって

   いったんでしょうね。そしてそこの女が切れちゃって、怒りのはけ口として飯塚君を

   なぐっちゃったってところじゃないかな。で、結果としては見た通りに大きな青あざが

   できたと。これであってるよね?」


 依緒に視線を向けると、逃げるように顔を背けてしまう。仕方がないので武也を見ると、

覚悟を決めたようで、一つため息をついてから語りだした。


武也「まあ、まず最初に言っておきたい事は、依緒は悪くない。俺が彼女たちのケアを

   しっかりとしていなかったせいで依緒が巻き込まれてしまっただけだ。だから、

   このあざも俺は気にしちゃいない。依緒が言う通り事故だった。事故だったんだよ」

春希「武也が事故だって言うんなら、俺はとやかく言わないさ。

   でも、よく修羅場がお開きになったな」

武也「そこは依緒の気迫っていうか、並々ならぬ殺気を感じ取って二人とも逃げていったよ」


春希「そりゃ彼女たちも災難だったな」

武也「だな」

春希「これでだいたいのいきさつもわかったし、当事者たちも納得しているみたいだから俺は

   これ以上追及しない」

武也「サンキュな春希」

春希「俺は何もしてないって。そうだ、氷はどうする?」

武也「いや、大丈夫だと思う。もうすぐ講義だしな。講義が終わっても痛みが引かなければ、

   そのときまた考えるよ」

春希「そうか」

武也「悪いけど、もういくな。今度ゆっくり食事でもしような」

春希「ああ、わかった。そのときな」

武也「ああ、じゃあな」

依緒「悪かったわね、春希」

春希「いや俺は何も。災難だったのは依緒のほうだろ?」

依緒「それでもさ。・・・・・・・あと、雪菜の事だけど」


 不意打ち過ぎる話題に俺の体は硬直する。武也に、そして依緒に出会ったら、きっと話題に

出てくる事予想はできていた。でも、ヴァレンタインコンサート以降まったく話題に

あげてくる事がなかったので油断していたといえるのかもしれない。もしかしたら武也たちの

思いやりに甘えていたのかもしれない。

 でも、今話題にして来たという事は、雪菜になにかあったか、それとも俺に変化を

求めてか、なのだろうか。


春希「雪菜に、・・・なにかあったのか?」

依緒「いやさ、雪菜に何かあったわけじゃないのよ。春希の内定決まったのを武也経由で

   聞いたのだって、あの子自分の事のように喜んじゃってね」

春希「雪菜らしいな」

依緒「だね。・・・・・・でも本当は、春希が直接伝えるのがいいんだろうけど」


 二人の感情が複雑に絡み合った視線に今までは逃げていた。怒りも含んだその感情は、

角度を変えてみれば心配であるとさえ判断することができる。こんなどうしようもない俺を

見捨てないでくれている二人に、俺は後ろめたい気持ちでいっぱいで、

今までは押しつぶされそうで逃げ回っていた。


春希「すまない」

依緒「なら、今までと同じようにってわけにはいかないけど、

   今度雪菜も誘って食事にでも・・・・・・」

春希「ごめん」

依緒「ごめんってなんだよ。ごめんって」

武也「依緒、やめろって」

依緒「だって、だってさ・・・・・・」

武也「俺達が無理やり引きあわせてもぎくしゃくするだけだ。こういうのはタイミングや

   めぐりあわせってものが必要なんだよ。うまくいくときは馬鹿みたいに思い悩んで

   いたのがアホらしく思えるものだ。だから今は気が済むまで悩むべきだ」


依緒「わかったわよ。でもね、春希」


 強い意志を秘めたその瞳は、俺を捉えて離さない。これだけは俺に届けと切に願っていた。


依緒「雪菜、あんたが大学に来ないだけで、すっごく気にしてたんだよ。たった二日あんたが

   大学に来ないだけであの心配具合はちょっと異常かもしれないけど、それくらい今でも

   あんたのことが好きなんだ。それが恋愛関係に発展しないとわかっていても、

   人として好きでいることくらいは許してあげてね」

春希「俺が許す許さないもない。それは雪菜だけの感情だから、俺がそれを否定なんてできない」

依緒「そっか。それを聞いて安心した」

武也「でも、あの春希が大学こないなんて、これも異常だよな。今までは取らなくても

   いい授業も律儀に全部出ていたのに、それが4年になったらぱったりとだなんて、

   雪菜ちゃんじゃなくても気になるってもんだ」

依緒「まあ雪菜が春希のことをこっそり見ているのも異常行動なんだろうけど。・・・・・・

   それを言っちゃうと、その雪菜についていってる私も変なのかな?」

春希「そのことについてはノーコメントで」

依緒「ありがと」

武也「でも春希。どうしたんだ?」

春希「ああ、4年は3年までとは違って開桜社の方をメインにしようと思ってるんだ。

   だから必要最小限の講義しかでない」

武也「そっか。内定でたんだもんな。それでか・・・・・・」


 嘘は言っていない。嘘は言っていけど、肝心の理由を言っていない。俺の誤魔化しに

嬉しそうに喜ぶ二人を俺はどう見ているのだろうか?

 俺はずっと黙ったままの千晶のことが急に気になり視線をずらす。

 そこには無表情なまでの観察者がそこにはいた。俺の心臓を直接鷲掴みにして俺の行動を

把握している千晶は、俺にしか気づかれないかすかな笑みをうかべたまま事を見守っている。

ぞくりと背中を冷やす感触が、まるで鏡を見ているような錯覚さえ覚えてしまった。


武也「春希?」

春希「あ、ごめん。なんだっけ?」

武也「あぁ、これからは大学に来る機会が少なくなるのかって事だよ」

春希「おそらくそうなると思う。でも教授に頼まれている仕事もあるから、一応は毎日顔を

   見せる予定だ。昨日一昨日は開桜社の方の用事で休んでいただけだでさ」


 教授に頼まれた仕事って言っても千晶の監督だけど。

武也「そっか。あ、やば。そろそろ時間だな。またな春希。今度はゆっくり話そうな」

春希「ああ、わかったよ」

依緒「じゃね」

春希「依緒もまたな」


 最後まで俺の嘘に気がつかないままの友達思いの二人。その二人の背中を見つめていても

罪悪感があまりわかなくなってしまっている。おそらく感情がマヒしているんだろうけど、

でも、となりにいる千晶だけは見ることができなかった。

今は俺の姿を映し出す千晶を見る勇気が、自分を受け入れる自信がまだ備わっていなかった。


 そういえば実家への引っ越しの事も、そしてニューヨーク行きの事も、

肝心のことは何一つ話していない事に、今になってようやく思いだす。

 そして俺は、その事に気がついて、安心してしまった。




第47話 終劇

次週は、冬馬かずさ誕生日記念(2015)『やはり冬馬母娘の常識はまちがっている。』

を掲載いたします




第47話 あとがき


次週は予告通り冬馬かずさ誕生日記念小説を掲載いたします。

久しぶりにかずさを書きましたが、これといって違和感がなかったのが救いですかね。

最近では書く量が増えてしまい、ちょっと前に書いた内容さえ忘れる始末・・・。

それでも今年も無事書き終えてほっとしております。


来週も火曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


冬馬かずさ誕生日記念(2015)


『やはり冬馬母娘の誕生日はまちがっている。』


 半年前に購入したその家は、その本来の持ち主以上に持ち主らしい振る舞いとたたずまいを

匂わす冬馬曜子を歓迎していた。一応はその持ち主の妻である北原かずさも念願のウィーンでの

再会を果たし、母曜子に顔を合わせた瞬間のみは感動をみせた。しかし、今やその感動を返せて

言わんばかりのため息を既に何度ともなく繰り返していた。


曜子「ほんとでっかい家に引っ越してきたわね。まっ、それだけの活躍をしてきたんだし、

   当然と言えば当然なのかしらね」

かずさ「あたしは別に今までのマンションでもよかったんだけど、子供もできるわけだし

    マンションよりは庭がある戸建てがいいって春希が張り切っちゃってさ」

曜子「ふぅ~ん・・・」


 わざとらしく歯に引っかかるものいいと、舐めまわすように見つめる曜子の視線にかずさは

座っていたソファーから無理だとわかっていても後ずさろうとしてしまう。ただそれも大きく

膨らんだお腹のところで目が止まると破顔して笑みを隠せなくなる。

 つまりは、念願の初孫ができたことではしゃぎまくっているだけなのだが、その喜びを

あさっての方向に吐きだすあたりが冬馬曜子らしいと言えるかもしれない。


かずさ「なんだよ・・・」

曜子「だって、この家探していた時に春希君を通して色々とあなたのリクエストも聞いた気も

   するのよねぇって思いだしてて」

かずさ「そりゃああたしも住むんだし、それなりには意見も言うもんじゃないか」

曜子「そう?」

かずさ「なんだよ?」


 かずさが語気を強めようが、曜子は素知らぬ顔していやらしい追及をやめようとはしなかった。


曜子「ん? べ~つにぃ」

かずさ「別にじゃないだろ。何かあるからそんな風な態度をとっているんじゃないか」

曜子「そうかしら?」

かずさ「そうだよ。そうにきまってるだろ」

曜子「ならそれでもいいわ」


 やはり釈然としないかずさはさらに詰め寄ってやろうと一瞬頭をよぎったものの、そこは経験の

差が歴然としてあるわけで、早々にかずさはこの面倒すぎる案件を切り上げることにした。


かずさ「・・・・・・で、なんなんだよ」

曜子「だからねぇ・・・、一番気になったのはピアノの練習をする部屋かしらね。ここは

   どう考えても春希君の意見って感じがしないのよね。もちろん春希君が専門家の意見や

   美代ちゃんに相談とかしていたんだろうけど、それにしてもあなたの好みが強くでている

   かなって思ってね」

かずさ「当たり前だろ。あたしが使うんだから、あたしの好みに合わせてリフォームする際に

   春希が注文してくれたんだよ」

曜子「でもそれって春希君の意見じゃなくてあなたの意見になるんじゃないかしらね?」


かずさ「細かいところをいちいちついてくるんだなぁ。そうだよ、あたしの意見を主に取り入れて

   リフォームしました。春希がわかるわけないだろ。ピアノに関しては素人なんだし。

   そりゃあ最近は現場スタッフとの打ち合わせをたくさんこなしてきたからそれなりの

   知識だけは増えたさ。でも実際ピアノを弾くとなるとからっきしで、理解なんてできるわけ

   がない。だからピアノを弾くあたしが率先として意見を言ったとしても、

   それは当然の事だ」


 矢継ぎ早に言いきると、かずさは肩を上下に動かし息を切らす。それを見ていた曜子はかずさの

事よりもお腹の子に悪影響がないかしら、なんてかずさが知ったらさらに目の色を変えそうなこと

を考えていた。

 そもそも曜子が種をまいた話のネタであるのに、それはちょっとあんまりじゃないですかと場を

収めるはずの春希がいないことが、今の現状の根本的な間違いなのかもしれなかった。


曜子「まあ、当然の流れね」

かずさ「そ、そう?」

曜子「だって春希君にわかるわけないもの。ピアノについてはあなたの意見を聞いたほうがいいに

   決まっているわ。もちろん業者とあなたの間に立って詳細を詰めるのはあなたよりも春希君

   が担当したほうがスムーズに進むに決まってはいるけどね」

かずさ「誉められているのか、けなされているのかわからないんだけど」

曜子「安心しなさい。その両方プラス夫婦としても仕事のパートナーとしても順調で

   ほっとしているってところよ」

かずさ「その辺については心配する必要はないよ。仕事面では働きすぎってほど働いてるからさ」

曜子「それもそうね。現に今だって最愛の妊婦をほっといて仕事にいってるんだものね」


 その不用意すぎる曜子の一言でかずさの眉はつり上がる。曜子の方もこうなるとわかって

いながら発言するあたり肝が据わり過ぎているのだろう。


かずさ「それは母さんのせいだろ。ほんとうは来年までは二人揃って活動を一時休止するつもり

   だったのに、それなのに母さんが日本でコンサートやって、しかもそのCDやらBDやらを

   世界販売なんてするから」

曜子「仕方ないじゃない。不死鳥のごとく復活した冬馬曜子の演奏を世界が求めているんだもの」

かずさ「それにしても現金なものだな。せっかくドナーが見つかって病気も治ってコンサートも

   再開できたというのに、あたしたちには会いにこようとはしなかったじゃないか」

曜子「それはあなたたちが東京に戻ってこないからでしょ? 出て行った人間相手にわざわざ

   会いに行かないといけない義務も義理もないわよ」

かずさ「それでも親かよ」

曜子「親だからこそヨーロッパで活動がしやすいようにと色々と手を貸してあげたじゃない」

かずさ「それはありがたいとは思っているよ。でもそれは事務所の社長としての仕事であって、

   実際に色々動いてくれたのは美代ちゃんじゃないか。しかも何度ともなくウィーンまで

   来てくれて、母さんよりも美代ちゃんの方が今では家族の一員だと思っているよ」

かずさ「それは、まあ、ね。美代ちゃんも結婚できないでいるし、かずさと春希君が受け入れて

   くれるんなら、家族として扱かえば喜んでくれるわよ、きっと」

かずさ「ああ、そうだな。娘を放置したままの母親と比べるまでもないな」

曜子「でもこうして会いに来てあげたじゃない」


 すすすっとかずさのお腹に手を伸ばす曜子の手の甲を、お腹に触れる直前にかずさは

はたき落とす。ぱちんと心地よい音が鳴ったが、音の割には痛くはないのだろう。

叩いたかずさも、叩かれた曜子も笑みを浮かべたままであった。ただし、両者の笑みには決定的に

までもの溝が存在してはいたが。


かずさ「会いに来たのはあたしたち夫婦ではなくて、お腹の中にいる孫に会いに来ただけだろ」

曜子「あなたに会いに来た事と孫に会いに来たことなんて、大した差はないわよ」

かずさ「だったらなんで出産予定日直前に会いに来たんだよ。いままではウィーンにくるそぶり

   さえ見せなかったじゃないか」

曜子「それ言っちゃうんなら、私のドナーが見つかった時でさえ戻ってこなかったじゃない。

   しかも、あなたのピアノが認められて世界ツアーもやったというのに、東京だけは

   コンサートやらなかったじゃないの」

かずさ「札幌、横浜、千葉、京都、大阪、福岡、岡山、沖縄でやったんだから問題ないだろ。

   しかも千葉では幕張メッセを使ってだなんて馬鹿げた企画を持ってきやがって。ただでさえ

   でかいのに、これがどっかのバンドみたいに馬鹿でかい駐車場を借りきっての

   野外コンサートだったら日本に一歩たりとも踏み入れないつもりだったぞ。それに、

   そもそも東京だけが日本ってわけじゃない。それとドナーが見つかったときは行こうと

   したけど、コンサートが決まっていたから来なくてもいいって言ったのは母さんの方

   じゃないか。春希がコンサート中止を進めようとしたのを止めたくせに」

曜子「それは社長判断よ。だってあの時はあなたの稼ぎしかなかったのよ。社長としては莫大な

   中止費用なんて出したくないわよ」

かずさ「そもそもこの話は箱根に行ったときに散々やりあって、今後は話題にしないって春希と

    決めたじゃないか。温泉に来たっていうのに口げんかばかりして休める事が

    できなかったって春希だけじゃなくて美代ちゃんまでもげんなりしていてさ」

曜子「でも、家族三人で露天風呂に入れたんだからいいじゃない」

かずさ「あれは母さんがいきなり乱入してきたんじゃないか。

   せっかく春希と二人っきりで入っていたのに」

曜子「あらぁ・・・・・・。やっぱりウィーンで一緒に住んでいない私は家族じゃないって

   いいたいのね。裸のつきあいでもして少しは家族のきずなを深めようと思っていたのに」

かずさ「家族であってもルールっていうものがある。

   どこの家族が嫁の母親と一緒に旦那がお風呂に入るっているんだ」

曜子「あらあら? ここにいるじゃない。しかも実際一緒にお風呂に入って実証済み。

   悪くはなかったでしょ」

かずさ「あたしは問題なかったけど、春希は委縮しちゃって大変だったじゃないか」

曜子「でも春希君、お風呂から出ていかなかったじゃない」

かずさ「それは母さんがいたからだろ。タオルもなかったし、出るに出られない状態だったって

   知ってたじゃないか。しかもタオル取ってくれって頼んでも知らんぷりで、

   あたしが取りに行こうとしたら邪魔までしたくせに」

曜子「あらあらあら、そうだったかしら?」

かずさ「都合が悪い事は都合よく忘れやがって。・・・・・・そうだったんだよ。

   母さんが邪魔したせいで出られなかったんだ」

曜子「でも、病人相手に力づくって酷いんじゃないかしら?」

かずさ「どこまで都合よく忘れるんだ。あのときは快気祝いだったじゃないか。

   ドナーが見つかって治療して、体調も安定してきたからお祝いに温泉に行きたいって

   言ったのは、どこのどの冬馬曜子さんだったんだろうな」

曜子「たぶん世界一綺麗で、世界一ピアノがうまい冬馬曜子さんだと思うわよ」

かずさ「自分でそんなことを平然と言える神経がわからないけど、世界で二番目に綺麗で、

   世界で二番目にピアノがうまい冬馬曜子さんが言ったんだよ」

曜子「あらあらあらあら・・・、世界で一番ではなくて?」

かずさ「二番目だ。今はあたしの方が注目されているからな。あんたが「今」一番注目されて

   いられるのは、あたしが妊娠して休暇中って事と、今まで病気で活動できなかったけど、

   ようやく病気も治り、奇跡の復活をしたってマスコミが騒いでくれているおかげにすぎない」

曜子「あらぁ~、言ってくれるわね」

かずさ「時代は常に変わっていくんだよ。いつまでも母さんが世界の中心ってわけじゃないんだよ」

曜子「たしかに私はブランクもあるし、しかも今話題になっているのも不死鳥のごとく復活した

   絶世の美女ピアニストっていう面もあることは認めましょう。でも、あなたが言っている

   ように、時代は常に移り変わっていくものなのよ」

かずさ「なにがいいたいんだよ」

曜子「つまりは、あなたが妊娠、出産、育児をしている間に世界も変わっていくっていうことよ。

   あなたが幸せいっぱいに休暇をとっている間に、私は命を削ってピアノに向き合う

   つもりよ。現に今だってピアノを弾いていたほどだもの。病気をしてよかったことなんて

   ほとんどないけど、でも、病気があったからこそ今は昔以上に真摯にピアノに

   向き合えるし、ピアノを弾く時間がとても大切だってわかってしまったわ。それに、

   なんだか今まで心の中でくすぶって熟成されていた感情が一気に爆発してしまっている

   感じなのよね」

かずさ「いってろ。熟成しきって腐ってしまえばいいんだ」

曜子「ふぅ~ん。あなたもピアノが思うように弾けなくてストレスたまっているんじゃないの?」

かずさ「妊娠前みたいに半日通して弾き続けるなんてできないけど、弾く事は一応できるかな」

曜子「でも、お腹の子が気になって、意識を全てピアノにぶつける事ができないでいるって

   ところかしらね」

かずさ「そうだな。そう言われればそれであってる気がするよ。悪いかよ?」

曜子「悪くないわよ。ぜんっぜん悪くない。むしろお腹の子供を無視してピアノを弾いていたら、

   あなたの事をひっぱたいていたかもしれないわね」

かずさ「よくいうよ。育児放棄して自分一人でヨーロッパに行ったくせに。

   どうせならヨーロッパじゃなくて、地獄に逝けばよかったんだ」

曜子「高校生になるあなたを置いていってしまった事については、さんざん謝ったじゃない。

   理由を詳しく告げないで行った事を謝ったわよね」

かずさ「一応は」

曜子「だったらもういいじゃない」

かずさ「子供の時に受けた傷は大人になっても消えないんだよ」

曜子「ほんと執念深いわね」

かずさ「あんたの娘だからな」

曜子「でも、子供をほっとく所だけは似ないでよね」

かずさ「それは問題ない。あたしと春希の子供だからな。ピアノも大切だけど、

   それと同じように家族は大切だから」

曜子「そう・・・・・・」

かずさ「そんな顔するなよ」

曜子「そんな顔って?」

かずさ「だから、悲しそうで、不安一杯って顔をさ」

曜子「してないわよ」

かずさ「してるって。安心してよ。母さんもあたしにとってかけがえのない家族であって、

   最も大切な人の一人だからさ」

曜子「ん、もう・・・。可愛くなっちゃって。これもあなたも母親になるからかしら」

かずさ「どうだろうな」

曜子「私もあなたの事が世界で同一2位で大切な人だと思っているわ」

かずさ「ちょっと待て」

曜子「なにかしら?」

かずさ「同一2位ってどういうことかって聞いているんだ」

曜子「その言葉通りに2位が二人いるっていう事よ。まあ、3人以上いても同一2位ってことには

   なるけど、私の中では二人だから二人いるってことになるわね」

かずさ「そんな言葉の説明なんて聞くまでもなく理解している。だからなんで2位なんだよって

   ことだ。娘なんだし1位じゃないのかよ。あ、あれか? 

   あたしの実の父親が1位でしたっていうおちだったりするんだろ」

曜子「それはないから安心して」

かずさ「安心できないだろ。それ聞いちゃったらなんで娘のあたしが1位じゃないかってきに

   なってしまうだろ」

曜子「そうかしら? 心配症なのね」

かずさ「だれのせいだ、だれの」

曜子「もちろんあなたのせいじゃない。あなたが勝手に心配しているだけで、

   私は何もしていないわよ」

かずさ「してるって。してるから気になってるんだろ」

曜子「だからなにが気になるっているのよ」

かずさ「同一2位ってところだよ」

曜子「ああ、安心しなさい。春希君が同一2位の相棒だから、

   夫婦そろって2位だなんて縁起がいいんじゃないかしらね」

かずさ「はいはい、だったら1位は誰なんだよ」

曜子「なぁんだ、1位が気になっていただけじゃない」

かずさ「そりゃあ気になるだろ。話の流れからすれば娘のあたしが1位だと思うにきまってるだろ」

曜子「あなたもどこまでも自信家なのね」

かずさ「まあね。自信過剰で情熱でうなされているピアニストじゃなければ世界で

   やってはいけないだろ。もちろん周りの声もきちんと聞ける謙虚さも必要だけれど、

   それでも舞台にたったら自信過剰じゃなければ表現なんてできやしない」

曜子「それもそうね。だったら訂正するわ」

かずさ「どうも」

曜子「そうねぇ・・・・・・、だったら甘えん坊ってことでいいかしらね」

かずさ「よくないだろ。自信家よりも悪化しているだろ」

曜子「そうかしら?」

かずさ「そうなんだよ」

曜子「でも、事実じゃない?」

かずさ「事実じゃない」

曜子「でも、春希君に対しては甘えまくってるじゃない。人の目を気にしないで」

かずさ「それは・・・・・・、仕方ないだろ。春希なんだから」

曜子「それもそうね。今さらの事だってわかっていたのに聞いて悪かったわ」

かずさ「なにか釈然としない言い方だけど、もういいよ」

曜子「ありがと。それはそうと、あなたの苗字が北原になって、でも仕事では冬馬を使う事に

   ついて色々文句を言っていたわよね」

かずさ「なにをいまさら?」

曜子「ん? プライベートでは外野に邪魔されたくないからってプライベートでは北原。

   仕事では冬馬ってかんじで使い分けることにしたじゃない」

かずさ「まあ、そうだな。本当は仕事も北原がよかったけど、こればっかりは春希と母さんの

   方針に従うよ」

曜子「でね、あなた、プライベートでは目立ちたくないのよね? 一応確認でなんだけど」

かずさ「当たり前だろ。なんでプライベートでまで他人の目を気にしないといけないんだ。

   まあ、あたしはあまり外出しないから問題ないけどさ」

曜子「後半の発言にはちょっとばかし不安を覚えちゃうんだけど、おおむねプライベートを

   大事にしたいっていう意見であっているのよね」

かずさ「まあ、ね。それがどうしたんだよ」

曜子「ん? だからさ、空港にあなたも春希君と迎えに来てくれたじゃない」

かずさ「そうだな。春希は誰かさんのせいで仕事だし、3人で会える時間は限られていたからな」

曜子「でね、飛行機を降りて、ロビーであなた達二人を探そうとしたんだけど、

   すぐに見つかったのよ」

かずさ「それはよかったじゃないか」

曜子「見つかった事はよかったんだけど、でもね、かずさ。あなたは本当に目立ちたくないと

   思っているのかしら」

かずさ「思ってるけど?」

曜子「はぁ・・・・・・」

かずさ「な、なんだよ」

曜子「よく聞きなさい。この色ぼけ娘」

かずさ「はぁ?」

曜子「あなたたち、ロビーで目立ちまくっていたわよ。あんな人が多い所でベタベタ

   いちゃいちゃ、きゃっっきゃうふふって、付き合い始めの発情カップルじゃああるまいし。

   なんなのよ。ウィーンで会ったら言ってやろうと思っていた事を、

   ぜぇ~んぶ忘れちゃったじゃないの」

かずさ「別に言いたいことなんてしょっちゅう電話で話しているし、それに会って話す内容

   だってこの前の箱根で散々言ってたじゃないか」

曜子「はぁ、だからウィーンと日本とでは意味合いが違うでしょ」

かずさ「そうかなぁ?」

曜子「まあいいわ。で、本当に目立っていると思っていないのかしら?」

かずさ「他人の目なんて気にしていないからなぁ」

曜子「じゃあ、春希君は?」

かずさ「春希はいつもあんな感じだよ」

曜子「そう・・・・・・。春希君苦労しているのね。もう諦めているのかしらね」

かずさ「なにかいった?」

曜子「ううん、なにも。独り言よ。あなたが聞いても理解なんてできないでしょうからね」

かずさ「そう? ま、いっか。あぁ、話をそらしたな」

曜子「ん? なにをかしら」

かずさ「だからあたしと春希が母さんにとって2番目に大切な存在って事だよ」

曜子「その事ね」

かずさ「じゃあ一番は誰なんだよ」

曜子「もちろんこのお腹の中にいる赤ちゃんに決まっているじゃない」


 曜子はかずさの大きなお腹を愛おしそうに撫でる。それを見たかずさも最初こそ訝しげな視線を

送ってはいたが、段々とその毒素は浄化されていった。


かずさ「ま、いっか。二番でも三番でもいいよ。あたしたち家族を大切にしてくれているってこと

   だけはわかっているからさ」

曜子「大人になったわね」

かずさ「当然だろ。あたしは母親になるんだから」

曜子「でも、ほんとうに母親になれるのかしらね」

かずさ「なれるに決まってるだろ。目の前にいる出来が悪い母親でさえ母親になれたんだからな」

曜子「それもそうね。でも、大丈夫かしら・・・あなたを見ていると不安になってしまうわね」

かずさ「大丈夫だって。もちろん最初からちゃんとした母親になれるとは思ってはいないさ。

   でも春希と一緒にこの子を育てながらあたしも成長していくつもりだよ」

曜子「その辺のことは春希くんもいることだから心配していないわ」

かずさ「じゃあ何が心配なんだよ」

曜子「だから春希君にとっての一番があなたじゃなくて、冬馬かずさ、北原かずさではなくて、

   これから生まれてくる子供になってしまうんじゃないかなぁって・・・・・・」

かずさ「うっ・・・・・・。それは」

曜子「それと同時に、あなたも子供が一番になるんじゃないかなってね」

かずさ「うぅ・・・・・・」

曜子「あなた我慢できるかしら? 春希君があなたの事よりも赤ちゃんの事を優先するのよ」

かずさ「我慢するって」

曜子「ほんとうかしら、心配だわ」

かずさ「大丈夫だって、この子もあたしたちの家族なんだ。だから、もう一番とか二番とか

   じゃあないんだ。春希と一緒にこの子を愛するって決めたんだ」

曜子「いっちょまえに母親らしくなってきているのね」

かずさ「まあ、ね。でも母さんが言うように、たぶんあたしはこの子に嫉妬してしまうときが

   あると思う」

曜子「珍しくいやに正直ね」

かずさ「本当のことだからな。でも、この子はあたしの子であって、春希の子でもあるんだ。

   だから、たまには焼きもちをやいてしまっても、愛する気持ちだけは不変なんだよ」

曜子「そっか。そうね。やっぱりあなた成長したわ」

かずさ「いまさらなにをいってるんだか」

曜子「もうすぐこの子が生まれてくるのね」

かずさ「ああ、そうだな」


曜子「でも、出産予定日が5月28日って、変な感じがするわね。あなたと同じ誕生日だなんて

   不思議なものね」

かずさ「それは春希も驚いていたよ」

曜子「あなたは?」

かずさ「あたしは、こんなこともあるかなって感じで、とくになにもないかな」

曜子「あなたらしいわね。でも、そうなると、こうなるわけか」

かずさ「なんだよ。言いたい事があるんならはっきり言えって」

曜子「そう? なら遠慮しないで言っちゃうわね」

かずさ「どうぞ、どうぞ」

曜子「誕生日が同じって事は、この子をお腹に仕込んだ日にちも同じなのかなって。

   多少のずれはあるでしょうけど、だいたい同じでしょうし、

   そう思うと当時の事を思い出しちゃってね」

かずさ「なっ! ・・・・・・・・・やめろって! 

   想像しちゃったじゃないか。本当にやめてくれ」

曜子「ありゃりゃんりゃん、なにをうぶな事を言っているのかしら。散々愛しあってきているのに、

   今さらって感じがしちゃうわよ。箱根でも隣の部屋から聞こえてきてたんだから」


かずさ「あ~~~っ!  聞こえない。聞こえない。何も知らないっ」

曜子「まあいいわ。あなたたちの夫婦仲がいいってことはわかっていたんだしね。

   さて、そろそろ春希君も帰ってくる時間かしら?」

かずさ「たぶんね」


 時計の針が7時を指す時、ちょうど玄関のチャイムが時と帰宅を告げる。


曜子「相変わらず時間に正確なのね」

かずさ「春希らしいだろ?」

曜子「ええ、そうね。だったら・・・・・・」

かずさ「ん?」

曜子「この子が仕込まれた日にちも、春希君の性格からすれば本当に一緒だったりしてね」

かずさ「なっ!」




冬馬かずさ誕生日記念(2015)『やはり冬馬母娘の誕生日はまちがっている。』終劇

次週は『心の永住者』第48話を掲載いたします







冬馬かずさ誕生日記念(2015)『やはり冬馬母娘の誕生日はまちがっている。』あとがき



今回は黒猫では珍しく、地の文がほとんどありません。

・・・・・・まあ、それだけです、はい。

題名ですが、特に意味はありません。これといって思い浮かばず、ならこれでいいかなと。

しかも今年はネタさえも考えていなく、最初は書くことさえやめようかなと考えていたわけで、

こうして無事掲載できてよかったです。


ただそうはいっても一カ月以上も前に書き終えているあたりは自分らしいかなと

我ながら苦笑いが浮かびそうです。

また、あとがきを書いている今となっては、どのような内容を書いたかを忘れている部分もあり、

もうちょっとじっくり書く時間を作りたいなとは思っております。



新作リンク~冴えない彼女の育てかた

詩羽「詩羽無双?」倫也「詩羽先輩、勘弁してください」
詩羽「詩羽無双?」倫也「詩羽先輩、勘弁してください」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1432074031/)
(詩羽。倫也)



来週も火曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第48話




 今夜は以前のマンションではなく真っ直ぐと実家マンションへと帰って来ている。

そもそも一人暮らししていた部屋に感傷的なまでの思い出があるわけではない。

どちらかといえばネガティブな想いが多いとさえ思えるマンションに思い入れがないとは

言えないが、今は真っ直ぐと帰宅できる心構えができていた。いや、真っ直ぐに帰らないと

千晶が何をするかがわからないという危機感が俺の中に渦巻いている。なにせ真っ直ぐ帰って

こないと俺の部屋を漁るという脅迫メールが千晶から舞い込んでもきていた。

 おそらく千晶なりの励ましメールなんだろうが、脅迫をポーズだけでなく実際に

やってしまいそうな、実際にやってしまうところが冗談ではすまなかった。


千晶「おっかえりぃ春希。今日も遅いお帰りでご苦労様です」

春希「ただいま千晶。でも、帰ってくる時間なんていつもこんなもんだぞ」

千晶「うん、知ってる。でも、新妻ならこんなセリフをいうかなぁって。

   ほら、春希も新妻プレイの方が喜ぶでしょ?」


 そういうことか。だから真夜中なのにエプロンなんて付けているわけだな。

小道具まで用意しているなんて、こちらこそご苦労様です。

 ひらりと揺れるエプロンの端が俺を目をくぎ付けにする。なにせ真っ直ぐに伸びた細い脚は

その付け根まで白い肌が剥き出しに放り出されていた。つまりはエプロン以外は何も着ていない

ように見えてしまう。でも、よく見ると上にはタンクトップを着ているようだ。でも、……下は?


千晶「もう、やだっ。春希ったら目がエッチだよ」

春希「違う。そんな不純な目で見てなんかいないって。それにそう思うんならなにか履けよ」

千晶「あれぇ、春希ったら仕事で疲れてはいても欲情しちゃった? 

   あっ、疲れている方が欲情しやすいタイプとかだった?」

春希「人を勝手に変態扱いするな。そもそも欲情なんかしてないって言ってるだろ」

千晶「そう? それはざ~んねんっ。でも、こういう新妻にお出迎えされるのも嬉しいものでしょ?」


俺はため息をつこうとしたが、急に重大な事実を思い出してしまって為に息を飲みこんでしまった。

緩やかな時間が急壁に加速していき、俺の脈拍は怒涛のごとく熱とピッチをあげていく。


春希「ちょっと待て」

千晶「ん、なにかな?」

春希「母さんは帰って来てるんだよな」

千晶「帰って来てるよ。夕食ごちそうになっちゃったけどいいよね?」

春希「それはかまわないけど、今もいるんだよな?」

千晶「うん。でも寝てるんじゃないかな?」


千晶の視線の先を辿って母の寝室のドアに視線をむける。物音一つしないその部屋は、深夜の

静けさと相まってリビングにいる俺達の騒音を数倍にまで高めてしまいそうな気さえしてしまう。


春希「まあいいか。それよりも早く何か着ろって。どこに目を向けていいか困るだろ」

千晶「あぁ……このことね」




 と、千晶は視線を下に向けると、豪快にエプロンをめくり上げる。そこには真っ白な脚と

ベージュのホットパンツが姿を見せる。まあこんなおちが待ってるとは思ってはいたけど、

でも確信がもてないから下手な事は出来ない。俺のそんな葛藤さえわかっているから千晶は

こんな幼稚な悪戯を実行したのだろうけど、そうとわかっていても気持ちのはけ口に困ってしまう。


千晶「そんな盛大なため息つかないでよ」

春希「人が仕事を頑張ってきたというのに、心ない出迎え方をする同居人がいたもんでね」

千晶「へぇ……・、そんな不届きな人もいるものなのね」

春希「あぁ、今度会わせてやるよ」

千晶「うん、楽しみにしてるね。あっ、そうそう。これを伝える為に待ってたんだった」

春希「何かあったのか?」

千晶「どうかな? 捉え方によるからわたしには判断できないかな」

春希「で、なにを伝えたいんだ?」

千晶「うん。春希のお母さんね。春希が作ってくれたお弁当美味しかったって、さ」

春希「……そっか」

千晶「うん、これを伝えとかないと寝付けないかなってね。でもよかったね春希。美味しいってさ」

春希「さすがにまずいとは言えないだろ」

千晶「捻くれちゃって。でも、わたしも美味しかったたと思うわよ。もう少しお弁当全体の

  彩りを工夫したほうが色彩によるうまみが増すとは思うけどね。まあ、なんていうの? 

  春希らしい地味な色合いのお弁当って感じだから、もう少し華やかさが欲しいかな。

  たしかに地味な春希には難しい要求なわけだけど」

春希「ミニトマトとか、色どりが派手なのを入れたほうがいいかな」

千晶「それもありだとは思うけど、季節の物を取り入れるのもいいと思うわよ。野菜なんて

  スーパーいけば旬のものを扱ってるわけだし、見た目だってあぁ春だなぁって思う事もある

  でしょ? だから色が派手だから色どりが華やかになるってものでもないのよ」

春希「そうだな。見た目プラス心証ってところか」

千晶「だね」

春希「ありがとな千晶。これからもびしばし俺を鍛えてくれ」

千晶「それでいいの?」

春希「その為に千晶のコーチを頼んだんだろ」

千晶「はぁ~い、じゃあさっそくやってもらいたい事っていうか、お願いがあるっていうかな」

春希「遠慮せずに言ってくれ」

千晶「じゃあ、言うね」


 そして俺の目の前まで踏み込み、俺の前に突き出したものは、

今日俺が千晶の弁当に使ったタッパだった。


春希「これ?」

千晶「うん、そう」


あの千晶にしては珍しく、真剣な目つきで俺を見つめてくるもんだから、俺は唾を飲み込み、喉を鳴らす。


千晶「やっぱさ、見た目って大事だよね。あと真心も」

春希「俺も大事だとは思うぞ」

千晶「だったらさ、このタッパはいただけないと思わない?」


 俺は千晶の拗ねたような表情に対応が追い付けないでいた。


春希「えっと、千晶さん。どういうことで?」

千晶「だから、こんなあまりものを詰めておくタッパじゃなくて、ちゃんとしたお弁当箱が

  欲しいって言ってるの。だって春希とお母さんのはあって、私のだけないのよ。それって

  仲間外れで千晶ちゃんがかわいそうだとは春希は思わないのかな?」

春希「ちょっと待て。俺だって忙しくてそういうのをそろえる時間がなかっただけだ」

千晶「そうかな? 私のお弁当を作る話はニューヨークに行く前から決まってたんだから、

  春希だったら私のお弁当箱を買う時間くらい捻り出せていたんじゃないかな。それをして

  こなかったってことは、初めからそれほど乗り気じゃなかったってことじゃない? 

  それか、私のことなんて忘れていたとか、さ」

春希「ちょっと待てって。ほら拗ねないでくれって」


ぜったい演技だとわかっているのに、俺の心を揺さぶるのはなんでだろうか。これが超一流

女優の演技だと言ってしまえばそれまでまけど、ここまで俺の心を掴むとは思いもしなかった。


千晶「拗ねてないわよ」

春希「涙声じゃないか」

千晶「だから泣いてないって」

春希「それが泣いてるって言うんだ」

千晶「泣かせたのは春希のせいでしょ」

春希「……ごめん」

千晶「ほんとに悪かったって思ってる?」

春希「思ってる。俺が悪いって思ってる。だから機嫌直せよ」

千晶「なんだか口だけって気がするのよね」

春希「そんなわけない。ちゃんと反省してるから」

千晶「じゃあさ、その反省を行動に移してくれる?」

春希「ああぁ、行動に移す」


 あれ? なんだこの雰囲気?


千晶「わかった。しっかりと行動してくれれば許してあげる。約束は守ってよね」

春希「約束はきっちりと守るよ」

千晶「約束だよ。……じゃあ、明日お弁当箱買いにいこうねっ」


 えっ? なに……これ? 

真っ直ぐに伸びた季節外れのヒマワリが神々しく花を開かせる。天に向かってのびた幹は太く頑丈で、

ちょっとやそっとではくじけそうにないほど頑丈であった。つまりは、俺はこの陽気な同居人に

騙されたって事なのだろうけど、こうまでして真っ直ぐ伸びた嘘はすがすがしくも感じられてしまう。


春希「わかったよ」

千晶「じゃあ明日ね」

春希「でも明日まではタッパで我慢してくれよ」

千晶「りょ~かいっ」

春希「バイトに行く前に一緒に見に行くか」

千晶「だね」


どこまでが計算で、どこからが本音で、そこにわずかながらも俺への気遣いが含まれているか

はわからない。きっと千晶にしかわからないシンプルな計算式なのだろうけど、俺は千晶に感謝

している。きっと千晶がこの家にいなければ、今日も今までのマンションに寄ってから実家に

帰宅していたはずだ。別に帰りたくないわけではない。荷物を置いて、睡眠をとる場所としては

十分すぎるほどの機能を有している。でも、千晶がいなければ俺は実家をその認識でしか

しなかっただろう。千晶がいなければ、帰って来てこんなにも楽しい会話なんてできやしなかった。

これが千晶が執筆した台本なのかはわからない。でも、俺は千晶に感謝せずにはいられなかった。







4月14日 木曜日



武也「春希、今日はもう帰りか?」


午前の講義を終え、昼食の弁当を食べ終えた俺は千晶ご要望の弁当箱を買うべく駅へと向かおう

としていた。そこへ学食から戻ってきたいつものコンビ、武也と依緒が目ざとく俺を発見するに

至る。麻理さんとの遠距離食事会は、2限目の講義時、その時間講義がない俺は千晶の講義を

待つ合間を使って行われた。もっぱら俺が話しかけ続け、麻理さんが食べるのを見ていた。

この対処療法がいつまで効果があるかはわからない。今は味覚が低下していても吐く事はない。

この結果を喜ぶべきかは判断しかねるが、今はこれが精一杯であった。


春希「あぁ、午前の講義しかなかったからな」

武也「お前はもうちょっと大学に来いよ。講義とっていても時間割はすっかすかなんだろ」

春希「だからこうして大学には来ているじゃないか。それに俺は今までしっかりと講義を

  受けまくっていたから、その貯金を考慮すると、これくらいでちょうどいいじゃないかって

  さえ思えている」

武也「だぁ……」

依緒「こら武也。公衆の面前でうなだれるな」


 ここで依緒のけりの一つが入らないあたりは、昨日のいざこざの後遺症はないってところか。

まあ、けりがないからこそ遠慮してるともとらえることができるあたりは判断がしにくいところ

でもあるけど、みたところは大丈夫そうだな。


武也「だってさぁ、これからお経みたいな講義があるんだぜ。

  俺も春希みたいに帰りたいと思って何が悪い」

依緒「だったら3年をもう一度やり直せばいいじゃない。そうすれば4年になったときは春希

  みたいにすっかすかの講義日程を謳歌できるわよ」

武也「そのためにもう一度3年やってなにかメリットあるか?」

依緒「ん? たぶん、ない」

武也「だぁ~」

春希「こら武也、こんな所で座り込むなって」


俺は武也に手を差し出し、その体を引きあげる。ぐいっと力強く握ぎってきたその大きな手は、

俺達の間にあるわだかまりを一時の間だけでも忘れさせてくれた。


武也「わぁったよ。真面目に講義を受けるって」

依緒「よろしい」

春希「依緒、武也のことをよろしくな」

依緒「わかってるわよ。でも、私は武也のマネージャーでも管理者でもないんだけど」

春希「でも、いつもつるんでるよな。昨日の修羅場もあって武也と距離をとるものかと

  心配してたのに、杞憂に終わってなによりだ」

依緒「まっ、腐れ縁だしね」

武也「そんな縁、腐って消えちまえ」

依緒「いったなぁ……」

春希「仲がいいってことはなによりだ」


俺の声が届いたらしく、じゃれつく二人は手を下し、頬を少しだけ赤く染めたような気がした。


春希「昨日言い忘れた、いや、言えなかった事があるんだけどさ、聞いてくれないか?」


 硬質な声が俺の緊張具合をうまい具合に表現し、武也たちの気を引き締める。

二人は目を合わせて何かを確認しあうと、俺の話を聞くべく顎をあげて俺を声を待つ。


春希「俺さ、卒論を前期日程で書き上げて、後期からはニューヨークにある開桜社で研修を

  受けることにしたんだ。一応大学の方は休学扱いになるけど、卒業には影響はない。

  だから、俺が大学にいられるのも夏までかな。あ、でも、卒業式には戻ってくるつもりだから」

武也「それはもう決まったことなんだよな」

春希「あぁ、教授とは話をつけたし、開桜社の方でも許可がでた」

武也「そっか。春希頑張ってたもんな。これは俺達の中で春希が一番の出世頭になりそうだな」

春希「それはどうかと思うけど、自分がやりたい事ができることには感謝してる」

武也「だあぁ……、俺ももっと頑張っておけば就職活動も早々に終えてバカンスと決め込めてたのに」

依緒「何言ってるのよ。春希は遊びにニューヨークに行くわけじゃないのよ。しかも、

  なによ武也。仕事の為の研修じゃなくて、あんた遊びまくるつもりじゃない」

武也「だってよ、就職したら遊びたくても遊びに行けないだろ。だったら今遊ばなくてどうする」

依緒「そういう考え方が今に至ってると、どうしてあんたは気がつかないかな」

春希「まあ、武也の気持ちもわからなくもない。でも、今回ニューヨーク行きが実現できたのも、

  俺の我儘をきいてくれた周りの人たちの協力があってこそだから、頑張ってくるつもりだ」

武也「そっか、じゃあ頑張れよ」

依緒「頑張ってね、春希」

春希「ありがとな」

武也「それで雪菜ちゃんには……」

春希「俺から言うよ。今度は文学部に逃げたときみたいな事はしない」

武也「なら安心だ」

依緒「春希が決めた事なら私は口出しをしない。でも、ちゃんとあの子に言ってあげてね」

春希「わかった」


 武也たちと別れ、終始俺達の会話を注意深く聞いていた千晶の気配が戻ってくる。今まで

そこにいたはずなのに、まったく気配を感じられなかったのはこいつなりの気配りなのかだろうか。

それとも何か考えての事なのかはわからない。でも、こいつ。依緒の事あまり好きじゃないって

いうか、苦手だろ。そういう態度は出さないけどさ。

千晶「どうしたの春希? 人の顔をじろじろ見ちゃって。もしかしてわたしの綺麗な顔に

  見惚れちゃった?」

春希「どこからその根拠もない自信が来るんだろうなと思ってな」

千晶「根拠? この大きくて自己主張が強い胸からかな」


だから胸をもむな。胸を寄せるな。そして、こっちを見るな。

子憎たらしい笑顔が俺を襲う。この心地よい襲撃に俺は何度ともなく救われる。

こいつたっらわかっててやってのけるんだから、ほんとかなわないよ。


春希「もういい。わかったから」

千晶「そう? けっこう視線感じちゃうのよね。視線が集まってくるっていうの? 

  向こうは見てません~って顔してるんだけど、見てるのばればれなのにね。

  そんなに見たいんなら堂々と見たほうがこっちのすかっとするってもんなのに」

春希「見られてスカッとするのはお前くらいだよ」

千晶「あっ、それってじかに見た者の余裕ってやつ? そりゃあ服越しから見る胸よりは、

  生のおっぱいを見るのとではぜんっぜん違うもんね」

春希「はぁ……、もういい」


 体から力が向けていき、肩を落とす俺に千晶は慌てふためく。


千晶「ちょっとちょっとぉ……、今日はつれないんじゃない? もっとのってきてくれないと、

  私が変な女みたいに思われちゃうじゃない」

春希「安心しろ」

千晶「ん?」

春希「だから安心しろって。もう既に変な女だと思われているから」

千晶「その認識ってちょっとひどくない? まあ私も自分の事を普通だとは思ってないけどね」

春希「ならお互いの意見にひらきはないな。よかったじゃないか」

千晶「あぁっ、それはよくないって」


 こいつはいつも俺は励ましてくれる。こんなどうしようもない俺に手を差し伸べてくれる。

 俺はこいつに恩返しができるだろうか? 散々レポートとかで恩を返せよと冗談を連発したり

しているけど、あんなの千晶に恩だとは思ってほしくはない。俺がこいつから、

和泉千晶から受けている恩と比べれば、ちっぽけな施しにすぎないのだから。


春希「なあ、千晶」

千晶「なによっ、まだ何か言い足りない事でもあるの?」

春希「ニューヨーク行きの事なんだけど、俺がニューヨークに行くのは、助けたい人がいるから

  なんだ。俺が傷つけてしまったのに何を助けるんだって言われそうなんだけど、側にいて

  あげたいんだ。力になってあげたい。俺に出来ることなんて大した事ではないけど、

  それでも側にいた」


千晶は俺の突然すぎる告白を無言で聞くと、瞼を一端閉じる。そして瞼を再び開けた時には、

鋭くて優しい眼光が俺を射抜いた。こいつは最初から全てわかってたんじゃないかって

思えてくる。はっきりと具体的な事柄は想像で保管しかできいだろうけど、

こいつなら俺の気持ちをくみ取ってしまう気がした。


千晶「その人って、ヴァレンタインのライブに来ていた人でしょ?」



春希「見てたのか?」

千晶「ううん、春希となにがあったかなんて知らない。でも、私も一応あの舞台の上にいたんだ

  からわかるって。春希の事を見つめるその視線。春希のほうもまんざらではない感じ

  だったし、これは何かあるかなって思ったわけよ」

春希「そっか……」

千晶「で、どうするの?」


何に対してだろうか? ニューヨークに行ってどうするのか。それとも、かずさのことは

どうするのか。おそらくそのどちらでもあって、どちらでもない。きっと俺の決心を聞きたいはずだ。


春希「目の前の問題を解決していくだけだ。一つずつ、着実に進んでいかなければ身動きが

  取れなくなってしまうのが俺だからな。遠くの方ばかり見て足元をおろそかにしていたら、

  俺はきっと前には進めない。だから目の前にある問題から解決していくよ」

千晶「そっか。なら私は春希を応援するだけだよ。傷ついたら私のところに戻ってきたよ。

  何もできないけど、このおっきな胸で泣かせてあげるくらいならできるからさ」

春希「その時は頼む」

千晶「ふぅ~ん」

春希「な、なんだよ?」

千晶「なんか素直だなって、ね」

春希「うっさい」

千晶「もう、かわいいやつ」


俺は千晶の両腕に捕まり、そのおっきな胸に抱きしめられる。心地よい安らぎが俺を襲う。

きっとこいつはほんとうに俺が言いだすまで待つつもりだったのだろう。たとえ何も言わなくとも、

千晶は俺の事を助けてくれたのだと思う。でも俺にはそれができなかった。何も言わないで

利用するなんて、俺にはできなかった。ただこいつは、和泉千晶は、俺のその性分さえも

理解したうえで待っていたのだろう。どうしようもないいじっぱりで、暴走までしてしまう自称

優等生の委員長。どこまでも規則に従い、まっすぐすぎるほ真っ直ぐに歩いてしまう。人からは

堅物だって笑われもする。でも、今その優等生は真っ直ぐ歩けなくなってしまった。寄り道

ばかりして、本当に行きたい場所にたどり着けないかもしれない。それはきっと間違った

道順で、地図の見方を間違ってるって皆が言うのだろう。でも、こいつだけは寄り道に

付き合ってくれると馬鹿な事を言ってくれた。いやらしい感情なんて持ち合わせてはいない。

この自他ともに認める大きな胸に抱きしめられ、俺は初めて許された気がした。抵抗らしい

抵抗をしない俺に千晶は初めこそ訝しげに見つめていたが、俺の心情を読みとってしまう

この女性は、俺の頭を愛おしそうに撫で始める。

春の香りが俺の鼻をくすぐり、溶けゆく雪の温もりが俺達を包み込んでいった。








第48話 終劇

第49に続く




第48話 あとがき


先週の番外編ですが、春希とかずさの子育ては曜子さんも加わる事によって

にぎやかになるのでしょうね。曜子さんが手を出さないわけがないですし。

どう考えても春希が中心となって子育てをするのでしょうが、

かずさママの奮闘ぶりは微笑ましいものとなるのでしょうね。

機会があれば書いてみたいものです。


今週は申し訳ありませんが、月曜日の更新とさせてもらいます。

来週は火曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


第49話


5月ゴールデンウィーク序盤


 俺が千晶と母親に弁当を作るイベントは毎日の習慣として定着していき、

今は台所にあるホワイトボードで母親と意思疎通ができるところまで進歩していた。

進歩といっても、朝食や弁当をいらない日を書いておくだけの一方通行の意思疎通ではあるが。

 ……そうでもないか。母親からのメッセージはもう一つ増えている。

食べ終わって綺麗に洗れている母親の弁当箱の横には、いつも弁当の感想が短く書かれていた。

これは千晶のお節介なのだが、俺が料理の勉強をしていると母さんに告げ、

今後の勉強の為にも食べ終わった後の感想を欲しいと言った事が起因していた。

 ただその感想も、手紙というには味気なさすぎるし、

かといって店に送る評価感想と比べれば温かみが込められてはいる。

 そんな中途半端な立ち位置は、今の母子の距離をうまく表しているような気がした。

 世間から見れば歪な母子関係ではあるが、それでも無関心から意識しているに進展して

いる事を考えれば大きな成果なのだろう。この手紙以外でも世間の親子関係では当たり前の

関係を、時には強引に、時には俺達に気がつかれないように千晶が誘導するものだから、

今や俺と千晶の立場はこの北原家においては逆転しているっていっても過言ではなかった。

 ほんと俺の心の中にずかずかと神経質に踏みこんでくる奴だよ、あいつは。それでいて

俺の心をよく理解してタイミングをはかっているんだから恐れ入る。

 俺がしてやれるお礼なんて大学でのサポートと毎日の食事くらいだけど、

素直にお礼ができないあたりはまだまだ俺も子供なのだろう。


千晶「おっ、春希ぃ~っ。グッドタ~イミング。っていうか時間に正確すぎじゃない?」


 俺の姿を見つけるや、両手をぶんぶん振り回しながら俺を呼ぶのはもちろん和泉千晶。

俺の恩人にして同居人の、けっして感謝している事を伝えられない親友だ。

 五月の太陽の下、太陽以上に陽気な彼女は俺が手にする「弁当箱」が入っている鞄を見て

喜びを爆発させる。さすがにゴールデンウィークの連休ともあって大学がたむろする暇人の影

はひそめ、千晶のようにサークル活動に励む学生がちらほらとみかけられる程度であった。

 まあ、俺みたいに弁当を届ける為だけにやってくる人間なんていないだろうけど。


春希「約束の時間通りに来て、どうして文句を言われるか知りたいところだな」

千晶「ん? なんとなく、かな?」

春希「まあいいや。早く食事を始めるか。麻理さんも待っているだろうし」

千晶「だね」


 麻理さんに千晶を紹介する事は、正直迷いに迷った。けれど、麻理さんからの強い要望も

あって対面し、そして今は時折一緒に食事をするまでになっている。

 まあ最初はただたんに麻理さんが俺の同居人に会いたいっていうのが始まりであって、

千晶が一緒に食事までするようになったのは、やはり千晶の人柄によるのだろう。

もちろん俺は千晶をパソコン画面を通じてであっても麻理さんに会わせる事には抵抗した。

そりゃあ千晶だし、剥き出しの爆弾をしょいこんだ愉快犯を、どうして麻理さんに会わせたい

なんて思うものか。それでも麻理さんの強い要望と、これはひどい言いようだが、千晶が

あまりにも真面目に俺の話を聞いてくれたおかげで、こうして麻理さんと千晶の対面が実現した。


 それに、これはリハビリの一環でもあって、俺とだけの食事では新たな弊害を生む恐れが

あったからであった。いくら食事ができるようになっても、北原春希がいなければ食事が

できないではリハビリが成功したとはいえないだろう。


千晶「どう? 親子水入らずの生活は?」

春希「どう?って聞かれても、今まで通りだと思うぞ。

   もともとお互い生活リズムが違うんだから、あまり顔を合わせないしな」

千晶「それでも私が家にいないで親子二人っきりっていうのは初めてでしょ?」

春希「たしかにそうだけど、あまり意識していないからな」

千晶「ふぅ~ん……」


 やはり千晶には嘘はつけないか。正直俺も母さんもお互いを意識しまくっている。

 ゴールデンうウィークの大型連休に入り、千晶は演劇部の合宿とやらで大学に泊まり込みで

練習をしていた。それでも一日一回は俺の弁当を食わせろとの御要望もあり、

こうして弁当持参でわざわざ休講中の大学キャンパスまでくりだしてきたわけである。


春希「でも、顔を合わせれば挨拶もするし、普通だとおもうぞ」

千晶「そっか……」


千晶は俺の返事を待たずに中に入っていくので、俺はその後ろ姿をみうしまいと後を追った。

俺も千晶もこの普通が異常だと認識しているからこそこれ以上言葉がでなかったのかもしれない。



春希「よし、セッティングできたぞ」

千晶「お~けい。こっちもだいじょぶかな」


いつものようにパソコン前に弁当を広げた俺と千晶は、画面の向こうで待っていたニューヨーク

の麻理さんと向かい合う。最近の麻理さんは体重の減少も止まり、とりあえずはこれ以上の

危機的状況へのカウントダウンを止めることに成功していた。しかし、この成功を収めつつ

食事会も新たな火種を生んでいる事もたしかであり、うれしい悩み?に苦しむ日々を送っている。


春希「お待たせしましてすみません麻理さん」

麻理「問題ないわ。時間通りじゃない」

千晶「早く着いたのに時間がかかったのは春希のお小言のせいじゃない」


せっかく和やかな食事タイムにしようとしたのに、千晶のやつは俺の事が好きすぎるだろっ。


麻理「北原の千晶さんへのお説教は計算に入っているから問題ないわ」

千晶「その計算間違ってない?」

春希「お前がやるっていってた課題を全く手をつけていないのが悪いんじゃないか」

千晶「こっちも劇団の練習で忙しいんだから仕方ないじゃない」

春希「そういう言い訳をしているから春休みみたいな大変な目にあったのを忘れたのか」

千晶「忘れはしていないけど……」

春希「だろ? あんな修羅場をまた経験したいのか?」

麻理「千晶さんも練習で疲れていたのだからしょうがないじゃない」

春希「麻理さんは千晶に甘すぎですよ」

千晶「さっすが、麻理さんっ」


春希「おいっ」

麻理「いいじゃない北原。どうせ後で苦労するのは千晶さんなのだから、今北原が気に病む

   必要なんてないわ。だってそうでしょ? 学期末になって単位が取れなくて卒業でき

   なくなるのは千晶さんであって北原ではないのよ? 

   だったら北原が心配したって意味がないじゃない」

春希「……」


 それはそうなんですけど、ね。でも、結局は俺が尻ぬぐいすることになって、

春休み以上の惨劇に降りかかってくる事確定じゃないですか。


千晶「ひっどい。ひどすぎない麻理さん? やっぱ春希の上司だけはあるわね。

   春希以上に厭味ったらしいし、毒舌に年季を感じるわ」

麻理「あら? お誉め頂いてありがとう。でも、あなたに称賛してもらえるほど

   年をとっているとは思えないのだけれど」


あぁ……、どうしてこうも仲がいいんだよっ。建前だけの会話をしてくださいとはいわないけど、

でも、もう少し食事にあった話題ってものを選んでくれても……いいじゃないですかっ。


千晶「べ~つにっ誉めてないけど? それとも年増のひがみとか言ってほしかったの?」

麻理「あら? ごめんなさい。最近の一部の大学生だけで使われている言語は習得していないの。

   だから私が伝えようとしている内容と、千晶さんが理解している内容とには齟齬がある

   みたいね。でも安心してもいいわよ。いくら言語体系が違くとも、

   内容の齟齬を理解していない人は幸せに暮らせると思うから」

千晶「やっぱ麻理さんくらいの自称常識人の嫌味は誉め言葉になってしまうんだね」

麻理「あら、どういう意味かしら?」

千晶「言葉の意味通りだけど?」


あぁっ、もうっ。二人とも笑顔で話す内容じゃないのに、笑顔で話している分不気味すぎるだろっ。


麻理「と、いうと?」

千晶「それすらわからないの? それでよく出版社の編集なんてできるね」

麻理「ごめんなさい。人外の言葉は習得していなくて」

千晶「そっか……、それなら仕方がないね」

麻理「ええ、大変申し訳ないのだけれど……」

春希「あの、さ。そろそろ食事にした方がいいんじゃないかな? 俺もこの後バイトだし、

   千晶も練習に戻るんだろ? それに麻理さんも食事をしたほうが……」

千晶「ちょっと黙ってて」

麻理「Be quiet!」

春希「すみません」


 ほんと仲がいいんだからなぁ。

 こうしていつもの食事前の儀式は進められていく。いつものことなのに、どうしてこうも

話題が尽きないのだろうか。これも一種のコミュニケーションであり、二人の距離と三人の

距離の確認なのだろうけど、もう少し穏便にしてくださると俺の胃の負担も減るんだが。








5月ゴールデンウィーク明け



 世間ではゴールデンウィークとかいう大型連休があったらしいが、そんな定まった休みなど

取れない職場では、連休など最初からなかったかのように振る舞われる。俺からすれば仕事を

貯めなければいいだけなのにというのが正直な感想だ。しかし、そういった方々のヘルプ要請

のニーズがあるからこそ俺の仕事もあるわけで、俺は感謝の気持ちを隠して連休を消化して

いった。そんな正しくない連休の過ごし方をした俺の目の前には、おそらく正しすぎる大学生

の連休の過ごし方をした武也と依緒がいた。


春希「おはよう武也。それに依緒もおはよう」

武也「おう、珍しく今日は春希一人なんだな」

春希「あぁ千晶は荷物取りにいっていて、後からくるよ」

依緒「おはよう春希。いっつもあの子と一緒にいるから、なんだか春希一人で歩いているのを

  見ると、ついに春希が見捨てるほどのことを仕出かしたのかって嬉しくなってしまうわね」


この二人は連休明けだというのに他の生徒のような連休疲れなど最初からなかったかのように

声をかけてくる。他の連中の顔を見れば連休が終わってしまった絶望と格闘しているっていう

のに元気なやつらだよ、まったく。まあ、今絶望している連中も最初の講義を受ければ、

現実に戻ってくるのが例年のパターンだけれど。

あと、依緒の最後の言葉については聞かなかった事にしておこう……。


春希「千晶を見捨てることなんてないと思うけど、本来ならば見捨てられてしまう事を

  しでかしているから俺が教育係を任されている事を覚えていてくれると助かるんだが」

依緒「あ~、なるほどね」

春希「そういうお前らだっていつも一緒じゃないか。武也一人で歩いているのを見たとしたら、

  ついに依緒に見捨てられる事をしでかしたんじゃないかって思うかもしれないな」

武也「俺は別に好き好んでこいつと一緒にいるわけではないって」

依緒「そうよ、私だって仕方がないから一緒にいるのよ。だって武也を一人で

  歩かせていたら、また被害者が増えるじゃない? だから私が一緒にいるの」

春希「はいはい。たしかに依緒のあの事件が広まってくれたおかげで武也に近づこうと

  する女の子が減ったって聞いたけど、実際どうなんだ?」

武也「聞いてくれよぉ春希ぃ……」

春希「そんな情けない声を出さなくても俺は聞いて欲しいならいつでも、……時間があれば聞くぞ」

武也「おい、言いかえすなよ。それはいつでも聞くが正解だろっ」


案外細かいところを気にするんだな。たしかに細かいところまで気を配る事が出来なければ、

複数の女の子と同時に付き合うことなんてできやしないか。

まあ、俺はその気遣いが全くできないせいでまともな交際さえできないでいるけど……。


春希「いや、時間は限られているからな」

武也「俺と春希の友情はそんなものだったのかよぉ」

春希「そんなものなんじゃないか?」

武也「おいぃ……」


依緒「まあいいじゃない。春希もあんたの愚痴を聞いてくれるって言ってくれているんだから。

  私としてはむしろ武也よりも私の気苦労をねぎらってほしいものね」

春希「そうなのか?」

依緒「当たり前じゃない。このバカが性懲りもなくふらふらっと何も知らない女の子に手を

  出そうとするものだから、私が身をはって守ってあげているのよ。あの噂もあるおかげで、

  一言私が教えてあげるだけでみんな逃げていくわよ。たぶん性懲りもなくこの男がナンパ

  すると思うから、その時は春希も見てみるといいわよ。きっと笑い転げるから」

武也「春希ぃ……」

春希「まあ、いいんじゃないか? 大学4年にもなったわけだし、

  ここは心機一転違う生活っていうのもいいと思うぞ」

武也「お前まで俺を見捨てるのか?」

春希「大丈夫だよ。依緒が見捨てないで側にいてくれているんだろ?」

武也「そうだけどよぉ」

依緒「それにせっかくの連休だったたいうのに、この辛気臭い男とずっと一緒だったのよ」

春希「それはそれは……」

武也「仕方がないだろ。あの事件が他の子にも知られてしまって今は彼女がだれもいなく

  なったんだから。そりゃあやっぱその原因の一端たる依緒は、

  俺の休日を盛り上げる義務があるだろ?」

依緒「はいはい」

春希「別に依緒の方も連休の予定がなかったのなら予定が入ってよかったんじゃないか?」

依緒「そこっ。どうして私の予定が白紙なのが前提なのよ?」

春希「違うのか?」

依緒「まあ雪菜との約束は入っていたけど……、あとは白紙だったけどさ」

武也「ほらな」

依緒「あんたには言われたくないから」


 武也の絶妙な突っ込みも、今は依緒の機嫌を逆なでにするだけか。……でも、依緒も口では

怒っている風を装っていても、どうみても喜んでいるよな。絶対本人達にはいえないけど。


春希「悪い。そろそろ時間だ。依緒、悪いけど武也のこと頼むな」

依緒「まあ、どうなるかわからないけど、ね」

春希「じゃあ、またな」

依緒「ええ、じゃあね」

武也「お~い……、まあいっか。じゃあな春希」

春希「ああ、またな武也」


俺はその場を離れていってから再び武也たちの方を振り返ると、二人は相変わらず仲が

良すぎる騒ぎを巻き散らかしながら学部棟へと向かって行っていた。ほんと、あいつらは

素直じゃないんだから。俺が言えたものではないけど、あの事件のおかげで

収まるべくとことに収まりつつあるってことで喜んでおくとするか。


千晶「は~るきっ。なんだか嬉しそうだけど何かあった?」

春希「千晶か……、別に何も。そっちは探していたものあったのか?」

千晶「あっ、うん。だいじょぶだいじょぶ。なかったけど座長に言っておけばまた用意してくれるし」

春希「それって大丈夫だとは言わないと思うぞ」


 主に座長さんが……。


千晶「そう?」

春希「まあいいか。ほら、俺達も急がないと遅刻してしまうぞ」

千晶「はぁ~い……。でもほんと春希、なんか気持ち悪いほど機嫌がいいよ」

春希「そうか?」

千晶「まっいっか。どうせあの女が飯塚とうまくいってるだけだし」


 おい、千晶。見てたんなら聞くなよっ。

 俺は隠し事など一切できない千晶の後姿を追いながら、

我ながら強力すぎる親友を作ってしまったと、微妙な笑顔を浮かべていた。






7月下旬


 すっかり二人でいる事が当たり前になっている武也と依緒による三人だけの送別会を

先日終えた俺は、ただ一人成田空港で出国のときを待っていた。依緒の言い分によれば、

武也の毒牙にかかる女の子を守っているだけだっていうことらしいが、そんな建前なんて

なくても既に武也の女遊びはなくなっている。それは俺でさえわかっている事なのだから、

ましてやいつも側にいる依緒ならばわかるはずだ。その言い訳をいまだに使うあたりは依緒の

気持ちは整理できていないのだろう。あとは武也の頑張り次第だろうけど、俺がとやかく

言う事でもないか。でも、大学生活最後の夏だからって、二人で沖縄旅行に行く計画まで

たてているんだから、俺が心配する必要なんてもうないのかもな。

 俺は苦笑いを浮かべながら鞄の一番上に収まっていた弁当箱を取りだした。


千晶「忘れ物はない?」

春希「問題ない」


 いつものと変わり映えのない朝。千晶はいつものように俺より遅く起きてきて、

眠そうな顔をでおはようと朝の挨拶をしようとしたが、けれど今日だけはその眠そうな顔は

一瞬で吹き飛び、笑顔ともに告げてきた。べつにいつもより豪華な弁当を用意していたわけ

ではない。もちろん昨夜に何かあったわけでもない。

 ただ、今日の台所には俺と母さんの二人がたっていただけだった。


千晶「ほら、これ、お弁当。せっかくお母さんが春希のために用意してくれたんだから、

  忘れたなんてことになったら、せっかく改善してきた関係が破綻しちゃうわよ」

春希「最後に鞄に入れようと思っていたんだよ。気温が高いからな」

千晶「たしかにお弁当食べて食中毒で飛行機に乗れませんでしたってことになったら、

  今度こそお母さんこの家からも出ていってしまうかもね」

春希「それ笑い話にならないからな」

千晶「でもいいじゃない。なんだかんだいって和解……できたでしょ」

春希「誰かさんのおかげでな」

千晶「そうだね。感謝しときなさいよ」

春希「ああ、感謝してる」


 千晶のずうずうしすぎる介入もあって、俺と母さんとのすれ違いはひとまず解決した。

別に今朝になってようやく解決したというわけでもなく、5月の下旬あたりから千晶の強引な

介入もあって一緒に食事をするようにもなっていはいた。けど、こうして言葉にして

すれ違いに区切りをつける事が出来たのは、やはり千晶の助力のおかげなのだろう。


千晶「一人で大丈夫?」

春希「俺の方こそ心配だよ。お前ちゃんと実家に戻るんだろうな? またふらふらと

  あちこち泊まり歩くんじゃないぞ」

千晶「だいじょぶだって。春希が一緒に荷物運んでくれたときにお母さんを紹介したでしょ。

  私の場合は春希とは違って喧嘩なんてしてないし」

春希「そういう問題じゃなくてだな」

千晶「わかってるって」

春希「ほんとうかぁ……」

千晶「ほらっ」


顔をあげ千晶の顔を見て真意のほどを確かめようとすると、俺の視界は黒く塗りつぶされる。

真夏だというのにあの日感じた春の香りが俺を包み込む。それは、甘えることを捨てた俺に

甘え方を教えてくれた千晶の優しさが噴き出していて、俺の気持ちを軽くしていく。


千晶「ほんと春希はすけべだよねぇ……」

春希「むぅ~」

千晶「ほらほら、あばれないあばれない」


千晶は俺の全く本気ではない抵抗を、その大きな胸で抱きしめている俺の頭を撫でること退ける。


千晶「だいじょぶだよ。しっかり大学は卒業するし、ふらふらすることもないからさ」

春希「……」


 俺の抵抗がなくなっても、千晶は今も俺を慈しむように撫で続けていた。


千晶「それに、この胸は当分は春希専用だから、他の男が勘違いして触るような事はしないって」


 その辺のことはノーコメントで……。でも、いつの日か俺もこの胸から卒業しないといけない

のはたしかであり、いつまでも千晶に甘えることなんてできやしない。 


千晶「でもね、苦しくなったら、苦しいって言っていいんだよ。助けてって言ってよ。

  言ってくれないとわからないじゃない。

  いつも春希を見ていることなんてできないんだよ。わかってる?」

春希「……」

千晶「でも、いっか。わからない相手にはわかるまで教えればいいだけなんだから、

  その辺は覚悟しておいてね」


 母さんが作ってくれた弁当を見て、千晶との共同生活を思い出す。

 悪くはなかった。むしろ楽しんでさえいた。

 考えてみれば千晶がいなければ、きっと母さんと和解なんてできないで、この弁当だって

存在しなかったはずだ。そう思うと、千晶の存在の大きさと、あの計算とも天然とも言える

ずうずうしい介入によって俺達は救われたことの大切さを噛み締める事が出来た。



 遅すぎることなんてないんだ。道を間違えたのなら、いったん元の道を戻ればいいだけだ。

 それに、一人では無理ならば助けを求めればいい。今も甘える事には抵抗があるけれど、

それでも一人では無理だという事は理解できる。

 それは日本でも、そしてニューヨークでも、同じことなのだろう。


第49話 終劇

第50に続く






第49話 あとがき



これにて日本編終了です。

ちょっと駆け足になってしまいましたが、

これ以上深く書いてしまうとさすがにかずさが黙っていないかと……。



冴えカノの方の続編ですが、とりあえず原作全部読み終わりました。

『詩羽無双』を書いたきっかけは、アニメとコミックス版『恋するメトロノーム』を

読んだからであり、じゃあ原作FDの詩羽パートだけでも読んでおくかってかんじで、

にわかファンが書いた二次小説という読者が聞きたくもない裏話があるわけで……。

でも今回は、『詩羽無双』を書く為にやっぱ原作最新刊7巻くらいは読んで

世界観捉えておくかって感じで短時間で1冊頭に叩き込んだという

原作作者及びファンの方々からすれば、その読み方で面白いの?っていう暴挙もせずに

比較的ゆっくりと原作1巻からGirls Sideまで読み終える事が出来ました。

ただこれ書くと、原作ファンの皆さんからネタだろ?って言われそうなのが痛いですw

まあ黒猫にはあんなチート能力ありませんし、精々読書量による慣れにすぎません。

とりあえず結果としては痛いコメントになってしまっても

身を削ってでもちゃんと読んだ事実はお伝えできたかと。

さて続編ですが、連載中2本に新規1本(予定)あって、そこに冴えカノ1本ですよね。

あとオリジナルも2本書いていまして、黒猫過労死?ですかね……。

冗談はさておき、申し訳ありませんが、もうしばらく書きためる時間をくださいとしか言えません。

一応アニメも2期が決まっておりますし、

その頃までにはどうにかできていればいいなというのが実情です。

それとこれは書かない没プロットなんですけど、一応序盤と終盤から結末までのプロットを

作りました。ただ、序盤は明るいんですけど、どうとちくるったか結末にかけて暗い暗い。

地獄でのハッピーエンドといいますか、やはり勢いでつくるものではありませんね。

物語としては盛り上がりそうですが……。


申し訳ありませんが月曜日更新へと変更しようと思います。

来週も月曜日に掲載できると思いますので、また読んでくださると大変嬉しく思います。



黒猫 with かずさ派



第50話




7月下旬




 日本にまで送り届けられていた部屋の鍵を差し込み玄関の扉を開けると、そこは数カ月前に

やって来た時と同じように整然とした部屋が開かれる。主がいまだ職場に拘束されている部屋は

新たなる居住者を無言で出迎える。

 この部屋は一応日本スタイルを通しているので、玄関を入ってすぐ靴を脱ぐ。そして靴一足

たりとも置かれていない片付けられているこの場所に俺がいる事を示すように、

まあ控えめにだけど、邪魔にならないように玄関の隅に履いてきた靴を片付ける。

 やはりニューヨークも日本と同じように夏というわけで、エアコンが効いていない室内は

むあっと息苦しい。俺は手荷物を床に置くとエアコンをつけ窓の方へと歩み寄る。

 エアコンをつけたのに窓を開けるのは貧乏性ともいう節約生活が身についてしまった俺と

してはほんの少し迷いはしたが、その愁いを振り払うように窓を開けた。

 気持ちがよい夏の風が俺の後ろへと過ぎ去り、汗ばんだ肌を冷やしていく。と、正午を過ぎた

ばかりなのにもう少しの間だけたそがれるのも悪くはないが、今も全精力をあげて仕事に

打ち込んでいる同居人に申し訳ないわけで、俺は既に届いている荷を整理することにした。



時は夕方をすぎさり、既にとっぷりと夜を迎えていた。迎えていたと表現したのは、夕方ほんの

少しだけと思って仮眠をとっていたからであり、一応時差調整でもあった。時計を見ると、

あと1時間ほどで俺の同居人、正確に言えば俺が居候であり、また千晶流に言えばヒモではある

が、……とりあえず千晶のことは忘れることにして、俺は食事の準備に取り掛かった。


麻理「北原っ」


 部屋のチャイムが鳴り、急いで玄関を開けると、そこにはパソコン画面では見慣れている麻理

さんが息を切らして立っていた。


春希「駅から走ってきたんですか?」


 感動の再会だというのに俺の気のきかない第一声が、麻理さんの勢いを見事にそぐ。


麻理「走ってはいないわよ。ちょっと早歩きで来ただけ」

春希「でも、息が上がってるじゃないですか」

麻理「そうかしら?」

春希「ええ」


 額にはうっすらと汗の粒が噴き上がっている。確かに外は暑い。けれど、太陽が一番高い

時間帯に歩いてきた俺以上に汗だくなのは、やはり走ってきたとしか思えなかった。


麻理「う~ん……、わかったわよ。走ってきたのよ」


 そう早々と自白した麻理さんは、事実を告げると顔を横に背ける。けれど、俺から視線を離す

ことはせずに、視線だけは俺に捉えて離さないでいてくれた。まあ、俺が麻理さんの事を目を

離す事も出来ずに観察していたからこそ気がついた小さな事実だけれど。


春希「俺も早く会いたかったです。俺に出来る事は部屋で待つことだけでしたけど」

麻理「北原……」

春希「ほんとうは再会した瞬間にどうしようか、とか、何を言おうかとか色々考えていたんですよ」

麻理「本当に?」

春希「嘘ついてどうするんですか」

麻理「そうよね」

春希「でも麻理さんの顔を見たら、せっかく考えていたプランを全て忘れてしまいました」

麻理「その代替案が「駅から走ってきたの?」なの?」

春希「いや、どうなんでしょうね? 俺も考えて口にしたわけじゃないですから。

  麻理さんの顔を見たらぽろっと出てしまった言葉でして」

麻理「そんなに息が乱れていたかしら?」


 そう麻理さんが言葉にすると、自分の今の状況に今さらながら気がついたのか、衣服の乱れや

汗が噴き出ている事に気が付き慌てふためく。そんな職場では絶対に見せない取り乱した

その行動がなんだか可愛らしくおもえて、愛おしさが我慢できなくなる。


春希「最初に謝っておきますね。麻理さんごめんなさい」

麻理「北原?」

春希「ただいま麻理さん」


 俺は考え抜いた第一声を今さらながら口にすると、俺は麻理さんの許可も得ずに無防備に

突っ立っている麻理さんの体を抱きしめた。きっと麻理さんは非常に汗の状態を気にはしている

だろうが、俺は汗なんて気にせず身を引き寄せる。その小さな体を俺の体で記憶させるように

脳に叩きこむ。もう映像じゃないんだ。触れることだってできる。臭いだってある。……まあ、

汗臭いから嗅ぐなって怒鳴られそうだけど、今回だけは許して下さい。そしてなによりも、

一度機械で分解して再構成した声ではなくて、あの耳に心地よく居座ってしまう甘い声が

俺の鼓膜を触れてくれる。


麻理「おかえりなさい北原。それと、ただいま」

春希「おかえりなさい」


 麻理さんはもう諦めたのか。自身の汗の事など忘れ、俺に身を任せるだけでなく自分からも

俺がいる事を確かめていく。これが恋人同士ならキスの一つや二つあったかもしれないが俺達に

はあるわけもなく、ただお互いの存在だけを身に刻み込んでいった。

ただ、千晶が見たら、どうみても恋人同士の抱擁でしょって突っ込みが入ってきそうだけれど。








5月下旬



 曜子がフランスでのコンサートを無事に終わらせてウィーンの自宅に帰宅すると、予想通り

静けさだけが彼女を出迎える。ただ、「無事に」というニュアンスを使うと曜子自身が鼻で笑う

かもしれないが、コンサートの観客の満足度が曜子の自信と一致している点は彼女のピアニスト

としての地位を如実に表していた。

 曜子は一カ月ぶりの帰宅だというのに愛娘の出迎えがないことに悲しさや怒りを覚えたりは

しない。そもそも曜子が海外へ出かけていないときでさえかずさが曜子を出迎えることなど

ありはしないのだから。それに、最愛の愛娘が出迎えに来る方がよっぽど気持ち悪い。

もしそのような事態に出くわしたとしたら、即刻知人に精神科医を紹介してもらうことだろう。

だから曜子は荷物を玄関に捨て置き、かずさがいるはずの自宅に作られているレッスンスタジオ

に足を向けた。あと、玄関に置き去りにした荷物は、おそらく数日以内にフランスで滞在して

いたホテルから送られてくる荷物と一緒に信頼できるハウスキーパーが整理洗濯することになる。

曜子が自宅の事を気にせずに海外に行けるのも、気難しいかずさの逆鱗に触れる事もなく、

ようはハウスキーパーのステルス機能が高いとも言えるが、家事全般を任せられるからである。

 ただでさえ生活能力の針がマイナスをふっ切っているかずさなのだから、一週間も一人では

暮らしてはいけないはずだ。普通のハウスキーパーがいてもその日のうちにハウスキーパーが

逃げ出すだろうから、一週間と一日だけかずさが生き延びられる事ができるにすぎない。


曜子「愛しのお母様がフランスから凱旋よぉ」


 曜子が防音処理が施されている分厚いドアを開けスタジオに入ると、鳴り響いているはずの

ピアノの音色は聞こえてはこない。そもそも部屋の中央にあるグランドピアノの前にかずさが

いないのだから当然ではあった。お風呂にでも入っているのだろうかと思いめぐらすが、

そもそもいつもなら今の時間帯にお風呂に入ってはいない。それならばトイレかお腹が空いて

ハウスキーパーが用意した食事をとりに冷蔵庫を漁りに行ったのかもしれないと考えが

まとまっていく。けれど、その推理もほどなく終了した。端的にいえば、かずさはレッスンスタジオ

にいた。床にちらばった楽譜や食べかけのお菓子類などが広いスタジオを雑然と狭く見せてしまう。

それでもピアニストのせめての意地なのか、一千万を超えるグランドピアノの周りだけはゴミが

なかった。いや、もう一か所だけ綺麗に片づけられている場所があった。それはかずさがいる

箇所だ。よく観察すれば、かずさが座るソファーの周りには、元々ソファーにあったゴミが

強引にソファーから遠ざけただけだと判断ができる。


曜子「かずさ? 寝てるの?」


 ソファーの上で膝を抱えるように身を小さくして寝転がっているのだから寝ているわけでは

ないだろう。曜子も戸惑いのあまり適当な言葉を投げかけたにすぎなかったのだが。


曜子「練習中なら気にしないけど、何もしていないんだからおかえりの挨拶くらいしなさいよ」


 苛立ち半分、諦め半分の声をかずさに投げかけても、かずさは肩を震わせる事さえしない。

こうなると本当に寝ているか、病気で動けなくなっているかという考えが再度浮かび上がって

来てしまう。


曜子「ほら、こっちを向きなさい。…………えっ?」


 曜子は強引にかずさの肩に手をかけ振り向かせる。

 しかし、曜子が目にしたのは、予想を斜め上に大きく外れる結末であった。


曜子「えっとぉ、かずさ?」

かずさ「あ、母さん。帰ってたのか。おかえり」

曜子「うん、まあ、ただいま」


 かずさは曜子が帰ってきた事を確認すると、再度かずさの視界から曜子を消してしまう。


曜子「ちょっと、ちょっと待ってよかずさ」

かずさ「なんだよ?」


 自分の世界からリアルに引き戻されたかずさの機嫌は急激に下降していく。それは母曜子で

あっても例外でない。曜子ものりのりでピアノを弾いているときに声をかけれると無視するわけ

だから似たようなもので、自分の場合も覚えていてほしいと言われそうだ。


曜子「気持ち悪いくらいにやけちゃって、どうしたのよ?」


 たしかに曜子がかずさの機嫌を損ねる直前までかずさはにやけまくっている。曜子の認識と

他の人間の感想に隔たりがあるかもしれないが、それでもかずさは蕩けきった顔をしていた。


かずさ「べつに休憩中くらいリラックスしていてもいいじゃないか」

曜子「それはかまわないんだけど、でもねえ……」

かずさ「なんだよ?」


曜子の視線がかずさの手元で止まる。そしてかずさが逃げる前にかずさの手を両手で抑え込んだ。


かずさ「ちょっとやめろって。やぶけたらどうするんだよ。のびちゃうだろ」

曜子「あんたが大事そうにしている手袋には触っていないじゃない。ほら、こうやって手首を

抑えてるんだからのびやしないわよ」

かずさ「わかったよ。わかったから手首を抑えるな。どうせ今隠してもあとでいじられるだけだからな」

曜子「わかってるじゃない。だったら最初から素直になればいいのに」

かずさ「何言ってるんだよ。そっちがいきなり襲いかかってきたんじゃないか」

曜子「そうだったかしら?」

かずさ「そうだったんだよ。……もういいよ」

曜子「じゃあ説明して貰おうかしらね」

かずさ「別にあたしが話さなくても母さんはわかってるんだろ? 

   だったらあたしが話す意味はないじゃないか」

曜子「意味なるあるわよ」

かずさ「どんな意味だよ」

曜子「恥ずかしさに悶える愛娘の姿を見られるじゃない」

かずさ「消えてくたばれっ」

曜子「まあいいわ。春希君からの誕生日プレゼントなんでしょう」

かずさ「まあね」


 かずさは愛おしそうに手にはめているクリーム色の手袋を撫でる。その姿だけでも嬉しさに

悶える愛娘を堪能できているわけではあるし、また、曜子がかずさに尋問する前にすでに

だらしないほどに悶えまくっている愛娘も堪能しまくっているわけで、さらに恥ずかしさに悶える

愛娘まで求めるのは、かずさにとって屈辱以外のなにものでもなかった。

 それに、かずさが手にはめている木綿の手袋以外にも、国際便で送られてきただろう箱とその

包み紙がソファーの側に転がっているわけで、今日が5月28という事実を組み合わせれば

容易にプレゼントの贈り主を推測する事もできた。

 ただ、曜子がその推理だけで満足できるかは別問題ではあったが。


曜子「これでこの惨状も理解できたわね」


かずさ「惨状って?」

曜子「別に大したことではないのよ」

かずさ「だったら言葉にして言うなよ。頭の中だけにしとけばいいのに……。

  それとも、もうボケ始めたのか?」

曜子「ひっどい事をいうのね。色ぼけした発情娘に言われたくはないわ」

かずさ「なっ……」

曜子「ふぅ……。あなたが自覚しているだけましってところね」

かずさ「ふんっ」

曜子「一応言っておくけれど、さっき言った惨状っていうのはね、

  ソファーの周りだけ綺麗になっている理由がわかったってことよ」


かずさは曜子が言っている意味が全く理解できないようで、小首を傾げて続きの解説を催促した。


曜子「やった本人が自覚していないっていうのは重症ね」

かずさ「どういうことだよ?」

曜子「あなた、自分の周りを見てみなさいよ」

かずさ「ん? べつになにもないけど?」


 かずさは曜子の指示通りに自分の周りを見渡す。母親の言葉に素直に従うところは、

普段の曜子への態度と言葉使いを別にすれば、純粋で、親子の仲も非常にいいことが分かる。

 まあ純粋な心の持ち主うんぬんは、かずさ本人は認めないだろうし、

曜子も「たんにこの子が世間知らずなだけでしょ」って一蹴しそうではある。


曜子「だからね。あなたの周りだけ綺麗にして、春希君からの荷物が汚れないようにしてる

  なって気がついたのよ。ちょうとソファーを中心にゴミを外に追いやったのがよくわかるわよ。

  うん、綺麗に手でどけたのがわかるように半円ができてるわね」

かずさ「べつにそういうわけじゃあ……」

曜子「そう? どうせ荷物を受けとたったら……、ねえ、かずさ」

かずさ「な、なんだよ?」


 曜子の鋭い視線にたじろぎ、かずさは逃げるようにソファーに身を沈めていく。


曜子「どうやって荷物を受け取ったのかしら? いつもだったら荷物はハウスキーパーの

  ホフマンさんが受け取ってるわけよね。そうねぇ……、一度でもかずさが荷物を受けとった

  事ってあったかしら? ううん、玄関のチャイムが鳴っても全て無視しているわよね。

  そう考えるとチャイムが鳴っても受け答えさえしたことがないことになるのよねぇ……」

かずさ「うるさいなっ。朝頼んでおいたんだよっ。荷物がきたら持ってきてほしいってホフマン

  さんにお願いしておいたんだ。それだけだ」

曜子「なるほどね。根回しはしっかりとしておいたか」

かずさ「嫌な言い方だな。ただたんに荷物がきたら持ってきてほしいとお願いしただけじゃないか」

曜子「たしかにね」

かずさ「だろ?」


 かずさはようやく曜子から解放されると思ったのか、最後くらいにこやかに答えてさっさと

この場から逃げようと考えた。いくら曜子であってもピアノの練習に入ったかずさにはちょっかい

はださないはずではある。しかし、かずさの儚い願いも叶わず、曜子による追及は緩まる事はなかった。


曜子「でもおかしいわね」

かずさ「なにがだよ? あたしが荷物を持ってきてほしいとお願いするのがどこがおかしいんだよ?」

曜子「ううん。その事自体は別に何とも思ってないわ」

かずさ「だったらなんだよ」

曜子「だからね。なんで今日、つまりかずさの誕生日に春希君から誕生日プレゼントがくるって

  知っていたかって事よ。だってあなた、春希くんとは連絡とっていないのでしょ?」

かずさ「まったくってわけではない」

曜子「そうよねぇ……。ヴァレンタインにホワイトデー。あとは4月の春希君の誕生日には

  プレゼントと、今時珍しい手書きの手紙のやりとりをしてたっけ」

かずさ「別に手紙が珍しいってわけではないだろ? いくらメールで瞬時にメッセージをおくれる

  ようになったとしても、手紙という習慣がなくなったわけじゃない」

曜子「たしかに……。それに、メールよりも手紙の方があなたも喜んでいるわけだし」

かずさ「どういう事だよ?」

曜子「だってねぇ……」


 曜子の含みがある笑みにかずさは再度後ずさる。かずさも全く経験をいかせていないわけで、

自分がソファーにいることを覚えてはいない。それだけかずさが追い詰められていると考える事

も出来るが、すでにこのやり取り、毎度のパターンとなっているとつっこめる人間がいない

ことが、かずさにとっての一番の不幸なのだろう。


曜子「だってあなた。夜寝る前には必ず春希君からの手紙を読んでから寝ているじゃない」

かずさ「見たのか?」


 かずさがすごんで見せても曜子は全く意に介さない。むしろにたにたと喜びながらにじり寄る

ものだから、かずさの怒気は一瞬で霧散してしまった。


曜子「見てないわよ」

かずさ「じゃあなんで? あっ、かまかけたな?」

曜子「違うわよ。かまなんてかけなくても簡単に想像できるじゃない」

かずさ「ふんっ……、言ってろ」

曜子「まあまあ、可愛いところがあって春希君も喜ぶんじゃないのかなぁ。だってあの北原春希

  君よ。堅物で優等生の春希君があなたの為にまじめぇ~な手紙を書いてくれたんでしょ?」

かずさ「見たの?」

曜子「見てないわよ。いくら私でも、かずさ宛にきた手紙を勝手にみないわよ」

かずさ「でも、この部屋に忍び込んできたときに偶然見たっていう可能性もあるじゃないか」

曜子「忍び込んだとは心外だわ。ちゃんと「ただいまぁ」って言って入って来たわよ」

かずさ「そ、そう……。ごめん」


 実際には「愛しのお母様がフランスから凱旋よぉ」だったが、

曜子本人さえ自分がなんて言ったか忘れていた。


曜子「別にいいわよ。私が部屋に入ってきたときは、かずさったらその今手にはめている春希君

  からの手袋を見ながらにやにやしているだけだったじゃない。我が娘ながらあんなににやけ

  悶えちゃっていて、ちょっとひいちゃったかな」

かずさ「だったら見るなっ」


曜子「はいはい。……でね、だからかずさがにやけているだけだったから、

  手紙があるなんて知らなかったわよ」

かずさ「そっか」

曜子「じゃあ、春希君の誕生日プレゼント贈った時のお礼の手紙に、

  今日プレゼント来るって書いてあったの?」

かずさ「いや、書いてないよ」

曜子「じゃあ、どうして今日プレゼントがくるってわかっていたのよ?」

かずさ「春希がプレゼントを今日届くようにしていたかは知らないよ。でもね、

  春希ならきっとプレゼントを送ってくれるってわかってたからな」

曜子「なるほどね。固い絆で結ばれているってことね。お熱いことで」

かずさ「春希はどこかの母親とは違って、あたしの誕生日をしっかりと覚えてくれている

  からな。まあ、聞いた話では、娘の誕生日を忘れてフランスまでコンサートに

  行ってしまった薄情な母親もいるそうだよ」

曜子「何言ってるのよ。こうやって誕生日に合わせて戻ってきたじゃない」

かずさ「最初の予定だともうちょっとフランスにいる予定だったじゃないか」

曜子「まあね。でも予定よりも順調に進んでくれたおかげね。コンサートの日程だけはずらせ

  ないけど、インタビューとかはどうにか短縮できてよかったわ」


 曜子は軽く言い放ってはいるが、曜子の陰で優秀なアシスタントの血のにじむような

はからいと交渉があったことは、かずさであっても容易に想像ができた。


かずさ「美代ちゃんに感謝しないとな」

曜子「そうね。でもこうして頑張って帰ってきても、

  最愛の娘は母親よりも男に夢中ってわけで、泣けてくるわね」

かずさ「言ってろ……。でも、春希が待っててくれるって言ってくれているからあたしは

  今ピアノに集中できるんだ」

曜子「そうね。私たちの我儘に付き合ってくれる春希君に感謝しないといけないわね。でも春希

  くんったら、なにを見て手袋を送ってきたのかしら? 今時寝るときに手袋をして寝ている

  ピアニストなんていないわよ。精々手タレモデルくらいじゃないかしら?」

かずさ「そのことは手紙にも書いてあったよ」

曜子「あら? なんて書いてあったの?」


 曜子も春希の事を馬鹿にしているわけではない。子供にピアノを習わせている一部の親の中に

は、寝るときには子供に手袋をつけさせる親は今でも存在している。

 だから、もし春希がその事を知ってかずさに手袋を贈ったとしても、口ではかずさを

からかっても、本心から春希を馬鹿にする事などはないし、かずさもそれをわかっていた。


かずさ「別になんだっていいだろ。ないしょだ、ないしょ。あたしと春希だけの秘密だ」


そのかずさの慌てようと照れ具合からして、実際手紙を読まなくとも、曜子にはおおよその見当

くらいはつけることはできた。おそらく手を大事にしてほしいとか、一緒にいられないけどこれ

くらいは、とか。もしかしたら、この手袋を見たら自分を思い出してほしい……、寝るときは

一緒だ。……だんだんと春希の性格からかけ離れていく推理になっていくが、

あながち見当違いではないのかもしれないと曜子は結論付け、ほくそ笑む。



曜子「まあいいわ」


 そう曜子が呟くと、曜子は春希からのプレゼントを撫でようと手を伸ばす。

 これがほのぼのした母娘関係ならばここで終わるのだが、

かずさが春希からのプレゼントを曜子に触れさせないように伸ばしてきた手を

叩き落とすあたりは冬馬親子らしいといえるのだろう。

 このかずさの独占欲が、母娘のじゃれあい第二ラウンドの合図となった事はいうまでもない。






第50話 終劇

第51に続く







第50話 あとがき



 地の文を三人称で書いてみましたが、いかがだったでしょうか?

春希が語っていると考える事も出来ますが、いかんせその場にいないわけで

ちょっと変な感じも致します。

最初は曜子視点で書こうかとも思いましたが、三人称の練習も兼ねて書いてみました。



来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


第51話



8月中旬


 俺が住む家を編集部に隠す通すわけにもいかず、俺が麻理さんと一緒に暮らしている事は

開桜社ニューヨーク支部の編集部では公然の秘密でもなく、普通に受け入れられいた。

 アメリカでは日本よりもシェアハウスが一般的である事も起因しているし、

それが男女の同居であってもとくに問題なく受け入れられていた。

 しかも、なぜか俺と麻理さんとの師弟関係はニューヨークの職場でも知れ渡っており、

そのような師弟関係があるのならば一緒に住む事に変なさぐりをいれてくる者などはいないようだ。

これが日本だったら開桜グラフの先輩方が一晩くらいの飲み会では離してはくれないだろう。

 でも、悪い気はしない。苦笑いよりも懐かしさが込み上げてきてしまった。

 普通の社会人なら休日である日曜の午前。俺は掃除機を手にもくもくと掃除を進めていた。

日本にいた時には考えられないくらいの規則正しい生活が始まり、最初のうちは物足りなく

なるのではないかと懸念に思っていた。しかし、そもそも扱う言語が日本語から英語になった

わけで、物足りないどころかこれ以上の仕事を抱える事は不可能だという事態に陥っている。

 一応土曜日も仕事はあるが、自宅での仕事日となっている。まあ、日曜日も麻理さんからの

ビジネス英語講座があるわけで、ある意味日本と同じような忙しい日々を過ごしていた。


麻理「北原ぁ。バスルームの掃除終わったけど、リビングの方はどうかしら?」

春希「あともう少しですね」

麻理「掃除機だけ?」

春希「ええ。掃除機はもうすぐ終わりますので、あとは拭き掃除だけです」

麻理「そう。だったらあとは私が拭き掃除しておくわね」

春希「お願いします」


 バスルームの掃除を終わらせてきた麻理さんの言葉に甘えて俺は掃除機を片付けに行く。

そのときちょうど洗濯気が動いていないのを確認した俺は、自分の洗濯をすべく洗濯ものが

つまっている籠を自室から持ってくると、俺は洗濯機の準備に取り掛かった。

 俺は洗濯ルールにのっとり、洗濯機の覗き穴からタオル類が入っている事を確認すると、

洗濯機のふたを開け、洗濯し終わったタオルなどを取りだそうとした。

 今日はちょっと多いかな? さすがに毎日洗濯できないしな。えっと、

この前洗濯したのって……、昨日じゃなかったか?

 俺は昨日の記憶をたどるのに集中し、手元はオートでタオルを取り出していった。


春希「あっ……」

麻理「どうしたの?」


 思いのほか大きな声をあげてしまい、麻理さんが覗いてくる。

 これが初めてだというわけでもないのに、声をあげずに蓋をしていればお互い気まずい

想いをしなかったはずだった。だけどどうしても耐性がつくはずもなく、

俺は呆然と麻理さんの表情がうっすらと赤く染まっていくのを見ているしかなかった。


麻理「あっ……」

春希「すみませんでしたっ!」

 二人で暮らしているわけで、お互いどうしても一人暮らしの時の癖が出てしまう。

それは俺もそうだが、俺よりも長く一人暮らしをしている麻理さんはなおのこと男性と一緒に

くらしているという危機意識が薄くなってしまう。

 つまり、お互い危機意識を忘れてしまう為に今回のようなハプニングが起こってしまう。

 洗濯機の中には麻理さんの洗濯ものが入っていた。もちろん普段から気をつけはしている。

それでも油断してしまい、先日も同じような事態を起こしていた。まあ、前回は麻理さんが

俺の洗濯ものを目撃しただけで、麻理さんのショックを別にすれば、俺の洗濯ものを見られて

もそれほど恥ずかしくはないので、今回の比較対象にはならない。

 一応俺がこの家に越してきたときにいくつかのルールを決めはした。

洗濯も数少ないルールのうちの一つである。

 ルールの数が少ないのは、お互いが気を使えばいいと思っている事と、

あとは実際暮らしてみないとわからないということに起因する。

 洗濯のルールはいたってシンプルで、各自の衣類は自分で洗い、

タオルなどの共有物は気がついたほうが洗うであった。

 ニューヨークでの洗濯事情では、自宅に洗濯機があるのは珍しい。

コインランドリーに行くか、アパートに備え付けのランドリールームを使うのが一般的

といえる。麻理さんのように時間がない人は業者に頼むという方法もある。

 だから最初は麻理さんも業者に頼んでいると思っていた。しかし、初めてこの家に来た時に

麻理さんが言っていたが、「やっぱり洗濯は自分でしたいのよね」だった。

 こうして真っ白になっている新天地で麻理さんの現状を一つ一つ塗りつぶされていくたびに

俺が大いに影響を与えている事を知ると、嬉しさと後ろめたさが毎回せめぎ合ったいた。


春希「いっ! ……ぁっ」

麻理「どうしたの北原? なにかあった?」

春希「え? いやそのですね」

麻理「ん? あっ、洗濯機もう終わったのね」

春希「ええ、まあ、そうですね」

麻理「じゃあ北原のも洗ってしまいなさいよ」

春希「そうさせてもらいます」

麻理「あっ……」


 麻理さんの困惑と羞恥心が混じった声とその視線に俺は自分の現状を思い出してしまう。

一度は緊急回避的手段で手に握っている品を洗濯機の中に戻そうとはした。

 けれど、麻理さんが思いのほか早くやって来てしまったわけで、

俺の思考はその場でストップしてしまっていた。


春希「……」

麻理「北原?」

春希「……」

麻理「北原っ」

春希「はっ、はいっ」


 フリーズしていた俺の脳は、麻理さんの呼び声で強制的に再起動される。

どうやら再び思考をストップさせていたようだ。

 数々の修羅場をくぐってきた武也に、俺は今こそアドバイスを貰いたい。


 武也からすれば修羅場未満の事態かもしれないが、

俺にとっては修羅場以上に遭遇したくはない事態であった。

 なにせ、…………前科持ちだもんなぁ。


麻理「できることなら手に持っている下着を離してもらえないかしら?」

春希「すみませんっ」

 硬直していた手を開くと、俺の手から黒い布地が洗濯機の中へと舞い戻っていく。

 できる事なら、麻理さんに見つかる前にしておきたかったものだ。

麻理「別にいいのよ。私だって洗濯機の中に北原の洗濯ものが入っているのを

  知らないであけたことだってあるわ」

春希「俺のは別にいいですよ。いや、むしろ変な物を見せてしまってすみません」


 男の下着と女性のとでは次元が違うだろっ。

それを今力説なんかしたら墓穴を掘りそうだからしないけど。


麻理「別に変なものだなんて思っていないわよ。女も男も下着をつけるものだし、

  それを洗濯するのは当然でしょ?」

春希「たしかにそうなんですけど、今は論点がずれていません?」

麻理「そうかしら?」

春希「そうですよ。だから一緒に暮らし初めてすぐに洗濯のルールを作ったじゃないですか」

麻理「そのルールは北原が一方的に決めた事じゃない。私は別に一緒に洗濯してもよかったのよ」

春希「駄目ですよ。俺が麻理さんの下着を触ることなんてできませんよ。

  一応モラルの面でという意味でですよ」


なにを補足説明してるんだよ。そんなモラル云々なんて麻理さんだって聞かなくともわかるだろっ。

 しかし、なにを勘違いするかわからないというか、俺に関してだけはどうしても小さな意思

疎通の齟齬も発生させたくはなかった。それが腫れ物に触るような扱いであろうと、過保護だ

と言われようと、どうしても麻理さんの精神状態を俺は信じきることができないでいた。


麻理「だから言ったじゃない。洗濯は私の分担にすれば問題ないって。

  だって北原は私が北原の洗濯ものを触る分には問題ないのよね?」

春希「ええ、まあ。麻理さんが俺の下着を触っても問題ないというのでしたら」

麻理「その辺は全く問題ないわよ」

春希「だけどですねぇ……」


 ほんと、なにを馬鹿な事を言ってるのっていう顔をしないでくださいよ。

俺の方が我儘を言っているようにみえるじゃないですかっ。

 そりゃあ実家には千晶という珍獣がいて、女性の下着が干されていても慣れましたよ。

だけど、どうしても同じ布っきれだとは思えない。千晶の物と麻理さんの下着とでは、

どうしても意識が違ってきてしまう。

 その辺を理解してくださいよ。

……千晶の洗濯物の扱いで、麻理さんと千晶が言い争っていた事は思い出したくもないが。


麻理「一緒に暮らしているんだし、助け合いよ。それに北原も仕事が今の生活に慣れるのに

  四苦八苦しているじゃない。わざわざ別々に洗濯するとなると時間も倍以上かかって

  しまうわ。しかも白いものと色ものを分けて洗うとなるとさらに時間がかかるわけだし。


  別に水道料金とか電気代を気にしているわけではないのよ」

春希「その辺の料金の無駄遣いは再考すべき点ですが、資源の無駄遣いでもありますよね。

  それに、麻理さんが指摘したように、時間的デメリットはたしかにいたいです」

麻理「でしょう」


 俺に姉はいないが、もし姉がいたらこんなふうに言いくるめられてしまうのではないかと

思ってしまう。両手を腰に当て、自分の主張が正しいと胸を張っていうその麻理さんの姿が、

なんだか微笑ましくて、俺は諭されている最中だというのに喜びが沸きあがってきてしまった。


春希「そうですね」

麻理「北原?」

春希「いえ、なんでもないです。……俺も少し神経質になってたかなって思いまして」


 やばかった。姉に怒られて喜んでるって気がつかれなくてよかった。

そんな性癖ないはずだけれど。


麻理「そう? じゃあ、洗濯は私が当番でいいわね」

春希「はい、お願いします。ではお風呂場は今まで交代で掃除していましたが、

  これからは俺が掃除当番という事でいいですね?」

麻理「それはかまわないけど、北原は料理もしてくれているし、

  お風呂掃除は今まで通りに交代制で構わないわよ」

春希「いえ、麻理さんも料理手伝ってくれるじゃないですか」

麻理「手伝っているというよりは邪魔をしている気がするのよね」

春希「そんなことはないですよ。最初の頃よりは動きがスムーズになってきましたし、

  俺も似たようなものですよ」

麻理「でも、しっかりと料理が板についてきたじゃない」

春希「それは麻理さんよりも長く経験を積んできたからにすぎませんよ」

麻理「でも、今は邪魔している部分も多いわけだから、やっぱりお風呂掃除は私がやるわ。

  でも、私の料理の腕が上がったとしたら、そうしたらその時お風呂掃除の当番を考えましょう」

春希「わかりました」


 きっとその頃に事態が変わってお風呂掃除の当番再考なんて忘れてはいるんだろうけど、

俺はこの先も麻理さんの勢いに負け続けているのだろうという事だけは確信できた。

 別に嫌だってわけではない。むしろ負ける事にすがすがしささえ感じている。

 それが将来麻理さんを傷つける時限爆弾になろうと、俺達は見ないふりを演じ続けていた。







9月上旬 かずさ



 春希の側にいられないのは寂いしいけど、やっぱ一日中ピアノに向かっていられるこの環境

だけは母さんに感謝している。もちろん母さんには言わないけど。

 まあ、あれだな。今なら母さんが一人海外で頑張ってきた心情も、そして高校生になる

あたしを一人残して海外に出て行ったことさえも、ほんのちょっとだけだけど理解できる

かもしれない。


 ほんのちょっと、ほんのわずかだけだけど、理解できてしまう。

 それがいい傾向なのか、それとも人生踏み外しているかはわからない。

きっとピアニストとしては正しいのだろうし、一般の人からすれば、そう、日本にいるで

あろう彼女みたいな普通に高校生やって、大学でのびのび頑張って、そして就職して家庭を

作っていく、いわゆるまっとうな人生を望むのならば、あたしが選んだ道は間違っているのだろう。

 もちろんピアニストであってもまっとうな性格の持ち主もいる。

 けどやっぱ、母さんと似たような臭いがする彼ら彼女らを見ていると、

どうしても普通とは思えなくなってしまっていた。


曜子「ねえ、かずさ」

かずさ「娘の部屋に入ってくるならノックくらいしたらどうだ」


 いつものようにノックもせずに母さんがあたしの寝室に入ってくる。

 別にやましい事をしているわけでも、なにか隠さなければならないものなんてないから

いいんだけど、それでもやっぱ年頃の娘でもあるわけで、

そこんとこわかっててやってるんだからかなわない。


曜子「あら? ノックしたわよ」

かずさ「聞こえなかったけどな」

曜子「ノックしたわよ。あなたと暮らし始めたばかりのころはね」

かずさ「だったらその習慣を今も続けて欲しかったものだな」

曜子「あらぁ? でもね、あなたが返事しなかったのよ。私がノックしても一度として返事を

  した事がなかったじゃない」

かずさ「当然だろ?」


 あたしの切り返しに母さんは目を丸くする。本当にわかってないのかもしれないって、

娘として本当にこの母親の常識を疑ってしまった。

……社長に常識を求めるのはよしなさいって美代子さんが真顔を言ってたけど、うん、まあ、

やっぱあたしの母親なんだなって納得してしまうのはやばい傾向かもしれなかった。


曜子「どうして?」

かずさ「だってノックじゃなくて「入るわよ」って呼びかけながらドアを開けていたじゃないか。

  たしかに呼びかけるのもノックのうちかもしれないよ。でも、そのノックであっても、

  あたしの返事を待ってからドアを開けるものじゃないのか」

曜子「細かい事はいいじゃない。ただでさえ親子のスキンシップが少ないのに、部屋まで

  こうして会いに来ただけでも喜んでもらいたいものね」


 あたしが何を言っても言いかえしてくるんだよな。あたしもあたしでむきになってしまう

ところがあるのも悪いけど、それでも母親だったら娘に折れてくれてもいいじゃないか。

それこそ良好なスキンシップの一部じゃないのかよ。


かずさ「わかった。わかったよ。……で、何の用?」


 ここは大人のあたしが折れるべきだな。だって、面倒だし。


曜子「ん? えっと、……そうそう。ニューヨーク行きの事よ」

かずさ「ああ、あれね。そろそろホテルの予約取ろうと思ってたんだ。あと練習の為の

  スタジオも借りようと思ってるんだけど、どこかいいとこ知らない? ホテルはどうにか

  なりそうなんでけど、さすがに練習スタジオの方はなかなか探せなくてさ」

曜子「あなた、今頃になってホテルと練習用のスタジオを探しているの?」

かずさ「そうだけど?」


 今まで大人の対応をとってきたあたしであってもさすがに母さんの馬鹿にしたような、

呆れたような、……いや、百パーセントあたしのことを馬鹿にしているし、呆れてもいる顔を

みて、あたしの理性はあと少しで吹き飛びそうのなってしまう。

 きっとあたしの目はつり上がり、高校の教室だったらたった一人を除いてけっしてあたしに

近づく事もない雰囲気を醸し出しているっていうのに、この母親は……。

 どうして人の怒りに無頓着なんだよ。


曜子「もう9月よ9月。そしてコンクールは10月よ。わかってるの、かずさ?」

かずさ「わかっているから一カ月も前に予約しようとしているんじゃないか」


 あたしの優等生的発言に、あろうことか母さんはため息で返事を返してくる。

 ぴくりとあたしのこめかみが震えたのはこの際無視だ。怒ったら負け。

この人に常識はないんだから、あたしがしっかりしないと。


曜子「あなた大丈夫? ほんっとピアノ以外は全く駄目ね」

かずさ「どういうことだよ?」

曜子「いくら来年のジェバンニの前哨戦の位置づけになっている腕試しの

  コンクールといっても、みんなジェバンニにあわせて練習してきているのよ」

かずさ「わかってるよ、そんなこと」

曜子「わかってないわ。わかってないから練習場の確保もできていないんじゃない」

かずさ「どういう意味?」

曜子「みんな本気だってことよ。いくら本番が来年のジェバンニだろうと、ここで好成績を

  残せないようなら来年も駄目って事よ。だからみんな必至だし、練習場の確保だって

  しっかりと準備をしているの。あなたみたいに直前になって探し出すなんてありえないわ」

かずさ「えっと、そのさ」

曜子「なに?」

かずさ「ううん、なんでもない」


 さすがのあたしも母さんのいっていることがわかってくる。別に母さんはあたしを馬鹿に

していたわけではなかった。

 馬鹿だったのは、もしかしてたあたし、なのかもしれない。

 だって、母さんのいう通りピアノ以外はてんで駄目で。


曜子「しかもニューヨークよ。あなたニューヨークに詳しいわけでも、ましてや現地で

  サポートしてくれる親しい人がいるわけでもないのでしょ。まあ、ウィーンでも

  引きこもりのあなたに手を貸してくれる人なんてフリューゲル先生くらいかしらね」

母さんが言ってる事は、ほんとうに悔しいけど、正しい。ピアノに関しては妥協しない人だ。

 あたしもピアノに関しては最大限この人を尊敬しているし、目標にもしている。

 でもあたしは、この人を追いかけるためのスタート地点にさえたてていないって

実感させられてしまう。


 いくらピアノがうまくても、それだけで母さんが今の地位を築き上げたわけではない。

 ウィーンに来て、むりやり母さんのコンサートの事前準備に連れて行かれた時は途中で

逃げ出そうとさえ思っていた。

 だって会議を見ていても理解できないし、まあピアノに関してならわかるけど、

でも、スポンサーやら演出なんてものはさっぱりだ。でも、何度も連れられて行くうちに、

ピアノのコンサートは一人では成功させられないってわかってしまった。

 そういやこんな事も言ってたっけ。


曜子「演奏家はパトロンとまではいかないまでも、自分をサポートしてくれる人や企業が

  いなければ演奏さえさせてもらえないのよ。突き抜けた才能があればいいって思うかも

  しれないけど、その才能も、その才能を買ってくれる人がいなければ成功しないわ。

  だって、その才能で買い手の心を動かさなければいけないのよ。それはもちろんお金が

  からんでくるけど、無愛想な態度をとっていたらせっかくの演奏も駄目になってしまう

  わよ。まあ、ね。演奏家は一応どこでも演奏できる分いいかもしれわね。この前私の

  スポンサーになってくれてる企業の人と話していたんだけど、F1? あの車の」

かずさ「モナコに行った時の?」

曜子「そうそう。クルーザーでF1観戦できるっていうから行ってみたけど、

  つまらなかったわよね。ちょこっとしか見えないし」

かずさ「母さんは途中で飽きちゃって話に夢中だったじゃないか。たしかF1よりもカジノに

  夢中だった気がするけど」

曜子「そうそう。カジノね。……まあカジノは楽しかったけど、あの見ていてもつまらない

  F1? あのドライバーになる為に億単位の、しかも二桁の億の持参金がいるんだって。

  笑えちゃうわよね」

かずさ「でも、トップドライバーはそうでもないんだろ?」

曜子「そうらしいわね。でも、ほとんどが持参金しょってくるそうよ。

  ……ねえ、かずさ。わかる?」

かずさ「なにがだよ」

曜子「私は自動車レースのことなんてからっきしわからない。きっと私が馬鹿にしているF1

  も、仮にも世界最高峰のレースらしいから、そのレースに出場しているドライバーも

  突き抜けた才能をもっているのでしょうね。でも、この持参金をもってくるドライバーが

  多いって事はね、お金がないけど突き抜けた才能を持ったドライバーもF1には

  出場できないけどたくさんいるってことだとは思わない?」

かずさ「かもしれないけど、あたしは……」

曜子「これだけは覚えておいてちょうだいね、かずさ。あなたは、今は、ピアノだけに

  打ち込んでいていいわ。むしろピアノだけをみていなさい。でも、ピアノで成功する為

  にはあなたをサポートしてくれる人がいなければ成功しないという事を忘れないで頂戴ね」


 あまかった。今頃になって思い出す事じゃない。

 あたしの理解できることなんて子供じみた小さな理解だ。

でも、あたしがピアノだけを弾いていればコンサートが成功するなんて事は絶対にないって

ことだけは理解できた。

 だから今回のコンクールも、実際ピアノの良しあしで判断されるとしても、コンクール前の

準備も今後行われるコンサートと同じように事前準備が重要だったんだ。


だからこそ母さんはあたしにそれを強く指摘してきたんだ。

 母さんの口調がいつも通りすぎて、あたしはついはむかってしまったけど。




第51話 終劇

第52に続く




第51話 あとがき


申し訳ありませんが、今週は一身上の都合で朝の更新となります。

ようやくかずさが動き出し始めたわけですが、

ピアノのコンクールについては詳しくないのが痛いところです。

とりあえず架空の都市ニューヨークだと思って下されば助かります。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


第52話



かずさ「ねえ、母さん」

曜子「なにかしら?」

かずさ「お願いします。今度のコンクール、絶対に勝ちたいんだ。

   だからあたしのサポートをしてください」


 あたしはベッドの上から立ち上がり、頭を深々と下げる。

 この人にお願いしたことなんてない。いつも勝手に与えられるだけで、

くれないものはないものだと考えていた。

 それが当然だと思っていた。

 だけど、それじゃあ駄目なんだ。このままでは春希に会わせる顔がない。


曜子「そう……。勝ちたいのね?」

かずさ「ああ、絶対に勝つ」


 頭をあげたその先には、心の奥まで射抜く母さんの瞳があたしを覗き込んでくる。

 勝気で、負けず嫌いで、自由奔放で、他人に迷惑を笑って投げつけてくるような

どうしようもない人だけれど、ピアノだけには真摯な人。

 だからあたしもピアノに関しては正直でいたい。


曜子「わかったわ」

かずさ「うん、ありがと」

曜子「10月のコンクール勝ちに行くわよ。ここで1位をとれないくらいでは来年の本番で

  上位に食い込む事さえ難しいわ」

かずさ「当然だ」

曜子「いい顔ね。私が全面的にあなたのサポートをしてあげる。でも、私が手を貸すんだ

  から来年の本番でも勝ちに行くわよ」

かずさ「わかってるよ。約束だもんな」

曜子「ええそうね。彼と私たちとの約束だものね」

かずさ「うん」

曜子「ということで、さっき美代ちゃんから飛行機のチケットとかホテル? 

  あと、練習スタジオとかの詳しい予定が送られてきたからここにおいておくわね。

  一応ホテルの近くのスタジオをコンクールが終わるまで全て抑えておいたから

  いつでも弾けるわよ」

かずさ「え? え、えぇ~……。か、母さんっ」

曜子「じゃあ明日からの練習も頑張りなさい。

  来年のコンクールには春希君も招待できるといいわね」

かずさ「ちょっと母さん? 待って、待ってよ」


 母さんはあたしの呼びかけなど聞こえないふりをして寝室から出ていってしまう。

 あたしは追いかける気力さえ尽き、そのまま床に座り込んでしまった。

 くそっ。絶対最初からすべてわかっててはっぱをかけてきたな。

別に気を抜いているわけでもないけど、……くそっ。

 ここまでやってくれたのなら、絶対に1位をとらないといけないじゃないか。


もちろん1位をとる予定だってけど、……くそっ、腹が立つっ。

 でも……今だけだ。今だけはあんたの手のひらで踊ってやる。

でもさ、母さん。あたしは母さんみたいに社交的でもないし、人づきあいもうまくはないよ。

 でもね、ピアノの腕だけは母さんの横に並べるようになってみせるよ。






9月上旬 春希



春希「大丈夫なんですね?」

麻理「ええ、吐き気もおさまっているし大丈夫よ」


 俺は携帯電話から聞こえてくる麻理さんの声に神経をとがらせていた。

 麻理さんは普段は俺を頼ってくれるのに、どうしていつも以上に悪くなった病状に関しては

隠そうとするんだよ。俺はその為にニューヨークまできたというのに。

 たしかに俺が原因だってわかってはいる。でも、一緒に暮らしだしてお互いのみっともない

ところも知っていったのだから、一番肝心の病状だって共有したいじゃないですか。

 だから俺は麻理さんの些細な変化さえも逃すまいとその声に意識を集中させていった。


春希「本当でしょうね?」

麻理「本当よ。病気に関しては嘘はつかないわ」


 でも、本当の事を言ってくれない時もありますよね。


春希「でも、いくら体調が戻ってきたとしても、最近調子悪いじゃないですか」

麻理「体調を一度崩して、それを挽回しようとしてバランスを崩したのが悪かったのかも

  しれないわね。無理をしたつもりはないけど、それでもいつものバランスではないと体が

  無理をしてしまうのでしょうね」

春希「そうかもしれませんね。だから今日はもう家に戻って休んでください」

麻理「わかってるわ。今日は元々取材後はそのまま帰宅してもいいようにはしてあったし」

春希「そうだったんですか?」

麻理「本当は一度編集部に戻って北原とスーパーに寄ってから帰ろうと思ってはいたのよね。

  でも仕方ないわね」

春希「じゃあ一緒に帰りますか?」

麻理「え? こっちに来てるのかしら?」


 まあ映画とか小説だったら、ここでヒロインの前に現れるんだろうけど、

あいにくここには北原春希しかしないんですよね。


春希「いえ、まだ編集部ですけど、俺に割り振られていた分が終わってますから」


 ほんとうは麻理さんが無理をしないように編集部に戻ってきた麻理さんを家に連れ帰る為だ

とは言えませんけどね。ただ、そんな小細工さえも俺をよく見ている麻理さんが気がついて

しまうんだろうな。

 でもね、麻理さん。麻理さんが俺を見ているように、俺も麻理さんを見ているんですよ。

 だから、俺の事を思うのならば、無理はしないでくださいよ。

麻理「そうなの? だったらみんなには悪いけど、今日の残業はなしにしましょうか」

春希「残業することが当たり前というのはどうかとは思いますけど」

麻理「いつも頑張っているわけだし、今日くらいいいじゃない。

  疲れをしっかりとるのも仕事のうちよ」

春希「日本にいた時の麻理さんに言ってやりたい台詞ですね」

麻理「どういうことかしら?」


 やや声色が低くなったのは故障だよな。ほら、バッテリー残量もだいぶ減ってきているし。


春希「いえ、まあ、そのですね。はい、すみませんでした」

麻理「いいのよ別に。実際私は仕事の疲れを仕事で癒していたんだし。でもね北原。

  私は仕事に追われていたわけではないのよ。好きでやっていたのだし」

春希「わかってますよ。私生活を全て捧げてまで仕事に取り組んでいた麻理さんのことを

  近くで見ていましたからね」

麻理「あら? なんだかそれだと私生活が破滅的だと聞こえるんだけど」

春希「事実そうじゃないですか」

麻理「……そ、そうだけど、でも……北原にだけは言われたくないわね」


 コロコロと変わるその声色に、俺は安堵感を抱いていく。

 最初電話がかかったときは心底つらそうであった。それが今はやや拗ねているけれど、

明るくなっている事に俺は救いを感じられた。


春希「たしかに俺も似たような生活していますからお互い様ですね」

麻理「そうね」

春希「では、なるべく急いで行きますので、いつものスーパーの前で待ち合わせでいいですか?」

麻理「ええ、それで構わないわ」

春希「それではまたあとで」

麻理「私のことなんて気にしないでしっかり仕事をしてくるのよ」

春希「わかってますよ」

麻理「なら、よし」


 俺は麻理さんが電話を切るのを確認すると、帰宅する準備に取り掛かる。

でも、一応終わってはいるけど最後の見直しくらいはしておくか。

 これでミスなんてあったら明日麻理さんに何を言われるかわかったものじゃあない。

 ……そうじゃないか。麻理さんに気を使われてしまうのが怖いだな。今でも俺に負い目を

感じている麻理さんに、さらなるプレッシャーなんてかけさえるわけにはいかない。

だから俺は麻理さんの要求以上の結果を出さないといけないんだ。



 ほどなくして仕事を終えた俺は早足で編集部を出ていこうとする。

 しかし、ビルを出ようとした時同僚が俺を呼ぶ声に俺は脚を止めた。


編集部員「ねえ北原。風岡さん知らない? ここのところを聞きたいんだけど」

春希「風岡ですか? 今外に出ていて、そのまま帰るそうですよ」

編集部「明日の取材の事なんだけど、ちょっとわからないところがあるんだよね」

春希「……ああ、それですね。自分が風岡から任されているやつですから自分でもわかると

  思いますよ」


編集部員「そう? だったら北原に聞こうかしら」

春希「でもその資料は編集部にはありませんから、直接行ったほうが早いですよ。

  幸いすぐそばですし、今から行って資料を貰って来ましょうか?」

編集部「悪い。じゃあさっそく行こうか」

春希「ええ」


 少し時間がかかりそうだけど、このくらいなら問題ないかな。

 ……と、甘い見積もりが失敗だった。今手にしている資料は昨年の物で、

どうやら今年の資料ではないと問題が発生するらしい。

 これがデータを読みだせば済むだけの話なら簡単だったのに、

その資料がまとめられていないのが最大の誤算だ。

 だから俺が追加の仕事を終えて駆け足で出たのは、麻理さんの電話を切ってから

3時間ほどたってからであった。

 俺は全速力で駅に走り込む。途中通行人にぶつかりそうになった事数回。駅の改札口で

駅員に止められそうになった事一回。……まあ、犯罪に巻き込まれているわけではないので、

実際には止められなかったけど。

 とりあえず遅れている事を麻理さんにメールしておかないとな。これだったら出る前に

連絡しておくんだった。いや、本来なら追加の仕事が来た時に連絡すべきだったのに、

麻理さんとの会話に浮かれて連絡を忘れてしまったのは俺のミスだ。

 いつもの俺だったらしなくてもいいほど過保護に連絡を取り合うのに、

今日に限っては麻理さんの復調に安堵しきっていた。

悪い時は悪い事が重なるわけで、俺の携帯のバッテリーは底をつき、画面さえつかないでいた。

 ほんと社会人失格だな。いつでも連絡をとれるようにしておくのが社会人の基本なのに、

どうして俺は肝心な所で大きなミスをするんだよ。

 そうだっ。公衆電話があったな。

 虚しいひらめきに俺は公衆電話を探し始める。まだ電車はこないようだし、

ちょっと電話をするくらいの時間ならあるはずだ。

 それに、ここは公共の駅だ。今は携帯電話が公衆電話の役割を根こそぎ奪い取った社会で

あっても、公衆電話の必要性は消滅してはいない。 

 しかし、期待の公衆電話を見つけた瞬間俺は現実を突き付けられる。

 どうやって電話すればいいんだよ。麻理さんのアドレスは携帯のメモリーにしかない

じゃないか。くそっ。せめて肝心のアドレスさえ覚えていれば。俺が覚えているアドレス

なんて二つしかない。自分のアドレスと、それと、ウィーンにいるであろう電話をかける事も

ないあいつのアドレス。

 何度も電話しようとして踏みとどまるうちに、画面に表示されるナンバーを俺は

覚えてしまった。その印象は自分のアドレス以上に鮮明なほどだ。

 だから俺は期待の公衆電話の前で電車を待つしかやることが見つからなかった。

 そして、電車がホームに滑り込んできて電車に乗っても、俺の不安は解消される事は

なかった。いくら自分の足で走るより早く目的地につくはずの電車であろうと、

俺は自分の力ではこれ以上早く進む事が出来ないことに馬鹿な憤りを感じてしまう。

 今自分ができることなんてなにもないって突き付けられるようで、俺は自分の無力さを

感じずにはいられなかった。






 駅の改札口を今回も駅員に止められることなく通過し、

息を乱しながら俺は約束の場所へと駆け進む。

 普段運動しない事がこんなところで露呈するなんて。

これだったら気分転換と体力向上のために麻理さんとスポーツジムにでも通うか。

 なんて、酸欠状態の俺は今考える必要がない事ばかり考えてしまう。

 つまり、俺の本能が考える事を拒絶しているようだ。

 俺の今一番考えるべき事。

 そして今一番知りたくない事実。

 それは、連絡も一切せずに3時間以上も待たせている麻理さんが、

今どんな気持ちで待っているかってことだ。


春希「麻理さんっ」


 俺に背をむけたたずむその姿は、後ろ姿であっても間違えることなんてありはしない。

毎日のように眺めてきたその後ろ姿を俺が見間違えることなんてないのだから。

 しかし俺の声は届いていないようで、振り返るどころか反応さえ見せてはくれなかった。


春希「麻理さんっ。遅れてすみません」


 もう一度走りつかれてわずかしか残っていない肺の空気を力の限り吐き出す。

 すると、今度こそ俺の声が届いてくれたようで、麻理さんの肩が揺れ、

そしてゆっくりと俺の方へと振りかえってくれた。


春希「はぁはぁ、あぁっ、はあ……」


 ようやくたどり着いた。

 俺の方へと振りかえってくれるその横顔で麻理さんである事を確認した俺は、

重くなった両足に最後の激を叩きこんで走りきる。

 たどり着いたのはよかったのだが、いかんせ運動不足であったことがたたり、

俺の限り少ない体力はここで底をついた。


春希「す、すみません。……はぁっ、はぁ。連絡入れなくて、……すみません。はぁ……。

  何があるかわかりませんから、……はぁ……運動しておかないといけませんね」


 大学にはいってますます運動しなくなった俺の体力は、軽音楽同好会たる運動とは無縁の

活動をしていたときよりも低下しており、なかなか息が整わない。

 それでも麻理さんに伝えたい言葉が溢れ出て、

息が続くわけもないのにしゃべろうとして失敗を繰り返した。


春希「はぁ、はぁぁ~……。もう少しだけ待ってください。もうちょっとで息が整いますから」


 ようやく息が整ってきた俺は、脳の方にもどうにか酸素を供給できるようになったわけで、

今さらながら事の異常さに気が付いてくる。

 麻理、さん?

 そう、異常だった。何が異常か。そんなの簡単だ。

 目の前にいるはずの麻理さんが、一言も言葉を発していない。


たしかに麻理さんは目の前にいる。頭を下げて息を整えていた為に顔は見えてはいないが、

麻理さんの靴なら確認できる。この革靴は麻理さんのものだ。

 今はいている革靴は今朝も玄関にあったのだから見間違えるはずもないし、この細く引き締

まった脚を包み込んでいる黒いストッキングもあわされば、俺が見間違えるはずはなかった。


春希「麻理さん?」


 俺は答え合わせをするべく、ゆっくりと顔をあげていく。

 その顔をあげるスピードがぎこちなく動いていくのは、おそらく俺が答えを知りたくは

なかったからかもしれない。だって、俺が知っている麻理さんなら、怒りはしないだろうが、

注意と走ってきた事をねぎらう言葉をくれたいるはずだ。

それなのに今俺の前にいる麻理さんであろう人物は、俺に一言も声をかけてはくれなかった。


春希「麻理……さ、ん。麻理さんっ、麻理さん」


 俺の声と顔を確認したはずの麻理さんは、俺がいる事を非常に遅い速度で認識していく。

 青ざめていた顔色はほんの少しだけ熱を取り戻す。けれど、宙をさまよっていたその瞳は、

生気を取り戻した瞬間にその役割を思いだしたようで、

機能停止していた分も合わせて涙を大量に流しだした。


春希「連絡を忘れていてすみませんでした。……麻理さん? 麻理さんっ」

麻理「ぁ……あ、ぁっ」

春希「遅れてすみません」

麻理「…………北原っ!」


 俺の心を突き抜けたその声は、脳が認識するよりも早く俺の体が麻理さんの体を認識する。

 体当たりにも近い勢いで俺を抱きしめてくるその力に、

俺はようやく麻理さんの元にたどり着いたと実感した。


春希「帰る直前に新たな仕事が入ってきたのはいいのですが、思っていたより時間がかかって

  しまい、麻理さんに連絡するのさえ忘れていました。ほんと、ごめんなさい」

麻理「北原」

春希「しかも、連絡をしていないことに気がついて電話しようにも携帯のバッテリーが切れて

  いました。社会人失格ですね」

麻理「北原」

春希「さらに酷い事に、公衆電話で電話しようにも、麻理さんのアドレスがわからなかった

  んです。あと、今になって気がついたのですが、麻理さんの名刺、俺、もらったことない

  ですよね。今度貰ってもいいですか? そうすれば携帯のバッテリーが切れていても

  連絡できるじゃないですか」

麻理「は……ぅき」

春希「でも、やっぱなにが起こるかわからないですから、あとで携帯充電したら麻理さんの

  アドレス暗記しますね。そうすればいつでも公衆電話で電話できるじゃないですか」

麻理「はるきぃ」


 さっきから麻理さんは俺の言葉を聞いても俺の名前しか返してはくれない。でも、俺の胸に

こすりつけてくるその頬から、俺の言葉を理解しているってことだけは汲み取れた。


 麻理さんが示してくれる反応は、俺の名前を呼ぶ声、胸にすがりついてくる事、そして、

すすり泣く声、だった。この三つの情報から麻理さんの状態を汲み取るなんて高等技術も

恋愛経験もない俺は、効果が見込めなくても喋り続ける事しかできなかった。


春希「ほんと社会人失格ですね。いつでも連絡をとれるようにしておかないといけないのに。

  いや、その前に連絡を忘れたほうがもっと酷いですね。……、麻理さん?」


 喋るに夢中になっていた俺は、いつの間にかに胸に頬をこすりつけているのをやめ、

顔をあげて俺の顔を見つめている事に気がつくのが遅れてしまう。

 俺を縛りつける弱々しい瞳は、俺の瞳を捉えて離さない。俺の方も吸い寄せられるように

目をそらす事が出来なかった。


春希「ま、り……あっ」


 それは一瞬だった。

避けることなどできなかったし、もしわかっていたとしても、避けていたかも疑わしかった。

 つまりは、俺は受け入れてしまったのだろう。

ついに、受け入れてしまった。受け入れたかった。

 否定などしたくなかった。肯定したかった。

 誰もが否定するであろう俺達を、肯定したかった。

 ……俺と、そして麻理さんが、必ず否定しなくてはならなくなる関係を

、一瞬だけでも肯定したかった。

 刹那的衝動と冷酷な理性が俺達を現世に押しとどめる。これは間違っている。

けれど、今は正しいと思いたい関係に、俺は麻理さんの小さな頭と細い腰を引き寄せて、

その唇にこたえた。


麻理「あっ、はる、き。……んぅ、だ、め」


 俺の目にうつる瞳に理性が戻り始める。見開いたその瞳は、自分が何をして、

俺に何を求めたかを瞬時に理解していく。

 きっと、今になって麻理さんのほうからキスをしてきたことに気がついたのだろう。

 でも、そのキスにこたえて抱きしめて、さらなるキスを求めたのは俺の方で、現に逃げよう

としている麻理さんを強く抱きしめて逃げられないようにしているのは俺の方だった。

 荒々しく麻理さんを求めてしまった為に麻理さんの髪止めがこぼれ落ち、艶やかな黒髪が

流れ落ちる。俺はその黒髪をすくうように指に絡ませ、さらに体を密着させていった。


麻理「ん、んん。……だ、……ま、だって。あっ」


 言葉はいらないというか、なにも浮かばなかった。熱にやられた俺には思考などありは

しない。ただ、本能だけが唇をむさばり、その優美な体を記憶していく。

 麻理さんも本能に観念してたのか、もう逃げようとはしなかった。

そして、俺の事を受け入れてくれた証として、俺の背中にまわされている腕に力が込められた。





第52話 終劇

第53に続く


第52話 あとがき


ええ、まあ、その……かずさ編スタートしてます。

ニューヨーク編ともいいますけど……。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


第53話



 気がつけばあたりはすっかり暗くなっており、麻理さん一人を外に待たせていた事に

今さらながら不安を覚える。そもそも俺が来た時には夜だったわけで、

改めて自分が時間を忘れていた事に気がつく。

 せめてもの救いだったのは、比較的治安がいい地域でする事と、人通りが絶えない場所で

あることくらいか。これが日本だったら治安なんて気にもしないが、

良くも悪くも自分がすっかりニューヨークになじんでいると感じられた。


 麻理「北原……」


 俺の腕の中でもぞもぞ動く頭がひょこりと顔をあげ俺を見つめてくる。

 麻理さんとどのくらいの間キスしたかわからない。胸の中に押し込んでいたお互いの感情を

全て吐き出してもなお収まらない衝動は、再度俺から時間の概念を消し去ってしまっていた。

 とはいうものの、麻理さんの腰にまわしている左腕をほんのちょこっとあげて腕時計を

確認すればだいたいの時間がわかるんだけど。……なんて、わざとらしく理屈ばかり考えて、

俺は感情を押しとどめようとやっきであった。

 そうしないと、麻理さんの気持ちを無視して再度キスしてしまいそうであった。


麻理「きたは…………春希?」

春希「あっ、ええと、はい。聞いていますよ。……その、なんでしょうか? じゃないですよね」

麻理「もう……、さっきまでのぐいぐい私を引っ張っていく力強い春希はどこにいったの

  かしら? そんなにうろたえられちゃうと、

  年下の男に無理やり迫っている結婚に焦った年増女の気分になっちゃうじゃない」

春希「…………」

麻理「ごめんなさい。調子に乗りすぎたわ」


 麻理さんは俺の沈黙をネガティブに解釈してしまう。麻理さんの性格から考えても、

自分を責めるに決まっているはずのなのに、俺は言葉を選んでしまった。

 麻理さんを傷つけない為に言葉を選んでいたのに、その沈黙が逆効果を生んでしまう。

 わずかな間だけれど、その数秒間が麻理さんは拒絶と考えてしまう。

 勢いでキスしたなんて言いたくはない。もちろんその場の雰囲気にのまれて、勢いでしていた

部分もあることは事実だ。でも、そんなありふれた言葉を俺達を評価したくはなかった。

 麻理さんの気持ちを、これからの二人の関係を大切にしたかった。


春希「違いますっ。違いますから。麻理さんの事をそんなふうに思ったことなんて一度も

  ありませんから。いつも年の事を気にしていますけど、

  むしろ俺の方がプレッシャーに思っているほどなんですよ」

麻理「どうしてよ? 気休めならやめて欲しいわ。だって……」


 若くて、健気で、夢に向かって頑張っていて、

ちょっと棘があるけど一途なあいつと比べてしまうからですか?


春希「麻理さんは自分の魅力を知るべきです」

麻理「え?」



春希「仕事をしているときの麻理さんを尊敬している人は多いと思います。俺もその一人

  ですし。でも、麻理さんの容姿も、そして内面さえも魅力に思っている人はいるんですよ。

  そもそも仕事の時の頼もしさはプライベートにも通ずるところもありますよ。仕事では

  かっこいい麻理さんんが、凛々しい顔をしている麻理さんが、家ではちょっとずれている

  ところがあったり、仕事中に見せる頑張りで家事をチャレンジしたり、……あとは、

  綺麗すぎるんですよ。わかっていますか。外で仕事のとき、麻理さんを食事に誘おうと

  している男連中がたくさんいるの知っていますか?」

麻理「春希? ……でも、私、誘われたことないけど?」

春希「そりゃそうですよ。麻理さんは仕事しか見ていませんからね。食事に誘う隙さえありませんよ」

麻理「だったら可愛げのない女だと思われるんじゃ?」

春希「そう思ってしまう人もいるでしょうけど、実際は違うじゃないですか」


 なんで腹が立っているんだよ俺? なに力説しているんだ?

 あっ……。

 麻理さんは恥ずかしそうに視線を視線をちょっとだけそらすと、

照れくさそうに恥じる顔を隠すべく再び俺の胸に埋めてくる。


麻理「うん、わかったわ」

春希「……はい」

麻理「これからも食事に誘われないように仕事頑張るわ」

春希「えっと……はい、よろしくお願いします。それとさっき、すぐに言葉がでなかったことでうけど」

麻理「うん……」

春希「麻理さんを拒絶なんてしませんし、むしろ俺の方が調子に乗っていた気もしますし。

  えっと、すみません。言葉を慎重に選んでいたら何も言えなくなりました。

  けど、これだけははっきりしています。後悔していません。いや、違うな。

  麻理さんとキスしたかったんです」

麻理「それって……。浮気したかったってこと?」

春希「あっ……」


 麻理さんの指摘は間違ってはいない。

俺がかずさを必ず選ぶ以上、麻理さんとの関係は必然的に浮気となってしまう。


麻理「いいのよ。ほんの少しの間だけでも愛してくれればいいの。私が春希の側にいなくても

  生きていけるまでの、ほんのちょっとの間だけ。それだけでいいから。……ね?」


顎をあげ、肩にかかる黒髪が揺れ動く。ゆらゆらと揺れ動いていたその瞳は、俺の瞳を覗きこむ

頃には迷いが消えていた。物悲しそうにほほ笑む唇は、けっして本心を語ろうとはしなかった。

だって、俺の腰にまわされている両手は、震えながらも必死に俺にしがみついているのだから。
 

春希「麻理さん聞いてください」


 俺は腰にまわされていた麻理さんの両手を胸の前に持ってくると、両手で包み込むように

暖める。俺の強引な行為に最初こそ戸惑いを見せていたが、俺の体温を感じ取ると、手の震えが

消えていく。それと同時に、俺の方も言葉にできなかった言葉を告げる決意を抱いた。




春希「これから調子がいい事を言うと思います。きっと呆れられると思いますし、

  かずさにも、麻理さんにも不誠実だと思います」

麻理「冬馬さんにも?」

春希「俺はかずさが好きです。できることなら結婚して、かずさのサポートもしていきたい」

麻理「そうね……」


 下を向かないでください。俺の身勝手な希望だけど……、それでも。


春希「でも、麻理さんにも幸せになってもらいたい。都合がいい事をいいますけど、できる事

  なら俺が幸せにしてあげたい。なんて、バイトでちょっと仕事を覚えた新人が何を

  言ってるんだって言われそうですけど、それでも麻理さんの幸せを考えたいんです」

麻理「身勝手な人ね」


 否定の言葉のはずなのに、俺は喜びを感じてしまう。

 だって、麻理さんが上を向いてくれている。

 だって、俺を見つめてくれている。


春希「はい、身勝手です」

麻理「でも、少し考えさせて……」


 幻でも見ていたのだろうか。

俺を見つめていてくれた瞳はふせられ、今はその顔さえも髪留めを失った黒髪によって覆われていた。

だけど、手から伝わってくる麻理さんの体温だけが幻ではなかったと、語りかけてくれていた。







麻理「春希…………、ごめんなさい。私の看病なんてしなくていいから編集部に行きなさい」

春希「何を言ってるんですか。編集部のみんなも麻理さんが頑張りすぎだってわかっているん

  ですよ。俺も最初麻理さんから仕事の量を減らしてしっかり休んでいるって聞いたときは

  驚きましたよ。体調の事もありますから、周りに迷惑をかけないように仕事をセーブして

  いるんだって思いました。でも、実際には違いましたよね。俺がニューヨークで

  働くようになったらばれるって気がつかなかったんですか」

麻理「でも、ちゃんと土日は休んでいるじゃない。……土曜日は自宅で仕事をしているけど」

春希「しかも、編集部での仕事は日本以上に濃密になっていますよね?」

麻理「それは、仕事のスキルが上がったと思ってくれれば、いいかなぁ……」

春希「だったら目をそらさないで言って下さい」

麻理「ごめんなさい」

春希「ったく……」

麻理「うぅ……」


 俺と麻理さんのある意味微笑ましいやり取りが行われいているのは、本来なら編集部で

がつがつと仕事にとりかかっているべき昼下がり。一部の編集部員は昼食後の眠気がピークに

なるこの時間。俺達は編集部という戦場を離れ、自宅マンションの、

しかも麻理さんの寝室で微笑ましすぎるやり取りを、何度となく繰り返していた。


春希「俺は編集部員全員の委託を受けて麻理さんの看病をしているんです」


麻理「それはわかっているのよ。ありがたいことだわ。

  でも、私だけでなく春希までも急に抜けたら、仕事に支障が出るじゃない」

春希「それも大丈夫ですよ。短い期間だけですけど、麻理さんが鍛えてきた編集部員ですよ。

  信頼してあげて下さい」

麻理「そうよね。そっか……」

春希「今はしっかりと体調を回復させる事が一番大事です」

麻理「うぅ……わかったわ。春希がいじめるぅ。見た目どおりねちっこくて意地悪だよね、春希って」

春希「麻理さんの為ですから。そして俺を安心させると思って我慢してください」

麻理「やっぱり卑怯よ。もう……」


 もう降参とばかりに熱っぽい顔を布団で隠す。

 まあ、俺のせいで熱が上がったんだろうけど。

 今日麻理さんの体調が悪いのは、昨日の事が原因だということは明白だった。

 キスそのものが問題ではない。その過程が大問題だった。

 小さな一歩を積み重ねてきた俺と麻理さんではあったが、その積み重ねが俺のミスで全て

消え去ってしまった。麻理さんがひた隠しにしてきた渇望を俺が暴いてしまった。

 わかってはいた。俺も武也がいうほど鈍感でもないし、麻理さんと一緒に暮らしてきたんだ。

だからこそ麻理さんの想いを痛いほど理解できてしまう。

 今朝いつもよりも早く起きて活動していた麻理さんは、きっと寝てはいなかったのだろう。

昨日のお詫びだといって作ってくれた朝食も、麻理さんは一口も手をつけることができないでいた。

最初の一口こそ頑張ろうとはしていたが、心が食事を拒絶してしまう。二回目のチャレンジ

では、スプーンを持ちあげる事さえできないでいた。そんな状態の麻理さんを前に、

俺は今さらながら無力感のみならず、自分の存在そのものを呪ってしまった。

 俺がいなければ。俺がいなければ麻理さんはこうはならなかった。でも俺は、

麻理さんから離れることができない。麻理さんも俺を求めてくれている。

 でも、俺も麻理さんも、矛盾する願いを永遠に求め彷徨うことしかできないでいた。

 ……これは麻理さんには言えない事だが、朝食の出来は最悪であった。

味がわからなくってしまった麻理さんは、何度ともなく味付けを調整し、

その結果塩分過多と表現するにはおぞましいほどの味の濃さになってしまった。

 もちろん味覚が薄い事の対策として、調味料の量はきっちりと決められていた。

しかし、そのレシピさえも忘れてしまうほど、麻理さんは正常ではなかった。

 俺のポーカーフェイスがどこまで通じるかなんてわからない。一口食べる前から予想して

いたからこそ隠しとおせたのか、それとも麻理さんが黙っていただけなのか。

 結局今現在まで真実を聞く事が出来ないでいた。

でも、今となっては、昨日からの失敗を含め、俺の目の前に一瞬で積み上がってしまった後悔

が俺に重くのしかかっている。もうどれがどの行為からの失敗かだなんてわからない。

 本来なら今後の為にも検証して修正すべきなのに、今俺にできることといえば、

麻理さんの側にいる。ただそれしかできないでいた。










 麻理さんが編集部を休んだ翌日。

 いくら麻理さんの体調が戻らないからといって俺が看病する事は許されなかった。

俺がインターン扱いであっても編集部の貴重な戦力として認められたのは嬉しい。

 しかし今は麻理さんの事が心配で、俺としては今日も看病のために編集部を休みたかった。


麻理「駄目よ。甘えないの。これが社会人なのよ。親しい人が病気であっても簡単には休めない

  のよ。あなたは大学生であっても、今は開桜社の編集部員なの。だから編集部に

  行きなさい。……大丈夫よ。そんな目で見ないでよ。引き止めちゃうじゃない」

春希「すみません」

麻理「もお……、というか、私も甘いわよね。北原の顔を見ていたら、

  私の決意なんて吹き飛びそうになってしまうのだもの」

春希「だったら甘えてください。我儘を言って下さい。我儘を通した分、明日から挽回しますから」

麻理「駄目よ。仕事は待ってはくれないわ。一度失った信頼は取り戻せない事もあるのよ?」

春希「すみません。……編集部に行きます」

麻理「よろしい」


 そんな笑顔を見せないでくださいよ。俺が必要じゃないって思えてしまいます……。


春希「……でも、出来る限り早く帰ってきますから。もちろん仕事はしっかりしてきます。

  自分の仕事は手を抜きませんから、それならいいですよね」

麻理「はぁ……。仕方がないわね。自分の仕事だけでなく、編集部の一員としての仕事を

  しっかりとしてくるのであれば早く帰って来てもいいわ」


 嬉しそうに言わないでくださいよ。

 時間ぎりぎりまで麻理さんと一緒に痛いという気持ちとの板挟みになってしまいますけど、

今すぐにでも編集部に行って仕事をしたくなるじゃないですか。


春希「はい、出来る限り早く帰ってきます」

麻理「もう……、本当にわかっているの?」

春希「たぶん?」

麻理「いいわ、頑張って来てなさい」

春希「はい」






 夜。いつもの俺としては早すぎる帰宅時間。一方で、俺の予定としては遅すぎる帰宅時間。

 呼び鈴を鳴らし、玄関の扉を開けると、そこには麻理さんが出迎えてくれていた。

たしかにマンションの入り口で呼び鈴を鳴らしてから部屋までかかる時間はそれなりには

あるけれど、何時間もそこで待っているような態度はいきすぎていません?


春希「……ただいま帰りました」

麻理「遅い」


 俺に文句を言いつつも鞄を受け取る姿にときめくのは、やはり男の本能なのだろう。

 また、鞄を胸に抱いてぱたぱたとリビングに戻っていく後ろ姿を見ては、

もう一つの本能を抑えるのにやっとだった。


 まあ、後ろから抱きしめても怒りはしないだろうけど。


春希「すみません。でも、エレベーターに時間がかかったわけでもありませんし、

  下からこの部屋までにかかる時間はこのくらいではないですかね」

麻理「早く帰ってくるって言ってたじゃない」

春希「え?」

麻理「だから北原は、仕事をしっかりやって、そしてなおかつ早く帰宅するって宣言してたじゃない」

春希「あっ……。でも、いつもよりだいぶ早いですよね?」


 いつもみたいに深夜ってわけでもなく、今は午後7時くらいのはずだし。

 俺が早く帰宅するのを見て、編集部の先輩方は驚きを見せたほどだ。でも、麻理さんの体調が

すぐれない事を思い出すと、残っていた仕事を引き受けて……はくれなかった。

一応俺に押し付けようとしていた仕事だけはひっこめてくれたけど。

 ……ほんと、ありがたい先輩方だよ。日本でもニューヨークでも編集部の雰囲気って

変わらないものなんだよな。
 

麻理「そうかしら? 朝の北原の言いようでは定時に帰ってくる勢いだったじゃない。

  私が何も言わなければ早退する勢いだったわよ」

春希「たしかに……。でも、麻理さんは仕事は手を抜くなって」

麻理「……ごめんなさい。私の我儘だったわ。本当にごめんさない」


 もうっ。そんなに悲しそうな顔をしないでくださいよ。そんな表情をするものだから、

さっき我慢した本能が再び顔をあげちゃったじゃないですか。

本能に負けた俺は麻理さんの懺悔を覆い尽くそうと、小さく震える体を抱きしめようとする。

 しかし……。


麻理「鞄はここにおいておくわね。ジャケット、脱いだ方がいいんじゃない? かけておくわ」


 いかにも自然に、いかにもわざとらしく、俺を避ける。


春希「はい。ありがとうございます」

麻理「いいのよ」

春希「……あの、麻理さん」

麻理「ん?」


 振り返らずにジャケットをかける姿にかまわず俺は言葉を続ける。


春希「これを……」

麻理「ちょっと待ってね。これかけちゃうから」


 おかしすぎる。だって、俺を見てくれない。


麻理「それで、なに?」

春希「これを……。一昨日落としてなくしてしまったから」

麻理「髪留め?」

春希「はい。似合うといいのですが」

麻理「春希が選んでくれたの?」



春希「はい。何がいいのかわからなくて、時間がかかってしまいましたけど」

麻理「ばか。…………じゃない」

春希「え?」

麻理「春希が選んで選んでくれたのだったら、なんだって嬉しいって言ったのよ。それに、

  私の趣味のを選んでくれているわよね。よく観察しているわ」

春希「一緒に暮らしていますからね」

麻理「なるほど。一緒に暮していればいやでも趣味もわかるってところかしらね」

春希「嫌じゃないですよ。好きでやっている事ですから」

麻理「……そっかぁ」

春希「でも、気にいってくれてなによりです」


 食事を準備するときも、食事をしているときでさえ窓に映る髪留めを確認する麻理さんに、

俺も麻理さんも笑みを絶やさなかった。

 この笑顔がいつまでも続けばいいと願ったのは、俺だけではなかったはずだ。







10月上旬



 10月に入り秋風が頬を撫でる頃になると、9月の失敗もどうにか落ち着きを見せるように

なっていた。

 長年日本での残暑を経験してきた俺にとって初めてのニューヨークでの秋。季節の変わり目を

実感できたのは、ようやく安定した日常を取り戻し、気持ちの余裕を持ち始めた頃であった。

 先日の休暇は二人して秋服を買いに出かけ、遅ればせながら街の装いがすっかり秋であること

を実感する。

 雑誌の編集部ともなれば季節に敏感と思われがちだが、これは間違いである。

おおよそ日常生活には季節感が乏しいエアコンの中での生活を余儀なくされ、

……いや、これはどの職種でも同じか。

 季節感というよりは今が昼か夜かの境がないってことのほうが問題化。

ある意味ブラックすぎる職場環境に慣れてしまったことで、定時で終わる仕事に物足りなく

なってしまうとさえ不安になってしまう。

 これはもやは麻理さんを笑えない。自分も立派なワーカーホリックの一員だ。……まあ、

日本にいる元同僚たちは日本にいる頃からすでに残酷なワーカーホリックだと笑うだろうが。

 なんて、日本の事を思い出す余裕が出きた事はいい傾向ともいえる。

 そう自分でも分析できるほど、穏やかな日々を過ごしていた。


麻理「北原」

春希「はい、もう少し待ってください。あと、10分。いえ5分で仕上げますから」


 俺の日常が穏やかに進もうとも、編集部は相変わらず忙しく、それが心地よかった。今日も

麻理さんにわりふられた仕事に充実感を覚え、自分がまだ大学生である事さえ忘れてしまう。


麻理「それは後回しいでいい。いや、あとは私がチェックしておくから、そのまま渡して」

春希「ええ、麻理さんがそういうなら……」


 この原稿って急ぎだっけ? いや、そもそも急ぎだったら優先度をあげてあったはずだし、

それともなにかあるのだろうか?

 俺は麻理さんの指示に疑問を抱かずにはいられなかった。

でも、次の指示があれば理由がわかるってものかな。


麻理「これだったらすぐに終わるわ。よくできている」

春希「ありがとうございます。では、このまま次のやつにとりかかればいいのですか?」

麻理「いや、このあと取材の打ち合わせがあるから、北原も同席してほしい」

春希「俺がですか?」


別に珍しい指示ではない。俺も取材に同行する事もあるし、今回みたいに打ち合わせに同席する

事もある。むしろ、取材に同行するよりも、編集部での打ち合わせでの同席の方が多い方だ。

 しかし、今回みたいに打ち合わせ直前に、

しかも今やっている仕事を打ち切ってまで同席する事は初めてだった。


麻理「ええ、考えたのだけれど、やはり北原も同席したほうがいいと思って」

春希「それはかまいませんが」

麻理「よろしく頼むわね」

春希「はい」


 予兆はあった。

 一カ月も前から予兆はあった。

しかも俺の目の前で、俺がこの上なく無力感を感じた日に、麻理さんは俺に伝えようとしていた。

この取材の打ち合わせがどういう意味なのか。一カ月前、なぜ麻理さんが不安に思っていたのか。

 この時の俺は、そして一カ月前の俺も、わかっていなかった。





第53話 終劇

第54に続く







第53話 あとがき



プロット自体は遠い昔に書いてあったわけで、

いま読み返すと変更する部分もけっこう多くなるんですよね。

プロットそのものをよく観察すると、

あっ、こいつ。終盤で力尽きているなと、笑えない現実があるわけで。

とにかく再度気合を入れ直してゴールに向かって行く所存です。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第54話




 打ち合わせのために会議室に行くと、中から懐かしい言語が聞こえてくる。

 どうやら先に取材相手が待っているらしい。しかも、日本人が。


麻理「お待たせしてすみませんでした」

曜子「いいんですよ。こちらが早く来すぎたせいですから」

麻理「そうですか?」

曜子「この子ったらあいかわらずの取材嫌いで、

   時間に余裕を持って行動しないといつも遅刻するんですよ」

麻理「いえ、時間に余裕を持つ事は悪い事ではないですよ。冬馬さん」


 麻理さんが冬馬さんと言った人物は、冬馬曜子。つまりかずさの母親だった。

 曜子さんも俺が会議室に入った瞬間こそ目を細めはしたが、そこは冬馬曜子であり、

自分の仕事を優先させる。そして麻理さんも、開桜社の人間としての仕事を遂行していた。

会議室にいる四人のうち、今起こっている事態に対応できないでいるのは残りの二人であった。

俺と、そして冬馬曜子の娘にして取材対象の冬馬かずさであり、

なおかつ俺にとってなによりも大切な人。


かずさ「母さんっ! これはどういうことだっ。説明してくれ。あたしを驚かせたかったのか?

    それともコンクールで無様な結果を晒せたかったのか?」


 かずさは叫ぶ。

 それこそ曜子さんに掴みかかる勢いで。……実際には曜子さんに掴みかかったわけだが、

俺の視線を感じ取ってか、すぐに手を離していた。

 かずさは俺と同じように何も聞かされていなかったのだろう。

また、曜子さんも知らなかったようだ。

 知っていたのは、おそらく麻理さんただ一人のみ。

曜子さんが知っていたのならば、俺を見た瞬間にほんのわずかすら驚きをみせるはずがなかった。


曜子「少し落ち着きなさい、かずさ。私も春希君がいるなんて、今まで知らなかったわ。

   あなたと同じように、この部屋に春希君が来て知ったばかりだもの」

かずさ「ほんとうに?」

曜子「ほんとうよ。今あなたが言ったじゃない。何も準備もなしにコンクール前のあなたに

   春希君を会わせてなんのメリットがあるのよ。むしろあなたが言うように、

   コンクールに悪い影響を与えるわ。だってねぇ、今のあなたの状態だと、

   春希くんへの想いに演奏がひっぱられてしまうでしょうし」

かずさ「当然だ。あたしがどんだけ春希に会いたい気持ちを我慢してきたと思ってるんだ」

曜子「そうよねぇ。これがコンサートだったら、今の感情をだだ漏れにした演奏であっても

   あなたの感情にひっぱられて号泣する観客も出てくるでしょうけどね。でも、

   困ったことに今目の前にせまっているのはコンクールなのよね。そんな演奏したら、

   確実に審査員受けは悪いでしょうし。……というわけで、風岡さん。

   どういうことか説明していただけないでしょうか?」

麻理「冬馬さん。娘さんのコンクールがあるからこそ今回私に取材がまわってきました」


曜子「ええ、そうね。日本の方からニューヨークにいる優秀な編集部員を紹介するって

   いわれたわ。でも、春希君がいるとは知らされてなかったわ。……あっ、そうそう。

   私は曜子でいいわ。こっちのうるさいのはかずさで。ほら、苗字一緒だと紛らわしいし。

   それと……、春希君はただの部下って感じではないのでしょう?」


曜子さんはフレンドリーに接しているようでそうでもない。笑顔の下に隠された素顔には、

目いっぱいの警戒心が潜んでいた。

しかも今やその警戒心さえ隠そうとしていないような気もしてしまう。 

これが本当にただの上司と部下だったならば、ちょっとしたサプライズで終わったのかもしれない。

かずさが懸念する隠しきれない俺への想いが演奏に与える影響さえも、コンクールまでに

調整させてしまうだろう。それこそ俺はできるかぎりの協力を願い出ていたと思う。

 しかし、俺が部屋に入ってすぐの、俺がかずさを見た時の態度が最悪だった。

 俺がかずさに示した感情は、後ろめたさ、だった。いくらサプライズであろうとも、

感動の再会ならば、喜びであるべきだ。

 それなのに俺ときたら、なにかかずさに隠していますってばればれの顔をしてしまった。

 だからこその曜子さんの警戒であり、かずさが素直に喜べないで戸惑っている理由のはずだ。


麻理「はい、全てをお話しします。かずささん。そして曜子さん。今日ここにお二人が

   来ることは、北原は知りませんでした。一カ月前に日本から取材の要請がありましたが、

   一カ月使っても私は北原に告げる事ができませんでした」

曜子「そう……。ちょっといいかしら?」

麻理「はい」

曜子「ううん、風岡さんにではなく、春希君に」

麻理「……北原」

春希「はい、なんでしょうか? すみません、俺も事態が飲み込めていなくて、

   うまく説明できるかわからないです」

曜子「大丈夫よ。私もわかっていないから。でも、今から私が春希君に聞く事は、

   今の事態を理解していなくても大丈夫な事よ」

春希「それでしたら」


 曜子さんが隠しもしないプレッシャーに体がこわばる。それは隣にいる麻理さんも、

そして曜子さんが体を張って守るはずのかずさ本人にさえ、曜子さんの熱にやられていた。


曜子「ねえ、春希君」

春希「はい」

曜子「浮気した?」

春希「はい」

曜子「……そう。目をそらさないのね」

春希「事実ですから」

曜子「でも、隣の彼女は浮気だとは思っていないようね。

   ……そうねぇ、事故ってところかしら?」


 俺とかずさは、曜子さんの指摘を聞くと、すぐさま麻理さんに視線をむける。

かずさは俺の浮気肯定発言に対して何も反応しなかった。



反応できなかったともいれるかもしれないことが、それがかえって俺を不安にさせるが、

それよりもまずは、曜子さんの発言の意図に俺もかずさも意識を奪い取られた。


春希「麻理さん?」

麻理「曜子さんのおっしゃる通りです。浮気……、キスしたのは私からであり、

   キスしたのもその一回だけです。そのキスさえも私が抑えてきた北原への想いが

   かずさんがニューヨークに来るとわかり、私の心が不安定になってしまたっからに

   すぎません。かずささん、曜子さん、本当に申し訳ありませんでした。そして、

   どうしてこのような事態になったかをこれから説明させてください。もちろんコンクール

   前だという事は重々承知しております。しかし何も知らせずにコンクールを終え、その後

   事実を告げられるよりも、今の方がいいと、勝手ながら判断させてもらいました。

   今回のコンクールよりも、来年のジェバンニが本番でしょうから」

曜子「そうね。事前準備としては最悪だけど、タイミングとしては悪くはないわ。

   では、話してもらおうかしら。風岡さんも何度も頭を下げなくていいわ」

麻理「はい。……北原?」

春希「…………すみません」


 俺は麻理さんの呼びかけのおかげでようやく金縛りがとけたが、みっともないうろたえ

まくった姿は相変わらずだった。

本当は、麻理さんに事故だなんて言ってほしくはなかった。かずさのことだけを思えば、

事故だと押し通すべきだ。けれど、俺が救いたいのは麻理さんであって、かずさではない。

 欺瞞だと嘲笑われるだろうけど、俺はかずさとは、かずさの隣に立って、

共に歩いていきたいと願っている。

 わかってはいる。両立などできないし、自己満足にしかならないと。

 俺の身勝手な決断に、今目の前で、俺が大切にしたい二人が傷ついている。

しかも麻理さんに至っては、自分で傷つこうとさえしていた。


曜子「じゃあ、話してもらいましょうか」

麻理「はい、少し長くなるかもしれせんが」

曜子「かまわないわ」


 麻理さんは俺達の物語を語りだす。

 それは思いのほか日本で初めて麻理さんと出会った時まで遡った。

 麻理さんの俺への第一印象としてはとくになく、どうせすぐにやめてしまうだろうと

思っていたこと。しかし、予想を超える逸材で、いつしか自分を超える編集者に育てたいと夢を

抱いていたこと。そして、曜子さんのコンサートでかずさに会えなかった夜の事。

傷ついていた俺を、初めて男として愛おしく思った事。

 俺の好きな相手はかずさだけであっても、俺の事を忘れることができなくなり、

ヴァレンタインコンサートで告白した事さえ全て打ち明けていった。

それは曜子さんとかずさに説明するというよりは、俺に聞いてもらいたかったのではないかと

さえ思えてしまう。だって、俺に愛を語りかけてきているって思えてしまう。

 その声が、その悲しみが、その流せない涙が、俺に突き刺さる。

 そしていつしか話題は麻理さんの心因性味覚障害についてにうつり、

今現在リハビリの為俺と同居している事に至る。

麻理さんは、同居はリハビリ期間限定であり、一人で生きていける準備が整い次第同居は

解消すると、何度も念を押す。しかも、同居といっても共同生活という具合であり、

事実そうなのだが、まったく同棲とは違うものであると力説する。

 最後は、キスの話題だった。あの日あった出来事を、俺以上に詳しく説明していく。

誰がどのような仕事をしていて、どのようなトラブルがあったのか。

俺でさえ知らない編集部でのスケジュールをわかりやすくプリントにまとめてさえあった。


 おそらくこれは麻理さんが、今回の説明の為に準備しておいたのだろう。

しかも俺に気がつかれないように慎重に。


曜子「風岡さんの事情はよくわかったわ。もちろん春希君の人柄も理解しているから、

   彼はきっとあなたとのキスは事故ではないと押し通すでしょうね。

   それは風岡さんもそう思っているのではなくて?」

麻理「はい。北原ならそうするはずです」

曜子「だったらそれは事故だとはいえないのではないかしら?」

麻理「…………それは」

かずさ「ねえ、春希?」

春希「……あっ」


 俺と目を合わせようとして何度も失敗していたかずさが、今ようやく俺の視線を捉える。

 まっすぐと俺だけを見つめるその瞳に、俺は逃げ出したかった。けれど一度その意思が

こもった黒い瞳に見つめれれると、俺は懐かしさと愛おしさに悩まされる。

 何度も逃げようと揺れ動く俺の瞳に、かずさは黙って俺が落ち着くのを待ってくれた。

かずさの方こそこの場から立ち去りたいほどだろうに、俺の事を「まだ」見つめてくれていた。


かずさ「ねえ、春希。あたしのこと嫌いになった? ううん、興味がなくなったというのか、

   な? らしくないな……。あたしより、風岡、さん、の方を愛してる?」

春希「俺は、俺は……、かずさを愛してる。誰よりも、何よりも」

かずさ「そう……。じゃあ、風岡さんは?」

春希「かずさに対する愛情とは違う、と、思う。でも、幸せになってもらいたいと思っている」

かずさ「どう、ちがう、か……説明してよ」

春希「麻理さんは俺を救ってくれた。もちろん仕事に関しても尊敬している。けど、俺のせいで

   味覚障害になって、麻理さんの大切な仕事の邪魔をしてしまった。俺のせいで、

   俺のせいで麻理さんから仕事を奪ったままなんて、できやしない」

かずさ「うん、それはさっき風岡さんが説明してくれたからわかるよ。春希なら責任感じ

   ちゃって、治るまで面倒みるはずだと思う。……でもね、あたしがどんな気持ちで

   ウィーンにいたと思うんだよ。そりゃあさあ、あたしの我儘で春希をほったらかしの

   ままウィーン行っちゃったよ。しかも母さんのコンサートの時、あたし逃げたしさ。

   春希が楽屋まで来たの、知ってたんだ。

   楽屋の隅で隠れて春希が母さんと話しているところを覗いてたんだ」

春希「いた、のか?」

かずさ「ああ、いた。でも怖くて、春希の気持ちがあたしから離れているんじゃないかと

   思って会えなかった」

春希「なにも思ってない奴の為にわざわざコンサートになんて行くかよ。

   楽屋までいかないだろ」

かずさ「でも、春希が仕事で貰ったチケットだったんだろ? いくら母さんが準備したチケット

   であっても、仕事の為に来たと思って何が悪い。3年だぞ3年。まったく音沙汰も

   なくいたのに、どうして春希があたしの事を好きなままだと思うんだよ。

   いくらあたしの事を愛したままであっても不安になっちゃうよ。

   ……怖いよ。怖いよ、はるきぃ……」

春希「かず、さ」

かずさ「ねえ、どうやって会えに行けばよかった? あたしを隠していた花束とか棚を倒して

    出ていけばよかったのかなぁ。そうすれば春希も傷つかなくて、風岡さんになぐさめて

   もらわないで済んだのかなぁ。ねえ、春希。教えてよ。あたし、どうすれば

   よかったのかなぁ? わからないよ。わからないよ。……春希の気持ち。

   まったくわからないよ」


 かずさの気持ちが押し寄せる。積み重なった3年分の気持ちが一気に解放され、

俺を覆い尽くしていく。

 俺の気持ちなどどうでもよかった。後悔などあとですればいいとさえ思ってしまった。

 だって、かずさが目の前にいるから。

 だって、かずさの声が耳に響くから。

 その声が、その表情が、悲しみに打ちひしがれていたとしても、

俺はかずさに出会えたことに倒錯した喜びを感じてしまう。

 目の前で曜子さんが呆れていようと、隣で麻理さんが不安で押しつぶされていようと、

俺はかずさだけを選んでしまう。

 この瞬間の俺は、きっと全てを投げ捨ててもかずさを選んでしまうだろう。

 かずさを目の前にしてしまったら、目の前で麻理さんが倒れていても、

かずさに手をさしのばしてしまうだろう。

 その真っ直ぐすぎる愛情に溺れてしまっていた。

 かずさだけをみて、かずさだけを幸せにして、かずさだけを愛してしまうことに、

気がついてしまった。


春希「俺は……」

曜子「はい、ストォ~ップ。はい、はい、かずさも自分の失敗の責任を春希君に押し付けない」


 俺の言葉にしてはいけない愛情を曜子さんが遮る。きっと曜子さんの事だから、

俺の言おうとしていた言葉を感じ取ってしまったのだろう。

 それは母親としてではないのかもしれない。

たぶんピアニストとしての冬馬曜子が止めに入ったのだろう。

 だって、俺だけを見つめている冬馬かずさに、

ピアニストとしての価値が本当にあるのだろうか?、と悩んでしまう。

曜子さんも恋人を作るなとは言ってはいない。そもそも曜子さんは俺とかずさの仲を認めている。

 でも、偏った愛情はピアニストとしては致命傷なのだろう。 

 なにせ演奏する曲調は一つではないのだから。

いつも偏った愛情がこもった演奏をしていては、かずさの成長はそこで止まってしまう。

 それを曜子さんはよしとはしない。そして俺もそれを望んではいない。

 だからこそ曜子さんは、俺の暴走を止めてくれたのだろう。

 そしてこの瞬間俺は我儘な俺に戻る。


 かずさを愛して、そして、麻理さんを幸せにしたいと願う、傲慢な俺に戻ってしまった。

 きっと俺はかずさ一人を選んだとしても、永遠に麻理さんの事を考え続けてしまうだろう。

俺が傷つけた、俺を愛してくれた、大切な麻理さんを、

俺は忘れることなんてできやしないのだから。

 だからこそ俺は、一瞬でも麻理さんを見捨ててしまった事に恐怖を覚える。

 自分の身勝手さが自分の限界を見せつけてくる事で、

俺は本当に麻理さんを幸せにできるのか、と恐怖を覚えてしまった。


かずさ「そんなことしてないだろっ。あたしは、あたしは……」

曜子「もぉ……、泣かないの」

かずさ「泣いてないっ。……ほんとに泣いてないからなっ、春希っ」

春希「あっ、うん……」


 かずさは肩をさする曜子さんの手を振り払うと、

涙を流してしないはずなのに目をこすって涙をふく。

 真っ赤に充血しているかずさの目は、俺をまだ捉えて離さないでいてくれた。


かずさ「ごめん、春希」

春希「いや、俺の方が悪いから。ごめん、かずさ」

かずさ「うん……」

曜子「さぁって、この色ぼけ馬鹿娘はいいとして……」

かずさ「だれが色ぼけ馬鹿娘だっ」

曜子「あなたのことよ?」

かずさ「誰がだよ」

曜子「だから、冬馬かずささんよ」

かずさ「……ふんっ、言ってろ」

曜子「はい、はい。いい子ねぇ」

かずさ「馬鹿にしやがって……もういいよ。話を進めてくれ。…………それと、

   頭の撫でるのはやめてくれ」

曜子「もうっ、恥ずかしがっちゃって。かわいいんだから」


 ほんと、曜子さんにはかわなない。この場の雰囲気だけじゃなくて、

情けなすぎる男さえも救おうとしてくれている。

 ほんとうならひっぱ叩いて取材拒否になってもおかしくないところを、

この人はもっと先の事を見つめて行動している気がする。

 一カ月後のコンクールだけではなく、1年後のコンクウールでさえない。

 もっとさきの、何年も先のかずさを思って行動しようとしている気がした。


曜子「さてと春希君。そして風岡さん」

春希「はい」

 麻理さんは返事の代りに顎を引くと、まっすぐと曜子さんの方に意識をむけた。


曜子「私があなた達の関係をどうこうすることはないわ。ましてや怒る事もない。

   ただ、かずさのことを思うと、……娘の母親としてはやるせないわ」

春希「はい」


曜子「でも、この子は自分が日本で春希君から逃げてしまったからだと自分を責めている

   ように、私もこの子をかくまったことを後悔しているわ。せっかく春希君が会いに

   来てくれたのに会いもしないで、しかも、その後ストーカーみたいにして春希君に

   会いに行ったのにね。そんな回りくどい事をするんなら、

   会いに来てくれたときに会っておけばいいのにって思っちゃったわよ」

春希「え?」

かずさ「母さんっ」

曜子「だって本当の事じゃない。春希君に電話できないって言って、会う約束もしていない

   のに会いに行ったじゃない。電話じゃ自分の気持ちを伝えられないって泣いてた

   じゃない。ただねぇ、ちょっと我が娘ながら抜けていると事があるのよねぇ。

   春希君がどこに住んでいるかさえ知らないで会いに行ったのよ。……あっ、大学の側に

   住んでいるのは聞いてたから、駅で春希君に会おうと張り込みしていたのよね? 

   ね、かずさ?」

かずさ「……忘れた。覚えてない」

曜子「そう? しかも、春希君が風岡さんとタクシーから降りるところを見て、

   泣いて帰ってきたじゃない? それも忘れちゃった?」

かずさ「あぁ~、忘れた。忘れたんだよっ」

曜子「はいはい。素直じゃないんだから」

かずさ「いいだろ、べつに」

曜子「そうやって意固地になるから次のチャンスの時も、せっかく私がおぜん立てしたのに、

   結局は会わなかったわよね。私の予想では我慢できなくなって会うと思ってたのに」

かずさ「あの時は母さんも協力してくれたじゃないか」


 次のチャンス? かずさは少なくとも3回は会うチャンスがあったのか?

 俺は最初の一回目では、かずさに会えないからって麻理さんにすがってしまった。

自立した大人になりたいって言って独り暮らしして、開桜社でも認められるようになって、

しかもニューヨークまで来たというのに、肝心の部分がまったく成長していないじゃないか。

いくら表面上の仕事ができるようになっても、心が成長していなければ、かずさと一緒に

歩いていくことなんてできないし、仕事に関しても、いつかはぼろが出てしまう。

 今の俺はどうしようもない子供に見えた。

 まさに母親を無視していたあの頃の自分そのものだった。


曜子「あれはぁ……、私も悪のりしすぎたなって反省はしているのよ」

かずさ「だろうな」

曜子「ごねんね」

春希「あの……、どういう事でしょうか?」

かずさ「春希……、ごめん。会いたくないわけじゃないんだ。本当だよ。

   だって春希のお弁当食べられて、あたしすっごく幸せだったんだ。

   会いたい気持ちを抑えるのに必死だったんだ」


 弁当?  というと、ギターの練習を見てくれるお礼として曜子さんに差し入れて

いた弁当を、曜子さんがかずさに渡していたってことか?

 たしかに曜子さんのコンサートの時も隠れていてっていうんなら、

かずさは自宅にはいないよな。ホテルにでも…………。


 いや待てよ。俺が麻理さんとタクシーって……。

あのときもかずさがいたのか。俺が麻理さんに抱きしめてもらっているところを見られたのか。




第54話 終劇

第55に続く




第54話 あとがき


過去回想。一番厄介なシーンです。ええ……、ほとんど忘れていますから。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第55話


曜子「それだけじゃあ春希君がわからないでしょ」

かずさ「だって……」

曜子「まあいいわ。春希君も少しくらいは気がついたみたいだし」

 かずさも曜子さんも深くは追求してはこないけど、きっと知りたいはずなのに

どうして聞いてこないんだよ。しかもかずさは泣いていたって…………。

 俺がかずさを泣かせたのか。いくら不可抗力といっても……、そうでもないな。

俺が麻理さんを罠にかけて抱き締めてもらったわけだ。だったら俺のせいでかずさを泣かせたんだ。

 ……最低だな、俺って。

春希「ええ、まあそうですね。……ヴァレンタインコンサートですよね。曜子さんがギターの

  練習をみてくれた時がそうだと思うのですが、あのときもかずさは日本に?」

曜子「ええそうよ。でもね、春希君を見にコンサートにも行ったけど、

  春希君を見ていたのはその時だけじゃないのよ?」

春希「編集部の方にも来ていたのでしょうか?」

 それとも大学の方にも来ていたのか? いや、大学だとどの講義に出ているか

わからないから、やはり曜子さんのつてで編集部に来ていた可能性の方が高いか?

曜子「ううん、もっと身近な場所よ」

春希「もっと身近? …………俺がギターの練習見てもらっていた時、

  ひょっとしてかずさも見に来ていた、とかですか?」

曜子「だいぶ近くなったけど、正解というには不十分かな」

 重く停滞していた会議室の雰囲気は、

いつの間にかに曜子さんが作り出す新たなイメージに塗り替えられていっていた。

 狭い会議室は曜子さんのステージへと変貌し、

ありがたいことに曜子さんの指揮に俺は頼らざるを得なかった。

かずさ「今話す事じゃないだろっ」

曜子「そうかしら? かずさがどのくらい春希君のことを愛しているかを

  知ってもらうチャンスじゃないかしら」

かずさ「あたしの愛は変わらないからいいんだよ」

曜子「ふぅ~ん……」

かずさ「な、なんだよ……?」

 かずさに肩を寄せる曜子さんは、意地が悪い顔全開で詰め寄る。

そして、しっかりとかずさが脅えるのを確認すると、姿勢を正してから俺を見つめてきた。

 あっ、今度は俺の反応をみようとしているような……。

 となると、それだけでかい爆弾ってことだろうか?

曜子「かずさったら、ほんとうに美味しそうにお弁当を食べていたのよ。しかも春希君が

  帰るまで待つのが我慢できなくて、こっそりお弁当を冷蔵庫まで取りに行ってたのよ」

かずさ「最初の一回だけだ。一回だけ。

   次からは春希が帰るのを待ってからお弁当を食べてたって」

曜子「そぉお? でも、春希君に見つかりたい気持ちもあったんじゃないかしらね?」

かずさ「見てたのか? ……あっ、監視カメラ。レッスンスタジオ以外にもつけて

  いたんだな。そうだな、そうだったんだな。白状しろよ。娘が頑張って春希の練習を

  みているっていうのに、それなのに母さんは面白がってあたしを監視していたんだな」


 監視カメラ? たしかにスタジオにも俺の練習風景が見られるようにとカメラが

ついてたけど、それをかずさが? 

 それと、俺の練習をみてくれたのは曜子さんだったんじゃなかったのか?

 でもかずさは、かずさが俺の練習をみてくれたっていっているし、どうなっているんだ?

曜子「監視カメラなんてつけてはいないし、覗きに行った事さえないわよ。これでも私、

  仕事があるのよ。…………美代ちゃんがこれ見よがしに仕事を詰めちゃって。

  ほんと身動きができなかったのよ」

かずさ「ほんとうかよ?」

曜子「本当よ。信じられないというのなら美代ちゃんに確認してみなさい」

かずさ「うっ」

曜子「それに、あなたの行動パターンなんて見なくてもわかるもの。ちがう?」

かずさ「うぅ……。そうかもしれないけど、だけど母さんのことだから、

  あたしを監視する為にカメラ付けそうじゃないかっ」

曜子「あら? それは心外だわ」

かずさ「日頃の行いが悪いからだろっ」

曜子「そっくりそのままお返ししてもいいのよ? 春希君にかずさがウィーンで

  どういうふうに生活していたかを、すっごく詳細に話してもいいのよ?」

 曜子さんのまさしく核弾頭級の爆弾発言に、かずさの態度は急変する。

今までも曜子さんに押され気味ではあったが、今回はまさしく地雷を踏んでしまったのだろう。

 でも、そんなにも俺に聞かせられない内容なのか? 話の流れからすると、

俺の方にも被害が出そうな予感がするんだけど……。

 曜子さんの事だから、俺への被害なんてまったく考えてくれないんだろうなぁ……。

かずさ「ごめん。悪かったよ母さん。あたしが言いすぎた。だから、お願いだからやめてくれ」

曜子「やめてくれ? ずいぶん上からのお願いなのね」

 あのかずさが脅えるって、どういうカードをもっているんだよ? 

ちょっとばかし聞きたい気もするけど、聞いたらかずさが怒るだろうし。

かずさ「お願いします。やめてください」

曜子「まあいいわ。でも、ほんとうに監視カメラなんてつけてなかったのよ?」

かずさ「わかったよ。わかったからそれ以上いわないでよ」

曜子「でも、ギターの練習見てあげたことは教えてあげないと」

かずさ「わかったよ」

 相手が悪いかったな…………。

 かずさは観念したのか、曜子さんから顔を背けると、肘をついて不貞腐れる。

 それでも俺の反応が気になるのか、ちらちらと俺の伺う姿は、相変わらず微笑ましくて、

かずさらしくて、ようやくかずさが目の前にいるって実感していった。

曜子「もう気が付いていると思うけど、春希君にギターを教えたのは私ではないの。

  実はこの子が教えていたのよ。しかも、家の二階でモニターを見ながらね」

春希「えっ……。俺のすぐ側にいたんですか?」

曜子「そうよ。だから数メートルも離れてはいなかったのではないかしらね」

春希「そんなに近くに、ですか」

曜子「ごめんなさいね。でも、一度機会を逸してしまうと、なかなか出ていけないもの

  なのよ。この子のせめてもの償いだと思ってくれないかしら」


春希「いえ。ギターの練習をみてもらったのですから、感謝しかしていませんよ。

  それに俺がスタジオにいたって事は、かずさもずっと練習につきあっていたってこと

  ですよね? 俺がスタジオにいたら家から出て行きにくいでしょうし」

曜子「まあ、そうね。でも、春希君のお弁当が冷蔵庫にあるとわかって、

  どうしようか気が気じゃないっていう姿。ほんとうに目に浮かぶわねね」

 あっ、……かずさには悪いけど、俺も微笑ましい光景が浮かんでしまうっていうか。

かずさ「母さん」

曜子「はい、はい」

春希「かずさ。今さらだけど、ありがとな」

かずさ「いいんだ。あたしがやりたくてやったんだからな」

春希「でも、とても感謝しているんだ。あの曲だけはしっかりと弾きたかったからさ」

かずさ「春希……」

 楽しい事も辛い事も詰まった曲だけど、俺とかずさと、そして彼女が作った最後の曲。

 この曲にだけは胸を張って演奏したい。

曜子「でも、それだけじゃあないわよ」

春希「どういうことでしょうか?」

 かずさもコンサートに来てくれたってことかな? ピアノパートの映像もくれたわけだし、

かずさがコンサートの事を知っていてもおかしくはないか。

 そもそも曜子さんが俺のギターの面倒見てくれているのも知っているはずだから、

コンサートの事も知っていて当然か。となると、やっぱりコンサートかな。

春希「……ヴァレンタインコンサートに来てくれたのか?」

かずさ「うん、見に行った。すごかった。ヴォーカルは期待してなかったんだけど、

  おもいのほかよくて驚いたよ」

春希「あいつが聞いたら喜ぶと思うぞ。千晶ったらかずさの大ファンだからな」

かずさ「そっか……。まあどうでもいいよ」

春希「ファンは大事にしろよ」

かずさ「春希がそういんなら」

春希「でも、千晶はなんていうか、悪い奴じゃないけど最初はどう接していいか困るかな。

  まあ、かずさも最初は戸惑うと思うけど我慢してくれると助かる」

かずさ「春希の友達なら我慢するって。……でも、女の友達か」

春希「あいつはかずさが心配するような奴じゃないから。

  どうみても性別を突き抜けた存在っていうか、な」

かずさ「でも女なんだろ?」

春希「かずさ……」

かずさ「いいよ。信じるから。…………でも、

   正直に話せばすべて許されるわけじゃあないんだからな」

春希「わかってる」

 そう、俺と麻理さんの関係のように。

麻理さんがかずさと曜子さんに正直に全てを打ち明けようと、それで許されるわけではない。

キスした事実は消えないし、麻理さんと一緒に住むことはやめることはできない。

曜子「春希君の現在の状況は今すぐ判断できないわけだし、これからしっかりと見て判断

  すればいいのよ。風岡さんが語ってくれた事を信じていないわけではないのよ? 


  でも、人の話って主観が混ざるじゃない? 

  げんにキスしたことについては、春希君と風岡さんの見解は違うわけだし」

春希「はい、そうですね」

曜子「かずさもそれでいい?」

かずさ「あたしは……、どうすればいいのかわからない」

春希「……かずさ」

かずさ「あたしは、あたしは今すぐ春希を連れ帰ってあたしだけを見ていてほしいっていう

   気持ちもある。裏切られてたってさえ思ってしまう所もあるんだ。でもさ、春希が

   風岡さんの為に頑張っているっていう事だけは理解できたんだ。春希はさ、ほっとか

   ないよ。ましてや春希の為に頑張ってくれた人を見捨てることなんてないんだ。

   だから、どういうのかな……。春希が、春希のままでいてくれて、ほっとしてる、

   のかな。たぶんだけど。……そりゃああたし以外の女を優しくするなって

   言いたいけど、今は、我慢する、ように頑張るよ」

春希「かずさ、ありがとう」

かずさ「いいんだ」

曜子「さてと、かずさのほうはこれでいいとして、……風岡さん」

 俺達が思い出話をしているときも硬い表情のまま口を結んでいた麻理さんは、

曜子さんの呼びかけで自分がこの場にいる事を思い出す。

 きっと俺達が作り上げてしまった雰囲気に入ってこれなかったのだろう。

 俺と麻理さんだけの歴史があるように、俺とかずさだけの歴史がある。

 それは不可侵であり、どうしても外にいる人間には疎外感を感じてしまう。

つまり、かずさも曜子さんも同じような不安を俺が与えてしまっているというわけで、

俺は自分がしている残酷さに、自分を呪い殺したくなってしまっていた。

麻理「はい」

曜子「今回の取材ですけど、おそらくだけど春希君がメインで書く予定なのかしら?

  前回のも春希君が書いたみたいだし」

麻理「はい、その予定です」

曜子「その事だけど、今回は風岡さん、あなたがメインで書いてくれないかしら? 

  もちろん春希君にも頑張ってもらいたいけど、今回は風岡さん。

  あなたに書いてもらいたいの」

麻理「私がですか?」

曜子「そう、お願いできないかしら? もちろん密着取材でかまわないわ。

  最初からその予定だったのだし。できれば、そうね、

  この子をあなた方の家で預かってもらえないかしら?」

かずさ「母さんっ」

曜子「あなたは黙っていなさい」

かずさ「…………わかったよ」

俺もかずさ同様に異議を申し入れたかったが、曜子さんからのプレッシャーが俺を押し戻す。

曜子さんが見つめているのは麻理さんだというのに、俺もかずさも手が出せないでいた。

曜子「どうかしら? もちろん風岡さんの編集部の立場は尊重するわ。

  風岡さんが無理なときは春希君がかずさの面倒をみてくれればいいのだし」

 それって、ていのいい丸投げっていうやつでは……。


 かずさはウィーンにいたからドイツ語はできるだろうけど、

日本にいた時は英語まったく駄目だったんだよな。

 となると、ニューヨークでどうやって生活する予定だったんだ? 

それこそ曜子さんの側にいないと、かずさは生活できないんじゃないか?

…………曜子さんの事だから、最初から今回の取材相手に、密着取材とは名ばかりの世話係を

押し付ける気だったんじゃないかって邪推しそうだ……、いや、本当にそう考えていそうだよな。

麻理「それでかまいません。さすがに私も編集部で上に立つ立場ですのでかずささんに

  つきっきりにはなれませんが、それでもよろしいのでしたら自宅も提供いたします」

曜子「ありがとね。ほんと助かったわ。だってこの子。ウィーンで何人もハウスキーパーを

  やめさせているのよ。今回の密着取材でこの子の世話も任せようって虎視眈々と

  作戦を練っていたんだけど、春希君がいて本当によかったわ」

 俺としたら喜んでいいのか? まあ、かずさを他のやつに任せるなんて許せないけど。

かずさ「波長が合わなかったけだ。あたしの生活に踏み込んでくる方が悪い」

曜子「ほとんどレッスンスタジオにこもっているくせに、

  どうやったら追い出すことになるのかしらね? ほんのわずかの時間でよくやるわ」

かずさ「たまたまだ」

曜子「そのたまたまが何回も続くと、わざとやっているとしか思えなくなるのよ」

かずさ「そんな暇あったらピアノを弾いてるって」

曜子「……たしかにそうね」

 認めちゃうんですかっ。それ認めてしまうと、かずさのほうに決定的な欠陥があるって

認めるようなものじゃないですかとはいえないけど。

 ……だとすると、日本で家事を任されていた柴田さんって奇跡の人だったんだな。

 俺とかずさがこうやっていられるのも奇跡なのかもしれない。

 人との出会いは限られている。だからこそ、この人っていう人は手放してはいけない。

 だけど、二人同時に掴めるかは別問題であり……。

曜子「まあいいわ。さて、風岡さん、もう一つだけお願いがあるのだけど。お願いと

  いっても、このお願いはかずさを押し付けるという意味合いよりも

  取材の意味合いが強いと思うけど」

 あっ、曜子さん。認めたんですね。かずさを押し付けるって…………。

 麻理さんもその事実に気がついたみたいで唖然としている。

俺は日本での曜子さんを知っているからある程度の抗体はあるけど、麻理さんは初対面だしな。

 しかも、かずさと曜子さんに会わなくてはならないというプレッシャーがあったわけだし。

麻理「出来る限りのご要望は聞くつもりです」

曜子「そんなに身構えなくても大丈夫よ。ただかずさの練習を毎日ちょこっとだけ

  聴いて欲しいってだけだから」

麻理「それならばこちらとしても歓迎しますが」

曜子「そう? ならお願いね。だいたいコンクールの演奏時間と同じくらいでいいわ。

  この子はあなたの事など気にせずに弾き続けているでしょうから、勝手に来て、

  勝手に帰って構わないわ。たぶん挨拶しても無視すると思うから、気にしないでいいわよ」

麻理「練習の邪魔をしないように致します」

曜子「よろしくね」

麻理「はい」

かずさ「………………ちょっと待ってよ」

曜子「なにかしら?」

かずさ「勝手に決めるなって事だ。取材なら諦めはつく。

   でも、練習を邪魔されるのだけは許せない」

曜子「これも練習のうちよ」

かずさ「どういう意味だよ? どう考えても邪魔しているようにしか見えないぞ」

曜子「だってねぇ」

 曜子さんは人差し指で細い顎をなぞるように首を傾げると、

有無を言わせる視線をかずさに浴びせた。

かずさ「なんだよ……」

曜子「だってあなた、このままだとコンクール失敗するわよ」

かずさ「やってみないとわからないだろ。そもそも準備はウィーンでしてきたんだ。

   ここでの練習は調整にすぎない」

曜子「そうかしら? 考えてみなさい。風岡さんは取材で本番にも来るのよ。となると、

  練習でさえ風岡さんを意識するあなたが、本番で意識しないで本来の演奏ができる

  かしら? といっても、風岡さんにコンクールには来ないでほしいと頼む事は出来る

  けど、それでも風岡さんを気にすることをやめる事は出来ないでしょ?」

かずさ「それは……」

曜子「でしょう? だったら私の指示通り毎日本番だと思って演奏しなさい。

  ウィーンで宣言したわよね。勝ちに行くって。だったら勝つ為の練習をしなさい」

かずさ「……………………わかったよ」

曜子「じゃあ風岡さん。本人の了解もとれたしよろしくね」

麻理「はい。……あの、かずささん」

かずさ「なに?」

麻理「ごめんなさい」

かずさ「別にいいって。ピアノに集中できないのはあたしの問題だ」

麻理「それもありますが…………、北原に頼ってごめんなさい」

かずさ「それは……」

 曜子さんでさえかずさの言葉を待ったが、結局はかずさの答えは聞く事は出来なかった。

 色々ありすぎた。俺の事。ピアノの事。そして麻理さんの事。

 それらを一気に処理することなどかずさにできるはずもない。

俺でもできないし、曜子さんであっても無理なはずだ。

 曜子さんも表面上は次に向かっての行動をみせはするが、内心では俺の事をどう思っている

かなんて考えたくもない。どう考えても裏切られた、と思っているはずだから。

 その裏切り者を前にしても、曜子さんはかずさを守るべく行動を続ける。いくら数年間

かずさと離れて暮らしていたからといっても、曜子さんはかずさを愛している。

 愛しているからこそ曜子さんはかずさの前では迷わない。

曜子「さてと、打ち合わせの前にかずさの引き渡しをしておこうかしらね」

かずさ「あたしをペットみたいに言うな」

曜子「あら? 犬みたいなものじゃない」

かずさ「ちがうって」

曜子「そう? まあいいわ。それで風岡さん。かずさが泊まる部屋はあるかしら? 

  もしなければ近くに部屋を借りるのだけど」


麻理「部屋ならありますが……」

春希「俺の部屋を使って下さい」

麻理「北原?」

春希「俺は物置として使われている部屋を使います」

麻理「あの部屋は狭すぎるでしょ。だから私がその部屋を使って……」

春希「麻理さんは自分の身を大事にしてください。今環境を変えるのは体に良くないですよ。

  それに、そもそも俺は自分の部屋があっても寝ることくらいでしか使っていませんから、

  部屋が小さくても問題ありません」

 一カ月前の再来だけは避けなくてはならない。

ようやく麻理さんの調子が戻ってきたというのに、さらに大きな変化を与えるのは逆効果だ。

今目の前にしているかずさだけでなく、プライベートスペースまで提供することになるんだ。

その最後の砦とも寝室まで渡すのは、麻理さんにとって負担が大きすぎる。

 ただ、最大の影響を与える原因たるかずさがこれから一緒に暮らすことと比べれば、

寝室の変更など取るに足りない変化かもしれないが。

麻理「……わかったわ」

かずさ「あたしは、……あたしは春希と同じ部屋でもかまわないけど」

春希「かずさ? ごめん。それは無理なんだ」

かずさ「どうしてだよ?」

 理由を言うべきか。それとも隠すべきか。

 …………今まで隠し事をしてきたのに、ここで隠して何になるっていうんだよっ。

 ふっきれたとか、やけになったとかじゃない。

 今さらだけど、かずさには誠実でありたい。それしかないだろ。

春希「かずさと同じ部屋だと、麻理さんが潰れてしまう。俺は麻理さんを救いたいんだ。

  恩返しでもあるけど、それだけじゃない。幸せになってほしいんだ。だから、ごめん」

かずさ「あっ……、そうだな。ごめん春希。それと風岡さん。配慮がなくてすみませんでした」

麻理「いいのよ。ほら、私が悪いのだし……」

 再度重苦しい雰囲気が俺達にのしかかる。

 ほんとうに大丈夫なのかって不安になってしまう。だって三人で暮らすってことは、

必然的に曜子さんがいないというわけになる。

 今回何度も場の雰囲気を修正してくれた曜子さんがいないとなると、

俺がその役割を演じなければならないわけで。

 その大役をかずさはもちろん麻理さんに任せることなどできやしない。

 ……でも、俺に出来るのか?

 俺は眉間にしわを寄せるだけで、かずさと麻理さんを見つめるだけしかできないでいると、

前方から俺に向けてため息を見せつけられる。

曜子「はぁ……」

 俺への不安とも、助けるのは今回だけとも捉える事は出来るが、どちらにせよ、

今日からの共同生活に曜子さんがいない事は確かであった。

曜子「春希君は今までの部屋をそのままつかいなさい。どうせこの子は一日中スタジオに

  こもっているんだし、この子も寝室を貰っても寝るだけしか使わないわ。

  だから、わざわざ部屋を移動するなんて手間をかける必要はなし。これでいいかしら?」

春希「かずさがいいのでしたら……。かずさ?」


かずさ「あたしはそれでいいよ」

春希「でも、ベッドはどうします?」

 冬馬家の財力なら簡単に買えそうだけど。

曜子「レンタルでいいんじゃないかしら?」

春希「なるほど……」

 いくら金持ちといっても、無駄遣いをするわけではないですよね。





第55話 終劇

第56話につづく









第55話 あとがき





今週は一身上の都合により、いつもよりも早い時間の更新となります。




物語には影響ありませんが、麻理さんの収入と家。どうなっているんでしょうか?

それと、かずさのドイツ語。ピアノばっかり弾いているでしょうし、いつ覚えたのでしょうか?



来週も月曜日に掲載できると思いますので、

また読んでくださると大変嬉しく思います。




黒猫 with かずさ派




第56話


同日夜 麻理


 編集部で冬馬さん達との打ち合わせを終えると、かずささんはさっそく練習へと向かった。
本来なら気持ちを乱す行為は避けなくてはならない時期であるのに、
本当に申し訳なく思ってしまう。
 だから、早く練習に向かいたいというかずささんの要望を聞き入れ、打ち合わせも
短めに終わらせることにした。細かい内容は曜子さんと直接話し合えばいいし、
かずささんの取材も基本的にはその人柄を見る事が重要である。
 そもそも色々と質問したとしてもまともな回答を得られないだろうし……。
これは春希からの情報だけど、きっとその通りなのだろうと、先ほどの対面で実感した。
 私は曜子さんから受け取った地図を片手に、かずささんが練習をしているスタジオに向かった。
 このスタジオなら、わざわざうちで寝泊まりするよりは当初のホテルから通う方が
よっぽど時間を有効利用できるはずよね。それなのにうちでの生活を選んだという事は、
やっぱり私と春希のことに起因しているはずね。
 建物の中に入り、スタッフに用件を伝えると、スムーズにかずささんがいるスタジオを
教えてもらえた。
 このスタジオには他のコンクール参加者もいるようで、
スタジオ内での取材はしないようにと念を押される。
 この事から、曜子さんが私の素性をスタジオスタッフに伝えてあることが分かった。
自分から出版関係者であると名乗り出るほどでもないが、
あとあと面倒事に巻き込まれるとも限らない。
 そう考えると曜子さんの抜け目のなさを改めて実感してしまった。
 私は曜子さんの指示通り挨拶もなしにレッスンスタジオに入っていく。
 かずささんは曜子さんのいう通り私の事など目には入っていなかった。
その代わりというわけでもないが、室内に二つ用意されていた椅子のうちの一つに
座っている曜子さんが私を出迎えてくれた。
 もう一つのほうの椅子に私に座れということなのだろうか。
 いつまでも立っているのもそれこそ練習の邪魔だと思うので、
空いている椅子の方に座り、大人しく練習が終わるのを待った。

曜子「今日はここまでにしましょうか」

かずさ「もう少しできるけど?」

曜子「ううん。今日は荷物を風岡さんのお宅に運んでもらっているし、
   しばらくお世話になるんだからあまり遅くまで練習しなくていいわ」

麻理「こちらのことはお構いなく、納得するまで練習してくだって構いませんよ」

かずさ「……わかったよ。今日はここまでにする」

曜子「そ、じゃあ風岡さん後よろしくね」

麻理「はい」

 曜子さんの練習ストップの要請にかずささんは最初こそ拒否の意思を示したが、
それもすぐに撤回される。
 その辺の事情は特に問題はないのよね。問題があるとすれば、
というか気になる点があると言えば、
練習が終わったら曜子さんはすぐに部屋から出ていったけど、どういう事かしら?
 資料によると、曜子さんの師匠でもあるフリューゲル氏にかずささんも教わっていると
記されている。それでも曜子さんによるなにかしらのレッスンもしているだろうし。
 だから、練習後にアドバイスや気がついた点を伝えると思っていのだけど……。
 それとも、私に聞かれると困る事があるとか?
 そもそもアドバイスは私が来る前に済ませてあったとか?
 曜子さんに策士としての印象を抱かずにはいられないけど、
どうしてもその実態がつかめないのよね。

かずさ「あのさ……」

麻理「はい?」

 顔をあげると、かずささんは既に帰る支度をしませたようで、
部屋の入り口で私を待っていた。

かずさ「案内してくれないとわからないんだけど」

麻理「すみません。今お連れしますね」

かずさ「あぁ、頼むよ」

 とても嫌われてしまうようなことをしてきたのに、
これといって露骨に嫌そうな態度はみせないのよね。
 ……同時に、好かれているようにも見えないけど。
 私の方もできる限り好意的に接すように努めようとする。
かずささんを自宅まで案内する途中、私の横に並んではくれないけど、
斜めに一歩下がった位置を保ったまま付いてきてくれた。
 ただ、スタジオを出るときに交わした言葉を最後に、
私も、そしてかずささんも言葉を発してはいない。


 外から見れば一見穏やかに見える二人の空間は、一歩二人の中に踏み込めば、
おそらく混沌としていたのだろう。
私たち自身がどうふるまっていいかさえわからないのだから当然とも言える。
 それでも私たちは共通の男性をこれ以上困らせたくない気持ちだけは一致しており、
現状をより悪化させない事に尽くしていた。

麻理「かずささんの荷物やベッドは届いているみたいです。そしてこの部屋がかずささん
   の部屋になります。狭くて申し訳ないのですが……。
   でも、部屋を交換したくなりましたらいつでも仰ってください」

 かずささんように用意した部屋には既にベッドと荷物が運び込まれ、
掃除もされているようであった。
 春希がかずささんが気持ちよく部屋を使えるようにと掃除したようね。
 春希は打ち合わせの後、レンタルベッドの手配と荷物の受け取りの為に先に帰宅していた。
 その春希といえばは、現在スーパーに必要物資を調達に出かけている。
メールでは、それほど時間はかからないとのことなのでもうじき帰ってくるのだろう。
 私との共同生活でも見せたまめな性格がここでも伺え、微笑ましく思えるのだけれど、
最愛の彼女にしてあげているという事実を目の当たりにすると、私の胸はちくりと痛んだ。

かずさ「あのさぁ」

麻理「はい、なんでしょうか?」

かずさ「ううん、なんでもない」

麻理「そうですか? ……北原、でしたらもうすぐ戻ってくると思いますよ。かずささん
   に頼まれた品を買いに行っていますが、もうすぐ戻ってくるとメールがありましたから」

 近所の店で間に合いそうであるので、それほどは時間はかからないだろう。
 それに、編集部できっちりとかずささんから買うものを聞きだし、
リストまで作ったのだから短時間で買い物は終わってしまうはずだ。
 編集部で、春希がリストを作る行為を見て自然と笑みが浮かんだ。
ただ、かずささんも私と同様の表情を浮かべているのを見た時は心が痛む。
 きっと高校生の時の春希も同じようなことをしていたのね。
そして、かずささんもその姿を何度も…………。

かずさ「あのさ……」

麻理「はい?」

かずさ「あたしに対して敬語はいいから。しばらく一緒に暮らさないといけないのに、
    堅苦しい態度を取られると息が詰まるよ」

麻理「かずささんがそうおっしゃるのでしたら、そのようにしますが」

かずさ「そうしてくれると助かる」

麻理「はい」

かずさ「あとさ……」

麻理「なにかしら?」

 ちょっとわざとらしい口調になったけど、しょうがないかな。
 でも、かずささんはいまだに何だか思い悩んでいるような表情を浮かべているし、
私の口調、まだかたかったのかしら?
 それともやっぱり、春希が一緒じゃないと緊張してるとか?
 まあ、恋敵とまではいかないけど、私は邪魔ものだものね。

かずさ「うん、あのさ……」

麻理「……ええ」

かずさ「……あのさ、無理に北原って呼ばなくていいよ。だって風岡さんも春希の事を
    春希って呼んでいるんでだろ?」

麻理「……あっ」

 そうよね。気になるわよね。だって私が春希の事を北原って呼んだ時の口調は、
かずささんに敬語を使わないとき以上に不自然だったって、自分でもわかったもの。

かずさ「別にあたしのことを気にして変えなくてもいいよ。そんなことをしたら春希も
    気を使うだろうし、あたしも気をつかっちゃうからさ」

麻理「わかったわ。……ありがとう」

かずさ「風岡さんだけの為じゃないし、礼を言われるような事でもないよ」

麻理「そうかもしれないけど、私は、……私はたくさん春希とかずささんに迷惑を
   かけてきたから。だから……、ごめんなさい」

かずさ「……謝罪もいらない。ここで謝罪されると春希を否定することになる。
    だから謝罪するのだけはやめてほしい」


麻理「でもっ」

 春希から聞いていたかずささんとは別人のような気がしてしまう。 
 それはきっと春希の前だからこそ見せていた姿なのかもしれないけど、高校時代の
冬馬かずさがクラスメイトや教師に見せていたような姿とも違うような気がしてしまった。
 そう、極論なのかもしれないけど、
冷静さを保とうとする北原春希を真似しようとしているとも……。

かずさ「いいんだ」

麻理「でもっ、私は……。かずささんから春希を引き離した。春希はすぐにでもかずさ
   さんの元に行きたいのに、私のせいでできなくなってしまったのよ。だから、私がっ」

かずさ「やめろっ!」

 両手のこぶしを握りしめ、何もない宙を叩きつける。
 さすがピアニストね。
 どんなに怒りを我慢できなくなっても手だけは痛めつけないのねって冷静に分析する
自分がいるのと同時に、自分の認識が間違っていた事に気がついていく。
 かずささんは別に冷静さを保とうとしていたわけじゃない。
 私を許そうとかしていたわけでもない。
 すべては春希の為。
 春希を困らせないようにと必死だっただけなのね。
 だから慣れない環境であっても、この家にいるだけで胸が張り裂けそうであっても、
自分が暴走するのを我慢していたのね。
 だって感情的に責めたら、春希が春希自信を許すことなんてなくなるって
わかっていたから。春希をこれ以上追い詰めない為だけに、彼女は必死だった。
 そして最悪のケースとして、最愛の人、冬馬かずさを傷つけるのであれば春希は
春希本人さえ消し去ってしまうだろう。それができる人だって、私たちは知っている。

かずさ「悪いけど一人にしてほしい」

麻理「わかったわ。春希が帰ってきたら教えるわね」

 かずささんは返事の代りに右手をあげると、毅然とした態度で自室へと入っていた。
 ぽすんとベッドがきしむ音が聞こえてはきたが、あとは何も聞こえてはこなかった。







数日後 かずさ


 風岡さんと暮らしてみて実感した事だけど、この人はすごい。それがすべてだった。
 あたしをこの家に連れてきた当日、あたしは感情的になってしまったのに、
風岡さんはずっと冷静にあたしに対応してくれた。
 あたしの心が静まるのを待ち、その日の食事はあたしと春希の二人っきりで
できるようにはからってもくれた。
 でも、あとから春希に聞いた話によると、風岡さんの病状は悪化していて
、今はわずかに取り戻した味覚さえ失ったとか。
 あたしが家に転がってきた当日なんかは、昼も夜も食事ができない状態だったらしい。
 それでも翌日の朝は三人で朝食をとったのだから、
その精神力の強さはかなわないと実感してしまった。
 今日は風岡さんも春希も編集部での仕事は休みだとか。
 それでも春希は自宅で仕事に追われていた。
 まっ、その仕事っていうのが、
なかなかまともなコメントを残さない取材相手のせいでもあるんだけど……。
 一方風岡さんはというと、あたしの練習に見学に来ており、
今は二人で昼食を取ろうとしていた。

かずさ「あのさ……すまない」

麻理「ううん。これが仕事だし、コメントだって意識的に考えて出たものよりは、
   自然とこぼれ出たコメントの方が貴重なのよ。
   だから、かずささんはピアノに集中していればいいわ」

かずさ「いや、違くてさ……」

 スタジオの備え付け休憩室は小さいながらもあたし達以外の利用者がいないおかげで
十分すぎるほどのスペースを確保できている。
 テーブルにはサンドイッチとミネラルウォーターが並んでいた。
 あたしが気にしてたことは、風岡さんが練習に付き合っている事でも、
食事に文句があるわけでもない。
 問題があるのは、あたしの目の前で風岡さんがサンドイッチを
食べようとしていた事だった。

かずさ「あのさ、大丈夫なの?」

 あたしの視線を追ってくれたのか、今度は意図が通じる。
それと同時に、大丈夫だという意思表示なのか、風岡さんはサンドイッチにかぶりついた。


麻理「あぁ、春希なしで食事ができるかってこと? 一応リハビリの一環として春希なし
   での食事もするようにしているのよ。まだ週一回くらいのペースだけどね」

 それは聞いているけど、そうじゃないだろ。だって、この前まで吐いて、
食べられない状態だって聞いているんだぞ。
 そりゃああたしの前では弱気な姿を見せたくはないだろうけど、
……でも、でもこれって強すぎるだろ。そんな人が相手だなんて、勝てないって。
 無理だろうがなんであろうと平常心を作り出そうとするその姿に、
あたしは勝てないと実感してしまう。
 この数日、風岡さんは無理に笑顔を作ろうとはしてこなかった。
でも、笑顔は無理でも普通に生活できるようにと努力していた。
 あたしはといえば、気持ちが抑えきれなくなったら部屋にこもり、
出来る限り汚いあたしを春希には見せないようにしていたにすぎない。

かずさ「そっか。あたしになにができるってわけでもないけど、
    無理だけはしないでほしい」

麻理「大丈夫よ。無理をしたって意味はないもの」

かずさ「そうだな。…………あのさ、味覚がないってどんな感じなんだ? ごめんっ。
    無神経だった。今のは忘れて欲しい」

麻理「別にいいのよ」

かずさ「でも……」

麻理「そうねぇ……、最初は驚いたけど、味覚がない事自体は慣れたわ」

かずさ「そうなのか?」

麻理「今はわずかだけど味覚が戻ってきたというのもあると思うけどね」

 たぶん風岡さんはあたしが春希から風岡さんが再び味覚を失った事を
聞いているってしらなんだ。
 でも、あたしが来る前までは味覚が少し戻ってきたのはほんとらしいし、嘘ではないか。
 それに、言葉にはしてないけど、春希がそばにいるっていうのもあるんだろうな。
あたしの前では言えないだろうけど。
 そんなあたしが考えている事に気がついたのか、
風岡さんは微妙な照れ笑いを浮かべると、その笑みを打ち消すように話を続けた。

麻理「でもね、味覚そのものは我慢できるけど、なんていうのかな、トラウマって
   いうの? 味覚がないだけで食べても気持ち悪くはならないはずなのに、
   一度気持ち悪くなってしまった恐怖なのかな。
   そういうのが残ってしまって食べるのが怖くなってしまったのはきついかな」

かずさ「それは…………」

麻理「春希が私の前からいなくなるという事が原因だけど、それも大丈夫だから」

 風岡さんはあたしが口にできなかった言葉を代りに紡ぐ。
 結局はあたしが無理やり言わせてしまったことに自責の念を抱かずにはいられなかった。
 やはりこの人は強い。このあたしにすら弱いところを隠さないなんて、
あたしなら絶対に無理だ。

麻理「そんなに身構えなくてもいいわ。春希はかずささんのことを一番に考えているわ。
   私のリハビリも春希のニューヨークでの研修までって決めてるから。
   だから、それまでは我慢してくださいとしかいえないけど」

かずさ「ううん、いいんだ。あたしが春希から逃げたのも原因の一つだから。
   でも、春希は知ってるのか? リハビリが研修終了までって」

麻理「まだ言ってないわ。だって私の体調が完全になおるのっていつになるか
   わからないもの。それなのに期限を決めるなんてことをしたら、
   春希にプレッシャーを与えてしまうわ」

かずさ「でも、…………研修が終わったらって」

麻理「まあ私の中で決めていることだけどね」

 それって…………あたしと同じように突然春希の目の前から消えるってことかよ。
 そんなことしたら春希が傷つくに決まってるじゃないか。

かずさ「駄目だっ!」

 静かな休憩室に声が響く。廊下にも声が漏れただろうが、幸い防音処置がされている
他の利用者がいるスタジオ内には聞こえてはいないようだ。廊下にいれば聞こえて
しまっただろうけど、今は目の前の風岡さんに…………いや、
あたしは春希の事を心配してしまった。
 風岡さんは、春希だけでなくあたしの事まで気にかけてくれているのに、あたしときたら
体調を壊している人を目の前にしながら、ここにはいない春希のことばかり考えていた。
 どこであっても春希が世界の中心で、どこまでも行っても春希しかいない世界。
 最近では母さんやフリューゲル先生もいることはいるけど、
それでも春希がいなければあたしの世界は成立しない。


 そんな独善的で独りよがりの世界は、あたし以上に春希を大切にしている存在を
前にすると、あたしはあたしの世界の幼稚さに打ちひしがれてしまう。
 だめだっ、逃げ出したい。
 今はピアノさえも弾きたくない。コンクールなんて無理に決まってる。
 ましてや今のあたしの演奏を春希に聴かせるなんて絶対にいやだ。
 母さんはあたしの演奏を聴いて何か思うところがあるみたいだったけど、
きっとあたしが今気がついた事に気が付いていたんだろうな。
 でも、なにも言ってこないって、放任主義にしてもやりすぎだよ。
こういうときくらいは助けてくれても…………。
 駄目だ。
 あたしったら今も誰かに頼ってしまってる。風岡さんは一人で頑張ろうとしているのに。
 あたしが春希を奪い去っていこうとしているのに…………。

麻理「大丈夫よ。いきなり春希の前から消えたりなんてしないわ」

 何も言ってないのにあたしの考えている事がわかるんだな。
 …………違うか。この人は、この女性は、あたしにそっくりなんだ。
 あたしができないことを実践してしまうところは大きく違うけど、
やっぱりこの人も春希が世界の中心で、春希の為を思って行動してるんだ。
 だから春希の為にそばから離れようとして、春希が冬馬かずさの元に行けるように
準備を進めているんだ。
 だとすれば、あたしの予想なんてあたってほしくはないけど、風岡さんの病状って、
あたしが思っているよりもよっぽど悪いんじゃ…………。

麻理「ちゃんと春希とは話しあうつもりよ。それも研修が終わる直前ではなくて、
   それなりに春希が気持ちの整理ができる時間もとるつもり。だから、春希が
   傷ついたままであることもないし、私の事が気がかりでかずささんのところに
   行けないなんてことはないわ。それに、私の職場は開桜社ニューヨーク支部だし、
   やめるつもりもないわ。だからね、どこかに消えようにも消えられないって
   言うのかしら? まあ、根っからのワーカーホリックだって言われそうだけど、
   こればっかりは自覚してるからしょうがないかな」

かずさ「あのさ……」

麻理「ん?」

かずさ「あの……………………、風岡さんっ!」

 今さっきまで笑顔だった風岡さんから表情が抜け落ち、同性のあたしからみても
華奢で女らしい肢体が目の前で崩れ落ちていく。
 腕か何かがに引っかかって椅子も倒れ、風岡さんの重さよりも椅子の方がよっぽど重い
んじゃないかって思えるほどその体は静かに床で弾む。
 椅子が倒れ、ガンっと響く音が風岡さんの代りに泣き叫んでいるようで、ここでも
風岡さんは自分の事を後回しにしているなんてどうしようもない事を考えてしまった。
 ようは、あたしは目の前で起こっている現実に理解が追い付いていっていなかった。
 今目の前で風岡さんが倒れ、助けが必要なはずなのに、あたしは何もできないでいる。
 そうか。そうだったんだ。だからか…………。
 あたしは、マンハッタンにある開桜社の会議室で春希に出会った時から現実を
受け入れてなかったんだ。
 テーブルを見渡すと、
ついさっきまで元気だった風岡さんが食べていたサンドイッチがおかれていた。
 それをよく見ると、パンには綺麗な歯型が残っていた。
 そう、歯型が綺麗に残っていて、パンを噛みきった跡など残ってはいない。
 つまり、風岡さんはサンドイッチを食べることができなかったんだ。





第56話 終劇
第57話につづく







第56話 あとがき

実はこの辺からプロットの手直しをした部分となります。
さすがに一年前は終盤で力尽きていたようで、今回どうにか挽回できたでしょうかね。
…………できたらいいな。

更新時間ですが、もうしばらく朝になったり夕方になったりと
不安定になるかもしれません。
大変申し訳ありませんが、ご了承してくださると助かります。

来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。

黒猫 with かずさ派


第57話



かずさ



 手の震えが止まらない。
大事なコンクールの本番前であろうとあたしの手が震えたなんて事はなかった。
 このままあたしも意識を失ってしまえばどれほど楽だっただろう。
 でも、そんなことはできない。
 春希が悲しむから。
 どこまでも独善的な理由で自分を奮い立たせようとするあたしに、
あたしは自分が嫌いになってきていた。
 それでも震えながら椅子から立ち上がり、テーブルの下を見つめると、
風岡さんが青白い顔をして倒れたまま動かないでいる。
 今さっきまであたしと話していたのに、どうして?
 元気ってわけでもないだろうけど、倒れるような雰囲気はなかったはずなのに。
 でに、サンドイッチ食べられなかったかの。そうだよな。だって、
風岡さんはあたしが来てからは、まともに食事ができないでいたって春希が言ってたし。
 やっぱり、あたしの前では弱ってる姿なんて見せられないよな。春希にしかみせられないよな。
 あたしは風岡さんみたいに春希に弱ってる姿なんて見せられなかった。
いつもかっこいい冬馬かずさを見せたいって思っていて、いっつも空回りして、
空回りしかできないで、最後の最後で春希を困らせて傷つけた。
 もっとあたしが春希に甘えられていたら。
 もっとあたしが春希を信頼していたら。
 あのとき、あたしが素直になっていたら、
彼女を深く傷つけることなんてなかったのかもしれないのに。

麻理「…………んっ」

 かすかに漏れる出る苦痛の吐息にあたしは現実に引き戻される。
 この人を助けないと。春希が大切にしているこの人を助けないと。
 あたしになにができる? なにをしないとしけないんだ?
 そうだ。人を呼ぶんだよな。でも、誰を?
 あたしはいまだに震えが止まらない手を無理やり動かし携帯を手に取る。
 ウィーンでは何度も電話しようとしても最後までやり遂げることが
できなかった春希の番号を迷いもなく押す事ができた。

春希「もしもし? …………もしもし?」

 春希の声が聞こえるっていうのに、あたしはなにを話せばいいかわからないでいた。
 こっちが無言でいると、春希のほうもこっちに異常があったのではと声に焦りが混ざってくる。
 春希の焦りを感じてもなお、あたしは声を出せないでいた。

春希「かずさ? 今練習の休憩中か? ……かずさ?」

かずさ「……あ」

春希「かずさ? いるんだろ? なにかあったのか? なあ、かずさ?」

かずさ「かざ…………」

春希「かざ? かずさ?」

かずさ「だ、から…………」

春希「かずさ? かずさが言いにくい事なら麻理さんに代わってもらってもいいぞ。
   麻理さんいるんだろ?」

かずさ「だから、風岡さんが…………」

春希「麻理さんが?」

 ようやくあたしが言葉を紡げるようになったおかげで春希の言葉から焦りの色は消えていく。
 しかし、あたしの様子が変である事には変わりはなく、
春希はあたしの異常を気にかけているようであった。

かずさ「いきなり倒れて、だから、どうしたらいいかわからなくて。
    助けて……助けて春希っ!」

春希「かずさ落ち着け。今麻理さんと二人なのか?」

かずさ「うん」

春希「スタジオにいるんだよな?」

かずさ「うん」

春希「スタジオのスタッフは?」

かずさ「いると、思う」



春希「わかった。誰でもいいからスタッフに携帯を渡してほしい。あとは俺が伝えるからさ」

かずさ「うん。……ごめん」

春希「いいって。俺もすぐ行くから」

かずさ「うん」

 春希が救急車よりも早く来て、
病院へ風岡さんが運ばれていくのをあたしはそばで見ていただけだと思う。
 春希の声を聞く事ができて安心できたという事もあるけど、
目の前で風岡さんが倒れたというショックもでかかったはずだ。
 いつの間にかに母さんも病院にやってきてあたしをホテルに連れ帰ろうと
したらしいんだけど、それはあたしが拒否したらしい。
 どうもそのへんの事情はあたし自身でさえあやふやだけど、あとで母さんに聞いた話に
よると、あたしが春希の側にいたほうがいいと思って無理には連れ帰らなかったとか。
 つまり、あたしの精神状態も相当やばかったんだと思う。
 錯乱状態で暴れまくったわけではなかったみたいだけど、今のあたしが考えつく答えとしては、
もしかしたらあたしが風岡さんみたいになっていたかもしれない未来と重ねてしまったのだろう。

春希「かずさ、大丈夫か?」

 病室から出てきた春希は、あたしの顔を見て不安そうな顔で尋ねてくる。
 静まり返った廊下は人の気配はなく、ときおり遠くの方で響く足音がする程度であった。
 最初は風岡さんは処置後に大部屋に移される予定だったらしいが、母さんがあたしとの
繋がりを隠す為に個室に移したとか言ってたけど、それだけじゃない気がする。
 きっと母さんなりに風岡さんに負い目があったんだと思う。
 あたしも母さんも風岡さんを追い詰めたって自覚があるから。
 もちろんあたしも春希も、そして風岡さんも加害者であり被害者ではあるはずだけど、
誰よりも自分以外の二人を大切にしていたのは風岡さんだっていえる。

かずさ「あたしは大丈夫だよ。風岡さんは?」

春希「今日はこのまま病院に泊まって、明日には退院できるだろうって。幸い明日は日曜日
   だし、月曜日からは麻理さんの事だから出社しそうだけど、どうしたものかなって
   考えてはいる。普通なら家で休んでもらったほうがいいんだろうけど、麻理さんの
   場合は仕事をしている方が落ち着くのかなって」

かずさ「……そう。春希は?」

春希「俺? 俺は仕事に行くと思うけど」

かずさ「違くて……、ショック受けたりしてないのかなって」

春希「俺の場合は覚悟ってほどではないけど、麻理さんと一緒に暮らしていたからさ。
   だから、麻理さんの事を支える為の心構えくらいはできていたから大丈夫。でも、
   かずさはショックだったんじゃないか? 俺の事を気にするよりも、
   コンクールの事だけを考えていいんだぞ」

かずさ「コンクールは別に大した問題じゃないよ。本番は来年のジェバンニだし」

春希「でも、スポンサーとかあるって言ってたじゃないか」

かずさ「そうだけどさ、そのへんは母さんに任せてあるから」

春希「だったらなおさら今回のコンクールも頑張るべきじゃないか? 曜子さんも色々動いて
   くれているみたいだし、その期待には応えたほうがいいと思うぞ。
   その為の練習をしてきたんだし、今はコンクールに集中すべきだ」

かずさ「だけどさ、あたしのせいで風岡さんが…………」

春希「かずさだけのせいじゃない。俺のせいでもあるから」

かずさ「だけど、あたしの目の前で倒れたっていうのに、あたしは何もできなかった」

春希「それは仕方がないことじゃないか。
   誰だっていきなり人が倒れられたらパニックになるだろうし」

かずさ「でもっ、あたしが風岡さんを傷つけて」

春希「俺もかずさを傷つけた。日本で、かずさがいるって知らないでさ。…………駅前で
   見たんだろ? 俺が麻理さんに抱きしめてもらっているところ」

かずさ「あっ……うん」

 あの時の光景は今でも夢に出てきて、うなされて起きる事がある。
 春希の前から逃げたっていうのに、しかも会いに来てくれたのに会わなかったというのに
何を言ってるんだよって自分で自分を責めたいほどなのに、目の前で春希が離れていって
いるのを見せつけられてしまうと、あたしの覚悟の浅さを思い知らされてしまう。
 それと同時に春希への想いの深さを知ることにはなるけど、
そんなの春希に伝えなきゃ意味がない事だ。


春希「あれさ、なぐさめてもらっていたんだ。俺の心がボロボロになって仕事に逃げて、
   体までボロボロになっていたところを麻理さんに救ってもらおうとしていたんだ。
   麻理さんから逃げようとすれば、必ず麻理さんが追ってきてくれるって
   わかっていてさ、わざと逃げて、そして、抱きしめてもらった」

かずさ「……そっか」

春希「俺は、ずるいんだよ。麻理さんを罠にはめたんだ。その結果俺の体調は良くなった
   けど、俺以上に麻理さんの体と心はボロボロになった。なにやってるんだかって
   話だけど、俺のせいで麻理さんを傷つけてしまったんだ。……最低だろ? だから、
   麻理さんが完全復帰とまではいかないまでも、ふつうに食事ができて、
   仕事に打ち込めるようになるまでは待っていてほしんだ。
   それまでは麻理さんを一人にはできない」

かずさ「そうだよね。あたしもその方がいいと思う」

春希「だから、もう少し待っていてほしい。必ずかずさの元に行くから、
   だから、もう少しだけ時間がほしい」

かずさ「春希…………」

春希「身勝手な話だってことは重々承知してる。曜子さんにも呆れられるだろうし、
   かずさを傷つけてしまうってこともわかってる。でも、頼む。麻理さんを助けたいんだ」

かずさ「春希……。わかったよ」

春希「ありがとう」

 あたしは春希の顔を見ることができなかった。
 春希はあたしが怒っていいるか照れ隠しをしているんだろうと思っているみたいだけど、
実際のあたしはそんな綺麗なあたしではなかった。
 むしろ怒っていられればどれほどよかったことか。
 感情のままに春希に怒りをぶつけ、泣きさけんで春希を困らせる。
そして、駄々っ子になりさがったあたしをあやしてもらって、一件落着?
 そんな単純で、純粋で、綺麗事だけで済ませられる自分でいたかった。
 だってあたしは、春希に伝えられなかった。
 風岡さんは春希の研修が終わったら、
今のリハビリ共同生活を終わらせるつもりだって言ってたんだから。
 そのことを春希はまだ知らない。
 それなのにあたしは春希がしばらく待ってほしいという希望を聞き入れてしまった。
春希の事をしばらく待つ必要もなく、半年もすれば共同生活が終わるのを知っていた。
 だから春希の要望を聞き入れる事が出来たって思えてしまう。
 そんな醜いあたしが、そんな汚らしいあたしを、どんな顔をしているか
わかったものではないあたしを、春希に見せたくなかっただけだった。







翌日 かずさ


 翌日春希と一緒に病院に向かうと、風岡さんの体調は回復し、
今すぐにでも退院しようと準備を進めていた。
 その姿を見てほっとしたのと同時に、この強さの源はなにかなって考えてしまう。
 考えるまでもないか。だって春希に弱っている姿をいつまでも見せたくはないもんな。
 あたしだったらそうするだろうから、風岡さんならなおさらか。

春希「退院の許可は下りましたけど、今日いっぱいはしっかりと休んでくださいよ。
   医者もそうするように言っていましたし、もし休んでくれなければ、
   明日無理やりであっても休んでもらいますからね」

麻理「わかっているわよ。それに今日はもともと日曜日だし、休みの日よ。仕事はしないわ」

春希「それならいいですけど」

麻理「かずささんもありがとね。目の前で倒れられたらびっくりするわよね」

かずさ「あたしは何もできなくて、ごめん」

麻理「いいのよ」

かずさ「……でも」

麻理「それに、練習の邪魔しちゃって、こっちのほうが悪い事をしてしまったって
   思っているのよ。今日も練習あるのでしょ?」

かずさ「このあと行く予定」

麻理「そう。……曜子さんに毎日練習を聴きに来るようにって言われているけど、今日は……」


かずさ「いいんだ。そのくらい母さんもわかっているから」

麻理「ごめんなさいね。でも、春希医師の許可が下りでば行けるかもしれないから、その時はよろしくね」

かずさ「あぁ、でも無理はしないでほしい」

 春希は苦笑いを浮かべながら風岡さんの提案にさっそく不許可を示す。
 その姿がなんだか微笑ましく思えてしまう。ちょっと前までのあたしなら激しい嫉妬を
だだ漏れにしてしまっているはずなのに、今は心静かにその姿を見つめることしかできないでいた。

春希「じゃあ支払いの方を済ませてきますね。その間に持ってきた服に着替えておいて
   ください。あっでも、支払いに時間かかるだろうからゆっくりでいいですからね」

麻理「わかってるわよ。でも、休日だし支払いはすぐ終わると思うけど?」

春希「だったらもう一度担当医師とお世話になった看護師の皆さんに挨拶してきますから、
   ゆっくり帰宅の準備をしていてください」

麻理「はぁい」

春希「じゃあかずさ。後頼むな」

かずさ「あぁ、任せておけとは言えないけど、留守番くらいならできるかな」

春希「それで十分だよ」

 春希を送り出すと、さっそく風岡さんは着替えを始める。あたしが病室から出ていく
べきか迷っていると、風岡さんはあたしがいるのに着替え始めた。
 まっ、女同士だしいいか。それに、着替えの最中に倒れられても大変だしな。
 と、あたしはとりあえずエチケットというわけでもないが、
着替えを見ないようにと窓際まで進み、どことなく目を外へ泳がす。
 布が擦れあう音がしばらく続いたが、それもすぐに終わりを迎える。
 
麻理「お待たせ。服は着替えられたけど、汗で体がベトベトなのは嫌よね。
   はぁ……、早くお風呂に入りたいわ」

かずさ「病院に来る前に春希がお風呂の準備していたみたいだから、
    家に帰ったらすぐにお風呂入れると思うよ」

麻理「さすが春希ってところね」

かずさ「そうだな」

麻理「春希って昔からこんな感じなのかしら?」

かずさ「こんな感じって?」

麻理「女心には鈍感なくせに、他の事なら先回りっていうか事前準備が
   万全っていうのか。……そういう感じ、かな」

かずさ「それだったら昔からそんな感じだと思う。しかもお節介で、
    こっちの迷惑を考えないで行動するところがうざかったかな」

麻理「うざかったっていうことは、今ではうざいほどにかまってほしいって事じゃない?」

かずさ「そんなことは…………」

 この人に嘘をついても意味はないか。虚勢を張っても絶対に見破られるだろうし、
それにこの人には嘘をつきたくないっていうか。
 そうだな。日本にいるだろう彼女とは違うタイプ。そう、彼女とは正反対だけど、
それでも素直でまっすぐで、春希の事を想うだけじゃなくて、しっかりと前をみて行動できる人。
 今はやややつれた顔色を見せてはいるが、それさえも大人の魅力だと思えるほど人を引きつける。
 気丈に振舞う姿もやせ我慢とは違う意思がこもった言動は、
春希じゃなくてもそばで支えたいって思えたしまうんだろうな。
 そんな風岡さんが羨ましくて、逃げ出したくて、自分がみすぼらしく思えてしまう。
 でも、そんな人だから、春希だけじゃなくてあたしも認めたくなる人だから、
あたしも病気を克服してほしいって思えてしまった。

かずさ「そうだな。春希は昔からうざくて、こっちが迷惑だって追い払ってもしつこく
    付きまとってきたけど、今ではそれも懐かしいかな」

麻理「そっか。でも、私が知っている北原春希は、そんなねちっこさなんて見せは
   しなかったけど、物事の先を見て行動している奴だったかな。ほんとに大学生なのっ
   て思えるほどしっかりしていたけど、しっかりしすぎて自分の体っていうか、
   体調面なんて気にもせず働いてしまう部分は心配だったけどね。まあ、あとになって
   何故春希がそこまで体をいじめ抜いていたかを知ったら理解できたわ」

かずさ「春希は……、危うかったのか?」

麻理「そうね。こちらが止めに入らなければ働き続けていたでしょうね」

かずさ「あたしのせいだ」



麻理「自分だけを責める必要なんてないと思うわよ。失礼で、しかもお節介すぎるとは
   思うけど、春希から高校でのあなたたちのことは聞いたわ。身勝手な他人からの
   意見としては、みんな悪かったってことじゃないかしら? 当事者じゃないから
   適当なことしかいえないけど」

かずさ「お節介な奴には慣れているから大丈夫だ。それに、春希が教えたんなら、
    その必要があったってことだよ。だから、雑誌の記事にされるのは困るけど、
    風岡さんが知っている分には構わないよ」

麻理「ありがとう」

かずさ「いいんだ。……春希は、どうだったんだ?」

麻理「かずささんがいなかった間のことかしら?」

かずさ「あぁ……」

麻理「私も大学での春希を知っているわけでもないし、編集部では仕事を一生懸命
   やっていたっていうことしか知らないのよね。かずささんのことを聞いたのも
   つい最近だっていってもおかしくないほどだし。でも、そうね。春希も認めている
   事だけど、仕事をすることで見たくない現実から逃げていたわ。くたくたになるまで
   仕事して、大学でもきっちりと勉強して、そして家に帰ったら何も考えずに
   寝られるようにしていたって教えてくれたわ。やっぱり私も春希も、そしてかずささん
   も周りの評価ほど強くはないのかもしれないわね。いっつも見栄張って強いふり
   していても体と心はガタガタになってるし」

かずさ「そうだな。笑えないほど見栄張っちゃって、自業自得だ」

麻理「見栄を張る事自体は悪くはないわ。そこそこでやめられるようにしないといけど」

かずさ「高校で一度やめたピアノも、春希に引っ張られて再開したんだ。結局は春希から
    逃げる為にピアノを利用してウィーンまで行っちゃったけどさ」

麻理「春希は仕事で、かずささんはピアノかぁ。似た者同士ね」

かずさ「それは風岡さんもだろ?」

麻理「かもしれないわね」

かずさ「でもさ、ピアノは春希の為だけに弾いてきたわけじゃないけど、
    やっぱりこのままコンクールに出ないでウィーンに帰りたいと思う」

 あたしからしたら衝撃発言だと思うのに、風岡さんは驚かない。
 この人はやっぱりわかっていたんだな。
 あたしが逃げ出したいってわかっていたんだ。
 すべてを見透かすような瞳は嫌いじゃない。
だって、あたしを写す鏡みたいで、どこか応援したくなってしまうから。

麻理「そう……。春希には?」

かずさ「まだ伝えてない」

麻理「曜子さんには?」

かずさ「母さんは、わかっていると思う。あたしの練習を聴きに来ても何も言っては
    こないけど、たぶん母さんは全てわかっていると思う。
    あたしが弱い人間だと誰よりもわかっているからさ」

麻理「そうかしら?」

かずさ「なにが?」

麻理「曜子さんはかずささんが弱いって知っていると思うわ。母親であり、先生であり、
   なによりもかずささんの一番の理解者だもの」

かずさ「そうだろうな。ぜったい母さんには言えないけど」

麻理「そうね。いいお母さんね」

かずさ「外から見ている分にはそう思えるだろうな」

麻理「そうかしら? ……でも、いつも驚かされないといけないとしたら
   苦労するかもしれないわね」

かずさ「だろ?」

麻理「だけど、かずささんの将来を一番心配しているのも曜子さんだし、
   信頼しているのも曜子さんよ」

かずさ「あたしを過大評価しているだけだ。あたしは母さんみたいには強くはない」

麻理「だからウィーンに帰る?」

かずさ「そうだ」



麻理「あと半年もないわ。そうすれば春希はかずささんの元に戻るわ。だから……」

 風岡さんの魅力的すぎる提案にあたしの心は揺れ動く。
 弱いあたしは今すぐにでもあたしだけの幸せを求めようとしてしまう。
きっとこの幸せを手繰り寄せても幸せになると思う。
 春希も風岡さんのことを気にしながらも、あたしの事を誰よりも大切にし、
あたしだけを見ようとしてくれるはずだ。
 あたしも、たまに春希がニューヨークの方角によそ見をするのを気がつかないふりを
続ければ、穏やかで愛され続ける日々を送れるはずだ。
 だけど、それが本当にあたしが求める幸せなのかな?
 あたしだけが幸せになるって本当にあたしが求めるものかな?
 だってあたしは、春希に幸せになってほしい。
 誰よりも愛していて、世界でただ一人愛する春希には、幸せになってほしい。
 それに、あたしが幸せにしてあげたいとさえ思ってるし、
春希を幸せにするのはあたしの役目だって、誰にも譲れないって思ってる。
 だから、だからこそ、風岡さんが差し出す甘すぎる幸せは、受け取れなかった。






第57話 終劇
第58話につづく









第57話 あとがき


ようやくかずさの出番が増えてきて、ほっとしております。


来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派





第58話

麻理


かずさ「あたしは、……あたしは春希に弱っているところなんて見せられない。かっこ悪い
    ところを見せる事ができなくて、いつも空回りするんだ。その点風岡さんは自然体の
    自分を春希にさらせていて、うらやましい、と思ってしまうんだ。わかってる。
    わかってるよ。あたしの考えがずるいってわかってるんだ。でもさ、
    しょうがないじゃないか。どうしたらいいかわからないんだ」

 かずささんは私の事を素直で正直な女だとも思っているのかしら?
 私だって恥ずかしいものは恥ずかしいし、病気の姿なんて見せたくはないのに。
しかも、その原因が春希なんだから、その原因を知っている春希がどう感じているか
なんてかずささんならわかるはずよね。
 春希が私の側にいていくれる理由が純粋に愛情だけだったら、
それこそ喜んで病気だろうと、恥ずかしいほどの情けない姿だって見せてあげるわ。
 でも、春希が私の側にいてくれるのは責任感が大きく占めるのよね。
 それがどれほど辛いか。どれほど逃げ出したいか。
 どれほど春希から離れられなくなってしまうかなんて、かずささんはわかってない。
 ただかずささんは、このまま私がいなくなっても春希の気持ちがおさまらない、
風岡麻理を元気にできないままではいられないって思っているのかしら?
 そんなことはないのに。私が春希のもとをさったら、
今度こそ春希は私を一人にしておいてくれてしまう。
 私が春希の側にいるのが辛いという気持ちを理解してしまう。
 それに、春希はいつだってかずさんのことを一番に考えてしまっているのよ。

麻理「私だって春希にいいところを見せたいと思っているわ。ただ私の現状を考えると、
   いくらかっこつけても意味がないってだけだから、わざわざ意味もないあがきを
   していないだけ。だって、そんなことをしても春希が私に気を使わせるだけなのよ。
   だったら春希の為にも私は無様といわれようが情けない姿を春希にさらすわ。だから、
   かずささんが考えているみたいに自然体の私を春希に見せているわけではないわ」

かずさ「そんなことはないっ。だってあたしが風岡さんと同じような状況だったら、春希には
    見せられないよ。ぼろぼろのあたしなんて見せることなんてできない。
    それこそすぐに春希の元から逃げ出しているはず」

麻理「じゃあ、今も逃げてしまうのかしら? たぶん春希は追いかけてはこないわよ。
   だって、春希がかずささんの側にいることでかずささんを傷つけてしまうのならば、
   春希は自分から身を引いて、かずささんの幸せだけを考えてしまう、はずね。
   春希は自分の事よりもかずささんのことを考える人だもの」

かずさ「だろうな。実際あたしがウィーンに逃げても、追いかけてくるどころかメールの
    一つもくれなかったからな。ただ、あのことは他の理由もあったことはあったけど…………」

 あぁ……、そうだったわね。
 春希も高校での出来事がなければ、自分の気持ちに正直になってウィーンに言ってるわよね。
 まあ、そんな「もし」を考え始めてしまったら、そもそもかずささんはウィーンに行っては
いないのかもしれないし。ううん、春希のことだから、春希がウィーンの大学にでも入学
して、かずささんがピアノの勉強ができる環境を優先していたかもしれないわね。
 もしもの話はおいておいて、自分で言った事ではあるけど、今の春希はかずささんの為に
自分の感情を押し殺す事を平気で実践することができるって理解してしまうと、
春希は薄情な男って評価してしまいそうね。
 冷静に考えれば、春希の思いやりはただしいんだろうけど、女の立場からすれば、
私の気持ちなんて考えないで追いかけてきてほしいって思ってしまうのよね。
 そんな乙女心っていうのかしら? そういう所は気がつかない人だったわ。

麻理「だったら、今回は春希と向かい合うべきよ。プライドとか見栄とか考えないで、
   裸の冬馬かずさを晒せばいいのよ」

かずさ「それは……。あたしは春希の為なら、見栄とかプライドなんて捨てる事はできるさ。
    だけどさ、裸のあたしを春希に見せたら、きっと春希は困ってしまう。あたしも
    春希と一緒にいたいよ。一緒にいたいけど、一緒にいられない時間が辛いんだ。
    一緒にいられない時間がたくさんあって、それを突き付けられると辛い」

麻理「でも、高校を卒業してから3年会えていなかったわけだし、
   それに比べればあと半年くらいは我慢できるはずよ」

かずさ「そうじゃない。そうじゃないよ」

麻理「え?」

かずさ「あたしが知らない春希が増えていくことが辛い。わかってるよ。24時間ずっと
    春希の側にいられることなんてできないってわかってはいるけど、でもさ、春希と
    再会して、数年ぶりに春希への気持ちを再確認したら、
    前よりも春希の事を好きになっていたんだ。
    そうしたら春希とずっといたいって思ってしまった。それの何が悪いっ」

麻理「悪くはないわよ。それが素直な気持ちなら」

かずさ「今までずっと我慢してきたのが、嘘みたいにできなくなっちゃって。これからは
    我慢なんてできそうにない。だから、だからさ。
    これ以上あたしの気持ちが制御できなくなる前に…………」


麻理「逃げ出したい?」

 まるで私を見ているようね。
 私も春希から逃げるようにニューヨークに来たのよね。
 だって春希にはかずささんがいたわけだし、私が春希のそばにいたって報われる事はない。
 だったら一刻も早く春希の前から逃げ出すのが一番なのだけれど、でも…………。
 でも、おそらくかずささんもわかっているはず。
 春希の前から逃げたって自分の心を傷つけて、心のバランスが崩れるだけ。
 私みたいに味覚障害になるかはわからないけど、
最悪かずささんの場合はピアノが弾けなくなる恐れがありそうね。
 それこそ春希が自分の事を許せなくなりそうではあるけれど。

かずさ「そうだな。このままウィーンに帰ったほうがいいと思う」

麻理「私ね、思うのよ。春希はかずささんのずるい姿も見たいって思ってるって確信してる。
   だって春希ったら、私が人には見せたくもない弱っている姿を見ても
   態度を変えなかったわ。むしろ親身になって助けてくれた」

かずさ「何が言いたいんだよ?」

麻理「だからね、春希はかずささんの弱っている姿も、ずる賢い姿も、我儘を言っている姿も
   すべて見たいと思っているはずだわ。だって、春希だもの。春希の高校時代のことを
   話してくれたわよね。お節介でねちっこくて、こっちの都合なんてお構いなしで
   かまってくる委員長タイプだったかしら。だったら今もその委員長さんに甘えても
   いいのではないかしら? むしろ春希は積極的に甘えて欲しいと思っているはずよ」

かずさ「そう簡単にできるわけないだろ」

麻理「どうして?」

かずさ「それは……」

 かずささんが私にむけてくる視線は、眉は下がり、いつも力強い意思がこもった瞳は今は
影を落とし弱々しい。しかし、私がその視線に気がつくと、すぐさま視線を横にそらし、
気まずそうに目を伏せ、落ち着きがなかった。
 …………そっか。そうよね。春希のお節介は、
「今は」かずささんだけに向けられているわけではないのよね。
 それが期間限定であろうと、お情けであろうと、
私が拒否しなければ春希は風岡麻理を最後まで見捨てることなんてしやしない。

麻理「わかったわ」

かずさ「え?」

麻理「私も半年で春希の前からいなくなるのをやめるわ」

かずさ「え? えぇ~?」

麻理「そんなに驚かなくても」

かずさ「だって、だってさ」

麻理「そんなに恋敵が消えないのが残念なのかしら? あぁそうね。
   そもそも恋敵の地位さえもらえていなかったわね」

かずさ「ちがうって。そんなこと思ってないって」

麻理「じゃあ、私の事を恋敵だと?」

 やはり私の視線から逃げるように目をそらすかずささんであったが、
目にいつもの力強い意思が戻ってくると、真正面から私を見据える。

かずさ「あぁ、最大の恋敵だ」

麻理「それは光栄ねとでもいうべきかしら?」

かずさ「あんたもわかってるんだろ? 春希が同情や償いだけでここまで親身になったりは
    しないって。春希があんたを大切にしているのは、あんたを手放さないのは、
    愛情がこもってるからだってわかってるはずだ」

麻理「ここでイエスと言ってしまうと自信過剰だって自己嫌悪に陥りそうだけど、
   たしかに春希から愛情を感じているわ」

かずさ「やっとあんたも素直になってきたな」

麻理「あなたも遠慮がなくなってきたわよ?」

かずさ「こっちはいっぱいいっぱいで、遠慮なんてする余力なんてない」

麻理「それもそうね。私も余力なんてありはしないわけだし」

かずさ「でもさ、ちょっと冷静に考えてみると、春希って、ただの浮気やろうだよな」


麻理「極論すればそうかもしれないけれど、ある意味純粋に行動しているわけだし、
   なによりもかずささんを一番大切にすることはぶれていないのだから、
   ただの浮気と断罪するのはかわいそうかもしれないわ」

かずさ「なにいってるんだよ。こんなにも可憐な女二人を不幸にしているのに、
   なにが二人を幸せにしたいだ」

 あっ……、なんかかずささんのリミッターが外れちゃった?
 緊張が極限を超えてしまったから、こうなってしまったようね。ある意味ぎりぎりまで
張りつめた緊張感を乗り越えて演奏をしてきたピアニストらしい言動とも考えられるけど、
まっ、これは、ただの地ね。
 春希もかずささんはある一線を越えると遠慮がまったくなくなるって言ってたわけだし。

麻理「そうだけど、二人とも幸せにしようと奔走している姿だけは
   誉めてあげてもいいのではないかしら?」

かずさ「いいんだよ。ちょっとくらい愚痴を言っても」

麻理「でも、嫌いにはなれないのよね?」

かずさ「あたりまえだっ。それに、そっちもだろ?」

麻理「ええ、そうよ。本当は春希の研修後には春希から離れようと思っていたけれど、
   かずささんを見ていたら無理だってわかってしまったわ。だから、もう遅いわよ? 
   かずささんが駄々ををこねなければ邪魔ものが勝手に消えてくれていたのに、
   惜しい事をしたわね」

かずさ「ふんっ。そんな虚勢を張っていても、春希の前から消えて半年もしないうちに
    戻ってきそうじゃないか。あたしと違って我慢が出来ないようだからな」

 なにが我慢よ。どこかの忠犬みたいに、ずっとご主人様が来るのを待つなんて私には無理ね。
 どこかで諦めて忘れてしまうか、忘れる為に仕事に打ち込むか、
それとも、自分に正直になって会いに行くか、かしら。
 そうね、前の二つは今の私には無理か。
となると、必然的に最後の選択肢しかないのがまいってしまうところだけど。

麻理「そうよ。悪い?」

かずさ「悪いなんて言ってないよ。むしろ羨ましくもある」

麻理「なんだかいじらしいとも見る事もできるけど、じれったくもあるわね」

かずさ「言ってろ」

麻理「そんなかずささんの為に、一つ提案があるわ」

かずさ「どんな提案だよ?」

麻理「かずささんがニューヨーク国際コンクールに出るのは、調整の意味もあるけど、
   スポンサー獲得の意味合いもあるのよね?」

かずさ「たぶんね。スポンサーの方はコンクールで1位を取れば得られるのもあるけど、
    母さんはそれよりも数年単位でサポートしてくれるところを探しているみたいだな。
    あたしはタッチしてないから詳しいとこはわからないけどね。
    まあどちらにせよ、コンクールで1位をとる事は必然だな」

麻理「でも、コンクールで1位をとる自信はあるのよね?」

かずさ「当たり前だろ。なにせ本番は来年だからな。ここでつまずくわけにはいかないさ。
    それに、ニューヨーク国際のスポンサーは1位じゃないと意味ないからな。
    2位や3位にもサポートしてくれるみたいだけど、1位と比べると待遇が
    全く違うらしい。まさに別次元の待遇っていってもいいらしいよ」

麻理「だったらここでウィーンに帰るなんてできないわよね? 
   曜子さんが頑張ってスポンサーを探してくれているわけだし」

かずさ「それは……」

麻理「それに、1位になれば、ニューヨークを拠点にして演奏活動ができるのでは
   ないかしら? もちろんヨーロッパが本場だし、コンサートやコンクールのたびに
   ヨーロッパ遠征に行かなければならないけれど、それでも春希がいるニューヨークに
   拠点を構える事ができると思わない?」

かずさ「それは…………。ん? ちょっと待って」

麻理「なにかしら?」

かずさ「春希はニューヨークでの研修が終わったら、日本に帰るんじゃなかったのか?」

麻理「そんなことはいってないわ」

かずさ「でもあんた。半年たったら春希から離れるっていってたじゃないかっ」



麻理「それは、私が春希から離れる準備をするっていっただけよ。そもそも春希は
   ニューヨーク支部勤務志望だし、このままニューヨークに残ると思うわよ。
   実際その為に春希は実績を見積み上げているわ」

かずさ「だったらなんで春希から離れるって言ったんだよ。あんたもニューヨークにいるんだろっ」

麻理「まあそうね。あたしが上司なわけだし、春希とは職場ではいつも一緒ね」

かずさ「だったら春希から離れるとはいわないだろっ」

麻理「顔も見ないとは言っていないわ。共同生活をやめようと考えていただけよ」

かずさ「ちっさい決意だな。ぜんっぜん春希から離れようとしてないじゃないかっ」

麻理「あなたには言われたくないわね。何年春希の事を思い続けているのよ」

かずさ「言ったな! あたしが春希のことだけを想っていて何が悪い!」

 ようやく過激な本音が出て来たわね。
 …………それは、私も同じか。
 だってね。私も春希から離れることなんてできやしないもの。

麻理「悪くはないわ。だって、私もかずささんと同じ気持ちだもの」

かずさ「……そ、そうか。そうだよな」

麻理「だからかずささん。ニューヨーク国際コンクールで1位をとって、ニューヨークの
   スポンサーを勝ち取ってください。そして来年のジェバンニ国際コンクールでも最低でも
   4位に入ってください。曜子さんと同じ4位ならば、スポンサーも認めてくれる
   はずよ。そうすればかずささんのニューヨーク進出が本格的に始動するはず」

かずさ「簡単に言ってくれるな」

麻理「簡単だとは思っていないわ」

かずさ「でも、必ず結果を残せって思ってはいるんだろ?」

麻理「ええ、当然よ。だって、春希と一緒にいたいのでしょ?」

かずさ「あたしがニューヨークに来たら、あんたは都合が悪いんじゃないのか? 
    あたしが母さんとウィーンにいてくれた方が春希を独占できるんだぞ?」

麻理「いいのよ。私が春希をかずささんの元に戻ってほしいという気持ちに嘘はないもの」

かずさ「でも、それだけではないんだろ?」

 あら? わかってしまうのね。……似たもの同士だからかな。

麻理「かずささんがニューヨークで活動してくれれば、春希もなんの障害もなくニューヨーク
   に居続けてくれるわ。そうすれば、私もずっとは春希の側にいられないとしても、
   春希がかずささんのことばかり気にかけていても、
   病弱な私の為に少しくらいはお情けをくれるはずかな?」

かずさ「だぁぁ……、したたかなやつだったんだな、あんた。
    もうちょっと大人の人だと思っていたら、実際はあたしよりもガキじゃないか」

麻理「そうよ。春希が好きなんですもの。だから、側にいたい。…………かずささん。
   お願いします。春希の側にいさせてください」

 私は背筋をぴんと伸ばしてかずささんと向き合う。
 凛とした瞳で見つめ返すその瞳には、もはや迷いはなかった。
 おそらく私を映し出す効果もあるその瞳には、私にももはや迷いがないってわかってしまう。

かずさ「わかったよ。これも春希のためだからな」

麻理「ありがとう、かずささん」

かずさ「だから、春希のためだって。春希がニューヨークにいられれば、
    あんたのリハビリも継続できるからな」

麻理「そうね。早くよくならないとね」

かずさ「あんたの病気に関しては、あたしも協力するよ。この前あんたが倒れた時は何も
    できなかったけど、これからは違うからな。もう覚悟できたから、逃げたりしない
    からな。だからといって、しょっちゅう倒れられたら困るけどさ…………」

麻理「ええ、宜しくお願いします」

 こそばゆい雰囲気が私たちの肌を撫でていく。
 これが友情だっていうのならば、これこそ歪な友情よね。
 だって、愛する男を介しての友情なんていつ崩壊するかわかったものではないもの。
 だけど、今はこれも悪くはないと思えてしまっている。
冬馬かずさを知れば知るほど親近感がわき出てしまうから。



 いつかは本当に春希との別離を経験しなくてはならなくなるだろう。
 でもその時は一人ではないと思う。
 佐和子もいるけど、一番の敵であり理解者でもあるこの子がいてくれれば、
きっと私は立ち直れるって思えてしまう。

麻理「あとこれは言いにく事なんだけど、目上の人に対して「あんた」とか「そっち」は
   よしてくれないかしら? たしかにこちらの立場が下だとは思ってはいるけれど、
   もう少し人生の先輩を敬うとまではいかないまで丁重に扱ってほしいわね」

かずさ「だったら、……そうだな」

 かずささんは意地悪そうな笑みを浮かべている。
 これが冬馬かずさ本来の魅力だと、私は瞬時に理解した。
 いたずら好きで、自由奔放で、掴みどころがないくせに寂しがり屋。
 一人でいるのを求めながらも、愛する人や自分が認めた相手だけは手放さない。
 そういう可愛いらしい身勝手さを内に潜めた笑顔が、力み過ぎた私の肩から力を奪い取っていった。

かずさ「春希を好きになった後輩として、風岡さんのことを麻理さんって呼ばせてもらうよ。
    それと、麻理さんはあたしのことは元からかずささんだし、それでいいよ。
    もしかずさがいいんならかずさでもいいけど」

麻理「ありがとう。でも、私も先輩に対して呼び捨てにするわけにはいかないから、
   かずささんって呼ばせてもらうわね」

かずさ「そうしてくれ」

麻理「ええ、これからよろしく頼むわ」

かずさ「頼りにしてるよ」

 こうして私たちは協力する約束を結んだ。
 周りから見たら情けない女の同盟だっていわれそうだけど、
同じ男を惚れてしまったのだからしょうがないじゃない。
 それに、こんな歪な関係も、今は心地よいとさえ思えてしまっていた。




第58話 終劇
第59話につづく







第58話 あとがき


主人公は北原春希です。今まで出番が少なかったかずさの逆襲ではないはず?
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第59話



かずさ


 まっ、こんなものだろうな。
 ニューヨーク国際コンクルールの結果発表が行われ、
歓声がこだまする中、あたしは静かにその光景を見つめていた。
母さんは既にスポンサー候補だった企業担当者と今後のことについて話し始めているようだ。
 それなのにあたしとはいえばぽけっとしているだけで、
このコンクールの勝者であるはずなのに静かに時に身をゆだねすぎていた。
 別に嬉しくないわけではない。1位を取る予定だってし、1位を取りたいとも
思っていた。これで麻理さんとの約束も一部分だけだけど果たす事が出来た。
 といっても、ここからが本番であり、来年のジェバンニで勝つことこそ
大仕事なのだが、今はその本番のことさえも頭から薄れていた。

春希「かずさ、おめでとう」

麻理「おめでとうございます」

 この場の雰囲気に不釣り合いなオーラを撒き散らしていたせいか、
1位をとったのはあたしだというのに誰も寄りつこうとはしなかった。
 もともと目つきがきついとか、人を寄せ付けないオーラがあるとか言われては
いたけど、こうも露骨にされてしまうとすがすがしくもある。げんに、1位のあたしを
差し置いて2位や3位の奴らの周りには取材攻勢が盛り上がり、
あたしの周りには春希と麻理さんの二人がいるだけだった。
 あとで春希から聞いた話によると、あの二人は地元アメリカの注目ピアニストで、
つまりは地元の期待の星ってやつだったのだろう。
 こういっちゃなんだが、あたしが1位をかっさらっちゃって悪かったなってさえ、
聞いた直後には言いたくもなったってしまった。まあ、あたし達はすでに帰宅した
あとだったから、言うとしても春希と麻理さんにしか言えないんだけどさ。

かずさ「あぁ、そっちもお疲れさん。ほかの取材は終わったのか?」

春希「もともとかずさの特集記事を書く為に俺達があてがわれただけだから、ほかの
   ピアニストのものは代表質問のだけで十分だ、それよかかずさ。お前、せっかく
   1位貰ったんだから、もうちょっと愛そう良く質問に答えろよ。お前のあとで
   インタビューされていた2位の人の方がよっぽど愛そうが良かったし、途中から
   参加した奴がいたとしたら、かずさではなくて2位の人が1位だったと
   勘違いするほどだったぞ」

かずさ「べつにいいだろ。あたしが1位だったことは変えようがない」

春希「そうだけどさ。もうちょっと嬉しそうにできなかったのか?」

 どうも春希はあたしが1位らしからぬ言動に、ご機嫌斜めらしい。
 春希からしたら、もっとこの場で輝いた冬馬かずさをみたかったのかもな。
 でもさ春希。あたしは春希だけに見てもらえればいいとさえ思ってるんだよ。
ほかの連中になんて見てもらいたいと思わないし、見せたいとも思わない。
なんて言ってしまうとさ、春希の事だからピアニスト失格だなんて、お説教しそうだよな。
でも安心しろ。ピアノは別だ。ピアノの前ではあたしは正直でありたいし、誠実でもありたい。

かずさ「あたしも嬉しくないわけではないよ。でもさ、来年が本番なんだぞ。今回とは
    比べ物にならないほどのプレッシャーがあるし、参加者のレベルも高くなる。
    だから、ここで喜んでいる場合でもないのかなって」

春希「そ、そこまで考えてたのかっ」

春希が馬鹿でかい声をあげるものだから、周りにいた連中がこっちを見てるじゃないか。
それでも元々騒がしい会場とあって、すぐさまあたしたちへの興味は霧散していく。

かずさ「春希も大概だな。あたしをなんだと思ってるんだよ?」

春希「ごめんっ。かずさのことを馬鹿にしていたわけじゃないんだ。ただなんていうか、
   俺が知らなかった冬馬かずさっていうのかな。ピアニストの冬馬かずさと初めて
   向き合ったっていう感じだと思う。だけど、かずさのピアノの腕は昔っから
   尊敬しているし、ファンでもあるんだからな」

かずさ「わかってるよ。そんな急いで言い訳しなくてもわかってるさ。それに、あたし自身
    もあたしが冷静でいる事に驚いてるっていうのかな。ちょっと変な気分でもある」

春希「そうなのか? それはかずさがピアニストとして生きていく心構えが
   できてきたって事じゃないのか?」

かずさ「かもしれない。あたしも母さんにひっついてコンサートに行っていたからな。
    やっぱプロってすごいよ。楽器の腕だけじゃなくて演奏に入るまでの準備も
    すごかった。あとはそうだなぁ……。スポンサーとかもそうだし、美代ちゃん
    みたいに支えてくれている人たちがいる事も少しはわかってきたかな」

春希「それ、記事にしてもいいのか?」


かずさ「うん? 別にいいよ。どうせ今まで一緒にいたけど、何が記事になって何が記事
    にならないかさえ分からなかったからな。それに、もし問題があったら母さんが
    ストップを…………かけないだろうな、絶対。笑いながらゴーサインだすぞ。
    あぁ~、春希。わかってるよな。あたしに恥かかせるような記事は書くなよ」

春希「メインのライターは麻理さんだから、俺がどうこうできる立場じゃないよ。でも、
   麻理さんがかずさのことを悪く書くとは思えないから安心しておけ。もしかずさが
   悪印象をもった部分があっても、それはかずさが突かれたくはない部分であり、
   直さないといけない所だと思うぞ」

かずさ「自分のことじゃないからって好きかって言ってくれるな」

春希「自分ことだよ。かずさのことは他人事じゃない」

かずさ「春希ぃ……」

 授賞式の興奮よりも、今春希がくれた心の方が数倍嬉しかった。
 ウィーンに逃げ、春希との繋がりが消えていき、あたしの存在さえも春希から消えて
しまう恐怖におびえてきたこの数年。今やっとその苦しみから解放された気がした。
 晴れ渡る空なんて陳腐な言葉で表現したくはないけど、元々語彙力が乏しいあたしには
今の気持ちを表現なんてできやしない。
春希や麻理さんなら、的確な言葉を選び、言葉だけであたしの感動を表現できるかもしれない。
 でも、あにいにくあたしにはその能力を持ち合わせてはいない。
 だったら、あたしにできる事といったらこれしかないよな。

かずさ「ちょっと待ってて。いや、こっちに来てくれ」

 あたしは春希の手を掴み、人混みをよけ進んでいく。
 行き先は決まっている。このコンクールで一番活躍したというのに、
今は部屋の片隅でオブジェになり下がっている黒い相棒。
 黒髪に、黒のドレス。それに黒いピアノ。
 黒づくしで派手さなんてものは全くない。それでもいい。
あたしの黒髪が好きだって言ってくれる春希がいればいい。
 この地味なドレスがよく似合ってるって誉めてくれた春希さえいればいい。
そして、あたしの一番のファンでいてくれる春希の為なら喜んでピアノを弾いてやるよ。
 だから聴いて欲しい。言葉にはできないけど、きっと春希になら届くはずだから。
あたしはピアノの鍵盤に指をのせ、春希に頬笑みかけると、春希の為だけに演奏を始めた。







 あたしたちは会場から早々に引き揚げ、家に戻り最後のインタビューをしていた。
 会場ではあたしの演奏で火がついたのか、ほかの受賞者までも演奏を初めてしまい、
会場はある種のパニック状態であった。
 まあ、会場にいた人たちは喜んでいたみたいだし、問題はないか。
演奏後のあたしにインタビューしてこようとするやつやら、ただ話しかけてくるだけのやつ
やらとか、面倒事に巻き込まれそうにはなったが、人のうねりがあたしを助けてくれた。
 そして今、麻理さんと春希によるインタビューは終わり、
これで全ての取材が終わった事になる。
 そうなるとあたしはここから出ていくことになるし、
そもそもコンクールが終わったのだからウィーンに帰る事になる。
 別にここに残りたいって駄々をこねるつもりはない。あたしが成長していくには
ニューヨークじゃ無理だから。
 今はウィーンで自分と向き合い、フリューゲル先生と母さんの教えに従って
練習しなければジェバンニでは勝てやしない。
 それに……、今のあたしじゃここにはいられないよ。いたらきっと嫉妬するし、
心が乱れまくってピアノどころじゃないだろうしな。

麻理「これで取材はお終いとなります。かずささん、ありがとうございました」

かずさ「いや、こちらこそ世話になったよ。だから、こちらこそありがとうだ」

麻理「記事については曜子さんのほうで処理するそうですから、かずささんもなにか
   あったら早めに言ってくれると助かるわ。差し替えしたい個所があるのなら、
   早めでお願いするわ」

かずさ「その辺は母さんに任せるとするよ」

麻理「春希」

春希「はい?」

麻理「明日かずささんはウィーンに戻ってしまうのだし、あとは二人でゆっくり
   話し合いなさい。私は今まで取材したのをまとめているわ」

春希「お言葉に甘えさせていただきます」

麻理「じゃあ、かずささん。素直になりさない」

かずさ「……善処する」



 ほんと、素直になれたらっていつも思うよ。
 麻理さんは、あたしと春希をリビングにおいて自室へと戻っていく。
 あらたまって話し合いをしろっていわれてしまうと、変に緊張してしまう。
 それは春希も同じようで、なんだか落ち着きがない。ソファーを何度も座りなおして
いるのを見ていると、なんだか可愛らしく思えてしまい、あたしの肩が軽くなってしまった。

春希「どうした?」

 きっとあたしは笑ってしまっていたのだろう。
 だって、春希の顔が微妙に引きつってるから。

かずさ「いや、さ。うん。春希も緊張するんだなって」

春希「そりゃあするさ」

かずさ「そうだよな」

春希「でも、かずさのほうがすごいじゃないか。
   俺だったらあんな大舞台で演奏なんてできやしないぞ」

かずさ「そうかな? 春希だって学園祭で演奏したじゃないか」

春希「あれは高校の学園祭だろ。かずさが今回演奏したのは世界的に有名なニューヨーク
   国際コンクールであって、規模が違いすぎるだろ」

 春希にとってはそうかもしれないよな。
 でも、あたしにとっては同じなんだよ。聞いて欲しい人がいて、
その人の為に弾くんなら、どこで弾いても同じプレッシャーをうけるだけなんだ。

かずさ「会場に来ている客が違うだけだろ?」

春希「そんな単純なものじゃないと思うんだけどな」

かずさ「単純だよ。あたしは峰城大学附属高校3年E組、軽音楽同好会所属の冬馬かずさ
    であって、……いや、元峰城大であり、元軽音楽同好会所属かな。まあいいか。
    ……えっと、その春希がよく知る第二音楽室でピアノを弾いている冬馬かずさに
    すぎないんだ。ウィーンに行こうがニューヨークで弾こうが、
    どこであってもあたしは春希がよく知る冬馬かずさなんだ」

春希「かずさ?」

かずさ「だからさ、その………………あたしは北原春希が大好きな冬馬かずさにすぎない
    んだ。いつも春希を盗み見て、春希の事ばかり気になって、春希にあたしのこと
    だけを見てもらいたい冬馬かずさなんだ。今日の演奏も1位を取れたけど、
    やっぱ駄目なんだなって思う。母さんの演奏をそばで聴いていると、次元が
    違うと言ってしまえばそれまでだけど、冬馬曜子とは見ている世界が違うんだ」

春希「目指すべき目標みたいなものが違うってことか? 
   それともピアニストとしての格が違うとか?」

かずさ「どうだろうな。母さんもあれはあれですごい人格者でもなく、最低な母親である
    部分もあるから、高尚な目標があるわけでもないんだとは思う。だけど、
    ピアニストとしては尊敬してる。あの人を追い抜きたいって思ってはいる」

春希「ピアノの技術とかの問題ではないんだろうな」

かずさ「もちろん技術的な問題もあるけど、
    やっぱり……見ている世界が違うのが大きな問題だと思う」

春希「そっか。いつかかずさも曜子さんが見ている世界を見られるといいな」

かずさ「あぁ、……そうだな」

 簡単に、言うなよ。

春希「俺に出来る事ならなんでもするからな。なんたって、
   俺は冬馬かずさの一番の大ファンなんだから」

 だから、そんな事を言うなって。
 春希にできることはあるよ。でも、それをしてしまうと、さぁ……。

かずさ「本当にあたしの為なら何でもしてくれるのか?」

春希「もちろん。かずさが曜子さんの領域に行けるのなら、俺は喜んでなんでも協力するぞ」

 嬉しそうな顔をして言うなよぉ。泣きたくなるじゃないか。
 って、泣いてるのかな、あたし?

春希「かずさ?」

かずさ「よしっ。今の言葉忘れるなよ。あたしの為になんでもしてもらおうじゃないか」


春希「ちょっと待て、かずさ。なんで泣いてるんだ? おい、かずさ」

かずさ「それ以上あたしに近寄るな。近寄っちゃ駄目だ」

 あたしの必死の抵抗も春希には効果はない。
 何度も泣きやもうと試みて失敗するあたしを見ては、
春希はあたしに触れなぐさめようと前に進み続けてしまう。

かずさ「近寄るなっっっ!」

 自室に戻っている麻理さんにも聞こえているんだろうなぁ。
きっとあの人の事だから、あの人だからこそあたしの気持ちをわかってしまうはずだな。
 そっか。麻理さん。こういう気持ちだったんだ。
春希の為であり、あたしのためであり、麻理さんの為でもある決断。

春希「かず、さ?」

 怒りにも近い感情を呼び起こし、あたしの弱すぎる心を奮い立たせる。
 意味がわからず戸惑いを見せる春希に、悪い事をしたなって思いもある。
 でもさ、今は無理だよ。自分勝手な方法しか考えられないんだ。
 あたしのことなんて忘れくれ。
そうしないと北原春希が尊敬するピアニスト冬馬かずさは誕生しないんだ。
 そして、そうしないと春希の隣に居続ける資格もない。
 甘えてばかりの冬馬かずさは今日でお終いだ。
 でも大丈夫だよ、春希。春希の隣には麻理さんがいるからさ。
 麻理さんなら傷ついた春希を支えてくれるはずだよ。
 そうだな。世界で二番目に春希のことを愛しているこの人なら、
春希を前に進めさせてくれるはずだ。
 だから、…………さよなら春希。

かずさ「あたしたちってさ、恋人になったわけでじゃないよな」

春希「そうだけど、俺はかずさのことが……」

かずさ「言うなっ!」

春希「かずさ?」

かずさ「ごめん。今はごめんしか言えないんだ」

春希「……わかった」

 ごめんね、春希。今は春希の優しすぎる言葉は致死毒なんだ。
 ほんのちょっとでも触れてしまえば溺れてしまう。

かずさ「恋人ではない。でも恋人に近い関係だと勝手に思っていたから、いいよね。
    こうやって別れ話をしても、いいよね? ちょっと変だけどさ」

 もはや春希は口を挟まない。
 あたしの言葉を一言も、息継ぎの呼吸さえも聞き逃すまいと耳を傾けてくれる。

かずさ「峰城大学附属高校3年E組、軽音楽同好会所属、冬馬かずさは、
    同所属の北原春希と、別れます。あたしと別れてください」

 あたしの言葉、届いたかな?
 届いたか。だって春希が絶望したって顔してるもんな。
 わかってるよ。なんでこんな残酷な仕打ちをしたのかって考えてるんだろ?
 あたしだって、あたしだって、さ。
 …………………こんなのやだよぉ、春希ぃ。

春希「本心か?」

かずさ「あぁ、そうだ」

春希「決めていたのか?」

かずさ「どうかな? 決心できたのはさっきかな?」

春希「さっき?」

かずさ「あぁ……、授賞式のあとでピアノ弾いた時」

春希「あれか」

かずさ「うん、そう」

春希「その決断は覆らなんだよな?」

かずさ「当然だろ」

春希「…………わかった」

 いやだっ! もっとあがいてよ。もっと身勝手になってよ。あたしをさらってよ。
 ピアノをやめろって言ってくれ!


春希「明日ウィーン帰るんだよな?」

かずさ「その予定」

あたしは、あたしは春希が大好きなんだ。ここに残ってピアノだってやめたっていいんだ。
 でも、それじゃダメだんだ。
 今のままのあたしじゃ、ピアノをやめたとしても駄目なんだ。
 高校時代のあたしのままでは、素直に春希と向き合えない。
 だから、ここでさよならだ。

春希「一ついいか?」

かずさ「……どうぞ」

春希「ありがとう、好きでいてくれて。………………でも俺が、北原春希が冬馬かずさの
   ことを、好きでいるのはいいよな? 俺が勝手に憧れて、
   勝手に好きでいる分にはいいよな。頼む、それだけは認めてくれ」

 ずるい。
 ずるいよ、春希。
 あたしに直接毒を送り込むなよぉ。不意打ち過ぎるだろ。

春希「かずさ?」

 春希がさらに困惑したって顔をしているかはわからない。
わかってたまるか。春希が悪いんだ。あたしの決心をずたぼろにした、春希が悪いんだ。

春希「俺は近寄ってないぞ?」

かずさ「当たり前だ。あたしが春希に抱きついたんだからな」

 あたしは春希の胸に飛び込んでいた。
 しっかりと背中にまで腕を回し、けっしてほどけないようにと力を込める。
 あたしの弱さに気がついてしまった春希は、あたしをあやすように抱きしめてくれた。

春希「そうだよな。でも、なんで?」

かずさ「にぶいぞ春希」

春希「すまない」

かずさ「それが北原春希だから、しょうがないか」

春希「面目ない」

かずさ「いいって。そんな春希の事を愛してるんだからな」

春希「かずさ?」

かずさ「本当はもっと恰好よく別れて、そして、もっと恰好よく再会する予定だった
    んだぞ。それをぶち壊しにしやがって。どう責任とってくれるんだ」

春希「すまない。理解不能っていうか、よくわからない。できれば俺が理解できるように
   順を追って説明してくれると助かる」

かずさ「わかったよ」

春希「ありがとな」

 本当ならソファーに座ってゆっくりと話すべき内容なんだと思う。
 だけど今は一秒だって惜しいんだ。いくら本当の別れをしないとしても、
明日ウィーンに戻る事実だけは変えようがないからさ。
 だから今は春希を近くで感じさせてもらうからな。

かずさ「春希と別れたいっていっても、今のあたしも高校時代のあたしも
    同じあたしだし、春希が大好きな気持ちは変わらないよ」

春希「ありがとうって、いうところか?」

かずさ「おそらく。まあ、今はいいよ」

春希「わかった」

かずさ「でもさ、高校時代のあたしっていうか、今のあたしは高校時代のあたしのまま
    なんだ。春希だけを愛して、春希だけを見て、春希だけのために演奏している。
    それじゃあピアニストとしては死んでしまう」

春希「それが曜子さんと見ている世界が違うってやつなのか?」

かずさ「厳密に言えば、母さんだって男の為だけに演奏する事もあるよ。コンサート
    だっていうのに自分の酔いしれて、観客を無視して自分の為だけに
    演奏した事さえあったんだ」


春希「それはすごいな」

かずさ「でもさ、母さんはいつだって世界を見てる。いっつもただ一点だけを
    見ているって事はないんだ。だからピアニストとしての限界は果てしなく高い」

春希「つまり……」

 ここまで言えば、春希もわかってしまうよな。
 あたしのそばに春希がいることこそがピアニスト冬馬かずさにとっては害悪だって。

かずさ「あたしが春希だけを見続けている限り、あたしの演奏の幅はそこで死んで
    しまう。ピアニストとしては完成されちゃって、面白みがないピアニストに
    なってしまう。そんな聴いていても興奮しない奏者なんて面白くないだろ?
    だれが馬鹿高いチケットを買ってまで聴きに来るっていうんだ」

春希「かずさの為、なんだよな?」

かずさ「そうだ」

春希「ピアニスト冬馬かずさは世界を目指すんだよな」

かずさ「そうだ」

春希「ジェバンニ。1位とれよな」

かずさ「それはぁ……、善処する。いや、春希の為に取るよ。…………ちょっとまて。
    春希の為って言っちゃ駄目なんだよな。あたしの為に取る。これでいいか?」

 笑うなよ。こっちも必死なんだぞ。

春希「その時はインタビューさせてくれるか?」

かずさ「独占インタビューだ」

春希「それはありがたいな」

かずさ「あたしの事を誰よりもわかっている記者だからな」

春希「そのためにも研修が終わっても、このまま編集部に残れるようにしないとな」

かずさ「ニューヨークにいてくれよ」

春希「ここに?」

かずさ「その予定なんだろ?」

春希「そうだけど」

かずさ「あたしはジェバンニで1位をとって、そしたら、ニューヨーク国際の副賞の
    コンサートで、ニューヨークに凱旋してやる。スポンサーも喜んで
    くれるだろうから、きっと盛大なコンサートになるぞ」

春希「楽しみだな」

かずさ「楽しみにしていてくれよ」

春希「あぁ。チケットも、一番前の席を買ってみせるよ」

かずさ「一番前は、演奏を聴く場所としてはあまりよくないんだぞ」

春希「かまわない」

かずさ「そっか」

春希「かずさに一番近い場所で聴きたいんだ」

かずさ「…………っ」

春希「かずさ?」

 ひどいよ。ひどいよぉ、春希ぃ。
 やっぱり、別れたくないよぉ……。
 でも……、でもさ、クラスのお節介焼きだった北原春希の好きな、
かっこいい冬馬かずさを、見せてあげたいんだ。

かずさ「もし、……もしあたしたちが恋人になる未来があるのなら、
    きっとあたしたちは再会する」

春希「そうだよな」

 涙で春希の顔が見えないよ。
 ……でも、もういいよな。
 今からは素直な冬馬かずさでもあるんだから。


かずさ「なんて言ったけど、ジェバンニには聴きに来てくれるんだよな?」

春希「おそらく。今回の記事がよければだけど」

かずさ「その辺は麻理さんがメインライターだから大丈夫じゃないの?」

春希「そうだな」

かずさ「だったら、ジェバンニで待ってる」

春希「必ず行くよ」

かずさ「それに、時期は未定だけどニューヨークでのコンサートは決まってるから、
    春希がジェバンニにこれなくてもあたしの方から会いにくるけどな」

春希「そうなってしまうと、さすがにかっこ悪いから、絶対にジェバンニに行くからな」

かずさ「期待してるよ」

春希「あぁ、期待していてくれよ」

かずさ「最後にもう一ついいかな?」

春希「どうぞ」

かずさ「春希と再会して、あたしが春希の元に戻ってきた時。その時春希があたしの事を
    愛してくれていたら、そのときは、あたしがもうどこにも行けないように、
    ずっと抱きしめていてほしい。その時には、春希だけしか見えなくなっても
    大丈夫になっておくらかさ」

春希「約束する」

かずさ「あぁ、約束だ」

 こうしてあたしは春希と決別して、翌日にはウィーンに帰って行った。
 




第59話 終劇
第60話につづく







第59話 あとがき



春希視点を最近書いていない現実……。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派





第60話




麻理


 春希とかずささんがニューヨークでの最後の夜を過ごしている中、
私は自室でインタビューしたものをまとめていた。
 冬馬かずさの人物像を組み立てていくほど、
春希がこの子を好きになった理由がよくわかってしまう。
 かずささんに嫉妬していないといえば嘘にはなる。私も大人になったといっても聖人君子に
なったわけではないのだから、一人の大人の女性として、
好きな男性が他の女性に夢中になっていればヤキモチを妬いてしまうのは当然のこと。
 綺麗事を言ってしまえば、この黒くなりきっていない嫉妬を表に出さないのは好きな男の
為でしかないともいえる。でも、春希の為に行っている事とも言えるけど、
本当はたぶん私が無理なんだと思う。
 かずささんから春希を奪ってまで幸せになりたいとは思えない。
 それをしてしまったら、きっと私は不幸になってしまうもの。
 もし春希を奪ってしまったら仕事ができなくなって退職して、
春希以外のものには興味さえなくなってしまう気がしてしまう。
 そんな私を想像すると、嫉妬する事さえ怖くなってしまう。
 それと同時に、そんな甘美な世界なら溺れ死んでしまいたいという女の私もいる事は
消しようもない事実なのよね。
 だけど、私が求める未来ではない。
 私は幸せになりたいけど、春希には、私以上に幸せになってほしいもの。
 だから春希を奪う事はしない。
だから、…………奪わないから、今は、今だけは、ちょっとだけでいいから甘えさせてください。
 インタビューのチェックが進み、一区切りがつくころには日付が変わっていた。
 日本にいるときだったらあたりまえの工程日程であって、
24時が過ぎてもまだまだ就業時間ではあった。
ところがニューヨークに来てからは、体の不調もあって健康的すぎる睡眠をとるようにしている。
 だから、今の24時は本来ならばベッドの中にいる時間だった。
 そこに、控え目にドアを叩く音が告げられる。
 一番最初に頭に浮かんだのは春希だった。
 まっ、当然よね。一緒に住んでいるんですもの。だけど、春希が夜中に会いにくるかしら?
 よっぽどの緊急事態なら来るでしょうけど、基本春希は私の睡眠を邪魔しないのよね。
だから春希という選択肢はすぐに取り下げられた。変わって浮上したのは、かずささんだった。
 候補は二人しかいないのだから、当たり前だけど。

麻理「どうぞ」

かずさ「ちょっといいかな?」

 私の予想は当たり、ドアの隙間から顔を覗かしたのはかずささんだった。

麻理「大丈夫よ。仕事の方ももう終わりにする予定だったから」

かずさ「お邪魔します」

 やっぱり仕事に逃げるなって、春希に言えなくなっちゃったわね。
 今日も春希とかずささんが一緒にいるってわかっているだけで落ち着かなかったもの。
だから仕事をして、仕事にのめり込もうとしてしまった。
 皮肉にも、仕事の内容は冬馬かずさなのだから、嫌なめぐり合わせね。

麻理「そこの椅子に座ってね」

かずさ「ありがとう」

麻理「春希とは、しっかり話せた?」

かずさ「おかげさまで」

麻理「……そう」

 かずささんは私の顔を見て、そして床を数秒ギュッと凝視してから勢いをつけて顔を
あげると、内に貯め込んだ思いを一気にぶつけてきた。

かずさ「あたしには、力を貸してくれる母さんがいる。そして、ピアノもある。
    でも麻理さんは、春希がいなくなったら大切な仕事を失うかもしれない」

麻理「大げさねっていえないところが辛いわね」

かずさ「あたしも似たようなものだからな」

 自嘲気味に笑うその姿に、親近感を覚えてしまう。
 きっとかずささんの言う通り、私たちは似すぎているのだろう。
好きな人まで似てしまった事は残酷ではあるけれど。

麻理「でも私にも佐和子っていう親友がいるわ。今は日本にいるけど、ちょくちょくこっちに
   来てくれるのよ。やっぱり旅行代理店勤務っていうのは、こういうときは便利よね」


佐和子、ごめんっ。便利だっていうところには嘘はつけないけど、本当に感謝しているのよ。

かずさ「だけど今、仕事に支障をきたしているだろ?」

麻理「そう、ね」

かずさ「今春希がいなくなったら麻理さんは駄目になってしまうよね?」

麻理「ごめんなさい」

かずさ「いいんだ。あたしもこのままだとピアノが駄目になるかもしれないからさ。
    だから明日ウィーンに帰るよ」

麻理「……そう」

かずさ「驚かないんだな」

麻理「どうして驚くのかしら?」

かずさ「だってさ、あたしのことだから、このままニューヨークに残るって言いだすと
    思ってたんじゃないのか?」

麻理「そうね。そういう可能性もあったのかもしれないわ。
   でも、かずさんは春希を幸せにする事を選んだのでしょ?」

 私の発言に、逆にかずささんを驚かせてしまう。
 はっと息を飲み、照れ隠しなのかすごくきつい目つきで睨んできたかと思えば全身の力が
脱力してふにゃけてしまっている。
 こんな妹がいたのなら、きっと可愛がって恋の応援なんかしてしまうのだろうな。
 …………恋愛レベル平均以下の私がなにを偉そうにって佐和子に言われるかな。
 でも、自分の事じゃないからのめり込むっていうか、……まあ、今は関係ないか。

かずさ「聞こえていたのか?」

麻理「かずささんが叫んだ声が一度だけ聞こえてきただけよ」

かずさ「やっぱりあれを聞いちゃったら全部わかっちゃうんだな」

麻理「なんとなくだけどね」

 これも密着取材をして、なおかつ春希とかずささんが一緒にいてくれたからこそ見られた
冬馬かずさであって、私一人では無理だったろうけど。
 恋敵とも言える私に見られてしまって嫌だったかもしれないわね。
 でも、謝らないわよ。私だってひっどい状況の自分を見せたと思うから。

かずさ「そっか」

麻理「…………ええ」

 なんとなくどうなったかは想像できるけど、聞いてもいいのかしら?
 興味ないなんていい子ぶるつもりもないから、正直聞きたい。
 春希がどうなるか、すっごく聞きたい。
 だって、私にとっても死活問題なのよね。そもそも心の準備をする時間くらいは欲しいし。
 …………えっ?

かずさ「ごめんごめん。馬鹿にして笑ったんじゃないよ」

麻理「まあ、そうよね?」

 もうっ……。私ったら顔に出てたみたいね。
 たしかに心の底から聞きたいのも事実だから、顔に出てしまうわよね。
 そう自分を慰めはしたものの、羞恥心が私に押し寄せ身を小さくさせてしまう。
 年下の女の子に、しかもかずささんに年甲斐もない姿を見られてしまった……。
恥ずかしいすぎるわよ。春希にだったらいくらでも情けない姿を見せるのに慣れてしまったけど、
……いやいや、そもそも春希に対してだって情けない姿は見せちゃいけないのよね。
 えっと、なんでかずささんの前でも無防備になってしまったのかしら?

かずさ「麻理さんってかわいいな。春希が好きになるのも頷けるよ。
    あたしにはできなかったからさ」

麻理「かわいい? 年上をからかわないでよ。私からしたら、
   かずささんの方がずっと健気で可愛らしいと思うわ」

かずさ「そう思えるのは日本でのあたしを知らないからだよ」

麻理「日本での……? 高校のときってことかしら?」

かずさ「春希から聞いているんだよな。そう言ってたし」

麻理「ごめんなさい」

かずさ「いいんだ。前もあたしに謝ったけど、その時も気にしていないって言っただろ?」


麻理「そうだったわね」

 春希が深く傷ついていたのだから、きっとかずささんも傷ついていたはずよね。
 自分を責めて、何度も逃げ出そうとしては捕まって、なおも自分を許せないという悪循環を
何年も続けていたのに、どうして今はそんなにも気丈でいられるの?
 春希がいるから?
 私が春希と共に病気と闘っているみたいに、かずささんも春希と再会したことによって
強くなったとでもいうのかしら?

かずさ「違うよ」

麻理「ごめんなさい。やはり以前許してくれた事は……」

かずさ「それも違うよ」

 かずささんがなにが違うと言ってるのかわからない。
 だから私は訝しげな視線をかずささんに送ってしまう。
でもかずささんは、私を見ても嬉しそうに肩をすくめるだけだった。

かずさ「ごめん。あたしの中だけで理解してたことだった。
    ちゃんと言葉にしないと伝わらないよな」

麻理「そうね。できれば言葉で伝えて欲しいわね」

 ちょっと拗ねすぎた口調だったかしら?
 ……ちょっと待ってよっ。今の私たちって、私の方が年下みたいじゃないの。

かずさ「わかったよ。そのね、麻理さんが、あたしが春希と再会したから強くなれたって
    思ってるんじゃないかと思ったんだ。だからそれは違うと言ったんだ。いやさ、
    麻理さんがそういうふうに考えて、自分を責め出しそうな勢いだったから、
    それは違うよって先に言ってしまったんだ」
 
麻理「シンパシー?」

 私も口から自然と言葉がこぼれてしまった。
 脳が理解する前に心が反応してしまったようね。それはかずささんも似たようなものかな。

かずさ「だと思うよ。春希っていう共通の大切な人があたしたちを結びつけているのかもな」

麻理「嬉しいような、困ったような、判断がつけにくいところね」

かずさ「たしかにそうだな。こればっかりはしょうがないで済ませられない状況になって
    しまったけど、……そうだな。今ならしょうがないで済ませてもいいと思ってる」

麻理「かずささん?」

かずさ「味覚がなくなって大変な目にあっている麻理さんを前にして言う言葉ではないけど、
    あたしは、ニューヨークにきて充実した毎日を送ったと思えているんだ。
    そりゃあ楽しい事よりも苦しくて切なくて、逃げ出したい事ばっかだったけど、
    麻理さんに出会えてよかったと思ってる。だからさ、…………春希のことを
    よろしくお願いします。あたしはウィーンに戻らないといけないから」

 目の前で深々と頭を下げられてしまう。このお願いが意味することろは、
おそらくかずささんが私に会いに来たことの一番の理由なのだろう。
 これこそがシンパシーだとすれば、
かずささんからこの後の理由を聞かなくても理解してしまえる。
 それでも私は聞かねばならない。
かずささんの口から聞かないと、私はまた決心を覆してしまうから。

麻理「どういう意味かしら?」

かずさ「あたし、春希と別れたんだ。あたしは、このまま春希の側に居続けたら駄目に
    なるって理解してしまったんだ。だから別れた。別れなきゃならなくなった」

麻理「……そう」

かずさ「ちゃんとあたしの気持ちは伝えたよ。春希もどうにか理解してくれたと思う。
    でも、あたしの我儘で別れたんだけど、春希は自分の事を責めてしまうと思うんだ」

麻理「そうね。春希ならそうしてしまうでしょうね。それがわかっていても別れたのよね?」

かずさ「あぁそうだ。春希が傷つくとわかっていて別れたんだ」

麻理「春希の事が好きなのでしょう?」

かずさ「好きだよ。大好きだ。こればっかりは麻理さんにも負けないって自信がある。
    もうさ、誰だろうと負けないって自惚れてさえいる」

麻理「それなのに、どうして別れたの?」

 私っていやな女ね。かずささんが別れた理由をわかっていながら聞いてしまうんですもの。
 そして、そう聞かせるように仕向けているかずささんも酷いわね。
 これが、いわゆるけじめってやつかしらね。
 またの名を、女の執念?って感じかしら?


かずさ「春希の側にいる為だ。今のあたしでは駄目だけど、
    きっとすぐに春希の元に戻ってくる。今度はずっと離れないんだからな」

麻理「身勝手な人ね」

かずさ「あぁそうさ。身勝手なんだよ」

麻理「酷い人ね」

かずさ「酷い奴なんだよ」

麻理「でも、頑張ってしまうのよね」

かずさ「そうなんだ。高校のときから要求するレベルが高すぎるんだよ」

麻理「それは編集部でも同じだったわ」

かずさ「だろうな。あいつったら自分の理想を押し付けてくるんだよ。こっちは必死にやって
    るっているのに、あいつの理想は今あるあたしの現実を大きく上回ってるんだよ」

麻理「そうねぇ……。彼ったら女性に夢でも見ているのかしら? 
   同じ人間だという事を忘れているわね、きっと」

かずさ「そもそもあいつの方が人間離れしてるよな。機械みたいに行動してるっていうかさ」

麻理「それもあるわね。自分の心さえもロジカルに割り切ってしまうのよね」

かずさ「……あぁ」

麻理「見ているこっちの方が辛くなってしまうわ」

かずさ「そのくせこっちの気持ちに気がつかないんだ。こっちはばれているとさえ思ってたのに」

麻理「鈍すぎるのよねぇ。他の事なら知らなくてもいい事まで論理的に気がついて
   しまうのに、はたや自分の事に関しては、というよりも、
   恋愛関係に関してだけはわかってくれないのよ」

かずさ「一度蹴り倒す必要があるな」

麻理「暴力はいけないわよ」

かずさ「じゃあどうするんだよ?」

麻理「…………甘え倒す、とか?」

 うぁ……。自分で言っておきながら恥ずかしすぎるわね。
 鏡を見なくても顔が真っ赤なのがわかるもの。

かずさ「それは麻理さんがしたいだけなんじゃ……」

麻理「違うわよっ」

 ……違わないけど。

かずさ「じゃあなんでだよ?」

麻理「春希って、ほら? ……えっと、頼まれたら断れないところがあるじゃない」

かずさ「たしかにあるよな。高校の時も自分にはまったく関係がない事でさえ首を
    突っ込んでさ。しなくてもいい仕事を自分で見つけてさえくるんだ」

麻理「それは簡単に想像できてしまうわね」

かずさ「それで?」

麻理「だから、春希は甘えられても断れないと思うのよ。だから、こっちが満足するまで
   とことん甘え尽くす。春希が倒れてもうだめだって顔をしても、
   ギブアップって謝るまで甘え倒すのよ」

 強引だったかしら? でも、案外効果がありそうね。
 ………………いつか実行してみようかしら?
 …………………………あら? かずささんが睨んでる、わね。
 あっ、顔に出ていたのかしら?

麻理「なにかしら?」

かずさ「なんでもない」

 綺麗な顔をしているんだから、そんな怖い目をしない方がいいわよ?
 ほら、綺麗な顔をしている人が怒っている顔こそ怖いって言うじゃない?
 私が逃げ出そうと体を捻っても、
そこは椅子の背もたれに阻まれてしまうわけで逃げられないのよね。




麻理「冗談よ、冗談。いくらなんでも恥も醜聞も捨て去って甘え倒すなんてできやしないもの」

かずさ「そうかな? 案外麻理さんならできてしまいそうだとは思うけど?」

麻理「それをいうのならかずささんの方ができてしまうじゃない」

 この後お互いの弱点を抉りだすように言いあったのは割愛しておくわ。
 絶対春希には聞かせられない内容だし、
お互い言われた事が事実過ぎて、さらにヒートアップしちゃったのよね。
ようやくお互い落ち着きを取り戻せたときには肩で呼吸を整え、顔を真っ赤にして見悶えていた。

麻理「そろそろやめにしましょう。不毛すぎるわ」

かずさ「……だな。でも、麻理さんも案外子供っぽいところがあるんだな」

麻理「だからぁ……、もうやめましょうよ」

かずさ「これは違うよ。これはあたしが安心したっていうか、仲間意識みたいなものかな」

麻理「と、いうと?」

かずさ「あたしはまだまだ大人になれてない。でも、社会人の先輩でもある麻理さんでさえ
    完全には大人になれてはいないんだなってわかって、安心したというか」

麻理「それはどんな大人でもあることよ。なまじ社会的地位がある人が子供っぽい理屈で
   権力を振りかざすものだから、周りにいる人間にはいい迷惑よって話がよくあるわ」

かずさ「そういう輩は、とっとと大人になるべきだ」

 あら? 眉をひそめちゃって、誰か思い浮かぶ人でもいるのかしらね。

麻理「でも、仕方ないわ。だって、大人と子供の明確な境界なんてないんだもの。
   人が勝手に境界線をひいているだけよ」

かずさ「それはそうだな」

麻理「でしょう?」

 いつもきつい目つきをしているのに、こうやって柔らかい笑顔も見せるのね。
 コンクールの為にニューヨークに来たというのに、
春希だけじゃなくて私っていう邪魔者までいたら気を抜く事が出来ないわよね。
 でも、最後にこの笑顔を見れたってことは、少しは許されたのかしら?
 …………ううん、許されることなんてない。

かずさ「じゃあさ、この境界も曖昧だよな」

麻理「どんな境界かしら?」

かずさ「友達と恋人」

 やはり私は許されてない、か。そりゃそうよね。
 心のどこかで期待している気持ちがあったようで、落胆していくのがわかってしまう。
 さっきまでかずささんにつられて笑顔を見せていたはずなのに、
私の体から熱が急激に奪われていっているのが実感できてしまった。
 これも罰なのだろう。許されることなんてない罪なのだから。
 だったら素直に罰を受けるわ。それを望んでもいたんだし。

かずさ「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」

 目の前でかずささんが困惑した顔で必死に手を振っているわね。
 どういう意味かしら?
 体温が下がってしまうと思考も落ちるって言うし、幻かしら? 
だって困惑した顔ではなくて怒っている顔をしているはずだもの。
 
かずさ「麻理さんっ。ねえったら。ちょっと」

 今度は強硬手段にでたらしく、私を両肩を激しく揺すってくる。
ただ、私のことであるはずなのに、私の心と体は切り離されてしまっている。
 いくら揺さぶられようと心が暗闇の中に沈んでいくようで、それがむしろ気持ちよかった。
 もう何も考えなくてすむ。嫉妬も後悔も懺悔も何もない。
 でも、…………もう一度だけ春希には会いたかったかな。

麻理「痛たっ!」

 頬が熱い。目もくらっとくるくらい熱くて若干ぼやけているような気もする。
 頬に手をあて冷やそうとしても効果がないってわかっていても手で頬を冷やし、
現実を確認していく。
 目の前には息を切らせ肩で息を整えているかずささんがすごい形相で私を睨んでいる。
 なにかあったのかしら?
 あぁ……、私の事を恨んでいるのよね。だからか。
 でも私、なんて言ったのかしら?




かずさ「怒ってないから。恨んでもない。そりゃああたしも嫉妬くらいはするさ。ううん、
    すっごく嫉妬してる。でも、麻理さんがいなくなればなんて思ってないから。
    春希の前から消えてくれなんて思ってないから。だから、しっかりしてよっ。
    ちゃんと前を見てよ。あたしを見てっ」

 私がふわふわとした感じのままかずささんを見つめていたら、
かずささんは私の両肩を掴む手に再度力を込めて揺さぶってくる。
 その必死さがこれは現実であると脳に刺激を与え続ける。
 そして私の焦点も定まり、何があったかをいっぺんに理解していった。

麻理「大丈夫だから。大丈夫、だから……」

かずさ「ほんとうか?」

麻理「本当よ」

かずさ「……そっか」

麻理「ごめんなさい。私よりかずささんの方が傷ついているのに、私って弱いわね」

かずさ「あたしも負けないくらい弱いからいい勝負だって」

麻理「あまり競いたくはない勝負ね」

かずさ「だな」

麻理「ええ……」

かずさ「さっきは誤解するような質問して悪かった。友達と恋人の境界について
    聞いてみたのは、麻理さんのことじゃないんだ。あたしのことなんだ」




第60話 終劇
第61話につづく





第60話 あとがき


猛暑もいくぶんやわらいできましたが、残暑がライフを削っていきます……。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第61話




麻理「かずささんの?」

かずさ「そうだよ。だってあたし、春希と別れたんだからさ」

麻理「それって、別れても好きだってことかしら? もしくは好きだから別れたとか?」

かずさ「話が早くて助かるよ。一応区切りっていうかけじめって感じで別れはしたけど、
    気持ちの上では春希との絆はきれてはないと信じている。春希にもそう思っていて
    ほしい。だけど、別れてはいるから恋人ではないだろ?」

麻理「そうとも言えるわね」

かずさ「だろ?」

 嬉しそうに頷いてくるけれど、話している内容は深刻なのよね。わかっているのかしら?
 それとも私と意識を共有できたことが嬉しいのかしらね?

麻理「ええ、まあ」

かずさ「そしてそれは麻理さんも同じだろ? 春希が好きって気持ちは変わっていない。
    そしてその気持ちはこれからも変わらないと思う」

麻理「それは…………。私は春希と恋人の関係にはならないわ。たしかに離れられなくは
   なっているけれど、いつかは離れるわ。必ずね」

かずさ「それでもいいよ。恋人じゃなくてもいい」

麻理「どういう意味かしら?」

かずさ「あたしの我儘だって自覚してるけど、このままあたしが春希の側にいると春希が
    壊れてしまうと思うんだ。もちろん麻理さんも一人のままでいたら駄目に
    なってしまうと思う」

麻理「春希が?」

かずさ「麻理さんも気がついてはいると思うけど、春希も弱いよ。いくら傷ついても
    普段通りに行動してしまうから気がつかない人が多いけど、春希はすっごく弱い。
    弱いからそれを隠すのがうまいんだ」

 言われてみればそうね。かずささんと会えなかったコンサートなんてぼろぼろだったし。
それに、なまじ仕事が優秀すぎるから仕事に逃げている事に気がつかない人も多いのも事実ね。

麻理「たしかにそうね」

かずさ「だから麻理さん。あたしがいない間、春希の側にいてください。春希を支えてください。
    あたしの我儘だってわかってる。残酷な事を頼んでいるのも承知している。だけど、
    麻理さんは春希と一緒にいるべきだ。そして同じように春希も麻理さんが必要なんだ」

麻理「……でも」

かずさ「そのボールペン。春希とおそろいなんだよな?」

 かずささんに指摘され、とっさに隠そうと手が反応してしまう。
 しかし、隠したところで隠し通すことなんて無理だし、
そもそもかずささんにこれ以上隠し事はしたくはなかった。
 だから、私の手がピクリと反応してところで手の動きを押しとどめた。

麻理「お互いの誕生日に贈りあったものよ。といっても、私が先に誕生日に春希から貰って、
   その色違いを春希の誕生日に私が送ったのよ。……痛いでしょ? 情けないわよね」

かずさ「そんなことはない。麻理さんと同じように、春希も大切に使っていた。
    だから、そんなことはないよ」

麻理「そうね。春希が大切に使ってくれている事実まで否定できないわね」

かずさ「だろ? お互い大切にしてるんだから、一緒にいるべきなんだ」

麻理「でもそれでいいの?」

かずさ「あたしの事は気にするなとは言わない。でも、今は自分の事だけを考えて
    欲しいんだ。あたしも自分の事だけを考えてるんだしな」

麻理「自分の?」

かずさ「そうだよ。今のあたしが春希の側にいるのはよくない。だけど麻理さんは春希の側に
    いなきゃいけないんだ。だったらいいじゃないか。あたしたちの利害が
    一致してるんなら、それに甘えたっていいだろ?」

麻理「かずささんは、私が春希と一緒にいても気にしないの?」

かずさ「気にするに決まってるだろ。嫉妬しまくりだ」

麻理「だったら……」

かずさ「それでもあたしは麻理さんも大切だから。これだったらあたし、麻理さんの事を
    知らなければよかったと思う事もある。一緒に暮さなければ情なんてわかないし、
    好きになんてならなかった。麻理さんの事をなにも知らなかったら、なにも考え
    ないで春希のことだけを見ていた。だけど麻理さんのことを知ってしまって
    好きになってしまったんだから、しょうがないだろ?」

かずさ「かずさ、さん」

麻理「そう言ってもらえるのは光栄だけど、本当に、本当にいいの、それで?」

かずさ「いいよ。それにあたしの醜い打算もあるからな。春希の心はあたしにあるから、
    ジェバンニが終わるまで一緒にいなくても大丈夫だって自惚れてもいるからな」

麻理「すっごい自信ね。でも、事実だからしょうがないか」

かずさ「だから、麻理さんも春希に全力で甘えていいよ。甘えて甘えて、甘え倒せばいい」

麻理「本気で言ってるの?」

かずさ「あぁ本気だ」

 本気だって目をしている。
 どこからそんな自信が沸いてくるのかしら?
 私には到底無理ね。

麻理「どうしてよ?」

かずさ「もしそれで春希が麻理さんと恋人になっても、それまでだなって。
    春希がそこまでの男だったって事だよ」

麻理「本当にそう思えるの?」

 私がにじり寄って下から覗きこむと、やはりかずささんは見栄を張っていたようで
弱腰になってしまう。
 これが春希が言っていたかっこいい冬馬かずさの化けの皮が剥がれた姿ってところかしら?
 可愛いとは思うけど、鈍感な春希には逆効果よね。
その点に関しては、かずささんに同情しちゃうかな。

かずさ「そんな目で見るなって」

麻理「だって」

かずさ「わかった。わかったから」

麻理「なにがわかったのかしら?」

かずさ「ほんと意地が悪いな」

麻理「どうしてかしらね?」

かずさ「春希のせいだろうな」

麻理「でしょうね」

かずさ「まあ、あたしも春希を見習って、うざいくらいに頑張ってみることにしたんだ」

麻理「ピアノを?」

かずさ「それもあるけど、春希と麻理さんの事も頑張ってみることにしたんだ」

麻理「私の事も?」

かずさ「そうだ。春希の事は当然として、あたしも春希と麻理さんの二人を幸せにする事に
    決めたんだ。もちろん傲慢だってわかってるよ。今の春希はあたしを愛している。
    もちろん麻理さんのことも大切にしているし、愛情もあると思う」

麻理「傲慢な見解だけど、事実ね」

かずさ「うん。あたしもそう思うけど、上の立場にいるから提案しているんじゃないんだ。
    むしろ危険なかけだとさえ思えってるんだぞ。だってさ、麻理さんは女のあたし
    から見ても魅力的だし、仕事面でも春希の憧れの人だろ? そこにきて弱っている
    姿を春希にだけみせて甘えてるんだから、いつかころっと春希の心が移ってしまう
    んじゃないかって不安になってしまうよ。いくら傲慢な事実があったとしても、
    春希の隣にいるのは麻理さんであってあたしではないのは変えようがないからな」

麻理「それでも私が春希の側にいてもいいの?」

かずさ「だから言ったろ? 春希の為だって。まずは世界を目指せるピアニストにあたしが
    なる。そして麻理さんの病気も治す。そしたら今まで我慢していた分春希に甘え倒すんだ」


麻理「すっごく壮大な夢を語っているようで、最終目標が女の子なのね」

かずさ「悪いか?」

麻理「ううん。いいと思うわ」

かずさ「だろっ?」

 ほんと、惚れそうなくらい綺麗な笑顔ね。
 こんなにも反則的な笑顔を見せられてしまうと、意地悪したくなってしまうわね。

麻理「でも、私が春希の気持ちを奪ってしまうかもしれなのよ?」

かずさ「上等だ。さっきも言ったろ? あたしは春希並みにうざくなるって」

麻理「春希みたいに?」

かずさ「そうさ。あたしから心が離れていったら、今度はあたしが春希の心に駆け寄って
    行くんだ。うざいくらいにしつこくな。きっと麻理さんがヤキモチを妬いて
    夜眠れなくなるくらい迫りまくるからな。覚悟しておけよ」

麻理「それは……、あまりみたくはないわね」

かずさ「だからさ、麻理さんは素直に春希に甘えていいよ」

 かずささんの瞳が私を射抜く。今まで冗談交じりに言っていた心が削ぎ落ち、
真剣な眼差しが向けられていた。
 これは覚悟とみることができるのだろう。
 春希とかずさささ二人の幸せではなく、春希とかずささんと、
そして風岡麻理の三人の幸せを手に入れる覚悟。
 誰が見たって二人の幸せを求める方が現実的だって判断するだろう。
 だって三人の幸せなんて不可能だもの。春希とかずささんが結婚して、
なおかつ春希を愛している私が幸せになる道なんてあるとは思えない。
 それはかずささんも理解しているはず。
 かずささんも高校時代に、今の私と同じ立場を体験してきたんだもの。
 春希が別の彼女と付き合っていた時、かずささんはいつも二人の隣にいた。
 それはきっと辛いという言葉で片付けられない体験だったと思う。
私だったら、……といか、現在進行形で味覚障害になってるわね。
 それほどつらい体験をしてもなお三人の幸せを求めるなんて、
ある意味傲慢な幸せ追求だと断罪されてもおかしくはない。
 でも私は、傲慢すぎるかずささんの計画に乗りたいと思ってしまった。
 もしかしらた病状が悪化するかもしれない。
 もしかしらた仕事を失うかもしれない。
 最悪、まともに生きていけないかもしれない。
 だけど、同じ体験をしてきた戦友だからこそ、その手を取りたいと思ってしまった。

麻理「わかったわ。甘えさせてもらいます」

 こうして私は、春希とかずささんの手を掴むことになった。







翌年1月1日


 正月。日本であってもニューヨークであっても、俺が俺である限り大晦日の過ごし方に
大きな変化があるわけではない。そして年が明けた元日も大晦日と同じような日常を送っていた。
 昨日の大晦日は、今年に限ってはいつもの就寝時間にはベッドに横になっていたし、
元日の今朝もいつも起きる時間にベッドから出て朝食の準備を始めていた。
 ある意味規則正しい生活リズムともいえるが、
これは麻理さんの生活リズムを狂わせないためのものであることが一番の要因であった。
 味覚障害のせいでまともに食事ができなくなり、なにがきっかけで症状が悪化するか
わからない。だったら、うまくいっている生活パターンを繰り返すべきだ。
過保護すぎるとも言われそうだが、用心に越した事はない。
 生活リズムは健康には大切であるし、今までうまくいっていたのならばその生活リズムを
守るべきだ。それに、一度生活リズムが狂ってしまえば、
その狂った生活リズムを正しい方向にもっていくのが時間はかかってしまう。
 だったら、できるかぎりいつもの生活を送り続けるのがまっとうな治療法だと言える。
 ピアノではないが、一日さぼったら、
さぼった分を取り戻すのには数日とかずさが言っていたのと同じようなものだろう。
 とはいって、以前の俺であれば、武也に誘われれば初詣くらいは行っただろうし、
そうでなければバイトか、それともまったく家からも出ずに勉強でもしていたと考える事が
できる。つまり、以前の俺であっても自分からは自分の生活リズムを崩す行為などするとは
思えない。まあ、以前の俺の生活リズムなんてものは、疲れ果てて何も考える事もなく
寝られるまで働きまくるという、ブラック企業顔負けの生活パターンだったのだけれど。
 一方麻理さんはといえば、例年の年末年始は俺とは違っていて、
旅の実情を知らない人間からすれば成功者のバカンスといえた。
 なんというべきか……、つまり、その。ビジネスクラスの飛行機で海外旅行に行き、
それなりに有名なホテルで年末年始を過ごす。旅行プランだけ見れば優雅な休日とも言える。



 だが実情は違っていて…………。
 朝食後にのんびりとくつろいでいた時、
ミネラルウォーター片手に麻理さんがしみじみ語ってくれた。
 自嘲気味に笑い話をしてくれたとも取れるし、ただたんに事実を述べただけとも
言えるのだが、俺が口を挟める雰囲気ではなかった事だけは確かだった。
 …………でも、アルコールはまったくとってないんでないんだけどな。
水で酔えるようになったのだろうか?

麻理「去年までは年末年始は佐和子と旅行に行くのが当たり前だったけど、
   こうしてのんびり過ごすのもいいものね」

春希「そうですね。どこに行っても人が多いですし、家にいる方がつかれないとも考えられますよ」

麻理「なんか春希の発言って、年寄りくさいわよね? 初めて編集部に来た時も大学生の
   バイトって感じがしなかったものね。本当は年齢誤魔化していたりしない?」

春希「俺の年齢に関しては履歴書と学生証を提示してありますから間違いはないはずですよ。
   それと、俺が年寄りくさいかはおいといて、別にイベント事に積極的に参加することが
   若者と定義できるわけでもないと思いますよ。
   インドア派であっても充実した生活を送る事が出来ますから」

麻理「そうだけど、家の中に閉じこもっていると、
   なんだか世間からは年寄りっぽく見られる気がしないかしら?」

春希「そうだとすれば、俺たちなんてずっと室内にいるんですから、年寄り扱いになって
   しまうじゃないですか? 仕事中は編集部にいることが当たり前ですからしょうが
   ないですけど、家に帰ってきたらもちろん室内ですよね?
   どこかにでかけるとしても、スーパーに買いだし程度ですし……」

 あっ……。
 地雷って、気がつかなくことなく踏むから地雷なんだろうな。
 踏んで爆発した後のことなんてどうでもいい。
なにせ爆発してしまったら自分にはどうしようもないし。
 地雷での一番の恐怖は、踏んだとわかった瞬間から爆発するまでの数秒だろう。
…………実際地雷を踏んだ経験も、地雷の知識もないから想像だが。
 でも、踏んでから爆発するまでの数秒で襲ってくる圧縮された恐怖は間違いないと思える。
 現に、今目の前で顔色を変えていく麻理さんを見て、俺の中でなにかがはじけたから……。

麻理「それは、あんに私が年寄りだといいたいのかしら? それとも年増の女は頑張って外に
   出て若づくりなんてするなよってことかしらね? そうねぇ……、
   春希はそんなかわいそうな私を見て、憐れに思っているのかしらね?」

ごめんなさい。いや、心の中で謝ってすむはなしじゃないけど、とりあえず謝らせてください。
 それと、地雷なんて甘い恐怖どころじゃなかった。
 数秒に圧縮された恐怖ならば、どれほど助かった事だろうか。
なにせ数秒後には天国に行けるのだから。
 今俺に訪れているものは、じわじわとやってくる恐怖。
確実に俺をしとめるとわかっていても逃げる事ができない絶望とでも言っておこうか。

春希「俺は麻理さんのことだなんて言ってませんよ。一般論……」

麻理「一般論? そうね。一般的に見たら私はすでに若くはないわね」

春希「一般論ではないです。そうですね。仮定の話です。仮定です。論理的に考えると
   した場合、室内でいることが多い事が年寄りだと定義すれば、そもそも人間は室内で
   過ごす時間が圧倒的に多いですから、どのような年代の人間であっても室内にいる
   時間が多ければ年寄りになってしまうという矛盾です。そう、そう言いたかったんですよ」

 あれ? そもそもそういう話をしたんだよな?

麻理「でも、仮定の話であっても、私が室内にこもっていて、
   若々しく行動していないという事実は否定できないじゃない」

春希「それこそ……、ちょっと待ってくださいよ。そもそも俺の話をしていたんじゃないですか。
   麻理さんのことを話していたわけでは……。それに、今年は違いますけど年末年始は
   佐和子さんと海外旅行に行っていたじゃないですか。普段は仕事で忙しいから仕方が
   ないですけど、休みの時におもいっきり充実した休日を取るのはいいと思いますよ」

麻理「そうかしら」

 起死回生のフォローを入れたつもりなのに、麻理さんの態度は一向に改善する様子はない。
 むしろ悪化したとも見えるのはどうしてだろうか。
 これはまさかのいくらフォローしても悪化するしかないという悪循環に陥ったのか?

春希「仕事とプライベートを分けて楽しんでいるじゃないですか。もちろん鈴木さんなんか
   からすれば麻理さんは働きすぎだって言ってくるでしょうけど、仕事を楽しんで
   やっているんですから問題ないですよ。むしろ嫌々惰性で仕事をするよりはよっぽど
   有意義な時間の過ごし方です。いや、そんな仕事をする人たちと比べる必要なんて
   ないほどです。麻理さんの隣でいつも仕事をしている俺が保証します」

麻理「……そう?」



春希「ええ、そうです。輝いています。そして俺の目標でもありますから」

麻理「仕事に関しては春希の目標であり続ける為に頑張っているところも最近あるのよね。
   それはそれで新たな目標になって励みにもなっているし」

春希「でも、あまり頑張りすぎないでくださいよ」

麻理「わかっているわよ。仕事もしっかりやるけど、体の方もちゃんといたわるわ。
   休日をしっかり使う分プライベートの方も充実させないといけないわね」

春希「ええ、そうですね」

麻理「でも、その肝心のプライベートががたがたなのよね。
   今までなんて佐和子と海外旅行に毎年行っていると言っても、
   ほとんどホテルの部屋で一日中お酒を飲んでいるだけだったもの」

 それは……、フォローできないほどに駄目な旅行パターンのような。
 いや、ここは何が何でもフォローだな。
 …………今日はまったくフォローできていないのが問題だが。

春希「それでもお酒を飲みながら佐和子さんと楽しく語り合っているんですよね? 
   別に旅行に行ったからといって代表的な観光施設に行く必要なんてありませんよ。
   本人たちが楽しんでいれば、それで旅行の目的は達成できているはずです」

麻理「でもねぇ……、佐和子と語り合っていると言っても、
   だいたいが仕事の不満や愚痴なのよねぇ……」

 ごめんなさい。どうフォローしたらいいんですか?
 まったくフォローにもなりそうもない言葉が浮かんできては声に出す前に霧散することが
7回。話題を変えようと切り出そうとして、麻理さんの愚痴によって遮られる事2回。
あとは自分で何を伝えようとしたのかさえわからない事5回
 つまり、この場の状況を打開する手段は全くといって持ち合わせてはいなかった。
 あれ?
 麻理さんを見つめると、顔を伏せ肩を揺らしている。
時折漏れ出る嗚咽は、悲しみでも怒りでもなく、むしろ…………。

春希「麻理、さん?」

 俺の呼ぶかけに応じてちらりと視線を向けてくるが、
俺の慌てようを見て益々肩の揺れが激しくなっていった。

春希「麻理さん?」

 俺の再度の呼びかけに、今度は盛大の笑みで返事をしてきた。
 つまり、してやられたってことなのだろう。

麻理「ごめんなさい」

春希「あんまりじゃないですか」

麻理「だって、春希があまりにもまじめすぎる反応をしてくるんだもの」

春希「それは年齢のこともありましたから」

 あっ……。それは実弾だったんですね。
しかし、まだ幾分笑みの余剰分があったおかげか、麻理さんは一睨みだけ残して話を続けてくれた。





第61話 終劇
第62話につづく







第61話 あとがき


時期的に正月のあたりからがcodaとなるのでしょうか?
そうなると今までが「~coda」の「~」であったのですかね?
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第62話




麻理「まあいいわ」

 曜子さんに似てきたのではないだろうか?
 麻理さんも曜子さんも見た目は若々しくて、
同世代の女性と比べるのがかわいそうなくらいなんだよな。
 でも中身は魔女って感じで、ある意味内面が外面ににじみ出てしまったとも言えるか。

麻理「ねえ、春希?」

春希「なんでしょうか?」

麻理「今、失礼な事を考えていなかったかしら?」

 半眼で睨んでくるその美しすぎる人は、俺の心を覗いているようで……。

春希「いいえ、そのような事はないと思いますよ」

麻理「そうかしら?」

春希「ただ、麻理さんは年齢の事を気にしているみたいですけど、俺がからすれば気に
   する必要がないくらい綺麗で、しかも活動的だなって思っていただけですよ」

麻理「ほんとうにそれだけかしら?」

春希「それだけですよ」

 なおも半眼で俺の黒眼の奥を覗き込んでくる魔女は、俺をとられて離してはくれない。
 これこそが曜子さんばりの魔女っぷりなんだろうけど……、
これ以上こんなことを考えていると、本当にやばそうだな。

麻理「まあいいわ。そう言う事にしておくわ」

春希「ありがとうございます」

麻理「お礼をしてくるなんて、やっぱり後ろめたい事を考えていたのね」

春希「……あっ」

 やっぱり曜子さんレベルの魔女じゃないですか。

麻理「まあいいわ。それに、春希が綺麗だって誉めてくれたのだから、それだけで満足しておくわ」

 今度こそこの話題は終わりのようで、
俺をからかって大変満足しましたという顔を俺に見せつけてくる。
 その笑みを見てしまうと、これも悪くはない関係だと思えてしまう。
むしろ今後も続けばいいとさえ思えてしまった。
 それほど穏やかで、かけがえのない時間であった。

春希「その……年齢の事を話題にした後で悪いのですが、麻理さん。誕生日おめでとうございます」

麻理「いつか言われると思っていたけど、ありがとうと言っておいた方がいいのかしらね」

春希「誕生日を共に祝う事が大事じゃないですか。佐和子さんだって仕事がなければ
   ニューヨークに来る予定だったのですから。あとで電話くらいは来るかもしれませんね」

麻理「佐和子は……、その、ね。仕事は……」

春希「なんですか?」

 どうも麻理さんの様子がおかしい。
 先ほどまでの曜子さんばりの態度が一変してしまっている。
今や曜子さんにからかわれている時のかずさ並みにうろたえていた。
 ……両方見られてラッキーとか思ったら、
さっきみたいに心を読まれてしまう気もするからよしておこう。

麻理「……はぁ。いいわ。どうせあとで佐和子がわざとばらしてしまうでしょうから、
   私の口から言っておくわね」

春希「はぁ……? 麻理さんがそうしたいのでしたら」

麻理「佐和子は日本で一人悲しく正月を迎えているわ」

春希「急に仕事が入ったのですからしょうがないじゃないですか。それだけ責任がある
   ポジションについたわけですし。ただ、管理職も辛いとか言ってましたから、
   こういうときは大変ですよね」

麻理「管理職も辛いと言っていたのは本心でしょうけど、仕事は休みよ」


春希「ほんとうですか? 休みがとれるようになってよかったですね。それでしたら
   ニューヨークにきてもらえばよかったじゃないですか。それともサプライズで
   ニューヨークにくるとかですか? いや、俺にサプライズしても意味ないか……」

 どうもさっきとは違うため息を深々と麻理さんがついていた。
 どこかでみたことがあるため息で、
きょとんとしている俺を見るほどテンションが下がっていくようでもあった。

麻理「違うわよ。佐和子は最初から急な仕事なんて入っていなかったのよ」

春希「はぁ……」

麻理「まだわからないのかしら?」

春希「予定通り休みが取れて良かったですよね?」

麻理「それだけなの?」

春希「あとは、どうしてニューヨークに来なかったんですかね? 来る予定でしたよね?
   ……あっ、麻理さん。佐和子さんと喧嘩したんですか? 早く謝ったほうがいいですよ。
   いや、麻理さんが悪いという意味ではなくてですね。喧嘩はどちらかが一方的に悪いと
   いう事はないんです。たとえ佐和子さんの方に非があるとしても、麻理さんの方から
   歩み寄ってですね。仲直りをすべきです。それに、今日はちょうど元日ですから、
   新年のあいさつを口実に電話することもできるじゃないですか。
   今電話とってきますね。ちょっと待ってってください……」

麻理「あっ、春希っ。電話はいらないから」

 勢いよくソファーから立ちあがった俺を麻理さんは慌ててひき止めようとする。
 振り返ると、麻理さんが手にしていたグラスの中の水が波打ち、こぼれそうになっていた。
だから俺は手を伸ばしてグラスを抑え、水がこぼれるのを防ごうとした。
 けれど、俺の行動に驚いたのか、今度は麻理さんの体自体が揺れ動いてしまった為に、
なかなかグラスの中の水の揺れは収まりそうになかった。
 そういうわけでというのだろうか。俺は緊急処置として麻理さんの腰に手を回し、
麻理さんの体を固定させる。
これでどうにかグラスの水をぶちまけるという新年早々からの水害を回避できた。
ただ、俺の腕の中にいる麻理さんの状況はというと、平穏であるとは言えないようであったが。

春希「大丈夫ですか?」

麻理「……えぇ」

 体が熱い。おそらく麻理さんもだろうけど、新年早々何をやっているんだっていう状況だ。
 ここに佐和子さんがいたら何を言われるか簡単に想像できてしまう。
 ここにきて、俺はようやく佐和子さんが何故ニューヨークにこなかったかを理解する。
 だから麻理さんは電話する必要がないっていったのか。
 つまり佐和子さんは、麻理さんと俺を二人っきりにする為にこなかったのだろう。

春希「早合点してすみませんでした。佐和子さん。気を使ってくれたのですね」

麻理「えっ。……えぇ、そうよ」

春希「それなのに俺ときたら……」

麻理「春希らしいとも言えるから気にしていないわ」

春希「本当に新年早々お騒がせしてすみませんでした」

麻理「別にいいわよ」

春希「そうですか?」

麻理「ええ、そうよ」

 そして麻理さんは、新年早々俺の心臓を鷲掴みする発言を囁いてきた。

麻理「それに、新年早々春希に抱きしめてもらえたもの。幸先のいい一年になったわ」

春希「あっ……」

 俺は今の状況に気が付き、逃げるように麻理さんから身を離そうとするが、
今度は麻理さんの腕によって俺は拘束されてしまった。

麻理「駄目よ」

春希「麻理さん?」

麻理「誕生日プレゼント。これでいいわ。もうちょっとでいいから、私だけを抱きしめて」

春希「麻理、さん……」

麻理「ね? お願い。少しだけでいいから」

春希「わかりました」


麻理「ありがとう」

春希「でも、麻理さんが手に持っているグラスだけはテーブルにおいてくださいね」

 麻理さんは俺の腰にまわした腕をほどくと、手に持っていたグラスをテーブルに置く。
そして言葉通り俺に抱きついてくるのかなと待っていたが、いっこうに動く気配はなかった。
 顎をあげ、麻理さんの瞳の先には俺がいるはずなのに、瞳だけは俺を捉えはするが、
体全体で抱きしめてはこない。
 怪訝に思って真意を探ろうと麻理さんの瞳を覗きこむが、
あいにく俺には相手の気持ちを読む能力は著しく欠けているようである。
むしろ麻理さんの瞳に吸い込まれそうになり、そのまま細い腰を抱き寄せたいほどであった。

麻理「春希……」

春希「はい」

麻理「誕生日、プレゼント。…………くれないのかしら?」

春希「あっ……」

 そういうことか。麻理さんから求めるのでなく、ましてや偶然でもなく、
俺の方から抱きしめて欲しいってことか。俺からのプレゼントであるわけだし。
 だったら最初から言って下さいよ、というべきではないことくらいは俺でもわかる。
だから俺は、返事の代りに麻理さんの体を抱き寄せ、光沢が織り込まれた黒髪に顔をうずめた。

春希「誕生日、おめでとうございます」

麻理「ありがとう、春希」

春希「こうして誕生日を祝えてよかったです」

麻理「去年は色々と迷惑をかけてごめんなさい」

春希「そんなことはないですよ。俺の方がたくさん麻理さんに頼っていますから」

麻理「でも、今年も迷惑をたくさんかけてしまうと思うわよ?」

春希「俺は迷惑だと思っていませんよ。むしろ俺を頼ってくれて嬉しく思っているほどです。
   だからこの大役、他の誰であっても譲る気はありませんからね。
   それが佐和子さんであっても」

麻理「そう……。ありがとう」

春希「だから、ありがとうは俺の方なんですって」

麻理「そう、ね……。でも今は、ありがとうと言わせてほしいわ」

春希「麻理さんが望むなら」

麻理「ありがとう」

春希「どういたしまして」

麻理「それと、これも一緒に祝っておこうかしら」

春希「何をですか?」

麻理「春希のニューヨーク支部勤務内定を。……しかも、このまま私の部下。幸せすぎて怖いわ」

春希「幸せすぎるという事はないと思いますよ」

麻理「そうかしら?」

春希「幸せなんて、幸せになろうと足掻いた人間のみが得られるものですよ。何もしないで
   願うだけでは幸せにはなれません。ましてや、幸せになろうとさえ願わない人間は、
   ずっと暗い闇の中で停滞するだけですから」

麻理「どうしてそう思うのかしら?」

春希「俺が幸せになろうとしてこなかったからです」

麻理「……春希」

春希「でも、今は大丈夫ですよ。幸せになりたいと思っていますから」

麻理「ほんとうに?」

 俺の胸に埋めていた顔をそのまま上にあげて見上げてきた麻理さんの表情は、
心から俺の事を心配している事が見受けられる。
 人の事を心配するよりも自分の事だけを大切にしなければならない状態であるのに、
麻理さんはどうしようもない俺をいつだって見捨てないでくれてきてくれた。
 日本で立ち直れたのは麻理さんのおかげだ。
だからこそ俺は、幸せになりたいと思った。北原春希を幸せにしないといけないと決意した。


春希「本当ですよ」

麻理「嘘なんてついていないわよね?」

春希「麻理さんに嘘をついてもすぐにばれるじゃないですか。だから麻理さんの前では
   いつも正直になれるんです。虚勢を張る必要もなくなったんですよ」

麻理「虚勢を張る事はなくなったかもしれないけど、頑張りすぎるところは変わらないのよね」

春希「その辺は根っからの性分ですから。
   自分を構成している根っこの部分は、そう簡単には変えられませんよ」

麻理「それもそうね」

春希「俺は、幸せになってはいけないと思っていました」

麻理「……春希。幸せになってはいけない人間なんていないわ」

春希「俺の悪友もそう言ってくれていましたよ。だけど、当時の俺は聞く耳を
   持たなかったんです。というよりも、幸せになる事が怖かったともいえますね」

麻理「どうして怖かったのかしら?」

春希「傷つけた人がいるんです。大切にしていた人を傷つけたんです。それも酷い裏切りで」

 麻理さんは俺から視線をそらさず、真っ直ぐとした瞳を俺に向けてくれていた。
 高校時代にあった事は、麻理さんには説明してあった。
だから、俺の言葉が意味する事はすぐにわかったはずだ。
 そして、北原春希という人間をそばで見てきてくれた人間であるば、
その北原春希がどう行動するか、どう行動してきたかを理解してくれる。

麻理「大切な人を傷つけた事は罪よ。でも、だからといって春希が一生幸せになってはいけない
   という理由にはならないわ。もちろん春希だって傷ついたからそれで十分よ、なんて
   甘い慰めはしないわ。罪を償ってきたからそれでいいじゃない、とも言わない。
   だって、いくら罪を償おうとしても、結局は自己満足だもの。傷つけた結果は消えないわ」

春希「……そうですね」

麻理「でも、傷ついた人もいつまでも傷ついたままではないわ。その人も、その人の力で立ち
   あがるわ。時間がかかるかもしれないし、周りからの協力が必要かもしれない。
   いつかはその人も、自分から幸せになろうと思わなければならないわ。傷ついても
   また幸せになろうとしない人間は、幸せにはなれない。
   そして今回の出来事においては、春希は手助けをする立場ではなかっただけよ」

春希「俺が側にいたら、また傷つけてしまいますからね」

麻理「それも考えすぎよ。どんな人間であっても、人を傷つける事はあるわ。それに、春希が
   もう一度その子を本気で幸せにしたいと望んでいたのなら、側にいたはずよ。
   でも、そうはしなかった」

春希「俺には他に幸せにしたい人がいましたから」

麻理「そうね。ようは、自分から行動しない人間は救われないって事よ。幸せになるうと
   しない人間は幸せにはならないし、傷を治そうとしない人間も傷はいえない。だから
   というわけではないけど、傷つけてしまった加害者も、傷つけた事実を忘れては
   いけないけど、幸せになってもいいはずよ。これが刑事事件にもなってしまう加害者・
   被害者の関係までいってしまうと私の理論は破綻してしまうけど、友人・恋愛くらい
   なら通用するはずよ。だって、人って思っているよりタフだもの」

 麻理さんの言っている事はわかる。麻理さんが必死に俺を励まそうとしている事が
伝わってくるから。
 麻理さん本人も、ちょっと反論を挟まれたらたじろぎそうな論理を組み立てているって
わかっているはずだ。ましてや、恋愛関係のもつれで体を壊してしまった麻理さんが
いるではないですか、なんて俺は責めるつもりもない。

春希「もう大丈夫ですよ」

麻理「そう?」

 なおも心配そうに見つめてくる瞳に、俺は安心させたくてしょうがなかった。
 なにせ麻理さんが幸せになる為には、この不安を解消させなければならないから。

春希「俺が幸せになってほしいと願う人間は、かずさと麻理さんです。
   でも、二人とも俺が幸せにならないと幸せになれないって駄々をこねるんですよね」

麻理「人聞きが悪いわね」

春希「でも、事実ですよね?」

麻理「……そうだけど、ちょっと心外かな」

 口をとがらせて不満を述べるその姿が愛らしくて、
だからこそ俺はこの人を幸せにしたいと強く望んでしまった。


 日本にいる彼女を不幸にしたことについて、武也たちは心のどこかで俺を裏切り者だと
今でも思っているはずだ。
ましてや、麻理さんとかずさを幸せにしたいと選んだ事を恨むかもしれない。
 武也は納得してくれるかもしれないが、依緒はきっと許せないだろう。
 だけど、俺が幸せにできる人なんて限られている。しかも、かずさと麻理さんの二人を
同時に幸せにすることなんて不可能に近いとさえ思えてしまう。
 だからこそ俺は、今手にしている二人を幸せにすることだけを選んだ。
他を切り捨ててでも、今手にしている二人だけはと願ってしまった。

春希「でも事実ですよね?」

麻理「そうだけど……」

春希「だったらいいじゃないですか。俺はもう不幸自慢をするのはやめたんです。
   幸せを掴むことだけを考えることにしたんですよ。それが難しい事だとしても、です。
   だから俺はこの手を離しません」

 そう麻理さんの耳元で告げると、腰にまわしていた腕に力を込めた。
 麻理さんからの返事はない。だけど、俺の腰にまわされた腕の力が強まった事は、
肯定の意味なのだろう。
そして俺達はちょっとの間抱き合った後、一人掛けのソファーで二人のんびりと正月を過ごした。








8月上旬


 開桜社に入社してもうすぐ半年。ニューヨークにやってきて1年。
 それに加えて、開桜社でバイトを初めて麻理さんの下で働くようになった期間を加算して
しまうと、もはや新入社員とはいえないのではないかと自分でも思ってしまう。
東京にいる編集部の先輩方なんて、遠慮せずに新人という名の名札を剥がしてきそうだ。
 もちろんそれはニューヨークでの編集部でも同じで、編集部での俺への対応は容赦なく、
これが普通の新入社員の扱いかと同期新入社員が怖がるほどである。おそらく数年後には
同じような対応をされるのだろうと怖がっているのだろう。
 ただ僭越ながら俺も一言言ってあげたい。偉そうな先輩風を吹かせるつもりもないけれど、
数年後と言わず、半年後、遅くても来年には同じような対応になっているはずだと言って
あげたかった。企業もいつまでも新人に優しくしていられるほど余裕があるわけではない。
 力がない社員はそれ相応のポジションに送られてしまうし、使える社員はこれもまた
それ相応のポジションに送られる。どちらのポジションが幸せかは人それぞれであろうが、
企業が優しくしてくれるのは、厳しいようだが使える人間のみである。
 そんな環境で働いてはいるが、また、アメリカだからというわけでもないが、
俺も休日はしっかりととるようにしている。
 まあ休日といっても今日は土曜日で、自宅で仕事をする日であるのだが。
 というわけで、俺も麻理さんも今日は自宅で仕事をしていた。
 自宅への連絡は基本メールがだが、携帯にかかってくることもしばしばある。
ただ、携帯にかかってくるという事は緊急事態の場合が多いわけで、
今も携帯の着信音を聞いた瞬間俺も麻理さんも身を固くした。
 ところが、麻理さんが携帯を手に取ると携帯の呼び出し音は鳴らされてはいない。
 不審に思って俺を見てくるが、携帯の呼び出し音はまだ鳴り続けていた。
 そこで俺の携帯電話を見る。どうやら俺の携帯電話が鳴っていたようだ。
 そもそもこれが平日ならば驚きはしない。俺が担当している仕事もあるわけで、
俺に直接かかってくる事もある。
 しかし土曜日の自宅での仕事は、俺は麻理さんの仕事のサポートのみであり、
俺の直接の上司は麻理さんであるわけで、
俺に何か伝える事があるとしたら麻理さんは携帯ではなくて口頭で伝えてくるはずだ。
 もちろん他の仕事に関しての連絡もあるかもしれないが、そもそも俺に指示を出すのは
麻理さんであるので、俺に聞くよりは麻理さんに聞いたほうが確実だ。それに、
編集部にいない俺に聞くよりは、編集部にいる他の部員に聞く方が早いとも言えた。
 いつまでも電話に出ないで待たせるわけにもいかないので携帯の表示を見ると、
知らない番号が表示されていた。

春希「お待たせしました。北原です」

女性「冬馬曜子事務所の夏目ジュリアと申します。
   開桜社の北原春希さんの携帯でよろしいでしょうか?」

春希「はい、そうです。どのようなご用件でしょうか?」

 電話からは流ちょうな英語を話す女性の声が聞こえてくる。
美代子さんじゃないんだな。ウィーンの方にも事務所があるらしいし、ウィーンからなのか?
 それにしても綺麗な英語を話す人だな。
 ニューヨークにきて、色んな地域からくる人間と話す機会があり、方言とまではいかないが
英語の話し方の違いくらいはわからるようになってきた。といっても、
俺の英語もつたないせいか、ニューヨークにきたばっかりのころは何度も聞き返されるレベル
ではあったが。もちろん麻理さんによる英才教育のおかげで、スパルタ教育ともいうが、
二週間もしないうちに解決はした。
 俺は冬馬曜子事務所の名を聞いて、すぐさま電話がかかってきた理由を考えてしまった。
 冬馬曜子事務所からの電話ならば、きっとかずさがかかわってくる。



それ以外は考えられないと言ってもいい。
 しかも、かずさからとなると、それなりに気持ちの整理というか心構えも必要なわけで。
 だから、俺の声には緊張がにじみ出てしまった。
 俺は電話の向こう側にいる女性に意識が向かってしまい、
麻理さんが不安そうな顔をしているのを、俺は気づくことなどできないでいた。
 麻理さんが俺の声の変化に気がつかないわけなんてないのに。






第62話 終劇
第63話につづく





第62話 あとがき



久しぶりに作っただけで全く手を出していないプロットを見てみたら、
作った本人さえ覚えていない現実……。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第63話


 空港での短い電話でのやり取りの後、タクシーで指示通りにやってきたマンションは
テレビで紹介されるような高級物件とは言わないまでも、それなりにお高い物件であった。
 マンションについた事を伝え、中に入って進んでいくと品のよさようなコンシェルジュ
がわたしを出迎えてくれる。高級物件に詳しいわけではないけれど、コンシェルジュが
いるマンションなのだから、それなりにお高い物件である証拠だと思う。
セキュリティー面を考えればニューヨークという場所柄も加味すれば、しっかりと管理
されている方がいいに決まっている。日本での無料配布の安全をアメリカで求めてはいけない。
 お金で解決できる事ならば、ケチらずに支払うべきである。
といいたいところだけど、それができるのはそれなりの稼ぎがある人に限るんだけど。
 でも、どうしてこうもお金持ちばっかりと縁があるんだろ?
 わたしはマンション入り口にいるコンシェルジュに頬笑みを送りながらエレベーターへ
と向かっていく。コンシェルジュの男性も特段わたしを不審には思ってはいないようだ。
その証拠に、私の頬笑みを見てほんのわずかだがだらしのない笑みを浮かべていた。ただ、
さすが高級物件のコンシェルジュ。すぐさま背筋を伸ばしてすまし顔を取り戻している。
 こうなると悪戯心がくすぐるっていうもので、わたしは肩にかかるブルネットを髪を
指先で軽く払い落とし、追い打ちとばかりに最上級の頬笑みを立て続けに送る。
 そして、コンシェルジュのぽかんとしただらしのない笑みを確認したわたしは、
今度こそ本来の目的地たる北原春希が現在住んでいる部屋へと向かっていった。

春希「どうぞ中に入って下さい。わざわざ来てもらって申し訳…………ありません?」

 玄関でわたしを出迎えてくれた春希の顔は、さっきのコンシェルジュ以上に
ぽかんとしていて、何とも言えないほどの大量の苦笑いを提供してくれる。
 一応春希の名誉を守るというべきか、それともフォローにもなってもいないフォローを
しておくと、だらしのないスケベ心を垂れ流した笑みを浮かべていないところだけは
誉めてあげよう。
 …………服の上から舐めまわして見るどころか、
春希には裸も見られているんだから今さらって気もしないでもないかな?

千晶「やっほー春希っ。元気してた?」

春希「元気にしてはいたけど、今疲れた」

千晶「それはひっどいんじゃないかな?

春希「悪かったな」

千晶「わかっているんなら許してあげようかしらね」

春希「訂正するよ」

千晶「うんうん」

春希「これからもっと疲れる予定だ」

千晶「やっぱり春希ってわたしのこと好きすぎだよね」

春希「どうかな?」

千晶「だってわたしに対して遠慮がなさすぎるもの」

春希「…………そうかもな」

 と、春希はここで言葉を切ると、私に一歩近づいて顔を覗きこんでくる。
 せっかく近寄ってきてくれたんだから、
このままむぎゅ~っっと抱きしめてもいいんだけど、なんだか冷気が漂ってくるのよね。
 どこからかなんて考えるまでもないけれど。
 まっ、見なければいいかな?

春希「…………千晶、だよな?」

千晶「ん? なに寝ボケた事を言っているのよ。和泉千晶ちゃんに決まっている
   じゃない。それとも幽霊かなにかと見間違えたとでも?」

春希「いや、そのさ。だって、その。いや、どうなんだ? いや、えっと……」

 やっぱり春希は面白い。わたしの期待通りの反応を見せてくれる。
 これぞ北原春希。わたしの大好きな春希はこうじゃなくっちゃね。
 たしかにブルネットのロングの髪の毛のかつらをかぶっているし、
メイクで印象も変えてはいるけどさ。

麻理「ねえ春希。とりあえず中に入ってもらえば?」

春希「そうですね」

 私は春希と麻理さんのお許しを貰って、
ようやく玄関の外の客人から玄関の中の客人へと格上げされる。
 でも、なんだか麻理さんは歓迎していないような声色なんだけど、それは最初から
飛ばす過ぎたからかな。一応拒絶はしていないみたいだから大丈夫だよね?

千晶「あっ麻理さんいたんだ?」

麻理「えぇ最初からいたわよ。ここは私と春希の家ですしね」

 しかし、わたしのわざとらしい挑発に麻理さんがのっかってきてくれたおかげで、
玄関の客人でわたしの地位上昇はひとまず棚上げになりそう。
 どうやらリビングの客人になるためにはもうしばらくかかりそう。それとも、
面倒すぎる来訪者はとっとと退場してもらいたいのかな?

千晶「そういえばそうだったよね。春希やるじゃんっ」

春希「はぁ、なにがだよ?」

 とりあえず笑顔いっぱいで春希の肩をばしばし叩いてあげたのに、
やはり春希ののりはやはり悪い。

千晶「しっかりと若いツバメやってるじゃないのってことだよ」

春希「はぁ?」

 麻理さんのほうはしっかりと理解してくれているんみたいだけど、春希はなぁ……。
まっ、麻理さんがしっかりと反応してくれているから、それで満足しておこう。

千晶「なに僕にはわかりませんって顔をしてるのよ」

春希「いや千晶。俺はお前が言っている言葉の意味がまったくわからないんだけど」

千晶「そう? でも、麻理さんのほうはしっかりと理解してくれているみたいだけど? 
   ねっ、麻理さん」

 攻撃対象が春希から麻理さんへと移し、極上のいやらしい笑みを麻理さんに送ると、
可愛い事に麻理さんはピクリと肩を震わせる。
 きっとわたしがもうしばらく春希をからかっているだろうと思っていたようね。
でも、春希も面白いけど麻理さんも十分すぎるほど面白いだな。

麻理「えっと……。どうかしらね」

千晶「もぅっ、麻理さんやるじゃん。春希をうまいことかこっちゃって。年下の彼氏を
   自宅に連れ込むなんで同棲だなんて、麻理さんが大好きなレディコミに出てくる
   展開だよね。一応この前発売した最新刊をお土産として持ってきたんだよ。
   あっでも、もう買ってあるとか?」

麻理「ちょ、ちょっと、何言ってるのよ。……ちがうわよ。違うから。
   私は読んでないわ。信じて春希。ねっ、ねっ」

 春希が疑惑の目を麻理さんに向けると、いままで赤く染まっていた麻理さんの顔は
青白く沈んでいく。しかも、今にも逃げ出してしまいそうな雰囲気さえ醸し出していた。
 ただ、今逃げたらわたしのいい分を全肯定するここと同義だし、反論というか言い訳を
する為にここから逃げ出せないみたい。いや、それよりも、これ以上わたしがなにか
言ってくるかもしれないという恐怖で逃げられないのかもしれないみたい。

千晶「あれぇ……。でも佐和子さんから聞いた話だと、
   そういう本ばかり読んでいるって聞いたんだけど?」

麻理「佐和子のやつぅ……」

千晶「ねっ。だから白状しちゃったら?」

麻理「読んでませんっ」

千晶「本当に? 正直になろうよ」

麻理「しょ、正直だもの」

 体を小さくしていじけている麻理さんが可愛くて、
抱きしめたい衝動にかられてしまった事はこのさいなかった事にしよう。
 これじゃあ春希も保護欲がなくならないかな。だって可愛すぎるものね。
 仕事は真面目すぎるほどにしっかりとやっていて、春希の目標でもある。プライベート
も一見真面目そうだけど可愛らしい部分もあって、一途で健気で弱々しくて強くもある。
 春希は冬馬かずさと風岡麻理は似ているって言ってたけど、
わたしの印象からすると全く違うかな。
たしかに表面上は似ている部分は多いけど、根っこの部分が全く違う気がするんだよね。
まっ、クローンでさえ同じ人間を作り出す事は不可能だろうし、
春希が似ていると思ったのも、よくて出会ってすぐの印象くらいかな。
 おそらく今春希に冬馬かずさと風岡麻理は似てる?って聞いてみたら、
似ていないってこたえるだろうな。
 あっでも、強いけど弱いってところは似てるか……。ただ、どんな人間も強い部分と
弱い部分があるわけだし、その両方の面をどんな風に人に見せているかが問題なのよね。

春希「なぁ千晶。本当に佐和子さんが言ったのか? もし言ったのなら、
   その時の事を教えてくれないか?」

 さすが春希ぃ、切り返しが早いね。
麻理さんのピンチをさっそうと助けに入るって、男だねぇ……。
 おっと麻理さんの顔色も若干桃色っぽくなってほてってきちゃったかな?

千晶「えっとねぇ……」

春希「どうなんだよ、千晶? 怒らないからちゃんと話せよ」

 怒らないからって言って実際怒らない人っているのかな?
 ほら、今回は春希は宣言通りに怒らないかもしれないけど、お隣にいる麻理お姉様が
お怒りになるんじゃない? その辺の手綱もしっかりと握っててくれる?

麻理「和泉さん。どうなの?」

千晶「どうだったかなぁ……」

春希「千晶」

千晶「わかったわよ」

 春希に睨まれちゃったら言わないわけにはいかないかな。
 といっても、最初から話す予定だったけどさ。

千晶「えっとね、ちょうど舞台があって役作りのためにレディコミ読んでいたのよ。
   見た目は清純そうでお高くとまっている女なんだけど、心の中はえっろいこと
   ばっかり考えている女でさぁ、まっ、どこにでもいる女を演じることになったのよ」

春希「お前の判断基準については今は何も言わないけど、それがどう関係するんだよ」

千晶「ねえ春希」

春希「なんだよ?」

千晶「今は言わないけどって言ってるけど、その言いようがすでに言ってるんだけど」

春希「悪かったよ。謝罪するから話を進めてくれないか」

 わたしがわざとらしく顎の下から詰め寄ると、春希はすいっと顔をそらして私に話を
進めろと促す。今は麻理さんの名誉回復が大切だしね。

千晶「はぁ~い。……でね、あと一応言っておくけど、役作りのために麻理さんを
   観察していたってことはないからね」

麻理「え?」

やっぱわたしが春希たち3人のことを題材にして台本を書いていたって事は麻理さんには
いってないか。べつに隠さなくてもいいんだけど、こういう気遣いは春希って感じがするな。

千晶「誰もが認めるワーカーホリックなのにレディコミ大好きだってところを役にいかそう
   と麻理さんを観察した事はないっていっただけだって。近くに役を演じるうえで
   参考になる人がいたら観察することがよくあるからさ。
   それで一応麻理さんを参考にはしていないよって言っておいたって事よ」

麻理「そ、そう? 別に私を見て役に活かせるのだったら、参考にしても構わないわよ?」

千晶「うん、今度なにかあったら参考にしてみる。だけどこの舞台、もう終わっちゃったから」

麻理「そうなの?」

千晶「うん。わりとうまく演じられたかな」

 レディコミ自体はいくら読んでもまったく興味はもてなかったけど、
今回は女の醜い部分を演じるだけだったし、今まで集めたストックで十分だったのよね。
 だけど劇団の女連中がレディコミが面白いっていってたから気になったんだよね。
わたしからすると女連中の妄想欲望よりも、男連中が隠している秘蔵コレクションを
こっそり覗き見る方が大変有意義な時間をすごせるんだけどさ。
 あとで色々とおちょくれるしっ。

麻理「和泉さんの舞台、見てみたかったわね」

千晶「今度やるときはみにきてよ」

麻理「そうさせてもらうわ」

千晶「うん」

麻理「………………それよりも私、レディコミなんて読んでないからねっ。レディコミが
   好きなキャリアウーマンって、私を参考にしても役に立たないからっ」

 話が終息していきそうだったのに、ここでまた蒸し返すかなぁ……。
麻理さんが話してほしいって言うんならいいんだけどさ。
 それとも、きっちりと白黒つけておきたいタイプ?

千晶「あぁ……、だから麻理さんは参考にしていないって言ったじゃない」

 だからわたしは苦笑いとともに一応助け船を出しておくことにした。
 でも、最初にわたしが攻撃したせいなんだけど……。

麻理「それもそうね……」


春希「で、千晶。佐和子さんが言ったのかって話はどうなったんだよ?」

 さすが春希ぃ。またもや麻理さんをさりげなくサポートするんだね。

千晶「それね。ちょうどニューヨークに行く為に佐和子さんに相談してたのよ」

春希「そういえば旅行とかするときは佐和子さんに相談してみたらって教えたんだっけな」

千晶「そうそう、それ。麻理さんがせっかく紹介してくれたんだから
   使わない手はないかなって」

麻理「はぁ……。あとで佐和子に電話しておかないと」

千晶「べつにお礼とかはいいって言ってたよ。これも仕事だからって」

麻理「はぁ…………」

 今度はさらに大きなため息をついたけど、麻理さんどうしたのかな?

春希「どうしたのですか? 千晶がいうように佐和子さんも仕事ですし、
   それほど負担にはなっていないと思いますけど?」

麻理「違うのよ、春希」

春希「といいますと?」

麻理「だって和泉さんを紹介してしまったのよ。佐和子に和泉千晶を押し付けてしまったの」

春希「あぁ……、なるほど」

千晶「なにがなるほどなのかな?」

春希「そりゃあ佐和子さんも千晶の相手をするのは災難だったかなって……」

 わたしはわざとらしく柔らかい笑顔を作りだす。
だれもが聖母だと崇めるべく日だまりのような笑顔をわざとらしく形作る。
 すると、今の状況をどうにか理解できた春希は苦笑いを浮かべ、
逃げ場なんてないのに壁に体を押し付けて後退しようとする。
 でもね、春希。もう遅い……。

春希「……ちょっ、無理無理。というか暴れるな千晶っ。玄関だし狭いから」

千晶「大丈夫だって。春希がちょこ~っと我慢してくれていれば問題ない」

春希「問題ないといいながら、首を絞めるの……、まじで苦しいって」

千晶「なにが苦しいのよ。頭はわたしのおっきな胸で抱きしめてもらえているんだから、
   気持ちのいいの間違いじゃない?」

春希「だぁ……本当に苦しいからっ」

麻理「和泉さんっ。私が悪いのよ。ほんとうにごめんなさい。だから春希を離しなさい」

千晶「うん、わかってる。だから麻理さんが一番ダメージを受けそうな事をやってるの」

麻理「わかっているのなら本当にやめなさいよ。春希に手を出すなんて卑怯よ」

千晶「大丈夫だって。見た目ほど強く絞めてないし」

麻理「そうなの?」

千晶「そうだって。春希も慌てて混乱しているみたいだけど、
   実はこっそりとわたしの胸を堪能してるんじゃないのかな?」

麻理「はるきぃ……」

 あっ、こわっ。
 さっすが麻理さん。春希のしつけをよくわかってらっしゃる。
 鬼の形相とはこういった表情をいうんだね。それにしても男に浮気された女の
表情かぁ。生で見られてラッキーってことにしておこう。

春希「麻理さんっ。違いますよ。違いますって。いや違くはなくてですね……」

麻理「どっちなのよ。はっきりしなさい」

春希「だからですね……」

千晶「わたしの胸が気持ちいいって事でいいんじゃない?」

春希「千晶は黙っててくれ」

麻理「和泉さんは黙ってて」

こういうときも仲がいいんだから。ちょっと見ない間にさらに仲がよろしくなってない?


千晶「はぁ~い、っと」

麻理「それで春希。どうなのよ?」

春希「だからですね。千晶が言った通りパニック状態に陥ってしまって、
   首を強く絞められているって思ってしまったんですよ」

麻理「ふぅ~ん。……それで?」

春希「だから千晶の胸がどうとかってこともないんですよ」

麻理「そう。……それで今は冷静さを取り戻したと?」

春希「はい、どうにかやっとってところですかね」

麻理「ふぅ~~~ん」

 麻理さんは春希の言葉を聞いてさらに不機嫌そうになる。
 春希と一緒に真正面から見ているからよくわかる。若干春希より上からだけど。

春希「人ってパニックになったらどうしようもないじゃないですか。
   普段できることもできなくなったりしてですね」

麻理「別にパニック状態の時のことは責めないわ」

春希「ありがとうございます」

麻理「でもね。今の状態の事は別問題かしらね」

春希「だから今こうして心をこめて謝罪しているじゃないですか」

麻理「ふぅ~ん。謝罪ねぇ」

春希「はい、謝罪です。パニック状態だったとはいえ、
   麻理さんに不快な思いをさせてしまいましたから」

麻理「だから、別にそのときのことは怒ってないわ」

春希「じゃあ、どうしてまだ不機嫌なんですか? 教えてくださいよ」

千晶「ねえ、春希?」

春希「すまん千晶。今は麻理さんのほうを優先したいんだ。せっかくニューヨークに
   きてもらっているところで悪いけど、少しだけ待っていてほしい」

千晶「わたしはべつにいいんだけど、ね」

春希「そうか? だったらあとでな」

千晶「でもね春希」

春希「なんだよ?」

千晶「一応大学でたくさんお世話になった春希にだから教えてあげるんだけどさ」

春希「だからなんだよ?」

 ようやく春希はわたしの声が聞こえる方に顎をあげる。
後頭部を大きな胸にさらに沈め、その柔らかい感触をじかに受けながら。
 つまりは、春希は今までわたしの胸に頭を預けていたってことになる。さらに詳しく
説明すると、わたしは春希を後ろから抱きしめながら床に座っている状態であった。

麻理「ねえ春希。いつまで和泉さんの胸に埋もれているのよ」

春希「えっ?」

千晶「これも一応言っておいてあげるけど、わたしはもう春希の首は絞めていないよ。
   でもさ、春希。いくら首を絞める時床に座り込んだからといって、そのままわたし
   を最高級ソファー代りにして身を埋もれさせるのは最高のアイディアだと思うよ。
   やっぱりわたしの胸が恋しいんだね。
   日本にいた時から春希はわたしの胸が大好きだったからねっ」

 わたしは今まで拘束を解いていた春希を再度両腕で抱き寄せると、
麻理さんに挑発的な笑みとを送る。
 すると麻理さんは予想通りの悔しそうな顔を見せるものだから、
ここぞとばかりに春希を抱き寄せる力を強める。

麻理「ちょっと和泉さん。春希を解放しなさい」

千晶「でもね、麻理さん。春希は自分からわたしの胸を選んだんだよ。
   わたしは春希をおさえつけていなかったじゃない」

麻理「でも今は抑えつけているわ」


千晶「せめて抱きしめてあげてるっていってほしいかな」

麻理「同じ事よ」

千晶「そう? まっいっか。でも、わたしは春希の首を絞めてはいたけど、
   首を絞めるのをやめた後は何もしていないよ」

麻理「そうだけど……」

千晶「春希が自分からわたしの胸に頭を預けてきただけだって。それに、春希って日本に
   いたときからわたしの胸で抱きしめてもらうのが大好きみたいなんだよね。
   いっつも口うるさいのに、胸の中では静かなんだよね」

麻理「春希、そうなの? というか、いいかげん千晶さんから離れなさいよ」

春希「す、すみません」

 今度こそって言うか、わたしは春希をそれほど強く拘束していたわけでもないので、
春希はぱぱぱっとわたしの胸から巣立ってゆく。
 ちょこっとだけ胸のあたりが寂しくなったけど、
春希が立ちあがったのを見た後、わたしものそのそっと立ちあがった。

麻理「もういいわ。とりあえずリビングに移りましょう」

春希「そうですね」

麻理「狭い玄関でなにをやっているのかしらね」

春希「ですよね」

千晶「寸劇ってところじゃない?」

春希「千晶。とりあえず中入ろうか。荷物はこれだけか?」

千晶「うん、それだけかな」

麻理「先行くわね」

春希「はい。……ほら千晶。リビングに案内するから」

千晶「はぁ~い」

 ちょっとぉ……、ふたりとも冷たいんじゃない?
 たしかに再会と同時に全速力の喜劇は素人にはきつすぎたかもしれないけどさ。
でも、二人ともとっとと中に入っていくので、観客がいない舞台ほど寂しいものはなく、
幕が下がっては次の舞台に行くしかないのよね。
 ちなみに、わたしは空港から春希に電話したときと同じように流ちょうな英語を
話している。アナウンサーばりの滑舌の良い発音は心地よく耳に響き、
せまい玄関の隅々まで響き渡る。
ただ、いくら狭い玄関っていってもここは高級物件らしく、それなりの広さはあるのよね。
 ほんと冗談じゃなくて、春希ってつばめの素質があるんじゃないの?
 麻理さんもお金持っているけど、冬馬かずさはもっとお金持ちなのよね。
春希がねらって近付いているわけでもないんだろうけど、天性のものかな?
 まっ、わたしはどっちでもいいんだけどさ。
 女の話にお金の話。どうして話している内容は下世話なものなのだろうか。
 それが和泉千晶だからといってしまえばそれまでだけれど、綺麗な英語の発音に
下世話な会話の組み合わせって、なんかくるものがあるのよね。
 とりあえずこれで玄関の客人からリビングの客人に格上げかな。




第63話 終劇
第64話につづく







第63話 あとがき


千晶再登場です。千晶は書きやすいですね。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第64話



夏の太陽光がほどよく入るリビングは、この部屋の持ち主たちの性格をよく反映されていて
心地よさを感じられる。いうまでもなく、おもに春希の性格を色濃く反映させているのだろう。
 エアコンで空調管理がされているとはいえ、視覚から得られる涼しさは、
穏やかな生活感からくるものなのかもしれない。
 二人だけの生活。きっと冬馬かずさがニューヨークに来た事さえプラスに働いたのだろう。
 この三人がこの先どうなるかなんてわからない。ましてやわたしがどうしたいとか、
どうなってほしいかなんて考えた事もない。ただ、春希達が幸せになってくるんなら、
それでいいかなと思っている。
 …………悲劇の結末だとしても、それはそれで面白くはあるんだけど、
それは春希によくしてもらっているわたしとしては、
今の和泉千晶の立場からすれば御遠慮してもらいたい結末ではある。
 本来ならわたしという異物を弾きだしそうな閉鎖的な空間であるはずなのに、わたしがこの
二人だけの空間に居心地の良さを感じられるのは、春希が一人で住んでいたマンションの影響
もあるだろうが、春希の実家での生活が春希らしさを感じ取ってるからなのかもしれない。
 春希が電話でも言っていたが、今日は自宅で仕事をしているようだ。
げんにリビングには二人分のパソコンといつくかの資料が置かれている。
 そしてわたしをリビングまで案内してくれた春希とはいうと、
すでにぐったりとした様相で、ペットボトルの水を飲んで一息ついていた。

春希「なあ千晶。最初から千晶がくるってわかっていたら、わざわざ急いで部屋を片付ける
   必要なんてなかったんだぞ」

千晶「ひっどぉ~い。わたしだったら汚い部屋でも出迎えてもよかったっていうの?」

春希「そうじゃないって。見ての通りここで仕事をしていたんだけど、部屋の隅に積んである
   資料は、夏目ジュリアさんがくるっていうものだから急遽片付けたものなんだよ」

千晶「べつにいいじゃない。和泉千晶ちゃんが来てあげたんだから」

春希「わかってないようだから言っておくが、
   わざわざ仕事を中断したってことをお前に伝えようとしていてでだな……」

千晶「それは悪かったって思っているわよ」

春希「それにな、千晶が来るってわかっていたら軽く食べるものくらいは用意していたと思うぞ」

千晶「ほんとっ? 春希の料理って久しぶりだからなぁ……。
   春希のことだから料理の腕もあげてるんでしょ?」

春希「それはどうだろうな? 自分では手際が良くなったくらいしかわからないから」

千晶「じゃあわたしが審査してあげるって」

春希「できればそう願いたいところだったんだが、誰かさんは玄関を開けるまで
   ニューヨークに来る事を黙っていたから、食事の準備なんて全くしてない」

千晶「え、えぇ~……」

春希「お前が悪いんだろ?」

千晶「そうだけど、そうだけどさぁ」

春希「それに、事前にニューヨークに来る事を教え得てもらえていたら、仕事だって終わら
   せていられたかもしれないんだぞ。空港にだって迎えに行けたかもしれないし」

千晶「だってされじゃあ面白くないじゃない」

春希「仕事をかき乱される方のことも考えろと言いたくてだな」

麻理「春希、もういいじゃない。仕事のほうも一息つこうと考えていたところだし、もう
   使わない資料を片付ける事ができたと思えば悪い事ではないわ。和泉さんだって春希を
   驚かせようとしただけでしょうし……。ただ、春希がどう反応するかを読み違えただけよ」

 ちょっとぉ、麻理さん。わたしを助けてくれるのは嬉しいんだけど、
さりげなく私の方が春希のことを知ってますって自慢してない?
 おそらく本人は無自覚なんだろうけどさ。

春希「そうですか? 麻理さんがそういうのなら……。とりあえず千晶も飛行機疲れただろ。
   荷物はここに置いておくからソファーに座れよ」

千晶「ふぁ~い。でも、仕事の邪魔しちゃったのはごめん。春希たちの仕事の姿勢知ってるのに」

わたしが演劇にのめり込むように春希達も仕事にのめり込んでいる。幾分わたしののめり込み
具合は常軌を逸していると声が上がってはいるけど、
春希達も人には迷惑はかけてはいないだけで、わたしと似たようなものなのよね。
 だから、仕事を邪魔されて嫌な気持ちになることはすっごく理解できてしまう。

麻理「大丈夫よ。本当に休憩をしようと思っていたところだから」


千晶「ほんとに?」

春希「麻理さんがいう通り、いつもなら休憩に入る時間帯でもあったから気にしなくていいぞ」

千晶「そっか。じゃあ気にしない」

春希「いつまでもうじうじしているのは千晶らしくないから、
   今みたいにふてぶてしい方が扱いが楽だしな」

千晶「わたしが明るい方がいい理由については再考を求めたいんだけど、まっいっか」

春希「それはそうと、なにから聞いたほうがいいんだろうな?」

麻理「そうね。千晶さんには聞かなければならない事が多すぎて困ってしまうわね」

春希「とりあえず、その髪の毛の色は染めたのか? よく似合っていてはいるとは思うぞ。
   化粧のせいとあるとは思うけど、モニターから見た画像だと千晶だとはわからな
   かったからな。玄関まで来て直接見たらどうにかわかるくらいだったし」

麻理「そうね。私はいつもモニターでしか会った事はなかったけど、
   和泉さんだとはわからなかったわ」

 春希たちの反応はこんなものかな。もっと盛大に驚いては欲しいけど、春希と麻理さんに
求めてもしょうがないか。こういうのは劇団の団長とかにやるのが一番面白いのよね。
 さて、見たいものはみられたし、かぶり物はとるとしましょうか。

春希「あっ、かつらだったのか」

麻理「ブルネット、よく似合うわね。……目の色は、色つきのコンタクトかしら?
   ちょっと色素が薄いわよね?」

 麻理さんは興味深げにわたしの目の覗きこんでくる。同性だし恥ずかしい気持ちなんて
ないけど、こうも真っ直ぐに見つめられるとこそばゆくはある。

千晶「元々髪の色素も薄くて茶色っぽくもあったから違和感なかったんだと思うよ。まあ、
   春希が言う通りメイクしたり、雰囲気を作ったりもしていたからわたしだって気が
   つかなかったんじゃない? 一応これでも役者だしさ。あと、この服もカツラも
   日本から用意してきたんだから、その辺の苦労はねぎらってほしいところね」

春希「無駄な所は頑張るんだよな……」

千晶「無駄じゃないって」

春希「どこがだよ?」

千晶「こうして春希と麻理さんを驚かせることができたじゃない」

春希「それが無駄な努力だっていうんだよ」

千晶「えっ、そう? 麻理さんも?」

 わたしの問いに麻理さんも春希と同じような苦笑いを浮かべてしまう。
 しょうがないか。天才が考える事はいつの時代でも凡人には理解できないのよね。
ここはわたしのほうが折れるかな。

春希「あと、夏目ジュリアってなんなんだよ?」

千晶「夏目ジュリア? 誰それ?」

春希「千晶が俺に名のった名前じゃないか。わざわざ偽名まで使って……」

千晶「あぁそれね。適当に思い付いただけだよ。夏目っていうのは今が夏だったからで、
   ジュリアっていうのは、空港でわたしが電話するときに隣で抱き合っている巨漢
   カップルの女の方の名前かな。すっごく濃厚な抱擁で、さすがアメリカって思ったものね」

春希「それでジュリア……?」

千晶「……うん? まあそんなかんじかな。それとも他の名前がよかった?
   名前なんてわかればいいんだし、適当でいいんじゃない?」

春希「千晶がそれでいいんならそれでいいと思うぞ。俺の方からは何も言わないよ」

千晶「そう?」

 まだなにか言いたそうだったけど、別にいっか。どうせ使い捨ての偽名だし、
気にするようなものでもないしさ。
 きっと春希の事だから、アメリカサイズの太り過ぎた女性の名前でいいのかってことを
気にしているんだろうけど、偽名を使ったらわたしが太るわけでもないんだから
気にする必要ないんじゃない?

麻理「名前はわかったけど、綺麗な英語を話すのね」

千晶「麻理さん、ありがとう。英語を覚えるのはけっこう苦労したのよね」


春希「千晶って、大学での英語の成績は悪かったよな?」

千晶「よくはなかったかな」

春希「だよな。じゃあ俺がニューヨークに行った覚えたのか?」

千晶「そういうことになるかな。英会話自体はすぐにできるようになったんだけど、発音の
   ほうが苦労したかな? 苦労ってほどでもないか? なんていうか訛りが混ざらない
   ようにするのをチェックするのが面倒だったっていうか、
   話す事自体は問題なかったんだけどねぇ」

麻理「それにしてもほんとうに綺麗な英語ね」

春希「その頑張りを大学でも発揮してくれればと思わずにはいられないな。
   ほんの少しでも頑張ってくれていれば、俺も楽できたんだけど」

千晶「大学では英語なんて必要じゃなかったから覚える必要なんてないじゃない」

春希「必要だろ。英語の講義もあるし、ほかの講義でも英語の資料とか使っただろ」

千晶「そうだっけ」

春希「そうだったんだよ」

 春希は心底疲れたぁって顔をするけど、その顔を見るとほっとしてしまう。
 大学時代、わたしが春希に頼るたびに見せてくれた顔だからかな。
 春希からすれば、面倒事に出会ってしまったときに見せてしまう顔だから、
きっと迷惑に思ったに違いないけど。

麻理「あっ、そうだ。佐和子よ、佐和子」

春希「佐和子さん?」

千晶「佐和子さんならニューヨーク行きのチケットとか用意して貰ったけど?」

麻理「違うわよっ。さっき玄関でレディコミがどうのって話になったじゃない」

千晶「あぁ……、そんな話もしたっけ」

麻理「あなたがしたのよっ」

 麻理さんも顔を真っ赤にするくらいなら、話を蒸し返さなければいいのに。
春希の方もその辺の事情がわかっているみたいだから何も言わないみたいだけど。

麻理「で、どうなのよ?」

千晶「麻理さんって、けっこう根に持つタイプなんだね」

麻理「誰のせいよっ」

千晶「まっ、いっか。じゃあ話してあげるからソファーに座って落ち着きなって。
   せめて顔を赤くしているのくらいは鎮めたほうがいいよ」

麻理「……もう、誰のせいよ」

 こういうのが春希の好みなのかな?
 顔をそらしながらも視線だけは春希に向ける恥じらいを見せる姿っていうの?
 やっぱこういういじらしくも初々しい女がいいのかな。
 案外春希って典型的な女が好きなんだよね。
一見屈折していそうな女であっても、根は女の子っていうの?
 冬馬かずさも風岡麻理もそんな感じかな。

千晶「じゃあ、話すね」




 夕方ということもあって、人気チェーンカフェの中は人であふれている。
運よく手にした二人掛けのテーブル席の一方に荷物を置き、
テーブルにはコーヒーではなくドーナツが二つのったお皿が置かれていた。
 別にカフェだからコーヒーを飲まなくてはならないわけでもない。げんにフルーツ系の氷を
砕いたジュースを飲んでいる客もそれなりにいる。
だから、わたしがコーヒーを頼まなくたっておかしくはない。
 コーヒーの代りにジュースを頼んだのではなく、
コーヒーの代りにドーナツを頼んだだけなのだから。
 だからわたしは、コーヒーの香りを楽しみながら本を読んで待ち人が来るのを待っていた。
 一つ目のドーナツがすべて収まった頃ようやく来た佐和子さんからのメールは、
仕事で予定よりも来るのが遅くなるとのことだった。
 これだったらドーナツじゃなくてコーヒーにすればよかったと内心愚痴を洩らしそうに
なってしまう。コーヒーだったら飲み終わってもカップが空かどうかはわからない。
でも、ドーナツだと、食べてしまえばお皿が空になってしまうのよね。
 どちらにせよ、長々とカフェの椅子を占領する事には違いはないけど。
 そして、ちびちびと食べていた二つ目のドーナツが半分くらいまで減ってしまった頃、
ようやく佐和子さんがカフェに訪れ、本を読んでいたわたしに声をかけてきた。

佐和子「おまたせぇ……って、なにを読んでいるのよっ」

 本から顔をあげ、見上げる先には顔を赤らめた佐和子さんがいる。
時計を見ると、約束の時間から1時間半ばかり過ぎ去っていた。

千晶「ん? 今度の舞台の参考資料ってところかな? それよりも、走ってこなくても
   よかったのに。最初から時間には遅れるかもっていっててくれていたからさ、
   ちゃんと時間潰す用意してきたから問題ないよ」

佐和子「遅刻してきた事は謝罪するわ。でもそれよりも和泉さん。なにを読んでいるのよ」

千晶「ん? 本だけど?」

佐和子「本を読んでいるのはわかっているわ。問題はなんの本を読んでいるかっていうことよ」

千晶「これ?」

佐和子「ちょっ! 広げないでよっ」

千晶「どうして?」

佐和子「どうしてって、わかるでしょ?」

千晶「ううん、わからないんだけど?」

 なにを慌てているんだろ? どうも事態がつかめないんだよね。佐和子さんに会うのは
これで数回目になるけど、いままでは普通の人だと思っていたんだけどなぁ。
 やっぱり春希や麻理さんの知り合いってわけで、普通じゃないのかな? 
 それはそれでわたしとしては面白くて楽しくて愉快なんだけど、そんなことを言ったら
春希や麻理さんはもちろん、目の前にいる佐和子さんも怒りそうだよなぁ……。

佐和子「ほんとうにわからないの?」

千晶「ほんとうだって」

佐和子「一応聞くけど、今読んでいる本は?」

千晶「これ?」

佐和子「そうよ。それと、ページを開かないでくれるとありがたいわね」

 もうっ。顔を引きつらせるような事をわたししたかな? 本当にわからないんだけど。

千晶「わかったわよ。それよりも佐和子さん」

佐和子「なにかしら?」

千晶「座ったら? 立って大声だしているほうが目立っちゃうよ?
   あっ、椅子に置いてあるわたしの鞄は適当に床においていいから」

 佐和子さんは椅子に置かれているわたしの鞄をやんわりと持ちあげると、
丁寧に床に置き、そのまま空いた椅子へと座る。
 そして、手に持っていたコーヒーをテーブルに置くと、
一人分のコーヒーとドーナツのセットが完成っと。

佐和子「座ったわよ」

千晶「そうね」

佐和子「そうねって、それだけ?」

千晶「えっと、なんだっけ?」

佐和子「はぁ……、北原君が言っていたことは本当だったようね」

千晶「春希が何か言ってたの? どうせ千晶と関わるとろくな目にはあわないとかでしょ?」

佐和子「はぁ…………、そうよ、その通り」

千晶「盛大なため息は拍手と思っておくね」

佐和子「もういいわ。そもそも北原君があなたを押し付けてきた事が問題だったのよ」

千晶「そうかもね」

佐和子「今度北原君に会ったら借りを返してもらう事にしておくわ」

千晶「そのほうがいいと思うよ」

佐和子「あなたにいわれたくないわよっ……って、この本よ、この本。
   なんてものをカフェで読んでいるのよ。しかも人が多いこのカフェで」

千晶「この本?」

佐和子「そうよ」


千晶「あぁ、この本は借りたんだ。今度の舞台の役作りでね。そこの鞄の中にも他にも
   借りた本が何冊か入っているからさぁ、重くて重くて。佐和子さんが来るまでに
   2冊読んだんだけど、まったく面白くないんだよね。どこが面白いか全く
   わからないくて。あっ、見てみる? 鞄に入っているの勝手に見てもいいよ」

 わたしがそういうと、佐和子さんは仕方がないといった感じを
装いながらも私の鞄の中身を確認しだした。
私とは違って羞恥心があるのか、鞄の中を覗き込むだけで本をテーブルの上に広げたりはしない。
 別にわたしに全く羞恥心がないってわけでもない。テーブルの上に出して読んだとしても、
表紙と題名からでは内容はわからない。それに、もし内容がわかるっていうんなら、この
レディコミの読者ってことになり、わたしではなくて、わかった本人の方が恥ずかしいってものだ。

佐和子「けっこうあるのね」

千晶「まあ、ね。劇団の女連中の持ち物なんだけど、けっこうみんな隠れて
   読んでいるみたいね。……でも、何が面白いかまったくわからないのが
   問題なんだよなぁ。ねえ佐和子さん」

佐和子「なにかしら?」

 わたしの呼びかけに何か勘づいたのか、佐和子さんの返事には警戒心が混じり込んでいる。
 ……その警戒、間違いってわけではないからしゃくだけど。

千晶「なにかお勧めない? まったくレディコミを理解できなくても役は演じられそう
   だけど、それでもわかっているほうがいいわけなのよねぇ。だから……」

佐和子「私は暇なときに置いてあれば読む程度で、自分から買おうとは思わないから役には
    立たないと思うわよ」

千晶「そっか、佐和子さんはわからないか」

佐和子「役に立てなくてごめんなさいね」

千晶「じゃあ、佐和子さんの友達のお勧めなら教えてもらえるんだよね?」

佐和子「はい?」

千晶「だって、暇なときに部屋に置いてあれば読むって言ったよね?」

佐和子「たしかにそういったわね。でも、なんで私の友達が持ってるって思うのよ?」

千晶「簡単だって。そもそも気を許した相手じゃなければ、こういった本を無造作に置いて
   おくわけないって。まっ、気を許した相手であっても普通は無造作に置いておく事も
   ないだろうから、よっぽどそういう方面に関しては開放的な人か、
   それとも部屋が散らかっている人になってしまうんだろうけど」

佐和子「春希君がいう通り、よく人を見ているのね」

 私の推理に佐和子さんは驚きを見せるが、すぐに称賛に変化する。
ただその称賛も、わたしの次の言葉によって苦笑いに変化してしまったが……。

千晶「性分なんで。……でさ、麻理さんが好きな本のタイトルを教えてくれない?」

佐和子「えっ?」

千晶「佐和子さんが読んだ本って、部屋が汚い人が持ち主だよね」

佐和子「どうしてよ?」

千晶「推理とかしたわけでもなくて、ただ単に佐和子さんの友達でこういう本を持っていそう
   な人が麻理さんしか思い浮かばなかっただけだって。少なくとも誰かの部屋で
   読んでいるわけでしょ?」

佐和子「……ごめん、麻理」

千晶「大丈夫だって。誰かに言ったりしないから」

佐和子「それは心配してないわ」

千晶「わたしって意外と信頼されてる?」

佐和子「その逆よ」

千晶「逆?」

佐和子「たしかに人には話さないでしょうけど、麻理には言うんでしょ?」

千晶「どうしてわかったの?」

佐和子「和泉さんにとってそれが一番面白いかなって思っただけよ」

 佐和子さんはそう呟くと、つまらなそうに顔を背けた。
 でもさぁ、佐和子さんもそう思ったって事は、
佐和子さん自身も面白いと思ったんじゃないのかなぁ?



千晶「まっ、いいじゃない。どうせ麻理さんをおちょくることがあったとしても春希がらみ
   だし、そのときは春希がフォローしてくれるって。そうなれば麻理さんも春希に
   手厚く介抱されて喜ぶと思うよ」

佐和子「はぁ……。麻理の言う通り、考え過ぎると駄目なのかしらね」

千晶「そうそう。気楽に行こうよ」

佐和子「わかったわよ」

千晶「で、一応もう一度聞くけど、お勧めの本ってある?」

佐和子「えっと……、この本が面白いって言ってたわね」

 後で買いに行こうかなって思っていたら、なんてこともない。佐和子さんが示す本、
つまりは麻理さんんお勧めの本は、ちょうど私の鞄の中に入っていた。





第64話 終劇
第65話につづく






第64話 あとがき


千晶の髪の色と目の色は物語上原作とは異なっていると思います。
大きく違うわけではないとは思いますが。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第65話




千晶「って、感じだったかな」

麻理「佐和子のやつぅ……」

 ちょっとした小芝居をまじえつつ、当時の事を思い出しながら演じてゆく。
 自分を自分で演じるのは案外難しい。自分を客観的に見ている人なんていないのだから当たり前か。
 春希にとっても和泉千晶はどうみえているのかな? きっと面倒な奴って思っているん
だろうけど、まあいいか。それでも面倒をみてくれているんだから感謝しなくちゃね。
 佐和子さんの出来はまあまあかな? 麻理さんも嫌な風にはみていなかったようだし。
 しかし、麻理さんも最初こそは佐和子さんのことを懐かしそうに聞いてはいたが、
話が進むにつれて顔を赤めていってしまった。
 春希の方はそんな麻理さんに対してどう接していいのかわからないようで、
ただただ沈黙を続けるしかないみたい。それに、ここでわざとらしく春希が介入しても、
わたしの餌食になるだけなんだけどね。
 だから春希。なにか面白いことしてほしいなぁ。

千晶「佐和子さんも悪気があったわけじゃないし、いいんじゃない?」

麻理「あなたが言うかなぁ?」

千晶「わたしだからこそだって。それに、佐和子さんと一緒にこの本買ってきてあげたんだ
   から感謝してよね。こっちじゃ売ってないんでしょ? でもほんとうはもう買って
   あるとか? わざわざ日本から取り寄せるなんて、よっぽど好きじゃないとできないよね」

 そういいながらわたしが差し出したものは、いわるゆレディコミ。
 しかも麻理さんお気に入りのシリーズであり、
カフェで佐和子さんと待ち合わせた時に教えてもらった本でもある。
 表紙は、……まあ、ふつうなのかな? よくはわからないけど、
見た目だけではそういった内容なのかはわからないと思う。絵柄は綺麗だし、
本屋に置いてあってもジャンル分けしてなかったら気がつかないはずかな。
 春希はというと、ぽかんとしながら本を見つめている。内心どきどきなはずだけど、
どう対処していいかわからないという点では、今の表情と一致しているかな。
 そして麻理さんはというと、予想通り過剰なまでの反応を見せてくれている。
今にも逃げ出しそうなくらい顔を赤く染め、両手を震わせていた。

麻理「買ってないからっ」

千晶「そっか、買ってなかったんだね」

 勢いよくわたしにくってかかってきたのものの、わたしがあっさり引き下がったもの
だから、麻理さんの体から力が抜けていく。
そして一度かき集めたエネルギーをどう発散すべきかと戸惑っているかんじでもあった。
 その一方で春希ときたら何を思ったのか、身を固くして警戒レベルをあげたようだ。
 …………でも正解。春希のその反応正解なんだな。

麻理「そうよ。私は買ってないわ」

千晶「そうだよね。さすがに最新刊は買ってないよね。アメリカじゃあ売ってないだろうし、
   日本から取り寄せるにしても春希と一緒に住んでいたんじゃ難しいよね。しかも
   一日中べったりと二人でいる事が多いみたいだから、なおのこと隠し事は困難を極めるよね」

麻理「和泉さん?」

千晶「素直になろうよ。だって麻理さんがこの本を読んでいるの知ってるんだからさ。
   それともこの本処分しちゃってもいい?」

麻理「かまわないわ」

千晶「ほんとうにぃ?」

麻理「本当よ」

 わざとらしく下から覗きこむように麻理さんを見上げると、さすがに羞恥心が満ち溢れて
いるようで、麻理さんは逃げるようにわたしから視線をそらす。
 そのそらした視線の先には当然のように春希がいるわけで、日ごろの習慣というか、
春希を信頼しているっていうか、春希に頼りきっているっていうのがよくわかってしまった。

 まっ、今回は春希にさえも見せたくない事実であったわけで、
麻理さんは春希と目があった瞬間、逃げるように視線を自分の膝に移したんだけど。

千晶「じゃあ春希読む? わたしは舞台が終わっちゃったからこれいらないし、
   べつに手元に置いておきたいわけでもないんだよね」

春希「いや、俺は……」

千晶「内容としては春希も楽しめるんじゃないかな? 年上の女上司が若い部下と同棲する
   っていう話だし、親近感もわいて楽しめるんじゃない?
   もしかしたら今後の参考にもなるかもよ?」



春希「えっと、その……」

さすがに春希も手を出せないか。そりゃそうよね。なんたって麻理さんが今にも泣きそうだもん。

麻理「は、春希ぃ……」

春希「俺は読みませんから。ほら千晶。麻理さんも困ってるだろ。ちょっとやりすぎだぞ」

千晶「わかったわよ。はい、麻理さん」

麻理「え?」

 わたしは処分に困っていた本を麻理さんに差し出す。
 麻理さんはその本を目の前に差し出されて困惑しているみたいだけれど、これが最善かな。

千晶「わたしが持っていてもしょうがないし、捨てるにしても春希には見せたくはない
   でしょ? ほら、教育上よくないっていうかんじ? だから麻理さんが処分してくれる
   と助かるかな。わたしが日本に持って帰ってもいいけど、そうすると、
   いつ春希がこっそりと盗み出して読むかわからないしさ」

春希「俺はそんなことしないって」

千晶「ちょっとぉ、春希は黙っててよ」

 ほんのちょっときつめの顔を作り出し、春希を会話の外へと追いやる。
 でも、ちょっとかわいそうだったかな。
なんだか子犬が飼い主の不機嫌さに脅えているっていうのかな。

春希「わ、わかったって」

千晶「で、麻理さん。どうかな? 麻理さんが処分してくれると助かるんだけど」

麻理「わかったわ。私が処分しておくわ」

 麻理さんは渋々と本を受け取る。なんというか、ちょっとばかりやりすぎたかな?
 ほんとうはもっと軽い感じで冷やかすつもりだったんだけど、
あまりにもラブラブすぎてね。しかも、当の本人たちは無自覚だし。
 だから、今回だけは麻理さんをフォローしておいてあげよう。だから春希。許してね。

千晶「まっ、内容としては春希の秘蔵コレクションには及ばないマイルドな感じだったかな。
   過激な描写はほとんどなくて、ストーリー重視だったから、レディコミの中では
   おとなしめっていうの? 役作りのために渡されたレディコミのなかでは面白かったと思うよ」

麻理「そう?」

千晶「ストーリー自体はありきたりだとは思うし、わたしが似たような題材で脚本作れって
   言われたら見向きもしないで断るとは思うけど、それでもなんていうか、あったかい。
   そう、ほのぼのした内容だと思うな」

春希「なんだかんだ言っても千晶も読んでいるじゃないか」

千晶「だから読んだっていったじゃない。これでも女優よ女優。役作りのためにはなんだってやるって」

春希「すまない」

 やばっ。まだ春希に対しては刺々しさを解除してなかったわ。
なんだか可愛らしく震えているから、抱きしめてあげたいかも。
 …………自分で虐めて、自分で慰めるって、なんだかなぁ。
 でも、最後の仕上げがあるから、それが終わるまでは許してね。

千晶「でもさぁ、過激さっていうの? 女も男も変わらないよね」

春希「千晶?」

千晶「だってさぁ、春希秘蔵のコレクションを見た時は、春希も男の子なんだなって思える
   ような趣味だったけど、女も澄まし顔をした顔の下には春希と同じような狂気があるんだもん」

春希「千晶っ、お前……」

千晶「春希っていつもはまじめですぅって感じだけど、やっぱり頭の中はエロい事も考えて
   いるわけじゃない? だからさ、人間本質はみんな同じなのかなって」

春希「おい千晶」

 春希がなんか言ってきているけど、ここは無視しかないでしょ。
 というか、ここは春希がピエロになってくれないと麻理さんがかわいそうでしょうよ。

千晶「でもさぁ……、春希の趣味って変わってるよね。アブノーマルとまでは
   いかないけれど、あれはちょっとひいちゃう人もいるんじゃない?」

春希「おい千晶ってば」


 無視ばかりしていたものだから、春希ったら今度は実力行使?
 わたしの両肩をつかみ揺さぶるその姿には、理知的な様相は吹き飛び、
いわるゆ年相応の男にしか見えない。
 焦っているし、本人も自分の行動を客観的には判断できてはいないのだろう。
 まあ、後ろめたい事があるからしょうがないかな。
だってなにも後ろめたい事がなかったんなら、わたしの戯言を突っぱねればいいだけだしさ。
そうすれば、ここにはわたしと麻理さんしかいないわけだから、
当然ながら麻理さんは春希の主張を信じるはずだ。
 つまり、春希が焦っている時点で、自白しちゃったんだよ、春希。

千晶「ん? なにかな北原春希君?」

春希「まずはその憎たらしい顔をやめてくれ」

千晶「これはデフォルトだから無理」

春希「じゃあ、その挑発的な発言をやめてほしい」

千晶「挑発的?」

春希「そうだろ?」

千晶「まっ、春希からしたら挑発的かもね。
   だって、春希がニューヨークに来る前に日本で証拠はすべて消去しているはずだしね」

春希「千晶?」

 わたしの肩を掴んでいた両手から力が抜け落ち、その手のひらはわたしの腕をするするっと
滑り落ちていく。そしてすとんと両手が宙に放りだされると、
春希の体が一回り小さくなってしまった気がした。

千晶「裁判の判決とか雑誌の記事とかだと証拠が大事だよね。
   裏付けがない情報なんて嘘だってはねつけられちゃうみたいだし」

春希「千晶、さん?」

千晶「わたしがパソコンに詳しかったらデータを普及できるかもしれないけれど、
   そんなのは無理だし、もしかしたらパソコン本体は無理でもハードディスクくらいは
   交換しているかもしれないのよね」

春希「和泉、さん?」

 だんだんと涙声になってきてない? 泣くような事かなぁ?
 ほら、性欲って人間の三大欲求の一つだし、悪い事ではないと思うよ。
 ………………春希を追い詰めているわたしが言うのはどうかとは思うけど。

千晶「でもさ、もし春希の家に寝泊まりとかして、寝泊まりとまでもいかないまでも頻繁に
   春希の家に行く事があったとして、そして春希がその相手にパソコンを貸して
   あげたりする事もあったりしたら、どうなのかなぁ? ほら、よくあるデータのコピーとか?」

 ………………あっ。

千晶「大丈夫だって。いくらわたしでも春希の秘蔵コレクションをコピーしてないわよ。
   ほら泣かないでよ。ねっ、ねっ、春希ちゃん」

 やりすぎちゃったかな?
 床に崩れ落ちるその春希の姿に、さすがのわたしも戸惑いを隠せない。
 このままだとやばくない? 最悪、麻理さんに追い出される気もしないでもないし。

千晶「本当に春希の秘蔵コレクションのコピーはとってないから安心してよ。春希が
   マンションから実家に戻ってくるときに綺麗に消去したじゃないの。だから、ね。
   ほら。データはないんだよ。
   春希のマンションでデータを消しちゃったから、もうないの。わかる?」

麻理「あのね、和泉さん」

千晶「麻理さん、なに?」

麻理「それ、全然フォローになっていないわよ。むしろとどめを刺したというのかしら?」

千晶「げっ……」

 床には死体が…………、ではなくて春希の目から生気が消えかけていた。
 ごろんと床についた両手がみょうに哀愁を語っていて、この私でさえどう対処していいか
わからなくなってしまう。下手すれば春希に必要もないトラウマさえ植え付けてしまいそうだ。
 …………なんとかしなくちゃやばい。
 それは麻理さんも同意見だったらしく、
麻理さんはわたし以上に真剣に春希のフォローに入ろうとしたいた。

麻理「大丈夫よ。春希も男なんだし、エッチなことに興味がない方が不健全よ。
   だから、そのね。元気出して」

春希「……麻理さん」


 こいつぅ。わたしには無反応だったくせに、麻理さんには反応するって、なによ。

千晶「そうだよ春希。黒いストッキングが好きだなんて、ちょっと趣味が偏っているように
   思えるけど、それ以外は普通だよ。うん、SMとかに走っちゃっていない分
   健全だと思うな。だから春希。落ち込む必要はないから」

 わたしもわたしなりにフォローをしたつもりだったのだけれど、
わたしの発言を機にふたりの視線は麻理さんの足へと向かう。
 正確に言えば、太ももからふくらはぎかな。
 わたしもふたりの視線につられて麻理さんの脚を見てみたが、
これといって変わっている箇所はないと思えた。麻理さんはくるぶしまである靴下に
スリッパを履いていて、どこにでもある組み合わせだと思う。
 まあ、今日は自宅で仕事だと言っていたわけだから外行きの服装ではないはずだ。
もし外で会っていたらそれなりの服装はしていたはずだけれど。
 …………まさか?

千晶「もしかして、麻理さんって普段黒いストッキングを愛用しているとかしてないよね?」

 あっ、沈黙。
 でも、麻理さんのはにかんだ笑顔が私の予想が当たっていると結論付ける。
 麻理さんが普段どんな服装をしているかは知らないけど、黒いストッキング愛用かぁ。
 そりゃあ麻理さんは喜んじゃうよね。
 これは麻理さんには言わないけど、言ってしまうと春希をさらに追いこんじゃうわけ
なんだけど、別に春希秘蔵コレクションは黒いストッキングばかりってわけでもなかったんだよね。
 黒髪ロングの綺麗な人が基本って感じだったかな。
 それで、年上のお姉さんって感じが半分。
あとの半分は、目つきがきっついとういか、まあ冬馬かずさ系なんだろうけどさ。

千晶「えっとぉ、その。春希、ごめんね?」

どうにもおもっ苦しくて面倒な気配が春希から溢れ出てくる。焦燥とでもいうのだろうか。
さっきレディコミの時は麻理さんが逃げ出そうとはしてはいたが、
あれはある意味パフォーマンスなんじゃないかって勘ぐってしまう部分もある。
 同性の女であるわたしからすれば、ちょっと恥ずかしい事実を彼に見つかってしまい
照れているって感じであり、いわば甘えている、とさえ言い変えてしまう事ができる。
 なんていうのか麻理さんがそういった駆け引きができる人ではないとは思うので、
ナチュラルでやってしまっているところが末恐ろしくはあるのだが。
 一方春希といえば……、崖の前で立っている自殺志願者?
 かなり大げさな感じではあるとは思うけれど、どうもこの表現がしっくりしてしまう。
 深刻になやんでいる春希には悪いけど、たぶん麻理さん、喜んでると思ううよ?
 うん、なんていうか…………、うん、死んじゃえ。
 そうしないと、こっちが悶え死ぬじゃないのよ。



 どのくらいの時間を待ったのだろうか。
 何度か二人に声をかけて場の雰囲気を変えようとしてみたものの、
どうやらわたしでは力不足だったらしい。わたしが爆弾を投下したわけで自業自得では
あるが、この桃色の甘ったるい空気、じわじわとわたしの精神を削っていく。
 春希も春希で、最初は絶望していますっていう顔をしていたくせに、
麻理さんの甘ったるい雰囲気にのまれちゃってさ。だらしがないんだから。
 そんなわけで、わたしは拷問に等しい時間を甘んじて受け入れていた。
 そして、甘い沈黙をやぶったのは当然というか麻理さんであった。

麻理「それより春希」

春希「なんです?」

麻理「わたしにも水をくれないかしら? 喉が乾いちゃって」

春希「あっ、はい」

 麻理さんの要請に、春希は自分が持っていたペットボトルを麻理さんに手渡す。
そして麻理さんの方も、最初から春希からペットボトルを受け取るつもりだったのか、
一直線に春希の手へと手を伸ばした。

麻理「ありがと」

春希「いえ」

 短く言葉をかわした麻理さんは、緩く締めてあったペットボトルのふたを開け、
そのまま口をつける。そして中に入っていた水を喉に流すことで、
ようやく面倒な来訪者の襲来に一息つけたようでもあった。

春希「ん? 千晶、どうかしたか?」

千晶「ううん、なんでもない。けっこういい部屋に住んでいるんだなって思ってただけだって」

春希「そうだな。俺が自分の財力だけで維持しなければならないとしたら無理だよな。
   こればっかりは麻理さんに頼りっぱなしでなさけないよな」

千晶「今はしょうがないんじゃない? 春希も頑張ってはいるんでしょ?」


春希「頑張るのは当然だからな。麻理さんも頑張ってるから、俺がいくら頑張ろうと
   なかなかその差は埋まらないから焦ってしまうときさえあるんだぞ」

千晶「たしかに」

麻理「春希は自分のペースで成長していけばいいのよ。
   それに、今年からは春希も家賃を入れてくれているじゃない」

春希「ちょっとだけで申し訳ないと思っているんですけどね」

麻理「そんなことはないわ。私の方が……ね」

麻理さんは申し訳なさそうに渋い顔をすると、手に持っていたペットボトルを春希に返した。

千晶「わたしも喉が渇いたんだけど」

春希「悪い。今用意するからちょっと待っててくれ。水でいいか?
   炭酸がはいってるのもあるけど?」

千晶「じゃあ炭酸入りの方で」

春希「わかった、ちょっと待ってろ」

 キッチンの方に消えていく春希の後姿を見送ると、
わたしは春希が置いていったペットボトルに目を移す。
 たしかにこの部屋はいい部屋だと思う。日当たりも良さそうだし、
昼寝をするには最高な場所だとさえ思える。
 だけど、わたしが目にとめていたのは日当たりがいいリビングではない。
その部屋に住んでいる北原春希と風岡麻理の関係に意識が向かっていた。
 春希が飲んでいたペットボトルの水を麻理さんがそのまま飲む。
 中学生じゃないんだから、今さら間接キスがどうとか騒ぐつもりはない。
 麻理さんに張り合うわけでもないけど、日本にいた時はわたしも春希の飲みかけの飲み物を
奪い取ることはしょっちゅうあった。奪い取らなくても、飲みたいっていえば、
新しいドリンクを用意してくれるか、新しいのがなければ飲みかけのものをくれることもあった。
だけど、今春希と麻理さんの間にあるような自然なやり取りは構築できてはいなかったと思う。
 大学在籍時代にわたしと春希が付き合っていると宣言したとする。たぶんうちの学部の
人間だったら、やっぱり付き合っていたのか。ようやく付き合う事にしたのかなど、
わたしと春希が付き合っていると「思ってくれる」だろう。
 もちろん大学の外でわたしが春希にじゃれついているところを他人が見れば恋人だと
勘違いしてくれるとは思うが、春希と麻理さんの関係はわたしと春希の関係の上をいっていた。
 今リビングでドリンクの受け渡しをしたような春希と麻理さんの関係を見れば、
春希たちのことを知らない人間であっても春希と麻理さんが付き合っていると
「思ってしまう」だろう。さらには夫婦であると「思ってしまう」人間も少なくないはずだ。
 恋人に近い関係と恋人そのものの関係には大きな差がある。
別に麻理さんに嫉妬しているわけではない。
 ただ、こうも近すぎる麻理さんと春希の関係は、冬馬かずさと春希のことを少なからず知る
わたしとしては、麻理さんに多大な心配を抱いてしまう。
 演劇でよく陥ってしまう錯覚。恋人を演じた役者が本当の恋をしてしまったと
錯覚して実際に付き合ってしまうというあの現象。
 わたしは役にのめり込む方だけど、劇は劇だと割り切っている。
でも、付き合ってしまう役者がいても悪い事ではないと思ってはいる。まあ、他人事だから
気にも留めないっていうのが実情だけど、これで二人がうまくやっていけるのなら問題はない。
もちろん別れてしまったのなら、やっぱり劇が陥らせてしまった錯覚だったんだなって思うだけ。
 でも、麻理さんと春希は、そんな劇が演出する錯覚の上をいっている気がしてしまう。
もうすでに夫婦とか恋人とか。嘘ではない事実になっているような……真実。
 だからわたしは麻理さんを心配してしまう。
北原春希と風岡麻理、そして冬馬かずさの真実をあらためて突き付けられた時、
麻理さんは大丈夫なのだろうかと、心を痛めずにはいられなかった。






第65話 終劇
第66話につづく






第65話 あとがき


もう少しすれば、また冬がやってくるんですね。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第66話



春希「千晶が役者だってこと忘れてたよ」

 春希が持ってきてくれた炭酸水を飲みながら、
春希と麻理さんがわたしのかつらをいじっているのをちらりと観察する。
 適当に借りてきたカツラだから、色とか髪型にこだわりがあったわけじゃないのよね。
たまたま目について借りたんだけど、けっこう役になってくれたなぁ。
でも、それにしてもひどくないかな? こんなにストイックな役者はあまりいないと思うよ。

千晶「忘れるかなぁ……。じゃあわたしってなんなのよ?」

春希「…………なんなんだろうな?」

千晶「ちょっと真面目に考えこまないでよ。真剣な顔つきで考えていると、
   ほんとにわたしが役者なのか自分でも疑っちゃうじゃないっ」

春希「だって俺、今千晶が何しているか知らないからさ。俺は日程の都合で卒業式も
   出られなかったし、たまに千晶からメールが来ても、舞台の事ばかりじゃないか」

千晶「あっ、そっか。そうだよね。………………ちょっと待ちなさい」

春希「なんだよ?」

千晶「わたしが舞台の話ばかりしているっていうことは、
   役者をしているって気がつくものでしょうが」

春希「論理的に考えればそうなんだろうけど、千晶が所属していた劇団の団長は留年
   しまくって舞台ばかり力をいれていたじゃないか。
   だからさ、千晶も留年して劇団に……ってさ」

千晶「だからぁ、ちょっと待ちなさいって。一緒に教授のところに卒業の挨拶いったじゃない」

春希「いったなぁ……。よ~く、覚えているよ。覚えてはいるんだけど、当時睡眠不足
   だったせいで、ところどころ記憶が曖昧なのはどうしてだろうな。和泉千晶さん?」

千晶「どうだったかしらね? ほら春希。春希ってあまり寝なくてもいいし、
   時差ボケもあったんじゃない? 久しぶりに帰ってきた日本だったしね」

春希「かすかに覚えている記憶だと、俺がニューヨークに行っている間に貯め込んだ
   レポートを徹夜で手伝った記憶があるんだけど。
   しかも、日本についてすぐに行った場所っていうのが教授の研究室だもんな」

千晶「それは……、ほら。教授も春希にあいたかったんじゃない?
   春希だってお世話になってたんだから挨拶しないと」

春希「たしかに俺も色々と迷惑かけたけど、それ以上に千晶がらみで教授と一緒に苦労
   した記憶しかないんだよな。まあ、成田空港まで千晶が迎えに来ている時点で
   何かおかしいって思っていたんだよ。そしたら案の定。おかえりの挨拶と同時に
   教授とつながった携帯電話を渡してきたのを今でも覚えているぞ」

千晶「教授も会いに来たかったんだって。だから携帯で」

春希「嘘をつくな、嘘を。空港から直接大学に行くはめになったじゃないかよ」

千晶「それも青春の思い出っていう事で」

春希「千晶の場合。今も青春やっていそうで怖いけどな」

千晶「わたしは青春しているつもりだけど?
   でも、春希が面倒見てくれたおかげで、卒業はできたじゃない」

春希「そうだったな。それで、卒業後はなにしてるんだ?」

 なんとなくだけど、
大学時代と変わらない春希がいるって実感できてほっとしている自分がいた。
 ニューヨークまで行ってしまう馬鹿な春希だから、一人では背負いきれない重荷に
負けて押しつぶされているんじゃないかと心配までしてしまっていたんだよなぁ。
…………春希には絶対教えてあげないけどさ。
 春希が借りていた小さな部屋で、文句を言いながらも最後までわたしの面倒を見て
くれた春希も、春希の実家にまで転がり込んだとき、すれ違いが続いていた母親と
少しずつコミュニケーションをとるようになった春希も、そして今、麻理さんの
サポートをしながら冬馬かずさを待っている春希も、いつだって春希は春希なんだね。

千晶「いちおう女優やってるわよ?」

春希「なんとなくそうなんだろうなとは思ってはいたよ。実際それだけの実力があったからな」

麻理「すごいわね、和泉さん。おめでとうといったほうがいいのかしら? それとも
   スタート地点にたったばかりだから、
   頑張ってねとエールを送ったほうがいいのかしらね?」


 静かにわたしと春希の思い出話を聞いていた麻理さんも、
わたしが女優の仕事に付けているのはうれしいらしい。
 そりゃそうだよね。出版をやっていなくても、芸能の仕事がいかに難しいかは素人
でもわかるってものだし。なまじ芸能の仕事の実態も目にしている麻理さんだから、
なおのことその難しさをわかっているんだろうな。

千晶「どうだろうね? これから頑張らないといけないし、やっぱエールかな」

麻理「そっか。和泉さん、頑張ってね。もし見に行ける時があったら見に行くから」

千晶「うん。そうしてくれるとうれしいかな」

春希「所属先は決まったんだ? そうだよなぁ……、高校時代からすごかったらしいから」

千晶「うん。所属先は運よく決まったよ。
   雇い主も面白い人だから気にいってはいるんだ。仕事もくれるしさ」

春希「そっか、よかったな。でもいいのか? ニューヨークになんか来て?」

千晶「あぁ、そのこと。曜子さんがこっちの仕事をくれてさ」

春希「へ…………?」

どういうことよっ。わたしが念入りに準備してきたドッキリよりも驚いているじゃない。
 しかも麻理さんも春希と同じくらい驚いているしさ。

春希「…………いちおう聞いておくけど、その曜子さんっていうのは、千晶の雇い主だよな?」

千晶「そうだよ」

春希「そうだよな。まあ、そうなるな」

千晶「何を言ってるのよ?」

春希「俺も自分が何を言っているのかわからないんだけど、な。えっとだな、
   曜子さんの苗字って、ひょっとして、冬馬、だったりする、んだよな?」

千晶「冬馬、だね」

春希「その、冬馬曜子さんには娘がいて、その娘の名前は、かずさ、だったりするのか?」

千晶「もちろんかずさだよ。でもさぁ、曜子さんには何度もあっているんだけど、
   冬馬かずさには一度も会えていないんだよねぇ。わたしがウィーンまで行ったら
   会えるかな? でも、会ってくれるかな? けっこうむずいかな?」

春希「ちょっと待て千晶」

 こんなにも慌てふためく春希って、初めて見たかも?
 何事に対しても順序を決め着実にこなしていく春希が、今なにをすべきかさえわかって
いないようだ。もしかしたら意識をする必要がない呼吸さえも忘れているんじゃ
ないかって思えるほど呼吸を乱している。
たしかに「冬馬かずさ」の名前を出せば春希が反応するっていることはわかってはいたわよ。
 でも、ここまでって過剰じゃない?

千晶「なによぉ……?」

春希「曜子さんにはいつ会ったんだよ。というか、どうやって知り合った?」

千晶「曜子さんが日本でコンサートやるってわかったんで、コンサートに行っただけだ」

春希「クラシック好きだったか?」

千晶「ん? とくには。でもさ、道具は違えど同じ表現者としては勉強したいことが
   たくさんあったかな。高いチケット買ってまで行ったかいはあったと思うよ」

春希「昼飯をよくたかってきた千晶がよくお金あったな」

千晶「わたしだって必要な支出にはお金を出すんだって」

春希「そのいい分だと、昼飯は必要な支出じゃないように聞こえるんだけどな」

千晶「何言ってるの春希?」

春希「俺が聞きたいんだが……」

千晶「昼食とだけとはいわず、三度の食事はどれも大切に決まってるじゃない」

 そりゃあ公演前で集中している時とかは食事だけじゃなくて
睡眠までも忘れてしまうけどさ。でもね、ふだんの食事はちゃんととってるっての。
 そうしないと春希が大好きなわたしの胸がしぼんじゃうじゃない。

春希「はぁ……まあいいや。それで、どうやって曜子さんに会ったんだよ?
   コンサートに行ったくらいじゃ雇ってくれないだろ?」


千晶「そんなの決まってるじゃない。楽屋まで行ったのよ」

春希「まぁそうなるよな。そうなってしまうよな」

麻理「和泉さんって、春希が言う通りの人だったのね」

春希「そうですよ。何度も言ったじゃないですか」

麻理「私も和泉さんと会話だけは何度もしてはいるから、なんとなくだけど春希の言った
   事を信じではいたのよ。でも、多少は誇張しているかなって思っていたのよねぇ……」

春希「これで俺がおおげさに言ってはいなかったとわかりましたか?」

麻理「……えぇ、そうね。できればわかりたくなったけれど」

春希「……ですよね。俺もそうでした」

千晶「ちょっとぉそこっ。わたしの話を聞きたかったんじゃないの?
   そこで勝手に盛り上がっているんならやめちゃうよ?」

春希「すまない千晶。話をすすめてくれ」

千晶「ま~いっか。えっとね、楽屋にいったら美代子さんって人が出てきてね、
   曜子さんに会いたいって言ったら会えたってかんじかな?」

春希「ちょっと待て」

千晶「ん?」

春希「そう簡単に会えるわけないだろ。そもそも一般人が簡単に楽屋の前まで行けるわけがない」

千晶「だってわたし、関係者だもの」

春希「はぁ?」

麻理「なるほどね」

春希「麻理さん?」

 どうやら麻理さんはわかったみたいね。
春希はあいかわらずこういった方面では鈍感みたいだけどさ。

麻理「たぶん和泉さんは関係者なのよ」

春希「どういう意味ですか?」

麻理「和泉さんから直接聞いたほうがいいわ。私も頭痛が、ね」

春希「はぁ……。それで千晶。どういう意味なんだよ?」

千晶「春希が言う通り、最初は楽屋の前までなんていけやしなかった。
   でもね、スタッフの人にメッセージを託したんだ」

 まだわからないかなぁ? けっこうヒントをだしているのにさ。

千晶「スタッフの人に曜子さんにこう伝えて欲しいってお願いしたんだ。
   北原春希と一緒に暮らしていた大学の同級生が会いたいってね」

 春希の顔から血の気が引いていく。お約束の展開だといえばそうなんだけど、
やっぱこういう反応をみられると「イエイ!」って思っちゃうんだよなぁ。
 いちおう春希の名前を勝手に使ったことは悪いとは思っているのよ。
でもさ、こうでもしないと会えないじゃない。

春希「はぁ……。千晶」

千晶「なにかな?」

春希「嘘は言ってはいないが、嘘は言ってない。でもな、曜子さんが誤解するだろっ」

 静かに喋り出したはずなのに、最後のほうでは叫びへと変換していた。
これこそが春希の心そのものなのだろう。
 でもさ、本当に悪いとは思っているんだよ?

千晶「大丈夫だって」

春希「なにが大丈夫だ?」

千晶「わたしがきちんと説明しておいたからさ。わたしが住む所に困っていたから春希の
   お母さんが寝る場所を提供してくれたってね。そもそも春希のマンションで
   寝泊まりしたときはレポートのときくらいじゃない」

春希「俺のところに来るときは、いつも面倒事をしょってくるから忘れてたよ。
   というか、思いだしたくもない」


千晶「なもんだから、曜子さんも納得してくれたっていうか、面白がってくれたよ」

春希「だろうな。そういう人だから」

千晶「それでね、ちょうど私も舞台やっていたから、
   そのチケットあげたんだ。そしたら曜子さん、来てくれてね」

春希「へぇ……。よく見に来てくれたな」

千晶「わたしも手ぶらで会いに行くのはなぁって思っていて、
   ちょうど持っていたチケットをもってきただけだったんだけどね」

春希「人生なにがあるかわからないものだな」

千晶「そうだね。しかも、舞台が終わった後、楽屋まで来てくれて、
   なおかつ食事までご馳走してくれてさぁ」

春希「よっぽど気にいってくれたんだな」

千晶「わたしが主役だったんだから当然でしょ?」

春希「まあ、たしかにな」

 苦笑いを浮かべはするが、しっかりと納得はしてくれている。
 やっぱ春希にも見て欲しかったな。なかなか春希に見せる機会がないっていうのは
寂しいものだなぁ。

千晶「まっ、そんなかんじで曜子さんに会えたってわけよ」

春希「それで曜子さんの事務所に? でも、あそこってクラシック専門だし、
   曜子さんとかずさしかいないだろ?」

千晶「まあ、ね。でもさ、曜子さんも冬馬かずさもウィーンじゃない。だから美代ちゃん
   は日本にいても暇なんだって。というわけで、暇なスタッフは仕事をしなさいっ
   てことで、わたしのマネージメントをすることになったってわけよ」

春希「曜子さんらしい決断だけど、美代子さん大丈夫なのか?
   クラシックは問題ないけど、演劇は素人だろ?」

千晶「その辺は曜子さんのつてで専門の人に手伝ってもらってるみたいだよ。
   美代ちゃんも知り合いがいるみたいで、助けてもらってるみたいだしね」

春希「そっか。……じゃあ、今回ニューヨークに来たのもその仕事の一つってことなのか?」

千晶「うん、ごめいとう」

春希「もしかして英語を覚えたっていうのも演劇のためだったりするのか?」

 恐る恐る聞く春希の声色は、事実がわかっていても認めたくない真実を
飲み込めないでいるのが丸わかりであった。
そりゃあ春希からすれば不純な動機だとは思うけどさ、わたしにとっては死活問題なのよ?

千晶「正解」

春希「はぁ……。やっぱりその能力を大学でもちょっとは発揮してもらいたかったよ」

千晶「それは無理だって」

春希「潜在的には可能なんだぞ? 好き嫌いはよくないぞ」

千晶「そうかもしれないけど、わたしが潜在能力を発揮しちゃったら、
   春希に頼れなくなっちゃうじゃないの。それはよくないって」

春希「どういう理論かはわからんが、もういいや。そういうことなんだと思っておくよ」

千晶「そぉお? まっいっか」

麻理「ところで和泉さん?」

千晶「ん?」

麻理「曜子さんには会ったみたいだけど、かずささんには会う機会がなかったの?」

千晶「うん。さっきも言った通り、冬馬かずさは日本には来ていないみたいだよ。
   曜子さんは何度かきていたけどさ。でも春希も麻理さんも、
   ニューヨークで冬馬かずさに会ったんでしょ?」

春希「聞いたのか?」

千晶「春希の話が出た時に曜子さんからね。でも、詳しい事は聞いてないよ。
   曜子さんはおしゃべりじゃないし。というか、ガード堅すぎだっての」

春希「ペラペラ話すよりは信頼できるだろ?」


千晶「まあね」

春希「それで千晶はしばらくニューヨークにいるってことでいいのか?」

千晶「そうだね。でも、オーディション次第かな? うまくいけば長くいられるし、
   駄目だったら日本に帰らないといけないし。その辺は流動的かな?」

春希「そっか。頑張れよ」

千晶「ありがと。というわけで、しばらく泊めてくれるとうれしいな」

 わたしの満面の笑顔を見て、春希の苦々しい笑顔が跳ね返ってくる。
 麻理さんはというと、諦めていたみたいかな?
 わたしがここに来た時点である程度は察していたみたいだけど。

麻理「それはかまわないけれど、どのくらいの間なのかしら?
   もちろんオーディション次第でしょうけど」

千晶「とりあえず一週間くらいかな?」

麻理「そう……。わたしも春希も仕事でいない事が多いと思うけど、
   気兼ねなく泊まっていってね」

千晶「ありがと麻理さん」

春希「オーディションの結果次第ではずっとこっちにいるのか?」

千晶「いちおうオーディションが終わったら日本に一度帰る予定。
   でも、受かればまたニューヨークに戻ってくるって感じかな」

春希「そっか。がんばれよ」

千晶「というわけで、明日は応援しているわたしのために、活力をくれるよね?」

春希「はぁ?」

麻理「というと?」

千晶「明日は観光に連れていってくれるとありがたいなぁって。ほら、これ」

 わたしは鞄の中につめこんであったチケットを二人に差し出す。

春希「自由の女神ツアー?」

千晶「そっ。なんだか急にキャンセルがでたんだそうで、
   佐和子さんがプレゼントしてくれたんだ」

麻理「佐和子の奴ぅ。私には何も言ってきてないわよ」

千晶「それは出発直前にくれたからね。だからただでくれたんじゃないかな?」

麻理「それにしても、和泉さんがここに来ること自体内緒にしていたじゃないの」

千晶「それは、ほら。わたしが秘密にしてって言ってたから」

麻理「もう…………」

 チケットとともに差し出した佐和子さん直筆のメモ書きを、
麻理さんはそっと指で撫でる。
 遠く離れていても二人は強い絆で結ばれているんだろう。
わたしが佐和子さんと会っても、いつも麻理さんの話で盛り上がってしまうのは、
わたしと佐和子さんの共通の人間が麻理さんだからだけではないはずだと思う。
 だってその理論であれば、春希だって該当者だもの。
 でも、あまり春希の話題はでないのよね。まあ、真面目人間の話をしても面白くない
っていうのもあるんだとは思うけど、
やっぱ佐和子さんも、そして麻理さんも、会えない事を寂しく思っているんだろうな。



 そして翌日。
 354段ものある階段をのぼって自由の女神王冠内部の展望室まで
行って来たわたしたちは、見学を早々に切り上げて、地上のベンチで震えていた。
 まあ、震えていたのはわたし一人なんだけど……。

春希「なぁ千晶」

千晶「なによ?」

 強気で睨みつけるわたしの眼光には、ふだんの力強さも、
そして演技を混ぜる気力すら欠如していた。
 だからこそ春希は、本気でわたしを心配してくれているわけなんだけどさ。

春希「高所恐怖症だったら上まで昇らなければよかったじゃないのか?
   ほら、地上の博物館だけでも楽しめたと思うぞ」


 春希の言う通り、わたしは高所恐怖症のために、せっかく自由の女神の王冠展望室まで
いったのに、すぐさま春希につれたらて地上へと引きかえしてきた。
 そりゃあ、わたしがいうのはなんだけど、あそこまでびびるとは自分でも驚きね。






 外の風景はきっとすばらしいのだろう。先に展望室についた春希と麻理さんは、
ガイドの話を聞きながらすばらしいらしい風景を眺めていた。
 かくいうわたしもほんの数秒だけは外を眺めた、はず。
けれど、わたしの意識がその光景を心の外に追い出そうと躍起であった。

春希「おい、千晶。大丈夫か?」

麻理「和泉さん。顔色が悪いわよ? 気分が悪いのだったらしばらく座って休んだ方がいいわ」

 いくら待ってもわたしがそばにこないことに不審に思った二人は、ようやくというか、
どのくらいの時間がかかったかさえわからないけど、わたしに声をかけてきた。

千晶「…………無理」

 手すりにしがみつくわたしを介抱してくれている春希達は、
まだ真相を知ってはいない。だからこそ春希達は、わたしが狭い階段を昇ったせいで
気分が悪くなったとでも思っているのだろう。
 でも、そうじゃないのよね。真実はいつも意外な形でやってくる。

春希「ほら千晶。そんなところでいないで、こっちで座ってろよ。眺めもいいぞ」

千晶「…………余計無理」

麻理「そうよ和泉さん。そこにいられると邪魔になってしまうし、
   ここで遠くを眺めながら心を落ち着かせる方がいいと思うわよ」

千晶「だから無理だんだって!」

春希「どうして?」

千晶「だからぁ、高所恐怖症なんだってば」







第66話 終劇
第67話につづく









第66話 あとがき


千晶編は次回で終わる予定です。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第67話


 衝撃の事実っていうのかな? 春希も麻理さんも、目を丸くしてたなぁ。
……まあ、上にいた時はそんな面白いことをゆっくり観察している暇なんてなかったけどさ。
 そりゃあ二人ともわたしの演技だと最初は思っていたみたいだけど、
わたしが震える姿を見てどうにか納得してくれたみたい。
 わたしがいうのもなんだけど、ほんと死にそうな顔してたと思うもん。
 結局わたしは展望台への階段を全て昇りきってすぐに354段の階段の疲れも癒される前に
354段の階段を下りて地上へと引き返してくる事になった。
 しかも昇りとは違って、狭い階段を春希にしがみつきながら降りたものだから、
余計に時間がかかった事は想像には難しくないだろうね。
むしろわたしにとっては、長すぎる地上への帰還作業を達成できたことを誉めてもらいたい。

春希「どうして上まで行こうと思ったんだよ?」

 わたしを地上まで連れて来てくれ春希は、ほんきでわたしを心配しているというのが
強く表されていた。もちろん麻理さんも、似たような苦しみを味わってきている分、
春希以上に心配してくれているみたいだった。

千晶「佐和子さんがチケットくれたから……」

春希「だとしても、苦手だったら上まで行かなくてもよかったじゃないか」

千晶「飛行機は大丈夫だったらから、今回も大丈夫かなって、思って」

春希「考えてみればそうだよな。飛行機は大丈夫だったんだよな?」

千晶「うん、大丈夫だった」

春希「飛行機だと感覚が違うのかな」

千晶「あれは現実離れしているっていうか、雲の上を飛んでるから怖いっていうイメージ
   さえ抱かなかったんだと思う。自分でもわからないけど」

春希「まあ、今度からは無理はするなよ。明日のオーディションに悪影響が出たら困るだろ?」

千晶「ごめん」

春希「そんなにしょげるなって」

千晶「……ごめん」

春希「ちょっと飲み物買ってくるよ。水でいいか?」

千晶「うん」

春希「麻理さん。千晶を見ていてください」

麻理「わかったわ」

春希「じゃあ行ってきます」

 ベンチで横になっているわたしの視界から消えるまで春希の後姿を追ってしまう。
もしかしたら麻理さんもわたしを同じように春希の後姿を追っているのかもしれない。
 いつだって春希は優しい。春希が面倒をみると決意した相手のことは責任を
もって最後まで面倒をみるから、わたしはどうしても甘えてしまう。
 でもそれだけじゃないかな。春希は強くはないからね。
きっと麻理さんも、春希の弱いところを含めて好きなんだろうな。だから甘えてしまうのよね。

千晶「ねえ麻理さん」

麻理「気持ち悪い?」

千晶「それはどうにか我慢できるかな」

麻理「そう?」

千晶「ねえ麻理さん」

麻理「なにかしら?」

千晶「春希のこと、愛し続けてしまうんだね」

 この麻理さんの表情、どうとらえたらいいのかな?
 答えを口にするのを困ってるっていうのが簡単すぎる表現ではあるけど、
色々と複雑な乙女心ってとこか、な。
 この人も面倒な立場に自分で追い込んでいっちゃっているわけだから、
春希と似たような人種なのよね。わたしは嫌いじゃないからいいけど、煮え切らない態度だと
言いきっちゃう人もいちゃうのよね。
 本人達は、自分たちが決めた決断ってもののルールにのっとって行動している
みたいだけれど、周りからすればじれったいわけだし。
 それと、春希への愛情を隠しているってわけでもないんだよなぁ。そもそも春希と麻理さん
の関係は春希から聞いているわけだし、麻理さんもその事は知っているんだよね。



 わたしがニューヨークにやってきたからといって、二人の間の関係を隠そうとするそぶりは
全くなかったと思うし、それに、わたしに隠そうと演技しているっていうのなら、
それこそわたし以上の演技力の持ち主ってことになるわけで、それはないだろうしなぁ。
 そもそも春希なわけだから、演技なんて求める事自体間違っているのよね。
 となると、わたしがここに来た理由を勘ぐっているのかな?

千晶「わたしは曜子さんの密偵でもないし、告げ口なんかもしないわよ。あと、冬馬かずさは
   高校でちょこっと見た程度しかないんだから、そっち方面からの依頼もないことはたしか」

麻理「そのことは思い付いたけど、気にはしていないわ。ううん。気にはしているわね。
   でもね、いくら隠そうとしてもばれてしまうもの。だから、もし曜子さんに報告する
   のなら、和泉さんが見た事をそのまま話してかまわないわ。
   むしろそうしてくれたほうが、ほっとしてしまう」

千晶「だからぁ、スパイごっこなんてやってないっての。ニューヨークの仕事はね、
   わたしが行きたいって言ったから美代ちゃんが見つけてきてくれただけなんだから」

麻理「そ、そうなの?」

千晶「嘘なんてつかないって。美代ちゃんに電話して確認してもいいんだから。
   それに美代ちゃんは、わたしがニューヨークに行く事自体反対だったんだからね」

麻理「どうして反対だったのかしら? 和泉さんも英語の勉強もしっかりしていて、
   私も感心しているくらいよ。ほんとうにきれいな英語だわ」

千晶「そのことは美代ちゃんも誉めてくれたよ。まあ、半分以上は呆れていただけだけどね」

麻理「理由はわからないけど、なんとなく工藤さんの気持ちが理解できそうなのはいやね。
   わかったところで疲れるだけなのに」

千晶「それはひっどいなぁ。今回のニューヨーク行きはね。英語をマスターできたら仕事を
   まわしてくれるっていう美代ちゃんからの提案だったんだよ。わたしはこうして英語を
   話せるようになったわけなんだから、正当な権利としてニューヨークにきただけよ」

麻理「それはおそらく、工藤さんは和泉さんが英語を話せるようにはならないと
   思っていたから条件にしただけよ」

千晶「そうかもね。でも条件をクリアーしたんだから問題ないでしょ?」

麻理「ねぇ、もしかして……。ほんとうは日本での仕事がたくさんあったんじゃないの?
   それなのにニューヨークに行きたいなんて騒ぎだしたから工藤さんが困ってしまったとか?」

千晶「見てないのによくわかったね。ほんとすごいよ麻理さん」

麻理「あなたに誉められても嬉しくはないんだけど……。
   むしろどっと疲れが出てきてしまうのはどうしてでしょうね?」

千晶「それは麻理さんの勝手だよ。わたしのせいじゃないもの」

麻理「はぁ……、そういうことにしておくわ」

千晶「それでいいよ。…………ところでさ、麻理さんは今でも春希のことが愛しているんだよね?」

 話したくないんならこれ以上は聞かないけど、やっぱちゃんと顔を見て聞いておきたいん
だよね。だってさ、あの冬馬かずさとやりあおうとしているわけなんだから…………、ん?
 あっそうだ、麻理さんの体調が治ったら返すって話だっけ?
 でもなぁ、どうもうまくはいっていないような気がするんだよね。
とくに春希のほうが怖いっていうか、さ。いざとなれば、麻理さんなら春希の前から消えて
しまうっていう手段を使いそうだから、これはこれでありかなとは思うのよね。でも春希は駄目ね。
 さてさて、麻理さん。どうなのかな?

麻理「愛しているわ」

千晶「はっきりと言えるんだね」

 むしろ言葉にした事で重荷を下ろしたって感じの顔をしていない?
 んん~……、ひらきなおりとは違うみたいだけど、どうなんだろ?
 どうもまだよく麻理さんの人物像が掴みきれていない部分があるのよね。

麻理「だって言葉にしなくても、和泉さんは私と春希と見て、
   私が春希のことを愛しているってわかっているんでしょ?」

千晶「まあ、ね」

麻理「だったら隠す必要ないじゃない。むしろばれているのに隠そうとする方が滑稽よ」

千晶「それもそっか」

麻理「ねえ、和泉さん」

千晶「ん?」


麻理「私の方からも質問してもいいかしら?」

千晶「どうぞぉ?」

麻理「和泉さんも春希の事が好きだったのではないかしら? 今も好きだとは思うけど」

千晶「女の勘ってやつ?」

麻理「そういうわけではないんだけど、ふたりを見ているとなんとなくそう思えたって言うか……。
   そんな感じかな? だから、勘っていえば勘なんだけど……、なんだろ?」

千晶「間違ってないよ」

麻理「えっ?」

 そんなに驚くことかな? だって嫌いな人間の相手なんてしたくはないし、
そもそもわたしは暇人じゃないんだよね。
 脚本作れってうるさく言われるから逃げなくちゃいけないし、春希に食事を作ってもらう
ために策略を練らないといけないし、あとはそうだなぁ……、昼寝も大切だしね。

千晶「今でも春希のことは好きだよ」

麻理「…………そう」

消えそうなくらい小さく呟くその声には力強さがまったくなかった。今にも消えそうな声で、
今にも逃げてしまいそうな麻理さんは、わたしのことが見えてはいないのかもしれない。
 もしかしたら、わたしを通して麻理さん自身を見つめているような気さえした。
自分の事なのに自分では決められない。決める事ができないことに不安を抱いている。
 だから、似たような境遇の人間をまねようとしているだけじゃないかと
勘繰ってしまいそうにもなった。
 でもなぁ……、わたしも麻理さん好きだし、
春希じゃないけどやっぱわたしも甘いのかもしれないな。
 まあ、ニューヨークに来てしまった時点で甘いんだけどね。
 きっと春希も麻理さんも、わたしがニューヨークに来たのは、仕事もあるけど春希に会いに
来たって思っているんだろうな。あとは春希と麻理さんの様子見とかさ。
 でも、どれも違うんだよね。二人とも気がついてないんだもん。
 気がついたのはニューヨークにはいない二人だったね。
まあ、外から見れば気がつくってもんなのかな?
 佐和子さんも曜子さんも、わたしが麻理さんに会う為にニューヨークに行く事に、
すぐに気がついちゃうんだもんな。
 べっつに隠す事でもないし、むこうから聞いてきたから話したけど、二人とも陰ながら
応援するって感じで、つっこんでなにか言ってくることはなかったんだよね。
 …………ただ佐和子さんにも、そして曜子さんにも、
ひっかきまわすことだけはやめて欲しいって懇願されたけど。
 もうほんと、信頼されてるなぁわたしって。

千晶「今も春希のことが好きに決まってるじゃん。
   でもね、わたしは春希の恋人でなくてもいいんだ。今の関係でも十分楽しいし」

わたしの言葉に、はっと顔をあげて見つめる麻理さんの顔は、なにを求めているのだろうか?
 本人でさえなにを求めているかさえわからないのかもしれない。
けれど、その顔からは必死さがにじみ出ていた。

麻理「女として、見られなくても?」

千晶「春希はわたしのことを十分女として認識してるんじゃないかなぁ。
   だって春希って、わたしの胸大好きだしね」

 わざとらしく胸を寄せると、やっぱりかというか麻理さんは苦笑いを浮かべた。
 でもさぁ、麻理さんもけっこうでかい胸しているんだから、
春希もちらちらと見てるんじゃないかな?

麻理「そういう意味じゃなくて、女の喜びとか?」

千晶「春希に女の喜びを刻まれちゃったらどうなっていたかはわからないけど、今はこのまま
   でもいいかなって思ってるよ。たださ、将来どうなるかはわからないよ。
   だって人間だもの。先がわからないから面白い。
   将来がわかってしまったら、何も感動を持てないじゃない」

麻理「そうじゃなくって」

千晶「子供が欲しいかとか? そうねぇ、いざとなったら土下座して精子恵んでもらえば
   いいんじゃない? あとは夜中ベッドに潜り込むとか? あっ、冬馬かずさも一緒か。
   まあ、コンサートとかで一緒じゃないときを狙えば大丈夫じゃない?」

麻理「…………えっと、その」

千晶「大丈夫だって。春希も男なんだから、女の武器でせまれば精子くらい出して
   くれるって。でも、一回でうまく受精すればいいんだけど、こればっかりは運
   なのよね。まっ、駄目だったらもう一回やればいいんじゃない?」

麻理「そうじゃなくて!」

千晶「なにを大声だしてるの?」


麻理「あなたのせいじゃない」

千晶「そぉお?」

麻理「そうなのよ。私が聞きたかったのは、友達のままでいいのかってことよ」

千晶「友達?」

麻理「そうよ」

千晶「べつにどうでもいいかな」

麻理「ほんとうに?」

千晶「本当だって。だって、わたしは春希と友達であるかどうかなんて気にしていない
   からね。そもそも北原春希と和泉千晶の関係であって、友達であるとか恋人である
   とかという定義は関係ない。ある人間から見たら友達だと思うかもしれない。また、
   違う人間からは恋人だと思われるかもしれない。まあ、恋人だと思われてしまうと
   冬馬かずさがお怒りになるかもしれないけどぉ……、まっいっかな? それで春希と
   冬馬かずさが喧嘩しても、それは春希と冬馬かずさの問題だし、
   わたしがどうこうすることじゃないからさ」

 いつしか高所恐怖症の影響でぐったりとベンチで寝ていた事さえ忘れ、
ベンチの前に立ち熱弁をふるってしまっていた。
 力強く、目の前の女性を鼓舞するようにはきはきと。願わくは、
この人にちょっとでも元気をわけあたえられたらと思わずにはいられなかった。

麻理「罪悪感とかは?」

千晶「ないよ」

麻理「言いきるのね」

千晶「だって、もしなにか問題があったのなら、春希がわたしを拒めばいいだけじゃない」

麻理「それはそうだけど、春希が簡単に見捨てるわけないじゃないのよ」

千晶「それは春希の問題だよ」

麻理「無責任だわ」

千晶「わたしは春希じゃないから、春希の心をどうにかすることなんてできないって。
   それに、どこまでがよくて、どこからが駄目なのかなんて、わたしが決めること
   じゃないよ。そうだなぁ、冬馬かずさの気持ちしだいじゃないの? でもさ、
   その冬馬かずさの心もさ、時と場合によって変化すると思うよ。
   機嫌が悪かったらちょっとしたことでも蹴りが飛んでくるんじゃない?」

麻理「そこまでは……」

千晶「そうかな? 高校時代の冬馬かずさは、けっこう過激だったと思ったけど?」

麻理「そうなの?」

千晶「うん。何度か冬馬かずさに蹴られている男をみたことあるからね」

麻理「過激な人だったのね」

千晶「まあそうだね」

だいたいは無視して終わりだったんだけどね。中には飯塚武也とか飯塚とか武也とか、
そういったうざい飯塚武也が性懲りもなくしつこく付きまとったりすると蹴りが飛んでくるんだよね。

麻理「どうしたの、にやにやしちゃって?」

千晶「ん? ごめんね。高校の時のことを思い出しちゃってさ」

麻理「ふぅ~ん……」

千晶「春希もさ、嫌がるふりをする冬馬かずさにしつこく世話をやいていたんだけど、
   一度も蹴られた事がなかったなって思ってね」

麻理「そうなの?」

千晶「冬馬かずさも嫌がるふりをしていただけだからね」

麻理「二人とも当時から面倒な性格をしていたのね」

千晶「わたしも最初から二人を見ていたわけじゃないからわからないし、聞いた話も含まれて
   いるんだけど、普通の男連中が冬馬かずさにしつこくまとわりつくと容赦なく蹴りが
   飛んでくるわけよ。でも、春希だとまったくそれがない」

麻理「は、はぁん。ということは、そのころからかずささんは春希のことが好きだったけど、
   春希は気がつかない朴念仁だったわけね」


千晶「そうなるね。あと、まわりの人間は気がついていたと思うよ」

麻理「でしょうね。あからさまだったと思うもの」

千晶「……ちっ。飯塚の奴。あいつらがひっかきまわすから面倒なことになったんじゃない。
   まっ、そのおかげで面白い物語を拝めたけどさ」

麻理「和泉さん?」

千晶「ん? なんでもない。ちょっと独り言をね」

 思わず愚痴が漏れ出てしまったけれど、麻理さんが怪訝な顔をする程度ですんでよかった。
 こういうときエキセントリックな性格だと思われているのはもうけものよね。
でも、ひっかきまわすっていうニュアンスは間違ってるかな。なにもしないって言ったほうが
あってるとは思うけど、なにもしないっていうのも行動のうちなんだよ、飯塚君。

千晶「というわけで、わたしはわたしの気持ちに従って行動するから、その行動で春希を
   困らせてしまうとは思うよ。たぶんおもいっきり困らせると思う」

麻理「自覚はあったのね」

千晶「まあね。でもさ、春希が本当に困ったら、そのときは冬馬かずさを春希は選ぶと
   思うよ。春希は冬馬かずさだけを選んで、ほかは全て切り捨ててしまうはず。
   …………でも、今はそれをしていないし、
   冬馬かずさも麻理さんのことは了承しているんでしょ?」

麻理「まあ、……そうね」

千晶「だったらそれでいいじゃない。それでもし怒らせるようなことになったら、
   そのときはごめんなさいって謝ればいいだけだよ」

麻理「そんなに簡単なことかしら?」

千晶「人生って、自分が考えているよりも単純だと思うよ。
   自分が複雑に考えてしまっていることならなおさらにね」

麻理「はぁ……」

千晶「どうかした?」

麻理「ありがとね、和泉さん」

千晶「ん? どういたしまして」

 ちょっとばかしこそばゆいかな。偉そうな事を言ってみたものの、
とどのつまりは好き勝手やってみろっていうことなんだよね。
 でも春希と麻理さんって、わたしとは真逆で考え過ぎっていうのかな?
 常識や理屈にとらわれ過ぎて何もできていないって気がするんだよね。

春希「水買って来たぞ。って、千晶。もう大丈夫なのか?」

 ちょうどいいところに戻ってきたかな。なんだかわたしたちの話を近くで聞いていたんじゃ
ないかって思えるほどタイミングがよすぎる気もしないではないのよね。
 でも、まっいっか。春希が聞いてくれていても悪いわけでもないし、
聞いてくれていた方がいい気もするわけだし。
 実際聞いていたかなんて直接春希に問う事はできないけど、
わたしの本来の目的はなす事が出来たし、もういいかな。

千晶「ん? 大丈夫みたい」

春希「じゃあ水どうする?」

千晶「もらっておくかな」

 春希はペットボトルをわたしに渡すと、麻理さんにも同じように手渡す。
 麻理さんに動揺はないみたいだった。わたしの目から見ての判断だから、
一緒に暮らしている春希はどう思っているかはわからない。
 でも、春希はなにも言うつもりはないようだ。
 そりゃあ、今春希には言うべき言葉は見つからないかな。

千晶「さてと、休憩もとったし、そろそろ行こうか?」

春希「もう一回昇るっていうなよ?」

千晶「春希じゃあるまいし、自分をいじめる趣味はないっての」

春希「いちおう聞かなかった事にしておくからな。……それでどうする?
   博物館の方に行ってみるか?」

千晶「そだね。さてと、麻理さんもそれでいい?」

麻理「ええ、私はそれでかまわないわ」

千晶「じゃ、決まりだね」


 わたしはニヤリとそう言うと、春希の右腕に自分の腕をからませてから歩き出す。
 当然春希は困惑気味の顔が全開だった。
 いい気味だ。このくらいの迷惑料はいただかないと。

春希「おい、千晶っ」

千晶「ささっ麻理さんも」

麻理「ええっ?」

千晶「だから麻理さんは反対側にしがみつかないと。
   右腕は埋まっているかもしれないけど、反対側は空いてるんだよ?」

麻理「だけど……」

千晶「いいじゃない。美女二人をはべらしているんだから、春希もご満悦よ。ねっ、春希」

春希「ノーコメントで」

千晶「春希はOKだってさ」

春希「こら、千晶」

千晶「じゃあ、麻理さんだけ駄目なの?」

春希「お前にも許可した覚えはないんだけどな?」

千晶「拒否もしてないでしょ?」

春希「うっ……」

麻理「ねえ、春希。私にも腕を貸してもらってもいいかしら?」

春希「麻理、さん……?」

麻理「どうかな?」

 ここはもうちょっと色気がある仕草を混ぜないとダメでしょ。
せめて下から上目遣いくらいしなさいよ。

春希「俺の、腕でよかったら」

麻理「ありがと、春希」

 麻理さんの無防備さがいいっていうやつもいるかな?
 少なくともここにいる春希は好きなわけだから、結果としては問題なしか。
 でもさぁほんとにのろけまくってるよ、麻理さん。
 女のわたしでも、そのはにかんだ笑顔にはやられちゃいそうだよ?
 



第67話 終劇
第68話につづく









第67話 あとがき


予告通り次週からはメインに戻ります。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第68話


 光量が抑えられているレストランの雰囲気は贅を尽くした内装ではないように見えるのに、
落ち着きと品をうまい具合に醸し出している。
 ニューヨークに来てからというもの、レストランに行く機会などほとんどない。
食事はたいてい自宅で食べるし、外で食べるときは弁当を用意している。
 だから一流レストランがどういったものなのかは、取材での知識しかなかった。
正確にいえば、レストランに行って美味しい食事にありつけるのは先輩方であって、
俺はというと先輩方が取材してきたものをまとめるだけである。
 そんな実戦経験皆無の知識しか持たない俺であっても、
このレストランの研ぎ澄まされたもてなしは理解できた。
 テーブルや調度品。そして肝心の食器類も、どれも一流のものであるはずだ。
機能と価格重視の俺なんかは一生買う事はないだろう。
 そもそも一生手にすることなんてないと思っていた高級食器であれど、使う機会があったら
手が震えてしまうかもしれないと思っていた。もちろん料理の事よりも食器の方が
気がかりで、味なんてわからなくなってしまう事だろう。
 まあ、これは言いすぎかもしれないけれど、身分不相応の物を手にするときは過度に
緊張する事はたしかである。
 けれど今日招待されたレストランは、贅を尽くした一流レストランのはずなのに、
俺に緊張を強いらせない。もちろんどの料理も味わった事がないくらい美味しかった。
 今夜の為に用意されたワインも名前だけは知っている某有名ヴィンテージものであり、
値段も聞く事を放棄したものではあるが、今夜の主役を祝う為なら、その価値に見合うワインだった。
 ………………まあそのワインもすでに空になり、似たような価格のワインがさらに2本空に
なっているのを横目で見ることになれば、目の前にいる二人にとってはワインの価値など
大したことではないのではないかと思ってしまうのだが。

曜子「ほんとあいつったら執念深いのよね。
   私の時だってあいつがいなかったらもっと上位にいってたはずなのよ」

かずさ「あたしは別に順位なんてどうでもいいかな」

曜子「そりゃああなたは春希くんにいいところを見せられたから満足しているでしょうけど、
   でも事務所の経営者としては、一位と二位とではぜんっぜん価値が違ってくるのよね。
   まあ、日本企業の食いつきは良かったら仕事の依頼だけは来ているから
   良しとしておきましょうか」

 かずさはジェバンニ国際ピアノコンクールにて、堂々の二位の成績を収めた。
母であり師匠であり、なおかつ所属事務所の社長でもある冬馬曜子が以前獲得した四位を
超える成績に、日本だけでなく世界中から注目されたのは、その卓越したピアノの才能だけで
なく、母子ともに人目を引くその容姿もあったことは本人たちも十分に認識していた。
もちろん二人ともピアノの腕を評価してほしいと思ってはいる。だけど、低迷する音楽業界で、
なおかつそれほど売れるわけでもないクラシック業界においては、
曜子さんはピアノの腕だけでは売れない事を理解していた。
なおかつ自分の事務所経営もあるわけで、使えるものは使う方針である。
 一方かずさとはいえば、気にしていない。それに尽きる。
どうしてかといえば、……なんといえばいいか、ピアノ以外に関しては他人の評価にまったくと
いっていいほど興味がない。本人いわく、俺がかずさに見惚れていれさえいれば満足だとか。
 そんな美女二人と庶民代表の俺の三人がコンクールの祝いを兼ねてニューヨークの
レストランで食事をしており、ここが日本でなくてよかったと心底思えていた。

かずさ「あたしは母さんの指示通りにピアノを弾いているじゃないか」

曜子「でも、日本国内の仕事だけは受けないじゃない」

かずさ「日本で仕事をしなくても、他にも依頼があるんだから問題ないだろ?」

曜子「今はそうかもしれないけど、日本のお客さんもしっかりと確保しないと、
   あとあと痛い目にあうのはあなたなのよ?」

かずさ「日本はいいんだよ。母さんだって日本を捨てて海外に出たじゃないか」

曜子「私はいいのよ」

かずさ「どうしてさ?」

曜子「だって、日本に帰れないわけではなかったもの。いつでも帰れたし、
   今も日本での仕事はしているわ」

かずさ「あたしだって日本に帰れないわけではないよ。
   ただ、今はピアノに集中したいんだ。ピアノと春希だけに集中したい」

曜子「かずさ……」

春希「まあまあ、今日はいいじゃないですか。今日はせっかくのかずさの二位入賞を祝う席
   なんですから、そういったことはよしておきましょうよ」

 俺は嘘を言っているわけではない。
たしかにこの場で日本のことを掘り起こして気分を暗くしたくないことはたしかである。
 でも俺としては、ジェバンニの前にニューヨークでかずさに会ったのを最後に、
最近までかずさに会えなかったのだから、できることなら楽しく食事をしたい。
ジェバンニ国際ピアノコンクール直前は、かずさがピアノに集中する為に会う事はよそうと
電話で話し合いをしていた。でも、コンクールを終えても会えないとは思いもしなかったのだ。


 一応ニューヨークでの約束通り独占インタビューの予定は入っていた。編集部もその予定で
紙面を確保してくれてもいた。麻理さんも俺と共にポーランドまで取材に行きもした。
 二人で取材をする為に、どれだけ根回しをしたことか。
 根回しといっても、コンクールだけに集中できるように他の仕事を入れられないように
しただけであるが。そもそも独占取材は冬馬曜子事務所が俺と麻理さんを指名しているので、
他の部員が行くわけにはいかない。それに今までの取材も俺と麻理さんが担当していたので、
ジェバンニという晴れ舞台で他の部員が行く事はありえなかった。
 だけど、そこは日頃から人の二倍以上の仕事をこなす俺と麻理さんを手ぶらでポーランド
に送り出してくれるわけもなく、
ジェバンニに集中できるように他の仕事を片付ける事が一番大変であった。

曜子「それもそうね」

かずさ「あたしは最初から日本での仕事の事はもちろん、仕事そのものの話なんかしたく
    なかったんだよ。やっと春希に会えたんだからな。あたしは春希だけを見ていたんだ」

春希「それは俺も同じだよ」

かずさ「はるきぃ」

春希「ジェバンニ二位入賞おめでとう」

かずさ「ありがとう春希」

曜子「でも、残念な事に二位になってしまったのよねぇ……」

 あっ、やばい。二位という言葉は禁句だった。
かずさは気にしてはいないようだけど、曜子さんはあくまで一位だと思っていたようだしな。

かずさ「母さん。もういいじゃないか。
    昨日のコンサートで母さんも気分が晴れたって喜んでいたじゃないか?」

曜子「それはそれよ」

かずさ「母さんがジェバンニの順位発表のあと、インタビューを全てすっぽかして
    ウィーン帰るなんて凶行をしたおけがで、世間のあたしへのイメージが
    悪くなったんだからな。あたしは母さんみたいにヒステリーじゃない」

曜子「なにを言っているのよ。そもそもあなたがインタビューを受けたとしても、
   いつもむすっとしているだけで、ほとんどしゃべらないじゃないの?」

春希「まあまあ曜子さんも、今日はめでたい席なんですから……」

曜子「たしかに、ニューヨークのコンサートに割り込んできた、一応今回の一位であった
   ロシア人は、その師匠とは違って礼儀がある女の子だとは思うわよ。でも、
   師匠が駄目ね。わざわざ実力差を知って嘆く為だけにニューヨークにまで来るなんて、
   とんだマゾヒストよね」

春希「演奏自体は無難だったって、演奏直後は曜子さんも誉めていたじゃないですか?」

曜子「そりゃあいい演奏を聴けたら評価はするわよ?」

春希「そうなんですか?」

 でも、さっきまで怒っていましたよね?
 なんて、無謀な事は聞きませんけど。

曜子「たしかに演奏は評価するけど、今回のコンサートの主役はかずさなのよ。
   しかもかずさの単独演奏だったはずなのに、
   必要もないゲストとしてあの娘が割り込んできたんじゃないのよ」

春希「それはスポンサーに文句を言って下さいよ」

曜子「まあ、そうなのよね。でも、そのおかげでかずさのほうが上だって、観客もわかったはずよ」

春希「…………そうですね」

曜子「あら? 春希君は私とは意見が違うようね?」

春希「そんなこと言ってないじゃないですか。俺はかずさの演奏がいつだって一番なんですよ」

曜子「あら? それってのろけ?」

春希「そうですよ。のろけでけっこうです」

曜子「言うようになったわね。成長したのねぇ」

春希「曜子さんと付き合ってたらいやでも成長しますよ。ジェバンニの順位発表のあと、
   うちとのインタビューもしないでウィーンに帰国してしまった大人げない人と
   比べれば、きっとすごい大人だと思いますよ」

曜子「あ、あれはしょうがないじゃない。勢いよ、勢い」

春希「その勢いのおかげで紙面に穴があきそうだったんですよ」



かずさ「あれは大変だったな。美代ちゃんなんて青白い顔をしながら母さんの後始末を
    していたもんなぁ。睡眠なんてほとんどできなかったとか、
    泣きながらあたしに愚痴を言ってきたんだぞ」

春希「あれはかわいそうだったな」

曜子「あれは、そうね。でも、あのあとしっかりとボーナスも出したし、休暇もあげたわよ?」

春希「でもその休暇も、すぐに返上させたんですよね?」

曜子「そ、それは……。ねえ、かずさ。今日の春希君、なんだか意地悪よ?」

かずさ「そう? あたしには優しいけど?」

春希「だれかさんが体調不良を理由に外に出なくなってしまいましたよね。コンクール後に
   企画されていた曜子さんのコンサートも体調不良を理由にキャンセルしましたし、
   美代子さんは後始末で大変だったようですよ。一応公式発表では体調不良ですけど、
   実際は怒りをピアノにぶつけ続けていて、観客には聴かせられない演奏だったとか。
   でもいいんじゃないですか? ジェバンニでの曜子さんの怒りは報道されて
   いましたし、その時の感情だだ漏れの演奏を聴きたいっていう人も多かったと思いますよ?」

曜子「ねえ、かずさ。やっぱり春希君、意地悪すぎるわ」

 こういうときだけかずさに頼らないでくださいよ。しかも、弱々しい姿の演技までして。
 誰が曜子さんに演技指導したかはこの際不問だ。
 …………家に帰ったら、千晶にお説教だな。
 でも、最近千晶の帰りが遅いんだよなぁ。公演前だからしょうがないか。
……はぁ、だったらお説教じゃなくて弁当の差し入れでもするしかないよなぁ。

曜子「でも、しょうがないじゃない。あの娘の師匠は、
   私とかずさの師匠でもあるフリューゲル先生とも因縁があるのよ」

かずさ「でもそれって、一方的に向こうがライバル視してたんじゃないのか? フリューゲル
    先生があの男のことを話すときも、べつに嫌っているようには見えなかったぞ。
    たしかに派閥争いばかりしないで教育の方に力を入れて欲しいとは言ってたけどさ」

曜子「ほらみなさい。それを嫌っているというのよ」

かずさ「でも、人に教える技術に関しては一流だって誉めてたと思ったけど?」

曜子「それは、フリューゲル先生が温厚な人だからよ。あの男が一方的に先生に
   つっかかってきて、私がジェバンニに挑戦した時もあの男ったら、
   私情をはさんで審査していたはずよ」

春希「たしか今回も審査委員でしたよね?」

曜子「そうよ。今回は私たちへの恨みだけじゃんくて、
   ロシアの政治事情が絡んでいたみたいだけど」

かずさ「どういうことだよ?」

曜子「あなたには話したと思うけど?」

かずさ「そうか? なんかいつも早口で文句ばっかり言っていたから、聞き流していたんだと思う」

曜子「あなたねぇ……」

 まあ、かずさの対応が正解なんだろうけど。

曜子「近年アジア勢の台頭でロシア、ポーランドが上位に食い込めないでいたのよ。
   だから強いロシアを世界に示す為に、今回なんとしても一位を取らせたかったらしい
   わよ。一応あの男もロシア人なわけだし、審査委員としての発言力も強いしね」

春希「その辺の裏事情は今夜はやめておきましょうよ。
   昨日のかずさの演奏を聴いたことで満足しておきましょう」

曜子「まあ、いいわ。春希君がそこまでいうんなら」

春希「ありがとうございます。それで、しばらくはニューヨークにいられるんですよね?」

かずさ「どうだったかな……。母さん?」

曜子「自分のスケジュールくらい自分で確認しておきなさいよ。……えっと二週間後には
   フランスでのコンサートがあるから、それには参加しないといけないわね。
   かずさもジェバンニで二位なわけだから、
   いくらなんでもいつも依頼を断るわけにはいかないのよね」

かずさ「はぁ……。二位になった事は悪くはないけど、コンサートツアーだけは面倒なんだよね」

春希「これも期待の新人を紹介する為にジェバンニが用意してくれたコンサートツアー
   なのだから、かずさもあまり邪険にするなよ」

かずさ「春希はいいのか?」

春希「なにが?」

かずさ「やっと会えるようになったというのに、あまり会えなくて」

春希「それは寂しいけど、ツアーは一年もやらないだろ?」

かずさ「そうだけど、やっと落ち着けると思っていたからさ」

春希「もうちょうっとの辛抱だって。それにツアーが終わっても、今度は世界を相手に演奏
   していくんだろ? だったら今と同じような感じになるんじゃないのか?」

かずさ「うっ…………」

 こいつめ。何も考えてなかったな。かずさらしいといえばかずさらしいけど、
ほんと演奏以外は駄目な奴なんだから。

曜子「ねえ、春希君。そのことなんだけど、考えてくれた?」

春希「専属のマネージャーのことですよね?」

曜子「ええそうよ」

春希「もう少し考えさせて貰っていいですか?」

曜子「いいわよ。でも、あまり待てない事は理解してくれているわよね?」

春希「わかっています」

曜子「ならいいわ」

たしかにはかずさには演奏だけを考えて欲しい。それに、演奏以外は駄目だっていうのもある。
 美代子さんは曜子さんの方で手が回らない。
ウィーンの方にも職員はいるけれど、かずさとうまくやっていけるかは未知数すぎる。
 かずさも丸くなったとはいえど、プライベートの方もかなり混ざったスケジュール管理を、
かずさが任せるとは思えない。
だとすれば、かずさが心を許した相手がマネージャーをするのが一番いいに決まっている。
 だけど…………。

かずさ「春希?」

春希「そんな顔するなよ」

 不安な顔をさせているのは俺のせいなのに、なにを言ってんだよ、俺は。

かずさ「……うん」

春希「悪い返事はをするつもりはないから」

かずさ「うん」

春希「でも、もう少し待ってほしいんだ」

かずさ「わかった。春希が納得する形で仕事についてほしいからな」

春希「ありがとう」

かずさ「それはこっちの台詞だから」







 武也あたりからすれば、冬馬と食事に行ったレストランと同じくらいお前が今住んでいる
マンションは足がすくむって言われそうな気がしてしまう。
 実際武也がニューヨークに来て、俺が住んでいるマンションをみた時に似たようなことを
言われている。
 お盆休みを利用して武也は一人ニューヨークまで俺に会いに来てくれた。依緒はというと、
日本にいる親友と温泉旅行だとか。
一応武也と依緒の仲はうまくいっているらしいが、お盆休みくらいは男は男同士。女は女同士
で楽しむべきだとか。いうまでもなく依緒の親友を気遣っての配慮なのは俺でもわかる。
 だけど、こうして遠く離れた地まで武也が会いに来てくれた事に俺は深く感謝した。
 千晶がニューヨークで本格的に活動することが決まった直後、
千晶は曜子さんの依頼によって俺と麻理さんと一緒に住む事になった。
 新米社員でもある俺からすれば、曜子さんが家賃を全てもってくれるという破格の条件に
歓喜しても誰も責められないはずだ。
しかもそれが編集部そばの超高級マンションであればなおのことである。
 というのは建前で、これも麻理さんのリハビリに関係していた。いつまでも俺とだけ一緒に
いるわけにはいかない。だから千晶の世話をしなけばいけないとしても、
麻理さんと千晶が一緒に暮らす事はプラスに作用すると思っていた。
 曜子さんが帰る前に、この雑居生活は千晶の発案だと聞いたときには驚いたものだが、
いざ一緒に住んでみればこれでよかったと思わずにはいられなかった。


曜子「千晶さん、出てきなさい」

 この家の主人がメイドを呼ぶがごとく曜子さんは千晶を呼び立てる。
 自宅マンションに帰って来て、曜子さんの最初の一言はこれだった。
 普段は俺と麻理さん。そして千晶が住んではいるが、部屋を借りているのは曜子さんで
ある。そして、曜子さんがニューヨークにいるときはホテル代わりにこのマンションを
利用するのは当然の流れでもあった。

千晶「なんでしょうか奥様?」

 急いで自室から出てきたであろう千晶の服装は乱れている。きっと寝ていたんだろうが、
それでも曜子さんのけっして大きくはない呼び声に反応して出てきたところは評価したい。
 俺としては、普段から俺のお願いも少しは聞いて欲しいと強く思ったが、
千晶を抑えつけるのもどうかとは思い、千晶矯正計画は今年何度目かのお蔵入りとなった。

曜子「奥様ってあなた。いつもは曜子さんとか、魔女とか魔王とか、あとは悪魔とか言って
   いるくせに、どうして今日に限っては奥様なのかしらね? どうみても後ろめたい事が
   ありますって言っているように思えてしまうわよ?」

 普段の千晶なら絶対にしないようなミスだ。
 本当に千晶は曜子さんに弱いよな。一応事務所の社長ってわけだけど、
千晶がそんな肩書を気にするわけないよなぁ。
つまりは、根っこの部分から曜子さんにはかなわないって思ってるのかもしれないよな。
 それでもいつもは馴れ馴れしすぎるほど曜子さんと仲がいいんだから、
よくわからない二人だよな。

千晶「滅相もない。今日はずっと部屋にこもって稽古してたんだから、
   なにもやらかしてはいないはず、だと思うかな?」

曜子「それが問題なのよ」

千晶「はい?」

曜子「今日取材だったでしょ?」

千晶「そだっけ?」

曜子「朝出かける前にも伝えたはずよ」

千晶「あぁ……、そんな事もいってたような」

春希「たぶん部屋にこもっていましたから、
   直接顔を見て言わなければ千晶には聞こえてなかったと思いますよ」

曜子「返事はあったわよ?」

春希「返事だけです」

曜子「なるほど、ね。私もよくやるわ」

千晶「春希っ。裏切ったわね」

春希「事実を言ったまでだ」

千晶「でもしょうがないじゃない。のりのりで稽古していたんだから、
   稽古中はそれ以外は見えないっていうかさ」

曜子「それならしょうがないわね」

春希「それでいいんですか? 取材があったのを忘れていたんですよ」

曜子「練習中だったのよ?」

春希「練習中であろうが仕事は仕事ですよね?」

曜子「だって、私だって取材だけじゃないけどピアノを弾いていて約束を忘れた事が何度もあるし……」

春希「美代子さんから聞いていますよ」

曜子「あらそう? だったら話が早いわね」

春希「それだけですまないから問題なんですよ。だれが後で謝りに行くと思っているん
   ですか? 今日の取材はうちの取材だったらから俺が後で千晶からコメント貰って
   おくことで話をおさめることができましたけど、
   これが他社の取材でしたら信用を失ってしまいますよ」

曜子「そこは春希君みたいなスタッフの腕のみせどころじゃない」

春希「そういうことをするためにスタッフがいるわけではないんですけどね」

千晶「まあまあ春希も家に帰ってきたばっかりなのに、
   そんなにもテンションあげなくてもいいじゃない」



春希「千晶っ。お前が言うなよ。お前が取材を受けなかったのが悪いんだからな」

千晶「さぁってと……。インタビューするんならちゃっちゃとやってよね」

春希「はぁ……。ほんとにもう」

曜子「というわけで、春希君。がんばってねぇ」





第68話 終劇
第69話につづく








第68話 あとがき


ようやくラストに向けて走り出したという感じでしょうか。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第69話


 ひらひらと手を振る曜子さんを横目に俺は千晶の取材をするためにリビングへと向かう。
 実は今回みたいなトラブルは今日に限った事ではなかった。
 そもそも曜子さんが和泉千晶をニューヨークに一人放り出すなんてことはしない。俺と
麻理さんに家賃ゼロを餌にしたのも食事などの家事を任せる為だけではなかったのだ。
 曜子さんが俺達に任せたもの。それはニューヨークでの活動そのものである。
もちろん仕事の調整・営業は曜子さんが専門のスタッフを用意してくれている。
だけどそのスタッフは仕事を取って来て管理するだけであり、和泉千晶の管理は含まれていない。
 千晶を押し付けられてすぐに日本にいる美代子さんに聞いた話によると、
やはりというか当然というのだろうか。
美代子さんは千晶の生活面を含めたマネージメントをしていたらしい。
 芸能面の仕事は専門のスタッフを雇っていたらしいが、その仕事に千晶を連れていくのは
美代子さんであり、仕事に熱中しすぎる千晶を制御するのも美代子さんの仕事だった。
 もちろん仕事に熱中すればプライベートの面。つまり食事などにもしわ寄せがくるわけで、
俺も知ってはいたが美代子さんは苦労したらしかった。
そしてニューヨークに送り込まれた千晶の世話をすることになったのは、当然俺になるわけで……。

春希「はぁ……。俺は出版社の編集部員だったはずなんですけどね。
   いつからマネージャーになったんでしょうか」

曜子「一応開桜社には籍はあるわよ?」

春希「退職した覚えはないですからね」

曜子「だから出向って感じかしら?」

春希「裏でなにをやったんですか? 麻理さんも突然の人事で困っていたんですからね」

曜子「それは悪い事をしたとは思ってはいるけど、
   それでも春希くんは風岡さんの直属の部下には変わりはないと思うわよ?」

春希「たしかに麻理さんの下での仕事もしていますけど、
   それは千晶のおもりの空いた時間でやっているようなものじゃないですか」

曜子「でも春希くん」

春希「なんですか?」

曜子「和泉さんは、朝稽古場に送り届ければ勝手に稽古していてくれるし、
   保育園に子供を連れていくくらいの仕事しかないじゃない」

春希「そうかもしれませんけど、実際そうなんですけど……、はぁ、もういいですよ。
   ほら千晶。取材するからな。だから寝るなよ」

千晶「わかってるって」

 俺も千晶の世話が嫌なわけではない。千晶にはプライベートの面では俺達が世話に
なっているのだから、俺も麻理さんも千晶のことを面倒だとは思ってはいなかった。
 だけど、こうも曜子さんの手のひらの上で転がされていると実感させられると、
どうしても反発したくなってしまう。まあ、自分の不甲斐なさを目のあたりに
させられてしまっていることに対する幼稚な反発だろうが……。
 曜子さんの言う通り、俺の仕事は自宅での千晶の世話と、
稽古場へ千晶を運んで行くことが増えただけで、
麻理さんと二人だけで暮らしていた時と仕事面での大きな変化はないといってもいい。
 だから、かずさのマネージメントの仕事だけは今みたいな中途半端な状態にはしたくは
なかった。おそらく曜子さんは、俺に逃げ道を用意してくれたのだろう。
 かずさのマネージメントも、仕事を取ってくる部分は俺がやるよりは専門のスタッフが
やる方が効率もいいし、なによりも能力の差がありすぎる。
 出版社の編集部員としてどうにか仕事になれてきた俺が、
どうしてクラシックの仕事という初めての仕事を一人で受け持てるというのだ。
おそらく曜子さんも最初から全ての業務をこなせる事を求めてはいまい。俺に求めているのは、
今千晶に対して行っているような日常のサポートであり、精神面でのケアを求めているはずだ。
 そしてゆくゆくはクラシックの仕事も覚えてもらえれば恩の字なのだろう。
 だけど、だからこそ俺は、中途半端にはしたくはなかった。麻理さんの事も、
かずさの事も、そして仕事の事だって、一人の人間がやれることには限界があるのだから。







 生活する人間の数が増えればそれだけ必需品の量も増えるわけで、ふだん買い置きしてある
ストックも早く消費されてしまう。また、冷蔵庫の中身の減りが早いのも同様だ。
 だからなくなった分は補充しなくてはならないし、
それはふだん全ての家事をハウスキーパーに任せている上流階級の冬馬親子も同じである。

かずさ「こんなの全て配達してもらえばいいじゃないか」

曜子「そもそもなんでハウスキーパーを雇っていないのよ。春希君も風岡さんも仕事で
   忙しいはずよね? どこに家事をする時間なんてあったのかしら?」


 家事をまったくしない二人を買い物に連れだせば不平を言うのは当然であり、
比較的軽い荷物を持ってもらっていても文句を言いだすには時間はかからなかった。

春希「家事は時間があるときにちょこちょことやっているだけですよ」

曜子「ちょこちょこというわりには綺麗にしているわよね?」

春希「気分転換にもなっていますからね」

かずさ「春希はどういう神経をしてるんだよ。掃除なんて面倒なだけじゃないか」

春希「どうせ生活するなら綺麗な部屋で生活したいだろ?
   汚い部屋で暮らすよりはよっぽど気分が晴れるだろ?」

かずさ「それはそうだろうけど……」

春希「かずさだって汚いレッスン部屋でピアノなんて弾きたくないだろ?」

かずさ「そりゃそうだけど……」

春希「だったら掃除はこまめにすべきなんだよ」

かずさ「ほらっ、ハウスキーパーに掃除してもらえばいいじゃないか。うん、そうだよ。
    うちは毎日掃除してもらっているから綺麗なんだからな」

 解決の糸口が見えたとばかりに胸を張るかずさに、俺は小さくため息を洩らしそうになる。
一緒にいる麻理さんは意外にも100%俺に賛同しているわけでもなく、
何かを含んだ苦笑いを浮かべていた。

曜子「そうよ春希くん。適材適所っていうじゃない。
   私やかずさが掃除をしたって散らかすだけよ」

春希「いばって言うことですかっ」

曜子「事実でしょ?」

かずさ「そうだぞ春希。できることとできないことを認識することは大切なんだぞ」

 その認識は間違ってはいない。たしかにできることとできない事を認識することはとても
大切だ。だけど、その認識の前に、しなければいけない事としなくてもいい事が
あるっていうことを認識して頂きたい。
そりゃあ俺も人間だ。怠けたい時もあるし疲れているときもある。俺も見栄を張って掃除は
気分転換だって言いはしたが、その認識は間違いではないにせよ、したくないときもあるのだ。
 だけど快適に生活する為にはしなくてはならない事がある。しかもそういった生活に密接な
事ほど後回しにしてしないでいると生活に支障が出てきてしまう。それに、
一度狂った生活習慣を元の生活に戻すのは大変苦労してしまうというおまけつきだ。

春希「それは家事をこなそうと頑張ってから言ってほしいぞ」

かずさ「あたしだって掃除くらいしたことはある。母さんじゃないが、
    あたしも掃除をすると散らかるだけなんだって」

 ピアノと同じく遺伝って恐ろしいな。
 まあ、実際は遺伝じゃなくて、親を見て育ったって言うべきなんだろうけど。

春希「麻理さんだって最初は掃除は苦手だったけど、今ではしっかりとするようになったん
   だぞ。だからかずさだって最初のうちはうまくいかないかもしれないけど、
   頑張って続けていればできるようになるって。……ねぇ麻理さん、そうですよね?」

麻理「えぇ、まあそうかもしれないわね?」

 援護を期待して麻理さんに話を振ったというのに歯切れが悪かった。
むしろ話を振られて迷惑だという顔さえ見え隠れする。
実際は俺に迷惑ですなんて顔は見せないけれど、話を振られて困っている事だけはたしかであった。

春希「麻理さん?」

麻理「ううん、なんでもないわよ。うん、掃除はまめにするべきよね。
   そうすれば掃除をする習慣ができて、慣れていくわ」

春希「ですよね」

かずさ「へぇ、掃除をしなかった麻理さんも、今ではできるようになったというわけか」

曜子「そうよねぇ。汚い部屋でも平気で生活できていた風岡さんも
   心を入れ替えたんですもの。掃除は大切よね」

麻理「…………えっと、そ、そうよねぇ」

 麻理さん、どうしたんです?
かずさと曜子さんもわざとらしい指摘に麻理さんはじりじりと後退していく。その反応をみた
かずさたちはにやりと笑みを浮かべるものだから、さらに麻理さんは逃げ腰になってしまった。



春希「たしかに日本にいた時はまったく掃除らしい掃除をしてこなかった麻理さんだけど、
   今はまめに掃除するようになったんですよ。だからかずさも曜子さんも
   やれば掃除ができるようになるはずです」

曜子「へぇ、そんなにひどかったの?」

春希「えっ? えっと、そうですね。綺麗だったは言えなかったと……」

曜子「へぇ~」

春希「あっ…………」

 だから麻理さんは歯切れが悪かったのか。たしかにお世辞にも日本では麻理さんの部屋は
綺麗ではなかった。それを指摘されれば麻理さんだって恥ずかしいと思っても不思議ではない。
 でも、どうしてかずさと曜子さんはその事を知っていたんだ?

曜子「大丈夫よ春希くん。べつに私たちは風岡さんをいじめようとしているわけではないのよ?」

 今している事がいじめです、とは言わないけど。

曜子「この前風岡さんから聞いたのよ。それに私は仕事をばりばりやりながらも家事を
   しっかりとやっている風岡さんを尊敬しているわ」

春希「そうなんですか?」

曜子「だって私には家事は無理だもの。ピアノに夢中になりすぎて、他の事はまったくね」

かずさ「たしかに母さんはピアノしかないよな。子育てさえほどんどしてこなかったからな」

曜子「でも、あなたはしっかりと育ったじゃない?」

かずさ「母さんと同じくピアノしかできないけどな」

曜子「それでも私はここまで育ってくれたことを感謝しているわ」

かずさ「まあ、あたしも母さんには感謝しているよ」

曜子「かずさぁ……」

かずさ「そりゃあ母さんに日常的な面倒を見てもらった記憶は皆無だと言ってもいい」

曜子「かずさ……」

 そこは落ち込む所なんですか? 自分でも家事はしてこなかったって言ってたじゃないですか。

かずさ「でも母さんはあたしにピアノを与えてくれた。今もピアノを弾くには最高の環境を
    与えてくれている。その事にはすごく感謝しているんだ。それに、もしあたしが
    ピアノを弾いていなかったら春希とこうして一緒にいられなかったかもしれないからな」

曜子「たしかにあなたからピアノをとったら何も残らないわよね。一応私の遺伝子をもって
   いるから容姿だけは、いいか。あとは私の財産もあるわけだからお金にも
   困らないわね。よかったわね、かずさ。私が母親で」

かずさ「母さん……」

曜子「に、睨まないでよ。ほんの、冗談よ冗談。本気で言っているわけではないって、
   あなたもわかっているでしょ?」

かずさ「母さんが言うと冗談に聞こえないんだよ」

曜子「そ、そう?」

春希「まあかずさもそのへんにしとけって」

かずさ「春希が言うんなら……」

曜子「かずさも大人になったっていうことね。もうピアノだけじゃなくて、
   子供だって産める年齢になったのよねぇ」

かずさ「か、母さんっ」

 かずさんのかん高い悲鳴に周りにいる通行人も視線を向けてくる。かずさにしては珍しく、
顔を真っ赤にして両手を振って戸惑いをみせている。
 俺もかずさほどではないけど、きっと顔を赤くしているのだろう。
……だって、かずさの子供となれば、必然としてその父親は…………。

曜子「べつに間違っている事を言っているわけでもないでしょ? たしかに今すぐ子供が
   欲しいって言われても事務所の社長としては困ってしまうわよ。
   もちろんピアノの先輩としての意見としても今子供を産むのは反対かな」

かずさ「あたしだって今は子供が欲しいなんて思っていないよ」


曜子「私も今はその時期ではないと言っているだけなのよ。子供を産むことでピアノの質が
   向上する事もあるわけだしね。…………まあたしかに子供を産んで引退しちゃう人も
   いるから人それぞれかな? そうよね。子供がっていうよりは、
   子供を産んだあとの環境ってことかしらね」

かずさ「心配するなって。あたしは…………、その。子供は育てられない。
    だから産みたいとは思っていない」

春希「かずさ?」

 俺は具体的な何かは掴めはしないが、不安が俺の背中を押し、
かずさの肩に手をかけようとする。しかし、目に見えない拒絶が俺が触れる事を拒む。

かずさ「春希っ、違うんだ」

 かずさ自身も俺の事を拒んでしまった事に驚く。
おそらく俺以上にかずさの方が驚いているに違いなかった。

春希「かず、さ?」

かずさ「本当に違うんだ。いや、違くはないんだけど、その、えっと、子供は欲しい。
    春希との子供なら欲しいよ。だけど、子供は育てられない。
    子供を育てる事ができるなんて、あたしには思えないんだ」

曜子「ごめんなさい春希くん。たぶん私が育児をしてことなったせいね」

かずさ「それも違うよ。母さんのせいじゃないっ」

曜子「でも、私がかずさの世話をした記憶はないわ。生まれた時から人任せで、かずさに
   してあげたことはピアノだけ。そのピアノにしたって私が直接指導することなんて
   ほとんどなかったもの。ピアノを与えて、優秀な指導者を付けてあげただけよ」

かずさ「だから、母さんのせいじゃないんだって。あたしの気持ちの問題なんだ」

曜子「じゃあどうして子どもはほしいけど育てる自信がないっていうのよ?」

かずさ「それは…………」

曜子「すっごく人任せの言い方をしてしまうけど、私もかずさが育児を完璧にこなせるとは
   思っていないわ。むしろ人にまかせっきりになってしまうでしょうね」

春希「曜子さん、さすがにそれは言い過ぎなのでは?」

曜子「春希くんは黙ってて。それに、お世辞にもこの子が育児を一人でこなせるとは思え
   ないわ。もちろんお金で解決することはできるわよ。でも、この子の場合はそのお金で
   解決する手段さえ使えない気がするわ。えぇと、言っておくけど、お金の問題ではないのよ」

春希「えぇ、まあそうですよね」

 普段から派手にお金を使っているし蓄えも十分にある。
それに今も稼ぎもいいわけだからお金の心配はないくらい俺だってわかる。
たしかに曜子さんが言う通りかずさはお金があっても、その使い方を知らない場合が多いんだ
よな。ベビーシッターを雇うにしても、どう契約すればいいかさえわからないだろうしな。

曜子「この子はね、普段の生活さえ一人では無理なのよ。食事だって自分では用意できない
   し、一人にしておいたらきっと一週間は生きていられないわよ」

春希「それは言いすぎ…………ではないですね。切実に心配です」

かずさ「春希っ! それは言いすぎだろっ」

春希「いや、そのな。お前ここから一人でウィーンに帰れって言われたらできるか?」

かずさ「えっと、どうかなぁ……」

 あっ、目をそらしたな。
 予想通りの反応過ぎて不安がさらに急上昇してしまった。

春希「一応聞いておくけど、ここからうちのマンションまでは帰れるよな?
   ここからだったら歩いてでも帰れる距離だからな」

かずさ「タクシー使ってもいいのなら」

春希「はぁ……。今お金持っているのか?」

かずさ「…………ない、かな」

春希「わかった。お金はあるとする」

かずさ「なら、大丈夫?」

春希「住所は知っているのか?」


かずさ「…………知らない」

 ぷいと横を向き拗ねる姿を単純にかわいいなんて思っていられるほど俺は能天気では
なかった。むしろ心配症の俺の保護欲が急上昇するほどだ。
 わかってはいたけど、かずさを一人にはできないんじゃないか?

春希「とりあえず俺から離れないように手を握っておけ。
   こんな所で迷子だなんてなられたら最悪だからな」

かずさ「そこまで言うのかよっ」

春希「俺と手を握るのは嫌なのか?」

かずさ「…………嫌じゃないけど」

春希「だったら、ほら」

かずさ「わかったよ」

 温かくて細長い指が俺の手に絡みついてくる。
 どうやら俺もかずさも手をつなぐ事は嫌ではないらしい。手をつなぐ事によって、
俺は恥ずかしさを、かずさは拗ねていたのを忘れたほどなのだから、
手をつなぐという行為は些細な事を忘れさせてくれるようだ。

曜子「おのろけ中に悪いんだけど、ねえかずさ。どうして子どもは駄目なのよ?
   春希君があなたがまったく子育てできない分も含めて子育てしてくれるわよ。
   いっそのことあなたも含めて二人分まとめて育ててくれるほどだと思うわよ」

 曜子さんが言いたい事はよくわかる。間違ってない。間違ってないけど、
かずさにそれを言ってしまったら、また拗ねるじゃないですか。

かずさ「それもわかってる。でも、あたしが心配しているのは、そういうことじゃないんだ」

曜子「あらそうなの?」

 かずさの反論に、曜子さんも肩透かしをくらったようだ。そして俺も、
かずさには悪いけど似たような気持であった。
 今は和泉千晶っていうでっかい子供まで世話してるんだ。
ここにかずさと子供が加わったらどうなってしまうかと内心不安にもかられる。
 でも、千晶の世話にせよ、俺は嫌だと思った事はない。…………まあ、面倒だとは思う事は
ある。たまに頭をひっぱたきたくなるようなこともある。もちろん叩かないけど。
 それでも一緒にいる喜びが俺を動かしてくれるわけで、それがかずさとその子供ならば、
俺を元気よく動かしてくれるはずだ。

かずさ「あたしは母親になるのが怖いんだ。
    あたしなんかが母親になったらいけないとさえ思ってる」

曜子「それを言っちゃったら私なんかあなたを産んでもなお母親になんてなれなかったわよ。
   でも、それでもあなたは育ったじゃない? だったらかずさが子供を産んでも大丈夫よ」

かずさ「たぶん母さんの言う通りだとは思うよ。実際子供なんてほっといても育つと思う。
    母さんが海外に行ってからもあたしは何不自由なく生活できていたからな。
    あたしの場合は金銭面では全く不自由しなかったし、ピアノだって好き勝手やること
    ができた。そういう面では充実しすぎるほど充実していたし、
    この環境が恵まれ過ぎているっていうことも理解できている。
    だけどさ、そういうのでもないんだ」

春希「俺だって自分が父親になれるかどうかなんて自信はない。だけど、
   この人とならって人との間の子供なら、この人の子供を育てたいっていう相手となら
   大丈夫なんだじゃいのか? そりゃあ全てがうまくなんていきやしないだろうけど、
   俺だってまともに育ったとは思えはしないけど、こうして生きていけてる」

かずさ「理屈ではわかってるんだ。わかってるよ。だけど…………どうしても駄目なんだ」

春希「…………かずさ」

 かずさは曜子さんのせいではないとかたくなに認めようとはしないが、
根本的には曜子さんが中学生のかずさにした決断が原因だと俺は判断してしまう。
 今まで世界の中心だった母親に捨てられたと思いこまされてあの広い屋敷に一人で
高校生活を送らければならなくなったかずさの心境は、
極端な言い方をすれば虚無だといえるんじゃないだろうか。
 これがいっそ地獄ならば生きていこうと強くなれたかもしれないと思えてしまう。
だけどかずさに用意されたのは、今までの世界を否定された何もない世界。
 なにもなければ動けはしないし、心も死んでいってしまう。
 それが感情を表現するピアノであれば致命的にかずさの心を引き裂いてしまったのだろう。
 その高校時代を経験したかずさにとって、自分が経験した耐えがたい高校時代を自分の子供
にも経験させてしまうのではないだろうかという不安は、
きっとかずさの心に深い傷として残っているのではないだろうか。

曜子「…………春希君、ごめんなさい」

春希「曜子さん」

曜子「かずさはああ言っているけれど、やっぱり私のせい、みたいね」



春希「……それは」

 俺は、それが違うとは言えない。心の底では曜子さんが原因だと思ってしまっているから。
それに、ここで気を使った言葉をかけても何も解決はしないだろう。

かずさ「だから母さんのせいじゃないって言ってるだろっ」

 かずさの必死の訴えも、どこか空々しく聞こえてしまう。
 たとえ母親の事を今は恨んでいなくても、恨みがなくとも傷は残ってしまっているから。

曜子「…………かずさ」

 秋風が俺達を追い越していき、肌寒さだけが体の芯に響かせてゆく。まだ秋であって冬では
ない心地よさを届けてくれるはずの秋が、どんよりと俺達の心を冷たくしてゆく。
 俺も曜子さんもかずさの元気な姿ばかり見ていたせいで忘れていた。
高校時代のかずさを知っている俺でさえかずさが隠していた傷に気が付けないでいたんだ。
 いや、俺はかずさが本当につらい時を見ていない。俺がかずさを意識しだしたのは、
かずさが普通科に移って来てからの高校三年からでしかない。
 音楽科で一人孤独であった高校一年、反発しても虚しいだけの高校二年。その高校生活に
おける大部分を占める二年間はほとんど武也から聞いた話でしか理解していないかった。
 もちろんかずさからも少しは聞いてはいるが、
それは事実の羅列であって感情の吐露には至っていなかった気がした。
 俺達は成長して社会人になった。かずさはジェバンニで二位にまでなり、
今話題のピアニストにまで駆け上がった。
 だけどかずさの心の一部は、今もあの音楽室で一人でいるとは思いもしなかった。




第69話 終劇
第70話につづく








第69話 あとがき


もう一つの連載『やはり雪ノ下雪乃~』が完結して時間の余裕ができたはずなのに
どうして今まで以上にスケジュールが埋まりまくっているのでしょうか? 謎です。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


第70話




春希「本当に俺が同行してもいいんですか?」

 かずさがフランスでの公演を終えてニューヨークに戻ってきた12月。
 かずさたちを空港で出迎えた俺にかずさが寒い寒いと言いながら抱きついて暖をとり、
フランスにたつ前に見せた「子供」の件をひとまず保留にしてくれていた事に、
俺はほっと胸をなで下ろす。
 かずさは何度も寒い寒いと不平を述べてはいるが、俺が出迎えた場所は寒くはない。
そもそも空港の中なのだから暖房はしっかりと効いている。
実際かずさもコートは手に持っているだけで着てはいなかった。
 一応かずさをフォローしておくと、窓の外を見れば今にも雪が降りそうなほど寒々と
していて精神的には寒いのかもしれない。…………人によるけれど。
 それにかずさが素直に甘えてきているのを俺が拒むことなんてありえなかった。
 ただ、いつまでも空港でかずさの温もりを享受しているわけにもいかない。
しかも、隣にはにやにやとしているだけで、いつなにか言ってくるかわからない不気味な
曜子さんが待ち構えている。だから、俺は強い精神でかずさは胸から引き離し、
ぐずるかずさの手を引きながら早々に自宅マンションへと移動した。
 そしてようやくフルメンバーがそろった自宅兼冬馬曜子事務所応接室で、
俺は今後のスケジュールについて曜子さんに再度の確認度取っている。

曜子「フランスに行く前に伝えてあったと思うけど?」

春希「それはそうなんですけど……」

曜子「それにこの件はけっこう前からスケジュールを抑えていたと思うわよ。
   その辺の調整は風岡さんにお願いしてあったわけだしね。ねっ、風岡さん?」

麻理「はい、冬馬事務所と開桜社との取り決めで、
   春希が取材するという形でかずささんに同行することになっています」

曜子「だ、そうよ?」

春希「でも、俺なんかが行っても役に立つんですか?」

曜子「大丈夫よ。そもそも今回の公演は、ジェバンニのお披露目公演とニューヨーク国際
   ピアノコンクールの方がスポンサーとしてやってくれる公演なわけだし、
   面倒な事は向こうがほとんどやってくれるわ。だから春希君は、
   かずさのおもりをしてくれるだけでいいのよ」

春希「だったらなおさら失礼がないように美代子さんあたりが行くべきではないでしょうか?」

曜子「それは無理よ。だって私もニューヨークでコンサートがあるんですもの。
   美代ちゃんだってわざわざ日本からニューヨークに来て大忙しよ。……というわけで、
   信頼してかずさを預けられる春希君にかずさを任せるんじゃない」

春希「信頼してくださるのは光栄なんですけど……」

曜子「それに今私すっごく忙しいのよ。知ってるでしょ?」

春希「それは知っていますけど……」

曜子「なにせジェバンニで2位になったかずさよりも忙しいんじゃないかしら」

春希「それはヨーロッパで活躍していて、知名度も人気もある曜子さんがウィーンから
   ニューヨークに活動拠点を移せば、
   ニューヨークのスポンサーだけでなくアメリカ各地からのオファーが届きますよ」

曜子「ま、ね。でもこれもかずさのジェバンニで活躍してくれたおかげかな」

春希「たしかにそれはありますけど、いくらジェバンニで好成績を残そうが自分の所で
   演奏してくれなければ意味がありませんからね」

曜子「よっぽど人気があるか、なにかしらの話題がないとクラシックなんて普通の人は聴きに
   来ないわけだしね。それにスポンサーがメインとする都市との接点がない奏者なんて
   客を呼べないのよね。コンサートを告知しても、誰それ?って感じでしょうし」

春希「そこを言うと、今話題の美人ピアニスト親子がニューヨークに来るんですから、
   スポンサーもこぞって手をあげますって」

曜子「まあ「美人親子」で売れるのは最初のうちだけよ。誰だって話題になれば一回くらいは
   聴いてみようかなくらいは思ってくれるでしょうしね。でも、一回聴いてくれた
   お客さんを手放さないでいるためには、私のピアノに酔ってもらわないといけないわ。
   そうしないと、本当にただの見た目だけいいピアニストで終わってしまうもの」

春希「でも、曜子さんはヨーロッパでの勝ちえた評価もあるじゃないですか」

曜子「そんなのは評論家だけにしか通用しないわ。実際聴いてくれる人の心を掴まなければ
   意味がないもの。というわけで、私は私のピアノに集中したいから、かずさのことは
   春希くんに任せるわ。それとも、かずさと二人でボストンに行くのは嫌だっていうのかしら?」


春希「そういうわけではないですよ」

曜子「大丈夫よ。電車で行けばすぐにつくわ。それに、ボストンにつけばタクシーで移動する
   だけだし、距離はあっても楽だと思うわよ?
   まあたしかに狭い所に押し込まれて移動するのは退屈かもしれないけど」

春希「それはむしろピアノの練習ができないかずさのほうがストレスがたまるんじゃないですか?」

曜子「ん? かずさはどうなの?」

 しばらく俺と離れていた寂しさを埋める目的なのか、かずさは俺が曜子さんと話し合いを
する最中もおとなしく俺の腕に絡みついておとなしくしていた。
というか、空港からここまで、一度も離れようとはしなかった。
 そんな二人分の温もりを享受していたかずさに問いかけても、
半分眠りかけている姫君には今後のスケジュールなど些細な懸案にすぎないようだ。

かずさ「あたしは春希に全部任せるから大丈夫だって」

曜子「その辺のことはあなたには最初から期待してないわよ」

かずさ「んぅ……、じゃあ、なに?」

曜子「だから春希くんは、移動でピアノの練習ができないことがあなたの負担に
   なるんじゃないかって」

かずさ「たしかにいつもの日課通り練習できないのは嫌だけど、これからもコンサートの
    たびに移動しなければならないんだから、あたしとしてはこんなものかなって感じかな?」

曜子「だそうよ、春希君?」

春希「えぇっと、かずさがそういうのでしたら。たしかにこれからは飛行機での移動が
   増えるわけですし、もっと慣れていかなければいけないんでしょうね」

 俺もかずさとボストン公演に行きたくないわけではない。むしろわくわくしているほどだ。
 だけど、ふたりっきりの旅行というわけではないけれど、
ふたりだけでボストンまでいくことは、ふたりだけで数日間生活することとなる。
 しかも生活能力ゼロのかずさをささえるのが俺だけであるとなれば、
曜子さんの代りに俺がずっとかずさのそばにいることになる。
 俺とかずさが待ち望んでいた関係だ。若干かずさにも常識の範囲内での生活能力は身に
つけて欲しいところだが、二人で前に進んでいく事を俺達は望んでいた。
 ただ、どうしても現実的な雑務を考えるよりも、
気を抜くと二人でいる事に舞い上がってしまいそうだった。
 望んでいる関係を成就し、充実した時間に身を浸す。
 長年望んでいた状況に誰が不満を抱くというのだ。幸せに決まっているじゃないか。
 でも、だからこそ俺は、油断しそうで怖かった。

曜子「じゃあなにも問題はないわね?」

春希「いや、俺としては願っていた事ですから最初から何も問題はないですよ」

曜子「ということで春希君。かずさのこと、よろしくね」

春希「はい」

曜子「もちろん…………ホテルでは襲っちゃってもOK。むしろ推奨だから」

春希「移動の疲れもありますし、到着後の打ち合わせは軽くして、
   改めて俺が打ち合わせに参加しときますね」

 嬉しそうな顔でとんでもない事を提案してくる曜子さんに、
俺は真面目な顔を作ってスケジュールの確認を再開させる。
 曜子さんの攻撃にはだいぶ慣れたと思う。慣れはしたけれど、いまだに対応しきれない
事案も多々あるのも事実ではある。それでも今のように深みにはまらないように
避ける事ができるようになったのは当然の結果だろう。
これを進歩とか学習などというんだろうが、こんな嬉しくもない進歩は願い下げではあったが。

曜子「もう春希君ったら真面目すぎるんだから。というか、春希君が襲わなくても、
   かずさが春希君を襲っちゃうから結果的には同じ事なのかな?
   だから別に春希君がってことは関係ないと?」

春希「ちょっ……! 曜子さんっ。仕事でボストンに行くんですから、あまり酷い事は
   言わないでくださいよ。しかも実の娘の目の前で言うような内容じゃないですよ」

曜子「じゃあこっそりとかずさに助言する方がいいっていうこと?」

春希「えっとその……」

曜子「夜這いは知らない方がドキドキ感があって盛り上がるのよねぇ。まあ夜這いといっても
   最初から同意しているわけだしぃ、ん~……、こういう場合はどうなんだろ?」

 変な所で疑問に思わないでくださいよ。
そもそも最初から同意している仲なら、たんなるサプライズってところじゃないですか。
 …………って、なにを真面目に応えてるんだよ、俺。


曜子「もう……、春希くんったら真面目なんだから。顔を真っ赤にしてくれるあたりは
   相変わらず可愛いわね。かずさと二人で顔を赤くしていると、
   ますます可愛くって抱きしめたくなっちゃうわ」

 俺は曜子さんの指摘に、隣にいるはずのかずさの顔を覗きこむ。
 指摘され意識してみれば、かずさが俺を腕を掴む力はやや強くなっている。
なによりも先ほどまで眠そうにしていた顔は覚醒していて、目がはっきりと覚めているとわかるくらい顔が真っ赤であった。
 俺の視線に気がついたかずさは、さらにぎゅっと俺の腕にしがみつき、
顔に腕を引き寄せて隠れようとする。
 それでも俺の視線からは完全には逃げないところは、
なんというか、俺の体温をますます上昇させてしまった

曜子「はいは~い。仲がよろしいお二人さんは、仲良くボストンに行ってらっしゃい。
   コンサートの方はなにも心配はしていないけど、あまり春希君を困らせるような事は
   しないのよ。あなたってばすぐに拗ねてしまうんだもの。喧嘩なんてすると寂しいわよ?」

かずさ「わかってるって。もう、子供じゃないんだからな」

曜子「そういうところが子供なんじゃない。それに二人っきりなのに一人でふて寝なんて
   していると、寂しくて泣いちゃうかもしれないわよ?」

かずさ「……ふんっ」

 あまりかずさを刺激しないでくれませんか? これからかずさと二人っきりなんですから、
気まずい雰囲気にしないで下さると助かるのですが?
 まあ、かずさも出発さえすれば、
曜子さんの言っていたことなど些細な出来事になってしまうんだろうけど。
 こうして俺とかずさは、二人でボストンへ行く事になった。








 ニューヨークから出発するちょっと前から降り出していた雪は、ボストンに入っても
あいかわらずゆらゆらと宙を舞い、車内から見る景色の色を奪っていく。これが大雪となれば
電車であっても到着時刻に不安を覚えるが、今のままならば問題なくボストンまで行けるだろう。
 さて、そろそろ休憩も終わりにして仕事に戻るかな。いくらボストンにかずさを
連れていけばいいだけど言われていても仕事ならいくらでもある。
かずさ絡みの仕事はもちろん開桜社の仕事もあった。
 一応かずさに対する密着取材となっているわけで、その仕事もしなければならなかった。
寒々とする景色を身ぶるで別れを告げ、俺は目の前のノートパソコンに意識を集中しようとした。
しかし、寒い景色ばかり見ていたせいか、体は冷えてはいないはずなのに寒いと感じてしまう。
 そうなると自然と温もりに意識がむかうわけで、
俺は肩にぴったりと身を寄せるかずさに意識を奪われてしまった。

かずさ「ん……んん。春希、どうしたんだ?」

春希「起こしちゃったか?」

かずさ「もう着いたのか?」

春希「いや、あと30分くらいかな?」

かずさ「そっか……」

春希「起こしてしまって悪かったな。降りる駅が近くなったら起こしてやるから、
   もう一度寝ていいぞ」

かずさ「ううん。大丈夫だって」

 大丈夫だというわりには、まだ寝むそうじゃないか。
 そんな無防備のかずさに見惚れていると、俺の右腕はかずさの両腕に抱きよせられて
しまう。そして当然の展開というべきか、かずさは残り少ない睡眠時間をフルに使うべく
寝息を漏らし始める。
 まあ、仕方ないか。移動中は寝てばかりいるからって、その分ニューヨークではピアノを
弾いていたんだもんな。
 プロとしての意識が芽生え始めた事を喜ぶべきなんだろうな。その方法がちょっと
子供っぽい考えではあるんだけれど、ピアノの事は俺が考えてもしょうがないか。
 仕事をする手段を奪われた俺は、外の景色に見あきた代わりに、
見飽きる事のないかずさの寝顔を駅に着く直前まで見続けていた。



 快適な電車から降り、そして寒さをしのげる駅から外に出ると、当然ながら冬の寒さが
身にしみてくる。先ほどまで綺麗だと思っていた雪化粧は人の足に踏みにじまされ、
寒さだけを残していた。
 しっかりと保温効果が高いコートを着てきたはずなのに寒さを忘れる事はできないようだ。
そして俺よりもインドア派であるかずさといえば、文句を言うのさえ諦め、
俺にしがみついて暖を取ることだけに集中しているらしい。
 もちろん俺もかずさからの温もりも得られるわけで、不満などありはしなかった。


 ただ、いくら雪が降っていて寒いといってもそれは空調が効いていない外でのことだけで
あるわけで、タクシーに乗ってしまえば寒いわけはないはずだった。

春希「なあ、かずさ?」

かずさ「なんだよ? まだタクシーに乗ったばかりだから着かないだろ?」

春希「それはそうなんだけど、いやさ、かずさは寒いのかなって思ってさ」

かずさ「外は寒かったけど、今は大丈夫かな。うん、問題ないよ」

春希「そうか、それならよかった」

かずさ「そっか、じゃあ着くころになったら起こしてくれると助かる」

春希「それは任せておけ。かずさはゆっくりと休んでいればいいよ」

かずさ「ありがと」

 と、かずさは今にも寝落ちしそうな表情でつぶやくと、
枕の位置を合わせるかのように俺の腕を引き寄せる。

春希「…………あのさ、かずさ?」

かずさ「ん? まだなにかあるのか?」

春希「寒くないんなら腕を解放してくれると助かる。ホテルに着く前にスケジュールの
   確認をしておきたいからさ」

かずさ「あぁ悪い。あたしがひっついていたら邪魔だよな」

 寂しそうな笑顔で離れていくものだから、
俺としてはかずさを引き離すことなんてできないわけで……。

春希「手を動かす事ができるなら、問題はないかな。その、肩に寄りかかるくらいなら大丈夫
   だと思うぞ。でも、手は動かすわけだから寝心地は悪いかもしれないけど」

かずさ「それで十分だって」

 甘やかせすぎだって、たぶん俺にかずさを任せたあの人は言うんだろうけど、
俺はかずさの前では甘やかすことしかできないんだろう。
 でも、さすがの俺でさえ今の発言は甘ったるすぎたようで、かずさを直視する事は
出来なかった。ただ、視界の隅で捉えたかずさは甘えるように俺の肩に頭をのせるのだけは
確認できた。
 こうなってしまうと、俺としてはかずさに快適な睡眠?を提供したいと思ってしまい、
かずさの許可はとってあるというのになるべく片手だけでタブレットを操作していくことになった。

かずさ「ねぇ春希」

春希「寝にくいか? もうちょっとで終わるから、あと少しだけ我慢してくれると助かる」

かずさ「ううん、大丈夫」

春希「そっか」

かずさ「うん」

春希「ホテルまではもう少しかかると思うぞ」

かずさ「…………そうじゃなくて」

 解放されたはずの腕を再度引き寄せられ、かずさはその腕で顔を隠しながら
話すものだから、なんだかこそばゆくもあり、
かずさの吐息があたる個所からじわじわと体温が上がっていく気さえしてしまう。

春希「なんだよ?」

 なもんだから、俺の声も上擦ってしまうのは当然の結末であった。

かずさ「…………うん」

春希「言いたくなったらいつでも聞くから、言いたいときで……」

かずさ「ううん。そんな覚悟を決めて話さなきゃいけないような内容じゃないよ」

春希「……そっか」

かずさ「んとね、なんかこうやって二人だけでいるとさ、初めて家に来てギターの練習をした
    ときのことを思い出して。あの時は学園祭まで時間がなかったからゆっくりして
    いられる時間なんてなくて、今みたいに余裕なんてものはなかったな」

春希「かずさのピアノが期待されているっていうのは今と変わらないけどな」


かずさ「今では一応プロだからな。でも、高校生で、しかも練習もろくにしていなかった
    あのときのあたしと今のあたしへの期待を比べるっていうのはどうなんだ?
    ちょっと失礼じゃないのか?」

春希「俺にとっては、冬馬かずさの評価は高校生のときから最高評価で、
   これ以上上がる余地なんてないんだよ」

かずさ「それはありがたい評価ではあるとは思うけど、これからもっと腕を磨いていかなきゃ
    いけない身としては、上昇余地がないって言われるのは、あまり嬉しくないような気も」

春希「だったら、これから上がる予定の腕前も含めて評価しているって事にしておいてくれ」

かずさ「それはかなりプレッシャーなんだけど」

春希「俺にとってかずさは特別なんだよ」

かずさ「なら許す」

春希「でも、あまり負担に思うなら言ってくれよな。
   かずさにはのびのびと演奏してほしいんだからさ」

かずさ「その辺は問題ないよ。
    だって春希が聴いてくれているからこそあたしは演奏できるんだからな」

春希「あぁ、ずっとかずさの演奏を聴いているよ」

かずさ「絶対だぞ」

春希「絶対だ」

かずさ「…………それと、二日目のコンサート」

春希「ニューヨーク国際コンクールがスポンサーの方か?」

かずさ「うん、そう。……そっちのほうは特別だから、しっかり聴いてくれよ」

春希「うん? 初日のジェバンニがスポンサーのほうもしっかりと聴くけど、
   かずさがそういんなら、もっと真剣に聴いてみるよ」

かずさ「ん。それなら安心だ。じゃあ、ホテルに着いたら起こしてくれよ」

春希「それは任せておけ」

かずさ「んあぁ……、もうちょっと寝るかな」

春希「おやすみ」

かずさ「おやすみ春希ぃ……」

 もう一度眠りに落ちたかずさを気遣って、今度こそ肩を揺らさないようにタブレットを
操作していく。
 外を見てみると、どこら辺まで来たのかはわからないが、渋滞しているようなのでもう少し
時間はかかるのだろう。雪もやや多く降り出したのも影響しているのかもしれない。
 道ゆく人の顔も、やや強張っているような気もする。
おそらく駅でタクシーに乗ったときよりも気温は下がっているのだろう。
 だけど、俺の腕から上がってくる熱で、俺は今にも溶けそうなくらいのぼせていた。




第70話 終劇
第71話につづく









第70話 あとがき


今回の話は思ったよりも長くなってしまったかなという感じです。寝てばかりですみません。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第71話



 俺達より前にボストンに入っていた事務所スタッフのサポートもあり、
俺は目立ったミスをすることなくコンサートを終える事ができたと思う。
もちろん先輩スタッフにいつまでも頼っていられない事はわかっている。
 それでも今回の働きに関してはよくできた方だと思っていた。とはいうものの、
曜子さんが見ていたらもっと頑張ってねって、笑顔で圧力を加えてきそうだけれど。
 もちろん新米マネージャーの活躍は、かずさのピアノの前には霞んでしまうだろう。
「だろう」ではなく、初日、二日目のコンサートにやってきた観客の興奮を目にすれば
霞んでしまうどころか役に立っているのだろうか?と思い悩んでしまいそうだ。
 特に二日目の演奏は、アンコールが終わってコンサートが終わってもなお席を立とうと
する客がいなかった。俺は、かずさのことだから再度のアンコールには応えるはずも
ないと思っていて、俺が席を立つ最初の一人になろうとした瞬間、
俺だけが客席でただ一人立つのを待っていたかのように舞台袖からかずさが登場した。
呆気に取られている俺に、かずさは小さく舌を出して微笑みかけてきたのは気のせいではないと思う。
 かずさがピアノの前に座り、再度俺の方に視線を向けてくる。
俺はそこでようやく気がついたのだった。
 今度の視線はなんて言っているか、はっきりとわかる。
 「早く座れ馬鹿」
 俺はかずさの要求通りいそいそと席に座ると、座るのを確認したのか、
ピアノの音色が弾み始めた。



かずさ「ほんとうに春希ってば場のノリってものがわかってないな。一番の関係者なのに
    わかっていないって大丈夫なのか? しかも客席にいたっていうのに再度の
    アンコールさえわからないんだからな」

 二日間あったコンサートも終わり、俺とかずさはコンサートの熱気が
おさまることなくホテルへと戻って来ていた。
 かずさは履いていた靴をベッドの横に放り投げ、
この二日間のプレッシャーを開放すべくベッドに身を沈めている。
 いつもの俺だったら、せっかくのドレスにしわがついてしまうから脱いでからベッドで
横になれよって注意していただろう。
 でも、今日くらいはいいか。どうせコンサートが無事に二日とも終わったのだから、
ドレスはクリーニングにだせばいいだけなんだし。
 と、今の心のつぶやきをかずさが聞いたら、せこい理由でお小言を言わないんだなって
嫌味されそうである。でも、今日はそんなお小言も嫌味も全部なしとしよう。だって最高の
コンサートを終えたばかりなんだから、気分を害することなんて願い下げだ。

春希「悪かったって」

かずさ「一番の関係者のくせに、客席でただ一人突っ立ってるんだもんな。
    こっちが恥ずかしくなったんだからな」

春希「かずさは堂々としていたじゃないか。俺の方がこっぱずかしかったんだからな」

かずさ「春希に注目している人間なんて精々隣と後ろの席の数人くらいだろ?
    そんなのは注目されているうちには入らないよ」

春希「たしかにみんなかずさに注目していたもんな」

かずさ「だろ?」

 厭味ったらしい笑みのはずなのに、こいつが笑うと爽やかに感じてしまうのは、
俺が惚れているせいなのかな? どちらにせよかっこいい冬馬かずさなのはたしかだな。

春希「まあ、な。みんなかずさが再度のアンコールをしてくれるとは思っていなかったと思うぞ。
   というか、スタッフもやるとは思わなかったし、予定にもなかったはずだよな?」

かずさ「うん、そうだな。あたしがもっと弾きたいと思ったからもう一回出てきたんだよ」

春希「観客は喜んでいたからよかったけど、本来なら進行プログラムが狂ってスタッフに
   迷惑をかけるところだったんだぞ」

かずさ「でも誰も怒ってなかたじゃないか」

春希「…………そう、だけどさ」

 実際には観客以上にスタッフの方が興奮していたんだよなぁ……。
短い期間とはいえ、普段のかずさをしっているからこそって感じなのか? 

かずさ「大成功したコンサートの後でさえもお小言を言ってくるのは春希くらいなもんだよ」

春希「別に俺はお小言なんていいたくなんてないって。俺も今日のかずさの演奏に
   酔っていたいと思ってるよ」

かずさ「そっか。…………そうか。うん、それでいいと思うよ」

春希「だな」




 ここでこの話は終わりと宣言とばかりに、俺はパンッと両ももを叩くと、
かずさが脱ぎ捨てた靴などを拾い始める。
 実はかずさのピアノに酔っているどころではなかった。
かずさの宣言通りに二日目のコンサートの演奏は特別だった。
 初日のコンサートは、もともとジェバンニ主催のコンサートであり、
ジェバンニ出場者の上位数人が出演していた。
 しかし二日目のコンサートはニューヨーク国際コンクール主催のコンサートであり、
その1位であるかずさの為のコンサートであり、かずさだけが主役である。そのこともあり、
演奏プログラムはかずさが最初から最後まで組み立てているという事で
一つのまとまりとなって心を揺さぶってきたのだろう。
 コンサート後、会場から出ていく観客たちは満足げな顔をしていた。
とくにカップルで来ていた観客は特にのぼせあがっていたような気さえした。
 まあ、俺自身がかずさの演奏に酔いしれていたせいもあるかもしれないけど。
 だからコンサートが終わってから、どうもかずさを直視できないでいた。
 体がむずむずするといった感じというか、熱にやられでぼぉっとするというのか、
あの演奏を聴いてからはドキドキしっぱなしだ。特に最後の曲目はかずさだけしか目に入らず、
仕事で来ている事さえ忘れて一音たりとも聴き落とさないようにと耳を傾けてさえいた。
そういう事情もあって、かずさを前にして今日のコンサートの感想を言うのが照れくさくもある。

かずさ「そんなの後にすればいいじゃないか。今は隣にいろって」

 かずさは俺が片付けをするのがご機嫌斜めらしく、隣にいろとベッドを叩いて催促する。
 今日最大の功労者の要請であれば、俺もそれに従うしかなく
…………いや、むしろ隣にいたいんだけど。
 でも、どうしてもかずさに見つめられてしまうと俺の心を読まれそうで、
気恥ずかしい気持ちが同居してしまう。

春希「わかったって。そう目くじら立てるなよ」

かずさ「あたしは怒ってないって。ただ、今はこの余韻に浸りたいというのかな。わかるだろ?」

春希「まあ、なんとなくな。今日の演奏を目の当たりにすればそういう気持ちもわからなくもない」

 俺は、かずさの靴と俺の靴を綺麗に並べると、かずさの隣で横になる。
するとかずさは待ちわびていたようで、俺の腕にじゃれつき始めた。

かずさ「で、どうだった?」

春希「どうって?」

かずさ「そんなの決まってるだろ。あたしのピアノを聴いてどう思ったかって事だっての」

春希「だよな…………」

 俺もそんなことはわかっている。わかってはいるけど、どうしても心をさらけ出せない。

春希「よかったと思うぞ」

かずさ「それだけか?」

急激に不機嫌そうな眼差しに変化してくるかずさに、俺は急いで追加の感想を述べるしかなかった。

春希「初日のもよかったけれど、やっぱ今夜の方が数段心に響いたって感じかな?」

かずさ「そうなのか?」

どうやらかずさが求めている感想を掘り当てたらしく、再びふにゃふにゃっと俺の腕でじゃれ
つくのを再開させた。そして、それに安堵した俺が少し饒舌になっても、当然なのかもしれない。

春希「素人の感想で悪いけど、俺にはそう聴こえたかな。たしかに初日のもよかったけど、
   ぶつぎりっていうか、一つのコンサートとしてのまとまりがないっていうのかな? 
   色々な曲を聴けるのは楽しみではあるけれど、やっぱ全体としての完成度はテーマが
   一貫している今夜のコンサートの方が楽しめるんじゃないかと」

かずさ「それはしょうがないって。なにせ初日の方が弾き手が全部違うんだから。
    弾きたい曲目を勝手に弾いていればまとまりなんてものは期待できないからな。
    まあ、最初からそういう趣旨のコンサートなんだから、それはそれでありなんじゃないか?」

春希「ジェバンニ期待の新人お披露目の舞台だからな」

かずさ「それで、今夜の方はどうだった?」

春希「だからすごかったって。俺はもちろん観客も喜んでいたぞ。
   みんな満足げに帰っていってたようだったしな」

かずさ「観客の方は満足していたってわかってるって」

春希「そうなのか?」

かずさ「舞台の上にいればなんとなく、な」





春希「へぇ……」

かずさ「ほんとなんとなくなんだけど、うん、母さんも言っている事なんだけど、コンサート
    中でも観客の息遣いっていうの? そういうのがなんとなくわかるんだ。
    今日の観客は満足している。今日の観客は寝むそうだな、とかさ」

春希「神経が鋭くなっているからかな?」

かずさ「そんなところだろうな。でも、演奏に集中しているから、なんとなくだからな」

春希「わかってるって」

かずさ「観客の反応はわかったけど、春希、は、どうだった?」

俺の腕をきゅっと抱き寄せると、俺の肩越しに見上げてくる。じっと見つめてくるその瞳は、
観客の反応を言っていた時の力強さはなく、
俺の感想を聞きたいけれど聞くのも怖いという感じが伝わってきた。

春希「俺は…………、俺はさっきも言ったようにすごかったとしか言えないな。こうやって
   かずさのコンサートに来たのは初めてでもあるし……、やっぱコンクールとは
   違うよな。コンクールは息が詰まる感じがして……って、もちろんかずさのことは
   信頼しているけど、やっぱ順位がついてくるから気が気じゃないんだよな。そういう点
   を考慮すると、やっぱかずさの演奏だけに集中できるコンサートはいいよな」

かずさ「…………それだけか?」

春希「えっ……、あとはそうだな。演奏が終わってもドキドキしっぱなしだったってくらい、かな?」

 感想ならもっとある。赤裸々過ぎて恥ずかしすぎる感想ならば、たぶん一時間くらい
話せるんじゃないかとさえ思えてしまう。…………もちろん話せればであり、
なおかつ途中恥ずかしすぎて言葉が詰まってしまう事も加算してだが。

かずさ「それだけ?」

春希「他にもスタッフの反応もよかったとか、運営面でもスムーズにいってたとか、あとは
   そうだなぁ……、新米マネージャーとしては大きなミスをしなくてよかったってこと、かな?」

かずさ「…………」

春希「えっ?」

かずさ「……ぃい」

春希「かずさ?」

かずさ「もういいっていってるんだっ」

かずさは俺の腕を突き返すと、ぐるりと背中を俺に向け、膝を抱えて小さく丸まってしまう。

春希「かずさ……」

かずさ「だからもういいって」

春希「今日の演奏はよかったとしか言えないんだ。
   もっと気のきいた言葉が出てくればいいんだけど、これだと編集部員失格だな」

かずさ「最初から春希に気のきいた誉め言葉なんて求めてないっ」

春希「…………ごめん」

かずさ「もういいって言ってるだろっ」

春希「……わかった」

 俺はベッドから静かに降りると、かずさが脱ぎ捨てたコートを手に取りハンガーにかける。
 コンサート会場からホテルまではタクシーだし、距離もわずかだからって着替えもしないで
かずさは帰ってきた。そういうわけだから、演奏で流れた汗も全部はぬぐえていないはずだった。
 このまま着替えないでいると風邪ひいてしまうかもな。いくら暖房が効いているからと
いっても汗かいてるし、とりあえず風呂の準備をしておくか。
 …………くそっ。
 どうして俺はこうなんだよ。かずさにそっぽを向かれるのも俺が一番よくわかるっての。
 しかもかずさが怒っているのことから逃げるようにマネージャーとしての仕事に逃げようと
してるんだもんな。こんなのかずさがウィーンに行ってしまってからの大学生活と
同じ事をしてるんじゃないかよ。
 わかってはいるけれど、俺はやはり時間がほしいという気持ちにはさからえず、
バスルームに行き、かずさがお風呂に入る準備をするしかなかった。
 部屋に戻ってくると静けさだけが俺を出迎えてくれる。光量が抑えられた室内は
暗いわけではないはずなのに部屋を出たときよりも暗く感じられてしまう。
部屋の中央に置かれたベッドには、かずさが無言のまま出迎えてくれた。

春希「そのままだと風邪をひいてしまうぞ。今風呂の準備をしたから入ったらどうだ?」


 当然というか、俺の予想通りというべきか、かずさは返事さえしてはくれない。少し希望が
あったとすれば、俺の声に反応してほんのわずかだけ肩が揺れたくらいだろうか。

春希「コンサートが終わったとしても、次のもあるわけだから風邪をひいたら
   大変だぞ。…………ほら」

肩を揺らそうとした手を最後の最後で引き止めてしまう。負い目があるから強くは出られない。
 わかっている。
 かずさが欲しかったのは上辺だけの言葉ではなく、俺の素のままの感想だったはずだ。
 いくらバイト時代を含めればすでに新米編集部員だとはいえないくらい口が達者になった
俺だとしても、かずさが求めているのは技巧をこらしたお世辞ではない。
かずさが求めているのは稚拙なまでも生々しい俺の感情なんだから。

春希「………………ごめん、かずさ」

 今度は迷いなくかずさの背中に手をあてる。
背中が小刻みに揺れ、そして小さな足の指にも力がこめられた。

春希「今夜の演奏を期待してくれって言ってくれたよな。俺、すっごく楽しみにしてたんだ。
   だってさ、初日のコンサートでさえわくわくしてたんだからな。そんなとんでもない
   演奏をしたのに、もっと期待してくれだなんて、かずさらしいなって思ったよ。
   そしたら期待以上に演奏を当然だろって顔をしてやり遂げちゃうんだもんな。
   だから俺、すごく誇らしかったんだ。高校の学園祭で歓声を受ける冬馬かずさ
   じゃなくて、世界でピアノを認められる冬馬かずさなんだって、俺だけじゃなくて、
   高校の中だけじゃなくて、世界がかずさを求めてるんだってさ」

かずさ「……………………春希。あたしはそんな大層なピアニストじゃないよ。
    ただ聴いてもらいたい人がいるから弾いているだけだって」

春希「かずさはそういうかもしれないけど、俺にとっては最高のピアニストなんだ」

かずさ「うん……ありがと。でもさ、でもね、あたしは最高じゃなくてもいいんだ。春希の心
    に響く演奏がしたい。春希と約束してからピアノに真正面から向き合ったよ」

春希「あぁ、曜子さんからも聞いた。今までも頑張っていたけど、取り組み方が違うってさ。
   観客を意識した弾き方になってきたとも言ってたかな」

かずさ「それは意識してたよ。だって聴いてくれる人がいるからこそあたしは演奏するん
    だからな。だけどさ、やっぱりあたしは最終的には春希の為ってことに
    なっちゃうんだ。それだと駄目だから春希と会わないでいたんだけど…………
    やっぱりさ、冬馬かずさは冬馬かずさの演奏しかできなくて」

春希「……かずさ」

かずさ「そんなに落ち込むなっての」

 ずっと背中しか見せていないのに、なんで俺の顔がわかるんだよ?
 事実俺のせいでって落ち込んではいるんだけど、俺の声に出てたのかな、やっぱ。

かずさ「でもね、あたしのピアノを突き詰めると、やっぱ春希なんだよ」

春希「なんだよそれ?」

 呆れてしまうくらいののろけ話だって千晶にからかわれそうだぞ。

かずさ「呆れちゃうよな? うん、あたしも同じだったよ。母さんもそうだったかな?」

春希「曜子さんはなんて?」

かずさ「母さんがあたしを置いて海外に行っちゃったときはさ、あたしのピアノは母さんに
    誉められたいから弾いてる部分が強かったって言ってた。実際あたしもそうだった
    と、思う。それが今は春希の、為。春希に聴いてもらいから弾いてるんだから、
    あたしって成長してないんだなって落ち込んだよ」

春希「でも、ピアニストとしては成長してるんだろ?」

かずさ「うん、母さんもそう判断してくれたよ。誰かのために弾くピアノでいいってさ」

春希「でもそれだと、かずさが求めているピアノには……」

かずさ「あたしも最初はやばいって思った。だけど、春希の為でいいんだって結論が出たんだ」

春希「えっ?」

かずさ「春希と会わないで頑張るって決意するまでは、春希を思って、春希への気持ちを
    ピアノにぶつけていただけだったんだ。でも今は違う。春希が誇りに思えるような
    ピアニストになりたい。世界で認められるようなピアニを演奏をしたい。観客が
    何度でも聴きたいって思えるような演奏をしたい。その為に頑張ってきたんだ」

春希「俺の為?」

かずさ「あぁそうだ」

 でもそれって…………。



春希「でもそれは、高校時代の曜子さんに誉められたいからというのと同じじゃないのか?」

かずさ「あぁそうだ」

春希「あぁそうだって威張って言うような事じゃないだろ?」

かずさ「あたしにはそれしかないからさ。誰かの心を揺さぶる演奏をしようにも、
    母さんみたいにたくさんの心を狙って揺さぶることなんて器用なまねはできない。
    あたしにできるのは、たった一人の心を揺さぶることだけ。その結果として他の観客
    の心も揺さぶれるんなら、それはそれでもうけものって感じかな?」

春希「簡単に言っちゃってるようだけど、それでも大変な事じゃないか」

かずさ「うん、……そう、だな。あたしはたった一人の心も揺さぶることが
    できなかったみたい、だしさ」

春希「…………えっ?」

 だんだんと声から力が抜けていき、最後は涙声になっていたような気がした。
実際かずさは両腕で体を抱きしめて、泣いてしまうのを堪えているようにさえみえた。

かずさ「春希は悪くないよ。あたしのピアノがまだまだなんだ。だから春希は悪くない。
    あたしが勝手に思いあがっていただけなんだって。ジェバンニで2位になった
    くらいで母さんと同じくらいうまくなったって自惚れていただけなんだ。
    …………それだけだから」

 やはりかずさは泣いている。
だけど、かずさのプライドが、涙で言葉をかき消えないように持ちこたえていた。

かずさ「だから、ごめん。春希の心、まだ、遠いみたい。あの時は調子にのって再度の
    アンコールに応えてみたけど、あたしだけだったみたいだな。春希にあたしの
    気持ちが伝わってるって思ってたんだけどな…………」

春希「かずさ」

 俺の声に呼応して振り抜いたかずさは、涙を隠そうともしないで懸命に微笑もうとする。
かずさの背中に触れていた俺の手をそっと両手で包み込み、
そして自分の心臓の部分に押し当てる。
 ふわりとする弾力が俺の手が押し返すが、かずさの両手がさらに深いところまで導く。
 ドキっドキっと、鼓動が加速していくのがよくわかる。
俺の鼓動も連動するように早くなっているのだろう。




第71話 終劇
第72話につづく










第71話 あとがき


某⑩円盤。4桁さえいかなかったとか……。某二期も内容的にどうなんでしょうね?
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。

黒猫 with かずさ派



第72話


かずさ「今度のコンサートってわけにはいかないだろうけど、近いうちに春希がぼろ泣き
    するような演奏をしてやるからな。待ってろよ」

 心からそう思っているのだろう。しかも、できることを疑っていないよな。
事実既に俺の心を揺さぶって虜にしているのだから、
今の勢いのまま成長したらどうなってしまうんだよ。
 だけど、ピアノの演奏だけじゃない、ひたむきまでに真っ直ぐと俺を見つめる瞳に、
とうとう俺は安っぽい見栄を打ち壊されてしまう。

春希「かずさっ」

かずさ「はっ、春希?」

 戸惑うかずさをよそに、俺はかずさを抱きかかえるように引き寄せる。
愛おしくてしょうがなかった。自分に正直になろうと懸命になっているかずさが羨ましく
てしょうがなくもあり、同時に自分の心を正直に伝えてらない自分が情けなくもある。
 無意味な見栄のために素直な感想を伝えなかったばかりにかずさを傷付けてしまう
愚かな行為までしてしまうなんて、どうしようもなく愚かだ。
 愛おしくてしょうがないのに、抱きしめて愛をささやきたいのに、どうしてかずさが
歩み寄ってくれた時に俺は逃げようとするんだよっ。曜子さんだって、俺だけじゃなくて
麻理さんにも配慮した形での今後の仕事を用意してくれているっていうのに、
俺はここでも無意味な見栄のために躊躇しているんだもんな。
 俺のこだわりなんてかずさの側にいるための条件の前には無意味な存在なのにさ。

春希「伝わってたんだ。かずさの演奏を聴いて心が熱くなった。愛おしくなった。
   抱きしめたくなった。聴いているのが恥ずかしくなるほど熱っぽい演奏だった。
   それが嬉しかった。たまらなかった」

かずさ「そ……そっか。伝わってたんだ」

春希「そうだったんだ。でも、かずさが無防備に俺の心に飛び込んでくるから、俺、
   どうしていいかわからなくなったんだと思う。今の俺がかずさの隣にいていいの
   かって不安に思うところがあるからな」

かずさ「あたしが春希の隣にいたいって言ってるんだ。
    素直に身をまかせればいいんだって」

春希「そう、だよな。そっか。簡単なことだったんだな」

かずさ「あぁ、簡単すぎて、シンプルすぎる行動だから、できない、のかもしれない」

春希「かずさ?」

かずさ「高校の時、あたしが素直になっていれば、って何度も後悔した。好きだって、
    一言言えばいいのに、それさえできないで、さ」

春希「それが、一番難しいのかもな」

かずさ「そうかもな。だけど、一番シンプルな行動だろ?」

春希「俺は…………」

かずさ「春希」

春希「かずさ?」

かずさ「好きだよ。……あたしは、冬馬かずさは、北原春希が大好きなんだ。高校の時
    からずっと好きで、今は世界中のだれよりも春希の事を愛してるって自信が
    ある。だからさ、春希もあたしのことを、愛してくれると、うれしい」

 俺が何度も計画を立て、そして何度も実行に移せなかった事を、かずさは見事に実行
してしまう。しかも俺のどの計画よりも美しく、感情に訴えかける言葉を投げかけて
くる。かずさから流れていた冷たい涙はいつしか熱っぽい涙に変化し、
頬も上気しているように見えた。

かずさ「なんだよ、のぼせちゃって。……でも、簡単だろ? 一度行動に出ちゃえばさ、
    簡単な事なんだよ。あたしは春希が好き。何度だって言えるし、
    この胸に飛び込むことだってできる」

春希「……かずさ」

かずさ「春希が口下手だって忘れてたよ。普段はうるさいくらい小言を言ってくるのに、
    肝心の愛の告白だけはできないんだもんな。まあ春希が詩を歌うように愛を
    語っちゃってたら、それはそれで気持ち悪いんだけどな」

春希「それは、俺も気持ち悪いと思う。想像したくもないな」

かずさ「だな。でも、こうやって、たまにでいいからさ。あたしが不安になってしまわ
    ないように、本当にたまにでいいから、愛をそそぎこんでほしい。
    …………駄目、かな?」


 なんだよ。ほんとなんだよって叫びたい。
 いつだって冬馬かずさはかっこいいんだから。
俺の憧れであり、俺の誇りでもある冬馬かずさは、やっぱり最高だ。

春希「たまにじゃない。毎日だって言ってやる」

かずさ「ちょ、ちょっと春希?」

 お互いの顔まで数センチということろまで引き寄せると、こつんと額をすり合わせる。
鼻と鼻がかすかに触れ合うのもくすぐったいし、
かずさの熱すぎる吐息が噴きかかるたびに心臓は跳ね上がった。

春希「かずさが好きだ。かずさが俺の事を愛してくれるように、俺もかずさのことを
   愛していきたい。ずっとずっと一緒に、小言だって毎日うるさいくらい言ってやる」

かずさ「それは毎日楽しそうで最高だな」

春希「最高に決まってるだろ」

かずさ「あぁ、最高だ」

春希「最高なんだ」

かずさ「簡単だったろ?」

春希「え?」

かずさ「愛の囁き」

春希「そうだな。一度言ってしまえばもう躊躇しないで済みそうだな。でも俺の場合は
   かずさに背中を押されてだったから、最初に踏み出してくれたかずさは、
   ほんとに勇気があるよ」

かずさ「…………ううん、違うんだ。それは違う」

春希「違わないよ」

かずさ「春希はあたしのことを美化しすぎ」

春希「俺の最愛の人だからな」

かずさ「それでも美化しすぎだって」

春希「……でも」

かずさ「本当に違うんだ」

春希「かずさ?」

かずさ「あたしさ、喧嘩別れって感じではなかったけど、フランスに行く前、
    子供のことでちょっとごたごたがあったろ?」

春希「あぁ、あったな」

 かずさの傷が深いって再認識した出来事であり、俺がかずさのことをわかってないと
打ちのめされた出来事でもあるから、忘れることなんてない。

かずさ「あの時さ、高校卒業してウィーンに行った時とは状況が違うけど、でもなんと
    いうかさ、心がすれ違ったままというか、心が向き合えないまま離れて
    しまったって感じだったじゃないか。なんかすっきりしないままフランスに
    行っちゃったから、あたし、ニューヨークに帰ってくるとき、すごくこわかった」

春希「俺は、かずさが沈んだ心のままでコンサートに行かなくちゃいけなくなって
   心配だった。でもフランス公演の後、曜子さんがすぐに大成功だって連絡くれて、
   ほっとしていたかな」

かずさ「こういうところが春希って女心がわかってないって言われるんだろうな」

春希「ご、ごめん」

かずさ「謝らなくたっていいって。こういうのが春希なんだから。…………で、ね。
    ニューヨークに帰ってくる飛行機の中でさ、どうやって話を切り出そうかとか、
    どうやって謝ろうかとか、どうやったら自然に振る舞えるかとか、ずっと悩んで
    たんだ。でもさ、春希ったらいつもと通りにあたしを出迎えてくれちゃってさ。
    あたしは真剣に悩んでいたというのに、すっごく不公平だなって思って、
    悔しくなったんだぞ」

春希「ごめん」

かずさ「だから謝るなって」

春希「ごめん。いや、わかった」


かずさ「まあいいよ。それでさ、もうこんな気持ちにはなりたくないって思ったんだ。
    だからあたしは春希の側にいるって決めたんだ。
    何があろうと素直に隣にいようと思ったんだ」

春希「あっ、だから俺の腕にずっと……」

かずさ「あぁそうだよ。あたしが愛の行動に出たというのに春希はいつも通りに
    振る舞ってたけどな」

春希「そうはいっても、俺もずっとドキドキしてたんだぞ」

かずさ「知ってる」

春希「知ってる?」

かずさ「だって春希の心臓もドキドキしてたから」

春希「なるほど」

かずさ「春希の体は春希の頭と違って案外正直なのかもな」

春希「そうかもしれないな」

かずさ「なあ春希」

春希「うん?」

かずさ「愛してる」

春希「俺もかずさのことを愛してる」

 本当に簡単だった。こんなにもシンプルな行動を、なにを怖がってたんだって数分前の
俺に言ってやりたいほどだ。できることなら数時間前のコンサート終了直後に、
もっと願うなら数年前の高校時代に。よくばればいくつものチャンスが思う浮かぶが、
それを願い通りにやり直せる事はない。
 だけどこれからのことなら俺が実行に移すだけでいいんだ。
 このシンプルすぎる愛の行動を、かずさにむけて行動するだけで俺の心は晴れていく。
 それはかずさの心も朗らかに晴れわたらすことに結び付く。
 やはりかずさはかっこいい。なにせ俺の憧れだったんだもんな。でも、俺はこれからは
かずさに俺の理想を押し付けはしない。俺はかずさの隣にいることを選んだのだから。
 これからはかずさと一緒に悩み、そして喜んでいくんだ。
かずさだけに選択させてはいけないんだ。
 二人でいると選択した俺たちならできるはず。
きっとかずさも俺と同じ気持ちでいてくれるだろう。
 重なり合っていた二つの影は、いつしか一つになっていた。温もりも感情も、
そして不安さえも一つになった俺達は、一晩かけてゆっくりと愛を語り合う事にした。







 ボストンからニューヨークに着いても空からは雪がゆらゆらと舞い降り続けている。
途中雪が強くなった事もあり、電車も予定時刻をやや過ぎて到着した。だけど、遅く着く
事にかずさは気にしていないようだ。そもそもずっと俺の腕を抱いて寝ていたようだった
ので、各駅の到着時刻が段々と遅くなっている事さえ気が付いていないと思う。
 途中気にしたことといえば、車内でも仕事をしている俺に休憩だとばかりにチョコ
レートを束させようとしていたことぐらいだろうか。ちなみにかずさによるチョコレート
作戦は二度ばかり発令され、その二回とも俺の敗北で終戦を迎えている。
 俺も今日一日は移動日として捉えているわけで、別段ニューヨークに急いで帰らなけれ
ばいけないわけでもないし、仕事の方もやらなくてはいけないものは全て
終わっているので、早々に白旗をあげてかずさの温もりを有難く享受していた。
しかしいくら甘ったるいほどに温かい車内といえども、駅に着いて外に放り出されれば寒い
わけで、かずさはタクシーに乗る数分は俺の腰にしがみつき、熱を奪う事に精を出していた。

春希「ただ今戻りました」

かずさ「…………ただいま」

 静かに俺達を出迎えてくれた自宅マンションの玄関は冷房が全く効いてはいない。
いくら断熱効果が高い素材を使っていても、冷気が俺達から熱を奪っていこうとする。
 しかし、ようやく自宅に着いたという安堵が俺達を柔らかく包み込む。
 俺のあとに続きかずさも照れを混じらせながら帰宅の声を投げかける。きっと今まで
はしてこなかった挨拶なのだろう。曜子さんも忙しくて帰宅しない事も多かったと
聞くし、そもそもかずさはレッスンルームにこもっている事がほとんどで、
曜子さんが帰宅した事さえ気がつかない事が多かったとか。
 だから、普段使わない家族の挨拶に戸惑いを覚えているのだろう。

春希「おかえり、かずさ」

かずさ「なんで春希が「おかえり」って言うんだよ? 普通は家にいる人間が言うんだろ?」

春希「あぁ、そのことか。俺が言ってもおかしくはないと思うぞ」


かずさ「なんでだよ?」

春希「俺の方がかずさよりも先に帰宅したからな」

かずさ「数秒くらいの差だろ? そんなの誤差のうちだろ」

春希「そうとも言うけどな。でも、俺が言いたかったんだからいいだろ? な?」

かずさ「まあ春希が、言いたいんならしょうがないから聞いてやる」

 やはり慣れてないんだな。薄っすらと頬が赤く染まっているのは、今まで雪空の下に
いたからではないだろう。とはいうものの、極寒の雪空の下に放り出されたのは、
タクシーからマンションまでの数歩。しかも、マンション管理人によって歩道は
しっかりと雪かきまでされていたんだけど…………。

春希「あとは、そうだな。今はみんな仕事に出ていて誰もいないっていうのもあるかもな」

かずさ「おい春希。だったらそもそも「ただいま」なんて言う必要がなかった
    じゃないか。誰も聞く相手がいないんなら虚しいだけだろ?」

春希「だから俺がかずさに言いたかったって言ったじゃないか」

かずさ「そうだけど、さ」

春希「それにな。こういう挨拶というのは相手がいるから言わないといけないんじゃ
   ない。「いただきます」とか「ごちそうさま」も同じように誰が
   聞いているわけでもないのに言ってるだろ?」

かずさ「ん~ん、たしかにそう、かもしれない。でも、「ただいま」は相手がいる事が
    前提じゃないのか? ほら、「おかえりなさい」があとにつづくし」

春希「かずさにしては珍しく正論を言ってくるんだな」

かずさ「あたしを馬鹿にしてるだろ?」

春希「馬鹿にしてないって。感心しているだけだって」

かずさ「それを馬鹿にしてるっていうんだよ。この馬鹿が」

春希「……まあ、そうとも言うのかもな」

かずさ「それより寒いな。早く中に入ってあったまろうって。春希が馬鹿な事を
    言いださなければ、とっくにあったまっていたんだろうになぁ」

 かずさは靴を脱ぐと、スリッパに履き替えパタパタと廊下の奥へと進んでいく。
けれど、一つ荷物を忘れたようですぐに戻ってきた。

かずさ「ほら、早くいくぞ」

春希「わかってるって」

 かずさは俺の手を握りしめると、再び廊下の奥へと進んでいく。そもそもかずさが
持っていた荷物など一つしかなかった。かずさはボストンからずっと俺だけを
持ち続けていたんだから。
まあ、ほとんどの荷物はボストンから配送してもらっているし、俺が持ってきたのも片手
で持てるバッグが一つだったから、かずさに手伝ってもらう事自体必要なかったのだけれど。



 こたつ。人を堕落させる究極兵器の威力はすさまじく、我が家の住人のほぼ全ての心を
掌握しよとしている。あの麻理さんでさえ骨抜きにされ、帰宅して手洗いうがい、
コートやジャケットをハンガーにかけるとすぐにこたつの住人へとおちてしまう。

麻理「冷え性なんだからしょうがないじゃない。足元を冷やすのはよくないのよ。
   美容だけじゃなくて健康にもわるいんだから。
   だから、けっして年寄りじみた行動だってみないように」

春希「いや、俺はけっしてそんなふうには思っていませんよ」

麻理「そうかしら?」

春希「麻理さんの思いこみにすぎませんから」

麻理「でも春希。なんだか生温かい目で見ていなかったかしら?」

春希「違いますよ。なんだかこたつにみんなが集まっていると、家族みたいだなって思って」

麻理「なるほど」

千晶「でしょう。わたしがこたつを日本から取り寄せたのを誉めて欲しいってものよ」

 千晶に限っていえば、自分の手柄を誉めて欲しいってわけではないのは
俺にはわかるぞ。そもそも自己顕示欲が高くないくせに。


春希「お前の場合はこたつに入っている正当性を主張したいだけだろ。こたつを出して
   からは、ほとんどこたつで暮らしているようなものだしな」

千晶「日本人だからねぇ…………。ほぉら、ぬっくぬくで、ほっかほかじゃない」

春希「はぁ…………」

 俺も千晶に毎度毎度小言なんて言いたくはない。
千晶は帰宅しても、手洗いさえもしないでこたつに直行してしまう。そして小言ばかり言う
北原春希にこたつから追い出され、しぶしぶ手洗いに行くのが毎日の光景となりつつあった。
 だもんだから、当然かずさもこたつの魔力には勝てるわけもなく、
俺に背を預けこたつを満喫していた。一応曜子さん達の目を、
とくに麻理さんに遠慮して北原春希座椅子は二人っきりの時しか使用していない。
 だけど二人っきりの時はここぞとばかりに甘えてくる。
とくにフランスから戻ってからは顕著であった。
 思い返せば、かずさの言う通り、かずさの危機意識が俺を求めていたのだろう。

かずさ「母さんは帰ってくるかはわからないけど、
    和泉さんと麻理さんはもうすぐ帰ってくる時間だな」

春希「千晶はどうだろうな? 俺がボストンに行っている間は美代子さんが世話を
   してくれているらしいけど、今千晶は本番前でかなり役に入っちゃってると
   思うからなぁ……」

かずさ「じゃあ帰ってくるかわからないって事?」

春希「どうだろうな? ここは日本じゃないから安全のためにも帰ってくるはずだとは
   思うぞ。いくら千晶でもそこらへんで寝てしまうってことはしないからさ」

かずさ「それって日本だと寝ていたってことだよな?」

春希「まあ…………千晶、だから?」

かずさ「そ、そうだな。…………じゃあ麻理さんの方が早く帰ってくるかな?」

春希「そうだなぁ……。なにもトラブルがなければそうだと思うぞ」

かずさ「なんだよ春希? 一人で笑っちゃって」

春希「あぁ悪い。麻理さんも日本では深夜まで編集部にいたからさ。千晶も麻理さんも、
   俺もそうだし、かずさや曜子さんだって同じなんだなって思ってさ。なんだか
   みんなワーカーホリックなんだと思ったら、みんな似た者同士なんだなって」

かずさ「わーかーほりっく?」

春希「仕事中毒ってところかな」

かずさ「間違ってはないけど、あたしにとってもピアノは生活の一部だし、
    春希だって同じようなものだろ?」

春希「そうかもしれないけど、まわりからみたら俺達はれっきとしたワーカーホリック
   だと思うぞ?」

かずさ「勝手に言わせとけばいいんだ」

春希「そうだな」

 とりとめのない話題で盛り上がっては沈黙が訪れ、そして新たな話題へと移っていく。
ボストンにいたときも二人っきりではあったが、やはりコンサートの事が一番であり、
のんびりする余裕なんてなかった。
唯一二人の為のだけに過ごした時間は、コンサートが終わった夜から翌日の朝までだった。

かずさ「麻理さん遅くないか?」

春希「編集部でトラブルでもあったのかな?」

かずさ「大丈夫か?」

春希「一概にトラブルって断定できるわけでもないからな。最近は麻理さんもだいぶ調子
   を取り戻してきているみたいで、仕事の量も増えてきているみたいなんだよな」

かずさ「おっ、おい春希。本当に大丈夫なのか?」

春希「大丈夫だと思うぞ? 俺も体の負担にならないようにと見張っているから」

かずさ「ほんとうか?」

春希「絶対大丈夫ってことはないけど、俺が見た感じでは大丈夫、だと思うけど?」

かずさ「…………そっか」

 本当に大丈夫なのだろうか? かずさに言われるまで疑問にさえ思わなかった。
 ずっと麻理さんを見てきたことで麻理さんのことを知ったつもりに
なってしまったのではないだろうか?



そう考えると、なんだか不安になってしまうのが平凡な精神構造をもつ俺であって……。
だけれど、かずさに不安を感じさせない為に俺は平静を装おうと顔の筋肉に力を込めた。




第72話 終劇
第72話につづく






第72話 あとがき


そろそろあとがきのネタが…………、いや、すでに枯渇していますね。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。

黒猫 with かずさ派



第73話



 俺は玄関が開けられた音がするので俺は麻理さんが帰って来たと思い、出迎えに行く。
かずさも麻理さんが帰って来たと判断したのか、早々に俺を解放して隣に移動していた。
 だけど、そんなに寂しそうな顔をするなよ。俺のセーターを掴む手を振りほどくのに
どれだけの精神力が必要かなんて、きっとわかってないんだろうな。
 ただ、ボストンに行ってからは甘やかし方に磨きがかかったって言われそうなん
だよな。…………まあいいか。俺もかずさを甘やかすことが嬉しいんだからさ。
 だから俺は意識を外へと振りほどく。このままだと、ずうっとかずさの虜のままで、
駄目なまま腐っていきそうだしな。
 こたつから出ると、ひんやりとした空気が俺を出迎える。かずさに暖められ過ぎた体には
ちょうどいい冷たさかもしれない。けれど、なおも温もりを体が欲しがるが、
これからしなければいけない事を考えることで意識を保とうとした。
 そういえば買い物に行ってないけど、冷蔵庫には食材入っているのか? 
一応冷蔵庫が空でも大丈夫なように緊急用の備蓄はしてあるけど、美代子さんが俺の代りに
千晶の面倒をみているから買い物もしてくれているのか?
 でもなぁ、美代子さんも掃除はできても料理はからっきしできないんだよなぁ。
ニューヨークに来てからはここに住んでいるから手造りの料理を食べてはいるけれど、
日本ではコンビニ弁当が主食という残念な生活を送ってたっていってたし。
 どんな言葉で表現すればいいか迷ってしまうけど、やはり類は類を呼ぶって感じなのか? 
…………ここの住人の女性比率が圧倒的高いといっても、料理できるのがただ一人の男の
住人って言うのが残念さに拍車をかけているよな。俺も女が料理をしろとは言わないけど、
やっぱ料理ができるほうが、せめて一緒に料理ができるほうがいいというか。
 …………ただ、かずさにだけは包丁は持たせられないんだよな。
 そういえば、曜子さんの方の仕事が忙しいからハウスキーパーを短期でお願いするって
言ってたから、食事の方もなにかしら用意してあるのか?
 まあいいか。俺もかずさもこたつの魔力に負けて…………、俺に関してはかずさの温もりに
負けてだろうけど、夕食も取らずにごろごろしてたんだ。いつまでもごろごろしていたら
千晶に格好のネタを提供する羽目になってしまうから、しゃんとしないとな。
 そうだな。冷蔵庫の中身を確認して、
気持ちを引き締める為にも俺がちょこっと買い出しに行けばいいか。
となると、千晶の分も用意しておかないとな。本番間近の千晶だとなかなか電話をとってもらえ
ないし、メールだと確認さえしないだろうから、美代子さんに食事はいるか確認してみるか。
 と、ボストンでの二人だけの生活から、
ニューヨークでのにぎやかな生活へと意識を切り替えながら玄関へと向かった。

千晶「あっ、春希。帰って来てたんだ? おっかえりぃ」

春希「あぁ千晶。ただいま。そっちもおかえり」

千晶「うん、ただいまぁっと。……じゃあこれよろしくね」

春希「おっ、おい」

 千晶は着ていた毛皮のロングコートを俺に押し付けると、
寒い寒いと言いながらこたつへと逃げ込もうとする。
 外の冷気を纏ったコートの内側からは、ほんの数秒前まで千晶がこれを着ていたという
温もりが臭い立つ。下に着ている服は稽古用の着古した動きやすい服装なのに、妙に色っぽく
感じてしまうのは今やっている役の影響か? 着ている服だけは見れば、
いつもの千晶なんだよな。でも、この毛皮のインパクトがすごいっていうか……。

春希「あいかわらずそんなかっこうで出歩いてるんだな」

千晶「どうせ稽古場にいくだけだし、いいんじゃない?」

春希「風邪引くなよ」

千晶「わかってるわよ」

 部屋着のジャージレベルまでいくほどの服装に不釣り合いすぎる毛皮のコートが似合う
のは、きっと千晶だからこそなのだろう。ちなみに毛皮のコートの現所有者は和泉千晶では
あるが、旧所有者は、当然というか、あの冬馬曜子である。当然と言えば当然か。
でも曜子さん。いくらデザインが古くて着なくなったコートだからといって、俺の年収相当の
毛皮を気楽に千晶にあげないでくださいよ。それに千晶も千晶で、簡単に貰っちゃうなよな。
 千晶からしてみれば、温かいコートという認識しかないだろうし、曜子さんもクローゼット
が整理できてよかったくらいにしか思ってないんだろうな。だけど庶民代表の俺からすれば、
とんでもないプレゼントだということを忘れないでほしいよ。

千晶「春希ぃ。いつまでも玄関でわたしのコート嗅いでないでこたつに入ろうよ。そんなにも
   臭いを嗅ぎたいんなら直接でもいいよ? ぎゅっと抱きしめてあげるから、
   わたしの胸に顔をうずめながら堪能すればいいって」

春希「だぁ……。俺は臭いなんで嗅いでないっつうの」

千晶「だってさ。じいっとコート見つけちゃってるから、てっきり、ね」

 まあ、たしかにコートを大事そうに持って見つめちゃってはいたけど、
けっして千晶が考えているようなことはしてないからな。

春希「はいはい。馬鹿なこと言ってないで手洗いうがいしてこよな」

千晶「今やろうとしてたんだって……。帰って来て早々春希なんだから」


春希「わかってるんならやろうな。お前だって大切な本番が迫ってるんだろ? こんなところ
   で風邪ひいたら、せっかくの練習が台無しだぞ?」

千晶「まあそうだけど、さ……」

春希「だったら健康管理も女優の大切な仕事なんだ。しっかりやろうな。
   和泉千晶はプロの女優らしいからな」

千晶「もう……、わかったって。ったくぅ……」

 一矢報いた俺は、足取り軽くこたつへと戻っていく。
 千晶はやはり千晶であって、俺のお小言があったことなどなかったのごとく手洗いうがいを
終えるとこたつにもぐり始める。
 やはりここは落ち着く。二人だけのボストンも心浮かれたが、
肩に力を入れなくて済むのはきっとここだけなのだろう。
ちなみに、こたつに戻ってきた俺の脇腹を、おもいっきりかずさにつねられたのはお愛嬌だ。
 ………………でも、かずささん。爪を立てて引きちぎるように肉を掴むのは、
非常に痛いのでやめていただけないでしょうか?
 いや、うん。ごめん。……でも、ほんとうに千晶のコートの臭いは嗅いでないんだって。

千晶「さてっと。口うるさい春希が帰ってきたわけだけど、ご飯は?」

春希「お前もせっかく帰ってきた俺にそれか?
   しかも、頑張ってきたかずさにはおかえりさえ言ってないだろ?」

千晶「そだっけ? じゃあ、おかえり?」

かずさ「あぁ、ただいま」

 おい、かずさ。かずさもそれでいいのか? あまり気にした様子でもないみたいだけど、
そもそも最初から気になんかしないのか? それとも、千晶との接し方を覚えたってことか?

千晶「で、春希」

春希「なんだよ?」

千晶「だからご飯は?」

春希「これから準備する予定」

千晶「そっか」

春希「でも、まだ冷蔵庫の中をチェックしてないからなぁ……。何か入っていればいいんだけど」

千晶「それだったら鍋の材料を美代子さんが用意しておいてくれたはずだよ。
   春希も疲れているだろうし、鍋だったら簡単ねって、さ」

春希「それは助かるな。それで、食材を用意してくれた美代子さんは?」

千晶「美代ちゃんは曜子さんの方でやる事があるから、わたしをここまで送ってくれたあと、
   そのまま行っちゃったよ」

春希「そっか。今曜子さんも忙しいみたいだからな」

千晶「みたいだね」

春希「じゃあ、曜子さんと美代子さんの分はいらないか」

千晶「一応用意しておいてだってさ。帰って来てから食べるかもしれないって」

春希「了解。鍋だし、多めに作っておけば問題ないか。……じゃあ、あとは麻理さん次第か。
   もうじき帰ってくるなら麻理さんが着くまで時間調整して準備するけど、連絡してみるかな」

千晶「あっ、麻理さんの分はいらないよ」

春希「遅くなるって?」

千晶「ううん」

春希「じゃあなんでだよ?」

 食べてくることなんてありえないし…………。

千晶「だって麻理さん、もう日本に帰っちゃったから」

春希「…………えっ」

 それは突然だった。なんの予兆もなく、当然ながら俺には何も心の準備をする猶予は
与えられてはいない。しかも、あまりに千晶が普通すぎる口調で言うものだから、
俺は千晶の言葉を理解するのに苦労した。
 ニューヨークにきてから英語ばかり使っている。日本語は、俺が英語に慣れる為に自宅でも
使わないようにしていたし、かずさや千晶も同じように英語ばかりつかっている。

 だから千晶が使った言葉が英語以外の言語。それも日本語でさえなくてスペイン語あたり
なんじゃないかとさえ思えてしまった。スペイン語ならニューヨークにいても時折遭遇
するし、場違いではないから、もしかして千晶ならとさえ考えてしまう。
 だけど、今千晶が話している言語は英語であり、耳に慣れ親しんだ言葉だった。

千晶「だからぁ、麻理さんは日本だからご飯いらないんだってば」

 もう一度英語で説明しなくても、すでに頭は理解している。理解してるけど、
理解しているけど、頭はその事実を拒絶する。

千晶「ちゃんと聞いてる、春希?」

 ちゃんと聞いてるって。だけど、その……。
事実は事実として現実に降り注ぎ、俺の目の前に突き付けられる。だから俺の頭が拒絶しても
受け入れなくてはならない。でもやはり俺の心は強くはなく、手が震えてきてしまった。

千晶「春希?」

 心配そうな顔で俺を見るなよ。お前の言葉は理解してるって言ってるだろ。
いや、言葉さえでてないか。だったら千晶が心配するのは当然か。
 でも、ここには千晶以上に俺の事を大切にしてくれる人が一名いるわけで、
かずさは俺の不安を共有しようとこたつの中で俺の手をそっと握りしめてくれた。

春希「聞いてるよ」

 俺はかずさの手を握り返し、声に不安が含まれないように注意して言葉を返す。
 それでもきっと千晶の事だから、俺の強がりなんてお見通しだろうけど。

千晶「うん、まあ春希が驚くのは無理はないけどね」

春希「なあ、冗談じゃないんだよな?」

千晶「こんな冗談は言わないって」

春希「いつ、日本に?」

千晶「春希達がボストンに行ってすぐかな?」

春希「お前、俺達がボストンに行く前から気が付いてたのか?」

千晶「わたし? ううん、気が付くわけないじゃない。いきなり日本に帰るって言ってさ。
   曜子さんも驚いてたんだからね」

春希「だれも止めなかったのか? というよりも、俺に連絡さえしてこなかったよな。止める
   ことはできなくても、電話だけでも、せめてメールだけでもくれていれば…………」

千晶「それは無理だって」

春希「なんでだよ」

千晶「だって春希は冬馬かずさのマネージャーとしてボストンに行っているわけじゃない?」

春希「だから、それが何だって言うんだ?」

千晶「春希の仕事は冬馬かずさが気持ちよくピアノを弾けるようにサポートすることで
   あって、心をかき乱す事じゃない、と思うんだよね」

春希「だけど、大事な仕事があったとしても、伝えるべきことってあるだろ」

千晶「そうかもしれない。そうかもしれないけど、このことを春希に伝えたら冬馬かずさの
   ピアノに悪影響が出る」

春希「どうしてそう言い切れるんだよ?」

千晶「だって春希。今の春希を見れば誰だって言いきれると思うよ? …………ね、かずさ?」

春希「あっ…………」

 俺のことを誰よりも心配してくれるかずさがいるのに、俺の事を愛してくれるかずさがいる
のに、誰よりも大切にしようってボストンで決心してきたというのに、
……今俺の手を握りしめてくれている愛する人の事を、俺は放り投げようとしていた。

かずさ「大丈夫だよ、春希」

春希「かずさ、俺……」

かずさ「春希じゃなくても誰だって驚くよ。たぶん母さんだって春希には伝えるなって
    言ってるんだと思う。それだけ大切なコンサートだったし、今も母さんは次の
    コンサートの為に頑張っているんだしさ。ほら、美代ちゃんだって
    頑張ってるんだから、あたしたちも、さ。……ね、春希」

春希「そうだよな」

 俺はやっとのこと力なくかずさの手を握り返し、
そしてかずさが俺の手を握り返してきた事で現実に引き止められる事に成功した。


春希「それで、麻理さんは日本本社に戻ったという事なのか?」

千晶「んっとね。……多分そうだと思うよ。荷物はここに置きっぱなしだから、あとで送って
   くれってことかな? まあ、あの時はみんな自分の事でせわしなかったし、なんと
   いうかな。止めるとしてもどうすればいいかわからないしさ。
   当人の意思を優先するしかないって感じだったかな?」

春希「……そうか」

かずさ「じゃあ部屋には麻理さんの荷物がそのままあるってことなのか?」

千晶「そだね。実際見てみればいいと思うよ?」

 かずさの手に引かれて俺も立ちあがるしかない。ここで座っているだけでは解決しないし、
なによりもこれ以上かずさを傷つける事は俺自身が許せなかった。だから俺は、
かすかに残っている力を込めて立ちあがる。
 しかし、立ちあがる事だけに意識を集中していたせいで、顔の表情までは気が
まわらなかったようであった。そのせいでかずさが表情が一瞬曇ったようだが、
自分の事だけで精一杯の俺は、かずさの心情など気が付きもしなかった。




千晶「どう、納得した?」

久しぶりに入った麻理さんの部屋は、ボストンに行く前に入った時と同じまま俺を出迎えて
くれる。あと1、2時間もすれば麻理さんが帰って来るんじゃないかと思えるほど麻理さんの
臭いが残っており、ボストンに行った直後にいなくなったとは、どうしても信じられないでいた。

かずさ「なんか変な感じだな?」

千晶「そう?」

かずさ「いなくなったなんて思えないというのかな」

 俺をよそにかずさと千晶は室内にはいっていき、
探している本人のかずさでさえ何を探しているかわからない手がかりを探し始める。

かずさ「ほんと、綺麗に部屋を使ってるな」

千晶「見習いたいところだけど、やっぱわたしには無理かな」

かずさ「あたしも人の事は言えないけど。………………これ、春希がプレゼントしたペンだよな?」

 いまだに室内に足を踏み入れられないでいた俺の脚を動かしたのはかずさの声だった。
正確に言うと、かずさが手に持つボールペンに意識を奪われて、
ふらふらと吸い寄せられるように動いたという方が正しいのかもしれない。

かずさ「春希? …………痛いよ、春希」

春希「ごめんっ」

 気が付くと俺は、かずさの手ごと麻理さんのボールペンを握りしめていた。視線を横に
そらすと、痛さで顔をゆがめたかずさがおり、俺はすぐにかずさの手を解放させる。

かずさ「はい、春希」

春希「あぁ、うん」

 差し出されるボールペンを、俺は今度こそどのような顔で受け取ればいいかと思い悩む。
どのような顔でかずさは俺を見ているのだろうか。千晶みたいに表情を作りはしないだろう
けど、それでもかずさのことだ。きっと強がって、俺に嫌な顔など見せないだろう。
むしろ俺の方がかずさを傷つける表情をしてしまって、そのことで心を痛めたかずさが……。

かずさ「日本に行くからチケットの用意をしてよ。あたしがチケットの準備をすることが
    できればいいんだけど、やっぱりあたしには一般常識が欠如しているみたいなんだ
    よな。だから、春希。あたしの為に日本行きのチケットを準備してほしい」

 麻理さんのボールペンさえ手に取れない俺に、かずさは強い意識でそうはっきりと言った。
 同情でも憐れみでもない。ましてや俺を元気づけようと無理をしているわけでもない。
それが当然だろって、いつものかっこいい冬馬かずさが俺の目の前にいた。
真っ直ぐな黒髪は吸い込まれそうなまでに深く、黒い瞳は力強く俺を勇気づけようとしている。
 なにが一般常識が欠如してるだよ。生活能力はまったくというほど持っていないくせに、
俺がいないと生活できないとまで言ってくれるくせに、…………俺に一番必要なものを持って
いて、俺の方がかずさがいなければ動けないじゃないか。

千晶「ほら、春希。かずさが返事を待ったいるみたいだけど?
   それともわたしが美代ちゃんにお願いしようか?」

春希「俺がやるに決まってるだろ。というか千晶。こういう時まで人任せなんだな」

千晶「あったりまえじゃない。適材適所。
   わたしがやるよりはよっぽど早く正確にやってくれるっての」


春希「まあ、そうだな。下手すれば成田じゃなくてロンドンに行ってそうだしな」

千晶「それは飛行機を乗り間違えた春希が悪いんじゃない?
   いくらチケットを用意したのがわたしでもさ」

春希「だぁっ。こういうときにまで冷静につっこみを入れるんじゃないっ」

千晶「だってこれが和泉千晶なんだから、しょうがないじゃない」

春希「ったく」

千晶「で、春希。かずさのお願い、どうするの?」

春希「…………かずさ」

かずさ「大切な友達に会いに日本に行きたいんだけどさ。
    あたしは飛行機の予約さえできないんだ。だから春希、あたしを助けて欲しい」

春希「いいのか?」

かずさ「何言ってるんだよ。あたしが行きたいって言ってるんだ。
    それなのに何がいいのかって聞くのかがわからないよ」

春希「そうだけどさ」

かずさ「それともあれか? スケジュールがきびいしいとか言うなよ? あたしはしばらく
    休暇の予定だし、春希だってボストン公演をまとめるんで出社しなくても
    いいはずだぞ? だから春希は、悪いんだけど、あたしのお伴として日本まで同行
    してほしい。大丈夫だよ、春希なら。ボストンのときも列車の中で仕事をしていた
    じゃないか? それが今度は飛行機に代わるだけ。春希なら期日までにきっちりと
    仕上げることができるよ」

春希「わかった。でも、今の時間は飛行機がないから、日本に行くのは早くても明日だからな」

かずさ「それでいい。それに、そのほうが春希には都合がいいだろ?」

春希「いや、とくに何もないと思うけど?」

かずさ「だってさ、春希だったら、今から徹夜すれば日本でしなくちゃいけなくなる仕事を
    ほとんど終わらせることができるだろ?」

 どこまでも俺の事をわかっていらっしゃるパートナーだこと。ほんとうに頼もしいよ。
 今の俺には、嬉しさが混じった苦笑いをうかげるのが精々だった。
そして、深く思い悩んでいたことなど既に忘れようとしていた。

千晶「というわけで春希」

春希「お土産なんて買ってこないぞ?」

千晶「違うって。そもそもお土産ってなんなのよ?」

春希「東京のお土産?」

千晶「違うっての」

春希「そうか?」

千晶「そうなのっ」

春希「じゃあなんだよ?」

千晶「元気をつける為にも、鍋をしっかりと作ってほしいなって、思って。ほら、お腹が
   空いてると元気でないし、頭も働かないでしょ? しかも、元気がない時ほど
   ネガティブになっちゃうし、ここはしっかりと美味しいご飯、って感じかな」

春希「わかったよ。今準備するから待ってろよ。……かずさも鍋でいいか?」

かずさ「あぁ、それでいいよ。春希鍋は美味しいからな」

春希「じゃあ、ちょっと待っててくれよ。すぐに用意するからさ」

 やっぱ俺って、かずさは当然として、千晶にさえ敵わないんだろうな。
……今はそれでいいか。今は俺ができることをやるしかないしな。
 そう心を奮い立たせると、美味しい鍋を作ろうとキッチンへと向かった。
 …………ただ、美代子さんが用意した食材があまりにも肉に偏っていた為に、
雪の中スーパーに向かい、寒さのあまり心が折れそうになった事は蛇足だ。
そして美代子さんに肉ばかり買わせた真犯人にお小言を言ったはいつもの光景だった。




第73話 終劇
第74話につづく



第73話 あとがき


アクアプラスの人気投票、かずさぶっちぎりですね。
このまま1位になってオリジナル記念グッズが作成されれば買ってみたいかな。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派


第74話


 麻理さんの帰国を知った翌日。俺とかずさは早々に飛行機に乗って日本へと向かった。
そして、スケジュール管理をしてる上司たる曜子さんはクリスマスに予定している
ニューヨークでの冬馬親子ふたりそろってのコンサートまでに戻ってくれば問題ないと、
とくに日本に行きを咎めはしなかった。
 咎めはしないけど、かずさが本番に向けてしっかりと演奏の準備ができる時間を確保
するのは俺の仕事だと無言のプレッシャーをかける事だけは忘れてはいない。俺としても
かずさに中途半端な演奏をしてほしくはないし、
せっかくかずさのピアノを聴きに来てくれるお客に失礼でもある。
 ましてや、俺がかずさの最高の演奏を聴きたいファン筆頭なのだから、
下手な演奏などさせられやしない。
 かずさ本人は練習時間が確保できなくても、最悪本番直前までに会場入りできれば問題ない
と言ってくれてはいる。それでもやはり日本に行っても毎日の練習時間を確保できるかだけは
心配していた。ただ、かずさが自分でスタジオを用意する事はできないので、
そこらへんは美代子さん任せではある。
 といっても、レッスンスタジオも宿泊先も冬馬邸であるわけだから、
ピアノの調律の予約を入れてもらっただけでだったが。
 久しぶりに訪れた冬馬邸は記憶の中のままの姿で俺達を出迎えてくれ、
季節もちょうど冬ということも俺の中の記憶をさらに強く映し出すことになる。
 まあ、感慨深く玄関前で立っていたら、かずさはさっさと俺の腕を引っ張って中に
入ろうとし、センチメンタルな気持ちに浸る余裕さえ持てはしなかった。
 ただ、かずさが家の中に入りたがったのは、外が寒いだけが原因ではないのだろう。
かずさにとって日本は特別すぎる。そして、日本から逃げているのは現在進行形でもあるのだ
から、日本国内の数少ない安全地帯に潜り込もうとしたのは、自然な行動だったと思えてくる。

かずさ「佐和子さんはなんだって?」

 冬馬邸についた俺達は、まずは情報収集から始めることにした。
となればまずは麻理さんの親友である佐和子さんの電話するのが王道捜査であろう。

春希「なにも聞いていないって。そもそも麻理さんが日本に帰って来ている事自体
   知らなかったみたいだな」

かずさ「佐和子さんが麻理さんをかくまってるって事はないのか? 一番の親友なんだろう?」

春希「隠している雰囲気でもなかったと思うけどなぁ。ほんとうに驚いている感じだったし、
   俺が麻理さんのことを知らない事に怒っている感じでさえあったぞ。佐和子さんも麻理
   さんの病状を知っているから心配しているわけで、それなのに麻理さんをサポートする
   俺が麻理さん居所を知らないなんてありえないって、さ」

かずさ「春希は鈍感だから、隠している事に気がつかないだけって事はないのか?」

春希「それを言われてしまうと疑うしかなくなってしまうけど、でもなぁ……」

かずさ「……ごめん」

春希「いいって。佐和子さんもなにかわかったら連絡くれるって言ってくれているし、
   仮に麻理さんをかくまっていたとしても、逆を言えば時期が来たら俺達に麻理さんと
   会わせてくれるって事だろ?」

かずさ「すごい前向きな考えだな?」

春希「そんなに呆れた顔をするなって」

かずさ「感心しているだけだ」

 そうは見えないんだけどな。…………ここで言い争っても意味はないし、
それこそかずさと喧嘩なんてしたら目も当てられないからこれ以上はやめておくか。

春希「とりあえず開桜社の方に行ってみるよ。そうすれば何かわかるかもしれない。
   そもそもニューヨーク支部の方でも日本本社に行くって事になってたんだしな」

かずさ「でも、いつアメリカに戻ってくるかは不明だってことになってたよな?」

春希「まあ、な…………」

 本来なら責任ある立場である麻理さんが期日不確定でニューヨーク支部をあけることなど
ありえない。
日本行きの理由さえも曖昧で、下っ端である俺には詳細の理由などは知る事はできなかった。
 嫌な勘ぐりをしてしまえば、麻理さんが意図的に理由を隠したとも考えられてしまう。
一方で、本当に内密に処理しなければいけない案件ができて日本に行ったとも考えはできる
が、それならば俺に一言くらい日本行きを伝えて欲しいというのが本音でもあった。

かずさ「やっぱりあたしも一緒に行こうか?」

春希「いや、かずさは家で待ってないと。このあとピアノの調律師が来る予定なんだし、
   せっかく無理を言って予約を入れてもらったんだ。どのくらい日本にいるかわからない
   んだから、やれることはしっかりとやっておくべきだぞ。もちろん長期戦も視野に
   しれてるんだから、かずさの練習環境も整えておくのもマネージャーの仕事なんだよ」

かずさ「わかってるけどさ、でも…………」


春希「あせっても仕方がないだろ? 佐和子さんも力を貸してくれるって言ってるんだから、
   まずはできる事からやっていこうな。むやみに突っ走っても目的地には着きはしないぞ」

かずさ「わかったよ。…………でも、でもね春希」

春希「ん?」

かずさ「なにかあったらあたしを頼れよ」

春希「わかってる。頼りにしてる」

かずさ「ピアノの調律が終わったらいつでも行けるんだからな」

春希「何かあったときはすぐに連絡するって」

かずさ「終わったらメールするから、そしたらいつでもいいんだからな」

春希「俺の方も開桜社に行った後、なにもわからなくても連絡する」

かずさ「待ってるからな」

春希「ああ、必ず連絡する。…………ただなぁ」

かずさ「なにか問題でもあるのか?」

春希「いや、な。どうやって開桜社に行こうかと思ってさ」

かずさ「ここからなら電車じゃないのか?」

春希「たしかに電車で行く事になるけど、それが問題じゃないから」

かずさ「じゃあ何が問題なんだよ?」

 ほんとにわかりませんって顔をしてるよな。きょとんと首を傾げている仕草は可愛くも
あるけれど…………まあいいか。こうところにも惚れてしまったんだから。
 
かずさ「何笑ってるんだよっ。こっちは真剣にだな……」

春希「悪い、悪い。馬鹿にしてたんじゃないって」

かずさ「じゃあなんだよ? …………あっ、ほら。また笑った」

春希「違うって」

かずさ「そりゃあさ。あたしは役には立たないと思うし、こういうときにはお荷物にしか
    ならないってわかっているよ。でもさ、笑う事はないじゃないか」

春希「だから違うんだって」

かずさ「違わない。だって春希はいつも優しいから」

春希「本当に違うんだ」

かずさ「だったらさっさと本当の事を言えって」

春希「かずさが可愛いなって思ってただけだよ」

かずさ「こ、ここここここここここ、こんな時に何言ってるんだよっ」

 たしかにこんな大変な時に何を言ってるんだろうとは自分でも思う。だけど、
かずさが照れる姿を見せるとなればどうしても愛でたくなるのが男ってものじゃないか。
 まあ、今の事態を理解しているから気持ちはすぐに切り替わってはいるけれど。

春希「とりあえず言わせてくれ」

かずさ「仕方がないな。でも、手短くにだぞ」

春希「俺が開桜社に行きにくいって言った理由がわかってないみたいだったが、その時の仕草
   が可愛かった。すれているところがないっていうのかな。まあ曜子さんからしたら
   世間知らずだって笑うだけだろうけど、俺からすればとても魅力的だったんだ」

かずさ「母さんの意見はともかく、春希がそう思ってしまうんなら仕方がない、な。
    …………でも、今は駄目だからな。麻理さんを探さないといけなんだからな。
    それと、なんで開桜社に行きにくいんだよ。今まで仕事していた編集部だろ?」

 今も照れながらも、それを必死に隠そうとする姿がすこぶる愛らしいというのを言うのは
やめておこう。俺も今の状況を理解しているし、ここでかずさとじゃれているのも、
自分としても情けなすぎると思うし。

春希「俺が麻理さんを追ってニューヨークに行った事は、
   編集部のみんなも知っているってことは、かずさも知っているよな?」

かずさ「あぁ」


春希「そうなるとだな。麻理さんが日本に戻ってきたのを追って、さらに俺まで日本に
   戻ってきた。しかも麻理さんを探してとなると、ゴシップではないけれど、かっこうの
   話題のネタを提供することになると思わないか? それが事実とずれていたとしてもだ」

かずさ「たしかにそう思うかもな。しかもそういった記事を書く出版社の連中だったら
    なおさらかもな」

 かずさの出版業界嫌いもわからなくもない。俺もその出版業界の一人だから表だって敬遠
することはないが、できる事なら関わりたくないと思っているもんなぁ。曜子さんクラス
にまで図太くなれば、あと千晶でもいいけど、自分を追ってくるマスコミをうまく利用して
自分を売り込む事ができれば、案外割り切って生活もできるんだろう。
 さすがにかずさにそれを求めるのは無謀だもんな。そもそも高校時代のかずさを知っている
奴らなら、絶対自分が取材をしたいだなんて手をあげないはずだ。
 高校時代だったら間違いなく蹴りが飛んでくるはずだよなぁ……。

春希「まあ、悪い人たちじゃないんだけどな」

かずさ「だったら頑張ってこいよ」

春希「人事だな?」

かずさ「そりゃあ春希がお留守番を命令したからな。仕方なしなんだぞ」

春希「わかったよ。じゃあ行ってくる」

かずさ「精々からかわれてこい」

 苦笑いしか出てこない。けれど、ここに来るまでの重い空気がないことだけは救いか。
 それを理解してリラックスさせてくれているわけではないだろうが、
今はかずさの存在に救われていた。







 開桜社編集部。そこは大学を卒業するまでバイトとして働いていた時と同じように回って
おり、久しぶりに訪れても違和感なく俺を溶け込ませてくれる。そこまで慣れ親しんだのは
編集部の先輩方のおかげでもあるし、俺に仕事を覚えさせてくれた麻理さんのおかげでもあった。
 だから久しぶりに来た編集部で、いきなり仕事を振り渡されても。そして今はニューヨーク
支社の人間であるということさえ関係なく仕事をやらせてしまういい加減な所も。
 なによりも俺がどれだけ心配したか説教したくなる相手でもある麻理さんが、
一番俺をこき使っていようとも。
 そういった不満は全て今はなかったことにして仕事に没頭できていたのは、
ここが俺のホームグランドたる開桜社日本本社編集部であるからだろう。

鈴木「はぁ~い。浜田さんからの差し入れ入ったわよぉ。一息つける人から休憩入っちゃてぇ~」

 元気がいい声を聞き顔をあげると、その声とは裏腹に疲れ切った顔を見せる鈴木さんが
コンビニ袋のおにぎりやサンドウィッチを配っている。俺の視線に気がついた鈴木さんは、
にこりと営業スマイルを浮かべてペットボトルのお茶を差し出した。

鈴木「悪いわね手伝って貰っちゃって。……はい、お茶ね」

春希「問題ないですよ。浜田さんの顔を見れば相当困っているってわかりましたから」

鈴木「これもそれも、すべてまっちゃんが悪いんだから。ほんっと北原君を見習ってほしい
   ところよね。どっちが先輩なのかわかったものじゃないってぇの」

春希「でも、そうとう頑張っているって言ってましたよね?」

鈴木「ま、ね。問題はたま~にミスをしてしまうってことかしら? でもここ最近は新しい
   後輩もできて頑張っていたんだけど、やっぱ許容量オーバーって感じだったのかもね。
   まっちゃんが頑張りすぎたっていうか、麻理さんが北原君をコントロールしていた
   みたいに浜田さんがまっちゃんをコントロールできていなかったというか。あっ、
   今のは浜田さんには内緒ね。浜田さん、自分のせいだって落ち込んでいるから」

春希「でしょうね」

 鈴木さんの視線を追っていくと、そこには栄養ドリンクがいくつも散乱するデスクが二つ。
どちらも関連書類などが山積みになっていて、そのデスクの主の顔色は相当悪い。違いがある
とすれば、年齢差以外をあげると使っている栄養ドリンクの種類くらいだろうか。
 浜田さんの方はリーズナブルなコンビニドリンクがほとんどで、松岡さんのほうにも同じ
ドリンクが置かれている。きっと浜田さんが差し入れたのだろう。ただ、松岡さんの方には
薬局に売っているそれなりの値段のドリンク剤が複数置かれており、俺が知っている松岡さん
なら買いもしない値段のものからしても、そうとう責任を感じている事が伺えた。

鈴木「でもね。あんなミス、いつもはしてないのよ」

春希「年末で忙しい時期ですし、小さなミスが大きくなってしまう事もありますよ」

鈴木「それもあるとは思うんだけど、なんかまっちゃんのくせに後輩のミスを
   かばっているくさいのよね」


春希「本当ですか?」

鈴木「全部が全部新人ちゃんのミスではないみたいだけど、まっちゃんもこのまま新人ちゃん
   にやらせるのはまずいと思って自分が引き受けてみたものの、
   やっぱり無理だったって感じなのよね」

春希「でも新人に大きな仕事は任せませんよね?」

鈴木「そうなんだけど、ほら。連絡の行き違いってあるでしょ?」

春希「たしかに」

鈴木「とまあ、麻理さんと北原君が来てくれたおかげで、ほんとどうにかなりそうよ。
   というか、麻理さんなんてこのためだけに日本に呼び戻されちゃったんだから、
   正直申し訳ないのよね」

春希「それは相手先への信用問題で、今まで担当だった麻理さんを呼んでほしいと
   言われてしまってはしょうがないじゃないですか」

鈴木「しかも大型案件で、これをよそに持っていかれると大変な事になっちゃうのよねぇ」

春希「でも、うまくおさまってよかったじゃないですか」

鈴木「その為に何日も打ち合わせのためにあちこち走り回っていたんだから、麻理さんの
   体調の方が心配よ。ダイエットはしていないって言ってはいたけど、あまり食べて
   いないみたいだし、あきらかに痩せすぎよね」

春希「それは、ほら…………仕事モードで、食事よりも仕事って感じじゃないですか?」

鈴木「…………そう? 北原君がわざわざニューヨークから麻理さんを追って日本にまで
   来てくれたんだから、仮に麻理さんが倒れても北原君が面倒みてくれるでしょうし、
   問題ないか。むしろ喜んで北原君の胸めがけて倒れてくるかもね」

春希「倒れてもらっては困るんですが……」

鈴木「それもそうね」

春希「そうですよ」

鈴木「せめて今の仕事が終わるまでは倒れてもらってはこまるもんね」

春希「鈴木さんっ」

鈴木「わかってるわよ。そんなに怖い顔をしなくても、私だって麻理さんにはお世話に
   なってるし、倒れられては目覚めが悪いわよ」

春希「…………はぁ、……でも、この分なら明日中にはどうにかなりそうですね」

鈴木「ありがとね。…………ほら北原君。休憩をとっていない麻理さんに差し入れ
  持っていってあげてね」

 俺にミネラルウォーターを渡すと、さっさと麻理さんの所へ行けと視線で訴えかけてくる。
しかし、ゆっくりと麻理さんと話をできるだろう初めてのタイミングを目の前に、
俺はどう話をすればいいか戸惑ってしまっていた。
 なにせ突然いなくなった麻理さんを連れ戻しに日本までと意気込んできたものの、
麻理さんが日本に来た実態は元担当案件の処理のためである。その事実を含めて、麻理さんが
俺の帰国をどうとらえているか考えると、どうも落ち着かなくなってしまった。

鈴木「麻理さぁ~ん。麻理さんも休憩入ってくださいよぉ。まだまだ帰れないんですから、
   休憩取れるときに休憩とってくださいって」

麻理「…………………………んっと、よし。休憩にしようかな」

鈴木「はぁ~い。…………ほら北原君。麻理さんがお待ちかねよ」

春希「鈴木さんったら……」

 ぐずぐずしている俺を見かねて鈴木さんは強硬手段に出てしまう。しかもとどめとばかりに
本人は、いまだに休憩に入れない松岡さんに介入すべくここから去ってしまう。
 そうなるとここには俺と麻理さんしかいなくなってしまい、
俺も動かないわけにはいかなくなった。

春希「どうぞ」

 俺はペットボトルのふたを外し、鞄の中にいつも携帯してあるストローを刺して麻理さんに
手渡す。麻理さんの方は俺とは違い、あまり意識してくれてないようで、
なおかつ頭の中は仕事でいっぱいいっぱいだったようなので普段通り受け取ってくれた。

麻理「ありがと。春希もいきなり仕事にかりだされて大変だったわね。
   でも、来てくれて本当に助かったわ」

春希「俺で役に立つのであればいつでも大丈夫ですよ」

 どうにかいつも通りに会話はできていることにほっとしてしまう。


 やはり俺もずっと緊張していたって事なのだろう。しかも突然の仕事という斜め上の状態に
さらされて、変に肩に力を入れっぱなしだった。
 そしてその重圧から解放されると、
今まで見えていなかったものも見えてくるわけで…………。
 つまり、麻理さんが俺の事を春希と呼んでいる事とか、麻理さんのドリンクに慣れた手つき
でストローを用意するとか、そしてなによりも、何故俺が日本に来ているかとか。
 そういうゴシップ好きの編集部員の巣窟に、かっこうの餌を放り投げてしまことに、
今さら思いだしてしまった。

麻理「謙遜しないでよ。本当にニューヨークから春希が来て手伝ってくれたらなって、
   何度も思ったのよ」

春希「いや、俺は謙遜しているわけでは……」

 そうじゃなくて、鈴木さんとか松岡さんとか。もっといえば編集部員全員からの視線が
きになっているといいますか……。
あの死にそうな顔をして浜田さんまで生気を取り戻して見ているんですよ。

麻理「そう? じゃあさすがの春希も長旅には勝てないってことかしらね。
   ボストンから戻ってすぐにこっちに来たのでしょ?」

春希「ニューヨークに戻ってきた翌日ですけどね」

麻理「それじゃあ疲れなんて取れないわよ。でもほんと、助かったのは事実よ。
   ありがと春希」

春希「いえ、こちらこそいつも麻理さんには助けてもらっていますから。
   それに、いつだって俺は、麻理さんを支えたいと思っていますから」

麻理「いつも春希がわたしを支えてくれるって信じてる。
   でも、それでもお礼はきっちりと言っておきたいものなのよ」

春希「そうですか?」

麻理「えぇそうよ」

 柔和な頬笑みを俺に見せ、照れる事もなくストローで水を飲み始める。
 いたって普通で、当然の発言なのよと言わんばかりの麻理さんの言動に、
俺と麻理さん以外の編集部員が唖然として俺に視線をぶつけてくる。
 なにを心の中で思っているかなんてわかりきっている。
 あのワーカーホリックをこじらせた風岡麻理が、こともあろうかニューヨークまで
おっかけて行ってしまった年下男に心を許している。しかも名前を親しげに呼び捨てにし、
なおかつドリンクの受け渡しさえ年季が入った意思疎通が確立されている。
恋愛偏差値50以下の俺であっても、こいつらできているって思えてしまうものだ。もしこの
状況を気がつかない人間がいるとしたら、きっと恋愛偏差値40以下の麻理さんくらいだろう。
 あとは、周りの事など気にしないかずさは気がつかないか。そもそも全ての事象を自分に
味方につけようとする千晶とか曜子さんがいるけど、そんなのは例外中の例外だし……、
恋愛上手とは違っているか。ただ、俺の周りって偏ってるよなぁ。俺自身人の事はいえないけど。
 俺は編集部のみんなになにも説明せずにニューヨークに戻ることなんてできないん
だろうな、とため息をつくのをこらえつつ、ひとまず今は仕事に集中するかと、
真っ暗になった窓の外を見ながら心を落ち着かすことに努めた。





第74話 終劇
第75話につづく









第74話 あとがき


人気投票の結果熱くなりましたね! 
まあ、あとがき書いている今は結果出てないですが……。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第75話


麻理「ボストンから戻ってきたら少しは休みがとれるはずだったのに、
   日本にまで来て仕事を手伝うはめにしてしまってごめんなさいね」

春希「いや、べつに…………」

 麻理さんが手放しに俺の訪日を喜んでくれる姿を目の当たりにすると、数時間前までの
緊張感を思いだし、背中に冷たい汗が這いまわる。けっして悪い方向に物事が進んでいるわけ
ではない。むしろ喜ぶべきほどの理由で。……松岡さんや浜田さん。それに編集部のみんなに
は悪いけど、俺からすれば最高に近い理由での麻理さんの日本帰国とも言える。
 でも、俺もこうしてみんなの手伝いをしているんだ。このくらいの報酬くらい喜んでも罰は
当たらないはずだ。…………恨みはかうだろうけど。

麻理「でも、さすが春希ね」

 さらに笑顔で攻勢をかける麻理さんに、俺は編集部に漂う編集部員の疲労感さえどうでも
いい気がしてきてしまう。しかも、かずさのマネージメントを始めてから久しぶりの編集部
本来の仕事に、懐かしい疲労感に酔ってもいた。

春希「どういうことです?」

麻理「だって、私も突然日本から連絡があって、とにかく日本に来てくれって言われて、
   なにもわからないまま日本に行ったのよ。私が担当していた案件で大きなトラブルが
   あった事だけはわかってはいたけど、詳細がわからなかったから不安ではあったわね。
   だから千晶さんも曜子さんも心配してくれて、自分たちの事はどうにかするから
   大丈夫だ。春希達の事も任せておいてって言われてね」

春希「そうだったんですか」

麻理「だから春希が来てくれたんでしょ?」

春希「……え?」

 まっすぐな笑顔に俺は顔が引きつりそうになるのを奥歯を噛み締めて耐え抜く。
麻理さんの事を心配したのは本当であるし、事実をそのまま教えたとしても、
きっと麻理さんは怒る事などありえない。
 むしろ喜んでくれると思ってしまうのは、けっこう自惚れているんじゃないかと
自嘲までしてしまう。
 だけど、今この場で話すような事実ではない。明日、きっちりと仕事が終わってからでも
遅くはないはずだ。

春希「……えっと、ボストン公演の原稿はニューヨークに戻ってきたその日の夜には仕上げて
   しまったので、時間の余裕はあったんですよ。そのおかげで、記事を書く予定だった
   日程が白紙になり…………、まあその、日本に来たという感じです」

麻理「流石春春希ね」

春希「今回はたまたまですよ。むしろボストンでは役立たずだったので、
   記事をまとめてばかりいましたからね」

麻理「そうなの? 春希だったらどこに行っても即戦力になりそうだと思うけど?」

春希「ええ、まあ……。ボストンには先入りした事務所のスタッフがいましたからね。
   俺みたいな新人がいても足を引っ張るだけですから、今回は先輩スタッフの方々に
   甘えて仕事を覚える事に専念することになったんです。ただ、次からはしっかりと
   働いて貰うとは言ってましたけどね」

麻理「春希も新人らしく可愛らしい所もあったわけね」

春希「可愛らしいかはわかりませんけど、俺も最初は新人なんですよ」

麻理「でもねぇ……春希って、開桜社で初めて私の下についた時から新人バイトっぽく
   なかったわよ? どこか達観しているって言ったら聞こえはいいでしょうけど。
   なんというか可愛くはなかったかな」

春希「それは申し訳ない事を……、でも、俺に可愛らしさを求める方が無謀ですよ」

麻理「それは春希を見ていたらわかったわ。この男に可愛らしさを求めては駄目だって」

春希「はは……、まあ、麻理さんの印象も最初と比べれば変わっていきましたけどね」

麻理「えっ? ……理由聞いていいかしら? でも、聞くのはちょっと怖いわね。
   でも、やっぱり聞いておこうかな」

春希「それは、構わないですけど…………」

 構わないですけど、腕が……痛いです。
 最初の戸惑いを見せながら、下から俺の顔を覗きこもうとする仕草は可愛らしいとは
思いましたよ。でも、それと同時に逃がしはしないと俺の腕を握りしめるのは相当俺の扱いを
覚えたと喜んだほうが、いいのか?
まあ、俺は口がたつほうだし、逃げるのがうまいって思われているからしょうがないんだろうな。


麻理「じゃあしっかりと聞くから、どうぞ……。あっでも、お手柔らかにお願いね」

春希「大丈夫ですって」

麻理「そうかしら?」

春希「そうですよ。……最初は人並みの評価ですが、仕事には手を抜かない人だと思いました」

麻理「ほんと人並みの評価ね」

春希「だから最初はって言いましたよね?」

麻理「……続けて」

春希「仕事は妥協しないし、他人にも妥協は許さないけど、だからといって無理強いする人
   ではなく、うまく人間関係を築いている人だと思いました。
   上司にするならこういう人がいいなって思いましたしね」

麻理「それを言ってくれるのは春希くらいよ。鈴木だって懐いてはくれたけど、
   私の下は嫌だっていうし」

春希「それは麻理さんが求めている仕事の水準が高すぎるから……」

麻理「でも春希だって無理強いしてないって言ったわよね? 現に私は仕事に真剣に向き合え
   とは言うけど、できないことをやれとまでは言わないわよ」

春希「たしかにそうですけど、まあ、麻理さんの仕事っぷりを見ていると一緒にやるのは
   大変だなって思ってしまうんでしょうね。俺の場合は志願して麻理さんの下で働く事に
   なりましたけど、これが普通の人だったらプライベートを潰すしかないだろうなと
   思った事がありましたしね。……ただ、あの編集部にいたら、というか出版業界全体が
   そうなのかもしれないですけど、プライベートはけっこうな確率で潰されますよね」

 どの仕事にせよ定時で終わる仕事など限られているんだから、自分がやりたい仕事を
やれている事に感謝すべきだよな。そういう点から考えてみれば、麻理さんが言う「仕事に
対して真摯に向き合うべき」っていうのはあながち間違いではないと思える。
 ただ、麻理さんが求める水準が人とは違うだけで。

麻理「………………え?」

春希「えっ?」

 じわっと、麻理さんの目元に涙が溜まり始める。少しでもその身を触れてしまえば
決壊しそうな雫は、天井からの光を白く吸収していた。
 俺、なにか言ってはいけない事言ったか? たぶん言ったんだろうな。
そうじゃなければ麻理さんが泣きそうな顔をするわけないし。
やばい。というか、やばいよな。俺が鈍感で無神経なのは千晶に言われなくても自覚してる。
だからこそ言葉を選んで発言するように気をつけるようにしてきたつもりだ。でも、鈍感で
無神経だからこそ気をつけていてもぽろっと棘がある言葉を吐き出してしまうだろう。
となれば、俺の問題点を見つけ出し、それを対処するしか俺にはできない。武也からすれば、
この俺の行動こそ女の子の気持ちをわかってないと嘆かれるだろうが、
俺には武也みたいなフットワークの軽い臨機応変の行動はないんだよ。

春希「最初に謝っておきます。ごめんなさい」

 俺はここにはたくさんの編集部員がいるっていうのに直立姿勢から頭を下げ謝罪する。
目立つなんてものではない。今もきっと注目されているはずだ。
 だから俺は長々と頭を下げたままにはせずに、すぐさま顔をあげて関係修復に立ち向かう。

春希「俺は女の子の扱いがなってないって友達に言われているんですけど、やはり今も
   苦手で、傷つけるような言葉を言ってしまう事があると自覚しています。でも俺は、
   少なくてもさきほど麻理さんに言った発言の中には悪い意味の内容はなかったと
   思います。俺の方も悪い意味で言ったつもりはありません。それでも麻理さんが
   不快に思ってしまった事は事実でしょうから、
   なにが悪かったか教えてもらえないでしょう?」

 真剣に、そして誠実に、俺は今度こそ言葉を選んで麻理さんに訴えかける。
 すると麻理さんは、呆気に取られた顔を見せたかと思えば顔を赤らめ、
ともすれば表情が薄らいで行き無表情に至る。

麻理「春希って、そういう人だったわよね」

春希「すみません」

麻理「まあいいわ。それで…………一応確認しておきたいんだけど」

春希「どうぞ」

 きりっとひねる胃の痛みを素直に享受して審判をまつ。

麻理「私も春希の言う「女の子の扱いがなってない」っていう女の子の中に含まれているのよね?」

 俺は小さな表情さえこぼさないように顔の筋肉を引き締め固定させる。言葉だけじゃない。
表情もコミュニケーションツールなのだから、麻理さんに気がつかれていけない。


そもそも俺が武也に女性の事で上から目線で説教を言われたのは高校生の時くらいだ。大学生
になったらあれだったし、社会人になってからは武也は人の事よりも自分の事で大変らしいし。
 だから「女の子」と表現したのは高校時代の言葉をそのまま使ったまでで、
麻理さんのことを女の子扱するために使ったわけでは…………・。

春希「仕事の面では上司ですけど、プライベートでは女の子。
   それと同時に女の人というくくりですよ」

麻理「そ、そう。そっか。うん、そうなんだ」

 ほらそこっ。鈴木さん。親指を立てないっ!

春希「それで、俺が無神経な言葉を言ってしまった事についてなのですが」

麻理「そう、それよ。…………あのね春希」

春希「はい」

麻理「春希も私の下で働いて、辛かった? やめたいって思った?」

 なるほど。俺が麻理さんの下で働くのが嫌だと思ったわけか。たしかに一般的仕事量から
言えばきつい上司だろうけど、俺にとっては最高の上司だ。それが大学生時代の俺が
現実から逃げる為であろうと、その後の仕事の楽しみを知ってからであろうと、
麻理さんへの感謝は変わりようもない。

春希「ないですよ。一度もないです」

麻理「本当に?」

春希「むしろ働きすぎて、もう仕事をするなって家に追いかえした事がありましたよね?」

麻理「それは春希が悪いのよ。自分の限界を超えて仕事をしたっていい仕事はできないもの。
   むしろ周りに迷惑をかけるだけだし、あとで自己嫌悪にもおちいってしまうだけよ」

 こういうときだけは冷静なんだから。やはり仕事に関しては一生頭が上がらないかもな。

春希「そのせつは大変申し訳ありませんでした。
   今なら自分がしてきた愚行を取り消したいものです」

麻理「それは無理よ。だってどんな人間でも失敗はするもの。
   なにも失敗しないで成長する人なんていないわよ」

春希「たしかにそうですね。でも、恥ずかしいものははずかしいんですよ」

麻理「大丈夫よ。周りのみんなは気が付いてもいないし。むしろ春希をワーカーホリックに
   私が陥れてった、私の方が後ろ指を指されていたほどよ」

春希「それは初めて聞きましたね」

麻理「初めて話したかもね」

春希「そんなには昔の事ではないのに、この通い慣れた編集部に来ると、
   無性に懐かしく、なってしまいますね」

麻理「いろいろ、あったわね」

春希「そうですね」

 天井から照明の光が降り注ぎ、夜に塗りつぶされた窓を背景に麻理さんを覆う白い輪郭部を
よりいっそう浮かび上がらせる。はつらつと仕事を続け、並々ならぬ集中力を持続させる。
 それは、職場をニューヨークに移してからも陰りは見せない。俺の目もあるし、麻理さん
本人も体調を気遣っていても仕事に注ぐ情熱は変わりなかった。
ただ、どうしても日本にいた時とは違い、無条件にその後ろ姿を目で追う事が出来ない。
 そこは麻理さんの病状もあるわけだから当然ではあるが、
俺が麻理さんに向ける視線の色に変化が起こったからなのだろう。
 いつも追いかけていたこの人を、俺はいつから違う視線で見ていたのだろうか。
 かずさに対する愛情とは違う感情を抱いている事を、俺は否定しない。
すぐに武也をたとえにするのは本人にも、依緒にも悪いから最近ではしないように心がけて
いるが、俺は武也みたいに器用に人付き合いなどできやしない。
ましてや心の深いところの繋がりができてしまえばなおさらだ。
 そりゃあ上辺だけの付き合いで、仕事だけを前提とするならそこそこ良好な関係を築くこと
だけなら得意だと思う。まあ、俺の場合は仕事優先で、相手の心情まで読み切れていない
部分があったと若干自嘲気味の判断もできてしまうが。そのやりすぎた行動のために、
高校時代には疎まれた事もあった。
 でも、麻理さんには疎まれたくない。そしてなによりも、仕事のだけの関係から、
今はプライベートでも深い関係を築いてしまった。
 俺はここに来て怖気ついてしまう。
 この真っ直ぐと俺を見つめる愛らしい人を、俺はどうしたいのか。
どうできるのか。そして、幸せになってほしい、と願っていいのか。

麻理「あぁ……、私が押し付けた面倒すぎる仕事を思いだしているんでしょう? でも、
   春希がのぞんだ事でもあるのよ?
   きっつい仕事を下さいって最初に頼んできたのは春希の方なのよ?」


春希「え?」

麻理「ほら。一番きつい仕事をくれる上司がいいって春希が希望を出して私の下に来たって話よ」

春希「あぁ、そうでしたね」

 話をそらされた?
 それとも俺の表情を見て、なにか勘違いでもしてくれたのか? ……よそう。
都合がいい方向に考えてもいいことなんてないよな。
 だけど俺は、適切な解答を見つけ出していない為に麻理さんが差し出した手に
手を伸ばしてしまった。

麻理「…………あのね春希。しつこいように思ってしまうかもしれないけど、
   私の下で働いていることを後悔してない?」

 駄目だ、この人には敵わない。俺の優柔不断な態度なんてきっとお見通しなのだろう。
そういう俺の態度を含めて俺の事を心配してくれているのだから、しかも麻理さんと
出会わなければとまで遡って自分をせめようとしている人なのだから、
俺も腹をくくって前を見る勇気をそろそろ持たなければいけない。

春希「むしろ麻理さんに出会えなかったかもしれない事を考える方が嫌ですよ。今の俺の仕事
   のスキルは、そのほとんどは麻理さんが鍛え上げてくれたものですからね。
   俺も他のバイトの経験から少しはどんな職種でもやっていけるっていう自信は持って
   いたんですけど、根底から覆されてしまったというか、学生気分を取り去ってくれたと
   言うべきなのでしょうね。本当の意味で働くということを一から教えてくれたのは
   麻理さんなんですよ。今俺がここにいられるのも、ニューヨークにいきなり
   行けたのも、麻理さんが鍛えてくれたからです。
   だから、麻理さんの下で働ける事を感謝しています」

麻理「そこまで言ってくれると、私も、とてもうれしいわ。鍛えがいがある部下を持てて、
   上司としてもこんなに嬉しい事はないわ」

春希「ただ……、仕事ばかり頑張りすぎてしまうためにプライベートがガタガタなのも
   愛嬌なんでしょうね」

麻理「それはっ…………」

春希「しかも、一人で仕事を抱え込んでしまって、たまににっちもさっちもいかなくなって
   しまうこともありましたよね? 普段は効率的にやるんだって言って仕事をかき集めて
   きますけど、やはり人が集まればイレギュラーな事も起きて当初の計画なんて崩壊
   してしまいますしね。そうなると当然プライベートの時間を削ることに
   なってしまって、ますますワーカーホリックをこじらせてしまうんですよね」

麻理「……っ!」

 散々持ちあげておいて最後と落とすという古典的手法に、麻理さんもこれもまた古典的な
返答として苦笑いで返してくれる。はたから見れば息があった夫婦漫才が始まったかと
ちゃちゃをいれられそうでもあるが、その筆頭たる鈴木さんがにんまりと沈黙を保っている
ので、この編集部には虎の上司の尾を踏もうとするつわものはいなかった。

春希「でも最近わかってきたんですよね」

麻理「なにがよ?」

 その涙目になりながら可愛らしく睨みつけてくる事とか?

春希「そうですね。プライベートは壊滅的なわりには少女漫画みたいな趣味をもっていて、
   いつかは自分も華々しい生活を送りたいとか、ですかね。たしかに仕事面では最高に
   輝いてはいますけど……、ね」

麻理「それ、嫌味かしら?」

 なおも睨みつけてきてはいますけど、可愛らしいだけですよ?

春希「とんでもない」

麻理「どうせ仕事でしか成功しない人生なのよ」

 俺が言うのはどうかとは思うけれど、でも、麻理さんって実際自分が少女漫画みたいな
ヒロインの立ち位置になってしまっても、そのことを気がつかないんだよな。どうしても
仕事面で鍛え上げた理性がブレーキをかけてしまって、感情を殺してしまう。
 だからこその今の病状なのだろう。
 今さら後悔してもしょうがないけど、麻理さんがニューヨークに行く前に少しでも麻理さん
の感情を受け取っていられれば、今とは違う結果がでていたはずだ。
少なくとも食事を苦痛とは思わないでいられたはずだと思う。

春希「その仕事であってもなかなか成功する人はいないんですよ。たいていの人は周りに
   流されて仕事を続けるといいますか、生活のために仕事を続けていますからね。
   そう言う点からすれば、好きな仕事にうちこめている麻理さんは、
   貴重な成功例だと思いますよ」

麻理「そうはいっても、プライベートを削って勝ちえた仕事の成功を、人は評価してくれるかしら?」



春希「そんなのは人の価値観によって違いますからね。でも俺は、麻理さんの生き方、好きですよ」

麻理「……春希」

 熱っぽく見上げる麻理さんの視線に、俺はひきこまれそうになり、喉を軽く鳴らす。
それでも胸の鼓動は収まらず、体は硬直してゆく。
 その緊張は俺だけではなかったようで、ガタリと椅子が机にぶつかる音で、
一斉に編集部にいる者たちの拘束を解きはなつ。
 つまり、俺と麻理さんは目立ちすぎていたというわけで。
 …………たしかに日本にいることから一部で噂になっていた二人が突然日本に戻って来て、
しかもそのうち一人は片方を追いかけて来日している。そしてニューヨークで育んだだろう
新密度をだだ漏れにしていれば、多少興味を持っていた人間ならば注目しないわけがなかった。

麻理「そ、そういえば千晶さんが日本で大ブレイクしていたの知ってた?」

春希「えっ、千晶が?」

 さすがの麻理さんも編集部員達の好奇の視線に気がついたようで、あまりにも露骨に
話題転換を測る。多少声が上擦っていても、可愛らしすぎるその少女の反応は、
観客たちに後ろを向かすだけの効力を秘めていた。
まあ、見ているあちらも恥ずかしすぎるほどのうぶさに見ていられなくなったかもしれないけど。





第75話 終劇
第76話につづく










第75話 あとがき


かずさ、人気投票一位でしたね。
どんな記念グッズができあがるか楽しみですね。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派



第76話



麻理「あの子ったら自分の事はあまり話さないのよねぇ。人の事は知りたがるくせに」

春希「本人は隠しているつもりはないみたいですよ。むしろ自分ほどオープンな人間はいないとか」

 俺の返答に、心底意外だと言わんばかりの目を麻理さんは送ってくる。
それなりの付き合いがあると自負している俺でも千晶に関しては知らない事ばかりだと
思えてしまうが、けっして千晶が秘密主義ってわけではないと思える。
 あいつの場合は自分の事をアピールするよりも、どちらかと言えば相手の方に合わせて
いるんじゃないだろうか? もちろん自分からアピールする必要がないくらいの強すぎる個性
はあるんだよな。…………ひょっとしたら、
その強すぎる個性が千晶の個人情報を覆い隠しているとか?
 それを狙ってやっているかやっていないかなんて考えだしたら、
千晶に笑われそうだから絶対に深く考える事なんかしないが。

麻理「本当に?」

春希「ええ、本当ですよ。前に一度俺も麻理さんと同じような事を思って本人に言ったら……」



千晶「だって春希。わたしのことを知ろうとしないじゃない。知りたいんなら教えて
   あげるし、体のほくろの数まで全部数えさせてあげるほどよ」

春希「それはちょっと」

千晶「遠慮しなくてもいいのに」

春希「遠慮じゃなくてだな……、慎みをもてってことだ」

千晶「そう?」

春希「そうなの」

千晶「わたしは露出狂でも痴女でもないんだけど」

春希「そこまでは言ってないだろ」

千晶「ん~、そだね。でもね春希。春希は勘違いしてるよ」

春希「なにがだよ?」

千晶「春希だからこそわたしの全てを見せてもいいって事」

春希「…………それは、それは光栄な事だけど、さ」

千晶「まっいいか。でも、ちゃんとわたしのことを知ろうともしないで、ましてや聞きにも
   来ないで秘密主義だってレッテル貼るのはよくないよ

春希「すみません」



春希「だそうです」

 俺の心労を見たかのように嗅ぎ取ってくれる麻理さんは、
小さなため息とともに大きな胸を揺らす。

麻理「なるほどね。あの子のいい分も正しいわね」

春希「ですね。…………それで千晶は、日本で何をしたんです? 演劇ですか?
   一応大学の時も劇団に所属していましたけど」

麻理「違うわ。曜子さんよ。曜子さんの人脈を使って、CMを中心に活躍していたらしいわ。
   ほらあの子。一応冬馬曜子事務所所属でしょ」

春希「そういえば千晶は冬馬事務所所属でしたね」

麻理「…………春希。いくらかずささんのマネージメントがメインだからといって、
   今まで面倒見ていた千晶さんの事を忘れるのは酷いわよ?」

春希「違いますよ。あいつがニューヨークで活動していることについてはよく知っている
   つもりです。俺が管理していましたからね。でも、ニューヨークで活動する前に、
   しかも俺がいない間の日本のことまでは知りませんよ」

麻理「たしかにそうね。私も春希のことを言えないのよね。私だって鈴木から千晶さんの
   事を聞いて驚いたばかりだし」

春希「でもその有名な和泉千晶が俺達と一緒に暮らしていると知ったら、
   逆に鈴木さんの方が驚いたのでは?」


麻理「その辺はうまくはぐらかせたわ。さすがにうちに住んでいる人たちの事を
   言えるわけないじゃない」

春希「…………たしかに」

 麻理さんのトーンを落とした声色を聞き、俺も声量も絞ってゆく。
 いくら千晶が俺の大学の同級生で、しかも俺が千晶の世話係まで教授に任されようと、
日本で大ブレイクしたらしい芸能人の個人情報を洩らすわけにはいかない。それがいくら
出版業界で働く俺と麻理さんであろうと、友人を売るわけにはいかなかった。
 あの千晶が日本で認められていたのか。たしかに演劇に関してだけは並々ならぬ情熱と
執念を向けていた事は知っている。
 でも、いくら実力があっても成功するとは限らない世界で実績をあげていることに、
改めて強い衝撃を受けてしまう。
 あいつったら、初めてニューヨークを訪ねてきたときにはなにも言わなかったくせに。
 …………違うか。俺が千晶の事を知ろうとしなかっただけで、もし俺が千晶に
、俺がニューヨークにいってから千晶が日本で何をしていたかを詳しく聞こうとしていたら、
あいつの事だから教えくれたのだろう。
 少し離れてみたからこそ気が付く事もある。それは些細なことかもしれないけど、
ちょっと見方を変えることで違う世界を見られる事などたくさんあるのだろう。
 今頃千晶は何をしているのだろうか? ニューヨークに戻ったら、あいつの好物を
スーパーで一緒に買って、ぶーぶーいいながらも一生懸命料理を手伝ってくれるあいつを
頬笑みつつ、もっと千晶の話を聞いてみようと思わずにはいられなかった。





 日本の冬もニューヨークの冬も変わらない。同じように寒さを身にまとわせ、
夜をどの季節よりも長く提供する。しかもその国を代表する都市部であれば、
窓の外の景色からの印象にはさほど違いを感じられなかった。
 快適空間を作り出している室内にいたっては、昼夜の移り変わりや気温の変化さえも
気にも留めないほど穏やかで、時間の移り変わりを感じさせてはくれなかった。
ふと見上げた時に窓の色が変わっていれば時間の移り変わりを知るだけだ。
 まあ、時間に追われる職業でもあるわけで、時間という概念でのみの時刻ならば、
常に締め切りと言う強制力によって意識せざるをえないが。
 俺が長年通い続けた職場となれば、今は違う職場であれど違和感を抱くことなく時間が
過ぎ去ってしまう。壁時計を確認すると、夜の10時。この分なら明日の午前中には
全ての仕事を終わらせて帰れるはずだ。
 ニューヨークでは御無沙汰になってしまった夜の通常勤務。この編集部と気を許した先輩方
がいるおかげで、俺は心地よい疲労感に満足して…………………………、今午後の10時?

麻理「春希?」

 俺の変化に機敏に反応する麻理さんは、俺がなにかやらかしてしまった事に気が付き
フォローに回ろうとしてくれる。ほんと、よくできた上司だ。
 だけど、こればっかりは俺が全面的に悪い事案だ。
つまり、下手な小細工なんてしようものなら、さらなる惨劇をよぶだけとも言える。

春希「…………いや、ちょっと時間の確認をしたら、けっこう時間経っているなと」

 なんでもないと訴えかけるように首筋をかきながらこたえた。その仕草がなにかありますと
証明している事は、俺も麻理さんもわかっている。それでも俺が望まない距離までは踏み込ん
でこないのは、俺と麻理さんが積み上げた信頼関係からなされる距離感なのだろう。

麻理「やることが多かったし、その分集中もできていたからじゃない?」

春希「そうなんですけど」

麻理「こうして春希に仕事を手伝ってもらっている私が言うのは間違っているんでしょう
   けど、かずささんには悪い事をしたわね」

 かずさの名を聞き、ぎょっと肩を強張らせるだけですんだのは、先にかずさとの約束を
思い出していただけにすぎないだろう。もし麻理さんの言葉で気が付いていたのなら、
さすがの俺も俺の事を薄情だと認めるしかない。
 …………いや、今の状態でもそうとうやばいんだけどな。

春希「……そうですね」

 沈みゆく俺の声に、麻理さんの表情も沈んでいく。

麻理「せっかくボストンで頑張ってきたというのに、念願の休みをとれても春希が
   いないんですもの。本当に本当にかずささんには悪い事をしたわ」

春希「いえ、大丈夫ですよ?」

麻理「でも……」

春希「大丈夫ですって」

 麻理さんが心配している部分に関しては、だけど。

麻理「でも」

春希「かずさも一緒に日本に来ていますから」


 麻理さんが納得するのを見届けると、俺の視線は壁を伝って壁時計へと向かう。
壁時計を確認すると10時ちょっと前。念のために腕時計で時間を確認すると午後9時56分。
さらにもう一度窓の外を見て午前と午後が間違っていないかを確認すると、間違いなく夜だ。
 つまり開桜社に午後3時くらいにやってきてから、7時間ぶっ続けで仕事だけをしていた
という計算になってしまう。まあ、午後10時なんてこの編集部では始業開始時間とも
いえるべき時刻だから、午前0時をすぎた深夜からが本番ともいえる。
 これが午前10時だなんて事になってしまえば、19時間編集部で仕事だけをし、
かずさにメールの一本さえ贈らずにほぼ丸一日放置していた事になってしまう。
 かずさと開桜社で何かわかったらすぐに連絡すると約束しておきながら、
7時間も何も連絡もしないでいる薄情者であることには違いはない。
 俺は震える手を左手で押さえながらスマホの画面を確認していく。
 編集部に入る前に念のためにとマナーモードにしておいたのが悪かった。
これがせめてバイブ設定だけでもしていれば違う今を迎えていたのかもしれない。
 やめよう。意味がない現実逃避などなにも役には立たない。
 今できることは36件の未読メールと48件の電話通知があることを認める事だけだ。
しかも、履歴の中身を確認しなくてもだれからの連絡かなんてわかってしまう。
 しかもかずさが半泣きでスマホをいじっている姿まで想像できてしまうほどだ。
 すると、背筋を這いまわる冷たい汗が気になりだし、
そうなると次になにが起こるかなんて想像しなくても理解できてしまう。
 編集部を覆う疲労と興奮の気配が戸惑いへと変わっていく。一人また一人と周りの視線に
気が付いて顔をあげると、やはり他の編集部員と同じような表情を浮かべる。
 …………なぜ彼女がここに?
 その当然すぎる疑問の答えを知っているのは、当然ながら一人だけいた。
また、俺の答えに簡単にたどり着いたものも一人いた。
 さらに麻理さんの事だから、俺がさっき視線を泳がしていた理由についてもたどり着いた
はずだろう。現に麻理さんの顔が雄弁に語っているし、間違いないはずだ。
 俺の視線に気がつくと苦笑いを浮かべると、すまなそうにため息を吐いてから、
早く対処しなさいと訴えかけてもくる。
 また、編集部員達の疑問もすぐに解消された。
 今注目されている彼女。冬馬かずさの熱い視線の先にいる北原春希を見れば、
冬馬かずさの周りで騒ぎ始められている噂。つまりこの俺。今世界を騒がせている
美人ピアニスト母子の娘の方の彼氏の存在を簡単にひねりだす事ができた。
 周りの状況を冷静?に把握していく事が出来たのは数秒だけで、編集部内を横断していく
かずさの足に俺は冷静などではいられなかった。また、予備知識があろう鈴木さんでさえ
今の状況に対応できないでいるのだから、
他の編集部員たちは口を結んで事の結末を見届けるしかなかった。
 まあ、普段からきつっきつの眼光をさらに光らせては、かずさに声をかけようとする人間
などいないだろう。そして、編集部の入り口付近くらいまでは多少は遠慮があった
おかげかゆっくりとした足取りだったが、今やそのリミッターは外れている。
 ラスト俺まで直線数歩まで着たころには、
早足とは言えないくらいまでの速度に跳ね上がっていた。
 その速度を落とす気配がないことから、その勢いを使って蹴りをいれられると身を
固くする。一応かずさも世界を代表するピアニストの入り口にいるわけで、
殴りはしないだろうと足にだけ力をこめた。
 もちろん平手打ちだろうと手を使うのなら、全力で腕を抑え込む予定ではある。
俺のミスでかずさにこれ以上辛い目にだけは合わせられない。
 そしてその瞬間はやってくる。
 予想とは違い蹴りではなかった。かずさは勢いそのままに俺にしがみつき、
俺は机に手をかけることでどうにか尻もちをつく事だけは免れた。
 大げさに言えばタックルともいえるが、
俺からすれば大型犬が減速することなく飛びついてきたという感じだろうか。
 とりあえず、崩されかけた体制を足に力を入れることでたてなおす。
かずさの体はとっさに片手で受け止めており、自分で誉めてあげたいほどだ。
かずさの方も、俺を逃がさないと主張するように俺の背中に両手を回し固定していた。

春希「連絡するの忘れてて、ごめん。何もなくても必ず連絡するって約束していたのに、ごめんな」

なおも興奮状態を維持しているらしいかずさは、俺の胸におでこをこすりつけるのをやめない。
 かずさにとってここがどこかだなんて関係ないんだよな。俺が連絡もしないでいたのが
悪いんだから全ての罰は素直に受けるつもりだけど、
ここでさらなるゴシップネタを提供なんてできないしなぁ……。
 そもそもそれだけは俺自身が許したくはない。
俺がかずさのピアニストとしての活動を阻害する事だけはしたくはない。
 とはいっては、コンサート会場でピアノを弾いているときだけはピアニスト冬馬かずさで
いられるけど、ピアノから離れた瞬間にただのかずさになってしまうから、
俺関係のゴシップネタが広がるのは時間の問題なんだよなぁ。
 救いがあるとしたら曜子さんが容認していることくらいか。
…………まあ、過去の曜子さんのゴシップネタに比べれば可愛らしいネタであるし、
そもそも一途な恋愛であれば大きく評判を下げる事にはならないか。
………………一途であっても、度が過ぎれば格好のネタに変換されてしまうけれど。
 とりあえず俺はかずさの熱を冷ます為に右手でかずさの背中にまわす。
そして左手で乱れたさらっさらの黒髪を整えるように手櫛でとかし、
その後は指の間からこぼれる髪を堪能しながら頭を撫でた。
 かずさは小さく身震いすると、俺の背中にまわしていた手の力を緩めた。

かずさ「…………遅い」

春希「ごめん」

かずさ「どうせあたしのこと忘れて仕事してたんだろ?」

春希「ごめん」


かずさ「どうせあたしなんかピアノを弾くくらいしか役に立たないからな」

春希「役に立つとか立たないとか、そういうのは関係ない。かずさはかずさだし、
   かずさだから俺はかずさの側にいたいんだよ」

かずさ「…………まあいいか。それで今回は許してやる」

春希「ありがとな、かずさ」

かずさ「今回だけだぞ」

春希「あぁ」

 おずおずとあげた顔は晴れ晴れとしていて、俺の中の罪悪感が胸を強く引き絞る。
しかも笑顔であってもかずさの目は赤く腫れていて、俺と麻理さんの事を心配していた事が
よくわかり、それが俺にさらなら罪悪感を上乗せしてくる。

かずさ「ほんと、春希って、自分に厳しいよな」

春希「そうでもないぞ?」

かずさ「たしかに連絡するっていう社会人としては最低限のマナーを忘れているんだからな。
    いくら自分に厳しく生きていようが最低限のマナーを実践できていない時点で最悪だよな」

春希「心配かけてごめん。かずさが俺をここまで連れてきてくれたのにな」

かずさ「ったく。ほんとだよ、まったく」

春希「すまん」

かずさ「まあいいさ。…………さてと、麻理さん。詳しい話を聞こうか」

麻理「ええ、わかったわ」

柔らかい俺の拘束を解いたかずさは麻理さんをしっかりと見つめ、事の真相を確かめようとする。
ただ、事の真相と言っても、麻理さんからしてみれば本当に仕事で日本に戻ってきただけ
なんだよな。しかもニューヨークで聞いた連絡だと、
麻理さんもあまり詳しい内容は聞いていなかったようだし。
 でもなぁ……、俺としてはかずさと麻理さんの話し合いよりも、
編集部中からあつまる好奇の視線の方が気になるんだよなぁ。かずさは当然無視している
みたいだし、麻理さんに至っては開き直ってないか?
 たしかに開き直るしかないか。そもそも麻理さんは悪い事をしているわけでもないし、
ここで動揺する方が観客の心情を刺激するだけか。

春希「とりあえず場所を移しません?」

麻理「そうね。片付けないといけない案件はほとんど終わっているし、
   少しなら抜けても大丈夫かしらね」

春希「会議室使えるか見てきますね」

麻理「お願いね」

 俺も麻理さんを見習って開き直って好奇の視線をかいくぐろうと足を踏み出す。
しかしかずさの一言が俺の薄っぺらい心の防壁を引き裂いた。

かずさ「下にタクシー待たせているからタクシー代払ってきてくれないか? 財布はいつも
    春希が持っているしさ、あたしはお金持ってないんだよ。あっでも、春希が悪いん
    だからな。なんでも春希がやってくれるからこんなあたしになっちゃたんだからな。
    春希がいなければ生きられなくなったは春希のせいなんんだからな。でも、
    春希だからこそあたしはあたしの全てを春希に捧げているんだからな。
    …………だから、あたしが財布を持ってなくてタクシー代を払えていないのは春希の
    せいなんだからな。けっして生活能力が皆無なわけじゃないぞ。
    春希がそうあたしをしつけたんだ。あたしは悪くない」

 …………まあ、待て。
 ピアノの調律代は事務所の方に請求がいくからお金をかずさに持たせる必要がなかった。
食事や日用品の方は冬馬邸に行く前に少し買っておいたから、
かずさが急いで買いに行かなければいけいような事態はないはずだった。
 そしてなによりも、俺が開桜社に麻理さんを探しに行っても、編集部に長居をするつもりは
なかった。そもそも編集部のみんなも自分の仕事をしているわけだから、いくら元編集部の
一員の俺が来たとしても長い時間かまっていることなんてできやしない。
 つまり俺はたとえかずさへの連絡を忘れようとも、すぐにかずさの元に帰る予定だった。
 だから俺はかずさにお金を持たせる必要性を感じはしなかった。
 そしてかずさも必要だとは思わなかったはずだ。
ニューヨークでもかずさは財布を持たないし、一人で外に出歩くこともないわけだから。
だから、今回タクシー代を払えなかったのは俺の失態だ。けっしてかずさが悪いわけではない。
 だけど、今かずさがこうまでして長々と言い訳しているのは、
きっとこの前の買い物の時の話を気にしているんだろうな。
 一人で家に帰れないとか、ましてや飛行機に乗ってウィーンになど一人では行けないとか。
散々かずさを子供扱いしたからな。
 だから今かずさはこうやってタクシー代を払えない正当性を訴えているのだろう。



 俺もかずさが言っている事は正しいと思う。俺が甘やかしてきたのも問題だとは思う。
 たとえ俺がかずさと会えくなっていた間に、
曜子さんがかずさを甘やかしすぎていたという下地があったとしてもだ。
 ただ今一番の問題は、俺とかずさの甘ったるい生活を想像できるほどの情報を、
ゴシップネタに飢えている編集部員たちに投げ入れてしまった事だろう。
 俺は背中に冷たい汗を感じながら視線をそらしながら編集部を横断していくしかなかった。
好奇の視線をかいくぐりながら、無言のプレッシャーを耐えつつ
 ちなみにタクシーの運転手は一階ロビーで待っていてくれたので、
謝罪といくばくかタクシー代を上乗せして帰ってもらった。







第76話 終劇
第77話につづく








第76話 あとがき


きっとかずさは受付で夫の忘れものを届けに来ましたとか言ったのでしょう。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派




第77話


この場を支配した静けさが肌をぴりつかせ、何もない平穏こそが不気味だと感じさせてくる。
 編集部に隣接するこの会議室は、けっして上等な防音設備を備えているわけではない。
そもそもこの会議室は会議室とドアの上部にプレートが貼りついてはいるが、
応接室と言ったほうが正しいと思う。
 げんに編集部員たちはここで本格的な会議などしたことはない。
編集部に訪れた人と打ち合わせをするのに使ったり、編集部内でもやるには手狭なときに
使う部屋であり、扉一枚挟んだ向こう側ではふつうに編集部でみんなが働いていた。
 だから、「普通なら」先ほどまでざわついていた声が壁をすり抜けて聞こえるはずなのに、
俺達が会議室のドアと閉じた瞬間に全ての音を消し去ってしまった。
 この意味を俺と麻理さんは理解している。ただ、かずさにはきっと気にも留めていない
だろう。なにせこの小さな部屋に入るまでの降り注いでいた好奇の視線をすべて
最初からなかったもととしてふるまっていたのだから。

麻理「ちょっといい?」

春希「あ、はい。どうぞ」

 最初に口を開いたのは麻理さんだった。
 たぶん麻理さんだけが俺とかずさが日本に来た本当の理由を知らない。
今かずさが編集部にやってきた理由。俺がかずさをほったらかしにしてしまったという
情けない理由になら気がついたようだが、かずさが開桜社にくるまでは、俺は麻理さんを
手伝うために日本に来たものだと麻理さんは思っていたはずだ。
 でも、その勘違いも、そろそろ軌道修正するころだろう。勘がいい麻理さんのことだから、
なにか変だと気が付いてもおかしくはなかった。

麻理「春希って、私を手伝うために日本に来たんじゃないんでしょ? たしかにね、私は春希
   が来て欲しいって願っていたし、事情を知った春希なら来てくれるかもとは思っていた
   わよ。でもね、日本の事情を知っている春希だったら、本来なら日本に来る前に私に
   連絡をよこすはずなのよね。だって飛行機に乗っている時間も有効活用するのが
   春希でしょ? それもしないで来るなんてありえないわよね?」

 まさにその通りです。
 と、言う前に、かずさが麻理さんに詰め寄ってしまう。
 かずさの行動には俺も驚いてしまった。高校時代かずさにしつこくせまって蹴りを入れ
られた経験がある武也あたりすれば当然の行動かもしれないが、
かずさはけっして好き好んで実力行使に出るわけではない。
 当時のかずさの心がすさんでいたというか、母親である曜子さんに見捨てられたと思い
こんで拗ねてしまって、自暴自棄になっていた時期であれば、今のように麻理さんに詰め
寄っていく姿を見ても不思議だとは思わないでいられたかもしれない。
 しかし、俺が知っているかずさは自分が大切にしているものを守る以外で実力行使など
しない。そして、かずさにとって、好意の反対は嫌いではなく無関心なのだ。

かずさ「なんで日本に帰えろうなんて考えてしまったんだよ。ボストンに行く時、麻理さんは
    ニューヨークで待ってるって言ってくれたじゃないか。春希を独り占めできて
    いいねって拗ねてたじゃないか。ニューヨークに戻ってきたら春希を少しだけ
    貸してねって、恥ずかしそうに頼んできたじゃないか。あたしも麻理さんの
    気持ちがわかるから、できるだけ麻理さんの力になりたいと思ってたんだ。
    やっとできた友達だって思っていたんだ。そりゃあ歪な関係だと理解してるよ。
    春希をとりあっている間柄だからな。でも、麻理さんはあたしのこともちゃんと
    考えてくれていて、春希をあたしの元にかえそうと、してくれている。すっごく
    辛くて、逃げ出したいのもよく理解できるよ。あたしも日本にいられなくなって、
    ウィーンに逃げた経験があるからさ。でも逃げたって駄目なんだよ。逃げたって
    春希への想いは消えないんだ。消えないどころか強くなって、会えない事が
    辛くのしかかってくるんだぞ。その辛さ、日本で一緒にいたときよりも辛いんだぞ。
    何度あたしが泣いたかわかってるのか? 数え切れないほど春希の名前を叫んで、
    何度自分を呪って、何度春希のことを…………」

春希「かずさ」

 呼吸をすることさえ忘れていっきに感情を吐露していくかずさも体の限界には勝てず、
呼吸を整えようと肩を揺らす。俺はとっさにかずさの肩を抱こうとしたが、
かずさは俺の手を振り払った。
 きっとかずさの視線の先には麻理さんしかうつっていないのだろう。いくら俺の事を
愛していても、今対峙しなければいけないのは麻理さんであり、俺ではない。
 一度逃げ出した事があるかずさだからこそ、麻理さんを逃がしまいと必死なのだろう。

麻理「なるほどね。何故春希が日本に来たのか、なんとなくだけどわかってきたわ。
   …………だけど、春希が? それはないか。だとすれば、かずささん?」

 麻理さんが真実に近づきだしたことに俺は気が付かずに、
ただただかずさを見守ることしかできないでいた。
 どう考えても俺が悪い。かずさがなによりも大事だとわかっていても麻理さんを突き放せ
ないでいるから。誰から見てもひどい男をやってしまっているのに、
かずさは俺を非難もしない。しかも麻理さんに歩み寄ろうとまでしていた。
 かずさは知っている。今かずさがしようとしていることは、麻理さんにとって地獄だと。
 高校時代俺がかずさとは違う女の子と付き合っていて、しかもかずさの友達でもあった
女の子と付き合っていて、それでもかずさは俺達の側にいてくれた。
 だから、この心を引き裂くような残ごくな仕打ちの辛さをかずさは誰よりもわかっている。
 だけど今、かずさは同じようなことを麻理さんに押し付けようとしているのだろうか?

かずさ「これ。このボールペン、麻理さんの大事なペンだろ? ニューヨークに置いていく
    なんて、駄目じゃないか。いつも持ってないと駄目だよ。大切な物は手元に
    置いておかなくちゃいけないんだ。どんなに辛くても、どんなにみじめでも、
    絶対に手放しちゃいけないんだ。手放しちゃいけないんだ。だってさ、絶対後悔
    するよ。あたしは後悔した。あの時手放さなければよかったと何度も後悔した。
    しかも叶わないとわかっていても、もっと早く素直になってたらよかったと
    泣きもした。だから麻理さんにはあたしみたいになってほしくはない。
    だから、ほら、このボールペン。受け取ってよ」

 かずさの胸のポケットから取り出したのは、俺が麻理さんに贈った赤いボールペンだった。
そして俺が麻理さんから贈られた青いボールペンの色違いでもある。
俺が麻理さんにペンをプレゼントして以来、ずっと麻理さんはこのペンを愛用してくれていた。
常に手に届くところに置かれていて、なんだかこそばゆい気持ちになった事さえある。
 そんな大事にしてくれていたペンをニューヨークの自宅に置き去りにしていったことを
目撃した時、俺は覚悟してしまった。もう麻理さんは限界なのだと。
 だから俺は麻理さんを無理やりにでも連れ戻そうとは考えてはいなかった。
 かずさに連れられて日本にまできたが、それは気持ちの整理のための部分が強かった。
 もちろん麻理さんが一緒にニューヨークに戻ってくれるのなら、それは嬉しい事であり、
これからも麻理さんをサポートしていく覚悟もできてはいた。でもそれは儚い願望であり、
叶えられる可能性は低いと思っていたのだ。

麻理「持ってきちゃったの?」

かずさ「当たり前だろっ。だってこのペンは、麻理さんの大事なペンで…………」

麻理「ええそうね。だから置いてきたのよ」

かずさ「駄目だよ。大切なものは絶対に手を放しちゃいけないんだ」

麻理「そうね。だからこそ置いてきたのよ」

かずさ「でもっ」

麻理「ねえかずささん。この紙になんでもいいからそのペンで書いてみてくれないかしら?」

かずさ「はぁ?」

麻理「いいから」

かずさ「わかったよ」

 麻理さんが差し出すコピー用紙を手元に引き寄せたかずさは、すらすらっとペンを
走らせていく。この曲線はおそらくファンにせがまれた時書くサインだろう。
 いつものように数秒後には完成されたそのサインは、コピー用紙に溝を作っただけで、
白紙のまま机の上に置かれていた。

かずさ「え?」

 再びサインを描くも黒いインクは出てはこない。
何度かいても白い用紙に溝が刻まれていくだけであった。

麻理「ね? インクがきれて書けないでしょ? だからニューヨークに置いていったのよ。
   だって考えても見てよ。今回の日本行き。どう考えても面倒な事になりそうじゃない?
   何も情報はないし、とにかく早く日本に戻ってこいだなんて、どんだけ大きなミスを
   しでかしたのよって、気が重くなったわ。ミスがあって、
   手伝ってほしい事だけはわかってはいたけどね」

 きっと俺が同じような立場だったら、しばらくは家に帰れないのを覚悟していただろうな。
かずさは不満を募らせるだろうし、千晶なんて露骨に嫌味を言ってきそうだよな。
それよりも食事、大丈夫か? 部屋がちらかっても生きられるだろうけど、食事はなぁ。

麻理「しかも春希がいないのよ。私をフォローしてくれる春希がいないのに、私は身の回りを
   綺麗に片づけていられるなんてできないでしょうね。最近では部屋も綺麗に
   片づけるようになったけど、どたばたしている現場に放り出されたら、きっと私は
   すべてには気がまわらなくなってしまうでしょうね。そんな現場に大事な物を
   持っていける? だって目が回るくらい時間が足りないでしょうし、現に自分の
   体力が落ちているのを忘れるほど働いたしね。それに今も机の上はちらかって
   しまっているわよ。まるでニューヨークに来る前の自分のデスクよ。なんだか違和感を
   覚えているのに懐かしくもあるのよね。えばる事ではないのでしょうけど、
   そんな環境に大事なものは持って行けないわ。なくしてしまうかもしれないもの」

かずさ「そう、だったの?」

麻理「そうよ。大事だからこそニューヨークの、春希がいるあの家に、かずささんがいる
   あの家に置いていったの。あそこならなくさない。みんながいるから大丈夫だって
   思える場所だもの。だから置いていったのよ」

かずさ「そうか。あたし、てっきり……」

麻理「ううん。ありがとう。たしかに受け取ったわ。私の大切な宝物。
   持ってきてくれてありがとう」

かずさ「……いや、そんなことは」

麻理「ちょっと待ってて。すぐに戻るから」

かずさ「あぁ、うん」

 当事者の一人であるはずの俺は、一人蚊帳の外に置かれたまま事の次第を見守った。
麻理さんはその言葉の通りすぐに会議室に戻ってきた。
 ただ、手に小さな紙袋を持っていた。

麻理「これをかずささんにプレゼントしようと思っていたのよ」

かずさ「あたしに?」

麻理「そうよ、開けてみて」

かずさ「あぁ」

 するすると包装紙を剥いでいくと見覚えがある小箱が現れる。俺はこの箱を2度だけ
見る機会があった。そしてその箱の一つはニューヨークの俺の机の引き出しの中に
しまわれているはずだ。

かずさ「これって」

麻理「このペン。かずささんに贈ろうと思っていたの。だっていっつも私と春希のペンを
   見て羨ましそうな目をしていたんですもの」

かずさ「でもいいのか?」

麻理「私がかずささんにも使ってもらいたいの。私と春希が持っているペンの色違いのペンを
   かずささんにも使ってもらえたらなって、ぞっと考えてたのよ」

 箱の中に収められていたのは、黒く輝くボールペンであった。
 俺が使っている青いボールペン。そして麻理さんが使っている赤いボールペン。
そして今かずさが手にしたボールペンは、俺が麻理さんのプレゼントを買いに行ったときに
見た、ガラスケースの中で並んでいた3本のボールペンのうちの最後の一本であった。

麻理「編集部に帰ってくるときにちょっとだけ時間があってね。替えのインクを買いに行った
   のよ。そしたらそのペンがあって、衝動買いしちゃった。まあ、
   衝動買いといってもいつか買うつもりでいたから衝動買いとも言えないのかしら?」

かずさ「ほんとうにいいのか?」

麻理「いいのよ。でもほんとうは、ずっと悩んでいたの。買おう買おうと思っていても、
   何度店に足を運んでいても、ニューヨークでは買えなかったの。かずささんたちが
   ボストン公演に行って、帰って来た時プレゼントしようと思って店に行った時も
   買えなかったのよ。でもなんでかしらね。日本で見た時は買わなきゃって思って
   しまって、気が付いたらこの紙袋を持っていたってわ。………………これでよしっと」

紙袋に入っていたもう一つのものを取りだした麻理さんは、手際良くその物体の有るべき場所へ
と入れ替えていく。かずさに贈ったものとは違い、店のシールだけ貼られた替えのインクは、
俺も一度だけ見た事があった。

麻理「おそろいね。どうかしら? 気にいってくれた?」

かずさ「気にいらないわけないだろ。だけど、これは」

麻理「だからぁ、言ったじゃない。私がそうしたかったって、ね。ほら春希。
   春希のペンも出しなさいよ」

春希「あっ、はい」

 完全に尻に敷かれている俺は、黙って言う事を聞くしかない。まあ、初めから頭が上がら
ない人と、憧れの人を前にしていては、最初からかなうはずなどないんだけど。

かずさ「ありがと。大切にするよ」

麻理「私もよ」

かずさ「ねえ、麻理さん。あたし決めたよ」

 今まではとは違う決意に満ちた声を聞き、麻理さんは静かに次の言葉を待つ。その声色は、
迷いながらも嬉しさがこぼれ出していた先ほどまでの弱さを少しも混ざらせてはいなかった。

かずさ「あたしさ、麻理さんが春希の側にいても大丈夫になるまで、これ以上春希には求め
    ない。春希に全く甘えるなって言われてしまうとあたしの日常生活が破滅しちゃう
    から全部は無理だけど、あたしはこれ以上春希との関係を進展させない。
    もちろん結婚もしないよ」

麻理「それで、かずささんはいいの?」

かずさ「うん、これしかないと思ったんだ。だって春希がいなくちゃあたしは生きていけない
    から、春希を譲る事は絶対にできない。でも、彼女だからそんなたわごと
    言えるんだって批難されても、あたしは麻理さんにも幸せになってほしいんだ。
    だってさ、あたしが今春希と一緒にいられるのは、麻理さんがあたしを引き止め
    てくれたからじゃないか。ニューヨーク国際コンクールの時、あたしは麻理さんと
    春希の関係を見て、醜く嫉妬して、逃げ出そうとしたからな。そのときあたしの
    手を掴んでくれたのは、麻理さんじゃないか。だからあたしは、今度はあたしが
    麻理さんの手を掴む番なんだよ」


 知らなかった。ニューヨーク国際のとき、かずさがまた逃げ出そうとしていたことに、
また俺がかずさを追いこんでいた事に気がつかなかった。
 最低だな、俺。またかずさを知らない間に傷つけていたんだな。
 …………そっか、麻理さんがかずさを。
 俺も腹をくくらないとな。
 ただ、何度腹をくくっても実行できないでいる俺が決意しても信頼されないか。
 幸せにしたいと願うだけじゃ幸せにはなれない。
 幸せになりたいと願い、そして幸せになろうと行動するものだけが、
その願いをかなえられるって、俺は何度も見てきたじゃないか。

麻理「かずさ、さん。…………無理してない? 無理しなくてもいいのよ?」

かずさ「無理しているに決まってるだろ?」

麻理「そう、よね……」

かずさ「でもさ、あたしが大好きな春希は、どういうわけかかっこいう冬馬かずさを
    ご要望みたいなんだよな。ほんとうのあたしなんてみっともなく足掻いている弱虫な
    のにさ。でも春希があたしのことを見ていてくれるから、無理したいんだ」

麻理「でも無理をしたら、きっとどこかで駄目になってしまうわ。私みたいに体に症状が
   でるかもしれない。ピアノだってひけなくなるかもしれないのよ?」

かずさ「ピアノも春希が望むものだから、ピアノが弾けなくなるのはこまるよなぁ。
    …………だからさ、あたしはできない無理はしない」

麻理「でも、私が大丈夫になるまでって、もしかしたら死ぬまで無理かもしれないのよ?」

かずさ「うん。だからあたしは長くは待たない。麻理さんが春希の側にいても辛いままなら、
    その時は春希に男の責任ってやつをとってもらう予定だ」

麻理「男の責任って、まさか?」

 男が女性に責任をとると言ったら、あれしかないよな。

かずさ「それであってると思うよ。だってさ、女を二人も駄目にしちゃったんだぞ。
    だったらその二人を、二人とも幸せにしなきゃだめだろ? そのときはあたしも
    覚悟を決めるっているか、我儘を言ってばかりじゃいられないって思ってさ」

麻理「本気?」

かずさ「本気だよ。だって言ったろ? あたしも高校時代に同じ経験をしてるんだぞ。
    自分の気持ちを消して、初めからなかった事にしてそばにいるなんて無理なんだよ。
    たぶん麻理さんが春希のそばにいて幸せになる方法は、これしかないんだと思う。
    あまり難しいことを考えるのは苦手だけどさ、あたしの勘?ってやつがこれしか
    ないと言ってるんだ。たぶん二人が結婚して、ちょっと離れた所から友達として
    つきあっていてもさ、絶対春希への気持ちは消えないよ。それくらい強い気持ち
    だから体に変調がでてしまうし、他の事が見えなくもなってしまうんだと思う。
    あたしだったら、たぶん二人の結婚を祝っても、そのあと二人との距離を取るように
    なるはずかな。二人は違う世界に生きるようになったしまったから、もう自分の
    居場所はないんだって実感できるしさ。そうなれば自然と自分は違う世界で
    生きていくんだと思う。だけど、これって幸せ? あたしは幸せだとは思わない。
    だって自分を殺してるだろ? だからあたしはこの選択肢は選ばない。

    あたしが選ぶのは、

    幸せだけど辛い世界。

    春希がいる世界だけなんだ」



麻理「…………でも」

かずさ「だから、あたしに少しだけ時間をください。春希を幸せそうな顔で見つめる
    麻理さんを見ていても大丈夫になるまで、少し時間を下さい」

麻理「本当にそれでいいの? 後悔しない?」

かずさ「後悔は、すると思う」

麻理「だったら……」

かずさ「違うって」

 かずさは麻理の言葉を遮るように言葉をかぶせる。

かずさ「違うんだって。後悔はすると思うよ。だって春希が好きだからさ。
    そりゃあ独り占めしたいに決まってるじゃないか」

麻理「だったら」

かずさ「だからこそだって」



麻理「でも」

かずさ「春希の隣にいるとさ、春希がなにを考えているかが気になってしょうがないんだ。
    もちろん会えない時も気にってしょうがいないけれど、側にいる時はなんとなく
    だけど春希が何をかんがえているかわかってくるんだ。だってさ、春希があたしの
    ことをどう見ているのか、いつもきになってるだろ? 
    だから春希の変化には敏感になってしまうというか」





第77話 終劇
第78話につづく







第77話 あとがき


かずさの開桜社訪問。かずさの行動はきっと無意識なのでしょうけど、
だからこそ春希も事前準備ができないのでしょう。
来週も月曜日に掲載できると思いますので、
また読んでくださると大変嬉しく思います。


黒猫 with かずさ派





第78話



麻理「それは、そうかもしれないわね」

かずさ「だろ? だから春希が麻理さんの事を気にかけている事がよくわかるんだ。
    麻理さんに幸せになってほしい。でも、どうすればいいのかわからない。
    自分が側にいていいのかいつも不安になってしまう。
    なんて春希は考えているんだろうなって、想像できてしまうんだ」

麻理「たしかに春希ってある意味単純なのよね」

かずさ「だろう?」

 かずさの衝撃告白に、麻理さんは苦笑いと共に同意してしまう。
しかもかずさは麻理さんと共感できたことにうれしいのか、笑顔さえみせるしまつ。
 その笑顔を見て麻理さんはさらに苦笑いを強めるが、
それもかずさの笑顔の前には正直になるしかないらしく、
麻理さんもすがすがしい笑みを漏らし始めてしまった。
 男は単純である。
 ってどこかの小説の登場人物が言っていたような気がする。
まあ、男は多分単純なんだと、俺も思いはする。
 武也とつるんでいると、依緒がため息交じりで俺達を見ていた事がよくあったが、
きっと依緒も今のかずさや麻理さんと似たような境地だったのかもしれない。

麻理「春希ごめんなさい。でもね、悪い意味で言っているのではないのよ」

かずさ「そうだぞ春希。そういう春希が好きだって言ってるんだからな」

 別にいいんだけど、俺が何言っても意味をなさないってわかってるさ。
 でも、盛大に笑いながらフォローされても、
俺としてもどう対応していいか迷うところだぞ。
 しばらく二人の笑い声が響き続けたが、
場に染み込んでいる重い空気を完全には追い出す事も出来ないわけで、
自然と俺達の表情は引き締まっていってしまう。

かずさ「…………はぁ。まあ春希の単純な所はおいておいて、
    きっと春希はいつまでも悩み続けるよ。麻理さんを突き放しても後悔するし、
    側にいてもらっても後悔する。だからあたしは、春希が後悔しても、
    春希が笑顔でいられる時間が多い選択肢を選びたいんだ。
    そしてあたしが選んだのが、麻理さんに側にいてもらうことなんだ」

麻理「…………そう」

かずさ「でもね、麻理さんが春希の側にいても大丈夫になれるのなら、
    春希に男の責任は取ってもらう必要はないのは変わりはないんだからな。
    麻理さんが今まで通り頑張って成果を出せればなにも問題はないんだからな」

麻理「努力はしているのよ?」

かずさ「そのわりには以前よりも春希のことが好きになっているのはどうしてだよ?」

 かずさは何を言ってるんだ?
 俺がニューヨークに住みだした直後こそ、
それこそ編集部では俺と麻理さんが恋人同士であると誤解されれることが
たびたびあったが、今はそれも落ち着いてきているんだぞ?
 しかも麻理さんも俺との適度な距離感を掴んできたみたいで、
なんとなくではあるがうまくいっているきもしている。だからかずさが指摘したことは
的外れであるし、それは一緒に暮らしているかずさも知っているじゃないか。
 もちろんかずさが知っている麻理さんは限定的ではあるけれど、
初めて麻理さんとあった時と比べれるだけでも違いが分かるはずだろうに。

かずさ「どうしてだよ?」

麻理「…………そ、それは」

 麻理さんもかずさに遠慮しないでしっかりと言ったほうがいいですよ。だけどかずさ。
いくらなんでも睨みつけて尋問なんて、
そりゃあビジネスでは堂々としている麻理さんだって言葉が出ないぞ。

かずさ「べつに怒っているわけじゃないからいいよ。ほんと怒ってないって。
    ただ、ヤキモチだけはやくのは許してよ。だってあたしは春希が好きなんだからな」

麻理「わかったわ。好きよ。春希のことが好き。たぶんこの気持ちは消えない。
    しかも消えないで加速的に大きくなっているわ」

春希「えぇっ?!」

かずさ「え?!ってなんだよ、春希。麻理さんの側にいながら気が付いていなかったのか? 
    春希ってやっぱ朴念仁で女泣かせだな」




春希「え、えぇっ!?」

麻理「ごめん、春希。このことだけはフォローできないわ」

春希「でもだって、麻理さん。食事だって食べる量が増えてきているじゃないですか。
   アルコールは相変わらず無理ですけど、一人で食事する事もできるように
   なっていますし。それに仕事の方も日本にいたときよりも効率が
   良くなってきていますよね。もちろん就業時間は減ったままですけど、
   単純な仕事量だけなら、自宅でやっている分を加算すれば増えていますよ」

麻理「それは……、体調が戻ってきた事もあるけど、慣れよ慣れ。
   限られた時間を活用する事に慣れてきただけだわ」

春希「そ、それはありえますけど……」

かずさ「嘘はよくないぞ?」

麻理「かずささん?」

かずさ「春希と仕事ができるようになって舞い上がっていただけじゃないか」

麻理「ちょっ!? かずささん、それは…………。もうっ」

 一時的に同盟を組んでいようと隙あらば横槍を入れるかずさに、
麻理さんは顔を赤くしてじっと耐えるしかないようだ。

春希「でも、一番の懸案だった味覚障害もわずかではあるけど戻ってきたって
   言ってましたよね。あと、食事のあとに吐く事もなくなりましたし、
   外で気分が悪くなる事もなくなってきていて…………」

 だからこそ俺は麻理さんを一人残してかずさとボストンに行く事ができたのだから。
 いくら曜子さんや麻理さんが、一番の期待は美代子さんであることはだれの目からも
明らかではあるが、ニューヨークにいるから麻理さんのサポートを任せられるという
事情があっても、それでも俺は、俺がニューヨークに着た直後の状態ならば、
麻理さんを残してボストンになど行けはしなかった。
 いくらかずさを大切にしようと決めていても、これだけは譲れない。
麻理さんを見捨てるなどできやしなかった。

かずさ「本当に春希はにぶいっていうか、自分への感情には鈍感だよな。高校時代、
    あたしの気持ちにまったく気がつかないのもにがにがしい思い出だよ、まったく」

春希「それは、ごめん。でもそのことについてはいつも謝ってるだろ」

麻理「謝ってるんだ…………。でも春希。
   私の体調がよくなった理由を考えたことはないの?」

春希「それはやっぱり体が順応していったからではないですか?
   それと気持ちが落ち着いてきたというのもあると思いますが」

麻理「そう、それよ。気持ちが落ち着いてきたのよ」

春希「だったら俺の事がますます好きになった理由にはならないじゃないですか?」

麻理「だから鈍いっていわれるのよ?」

春希「今はそれ、関係ないですよね?」

かずさ「馬鹿春希っ。関係おおありだろ」

 やれやれと両手をあげて大げさに首を振るかずさを見て、
若干いらっときたことは心の一番奥底にとどめておこう。
一方で、その姿が可愛らしく思えてしまい、怒っていても顔はにやけてしまっていたが。

麻理「まあいいわ。春希ですもの」

かずさ「そうだな。春希だからな」

 俺を挟んで意気投合するのは、ニューヨークでの女性比率が高すぎる住居の俺の立場を
ますます低くしてしまうのだろうが、かずさと麻理さんがうまくやっていくための
潤滑油になるばらば俺の立場など大したものではないな。
 よろこんで馬鹿な春希をやってやるさ。

麻理「ねえかずささん」

かずさ「なに?」

麻理「子供は今も欲しくないの? もし子供がほしくなったのなら、
   私の事よりも子供の事を優先すべきだわ。
   足かせにしかならない私がいうのは変でしょうけど」

かずさ「欲しいとは思う。うん、春希との子供なら欲しい。でも、あたしには無理だよ」



麻理「自信がないのね」

かずさ「そうだよ。母親になる自信がない。そういう麻理さんは子供欲しいの?」

麻理「私はぁ……欲しいわ。いつかは欲しいとは思うけど、でも駄目ね。
   だってね……、これ以上を望んではいけないわ。なんて今言ってしまえば
   かずささんへのプレッシャーにしかならないのにね。
   でも、今日だけは正直になるわ。だってそうしないといけない気がするから」

かずさ「ったく。容赦ないんだな。でもいいよ。
    あたしも正直な気持ちを聞きたいし、聞いても貰いたいかな」

麻理「じゃあ素直ついでに曜子さんの気持ちもバラしてしまおうかしらね。
   といっても、いくら曜子さんから直接聞いた話だとしても、
   本音を話してくれていたかはわからないけど」

かずさ「何か言っていたのか?」

麻理「曜子さんは、かずささんとウィーンで暮らして、
   そのとき初めて母親になった気がしたって言っていたわ。
   かずささんの弱みにつけこんでウィーンまでひっぱりだしたことには、
   そうとう悩んだそうよ」

かずさ「あれは、あたしが決めた事だ。あたしが日本から逃げちゃって」

麻理「そうだけど、ウィーンという選択肢を提示したのは曜子さんなのよ。
   もちろん日本に残るという選択肢も出したけど、必ずウィーンに行くと
   思っていたらしいわ。だから、実質選択肢は最初から一つしかなかったと」

かずさ「それは……」

麻理「でも、今は無理やりであっても、ウィーンに連れていってよかったと思っているって。
   ピアノで成功する為には日本では駄目だし、
   なによりも母親になれたことが嬉しかったって、照れながら話してくれたわ」

かずさ「母さんが? でもよく話してくれたな」

麻理「私が悩んでいたのに気がついたのでしょうね。だからかしら」

かずさ「そっか」

麻理「よく女は子供を宿した時に母親になるっていわれているけど、自分は子供が
   大きくなってからようやく母親になれたって笑っていたわ。
   たしかにかずささんは18歳でウィーンに行ったのだから、
   もう子供と言うには大きすぎるわね」

かずさ「もう十分すぎるほど大人だっての」

麻理「でも、いくら子供を産んでも、母親になる覚悟とか意識とかは勝手に
   身に着くものではないわ。やっぱり女も子供とともに成長して、
   そして母親になるのだと思うわ。だからかずささんが今母親になる自信が
   ないというのは当たり前の事よ。だって私だって母親になる自信はないもの。
   誰だって不安だわ。そうね。不安がない方が危ないわよ。だって、
   簡単に子供を育てられるなんて思っていたら、それこそ間違いなのよ?」

かずさ「そうだけど……、麻理さんが言いたい事はわかるけど」

麻理「私ね、かずささんと曜子さんと、そして春希が一緒に買い物をしているのをみて、
   あぁ家族なんだなって思ったわ。春希が旦那様ってポジションだけど、
   曜子さんがかずささんを見つめるその姿は、母親だったわ。ううん、
   それだけじゃないわ。ニューヨークで一緒に暮らしだしてからはなおさらだわ」

かずさ「そんなことはないだろ。母さんは料理はしないし、
    部屋の片づけだってしたことないんだぞ。洗濯だって春希任せに
    しようとして……、ったく、娘の恋人に母親の下着とかを洗わすなっての」

麻理「それはさすがに痛いわね。でも、家事ができるから母親ってことにはならないわ。
   家事が必要なら、それこそハウスキーパーに任せればいいのだし」

かずさ「じゃあどこを見て母親をできているって思ったんだよ?」

麻理「どこをと聞かれても、ここですとは言えないわ」

かずさ「なんだよそれ?」

麻理「だって仕方がないじゃない。二人の雰囲気とでも言うの?
   あったかい気持ちになるのよ。あぁ家族なんだなって、ね」

かずさ「なんとなくかよ」

麻理「そうよ。家族をやれているかなんて定義はないもの」



かずさ「まっ、そうかもな」

麻理「でね、私は三人を見ていて、自分の居場所がないって思ってしまったの」

かずさ「麻理さん?」

麻理「あっ、安心してね。どこにも逃げないから」

かずさ「うん、わかったよ」

麻理「最初こそ本当に日本に帰ろうと思いもしたわ。
   でもね、かずささんがわたしの居場所を作ってくれていたのよ」

かずさ「あたしは何もしていないよ。
    むしろニューヨークの家に転がり込んでいったのはあたしと母さんの方だろ?」

麻理「ううん、違うわ。家族の絆みたいなものは3人には最初からあったもの。
   曜子さんも春希のことを信頼しているし、春希もその信頼にこたえようと
   頑張っていたもの。だから、離れていても最初から家族だったのよ」

 曜子さんからの信頼を何度裏切ろうとしたかは言えないけどな。
事実としては裏切ってしまって、目をつむってもらっている事の方が多いかもしれないよな。
 最初から曜子さんには頭が上がらないけど、これは本格的に頭が上がらなくなりそうだぞ。

かずさ「母さんと春希と……。でも、たとえ家族になっていたとしても、
    麻理さんをのけものになんてしないよ。
    春希だって、母さんだってあたしと同じ気持ちだよ」

麻理「そう言ってくれると嬉しいわ。うん、かずささんはちゃんとあたしの居場所も
   作ってくれていたわ。春希がいて、その隣にかずささんがいて。
   曜子さんとなぜかいついちゃった千晶さんもいて、あと美代子さんもそうね。
   私たちは本当の家族ではないのかもしれない。
   世間から見れば歪んでいるのかもしれない。でも、私はこの家族が好きなのよ。
   あたたかい場所を作り出してくれる、あったかい気持ちになれるあの部屋が、
   私の居場所なの」

かずさ「そっか、うんそっか」

 麻理さんがそんなことを考えていたとは。
 俺が答えを出さないといけない部分はある。もちろん全て人任せになんてできやしない。
でも、俺だけが考えて、俺だけが決断する必要なんてなかったんだ。
 もっと麻理さんに頼ればよかったんだ。
 もっとかずさと相談すればよかったんだ。
 そうしていれば悩むだけで前に進めない悪循環からぬけ出せていたのかもしれないのに。

麻理「だからね、そういう温かい家族がいるところだったら、かずささんは安心して子供を
   産んでも大丈夫よ。かずささんだけが母親じゃないもの。
   千晶さんなんてきっとかずささん以上にはりきってしまいそうよ。
   もちろん私もお手伝いできるところはするし、むしろ手伝わせてもらいたいわ」

かずさ「それでいいのかよ? 麻理さんはそれで幸せ、なの?」

麻理「ん~……、それはかずささんが私に言ってくれたことと同じだけど、
   少しだし時間を下さい。今の私ではね」

かずさ「うん、子供のことは抜きにしても、麻理さんとあたしの心が準備できる時間は
    必要だって思ってたんだから、そのことについては何も問題ないよ」

麻理「ありがと」

かずさ「そっか、家族か。春希がいて、母さんがいて、麻理さんがいて。うん、家族か。
    いいな。あと和泉さんも好きだよ。春希にべったりなところはもやもやするけどな」

麻理「あれは、そうね。私ももやもやするかも」

麻理「きっとあの胸に春希はでれでれなのよ」

かずさ「そうなんだよな。和泉さんの胸って大きいし、
    春希ってば和泉さんにはとことん甘いんだよな。絶対あの胸の虜なんだぞ」

麻理「でしょうね」

 二人とも。息ぴったりの冷たい目で見ないでいただけないでしょうか。
 けっして二人が言うような不純な気持ちじゃないんだからな。
……まあ、千晶に甘すぎるって言うのは自覚しているけど。

かずさ「ま、冗談は半分だけにして、あたしと春希の子供かぁ」

 半分は本気ってことだよな? 別に千晶の胸の虜ってわけじゃないぞ。
これは断固として抗議したい気持ちはぐっと胸にしまっておいて、
とりあえず千晶のことは注意しておくか。あまり効果はないだろうけど。



麻理「子供が欲しくなった?」

かずさ「どうだろうな? まだちゃんとした実感はわいてはこないけど、
    かたくなに子供は無理だとは思うようにはならなくなったかもしれないよ」

麻理「そう?」

かずさ「それに、子供にはみっともないところはみせられないからさ。
    やきもちばかりやいている母親なんてちょっとかっこ悪いしな」

麻理「ヤキモチは子供の前ではやかないようにはできるかもしれないけど、
   春希にべったりなところは直せないんじゃないかしら?」

かずさ「それはいいんだよ。親が仲良しなのは悪くはないだろ?」

麻理「それはそうかもしれないけど……」

かずさ「どちらにせよ、全部これからだよ、これから。なにもかもがうまくいくことなんて
    絶対ないし、たぶんやきもちをやくのも多少は落ち着いてもなくなりはしないよ。
    だけど、春希がいて、麻理さんがいて、母さんや千晶さんがいる生活は気に
    いっているんだ。だから、これからもずっと続けていけるように、
    形はかわっても一緒にいられるようにやっていくよ」

麻理「そうね。私もそうありたいから、頑張ろうかしらね」

 ニューヨークに戻ってから聞いた話なのだが、どうやら千晶と曜子さんに
かつがれたらしい。二人とも麻理さんは仕事で日本に戻った事を知っていた。
 そもそも麻理さんもその事を二人に話しているのだから当然だ。
 でも、嫌な気持ちにはなれなかった。むしろすがすがしいほどのいいやつすぎて、
俺は二人にありがとう、と言ってしまった。
 まあ、それこそが復讐になってしまったのだから、ちょっとした因縁でもある。
 二人とも俺が素直に感謝の気持ちなど言うとは思っていなかったのだから。
 だから、二人が慌てふためき、照れまくった姿を見て、俺もかずさも、
麻理さんまでも盛大に笑ってしまった。


 結婚がゴールでないように、人生にもゴールはないと思う。
人が死んでも残ったものの人生は続いていき、
俺の前からいなくなった人たちの人生も続いていっている。
 俺がどのくらい人に影響を与えているかなんて傲慢な詮索はしないけれど、
きっと良くも悪くも微々たる影響を与えているのだろう。
 だけど、俺の目の前にいる、愛すべき人たちには俺は多大な影響を与えたい。
 できることなら良い影響を与えたいものだ。
 俺はまだまだ大人にはなりきれていないし、
恋愛に関しても中途半端でどっちつかずであると思う。その点に関しては、
思いきって今までの彼女たちをきっぱりと精算して依緒と真剣に向き合っている武也の
方が数段すばらしい決断をしたと言えるのだろう。
 ただ、今の俺は武也のような決断はできない。男のけじめをつけるのなら麻理さんとの
関係を明確にし、かずさだけを愛するのが筋と言える。
 かずさに麻理さんとうまく折り合いをつける決断をさせてしまったのは、俺の責任だ。
また、麻理さんについても俺のせいだといえる。
結局は俺が悪い影響を与えてしまったのだろう。
 だけど、今悪い影響を与えたと理解し、これからいい方向にもっていく努力するのならば、
もしかすると今予想している未来よりも良い結果を得られるかもしれない。
 …………あまり希望的観測ばかりするのはよくはないか。
 でも悲観ばかりすべきでもない。
 かずさがいて、麻理さんがいる。俺が愛すべき二人の女性がいて、
そのどちらも幸せにできる可能性が残っているうちは、俺は諦めない、そう決意した。
 思い返せば高校時代から俺は自分に自信がなかったように思える。
今もそうなのだからそうなのだろう。
そのことによってかずさを傷つけてしまったことを何度も後悔した。
ほんのちょっと勇気をもてていればなんて、よくいう「もしも」の話だ。

 もしもあのときかずさと付き合っていたら。
 もしあのときキスを避けていたら。
 もしあのとき正直な気持ちを打ち明けていられていたら。

 そうしたら、今この場に俺はいない。

 今の俺が好きかと問われれば、どうかな?、と答えるだろう。

 もしもあの時勇気を出した俺に同じ問いをしても、
きっと、どうかな?、と答えると思う。

 人はそう簡単には変われない。
 つまり、どんな選択をしても後悔が付いてくる。
 まあ、若輩者の言葉なんて軽いのだろうけど、後悔をしても、この手だけは、

この二つの手だけは離さないでいられた。

 この結果だけは、俺は、誇りたい。






『心の永住者』完結







あとがき



これにて完結です。
長かったです。それにつきます。
結末については、当初分岐を考えていました。
麻理さんが日本に戻ったあたりで分岐を作り、そのあと…………。
でも、今回はそれは書かない事にしました。
そもそもこの『心の永住者』を書く動機は、
雪菜Tをかずさでしっかり書いてみようだったので。
もちろん賛否が非常に別れると思います。
かずさを汚すなとお怒りの人もいるでしょう。
でも、書いてみてわかった事もたくさんあり、後悔はしておりません。
わたしとしては、少しでも楽しんで読んでいただければなによりです。
今年も終わりですし、ちょうどいい区切りになってくれました。
長々とお付き合いしてくださり、ありがとうございました。



黒猫 with かずさ派



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