女「お前には失望した」 (31)

部屋の整理をしていたら昔書いた文が出てきたので手直し加えて投下しようと思います。
では下から。




質素な部屋。
一台のベッド。
ときおり入る風。
二人の男女。




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1399126376


「おい」


ベッドの上の女が、ふいに口を開く。

女の隣に座る男は、返事をせずそちらを向いた。

そして目が合ったことを確認してから、女は続けた。


「お前、私の言うことをなんでも聞いてくれるんだよな?」

「ああ、そのつもりだが」


女の問いにすかさず答える男。

あらかじめ決められたことを確認するようにそれを聞いた女は、表情を変えずに口を動かす。


「そうか。じゃあ、ここから飛び降りろ」


女は、少し開いた窓を指さして言った。


「無理だ」

「なぜ?」

「ここは建物の五階だからだ」


男は慣れたようすで言葉を返す。

それを聞いた女は、少し毛布に顔を埋めた。


「お前には失望した」


目をそらさずに、女は冷たく言い放つ。


「なんとでも言え」

「……」

「……」


「おい」


しばらくの沈黙の後、再び女は口を開いた。


「どうした?」


男は自然に返事をする。

自然に。

なめらかに。

当たり前のように。


「喉が渇いた。飲み物を買ってこい」

「……何がいい?」


自分から声をかけたのに、聞き返しされてから考える女。

その間、男は表情を変えず、視線をそらさず、催促もせず、ただただ無言で女の返事を待った。


女はというと、少し考えてから顔を上げ、男の目をじっと見据えていた。


吸い込まれるような、深く、底の見えない瞳。

見る人次第ではそれは虚ろにも見える瞳。

そんな、深海のような瞳で、男の目を射ぬく。

しかし、当の男はそれに対して、フッと微笑みを返すだけ。

そして、女はゆっくり口を開いた。


「コーラ」


それを聞いた男は、優しそうな微笑みから少し困った顔に表情を変え、それから、いつもの仏頂面に戻してから答えた。


「それは無理だ」

「なんで」

「うーん、無理だから、かな」


それを聞くと、女はまた毛布に顔を埋めた。


「お前には失望した」

「なんとでも言え」

「……」


女は男から視線を外し、反対側の窓の向こうを見る。

それから、男には顔を見せず言った。


「……じゃあ、お茶を」

「わかった……」

「……」

「……」



「買ってきたぞ」


男は、女のいる部屋を開けながら言った。

ノックはしなかった。

しかし、女はそんなことを気にすることもなく、投げられたペットボトルのお茶を受け取る。


「礼は言わないからな」

「そうかい」


女は身体を少し移動させ、窓から見える景色を眺めながらペットボトルのフタ開けた。

ふちに小さな口をつけ、ゆっくりと傾ける。

ゴクリッと喉を鳴らし、一口だけ飲むとキャップ閉めた。


「……」

「……」


それから二人の間には、しばらく沈黙の時間が続いた。

沈黙の時間といっても、二人にとって居づらい空間があるわけではなく、その場の空気に溶けていくようにお互い自然体だった。


どれくらい時間が経っただろうか。

男が腕時計を確認してから立ち上がった。


「そろそろ時間だ」

「そうか」

「また、明日来る」

「ああ」

「……」

「……」

ガチャン、という無機質な音。

女が振り返ると、そこには昨日と同じ格好の男が立っていた。


「遅い」


女は表情を変えずに言葉を投げつけた。


「これを買っていた」


男はビニールの袋を差し出した。

中には真っ赤なりんごがいくつか。

それを覗いても、女は表情を崩そうとしない。


「んー。じゃあ今すぐ皮をむけ」

「ナイフは?」

「そこの棚の上」

「んー」


静かな空気。

そこには人間がいないかのように、綺麗に滑らかに流れてゆく空気。

無言の空間。


「出来たぞ」

「そうか」

「……」

「……」


女は、綺麗に皮をむかれた裸のりんごに視線を当てる。

自ら手を出さずに見つめる。


「おい」


りんごから目を離さずに、女は命令を出す。


「食わせろ」

「フォークがない」


即答する男。

りんご、女、窓ガラスを隠すカーテンの順に目を動かしてから、男は一度目を閉じた。

女は、男が目を開けるより先に口を開いた。


「ならくわえろ」


それを聞いた男は、一瞬目を大きく開け、それから元の仏頂面に戻した。


「こうか?」


と言うと、男はりんごを口でくわえた。

それを見た女は、やはり表情を変えずに続けた。


「よし、こっちへ来い」

「んー」


男の口にくわえられた裸のりんご。

りんごの反対側に女の口が当たる。

互いの呼吸が届く距離。

小さな口でりんごをかじる女。

男はそれを確認して、くわえていたりんごを皿に戻す。


「どうだ?」

「りんごの味だ」

「そうか」


簡素な会話。

揺れるカーテン。

シャリシャリと女がりんごをかじる音。

絶えず流れ続ける空気。

それから、また、沈黙。


「……」

「……」

長い沈黙。

二人にとってはいつも通りの間。

居心地の良い時間。

安心出来る距離感。

時間の感覚すらわからなくなるような、そんな、不思議な沈黙。


カーテンの揺れる音。

ページを開く音。

遠くで鳴くカラス。


この空間に聞こえる音はどれも美しく、穢れがない。


男は読んでいた小説をパタンッと閉じる。

すると女は、その音に気づき男の方を見る。

女の手には、男が読んでいたものと同じシリーズの小説がある。

少し困った表情を浮かべる男は、立ち上がりながら言った。


「時間だ。そろそろ帰らないと」

「……待て」


いつもならこれで解散。

いつもなら。

しかし、今日の女はそれを拒んだ。


「帰ることを許可しない」

「それは困る」

「どうして?」

「ここの人に怒られる」


いつもなら感情を表に出さない男だが、今は困った表情を隠そうとしない。

自分も出来るのであれば帰りたくない、という意思表示なのかもしれない。

そんな男の心を感じとったのか、女も他の言葉を続けようとはしなかった。

そして再びの沈黙。

今度は気が沈むような、重い沈黙。


「……」

「……」


この悪い沈黙に痺れを切らしたのか。

あるいは時間的に、これ以上ここに居ることは悪いことだと判断したのか。

男は静かに沈黙を破った。


「……明日が怖いか?」


それは子供をあやすように。

とびきりの温かさ。

とびきりの気遣い。

男は優しく問いかけた。

すると女は、毛布に顔の半分を埋めながら答えた。


「……怖く、ない」


小さな声。

震えてはいないが、今にも消えてしまいそうなか細い声。

空気に溶けてしまいそうな。

雲に登っていきそうな。


「……明日、頑張れるか?」


女の小さな返事を聞いてから、男は次の言葉を差し出した。

女は、男の言葉に、男の声に安心したのか、またいつもの調子に戻った。


「……当たり前だ」

「そうか……」


女の言葉を聞き、男はベッドの横にある小さな椅子に再び腰をおろした。


「なら、今日だけだからな」

「……ああ」

暗い部屋。

相変わらずの沈黙。

ちゃんと、心地の良いほうの沈黙。

これを破るのはいつも女から。


「おい」

「ん、どうした?」

「……なんでもない」


この会話ももう何度目だろうか。

部屋が暗くなってから、無意味で短いやりとりが増えてきている。

男が近くにいることを確認するように。


「おい、……やっぱり、少し話しがしたい」

「ああ」


互いに表情が確認出来ない状態。

女の言葉が続く。


「話し、というよりは質問だな」

「なんだ?」


男の素早い返事。

まだ次の言葉を探している女。


「お前は……、その、私といて、面倒、ではないか?」


少し目を見開く男。

暗い部屋。

女には男の顔など見えていない。

だからこそ、男は表情の変化を隠そうとはしなかったのかもしれない。

それから口を開く。

声はなく、フフッという息だけが漏れた。

「笑うな」


静かな空間だからこそ、微かな空気の振動も目立つ。


「すまんな。そういうつもりじゃなくて、つまり、少し可笑しかったから」


男に悪気はまったくない。

ただ、女の不安げな表情が見えたような気がしたから。

だから男は可笑しくなったのだ。


「もういい」

「悪かったって。ちゃんと答えるから」


男は優しい声で女をなだめる。


「今さら何を弱気になっているのか知らないけど、俺はそういう風に思ったことは一度もないぞ」


そう聞くと、女は小さく『そうか』と呟いた。

まただ。

男には安堵の表情を浮かべる女が見えた気がした。

今度は息が漏れないよう気をつける。

なんとなく微笑ましい姿。

間違いなく、男にはそれが見えていた。


「……」

「……」


長い沈黙。

女が小さく呟いてからは、互いに声を発することはなかった。

長い時間。

少しずつ呼吸が深くなる。

それが、だんだんと寝息に変わっていく。

もう、女は寝てしまったのだろう。

男は手探りで女の髪に触れた。

長く、柔らかい髪。

起きないだろうかと少し警戒しながら、男の手は女の額を探す。


「深く眠れているな」


男は声を小さく漏らす。

鼻をすする音。

自分の頬に手を当てる。

目を擦る。

声が漏れないように食いしばる。

穏やかに眠る女の横で。

部屋に冷たい風が入る。

その空気の変化に、女は目を覚ました。

窓を確認すると、ちょうど男が開けているところだった。


「ん」

「あ、起きたか」


射し込む朝日の眩しさに目を覆う女。

それを見て、男はカーテンを閉めようとした。

しかし、女が『いい』と言ったので動きを止める。


「調子は?」


男がにっこりとした表情で女に尋ねた。

おそらく、男がこの部屋でこんな表情を見せるのは初めてだろう。


「最悪」


女はいつもと変わらない口調で答えた。

そんな女の様子を見て、男はまた笑顔になる。


「昨日の約束、覚えているな?」


また。

昨日と同じ声。

優しい声。

柔らかい口調。

女を安心させる、男の話し方。


「わかってる」


女は呆れたように答える。


「今日の昼、頑張ればいいんだろ?」


いつも通りの女。


「必ず戻るから」


いつも通り。


「だから……」


いつも、通り。

そう。

それはいつも通りの喋り方。

作った喋り方。

本心を喉の奥に押し殺した喋り方。

「だから?」


男は優しく聞き返す。


「だから……」


女はそこで口ごもる。

毛布に顔を押し当て、睨むように男を見つめる。

顔を赤くし、下を向いた。


「やっぱいい。終わったあとで話す」

「……わかった」

「それから」


呼吸をひとつ。

目は合わさない。


「……今日は、もう、一人になりたいから……」


うつむいたまま言った。

男は笑顔を崩さない。


「そうか。……そうだな。わかった」

「あっ」

「ん?」

「終わったら、また……」

「わかった。明日来るから」


そう告げると、男は部屋を後にした。




『生きる』って、どういうこと?

呼吸をすること?

違う

心臓を動かすこと?

違う

何かを考えること?

多分、違う

じゃあ、なに?

……やりたいことを、する

……楽しいことを、する

……やりたくないことをしている時間は、生きていない時間

……ベッドの上で退屈している時間も、生きていない時間

……だから私は

……最期まで生きたい

「おはよう」

「……ん?」


ぼんやりとする視界。

女は、男の声で目を覚ました。


「ここは?」

「いつもの部屋だ」


意識がはっきりしてくるにつれて、少しずつ理解をする。

『ああ、そうか』と呟くと、女は身体を少し起こした。


「夢を見ていた」


女が窓の向こうを見ながら言う。


「どんな?」

「私は真っ白なところにいて、誰かが何かを聞いてくるんだ」

「うん」

「で、ただそれに答えてた」


女が思い出しながらなんとなく話すのを、男は隣で、真剣な表情で聞いていた。


「以上、それだけ」

「……質問の内容は?」

「忘れた」


女はうつむいている。

男も落ち着かない様子で、座っている椅子の金具部分を指でなぞっている。

沈黙。

間の悪い感覚。

互いに話したいことや聞きたいことはたくさんあるはずなのに。

言葉が出ない。

嫌な空気が流れる。

男がなんとなく窓を開ける。

部屋に冷たい空気が入り込む。

「……おい」


女が口を開いた。


「どうした?」

「なんでも言うこと聞いてくれるって言ったよな」

「ああ、そうだが」


男の返事を聞き、女は窓を指差した。


「なら飛び降りろ」


男は一瞬きょとんとした表情を見せ、それから時間差で吹き出した。


「なに笑ってる?」

「いや、まだそんなこと言っているのかと思ってね」


そう答えながら男は全開まで窓を開けようとするが、数センチ開いたところで窓は突っかかってしまった。

そして、少し困った顔をしながら女のほうを見た。


「まったく。お前には失望した」

「なんとでも言え」


このお決まりのやりとりもなんだか久しい気がする。

男は少し笑ったような顔を浮かべながら、いつもの所へ戻った。

いつもの、女の隣の椅子に。


「お前は死ぬことすら出来ないのか?」

「今はまだその時じゃないみたいだな」


男の返事に、女はやれやれとため息をついた。

それから顔を上げ、男の目を見た。

まっすぐ。

一点を。


「いつ死んだって大差ないだろう?今日死んだって。明日死んだって。十年後死んだって。肉体が朽ちて、そこから心を離脱させて、そういう作業をすることに対して、早く死ぬ分には大した変化はないだろう?」

「……そうだな」


珍しく饒舌になる女。


「要するに、タイミングの問題だろう?若い内に。綺麗に終われるタイミングに。スムーズに肉体から心を切り離せるか。この世界の引力に引っ張られないように、地球の重力から未練なく飛べるか……」

「……」

言い終わると、女は下を向いた。

一呼吸。

顔は上げない。


「……喋りすぎたな」

「いや、構わない」


男にはわかっていた。

女の言いたいことが。


「なあ、お前はなんでも言うことを聞いてくれるんだよな?」

「毎回律儀に確認しなくていいよ。で、なに?」


男の返事にも顔を上げない。

ただ自分の上に乗っている毛布を見ながら、女は静かに言った。


「海」

「海?」

「そう。海に行きたい」


男は少し黙る。

考える素振りを見せようとするが、女はまったく見ていない。

苦笑い。

それから微笑み。


「……着替えは?」

「必要ない。今すぐ連れてけ」

「……わかったよ」


男の承諾に、女の表情は明るくなった。

笑顔。

多分、この部屋の中では初めて見せる笑顔。


「ほら、立てるか?」

「ああ。ただ、私が歩くと時間がかかる。おぶっていけ」

「はいはい」


男は女を背に乗せ、神経質に周囲をうかがいながら部屋を出た。

女は、そんな男などお構い無しに笑っていた。


「誘拐されてる気分だ」

「他の人にバレるから、なるべく静かに頼む」

「はいはい」

「……」


駐車場。

男は車の助手席に女を座らせると、運転席に回り込んでエンジンをかけた。

スムーズな発進。

道の細い駐車場を慣れた様子で通り、道路に出る。


「お前の車に乗るのは久しぶりだな」

「ああ」


ギアチェンジ。
スピードを上げる。


「おいっ、窓、開けていいか」

「ああ」


右手。
助手席側の窓を全開まで開ける。


「ああ、風が冷たくて気持ちいい」

「そうか」

「おい、あれを見ろ。あんな所に新しい店ができたんだな」

「ああ、たしか去年できた」

「そうなのか。それにしてもお前の車の助手席は相変わらず居心地が良いな」

「それはどうも」


女はこれ以上になく機嫌が良かった。

高いテンション。

当たり前のように饒舌になる。

止まらない。

アクセルを踏む。

スピードが更に上がる。

止まらない。

止まらない。

「おい、聞いてるか?」

「ああ、ちゃんと聞いてる」

「だったら私の目を見ろ」

「そんなことしたら事故るぞ」


直線。

アクセルを離す。

ギアチェンジ。

どんどんスピードが上がる。


「事故死はさすがに嫌だな。綺麗じゃない」


女が笑いながら言う。

男は表情を変えずに、ただじっと前を見て運転している。


「こんなオンボロの棺桶じゃあ死ねないな」

「居心地良いんじゃなかったのか?」

「そうだけど、私を肉体から切り離すにはいささか窮屈だ」

「ふーん。あの部屋も?」

「あの部屋も」

「着いたぞ」


男は道路の端に車を止めた。

すぐ横には青い蒼い海が見える。

女は車に降りる。

すでに興奮気味だ。


「おお!海!海だ海だ!」

「そうだな」


嬉しそうな女の顔を見て、男も少しやわらかい表情を浮かべる。


「砂浜まで運んでやる。おんぶとだっこ、どちらがいい?」


うーん、と唸る女。

顎先に手を当てながら首を斜めに傾ける。

あからさまなこのポーズは、答えは決まっているけど言っていいものか考えている、というときに見せるポーズだと男は知っていた。
何を考えてるのか簡単にわかる。


女。

わがままな女。

自分勝手な女。

寂しがりな女。

少し単純な女。

まっすぐで。

純粋で。

綺麗。

全部同じ人。

大口を開けて笑っていても、ベッドの上で仏頂面していても同じ。

美しく生きている。

今、生きている。


「じゃあ、後者。お姫様仕様で」


ハイテンションな女が笑顔で言う。

それを聞いて、男は声にならない返事をしながら抱き上げた。

笑っている女。

そっと涙を流す男。

バレないように。

女にはバレないように。

「綺麗だな」


女が呟いた。

砂浜で、波の先端がギリギリ当たらない所。

二人は裸足で膝を抱えている。


「どうしても、ここに来たかった」


女は海を見ている。

遠く。

地平線の向こう。


「私とお前が、その、こういう関係になった、えと、ん、そう、思い出の場所」


女は言葉を探しながら言う。

その青い面から目を離さずに。


「たしか、お前から告白したんだよな」

「いや、違う」


即答で否定する男。


「そっちから告白してきたんだろ」

「違うね。絶対お前から」


目を合わせて言い合う二人。


「そっち」

「お前」

「違う」

「違う」

「うー」

「んー」


一通り言い終えると、今度は笑いだした。


「こんな言い合うのは久しぶり」

「お前が私の犬になってからはじめてだな」

「ああ、介護犬な」

「なんだ、皮肉か?」

「滅相もない」

「……」

「……」


再び視線の先を海へ向ける二人。

そして沈黙。


海の色が青から赤に変わってきた頃。

二人は立ち上がっていた。

波は膝の辺りまで来るようになっていて、互いの足の指が海水でぼんやりとしてきた。


「……そろそろ帰るぞ」


男は、まだ海の向こうを見ている女に言った。


「……嫌」

「それは困る」


女の明るかった表情はもう消えていた。

ザブンッ、と波が当たる。


「もう、ここから動きたくない」


女の言葉。

たくさんの思いが詰まった、重たい言葉。

それを聞いた男は表情を変えない。

冷めた無表情。

明らかにさっきまでとは違う雰囲気。


「でも、これからどんどん潮が満ちる。ここから動かないと溺れるてしまう」


男の冷たい言葉。

女の意志を曲げる最後の手。

それでも、女は聞こうとしなかった。


「そんなの知らない。私はずっとここにいる」

「……そうか」

「前に話したな。私にとっては、もう、いつ死んだって大差ない。だったら、これから日に日に衰え蝕まれていく姿をお前には見せたくない」

「……」

「それに、私はまだ若い。動かないでいれば、健康な人と見た目になんら変わりはない。綺麗でいられる」

「……」

「この場所もそう。綺麗な景色。綺麗な空気。綺麗な思い出。すべてが綺麗な場所。そんな所で、私も綺麗なまま、それらを抱き寄せて、空気に溶けて、一緒になりたい」

「……」

「だから……」

「言いたいことはわかった」


黙って聞いていた男が口を開いた。


「俺は、ずっとそばにいる。そう約束したろう?」

「……そうだったな」


男はまっすぐと女の目を見つめる。

涙ぐんでいる女。

それでも、しっかりと男の目を見返す。


「俺はずっとそばにいる。これからもそれは変わらない。肉体がなくなっても、心は一緒」

「……」


そういい、男は女を抱きしめた。

波が二人の膝の辺りにあたる。

気にしない。

唇を合わせる。

二秒。

三秒。

四秒。

離れる。

呼吸が顔に当たる距離。

夕焼け。

互いの顔が紅く染まる。

微笑み。

濡れる頬。

いつの間にか強くなっている波の音。

「今まで、ありがと」


女はその音に被せて言った。


「どういたしまして」


声が聞こえなくても男には伝わっている。


「ベッドの上で点滴を射たれながらゆっくり死ぬなんて、お前には似合わないな」


男が少し笑ったような顔で言う。


「なんだ、最後になって言ってくれるじゃないか」

「まあな。死ぬのはタイミングが大事、なんだろ?」

「まったく、こんなときにまで。お前にはホント、失望したよ」

「なんとでも言え」


再び抱きしめ合う二人。

互いの愛を交わす。

日が落ちても。

潮が満ちはじめても。

いつまでも。

いつまでも。

そして。

飲み込まれていった。

以上です。
『生きるって一体なんなんだー!?』と軽い厨二かかってたときに書いたものです。
そのとき読みまくってたスカイクロラシリーズの影響もかなり受けてるときで、読み返して一人で笑ってしまいました。

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